世界心霊宝典Ⅱ 不滅への道───永遠の大道  
                                THE ROAD TO IMMORTALITY

         ジェラルディーン・カミンズ著   E・ギブズ編     梅原伸太郎訳
                                            Geraldine Cummins / E・B・Gibbes

  
                                                  目                    次
 
      ジェラルディーン・カミンズ序文
                                   
                                     オリバー・ロッジ序文         

                                                    E・B・ギブ ズ序文 


 第一部 死後の生活                         
   
     マイヤーズのはしがき 
   第一章 生存の目的 
          永遠の謎  
   第二章    魂の旅程表 
   第三章   幻想界(第三界)
          記憶の世界   
          冥府  
          幻想 
          動物的な人   
          旅の休憩所   
          感覚の人
          平凡な人 
  
   第四章   意識  
   第五章   色彩界第四界  形相の世界)  
         魂的な人───形象の破壊 
    上層界への入り口───形態の神聖化          
         第四界における感知力の増大 
   第六章    類魂
         心霊意識の集団     
         霊的な人
第二部人間のもつ諸能力についての教え 
    第十四章   自由意志 
    第十五章   記憶
             肉体の内と外
    第十六章   大記憶

    第十七章   注意
             生きている人の場合  
             帰幽者の場合
    第十八章   閾下自我
 
    第十九章   睡眠

    第二十章   想念伝達

    第二十一章   二つの世界の想念交流
                  【生命の書】

    第二十二章     幸福とは   
             平均的男女の場合
    第二十三章    神は愛よりも偉大
   第七章   火焔界(第五界
       第五界への誕生
       第五界の象徴 

           類魂の構造
   第八章   白光の世界(第六界)
           純粋理性
   第九章  彼岸ないし無窮(第七界)
           神性原理との一体化       
   第十章  宇宙
   第十一章  色彩界から
   第十二章  死とは何か  
           影の場所(冥府)  
           記憶と死後の自己認識   
           死者の睡眠
           遺像または魂の殻    
           急死  
           老衰による死        
           類魂模様
   第十三章  心霊の進
 第三部 交差通信の記録 
   
   (レナード夫人とカミンズ嬢)
                   E・B・ギブズ 

     要約   E・B・ギブズ

     補遺   G・カミンズ
    .クレオファスの書

    2.霊光

    3.他界からの通信

    4.地上生活の記憶を通信する困難
   
  死者と話すことはよいことか悪いことか
   
    5.動物の死後存続
   
     解説   (梅原伸太郎)                               
  

  ジェラルディーン・カミンズ序文

『不滅への道』は初めオリバー・ロッジ卿(※)の序文付きで、一九三二年に出版されました。それ以来、英国版は一万四千部を売り、他に、ドイツ語、チェコスロバキア語、日本語などにも翻訳されました。これらの本はたちまち売り切れになる程で、世間の関心は極めて高かったといえます。

英語版はこれで四版を重ねることになりますが、この二年間のあいだ、この本は、一般には、入手不可能な状態でした。

 この本が最初に世に出た時、マイヤーズの友人たちは、これをあの世の生活を物語るマイヤーズの通信であるとして受け入れたのでした。このフレデリック・マイヤーズという学者は、生前心霊研究に生涯を捧げた人として名高かった人です。

 たとえば、かつて心霊研究協会の会長でありマイヤーズの旧友でもあったローレンス・ジョーンズ卿は『不滅への道』における他界の生活の説明を故人からの通信であるとして受け入れた一人です。

ローレンス卿は、心霊科学学院におけるこの通信についての講義の中でこの事に触れ、彼の見解を述べています。更に彼は、マイヤーズがイタリアで過ごした───そこで亡くなった───最晩年の数箇月のことを、実際にその目でそれを見た人として詳しく物語っています。

 ギブズ女史は私が自動書記と言う形式でこの通信原稿を受け取りつつあった時に、私の協力者であり、研究者でもあった人です。この本が出版されて幾日かたったある日のこと、このローレンス卿がギブズ譲と私の許を訪ねて来ました。

そしてその折に彼は、通信者の未亡人であるエヴェリン・マイヤーズ夫人がこの本を二十七冊も買って友人たちに配ったので、彼女がこの通信を夫からのものであることと確信していることは間違いないと言いました。

 数日後、二度目にローレンス卿が訪れた時、彼はマイヤーズ夫人が私を招き、彼女の自宅に同居して、そこで彼女の夫からの通信を受け取ってほしいと言っていると伝えてくれました。

しかしこの時、私は、故郷で独り暮らしをしている母の健康がすぐれぬために、アイルランドに帰らなければならなかったので、この親切な申し出をお断りせねばなりませんでした。

 『不滅への道』の原稿は一九二四年と一九二五年、および一九二七年のあいだに書かれたものです。この時期は、原子核に関する科学理論が発展する未だ数年前のことでした。一九三七年になって、科学者たちは初めて原子の分割を手掛けたのでした。

 故ジョーン・イースト(ある科学者のペンネーム)氏は、『永遠の探求』という本の著者ですが、その中で彼は、最新物理学による、死後における人間の意識の存続の証拠を提示しました。『永遠の探求』は一九六〇年にサイキック・プレス社から出版されています。

 イーストは、その著の一二五頁に「カミンズ嬢のことに触れさせて頂きたい」といい、『不滅への道』は、オリバー・ロッジ卿によって、F・W
・H・マイヤーズからの通信であり、マイヤーズがあの世について記述したものであると認められたと述べ、本書の七九頁を引用してこう書いています。

 「『他界の霊の教えるところでは、死の秘密は、魂の外殻にあたる部分の振動率が変わることにあるということはあなた方も聞き及んでいよう。例えば人間がその周囲の可視世界を感知するのはその身体がある特殊な速度で振動するためである。

あなた方の肉体の振動数を変えれば地球も、人も、物体も皆、あなた方の眼前から消えてしまうのである。

と同時に、あなた方自身もまたそれらのものから見れば消えてなくなることになる。それ故、死は単なる振動数の変化である。この変化のためには、一時的な混乱が不可避である。というのも魂は、ある振動で進行する身体から、別の振動で動く身体に移らなければならないからである。』

 これが書かれたとき、ボーム教授の本は未だ出版されていなかった。私はこの頃既に亜原子世界が預言されていたかどうか疑問に思う。上記の引用は、カミンズ嬢の自動書記を通して得られた、マイヤーズのものであると考えられている。」

 更にイーストは次のように記している。

 「おなじ本の100頁には次のように書かれている。『大意識は、身体という粗雑な機械が死んでも破壊されないところの無限に微細な原子を含んでいる。私は原子と言ったが、あなた方からみればそれは流動体のように思えるかもしれない』これはその時は未だ知られていなかった亜原子エネルギーの高い周波数について述べたものである。

また110頁には、真に驚くべきことが述べられている。『われわれの環境は超エーテル的な性質のものである。それをもっと良く説明してくれと言われると大変難しい。

しかしエーテルが最極微の原子を含んでいるとは言ってもよかろう。その物質はあなた方の世界の粗い物質を透過してしまう。両者は互いに全く別の次元のものなのである』


 こうした見解は私達の仮説が単なる可能性以上のものであることを示すものである。と同時に、原則として、この通信の真実性は否定難いように思われる」

 以上が、ジョン・N・イーストが彼の『永遠の探求』の中で、一九二〇年代に書かれたマイヤーズの通信に与えたコメントです。

 原子核の科学理論が発展し始めたのは、原子以下のエネルギーが発見され始めた一九三七年以降のことだという事実をみる時、マイヤーズがこの本で述べた考え方は、地上時間に数年先行していたことを示しています。

               一九六七年九月、ロンドンにて      ジェラルディーン・カミンズ


※オリバー・ロッジ卿(英)(Sir Oliver  Lodge 1851-1940) 世界的に著名な物理学者。霊媒パラディーノやパイパー夫人を研究し、死後存続の事実や顕幽交信の可能性を認め、広く世間に唱道した。息子のレイモンドは第一次世界大戦で戦死した後、レナード夫人の霊信に現れ様々な角度からその身元を証明した。
 
 
              
  オリバー・ロッジ序文

 ジェラルディーン・カミンズ女史は、アマチュアの入神型自動書記霊媒として聞こえた人である。自動書記霊媒とは即ち、意識亡失(トランス)の間に於いて、ある霊魂の支配を受け、自分の全く与り知らない事柄を書記する人のことである。

私が自動書記についての最初の経験を持ったのは、※パイパー夫人の自動書記文を研究して、その「実験責任者」となった時の事で、その結果は、SPR『報告書』第二十三巻、一九〇九年、の特に131‐134頁に書いておいた。

※(パイパー夫人=Mrs. Leonore Piper 1859-1950  心霊研究史上もっとも名高く有能であった米国ボストンの入神型霊媒。前世紀末に活躍した。オリバー・ロッジ卿やリチャード・ホジソン博士、ジェームズ・ハイスロップ教授などは彼女の霊信によって死後の生存を確信するようになったという。ウイリアム・ジェームズはパイパー夫人を研究することによって心霊研究に引き入れられ、これが米国SPR創設の端緒となった。英国のレナード夫人の能力は優秀で、このパイパー夫人に対比される)

カミンズ女史の事例において実験責任者となったのはギブズ女史で、彼女は、カミンズ女史がアイルランドから出て来た当時の同居者であった。

カミンズ女史の手を度々用いた支配霊のひとりは、最近になって私の友人の F・W・H・マイヤーズを招くと称し、その結果極めて高遠なる内容の通信の如きものが送られてきたのであった。マイヤーズは生前、この二人の婦人のいずれの知己でもなかったのであるが、送られてきた原稿はかなりの量に上り、またその原稿の内容もある価値を有するようにみえた。

 そこでギブズ女史は私に書信を寄せ、私がこの原稿を閲(み)る気があるかどうか、またこの書記の内容をマイヤーズからのものとすることが妥当かどうかを尋ねてきた。検討の結果、私は、それが多くの点で、 F・W・H・マイヤーズからのものである特徴を備えていると判断した。

 彼が類魂に対して与えた説明は、生前の彼の説、及び私と議論した際の内容と一致していた。潜在的自我や再生について説く所などはまさにそうであり、生前の彼の所説と充分に符合する。

全体として言えば、書かれたことのあるものは謎に満ち、外見上混乱をきたしている部分もあり、また彼自身それを認めるように、これを絶対の真理とはいえないとしても、その内容は充分に彼の知性を示すに足るもので、味読すれば教示されるところ大である。

 以上のことに決着を付けるため、先頃、オズボーン・レナード夫人との個人的交霊会を催した時、私は息子のレイモンドを通して、旧友たるマイヤーズに次のことを尋ねたものであった。

即ち、彼が、カミンズ女史なる者を知っているか、またその通信内容に述べられたところは、彼の考えを充分に表現し得ているかどうか、その二つについて質したのである。彼の答えの要点は次の如くである。彼は確かにカミンズ女史に通信を送った。大体において彼は自分の言わんとするところを伝えた。

通信の困難なことは彼も認めるところで、内容が必ずしも正確とは言い難いが、かなりの程度において彼の言わんとしたところを表しており、合格点を与えたき意向である、と。

 私は特に、このマイヤーズと称する霊に対し、彼が死後の世界の各階層間での違いを述べている中で、第三界、即ち常夏国とか幻想界などと呼ばれている境界について、彼が真に伝えたかったことは何であったかを問うた。

私は既に、そこの住人たちが、その世界を驚くほど地上と似ていると言い、花、木、家などがあり、また奇妙なことに、望みさえすれば何ものによらず手に入れることができると言っていることを承知していた。しかし私はそこの世界をマイヤーズ霊が言うように、すべて幻想であるまでは考えていなかったのである。

 彼の答え───主としてレイモンドを通して得られた───は、おおよそ次のようなものであった。帰幽後まもない人が第三界で目にする日常のものは、彼らには、自然で、よく見慣れたものと感じられるものである。それが一時的な環境であるのは、現世の物質的環境が仮のものであってその見える通りのものではないことと同じである。

 アーサー・エディントン卿は、日常の環境についてのこうした科学的な見方を強調して次のように指摘している。即ち、固体的で、堅固で、連続性を持つと見える一個のテーブルも、実は互いに巨大な空間を隔てて旋回する一群の原子であり、われわれが床に立つ時は、足下のある原子が我々を上方へと叩きつける小さな力の集まりにより支えられている。

 これらのことを普通の人は全く気がついていない。物質は科学的にはこんなふうにして説明されるのだが、普段は、日常生活の実際的な用途に合わせて、もっと習慣的な説明を用いている。

即ちそれは、平常我々の慣れ親しんだ粗っぽい感覚に訴えるやり方である。こうした説明の仕方はわれわれの身についたものとなっており、他のどんなことでもごく普通の人間らしいやり方で説明する傾向がある。それゆえ何処へ行っても自分の環境を日常経験に合わせて説明してしまうのである。

そのお蔭で、死後においても、大きな衝撃や激しい変化を味わわずに、感覚の一貫性を保つことが出来るという利点はある。事実われわれは、記憶や、性格や、愛情のみならず、説明能力までも死後の世界へ携えて行くのである。

かくしてわれわれの環境は、地上同様に見え続ける。環境を快いと感じる必要がある限り、地上での対象知覚にどんな幻想の要素があるにせよ、それと同じ種類の幻覚が次の界においても付きまとうのである。

 第三の世界の住人がその知覚するものを幻想と思わないのは、地上の人間がそう思わないのと同じく当然のことである。より高次の境涯の住人にして初めて、地上や第三界の事物がはかない影のように見えるので、それはどこかあの陳腐ではあるが教訓的でもあるプラトンの洞窟の比喩※を思わせ、そこに囚われた人や影のことどもを考えさせる。

※(洞窟の比喩=プラトンが『国家篇』で用いた有名な比喩。イデア界を太陽世界とすれば、可視界は地下の洞窟に喩えられる。われわれ人間は、その中で生きながら手足を鎖につながれ、イデアの影に過ぎない感覚経験を実在と思い込んでいる囚人に等しいとされる。平凡社〔哲学事典〕参照)


いずれにしても我々は、一足飛びには、真の実在のきらめく火炎の全体を見る所まで、到底辿り着けないのである。


 マイヤーズが第四界、第五界、第六界、第七界について述べた説明は素晴らしいものである。私としては、マイヤーズがこれまでにそうした理解を持つに至ったのだろうという観測に反対する理由は何もない。私がこの本への序文を書くべきかどうかを尋ねると、彼は書くことに賛成した。

 私が、出来る限り話されたそのままを書き留めたレナード夫人の交霊記録を、抜粋ながら、ここに載せることが最も公正な態度であろう。抄録の最後の方の発言は、霊媒のエネルギーが尽き始めていたので、口早になっている。この時のレイモンドは専らマイヤーズについて話した。彼はマイヤーズのことを愛情を籠めて、「フレッドおじさん」と呼んでいる。


 「以下は、一九三二年三月十一日、O・J・ロッジが、単独で、ケント州、オズボーン・レナード夫人との交霊に臨んだ時の記録からの抜粋。交霊は打ち解けた家族的会話の形式で、殆ど二時間近くに及んだ」

ロッジ  レイモンド、マイヤーズがカミンズさんを通して通信してきたというんだが、そして、お前のいる所は幻想界だと言っているのだが、どうだろうか。彼は本当に通信しているのだろうか?

レイモンド   ええ、その人を通して確かに通信していますよ。そのことについて話しましょうか。もし僕が間違っていれば、フレッドおじさんが注意してくれるでしょう。

目下のところ、境界線すれすれの所にいるんです。お父さん、僕らのいる界ではね、生活環境とか、そちらでは物と呼んでいるものを自分で創り出さなければならないんです。そしてそれらの生命は一時的なものなんです。つまりそれらは幻想です。ある程度物質化現象に似かよった幻想なのです。

そちら側では、物質的なものは相当期間持続しますね。それは見たところも感じでも、またあらゆる面から見て自然なものとして、この体の感覚に訴えかけます。(そう言って、彼は私に触れた。───ロッジ)僕らのいる世界では、いろいろな物、家とか着物などを自分で創り出すことになっています。

当座の間に合わせなのですが、魂が生活したり働いたりするのとうまくあった、丁度良いものを創るんです。それが自己表現の媒介物になっていくんです。

お父さんの家や書斎その他だってそうなんですよ。そちらの人達はそれに慣れてしまっているので、こちらへ来ても同じ状態での方が活動し易いんです。ですから生活上万やむをえざる幻想なんですね。


ロッジ   ところで、お前は幻想界に居るのかね?

レイモンド   あなたもですよ、お父さん。あなただってまさしく幻想界にいるんです。僕らはお父さんの住んでいらっしゃる幻想界の延長と言ってもよい所に住んでいるんです。その端の縁(へり)の所といってもよいでしょうね。僕は幻想界の一番外縁の所にいるので実在の世界にも触れているんです。

あなた方よりももっと実在的なことは確かです。お父さん、霊の世界は実在の世界なんですよ。霊も心も実在の世界に属するんです。ほかのものはみんな上っ面(つら)のもので、ある意味の一時的な必然性はありますが、永遠不滅の実在世界から見ればはかない存在なのです。霊と魂はその実在世界に属します。

エーテルの世界は心の力によって生み出されるんです。僕らは未だ、地上の物質世界から完全に自由になっているわけではありませんが、もっと独立性を持っています。でも未だそれに関心があるんですよ。


ロッジ   お前たちの世界には物質的なところがあるのかな ?

レイモンド   そうです。物質的です。フレッドおじさんはいつもそう言っています。


ロッジ   エーテル的と言ってもよいのかね。

レイモンド   はい、難しい言葉ですがね。エーテル界は未だよく調べられていません。エーテル界の中にも世界があって、そのまた世界の中にも世界があります。でも、お父さん、この世界は心が活躍するんですよ。


ロッジ   その世界では心はいつも働いている、と私は思うんだがね。

レイモンド   そうです。そして心は進歩に必要な幻想を生み出します。魂のことを忘れては駄目です。魂こそ人間そのもので、人間の本質です。お父さん、人間は過ちを犯したり、束縛から逃げ出したり、愛したり、憎んだり、善事や、時としては悪事さえも犯そうとしますが、それこそ魂なんです。

霊となると悪事とは没交渉です。しかし魂には自己表現する背景や、環境や、乗り物が必要なので、それらを創り出すのです。ですから、お父さん、この幻想と言う言葉は誤解されておりますが、僕たちの世界にもお父さんの世界にも当てはまるものなんですよ。


ロッジ   それでは、心はこの世でも物を創り出してきたんだろうか?

レイモンド   そうですよ。でもそれは、あなた個人の心が、というわけではありません。偉大な建築家である方の心が創りだしたものです。僕らはみな程度こそ違え建築家なのですが、すべての中で最も偉大な建築家が、エーテル世界を創り出したように、物質世界も創造したんです。霊もエーテルもです。


ロッジ   エーテルは霊にとって是非とも必要なものなのか ?

レイモンド  
 二つは分けることが出来ないものだと言う気がします。今フレッドおじさんに尋ねてみました。おじさんは両者は不可分のものだと言っています。エーテル世界は実在の世界に属していると、彼は今言ったところです。しかしそれは勿論お父さんの世界にも浸透しています。生命のあるところにはエーテルがあります。


ロッジ  
 つまり生命の乗り物というわけだ。

レイモンド   そうです。それはフレッドおじさんの言葉ですね・・・生命の乗り物というのは。もし僕らがそちらの人に少しでも教えてあげられたら、大部分の人の恐れている死がやって来ても、それは、なにか未知で、不案内で、恐ろしい───不案内だから恐ろしいんですが───状態に飛び込むわけではないんだということを気づかせてあげたいですね。

そういう人達は見知らぬ世界へいくのが嫌だと言いますが、そうではなく、現世と似たような世界なんです。お父さん、自然について言いましょう。自然は物質界に属していますね。僕らの世界にも花や木があります。僕らの世界を形造っているのも自然です。

現世においては自然は本能領域のみにかかわっているのですが、こちら側では知性の領域とのみかかわっています。地上では、本能に即して生きている人を見受けますが、僕らは自分の心と知性を用いて生きており、盲目の本能に従うことはありません。

もっとも植物界や低級動物界は本能だけで生きています。知性によって生き、心が行動を支配する生命形態に触れて初めて、個的な意味で死後の生に生き、また生きることに適合したと言えるのです。


ロッジ  
 つまり、個性を獲得したというわけだ。

レイモンド   そうですよ、お父さん。そこでが分かれ目なんです。何も本能を非難しているわけじゃありません。それを神の大計画の中の本来の位置に置かしめようとしているだけです。そちらの世界では、本能を通じて起こる良いことが沢山あります。お父さん、今日はお話しできて幸せでした。

フレッドも、僕を通して話ができて嬉しいと言っています。


ロッジ   私はこれからカミンズさんと会う予定です。貴君は第五界、六界、七界について通信しましたね。

マイヤーズ   ええ、確かに。私は専ら外から眺めているんです。いろんな条件があって、それが精一杯のところです。


ロッジ   序文を書いて欲しい
と頼まれているのですが・・・。

マイヤー  いいでしょう。結構ですよ。

(この後、別れの挨拶の後、交霊会は終わった)

 以上の個人的証拠に意を強くして、私はこの本を、真面目な人達がやがて経験することになるあの世の生活や、諸段階についての情報を与える真摯な企てとして推薦したい。

まだほかにも進歩の低い段階の人や、よからぬ考えを持った人々の行くべき所があるのであるが、ここではそれに触れないでおく。通信者が他の階層にいる人々の明瞭な情報を、そうした経験を持たない人々に簡潔に伝えることは困難なことに相違ない。

またその説明には過誤があるかもしれないが、しかし私は、この本は、十分な教養を持ち、献身的奉仕心に溢れ、かつ一点曇りなき誠実さを備えた自動書記者を通して得られた、能う限りの真実を伝えんとする純一の企てであると信ずる。

                                                                                    オリバー・J・ロッジ

唯物論に身を任せきった文明は、その精神的資産を使い果たしてしまい、更新する力を持ち得ない。───もし、心霊研究が、唯物論とは全く別の事実を発見できない限り、唯物論はなお広がり続けるであろう。他の如何なる力もそれを押し止めることは出来ない。既成の宗教も形而上学も、等しくこの前進する潮流の前には無力なのである。───
 
                         マクドゥガル教授       



                                                     
   
E・B・ギブス序文

 この本の内容は英国の詩人であり、随想家であり、また、一八六五年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの古典文学の講師となった、F・W・H・マイヤーズによるあの世からの通信であるとされるものです。彼は一八八二年にシジウィック教授や、ウイリアム・バレット教授やエドマンド・ガーニー等と心霊研究協会を創始した人です。彼は一九〇一年の一月に亡くなりました。

 「自動書記」といわれる方法による以下の通信は、ジュラルディーン・カミンズ女史により三期(一九二四~ 一九二五年、一九二七年、一九三一年)に亙って書記されたものです。女史は心霊研究の用語でいう、「自動書記者(オートマテイスト)」です。

しかしながら、「通信者」と称する霊(F・W・H・マイヤーズ)の方では彼女のことを通訳者と呼んでいます。主観的心霊現象の場合においては、「内在意識」※(第十八章参照)が、未知の世界からやってくるとされる通信や書記の通訳として不可欠のものらしいとされているところからみますと、これは適切な用語のようです。

 カミンズ嬢はコーク州の故アシュレー・カミンズ教授(医学博士)の娘として生まれ、これまでの生涯の大半をアイルランドで過ごしてきました。彼女はかつてアイルランドホッケーのチームの一員でしたし、また現在熱烈なテニス愛好者でもあります。

彼女は個人教育を受け、主として戯曲や近代文学に興味を持ってきましたが、科学、心理学、形而上学等については特に学んでいません。

六人の兄弟は大戦に従軍し、そのうち二人は戦死しました。彼女は職業霊媒ではありません。彼女はアイルランド農民小説、『人々の愛した国 The Land They Loved』(マクミラン社刊)の著者であり、また、ダブリンのアベイ劇場で上演された二つの民衆演劇の上演協力者でありました。

彼女にはまた、何冊かの心霊方面の著書があります。私達の知りあったのは一九二三年のことでしたが、その年の終わりには一連の自動書記実験を始めていました。

 自動書記は、書き手の手がしばしば自己の意識の内にない知識を書くような場合に、真の自動書記現象であると証明されるものです。この手段によって、エドワード・マーシャル・ホール卿などは死後の生命の存在を確信するようになりました。自動書記について彼はこう言っています。

 「私はいわゆる死を超えて生命が実存し、いわゆる死者と我々の間には通信の手段があることを確信したし、また今も確信している」

 ある人々が高い波動と同調して、その波動を通して、いわゆる死者がこの世と再び交渉を持つことがあると言うのは本当のことです。私は「いわゆる死者」と言いましたが、それは肉体を離れた人という意味です。

というのも、二十五年に亙る自動書記現象の研究の結果、死者と言うものは消滅してしまうものではなく、ある条件の下では、地上にある時と同じように人と話すことができるということを私は確信しているからです。

 カミンズ嬢はとても素晴らしい自動書記をする人です。肉体死後の人間意識の存続を示す多くの通信が彼女によって書かれました。書かれた時はその場の誰にも未知のことが、後になって確認されるといったことのみならず、彼女が会ったこともない死者たちの話し方の癖や、性格などを再現してみせたのです。これらの例の幾つかがこの本の「要約」に紹介されています。

 彼女が、この本にあるような書記を受けとるためにとった方法は次のようなものです。彼女はまずテーブルについて、右手で目を覆い、静かに精神を集中いたします。彼女は、この精神集中のことをこう述べています。

「まもなく私は半睡状態に陥ります。一種の夢見る状態なのですが、ある意味からいえば、目覚めているときよりももっと意識の明るい状態です。しばしば私は、夢想家が、ことばとして形成されつつある観念に意識的操作を加えないで受身のままでいるあの状態をはっきりと感じていました。

私はただ聴き入るばかりで、静かに受動的にしていることで、話しかけて来る見知らぬ人物に力を貸しているわけです。このような心理状態をことばで表すことはとても難しいのです。そのあいだじゅう私の脳は誰かに使われているという気がします。電信が止めどなく脳を打ち続けているような感じです。

書記のスピードは、あたかも用意された原稿が読み上げられるそばからどんどん筆記してゆくときのようです。しかし書き手である私の能力以上のものが要求されるみたいです。

どんな霊が働いているにしても、その霊は、ことばではなく、想念や、イメージの言語で通信してくるようです・・・・・・」

 カミンズ嬢は、一枚の紙の端に静かに右手を置き、先に述べられたような軽い入神状態、ないし夢見る状態に入ってゆきます。こうして自動書記が始まります。だいたいにおいてまず、「支配霊」が責任者としての前口上を述べ、ついで話しかけたがっている霊がいることを伝えます。

書記のスピードが速いのと、カミンズ嬢が軽い入神状態にあるせいもあって、傍らで余白がなくなるごとに紙をめくってやる人が必要です。その時私は素早く彼女の手を持ち上げ、次の頁の頭に置きます。このようにして書記は遅滞なく進行するのです。

 こんなふうにしてカミンズ嬢と私は実験を始めたのです。私は、彼女の書記におそらく五〇人ほどの人物が登場してきて、それぞれ異なった文体で自分が死者であると主張するのを目撃しました。

それ故、カミンズ嬢が自分で会ったこともない人々の心理的な特徴を再現する事実や、また、彼女とオズボーン・レナード夫人との間に交わされた交差通信の観点からみても、この本に示された自動書記が、彼ら自身のいう、あの世以外の所からくるものとするのは非合理なことだと考えます。

 マイヤーズ出現の最初の微候があった当時、私達は、彼に全くなんの面識もありませんでしたし、彼については殆ど何も知らなかったのです。彼の亡くなったのは三〇年も前のことで、その頃のカミンズ嬢といえば未だほんの子供でした。私達は彼と接触しようと思ったわけではなく、有名な彼の『人間個性とその死後存続』という本もその他の著書も読んだことがなかったのです。

 通信が実際に紙の上に現れるやり方を述べるのは、読者にとって興味のあることかもしれません。

「おはよう」とか「今日は」の後に、フレデリック・マイヤーズと言う名前が書かれます。少しばかり親しみのある会話が交わされた後、前の原稿の最後の所を大声で読むことを要求されます。

次の章の表題が紙の上に現われ、その一行の下にくっきりとアンダーラインが入れられます。そして各章の内容が素早く書き出されるのです。


 たいていの場合、自動書記の前に長い瞑想をするというようなことはなく、また、一旦通信が始まると休止なく書き続けられます。カミンズ嬢も私も、内容が現れるまではなにが出てくるのか全く見当もつきません。心霊エネルギーが尽きますと、書記は中途の切りのよいところで終わってしまいます。

この書記の能力は、カミンズ嬢の普段の能力を遥かに上まっており、また、語と語のあいだに切れ目がないのが特色です。大体において段落や句読点は後になって挿入されるのです。

 この通信者と称する霊は、しばしば英語という言語に不満を唱え、彼の意図するところ・・・つまり地上を超えた世界を表現するのに相応しい言葉がないことに苛立ちを示しました。

 見えない世界からの通信者は、しばしば彼らの用いる言語は想念を媒介にするものだと強調いたします。それ故まず想念が通信者から自動書記するものの内在意識の中へと投げかけられ、そこでその想念を表現する言葉を見つけ出すのです。

 このことについては、以下の引用が興味深いでしょう。これはマイヤーズを名乗る霊が、カミンズ嬢を通して通信すると言ってから、二度目のときに淀みなく書き出したものです。

 「この内在意識をこちら側から扱うのは非常に難しい。われわれはそれに通信内容を刻印する。直接に霊媒の脳に刻印することはまずもって不可能である。内在意識がそれを受け取って脳に送るのである。脳は器械にすぎないのである。

内在意識は柔らかい蜜蠟のようなもので、想念を受け入れ、それに当てはまる言葉を見つけだす。交差通信が困難なのはこのためである。仮に想念を送ることに成功しても、実際にどんな言葉がその想念を表現するかは内在意識の中
にある内容によって専ら決まるのである。

もし私が一つの文章の半分をある霊媒に送って、ある半分を他の霊媒に送ろうとしたとすると、私は一つの同じ想念を二人に送って、その一部が一人の霊媒から、他の一部がもう一人の霊媒から出るように内在意識に暗示するしかないのである。

われわれは霊媒の内在意識を通して印象を伝える。内在意識は奇妙なやり方でそれを受け取るのである。内在意識が通信に肉体を与えるものとすると、われわれは精神(真意)を与える。言い換えれば、われわれは想念やそれを組立てるべき言葉を送るのであるが、その言葉の実際の文字や綴りは、

霊媒の記憶から引き出されるのである。実際には、われわれは想念のみを送り霊媒の無意識の心がそれに言葉を当てはまることが多い」

 右の説明は目に見えない世界からやってくるという通信は、通信者と霊媒の間に協力がなければうまくいかないことを示しています。それ故明らかに、通信の質は通信を送ってくるとされる霊が働きかける人の、心と脳の持つ教養と語彙に依存していると言えましょう。

ということは、当然、もし知力の劣った人間の心が、教養ある通信者によって用いられる場合には、そのような通信霊は自分の思想の正確な翻訳を地上に伝えることは難しいということになります。

 この説明は、通信の中に、しばしば、他界からくるかどうかが問題視される観念の混乱や、馬鹿げた意見がみられること、そしてそのことが結果に於いて世間の人に、人間個性の存続を疑わしめるもととなることなどを非常によく納得させるものです。

 書記が現れるスピードについては前にも触れた通りですが、更に幾つかの細かな点をみてみると興味深いものがあります。閾下自我に関する難解な論述が書かれたときを例にとってみると、この論述の最初の一四一〇語は、およそ一時間五分のあいだに書かれたものです。

これと対照的にカミンズ嬢の原稿作成能力は、一所懸命やったとしても、約八〇〇語からなる一つの記事を書き上げるのに、七、八時間かかっています。

自動書記のための交霊は一時間半ほどですが、ときとしては二時間以上に及ぶことがあります。この二時間の間に、二六〇〇語のことばが休みなく通信されたこともあります。ある時などは五人もの目撃者のいる前で、一時間十五分で、二千語を書いたこともありました。

死後の生活に関する観察記述は様々なルートを通して伝えられてきましたが、それはしばしば余りに物質的であったり、地上の生活と似すぎていることで非難されています。

そのため、とても一般の受け入れるところとならないのです。この本の最初の部分に書かれた事柄もあの世の生活に言及していますが、それはこれまで死後の生活が多くの人々に馬鹿げた魅力のないものに思われてきたわけをよく説明しているようです。

通信者と称する霊は、自分は無謬ではない、がしかし、「自分で体験した真実」を書こうと努めていると言っているのです。

 帰幽者とこの世の人間との通信は「内容が馬鹿馬鹿しいか、さもなければ無意味である」という理由で認められないのだと主張されてきました。

 私はこの本の内容を馬鹿げたものでも、無意味なものでもないと言いたいのです。たとえば、閾下自我についていわれている事はどうでしょうか。ここに述べられたことは明らかに、下らないことばかりが通信されるという従来の主張を反駁しうるもので、この点について、スタンリー・ド・ブレイス氏(『心霊科学』編集長)はこう述べております。

『ここには、あの世における人間の構造・・・という最も重要な問題が扱われています』そして更に、「エーテルの物理学といったものがもっとよく知られるようになれば、ここに述べられているようなことは、間違いなく承認されるようになるでしょう。

心霊的なものの機能が物質的なものの機能よりより複雑ではないと想定されるような理由は何もありません」と言い、また更に第一部についてはこう述べています。「私は一見してこの中に真理を認めます。

そしてその形而上学的理論体系についていえば、一読して直ちにその細部まで納得するわけにはいかないとしても、それは一つの体系として論理的なものだと思えます」

人間が次の世で経験する状態の説明が知的に述べられているという点で、この書は思考力のある人々の関心を引くことでしょう。ド・ブレイス氏はこの本について更に次のように述べています。「貴女方は私が永いこと探し求めていた理想のものを私に紹介して下さいました。

これはとても独創的で、かつ途方もなく素晴らしいものです。これらの通信には何ともいえず興味深いものがあります。これが、W・H・マイヤーズのものかどうかについては今のところ問題は残りましょう。しかし、これらが目に見えぬ世界における人間の魂の永い進歩を明らかにする、殆ど最初の試みであることは認めてよいと思われます」

 これらの自動書記が得られた情況についてのカミンズ嬢と、オズボーン・レナード夫人間の交差通信に関する詳しい記述は巻末に付されています。これらは少なくとも同じ霊的実態が二人の別の能力者を通して通信したと称している、という事実を示すものといえましょう。

                               E・B・ギブズ






      第一部 死後の生活                            G・カミンズ

以下の「はしがき」、「第一部」、「第二部」及び「補遺」はF・W・H・マイヤーズがジェラルディーン・カミンズを通して通信してきたとされるものである。 

    マイヤーズのはしがき

 神秘家たちが「他界」と言い、「死後の生活」と言い、またあるいは「我等が父の多くの住処」とも呼ぶ世界について書き記すにあたり、私の知識と経験に限界のあることをどうかご理解いただきたい。

私はただ、私の感知しえた真実を書こうと努めるのみである。それがもし誤って神を冒涜する結果になったり、また単に先人の既に踏み固めた道を辿るにすぎないものであるときは、どうかお赦し願いたいのである。

 われわれは同じ一つの目的を目差して励んでいるのだと私は思う。われわれは、もしわれわれが人間の霊的な本性に関する人類の知識の総体に何かを加えうるならば、そのために味わう苦痛や骨折りは報われたと感ずることであろう。

われわれは世間の耳目をそばだたせるようなことを行う力は到底持ちえないが、それでもわれわれの知覚を超えたところに無限に広がる広大な探究の領野があるのだということを知らしめるのに何かの役割は果たしうるであろうと思う。

 ここに私が示す観察は、私の「他界」知識を表現したものである。私はただ、私の知るところの真実をあなた方に伝える。魂が死後にわれわれが住むべき諸状態の一つに生まれ来る時、その条件は様々なのである。私はこの「生まれ来る」ということばを魂との関わりを考えて、熱慮の上で用いたつもりである。

というのも、地上の普通の不可知論者考えているような土くれの肉体の中に住むことなどは、われわれからみればまさに死せる状態としか思われないからである。実際の話、われわれ影の世界の住人たちの多くの者は、今この瞬間に、地上に住む低次の動物的な種類の男女の肉体には果たして魂が宿るや否やを殆ど疑問視しているのである。


   第一章 生存の目的      永遠の謎

 人間はいったい何処からやって来て、何処へ去っていくのか、という主題に想いを馳せ、素晴らしい着想を展開した書物はこれまでにも数多くあった。がしかし、そのものずばり、人間は何故創造されたのか、物質宇宙は空間を疾走し続けながら、その要素をいささかも減ぜず、不滅で、変わりゆくものはただ表相のみであるようにみえるのは何故かを論じえたものは少ない。

 この宇宙は「巨大な無目的の機械」だというのが前世紀の科学者たちの形容であり、そう表現することによって彼らはその時代の知的人間に共通の信念、すなわち、「理由などはない」という考え方を表明したものである。

それ故、この宇宙の目的が完遂されるということもなく、物質世界だけが唯一の現実だということになる。このぞっとする、無目的の、生命と運動の機械的な劇が、まるで死者たちの演ずる劇のように、単調に、果てしもなく上演され続けるというのである。

 今や真理は私たちの手の届かないものとなってしまっているが、こうした憂鬱きわまりない結論をもちきたらす人々の陥る誤謬もひどいものである。

しかしながら、精神とは元来、物質とは別に存在するものであるということが理解されさえすれば、存在のこの奇妙な劇の続く理由が誰の目にもはっきり分かるようになるのである。

 そこでまず第一に、この宇宙を簡潔に、できれば一言で定義する必要がある。その為には以下のことを作業仮説として採用するなら、永遠の謎に答を見出すこともあながち不可能ではないであろう。

その一、影の世界と実体の世界がある。
その二、物質と魂と霊とがある。
その三、顕現するものとその源泉とがある。
その四、神はすべての統一原理である。
その五、物質は無限に微細な実体に分割できる。
その六、部分は霊の世界で再統一される。

 右にいう霊とは、個我の奥底に潜む精神のことであり、そこから分岐して進む数々の魂をその光の下に養っているのである。それは神の一思想である。しかしこの思想は人間的な意味での個別性というものを持たない。それは創造者、すなわち生命の本源である一者からは分離したもの、という意味での個別化なのである。

 神秘家たちは内在の神について語るが、これは誤った考え方である。神という言葉は、至高精神、全生命の背後にある一大観念純粋思念という観点からみた全体、つまり、現存の一部始終が一つの心的概念として生み育てられているところの本源を意味するのである。

宇宙におけるあらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる事実、あらゆる部分がこの全体の中に含まれている。その中にこそあらゆるものの最初の概念が存在する。神秘家たちがこれを称して彼自身の内なる神なぞと呼ぶことは、途方もない戯言(たわごと)なのである。

 大精神が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらの殆どすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。

彼らが自らを完成し、完全な知恵と真の実在に到達するまでには、数知れない経験を積み、また無数の形態の中に自己を現わし表現し続けなければならないのである。しかしひと度これが達せられるや、彼らは神の属性を身につけ、彼岸に辿りつき、崇高なる精神の下に同化して、全体者の一部となるのである。

 それ故、これらの諸霊が宇宙に出現し、様々な外観を持ち、また人間としての地上生活の悲喜こもごもを経験する理由は、皆ことごとく、「霊の進化」という言葉の中に見出されるのである。

霊の進化は幾多の制約を忍びつつ、また形態的表現を繰り返すことによって達成される。この表現を通してのみ霊は胎児状態から成長し進歩する。またこうした形態的顕現を通してのみ完成に至るのである。

 この目的のためにこそ我々は生を受け、またこの目的のためにこそ無慮無数の世界と状態を経験するのである。かくして物質宇宙は常に成長し、拡張し、精神に更に一層十全な表現を得させようとするのである。

 それ故、実在の目的は次の一句に集約される。すなわち、「精神は物質の段階的で多様な変化の中で進化する」ということである。精神は物質への顕現を通して進歩し、拡大する宇宙の中で無限にその力を増大し、それによって実在についての真の観念を獲得する。

神の無慮無数の想念、すなわちあらゆる形態に生命を賦与する諸霊たちは、皆、神の最も低位な顕現である。それ故にこそそれ等のものは、神の似姿に近づいて、全体の有効な部分となることを学ばなければならないのである。

  



   第二章   魂の旅程表 

以下に掲げるのは、遍歴する魂の旅程表ともいうべきものである。

(1)物質界
(2)冥界、ないし中間境
(3)幻想界
(4)色彩界
(5)火焔界
(6)光明界
(7)彼岸、または無窮

 各界での経験の新しい始まりごとに、冥界ないし中間境にあたるものがあると考えていただきたい。そこで魂は自己の過去の経験を振り返り、新しい選択に直面し、意識の階梯を上に登るか下に降りるかを自分で決定する。

(1)物質界は、肉体といういわゆる物質の形態上で経験するすべてを含んでいる。この経験はなにも地上での生活に限定されるものではない。無数の星界には似たような性質の経験世界が存在する。ときとしてはこの身体は他の星界上での身体よりも速くあるいは遅く振動する。しかし、いずれにしても、「肉体的」という言葉が表す性格と性質のある状態があるのである。

(3)幻想界は、各自が物質界で過ごした生活と関連のある夢の期間である。

(4)色彩界。この世界での存在は感覚に縛られず、直接に精神の統制を受ける。依然として形のある存在であるから、物質界と言ってもよいが、この場合の物質とはとても精妙なもので、むしろ物質の精気と呼ぶべきものかも知れない。色彩界はまだ地上圏内ないしそれと相応する他の星界の物質圏内にある。


(5)純粋火焔界。この状態では魂は、永遠の絨毯の中に自己の本霊が織りなしつつある図柄に気づき、同じ霊の中に養われている同類の魂たちの感情生活を知悉する。

(6)純粋光明界。ここでは魂が同じ類魂内の魂たちの知的生活を知悉する。

(7)最後に第七界。一つの本霊とその様々の現われである魂は、今や揃って至高精神たる神の想像力の中に入り込む。全世界、諸宇宙の宇宙、存在のあらゆる状態、過去、現在、未来等々のすべての発端はそもそも此処にあるのである。此処にこそ生々持続する完全なる意識、つまり真の実在があると言える。


 訳者注
本霊(spirit)通常の霊という意味とは違い、類魂を束ねる霊の意味に使っている。日本的に表現すれば、親神とか守護神に相当するであろう。浅野和三郎氏はこれに「本霊」という訳語をあてているので本書でもこれを踏襲した。上方からさす本霊の導きとか上級の魂という程度に用いられることもある。なお通常の「霊」という意味で用いられるのは、本書では「魂」soulである。

 類魂(group soul)
すべての魂はある類魂の中に属し、一つの本霊によって養われ指導され、大宇宙の進化の途上である目的を果たすとされている。第三界までは、この類魂の存在に気づかず、その指導を上からのインスピレーションとして感ずるのみであるが、第四界ではその存在と特徴に気づき、第五界、第六界では次第に類魂と同化し同じ類魂内のすべての経験を共通体験として知りうるようになり、

遂にはその本霊と一体化する。浅野氏はこのグループ・ソールの考え方に出会って、氏自身の独特な霊界研究とも一致するところから驚嘆した。但しこの類魂の概念は細部においてははっきりしないところがある。その成員についても二十、百、千というような数字を挙げているかと思うと、植物、動物などまでこの類魂の中に養われていると説明されている。 



  第三章   幻想界(第三界)

 簡潔は理解の要諦であるが、同時に誤謬の元でもある。もし私が永遠の生活ということの興味ある題目ついて手短に論述しようとするなら、予め小辞典を作っておく必要があるであろう。

 私はまず最初に、あの騒々しい生の波が砕け散って、日ごと夜ごと岸辺を洗う潮のようにわれわれの世界に流し寄せられる新帰幽者の群れのことを明確にしておこう。誕生と死は同じ意味を含む二つの言葉である。今の私にとってこの言葉はなんと奇妙に響くことか。というのも、私はもう長らく、この二つの言葉が無用になってしまった世界に住まっているからである。

 大雑把にいって、この新米の死者たちは次の三種類に分類できる。

 霊的な人
 魂的な人
 動物的な人  

 これらの三者は、その各々を更にいくつかの段階に分けて高低を付けることができる。しかしまずこの三者を心に銘記せよ。なんとなれば、これらのうちのどれに属するかによって、あなたの未来の状態も決まってくるわけであるから。

 以下に、各界の状態ないし環境を分類してみよう。

第一に、地上生活がある。

第二に、冥府として知られる端境期(ハザカイキ)がある。

第三に、地上生活の思い出と反省に過ごす生活で、「常夏の国」として知られている状態があるが、私としてはこれを「幻想界」と呼びたい。

第四に、地上生活に似てあくまでも形態を纏う生活であるが、この世界の者は物質宇宙に繋がれた肉体よりずっと精妙な身体の中で生きる。

第五に、類魂内での精神的知的経験をする時期であり、それと共に類魂内において同じ本霊に養われる様々な魂たちのこれまでのあらゆる段階の経験を知り尽くす。(ただし、これは感情的な思考作用の上で知るのみである。)私は他のところで類魂についてあなた方に説明しておいた。

第六に、「時」の内と外における意識存在としての生活がある。この場合、形態のうちで過ごした生涯はすべて時を計る尺度となっている。それは最も微妙な形態における生活であると同時に、その色合いと程度に未だ幾分か物質的なところを残している。最後に

第七番目の状態、すなわち、遍歴する魂がその本霊のもとに融合するときがやってくる。あなた方が彼岸に入ってこの至福の状態に到達するとき、初めてそこで不滅という言葉の真の意味が理解されるのである。

物質は超越され、投げ捨てられる。無時間の中に入って行き、あらゆる生命の背後にあるイデア、つまりは神と一体になる。もっと具体的に言えば、あなた方があらゆる階層の世界でいつも結びついていた神の霊のある部分と一体になるのである。


    

        記憶の世界 
 
 あなた方のいうこの地球は鏡に映る映像のようなものである。それは、鏡面に投写される映像を通してのみの真実性しかない。それ故、地球とは何かと言えば、それは個人の持つ知覚や心に描く像の性質をどのように認識するかにかかっている。

土で捏ねられた人間は、あるやり方で真実のものとは異なる奇妙な幻想、つまりは迅速に回転する球体を見るだけなのである。
 
 人がその重たい肉体を脱ぎ捨てて、もっと精妙な体の中に飛び込んで行くときは、地上生活の持つ基本的な非現実性に気づいていないことが多い。そうした人々は自分の慣れ親しんだ夢を必死で追い求める。そうしたとき魂が戸を叩くとその戸は開かれ、彼はその主たる特質が地上生活にそっくりな夢の中に入ってゆく。

 といってもその時の夢は記憶から来るもので、彼はその記憶の中に暫く住まう。そこではもし望むならば地上生活を作り上げていた諸活動がすべて引っ張り出されて来る。

しかし決心さえすれば、私が死後の世界の「産着」(うぶぎ)と名付けているこの地上の記憶の渦巻きから逃れることもできるのである。何故ならここでの魂たちは、赤子のようなもので、自分たちの住まう真の世界に気づいておらず、彼らを取り巻く巨大な生命の渦巻きや驚嘆すべき知的活動、およびその成果についても幼稚で何も知らない状態なのである。

 このような幼児期の魂は、しばしば地上における睡眠と似た状態で地上の人々と交信する。そのとき彼らは自分の記憶の世界について説明しようとする。それはその時点におけるあなた方の世界と殆ど正確に一致する。ある者はこの状態を「常夏の国」と呼んでいるが、まさに適切な呼び名である。

というのも、肉体の制約から自由になった魂は今までよりも大きな精神力を持つようになり、自分の好みにあった記憶世界を選べるからである。

そこで無意識的にも本能的にも自分の好みの世界に住み、古傷には触れないようにするものである。そのため暫くの間は、この美しく幼い夢の世界に浸っている。

 彼は赤子のように夢見、自分が今や移し植えられた偉大な世界の生活については何も知らず、何も関知しない。むろん時と共に霊的知覚が目覚め、この記憶の夢幻境から逃れようとするとき、すなわち、自分の知的能力の高まりや、なかんずくより精妙な世界に居住する適応力を自覚するときがやってくる。そのとき彼は、この幻想状態を離れ、これまで通信してくる霊たちが殆ど触れることのなかった世界に入るのである。

 記憶の世界を越えて旅をして来たわれわれからみれば、こうした帰幽後間もない者たちの言う天国だとかその他の世界だとかは虚構のものである。なんとなればそれらは現実のものではなく、反映の世界であり、霊的な知識の前には消えゆく一場の夢だからである。

死の関門を越えたとき多くの人はこの状態のお蔭で幸福な気分でいられる。しかしそれは植物的な幸福であり、自分の住んでいる世界について殆ど何も知らない幼児の無知の満足に等しいものなのである。


  

        冥府 

 冥府は、人によってはこれを※幽界と呼ぶこともある一時期のことである。肉体の崩壊が始まるとすぐに、短い間だが、人間を一つにまとめ上げていた諸部分の外見上の解体と一時的な混乱の時期がある。この冥府の時期と結びついた不愉快なことどもをどうか思い出さないようにしたいものである。

 私の場合は、我が愛する国イタリアで生を終えた。死去の際、私は非常に疲れていた。それ故私にとって冥府は休息の時であり、薄明のまどろみの時でもあった。

長く深い夢から覚めた後では力が湧き上がってくるものであるが、ちょうどそんな風にして、私は冥府にいる間に私に必要な霊力と知力を掻き集めた。地上からやって来た人々はそれぞれの性質と成り立ちに従って、様々に違った影響をこの二つの人生の最前線、二つの世界の境界にあるこの場所から受け取るのである。


※幽界(astral plane)普通スピリチュアリズムの分類法では、現界、幽界、霊界、神界のそれぞれにあてて、肉体、幽体、霊体、本体(または神体)と言う四分法を(神智学の分類法とは異なる)をとっている。マイヤーズの分類はそれと異なる独自もので、冥府のことを指している。通常幽界と言えば、冥府と幻想界のことをいう。

 

        幻想 

 幽界を通り抜ける間に魂は幽体を脱ぎ捨て、エーテル体の中に入り込む。その中にあって彼は好きなだけ反映の反映たる幻想世界、つまり地上的性質を帯びた夢の世界に住んでる。平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。しかしこうした平和の中にいるこも、やがて退屈になってくる。

何故なら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。一寸この界のことを想い描いてみてほしい。環境はあなた方が地上生活で知っているのとほとんど変わりがない。実際のところ、金銭の煩いは何もなく、日々の糧をうるために稼ぐ必要もない。

エーテル体は太陽の光とは別の光によって養われていて、エネルギーと生命力を賦与されている。苦痛に悩むことも闘争に巻き込まれることもない。まるで池の中にいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。

広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。
   


        動物的な人

 もしここに私のいう動物的な人、つまり原始的なタイプに属する人がいたとすると、その人は死後においてそれに相応しい選択をするものである。下方へ降りたいという望みを抱き、冥府に入るときに脱ぎ捨ててきた肉体と同じくらい濃密な物質界の住人となることを選ぶことになる。

一般的にいえば、地上に戻るということである。しかし、動物的な人はしばしば、地上よりももっと濃密な物質から成る他の天体に生まれたがるものだと私は聞いている。

 人類は地球以外の天体にも存在している。しかしその物質的な体は地上の時間とは異なった時間に支配されており、それ故その天体固有の時のリズムのもとに生命の旅を続けているのである。

そのために彼らの物理的身体は、あなた方のそれより速く、あるいは緩やかに振動しているので、あなた方人間の感覚を通してはその体の諸部分を見ることができないかもしれない。しかし私は、彼らの生命の条件や身体の構造が人間のそれと似ていることをもって彼らを人類と呼ぶことにしている。


    

        旅の休憩所

 私は既に幻想の国においてはいかなる進歩もないことを述べた。これはある意味では間違いである。

目に見えるような進歩はないという意味である。幻想の国は地上的性質を持った人の見る夢である。というのも、ここへ入って暫くすると、魂は平和となり、闘争心は鎮まる。しかしその闘争心は夢が壊れ始めると再び目覚める。実際、激情が掻き立てられると、彼らは自分で夢を打ち砕く。

何故なら、幻想界においては、動物的な人は困難も闘争もなしに享楽に対する欲を充足することができ、無価値な食欲が完全に満たされる時期がくると、すぐに渇きがやってくるからである。不満が頭をもたげ、新生活を求めるようになる。

路上での休息にすっかり飽きてしまうのである。地上夢の限界に気づいたところから進歩が始まる。

 動物的な人は魂の喜びを感ずることが殆どない。そこで通常、新生活を心から希求するようになる時、彼の望みは、肉体の中に入り、鈍重な身体という形態の中で過ごしたかつての経験をもう一度したいということである。そこで彼は下降する。といっても上昇するための下降ではあるが。

地上的性質の夢における経験の結果、彼の自我の高い部分が頭をもたげ始めている。次の再生の期間を通して、彼はおそらく魂の人間の次元まで上昇するであろう。少なくとも動物性を減じて、彼が前生の肉体の中で味わったよりは高い生活をしたいと思うことであろう。

 「常夏の国」は地上的人格の見る夢であるから、それがすなわち天国だとか冥府だとか地獄だとかと考えられてはならないのである。「常夏の国」は旅中の単なる休憩所にあたるもので、魂はそこで地上生活を夢の中で追懐し、その情的な無意識生活を総括する。しかしあくまでも彼らは、その旅程を先に進めるために夢を見るのである。

    

        感覚の人

 あなた方の現在の環境はある意味で自分の想像したものである。あなた方の心はその中に閉じ込められていて、神経と感覚が伝えるものを持って生の事実であると認識している。

もしあなた方が精神の奥所にある自我や意識に焦点をあて、訓練の結果、感覚が伝える形の世界から離れた思念の中に参入できるようになれば、物質界は消え失せてしまうであろう。そしてもはやそれを知覚することもないであろう。

ひとが霊的に充分発達した段階では、全く形の世界から離れることになるが、それまでにはむろん数知れぬ経験を積まなければならないのである。

 しかしながら、より高次な段階では知力が増大するので形態を制御することができ、またそれに生命を吹き込むことができる。彫刻家が形のない土くれを取ってきてそれに形態を与えるように、あなた方の心が形態に生命と光を引き寄せ、想像のままに環境を形造る。

最初、想像は地上の経験と記憶に制約されるので、見たもののうちから翻案してつくりだす。だが、幻想界の段階ではまだ、思考作用によって意識的に環境を創造することはない。感情的欲望や深層の心が、あなた方の自ら意識せざる間にこれを造りだすのである。

何故なら、ここでのあなた方は、未だ地上的自我に縛られ、精妙にはなったが依然として物質臭の濃いエーテル体のうちに閉じ込められた個別な魂だからである。

    


        平凡な人 
 
 肉体をもって人生の梯子を登りつつある人々は、いわば天と地の間に吊るされているようなものだ。彼らは二つの神秘、すなわち誕生と死とを経験する。上を見ても恐ろしく、下を見ても恐ろしいから、バランスをとるために梯子の一段ごとに全注意を集中する。

そこで、いかに登るのに巧みな者でも、梯子の上にいながら、一生と言う短い年月の前後にいったい何があるのかをゆっくり考える余裕はない。

 同じことが死の関門を越えてきた無数の魂についても言える。たしかに、彼らにとり、生命の意味するところは深まり、その大きさも増してはいるが、依然として神秘のままであることには変わりはない。彼らはいわば神と、彼らの見る現われの世界の丁度中間におかれている。

死者たちの多くは自分たちのいる環境や生活状態についての通信を生者に送ってこようと努力するが、それらは大抵彼らの目に映る身のまわりのことどもか、地上から持ってきた狭い個性に縛られた範囲のものである。

 ここにトム・ジョーンズなる一人物がいる。彼は生前、ロンドンに住み、法律事務所の一事務員として生涯を終えた。彼の心と霊は法律の仕事とちっぽけな個性の範囲に縛られていた。

今私がこのトム・ジョーンズの目から見た死後の世界を描こうとすると、陳腐で物質的なあの世の様を書き送ることとなるだろう。彼は精神的にも霊的にも極めて粗雑な状態にある期間しか地上の人に通信できないのである。彼は生れたばかりの目の見えない赤子のようなものであるから、自分の目に見えないものについて書き送っているのと同じである。

魂の目に光が与えられ、目が見えるようになると、私の知る限りでは、もはや地上を顧みないようになるのである。彼は次第に自分の精神の貧しさを痛感するようになる。死後の世界の驚くべき性格を地上の霊媒たちのことばを借りて表現する力は彼にはない。

彼が黙り込むと、生と死とを隔てる黒幕の彼方からは、かすかな他界の音楽ももはや聞こえてはこない。宇宙の内なる宇宙、生命の内なる生命、そして神の無限の想像力の中で港に憩う舟のように安らうすべてのものの奇(くしび)な響きも、絶えて伝わってはこないのである。

 トム・ジョーンズは多くの人を代表する例である。彼は自分の仕事に関してはあらゆる事柄に精通したよき働き手であるが、彼の生活はそれのみに限定されていて、楽しみも少なく余暇もないところから、人生の究極の目的などということを考える暇はない。

馬具をつけ目隠し皮をかけられた馬が駆り立てられるように、揺り籠から墓場まで引っ張りまわされる。その一生は波乱に富んだものではないが、多少の喜びと悲しみがある。

 それではこの大衆のシンボルのような人トム・ジョーンズやジョーンズ夫人、更にはまたジョーンズ嬢の死後の運命はいったいどうなるのであろうか。死後の「たくさんの家々」を調べるためには、まず、世間一般の平凡な男女の例をみたほうがよいだろう。

彼らは死後瞬時に変えられて、霊的にも精神的にも高く進歩した賢者になるのであろうか。それともあくまで所謂進歩の法則に従うのであろうか。

 右の二つの質問にまず答えなくてはならない。トム・ジョーンズが死によって急に賢者や霊的天才に変わるものならば、それはもはやトム・ジョーンズであるとは言えないことになる。それ故死後に生き続けているとも言えないのである。しかしながら私は、彼が進化の緩やかな道程を歩むであろうことを保証する。

彼は生前の醜さ、狭隘(キョウアイ)な人生感、好悪の感情等を持ったまま次の世界に誕生するのである。つまり全くもとの人間のままで。このような人間が高尚で霊的な生活を営むなどとは土台無理な話である。彼は精神的には未だ産着を付けたままの男である。

それ故地上で赤子が取り扱われるように扱わなければならないのである。世話をやかれ保護されなくてはならず、急な変化や乱暴な取り扱いは禁物である。それに耐えられる霊的精神的成熱が十分ではないからである。

 平凡な大衆の一人である彼が、地上時代の夢の中へと戻って行くのは、あとにも述べるように、やがて彼が未来に向かって前進し、究極のゴール、つまり霊的な想像の世界へと進んでいくときのためである。そこで彼は無時間の世界に入り、偉大な宇宙絵巻から出て、創造者の精神のなかに入っていく時、その至福の状態は訪れる。

しかしそこへ到達する前にしなければならないことが山ほどもある。今は彼はまだ玩具を欲しがる子供の段階にあり、外観の世界を必要としているのである。

 もっと進歩した魂たち───それを教会では天使と呼ぶようだが、私は「賢者の霊魂」としておく───が広大無辺の宇宙の中に、希薄微妙な形態で存在し、想像もできないほど生き生きとした生命活動を営んでいるのである。

トム・ジョーンズがこのような尋常ならざる猛烈な生命の状態を目にすることなどは全く不可能なことである。

 われわれのように、ほんの少しばかり先に進んだ者は死の門のすぐ傍らに控えていて、彼のような新来の人々を、ある準備期間をおいた上で、地上生活そのまま、彼らの信じるそのままに展開する夢の世界へと案内する。彼らは自己のうちに地上時代の全生活を思い出すだけの力を秘めている。

慣れ親しんだ環境こそが何にも増して彼らには必要なのだ。彼らの求めるものは、宝玉の街でもなく、また無限についての奇怪な夢でもない。

彼はただ自分のよく知った故郷の景色を切望する。彼らはそれを現実に見るのではなく、自己の欲するものを幻想として見るのである。

 「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識の記憶の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。賢者の霊魂が思念を送ると、トム・ジョーンズの目には一つの映像が生み出される。

そのお蔭で彼は、死後の最初の時期に空白や虚無の感じを味わわなくてもすむのである。彼が薄明の中で眠り、さなぎの中で憩う間にエーテル体が形造られる。やがてそれは蝶となって偉大な霊智の魂たちが思念集中によって生み出す世界のうちに出現する。

このような想念力を持った方々を私は賢者の霊魂と呼び、創り出されたものを「創造的生命」と呼ぶのであるが、それ以外に適当な表現がみあたらないのである。

 一つの情景が、未発達な魂の記憶から引き出される。それはトム・ジョーンズやその仲間たちの知っていた田園風景と似ていなくもないが、それよりずっと美しい。この田園風景は現実のものではなく、夢である。しかしトム・ジョーンズにとってそれは彼の事務所の机や、毎朝彼を起こしてくれた目覚まし時計と同じように、現実的に見える。

それは疑いもなく彼の知っているあのロンドンという灰色の小さな世界よりも魅力的ではあるが、しかし本質において英国を形づくるあの懐かしい要素から成り立っているのである。

 夢の中では、ずっと以前に亡くなった友人や、何人かの自国の人々の姿を見る。それらの人々は生前彼が本当に愛した人達である。

 トム・ジョーンズが死後の環境にいる様を想い描いてみよう。彼はそれを生前と同じ物質界だと思っているから、彼の生来の内気さを刺激しないように配慮しなくてはならぬ。彼は素朴な魂で、清い尊敬すべき一生を送り、欲望は適度に自制した。彼は七十年の生涯を地上のある環境の中で過ごしたのであるが、肉体を去った後も、生前に慣れ親しんだ環境の中におかれるのは何故なのだろうか。

なぜ地上生活に酷似した生活の中に入って行かなくてはならないのであろうか。

 実際をいえば、両者は同じものではない。それはトム・ジョーンズにとっての緩やかな変化期なのである。彼の地上生活における一八五〇年から一九二〇年までの生活は、地に蒔かれた一粒の種の発芽期にあたるものなのである。

その新しい緑の新芽が、光を求めて上に伸び、やがて時が満ちたとき次の生活へと移行する。彼を含めた幾つかの小さな植物の栽培を任せられた庭師は、それを適切な促成栽培の温室へと移し植えるのである。前にも述べたように、これまで慣れ親しんだのとよく似た世界に案内するわけである。

 この旅人たちはやがて、同じ性質を持った者同士が一つの環境に親しく集まっていることに気づく。

しかしひとりひとりの実際的な要求は殆どの場合おなじでないことも知る。彼らのエーテル体は食物を必要としないので、その生活の大部分を機械的な仕事に費やさなければならないということもない。彼らはあまねく充満する目には見えない実体から自分の幸福に必要なものを引き出す。

地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それ故にまた暗黒の勢力の奴隷でもある。死後の生活においては、ある条件さえ満たされれば、人々は光明の奉仕者となるといってもよかろう。食物ないしそれにみあう金銭はもはや彼らの主要な目的とはならず、ついに彼らは光明に奉仕する時間を手にするわけである。すなわち、彼は余暇のうちに反省し、霊妙至福の精神生活を送れる地位をえるのである。

 今や身体の崩壊と共に、かまびすしくも激越なあの肉体の欲求は消え去る。かつては不可欠のものであった日に三度四度の食事をとる必要はもはやない。飢えという地上生活最大の要件は消滅したのである。しかしまだ多大の考慮を払うべき他の要因がある。

飢えの後にはセックスの問題がある。この要求は身体の崩壊と共になくなるのであろうか。

 私の答は、大部分の場合には「否」である。それは消えずに変化する。ここにおいてわれわれはこの推移期間における大問題に直面するのである。

 まず性欲というものを定義する必要があるだろう。そのうちのいくつかは歪んだものになっている。ここではそのうちの歪んだ部分を取り上げることにするが、そうすることによって人が罪と呼んでいるものにも触れなくてはならぬ。残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。

それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。

彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果それが彼の魂の一部となってしまったのである。 

 しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見付からない。

この求めて満たされざる欠乏状態は殆ど精神的な性格のものであると言ってよかろう。この馬鹿げた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。

彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つあるだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は彼を取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。

 キリストはすべての罪びとたちのいる暗黒の世界について言及した。キリストの言ったのは、われわれが知っている感覚的な暗闇のことではない。彼が言ったのは魂の暗闇、精神の苦悩、満たされることのない歪んだ欲望のことである。

 ついにこの罪びとが自分の惨めさや悪徳と立ち向かう時がやってくる。その時偉大な変化が起こるのである。聖ヨハネが「生命の書」と呼んだ大記憶の一部に触れることになる。それによって彼は、これまで彼の行為がその犠牲者たちに与えてきたありとあらゆる苦痛の感情に気づかされる。

彼は地球のまわりに付き従っている大超越意識記憶のうちの一部分である彼の時代の記憶の中に入って行く。彼が他人に与えたいかなる苦痛も、煩悩も消え去ってはいない。

その全ては記憶されていて、かつての自分や交渉のあった人たちに関する記憶の網に触れると、すぐにそれと分かるようになっているのである。

 残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであろう付け加えうるのみである。

 私は、キリストが罪びとは外なる暗闇の中に投げ込まれて泣き叫び、歯を食いしばって耐えるほどの苦しみを受けると言ったことの意味を説明しようとして、トム・ジョーンズの問題から離れてしまった。罪人が飛び込むのは心の闇の中のことである。

その歪んだ性格が苦悩を自分自身に呼び引き寄せるのである。彼は自由意志と選択する力とを持っていたのであり、かりそめのものといいながら、死後の心の闇を選び取ったのである。

 さてもう少し説明を付け加えるために、地上生活において淫奔な生活を送った女の例をあげよう。

ヨハネに現れた天使のことばに、「汚れた者はさらに汚れたことを行なう」というのがある。よからぬ性生活を送ってこちらの世界へ来たものは、心の王国に入ると同時に、心の知覚力が研ぎ澄まされ、精神の力も増すので、地上時代に支配的であった欲望が強められる。

彼は意志の力で、増大した性情を満足させてくれる人間を自分に呼び寄せる。つまり同類の者たちを引き寄せるのである。暫しの間彼らは揃って性の快楽境に住まう。

 しかしこれらはあくまでも、自己の精神の創出になるものであり、記憶と想像力の産物であることを銘記せよ。彼らは、細やかな感情で友愛を築きあげるという高尚な生活───それこそすべての性愛の精華であるが───を求めず、粗野な感覚の満足を追い続ける。

 彼らは容易にそれを手にして、やがて恐るべき渇きにおそわれる。過度に又たやすく得られたものを嫌悪する時が来る。その時になって、彼らが快楽を共にした人から逃れることがいかに困難かを痛感するのである。

 殺人者もまさしくこの種のともがらである。突然の邪悪な欲望や残酷へと駆り立てる欲情が彼に多くの殺人を犯させたのである。

 幻想の国の最終状態は、浄化の状態と名付けられる。いうまでもなく、渇きの惨めさに気づき、欲望の満足に終止符を打つことはこの上ない苦痛である。欲望の達せられないことよりも更に甚だしい不幸とは、欲望の達成されてしまうことである。

ひとはいつも偽りの夢、惑わしの鬼火を求め続けるものであるから、一時の望みが満たされても、究極の満足は得られないのである。

 無論何事にも例外はある。冥府や幻想の国においても個々人は互いに異なった経験を持つものである。ある場合には欲望を満足させる力を与えられないこともある。実のところそうすることは出来るのだが自分自身の自我がそうした満足を遂げることを許さないのである。

例えば、幻想の国では、冷たく利己的な人は自我を外へ投げ出して欲望遂行のうちに自己表現する力もないために、暗黒の世界に住まうことになろう。

 彼は死の衝撃によって今まで以上に内側に閉じ込められれる。自分はすべてを失ったと思う。そして自分自身の思考する対象を実体として感ずる以外はすべてのものとの接触を失う。鈍い喪失の感覚と他人に対する一切の顧慮なしに自己満足を求める欲望のうちに住まう限り、暗黒の夢魔は続き広がる。

極度に利己的なひとにとって幻想の国は夜だけの世界であろう。

 殆どすべての魂は暫くのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬときは物こそが現実の全てであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思い込んでいる。彼らは未だ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。

そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名付ける夢の中へと入って行く。それ故、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。

 例えば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブリングトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。

彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。

 暫くすると、こうした快楽の生活は彼を楽しませもしなければ満足も与えなくなる。そこで彼は考えることを始め、未知の新生活に憧れをもつ。遂に進歩に向けて準備が整い、重く垂れこめた夢の世界は消えてゆく。
 



  第四章   意識 

 地上生活においては、意識は毎朝目覚めとともに点すランプのようなものである。不健康であればその火は弱いが、健康であればその炎は燃え上がり、出会うものすべてを明るく照らし出し、くっきりと豊かな光芒を投げかけよう。

 この日常的な意識は年令と経験に応じて変化していく。意識は毎年決して同じものではないが、あなた方はその目に見えない変化に気づかないであろう。意識の源泉たる自我こそが、見、聞き、触れるなどにより物質世界をそれと知るものなのである。

既に述べたように、この霊妙な存在は数学でいう総計なのである。死んである期間立つと、重大な変化を被ったこの自我は再び支配力を取り戻す。到達した階層がどこであろうと自我は一個の旅人である。しかし彼はすでに、肉体も血も脳細胞も、また一つの王国をなす神経の錯綜した網も捨ててしまっている。

そこには肉体などより遥かに洗練された形態がある。この形態は相互に通信手段を持っており、霊界の原子からなる新しい構造物全体に生命を与えている。前にも述べた通り、これは霊妙至精の構造物であり、地上の人間の目には見えず、科学者のいかなる精密機械によっても測定できない。

ここに出現した新しい人間は苦痛というものを感ずることがない。というのも今や精神の力が増大しているからである。第四階にまでくると、心が外的形態を完全に支配しているので、心には霊的知的な意味における苦痛はあっても、地上的意味で形態から患わされることはなく、またいかなる点でも形態が心に優越することはないのである。

かくしてあなた方は重大な進歩がなされたことに気づくのである。とはいっても、ひとはまだまだ多くの状態を通過し、無数の障害を経験して、しかる後にゴールに近づき、完成に至るのである。

 私は人間の魂の旅の重要な部分を占める意識を大雑把に次のように定義したい。すなわち、
㈠ 霊、または高次の魂、

㈡ 自我ないし低次の魂、

㈢ そしてそれらの顕現である形態的存在、というふうに。

 同様に、意識の階梯と呼ぶべきものがある。階梯の一段一段は、出発点から究極の到達点に至るさまざまの形態を表している。究極点といっても何らかの終わりがあるという意味ではない。私が究極と言うことばを用いるときは、私の想像しうるものの限界のことを言っているのである。

さて、魂とか自我というのは、階梯の各段階におけるその時々の現実的な自己ないし表面的な気づきのことであり、霊とは上からの光である。霊は階梯の各段のすべてを照らし、全体を含むものである。

それに対し、魂とは部分であり、経験の集合であり、また全生命の背後にある神秘の表出したものである。

 自我が意識の階梯を登っていくに従って、他の種類の魂たちの心に近づいていく。私は既に千とか百とか、あるいは単に二十ほどの魂が一つの霊に養われていると述べたことがある。類魂の意識は存在のレベルが上昇するにつれて増大する。いつしか彼らは類魂の中の他魂の記憶の中に入り込み、その経験を知覚し、あたかもそれが自分自身のものであるように感ずることができるようになる。

精神は最終段階においては共通のものとなる。霊にとって統一原理とは、たえず大きな調和、いいかえれば、より大きな統一体を生み出そうという傾向なのである。

様々な個体はだんだんと混じり合い、経験と心において一つになり、やがて夢にも思わざるほどの巨大な知力の次元を達成するのである。

 意識の階梯の低い段階には、人間的な思考習慣や、地上的人格や、個人レベルの思考にしがみついた魂たちがいる。地上生活においてそれらの人々のあるものは際立った学者であった。しかし知識は智者をつくらない。偉大なインドのヨギ、中国の賢者、徳のある神聖なキリスト教の教父といった面々が、彼らのいるところを至高の天上界と思いつめて、いつまでも第三、第四の階層に留まっている。

彼らは典型的な魂の人であり、彼らなりの欠点を持っているのである。彼らは地上で持っていた考え方に執着し、あまりにも個性化してしまっている。彼らは夢に捕えられ、その誤りにすっかりはまり込んでいる。

例えばインドのヨギや中国の賢者はその特殊な宗教や哲学の理想、つまり物質からの魂の解放とか宇宙の忘我的観照とかのみを追い求め続けているようなのである。

彼らは自己の理想とするものを摑まえたようである。しかしその結果として低次の階梯の一つに留まるのである。彼らは涅槃を達成し、彼岸に辿りつき、神の神秘に参入しえたと信じている。しかし彼らはとてもそんな状態にはいない。というのも彼らは依然として個人的存在であり、地上にいる時に生み出した至福の小さな夢にしがみついているからである。

彼らは淀んだ池に住んで居る。そして進歩もしなければ退歩もしない。彼らは宇宙の物質的側面とは何の接触も持たず、彼らのいわゆる忘我的観照は経験の範囲を狭く限定し、彼らを自己の持つ自我の檻の中に閉じ込めてしまうのである。

 私は前に魂が高次の段階に到達すると、全体を統一する本霊の中に融合し、遂には彼岸に辿りついて神の神秘に参入するのだと言った。そうすることによって形態を脱ぎ捨てた魂は、もはや外的な現れの中に自己表現することはなくなる。

しかし彼岸に渡った霊たちは賢者やヨギたちのような観照の世界には済まないのである。彼らは形態はなくとも物質宇宙全体と接触を保つ。そのことによって霊的知的次元における信じ難い活動を行うのである。なぜなら彼らは今や無限の神秘劇に参画しているのである。

つまり真の涅槃、最高のキリスト教天国にいるのであり、また物質宇宙のアルファとオメガを知り、かつ経験する。あらゆる天体の記録と地球の歴史は一部始終彼らの手中にある。

彼らは単なる後継者ではなく、正真正銘、不滅な生命の相続人となったのである。意識の長い階梯を登る時、あなた方は算数で言うところの小計額であるが、彼岸に渡ることによってまさに総計額となるのである。

 意識の階梯を上から照らす出す本霊とは神の一思想の個別な具現者であると言える。

その思想は通常その本霊自身の生命のうちに留まり続けるが、時としては、人間の自我と直接交渉を持ち、かつ神との接触の直接性や激しさを失わないでいることもある。

こうした神の思想の具現者である「霊的な人」は地球開闢以来おそらくほんの数十人ほどしかこの世に出現しなかった。神の思想が時のうちに流れ入り、肉体を持った人と交渉をもつ時、この種の霊的な人が他の人々と区別されるのは、神からの霊感の直接的な激しさをその霊のうちに留めているという点においてである。

それ故、霊的な人だけが、その言動のうちに永遠の真理を表現しうる。彼は、その肉体が滅びたとき、冥府に安らいはするが、幻想の国にたゆたうことはなく、一挙に階段を駆け上がり、容易に父なる神と一体化する。地上生活にある時間でさえ、彼は父なる神を知り、その霊感を神の想像力から引き出していたのである。



    

  第五章   色彩界(第四界  形相の世界

        魂的な人・・・形象(イメージ)の破壊 

  幻想の国ではエーテル体を身につける。それは物質形態よりももっと希薄で洗練されたものである。あなた方が第二番目の魂的な人にあたるなら、───いいかえると知的にも道徳的にも進歩した魂ということだが───意識の階段を登って行こうという意欲がある。そして、物質的実体に対する熱情は、ほんのわずかな例外を除いては燃え尽きて灰となってしまっている。

 魂的な人のうちのあるものは地上に戻りたいと願う。そうでないとしても、どこか他の星に生まれて、何らかの知的成果を達成したいと思うか、その星の生存競争の中で赫々(カクカク)たる役割を演じたいと望むのである。それ故、こうした人は肉体的に再生する。

しかし大部分の魂的な人々はエーテル体を脱ぎ捨てて、更に精妙な形態を身にまとう。彼らは幻想の国、すなわち、地上生活の古い幻のうちに生きるだけの保育室的生き方から解放される。

 さてこれらの人々は、精妙な身体を身に付けて、私が「超地上的」と名づける世界に入って行く。しかし依然としてエーテルのうちに住まうことには変わりない。エーテルとは本当は良くない表現だ。が、しかし、他にこの微妙な気体を表現する言葉が見当たらない。

あるいはむしろ物質宇宙からの流体とか放射物とかいうべきかもしれない。どうかエーテルとはあなた方の知る物質の先祖にあたるものだと思っていただきたい。しかしどうも本題から離れてしまったようだ。

 魂的な人は主として形態の中に住む限り、超地上的一存在であることに満足している筈である。この状態にも多くの段階があり、形態も多様である。彼らは振動の割合によって互いに異なるのである。

つまり精妙な振動を持つほど霊的知覚も優れたものとなり、理解の範囲が広がるにつれてわれわれが神と呼んでいるもの───すなわち霊的な探究の到達点である神秘───についての経験が深まるのである。

 さて、幻想の国を超えて自覚的に生活し、自己の精妙な身体を自覚するとき、そこは地上世界の源となる世界であることに気づくであろう。簡単にいえば、地上とは、精妙な身体に精妙の宿るこの世界の、醜く汚れた模写図である。

いうまでもなく、模写図を描く人は、傑作をそのまま写し取ろうとするのだが、大抵は問題の作品の魂を伝えることができない。寸法があっていて、線や色が美しくても、その中に生命がないのである。

そのため愛する巨匠の作品の模写を見せられても感動はなく、軽い苛立ちを覚えるのみである。結局のところ模写は模写に過ぎないのだ。それは時として歪曲され、また時としてはぼんやりとした輪郭があるのみで、生彩がなく、いわゆる命が宿っていないのである。

 私の言う精妙世界においても、地上生活では知られていない様々な形態があって、とても言葉では表現しきれないのである。しかしそれでも、地上の自然界の姿とこの光明に満ち満ちた世界の間にはある相似性がある。そこには例えば花もあるのだが、その形は異なり、色彩は目も覚めるような光輝を放っている。

その色も輝きも地上の色域や波長の中にはないもので、筆にも言葉にも尽くせぬものである。前にも述べたように、言葉はもはやわれわれの役には立たないのである。

 しかしながら、この意識界の魂も、争いもすれば仕事もする。地上のものとは違うが、悲しみもあれば喜びの陶酔もある。ここでも悲しみや陶酔は霊的な性質のものである。この両者は想像を超えた種類のものであるが、それらが遂には魂を超地上的な領域の上の境界まで導くのである。





       上層界への入り口・・・・・・形態の神聖化 

 魂が意識の階段を下へではなく上へ登ろうと決心するようになると、精妙な知覚と共に新しい感知力を備えるようになる。かくして彼は第四界に入るのである。地上生活では、平均的な人間の正常な自我の殆どは、身体の欲望に支配されている。

そうしたなかでも霊は生命を鼓舞し、時々は頭脳の暗がりを閃光で照らし出しているのだが力がない。私が深奥の心と呼んでいるこの霊は、今のところ未だ自我の中にかすかに自己を印象付けているのみなのである。

 さて第四界になると、この霊の影響力が、私が魂とか通常意識とか呼んでいる部分にまで強く浸透してきて、時間の世界に身を任せるようになる。するとこの魂は、自己のはなはだ増大した知力を通して周囲の変化を感受するようになる。増大する感知力とともに強い集中力も備わってくる。

細々とした地上の記憶は当分のあいだ失われる。形態の中にある限り、魂は宇宙のリズムに服し、それ故にまた、時間の或る形式に従うのである。「時」と現れの世界を一つのものとして理解せよ。

 とは言っても、魂は地上的な記憶の主なものは持ち続けている。というよりも、第四界の初めにおいては、まだそれとの接触が残っていると言った方がよい。この色彩界というのは、もっと適切な言葉で言えば、「形象(イメージ)の破壊」の世界と言うべきなのである。

意識のこのレベルに達すると、魂は形態(フオーム)の統御法を学び、それとともにあらゆる物的存在の虚構であることを無数の経験から学習するのである。

進歩の初期においては、彼はまだ物の影響を強く受けている。しかし徐々に重たい形象が壊され、自我がゆっくりと高次の魂ないし霊から力を引き出すことを学ぶことにより、自らの意志で自己の形態を壊し、また自分の周囲のあらゆる形態や外観的なものから離脱することが可能になる。

 むろん個々の魂たちの経験には大きな差異がある。私はここでは、上方へとまっしぐらに進んでいく「魂的な人」の俊敏な霊を挙げているのである。多くの魂たちはそれと異なり、海の波の上下運動にもてあそばれるように、浮きつ沈みつ沈みつ浮きつ、それでも以前よりは少しは前進している、というような進み方をする。

 今やこの俊英なる魂は限りない色彩と音の世界に入ったことを知る。そして自分が人間のそれとは全く異なった身体を持っていることに気づく。外観に関していえば、それはただ光と色の想像を超えた複合といえるのみである。この身体の形態は、彼の意識の深部に刻印された全自我の過去の行為によって影響される。

それゆえ、この色彩の混合物は、その形態においては実は奇妙珍妙であったり、言語に絶して愛らしかったりする。また、妙ちきりんな輪郭を所有しているかとおもえば、それこそ地上の美の高雅絶上の夢を超えていることもある。

 この多くの色彩の入り乱れる領域では、精神が直接に形態の中に自己表現しようとするので、形態が猛烈に振動している。そうした振動によって他の魂の想念を聴き取るのである。最初は一時に一つだけを聴き取りうるだけだが、暫くするうちに数個の魂の想念をそれぞれ分明に聴き分けることができるようになる。

そこにはいくつかの点において地上と似たようなところのある世界である。ただこの広大な世界の外観は途方もなく巨大で、魂的な人の受け取り方次第で恐ろしくもなれば優美にもなるところが違っている。それは地上の環境に比べて遥かに流動的で、明らかに固体性が少ない。

この色彩多様の世界は、純粋なる光と生命に養われて想像を超えた速さで振動している。色彩の最下層に住む魂たちは、意識の高まりとともにこれまでよりも遥かに高い感受性を獲得する。

そのため、悪意のある魂的な人の心の状態は、想念力の強力な放射で、相手の光と色でできた身体を吹き荒らし衰弱させる。そこで防御光線を放射する術を学ぶ必要があるのである。

 ある人々が地上生活で仇同士であり、互いに憎み合っていたとすると、それらの人々はこの世界で再び巡り合うこととなるであろう。古い感情的記憶がここで蘇る。

永遠の布地の中に絶えず形を変えて織り込まれているその人独特の意匠というものがあり、あなた方はその同じ模様の中にいる魂たちと、愛憎の念によって避け難く結びつけられているのである。

 それ故、かつて味わった苦痛と快楽、歓喜と絶望を再び経験することになるのである。再びとはいっても、それらは地上における時のものとはすっかり違ったものとなっている。つまり遥かに上質で知的なものである。霊的感受力が強ければ強いほど思い出が呼び覚ます絶望も深く、また逆に、あなた方の存在の深所に掻き立てられる至福の感情も無上のものがある。

 この光に満ちた世界における闘争は激しさも更であり、そこで費やされる努力も地上の計量を超えている。つづめて言えば、全ての経験は洗練され、高められ、強められ、生存への生々しい熱情が限りもなく増大しているのである。

 


       第四界における感知力の増大

 これまで述べてきたことはこの超地上世界の極めて精妙な生活をざっと描写したもので、実際には様々に変化した状態があると考えてもらいたい。例えば霊化した状態といっても、その表現には多くの形式がある。進歩するにつれて魂は幾つもの身体を身につけてはそれを脱ぎ捨てていく。

これらの体は次第に精妙なものとなるので、その材質の希薄さは卓越した科学者によっても想像することが難しいであろう。

 しかしながら一つの法則がゆき渡っている。それは魂は自分と同じ強度で振動しているものの存在にしか気付かないということである。但し、催眠として知られる奇妙な睡眠のうちにある時は別で、この状態にある時は魂は後へ引き返して、一時的に意識の階段を下り、物質性の濃い世界にいる魂と精神的な接触をする。

また冥府にさえ降りていってその霧の中に入り、人間たちと接触もする。そこでしばしば地上の人の夢に捕えられるが、そんな時はあたかも、高次の世界における生活の記憶が一時的に消えてしまったようになる。そのため彼は、ごく稀にしか、有益で興味ある情報を地上に伝えることができないのである。

地上の、しかもしばしば自分のでもない記憶の繭に包み込まれて、とるに足らないことしか報告できない。それはまるで、蜜蜂が、巣の中の蜜に堪能して、酩酊してしまったのと似ている。

 この光に満ちた世界において、魂の感知力は甚だしく増大するが、通常、愛する人を求めて地獄へ降りていったオルフェウスのように、求める相手に意味のあることを伝えられないのである。帰幽者からの自発的通信が少ないのもこうしたわけなのである。

実際、われわれからみると、人間たちは幽霊のような影の薄い存在であるから、彼らがよほどの信念と愛情をもってわれわれを求めてくれなければ、現在や地上時代のわれわれの性格についてはっきりとしたことを伝えることは難しい。しかしこうした調査ならば合法的であって、そのために招霊された人を傷つけたり悩ませたりする恐れはない。

 さて、およそ人間には未知の音や、感情といったものを想像してみることができない。それゆえわれわれが形象の破壊期と呼ぶ第四界で経験する新たな音響、色彩、感情の無限の組み合わせといったものを想い描いてみることは不可能である。

 地上生活のおよそ半分は睡眠、つまり無意識状態で過ごすのである。正常で健康的な自我としての意識には、目覚めている時でも、一秒間に四十回から五十回の無意識の間隙がある。この点では人は暗夜の岸辺に立つ灯台にも似ている。

咫尺を分かたぬ真の闇が海を覆い、時折一条の光が横切って海面を照らしだすが、その光は弱く瞬間的である。人間の意識はそれと変わらないように私には思える。階段を上へ登るに従って光は輝きと持続性を増すので、次第に人影が浮き出てくる。

第四界に到達した人の感知力は、通常人のそれと比べてよほど明るさを増している。身体の希薄化と精妙化が進み、かつ知的活動が盛んになったお蔭で霊と魂の接触が確度と持続性を加えたために、無意識の感覚が以前と比べて遥かに少なくなっているのである。盲目だった子犬の目がついに開き始めたのだ。

 夜の海の光景をもう一度心に描いてみていただきたい。今やそれは灯台の光に間断なく照らし出されている。かなりの間をおいて闇が訪れる。ことばという原始的かつ粗雑な音波を用いて、この偉大な感知力の増大から生ずる様々な意味を人々に伝えることは誠に困難である。

たとえばここでの感情生活における思考過程の激しさは、人間の頭脳の怠惰な動きや地上生活に掻き立てられる情熱に比べると桁違いにみえる。あなた方人間の知的活動をナメクジやカタツムリのそれと比較してみると第四界における魂の精神活動と人間のそれとの差異が分かるであろう。

 われわれの持つ空間概念はあなた方のそれとは全く異なる。しかし無線による情報伝達を例とすれば、おぼろげながらその概念を伝えることができよう。

たとえば私はほんの一瞬思念を凝らすことによって、自分の似姿を造りあげ、広大な空間を迅速に横切ってそれを私に思念を合わせている友人のもとへ送ることができる。たちまちにして私の姿は友人のもとに現われ、彼と会話を交わす───ことばによってではなく、想念によってである───のである。

話の間、私は遥か遠距離からその似姿を操作する。そして会見が終わるやいなや、私がその像から想念の持つ生命を引き抜くと、その似姿は消える。むろん私はこうした接触を、私と同じ界に住む私と波長の合う親しい人との間でしかできないのである。  

 私が念力に現実性を付与するための細かな説明を試みたのは、われわれが創造原理にどの位近づいているかをあなた方に示したいためであった。われわれはこの界で形態の内と外に住む術を習い、最も希薄な実体の玄妙さを学びとる。

そのことによってわれわれは、精神というものの流動的な性質に気づき、そしてそれがわれわれの現われや外観の世界を構成する要素としてのエネルギーや生命力を如何に支配するかを理解するのである。



 



  第六章   類魂        心霊意識の集団

 類魂は一にして多である。一つに霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。前にも述べたと思うが、脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。

 地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。霊的進化というものが分かるようになると、類魂についても学ぶ必要がでてくる。たとえば類魂の説が分かると、多くの難問が再生の原理によって解決する。

馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。前生は自分の一生であってまた自分の一生ではない。

いいかえれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。

 この不可視の世界には無限に多様な生活状態がある。私が絶対に誤謬を犯さないというつもりはないが、以下に述べることは一つの公理であると考えていただきたい。

 魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現わす。本霊は、霊的進化の途上にあって互いに作用しあう類魂を束ねているのである。私が霊的先祖というときは、単なるの肉体上の先祖のことをいうのではなく、一つの霊に束ねられている多くの魂の先祖のことをいっているのである。その本霊の中には二十とか百とか、千とかの魂が含まれている。

その数はいろいろであり、また人それぞれによって違いがある。しかし、仏教徒のいう前生からのカルマというのは、実は私のものではなく、私の遥か以前に地上に出て私の人生の型をつくって残したある魂のものである。

私もまたその生涯を通して同じ類魂の他の魂のためにある型の模様を織りなすのである。われわれは種々異なる界にいる仲間の魂たちの影響を受けはするが、しかし互いに独立した存在なのである。

 仏教徒が輪廻転生について語るとき、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしばしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中に暫しの間入り込む。私はここで「カルマ」という語を甚だ漠然と用いている。

というのも新しい魂が受け継ぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、更に言えば王国の一構成員のようなものなのである.

 魂的次元の人にとってはただ一回の地上生活では不足だという人がいるかもしれない。しかし魂がこちらで進歩すると、自分に先立つ類魂の魂が地上で過ごした生活の記憶や経験の中に入っていくのである。

 私はここで述べた理論が普遍法則として通用するものかどうかを確言することはしない。しかし疑いもなく、これは私の学び経験しえた範囲内での真実である。

 こうした思弁───とあなた方は言うであろう───を天才の問題にあてはめてみると興味深い。地上でわれわれに先立つ一生を過ごした魂は当然のことながら精神的、道徳的影響をわれわれに刻印する。

今ここに或る霊魂の特性が一つの類魂団の中で開発され続けているとして、その特性が仮に音楽であるとすると、あなた方は地上におけるその類魂の代表者として音楽の天才を見出すことになるのである。

その魂は過去の類魂のあらゆる生涯の傾向をみごとに収穫し、天才の特質たる驚嘆すべき無意識的知識を所有することになるであろう。

 死後のこちらの世界で、われわれは進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間たちの経験を自分のものとする。それ故魂としてのわれわれの生活は───自分の個人的自我は別として───二重世活なのだということを理解する必要がある。

私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体の意識のなかでの心的な生活である。

 地上の人々は、ここに私の述べたことを理解しようとしないかもしれない。彼らは死後の世界における不壊の固体性とか、神の生命の中への霊的融合とかに憧れを持っているのである。あなた方は私の類魂分析によって、われわれは個人であるとともに全体の一員であることを理解されたであろう。

そして第四界から特に第五界まで上ると、仲間たちが一つのものの中で結ばれていることの素晴らしさを知り、それが如何に全体の生活を深め、高め、かつ地上にあっては不可避のものたる冷淡な利己心を破壊していくかということに気がつくことであろう。地上においては御承知のように、一つの生物はその物質的生命の維持のために他の生命を絶えず破壊し続けなければならないのである。

 第四界においては、魂は類魂の生活に気づくようになり、それによって偉大な進歩を遂げる。彼は経験というものの性格、つまり心の可能性を一気に知るようになるのだが、第四界においては魂的次元の人であれば、未だまだ過ちに陥りやすい。

というのも、類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から脱け出られなくなるからである。

 そうした例としてある特殊な世界にはまり込む場合をあげたい。例えば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。

それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。

タコとは即ち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。

 こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的なさなぎの中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕らわれたり閉じ込められたりしないことが大切である。
   


         霊的な人

 霊的な人はこうした幻とか亡霊とか地上的信念の遺物のごときものに捕われることはない。したがって、偉大な人類の師たちがこのようなワナにかかってしまうことはないのである。神の子たるイエスは一旦冥府に入りはしたが、その後いかなる階層にも留まらなかった。

キリストは直接神によって命を吹き込まれていたので、類魂とは関わりを持たなかった。彼は冥府から一直線に彼岸へと向かった。というのも、地上にいた間の彼の物質的身体は、神の想像力である本質が物質の中へ直接に具現したものであったからである。

まことにキリストこそは全体者の一部がそのまま姿を現わしたものであり、彼はこの世にあるときも絶えず全体者と結びついていたのである。しかるに、地上にキリスト教徒として生まれる人々は昔、ある個別的霊から生命を与えられている。個別的というのは、神の一思想のことである。それ故それは全体者そのものではなく、また全生命の源泉でもない。

 こうしたわけで、多くのキリスト教徒たちは、地上において正直な生活を送りはするけれども、ある種の知的罪障を犯していることになる。これを一言でいえば「硬直した思想」であり、「幻想によって限界づけられた世界」である。

つまり偏狭な観念に耽っているということである。第四界の生活では、更に進歩しようとするなら、こうした観念の檻の中から抜け出すすべを学ばなくてはいけない。

これらのことは仏教、マホメット教その他様々な宗教の狂信的な信奉者にもいえることである。近代社会においては科学的な諸観念もこのうちに入るのである。何故なら、科学は次第に人類における多数者の宗教となり、特殊な世界観となる傾向がみられるからである。

 さて魂がいよいよ第四界から第五界へと進んでいくためには、あらゆるドグマを投げ捨て、その心の状態を形づくり限定する地上的世界観を振り捨てる必要がある。何故ならその描く世界が偏狭なために、その魂の持つ意識に現実性がともなわぬためである。





 第七章   火焔界(第五界)   第五界への誕生

 第四界へ進む魂が死の準備をする時がくる。この死は地上の人の死とは似ていない。進化のこの時点まできた魂は、形態、外観、幽姿、念体、などを完全に支配できるようになっている。この死は彼と形態なしの存在を隔てる最後の帳にあたる。彼はもう一つの階段を上る前に自己を解放し自由にしなければならないが、それは「形象の破壊」と呼ばれる過程を経てのみ達成されるのである。

もはや外観や形態は必要ではなくなり、色彩や感情も不確かなものとなり、生活の条件ではなくなる。

 再び彼は無意識の中に入っていく。そして第五界に生まれたときは形象の世界にいたときの属性を投げ捨てている。というのも、それまでの彼の魂は一部光体ともいうべき形を持っていたのであるが、今やそれもいらなくなったというわけである。

 各界の中間には、明白な忘却、あらゆる活動の停止、完全なる静寂の時間がある。古代から冥府と呼ばれているのがそれである。ここで魂はしばしば安らうようである。しかしやがて、魂の旅人はゆっくりと目を覚ます。すると眼前にかすかに光を放つ久遠の海があり、そこに彼のこれまでのすべての界での経験が映し出されているのを見る。

彼のこれまでの閲歴を物語るあらゆる過去の映像がそこに展開していくのである。彼はそれを自己の統一原理たる本霊の光の下で学習する。そうすることによって彼の本性次第で、様々の知的感情的欲求が目を覚ましてくる。ここで彼は前に進むか後に戻るかを決めなければならないことを悟る。

実際のところは本霊がその選択を促すのである。そのことは過去の生活の経験が十分なものであったかどうかによって決めなければならないのである。彼は全く自由意志によってそれを決めるのだが、しかし彼にとって最も必要なことを選択せざるを得ないようになっている。

 幻想の国を終えたところでは、動物的な人は物質生活へ戻ることを自ら選択した。色彩界を終えたところでまだ魂的次元にいる人は、この界の第一の段階まで下りていってやり直すことになる。この界の最後の段階が形態の神聖化といわれる段階なのである。

 しかしながらこれまでの生涯を振り返ってみて満足するものであれば第五界へと進むことを決心する。するとこれまでの静寂は打ち破られ、霊的嵐が舞い起こる。

その中で彼は決然として色彩界でのエーテル的生活への未練を捨て去る。そのとき自分の一部分を捨てるのだが、それを永遠に失うというわけではなく、第六界でのより充実した全体生活の中でそれを取り戻すことになるのである。
  


       第五界の象徴

「生命の書」の各章を何らかのシンボルで表す必要があるとすると、「火焔」ということばが第五界を表すのには適当である。何故なら、魂はここでは感情的に結ばれた全体となっており、孤立せず、グループの中の他の魂を実感できる存在となっているからである。

自己は自己であり続けながら、同時に他者の全てでもある。もはや人間的な意味では形態の中に住むことはないが、なお漠然と輪郭と表現されるものの中にはいるのである。

彼の仲間たちの過去の感情、情熱、知的表現形式などがこの感情的思考の輪郭をつくりあげているのであるが、この輪郭こそこの巨大な力ある存在を燃え立たせ、突き動かしている火なのである。

 第五界にいる間の経験は多様であり、増殖されていくので、ある意味では外観上の統一性が失われるようにみえる。彼は、実際火焔が燃えるような一生を送る。それは厳しい修練の時であるが、また知的な感情がすこぶる増大する時でもある。

大いなる制限と限りない自由、そしてまた果てしない地平がちらりと見える時でもある。「観想への没入、夢見ることの苦悩」という表現はまさに彼の思考の明晰さが休止してしまい、仲間の魂たちの激しく情熱的な活動が全て彼の存在のうちで燃えているこの時の状態を表現したものである。

こうして彼は絶え間なく大統括霊の中に融合していくのである。

 このうえなく激しい感情、歓喜、陶酔、悲哀、絶望などが彼に栄養を与え、彼の生命を養う。そうした間もある点では、彼は仲間から離れて独りでおり、感情の渦巻く嵐の中に巻き込まれてはいない。

嵐を感じてはいるのだがその遥か上方に浮かんでいるという感じである。とはいっても、彼の態度は、地中海諸国に壮大な古代絵巻が繰り広げられるのを柱の上から超然として眺めていたという聖シメオン・スタイライティーズ※のそれとは違っている。

※シメオン・スタイライティーズ 390?‐459 シリアの行者。柱行派の祖。30年間柱の上に住み、禁欲的生活を送りつつ説教したといわれる。

 意識の第五界にいる魂は切れ目なく意識を働かせている。そこには、意識の間隙とか空白の時とかいうものはない。彼は一つの本霊の光に浴しながら、そこにたどりつくまでの様々な段階にいる仲間の魂たちの知的、情的生活を楽しんでいるのである。

 火焔界の生活の絶頂にいるこの魂は、あたかも自己の傑作のうちに住む芸術家のようである。その作品のあらゆる特徴や、展開し変化する創造の新鮮さのうちに、天才芸術家でさえ地上にある時は極く稀にまたかすかにしか味わえなかったような無上の歓喜を見出しているのである。

 この第五界の状態たるや人間の心では想像はできても完全に理解できるものではない。この界を旅する魂にはようやく生存の目的が明らかになってくるように思える。彼は天国を実感しつつあるが、最後の謎はまだ解き明かされず彼自身一役を担っている宇宙計画の完成を待ち続けている状態なのである。

 それはまだある種の難点を持つとはいえ、素晴らしい世界である。魂的な人は、類魂が完成し、永遠の織物に織り込まれる模様に必要な他の魂たちがこの同じ意識のレヴェルまで到達するまでには、第六界に向けて出発しないでいる。

ある者はまだ遥か後ろにいる。この状態で魂的な人は、濃密な物質世界にいる彼の仲間の幼稚な感情生活に気づくのである。つまり、彼の本霊である統一原理が光を照射している類魂団のあらゆる部分に通暁する。彼は彼の本霊・・・彼の支配者であり天上からの光である・・・に繋がる花や昆虫や鳥や動物たち、その他あらゆる形態のものたちの無意識の生活を悉く知るのである。
 
 



       類魂の構造   

 ここで、類魂の構造をはっきりと心に描いておいてもらいたい。類魂の本霊は、生命と心の光によってそれの所属する植物、樹木、花、昆虫、魚、獣、人間など、進化の様々な状態にある生物を養っている。そしてまた死後の世界の様々な意識の段階にある魂にも命を注ぎ込んでいる。同時に又、他の天体の生物さえ養っているのである。

というのも本霊はあらゆる形態における経験を収穫物として集める必要があるからである。個々の魂の知性は徐々に発達し混じり合う。本霊にとっての経験は、類魂独自の模様の完成に必要な魂がすべてこの五界に辿りついた時に完全なものとなる。

彼らがいよいよその一者と固の関係に気づいたとき、初めて第六界へと進むことができるのである。その時にあたって、括った紐が切り離され、情的経験の不要なカスは捨てられ、所属の類魂内での役割の移動と交換が行われる。彼らは再び冥府入りして、これまでのすべての総点検を行うのである。




 
第八章   白光の世界(第六界)
 
         純粋理性 

 光は多くの色から成るが無色である。本霊は多くの魂から成っているが苦楽を越えた存在である。それ故、白光に象徴されるところの第六界に属する。

 意識のレヴェルにおいては純粋理性が君臨している。御存じの感情とか情熱とかはここにはない。白光は純粋理性の完全な静けさを表している。経験の最後の王国に入った魂はこうした静けさを自分のものとする。彼らは形態の持つ叡智、計り知れない秘密の叡智を身につけている。

それらは無際限の年月にわたる不自由な生活を通して集められ、獲得したもので、無数の形態のもとに過ごしたこれまでの人生の総決算である。

善悪の知識と同時に善悪を越えて存在する知識も今や彼らのものとなった。それらを征服した今、彼らは人生の王者である。彼らはもはや形態なしで生き、白光として存在し、創造者の純粋思想として生きることができる。彼らは不滅の中に参入したのである。

 第六界の存在目的は「多者が一者に同化すること」と言い表しうるかもしれない。すなわち、私が魂と呼んでいる精神の単位全体が本霊の下に統一されることである。

この目的が完遂されると本霊は個的な生命をその中に抱え込んで彼岸に渡り、宇宙神秘の中に融けこむ。そしてそこで最後の目的たる至高精神としての進化を成し遂げる。
 

 
第九章  彼岸ないし無窮(第七界)

      神性原理との一体化

 再び選択がなされなければならない。魂は有限の時間から無限の時間へ、形態を持った存在から形態を持たない存在へと大飛躍をする準備が整ったのであろうか。これは答ることが至難な問である。初めてこの問に直面した時、確信をもって答えられる魂は甚だ少ない。

 第七界の状態は「有形から無形への移行」であると表現できるかもしれない。しかしどうか無形という言葉を誤解しないでもらいたい。それによって私は単に、いかに希薄精妙にであろうと、形態をもって自己を表現する必要のない存在を指したつもりである。

第七界に踏み入った魂は彼岸に渡り神と一体になる。神的観念、すなわち霊なるものの大源泉に融合することは消滅を意味しない。あなた方は依然魂として生き続ける。

あなた方は大海の一波として存在するのである。つまり最後に真の実在の中に踏み入ってすべての幻想と外貌を捨てるのである。しかし永らく物質と慣れ親しんだことによってあなた方に何らかの触知できるものが加わっていることは間違いない。それは物質の先祖としてのエーテルや科学者が真空と呼んでいるものを含んでいるのだが、この真空とは実は限りなく精妙多様な形態的存在で詰まっているのである。

 実際のところ、第六界から第七界への移行は物質宇宙ないしその一部分たる空間領域からの脱却を意味する。この最後の界においてはあなた方は時間のみならず空間的宇宙の外に住まうようになるのである。しかしある意味では依然として宇宙の中にいるともいえる。

全体の一部となったあなた方は───「全体」ということで私は神を指しているつもりだ───太陽にも似た存在である。あなた方の霊は物質宇宙から離れてはいるが、その光は広く行き渡り、永遠のしじまを支配している。宇宙の一部であってしかもそこから離れていること、これがおそらく最後の仕事であり、あらゆる努力の終着点である。

 ごく手短に、私は永遠の相の下にある実在の姿を紹介し、「無時間」の神秘をあなた方に垣間見せようとした。あなた方が彼岸に渡り住み、神性原理とその本質において一致し、その部分になるとき、神の想像力のいかなるものかを充分に理解する。

そうすることによってあなた方は時の刻みの一瞬一瞬を知り、かつ地球の歴史の起源から終末に至る全史を知る。同様にあらゆる天体の歴史をも知るのだ。創造されたものはすべて想像の中にある故に、あなた方は今や獲得した不滅の力によってそれを知り、かつ保持するのである。

あたかも大地が種子、生命、過去、未来、その他現在あるすべてのもの、また未来永劫にわたりあるであろうすべてを宿しているように。

 かの霊的な人、神の一人子が『多くの者が呼び出されるが、選ばれる者は少ない』と言ったとき、それは偉大な真理を表現したのである。地球生命のあるあいだに、彼岸に渡れる人はほんの一握りの人達である。幾らかの魂は第六界までは辿り着くがそこに留まり続ける。

稀には崇高な目的でそこから物質世界まで下りていくこともある。だがなんといっても、無時のなかに大飛躍を試みるほどには未だ力がなく、完全でもない。  


 

 
第十章   宇宙

 仏教徒は宇宙は現実のものではないと主張している。がしかし、宇宙はあなた方がその網目の中に捕えられ、法則の支配を受け、物質の放射する「気」とも言うべき不可視のものにコントロールされているという限りにおいて、非現実であるというにすぎない。

「非現実」ということばは虚偽、いつわり、ごまかし等を意味する。魂は形態として自己を現わす間は形態に左右される。形態に閉じ込められているために真実を知りえない。

つまり、最初の五段階の世界に生きる間は狭い世界観しか持ちえないのである。目隠し皮を付けられた馬のように、自己の周囲についての哀れな展望を持っているだけである。宇宙の根本を非現実であるとする考え方は、彼の前方にある魂の道筋が一部だけしか見えていない時に浮かぶ考えである。

更に言えば、形態とはこの道中にあって、魂に道路絵図を示すものである。それ故、宇宙が非現実的なものだとする仏教徒の説はある意味では正しいのである。

 仏陀がわれわれの最終目標は涅槃の中での寂滅であるというとき、───寂滅は消滅とは違うが───危ういことば使いをしているといえる。彼は寂滅の後に至楽の状態、つまりは絶対の世界があるといっているのである。

そのことで彼はわれわれが、物質宇宙から完全に離脱し根源的な非現実から解放されて、無条件世界に生き続けるのだと言いたかったのである。実際のところ、われわれは第七界において、最高観念と一体化するときにのみ宇宙の真の現実を知るのである。

宇宙が魂と霊を閉じ込めている限り、それは非現実である。魂と霊とが宇宙と融合し、解き放たれ、純粋理性の無限の自由の中に住むようになれば、その時宇宙は現実のものとなる。

 こうした状態が達せられると、われわれはこの古き傑作たる宇宙を一つの全体として見るようになる。極微の細かさにおいて知り、極大の大いさにおいて知る。われわれは宇宙を至高の概念のうちにある一個の知的概念として把握し、またそれを演じられつつある劇の一部として観るのである。

かくしてわれわれは、あたかも預言者の如く、また恋する人の如く、全生命を一瞬のうちに洞察してしまう。こうして経験というものの頂点に到達するのだ。

 われわれは二つの現実態、すなわち、物質的宇宙のそれと、観念的宇宙のそれ、───宇宙の全歴史の写しをその中に一つの想念として内蔵している───とを知る。そうなったからと言ってわれわれが消滅してしまったというわけではない。われわれは、大精神の偉大なる調和の下では一つとなっており、また創造者の創造物への恵みの下では個人として存在する。創造物は創造者の中にあり、かつ創造者の部分的現われなのである。

 第七界に入ったわれわれは、物質宇宙の各部分を統御する何百万という数の本霊から、細大漏らさぬ完全な印象を受け取る。それゆえわれわれは、これまでとは違った生き方で生き続けるのだが、かといって涅槃の中に自己意識を忘失してしまうのではない。現宇宙の終わりを含め、他宇宙の創造と生成と終息、そしてそれらの無限に続く連鎖を静かに観想する。われわれはそれらすべての知的脈絡を理解し、永遠の舞台の上で演じられるドラマの一幕を見物するのである。

 あなた方が「宇宙」という言葉で意味している存在の二重の意味に気が付けば生命の本質を理解することが容易になろう。

 物的原子があるように心霊単子というものが存在する。心霊単子は、様々な界にあって、物的原子の内と外に存在しつつ成長している。この心霊単子はいかなる極微な実体のうちにも存在し絶えず物質原子を支配している。心霊単子はいつか物的存在から逃れ出てその母体たる神の観念のもとへと帰還する。しかしそれは消滅を意味しない。それは一にして多である。丁度人間の身体を構成する細胞群が一にして多であるように。

 それ故、宇宙はあなた方がその限定的な時空の織物、すなわち形態の中に住んでいる間は非現実的なものなのである。そこから離脱し、彼岸からそれを一個の全体として眺め、かつそれを純粋想念の一作用として知るに至る時、宇宙は初めて現実のものとなる。
    


  
第十一章    色彩界から
 
 この通信の送り手である私は、今世紀の初頭に帰幽して以来、地上との接触を保ち続けてきた。一歩一歩科学の発達のあとを辿り、今次大戦とそれに引き続く経済戦をも見守ってきたのである。

私は、今もなお肉体を持ち続ける友人たちの内在意識を通して、人類の霊的世界に変化が生じ、霊的世界に確信を持ちたいという要求が切になってきたことを感じた。人は死んでもそれで地上との接触を失ってしまうわけではないのである。彼はこの哀れなる地上生活を後にして幻想界と呼ばれる歓喜の世界に上っていき、そこから更に、形相・・・つまり純粋なる形態・・・の世界へと向かうのである。

そここそ人間の魂にとっては究極の目的地である天国といってもよい所である。というのも、地上にあるあいだの魂がこの世について知ることは極めて稀であり、最も高級な神秘的忘我の状態においてさえもそこを越えることはなかったからである。

 そこで形相の世界まで旅した霊は、自ら望むときは、惨めな地上まで舞い戻り、彼を愛する人や、精神的に近しい人と霊的交流を果たす。

 われわれ形相の世界からみると、人間世界は何とも言いようのない無秩序に支配されている。しかしまたその無秩序の原因や目的も分かる。この無秩序にも相応の理由があることを知って、偉大な真理の一端を知らせてやりたいと思うのである。

 この理由をもって、私、フレデリック・マイヤーズは、死後の不滅を求めんとする人の辿るべき道の概略を説き明かさんと試みたのである。
 


 
第十二章   死とは何か

 われわれのようにこの不可視の境涯に辿り着いた者にとって、死はある懐かしさをもって苦痛もなく思い出せる一つの事件とも挿話ともみなされる。この世界からも姿を変えた旅人がしばしば地上に戻って行く。しかしあなた方はひとまず死を故郷へ帰る道中の一夜の宿りと思うがよい。

 それは熱に浮かされた不眠の一夜であり、あるいは恐怖に満ちた重苦しい一夜であるかもしれない。もしくはまた、奇妙な夢の打ち続く時、はたまた妨げるもののない平安の時であろうか。いずれにしても静寂の時、えも言われぬ休息に沈潜しうる時がやってくる。

しかしながら魂は遂に新しい朝に目覚めなければならない。夜明けかそれとも未だ明けぬほの暗さの中で、彼は既に亡くなってしまった筈の身内の者、つまりは彼の在りし日の運命の糸に同じく織り込まれていた人々に囲まれていることに気が付くのである。

 死について詳しく論ずる前に、混乱の生ずる原因となる言葉を正しておかなくてはならない。「肉体を脱ぎ捨てた者」というのは、いかなる身体も持たなくなったという意味ではなく、単に物質的身体を持たなくなった者の謂である。

というのは、第六界に入るまでは通常の形態、ある表現媒体、つまりは彼の外的象徴となるものを用いるからである。

 これらの形態には幾つかの種類がある。が、当面の必要としては次の四種類をあげれば足りるであろう。

㈠複体、ないし統一体・・・アストラル体と名づけられるのは誤りであると思う。

㈡エーテル体

㈢霊妙体

㈣神体、ないし光明体

 最後の二者は上層界の魂に用いられるもので、その外観は心と意志の働かせ方で変えられる。

 他界の霊の教えるところでは、死の秘密は、魂の外殻にあたる部分の振動率が変わることにあるというのはあなた方も聞き及んでいよう。例えば人間がその周囲の可視世界を感知するのはその身体がある特殊な速度で振動するためである。

あなた方の肉体の振動数を変えれば地球も、人も、物体も皆、あなたの眼前から消えてしまうのである。と同時に、あなた方自身もまたそれらのものから見れば消えてなくなることになる。

それゆえ、死には単なる振動の変化である。この変化のためには、一時的な混乱が不可避である。というのも魂は、ある振動で進行する身体から、別の振動で動く身体に移らなければならないからである。

 新生活への移行は、急激に、いわば新境地への飛躍といった具合に一気に行われるようなことはない。当然のことながら中間状態というものがある。前にも述べたが、かのキリストでさえも冥府で一時を過ごしたのである。

 かくしてわれわれは最初の疑問に出会う。医師が「御臨終です」と告げた直後においては、人はいったいいかなる形態をとるのであろうか、と。この時われわれは死者の遺体の側にたたずんで、ことばにもならぬ悲哀に胸を詰まらせ、我が愛する人はどこに行ったのかと問う。

その遺体は数分前まで輝かしい生きた人格を包んでいたのだ。あんなにまで光に満ち、愛おしく、知覚も敏感で、知識欲も旺盛であったのに!あれ程までに親しくしていた一個の魂があの世へ去ってしまったと言われても、その消滅を信じることはとてもできない。

そこでわれわれは、すべてが終わってしまって、魂は終焉の時を迎えた等と考えることを拒否するものだが、こうしたわれわれの直観は正しいものなのである。

 地上生活を営む全期間中、人は誰でももう一つの身体としての複体を(ないし統一体)を従えている。それは深層意識と頭脳を結びつける等の多くの重要な働きをしている。あなた方が眠りに陥る時、意識はもはや身体を支配してはいない。

これは意識が一時的に身体を離れるとともに、忘却状態に陥っているのである。脈絡のない夢がしばしば訪れはするが、それは日常の活動によって掻き立られた神経の戯れである。実際には睡眠中の魂は複体の中に入っており、その間に身体は神経エネルギーや生命原子などの補給を受けるのである。

それ故、睡眠が食物や飲料よりも大事なものとみなされてきたのは当然のことである。

 人間の生命のこうした側面についてこれ以上説明している余裕はない。あなた方は、複体が、もしそれを見ることができるなら外観上正確に肉体と対応する形をしていることを知ってもらいたい。

二者は多くの細い糸と、二本の太い魂の緒で結ばれている。後者のうちの一本は太陽神経叢と結ばれ、他の一本は脳と結ばれている。これらはかなり伸縮性に富んでおり、睡眠中や半睡状態では長く延びることができる。人がゆっくりと死んでいく時はこれらの糸と紐は徐々に切れていく。

脳と太陽神経叢をつなぐ二つの主要な連絡線が切断される時、死が訪れる。

 魂が肉体から抜け出た後も暫く身体の細胞のある部分が生き続けていることのあるのはよく知られた事実である。この現象はいつも医者を困らせるのだが、その説明は簡単である。複体に未だ糸の切れない部分があって、それが遺体に付着しているためである。

こうした遅滞の生じているあいだ魂に肉体的意味での苦痛はない。魂はむしろ肉体の周囲をはっきりと知覚する力を与えられたために苦悩することがある。

その力のお蔭で彼は自分の使用済の遺体の側に友人や親戚の者たちが来ているのを見ることができる。しかしながら、原則としては、死後一時間───ないし数時間───すれば、彼は自分を地上に拘束している力から脱け出すことができるものである。

 あなた方が遺体の側にいて死せる友を見守る時、まさに肉体から魂が出ようとする際のことをいろいろと心配したりするな。何故かと言えば、魂はそんな時いつも半睡状態にあるからだ。

苦悩や、夢や、心を苦しめる情熱も、魂が複体に移る時にはなくなっている。死の瞬間は・・・それが急激なものでない限り安らかな気分が意識を覆っているものである。それはほんの暗い光のなかでの休息であり、そうしたなかで、時としては既にあの世に赴いた親しい友や身内の者たちの姿を見ることができるのである。

 しかし無論こうした際の情況にも様々ある。他人を心から愛したことも、世話したこともない男女は、死に際してこの土くれの肉体から出たあと孤独の境涯へと赴く。それは地上の夜とはまた別の一筋の光さえも射さない真の闇夜である。

 このように極端な境涯はほんの僅かな人間が味わうだけである。利己主義者や残酷者は責められるかもしれないが、こうした運命を辿るのはその人の利己心や残酷さが並はずれたものであった場合のことである。

 普通の人の場合、死に際しての苦しみはないものである。彼らの魂は既に肉体を離れているので、肉体は苦痛にあえいでいるように見えても、魂はまどろみつつ風に身を任せて飛ぶ鳥のように、彼方こなたへと揺らめく感覚を覚えるだけである。

 この感覚は死の原因となった病気の苦しみの後では、何ともいえぬ心休まる喜びなのである。それ故、あの断末魔の外見的な苦しみを気に掛ける必要はない。むしろ彼らは生の拷問から解放されているので生死のこの二つの経験の間には歓喜が満ち満ちて、言いようのない満足感が行き渡っているのである。この満足感は心とその気づきに訪れた静けさからくるものである。

 ゆっくりと魂は複体へ移行し、暫くのあいだ肉体の上に漂っている。いつの日かこれを写真に写すことができ、身体を脱け出たものが白い雲か煙のように乾板上に記録される時がくるであろう。

しかしいかに精巧な機械ができても人間の中心核たる魂が写せるのはせいぜいここまでである。しかし帰幽者は別で、エーテル体の知覚は遥かに微妙な物に波長を合わせられるので、彼らには魂の飛翔する様が見えるのである。通常死の床には身内の者や友人たちがエーテル界から出向いて来て見守っているものである。




     影の場所(冥府)    

 膨大な数にのぼる新たな死者たちが冥府でどのような状態を過ごすか述べるのは、たとえその極く一部に限るとしても難しい。そこで私は地上でまともな一生を送った平均的な人の場合をとり上げてみたい。この影の世界に滞留する期間はその人の性情によって様々である。

 血縁や霊縁の人々の幻を見てそれとの交歓を果たした後、魂はヴェールに包まれた半意識ともいうべき静けさの内に憩い、断片的に現われる過ぎこし生涯の出来事を眺め入る。

この思い出にはもはや恐怖の色合いも感情の染みこんだ跡もない。移り変わる光景を、ちょうどまどろんだ人が、夏の陽ざかりのキラキラ光る明るい景色に眺めるように見入るのである。そして上方から現われる本霊の光の助けを借りて、まるで第三者のように、そこに登場する人や自分について判定するのである。

「殻の中で」とか、「影絵芝居」ということばはこの期間のことをうまく言い表している。そこでの過ごし方は魂によって様々である。ある者はこの時期のことを殆ど覚えていない。またある者は超然として、心のどけき静けさに陶然とするあまり、快苦の感覚が鈍くなってしまっている。

がしかし、進歩は間断なくなされており、エーテル体は古い複体の殻の中から徐々に身を引き抜いて脱け出す。そして遂に最後の判定がなされるのである。魂は飛び立ち、古いマントを放りだすようにして殻を投げ捨てる。天上からさす本霊の光が全体の要約を説示すると、最後の決定をどうするかは魂の旅人たる本人の判断に任せられるのである。

 魂の旅人はこうしたいわば自分の外皮に当たる物を脱ぎ捨て、身体にまといつく使用済みのガラクタを投げ出すと幻想の国に入って行き、そこではっきりとした意識を取り戻す。ヴェールの中で面目一新した新しい複体が次の界での体となる。ただ外皮(遺像)のみが投げ捨てられたのである。

 自我をエーテル体に合わせて調整するための影絵芝居の経験は地上の時間にして三日か四日あれば充分であろう。しかしながらある種の異常な男女が永いこと冥府に留まって薄気味悪くさ迷い歩き、ちょうど物質界との境界近くに出没する妖怪変化の類と遭遇するというのも事実である。

こうした妖怪どもは人の心の奥にしまいおかれた悲しみや苦悩を掻き立てたり、またある人の理性の弱みにつけ込んで、生前から憑依し、人間の生得の権利を奪い取って狂気に陥らせようとする。

 しかしこのような妖怪どもは死後の世界では用なしである。というのも、現世からこちらへ来る旅人は薄明の冥府を通り過ぎる時は無感覚で夢見つつやってくるので、こうした変化(ヘンゲ)の者たちに旅程を妨げられたり危害を加えられたりすることはないからである。

ただ僅かな例外だけが道に迷ったり恐怖と苦悩の世界を垣間見たりするのである。




      記憶と死後の自己認識

 生理学者は記憶を単に脳の一状態を示すものだという。確かに、今仮にこの微妙な機関を傷つけたとすると、心に空白が訪れ、自分に関することの全て、過去の経験の一切を忘れてしまうであろう。

 しかし実際には、過去を忘れるわけでも心の空白が訪れるわけでもない。脳機能のある部分が働かなくなる結果、可視世界に対しては記憶に依存した知的な表現ができなくなるだけのことである。しかし彼は依然として知的であり続け、肉体と関係のない記憶に対しては支配権を持っている。

何故かと言えば、複体(統一体)は肉体に相当する者であるから、脳が記憶すると同じように、その主人の魂の一生に起こった事柄と経験を記録するものである。

 複体は生れてから死ぬまで人とともにあり、魂に宿所と避難所を提供し、あなた方が身近にいつも見る肉体以上にまめまめしく魂に仕える従者であることを覚えておいてほしいものだ。

 人間的な見方からすれば、記憶は自分が自分であるという自己同一性の認識や、個性の感覚、それに魂とか意識とかいう言葉の示すところと切っても切れない関係にある。しかし、本人であるという感覚は死後においてもなくなることは無い。何故なら魂の基本的記憶は複体の中にあり、再三いうように、複体こそは死後における魂の住居であるから。

 複体が外殻を脱ぎ捨てると、その本質的部分であるエーテル体───それは地上生活中その人とともにあって働き続けていた───のみが幻想界に進み入って魂に仕え、記憶の同一性を保つことによって個性の維持に努めるのである。

 影絵芝居の演ぜられる間に、エーテル体は新しい力を蓄え、形を変え、魂との間を再調整する。最終段階では蝶がサナギの殻を破って出るときのような、素晴らしい生命の更新が行われる。そのとき殻の中にいた魂は生命に息づく新しい身体に移って新たな欲望に身を任せる。

 幻想界ではこの欲望が満たされることになる。


          

      死者の睡眠

 啓示的部分は別として、死後の世界に対するバイブルの教えはどのようなものであったであろうか。
それにはこう記されている。「私達のすべてが眠ってしまうのではなく、私達のすべては変えられるだろう」

 聖パウロのこのことばはわれわれがこれまで記してきた死後の世界についての記述と一致する。「私達のすべてが眠ってしまうのではない」ということばは、多くの者たちが、「最後のラッパ」の鳴り響くこの世の終わりの時まで眠り続けることを意味している。では死者たちが眠る場所というのはいったいどこなのか? いずこの楽園、いずこの世界に眠るというのか?

 鳥たちが空気中に住むように、魂は地球の周りのエーテル層に住まうのである。彼らは幻想の国の居住者である。この界では最終段階を除けば努力も闘争も殆どそこには見られず、したがって真の創造もないのである。しかし多くの人はこうした在り方を最も望ましいと思っている。

地球で求める天国とは、闘争と努力のない生活の謂である。そういう生活に満足してしまった人は、死後の幻想の国にそれを見つけ「最後のラッパが響く」時までそこをうろついているのだ。

であるから、聖パウロのこのことばは象徴的に読まれる必要がある。かつてはこのことばは特別の意味を持っていたのだが、今では忘れられているのである。こうした呼び出しがあるまで第三界に休んでいる人は「眠る人」と呼ばれるのもむべなるかな。

いったいこの「睡眠」とは意識的な闘争や努力がなされないという以外のどんな意味であり得ようか?

 幻想の国に住む人にとって、その生活が多くの点で現実のものであるということは、地上に住む政治家、医師、その他の勤め人や労働者の場合となんら異なるところはない。

しかし一つだけ重要な相違点がある。ここでの魂には闘争と努力の必要がないことだ。希望するだけで望みが達せられる。それ故、地上的意味では生きているとはいえないし、また第四界の形相の世界に生きるような輝きもない。つまりまさしくこの界の居住者たちは新約聖書で言うところの「眠る人」なのである。

 「私達のすべてが眠ってしまうのではなく、私達のすべては変えられるだろう」という原文の意味するところは死者のうちのある者は眠らないということである。言い換えれば、死んだ者のうちにも幻想の国や楽園にどっぷり漬かった放漫な生活を軽蔑する者は多いということである。

彼らは奮闘、努力、創造を望み、その結果再生するか、それとも賢明にも上方の形相世界に入ってその見事な世界でのより豊かな生活を見出そうとする。こうした至福の状態で魂の旅人は、外観的世界の最上最美なもの、つまり形態的な生命の勝利といった段階に至るのである。




    遺像または魂の殻

「遺像」とは旅人の古いマントのようなものかもしれない。それが捨てられると道端に残り、それを誰かが拾ってまた着る。幽霊は何年もの間、ある時期になると決まって古い屋敷の内などを歩き回ったり、あるいは何のわけも脈絡もなく突然現れたりするものだと言われている。

こうした休憩のない影法師に出会ったなら、あなた方は自分の胸にこう言い給え。「これはこれは古外套、骨董衣装のお出ましだ。おそらく円頂党員の一味か騎士殿、マント頭巾の修道士か、清らかな尼さんのものか、はたまた近頃の殺人狂か、それとも殺されたご当人のものなのか、いずれにしても凶器こそは新しいが、付きまとう怨念憎悪は相も変わらずな御仁の脱け殻なのだろう」と。

 この消え失せずに繰り返される情熱こそが、束の間遺像を掻き立てるエネルギーを供給するのである。もしその遺像の背後に記憶連合とか、それを活気づける想念ないし観念のようなものがないなら遺像が同じ場所をうろつき回ることはないであろう。

あの世のどこかに急死した乱暴者と血腥い宗教的情熱に挺身した尼さんや修道士の類がいるのである。彼らはこの世の活動から身を引いてあの世に暫し休んでいるが、過去の運命の糸に引かれてほんの一瞬生前の一場面、殊に現世に別れを告げた時の光景に再会することになる。

彼らとしては今や悔恨、哀惜、その他の感情で胸一杯な想いをついそこに投げかけてしまう。しかし彼らの想念の単なる軽い余波が例の古外套を掻き立ててしまい、生前慣れ親しんだ屋敷内や土地の周りを仮装行列よろしく歩き回らせるのである。

しかし自我の本質部分は地上に戻ったり、古い役を演じたりすることはなく、かえって地上の舞台で自分が、霧のように朦朧として、摑み所もなく、空気中に消えて無くなったりするのを見て笑っている。

このように無意味に歩き回る幽霊などというものは、たまたま霊視の利く者がいて、まやかしの仮装行列を見ている時だけ視覚化される古い衣装に過ぎないのである。

 何にでも例外はあるものなので全ての幽霊現象を一つの説明で引っ括ってしまう訳にはいかないかもしれない。しかし通常の幽霊は過去の情熱的な記憶の糸に引かれて、一点に集められた想念エネルギーが、遺像を媒介として現世に現れ、それが持続することと解すべきである。   



      急死

  時として死者が自分の死んだことを知らないということがある。信じ難いと思われるかもしれないがごく稀にはあることである。

もしある人が物質への執着を強く持ち続けたまま死の門を通り抜けたとすると、亡くなった親族などの姿をちらりと見かけた後でもなお、自分は血肉を備えた生者であるとかたくなに思い続け、現世のことで想いを充たして、霧のかかった丘の上などをさ迷うのである。

死の彼方の暗闇の中を、あるいは帰るべき我家を訪ね、あるいは金銭か特別の財宝を探し歩きまわる。時としてそれらの宝物は彼の行く手におぼろげに姿を現し、ほんの一瞬まざまざと見え、そして消えてゆく。

雲が下りて来てすべては消え失せている。利己的な者たちは、こうして暫くは二つの世界の境界線上をうろうろしているが、やがて物質への執着心が弱まり消えてゆくに従って自由になるのである。

 このようにして冥府にとどまる人々が他にもいるが、一般には、それ相応の身から出た錆といってよい理由がある。例えば、軽率で動物じみた、時としては不道徳でもある生活を送っていた若者が急死を遂げたという場合などがそれである。

こうした連中は青春の真っ盛りに突然肉体から引き裂かれてしまう。彼らは暫くの間は地上生活と死後の生活の差異を理解できないのである。彼らはエーテル体が余りにも急激に肉体から切り離されたショックから立ち直るまでは一種の昏睡状態に陥っている。

 しかしながら大部分の男女は死後、冥府にはほんの暫く休息しただけで、渡り鳥のように通り過ぎてゆく。物故した友人や親族と会い、束の間、影絵芝居に我を忘れることもあるが、すぐに新たな生活の待ち受ける安楽の国へと解き放たれる。そこで以前の意匠が再び編まれるのだが、その世界での糸も模様も、また線も色あいも、前と全く変わらないのである。


     


     老衰による死
 
 すっかり年老いた人は死の直前になると記憶が薄れ、事実認識がはっきりせず、理解力も失われるのである。こうした悲しむべき肉体の崩壊は、これを見る人にしばしば死後の生活への信念を失わしめる結果になる。こんな状態では魂とは単なる頭脳の謂ではないかと思われるからである。

しかしこれは誤った結論である。活動する自我である魂は、脳とそれに応対するエーテル体を結ぶ紐がぼろぼろになったり切れたりしてしまうので、やむをえず幽体の方に引っ込んでしまっているのである。

物理的肉体の方の生活は第二の紐や二つの身体を結びつける他の幾つかの糸が未だつながっているので維持されてはいる。年老いて心身喪失したかに見える男女も実は決してそうではないのである。

彼らは単にあなた方の世界から離れた所に移り住んでいるというだけであるから、それを見てあなた方が憐れんだりすることはない。彼らの感知力は殆どエーテル体、すなわち新生活に用いられる身体の方に移ってしまっている、というに過ぎないのであるから。             




     類魂模様

 野心の彼方、人間のあらゆる型の利己心の彼方、闘争心や抑えがたい欲望の彼方に、相似た魂の牽かれ合う目に見えない力、すなわち、愛や人情の世界がある。それは死よりも強く、絶望を超え、この世の有限の束縛を超えて働くであろう。それは宇宙原理ともいえるもので、「類魂模様の背後にある力」として知られている。その模様は時の存在する限り織られ続けるのだ。

 死はその見掛け上の孤独の故に普通の人からは恐れられている。しかしよく知るならばその恐れは無駄なことだと分かる。

自己の属する模様から引き離されるという心配・・・すなわち愛する人達との離別・・・は、何の根拠も実態もないことなのである。死を越えて赴く旅先のどこでも、彼は再び彼の所属する意匠の内に取り込まれている自分を見出すであろう。

一時的亡我の状態がいかに深く、その経験がいかに変化に富むものであったとしてもそれは同じである。彼は結局地上生活において強く結びつきのあった人々、つまり、過ぐる日々、ときとしては盲目的に、また忌まわしいほどにも深く愛し合った類魂の魂たちの許へと帰っていくのである。

 原始的なタイプの人間というのは、全身全霊で人を愛するということができないものである。この種の人間にはそうした愛が、魂の進歩のための第一の原理だということが分からないのである。

というのも愛はその中に不滅の種子を宿しているからである。この種の原始的な魂は類魂が模様を織りはじめる最初の段階において、憎悪や終わりのない敵愾心を持つところから出発する。第三界においてこうした感情に再び出会うと、その感情は彼らを地上に追い返す力として働き、そのために彼らは現世に再生する。そして地上での進歩がなされると、最初の霊的法則である愛の法則を学ぶことになる。

 愛の法則を修得しえた男女はもはや死を恐れる必要はない。何故なら、たとえどちらかが先にあの世へ旅立ったとしても、その者の類魂模様の内にいる誰かが速やかに彼らに付き添い、死を超えたところにある大冒険の中にあって導くからである。

 死を友人とも解放者とも呼ぶがよい。何故なら、地上的愛には付きまとう暗闇も汚点も、死とともに消えてゆくからである。  

    


  
  第十三章  心霊の進化

 これまでの章では、各界の概略のみを示してきた。したがって、これら奇妙な世界を早くまた巧みに通過しようとする人のために必要な資格について詳述することは適当でないと思われたのである。

 現世にある時私は、「愛(ラブ)」の力を固く信じていたものである。新約聖書の中で聖パウロは「慈愛(チャリティ)」と訳されることばを用いているが、それは「愛」に与えられるのと同じ意味を持つものである。

 死後のこちらの世界に来てみて、私はこれらの言葉のいずれもが、神の持つ「至善」の意味を充分に伝えていないということが分かった。というのは、それが永いこと人間の有限の心によって翻訳されてきたので、限りなく多様な性質を持つ多くの人間の性情に触れた結果、使い古され、傷つけられ、汚され、曇らされてしまっているからである。

 ある人々にとっては、「愛」という語は男女間に点される情熱のことであり、他の人々にとっては友人同士や相似た魂の間で交わされる知的な愛のことである。そして残る人々にとっては他者への同情のことであり、その中には社会性を持った同胞愛つまり、過去においては疑いもなく努力目標であった普遍的な意味における愛を含んでいる。

 しかしいずれの解釈も常に理想とは程遠いのである。不可知論者もキリスト教徒も心の内に山の頂を描いてはいるが、成功せず、彼らの理解は「不滅」という偉大な言葉の前に雲散霧消してしまう。

 いかなる人も今までキリストの見た崇高なる愛の全体像を真に摑んではいない。そこで今、私は地上を見渡し、かつ歴史を回顧してみて、未だ人間に汚されていない言葉で、しかも魂の最初の要求を実現しうるような言葉を見出す必要を感じている。

その言葉は、魂が意識の階段をある段から次の段に上る時に、絶対に欠かせない内的衝動を明確にするものでなくてはならないのである。

 進歩についての永遠不変の現実とは、叡智の増加ということにある。何故なら、叡智とは「真理に対する正しい判断」と定義できるからである。

 いずれの界においても、真理の概念に広狭の差異が生ずるのはやむをえない。それはその界の生活条件やそこで魂の取る形態によるし、また意識の進展の度合い・・・最後には秋に木々が葉を落とすように形態を振るい落とすことになるのであるが・・・にもよるのである。

「地上」として知られている物質の濃密な世界では、「真理」ということばは今でも神聖なものであって、多くの人にとり汚れのないことばである。それ故、「愛」ということばが福音としてキリストの口に上ったとき、キリストが真に伝えたかった意味を表すのは、この「真理」ということばではなかったかと私は思う。しかし「正しい判断」がそこに加わらなければ、その言葉は完全とは言われない。

 そこで「叡智」という語の意味をよく検討してみる必要がある。というのは明らかに、この高貴なことばには男女間の最も崇高な愛、知的な愛、共感、信念、そして最後に、といってもその要素は必ずしも最少ではないが、「透察力」といった意味も含まれるのである。

真理を正しく判断する者は誰もこれらの全てを備えているものである。いかなる界においても魂は絶えず進歩し続ける。叡智こそは魂を下方へではなく上方へと進ましめ、物質的世界の鈍重な形態ではなく、より精妙な生命と、霊的世界の偉大な現実とを魂に選択せしむる最初の衝動であることを確信せよ。

「汝の敵を愛せよ。汝を迫害する者を祝福せよ」これらの美しくも謎に満ちたことばは、それを自己の生活に適用しようと努めてきた多くの真面目なクリスチャンを悩ましてきた。叡智を通してのみ彼は、幾らかでもその教えを守り、また文字通りこれを行為と思想の両面に実現できるのである。

何故なら、その理想が実生活に実現できるかどうかは、真理に対する正しい判断にかかっているからである。

 素朴な農夫や、世間は無知とみえる賤しい男女も、もし霊的な判断力を持っているなら賢者と言ってよいであろう。その霊的判断力とはすなわち、キリストが「愛」といったとき心に描いたものなのである。それは不可視のどの世界に対しても当てはまることである。

叡智はあらゆる場合に、愛に形と生命とを与える光であり、その隠された秘密の根源であり、人を上方へ進歩させる、───つまりは心霊に進化をもたらす力のことである。





     
第二部  人間のもつ諸能力についての教え
  

      第十四章  自由意志 

「自由意志」ということばは、人によって様々な意味を持っている。ある人々にとってそれは、すべての面に出来る限り自分の空想と欲望を追求することを意味する。また他の人々にとっては、単純に選択の権利、すなわち、十字路に立ったときに自分が最善と思える方向へ行く権利、ということのようだ。

 仮に今、ある人が、四方に見晴らしのよい道ではなく、海沿いの日陰の道を行くことになったとすると、いったい誰がこの選択をしたのであろうか。私はそれを、ことばと身体と魂と霊、この四者の総合したものの結果だと考える。これらの各々は様々な要素から成り立っているが、全体として一つの創造なのである。 

それらは何年も年月をかけてゆっくりと形成される。すべての遺伝的影響力がそこに含まれ、すべての魂的また霊的影響力がそこにある。

われわれの有限な心にはとてもそれらのすべてを数えあげることはできない。環境、友人、敵、親戚等のすべてが、海沿いの日蔭道を辿ることに決めた内的決定の形成に役立っている。

それ故、「自由意志が支配すべきだ」と主張するものがあったとしても、それはそもそも人間というものの成り立ちからして不可能な要求なのだと知ったら、あなた方は驚かないだろうか。われわれは明らかに、多くの生者と死者たちの創造物にすぎないのだ。

それ故、われわれはだいたいにおいて、様々なものの影響下にあり、自分に植えつけられた諸傾向に従うよう運命づけられているのである。

 言い換えれば、全人類は一にして多なのである。世界開闢以来の人類の歴史と性格は、無限に成長し続ける蜘蛛の網の如きものであり、その源泉のすべては創造主たる巨大な蜘蛛───すなわちその見事な製作物のすべてに責任を有する神───の中にあると想像できなくもない。

 今やあなた方は、神が創造主であり大建築家であること、また、個々の人間の運命をその誕生以前から知る存在であることを認識せねばならぬ。神は未だ生まれざる赤子の性格をことごとく知っており、母親の子宮を離れてからどう成長するか、生まれつきの諸性質は運命をどう導くのか、環境はどう影響するのかなどを知っている。

何故なら、創造の大絵巻は、既に赤子がわれわれが「空」と呼ぶものの中から成長を始める以前に、神の想像の中に描かれているのである。たとえば、地球の未来も神の想像の中では既に描かれている。

それは神が考えたという意味では既に起こったことなのである。しかし未だ起こっていないのは、個々の魂における現実的な変化であり、人生の苦楽に対するそれぞれの魂の反応の仕方である。地上生活に関するあらゆる事柄が魂の反応の結果なのである。

たとえば、悲しみはあなた方を傷つけ、損なってしまうのであろうか。それとも破産というような悲劇さえもあなた方を新たな努力に駆りたてるのか。

後者であればそれは、あなた方のうちに一つの創造が行われたことになり、その創造の中で勇気と意志力を増大させることになるのである。しかし、希望を捨てて貧窮の中に逼塞(ヒッソク)してしまえば、性格の弱さが増大してしまうのだ。

つまりあなた方は、創造するという意味においてのみ、また自己の魂を形成するという点においてのみ、自由意志をもつといえるのである。

 これこそが地上生活で最も肝要な点である。何故なら、あなた方が自分の所属する類魂の許へ戻る時、それまであなた方の鋳あげた魂の鋳型こそが、やがて生まれる魂の未来の生活の鋳型となるものであるからだ。最もこうしたことをことばにするのは極めて難しい。

 神は類魂の宇宙生活を見守っている。神は人類の未来生活を計画し、その未来図を描く。全てはその初めに想像されているのであるから、神の想像力の中にある巨大な宇宙図の上で、変更を被るものはほとんどない。



   
    第十五章   記憶

        肉体の内と外

  私はここで、私の心に映ずる記憶というものの様相について簡単な説明をしておきたく思う。最初にまず生きている人間の記憶を取り上げてみよう。記億の機構はいったいどうなっているのであろうか。

 今仮に、意志がトム・ジョーンズの名前を思い出したいと決めたとする。すると意志はトムのイメージに精神を集中しようと努力する。といってもその時の正確な経緯はどうなのか。意志は自分の許へ人間には見えないある微妙な精妙体(エッセンス)を引き寄せるのである。科学者ならばこの精妙体を、電子ないしそれの仲間の粒子よりもなお微細なものであると言うことであろう。

このとき意志を強く働かせると、この精妙体は何やら流動する液体状のもの───もしあなた方に見えるとすればの話であるが───に必要な刻印をする。

この幽的流動体は物質を透過する。そして例の精妙体(エッセンス)の助けを借りてある形態をとることにより、脳細胞と接触することが出来る。接触によって脳細胞は敏速に反応する。意志はこの二つの要素の協力によって、あたかも糸で縫い合わせるように、トム・ジョーズのイメージを細胞に括りつけることが出来るのである。

あなた方は物質界にいる限り誤った空間観念を持っているので、この様にして作られた数百万のイメージが同じく数百万の脳細胞に糸でつながれている様をすぐには想像することができない。

 あなた方のまわりに巨大な蜘蛛の巣があると想像せよ。この蜘蛛の巣の糸が記憶ないし想念を、あたかも電線が電信を送るように脳髄に運ぶ。というよりもむしろ、精妙体の援助で幽的流動体の上に刻印されたイメージの信号を脳に送ると言った方がよい。

 あなた方のことばはここでは役に立たない。というよりも、たとえばこの印象を受け取る幽泥を表現する言葉がないのである。私は仮に「幽泥」と呼んでみたが、物質の性質を持つわけではない。

この幽泥───適切な言葉がないのでそう呼んでおくことにするが───から思想はつくり上げられているのである。といってもこれは勿論、あなた方の理解する物とは違っている。宜しい、そこで、この幽泥こそが諸君の視覚、聴覚、触覚等が伝える全ての印象を受け取るということになる。がしかし、もし意志が記憶や思想の構成に必要な意識的努力をしなければ、幽泥は連結糸を脳に結びつけないのである。

 そこで意志とは何かという疑問が出ることであろう。意志とは、あなた方の外部にある大意識から流れ入るエネルギーのことである。意志は勿論、私が既に示したように物理的脳に付着するイメージの収集という仕事もしてる。意志はまた物理的身体からの影響も受ける。

 大意識は、身体という粗雑な機械が死んでも破壊されないところの無限に微細な原子から成っている。私は原子と言ったが、あなた方からみればそれは流動体のように思えるかもしれない。

あなた方の本質体は、地上にある限り、複合体であることを承知しておいていただきたい。それは物質的なものと非物質的なものとの合体である。肉体ないし物質の側は、その成り立ちの性質に由来する一種の熱望を宿している。これらの欲望はあなた方自身ではないが、あなた方を支配している。

何故なら、通常これらは非物質的な部分の多くを動かしており、脳細胞に進行中の指令過程に入り込むことが出来るからである。

 脳細胞は極めて敏感なので、意志という、実体であるというよりはむしろ運動である存在の刺激に反応する。意志を運動するものとして考えよ。意志の持つ能動エネルギーはイメージとイメージを合体させ、整理する。

そして、意志は、意識の中にその必要が持ち上がった時には、脳に対し、イメージと結び付いた糸を引き寄せるようにと働きかける。脳は意思という純粋運動に動かされ易い唯一の物体なので、これに反応する。・・・こう説明してみても、あなた方が物質の中にいる限り、おそらく想像の外のことであろうが。


 肉体を離れた記憶となると全く別の事柄である。肉体を脱した存在になると、イメージはもはや、脳細胞を仲介とした物質によってわれわれと結び付けられていないから、われわれは地上時代のイメージからずっと隔たってしまう。例の幽的糸は死によって断ち切られてしまうのである。

と言っても、間断なくつくられていたあらゆる印象の像がすべて破壊されてしまうのではなくて、それらは依然としてある。心霊的条件が整って、そうしようと決心すれば、イメージの中に自分を置こうと意志することによって、好きなイメージを自分の許へ引き寄せることが出来る。

そのとき、われわれは、生きている時のように苦労してそれを引き寄せるのではなく、ただある状態に身を置こうと思うだけで、望みのイメージを見ることができるのである。

 しかしこうやってあなた方と交流している時は、そうした状態にない。それが困った点なのである。交霊中のわれわれはイメージから遠ざかってしまっており、地上の霊媒がわれわれの記憶庫から、要求されただけの事実を引き出す───その場合ももちろんわれわれの協力が必要だが───心霊能力を持っていない限り、あなた方の望むような証拠を提供することはできないのである。

普通の人はこの特殊能力を持っていない。それは眼には見えないがあなた方の周囲にあって、ちょうどあなた方の身体と同じような形を持った幽的流動体の一種の過剰がもたらす力なのである。

 これらのイメージは脳の外部にある。肉体の外にあって、あなた方とは幽糸で結びついているが、物質を透過する性質があり、また物質ではないのであなた方には見えない。それらのイメージは確かに接触可能なのだが、適切な努力をもって幽糸とイメージを引き寄せなければ、思い出すことはできないのである。しかも正常な意識の中では引き寄せることのできないイメージは沢山ある。これらのことを明確に表現する言葉を残念ながら私は、英語の中には見出すことが出来ないのである。

 さて、記憶は海に似ているといえるかもしれない。それはあなた方の周囲にあって、大洋の水のように捉えどころがない。地上に生きていたときのわれわれは、バケツを持った子供たちのようにこの海に行き、海水でそのバケツを一杯にした。

砂浜まで運んでこれた水はごく僅かだ。しかも何とも呆気なくその水を地面に空けてしまう。われわれの背後には相も変わらぬ広大な海面が広がり、波の音は果てしもなく海岸に鳴り響いている。記憶のつくりなす響きは、今の私にはこの海潮音のように聞こえるのだ。往時あの夏の夕べに聞き入った時の───。

 どうか記憶をこの大海の如きものと考えてもらいたい。それは四六時中地球に自分自身を投げ出している。それゆえ記憶はあなた方の周りを取り巻く湿気のようなものだともいえる。地上にある時もあなた方はほとんど無意識の中に、この見えない記憶の貯蔵庫から記憶を引き出しているのである。

そしてある国が他国よりも湿気に富み多雨であるように、ある種の心性を持った人は他人よりも多量の集合記憶を引き寄せる。

その記憶は人間の頭脳を通過するときには濾過されるので、その人特有の性格や色合いに染められる。そしてついにはあたかも独創的な思想になったかのようにして意識に上ってくる。しかし度々おそろしくだらけた独創性のカケラもないようなものになっていることがある。

というのも平均的な人々は専ら多数の生者の頭脳から放射される手近な記憶のみを自分に取り込むからである。思想家は人間の本性の深みに潜むような記憶、つまり瞬間瞬間の人間の頭脳からこぼれ落ちるような表面記憶とは異なった、強力な記憶を自分に取り込むだけの巨大な記憶容量を持っている。

素早く投げ出されるような記憶は永い生命を保ちえない。感動的な記憶、熱情をもって創造された記憶のみが永遠に生きながらえるのである。

 人間は発電所のようなもので、たえず新しい記憶の電流を発電したり、受け取ったり、送電したりしている。人間は自分の個性というものに執着するが、そうすることが人間には相応しいことなのであろう。しかしたえざる崩壊に耐えて残るものはその人間の最も基本的な核心部分のみなのである。

というのも人生においてわれわれは精神的には間断なく死につつあるのである。言い換えれば、秋ごとに樹木が木の葉を落とすように、年月の経過とともに、われわれはたえず記憶を捨ててゆく。そうすることによって大きく変化してゆくのだ。

十歳の少年トム・ジョーンズは六十歳の声を聞いたトム・ジョーンズにとって赤の他人に等しい。もし二人が出会ったとしたら、お互いにどんなに気恥ずかしく思うことであろうか!二人は多くの点で全く似ていないのである。しかし心の底から捉えがたい感動がこみ上てくるのを感ずることであろう。

奇妙な戦慄にも似た何か、心の奥底から奥底へ呼びかけ合うものがある。そこでこの十歳の少年と、六十歳の老人は、表面上の相違にも関わらず、互いに磁力と鉄が引き合うように引かれ合う。

彼らは二人とも、表面意識上の不一致にもかかわらず、何故このように引かれ合うのかを知らない。しかし彼らは互いに避けがたく心に応答し合い、引き付け合うものがある。

というのも個人の記憶よりも深い何かがこの一致を強いるからである。彼らは殆ど共通の記憶というものを意識できず、見知らぬ者同士である。しかし互いの核心部分が二人の間を知己にしてしまうのである。

 死後の世界へ旅立って長いこと生活をした者が、数十年の地上生活を経てこちらへやって来た妻や夫や息子や娘と再会する時には、おそらく同様のことが起こるであろう。もしすべてがうまく行って死後の世界で彼らが再会したとしても、事実の記憶にだけ頼ったのでは、お互いを認知することができないであろう。

彼らは記憶よりも深いところにある何かを通してお互いを認め合うのである。愛と憎しみ、慎重さと性急さ、などといった人間の深部に潜むあらゆる性質がお互いを見分けるよすがとなるので、わざわざ「生命の書」を繙(ヒモト)いて参照したり調べたりする必要はないのである。

基本的な知識は残っており、お互いの過去の結びつきは、それが互いに欠くべからざるものであるならば更新もされる。

 しかしどうか、私が死後の一瞬たりとも停滞などしなかったことを信じてもらいたい。私は変化し進歩し、樹木のように新たな葉っぱも身につけた。しかし内なる自分は全く変わってはいない。それ故、私の地上記憶の一部が、冬が来て枯葉が地下に埋まってしまうように埋もれてしまったとしても、私の妻や子供たちは、ちゃんと私のことを見分けてくれることであろう。

        ※      ※      ※

 私は自分の地上時代の記憶が幾分か失われてしまったと述べたが、それは永遠に私の触れることのできないものになったという意味ではない。それは現在の私には無用のものとなったのである。

というのも現在の私は第四界にいて、形態における新しい経験の新鮮な印象を掻き集めるのに大わらわなところであるからだ。必ずや近く、第四界と五界の中間境において、地上記憶のすべてを思い出すことがあるに相違ない




    第十六章   大記憶

 ここで「大記憶」と私が言うのは、全人類の持つ潜在意識のことである。われわれの死後の生命にもあなた方と同じように意識がある。それはすなわち他の帰幽者たちからこれと感知されるような個我のことであるが、これらは似た者同士が一緒に集まって同じ状態で生活しているのである。

しかしまた、それよりもずっと深いところに、不滅の───と私の信じる───深層自我 deeper self ないし世界自我と呼ぶべきものがあり、ここには過去、現在、未来のすべてが記憶され包み込まれているのである。何故なら、人類の歴史は、その初めから現在に至るまで、これまで時々「記憶の木」として語られてきたものの内に全てあるからである。

「しかし未来のことは未だ起こっていないではないか?」 とあなた方は言うかもしれない。しかしそれに対して私は、「それらは神の想像力の中に生まれたという意味では既に起こったことである」と答える。しかし未来を読むことは難しい。と言っても、それはあくまでも人間にとってはということである。

未来に関する記憶は、この宇宙の製作者によってたった一度考えられたのみなので、不可視ので無限の実体の上にはまだそう深く刻印されていない。そのために、その記憶はひどく微弱で、霊聴力を持った者のみがわずかにそのこだまを聞きうるのみである。

しかるに過去の記憶の方は、人間の粗雑不器用な思考がエネルギーを与えて、それを主観的にくっきりと形づくってあるので、霊能ある者から見るとよく見えるのである。

 あなた方が「死者の魂」と呼ぶ永遠の生者、その生命の中にある巨大記憶がどういうものかを是非知ってもらいたいものである。この不滅の生者たちは、現在の生活を追求することに一所懸命で、過去の一切の記憶からは遠ざかっているが、記憶の糸を引張ることによって、砂糖黍から砂糖を吸い取るように、大記憶の中から過去の人格の中の養分を吸収するのである。

死者が交信してくる時、その人体は必ずしも完全な形をなしていない。時としては、生前の個人の衣装だけが大倉庫から取り出され、僅かの間展示されるといった趣である。

 この点に関して、ここで一つ大事な点に注意を促しておきたい。それはあなた方も私も共に大記憶のそれぞれの頁に記録されているということだ。われわれが霊媒を通して地上の友人たちと話す時には、前もって芝居の役者よろしく、昔演じた役柄をお浚いしておかなければならないのである。

原則としてわれわれは、この仕事をいい加減にすますか、曾ての役どころを記録した記憶に一瞥を与えうるのみである。われわれの過去は消滅してしまったとも言えるし、消滅していないとも言える。

この二重性を説明することは難しい。基本的には、われわれは、地上にあって愛する妻や母や妹が「さよなら」を告げた時の自分と変わっていない。われわれは地上で嫌いであった人や物に対して嫌悪感を持ち続けるし、大切に思っていた人や物に再会すれば古い愛の炎が燃え上がるという点では以前と同じである。しかし、人格というものが地上時代の記憶の総体を意味する。

つまり、ギリシア語・ラテン語の知識や、具体的諸事実についての知識に至るまでのすべてを記憶しているという意味なら、その意味ではわれわれは変化してしまっている。われわれは大記憶の中にある自分の記憶と接触を持つことによってのみ、それらを思い出すことができるのである。

われわれはかつての自分の気質や個性については、そこから離れつつも、未だ大部分を保持している。

地上と決別した当時のはかない肉体意識の方は、もはや自分の一部ではなくなってしまっている。地上生活の細々としたこと、頭に詰め込んでいた具体的知識などは忘れてしまうのである。これに対して感情的記憶の方は、元来創造的生命の方から来たものなので、魂の全体の一部として残っている。





    第十七章   注意   
    
     生きている人の場合

「注意」を定義することにしよう。 ご承知のように、生理学的用語で言えば、注意とは、意志がある神経エネルギーを特定の脳細胞に向けることである。

すなわち、今仮に私がヴェニスの聖マーカスのイメージを想起しようとしたとすると、私は神経エネルギーを ヴェニスの記憶と関連のある特別な細胞に向けるのである。すると、ヴェニスでの経験によってつくられたあるものが命を吹き返し、一時的に人格性を帯びる。

意志がその背後にあってコントロールしているとはいえ、この間、ヴェニス人聖マーカスは人格を持ち続けることになる。私はこれを単なる一例として上げたのに過ぎない。この人格の中心部はより複雑な複合観念と記憶によってつくられている。それらは魂の柔らかい材料に深く刻み込まれた一連の基本的経験から成っているのである。   



        帰幽者の場合

 帰幽者の心を一つのクモの巣のごときものと想像してみてほしい。その中には思想と記憶を放射する無数の中枢がある。この中枢のどれもが注意を地上へ向けることが出来る。われわれは基本的には一であるが、ある特殊な思考作用に精神を傾注すると、その間全体から分離してしまう。

再び全体と一つになろうとするとあなた方から遠く離れなければならない。そうすることによって一つの霊の中に融合するのである。といっても、空間的距離のことではなく、構造上の微妙さのために、本霊と一体になっている時はあなた方から離れているということなのである。

 あなた方は星がそれぞれの人格を持っていると私が言ったらおそらく信じられないであろう。しかし星もまた一にして多の人格的存在なのである。あなた方もその点では同じで、肉体の中に在る時から既に物質的にも一にして多の存在なのである。

あなた方の中には無数の小さな中心的実体があるのだが、心はただ一つあるだけで、心と肉体をつなぐ通路も一つである。こちらでの私の興味ある特徴は、私が一つの大きな意識の中に組み込まれているという点である。この大意識は単なる集合体ではなく、多くの小意識が一つにまとまったものである。

私に似た多くの意識存在がその中にいて、私の地上時代のあらゆる局面は、これらの小中枢が持つ性格を反映するものであったのである。

 私は既に生理学的意味における「注意」について話した。その注意はイメージと結びつくある細胞に向けられた神経エネルギーの流れであると述べておいた。われわれは物質的脳は持たないが、ある心霊的意識網を持っている。この網は正確には脳の方式と違ったものである。

それは無数のニューロンとか神経区画とかを持つわけではないが、その代りに幾つもの意識中枢を持ち、それが大統一原理たる本霊から流れ込む心霊エネルギーを吸収しているのである。

 われわれはもし大いに努力さえすれば、同時に他方面へ注意を向けることができるが、それは常時というわけにはいかない。われわれが地上と交信するときは、一時に一つの意識中枢にのみ積極的な起動力を注ぎこむことが出来るのである。

もう一つの意識中枢を支配しようとすれば、多大な精神集中が必要なことを考えてみれば、これも無理からぬことと理解されよう。時としてわれわれは同時に二人の人と交信できるがこれは極めて難しい。

この意識中枢について興味ある点は、われわれが通信しようとする記憶はある特定の意識中枢とのみ結びついていて、本霊の翼下にある他の意識中枢とは関わりを持たないという点である。その場合、記憶はこの意識中枢によって保持されているというよりも、特定の記憶が特定の意識中枢と接触を保っていると言った方がよかろう。





    第十八章   閾下(イキカ) 自我

 私はあなた方に心の内面機構についてお話しすることを約束していた。そのためにはおそらく、生きた有機体としての人間というところから手始めにお話しした方がよかろうと思う。

最も生きた有機体としての人間などという観念は、現在の私には奇妙に思える。だが、理解していただくためには、あなた方のことばを用いるしかないのである。まず第一に言っておきたいことは、科学者は、意識───ないしは魂───と身体とはどんなに違うものかを殆どご存知ないということである。

身体というのは過去の多くの世代からの遺伝物である。身体はそれ自身で一つの帝国であり、多体動物であり、多心霊体ですらある。それは実際たとえようもなく複雑な機構で、高次、中次、低次三段階の神経組織から成っている。これらの神経組織は霊的世界に住むわれわれの意識が働きかける際の要所である。

われわれが、エーテル体を通して、ある程度、肉体組織とも交流できるのだということを知っておいていただきたい。

 あなた方は曾て次のような神秘的な言葉に想いをめぐらしたことがおありであろうか。「その初め、イメージが肉となった」引用が間違っているかもしれないが、あたらずとも遠からずであろう。

聖書にあるこの語句は大変な真理を含んでいる。生きた有機体はある程度、見えざる実在の反映である。既に述べたように一つの統一原理があるとすると、その中に、私が意識中枢とか焦点とか表現した小意識群があるのである。

私が地上と交信する時は、この小意識ないし心霊的実体ともいうべきものの一つが霊媒に憑依し、霊媒の持つ心霊的実体の一つを占有する。そのとき私は彼女の中の統一原理を占有することは決してしない。もしそうすれば、霊媒は狂ってしまう。それは大変危険な仕事で、こちら側の悪意ある霊のみが企てることである。

 今こうした帰幽者の意識を説明するために一つの例を提示しよう。例えばここに英国のような一つの国を思い描いてもらいたい。その中には独立した幾つかの町があり、それはロンドンのような巨大都市に指令を仰ぎ、またある種の不可欠の刺戟を受けとっている。

帰幽者の状態もこれに似ている。彼は一個の王国であり、その境界はヴェールのようなもので包まれている。それは奇妙な柔軟さを備えている。つまり前にも少し述べておいたように、われわれの身体は、微妙な材質の流動体で出来ており、われわれはその形を思うままに変えることができるのである。

そういう点では現実の王国とは違っている。その他にも異なるところは多々ある。われわれの環境は超エーテル的な性質のものである。それをもっと説明してくれといわれると大変難しいが、しかし、エーテルが最極微の原子を含んでいるとまでは言ってもよかろう。

その原子はあなた方の世界の粗い物質を透過してしまう。両者は互いに別次元のものなのである。

 あなた方はこう訊ねるかもしれない。「いったい、あなた方霊のいる世界は地上とどのように違うのですか」と。両者の差異は甚だ大きいのである。そしてその理由の多くは、死後の身体として用いる幽的流動体の形が不安定だというところに起因しているようである。

死後、魂の発達が充分なときは、自己の閾下自我の中に入っていくものである。生前の私は、意識には二つの形態、即ち、内在意識と顕在意識とがあると思っていた。

前者は識閾の彼方にあって感知しえないが、後者は通常の仕事を統御し、一般的な仕事を遂行するのだと考えていた。また、閾下自我とは、識閾の奥にある意識のことで、これは専らわれわれの本性の霊感に満ちた創造の源泉として働くのだと想像していた。

ところが帰幽後、私は、純粋な意味では顕在意識などというものがどこにも存在しないということに気が付いた。その代わりに、長年に亙って洗練の度を加え、今や、閾下意識ないしあなた方のいわゆる潜在意識の生み出すほんの僅かな波動にも反応するまでになった、例えようもなく複雑な機械(肉体)があるのみなのである。

 では顕在意識とか通常意識とかはいったい何から成っているのであろうか? それは実のところ、あの精巧きわまる「神経記憶」と、殆どその神経記憶の支配下にある「肉体的欲望」と、そして最後にこれこそ最も大事なものである「内在意識からの反射」とから成っているのである。

 普通、内在意識が反射を送り出すと、その強弱にかかわらず、私が神経記憶と呼んでいる幽的流動体がそれを受け取るのである。神経記憶はそれを振動によって、脳に伝える。

それ故、正常意識は「反射」「神経記憶」「脳」の三重構造を成している。その中でも主な動きをしているものは、神経記憶によって翻訳されたイメージと潜在意識から送られてくるイメージに反応する物質としての脳である。しかし決してこの二つがすべてなのではない。

 脳と身体は、原則としては、イメージが送り出されたり受け取られたりする以前に、イメージに対する欲求を発動してこれを受動的に受け入れる態勢を整えなければならないのである。つまり、脳と神経は、受け入れ、記録することが持ち前なのである。

しかしながら、この二者は、どうかすると人間本性の高次な部分からやってくる貴重な賜り物(潜在意識からの反射・・・訳者)に変更を加え、複雑化したり単純化したりし、とかく色付けをしてしまうものである。しかしそれと逆の過程もある。つまり、脳が物質界からの諸印象を吸収することによって、

それを高次の意識中枢に送りこみ、それがまた元へ戻ってくるという経路である。こうして、覚醒中、人間存在の各部分で活発な往来が行われているのである。

 更に解明されるべき多くの点がある。あの積極的で、しばしば好ましからざるものともみなされる「自我」なるものは何処に見出されるかという問題である。自我とは、実は、数学者の注意を引くにたるほどの多くの要素が寄せ集まった総計なのである。

それはまず第一に肉体的欲求の総和であり、第二に数世代に亙る遺伝的記憶の累計であり、そして第三に内在意識と交渉を持ってイメージを受け取る先天的能力の全体、つまりこれらの総計が自我なのである。

 さて、人間意識は、時たま、学者が親切にも内在意識の働きだと認めてくれている創造活動を行なうことがある。が、しかし、偉大な作品の生み出される創造の神秘は依然として謎に包まれている。

実をいえば、それらの傑作は内在意識からの通信に反応するある特殊な脳の性向によって生み出されるのである。

この場合は、幽的流動体が媒体として働かないために、ぼやけた翻訳がなされずにすむ。無論これに、不可視の糸によって脳細胞に結びついていたかなりの量のイメージや知識が加わる。そこで創造行為とは協同作業なのだと知るべきである。

 内在意識から流れるエネルギーが、連想や記憶のみならず、浮遊の思想を取り入れて芸術作品を作り上げるのである。この時は幽的流動体が中間物として働いていないので、それらの材料を直接に用いることが可能となる。

これに対し通常意識の場合は、幽的流動体が重要な役割を演じているのだが、大雑把に言えば、これこそがいわゆる「自我」なのである。

 自我はしばしば心霊体すなわち小意識から情報を引き出している。がしかし、これらのものは通常は統一原理の統制を受けた、いわばその付属物にすぎないのである。人格崩壊の現象は往々にして、これらの小意識体と統一原理とのつながりが断たれることに起因しており、それは幽的流動体(神経記憶=自我)が行動ミスによって心霊体に過大な要求をしすぎるということから起こるのである。

しかしながら中心意識は通常、もし直接注意を促されれば、再び統制力を取り戻すことが出来る。

 どうか、私の述べるところに照らし合わせて人間の進化というものを考究していただきたい。自我の本体なる大意識は、しばしば不定形で、その始まりから・・・始まりがあったとすればの話であるが・・・魂の無明時代を経て、いつもそこに在りつづけたのである。

この意識は最初、原始人に対して、時たまかすかな反射を送りうるだけだったが、それから次第に、あたかも彫刻家が作品を造るようにしてそれを進化させてきたのである。やがて時と共に、人間の肉体の形態が進化するにしたがって、大意識からのイメージを受け取ることが容易になっていった。こうして、世界は次第に肉となったのである。

 あなた方は心との関連において、何故それが自己表現しようとするのかを尋ねるであろう。心は個性を望み、形態を望む。そしてこの個性と形態は、ある程度、心と物質の相互作用を通して達成されるようになっている。

しかし銘記せよ。物質の精華であるところの神経と神経記憶こそが人間の行動を支配し、統制し続けるのである。そこであなた方が地上に生きている間は、「神経魂(※)」や、脳と肉体の構造や、統一原理から送られてくるイメージなどの中に正常な自我を見出すようにしなさい。世界は肉となったのである。このことばのうちに人間本性の全秘密、即ち、人間存在の総計が表現されているのである。

 あなた方は「日常意識」というものが何であるかを知りたいであろう。それを作り上げている力の基は、本質的には神経魂にある。しかし日常意識は現実には多くのものの総計なのである。

肉体的要素、すなわち肉体機構そのものの持つ熾烈な欲求は、すべて神経魂の決定に影響力を持っている。あなた方が無意識と呼んでいるものは「反射」、つまり上方からの光である。時としてそれは喚起力が弱いためにかすかなこともあるが、行動決定の際には一役を演ずる。

「時」の関与の問題は、無論、こうしたことの関連であなた方を悩ませる一要因である。しかし全有機生物は永い年月の進化を経て精妙化したお蔭で、今や迅速に決定が下せるようになったのである。

原始時代には、「私」の構成力である「自我」とは主として肉体のことであった。神経・・・幽的流動体さえも・・・は、肉体の従属物にすぎなかったのである。

        ※       ※       ※

 稀な場合を除いては、二つの意志が同時に決定を下すということはない。何故なら、交通路が一つである以上、決定も一つであるからだ。しかし、自我の本体の外にある───そう言いたければだが───閾下自我は、極めて活動的で、日中に通信が交通路たる神経魂を通して送られてくると、睡眠時にその通信に働きかけ、新しい指針を与えて神経魂に送り返す。閾下自我はこれを容易にやってのける。

何故なら、神経魂は、睡眠時においては、肉体から離れて鎮まりかえっているので、覚醒時に求めていた望みのイメージを閾下自我から受け取ることが出来るからである。目が覚めるとこれが脳細胞に伝えられるので、あなた方が眠りから覚めると、まるで魔術師の手にでもかかったように、問題が解決しているのに気が付くのである。

こうして、日中の主導権は、閾下自我からイメージや反射を供与された神経魂が握るのであるが、それはたえず、身体やその欲望から影響されているのである。

(※神経魂=生きている間の自我の中心。神経魂も、神経記憶も共に霊的流動体の働きの別面を表している。自我の本体は内在意識【無意識】の中にある。神経魂は脳と内在意識の仲介役を勤めるうちにいつの間にか内在的意識の指令を待たずに反射的に反応し、やがて自分自身が自我の本体であるかのような錯覚に陥ってゆく。いわば代理店が本店を無視した代理業務をするようなもので、これがいわゆる「日常意識」の正体である)
       


 


   
  第十九章   睡眠

 前章の小論において、閾下自我の可能性を説き尽くしたのではないことを承知しておいていただきたい。あれは単なる序章程度のものとみなしてもらいたいのである。あのテーマを扱うに当たっては、私自身困惑していたのであるから。

 私が死者であったとき、というのはつまり地上に生きていたときということだが、私は睡眠についてこう考えていた。それはすなわち脳の部屋部屋を空にして、他界に休息を求めることであると。

いや、というよりもむしろ、そこでは霊的エネルギーの再充填、つまり一種の灌漑作用のようなことが行われ、そのお蔭で、翌朝目覚めたときに誰もが経験するあの新鮮さや生命の蘇生する感じがあるのだろうと考えていた。

私は二つの世界にまたがる生命の存在を信じていたが、この点は全く正しかった。しかし睡眠中に得られるものについては、正確には分かっていなかったのである。が今では当時よりは大部わかるようになった。

 あなた方が睡眠と呼んでいる状態においては、神経魂は、実際に、肉体から遊離するのである。このことは霊と脳の間に直接の仲介者(媒体)がいなくなることを意味する。この点は重要である。

身体は前にも述べたように、神経魂によって支配されているので、神経魂が遊離して超エーテル的状態の中に引きこもってしまうと、身体は全く静かになってしまう。神経魂はこの状態に耽り、あなた方がエーテルと呼ぶものから必要な刺戟と栄養補給を受ける。

しかし、エーテルということばはどうも意味の広いことばで誤解を生じ易い。実際、睡眠中に神経魂を養うのはエーテルの一部であるには違いないのだが、私はここで新しい用語を造って、それを「エーテルの精(エッセンス)」と呼ぶことにしたい。私が科学者だけが持つ権利を侵して、こうした微妙な実体に命名することなぞ、まことに大胆な仕儀だとは思うのであるが・・・。

                                      
 さて、神経魂が身体を離れると霊(※)が身体に近づく。霊は脳に直接イメージを伝えることはできないし、また一般にそうしようともしないものである。しかし場合によっては高次の神経センターが、特別、霊に感じ易くなっていることもある。

(※この場合の「霊」は、本霊、上級の魂、本人の霊的部分の幾通りかに解せられる)

そのようなとき、霊は身体にあるイメージを投げかけようとするかもしれない。というよりもむしろ、神経魂の使い残したエネルギーを用いて身体を支配しようとするのである。そんな時、睡眠中の人はおそらく、未来のことを夢見るとか、どこかで突然起こった事故死の状態を見るとかしているのである。

霊は睡眠中の人と誰か情緒的類似性のある者の反射を自分の中に引き寄せる。かくして霊は、ごく稀にではあるが、未来の一場面とか、現在起こりつつある偶発事件とかを、静まり返った脳の中に投射することが出来るのである。

 さて、あなた方は、睡眠者を夜毎訪れるあの馬鹿げた、見たところも混沌とした夢のもとは何か、と説明を求めることであろう。しかしあなた方が解釈の鍵を持ってさえいれば、それは馬鹿げたものでも混沌でもないのである。しばしば日中の神経の苛立ちが感情の強い抑圧を引き起こし、これが苛立ちの原因となるものを映像化するのである。

この画像は、日中盛んに働いていたニューロンに縛り付けられている。この画像はまた例の幽的糸の網にも捕えられる。この画像を統制する神経魂が遊離してしまっていない中で、ある種の神経がこれらに反応して、混乱した馬鹿げた夢の形態を造るのである。

「神経像」と呼ぶ言葉がすべてを尽くしている如く、これらは高次の源泉から放射されたものとみなすことはできないのである。

 私は前に、「注意」を定義して、神経エネルギーを脳のある特殊な細胞に向けることだとした。このエネルギーの流れが、覚醒時中に激しく持続したとすると、その振動の余波は後まで残ることであろう。精神集中の残響が響いて他の残響や印象と混ざり合い、それがある連鎖を生み、しばしばきわめて古い幾つかの連想に加わる。

たとえば、日中、ある人が亡くなった祖母を想い出させるボンネット帽を見かけたとすると、実際の記憶はかすかかもしれないが、その人の脳に古い連想を結びつけている糸を刺戟するには充分である。

昼の緊張が解けて睡眠がやってくると、祖母の像が夢に現れる。彼女の姿は数時間前に、ボンネット帽の映像を契機として心のキャンバスに描かれていたのである。記憶が古い昔のものであるときは、作用する場所が遠いので、出現までに時間がかかる。

 どうもダラダラ書き連ねているようであるが、私の言いたいのは、記憶、記憶像、神経といった類のものが睡眠中、脳の中で鬼ごっこを演じているということである。

                                                                          
霊は統制のためのイメージを送り出すことができないし、幽的流動体(※)の方も経験の集積作業によって脳中の膨大な内容物を管理するという日中の仕事を停止している。

(※幽的流動体 fluid=幽的流動体は肉体と内在的意識の中間に両者の仲介者として存在する。目には見えないがかなり物質に近い次元のもので、睡眠中は肉体から離れる。神智学でいうエーテル体にあたるであろう。スピリチュアリズムでいう幽体よりは肉体に近い。マイヤーズによればここに神経魂や神経記憶の働きが存在する。)


このような状態で、もし神経が弱かったり、緊張が高すぎたりすると、小意識体の一つが記憶やイメージを操る場合があることも私は承知している。

この小意識体は、運動刺戟を与えはするが、支配的な神経の命令には服従している。小意識は心を悩ます潜在記憶をけしかけて睡眠者を起き上がらせ歩きまわらせる。これが一般的な夢遊病の説明である。

こうした場合は神経の方がむしろ小意識を支配している。しかし通常この小意識心霊体は睡眠者が危機に陥るのを防ぐだけの働きはしている。それは神経魂に警告の合図を送り、身体に至急戻って支配権を取り戻すよう指示するのである。

 私は睡眠についての甚だ粗雑な説明を試みたが、仲介者たる神経魂は栄養補給の為に身を引く必要があり、そのことから身体を離れることを言わんとしたのである。その間霊は依然として身体に活力を送り続けることが出来る。しかし媒体が無いので、それが脳の指令中枢に影響を与えうることは極く稀にしかない。

睡眠中、明らかに、閾下自我のある層が脳に侵出していると見られることがある。実際に起きていることは次のことである。古い連想や感情が日中の出来事によって掻き立てられたが、神経魂はこれを活発にすることを抑えていた。他にやるべきことがあり、それに追われていたからである。

しかし連想や感情は、川が塞き止められるようにそこに残り続けた。夜、ダムが開かれると神経魂の不在に乗じて、特に神経の緊張が高まっている時などはそうだが、これらの記憶が脳の中にどっと溢れ出す。そして古い観念の構造の中に入り込み、かつて自分たちのいた内部をもう一度覗き込んで、暫時、顕在化した想念の飾りやらイメージのやらに眺め入る。

 催眠について少しばかり述べておこう。大部分の場合、秘術者は、完全な催眠には陥っていないものである。しかしここでは真性の催眠状態を例にとって言うことにすると、それは一つの重要な点において催眠とは異なっているのである。

催眠状態においては、被術者の神経魂は機能を止められてはいるが、極端な場合を除いては、身体の外へ出ていることはない。それは左右することを許されていず、また自己自身に対してそれを禁じているのだ。

ここが大事な点である。催眠術をかける者は、被術者の神経が病的でもない限り、その意志を放棄せしめることはできない。つまり神経魂の働きを停止させるだけである。こうした時、霊や閾下自我は、神経魂の機能停止中、身体の側に引き寄せられているのである。

しかしその創造的生命は、媒体の機能が止まってしまっているので、身体に流れ込んでこない。

 しかし閾下自我の他の層が活動していることがしばしばある。それは主として埋没記憶に関するものである。施術者の命令は幽的流動体───すなわち、神経魂が作動するとき支配しているある幽質(エッセンス)───を動かす。そしてこの幽質も神経魂も不可視の流動的身体の一部である。

その幽質の一部分は、埋もれていた記憶を表面に引き出すために用いられるだけである。これらの記憶は、神経魂が閾下自我の送り出してくるイメージとの関連で積極的に働いている時は出てこない。実際、催眠は潜在意識の緩み漂っている部分に道を開き顕在化させるのである。

通常意識が働いているとき指令を送っている自我の中心体である統一原理は、媒体の神経魂が離れているときはやはり肉体と接触を持たない。それ故、催眠によって引き寄せられるのは被術者の閾下自我の一部だけなのだということがお分かりであろう。




   
 第二十章   想念伝達

 生者同士のテレパシーについて説明しておきたいと思う。これは死者からのテレパシーと幾つかの点で違っている。死者と生者のテレパシーは、生者間のそれと比べると、遥かに入り組んだ手続きがいる。しかしながらわれわれは、自分の内在意識を熟知しているので、全体としては何なくそれをやってのける。

あなた方も自分の深層意識についてもっとよく知るようになれば、テレパシーの受け手になることも送り手になることも今より遥かに容易になるであろう。

 ここのところをもっとよく説明することとにしよう。私は前に潜在意識と物質的身体を結ぶ幽的流動体のことを説明した。私が正確には「幽的流動形体」と呼ぶところのこの流動体は、絶えず形を変えており、肉体とは全く違う柔軟さを持っているのである。

それは極めて印象付けられ易く、驚くほどの過敏さを備えている。困ったことには、それが脳とあまりしっかり結びついていないことである。というよりも、むしろ人間の方でその連結の付け方をあまりよく知らないといった方がよかろう。心をある事柄から離すと、現実方面の機構がフル回転しなくなるので、部分的にはこの状態が達成できる。他にもこの結合を操作する方法はある。さて、記憶はこの流動体と結びついているのである。したがって記憶はこの流動体を通して引き出されることになる。これもまたあなた方がテレパシーと呼んでいるものを受け取る役目もする。

 実際この幽的流動形体は数多くの通信を受け取っているが、これが脳まで伝えられるのは極めて稀な人の場合のみである。流動体は通信を空中に発信するということも明言しておきたい。

それがある霊によって運搬されるということは普通はないことである。一般的には、心の糸のようなものが幾つも空中を漂っていて、それが通信を流動体の中に取り込むとそこに印象が形成され、ついでその幾分かが脳に伝達されるのである。

 科学者は、生理学や物理学によっては生者間のテレパシーを説明できないと思っているらしい。魂の生理学にはそれが可能だと言いたい。一見これは言葉の矛盾であるかのように思われるかもしれない。がしかし、現実にはそうではない。

人間には未だ発見されていない極微の粒子が存在するのである。それらはあまり微小なのであなた方はそれを物質として認めることができない。しかし遥かに繊細な知恵を持った帰幽者にとっては、これらの微粒子は、その性質が物質に似ているとは言えないとしても、少なくとも物質を思わせるものではある。いずれにしてもこの微小原子は感情の影響を受けるものである。

感情と意志はこの微粒子に推進力を与え、脳はそれにある形態を付与することによって受容する。

 神経魂(ないし神経記憶)は当然意識の影響を大きく受ける。それが刺激に対し迅速に反応するものであることは前にも述べた。意識はある努力をしようとすると緊張する。今仮にテレパシー実験をしようとしたとすると、意識は発信者の想念を受け取ろうと望むが、この望みは多くの人の場合、神経魂を緊張させ、一種の活動停止を招来するだけに終わってしまう。こうした状態では神経魂は働きもせず、受容もしない。脳が「受け取るな」という本能的警報を出したのである。本能が意識の希望を制圧したといえる。

本能は、元来、外的想念の侵入から個人を保護するものなので、これは正しい措置なのである。もし人が他者の想念を無限に受け入れ続けたならば、その人の脳は異常をきたしてしまうのであろう。

それゆえ、自然は人間に対し、想念の矢が意識の鎧を突き抜けて、生体の機構を傷つけないように保護しているのである。ある人がこの本能を充分に調節できれば、彼は敏感な受信者となるであろう。神経記憶(ないし神経魂)が、テレパシーの受信に役立つ内在意識と直接に結びついていることは無論である。

「流動体」ということばを字義どおりに解してはならない。地上にいたときならば、私はこのことばをいなかったであろう。ここでは、神経魂や流動体は確かにある種の流動性を持つのでこの語を用いているが想像を得やすくするためのもので、決して専門的見地からのものではない。

 私が各界との関係で用いた用語も、文字どおりに解釈されてはならない。それらは各々、ある特殊状態を象徴的に表わしているのみである。




   
第二十一章   二つの世界の想念交流

 可視と不可視の世界の間には絶えざる想念の交流がある。そしてそのことがまた、あなた方とわれわれの交信を一層難しくしている理由なのである。もしわれわれが、生者や帰幽者の漂う想念の堆績を分類し区分することができれば、帰幽者の想念の流れは、もっと明確に、あなた方のもとに届くであろう。

帰幽者が探検を試みようとする時などは特にそうだが、人間の空想の大森林の中に迷い込んでしまうというようなことが起こりうる。そんな時は必ず誤った道筋を辿ってしまい、挙句の果ては嫌気がさして、問題の解決を投げ出してしまうことが必定だ。

私は単に数個の心から出される想念のことのみを言っているのではなく、全能の母たる宇宙全域の、無限の腹中に憩う霊魂たちから発せられる絶えざる想念の流れについて、想いを致しているのである。

 私などは過ちに陥り易い影のような存在だということをどうか忘れないようにしていただきたい。しかしながら、この困難な問題を扱うにあたっては議論の根底にある前提を設けて話を進めた方がよいであろう。まず、平均的な教育のある者の例をとることにしよう。彼が物質的身体の中に生きてその精神力が旺盛な時期にあるときは、次の互いに異なる意識状態を経験出来る筈である。

一、睡眠状態
 
二、主観状態

三、通常意識の状態、の三つである。

 このうちの主観状態についてはかなりの幅があると思ってもらいたい。それはかなり多様である。人的な手段、たとえば催眠によってこの状態に誘導されることもある。施術者の意志に反応するように訓練された被術者は驚くべきことをやってのける。

幼少期の記憶を思出だし、苦痛にも全く感ぜず、また時としては超常的としか思えない知識を獲得することもありうる。インドの神秘修行者などは容易にこの主観的状態に入り、しばしば何マイルも離れた所で赤の他人がすることを察知しうる。つまり心的な旅ができるのである。

 現代人のそれと全く同じというわけにはいかないが、われわれ死者と呼ばれる者の世界にもやはり三種の意識状態がある。

 あなた方は眠っていても、ある意味では主観的状態にある時よりは意識があるのである。というのは、痛みや騒音がある時には目を覚ますけれども、深い催眠状態に入った者は痛みも感ぜず、また雷が鳴っても起きることが無いからである。

われわれ帰幽者がある霊能者を通じて交霊しようとする時は、われわれはこの主観状態の夢の中に入るのである。われわれの場合において大事なのは、この状態にも二つの段階があるということである。

軽い入神に入っている時は、生前の具体的な記憶を想い出すことはできない。更にまた、霊媒に直接憑っている時のことを考えてみると、人格や話し方に生前の面影は留めえても、自動書記や霊言などを通して地上時代の経歴などの正確な事実を通信することは大抵無理なのである。時としては名前さえ通信できないことがあるのである。
 
 もっとも、われわれは霊媒の心の中にもっと深く入っていって、そこにある記憶を読むことができる。その記憶は脳細胞や神経細胞の外にあって、目に見えない糸でそれらに結ばれている。 
 
 ここで観念連合の奇妙さに出会うことになる。たとえばあなたが十年前のティー・パーティでトム・ジョーンズ氏に会っていたとする。しかしそれ以来、すっかり、彼の名前も忘れてしまっていた。

しかし誰かがそのことを言うと、最初の一、二秒は何のことだか分からないが、やがて十年前のティー・パーティで会ったあのトム・ジョーンズ氏のことかと想い出すのである。同じようにして帰幽者も霊媒の潜在意識の中に、彼の地上生活に関連した諸事実を想い出させる記憶を見つけだす。かくして、その記憶がすぐさま通信されるのである。

 さて次に、帰幽者が達成するかもしれない第二の入神状態のことについて述べよう。それは楽しく、時としてはとても気分の良い状態である。これは第一の状態よりももっと睡眠や夢の状態に近い。

意識のこの状態になるとわれわれは人間の主観的な心の中に潜入することが出来る。しかしこの点では人間の方でわれわれに手助けをしてくれる必要がある。つまり彼がわれわれと愛情の紐で結ばれているか、または彼が霊能者と呼ばれる存在であることが必要である。

人情や愛やわれわれへの深い関心などにより、主観的観念をもってわれわれと再会を祈念する者は夢中のわれわれに扉を開いてくれることになる。われわれはその中に入って再び地上の夢を見る。

 われわれは地上生活に現実に起こることを知覚して、われわれに道を開き、愛と強い関心とで二つの世界に橋を架けてくれた人の潜在意識にそれらを印象づける。しばしばわれわれは彼の潜在意識に反映するつまらぬ出来事を知覚することもある。

また時としては、われわれがこの夢の気分に没入している時に、一つの潜在意識と接触するだけではなく、幾千という潜在意識と接触することがある。それはあたかもわれわれの前に広がる大海のようである。その大部分は了解不能である。われわれはただその一部を味わってみるにすぎない。

しかし指導霊の援助があれば、われわれはこの心の海から生前の出来事や、名前や、場所などに一致する特殊な観念の連想物を引っ張り出すことが出来る。そこでわれわれは、自分が交信していることの証拠としてそれを用いる。

 第三の主観状態に入るとわれわれはあの大記憶に到達することが出来る。しかし、ああ!残念なことに、それは地上の人々に近づく時の状態とは違うのである。

われわれはこの大潜在意識───むしろ超意識というべきか───たる人類意識に到達すると、数多くの記憶を集めることが出来る。私は、この状態については、永年こちらにいて大いなる進歩を遂げた帰幽者たち、即ち、特別叡智の優れた高級霊が、極く稀にこの第三の状態に入って、地上の霊能者を通じてこの大記憶に記録された歴史を伝えることが出来るのだという以上に詳しく述べるつもりはない。

 しかしこのような叡智ある霊魂は、そもそも自己の知るところを通信してこようとはしないものなのである。それは人のことばに表わしえないものであって、たまたまその残響を捉えて霊感を受けた天才がその作品の上に表現しうることがあるのみである。

帰幽後わずか数年を経たばかりの霊がその想念を伝えようとして生者の肉体に憑るような時には、まずもって、この第三の状態に入ることはできないのである。

 われわれは交信する時、霊能者の深層意識が理解し易いように絵や、イメージや、記号を用い、また時としては、記号や、シンボルを用いて霊能者の知らない名前や言葉を伝えるというのは本当のことである。あなた方が正常な意識と呼んでいるものは、あなた方の心と他者の心に防壁を立てることに外ならない、ということをよく銘記しておいてもらいたい。

しかしこうしたことすべての奥には、人間全体に共通の深層自我すなわち主観的心性ともいうべきものがあり、これが殆ど防壁に遮られることなく他者の潜在意識の中に浸透していくのである。しかしこのことはまた別に論ずることにする。

 私は前に、こちらの帰幽者が活動的かつ意欲的な生活を営みつつある時、彼らの地上時代の記憶の大部分は一時的に中絶してしまっていると言ったが、そのことについてどうか心を悩ませないでいただきたい。

 こういう環境の中で、彼らはごく正常な心霊的意識の内にいるといえるのである。帰幽した息子、父、その他互いに懐かしい想い出を持った者たちは誰でも、望みさえすれば、一緒にこの第三の主観状態に入って、地上生活の古い記録をすべて取り戻すことができるのである。

そして再会した二人の帰幽者は彼らの地上での経験のドラマを一頁一頁取り出して読むことが出来る。かくして地上時代に積み上げたどのような些細な知識でも思い出すことが出来る。

ホーマーの『オデッセイ』、学生時代に苦労して覚えたラテン語、ギリシャ語、はたまた青春時代のスポーツ競技であろうが山を成す学識であろうが、すべてをはっきりと思いだすことが出来る。だらけた晩餐会やお茶の間の会話もそのままに想い出され、あなた方は再び退屈を味わいながらそれを耐え忍ぶ。

 あなた方は独りで、古臭い抒情詩、つまらぬ喧嘩や悩み、そしてお望みならあなた方ご自慢の教養のすべてを掻き集めてみることも自由である。

しかし無論、もしあなた方が過去の役柄を再演したいと思うなら・・・地上生活時代の環境や出来事の細かく貴重な詳細に目を輝かせて、再びそれらに手を触れたり、引き出しから昔のラブレターや髪飾りやそして更には小さな金縁の微細画(ミニチュア)を取り出し、去りにし懐かしの日々を想い出す年老いた男女よろしく振舞うことをお望みなら、友人や、家族の者たちと一緒に、この第三の主観状態に入ることが必要なのである。
  
 帰幽者の多くは新取の精神に富んでいるものだ。死後に初めて昔の恋人と再会した当座は暫く、『生命の書』から、肉体の苦痛を伴わずに味わえる過去の快楽の思い出を引き出して、それに耽っている。

が暫くする内に、大記憶の中に記載された過去の経歴の堆積や、その他諸々の記録に飽きてしまう。そこでわれわれは「時」の敷居を跨ぎ、果敢も神の想像の中に入っていく。第三の主観状態で『生命の書』の未来の頁を読むのである。そこには曾て予言者や占者たちによって漠然と予言された、未だ地上には生起していない人間のドラマが展開されている。

わが子孫の者たちの放浪、われとわが血を受け継ぎ、その印を額に印した者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来───すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが───につくづくと眺め入ったとき、われわれは悲嘆に暮れてこの『生命の書』の巻を閉じるのである。

 最後になったが、こうして第三の主観状態で過去と同じく未来の頁までも読む力を与えられるのは、陳腐な言い方ではあるが、霊的に進化した、進んだ魂にのみに限るのである。

死後の門を潜った魂たちの大半は心霊的に未発達な境涯に留まるのである。私がここで「心霊的」と述べたのは、一般的な意味で言ったので、例の死後生存の研究とは関係がない。

こうした多くの魂たちはある運命の道を辿りつつあるのであるが、暫くは、地球の超意識とは無縁である。これらのいわゆる死者たちは、嬉しかったり、悲しかったりのあの幻想の中に留まるのである。私はここでは、母なる大地のもとから目に見えぬ世界に移行するすべての魂について書き記す暇はない。
  



   
第二十二章     幸福とは       平均的男女の場合 
   
 幸福について論ずるには、均衡の感覚を失わず、人間それぞれの個性を分類してみることが必要である。ある人には永遠に変わらぬ真実の歓喜とみえることが、ある人にとっては不満であり、苦痛そのものでしかない場合もあるのである。

 学識ある人々は、幸福についての不変の原則を宣言しようと努力してきたであろうが、それはそもそも誤った前提に立っていたのである。何故なら、人間の本性は元来、変化に富んだものであって、階級、国家、人種の相違等を無視して、「私の言う原則に従えば、必ず幸福になれる」というのは土台無理なことなのである。言われた当人も、国家も、そうした原則を日常のものとすべく十分には、物理的にも、精神的にも、また霊的にも発達していないかもしれない。

よし適用できたにせよ、その原則が型にはまったものであるときは、人々に退屈や幻滅を味わわせる結果になるかもしれないのである。

 例えば、キリスト教や、仏教の苦行者は、どちらも幸福への道程については一致しうる。彼らの真の幸福は感覚に由来せず、金銭や、権力や、他人に対する権威の中には得られないということを確信している。両者とも完全な自己放棄を勧め、富や、力や、美については、それが他の如何なる言葉で表現されようとも軽蔑せよという。

彼らは真の幸福とは、瞑想や神との霊交の内にのみ得られるのであるから、そうした清い観想に耽ったり、感覚や本能を喜ばせる類の神の創造物はことごとく軽蔑せよと説くのである。

 こうした考え方は、多くの真面目な反論に出会うことであろう。神秘家にとっては、内面の生活のみが真の幸福の源泉である。しかし、百人のうち九十九人までは神秘家ではなく普通の人で、そうした教えを実行に移すことが元来不可能なのである。

もし仮に彼らがそうしようとすれば、自らの性情を制限し、歪め、苦しめる結果になるだけである。

 普通の人間にとっての幸福とは、例えば「節度」、「自制」、そして「自由」というような言葉の中に見出せるのである。なんとしても彼はまず、自己を支配することを学ばなければならないのである。

その能力が獲得できたなら、次に他人や種々の状況を賢明にコントロールすることを学ぶべきだ。そうすることによって初めて彼は自由を勝ち取るのである。第二に、彼は、自分がこの宇宙に繰り広げられつつある神の経綸の中では、極微な存在である(無価値にも等しい)ことを知らなければならない。第三には、彼は、自分自身の持つ創造力を開発すべきである。


 自己に対する支配力を獲得することによって、ある種の心の平安がえられ、そのことによって今や、日常の煩いや不幸は、彼の魂の奥まで浸透しなくなり、静謐を乱さなくなる。他人をコントロールする力を得れば、貧窮や欠乏に襲われなくなる。様々な悪意あるやり方で彼の運命を狂わそうとする者にも打ち勝つことが出来る。

自分が矮小な存在にすぎないという認識は、むしろ彼を他人との自然な交わりに導くことによって幸運をもたらすし、そのことによって一瞬でも自我を忘れ、本当に必要な時に他人との生き生きした共感を持つことができるようになる。

 創造の本能は人間本性の最も本質的な部分である。それに賢明な表現を与えることこそ、先ず第一になすべきことである。それは部分的には性の衝動から生ずるものであるが、結果的には、それはしばしば、性とは全く掛け離れた活動領域で最大の幸福を得さしめるのである。

性生活がどうであろうと、この創造原理に捌け口を与えることが賢明なのである。構想力や想像力に欠けている場合にはなんらかの形式の美の観賞にそれを求めればよいのである。とはいっても、感覚の放蕩に陥ってはならない。

しかし何といっても、真の創造力と自制心を二つながら備えた人は幸福であり、その際の表現手段の高下などは問題ではなかろう。

 一般的に金銭への侮辱を勧める禁欲家たちは、家計に何の心配もない人達である。友人や崇拝者たちが彼の必要を満たしてくれるか、彼自身にかなりの収入の道があるかである。

 それ故私は、幸福の追求者に対し、金銭への適度の理解を持つよう忠告する。それなしには人は、飢えや物質的不自由や不健康に見まわれる結果、静謐や霊魂の宮居にこそ住まう理知や魂の光を保つことができない。そうなれば刻々と責めたてる肉体の要求のために自由ではいられなくなる。そして僅かな賃金で長時間雇われるようなことにでもなれば、それこそ、自己を陶冶し、その成果を他人に分かち与えることの楽しみをも持つことができなくなる。

 こうした訳で、金銭に対する適度な欲求を持つことは美徳である。というのも、それはたまたま十全な人間であろうとする一つの欲求であって、金銭的に満ち足りていることと、そこからくる満足感を通して、結果において他人をも益したいという望みの現れだからである。


 幸福は努力を通してのみやってくる。すなわち

㈠ 感覚的な快楽への惑溺を叡智をもって抑制すること、

㈡ 肉体を健全に発達させるための運動をすること、

㈢ 精神の進歩のための勉学、そして、

㈣ 他人への寛大さや慈愛ある見方をすること、

等を通して幸福はやってくる。これらの進歩が霊の発達を促すのである。

 真の幸福とは、平均的な人間の場合、肉体、感覚、心、霊的知覚等を不断に、また賢明に使用することによって得られるのである。

 人類は、究極的には、人生と内的平安の秘鍵を「叡智」の中に見出すことであろう。信仰、希望、そして慈愛───これらの徳目はみな聖パウロによって奨励されたものだが───等はこの高貴なことばのうちに含まれ、叡智の輝きによってこそそれらは見事に形造られる。何故なら、これらの徳目は叡智なしには日の目を見ず、また闇の中に隠されたままでは、健全な発達を遂げえないからである。




   
第二十三章    神は愛よりも偉大

 神が愛や善であるとして語られるのは、私には、神が妬みや、復讐心を持つものとして語られるのと同じように、奇妙に思われる。神はそのようなものではない。神はあらゆる生命にとって不可避の究極点である。

それは善でもなければ悪でもなく、残酷であったり親切であったりするような存在でもない。神とはあらゆる目的の彼方の目的であり、愛も憎しみも持たない。したがって神を表現する思想もありえないのである。

何故なら、私には、神は創造のすべてでありながら、創造物の一切から離れたものと見えるからである。神は無慮無数の世界と宇宙の背後に控える観念(イデア)なのである。

 愛や憎しみについて語るとき、われわれは人間のことばの限界内で考えているのである。そのようなとき想い描くのはおそらく、息子に対する母親の愛、妻に対する夫の献身、恋のための英雄的な行為といったものか、あるいはそれが憎しみの場合には、裏切り、だまし、果てには狂悪な犯罪さえも犯す者への怒りといったものである。

 人間の愛憎は、それがいかに高貴なものであったとしても、なおかつそれが神のものであると言うことはできない。
 
何故なら、愛というものにはすべて欲望の影がさしているからである。それ故、愛には神に結びつくぶべき純粋さが欠けているのである。たとえ最も高尚なるべき、悪への憎悪といえども汚れに染まっていないものはなく、それを神の御名の下に言うことが冒瀆なのに変わりはない。

 つまり、こうした感情と神を結びつけて語ることはできないのである。われわれは 「無限の同情、無限の優しさ」 などというが、神は祈禱書にいわれているような 「愛深き父」 のようなものではないのである。

神とはもっと高貴で偉大なものだ。 「愛深き父」 ───世間で一般的に言う意味での───とは、自分の子供だけを可愛がる人のことである。例えば、戦争においては、英国は神の愛は自分たちの為のものだと主張し、ドイツもまた同じことを主張するであろう。 

人はある特定の人とか物に対して、身も心を捧げていることを示したいときに、この 「愛」 ということばを用いる。

そして何の気もなしに、神は創造物のすべてを愛するなどと言うが、それを神などと呼ぶことによって創造者の観念を安っぽくしてほしくないものである。何故かといえば、そう呼べば神の観念を限定してしまうことになるからで、神を人間のことばの中に閉じ込め、つまり神を人間にしてしまうからである。

 否、神は愛ではない。愛は人間の美徳であって、時として炎のように燃え上がったり衰えたりし、一生のある時には燃え盛るが、その火勢を維持することはできないのであるから、愛はまたどのように善良な男女の仲にあっても、苛立ちや、ある種の不平や、利己的な憂鬱に彩られている。

 神は変化するようなものではない。宇宙の御祖(みおや)としての働きは、躓いたリ失敗したりするようなものではありえないのである。もし神が愛であるならば、生命のあの罵倒すべき創造は決してあのように完璧に維持されるはずはなく、あなた方が愛と呼ぶその変わり易い性格に従わなければならないことになる。

そして天地間の生命の成長は暫く休止させられたことであろう。すなわち、もし神の心が変化するものであったとしたら、雨は大地を潤さず、豊穣たるべき秋は収穫をもたらさず、大地は不毛に横たわる。

海の潮はみはるかす地平の大方を浸し、山々はその頂から崩れ落ちて、何百万という生命が瞬時に損なわれるであろう。もし神が、人がその言葉で理解しているようなうつろい易い 「愛」 を持っていたとすれば、世界の歴史は善よりも悪の方に変わっていたであろう。「神は愛よりも偉大である」 これこそまさに愛よりも神に相応しいことばなのだ。

 私は、我等が師たるキリストが 「神は愛なり」 と説いたことを承知している。キリストにとっては神はまさに愛であったのだ。何故なら、キリストはそのことばの中にこれまでこの地上に出現した人々が考えたような人間的な意味はこめなかったからである。

イエスが神の子であるという主張は、彼が神の神秘を知り、 「神は愛なり」 ということばによって、全人類中ただ独り、このことばの意味するところを真に理解したという事実に基づくのである。

 アダムの子等であるすべての人々は、 「神は愛である」 というとき、皆、人間的な意味でそれを理解している。それ以上に理解しようがないからである。そこで私は、有限の心を持ったあなた方に、神を、 「神は愛よりも偉大である」 ということばで想い描くようにしなさいと勧めるものである。





     
  第三部 交差通信の記録     (レナード夫人とカミンズ嬢)
                                        
                         E・B・ギブズ
  
 フレデッリク・マイヤーズが、私の出席する交霊会で最初の通信を送ってきたのは、一九二四年の十一月のことでした。その時カミンズ嬢と私は、ある年輩の夫婦───R大佐御夫妻ですが───の御招待を受けていました。

御夫妻は永年心霊問題に興味を持っていたのでした。彼らはその頃、簡単な 「ウィジャ盤(※)」によって、死者からの通信をこれまでにかなりの量、受け取っていると言っていました。そこでもし、カミンズ嬢と一緒に組んでそれをすることができたら、どんな結果が得られるであろうかと、期待に胸を膨らませていたのでした。

 カミンズ嬢とR大佐は小さなテーブルに向かい合って座りました。テーブルの上にはアルファベットの文字が円状に並べられ、二人の手は一個のグラスの上に置かれました。数分後、グラスが動き出し、一文字、一文字次のように綴りました。 「フレデリック・マイヤーズだ。研究者の諸君。諸君は私の友人たちをご存知か?」
 

ギブズ (記録係)   どの友人ですか? 私たちは勿論あなたのことを知っています。 
 
マイヤーズ      バレットのことですよ。 
 
カミンズ    ウィリアム・バレット卿のことですか?

マイヤーズ  そうだ。バルフォアもだ。いよいよ地上と交信する時がやってきた、と承知してもらいたい。

 その時この霊は、何とかして、いわゆる 「交差通信」 を試みて、二、三の霊媒を通し同時に話してみたいという希望を述べました。そう言って霊が離れると、グラスの動きはピタリと止まりました。

 「フレデリック・マイヤーズ」 という名前が出てきたときは全く驚きました。彼と接触を持つなどということは、思ってもみなかったからです。またほかでも述べましたように、彼に対する個人的な興味もありませんでした。実のところ、私たちは、R夫妻の友人が交信してくるものとばかり思っていたのです。

R夫妻の方はといえば、彼らにとっても、マイヤーズは赤の他人でしたので、予期せぬ交信結果に少なからず失望したものでした。

 考えてみますと、マイヤーズの指導に従ってみるのも興味があり、また、彼の出現が、 「潜在意識」 という未知のものの発明にすぎないかどうか確かめるのも面白いので、私は、カミンズ嬢の支配霊であるアスターに、マイヤーズを探してくれるように頼み、結果を待つことにしました。

 一週間経ち、私たちの部屋でいつもの交霊界を行っている時、マイヤーズは再び私たちに話しかけてきました。

マイヤーズ     話しかけても宜しいか?

ギブズ     フレデリック・マイヤーズさんですね?

マイヤーズ     そういう名で呼ばれていた者だ。

ギブズ    あなたに質問しても構いませんか?

マイヤーズ     構いませんとも。私は新しい霊光に牽きつけられてここに来た。

ギブズ   先日、ある御老人のところで話しかけてきたのはあなたかどうか知りたいのですが。

マイヤーズ   その老人を通して話しかけようと思ったのだが、あの時は大変混乱していたようでうまくいかなかった。誰か他の者も話したがっていた───。その他にも邪魔があったのだが、何とか私の通信を送りたいと頑張ってみた。


 私は、主観的心霊現象に潜在意識の干渉が入る可能性について述べ、心霊現象を研究する上では、現象にそれが混入する事例があっても、ある程度やむをえないと許容されるべきではないかと申しました。

 するとマイヤーズと名乗る霊は、霊媒の内在意識が他界からの印象を受け取る時の仕方を説明したのです。(序文二十八頁を見よ)

 この自動書記が進行する間に、もしこの自称マイヤーズ霊がオズボーン・レナード夫人に通信を送ることができれば、証拠という観点からして面白いのではないか、という考えが、ふと、私の心に浮かんだのです。その後すぐにもレナード夫人との交霊会の予定がありました。私は霊にこの提案をしました。

がしかし、約束の日がいつかということは言わないようにしました。ところで、こうした自動書記によるこの世とあの世の通信のときは、出席者が通信の内容について大声で何かを言うと、答えがすぐに自動書記で返ってきます。

この提案に対してマイヤーズは即座に、何とか工夫してみようと答え、「私としては通信できることが無上の喜びだ」 と付け加えました。そして更に次のように述べました。

「ご承知のように、私は死ぬ前に、個性が死後も存続することについては確信していた。しかし決してそのことを公にはしなかった。こんなことを言うのは、われわれが今会話を交わし合っているのだということを、もっと積極的にあなたに信じてもらいたいためだ。信念の欠如はお互いの間に壁を作ってしまうから」

 その交霊会の後の方になって、私は彼がレナード夫人の支配霊フェダを通して通信しようとする内容を予め私たちに言っておくべきだと提案しました。すると彼はこう答えました。 「宜しい。やってみよう。あなたとお目にかかれて本当によかった」

 以上の会話は何の変哲もなく聞こえることでしょう。しかし、もし人間の個性というものが死後にも存続し、死は肉体という物的衣装を脱ぎ捨てるだけのことだとすると、こうした会話こそ自然なのです。

 レナード夫人とカミンズ嬢による交差通信に筆を進める前に、マイヤーズがR大佐夫妻のアパートメントに現れた理由について、説明しておいた方がよいと思われます。この点について彼は次のように答えました。

 われわれは現在、顕幽通信のための時が熟したと考えている。この努力は、地上の様々のところで為されていると思う。そこでわれわれは、新時代を開き、人類に対し、個性も人格も破壊されずに死後も存続することを確信させる機会を摑む決心をした。

そこで私は、地上の人々がわれわれと交信したがっている合図を見つけ出そうとした。私とあなた方が最初に出会ったときは、その合図が明瞭に出ていたと言える。それ故、実際にやってみて、通信の困難さに遭遇したときは、少しばかり失望した。他にも話したいと熱望する者がいたので、あの晩に相応しい形での通信を送るのは難しかったのだ・・・。

 われわれは二つの方法で招(よ)び出される。一つは受信者側の熱い希望によってである。こちらへ来て見ると、熱望は、肉体を持ったあなた方が想像もできないほどのある力を持っているのである。それは牽引する何かであり、迅速な招霊を実現する。通常われわれの方もそれに応じたいと強く思うものである。

第二の場合は、霊媒は参会者には強い希望がなくて、われわれの方にそれがある場合である。私は新しい霊媒を見つけ出したいと思っていた。あのときの二人のような霊媒を私はずっと求めていたのだ。

あの晩二人が座って交霊を始めた時、
かなり強い霊光(サイキック・ライト)が輝いていた。それは私にも見ることができ、私たちはそれまで何のかかわりもなかったのだが、私はあなた方に話しかけることにしたというわけだ。あれは少々無茶なやり方であったかもしれないが、ともかくもあんなやり方で自己紹介をすることにしたのだった・・・・。

 オズボーン夫人とカミンズ嬢はこの日までお互いに面識がなかったことを強調しておく必要があります。むろん手紙その他でのやり取りもありませんでした。それ故、両者に意識的な連絡がなされたとの考えは全く排除されなくてはなりません。私も交霊会以外にはレナード夫人と接触を持ったことはありませんでした。

 以下に関しましては、一九二四年十二月十二日金曜日に行われた心霊研究協会の大会に言及しておく必要があろうかと思われます。この会合で、故バルフォア卿は、ギルバート教授と数人の人々の間で実施されたテレパシー実験についての見解を述べました。カミンズ嬢もこれに出席しており、新聞にはこの大会のことが詳細に報じられました。

 十二月十四日の日曜日、カミンズ嬢は私の部屋で自動書記をとりました。以下は私のコメントを添えたその時の記録です。


アスター  私を招(よ)びましたか?

ギブズ  フレデリック・マイヤーズに出てくれるように言っていただけますか?

アスター  分かりました。ちょっと待ってください。

               (間)

マイヤーズ  私に会いたいということだが?

ギブズ  何か通信を送って下さるということでしたが? フェダを通して送って下さるとおっしゃいましたね。

マイヤーズ  確かに、やってみたいと思っている。フェダは多分通信を受け取れると思う。文章にした方がよいだろうか?

ギブズ  おまかせします。

マイヤーズ  一つの観念とかイメージを送るよりも、文章を半分送る方が難しい。二つのテーマを出してみよう。一つは交霊に関することがよかろう。この女性(ひと)を通して私が今話しつつあるという意味のことをフェダを通して伝えてみようか───こちら側で考えていることを言ってみてもよいかね? 

まず、われわれは、先日、バルフォアが最後になって言ったこと知っている、と言っておこう。あなた方はあれはバルフォアの考えだと思っているかもしれないが、実は、仕方なくあの話をしていたのだ。

お仕舞いには反発心さえ持っていたのだが、彼は外部の力で無理やり喋らされていたのだ。というのは、死者つまりガーニーと私の強い想念がさせたわざだ。私はこのことをフェダに伝えようとしてみよう。これは難しい。だから失敗してもフェダの所為(せい)でも私の所為でもない。

ほかに是非とも話したいと思う者がいるときはうまくいかない。あなたに一つ頼みたいことがある。フェダのところに行く一日か二日前に、私がこの女性を通して書いたことについて強く思念してみてほしい。そう、私、フレデリック・マイヤーズについて考えるのだ。名前を呼び、姿を想い描いてくれ給え。そして次のように思念すること。

 「マイヤーズは、バルフォアがこのあいだ演説したとき、彼が話したくないことを無理やり話させられた」 と。あなたの考えでは、 「それではテレパシーになってしまう」 と思うかもしれない。しかしそれは、あなたからフェダへのテレパシーという意味なら、全く違う。あなたの行なうこうした精神集中は次のように働く。

すなわち、それは、私をあなた方の交霊会へと引き寄せる念力を生み出し、私がフェダに近づいて通信を伝えるのに必要な力を私に与えることになるのだ。あなたもお分かりのように、私とあなたとの間には元来何の強い結び付きもない。そこで私がそこへ引き寄せられるための強い磁力が必要なのだ。


ギブズ  あなたはその交霊会で、そちら側にいる私の友人のNさんとお会いになるかもしれません。

マイヤーズ  喜んでその人とお目にかかろう。しかし私がその人と話ができるかどうかは、その人の幽体(ソール・ボデイ)が粗く出来ているか精妙にできているかによる。

ギブズ  会が終わる頃になってもフェダが何も言い出さなければ、ほかの通信者がいないかどうか尋ねてみるのは構いませんか?

マイヤーズ  どうぞ。それは役に立つだろう。新境地を開くことは難しい。一度あなたのいるところで私が話すことができれば、後はずっと容易になる。われわれが想念の糸を霊媒に投げ掛けることができれば、次回はそれを辿って行き易くなるのだ。
 
(私はここで、霊媒と私がバルフォア卿がテレパシーの問題について話したときの会に出ていたこと、そしてその記事は幾紙かの新聞に載ったことを説明し、そういうわけで、このテーマは、交差通信の対象としては不適当なのではないかと述べました)了解した。

それでは他のイメージについて考えることにした方がよさそうだ。あなたはこの女性(ひと)を通して私が最初に書き送った内容を覚えているかね。

私はフェダに、「私が死ぬ前、死者の死後存続の問題は証明されたという私の確信を証明する本を書こうとしていた」と告げるとしよう。その本は出来あがってはいなかったが、私は膨大な関係資料を集めており、それらは私の見るところでは死後存続を明確に説明するものなのだ。

そこであなたには、フェダのところへ行く前に、私のこの文について考えてもらえば大変効果があるだろう。バルフォアについては、どうか記憶から消し去ってもらいたい。

その代わりにフレデリック・マイヤーズは、死後の存続が疑いもなく明確に証明されたという確信を表わした本を、死ぬ前に書こうとしていた、という事実を思い浮かべてほしい。私は誰かがこの私の計画を知っていたとは思えない。

しかしながら事実はその通りなのだ。お望みならフェダに伝える二つの事柄を、短い文章にしておこうか?

ギブズ  ええ、どうぞ。

マイヤーズ  第一の文、「フレデリック・マイヤーズは、この女性を通して文を書いた」 第二の文、「フレデリック・マイヤーズは、生前、死後存続の問題はその結論において証明された、との確信を表明する本を書かんとしていた」 さあ、これで、私の意見表明と私の名前があなたの手中にあるわけだ。

私が成功するかしないかは条件次第、つまり、あなたの霊力ならびにフェダにコントロールされている霊媒の力量如何にということになろう。どうか、今夜眠る前にこの二つの文を心に描いてくれ給え。こちら側から現世に向けての実験を行う機会を与えてくれたことを、あなたに感謝する。


 翌日にあったレナード夫人と私の交霊会の前半は、いつもの通信霊たちによって占められていました。会が終わろうとする頃になっても、マイヤーズへの言及が何もなかったので、私はフェダに、誰かほかに、私に話しかけたいと思っている霊がいないかどうか探してくれるように頼みました。

フェダは私の当てにする人とは別の何人かの名前を挙げました。そこで私は、少しばかりヒントを出すべきだと思ったのですが、肝心なことは漏らしてしまわないように注意して、フェダにこう言いました。

今、私は、ある人物のことを考えているが、〝それは男の人で、かなりの重要人物です〟と。私が、探してもらいたい人物の年齢とか、どんな種類の重要さなのかについては、何も言わなかったことに注意していただきたいのです。

 すると、彼女は以下のように話し始めました───


 〔以下は、一九二四年、十二月十五日、月曜日、午前に行われた。オズボーン・レナード夫人との交霊記録からの抜粋です。文中の傍点の部分は正しい言明であることを示します。〕


フェダ  これはTさんではなくて、誰かほかの人です───。若くはない、かなり年輩の男の人がここに来ています。私にはまだ見えないのですが、ここにいることは分かるのです。前にもここに来たことがあります。そしてここではなくてほかの所で通信しようとしましたほかのどこかでです

この人はこうしたことにかなり興味を持っている人のようです。私はこの人のことをよく知る必要がある、という風に感じます。旅行してまわったことのある人のようです。地上生活中いろんな所に行って人と会ったり、見物したりしました。この人はかなり突然に亡くなりました

私にはいつも人の死が急だったかどうかが分かるのです。この人を見ることはできません。名前が分かるといいのですが。

ギブズ  その人はもっと近くに来れると思いますが。

フェダ  近づこうとしています。彼は何か書きものでもしたんですか? 書きものという風に感じます。そう難しい書きものというわけではないようです。彼が書いたのは二種類の書きものでテーマはほとんど別なようです二つの全く違った書き方をしていますMですMという大文字が見えます

彼は詩も好きだったんですか? やはり、大文字のMが見えています。でも彼が私に何を示そうとしているのか分かりません。おや、今度は沢山の詩が見えます。分かりますか、彼が見せようとしているのは新しい詩ではありませんよ。───この人は古い詩が分かるようなかなり頭のよい人だったんですね

───古典特にヴィルジルの詩ですかなりヴィルジルを勉強した人です何かあなたと約束していますね

ギブズ  素晴らしい!

フェダ  この人が姿を見せられないなんておかしくありませんか? あなたは最近この人が興味を持ったある場所へ行きましたねそこへこの人も同じ時に行っていましたそしてそこにはこの人の友人たちもいましたこの人がこれまで援助したり影響を与えたリしてきた人々です

ギブズ  そうです。その通りです。

フェダ  その場所は亡くなった人たちで一杯でした。その人たちはこちらの世界へ来て進歩を遂げ、引き続き善徳を積んでいます。Lもそこにいました。

ギブズ  誰ですって?

フェダ  ご存じのはずですよ。この人も L には関心があります。

ギブズ  分かりました。全くその通りです。

フェダ  一寸待って下さい。よく分かりませんが、そこに何人かの人がいたようです。かなり分かってきました。三日です。三日前にあなたはこの人と関係のあることで何かをしていましたか


ギブズ  はい、間接的にですが。

フェダ  三日前に、というふうに受け取れます。

ギブズ  そうです。三日前です。

フェダ  あなたは漠然とこの人と接触を持ちましたこの人に関心のあるやり方でです。それが何であるか私には分かりません。彼は何者なんですか? 彼は最近起こったあなたも知っているあることに大変関心を持っています

彼があなたに興味を持ったのはごく最近のことです彼は今日まさにあなたに引きずられてここにやって来たのですだからあなたはしくじらなかったと思ってよいのです

ギブズ  彼に感謝します。

フェダ  フレッドです! 私は今フレッドという名前を受け取っています。フレッドさんと関係ある何かです───オリバー・ロッジ卿のことを知っている頭の良い人。あなたが今日の会見を約束した人です。それは最近になってあなたに起こったことに違いありません。私にはそれが起こったばかりのことのように感じられます。

ギブズ  そうです。つい最近になってのことです。

フェダ  私にはあなたは誰かを通してこの人のことを知ったというように感じられます。彼はそれを喜んでいます。そのことは既に済んでしまったとか、終わってしまったとかいうのではなく、今もって続いていることです。

ギブズ  そうあってほしいですね。

フェダ  フェダがこの人の名前を知る前に幾つかの事実を摑んだやり方もそれと全く同じだったのです。これで、フェダがすぐには彼のことを摑みきれなかったわけがもっとはっきりしたでしょう。そのために彼は一所懸命ヴィルジルのことを話題にしようとしたのね。

この人は、地上界でのと、こちらから地上へのと、両方のテレパシーの科学ができればいいと思って、それに役立つ証拠集めに全力を注いでいると言っています。彼は別の所でもう一度挑戦して成功させたいと考えています。


ギブズ  彼は、今日の会見の約束をしたとき、何を話したか覚えていますか?

フェダ  覚えているけど、今それを言うことができないのではないかって、一寸心配しています。彼は、この会が終わってもあの会については何も言わないように注意しなくてはいけないって言っているわ。

───多分、別の時にうまくやれるでしょうって───彼はこちらの世界でとても忙しくしているんですが、いつも地上との交信を証明する新しい方法を考えていて、あなたが彼にその機会をつくってくれたのを感謝していますよ。一寸待ってね。おや、まあ、昨日ではなくて日曜だったのね。(間) あなたはつい最近も彼と話したでしょう昨日のことよ

ギブズ  全く素晴らしい。
 
フェダ  金曜日の日にも彼との間接の出会いはあったんですけど昨日のことと関係があるとは夢にも思わなかったのねこれらの出来事はある意味では全部あなたを通して起こっています

ギブズ  まさにその通り。

フェダ  金曜日には彼がそこにいたことをあなたは知らなかったと言っています。なるほど、彼はこう言って笑っているわ。 「本当はそう思ってみるべきだった。あそこは私の楽しい狩場だからね」 って。

ギブズ  (笑って)ええ、分かります。
 

フェダ  あなたはなぜ苛立っていたんですか? あの時、あなたは話に興味があったけど、心の中に何かがあると感じたと、彼は言っています。───あなたは不意に誰かに苛立ちを感じたんですがなぜなんですか

ギブズ  全く思い出せません。 

フェダ  もっともな理由があったのだ、と言っていますよ。理由なしに苛々したわけではないって。

ギブズ  私が苛立っていたというんですか?  

フェダ  誰かがあなたの神経に触っていたみたいね

ギブズ   金曜日に間違いないですね。 

 フェダ   金曜日だと思うって言っています。そこであなたと一緒だったからって。

 この交霊会はこのあと、まもなく終わりました。そしてマイヤーズについてはこれ以上何も出てきませんでした。この妙抄録には、レナード夫人とカミンズ嬢との間の交差通信がかなり見られます。例えばフェダはこうしたことにかなり興味を持った人でほかの所で私に通信しようとした年輩の男性について触れました。

そして、大文字の M彼が私との会見の約束をしたことなどを述べ、それから、われわれが交差通信には不適当なので記憶を消してしまおうとした例の SPR の会合のことに移っていきました。

 フェダはまた以下のようにカミンズ嬢の自動書記と符合する点を指摘いたしました。

 「あなたは最近この人が興味を持ったある場所へ行きましたね。そこへこの人も同じ時に行っていました。そしてそこにはこの人の友人たちもいました。この人がこれまで援助したり、影響を与えたりしてきた人々です」

 「三日前に、あなたは、この人と関係のあることで何かをしていましたか?」

 「あなたは漠然とこの人と接触を持ちました。この人に関心のあるやりかたでです。それが何であるか私には分かりません。彼は何者なんですか? 彼は最近起こったあなたも知っているあることに大変関心を持っています。彼があなたに興味を持ったのはごく最近のことです。

彼は今日まさにあなたに引きずられてここにやってきたのです。だからあなたはしくじらなかったと思ってよいのです」

 「フレッドという名前」
 「あなたが今日の会見を約束した人」

 「私には、あなたは誰かを通してこの人のことを知った、というように感じられます」
 「あなたはつい最近も彼と話しをしたでしょう。昨日のことよ」

 「金曜の日にも彼と間接の出会いはあったんですけど、昨日のことと関係があるとは夢にも思わなかった」

 またフェダが言った 「彼はあなたが彼にその機会をつくってくれたことを感謝している」 ということばは、私が前夜にカミンズ嬢を通して言われたのと同じでした。「誰かを通してこの人を知った」というのは、まさにカミンズ嬢を通してもたらされる自動書記を読む私の態度を言ったものですし、またそれは、マイヤーズが彼女を通して話すという 「観念」 を伝えています。

通信者が、自動書記を取っている人の名前もイニシャルも言おうとしなかったことは注目されます。もし彼がそうしようとしさえすれば、フェダは一挙に、カミンズに言及するという結論まで行ったかもしれません。

何故なら、彼女(フェダ)は以前の交霊会で何度かカミンズ嬢のことを私に話していますし、私はこの前の自動書記のときにこのことをマイヤーズに知らせてあるからです。したがってマイヤーズさえその気になれば、カミンズ嬢の名前を言うことには何の困難もなかったはずです。

しかし彼がカミンズ嬢に言及するやり方をみますと、心霊研究に熟達した通信者を思わせるのです。

もし彼がすぐにフェダにカミンズ嬢の名前やイニシャルを告げるとか、彼女と自動書記を結び付けることを言ったとしますと、秘密が漏れてしまうばかりでなく、私からレナード夫人へのテレパシーないし想念伝達だという説明がされてしまうかもしれません。

 更にマイヤーズは、私が言い出して、私の記憶から消し去ることにしたSPRの会合のことについて注意深く言及しました。と同時に、わたしたちが 「昨日のこととつなげられなかった」 ということばを加えることによって、彼がSPRに言及する文は破棄されたこと、またそのために、その文が、私が精神集中するように指示された二つの文の一つではなくなったことを彼が充分了解していることを示したように思われます。

 にもかかわらず、レナード夫人は単に私の心中を読み取って前述のように翻訳したのであり、彼女はSPRの会合についても知っていたのだと言われるかもしれません。

しかしながら、私がフェダに対して、ほかに誰か通信霊がいないか探してほしいと頼むまでは、それまで私の心の中の最大の関心事であったことについて、彼女が何の印象も受け取っていなかった、という点が注意されるべきでしょう。

それはそれとして、フェダは、テレパシーその他では説明し難いあることに言及しているのです。

つまりそれは、彼女が突然、SPRの大会のときに私が苛立っていたことについて触れ、 「あなたは不意に誰かに苛立ちを感じたようですが? なぜなんですか?───もっともな理由があった───誰かが少しばかりあなたの神経にさわっていたみたい───金曜日だと思う」 等々と言ったということです。
 
 レナード夫人が、このような情報を獲得できるなどということは普通では考えられません。しかも言われたことは全く正確なのです。私はそのとき、私の席が友人の───F 夫人───と隣合わせたことで閉口していました。

といいますのは、F 夫人のSPRに対する態度はいつも私を悩ませていたのです。フェダは、苛立ちは 「ある人」 によって引き起こされたもので、ある出来事のためではないと言い、それは尤もなことであり、SPRの特別会で起こったことだと明確に指摘しました。マイヤーズがこの会に来ていて、私の心の中を読み取ったとしたら、彼は確かに尤もな理由だと考えたことでしょう。

F 夫人の心霊現象に対する態度は浅はかで愚かしいところがあり、マイヤーズのような真摯な研究者からみると陳腐きわまるものであったと思えるのです。

 このとるに足りない些細な事実は、眼に見えない霊が私の無意識の苛立ちを読み取ってレナード夫人に伝えた、という以外に説明のしようがないのです。しかし、私の不快感の記憶が無意識に記録されて、それをレナード夫人が潜在する感情として感知したのだと言えなくもありません。

しかし交霊会のときの記録された内容からみますと、私はこのとき、この苛立ちの感情について想い出せず、フェダの指摘を聞いても全く何のことか分からないでいたようです。

 マイヤーズがフェダに言うべく用意した文のうちの一つは、全く思いがけない仕方で私に届きました。

ここに挙げられたことがすべて想念伝達で説明されたならば、(暗示を与えてはならないと決められたことまで含めて) いったい何故、レナード夫人は、マイヤーズの本に関する言明を受け取ることができなかったのでしょうか? それは明らかに、私の心の中に強くあった二つの観念のうちの一つなのです。

 マイヤーズは、私たちがお互いに避けよう、と打ち合わせた事に慎重に言及しようとしたらしく思われます。これはやはり在世中心霊現象の研究に慣れていた霊らしいところです。更に言えばマイヤーズは、カミンズ嬢を通しての実験に即興的な効果を狙ったものとみえます。

 私たちはまた、マイヤーズが、レナード夫人の交霊会で、最初に自分について明らかにしようとしたやり方に注意してみる必要があります 。(補遺三の二四七頁をみよ)

その中で、彼は、自分が異なった二つの主題、つまり詩や古典文学について書いていたと言っています。

 私は、マイヤーズが他のSPRの会員たちにも同じ霊媒を通して通信を送っていたことを知っていました。しかしこのことは、彼が私個人および、私とカミンズ嬢のかかわりについて提供した証拠を無効にするものではありません。

 自動書記によるカミンズ嬢との交霊会が持たれたのは、十二月十七日、すなわち、レナード夫人との交霊会の二日後のことでした。このとき私は、逆に出てみようと考えて、マイヤーズがレナード夫人のところで言ったことは何であるかを、カミンズ嬢を通して言ってほしいと要求してみました。

 私がこのことについて、カミンズ嬢とは全く話し合っていなかったことを明確にしておかなくてはなりません。彼女は私がレナード夫人と会ったことも、また実験に成功したことも知りませんでした。彼女がそれについて持っていたかもしれない記憶は、たまたま、彼女の心から完全に消し去られていました。

その数日間、彼女は彼女をおそろしく悩ませる、私的な事件に対処するのに全く心を奪られていたのです。マイヤーズに尋ねるとき、私は、この実験的な交差通信の成功不成功についてヒントとなるようなことは何も言うまいと努めたのです。

 交霊はいつものようにして行われ、アスターはすぐに、フレデリック・マイヤーズが側に来ていると告げました。


マイヤーズ  このあいだの実験は、ある意味からすれば、失敗であったことをお詫びしたい。 

ギブズ  どういうふうに失敗したのですか?

マイヤーズ  あなたがある提案をされ、私がそれを実行せんとした。しかるに状況がおもわしくなく、私はあなたがこの件に関して何も収穫らしいものを持ち帰らなかったのではないかと思う。

ギブズ  あなたはお出になれなかったのですか?

マイヤーズ  いや、私は何とか私の意を伝えようとしたし、また支配霊の注意を惹きつけようと努力もしたのだった。しかし、彼女はどうも、あまり活発すぎて、私に気がついてからも、私が伝えようとする真意を摑めなかったようだ。

彼女がはっきりと何かを言うと、今度は私の方がついてゆけなかった。地上に合わせようとすると、私の知覚の働きは鈍くなってしまう・・・・・・私はまるで、機械がゴウゴウと唸っている工場にいるような気がしたものだ。必死に精神集中することで、ようやく、私の考えの幾分かを伝えることができる状態だった。

私の側で多くの霊の想念が飛び交っていたが、フェダはその中の二つ三つを選んで伝えるだけだった。

ギブズ  でも、私は大成功だったと思いますよ。

マイヤーズ  何と、これは驚いた! 私は一所懸命やりはしたが、私が用意した文の一部しか受け取ってもらえなかったと思っている。

ギブズ  あなたはご自分の言ったことを全部覚えておられますか?

マイヤーズ 私は、この女性を通して言っておいた第一の文については、伝達しえたと思っている。私は本のことについても伝えようと試みた。本については触れえたと思うが、いかんせん精確さが不足していた────つまり、死後の生存は断然証明されたという私の信念を表明した本であるという事実が欠けていたのではないかと思う。

ギブズ その点については、はっきりしていませんでしたね。

マイヤーズ そこが大事な点だったのだ。私がそれまでに書いた本においては、死後の生存に関する点が強調されていず、明確にもなっていなかったということを知っておいていただきたい。多くの霊が地上と交信する際の奇妙な混乱に心を奪われ、感心していた次第だったが、お蔭で勿論、もっとも肝心な点、つまり、私が生存中に死後の生存を確信していたという点を伝え損なった────。 

 以上に関しては、次の諸点が注意されるべきでしょう。

 マイヤーズの書記には、冒頭に「ある意味からすれば、失敗であった」と出ました。

 これは二つの文の内容を厳密に考えるならばその通りです。更に彼は、彼の存在を感じさせることには成功したこと、私の要求を実行しようと努めたこと、そして状況が悪かったことなどに触れています。

私はカミンズ嬢に対しては、マイヤーズがレナード夫人を通して通信してきた件について何も言っていませんでしたが、彼は私の質問に答えて、すぐさまきっぱりとこう言いました。

「支配霊の注意を引きつけようと努力をした」と。読者が、レナード夫人の交霊の最初の部分とそれについての私の注釈をご覧になれば、このことばの正確さがお分かりになるでしょう。フェッダが最初誰が通信しようとしているのか分からなかったというのは本当です。

記録されていることばの端々から、マイヤーズがフェダの注意を引こうとして苦労している様がよく分かるのではないかと思います。

カミンズ嬢(彼女はその頃、レナード夫人の交霊会については何も知りませんでした)を通して、彼は、多くの霊の想念がまわりを取り巻いて邪魔になると言いましたが、確かにそのとき、フェダの側には幾つもの霊がうろついていたようでした。 

フェダはそれらの中から二、三の霊だけを選んだというのも事実です。「私の文の一部を受け取ってもらえなかったと思っている」と言ったのも正確な表現でした。 

 フェダを通して言ったことは何かという私の質問に答えて、彼は即座にこう答えました。彼は第一の文、すなわち、「この女性を通して話した」の部分は、フェダがはっきり述べたので、伝えることができたと信じていると。次いで本の件について、伝えることは伝えたが、「精確さが不足していたと思う」との意見を言いました。 

フェダは二種類の本について述べたので、これも正しいようです。しかしこの本についての直接の言表、すなわち、死後存続についての彼の信念に関する部分は指摘できませんでした。ただフェダは、「この問題にかなり興味を持った人」というような間接的な表現をしたにとどまったのです。 

 右に整理した諸点の結論として、私が答えの中であまり多くを言ってしまうのは、自動書記者に情報を漏らしてしまうことになるのでしたくない旨を申しますと、マイヤーズはそれに答えてすぐにこう言いました。 

マイヤーズ   そうだ、よく分かる。私は、あなたが、このようなテーマには不向きだと言ったのにもかかわらず、バルフォアについて少し言おうとした。しかし繰り返すが、あの場の騒がしさのためにそれも難しかった。 

 マイヤーズの言う騒がしさが通信をもっと明確にしようとする彼の試みを失敗させたというのはありうることです。しかしながら、このことによって、フェダの行なった観察がすべて正解で適切なものだという注目すべき事実が消えてなくなるわけではありません。 

 カミンズ嬢を通して得られた前述の自動書記の文に照らしてみて、レナードの記録のタイプ原稿が、そのときはまだ私の手許に来てなかったという点は重要です。私は自分の連れていった速記者とはキングクロスで別れました。彼女の筆記はすべて速記でなされましたので、レナード夫人の交霊会の後、私がその遂字的なタイプ原稿を受け取るまで、三、四日必要なのです。

 レナード夫人の交霊会に出席する人は誰も分かることですが、そのとき交わされた会話を、簡単なメモもとらずに心の中にとどめておくことはとても無理なことなのです。それ故、速記録の完全原稿を受け取ってみて初めて、私は二人の霊能者の間に多くの重要な一致と交差通信があったことを認めたのです。 

たまたまこの二人の交霊の形式には対照の妙がありました。というのも、それは、通信者が二人の異なった霊能力者を通して、自己の身元証明をしようとする際における、困難の幾つかを明らかにしているからです。 

 レナード夫人から得られた最初のマイヤーズの通信内容に関して、私がSPRの機関誌の編集長であるソールター夫人に問い合わせたところ、彼女は以下のような返事を書き送ってくれました。 
 
 「(a)マイヤーズは確かによく旅行をしました。私の知る限りでは、彼はヨーロッパ各地に滞在したことがあり、また何度かアメリカにも行きました。そのほかにも出かけたかもしれませんが、私は知りません。 

(b)彼は亡くなる前に、暫くの間、大変重い病気にかかりましたが、最後の時は思ったより早く来ました。死亡の直接の原因は心臓不全でした。 

(C)彼は少なくとも二種類の、すなわち、詩と散文の著書を出しています。散文だけに限っていいますと、心霊研究と、古典および現代文学に関するものです。 

(d)彼が亡くなったとき、私はまだ子供でしたが、私の印象では、彼はかなりの緊張型の、神経質な人でした。神経質というのは、内気だという意味ではなく、鋭敏で、短気で、とても感情の強い人だということです」 

 最後の一節は、自動書記に書かれたある事柄について、私が問い合わせたことへの答えです。カミンズ嬢を通して彼は、自分のことを生前、「人への会話の応酬が速い方だった」と述べている。 

このことは、「記憶」について書いている最中に、不意に書くのをやめ、文章に激しく線を引いて抹消し、次のように書き始めたときに明らかになりました。「あなた方の用いる語彙では表現できない」同じような例は書記を続ける間に何度か起こりました。 

 この本のタイトルもまた、マイヤーズを名乗る霊の発案であることは興味深いことです。

  レナード夫人とカミンズ嬢を通して同じ霊と交渉を持つという方式はその後二回の訪問によっても踏襲されました。それらの実験もよい結果を得て成功致しました。

  それらの資料は幾分こみ入っており、スペースの関係でこの本には収録できませんでした。読者には、一九三一年七月発行の『サイキック・サイエンス』(英国心霊科学学院の季刊機関誌)を参照していただきたいと思います。

  一九二五年以来、私はレナード夫人との交霊会を持っていないことを附記しておきます。

 

              ※          ※          ※

 

動物の進化と死後の存続を扱った短文がこの本の補遺の五として加えられました。これはマイヤーズにとって初期の頃に通信されたもので、この本の内容とはそぐわないものかもしれません。しかしながら、この問題はかなり多くの人々の興味を惹くことと思います。







    要約        E・B・ギブズ  

  以下に多少の説明を加えて読者の便に供したいと思います。 

 まず初めに申し上げておきたいことは、カミンズ嬢は如何なる運命の浮沈に対しても平静に対応できる全く正常な人格の持ち主だということです。超常能力を持った人にはえてしてありがちであるとされるヒステリーや神経症の備候は全くありません。 

実際、危急の場合においてさえも世間でよく性格が安定しているといわれる人以上に落ち着いていて自己を失うことがありません。彼女は神智学や心霊研究の本を読んだことはありませんでした。死後存続の問題については元来不可知論的立場をとっていましたが、証拠が山積(やまづ)みになった結果、考えの変更を迫られたのでした。 

そうなってからでさえもあの世の状態がどのようなものであるかについては、決まった考えを持っていたわけではありません。 

 この書の一部と二部を書いたと称する通信霊は、カミンズ嬢のそれまで経験したことのないやり方でわれわれが死後に通過する状態を描いてみせました。ここに描かれた事柄は、単に彼女の無意識の産物であると考える人がたとえいたとしても、それが興味津々たるものであることには変わりないでしょう。ここに書かれた死後の世界の諸相のある部分はこの世の生活状態の発展と考えて矛盾がないように思えます。 

 この書は、カミンズ嬢を通して自分たちの死後の存続を示そうと(計画的にか無計画にか)努めてきたほかの無数の霊魂たちのやり方とは全く異なった形式で構成されています。更にその筆跡もカミンズ嬢のものとは全然違ったものです。W・H・マイヤーズは地上時代に書いた幾つかの物について語っていますが自動書記が出た時点ではわれわれはそのことを知りませんでした。 

彼は幾つかの新語を用いていますが、後でそれらの語が彼の著『人間個性』の中に用いられているのを発見しました。たとえば、動物群polizoic、霊魂群polipsychic、超エーテル的metetheric、遠隔透視telaethesia、などの例がそうです。私もカミンズ嬢もこれらの語に関しては意味も分からず、またどこかで見たという記憶もなかったのです。 

 通信霊は現世の心霊研究についての知識を持っているらしいところがあるのに加えて、あると時はまるで講義でもしているかのように書くこともありました。彼の職業がケンブリッジ大学講師であった点からみても、こうしたことは彼の特徴を示している可能性が大いにあると言えそうです。 

 自動書記ないし超常的書記においては、生きている人物が物を書くときに、訂正したり書き直したりすることがないということを知っておいていて頂きたいのです。マイヤーズを称する霊は次のように述べています。「この論文は急いで書かれたものであるし、また通信することに伴う困難やテーマそれ自体の難しさもあり、大分粗っぽいものになっているに相違ない。無論、私は調べてから書くなどということもできなかった。 

私は数分間で自分の言いたいことをまとめなければならない話者のようなものであった。一旦出してしまったものは取り消しできないのである。一度口に出されたことばは自分のものではなくなってしまうのだ。分かって頂けると思うが、永遠などという問題を論ずる時、霊媒を用いる講演者は甚だ不利な立場にいると言わざるをえないのであり、また当然誤りも犯すものである。 

霊媒ないし通訳者の意識に頼らざるをえないという事情があるからである」このことは、この短い書物の文体と生前に書かれたマイヤーズの著書のそれと比較する際に考慮されなくてはならない事柄です。 

 生前の著書にはセンテンスの長いものが多いのに対し、カミンズ嬢による自動書記文は一センテンスの長さが幾分短いのではないかという人もあるでしょう。それであったとしても、自動書記の方は元来文の語と語が切れ目なく続いて句読点がないのです。更に言えば、この書記のある部分は、形式ばらぬ形で死後の生存について教示する談話的性格のものであり、決して詳しく分析的に論じたものではないのです。おそらく、マイヤーズの生前の語り口に近いのではないかと思います。 

 『人間個性』における用字とこの自動書記のそれの間にはある類似性が存在します。カミンズ嬢は自分の原稿を書くときには挿入句をいれることが嫌いで、通常はその使用を避けています。しかし、『不滅への道』ではそれがしばしば用いられていることに注目したいと思います。 

 カミンズ嬢はこの本で扱っている主題について調べたりしたことなど決してなかったことを私は強調しておきたいと思います。彼女は数年前幾篇かの記事を書いて出版したことがあります。しかしそれは演劇や現代文学に関するものでした。彼女はまた短篇小説を何冊か書いており、その作品については序文の中で触れておきました。もっと言えば、私がカミンズ嬢と親しくご交際を願ってきた九年間というもの、彼女は専ら戯曲や近代小説に没頭(読書に関する限り)していたのです。 

 それではいったい何故、彼女は自動書記になると形而上学的題材について書くのでしょうか。更にそれがいつもかつて地上に生きていたある人物の名前を冠して書かれ、かつその人物が他界に住んでいることを何とかして知らせよとするのは何故なのでしょうか。 

 カミンズ嬢は自己催眠状態で私の心から知識を引き出してこれらの文章を書いたのだという人がいるかもしれません。がしかし、私とて形而上学には何の素養もない者なのです。 

 このことはカミンズ嬢の他の心霊書についても言えます。主として歴史ものを扱った『クレオファスの書』『アテネにおけるパウロ』『エフェサスの偉大な日々』などの作品がそうです。それは真に驚くべき霊と記憶の不滅を示すものです。これらの作品集は未発表のものも含めて、初期キリスト教の壮大な歴史を物語っています。 

これらの物語に含まれる諸知識は、神学的要素の全くないカミンズ嬢の意識からは出てこようのないものでした。これらの作品の文体を『不滅への道』の通信者のそれと比較してみると、両者が全く違っているのは興味深い点でしょう。その際書かれた手続きの方は全く同じなのだということに注意して下さい。 

 カミンズ嬢の大変広範にわたる心霊書について今ここでこれ以上立ち入って述べることは適当ではありません。しかしいつかこれらの作品がすべて出版された暁には、彼女は心霊研究史上最も優れた入神作家として後世に名を残すことでしょう。 

 死後の世界の記述を考える上で、読者は当然、その通信者とされる者が果たして信頼できるかどうか問題にされることでしょう。如何なる権威の下にわれわれはその情報を受け入れようとするのか、それは信頼するに足る筋ものなのかという問題です。

もし読者がマイヤーズは死後の存続を証明し、また通訳として彼の思想を表現するための最上の霊媒を獲得したのだというふうに考えれば、ここに書かれたことに信頼性を置くことができるのではないでしょうか。その生涯において、マイヤーズが比類なく誠実な人であったことは間違いのないことです。 

 ひとりの人が今まで会ったこともない多くの人々の談話の癖、用字の特色、その人の具体的な個性などを似せて書くことができるなどとは考え難いのです。しかしカミンズ嬢の場合にはそれが当てはまるのです。何故ならこうした人格の激化現象は彼の友人や親戚であるとされる人々によって調べられた結果、その人々によって是認されたからです。 

この現象は、心霊研究の既知の理論では説明できないものです。霊媒(ないし通訳)が未知の知識を獲得することの説明としては、テレパシー説ないし潜在テレパシー説さえもが持ち出されるかもしれませんが、人格の再生ということになると不可能なのです。 

 このことを明らかにする例証として私は次の五つのケースを簡単に紹介しておきましょう。 

 われわれの実験が始まって間もないころ、私の友人の母親がカミンズ嬢の自動書記を通して通信してきました。私はそれを書き留めた一枚の大判の紙を娘のL夫人に送りました。数日後その内容について二人で検討している時、彼女はうろたえた声でこう叫びました。「全くお母様みたいですわ!でもどうしてカミンズさんにお母様のことが分かったのでしょう?」 

この場合、L夫人は一度カミンズ嬢に会ったことがありましたが、カミンズ嬢の方はL夫人の母親には会ったことがなく、彼女については何も知らなかったのです。彼女はこのことに先立つ数ヶ月前に亡くなっていたのでした。私はといえば、このL夫人の母親には二十年前に一度だけ会ったことがありますが、何の印象も記憶に留めていず、特徴さえも覚えていなかったのでした。 

 もう一つのケースでは、ある時、その場の誰も知らない人の名前と住所が書かれたことがありました。その霊は死んだばかりの霊で、彼の妻が嘆き悲しんでいるというのでした。そしてその妻の家を訪ねて自分がなお生き続けていることを教えてやってほしいとしきりに頼むのでした。 

私は一部始終をよく検討した後、自動書記に示された寡婦の住所宛て手紙を書き送ることにしました。彼女からの返事で、夫の外貌や死の少し前までの健康状態などを含む八つの点が書記に出た内容と一致することが確かめられました。 

 英国北部に住んでいたこの男性の存在については二人とも書記が出るまでは知らなかったのです。この町のことについては聞いたことがあったとしても忘れていたということはありえます。しかし、そのことは、カミンズ嬢が最近死んだばかりの見知らぬ男の名前と正確な住所を書いたことの説明にはなりません。以下はその男の未亡人によって確認されたことどもです。 

一、彼女の夫は最近亡くなった。(自動書記の五日前である)

二、彼は五十代の男であった。(五十五歳であった)

三、彼は中背である。(正しい)

四、色は浅黒い。(正しい)

五、彼は事業を何年か続けた後引退していた。つまり仕事の継続に耐えられなくなっていた。(二年程身体の調子を崩していたが仕事は続けていた。仕事には耐えられなかったが、それを止めようとはしなかった) 

六、それほど患わずに亡くなった。(医師の往診を受けてから三日目に死んだ)

七、夫婦は相思相愛であった。(正しい)

八、未亡人は彼からの通信を知らされても死後の存続を信じようとはしないだろう。(正しい)

九、最後になったが、彼には妻がいる、ということも勿論正しいと証明されたことになります。 

 もう一件の例は十五歳で亡くなった少女に関するものです。彼女の母親というのは私の友人でしたが、私はこの少女には彼女が五歳になって以来会ったことがなかったのでした。カミンズ嬢を通して私はこの少女らしい霊と会話を交わしたのですが、遂には彼女が死後に存続しているという確証を摑むことができたのでした。

母親のB夫人はこの亡くなった娘の署名と筆蹟を正しいと確信したのみならず、この娘は絶えず母親の意識と接触を保っているらしいことも分かったのです。何度か娘はカミンズ嬢の自動書記に現われ、B夫人がしていること考えていることを色々と述べたのですが、B夫人はそれらを正しいと認めたのです。 

それらのことは皆カミンズ嬢も私も知らぬことばかりでした。カミンズ嬢がそれまでB夫人と接触を持ったことはなかったのです。このことがあってからB夫人は娘の死後の存在を全面的に確信し、またいずれ再会することも信じるようになりました。

このケースでは、われわれ二人に知られていない六つの事実が書き出され、その他にも私には知られていましたが霊媒には知られていなかった多くのことが述べられたのでした。 

 証拠となる事柄と同じく、更にもっと個人の人格的側面が目覚ましく現われた例として次のようなものがあります。

 

 Xという人の奥さんが亡くなりました。その霊の言うところでは、カミンズ嬢の自動書記を通して彼女の妹のP嬢や彼女たちの共通の友人であったT・M氏らと共に通信しているというのでした。書記に出た事柄は(通信は九回に及びました)これらの人の人格がそれぞれ存在することの明らかな証拠と、X夫妻の家庭に関する細々したことを示していました。

これらの内容をX氏に送りますと、X氏はこのような私事に言及したことが自分の死後に発見されるのは好ましくないと考え、これを破棄することに決めました。 

通信内容に関してはX氏はこう書き送ってきました。「素晴らしい。今までこのような素晴らしい経験をしたことはありませんでした。三人の個性が間違いなく出ています。私はこれを何度も読み返しました」カミンズ嬢はこれらの三人に会ったこともないのにそれぞれの性格の違ったところ、話し方、用字の癖、妻の生まれる前からあった一族の争いや不和に関することなどが全くそのまま記されているということなのです。 

更に共通の友人であるT・M氏からのものを読んだ未亡人は、その文体が「彼そのまま」であると叫びました。そして彼女の夫がカミンズ嬢を通して通信してきたことは間違いないと力説しました。 

 この例では、T・Mの未亡人とX氏はカミンズ嬢や私がその時まで関知しなかった九つの点が全く正しいと保証してくれました。われわれはT・M夫人は勿論のこと、その家族とも面識がなかったのです。X夫人とその妹のP嬢によって書かれたと称される書記の部分に関しては、私は次々とそれらが正しい事実を伝えていることを確かめることができました。 

それに加えて通信者と称する霊たちが特徴的な言い回しや興味深い個性を示し、それがX氏によって確認されたことは数え切れないほどにのぼります。霊媒が顕在意識の内にこれらの特色を知っていたとは考えられませんし、またテレパシーもこれらのことを説明できません。

ある交霊の席では地上生活中における姉妹間の一寸した諍の(いさかい)ことに話が及びました。この時のことばの応酬の際のも二人は依然としてそれぞれの性格を思わせる意見を戦わせ合っていました。 

 もう一つのカミンズ嬢の自動書記に関する素晴らしい実例は、一九二九年五月の『心霊研究協会雑誌』に掲載されたものです。この例は南アメリカ戦争で戦死したJ・M大佐からの通信を扱っています。彼は同じ時期に戦死した数名の戦友の将校の名前を正確に言ったのです。受信者(シッター)や霊媒の誰もこれらの名前や通信された詳しい事実については何も知らなかったのです。

 J・M大佐は、将校たちの一人の話してくれたこととして、二つの大隊がインドの駐屯地で出会ったときの「馬鹿騒ぎ」(残念ながら大佐は見ることを逸した)のことや、同じ場所で起こったある士官のスキャンダルのことを通信してきたのです。 

 これらの細かな事実は次々と確かめられたのです。即ち、通信者の連隊はインドに行っていませんでした。二つの大隊が出会ったというのは確かにその通りで──── 全く珍しいことですがそ────の時の「馬鹿騒ぎ」のことは丁度その当時現場に居合わせたある下士官によって確認されました。この事実は参会者の誰にも知られていなかったことでした。 

一八九八年に起きたこの事件のことは何処にも書かれていた形跡がありません。受信者の女性は一八九七年六月以降はアメリカでの大佐の戦死を新聞で読んで知るまでは通信者に会ったことも噂を聞いたこともなかったのです。 

 一八九八年といいますと、カミンズ嬢は未だ子供でアイルランドに住んでいました。彼女は問題の連隊とは何のかかわりもなかったのです。更に通信者は彼の知っているあることについて軽く触れたのですが、詳しく聞かれると、当人が未だ生きているからといってそれ以上話すのを断りました。その事件というのも同じ時に起きたことの一つで、関係した当人の生きていることが確かめられました。 

 更に証拠となる資料を出すこともできます。しかし、既存の理論────つまり、テレパシー説、想念伝達説、潜在意識の透視説等────のいずれによってもこれまで示した人格の再生現象を説明できないようです。最後に挙げたことなども私には通信者の人格を表わしているように思えます。即ちJ・M大佐が彼の知人の名誉を損なうようなことに言及するのを拒否したという点です。 

 こちらの僅かな例証でも四十を越える事実が述べられており、そのいずれもカミンズ情がその通信を自動書記している所に居合わせた人からのテレパシーによって得たものではありえなかったのです。これに加えてカミンズ嬢が、会ったこともない人々の人格を再生するという現象をどう説明するかという問題があります。 

私の目の前でカミンズ嬢を通して書記してきた内の一人だけが彼女の知人でした。私が知りかつ確認できた六人については、彼女がこれまで会ったことのない人々でした。残りの人々はわれわれ二人とも知らない人たちです。これらの人々はすべて各々の特性を示し、しばしばある主題について他の人々とは違った見解を述べたのです。 

 ではこれらのことの説明はどうなるのでしょうか?テレパシーや透視仮説で果たして説明がつくのでしょうか?ここでは多重人格の問題には触れませんでしたが、それが問題の解決にならないことは明らかです。

私は現在の心霊研究の枠内の理論ではこれらの事例の説明がつかないことに満足しています。そしてわれわれが死後も存続するという霊魂仮説のみが可能な答えを提供できると認めざるをえないのです。 

 心霊科学の扱う二つの側面────物理的現象と心理的現象────は、はっきりと区別されなくてはならないと思います。心理的側面の現象(即ち、入神演説、霊視、そして自動書記等であり、それによって時としては人間死後の個性の存続が証明されうる)に関する限り、「霊媒」ということばは有効性を持たなくなると思われます。

より適切なことばがそれに換えられるでしょう。それについては、マイヤーズが「霊媒は実は霊媒ではない。通訳ということばを用いるべきだ。それは忘れないように」と言っている通りです。 

 第三部において、心霊研究協会の大会への言及がなされたことは興味深いことです。もしマイヤーズの意識が死後にも生き続けてレナード夫人やカミンズ嬢を通して話したのだとすれば、彼が何等かの仕方でこの件に言及することは当然すぎるほど当然のことではないでしょうか?フェダが言ったように、それ(SPR)は「彼の楽しい狩場」だったのですから。 

 最近五十年間に「協会」によって提供された超常現象についての記録は最も懐疑的な人をも満足させるに足るものであり、死後存続への強力な例証になっています。協会の仕事の一つは、協会の注意を引くに至った超常現象としか言いようのない事例を集め、批判し、分析することです。 

そしてその結果への結論を下すことは読者に任されます。協会の会長であった人には、バルフォア卿、ウイリアム・ジェイムズ、ウイリアム・クルックス卿、W・H・マイヤーズ、オリバー・ロッジ卿、ウイリアム・バレット卿、シャルル・リシェ、アンドリュー・ラング、其他多数の人々がいます。彼らは皆心霊現象のまぎれもない真実であることを証明致しました。 

 そうした中でも、オリバー・ロッジ卿、ウイリアム・クルックス卿、ウイリアム・バレット卿、そしてW・H・マイヤーズ等は、死後の生存は証明された事実であるとの確信を披露しました。 

また、W・E・グラッドストーン首相、桂冠詩人のアルフレッド・テニソン、ジョン・ラスキン、R・L・スチィーブンソン、G・F・ワット、レイグトン卿、レイリー卿、アルチボールド・ゲェーキー卿、J・J・トムソン卿(元王位協会会長)そしてアーサー・コナン・ドイル卿等々の著名な人々が心霊研究の支持者として名を連ねています。

またその其他にも著名人、科学者、法律家等が続々と死後の生活や顕幽両界の通信を信ずると証言したのです。 

 こうした事実が認められるための時はまさに熟しているのです。 

 普通の人は誰でも自分で議論や調査をすることもなく、太陽は地球から九三〇〇万マイル離れた所にあるとか、光は一秒間に十八万六〇〇〇マイルの速さで飛ぶとかいう途方もないことを真実として受け入れています。

ジェイムズ・ディーン卿はこう言ったということです。「地球はけし粒ほどの小さな塵にすぎない。その塵は百万倍も大きな太陽の周りを、他の塵と共に回っている。しかしその太陽自身宇宙空間の大きさからみれば一粒の砂のようなものだ」と。 

 科学研究を何年も慎重に行なった結果、専門家たちが人間は死後にも存続するという真に重要な事実を発表したのです。彼らはこの点への確信を表明することをためらいませんでした。にもかかわらず、男女貴賎の別なく、確かな霊媒とただ一度の交霊の経験もない人々が、元来意見を表明する権利のない問題について、疑問を投げかけるというわけです。 

 心霊研究協会はオズボーン・レナード夫人の霊媒現象についての完全調査を行ないました。その機関誌と報告書は彼女を通して受け取られた事例を載せていますが、それらはそこに論ぜられている理論によっては説明できません。レナード夫人が当代第一流の入神霊媒であることは疑いないところです。 

 今や信念には裏打ちがありません。カミンズ嬢一人のみならず他の主観的霊媒からも私は死後生存の争う余地のない証拠を受け取りました。そう考える以外に霊媒現象の神秘を解く説明はありそうにありません。様々の時として通信の伝達経路に起きます。

通信者の側が地上の細かな事柄を充分に思い出せないという点は酌量されてしかるべきですし、そのことは知的に、また、偏見のない立場で研究する人にはよく分かっていなくてはならない事柄なのです。 

 われわれの現代の知識に照らしてみますと、心霊現象が近代に始まったものだと主張するのは無理でしょう。聖書をひもといてみれば、「自動書記」について述べられたものとみなすことの出来る例を少なくとも一つは挙げることができます。 

 「歴史誌」上の二八章、十九節に「ダビデ言う。これは皆神がその御手を私に置いて書かせ、知らしめたものであり、他のこの種の仕事も全てそうである」とあるのがそれです。 

 ダビデの推測に誤りはないでしょう。但し、当時にいう「神の御手」とは「神の御使い」を指したのでしょう。 

 また、「歴史誌」下の二十一章、十二節にも次のようにあります。(ユダヤの王に下るべき罰の警告として)「預言者エリアから彼の許に一つの書き物がやって来た」と。ある聖書の研究家はこれについて次のように記しています。「この書き物というのは、BC八八九年以前のものではない。したがって、エリアの死後七年のもの(書かれたもの)でなければならない」 

 新約聖書についてもこれを心霊現象の実証として調べてみますと、心霊現象であると指摘できる例の多いのに驚かされます。たとえば、使徒行伝の九章二節には、ある街の名やそこに住む人の名が幻によってアナニアスに通信されたことを記しています。 

 心霊研究の論法で言えば、これらの通信内容は次々と確かめられたのです。この例はある意味で本書の二二〇頁に記した例や、また、心霊現象と関連して次々に起こる類似の例と同種のものだと考えられます。 

 聖書の中の他の数多くの分かりにくい個所が、近代の心霊調査で証明された事例を参照することによって、懐疑的な人のもよく得心がいって信じられるようになります。 

 フレデリック・マイヤーズは大著『人間個性とその死後存続』の最終章で次のように述べています。 

 時代の要請するところは、努力の放棄ではなくその増大である。科学が地上の問題に対し専ら適用してきたのと同じ精力と真摯さを以って、目に見えないことどもの領域を研究するための時は熟した────と敢えて私は言う。というのも、私は次のように予言しうるからである。

即ち、もし新しい証拠が見出されるなら、理性的な人々は百年後にキリストの復活を信じていようし、もし発見されないなら、理性的な人は誰も百年後にはそれを信じなくなっているであろうと。 

 現在では心霊研究に多年を費やした学者の立派な証言があります。しかし協会はこれまでのところ「目に見えない世界の研究」の重要性を認めてはいないようです。聖職者のある者が個人的に調査したという事実はあります。おそらく同宗派内部の公式見解への慮り(おもんばか)から率直に自分の意見を表明することができないでいるのでしょう。 

一般民衆の意見は未だ充分に信仰には知識の裏付けが必要だということや、心霊研究────人間の魂とその行方の研究とでも言えましょうか────は物質的時代の信仰を援助し、大衆に死後の生活についての確信を伝えるという点で、教会の盟友であるという事実を受け入れる用意が未だ充分にできていない状態なのです。

 


     補遺     G・カミンズ
 

     補遺の一      クレオファスの書
 
マイヤーズ   この書はいわば空の中から引き出されたものであるが、それは偶然とか突発事故などから起こったことではない。元をただせば多くのことが出発点となっている。例えば大戦以来現世の男女の中に霊的真理への欲求が熾烈になってきたことがある。巨大な物資エネルギーの爆発が引き金となって、人々の真理を求める憧れが高まった。 

これはわれわれが「地球の音板」と呼んでいる物の上に響き渡る。大衆の集合的な欲求がそれを打ち鳴らすのである。ときとしてそれは霊界からの影響力を引き寄せる。かくして魂が────もし適当な霊媒が見付かればであるが────地上の子等の緊張な招請に応えて通信を送るのである。

  とはいっても類魂がいつも無謬なわけではない。彼らは真理をある角度からあるやり方で見ているにすぎない。彼らは人間の行く手を照らし出したいと心から願ってはいるが、必ずしも必要なものが与えられるとは限らない。

地上において掻き立てられた喧騒はこちら側に様々な印象を伝えてくる。われわれの側も様々に反応するが、必ずしも霊能力者を通してそれを表わすわけではないのである。 

例えば大戦中に科学の進歩が加速されたのなどはこちら側が関与した例である。多くの発明は現世の応用的な知性を通してなされたが、その本質部分は現世の人の意識に胚胎したものではないのである。

ある類魂の霊が有能な科学者に想念を集中し、その頭脳機構を用いて新しい発明の基となる秘密を現世に教えると、それが結果として機械なり医学なりの進歩を促すということになるのである。 

 類魂のも粗暴で原始的な舞踏を現世に流行させるような低級なものがあり、そのためにこのところ若者たちが全く狂気の沙汰としか思えないような暴力的破壊行為に掻き立てられているのである。

様々な霊の影響力が地球の周りを取り巻いている様を想像してみてもらいたい。それはあたかも善悪多様な名付け親(ゴット・マザー)たちが、乳呑み子等の揺りかごを見守りつつ自分たちの特徴を刻印した能力を赤子たちに賦与しようとしている様を思わせる。 

 今ここにある類魂がひとりの女性霊能者を見守り、彼女がその頭脳機構を通してキリスト教誕生の頃の物語を受け取れるようになるのを待っていた。この類魂の成員たちからしてみると霊界からみた人類の霊的孤独の様は目を覆うほどで、その訴えに答えるにはこの一つの方法しかないように思えた。

何故なら、人類は今泥にまみれ、打ち据えられ、血を流しているからである。誇りは傷つき、心は途方に暮れ、その魂は根本から揺すぶられているからである。 

 それで彼女はエーテルの中にある古い記憶の中をさまよっていった。あなた方の世界では冒険心のある若者は未知の国を旅するのを好むものであるが、同じように霊媒も、冒険心に富みかつその資格ある者であれば、過去の荒野を歩きまわり、歴史の中に咲く感情の花々を手折り、去りにし日々の果実を集めることができるのである。 

 しかし時代は消えもしなければ過ぎ去りもしない。あなた方は宇宙の心の内に再びそれを見出すであろう。しかいあなた方はその際、それが曾てあった通りにではなく、人がそれをイメージしたものを見るのである。 

 大記憶はエーテルの中に刻まれた人間の主観的経験の総体を含んでいる。ある霊たちは霊媒をこの膨大な記憶貯蔵物の一断片と結びつける。霊媒はその大記憶から、何といおうか、地上的個性を卒業してしまった霊によって引き出され伝えられるものを書き出すのである。 

 その全過程をこなすことは極めて困難である。そのことは霊媒にとってかなりの負担となる。しかしうまくいけばある時代の歴史そのまま、というよりはむしろ知性感性の備わった人たちのその時代に対する見解をもう一度取り戻すことになるのである。 

 ある時代にあって深く思いを潜め、深く物事を感じ取った人たちの目を通してえられた、いわば一時代の解釈のようなものがエーテル記憶の中に刻みつけられている。 

 それはある人々の心に刻まれたその時代の真実の印象を表しているという意味においては正確な歴史である。しかしながらどのように高い才能に恵まれた人でも、その主観的経験というものは、必ず不正確なものだという意味では不正解なのである。 

 というのも、大自然の記憶の中に刻まれた広大な歴史について当てはまることは、生きた人間によって刻まれた歴史にもある程度当てはまることだからである。つまり悪しき肖像画と良き肖像画の間に見られるような差異の如きものはどちらにも存在する。真偽を直観的に見分けるのは歴史を読む人それぞれの責任なのである。 

 歴史を編むことは一個の芸術である。私はあなた方に歴史を注ぎ出す古の霊人たちが芸術家であってほしいと思う。というのは、時が過ぎ去った今となっては、神の啓示について真に重要なことは、事実としての性格さではなくして、人の心に映じた映像としての正確さなのです。 

 クレオファスとその筆記者たちは、自分たちが人の子の求める万能薬を与えていると信じて疑わない。しかし彼らは人の心が大きく変わってしまっていることに気がついてはいないのだ。現代人は殆ど信仰心というものを持たぬ。彼らは物質的なものを求めるようになっているのである。 

 ローマ時代、その栄光の内にあなた方の時代と同種の絶望、同種の荒々しい欲望が人々の心を押し包んだことがあった。唯物主義の底無し地獄に落ち込んだ人々は、死後の生命に確信を得たいと思い、霊的真実を求め、肉体の運命から何とかして逃れたいと願った。とはいってもその時代には人々の心の在り方が今とは大分違っていた。 

彼らの世界は今日のように「機械の神」には支配されていなかった。したがって彼らは機械によって縛られたり、物理学、科学、数学といったものの巨大な成功に眩惑されることもなかったので、啓示を受け入れるのにそれ程の抵抗はなかったのである。 

 クレオファスとその書き手たちは知的な人々の耳をそばだたせることに成功するかもしれない。が、大衆の多くは物質的刺激や自然科学の教説を通して霊的実在に触れることを願っている。言い換えれば、現代の人々は物質のことばで考えることが身についてしまっているので、霊的なことばには注意を払わないであろう。 

一なる神とその子への崇拝に先立つ往時の異教の神々への信仰は、救世主イエスの偉大な姿に近づくための準備として役立った。哲学者たちはその最も懐疑的な者たちでさえ、人々の心に望ましい態度を植え付けるのに役立った。しかし現代の物理学者、医者たちは当時の哲学者と同じくらいに大衆の心を摑んでいるが、彼らといったら単なる唯物論の旗持ちにすぎないのである。 

 クレオファスは一つの団体ないし複数の者たちであると言ってもよかろう。言い換えれば、クレオファスは初期キリスト教の熱狂的な信者たちの魂が永い旅を続けている途中で一段階を表わしているのである。彼は最近亡くなった魂のように一個人として存在するのではない。 

クレオファスは一個の集団としての魂とでもいうべきもので────他に適当なことばが見当たらない────エーテルの大記憶から初期キリスト教徒の演ずる壮麗な劇を引っ張り出すことができるのである。

それは冷たく傍観的な歴史家の手になるものではなく、熱狂的なキリスト教徒たちの情熱の奔出ともいうべきものである。彼らは自分たちが生きた時代についての「情感的な見方」を書き表わそうとしているのである。 

 私が「情感的な見方」ということばを用いたことに注意していただきたい。情感を混じえずに書かれた本はエーテルの中に刻印されない。そこに刻まれるのは実際の言語ではなく書き手の想像の中のイメージである。そこにある画像やシンボルが生きた霊媒の頭脳の特殊機構を通してことばに換えられるのである。 

それが神聖劇や聖書の持つ遺伝的傾向を含んでいることにあなた方は気付かれることであろう。権威的な言語の持つ不可避な枠組みがそこには潜んでいる。この枠組みは現在のこの頭脳の持ち主によって造られたものではない。それは多くの真剣な聖書の読み手としての先祖から遺伝的に伝えられた傾向の集積なのである。 

 クレオファスの書き手たち────むしろエーテル記憶の周囲に漂うキリスト教徒たちの集合的な想いとでもいうべきか────は、そこにある記憶を集めてそれらを生きている一女性の意識の深部に注ぎ込むのである。この深層意識はイメージ言語で考えたり話したりするものである。 

言語への翻訳は潜在意識がイメージとシンボルを素早くこの女性の頭脳に投入する際に行なわれるものらしい。瞬時にして書き手の霊たちは肉体に付着した記憶中枢から必要な外衣としてのことばを集める。すると聖者たちによって夢見られたキリスト教の古代劇が頁の上に書き出される。 

 その劇は聖なる情熱の人々が生前に持っていた現像の記録としては正しい。しかし私はその映像の正確さについてはどの程度のものであるかを答えることはできない。それらを書く霊は宗教と神秘主義が追放され、科学と合理主義と唯物論が人の心を左右する時代にこちらへやってきた魂を仲間から締め出して内に入れないようにしている。 

 それ故この特殊な類魂の目的は単純化されており、異なった性格の魂の侵入によって複雑化されていない。

 



    補遺の二     霊光

マイヤーズ    生命流動体とも呼ぶべきものがあって身体と結びついている。私はほかに呼びようもないのでこれを「幽的流動体」fluidと呼んでいる。この流動体は大事なもので、生命が衰えると、この流動体も活気を失う。この流動体は大事な働きをしている。 

流動体を形成する材料は柔らかなもので、────表現が難しいが────心を神経細胞や、身体と結びつけているのである。脳は確かに意識的な制御力であるが、無意識も重要な仕事をしているのである。目に見えない流動体は、無意識の心を顕在意識の指示なしに動く無数の身体活動のすべてと結びつける。 

 さて、ある人々の幽的流動体は、他の人のそれよりも強く流れている。この強弱の度合いは、魂と身体との間のバランスや、その人の持つ特質によって異なる。その流れが強くわれわれに感知される性質を帯びるとき、それは光を出す。 

というよりも、それはむしろわれわれから見ると炎のように見える。殆どの人はこの炎を持っているが、しかしそれは普通はわれわれに見えない程度である。ある種の人々の場合だけ────つまり霊媒であるが────、それは、はっきりしていて、われわれに見えるのである。この炎の明るさは、ある部分、霊媒の意志の明燈さにもよる。 

 霊媒は幽的流動体を活発にして、その炎の輝きを増すために、努めて超然とした静けさの内に身を置くようにすべきである。霊媒の意志が働いて、脳の機構を作動させるようなことがあると、われわれの通信を損なうことがある。われわれが働きよいのは、霊媒の意志が静まりかえっているかどうかにかかっているのである。 

勿論、他にも考慮すべき幾つかの条件がある。参会者の幽的流動体の影響や、外的な影響、それに霊媒の健康などの条件である。これらのすべての要因が考慮されなければならない。これらの何れに問題があっても困難は増大する。 

 私としては次のことも付け加えておきたい。それは、霊媒の意志を支配するなんらかの感情の混乱は、もしその霊媒が、自己超越という点に特別優れた資質を備えていなければ、交霊に悪影響をもたらし、会の雰囲気を荒らしてしまうだろう。これは当然である。流動体はひどく感じ易いものなので、霊媒をゆさぶるような激しい感情には強く影響を受けるのである。 

 この点に関しては、まだ他にも注目すべきことがある。しかし、霊媒たちのことについて述べることは、本題から離れることになろう。霊媒にも様々な相違と個性のあることが考慮されなくてはならない。ある者は巧みな電話交換手であり、ある者はこちら側からの証拠を伝えるのに適切な鋭敏な意識を持っている。通信の伝達は────お分かりのことと思うが────内在意識と人間の幽的流動体の結びつきによって複雑化されている。 

 私がここに見出すこの霊媒の心は内容豊かなので、何の学識もない人には期待できないような仕方で反応する。死者は生者の心に、生者が気づいているよりもずっと多くの影響を与えていることを知らなければならない。 

大部分の発見は、顕幽両界および二つの心の産物であり、肉体を持たない心と、肉体を持った心がそれに表現を与えるのである。しかるに世の科学者たちはわれわれの示唆をインスピレイションと呼び、それが想像力の閃きが点火する単なる火(は)ちく以上の働きをすることを認めようとしない。 

 あなた方は薬と内分泌物の違いを区別できるであろうか。霊媒を通して、われわれがそのどちらかについて話そうとすると、同じ物として受け取られてしまうのである。われわれの送る通信はたとえ言わんとすることが同じであっても、別の霊媒を通したときには別の形で現われる。というのは、霊媒の内在意識はその意識の豊かさに応じた通信の形成をするからである。この現象は未だに私を驚かす。 

 どうか、私が他にも地上との交信の試みをしてきており、またそれを続けてもいるということを承知しておいていただきたい。 

 しかし私はこの独特な通信方式が気に入っている。という訳は、この種の内在精神を操作することによって少なくとも私の持つある観念はかなり効果的に伝えることができるからである。現実的な事柄であるならば、他の型の霊媒の方がもっと自在に通信を伝えうるかもしれない。

確かにあの可愛らしいフェダの場合などはそうである。彼女はある意味ではとても操作しやすい。われわれはこちらの側で、霊媒について色々論議している。私はフェダのやり方については大変よく知っているつもりだ。生きていたら彼女との実験をやれたのだが……。 

 死後存続の証拠を摑まえようとして、熱心に研究している私の友人たちは皆、通信の仕方やわれわれが霊媒を支配する件に関して誤った観念を持ってしまっている。われわれが通信をするとき、支配する度合いの強いのはむしろ霊媒の方だ。通信の条件が悪いときはまさにそうなってしまう。 

われわれの通信は、直接のときはわれわれから霊媒に伝えられ、そこで霊媒の内在通信によって翻訳される。この意識が受け入れることも理解することもできないものを訳すことは不可能である。

この意識はわれわれの想念をことばで受け取るのではなく、まさに想念として受け取るのである。時として、うまくいけば、われわれはこの想念に自分独特の型を刻印することができ、それが再現されることがある。 

 われわれの生活状態が、判然と伝えられることが滅多にないことを、どなたもいぶかしく思うことであろう。それは、われわれが快く弾こうとしても調子の合わない楽器のせいなのである。霊媒とは単なる媒体ではないことを思い出す必要がある。

むしろ「通訳」と呼ばれるべきだ。それは逐語的なものではなく、霊媒を通して伝えられるところの一つの解釈である。通訳者は必ず二つのことばを話せなければならない。 

つまり、われわれに話すことばとあなた方に話すことばとである。これは二種の機能である。あなた方は霊媒について学ぶべきだ。もし何か強い偏見が述べられているのを発見したら、それは霊媒の無意識からくるもので、影の世界の通信者からのものではない。

それは通信社者が、霊媒の深層意識にある固定観念を取り除こうと最大限の努力をしたにもかかわらず、しくじってしまった結果なのである。



 



   補遺の三    他界からの通信
 
マイヤーズ    どうか何なりと聞いて下さい。

ギブズ     レナード夫人やフェダなどの支配霊のよる交霊会は、あなたから見るとどのように見えるものか言ってみて下さい。 

マイヤーズ     では、最初の時のことを例としてお話ししよう。私はあなたに私の言ったことを記憶してほしいと頼んだ。そしてなおかつ私は、私がフェダの所で話すという観念をあなたの心の中で努めてイメージ化するようにと依頼した。これは大変大事なことだった。最初はあなたの心に私が訪れることが可能かどうかを危ぶむ気持ちがあった。 

私に出現してほしいという想念は、無限の海に投げかけられた細い糸のようだった。私がそれを見つけて摑まえると、あなたの想念は交霊会の場所へと私を引っ張った。これが私の詔霊ということになる。次に私が来たことを知らせる必要があった。 

 さて、フェダはあなたにすっかり慣れているのを私はすぐにみてとった。フェダは新規の者には目もくれず、ひたすらあなたが関心をもつ人々の方向にのみ網を投げかけていた。 

 そこで私がどのようにして私の存在を知らせたかという問題だが、私は専らあなたの助けを借りることにした。あなたの潜在意識から────というよりもむしろあなたの顕在意識に最も近い潜在意識の層と言った方が良い────から私の名前のイメージを引き出そうとした。 

それは人体に結合する微妙な精妙体の上に刻みこまれているのであり、身体の中にあるのではない。私はあなた方の周りを雲のように取り巻いている記憶の貯蔵庫のことを言っているのである。フェダには私が見えなかった。しかし、フェダは新しい通信者を探すべきだと気づいた時に、心霊エネルギーの網を投げかけ、それによって私が彼女に示そうとするシンボルを理解したのであった。 

 最初その網の中に私の名前を落としこむのは難しかったが、結局は成功した。そしてもう一度あなたの助けを借りて、あなたの幽的流動体を用いて網の中に私のイメージを投げ込むのに必要な力を獲得した。自分では気づかずにいるが、あなたは全く強い念力の出し手だったのですよ。

というのもあなたの欲求がどんぴしゃりだったのだ。あなたの持つエネルギーのお蔭で私はとうとう私の存在を認めさせることができた。 

ギブズ    あの時、あなたは段々に近づいてきて、そしてまずある証拠を出されたように思わ   れますが。

 マイヤーズ     私がイメージと言ったのは全体的意味におけるイメージのことで、個別な意味のものではない。私についての相対的な印象というのはフレデリックということばに結びついていた。そこで彼女はまず初めにあの文字を摑んだのだ。 

ギブズ     確か最初「M」という大文字が出たと思いますが。 

マイヤーズ     どの文字が最初彼女の注意を引いたのか分からないが、私としては自分の姓と名とを文字で綴っただけである。彼女は最初の文字だけを切り離して摑まえたようだ。私としてみれば、最初に何が彼女の注意を引いたのかは大したことはない。

そのイメージは私が生きていた時の私の総計といったものだった。全体のうち知覚され、網に捕えられたのは極く僅かである。しかしそれが充分なものになった時、彼女は私の名前を摑むことができたのだ。

 
 


    補遺の四    地上生活の記憶を通信する困難        

ギブズ    あなたがレナード夫人やフェダを通して通信してくるとき、フェダの場合には、あなたは自分の意識の中にいて、いわば想念を投射し、それをフェダが通訳するようですが、自動書記の際には霊媒を直接に支配しているようにおもえます。この二つの状態に於いて、地上生活のことばはどの位思い出せるのか説明していただけますか? 

マイヤーズ    面白い質問だ!やり方を説明する必要がありそうだ。あなたのいう自分の意識の中にいる状態では、私はまさに、私の記憶の中にいる。そういう時、もしあなたがそれを見るだけの強い光線を当ててみれば、記憶はかすかな雲のように見えるだろう。 

しかしフェダの場合には、彼女がある霊媒に憑(かか)っている時、われわれ霊の方がある特定の記憶に精神集中すれば、彼女はその記憶が何であるかを読み取ることができる。彼女はそれを理解してから霊媒の深層意識に伝え、そして最後にそれを発表するわけだ。 

 私がこのご婦人ないし他の霊媒を通して直接に話すときは、プロセスがかなり違っている。私は霊媒の深層意識の中に入っていって、必要な印象を与える。するとその印象が手に伝えられて自動書記となる。

これを行なうとき私の深層意識は霊媒の意識混じり合い、そしてそれを完全に支配してしまう。しかしある特定の地上時代の事実や記憶の断片を伝えたい時には、それらの個々の具体的な記憶を取り戻すために、一旦この霊媒の支配を止めなければならない。 

 そこで、私が言っておきたいことは次のことだ。私が我が記憶の全体(霊媒の深層意識の外にある)の一断片を取り戻したいときには、霊媒の深層意識から離れてそれとの接触を断たなければならないということである。記憶を持ち帰ってわが船────そう呼んでおこう────を再び操ることはまことに難しい。 

しかし、直接、通信を送る時には、私は自分の内在精神の円熟した能力を用いることができる。この内在精神は霊界の新生活についてのある程度の知識や記憶も持っている。ミイラや貝のことを想像して頂きたい。私の地上時代の記憶は硬くなって、いわば、そんな風な形に固まってしまっている。まるでミイラのように死んでしまっているが、私がその中に入ると再び活性化する。 

 私が書く立場からすれば、直接支配の方がよい。私の意志および心が、霊媒の精神力を利用して私の考えを表現できるからである。霊媒の深層意識が多少は混入するがそれは、霊媒が私の伝える思想を禁止するほど強い偏見を持っている場合に限られる。しかしながら、この霊媒の心の中にはこの種の障害が非常に少なく、その心は穏やかで柔軟である。 

 フェダを通して私は記憶を伝えることができる。私が以前彼女と仕事をしたとき、彼女は特別敏活に私の言わんとするところをとらえた。勿論、新しい参加者を加えて行なう新しい交霊は、そのつどに、交信の初歩からやりなおすに等しい条件の変化を意味するものではあるが……。 

ギブズ    地上の人と話した後で、あなたの世界に戻った時、あなたは自分の言ったことを思い出すことができますか? 

マイヤーズ    その質問には詳細な答えが必要だろう。私は以前、簡単にそれに触れているが、実のところ、詳しい説明のためにはもっと勉強がいる。────今のところは簡単に答えておくしかない。ある意味ではこちら側の世界では、明瞭な記憶を持つことが難しいのは、前にも一寸述べた通りだ。しかしはっきりさせておきたいのは実際に起きたこと────いい換えれば、最も大事な部分ということだが────は忘れられないということである。 

 私の思考しつつある意識を記憶と比べてみると、微生物と象ほどの違いがある。そして意識という一つの体に住む私は、私の記憶の十分の一も把握できないものである。私の記憶は整理棚になっていて、その各々の記憶は目に見えない連結の糸で私の思考する意識とつながっている。 

その糸は合図があると記憶の一つを私の許へ引き寄せるのである。ある糸はこの婦人を通して通信している時に合図を受け、また他の糸は別の霊媒と接触を持った時に刺激を受け、他の記憶を喚起する。 

 時折この交霊会に関連のある記憶が、こちらに戻った後に心に浮かぶことがある。だがそれはある連結糸が私の記憶を呼び覚ますのであって、それらの記憶を私が携えているためではない。それは生きている平凡な人々が記憶というものについて持っている考え方である。 

そういう人は記憶は全て頭の中にあると思っているが全くとんでもない誤りである。記憶とはわれわれの存在の一部であり、かつまた、われわれの一部ではないという点に於いて、われわれの最も神秘な部分なのである。私が記憶について書けば、それだけで一冊の本が書けよう。

 


 死者と話すことは良いことか悪いことか

 ギブズ    ある人たちは、死者と話すために彼らを地上に引き戻すのはよくないことだと言っていますが、どうですか? 

マイヤーズ    言う意味はよく分かる。そして無論、もし話すことがわれわれを苦しめるようなら、話さないだろうというのが分かり易い答えだ。いずれにしてもあなたが今言われたような説をなす者は、全く事態を理解せずに言っているのである。多くの霊魂たちが地上と話したがっているのだが、地上側で死者を思う人々の方が、彼らへの便宜供与を拒んでいるのである。 

実際のところ、地上に愛する人を残してこちらに来た者たちは、たとえ見知らぬ人達とであっても、会話を交わせることを無上の喜びとするのである。というのも、そのことによって、地上生活の思い出として残留する幸福の日々を再びまざまざと感ずることができるからである。 

 あなた方の言う「帰還」の際の感情はともかくとして、われわれは全くあなた方とは違った存在の仕方をしていることを承知しておいてもらいたい。つまり、われわれの存在の特徴の一つは、われわれが自分の一部を投射して、霊媒を通して話をする状態に入りながら、もう一方の自分は、こちら側で自分の仕事や生活を続けることができるということである。 

あなたは地上関係のことを死者に思い出させるのは気の毒だという意味のことを言った。しかし、これらの思い出は、彼らの記憶庫の中にちゃんとある。あなた方は死者たちに何も思い出させたりはしない。 

あなた方は単に死者を幸福に感ぜしめるあの確信つ────まり、彼らが愛する多くのものが存在したはずの地上生活は、決して今でも無くなったり、抹消されたりしてはいないのだという確信────を与えているだけなのである。死者たちはしばしばそれを喜び感謝している。

 

 




  
 補遺の五     動物の死後存続 

マイヤーズ    あなたは私に動物のことについて率直に書いてほしいと言われる。まず、人が下等動物とみなすものを分類してみることが必要だ。地上には進化を辿る幾つかの平行な線が存在する。遺伝学の教えるように、植物、魚類、野生動物、それにもちろん昆虫などが存在する。 

これらの生物は皆自己の内部に生命の息吹を備えてきた。一なる大精神の創造物であるこれらの生物は、どの程度創造の能力を授けられているのであろうか。もし人間の魂が死後も他の存在形態の中で進化し続けるとしたら、他の進化能力を持つ生命形態のものも人間の魂に相似た神秘な精妙体(エッセンス)を生みだす可能性があると考えて当然である。 

植物、昆虫、魚、野生動物などを階層的に並べてみてほしい。そうするとそれは中学校の形態に似ていることが分かる。植物の魂ないし精妙体は、死後集まって、やがて一つの全体を形成する。 

これらの数知れぬ微小な存在────彼にそう言っておく────は、死後を一段一段上っていき、昆虫の中に入りこむことによって一つのものとなる。無数の昆虫の魂もまた、やがて魚や鳥の魂もまた、やがて魚や、鳥の身体に入って一つの存在となる。このようにして最も知的な飼育動物に至るのである。 

ある種の犬、馬、猿などは、知性の核となるものを持っていて、それらは人の身体に宿る魂のうちでも最も粗雑な部類のものに似ていなくもなる。これらの動物たちは、死後誰やらの名づけた「地上的欲望の国」へ行く。 

だが私の考えでは国という言い方より「死後の状態」という方がよい。私はこのことばで、彼らもあなた方の世界を超えた一つの世界に存在するのだということを示したいのである。彼らは未だ地上の気味合いを残した世界に生き続ける。彼らは夢のなかで地上を夢見続ける魂なのである。 

というのも死者たちの多くはこの夢の世界、つまり、地上のエーテル的映像世界に住むのである。それは、人間たちの地上記憶から造られた場所で、地上と同じ地理的特徴を備えている。 

多くの単純な魂は、自分たちにとっては地上の物質形態と同様堅固で実体のあるものに見える環境に満足して住んでいるのである。しかし無論、重要な相違点がある。この超地上的映像の場所たる夢の国には、食物や金銭の問題は一切ない。 

 この生息地に住む、かつて長いこと人間の友であった犬や猫は、その愛情の故に、もしかつての主人がこの影の国に住んでいるなら、主人の許に引き付けられていく。その国は地上より遥かに美しい国であるが、われわれはそこを「影の国」と呼んでいる。 

実際のところ、そこは地上に隣接した所で、旅する魂はそこを通り抜けなければならないのだが、ある魂はその境界線上で、長くぶらぶらしていることもないではない。しかし動物たちがこの境界線を越えていくことはない。彼らはある時期がくると地上に帰って、人間の体に入らなければならないのである。 

 というのも、彼らは未だ善悪を知る知恵の木の実を食べていないからである。人間だけがそれを食べた。創世記第二章にあるこの物語は、深く象徴的な意味を持っている。林檎を食べたというのはまさしく、人間が動物的段階から脱したという自然史の中の一時期を象徴的に表わしている。哀れなイヴとその娘たちは、このことから、最初の地上的醜聞であるとして非難された。 

 仮に私が、禁断の木の実を食べた寓話を忠実に翻訳するとすれば、私はそれを人間の魂を持った最初の人類の誕生────それこそまさに人間だった────を象徴したものとして述べるべきだろう。人間とは不可視の世界から知識の秘密をもぎとった者のことをいうのである。 

それは神の創造としての進化の歴史を踏み出す第一歩である。さて動物たちのことに戻るとしよう。動物たちはわれわれより創造的価値の劣ったものではない。彼らは単に複雑さの度合いが少ないだけである。また彼らは人間の言う善なる存在でも悪なる存在でもない。というのは、彼らには原則として善悪の知識がないからである。 

しかし宇宙は次第に単純なものから複雑なものへと進化する傾向があるので、私がやむなく「動物的心性」と呼んでいる部分────つまり、肉体の死後に生き続ける部分────はある空間即ち、地上生活に最も近接した場所に住み続けるが、必ず地上に戻って物質中に入り、適当な時期がければ人間の形をとるのである。

 以上によって次のことが理解されるべきである。即ち、動物も魂を持つということ。つまりは動物のも個的な精妙体があること。この個的な精妙体はしばしば他の動物の魂と結合して進化の次の流れに進み、遂には人間にまで進化すること等である。 

しかし人間になる段階がくると、この胎児期の魂に新たにある物が付け加えられる。その付加物はそれぞれの個体の歴史に応じて発生せんとする精神性のうちに取り入れられるのである。







     解説   (梅原伸太郎)
 

 カミンズとマイヤーズ

 

本書はジェラルディーン・カミンズの“The Road to Immortarity”(初版1932年、本訳書は1967年版を使用)の翻訳である。戦前に浅野和三郎訳のものが「永遠の大道」として出ているが、本書所収の序文、交差通信記録、補遺等を含んでいない。

 

「永遠の大道」は明治の美文家として鳴らした浅野先生(以下簡単に浅野とする)らしい名訳であるが、余り原文に忠実であるとはいえない。適当に省いている所もあり、自家の説を加えている所もある。

 

当時の啓蒙書として立派に役割を果たしていると思うが、現在の段階になると、重要書であるだけに細部が気になる所もあり、また本書には、浅野訳にない部分も大分加わっているので、再訳の意義はあるであろう。

 

しかし実をいえば、永いことこの浅野訳も一般読者に入手できない事情がつづき、再訳の要望が多数あったので、是非という近藤氏の勧めもあり本集に加えることにしたものである。この書はいわゆる霊界を語ったもののうちの白眉である。欧米でもスピリチュアリズムの最重要文献として挙げられている。

 

単なる霊界描写とは異なり、各界の特質や相異点が哲学的にえぐり出されている。それでいながら必要な具体性も備わっている。また意識や記憶についてもその本質を知るうえで示唆に富んでいる。さすがは学者で、心霊研究に打ち込んでいた人の通信であるという気がする。

 

霊界のことを描き出したり報告したりするにしても、要はそれをなす人(霊)の問題意識が重要である。観察者に問題意識や各階層間の識別能力がなければ、たとえ霊界の実相を描写したとしても陳腐なものとなるのではなかろうか。

 

 ジェラルディーン・カミンズGeraldine CumminstZb1890~1969)はアイルランド、コーク市のアシュレー・カミンズ教授の娘で、女流作家であった。優れた自動書記霊能者として知られ、使徒フィリップ(ピリポ)やクレオファス(クレオパ)やFWH・マイヤーズからの霊信を受け取ったとされる。
 

彼女の霊媒能力は、192312月、EB・ギブズ嬢と交霊の試みをした時に始まった。彼女はそれまで神学やそれに類似の学問を学んだことはなかった。広く国外を旅行したが、エジプトやパレスチナの地を訪れたことはなかった。

 

普通彼女が創作する時の速度は極めて遅いが、自動書記を取るとなるとその速さは驚異的であった。1926316日の書記では、1時間5分の間に1750語を書き上げた。

 
彼女の最初の本「クレオファスの書」は、「使徒行伝」や「パウロ書簡」の内容を補うもので、初期教会やイエスの死の直後から、聖パウロがベレアの地を出立してアテネに向かうまでの使徒たちの行跡を物語った歴史物語である。この本の最初の部分は、ブライボンド(*注)との協力のともに通信を受け取ったが、その後は彼女自身で受け取ったものである。

   (*注)ブライ・ボンド(Frederick Bligh Bond

        王立英国建築家協会会員。1864年生まれ。教会建築家、考古学者として、失われたグラストンベリー教会の発掘にあたった。「心霊科学」誌、ASPR「報告書」などの編集者を務める。「記憶の門」「幻影の丘」「アヴァロン団」その他の初期教会の様子に触れる著作があるが、これらはジョン・アレインやドーデン夫人の自動書記に基づいたものと言われる。ブライ・ボンドの特殊な使命がこうした霊と霊信を引きつける作用を果たしたと考えられる。(心霊科学事典)

 

二番目の本「アテネにおけるパウロ」はこの話の続きである。第三番目の本「エフェサスの偉大な日々」もまたこの流れに沿ったものである。これらの自動書記が書かれる模様は高名な神学者やその他の権威者によって目撃された。彼女の本を編集した学者たちはこれらの本には立派な価値があると認めている。