世界心霊宝典」ⅲ スピリチュアリズムの真髄
   第二部 思想的考察

第一章 人間の霊的構成
第二章  「死」の現象とその過程
第三章 死後の世界
第四章 死後の生活
第五章 スピリチュアリズムと進化論
第六章 スピリチュアリズムと宗教
第七章 むすび
            訳者あとがき -近藤千雄ー

          スピリチュアリズムの歴史的変遷 -梅原伸太郎-
 




                             
 
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 第一章 人間の霊的構成

 スピリチュアリズムを一つの思想的体系として考察するには二つの観点が考えられる。一つは実証のきく客観的事実、たとえば死後の個性の存続、霊界の存在、人体の霊的構成といった、スピリチュアリズム思想の根本的土台となっている心霊的事実のみを取り扱うもので、基本的土台であるから、その意義はスピリチュアリズムのどの分野にも共通している。

  もう一つは、それよりもっと範囲の広い、もっと一般的な観点からの考察である。これも右に述べた心霊的事実より出発するのであるが、そこに留まることなく、もっと広い一般的な分野へと踏み出して行く。この点ではスピリチュアリズムは物質界と霊界の双方に係わる主要な哲学的問題、及び主要な宗教的課題を追及して、普遍的な哲学及び宗教となることを求めるのである。

 その探究には、絶対的条件として死後の世界も地上世界と同じく自然界であること、同時にまた、知性の面においても地上の人間のそれらの間に一貫性が存在する、という大前提がある。だからこそ死後の世界との連絡がとれ、そこの生活者つまり霊魂(スピリット)と交信することによって死後の世界についての知識が得られると同時に、結果的にはこの物的大宇宙を含む大自然界の出現、その目的・意義といった古来の大問題についての解答が得られる、と考えるわけである。

 そして最終的にはその探求の手を、「神」の存在とその本質、という宗教的大問題にまで発展させていく。

 こうした哲学的ないし宗教的問題をスピリチュアリズムの観点から検討することは確かに興味深いことであるが、その前にわれわれは、はじめに述べた心霊科学的観点から、スピリチュアリズムの基本的事実を検討しておく必要があるように思う。

 すなわち、まず死後の個性の存続──スピリチュアリズムのスピリチュアリズムたる所以を確立する画期的大事実に直接結びついた事実の検討から始めて、それから哲学及び宗教にかかわる高等な問題へと進むのが妥当と考える。

 そこで、これからそのスピリチュアリズムの中心思想の中でも最も基本的な事実を検討し、それから少しずつ範囲を拡げていってみたい。


 スピリチュアリズムの基礎は、次の四つの事実に要約されるかと思う。

一、物質界における人間は三つの要素から成っている。すなわち肉体とエーテル体、そしてその両者を操る霊 (スピリット) である。

二、肉体の死に際してエーテル体と霊が肉体から分離し、以後は、その二者の結合体、いわゆる霊魂として存続する。

三、死後、霊魂は地上より一段高い生活環境、いわゆる霊界で生活する。

四、死の過程を経て肉体を捨て、次元の異なる生活環境に置かれても、人間は生前の記憶や一般的性格を失わない。善性も邪悪性もそのままである。つまり地上を去る直前まで身についていた人間性と記憶とをそのまま携えて新しい生活に入る。要するに〝死〟は人間の生活の場を変えるだけで、人間そのものを変えるのではない。

 以上の四つがスピリチュアリズムの中心的教義である。これはスピリチュアリズムの全ての分野に共通した普遍的事実であって、スピリチュアリズムの信奉者は、当然これを無条件に受け入れなければならない。

 そこで私はスピリチュアリズムを思想的に検討するに当たって、まずこの四つの教義を詳しく説明し、それから少しずつ抽象的な問題へと筆を進めていきたい。本章ではまず第一に掲げた「人間の構成要素」を取りあげることにする。


 スピリチュアリズムによれば、人間は三つの要素すなわちスピリットと精神と肉体とによって構成されている。スピリット(霊)とは宇宙最高の、あるいは最奥の「心」の一分子、いわゆる「自我」のことであり、これが第一原理である。

 精神(エーテル体)は第二原理もしくは中間的原理である。そして肉体が最も次元の低い、あるいは最も外部の原理で、前の二つの原理の言わば衣服であり道具である。三者は渾然一体となって一つの有機体を構成し、霊に発したものは精神すなわちエーテル体に流れ込んで相関作用を起こし、エーテル体からさらに肉体に流れ込んで相関作用を起こす。

 このように人間は外部から見れば単一の存在であるが、内部から見れば霊とエーテル体と肉体の三つの要素から成る複合体である。

 改めて言うまでもなく、人体は種々の物資から出来あがっている。物質そのものについて、われわれは次のように教わっている。すなわち物質自体には感覚はなく動きもなく、見かけ上は生命もない。それが人体をはじめとして宇宙全体にいろんな状態、いろんな結合体として存在している、と。

 またわれわれは物質とはなんとなく固いものという感じを抱いている。が、固いというのは物質の一つの状態にすぎず、そのほかに液体・ガス・水蒸気・エーテル・電気・磁気等の状態でも存在している。科学では、こうした状態はすべて物質と見なし、そして、これらの全てが人体に存在するのである。
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 人体においては、こうした形体の物質が結合し融合しあって、細胞となり組織となり神経となり繊維となり、あるいはまた全身にわたる見事な循環系統を形成している。

 こうして完璧に組織化された人体は、いわば霊とエーテル体の〝宿〟のようなものであり、霊が地上という物質界を生きていくのに理想的な形態と機能を備えている。
 

 スピリチュアリズムによれば、霊とエーテル体は人体のあらゆる細胞、あらゆる組織に浸透しているが、中でも通信連絡系統および循環系統を強く支配しており、したがってそうした系統の出来如何がスピリットの働きを特徴づけ、良くも悪くもするという。


 霊とエーテル体にとって、人体は二つの機能を果たしている。一つは霊とエーテル体を宿し、この物質界で生活することを可能にするための道具としての役割である。霊およびエーテル体は、物質に比べてその性質や動きがあまりに精妙であり迅速であるために、そのままでは直接物質に働きかけることができないのである。

つまり物質界で生活するためには同じ波長をもつ肉体を媒体としなければならない。霊は母体内での生命の発生(懐妊)の時点からその後の成長発育の過程において徐々に波長を低下させつつ、肉体と融合調和していく。やがて出生してからは五官を通じて物質界の波長を受けることになる。

 人体のもう一つの役割は、エーテル体に形体と容貌とを付与するための鋳型としての役割である。エーテル体も本来物質であることにおいては肉体と同じである。ただその波長が異なる。われわれが口にする食べ物・飲み水・呼吸する空気が体内で消化され精製され、やがて一般的意味での物質の段階を超えてエーテル体に吸収されていく。エーテル体の形体と容貌は肉体に酷似しながら出来あがっていく。

 かくしてエーテル体は、肉体に対して形体と生命と成長を付与しながら、同時に肉体によって形体と容貌を付与されていくわけである。さらに又、最奥にひかえる霊自身も同様にしてエーテル体と肉体の形体と個性によって影響を受けていく。
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 観方を変えれば、肉体は、波長の程度が低いという性質のおかげで、内部の霊及びエーテル体を保護する役目も果たしている。というのは、程度が低いということは、それより高い波長と合わないということであり、結果的にエーテル界からの影響を良いも悪いも受けにくいということになる。

 つまり人間の身体は、霊およびエーテル体にとっていわば防護壁のような働きをしているわけであり、その意味では物質界は宇宙でも特に隔離された生活の場ということができるのである。

 以上が心霊的に見た肉体の役割である。では続いて第二の身体であるところのエーテル体について考察してみよう。


 さきに述べたように、エーテル体は霊と肉体の中間的存在である。つまりエーテル体は、霊が物質界に接触するための連絡路のような役割を果たしていると考えればよい。まず霊に発したバイブレーション(思念)はエーテル体に伝わり、エーテル体から肉体へと伝わるのである。

 スピリチュアリズムの哲学においては精神とエーテル体は同一物である。双方とも霊と肉体の中間に位置する中間的要素、いわば霊の衣のような存在を指している。スピリチュアリズム以外の一般の哲学用語ではこれが逆に用いられるのが普通で、精神が最高位の原理とされ、霊が第二もしくは衣の原理とされる。

 この霊 Spirit  精神 soul  肉体 body  という使い分けがスピリチュアリズムに入ってきたのは、デービスの「調和哲学」の影響であり、それが今でも継承されている。そこで筆者も本書ではこれに倣って、霊を最高位の存在とし、精神すなわちエーテル体を霊の衣としての中間的存在とすることにする。

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 そこで精神もしくはエーテル体は霊と肉体とを結びつける要素ということになる。これが心そのもの思念そのものというわけではない。エーテル体を通じて表現された霊の側面である。

 エーテル体には人間の気質・感情・及び特殊な霊能を特色づける性質がある。第一原理であるところの霊が直接表現されるのは理性と道理と哲学的思考においてであり、これは万人に共通しており、個人差というものはない。が、霊の衣服とも言うべき気質には個人差があり、十人十色である。

霊はその気質を特色づけるところのエーテル体の中で生活し、したがってエーテル体を通して自己を表現していく。(厳密に言えば気質も霊の一表現でそれがエーテル体を通して働くのである。したがって個人の気質というのはエーテル体によって特色づけられるとは言え、霊の影響からも免れることはできない。)

 エーテル体はまた人間の動物性の一部を担っている。つまり感情とか本能・知覚・動物的好みといった、人間が動物時代から受けついできた要素が多分に含まれている。愛欲・憎しみ・性愛・罪悪性などがそれで、多くの善性も含めて、みな動物界から受けつぎ、エーテル体の構成要素となっている。

 これらは動物界の魂である動物的感覚が変化したものである。その意味において、また肉体という物質体を所有しているという点において、人間は動物とまったく同じ存在である。

 が、人間にはその上に第一原理である「霊」(スピリット)が宿っている。動物にはそれがない。結局人間の人間たるゆえんは、その「霊」にあるということになる。

 さて精神またはエーテル体を右の如く描写したことで、主として心理的側面すなわち感情とか知覚作用、本能といった直接体験できる性質を強調することになったが、スピリチュアリズムではそれをエーテル体の属性、つまりエーテル体がそうした性質を付属的に所有しているのではなくて、それがエーテル体の本能そのものだと考えている。

 つまり何か神秘的な物質が精神に宿っていて、その属性が感情や知覚作用だというのではないのである。感情や知覚作用はエーテル体の必須不可欠の本性であり、その存在形態がすなわち実質的側面ということである。
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 スピリチュアリズムが主張するところによれば、エーテル体は生体磁気と生体電気とによって構成されている。が、磁気といい電気といい、一般に言われている磁気や電気とは異なる。それは極度の精製と発達の過程を経たものである。

一般に言われている電気や磁気には感性も生命もないが、これが精製され発達していくと、その究極の段階において生命と感性をもつようになり、やがて感情や知覚が発達してくる。それがエーテル体の主要部分を構成しているのである。

 もちろん無から有は生じないのであるから、磁気や電気にも潜在的に生命と感性が内在していると考えねばならない。スピリチュアリズムではそれと同じ考えを物質のすべてに当てはめる。すなわち生命や感性、それに知覚さえも、本来は物質に潜在しているもので、物質が進化し変化することによって、次第に発現されてくるものだというのである。

 スピリチュアリズムでは、エーテル体の電気および磁気を〝生体電気〟〝生体磁気〟と呼んで、一般に言う電気・磁気と区別する。人間においてはこの両者が二大要素となっており、その両者のうちでも生体磁気の方が生体電気よりも高級である。両者は同一原理から派生したものであるが、進化の段階から言うと生体磁気の方が一段と進化しているのである。

 別の観点から言うと、生体磁気は実は動物界の生命原理であり、それが感情や知覚を生み出し、一方、生体電気は植物界の生命原理で、これが生命力を生み出している。この両者が融合し一体となってエーテル体を構成しているわけで、結局人間はその心霊的組織の中に動物と植物の性質を併せもっていて、前者を感情として、後者をより物質性の強い生命力として感識しているのである。

 こうした人間個性の構成要素の分類の仕方を最初に明確に説いたデービスはこう述べている。

 「エーテル体というのは死の瞬間から始まる来世生活において霊を宿し続ける非物質的といってよいほど精妙な身体で、人間感覚には感応しない。地上にいる間、人間のエーテル体は各種の磁気・電気・エネルギーの生命素から出来上がっており、それが俗にいうところの生命力・動き・知覚・本能といった形で表れるのである。

 〝霊〟というのは大自然の一大生命力、いわゆる神のことであり、人間的存在の第一原理である。要するにエーテル体が肉体の生命力であり、霊はエーテル体の生命力であると考えればよい。死後肉体の生命力であったところのエーテル体が霊という永遠不滅の存在の身体となるのである」             
                                                                                             (Answers to Questions)


 スピリチュアリズムによれば、エーテル体を構成しているその二つの要素、すなわち生体磁気と生体電気は、本質的には人体を構成している物質と同じ性質を備えている。ただその進化の程度が異なるだけだという。この言い方が唯物主義的な感じがするというのなら、次のように角度を変えて考えればよい。

すなわちエーテル質の未精製の状態が物質なのだ、と。つまり生体磁気および生体電気の方がより高度の実在であり、その両者の結合体が物質であり、原子であり、それらがさまざまに結合して、固い、実感のある物体を造りだしているのである。

 今日では、物質科学でも、物質は電気でできているなどと言っている。つまり電気が凝縮して、原子の動き、いわんるバイブレーションが遅く鈍くなった状態が物質だというのである。

 同じ要領で、その電気のバイブレーションが流動的で、自由自在な動きをする状態がエーテル体なのであって、だからこそ人体のあらゆる原子、あらゆる分子に自在に浸透できるわけである。
℘243
 ただし、エーテル体の電気と、科学で言うところの電気は同一ではない。前者は後者が進化してエーテル化(精妙化)された状態であり、いわば物理的電気の内的存在である。

 内的存在という意味は、物理的電気が高度にエーテル化されて、そのより物質性の強い電気ないしエーテルその中間的存在となった状態のことで、その物理的電気では潜在的にしか存在しなかった心霊的特性を現実に具えている。

 科学によってわかっている、というよりは、科学者が想定しているところの、物質の一ばん精妙な状態は発光性のエーテル体で、おそらく〝電気の海〟とでも言うべき状態であろうということが科学者の間で一致している。が、それはもはや物質と呼ぶにはあまりに精妙で物質性を失っており、半物質とでも呼ぶべきであろう。

 スピリチュアリズムではこの半物質体を肉体とエーテル体との第一の接着剤と見なしている。言い換えれば、感性・知覚・本能といった心霊的性質を包む衣服のような機能を果たしており、このことは肉体についても、また宇宙全体についても言えることである。

 物質科学においても、人体は発光性のエーテルによって包まれていることを認め、細胞の原子や分子にいたるまで、そのエーテルのおかげで定位置を保つことができるのだと主張する。言い換えれば、それぞれの分子がエーテルによって包まれているからこそ癒着という現象が起きずに済んでいるというのである。オリバー・ロッジも次のように説いている。

 「すべての物質、すべての粒子は、ほかならぬこのエーテルによってつながっている。その粒子が自由に動けるのもエーテルのおかげであり、きちんとした形体を構成しておれるのもエーテルのおかげである。(中略)物質の原子と原子が直接に接触することは絶対にない。粒子と粒子が互いに接近すると、そこに斥力が働いて接触を妨げる。

 電子(エレクトロン)と電子も決して接触しない。強力な反撥作用が働くからである。エレクトロンとプロトン(陽子)が接触するか否かはまだ確認されていないが、仮に接触した場合を想定すると、大変な異常事態が発生すると思われる。おそらく放射性の閃光を発して両者は消滅するであろう。

 そうした事態は、われわれが物体を動かすときには生じない。われわれは物体に直接触れることは決してないのである。つまり、われわれはエーテルを介して間接的にしか物質に触れていない。磁石がエーテルを通して鉄片を引きつけ、エレクトロン同士がエーテルを通して反撥し合うように、われわれの手はエーテルには直接触れても、物体には直接触れることはないのである。

 これには例外はあり得ず、物質と物質の関係はまずエーテルに始まり、エーテルを通して間接的に物質に伝わっているものと信じる。私は次のような仮説を提示したい。

すなわち実際に動いているものはエーテルであって、それに内在する物質が反応しているのである、と。言い換えれば、生命と心を宿しているのはエーテルであって、断じて物質ではないのである」                                                                      (〝Ether and Reality〟 by Sir Oliver Lodge)

   
 スピリチュアリズムにおいても、ロッジの言うエーテルを生命と心の真の宿、いわば第一の衣服であるとし、霊と物質との間の境界線と見なしている。そして、この発光性のエーテルは、表面的には普遍的性質をもつ磁気と電気とからできていて、その奥にさらに高度に精妙化された電気と磁気とが内在しており、それが人間においてはエーテル体、俗に言う霊体を構成しているという。要するに普遍的な発光性のエーテルが進化して、まったく別の高度なエーテル体を構成しているわけである。

 このエーテルの二重性については、皮相な独断の感を抱かれる人がいるかも知れない。が従来の科学でもすでにエーテルが一種類だけのものではないことが認められている。つまりまず精度の粗いエーテルとして炭素・酸素・水素・二酸化炭素等々のガス類から成る大気がある。いわゆる〝風〟というのはこの大気のエーテルの動きによって生じ、また、このエーテルの波動が〝音〟を構成するわけである。

℘245  
 が、光を伝達するのはこのエーテルではなく、このエーテルに内在する一段と精度の高いエーテル、すなわち発光性エーテルである。音を生じる振動は毎秒三二から三二、七六八回の範囲であるが、光を生じる振動は毎秒 四五〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇から 七五〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇回となる。 

が、生命や感情は、この発光性エーテルの属性ではない。これはさらに一段と奥に内在する、もう一種別のエーテルのものである。この第三のエーテルが、生命であり活力そのものとなる。

 以上述べたエーテルの三重性は、人間の身体についても言えることである。というのは、人間という有機体は一つの小宇宙なのである。つまり宇宙全体に存在する原理がそのまま人間にも存在するというのがスピリチュアリズムの考えなのである。

 まず最初に肉体があり、これに物理的エーテルすなわち生体磁気と生体電気が浸透している。その物理的エーテルの内部に心霊的エーテルが存在し、それがいわゆる霊体を構成している。そしてその中に、これらのエーテル体を総括するものとして、自我の本体である〝霊〟が宿っている。これらの要素の調和のとれた相互関係が人間という単一体を構成しているわけである。

 この浸透の原理、つまりあるものが他のものに浸透し、あるいはその内部に潜在するという現象は実に自然界の神秘の一つで、人間のいう神の一分霊が肉体をはじめとして幾つのも波動をもつ物体を一つにまとめながらその中に存在して生きていけるのも、この浸透の原理のおかげに他ならない。
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 同時にまた、物的宇宙がその内奥に幾層もの波動の異なる別の世界を有するのもこの原理に基づいている。いわゆる四次元の存在もこの原理で説明がつく。もともと形体のない最高次元の存在である〝心〟が精度の高いエーテルから徐々に粗いエーテルへと浸透し、最後にこの三次元の物質の世界と接触しているのが今のわれわれの存在である。

この世界には角度があり、長さがあり、広さがあり、そして厚みがある。が四次元の存在はこうした物質の制限をうけることがない。レントゲン写真に使用されるX線のような高度な波長が物質を貫通し、全く別の新しい視野を構成するのも、このエーテルの浸透の原理による。


 次元の異なるもの同士が互いに融合しあって存在している状態は次のような譬えで、およその理解がいくであろう。仮に、ここに砂があるとしよう。これをコップの中に入れる。人間で言えばこれが肉体だけの存在に相当する。

次にこれに水を注ぐと砂に浸み込んでいく。固体と液体とが融合したわけで、これが第二の状態である。この状態の中にこんどは水素や酸素などのガス体を注入することが可能である。これで三種の物体が一つの器の中で融合したことになる。

 さてこんどは、その中に電気を流すこともできる。さらに理論的にはこれに人体と同じ生体磁気や生体電気を注入することも可能である。むろん人間にはこの融合体を一つの有機体に仕上げることはできない。が、大自然にはそれが出来るのである。

 自然界のあらゆる有機体は右に説明したような要領で、幾種類かの次元の異なる物体が融合調和して出来あがっているのである。

 このように説明してくれば、自我の中心である〝霊〟と、その器官であるところの次元の低い物体とのつながり、影響の及ぼし方が、明確になったことと思う。要するに宇宙最高のエネルギーであるところの霊が霊体に浸透し、その霊体が肉体の衣服に相当するエーテル体に浸透し、そしてそれが肉体に浸透する。

かくして宇宙の最高次元の存在である心が物質と結びつくわけである。 A ・ J ・ デービスは次のように述べている。

 「腕を上げるという動作一つを考えても、実は次のような幾つもの目に見えない連動操作が働いているのである。まず腕を上げようという意識が霊体の生体磁気に働きかける。続いて生体電気につながる。これが肉体の神経に伝わり、神経から筋肉に伝わり、その筋肉が腕をもち上げる。」

   
 こうした連動機能はまた感情の抑制についても示唆を与えてくれる。すなわち統一原理であるところの心は当然のことながら、感覚・感情・情緒の媒体であるところエーテル体にも浸透している。したがってその心に発した波動は、当然、エーテル体に流れ、感情をコントロールすることになる。

 同時にまた、エーテル体は肉体にも浸透しているのであるから、本来はエーテルの属性であるところの感情が肉体の生理状態とも密接な相互関係をもっている。したがって心に抱いた感情はすぐさま肉体に伝わり、その反応を表わす。 

 スピリチュアリズムでは、右に述べた幾種類かのエーテル体もみな、もともとはわれわれが毎日食する食物からその素材を得ているのだという。 

 まず固形物が咀嚼作用によって流動物となり、流動物がガス状物質に変化し、ガス体からエーテル状物質と電気が発生し、それがさらに精製されてエーテル体を構成する生体電気と生体磁気になる。

 運動によって体力を消耗するように、われわれは毎日の生活においてこうしたエーテル体のエネルギーも消費しているのであるから、消費しただけのものは補給してやらねばならない。その意味においても、われわれは毎日の食事を規則正しく摂らねばならないわけである。デービスはその点を次のように詳しく述べている。
   
℘248 
 「エーテル体はどのようにして維持されているか。この問題に答えるには、霊が物質に働きかける過程を辿っていけばよい。脳の機能は全身に絶対的な支配力をもっているので、体内の成分を貪欲に吸収していく。吸収された成分は脳髄の複雑な数多い化学工場の中を通過し、その過程で本来の物質性がかなり失われる。

固形物が流動物となり、流動物がエーテル質の生体電気になり、生体電気が生体磁気となり、それが更に精製されて、われわれが考えたり、愛し合ったり、決断したり、実行したりするときに使用する霊妙なエネルギー源となる。

 食物が胃に運び込まれてから一体どんな変化が起きるのだろうか。まず、さきに述べた七段階の分解作用が働いて、いわゆる消化が行なわれる。すなわち新たな化学的・電気的関係が生じ、その結果として、分解された食物と胃液成分との新しい結合体ができる。

おそらくこの段階で胃に委ねられたほとんど全部の養分の結合作用によって、骨や筋肉や内臓器官の組織の中に吸収されるにふさわしい成分ができているのであろう。

 が、これで消化吸収が終わったと考えたら間違いである。骨や筋肉や内臓に吸収された合成物は、更にその骨や筋肉や内臓の運動によって次の段階の消化作用をうける。その消化作用によって分子が更に精製されて、より霊的な分子との結合が可能になる。

 つまり精神の第一原理であるところの 〝運動〟 のエネルギー源となる。これが更に進化の法則に従って、精神の第二原理であるところの 〝活力〟 となり、続いて精神の第三要素であるところの 〝感性〟 の要素となる。そしてこの感性が進化してついに精神そのものの構成要素となる。

 こうした精妙化の過程で主役を演じるのは生体電気と生体磁気と大脳のガルバーニ電気である。かくして肉体の内臓器官や神経組織・筋肉等が新陳代謝によって維持されるのと同じ原理で、エーテル体もそれなりの新陳代謝と精妙化によって維持されていることが分かる。」                                                    (The Physician
℘249

  以上が人間の構成要素の中でエーテル体の本性と存在形式である。心霊家がエーテル体とか幽体とか、時には霊体等の名称で呼んでいるのがこれで、これが肉体を失った人間が次の世界で使用する身体となるのである。

  前にも説明した如く、エーテル体はその生長過程において肉体に形体と容貌を与え、同時にまた、肉体によって形体と容貌を与えられるという風に、互いに影響しあいながら出来あがっていくので、死後の形体と容貌は地上時代とそっくりである。

 また肉体に具わっている器官はすべてエーテル体にも具わっている。むろんエーテル体には肉体に具わっていない霊的な能力や器官も具わっている。かくして地上時代に肉体を主要器官として生活した自我が、その肉体の死後、エーテル体を器官として生活を開始することになるのである。


 これで残る問題は、いよいよ人間の構成要素の最高最奥に位置する〝自我〟 の問題となった。近代哲学や心理学ではこれを一般に魂(soul) と呼ぶのが通例であるが、スピリチュアリズムでは霊(Spirit)と呼んでいる。


 スピリチュアリズム哲学では、このスピリットは 〝宇宙の大霊〟 Universal Spirit の分霊であり、その意味で神性を有し本質的には神と一体であると説いている。人間の生命の中に脈打つ神的エネルギーであり、神界から徐々に波長を低下させて、ついに物質界に顕現しているわけである。
℘250
 他の要素すなわちエーテル体と肉体には時間的な〝始まり〟があり、そして〝終わり〟がある。が、霊(スピリット)は永遠の存在であり、無始無終である。物質が進化してエーテル体となり、そのエーテル体と物質とによって構成された有機体が動物の段階から更に進化して、最高の統一原理であるスピリットとの結合が可能な段階に至って、ようやくこの人間という存在が誕生したわけである。

 エネルギーという面からスピリットを観た場合、これはこの地球上、いや、他のいかなる惑星においても最高のエネルギーであって、それが少なくとも地上においては人間にのみ宿っているのである。

 スピリットこそ実在そのものであり、宇宙のどこにもこれ以上の実在はあり得ない。この故に人間は
小宇宙 Micro-cosm だというのである。つまり大自然という身体に神という大霊が宿っているこの大宇宙を小さくしたのが人間だというのである。

 この霊と身体の組み合わせにおいて、両者すなわち宇宙と人間に共通していることは、霊が陽極であり身体が陰極だということである。その両極の中間に位置するのがエーテル体とそのエーテル体と肉体の接着剤的存在である電気性を持つ半物質的エーテル体(複体)である。

 言うまでもなくスピリットこそ真の個性であり、その人そのものである。そのほかのもの、すなわちエーテル体や肉体、その属性である動物的情欲・本能・バイタリティ等は、スピリットが自己を表現するための媒体である。言い換えると、人間としてこの地上生活を送る上での道具であり、アクセサリーであって、スピリットの本質を構成するものではない。

欲情や感情・本能・精力等は、いわゆる気質や個性・性癖等の根源を成すものであるが、そうした個人的な特異性の奥に、万人に共通した普遍的エネルギーの根源がある。それが真の〝あなた〟であり〝私〟 なのである。
 ℘251  
 動物や植物にもエーテル体があり、ある程度の気質と個性を表すると言われる。動物にはその上に、わずかではあるが知性がある。が、知性といっても人間の知性よりは程度が低く、単なる知覚や察知力にすぎず、いわゆる理知的理解力までは至らない。

 人間においては、この動物的知性がもう少し発達した形で〝即物的知性〟(Objective mind)として残っており、その奥に純粋な観念作用としての知性(Subjective mind) が控えている。要するに動物には欲望と本能、好き嫌い、それに程度は低いが、知性が具わっている。

  植物はエーテル体の本質である生命力(バイタリティ)が主体を成している。人間はこれら動植物が有するものを全て具えた上に、すべて管理統一する原理としてスピリットが君臨している。人間が万物の霊長たるゆえんはここにある。

 ところで、一体そのスピリットは人体のどこに位置しているのだろうか。スピリチュアリズムでは主として脳髄にあると説く。そして脳を中心として全身にその影響力を行きわたらせる。それは人体のあらゆる神経、あらゆる細胞、そしてあらゆる原子にまで滲みわたり、生長を促進し、機能を発揮させる。

 元来が受身的で道具である人体は、その関係で必然的にスピリットの個性によって容貌と形体を整えていくことになる。つまり身体はスピリットの表現体だというわけである。もちろんスピリットが直接肉体に作用するのではなく、さきに述べたようにエーテル体と複体を通して間接的に影響を及ぼしていくのである。

 この意味では、スピリットは全身に存在すると言っても間違いではない。が、やはりその中でも一ばん強く働いているところは脳であり、その中央近くに位置する大神経節である。そこがいわゆる〝スピリットの座〟すなわち意識の中枢である。
℘252
 古代および中世の哲学者は〝魂の座〟の位置をよく問題にしたものであるが、現代哲学及び心理学では問題とされなくなった。というのは、そもそも霊とか魂とかいうものの存在を認めていないのである。

 現代の心理学では独立した意識の本体の存在を認めず、ただ単に、いろんな考えの集合体があるにすぎないという。
 
 つまり意識の思想の断片が肉体ならびに心理的法則に従って連結し混合しあったものであって、それを指揮する独立した中枢があるとは考えない。したがって〝自我〟とは現代心理学においてはそうした観念の〝副産物〟であって、自我が観念を産み出しているわけではないのである。


 スピリチュアリズムの主張するところでは、自我の本質を構成しているのが意識である。つまり意識こそ自我の本質を構成するものであり別に何か摩訶不思議な物質があってそれが各種の意識状態を現出させているのではない。

 意識的自我はれっきとした独立した存在であり、これが大脳中枢を焦点として全身の組織に滲みわたり、組織内の種々な成分と反応して、さまざまな観念や感情を産み出している、ということである。
 意識の座を大脳の中枢と位置づけたのは A・J・デービスである。彼は言う。

 「意識の座は脳髄の中心近くにある。そこに小さな核が存在し、その核の中に人間を生かしめている活力が凝縮されている。取り出してみればごく小さなものだが、生体内ではおはじき玉ぐらいの大きさをしている。」                                                                                                               (The Penetralia


 さらに別の著書の中でこうも説明している。

℘253
 「大脳の中心近くに霊的な磁石がある。これはいわば霊がエネルギーを集め凝縮させる要塞のようなものである。

これを肉眼で見ればおそらく不滅の神性を秘めた黄金色に輝くオーロラのように映るであろう。が大きさはおはじきほどでしかない。これは隔離された魔法の磁石であって、すべての活エネルギーとエッセンスが絶え間なく引き寄せられていく。求心性をもっていて、その中心のところは黄金色の太陽の如く輝いて見える。」                                                                                                                     (The Thinker

 これが肉体の死後もエーテル体の中心となって働き続けるのだという。実際に一人の老人が息を引き取る時の様子を霊視して次のように述べている。


 「その老人がいよいよ最後の息を引き取ると、黄金色に輝くこの霊的な小さなかたまりは静かに、しかし素早い動きで上昇して天井を突き抜け、家のあたりをフワリフワリとふらつきまわった。私はそれが生命のなくなった身体の横たわる部屋のはるか上空に浮いている様子を霊眼でもって観察した。

その霊的な磁石は心臓のように脈打っているが、小さなオレンジほどの大きさしかない。しかしそれがやがて急速に大きさを増し、脈の打ち方も規則正しくなった。

その中心と死の床に横たわる肉体との間に一本の光の糸がつながっていて肉体のあらゆる部分、あらゆる要素を引き付けている。観察しながらいろいろと考えているうちに、やがてその光の玉の中に霊体の頭部が見えてきた。中心の磁石は相変わらず脈打っている。

やがて夜空に星が一つまた一つと増えていくように、その光の玉の中からしなやかな手が現われ脚が現われた。赤子のそれのように、まるみを帯びた天上の美しさにあふれている。全体の外形こそ死の床の肉体と似ているが、若々しさと、しなやかさと、上品さと、そして神々しい美しさにあふれていた。」                      (同前)

 要するにスピリットは人間を人間たらしめている不滅の神的要素であって、肉体の死後、今度はエーテル体を身体として死後の生活を営むのである。エーテル体がなければスピリットは個体としての存在を表現する媒体がないことになり、宇宙の大霊の中に没して個性を失ってしまう。また、もしスピリットがなければ、エーテル体は統一原理を失なって形体として存在できないであろう。

 したがって、人間はスピリット(霊)とエーテル体と肉体の三つの要素で構成された存在である。これが死によって肉体を失い、霊とエーテル体の二つの要素の存在となる。この時、エーテル体が霊の身体となる。
 スピリチュアリズムは、この二重性つまりスピリットとエーテル体の関係は、事実上永遠に続くと主張する。



  

℘255   
 第二章 「死」の現象とその過程

 
「死」の現象とその過程は本質的には「老化」の現象とその過程である、というのがスピリチュアリズムの死の理論の出発点である。つまり老化現象が死の過程の始まりだというのである。

 ところで、この老化という現象については現代の生理学でも諸説があって、定説がない。一ばん有力で一般に受け入れられているのが、老化は身体を構成している組織の硬化であるという説であるが、それは老化の原因ではなく結果とみるべきである。

 他の説についても同じことが言える。みな身体的な変化を取り上げてそれが原因であると主張するのであるが、いずれも原因と結果を取り違えている。老化およびその終末である死の真の原因は実は内面的なものであり、現代の科学の範囲を超えた次元に存在するのである。


 スピリチュアリズムでは、老化の原因は人体に活力を与えている生体磁気及び生体電気の消耗であると主張する。もちろん一度に起きるものではなく、また、特殊な年齢に生じるものでもない。三五歳前後の肉体的成熟期から始まって年齢とともに進行する現象で、いわば登りつめた山からゆっくり下っていくようなものである。

 それまでひたすら吸収し蓄積していたエネルギーとバイタリティを、こんどは徐々に使い果たしていくわけである。その過程はきわめてゆっくりとしており、始めのころはほとんど自覚がないが、年齢とともに着実に進行していき、ふと気づいたときはすっかり老け込んでしまっている、というのが通例である。

℘256
 ではなぜ三四、五歳ごろから、それまでせっせとエネルギーを吸収していたのが、反対に消耗する方に転じるのだろうか。

 そのわけは簡単である。吸収するエネルギーの量より消費するエネルギーの方が多くなり始めるだけのことである。

それまでは、ひたすら自我を発達させながら伸び伸びと生きてきたのが、ほぼその年齢の頃から、家庭的にも社会的にも大きな、そしてさまざまな義務と責任を背負うようになり、身体的のみならず精神的にもエネルギーの消耗が激しくなっていくのである。

 いったんこの過程に入ると、山を下るのと同じで、止まることを知らず、そして、いよいよそのエネルギーの蓄えがそれ以上肉体を支えるに十分でなくなった時、スピリットは肉体から抜け出ていく。

これがつまり死である。この老化現象と、その最終結果としての死に至る過程における最大の要因は、生体電気すなわちエーテル体の構成要素の中で一番程度が低く、物質形態に一番近いエネルギーの消耗である。

エーテル体と肉体との分離は当然その一番近い接触部分から始まる。そこにはバイタリティすなわち生体電気が物質形体の中でも物質性の一番低い形態であるエーテルと直接のつながりをもつ部分である。

生体電気の量が減少するにつれてエーテル体との関係が薄くなる。あまりに薄くなると相互関係の維持が困難となる。そしていよいよ調和のとれた関係が維持できないほど生体電気が減少した時点で完全に関係が切れ、エーテル体は肉体から離れる。

 エネルギーの消耗は顔と姿格好にすぐ現われ、例の老けた感じが出てくる。それは、身体にまるみと弾力性を与えているのがエーテル体の持つ磁気だからである。言ってみれば人間は、電気と磁気という液体の中に肉体という物体がとっぷり浸って浮いている状態であって、その電気と磁気が枯渇してくれば当然肉体は縮んでくる。

顔にシワが寄り骨格がもろくなるのはそのためである。このエーテル体の電気と磁気は肉体と表裏一体の関係にあり、エーテル体がそれを失えば肉体にその影響が現われるのである。
℘257
 それ故に老けるということは実質的には、エーテル体を構成し霊が肉体器官と連絡したりコントロールしたりする際の媒体となっているこの電気と磁気が失われていくことである。

失われるということは老化の過程と死の瞬間において全部がどこかへ消えてしまうことではなく、そのうちの必要な分量だけは死後の身体の構成要素として残され、各器官に吸収されていく。実を言うと実際に失われていくのは同じ生体エネルギーの中でも肉体と直接つながった、いわゆる精力として実感している低級なエネルギーであって、高級なエネルギー、すなわち感情や情緒や愛情として実感しているエネルギーのほとんど全部は残っていて、物質形態との接着剤の役をしている媒体(複体)の消滅と共に内部へと移動するだけのことである。

 その過程、つまり低級な電磁気が涸れていくにつれて高級な電磁気が徐々にエーテル体を移動していく過程をデービスは次のように叙述している。


 「前述の如く肉眼はその最上のエキス分を霊眼の製造のためにエーテル体に供給していく。そして、その供給量は年齢とともに増えていくので晩年に至って視力が急速に衰えていく。耳も数十年の間このエキス分をエーテル体の耳の製造に供給していく。そしていわば磨り減っていく機械のように徐々に聴力を失っていく。

『あの人も耳が遠くなったな』───あなたはそう思って気の毒に思うかも知れない。が少しも気の毒がることではない。肉体の聴力がエーテル体へ撤退して次の世界での生活の準備を整えているのである。頭の働きも同様である。

『気の毒に、あの人もボケてきたな』───そう思うかも知れない。確かにつじつまの合わない話をするようになる。回想力が衰えるからである。
℘258
が、これも目や耳の場合と同じく、エーテル体の脳の準備のために肉体の脳がそのエキス分をエーテル体に着々と送り続けてきた結果なのである。

ために肉体の脳細胞は磨り減り、衰弱し、そしてストップする。崇高なる使命を終えて、大工場が閉鎖したのである。が、それまで工場を動かし続けてきた動力が消滅したのではない。動力源である霊は生き生きとしているのである。うわべの肉体は確かに衰えた。

言うことがおかしい。手が震える。『エネルギーが切れたのだろう』───そうおっしゃる方がいるかも知れない。がそうではない。肉体は全盛をきわめた時点から、骨、筋肉、神経、繊維等、要するに肉体を構成するあらゆる組織が、そのエキス分をエーテル体に供給して、地上よりはるかに清らかで美しい次の世界、すなわち幽界で使用する身体を着々と用意してきたのである。

 内臓についても同じことが言える。ある一定の成熟度に達すると、内臓の諸器官すなわち、肺、胃、肝、腎、膵等は、これらと密接につながった細かい器官と共に徐々にその機能を低下させていく。やがて弱さが目立つようになり、病気がちになり、耄碌しはじめ、そして老衰する。

これをただの老化現象だと決め込んでは見当ちがいである。というのは、表面的には確かに老化していくだけのように見えても、その内実は、各器官がその最高のエキス分を死後の生活に備えて着々とエーテル体の形成に送り込んでいるのである。

肉体的には確かに耄碌した。話をしても、まともな返事が返ってこない。が、それは脳味噌がそのエキス分をエーテル体に取られたからである。何たる不思議な変化であろうか。人間の老化と死は昆虫の羽化とまさしくそっくりである。いや昆虫にかぎらない。植物の世界───地衣類のコケにさえ、この束縛から自由への決定的瞬間、危険に満ちた運命の一瞬が必ず訪れる。

小麦がようやく地上に顔を出す直前をよく観察するがよい。種子が裂けて、そこから新しい茎が出てくる時の様子ほど人間の死の現象に似たものはない。死に瀕した老人は、声をかけても、もはや聞こえない。

なぜか。エーテル界へ生まれ出る瞬間のために音もなくせっせと準備しつつあるからである。目も見えない。いかに上等のメガネをあてがってくれても、もはや肝心の機能そのものが働きをやめているのであるから、どうしようもない。これを悲しんではいけない。

大自然の摂理はすべてが有難く出来あがっている。これから始まる第二の人生のために着々とエーテル体を整備しつつあるのである。やがて老軀は一切の食事を受けつけなくなる。

工場が完全にストップしたのである。炉の残り火がやっとくすぶっているだけである。工場全体に静寂が訪れる。すべての仕事が終わった。が、その長きにわたる仕事の産物がいま工場から運び出された。それが霊である。あとに残した工場は永久に使用されることはない。

死が訪れたからである。が、霊は住みなれたその生命の灯の消えた暗い肉体から抜け出て、歓迎のために訪れた霊魂の集まりへと歩み寄る。その様子はあなたには見えないであろう。」   (The Thinker

  このように肉体の衰弱と意識の内部への撤退は生体電気の消耗によって生じる。肉体とエーテル体とを連絡しているエネルギーには生体電気と生体磁気の二種類があり、このうちの波長の低い方の生体電気が豊富にあるうちは、これを連絡路として高級な意識やエネルギーまでが肉体へと注ぎ込まれて、心身ともに見るからに生気溌剌として健全である。

 ところが、やがて生体電気が消耗してくると肉体との連絡が少しずつ疎遠になり、高級な意識とエネルギーは、徐々にエーテル体へ撤退し、低級な意識とエネルギーだけが肉体を守ることになる。そしてやがてその生体電気までが枯渇しきった時、エーテル体と肉体とは完全に縁が切れることになる。これが死である。

 青春時代は確かに心身ともに生気溌剌として健康であり、身体は常に活動を求めてやまず、反対に霊的な、あるいは宗教的なことは敬遠しがちなものである。
℘260
 というのは、この時期には低級・高級の区別なくあらゆるエネルギーが豊富に肉体に流れ込んで来るが、なんといっても物質的な生体エネルギーが圧倒的に全体を支配するために、高級な霊的意識が曇りがちとなる。となると意識は当然の結果として物質的色彩を帯びて、食欲・性欲等の肉体的欲望が旺盛となってくる。

 これがやがて年齢とともにある程度まで消耗してしまうと、その分だけ物的感覚から脱して霊的なもの精神的なものへと意識が転移してくる。青春時代を活動と欲望の時期とすると、中年から老年の時代は思索と内省の時期ということができよう。


 繰り返し述べたように、老化は生体エネルギーの消耗の結果である。したがって仮にその消費しただけのエネルギーを何らかの方法で補給して、常に十分なエネルギーを蓄えておくことができれば、人間はいくら年をとっても若々しく健康であり、いくらでも寿命を伸ばせる理屈となる。それこそ不老長寿の妙薬ということが出来る。

 このエネルギー(生体電気)はエーテル体と肉体の接着剤のようなものであり、接着剤がしっかりしている限りは肉体と自我意識の関係は密接に保たれ、ボケることはない。また、少なくとも理屈の上では死ぬこともない。

 元来、肉体そのものには直接生と死にかかわる原因的要素は無いのであって、すべてはエーテル体にある。肉体上に現われる現象はことごとく結果であって、肉体の形体、容貌、活動、そして死に至るまでの全ては、みな内在するエーテル体にかかわっているのである。

 そういう観点から言えば、新しい衣服を着たからといって肉体が若返るものではないように、肉体そのものの健康管理が寿命を伸び縮みさせるものではないと言える。
℘261
 それはそれとして、もし仮にそういう不老長寿の妙薬が発見されたとした場合、果たして人間は喜んでそれを使用するであろうか。これは甚だ疑問である。

 というのは、今も述べたように、エーテル体と肉体とが完全に融合している時は肉体は若々しく溌剌としているが、やがて高級な生体エネルギーは死後の生活で使用する身体つまり幽体の充実のために抽き取られ、一方、低級なエネルギーも徐々に使い果たして老化していく。

 これは進化の道程における自然な成り行きであって、そうなることが人間の進化にとって望ましいわけである。それが不老長寿の妙薬で肉体的エネルギーを補給することによって若返るということは、思索と内省の時期から再び活動と欲望の時期に逆戻りすることであって、こうした状態をいつまでも続けることは決して望ましいことではない。

 進化とは、物質的欲望を体験することによってそれを卒業し、愛と知性と霊性を身につけていくことであって、したがって人間が徐々に若さを失い、肉欲的観念から抜き出て、やがて老衰し死に至るという過程は決して好ましからざることではなく、それでいいのである。

 死はそうした物質的感覚の次元から飛躍的にスピリットを解放してくれる。同時にそれが知的ならびに霊的な喜びの世界への大きな門出でもあるのである。

 (原著者脚注───われわれは死によってバイタリティ(精力素)の全てと縁が切れてしまうわけではない。そのうちでも低級な要素すなわち生体電気の何割かはエーテル体の構成要素となって残っている。つまり身体は地上生活中にその生体電気の全てを使い果たして死ぬのではなく、エーテル体とのつながりを維持できなくなる程度まで衰弱したあげくに断絶が生じ死に至るわけである。

残されたバイタリティはエーテル体の外部の要素となり、足らない部分は直接大気中から摂取したものが補われる。かくして新しい身体もまる身を帯び美しさも具わってくる。但しその新しい身体に吸収されたバイタリティは地上時代のように精神を左右することはない。なぜなら精神の方が地上時代よりはるかに発達し、むしろ身体のほうを自由に操ることになるからである)
℘262
 さて死の過程の最終段階は、肉体とエーテル体の分離である。これは、いわゆる老衰による自然死の場合は至って簡単に行なわれる。というのは、両者を接着している電気性エネルギーがその時までに殆ど枯渇して希薄となっているためである。

 これに反し、事故のような急激なショックによって分離した場合は事情が違ってくる。そういう場合は接着剤に相当する電気性エネルギーが豊富に残っているために、肉体からの分離が容易に行なわれない。しかし、否でも応でも離れざるを得ない。そこで苦痛が生じる。

また、いろんな資料によると、事故による精神的ショックが死後もずっと尾を引いて、霊的な回復をおくらせる。いわば無理やりにもぎ取られた青い果実のようなもので、霊界での目覚めがおそく、回復に相当期間を要する。
 デービスも次のように述べている。


 「人間がその与えられた天寿を全うした時は、生体電気がごくおだやかに、そっと肉体から離れていくために、あたかもこの世への赤子の誕生の如く、本人も自分が死んだことに一向気づかないことすらある。しかし、その死が不自然に強いられたものである場合は、苦痛が伴うためにそれを意識せざるを得ず、さらにショックも残る。


そんな場合は一時的に感覚の休止という現象が生じる。つまり死後の睡眠状態である。それが何日も何十日も続く。さらに霊体のほうは霊(スピリット)の道具となるための準備がまだまだ不足している。」                                                                                                         (Answers to Questions
p263  

 死の現象を実際に観察した話は数多くある。霊界のスピリットが観察してそれを霊媒を通じて語ってくれたものもあれば、肉体を持ちながらスピリットと同じ視力いわゆる霊眼で観察して語ったものもある。スェーデンボルグがその一人である。ナザレのイエス(キリスト)がまたしかりである。が、素晴らしさと興味深さの点で群を抜いているのは、これまで度々引用しているデービスである。

 数多くの書物の中でデービスは度々死の問題にふれ、自分の観察記録を細かく書き記している。その観察の素晴らしさは群を抜き、肉体構造の知識などは当時の科学知識の水準をはるかに超えていた。

 したがって当時の科学者がデービスの業績に対して正当な評価を与えなかったのも無理からぬことであった。が、今日では学者の態度もようやく変わりつつある。死の現象について心霊学的知識を基礎とした科学的解説が施される日も、そう遠くはないであろう。

 そのデービスの記述の中でも最高と思われるものが  The Physician の中に収められている。これはあらゆる点かから見て完璧と思われるので、10ページにわたる全文を紹介しようと思う。

                       
 「患者は六〇歳くらいの女性で、亡くなられる八か月前に私のところへ診察のために来られた。症状としてはただ元気がない、十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない、ということくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八カ月前のことである。

もっともその時は八カ月後ということはわからなかった。(霊感によって地上の時間と空間を測るのは私にはできないのである)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心ひそかに、その〝死〟という、恐ろしくはあるが、興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、そのために適当な時期を見はからって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
℘264 
 いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして身心ともに入神しやすい状態にあった。が入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。

私はそういう場所を探しはじめた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。

 もはや肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が同時に各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しようとしているかにみえる。すなわち筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚(センセーション)を保持しようとし、

脳組織は知性(インテリジェンス)を維持しようと懸命になる。つまり肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、
両者を永遠に引き裂こうとする力に必死の抵抗を試みるのである。

その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現われる。が、私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との協同作業を一つ一つ解消していく反応にすぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。


 やがて頭部が急に何やらキメ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が拡がり始めた。大脳も小脳もふだんの流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが、見ていると全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。

言いかえれば脳全体がふだんの一〇倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。
 今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。
℘265
その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。続いて驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてキメの細かい発光性の霊気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を現わし始めたのである。念のために言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることはできない。

肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリつまった感じで、しかもまばゆいほど輝いているために、私はその中身まで透視することもできないし、じっと見つめていることすらできなくなった。

この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現わして形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来あがって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。

すなわち肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであって、これが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。

 表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現の時とまったく同じ要領で次々と出現し、きれいな形を整えていった。

こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの〝未分化の粒子〟とでもいうべき無数の粒子は、〝不滅の友情〟にも似たある種の親和力を本質的に備えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の中部に潜む親和力の所為である。というのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しく出来た霊的器官では完全に消えているのである。

言いかえれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官が全ての創造物に共通した性向に従ってその在るべき本来の姿に立ち帰るのだ。
℘266
 こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最期を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかし実はそれは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜け出て行くときの〝反応〟にすぎないのであった。

 霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部のあたりに垂直に立った。これで六十有余年の長きに亙って続いた二つの身体のつながりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足先と肉体の頭部とが一本の電気性のコードによって結ばれているのが映った。

明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる 『死』 とは霊の誕生にほかならないのだ、と。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似あった才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。また思った。

母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象とまったく同じなのだ。ヘソの緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがヘソの緒に相当するのである。


コードはなおも二つの身体をしっかりとつないでいた。そして切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐためであった。

 その意味で死体は、完全に腐敗が始まるまでは埋葬すべきではない。たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体とつながっているからである。事実、完全に死んだと思われた人が数時間、あるいは数日後に生き返って、その間の楽しい霊界旅行の話をした例があるのである。

原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直症、夢遊病、あるいは恍惚状態等と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、あるいは数時間のあいだの記憶はめったに思い出せない。

ために浅薄な人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとする。が、霊界旅行の記憶を持ち帰ることが出来るのは、肉体から完全に離脱し、霊的ヘソの緒すなわち電気性のコード(電線と呼んでもよい)によってつながった状態で自由に動きまわった時であって、その時は明るい楽しい記憶に満ちみちている。
℘267  
 かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ目をやると、さっそく霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとしている様子が見えた。

はじめは何やら難しそうにしていたが、間もなくラクに、そして気持ちよさそうに吸収するようになった。よく見ると霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、そのほか、肉体に具わっていたものすべてが揃っている。

何とすばらしいことか。決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまったわけではない。特徴が消え失せたわけでもない。もしも地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、ちょうど病気で永らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきた時の姿を見て驚くように、〝まあ、奥さん、お元気そうですわ。

すっかり良くなられましたのね〟───そう叫ぶに違いない。そ
の程度の意味において霊界の彼女は変わったのである。

 彼女は引き続き霊界の新しい要素と高度な感覚に自分を適応させ馴染ませようと努力していた。もっとも私は彼女の新しい霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。

ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全過程を終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分に死に際しての家族の者たちの止めどもない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。一目見て彼女は家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今なお生きている霊的真実を知らないからだ、と理解した。

 人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。
℘268
少数の例外は別として、霊覚の未発達の人類、すなわち全てを見通せる能力をもたない現段階の人類、目に見、手で触れること以外に存在を確信できない人類、したがって 『死』 というものを肉体の現象によってしか理解できない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。

つまり人類の大部分は肉体の死が全ての終わりであると思い込んでいる。が私はそう思い込んでいる人、
あるいは死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。

死に際して本人自身は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でボロボロになって死んでも、あるいは雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。


もしもあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることができれば、あなたのすぐ前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。

だから本来『死』は霊界への第二の誕生として喜ぶべきものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へと生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。

祭壇を前にして生身のまま墓地に入る思いをしている時、あるいは魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの喪服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。

 以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。もっともこれが全ての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。

彼女はまわりの霊的要素に慣れてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降り立って、病める肉体と共に数週間を過ごしたその寝室のドアから出て行った。夏のことなので、すべてのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出て行くことができた。

℘269
寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、そのとき初めて私は霊魂がわれわれ人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことが出来るのを見て、よろこびと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。

彼女はまるでわれわれが地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘をのぼって行った。家を出てから程なくして二人の霊が彼女を出迎えた。

そしてやさしくお互いを確かめ話を交わしたのち、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来ごとであることが実感できなかった。

あたかも、いつも登る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間、私はふだんの自分に戻っていた。

 戻ってみて驚いた。こちらはまた何という違いであろう。美しく若い霊姿とはうって変わって、生命の灯の消えた、冷え切った亡骸が家族の者にかこまれて横たわっている。まさしく蝶が置きざりにした毛虫の抜け殻であった。」                                                                                                             (The Physician


  続いて紹介するのは、実際に死を体験して霊界入りした者が、その体験を霊媒を通じて報告してきた、いわゆる霊界通信である。霊媒はロングリー夫人で、通信霊はジョン・ピアポンㇳ。ロングリー夫人の指導霊である。

 「みずから死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察した者として、更に又その『死』の問題について数えきれないほど先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、 『肉体から離れて行く時の感じはどんなものか』 という重大な質問に答える十分な資格があると信じる。

いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目のあたりにして、
さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかも知れないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体はラクな感じを覚えているものである。

もちろん例外はある。が、永年病床にあって他界
する場合、あるいは老衰によって他界する場合、そのほか大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしているために、大した苦痛を感じることもなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化をとげているものである。

 苦悩にうちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分が死につつある事実も意識しないものである。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら『助けてくれ!』と叫びつつ息を引き取っていくシーン。あれはドラマとフィクションの世界だけの話である。(中略)

 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかも知れない。が、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはない。というのは、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりしているからである。(中略)意識の中枢である霊的本性はむしろよろこびに満ちあふれ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている。

 いずれにしても霊がすっかり肉体から離脱し、置かれた状態や環境を正常に意識するようになる頃には、早くも新しい世界での旅立ちを始めている。その旅が明るいものであるか暗いものであるかは人によって異なるが、いずれにしても物質界から霊界への単なる移行としての死は、本人の意識の中には既に無い。

 かつては地上の人間の一人であり、今は霊となった私、ジョン・ピアポント。かつては学生であり、教師であり、ユニテリアン派の牧師であり、そして永年自他ともに認めたスピリチュアリストであった私が、霊界側から見た人生体験の価値ある証言の一環として、いま 『死』 について地上の人々にお伝えしているのである。

 八〇年余にわたってピアポントという名のもとに肉体に宿っていた私は、その七〇年余りを深い思索に費やした。(中略)
℘271
 以前私は、自分が老いた身体から抜け出る時の感じを同じこの霊媒を通じて述べたが、その時の感じはよろこびと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。

肉体と霊体とを結ぶ磁気性のコードが既にやせ細っていたために霊体を肉体へ引き戻すことができなかったのである。が、その時私は無感覚だったわけでもなく、その場にいなかったわけでもない。


私はすぐそばにいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。(中略)自分が住みなれたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そして、いよいよ死期が到来したということ、こうしたことがみな判った。(中略)

 私の注意は、いまだに私を肉体につないでいるコードに、しばし、引きつけられた。私自身は既に霊体の中にいた。抜け出た肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地がよい。が、細いコードはもはや霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。

私の目には光の紐のように見えた。私は、これはもはや霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたようにみえた。というのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。

そして、その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のようにまるく縮まって、やがて、既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。これで私の死の全過程が終了した。私は肉体という名の身体から永遠に解放されたのである。」         
                                                                          (〝The Spirit World〟  by M.E. Longley)



 ピアポントは同じ書物の中で一女性の死の過程を記述しているが、霊体の離脱と形体がデービスの記述と酷似している。
℘272

  「いま肉体から脱け出るところである。銀色のコードがゆるみ始めた。物質的エネルギーが衰え始めたのである。そして霊体が新しい生活環境に備えて形成されていく。真珠色をした蒸気のようなものが肉体から出て薄い霧のように肉体を包み、上昇していく、その出方が濃く烈しくなってきた。

頭部から出ている、肉体のすぐ上あたりに集まったその霧のようなものは徐々に人間の形体をとり始めた。すっかり形を整え、下に横たわっている婦人とそっくりとなってきた。


いまや肉体と霊体とは糸のように細く弱くなったコードでつながっているだけである。肉体は、見た目にはすでに呼吸が止まっているかに見える。が、コードがつながっているかぎりまだ死の作業は終わっていない。やがてコードがぷっつりと切れた。そしてエーテル的要素となって霊体の中に吸収されていく。」(同前)  


 ピーブルズの霊界通信の中に出てくる一霊魂は、自分の死の過程がすっかり終了するまでにおよそ一時間半かかったという。また霊体が肉体(の頭部)から出る時は決して霊体が分解されるのではないという。彼は言う───

 
 「他界後私は何十もの死の場面を観察してきたが、霊体は決して分解されて出て行くのではなく、全体が一つとなって頭部に集まり、徐々に出て行くことがわかった。出てしまうと自由になるが、肉体から完全に独立するのは、両者をつないでいる生命の糸が切れた時である。事故などによる急激な死の場合は、かなりの間その糸が切れない。」 
                                      (”Immortality and Our Employments Hereafter” by J.M.Peebles)


 ハドソン・タトルはその著『大自然の秘密』の中で、自分が入神状態で観察した死の過程を次のように述べている。



 「霊体が徐々に手足から引っ込んで頭部に集結してきた。そう見ているうちに頭のテッペンから後光が現れ、それが次第に鮮明に、そして形がくっきりとしてきた。いま脱け出た肉体とそっくりの形をしている。

そしてその位置が少しずつ上昇して、ついに横たわっている肉体のそばに美しい霊姿を直立させた。一本の細いコードが両者の間につながっている。それも次第に萎縮していき、二、三分後には霊体の中へ吸収されていった。これで霊魂は永遠に肉体を去ったのである。」

                                                                        ("Arcana of Nature"  by Hudson Tuttle)


  以上が霊能者ならびに実際に死を体験した霊魂の観察した死の真相である。読んでおわかりの通り、きわめて合理的であり、なるほどと思わせるものがある。どの観察記録も完全に一致しており、われわれが見る臨終における様子とも一致している。スピリチュアリズムの説く 「死」 はあくまで自然で、科学的事実とも合致しており、われわれはそれが真実であってほしいと願いたい。

というのはスピリチュアリズムの説く 「死」 は至って安らかであり、かつて言われてきた死にまつわる恐怖というものを完全に拭い去ってくれるからである。しかもスピリチュアリズムによれば死はより幸せな、より高い世界への門出である。

したがって死の結果の観点からすれば、あるいは、また、死への準備の出来あがっている者にとっては、死は恐ろしいものではないどころか、むしろ望ましいものでさえある。デービスは 『死の哲学』 の章のところで最後にこう述べている。


 
 「私が読者に訴えたいのは、老化による純粋な自然現象による死には何一つ恐れるものはなく、むしろ素晴らしいことばかりだということである。言ってみれば、死は、地上よりはるかに素敵な景色と調和のとれた社会へ案内してくれる素敵な案内者である。


地上から一個の人間が去ったからといって、ただそれだけで嘆き悲しむのはやめよう。見た目(肉眼)には冷たく陰気でも、霊眼で見れば、肉体を離れた霊はバラ色の輝きに包まれながら旅立つのである。悟れる者、常に永遠の真理と共に生きる者には〝死もなく、悲しみもなく、泣くこともない〟のである。

死期を迎えた者が横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かによろこび、やさしく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びる時は、天国に霊魂が誕生する時だからである。」           
                                                                                                                  (The Physician





℘275   
 第三章 死後の世界

 肉体に永遠の別れを告げたあと霊は一体どこへ行くのか。スピリチュアリズムでは、それは霊界へ行くのだという。すると更に疑問が生じる。その霊界というのは一体どんなところで、どこにあるのか、と。

 スピリチュアリズムでいうとこの霊界には二つの意味があるように思う。一つは自然界の内部にあって、そのすみずみまで瀰漫している霊的要素をさす。つまり万物は物と霊とが表裏一体となっていて、物的宇宙の裏面にも霊的宇宙があり、それを霊界という。

 その意味では霊界はいずこにも存在し、波長さえ合えば感応できるものである。言い換えれば、われわれ人間は居ながらにして霊界の中に浸っているのである。その定義からすれば霊界は神の霊的な生命であり、プラトンの言葉を借りれば 〝地球の魂〟 the soul of the world であると言える。

またまったく同じ意味で霊界とは意識の次元の一段高い状態といってもよい。事実そうなのであって、霊界の住民もそのように意識しているのである。

 もう一つの意味での霊界は、もっと限られた地域的なものを指す。つまり、かつて地上で生活した人間が死後に生活する場所のことである。その意味では〝霊魂の世界〟といったほうが適切かも知れない。

霊界通信などで霊界といっているのはこの世界を指しており、本章でもその意味で使用することにする。キリスト教でいう天国もはっきりとした場所をさすので、やはり霊魂の世界である。
℘276
 肉体を去った人間すなわち霊魂は、したがって善悪の区別なく、万人共通の住処である霊界へ行く。ではそこはどんなところで、どこにあるのか。他界した霊から得た情報によると、死後の世界は地球を中心として幾層かの層をなして、幅の広いベルト状に地球を取り巻いているという。層の数は分け方、数え方によって異なるが、大体七つだというのが多い。

 層を構成している要素は地球そのもの、及び地球上の物体からの霊的放射物であって、その放射物は上空のある位置まで上昇して、そこで凝縮して霊的地球のようなものを構成する。重力の法則によって、精妙化の程度の進んだもの、言いかえれば霊的純度の高いものほど地球より遠く高く上昇するから、そこにそれぞれの程度の応じた界層が出来あがる。

 ある程度まで進化した天体には必ず霊界がある。それは今述べた事実すなわち霊界も物質界の放射物によって出来あがっていくということから当然のことである。人間に霊体があるように、すべての天体にも霊体があるわけである。

人体そのもの及び食した物の精妙化によって霊体が構成されるように、死後の世界も物的天体の精妙化と放射物とによって構成されているのである。

 したがって結局地球の死後の世界は宇宙全体の霊界のごく小さな一部分にすぎないことになる。というのは地球の霊界の上には太陽の霊界があり、その上には太陽を中心とする太陽系全体の霊界があり、さらには太陽系の属する銀河系(小宇宙)の霊界があり、そして大宇宙全体の霊界がある、といったように、同じ霊界でも無数の段階があるのである。

とは言え、地球人類にとってこの地球圏の霊界から脱出して、より高い霊界、たとえば太陽の霊界へと進むにはよほどの年数をかけ、よほどの進化を遂げなければならないと言われる。

 以上が霊界、あるいは死後の世界の大ざっぱな概念である。これから具体的な考察に入るのであるが、その前に、そうした概念がどのようにして形成されるに至ったかを歴史的に見ておきたいと思う。

 ℘277
 死後の世界について最初に明確な記述をしたのはスエーデンの哲学者スエーデンボルグで、一七五〇年に出版した著書においてであった。彼は入神中の霊視によって霊界をのぞき、その景色や出来ごとについて語ったのであるが、ただ彼の場合は当時のキリスト教信仰による影響が顕著で、記述のほとんど全部が神学的になっている。

たとえば低級霊の住む下層部を地獄、高級霊の住む上層部を天国と単純にきめてしまうあたりがそのよい例で、そのほか観察したものをことごとく自分の頭にある神学的概念によって解釈している。

したがって読者はキリスト教の神学という色めがねを通して霊界を見せられるわけで、その意味ではせっかくの霊視による啓示も、当時のキリスト教の概念から一歩も脱け出ることができなかったわけである。

 また死後の世界の位置についてはスエーデンボルグは一言も言及せず、霊的である以上は物的尺度の範囲には存在せず時空を超越している、と述べているだけである。したがって彼のいう霊界は地球とは何の関係もなかったのである。

 スエーデンボルグに次いで霊界の存在を具体的に説いたのは例のデービスで、一八四七年から始まってその後ずっと説き続けた。入神中の霊視という点ではスエーボルグと同じであるが、キリスト教神学による影響がまったくないという点が異なっており、それだけに、いかなる宗教的偏見にもとらわれない独自の死後の世界を明確に叙述している。

 それを最初に発表したのが 『大自然の神的啓示』   Nature‘s Divine Revelations で、その中でデービスは死後の世界を段階的に七つに分類し、各界の自然と生活環境を叙述している。
℘278  
 地球に一番近い最初の界層には未発達の霊が住み、向上進化するにつれて段々と上の界層へと進んでいく。上層界の叙述には最高の美辞麗句が使用してあり、地上で想像し得るかぎりの完璧な世界であるという。

 デービスによると、この七つの界というのはほとんど銀河系全体に行きわたっているという。わが太陽はその銀河系の一番外側に位置し、しかもホンの小さな天体にすぎない。銀河系は六つの恒星集団から成り、その一番中心にある太陽のまわりを回転している。

 各恒星集団すなわち太陽の一団にそれぞれの霊界があり、太陽及びその惑星の住民の死後の生活場となっている。

 わが太陽は銀河系の中心から五番目に位置する恒星集団の一員で、〝天の川〟もその一部である。一番外側に位置する六番目の集団はまだ恒星となるに至らない彗星状の天体の集団で、したがって霊界をもつに至っていないという。

 その後の著書の中でデービスは、霊界の位置についてさらに細かい記述をしている。が霊界が普遍的なものであるという基本概念にはいささかの変化も見られない。実際デービスの頭の中には地球のような一個の天体ではなく、地球や太陽をも含めた事実上の宇宙である銀河系がいつも概念を占めていたようである。

『大自然の神的啓示』から一二年後の一八五九年に出版された『偉大なる調和』(全五巻) Great Harmonia の中でも、霊界の第一界は 〝天の川〟 の属している恒星集団の内面であると述べている。


 「霊界は天文学でいう惑星や、夜になると輝いて見える星の数々と同じく、この巨大な組織に属している。厖大な数の物的天体の内面には銀色に輝く裏地がある。これが霊魂の不滅の宿である。人体の内面に霊体という裏地があるのと同じであって、これが目に見える恒星や惑星の集団の内面において自転と公転を続けているのである。

この内面の世界すなわち霊界は、私のいう第二界に相当する。その第二界の奥に第三界があり、その奥に第四界があり、さらにその奥に第五界があり、そして最後に第六界がある。最奥の第七界は神的エネルギーの渦──完全無欠の神の玉座である。                                                                       (The Thinker ──第五巻)

℘279 
 デービスの説によると、霊体が肉体から産まれ出ると同じ原理で、霊界は物的太陽や惑星から産まれるという。
 

 「したがってすべての天体は(人間が生きて行けるよう)各種の動物を用意するばかりでなく、死後における人間の生活場(霊界)を生産する役目をもち、そのように出来あがっているのである。

 今あなたの肉体と霊体とが自分にもわからないほどしっくりいっているように、物質界と霊界との間にも、それに劣らない完璧な親密さと一体関係が存在するのである。その類似性は科学と同じほどの正確さと信頼性を持っている。言ってみれば、われわれの肉体は霊体を産出する生殖細胞の製造所であり、物的天体は霊界を産出する生殖細胞の製造所である。

霊体の美しさと真実性は、そのまま霊界の美しさと真実性を物語っている。繰り返すが、霊界もある意味において物的世界である。ただその物質の組織が天体より純度が高く次元が異なるというにすぎない。

本質的に岩石や動植物、あるいは人体を構成する基本的組織と変わらない。その相違は、たとえてみればバラの花とその香りのようなものである。目にも見えず、測ることも出来ないほど精妙な発散物が今いうところの霊界に凝集し、その組織を作り上げていく。

 ではその過程を段階的に見てみよう。地球は当初、固い岩石ばかりの未発達の状態であった。次に、埋蔵されていたガスが噴出してきて、凝縮して水となった。その水の放散物から大気が生まれ、その大気の中に電気が発生し、さらに電気よりも一段精妙な磁気が生じた。

そして最後に以上のもろもろの要素の化合による変化の中からエーテル的な要素が生まれて宇宙へ拡がっていった。拡がって、〝では一体どこへ行くのか〟当然そういう問いかけとなる。
℘280    
 人類以下のあらゆる有機物から出る最も精妙な要素が霊体を構成する如く、物的天体から出る最も精妙な放散物が霊界を構成していくのである。水星、金星、地球、火星、木星、土星、その他目に見える天体も見えない天体も、みなそれぞれ最も精妙なオーラと原子を放散し、それが大気や計量できない要素の形で上昇し、ある一点に留まる。

やがて内部から親和力が働き始める。すると蓄積されていた放散物が急速に凝縮し始め、密度を増し、強度を増し、ついには星雲のまわりに半物質性の広大な生活場が出来上がる。

ここのところをよく理解されたい。霊界も物的天体から産まれるのである。それはちょうど、あの美しい花が土中の養分から作られるのと同じである肉体の中で精製されつくした成分によって霊体が作られるのと同じように、地球の霊界は地球の精製されつくした放散物によって出来あがっているのである。


 こうしたデービスの霊界観は、前にも言ったとおりスピリチュアリズム勃興の数年前から出来あがっていた。したがって、のちにスピリチュアリズムの霊界観が発表された時デービスはすでに承知していることばかりであった。

と同時に自分の霊界観との相違点まで理解していた。そして、確固たる理由を見出すまでは決して自分の説を変えることはなかったが、〝常夏の国〟(サマーランド)の位置に関するかぎりは絶対に変えることがなかった。


 というのも、その相違点の生じるそもそもの原因が、視点の置きどころの違にあったからである。つまりデービスが宇宙的視野に立って太陽や星も含めた広範囲の霊界を述べているのに対し、スピリチュアリズムでは一般的に地球の霊界について述べていたのである。

℘281
 全般的にデービスの啓示は宇宙的な原理原則を説き、とくにどこそこの天体にかぎっての問題は扱っていない。したがって死後の世界についても、デービスの視野は常に宇宙全体にあり、地球一つに限って説いたのではなかった。

 一方スピリチュアリズムでも優れた霊界通信にはデービスと同じ宇宙的規模の霊界の存在を説いたものが決して無いわけではなく、その意味ではデービスとスピリチュアリズム双方の説にはほとんど相違点はないと言える。

 ベール・オーエン the Rev. Vale Owen という牧師を通じて送られてきた比較的新しい自動書記通信『ベールの彼方の生活』 The life Beyond the Veil の中では太陽系の霊界や星雲の霊界のことが明確に述べられている。そのほかにも同じことを述べた霊界通信がある。

 が、そうした霊界は地球からほど遠く、したがって地球圏に住む霊魂にとって差し当たって事実上の縁のない世界である。霊界通信の中にあまり他の天体の霊界の話が出て来ないのはそうしたところに原因があるわけである。事実、地球上で生活したことのある霊で地球圏の霊界から脱出するまでに進化した霊は一人もいない、というのが霊界通信の一致した見解である。


 次に、死後の世界の位置、つまり地球からどのくらいの距離にあるかという問題になると、これはいささか難しい問題で、ほとんどの通信が大なり小なり食い違っている。これは恐らく物質界と霊界という、まったく次元の異なる世界の距離の比較・測定にそもそも無理があるからではないかと思われる。

 霊界は霊的条件下に属し、それ独自の空間的秩序を有している。それは地上的空間とはまったく異なる。四次元という名で呼ばれている霊的空間秩序は地上的空間の秩序の中に浸透し、いわばその内部に存在している。その空間的ならびに視覚的性質は地上のそれを望遠レンズで拡大して見るようなもの、というのがスピリチュアリズムの説明である。

℘282  
 つまり人間にとって遠いと思える距離でも霊界人には近く感じられたり、遠くにあるものがすぐ目の前に見えたりする。デービスの霊視活動の中で、霊視力には望遠鏡的作用があって、遠くのものをすぐ目の前に見せてくれるので、ほとんど距離は存在しないと言っている。


 「霊視の作用は望遠鏡的である。文字どおり望遠鏡的である。たとえば太陽はいま私のいる位置から九二、〇〇〇、〇〇〇マイルの距離にある。が霊視で太陽を見ると、たちまち太陽のあのまるい外形が消えてしまう。

あまりに近くなってあの外形が見えないわけである。また霊視に映るのは天文学者の望遠鏡に映る姿とは違う。長い経験でやっとわかったことであるが、霊視に映るのは、まずそのものの本質が第一で、それから次第に外部的なものが見え、最後に物的な形体の全体がくっきりと見えてくる。」                    (Views of Our Heavenly Home



 これで霊界と地上という次元の異なった世界の間を〝距離〟で述べることの難しさがわかっていただけると思う。死後の世界が地球からどのくらいの距離にあるかという問題について多くの霊界通信が違ったことを言っているのは、そんなところに原因があるのである。

 スピリチュアリズムの著作の中で最初にこの問題を扱ったのはエドマンズとデクスター共著の『スピリチュアリズム』である (A・J・デービスはスピリチュアリズム以前の人と考える)。これはスエーデンボルグやベーコンその他、歴史上の有名な学者からの通信とされている。

その中でも地球と霊界との関係を距離で述べることの難しさを認めている。ちなみにベーコンがウォーレンという列席者の質問に対して答えている部分を紹介してみよう。

℘283
問 いま生活しておられる世界は地球のように植物や動物が棲息しているまるい物体ですか。
答 そうです。
 
問 地球からどのくらいの距離にありますか。どんな具合に存在しているのですか。われわれ人間の目で見えますか、見えませんか。

答 距離はわかりません。少なくとも私にはわかりません。測ったことがないものですから・・・・・・。ただ、どこそこへ行きたいと思えば、たちどころにそこにいる。それしか言えません。そもそも距離というのは物体が時間と空間の要素の中で移動を必要とする場合にのみ測定できるものです。ウォーレンさん、私にはあなたのご質問の意味はよくわかるのですが、絶対的な距離はもちろん、およその距離も申し上げようがありません。                            
                                        (〝Spiritualism〟 by Edmunds and Dexter)



 この本のすぐあとの一八五五年に出版されたロバート・ヘア教授の 『心霊現象』 という書物の中では、地球をとりまく霊界と、地球からの距離について初めて明確な叙述がなされている。通信者は教授の父親である。


「霊界は地上六〇マイルから一〇〇マイルのあいだに位置している。この空間は六つの界に分かれていて、地球に接した空間を入れると七つになるが、この界は基本界(冥府)であって、残りの六つが実質的な霊界である。

 その六つの界はきわめて精妙な物質から出来ており、同一中心をもってベルトのように地球を取り巻いている。界と界との間隔には厳然たる法測がある。

℘284
 これでおわかりと思うが、死後の世界というのは決して形のない妄想でもなければ単なる心の投影でもない。それは太陽系の惑星やあなた方の住んでいる地球のように、厳然たる中身のある実体なのである。緯度もあれば経度もあり、その界特有の精気から成る大気が存在する。

 物理的構成や配置は各界ごとに異なっており、それぞれが他の界にない特有の景色をもっていて、界が上になるにつれて美しさと荘厳さを増していく。

 霊界もあなた方の地球の地軸を中心とし、黄道に対して同じ角度をもって一緒に自転し、あなた方の太陽のまわりを公転しているが、光と熱はこの太陽からは受けていない。すべては霊界の太陽(物的太陽と中心を同じくする霊的太陽)から受けているのである。その明るさ、その荘厳さは言語に絶する。」                                                                        (〝Spiritual Manifestation〟 by Robert Hare)


 続いてこの問題を扱ったのはハドソン・タトルで、上のヘア教授の著書のすぐあとに刊行された。タトルの説はヘア教授の説とかなり異なり、特に界の数についてはせいぜい五つだと言い、距離についてもかなり違った数字を出している。前章でも引用した『大自然の秘密』からその部分を紹介してみよう。

(タトルの書は内容的には霊界通信であるが、自動書記や直接談話をそのまま記述したのではなく、スピリットからのさまざまな通信をタトル自身が整理して系統的にまとめたものである。)


 「物的宇宙の彼方に、いまだ知られざる宇宙が存在する。それは物的宇宙からの放散物によって形成されており、いわば物的宇宙の投影である。それが霊的宇宙である。

℘285

 土星の環がそのまま霊界の形体を示している。霊界は球形ではなくむしろ霊帯(霊的地帯)と言うほうが適当である。地球の霊帯の幅は一二〇度、つまり赤道から南北に六〇度の広がりがある。南北六〇度の両緯度を取り払って、その帯状の環を天空へ上げていけば、それが霊界の格好になる。

 最初の界は地表から六〇マイルのところにある。第二界は第一界から同じく六〇マイルのところにある。第三界は月の軌道のすぐ外側、つまり地球から二六五、〇〇〇マイルの距離にある。

 第一界が地球の産物であるように、第二界は第一界の産物であり、同じ過程で第二界から第三界が出来あがっている。そして第三界から最も崇高な霊界が出来あがっている。この界になると他の天体の霊界と渾然一体となっていて、太陽系全体を包んでいる。その中には海王星よりさらに遠くにある、まだ知られていない幾つかの天体も含まれている。

 こうして太陽系内の各天体からの昇華された放散物によって太陽系全体の霊界が出来あがっている如く、銀河系内の無数の太陽系からの放散物によって、天の川を包む一段と荘厳な一大霊界が構成されているのである。」                                                                                    (〝Arcana of Nature〟 by H. Tutle)


  読んでお気づきのとおり、タトルの説は太陽および惑星の霊界の存在を指摘している点でデービスの説に似ている。ただ、デービスが普遍的な霊界に視点を置いて説いているのに対し、タトルは個々の天体の霊界に視点を置いている点が異なる。それ故、言ってみればタトルの説はデービスの立場とスピリチュアリズムの立場を折衷したような形になっている。もっとも、前に述べた通りスピリチュアリズムはもともとデービスの説を否定しているわけではない。

 タトルの説が出てから霊界の位置と数に関するスピリチュアリズムの説は次第に煮つまり、最終的にはデービスとスピリチュアリズムの説を折衷した形となっていった。すなわち地球の霊界は七つあり、同時に、霊界は他の惑星にも太陽にも、そして星雲全体にもある、ということになった。

℘286
 一九〇五年に発行された霊媒ピーターシリアによる 「霊界からの便り」 は父親を初めとする大勢の霊からの通信をまとめたものであるが、その中で父親のフランツは黄道帯にそったより大きな霊界の存在を指摘して次のように述べている。


 地球のまわりに大別して七つの界があって地球といっしょに回転しており、地球は八番目の界ということになる。が細かく分ければその中間に幾つもの界が存在する。

 言ってみれば地球はそれら多くの界の中心にある核のようなもので、全体の質量は地球の何千倍、何万倍になるか、計り知れない。あまりの大きさに地球の引力が負けて、公転の途上で上層界の断片が毎年少しづつ軌道上に取り残されていく。こうして残された地球圏の最高界の素晴らしい断片が次第に宇宙に充満しつつある。

 が宇宙全体のことより、われわれがいま語りたいのは地球の軌道にそった霊界のことである。黄道帯は地球からの放散物によって東西南北にわたり何百万マイルもの幅をもった層を構成している。その中に天上的美しさをもった見事な景色が無数に存在する。

その美しさ、その神々しさは地上の言語ではとても説明しがたい。(中略)これは地球と共に太陽のまわりを回転している。その回転の途上で取り残された断片によって構成されているのである。あくまで地球圏の話である。他の天体にかかわる話ではない。

 もちろんその世界に子供や若者はいない。すべての存在が完成の域に達している。(中略)この世界の天使が地球を訪れることはめったにない。ほんの稀にしか訪れないが、訪れるときは大挙して訪れる。それは地球が危機に陥り、下層界では手におえないとみた時である。(略)

℘287
 私はまだその完成された界には住処(すみか)をもたない。が訪れたことはある。地上でも、すばらしい都会に行くことはあっても、そこに住居はもたない人がいると同じことである。」
                                               (〝Letters from the Spirit World 〟 by Carlyle Petersilea)


似たような説を述べたものにオーエン氏の『ベールの彼方の生活』がある。その第四巻に次のような箇所がある。

 「霊界は、その中身も大きさも、人間の思考形式では正確な説明は不可能である。あえて説明するとすれば、無理にも霊界を幾つかに分割し類別せざるを得ない。より正しく理解していただくために、それをこれからやってみることにするが、分類の仕方を普遍絶対的なものと思わないでいただきたい。それを吾々のドグマとされては困るのである。

逐語的に解釈せず行間の意を汲み取っていただけば、各自の伝えるメッセージに共通したものを発見されるはずである。

 さて霊界は七つあって七番目がキリスト界(最高界)だという人がいる。なるほどそう言ってよかろう。ザブディエルも私も第十一界まで説明してきたが、吾々の分類でいけば十五界がキリスト界となろう。つまり霊界を七つに分類する人は吾々が二つに分類するところを一つと見ているわけである。」                                                                                     (Vol. IV The Ministry of Heaven

 また別のところでは地球圏外の霊界の存在を次のように説明している。
℘288
 「以上のことからおわかりのように、吾々が第一界から上層界へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまりその界の中に地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界に到達する。

 さらに進むと、こんどは他の惑星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり他の太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。そこにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを備えた高級神霊が存在し、下層界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。

 かくして吾々はようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の恒星の集団へと進んできた。が、その先にもまだまだもっと驚くべき世界がいくつも存在する。が第十界の住民であるわれわれには、それらの世界のことはホンのわずかしかわからないし、確実なことは何一つわからない。」
                                                              (Vol. I  The Lowlands of Heaven



 霊界の位置と数の問題はこの程度にしておこう。大ざっぱに言えば地球圏に属する霊界は七つであるが、その数え方は多分に主観的なもので、同時に人間にわかり易くするための便宜上のことと言える。実際には界と界との間に別に境界線があるわけではなく、お互いに重なり合い融合し合っている。

それをいかにも境界線があるかの如く述べるのは、心の中で主観的にそう見るからである。が同時に、上昇していくにつれて環境も住民もはっきりとした違いを見せてくるのは事実のようで、その意味では霊界を幾つかに区分けしようとする通信者の意図も理解できるわけである。

 どんどん上昇して、ついに地球圏の環境と影響から脱する段階までくると、こんどは宇宙的規模の霊界に接触するようになる。まず他の惑星の霊界があり、次に太陽の霊界に至り、更に他の太陽つまり恒星の霊界へと進む。物的宇宙の規模に応じて、それぞれの霊界があるわけである。
℘289 
 その点は十分納得がいったが、次に考慮すべき点は霊界の形態である。一体どんな形をしているのだろうか。霊界通信でも、あるものは地球のような  〝Sphere〟(球体、球面) だといい、あるものは 〝Zone〟 または 〝belt〟(地帯、帯状の地域) だというが、一体どちらが正しいのだろうか。

   ご記憶のとおり、タトルは sphere ではなく zone だといい、 zone と zone の間にははっきりとした境界があると述べている。また赤道を中心として南北に六〇度に開き、従って一八〇度の緯度のうち一二〇度が霊界であると言っている。これでいくと霊界は地球の三分の二に当たり、ほぼ球体をしていると言ってよい。つまり地球の南北両極を切り取った格好をしていることになる。 

 これを、いわゆる放射説───霊界が地球からの霊的放射物質によって形成されているという説───に結び付けていくと、地球の両極は極寒の気候のせいで物質の放散が少ないために、霊界の両極のあたりも欠けた状態か、もしくは非常に希薄になっているであろう。

同時に地球の熱帯地方は太陽熱を受けて放散物も多いことが推察されるので、熱帯地方の辺りに相当する霊界が一番充実しているであろう。

 このように観ると、タトルが霊界が球形よりもむしろ地帯と言った方がいいと言っても、その地帯はかなり球形を帯びていることになり、どちらの表現をしても大きく矛盾することはないことが理解される。タトルの理論はその基本概念において、霊界は完全な球形ではなくとも、多かれ少なかれ球形を帯びていく傾向があるという考えの上に成り立っていることは明らかである。

 以上の理由から、たとえ不完全とはいえ、第一の霊界が球形をしているというのは納得のいく説である。つまり死後の世界の第一界は地球のほぼ全体を取り巻き、赤道の周辺がやや盛り上がった中空の球体である。第二界も当然この形に似てくるし、第三界は第二界に似たものであろう。こうして地球を中核として幾重にもこれを取り巻く形で霊界は存在するのであろう。
℘290
 次に、そうした霊界の地球からの距離の問題であるが、ヘア教授は第一界は六〇マイルのところから始まると言っている。そのあとタトルが五〇マイルという数字をだし、その後同じ説をバビット博士とピーターシリアが述べている。ピーターシリアの 『霊界からの便り』 (前出)の中で父親のフランツが次のようなことを言っている。


 「バビット博士は第一界は地表から五〇マイルのところにあって赤道を中心として南北六〇度の拡がりがあると言っておられるが、これは正に真実だ。この説は霊媒から読んで聞かされるずっと前からわれわれも述べているのだが、彼はその説を 『死と死後の生活に関する百科事典』 (”Encyclopedia of Death and Life in the Spirit World” by J.M. Francis) の中で読んで、ほかにも同じことを言っているのがいると言って喜んでいた。

彼としては同じ説を書物や雑誌で見かけたのはその時が始めてだったので大喜びしたわけだが、われわれはとっくの昔に言っていたことだ。その通りなんだから……」


 前章で紹介したロングリー女史の『霊の世界』の中で指導霊のジョン・ピアポントはこう述べている。

 「これらの霊界が地球から何マイルのところに位置しているかは一概には言えない。あるものは何百マイルも離れているし、いま紹介した低級界の一つであるこの界などは地球に近い。地球に近い界の住民は地上まで降りて来て人間に影響を及ぼすことがある。彼らは往々にして人体にとって大切な活エネルギーを吸い取ったりする。

 こうした霊界は巌として存在する。その界───球界と呼んでもかまわない───は第一界から第二界、第二界から第三界と触合しながら連続しており、従ってはっきりとした境界線というものはない。が、一つの界から次の界へ行く段階において、人間の死に相当する大きな進化上の変化を通過しなければならない。

より精巧な物質でできた天体へ行くには、それまでの鈍重な身体から脱け出さなくてはならないからである。」  
                                             (”The Spirit world” by Mrs. Longley)

p291  
 さらに新しい説としては一九一八年に出たマッケンジー氏の『霊との交わり』  "Spirit Intercourse" by J. H. Mckenzie がある。その前書きの中でマッケンジー氏は、彼の背後霊団を組織している大勢の科学者(その中には米国の心理学者ウィリアム・ジェームズもいる)を相手に長期間にわたって綿密に調査し質問を繰り返した結果得たものだ、と述べている。そうして得た情報をもとに彼が割り出した霊界の距離は次のごとくである。

 第一界は地球から三〇〇マイル当たりから始まって七五〇ナイルまで。第二界は(地球から)一〇〇〇マイルから一二五〇マイルまで。第三界───氏はこれがいわゆる「常夏の国」に相当するという───
は一三五〇マイルあたりに在り、氏が「哲学者の世界」と呼ぶ第四界は二八五〇マイルあたり、第五界の「冥想の世界」が五〇五〇マイルあたり。「愛の世界」の第六界は九四五〇マイルあたり、そして 「キリスト界」 である第七界が一八二五〇マイルあたりに存在するという。
 
 これらの数字は氏に言わせるとおおよその数字であって、霊界について正確な距離は測定できないという。

 以上でおわかりのように、霊界の位置と地球からの距離の問題は全体的に極めて漠然としており、スピリチュアリズムを信じる人でも、そしてまた通信を送ってくるスピリット自身でさえ、大いなる疑念と不確さの感じを拭い切れないのが実情である。
℘292
 その漠然性と矛盾の原因はどこにあるかといえば、初めに述べたように、霊界という次元のまったく異なる世界を地上の距離単位で測定しようとすることの無理、これに帰着するのである。

 ともかく死後の世界が地球から近いところにあり、両者が密接に関係しあっているという事実は重大な意義をもつものであり、その事実自体は厳たる真実であることに変わりはないのであるが、地球からの距離を数字で表すことは、識者から見れば、どだい無理な話であって、絶望的な企てと言わざるを得ない。

 が、距離はともかくも、霊界にも空間的拡がりと時間的順序があることは前にも述べた通りであり、それが霊界に客観的現実性を与える要素になっていることは言うまでもない。

さらに、霊界が地球から誕生し地球との絶え間ない相互関係の中で存続しているという事実を考えれば、当然、霊界は地球から程遠からぬ距離にあり、同時に地球の内部にも浸透しているはずである。そのことは人間の霊体が肉体と共に存在し肉体に浸透しているという原理から容易に推察できる。

 これまで霊界の位置を地球からの距離で云々してきたのは、あくまでも理解を助けるための便宜上のことであり、数字そのものを厳密に当てはめるべきではない。霊界の通信者の立場からすれば、地球上の質問者に答えるにはどうしてもその人の理解力に合った答をせねばならず、従って当然、距離の問題になると地上の距離感覚に訴えざるを得ないのである。少なくともそう考えることが通信の矛盾を理解する一つの方法であると言えよう。

 次に検討すべき課題は霊界の地質学ともいうべき組成と、その形成の過程の問題であるが、これについては、われわれはすでにデービスの説をみてきた。デービスは霊界も地球から生まれる───すなわち地球上の諸物体(山川草木) および地球そのものから放散されるエーテル的物質によって形成されるというのであるが、実質的にはスピリチュアリズムでも同じ説を説いている。

特にハドソン・タトルは『スピリチュアリズムの秘義』の中で、それを次のように明確に叙述している。

℘293
 「宇宙はいま正に精製過程にある。霊界は精製された粒子が上昇して出来たものである。無機物の世界では原子間の相互作用と電気と磁気による分解作用によって生じるエーテル質の分子を個性化されていない普遍的霊の海へ放出する。

植物は粗製の無機質を吸い上げて細胞で精製し、その中の最も純度の高いものを放出する。動物はその植物を食し、消化し、次にその一部の原子を高度に精製して大気中へ放出する。その動物が死ぬと身体の崩壊とともに霊的要素は個性を失って、ちょうど一滴の水が蒸発して消えていくように、霊的大海の中へ同化して消えていく。

 霊界はこうした原子から創造されているのである。ひと口で言えば地球から産まれるのである。それは霊体が肉体から産まれるのと同様である。そして地球によって存在を維持し、地球の精製機能によって今なお形成されていきつつあるのである。」                                                            (”Arcana of Spiritualism” by H. Tuttle)
 

 次に、霊界の表面はどうなっているのか、そして、どんな器官を備えた生命が棲息しているのかをみてみよう。


 この点についてスピリチュアリズムは、地球に近い界ほど地球に似ており、本質的な違いはないという。すなわち表面には固い土地があり、山があり、谷があり、小川が流れ、草木が繁り、花が咲き、小鳥がさえずり、動物が遊んでいる。そして地上と変わらない人間の家々がある。

 なぜこのように地上と同じ様相を呈するかといえば、地上の物体から放散されたエーテル物質が元の物体と同じ形体を取ろうとする傾向があるからである。
℘294
 もっとも一〇〇パーセントそうだというのではない。というのは、たとえば家などは霊自身が自分の思うとおりに拵えるからである。
 が放散物は霊界に来て同じ種類の組織の中に吸収され、大気中に瀰漫するエーテルの海の一部を構成していく。それを霊が使用するのである。地上の低級な組織物、たとえば地面や岩石、草木類、あるいは動物さえも、霊界に来ると元の形体を維持できず、いま述べたエーテルの海の中に吸収されて、それがまた新たな生命体───草なら草、動物なら動物───の一部となっていく。

 動物は霊界へ行ってからしばらく霊体を維持して元の形をしていることがあるが、それも一時的なもので、特殊な条件のもとでのことのようである。(人間から特別な愛情を受けた動物はその愛情が続くかぎり原形を維持すると言われる。)つまり動物の霊体は個体としては不滅ではないのである。

 それ故スピリチュアリズムの主張する霊界は実体のある現実の世界であって、決して単なる幻の世界、あるいは想像上の世界ではない。タトルは言う。


 「放散物が霊界に上昇していくと地上と同じ形体をとろうとする傾向がある。従って霊界には地上にあるものが全部存在する。但し原始的植物や動物類は例外である。これらは次元の高い環境では存在し得ないのである。

山と平地、森と草原、川、湖、そして海、これらが地とそっくり再現されたように存在する。というより、その不完全な箇所を修正し、一〇〇〇倍も美しくしたようなものである。

 そうした自然環境とそこに住む霊との関係は、人間とその自然環境との関係とまったく同じである。表面は固い土地である。そこに木や花が根を下ろし、岸辺には絶え間なく波が打ち寄せる。見上げれば空があり、夜には星が輝く、霊は大気を呼吸し、水を飲み、甘美な果実を食し、華麗なる花で身を飾る。
℘295
 そこは決しておとぎの国ではない。偶然や奇蹟で出来あがった世界でもない。真実の世界、地上よりも真実味のある世界である。なぜなら地上の完成された姿が霊界だからである。

 霊は地面を歩き、湖や海を舟で渡る。要するに地上でしたのとまったく同じような行動をする。環境との関係は地上にいた時と何ら変わることはない。」(同前)

 だから、霊界は現実の世界であり、そこには地上とまったく同じ現実の生活が営まれているのである。霊界通信のすべてがその点に関しては実質的に同じことを述べている。

  すなわち霊界にも地上と同じ固い地面があり、数マイルに及ぶ層をなし、その表面に鉱物、植物、動物、そして人間が地上と同じような生命活動を営んでいる。要するに霊界は少なくとも地上に近い界層においては地上の完全な再現だと思えばよい。ただ重大な相違点は、その構成要素が地上の物質より一段と精練されているということである。

 では、ひるがえって、一体右のような説にどれほどの真実性があるかという重大な問題に立ち帰ってみたいと思う。

 霊界との交信を信じない人にとっては、その回答はきわめて簡単明瞭である。すなわち、それは単なる作り話であり、それ以外の何ものでもない、と。

 しかし一方、これを絶対的に信じる人も圧倒的に多い。さらに信じるまではいかなくても、霊界との交信に強い関心を寄せ、十分な根拠があれば信じたいと思っている人はもっと多い。そういう人にとっては、霊界の実在は実に興味ある問題である。
℘296
 が、いろいろと研究し、あれこれと読んでいくうちに、一つの難問に遭遇する。霊界にも家や岩石や植物などがあるということが、それまで抱いていた死後の世界のイメージにどうしてもそぐわないのである。

 そういった 〝物〟は物質で出来ており物質界に所属する。霊の世界は物質界と相容れないものと教わり、そう思い込んできた。それがこの現実界の存在物とまったく同じ〝物〟で構成された霊界であるとか、天国であるとか聞かされると、このすすけた物質界より一歩も向上進化がないことになると同時に、その考え自体あまりに無定見すぎる感じがする。

 湖水にボートが浮かび、魚が泳ぎ、森でインデアンが犬と共に鹿を追い、馬で突っ走っている。こうした情景を読むと、真面目なスピリチュアリストでさえ疑問と不安を感じずにはいられない。

 一見不合理のように思えるこうした問題を解く第一の、そして最も自然な方法は、そうした霊界通信の叙述は象徴的なものであり、文字通り受けに止めるべきでないという解釈である。つまり霊界という三次元的空間を超越した非物質界の事情は、本来言語では説明のできないものであるが、それをあえて三次元的方法で象徴的に表現しているというわけである。

 霊界での体験や生活形態はあまりにも地上のそれとは異質のもので、それを霊界人の観念や表現方法で人間に説明しようにも説明のしようがない。そこであえて理解してもらおうとすれば、人間の観念と表現方法を使用するしかない。

それゆえ人間の言語で表現しようのない霊界の実在の叙述は、どうしても抽象的に表現せざるを得ず、したがってそれを文字どおりに受け止めるべきではないというのである。

 死後の生活は霊的であり、地上の生活は物的である。地上生活は時間と空間に支配されているが、霊界の生活にはその制約がない、すると当然、霊界の事情の説明も地上生活になぞらえて一種の心身平行論的な方法で説明し、しかも実際には物的ではない、というふうに説明するしか方法がないわけである。
℘297
 以上が霊界からのメッセージや通信についての一般的な解釈の仕方である。しかし、霊界通信をはじめとする心霊関係書を検討していくと、そうした解釈が必ずしも当てはまらないことがわかってくる。

というのは、霊界通信をはじめとする優れた心霊書においては、霊界及び霊界生活は決して象徴的な意味でなしに地上生活とまったく同じ意味で実質的であり実感がある、と断言しているのである。

 「私の背後霊は何にも増して死後の世界の客観性と実質性を強調する。幸福感や不幸感が客観的環境よりも主観的なものによって支配されるものであることは霊たちも十分に認める。が、その事実の重要性は認めるとしても、同時にそれと並行して、霊界の客観的事在と実質性をも断固として主張するのである。要するに死後の世界も主観と客観の二面をもった実感のある世界だというのである。」  
                                                               (”The spirit World” by E. Crowell)

 さらに、霊界は主観的な観念の世界ではないかという問いに対して、右のクローエルはこう述べる。


 「地上の物体が客観的であるのとまったく同じ意味で死後の世界の存在物も客観的である。霊界では思念が目に見える形体をとるのだという人がいるが、われわれ人間の思念が形体をとらないのと同じように、霊界でもそういうことはない。見える物体は始めから客観的にそこに存在しているのであり、霊にとっては、手を触れれば実感があり中身があるのである。」                                                                                                   (同前)
℘298
 ロングリー女史の名著 『霊の世界』 の中で通信者のピアポントは言う。


 「霊的天体は実在の天体、つまり、からだで触れてみることのできる世界であって、観念的な抽象物ではない。人間───あなたや私のような人間───がやってみたい、あるいは造ってみたいと思うような家も、仕事も、活動もないような取り止めのない世界ではない。ただ、霊界では人によっては主観的傾向が強すぎて、まわりの客観的環境をあまり気にしない者がいる。

が、その客観的生活にも幾つもの段階があり、それぞれの段階において、そこの生活者にとっては客観的存在であり実感がある。それは地球という天体に住むあなたがた人間にとっては、このテーブルも椅子も、あるいはこの家そのものも実感のある客観的存在であるのと同じである。」
                                                                            ("The spirit World" by Mrs. Longley)


また前に紹介したオーエン師の『ベールの彼方の生活』の中で最高指導霊のザブディエルはこう述べている。

 
 
 「霊界へ来た者がまず困惑し不審に思うことの一つは、そこに見る世界がすべて現実的であることである。この点はすでに述べたことであるが、人間にとっては霊界の様子が地上時代に期待していたものとは余りに異なり、不思議でならないようであるから、ここで今少しこの問題を取りあげてみようと思う。

というのも、死後の存在が夢まぼろしのようなものでなく、地上より一層現実味を増した世界であり、地上生活はいわば死後の世界への準備であり出発点にすぎないと認識することは、これは実に重大なことなのである。どうして人間はカシの大木を若木より立派だと思いたがるのか。

なぜ湧き水を川より現実的で勢いがあると見たいのか。若木や湧き水は現在の地上生活であり、カシの大木や川が死後の生活なのである。」
℘299
   本物だと思い込んでいる身体も山も川も、そのほか全ての物質は霊界のそれに比べれば持続性も現実味も劣る。なぜかと言えば、エネルギーの本源はこちらにあるからである。発電機の電力と、その電気を受けて光るランプの電力と、一体どちらが強力と思われるか。その差が地上と霊界の現実性の差なのである。

 故に、もしわれわれの存在をパイプの煙のごとく考え、死後の世界に漂う雲の如く思われる御仁がおれば、一体そう考えるまともな根拠をもち合わせているのかどうか、その御仁にとくと反省してもらいたいものである」                                                                  ("The Life Beyond the Veil" by the Rev. Owen)


  以上はスピリチュアリズムの豊富な文献の中の一部にすぎないが、これだけでも霊界の環境が客観的であり実感のある世界であること、つまり決して主観が具象化されただけの象徴の世界ではないことを語るに十分である。

スピリットは地上の環境が客観的であり現実的であるのと同じ意味において霊界の環境も
客観的であり現実的であることを、粉(まが)う方ない言葉で断言するのである。

 彼らは、自分たちの言うことは文字通りに受け取ってほしいと言う。したがって、われわれ人間の取るべき態度としては、彼らの言うことを額面どおりに正直に受け取るか、さもなくば、全面的に否定してしまうかのいずれかでなければならない。人間的先入観で勝手に取捨選択し、納得のいく部分は受け入れて、気にくわない部分は否定するという態度は許されない。

つまり、死後の世界はそこに生活するスピリットにとっては立派に客観的現実の世界であると認めるか、そうでなければ死後の世界の存在を全面的に否定するかの、いずれか一方でなければならない。

℘300
 以上がいわば象徴説である。

 次に霊界があまりに地上生活に似ていることを説明する説として、霊界は観念の世界であって、スピリットがそこの山川草木を語ることは自分の思念によって拵えた観念体のことを言っているのだ、という説がある。

 確かに、スピリットは意念によって自由の物を拵えることができるという事実───もっとも、それは霊界で相当修行した高級霊にかぎられるという───を有力な証拠として引き合いに出すこともできないことはない。

 が、信頼のおける優れた通信によると、決してそうではないと断言する。すなわち霊界の事物は地上の事物と同じで、決して観念的な、つまり主観的なものではないと主張する。霊界には霊界なりの主観と客観の生活があり、その区別は地上の人間生活における主観と客観の区別とまったく同じであるという。

 つまりスピリットも主観的に物を思い、思索にふけると同時に、想像力と意念の作用によって客観的に物を拵えることもできる。拵えられるものは、主観的思念作用を止めた後も客観的事物としてそのまま存在し続ける。したがって、主観と客観の二重性は地上も霊界も本質的には違いはないわけである。

 結局われわれは再び最初の考え方、すなわち死後の世界は地上生活が人間にとって真実味があり実体があるのと同じように、スピリットにとっては立派に真実味があり実体感のある世界であるという説に舞い戻ってきた。死後の世界に関するこれ以外のいかなる解釈も、この主観と客観の二重性を絶対的基盤として考察しなければならない。

 が、果たしてこれ以外の解釈の仕方があり得るであろうか。仮にあるとしても、その解釈は同時に地上生活にも当てはまるものでなければならない。

 霊界についての理解を妨げている最大原因の一つに、われわれ人間自身が、霊界はおろか、この地球という物質界についてすら無知であるという点が考えられる。
℘301
 第一にわれわれは物質界は固くて有形で、それ自体に生命はないものと思い込み、霊界についてはその正反対のものを求めようとする。ところがどの霊界通信を読んでみても、地上とまったく似通ったことばかり言っている。

そこで困惑しあるいは疑念を抱き、素直に受け入れることを躊躇してしまうのだが、それは地上の現実の環境についての錯覚に起因するのであって、したがってこの物質界について今一度理解し直し、誤解ないし錯覚を是正することが、ひいては霊界の正しい認識につながるものと考えられる。


 問題は物質の根源についての概念にあるようである。われわれは物質というと固くて無感覚で自動性がなく、霊的性質をもたないものという先入観念をもっている。したがってそういう物質が想念の支配する死後の世界に存在するということが納得いかないのである。

しかし物質を固くて無感覚で死物のように感じるのは人間の五感の反応であって、物質の本性がそうなのではない。むろん物質は厳とした客観的存在であり、これを観念論者の言うように全面的に人間の感覚のしょうにしてしまうのも無理があるが、人間の五感に反応を起こせしめる物質の本性を、自動性も生命もない死物と見なすのは間違っている。

 今や形而上学と科学の双方が物質について同じことを言い始めている。すなわち、物質はエネルギーの一形態であって、究極の単位は電子であり、それが集まって原子と分子を構成し、それが目に見て手に触れることのできる成分を構成しているというのである。

 この説でいけば物質はもはや従来の意味での〝もの〟でなくなり、霊的成分の一形態にすぎないことになる。デービスは

 「物質という用語は五感に対する反応の仕方からそう呼ばれるようになったのだが、実際は単なる 〝現象〟 を意味している。物体の根源的成分は純粋なる霊素であって、これが物体の不滅の成分なのである」と述べている。

 要するに霊素が物質となるのであるが、その過程は今や物質科学においても解明されようとしている。すなわち、まず霊素が自然界のエネルギーに転化する。これは磁気と電気の最も純度の高い状態である。その磁気を構成している単位(電子)は完全に均質の媒体すなわちエーテルの渦で、これが霊素なのである。

電気と磁気は物質科学が説いている通りの過程で物質原子を構成する。すなわち陽性の電気または磁気を中心にして、そのまわりを幾つかの電子が配列されている。これが原子の実体で、その原子の組み合わせによってさまざまな形態の物質が生まれるわけである。


 こうみてくると、霊界通信で言うように物質が霊界に存在しその一部を構成していても何の不思議もないことになる。物質も本質的には霊的なものであり、したがって、この物的自然界と同様に霊的自然界にそれが存在しても不思議ではなく、極めて自然なのである。

 しかし物質が霊界に存在するためには勿論地上のままでは不可能で、その性分を変えなくてはならない。地上と同じ性質ではあまりに粗末で不純である。が周知の通り、物質は精製過程を経ることによって非物質の状態にまで変化する。

固形成分が破壊されてガス状成分となり、それがさらに変化してエーテル的成分となり、この状態ではもはや〝物質〟の一般的属性を実質的に失っており、物質というよりは半物質と呼ぶにふさわしい状態である。


 これがさらに一段と精製されるとエーテルに生命と感性が生じてくる。死後の世界は実にこのエーテル的物質によって出来あがっているのである。各界層の構成物質、そこに生活するスピリットの身体、まわりに存在するああらゆる物体がみなその純化された物質によってできあがっているのである。

もちろん外部的身体を構成しているだけで、その身体の内部に精神を宿している。その点は地上の人間と同じである。

 
その素材───霊界と霊体を構成している〝物質〟は霊界通信によると立派に生きたものであり、その内部に生命と感性を宿している。地上の物質は固くて容易に変化しないが、霊界の物質は実に柔軟性があり、しなやかで、しかも意念の作用に絶対的に柔順である。

したがってスピリットの身体および衣服はスピリット自身の個性の完全な表現であり、集団生活を営むスピリットたちの環境───家および周辺のもの───も、そのスピリットの性質と程度(霊格)の忠実な指標である。
℘303
 発達した霊になると、物を拵えるに際してわれわれ人間のように手足や道具を使用せずに、ただ意念だけで拵えることができるという。住居はもちろん自然環境までも意念の作用で作り上げるらしい。しかも、そうして出来あがったものは、手や道具を使って拵えたものと同じようにリアルで客観的であり、永続性もあるという。

 それを単なる想像上の産物とみるべきではない。というのは、霊界にも主観と客観、思考作用と意念作用とが地上と同じように存在するからである。ただし意念作用だけで意識的に環境を拵え形体を賦与することができるのは、霊界でも上層部のスピリットにかぎられており、低級界のスピリットはわれわれ同様、身体を使う作業を余儀なくさせられる。


 こうして物質の本性および霊界における物質の状態を考察してみると、物質が霊界に存在することは有り得ないと言う説はどうやら取り下げねばならないようである。そのわけは、第一に物質は本来が霊的であること、そして第二に、それが霊界に存在するからには、極めて精妙で霊的状態にあることがあげられる。

こうしてみると、霊界にも物質が存在してそれなりの環境を構成していると言っても少しも不思議ではないことになる。

 が、霊界の物質性に対する疑念の根本にあるのは、霊界の物体が空間と時間に支配され、地上の物体とまったく同じ五感的特性(目に見え手で触わることができる)を具えていることであろう。これは、時間と空間および五感的要素は現象界にのみ存在し、実在界には存在し得ないという、実在についての一般的先入観が容認しないのである。
℘304     
 一般の人は霊界は時空を超越し、地上とは物理的秩序が異なるはずだと考えている。が、この考えは形而上学的原則の適用を誤っている。カントも言っているように、空間と時間と物理は本来精神的なものであり、精神(心)を離れての存在は考えられない。が、その精神は人間の脳の専有物ではない。

宇宙のすみずみまで精神は宿っており、むしろ宇宙が精神の中に存在すると言ったほうがよい。したがって時間も空間も物理的秩序も、その宇宙的精神の中において、われわれ人間の精神を離れて存在することは十分可能なのである。

 時間と空間と物理は宇宙的精神が〝もの〟を創造していく上で不可欠の要素であり、基本的存在形式である。大自然そのものも宇宙的精神がその三つの要素によって具象化されたものであり、その実質性は現界も霊界も同じなのである。

 秩序も法則も形態も、カントや主観的観念論(アイディアリズム)の説くような単なる観念的なものではなく、宇宙的精神、宗教的に言えば〝神〟の創造エネルギーの実質的要素であり、それは人間の精神の中にも存在すると同時に、人間を離れた世界にも存在しているのである。

 こうした観点から言うと───これが即ちスピリチュアリズムの観点なのだが───宇宙のあらゆる現象は実在であり、実在であるが故に現界と同様に霊界にも存在し得ることになる。 

 宇宙間どこを探しても、空間(広がり)もなく時間的経過もなく 塡充性もない存在というものはない。何かが存在すればそれには必ず空間性と愼充性と実質性とが具わっている。宇宙の大精神である神にはむろん空間も時間もない。が、その大精神から創造された個々の存在はその大精神の中に存在し、例外なく実在性を有する。

したがって地上であろうと死後であろうと〝存在する〟かぎりは空間的広がりと時間があり、それを地上にのみ認めて死後の世界に認めないという理由はない。現界も霊界も原理はまったく同一であり、それなりに現実の世界なのである。
℘305   
 しかし、双方に時間と空間と広がりと実質があると言っても、それは必ずしも双方が同一の空間、同一の時間、同一の物理的秩序をもっているということではない。スピリチュアリズムにおいては、両者はその点において全く質を異にし、相互間に直接の関係はないとする。

霊界の時間と空間はわれわれ人間の精神のそれに相当し、五感(身体)のそれとは異なる。精神の時空は身体の感覚とは根本的に異なり、三次元的身体の内面にも浸透して、いわゆる四次元の世界を構成する。が、その四次元においても、そこに存在する物体は地上と同じ空間的広がりをもつ。

ただその尺度が完全に異なる。スピリットが時間と空間を口にする時、彼らは自分たちの尺度で言っているのであって、地上的尺度で言っているのではない。

 霊界における時間と空間についての質問に対して、あるスピリットはこう語っている。

 「スピリットにとって時間と空間は、人間にとっての時間と空間に比べると問題にならない。といって時間も空間もないと言ってしまうのは言いすぎである。何かが存在する以上、それはどこかに存在するのであり、それは必然的に場の存在を意味する。そして、二つの異なった場の間には当然距離があるはずであるから、そこに空間が存在することになる。

次に、われわれは思念のごとく瞬時に行動する。あなたがた人間の思念にも距離がないことはお気づきであろう。すぐ近くの大西洋を思いうかべるのも、遥か遠くの東洋の海に点在する島々を思いうかべるのも、瞬時にして可能である。

が、思念も組織的身体を伴うと、おのずから時間と空間の存在を認識せざるを得ない。英国はこの大陸から三五〇〇マイルほど離れていると思うが、スピリットにとってはホンの瞬間のうちに通える。私が今いる霊界の住まいも英国との距離ほど離れているであろう。が私はその距離からこの霊媒を操り入神させることもできる。もっとも、ふだんは直接ここまでやってくる。

今回の場合は霊媒がこのイスに腰かけた時、私はまだ自分の住まいにいた。そして霊媒が脳底にズキズキ痛みを覚えたころにようやくそこを離れた。私の住まいはあなたがたの遥か頭上の星辰の彼方にある。」                                    (〝Immortality and Our Employments Hereafter"  by  J.M. peebles)

℘306  
 要するに現界と霊界とでは尺度が違うということである。が霊界における生活および環境は、現界と同じくリアルであり実質性があるとスピリットは言ってくる。両界は異なった時間的尺度と空間的尺度をもち、それぞれの界において、それなりに時空を実感としてとらえており、それぞれに特有の物理的秩序があるわけである。

 したがって、スピリットが死後の世界は地上と少しも変わりませんと言ってきても、少なくとも顕幽間の通信の可能性を信じる以上は、それを疑うべき理由はない。霊界も現実の世界である───それなりの実感を伴う生活がある───ただ尺度が異なるだけである、という結論は、これまで論証してきたとおり、形而上学的原則と完全に一致しているわけである。

 霊界が地上とまったく同じ物質界だという意見は当然のことながら受け入れられない。誰しも霊界は地上より高い世界であり、この世とは尺度が異なるはずだと感じるし、それで正しいのである。

 また、われわれは本能的に霊界を思念の勝った世界であると考えるのであるが、それは決して形体のない、思念ばかりの、時空を超越した世界だという意味ではない。そのような世界の存在は考えられないし、また、願わしいものでもない。

何となれば、この世界から突如として真新しい、地上生活とまったく関係のない世界───せっかく体験してきた生活形態や思考形式と何の係りもない世界へ連れていかれるとしたら、理屈はともかくとして、これは実に空恐ろしいことと言うほかはないからである。
℘307
 その点スピリットは、霊界も地上と同じ原理のもとに組織され、したがってそこで得られる体験も、少なくとも地球に近い層においては地上とまったく同性質のものであることを、きわめて明確に述べている。

つまりスピリットも人間の肉体に相当する身体をもち、他のスピリットや周囲の物との間は、われわれ人間と同じような相互関係で成り立っているわけである。

 ただ彼らが言うには、霊界でも上層界へ行くと霊体の持つ別の能力が開発されて、身体を介さずに直接意念の力で物を創造することが可能になるという。

 しかし、これも霊界組織の総合的な仕組みを変えるものではない。要するに霊界おいても物はあくまでも客観的存在であり、スピリットはわれわれ人間と同じく、内的生活と外的生活、主観と客観の生活を営んでいるのである。

 したがってわれわれは霊界へ行っても、まったく新しいわけのわからぬ体験に驚かされることなく、ほとんどが自分が死んだことも気づかないほど自然で抵抗のない環境を見出す。われわれが望む世界はまさにそういう世界であり、そのほうが地上生活から突如として断絶した未経験の世界へ行くよりは理に適っている。

 宇宙の原理・法則は一つのはずであり、それは地上だけでなく霊界にも適用されねばならないはずである。われわれが今地上で体験している生活の基本的形態は、霊界へ行っても変わらないはずである。

向上進化とともに新たな能力が開発されていくことであろうが、それは決して今われわれが地上で生きている基本的法則と形態を変えてしまうものではないであろう。
                  




    
 第四章 死後の生活
℘309
 肉体の死と共に地上を離れ、新しい霊的要素が一個の身体を作り上げると、あなたは意識を回復して、肉体に宿っていた時と実によく似た感じを抱く。身体に触わってみると固くて実質があり、目、耳、鼻、手足、その他あらゆる器官がそっくり具わっていて、まったく同じ要領で動いてくれる。

 すなわち足で歩き、手足や腕などが思いどおりに動かせる。目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、口でしゃべる。そして物にさわってみると、神経の作用で立派に感触を覚える。これら五感の作用でまわりの環境が地上にいた時とまったく同じ要領で感識できる。

 かくしてあなたは死後の世界が地上と殆ど同じであることを知る。ただ異なるのは身体が肉体よりやや軽い感じがすることと、意志の作用に対する反応がいくぶん速いことくらいなものである。その点を除けば大きく変わったことはない。記憶も失われていない。記憶の層がちゃんとエーテル体に残っているからである。したがって地上で記憶したことは何もかも記憶している。地上時代の人間関係や愛情もそのままである。

 物的ならびに道徳的程度も、死の過程を経ても微塵も向上しない。少なくとも霊界の最初の界層では知性も道徳性も地上時代そのままである。残忍で邪悪だった者は相変わらず残忍で邪悪であり、高潔で理知的だった人は相変わらず高潔であり理知的である。

 「樹木は、倒れたその場所に横たわる」とは旧約聖書の言葉であるが、これは死の現象を過通したあとの人間の状態にもそっくり当てはまる。
℘310

 霊界通信によると、霊界で目を覚ました霊は、まず自分がちゃんと衣服をまとっていることに気づく。これは決して奇跡ではなく、といって、放っておいても自然にそうなるというのでもない。実は縁故のある霊があらかじめ死を察知して衣服をはじめとする必需品を用意してくれているのである。そうでなければ霊は素っ裸でうろつくことになる。
 現にそういうことがままあるのである。がその場合でも本人が間もなく気づいて適当な衣服をまとう。

 やがて、まわりの状態が地上をほとんど変わらないことに気づきはじめる。樹木がある。草が生えている。花も咲いている。見なれた景色がある。家が立ち並んでいる。通りを人々が往き来している。どうみても地上そっくりである。何もかもが自分にはしっくりとくる。それというのも、親和力の法則によって、その人のその時点での状態に一番相応しい環境に置かれているのである。

 あまりに現実的で、あまりに自然であるために、地上時代にいくらかでも死後の生活についての知識を持ち合わせていた者は別として、そうでない者は自分が死んだことに気づかない。既成宗教で育ち、死後は即座に無に帰すると信じていた者は自分が死んだことがどうしても信じられない。少なくとも霊界通信はそう伝えている。
 
 そこで霊界の新入生は、そうした新しい世界についての基本的な教育を受けたあと、しばらくの間一人にされ、新しい境涯に得心がいくまで一人静かに熟考する期間が与えられる。その期間を経て新生活に十分得心がいくと、こんどは自分の思うことやってみたいと思うことを自由にやらせてもらえる。

 霊にも自主意志があり、選択の自由がある。自由を与えられた霊は、会いたかった人に会って懐かしい想い出に浸ったり、是非やりたかったことを思い切りやったり、そうこうしているうちに霊的な落ち着きが出てきて、霊界における一番相応しい環境に落着くことになる。欲望や趣味が低俗な者は低い界層へ落着き、高尚な人間はおのずと高い境涯に落ち着いていく。
℘311
 大ざっぱではあるが、以上が肉体を捨てた後の人間の辿る一般的コースである。では個々の界層についてはどうなっているのか。霊界からの通信によるとおよそ次の通りである。

 第一界、すなわち地上に一番近い界は発達段階からいうと一番低い界で、人類のうちでも邪悪で罪深い者が行く。この界の構成物質は上級界に比べて非常に粗野である。というのは、地球からの放射物質の中でも一番波長が低く精製度の低い物質によって構成されているからである。

 したがってこの界に来る人種は性質が粗野で物質的欲望が強く、喜びとすることは、ことごとく肉欲的で物質的である。が、喜びを味わうと同時に、その未発達な本性のゆえに精神的苦痛を味わうこともまた多い。また全てに無知で向上心に欠け、ある意味ではその堕落した状態に満足しているといえる。

というのは、彼らはそれ以外の生活、それよりましな生活を知らないし、求めようともしないのである。そうした生活に不満を覚え、何かそれよりましなものを求めようとする心が芽生えはじめたら、その瞬間から自動的に上の世界へ行くことになる。
 
 注意すべきことは、そうした哀れとも言うべき生活は決して何らかの罰として強制的に与えられているのではない、ということである。彼らにとっては、その程度の生活が性に合っているのである。少なくとも本性と欲望がそのままであるかぎり、彼らはその世界にいるのが一番いいのである。

 彼らにとっては、その程度の環境がしっくりくるのである。活気がなく、陰気で、光が乏しい。なぜなら霊界の光は霊的な光であり、それを感受するにはそれ相当の霊性の開発が必要だからである。また、スピリットは物質的波長を感受できないので、彼らが感受している光は、われわれが地上で受けるあの太陽の光ではない。

第一界がいかく低級とはいえ、段階的には地上よりは上である。したがって受ける光も物的太陽のそれではなく、その内面の霊的太陽の光である。
℘312
 その光線は紫外線よりもX線よりも、さらには放射線よりも波長が短い。スピリットはその光線を受けているのである。が悲しいかな、第一界及び第二界のスピリットの霊性はその霊的光線を充分に感受するまでには開発されておらず、かといって物的太陽の光線も受けられず、地上でもない、といって霊界でもない、どちらともつかない中間的環境で暮らしている。

 光といえば霊的太陽からのホンのわずかな薄明りだけである。全体に活気がなく陰気なのはそのためである。要するに霊的にも精神的にも未熟であるがために、それ相当の霊的暖かさの中で生活することになるのである。

が、これは第一界の話である。第二界になるともう少し明るさを増し、第三界になるとごく普通の明るさとなる。

 前にも引用したことのある Spirit Intercourse の中で著者のマッケンジー氏は、多くの霊界の科学者から入手した情報をもとに、地上の光を一〇〇とした場合の霊界の光の程度を数字で示している。それによると、第一界をさらに三段階に分け、最低がゼロから三〇程度、中間が三〇から六五程度、上が五〇から七〇程度としている。次に第二界は最低が七〇から八〇程度、中間が八〇から九〇程度、上が九〇から九九程度としている。そして第三界は一〇〇から一一〇程度となっている。

 第一界の住民の住むところはほとんど不毛の土地といってよいほど荒涼としていて、大自然の温もりが感じられない。無愛想な植物があるだけで、目を楽しませてくれる美しい木々や愛らしい花は一本も見当たらない。住民の霊性がそういうものを求めるまでに開発されていないために、各々の住居の内にも外にも、美しい植物や生花を飾ろうとしない。その点は地上と変わらない。
℘313
 地上と同じように彼らも一つの地域に集まって生活している。が家の造りはお粗末で手入れも悪い。それはそのままそこに住む者の精神的程度を表している。これも地上と同じであるが、霊界では住居や衣服、さらにはまわりの植物や草花までが地上よりも精神的影響を反映しやすい。

したがって霊界ではそういった身のまわりのものが、その人の程度を正直に表現していることになる。第一界の住民の家も、町も、土地も、植物も、衣服も、ことごとく不完全で愛想がなく、住民の不完全さと無愛想さを示している。


 第二界になると、不完全さと未熟さは相変わらずであるが、第一界に比べると、かなり進歩と発達のあとが窺える。まず全体に明るさが増している。が上の界に比べるとまだまだどんよりとしている。

次に第一界の無知と悪業にようやく目を覚ましはじめている。したがってまだまだ第一界時代の性格をほとんど全部持ち越してはいるが、向上心の芽生えがその性格を和らげ、さらに高い世界への向上の準備ができている。

 第一界には子供がいないという。というのは、子供の時に地上を去った霊は、第一界に来なければならないような悪徳も邪心も持ち合わせていないのである。たいていの子供は死と同時に第三界へ来る。

ここはいわゆる善良な心の持ち主───平凡人のくる世界なのである。それより以下の人間が第一界ないし第二界へ行き、平均より程度の高い善性の持ち主は第四界へと進む。が、たいていの善人は死後まず談三界へ来る。ここがいわゆる〝常夏の国〟である。

 第三界は地上そっくりで、地上を一層完成させたような世界である。地上で見られる美しいものが全部そろっており、しかも地上のそれより美しさを増している。地上にあったイヤなもの、たとえば嵐だとか酷暑、極寒、それに憎しみ等の醜い人間感情などがすべて拭い去られているのである。
℘324
 第一界と第二界が地上の悪い面だけが集められ再現されているのとは対照的に、ここでは地上の良い面ばかりが一段と磨きをかけて再現されている。それは霊性が開発され、美しいものを愛する心から生まれる当然の結果というべきである。

 この第三界で十分な修養と開発を経たスピリットは第四界へと進む。そこは知性の勝った世界であり、住民は主として哲学や芸術、科学などに勤んでいる。彼らの霊性はすでに身体的欲求の段階を超え、興味も楽しみも今や知的要素が中心となっている。

哲学者、科学者、芸術家だった人で人間的にもすぐれていた人はこの第四界に来る。まさに地上の天才の住処(すみか)である。ここで彼らは自分の宇宙観を科学的、芸術的に完成せしめる。地上の人間が受ける高等なインスピレーションは、この界ないしこの上の第五界から発せられ、第三界を通過して地上に届く。

 第四界は地上より明るいとされる第三界よりも一段と明るい。マッケンジー氏の説では地上を一〇〇として、第四界は一一〇から一二〇程度という。といって、そこの住民はそれを別段明るすぎるとは感じていない。それ相当の感受性が開発されているからである。が第三界あるいはそれ以下の界の住民にはとても耐えられない。

 それが霊界の法則なのである。上級界のスピリットにとってごく当たり前の明るさが低級界のスピリットにとっては耐えられないほど明るく感じられるのである。

 第四界の住民は強い同胞愛の中で生活している。地上でしきりに説かれながら実現できなかった同胞精神を真に実現するのがこの世界である。彼らは宇宙的視野からみて地球にとって重要なことにのみ関心を寄せ、地球にとってしか意味のない出来事には関わらない。ただ生きのびるためだけの世俗的関心事には目もくれず、ひたすらに上の世界へ向上するための修行と、下の世界の住民のよき指導者、よき援助者となることに心を配っているのである。

 第四界にもまだ地上に見るような家、草花、景色があり、目を奪うような美しい色彩をした小鳥がいる。その家の美しい造りは最高の建築美にあふれ、住民の霊性の高さを物語っている。
℘315  
 一個の家にかぎらず、一つの寺院、一本の木、一つの景色を取りあげても、それを創造した人、そしてそこに住む人の生きた性格が体現されている。しかも、あらゆるものが手を使用せず思念によって出来あがっている。この界のスピリットになると直接意念を物に作用させる能力をもっているのである。

その当然の結果として、この界のあらゆるものは、それを創造した人の心、あるいは意志が直接作用したその産物であり、その人の霊性の個性と程度とが明瞭に表現されているわけである。


 第五界は根本的には第四界と同じで、仕事も娯楽も種類が似ているが、ただ第四界より一層完成された状態になっている。マッケンジー氏の計算によると明るさは一二〇から一五〇程度である。


 第六界は第五界の完成された世界であり、同様に第七界は第六界の完成された世界である。この第七界が地球圏の最高界である。ここまで進化したスピリットには、こんどはさらに規模の大きい惑星神霊界、そして太陽神霊界へと進み、ますます宇宙的視野のもとに仕事に励むことになる。


 以上、きわめて大ざっぱではあるが、霊界の様子を各界ごとに観たのであるが、霊界を幾つに分けるかについて諸説があるように、各界の様子についても諸説があることを忘れてはならない。それもやはり界と界との間にはっきりとした境界がないことに由来すると考えてよかろう。

 しかし地球に最も近い第一界および第二界が無知で邪心の多い未発達のスピリットの集まるところであること、第三界がごく平凡な善人の行くところであること、などは全ての通信の一致するところで、霊界通信もその大半は第三界から送られているのである。

  それより上の界は要するに第三界のスピリットより向上進化したスピリットが行くわけであるが、そういう上級界のことは地上の人間にとって緊急の関心事ではなく、しかも第三界までのスピリットは実は上級界についての正確な知識をもち合わせないということもあって、第三界までの、いわば下層界の情報に比べて、上層界についての情報ははるかに少ない。


 概説はこの程度にして、続いて実際にそこに生活しているスピリットからの各界ごとの細かい様子を紹介してみよう。
 まず最初は前にも紹介したことのある霊
カーライル・ピーターシリアの 『霊界からの便り』 で、父親のフランツがこう述べている。


「多分お前はわれわれ夫婦がいま第何界にいるか知りたいであろう。そうだな、二人とも第一界に住んだことはない。死んでこちらへ来たら、まず第三界へ連れてこられた。地上時代の私はその程度の人間だったというわけだ。死んだ時の私が決して低級で不道徳で堕落した人間でなかったことだけは確かで、いろいろと才能もあったし、相当な知識も身につけていたつもりだ。ただ第三界を超えるまでには至っていなかった。

今は第四界にいるが、行こうと思えば上でも下でも行ってみることだけはできる。それはどの界のスピリットも同じだ。自由に旅をして知識を獲得することがなければ、せっかく不自由な肉体を棄てた甲斐がないというものだ。

 第一界は悪徳と堕落と不潔以外にこれといったものが何もないところだ。が高級界のスピリットはひっきりなしに訪れてはそのいわば無知の牢獄に閉じ込められたスピリットを救わなければならない。(中略)どちらかといえば女性より男性と若者が多い。

が若い者がいつまでもこの界に留まることはない。高級霊がその若者の向上心という芽をうまく捕えて、知識と光明を注ぎ込む。すると間もなく第一界から連れ出されて、善なるものばかりと接触する学校へあずけられることになる。

 ああ、仕事か。仕事はみんな持ってる。遊んでなんかいられない。現に誰一人としてブラブラしている者はいない。第二界は圧倒的に学校と子供の多いところだ。どこへ行っても学校があり子供がいる。が、それはどの界でも同じで、第七界でも子供はいる。高級霊のもつ強烈な愛が、縁のある子供を引き寄せるからだ。

 第一界に長居するものはほとんどいない。と言うのは、あとからあとから送られてくる地球からの新入者の数が大変なので、高級霊が、燃えさかる炎の中から燃え木を取り出すように、必死になって救出に当っているのである。

 飲んだくれがいる。麻薬患者がいる。放蕩者がいる。荒くれ者がいる。ガリガリ亡者がいる。殺人犯がいる。強姦者がいる。強盗がいる。詐欺師がいる。堕落しきった若者がいる。極悪非道の悪人がいる。そして、意外に多いのが、地上で大金持ちだったいわゆる富豪である。とくに他人を食いものにして身を太らせた者が多い。(中略)、地上の未開人もこの界に来る。

 さて次に景色のことが知りたいであろう。第一界の景色は地上と大して差はない。というのも、地上の景色の中でも特に無気味なもの、ゴミゴミしたもの、殺伐としたものが一旦この界に留まり、少しでも秩序と美しさを加え、やがてそれに相応しいスピリットと共に第二界へと送られていく。ジャングルがそれであり、藪がそれである。

荒涼とした平原がそれであり、砂漠がそれである。岩だらけの山がそれであり、ドロ
水のような急流がそれである。

そして、不審に思われるかも知れないが、古色蒼然たる修道院を見かけることもある。理性に耳を傾けず、真理の光を受け入れようとしない、頑固な修道士や牧師がそこで旧態依然たる生活を続けているのだ。(中略)

 魂というものは、その霊性に相応しいものしか鑑識しないものだ。規律正しい、美しい魂は、規律正しい美しい界に感応し、堕落した低級な魂は最低界に感応し、それ相当の生活を送るのである。

 もう一つ付け加えたいのは、そうした程度の低いスピリットは姿格好まで似つかわしいものになっているということだ。(中略)第一界では、ありとあらゆる種類の〝恐ろしいこと〟が繰り広げられている。もちろん生命が奪われる(殺される)ことはない。が考えてもみるがよい。

地上で起きる恐ろしいこと、それを行なう恐ろしい人々がそっくりこの界に集まっているのだ。恐ろしいことがないほうがどうかしている。そういう連中が不潔と,ボロと、むさくるしさを撒き散らすのである。家もその品性によく似合っている。もっともこの界のスピリットには、まだ簡単な小屋程度のものすら自分で作る創造力もなく、作ってみたいという意欲すらもちあわせないので、家らしい家をもたない連中がザラにいる。

そんな連中は善性と叡智を蓄えた上級界のスピリットの家にはとても入れない。が、そんな連中でも徐々にではあるが、一人また一人と、向上していくものなのだ。いつまでたっても救えぬ人間、というものはいないのである。



 引き続いて第三界の生活の様子をこう語る。


 「地上界は天上界の写しである。地上で見られるものは全部天上界でも見られると信じてもらって差し支えない。ただそれが遥かに荘厳で崇高でスケールが大きいのである。(中略) われわれは、こちらに来て、最低界は例外として、衣服をまとわぬ霊にただの一度も出会ったことがない。

霊格が高ければ高いほど、その衣服もまた美しい。衣服そのものが愛と真実と叡智の表現にほかならないからである。では具体的にどんなものをまとっているか、とくに女性はどんなフアッションになっているか、その辺が知りたいであろう。

  衣服は柔らかく、すらりと垂れさがり、身体の動きにつれて、得も言われぬ優雅なたなびきを見せる。しかも同じ色の衣服をまとった者は二人と見当たらない。色も形も、その霊の霊格の高さと個性の表われである。まったく同じ霊というのはあり得ないから、同じ衣服をまとっている霊は二人といない理屈である。

が、それでいて皆それぞれに優雅なのである。(中略)地上の霊能者に姿を見せる時は地上で着なれた服装をまとう。それは自分であることを知ってもらうために一時的に着るだけであって、用事が終わると脱ぎすてる。

 女性はどのようなへアスタイルをしているかということだが、天使はみなあくまでも女性らしく、肩まで垂れた優雅な髪をしている。

 天使にも履きものがあるかとの質問だが、彼らは柔らかいサンダルのようなものをつけている。たいていバラ色をしており、それを同じくバラ色をした柔らかなリボンで締めている。もっとも、いつもそうだというのではない。時には天使も一つのことに熱中して我を忘れていることがある。そんな時は一つの光のかたまりとなって見える。

やがて我に帰り、自分が見られていたことに気づくと、ハットした表情で、美しい天使のまなざしで見返すことがある。(中略)この界に住む霊のまとえる衣服は目もくらまんばかりの輝きをしており、仮に地上の人間がその目で見ることを得たとしたら、おそらく魂が肉体に止まっていられまい、と想像される。

 次は霊界の住居の話に進もう。住む家がないということはいわば霊界の浮浪者であることを意味し、それは最低界においてのみ見られることである。(中略)男性と女性が正しく結ばれて、まず最初に考えることは、我家をこしらえることである。つまり自分たちが住み、客を迎え、時には衆目から逃れる場所であり、休息し、元気を回復する場所でもあり、美を創造する場所でもある。

地上の人間とまったく同じ意味において、高級霊にも家は必要なのである。ただその荘厳さと気高さのスケールが違う。地上の家は天界の家を小さく、そしてみすぼらしくしたようなものである。人間が太陽の炎熱から逃れたくなるように、天使にも時として天界の強烈な光がまぶしくて耐え切れなくなる時があるものである。

そんな時、家がよき退避場所となる。このように霊界においても家は絶対に必要であり、家なしではやっていけないし、事実、家を持たぬ者はいない。」
                                               ("
Letters From the Spirit World”  by Carlyle Petersilea)


また霊界の〝光〟と〝闇〟については───

 「こちらの光は物的太陽の光ではなく、X線と同種のものである。もちろん太陽の存在は意識的にわかる。それは地球の存在、そして全惑星の存在が意識的にわかるのと同じことである。霊眼で見ることもできる。がその光は霊界は照らさない。太陽の光も惑星の光もキメが荒くて、われわれの霊眼には薄ぼんやりとしか映らない。霊界の光はあらゆる光が純化されたもの───キメ細かい内的な光といってよいかも知れない。」

 「そちら(上級界)には闇がありますか」

 「無い。永遠なる一日である。ただ明るさにも程度の差があり、自分でこしらえる暗さというものがある。進化した霊にはほとんど暗さを必要としないが、未発達霊は多かれ少なかれ暗さを必要とする。それで一時的に光を遮る方法を心得ているのだ。」(同前)

 『ベールの彼方の生活』 の中で著者の母親と名のる霊が死後の環境と仕事について次のように述べている。(断片的に抄出する。)

 「こちらでの仕事は奉仕する相手の必要性によっていろいろと異なります。ほんとにいろいろとあるのですが、いずれも地上の同胞の進化向上に向けられている点は同じです。生活しているところは明るく、そして美しく、私どもより一段と高い界から先輩の霊が訪れてはいろいろと励ましてくださいます。」

 「そこは地上を理想的に仕上げたようなところです。とは言え、こちらにはいわゆる四次元というものが確かに存在しますから、なかなかうまく説明できません。丘があり小川があり森があり、家もあります。それはみな先輩がこしらえてくださったものもあります」

 「家は内も外も立派に設備が整っております。浴室もあります。音楽を聴く部屋もあります。私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする装置もあります。全体としては大変な広さになります。私はいま〝家〟と呼びましたが、地上の家をいくつかつなぎ合わせたようなもので、一つの家が一つの仕事に割り当てられ、段階的に一つになっているのです。

一つ一つの家から何かを学びながら進んでいくのです。地上の人にはちょっと理解することも信じることもできないでしょうから、そこでもっと簡単なことに話題を変えましょう。」

 「敷地は実に広大です。が、その敷地内に存在するものはすべてそこの建物と何らかの関連性、一種の共鳴関係があるのです。たとえば樹木は正真正銘の樹木で、地上の樹木と同じように生長しますが、それがそこの建物と密接につながっており、その樹木の種類が異なれば共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。それらが驚異的な知恵によって創造され、その効果もまた見事の一語につきます。

℘322
 「実は同じことが地上にも言えるのです。ただバイブレーションが鈍重であるために共鳴関係がはっきりせず、したがって効果がよくわからないだけです。でも関係は確かに存在します。たとえば花や植木を育てるのが特別上手な人がいるでしょう。

また同じ切り花を生けても、不思議に長もちする家───つまり家族───というのがあるものです。荒けずりですが全て同じなのです。こちらでは影響が強力で反応が鋭いということです。

 「大気もまた、植物や建物によって影響されます。なぜといえば、繰り返すようですが、こちらの建物は機械的に組み立てられたのではなくて、その界に住む高級霊の意念によって創作されたものであり、したがって強力な創造力の産物であるからです。」

 「その大気は今度はわたしたち住民の衣服に影響を及ぼし、生地や色合いを変化させます。(中略)またその敷地内のどこにいるかによって色あいが変化するのです。いろいろ種類の違った花が咲き乱れる小道や樹木の植え方の違う場所を歩くと、自分の衣服の色あいが変わっていくのがわかって、とても面白くもあり勉強にもなり、そしてまた美しくもあります。」
                                                                               (Vol. I The lowlands of Heaven


 同書の中でカスリーンという女性霊がいわゆる〝常夏の国〟の小川の情景を次のように叙述している。(カスリーンは霊界の霊媒で、高級霊からの通信の取り次ぎ役である。したがって通信の内容はカスリーン自身のものではなく高級霊から送られたものである。)

 「私たちはその敷地と庭園をあとにして、広々とした田園地帯に続く長い並木道を行きます。行きながら気づいたことは、その道は一直線に走っているのではなく、そこを通って海に注ぐ小川のある谷に沿っているのです。では先に進む前に、ここでその小川のもつ幾つかの性格をご説明しましょう。」
℘323  
 「〝生命の水〟のことをお読みになったことがあると思いますが、これは比喩ではなく文字どおり生命の水なのです。

というのは、こちらの世界の川には地上の川にない成分が含まれていて、一つ一つの川が他の川にない独特の成分を含んでい
るのです。川にせよ泉にせよ湖にせよ、水は高級霊(自然霊)によって管理されており、精気と啓発の効力が賦与されているのです。霊達はこの水を浴びることによって精気を吸収し啓発されていくのです。」(中略)

 「いま私どもが歩いているそばを流れている川の主成分は〝平安〟です。この川のそばを通る人は、地上の人には理解の遠く及ばない方法で、その平安の成分を吸収するのです。川面の色彩、色あい、流れのざわめき、両岸の植物、岩石や土手の形や様子、それらがみな平安を与えるように構成されているのです。」(中略)

 「さらにまた、ここではすべての存在が滲み入るような個性をもっていることがわかります。一つ一つの森、一つ一つの木立、一本一本の木、そのほか湖も小川も草原も花も家も、ことごとく滲み入るような個性をもっています。それ自体は人格的存在ではないのですが、その存在、その属性、その成分は、自然界のたゆまぬ意志の働きの結果なのです。

ですから、それと接触する人々が摂取するのはその自然霊の個性であり、また、その人々の内在する個性の感受性の度合いによって、その摂取量も違ってくるわけです。たとえば樹木に対して特に感受性の強い人もおれば、小川に対して強い人もいるといった具合です。

しかし、やはり誰しも建物に対して一ばん反応を示すようです。特に、中に入った時がそうです。それというのも、自然霊というのは人間とは少しかけ離れた存在ですが、建物の建造に当たる霊は、人間と同じ系列の高級霊であるという点で、質、程度ともに自然霊ほど遠くかけ離れた存在ではないからです。」
                                                                                        (Vol. III The Ministry of Heaven

 p324
 以上紹介した幾つかの霊界通信を一応霊界の一般的概念を正しく伝えるものと諒解していただいて、続いて霊界の個々の事物について細かく検討してみたいと思う。

 第一に取りあげたいのが家の問題である。その実質と建築方法について検討してみよう。

 紹介した霊界通信を読めばわかるように、霊界の家はその住民の霊的な地位、いわゆる霊格に似合ったものになっている。低い界の家はその程度に似合った非常に貧弱な様相をしており、一方上層界に行くと精神の高さ、豊かさ、美しさを反映して見事な建築美を見せている。が、われわれが関心をもつのは家を建造する方法とその材料の問題である。

 まず材料の問題であるが、これは、その界の大気中に含まれている地球からの放射物質を使用すると言われる。
 前にも紹介したとおり霊界の大気中には地球からのあらゆる放射物質が充満しており、その抽出法を心得ている霊が抽出して材料に使用するわけである。

大気中から素材を摂取すると聞くと奇異な感じがするが、よく考えてみると少しも不思議ではないことがわかる。

 というのは、地球上の生物も大気中からいろんな成分を摂取しているのである。樹木や草はむろんのこと、動物や人間もある程度大気中から養分を摂取し組織の中に取り入れている。ことに植物類は一〇〇パーセントそうである。そして人間も動物も主要成分は大気中から摂取している。

 すなわち消化の段階において直接大気中から摂取した植物性成分を吸収しているのである。結局われわれ人間や動植物が地球上で無意識のうちに本能的に行っていることを、霊界では知識と能力を使って行ない、意念の力で形体を与えているというわけである。

 その摂取と建造の過程は意念の統一または想像力によって行なわれるという。つまり霊が心の中で自分の望むイメージを強く念じて放射する。するとそのイメージが自動的に大気中から必要成分を吸収し組織に取り入れる。イメージが鋳型のような働きをするわけである。
℘325 
 このように霊魂は自分の思念や概念を客観的存在として、それに外形と実質とを賦与することができる。が、だからといって霊魂が思念したことがことごとく客観的存在となると思うのは間違いである。あくまでもそうしようと念じた時、すなわち客観的存在として創造しようと真剣に念じた場合にかぎられるのである。

 それには無論それ相当の努力、一般的思念とは別の、慎重な思念操作を必要とする。普通一般の思念活動においては、われわれ人間の思念と同じように決して外形化しない。つまり客観的存在として目に見えるようにはならない。この二つの思考活動、すなわち一般的思念活動と創造を目的とした意識的思念活動は、われわれ人間の場合と同様まったく別の行為なのである。

 ロングリー夫人の 『霊の世界』 の中にはスピリットが思念によって物を拵えていく様子が描かれている。次に紹介する部分は少女霊ナニーが霊界でその方法を教わっている様子を述べている。


 「ナニーは霊界の学園生活のすばらしさをあれこれ例をあげて語ったのち、こんどは授業の方法を話してくれた。

授業は主観と客観の双方で行なわれるという。生徒はまず心の中に何を作るかという一つの意図を明確にもち、それに意念を集中し、それから外界に産出する。おしゃべりのナニーが言う。〝ユリでもバラでも作れるわ。でも最初は必ず心の中に描いてそれをじっと見つめるの。

それから今度はそれに精神を集中し、他のことは一切考えないようにするの。このためにはみんなバイブレーションについて勉強して、どうすればバラやユリのバイブレーションと一体になれるか、そして、どうすれば大気中からその成分を取り出すことができるかを知らなくてはなりません。
℘326
先生はそれをご自分で実際にやって見せてくれます。大気中から露のようなものをいっぱい取り寄せて、手でこねているうちにだんだん濃くなって、しっかりした物質になります。はじめは蒸気みたいなのが雪のようになってきて、そのうち物質らしくなります。先生はそれにご自分の思っている形を与えるのですけど、同時に先生はそれに息を吹きかけて、お好きな色、ピンクならピンク、赤なら赤、そのほか何でも好みの色を出します。

最初から最後まで先生は体裁やキメ、色あいなどに気を配りながら、形を作り上げていきます。呼吸によって色と香りが増すのです。こうしたことを先生はわずか一、二分でやってしまいます。出来あがった花は本物の花と見わけがつかないくらい生き生きとしています。

わたしたち生徒は以上のようなことを全部習わなくてはなりません、でも面白いわ。遊びみたいだし、ときどきこっけいなこともあるのヨ。それはね、わたしたちはまだバラとかユリをはじめから終わりまで念じ続けることができなくて、途中で何だったか忘れてしまうの。

するとこわれちゃったり変な格好になったり、さっと消えてなくなったりするの。すると先生が、意念の集中が足りないからですヨ、とおっしゃいます。〟」

ナニーは更に」家屋や神殿の建造についてこう述べる。

 「〝家とか神殿、そのほかどんな建造物でも、みなスピリットがこしらえます。一人ひとりが自分のもちまえをフルに発揮して、大気中から精妙な霊素やエネルギーを採って仕事に使います。出来あがった建造物の出来ぐあいや有用性は仕事にたずさわったスピリットの念力、あるいは集中力と大いに関係があります。

原料を大気や人間などから採取する以外にまだ方法はあります。(中略)スピリットがおっしゃるには、人間が物をこしらえる場合にもまず頭の中にイメージを浮かべるのと同じで、スピリットもまず頭の中にイメージをこしらえます。

ただ高級霊になるとそれを念力によって外界に出して物質化することができるというわけです。したがってたとえば彫刻家であればまずモデルを頭に浮かべて、それを外部で肉付けしていくのですが、その操作をぜんぶ意念の力でやってしまうのです。それでいて出来あがった作品は持続性と実質性が具わっているのです。」
                                                                                   (“The Spirit World” by Mrs. Longley)


  オーエン氏の自動書記通信 『ベールの彼方の生活』 の中にも建築に関する叙述がある。通信霊の一人であるアーネルが次のように綴っている。

 「その建物はこれまでゆっくりと工事が進められ、今まさに完成に近づいている。ではこれからまずその建築に使われている材料についてできるだけわかりやすく説明し、続いてその用途について述べたいと思う。

 「材料は色も固さも種々さまざまである。といっても、レンガやブロックを積み上げていくのではなく、全体が一つになっている。吾々は設計図ができあがるとあらかじめ選定しておいた場所へ行った。そこは第五界の低地と高地の中間部に位置する台地であった。

 「念のためであるが、霊界の界層の数については、ザブディエル様が定められた線に沿って記述している。通信を送るスピリットによってそれぞれ数え方が異なるものである。貴殿にとってはこのほうが親しみ易かろうと思って第五界(ザブディエルは霊界を十四界に分けている。スピリチュアリズムで一般的となっている七界の分け方にしたがえば第三界に相当する。編者)と言ったまでである。(中略)

 「そこで吾々は一ヵ所に集合し、お互いに異なる個性を一つの仕事に調和させるために精神を統一したのち、まず基礎工事に意念を集中した。これは、創造的思念の流れを下から上へ向けて徐々に、そしてゆっくりと放射していく。一番上はドーム形の屋根になっている。

(中略)第一段階はざっと外形だけを整える作業なので、そのままでは脆弱で永続性も十分でない。そこで一旦休憩したのち、前と同じ要領で基礎から始まって一本一本の柱、門、塔、といった順序で進め、最後はドームに至るまで再度思念を放射して強化していく。

これを何度も繰り返した。かくして外形が出来あがった。残る仕事は色づけと磨き上げである。それが終わるといよいよ全体をひきしめる作業を行なう。それで全てが終わり、永久に変化することのない建物が出来上がる。

 「完成まで何度もそこへ通った。エネルギーを補給しては作業を再開するということを繰り返したのであるが、一番楽しく幸せだったのは〝美〟の作業を行った時であった。というのは、この建物は神殿で、全体の容姿と言い大きさと言いデザインといい、すべてが豪華で、その美しさは私たちが心を込めて作業に打ち込むごとに増していったのである。霊界の建物がみなこれと同じ要領で作られるとは限らぬ。

方法は他にもいろいろある。(中略)こうした建物は、それが存続する限りは、その創造者である吾々に機能上の責任がある。それはちょうど肉体の機能が寝ても覚めてもそれに宿る類魂次第であるのと同じことである。こしらえた建物は霊的感覚を通して常に吾々の管理下にある。       
                                                             (Vol. III The Ministry of Heaven


  右の通信の中で、神殿の材料は石とかブロックの積み重ねではなくて、全体が一つに繋がったものだと述べているが、これは他の通信を見ると必ずしも一般的では無いようである。たいていはやはり地上の建物と同じ要領で石とかブロックを使うようであり、とくに低級界になると手を使うこともあるようである。

つまり低級界では石やブロックを使い、手もかなり使用する。それが上級界になるとすべてが思念によって行われ、したがってこまぎれの材料は必要でなくなる、というのが、一般的傾向ということになりそうである。

 もっとも、低級界で石やブロックを使って手仕事をやるといっても、全体の形体や容姿、性格といったものは、やはり、それに携わるスピリットの思念や感情が大きく影響することは言うまでもない。

そしてその素材は大なり小なり感受性が強いので、そこに住まうスピリットの思想・感情の影響を受けやすく、しばらくするうちに家そのものがそのスピリットの本性の表現となってしまう。
329
 第三界までの建造物に使用される石材やブロック類は、創造的思念を働かせなくても、すでに出来あがったもの、つまり既製品を取り寄せることができるようである。

つまりその道の専門家がいて、特殊な機械によって大気中から必要成分を採取し、それを固めてレンガなりブロックなりを拵えているらしいのであるが、その辺のことがマッケンジー氏の『霊との交わり』の中に詳しく出ている。通信は科学者グループによるものである。



 「建材として使用される材料は石切り場から切り出されるのでもなければ樹木を切り倒して製材するわけでもない。特殊な装置を使って大気中から採取するのである。

その装置は専門の科学者と技術者が拵えたものであるが、高速で回転し、大気中から各種の物質の分子を採取して、それを化合させて布やガラス、レンガ、石、木材、金属などに似た物質を合成する。


 その装置は外観は単純そうに見えるが、内部はきわめて複雑に出来ていて、一見したところ発電機を思い起させる。その中枢部に当たるはずみ車が動くと、そこへ霧のようなものが引き寄せられる。そして近づくにつれて濃くなり、ついにははずみ車の中に吸い込まれる。吸い込まれてからホッパー (じょうご状の吐き出し口──
すぐ下の付いている) から製品となって出てくるまでの過程は、あくまで物理学的法則に従って行われている。

 「住居は第一界を除くすべての界で建設される。第一界は堕落した人間の集まるところで、家など自分で作れるはずはないのである。それから、地上から霊界入りしたばかりの霊にもすぐには住居は作れない。どの界に落着くかまだ決まっておらず、どんどん高い界へ行く人もいるのである。

新しく来たる霊は性格や趣向に合わせて適当な住居が与えられるわけであるが、どうしても適切なものが見当たらない時は特別に建築してもらえる(編者注──デコーバン女史の 『数々の証人』 の中で女史の姉がこう語っている。〝ここへ来る人と先へ行く人とが大勢いて混雑することがあります。そこで取りあえず先住者が残していった古い住居にひとまず落着くことにもなります。

地上で都会へ出て来た人が借家に住むような調子で、放置されたままになっている家を使用するわけですが、霊的に成長すれば自分自身で上等の住居をこしらえることができるようになります。〟 またその放置された住居について〝それはれっきとした物質的な住居です。地上的イメージが意識にこびりついている物質性の強い霊魂にはそれが必要なのです。″)


わがままは一切聞いてもらえない。また、そんなわがままを言う者もいない但し第一界を除いての話である。第一界では高級霊が指導に当たる。


 「第三界およびそれより上の界になると、それはそれは見事な神殿が見られる。その荘厳さと美しさは第四界、第五界、第六界、第七界と界を追うごとに増していく。上層界の神殿になると宝石に似た物質でできていて、その輝きは遠くまで届くので、はるか遠い彼方からでも窺うことができるのである。」    
                                                          (
Spirit Intercourse” by J. H. McKenzie
   

  これをオリバー・ロッジの 『レイモンド』 の中の記述と比較してみると興味ぶかい。ロッジ卿の子息であるレイモンドが語っているのであるが、例によって霊媒(レナルド夫人)の背後霊であるフィーダがレイモンドの言葉を取り次いだもので、時に一人称(私)で言ったり三人称(彼)で言ったりしている。


ロッジ 「(レイモンドのことについてフィーダに向かって)彼はまだあの小さな家に住んでいるのかな。」
フィーダ 「ええ、そうですとも。住み心地はいいようよ。」
℘331
ロッジ 「彼はレンガで出来ていると言っていたが・・・・・・どうもそこのところが理解できないな。」

フィーダ 「(レイモンドに代わって)理解できないでしょうね。ちょっと説明が難しいんだけど、要するに原子の問題です。彼は───(人称が変わっている)───原子の原理について何か言ってます。その道の専門家になると大気中からある種の不安定な原子を引き寄せることが出来るらしくて、それが、ある装置に近づくにつれて結晶していくらしいの。

フィーダが見たのは車輪のようなもので、電気仕掛けのようにぐるぐる回っていて、その車輪のへりから何やら音を立てながら火花のようなものが出て、それが下についている長いものの中へ雨だれのように落ちて行くんです。その長いものをレイモンドはアキュミュレータ Accumulator と呼んでます(マッケンジーがホッパーと呼んでいるもの───編者)。

出てくるものはレンガと呼ぶよりほかに呼びようがないけど、正式に何と呼ぶかは難しいです。(レイモンドに代わる)いずれこちらへお出でになればご案内します。そうすれば〝ほう、なるほどなあ〟と感心されるに違いありません。こちらの物体にもある実感があるのです。

といって、地上の物体と同じ重さがあるという意味じゃありませんよ。だってそんなはずがないでしょ。ちょっと突いたり蹴ったりしても、地上の物体ほど遠くへ飛びません。われわれの身体が軽いからです。

あの装置(アキュミュレータ)からでてくるものが一体何なのか、僕にはわかりません。もともと僕はレンガの製造にはあまり興味がないのですが、どうやって出来あがるかは一目瞭然、よくわかりますよ。」                                                                                                                           (”Raymond” by Oliver Lodge)



 住居の問題はこれくらいにしておこう。いくつか紹介した霊界通信から得た結論は、要するに低級界では地上と同じように手仕事が主体で、しかも既成の材料を使用する。それが上級界へ行くにつれて思念による直接の創造活動となり、材料も大気中から直接採取するというのである。

℘332
 では次に衣服の問題に移ろう。霊界ではどんな服装をしているのであろうか。霊信によると死後の身体には肉体が具えていた器官が全部具わっているという。そうなると、理屈はともかくとして、〝つつましさ〟の感覚だけから言っても、何かをまとっていなくてはならないであろう。

 衣服というのはいわば第二のわが身であって、上級界へ行っても不可欠のもののようである。そして衣服がスピリットの内的属性を写し出す鏡のようなもので、低級界でも同じである。

 その衣服はきわめて感度の高い素材で出来ていて、着用しているスピリットの思想や情念がすぐさま表われる。上級界へ行くほどその反応が素早いために、内的変化だけでなく外部からの刺激も受けて、その色合いや色彩が刻一刻変化しているという。

 このように、何にもまして衣服にスピリットの本性がよく表われる。そしてその素材はスピリット自身からの放射物質によって絶え間なく補充されている。つまり放射物質が衣服のキメを埋めていくので、衣服がまるで生き物のように生気を帯びてくる。霊信のなかでよく、衣服は自然に出来上がってくるとか、霊体と精神の放射物から出来あがっている、とか述べているのはそのためである。

 また、霊界の衣服は一度こしらえて身に付けると二度と着替えたり作り変えたりすることはないとも言う。それは今も述べたように、着用しているスピリットから出る放射物質の生命素を絶え間なく補充されているからであり、少なくとも低級界を除いては、ほころびたり古ぼけたりすることもなければ、したがって繕ったりする必要もない。

それゆえスピリットにとっては、何らかの理由で意識的に着替えたりする場合を除けば、衣服は一着あればこと足りるわけである。
℘333
 衣服の素材は住居の場合と同じ方法で大気中から採取するという。つまり自分の創造力によって直接大気中から採取して好きなものをこしらえることができる。ロングリー女史の『霊の世界』に出てくる少女霊ナニーが大気中から素材を集めて、レースなどの美しい生地を編む話をしている。

このようにスピリットもその気になればわれわれと同じく自分で衣服を作ることができるのであるが、同じくわれわれが自分で作らずに他人に作ってもらうように、スピリットもたいていは自分で作らずに、それを専門とする一団のスピリットに依頼するという。

霊界入りするスピリットはその瞬間から衣服をまとう必要があるから、それはあらかじめ用意されているに相違ないのである。


 衣服の問題はこのくらいにして、次に霊界の仕事と結婚の問題を検討してみたいと思う。

 霊界の仕事については、これまで紹介してきた霊信をお読みいただければ、およその見当はつくのではないかと思われる。すなわち上級界へ行くと地上で携わっていた仕事や趣味に精を出すようである。もちろん相変わらずその道に興味をもち、あるいはその道で活躍する場があればの話であるが、興味が変われば当然別の仕事につくことになる。

 地上で軍医だった人からの霊信をまとめた ”Gone West”  by  J.S.M. Ward (『死後の世界』浅野和?三郎訳)という著者の中には、その軍医が霊界へ行ってからも第一次大戦で戦死して次々と霊界入りしてくるスピリットの受け入れと世話に携わる場面が出ている。

そのスピリットたちは自分が今一体どこにいるかが判らず、ましてや自分が死んだことに気づかずに、手のほどこしようもないほど取り乱し、地上の負傷兵と同じように看護を必要としたのだった。

 画家とか音楽家、哲学者、政治家だった人は大体霊界でもその道に携わり、一層勉強に励むようである。ヘア教授(前出)の父親は次のように述べている。

℘334  
 「地上の人は死後の世界では地上でやっていた研究をやめてしまうと考えがちだが、そんなことはない。もしもそうだとしたら、われわれスピリットには理性がなく、したがってお前たちより劣等の存在であることになってしまう。が実際はその正反対で、知識も叡智もますます増えるばかりで、おそらく永遠に進歩し続けることであろう。(中略)

 「われわれの科学的研究や調査は大自然のあらゆる現象、天界および地球の全ての不思議、要するに人智の及ぶ全てのものに関連している(中略)が、スピリットの全てがそうなのではない。そういう探求心をもつまでに進歩しないスピリットが無数にいるのだ。それはそうであろう。

お前も知っての通り死後の世界は各界がいわば宇宙という広大な学校の学部のようなものなのだ。そこで精神の修養と民族の発展のためにそれぞれに勉強しているのだ。

それは一直線に成しとげられるものではない。渦巻き状にグルグルとまわり道をしながら少しずつ向上していくのである。地上はそのスタートであり、第七界がゴールである。ゴールとは言っても地球圏のゴールということであって、その先には地球圏を超えた別の天界が待っているのである。」
                                                                           ("Spirit Manifestations" by Prof. Hare)


 霊界の住民にとっての一番の関心事は地上の人類の幸福と進歩である。高いところから見下ろす位置にいるために当然人間の思想や行為を操ることができる。事実それをかなりの程度までやっているようである。立派なアイディアやインスピレーション、あるいは歴史の流れを変えるような大きな出来事などは、みな霊界に源を発しているという。

 哲学者もそのヒント(思想そのものではない)を霊界の哲学者から得る。音楽家はすぐれたメロディを霊界の音楽家から授かる。政治家はその政策上のヒントを霊界の政治家から得る。偉大なる科学者や発明家もその発明と発見のヒントを霊界から得ている。
    
 要するに、全体としての人類の進歩は大体において霊界の先輩霊によって計画され指導されているというのである。

335
   さて、われわれの次の関心事は霊界における結婚の問題である。
 結論から言えば霊界にも結婚というしきたりはある。ただ地上と違う点は、決して再婚ということがないこと、そして(結婚の)相手は霊的親和体(アフィニテイ)───いわば自分自身の霊的半分であるという点である。

 これを理論的に説明すると、人間がこの世に生を享ける前は両性を具え、一つの玉の状態で存在していた。つまり男性的性質と女性的性質とが渾然一体となっていた。それが地上に生まれる時期、生物学的に言えば人間の胎児の中に入る時期が訪れると、その両性の玉が陰と陽の二つに分かれ、それぞれに独立した存在となる。そしてそれが胎児の中枢に宿り人間的個性を形成していくことになる、というのである。

 では何の目的で地上に来るかと言えば、スピリチュアリズムの説によれば、潜在的に無限の可能性を持つ霊魂が肉体という有限の身体に宿ることによって善と悪、喜びと悲しみを体験し、そうすることによって自己の潜在的霊性に目覚め、そのすばらしさを認識するためである。

そのためには一体であるよりも陰陽二元にわかれた方がより有効である。が元来が一体の関係にある両者であるから、地上生活においても互いに一体になりたいという欲求が働く。地上の結婚も根源的にはその欲求の結果であるといえる。


 ただ地上では肉体がその根源的な感覚を鈍らせ、動物界から受け継いだ性的欲求が直接の誘因となる。ために真の相手と結婚できないことのほうが多いということになる。それが霊界に来ると鋭い霊覚によって改めて自分の真の相手を求める欲求を自覚し、こんどこそ正しい相手と一体になるのである。(この一体化は二つの霊が個物的存在を失って一つになるという意味ではない。

各々はあくまでも別個の個性と性格と身体を留めている。またその一体化は必ずしも霊界へ来てすぐに行われるとはかぎらない。二元が一元となる準備が整うまでには長い年月、時には何千年何万年とかかることもある、という。編者)

℘336

 以上が霊的結婚のあらましである。いわば霊的再会である。これは地上でも絶無とはいえないが、特別な事情でぜひそうしなければならない場合にかぎられる。なるほど地上の結婚の生態をみれば、真実の霊的誘因によるものはほとんどないのが頷けるであろう。

 右の霊的再会の理論が正しいか否かは別として、霊界にも結婚というものがあること自体は全ての通信の認めるところで、それを否定するものは一つも見当たらない。だからといって霊界入りしたらすぐに相手を求め合い、そして再会するというのではない。霊魂によっては何百年、何千年も霊界にあってなお結婚していない例が沢山ある。

 いずれにせよ霊魂の結婚の目的はあくまでも知的ならびに霊的な融合であり結びつきである。地上のような肉体的交渉とそれに伴う出産というようなものはない。

 では霊界通信の中から結婚について述べている箇所を紹介してみよう。最初はピーブルズ博士の 『霊魂不滅と死後の仕事』 からで、通信霊のアーロン・ナイトは二百年余り前に英国のヨークシャー州で生活したことのある人物である。

 問 霊界での結婚及び男女関係は如何でしょうか。

 答 これまで度々述べてきた通り、こちらの世界はほとんど一〇〇パーセント
地上の写しであり、したがって社会的並びに家族的関係も非常によく似ています。結婚の幸福も霊界の数多い幸福の一つに数えられます。ただ異なるのは、霊界の結婚は儀式を伴わず、また生殖や性欲を目的としたものではなく、あくまでも社会的融合と霊的活動の促進を目的としたものだということです。

互いのもつ強烈な愛、その愛をのぞかせる目と目のふれ合い、あるいはそっと手と手をふれ合う、ただそれだけで霊界の夫婦は法悦に浸ることができると言われます。

私は地上では独身だったし、今でもそうです。が極微の単細胞生物から神々しい天使に至るまでの、宇宙間の全ての生物は、両極的存在です。そして私の信じるところでは、結局男性と女性はそれぞれに宇宙の半球を意味し、陰極および陽極として、その悟りの程度と愛の関係に応じて、究極において結び合うように意図されているのだと思うのです。利己的な愛にもとづくものは遅かれ早かれ別れが訪れます。が地上において真実の愛によって結ばれたカップルは、霊的要素が勝ったものであれば霊界でも再び結ばれます。                               
                               
(“Immortality and Our Employments Hereafter”  by Dr. J. M. Peebles



 次にヘア教授の著書から紹介しよう。通信霊は例によって父親のロバート・ヘアである。

 「結婚の問題だが、私の観るところでは、地上では二人の男女による契約という形をとり、存命中あるいはその間の一時期を共に過ごすわけだが、どちらかの死によって法律的には解消となる。そこで、霊界へ来て再び夫婦となるか否かは選択の問題であって、強制的なものではない。

 「その点,天界の結婚はまったくおもむきが異なる。互いの魂の奥底から湧き出る愛に始まり、陰と陽の二つの原理が融和し、切っても切れない真実のきずなができあがる。これは法律の及ぶところではない。いわば神を仲人とした結婚であり、したがって永遠である。〝天界では全ての者が結婚するのか〟という質問をよく受けるが、私は確信をもって〝イエス〟と答える。皆いずれは誰かと結ばれる。地上であろうが天国であろうが、神は孤独を喜ばれない。遅かれ早かれ必ず配偶者を見出すよう意図されているのである。」
                                                   (“
Spirit Manifestations by Prof Hare 


 ℘338
    
以上、霊界の生活についてわれわれ人間にとって関心のある問題をひと通り取り上げてきたが、最後にそのしめくくりとして、前出のピーブルズ氏の 『霊魂不滅と死後の仕事』 の中から一部を抜粋して終わりにしたいと思う。ピーブルズ氏とアーロン・ナイト霊との対談である。


問 ナイトさん、あなたがそちらへ行かれてどのくらいになりますか。そして、亡くなられた直後はどんな具合でしたか。

答 私は二百年近く前に英国のヨークシャー州においてこの暗黒の地球を去りました。直後の状態はおよそ楽しいものではなく、結構なものでもありませんでした。

問 ご自分が亡くなられたことに気づかれた時の感じはどんなものでしたか。

答 とても述べられたものではありません。頭が混乱し、あたりは暗くて無気味でさえありました。肉体に宿っていた時の私は決してまともな生き方をしたとは言えません。それが原因とは言えないまでも、それが混乱と苦痛を増したことは確かです。

 父は敬虔な英国国教会の信者であり、兄のジェームスは牧師でしたが、私は唯物主義者で、酒ばかり飲んでいました。死後やっと意識が戻った時、最初は自分自身の存在を疑いました。というより、少なくとも自分がすでに死んで肉体によく似た、しかしずっと柔らかい身体に生きていることが理解できませんでした。

夢でも見ているのだろうか───そうも思いましたが、それはあり得ぬことです。というのは自分の肉体が埋葬されるのをこの目で見たからです。葬儀が終わると、私に付き添っていた霊たちは何処かへと去り、私を一人にしてしまいました。
℘339
 一人になった私のまわりは薄暗くモヤがかかっておりました。なんだかその環境そのものが私自身であるような気がしました。私は一人つぶやきました。「一体どうしたというんだ。神もいなければ悪魔もいない。天国も地獄もない。それなのに自分は確かに生きている。それにしても、ああさみしい!」こうした状態がどれほど続いたかは知りません。

現在こうして神と天使のお導きにより仕事をさせていただいている私には、それを思い出すことは楽しいものではありません。要するに自業自得で、悪いことをすればその報いは陰の如く付いてまわり、誰一人として逃れることはできないということです。それを地上で悟れない者はこちらへ来て悟らされます。

 私はしばらく闇の中をさまよいながら、私より先に死んだ遊び仲間のことをしきりに思い出していました。すると波長の原理で、その連中が私のところへ現われ、やあやあということで連中の行きつけの盛り場へ連れて行かれ、くだらぬ遊びにふけることになりました。

結局そこは地上の盛り場で、私は霊界に来ていながら地上と同じ波長の生活をしていたわけです。仲間と居酒屋へ行ったりコーヒーハウスに立ち寄ったりして、そこに来ている地上の人間たちのはなやかな雰囲気に浸り、時にはキツネ狩りなどの他愛ないスポーツを楽しんだりしました。

身は確かに霊界にあるのですが、感情も思いも常に地上につながっていました。そうした私の特性の低さと地上志向の傾向のために、善きよろこびに満ちた上級界とのつながりが阻害さていたわけです。私はいわば地獄に落ちておりました。もっとも地獄といってもまだ、低級ながらもある程度の楽しみの味わえる世界ではありました。

 その低い環境から少しでも進歩するまでに、どれほどの長い年月が流れたことでしょう。思うに私は完全に堕落しきってはいなかったようです。時おり、ふと、より善なるもの、崇高なものを求めようとする気持ちが魂をゆすりました。私より低い界層には、それはそれは長い年月にわたってひどい苦しみにあえいでいる者がいました。

が実は彼らの環境───暗い荒れ野原、草一本はえていない丘、無気味な沼地、陰気なホラ穴、恐怖の岩窟、といったひどい環境はその連中の心の中そのものを表わしていたのです。

 ようやく一段美しい世界に上がるまでの長い年月の私がいわゆる〝地縛霊〟というやつであったことは申すまでもありません。私は次第に仲間と気が合わなくなり、ある時一人になって祈っておりました。すると遠くに何やら星のようなものが光って見えました。なおも一心に祈っていると、それがすぐそばまで近づき、ついに私を輝く光の中に包みました。そしてその光の中から、ほかならぬ私の兄が姿を現わしたのです。

その時の私の気持ちはとても言い表わせるものではありません。兄の衣服の輝きは私の目をくらませます。がその声は妙なる音楽のような響きをもっています。そのやさしい声を耳にした私は、思わず後悔の涙にくれたのでした。私は今すぐ天国へ連れて行ってくれるよう兄に頼みました。

「ならぬ」兄はやさしく愛情を込めてそう言いました。「それにはそれなりの準備がいる。が、よくぞ祈ってくれた。あの祈り、より高きものを求める心が道を開き、わたしもこうしてお前のもとに来ることが出来たのだぞ。」

それ以来兄はしばしば私のもとを訪れ、そのたびに援助と励ましの言葉をかけてくれたおかげで、私は急速に進歩し、今では私の環境は神々しい美しさに輝き、そして、こうした地上の人々に援助の手を差しのべることを許されたのです。

さらに住居についてこう述べる。

 こちらの住居、庭、書斎などはその所有者の霊格に似合ったものになります。(中略)仮に私が庭の花を一本つみ取りますと、私の心の中にある花を愛する気持ちでもって生命を吹き込んでやらないと、しおれてしまいます。地上でも花の好きな人が手入れをすると非常に育ちが良いことはご存知と思いますが、花もやはり手入れだけでなく愛情が必要なのです。(中略)

 私は上級界を訪れて花畠とビロードのような芝生に囲まれた家々を見ています。曲がりくねった遊歩道やあずま屋があって、そこでは画家が絵筆をふるい、詩人は誌を吟誦し、音楽家は妙なるメロディーを奏でます。反対に暗黒の低級界へも行っています。

不道徳のゴミ溜めのような社会があり、都市があり、見るに耐えない、みっともない喧嘩、口論、憎み合いが、いつ果てるともなく続いている通りがあります。彼らは互いに相手を困らせ苦しめることに快感を覚えるのです。ある意味では地上生活を繰り返しているとも言えましょう。

その念波が地上のバクチ打ちや酔っぱらい、罪悪人に感応して事を大きくします。それがまた彼らには痛快でたまらないのです。こうした光景は天使を悲しませます。私も悲しみをこらえながら述べているのです。がしかし、天国も地獄も同じ神の支配下にあり、同じ神の生命で生きているのです。彼らにもいつの日かは目覚める日の来る希望があるわけです。 
                                     (”Immortality and Our Enployments Hereafter” by Dr. Peebles)
                                                                                                                                      
 
   

    
  第五章 スピリチュアリズムと進化論

 
スピリチュアリズムは別に科学に取って代わることを目論んでいるわけではない。科学は科学なりに立派な存在であり、その分野において有意義な機能を果たしている。いかなる超常的手段による探究方法もこれに取って代わることは不可能である。

 そもそも科学の機能はこの自然界に関する知識を人類の生活において有用ならしめ物質的発展を図るためにこれを体系づけ組織化することにある。科学はまた、新しい事実の発見と、それに基づく新しい発明をすべく努力し、そうすることによって人間の視野をできるだけ広くすることを目的としている。

が、科学はその守備範囲をすでに解明された、あるいはほぼ解明された事実に留め、客観的基準によって実証できるものにかぎっている。つまり科学の基準は知覚認知による証明であり、その基準を無視することは科学性から遠ざかることになる。


 一方、スピリチュアリズムは主として霊界に係わる事実を取り扱う。物質化学とはまったく守備範囲を異にし、物質科学が係わるべき問題には関与しない。というのは、もしもスピリチュアリズムがその超常能力を駆使して、本来科学が扱うべき、そしてまた十分扱える自然科学の問題を解決していったら、それは、

第一に、本来自然科学の 分野に使用すべきでない超常能力を誤って適用したという非難を免れないし、第二に、自然科学の先駆者たちの名誉ある業績にケチをつけ、ひいては今後の科学的探究の意欲をそぎ、結局は人類の進歩の障害となりかねないわけである。


 例えば地球の中心部はこうなっているとか、化学における未知の成分とか、太陽の光球の真相、あるいは、どこそこの岩のどのあたりに古代人の化石が埋まっているといった情報をスピリットが次々に教えてくれるようになり、それを皆が信じるようになったらどうなるであろうか。

そうなると人間の探求心などいっぺんに消えて失せてしまう。それまでの研究を全部中止し、ソファーにでも座り込んで霊界からの返事を待つだけというようなことになりかねない。

℘344
霊媒ダニエルズ女史を通じてあるスピリットは自動書記でこう語る。


 「ここで、何故われわれが重大な科学的事実や法則を教えないか、なぜ新しい発見や霊界の事実に関する証拠を簡単に提供しないのか、といったことについて少し説明しておこうと思う。実際問題として、もともと物質界はわれわれと何の関わりもないのである。

もっとも、こうして霊界から通信を送るためには物質界と関わりが生じるが、それは他の方法では地上の人間に伝えようがないために、やむを得ず人間の脳とペンという物質の力を借りるだけの話である。神は人間がみずからの手で成就できることを、プレゼントでもするように無条件でやってやることをお許しにならないのである。

 たとえば、私がよく地質学者のことを地球の中心部へもぐり込むようなものだと言っていたので、あなたは、私がその中心部まで行って調査すればよいではないか、そしてそこがよく言われる通り煮えたぎる溶岩なのか、それともまったく別の状態なのかを教えてくれればいいではないか、と思われたようだ。

がしかし、そう言ったことはいずれ人間自身の科学の力で解明されることであって、人間がコツコツと努力して解明すべき秘密を前もって教えることによって、人間の知性の栄光と力を奪うことは許されないし、その権利も与えられていないのである。

 物質界において人間に必要なことは全部人間自身の手で入手できる。人間の知性を今日の高いレベルまで高めてきたものは知識へのあくなき情熱であり、障害をものともしない勇気であり、いつまでも観察する忍耐力であり、奇跡ともいうべき明敏さと集中力である。

指導する人、そのもとで働く人々、そして思想家たち、これが一致協力して卓越した才能を発揮してきたのである。今さらスピリットがその中に割り込んで、天使にも劣らぬレベルまで人間を向上せしめた知識と向上心を無視するようなマネはしたくないのである。
℘345
 ただ霊的法則と生命に関する知識だけは、こうした通信によるほかはあるまい。というのは、いかに人間の直観が鋭く洞察力が深いとはいえ、人間の力だけでは霊的真理を正しく摑むことはできない。

霊的本性とその宿命は、こうしたスピリットとの直接の交渉にまつほかはない。そうした問題は霊界の援助を得て初めて解決する。なぜなら、いかなる心霊資料も現象もことごとくスピリットが関与しているからである」
                                                                                (”As It Is to Be” by C. L. Daniels)


 最後のところで述べているように、確かにスピリチュアリズムは科学の分野に属することや早晩科学で解決のつく問題について干渉しないとは言うものの、人間がかかえる問題の中には物質界の範疇を超えて霊界にまたがっているものがある。つまりその解決のためには是非とも超常的な知識───これまで科学では手がつけられず、

これからもその可能性のない性質の知識を必要とする者がいくらもある。言いかえれば、もともと物質界の問題でありながら、その解決のカギは霊界にある、といった性質のものである。


 具体的に言えば、精神又は意識の本質、生命の本質と根源、精神と肉体の関係、進化の根源的エネルギー等々である。これらの問題は物質科学での解決はムリである。なぜなら、いずれも物質科学の範疇を超え、知覚認知という手段では手のつけられない、実在にかかわる問題だからである。仮に科学によって解決されるとすれば、その科学はすでに従来の科学ではなく、完全に視点を異にする別の科学ということになろう。
℘346
 スピリチュアリズムが手がけているのはそうした問題、つまり物質界より霊界に根源をもつ問題である。それこそがスピリチュアリズム本来の守備範囲だからである。

   
 さて、その種の問題───物質界と霊界にまたがる問題の中でも一番大きいのは「進化」の問題である。これが顕幽両界にまたがっているとする理由は、一つには人間の肉体上の進化、つまり肉体器官の観点から見た進化があり、もう一つは心霊的ないしは知的進化、つまり肉体器官に宿っている霊ないし心の観点からみた進化の二種類があるからである。


 物質科学はこれを肉体器官の観点からのみ扱って、進化の根源的要素としての霊的な観点を無視している。従来の進化論が真の原因を突きとめていないことを自ら認めざるを得ない理由は、実にそこにあるのである。

 もっとも現代科学の進化論はそれなりの成果をあげており、進化はすでに一つの科学的事実として確立されたといってよい。少なくとも肉体が生命と本能とを動物界から受け継いで進化してきたという事実そのものに、今やほとんど疑問の余地はないであろう。


 しかしそれだけの進化論では全ての人を納得させることはできない。というのは、ただそれだけでは人間は単なる動物にすぎないことになり、したがって動物が所有する能力以上のものは所有しない理屈になる。
 
     しかし現実には人間には動物にない理性があり、自我意識がある。その点について進化論者は、そういったものも動物的本能と生命が発達し変形したにすぎず本質的には同じものである、と論じるのである。

つまり物質科学の進化論によると、人間は本質的には動物と変わりなく、ただ能力的に動物より進化し、いわば完成された動物ともいうべきもので、あくまで人間は動物なのだというのである。したがってこの説からいうと人間は全ての動物と同じ宿命にある。つまり死とともに個性を失ってしまうことになる。

℘347 
 スピリチュアリズムが唯物科学の進化論と大きく異なるのはこの点である。下等な動物的本能を具えた肉体が動物界から進化したとする点はスピリチュアリズムも同じである。が霊的ないし知能的な進化の点になると全く異なってくる。

 すなわちスピリチュアリズムでは、理性や自我意識として意識されている高等な本能は下等な本能のように動物から受け継いだものではなく、全く異なる次元から入り込んできたとする。つまり肉体器官がそれを受け入れるに十分な段階まで進化した時点において、霊界からそうした高等な本能を具えた霊的意識の流入があったとするのである。

 スピリチュアリズムの立場からすれば、地上での進化はあくまでも肉体器官とそれに付属した本能の発達ということを唯一の目的としたもので、それは実は今述べた高等な自我意識が流入してくることを前提とした、準備的な過程にすぎなかったわけである。

 さて、スピリチュアリズムの進化論と唯物化学の進化論の相違点は次の二点にしぼられる。一つは霊的自我ないし理性と呼んでいる精神的機能の解釈の仕方とその意義。もう一つはその霊的自我意識が下等動物から発達したものではないと一応認めた場合の、その肉体器官への流入の仕方、である。

 第一の点の関して科学は、理性ないし霊的自我意識は動物にみられる下等な知能と本能が発達したものだとする。言い換えると、人間の理性は動物の知能と本能の中に潜在しており、それが人間において完全な発達を遂げるのだと主張する。

つまりこの説によれば理性は動物的知能の発達したものでありその変形にすぎないということになり、したがってそれを所有する別個の原理すなわち霊的自我の存在を必要としないことになる。
348
 一方スピリチュアリズムでは、理性は動物の知能や本能とは本質的に異なる存在で、決してそれから発達したものでも変形したものでもないと主張する。

 理性とは霊的自我の直接の表現であり活動である。それが肉体器官に新たに流入してくるのであって、動物界から発達してくるのではない。言わば理性はスピリットの直接の声であり、神的原理の一部なのである。それが動物的知能と本能を具えた器官に新たに加わるというのであって、動物的知能や本能が発達して理性となるのではないと主張する。

 実は物質科学も、人間において理性が動物的知能や本能とは本質的に異なる働きをしていることを十分に認めている。すなわち理性と知能
と本能は完全に別個の存在で、現在までにわかったところでは、そのいずれも他の用語に置き替えることはできない。つまり理性を動物的知能と言い換えることはできないし、動物的知能を本能と呼ぶわけにもいかない。

三者はそれぞれに独立した存在だからである。にもかかわらず、進化の過程において動物的本能から知能が発達し、その知能が発達して理性となったのだという主張を取り下げようとしない。


  スピリチュアリズムは理性と知能との間には大きな違い───それこそ人間と動物との違いほどの違いがあると主張する。知性は理性とは違う。両者がよく混同されるのは、その違いをわきまえずに、いい加減に使用するからである。

 たとえば、動物にも理性があるという人は、そもそも理性とは何かが理解できていない人である。動物に見られる知能───人間においても低級な精神活動において見られる───は知覚または感覚による連想にすぎない。それは脳のヒダまたは繊維の中に存在する知覚組織が反射的に連係した結果にすぎないのであって、そこには判断力というものは働いていない。

 かくして馬がエサ入れを見るとエサを連想し、同時に、エサがいつもトウモロコシであればトウモロコシが頭に浮かぶのである。つまり、よく知られる二つの法則のうち、まず第一の法則である 「類似性」 によってほぼ似通ったものを連想し、次に第二の法則である「近接性」によって、それとほとんど同時に、或いはまったく同時に生じる感覚が働くのである。
℘349
 こうした知覚の連想作用は反射運動と同じように純粋な機械運動であって、それが動物において、また人間においても、知能として表現されているのである。

 ただ人間の場合の特徴は、その知能とは別に理性を持つスピリットの働きがこれに加わり、いくつかの印象記憶を意識的に連係させたり取捨選択したりして、そこからまったく別の知識を構成することができる、という点である。

 動物においてはあくまでも自動的ないし機械的に連想を繰り返すのみで、その過程の中に合理性を生み出す理知的思考というものが入ってこないのである。その理知的思考───知能活動から一歩離れた位置から意識的にこれを操作する新しい働き、これこそが理性であり霊的自我そのものなのである。

 英国の生物学者ロマーネス教授はその著『動物における知能の進化』の中で次のように述べている。


 「そのように自分自身の考えを客観的に検討できるところが人間の特徴である。すなわち、意識的にいくつかの考えを結び合わせ、入念に検討を加え、いくつかの素材から高度な産物を生み出すわけである。この驚異的才能が自我意識に依存していることも学会で認められてきた。いわば自我を対象物から切り離し、客観的立場から検討を加えるわけである。」                                            (‶Mental Evolution in Animalsby G. J. Romanes


 確かに人間は自分自身というものを肉体や感情とは別個の存在であることを自覚している。つまり、肉体という器官に宿って生きていることを自覚できる。が動物にはそれができない。理性がないからである。

動物の生活は本能的感覚と知覚的知能から成り立っており、器官を離れた次元から自分を見つめることができない。それが出来るためには自我(スピリット)の存在が必要であり、動物にはそれがないのである。

℘350
 動物に理性がないことは生物界でも認めている。スコットランドの生物学者で進化論の権威であるトムソン氏は『人間とは何か』 の中で次のように述べている。


 「さて誰しもこの専門的な意味での理性が、最も知能が高いといわれる哺乳動物にもあるように考えがちであるが、われわれの知るかぎりでは、理性はやはり人間だけの特権のようである。したがって次のような言いかたはやめなければならない。〝でもあの犬は推理力を働かせたではないか。〟確かにそうだが、それは推測の繰り返しと言い換えたほうがよいようである。

〝ミツバチはなかなか賢いではないか〟。確かに賢そうにみえるが、あれは本能的な器用さといったほうがよいかも知れない。〝でもイソギンチャクが獲物が触れると触手を閉じるのはやはり頭を働かせたからではないのか〟。確かにそのように見えるのだが、あれはただの反射運動といった方が無難のようである。

〝しかしハエトリ草(ハエジゴク)は獲物がかかったことがわかるからこそ取れるのではないか〟。そうなのだが、あれも生物的反射運動と呼んだほうがいいかもしれない。というのは、植物には神経細胞が無いからである。」  
                                             
What is Man” by J. A. Thomson


 理性が動物に見られないのは、理性というものが自我意識に直接根ざしたものだからであり、その自我意識がまたスピリットの存在とその活動の直接の表現なのである。自我意識があると、精神がその活動の世界から一歩退いて、いわば自分が出場しているゲームを観客席から観戦しているような状態になれるのである。
℘351
 そうした自我意識の特質は精神の二重性から出ている。つまりスピリット又は意志と、それが活動するための媒体───脳と記憶の層───である。前者が人間で後者が動物と言ってもよい。


 ここで、理性の問題を扱うに当って明確にしておかなけねばならないことがある。それは、理性が知能や本能とは違うと言う場合、それは程度と働き(機能)が異なるという意味であって、本質的には同じエネルギーから出ているという点である。もしも基本的には異質なものであれば、三者の間に相互関係はあり得ないことになる。

 スピリチュアリズムが言わんとするのは、人間においては理性が他の二種の能力から完全に独立した能力として存在し、それは、動物界から携えて来たものでもないし、動物的知能や本能が発達したものでもない。知性と本能を具えた動物がそれなりに十二分に発達進化した段階において、そこへ理性をそなえたスピリットが入ってきた、それがヒトとしての新たな進化の道を歩み、今日に至ったというのである。

 理性およびその本体であるスピリットは動物的知能と本能から発達したものである、つまりその変形にすぎないとすることは、スピリットを単なる現象的産物と見なすことであり、そうなると自然界の他の現象と何ら変わりないことになる。言い換えれば創造されたものの中に入れてしまうことになるのであるが、これは間違っている。

 スピリチュアリズムによればスピリットは無始無終の永遠なる存在として、人体に宿る以前から存在していたのである。それが有限の人体に宿ったのは、そうすることによって限りある器官による体験を積み、それを無限の個性に加えていくためなのである。

それを、もしも他の有限のものから拵えられたものとするならば、永遠の存在という神的属性を失って、拵えられた時点を始まりとして、いずれは終わりを迎える、一つの現象にすぎないことになってしまう。

352
 スピリットは肉体や肉体的生命から創り出された一時的産物ではない。永遠の存在なのである。創造されたものはすべて有限であり、始めと終わりがある。創られざるものこそ永遠なのである。


 スピリチュアリズムの説は動物的生命そのものを嫌っているわけではないし、動物界とのつながりに反撥を感じているわけでもない。もともとスピリチュアリズムは人間の肉体的本能や感覚等は肉体器官と共に動物界から受け継いだものであって、その意味では動物界とは切っても切れない縁があることを認めているのである。

 ただ、統一原理としての霊(スピリット)の存在だけは人間だけに認められるものであって、下等動物には絶対に存在しないと主張する。なんとなれば、動物にはそれを受け入れるだけの器官が具わっていないからである。スピリットが宿れるようになったのは類人猿が出現してからで、それは、スピリットが宿って操縦するに耐えるだけの脳の構造を具えていたからだ、というのがスピリチュアリズムの主張である。

 そのスピリットが人体に宿るのは胎児の期間中であり、脳髄に霊波が集中し、固着する。したがって動物的エネルギーを具えた脳髄が前もって存在し、それが受け皿となり、同時にまた、霊波が集中して固着するのを手助けするのである。

 これでわかる通り人間にはその胎児の期間中に動物から人間へと進化する決定的瞬間がある。その時期をデービスは誕生のほぼ十二週間前であると言っている。正にその時期に、胎児の脳細胞に霊的な意識の中枢が形成され、その意識が自我となり人格となっていくのである。

 こうした人間の霊性を進化論の中に取り入れたのは今述べたデービスと、自然科学者のウォーレス A. R. Wallace の二人で、ウォーレスはその説を、かの有名なダーウィンが唯物論的進化論を発表した同じ日に発表している。
℘353
 ウォーレスもデービスと同様に人間の意識の中枢───自我そのもの───は霊的なもので、動物界から進化してきた肉体器官がそれを受け入れるに十分な機能を整えるに至った段階で直接流入したものだと説いた。

 デービスの場合はウォーレスよりも、あるいはダーウィンやスペンサーのような唯物論者よりもずっと前から霊的進化論を提唱していた。したがってデービスの説は、ウォーレス、ダーウィン、スペンサーのいずれの説の影響も受けていない。すべてデービス独特の霊覚によって感得したものだった。

 ではそのデービスの進化論をその著 『偉大なる調和』 (前出)の中から抜粋して紹介しよう。


 「その永遠の生命をもつ胚は霊的存在であり、人間の誕生の十二週前ごろに無限の霊的大海から分かれて胎児と結合する。その決定的な瞬間に至るまでの段階はまさに動物性のデパートだと言ってよい。闘争、殺害、盗み、残忍こうした数え切れないほどの動物性がところ狭しと脳につまっているのである。

根本的性質がそうだというのではない。これらをコントロールする統一原理(スピリット)が欠けているからである。

たとえば、機関士が操縦に来る前のエンジンの中の蒸気のように、あるいは科学が捉える前の稲妻のように、神が調和のとれた型と表現形式を賦与する前の宇宙間の全ての要素に統一原理が欠けているのと似ている。

すでに述べた理由と原因から、馬も犬も猫も小鳥も象もヒトコブラクダも、個体としての死後存続はないことになる。また人類の形体をした四足動物の中にも死後に個性をもたぬものがいる。ただ食べて寝るだけというのがいる。

人間の形体をした動物もそれなりの機能を有している。食欲をそそる動物を見れば殺してむさぼり喰う。そしてそれだけで満足する。他の動物と何ら変わるところはない。その脳には別世界の存在を考える能力はない。内的欲求を何一つもたぬのであるから、当然、死とともに消滅しても何の無駄もない。
℘354
 しかし科学的に言って、人間で永遠の生命の可能性をもたぬ者はいない。ここでいう人間とは四足動物の頭脳を超えて真の人類として生まれた人間のことである。その段階まで到達した者は、その永遠性を失おうにも失うことはできない。原始人の中にもわずかながら永遠性を身につけた者も混じっていた。

アフリカやニューホーランドの人食い人種やサンドイッチ島の住民の何割かは、別の世界の基本概念すら意識していない。がそうした頭脳の多くにも、私はかくれた黄金の胚がまったく手がつけられないまま、また神の息吹きを受けないまま、魂の奥に宿されているのを感識する。むろん彼らにも四足動物の段階を超えた神的属性があるかも知れないのである。」

 次に霊的原理の肉体器官への流入について───

 「さて、先に確認したように、人間にはその二種類の脳が整ってはじめて完成される。霊の大海から分かれた霊は脳の複体(中間的存在)が礎石と鋳型の役をしてくれてこそ胎児と結合できるのである。

したがって霊が個体としての永遠の存在に入るに先だって胎児の形成と発達が絶対的必須条件であり、現にそれがきちんと行なわれているのである。今その過程を詳しく説明するのは控えよう。

どうせ、そんなことはどうでもよい、と退屈がられるのがオチだからである。そうは言っても、大ざっぱにでも説明しておくことが〝考える人〟にとっては永遠の生命学へのよき案内となろう。

まず妊娠初期の十二週間は神経組織の形成に総力が結集される。続く二か月間は脳の二重構造の構築に費やされる。 そして妊娠七ヶ月目、すなわち誕生十二週間前ごろに、いよいよ霊が脳に定着する。この瞬間に動物から人間への進化が完成するのである。(中略)

その決定的瞬間が正確にいつであるかは慎重を要する微妙な問題であるが、物事をあまり難しく考えない一般の人にとっては用のない問題であろう。が、鉱物が進化して植物となる瞬間があるように、さらにまたその植物が動物の仲間入りをする瞬間があるように、人間の進化の途上には脳髄が神的原理を受け入れ不滅の個性を発現しはじめる決定的瞬間が厳として存在するのである。」                  ”The Great Harmonia” Vol. V “The Thinker”
                                                             


 以上がデービスの進化論であるが、最近の科学にもこの説を裏書きするような説が出はじめている事実は見逃せない。かつては進化とは後天的に獲得した性質が遺伝によって別の有機体(生物)に引き継がれていくことであると単純に考えられていたのが、最近では未知の起源からまったく新しい性質が入り込んでくることを認めている。

一八八二年、ドイツの生物学者ワイズマン A. Weismann は〝生物は後天的性質を引き継ぐだけでは進化しない。なぜなら遺伝は生殖細胞がその決定的役割を果たすのであり、その生殖細胞自体は個体の存在期間中は決して変化することはないからだ〟と説いた。

 この説に従えば、新しい後天的性質が子孫に引き継がれることは決してないことになる。なぜなら遺伝の役割をもつ生殖細胞質は決して後天的性質によって影響を受けることはないからである。ワイズマンは、生殖細胞質は後天的性質に関する限りは何世代にわたっても変化することはなく、まったく新しい性質や新種が出るのは、まったく新しい未知の原因によってその生殖細胞質に突如として説明不可能な変化が生ずるからであることを証明した。

 その後この説明はオランダの植物学者ドフリーズ Hugo De Vries によって確認された。彼は新種というのは旧種の存在期間中に活動に関係なく突如として生ずるものであることを実験で証明して、これを〝突然変異〟と呼び、すべての進化はこの突然変異によって行われると主張した。

 理論的に言えばスピリチュアルズムもこれと全く同じことを説いているのであるが、内容的には物質科学がその突然変異の原因を未知なるものとしているのに対し、スピリチュアリズムでは霊界からの新しい霊的エネルギーの流入であるとする点が異なっている。

 既存の種の生物から新しく、より進化した生物が誕生するのには必ずこの霊的エネルギーの流入があるとするのがスピリチュアリズムの進化論の特徴である。

 デービスも同じことを説いている。すなわち、すべての種は新しい、より高度な霊的エネルギーが生殖細胞に流入することによって生ずる。それが進化の全段階を通じて行なわれ、ついにヒトの段階において神的原理が脳髄に定着したというのである。

 デービスはこの説を一八五九年の著書の中で発表したが、今日の唯物科学の説と大筋において一致している。その一部を紹介すると───


 「すべての種は造形力をもつエネルギーがそのカギを握っている。そのエネルギーは生命のエキスともいうべき精子の中に秘められている。有機体が一段高等な有機体を産み出すのは性細胞液に一段高等なエネルギーが入ったからである。

 「私の説は、ある種の生物が何となく別の生物に進化していくというのではない。たとえば、二本の手をした生物が自然に人間になると言った調子の変化ではない。熟しきった精子と性細胞質を持つ特殊な生物が中間的媒体となって優秀な生物が創造されていくというのである。

宇宙には生命エネルギーが充満していて、適当な性細胞が用意されるとすぐにその中に流入し、新しい植物なり動物なりを創造していく。その原動力は賦活性をもつ生殖原理に秘められている。身体の変化は種のエキスともいうべき性細胞質の中において始まるのである。」

更に言う───

 「父であり母でもある〝神〟は愛と智を具えた〝大霊〟として天地に瀰漫している。そして七種類の表現形体を通じて全ての物質分子に生殖エネルギーを吹き込み、そのエネルギーによって全ての個体は進化性をもつ器官を具えることになる。かくして人間は精子と分子の数え切れない変化を経て、ヒト以前の卵子の中から出て来た。その卵子はヒトの出現直前に、ほぼそれに近い成熟した雌の子宮の中で超動物的エネルギーを孕んでいたのである。」                                                                                                                     ("The Thinker”


 ここで注意すべことは、デービスが言っているのは、古い性細胞に新しいエネルギーが入ることによって型態と種が進化するということである。つまり身体上の進化を言っていることである。

 人間の肉体も同じ過程を経て完成された動物すなわちヒトとなった。が、これで人間への進化が完了したわけではない。神的原理であるところのスピリットは性細胞から入るのではない。性細胞から生じる進化は外形であり型態である。その進化が完了した時点においていよいよ人間のスピリットが胎児の脳髄に入り、定着する。

外形の進化は性細胞への新しいエネルギーの流入によって生じるが、人間への進化はスピリットが直接胎児の脳に入り込むことによって完成するのである。

 これと同じ内容の説が女性霊媒マリア・キングの著書『大自然の原理』(全二巻、一八六三年)にも見える。

 「すでに述べた事から次のことが想像される。すなわち大自然はその霊的側面において全ての個体───あらゆる型とあらゆる種の個体に対して生命胚種を賦与することにより、物質器官を母体としてそれに物的形体を与えさせ、さらに性衝動を賦与することにより、それを本能的しきたりとしたのである。(中略)

ただし生殖行為そのものによって、親が子に、その個体化に必要な生命エネルギーを全部賦与するわけではない。

 人間の胎児のいわゆる胎動期というのは肉体の発育上において重要な意味を持つ。つまりこの時期は胎児の各器官が新しい、そして一段と強力なエネルギーの流入を受けて、発育が一段と加速される時期なのである。 肉体の強化とともに、いよいよ霊的な強化が行なわれるわけである。

胎児の肉体的なエネルギーと霊的エネルギーは元来親和性を持っているので、肉体を強化しなければならない時期が到来すると、前に述べた(訳者注──〝前に述べた〟とあるが、その箇所は引用されていない。しかしこの引用文の最後の三行で述べていることがその主旨であると察せられる。)〝後発芽現象〟after-germination が起きる。その時点において、胎児の個性は完全なる一個の存在へと飛躍的に進化を遂げる。

つまり神の息吹が注ぎ込まれるのである。それまでは神の不滅性を具えているとは言え、ただの種子にすぎなかったのが、この時点でその種子が発芽し、神的属性と人間性を身に付けた不滅の個的存在となるのである。 」
      
                                                                 (”The Principles of Nature” by Maria M. King)


 以上がスピリチュアリズムの霊魂先在とその物質界への出現のあらましである。それは肉体そのものに関しては物質科学の進化論を認めるものであるが、認めるのはそこまでが限界で、人間の魂も動物から進化したという説は取らない。霊界に先在していた霊が、十二分に発達した身体と直接結びついたと説くのである。デービスも晩年の著書の中で次のように述懐している。

「正直言って私は人間の高級な知的能力までも動物界から進化してきたと説くような誤りを犯さなくて本当に良かったと、今あらためて感じている。」


 ただここで理解しておかねばならないことは、このようなスピリチュアズムの進化論は、現在の科学にとってはいささか革命、超自然的に過ぎて、直ちに認められなくてもやむを得ないということである。

 何といってもその基本となる知識や解釈があまりに科学に先んじており、認識と証明の基準があまりにかけ離れているので、学会での正式の証人を得るのはまずもって不可能といえる。

 科学は相対的に見て確実な基盤の上に立脚し、現実的証明と実験に裏付けされた知識によって進まねばならない。その点、霊魂とその地上への出現という右のような説は、現在の科学の範囲から明らかに逸脱している。

たとえ信じることは許されても、それを証明された事実として教えることは許されない。科学の立場からすれば、スピリチュアルズムの進化論はあくまでも仮説にすぎないからである。 

 が正式に認められないとしても、一つの仮説として、それも非常に有望な作業仮説として受け入れることはできる。物質科学も奥深い問題になると、みなそうした傾向を帯びてくる。すなわち実際の証明は為されていないが、真実であると認めるに十分な事実が揃っておれば、それを仮説として採用する。いわゆる作業仮説の方法をとるのである。

 進化の根源については科学界でも確実なことは何一つわかっていないのが実情である。すでに物質化学の能力の限界を超えた問題だからである。科学が為し得たことは、ただ単に進化という現象の存在を証明したにすぎない。そして今日のところ、それで満足している。

 起源に関する研究もひき続きなされてはいるが、まだ解明には至っていない。斯道の権威の一人ヘンリー・オズボーン教授はその著 『生命の起源と発達』 の中で次のように述べている。
p360
 「進化の法則に関する学会の一致した意見とは対象的に、その起源の問題になると、正に百家争鳴の状態である。事実、生命進化の起源は、進化の法則が確かとなったのと同じ程度において、実に不可解至極である。(中略)進化の内的要因はいまだに何ひとつわかっていないと言っても良い。

なんとなれば過去百年間に入れ替わり立ち替わり現われた説のどれ一つとして、観察や実験、あるいは理性の要求に満足に答えてくれていないからである。」    
                                            ("The Origin and Development of Life” by Henry F. Osborn)



 こうした唯物的進化論の第一人者による正直な告白に鑑みれば、今の段階では、進化の根源的要因についての如何なる説も、それがなるほどと思わせる合理的なものでさえあれば、それより更に合理的なものが現われるまでは、一つの作業仮説として取り上げてもらう権利があると思われる。

 その点スピリチュアリズムの進化論はきわめて合理的である。しかもこれまでの進化論の全ての事実と完全に一致するのみならず、他のいかなる進化論とも矛盾しない。そして何よりも人間のもつ高等な直観力や願望にとっても納得のいく要素を具えている。

 スピリチュアリズムでは完成された動物の脳にスピリットが定着して人間となった段階をもって進化の全過程が完了したと説く。人間となることが進化の目的でありゴールなのである。地上に今後人間より高等な器官を具えた存在が現われることはまず有り得ない。

 ということは、自己を意識できるスピリットすなわち理性よりも高等な知性はもう出現しないということである。なぜなら理性あるいはスピリットこそ実在そのものであり、宇宙間のどこにもそれ以外のものは存在しないからである。
℘361
 今後肉体器官が機能的に進化し、精神的にもますます発達していくであろうが、人間以上の存在が地上に誕生することは考えられないし、スピリット以上の新しいエネルギーが現われることも有り得ない。
 
 人間は直感的に、そしてごく自然に、動物よりも高等で本質的に異なった存在だと信じてきた。科学がその学問的権威をタテに、人間も動物にすぎないのだといくら説いても、やはりどこか違うのだという信念を持ち続けてきた。

確かに動物と密接なつながりがあろうことは容易に想像がつくし、動物的要素を多分に持っていることは認めても、やはり動物より高等で、本質的には全く異なった存在であることを本能的に信じてきたのである。


 人間を単なる動物と見なすことは人間も動物と同じ宿命を辿ることを意味する。すなわち死と共に個性的存在を失ってしまうことである。

 唯物的進化論にも多くの派があるが、当然のことながらそのいずれの派も人間の死後存続説を認めていない。人間の霊性を否定し、人間を動物と同列に置こうとする説に、死後の存続説を取り入れる余地のあろうはずはない。

 スピリチュアリズムでは動物にも魂があることは認めても死後はその個別的存在を失うと信じている。したがってもしも人間が単なる動物以上のものでないとしたら、死後の状態も動物と異なることは望めないことになる。つまり動物と同じ魂の海に埋没してしまうわけである。

スピリチュアリズムの立場に立つわれわれが唯物的進化論に二の足を踏み、どうしても納得しきれないのは、その不愉快きわまる結論がひっかかるからである。


 精神と理性が動物から進化してきたものだという説がまったく根拠がないことは、すでに紹介したように、進化論の権威が自ら認めている。人間の肉体的進化に関するかぎり、その動物的性向も含めて、動物界から引き継いだものであるという説にはスピリチュアリズムも両手を挙げて賛成しているのだが・・・
℘362
 学会でも近年になってその余りに唯物的すぎる進化論の誤りに気づき、その元祖であるダーウィンが築いた余りに狭い基盤から脱脚しようという努力が見られるようになった。

 ダーウィンの唯物的進化論は人間の霊性や不滅性を取り入れる余地を与えない。ところが最近の科学はいろんな点でその説から離れていく傾向を見せている。つまり、ある意味で〝神〟ともいうべき存在を認めざるを得ないという説、あるいは少なくともそういうものの存在を否定はできないという説が試みられている。

 今日では〝有神論的進化論〟(1) という説さえ聞かれるようになった。つまり進化の過程には神が内在しエネルギーの原動力として全体の進化の計画を推進しているのだというのである。

 また〝創発的進化論〟(2)  という言葉も聞かれる。これは、宇宙に内在する神霊の一部が人間として進化の過程に出現するというものである。

 両者とも進化論の新しい潮流を示している。すなわち進化の過程における「神」の存在を認め、人間の霊魂つまり高等意識を動物的進化とは別個の独立した要素として重大視しているのである。

 この点において、すでに一世紀近くも前からスピリチュアリズムが説いてきた神霊的進化論に科学もいまようやく手をつけ始めたと言えるのである。

 〔註〕
(1)Theistic Evolution
(2)Emergent Evolution 




   
  第六章 スピリチュアリズムと宗教

  スピリチュアルズムは果たして宗教といえるか否かは、スピリチュアリストのなかでも当初から議論されてきた問題である。

 オリバー・ロッジのように主として科学的立場から観るいわゆる心霊学者は、スピリチュアリズムには格別宗教的要素はないと主張する。こうした人たちは主として心霊現象に興味をもち、それより突っ込んで深い問題まで立ち入ろうとしない。オリバー・ロッジなどはスピリチュアリズム史上で最も著名な学者の一人であるが、自分にとっては宗教はキリスト教で十分だと述べている。

 が、他方にはコナン・ドイルのように、スピリチュアリズムは本質的には宗教であると主張する人もいる。こういう人たちはスピリチュアリズムを主として宗教の中心課題であるところの霊魂不滅とか神および霊界の存在などに主点をおいて考究し、これこそ本当の宗教であると主張する。

 では一体どちらが正しいかということになるが、それは結局どの観点から観るかにかかってくる。いわゆる心霊研究の立場からのみ観察すれば、宗教の根源的課題である死後の存続の問題を除いては確かに宗教的要素ももった問題は出てこない。が、これは至極あたり前のことであって、心霊現象を科学的に究明しようとするのが心霊研究なのであるから、これを宗教と見なそうとすることは、どだい無理な相談なのである。

 同時に、心霊研究即ちスピリチュアリズムであると考えるのは大きな誤りであり、スピリチュアリズムの本質を完全に誤解していることになる。
℘364  
 スピリチュアリズムというのは、そもそもの発端が哲学的ないし宗教的運動だったのであり、例のハイズビル心霊現象をきっかけに心霊研究が加わったのはずっと後のことなのである。

その後表面的には心霊研究がスピリチュアリズムでの主導的役割を果たしたが、そもそも心霊研究というのは、スピリチュアリズムに関心をもつ学者たちが科学的立場からそれを客観的にづけしようとしてはじめられた仕事だった。


 そして、部分的にはともかくとして、全般的にみた心霊研究の結果は、スピリチュアリズムを科学だけで取り扱うことは不可能であり無理であるということを証明したにすぎない。中でも特徴的なことは、霊界の存在を従来のような科学的方法で証明することはできないということである。死後の世界のことはまったく別の方法で探らねばならないということである。


 今も述べたように、スピリチュアリズムはもともと哲学的ないし宗教的な思想運動として始まったものだった。その先駆者たちは心霊現象そのものにはあまり関心を払わず、主としてスピリチュアリズムのもつ宗教的意義と哲学的意義に関心を寄せた。彼らにとってスピリチュアリズムはまったく新しい世界への門戸であり、来世の存在についての実際の証拠を初めて手にしたのであった。

 かつては主として信仰の立場からしか主張し得なかった宗教上の思想に、スピリチュアリズムが事実に立脚した証明を与えてくれたと確信した。初期のスピリチュアリズムの書物はほとんど全部といってよいほど宗教的ないし哲学的思想によって埋めつくされている。スピリチュアリズムは宗教と無関係と考える人はそうした歴史的事実を知らない人といえる。
℘365
 スピリチュアリズムが宗教であることは、それが人間の宗教的本能に強く訴えるという事実によっても証明されよう。スピリチュアリズムは確かに哲学的側面と科学的側面を具えてはいるが、そうした要素は宗教的要素ほどの訴える力はない。

その証拠に、スピリチュアリズムには専門の大学や研究機関はホンの数えるほどしかないが、いわゆるスピリチュアリストチャーチと呼ばれる教会は何千何万とある。このこと自体がすでにスピリチュアリズムが本質的には宗教的運動であることを物語っているといえよう。


 もっとも、もう少し哲学的側面が強調されてもよいのだが、とは思うが、しかしスピリチュアリズムに引かれる人の大半は死後の世界の存在ということに関心を抱いて集まるのであり、それこそ宗教の最大の関心事なのである。

その問題は人間の脳の科学的中枢よりも宗教的中枢の方をより強く刺激するものである。かくしてスピリチュアリズムの信奉者は科学界よりも宗教的階層の人が圧倒的に多いという結果が生じるのである。


 したがってスピリチュアリズムが宗教といえるのは死後の生命の問題を取り扱うからに外ならないのである。その問題こそ全ての宗教の中心課題であり、宗教的信仰心の源泉もそこにある。スピリチュアリズムもそれを中心的課題とし、しかもその根拠を証明するという科学性を加味しているために、それを信じさえすれば、これ以後も多くの人々の宗教的本能に強く訴えていくであろう。


 スピリチュアリズムの宗教的要素は勿論この死後のその存続の証明だけではない。死後の問題はたまたま人間にとって強烈な魅力をもっているから殊更にクローズアップされているだけで、スピリチュアリズムの宗教性はそのほかにも数多くの確固たる真理を基盤として成り立っている。


 というのは、スピリチュアリズムでは超能力を手段として高次元の世界いわゆる霊界または死後の世界から知識を獲得し、次元の高い世界はより実在に近い故に知識も真実性に富むと信じている。したがって宗教性をもつ問題については在来のいかなる宗教よりもはるかに進んだ知識を説いていると確信するわけである。
℘366
 これを具体的に言えば、次元の高い世界にはわれわれの先輩が住んでいるわけであり、宇宙の真理についてはるかに進んだ知識を身につけている。その真理を霊媒を通じて地上の後輩であるわれわれに送ってくれる。ただ単に死後の問題に留まらない。神の存在とその本質、人間の霊性、それと神との関係、霊魂の不滅性、霊界とは、等々の哲学的問題についても、従来の哲学はまったく異なった広い視点から説いている。

 このように、宗教としてのスピリチュアリズムの問題は、ただ単に死後の存続に留まらず、広く宗教一般の幅広い視点から検討しなければならない。そこでスピリチュアリズムの宗教的教義を箇条書きにしてみると次のようになると思う。

、スピリチュアリズムは神の存在を信じ、それを普遍的知性であると定義する。

、スピリチュアリズムは全ての人間はその神の分霊を受けて生まれ、したがってその根源において神性を具えていると信じる。その意味で 「人間はみな平等」 なのである。

三、スピリチュアリズムは人間の死後の生命の存在を信じ地上生活を終えると一段高い世界へ行き、そこで地上と同じ個的存在としての生活を続ける、と説く。

四、スピリチュアリズムは人間は世界が変わっても個性は変わらない───つまり地上を去った時とまったく同じ性格を持って死後の生活を始める。と説く。

五、スピリチュアリズムは宇宙にも道徳律があると信じる。それは神の法則であり原則であって、人間はこれを道義心による善悪の判断の中で体験する。
℘367
六、スピリチュアリズムは悪も罪も所詮は〝未熟〟の代名詞に過ぎない、と説く。言え換えれば宇宙には絶対的な悪や罪は存在しないというのである。

七、スピリチュアリズムは宇宙には進化の法則が存在すると信じる。それは全ての人間は例外なく無限に向上進化することを約束するものである。したがってその過程において人間はいつかは内在する神的属性を開発し、完成のよろこびを味わうことができることを約束するものである。


 大ざっぱにまとめると、スピリチュアリズムの信条は以上のようになる。ではその一つ一つについて詳しく検討してみたいと思うまず最初は神の存在とその本質についてである。

 スピリチュアリズムは、宇宙には神が内在しそれが物的宇宙の根源的創造主であると説く。ただ注意すべきことは、スピリチュアリズムでは、この創造というものを無から有を創り出すという意味ではなく、神の一部として無始無終に存在しているものに別の形体を与えるという意味に解釈していることである。いわば造形である。言い換えればすでに存在していたものに新しい存在形体を創り出していくことである。

 そして、その創造主すなわち神の本質は知的実在であり、その影響から宇宙が生まれたと説く。

 さらにスピリチュアリズムでは、神は先天的に内在している不変的法則に従って宇宙を創造してきたと説く。その創造の 道程は、ごく一部分ではあるが天文学によって明らかにされている。すなわち宇宙の最初は燃えさかる火の海であった。

そしてその中から無数の太陽や太陽系の星が誕生し、あるものは今なお燃えさかり、あるものは冷却していった。スピリチュアリズムでは全過程を通じて神の意志が働き、今なお宇宙を支えていると説く。

 次に、神は無限であり、永遠であり、時間と空間を超越する。時間も空間も神の内側、いわば神のふところの中での存在形式であって、神そのものを測る尺度ではない。あくまでも創造されたもの即ち現象界にのみ適用されるものであり、創造主である神そのものにとって時空は実在ではない。

 実在でないということは存在しないということではない。存在はするが、それに支配されないという意味である。つまり時空を超越しているということである。

 神を無時間、無空間と考えてはいけない。それは神を虚無としてしまうことである。神は内部に現象的条件を設けることによって時間と空間をかかえつつ、なおそれを超越した存在なのである。

 その意味において神は無限であり時空の概念を超越した存在である。が、しかし物的宇宙という現象との関係において、つまりその根源的創造力としては、神にも有限の要素が出てくる。それはちょうど無限性をもつスピリットも人間の肉体に宿ることによって有限の要素が出てくるのと同じであろう。

 スピリチュアリズムでは物的宇宙は有限であり、太陽系と同じく一定の限界と境界があり、それがいわば神の身体に相当する、と説く。そうなると神も有限ということになる。

 神の本質は無限であり永遠であるが、現象は宇宙に関わっている限りにおいては有限なのである。

 そうなると、同じく神といっても、普遍絶対の 「無の神」   Divine Spirit と、宇宙という現象界に顕現している「顕の神」  Divine Mind とを区別して考えねばならなくなる。

 「無の神」は宇宙の背後(内面)に遍在する実在そのものをさし、「顕の神」は「無の神」が静から動へ転じたもので、時間と空間の要素の中で、物的宇宙を支える法則として顕現している。時間と空間の条件下では神の働きも相対的となり無限ではなくなる。このことは人間を例にとれば明瞭となる。

℘369
 すなわち神の分霊である人間は本質において無限の可能性をもっているが、これが肉体という物的器官に宿れば当然その活動は有限となる。つまり無限絶対の静の神が宇宙という動の世界へ活動の中枢を無数に設けた、

その一番小さいのが人間であり、(人間以下の動物や生物もその中に数えられないこともないが、自我意識を持ち直接スピリットが働きかけるものとしては人間が最小である。) 一ばん大きく崇高なのが宇宙神で、これが宇宙を支えているからである。


 その宇宙が有限でどこかに中心があると考えるのは決して行き過ぎではない。というのは、太陽系の組織構成をみると宇宙もどこかに中心があることを想像させるのである。何事も中心がなくては秩序ある活動は保てない。

宇宙のある秩序整然たる活動はどこかにある中心から指揮されているに相違ない。そう仮定した時に始めて調和のとれた整然たる宇宙の活動も容易に納得がいくのである。


 デービスも霊視能力による観察記録の中で、はっきりと宇宙には中心があると述べ、そしてそれは大太陽ともいうべき巨大な物的太陽で、内奥に霊的な太陽すなわち宇宙神の意識の中枢がある。と述べている。

 さらにその霊的太陽から物的大太陽が誕生し、その大太陽から他の全ての太陽系が誕生した。大太陽からの放散物が凝結してできたのであるが、数にして六個、それが大太陽を中心にして同心円を画いて回転しているという。

 わが太陽はその中の五番目の集団に属し、そのホンの一部が天の川として認められる。したがってわれわれは物的大宇宙の外側近くに位置することになる。

 第六番目つまり一番外側の集団はまだ完全に凝縮しきっておらず、巨大な彗星状の星雲として虚空を回転しているという。

 こうした大宇宙の内奥に、霊的大太陽を意識の中枢とする宇宙神が存在する。科学的に言えば、全てを律し全てを動かす宇宙エネルギーである。デービスはその宇宙神の概念および宇宙神と物的宇宙との関係を次のように述べている。


 「推論の原則に従って考察すれば、神とは何ぞや、そしてまたいずこに如何なる形で存在するかを理解することは決して難しくはない。神とはあらゆる物質、あらゆるエッセンス、あらゆる要素、あらゆる原素が極限まで昇華された完全な統一体である。

すなわち、あくまでも清浄、あくまで純粋、永遠にして無限、言語に絶する神々しさと不滅の輝きを具え、雄大でありながらしかも完全に調和がとれている。その中枢は果てしなき大宇宙の脳髄にも相当する、大宇宙の渦巻きの中心である。まさに

 『あらゆる生命に宿り、
 果てしなく行きわたり、
 広がりて分かれず、
 使われて減ることもなし』
である。

 したがって宇宙と宇宙神との関係は、人体と霊との関係と完全に一致する。霊が人体という限られた器官の中で機能している如く、神は宇宙という広大無辺の器官を通じて機能しているのである。人間の感情や愛情、情緒、意志、知性などが脳髄によってその活動を意識される如く、神的属性、神的原理、全知全能の威力は、渦巻く大宇宙の感覚中枢脳に秘められているのである。」  
                        (”Great Harmonia” Vol.Ⅱ “The Teacher”


 さらに別のところでその大中心についてこう述べている。
℘371
 「全存在の根源であり宇宙に遍在する絶対的存在は、物的宇宙を外郭としてその中央に中枢を置き、そこを中心として星辰が荘
源と調和のうちに回転している。それこそがわれわれが神と呼ぶものであり、その属性は愛と叡智、それが人間界では男性と女性、積極性と消極性、創造性と持続性となって表現されているのである。

 さまざまな天体、太陽系、星雲等のみごとな調和はそのまま神の表現である。大太陽はその内側にある霊的大太陽の表現であり、霊的大太陽は神の御心すなわち愛の表現なのである。かくして霊的大太陽は全ての物的存在の中心であり根源なのである。

それは更にもう一つ奥の永遠の大根源たる創造的大霊の表現であり、いわばその衣服の如きものである。物的宇宙は霊的宇宙の完璧な再現である。言い換えれば物的宇宙は創造的大霊の身体であり、その霊的要素が開闢して物的天体ともなったのである。その形体は正に神の秩序と叡智の表現である。

 霊的太陽の最初は光と愛として顕現した。人間の想像する光と愛をはるかに超える。それが空間そのものとなったのだ。とは言え、空間には限界がない。そしてそれは霊的大太陽の照明の拡張力を超えるものではない。宇宙が顕現を完了した時、秩序と形式が絶対的に支配することになった。

これぞ霊的太陽の荘厳にして限りを知らぬ威力。それが物的太陽を生み、そして宇宙を生んだのだ。故に無数の星辰のはるか彼方のいずこかで生命と活動の心臓部が脈打っているのだ。その脈搏が全ての惑星的存在にまで届く。その心臓部こそ神であり、全存在の中心なのだ。
       (中略)
 
天上的知性の渦巻き───全能の核、愛の中心、叡智の精華───は人間の魂を常に引きつける、抗しがたき磁石である。それこそ神の感覚中枢に相当し、全ての動きと生命力の泉の中心であり、荘厳さと完全さの泉である。神はむろん全てに宿り給う。が、宇宙の霊的大太陽により強く顕現し給う。

そこはいわば神の身体であり、そこに完全に神が表現されているのだ。それは人体が内部の魂の完全なる表現体であるのと軌を一にする。」(同前)



 かくして宇宙神が宇宙の霊魂であり、その宇宙に時間と空間という制限があるとなれば、すでに述べたように、宇宙神として顕現している神にも、宇宙という物的条件によって、その活動におのずと制約が生じることになる。

 むろん宇宙の内奥には宇宙を超越した絶対無の神が存在する。その意味での神はむろん無限であり無始無終である。がそれが宇宙として顕現しその大中心を中枢脳として創造と進化の活動に入った瞬間から有限になったのである。哲学的に言っても、絶対無から顕現した自と他を区別する相対的精神が幾つか存在する以上は、宇宙神は無限とは言えないであろう。それがたった一つ存在しても宇宙の大精神は絶対では有り得ないのである。

 さて、この神の有限性の概念は神性について考察する上で実際的な意味を持つ。というのは、神が有限であり、宇宙の大中心に中枢をもつ有機的原理であるということになれば、われわれは神というものを〝一個の人間〟という概念で、つまり相対的な個性を具えた存在という概念で捉えてもよいように思うのである。

 もし人間と肉体との関係と同じ関係が神と宇宙との間にないとすれば、当然神を人間的に捉えることはできない。それはただ人間という極微の意識体を無数にもちながらも全体としての中心のない、のっぺりした意識体にすぎないことになる。その場合、神は人間と直接の関係はなく、ただ単に唯物的哲学思考の対象でしかあり得ないことになる。

 が、そうではなく、その意識体が有機的なエネルギーをもち人間の精神が身体を支配するごとく宇宙の大中枢から宇宙を支配し生成発展する原動力であるということになると、これはもはや絶対ではなく、相対的でしかも個性を具えた一個の存在として捉えざるを得ない。


 その神は宇宙意識の大中枢から、われわれが物事を意識するのと同じように、われわれ人間の存在を意識し同時に全てが自分の分霊であることを意識することによって、自分自身の個性的存在を意識しているに相違ないのである。
 その神の有限的個性についてデービスはこう説明する。


 「宇宙の根源すなわち絶対神の存在そのものに関して徹底的な懐疑を抱いている人間はいないが、神にも人間と同じように個性があるとか相対的な意識をもつとか言うと、大変な疑念を抱く人がいる。そこで私はそうした疑念を〝有限〟と〝無限〟の関係の哲学的論理に基づく〝絶対無限〟の概念によって一掃してみようと思う。

そもそも私が神の存在場所を云々する時は宇宙という相対世界を支配する中枢すなわち宇宙の脳髄のことを言っているのである。そして、神にもしも個性的意識が無いとしたら、存在というものを意識することは不可能なはずである。われわれ人間が自分の存在を意識できるのは他の存在との対比と相違があるからである。

あなたが自分の個性的存在を意識できるのは自分というもの───習慣、感情、衝動、クセ等々───を自分を取り巻く無数の個的存在と比較できるからである。神も同じである。無限絶対の神でも、それだけでは存在は意識できない。相対的存在の世界があってこそ絶対的存在が意識されるのである。」              (“The Teacher”)

さらに言う。


 「したがって神は顕幽両界のあらゆる存在に内在している。それはちょうど人間の霊がすべての骨、すべての筋肉、そのほか、神経、粘膜、繊維、体液、等々ありとあらゆるものに滲みわたっているのと同じである。がしかし、どこに一番自我意識を意識するかといえば、手でもない。足でもない。やはり頭である。

神も同じである。神は宇宙のすみずみまで行きわたっている。植物にも動物にも人間にも、そして日、月、星辰にも存在する。が神自身も自意識をいちばん強く意識する場所がある。それが宇宙の脳髄に相当する部分だというのである。」(同前)

p374
 神にも有限性と人間性があるという概念は、当然、神というものが人間生活と無縁の存在でなく、何らかの形で結ばれているのだという理論を生む。そして、そこから神は〝天にましますわれらが父〟であり宇宙の支配者であるという思想が出て来る。

 イエスや釈迦、マホメット等の宗教家、あるいはプラトンやスエーデンボルグ、ベーム、デービス等の宗教思想家の説を検討してみると、彼らはホンの瞬間的にせよ、その神との直接の交信を得て、豁然大悟し、その荘厳さと完全性に打たれたのであり、努力さえすれば人間にもそれが可能であることを示してくれているのである。イエスが「神と私は一つである」と言ったのは正にそのつながりを言ったのであり、他の霊格者の場合もみな同じである。


 次に問題になるのは人間は神の分霊であるとする教義である。スピリチュアリズムでは人間は神の分霊を受けて生まれ、したがって全ての人間には神性が宿されていると主張する。その意味で人間は実に神そのものであり、ただそれが肉体という限りある器官を通じて顕現しているにすぎないのだという。

 その神性、その偉大さを人間が悟り得ないのは肉体という物的器官によって感覚が鈍化されているからである。その肉体という被いが取り除かれた時、はじめて人間は自己の神性を悟り体験することができるのだというのである。

 スピリチュアリズムではその神性において人間に一切の差異を認めない。すべての人間が神の分霊を宿しており、その原理においてはみな平等であると主張する。全ては神の子であり〝特に選ばれた神の子〟というのは絶対にないのである。
℘375
 むろん、ある者が他の者より神性を多く発揮するということは有り得る。が、神性を宿しているという事実においては全ての人間は平等である。またその神性に高いも低いもなく、その他一切の差異差別はない。「人間は生まれながらにして平等である」という言葉はよく誤解されるが、今述べたような意味では人間は真実生まれながらにして平等なのである。気質や知識、知恵、財産等においては各人みな差はある。が神性の原理においては人類はみな平等なのである。

 地上のあらゆる宗教が、わが教祖こそ神の化身であると信じてきた。特に東洋の宗教には仏陀の生まれかわりと称する人物を本尊とする宗派がいくつもある。仏教者に言わせれば、仏陀は一度に幾つでも地上に生まれかわれるのだという。

 その点キリスト教はイエスを、イスラム教はマホメットを神の唯一の子として崇めている。がいずれにせよ民衆が特定の人間を神の子として崇めるに至る過程を想像するのは決して難しくはない。要するに相対的比較からくることであって、一般の者よりも知的にも霊的にもずば抜けたものをもつ人間が次第に 「神様のようなお方」 として崇拝され、ついには神そのものの生まれ変わりであると信じ込まれるに至るのである。

 スピリチュアリズムでも、例えばイエスが神性を宿していたことを認める。がそれはわれわれ一般の人間も神性を宿すというのと同じ意味でそう認めるのである。現にイエス自身は自分が特別な神の生まれ変わりであるとは言っていないし、自分でもそう信じていたわけではない。

 残された乏しい資料(聖書等)から判断するに、イエスはスピリチュアリズムで言うとことの人間の神性をよく理解し、その意味での自分の神性を自覚していたようであり、決して自分が特別な神の子であるとは言っていない。

 イエスは全ての人間が神の子であると教え、その意味で人類は兄弟であると説いた。「いずれ諸君も私以上のわざをなすことができる日が来るであろう」 といった。その言葉の中に、イエスが全ての人間に偉大さと神性が潜在していることを認めていたことを理解することができる。

 キリスト教はいたずらに人類を罪悪視することによってイエスの神性を高揚せんとするが、それはイエス自身の真に喜びとすることではなかろう。それよりもむしろ人類全体に神性を認め、賛美し、イエスとの同質性に喜びを見出すことの方が、真理を知る者の取るべき正しい道だと信じるのである。


 さて次は三番目にあげた死後の個性存続の問題である。すなわちスピリチュアリズムはいわゆる来世の存在を説き、地上生活を終えると人間は一段高い世界へ行き、そこで地上と同じように個体としての生活を続けるというのである。

 この死後の存続という事実は言うまでもなくスピリチュアリズムの中核を成す思想であり、すでに主観客観の両面から、つまり現象的にも哲学的にも十分な根拠を備えたといってよい。

 もっとも単なる死後の存続は必ずしも霊魂不滅の根拠とはならない。というのは死後しばらくは存在してもやがて消滅いくというケースも考えられるからである。したがって霊魂不滅説の根拠は死後の存続という事実にあるのではなく、時間と空間を超越したスピリットという永遠の生命源をもつか否かにかかってくる。と同時に死後の世界で使用する霊体もまた不滅でなければならない。なぜならスピリットは何らかの媒体なしには存在を意識できないからである。

 キリスト教も死後の生命を説くが、それはキリストという一個の人間の肉体的復活と言う至って漠然とした、およそ科学的とは言えない信仰を根拠としたものである。しかもキリストは神によって選ばれた特別な人間であり、他の人間とは根本的に性質を異にするのであるから、キリストを信仰することによって必ず死後に復活し永遠の生命を得るという保証はないわけである。
P377   
 キリストはその生誕の時点においてすでに他の人間と異なる存在であり、その死の時点において肉体的復活という奇蹟を演じている。キリスト教ではそう信じているわけである。そして他の人間は、それもキリストを信じる者にかぎって、最後の審判の時に肉体をもって復活して永遠の生命を得るという。

 こうした単なる個人の肉体的現象にまつわる信仰に根ざした説では、人類全体の死後の生命を論じることはできないであろう。キリストの復活という事実、それも復活したらしい、あるいは復活したのであろうといった程度のもので、しかも他の人間とは性質を異にする人物にまつわる現象を、永遠の生命の根拠にするのは、いかに言っても説得力に欠ける。

 現に、愛する者の死に直面した時、そのような信仰は立ちどころに消えてしまう。イエス様は復活されたのだという物語からは慰安は得られまい。少数の特殊な人たちを除いて、大半の平均的キリスト教者にとっては、死はやはり絶対的な不幸である。

 そこへ行くとスピリチュアリズムの説はなんと美しく、なんと合理的であろう。死とは肉体という一枚の衣服を脱ぎすてることであって、人間は一人の例外もなく地上時代のあらゆる体験と記憶と性格を携えて、霊体という新しい身体で新しい次元での生活を始めるというのである。

 この説が哲学的にそして科学的に納得できれば、人類にとってこれ以上の福音はないであろう。人類は死の恐怖から完全に解放される。死を不幸と見なくなる。身内や友人の死を嘆き悲しむことをしなくなる。冷静に死を見つめ、表面上のむごさ、あわれさに捉われることもなくなるであろう。
℘378

 死ぬのは肉体だけなのだ。その人自身、その人の魂は、より自由でより明るい世界へ旅立ったのだ。そう理解すれば、悲しむよりむしろ喜ぶのが正しいのだと悟れる。


 四番目にあげたのは死後の個性の存続であるが、これはひいてはキリスト教の贖罪説および天国と地獄の思想と関連してくる。

 スピリチュアリズムでは死後に存続するのは地上生活を送っていたその人そのものであり、善性も邪性も全部そのまま携帯していくと説く。死そのものはその人の真の個性をいささかも変えることはない。肉体という外形が変化して霊体になるだけである。その人自身───スピリットも精神も、そして霊体も、死の直前までのそれといささかも変わらない。欠点も、徳性も、そして個性も、みなそのままである。

 このことから、この世における行為に対する因果応報は、自然の因果律に即して、その人の個性および精神構造の中に留められているものについて行なわれるものだということになる。

 善行はその当然の報いとして、地上時代と同様、霊性の向上という結果を生み、悪行は霊性の低さ不完全さの当然の結果として、不幸あるいは苦痛という形での報いを受ける。

 「自分で蒔いたタネは自分で刈らねばならぬ」 という言葉は地上生活に限らず、死を超えた死後の生活にも当てはまるものとスピリチュアリズムでは解釈している。

 そこには怒り狂った神が人間を待ち受け、裁き、そして体罰を与えるといった子供だましの思想は微塵もない。罪を裁くのはほかならぬ自分自身の道義心であり、その裁きの結果が自動的に苦痛なり幸福感となって意識されるのである。

 道義心、および性格に刻み込まれた悪徳ほど人を裁くに効果的なものはない。罪の意識と、その罪にゆがめられた精神構造は、必然的に善と幸福に満ちた霊たちとの接触を妨げ、似たような精神構造をした霊との交際を余儀なくさせる。そしてその状態は、罪を悔い、精神構造がより高いものを求めるようになるまで続くことになる。

 それがスピリチュアリズムで言うところの〝界〟の意味なのである。そこに固定した境界があるわけではない。似たような精神構造と霊格を備えた者が集まって、そこにひとつの生活の場を構成するわけである。

 その一ばん高い界を天国と呼び、最下層を地獄と呼んでも差しつかえない。が、それはあくまでも霊的発達程度の両極端を示しているのであって、地獄といっても既成宗教でいうところの地獄と同一視してはならない。努力と反省と高級霊の援助によって、いつでも脱け出ることの出来る流動的な一つの〝状態〟にすぎないのである。


 「この界にいつまでも留まっている者は少ない。炎の中から燃えさしを引き出すように、地獄の中から次々と霊が引き上げられ、代わって地上から送られてきた新入りの霊と入れ替わる。いつまでたっても救われぬほど程度の低い霊というものは決していないのである。」             (“Letters from the Spirit World ” by C. petersilea) 


 スピリチュアリズムは「悪」というものを単なる「未完成」あるいは「不完全」の別名と見なし、その意味で宇宙には本質的には悪なるもの、本質的に罪なるものは存在しないと説く。いわゆる悪も究極においてはいわゆる善の中に融合されていく。根っからの悪人がいないように、根っからの罪人もいない。

 人間は過ちを犯す。神の法則に違反したという意味では罪であるが、決してその人の罪深き本性、悪の本性がそうさせたのではない。人間的な未熟さと無知の結果なのである。修行と知識によってその原因が取り除かれれば、必然的に悪も罪も取り除かれるわけである。

 スピリチュアリズムでは人間は本質的には善なるものであり、キリスト教でいう「原罪」のような本質的な罪はないと説く。もっとも無知なるが故に犯す罪はある。そしてその行為の結果には立ちどころにそれ相当の報いを要求される。が、キリスト教で説くように 「永遠に地獄に落ちる」 ことはないし、したがってそれを信仰によって 「救い出す」 必要性もない。そうした説はみな人間が勝手にこしらえたドグマである。

 キリストを救世主と信じることによって自分の悪事に対する懲罰から免れて天国へ行くことができるなどという説は、スピリチュアリズムからみれば全く意味のないドグマにすぎない。何を信じようが人間はすべて霊界へ行くのである。それが自然の法則なのである。

 霊界に来た霊は各々が地上で積み重ねた善性または邪性に応じた環境に置かれる。それは信仰の如何にかかわらない。もっともその信仰が深く性格に刻み込まれている場合は別である。それはそれなりの影響を及ぼすが、単に口先だけで何らかの教義への帰依を誓ったところで何の意味もない。その点についてある霊はこう述べている。


 「十字を切ってみたところで、あるいは口に教義を称えてみたところで、それだけで霊はいささかも救われるものではない。いくら祈っても、いくら信仰の告白をしても、救いにはならない。真に魂を救うのは、正しい。純粋な、そして高潔な生活しかないということを、私はこちらへ来て学びました。

私が地上で帰依していた主教制教会 (エビスコバリアニズム)も何の役にも立ちませんでした。それよりも私が悩みを聞いてあげた人々、救いの手を差しのべた貧しい人たち、そういう人たちがこぞって私の死に際して集まってきて、私の霊界入りを歓迎してくれました。」  
                                       (“Immortality and Our Employments Hereafter” by Dr. Peebles)

℘381

 言うまでもなくスピリチュアリズムでは道徳律の存在を信じる。それは宇宙全体を支配する神的法則であり、あらゆる有機体と人間の魂を通じて作用していると考える。人間より下等な生物においては、いわゆる本能と無意識の欲望として表現され、人間においては良心、道義心として意識される。これは神の意志であり、あらゆる有機的生物の中に湧き出で、それが発達と完成への衝動を生む。

 実はこの道義心は人間とは別個の存在、つまり外部から注ぎ込まれたものではなく、スピリットそのものに潜在する本性は欲求であり意志なのである。言い換えれば神そのものなのである。常にその声に耳を傾け、それと一体となって行動するとき、キリストが 「わたしと神は一体である」 と言った時と同じ悟りの意識に到着する。キリストは自分が神だと言ったのではない。しばしの間神の意志と融合したという意味でそう言ったのである。

 予言者と呼ばれる人が適確な予言が出来るのは、その宇宙意志と一体となって神の目的と計画(未来)を垣間見る超能力を具えているからである。人間には本来そういう能力が具わっているのである。予言者ほどの目覚ましい能力は発揮できなくても、善悪を判断する道義心を通じて、宇宙を支配する道徳律を踏みはずさないように生きることは可能である。

 その宇宙の道徳律の中の一つがいわゆるイエスの黄金律であることを認めるのに、スピリチュアリズムもやぶさかではない。曰く「汝の欲するところを人に施せ」と。

 この道徳律の問題は必然的に、最後に挙げた 「向上進化の法則」 の問題へと発展していく。これは哲学的要素と同時に宗教的要素を具えた大問題なので、ここで取りあげてしかるべき問題であろう。

 人間が永遠に向上進化するという事実は、スピリチュアリズムでもとりわけ崇高な真理である。既成哲学でも何らかの形での進化は説かれているが、スピリチュアリズムのそれとは根本的に異なる。スピリチュアリズムがいう進化とは、顕幽両宇宙を舞台として、ありとあらゆる有機体が完成へに向けて一歩一歩向上していくというもので、究極においては神の意志の顕現にほかならないのである。

 その進化の原理は創造的活力として全有機体に潜在的に組み込まれており、したがって進化せずにはいられないのである。つまり進化とは宿命的に組み込まれた目的に向かって活動していく過程にすぎないといってよい。

 スピリチュアリズムでは(プラトンも同じことを述べているが)、自然界のあらゆる有機体は根源的には神の意志の具現であり表現であると考え、その創造的エネルギーは常に表現を求めてやまないと説く。デービスも次の如く述べている。


 「全ての有機体は、形体の大小にかかわらず、その存在の意義と完遂に必要なあらゆる原理と能力とを潜在的に備えている。その完遂に向けての行為がほかならぬ進化なのである。」                     (“Beyond the Valley”)


 潜在的に具わったエネルギーは、その個体なりに理想的に構成されているのであるから、これを正しく発現させてやらねばならない。完全に発現された個体の姿は種子に宿された神の意志の完成された姿にほかならないのである。

 同じく人間もその魂に宿された潜在能力を円満に発達させねばならない。それが神性を正しく発現することに他ならないからである。神は自然界のすべての有機体に、それに必要な創造的エネルギーを賦与してくれている。人間のみが例外であるわけではない。無限にその神性を発現するために人間は永遠に向上進化を続けるのである。

 スピリチュアリズムにおいては、その永遠の向上向上の証拠を他界した無数の人霊に見ることができる。そしてその結果わかったことは、この地上生活はその第一歩───いわば宇宙学校の幼稚園にすぎず、肉体の死によってこの世の生活を終えると霊界の下層界での生活が始まる。

いや下層界とはかぎらない。正常な知識人はデービスの言う第三界ないしこれより上の界へ行く。が、どこに落着くにせよ、そこでも進化の法則が一瞬の切れ目もなく働き、一界又一界と向上の階段を登っていかねばならない。そして、いつしか一切の地上臭が消えた崇高な世界へと至る。


 その向上進化の過程は厳格な規律によって支配されている。時間的経過から言えばスピリットにとっては速い遅いの差があり、下層界で長々と道草を食う者もいるが、いつかは正しい向上の道に立ち戻り、着実に上層界へ上がっていく。そこに神の意志としての向上進化の法則の確実な働きを見ることができるわけである。


 以上、大ざっぱではあるがスピリチュアリズムの宗教的な要素をみてきた。言ってみればキリスト教の良い面を残して、悪い面、いわばドグマ的要素を排除したような形になっている。宗教としてのスピリチュアリズムは誤解と迷信から人間を救い、光明へと導くものである。

 では最後に米国スピリチュアリスト連盟 National Spiritualist Association of America によって採用されている「スピリチュアリズムの綱領」を紹介して本章を閉じることとする。

一、われわれは無限なる叡智の存在を信じる。

二、われわれは、物的霊的の如何を問わず、顕幽両界にまたがる大自然の現象はことごとくその無限なる叡智の顕現したものであることを信じる。

三、われわれはその大自然の現象を正しく理解し、その摂理に忠実に生きることが真の宗教であると信じる。

四、われわれは自分という個的存在が死と呼ばれる現象を超えて存続するものであることを確信する。

五、われわれは、いわゆる死者との交信が実際に有り得ることであり、科学的に証明ずみであることを確信する。

六、われわれは人生の最高の道徳律が「汝の欲するところを人にも施せ」という黄金律に尽きることを信じる。


七、われわれは人間各自に道徳的責任があり、物心両面にわたる大自然の法則に従うか否かによって自ら幸不幸を招くものであることを信じる。

八、われわれは、この世においてもまた死後の世界においても改心への道は常に開かれており、いかなる極悪人といえども例外ではないことを信じる。


〇「スピリチュアリズムは科学である」
 なぜなら霊界側が演出する心霊的事象や現象を科学的に分類・分析しているからである。

〇「スピリチュアリズムは哲学である」
 なぜなら顕幽両界の自然法則を考究し、それを現在までの観察事実に照らして哲学的理論を導き出すからである。さらにまた過去の観察事実やそれに基づく理論であっても、それが理性的に納得がいき、現代の心霊科学によって裏づけられたものであれば、これを受け入れるにやぶさかではない。


〇「スピリチュアリズムは宗教である」
 なぜなら、宇宙の物的、道義的ならびに霊的法則を一つでも多く理解し、それに忠実たらんと努力するからである。それはすなわち神の御心に忠実たらんと努力することにほかならない。


    

 第七章  むすび

 さて、いよいよ最後の問題すなわちスピリチュアリズムの将来はどうか、そしてわれわれ人間生活の中でどのような意義をもつかという問題に逢着した。私はまずあとの問題から取りあげたい。すなわちスピリチュアリズムは人間生活でどのような意義をもつであろうか。


 スピリチュアリズムの真理が人間生活に現実的利益をもたらすことに疑問の余地はない。その中心的訓え、すなわち人間は死という関門を通過したのちも生き続け、それまで持ち続けた性格をそっくりそのまま携えて死後の世界へ行くという事実は、どう考えても人類にとって重大かつ素晴らしい発見であるに相違ない。

そうあってこそ人生に目的と意義を見出せるのであり、人生がこの六、七十年の短い地上生活で終わるのではなく、この地上生活はホンの出発点であって、その間に身につけた知識と経験を携えて一段と高い世界へと進んで行くことを教えてくれたのである。

 
 その自覚、つまり人間は食べて飲んで寝て、ヒマになれば愚にもつかぬことにうち興じるこの世かぎりのお粗末な存在ではなく、これから先も、死を超えて永遠に生き続けていく霊的存在なのだという自覚は、人間にとってかけがいのない福音であり、無味乾燥の唯物主義的人生に希望と喜びを与えてくれる。

ことに知的ならびに霊的性質の強い人にとって、この永遠の生命の真理がどれほど重要な意義を持つかは計り知れないものがある。もっとも、この世的なことにしか関心のない平凡人にとっては大した意味は見出せないかも知れないが・・・・・・


 そういうわけで、死後の生命の哲学的ないし科学的意義という点においては、スピリチュアリズムは掛値なしに人類にとって福音である。そこに議論の余地はないと思われる。
P386  
 が、そうした知識を得るための手段、言い換えれば知識獲得の手段としてのスピリチュアリズムについては、かねてから大いに議論され、今なお議論の的になっている。

 スピリチュアリズムにおける真理探究の主な手段は霊媒現象という、真理を受け取る本人がその真理を自覚しない受身のやり方である。つまり霊媒は大なり小なり消極的ないし自己否定の立場に置かれ、知識獲得の上で積極的な役割は演じられない。

霊媒の精神はいわば空っぽの器の状態になり、その器の中に通信霊が思うことを一方的に注ぎ込むわけである。こうした手段では主導権と責任は通信霊にあり、霊媒は大なり小なり否定的な立場に置かれる。


 こうした消極的な霊媒現象───手段が正常でないために異常手段とも呼ばれる───に対して出される反対論は、それが知的成長の手段として健康的でない点を指摘する。すなわち本人の意思を無視し、まったく別個の得体の知れない第三者に知識を求め、それを無条件に受け入れるやり方は、本人の知的成長にとって何の益にもならないというのである。

 言い換えれば、他のすべての有機体と同様、人間は自分の努力によって成長進化するのであって、他人の努力によってではない。この地球上における知識の効用は知識そのものにあるのではなく、それを獲得しようとして努力するその知的活動にある。みずからの努力によって獲得しようと努める活動の中においてこそ能力と才能が磨かれ個体としての成長と進化が得られる。

それが地上生活の真の目的ではないのか。その意味で、本人がまったく関与しないで、できあいの知識を無意識のうちに手に入れるやり方は決して健康的でなく、人類にとっても望ましくない、というのである。

387   
 確かにこの反論は大筋において認めねばならない。霊媒の精神と意志が、霊であれ人間であれ、第三者によって占領されるやり方は、知識獲得の手段として唯一最終のものと見なすわけにはいかないし、望ましい手段とも言えない。やはり本来の望ましい手段は、本人自身の力による方法、つまり霊能を磨き発達させて、自分で意識的に霊界と接触し、知識を獲得するやり方である。

 むろんその中にはインスピレーションによる知識、それから高級霊から聞いた知識なども入ってくるのである。が、それらは本人が意識的に受けとめて自らの判断のもとに吸収できる。こうなれば自己否定の霊媒現象は必要でなくなる。

 スピリチュアリズムはこうした理論に全面的に賛成であるし、異常霊媒現象が唯一最良のものでも、一番望ましいものでもないことは認める。が、現下の心霊事情のもとでは正常な霊媒現象によって霊界と接触できる霊能者は例外的といってよいほど少なく、大勢としては受身的霊媒現象に頼らざるを得ない。

要するに人類の霊能の発達が未だ自分の意識的努力によって霊界と接触できる段階まで至っておらず、したがって霊界側に身をまかせ霊の先導によってことを運ぶ以外にないということである。

 いわゆる心霊能力が他の学問的ないし芸術的能力と同じように、ごく自然な能力として意識的に活用できる段階に至るまでは、望ましくないとは言え、受身的な霊媒現象によって知識を獲得するほかに選択の余地がない、というのが実情である。

 
 心霊能力の本来の有り方は、入神状態に入らずに普段の意識を残したまま、精神統一によって直接霊界と接触し、知識欲のおもむくままに自由に真理を探究することである。つまり知識獲得の主導権をスピリットでなく人間が握ることである。

 言い換えればスピリットが人間に接触を求めてくるのでなく、人間のほうから霊界へ探検に行くという形である。需要あっての供給というのが宇宙の法則なのである。英国の著名なジャーナリストだったステッドが死後送ってきた通信の中に次のような箇所がある。


 「霊媒というのは実は霊側にとってホンの間に合わせの通訳、もっと良いものができるまでやむを得ず雇っている臨時の手段にすぎない。言い換えれば、本来物質的五感を補足的に援助すべき役割をもつ心霊的能力が、人類全体として十二分に発達進化を遂げるまでの橋渡しにすぎない。

他界した人間が再び地上へ戻ってくること自体不自然なことである。他界直後の一時期を除いて,霊は地上と直接的なつながりをもたなくなる。向上進化の原理が霊をむさくるしい地上界から引き離していくのである。

 であるから本来なら人間の方が心霊能力を開発して霊の世界へ近づくべきなのである。人間にはそれができるのである。それだけの潜在能力を宿しているのである。それが直感とかインスピレーションとか衝動とかになって表われているのであるが、あなたがた人間はそれがどこから来るのかご存知ない。それも無理からぬことかも知れない。

 何しろ肉体という物質の中にとっぷりと浸り、肉体中心に行動し、その奥にある魂にはほとんど目もくれない。(中略)魂に目を向けるようになれば、それだけ魂の反応も鋭敏になり、スピリットとの接触もよくなるのだが。」       
                                                        (“Communicating with the Spirit World” by W. T. stead)


p389  
 受身的霊媒現象はスピリチュアリズムの第一歩であり初歩的段階である。少なくとも現段階では他の手段ではおそらく入手できないと思われる知識を提供してくれている。その意味では受身的霊媒現象もよしとしなければならない。

 が、あくまでも、一時的な手段であり最終的なものではない。この手段によって得られる知識は掛値なしに有用なものであり価値の高いものはであるが、手段そのものは霊媒の意志を第三者すなわちスピリットに完全にまかせてしまうので、健全なる知的成長という点では好ましくないし、したがってこれをもって最後の手段と見なすわけにはいかない。


 この手段では霊媒は現象が終わったあとで間接的に恩恵にあずかるだけで、自分の時間と努力を犠牲にして列席者に利益を与えているという見方からすれば立派な仕事であるが、人間の正常な精神の観点からすれば決して自然で健全なものとは言えず、したがってこれをもって人類の精神的発達の最終段階と見なすわけにはいかない。

 しかし同時に、霊媒現象のすべてが受身的であると考えてはならない。受身的霊媒現象と言うのは霊媒の意識と個性がスピリットの意識と個性に押しつけられ、霊媒自身が意識的に知識獲得に参加できないものをいう。いわゆる入神現象というのは全部この範疇に属する。入神という言葉が無意識の状態に入ることを意味するのであるから、これは当然のことである。

 が、心霊現象の中には霊媒が個性をいささかも失わずに最後まで意識を維持できる性格のものが決して少なくない。そうした現象においては霊媒は霊界からの知識をテレパシー式に受け取り、それに対して意識的な判断を加えたり、納得がいけばそれを活用するといったこともできる。

こうした活動は本質的にはインスピレーションの働きであり、人間の精神的活動の中でも非常に高度なものであり、来たるべき人類の進化のさきがけと見なすことができる。


 将来の霊媒現象はこの種の自発的かつ意識的なものとなっていくと信じてよかろう。つまり霊媒の個性を押さえ込んだり服従させたりするのではなく、逆に霊媒の意識を広げ、能力を発揮することによって知識を獲得していく。それは取りも直さず人間としての個性と能力の発達進化を意味するものであり、今日の霊媒現象に見られる否定的な異常性というものが微塵もない。
℘390    
 未来の霊媒現象はそうした霊的感覚の発達と進化によって地上と霊界とが意識的に交信するという形になっていくであろう。極端に言えば地上の人間同志が言語によって意志を伝え合うと同じ調子で、地上のそうした高度な能力を具えた人間と、霊界のスピリットとが、自由に意思を伝達し合うようになるであろう。

  
 改めて述べるが、霊媒現象そのものは、いかなる形式を取るにしても、人間進化の最終ゴールではない。言い換えれば霊媒を通じて直接スピリットから知識を授かるのは健全な在り方ではない。そう考えることは大変な真理の履き違えである。

スピリチュアリズムを信条とする人の中にも、交霊会というものに慣れっこになり、大切な情報は霊媒を通じてスピリットから授かるのが当たり前のように信じ込んでいる人が少なくない。そういう人は人間本来の知的活動をすっかり怠り、スピリットの力を借りずに自分で真理に到達する能力をなおざりにしてしまっている。

これはデービスもよく警告しているとおり、霊の本質とも言うべき理性、家屋でいえば土台に当たる一番大切なものをおろそかにしているようなものである。


 理性の中に外部からの力を借りずに独力で真理に到達する能力が内蔵されている。デービスはその理性と知的能力をまず第一に優先させ、交霊及びその交霊から得られる情報は、その理性の管理のもとに第二次的には使用すべきであると述べている。断じてその逆であってはならないのである。
℘391  
 第一部で度々紹介したとおり、デービス自身はあの厖大な著作の内容を全部自分の霊能を駆使して直接取材したのである。決してスピリットの世話にならなかった。そして、自分と同じ能力を全ての人が開発できると述べている。

 潜在能力の自然な開発と進化こそがデービス哲学の基本理念であり、いわゆる霊界通信の価値を十分に認め、その使用を全面的に認めながらも、それはあくまで二次的なものであり、人間の真の成長と進化は各自に内在する能力を独力で開発していくところに得られるのだ、と常に述べている。

 デービスはその最初の、そして多くの人から〝最高〟と評されている『大自然の神的啓示』の中でこう述べている。


 「この界での私は霊界人から知識を入手するのではない。宇宙の大精神すなわち神が生みたまい、あらゆる実在界に行きわたっている〝真理の法則〟のおかげである、というよりほかない。その法則の作用で真理が引き寄せられ吸収されるのである。」
更にいう。

 「私が独自の霊視状態に入った時、別に私に助言者とか指導霊とかが付くわけではなく、自分が求めるものを自分で直接入手する。」
 「私は思想的にも感性的にも第三者からの影響は受けていない。」


 以上の抜粋は第一部でも紹介したが、それをあえてここで再録したのは、人間というものが本来はスピリットとか霊媒といった第三者を媒介せずとも、独力で真理を獲得する能力を具えていることを強調したいからである。

 それにつけても不可解なのは、デービス哲学のよき理解者であり信奉者でもあったコナン・ドイルが「デービスの支配霊はスエーデンボルグだという説もあながち否定できないのではないか」と述べていることである。

 こうした思想傾向つまり霊的真理に関する情報はみなスピリットから授かるものと考えたがる傾向こそ筆者が戒めているところである。この考えは人間というものを単なる容器と見なし、全ての責任、全ての活動、全ての優先権を第三者すなわちスピリットにあずけ、人間個人としての生きた存在価値をなきものにしてしまうのである。

 真のスピリチュアリズムは決してそのようなことは説かないし、また説いてはならない。人間はまず神から授かった自分自身の能力を第一義とし、それを開発し、それを駆使することによって真理を獲得すべきである、というのがスピリチュアリズムの教えである。

もちろんその過程においてスピリットからの援助や情報もあろう。いや大いにあるであろう。が、それを優先させ、それを頼りにして、人間としての努力を怠ることは許されない。

 思うに、もしもデービスが生きていて右のコナン・ドイルの言葉を耳にしていたら、おそらくデービスにとってこれほど腹にすえかねる説もなかったであろう。自分の著作が決してスピリットからの霊界通信ではないことを繰り返し述べていた点を考えるとき、一層その感を深くするのである。

 要するにここで強調したいのは、人間の進化のゴールは自主的な霊能の開発であって、霊媒能力ではないということである。霊界の住民つまりスピリットから通信を授かるという意味での霊媒能力は知的獲得の手段としてはあくまでも第二次的な手段であって、断じて主体的であってはならない。

主体は第三者の媒介なしに独自の知的活動を通じて直接的に探り、そして知る、あるいは悟る、ということでなければならない。

 人間の能力は正常に発達進化すると直接霊界へ浸透し、そこの事物や真理を直接的に感知するようになる。もちろんその過程においてスピリットの助言や援助を受けることはあるかも知れない。

がそれは地上のわれわれが教師や先輩などから助言や援助を受けるのと同じであって、決してそれのみに終始するのではない。発達した鋭い霊覚によって宇宙の知識の宝庫ともいうべき大精神即ち神から、その神の定めた法則に従って、必要な知識を引き出すのである。そのやり方は霊界の住民と少しも変わらない。
℘393   

 来たるべき人類の遺産はこの自主的な霊覚であることを信じて疑わない。決して単なる霊媒的能力ではなかろう。もっとも、霊媒能力も第二義的な能力としての存在価値は残るであろう。というのは人間はいつの時代にも高級神霊界からの教えと助言を求めたがるものだからである。

ただしその時代には現今のような霊界通信第一の風潮は消えているであろう。ともかく未来の人間能力は予言者的霊覚となっていくであろう。つまり直接高級神霊界と接触し、スピリットの媒介なしに体験と知識を得るようになるであろう。


 その良き見本ともいうべき人物を人類の歴史の中に幾人か見出すことができる。ブラーマ(梵天)、プラトン、仏陀、マホメット、イエス、ベーム、スエーデンボルグ等がそれであり、近代ではデービスをあげることができよう。彼らはその霊覚を駆使して、スピリットの助けを借りずに直接霊界から知識を得ることができた。その霊覚は地上においてすでに霊界のスピリットと同じ程度に発達しており、十分に霊界で通用したわけである。

 むろん人類にとってこうしたことが当たり前となる日は遠い遠い先の話であり、かすかに望めるおぼろげな目標物の如きものにすぎないかも知れない。が、それが人類の辿るべき進化の自然なコースであることを、右の霊覚者たちが雄弁に物語ってくれているのであり、われわれはその日の到来を十分信じてよいと思う。デービスも次のように語っている。

 「この超能力は人間全てが手にすることができることを知られたい。またその能力は外部から授かる〝預かりもの〟───したがっていつかは失うかもしれないもの───といった性格のものではなく、調和のとれた霊的発達から自然発生的に生まれるものであること、つまり不変不滅の霊的エネルギーの必然的発達の結果であることを知っていただきたい。

ただし、その能力は個人個人の遺伝的素質、性癖、社会的地位、道徳性、そして向上心の強さと純粋性にかかっているのである。」                                                                                         ("The Physician")



 このようなスピリチュアリズムの実際的側面である交霊現象は、所詮、人類にとって知識獲得の手段として最終のものではない。それは常に第二義的なものであらねばならず、それでもって事足れりと思ってはならないのである。

 霊界の知識をすべてスピリットや霊媒を通じて獲得しようとすることは、人間の精神を不当に束縛し、自らの力でなく第三者の力に頼ることになる。人間自身が具えている能力を自然に開発して活用することこそ知識獲得の唯一の、そして最後の手段であり、理性がその唯一かつ最後の判断基準なのである。

 が、このことは決して交霊現象の価値をいささかたりとも過小評価するものではない。人類の進化の途上にあって今も、そして今後も、かけがえのない重要な役割を果たさなければならないであろう。霊界の高等知識やスピリットの教訓を得る有力な手段として、いずれ広く一般に認められる日が来るであろうし、そうなれば、その効用は計り知れないものがあろう。

 ただ、繰り返すようだが、霊媒現象は、人類の進化と言う観点から見るとき、受身的な交霊現象から自ら意識的に霊界とかかわりをもつ方式へと変わっていくであろう。そうしていずれは完全に無意識の入神現象はカゲをひそめる日が来るであろう。

今日でさえ徐々にカゲをひそめる傾向があり、そのうちすっかり姿を消すであろう。そうなれば、代わって自主的で意識的な霊能が開発されるであろう。いわゆる異常現象の時代はまず終末に向かっていると言ってよい。
p395
 異常現象にも確かにそれなりの効用はあった。それは死後の生命、死後の世界の存在と言う大きな問題に注意を喚起する上で大きな役割を果たした。おそらく異常現象という非常手段をもってしなければ、この近代文明の時代にこれほどの関心を惹き起こすことは不可能であったと思われる。

 が、これをいつまでも続けていくには、その手段、方法があまりに不完全、あまりにお粗末である。やはり異常霊媒現象はよりよき手段が出るまでの過渡的非常手段であった。

 かの有名なフレデリック・マイヤースは霊媒のジュリエット・グッドナウを通じて送ってきた霊界通信の中で、霊媒現象の将来について次のように述べている。


 「今や真理発見の手段にも新しい時代が到来した。これまではこの手段にベールがかかっていた。明瞭な意識を残したままの正常な状態において書かれたものはほとんどない。が、その異常な時代もようやく夜を迎えた。目を奪わんばかりの光の中に新しい時代を迎えて、異常現象にも終止符を打たねばならない。

これからは異常現象だの超常現象だの超常意識だのといったものに頼ってはならない。これまでは意識の振子が極端に夜の方へ振れすぎてバランス失っていた。がそのバランスが戻り、高級界から低級界への安全な通路が確立されつつある。

 その通路を辿る旅人はもはや途中で無気味な影に邪魔されたり、せっかくの努力を台なしにされるような心配がなくなった。これからの研究は脳細胞の進化という自己開発によって、正常な意識のもとに行なわれることになるからである。

 時が未来へ向けて歩き進めるにつれて、地上の大気はその新しい通路から吹き込まれる高級な思念の影響を受け、高級界と低級界の霊的大気は一層接近し融合しやすくなって行くであろう。これが進化の必然的帰結なのである。

 地上の人類は進化の正道を踏みはずし、今まさに不和と憎み合いの渦中にあるが、いつまでもこのままではない。いつの日か高級界と低級界が愛と調和のうちに融合一体化することであろう。その日こそ地上人と霊界人とが差し向かいで直接交信できる日であろう。

 その時代にはオカルト(魔術)的異常能力の開発はもはや人間の啓発にとって必要でなくなる。低級な異常現象に使用される頭脳はいつしか高級な波長に対して鈍感になるものである。異様な雰囲気の中に浸りすぎているために、頼りにならない異常な波長ばかりを受けるようになる。

異常現象の中には高級界の強力な援助のもとに起きているものも無いではないが、結果として生じた現象はきわめて危険性に富み、せいぜい病的な好奇心(オカルト的異常能力のこと。編者)を挑発するのが関の山である。


 それで私は、真摯な真理の追究者に対して、そうした程度の低い異常現象は避けるようにと声を大にして忠告したい。もともと人体には高感度の反射グラフ(訳者注)が仕組まれている。心臓が骨格によって守られているように、この機能も脳髄の奥深い細胞繊維の中で保護されている。

そして近接する他の細胞の鍛錬によってその機能が一層磨きがかけられ、これを大切にし厳重な監視のもとに使用することによって、地上と死者の世界との間に確実な思想の交信が得られるようになる。そのために、つまり顕幽両界の思想の交流のために今一番大切なものは何か。それは〝よい血液〟───赤血球である。これからの心霊学徒が求めるべきものはこれ以外にない。


 地上はもはや心霊研究の白血球患者でうんざりしている。他界後、首尾よく上級界へ進んだ霊が、低級界から無気味に押し寄せる水蒸気のような思念のかたまりに追いかけられ、あらんかぎりの軽蔑と侮蔑の言葉でわめき散らされる破目に陥っているのは嘆かわしいことではあるが事実である。

 科学のおかげで星辰の世界まで思いを馳せることのできる今日、そうした低級界の実情に無知であることはもはや許されない。

 保守的ドグマが足枷となって地上の文明と霊界の光明とのつながりが相変わらず阻害されている。
 時おり勇気あるスピリットが下降し、ベールを掲げ、真実の報告を持ち帰ってくる。ベールといっても異常現象というベールではない。神の能力を正しく開発した高尚なベールである。私は心からそうした勇気あるスピリットの道中の安全を祈りたい。」                                                          (“Vanishing Night” by Miss J. Goodenow)


訳者註 マイヤースの言う〝高感度の反射グラフ〟とはおそらく松果体 Pineal body (gland)のことを指していると思われる。参考までに二,三の資料を紹介しておく。

 
ルース・ウェルチの 『テキスト心霊学』 に次のように出ている。
 「松果体とは脊柱の先端と二つの大脳葉にはさまれた、直系四ミリ長さ六ミリほどの円柱形の器官で、これがエーテル界との交渉に大きな機能を果たしている。脊柱の先端と二つの大脳葉の間というと、ほぼ頭の真ん中に当たるわけで、そこでごく小さな糸状の茎の上に縦になって乗っている。

内部には小脳がぎっしり詰まっており、その小脳は上皮細胞と脳砂と石灰分とで出来あがっている。また脳砂は松果体を乗せている糸状の茎のまわりにも沢山こびりついており、これが、急激な衝動を受けた折などに擦れ合って閃光を発する。

〝目から火が出た〟などと言う時の火とはその反射である。松果体の機能であるが、完全な究明は医学でもなされていないが、少なくとも生命の発生と透視能力とに密接な関係がある、というのが目下の観察である。」 
                                       (”Expanding Your Psychic Consciousness” by Ruth Welch)



 ハリー・エドワーズも心霊治療専門誌 Spiritual Healer の中でこう述べている。
 「医学は今少し松果体のはたらきに目を向けてほしいと思う。現在のように無知であることは遺憾である。なぜというに、松果体こそ全身のバランスを受けもつ中枢器官だからである。脳下垂体はいわばその行政機関のようなものであって、あくまで松果体という政府の従属機関である。

 ついでに言うと、松果体は身体の健康を司ると同時に、人間的機能と霊的自我との連絡係のような役目も果たしている。言ってみれば、エーテル界と物質界との中間にある無人地帯のようなもので、そこで霊的体験と物的体験とが会合しているような状況を想像していただけばよろしい。」
                                                                                                         (完)
  


   訳者あとがき    
 本書は原題を The Higher Spiritualism と言い、文字どおりに訳せば 「より高等なスピリチュアリズム」 ということになる。では何より高等なのかという問いに対しては原著者自身が序論の中で明快に答えてくれているので蛇足は加えない。

 
ただ関連したことを一言述べさせていただけば、本書が出版されたのが一九五六年で、すでにかなりの年数を経ているが、日本における心霊事情に照らしてみると、今こそこうした警世の書を一番必要としている時期であることを痛感する。


 いま日本の心霊界はまさに百鬼夜行の観を呈している。書店の心霊書コーナーを見ていると、心霊的なものであれば何でもいいといった調子で無節操に次から次へと怪奇的なおどろおどろしいものが出版されている。

なぜこうなるかと言えば、日本人が本質的に心霊的な、あるいは宗教的なものを好む習性をもっているからである。
真夏になると映画や芝居、週刊誌などで怪談物や怪奇めいたものが流行するのは、日本ならではの、世界に類を見ない風物である。

 昔ならそれでもよかった。が一八四八年に興ったスピリチュアリズムによって、本書で紹介された通り、死後の世界について実に豊富な資料が得られ、それはもはや信仰ではなく確固たる事実となってしまった。もう幽霊話などで冷や汗を流す時代ではなくなった。死を恐れることすら時代遅れとなる時期もそう遠い先の話ではない。


オリバー・ロッジの言葉を借りれば〝死は楽しく待ち望むべき冒険〟なのである。死後には明るく生き生きとした次の世界が待ちうけている。この世よりはるかに自由で闊達で美しい世界への旅立ちをなぜ恐れる必要があろうか。

 そう知った時から、その人の人生にコペルニクス的転換が生じる。明日への心構えが変わり,今日の生き方が変わる。将来を、さらには死をも達観した上で、現在と言う時を大切に生きようとする考えが芽生えてくる。スピリチュアリズムの効用はまさにそこにある。
℘402
 そのスピリチュアリズムを紹介した書物はそれこそ枚挙にいとまはないが歴史を辿りながらスピリチュアリズム関係のオーソドックスな名著や霊界通信を惜しみなく引用し、思想面まで詳しく説いたものは、本書の他にあまり類を見ない。


 また本書全体を通じそのレナード氏の態度は穏当で偏りがなく、取り扱った問題も広範囲に渡っていて、それが本書の特徴ともなっているのであるが、残念ながら、こと再生問題に関するかぎり大きな偏りが見られ、あまりに単純でしかも断定的すぎるきらいがある。

 再生説がスピリチュアリズムの教義に取り入れられていないことは事実であるが、それは再生説が否定されていることを意味するものではない。単に異論が多くて断定すべき段階に至っていないというにすぎない。しかも、どちらかと言えば肯定説の方が有利な傾向にあるのが実情である。

 再生説にもいろいろある。レナード氏が取り上げた輪廻転生説はその一つに過ぎない。それがあまりに合理性を欠き、子供騙しの説であることは、レナード氏が指摘するまでもなく、すでに一般的な常識となっていると考えてよい。

 一方、心霊学的に見て合理性が認められる説としては創造的再生説と全部的再生説がある。

 創造的再生説というのは、魂の親ともいうべきスピリットが自己の魂の一部───いわゆる分霊───を母胎内の新しい種子に宿すというもので、ちょうど父親の精子が母体内で卵子と結合して新しい肉体的生命を創造するのに、形の上では似ている。

したがってその新しい魂の質は親のスピリットに似ており、辿る人生もその親───いわゆる守護霊───が地上に残した型、つまりカルマによって影響を受けると言われる。が、その魂の宿った肉体は両親の肉体的遺伝や体質を受け継ぐために、そこにはまた新たな人生模様が織りなされることになる。

 もう一つの全部的再生説は文字通り魂の全部がそっくり新たな身体に宿るという説で、形の上では輪廻転生説と同じであるが、異なるのはその再生が無限に繰り返されるのではなく、せいぜい二、三回、多くても七、八回にすぎず、

しかもそれが地上に戻りたいという単なる願望からではなく、魂の向上進化という至上目的に照らして、その魂の現段階において必要な体験を求めて戻ってくる、とする点である。戻ってくるのも必ずしも地上にはかぎらず他の物的天体の場合もあり得る。


 それには、前世で成就できなかったことに再度チャレンジするというケースもあれば、犯した罪の償いを目的とした場合もあるであろう。あるいはその双方を兼ねている場合もあるかも知れない。

 このことに関連してレナード氏は、前世の記憶が無いのでは意味がないといった主旨のことをのべているが、本当は記憶がないところにこそ神の配慮があると考えられるのである。仮に前世で残忍きわまる殺人を犯した人間が再生してきて、ある年令から突然その記憶が蘇り、生涯ついてまわったとしたら,果たしてそれが本人にとってプラスになるだろうか。

 体験を積むということは、体験の記憶や数が増えるということではない。体験によって魂が無形の成長を遂げることであり、したがって罪を償うという目的にとっては、その罪の記憶は特に必須のものではないし、むしろない方が新たな体験───おそらくは苦しい体験───に素直に対処できるであろう。

 そうした理屈とは別に、全部的再生と言っても、肉体を通じて顕現する意識は氷山の如くごく一部であるから、同じ魂が再生しても実質的には前生と別の意識で生活するはずである。

 わずか一回の地上体験で十分というレナード氏の考えは、その点からみても単純すぎる。常識的に考えても、未開人の生活と文明人の生活、あるいは悪徳の限りを尽くした人間の一生と、生涯を神や仏に捧げた人の一生とに同一の価値を認めるわけにはいかない。まして、水子や夭折した子の人生は短すぎる、というよりは未経験に等しい。

特殊な例として、あえてそうした短かい体験を求めてやってくるケースもあるようであるが、一般論としてはこれを論拠とするには無理がある。

 なお、再生のもう一つの目的として、高級なスピリットが特殊な使命を帯びて降りてくる場合も考えられる。レナード氏が地上を幼稚園に譬えるのは正しいが、卒業したらもう帰ってくる必要はないという理屈は短絡的過ぎる。幼稚園にも先生がいるように、すでに地上の段階を卒業した秀れたスピリットが、人類の指導のために戻ってくることは十分考えられることである。

 結論として私は、この全部的再生と創造的再生の双方が入り混じり、それに動物的段階からようやく人類にまで進化してきた真新しい原始的霊魂の誕生を加えた三つのタイプが同時に進行していると考えるのである。

 むろんこれがスピリチュアリズムの定説というわけではないが、そうした再生説を説く霊界通信が多くなりつつあることは事実である。

 スピリチュアリズムも進歩している。思想的には今後ともますます広く深く発展していくことであろう。そしてそれは多分、病気治療、因縁、除霊、供養といった実生活と直結した分野に広がっていくことであろう。本書はその基本となる学問的体系づくりの一つの試みとしての価値を有するものである。

 なお本書の翻訳には初版の一九五六年版を使用した。また、版権を取得するに際して、サイキックニューズ社のモーリス・バーバネル主幹に原著者レナード氏についての資料を求めたところ、すでに他界しているという事実以外に提供すべき情報はないという返事であった。

しかし、どこかに何かの資料があるはずだと思い、心霊資料の最も豊富な The College of Psychic Studies (モーゼスの自動書記の原ノートもここに保存されている)に問い合わせたところ、館長のマーシャル女史 Brenda Marshall からも同じ内容の返事が届いた。

  N・フォドーの『心霊科学事典』にも見当たらないところを見ると、よほど地道に勉強を積んで、その成果をこの一冊にまとめてあの世へ旅立たれたのであろう。その洞察の鋭さと深さは本書が何よりも雄弁に物語っていると言えよう。

 レナード氏も私があの世でお会いするのを楽しみにしている人の一人である。

    一九八五年七月  
                                                                                近藤千雄
       



 スピリチュアリズムの歴史的変遷   梅原伸太郎

 発端と波及
 ハイズヴィル事件の起こった一八四八年という年に特別の意味を認めるかどうかについては色々な意見がありうるであろう。しかし、この事件以降、スピリチュアリズムの思想と運動はまたたくまにアメリカ、ヨーロッパに広まり、ついでロシア、南米に及び、そして更に世界各地に波及していったというのも歴史的な事実である。

 ハイズヴィル事件の起きた一八四八年は世界的な激動の年であった。この年、アメリカ合衆国の領土はようやく太平洋岸に達した。この頃産業革命の影響は、ヨーロッパ、アメリカの各地に及び、革命、民族統一運動、独立運動などを刺激した。

フランスの二月革命、ドイツ、ハンガリーの三月革命、ポーランド、ハンガリー、アイルランドの独立運動、イタリアの統一運動などがこの年に起こった。また高まる民衆意識のなかで、労働階級といわれる新たな一群が自らの存在主張をなしつつあった。イギリスではこの年、普通選挙を目ざすチャーチスト運動が盛りあがった。

 このような世界史的激動の分岐点にあって、一つの主張と一つの示威がなされた。一つはマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』であり、一つはハイズヴィルの事件であった。前者は人間がこれをなし、後者は霊界がそれを反駁したのである。唯物論もスピリチュアリズムも同時に世界を駆け巡った。

唯物論は科学の世俗的成功に助けられて一世紀半この地上の大部分の知的な人々の固い信念となり、大衆の意識に浸透し、主要国の政治体制に多くの影響を与えるまでになった。

唯物論と科学主義は二〇世紀の殆どあらゆる学的主張の根底にあり、固い枠組みをつくり上げ、少数派のスピリチュアリスティックな主張や、実感的表現をタブー化している。これはかつてスコラ哲学が新しい学的発展や自由な表現を抑えつけていたのと変わらない。


 共産党宣言とハイズヴィル事件の間に見られるような対偶的現象は歴史上の他の時点でもみられた。

チャールス・ダーウィンの進化論がアルフレッド・ウォーレスのそれと殆ど同時であったことは余りにも有名である。進化論は二〇世紀の諸思想に最も影響のあったものの一つであるが、もし進化論の功績が、スピリチュアリズムの強力な宣揚者であったウォーレスの手に帰せられていたなら、人類は唯物論的な世界観の受容についてもっと慎重であったかもしれない。また、現代数学における確率論的な方法の導入と発展が、一方で超心理学の学的成立を可能ならしめているのも面白い。



 ハイズヴィル事件のもう一つの意義
       

 交霊界などというとただただ神秘的なことと思う人も多いであろうが、ハイズヴィル事件以降の近代スピリチュアリズムの展開は、神秘的事実に加えて、近代的合理主義的な面があった。その顕著な現われが例の叩音現象の取り扱いにみられる。叩音現象それ自体は訳の分からぬいわば不気味な現象(従来の感じ方からすれば)であったが、これを逆に通信手段として活用するに至った着想はいかにも近代的な合理主義の産物であった。

当時実用普及の段階にあったモールス信号にアイディアを借りて、叩音を通信手段とすることを思いついたのである。単なる騒霊的怪音もあの世からの或るアピールであることには変わりがない。

しかしそうした情動的訴えにルールを設けて、交信の手段とするという考えは、十九世紀も半ばになって初めて人の心に生じたことである。あの世とこの世にようやく理性的な交信の約束が締結したのであった。

 ハイズヴィル事件以降アメリカ、ヨーロッパ各地に広まった家庭交霊会については、これまで重要な観点が看過ごされてきた。

 「流行」という安易な説明概念がことの本質を見失わせてきたようである。確かに表面的にみれば単なる家庭交霊会の異常な流行であり、これに眉をひそめた人も多かったことであろう。しかし流行というものには常に一考の余地がある。

ハイズヴィル事件以降の家庭交霊会の流行によって、歴史上でこの時期のみ異常に多く超常現象が発生したことは、 「超常」 ということばのそもそもの意味から言ってもおかしな事態であるし、確率論的にも偶然としてはとらえ難いのである。第二には、これと関連するが、こうした家庭交霊会が、超常現象の発生装置であり、またいわゆる霊媒者の生まれ出る揺籃の働きをするものではなかったかという点である。

偶然か企みか、何の変哲もない丸テーブル、その周囲に男女が手をつないで座ること、十人内外で一杯になる小部屋、外光の遮断やキャビネットといわれる暗室の備え等々といった条件が、科学者が合理的に考えだすよりも、あの世と協力して霊的現象を発生させる、またそうした媒体となる能力者を胚胎させる自然条件に合致していたとしたらどうであろうか?  こうしたことに長いこと気づかなかったことは迂闊であった。

例えば物的現象の生起に必須とされるエクトプラズムは大きな部屋では拡散し易く現象の生起に不利である。従って家庭霊会に用いられる小部屋は合理的である。

 交霊会の参会者 (シッターといわれる) はできるだけいつも同じ気心の知れた人たちの方がよい。参会者の反対観念は微妙な霊媒の意識に影響を与えるし、エクトプラズムの供給者は何も霊媒ばかりではなく参会者からも集められるということは、任意な参会者によって不定期に行なわれる実験が現象の発生のためには不合理であることを意味している。

 「パキプシーの預言者」として知られるアンドリュー・ジャクソン・デービスはスピリチュアリズムの到来を新しい時代の曙光(ショコウ)として予告していた。デービスの日記にはフォックス事件の始まった一八四八年三月三十一日のことが記されている。この日、何の関わりもない場所で、見知らぬ人々の身の上に起きた出来事を、デービスは「今日偉大なことがなされた」と記録したのである。

 人類は科学主義と結びついた唯物論的世界観の潮流に呑みこまれつつあった。そしてそれは台頭しつつある「個」や、民衆や、ひいては労働者階級といわれるものの存在主張と共同歩調をとりつつあったのである。従って、大部分の人が、霊的世界をないものとしてすます───それこそが自己の存在と意識の源泉であるにもかかわらず───世界観を選択するであろうことは、ほぼ確実であった。

しかしそれは誤っている。人類はむしろ、意識の成長と新しい発展段階に応じた霊的真理を受け入れなければならない。そのことが、種々の対偶的現象をもって霊界が人類に示そうとすることのように思われる。スピリチュアリズムのここ百数十年にわたる運動の展開は人類に霊的真実を気づかせ、今よりも一段と全体の霊化を図るための一大啓発運動だとされている。



 心霊現象の三段階
 スピリチュアリズムにおける心霊現象の発生はこれまで三段階の時期を経ているという。
第一段階は、客観的、物理的心霊現象の多発した時代で、その内容は叩音、物体浮揚、物品引き寄せ、直接談話、怪光、幽姿出現などである。霊媒の身体から離れた処で客観的に生ずる現象といってもよい。

霊媒の体から取り出されるエクトプラズムという半物質が介在してこれらの現象が生ずるといわれる。勿論、このエクトプラズムを操作するのは霊の側で、その時霊媒は意識を失っているか、夢の状態にある。

初期の心霊研究者が研究対象としたのは専らこの種の心霊現象で、ブラバッキー女史(彼女自身その初期においてはスピリチュアリズムの運動に加わっていた)などの神智学の流れからは、心霊研究は低次の物理現象にのみ興味をもちスピリチュアリスティックな領域を唯物論的な方法で扱うと非難された。確かにこの種の実験は低次な精霊が関与するという側面がある。

しかし、当時の人々の唯物論的傾向や科学者たちの関心のもち方からすれば、まずこうした客観的物理現象をもって人々の関心を引き付ける以外になかった。なお現在では地球上の特殊な地域(たとえばブラジル)を別とすればこの種の心霊現象は極端に減少している。

日本では、浅野和三郎(一八七四──一九三七)が活躍した昭和初期から十数年が物理的心霊現象の最盛期で、昭和も四〇年代になると殆ど能力者が払底してしまった。


 第二段階は主観的、心理的心霊現象といわれるものが主流を占めた時代で、現象は一応霊媒の肉体及び意識を通過した形で現われる。自動書記、霊視、霊聴、サイコメトリーなどがこれに当たる。こうした特殊能力を発揮しつつある間、霊媒の意識は、一般的には半睡状態であるが、日常のことを普通になしつつある間に瞬間的にこうした印象を感受することがある。霊媒はこうした意識の二重状態を達成した人である。

この主観的な心霊現象の発生する条件は、物理的心霊現象のそれほど厳しくないので、より多くの人にスピリチュアリズムの真理を普及する便がある。


 次にやって来たのが現在の霊的治療を主とする活動期であるといわれている。霊的治療はスピリチュアリズム勃興の初期からみられたが、これに専心してハリー・エドワーズ(国書刊行会刊 梅原訳 『霊的治療の解明』一九八四、参照)のような成果を上げる人は出なかった。ここ数十年が治療を主とした動きとなっている。

霊的治療は物理現象と心理現象のどちらの側面も持っている。心霊手術はほとんど物理現象といってよい。

霊的治療は難病者の現実的救済という面からみて、その波及的影響力が非常に大きく、また現代科学の一端を担う科学者たちの意識の変革にも役立つ。現代において霊的治療が主として用いられる理由は、この期に再生しつつある人々の心が、かつてほどハードなものではなく、そうした人々にとっては、霊的世界が存在することの証拠の呈示も霊的治療で充分であるからだという。


これらの三期の分類は、内容が交錯して現われているので必ずしも奇麗な分類ではなく、あくまでも力点の移行の問題である。なお一九七〇年ぐらいから輩出したいわゆる超能力者のグループについては別に考察する必要があるであろう。


 わが国におけるスピリチュアリズムの展開

 ここ数年、私は(「日本心霊科学協会」等において)右に述べたような西欧におけるスピリチュアリズムの歴史的展開は、わが国において江戸後期ぐらいから始まった霊界研究や、霊的民衆宗教の流れと奇妙な連関をなしていることを指摘してきた。その後、若き畏友で国学院大学講師の鎌田東二氏が、その指摘をやや跡付ける結果になった。

(創林社刊 鎌田東二著『神々のフィールドワーク』一九八五、参照)しかし、この観点はなお精細に検討され、裏付けを与えられる必要があろう。


 平田篤胤(アツタネ 一七七六──一八四三)の幽明界研究や、黒住を始めとする妙霊、天理、金光などによって啓示される霊的実在への関心とその高まりは、その後わが国に出現する新宗教の共通項であるともいえる。こうした新宗教は、殆ど日本型スピリチュアリズム(大きく分けて、神道型、仏教型、あるいは両者の混交型とがある。

最近ではキリスト教との習合型もみられるが)といってもよいものである。無論、あらゆる宗教にこうしたスピリチュアリスティックな側面がある。しかし歴史上のある時期に強く特色づけられる色調や潮流を見逃してはならないであろう。


 平田篤胤に始まる霊界研究と黒住などの民衆宗教にみられる霊的衝動は、寄せ来る文明の波濤(ハトー)の底に潜んで明治維新の激湍を超え、大本教に流れ込んでいる。大本はわが国の霊的衝動のルツボである。大本によってわが国の霊的世界は蠢動(シュンドウ)し、旋回し、やがて爆発した。霊的エネルギーはここから再び放散して新興の諸宗の間に分け持たれてゆくことになった。

 わが国近代のスピリチュアリスティックな展開の中で最も注目されるのは浅野和三郎である。浅野の業績の評価はまだ十分になされていない。

 浅野が篤胤以来のわが国霊界研究の流れを汲み、また本田親徳(一八二二──一八八九)、長澤雄楯(一八五八──一九四〇)の流れを継承する審神者の系統にあることはわが国の心霊関係者のうちではよく知られている。この流れを浅野は本田流の伝授を受けた出口王仁三郎(一八七一──一九四八)から吸収した。

王仁三郎は審神者型というよりも霊媒型(あるいは両者の混交型かもしれないが)。と同時に浅野はこうした日本の審神者の伝統と西欧渡米の「心霊研究」(サイキカル・リサーチ/ 心霊現象の純科学的研究をいう)およびスピリチュアリズム(科学的研究に加えて思想的、宗教的側面をもつ)を習合した。

否、習合したというよりはこの霊的世界の二大流を受けてそれらの奥にある生きた霊的真実のありのままを探ろうとした。習合によって折衷を図ろうなどという考えは浅野のなかに毛ほどもなかったであろう。


浅野の研究は現代の科学者の前提とするものとは少しく異なる。浅野の目ざしたものは人間の身体と意識(霊媒の)を媒体とした霊界の実証的研究であった。浅野はこれを科学であると信じて疑わなかったが、その点で、欧米の科学研究たる「心霊研究」とは違ったものである。このことを本人もその後継者たちも暫く気が付かなかった。

浅野の立場は欧米でいえばスピリチュアリズムの範疇に入れられるものである。もっともこうした分類もあまり奇麗にはいかない。


 いったい西欧のスピリチュアリズといい、これとシンクロナイズするかに見えるわが国の江戸後期以来の霊流といい、何か関連し共通するものがあるのであろうか。第一に言えることは、新しい意識の発展と個の成長に応じた霊的認識の問題がある。十九世紀半ばからのスピリチュアリズムの勃興は、霊的知識が教会や少数のグルたちの専売になりえないことを示している。

ハイズヴィル事件で重要な役割を果たしたフォックスの三姉妹のうちのリーが受け取った霊信に 「この真理をもはや隠してはならない」 というのがある。個の意識の発達、そして科学と唯物論の結びついた強力な世界観の台頭を見る時、霊的知識が単に宗教のヴェールのなかに隠匿されているのみでは収まらない時代が始まっていることが、あの世の高次な知性からみればあまりにも歴然としていた。


 私は江戸後期の民衆宗教は、黒住宗忠(一七八〇──一八五〇)が天照大神を、本来それをただ一人受けるべき天皇を差しおいて一個人の腹中に感受して以来、個の意識(霊我)を開いて明治維新の改革を準備したと考えている。

もし天照大神が誰によらず、一個人たる民草のなかに入りその霊光を輝かせ得るならば、この世の諸々の権威などいったいどうなるであろうか。その意味で黒住の出現はわが国における偉大な宗教革命であり、また霊的真実が民衆のなかに分け持たれ浸透してゆく前兆であった。


 第二に既成の宗教的権威を破って、その奥の霊的源泉に迫ろうとする衝動がある。既成宗教の権威は霊的権威であるとともにこの世の権威なのである。霊的源泉に汲んではいるが、後からこの世の権威の付けたしたものが多い。これについてはモーゼスがイムペレーターと交わした問答をみれば想い半ばに過ぐるものがあろう。(本集『霊訓』参照)。

わが国においても事情は同じである。天皇の宗教、儀式の宗教、道徳の宗教は皆一様に霊的真実の上に厚い表皮を重ねている。従って「大本」に代表される「元の神が世に出るぞよ」とはこうした表皮の部分を貫通して、より本源の霊的古層に至りたい衝動とみることができる。元の神とはより深く霊的真実を湛えた神である。西欧においてもキリスト教的表皮をはぎ取ってみれば必ず元の神が顔を現わす筈である。



 人類と宗教の霊化
 しかし、わが国の多くの新宗教がこれまでやっているように、自分の集団の神を第一として、単に本源の神の神名を言い変えることを繰りかえしているだけでは何もならない。カミンズの 『不滅への道』 や 『人間個性を超えて』 を読む人は、既成の宗教の枠組みを超えて、個人の魂の上昇の旅を忍耐強い真実の目で遠望するに至るであろう。全ての宗教の古層にはスピリチュアリズムが存在する。

霊的世界の存在が真実ならば、スピリチュアリズムは必ず人類の中に浸透し諸宗教を変革する。このことはトートロジー(道後反復)を言うのと同じほど確実であろう。


 人類が霊的真実を知って一様に霊化してゆくためには、諸宗教も霊化していかなくてはならない。従って、スピリチュアリズムの運動とともに、これと並行して諸宗教のなかにおける霊化運動が起こる筈である。キリスト教も霊化し、仏教も霊化し、神道も霊化する。これまでのところの動きはこうした人類霊化への一道程なのであろう。ブラジル、アルゼンチン、フィリピン等についで韓国にキリスト教を核とした宗教の霊化が起こっているようである。

そしていずこに於いても霊的治療が道を拓く。宗教のルツボたるわが日本では諸宗教が霊化する。ソ連、中国については何が何時始まるのか、人類の未来を担ったこの課題は、これから最も注目されるところであろう。
                                                                                               (一九八五・七・三十一)


 
 
 

 
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