天界の低地
                   
            推薦の言葉・序・まえがき        
 
                  GV オーエン著
     ベールの彼方の生活(一)
                 潮文社 発行

       
The Life Beyond the Veil
   Vol. 1  The Lowlands Heaven
             by  G ・V・  Owen
    The Greater World Association
              London,    England

   一章 暗黒の世界
霊界の風景      偏見→卒業   
悲しみの館      
バイブレーションの原理

光のかけ橋         
キリスト神の〝顕現〟  
暗黒街の天使

   二章 薄明の世界
霊界のフェスティバル   
色彩の館         
意念の力  

死の自覚          
天界の祝祭日         
念力による創造実験    創造物(参考資料)

  三章 暗黒から光明へ
愛と叡智                   
霊界の科学館           
③ 霊界のパビリオン 
暗黒街からの霊の救出                                
    四章 霊界の大都市
①  カストレル宮殿            
②  死産児との面会        
童子が手引きせん〟   
④  炎の馬車                         
縁〟は異なもの

  五章 天使の支配
罪の報い            
最後の審判       
使節団を迎える      
強情と虚栄心
 
   六章 見えざる宇宙の科学

 
祈願成就の原理     
神々の経綸           
天体の霊的構成  
霊的世界の構図             
果てしなき生命の旅   
予知現象の原理

  解説 霊的啓示の進歩



               
 

                   ベールの彼方の生活(二) 天界の高地 目次
 一章 序 説    
   1守護霊ザブディエル  2善と悪    3神への反逆  4統一性と多様性
 二章 人間と天使
   1暗闇の実在 天体の円運動の原理   ヤコブと天使       神とキリストと人間   第十界の住居
 三章  天上的なるものと地上的なるもの
   1古代の科学と近代の科学     守護霊と人間      種の起源
 四章 天界の〝控えの間〟地上界
   1インスピレーション    一夫婦の死後の再会の情景   〝下界〟と地縛霊    天使の怒り  
 五章 天界の科学    
   1エネルギーの転換     光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず    光と旋律による饗宴     第十界の大聖堂 
 六章 常夏の楽園    
   1霊界の高等学院    十界より十一界を眺める    守護霊との感激の対面   九界からの新参を迎える   宗派を超えて       大天使の励まし
 七章  天界の高地      
   1信念と創造力       家族的情愛の弊害         霊界の情報処理センター      宇宙の深奥を覗く       霊格と才能の調和  
 八章 祝福されたる者よ、来たれ! 
   1光り輝く液晶の大門        
女性ばかりの霊団      女性団、第六界へ迎えられる      イエスキリストの出現       ザブディエル十一界へ召される ザブディエル最後のメッセージ
 訳者あとがき   

                           ベールの彼方の生活(三) 天界の政庁  目次
 一章 天使による地上の経綸
   1  霊界の霊媒カスリーン  憩いの里   生命の河   生命の気流  天界の音楽と地上の音楽   6〝過ぎにし昔も来る世々も 7〝後なる者、先になること多し〟  靴職人
 二章 霊的交信の原理
 三章 天界の経綸
    1  寺院の建造    2  象徴(シンボル)の威力     ・・・十字を切ることの意味    3  勇気をもって信ずる    美なるものは真なり  宇宙のすべてが知れる仕組み 
 四章 サクラメントの秘義
   聖体拝領(最後の晩餐)   2  婚姻     死 
 五章 生前と死後
 六章   宇宙の創造原理・キリスト 
    1  顕現としてのキリスト  
  2  イエス・キリスト   3  究極の実在
 七章 善悪を超えて
 八章 暗黒街の探訪
    1  光のかけ橋    2  小キリストとの出会い  冒涜の都市  悪の効用  地獄の底    6〝強者よ、何ゆえに倒れたるや  救出   
                   ベールの彼方の生活(四)  天界の大群   目次
 一章 測りがたき神慮
   1 大聖堂への帰還    2 静寂の極致   3 コロニーのその後     4 バーナバスの民へ支援の祈りを
 二章 聖なる山の大聖堂
   1起  源    2構  造
 三章  霊の親族(アフィニティ)
   1 二人の天使  2 双子の霊   3 水子の霊の発育
 四章  天界の大学
   1 五つの塔      2 摂理(コトバ)が物質となる    3 マンダラ模様の顕現   
 五章  造化の原理
   1 スパイラルの原理    2 文明の発達におけるスパイラル     3 二人三脚の原理    4 通信の中断
 六章  創造界の深奥
   1 人類の未来をのぞく   2 光沢のない王冠   3 神々による廟議  キリスト界      物質科学から霊的科学へ     6 下層界の浄化活動    7 人類の数をしのぐ天界の大軍
 七章 天界の大群、地球へ
   1 キリストの軍勢    2 先発隊の到着  お迎えのための最後の準備    4 第十界へのご到着
   1 科学の浄化 2 宗教界の浄化   3 キリストについての認識の浄化    4 イエス・キリストとブッダ・キリスト
九章  男性原理と女性原理
   1 キリストはなぜ男性として誕生したか     2 男性支配型から女性主導型へ   3 崇高なる法悦の境地  4 地球の未来像の顕現
 役者あとがき
 
 



        推薦の言葉                                          ノースクリッフ卿

 私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

 こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。

私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。

出来るだけ名前は知られたくないとの気持ちを披瀝され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。


(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe―本名 ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail デイリーメールの創刊者。

死後〝フリート街の法王〟と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還」 Northcliffe,s  Return と題して出版、大反響を呼んだ───訳者 )


   
                                                 アーサー・コナン・ドイル

   永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。

 新しい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。


 今その内の一つ───至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源を持つ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。

 それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

 一字一句に捉われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新しいものだから、珍しいから、ということで無闇に有難がってもいけない。

 地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、霊的であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分あり得ることを銘記すべきである。

この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。


 神は二千年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。

 それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。

 驚異的と言われ不可思議とされた過去七十年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手を持って目を蔽う者のみと言ってよいほどである。現象そのものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。

がそれは実は吾々人間の注意を引きつける為の信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。



 啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。

通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。


 その内容は古き信仰を覆すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。

これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

 真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味を持つに至った部分が幾つあることであろうか。

 例えば「父の家には住処多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。

 それはもはや捉え難き遠い世界のまぼろしではなく、この〝時〟にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己の道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ち受けるとの確信を植え付けてくれることによって、よろこびの時にはより一層その喜びを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。

 言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

 筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を二冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。オーエン氏の通信が私の二冊とは無関係に綴られたのと同じである。

どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、この度読み返してみて、私のものより遥かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは一つも見当たらない。

 もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろうか。


 今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新しい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず───例えば第一次世界大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応え得た教会が有ったであろうか。

今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。


 新しい時代が始まりつつある。これまで貢献してきた者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚れの誘因とはならない。

目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。


 しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持ちを抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。

(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle ───言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。

そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは〝スピリチュアリズムのパウロ〟の異名を取るほど、その普及に献身した。──訳者)



 
 
      まえがき                                              G・V・オーエン

 この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では四部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送ってきた霊団が予(アラカジ)め計画したものであることは明白である。

 母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。

その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。


 それが一応軌道に乗った頃、新しくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。

母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第一巻『天界の低地』を構成している。


 この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(サズガ)に高等である。第二巻『天界の高地』は全部このザブディエル霊からの通信で占められている。

 第三巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。

その名のもとで綴られたのが第四巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前三巻のいずれにも増して充実しており、結局前三巻はこの第四巻の為の手馴らしであったとみても差し支えない。


 内容的にみて本通信が第一部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。

 本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと──

 私の母は一九〇九年に六十三歳で他界している。アストリエルは十八世紀半ばごろ、英国ウォ―リック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。

霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが一八九六年に僅か十五ヶ月で他界するその三年前に二十八歳で他界している。


 さて〝聖職者というのは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。


 因(チナミ)に私が本通信を〝信ずるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることをはっきりと得心するのに十五年かかった。

 そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じで、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。

正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持ちにもだいぶ変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが・・・・・・。


 が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、その内注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。

 最初の四、五節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、その内次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。

それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。

       一九二五年秋


   
 一章 暗黒の世界

 1 霊界の風景             
 
一九一三年九月二三日  火曜日
 
──どなたでしょうか。(オーエン氏の質問──訳者)

 あなたの母親です。ほかに援助してくださる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ、述べたいことの全てを伝えることができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的でないからでもあります。


──住んでおられる家屋と、今携わっておられる仕事について教えてください。

 仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。

例えばローズ(オーエン氏の妻──訳者) にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。

今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。


 次は家屋について。これは、とても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。


──(ここで一つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、ということである。

断わっておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが〝イエス〟あるいは〝ノー〟で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。

その点をご諒承いただいて、特に必要がないかぎり、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断わらないことにする。)


 はい、見えます。その方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。

℘22
──では、今住んでおられるところ──景色その他を説明をしていただけますか。
 
 完成された地上、といった感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。

今は代わって私たちが、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ているというわけです。


 ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとのことでした。
      
儀式というのは、一人の霊が〝偏見〟と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです。


 言われるままに私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で・・・・・なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃したことを有りのままに述べているのです。馬車で来る人もいます。

お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言うことがすぐ馬に通じるようです。

と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いて来る人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。


 さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。

 ですが、地上の言葉を使うほかはありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。

 空の色───殆ど全体が青と金色です───が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。

  それがゆっくりと広がって二人を蔽うようにかぶさり、二人がそのベールに融けこみ、ベールもまた二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。
 
何しろ二人とも一段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。


 それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。

それはそれは美しい光景でした。それは、向上して行く二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。

 お二人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊──この方にはすでに一つ付いておりましたが──にも新たにもう一つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。

私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私たちが理解していることを地上の言葉で伝えること自体が難しいのです。

儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。


 儀式の最中のことですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。

今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。


もちろん私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

 さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも、あなたを通してあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。

私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。


───その通りです。その点は正直に認めます。

 そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。

神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

                     

 

   2  悲しみの館               
 
一九一三
年九月二四日  水曜日
  
 あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響をおよぼすか──そのことを少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してごらんなさい。

私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。

それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。


 あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明であること、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となることを悟られるでしょう。

光は必ずしも有難がられるものとは定(き)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。

 そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれることです。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど・・・・・・。

 では、ここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

 つい先ごろの事ですが、私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。

何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの一人に特別のメッセージを持って来られたことを私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私であることもすぐに判りました。


私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの── 琥珀色でした──を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて──私よりはるかに背の高い方でした──優しくこうおっしゃいました。
 

 「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主はすべてをお見通しです。あなたはまだ先のことがお判りでない。

そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。


もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れいただいて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やっていただかねばならない仕事の案内をさせて下さい」(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第三巻で明かされる。)


 天使様がそう言い終わると仲間の者が私のまわりに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分のことのように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。うれしさを十分に言い表わしておりません。

さきほどのお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。
 
 しばらく歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていたわけです。

数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も来たことのない都市でした。


 その都市を包む光は決して悪くはないのですが、私の目がその明るさに慣れていないために、まわりのことがよく判りませんでした。が、そのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいることが判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一ばん上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩──ピンクと青と赤と黄──の一つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。

その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。
そこで一人の美しい女性が迎えてくださいました。

堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこういうことなのです。


 悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上のことです。悲しみに打ちひしがれている地上の人々のことです。

この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいくほかはありません。

いま〝霊波〟という用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表わした言葉であり、あなたにとっても一ばん理解しやすいと思うからです。

 その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。

 以来そこでの仕事が現段階での私の最も新らしい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる──と言うよりやはりこれも感識されると言った方がよいでしょう──悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。

 私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変なことです。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

 送り届けた慰めや援助などの効果は再びはね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助のほかは私には何も知り得ない地域があるということです。

今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。

今ではかつての仲間を訪ねに行くことがあります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。

仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れることになるでしょう。その時は私が何もかも案内してさしあげましょう。

そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。

ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね、煩悩というものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。


 では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、すべてを真実と信じておられるのが判ります。うれしそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にもうれしいことです。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。
                           


         
 3 バイブレーションの原理     
   一九一三年九月二十五日  木曜日


 聖書の中に主イエスがペテロのことを自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分ではないかも知れないけど是非そのことを明らかにしてみたいと思います。

ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真意は、自分が殺されることによって一見自分たちの使命が失敗に終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目を持つ者には──弟子達がそうであって欲しいとイエスは思ったことでしょうが──自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展のための口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚のための自分の使命なのだということでした。

 ペテロはそれが理解できないことを彼なりの態度で示しました。当然であり無理もないことです。が、このことに関して何時も見落とされていることがあります。

それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような〝喜び〟の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。

なぜならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍を転じて福となし、神の計画を推進することになるということでした。

悲劇をただの不幸と受け止めることがいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の〝価値〟を理解して初めて判ることです。
さてイエスは今まさに未曾有(ミゾウ)の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。

もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。

そこでイエスは言いました。──「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」 と。そして遂にそうなりました。
もっともそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからのことです。理解といっても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。

 こうして文章で綴ってしまえばずいぶん簡単なことのように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理はすべて単純だからです。ですが私たち、とくに現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。

と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主な課題がそれと同じこと、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換することだからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視することは許されないのです。

当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。


時にはうんざりすることもあります。が、この仕事に携わることによって強くなるにつれて、そうした念も消えて行くことでしょう。ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っていることがあるようでしたが。


──いえ、ありません。特別な質問はありませんが。

 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で・・・・・


──そう言えば今朝がたそのことをお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明していただくほどのことでもないように思いますが如何でしょうか。私は〝精神感応〟と呼んではどうかと思いますが。

 なるほど、当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリというわけでもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大ざっぱな用語です。私たちがあなたに印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質がそれぞれ少しずつ異なります。

それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べることにしましょう。

今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。



──では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。

 よろしい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。

 住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。

ずいぶん広いものです。私は今〝住居〟と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その一つ一つがある種の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。

どの家からでも始めて次の建物へ進むことができます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議すぎて理解することも信じることも出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。

 土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。

たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。

それと同じことが森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。

すべてが驚くべき叡智から生み出され、その効果は〝美しい〟の一語に尽きます。


 実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。

でも実際にあることはあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家(よそ)よりも長持ちする家── そういう家族があるものです。

切り花のことです。荒けずりではありますが、すべて同じことです。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、このことは私たちがいま携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上でよい参考になります。

 大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返すことになりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶──産物と言っても良いでしょう──であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説。──訳者)

 大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。さらにはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁みこんで来ます。

ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けているわけですから、身にまとっているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。

 さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化することがあります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道やさまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目にも美しくもあります。

 小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いたことがあるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。ということは生命の存在がそこにあるということです。

このことは前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうしたことが一層はっきり認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱き始めております。

この界の不思議さなどどこへ行ってもあたり前のように思えるからです。



 でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せて下さった神はまた別の片隅を見せて下さることでしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。


<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではないことが判る。

 悲しみのバイブレーションについて述べていることを〝神の摂理の基本的原理〟についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。

 悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは〝置き換え〟ではなく〝調整〟によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送ることによって、悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

 こう観れば、この日のメッセージも意味を持ち、多分人生における悩みごとを実際に解決していく方法に光を当てることになるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれるという意味ではない(極端な場合はそうするかも知れないが)。

別種のバイブレーションを吹き込むことによって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かけることである。

こうした説は科学的思考に慣染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし〝別種のバイブレーション〟が実際に同じ〝交換価値〟を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいることであろう。

 なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第一六章二〇である。
                      

    
  4 光のかけ橋    
            
 
一九一三年九月二六日 金曜日


 前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようにはなりましたが、説明の内容はまだまだ十分とは言えません。

そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。



──有難うございます。お願いします。

 では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えていただかねばなりません。まず理解していただきたいのは、こちらへ来て見ると地上で見ていたものとはまったく異なった様相を呈していること──恐らく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかということです。

 どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での三次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。

 さて、ここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。

私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。 


言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。つきつめればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就することが出来るのです。

バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。


 たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目(一二七頁参考)の上に橋を掛けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。
 
 そうですとも。その裂け目に立派に〝橋〟が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。

本当なのです。言い落としておりましたが、怖ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。

もっとも数は多くありません。大ていはその道案内の任に当たっておられる天使様の言うことが聞けずに後戻りしてしまうのです。


 また、こういうことも知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないということです。ですから天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもあるわけです。実際人間の魂の複雑さはひと通りでなく、捉え難いものですね。

そこで、もう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。私はそれを〝橋〟と呼びました。しかし 「目は汝の身体の光である」 という言葉がありますね。


この言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りになると思います。


 私はこれまで〝橋〟という呼び方をして来ましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。〝地域〟と呼ぶのが一番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見たかぎりのものだけを話していることを念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも──たぶん数えきれないほど── 有るに相違ありません。

その畝(うね)つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んで来ます。実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。

そうやって漸くこちら側に着きます。私が属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。

それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。


というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。

こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。


 暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに、あたりの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。


 私は今〝小高い丘〟と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でも一ばん低い所なのです。

 〝裂け目〟とか〝淵〟とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこに在るのです。このことは以前にも何処かで説明があったはずです。

それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ〝飛んで〟来ないのかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないということです。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。


 私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。

しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入ることを許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。


 あと一つだけお話しましょう。── あなたはそろそろ寝(やす)まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。

 私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。

いかに小さな善にでもです。が、このことについては今はこれ以上深入りしません。


 私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞(まやぎ)き、つまり人から間接的に聞いたことです。ですが、本当のことです。

 ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出されることでしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。

                            


 5 キリスト神の〝顕現〟 
     
  一九一三年九月二七日  土曜日


──もう少し鮮明に感応できないものですか。

 これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。
 
 つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解していただけております。ただ一つだけ付け加えておきたいことは、こちらへ来たばかりの私たちは、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないということです。   


──私がこうして書いている姿が見えますか。

 見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける ── あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように、私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。

肉体は外套のようなものに過ぎません。ですから、かりに私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じるわけです。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において、身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。

 どうやらあなたは、こちらでの私たちの働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝することは出来ないということです。

これは必ずしもこちらへやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこで、その信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じことです。

ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできること──あたりに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるということです。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう一つ付け加えておく必要があるのは、時おり〝神の存在〟を実感させる現象が特別の目的のために顕現されることがあることです。ではその一つをお話してみましょう。


 ある時、私たちは田園地帯のある場所に招集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まることになっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。
 
地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだことが自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちとともに感謝の祈りを捧げるためです。年齢はさまざまです。

年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。

そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。


 やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。

その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。その辺り一面が金色(こんじき)に輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹となって伝わって来ます。

 天使の集団がこの低い環境(その天使から見て低いということですが)に慣染むにつれて、その御姿が次第に私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉するあたりの上方にさらにもう一つの、一段と大きい天使の御姿が現われました。

それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。

(※本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第三巻で明かされる──訳者)

 大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。

それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止まり、それぞれに両手を胸にあてて頭(こうべ)を垂れ、拝むような格好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一ばん端がそこに集結していた私たちの上に掛かりました。

 見るとその光のかけ橋を通って先ほどの天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への讃歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。
 
それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。

まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べることはできません。

言葉では言い尽くせないさまざまな要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるということです。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入れられておりました。

  やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。

そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付けることにあったのでしょう。

私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。

 私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰れもあまりしゃべりません。今見たシーンが余りに印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。ですから、後になって段々に考えさせられることになります。

私たちは一緒に語り合い、お互いに印象を述べ合い、それを総合して、それまで余り理解していなかったことが啓示されていることを発見します。


今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けたことは大天使様の沈黙のうちに語るその威力でした。一言も語られなかったにも拘わらず、その動き一つ一つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。

それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。


 今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来ることを祈ります。
                        

   
 6   暗黒街の天使         
                 
  一九一三年九月二九日   月曜日


 これまでの通信をお読みになるに当たっては、地上より高い視野から観るということが実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいていただく必要があります。

そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なくなかろうと思うのです。

 前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私にはきわめて自然につなぐことが出来ます。

と言うのは、実体のあるものとして──もちろん霊界の私たちにとって実体があるということです── 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団がいま私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間に掛けた〝光の柱〟と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。



 私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものであることがこれでお判りでしょう。

あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの〝父の王国〟(※)の中の二つの土地を結んだわけです。


どういう具合にするのかは今のところ推察するほかはないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶことは別に不思議なこととは思えないのです。

(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用されることが多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指すことがある。──訳者)

 あなたにもっともっと私たちの世界の驚異について勉強していただきたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうしたことが自然なことに思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内ということもなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだということを悟るということです。こちらへ来てからのことは言うまでもないでしょう。

 そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。

私たちは何か困ったことが生じると──私たちの仲間うちだけの話ですが──どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。

一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できることになります。


 
──判るような気もしますが、何かよい例を挙げていただけませんか。

 よろしい。では、ある婦人の例で〝不信感〟の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身のことも、周りの人のことも、どうも確信が持てないのでした。

 中でも一番確信が持てないのが天使のこと──果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在ということも有り得るのではないかと疑ったりするのでした。
 
私たちは当初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。

が、そのうち判ったことは、その方に
は自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が一人も見当たらず、どこにいるのかも判からないということが原因なのでした。

そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべきことが起きました。

 跪(ひざまず)いていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。

そのとき私が見た情景──私たち五人全員が見たのですか
ら幻影ではありません──は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な人が顔を手で覆った恰好で地面に跪いております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み込み、伏せている男を摑えて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。

 彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方角を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。

私たちはその男の後を目で追いました。あるところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の〝裂け目〟の暗黒界側の端です。

その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく、暗黒界からやって来た者に休養と介助を施すところです。

 その塔からは、その男がずっと見えていたことが判りました。というのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。

 その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。
  
 私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私たちの界のある地域の高い地位の方と思(おぼ)しき男の方がおられました。

私たちがまだ一度もお会いしたことのない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとのことでした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性の曽てのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておればご主人がやって来るであろうことを告げてあげるようにとのことでした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ〝闇の天使〟とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力を持つ霊の一人だということです。でもあのシーンからも想像できますように、良いこともするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。

 その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは一つも見当たらなかったはずです。

そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に慣染めなくしているのです。

もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないということです。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。

それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにすることがあります。あなた方が先ほどご覧になったあの男にもさんざん残酷な行為を働き、いじめあげておりました。

それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。

きっと心の奥ではあの愚か者が・・・・・・と思いながらも、自分よりはましな愚か者だと思っていたことでしょう。」
 

 こうした話は私にとって初めてのことでした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪のかたまりであれば私たちの居る光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。


──それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分けることと一体どういう関わりがあるのでしょうか。

 善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、又絶対では有り得ないということです。両者は相対的に理解しなくてはいけません。


今にして判ったことは〝暗黒界の天使〟が大勢いるということです。その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために、今のところは暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占めることになるかも知れないのです。

 ではお寝みさない。私たちが書いたことをよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうしたことが地上にいる人々の多くの方々にも学んでいただければ有難いと思うのですが。

                        
    
 二章 薄明の世界

 1 霊界のフェスティバル               
 
  一九一三年九月三十日  火曜日


 こうして私たちが地上へ降りて来て、今なお地上という谷間を歩む一個の人間と通信を交わす時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも、私たちは余ほど恵まれた境遇にあることを身に沁みて感じるのです。

 それと言うのも、こうして人類の向上のために役立つ道があることを自信を持って語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限にあるように思えるのです。もっとも、今のところ私たちに出来ることは限られております。

あなたのように、神を信じその子イエスに身をあずけることによって神に奉仕する者には何一つ怖れるものは無いとの信念のもとに、勇敢に私たちに協力してくれる者(※)が出てくるまでは、この程度で佳しとしなければならないでしょう。
 
(※オーエン氏はもともと英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主であった新聞 The Weekly Despatchにこの霊界通信を連載したことで教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経緯がある。──訳者)

 今なお霊魂の存在と私たちの使命とメッセージに疑いをはさむ人のためにひとこと言わせて頂けば、私たちが美しい霊界の住処(すみか)を離れて地球を包む暗い霧の中へ降りて来る時は、決して鼻歌交じりの軽い気持ちで来るのではありません。
 
私たちには使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやってくるのです。そして、そのことに喜びを感じているのです。

 さてあれから少し後──地上的な言い方をすれば──のことです。私たちは、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖──湖盆と言った方が良いようなもの──があり、その中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、まわりにはかなりの間隔を置いて塔のついた大きな会館(ホール)の様なものが立ち並んでおります。

建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールのまわりには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。

大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。ただし私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しはあると思います。以上が外観です。私がお話したいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。


 目的は実は音楽の創造と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に〝音〟として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。

幾つかの建物を見学してまわりましたが、そこに働く人全員が明るく楽しそうな表情で私たちを迎えて下さり、すみずみまで案内して下さいました。

同時に私たちに理解できる範囲のことを説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私たちに理解できた範囲のことを説明してみましょう。

 ある建物──見学してみると製造工場というよりは研究所と呼んだ方が良いと思いました──の中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、又ある建物では演奏の得意な人間に注目し、さらには声楽の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々の為に各各の建物が割り当てられているのです。

 研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人たちの仕事です。その成果を今度は別のグループの人たちが目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。

検討が終わると更に別のグループの人たちが実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。まず目標とすべき人間が選別されます。すなわちインスピレーションに最も感応しやすいタイプです。

そうした選別をするのが得意なグループが別にいて、細かい検討が加えられます。
全てが整然としております。湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届けることに常時携わっている人たちの連繋組織があるのです。

こういう具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです・・・・・・。もちろんそうです、地上の音楽の全てがこちらから送られたものとは限りません。

それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまうこともあります。


──塔は何のためにあるのでしょうか。

 これからそれを説明しようと思っていたところです。

 湖は広大な地域に広がっており、その沿岸から少し離れた一円にさっきの建物(ホール)が建っております。

そして時おり、あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所(ホール)で働く人のうちの幾人か──時には全員──がそれぞれの塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさにコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。

演奏曲目は前もって打合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔に一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。

地上では四つの音域しかありませんが、こちらでは音域がたくさんあるのです。さらに別の塔の人にも別の受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測ではそれぞれの塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。

 そのことよりも私は催しそのもの──コンサート、フェスティバル、何でもよろしい──の話に入りたいと思います。私たちは湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。そこは美しい木々と芝生と花が生い繁り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聞いたのです。

 まず最初にコードが鳴り響きました。長く途切れることなく、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体──陸も水も樹木の葉一枚一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。

やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですが、どの演奏がどの塔という区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。

 続いて合唱が始まりました。その天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一かでも感じ取っていただけるかもしれないと思って述べているのです。

簡単に言えば、全ての存在をより麗わしくするものがありました。美しいというだけではないのです。麗わしさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。

私たちの顔に麗わしい色合いと表情が表われ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹のような色彩をした霞に似たものに変化して行きました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。

水面には虹の色が映り、私たちの衣服もその色彩を一段と強めておりました。さらには動物や小鳥までがその音楽に反応を示しているのです。

一羽の白い鳥がとくに記憶に残っておりますが、その美しい乳白色の羽根が次第に輝きを増し、林の方へ飛んで行く直前に見た時は、まるで磨き上げた黄金のような色──透明な光あるいは炎のように輝いておりました。

やがて霞がゆっくりと消えて行くと私たち全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば〝安らぎ〟とでも言うべきものでした。

 以上がこの〝音楽の里〟で得た体験です。私たちが聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰り返し討論し合い、ここを直し、そこを直しして、これを何かの時、たとえばこちらでの感謝祭(※)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用されることになります。

何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に滲透しております。いえ、すべてが音楽であるようにさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。すべてが神の愛の中で生きております。私たちはとてもその愛に応え切れません。

なのに神の愛が私たちを高き世界へと誘い、行き着くところ全てに愛がみなぎり、神の美を身につける如くにその愛を身につけなくてはいけないのです。

そうせざるを得ないのです。なぜなら天界では神が全てであり、何ものにも替えられないものだからです。愛とは喜びです。


それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私たちと同じところへ来て私たちと同じものを聞き、私たちが神の愛を少し知る毎に見ることを得た神の美が上下、前後、左右、あたり一面に息づき輝いているのを目のあたりにした時のことでしかないでしょう。

 力強く生きなさい。勇気を持って生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。

 では、お寝み。時おりあなたの睡眠中に今お話したような音楽のかすかなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中によい影響を及ぼしております。

(※霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである。──訳者)                       
                                                       
 
      
 2 色彩の館 
                  

   
一九一三年十月一日 水曜日
 
 昨晩の〝音楽の里〟について述べたことは、私たちが見聞きしたことのホンの概略を述べたものです。それに私たちは、その里のごく一地域しか見学していないのです。

聞くところによりますと実際はその時想像していたよりも遥かに広いもので、湖を中心として遠く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての協同研究が休みなく続けられております。

 見学を終えての帰り道で脇へ目をやると、また目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、その中にも高い建物が聳えております。

前のようなただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームが付いており、その中に大小のホールが幾つもありました。それが一つの建物で、とても高くまた広々としております。私たちが尋ねると住人の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。

そしてまずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気がついたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っていることでした。

もとの色彩は同じなのです。ですから別の色という感じはしないのですが、その深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。
 
 小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。その数多い小ホールを通過して行くと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。

果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲出していると断言してよいのかどうか自信はありませんが、思い出すかぎりではそんな印象でした。見たものが余りに多くて一つ一つを細かく憶えていないのです。

それに、それが初めての訪問でした。ですから大ざっぱな説明と受け止めて下さい。

 大ホールの一つは〝オレンジホール〟と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調──ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色までありました。

更にもう一つの大ホールは〝レッドホール〟と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホール一杯に漂っていました。


さらには〝バイオレットホール〟というのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い暗い色調まで輝いております。

このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールがあるのですが、言い落としてならないのは、これ以外にあなたの知らない色──七色以外の、言わば紫外色と赤外色もあることで、それはそれは素敵な色です。


 そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、美事に調和しているのです。
 
 そうした透明な建物(ホール)が一体何のためにあるのかと思っておられるようですね。それは各種の生命──動物、植物、それに鉱物、このうちとくに前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。

私たちの衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境は言わば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも光が一つの要素、重要な要素となっています。私たちがホールで見た通り、各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。

 聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用されるわけではありません。繊細すぎて地球や他の惑星のような鈍重な世界に応用できないものもあり、結局ほんの一部だけが地球へ向けられるということになるそうです。

 残念ですがこれ以上のことは私には述べられません。一つには今述べた環境上の制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きということでもあります。ただ一つだけそこでお尋ねした事を付け加えておきましょう。

そこでは原色の全てを一つのホールに一緒に集めることはしません。なぜだかは知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人たちが考えているように、いっしょにしたときに出るエネルギーが余りに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも建てなくてはならないのかも知れません。

仲間の人たちが言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうということです。さらに、私たちがお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理(コントロール)出来るかどうかが疑問だと言っております。

もっと高い霊格と技術が必要であろうと考えるわけです。しかし、もしかしたら高い界へ行けばすでにそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかも知れません。

こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。


 私がそのコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかも知れませんが、そこを出て中央のドームが見上げられる少し離れた場所まで来た時、私たちのこの度の見学旅行を滞りなく進めるために同伴していた指導霊が私たちの足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見せしましょうとおっしゃるのです。

何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてから皆んな怪訝(けげん)な顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私たちはもう一度よく見ました。

 やがて仲間の一人が言いました。「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」。するともう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に憶えている者はいませんでした。

ともかくその時の色は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」と言って皆んなで見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変わりました。ところがいつどの辺りから緑色に変化し始めるのかが見分けられないのです。

その調子で次から次へと一様に色彩が変化して行くのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。

 やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所にあるのだそうです。それが、各ホールからある種の光の要素を集めて組み合わせることによって、そのように姿が見えなくなる──それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の一つだということです。

そう見ているとドームと林の上空にドームは見えないままです──巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、その大きな花びらの間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、

歩きながら話に興じたりしています。みんな素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。

一方では子鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛び回ったり寝そべったりしています。花は花びらが誇張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。

それがやがてゆっくりと薄れて行き、そのうちただの虚空に戻りました。私たちはその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せていただいたのです。

 もう一つ見せていただいたのは光の円柱で、ちょうどドームのある辺りから垂直に伸び、そのまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。

そのうち、先ほどのホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜めに放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールから様々な色彩の光が放たれました。

赤、青、緑、紫、オレンジ──淡いものから中間のもの、そして濃いものまで──いろいろで、あなたの知っているものは勿論、ご存知でないものも幾つかありました。それらのすべてが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。

 見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が建ち並んでおります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。

一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それはそれは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところで、それを取り囲む様な形で立ち止まりました。

 すると円柱の頂上が美しい白ゆりの花のように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群集と円柱との間に広がりました。

すると今度は円柱の底辺が同じように開き、円い踊り場のような形で、群集が立ち止まっている場所との空間を埋めました。

 これで群集は上へあがることが出来ます。今や全体が──馬も乗り物も──それぞれの色調を留めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパピリオンに集まり行く素敵で楽しい大群集を見ているという感じでした。
 
その群集の色調が天井と床つまり舗道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。

やがて群集は幾つかのグループに分かれました。すると中央の光の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているのかはすぐに判りました。

 間もなく声楽と器楽による〝グロリア・イン・エクセルシス・デオ〟(※)の大音楽が始まりました。高き光の中に在(ま)します神──全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐え得るだけの光の中に反映され給う全智全能なる神よ──と、

大体そういう意味の讃歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後その大群集は光に道を後戻りして帰って行ったのでしょうが、それは見せていただけませんでした。確かに、その必要もなかったのです。


 さ、時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。
 では神の御加護のあらんことを。
 (※Gloria in Excelsis Deo 〝天なる神に栄光あれ〟の意のラテン語で、キリスト教の大頌栄(しょうえい)の最初の句。ルカ2・14──訳者)
 


                                                      
   

 
  3 意念の力             

  一九一三年十月二日 木曜日  


 〝イスラエルの民に申すがよい──ひたすらに前進せよ、と〟(※)これが私たちが今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信じる者には何一つ恐れるものはありません。

(※モーゼが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺を来していたことが推察される。──訳者)      

 私たちが今さらこのようなことを書くのは、あなたの心にまだ何かしら疑念が漂っているからです。私たちの存在を感じ取っておられることは私たちにも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。

では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足もとにもよれないくらい、もっともっと不思議で美しいのです。

それに、おとぎ話の中に出て来る風景や建物は、こちらで見られるものと似ていないこともないのです。

まだホンの僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の創造力から生まれるものなどは、その不自由な肉体をかなぐり棄ててこの天界の光の中に立った時に待ち受けている栄光に比べれば、まったく物の数ではないことを確信しております。

 さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私たち新米を教え楽しませるために見せて下さった現象的なことではなくして、こちらの事物の本質に関わることです。

 今あたりを広々と見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。そこから見晴らす光景はどこか地上とは違うのです。例えば、まず空気の透み切り具合いと距離感が地上とどこか違うことに気づきます。遠いと言っても、地上での遠さとは違うのです。

と言うのは、その頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向こうのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。

速く行けるか遅いかは意念の性質と霊格次第です。また今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気──とでも呼ぶより仕方がないでしょう──に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。

 高級界からお出でになる天使のお姿が私たちに必ずしも見えないのはそのためです。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を排するのは、私たちの視覚に会ったように容姿を整えられた時だけです。

もしその方の後について行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなって来ます。霊力次第でもっと先まで行ける者もおりますが。

 さらに、その頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色から距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質を持つ霊的な光の問題であることが判ります。

ですから、霊力次第で遠くまで見通してそこに存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいるわけです。


 また、見渡せば一面に住居やビルが建ち並んでいるのが見えます。そのうちの幾つかは私が説明した通りです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場、あるいは研究所というのではありません。

その一つ一つの構造からはその建物の性格は疎か、それを建築した人及びそこに住まう人の性格も読み取れないことでしょう。永遠に朽ちることなく存在していることは確かです。
 
地上の建物がいつまでも陰気に立ち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を
改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び建て直すという手間はいりません。建っているままの状態で手直しをします。

時の経過による影響は出て来ません。崩れたり朽ちたりいたしません。その耐久性はひとえに建築主の意念に掛かっており、意念を維持しているかぎり立っており、意念次第で形が変えられます。
 
 もう一つ気がつくことは、小鳥が遠くから飛んで来て、完璧な正確さで目標物にとまることです、こちらにも伝書バトのように訓練された鳥がおります。

でも地上とは躾け方が違います。第一、こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりすることがありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用することがあります。もちろん不可欠の手段というわけではありません。

他にもっと迅速で能率的な通信方法があるのですから。ですが、必需品でなくても美しいからというだけで装飾品として身につけることがあるのと同じで、小鳥を愛玩動物として通信に使用するわけです。

そんなのがしょっ中飛び交っており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんと弁(わきま)えていて、喜んでやっております。


 面白い話を聞きました。ある時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜こうとして、ついスピードを出し過ぎて地球の圏内に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥は──銃の音に驚いたのではありません。

撃とうとした時の意念を感じ取ったのです──ここは自分の居るところではないことに気づき慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうという欲念でした。

それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても分かってもらえないのと同じです。

そこで仲間が言いました──君が話せないような話なら、もう一度地球へ戻ってその男を見つけ、それをどう話して聞かせたらいいか尋ねて来たらどうか、と。

 そう言われて小鳥はその通りにしました。するとその人間──農夫でした──が〝ピジンパイ〟と言えば分かってもらえるだろうと答えました。

小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せばよいのかが判らず、第一その意味も分からなかったので、自分の判断で次の様な意味のことを伝えました。すなわち、これから地球を訪れる者はそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい、と。

 この話がお教えんとしているのはこういうことです。与えられた仕事は、自分で納得がいき仲間も納得する範囲で努力すべきこと──熱心のあまり自分の立場、あるいは〝領域〟を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。

さもないと自分では〝進んでる〟つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低の者より進歩が遅れており、仲間として連れだっていく相手としては面白くないといった結果になるということです。

 これなどは軽い小話(エピソード)ていどに聞いていただけば結構です。が、これで私たちも時に笑いころげることもあること、バカげた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けたことをしたりすることもあること、そして地上を去ってこちらへ来ても、取り立てて成長していない面もあることがお判りいただけることでしょう。

  では、さようなら。常に愉しい心を失わないようにね。

                                         


 4 死の自覚  
 
一九一三年十月三日  金曜日        

 もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさることです。きっと私たちの述べたことに一貫した意図が有ることを読み取られることでしょう。  

その意図とは、霊の世界が、不思議な面もあるにせよ、きわめて自然に出来あがっていることをあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解していただくことです。
 
実は私たちは時おり地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものに想像していたことを反省して、いま地上にいる人々にもっと明るく明確なものを抱かせてあげたいと思うことがあるのです。
 
死後にどんなことが待ち受けているかがよく判らず、従ってきわめて曖昧なものを抱いて生きておりました。それでよろしいと言う人が大勢おりますが、こうして真相の見える立場に立って見ると、やはり確固たる目的成就のためには曖昧ではいけないと思います。  
 
確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出ることを可能にします。大勢でなくても、地上で善のために闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植えつけることが出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りて来る苦労も大いに報われるというものです。

 ではこれから、地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。もちろん霊的発達段階が一様ではありませんから、こちらの対応の仕方もさまざまです。ご存知の通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間であることに気づきません。
 
 その理由は、ちゃんと身体を持って生きているからであり、それに、死および死後について抱いていた先入観が決して容易に棄てられるものではないからです。

 そうした人たちに対して最初にしてあげることは、ですから、ここがもう地上ではないのだということを自覚させることで、そのために又いろいろな手段を講じます。
 
 一つの方法は、すでに他界している親しい友人あるいは肉親の名前をあげてみることです。すると、知っているけどもうこの世にはいませんと答えます。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けていることを実証し、だからあなたも死んだ人間なのですよと説得します。
 
これが必ずしも効を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔するのです。そこで手段を変えることになります。こんどは地上の住み慣れた土地へ連れて行き、あとに残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っていることを見せつけます。  
 
それでも得心しないときは、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りについた時の様子と、その眠りから醒めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。
 
 以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまく行かないものです。というのも性格は一年一年じっくりと築き上げられたものであり、それと並行して物の考え方もその性格に沁み込んでおります。
 
ですから、あまり性急なことをしないようにという配慮も必要です。ムリをすると却って発達を遅らせることにもなりかねません。

 もっとも、そんな手こずらせる人ばかりではありません。物分かりが良くて、すぐに死んだことを自覚してくれる人も居ります。こうなると私たちの仕事もラクです。
 
  あるとき私たちは大きな町のある病院へ行くことになりました。そこで他の何名かの人と共にこれから他界してくる一人の女性の世話をすることになっておりました。他の人たちはそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたということで、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私たちが引き取ることになっておりました。  
 
病室を覗くと大勢の人間がつめかけ、みんなまるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私たちから見るとそれが奇異に思えてならないのです。なぜかと言えば、その女性はなかなか出来た方で、ようやく長い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしていることが判るからです。
 
 いよいよ昏睡状態に入りました。〝生命の糸〟を私の仲間が切断して、そっと目醒めを促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、そのうちなぜ周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝(けげん)に思い始めました。
 
ここはどこかと尋ねるので有りのままを言うと、不思議さと懐かしさがこみ上げて来て、もう一度あとに残した肉親縁者を見せてほしいと言います。

 
婦人にはそれが叶えられました(※)。ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されてラクになったことを知って下さればいいのに・・・・・」と歎息まじりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。
 
そこで私たちが試みたのですが、そのうちの一人だけが通じたようです。が、それも十分ではなく、そのうちその人も幻覚だろうと思って忘れ去りました。(※誰にでも叶えられるとはかぎらない。──訳者)

 私たちはその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。  

のお子さんと再会した時の感激的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今やお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。ほほえましい光景でした。

建物の中や講内を案内していろいろなものを見せてまわり、また友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。
 
 それから暫く私たち二人はその場を離れたのですが、戻って見るとその母子(おやこ)は大きな木の下に腰かけ、母親が地上に残した人たちの話をすると、子供の方はその後こちらへ他界してきた人のことや、その人たちと巡り会った時の話、学校での生活のことなどを話しておりました。
 
私たちは二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。
 
 これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なくありませんが、また別の経緯(いきさつ)を辿るものが沢山あるのです。
 
  ところで、右の母子が語り合っている間、私たちは学校の構内を回って各種の教育器機を見学しました。その中に私がとくに目を引かれたものがありました。  
 
直径六~七フィートもあろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交叉する位置に置いてあり、その通路のあたりの様子が球体に映っておりました。
 
ところがその球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い過去から枝分かれして来たその根元の目(モク)まで見分けられるようになっているのです。
 
それはさながら地上における地質学の化石による植物進化の学習のようなものでした。ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も生長しているということです。それも原種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。

 子供たちの課題は次のようなものであることを教わりました。すなわち実際にそこの庭に生長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどういう過程を経て進化して来たかを勉強し、そこからこんどは、それが将来さらにどういう具合に進化して行くかを心像として創造してみることです。
 
知的才能のトレーニングとして実に素晴らしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うようなほほえましいものが多いようです。
 
 さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きはまた書けるようになってからにしましょう。神のお恵みを。さようなら。 
           

5 天界の祝祭日           
 
一九一三年十月六日  月曜日

 この度の〝収穫感謝祭〟はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私たちはずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私たちのことを考える余裕が無かったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役に立てるのは嬉しいものです。

驚かれるかも知れませんが、こちらの光明界でも時おりあなた方と同じような儀式を行い、豊かな稔りを神に感謝することがあります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。


 例えば私達はまわりに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時には大てい高い界からの〝顕現〟が見られます。その一つをこれからお話しましょう。    

 川のある盆地(※)で聖餐式(ユーカリスト)を催していた時のことです。流域に二つの丘がその川を挟むような形で聳えております。私達は讃仰(さんごう)と礼拝の言葉を述べ、頭を垂れ、こうした時に必ずみなぎってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を待っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私たちはどうしたのだろうと思い始めました。

(※原文では渓谷(バレー)となっている。〝谷〟というと日本人は切り立ったV字形の谷間を想像しがちであるが、本来は川を挟んだ広い低地を意味することが多いので、ここでは盆地とした。──訳者)
 

 暫くして私たちは頭を上げました。まるで〝内なる声〟に促されたように一斉に上げたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体の周りに集まって来ました。

司祭はそうしたことにも一切気づかないような態度で立っておられます。その時ようやく我に帰られ、その光のベールの中から出て私たちの方へ近づき〝少しお待ちください。

高き界から降りてこの儀式に御臨席になっておられる方のお姿を拝することが出来ます〟とおっしゃいました。そこで私たちは有難い気持ちでお待ちしました。
こちらではおっしゃったことは必ず実現するのです。

 見ると凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、おおったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私たちを包みました。
 
私たちはまさに光の海──私が本来属する界の光よりも遥かに明るいのですが、柔らかくて心地よい光の海──に浸っておりました。浸っているうちにその光で視力が増し、やがて目の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。

 まず二つの丘が炎のように煌々(こうこう)と輝き始めました。よく見ると両方の丘が〝玉座〟の側部ないしは肘掛けとなり、その周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私たちには見えません。

少なくとも形態をまとった姿は見えません。私たちの目に映ったのは父なる存在を示すための顕現の一つでした。そして丘の中腹の台地──そこがちょうど玉座の〝座〟の位置になります── のところに大勢の天使が集まっており、側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。

その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かってほほえんでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと天空から一条の光が射し込んだように見えました。

 見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ち上がってそれを左手でささげ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃え盛り、いやがうえにも明るさを増して、ついにはその球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生きた光が放射されているように見えました。
 
やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、その割れた面を私たちの方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。

よく見ると後者には天界の界層が同心円状に幾重にも画かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ち溢れております。


その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私たちの目には外側ほど鮮明に見えます。それは私たちの界がそれに近いからです。一ばん中心部になると光輝が強すぎて私たちには何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私たちの界層であることが判りました。

 もう一つのピンクの半球はそれとは違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物の全ての種が見えます。もっとも、あなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成された姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。

私たちが暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち壮麗なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。


 ところが見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。美事な光の玉です。その時です。その玉の上にイエス・キリストの姿が現われたのです。

左手に十字架を持っておられます。その一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上あたりまで来ております。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。

見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環が冠(かぶ)せてあり、胸のあたりには大きなルビーのような宝石が輝いております。


そう見ているうちに光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。

 そこで全てが普通の状態に戻りました。仲間たちといっしょに腰を下ろして今見たものに感嘆し合い、その意味を考え合いました。が、こうではないかといった程度のことを言い合うだけで、確信をもって述べられる者は一人もいませんでした。

その時ふと司祭のことを思い出しました。光に包まれ、見た目には私たちより遥かに強烈な影響を受けたように思えました。


見ると司祭は岩の上に腰かけておられ、静かな笑みを浮かべておられました。何だか私たちが最後にこうして自分のところへやって来ることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私たちにもう一度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。


 実は司祭は既にあの現象について予め説明を受けておられ、それを私たちに授け、より高尚な意味、より深い意味については私たち自身でよく考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取することになっていたのです。今回のような手段による教育が授けられる時はいつもそうなのです。

 ピンクの半球は私たちの界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私たちの界および上層界の創造を象徴しておりました。が両者は〝二種類の創造〟を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔りはないということを象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私たちの限りなき向上の道を象徴していたわけです。

ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇したこと、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持ったことは、現在の私たちには到達できない高い界層への向上心を鼓舞するものでありました。

 もちろん以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行くことになっているわけです。私たちの慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合うことになりましょう。


──どうも有難うございました。ここであなたに尋ねて欲しいという依頼のあった質問をさせて下さい。
 
 お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取ることが出来ますから。右の言葉も書かれる前から判っておりました。          

  Eさんが教会の祭壇で見かけたというハトは、私が今述べた類の一種の〝顕現〟です。あの儀式には目に見えない集会も催されておりました。祭壇のまわりに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。

その霊たちの心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純心さを高級霊の前で維持する事は容易に出来ることではありません。

その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かながらも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒なことですが、疑いを宿す者を怖じ気させることがあるのです。


<原著者ノート>この通信を受ける数日前のことであるが、オックスフォードで催されたハローマス(*)の集会で出席者の一人が聖餐式の行われている最中に、祭壇の上を一羽のハトが飛び回っているのを霊視したと私に語ってくれていた。(天上界へ逝った諸賢人の霊をまつる祝祭日。──訳者)


            
 

6 念力による創造実験          

 
一九一三年十月八日 水曜日

 私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事なことが幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らないこと──普通の物の考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

 その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝はもともと本人の身体から出ており、それで私たちはその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断することができます。

単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であるといったことだけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるということまで判断します。その判断に基づいて、長所をさらに伸ばし欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがうことになります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。

 これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんなことをする必要はありません。と言うのは、こうしたことは霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然だれの目にもまる見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。

言い落としましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下すわけです。しかし思念は精神的行為の〝結果〟ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。

単に見えるだけでなく肌で感じることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。(※日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが、本書では霊体という用語を肉体とは別の霊的な身体という意味で用いることにする。霊界についても同じである。──訳者)

 こういう風に考えていけば私たちが強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現することが当然有り得ることになります。と言うことは、美しいものを意識的に拵えることも出来るというわけです。


──何か例をあげていただけますか。

 よろしい。その方がよく分かっていただけるでしょう。
 
 ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうということになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である一つの像を念じてその出来具合を見ました。

私たちが選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするものということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。

 私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。
すると意外に速くそれが目の前に姿を現わしました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。

しかし私たちの目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎるということ。全員の意念を加減することを忘れたのです。もう一つは、確かに生きた動物ではあるけど、部分的には石像のようなところもあることです。

生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合のような、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。

こういう具合にして欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。右に紹介したのがその一例というわけです。

 そうして拵えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみるわけです。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。

 こんどは前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては、果実が熟したものと熟してないものとがあったこと。それから葉の色が間違ってましたし、枝の長さにまとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。
 
 あなたにはこうした学習の愉(たの)しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像していただけると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めていただかねばなりません。

そうしないとこちらへ来てから私たちとお付き合いがしにくい──いえ、私たちの方がその方たちとお付き合いしにくいのです。でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振舞うことが出来ることを知り、そうならないとまともに相手にしてもらえないことを悟るようになります。

地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。いえ、地上は地上なりに生きてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て──ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが──当たり前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。


──アストリエル霊、きのう出られた方ですが、ここに来ておられますか。

 今夜はお出でになりません。お望みであれば、またお出になりましょう、きっと。


──どうも。でもあなたにも来て書いていただきたいですね。

 ええ、それはもちろん。あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり、同時に私たちにとっても、こうして霊感操作をすることが、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私たちが述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。


──見えます。時には実に鮮明に見えることがあります。そう言うことだとは思ってもみませんでした。

 おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう、さっきのことを書いたのもそれなりの目的があったということが。あなたはそれがどうもピンと来ない──多分その通りだったでしょう。それは私たちも認めます──と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。

ね、そうではなかったかしら。私たちはあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。でもあなたは私たちに思念をほぼ私たちが念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私たちの意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものであることを判っていただくことにあったのです。
 では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。

<原著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。なぜかはよく判らない。が結果としては母の通信の合間に割って入るために、アストリエル霊自身の通信はもちろん母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付の順で出さずに、巻末の第六章にまとめて紹介する。

                                           

     
 三章 暗黒から光明へ 
       
 1 愛と叡智   
  一九一三年十月十日  金曜日
 私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強しているようなものであること、実に大きな学校でたくさんのクラスがあり、大勢の先生がおられること、しかし教育方針は一貫しており、単純なことから複雑なことへと進むようになっていること、そして複雑ということは混乱を意味するのではなく、

宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っていることを悟るようになります。


 そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんなことをして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。


 こちらの事情で大切なことの一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけないことが挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表わしているのです。

言わば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。解りやすく説明するために、私たちが自分自身のこと、および私たちが指導することを許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を摂り入れて行くか、一つの具体例をあげてみましょう。



 つい先頃のことですが、私たちは一つの課題を与えられ、そのことで私たち五人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れることになりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わることでした。

と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存知の通り地上にはそういう人が多いのです。

 そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でないことを身を持って理解されたわけです。

 訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉(えらぶ)らず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達なら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしもそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒されることでしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ〝燦然たる光輝に燃え立つような〟というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ、時折静かな口調で〝それで?〟と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

 「生徒の皆さん──ここにいる間は生徒ということにしましよう──お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさりと解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻ることが出来るでしょう。が、イザ仕事に携わってみると又アレコレと問題が生じます。

なぜか。それは、一ばん心に銘記しておくべきことというものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)したことばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみてはじめて解るということです。では私についてお出でなさい。大事なことをこれからお教えしましょう。」


 私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアのような石の東屋があり、私たちはその中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。

 床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

 「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くないこともないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう。」


 そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったそのうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。
 
 が、そのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいかが判りません。

しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。

 とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどのことではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一ばん直線的な道を進んでみるというだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから一ばん真っ直ぐな道を取るということです。そうすると必ず外郭へ出る。その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来ることになるわけです。
 
 いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無いわけではありませんでした。と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

 しかし、必ずしも最短で直線的な道を選んだわけではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、その外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくても、その境界の様子からして円形になっていることはすぐに判ります。

そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

 先生は、よく頑張りました、と言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談──私が書いたものより遥かに多くの体験──をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり「なるほど。結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせていただきましょう」と言って次のような話をされました。

 「まず第一に、行きたいと思う方向を確認すること。次に近道と思える道ではなく一ばん確実と思える道を選ぶこと。その道が一ばん早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやってくる。その境界線から振り返ると、それまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず、達成されるものです。

 「又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている──要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ていることが判るはずです。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

 それに、その外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかったことを証明なさったわけです。

 さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものがたくさんあるのです。

その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう一度お会いしますので、その時に話したいことや尋ねたいことがあればおっしゃって下さい。」


 そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代わって建物の中から楽しそうな一団が出て来て私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とはいえ、こうして交信のために降りて来るのは楽しいことです。あなたをはじめ皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。

                                               


2 霊界の科学館           
  一九一三年十月十一日   土曜日


 昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験の幾つかを述べてみたいと思います。

そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一ばん効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることが出来ると思います。
 
 さて、あのあと指導霊の一団の引率で私達はすでにお話した境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群集が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なるシーンが展開します。

 そこを通り過ぎて行くうちに次第に登り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか立っております。
 
 その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。

円形をしており、まわりの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。
 
 
そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。 
 
 私たちはその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さることになりました。

 腰かけて見ておりますと。青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。


すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められたあとも内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。するとその地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。
 
 それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。

それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転を続けていくうちに次第に様子が変わってきました。
 
 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波を立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見え始めたのです。きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿──最初は群集が、やがて一人一人の姿が見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。


 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えて来ました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そして、そこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには、私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますということでした。

是非その美事な現象をもっともっと見せていただきたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。
 
 その話の続きはあとにして、ここで今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くはありません。全体がすみずみまで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

 さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命──人間と動物と植物の太古の姿を目のあたりにしはじめました。
 
 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないということです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(※)の単位で起きておりました。

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白いことが発見されます。あらかじめある程度の知識を持つ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが判るのです。


と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうして、さっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実
となっておりました。 (※地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位──訳者)
 
 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいたことを痛感していると、その球体が次第に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様なものになってしまいました。
 
 この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること、

あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛錬を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。


 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとのことでした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。

そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線──本当の科学的名称を知らないので仮りにそう呼んでおきます──を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓がまる見えとなります。
 
施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見応えのあるものだそうです。

 そのモデルに別の操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていくことが出来ます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるというわけです。

面白いのはその操作を過ると間違ったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一たん元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。
 
又、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることも出来るそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。
 
 一度話に出た(八六頁参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の一人がこしらえたのだそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

 今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

 何か聞きたいことがあるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。

  では、さようなら。あす又お会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会のことについて一言述べておく必要がある。前の週の月曜日のことである。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。

聖歌隊席の至聖所側の一ばん端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。

その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていないことを忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはそのことだった。

                                               

 
 3 霊界のパビリオン       

  
一九一三年十月十三日 月曜日

  例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。

その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。
 
 その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器機の操作室に出るとの話でした。私たちをその文字盤(と呼んでおきましょう)のまわりに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。

何が起きるのか判らないまま、私たちはじっとその文字盤を見つめておりました。

 すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。
あたりを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。

すっかり整え終わった時、私たちは周りを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風にゆれているのです。


 やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽をした小鳥の姿が目に入りました。林はなおも広がり、美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。

 再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。

 やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一ばん頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。


その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっとムリです。ですが判ってみると成るほどと納得がいきました。

 その後案内の方が再び私たちの所へ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。


この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。

 案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくると、その操置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。
 
つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。

 
そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意志の鍛錬が目的であるとのことでした。

その鍛錬は並大抵のものではなく大変な努力を要するとのことで、それがひと通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。


その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、幾つもの界でそうした修練を経たのちのことです。その暁にはある一人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属することを許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造──物的か霊的かは別として──のことかも知れないと考えたりしました。が、

そんな高い界のことは現在の私たちにはおおよその概念程度のことしか摑めません。しかも、そこまでに至るには人智を絶した長い長い年月を要することです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち五人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。


  でも、たとえ辿るべき宿命は違っても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。

遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく荘大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。

 芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。


私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に円(まる)みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになるということでした。

もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成ということは有り得ないのです。

 やがて私たちはこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。


 ──何故その方のお名前を出されないのですか。

 お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しないことに致します。


 ──そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。

 そうなのです。でも私たちがこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば、手間が掛かるほど間違いが少ないということが判っていただけると思います。例のアーノル様のコロニーでの私たちの体験と教訓を思い出して下さい。


 ──それにしても、名前を出すということがなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。

 その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもないことのように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか──そう思われるかも知れませんが、私たち霊界人から観ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。

名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。それで私たちは、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが〝名前〟という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。

もっとも、物わかりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。


 こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりすることさえ、あなたが想像する以上に困難なことがあるのです。その辺の事情は説明が難しいです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じていただきかないと理解できないでしょう。

この四次元という用語も他に適当な用語が無いから使用しているまでです。では、二、三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。


 その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰れ一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(※この説話は旧約聖書「出エジプト記三章」に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前一三〇年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉は Nuk-Pu-Nuk、英訳すればI am the I am すなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。──訳者)


 次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名を明かしておりません。

新約聖書においても同じように殆んどが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆んど理解されておりません。

((※)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも〝守護救済〟の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と〝戦う天使団〟の最高霊であるという。──訳者)


 ──ところで、あなたの名前──そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かすことを許されているのでしょうか。


 もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でも差し当たっては差し控えます。理由(わけ)はよく判っていただけなくても、あなたの為に良かれと思ってのことであることは判っていただけるでしょうから。


 ──結構です。あなたの判断にお任せします。

 その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命(いのち)の書」(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意はほとんど、あるいは全然理解されておりません。

(※正式には Book of Life  of the Lamb)で「キリストの生命の書」。天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされている。──訳者)

 ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがき参照)が間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げています。指図を書き留められるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆んなから可愛がられて。ではさようなら。                        



 
  4 暗黒街からの霊の救出       
 
 
一九一三年十月十五日 水曜日
 
 自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在することを知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊であることを得心させようとなさることでしょう。
 
そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つことに気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとすることでしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けたあとに例外なく行き着くところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。

 そこで私たちは、もしも地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上かぎりの果敢(はか)ないものではないことを理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ちかまえていることを知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれるものと思うのです。

 さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞(とどこお)りなく神の御国での仕事に勤しむことになるのは何でもないことのようで、実はただ事ではないのです。

 これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないという認識を得ております。多くの人間は死んでからのことは死んでからで良いと多寡をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であったことに気づくのです。


──今お書きになっているのはどなたですか。

 あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団とともに通信に来られた時はお知らせしましょう。

 では話を続けましょう。〝橋〟と〝裂け目〟の話は致しました・・・・・・


──ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからのことはどうなりました。ほかに面白いエピソードはもう無いのですか。

 いろいろと勉強になり、知人も増え、お話したことより遥かに多くのことを見学したということ以外には別に申し上げることはありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っていることがあります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。

 〝裂け目〟と〝橋〟──例の話を思い出して下さい。(四一頁参照)。その橋──地上の橋と少し趣きが異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう──が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛かるあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。

 私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は〝光〟の橋を渡ってくるのではなく、〝裂け目〟の恐怖の闇の中を這い上がって来るというのです。
 
私たちにはもう一人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来てくださいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお一人でした。

 

 ──お名前を伺いたいのですが。

 ビーニ──いけません。出てきません。あとにしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。

 到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っていることが判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ下りて行かれたことを知りました。それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して〝橋〟にいくつか設けられている塔の一つから照明が照らされました。

それはサーチライトに似てないこともありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・・・、私たちに付いて来られた天使様が私たちに〝しばらくここに居るように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。

 次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだったことが判明しました。

 ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません(高級霊は自分の霊眼で見えますから)。その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており──これ以上うまい表現が出来ません──谷底で援助を必要としている霊のために発せられたわけです。

 やがて二人の天使が件(くだん)の女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。あとで聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。

お二人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。

例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話(四八頁参照)をしましたが、こんどの光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。というのは、あの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、いま目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。

三人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復したあと私たちに引き渡されたのでした。

 この話には私たちにとって新らしい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを挙げてみましょう。


 まず、女性霊を救出した二人の天使を見れば判るとおり、霊格の高い天使が苦しみを味わうことが無いかのように想像するのは間違いだということです。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(や)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、且つ常に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いたことがありません。

しかし彼らとの闘いは真実〝闘い〟なのです。しかも、たいへんなエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも疲労することがあるということです。

しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂のために自分が苦しみを味わうことに喜びを感じるものなのです。

 また例の照明の光──エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません──の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害をこうむったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

 さらにもう一つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえて来ました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。

それらが混ざり合ったものが至るところから聞こえて来るのです。私にはそれが理解できないので、あとで件の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix ──こう綴るよりほかないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが──その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとのことでした。叫びの一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、それぞれに相応しいものを授かることになるわけです。

 件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養ということで、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

 私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二、三の質問がありました。なんと、あの暗黒界に実に二十年以上も居たというのです。地上時代のことは断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させることは賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験をひと通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係──原因と結果、タネ蒔きと収穫──を明確に認識しないといけないのです。 

 今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。
 神の祝福と安らぎを。アーメン。


       

 四章 霊界の大都市

1 カストレル宮殿            

 
一九一三年十月十七日  金曜日   


 前回のあのお気の毒な女性──今は十分祝福を受けておられますが──をお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう一つの使命を思い出しました。

そこから遥か東方にある都市まで行くことになっていたのです。あなたはまた〝東〟という文字を書き渋っているけど、私たちはその方角を東と呼んでいるのです。


と言いますのは、こちらへ来て初めてイエス様のお姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方角にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。

 さて私たち五人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立ってよく道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとのことでした。

初めは徒歩で行きましたが、あとは空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が速いし、それに場所を探すのには空から見た方が判りやすいということになりました。

 やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入り口めがけて着陸し、そこから本通りへ入りました。本通りはその都市のド真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。

その幅広い通りを境にして両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一帯を治められる高官の方が住んでおられ、そこが主都になります。


 畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物が沢山見えます。一見して住居ではなくて別の目的を持っていることが判ります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。

どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。

 歩いて行くうちに、いつの間にか公園のような所に入りました。とても広い公園で、美しい樹木がほどよく繁り、ところどころに噴水池が設けてあります。それ以外は一面みどりの芝生です。

その噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。その噴水にある細工を施すと、えも言われぬ霊妙な音楽が聞けるとのことです。


その細工を施すのは度々ではないのですが、時おり行われますと、その都市に住む人はむろんのこと、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まって来るそうです。

私達が行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、その快さは見事でした。


 暫くその公園の中を散歩しました。とても心の安まる美しいところです。芝生に腰を下ろして休んでいますと、そこへ一人の男性が優しい笑みを浮かべて近づいてきました。私たちを迎えにこらえたのだということはすぐに判ったのですが、お姿を拝見して、私たちとは比較にならぬほど霊格の高い方であることが知れましたので、しばらくは言葉が出ませんでした。


 ──どんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。

 そのうちお教えしましょう。焦ることが一番いけません。こちらの世界では焦らぬようにということが一ばん大切な戒めとされているほどです。焦ると、判りかけていたものまで判らなくなります。

 その天使様はとても背の高い方で、地上で言えば七フィート半は十分あったでしょう。私は地上にいた時より背が高くなっていますが、その私よりはるかに高い方でした。

その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無雑作に着ておられるだけで、腕も脚も丸出しで、足には何も履いておられませんでした。私は今、あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。

帽子? いえ、無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。

頭には幅の広い鉢巻のような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており、真ん中と両側に一つずつ宝石が付いておりました。
 
また胴にはピンクの金属で出来た帯(シンクチャー)を締めておられましたが、何も飾っていないまる出しの手足からも柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊格の高さを示しておりました。

  お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私たちの心に安心感と信頼心が湧いてきました。

 また尊敬の念も自然に湧いてきました。やがて天使さまは私たちの波長に合わせていることがすぐに判るような、ゆるやかな口調でこう言われました。ゆるやかでも、その響きの中に心に沁みわたるものを感じ取ることが出来ました。「私の名前はカス・・・・・・」いけません。

名前は私の弱点のようでして、地上へ降りてくるとどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんなことを言われました。

 「私のことはすでにお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いてきて下さい。さっそくあなた方をお呼びした目的をお話しいたしましょう。」私たちは言われるまま天使さまのあとから付いて行きましたが、その道すがら気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。

 天使さまと一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐに気づいたのですが、そこは私有の公園つまり公園と言ってもよいほど広い庭園ということです。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。

一見ギリシャ風の寺院のような格好をしており、四方に階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使さまの後についてその建物のすぐそばまで近づきました。

 近づいてみてその大きさに改めて驚きました。左右の幅の広さもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私たち五人はただただその豪華さに見とれてしまいました。

黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物のことでした。近づいて見るとドームの色は純粋の黄金色でなく少し青味がかかっておりました。私はさっそくどんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使さまはあっさりとこう言われました。

 「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも二つ私宅を持っております。よく地方にいる友を訪ねる事があるものですから。それではどうぞお入り下さい。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。」

 天使さまの言葉には少しも気取りというものがありません。〝気取らない〟ということが霊格の偉大さを示す一つの特徴であることを学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭々(うやうや)しく勿体ぶって拝謁するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。

もっとも必要な時はちゃんとした儀式も致します。行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味のない時は行われません。

 さて、カストレル様──やっと名前が出ましたね。詳しいことは明晩にでもお話いたしましょう。あなたもそろそろ寝(やす)まなくてはならないでしょう。ではおやすみ。
                                              



2 死産児との面会         

 
一九一三年十月十八日  土曜日    

 カストレル様のご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなく、ポーチの少し奥まったところになります。

大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛けものなどは深紅色に輝いておりました。前方と両側に一つずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。

それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見回すと、いつの間にかカストレル様が居なくなっております。

 やがて右側の出入口の方から楽しそうな談笑の声が聞こえて来ました。何事だろうとその方向へ目をやると、その出入口から子供を混じえた女性ばかりの一団がゾロゾロと入って来ました。総勢二十人もおりましたでしょうか。

やがて私たちのところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中の一人だけが残って、あとの方はそのまま引き返して行きました。大勢で来られたのは私たちに和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。

 さて、あとに残られた婦人が、こちらへお出でになりませんか、と言って私たちを壁の奥まったところへ案内しました。五人が腰かけると、婦人は一人一人の名前を言い当て、丁寧に挨拶し、やがてこんな風に話されました。

 「さぞかし皆さんは、一体何のためにここへ遣わされたのかとお思いのことでしょう。また、ここがどんな土地で何という都市なのかといったこともお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。そのことは多分カストレル様から直々にお聞きになられたことでしょう。

カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆様はすでに〝音楽の街〟も〝科学の街〟もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手許へ届くようになっているのです。
 
届けられた情報はカストレル様と配下のお方がいちいち検討され、しかるべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかも知れません。
 
 「たとえば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成につとめているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私たちの手許に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。

ここへお出でになるまでに幾つかご覧になられたはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。

 そんな次第ですから、その管理に当たる方は叡智に長けた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早く且つ忍耐強く処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。ここに御滞在中にどうか存分にご見学なさってください。

もちろん全部を理解していただくのは無理でしょうし、とくに科学的な面はなかなか難しい所が多かろうかと思いますが、たとえ判らなくても、あなた方の将来のお仕事に役立つことが多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にして、これからこの建物をひと通り案内してさしあげましょう。」

 
  婦人の話が終わると私たちはていねいにお礼を述べて、さっそく建物の中の案内をお願いしました。すべてが荘厳としか言いようがありません。どこを見てもたった一色というものがなく、必ず何色かが混ざっています。ただ何色混ざっていても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。

宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。石柱には飾りとして一本だけ立っているものと束になったものとがありました。それから、通路には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてあります。通りがけにそれが肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。

庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色彩は地上のどこにも見られないものでした。

 それから屋上へ案内されました。驚いたことに、そこにもちゃんとした庭があり、芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わすところです。時には見張り所のような役目も果たします。通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなしに映像(※)となって現れますから(*)、実際には地上の無線とも異なりましょう。
 
(※この通信が書かれた頃はまだテレビジョンが発明されていなかったこと、そして、地上の発明品はことごとく霊界にあるものの模造品であることを考え合わせると興味深い。──訳者)

 私たち女性グループはずいぶん永い間その宮殿にごやっかいになりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。その中心に当たるのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿というわけです。その全部をお話していると幾ら時間があっても足りません。

そこでそのうち幾つかをお伝えして、それによって他を推察していただきましょう。もっとも、それもあなた方の想像の及ばないものばかりですけど。
 
 第一に不思議に思ったことはその都市に子供がいることでした。なぜ不思議に思ったかと言いますと、それまで私は子供には子供だけの世界があって、皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。

私はその中の一人に、そこの子供たちがみんな幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿でいかにも寛いでいることには何か特別な理由(わけ)があるのですかと尋ねてみたところ、大よそ次のような説明をしてくれました。

 〝ここで生活している子はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。僅か二、三分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より速い。

まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純粋であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら、こんどは地球と関係した仕事に従事している方の手にあずけられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取することになる・・・・・・〟

 
 私は初めこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実はそのことを知るためだったのだという自覚が油然として湧いてきました。

私にも実は一度死産児を生んだ経験があるのです。それに気がつくと同時に私の胸にその子に会いたいという気持ちが止めどもなく湧いて来ました。〝あの子もきっとここに来ているに違いない〟そう思うや否や私に心の中に感激の渦が巻き起こり、しばし感涙にむせびました。その時の気持ちはとても筆には尽くせません。

そばに仲間がいることも忘れて木蔭の芝生にうずくまり、膝に顔を押し当てたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から脱け出るのを待っておりました。

  やがて少し落着くと、仲間の一人が優しくこう語ってくれました。「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。」

 それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私に願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取っていっしょに立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に帰ってみると、その木立の繁みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。

まだ実際に子供には会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるだろうか──私はそんな事を心配しながら木立に近づきました。

 表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔のことではありません。その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて、上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう・・・・・・ああ、私にはこれ以上書けません。どうかあとは適当に想像しておくれ。

とにかくこの愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。

 最後に一つだけ大切なことを付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって・・・・・・。その大切なことというのは、子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。

地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることに変わりはありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。


つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので、地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。

やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。

 もちろんこれは大体の原則を述べたまでで、ここに適用される時はその子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され、順応されます。

 ともかく全てがうまく出来あがっております。では神の祝福を。お休みなさい。


   
  3 童子が手引きせん               
 
    
一九一三年十月二十日  月曜日


  ひき続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私はなぜこの都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔のように聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。

そのうち中央通りの反対側の入口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあるということでした。

案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにということと、まわりの平地の遠い住民からもその塔が見えるようにという配慮があるとのことでした。
そこがその界の首都で、全てがそこを焦点として治められているのでした。

 帰途も幾つかの建物を訪れ、どこでも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいで見かけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群れを見かけます。

そこには噴水があり、まわりの池に流れ落ちて行きます。池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、その川のあちこちで子供たちが水浴びをして遊んでいるのを見かけたのです。

しきりに自分のからだに水をかけております。私はその時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供たちはあのような遊びをするよう奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供たちは死産児として来たので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補充し体力を増強する必要があるというのです。

 それを聞いて私が思わず驚きの声を上げると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。ご存知のように、私たちの身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。また現在の私たちの身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映していることもご存知の筈です。

その点あの子供たちの大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが・・・・・・」とおっしゃいました。

 別に不思議ではない──言われてみれば確かにその通りです。私はさきに天界を〝完成された地上のようなところ〟と表現しましたが、その本当の意味が今になってようやく判ってきました。多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ていることに驚くはずです。

もっとも、ずっと美しいですけど。大ていの人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影のような世界を想像しがちです。

が、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足跳びの変化であって、それは自然の理に反します。


 確かにこちらへ来てすぐから地上と少しは勝手が違いますが、不思議さに呆然(ぼうぜん)するほどは違わないということです。特に地上生活でこれといって進歩のない生活を送った人間が落着く環境も地上と見分けがつかない程物質性に富んでおります。

そういう人間が死んだことに気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き、環境が崇高さを増して行きます。しかし、地上性を完全に払拭した界、地上生活とまったく類似性を持たない界まで到達する霊は稀です。特殊な例を除いてまず居ないのではないかと思っております。が、

この問題については私に断定的なことを言う資格はありません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみたこともないからです。

今いる所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものにほかならず、従って多くの細かい面において私たち及び私たちの環境と調和していることが判ります。もしそうでなかったら、今こうして通信していることも有り得ないはずです。

 そして又──私みたいな頭の良くない人間にはそう思えるというまでのことですが──もしもあなた方の世界と私たちの世界に大きな隔たり、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えた後、どうやってこちらへやって来れるのでしょう。

その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でも、これはあくまで私自身の考えです。そんなことはどうということは無いのかも知れません。ただ確実に言えることは、神と神の王国は一つしか無いこと、その神の叡智によって宇宙は段階的に向上進化して行くように出来ているということさえ銘記すれば、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遥かに深くなるであろうということです。

死後の世界にも固い家屋があり、歩くための道があり、山あり谷あり樹木あり、動物や小鳥までいるということが全くバカバカしく思える人が多いことでしょう。その動物が単なる飾りものとして存在するのではなく、実際の用途を持っております。

馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が動物達は見た目に微笑ましいほど楽しく働いております。私は一度ある通りで馬に乗ってやって来る人を見かけたことがありますが、何となく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。でも、こうした話は信じて頂けそうにありませんから話題を変えましょう。
 

 その広い市街地の建物の一つに地方の各支部から送られて来る情報を保管する図書館がありました。また、新しいアイディアを実地にテストするための研究所もありました。さらには教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表するための講堂もありました。そしてもう一つ、風変わりな歴史を持つ建物がありました。

  それは少し奥まったところに立っていて、木材で出来ておりました。マホガニー材をよく磨いたような感じで、木目には黄金の筋が入っております。随分古い建物で、カストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に、当時の領主の為の会議室として建てられたものです。

かつては領主がそこに研究生たちを召集され、それぞれに実際的知識を発表することに使用されておりました。

 こんな話を聞きました。その発表会でのことです。青年が立ち上がって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向かって両手を広げて立ちました。


立っているうちにその青年の姿が変化し始め、光輝が増し、半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に囲まれました。そしてその光の輪の中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味ありげな頬笑みを浮かべておられますが、青年にはそれが読み取れません。

彼──首席代表であり領主の後を継ぐべき王子の様な存在でもあります──が何か言おうと口を開きかけた時です。入口から一人の童子が入って、大勢の会衆に驚いた様子できょろきょろ見回しました。

 その子は光の輪のそばまで来て、層を成して座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に、中央におられる学長の姿が目にとまりました。光と荘厳さに輝いておられます。瞬間、子供は一切を忘れて、両手を広げ満面の笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。

 すると先生は両手を下げ腰を屈めてその子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ、青年のところへ歩み寄ってその子を青年の膝の上に置き、元の位置に戻られました。が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔──実に美しいお顔立ちでした──を見上げてニッコリと致しました。

 やがて青年が立ち上がり、その子を左手で抱き、右手をその頭部に当てて、こう言われました。

 「皆さん、聖書に〝彼らを童子が手引きせん〟と言う件(くだり)があります(イザヤ書11・6)。それをやっと今思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの〝顕現〟(※)であり、聖書の言葉どおり、この童子は主の御国から贈られた方です。」そう述べてから童子に向かい、「坊や、さっき先生に抱かれて私のところまで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。

(※これまでの〝顕現〟と種類が異なり、これは霊界に〝変容現象〟と見るべきであろう。イエス自身、地上時代に丘の頂上で変容した話がマタイ17・マルコ9に出ている。──訳者)

 すると子供は初めて口を開き、子供らしい言い方で、大勢の人を前に気恥ずかしそうにしながらこう言いました。
 
 「ボクが良い子をしてお兄さんの言いつけを守っていたら、時々あの先生がこの都市(まち)と領土(くに)のためになる新しいことを教えて下さるそうです。でもボクには何のことだかよく判りません。」

 それは青年も他の生徒たちも最初のうちは判りませんでした。が青年が閉会を宣し、その子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果彼が辿り着いた結論は、あれはエリとサムエルの物語(サムエル書1・3)と同じだということでした。そして、事実その結論は正しかったのです。

その後その子は研究所やカレッジの中を自由に遊び回ることを許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時おり厄介な問題が生じた時などにその子が何気なく口にした言葉が問題解決のカギになっていることがあるのでした。

時がたつにつれて、このことがあの顕現のそもそもの目的だったことが理解できました。つまり子供のような無邪気な単純さの大切さを研究生たちは学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあるということです。

 他にも学生たちがその〝顕現〟から学んだものはいろいろとありました。例えばキリスト神は常に彼らと共に存在すること、そして必要な時は何時でも姿をお見せになること。これは、あの時、学生の中から姿を現わされたことに象徴されておりました。また広げた両手は自己犠牲を意味しておりました。

あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーにおいてさえも自己犠牲が必要なのです。その後あの童子はどうなったか──彼は例の青年の叡智と霊格が成長するにつれて成育し、青年が一段高い界へ赴いたあと、青年の地位を引き継いだということです。

 さて以上の話は随分昔のことです。今でもそのホールは存在します。内側も外側も花で飾られて、常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず、礼拝場として使用されております。その都市の画家の一人が例の〝顕現〟のシーンを絵画にして、地上でも見られるように祭壇の後ろに置いてありました。

そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝がよく行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引き継いだ多くの霊と共に、そこに降臨することがあります。そこに召集された者は何か大きな祝福と顕現があることを察知します。

しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊格を備えた者にかぎられます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。
 
 神の王国はどこも光明と荘厳さに満ち溢れ、素晴らしいの一語に尽きますが、その中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されるという事実です。神の愛は万物に至ります。

あなたと私の二人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界という二つの世界の間のベールを通して語り会えるようにして下さった神の配慮にその愛を見る事が出来るのです。




 4 炎の馬車                             
 
 
一九一三年十月二一日 火曜日

 カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他のも取り挙げたい問題がありますので、あと一つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。

 宮殿のある地域に滞在していた時のことです。そこへよく子供たちが遊びに来ました。その中には私の例の死産児も含まれておりました。他の子供たちはその子の母親つまり私と仲間の四人と会うのが楽しみだったようです。そして私たちがそれまで訪れた土地の話、特に子供の園 や学校の話をすると、飽きることなく一心に聞き入るのでした。

来る時はよく花輪を編んでお土産に持って来てくれたのですが、実はそのウラにはゲームで一緒に遊んでもらおうという下心があったのです。もちろんよく一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎまわっている楽しい姿は容易に想像していただけると思います。

 ある時、あなたも子供のころ遊んだことのあるジョリーフーパーゲームに似た遊びで、子供たちが考え出したゲームに興じておりました。大てい私たち五人が勝つのですが、そのうち私たちと向かい合っている子供たちが突然歌うのを止めて立ちつくし、私たちの頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに、他でもない、カストレル様のお姿がありました。

 笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、その雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さがあるために、見た目には実に魅力があり、つい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供たちが走り寄りました。するとその一人一人の頭を優しく撫でてあげておられます。

やがて私たちのところまで来られると「ご覧の通りガイドなしで一人でやってまいりましたよ。どこにおられるのかはすぐに判りますから。ところで、悪いのですが、遊びを中断していただかねばならない用事が出来たのです。あなた方もぜひ出席していただきたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる〝小さい子供さん〟はそのままゲームを続けなさい。

あなた方〝大きい子供さん〟は私といっしょに来て下さい」とユーモラスにおっしゃるのです。

 すると子供たちは私たちの方へ駆け寄ってきて、うれしそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね、と言うのでした。

 それからカストレル様の後について、頭が届きそうなほど枝の垂れ下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り抜けると広い田園地帯が広がっていました。そこでカストレル様は足を止めてこうおっしゃいました。「さて、ずっと向こうを見て御覧なさい。何が見えますか。」

 私たち五人は口を揃えて、広いうねった平野と数々の建物、そしてさらにその向こうには長い山脈のようなものが幽かに見えます、と答えました。

 「それだけですか」とカストレル様が聞かれます。

 私たちが目立ったものとしてはそれだけですと答えると、「そうでしょうね。それがあなた方の現在の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私に視力はあなた方よりは発達していますから、その山脈のさらに遠くまで見えます。よく聞いて下さいよ。これから私に視力に映っているものを述べていきますから。

その山脈の向こうに一段と高い山脈が見え、さらにその向こうにそれより高い山頂が見えます。建物が立っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方に居たことがあります。ですから、あそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいの広さの平野と田園地帯があることを知っております。

 「私は今その中の一つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりも遥かに広くて豊かで壮大な都市が見えます。

その中央へ通じる道の入口がちょうど吾々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出て来るところです。集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群集が手を振って無事を祈っております。

リーダーの馬車が崖の縁まで来ました。そして今その縁を離れて宙を前進しております。それを先頭に残りの隊がついて来ます。さあ、こちらへ向かっていますよ。私たちも別の場所へ行って到着の様子を見ましょう。」

 何のためにやって来るのか、誰れ一人尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞かなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんなことでもお聞きできたのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。

ですがカストレル様は一応私たちの心中を察して「皆さんはあの一隊が何のためにやって来るのを知りたがっておられるようですが、そのうち判ります」とおっしゃって歩を進められ、私たちも後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘の方へ目をやりました。が、さっき述べたもの以外は相変わらず何も見えません。

 
 「隊の姿を誰が一ばんに見つけますかな」とカストレル様がおっしゃいます。そこで私たちは目を凝らして一心に見つめるのですが、一向に見えません。そのうち私の目に遥か山脈の上空に星が一つ輝いて見えたような気がしました。それと時を同じくして仲間の一人が「先生、あそこに見える星はここに来た時は無かったように思います」と大きい声で言いました。

 「いえ、最初からあったのですが、あなたに見えなかっただけです。では、あなたが最初ですか、見えたのは」と聞かれます。

 私はどうも〝私にも見えておりました〟とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は「私にはもう一人見える方がいるような気がするのですがね。違いますか」と言って私の方を向いてにっこりされました。私は赤くなって何だか訳の分からぬことを口ごもりました。するとカストレル様が、

 「よろしい。よく見つめていて下さい。他の方もそのうち見えはじめるでしょう。あの星が現時点では数界を隔てた位置にあります。まさかあの界まで見える方がこの中に居られるとは予想しませんでした」とおっしゃって、私たち二人の方を向かれ、「ご成長を祝福申し上げます。

お二人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子で行けばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます」と言って下さいました。二人はそのお言葉を有難く拝聴しました。


 さて気がついてみますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものでなくて別の形のものであることが判り、やがてその形が明瞭になってきました。

それは竪琴
リラの形をした光のハーブとも言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、段々接近すると、それは騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私たちの方角へ向けて虚空こくうを疾走しているのでした。

 やがて都市の別のところからも喚声が聞こえて来ました。同じものを発見したのです。

「あの一隊がこの都市へやって来る目的がそろそろお判りでしょう」とカストレル様がおっしゃるので、

「音楽です」と私が申し上げると、

 「その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です」とおっしゃいました。さらに近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車──古い伝説に出てくるあの炎の馬車は本当にあるのです。

──それが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走して来たのです。ああ、その美しさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私たちには叙述出来ません。その中の一ばん霊格の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑え、霊格をお隠しになっておられました。

それはこの都市の最高霊であると同時に一人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で一ばん光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。

なぜカストレル様が普段この天界の低地の環境に合わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それは、こうして普段より光輝を増されたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに、私たちにはとても近づき難く、思わず後ずさりさせられるほどだったのです。おっかないというのとは違います。意外さに思わず・・・・・・というよりほかに表現のしようがありません。

 一隊はついに私たちの領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私たちの居る位置との中ほどまで来た時、速度を緩めて徐々に編隊を変えました。今度は・・・・・・の形(※)を取りました。そして遂に都市の正面入口の前の広場に着陸しました。(※末尾のところで説明が出る──訳者)


 カストレル様はその時にはすでに私たちから離れておられ、一隊が着陸すると同時に正面入口からお付きの者を従えて歩み出られました。光に身を包まれて・・・・・・と表現するのがその時の印象に一ばん近いでしょう。王冠は曾て見たこともないほど鮮やかに光輝を増しております。

腰に付けられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長(リーダー)の近くまで来るとそこで跪ずかれました。カストレル様より遥かに明るい光輝を発しておられます。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。

その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に、一瞬、全体がシーンと静まり返りました。その抱擁が解かれ、私たちに理解できない言語での挨拶が交わされてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かれ片手を挙げられました。

すると突如として音楽が鳴り渡り、全市民による荘厳なる讃美歌が聞こえて来ました。前に一度同じような大合唱のお話をしたことがありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より一界上だからです。その大合唱と鐘の音と器楽の演奏の中を二人を先頭に一隊から都市の中へ入って行きました。


 こうして一隊はカストレル宮殿へ向かう通りを行進し、いよいよ例の並木道へと入る曲がり角で隊長が馬車を止め、立ち上がって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊と共に姿が見えなくなりました。

 でも、ダメですね、私は。今回の出来ごとの荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、惨めな失敗に終わりました。実際に見たものは私が叙述したものより遥かに遥かに荘厳だったのです。私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問の使命についてはよく理解していなかったからです。

それは私ごとき低地の住民には理解の及ばないことで、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。

せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連している、ということだけです。それ以上のことは判りません。もちろん私以上に語れる人が他にいるのでしょうけど。

 さっき出なかった言葉(一六二頁)は〝惑星〟です。編隊を変えたあとの形のことです。いえ〝惑星〟ではありません。〝惑星系組織〟です。地球の属する太陽系なのかどうか──たぶん他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。

 今夜はこれでおしまいです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を。目をまっすぐに見据えて理想を高く掲げることです。そして私どもの世界の本当の栄光に比べれば、地上で想像し得るかぎりの最高の栄光も、太陽に対するローソクのようなものでしかないこと、それほど霊の世界の栄光は素晴らしいことをお忘れにならぬように。

                                        


〝縁〟は異なもの                     

     
一九一三年十月二二日  水曜日

 もしも地球全体が一個のダイヤモンドか真珠のようなものであったら、太陽や星の光を反射して地球のまわりがどんなにか明るく輝くことでしょう。もちろん地球に輝きが無い訳ではありません。少しは輝いております。ただ表面にツヤが無いために至ってお粗末なものに見えます。
 
その輝きと真珠の輝きとを比較していただけば、地上生活と私たちが今いる光と美の境涯、いわゆる〝常夏の国〟(※)との違いが想像していただけると思います。

(※曽ては〝常夏の国〟 が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口あたりに過ぎないことが明らかとなってきた。本通信でも〝天界の低地〟に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性があることが窺える。──訳者)

 この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響を殆んど忘れております。もっとも、地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出すことは出来ます。例えば距離です。

距離感覚はぼやけて行くのではなく、少しずつ消失して行くのです。樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲きシーズンが終わると枯れて行くというのではありません。いつも咲いております。

それを摘み取ってもずいぶん永い間いきいきとしております。やがて萎れるのかと思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが、必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市はどこか黄金の太陽の光のようなものに包まれております。モヤではありません。

それが視力を妨げることもありません。それどころか、他のさまざまな色彩を邪魔することなく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらとしたピンク、あるいは青色をしている地方もあります。各地方に独特の色調又は感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を表わしているのです。

 大気の色調はこの原理に基づいているようです。が同時に、その色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれがよく判ります。霊格が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。

と同時にその人もすぐにその影響を受けることになります。もちろん根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表われます。

 ですから、見知らぬ土地へ行っても、内面的にも外面的にもすぐに同胞意識を覚えるようになります。これは私が知った最大のよろこびの一つです。どこへ行っても兄弟姉妹が居るようなものです。
 
もし地上がそういうところだったらどうなるか、想像してご覧なさい。居ながらにして天使の平和と善意のメッセージが現実となり、地上が言わば〝天界の控えの間〟となることでしょう。
 
 さて私たちはカストレル様の都市の訪門を終えての帰路、今回の体験で私たちがどう変わったか、いかなる教訓を学んだかを反省いたしました。私自身について言えば、それはもう、あの死産児に会えたということだけで十分であったという気持ちです。
 
思いも寄らなかった神からの贈り物です。が、平野をのんびりと歩きながら、私だけでなく仲間の一人一人がその人なりの祝福を得ていたことを確かめ合ったことでした。
 
 都市を訪れる時は天空を飛行しました。そこで帰りは山脈のところまでは歩いて行きましょうということになったわけで、その道すがらずいぶん色んなことを語り合いました。それを全部綴れば大変なページ数になります。そして内容も興味ぶかいものばかりですが、私たちと違い、あなたにとって、また新聞社にとっては、時間と紙面が大切な要素ですから(※)それは割愛して、どうしても語っておかねばならないことだけを述べることにしましょう。
 
(※この霊界通信は一九二〇年から二一年にかけて新聞に掲載されている。霊界側は当初よりこういう形での公表を念頭において通信を送って来たことが窺える。──訳者) 
 
 私たち五人が本来の界へ帰り着いた時、私たちの属する霊団の最高指導霊であらせられる女性天使も例の〝かけ橋〟での用事を終えてすでに帰っておられました。この度はあなたもよくご存知の婦人を連れて帰られました。
 

──どうぞその方のお名前を!
 

 S婦人です。あの方は、死後、不如意な体験が重なりました。こちらへ来られた頭初は急速な進歩が得られる境涯へ案内されたのですが、あの方の場合は複雑でした。性格が複雑な方だったために、どこに置かれてもしっくり来なかったのです。

いろいろと工夫して援助してあげたのですが、しかし──これはあなたも是非知っておくべきことですが──こちらでは自由意志と個性が非常に重要視され、いくらその人のためになることでも押し付けることは許されないのです。

S婦人は間もなく気持ちが落着かなくなり、私たちも本人の好きにさせるほかはないと判断しました。そこで警告と忠告を十分に与えた上で二つの道の岐路に案内して、好きな方角を選ぶにまかせたのです。但し指導霊を付けて蔭から監視させ、必要とあらばいつでも援助の手を差しのべる用意をした上でのことです。

 

 さて婦人は自分の求めるもの、つまり〝心の落着き〟を得るためにはどこへ行けばよいか、何をすればよいか迷っておりました。それで相当永い間、例の〝かけ橋〟の近くをウロウロしておりました。

そのS婦人がようやく自分の誤りに気づいて光明の方へ足を向け、女性天使に連れられて最初の境涯へ戻って来ることになったのは、我が侭を通せば通すほど暗闇が増し、会う人も見る光景も聞く音も心地良さが薄れ、時には恐怖さえ覚えさせるものになって行きつつあることに気づいてからでした。

今もまだまだ進歩は遅いようです。ですが、頑なな心が次第に和らかさを増し、謙虚さと信頼心が強まりつつあります。そのうち立派になられるでしょう。これまで私がS婦人の消息が判らずお役に立てなかったのも、こうした経緯があったからです。これからは時の経過と共に少しずつ力になってあげられることと思います。

私がこれから当分の間仕事に従事することになっているこの土地へ連れて来られたのも、多分そのためでしょう。あの方のことは私は地上ではあなたを通じて存じ上げていただけで、あまりよく知りませんでした。私とのこの度のご縁は多分あの方のお子さんたちとあなたとの情愛がかけ橋となっているのでしょう。

 こちらでは地上でのご縁が全て生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた一冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会うことのなかった人等々、すべてが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。今回の私とS婦人との関係もその一つの例と言えましょう。

 ですから、日常の行為の一つ、言葉の一にも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。

 ではお寝みなさい。この挨拶は〝良い夜〟お過ごし下さいという意味ですから地上の方には意味がありますが、私達には意味がありません。こちらでは〝善〟を愛する者にとっては全てが〝良い〟ことばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから〝夜〟が無いのです。
                                          

   
五章 天使の支配

 1 罪の報い                  

  
一九一三年十月二三日  木曜日     


 天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったら恐らくうんざりなさることでしょう。

ですが、ここで一つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終わりで述べたことを補足説明しておきたいと思います。

 最近のことですが、又一人の女性が暗黒界から例の〝橋〟に到着するという連絡を受け、私ともう一人の仲間二人で迎えに行かされたことがありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性がすでに待っておりました。

一人ぼっちです。実はそこまで連れてきた人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと一人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。

一本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい)のようにその方をおおっております。見ると目を閉じておられます。私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。

でも何もしゃべらないので、私が「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔をおおい、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

 そこで私が近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。

 「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」──その方は頭を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。

 「どなたかは存じませんが、どんなお方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の一人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。

今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。それ以外のことはあなたの心掛け一つに掛かっております。

つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの〝橋〟を渡って戻って行く人となるかは、あなたご自身で決断を下されることです」と私が述べると、暫く黙って考えてから、

 「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。

 「でも、どちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留るわけには行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね、私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから。」

 「ああ、あなたはこの先がどんな所なのかをどこまでご存知なのでしょう」──その声には苦悶の響きがありました。「今まで居た所でも私のことをみんな姉妹のように呼んでくれました。

私を侮(あなど)っていたのです。姉妹どころか、反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り、堕落しきったダメな女です。」

 その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。そして彼女にこういう主旨のことを言いました──当分はそうした苦しい体験を忘れることに専念しなさい。

そのあと、私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろうことは容易に想像できました。

でも向上の道は一つしかないのです。何一つ繕(つくろ)うことが出来ないのです。すべてのこと──現在までの一つ一つの行為、一つ一つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。

神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしか無いのです。がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。

 さて、道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。

私たちは彼女に理解できる範囲のことを教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使のこと、そしてその配下で働いている霊団のこと等を話して聞かせました。

その話の途中のことです。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。〝なぜ? お疲れになりましたか〟と聞くと〝いえ、怖いのです〟と答えます。

 私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに摑みどころのないものがあるのです。

そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出すことに成功しました。それはこう言うことだったようです。

〝橋〟の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに救助の者を差し向けました。行ってみると、悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って、私たちが迎えに出た場所まで連れて来たというわけです。

 さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時のことです。気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。

とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで こん畜生」と罵りました。

が次に気がついた時は門楼の中に居たというのです。彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとそのことが蘇ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせたわけです。
 
自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向かって罵ったか自分でも判りません。しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのし掛かっていたのです。

 私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまり、この女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引きかえし〝橋〟を渡って門楼の所まで来ました。

 彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦しを乞い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返して来るのを待っておられたのです。

私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長け、彼女がいずれ戻って来ずに居られなくなることを洞察しておられたのです。

ですから私たちが来るのをずっと門楼から見ておられ、到着するとすぐに出て来られました。その優しいお顔付きと笑顔を見て、この女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福をいただいたのでした。

 今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思えることでもきちんと片付けなければならないようになっていることを明らかにしたかったからです。

実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。

あのお気の毒な罪深い女性が向上して行く上において、あんな些細なことでもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。〝橋〟を通って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。

ですが、自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものであること、為すべきことを為せばきっと恵みを得ることを悟ったのでした。

その確信は、彼女のようにさんざん神の愛に背を向けて来た罪をこれから後悔と恥辱の中で償って行かねばならない者にとっては、掛けがいのない心の支えとなります。


 ──その方は今どうされていますか。

 あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違い無く進歩しておられます。

私たちのホームにおられますが、まだまだ他人のための仕事をいただくまでには至っておりません。いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。

 罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定することであり、単に戒律(おきて)を破ったということとは比較にならない罪深い行為です。

魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬をはたらくことに他なりません。その汚れた神殿の掃除は普通の家屋を掃除するのとはわけが違います。

強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のまにまに生き、人を愛するということの素晴らしさを味わうからです。     

(※民族的性向の違いにより神を〝父なる存在〟と見なす民族と〝母なる存在〟と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く〝無〟と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。──訳者)
                                       


2 最後の審判           

 一九一三年十月二七日  月曜日

 
今夜もまた天界の生活を取りあげて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。

私がお世話している患者──ほんとに患者なのです──は明かりの乏しい、言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。

来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは、余ほど体力を回復してからのことです。

 あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば〝愛〟の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。
 
と言うことは、私たちは罪を裁かず、罰せず、ただ愛を持って導いてあげるということですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思うことが原因となって、却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

 例えばこんな話があります。最近のことですが、患者の一人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。

その人はつい目を反らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏れ多い気がしたのです。すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていたことを尋ねる気になりました。

 「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。そのことを思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷い罰を言いつけられるにきまっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」

 この問いに天使様はこうおっしゃいました。

 「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。
 
それから、審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して、自分の自由意志によってそれを行うのです。

一つ一つ勇気を持って懺悔する毎に向上して行きます。ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたはすでに多くの罰を受けておられます。

確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。ただし苦痛は伴うでしょう。

大変辛い思いをなさることと思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」

 「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」

 「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとは大分ちがいます。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」

 これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪いことをしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問に掛けられるものと思い込んでいるので、そんな気配がないことに却って戸惑いを感じるのです。

 また、自分は立派なことをしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ──時にはみじめなほど低い環境にとても落胆することがよくあります。

内心では一気にキリスト神の御前に召されて〝よくぞやってくれた〟とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。もう、それはそれは、こちらへ来てからは意外なことばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいるわけです。

 最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で、何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場のかまたきをしていた青年に話しかけ、いろいろと教わっているところでした。楽しそうな様子なのです。

と言うのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、すでにこちらへ来ている筈の曽ての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚れを告白することはしたくないのです。

しかし、いずれはしなければならないことです。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に、私たちの目にはその人の過去も現在もまる見えであり、とくに現在の環境が非常に低いことが明白なのに、本人は相変わらず内心の自惚れは他人に知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。


こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。

 ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは、心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかということです。

 これにはぜひ理解していただかねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りてきますと、私たちはすでに本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。
 
その制約が私たちにはすでに馴染めなくなっております。例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。

そうしないとメッセージを伝えることも物理的に演出してみせてあげることも出来ません。実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っていることは判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。

例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならないことになりますが、それが往々にして十分でないのです。

 さらに、その人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台なしになったりすることもあります。なるべくなら私たちを信頼して私たちの思いどおりにやらせてほしいのです。

そのあとで私たちが何を伝えんとしているかを批判的態度で検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように、時おり心の中に宿していただけばそれでよろしい。

 私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。

実験その他、何らかの形で私たちが側に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。

あとは私たちにまかせて下さい。出来るだけのことをして差しあげます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいと言う意図しかないのですから、あなたの為になることなら出来る限りのことをしていると信じて下さい。

 ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーのことを知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求することがなかったので、私たちは存分に準備することが出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

 ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子にはほかにすることがありますし、私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならないことがあります。

そう、こんなことも言っておりました──「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉があたしたちのところまで届けられて、その中の幾つかを取りあげてみんなで討論し合うことがあるって。地上で学べなかったことについてのお話が入ってるからなの」と。


──ちょっと考えられないことですね。本当ですか。

 おやおや、これはまた異なことを。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってからこんどは地球と地上生活について少しずつ勉強することを許されます。

そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用することになります。

父親の説教を聞いて学ぶこと以上に素晴らしい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。常識的にお考えになることです。少しは精神構造が啓発されるでしょう。


──でも、もしもあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。

 ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが、愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

 でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構なことです。でも、このことはあなた一人にかぎったことではありません。全ての人間がそうあらねばならないことですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも一つだけ安心していただけることがあります。万が一良からぬこと、品のないことをうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。

ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。思いのままを遠慮なくおしゃべりになることです。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。

 さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。

                   

3 使節団を迎える                   

   
  一九一三年十月二八日  火曜日

 これまでに私たちが伝えたメッセージはすべてあなたの精神(マインド)(※)に私たちの思念や言葉を印象づける方法で行われております。

このためには私たちはあなたの精神に宿されているものを出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでもラクに伝わるように工夫します。ですが、それがうまく行かなくて、やむを得ずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私たちが伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせると言う手段を取ることがよくあります。

(※霊側から見た精神には実体があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える。いわゆる潜在意識もこれに含まれる。──訳者)      

 いいえ、あなたをその身体から連れ出すという意味ではありません。だって、あなたはその間ずっとそこにいて意識を持ち続けているわけですから。

私たちが行うのは言わばあなたの内的視覚──霊体の視力──に霊力を注ぎ込む為に一時的にあなたの注意力を私たちが吸収してしまうのです。するとその間はあなたは環境をほとんど意識しなくなります。

つまり周囲のことを忘れ、気を取られなくなります。その瞬間をねらって今述べた霊界の影像を伝達して、それに私たちが実際に見た出来ごとの叙述を添えるということをするわけです。

 例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハーブの編隊を組んで到着するシーンを述べた時、シーンそのものは実際のものをお見せして、それに群がる群集や正面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思ったことを後で私たちが復元して添えたものです。

そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへお出でになれば判ります。

 さて、これから私たちはもう一つの光景をお見せしてみようかと思います。〝みよう〟という言い方をしたのは、大事なことについては私たちはそう滅多にしくじることはありませんが、所詮私たちも全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せないこともあるからです。

 それではこれから暫くあなたの注意力をお貸しいただいて、私たちのホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。私たちは良くお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合うことを致します。
 
 私たちはホームの裏手にある丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空はるか彼方にその姿が見えはじめました。その辺りの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。

それを見て私たちはその使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人たちであるかが判断できます。その使節は主に儀式と式典の正しい在り方を研究している人達で、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。

 虚空(こくう)を翔(かけ)る様子を見つめておりますと、平地で待機していた私たちのホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのもまた一興でした。遥か上空でお互いが接近し、いよいよ距離が狭まると、こちらの一団の何人かが音色もポストホルン(※)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時に更に別のグループが歓迎の合唱を始めました。

 (※昔駅馬車や郵便馬車の到着を知らせる為に御者が用いた二~三フィートの真ちゅうのラッパ。──訳者)

 やがて歓迎の儀式が終わりました。後方に一台の二頭立ての馬車が用意してあります。昔の(天蓋のない)馬車にそっくりです。近代風の馬車を使用してもよいのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。

それで古代の馬車がずっと使われているわけです。使節団はさらに近づいて、こちらの一団と向かい合って並びました。そのシーンを想像して下さい。

あなたには不思議に思えることでしょうが、私たちの世界では至って自然なことであることがそのうちあなたにもお判りになる日が来るでしょう。

さらに向上すると空中で立つだけでなく地上とまったく同じように跪いたり、横になったり、歩いたりすることまで出来るようになります。

 さて、私たちのお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握り合い、互いに額と頬に口づけをしました。

それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け恭しくお辞儀をしてお通ししました。お二人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをし合いました。

それから全員が私たちの方角を向き、ゆっくりとした足取りで降りて来て、ついに丘の麓まで来られました。

 空中を行くとどんな感じがするか──これはあなたにはちょっと判って頂けないでしょう。私も一度ならず試してみたことがあります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。

ですからそれを述べるよりも、見た目に実に美しいものだと言うに留めておきましょう。カストレル様やアーノル様のような霊格の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があるというに留まらず、その落着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさがあるのです。

空中になるとそれが一層美しさを増します。静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかで優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。今目の前にしたお二人もまさにその通りでした。

 一行は曲がりくねった小道を歩いて私たちのリーダーの住居に至りました。ここにおいて私たちの指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。

私にはお二人の間に霊格とか地位の差は無いように思われます。全く同じでは無いにしても、どちらが上でどちらが下かは直接お聞きしてみないと判らないほどで、それはちょっとお聞きしかねることです。

お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴れ晴れとした没我性の中で行われるために、お二人の霊的な差を見分けることが出来ないのです。

 そのお住まいはあなたがご覧になればきっと中世の城を思い出されることでしょう。山の中腹の岩の上に建てられており、周りは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。

 使節団は玄関道を通って中へ入り、そこで私たちからは見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも一度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らし出しました。

その色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。一つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ、渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。

 これまでの私の叙述に〝出入口〟がしばしば出て来ましたが〝門〟については特に述べていないことにお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見たことがないのです。

〝ヨハネ黙示録〟の中には天界の聖都とその門についての叙述があります(21章)。私はヨハネが霊視したと思われる都市に酷似した都市の門を思い出していろいろと考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当たらないように思います。

で、私が思うに、ヨハネが〝聖都の門は終日(ヒネモス)閉じることなし〟と述べておいて、そのあとすぐ地上の都市では昼間は戦いでもない限り門は閉じられることはなく夜はずっと閉じられていることを思い出して───〝(ここに夜あることなきが故なり)〟とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じような門は無かったからではないかと思うのです。これは私個人の考えです。

間違っているかも知れませんが、ぜひあなたの改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみて下さい。

 お城の中でのフェスティバルのことは私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここでは述べないことにします。それよりも、私が目撃したものを述べておきましょう。

その方が生き生きと表現できますから。しかし、あれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろうことは容易に想像できます。

 そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露のごとく降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へお出でになれば、こうしたことを全部目(ま)のあたりにすることが出来ます。

授かるよりは授ける方が遥かに幸である事を何かにつけて学ばされている私たちが、その素敵な芳香を私たちの言葉を通じて地上の方にも味わっていただき、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じる者がいかに幸せであるかを判っていただきたいと思うのは少しも不思議でないことが、これでお判りでしょう。

 幾久しく神の祝福のあらんことを。アーメン
                                                                                   


4 強情と虚栄心 
                     

    
一九一三年十月三十日 木曜日

 その手をご自分の頭部へ当ててみてください。そうすると通信が伝わりやすくなり、あなたも理解しやすくなります。

──こうですか。

 そうです。あなたと私たち双方にとって都合がいいのです。
 

──どう言う具合に。

 私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。今言ったとおりにして下されば、その磁気の散逸が妨げるのです。


──さっぱり判りません。

 そうかもしれません。あなたにはまだまだ知っていただかねばならないことが沢山あります。今述べたこともその一つです。それ一つを取り上げれば些細なことかもしれませんが、それなりに大切なのです。

成功を支えるのは往々にしてそうした些細なことの積み重ねであることがあります。

 ところで、私たちはこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かいことは言うつもりはありません。


でも、このことだけは述べておきたいのです。つまり私たちが使用するエネルギーはやはり〝磁気〟と呼ぶのが一番適切であること、そしてその磁気に乗って私たちのバイブレーションがあなたの精神に伝わるということです。

そうやって手を当てがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の二つの役目をしてくれて、私たちは助かるのです。でも、この問題はこれ位にして、もっと判り易い話題に移りましょう。

 この〝常夏の国〟では私たちは死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒をみるように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私たちは度々地上圏まで出かけることになるのです。

 先週も私たちのもとに夫と三人の幼い子供を残して死亡した女性をお預りしました。そして例によってぜひ地上へ行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。

あまりせがまれるので、やむを得ず私たちは婦人を地上へ案内しました。着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰って来たばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。

いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。〝私たちとお母さんのために食事を用意して下さったことをキリストの御名において神に感謝します〟と。

 その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。

当惑するのを見て私たちは婦人を引きとめ、少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、長女と父親の脳裏に婦人のことが去来しています。

すると長女の方が口を開いてこう言いました──「お父さん、母さんは私たちが今こうしているのを知ってるかしら?それからリズおばさんのことも。」

 「さあ良く判らないけど、きっと知ってると思うよ。この二、三日、母さんがとても心配してるような、何だか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけれどね。」

 「だったら私たちをおばさんとこに届けないでちょうだい。〇〇婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくって済むでしょ。」

 「行きたくないのだね?」
 「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど。私はイヤよ。」
 「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。皆んなで何とかうまくやって行けそうだね。」

 「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ。」

 父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました──〝こんな小さな子供がそれほどの信仰を持っているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだ〟と。

それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。

 こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上を後にしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私たちが取った手段が間違っていたことになるのです。

 帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。

それからというもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私たちの霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事が出来るようになる日もそう遠くはないでしょう。

 この話はこれ位にして、もう一つ別のケースを紹介してみましょう。先ごろ私たちのコロニーへ一人の男性がやってきました。この方も最近地上を去ったばかりです。

自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私たちの所がどうやら気に入ったらしいのです。ずっと一人ぼっちだったのではありません。少し離れた所から何時も指導霊が見守っていて、何時でも指導する用意をしていたのです。

この男性も私たちが時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。

 その男性がある時私たちのホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。

実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から、合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。

 「この土地にはあまり馴染みがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」

 「お言葉は有難いのですが、別に困ってはおりません。」

 「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部というわけにはいかないでしょうけど。」

 「私がどんな悩みを抱えているかご存知ないでしょう。」

 「いや、少しは判りますよ。こちらで一人も知り合いに会わないことで変に思っておられるのでしょう。そしてなぜだろうと。」

 「確かにその通りです。」
 「でも、ちゃんとお会いになってるのですよ。」

 「会ったことは一度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません。」

 「でも、お会いになってますよ。」
 「知った人間には一人も会っておりませんけど。」

 「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや、気づこうとなさらないだけです。」

 「何のことだか、よく判りませんね。」

 「こういうことです。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです。」

 男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。

 「じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き会いが出来ないし落着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう。」

 「まず第一に反省しなくてはいけないのは、あなたの考えることが必ずしも正しくないということです。ちなみに一つ二つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。

一つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているものです。

それからもう一つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵いませんでしたし、今でも敵わないでしょう。

ところが総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第二の点です。心底から認めなくてはダメです。あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でも、まずそれを認めないと向上は望めません。

認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところまだそれは不可能です。」

 男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、どこかさびしげに言いました。

 「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね。」

 「まさしくその通り。そこで、あなたが認めなければならない三つ目のことを申し上げましょう。それはこういうことです。あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差し伸べようと待機している方がいるということです。

その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方が良いかも知れません。さっき申し上げたことは全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたに過ぎません。」

 それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思い詰めておりましたが、やがてこう聞きました。

 「結局私は虚栄心が強いということでしょうか。」

 「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり、愛念が無いわけではありません。この愛こそ何にも勝る力です。

ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも柔げなくてはなりません。言ってみれば精神的轍(わだち)の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから脱け出て、もっと拘泥(こだわり)を捨て、自由に見渡さなくてはいけません。

そうしないといつまでも〝見えているのに見えない〟という矛盾と逆説の状態が続きます。つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。

証拠を突きつけられて自説を改めるということは決して人間的弱さの証明でもなく堕落でもなく、それこそ正直さの証明であることを知らなくてはいけません。

もう一つ付け加えておきましょう。今言ったように、その強情さはあなたの精神構造に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側──ずっとずっと向こうにある薄暗い世界に落着くところでした。以上、私なりにあなたの問題点を指摘してさし上げました。後は別の人にお任せしましょう。」

 「どなたです?」
 「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方。」
 「どこにおられるのですか。」
 「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから。」
 
 そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には目えません。

 「さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい。」

 男は疑念と不安の表情で言いました──「どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私に見えないのでしょうか。」

 「さっきも言った通りあなたの精神構造に見えなくさせるものが潜んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか。」

 「私は物がよく見えています。非常にはっきり見えますし、田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にもあるかも知れないと考えはじめております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも…」

 「お待ちなさい、その〝でも〟はやめなさい。さあ、ここをよく見なさい。あなたの指導霊の手を私が握って見せますよ。」
 
 そう言って指導霊の右手を取り、「さ、よく見なさい。何か見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで、実体があるのか無いのかよく分かりませんでした。

 「じゃ、ご自分の手で握って見なさい。さ、私の手から取ってごらんなさい。」

 そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。

 男にそうした行為が出来たということ、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみることが出来たということは、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時はすでに、それまでのやりとりの間に男がそれが出来るまで向上していたということで、さっそくその報いが得られたわけです。

指導霊は暫くの間男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見え始め、且つ、手の感触も強くなって行きました。

それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合うことも出来るようになったことでしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつあることでしょう。

 ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとのことです───「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切なことをしたり、良いことを考えたりお話したりすることが全部映像になってこちらへ伝わって来るのは本当です。

私達はそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのといっしょよ」と。

 では神の祝福を。お寝すみなさい。
 
 
<原著者ノート>最後のルビーからのメッセージの中の〝あのお花〟というのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私たちが時折送り届けている花のことのようである。以上で母からのメッセージは全部終了し、この後の通信は私の守護霊であるザブディエルに引き継がれる。それが第二巻「天界の高地」篇である。
                                

 
     
〔本章は、これまでのオーエン氏の母親からの通信の中に時おり割り込む形で綴られた、アストリエルと名告る霊からの通信をまとめたものである。九九章<原著者ノート>参照──訳者〕
 




 六章 見えざる宇宙の科学  

 1 祈願成就の原理  
         
 
一九一三年十月七日 火曜日


 このたび初めて同行して来た霊団(グループ)の協力を得て私はこれより、ベールのこちら側より観た〝信仰〟の価値について少しばかり述べてみたいと思う。
 
  キリスト教の〝信徒信条〟に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。すでに多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。

 そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断におまかせし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。

 そこで吾々としては現在の地上の人間があまり考察しようとしない問題を取り上げることにしたい。その問題は、人間が真理の表面──根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの──についての論争を卒業した暁にかならず関心を向けることになるものである。
 
それを正しく理解すれば、いま人間が血眼(ちまなこ)になっている問題の多くがどうでもよい些細なことであることが判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向けることになるでしょう。

 その一つが祈りと冥想の効用の問題である。貴殿はこの問題についてはすでに或る程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。

 祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。
 
祈りに実効を持たせるためには、その場かぎりの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象(うぞうむぞう)の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で巾広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。
 
祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を五千人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に創造され、その結果として〝祈りが叶えられる〟ことになる。
 
つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。
 
 祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当たらずに逸(そ)れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られないことになる。
 
さらに、その祈りに良からぬ魂胆が混入しても効力が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。
 
 さて、こうしたことは人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些(いささ)かもそうではない。  
 
 実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。

    これを完璧に遂行するためには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。
 
そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在することが認識されているように、吾々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。 
 
それは更に高い界層の担当者に引き渡され、そこでの一段と高い叡智による処理にまかされる。高等な祈りがすべて聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。
 
その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受けることすらあるのです。

  「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」──天使がコルネリウス(※)に告げたと言われるこの言葉を御存知であろう。これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現われ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。
 
この言葉は次のように言い変えることができよう──〝貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知をいただいた。依ってここに命を受けて参じたものである〟と。
 
吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解していただこうとの配慮からです。(※ローマ教皇二五一──二五三)
 
 以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味していただけば、吾々霊界の者が目のあたりにしている実在の相(すがた)をいくらか推察していただけるであろう。
 
そして大切なのは、祈りについて言えることがそのまま他のあまり感心出来ぬ心の働きにも当てはまるということです。例えば憎しみや不純な心、貪欲、その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現われるのです。  
 
悲しいかな、天使は嘆くことを知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存知ない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれることもなくなるでしょう。 
                             
 さて、この問題は貴殿がその価値をお認めになれば、あとはご自分でさらに深く考究していただくことにして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の話題を提供しようかと思います。

 貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があのような形にしようと決められたことは憶えておられることと思いますが、いかがであろう。


──今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。おっしゃる通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようかと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でも、そんなことが何の意味があるのでしょうか。

 ごもっとも。貴殿にとっては些細なことでしょうが、吾々の世界から見ていると、些細なことというのは滅多にないものです。
 
鶏の恰好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は五年前に貴殿の精神の中での一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物というわけです。こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。

 吾々の方から見ても人間のすることに苦笑することが多々あり、なぜ笑うのか理解に苦しまれるであろうことがあるものです。


 貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きというのは、風見鶏を見ることによって信者の方に、ペテロが主イエスに反(そむ)いたことを思い出してもらおうということでした。思うに貴殿は今の時代に二度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬようにその警告のつもりだったのでしょう。

しかし、ただそれだけの一見些細に思える決断が吾々の世界へ届き、吾々はそれを真剣に取りあげたのです。

 申し上げますが、新らしく教会を建立するということは実はこちらの世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々じつに大勢の霊がそれぞれの役目を与えられてその遂行に当たります。

貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数はきわめて限られております。牧師、会集、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、吾々の中の最適の霊つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、さらには建物の構造まで細かく配慮する。象徴性はとくに念入りに検討します。
 
人間には気づかない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮したわけです。話題としてはもっと大きなものを取り上げても良さそうですが、一見なんでもなさそうに思えるものにもちゃんとした意味があることをお教えしたくて、これを選んだわけです。

 さて、シンボルとして貴殿が雄鶏を選んだからには、吾々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようということになった。それが吾々の習慣なのです、そこで選ばれたのが例の鐘で、そのために聖歌隊の一人に浄財を集めさせたのです。
 
 教会が完成して祝聖式が取り行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論む警告が発せられない。そこで吾々がその〝声〟を雄鶏に与えたという次第です。鐘の音が雄鶏の言葉──〝夕べの祈り〟の時も聞こえていた如く──です。

 貴殿はこうしたことを霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういうことにでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘のことは有難いと思われたのではないですか。

 

──それはもう、本当にうれしかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。よろしかったらお名前を伺いたいのですが。

 吾々は貴殿のご母堂が時おり訪れる界から参った者です。実はご母堂から吾々にもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送ってほしいとのご要望があった。仲間の方といっしょに来られたのです。  
 
霊団を代表して私から言わせていただけば、この度のことは吾々も喜んでお引き受けいたしました。が実は貴殿のことも教会の建立のことも、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。


──御厚意に感謝いたします。お名前をお聞きするのは失礼に当たりましょうか。

 別に失礼ではありませんが、申し上げても貴殿はご存知ないし、その名前の意味も理解できないのではないかと思いますが。


──でも、よろしかったら是非お教え下さい。

アストリエル。神の祝福を。 ♰


<原著者ノート>アストリエル霊は通信のおしまいに必ず十字架のサインをした。

                                                        


2 神々の経綸     
                 
 
一九一三年十月九日 木曜日


 この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻ってくることを吾々が面倒に思っているとは決して考えないでいただきたい。

勿論地上の雰囲気は吾々の境涯に較べて明るさに欠け、楽しいものでないことは事実ですが、こうして使命を仰せつかることの光栄はそれを補って余りあるものがあります。

 今回は天体の科学について述べてみたく思います。貴殿にも興味がおありであろうし役に立つと考えるからです。科学と言っても地上の天文学者が行っている単なる物質の表面的分析のことではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。

 ご承知のように恒星はその一つ一つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成しているというところまでは認識されていますが、実はそれのみでなく、組織全体に亘って地上のいかに精巧なる器機や秀でた頭脳を持ってしても感識出来ないほど精妙な粒子が行き亘っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。

それというのも、両者は根源的には多面性を有する一個の進化性を持つ有機的組織の二つの面を表わすに過ぎず、あたかも太陽とその惑星の関係の如くに互いの作用と反作用とを繰り返しています。

 重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。吾々が心霊実験において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿には理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては〝エネルギー〟しかないので、取りあえずそう呼んでおきます。

それ以外にも広い規模で機能しております。例えば、もしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないということです。

なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当たった時の反射と屈折の作用のせいだからです。〝伝導〟と言うのは正しくありません。

伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線がその精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。
 

 この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばねばならないことが沢山あります、と言って、それを吾々がお教えすることは許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。

もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上という物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。人間の個人的努力ならびに協調的努力によって苦心しながら探ることの効用を台無しにすることのない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。

この点をよく銘記していただきたい。その点を理解していただけば、こうした通信において吾々がよく釈明することがあることも納得が行かれると思います。

 さて、恒星は光を放射している。が放射するためには内部にそれを蓄えておかねばならない。しかし恒星は自らを自らの力で拵えたわけではない以上、エネルギーを蓄えるには何処からか与えてもらわねばならない理屈になります。では一体誰れが与え、どういう過程で与えられるのであろうか。

 「それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである」──こう言ってしまえばむろん簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際にそのことに携わるのは神の使徒たる天使(※)であり、その数は人間的計算の域を超えます。そしてその一人一人に役目が割り当てられているのです。(※日本神道でいう八百万の神々である。──訳者)

 実は恒星は、整然たる秩序と協調性を持って経綸に当たるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。
 
 貴殿に是非とも知っていただきたいのは、神の造化の王国には何一つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないということです。光線一本、熱の衝撃波一つ、太陽その他の天体からの電波一つにしても、かならずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。

つまり、ある意識的存在による確固たる意図に基づいた、ある方角への意志の働きがあるということです。その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊格は必ずしも同じでなく、形態も同一ではありません。(※)

がその働きは上層界の霊によって監督され、その霊もまたさらに高い霊格と崇高さを備えた神霊によって監督されているのです。(※日本の古神道ではこれをひとまとめにして〝自然霊〟と呼んでいる。──訳者)

 これら物質の大きな球体は、ガス体であろうが液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、すべてが連動され、エネルギーが活性化され、それぞれに存在価値を与えられている。

何か機械的な法則の働きによるのではなく、そうした意識的存在が内面より先に述べた法則に則って働きかけております。今〝知的存在〟と言わずに〝意識的存在〟と言いましたが、創造神のもとで造化の大事業に勤しむ霊的存在はそのすべてが必ずしも知的ではありません。

貴殿が理解しているところの〝知性〟を持つ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。但し驚かないで頂きたいが、貴殿が〝知的存在〟と呼ぶであろうところの存在は、実は、下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度のものであり、その下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸に当たる高等な存在になると貴殿の言う〝知的〟という用語の遥かに超えた、崇高なる存在ばかりです。

 その下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層が幾つも存在します。
注意しておきますが、下等といい高等といい知的存在といい、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。

貴殿がこちらへ来られてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明していることを忘れないでいただきたい。

 さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そして又、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。

小規模とはいえ、全く同じ原理なのです。数知れぬ恒星と惑星の存在を維持するための機構と同じものが、各種の原子の集積体──石材、木材、レンガ等──の配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ一個の存在の創造となったわけです。

その素材は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかりと他と連動されています。他とのつながりなしに置かれているのではありません。もしそんなことをしたらすぐに崩壊が始まり、バラバラになってしまいます。

 以上述べたことに照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他もろもろの建物に入った時の〝印象の違い〟について考えてみられるとよろしい。それぞれの機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今吾々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。

言ってみれば霊から霊への語りかけ──物的身体を持たない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入って来る人間の霊に働きかけているのです。

 お疲れのようですね。通信がしにくくなって来ました。これにて失礼します。良ろしければ改めてまた参りましょう。貴殿並びにご家族、教会関係の皆様に幾久しき神の祝福のあらんことを。
                                                             アストリエル                        
                                                                                              

3 天体の霊的構成      
              
   
  一九一三年十月十六日 木曜日

  吾々が霊界の事情について述べることの中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、こちらには地上の人間に捉えられないエネルギーや要素が沢山なることを銘記していただきたい。そのエネルギーは地上の環境の中にまったく存在しないわけではありません。

大半が人間の脳では感知し得ない深いところに存在するということです。霊的感覚の発達した人にはある程度──あくまである程度でしかありませんが──感知できるかも知れません。

霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって〝超自然的〟と思える世界との境界線あたりまでは確かに手が届いております。

その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。

 今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上のことは、すでに述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全となります。


──アストリエル様ですか。


 アストリエルとその霊団です。

 まずは主イエス・キリストの名において愛と平和のご挨拶を申し上げます。吾々にとっての主との関係は地上における人間と主の関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くのことがこちらへ来て明らかとなりました。そこで厳粛なる気持ちで申し上げます

──主イエス・キリスト神性の真意と人類との関かわりの真相を知らんと欲する者は、どうか、恐怖心に惑わされることなく敬虔なる気持ちを持って一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いも寄らない導きがあるものです。

そして又、真摯に求める者は主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをいかにしつこく問い詰めようと、決して主への不敬にはならない──何となれば主がすなわち真理だからである、ということを常に心に留めていただきたく思います。

 しかしながら、吾々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意を込めて言わせていただけば、地上のキリスト教徒の間で〝正統派〟の名のもとに教えられているものの中には、こちらで知り得た真相に照らしてみた時に、多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。

と同時に、それ以上のものを追求しようとする意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。
 
神は信じて従うものを光明へと誘い、その輝ける光明が勇気ある者を包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。

その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみであること、真に勇気ある者とは、怖じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされることなく、信じる道を平然と歩む者のことであることを知って下さい。

 さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じていただけばよろしい。受け入れ難いものは構わないでよろしい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがては全体の理解がいきます。

 前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを、少しばかり述べましょう。

ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに〝霊体〟が備わっております。そのことは貴殿はご承知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。


 天体は〝創造界〟に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の一つ一つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。

その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、それぞれに異なった性格を持つことになる。

そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その割合、あるいは組み合わせが同じであると考えたら間違いです。

各天体が独自のものを持っております。ただそれが一つの大きな統一体系としての動きに順応しているということです。太陽系を構成する惑星について言えることは、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。

つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。


 さて、そうなる原因(わけ)は既に説明した通りです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映するわけです。守護神の配下に更に数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。

とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。千変万化の多様性はその造化の統制上の〝ゆとり〟から生まれます。

一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられている為に、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘るわけです。

 こうした神霊の監督のもとに、さらに幾つもの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。

その段階においては吾々のように〝知性〟と同時にいわゆる自由意志による独自の〝判断力〟を所有する存在とは異なり、〝感覚的存在〟とでも呼ぶべき没個性的生命の種族が融合しております。


──物語に出てくる妖精(フエアリー)とか小妖精(ピクシー)とか精霊(エレメンタル)といった類のことですか。


 その通り。みな本当の話です。それに大ていは優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遥かに低く、それで人霊とか、天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていないわけです。

 さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、よく観察すると、その中には蒸気状の発散物───磁気性の成分とでも言ってもよさそうなものを放出しているものがあることが判ります。

それが即ち、その形成を根源において担当した霊的存在による〝息吹き〟の現われです。こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。科学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休むことなく活動しているより精妙な要素の研究が疎かにされている。

岩石の一つたりとも休止しておらず、全成分が整然と休むことなく活動しているというところまで判れば、その作用を維持し続けるためには何か目に見えざる大きなエネルギーが無ければならないこと、さらにその背後には或る個性を持った〝施主〟が控えているに相違ないという考えに到達するには、もうあと一歩でしかありません。

 これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解のために被害をこうむることがあります。これは低級な自然霊の仕業です。
 
一方〝幸運の石〟(ラッキーストーン)と呼ばれるものをご存知と思いますが、これはいささか曖昧ではありますが背後の隠れた真相を物語っております。

こうした問題を検討するに際しては〝偶然〟の観念をいっさい拭い去って秩序ある因果律と置き換え、その因果律を無知なるが故に犯しているその報いに過ぎないとお考えになれば、吾々が言わんとすることにも一理あることを認めていただけるでしょう。

 便宜上、話題を鉱物に絞りましたが、同じことが植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に臆することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けていることをお知らせしようという意図からです。

 以上を要約してみましょう。それに納得が行かれれば、吾々が意図した結論も必然的に受け入れねばなりません。つまり物的創造物はどれ一つとってもそれ自体は意味がないし、それ一つの存在でも意味がない。

それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質という形態となって表現されているもので、霊的想念が原因であり、物的創造はその結果だということです。

ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(※)創造界の神々とその霊団が自然界の現象に個性を印象づけているわけです。(※サイコメトリという心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間のことが悉く読み取れる。──訳者)

 何一つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。

下等な存在が高等な存在の力によって存続するように、その高等な存在はさらに崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。

 宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、吾々は主イエスの御名において崇高の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神が在します。
                                                                                 アーメン 
                                                                              

4 霊的世界の構図       
           
  
一九一三年十月二四日  金曜日
 
 今夜もまた貴殿のご母堂ならびにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。貴殿にとって何がもっとも興味があろうかと考えた挙句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相をいくらかでも明かせば、貴殿ならびに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に初めて得られる膨大な霊的知識へ向けて一歩でも二歩でも近づく足掛かりとなり、天界の栄光へ向けて自由に羽ばたくことになろうとの結論に達しました。


 ──どなたでしょうか。

 前回と同じ者──アストリエルとその霊団です。第十界(※)より参りました。話を進めてよろしいか。  (※界が幾つあるかについての回答はこの先に出てくる。──訳者)


 ──どうぞ。ようこそこの薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶しいことでしょう。

 〝降りてくる〟とおっしゃいましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし完璧な表現でもありません。と言うのは、貴殿が生活しておられる天体は虚空(こくう)に浮いているわけですから〝上〟とか〝下〟とかの用語の意味がきわめて限られたものとなります。

そのことはすでに貴殿の筆録したもの、と言うよりは霊的に印象づけられたものをお読みになって気づいておられるはずです。

 最初に〝地上へ向けられている数々の霊力〟と申しましたが、これは勿論地上の一地域のことではありません。地球と呼ばれる球体全部を包括的に管理している霊力の働きのことです。地球のまわりに幾つもの霊的界層があり、言わば同心円状に取り巻いております。下層界ほど地表近くにあり距離が遠のくほど力と美が増して行きます。

もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解していただかないといけません。吾々にとっては貴殿らのような形で距離が問題となることがないからです。


 例えば私がそのうちの十番目の界にいる以上は、大なり小なりその界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時おり許しを得てすぐ上の界、あるいはさらにその上まで訪れることは出来ますが、そこに永住することは許されません。

一方、下の界に住むことは不可能ではありません。何となれば私が住む第十界も球体をしていますから、幾何学的に考えても、下の九つの界を全部包含していることになるからです。

従ってこれを判り易く言いかえれば次のようになりましょう。すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に包まれている。

故に地上の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触している──あくまで霊的発達程度です。なぜならその界層はすべて霊的であり物質的なものではないからです。

 その地球の物質性も実は一時的な現象に過ぎません。と言うのは、地球はそれを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。実はそれらの界の他にも互いに滲透し合っている別の次元の界の影響もあるのですが、それは措(お)いておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。

 さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかがどういう意味を持つかが、ある程度お判りでしょう。絶対的創造神ならびに(貴殿らに判り易い言い方をすれば)最高界ないしは再奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。
 
 従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り囲まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。

 しかし、向上して行くと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するそうした幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の一つ一つが同じように霊的界層を幾つも持っているからです。地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と一ばん近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。

各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理が行き届いておりますから、それだけ複雑さが増すわけです。ここまで来ると、霊界の探求が地上の熱心な方がお考えになるほどそう簡単に出来るものでないことが判り始めます。

 ちなみに太陽を中心に置いてそのまわりに適当に惑星を配置した太陽系の構図を画いてみて下さい。それから、まず地球の周りに、さよう、百個ほどの円を画きます。

同じ事を木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで、神界までも探求の手を広げることの出来る、吾々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大ざっぱながら判っていただけるでしょう。

 しかし、ことはそれでおしまいではありません。いま太陽について行ったことを他の恒星とその惑星についても当てはめてみなくてはなりません。こうして各々の太陽系について行った上で、今度は太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。

これで、あなたがこちらへお出でになったら知的探求の世界が無限に広がっていくと述べた真意が理解していただけるでしょう。

 ところで、その霊的界層は全部で幾つあるかという質問をよく受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさることはありますまい。

万一お聞きになっても、たかが第十界の住民にすぎない吾々にはこうお答えするしかありません
──〝知りません。また、これ以後同じ質問を何百万回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても、多分同じ返事を繰返すことでしょう〟と。

 さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えてみていただきたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。ご承知の如く天体は科学者が〝引力〟と呼ぶ所のエネルギーによって互いに影響し合っておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーによる作用と反作用とがあります。

先ほどの太陽系の構図をご覧になればお判りのとおり、地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と二、三の惑星が一ばん大きいことが推察されます。

 その通りです。占星術にもやはり意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーというものが厳として存在することを理解しない科学者には到底理解しがたいことであり、ともすると危険でもあるからです。

霊的エネルギーには実質があり、驚異的な威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、なおかつ他の天体の霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇敬の念と祈りの気持ちを持って研究に当たらねばなりません。

何となれば、そこは天使の経綸する世界であり、さらにその上には全ての天使をも一つに収めてしまう宇宙の大霊が在(ま)しまし、吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。

近づかんとすれば即座に己れの力の足らなさを思い知らされます。距離を置いて直視せんとしても、その光の強さに目が眩み、一面真っ暗闇となってしまいます。

 しかし貴殿に、そして未知なるものへ敬虔の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、たとえ驚異によりて幾度も立ちすくまされることはあっても、神の存在感の消え失せることは決してないこと、神の息吹とはすなわち神の愛であり、その導きは慈母が吾が子を導く手にも似て、この上なく優しいものであることを自覚せぬ時は一時たりともありません。

それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手にすがり、決して恐れることはありません。栄光よりさらに大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ち溢れております。友よ来たれ。

(くじ)けず倦(う)まず歩まれよ、と申し上げたい。行く手を遮る霧も進むにつれて晴れ行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。故に吾々は惑星と星辰の世界の栄光と神の愛の真っ只中を幼子の如く素直に、そして謙虚に歩むのです。

 友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さったことに感謝申し上げます。吾々の通信が、たとえ数は少なくとも、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つことを祈っております。では改めてお寝みを申し上げます。神のお恵みを。    
                                                                                    

 
 5 果てしなき生命の旅  
       
 
 一九一三年十月二五日 土曜日


 今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。

 引き続き太陽系に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。


と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動──ある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。

それ故、地球へ押し寄せる影響力は一秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実その通りなのです。

 また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。

こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。

 以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面に過ぎません。ところが実は以上述べたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴に過ぎない。船の舳先(へさき)に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべていただきたい。

細かいしぶきが霧状になって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て〝無数のしぶき〟と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。

キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度に過ぎません。それも目に見える表面の話です。しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。

 もう少し話を進めてみましょう。そもそも〝宇宙〟という用語自体が、所詮表現できるはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。

従って明確な意味は持ち合わせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、
中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。

 一体宇宙とは何か。どこに境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。

いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか。それとも目に見えない世界も含むのか。

 実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。もっとも、判らないながらもこうした問題を時おり探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。

 これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて一界また一界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、先に述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも二つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。

さらに向上すると今度は二つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径を持つ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、二つ以上の太陽系まで包含してしまうほどの広大な世界に至る。

そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。

その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第十界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何一つ判らないという有様です。

 が、これで吾々が昨夜の通信の中で〝神〟のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解していただけるのではないかと思います。

ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩(せいちつ)について何ら明確な観念はお有ちでない。〝万物の創造主のことである〟と簡単におっしゃるかも知れませんが、では〝万物〟とは一体何かということになります。

 さて少なくとも吾々の界層から観る限り次のことは確実に言えます。すなわち〝創造主〟という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念を持って創造主に祈願することは間違っていない。

その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界に至るものがある。中にはさらに上昇して高級神霊界へと至るものもある。

吾々の界のはるか上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第二巻以降で詳しく説かれる。──訳者)

 ところで、以上述べたことは全て真実ではあるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現が極めて不適切となるのです。

例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾々の念頭にある界層は〝地帯〟というよりは〝球体〟と表現した方がより正確です。

なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。

その意味で〝神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く〟という表現、つまり神の遍在性を説くことはあながち間違ってはいないのです。

 どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費やし過ぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を一つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。

一つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。

人生はその神々の世界へ向けて果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。

向上すればするほど〝永遠〟あるいは〝終わりなき世界〟という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。

 では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳を持つ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ち受ける世界は決して黄昏に包まれた実体なき白日夢の世界ではないことを確信していただきたい。そしてそのことを聞く耳を持つ者に伝えていただきたい。

断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。父なる神へ向けて不屈の意志を持って互いに手を取り合って向上へと励む世界です。

その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を排することも出来ず、その玉座は余りに崇高なるが故に近づくことも出来ません。

 吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないでいただきたい。まさに奮闘なのです。貴殿と、そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。

吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちなる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方たちの手を貴殿がしっかりと握ってあげていただきたい──優しく握ってあげていただきたい。貴殿自身も同じ人間としての脆(もろ)さを抱えておられることを忘れてはなりません。


そして、例えあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。

ですから明るい視野を持ち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか──心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)     
 
                                                           

6 予知現象の原理     
       
    
一九一三年十月三一日 金曜日


 吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思って下さるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。

これはもう自明の理と言ってもよいほどの当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾々に依頼する人が多く、それもほどほどならともかくも、些(いささか)か度を超した要求をする人が多くて困ります。


──どなたでしょうか

 ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。


──どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

 違いましょう。同じではないはずです。その理由(ワケ)は一つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう一つは、地上での時代がご母堂たちとは違うからです。


──古い時代の方ですか。

 さよう。英国でした。ジョージ一世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。


──霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教えねがえませんか。
 
 いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変厄介なものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師──学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。

 では用意してきたものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別が必要です。

例えば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来るかぎりのことを尽くした時にはじめて吾々が手を差しのべ、向上と真理探究の道を誤らないように指導してあげます。


──何か良い例を挙げていただけますか。

 すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。

私との意志の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。


 その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)現在という時の近くを浮遊している出来ごと、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。(睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上または霊界を訪れる。その時かならず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄には滅多に感応しない。きちんと回想出来る人が霊能者である。──訳者)

 吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに〝上演〟されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。
 
 翌朝目を覚ました時何となくどこかの科学施設で実験をしている人たちの中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それと一緒に、断片的ながら夢の中の体験も幾つか思い出しました。

 それから二、三日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

 吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演して見せたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。──肉体が眠っている時人間は少なくとも時たまは四次元の世界を訪れる。

その四次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この三次元の世界に戻る時にその四次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった三次元世界で〝自然〟なものは何とか保持して帰る、と。

 予知された夢と実際の出来ごととの関係は四次元状態から三次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来ごとの連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。

 さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用を持っております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。

 以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。

 ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時おり吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)鮮明にしてくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿自ら考察していく上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得がいかれるはずです。

忘れないでいただきたいのは、貴殿はまだまだ〝鍛錬〟の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。

ですが吾々を信じて忠実に従って下されば事情がだんだん明瞭になって行きます。自己撞着(どうちゃく)のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。

吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。が、その批判に公正を欠いてはなりません。貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。

少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。例えば山道を行くとしましょう。貴殿は二つの方向へ注意を向けます。

すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。

ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥ることがよくあります。

 では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものです──見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆っ気なさすぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引き継いだザブディエル霊にその点を率直に質してみた。(第二巻の冒頭で──訳者)


──私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。


 さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと一つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識を持って読む者には決して無益ではあるまい。


──正直言って私はあの終わり方に失望しております。余りに呆気なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。


 それは汝の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合は無いと思うが、ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい。


 結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。

                                                                                        G・V・オーエン


  
 解説  霊的啓示の進歩

 本書は原著者の「まえがき」にもある通り一九一三年から始まった本格的な霊界通信を四つの時期に分けてまとめた四部作の内の第一部である。

 「推薦の言葉」を寄せたノースクリッフ卿が社主を務める「ウイークリー・ディスパッチ」紙上に連載され、終了と同時に四冊の単行本となって発行されたのであるが、これとは別に、オーエン氏の死後、残された霊界通信の中から断片的に編集されたものが二編あり、それが一冊にまとめ第五巻として発行されている。

誰が編纂したのか、その氏名は記されていない。それは己むを得ないとしても、内容的に前四巻のような一貫した流れが無く、断片的な寄せ集めの感が拭えないので、今回のシリーズには入れないことにした。


 通信全体の内容を辿ってみると、第一巻の本書はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占め、その母親らしさと女性らしさとが内容と文体によく表れていて、言ってみれば情緒的な感じが強い。

がその合間をぬってアストリエルと名告る男性の霊からの通信が綴られ、それが第六章にまとめられている。地上で学校長をしていたというだけあって内容が極めて学問的で高度なものとなっている。

がそれも第二巻以降の深遠な内容の通信を送るための(オーエン氏の)肩ならし程度のものであったらしい。

 第二巻を担当したザブディエルと名告る霊はオーエン氏の守護霊であると同時に、本通信のために結成された霊団の最高指導霊でもある。が地上時代の身元については通信の中に何の手掛かりも出て来ない。

高級霊になると滅多に身元を明かさないものであるが、それは一つには、こうした地上人類の啓発のための霊団の最高指揮者を命ぜられるほどの霊になると、歴史的に言っても古代に属する場合が多く、例え歴史にその名を留めていても、伝説や神話がまとわりついていて信頼できない、ということが考えられる。

さらには、それほどの霊になると地上の人間による〝評判〟などどうでもよいことであろう。このザブディエル霊の通信の内容はいかにも高級霊らしい厳粛な教訓となっている。


 これが第三巻そして第四巻となると、アーネルと名告る(ザブディエルと同じ界の)霊が荘厳な霊界の秘密を披露する。

とくにイエス・キリストの神性に関する教説は他のいかなる霊界通信にも見られなかった深遠なもので、キリストを説いてしかもキリストを超越した、人類にとって普遍的な意義を持つ内容となっている。まさに本通信の圧巻である。


 さて近代の霊界通信と言えば真っ先に挙げられるのがステイトン・モーゼスの自動書記通信『霊訓』であり、最近ではモーリス・バーバネルの霊言通信『シルバー・バーチの霊訓』である。そして時期的にその中間に位置するのがこの『ベールの彼方の生活』である。

 内容的に見ると『霊訓』はキリスト教的神学の誤謬を指摘し、それに代わって霊的真理を説くという形で徹頭徹尾、文字通り〝霊的教訓〟に終始し、宇宙の霊的組織や魂の宿命、例えば再生問題などについては概略を述べる程度で、余り深入りしないようにという配慮さえ窺われる。それは本来の使命から逸脱しないようにという配慮でもあろう。


 これが『ベールの彼方の生活』になると宇宙の霊的仕組みやキリストの本質について極めて明快に説き明かし、それが従来の通念を破るものでありながら、それでいて理性を納得させ且つ魂に喜悦を覚えさせるものを持っている。もっともそれは、正しい霊的知識を持つ者にかぎられることではあるが。

 そしてシルバーバーチに至ると人間世界で最も関心をもたれながら最も異論の多い〝再生〟の問題について正面から肯定的に説き、これこそ神の愛と公正を成就するための不可欠の摂理であると主張する。ほぼ五十年続いた霊言に矛盾撞着は一つも見られない。

同時にシルバーバーチが〝苦難の哲学〟とでも言えるほど苦しみと悲しみの意義を説いているのも大きな特徴で、「もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた宿命に背いたことになります。

私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。
それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間と成って下さることが私どもの真の目的なのです」と語るのである。

 こう観て来ると、各通信にそれぞれの特徴が見られ、焦点が絞られていることが判る。そして全体を通覧した時、そこに霊的知識の進歩の後が窺われるのである。それをいみじくも指摘した通信が『霊訓』の冒頭に出ている。その一部を紹介する。


 『啓示は神より授けられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾することは有り得ぬ。但しその真理は常にその時代の必要性と受け入れ能力に応じたものが授けられる。

一見矛盾するかに見えるのは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。

時の経過とともに、何時しか頭初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなって行く。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなってしまう。やがて新しき啓示が与えられる。

がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾は無い。

が矛盾せるが如く思わしめる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。

人間は己れに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして、限られた人間への特殊なる啓示と思うがよい。これまでも常にそうであった。モーゼは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。

自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ていた者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それで良いのである。』


 今改めて本霊界通信を通覧すると、第一巻より第四巻へ段階的に〝進歩〟して行っていることが判る。それを受け入れるか否か、それは右の『霊訓』のとおり〝己れに宿る理性の光〟によって判断して頂く他はない。願わくば読者の理性が偏見によって曇らされないことを祈りたい。


 訳者としてはただひたすら、本通信に盛られた真理を損ねないようにと務めるのみであるが、次元の異なる世界の真相を如何に適切な日本語で表現していくべきか、前途を思うと重大なる責任を感じて身の引き締まる思いがする。が〝賽(さい)は投げられた〟のである。あとは霊界からの支援を仰ぐほかはない。

 シルバーバーチの言葉を借りれば〝受け入れる用意の出来た人々〟が一人でも多くこの霊界通信と巡り合い、その人なりの教訓を摂取して下さることを祈る次第である。 

                                                                                             (一九八五年)
        
  新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

    平成十六年二月
                           近藤 千雄