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          スピリティズムによる福音   14章~28章

目次

第14章 あなたたちの父母を敬いなさい
 孝心     誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか   肉体的な親族と霊的な親族
 霊たちからの指導         恩知らずな子供と家族の絆


第15章 慈善なしには救われません
 霊が救われるために必要なこと       善きサマリア人の話     最大の戒め 
  聖パウロによる慈善の必要性     教会なしには救われません。真実なしには救われません
   ♦霊たちからの指導  慈善なしには救われません


第16章  富と神の両方に仕えることはできません
 財産家の救い          強欲から身を守る        ザアカイの家でのイエス        悪しき金持ちの話
  タラントの話          神意に従った富の使い方。富と貧困の試練         富の不幸
 霊たちからの指導     真なる財産  富の使い方 地上の財産への執着心を捨てること    財産の相談


第17章  完全でありなさい
 完全性の特徴  善人   善いスピリィテスト   種を蒔く者の話
 ♦霊たちからの指導  義務  徳  上位の者  この世の人類   肉体と霊を大切にしなさい


第18章 多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
  結披露宴のたとえ話    狭き扉      主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない
  多くを受けた者は多くを求められる
  ♦霊たちからの指導  持つ者に与える   行いによりキリスト教徒であることを知る


第19章 山をも動かす信仰
  信仰の力   宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件   枯れたイチジクの木の話
  ♦霊たちからの指導     信仰-希望と慈善の母   人間的な信念と神への信仰

 
第20章    最後に来た労働者たち
   ♦霊たちからの指導  最後の者が最初になる        スピリティストの使命     主の労働者たち 


第21章 偽キリストや偽預言者が現れるであろう
  果実によってその木を知る   預言者たちの使命  偽預言者たちの奇蹟  
  全ての霊を信じてはなりません  
♦霊たちからの指導 偽預言者  真なる預言者の特徴  幽界における預言者たち   エレミアと偽預言者 


第22章  神が結び合わせたものを引き離してはなりません  解消してはならない結婚     離婚
 


第23章 聴き慣れない教え     父母を憎む      父母と子を捨てる    死者を葬ることは死者に任せる
     平和ではなく分裂をもたらしに来た


第24章 灯りを升の下に置いてはいけない 
    升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか       異邦人たちのところへ行ってはならない 
  医者を必要としているのは健康な者ではない       信仰の持つ勇気   
    十字架を背負う。命を救いたいものは命を失うことになる


第25章  探しなさい、そうすれば見出せるでしょう
 

あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます。 空の鳥を見なさい
金を手に入れることに悩んではいけません。


第26章 ただで受けたのですから、ただで与えなさい
  神より恵まれた病を治す力  支払われた祈り  宮を終われた行商人 タダで授けられる霊媒性

  


第27章 求めなさい、そうすれば与えられます 
  祈りの条件    祈りの効果    祈ること―思考の伝達   理解できる祈り   
   死者や苦しむ霊たちへの祈りについて
  ♦霊たちからの指導       祈り方   祈りの喜び 



第28章 スピリティストの祈り   序文

1、一般的な祈り  
         1,「主の祈り」   ⅳ 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください  
         4,スピリティズムの集会      8,霊媒への祈り

2、個人的な祈り  守護霊や保護者への祈り ・ 悪い霊を遠ざけるために  
 ・欠点を治すために
 ・誘惑に抵抗する力を求めるために・ 誘惑に勝つことが出来た時の感謝の祈り
    ・忠告を求めるために
 ・人生の苦悩の時 ・ 願いが叶ったことを感謝して ・  甘受と忍従の気持ち ・
 ・ 切迫した危険を前に
     危険から免れることが出来たことを感謝して ・ 就寝の時 ・ 近い死を感じた時

3、他人への祈り      苦しむ者への祈り   他人に与えられた利益への感謝の祈り  
  私たちの敵や私たちの不幸を望んでいる者への祈り 私たちの敵に与えられた利益への感謝の祈り
     スピリティズムの敵対者への祈り 生まれたばかりの子供への祈り  危篤状態にある者への祈り

4、霊への祈り 死後間もない人への祈り  私たちが愛情を抱いていた人への祈り  
      祈りを求める苦しむ魂への祈り     他界した敵への祈り  犯罪者への祈り 
   自殺者への祈り         後悔する霊への祈り  強情な霊への祈り  

5、病人、憑依に悩まされる者への祈り 
  病人への祈り  憑依に悩まされる者への祈
  

スピリティズムの教の要約

家庭の福音を行いましょう

家庭の福音の行い方


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  ー本文ー

  第14章  あなたたちの父母を敬いなさい

、あなたたちは戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をも欺いてなりません。あなたたちの父母を敬いなさい。
 (マルコ 第十章 19、ルカ 第十八章 20、マタイ 第十九章 18-19)


、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい



 孝心
、自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することができないことから、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことができます。

しかし「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。

神はこの様に顕すことで両親に対する愛には彼らに対して守らねばならない義務である敬意、注意服従、寛大さなどが伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善の全てよりも、さらに厳しく守らねばならないことなのです。

この義務は当然、父親や母親に代る人に対してもあてはまりますが、献身の義務が少なければ少ないほどその功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。


「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う言葉は、単に尊敬しなさいと言うことからなるものではありません。彼らが必要とするときには、彼らの介護をしなければなりません。彼らが年老いた時、

彼らが静養できるようにしてあげなければなりません。私たちが幼かった頃、彼らが私たちにしてくれたように、彼らを優しく囲んであげなければなりません。


 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分たちに必要なものを何一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけは無いようにと必要最低限のことだけを行い、

また、自分たちには最高のものや、最も心地良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分たちは偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。


嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親たちが、若くて強い子供たちの為に、仕えなければならないというのでしょうか。子供たちに母乳を与えてくれていた時、

母親はその母乳を子供たちに売ろうとしたでしょうか。子供たちが病気だった時夜通しで看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。

子供たちは、貧しい両親に対して最低限必要なものだけでなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情のこもった介護の義務を負っているのであり、それらは子供たちがすでに受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。


弱かった時に自分を守ってくれた人達に、自分が何を負って居るのかを忘れてしまう人は哀れです。

彼らは子供たちの安らかな生活を確保するために何度も厳しい犠牲を払い、子供たちに物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者たちは哀れです。

そのような者たちはやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼らは最も大切な愛情によって傷つけられることになりますが、それは時として現世のうちに起こり、そうでなければ別の人生において
必ず、人に対して行ったと同じことで苦しむことになります。

 中には義務を無視し、子供たちに対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供たちの役割ではありません。子供はこうした親たちを非難する権限はないのです。なぜなら、子供たちは恐らくそのような親を持つに価したからなのです。

慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、

これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか判ります。したがって、子供たちは自分たちの親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に、

大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。そして前者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。



、「主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい」と神は言いました。

なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることができます。

「主であるあなたたちの神が与えてくれる」と言う言葉は、現代の十戒の形式から除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには当時のヘブライ人たちの考え方や状況について言及しなければなりません。彼らはいまだ死後の世界について知ることは無く、

その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。従って目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。そこで神は、子供たちに話しかけるように、彼らの理解の届く言葉によって、彼らを満足させることができるもので期待を持たせたのです。

ヘブライ人は砂漠に住んでいました。神が彼らに与えるのは、約束された土地、それは彼らの熱望するものでした。彼らはそれ以外の物は何も望んでいなかったのです。

神は、彼らがもし戒律を守るのであれば、その地で彼らが長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろうと言ったのです。


 しかし、キリストの出現の時代を確かめると、彼らはその考え方より発展させていたことが分かります。より物質的でない糧を取るべき時代が到来すると、イエス自身が彼らに対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的人生について教え始めます。
 「地上ではなく、向こう側で、あなたたちは善行の報酬を受け取ることになるのです」これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。
 

こうした理由によって、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼らに地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです。(→第二章、第三章)



誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか

、そしてイエスが家に戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事をとることもできなかった。そのことを知ると、身内の者たちはイエスを取り押さえに出て来た、気が狂ったと思ったからである。


 しかし、母親と兄弟たちが外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、


「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた。

「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人々を見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、母親なのです」と言われた。      (マルコ 第三章 20,21、 31-35 マタイ第十二章 46-50)



、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲からすると、イエスの言葉の幾つか一見、風変わりに聞こえます。不信人な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃するための武器とします。

しかしイエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈悲の法があることを否定することはできません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。

ゆえに結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本的原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。
 


、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味では母親を裏切ったように捉えることができます。

 イエスの兄弟については、彼らはあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊たちであり、イエスの任務を理解することができませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼らの心を動かすことは無く、誰一人としてイエスの使途として従う者はいませんでした。

それでも、イエスの敵から彼らもある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼らはイエスを兄弟としてと言うよりも変わり者として扱いました。

ヨハネははっきりと、「彼らはイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。 


 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することは無いでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることは無く、パブテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。


 彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、

母親への裏切りが隠されている筈がありません。したがって、たとえ話の形をほとんどいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。

 イエスはどんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示すためにその機会を利用したのです。

 

 

 肉体的な親族と霊的な親族
、血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。

父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のために肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩のための知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。


 一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者たちは、多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊たちであり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。

 しかし、その霊たちが、前世でお互いの反感によって引き離された霊たちで、お互いにまったく馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。

家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生れる以前、生きている間、そして死後にも霊たちを結びつけます。違った両親もつ二人が、血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟であり得ます。

このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私たちが日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。

そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです。(→第四章 13)


 即ち家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です

前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂のさまざまな移住を通じて霊界で永続します。後者の絆は物質と同じように時間が立つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。

これらのことをイエスは理解し易いように伝えるため、使徒たちに、ここに私の母親と兄弟がいます。つまり私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです。と言ったのです。


 血縁のある兄弟たちがイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表わされており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らが自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒たちに述べたのです。

「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟たちと共にいましたが、

イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだと言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他のさまざまな場面で十分に証明しています。



        
霊たちからの指導                      恩知らずな子供と家族の絆

、忘恩は、エゴイズムから直接的に生み出された結果の一つです。誠実な心は何時もそれに抵抗します。しかし、子供たちの親に対する忘恩は、更に憎悪のこもったものです。

この視点から特に忘恩について考慮し、原因と結果について分析してみましょう。この場合にも、他の場合がそうであるように、スピリティズムは人間の心が抱く大きな問題の一つに光をあててくれます。

霊は地上を後にする時、その霊の質的に固有の感情や美徳を持ち合わせて行き、宇宙において完成を遂げたり、光を受けようと望むまでそのまま止まったりします。したがって多くの霊たちは暴力的な憎悪に溢れ、満たされない反逆の欲望を抱いています。

しかし、彼らの一部は、他の一部よりも進歩しており、真実の一辺を垣間見ることになります。

すると憎悪に溢れた感情がもたらす不幸な結果を味わうことになり、善き決意をしようと言う気持ちを抱くことになります。神のもとへ辿りつくには、慈善と言うたった一つの合い言葉しかありません。

しかし侮辱や不正の忘却なき慈善は存在しません。赦しなき慈善も、憎悪に満ちた心による慈善も存在しません

すると、そうした霊たちは今までにしたことの無いような努力によって、それまで地上で誰を憎んでいたのかを見ることができるようになります。しかし、憎んだ相手を見ると、彼らの心に中には怨みがこみ上げてきます。赦したり、自分自身を犠牲にしたり、彼らの財産、家族、

もしくは名誉を破壊した相手を愛すると言った観念に抵抗します。しかし、不幸な彼らの心は動揺します。彼らは躊躇し、ためらい、相反する感情によって気持ちが乱されます。

その試練の最も決定的な時に、善の決意が優勢であれば、彼らは神に祈り、善霊たちが彼らに力を授けてくれるように懇願することになります。


 結果的には、何年もの瞑想と祈りの後に、その霊は自分が嫌った者の家族の一員の肉体を利用することになります。新たに生まれようとする肉体の運命を自ら満たしに行けるよう、上位からの命令を伝える霊たちに許可を求めます。選ばれた家族の中で、その霊の行いはどうなるのでしょうか。

それはその霊の善き決意に強く固執するかどうかにかかっているのです。かつて憎んだ相手と常に接触することは恐ろしい試練であり、いまだ十分に強い意志をもっていなければ、そこで挫折してしまうことも珍しくはありません。この様に善き決意を持ち続けるかどうかによって、ともすれば、

共に生きるように招かれた相手の友達までもが敵になってしまうことがあるのです。ある子供たちに見られる、理解しがたい本能的な反発や憎悪は、この様にして説明することが出来るのです。

 その時の人生の中に、そのような反感を実際に生む原因となるようなことは何も起きていません。その原因を知るには、私たちの目を過去の人生に向ける必要があるのです。

ああ、スピリティストたちよ、人類のもつ大きな役割を理解しなければいけません。肉体が創られるとき、その中に宿る魂は進歩するために宇宙からやってくるのです。あなたたちの義務についてよく知り、その魂が神に近づくことができるように、あなたたちの全ての愛情を注いでください。

それが神よってあなたたちに任された任務であり、それを忠実に遂げることができればその報酬を受け取ることが出来るのです。その魂にあなたたちが払う注意と与える教育は、その魂の未来での完成と平安を助けることになります。神はすべての父親にも母親にも、

私があなたに加護を任せた子を、あなたたちはどうしましたか」と尋ねるのだということを覚えておいてください。

もしあなたの責任でその子の進歩が遅れたままであったなら、罰としてその魂を苦しむ霊たちの間に見ることになり、その時、あなたはその魂の幸せの責任を負っていることになります。すると、あなたたちは後悔の念に悩まされ、あなたたちの犯した過ちの謝罪を求めます。

あなたたちの為に、そしてその魂のために、再び地上に生まれてその魂をより注意深く見守り、その魂もそのことを認識したうえで、その愛によって返礼することになります。


 だから、母親を拒絶する子供やあなたたちに対して恩知らずな子供を追い出してはなりません。

そうしたことやそうした子供があなたに与えられたことは、単なる偶然ではありません。それは過去についての不完全な直感の現れなのであり、そのことから、あなたたちはある過去の人生においてすでに大いに憎んだか、あるいは大いに攻撃されたかのいずれかであると推測することが出来ます。

どちらかが、償うためか、試練の為にやって来たのです。母親たちよ、あなたたちを不愉快にさせる子供を抱きしめ、自分に言って下さい。「私たち二人のどちらかに責任があるのです」と。

神が母性に結び合わせた神聖なる喜びを享受するのに、あなたたちが相応しくなるように、子供たちに、私たちは地上で完成し、愛し合い、祝福されるために生まれてきたのだということを教えてあげてください。

ああ、しかしあなたたちの多くは、過去の人生から引き継いでいる生まれつきの悪の傾向を、教育を通じて摘み取る代わりに、罪深い弱さか、あるいは不注意によってそれらを保ち、大きくしてしまっており、やがてあなたたちの心は子供たちの忘恩で痛めつけられ、それがあなたたちにとって試練の始まりとなるのです。

任務はあなたたちの目に映るほど難しくはありません。地上の知識は必要としません。無知な者にも知識のある者にも、その役割を果たすことができ、スピリティズムは人類の魂の不完全性の原因について知らしめることにより、その役割の達成に役立ちます。


 小さい時から子供は、前世から持ち越した善または悪の本性の兆候を表します。両親はそれを研究しなければなりません。いかなる悪も、エゴと自尊心からもたらされます。ですから、

両親はそうした悪癖の芽の存在を示す小さな兆候を警戒し、より深く根を張る前に、それらと戦うように注意をしなければなりません。樹木から欠陥となる芽を摘み取る善の庭師のようにしなければなりません。

エゴイズムと自尊心を成長させてしまったのであれば、後になってから忘恩によって報いられても驚いてはなりません。両親が子供の道徳的進歩に応じて、すべてやるべきことを行ったにもかかわらず、

その成果がないのであれば、自分自身を負い目に感じる必要はなく、良心は平静を保つことができます。

そうした時、努力の成果が生まれないことから来るごく自然な苦しみに対して、神は、それが単にその子共の遅れから来るものであり、今開始された事業は次の人生において完了し、その忘恩の息子はその愛によって償ってくれるのだという確信を与えてくれることによって、偉大な慰安を残してくれているのです(→第十三章 19)。


神は試練を求める者の能力を超えた試練を与えることはありません。達成することのできる試練がもたらさせることしか許しません。もし成功を収めることが出来ないのであれば、それは可能性が不足したからではありません。意欲が欠けていたのです。

悪の傾向に抵抗する代わりに、それを楽しんでいる人達のなんと多いことでしょうか。こうした人達は、後の人生における涙と苦しみが待ち受けているのです。しかし、後悔に対して決して扉を閉ざすことの無い神の善意を賞賛してください。苦しむことに疲れ、自尊心を捨て去った罪人は、

いつの日か足元に身をひれ伏す放蕩息子を迎えようと神は両腕を広げていることに気づくのです。よく聞いてください。

厳しい試練は、神への思いを抱きながら受け止められるのであれば、それはほとんどいつも苦しみの終わりと霊の完成を告げるものなのです

それは至上の時であり、その時、そうした試練がもたらす成果を失って再びやり直すことを望まないのであれば、その霊は何よりもまず、不平を言うことによって失敗しないようにしなければなりません。不満を述べる代わりに、あなたたちに与えられた勝つための機会を神に感謝し、

神が勝利の褒美をあなたたちの為にとっておいてくれるようにしなければなりません。そうすれば、地上の世界の渦からでて霊の世界に入った時、あなたたちは戦闘から勝利を収めて戻ってきた兵士のように、そこで喝采を受けることになるのです。


 あらゆる試練の中で最も厳しいのは、心に害を及ぼすものです。勇気を持って物質的な損失や貧困に耐える者も、家族の忘恩に傷つけられ、家庭内の苦しみに負けてしまいます。おお、

それは何と痛々しい苦しみであることでしょうか。しかし、そうした時、神の創造物が無期限に苦しむことは神の望むところではないのだから、魂の破壊が長引こうとも永遠の絶望は存在しないのだ、という確信と、悪の原因の認識以外に、何か有効に道徳的な勇気を立て直してくれるでしょうか。

苦しみの短縮が、悪の原因そのものを破壊するための一つ一つの努力にかかっているのだという考え以上に、力を与え、励ましとなるものがあるでしょうか。

しかし、そのためには、人間はその視線を地球上だけにとどめたり、人生が一度きりだと考えたりしないようにする必要があります。視線を高く上げ、、過去と未来の無限へと向けなければなりません。

そうして忍耐強く待てば、神の正義があなたたちに明らかにされます。なぜなら、地上では本当に恐ろしいものとして見えていたものが、解釈可能となるからです。そこで開いた傷口も、単なるかすり傷であると考えることができるようになります。

こうして全体に向けて投げかけられた視線によって、家族の絆の真の姿があなたたちに明らかにされます。もはやメンバーが単なる壊れやすい物質的な絆で結びついているようには見えなくなり、

再生によって破壊されるのではなく、浄化されて行くことによってより固く結びつき、永続していく霊の絆によって結びついているように見えるようになるのです。


 好みの類似性、道徳的進度、集まろうと導く愛情によって、霊たちは家族を形成します。その霊たちは、地上に住む間、グループを形成するために探し合いますが、それは宇宙においてもそうしているのであり、均質でまとまった家族というのはここに起因しているものなのです。

もし、その人生の巡歴の間に一時的には別々になっても、新しい進歩を成し遂げ、後に幸せな再会をすることになります。しかし、自分だけの為に働くのではいけないために、進歩のためになる慰めと善き規範を受けることができるように、進歩の遅れた霊が彼らの間に生まれてくることを神は許されるのです。

そうした霊が、時として他の霊たちにとって混乱の種となることがありますが、これがそれらの霊たちにとって試練や遂行せねばならない義務となるのです。

 だから、進歩の遅れた霊たちを兄弟の様に迎え入れてください。助けてあげて下さい。そうすれば、あなたが何人かの遭遇者たちを救済したことを、後に霊界において家族が祝福してくれるでしょうし、

また遭難者たちも、自分が救済する立場になった時には他人を助けることができるでしょう。
  (聖アウグスティヌス パリ、1862年)


   

                  
  第15章  慈善なしには救われません。  

霊が救われるために必要なこと 善きサマリア人の話

、人の子がその尊厳によって、全ての天使たちに伴われて来る時、彼はその栄光の座につくでしょう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊は右側に、山羊は左側に置くでしょう。その時王は、右側にいる者たちに向かって言うでしょう、

「私の父に祝福された者たちよ、世のはじめからあなたたちの為に準備された王国を手に入れなさい。

なぜならば、私が飢えていた時には食料をくれ、喉が渇いていた時には飲み物をくれ、宿を失った時には宿を貸してくれ、裸でいた時には衣服を着せてくれ、病んでいた時には訪ねてくれ、投獄されていた時には私に会いに来てくれたからです」

すると、正しい者たちは言うでしょう、

「主よ、いつ私たちが、あなたが飢えていた時に食料を与え、喉が渇いている時に飲み物を与えたというのでしょうか。いつ私たちが、あなたが宿を失ったのを見て宿を貸し、裸の時に衣服を与えたというのでしょうか。そしていつ、あなたが病んでいたり投獄されていることを知り、訪ねて行ったというのでしょうか」。


すると王は答えるでしょう。

「誠に言います。私の最も小さい兄弟に対してそれらのことを行った時、それは何時も私に対して行ったのと同じことです」。


続いて左側にいる者たちに言うでしょう。

「邪悪な者たちよ、私の側から離れなさい。悪魔とその使いのために準備された永遠の炎の中に入ってしまいなさい。なぜなら、私が飢えていた時、食べるものをくれず、喉が渇いた時、飲み物をくれず、宿が必要であった時、宿を貸さず、服をまとっていなかったとき、衣服を着せず、病み、投獄された時、私を訪れてくれなかったからです」。

すると彼らは答えるでしょう、

「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えているのを見て食料を与えず、喉が渇いているのを見て飲み物を与えず、衣服もなく、宿もなく、病み、投獄されているのを見てそれを助けなかったというのでしょうか」。

すると彼は答えて言うでしょう、

「誠に言います。これらの最も小さい者たちに対する救済を行わなかったのは、すなわち、私自身に対して救済を行わなかったのです」。


そしてそれらの者は永遠の苦悩へと行き、正しい者たちは永遠の命へと行くのです。(マタイ 第二十五章 31-46)


、するとそこへ、ある律法学者が現れ、彼を試そうとして言った。「先生、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。

イエスは彼に答えて言われた、「律法には何と書いてありますか。どのように読むことができますか」

彼は答えて言った、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。


するとイエスは言われた、「大変よく答えました。そのように行えば、永遠の命を得ることが出来るでしょう」。

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「隣人とは誰のことですか」。


イエスはその言葉を聞いて、彼に言われた、「エレサレムからエリコへ向かっていたある男が泥棒に捕まってしまい、泥棒はその男から盗み、男を傷だらけにし、瀕死の状態にしたまま去って行った。

すると、そこへ司祭が同じ道を通ってやってきたのだが、その男を見ると、向こう側を通って行った。

次にレビ人がやはりその場所を通ったが、その男を見ると、やはり向こう側を通って行った。

しかし、旅をしていたサマリア人が、その男が横たわっているのを見て憐れに思い、その男に近づくと、油とワインを傷口に塗って手当てをし、その後自分の馬に乗せて宿へ連れて行き、その男の看病をした。

翌日(この男の面倒をよく見てください。お金が足りなかったら私が戻った時に払います)と言って、二デリカの金を宿主に渡した。この三人のうち、誰が泥棒に捕まった男の隣人でしょうか」。

律法学者は答えた、「彼に対して慈悲を掛けた者です」。するとイエスは言われた、「それならば行って、同じことを行いなさい」。(ルカ 第十章 25-37)



、イエスの道徳の全ては慈善と謙虚さに要約されています。すなわち、エゴイズムと自尊心に相反する二つの美徳です。イエスの全ての教えの中には、永遠の幸福に導くこれらの二つの美徳が示されています。

「魂の貧しい者、すなわち謙虚な者は幸いです、なぜなら天の国は彼らのものだからです」と言いました。

「心の清い者は幸いです」「柔和で平和をつくる者は幸いです」「慈悲深い者は幸いです」「あなたたちと同じようにあなたたちの隣人を愛しなさい」「自分にして欲しいと思うことを他人にしてあげなさい」「あなたたちの敵を愛しなさい」「赦されたいのであれば、あなたに対する攻撃を赦しなさい」

「見せびらかすことなく善を行いなさい」「他人を評価する前に自分自身を評価しなさい」謙虚さと慈善こそ、イエスが私たちに勧め、また、彼自身が模範を示したものです。

自尊心とエゴイズムこそ、戦い続けなければならないものです。また、慈善は勧められるだけではありません。明白に、はっきりとした言葉を用いて、未来における幸福の絶対的な条件として示されております。


 最後の審判を描いた場面の中でも、その他の多くの場面でそうであるように、単なるたとえ話として表された部分を区別しなければなりません。イエスが話をした人達のような、いまだに純粋で霊的な問題を理解することのできない人達に、イエスは印象的で衝撃的な具体的イメージを与えなければなりませんでした。

イエスの言うことを彼らがよりよく学ぶためには、形の上で当時の考え方からあまり遠ざからないものとしなければならず、イエスの言葉や、明白に説明することができなかった部分の真なる解釈については、後世に残す必要があったのです。

しかし、その説明の象徴的なたとえや装飾的な部分に沿ってある考えが支配しています。すなわち、正しい者に用意された幸福と悪い者に用意された不幸の考えです。

 その最高の審判における判決の理由は何なのでしょうか。訴訟書はなににもとづいているでしょうか。

審判者は果たして、取り調べられる者があれこれのしきたりを重んじたかとか、あれこれの行いを守ったかなどと尋ねているでしょうか。いいえ、そのようなことは尋ねていません。

たった一つのことしか尋ねていないのです。それは慈善を行ったかどうか、と言うことだけであり、次のように判定されたのです。「あなたたちの兄弟たちを助けた者は右へ行きなさい。彼らに対して冷たく対応した者は左に行きなさい」。

ところで、ここで信仰性について述べているでしょうか。ある方法で信じる者と、別の方法で信じる者との区別を付けているでしょうか。

いいえ。イエスはサマリア人を、異教徒と考えられていたにもかかわらず隣人愛を実践するものとして、慈善の欠ける正統派よりも上位に位置づけています。すなわち慈善を単に救いの条件のうちの一つとしているのではなく、唯一の条件であるとしているのです。

もしその他の条件があったのであれば、イエスはそれについて述べていたはずです。慈善を第一におくのは、それが暗黙のうちにその他の全てのことを含んでいるからです。すなわち、謙虚さ、優しさ、善意、寛大さ、正義等です。なぜなら、それは自尊心とエゴイズムの絶対的な否定であるからです。
      

    

 最大の戒め
、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、

「先生、律法のうちで最大の戒めとは何ですか」。イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これがもっとも大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。全ての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また、預言者も同様です」。(マタイ 第二十二章 34-40)


、慈善と謙虚さ、それらが救済の唯一の道です。エゴイズムと自尊心、それらは破滅の道です。この原則は次の簡潔な言葉の中に明確にされています。

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。

あらゆる法も預言者たちもこれらの二つの戒めを守らなければならないとしています」。そして、神への愛と隣人への愛の解釈に間違いが無いようにするため、次のように付け加えています。

「ここに第一の戒めと同等の第二の戒めがあります」。つまり、隣人を愛することなく神を本当に愛することも出来なければ、神を愛することなく隣人を愛することも出来ないのです。隣人に対する慈善を行うことなく神を愛することはできないのですから、人間のあらゆる義務は次の金言に要約されることになります。

「慈善なしには救われません」



 聖パウロによる慈善の必要性
、たとえ私が、人類の持つすべての言語を話せたとしても、天使の言葉を話そうとも、私に慈善がないのであれば、音を立てる銅鑼(ドラ)かシンバルと同じです。たとえ私に、

あらゆる神秘を解き明かすことのできる預言の才があったとしても、またあらゆる物事に対する知識を持っていたとしても、また、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。

また、貧しい者に食べ物を与える為に私の財産を施し、私の身体を焼かれるために捧げようとも、慈善がないのであれば、それらすべては私にとって何の役にも立ちません。


 慈善は寛容であり、情け深い。慈善は嫉妬深くありません。高ぶったりはしません。自尊心に満ちることもありません。不作法をしません。自分の利益に囚われません。腹を立てることもなければ、何に対しても怒ることがありません。悪いことかと疑わせることはありません。


真実に喜ぶことはあっても、不正に喜ぶことはありません。全てに耐え、全てを信じ、全てを待ち、全てを受け入れます。

さて、信心、希望、慈善と言う、いつまでも存続する三つの美徳があります。しかし、その中で最もすばらしいものが慈善です。(パウロ 第一コリント 第十三章 1‐7,13)



、この様に聖パウロはこの偉大なる真理を理解したのです。「天使の言葉を話そうとも、あらゆる神秘を説き明かすことのできる預言の才があったとしても、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。

信心、希望、慈善と言う三つの美徳のうち最もすばらしいのが慈善です」。間違いなくこの様に、慈善を信心にも勝って位置づけています。慈善はあらゆる人の手に届くところにあるからです。

つまり無知な者から、賢者、裕福な者、貧しい者まで、特別な信仰とは全く関係なく、誰の手にも届くのです。さらに、真なる慈善を定義し、善行の中ばかりではなく、隣人に対する善意と慈悲心、心のあらゆる特性の中でそれを示しています。     



 教会なしには救われません。真実なしには救われません

、「慈善なしには救われません」という金言が、全世界的な原則として、神の子全てに至上の幸福への扉を開いている一方で、「教会なしには救われません」と言う教理は、根本的な神に対する信仰と魂の不滅に基づいているのではなく、すべての宗教に共通な、ある特定の教理に対する特別な信仰にもとづいています。

それは絶対的で排他的なものです。神の子を一つに統合するどころか、分裂させてしまいます。兄弟たちに対する愛を刺激する代わりに、家族や仲間同士であるにもかかわらず、お互いを永久に極悪と考え、それぞれの異なる宗派に苛立ちを植えつけ、けん制させ合います。

墓を前に全てが平等であるという偉大なる法を無視し、これらの教理はお互いを休息の場所においてさえも反発させます。


「慈善なしには救われません」と言う金言は、神の前の平等と言う原則と良心の自由を神聖化しています。それを規則とすることにより、人類は皆兄弟であり、創造主を崇拝する方法がどうであろうとも、手を差し出し合い、お互いに祈り合うことが出来るのです。


「教会なしには救われません」と言う教理によれば、お互いがののしり迫害し合い、敵同士として生きることになってしまいます。お互いが容赦することなく非難し合っているために、父親が息子のために願ったり、息子が父親の為に願ったり、友人が友人の為に願ったりすることができません。

つまり福音の法とキリストの教えと根本的に対立する教理なのです。



、「真実なしには救われません」も、「教会なしには救われません」と同じで、真実と言う特権を主張しない宗派が存在しないことから、やはり排他的であると言えます。

毎日知識の領域は絶え間なく広がり、考えは改まっていくと言うのに、どんな人間に、全てを所有していると自慢することが出来るというのでしょうか。絶対の真実はより高い分類の霊たちだけに所属し、

地上に生きる人類にはその所有を主張することはできません。なぜなら、人類はすべてを知るようにはできていないからです。人類は単に、相対的でその進度相応の真実を熱望することしかできません。

もし神が、絶対的な真実を得ることを、未来における幸福の条件と明示していたならば、その一般的な規則を唱えていた筈であって、一方で、慈善はその最も広い意味においては誰にでも実践することができるものなのです。

スピリティズムは福音に従って、どんな信仰とも無関係に、神の法が守られる限り誰に対する救済も認め、「スピリティズムなしには救われません」と言うことはありません。また、

いまだに真実の全てを教えると主張するようなことはできないため、「真実なしには救われません」と言うこともありません。なぜなら、これらの教えは敵対する者たちを、統合し永続させる代わりに分裂させてしまうからです。



霊たちからの指導
      慈善なしには救われません

、親愛なる子供たちよ、「慈善なしには救われません」と言う金言の中には、人類の地上での、そして天における目的地が述べられています。なぜ地上での目的地なのかと言えば、この旗のもとに人類は平和に生きることが出来るからです。

なぜ天における目的地かと言えば、慈善を実践した者は神の前に恵みを受けることになるからです。

この金言は天に灯るたいまつであり、人生の砂漠にある人類を案内する輝く支柱であり、人類を約束された土地へと導いてくれます。その金言は、選ばれた者たちの頭上にある聖なる後光のように天に輝き、地上では、イエスが「私の父に祝福された者たちよ、私の右側に行きなさい」

と伝える者たちの心の中に刻まれています。彼らがその周りに放つ慈善の香りによって、あなたたちは彼らを知ることが出来るでしょう。

この天からの金言よりも正確に、人類の義務を要約したものはありません。その金言を規則として掲げること以上に、うまくスピリティズムの性格を証明する方法はなく、したがってスピリティズムは最も純粋にキリストの教えを映し出しています。

この金言を案内とすれば、人類は決して道を誤ることはありません。だから、親愛なる仲間たちよ、その深い意味とその重要性を検討し、自分たち自身でその応用を見つけることに身を捧げてください。

あなたたちの全ての行動を慈善の支配下におけば、良心は答えてくれます。それはあなたが悪を働くことから遠ざけてくれるばかりではなく、善を行わせてくれます。それは消極的な美徳だけでは不十分であるからです。能動的な美徳が必要です。

善を行うには、意志を行動に移すとこが何時も必要です。悪を働かずにいるだけなら、怠慢と無関心でいるだけで事足りる場合が殆どなのです。友よ、

スピリティズムの光を享受することが許されたことを神に感謝してください。それを享受しただけで救われるわけではありませんが、キリストの教えをあなたたちが理解するのを助けることにより、

あなたたちをより良いキリスト教徒にしてくれるのです。だから、あなたたちの兄弟があなたたちを見て、真なるスピリティストとは真なるキリスト教徒と同じであり、慈善を行う者は所属する宗派に関わらず、全てがイエスの使徒なのだということを知ることができるように努力をしてください。
                                                                               (使徒パウロ パリ、1860年)




 

 第16章  富と神の両方に仕えることはできません  
 財産家の救い  
、誰にも二人の主人に仕えることはできません。なぜなら、一方を愛し、他方を憎むことになるか、一方に親しんで、他方の気持ちを疎んじることになるからです。(ルカ 第十六章 13) 



、すると彼のもとに青年がやって来て言った。
「善き師よ、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。するとイエスは答えて言われた、「なぜ私を善いというのですか。善いのはただ神のみです。永遠の命に入りたいのであれば戒めを守りなさい」。「どんな戒めですか」。青年は問い返した。

「殺してはなりません。姦淫をしてはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。父母を敬い、自分と同じように隣人を愛しなさい」。青年は言った、

「私はそれらすべての戒めを守っています。それでもまだやらなければならないことは何でしょうか」。イエスは言われた、「もし完全になりたいのであれば、帰って所有するもの全て売り払い、

貧しい者にそれらを与えれば、天における富を得ることができます。その後来て、私についてきなさい」。この言葉を聞くと、青年は多くの財産を所有していたので悲しくなり、去って行った。

するとイエスは使徒たちに言われた、「誠に言いますが、富んだ者が天の国へ入ることは難しいことです。また、更に申し上げますが、ラクダが針の穴を通ることの方が、富んだ者が天の国へ入るよりも容易なことなのです」。

 (マタイ第十九章 16-24 ルカ 第十八章 18-25 マルコ 第十章 17-25)   




強欲から身を守る

、群集の中のある者が言った、「先生、私の兄弟に相続した財産を分けるようにおっしゃってください」。イエスは言われた、「おお、人よ。誰が私を、あなたたちを裁き、あなたたちの財産の分割をするように仕向けたのですか」。そして更に言われた、

「いかなる強欲からも身を守るように注意しなさい。人が何に富んでいようが、その者の命はその者の所有する財産には関係がありません」。 


そこで続けて次のたとえ話を語られた、「畑が豊作だったある金持ちがいた。そしてこのように自分の中で思いを巡らせていた (もはや収穫物を蓄える場所がなくなってしまったが、どうすればよいだろうか)。 

そしてこのように言った、(私の穀物倉庫を壊し、もっと大きな穀物倉庫を建て、そこに私の全財産とすべての収穫物を保管しよう。そして自分の魂にこう言おう。魂よ、何年分もの食料を沢山蓄えてある。安心して休み、食べ、飲み、楽しめ)。

すると神はその者に言われた、(何と気が狂ってしまったことか、まさに今夜あなたの魂を奪うであろう。そうしたら、あなたが蓄えたものは何の役に立つであろうか)。

自分だけの為に富を蓄える者には、このことが当てはまり、そのような者は神の前には豊かではありません」。(ルカ 第十二章 13-21)      



ザアカイの家でのイエス

、エリコに入ると、 イエスはその町をお通りになった、そこにはザアカイという名の、徴税関の頭で大変富んだ者がいた。彼はイエスと知り合いたくて、イエスがどんな人か一目見ようと望んでいたが、背が低かったため、群集に遮られて見ることができなかった。

そこで群集の前へ走って行くと、そこを通られる筈のイエスを見ようと、イチジクの木に登った。イエスはそこへやって来られると目線を上の方に向け、ザアカイを見ると彼にこう言われた、「ザアカイよ早く下りてきなさい。今夜あなたの家に泊めてもらう必要あります」。

ザアカイは直ちに木から下りると喜んでイエスをお迎えした。それを見てみな不満げに言った、「イエスは罪人の家に泊まりに行かれた」(→序章 Ⅲ 「パブリカン(徴税官))。

ザアカイは主の前に出ると言った、「主よ、私は財産の半分を貧しいものに分け与え、何であろうと、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

するとイエスは言われた、「今日この家には救いが来た。なぜなら彼もアブラハムの子供であるからです。人の子が来たのは、失われたものを尋ねだして救うためなのです」(ルカ 第十九章 1‐10)
         

    
悪しき金持ちの話  

、ある金持ちがいて、彼は紫の衣や高級な布をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた。また、ラザロと言う名の乞食がいて、その全身はできもので覆われており、金持ちの家の扉の前に横たわって、

その家の食卓から落ちるパンくずでその飢えを癒そうとしていた。しかし、誰もそれを与えてくれる者はなく、ただ犬がそのできものをなめに寄って来るだけであった。


 さてこの乞食は死に、天使たちによって、アブラハムのもとへ連れて行かれた。金持ちも死んだのだが、その墓場は地獄であった。苦しみに遭っているとき、目を上げると遠くにアブラハムとラザロが見えた。そこで金持ちは言った。

「父アブラハムよ、私を哀れに思い、私の舌を冷やすために指先で水を濡らしたラザロをこちらへ送ってください。この炎に包まれた苦しみは大変恐ろしいものです」

 しかし、アブラハムは答えて言われた
「息子よ、あなたは生きている間に富を受け取り、ラザロは悪いものを受けた事を思い出しなさい。だから今彼は慰められ、あなたは苦しみの中にいるのです。

また、私たちとあなたたちの間には永遠に深い淵が存在しており、それ故にここからそちらへ行こうとする者は行く事が出来ず、また、あなたのいる場所から誰もこちらへ来る事は出来ないのです」


 金持ちは言った、「そうであるならば、父アブラハムよ、お願いいたします。ラザロを私の父の家へ送ってください。私には五人の兄弟がいますが、彼らがこの苦しみの場所へ来る事が無いように、ラザロにこの事を警告していただきたいのです」

アブラハムは彼に言われた「彼らにはモーゼや預言者たちがおり、そのものたちの話を聞くがよかろう」

「違います、父アブラハムよ。もし死者の誰かが彼らに会いに行けば、彼らは懺悔することでしょう」。


 アブラハムは答えられた、「彼らがモーゼや預言者の話を聞かないのであれば、たとえ死者が生き返ろうとも、そのものの助言を信じる事はありません」  (ルカ 第十六章 19-31)
 

タラントの話         
、また天国は、ある人が旅に出る時、そのしもべどもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。ある主人が、それぞれの能力に応じ、一人には五タラントを、別の者には二タラントを、そしてまた別の者には一タラントを与えて旅に出た。

 すると五タラントを受け取った者はその金で商売をし、もう五タラントを儲けた。二タラントを受け取った者は、同じようにしてもう二タラントを儲けた。

しかし、一タラントしか受け取らなかった者は、地面に穴を掘ると、主人のお金をそこに隠した。長い年月が経過し、しもべたちの主人が戻ってくると、勘定をするために彼らを呼んだ。


 五タラントを受け取った者はもう五タラント差し出すと言った。「ご主人様。あなたは私に五タラントを預けました。ここにそのお金とそれによって稼いだもう五タラントをお返しします」。

主人は答えて言った。「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも大変忠実であったので多くのものを管理させよう。主人の喜びをともに分かち合うがよい」。

二タラントを受けた者は自分の番になると言った。「ご主人様。あなたは私に二タラントを授けられました。ここにその二タラントと、私の稼いだもう二タラントをお返しします」。

主人は答えて言った、「良き忠実なしもべよ。お前は小さいことにも忠実だったので多くのものを管理させよう。主人の喜びを共に分かち合うがよい」。


次に一タラントだけを受けた者が来ると言った、「ご主人様。あなたは厳しいお方で種を蒔かぬところを刈り、なにも散らさないところからも集めます。ですからあなたを恐れ、預かった一タラントを地中に隠しておきました。ここにそのお金があります。あなたのお金をお返しいたします」。

すると主人は答えて言った、「悪しき怠惰なしもべよ。あなたは私が、蒔かないところから刈り、散らさないところから集めることを知っているのか。それなら、私のお金を銀行に預けておくべきであった。

そうしたら私が帰ってきて、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろうに。その者より一タラントを取り戻し、十タラントを持つ者に渡すがよい。

すでに持つ者には与えられそれらは富より蓄えることになるが、持っていない者は、僅かばかりの持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗闇へ放り出しなさい。そこで彼は泣き、歯を震わせるであろう」。(マタイ 第二十五章 14-30)



神意に従った富の使い方。富と貧困の試練 

、イエスの幾つかの言葉を、霊によってではなく、文字通りに解釈した場合に受け取れるように、富がもし救いの絶対的な障害となるのであったとすれば、富を容認した神は、富に抗しきれないような人々を破滅に導く手段を与えたことになりますが、それは道理に反しています。

富と言うのは、それが与える魅力や誘惑に人を引き込むので、貧困よりも危険な試練であることは疑う余地もありません。富は自尊心やエゴイズム、みだらな生活への欲求を強く刺激します。

それは人類を地上につなぎとめる最も強い絆であり人々の考えを天の方向から遠ざけることになります。貧困から豊かになってしまうと、しばしばそれに有頂天となってしまい、すぐに元の境遇や、ともに貧困を生き抜いてきた仲間や助けてくれた仲間のことを忘れてしまい、それらに対し鈍感で、利己的になり、自惚れてしまいます。

しかし、富みによって道程が困難になるとは言え、救済が不可能になったり、それが救済の手段となり得ないのではありません。ある程度の毒が、思慮と分別を持って用いられれば、健康を取り戻すことに役立つように、富が何に役立つのかを知る者にとっては、富は救済の手段ともなり得るのです。


 永遠の命を得る手段を尋ねた青年に対してイエスが、「所有するものをすべて売り払い、私についてきなさい」と言った時、絶対的な条件として、一人一人が所有するものを捨て、救済はその代償として得られるのだということを確立させようとしたのでは勿論ありません。

そうではなく、地上への財産の執着が救済の障害になる、と言うことを示したかったのです。戒めを守っているのだから自分は永遠の命を得るにふさわしいと考えていた青年は、自分が所有する財産を放棄するということを拒否しました。

永遠の命を得たいという彼の願望は、それを犠牲にしてまで得ようというところまで到達していなかったのです。

イエスが彼に示した提案は、彼の考えの根底を裸にするため決定的な試験であったのです。

彼は、疑いなく、世俗的な考えにおいては全く正直で、誰にも損害を与えず、隣人の悪口を言わず、自惚れず、高慢でなく、父母を敬っていたかもしれません。しかし真なる慈善に欠けていました。

彼の美徳は自己放棄にまでは達していなかったのです。イエスはそのことを示したかったのです。「慈善なしには救われません」という原則をあてはめたのです。


 この言葉を厳密にとらえるのであれば、その意味は、地上の限りない悪の原因であり未来の幸せにとって有害である富の廃止と言うことになります。又拡大解釈するならば、富を得る手段としての労働の否定と言うことになります。しかし、それはばかげた解釈であって、

それでは人類を再び原始的な生活へ戻すことになってしまい、それゆえに神の法である進歩の法に矛盾するものとなってしまいます。


 富が多くの悪の原因となり、悪い感情をかきたてて、多くの罪を引き起こすのであれば、それは富を責めるのではなく、神から授かったすべての能力と同じように、それを濫用してしまう人類を責めなければならないのです。

人類にとって最も役立つものも、濫用すれば有害なものになってしまうのです。

それは地上の世界が劣った状態にあるということの結果です。もし富が、悪しか生み出すことのできないものであったなら、神はそれを地上へ与えることは無かったでしょう。富が善を生むように仕向けるか否かは、人類の権限に属するのです。

もしそれが道徳的進歩に関わる要素でなかったとしても、知性的な進歩に関わる強力な要素であることは間違いありません。


 実際に、人類には地球上の物質的向上のために働くという役割があります。いつの日か地表が受け入れるべき人口の全てを迎えることができるように、地球上の障害物を除き、衛生的にし、準備することが人類の裁量に任されています。絶え間なく膨らむこの人口に食物を与えるには、

生産性を上げる必要があります。食料が不十分である国は、不足する食糧を国外に求める必要があります。だからこそ、異国民同士のつながりが必要になってくるのです。

それをより容易にするためには、人々を画する物理的な障害を取り除き、通信をより早くすることが必要なのです。こうした仕事は何世紀にもわたる事業ですが、人類は地球の奥底より物質を取り出さなければなりませんでした。それをより迅速に、安全に行える手段を科学に求めました。

しかしそれを実現させるためには資力が必要でした。人類が科学を生んだように、必要性が富を生み出したのです。この様に、物質的向上の為に働くことは、人類の知性を広げ、発展させますが、

最初は物質的な必要性を満足させるために集中させた知性は、後になって偉大なる道徳性真理の理解を助けることになります。富は実行するための最初の手段であり、それなしでは大きな役割も、活動も、刺激や調査も生まれません。

だから富みは、進歩の原理以外の何ものでもないと考えられるのです。
       


富の不幸
、 富の不平等は、現世のみに限って考えれば、解決しようとするだけ無駄な問題の一つでしょう。

最初に問われるのが次のような問題です。「どうして人類の全てが同じように豊ではないのだろうか」。富が平等に分配されないのは、一つの単純な理由からです。それは、

人類の全てが富を手に入れるために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に節制できるものでもなければ先見の明があるわけでもないからです。

ただし富が平等に分配されれば、一人一人に必要最低限のものが行き亘るはずだというのは、あくまで数学的に言えることであって、平等に分配したとしても、それぞれの性格や能力の違いからその均衡はあっという間に崩れてしまうのです。たとえ均衡を保ち、長続きさせることが可能であったとして、

一人一人が生きるために必要なものを所有していたとしたら、それは人類の厚生と進歩のためあらゆる偉業を廃止することになってしまいます。

そして分け前が一人一人の必要性を十分に満たすものだと認識されてしまえば、もはや人類を発見や有益な事業に駆り立てる刺激は存在しなくなります。神が特定の場所に富を集中させるのは、必要性に応じて、十分な量の富がそこから広がって行くようにするためなのです。


 このことを求めたところで、今度は、みなの善の為に富を役立たせる能力のない人々に、なぜ神は富を与えるのかと言う疑問が出てきます。しかしそこにも神の善意と英知の証が存在するのです。

神は自由意思を与えることで、人類が自分自身の経験によって善と悪の区別をつけ、自分の意志と努力の結果として善を実践するようになることを望んだのです。人類は、善や悪に必然的に導かれるものではなく、そうだとすれば人類は動物と同じく無責任で受動的な道具だということになってしまいます。

富は人間を道徳的に試すものなのです。しかし、それは同時に進歩のための強力な活動手段であるため、神はその富が長い間非生産的であることを望まず、そのためにいつでもそこから取り去るのです。

誰もが富を得、それを費やすために行動し、富のどのような使い方を知っているかを立証しなければなりません。

しかしすべての者が同時に富を所有することは数学的に不可能であるため、また、その上、もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため一人一人に富を得る順番があるのです。この様に、

今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。その他の、今日所有する者たちは、もしかすると明日にはそれを所有していないかもしれません。富める者も貧しい者もいます。

なぜなら神は正義であり、一人一人が順番に働くように命じるからです。貧困は、それによって苦しむ者にとっては辛抱と忍従の試練なのです。他の者にとって、富は慈善と献身の試練なのです。

ある人に見られるような富の悪用や、野心が引き起こす卑しい感情を見て、「あのような者に富を与えて、神は正しいのだろうか」と嘆くことには一理あります。確かに、もし人類にたった一度の人生しかなかったとしたら、地上の富のこのような分配を正当化するものは何も存在しません。

しかし、もし私たちが現世だけに目を向けるのではなく、その反対に、複数の人生全体を考慮するのであれば、全てが正義によって釣り合っているのです。ですから、貧しい者が神意を非難する理由も、

富める者を羨ましがる理由も、また富める者がその富によって自らを讃える理由もないことになります。


富が濫用されるとき、悪を防ぐのは法律や奢侈(シャシ)禁止令ではありません。法律は一時的に外見だけを変化させることはできますが、心を変えることはできません。そのため、そうした法律はつかの間しか持続せず、何時もその後には手におえぬ反動が訪れるのです。

悪の根源はエゴイズムと自尊心の中に存在します。いかなる種類の濫用も、人類が慈善の法によって支配された時、なくなることになるのです。 




 霊たちからの指導          真なる財産

、人間は、この世から持ち出せるように与えられたものだけを、本当の財産として所有しています。

地球に到着した時に手に入れ、離れる時に置いていくものは、この世にいる間だけ享受することができます。ですから、全ての放棄を強いられるのであれば、その富は、実際に所有しているのではなく、

単に所有権だけを得ているのだということになります。では、人間は何を所有しているのでしょうか。

肉体を使うことによるものは、何も所有していないのです。魂を使うことによるもの、すなわち、知性、知識、道徳的な性質は、全て所有しています。


それらは人間が地球に来るときに持参し、また持ち帰るもので、誰にもそれを奪い取ることが出来ないものであり、この世においてよりも、別の世界において、より有用となるものなのです。

この世から旅立つ時に、到着した時よりも豊かになっているかどうかは、その人自身にかかっています、したがって、善においてその人が獲得したものが、その人の将来の位置をもたらすことになります。誰でも遠い国へ旅立つときには、行く先の国で役に立つものを荷物としてまとめます。

そこで役に立たないと思われるもののことは気に掛けません。未来の人生に対しても同じように進んでください。そこであなたたちだけに役に立つものだけを蓄えておいてください。


 宿に到着した旅人に、代金が払えるのであれば、良い宿が与えられます。ケチな蓄えしかない者には、あまり快適でない宿が与えられます。自分のものとして何も持たない者は、粗末な寝台に寝なければなりません。霊の世界に辿りついた人間にも同じことが起こります。

どこへ行くかはその人の持ち物によります。しかし支払いは金でするのではありません。「地球ではどれだけ持っていたか」「どんな地位にあったか」「あなたは王子でしたか、それとも労働者でしたか」などとは誰も尋ねません。「あなたは何をもってきましたか」。このように尋ねられるでしょう。

財産や、地位によってではなく、持ちあわせている美徳の合計によってあなたを評価するのです。

この点に置いて、労働者の方が王子よりも豊かであることもあり得ます。地球を離れる前にどれだけの重さの金を別の世界への入場料として払ったかを申し立てても無駄です。そうした人はこう返されるでしょう。

「この場所は買うことはできません。善の実践により獲得できるのです。地上のお金で、あなたは農場や家や城を買うことはできました。ここでは、すべてを魂の質によって支払うのです。あなたはそうした質において豊かですか。そうであるならば、あらゆる幸福が待っている第一級の場所へ迎えられます。

そうした質に置いて乏しいのですか。それなら最低の場所へ行って下さい。ここではあなたたちの所有しているものに応じてあつかわれます」。    (パスカル ジュネーブ、1860年) 


、地上の財は神に属し、神はその望みに応じて分配します。人間はその利用権を与えられているに過ぎず、知性によってほぼ完全な形でその管理を行うことができます。しかし

それは人間の固有の財産ではないため、神はしばしばその予見を取り消すことがあり、富はそれを所有するに最も相応しい地位にあると信じる者からも逃げて行くことになります。

 あなたたちは、相続される財産に関してこのようなことが起こるのは理解できるが、労働によって得られた財産についてはそうなることは理解しがたい、と恐らくいうでしょう。疑いもようもなく、

正当な財産が存在するとすれば、それは正しく得られたこの後者の方であり、入手する時に誰にも損害を与えず、誠実に得られた場合のみに財産が正当に得られたと考える事ができます。

不当に得られたお金、つまり他人の損害のもとに得られたものに対しては、最後の一銭に対してもその精算が求められることになります。しかし、ある人の財産が、所有する人自身の努力によるものであったという事実は、その人が他界する時に何らかの利益をもたらすでしょうか。

財産を子孫に残そうとその人が苦心したところで、多くの場合それは無駄なことではないでしょうか。

もし神が、彼らの手に渡したいと全く望まないのであれば、何事もそれにあらがうことはできないのです。精算の必要なしに人間は、生きている間その所有物を利用し、濫用することが出来るでしょうか。いいえ、できません。その所有を許すことによって、恐らく神はその人生の間の努力、勇気、

勤勉さに対して報おうとしたのです。しかし、もしその人が自分自身の自尊心と欲求を満足させるためにそれを用いたとしたなら、そして、もしそうした所有物が破産の原因となるのであれば、それらのものは所有しないほうが良いのであり、一方で得たものを他方で失い、働きの功労を打ち消してしまうことになります。

地上を後にする時、神はその人に対して、もう報酬は受け取っているのだということになるのです。
                                                                 (守護霊M ブリュッセル、1861年)



 富の使い方
十一、富と神の両方に仕えることはできません。心を黄金への愛に支配されてしまったあなたたちは、このことをよく覚えていてください。

 あなたたちは、財宝が、他の人々よりも優位に立たせ、あなたたちを束縛する欲求を満たしてくれるからと言って、あなたたちはそれを得るために魂を売ってしまいます。それではいけません。富と神の両方に仕えることはできません。もしあなたの魂が肉体の欲に支配されていると感じるのであれば、

あなたたちを締め付けるくびきを急いで取り去りなさい。なぜなら、正義である厳しい神はこう言うからです。「不誠実なしもべよ、私があなたに託した財産をどうしましたか。善行の為のこの強力な動力をあなたは自己の満足のためにだけ用いました」と。


 では富の最良の利用とはどのようなことでしょう。その答えを次の言葉の中に探し求めてください。

「お互いに愛し合いなさい」。この言葉の中には、富の正しい利用の秘訣が込められています。隣人愛によって行動する者が辿るべき道が、そこにはすべて示されています。神をもっとも喜ばせる富の利用は、慈善の中に存在します。勿論、有り余る黄金を周りにばらまくことによって行われる、

冷たく利己的な慈善のことを私は言っているのではありません。不幸を探し出して、はずかしめることなくそれを立ち直らせる、愛に溢れた慈善のことを言っているのです。富める者よ、

あなたの余しているものを与えて下さい。そしてそれ以上のことをしてください。あなたにとって必要なもののうちの少しを与えて下さい。なぜなら、あなたが必要と思っているものも、現実には過分なものでしかないからです。しかし、知恵を用いて与えて下さい。騙されるのではないかと心配して、

不満を訴える者を拒否してはなりません。悪の根源を突き止めてください。まず苦しみを和らげてあげてください。その次に状況を知り、仕事、助言、愛情があなたの与えるお金よりも役に立つのではないかと考えてみて下さい。

あなたの周りに、物質的な救済と共に神への愛、労働への愛、隣人への愛を広めてください。尽きることなく、またあなたに大きな利益をもたらすことになる善行と言う基盤の上に、あなたの富を投じてください。知性的な富も、金銭的な富と同じように用いなければなりません。

教えの宝をあなたの周りに広めてください。あなたたちの兄弟にあなたたちの愛の宝をふりまけば、それらは実を結ぶことになるでしょう。(シェウ“ェルス ボルドー 1861年)



十二、人生の短さについて考える時、あなたたちにとって、絶えることの無い心配は物質的な豊かさであり、道徳的完成には重きを置かず、その方が永遠に重要であるにもかかわらず、それに対してはほとんど時間を割かないか、もしくはまったく従事することが無いのを見ると、私は心が痛みます。 

自分たちの行っている活動を前に、それらが人類の最も大切な利益を扱っているのだと言われるでしょうが、たいていそれらは、行き過ぎたあなたたちの必要性や虚栄心を満足させる状況に自分たちを置こうとしているか、不品行に身を任せているに過ぎません。

苦しみや悩み、不幸をどれほど一人一人が自分自身に強いていることでしょうか。多くの場合、十分すぎる財産をさらに増やそうと、眠れない夜を幾晩も過ごしているのです。

無知の積み重ねの中には働きがもたらす富と快楽に対する過度の執着によって苦しい仕事の奴隷と化してしまっていながらも、犠牲と功労の大きい人生を過ごしているのだ──自分のためではなく、あたかも他人の為に働いているかのように──と自惚れてしまっている人をたびたび目にします。

何と気の狂っていることでしょうか。あなたたちの未来や、社会的な便宜を有する者全てに課せられる兄弟愛の義務を無視しておきながら、エゴイズム、貪欲、自尊心によって生まれた手間と努力が認められるとあなたたちは本当に信じるのですか。

あなたたちは肉体のことしか考えていないのです。あなたの快適な生活、快楽だけがあなたたちの利己的な配慮の対象だったのです。いずれ死ぬ肉体によって、永遠に生きるあなたたちの霊を軽んじたのです。だからこそ、この活発で愛される主があなたたちの君主となったのです。

その主はあなたたちの霊に命令し、その奴隷としてしまうのです。神があなたたちに任せてくれた人生の目的とはこう言うことであったのでしょうか。(ある守護霊 クラクフ 1861年)



十三、人間は、神が手渡す富の管理者であり受託者であるがゆえに、自由意思によって決めたその富の使い方については厳しく精算が行われます。悪用は、個人的な満足にばかり使用したことからなります。

反対に、あらゆる使い方において他人の役に立つ結果を生む場合には、善い使い方であると言えます。

一人一人の功績は、自分自身に強いる犠牲の割合によります。善行は富の使い方の一つでしかありません。富は今日の貧困を緩和します。飢えを和らげ、寒さから守り、避難所の無い者にはそれを与えます。しかし、貧困を未然に防ぐという義務も、与えることと同様に不可欠で価値があることです。

それが特に大きな富の使命であり、富が創り出すあらゆる種類の仕事を通じて、その使命は達成されます。このように富を使った者が創り出した仕事から正当な利益を得るからと言って、もたらされる善が消失してしまうわけではありません。と言うのも、

仕事は、人間の知性を発展させ威厳を高めるとともに、生きる手段として自分で稼いでいるのだということを、誇りをもって言うことを可能にしてくれるからです。施し物を受け取ることは人間を辱め、

卑しくさせることになります。一人のてもとに集中した富は、それを負う者に快適さと豊かさを広める生きた水とならなければならないのです。


おお、富めるあなたたちよ。主の視点に従って富を使って下さい。あなたたちの心は、その有益な泉に癒される最初の者となるのです。この人生のうちに、心の中に空しさをもたらす利己的な物質的な快楽の代わりに、得も言えぬ魂の喜びを享受することが出来るでしょう。

あなたたちに名は地上で祝福され、地上を後にする時、至上の主は、タラントのたとえ話のようにあなたたちに言います。

「良き忠実なしもべよ、主人の喜びを共に分かち合うがよい」。このたとえ話の中で預けられたお金を地中に埋めた使いは、自分の手中で富を何の役にも立たせずに保管する貪欲な人々のことを表しています。しかし、イエスが施しもののことをおもに言うのは、イエスが住んでいた当時その国では、

富が職業や産業が後に生んだ労働や一般的な善の為に、有益に運用されることができる、ということがまだ知られていなかったからなのです。

よって、多かれ少なかれ、与えることができる者に対して私は言います。必要な時には施しものを与えなさい。しかし、可能な限り、それを受け取る者が恥じることが無いように、それを報酬に変えてください。(フェヌロン アルジェ1860年)



地上の財産への執着心を捨てること

十四、友よ、あなたたちがすでに入った完成への道を、安心して前進するのを助けるために、私の施しものを持って参りました。私たちはお互いに恩を被っています。霊たちと生きる者たちが誠実に同胞的に結びつくことによってのみ、更生は可能となるのです。

 地上の財産に対する愛着は、あなたたちの霊的、道徳的進歩の最も大きな妨げとなっています。

そうした財産を所有することへの執着は、あなたたちの愛する能力を物質的なものに注ぐことで破壊してしまいます。誠実であってください。財産は混ざり気のない幸せをもたらしてくれるでしょうか。


あなたたちの金庫が一杯の時、いつも心の中には空洞が存在しませんか。この花の篭の底には何時も蛇が隠れていませんか。あなたたちが感じる正当な満足感、すなわち敬われるべき勤勉な労働を通じて人間が体験するものについては理解することができます。

しかし、神が認めたこの極めて自然な満足感と、他の感情を吸収し、心の衝動を麻痺させてしまう執着心との間には大きな隔たりがあります。

又行き過ぎた道楽と卑しい貪欲さの間ににも同様の隔たりがあり、神はこれらの二つの悪癖の間に、貧しい者が卑屈になることなく受け取れるように、富める者が見せびらかすことなく与えることを教える、聖なる健全な美徳である慈善を位置付けたのです。

あなたの財産があなたの家族から受けたものであれ、あなたの労働によって得たものであれ、決して、忘れてはならないことが一つあります。全てが神より生じているということです。

あなたのささやかな肉体でさえ、地上であなたに属するものは何もありません。その他の物質的な財産と同様に、死はあなたたちからそれを奪います。あなたたちは所有者ではなく、受託者なのですから、錯覚してはなりません。神はそれらをあなたたちに貸し与えたのであり、

あなたたちはそれを返還しなければならないのです。神は少なくとも、余剰なものが必要なものを欠く人達の手にわたることを条件に貸し与えるのです。


 あなたたちの友達が、ある金額を貸してくれるとします。あなたはどんなに正直でなかったにせよ、それをきちんと返そうとし、その人について感謝するでしょう。よいでしょうか。

豊かな人は皆こうした条件が当てはまります。神は、富を貸してくれた天にある友達であり、神は、富める者が自分の富についてきちんと認識し、神を愛する心を持つこと以外には、何も望んでいないのです。しかし、

その代りにその人と同様に自分の子である貧しい者達に与えることを、富める者たちに求めるのです。

 神があなたたちに信託した財産を手にすると、あなたたちのうちに熱く狂った欲が目覚めます。あなたたち自身がそうであるように、一時的で消滅してしまう運命にある財産に節度無く執着するのを止め、いつの日か神より与えられたものに対して、主と精算を行わなければならないということを考えたことがありますか。

富によってあなたたちは、知性的な富の分配人と言われるように、地球上における慈善の神聖なる役割を身に付けたのだということを忘れたのですか。ですから、

あなたたちに信託されたものをあなたたちの利益の為だけに用いるのであれば、あなたたちは不忠実な受託者以外の何であると言えるでしょうか。あなたたちの義務を自ら忘れてしまうことがもたらす結果はどんなものでしょうか。無情で容赦のない死は、あなたたちが身を隠すベールを引き裂き、

忘れていた友とあなたたちが精算を行うことを強要することになり、そしてその時、その友はあなたたちの前で裁判官の服を身に付けることになるのです。


 地球上であなたたちは、しばしばエゴにしか過ぎないものを美徳の名によって彩り、自分たちを無駄にあざむこうとしています。食欲やケチにしかすぎないものを経済性や用心と呼び、自分たちの為の浪費にしか過ぎないものを寛大さだと呼びます。例えばある家族の父親は、慈善を行わずお金を節約し、

貯めることを、子供たちが貧困に陥ることがないように出来る限り多くの財産を残すためだというでしょう。それは全く正当で父親らしいことであり、誰にも非難すべきことではないと認めます。

しかし、それが本当に彼の従う唯一の動機でしょうか。多くの場合、それは、地上の財産への個人的な執着を自分の目と世間の目の前で正当化する為の、自分の良心との約束であるのではないでしょうか。

しかしながら、取り敢えずは父性愛がその唯一の動機であると認めましょう。ではそのことは、神の前に兄弟たちのことを忘れる理由として十分なものでしょうか。すでに余剰がある時、その余剰が少し少なく与えられるからと言って、子供たちが貧困に陥ることになるでしょうか。


その前に、子供たちにエゴイズムを教え、その心を堅くさせてしまうことになりませんか。彼らの中の隣人愛を衰弱させてしまうことになりませんか。父親たち、そして母親たちよ、

その方法によってあなたたちが子供たちから最大の愛情を獲得できると信じているのであれば、あなたたちは大きく誤っています。他人に対して利己的であることを子供たちに教えることは、彼らに、あなたたち自身に対してもそうあれと教えていることになるのです。


 多く働き、その汗によって財産を蓄えた人が、金は稼ぐほどにその価値を知る、と言うのはごく一般的なことです。それ程正確な言葉もありません。

それならばお金の価値を知っているという人は、可能な範囲の中で慈善を行って下さい。そうすれば、豊かさの中に生まれ、労働から来る荒々しい疲労を感じない人々よりも大きな価値があることになります。しかしまた、

自分の苦労や努力を覚えているその人が、利己的で、貧しい者に対して慈悲心を持たないのであれば、他の人達よりも責任は重いことになります。と言うのも、貧困に隠された痛みを自分で知っていればいるほど、他人を助けようと感じなければならないからです。


 不幸にも、豊かな財産を所有する人々の心の中には、その財産への執着心と同じくらいに強い、ある感情が存在します。それは自尊心です。成り上がり者が自分の仕事と能力の話に酔いしれ、

哀れな者が助けを求めると、助ける代わりに「私がやったようにやればよいのだ」というのを目にするのは珍しいことではありません。彼らの見方からすれば、蓄えることのできた富の所有と神の善意とは全く関係ないことなのです。それを所有する功労は彼だけに属すると考えています。

自尊心が彼の目を覆い、耳を塞いでしまうのです。彼の大した知性と能力にも関わらず、神はたった一言によって彼を地面に倒すことが出来るのだということを理解できないのです。


 財産を浪費することが地上の財産への執着心を捨てたことを示すのではありません。それは不注意と無関心です。これらの財産の受託者である人間は、それらを乱費する権利も、自分の利益のために取りあげる権利も有していません。浪費は寛大さではありません。

それはしばしばエゴイズムの一種なのです。自由にすることの出来る金を、幻想を満足させるためにはでに費やす者は、雑務に対しては一銭も支払わないことでしょう。

地上の財産への執着心を捨てるということは、その財産を正しい価値において評価し、自分の為ばかりではなく、他人の為にそれを振る舞うことを知り、未来の人生における利益を犠牲にすることなく、例え神がそれを奪うことを決めたとしても、不平を言うことなくそれを失うことが出来るということです。


もし、予見できない不慮の出来事によって、あなたたちがヨブのようになった時には、彼のように、「主よ、あなたは私に与えられ、私から奪われました。あなたの意のままにされてください」と言うべきなのです。それが本当に執着心を捨てるということです。

何よりもまず従順であってください。あなたたちに与え、あなたたちから奪った神を信頼してください。神はあなたたちから奪ったものを再び戻してくれるでしょう。


あなたたちの力を麻痺させる落胆と絶望に勇ましく抵抗してください。神は一撃を響かせるとき、最も激しい試練の横にいつも慰安を与えるのだということを決して忘れてはなりません。そしてとりわけ、


地上の財産よりも無限に貴重な財産が存在するのだということを熟考してください。その考えは、地上の財産への執着心を捨てる上であなたたちを助けてくれます。あるものに対する評価を低くするほど、それを失った時の喪失感は少なくなります。

地上の財産にしがみつく人は、その時ばかりしか目に入らない子供のようです。それから解放されることのできる人は、救世主の次の預言を理解することによって、より大切な事が見える大人のようです。

「私の国はこの世のものではありません」。

 主は、誰もが、所有するものを捨てて、自ら物乞いになれとは命令しません。なぜなら、もしそのようにすれば社会の負担になってしまうからです。そのように行う者は、地上の財産に対する執着心を捨てるということを誤って理解していることになります。

それはまた別の類のエゴイズムであり、なぜなら財産を所有するものに重くかかる責任からその人は免れるということになるからです。

神は財産を、みなの利益のために管理するに適していると思われる者に与えます。ですから裕福な者には使命があり、それを美化し自分の為に役立たせることが出来るのです。神が信託する財産を拒否することは、分別を持ってそれを管理することによってもたらされる善の恩恵を放棄することです。

それを所有しない時には断念することを知り、それを所有する時には有益に利用することを知り、必要な時には犠牲を払うことを知ることによって、その人は主の意向に沿って進むことができます。

ですから、自分たちの手元にこの世で大きな富と呼ばれるものがもたらされた人は次のように唱えてください。「神よ、あなたは私に新しい役割を与えられました。その役割を果たすための力を、あなたの神聖なる意志に沿ってお与えください」。

 友よ、ここに私が教えたかった地上の財産への執着心を捨てることの意味が存在します。私が説いたことを要約して次のように申し上げます。

「少ないもので満足することを覚えてください」。もしあなたが貧しいのであっても、財産は幸福には必要ないものなのですから富める者を羨ましがってはなりません。もしあなたが裕福であるならば、

あなたたちが自由にできる財産とはあなたたちに預けられたものに過ぎず、弁護人のように、その用途について証明し弁明しなければならないことを忘れないでください。あなたたちの自尊心と享楽を満足させる為だけにそれを使うことで、不誠実な受託者になってしまわないようにしてください。

受け取ったものをあなたたちの独占的な利益のために自由に扱うことのできる権利なのだとも、寄贈されたものだとも判断してはならず、それが単に貸与なのであると考えてください。

それを返還することができないのであれば、あなたはそれを求める権利を持っておらず、また、貧しい者に与える人は神から受けた負債を精算しているのだということを覚えておいてください。
                         (ラコルデ-ル コンスタンティーヌ、1863年)


   

財産の相談
十五、人間が、生きている間にのみ享受することを神によって許された財産の単なる受託者に過ぎないという原理は、財産をその子孫に相続させる権利を人間から奪うことになりませんか。

 人間が死別する時、生きている間に享受出来た財産を、完全に相続させることは全く問題のないことです。なぜなら、この権利の結果も常に神の意志に従うものであり、神が望めば、相続を受けた財産を子孫たちが享受することを妨げることも出来るからです。

確実に形成されたかに見える財産が崩壊するのは、まさにそのようなことが原因なのです。すなわち、

人間の意志は、子孫に相続された財産の所有を守るところにまでは及ばないのです。しかし、だからと言って、神から受けた借り入れを子孫に譲る権利を人は失うわけではありません。なぜなら、神は好機であると判断した時には、その財産を奪うことが出来るからです。(聖ルイ パリ、1860年)


FEB版注1
・・・この強いたとえの表現は少し強引であるようにも思えます。と言うのも、ラクダと針との間にどのような関係があるのか理解することが出来ないからです。実は、ヘブライ語のラクダという言葉は、綱(ロープ)と言う意味にも使われるのです。翻訳では、最初の意味で訳してしまっているわけですが、イエスは別の意味でこの言葉を用いたことが考えられます。少なくともその方が自然です。・・・

 




   第17章   完全でありなさい  

完全性の特徴  
、あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちの為に祈りなさい。あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。

徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っていると言うことになるでしょうか。

ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)



、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言う命題は、文字通りに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。

もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。


 ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、何からなっているのでしょうか。


イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちの為に祈ること」にあると言いました。この様にしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。

 あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。

なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。


敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうしたい愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。

そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることが出来るかと言うことに直接かかわっていることになります。そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、

「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。



 善人
、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。

このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善をつくしているか、

有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。


  神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることは無いことを知っており、全てにおいて神の意志に従うことを知っています。

 未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。

 人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。


 慈善と隣人愛の感覚を持ち、善の為に善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。

 善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。

反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。

 善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。

 私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。

 どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によて傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。

 憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。

 他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

 他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。

 自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。

 他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。

 自分に与えられたものは、全て奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。


 自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いる事が最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。

社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すようなことはありません。

彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。

 他人に従う立場にある場合は、自分の為に、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。

  人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りの全ての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。

   


 善いスピリィテスト   
、善く理解され、何よりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。

スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリスト教のお教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。


 しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。いいえ、なぜなら、

教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、全ての力がその本質から来ています。

神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。


 それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人達がいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、

学びと取る人がいます。このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。

その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。


 ある人達にとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。

彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることが出来ず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。

単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。


彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話を始めることを依頼します。

こうした人達は不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人達と共感し続けることになるからです。

その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。


 理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。


一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。

真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人達が有限の地平線に満足する一方で、別の人達はより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。



種を蒔く者の話
、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。

すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出掛けた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。しかし芽が伸びると太陽が照り付け、

根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長を遮ってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)


「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。

そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。

茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のとこです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押し潰し、実を結ばなくなってしまいます。

良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことが出来、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)




、種を蒔く者の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何んと多いことでしょうか。

 さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。

霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、

通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。  





霊たちからの指導
  

義務
、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最も些細な事柄においても、より高尚な行動の中にも、それに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。 

感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいのです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。

人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。


しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かし始める点に始まります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。


 神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。

善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なる計らいであり、神はその子全てが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことが無くなることを望んでいるのです。


 あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。

多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。


 義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。

 義務は、人類のより優れた向上の為の期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。

被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)





 
、最高位の徳とは、善人の持ち合わせる全ての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし、残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。

自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さと全く反する悪癖である自尊心が存在しているのです。

美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ブィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、

世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。


子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。


しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらすもののマネをしてはいけません。

そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。


 概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。

では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どういえばよいでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。


 スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。

すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。

自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。  (フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)  
 



 上位の者、下位の者
、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、

地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、

彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。

神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。


 権威を委託されたものは誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。

彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。


その使命がどのようなものであれ、それは常に善の為に与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。


 金銭的に裕福なものに対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。

「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。

あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。


 キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、

かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。

上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。

スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。

なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分に相応しいことだと認識します。

なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他により良い場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。


スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導く事です。だからこそ、

自分の義務を遂行することはより気がかりになります。なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。一言で言うなら、スピリティズム信じる人の心には、

信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)




 この世の人類
、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。

ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、

あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。

 しかし、私が祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言い渡された社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。

そうです、あなたたちは、人類がそうであるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のささいなことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。

 あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。

しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日まで残された日々を教える、天の相続人のものであるように。

徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。

あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。

何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。

キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さいものから大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。

ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることが無く、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。ですから、

私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きる為に自ら痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。

人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)

 

   

肉体と霊を大切にしなさい

十一、道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決する為に、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。

この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。

ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質の全く異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。

肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。

いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。

生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。

だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にして下さい。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。

そうした過ちに対しては、自由意志も、下手の操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。

肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることが出来るでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。

完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です
(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)

 



  第18章  多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
  
結婚披露宴のたとえ話
イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。

そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。しかし、

招待された者たちはそれに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。

そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者全て連れてきた。披露宴の席は客で一杯になった。

 王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。

しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
 
  
、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人達を殺してしまうまで抵抗するのか、と言うことが理解できません。

そのような者は、「たとえ話と言うのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」と言うでしょう。


 その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。

それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。

 ここで扱うたとえ話の中でイエスは、全てが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。

王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。

その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。

招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人達のことを象徴しています。


 当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他の全ての国々に対して優越していなければならないと信じられているが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでした。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。


 キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることは無く、もしくは、

そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。

神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。

しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。

そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。

そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。

 しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。

ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。

「道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れてきなさい
」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。


 しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。


ところで、その法の全ては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。

天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。




 狭き扉
、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多く者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)


、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないでしょうか」。

 イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、

『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。

 あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブや全ての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするでしょう。

東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30)      


、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受する為の、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです


それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。

 地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。

したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。

 しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。

もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。

魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。



よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない

、私に「主よ、主よ」と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、

「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。

その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)


、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。

しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)  


、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)


、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。

外見的な行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人達はイエスの使徒でしょうか。いいえ。

それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。

「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。

イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。


神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりすることになります。言葉を多くとなえたり、跪くことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。

 イエスの言葉は真実であるが故に永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。

人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。




 多くを受けた者は多くを求められる

、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。

しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。
(ルカ 第十二章 47,48)


十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。

イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまたもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。

しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)


十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、

また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。

霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。

あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。

教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。

ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているが為に、より責任を問われることになります。

 善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。

書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分の為に受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)

「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。


 今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。

 誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。

 スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。


 


霊たちからの指導

 持つ者に与える

十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多く与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見えず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)


十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を計る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです(マルコ 第四章 24,25)


十五、「持つ者は与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大な教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉に相応しくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。

なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、

それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。

 「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。


霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。

霊自身が、その道楽と怠慢の為に、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。

 父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。

いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。

恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。

あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けたものに対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。


あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。
(ある親しい霊 ボルドー、1862年)



 行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。

従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。

「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、

これらの言葉をよく理解してください。強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者全てを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。

キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。

自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。

喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。

 だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。

キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。

その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。

これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくしてしまうようにしてはいけません。

「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。

彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。

 至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)



   第19章  山をも動かす信仰   
信仰の力
、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことができませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何と言う不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところへ連れてきなさい」。イエスが悪霊を脅かすと、悪霊は子供から出て行き、

その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と解釈されます。それはある種の明晰さをもたらし、それによっての思考の中で、

そこまでたどり着く為の手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

 
、信念を自惚れと混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神を信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、

善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。



宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、

信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れが全くないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いと言う多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、

増してや強要することは不可能です。そうです信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。ゆえに、

「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。


一部の人達はそれを無視しています。他の人達は習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人達には自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人達にとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。

霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人達にとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。彼らはすでに教育されています。 

後者の者は全てを学ばなければなりません。これらから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)

それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命じるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、全く信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、

いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

スピリティズムはこうした結果を導く事で、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。





 枯れたイチジクの木の話   

、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。


次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことは全て起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしに言う者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。 (マルコ 第十一章 12-14,20-23)



、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、

心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言で言うなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。


つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じよに扱われるでしょう。




霊媒とは霊の通訳者です。霊たちはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。あらゆる場所、

あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。しかし

もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、

自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





霊たちからの指導     

信仰-希望と慈善の母 
十一、有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。


 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することが出来るでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。
 
信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を満ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。神を愛してください。しかし、

なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。
  (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   





人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。ただ、

こうした奇蹟は、人類がその当時原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

  人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。天における自分の未来を信じる善なる人は、

その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。
もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することが出来るでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)
 

FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多く求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、

キリストの教義の原則が示す、人類の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つ言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。




  第20章 最後に来た労働者たち
、天の国とは、自分のブドウ園で働く労働者たちを雇いに、朝早く出かけたある家の主人と同じである。彼は、労働者一人につき、一日一デナリオを支払うことを取り決めると、ブドウ園へ行くように言った。九時ころになって再び出て行くと、広場で何もせず会話をしている者たちをみつけた。

彼らに言った、「あなたたちも私のブドウ園へいけば、それに見合う賃金を支払いましょう」。彼らは行った。

十二時頃と三時頃にも再び出て行き、同じことをした。五時頃になり、再び出て行くと、また暇そうにしている者たちを見つけたので、次のように言った。

「なぜ、あなたたちは、働かずに一日中ここにいたのですか」。彼らは自分たちを誰も雇ってくれなかったのだと言った。するとその者たちに言った、「あなたたちも私のブドウ園へ行きなさい」。


夕方になると、ブドウ園の主人はその仕事を監督して居た者に言った、「労働者たちを呼び、最後に来た者から順番に、最初に来た者にまでわたるように賃金を支払いなさい」。そして五時に来た者たちがきて、一人一デナリオを受け取った。最初に雇われた者たちの順番が来ると、

より多くを貰えるだろうと思い込んでいたにも関わらず、受け取ったのは一人一デナリオだけだった。

受け取ると主人に対して不満を言った、「最後に来た者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日中、暑さと重さに耐えた私たちと同じだけ支払うのですか」。


しかし、主人は答えて彼らに言った。「友よ、私はあなたに対してどんな損も与えていない。あなたは私と、一日一デナリオという取り決めをしたではありませんか。自分に与えられた賃金を受け取り、行きなさい。最後に来た者にも、私はあなたと同じだけ与えたいのです。

自分のものを自分が望むようにしてはいけないのですか。それとも、私が善いことを妬ましく思うのですか」。このように、最後の者が最初になり、最初の者は最後になるのです。

なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ないからです。(→第十八章 1 結婚披露宴のたとえ話)。(マタイ第二十章 1-16)




霊たちからの指導        最後の者が最初になる   

、最後に来た労働者に報酬を受ける権利はありますが、雇ってくれる者の為に働く意欲を抱いて居る必要があり、また怠惰や意欲が低いために遅れてきたのであってはいけません。

なぜ報酬を受ける権利があるかと言えば、夜明けから、彼を仕事に呼んでくれる人が来るのを首を長くして待っていたからです。働き者でありながら、仕事が不足していたのです。

しかし、「私たちは辛抱強い。休息は私に心地よい。ギリギリになってその日の報酬のことを考えればよい。

私が知りもしなければ尊敬もしない雇い主にどうして迷惑をかける必要があるのか。より遅くなってから働けばよい」と言って、もしその日の早い時間に働くことを拒否していたとしたらどうでしょうか。

友よ、このような者には労働者としての報酬はなく、怠惰な者にふさわしい報酬しかなかったでしょう。

 では、働かずにいるばかりか、労働に当てられるべき時間をくだらないことに使い、神を冒涜し、兄弟の血を流し、家族に動揺を与え、その人に託されたものを破壊し、無実の者につけ込み、ついには、人類のあらゆる不名誉を増大させてしまった者達には何と言えばよいでしょうか。

また、次のような者はどうでしょうか。最後の時がやってきてから、「主よ、私の時間を無駄にしてしまいました。私を一日が終わるまで雇って下さい。そうすればほんの少しではありますが、私は自分の任務を果たすことができるので、やる気のある労働者の報酬をお与えください」。


いけません。それではいけません。主はこう言うでしょう。「今あなたに与える仕事はない。あなたは自分の時間を浪費しました。学んだことを忘れたのです。もうあなたは私のブドウ園では働けません。だから意欲のある時に学ぶことを再開し、私に申しでてください。

そうすれば、あなたが一日のいつの時間でも働けるよう、私の広い農地をあなたに解放します」。


 愛する善きスピリティストたちよ。あなたたちはみな、最後に来た労働者です。「私は夜明けから働いているのだし、日が暮れれば仕事を終えるまでだ」という人は自尊心の強い人です。皆が呼ばれた時にやって来たのであり、ある者は少し早く、ある者は少し遅く、再生にたどりついたのであり、

みなが地上での生活につながれているのです。しかし、主は何世紀にもわたって、あなたたちをブドウ園に呼び続けていましたが、あなたたちはそこへ行こうとはしなかったのです。

あなたたちには報酬の弁済をする時がやって来たのです。あなたたちに残された時間を有効に使い、あなたの一生が、あなたたちにどんなに長く感じられても、永遠と呼ぶ時間に比べれば、ほんのつかの間に過ぎないのだということを忘れてはなりません。
                                               (守護霊 コンスタンティーノ ボルドー、1863年)



、イエスは象徴の簡潔さを好みましたが、その男性的な表現で伝えた最初にやって来た労働者たちとは預言者、つまり段階的な進歩の過程で足跡を残したモーゼやその他すべての開始者たちのことを指しており、その進歩は後に、使徒たち、殉教者たち、教会の創設者たち、賢者たち、

哲学者たち、そして最後にはスピリティストたちによって記されることになるのです。後から来た者たちは、救世主の登場の兆しがあった頃から宣言され予言されており、ここで同じ報酬を、あるいは、より大きな報酬を受け取ることになるでしょう。

人類は集合的に仕事に取り組んでいるために、後から到着した者は先駆者たちの知性的な働きを相続して利用します。神は人類の連帯性を祝福します。とは言え、実際には、昔の人々の多くが、

今日再び生きているか、もしくは明日再び生きることになるのであって、そのようにして昔開始した事業を終わらせることになるのです。

一人の愛国者、一人の預言者、一人のキリストの使徒、一人のキリスト教信仰の宣教者以上の者が私たちの間に存在しているのです。彼らはより啓発され、より進歩しており、その仕事はもはや基礎の仕事ではなく、建造物の棟木を組む仕事に取り組んでいるのです。

したがって、受け取る報酬は、その仕事の価値に見合ったものになるのです。

 美しい再生の教義は霊的な従属関係を永遠のものとし、より明確にします。地上における任務の精算に呼ばれ、仕事を中断しても、霊は、継続的に再着手すべき仕事の存在に気づきます。

彼はそれを見て、自分より先を行く者たちの考えを大まかに理解したと感じると、豊富な経験を生かしてさらなる前進に挑み始めるのです。最初からいる労働者も、最後に来た労働者も、神の深い正義に対して目をしっかり開いている者はみな、不平を言うことはありません。彼らは仕事を熱愛しているのです。

 これがこの話の真なる意味の一つです。イエスが民衆に話す時に用いたすべてのたとえ話と同様に、その中には啓示が含まれており、未来の始まり、あらゆる形と姿において、宇宙の全てを調和する荘厳なる統合力、全ての者の現在を過去と未来に結びつける連帯性を示しているのです。
                                                                       (ハインリヒ・ハイネ パリ、1863年)



  スピリティストの使命
、古い世界を奪い去り、地上の非道を消滅させる嵐の音がまだ聞こえないのですか。ああ、主よ、至上の正義にその信仰を託した者たちを祝福して下さい。

上から来る預言の声によって示された信仰の新しい使徒たちよ、その使命を正しく達成したか、地上における試練に耐えたかに従って起こる霊の向上と再生の教義を説きに行って下さい。

 もはや驚くことはありません。炎はあなたたちの頭上まで届いています。スピリティズムの真なる使徒たちよ。あなたたちは神に選ばれたのです。神の言葉を説きに出かけて行って下さい。あなたたちの習慣や労働や無用な従事を、その普及のために犠牲にすべき時がやってきました。

宣教に出かけて行って下さい高尚な霊たちがあなたたちと共にあります。神の声は絶え間なく自己の放棄を呼びかけるので、あなたたちは必ず、神の声を聞きたがらない人々と話すことになるでしょう。

 貪欲な人々に無関心を、ふしだらな者には禁欲を、家庭の君主や暴君たちには温和さを説きに行って下さい。種を蒔く土地にあなたたちの汗で水をまくことを仕事としてください。一方で、福音の鍬やくわによって繰り返し耕されることが無ければ、その種が育ち実を結ぶことはありません。行って教えを説いてください。

善き信心を持った者たちよ、無限の中にまき散らされた世界を前に、自分の劣等を認識する者たちよ。

不正義と非道に対抗する活動に身を投じてください。行って、日を追うごとに広がる金の子牛の崇拝を禁じてください。行けば神が道を示してくれます。質素で無知な人々よ、あなたたちの舌は動き、どんな雄弁家にもまねのできない話をすることが出来るでしょう。

行って教えを説いてください。注意深い人々はあなたたちの慰安、兄弟愛、希望、平和の言葉を幸せに受け止めるでしょう。

 あなたの行く道に待ち伏せる者のことを気にする必要はありません。狼の罠には狼しかはまることはなく、羊飼いはその羊たちを生贄の火から守ることを知っています。

 神の前に偉大なる人々よ、霊媒性を実際に目にすることに拘らずに受け入れる者たちよ、それを自分自身の手に入れることができなかったとしても、使徒トマスよりも幸せな者たちよ、行って下さい、行けば神の霊が導いてくれます。

 だから、威厳のある一隊よ、信仰によって前進して下さい。朝霧が朝日の光に消えていくように、大きな不信心の集団もその前から消えて行きます。

 信仰は山をも動かす美徳であることをイエスは言いました。しかし、最も高い山よりも重いのは、人類の心の中に横たわる不純さと、そこから生まれるあらゆる悪癖なのです。ですから、勇気を満たして出発し、あなたたちが異教徒の文明以前の時代についてとても不完全にしか知らないと同じように、未来の世代には昔話としてのみ知られるべき非道の山を取り除きに行って下さい。

 もっとも、地球上のあらゆる地点では、哲学的、道徳的反乱が巻き起こるでしょう。神の光が二つの世界に溢れ、こぼれる時が近づいているのです。

 だから、神の言葉を運んで行って下さい。それらを軽んじるうぬぼれた人たちの許にも、証拠を強いる知識人たちの許にも、それらを受け入れる小さく、素朴な人々のもとにも運んで行って下さい。

なぜなら、特にそうした役割や地上の試練に殉じる者の中に、信仰と熱意が存在しているからです。

行って下さい。こうした者たちは神への感謝と讃美の歌と共に、あなたたちが届ける聖なる慰安を受け取り、頭を下げ、地上が彼らに与えた苦しみに対して感謝をするでしょう。

 決意と勇気によってあなたたちの隊を武装してください。仕事に取り掛かってください。鍬の準備は整っています。土地が待ち受けています。耕しにかかってください。

神が託してくれた輝かしい使命を、神に感謝しに行って下さい。しかし、注意も必要です。スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも、多くの者がその道を歪めてしまいました。だから、あなたたの道を修正し、真実に従って下さい。


質問=スピリティズムに呼ばれた者たちの中でも多くの者がその道を歪めたと言いますが、正しい道にあるということを確認することのできる証とは何でしょうか。

答え=彼らが教え、実践する真なる慈善の原則によって知ることができます。彼らが慰安を届ける苦しむ人々の数によって知ることができます。最後には、その原則の勝利によって知ることができます。その隣人愛、甘受の態度、個人的な利害の放棄によって知ることができます。なぜなら、神はその法の勝利を望んでいるからです。

神の法に従う者こそが選ばれた者たちであり、神は彼らに勝利を与えます。しかし神は、その法の真髄を偽り、自分の野望と虚栄心の満足の足がかりとして利用する者たちを消滅させます。
(霊媒の守護霊エラストゥス パリ、1863年)(→FEB版注1)



  主の労働者たち
、人類の変革のために生じることが告知された事柄が成就する時が近づいています。その時自己放棄と慈善以外の目的なしに主の農園で働いている者は幸運です。その労働の日々は期待していたよりも百倍にして支払われるでしょう。

「主がやってきた時には仕事が終わって居るように、共に働き、私たちの力を合わせましょう」と自分の兄弟に伝える者は幸いです。

彼らに主は、「善き使いたちよ、私の許へ来なさい。あなたたちは自分の妬みやあなたたちの不和に対して静寂を強いることを知り、仕事に損害を与えませんでした」というでしょう。

しかし、自分たちの意見の相違によって収穫の時期を遅らせてしまった者は不幸な者です。なぜなら、嵐が彼らの許へやって来て、竜巻の中に巻き込まれてしまうからです。

「慈悲を、慈悲を」と叫ぶでしょう。しかし主は、「自分たちの兄弟に対して慈悲がなく、彼らに手を差しのべることを拒んだ者たちよ、弱き者たちを助ける代わりに圧した者たちよ、どうして慈悲を求めることが出来ようか」と言うでしょう。

あなたたちの報酬をすでに地上の喜びや自分たちの自尊心を満たすことの中に求めておきながら、どうして慈悲を求めることができましょうか。すでに求めていた通りの報酬は受け取ったのです。あなたたちに求められるものはなく、天における報酬は、地上において報酬を求めなかった者たちのものなのです。

 神はいままさに、その忠実な使徒たちを調べにあたっており、献身が単に表面的な者たちには既に印をつけ、彼らが活力に満ちた使徒たちの報酬を騙し取ることができないようにしています。

自分たちの仕事を前にして退くことの無い者たちに、神はスピリティズムによる偉大なる更生の事業の中のより難しい役割を託すでしょう。次の言葉の通りになるのです。「天の国においては、先の者たちが後になり、後の者たちが先になる」(真実の霊 パリ、1862年)


●FEB版注1
フランス語第三版において、この通信は署名もなく不完全に記されている。原書第一版に合わせて修正した。-FEB,1948
  



  
第21章  偽キリストや偽預言者が現れるであろう   

 果実によってその木を知る
、悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。この様に、果実によってその木を知ることができます。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうの房を摘むこともありません。

善人はその心の善き宝より善いものを取り出し、悪人はその心の悪しき宝より悪いものを取り出します。ゆえに口は、心を満たしていることを語るのです。(ルカ 第六章 43-45)



、中身は貪欲な狼でありながら、羊の毛を被り、あなたたちのもとにやってくる偽預言者たちから身を守りなさい。あなたたちは、その果実によって彼らを見分けることができるでしょう。茨からぶどうを採ったり、アザミからイチジクを集めたりすることが出来るでしょうか。

そのように、善い木には善い果実が実り、悪い木には悪い果実が実るのです。善い木は悪い果実を生むことはなく、悪い木が善い果実を生むこともありません。善い果実を生まない木はみな切られ、火に投じられてしまいます。

このように、あなたたちは、偽預言者をその果実によって見分けるのです。(マタイ第七章15-20)



、誰にも誘惑されないように気をつけなさい。なぜなら、多くの者が私の名を語って現れ、「私はキリストである」と言うからです。そして多くの人々を誘惑するでしょう。

多くの偽預言者が現れ、多くの人々を誘惑するでしょう。そして非道徳がはびこり、多くの慈善が冷めてしまうでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。

 ゆえに、もし誰かがあなたに「キリストがここにいる」とか「キリストがあそこにいる」と言っても絶対に信じてはなりません。あるいは偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう。
  (マタイ 第二十四章 4,5,11‐13,23、24、マルコ 第十三章 5,6,21,22)
   




 預言者たちの使命
、一般に、預言者には未来を予見する才能があるとされるために、預言と予言は同意語のように認識されています。福音上の意味においては、預言者と言う言葉はより広い意味を持っています。

人類を指導する使命を持ち、不可視の事柄や霊的生活の秘密を人類に示す、神より送られたすべての者を指します。ゆえに、未来を予言することが無くとも預言者であり得ます。それがイエスの時代のユダヤ人たちの考え方であったのです。そしてそのことから、

イエスが最高司祭カイファの前へ連れて行かれた時、書記官や長老が集まって、イエスの頬に唾を吐きかけ、イエスを殴ったり打ったりしながら、「キリストよ、私達に預言し、お前を打ったのは誰か言ってみろ」と言ったのです。しかしながら、直感的、もしくは神よりの啓示として未来を予知し、

人類への報せを伝える預言者も存在していました。そして予言された出来事が実際に起きたことから、未来を予知することが預言者に属する能力の一つとして考えられていたのです。  



 偽預言者たちの奇蹟 
、「偽キリストや偽預言者たちが現れ、大きな奇蹟や驚くべきことを行い、できれば、選ばれた者たちをも誘惑しようとするでしょう」。この言葉は私たちに、奇蹟と言う言葉の真の意味を教えてくれます。宗教学的には、奇蹟もしくは奇跡とは、自然の法に反した特別な現象を意味します。

それらすべてを神が神だけが行える業としているため、神が望めばそれを取り消すことができるということは、疑いようもありません。しかし神が、劣等で非道な者たちに神と等しい力を与える筈はなく、ましてや神が成したことをやり変える権利を与える筈はないと、私たちの良識は即座に訴えます。

こんな原則をイエスが神聖化したはずはありません。もし、この言葉の文字どおり、悪の霊が選ばれた者さえも騙すような奇蹟を引き起こす力を持ち、神が行うようなことを行えるのであれば、

奇蹟や奇跡は神から送られてきた者たちだけの特権ではなくなり聖人の奇蹟と悪魔の奇蹟を区別するものがないことになってしまいます。よって、これらの言葉の、もっと合理的な意味を見出すことが必要になります。

 一般の無知な人にとって、原因のわからない現象は、全てが超自然で、すばらしく、奇跡的な現象となってしまいます。その原因が分かれば、その現象は、それがどんなに特異なものに見えても、自然の法則に適合した現象に過ぎないのだと認識するようになります。

こうして、超自然的な事柄の輪は科学の輪の広がりとともに狭まっていきます。どんな時代にも、自らのためにその野心や利害と支配欲によって、超人的な力の持ち主と言う権威を得ようとしたり、自分を神の使いであると思わせようと、所有するある種の知識を悪用した人々が存在しました。

こうした人々が偽キリストであり、偽預言者なのです。光が広がることによって、彼らは信用を失い、結果的にそうした者たちの数は人類が啓発されるに従って減少していきます。

つまり、人々が奇蹟と考えるようなことを行うことは、神からの使いであるしるしとはならず、誰にでも手の届くなんらかの知識や特別な肉体的能力を発揮させたことによる結果であり、それにふさわしくない者にでも、それにふさわしい者と同様にその所有は禁止されていないのです。

真なる預言者は、その真摯な態度や道徳性によってのみ知ることができます。    




 全ての霊を信じてはなりません
、愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです。(ヨハネの第一の手紙 第四章 1)



、霊の現象は、一部の人たちが好んでそう言うように、偽キリストや偽預言者を助長するどころか、反対に、彼らに致命的な一撃を与えます。スピリティズムに奇蹟や奇跡を求めてはなりません。

なぜなら、そのようなものが引き起こされることはないと決定的に宣言しているからです。物理学や化学、天文学や地学が物質世界の法を解き明かすのと同様に、スピリティズムは科学にとっての自然の法則のように、その他の知られざる法則、霊の世界と物質世界の関係を支配する法則を解き明かします。

今日にいたるまで理解されていない現象の一種の法則の解説を提供し、依然として驚異の支配下に存在し続ける事柄を破壊します。このことから、現象を自分自身の利益のために悪用したいと考え、自分を神より送られた救世主に仕立てようとしても、他人の信用を長い間もてあそぶことはできず、

じきに仮面を引き剥がされることになるでしょう。もっとも、すでに述べたように、そうした現象は引き起こすだけでは何を証明することもありません。

使命とは道徳的な影響によって証明されるのであり、それは誰にでも引き起こせることではありません。それが、スピリティズムの科学の発展の結果のひとつです。ある現象の原因を調べることによって、多くの神秘のベールを剥がすことになります。光よりも闇を好む者だけが、

スピリティズムをうち消そうとします。しかし、真実とは太陽のようなものです。最も濃い霧も消失させるのです。

 スピリティズムは、偽キリストや偽預言者よりもずっと危険な分類、すなわち生きた人々の間ではなく、肉体を失った死者の間に存在する分類について明らかにしています。

それは人を騙す霊、偽善的な霊、高慢な霊、知ったかぶりをする霊たちの分類であり、彼らは地上を後にして幽界へ行くと尊敬される名前を名のり、ありとあらゆるばかげた考えをより容易に受け入れさせようと仮面を被ります。

彼らは霊媒の関係について知られる以前は、直感を与えたり、聴覚に訴えたり、無意識のうちに話をさせる霊媒性といった、より目立たぬ方法を通じて行動していました。

さまざまな時代において、そして特に最近では、キリスト、マリヤ、その母、もしくは神とまで、自分を称する者の数は相当なものです。聖ヨハネは人類がそのような者たちに気をつけるように、

次のように言っています。「愛する者たちよ、あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい。なぜなら、世には多くの偽預言者が存在するからです」。

スピリティズムは、善霊であることを見分ける、常に道徳的で、決して物質的ではない特徴を示すことによって(→FEB版注1)、私たちが霊たちを試す手段を与えてくれます。それは悪い霊と善い霊を区別する方法で、特に次のイエスの言葉をあてはめることができます。

「悪い果実を結ぶ木は善くないし、善い果実を結ぶ木は悪くない。この様に、果実によってその木を知ることができます」。ある木を、そこになる果実の質によって判断するのと同様に、霊はそのなす行いの質によってその善悪を判断することが出来るのです。



  

 霊たちからの指導  

偽預言者 
、もし誰かが「キリストがここにいる」と言っても、行ってはいけません。反対にその時は注意してください。なぜなら偽預言者が大勢いるからです。イチジクの木の葉が白くなりはじめるのが見えないのですか。多くの芽が花の咲く季節を待ち構えているのが見えないのですか。

また、キリストは「木を果実によって知る」と言いませんでしたか。ゆえに果実が苦ければ、その木が悪い木であることがわかるでしょう。しかし、もしその果実が甘く、健康的であれば、「悪い泉から純粋なものが出るはずがない」と言うでしょう。


 兄弟たちよ、そのように判断することで、なされた行いを試さなければいけないのです。

神からの力を授かったと言う者が高尚な性格を持った使命のしるしを示すのであれば、つまり、愛、慈善、寛大さ、心を和ませる善意といった、永遠のキリストの美徳を最も高いレベルにおいて有しているのであれば、あるいは、言葉に伴った行動を取っているのであれば、「彼らは真に神より送られてきた」ということができます。

 しかし、蜜のように甘く流れる言葉や、公の広場で祈る長い着物をまとったファリサイ人たちや書記官たちを信じてはいけません。真実を独占しようとする者たちを信じてはいけません。

 そうです。キリストはそうした者たちの間にはいません。その聖なる教義を広め、人々を更生させるためにキリストが送る者は、何よりもまず、模範に従って柔和で謙虚な心を持っています。自らの示す模範と豊富な忠告によって人類を救おうと、不信仰のもとへ走り、歪曲した道のあちらこちらを駆けまわる者は、本質的に謙虚で慎み深いのです。

ほんの少しの自尊心でも示す者からは、さわるものすべてを害す伝染性のある病から逃げるように逃げてください。誰もがその額や、特にその行動に、その偉大さ、あるいはその不完全性のしるしを持ち合わせていることを覚えおいてください。


 私の愛する子供たちよ、だから行ってください。背を向けることなく、隠しごとなしに、選択した恵みの道を歩んでください。いつも、恐れることなく行って下さい。永遠の目的への歩みを止めようとするあらゆるものから、注意深く遠ざかってください。

旅人たちよ、永遠の法を啓示し、謎に対するあなたたちの魂の抱くあらゆる願望を満たしてくれる、この優しい教義に心を開くのであれば、試練の痛みと闇の中にいる時間はあと少しだけとなります。

あなたたちの夢の中に一時的に姿を見せ、心には訴えなくとも霊を魅了して去って行く敏速な妖精たちは、実際に存在するのです。愛する者たちよ、もはや死は消滅し、あなたたちの知る光を放つ天使、新しい出会いと再結合の天使にその場所を譲ったのです。

創造主がその被造物に託した使命を正しく遂行したあなたたちは、その正義に対してなにを恐れる必要もありません。なぜなら、彼は慈悲を嘆願する迷える子供たちを何時も赦してくれる父であるからです。だから、止まることなく進み続けてください。

進歩をあなたたちの標語として掲げてください。あらゆるものにおける継続的な進歩を遂げ、最後には、あなたたちの先を行った者すべてが待っていてくれる、幸福な旅の終結を迎えることができますように。(ルイ ボルドー、1861年)




 

 真なる預言者の特徴 
、「偽預言者は信じないこと」。この忠告はどの時代においても有益ですが、現代のような人類に変化が起こる変遷の時代においては特に有益で、それは、そのような時代には野心に満ちた策略家たちの大群が、変革者や救世主と自称するからです。

そしてこうしたペテン師たちからは身を守らなければならず、正直な者にはみな彼らの化けの皮を剥がす義務が生まれるのです。あなたたちはきっとペテン師たちをどうすれば知ることが出来るかと尋ねるでしょう。それを示したものがここにあります。

 唯一、自分の軍隊を指揮することのできる有能な将校だけがそうすることが出来るのです。

あなたたちは神が人間よりも慎重さに劣っていると考えるのですか。神はその任務を遂行する能力があると分かっている者にしか重要な使命を託すことはないのだということを確信してください

なぜなら、偉大なる任務と言うのは重たい衣装の様なもので、それを身につける力に乏しい人間はその任務に押しつぶされてしまうからです。あらゆることにおいて、師はその弟子よりも多くを知っている必要があります。人類を知性的、道徳的に進歩させるには、知性と道徳性において優れた人が必要なのです。

それゆえに、こうした使命のためには、過去の人生でその試練を果たしてきている、すでに進歩した霊がいつも選ばれますが、というのも、もし行動する環境の中においてより優れていなかったら、その行動が周りに及ぼす結果は皆無となってしまうからです。


 これらのことから、神より送られた真の使節と言うのは、その優位性、その美徳、その偉大さ、そのなす行いの持つ道徳的影響力、その託されているという使命の内容によって、それを証明するのであると結論づけなければなりません。次のことも導きだしてください。もし、

神より送られたと主張する者が、その性格、その美徳、その知性において、その持つ役割や名のる人物よりも劣っているのであれば、それは自分で選んだモデルをまねることさえも知らぬ、程度の低いペテン師に過ぎないのです。

 もう一つの留意点があります。神より送られた真なる使節は、ほとんどの場合、自分がそうであることさえ知りません。彼らはその才能の力によって呼ばれたその使命を遂行し、嫌々ながらも、彼らを導き元気づける見えざる力に助けられますが、あらかじめ考えられた計画は存在しません。

一言で言えば次のとおりです。真なる預言者たちはその行いによってそうであることを示し、そうであることを推測させることができます。一方で、偽預言者たちは自らが神より送られた者だということを示そうとします。

前者は慎み深く謙虚です。後者は自尊心が強く、自信過剰で、偽善者たちがそうであるように高慢な態度で話し、自分を信じてもらえないことを常に恐れているようです。


 こうしたくわせ者たちの幾人かは、キリストの使徒となりすまそうとしたり、キリスト自身になりすまそうとしたりしましたが、恥ずかしいことにも人類の中には、そうした醜行をすっかり信じてしまった人がいました。しかし、実に単純な思考を巡らせば、盲目者たちの目を開くには十分です。

それは、もしキリストが地球上に再生したとすれば、その力とその美徳によってそのことは明らかになるはずだということです。もっとも、キリストが退化したというばかげた考えを認めるのであれば話は変りますが。同様に、もし神からそれに帰属するものを一つでも取り去ったとすれば、

もはや神は存在しなくなるように、キリストの美徳のうち、たった一つでも取り去るのであれば、それはもはやキリストではなくなります。「キリストとしてのあらゆる美徳を有しているだろうか」。

ここが問われるところです。彼らを観察し、その考えや行動を分析すれば、何よりもまず、彼らにキリストを特徴づける性格である謙虚さや、慈善が欠けていることがわかり、キリストの有していなかった質である愚かさや自尊心といったものに彼らが支配されていることが分かります。

現在、さまざまな国において、キリストになりすました者、エリアになりすました者、聖ヨハネや聖ペトロになりすました者が多く存在していますが、その誰もが絶対に本物であり得ないことを十分に承知し、彼らが単に他人の信心を利用し、彼らに耳を傾ける人々に頼って生きることが都合が良いと考えている者たちに過ぎないのだということを確信してください。

 ゆえに、現在のような革新の時代には特に、偽預言者たちを疑ってください。なぜなら多くのペテン師たちが、自分が神から送られたというからです。彼らは地上でその虚栄心を満足させようとしているのです。しかし、恐ろしい正義が彼らを待ち受けていることをあなたたちは確信してください。
    (エラストゥス パリ、1862年)



 幽界における偽預言者たち
、偽預言者たちは人間の間にばかり存在するのではありません。さらに多くの数の偽預言者たちが自尊心の強い霊たちの間におり、愛と慈善に見せかけながら不和の種を蒔き、霊媒に受け入れられた後、人類にばかげた主義を植え付けようとし、人類の解放の一大事業を遅らせます。

そして騙そうとする相手をさらにうまく魅了し、その理論にもっと重要性を持たせるため、人類が大いに敬意を払ってのみ呼ぶ名前をためらいもなく名のります。


 彼らこそが人類の間に存在するさまざまなグループの間に敵意の原因を広め、個々に孤立し、お互いに警戒し合うようになるように強いるのです。そのことだけでも正体を暴くには十分です。なぜなら、

そのように行動することによって、彼らこそが最初にその意図をはっきりと打ち消すことになるからです。すなわち、そのような粗雑なペテンに騙される人々は盲目なのです。

 しかし、それ以外にもその正体を確認する方法は多くあります。彼らが属するという分類の霊たちはあまり善くないばかりでなく、優れて理にかなっているわけでもありません。では、どうすればよいでしょうか。

彼らを理性と良識のふるいにかけ、何が残るかを見ればよいのです。したがって、人類の悪に対する薬や人類の変革を達成する方法として、幻想的で実現不可能なことや、ばかげたくだらない方法を霊が指示した時には、それは無知でうそつきの霊であるという私に同意してください。

 一方で、個々が必ずしも真実を備えていなくとも、真実は何時も大衆の良識に評価され、そのことが新たな基準となるのだということを信じてください。もし二つの原理が矛盾するのであれば、

二つの内のどちらが反響や共感が多いかを確かめることによって、両方の固有の価値の量を知ることができるでしょう。それ以外にも、信者が次第に減少する教義の方が、信者が継続的に増加する教義よりも信憑性が高いのだと考えるのは不合理であるということはもちろんです。

神は真理がすべてに到達することを望むために、真理を狭い輪の中に託すことはありません。

真理をさまざまな違った地点に出現させ、それによってあらゆる場所で闇のとなりに光を存在させるのです。

 孤立と離別を説く、独占的な助言者を装う霊たちに従うことなく拒否してください。彼らはほとんどが虚栄心の強いつまらぬ霊たちで、弱く信心深い人々を騙し、大げさな賛美を尽くさせ、彼らを魅了し、支配しようとします。

彼らは普通、生きている間は社会であれ家庭内であれ、独裁君主となる権力に飢えており、死後も圧制する犠牲者を求めているのです。一般に、神秘で奇異な性格を持った通信や、贅沢な儀式を命じる通信は信じてはいけません。こうした場合には、疑うべき理由が必ず存在します。


 また同様に、人類に対して真理が啓示される時には、真剣な霊媒のいる真剣な団体すべてに通信されるのであって、いうならば、たちどころに通信され、他の団体を排除してこの団体とあの団体だけに通信するというようなことはないということを確信してください。

憑依にあれば、どんな霊媒も完全ではありません。ある霊媒が特定の霊の通信しか受けないのであれば、その霊がどんなに高いレベルを装っても、それは明らかに憑依を示しています。よって、

通信を受けることを特権だと考えたり、迷信的な行いに従う霊媒や団体は、全て疑いようもなく典型的な憑依に支配されており、特に、支配する霊が、生者も死者もが尊ぶべき名によって着飾り、何としてでも衰えを許すまいとするのであればなおさらです。  

 すべての詳細と霊からの通信を理性と論理のふるいにかければ、その過ちや不合理性を拒否するのは容易だということは確実です。一人の霊媒が魅了され、その団体を錯覚させていることもあります。

しかし、他の団体が行う厳格な検証や、実験がもたらした科学、団体の責任者の高い道徳的権威、主要な霊媒が得る通信、理性と最善の霊たちの認証のしるしを持てば、悪意を持った騙す霊の集団から放たれる、うそつきで悪賢い内容に直ちに審判を下せるでしょう。

(→序章 Ⅱ スピリティズム教義の権威 霊たちによる教えの普遍的管理、「霊媒の書」第二部 第二十三章憑依について)(聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1862年)




 エレミアと偽預言者たち
十一、万軍の主はこう言われる、「あなたたちに預言をし、あなたたちを騙す預言者たちの声を聞いてはなりません。

彼らは、自分たちの心に描くことを公にするだけで、主から学んだことは言わないからです。彼らは、私を侮る者たちにこう言います、『あなたたちには平和が訪れるでしょう』と。そして、心の堕落してしまった者たちにはこう言います、『あなたたちにはどんな悪いことも起きないでしょう』と」。

 しかし、彼らのうちの誰が、主の忠言を聞いたというのでしょう。彼らのうちの誰が、主を見て、その言うことに耳を傾けたというのでしょう。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自ら始めたのです。

 私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです。

 私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見』というのを聞きました。その偽りの預言が、自分たちの心の誘惑に他ならないうそを預言する者たちの心の中に、いったいいつまであるのでしょうか。

 だから、もしこうした人々が、預言者であれ、聖職者であれ、あなたたちに『主の重荷は何ですか』と問うのであれば、このように答えなさい。『主は、あなたたちこそがその重荷であり、遠くへ追いやると言っておられます』と」、(エレミア 第二十三章 16-18、21,25,26,33)


 友よ、あなたたちに伝えたいことは、この預言者エレミアの一節のことです。神はその口から言いました。「彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」。この言葉は、すでに当時、ペテン師や熱狂者たちが預言の力を濫用し、悪用していたことを明らかに示しています。

結果的に、ほぼ盲目的とも言える人々の単純な信心を食いものにし、金、快楽のために預言をしました。ユダヤの国にはこうした一種の詐欺が一般的であったことから、当時のかわいそうな大衆は、その無知のために善と悪の判断をすることができずにほとんど詐欺師や狂信者に他ならぬ預言者に成りすました者たちに騙され、ばかにされていたということは容易に理解できます。

「私はこのような預言者を遣わしてはいません。彼らが自らはじめたのです。私は彼らにまったく告げてはいません。彼らが自分の頭の中にあることを言っているのです」と言う言葉以上に重要な言葉はありません。

さらに、「私は偽りを預言する預言者たちが、私の名を名のり『夢を見た。夢を見た』というのを聞きました」と書かれています。ここには、偽預言者たちが詐欺の対象とする人々の信用を食いものにした時の手段が示されています。

いつも信心深かった大衆は、その夢や空想の真実性を確かめようとは思いませんでした。それらを自然であると考え、いつも預言者たちに話してもらおうと招いたのでした。

 預言者の言葉を聞いた後には、使徒ヨハネの賢明な次の忠告を聞いてください。「あらゆる霊を信じるのではなく、その霊が神の霊か試しなさい」。なぜなら、目に見えぬ者たちの間にも、機会があれば人を騙して喜んでいる者たちがいるからです。

騙された者たちとは、おわかりのように十分な用心のない霊媒のことです。疑いもなく、そこには多くの者、特にスピリティズムに接して間もない者が、不幸なことにもつまずいてしまう最大の障害が存在します。

そうしたことには、大いに慎重になることによってのみ、打ち勝てるのだということをあなたたちに証明しています。ゆえに、何よりもまず、善い霊と悪い霊を区別することを学び、あなたたち自身が偽預言者とならないようにして下さい。(守護霊ルオズ カールスルーエ、1861年)

 FEB版注1  霊の区別の仕方を参照のこと(『霊媒の書』第二部 24章及びその続き)





 第22章   神が結び合わせたものを引き離してはなりません

 解消してはならない結婚
一、ファリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て、イエスを試みようとして言った、「何か理由があれば、妻と離別することは律法にかなっているでしょうか」。イエスは答えて言われた、

「創造主は、はじめから人を男と女とに造られて、『それゆえに、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人の者が一体になるのだ』と言われたのです。それを、あなたたちは読んだことが無いのですか。それで、もはや二人ではなく、一人なのです。だから、人は、神が結び合わされたものを引き離してはなりません」。

彼らはイエスに言った、「ではモーゼはなぜ、妻と離別する時は離縁状を渡すように定めたのですか」。

イエスは彼らに言われた、「モーゼはあなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したのです。しかし、はじめからそうだったのではありません。誠に言います。妻が姦淫を犯したわけでもないのに、その妻と離別し、別の女を妻にする者は、姦淫を犯すことになるのです。

また、夫に見放された妻をめとる者も姦淫を犯すことになるのです」。(マタイ 第十九章 3‐9)



、神から来るもの以外に、普遍的なものは存在しません。人間によってつくられたものはすべて、変化する運命にあります。自然の法則は、いつの時代も、どの国においても同じです。

しかし、人間のつくる法は、時代、場所、知性的発展によって変化します。結婚というのは、その法により夫婦の性が結ばれることを神が定めたもので、その結果、死すべき運命にある人間は新たな生命を与えられることになります。しかし、結婚を規定する条件はあまりにも人間的に決められており、

国によってさまざまです。キリスト教の中でも、まったく同じように取り決める国は二つとなく、また時の流れとともに変更を余儀なくされなかったものは一つもないのです。

民法においては、ある国である時代に合法的とされたことが、他の国で別の時代には違法となり得ます。なぜならば、民法とは家族的な利害を調整することを目的としたものであり、そのような利害は、地域の習慣や必要性によって違ってくるからです。

ある国においては宗教的な結婚だけが法的に認められ、他の国では民法上の結婚だけで十分だということがありますが、これはその一つの例です。



、しかし、夫婦の性の結びつきを定めるものには、どの国にも同じように人間の法が存在するのと同時に、他のすべての神の法と同じように、普遍の道徳的な神聖なる法、すなわち、愛の法が存在します。神は肉体の上だけではなく、魂の上でも、人間同士が結びつくことを望んでいるのです。

それにより夫婦がお互いの愛をその子共に伝え、一人ではなく二人でその子共を愛し、育て、子供の進歩を助けることができるよう望んでいるのです。普通の結婚では、この愛の法は考慮に入れられているでしょうか。いいえ、二人がお互いを引きあう気持ちは少しも考慮に入れられてはいません。

だから、この気持ちは多くの場合途絶えてしまうのです。そのような結婚で求められているものは心の満足ではなく、自尊心、虚栄心、欲望の満足、つまり、物質的な関心事の満足です。こうした関心にもとづいてすべてがうまくいくと、結婚とは都合の良いものだと考えられるのです。

夫婦の両方が経済的にうまく釣り合っていると、その夫婦は同じように調和し合っており、幸せに違いないと言われるのです。

 しかしどのような民法の規定も、またそのもとに約束されたいかなる決め事も、愛の法が二人の結びつきをつくっているのでなければ、それに勝ることはできません。そのため、しばしば、強制的に結ばれたものは自然と離れていきます。

祭壇の前で単なる決まり文句として宣誓の言葉を唱えたのであれば、その言葉は偽証の言葉となってしまいます。不幸な夫婦の結びつきとはそのようなものであり、罪深いものとなるのです。

これは、結婚する条件として、神の目に認められる唯一の法である愛の法を忘れることが無ければ防ぐことの出来た二重の不幸です。神が「二人は結ばれて一体となる」と言い、イエスが「神が結び合わされたものを引き離してはなりません」と注意したことは、普通の神の法にもとづいて理解されるべきものであり、人間によってつくられた不安定な法にもとづいて理解されるべきことではありません。


、では民法は不必要で、自然の結婚に戻らねばならないでしょうか。勿論違います。民法は、その文明の必要性に応じて、家族的な利害や社会的な関係を調整するために存在するのです。

だから民法は、役に立つ、なくてはならないものである一方で、変化しやすいものなのです。民法は社会の変化を見越したものでなければなりません。なぜなら、人間は野蛮人のように生きていくわけにはいかないからです。

しかし、その民法が神の法に沿ったものとなることを妨げるものは何もありません。神の法に従うための障害となるのは、民法の中ではなく、人々の持つ社会的偏見の中に存在します。その偏見は、とても根強いものですが、この世の高尚な人々はもはや偏見に支配されていません。

道徳的に進歩していけば、偏見も消滅していき、人間は物質的な関心だけによって結ばれることから生じる無数の悪、過ち、罪に対し、目を開くことになるのです。

そしていつかは、共に生きることができない二人の人間を結び止めておくことと、各々が自由を取り戻すのと、どちらがより道徳的、人間的、慈善的だろうか、と問いただすことになるのです。取り消すことのできない拘束が、不正な結婚を増やすことになるのではないかと。   



 離婚
、離婚は人間の法律によって決められたもので、その目的はすでに実際に離別しているものを法律上離別させることにあります。それは神の法に違反することではありません。

なぜなら、離婚とは人間が定めた関係を正すものに過ぎず、神の法が考慮されていなかった場合にのみ適用されるものだからです。もし離婚が神の法に反していたなら、権威と宗教の名において、多くの離婚を決定してきた教会の指導者のことを、教会自体が背任者であると判断しなければならなくなってしまいます。

一方、そうした離婚も愛の法に則るのではなく、物質的関心だけによって決定されていたのであれば、それは二重の裏切りをしたことになってしまいます。


 イエスさえも、結婚が絶対に引き離してはならないものであるとは言ってはいません。「モーゼは、あなたたちの心が冷たすぎるので、その妻を離別することをあなたたちに許したです」とイエスは言いませんでしたか。結婚の唯一の動機となる相互の愛がないのであれば、離別することも必要となるということが、モーゼの時代から続いているのだということがこのことからわかります。

しかし、イエスは「はじめからそうだったのではありません」と付け加えています。つまり人類はその起源においては、エゴイズム、自尊心によって堕落しておらず、神の法に従って生きており、その頃の夫婦の関係は虚栄心と野心によってではなく、お互いの好感によって結ばれており、離別の原因となるものは存在しなかったのです。

 イエスはさらに、離別を正当であると考えることができる場合を的確に示しています。それは姦淫が行われた場合です。しかし姦淫は、夫婦相互の誠実な愛が支配する関係が成り立っているところには存在しません。姦淫し、離縁された妻と結ばれることは禁止されています。

しかし、それを理解するには、その時代の習慣と人々の特徴を考慮に入れなければなりません。モーゼの法は、姦淫した者を死刑に処していた習慣を捨て去ろうとして規定されたのです。

ある野蛮な習慣を廃止するには、それに代る罰則をつくる必要がありましたが、モーゼは二度目の結婚を禁止することによって受ける不名誉をその罰則としたのです。

すべての民法が時の流れとともに変遷していく運命にあるように、一つの法が別の法に置き換えられて行く必要があったのです。


   


   第23章 聞き慣れない教え 

 父母を憎む
、 イエスの後を大勢の民衆がついてきたので、イエスは振り返って彼らに言われた、「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません。そして十字架を担ぐのがいやな者は、私についてきても私の使徒にはなれません。

このようにあなたたちのうちで持つもののすべてを放棄することができない者は、私に使徒にはなれません」。(ルカ 第十四章 25-27,33)



、私のことよりも父母を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。私のことよりも子を愛する者は、私にとってふさわしい者ではありません。 (マタイ 第十章 37)



、非常にまれですが、キリストのものとされるいくつかの言語に関して、それがキリストの習慣的な話し方とあまりに異なっているため、私たちは本能的に拒んでしまい、イエスの教義の崇高さを崩さずにそれを文字通りに解釈するのが難しい場合があります。

どの福音書もイエスが生きている間に書かれたものではなく、イエスの死後に記述されたものであるために、このような場合には、イエスの根底にあった考えがうまく表現されなかったか、あるいは、

起こり得ることとして、もとの考えがある言葉から別の言語へと伝えられていく中で、なんらかの変更がなされたのではなかったかと考えられます。歴史上の出来事においてよくあるように、一度間違えると、それを複写する者には何度も繰り返されてしまうことになります。


 「父や母、妻や子、兄弟、姉妹、さらに自分の人生さえも憎むことが無ければ、私の使徒になることはできません」という聖ルカの一節の中の「憎む」と言う言葉は、こうした可能性の一つとして理解できます。誰もそれをイエスの言葉とすることに同意しないでしょう。

つまり、そのことについて議論したり、ましてや、それを正当化しようとすることは余計なことなのです。第一に重要なのは、イエスがその言葉を発言したかということで、もしそうであるならば、表現に使われた言語において、問題の言葉が私たちの言語と同じ意味を持っていたのかということです。

「この世においてその人生を憎む者は、永遠の命を保つことになる」という聖ヨハネの一節において、この「憎む」と言う言葉が私たちの与える意味を表現しているのではないということは疑いようがありません。


 ヘブライ語の語彙(ゴイ)は豊富ではなく、その中には多数の意味を持った単語がありました。その例として、創世記の中に創造の段階を記述したものがあります。それは同時にある一定の期間と一日の変化について表現しています。そのことから、後になって「日」と言う言葉の翻訳によって地球は六×二十四時間で造られたという信仰が生まれたのです。

綱がラクダの毛で造られていたことから、「ラクダ」と言う言葉がラクダと綱の意味を持っていることも同様な例です。それで、針の穴のたとえ話において、綱のことが「ラクダ」という単語で翻訳されたのです(→第十六章 2)。(→備考1)

 その他の場合には、その民族の言語の特別な意味に影響を与える習慣や性格に注意しなければなりません。こうした知識なくしては、言葉の本当の意味がしばしば失われてしまいます。ある言語と別の言語との比較においては、同じ言葉がより大きな力を持っていたり、より小さな力を持っていたりします。


一つの単語がその暗示する意味によって、ある言語においては非道や冒涜を意味し、他の言語においては大した意味を持たないということもあります。同じ言語においても、何世紀も経過する間に幾つかの言葉はその価値を失っていきます。そのため、厳格な文字通りの直訳が、

いつも完全にある考えを表現するとは限らず、その意味の正確さを保つには、時によって、その言葉に直接対応する言葉ではなく、別の同じ価値を持った言葉や、また同意の節を用いなければなりません。


 こうした注意は聖典、特に福音の解釈においてあてはまります。もし、イエスがどのような環境に生きていたのかを考慮に入れなければ、私たちには他人のことを自分のことにあてはめてしまう習慣があるために、いくつかの表現やいくつかの事実は、誤解にさらされることになってしまいます。

いずれにしても、イエスの教えの精神とは相容れないため、「憎む」という言葉の現代的な意味を捨てる必要があります。(→第十四章 5とそれに続く項)


●備考1
 ラテン語の Non odit、ギリシア語の Kai もしくは misei は、「憎む」という意味ではなく、「より少なく愛する」という意味です。中でもギリシア語の misein という動詩は、イエスが用いたヘブライ語の動詞の意味をよりよく表現しています。

この動詞は「憎む」という意味ばかりではなく、「より少なく愛す」、もしくは「人々を同じように愛さない」という意味を持っています。イエスがよく用いたシリア語の方言においては、その意味をよりよく表しています。こうした意味によって「創世記」(第二十九、三十、三十一章)には、

「そしてヤコブはリアよりもラケルを愛したが、エホバはリアが憎まれているのを見ると・・・」と書かれていますが、ここでの真の意味は「より少なく愛されている」であることは明白です。

このように翻訳されなければなりません。その他の多くのヘブライ語のくだりにおいて、特にシリア語のくだりには、一方を他方と同じように愛さないという意味で用いられており、はっきりと定まった別の意味を持つ「憎む」と言う言葉で訳すと、理解しがたいものとなってしまいます。

マタイの文章はそうした理解の難しさを遠ざけてくれています。(Pezzani氏による注釈)   



 父母と子を捨てる
、私の名において、家、兄弟、姉妹、父母、妻、子、畑を捨てた者は、それらすべての幾倍のものを得ることになり、永遠の命を受け継ぐことになるでしょう。(マタイ第十九章 29)


、ペテロはイエスに言った、「私たちについては、全てを捨て、あなたに従っていることがお分りでしょう」。するとイエスは言われた、「誠に言いますが、誰でも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、来るべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ 第十八章 28-30)



、別の者がイエスに言った、「私は主に従ってまいります。しかし、その前に家の者に別れを言いに行くことをお許しください」。イエスは答えられた、「鍬に手をかけながら後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくありません」。(ルカ 第九章 61,62)

言葉についての議論をすることなしに、ここではそれらが明らかに次の考え方であったのだということを、私たちは見出さなければなりません。

「未来の人生に対する関心は人類のあらゆる関心や心配事に勝っている」。なぜなら、この考え方はイエスの教義の根本に即しているからで、家族を放棄することはその教義の否定となってしまうからです。     

とは言え、母国への愛のために家族への愛情や関心を犠牲にする時、私たちはこの金言をあてはめているのではないでしょうか。母国の防衛のために行進し、父母や兄弟、妻を捨てる者に対して非難するでしょうか。逆にある義務を遂行するために、家庭の快適さや友情の絆から自分を断ち切ることは、

その功績を讃えられることではないでしょうか。つまり、ある義務に勝る他の義務が存在するのです。

娘はその夫に伴うために、この法をあてはめ、父母を捨てる義務を果たすのではありませんか。世界にはより痛ましい別離が必要な場合が多く存在しています。しかし、

だからと言ってその愛情が断ち切れるわけではありません。遠ざかることは、敬意や、子の父母に対する気遣いや、父母の子に対する優しさまでをも減少させるものではありません。ゆえに、その言葉を文字通りに理解し、「憎む」ということを行ったとしても、人間にその父母を敬うことや父母の子に対する愛情を説く教えの否定にはならないのです。

この言葉を用いたことには極端な表現を通じて、人間が未来の人生に対して心配する義務が如何に大きいかということを示す目的がありました。ただし、

習慣によって家族の絆がより弱かった時代の一民族に対して、その言葉は、道徳的により進んだ文明の中にある者に対してよりも衝撃は少なかったと考えられます。こうした原始的な民族における絆は、感受性や道徳性の発達に伴って強化されます。別離そのものは進歩に必要です。

家族や民族は融合したり、統合されなければ没落していきます。それは自然の法則であり、道徳的な進歩に関する事柄にも、物質的な進歩に関する事柄についても当てはまります。

 ここでは物事が地上からの観点によってのみ考慮されています。スピリティズムは私たちにそれをより高いところから見せてくれ、真の愛情の絆というものが、肉体によって結ばれたものではなく、霊によって結ばれたものであるということを示してくれます。

つまり、そうした絆が別離や肉体の死による死別によって断ち切れることはなく、霊の浄化によって霊界において強化されるということを示してくれ、そのことは真の慰安となり、人類はそこから大きな力を得ることができ、それによって人生の苦しみに耐えていくことができるようになるのです。



 死者を葬ることは死者に任せる
、別の者に言われた、「私について来なさい」。するとその者が答えた、「主よ、先に私の父を葬りに行かせてください」。イエスは答えて言われた、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい。あなたは神の国を伝えに行きなさい」。(ルカ 第九章 59,60)


、「死者を葬ることは死者に任せておきなさい」という言葉は何を意味しているのでしょうか。

前述のことを考慮に入れれば、まず第一に、この言葉が発せられた状況において、これらの言葉が、自分の父親を葬ろうとすることを子の慈悲であると考える者に対する非難を意味していた筈はないということはわかります。そうではなく、より深い意味があるのですが、それは霊の生活に関する、

より完全な知識によってのみ理解可能となります。霊的生活とは実際の真なる生活であり、霊の普通の生活であり、地上における存在とは一時的な一過性のもので、霊の生活における行動やその輝きに比較すれば、それはある種の死のようなものです。肉体は一時的に霊を覆う粗い衣服のようなものに過ぎず、

まさに地球上につなぎとめる足かせのようなもので、そこから解放された時には幸せに感じるのです。

死者たちに捧げる私たちの敬意は物質によって促されるのではありません。それは不在の霊に関わる思い出によって促されるものなのです。

肉体は、その人が所有していたり触れたりしていた物であり、その者に愛情を抱く者が遺物として保管する物と同じなのです。父親を葬ろうとした者が理解できなかったことはこのことだったのです。イエスは次のように言って教えたのです。

「遺体のことは心配せず、まず霊のことを考えなさい。神の国を教えに行きなさい。人類の母国とは地上ではなく天にあるもので、そしてそこにのみ真なる命が続いているのだということを、人々に教えに行きなさい」。



  平和ではなく分裂をもたらしに来た
、私が地上に平和をもたらしに来たと考えてはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、剣を持って来たのです。ゆえに父からその息子を絶ち、母からその娘を絶ち、姑から嫁を絶ちに来たのです。人々は自分の家に敵を持つことになります。(マタイ 第十章 34-36)



、私は地上に火を放ちに来ました。すでに火が燃えていたならと、どんなに望むことでしょう。私には受けなければならないパブテスマがあり、それを成し遂げる時をなんと待ち遠しく感じることでしょうか。

 私が地上に平和をもたらしに来たと思うのですか。いいえ、誠に言います。私はむしろ、分裂をもたらしに来たのです。ゆえに今後は、家に五人の人がいれば分裂し、三人対二人、二人対三人とお互いに対立することでしょう。父は息子に、息子は父に、母親は娘に、娘は母親に、姑は嫁に、嫁は姑に、それぞれ対立し合うことでしょう。(ルカ 第十二章 49-53)



十一、優しさの具現化、隣人に対する愛を教えて止むことが無かったイエスが「平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来た。父親から息子を絶ち、夫から妻を絶ちに来た。地上に火をもたらし、それが早く燃え上がることを望む」と本当に言った可能性があるのでしょうか。

これらの言葉は、その教えに明らかに矛盾していないでしょうか。イエスに血なまぐさい征服者や破壊者の言葉を帰することは冒涜ではないでしょうか。いいえ、冒涜でも矛盾でもありません。

なぜなら、その言葉を発したのはまさにイエス本人であり、そこに高い英知の存在が証明されています。ただ、

多少曖昧で、表現の仕方がそこにある考え方を正確に顕していないため、これらの言葉の持つ本当の意味に対して誤解を招いているのです。文字通りに解釈してしまうと、すべてが平和をもたらすためにあるイエスの使命を、動揺と不和をもたらすものに変えてしまうことになりますが、

それはばかげた結論であり、イエスの言うことに矛盾が生じるはずはないため、良識はこの結論を拒むのです。(→第十四章 6)



十二、どんな新しい考えも、いやおうなく反対者に出会い、戦うことなくして根付くことはありません。そうした時、その抵抗の強さは常に、予期される結果の重要性に相応しています。なぜなら、重要であればあるほど、それによって損害を受ける者の数は多いからです。

もしある新しい考えが明らかに誤っているものであれば、それが重大な結果をもたらすことはなく、誰もそれに注意を払いません。その考えに活力が欠けていることを確信するため、人々はその考えをそのまま放っておきます。しかし、もしそれが本物で、確固たる基礎にもとづき、

その未来が予見できるものであれば、自分たちが維持に努めている事柄の秩序や、自分たちの存在に危機を与えるのではないかという反対者の内なる予感が、反対者たちに注意を喚起することになります。すると、その考えやその考えに従う者に対抗し始めるのです。

 このことから、ある新しい考えがもたらす結果やその重要性の度合いは、その考えが登場したことによって生まれた感情、抵抗者たちが引き起こす暴力、反対者たちの憤りの度合いや続き具合によって量ることができます。


十三、イエスは、その当時の聖職者、書記官、ファリサイ人たちの収入源となっていた宗教の濫用を土台から一掃する教義をもたらしに来ました。彼らはそのためにイエスを生贄とし、イエスを殺し、その思想をも消そうとしたのです。しかし、その教義は真実であったため生き続けました。

その教義は、神の意志に応えたものであったために広がり、ユダヤの世に知られぬ小さな村落で生まれながらも、その旗じるしを多神教の世界の中心地にまで掲げ、確信よりもむしろ当時の関心によって人々が大いに執着していた何世紀にもわたる信仰を覆したために、この教義を打ち消そうと競った最も残忍な敵対者たちに直面したのです。そこでは最も恐ろしい戦いが信徒たちを待ち受けていました。

その犠牲者の数は計り知れません。しかし、その思想は常に広がり、勝利を得ました。なぜなら、それが真実であるが為にそれまでにあった考えを征服していったからです。



十四、キリスト教が現れた時、異教は衰えはじめ、理性の光と戦っていたことに注意を払うことが必要です。異教は依然として形式的には実践されていました。しかし、その信仰はすでに消えていました。

個人的な利害のみが異教を支えていたのです。利害によって動く者は頑固で、証拠を前にしても譲歩することはありません。彼らに対する議論がその誤りを決定的に明らかにすればするほど彼らは苛立ちます。そして誤っていることを知りながら、そのことは彼らの考えを揺るがすことはありません。

すなわち、彼らの魂には真なる信心は存在しないのです。彼らも恐れるものは、盲目者に視力を与える光なのです。誤った考えは、彼らに取って使い道がありました。だからそれに固執し、それを守ったのです。

 ソクラテスの教義は、ある範囲まで、キリストの教義と同様でありませんでしたか。では、なぜソクラテスの時代に、彼の教義は地球上の最も知性的な人々の間で優勢にならなかったのでしょうか。

それはまだ期が熟していなかったからです。ソクラテスは耕されていない土地に種を蒔いたのでした。

当時、異教はまだすたれてはいませんでした。キリストはふさわしい時代にその使命を受けました。もっとも、その時代のすべての人がキリストの考えを受け入れる水準にいたるには、多くのものが欠けていたことは明らかです。

しかし、キリストの時代の人々の間には、キリストの考えに同化する素質が一般的にあり、彼らは世俗的な信仰が魂にもたらす空虚をすでに感じ始めていたのです。

ソクラテスとプラトンは道を切り開き、霊たちを事前に準備したのでした。(→序章Ⅳ ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち)



十五、残念なことに、新しい教義の信徒たちは、多くの場合、たとえ話や言葉の比喩に暗示された師の言葉の解釈を理解することができませんでした。そのために、すぐに多数の宗派が生まれ、それぞれが排他的に真実の主となろうとし、十八世紀という年月さえ、それらを合意させるには十分ではなかったのです。

神の教えの最も大切な部分であり、イエスがその建築の柱石として据えた、慈善、兄弟愛、隣人愛といった救いの確実な条件を忘れると、そうした宗派はお互いを異端とし合い、責め合い強いものは弱いものをつぶし、それらを血に染め、拷問を与えたり、火あぶりにしたのです。

異教に対して勝者となったキリスト教徒たちは、それまで迫害されていたのが、自らが迫害者となってしまったのです。キリスト教徒と異教徒の二つの世界において汚点のない子羊たちの十字架を建てるために、鉄と火が用いられたのです。

宗教戦争は政治戦争よりも多くの犠牲者を出しており、より残酷であったということは誰もが知る事実です。その他の戦争においても、これほどまでの残虐行為や非情な行為はありませんでした。


 その責任はキリスト教義にあるのでしょうか。明らかにそうではありません。なぜなら、キリストの教義は暴力を非難するものであるからです。イエスがその使徒たちに、あなたたちと同じようには信じない者を殺害し、全滅させ、焼き払いに行きなさいと言ったことがあったでしょうか。ありません。

反対にイエスは使徒たちにこう言いました。「全人類は兄弟であり、神は至上の慈悲である。隣人を愛しなさい。あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者に善を尽くしなさい」。

また、同じように使徒たちにこう言いました。「剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」従って、その責任はイエスの教義にあるのではなく、教義を偽って解釈し、自分たちの情熱を満足させるための道具と化した人々にあるのです。

「私の国はこの世のものではありません」という言葉を軽んじた人たちの責任なのです。

 イエスの深い英知には、将来起こりうる出来事に対する先見の明がありました。しかし、そうした出来事とは人類の不完全な性質に帰するものであり、その性質を急に変化させることはできないため、避けることができなかったのです。キリスト教はこうした長くて残酷な試練を十八世紀の間も受けながら、

その力を示さねばならないのでした。しかし、その名によってあらゆる悪が行われたにもかかわらず、キリストの教えは純粋に保たれています。議論の対象となったことがありません。

非難はいつも教えを濫用した者たちの上に降りかかりました。あらゆる狭量の行為に対して、このように言われてきました。「もしキリストの教えがより正しく理解され、実践されていたなら、そのようなことは起こり得ない」と。


十六、「私が地上に平和をもたらしに来たと思ってはなりません。平和をもたらしに来たのではなく、分裂をもたらしに来たのです」とイエスが言った時、その考えは次のようなものでした。

「私の教義が平和のもとに確立すると信じてはいけません。それは私の名のもとに流血の戦いをもたらすでしょう。なぜなら人類は私の考えを理解できないか、あるいは理解したがらないからです。

それぞれの信仰に応じて分裂して兄弟たちはお互いに対して剣を抜き、同じ信仰を分かち合うことのない一つの家族の中には分裂が支配します。害をもたらす植物を絶やすために野に火を放つのと同じ方法で、偏見を持った者たちの過ちを消滅させるために、私は地上に火を放ちに来たのであり、

浄化が早く進むためにその火が早く燃え上がることを望んでいます。

 闘争の後、真実が勝者となるのです。戦いは平和に、分裂の憎しみは全世界の兄弟愛に、狂信の闇は理性的な信心の光に譲ることになります。やがて土地の準備ができたら、私は慰安者である真実の霊を送ります。真実の霊はすべてのものを再建しに、すなわち、私の言葉の真なる意味を教えに来ます。

それにより、より教養のある人々も理解することができるようになり、同じ神の子供たちを分裂させる兄弟殺しの戦いに終止符を打つことになるのです。家族の核心にまで荒廃と動揺ばかりをもたらす、結末のない戦いにようやく疲れ、人類はこの世とその先の世における本当の関心事がどこにあるのかを知るようになるでしょう。人類はその平安の敵や仲間がどこに居るのかを知ることができるでしょう。

そしてすべての者が一つの旗のもとに集まることになります。その旗とは慈善であり、私があなたたちに教えた原則と真実に従って、地上の物事は再建されることになるでしょう」。



十七、スピリティズムは、予期された時代に、キリストの約束を守るために現れました。しかし、あらゆる事柄の濫用を打ち崩すことなくそれを行うことはできません。イエスの時と同じように、スピリティズムは自尊心、エゴイズム、野心、貪欲、盲目的な狂信に直面しますが、

それらを最後まで追い詰めると、妨害や迫害を扇動することになります。ゆえに、スピリティズムも戦わねばなりません。しかし、争いや流血の迫害の時代は終わりました。苦しまねばならないそれらの戦いとは、すべてが道徳的秩序の上に立った戦いであり、その終わりも近い将来には来るでしょう。

最初の戦いは何世紀にも及びました。今度の戦いは何年間しか続くことはありません(→和訳注1)。

なぜなら、その光は唯一の光源から放たれるのではなく、地球上のあらゆる地点で現れ、盲目者たちの目をすぐに開いてくれるからです。



十八、したがってこうしたイエスの言葉は、その教義が引き起こす怒りや、それが原因となって引き起こされる一時的な闘争、約束された土地に到着する前にヘブライ人たちにあったような、確固たる地位を得るために耐えぬかねばならない戦いについて言っているのだと理解しなければならず、

先に考えられたように、イエスの言葉が無秩序と混乱を広めようとするものであると理解してはいけないのです。悪は人類から生じるのであり、イエスは治療のために現れた医者のような存在です。しかしその薬は有益な危機をもたらし、病める者の悪しき体液を攻撃するのです。


●和訳注1
 スピリティズムが世に登場して間もない十九世紀後半当時、1861年のスペインでの焚書事件のように、スピリティズムはさまざまな方面から迫害を受けました。それから150年以上たった今日、スピリティズムを支持する人々は世界中に広がっています。






   第24章 灯りを升の下に置いてはいけない 

 升の下の灯り。何故イエスはたとえ話で話すのか
、灯りを灯して、それを升の下に置く者はいません。むしろ、ランプ台の上に置き、家中のものを照らすようにします。(マタイ 第五章 15)



、灯りを灯した後、それを壺で覆ったり、ベッドの下に置いたりする者はいません。ランプ台の上に置き、入ってくる者が光を見ることができるようにするのです。隠されてるもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはありません。
(ルカ 第八章 16,17)



、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちは天の国の謎が解き明かされましたが、彼らには解き明かされていないからです(→FEB版注1)おおよそ、持つ者により多くを与えれば、より豊かになりますが、

持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。

それは彼らが、見えても何も見ず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』。なぜなら、民の心は鈍くなり、耳は聞こえにくくなってしまい、

目は閉ざされてしまったからです。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためです」。(マタイ 第十三章 10-15)



、たとえ話というベールに隠して、誰にでも理解できるとは限らぬ方法で話したイエス自身が、灯りを升の下に置いてはならないといったのは驚くべきことです。

イエスは使徒たちに次のように言って説明します。「彼らにはたとえ話で伝えます。なぜなら彼らはある種の事柄については理解できる状態にないからです。人々は見て、聞くが理解しません。

だから、今はすべてを伝えることは無益なのです。しかし、これらの謎があなたたちには理解されるので言います」。つまり、イエスは考えの未発達な子どもと対峙するときのように、当時の人々にたいして語りかけたのです。これを理解することで、「灯りを升の下に置いてはなりません。そうするのではなく、

ランプ台の上に置き、入ってくる者誰もが見ることができるようにしなさい」という言葉の本当の意味が見えてきます。この言葉は、なにも考慮せずにすべてのことを示すべきだという意味ではありません。どんな教えも、指導の対象となる人の知性に合わせて示されるべきです。

なぜなら、光が明るすぎると、目がくらんでしまい、啓発されることのない人々もいるからです。

 同じことがある特定の個人にあてはまることもあれば、一般の人々にあてはまることもあります。一つの世代にはその幼少期、青年期、成熟期があります。それぞれの出来事がそれにふさわしいときに起こらなければなりません。季節外れに地上に落ちた種は発芽しません。しかし、

慎重に扱うことによって一時的に隠された内容も、いずれ発見されることになるでしょう。なぜなら、ある程度の発達の度合いに達すると、人類は自ら生きた光を求めることになるからです。

闇は人類にとって負担となるのです。神は人類が地上と天における物事を理解し、その中で進んでいけるように人類に知性を託したため、人はその信仰を理性に照らして合わせることになるのです。

だから灯りを升の下に置いてはならず、なぜなら、理性の光なしには、信仰は衰弱してしまうからです(→第十九章 7)。



、もし神意が、その予見可能な知性によって真理を徐々に啓示していくことにあるのであれば、人類がどのくらいの成熟度に達したかを見極めたうえで、それに見合った真理を知らせることになります。

真理は升の下に置かれるのではなく、将来に向けて温存されるのです。しかし、人類はそうした真理を手に入れると、それを支配してしまおうと、自分が知り得た真理を人々から隠してしまいます。

こうした場合、それはまさに光を升の下に置いていることになるのです。あらゆる宗教にはそうした神秘があり、それを吟味することも禁じられているのです。しかし、そうした宗教が衰退していくのに従って、科学や知性が発達し、秘密のベールを取り除いていきました。

人々は大人になると物事の根底にまで入り込むことを覚え、観察に反する事柄を、その信念によって消去したのです。

 絶対的な謎は存在しえず、人に知られることのない秘密は何もないとイエスの言うことは理にかなっています。隠されたものはいつの日か必ず発見され、人類がいまだに理解できないものは、人類がより浄化した時、進歩した世界において次から次へと明らかにされていくでしょう。

ここ、地球上では、それらのことがまだ霧中にあるのです。


、「意味が理解されないこれらの多くのたとえ話に、どんな利用価値があるのでしょうか」と聞かれます。しかし、イエスはその教義の、いうならば抽象的な部分についてのみ、たとえ話で表現したことに注目しなければなりません。救いの基本的な条件を隣人に対する慈善と謙虚さであるとし、

これらのことについて言ったことは、少しの曖昧さも残さずにこの上なく明確に示しました。それは行動の規則であり、すべての者がそれを理解し、それに従わなければならなかったために、明確に示す必要があったのです。「これが天の国を得るために行わなければならないことである」

とだけ言ったことが、無知な大勢の人々のために示した本質的な部分であったのです。その他のことについては、使徒たちにのみその考えを明かしました。彼らが道徳的にも知性的にもより進歩していたため、イエスはより抽象的な真理の知識を伝授することができたのです。その時に言いました。

「すでに持つ者はより多くが与えられ、豊かになるであろう」(→第十八章 15)

 しかし、使徒たちにさえも、多くの点については不明確なままとなり、完全な理解はその後の時代へと持ち越されました。そして、そうした点は、一方で科学が、またもう一方でスピリティズムが自然の新しい法則を明らかにし、その真なる意味が理解されるようになるまで、多様な解釈を生む機会を与えらことになったのです。



、スピリティズムは今日、多くの不明確な点に光を投じます。しかしむやみに光を投じるのではありません。霊たちは驚くべき慎重さを持って指導を与えます。教義の中のすでに知られた部分についても、徐々に、しかも継続的に考慮され、その他の部分については、それが明確にされるべき時が訪れるに従って明らかにされるよう残されます。

もし最初から完全な形で示されていたなら、ほんの少数の人々にしかそれに近づくことはできなかったでしょう。それらを受ける準備のない人々はそれに驚いてしまい、その教義の普及には逆効果となってしまうでしょう。もし、霊たちがいまだにすべてを明らかに伝えていないのであれば、

それは教義の中に一部の特権的な者たちだけが知ることのできる謎が存在するからでもなければ、升の下に灯りを置いているからでもありません。それは一つ一つの事柄が、それらを知るのに適した時に現れる必要があるからなのです。

霊たちは一つ一つの考えに対してその後に続く考えを示す前に、機が熟し広まるまで時間を与え、後の続く考えが受け入れるための準備となる出来事がおこることにも時間を与えるのです。




 異邦人たちのところへ行ってはならない
、イエスはこの十二人をつかわすにあたり、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい。そして行った先では、天の国が近づいたことを説きなさい」。(マタイ第十章 5-7)



、どのような時においても、イエスの目はユダヤの民だけに限って向けられていたのではなく、人類全体に向けられていました。ですから、使徒たちに異教徒のもとへ行ってはいけないと言っているのは、彼らの改宗を軽蔑していたからではないはずです。

さもなければ、それは慈善に反することになってしまいます。ユダヤ人たちはすでに唯一の神を信じ、救世主の出現を待っていたのであり、モーゼの律法や預言者たちによって、使徒たちの言葉を受け入れる準備ができていました。

しかし、異教徒たちにはそうした基礎がなく、行わなければならないことがすべて残されており、使徒たちは異教徒たちに教えを伝える重い任務を果たすほど博学ではなかったのです。だからイエスは次のように言ったのです。

「イスラエルの家の失われた羊を探しに行きなさい」。つまり、すでに教化された土地に種を蒔きに行きなさいということだったのです。イエスは、異邦人の改宗が時とともに進むことを知っていました。後になって使徒たちは、異教の中心部へ十字架を掲げに行ったのです。



、これらの言葉は、スピリティズムを受け入れ、広めようとする人々にもあてはまります。体系的な不信心者や、それをあざける頑固な者たち、たくらみを持った敵対者たちは、使徒たちにとっての異邦人と同じです。ゆえに彼らを模範として、第一に、発芽間近な種を持った、

光を求める数多くの意欲ある者たちの中に改宗者を探し、見たり聞いたりすることも嫌がるような、自分の改宗に関わる度合いが高くなるほど自尊心によってますます抵抗する人々に、無駄な時間を費やさないようにしなければなりません。

光を求める百人の盲目者の目を開くことの方が、闇にいることを喜ぶ一人の目を開くことよりも価値のあることであり、その方が問題に対する支持者の数を大きな割合で増やすことができるのです。他の者たちをそのままにしておくことは無関心を示すことではなく、より賢明な手段なのです。

その思想が一般の人々の意見として支配するようになった時には、受け入れることを拒んでいた人たちも、その周りにいる人たちから同じことを繰り返し聞かされることになるのです。

そうすれば、彼らは他人からの圧力によってではなく、自らの意志によって、その思想を受け入れることになります。また、種のように扱われるべき思想もあります。適切な季節が来なければ発芽することができなかったり、前もって準備された土地に蒔かなければ発芽できない種があるため、

適切な時期を待ってから種を蒔き、機が熟してから、発芽したものを栽培する方が良く、過度の栽培によって他の発芽を失敗させてしまうことがないようにしなければなりません。

 イエスの時代には、当時、狭い物質的な考えが支配していたために、すべてが限定された局地的なものでした。イスラエルの国は一つの小さな民族であり、異邦人たちとは、その周辺に存在した別の小さな民族のことを指しました。

今日人々の考えは普遍化され、霊的なものになっています。新しい光は特定の国の特権をなすものではありません。その焦点はあらゆる場所へ向けられており、全人類が兄弟であるために障壁は存在しないのです。

また、異邦人とは特定の民族を指すのではなく、あらゆる場所で出合うさまざまな意見のことを指し、キリスト教が多神教に対して勝利したと同じように、少しずつ真理が打ち勝っていくことになるのです。それらはもはや武力や戦争によって撃退されるのではなく、思想の強さによって打ち勝っていくのです。



 医者を必要としているのは健康な者ではない
十一、イエスがこの者(マタイ)の家で食卓についておられた時、多くの徴税官や罪人たちがやって来て、イエスや使徒たちと同じ食卓についていた。ファリサイ人たちはそれを見ると使徒たちに言った、

「あなたたちの先生はなぜ、徴税官や罪人たちとともに食事をするのですか」。これを聞いてイエスは言われた、「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」。(マタイ 第九章 10‐⒓)


十二、イエスは主に貧しい者や資産を持たない者たちに近づきましたが、それは彼らこそが慰安をより必要としている者たちだったからです。イエスに視力を与えてくれるように頼む、信心深く心優しい盲者に近づき、すべての光を有し、なにも必要ではないと考えるうぬぼれ者には近づきませんでした
(→序章 Ⅲ「パブリカン(徴税官)」「関税徴収人」)

この「医者を必要としているのは健康な者ではないのです」という言葉には、その他多くの言葉のように、スピリティズムにもその適用を見つけることができます。まれに霊媒能力が、それを悪用する可能性のあるような、それにふさわしくない人に授けられていることがあり、驚く人々がいます。

そのような貴重な能力は、最もそれにふさわしい人たちに与えられるべきだと言います。

 なによりもまず、霊媒性というものが肉体器官上の性質に付属するもので、どんな人であれ、見たり、聞いたり、話したりする霊媒性を授かることができるということを述べておきます。

しかし、人間には自由意志があり、濫用しようと思えばできてしまいます。たとえば、もし神が、悪い言葉を発言しないような者にしか言葉を与えていなかったとしたら、言葉を話せない人の方が、話せる人の数よりも多くなってしまいます。神は人類に能力を託し、それを利用する自由を与えますが、それを濫用した者は罰せられるのです。

もし霊と通信する能力がそれにふさわしい者たちだけに与えられるのだとすれば、誰があえてそうなることを望むでしょうか。さらには、ふさわしさとそうでないことの境界はどこにあるのでしょうか。

霊媒性は差別なく人々に与えられ、その為に霊たちは貧しい者から裕福な者に至るまで、あらゆる身分や社会階層に光をもたらすことができ、正しく歩む者はさらに善において強くなり、悪癖の多い者はそれを正すことになるのです。この後者が医者を必要とする病人達ではありませんか。

罪人の死を望んでいない神は、その人をぬかるみから引き出すことのできる救済手段をどうして奪うことがあるでしょうか。善霊たちが彼らのもとへ助けにやって来て、直接忠告を与えるのは、間接的に与える場合よりも、より鮮明に印象付けることができるからなのです。

神はその善意によって、人が遠くまで助けを求めに行かなくてもよいように、私たちの手に光を与えます。それを見たくないというのであれば、その責任はその人にあると言えないでしょうか。

自分に対する非難を自分の手で書き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で唱えていながら、光を無駄にすることを自分の無知のせいにすることができるでしょうか。直接与えられた光を有効に利用しないのであれば、託されたその能力を奪われたり、能力が異常となり、罰せられます。

その場合には、悪い霊たちが憑依したり騙そうとしたりして、その能力を利用することになりますが、その苦しみとは、エゴイズムと自尊心によって心の固くなってしまった、神に罰せられた恥ずべき奉仕者が感じる本当の苦しみとはまた別の苦しみとなるのです。

 霊媒性は、必ずしも優秀な霊たちとの習慣的な関わり合いを意味するのではありません。それは一般的に、霊に対しておよそ従順な道具として仕えるための単なる素質に過ぎません。したがって、よい霊媒とは容易に通信する者のことではなく、善霊たちに同情を引き起こさせる者のことで、善霊たちだけから助けを受ける者のことを指すのです。

卓越した道徳性が霊媒能力に万能の影響を与えることができるのは、唯一こうした場合のみなのです。




 信仰の持つ勇気
十三、私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)


十四、もし誰かが私のことや私の言葉を恥じるのであれば、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる天使の栄光のうちに現れて来る時、その者のことを恥じるでしょう。(ルカ 第九章 26)


十五、勇気を持って自分の意見を言うことは、多くの敬意を表されるべきこととして考えられてきました。なぜなら、すべての人々に認められていない考えを恐れを抱かずに公に発表する人は、

ほとんどいつも危険や迫害、反発、あるいは単なる皮肉にさらされるからで、それを乗り越えればその功績は讃えられます。いずれの場合においてもそうであるように、ここでもその功績とはそれを乗り越えた時の状況や、もたらされる結果の重要性に応じています。その考えが引き起こす結果を知る前に、

後退したり、それを否定してしまう弱さというものは、いつも存在します。そのような場合、臆病な気持ちが勝り、戦いの途中で逃げ出してしまう場合もあります。

 イエスはその教義にもとづく特別な視点から、こうした臆病さを打ち消すために、イエスの言葉を恥じる者がいれば、その者も恥じられることになるといいました。イエスを裏切る者は裏切られ、人類の前でイエスを認めた者は、天にいる父なる神の前でも認められると言ったのです。

言い換えれば、真実の使徒として自分を認めることに恐れを感じた者は、真実の国において認められるにはふさわしくないのです。支えとする信仰の利益は失われることになります。なぜなら、そうした信仰は、この世で不利益が出ないようにと隠して自分のためだけにしまっておく利己的な信仰となってしまうからです。

一方で、自分の物質的な関心よりも優先させて真実を掲げ、公に宣言する者は、自分自身の未来と他の未来のために働いていることになります。



十六、スピリティズムを受け入れる者にも、同じことがあてはまります。なぜなら、彼らが行う教義とは福音の適応と発展に他ならず、彼らにもキリストの言葉が差し向けられるからです。彼らは霊界で刈り取るものの種を地上に蒔くのです。霊界では、その勇気か弱さの結果を刈り取ることになります。  




 十字架を背負う。命を救いたい者は命を失うことになる
十七、人の子のせいで人々があなたたちのことを憎しみ、排斥し、あなたたちの名前を悪しき名前としてののしり、汚名を着せる時、あなたたちは幸いです。

その日には喜びにおどりなさい。なぜなら、あなたたちは天において大きな報酬が蓄えられるからです。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのです。(ルカ 第六章 22,23)



十八、民衆や使徒たちを呼びよせると、イエスは言われた、「私について来たいと思う者はみな、自分を捨て、十字架を背負い、私に従って来なさい。なぜなら、自分を救おうと思う者は道に迷うからです。私と福音のために自分の命を失う者は救われるでしょう。まったく、世界中を征服したとしても自分の命を失ってしまったら、何の得になるでしょうか」。(マルコ 第八章 34-36、ルカ 第九章23-25、マタイ 第十章 38,39、ヨハネ 第十二章 25,26)



十九、「私のせいで人々があなたたちを憎み、あなたたちを迫害するのであれば、そのことは天において報われるので喜びなさい」とイエスは言いました。これらの真実は次のように解釈できます。

「あなたたちに対する悪意によってあなたたちに信仰の誠実さを試す機会を与えてくれたなら、彼らがあなたに行う悪はあなたたちのためになるのだから喜ばしく思いなさい。彼らが盲目であることを悲しんでも、彼らをののしってはいけない」。

その後にはこう付け加えます。「私について来たい者は十字架を背負いなさい」。つまり、あなたちの信仰が引き起こす苦難に勇気を持って耐えなければなりません。なぜなら、キリストを放棄することによって自分の命や財産を救おうとする者は、天の国における利益を失うことになるからです。

一方で、真実の勝利のために、命に至るまでの全てをこの世で失った者は、自ら証明した勇気と忍耐と甘受に対する報酬を得ることになります。反対に、天における富を地上の快楽のために犠牲にしてしまう者に対して神は、「もうすでに報酬は受け取っている」と言うでしょう。


●FEB版注1
フランス語原文にはマタイ 第十三章、十二節が欠落していたのでここに記載しました。ーFEB1948





   第25章 探しなさい、そうすれば見出せるでしょう  

あなた自身を助けなさい、そうすれば天があなたを助けてくれます
、求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう。求めれば与えられ、探せば見出し、扉をたたけば開くでしょう。


 あなたたちのうちで、パンを求める息子に石を与える人がいるでしょうか。魚を求めるのにヘビを与える人がいるでしょうか。あなたたちのように、悪い者であっても、自分の子どもには善いものを与えることを知っているのであれば、天にいるあなたたちの父は、なおさら、求める者に本当の善きものを与えて下さらないことがあるでしょうか。(マタイ 第七章 7-11)


、地上の視点から見ると、「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう」と言う言葉は、自分自身を助ければ、天があなたを助けてくれます、という言葉と同じ意味を持っています。

これは労働の法の原則であり、また労働からは、それを知力を駆使して行うことで進歩がもたらされるため、最終的には進歩の法の原則であると言えます。

人類の幼少期には、人間は食物を集めたり、悪天候から身を守ったり、敵から身を守るためだけに知性を使っていました。しかし神は、動物に与えるよりも多くを人間に与えました。

それは、向上しようとする絶え間ない欲求で、その欲求は、人間に自分の置かれた立場を向上させる手段を求めることを促し、結果として人間には、発見や発明、自分たちに不足しているものを与えてくれる科学の完成をもたらすことになります。探求することによって知性は高まり、道徳は浄化します。

肉体の充足は霊の充足をもたらします。こうして人は野蛮人から文明へと変化していくのです。しかし、その大半においては、一生の間に個人個人が実現する進歩は、非常に小さいか、ほとんどとらえることのできない程度のものです。

では、すでに存在する魂が、再び存在することがないとしたら、
人類はどれだけの進歩を遂げることができるというのでしょうか。

もし魂が毎日去って行き、再び戻ってこないのだとしたら、人類は絶えず原始的な要素において進歩を再開することを繰り返し、すべてを学ぶためにすべてをやり直さねばならなくなってしまいます。

一回毎の誕生においてすべての知的な作業を再開しなければならないことになるため、そうであれば地球の初期の頃に比べて、今日の人間が進歩していると考える根拠は存在しなくなります。

反対に、すでに成し遂げた進歩とともに魂が戻って来て、そのつど、さらになにかをより多く獲得していけば、魂は徐々に野蛮な世界から物質的文明、そして道徳的文明へと移り住んでいくことになります。



、もし神が肉体の労働を人間から免除していたとしたら、人間の四肢は退化していたでしょう。知性の労働を免除していたとしたら、その霊は動物の本能の状態、つまり幼年期の状態で居続けたでしょう。

だからこそ神は労働を必要なものとし、「探せば見出せるでしょう。働き、生産しなさい」と言ったのです。この様にして、あなたは自分が行った労働の恩恵を受け、それを自分の功績とし、行ったことに応じた報酬を受け取ることになるのです。



、こうした原則があるので、霊たちは、人間から探求と言う仕事を免除するために人間を助けにやって来ることはありません。すでに完成し、使う準備の整ったものや、発見や発明されたものをそのまま人間にもたらすことによって、人間が拾うために身を屈めたり、考えたりするような苦労をせずに、

必要なものを手に入れることができるようにするのではありません。もしそうであったならば、最も怠惰な者が何の苦労もせずに豊かになり、もっとも無知の者が賢くなり、両者とも自分の行っていないことに対して功労を受けることになってしまいます。

そうです、霊たちは人類を労働の法から免除するためにやってくるのではありません。

霊たちは、人類が歩むべき道と、達成しなければならない目標を示すためにだけやってくるのであり、次のように伝えているのです。「歩みなさい、そうすれば到着するでしょう。石につまずくでしょう。

その石を自分の目で確かめ、自分自身で遠のけてください。あなたたちが使いたいのであれば、私たちは必要な力をあなたたちに与えます(→『霊媒の書』第二部 第二十六章 291)。



、道徳的視点から見れば、これらのイエスの言葉は次のことを意味します。「あなたたちを照らす光を求めれば、道はあなたたちに与えられます。悪に抵抗する力を求めれば、

その力を得ることができます。善霊たちの救援を求めれば、彼らはあなたたちに同伴してくれ、トピアスの天使がそうしたように、あなたたちを指導してくれます。善き忠告を求めれば、決してそれが拒絶されることはないでしょう。私たちの扉をたたけば、あなたたちに扉は開かれます。しかし、

信心、信頼、熱意を持って誠実に願って下さい。傲慢にならず、謙虚であってください。さもなければ、あなたたちは自分たちだけの力とともに見捨てられ、その時の失敗があなたたちの自尊心に対する罰となってしまいます。

 これが「探しなさい、そうすれば見出すことができるでしょう。扉をたたきなさい、そうすればあなたたちのために開くでしょう」と言う言葉の意味です。




 空の鳥を見なさい
、錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい。あなたたちの宝のあるところには、あなたたちの心も存在します。

 だから誠に言います。あなたたちの命を支える食糧をどこで手に入れようかと心配したり、身体にまとう衣服をどこで手に入れようかと心配してはなりません。命は食糧に勝り、肉体は衣服に勝るではありませんか。

 空の鳥を見て下さい。種を蒔くことも、収穫をすることも、倉に蓄えることもありません。それでも、あなたたちの天の父は彼らを養って下さっています。あなたたちは、鳥たちよりも、はるかにまさっているではありませんか。

あなたたちのうち、誰がその努力によって身長をわずかでも伸ばすことができるでしょうか。

 また、なぜ衣服のことを心配するのですか。野の百合がどう育っているか見て下さい。働くことも、紡ぐこともありません。しかし、誠に言いますが、ソロモンでさえその栄光の時、百合たちほどに着飾ることはありませんでした。今日生き、明日には炉に投じられる野の草花を着飾ることに、

神がこれほどまでにしてくださるのであれば、あなたたちを着飾るのに、これ以上良くしてくださらないことがあるでしょうか。おお、信仰の薄い者たちよ。

 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、異邦人たちがこれらすべてのものを探し求めるように、心配してはいけません。あなたたちの父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。

 まず、神の国とその正義を求めなさい。そうすれば、こうしたものはすべて、添え与えられるでしょう。だから、明日のことで心配をしてはなりません。明日のことは、明日が面倒を見てくれるからです。一日の苦労は、その日だけで十分です。(マタイ 第六章 ⒚-21,25-34)


、文字通りに解釈すると、これらの言葉はあらゆる用心、労働を否定するものであり、結果として、進歩することを否定するものになってしまいます。こうした考え方に従ったのでは、人間は受動的に待つばかりとなってしまいます。肉体や知性の力は、活動することなく止まることになってしまいます。

仮に、地上の人間が一般的にそうであったとしたら、人間はもはやその原始的な状態から抜け出すことができず、そのように進歩を否定することが今日のための法であったなら、人間には何もせずに生きること以外残されていないことになってしまいます。イエスの考えがそうであったはずはなく、


さもなければ、他のところで自然そのものの法について述べたことに矛盾することになってしまいます。神は人間を、衣服もすみかも与えることなく創造しましたが、それらを生産する知性を与えたのです(→第十四章 6、第二十五章 2)。


 したがって、これらの言葉の中に、信じる者を決して見捨てることはなくとも、彼らが自分のために働くことを望む神意の、誌的なたとえ以外のものを見出してはなりません。神は何時も物質的な補助をもたらすのではありませんが、困難から抜け出せる手段に出合えるような考えを吹き込んでくれるのです。(→第二十七章 8)。

 神は私たちが必要としているものを知っており、必要に応じてそれを与えてくれます。しかし人間はその欲求を満たすことがないために、手中にあるもので満足するとは限りません。必要なものだけでは人間は不十分なのです。人間は余分なものを求めます。すると神はその人をそのままにしておきます。

人間はしばしば、注意を促す良心を通じて聞こえた声に従わなかったために、自ら不幸になります。神はそのような苦しみを与えることで、それが未来に向けた教訓となるようにするのです。



、人間が正義と慈善と隣人愛の法に従って、地球がもたらすあらゆるものを管理することを覚えれば、地球はその住人すべてを養うに足りるだけのものを生産するようになります。

一つの国の違った地方に住む人たち同士のように、地球上に住むすべての人たちの間に兄弟愛が広がるようになれば、一方の一時的な余剰は、もう一方の一時的な不足を補うようになり、それぞれが必要なものを手に入れることになります。

裕福な者は、たくさんの種を、自分のためだけでなく他人のためにも蒔けば、自分のためにだけ蒔く時の何百倍も生産することになります。しかし、もしその収穫物を他人に分け与えることなくすべてを一人で食べ、余ったものを無駄にし、駄目にしてしまうのであれば、たくさんの種を蒔いたことによるメリットは何も生れず、収穫物がすべての人のために行き亘ることはないでしょう。

それを倉庫にしまってしまえば、虫が食ってしまいます。そこにイエスの言った言葉があります。

「錆がつき、虫が食い、盗人たちが押し入って盗んだりするこの地上で、あなたたちは宝を蓄えてはいけません。錆がつかず、虫も食わず、また、盗人たちが押し入って盗むこともない天において宝を蓄えなさい」。別の言葉で言うならば、

「消滅してしまう物質的なものを永遠にある霊的なものよりも重要視してはいけません。そして前者を後者のために犠牲にすることを覚えなければなりません」ということです(→第十六章 7-15)。

 慈善と兄弟愛は法律に定められてはいません。それぞれが心の中に存在しなければ、エゴイズムが何時もそこを支配することになります。慈善と兄弟愛を心の中に浸透させるのはスピリティズムの役割です。



 金を手に入れることに悩んではいけません
、「財布の中に金、銀または銭を入れて行ってはなりません。旅に出る時は、袋も、二枚の下着も、靴も、杖も持って行ってはなりません。働き人がその食物を得るのは当然のことなのですから」。(マタイ 第十章 9,10)


、どの町や村に入っても、誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね、再び出発するまでそこにとどまりなさい。その家に入った時には、このように祈ってあげてください。「この家に平和が宿りますように」。もしその家がそれにふさわしければ、あなたが祈る平和はその家に来るでしょう。

そうでないのであれば、その平和はあなたへ帰ってくるでしょう。

もし誰もあなたを迎えてくれず、あなたの言葉を聞いてもくれないのであれば、その家や町を出る時に、足の埃を払い落としなさい。誠に言います。審判の日には、その町はソドムやゴモラよりも厳しく扱われるでしょう。(マタイ 第十章 11-15)



十一、はじめて福音を伝えに使徒たちを送った当時、イエスが使徒たちに向けたこうした言葉に少しも不思議な内容はありませんでした。それらは、旅人がいつもテントに迎えられた東洋の家父長制の習慣に従うものでした。しかし、その頃は旅人もまれでした。

交通の発達によって、近代の人々には新しい習慣が生まれました。昔の習慣は、遠く離れた、大きな人の動きが到達していない場所にだけ残っています。もしイエスが今日戻ってきたとしたら、もはやその使徒たちに「準備なしに出て行きなさい」ということはできないでしょう。


 これらの言葉は、言葉そのものが表わす意味と同時に、非常に深い道徳的な意味を持っています。それらの言葉を唱えることによって、イエスは使徒たちに神を信じることを教えました。

それに加え、何も携帯しなければ、彼らを迎える人たちの欲を目目覚めさせずにすみます。それは利己的な者と慈悲深い者とを区別する手段でした。だからイエスは彼らに、「誰があなたを泊めてくれるのにふさわしい人かを尋ね」と言ったのです。

つまり、「支払う金もない旅人に衣服を与えてくれるほど心温かいのは誰か探しなさい。なぜなら、あなたたちの言葉を聞くべき人とは、そうした人であるからです」。その人が行う慈善によって、そうした人を知ることができるのです。


 また、使徒たちのことを迎えたり、聞きいれたりすることを拒んだ人たちに対して、非難したり、暴力やおどしによって強制的に態度を改めさせることを、果たしてイエスは勧めたでしょうか。いいえ。

ただ単に、その場から去って、善意のある人を求めに行くように教えたのでした。

 スピリティズムは今日、同じことをその使徒に伝えます。「誰の良心も害してはいけません」。誰にたいしても、その信仰を放棄させ、あなたの信仰を受け入れさせようと強要してはなりません。

あなたたちと同じように考えない人を排斥してはなりません。あなたたちのもとへやってくる者を迎え、あなたたちを拒む者たちをそっとしておきなさい。キリストの言葉を覚えておいてください。昔、天は暴力によって支配されていました。今は、慈愛によって支配されるのです(→第四章 ⒑,11)


 



  第26章 ただで受けたのだから、ただで与えなさい

 神より恵まれた病を治す力

、病人を治し、死者を生き返らせ、ハンセン病人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ 第十章 八)


、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とイエスは使徒たちに言いました。この教訓から、ただで受けたものに値段をつけて売ってはならないのだと結論することができます。使徒たちがただで受けたものとは、神から授けられた病を治す力、悪魔即ち悪い霊たちを追い払う力でした。

これらの能力は、苦しむ者を助け、信仰を広めるために、神によってタダで与えられたものでした。イエスは使徒たちに、その能力を商売や投機の手段や、生活するための道具として使ってはならないと言ったのでした。



支払われた祈り

、民衆みながイエスの言葉に聞き入って入る時、使徒たちにこう言われた、「律法学者たちから身を守りなさい。彼らは、長い衣装をまとって歩き回ったり、広場であいさつをされたりすること、また、会堂の最前列や宴会の上座が好きです。

また、長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします。こういう人たちは、より厳しい裁きを受けるでしょう」。(ルカ 第二十章 45-47、マルコ 第十二章 38-40、マタイ 第二十三章 14)


、さらにイエスは言いました。あなたたちの祈りに対し、支払いを受けるようなことがあってはなりません。律法学者たちのようであってはなりません。「長い祈りを装い、やもめの家を食いつぶします」とは、その富を手に入れるということです。祈りは慈善の行いであり、心の衝動です。

他人のために神に捧げたものに対して支払いを要求するということは、報酬をもらって働く仲介者になるということです。そのような時祈りは、内容に応じて支払われる処方箋と同じようなものになってしまいます。神は祈りの価値を、言葉の数によって計るのでしょうか、計らないでしょうか。


答えは二つのどちらか一方でしかありません。もし、たくさんの言葉が必要だったとすれば、少ししかお金を払えない者、あるいはほとんどお金を払うことのできない者はどうなるのでしょうか。

それでは慈善の行いとは言えません。もし一つの言葉だけで十分で、その他の言葉は不要であるとしたら、どうして支払いを求めることができるでしょうか。それははいしん背任行為ではありませんか。


 神はその恩恵を売るのではなく、与えるのです。それなのに、神の恩恵を分けてあげられるわけでもなく、それを得られることを保証してあげることさえもできない者が、神によって聞いてもらえないであろうお願いに対して支払いを求めるとは、どういうことでしょうか。

慈悲によってのみ懇願することのできる、神の寛容、恩恵、正義の行いを、神が特定の支払いに従わせることはあり得ません。

それ以上に、それらを支払いによって願うのであれば、神は寛容、恩恵、正義の行いを中止します。

私たちの理性、良心、道理は、完璧絶対なる存在である神が、神の正義に値段をつける権利を不完全な者に与える筈などないと教えてくれます。

なぜなら、神の正義は太陽のようなものであり、貧しい者、富む者、すべての者に行きわたるからです。地上の君主の権力を取り引きすることが道徳に反すると考えるのであれば、どうして宇宙の統治者の正義を売ることを合法的と考えることができるでしょうか。


 金で買われた祈りには、他にも不都合があります。祈りを買った者は、大抵の場合、自分で祈ることを忘れ、お金を払ったのだから祈る義務から逃れることができたのだと考えてしまいます。

霊たちは、自分達に関心を持つ者の熱意に打たれます。第三者にお金を払うことによって自分の代わりに祈ってもらおうとする者の熱意とは、どんなものであり得ましょうか。祈る義務を他人に委任し、それを受けた者はまた他の者に委任することになるのです。

お金の価値によって、祈りの効きめを弱めていることになりませんか。



 宮を追われた行商人

、それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入ると、宮の庭で売り買いしている人々を追い出しはじめ、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し、また、宮の庭を通り抜けて道具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。

そして彼らに教えて言われた、「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてあるではありませんか。

それなのに、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまったのです」。祭司長や、律法学者たちはこれを聞いて、どうにかしてイエスを殺そうと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群集がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。(マルコ 第十一章 15-18、マタイ 第二十一章 12,13)



、イエスは宮から行商人たちを追い払いました。それによって、神聖なるものの取り引きを、それがどんな形で行われようと、あってはならないことだと非難しました。

神はその恵みも、その赦しも、神の国に入る権利をも売ったりはしません。したがって、人間はそれについて支払いを求める権利は持っていないのです。



  
 七ただで授けられる霊媒性
使徒たちにも霊媒性はあったのですが、現代における霊媒と言うものも、やはり神からただでその能力を授けられているのであり、それは人間を指導し、善の道を教え、神への信仰をもたらしてくれる霊たちの通訳となるためのものなのです。

自分たちのものでない言葉、つまりその霊媒の個人的な努力や研究、あるいは思考などから得たのではない言葉を売るための能力ではありません。

神はその光が全ての人に行きわたることを望んでおり、貧しい家に生まれた人が、

「払うお金がなかったから、神への信仰を手に入れることが出来なかった」
「私は貧乏だから、神の慈悲を受けることが出来なかった」等と言うことが無いことを望んでいます。

なぜなら、霊媒性というのは特権ではなく、あらゆるところに存在するものだからです。それに対する支払いを要求するということは、天が定めた用途を不当に変えるということなのです。


、善霊が通信をするための条件がどのようなものであるか、また、人間のいかなる利己的な関心も拒絶し、ちょっとしたことでも彼らは集会の場から去ってしまうのだということを知って居る人であれば誰でも、集会で呼び出されるたびに善霊たちが何時でもそれを聞きいれてくれるのだとは考えません。

単純な良識があれば、そのような間違った考えを追い払うことができます。ましてや私たちにとって大切な人や尊敬する人を、お金を取って呼び寄せる等と言うことは、神への冒涜ではありませんか。お金を取って呼び寄せたとして、間違いなく心霊現象を引き起こすことはできるでしょう。

しかし、その誠意が存在するかどうか、いったい誰に証明することが出来るでしょうか。

軽率な霊、嘘つきな霊、悪賢い霊といった劣悪な霊はみな、不真面目であり、お金を取る霊媒に呼び寄せられると何時もそこに現れ、質問されると真偽を問わずその質問に答えます。

ですから、真面目な通信を求める人は、まずそれに相応しい場を慎重に求めなければなりません。

そして、その霊媒が霊界のどのような質の者と共感を持っているのかを明らかにしなければなりません。善霊たちの好意の恩恵を授かる第一条件は、霊媒の慎ましさ、忠実さ、献身であり、物質的にも道徳的にも、利害関係が一切あってはなりません。


九、道徳的な問題の他にも、それと同じように重要な、霊媒の能力に関する問題があります。真面目な霊媒性とは、生活手段として使うのではなく、生活手段にしようなどと考えさえもしないことです。

なぜなら、そのような場合、その力が道徳的な信頼性を欠くようになり、ただの運勢占い師のようになってしまうばかりでなく、生活手段とするにしても物理的な障害が生じるからです。

霊媒性というのは本質的に非常に不安定な力であり、すぐに消えたり、変ったりするもので、誰にも完全に頼ることができないものです。ですから、その力を生活に用いようとする者にしても、それは非常に不確実な手段であり、最も必要となる時に消滅しかねないものなのです。それと違うのが、

研究と労働によって得た能力であり、努力によって得たものであるからこそ本当の財産となり、そこから利益を得ることについても当然許されています。

それに比べて霊媒性は、芸術でもなければ能力でもありません。だから、生活手段としてはならないのです。霊媒性は、霊たちの協力があってこそ存在するのです。霊たちが存在しないところに霊媒性はあり得ず、その能力があったとしても、使うことができません。ですから、

心霊現象を決まった時に確実に起こすことができる霊媒は、世界中に一人も存在しないのです。霊媒性によって利益を得ようとすることは、確実に自分のものではないものを望むことです。

そうではないと言う者は、お金を払う人を騙しているのです。それだけではありません。心霊現象は霊媒が自由に決めるのではなく、霊たち、すなわち死者の魂が決めるものです。だから、お金を取る霊媒は、そうした霊たちの協力に、値段をつけて売っていることになるのです。

霊媒性を売るということは、本能的に拒絶すべきことです。モーゼがこうした取り引きを禁止したのは、人々の無知や迷信、盲目的な信仰のために、霊媒性がペテン師たちに濫用され、堕落をもたらしたからでした。

現代のスピリティズムは、この問題の重要性を理解した上で、霊媒性で利益を得ることを否定し、霊媒性を使命としてとらえるのです。(→『霊媒の書』第二十八章、『天国と地獄』第十二章)



 十、霊媒性は神聖なるもので、慎ましく、信仰のもとに使われなければならないものです。中でも特に、絶対にこうした条件が整わなければ使うことができないのが、治癒の力です。医師は一般に、

苦しい犠牲によって得た研究の結果を与えてくれます。磁気を伝える者は、自分自身のフルイドや、自らの健康を犠牲にすることによって、磁気を伝えてくれます。

このような人達は、その犠牲に対してお金を要求することが出来るでしょう。しかし、治癒する霊媒は善霊たちの有益なフルイドを伝えるのであり、それを売る権利は持ちません。イエスとその使徒たちは貧しい生活をしていましたが、人々の病を治す時にお金を要求することはありませんでした。

ですから、生活するための手段を持たない者は、霊媒性以外の生活手段を探してください。そして必要であれば、物質的な必要性が満たされた上で、残った時間を霊媒性の活用に捧げてください。善霊たちは、あなたの献身と犠牲を考慮してくれるでしょう。

しかし、霊媒性によって生活を向上させようとする者から善霊たちはかえって遠ざかっていくのです。 




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第二十七章 求めなさい、そうすれば与えられます  

祈りの条件

、また、祈る時には、偽善者たちのように祈ってはいけません。彼らは人に見られたくて教会や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。誠に言います。彼らはすでに自分の報いを受け取っています。しかし、あなたたちは、祈る時には自分の寝室に入りなさい。

そして、戸を閉め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるでしょう。

又、祈る時には異邦人のように言葉を多く唱えてはなりません。彼らは言葉を多く唱えれば聞き入れられるものと思って居るのです。だから、彼らのようにしてはいけません。あなたたちの父なる神は、あなたたちがお願いをするより先に、あなたたちに必要なものを知っておられるのです。(マタイ第六章 5―8)


、また、立って祈る時、心の中に誰かに対する恨みを持っているなら、その者を赦してあげなさい。そうすれば天におられるあなたたちの父も、あなたたちの罪を赦してくださるでしょう。もし、あなたたちが赦さないのであれば、あなたの父も、あなたたちの罪を赦してくださらないでしょう。(マルコ第十一章 25,26)


、自分を正しいと自ら認め、他の人々を見下している者たちに対し、このような例えをお話しになった。

「二人の人が、祈る為に宮へ上がった。一人はファリサイ人で、もう一人は徴税官であった。ファリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は他の人々のように貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のような人間ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるもの全ての十分の一を捧げております』

ところが、徴税官は遠く離れてたち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った、『神様。こんな罪人の私を憐れんでください』。

誠に言います。神に正しい者と認められて家に帰ったのはこの徴税官であって、ファリサイ人ではありませんでした。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」  (ルカ 第18章 9-14)


、祈りの条件は、イエスによって明確に示されています。イエスは言いました。「祈る時には自分の寝室に入りなさい。そして、戸を締め、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい」と。
たくさん祈っているふりをしてはなりません。

なぜなら、祈りの言葉の数ではなく、祈る人の誠意によって祈りは伝わるからです。誰かに対し、何か一つでも敵対の気持ちがあるのであれば、祈る前にその人を赦してあげなければなりません。なぜなら、慈善に反する感情の一切を捨てて、清い心を持って祈るのでなければ、その祈りが気持ちよく神に伝わるわけがないからです。

「徴税官」のような謙虚な気持ちで祈りなさい。「ファリサイ人」のような虚栄心をもって祈ってはいけません。見るべきものはあなたたちの短所であり、長所を見てはなりません。もし、他人と比較するのであれば、あなた自身に存在する悪を探しなさい。(→第十章 7、8)


  祈りの効果
、「だから誠に言います。求めるものがなんであろうと、祈って求める時には、もうそれが叶えられたものだと信じなさい。そうすれば、その通りになるでしょう」  (マルコ 第十一章 24)


、神が私たちの必要としていることをすべて知っているのであれば、私たちはそれを神に対して言い直すまでもないと、祈りの効果を否定する人がいます。また、宇宙の全てが永遠の法則によって動いているのであれば、私たちの願いで神の意向を変えることはできないと言います。

一人一人の気まぐれに応じて神が取り消したりすることが出来ない不変の自然の法則は、間違いなく存在します。しかし、だからと言って、人生の全ての状況下で、運命にただ身を任せなければならないと信じるのは大きな間違いです。もしそうなのであれば、人類は単に受動的な存在でしかありえず、

自由意志も自発性も持つことができなくなります。運命のもたらす出来事の前に、人はただ頭を下げるだけでしかなくなってしまいます。そうした出来事を避けようともせず、危機から遠ざかろうともせずに、神は、使いもしない理解力と知性を私たちに与えてくれたのではありません。

欲しがらぬように欲求を与えてくれたのではありません。何もしないように行動力を与えてくれたのではありません。人は、自由に行動できるからこそ、その人の下した決定に応じた結果を、その人自身も。また他の人も、得ることが出来るのです。

その人の自発性によって運命から取り除くことのできる出来事と言うものが存在するのです。しかし、だからと言って、それは宇宙の法則の調和を崩すということではありません。言うならば、時計の差す針が遅れていようが進んでいようが、針を動かす時計の仕組みに変わりはないのと同じことです。

つまり神は、全体を支配する法則の不変性を取り消すことなく、意志に応じてある程度の願いを聞き入れてくれることがあるのです。


「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」と言う金言を、得るためには求めるだけでよいのだと解釈してしまっては不合理ですし、求めたものをすべて得ることが出来なかったと言って神を非難するのも不当です。

なぜなら、神は私達にとって何が相応しいのかを、私たちよりもよく知っているからです。それは常識のある父親が、自分の子供にとって不利益となるものは断るのと同じことです。

一般に人には現在しか目に入りません。しかし、もし苦しむことが、ある人にとって幸せな将来をもたらすのであれば、神は、外科医が病気を治すために手術を病人に受けさせるのと同じように、その人に苦労させるでしょう。

神を信じ、求めるのであれば、神は勇気、辛抱、甘受の気持ちを与えてくれます。更に与えてくれるものは、善霊たちからの暗示から導き出される、苦労から解放されるための手段であり、後はそれを本人が実行すれば、その暗示の真価を知ることができます。

「あなた自身を助けなさい。そうすれば天があなたを助けてくれます」と言う金言のように、神は自分自身を助ける者を補助してくれるのです。自分の能力を使わず、何もせずに他人任せの助けを求め、全てを待つものを助けるのではありません(→第25章 1とそれに続く項)。


、例をあげてみましょう。ある人が砂漠で迷っているとします。ひどく喉が渇き苦しんでいるとします。衰弱し、地面に倒れてしまうとします。その人は祈り、神の助けを求めますが、どんな天の使いも飲み物を持って来てくれるではわけではありません。

しかし、善霊は、ある一定の方向へ向かって進むと言う考えを暗示します。すると本能的な衝動によって、その人は全身の力を込めて起き上がり、思いついた方向へ向かって進み出します。

ある高台に辿り着き、遠くに小川が流れているのを発見して、それによって勇気を得るのです。信仰のある者であれば、「神様、よい考えを私にひらめかせてくれて、ありがとうございました」と言うでしょう。神を信じないものであれば「私は何と素晴らしい考えを持っていたのだろう。

左を選ばず、右の道を選び、私は何と運が良かったのだろう。思い付きも実際役に立つものだ。

倒れてしまわなかった自分の勇気がうれしい」と言うでしょう。では、なぜ善霊ははっきりと、「この道を進みなさい、そうすればあなたの必要としているものが見つかります」と言わなかったのかと言う疑問が残ります。何故、

その人が衰弱していた時、その人を導き助けるために、その善霊は姿を現さなかったのでしょうか。

そうしていれば、神による干渉と言うものを理解させることができたはずです。それはまず、自分自身の力で自分を助けなければいけないということを教えるためです。次に、はっきりと示さないことによって、その人の信心を試し、その人の意志に従うためです。

神はその人を、転んだ時、誰かが見ていれば泣き叫んで起こしてもらうのを待ち、誰も見ていなければ自分で努力して立ち上がる子供のような状況に置いたのです。

もしトピアスの旅の供をして彼を守っていた天の使いが、「あなたを旅の間守り、全ての危険から保護するよう、神によって送られてきました」と旅の出発前に言っていたとすれば、トピアスにとって何の価値もなかったでしょう。だから、その天の使いは旅から戻ってきた後に初めてその存在を現したのです。  


    
  祈る事・・・思考の伝達  
、祈るという事は神や霊の加護を求める事です。祈りによって私達は、私達を指導してくれている者と精神的に関係を結ぶことができます。祈る事の目的には、願い、感謝、または賛美があります。私たち自身のためにも、また他人のためにも祈る事が出来ます。

生きている者のためにも、また、死んだ者のためにも祈る事が出来ます。神への祈りは、神意にもとづいて行動する善霊達に伝わります。善霊に伝わった祈りは、神にも伝わります。

神以外の者に向って祈る時、それらの者は単なる仲介者としての役割を果たします。何故なら、何事も神の意思なしには生じないからです。


 十、スピリティズムは、私達が祈る相手が私達の訴えに応えてくれる時も、祈る相手に私たちの考えが伝わる時も、どうやって思考の伝達がなされるかを教えてくれています。

この事は、祈る事に対する私達の理解を深めてくれます。祈る事によって何が起きるのかを理解するためには、空間を埋め尽くす宇宙フルイドの中にある、生きている者、死んでいる者のすべての存在を思い浮かべる必要があります。

空間を埋め尽くす宇宙フルイドは、地球上の空間を大気が包み、埋め尽くしているような状態にあります。宇宙フルイドは、意志によって衝撃を与えられると、空気が音を伝達するように思考の伝達の媒体となります。

但し、その違いは、空気の振動は制限されたものであるのに対し、宇宙フルイドの振動は無限に広がるという事です。

ある思考が、地上の人間や、宇宙に存在する何者かに伝わる時、または、生きた者から死んだ者に伝わる時、あるいはその反対の場合に、空気が音を伝達するように、宇宙フルイドは連鎖状態となって思考を伝えるのです。

この連鎖状態のエネルギーは、思考と意志の強さに直接関係があります。これによって、霊がどこにいたとしても祈りは伝わります。

また、霊たちはお互いに交信し合うのです。同じような方法で、霊たちは私たちにインスピレーションを伝えてくれるのです。また、私たち人間も、これによって遠隔地同士で連絡を取り合うのです。

この説明を、祈りを単なる神秘ととらえ、その効力を理解しない人たちのために送ります。しかし、祈りを物体化するためではありません。ただ、祈りの効力というものをより理解しやすくするためのもので、祈りが直接的に、積極的に物事に働きかける力があるということを知るためなのです。

しかし、だからといって、祈りの効力と神の意志が関係ないわけではありません。神は万物に対する最高の正義です。祈りを有効なものとすることができる唯一の存在であるのです。 


 
十一、祈りによって人は善霊を引きつけます。善霊は、人が良い決断をするように助けるため、良い考えを閃かせてくれます。それによって、人は困難を乗り越えるのに必要な道徳的な力を受け、正しい道から外れている場合には、正しい道に戻されます。

また、過った行動がひきつける悪い考えから、自分を遠ざけようとする意思を与えてくれます。何かの過剰な摂取によって健康を悪化させた人がいたとします。死ぬ直前まで過剰な摂取を改めることなく、健康状態が悪いまま苦しい人生を続けたとします。

この人は自分の健康が回復できなかったことに関して、神に対する不満を訴える権利があるでしょうか。ありません。なぜなら、祈りによって誘惑に耐える力は得ようとすれば得る事が出来ていた筈だからです。


十二、もし、人生の中で出遭う不幸を二つに分類するならば、一つは、人間にとって避けることのできないもので、もう一つは、その人自身の不注意や不品行によって起きる苦労からくるもの(→第五章 4)ですが、一般に後者の方がずっと多いことが分かります。

人間自身がその苦しみを自らつくっているということは明らかであり、したがって、常に知恵と慎重さをもって生きることが出来れば、苦しみを軽減することが可能であるということが分かります。

こうした不幸が、私たちが神の法に違反することから生まれるというのは確かであり、もしこの神の法を厳重に守ることができれば、私たちは完全に幸福になれるということも明らかです。

私たちが生命を維持するために最低限必要なものを満たしたことに飽きたらず、必要限度を超えて何かを摂取してしまうようなことが無ければ、摂取過剰によって引き起こされる病に罹ったり、その病がもたらす苦しみに悩まされることは無いでしょう。私たちの野心を抑えることが出来れば、没落する恐怖を味わうこともありません。

私たちの能力以上に向上することを望まなければ、落ちぶれることを心配する必要はありません。もし謙虚でいることが出来れば、プライドを傷つけられて失望をすることはありません。

慈善に身を捧げることが出来れば、不満、不服、妬み、嫉妬を感じることもなく、けんかや別れを防ぐことができます。誰に対しても悪いことをしないでいることが出来るのであれば、人に恨まれる心配をする必要はありません。


さて、もう一方の苦しみに対しては、人間は何もすることが出来ず、どのような祈りもそこから解放されるためには役に立たないと考えることができます。しかし、そうであったとしても、自分自身に起因する苦しみの全てを避けることが出来るのであれば、それだけでも十分ではないでしょうか。

そうした場合には、祈ることは何であるのか、容易に理解することができます。祈ることの目的は善霊たちの道徳的なインスピレーションを引きつけることであり、また行動に移せば私たちにとって致命的となり得る悪い考えに抵抗するのに必要な力を得ることなのです。

そうした目的が果たされるように、善霊たちは苦しみを私たちから遠ざけてくれるのではなく、苦しみを生じさせるような悪い考えから私たちを遠ざけてくれるのです。善霊たちは、神の意向を妨げることはありません。自然の法則の流れを遮ることはありません。反対に私たちの自由意志を指導しながら、

私たちが神の法を破ることを禁じるのです。しかし、私たちが気付かぬ間に、目には見えない形で、私たちが苦しみを避けようとする意欲を失わないように、それを行います。その時人間は、良い忠告を求め、それを実行しようとする姿勢にありますが、同時にその忠告に従うか否かを選択する自由を有しています。

神はそのように、人間がその行動に対する責任を持つことを望み、善か悪かの選択をした後、それによって得たものの真価がその人に理解されることを望んでいます。祈りの結果は、人間が熱烈に求めた時には、いつも得ることが出来るのです。

つまり、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」と言う言葉がそこに当てはまるのです。

祈りの効果と言うものが、私たちを悪い考えから遠ざけてくれることだけに限られていたとしても、非常に大きな効果をもたらすことになるのではないでしょうか。物質世界と霊の世界の関係を明らかにすることによって祈りの効果を証明することは、スピリティズムに課せられた役割です。

しかし、実際の祈りの効果は私たちを悪い考えから遠ざけてくれるだけではありません。祈りはすべての霊によって勧められています。祈りを放棄することは、神の好意を無視することです。神の加護を自分から拒むことであり、また、他人に対して行うことにできる善い行いを拒むということです。


 十三、 神は、神に向かって祈る者に応える時、多くの場合、祈る者の意向、献身、信仰に報いることを望みます。だからこそ、善い人の祈りの方が神の目にはより値打ちがあるものに映り、その祈りはより強い効力を持つのです。なぜならば、悪意を持つよこしまな者は、本当に信心深い者だけが感じることが出来る信頼と熱意をもって祈ることはできないからです。

自己中心的で、口先だけの祈りを唱える者からは、単なる言葉しか出て来ず、祈りに力をもたらす慈善の気持ちが生まれてくることはありません。ですから、私たちが誰かに祈ってもらうとすれば、神を喜ばすことのできそうな行いの善い人に本能的に頼むだろうということは明らかです。

なぜなら、そうした祈りの方が神には良く聞き入れてもらえるからです。



十四、祈りとは一種の磁気的な力の働きなので、その効力はその人の持つフルイドの力によって変化すると仮定することが出来るかも知れません。しかし、そうではありません。霊たちは人間の祈りに応える時、その祈る者にとって不足しているものを必要に応じて補うのです。

それはそのようにすることがその人にとって有益であり、そうした恵みを受けるに値すると判断された時であって、霊たちはその人に代って直接的に働きかけたり、一時的に特別な力を与えたりするのです。

 健全影響を他人に与えるにはまだ自分の善さは不十分だと考える者は、どうせ聞いてもらえないだろうと考えて、他人のために祈ることを忘れてしまうようなことになってはいけません。自分の劣等を自覚することは謙虚であることの証拠であり、それはいつも神を喜ばせることになります。

そして神は何時もそうする者の慈善的な志を汲んでくれます。神に寄せる信頼と熱意は、善へ向かうための第一歩です。そして善霊たちも、喜んでそのような方向へ私たちを向けようとするのです。

自分の権力や価値しか信じることができず、それが永遠の神の意志を超えるものだと考えるプライドの高い者の祈りは、拒絶されます。


十五、祈りの力とは、思考の中にあるもので、祈りに使う言葉、祈る場所、祈る時間とは全く関係がありません。ですから、いつでも、どこでも、一人でも、また大勢でも祈ることができます。場所と時間は、単に黙想するための環境に影響を与えるものです。どんな祈りも、祈るすべての者が、

同じ目的で同じ考えを持ち、心を一つにした時、より強い力を持つことになります。そうすることは、ユニゾンで声をそろえて歌うようなものだからです。しかし、一人一人が個別にその人自身だけのために祈るのであれば、大勢で集まることがどれほど重要であり得ましょうか。

百人集まって、それぞれが利己的に祈る一方で、二、三人が息を合わせて真なる神の子の兄弟の様に祈れば、その祈りは百人の祈りよりもずっと強いものとなるでしょう(第二十八章 4,5)

 

理解できる祈り
十六、もし、言葉の意味を理解していないのであれば、語っている人にとって私は異国人であり、語っている人も私にとっては異国人です。

 もし、私が誰も知らない言葉で祈るのであれば、私の霊は祈っていることになりますが、私の知性は実を結びません。

 あなたが、あなたの霊において神を賛美しても、あなたの言っていることがわからないのであれば、初心者の席にいる人たちは、どうしてあなたの感謝の言葉に合わせ、「アーメン(そうでありますように)」と言うことができるでしょうか。あなたの感謝は伝わりますが、他の人の徳を高めることにはなりません。(第一コリント 第十四章 11,14,16,17)



十七、祈りは、その祈りを形成している考えによってのみその価値が決まります。理解できない考えに意を傾けることはできません。なぜなら、理解できない考えというのは心に響かないものだからです。

多くの人が捧げる、理解していない言葉による祈りというのは、霊には何も訴えることのない、ただの言葉の羅列に過ぎないのです。祈りが心に響くには、一つ一つの言葉がある考えを映し出していなければなりません。

もし、一つ一つの言葉を理解できないのであれば、どんな考えをも映し出すことはできません。

祈ることの利点が単に繰り返しの回数に比例すると考え、簡単なきまり文句のように何度も唱え返す人がいます。多くの人は義務として祈ります。単に習慣として祈る人もいます。決められた順番で何回か祈りを繰り返すことによって、義務から逃れることができると考えるからです。しかし、

神は人の心の底を読み、私たちの思考や誠意を知るのです。それゆえ、神が祈りの根底にある意味よりも、祈りの形にこだわると考えることは、神を卑しめることになるのです。(→第二十八章 2)


    
 死者や苦しむ霊たちへの祈りについて

十八、  苦しむ霊たちは祈りを求めますが、それは祈りが彼らにとってとても有益なものだからです。なぜなら、彼らは思いだされることにより、自分が忘れ去られた存在でないことを知り、その悲しみも軽くなるからです。しかし、祈りはその他にもっと直接的にも働きかけます。

彼らに再び勇気を与え、反省と改心によって気持ちを高めようとする意志を刺激し、悪い考えから遠ざけるのです。祈りによって彼らの苦しみを軽くするだけでなく、短縮することができるのです。
(→『天国と地獄』第二部 例)


十九、ある人は死者への祈りを否定します。なぜなら、魂には、永遠に救われるか、永遠に罰せられるかのいずれかの選択しか与えられないと信じているからです。そうなのであれば、救われようが、罰せられようが、祈りは役に立たないことになります。こう信じることの価値は別として、

避けることのできない永遠の罰というものが実際に存在し、それは私たちの祈りでは中断させることができないものであると、少しの間仮定して考えてみましょう。では、だからと言って、

罰せられる者への祈りを拒絶するのは正しく、慈悲深いことでしょうか。それがキリストの教えに則っているのでしょうか。死者への祈りは死者を自由にするには至らないかもしれませんが、それは彼らに対する憐れみの表現となり、彼らの苦しみを和らげるものではないでしょうか。

地上である人が終身刑に処された時、その囚人には減刑の可能性はなかったとしても、その人の背負う拘束の重荷を軽く感じることができるようにと、慈悲深い人がその囚人を助けてあげようとすることが禁止されていますか。誰かが不治の病に犯された時、治る見込みがないからと言って、

その人を助けることなく、見放すべきなのでしょうか。罰せられる者の中に、あなたにとってとても大切だった人がいるかもしれません。友人、父親、母親、息子だった人が。

それなのに、彼らが赦されることはないと信じているからと言って彼らののどの渇きを癒すコップ一杯の水を上げることも拒否するのですか。彼らの傷口を癒す薬を塗ってあげることを拒否するのですか。

親愛なる者の為に、囚人にしてあげられるのと同じことをしてあげようとは思いませんか。彼らに愛の証と慰めを与えないのですか。それはキリストの教えに則っているとは言えません。心を固くしてしまう信念は、何よりもまず隣人を愛せよと教える神への信仰と調和することができません。


 永遠の罰を否定するからと言って、一時的な罰を否定するわけではありません。なぜなら、神はその正義によって善と悪を間違えるわけはないからです。

しかし、罰に処されるからと言って祈りの効力を否定することは、慰めや良い忠告、励ましの力を否定することです。そして、それは私たちを愛してくれている人たちからの道徳的な救済によって得ることができる力をも否定するのと同じです。



 二十、神の意向の不変性といった、もっと特殊な理由をあげることによって死者への祈りを否定する人もいます。神はすでに決めてしまったことを人間の願いに応じて変えることはできず、さもなければ世界は何一つ安定することがない、と彼らは言います。

したがって、人間は神に服従し賛美する義務はあるが、神に願う必要はないと考えるのです。

 この考え方には、神の法の不変性の解釈に誤りがあります。言うならば、その人は未来における罰を示す神の法を全く知らないのです。今日、人間は十分に成熟し、その信仰によって、なにが神の善良に属し、なにが属さないかを理解できるようになりました。

そこで、この神の法が、神意に従って行動する善霊たちによって示されたのです。

 罰の絶対性と永遠性を教える教義によると、後悔の念も、悔恨も念も、罰を受ける者にとって有益ではありません。罰を受ける者にとって、いかなる向上の意欲も無益だということになります。

彼は永遠に悪にとどまることを強いられるのです。しかし、もし決められた期間だけ罰に処されたのであれば、刑期の終わりが来ればその刑は終了します。しかし、その時、罰せられた者が改心することができたと誰が断言できるでしょうか。

地上で罰を受ける者の多くの例が示すように、刑務所から出てからも、以前と同じように悪くなることはないでしょうか。罰が永遠であるという考え方の場合であれば、向上し善くなった人でさえも罰の苦しみのもとに置かれることになります。罰が特定の期間だけ与えられるという考えの場合であれば、

罪を負い続けながらも自由を得た者が得をすることになります。神の法とは、より深い配慮にもとづいた摂理です。常に公平であり、平等で、慈悲深いものです。どのような罰であれ、その期間を決められることはありません。神の法は次のように要約することができます。



二十一、 「人は常に自分で犯した失敗の結果に苦しみます。罰を受けることの無い神の法の違反は存在しません」「罰の厳しさは、違反の度合いによって決まります」 

「どのような罰であれ、その長さは決まってはいません。それは罰せられる者の反省と改善する意欲次第だからです。だから、悪に執着すればするほど罰は長引きます。頑固である間は、罰に終わりはありません。すぐに反省するのであれば罰は短いものとなるでしょう」

 
「罰を受ける者が慈悲を求めれば、神はそれを聞き入れ、希望を与えてくれます。しかし、ただ後悔するだけでは足りません。過ちを正すことが必要です。

そのため、罰を受ける者は新たな試練の中に身を置き、その中で、自分自身の意志によって自分が過去に犯した過ちを正すために、善行に励むことになるのです」

人間はこのように、自分で自分の運命を決めているのです。与えられた罰を短縮することも、不定の期間長引かすことも出来るのです。人間の幸、不幸は、善を行おうとする意志にかかっているのです」

 これが神の法なのです。神の善良と正義による、不変の法です。罪を負った不幸な霊も、このように自分自身を救うことが出来るのです。神の法はどのような条件のもとでそうすることが可能なのかを教えてくれています。不足しているものは向上するための意志、気力、勇気でしかありません。

 もし祈りによってこの意志を感じさせ、加護を与え、勇気づけることが出来るのであれば。もし、私たちの忠告によって、彼らに不足している光を与えることができるのであれば、神にその法の撤廃を願うのではなく、自らその愛と慈善の法の実践手段となろうではありませんか。

神が認めているように、そうすることによって、私たちはその法に参加することができ、私たち自身の慈善の証を示すことが出来るのです。(『天国と地獄』第一部 4,7,8章)




霊たちからの指導      


祈り方
二十二
眠りから目覚め、日々の暮らしに戻った時、すべての人が第一番に思いださねばならないのが祈りです。

ほとんどの人が祈るでしょう。しかし本当に祈り方を知っている者は何と少ないことでしょうか。他の義務がそうであるように、祈りを義務として負担に感じ、反復することに慣れてしまい、ただ機械的につなぎ合わされて、発音されるだけの言葉が、神にとってどんな意味があるでしょうか。

キリスト教徒はどの宗派であったとしても、特にスピリティズムを勉強する者の場合は、霊が肉体に戻った時には祈らなければいけません。謙虚な気持ちで偉大なる神の足元まで気持ちを引き上げ、同時に今日まで授かったすべての恩恵に対し、深い感謝の気持ちを抱かなければなりません。

また、あなたたちは覚えていなくても、新たな力と辛抱を得るために、親しい友達や、私たちを守ってくれている人たちに、昨夜あなたの眠りの中で再会させてくれたことを感謝しなければなりません。

神の足もとに謙虚な気持ちで身を寄せ、自らの弱さを感じ、神の支え、赦免、慈悲を授かるよう懇願しましょう。その気持ちは心の底からのものでなければなりません。あなたは、その魂を神のもとに通じさせ、愛と希望に白く光を放つまで、タボール山でその姿を変えたイエスのように、祈らなければならないのです。

あなたたちは、あなたたちにとって本当に必要な神の恵みだけを祈りの中でお願いしなければなりません。あなたたちに与えられた試練を乗り越えるための近道や、喜びや、富を神にお願いしても無意味です。それらをお願いする前に、より大切な辛抱、忍耐、信仰の心をお願いして下さい。

あなたたちの多くが口にするように、「神は願いを叶えてくれないのだから祈ってもしょうがない」などと言わないことです。あなたたちは神にいつも何をお願いしていますか。

あなたたち自身の道徳的な改善を何回お願いしたか憶えていますか。何と少ないのでしょうか。

あなたたちが最も多くお願いすることは地上での生活や事業において成功するということばかりで、後になれば「神は私たちのことなどかまってくれない。かまってくれるのであれば、こんな不公平な世界の中であるはずがない」などと叫ぶでしょう。あなたたちは愚かな恩知らずです。

あなたたちの良心の奥深く探ってみれば、ほとんどの場合、愚痴のもととなっている不平の原因を見つけることができるはずです。なによりも先に、あなたたちが向上することをお願いしてください。そうすれば、あなたたちの上に注がれる大量の恵みと慰めを見ることができるでしょう。(→第五章 4)


 何時も祈っていなければなりませんが、そのために公の広場で跪いたり、祈る場所を求めたりしてはなりません。日々の祈りは、それ自体があなたに与えられた義務を果たすことになりますが、他のいかなる種類の義務をも果たすことを怠ってはなりません。

あなたの兄弟が道徳的、物理的に何かを必要としている時、それを助けることは神への愛の行いではありませんか。

なにか嬉しいことがあった時や、何かの事故から逃れることができた時、何かの誘惑が私たちの魂をかすめ、通り過ぎて行った時、気持ちを高めて、神のことを考えることは神への感謝の行為です。その時、心の中で唱えることを忘れてはいけません。「神よ、祝福されますように」。

失敗してしまったと感じた時、ほんの一時思い浮かべるだけでも、謙虚に最高の審判者に向かって、「神よ赦してください。(自尊心が強すぎ、身勝手な考えを持ち、慈善の気持ちが欠けていたために)罪を犯しました。同じ失敗を繰り返さぬよう、力を与えて下さい。私の欠点を改める勇気を与えて下さい」と考えることは、悔罪の行いではありませんか。

 こうした祈りは、朝、夜、神聖な日に捧げる定期的な祈りの他に行わねばなりません。

つまり、あなたたちの習慣を断つことなく、いかなる時にも祈りは行われるべきなのです。そのようにすることによって、あなたたちの習慣までもが、神聖なものとなるのです。

そして、こうした心の底より生まれる考えは、たった一つの思考であったとしても、直接の動機が殆どの場合存在しないにもかかわらず、単に習慣となっている時間が機械的にあなたを呼ぶからと言って繰り返される長い祈りよりも、天の神には聞きいれられるのです。(V・モノ― ボルドー、1862年)



 祈りの喜び
二十三、信じたい者はみな来てください。天の霊たちがやって来て素晴らしいことを教えてくれます。子どもたちよ、神はその宝を広げ、その恵みをあなたたちに分けてくれるのです。信心のない者よ、信仰と言うものがどれだけあなたたちの心をなごませてくれ、魂を後悔と祈りに導いてくれるか、

もしあなたたちが知ることができるならば。祈り、ああ、祈りの時、唇から出る言葉とは、なんと感動を与えるものなのでしょう。祈りとは、熟しすぎた情熱を覚ましてくれる、神が降らせた夜露のようなものなのです。信仰から生まれた愛しい娘は、私たちを神に通じる道へと案内してくれるのです。

孤独の中で一人で深く考え込むとき、神に出会うことができるでしょう。その時あなたの謎は消えてなくなります。なぜなら神は、彼の方から現れてくれるからです。

信じる者よ、あなたたちのために本当の人生と言うものが開かれるのです。あなたたちの魂は肉体を離れ、人類がいまだ知ることのない無限なるエーテルの世界に放たれるのです。


 前進しましょう。祈りの道に沿って進み、天使の声を聞くのです。なんとすばらしいハーモニーでしょう。もはや地球で聞いた叫びや、混乱した雑音ではありません。大天使の竪琴の音、

森林の木々の枝葉にたわむれる朝のそよ風よりも優しい、甘い熾天使の声、なんという喜びを感じて進むことができるでしょうか。この祈りの喜びを、地上のあなたの言葉ではとうてい表現することはできないでしょう。

あなたの身体の隅々までしみ込む、この鮮明でさわやかな喜びは、祈ることによって飲むことのできる泉なのです。祈りによって知られざる生命の住む世界へ放たれる甘い言葉、芳香は、霊たちによって聞きいれられ、吸い込まれます。肉体の世界の欲望から切り離された熱望は、いかなるものも神のものとなります。

ゴルゴタからカルバリオまであなたたちの十字架を運んだキリストのように、あなたたちも祈ってください。あなたの十字架を担いでください。そうすれば、屈辱の十字架を担ぎながらもキリストの魂が感じていた、やさしい感動を得ることができるでしょう。

キリストは死ななければなりませんでした。しかし、死ぬということは、彼の父のすみかのある世界で生きるということだったのです。(聖アグスティヌス パリ、1861年)




   
 第28章 スピリティストの祈り  

 序文
、霊は何時も私達に言ってくれます。「形式は何の意味も持ちません。思案の内容そのものが全てなのです。各々がそれぞれの信じていることに従って、最も心地良い状態で祈りなさい。心に響かぬ数知れぬ言葉よりも、たった一つの善い思いの方がずっと値打ちがあるのです」。

 霊は、これと言った絶対的な祈りの方法を示してはいません。ある方法を示す場合というのは、私たちの思いを導こうとする時で、スピリティズムの教義のある原則について私たちの注意をうながす時です。

あるいは、自分の思いをしっかりと決まった形式で表さなければ祈った気がしないと考えるような、自分をうまく表現するのが不得意な人を助ける時です。

 本章に集められた祈りは、さまざまな状況において霊が私たちに書き留めるよう求めたものです。その時の特別な状況や様々な考え方に応じて、それら以外の違った言葉で、違った形の祈りを示したこともあるでしょう。しかしその根底にある思いが同じであるならば、その形式はどうでもいいのです。

祈りの目的とは私たちの魂を神のところまで高めることです。それぞれの祈りの形式がさまざまであったとしても、神を信じる者にとっては、それらはどれも違わないものであると理解することができます。それはスピリティズムを学ぶ者であればなおさらです。

なぜなら、私たちが誠意を持っていれば、神はすべての人を受け入れてくれることを知っているからです。


 ですから、ここにまとめられた祈りを、絶対的な定型の祈りとしてとらえてはなりません。これらは本書にまとめられた、福音の教える道徳を形に表わしたものなのです。

それは福音が示す、私たちの神と隣人に対し負っている義務を補足したものであり、その中にスピリティズムの教義の原則が盛り込まれているのです。

 
 スピリティズムにおいては、口先だけでなく心から唱えられたものであるならば、いかなる宗教の祈りでもよいと考えます。スピリティズムはなにも強要せず、なにも非難することはありません。

スピリティズムによれば神は偉大であり、単にある形式に従わなかったからといって、懇願したり賛美する者の声を聞きいれなかったりすることはありません。形の決まっていない祈りについて批判する人は、神の偉大さを知らないのです。神が定型の祈りだけを好むだと信じる者は、神を小さく見ているのであり、人間的な感情の範囲で捉えているのです。


 聖パウロは、祈る上で重要なことの一つとして、祈りが私たちの魂に響くためには、理解できるものでなければならないということをあげています(→第二十七章 16)。しかし、そのためには、私達の日常で使う言葉で祈るというだけでは不十分です。

なぜなら、日常的な表現を使っていても、知性には外国語のようにしか伝わらず、そのため心に響かない祈りがあるからです。一般に、祈りに込められた少しの思いは、過剰な言葉や言葉の神秘性によって押さえつけられてしまいます。

 祈りはまず第一に明瞭でなければなりません。それは単純、簡潔でなければならず、無意味に飾られた言葉や過剰な修飾後は、偽物をつくる単なる金メッキにしか過ぎません。言葉の一つ一つがある思いを映し出し、魂に触れ、その価値を持っていなければなりません。そして一つ一つの言葉にもとづき、

自分を省みなければならないのです。そうすることによってのみ、祈りはその目的を達成することができるのです。それ以外の方法であれば、その祈りは無意味な言葉の集まりにしかなりません。

しかし、ほとんどの場合、祈る者の気は散っていて、落ち着かない様子が見られます。口は動かしていても、祈る者の表情やその発声を見れば、それが魂の伴わない外面だけの機械的動作であることがわかります。ここにまとめられた祈りは五つの分類に別れています。

1、一般的な祈り、2個人的な祈り、3、他人への祈り、4、霊への祈り、5、病人、憑依に悩まされる者への祈り。

 一つ一つの祈りの目的について特に注意し、より理解し易いものとするため、それぞれの祈りについて序文として記した部分には、前書きとして、その祈りの動機となるものを並べています。




     
1、一般的な祈り 

 
主の祈り
、<序文>霊はこの祈りの章を、単に祈りの一つとしてではなく、祈りの象徴として、この「主の祈り」で書きだすように勧めてくれました。この祈りは、すべての祈りの中でも霊がまず第一に考えるものです。それは、この祈りがイエス自身によって教えられたものであるから

(→マタイ 第六章 9-13)かもしれませんし、あるいは、その祈りが祈る者の意向に応じて、他のどんな祈りの代わりにもなるからかもしれません。

簡素で最も完全な形と簡単な言葉に込められた、崇高な真の傑作です。最も短い言葉で人間が神との間に約束する、自分自身に、また隣人との間に果たすべき義務が、すべて効率的に要約されています。また、それは信仰の誓い、神への賛美、服従の行いであり、地上の生活や慈善の原理に不可欠なものを懇願することも含んでいます。

この祈りを他人のために唱えることによって、私たちが自分自身に望むことを他人のために願うことができます。


 しかしながら、その簡潔さゆえに、多くの人々はその言葉の持つ深い意味を見逃しています。それは一般に、一文一文の意味を考えずに唱えているからです。数多く唱えればその回数に応じて効力を増すかの如く、決まりのように唱えるからなのです。

その回数はほとんどいつも神秘的な数です。古くからの迷信的な数の力を信じたり、魔術によくつかわれる、三、七、九と言った数であったりします。


 この祈りがその簡潔さゆえに私たちに残す隙間を埋めるため、善霊の忠告と助けに従って、祈りの一文一文に、その意味を明らかにする解説とその使い方を付して示します。祈る時の状況と、祈ることができる時間に応じて、「主の祈り」は、簡潔な形でも、またもっと詳しく述べる形でも唱えることができます。  



<祈り>
ⅰ.天にまします私たちの父よ、御名が崇められますように

 主よ、私たちはあなたを信じています。なぜなら、すべての存在があなたの力とその善意を示してくれるからです。宇宙の調和は、人類のあらゆる能力を超える英知と理性の証明です。偉大で博識なるあなたの名は、つつましい草花、小さな昆虫から宇宙を飛ぶ星まで、あらゆる被造物に記されています。

あらゆるところに私たちは父なる配慮の証を見ることができます。あなたの創造されたものを見て、あなたを称えぬ者は盲目です。賛美せぬ者は思い上がった者です。また、その恩恵に感謝せぬ者は恩知らずです。

 

ⅱ.あなたの国(御国)が来ますように

 主よ、人類がそれを守れば幸せになることができる、英知に満ちた法をあなたは与えてくださいました。この法によって、人類は平和と正義を確立することができ、いましているようにお互いを傷つけあうのではなく、お互いを助け合うことができるようになるでしょう。

強い者は弱い者を圧迫するのではなく、保護することになるでしょう。あらゆるものの過剰や濫用から発する悪は避けられることになるでしょう。全ての惨めさは、あなたの法を守らないために生じるのです。なぜなら、致命的な結果をもたらすことなく、あなたの法を破ることはできないからです。


 あなたは、動物たちには生きるための必要限度に応じて本能を与えられました。動物たちは自然にそれに従って生きています。しかし、人間には本能の他に知性と理性を与えられました。さらに一人一人に関するあなたの法を守るか守らないかを選択する自由を与えられました。

すなわち、善と悪を選択する能力を与えられ、それによって人間が自分の行動に対して責任を負い、その意味を知ることができるようにされたのです。


 誰もあなたの法を知らないなどと訴えることはできません。なぜなら、あなたは父なる配慮によって、国籍、宗教を問わず、全ての人間の一人一人の良心の中にあなたの法が記されることを望まれたからです。ですから、あなたの法を守らない者はあなたを見くびっているのです。


 あなたが約束されたとおり、いつか人類すべてがあなたの法を守る日がやってくるでしょう。その時、神を信じない者はいなくなり、すべての人間が最高なる万物の主としてあなたを認め、あなたの法によって治められた者たちは、地球上にあなたの国を築き上げるでしょう。

 主よ、人類が真実なる道を歩むことができるように、必要な光をお与えください。そして、あなたの国の到来を早められますように。



ⅲ.あなたの意志(御心)が天で行われるように、地でも行われますように

 子が父親に従うこと、劣る者が優れる者に従うことが義務であるならば、創造された者がその創造主に従う義務はそれにいくらかでも劣るでしょうか。主よ、御心が行われるとは、あなたの法を遵守し、神の決定に不平を言うことなく従うことです。

人類は、主がすべての英知の源であり、主なしには何事も存在し得ないのだということを理解した時、あなたに従うことになるのです。その時、天において選ばれた者たちが行っているように、地球でもあなたの意志のとおりに行われることになるでしょう。


    
ⅳ.私たちの日ごとの糧を今日もお与えください

 肉体的な力を維持するために必要な糧を、私たちにお与えください。また、私たちの霊が進歩できますように、霊的な糧をもお与えください。

 動物たちは牧場にその糧を見つけます。しかし人類はその糧を、その知的な財産と自らの活動によって得なければなりません。なぜなら、神は人類を自由な身に創造されたからです。

 あなたは言われました。「額に汗して地を耕し、食物を得なさい」と。そして人間に労働を義務として与えられました。働くことは、肉体労働であれ、知的な労働であれ、人間に知性を使わせ、必要なものや、よりよい生活を得る手段となるのです。労働なしでは人類は不変なものとなってしまい、善霊の幸せを望むことはできません。


 怠惰を楽しみ、努力なくしてすべてを手に入れようとしたり、必要以上のものを求めるのではなく、必要なものを手に入れようと、神の意志を信頼し、意欲的に働く者を守ってください(→第二十五章)。

自分自身のせいで気力を失ってしまう者がどれだけいるでしょうか。不注意であったり、先見の明がなかったり、あるいは野心を抱き、あなたがお与えになられたものに満足しない者。彼ら自身が不幸を自らつくりだしているのですから、不平を言う権利はありません。

それも、自分で犯した罪そのものに罰せられているのだからです。しかし、無限に慈悲深いあなたは、そんな者たちをも見捨てたりはされません。言うことを聞かぬ子どもが心からあなたの方向へ向き直るよう、天から手を差し延べてくださるのです(→第五章 4)。

 私たちの運命を悲しむ前に、その運命が自分の手によってつくられたものであるか問うてみます

私たちに降りかかってきた一つ一つの不運を、避けることができなかったかどうかを確かめてみます。神は私たちに苦境から抜け出せるように知性を与えてくれ、それを正しく使うかどうかは私たち自身にかかっているのだと繰り返し言い聞かせます。

 地上の人類は労働の法に従わなければならず、ゆえにその法に従えるように、私たちに勇気と力を与えて下さい。また、慎重さや先見の明、節制によって、私たちが受け取るべき実りを失うことがないようにしてください。

 主よ、ですから、私たちの日ごとの糧をお与えください。つまり労働によって必要なものを得る手段をお与えください。必要以上のものを得ることができないからと不満を言う権利は誰にもありません。

 もし、労働することが不可能である場合には、神意を信じます。

 もし、私たちの努力にもかかわらず、神の計画の中でより厳しい苦難によって私たちが試されることになっているのであれば、現世、もしくは過去の人生において犯したであろう罪の正当なる報いとして受け入れます。なぜなら、あなたが正義であり、不当な罰は存在せず、理由なくして罰せられないことを私たちは知っているからです。


 主よ、私たちが持っていないものを持っている者や、私たちが必要としているものを必要以上に持っている者に対し、私たちが妬みを起こすことがないよう、お守りください。神の教えられた慈善と隣人を愛する法を忘れてしまった人たちをお赦しください(→第十六章 8)。


 悪人の繁栄や、善人たちを襲う不幸を見ても、あなたの正義を否定するような考えを私たちの霊から遠ざけてください。一方、私たちはあなたが与えて下さった新たな光によって、あなたの正義が、

誰一人例外とせずに守られることを知りました。つまり悪人の物質的な繁栄はその肉体の存在と同じようにはかなく、後に恐ろしい不幸を引き起こすことになるでしょう。そして苦しみを甘受する者にとって、その喜びは永遠のものとなるでしょう(→第五章 7,9,12,18)。



ⅴ.私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました

 主よ、あなたの法に対する違反の一つ一つは、あなたに対する私たちの攻撃であり、遅かれ早かれ支払わなければならない私たちの負債を増やすことになるのです。これ以上増やさないよう努力することを約束いたしますので、どうか永遠なる慈悲においてお赦し頂けますようにお願いいたします。


 あなたは私たちすべてのために、慈善を明確な法としてつくられました。しかし慈善とは、ただ単に私たち同胞を必要に応じて助けるだけでなく、同胞の攻撃を忘れ、赦してあげることでもあるのです。

私たちの不満の原因をつくったもの者たちに対する慈善に欠けておきながら、どうしてあなたの赦免を求めることができましょうか。


 主よ、私たちの周りの人々に対するどんな恨みや憎悪、怒りの気持ちも打ち消す力をお与えください。私たちの心の中に復讐の欲望を抱かせようと、死が不意をついて襲ってきませんように。

もし、あなたが私たちを今日この世から連れて行かれ試されたとしても、処刑の執行者たちのために最期の言葉を残したキリストのように、恨みの感情からまったく解放されてあなたの前へ出向くことができますように(→第十章)。
  
 私たちを苦しめる悪人たちによる迫害は、地上における私たちの試練の一つです。それらはあなたがイエスの言葉を通じて、「義のために迫害されてきた者は幸いです」と言われたごとく、その他の試練と同じように永遠の幸せへの道を開くのですから、彼らの非道の行いをののしることなく、不平をこぼさずに受け入れなければなりません。

そして、私たちを傷つけずはずかしめる者たちに祝福がありますように。なぜなら、肉体の苦しみによって私たちの魂は強化され、私たちは侮辱からも解放されることになるからです(→第十二章 4)。


主よ、御名が崇められますように。なぜなら、私たちの運命が死後に取り消しようもなく決定されてしまうのではないかということを教えてくださったからです。私たちは、さらなる進歩のため、過去の過ちを償い、新ためたり、現世で行うことができなかったことを改めて実現させるための手段を、また別の人生において得ることができるのです(→第四章、第五章 5)。

このことによってはじめて、人生におけるすべての見かけ上は変則的な出来事が説明されます。光は私たちの過去にも未来にも差しています。それは、あなたの最高なる正義と永遠の善意の輝かしいしるしです。



ⅵ.私たちが誘惑に負けませんように(→FEB版注1)、悪からお救いください

 主よ、悪霊の誘惑に抵抗できる力をお与えください。彼らは私たちに悪い考えを思いつかせ、私たちを善の道から逸らそうとします。

 しかし私たちはこの通り、向上と償いのために地球上に生まれた未完成な霊です。悪の原因は私たち自身の中にあり、悪霊は私たちの悪い性癖を利用し、そこへ入り込んで私たちを誘惑しているに過ぎません。

 私たちの一つ一つの未完成な部分が、悪霊の影響に対し開かれた扉のようなものである一方で、悪霊は完璧な者の前には無力であり、対抗しようとはしません。彼らを遠ざけようとして何を行ったとしても、私たちが悪を完全に放棄し、善を行う強固な意志を彼らの前に見せるのでなければまったく無効です。

したがって私たちは、努力を私たち自身に向けなければならないのです。そうすることで悪霊は自然に私たちの周りから遠ざかって行くのです。なぜなら彼らを呼び寄せるものは悪であり、善に対しては拒絶するからです(→第二十八章 81‐84)。

 主よ、私たちが弱くなった時にはお守りください。私たちの守護霊や善霊の声を通じて、私たちの欠点を改めようとする意志をお与えください。そのことによって、不道徳な霊の接近に私たちの魂を閉ざします(→第二十八章 11)。


 主よ、したがって悪とはあなたの仕業ではないのです。なぜなら、全ての善の源からはどんな悪も創られることはないからです。悪とは、私たち自身があなたの法を破り、あなたが与えてくれた自由を悪用することによって、創り出しているものなのです。

人類があなたの法を守るようになった時、より進歩した世界がそうであるように、地球上からも悪は消えるのです。

 誰にとっても宿命的な悪は存在しません。その悪を楽しむ者にとってそれが抵抗できないもののように映るだけなのです。私たちに悪を働こうとする意志を持つことができるのならば、善を働こうとする意志を持つことも出来るのです。

ですから主よ、私たちが誘惑に抵抗できるように、あなたの、そして善霊の助力をお願いいたします。



ⅶ.アーメン(そうでありますように)。
 主よ、私たちの望みが実現しますように。しかし、すべてをあなたの無限の英知に委ねます。私たちが理解できないことに対しても、私たちの意志ではなく、あなたの聖なる意志が働きますように。

なぜならあなたは私たちの善を望まれ、私たちには何がふさわしいのか、私たちよりも良く知っておられるからです。

 主よ、私たちはこの祈りを私たち自身のために唱えます。しかし、生きている者、死んでいる者を問わず、他の苦しんでいる者や、私たちの仲間、私たちの敵、また、私たちの救済を特に求めている「〇〇」のためにも捧げます。

 すべての人たちのために、あなたの慈善と祝福をお願いいたします。
(ここで神に向かい、与えられた恵み対する感謝と、あなた自身もしくは他人のための願いを形に表わし、唱えることができます)


 

    
 スピリティズムの集会     
、私の名において二人でも三人でも集まるのであるならば、私はその間にいます。(マタイ 第十八章 20)


、<序文>イエスの名において集まるには、物理的に集まるだけでは足りません。善に向いた意志と思考を共有することによって、霊的に集まることが必要です。そうすればイエスはその集会の中にいることになり、イエスもしくは純粋な霊がその代りとなって参加します。

スピリティズムは、霊がどのように私たちの間に存在するのかを私たちに教えてくれます。流動的、霊的な身体によって、または可視状態になる時にはその姿によって、私たちはその存在を知ることができます。

等級が高ければ高いほどその光を放射する力は大きく、その遍在性の力によって同時に多くの場所に存在することができます。思考の光の一筋を送るだけで、そうすることが可能になるのです。


 この言葉によって、イエスは統合と同胞愛の力を示したかったのです。人数の多少が霊を呼ぶのではありません。もし、そうであったなら、イエスは二人、三人と言う代わりに、十人、二十人と言っていたでしょう。

そうではなくて、お互いを励まし合う慈善の気持ちが霊を呼ぶのです。そのためには二人でも十分ですが、たとえ祈りがイエスに向けられたとしても、もし二人が別々に祈るのであれば、また、何よりもお互いを思いやる気持ちが存在しないのであれば、二人の間に思考の共有はありません。

もしお互いに警戒し合い、憎しみ、妬み、嫉妬を抱くなら、流動体の思考の鎖は、同情の衝撃によって一つに結びつく代わりに反発し合うことになり、それでは彼らはイエスの名において集まっていないことになります。そのような場合、イエスはその集会の口実でしかなく、真なる集会の目的ではないのです(→第二十七章 9)。


 だからと言って、イエスがたった一人の言うことを聞いてくれないわけではありません。彼が「私を呼ぶ者には誰にでも耳を傾けましょう」と言わなかったのは、なによりもまず、隣人への愛が不可欠であり、それは個人でと言うよりも、複数の人々が一緒になった方が証明しやすいからです。

なぜなら、いかなる個人的な感情も隣人への愛を否定することになるからです。と言うことは、大勢の集会において、二、三人だけが真なる慈善の気持ちで心から結ばれたとしても、残りの人たちが自己中心的な考えや世俗的な考えに気を取られているとすれば、イエスは後者とではなく、二、三人の者たちだけとともにあるのです。

ですから、言葉や賛美歌や、その他外見的な身振りなどが同時に発せられることによってではなく、イエスの人格そのものであった慈善の精神にもとづいた思考を共有することによって、イエスの名において集会を開くことができるのです(→第十章 7,8、 第二十七章 2-4)。

これが、心から善霊の協力を望む、真剣なスピリティストの集会のあるべき姿です。


六、<祈り・・・集会の始まりにおける祈り
 私達の集会に善霊が参加し、私たちを悪へ導こうとする者たちを遠ざけ、真実と偽りを区別するために必要な光が与えられることを全能なる神にお願いいたします。

 生きている者も、死んだ者も含め、私達の結束を分裂させることによって慈善と隣人への愛から遠ざけようとする邪悪な霊を、私たちのもとから連れ去ってください。もしこの場に入り込もうとする者がいるのであれば、私達の心の中に彼らが入り込むすきができないようにしてください。

 私たちを指導してくださる善霊よ、私たちがあなたにとって教えやすい生徒となれますように。どんな利己的な考えも、高慢な考えも、また羨み、妬み深い考えも、私たちのもとから遠ざけてください。

ここに集っている人たち、この場にいない人たち、友だち、敵に対しても、寛大さと、慈悲深さをお教えください。私たちを励ます感情によって、あなたたちの道徳的な影響力を私たちが感謝を持って認識することができますように。

 あなたたちの教えを伝える役目を負った霊媒たちに、彼らに託された役目の神聖さ、実践しようとする行いの重要性を自覚させ、それによって献身的に働き、必要な収穫を得ることができますように。

 もし私たちの間に、善とは異なるその他の感情を持った者がいれば、その目を光に向けてあげてください。また、悪意をもってここに参加しているのであれば、その者を赦してあげてください。私たちもその者を赦します。

 私達の指導霊である「〇〇」には、特に私たちを監視し、見守ってくれますようお願いいたします。



、<祈りー集会の終わりにおける祈り
 私たちに教えを伝えに来てくれた善霊に感謝いたします。教えられた事柄を実践できるようお助け下さい。私たち一人一人が、善を実践し、隣人を愛する意欲を強めて、ここを出て行くことができますように。

 これらの教えが、今日の集会に参加することができた苦しむ霊、無知な霊、悪習のある霊にとっても有益なものとなりますように。彼らにも神の慈悲がありますようにお願いいたします。



    
 霊媒への祈り
、神は言われる。終わりの日には、私の霊を全て肉体に注ごう。すると、あなたたちの息子や娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るでしょう。その日、私のしもべたちにも、はしためたちにも、私の霊を注ごう。すると、彼らは預言をするでしょう。(使徒 第二章 17,18)(→FEB版注2)



、<序文>主は光が人類すべてを照らし、霊の声があらゆるところへ響きわたり、不死の証が示されたことを望まれたのです。今日、霊が世界中のさまざまなところでその存在を示しているのはそのためであり、性別や年齢の差、置かれた状況の違いに関係なく、霊媒力があらゆる人たちの間に見られるのは、そうあるべき時がやって来ている証拠です。

 可視の世界を知り、自然の秘密を探るため、神は人類に物理的な視力や肉体的な感覚を与え、また、特別な道具を与えました。望遠鏡によって、人類は宇宙の彼方を見つめることができるようになり、

顕微鏡によって、無限に小さな世界を発見することができるようになりました。そして見えざる世界を知るために、神は霊媒力を与えられました。

 霊媒は霊からの教えの通訳となりますが、さらに分かり易く言い換えるならば、彼らは霊が人間との交信を行うために使用する道具となるのです。霊媒は永遠の生命の地平線を示してくれるのですから、その使命は神聖なものです。

 霊は人類にその未来を教えるためにやってきます。それは人類を善の道へ導くためで、この世で与えられた人類自身の進歩をもたらす物質的な仕事を減らすためではありません。また、

人間の野心や欲望を満たすためでもありません。このことからも霊媒はその与えられた能力を悪用してはならないということをよく心得ておかなければなりません。

委任された者で任命されたことの重要性を理解した者は、その能力を信心深く用います。もう一つの世界に存在する者たちとの関係を結ばせるという真剣な目的の為に与えられた能力を、自分、もしくは他人の娯楽や気晴らしのために用いるなら、神聖を汚す行いとして、良心がその者を咎めるでしょう。

 霊媒は霊の教えの通訳者として、霊の働きかける私たちの道徳的な変化を遂げるための、重要な役割を果たさなければなりません。霊媒が果たすことのできる役割は、その霊能力を向けた方向の正しさに応じます。間違った方向へ向ける者は、スピリティズムにとっては有益どころか、悪い影響をもたらします。

彼らが与える悪い印象は、少なからぬ人々が、道徳的に変化することを遅らせることになります。

ですから、同胞の善のために与えられた能力をどのように使ったかと言うことを問われることになるのです。


 善霊の助けを失いたくない霊媒は、自分自身の向上のために働かなければなりません。その能力を伸ばして、大きくしたい者は、自分を神聖なる目的から逸らせてしまうあらゆることを避け、自分自身を道徳的に成長させなければなりません。

 もし時々、善霊が不完全な霊媒を使うのであれば、それはそうすることによってその霊媒を善の道へ導こうとするからです。しかし、その霊媒の心が固く、善霊の忠告が聞きいれられない場合は、善霊はそのもとを離れ、悪が自由にそこへ入り込むことができるようになるのです(第二十四章 11,12)。


 ある期間にわたって、目覚めるようなひらめきを与えられておきながらも、善霊の忠告や通信を利用しなかったり、聞きいれない霊媒は、過ちを犯したり、無意味でばかげたことを訴えるようになり、明らかに善霊が離れていったしるしが見られるようになるということを、私たちの経験は教えてくれています。

 善霊の救済を受け、軽はずみで偽った霊から解放されることが、すべての真剣な霊媒の継続的な努力の目的でなければなりません。そうでないのであれば、霊能力と言うものはそれを持つ者を害し、危険な憑依へと悪化させる不毛な能力でしかありません。

 その責任を認識している霊媒は、いつでも奪われる可能性のある、彼のものではない一つの能力について、自慢するのではなく、それによってどのような善を得ることができるのか神に委ねます。

通信が賞賛に値するものであったとしても、それによって自惚れたりはしません。なぜなら、通信と言うものがその霊媒の個人的な功労とは関係がないことを知っており、彼を通じて善霊が現れることが許されたことを神に感謝するからです。

通信の内容が非難の的となったとしても、そのことによって自分を責めたりはしません。なぜなら、そうした通信内容とは、その霊媒がつくりだすものではないことを知っているからです。

そして彼は、自分が悪い霊の干渉を妨げるのに必要な能力をすべて持っておらず、よい通信手段ではなかったと反省するのです。ですから、そうした能力を得ようとしてください。そして不足している力を祈りによって求めてください



、<祈り>全能なる神よ、懇願された霊との通信を、善霊が見守ってくれますようにお許しください。自分は悪い霊に影響されることはないなどとうぬぼれることがありませんように。通信を授かることのできる価値を取り違えてしまうような過ちに導く、自尊心から私をお守りください。

他の霊媒に対し、慈善に反するいかなる感情も持つことがないようお守りください。もし私が過ちを犯しそうになった時には、誰かが私を注意してくれますように。そのような時には、そうした過ちを自覚し、注意を受け入れることが出来るだけの慎ましさを私にお与えください。

また、善霊が私に与えてくれる教えを、他人のためではなく、自分のためとして受けとめることができますように。

 何事であれ、もし、過ちを犯す誘惑に負けそうになったり、私にお与えになった能力によってうぬぼれるようであれば、神聖なる目的のための能力が間違ったことに使われる前に、私自身の道徳的進歩のためにも、私からその力を剥奪してください。





   
、個人的な祈り  守護霊や保護霊への祈り
十一、<序文>私たちは生れた時から、私たちを守護下においてくれた善い霊と関わりをもっています。子どもを守る父親のように、その霊は与えられた任務を果たします。
 
人生の試練を通じて、私たちを善と進歩の道に導いてくれます。私たちに対する彼の配慮に私たちが応えると、彼は大変幸せに感じますが、私たちが屈服してしまうのを見ると彼は苦しみます。

 彼の名前など大した問題ではありません。なぜなら、彼の名はこの地球上では知られたものではないかもしれないからです。ですから、私たちの守護霊、もしくは私たちの善き守り神と呼びましょう。彼のことを私たちが親しみを感じる、ある特定の優秀な霊の名で呼んでも構いません。

 私たちには必ず、より優れた霊である守護霊の他に、同じように善く寛大でも、進度のより少ない保護霊がついています。保護霊は、友達の霊だったり、家族の霊だったり、あるいは現世においては全く知らない誰かの霊だったりします。

彼らは助言を与えることによって私たちの人生を見守り、しばしば私たちの日常の行動の間に入ってきます。

 親切な霊とは、私たちと趣味や嗜好の上で類似性のある霊のことです。そうした霊を引きつける私たちの性質の傾向により、それは善い霊でも悪い霊でもあり得ます。


 誘惑する霊は、私たちに悪い考えを植えつけ、私たちを善の道から遠ざけようとします。私たちの魂への接近を容易にする開かれた扉のように、私たちの弱点をすべて利用します。私たちを獲物にしようと付きまとう者もいますが、私たちの意志と対抗するには無力であるということを知ると離れていきます。

 神は私たちの第一の案内人として、より優れた守護霊を送り、第二の案内人として保護霊や家族の霊を送ってくれています。しかし、保護霊が私たちに与える善い影響とつり合わせるために、私たちのとなりに悪の力もが強制的に置かれていると考えるのは間違いです。

悪い霊は、自分の優勢を占める機会が私たちの間にあるのを見つけると自発的にやってくるのです。

それは私たちが弱気になったり、善い霊が与えてくれるひらめきに従うことを無視する時です。つまり悪い霊を寄せつけるのは私たち自身なのです。このことから、私たちは善い霊の支援を受けていますが、悪を遠ざけるのは私たち自身であるのだと結論づけることができます。

人間は不完全であるため、自分を苦しめる困難の第一の原因を、多くの場合、自分自身の性質の中に持ち合わせているのです。(第五章 4)。


 守護霊や保護霊への祈りは、神との間を取り持ち、悪い誘いに対抗する強さを与え、日常の偶発的な出来事の中で私たちを見守ってくれるようにお願いすることを目的としなければなりません。



十二、<祈り>神の使いとして人間を見守り、人間を善の道へ歩ませることをその使命としている高尚で慈悲深い霊よ。この人生における試練に向かう私を支えてください。悲嘆することなく試練に耐えることができるよう、力をお与えください。

悪い考えを持たないことによって、私を悪へ導こうとするどんな悪霊も入り込めなくなるようにしてください。私の欠点をはっきりと自覚できるよう、自分の欠点を知り、自分自身に言い聞かせることを阻む自尊心のベールを、私の目の前から取り去ってください。

 私を見守ってくれている私の守護霊である「〇〇」には特に、また、私のことを心配してくれているその他の保護霊すべてには、私があなたたちの保護に値することができますようにお願いいたします。

私の必要としていることが知られ、それらが神の意志に従って聞きいれられますように。



十三、<別の祈り>神よ、私が苦しんでいる時、私の周りにいる善霊が私を助けに来てくれ、私の力が衰えてしまった時には私を支えてくれることをお許しください。彼らが信仰心、希望、慈善の気持ちを私に吹き込んでくれることをお願いいたします。

それらは私にとっての支えと激励であり、彼らの慈悲の証なのです。それらの中に、人生の試練に立ち向かうために私に欠けている力を見出すことができますように。そして悪いひらめきに抵抗するために、私を救ってくれる信仰心と私を慰めてくれる愛をお与えください。



十四、<別の祈り>神のお許しのもと、その無限の慈悲をもって人類を見守ってくれている親愛なる霊、守護霊よ。地上での試練の間、私たちをお守りください。気力、勇気、そして忍従する力をお与えください。善であるものはすべて私たちにお教えください。

悪に傾くことから私たちを引きとめてください。あなたたちの善なる影響が私たちの魂に響きますように。私たちを熟愛してくれる友達が、私たちのとなりで苦しみを見守り、喜びを分かち合ってくれていることを感じることができますように。

 善なる守護霊よ、私を見捨てないでください。神が私のもとにお送りになる試練を、信心と愛を持って乗り切るために、あなたの全てのご加護が必要です。



   
 悪い霊を遠ざけるために
十五、忌まわしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは杯や皿の外側は清めるが、その中は貪欲と放縦で一杯です。目の見えぬファリサイ人たちよ。まず、杯の内側を清めなさい。そうすれば、外側も清くなります。

 忌まわしいものです。偽善の律法学者、ファリサイ人たちよ。あなたたちは白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れたものでいっぱいなように、あなたたちも、外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ 第二十三章 25-28)



十六、<序文> 悪い霊は、その非道を広めることが出来るような場所を探しているのです。彼らを遠ざけるには、彼らに遠ざかるように頼んだり、あるいは遠ざかるように命令しても足りません。人間が自分で引きつけているものを追放しなければなりません。

肉体の傷ついたところを蠅がかぎつけてくるように、悪い霊は魂の傷を嗅ぎつけてやってきます。

したがって、虫が付くのを防ぐために肉体をきれいにするように、悪い霊を避けるためには、魂の汚れたところをきれいにする必要があるのです。

悪い霊が多くはびこる世界に住んでいると、心の中の善なる特性は彼らに抵抗する力を与えてくれますが、それだけでは悪霊にその試みを諦めさせるのに不十分な場合があります。



十七、<祈り>全能なる神の名において、悪い霊を私から遠ざけてください。善霊が彼らに対する防壁となってくれますように。

 有害な霊は人間に悪い考えを思いつかせます。ずるい霊、うそつきの霊は人間を騙します。人間の信心を利用しおもしろがる、ひやかしの好きな霊よ。私は魂のすべての力を使ってあなたたちを追放します。あなたたちの提案には耳を閉ざします。

しかし、神の慈悲があなたたちにもあることをお願いいたします。

 私を見守ってくれている善霊よ。悪い霊の影響に抵抗することができる力と、彼らのたくらみの犠牲とならないために必要な光をお与えください。自尊心、うぬぼれに陥らないようにしてください。

羨み、嫉妬、憎悪、敵意、慈善に反するあらゆる感情も、私から取り除いてください。そうした感情は悪い霊を迎え入れるために開かれた多くの扉のようなものだからです。 



    
 欠点を治すために
十八、<序文> 私たちの持つ悪い性癖は私たちの霊が不完全な結果であり、私たちの 肉体がもたらすものではありません。もしそうでないとすれば人間はいかなる責任からも逃れることができるはずです。

私たちの進歩は私たち自身にかかっています。なぜなら、さまざまな能力を授かった人間はみな、物事を行うか行わないかを決める自由を持っており、善を行うために不足しているのは本人の意志のみだからです(→第十五章 10、第十九章 12)。



十九、<祈り>ああ、神よ。あなたは私に善と悪を区別するために必要な知性を与えてくれました。それゆえに、あることを悪いと認識した時は、その誘惑に抵抗しようと努力しなかった自分が悪いのです。

 自分の欠点を認識するための妨げとなる自尊心や、欠点を改めずにいつまでも持ち続けさせようと働く悪い霊から私をお守りください。

 不完全である私は、特に「〇〇」に欠けています。それに対して抵抗できないのは、その悪癖に屈してしまう習慣を身につけてしまったからです。神は正義であるが為に、私を罪ある者としてではなく、善にも悪にも同じように適応できるように創造されました。

私が悪の道を進むのは私の自由意志が働いた結果です。しかし悪を行う自由が与えられたのと同じ理由から私は善を行わなければなりません。それにより、私は進む道を変えなければならないのです。


 私が今もっている欠点は、以前の私の人生から持ち続けている不完全性の一部です。それは私の原罪ですが、私の意志と善い霊の助けによって取り除くことができます。

 善霊よ、私をお守りください。とりわけ、私の守護霊には、悪の誘いに抵抗し、悪との戦いにおいて勝利を収めることができる力を与えて頂けますようにお願いいたします。

 私たちの欠点は私たちを神から遠ざける障害です。しかし、改められた欠点の一つ一つは、神のもとに近づくために通らねばならない進歩の小道に記される新たな一歩となります。

 主よ、あなたはその無限なる慈悲によって、私の進歩のためにこの人生を与えて下さいました。善霊よ、この機会を無駄にすることがないよう、この人生を有益なものとすることができるように私を助けてください。そして神が私をこの世から連れ去ろうとなされた時、この世に生まれてきた時よりも進歩して戻って行くことができますように(→第五章 5、第十七章 3)。
  





 誘惑に抵抗する力を求めるために
二十、<序文>どんな悪い思いつきも、その根源として二つ考えられます。それは、私たち自身の霊の不完全性か、私たちの霊に対して働く有害な影響力のいずれかです。しかし後者の場合、

それは私たちが、こうした影響力に対して無防備であるという弱点を示していることになり、やはり私たちの霊が不完全であるということになるのです。したがって、失敗を犯した者は、単に知らない霊の影響を受けたのだと責任逃れすることはできません。 

なぜなら、誘惑に対して屈しない状態であったなら、その霊はその者を悪に導く事はできなかったからです。

 悪い考えを持ったとき、邪悪な霊が私たちに悪をうながしているのだと想像することができますが、それに屈するのも抵抗するのも私たちの完全な自由意志によります。それは、誰かが私たちの目の前に現れ、何かを私たちに頼みに来た時と同じです。

また同時に、私たちの守護霊もしくは保護霊が私たちに及ぼす悪い影響と戦っており、私たちがいかなる選択をするかを心配し、見守っているのだということを思いださねばなりません。悪行に対するためらいとは、善霊が私たちの良心を通じて訴えている声なのです。ある考えがすべての道徳的価値の基礎である慈善から離れると、その考えは悪いのだということを認識することができます。

自尊心、虚栄心、エゴイズムが先行し、それが他人に損害を与えるものであったり、自分にはして欲しくないことを他人にしようとしているのであれば、それは悪い考えなのだということになります(→第十章 10、第二十八章 15)。



二十一、<祈り>全能なる神よ、失敗へ陥らせる誘惑に、私が負けてしまわないようにしてください。

私を守ってくれている慈悲深い霊よ、その悪い考えの矛先を変え、悪の誘いに抵抗する力をお与えください。もし私が抵抗することに失敗してしまったなら、私の過ちに対する報いをこの人生または次の人生において受けます。なぜなら、選択の自由は私に与えられているからです。



   
 誘惑に勝つことが出来た時の感謝の祈り
二十二、<序文>ある誘惑に抵抗できたのは、善霊の助けのおかげです。なぜならその人は、善霊の声を聞きいれることができたから、抵抗することができたのです。神と守護霊に感謝をするべきです。



二十三、<祈り>神よ、悪に対して続けた戦いに、私が勝利を得ることお許しくださいましてありがとうございます。この勝利が、新たなる誘惑に抵抗する力をもたらしてくれますように。

 そして私の守護霊よ、私に助けを与えてくれてありがとうございます。あなたからの助言を受け入れ、新たにあなたの加護を受けることができますように。




 忠告を求めるために
二十四、<序文>あることをすべきか、すべきでないか迷っている時、私たちは何よりもまず、次の疑問を投げかけてみなければなりません。

第一、行動に移すことを躊躇しているそのことは、誰か他人に損害を与えることになるのではないか。
第二、それは誰かのためになることなのか。
第三、もし同じことを誰かが私にしたら、私は満足するのか。

たとえ実行しようとしていることが、自分たちだけにしか関わりがないことだとしても、そのことが自分たちにもたらすことになる利益と不都合を秤にかけてみるべきです。

 もしそのことが他人に関わりがあり、ある人には善をもたらし、別の人には悪をもたらすのであれば、同様にもたらされる善と悪を秤にかけ、実行すべきかやめるべきかを決めるべきです。

 つまり、最善のことをやろうとしている時でさえも、それを行う機会や、それに伴う状況について考慮することが大切です。それは、そのこと自体が善いことであったとしても、間違った者の手によって行われたり、用心深く慎重に行われなかったりすれば悪い結果をもたらすこともあるからです。

そのことを行う前に、それを実行しようとする自分たちの力や実行の手段を検討してみるべきです。

 いかなる場合においても、「迷うのであれば、やめておけ」と言う賢明なる金言を思いだすことによって、私たちの守護霊の助けを求めることができます。 



二十五、<祈り>全能なる神の名において、私を守ってくれている善霊よ、疑いに直面した時には、最善の決定を下すことができますように、感得させてください。私の思考を善の方向へ導き、私を迷わそうとする影響から解放してください(→第二十八章 38) 



 人生の苦悩の時
二十六、<序文>真面目で有益な目的があるのなら、私たちはこの地上における利益を神に願うことができます。

しかし、物事が有益であるかどうかということを、いつも私たちは自分たちだけの、その時点においての視点から見てしまい、求めていることの悪い側面と言うのは必ずしも見えていないものです。

神は、私たちよりずっと良く物事を見ることができ、私たちに有益となることだけを望んでいるので、自分の子どもに害をもたらすものを否定する父親のように、私たちの願いを聞き入れてくれないことがあります。願いが認められなかったからといって、私たちは落胆してはなりません。

その反対に、願い求めたものが奪われたことによって、私たちには試練や償いの機会が与えられたのであり、その報酬は、私たちが耐えぬかねばならないことに対する私たちの甘受の気持ちに応じて受けることができるのだと考えなければなりません(→第二章 5-7、第二十七章 6)


二十七、<祈り>私たちの惨めさを見て、私たちのことを聞いてくださる、慈悲深く全能なる神よ、ここに哀願いたします。もし、私の願いが不合理であれば、私をお赦しください。もし、あなたの目にも正しく映り、同意に値するのであれば、あなたの意志を実行する善霊が、私の願いが叶うように私を助けに来てくれますように。

 いずれにしても、神よ、あなたの意志のとおりになりますように。私の願いが叶わなかったとしても、それは私を試されたあなたの意向であり、私は不平を言うことなく従います。ですから、私が落胆してしまったり、私の信心と甘受の気持ちが揺らいでしまわないようにしてください。(この後に願いを実際に唱える)。  



 願いが叶ったことを感謝して
二十八、<序文>幸いな出来事だけが私たちにとって重要な出来事なのだと思う必要はありません。見かけは小さくとも、私たちの運命にとって大きな影響を及ぼすことがしばしばあります。

人間はすぐに善を忘れてしまい。その人を苦しめることばかりを先に考えがちです。毎日毎日、私たちが頼まないのに受けている恵みと言うものを記録してみれば、多くの者がその数の多さに驚き、またそれらが私たちの記憶から消えてしまっていることを知って、自分が恩知らずであることを恥ずかしく思うことでしょう。

 毎晩、魂を神のもとへと高め、その一日の間に与えてくれた恩恵を思いだし、そのことを感謝しなければなりません。しかし、神の善意と加護の結果を受けた時こそは特に、自然な形で私たちの感謝の気持ちを表さなければなりません。そのために私たちは仕事をしている手を休める必要はなく、その恩恵が神のおかげであるということを考えればよいのです。

神の恵みは物質的なものだけではありません。善い考えや、私たちに勧められる幸いな発想についても、同様に感謝しなければなりません。自尊心の強い者はそれを自分自身の才能であると思い、

神を信じない者は偶然の出来事であると考えますが、信心の強い者はそれを神や善霊のおかげであると感謝します。ですから、長い祈りの文句は必要ないのです。


「神よ、私に善いひらめきを与えて下さり、ありがとうございました」と言う方が、多くの言葉を並べるよりも気持ちが伝わります。私たちに起きた幸いな出来事が神の恩恵によるものだと思う、私たちの自然な心の衝動は、感謝の習慣と慎ましさを証明するもので、善霊の共感を呼ぶことができます。



二十九、<祈り>無限の善意である神よ。私に与えてくださる恵みによって、あなたの名が崇められますように。それらの恵みが偶然であるとか、自分自身の才能によるものだなどと考える者は恥じるべき者たちです。

神の意志を実践する善霊よ、そのうちでも、特に私の守護霊には感謝いたします。受けたものによって私の自尊心が強くなってしまうことが無いように、またそれを善いことだけに利用することができますように。「〇〇」を受けましたことを特に感謝いたします。



 甘受と忍従の気持ち

三十、<序文>苦しみをもたらす出来事が私たちを襲ってきた時、もしその原因を追究するのであれば、しばしばそれは私たちの無謀さや、それ以前の行動における先見の明のなさの結果であることがわかります。その場合の苦しみは自分自身のせいにしなければなりません。

もしある不幸の原因が、私たちの行動とは全く独立したところにあるのであれば、それはその人生における試練であるとか、過去の人生に犯した過ちの報いであると考えることができます。そして、

後者であるなら、私たちは自分の犯した罪と同じよう方法によって罰せられる償いの法則から、私たちの過去の過ちがどのようなものだったのかを推し量ることができます(→第五章 4,6,7)。


 一般に、なにかが私たちを苦しめている時、私たちはその場でおきている悪にしか見えず、その苦しみが未来においてもたらすであろう、好ましい結果までは目に入りません。善とは多くの場合、過去における悪のたまものであり、それは痛ましい手当てを経た結果、病気が回復するのと同じです。

どのような場合でも、耐えた苦しみが自分のためになるようにしたいのであれば、神の意志に従って、人生の苦難に勇気を持って立ち向かわなければなりません。そうすれば、私たちに「苦しむ者は幸いです」と言うキリストの言葉があてはめられることになるでしょう(→第五章 18)。


三十一、<祈り>神よ、あなたは最高の正義です。だから、この世におけるすべての苦しみには、その原因とその必要性があるに違いありません。私が経験している苦しみを過去における過ちの報いとして、また、将来への試練として受け入れます。

 私を守ってくれる善霊よ、悲しむことなく苦しみに耐えることができる力をお与えください。その苦しみを有難い注意としてとらえることができますように。それによって私の経験が増し、自尊心、野心、虚栄心、エゴに打ち克つことができますように。また、それが私の向上のためになりますように。


三十二、<別の祈り>神よ、あなたが送られた試練に耐え抜く力が必要なために、その力が与えられますようお願いします。私の霊の中に必要な理解によって光が輝き、私を救ってくれるために苦しむ愛の広がりを十分に感じ受けることができますように。神よ、私は忍従し、身を捧げます。

しかし、悲しいことに私はとても弱く、神の助けなしには、気力を失ってしまいます。主よ、私を見捨てないでください。神なしに私は何者でもありません。


三十三、<別の祈り>永遠なる神よ、あなたの方を見上げて、元気づけられました。あなたは私の力です。私を見捨てないでください。神よ、私は自分の不正の重さに押しつぶされてしまっているのです。

私を助けてください。あなたは私の肉体の弱さを知っているのですから、私から目を離さないでください。

 私は燃えるようなのどの渇きに苦しんでおります。命の水のほとばしる泉をお与えください。私はそれで渇きを癒します。私の口が、人生の苦悩に対する不満をこぼすためではなく、あなたを賛美する歌を歌うために開きますように。私はひ弱です。しかしあなたの愛が私を支えてくれるのです。

 永遠なる神よ、あなただけが偉大で、あなただけが私の人生の目的であり、行き着くところです。

私を痛めつけるのであっても、それはあなたが私の主人であり、私が不忠実なしもべであるのですから、あなたの名が崇められますように。その時、私は悲しむことなく頭を下げます。なぜなら、あなたは偉大で、あなただけが私たち人生の目指すものであるからです。



    
 切迫した危険を前に
三十四、<序文>  私たちが出逢う危険を通して、神は私たちの弱さや私たちの命のはかなさを、私たちに思いださせます。神は、私たちの命がその手の中にあり、それは私たちが全く予期せぬ時にいつでも切れる可能性のある、一本の糸によってつながれているのだということを示してくれます。

この点に関しては誰も特権を与えられていません。なぜなら大きな者も小さな者も同じ条件に従っているからです。

 ある危険の原因と、そのもたらす結果を分析してみると、殆どの場合、ある失敗や、義務を怠ったことが罰せられるために、そうした危険が生じていることがわかります。


三十五、<祈り>全能なる神よ、私の守護霊よ、私を救って下さい。もし死んでしまわなければならないとしても、神の意志の通りになりますように。もし、救われるのであれば、残された人生の中で、いま後悔している私の悪を改め、さらに犯すであろう悪を改めることができますように。   




 危険から免れることが出来たことを感謝して

三十六、<序文>私たちが遭遇する危険によって、人生と言う労働の精算をするために、私たちはある時突然、神に呼び戻されるのだということを神は示してくれます。それによって神は、私たちが自分を見直し、自己の改善をするよう呼びかけてくれるのです。


三十七、<祈り>神よ、そして守護霊よ、私に危険が襲いかかってきた時、救いの手を差しのべてくれたことを感謝いたします。そこの危険が私にとって警告となり、私が陥りやすい過ちをはっきりと見せてくれますように。主よ、私の命があなたの手中にあり、あなたが認められた時、

私をこの世から呼び戻すのだということを理解しています。私を見守ってくれている善霊を通じ、この世で与えられた残された時間を有益に使うことが出来るような考えをお与えください。

 私の守護霊よ、神が私を呼び戻すことを認められた時、できる限り欠点を減らした上で霊の世界へ到着することができるよう、私の欠点を改め、私にできる全ての善を行おうとする私の決意を支えてください。


   

 
 就寝の時
三十八、<序文>眠りは肉体の休息ですが、霊には休む必要がありません。無感覚になっている間、魂は物質の世界から解放され、霊としての特性を享受します。眠りは、有機的な力と道徳的な力の回復のために人類に与えられているのです。おきている間に活動で失ったものを肉体が取り戻している間、

霊は別の霊とともに元気を回復しに行くのです。眠りの間、霊は見たり、聞いたりして、忠告を与えられますが、それは起きている間に直感的に思いだされるのです。眠りは、真なる母国を追放された人類の一時的な帰国であり、眠る者とは、一時釈放された囚人のようなものなのです。


 しかし不道徳な囚人がそうであるように、霊が必ずしも眠りにより解放の時を、その進歩のために有効に使うわけではありません。その霊が善霊とともにいようとする代わりに、悪い資質を持っているのであれば、その霊と同類の霊を探し、その悪癖を自由に行おうとするのです


 この真実を理解する者は、就寝が近づくとその考えを高めます。善霊の忠告や、善き思い出を抱く人たちの助言を受けるため、与えられた短い時間に彼らと会うことができるようにお願いします。

そうすれば目覚めた時には悪に対してはより強くなり、敵対する者たちに対してはより勇敢になっていることを感じることができるでしょう。



三十九、<祈り>私の魂は短い間、他の霊に会いに行きます。善なる者たたちがその忠告とともに、私を助けに来てくれますように、私の守護霊よ、目覚めた時には、それらの忠告が健全で永続きする印象となって残っていますように。



近い死を感じた時
四十、<序文>生きている間に未来を信じ、未来の運命に目を向け、気落ちを高めることは霊を肉体につなぎとめている絆を弱めることになり、霊がより早く肉体から離れていくことを促します。

そうすることによって肉体がまだ消滅していないうちから、しばしば我慢しきれない魂は広大な無限の空間へ飛び出そうとしてしまいます。

反対に、すべての考えを物質的なものの中に捉える人間にとって、その絆は強固なもので、それを解くのは痛く、苦しく、死後の世界で目を覚ます時、その人に心配と混乱をもたらします。



四十一、<祈り>神よ、私はあなたを信じ、あなたの無限の善意を信じています。だからこそ、人類が将来、無の世界へ戻るために、知性と未来への熱望を人類に与えたのだとは信じられません。

 私の肉体とは私の魂を取り囲む、消滅すべき被いのようなものでしかなく、生きることを終えた時には霊の世界に目覚めるのだということを信じています。

 全能なる神よ、私の魂を私の肉体につなぎ止めている絆が解かれていくのを感じ、後にしようとしている人生と言う労働の清算を、もう少ししたら行わなければならないのだということを感じます。

 私が行った善と悪の行いの結果に耐え、それを受け入れます。向うの世界にはもう幻は存在しません。ごまかしも効きません。私のすべての過去が私の前で展開され、私の行った行為にもとづいて裁かれるのです。

 地上の富は何も持っていくことができません。名誉や富と言った虚栄心を満足させるものや自尊心など、肉体に結びついているものは、すべこの世に残されるのです。どんなに小さな荷物も伴うことはできず、それらのうちのどれもが、霊の世界においては全く役に立ちません。

私は魂に結びついたものだけしか持って行くことができません。それらはつまり、私の善と悪の性質であり、厳正なる正義の秤にかけられるのです。地上で与えられた地位に応じて善を行うことができた機会が多ければ多いほど、善を行わなかったときのことが厳しく審査されるのです(→第十六章 9)。

 慈悲深い神よ、私の後悔があなたのもとまで届きますように。あなたの寛容を私のところまで差しのべてください。

 もし私の生存を延長してくださるのであれば残りの人生は、私の中にある悪も、行って居たかも知れない悪も改めるために捧げます。私の順番がついにやってきたのであれば、新たな試練によって償うことが許され、いつか選ばれた者たちの幸せを得るに値することができるであろうという、慰めの気持ちを持つことにします。

 完全なる正義にしか値しない、一つの汚点もない至福をすぐに得ることができなくとも、それを得る期待は永遠に妨げられるのではなく、働くことによって、遅かれ早かれ、私の努力次第で目的は達成することができるのです。

 善霊や、私の守護霊が私の近くにいて、私を迎えてくれるのだということを知っています。もう少しすれば、彼らが私を見ることができるように、私も彼らを見ることができるようになるでしょう。

私がそれにふさわしいのであれば、地上で愛した者に会うことも出来るでしょう。また、ここに残していく者たちは、いつかある日、私に会いにやってくることができ、永遠にともにいることができるようになるでしょう。それまでは、私がここまで会いに来ることができるでしょう。

 私が攻撃した者たちにも会うことを知っています。私の自尊心、心の堅さ、不公平など、彼らに非難されるべきことを彼らが赦してくれ、彼らとの再会が私をはずかしめることにならないようにしてください。

 地上において私に対し悪を働いたり、悪を望んだりした者を赦します。彼らに対する憎しみはありません。神には彼らが赦されることをお願いいたします。主よ、この地上の重たい喜びを未練なく棄てることができますように力をお与えください。

そのような喜びとは、いまから入ろうとする世界の純粋な喜びとは似ても似つかぬものです。その世界では、正しい者には苦しみ、悲しみ、惨めさは存在しません。罪のある者だけが苦しみますが、その者にも希望が残されるのです。

 善霊よ、また私の守護霊よ、この崇高なる時に、失敗を犯さぬようにしてください。私の信心が揺らいだ時には、さらに強められるよう、神の光の輝きが私の目に入りますように(→第二十八章 77‐84)。



   
 3、他人への祈り 

 
 苦しむ者への祈り

四十二、<序文>苦しむ者にとって、その試練が続くことが望ましいのであれば、私たちの願いによってその試練を短縮させることはできないでしょう。しかし、

私たちの祈りを聞いてもらえるわけがないなどと言い訳をし、苦しむ者を見捨ててしまうのは、慈善の気持ちに欠けていると言えるではないでしょうか。それに、たとえその試練が打ち切られることはなくとも、その人の苦しみを最小限にするために何かしらの慰めを与えることができるはずです。

試練に耐えなければならない者にとって実際に役に立つものとは、勇気と甘受の気持ちであり、それなしには、試練はその人に何ももたらすことが無く、再び同じ試練が与えれることになります。

そのためにこそ私たちは努力し、善霊にお願いをし、忠告や元気づけによって苦しむ者が精神的に回復できるように、また、もし可能であれば、物質的にも援助を受けられるようにするのです。その時、祈りはさらに直接作用し、精神力を強めることになるフルイドの鎖を苦しむ者に与えることができるのです(→第五章 5,27、第二十七章 6,10)。



四十三、<祈り>無限なる善意である神よ、もしそれがあなたの意志に沿うのであれば、「〇〇」の苦しい状態を和らげてあげてください。

 善霊よ、全能なる神の名において、苦しみに対しあなたたちが救援してくれることをお願いいたします。あなたたちから見て、それらの苦しみが短縮されることが可能でないのであれば、それらの苦しみが、苦しむ者の進歩のために必要なのだということを理解させてあげてください。

苦しむ者が神と未来を信じ、苦痛をより弱く感じることができるようにしてあげてください。落胆して苦しみに屈服してしまい、苦しむことがもたらす有益な結果を失ってしまうことによって、同じように未来において再び苦しむことにならないように、力を与えてあげてください。

苦しむ者が勇気を失わずにいることを助けるため、私の思いを苦しむ者のところまで運んで行って下さい。 



 他人に与えられた利益への感謝の祈り
四十四、<序文>エゴイズムによって支配されていない者よ、あなたの隣人に起きた良い出来事を喜んでください。たとえあなたが祈りを通じてそれを願ったのでなかったとしても。


四十五、<祈り>神よ、「〇〇」におきた幸せにより、あなたが崇められますように。善霊よ、その幸せの中に彼が神の善意の力を見つけることができようにしてください。

もし、そのよい出来事が試練であるならば、その出来事が未来において彼の不利益となってしまわないよう、その出来事を正しく利用し、そのことでうぬぼれてはいけないのだということを気づかせてあげてください。

 私を守り、私の幸福を願ってくれている善なる守護霊よ私の心からすべての羨みと嫉妬の気持ちを取り除いてください。
     



 私たちの敵や私たちの不幸を望んでいる者への祈り

四十六、<序文>「敵を愛しなさい」とイエスは言いました。キリストの慈善であるこの金言は崇高です。しかし、それによってイエスは、私たちが味方に対して抱く親しみを私たちの敵に対しても抱かなければならないのだということを、規則として与えようとしたのではありません。

その金言により、イエスは私たちに敵の非道を忘れ、私たちに対して働く悪を赦し、その悪を善によって報いることを勧めているのです。神の目から見たその様な行いの価値だけでなく、人間にとって本当の優越とは何かを示しているのです(→第十二章 3,4)。



四十七、<祈り>神よ、「〇〇」が私に対して行った悪、行おうとした悪をお赦しください。同時に私が犯した過ちを彼が赦してくれますように。もし私の試練として彼を私の前に置かれたのであれば、神の意志とおりにされてください。

 神よ、彼をののしろうとする考えや、彼に対するあらゆる悪意からも私を解放してください。彼に起こる不幸を喜ぶなどと言う、キリスト教徒として恥じるべき考えによって魂を汚すことがないようにしてください。

 主よ、あなたの善意が彼のもとに届き、彼が私に対してより好意的な気持ちを持つことができるようにしてください。

 善霊よ、悪を忘れ、善を思いださせてください。憎悪や復讐心とは、生きていようが、死んでいようが、悪い霊だけに属するものなのですから、どんな憎しみも、どんな怒りも、悪を報いようとする他のどんな悪意も、私の中に忍び込んでこないようにして下さい。

反対に、彼に兄弟愛の手を差しのべ、彼の悪を善によって報い、私の手の届く範囲であれば、彼を助けてあげることができるようにしてください。

 私の発言の誠実さを試すために、彼にとって私が有益となる機会が与えられたことを望みます。しかし、神よ、なによりも、私がそのことで見栄を張ったり、自惚れてしまったり、屈辱的な親切によって彼をけなしてしまい、自分の行動が結んだ実を失うようなことをしないようにしてください。

そのような場合は、「あなたはすでに報いを受け取っています」というキリストの言葉が私にあてはまるのです(→第十三章 1とそれに続く項) 




 私たちの敵に与えられた利益への感謝の祈り
四十八、<序文> あなたたちの敵に対し悪を望まないのと言うことは、慈善の気持ちが半分あるということです。本当の慈善の気持ちとは彼らに対しても善を切望し、彼らに利益がもたらされた時、幸せに感じることです(→第十二章 7,8)



四十九、<祈り>神よ、あなたの正義により、「〇〇」の心を喜びで満たされました。彼が私に対して悪を行ったり、行おうとしたことは考慮に入れず、私はそのことを感謝します。

もし彼がこの良い出来事を、私を侮辱するために利用するならば、私はそれを私の慈善の気持ちに対する試練として受け止めます。 

 私を守ってくれている善霊よ、そのことで私が悲しむことがないようにしてください。私の価値を下げる羨みや嫉妬を取り除いてください。逆に私の価値を高める寛大さを私に与えてください。侮辱は悪の中にあり、善の中にはありません。
遅かれ早かれ、その行いに従って、一人一人がみな正義によって裁かれることを知っています。   



     
 スピリティズムの敵対者への祈り

五十、義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。私のせいで、人々があなたを悪者にし、あなたを迫害し、あなたに対してあらゆる悪口を言うのであれば、あなたたちは幸いです。だから喜びなさい。

 天にはあなたたちへの大きな報いが用意されているのです。あなたたちの前に送られた預言者たちも、同じように迫害されたのです。(マタイ 第五章 6,10‐⒓)
 

 肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません。肉体も魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい。(マタイ 第十章 28)



五十一、<序文>すべての自由の中で、最も冒しにくいものは、良心をも含めた思考の自由です。考えの異なる人に、彼がそのように考えない事柄を押し付けることは、自分のためには思考の自由を求め、

他人にはそれを与えないことになり、それはイエスの第一の戒めである隣人に対する愛と慈善の教えを破ることになります。信念の違いを理由に他人を迫害するということは、それぞれがその理解に従って神を崇め、納得することだけを信じるという、全ての人間が有する最も神聖なる権利を侵害することです。

私たちの外見的な行いだけを他人にまねさせようと迫害することは、私たちが、物事の根柢に存在するものや、確信することよりも、表面的な形を重んじているのを示すことになってしまいます。

強いられた誓いは決して誰にも信仰心を与えることはできず、偽善者を生むだけなのです。そうした行いは物質的な力の濫用であり、真実を証明するものではありません。真実とはそれ自体が自立するものです。真実は、説得しても、迫害することはありません。なぜなら、その必要は無いからです。


 スピリティズムとは一つの見解であり、一つの信仰です。しかし、スピリティズムも一つの宗教でああるならば(→FEB版注3)、カトリックであるとか、ユダヤ教であるとか、プロテスタントであるとか、どの哲学的な教義の党派であるとか、どの経済主義の持ち主であるというのと同じように、

なぜ自分たちはスピリティズム信徒であると主張しないのでしょうか。その信仰は本物なのでしょうか、あるいは偽物なのでしょうか。もし偽物であるならば、人々の知性に光が差した時、自ら消滅していくでしょう。なぜなら、偽りは真実にまさることができないからです。

もし真実であれば、迫害さえもそれを偽りに変えることはできないでしょう。 

 迫害は、偉大で正しく、世界の発展と共に成長し、その重要性を増していくことになる新しい考え方が受ける洗礼なのです。その思想に対して敵対者がどれだけ怒りを覚え、

乱暴な態度を取るかということは、その思想が彼らにもたらす恐れの多さに応じているのです。

それが大昔、キリスト教が迫害され、今日スピリティズムが迫害される理由です。しかし、その違いはキリスト教が異教徒たちに迫害されたのに対し、スピリティズムはキリスト教徒たちによって迫害されていることです。もちろん流血の迫害の時代は終わりました。

したがって、もはや肉体を殺すことはありませんが、その代り魂を痛めつけ、最も大切な愛情を壊すことにより心の奥底の感情を傷つけるのです。家族の崩壊をもたらし、母親を娘に対して怒らせ、妻を夫に敵対させます。肉体に対しても攻撃をします。

物質的な欠乏を悪化させ、信じる者を飢えによって減らすために、生計を奪うのです(→第二十三章 9-18)。

 スピリティストたちよ、あなたたちを襲う攻撃に苦しんではなりません。それらの攻撃は、あなたたちが真実とともにあることを証明しているのです。

もしそうでないのであれば、彼らはあなたたちをそっとしておき、迫害することなどない筈です。迫害はあなたの信仰に対する試練です。あなたにそうした試練を乗り越える勇気、甘受の気持ち、忍耐があるならば、神はあなたを多くの忠実なる信徒の一人として認めることでしょう。

一人一人のために残されたものを、その行いに応じて与えようと、神は今日もそのような者たちを頼りにしているのです。
 

 
 最初のキリスト教徒たちが模範を示したとおり、自分の十字架を誇りをもって担いでください。「義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」「肉体は殺せても、魂を殺すことのできない者を恐れてはなりません」と言ったキリストの言葉を信じてください。

キリストはまた、「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい」とも言いました。キリストが教え、行ったことを自分たちにも行うことによって、自分たちは真なる使徒であり、自分たちの教義が善いものであることを示してください。

 迫害は長続きしません、夜明けがやってくる時を、忍耐強く待つのです。地平線の向こうには明けの明星がもう輝いているのですから(→第二十四章 13とそれに続く項)。



五十二、<祈り>神よ、あなたたちは救世主であるイエスの言葉を通じ、「義のために迫害されてきた者は幸いです。敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい」と言いました。

そして、イエス自身も死刑の執行人のために祈ることによって、その模範を示しました。

 神よ、この模範に沿って、この世界ともう一つの世界において、平和をもたらすことができる、唯一の神聖なる規律を軽んじる人々に対し、あなたの慈悲を嘆願いたします。キリストのように、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちが何をしているのかわからないのです」と私たちも申し上げます。

 私たちの信仰心と慎ましさが受ける試練である、あざけり、侮辱、中傷、迫害を辛抱と甘受の気持ちをもって耐える力を私たちにお与えください。また、どんな仕返しの気持ちからも私たちが免れることができますように、なぜなら、すべての者に神の正義が響く時が到来することを知っているからです。

その時を、私たちはあなたの聖なる意志に従いながら待ち望んでおります。




 生まれたばかりの子供への祈り

五十三、<序文>霊は、肉体が与えられた生活における試練をくぐり抜けなければ、完成することはありません。幽界にいる霊は、与えられる苦しみを通じて自分の犯した過ちを償ったり、人間に利益をもたらす任務を遂行したり、進歩する方法を備えた人生が再び与えられることを神が許してくれるのを待ち望んでいるのです。

人間の進歩の度合いと未来における幸せは、地上にいる時間をどう利用したかによって決まります。

従って地上で有意義な時間を過ごせるように人間が最初の一歩を踏み出すのを助け、善の方向へ向かうように導いてあげることは、その者の父母の役割であり、父母たちは任された任務をどれだけ成し遂げたかを、神の前で答えることになります。

神は父の愛、子の愛を自然の法としたのであり、その法を破る者は必ず罰せられることになるのです。



五十四、<祈りー父母によって唱えられる祈り>私たちの子どもの肉体に生まれてきた霊を、私たちは喜んで迎えます。全能なる神よ、私たちが授かった子どもにより、あなたが崇められますように。

 この子どもは私たちに託された預金のようなものであり、その精算を何時かしなければなりません。もしこの子どもが地上に新しい世代の霊に属する霊であるならば、神よ、その恵みに感謝いたします。

その子どもが不完全な霊であるならば、その霊が善へ向かって進歩していくのを、忠告や模範によって助けてあげることは私たちの役割です。私たちのせいで、もし悪の道へ落ちてしまったなら、その子どもとともにあった私たちの任務の遂行を失敗したことになってしまいます。

 主よ、私たちの任務の遂行にあたり、私たちをお守りください。また、その任務を達成ししようという気力と意志を私たちにお与えください。もしこの子どもが、私たちの霊にとって試練として生まれてきたのであれば、神の意志のとおりとなりますように。

誕生の時からこの子どもを指導し、その生涯をともにする善霊よ、この子どもをどうか見捨てないでください。この子どもを悪へ導こうとする悪い霊を遠ざけてください。悪い誘いに抵抗する力と勇気と、地上に待ち受ける試練に耐える忍耐力と甘受の気持ちを、この子どもに与えて下さい(→第十四章 9)



五十五、<別の祈り>あなたに属する霊のうちの一人を私の運命に託してくれた神よ、私が課された役割に応えることができますように。あなたのご加護をお与えください。

あなたの穏やかさを子供の中に灯すために、私が準備しなければならないことを早いうちから感知することができますよう、私の知性に光をお与えください。



五十六、<別の祈り>善なる神よ、この子どもの霊を再び地上の試練に立ち向かわせることを認められたのは、その霊の進歩のためなのでしょう。神を知り、神を愛し、神を崇めることできますように、その霊に光をお与えください。

全能なるあなたの力によって、その魂があなたの博識なる指導の泉の中で更生していくことができるようにしてください。守護霊の保護のもとにその知性が広がり、発達することによってその霊をよりあなたのもとへ近づけてくれますように。スピリティズムの知識が輝く光となり、

人生の危機においてもその霊を照らしますように。最終的には、私たちの浄化のために私たちに試練を与えてくれる神より広がる、すべての愛を感じ取ることができますように。

 主よ、その魂を託された家族に対し、子を守る父の眼差しを向けてください。その家族が課された任務の重要性を学び、その子どもの中に善なる種が芽生え、いつの日か自ら望み、自分だけであなたのもとまでたどり着くことができますように。

 おお、神よ。「子どもたちを私のもとへ来させなさい。神の国は、このような者たちのものです」と言われた方の御心にかなうのであれば、その名においてこの慎ましい祈りをどうか聞き入れて下さい。



 危篤状態にある者への祈り
五十七、<序文>危篤は、魂と肉体の離脱の序章です。この時人間は、一方の足でこの世を、もう一方の足でもう一つの世界を踏んでいるのだということができるでしょう。物質への執着が非常に強く、

もう一方の世界のものよりもこの世の富のために生きた者や、良心が後悔や苦悩に動揺している者にとって、この時間は非常に苦しいものです。一方で、物質への執着が弱く、神を求めながら生きた者にとっては、彼らを地上につなぎ止める綱はより容易に解かれ、最期の時に苦痛を与えるものは何もありません。

そのような場合においては、魂と肉体とをつなぐものはたった一本の綱なのです。しかし、もう一方の場合においては、その綱以外に深く生えた根が魂を肉体に縛り付けているのです。いずれにせよ、危篤の時、祈りは魂が肉体から離脱する上で大きな働きをします(→『天国と地獄』第二部 第一章「死」)



五十八、<祈り>全能で慈悲深い神よ、ここに、いまにも地上でのまといを脱ぎ去り、その本当の故郷である霊の世界へ戻ろうとしている魂がおります。その魂を平穏にするものが与えられ、あなたの慈悲が差しのべられますように。

 地上で生活する間付き添ってくれた善霊よ、この究極の瞬間にその魂をどうか見放さないでください。未来におけるこの魂の進歩のために、この地上で体験すべき最期の苦しみに耐える力を与えてあげてください。残された知性や、またやってくる知性の最期のきらめきを、その魂が自分の犯した過ちの後悔に捧げるように導いてください。

 私の思いが、その魂の肉体からの離脱をより楽にし、その魂が地上を後にする時、その魂に取って希望に満ちた慰めとなることができるようにしてください。



     
 4、霊への祈り 
 死後間もない人への祈り

五十九、<序文>地上を後にしたばかりの霊へ向けられた祈りの目的は、彼らに対する親しみを示すことだけではありません。霊が肉体から解放されるのを助け、それによって、肉体からの魂の離脱の時にはつきものである混乱を小さくし、霊の世界への目覚めをより安らかにするものです。

 しかし、他のいかなる場合でもそうであるように、その祈りの効力というのは思いの誠実さの中にあるのであり、盛大に唱えられてもしばしば心の込められていない言葉の数が効力を与えるのではありません。

 心から放たれた祈りは、眠りから起こしてくれる優しい友の声のように、まだ混乱した状態にある霊の周りに響きわたるのです(→第二十七章 10)


六十、<祈り>全能なる神よ、たったいま、地上よりあなたに呼び戻された「〇〇」の魂に、あなたの慈悲が注がれますように。その魂がこの地上で苦しみ、耐えた試練が、霊界において受けるべき罰を和らげたり、短縮させたりする要因として考慮されますように。

その魂を迎えにきた善霊よ、その中でも特にその守護霊よ。その魂が物質を捨てることを手伝ってあげてください。肉体の生活から霊の世界への移行に伴う混乱から早く抜け出すことができるように、その魂に光と自分自身の自覚をお与えて下さい。永遠なる至福の世界へ向かって行く速度を速めるために、

その魂に自分の犯した過ちに対する後悔の気持ちと、それを改める許しを得ようとする意欲をお与えください。

 霊の世界へ入って行ったばかりの「〇〇」よ、それでもあなたはここにこうして私たちの間に存在しているのです。あなたには私たちを見て、聞くことができるのですから、あなたと私たちの違いは、あなたは間もなく灰となってしまう消滅すべき肉体を失ったということだけなのです。

 あなたは、苦しみの原因となったり、死すべき運命にある重いまといを脱ぎ捨てて、苦痛から解放された、消滅することのないエーテル状のまといだけに包まれているのです。

あなたはもう肉体によって生きているのではないのです。霊の生活をしているのであり、その生活に人類を苦しめる悲惨なものは存在しないのです。

 私たちの目の前にある死後の世界の輝きを覆い隠すベールはもうあなたの目の前にはないのです。
これからは、私たちが暗闇に居続ける間、あなたは新たな素晴らしい世界を眺めることになるのです。

自由に宇宙を駆け巡り、さまざまな世界を訪れなさい。その間、私たちは重い鎧のような肉体の中に閉じ込められたまま、地上を苦しそうに這いまわっているのです。

 あなたの前には無限の展望が広がっているのです。その広大さを前にすれば、私たちが地上で抱く欲望や、世俗的な野心、人類が好む不毛な喜びなどというものの空しさを知ることができるでしょう。


 人類にとって死とは、ほんのわずかな間に行う物質からの離脱に過ぎないのです。神の意志と、この世で遂げなければならない義務を守り続けながら生きる為に送られてきたこの場所より、あなたが先に逝った者たちと再会したように、私たちもあなたと再会する許しが得られる時まで、私たちは思いによってあなたのお供をいたします。

 私たちはあなたに会いに行くことはできませんが、あなたは私たちのもとまで来ることができるのです。だから、あなたが愛する者、あなたを愛してくれている者のもとへ来て、人生の試練においてそうした者たちを支えてあげてください。あなたにとって大切な人を守ってあげてください。

あなたのできる範囲において彼らを保護してあげてください。いまのあなたが以前よりも幸せだということや、いつかある日、善い世界においてみなで再会できるのだという慰安となる確信を、彼らの心の中に感じさせることにより、彼らの悲しみを和らげてあげてください。

 あなたがいるその世界では、悪感情も失わなければなりません。あなたの未来の幸せのために、今度はそうした感情から身を遠ざけてください。だから、あなたが悪を働いた者たちがあなたを赦してあげてください。


備考>どのような祈りにも当てはまりますが、家庭や人間関係の特別な状況や、死去した者のおかれた立場に応じて、この祈りに特別な言葉をつけ加えてもかまいません。

死去したものが子供であったとしても、その霊は生まれて間もない霊なのではなく、すでに長い間生きてきた、より進歩した霊であり得るとスピリティズムは教えてくれています。地上における最後の生命が短かったとして、それはその子の試練を補うもの、もしくは、その子の親のための試練であるに過ぎません。


六十一、<別の祈り>全能なる主よ、地上を後にする私たちの兄弟にあなたの慈悲が行きわたりますように。あなたの光が兄弟の目に映り輝きますように。

彼らを暗闇から遠ざけてください。彼らの目と耳を開かせてあげてください。あなたに従う善霊が彼らをとりまき、平和と希望の言葉を聞きいれるようにすることができますように。

 主よ、私たちはそれに値しないかもしれませんが、追放された土地より呼び戻された私たちの兄弟のために、あなたの慈悲深い寛容をあえてお願いいたします。彼の帰還が、放蕩息子の帰宅と同じように迎えられますように。

神よ、彼が行うことのできた善を思いだすことによって、彼の犯した過ちが忘れ去られますように。

あなたの正義は不変だということを私たちは知っています。しかし、あなたの愛は偉大です。あなたの胸から湧き出る善意の泉によって、あなたの正義が優しくなりますようお願いいたします。

 地上を後にする兄弟よ、あなたの目に光が灯りますように。あなたとともにある善霊が、あなたを地上につなぎとめる鎖をちぎるのを手伝うために、あなたの近づき、寄り添ってくれますように。私たちの主の偉大さを見て、理解することができますように。不平を言うことなく、神の正義に従い、

しかし、神の慈悲に対して、決して落胆することがないようにして下さい。兄弟よ、あなたが真剣に過去を見つめ、後に残してきた過ちとあなたに遂行することが任された過ちを改めるための仕事に気づくことが、未来の扉を開くことになるのです。

神があなたを赦し、善霊があなたを支え、元気づけてくれますように、あなたのために地上の兄弟が祈り、また彼らのためにあなたも祈ってくれることを願っています。

<備考>ある知らない人の棺が家の前を通った時、ボルドーに住むある霊媒にこの祈りが伝えられた。




 私たちが愛情を抱いていた人への祈り

六十二、<序文>恐ろしいものは「無」の概念です。真空の中に全てが失われてしまい、友だちのことを思って泣いてくれる声も返答の声もこだましないと信じている人の何と憐れなことでしょう。全てが肉体とともに死んでしまうと考える人は、純粋で聖なる愛情をとても知ることはできません。

そのような考え方のもとでは、広い知性によって世界で啓発した賢人も、物質が組み合わさって形成されたものに過ぎず、一吹きで永遠になくなってしまうのです。最も優しい人や、父、母、愛する息子もいやおうなく風に吹かれて散り散りになってしまう塵に過ぎないということになってしまいます。

 心を持った人間が、このような考え方を冷静に受け止めるることができるでしょうか。絶対的な消滅という考えに人は、その恐ろしさに心を凍りつかせ、少なくとも、そうあって欲しくないと考えるのではないでしょうか。

あなたの霊が感じているあらゆる疑いを晴らすための答えが、まだ足りないと思うのであれば、スピリティズムが魂の存続や死後の存在を明らかにする物理的な証拠を通じて、未来に関するあらゆる疑問を晴らしてくれます。余りにも明らかであるため、そうした証拠は大きな喜びをもって受け止められます。

そしてそれ以降、地上における生活はより良い生活へと導く通り道でしかないのだということを知って、再び信じることができるようになります。地上における労働は無駄にはならず、聖なる愛情はどんな希望も引き裂くことができないのです(→第四章 18、第五章 21)。



六十三、<祈り>神よ、「〇〇」の霊のために私が送る祈りを、どうか慈悲深く受け入れてください。

永遠の幸福への道を歩むことが容易になるよう、神の灯りを彼に見せてあげてください。善霊が私の言葉と私の思いを彼のもとへ伝えてくれることをお許しください。

 地上に居る間、あなたは私にとって大変大切な存在でした。私の愛情の新たな証を捧げるために、あなたを呼んでいる私の声を聞いてください。神は私よりも先にあなたを自由にされましたが、そのことを前に、私は利己的になれず、不平を言うことはできません。

なぜなら、さもなければ、あなたにもっと地上の苦しみや罰を受けさせることを望むことになってしまうからです。ですから先にあなたが行ってしまったより幸せな世界で私たちが再び一緒になる時を、甘受して待ちます。

 私たちの別離は一時的なもので、それがどんなに私にとって長く感じられようと、神によって選ばれたものに約束された永遠の幸せの時に較べればその時間はなきに等しいのです。

あなたの善意により、熱望されるときの到来を私が遅らすようなことをしないように、また、私が地上の牢から解放された時、あなたに会えない苦しみを味わうことが無いようにしてください。

 おお。あなたと私の間には、あなたを私の目には見えなくしている物質的なベールが存在しているだけで、あなたは私の横に来ることができ、昔からそうであるように私を見、私の声を聞くことができ、私があなたを忘れないのと同じようにあなたも私のことを忘れず、私たちの心がいつも行き交い、

あなたの思考はいつも私について来てくれ、私を助けてくれるということを確信することは、何と甘く、何と心をなごませてくれることでしょうか。神の安らぎがあなたとともにありますように。


 

祈りを求める苦しむ魂への祈り

六十四、<序文>
  祈りが苦しむ霊をどれほど楽にするかを理解するにはすでに説明した通り、祈りが霊に対してどのように作用するのかを知る必要があります(→第二十七章 9、18-23)。その真実をより深く認識している者は、無駄に祈っているのではないという確信から、より献身的に祈ることができます。    


六十五、<祈り>寛大で、慈悲深い神よ、私たちの祈りを求める全ての霊、特に、「〇〇」のもとまで、あなたの善意が行き届きますように。

 善を行うことのみに従事している善霊よ、私とともに彼らを楽にするための仲立ちとなってください。彼らの目の前に希望の光が輝き、彼らを至福の家から遠ざけている彼らの不完全性を、神の光が明るく照らしてくれるようにしてください。彼らの進歩の速度を速めるために、

後悔と浄化しようとする意欲によって彼らが心を開くようにしてください。彼らの努力によって試練の時間は短縮されるのだということを、彼らに理解させてあげてください。

 神がその善意により、彼らに善い決意を保ち続ける力を与えてくれますように。

 慈悲を思いださせるこれらの言葉が彼らへの罰を和らげ、彼らの幸せを望み、同情する者が地上にいるのだということが、彼らに示されますように。


六十六、<別の祈り>神よ、あなたの愛と慈悲の恵みを、宇宙にさまよう霊の間にも、私たち人間の間にも、あらゆる苦しみを持つすべての者にちりばめてください。私たちの弱さを憐れんでください。

あなたは私たちを間違いを犯しやすく創られましたが、同時に悪に抵抗し、克服する能力を与えてくれました。悪への傾向に抵抗しきれず、また悪の道を進んでいる者すべてにあなたの慈悲が行き届きますように。善霊が彼らを取り囲みますように。あなたの光が彼らの目に映り、

その光の生き生きとした温かさに引かれ、あなたの足元までやって来て、謙遜、後悔、服従の念にひれ伏すことができますように。

 慈悲の父よ、地上での試練においてそれに耐える力が十分でなかった私たち兄弟たちのために、同じことをお願いいたします。神よ、あなたは私たちに荷を負わせましたが、それはあなたの前でしか下してはいけないものです。しかし、私たちは弱く、旅の中でしばしば勇気を欠いてしまいます。

決められた時を待たずに仕事を放棄してしまった怠惰なしもべたちに同情してください。あなたの正義が彼らをいたわり、善霊が彼らに安らぎ、慰安、未来への希望をもたらすことを許してくれますように。赦されるであろうという兆しは、魂を補強してくれます。

神よ、途方に暮れた罪ある者たちにその兆しを見せてあげてください。その希望に支えられ、その過ちと苦しみの大きさと同じだけの大きな力を吸い込み、過去を償い、未来への準備をすることができますように。



 他界した敵への祈り
六十七、<序文>私たちの敵に対する慈善の行いは、その敵が他界した後も続けなければなりません。

彼らが私たちに対して行ってきた悪は、私たちにとっての試練であって、それを有益に利用するとが出来ていたなら、私たちの進歩にとって良い機会であったはずです。

私たちに勇気、甘受の気持ち、慈善、攻撃を忘れる気持ちを手に入れさせてくれたように、単なる物質的な苦しみよりも、もっと有効な試練であったのかもしれません(→第十章 6、第十二章 5,6)



六十八、<祈り>主よ、「〇〇」の魂を私より先に呼ばれたのは、あなたの満足によるものです。彼が私に対して行った悪や、彼が私に抱いていた私に対する悪意をお赦しください。この世の幻想に惑わされなくなったいま、彼がそれらのことを後悔することができますように。

 神よ、あなたの慈悲が彼の上にもくだり、彼の死を喜ぶ気持ちを私から遠ざけてください。もし、私が彼に対して過ちを犯してしまったら、私も彼が私に対して犯した過ちを忘れるように、どうかお赦しください。



      
 犯罪者への祈り
六十九、<序文>もし、祈りの効果がその長さに応じて変わるのであったなら、清く生きた者よりも罪の重い者の方が祈りを必要としているのですから、長い祈りは、より罪の重い者のためにとっておかなければならないはずです。

犯罪者への祈りを拒否することは慈善の欠如であり、神の慈悲を忘れていることになります。ある罪を犯したからと言って、犯罪者を無益な者と決めつけることは、神の正義を勝手に判断していることになります。



七十、<祈り>主よ、慈悲なる神よ、たった今地上を後にしたこの犯罪者の受け入れをどうか拒まないでください。人間の正義は彼を罰しましたが、彼の心の中に後悔の念が浸透していないのであれば、あなたの罰から免れることはできません。

 彼の罪の深さを見えなくしている目隠しを、彼の目から外してあげてください。後悔することによって、あなたの偉大なる保護を受け、その魂が苦しみの緩和に値することができますように。

私たちの祈りや善霊のとりなしが、彼に希望と慰安をもたらしますように。彼の悪行を新たな人生の中で改めようとする望みを抱かせ、辛抱しなければならない新しい戦いに負けてしまわないように、彼に力を与えて下さい。

 主よ、彼にあなたの慈悲をお与えください。




 自殺者への祈り
七十一、<序文>人類には決して自分の生命を放棄する権利はありません。神のみに、適当であると判断された時、地上の牢から人を連れだすことが許されているのです。神の正義は、状況に応じてその厳格さが緩和されることもありますが、人生の試練から逃れようとした者に対する厳しさは保たれます。

自殺者は、刑期を終えることなく、牢から抜け出した囚人のようなものです。再び捕らえられた時には、より厳しく罰せられます。現世の惨めさから逃れようと決断し、より大きな不幸にはまってしまう自殺者にも、同じことが当てはまります(→第五章 14とそれに続く項)。



七十二、<祈り>神よ、自分から生命の日数を短縮し、あなたの法を破った者を待ち受ける運命がどのようなものであるのかを私たちは知っています。しかし、あなたの慈悲は無限であることも知っています。どうか「〇〇」の魂にあなたの慈悲を差しのべて下さい。

試練が終結するまで待つための勇気が欠如したため、いま彼が経験している苦しみの辛辣さが、私たちの祈りと神の憐れみによって和らげられますように。

 不幸な者を救援する任務を負った善霊よ、彼をあなたの保護のもとに置いてください。彼の犯した罪の重さを感じさせてあげてください。あなたの救援によって、彼の過ちを改めるために立ち向かわねばならない新たなる試練を甘受し、耐える力が与えられますように。

再び彼に悪を強要し、苦しみを長引かせることによって、未来における償いの結果を失わせることになる悪い霊を、彼の側から遠ざけてください。

 私たちの祈りを誘った不幸の持ち主であるあなたにも、あなたの苦悩を短縮させる私たちの同情をあなたが願い、よりよい未来への希望を自分の中に見出すことができるように祈ります。神はあなたの手の中に存在します。神の善意を信じてください。

神の胸は固くなった心に対しては閉ざし続けますが、すべての後悔に対しては開かれます。    



 後悔する霊への祈り
七十三、<序文>祈りを求める苦しむ霊や後悔する霊を、悪い霊の範疇に入れてしまうのは正しいことではありません。

彼らは悪い行いをしたかもしれませんが、自分の過ちを知り、嘆き悲しんでいるのですから、もう悪くはないのです。彼らは不幸なだけなのです。そのように自覚する者たちは、遠からずして相対的な幸せを感じはじめることができるようになります。



七十四、<祈り>生きる者、他界した者を問わず、罪を犯した者の誠実な後悔を聞きいれてくれる慈悲深い神よ、今までは悪に喜びを感じていたものの、これまでの自分の過ちに気づき、善の道に向かおうとしている霊がここにいます。神よ、どうか放蕩息子のように受け入れ、赦してあげてください。

 彼はいままで善霊の声を聞きいれようとはしませんでしたが、いまでは聞こうとしています。

神によって選ばれた者の幸せに届くまで、浄化しようという意欲を持ち続けることができるように、そうした幸せを垣間見ることができるようにしてあげてください。彼の善き決断を支え、悪癖に抵抗する力を与えてあげて下さい。  

「〇〇」の霊よ、あなたのうちなる変化を祝福し、あなたを助けてくれた善霊に感謝します。

 以前、悪に喜びを感じていたのは、善を行うことの喜びの気持ち良さを知らなかったからであり、また、その喜びを得ることを望むには自分は低すぎると感じていたからです。しかし、善の道に一歩踏み出した時から、あなたの目に新しい光が輝いています。

あなたの心の中に入ったいままで知らなかった幸せと希望を享受し始めたのです。神は後悔する罪人の声を必ず聞きいれてくれます。神を求める者の誰をも拒否することはありません。

 神の恵みの中に再び完全に入るためには、今後悪を働かないだけではなく、善を行うことに務め、なによりも、行ってきた悪を償わなければなりません。そうすれば神の正義にかなうことになります。一つ一つの善い行いが過去の過ちを消していくことになります。

 すでに第一歩を踏み出しているのです。これからは道を進めば進むほど、その道はやさしく、楽しくなるでしょう。だから、根気よく続けてください。いつか善霊や幸福を享受する者の一人として教えられる栄光を得る日が来るでしょう。



 強情な霊への祈り
七十五、<序文>悪い霊とは、いまだに後悔することを知らない霊のことです。彼らは悪を楽しみ、それによって何ら苦悩を感じることがないのです。強いとがめに対しても鈍感で、祈りを拒否し、多くの場合、神の名を汚します。

強情になってしまったこのような霊は死後、生きていた間に我慢した苦しみの復讐を人間に対して行おうと、生きている間に自分に対して悪を働いた者を、憑依によって、または、あらゆる有害な影響を与えることによって、憎み、つきまといます(→第十章 6、第十二章 5,6)。

 不道徳な霊は、二つの分類に明確に区別することができます。単に悪い者と偽善的なものといった分け方です。善に導くのは後者より、前者の方が限りなく容易です。前者に分類される者は、人間の場合がそうであるように、殆どの場合、荒々しく野蛮な性格をしています。

計算してというよりも、本能的に悪を行いますが、自分のある状態を越えようとはしません。しかし、彼らの中には、潜在的にいずれ発芽する必要のある種子が存在しており、それはほとんどの場合、忍耐と慈悲と結びついた固い意志や、忠告、理性、祈りによって発芽させることが可能となります。

霊媒力を通じて彼らが示す神の名を書くことの難しさは、本質的な恐れのしるしであり、彼らの内なる本心が神の名を書かせようとしないのです。

その点において、彼らは自分を変えることができ、私たちも彼らに対してあらゆる希望を抱くことができるのです。彼らの心の弱点を見出すことさえできればよいのです。

 偽善的な霊はほとんどの場合、知性的ですが、心の中にはほんの僅かな感受性さえ持っていません。

なにも彼らを感動させることはできません。信用を得るためにあらゆる良い情燥をまね、自分たちを神聖な霊だと思い込んでしまう愚かな者に出会うと喜び、そうした者を好きなように支配するようになります。

神の名は、彼らに恐れを感じさせるにはほど遠く、逆に自分たちの醜行を隠すための仮面としてそれを使います。目に見えない世界では、目に見える世界と同じように、偽善者は、誰にもそれを疑わせることなく闇の中で行動するので、最も危険な存在です。見せかけだけの信仰を持ち、誠実な信仰を決して持つことはありません。



七十六、<祈り>主よ、いまだ無知の闇の中にあり、自分を見失っている不完全な霊、特に「〇〇」の霊をあなたの善意にあふれる眼差しで見てあげてください。

 善霊よ、人間を悪に導き、憑依によって苦しめることは、自分の苦しみを長引かせるということになるのだということを彼に理解させるために、私たちを助けてください。あなたが感じている幸せの例が、彼に取って勇気づけとなるようにして下さい。

 いまだに悪に喜びを感じている霊よ、あなたのために捧げる祈りを聞きに来てください。その祈りは、あなたが悪を働こうと、私たちがあなたのための善を望んでいることの証です。

 悪を行い続けながら幸せになることはできないのですから、あなたは哀れです。その苦しみを避けることがあなた自身にかかっているのに、なぜあなたは苦しみの中にとどまろうとするのですか。あなたを取り囲む善霊を見て下さい。彼らは何と幸せそうなことでしょう。

あなたも同じ幸せを享受することができたら素晴らしいではありませんか。

 あなたは、それは不可能だというかも知れません。しかし、望む者にとって不可能なことは何もなく、神は、すべての被造物にそうしたように、あなたにも善と悪、つまり幸せと不幸のどちらかを選ぶ自由を与えたのであり、誰も悪を働くことを強いられているのではありません。

悪を働こうとする意志があると同時に、善をしようとする意志を抱き、幸せを得ることが可能なのです。

 あなたの目を神の方向へ向けてください。神の方へあなたの心を一時運べば、神の光はあなたを照らしてくれるでしょう。私たちとともに次の簡単な言葉を唱えてください。

「神よ、私は後悔しています。私をお赦しください」。自分を省み、悪を行う代わりに、善を行おうとすれば、すぐに神の慈悲があなたにも注がれ、語りようのない良い気分が、あなたの体験している苦痛にとって変るでしょう。

 善の道を歩み始めることさえできれば、残りを歩み続けるのはあなたにとって容易なことでしょう。そうすれば、幸せな時を自分のせいでどれだけ逃がしてきたかを知ることができるでしょう。

しかし、希望に満ち溢れた広大な未来があなたの前に開け、あなたの惨めな過去のことは忘れさせてくれるでしょう。混乱と道徳的な拷問がもし永遠に続くとすれば、それはあなたにとって地獄にいるのと同じことです。どんなに高く支払ってでも、その拷問を止めさせたいと思う日がやってくるでしょう。

しかし、その日が遅くなればなるほど、止めさせることは難しくなります。  

 今いる状態に永久にいる等と信じてはいけません。そのようなことはあり得ないことです。あなたの前には二つの見通しがあります。今まで苦しんできたよりもさらにずっと苦しむ見通しと、あなたを取り囲んでいる善霊と同じように幸せになるという見通しです。

一つの見通しは、あなたが強情を張り続けるのであれば避けることはできませんが、あなたの小さい努力の意志さえあれば、あなたがいる苦しい状態から抜け出すことができるでしょう。一日遅れることは、あなたの幸せを一日逃すことになるのですから、急ぐことです。

 善霊よ、こうした言葉が、このいまだに遅れている魂にこだまし、神に近づくための助けとなるようにして下さい。イエスキリストの名において、悪い霊に対し、偉大なる力を与えて下さいますようお願いいたします。




      
 5、病人、憑依に悩まされる者への祈り

  
 病人への祈り
七十七、<序文>病気は地上における試練や苦しみの一部です。私たちの物質的な特徴である粗悪さや、私たちの住む世界の劣等に固有のものです。行き過ぎた情熱やあらゆるものの過剰は、私たち身体の組織の中に不健全な状態をつくりだしますが、それは時々遺伝によって伝えられます。

物質的にも道徳的にもより進んだ世界では、人間の組織はより浄化され、より非物質的で私たちと同じような病気にはかからず、感情の荒廃によって、身体が知らないうちに浸食されて行くようなことはありません(→第三章 9)。ですから、私たちの劣等が、置かれた環境から来る結果に苦しむことを別の世界へ移されるまでは、甘受することが必要です。

だからといって、そのことは、私たちが現状を改善しようとして戦うことの妨げとなってはなりません。しかし、私たちの努力にもかかわらず、改善することができない時、甘受を持って一時的に悪に耐えることを、スピリティズムは私たちに教えてくれています。

 私たちの身体の苦しみが和らぎ、治癒されることを、神が望まなかったのであれば、私たちの手の届くところに治療の手段を与えはしません。神の配慮は、私たちの保護本能として示されており、私たちの義務とは治療の方法を探し、その方法を応用することであるということを示しています。

 科学によって作り上げられた普通の薬による治療の他に、磁力の発見はフルイドの作用の力を教えてくれ、その後、スピリティズムはもう一つ別の力である祈りの作用による治療の力を、霊媒力を通じて教えてくれました(→第二十六章 10「治療霊媒の話」)。



七十八、<祈りー病人が唱える祈り>主よ、あなたはすべての正義であり、私はそれに値したがために、あなたは私が病気になることを許しました。なぜなら、動機なしには神は人を苦しめることはないからです。しかしながら、あなたの慈悲のもとに、私は自らを治療しようとします。

あなたの気に添うことであれば、どうか私の健康を回復させてください。私はあなたに感謝いたします。もしその反対に、私は苦しみ続けなければいけないとしても、同じようにあなたに感謝いたします。あなたが行うすべての目的は、あなたの創造物のために善でしかないのですから、不平を言うことなく、神の定めに従います。

おお、神よこの病気が私にとって有益な注意となり、私が自分自身を試そうとするようになりますように。病気を過去の報いとして、また、私の信仰とあなたの聖なる意志への服従のための試練として受けとめます(→第二十八章 40,41)。



七十九、<祈りー病人への祈り>神よ、あなたの意志は計り知れません。あなたはその叡智により、「〇〇」に病を送りました。彼を同情によって見守り、彼の苦しみを終わらせてあげてください。

 全能なる神の使いである善霊よ、彼を楽にしてあげたいという私の望みを支持してくれることを、私はあなたにお願いいたします。私の思いが、彼の身体に有益な慰安の芳香油のように、また彼の魂に慰めとして注がれるようにしてください。

 彼に忍耐と神への服従を感じさせてください。キリスト教徒の甘受の気持ちによって、痛みに耐える力を与え、いま起きているこの試練の結果を無駄にすることがないようにして下さい(→第二十八章   57)。



八十、<祈りー治療する霊媒が唱える祈り>神よ、私がそれだけのことに値しないにもかかわらず、私を使うことを望まれるのであれば、私はあなたの力を信じているので、あなたの意志がそうである以上、私はこの苦しみを治療することができるでしょう。しかし、あなたなしにはなにもできません。

善霊のその健全なフルイドを私にしみ込ませ、それを私がこの病人に伝えることができるようにし、また、フルイドの純度を低下させる可能性のある自尊心やエゴイズムによるどんな考えも私から遠ざけてください。



 憑依に悩まされる者への祈り
八十一、<序文>憑依とは悪い霊がある人に対して、不断の作用を働くことです。それには、外見的には感知できるような兆候のない単なる道徳的な影響から、精神的、肉体組織的な能力を完全に混乱させるようなものまで、さまざまな性格が見られます。憑依はいかなる霊媒力をも妨げます。

自動書記、あるいは記述の霊媒力においては、ある特定の霊だけが他の霊には筆記させまいとすることによって憑依が起こります。地球に住む人間の道徳的劣等の結果、悪い霊は地球の周りに増えていきます。その悪業はこの世で人類が耐えている苦しみの一部をなしています。

憑依は、病気と同じように、また、人生のあらゆる苦悩と同じように、試練、もしくは報いとしてとらえ、その状況を受け入れなければなりません。

 病気が、外部からの有害な影響を受けやすくする肉体的不完全性からくるように、憑依は、悪い霊の影響を受けやすくする道徳的不完全性から常に起こります。病気から身を守るためには肉体を強化します。憑依がおきないように保証するには魂を強化することが必要です。

このことから、憑依に悩まされる者は、自分自身の回復のために、自分で努力をしなければならないということになりますが、ほとんどの場合、他の人に助けを求めなくとも、自分の努力だけでとり憑いた霊から解放されることができます。

しかし、憑依がとり憑かれた者を征服したり、支配するところまで悪化してしまった時には、とり憑かれた者は自分自身の意欲や自由意思を失ってしまうため、他人の助けが必要となります。 憑依はほとんどの場合、霊の復讐の行為であり、多くの場合、その原因はとり憑く者ととり憑かれた者との前世における関係にあります(→第十章 6、第十二章 5,6)。

重症な憑依の場合、健全なフルイドの作用を無効にし、それらを追い返す有害なフルイドがとり憑かれた者を解放することが必要です。しかし、悪いフルイドは、同種の別のフルイドによって追い払うことはできません。治療する霊媒が病気を治す時に行うように、悪いフルイドを、ある種の抵抗作用を生む善いフルイドの助けを借りて追い払う必要があります。これは機械的作用と呼ぶことができますが、

それだけでは十分ではありません。なによりも、道徳の優位性のみが与えてくれる権威によって語りかけ、知性に働きかけることも必要です。道徳性に優位であればあるほど、権威も強大となります。

 とり憑いた霊から確実に解放されるためには、それだけでは不十分で、不道徳な霊の悪いたくらみをあきらめさせることが必要になります。道徳的な教化を目的として、特定の人を呼びおこし、うまく教えを差し向けることによって、後悔と善への欲求に目覚めさせることが必要なのです。

そうすれば、生きた者を解放させることと、不完全な霊を改心させるという二つの満足を得ることができます。

とり憑かれた者が自分の状況を理解し、その意志または、祈ることにより協力してくれるのであれば、解放の仕事はより容易になります。とり憑かれた者が嘘つきの霊にそそのかされ、支配する者の性質を錯覚し続け、その神秘性を楽しむのであればその逆になります。

そうした場合、解放を助けるどころか、とり憑かれた者自身がどんな救援をも受け付けなくなってしまうのです。それは、魅惑されてしまった状態であり、最も暴力的な征服よりも常に反逆的です。(『霊媒の書』第二十三章)。

すべての憑依において、とり憑く霊から解放されるための最も強力な手段は祈りです




八十二、<祈りー憑依に悩まされる者が唱える祈り
  神よ、私にとり憑いた悪い霊から、善霊が私を解放してくれるようにして下さい。もしそれが私の過去において彼に対して行った悪の結果としての彼の復讐であるならば、神よ、私が自分のせいで苦しむことができるようにして下さい。

私の後悔があなたの赦免と私の解放に値するものとなるようにして下さい。しかし、何が原因であれ、彼に対するあなたの慈悲をお願いいたします。神よ、彼が進歩にたどり着けるよう助け、悪の行いを避けることができるようにして下さい。私は、自分の役割として、彼の悪には善で報い、彼をより善い感情へと導くことができますように。

 しかし神よ、不完全な霊の影響を受けやすくするのは、私の不完全性であることを知っています。その不完全性を自覚するのに必要な光をお与えください。なによりも、私の欠点について私を盲目にする、私の自尊心を遠ざけてください。悪い霊に支配されてしまうとは、私は何と恥じるべき者なのでしょうか。

 神よ、私の虚栄心へのこの一撃が、私の未来のための教えとなるようにして下さい。今後、悪い影響からの攻撃に対して防壁を築くことができるよう、善、慈善、慎ましさの実践によって、浄化しようという私の決断を、その教えが補強してくれますように。

 神よ、この試練を、忍耐と甘受をもって耐えるだけの力を私にお与えください。その他の試練と同様に、私が不満をこぼさず、その試練の成果を失うようなことがなければ、私の進歩に結びつくのだということを理解しています。

なぜなら、この試練に耐えることは私の神への服従を示すことであると同時に、不幸な兄弟が私に対して行った悪を赦すという慈善を行う機会でもあるからです(→第十二章 5,6、第二十八章 15とそれに続く項、46,47)。




八十三、<祈りー憑依に悩される者への祈り
 全能なる神よ、 「〇〇」をとり憑く霊から解放させてあげることができる力を私にお与えください。

もし、御心の中にこの試練を終わりにすることがあるのであれば、必要な権威をもってこの霊に話す機会を私にお恵みください。

私を助けてくれている善霊よ、そして「〇〇」の守護霊よ、あなたたちの助けを私にお与えください。彼をとりまいた不純なフルイドから彼を自由にするのを助けてください。全能なる神の名において、この人を苦しめる悪い霊を遠ざけるようにお願いします。



八十四 <祈り・・・とり憑いた霊への祈り
 永遠の善である神よ、「〇〇」にとり憑いた霊にあなたの慈悲が及ぶことを嘆願いたします。彼が神の光に気づき、いまたどっている道の虚偽を知ることができるようにして下さい。善霊よ、悪を行うことによってすべてを失うことになり、善を行うことによってすべてを得ることができるのだということを、彼に理解させるのを助けてください。

「〇〇」を苦しめることに喜びを感じている霊よ、神の名において話す私のことを聞いてください。

 熟考してみれば、悪は善に導く事はできず、あなたは、あなたのいかなるくわだてからも「〇〇」を守ることができる神や善霊より強くなることはできないということを理解することができるでしょう。

神がそうしなかったのは、「〇〇」には苦しむ試練が与えられたからです。しかし、この試練が終わった時には、彼らは「〇〇」に対して行動を起こそうとするあなたを妨げることになるでしょう。

あなたが行う悪は、「〇〇」に損害を与える代わりに、「〇〇」の向上のためになり、「〇〇」をより幸せにすることでしょう。このように、あなたの悪意は無駄になり、しかもそれはあなたにとって致命的となります。

 あなたよりも強大な力を持つ全能なる神、優れた霊、その使者たちは、解きたいときにこの憑依を解くことができ、それによってあなたの強情さは至上の権威によって破壊されることになります。

しかし、神は善であるからこそ、憑依があなた自身の意志によって解かれることの価値をあなたの手に委ねたのです。それはあなたに与えられた許しであり、それをうまく利用しないと嘆かわしい結果に苦しまなければならず、その場合、大きな罰や大きな苦しみがあなたを待っているのです。

あなたのことをすでに赦し、あなたのために祈るあなたの憑依の犠牲者は、神に解放してもらえるようになるため、あなたは彼の慈悲心と祈りを嘆願せざるを得なくなるでしょう。

 だから、まだ間に合う間によく考えてください。なぜなら、他のすべての反抗的な霊と同じように、神の正義はあなたにも下されることになるからです。今行っている悪は必ずや終わりが来るものであるのに、もしあなたが頑固に固執し続けるのであれば、あなたの苦しみは止むことなく増していくでしょう。

 あなたが地上にいた時、大きな善を、小さい一時の満足のために犠牲にすることがばかげたことであるとは考えませんでしたか。霊として存在するいま、同じことが言えます。あなたがいま行っていることでなにを得ることができるのでしょうか。

他人を苦しめるという悲しい喜びは、いくらあなたがそうではないと主張しようとも、あなたを不幸にすることの妨げとはならず、あなたの未来において更に不幸をもたらします。

 それとは別に、あなたが何を失っているのかをみてください。あなたを取り囲む善霊を見て、彼らの幸せがあなたにとって望ましいものであるか言ってみて下さい。あなたが望むのであれば、幸せはあなたのものになります。

そうなるには何が必要なのでしょうか。神のその助けを嘆願し、悪の代わりに善を行うのです。あなたたちが突然変化できないことはよく知っています。しかし、神はあなたに不可能なことは望みません。あなたの意志だけが望まれるのです。だから、やってみて下さい。

私たちはあなたを助けます。そうすれば、わたしたちはやがてあなたを悪い霊として扱うのではなく、あなたのために後悔する霊への祈り(→第二十八章 73)を唱えることができるようになるでしょう。そして、いずれあなたをよい霊として数えることができるようになるのです(→第二十八章 75,76「強情な霊への祈り」)。



<解説>重篤な憑依の治療には多くの忍耐、勤勉、献身を必要とします。また多くの場合、とても反抗的で、強情で悪賢い霊を善に導くには、そうした霊の中には最も反抗的な者もいることがあって、技術や能力も必要です。ほとんどの場合、状況に応じて進めるべきです。

しかし、霊がどのような性格であっても確実なのは、強迫や強制によって得られるものはなにもなく、どのような影響も治療者が道徳的に上位であるか否かによります。

同様に経験によって確かめられ、論理的に実証されているもう一つの真実は、厄払い、呪文、神聖な言葉、魔除け、お守り、外見上の儀式など、あらゆる物質的なしるしはまったく無力であるということです。非常な長期にわたる憑依は病理学上の混乱の原因となり、同時に又は連続して、

肉体機能の回復のため、磁気的または医学的に治療することが必要です。原因が遠のいても、その結果を取り除く必要性がまだあるのです(『霊媒の書』第二十二章 憑依について、『レビュー・スピリテ』1864年2月号、1865年4月号 憑依の治療の実例)


FEB版注1
 いくつかの聖書の翻訳では「私たちを誘惑に引き込まないでください」とありますが、その場合、誘惑というものが神からくるような意味にとらえられてしまいます。明らかにそれは神への冒涜であり、神とサタンと同等にしていることになり、そうした祈りがイエスからでたものとは考えられません。しかし、一般的に信じられている悪魔の行為という考え方とは一致しています(『天国と地獄』第十章「悪魔」)

FEB版注2
使徒伝、第二章十八節ー「その時には、私の男女のしもべたちにも私の霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」ーとヨエル書、第二章、二十九節ー「その日私はまた、わが霊をしもべ、はしためのそそぐ」ーを比較すると、新約聖書が書かれた時、預言という言葉の意味に違いが生じているのが分かります。すなわち、新約聖書においては、神のしもべではなく、人のしもべ(男女のそもべ)が預言をしていることが記されています。

 こうした意味における預言が、今日、私たちの間に見られるのです。なぜなら、霊媒性があらゆる階級の人々において見られ、使徒伝にあるような聖職者(神のしもべ)だけに神の通信が伝えられているのではないからです。ーFEB1947年


FEB版注3
『Reformador』Zeus Wantuil / Franciseo Thiesen 第一巻 Ⅲ 百頁『Revue Spirite』(アラン・カルデック著1868)の記載参照。-FEB




       
 スピリティズムの教義の要約
「生まれ、死に、再び生まれ、さらに進化し続ける。それが法なのである」
                                                                                                ーアラン・カルデック

 スピリティズムの教義はこの言葉に要約されています。宇宙のあらゆる命の本質とは、物質的な存在ではなく、それに働きかける非物質的存在、すなわち霊的存在(霊魂)です。そして、その霊的存在とは永久不滅であり、永久に進歩し続けるとのであるとスピリティズムでは考えます。

 私たち人間も、その法のもとに存在しています。つまり、私たちの命とは、何十年かに及ぶ肉体の寿命によって限定された存在ではなく、私たちの個を成している霊魂の命であり、それは肉体が滅んだ後も霊的世界に存在し、未来において再び新たな別の肉体を授かり、物質的世界に生まれてくるのです。

 この法により、スピリティズムは「死」の概念を終焉としてではなく、永遠の存在の中で私たちが経験する変化としてとらえ、私たちの霊的な目標を、死を超えた先に置くことを教えているのです。

 スピリティズムの教義において「人生は一度だけではない」のです。いま生きる私たちは、過去においていろいろな経験をすでにしており、また未来において別の経験をすることになります。

しかし、だからといって、いまの人生を軽んじていいのではなく、反対に、現世にはいまでしか経験できないことがあるため、特別な意味を持つことになるのです。自分の未来の目標のために、現世に最善を尽くす必要があるのです。

 こうした法が支配する宇宙には秩序があります。人類の科学は、その秩序の解明のために進歩し続けています。スピリティズムの教義は、その秩序のある宇宙を次のような原則によってとらえています。

神の存在ー神とは万物の第一の原因、至上の英知である。原因(神)なくして結果(宇宙とそこにある物質・非物質的存在)は存在しない。また神は完全なる正義、善である

②霊魂の不滅ー神によって創られた霊魂とは非物質的存在である。知性、愛、自由意思を持っており、その個性は不滅である。個々の霊が分裂したり、複数の霊が一つの霊になったるすることはない。

再生リインカーネイション)ー霊魂は単純、無知に創られるが、自らの意志により、進歩しながら自分の運命を創っていく。霊魂は進歩するために、物質的世界に生まれて経験を積む必要があるが、それは一度だけでは不十分であり、幾度も繰り返す。

霊魂は同一でも別の肉体を受け、物質的世界に生まれてくることを再生(リインカーネション)と呼ぶ。

再生によって霊魂が遂げる進歩とは、知性的進歩と道徳的進歩である。私たちは普通、過去における人生の記憶をはっきり持ってはいない。これは、一時的に過去を忘れさせてくれている神の正義の結果であり、過去を忘れることによって、失敗を恐れず、新しい人生に挑むことができるのである。

霊とのコミニュケーションの可能性ー霊とは、再生の合間に霊界に存在する肉体を失った人々であり、人間は、霊媒性と呼ばれる知的能力により相互にコミニュケーションをしたり、影響を与えたりすることが可能である。

 こうした原則をもとに私たちの人生を捕えると、世の中の見え方は違ってきます。「人はみな、幸せになるために生きている」ーーこれは誰から教わらなくても信じていることです。しかしそれに反して、この世にこれほど多くの不幸が存在するのは、それぞれの人間の存在の目標が違っており、それがみな違った方向を向いているためにぶつかり合っているからではないでしょうか。

 スピリティズムの教義は、こうした人間に対して、その目標を据えるべき位置を、霊界からの働きかけによって示そうとしてくれるものなのです。幸せになることが私たちにとっての「救い」であるならば、スピリティズムは「慈善なしには救われません」と教えています。

つまり、何を信じるか、なにを崇めるかということが人を幸せにするのではなく、同じ目標に進歩しようとしている人間同士が、お互いに助け合い、手を取り合いながら生きる以外、幸せになる道はないのだということです。

 こうした意味で、スピリティズムの教義は人々に兄弟愛と平和、赦しを自らの行動によって示したイエスキリストの教えを受け継いでいます(→第一章 5-7)。イエスキリストを教会の創始者としてではなく、人類の生き方の模範として位置づけ、そこに学ぶことによって、私たちの生き方を見つめ直す機会を与えてくれるのです。

 霊魂や霊媒性といった目に見えない世界を扱うために、モーゼの時代からそうであったように、人はそれを誤って用いる危険性を多くはらんでいます。しかし、スピリティズムの教義では、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ第十章 8)」(→第二十六章)という教えによって、人と神との関わりにおいて、物質的な対価のやり取りはすべきでないとしています。




 家庭の福音を行いましょう 

 たった一人で生まれてくる人はいません。人は、誰もが社会的にその他の人との関わり合って生きています。そしてそれは簡単なことではなく、さまざまな困難を乗り越える必要があるということです。

 家庭とはそうした社会の最小単位です。そこは肉体的成長の基盤となるところですが、同時に霊的成長の基盤となるところでもあります。肉体のためにはみな食事をします。では、霊のためには何をしているでしょうか。

「家庭の福音」とは、家族が集まり、参加者が一緒に道徳を学ぶことによって、霊的な糧を受け取ろうとするための家族のミーティングです。本書を用い、次のように行えば、私たちの霊の成長、家族の平和、社会で人とうまくやって行くための力を得ることができるでしょう。

その家庭の信仰を捨てる必要はありません。家族全員で共通の道徳のよりどころを明確にすることで、さらに明るい光を家に灯すことができるでしょう。


 家庭の福音の行い方
、週に一度、家族が集まれる日と時間を決めましょう。ミーティングは三十分から一時間程度です。参加したく無い人を無理やり誘っても逆効果です。それぞれの自由意思を尊重しましょう。

2、心を落ち着かせ、ミーティングを始めるにあたり、代表がその家族の信仰に応じて祈り、家族の平和と善霊たちからの加護をお願いします。この時、参加者の人数分のコップを用意し、その中に飲用水を入れておきましょう。

3、『スピリティズムによる福音』を開きます。順序立てて読み進むのでも、気の向いたところを開くのでもかまいません。開いたところから、時間に応じて、何項目か声に出して読み上げます。

4、読んだ内容について、ミーティングに参加したメンバーは、それがどんなことを言っているのかを説明したり、思ったことを他の人たちに話したりします。日常生活での出来事にあてはめたり、疑問を投げかけたりするのでも結構です。他の人たちはそれについてコメントしてみましょう。

5、反対意見があっても、議論するのではなく、それぞれの視点を尊重し合いましょう。

6、一通りコメント終わったら、再び心を落ち着け、祈ります。神への感謝、善霊たちからの加護、家族のメンバーの健康や幸せ、世界中の不幸な人たちに幸せが訪れることなどをお願いします。(祈りについては→第二十八章)。また、2で用意した水の中に、天から光が注がれることをイメージし、霊的な力や薬がももたらされることをお願いします。

7、祈りが終わったら、感謝の気持ちとともにコップの水を飲みましょう。


 最初のうちはなかなか時間が守れなかったり、声を出して祈ることが照れくさかったりしますが、できるところから始めれば、やがてうまくいくようになります。説明するのが得意な人もいれば、不得意な人もいます子供でも大人が驚くほど、言い理解の仕方をする場合があります。

批判し合うのではなく、善い考え、健全な態度に触れる機会としましょう。



                      完