シルバーバーチの霊訓(1)

PC版
                        
 Guidance from Silver Birch
     Edited by Anne Dooley
         Psychid Press Ltd.
         London, England
                                                                                                              
                                                                                                       
シルバーバーチの霊訓(1)目次  

 
一章 あなたとは何か    
二章 なぜ生れてきたのか   
三章 なぜ苦しみがあるのか


四章 物に惑わされない生き方    
五章 霊的交信の難しさ   
六章 役に立つ喜び


七章 心霊治療の生命力    
八章 愛の力     
九章 霊とは何か


十章 質問に答える    
十一章 おしまいに     
十二章 シルバーバーチの祈り


 解説…霊的啓示の系譜…近藤千雄

まえがき

ロンドンの質素なアパートの一室でシルバーバーチと名告る古代霊が、入神した霊媒の口を借りて現代に生きる人々の為に人生訓を説き続けている。本来の高い霊格を隠すために無名の北米インディアンの姿に身をやつし、大切なものは自分の語る中身であって自分の身元ではない事を強調するのである。

 シルバーバーチの使命は宇宙を支配する不変の理法についての知識を広めることにある。それを流暢で美しい、しかも平易な言葉で解き明かす。

 こうして私が綴っている間も世界は又もや猜疑と不信の渦中に巻き込まれつつある(第二次世界大戦の予兆)。不吉な流言が飛び交い、恐怖が地上に忍び寄っている。貧困と飢餓が各地に発生している。猜疑心が地球を二分している。信頼と善意の欠如の為に、差し出した友情の手が拒絶されている。

 思うに、もしシルバーバーチの平易でしかも実用的な教訓が日常生活に応用されれば、間違いなく四海同胞の時代が到来することに同意しない人はまずいないであろう。

 いわゆるハンネンスワッハー・ホームサークルのメンバーが定期的に交霊会を開くのは、そのシルバーバーチの霊訓を広めることに他ならない。霊訓は速記者によって記録され、各種の雑誌や書物を通じて世界各地に広められている。

 この愛すべきインディアンはこうして世界に無数の同志を作ってきたが、その大半は一度もその交霊会に出席した事も無ければ、メンバーと直接会ったことも無い人ばかりである。中には余りの苦しみにシルバーバーチの救いの言葉を求めて便りをよせる人もいる。

 其れに対してシルバーバーチはいつも喜んで助言を与え人生哲学を説いて聞かせる。これまでも数えきれない程の人が慰めと助言の言葉を授かって来たが、その一つとして無名の南アフリカ人のネーピア氏の場合を紹介しよう。

 まずネーピア氏が交霊会の司会者であるスワッハー氏に当てて「見知らぬ者が突然の手紙で助言を求める失礼をお許しください」との書き出しで自己紹介し悩みを披歴した後、シルバーバーチの霊言との出合いの感激を込めてこう綴った。

「…其れを読んで私は、これでやっと真理探究の目的地に辿り着いたと確信しました。失うものが多かっただけに、それだけ償うものを用意してくれたのだと思いました。一読して、これだ、と思ったのです。余りの感動に私はまるでシルバーバーチが私のすぐ側に居て語りかけ、助言し、理解と忍耐と慈悲の心で接しているように感じた程です。

私は本当にそう言う事があるのだろうかと思ったりしました。私の魂はすっかりシルバーバーチに奪われてしまったからであり、それほど緊密な接触を求めるまでに至っていたからです。


 私がこうしてお便りしたのは果たしてそんな事が実際にあるのかどうかをお聞きする為です。この遠きアフリカに居る私ごとき者にお教え頂けますでしょうか。私に代ってシルバーバーチにお聞きくださいますでしょうか。そして、あなたを通じてシルバーバーチのご返事をお聞きしたいのです。

見知らぬ者からのお願いとしては虫が良すぎるでしょうか(後略)」


 この手紙はやむを得ない事情で到着が遅れはしたが、私達の催す交霊会でシルバーバーチの元に届けられた。朗読されるのを聞き終わったシルバーバーチはこう語った。

「この方にこうお伝えください。大いなる勇気を持つ事、大自然の中に生きその変転極まりない現象に接してきた人間ならその背後に法則が存在する事に気づいておられる筈だと言う事です。

その法則は寸分の狂いもなく機能しております。神は大自然の隅々まで配慮し無限の変化を律している如くに、人間の一人一人に其れなりの備えを用意して下さっております。


 過ぎ去った事に未練を抱いても何にもなりません。人生は過去ではなく現在に生きなければなりません。目を魂の内奥に向け、神の授け給うた泉から潜在力を引き出し、信念から生まれる冷静さを持って人生に対処できるよう、力と安らぎを求めて祈る事です。

 またこうもお伝えください。この方には奥さんと言う実物教訓とすべき信仰を持つ人の愛に浴している事を喜ぶべきです。自分の心の中の嵐を静める事です。そして真の自我に目覚める事によって神を悟った人から平穏な安らぎを求める事です。

静かに己を見つめ、その静寂の中にそれまで知らずにいた真の自我を見出した時、心の葛藤も終りを告げる事でしょう。どうかその方によろしくお伝えください。そしてこうも言い添えて下さい。……挫けてはいけない。怯んではいけない。神は決してお見捨てにはならない。と」



 このシルバーバーチの言葉をスワッハーからの手紙で読んだネーピア氏はその喜びをこう語っている。

「この美しいシルバーバーチの言葉から受けた大いなる慰めと喜びを私はどう言いあらわしたらよいか、言葉もありません。心の奥深く染み入る思いが致します。

きっと喜んで頂けることと思いますが、スワッハー氏に初めてお手紙を差し上げて以来私も随分進歩し、実は当地に新たに設立されたスピリチュアリスト教会の会長のご指名を受けたばかりなのです。

願わくば私に代ってシルバーバーチに私の感謝の言葉をお伝えいただき、同時に、授かった忠言を実行に移すことによって心の柵を乗り越え、荒れた道を無事通過し、今ではご指摘いただいた道にしっかりと足を踏まえている事をお伝えいただければ幸いです」


 そしてシルバーバーチを“素晴らしき霊”と呼んで、こう結んでいる。

「私が快々(オ-オ-)として長年求めて尚得られなかった真の信仰と幸せを見出し闇から光明へと導いてくれたのは、実にこのシルバーバーチの霊訓でした。すべてシルバーバーチのお陰です。

その教訓が、同じくシルバーバーチから慰めを得ていた妻を通じてもたらされたのです。この事実をありのまま申し上げ感謝の意を表すのも礼儀であると言う私の考えにきっとご賛同頂けるものと確信いたします。その様にお伝え頂けますでしょうか」



 この言葉をスワッハーが読むのを聞いたシルバーバーチはこう語った。

「魂が目を覚ました人間からこうしたメッセージを受けて私こそ感謝の念を禁じ得ません。私も彼と共に神に感謝の祈りを捧げましょう。しかし彼にこう伝えて下さい。彼が暗闇の中から這い出て光明を見出したように、つまり己の誤りから長い間苦悩の道を歩んだのちに真理を見出した様に、今度は他人にそうしてあげなければならない。

すなわち人生の不安を和らげ今だ味わえずにいる心の安らぎを見出すことが出来るよう、手助けをしてあげなければいけないと言う事です。その人の体験を単なる結果として終わらせずに誘発剤としなければならない……つまりその真理を他人に授けなければならないと言う事です。そこでその方にこうお伝え頂きたい。

今献身的に働いておられる新しい真理普及のセンター(スピリチュアリスト教会)を、奥さんともども、叡智の光の流れる泉となし、今なお暗闇に居る多くの人々にその光に気づかせて頂きたい。そうする事が二人してその灯台を築かれた努力が報われるゆえんとなる事でしょう」


 シルバーバーチは筆者にとっても長い間のカウンセラーであり、同時に良き友でもある。畏れ多いほど高い霊格の持ち主でありながら常に庶民的な人間味を漂わせる。慈悲心と情愛の固まりのような方である。それと言うのもシルバーバーチの使命が私達地上の人間の弱点と欠点とに深く関わり合う性質のものだからであろう。

しかし曽て一度たりともシルバーバーチが人を咎めるのを聞いたことが無いのである。


 シルバーバーチの実在性に関しては何処にも曖昧さや取りとめのなさはない。肉眼にこそ見えないが、その存在は現実味があり実体性がある。一個の生きた知的存在であり、その口を借りている霊媒(実は筆者の主人)とは全くの異質の存在であることが私にはよく分かる。

 シルバーバーチは可能な限りいつでもどこでも援助の手を差し伸べてくれる。私の曽て困難の渦中にあった時にシルバーバーチに助言を求めた事があるが、その助言はそのときは本当だろうかと疑いたくなるようなものが時としてあった。ところが結局は必ずシルバーバーチの言った通りに成って、なるほど得心がいくのである。

 心温まる親しみを込めた勇気づけをしてくれる時のシルバーバーチは、普段の指導的で哲人的な雰囲気が消えて、心優しい霊となる。譬えば愛する者が他界した時などは、その人の死後の様子を告げて地上に残された身内の人々を慰めてくれる。私の父が他界した時も霊界での父の目覚めの様子を語ってくれて感動させられた。

 晩年の父は熱心なスピリチュアリストであった。死後存続の知識がそれまでの人生観と生き方をすっかり変えていた。そしてシルバーバーチに深い愛着を抱いていた。死後私がシルバーバーチに父が新しい世界に目覚めた時の様子を聞いたところ

「あなたのお父さんにとって死後の存続はごくあたり前の事でしたが、今まさにその世界を目の前にしてその素晴らしさに圧倒されておられます」。と言う返事であった。

「父が自然さを愛する人間だったからでしょう」と私が言うと

「其れもそうなんですが、不思議な御縁で私に対して非常に愛着を持っておられました。お父さんが目覚められるとすぐに私は弟さんが立って見ている側でお父さんの手を握り締めて“ようこそ”と語りかけました。(弟は第一次大戦で戦死)

お父さんは私達二人を見て傍目も構わずほろほろと感激の涙を流され、その身体……晩年より大きく成っておられます……を震わせておられました。」そう述べてから更にこう言葉を継いだ。


「あなた方地上の人間には霊の世界の真実の相は想像できません。私がどう伝えても、それより遥かに実在性の感じられる世界なのです。今御尊父もすっかり意識を取り戻されております。あれこれと為すべき事があり、いずれその成果が表れるでしょう。それよりお母さんもそう長くあなたと一緒に暮らせることを期待してはいけませんよ。

こちらへ来られた方が遥かに幸せです。これ以上地上に居ると苦痛になります。」(母はこのメッセージの後二、三カ月して他界した)


 このようにシルバーバーチは全ての人間の悩みに同情して親身に成ってくれるが、その悩みを肩代わりしてくれる事は絶対にない。考えてみると、もしも私達の悩みをシルバーバーチが全部取り除いてくらたら、私達は性格も個性も無いロボットに成ってしまうであろう。

 私達はあくまでも自分の理性的判断力と自由意思を行使しなくてはならないのである。

 そうは言うものの、私達はどっちの道を選ぶべきかでよく迷うものである。そんな時シルバーバーチはこう私達に尋ね返してその処置のヒントを与えてくれる。

「そうなさろうとするあなたの動機は何でしょうか。大切なのはその動機です」

そのシルバーバーチがこうして地上に戻って地上に戻って来た動機は一体何であろうか。それは極めて明白である。受け入れる用意のある人に援助の手を差し伸べること……これに尽きる。
                                                                    1949年  シルビア・バーバネル



   
 第一章 あなたとは何か  
p-26
 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存じですか。自分だと思っておられるのは、その身体を
通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほ
どのものでしかありません。  

 ですからどれが自分でどれが自分で無いかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見する事から始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた“小さな自分”以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。今貴方が意識しておられる自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分りにならないでしょう。

となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよろしいのでしょう。


 そのためには正しいものの観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体と言う器官を通して自己を表現しているのだと言う事です。霊的部分が本来のあなたなのです。

 霊が上であり身体は下です。霊が主人であり身体は召使なのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。
p-27

それはこの全宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。
 つまりあなたの奥にはいわゆる“神”の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアな形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。

 その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力にすれば、心配も不安も悩みもたちどころに消えてしまいます。何故なら、この世に自分で克服できないものは何一つ起きない事を悟るからです。その悟りを得る事こそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。


 身体はあなたが住む家だと思えばよろしい。家であってあなた自身ではないと言う事です。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかしあくまで住居であり住人であることを忘れてはなりません。

 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。
p-28

貴方自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることが出来ます。その身体に宿る霊に秘められた莫大

なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。

 あなた方はそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮する事です。そうする事は暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

宇宙にはある計画に沿った“摂理”と言うものがあります。私達はそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意思による選択の自由が与えられています。東洋の諺に“師は弟子に合わせて法を説く”というのがあります。霊的に受け入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。

 こちらから求めなくてもよいのです。豁然と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。
p-29

と言っても私どもはあなたの生活から問題も悩みも苦しみも無くなると言うお約束はできませ
ん。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになると言う事です。

 内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力するとき、私ども霊界の者の中で貴方に愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。

 悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し伸べなければならないのです。

 もしも私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗黒の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利くことがあれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言していることになりましょう。

 決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言する事ばかりです。真理と誤謬とがいつ果てるともない戦いを続けております。たぶん“完全”が成就されるまで続くことでしょう。しかし完全と言う事は事の性質上絶対に成就されることはありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっているわけです。
p-30

これより先どれ程の偏見と反発と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないことでしょう。怖じけづかせようと言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。

 私にはその大変さが良く分るのです。これまで私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界に近づいて参りました。私一人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の一人です。なぜその必要があるのか。それは今、

地上人類にふりかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭保を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破滅に陥れることになるからです。人類は物的文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末

です。願わくばその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで“物”に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

p-31
進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、と言う事を唯一の目的として努力しているのです。

嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃する事

は可能です。そしてそれに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律する事が出来ます。それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。

明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。たった一人でいいのです。

全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけで貴方の人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人にしていくことができるのです。

p-32
霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったなら価値はない事になります。

 何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当に勝利といえるでしょうか。何の苦労もせず頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

 霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未到の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の神髄があります。


 「地上の人間が何かを成就しようとする時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為されていることを強調して次のように述べる」


 援助を求める真摯な熱意が等閑(ナオザリ)にされることは決してありません。衷心からの祈りによる霊的なつながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。

その時の発生する背後での霊的事情は実際はとても言語では説明できません。

元来地上の出来事を表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来事を表現することは不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

p-33
 いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。

こうして生きているのは霊的存在であるからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだと言うことが理解できないのです。


 人間には霊がある。あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真の貴方は霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形態としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、

これが大事なのです。その辺の理解が出来た時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。

魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。後はあなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

p-34
 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を
一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人の様に、霊的に障害のある人と言えます。

 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものでなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。

霊の宝は地上のいかなる宝よりも豊かで偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てた後も、何時までも存在し続けます。

 魂が目を覚ますとその奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。

その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるでなくても、

それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関り合い、援助の手を差し延べます。

p-35
この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの、盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。

そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ、自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いてください。冷やかな拒絶に会っても、相手になささぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけまません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根付くところには時が来れば必ず根付きます。

 あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人達も、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。私達を互いに結びつける絆は神の絆です。

神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

p36
 宇宙の大霊である神は決して私達を見捨てません。従って私達も神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。

地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そて再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたををやに靡(タナビ)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私達はどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私達もその一部を構成しているからです。何処に居ようと私達は神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中におかれていることを忘れぬようにしましょう。

                   一章終り




    
 二章 なぜ生れてきたのか

p-38
地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこう言う身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さの為に誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がってこないだけの話です。

 あなたがた地上の人間にとっての大きな問題点は、止むをえないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。つまり余りにもこの世的物質的観点からのみ人生を考えていることです。

 人生には確かに地上的な要素がありますが同時に霊的なものであり、永遠に続くものなのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。それでは充分な判断は出来ません。

神の子には一人の例外も無く、善悪ともに、”埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。


 人生には目的があります。しかしその目的は、それに携る人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形では無いのです。人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人一人が無限の創造活動に参加できるのです。


 つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意思が与えられているのです。

p-39
 自由意志と言っても、大自然の法則の働きを阻止することができると言う意味ではありません。ある限られた範囲内での選択の権利が与えられていると言うことです。

運命全体としての枠組みは出来ております。しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第だと言うことです。

もしかしたら、そのブループリントさえ自覚出来ないかも知れません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。ときにはそれが悲嘆、無念、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。

 もしも神があなたに創造活動に参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味はない事になりましょう。そこに”埋め合わせの原理”が働いていることを理解しなくてはいけません。

 つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発して行く生活の中で、あなたの人間的発達が促進されて行くと言う仕組みです。
p-40

つまり二重の仕組みになっているわけです。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。魂の奥には物質界のいかなるエネルギーよりも大きい威力が秘められています。

 宇宙の大霊の一部だからです。それがなければ生命は存在しません。何故なら生命は霊そのものだからです。物質はカゲにすぎません。霊という実在の殻にすぎません。この二重のエネルギーをどこまで使用できるかは、その魂の悟りの程度にかかっています。

 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命は有りません。

物質は殻にすぎません。霊という実在によって投影された影にすぎません。物質それ自体には実在は無いのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。

 霊があなたの体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。物質を崇拝する人間はまちがった偶像を拝していることになります。そこに実在は無いからです。物質は一時的な存在にすぎません。

 霊は全ての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。

人間という形態に表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜などに表現されているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ、生命があるところには必ず霊が働いております。
p-41

自覚の程度、意識の程度はさまざまな段階があります。霊の表現形態は無限だからです。無限なるものに制限を加える訳には参りません。その生命の背後の力をあなた方は”神”と呼び、私は”大霊”と呼びます。それは全ての霊の極致で源泉であり頂上であるからです。

 いかなる形態を取ろうと、創造者たるその大霊の表現であることに変わりは有りません。

*シルバーバーチはこの”大霊”Great Spirit の他に”白色大霊”Great Whte Spirit という呼び方をします。白色とは実は無色透明を意味しているのですが、やはり”神”Got という呼び方も良くしますので、本書では特殊な場合を除いてこの”神”に統一しました。-訳者

 残念ながら、人の為に役立つ仕事はなかなか思うに任せないものです。私が法則をこしらえたのではありません。宇宙の法則はこうなっていると言うことをお教えしているだけです。

最大の貢献をなさんと心がける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その困難、その難問こそが、そうした志をもつ人々の魂の奥底を掘り起こし、奉仕の仕事に役立つ道具として是非とも備えなければならない隠れた資質を活用させることになるからです。
p-42

奉仕という名の硬貨(コイン)にもその価値を示す表示があると言うことです。真に役立つ人間になる為には魂の奥底まで響く強烈な体験が無くてはなりません。

魂が円熟の花を咲かせる為には奥深く耕されなければなりません。そのことを思うと、私は時として、その逆であってくれればいいのだが・・・・と思うことがあります。

 つまり自己犠牲の道を歩む人間がいうなれば”バラ色の人生”を歩むことができればと思うのです。しかしその美しいバラにもトゲがあります。

  以上、霊について真理を幾つか紹介しましたが、私がそれを変更する訳には参りません。出来もしないことをあたかも出来るかのように言うわけにはいきません。出来ないものは出来ないのです。

 無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。

完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋め合わせがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤によって行われます。犠牲的生活によって魂が”損”をすることは有りません。

 また利己的生活によっていささかも”得”をする事もありません。魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ”(*)ゲッセマネの園”に生き、どれだけ”(**)変容の丘”に達するかにあります。

そこに神の真の愛の働きがあります。(*キリストが最大の苦難と裏切りにあった場所ー苦難の象徴。**キリストがこの世のものと思えぬ輝ける姿に変容した丘ー苦難克服の象徴ー訳者)
p-43

人の為に己を棄てる仕事にもいろいろあります。ある者は人目につく派手なものであり、ある者は人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人の為に役立つことです。霊的真理の悟りを一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人に施すことです。

 不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的なことではなく、真実の姿を教えあげなくてはなりません。

 大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだと言う事実を知ることです。

その地上生活を無知の暗闇の中で無く、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐ伸ばして、恐れを抱かずどうどうたる落ち着きをもって生きるべきです。

p-44
 あなた方は一時の勝ち負けにの為に備えて居るのではありません。目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の戦いに携っているのです。成就したものがいかなる結果をもたらすかを容易に推し量ってはいけません。

 今日世界各地で難攻不落と言われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。

あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。しっかりとした手に守られております。

これまでもずっと、それによって支えられてきました。もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っていることでしょう。霊的なものにとって”恐れる”と言うことが何よりも強烈な腐食作用を及ぼします。

 恐怖心と心配の念は、私達が特に不断の警戒を要する敵です。何となればそれが霊力が作用する通路をふさいでしまうからです。

光の中ばかりで暮らしておれば光のありがたさは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につける為にはそちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。

果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来たものは、こちらで用意している歓びを味わうことは出来ません。少なくとも永続的な幸せは得られません。
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 人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ちうけている仕事と楽しみを享受する資格を身につける為に、様々な体験を積むと言うことです。そのための道具としての身体を授けてもらうと言うわけです。


この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。

毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。

神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つ一つについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別な言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があると言うことです。

 いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に尽きます。

片方無くして他方はあり得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。
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あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを”過ち”と呼ぶ方を好みます。

 もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰ひとり存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。

光を有難いと思うには影と暗闇を体験すればこそです。青天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。

 このように人生は対照の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調で有れば開発は無いでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成就して行くのです。
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時として、人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。

 しかしその観方は事実の半面しか見ておりません。未だまだ未知の要素があることに気づいておりません。

 私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。

なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。

 こちらへ来た人間が”自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている”などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。

 もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束(おぼつかない)ない事になります。あなた方が誕生する遥か以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。

 何億年の昔、未だ地上に何一つ存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのお陰で石炭その他の太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。ものごとに一つの枠、つまりパターン(型)があり、

そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。

 それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれると言う自信を持つことです。

 あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたの人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。

せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要なものが全て施されるとの確信を持たねばいけません。

 安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。

 見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだと言う自信を持つことです。


不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践して見ればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。

霊は物質の僕では無いのです。身体が一人で呼吸し働いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

 霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。

 その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的な冒険でもあるのです。
                     二章終り


   
 
 三章 なぜ苦しみがあるのか
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 この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

 それに厳然と立ち向かい、それを克服しそしていっそう力強い人間になってくださることが私どもに真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上的な宝に優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまう事は絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。

 耐えきれないほどの苦難を背負わされることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むと言う事が旅する魂の本来の姿なのです。

それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もし楽に手に入るものであれば、何も、苦労する必要などないでしょう。

 痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一番の薬なのです。私どもは、いくらあなた方の事を思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱いて傍観する他ない場合がよくあります。


 そこから教訓を学び取り霊的に成長して貰いたいと願い祈りながらです。知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらう訳です。霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを恨むことはないはずです。

 燦々と輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が眼を覚まし、それまで気付かなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込めた暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
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 地上の人生はしょせんは一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。

 すなわち動物的進化の段階の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれて来るのはその試練に身をさらすためなのです。

 人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に内在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。    
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 運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然と立ちむかうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意思に任されています。もっとも、自由と言っても完全なる自由ではありません。

 その時点において取り巻かれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。

 地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスは予め用意されております。そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢をとるか、滅私の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まると言う事です。

地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界へ来た時に待ちうけている生活

、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否かといったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。

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そのことに関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなると言う事です。地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりより大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。 

 悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番良く魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。

 もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものと言う事になります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備のできていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることは有りません。

 そちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的真理を理解する時期を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。
 
 肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソート(小話)にすぎません。   
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 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂が秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

 失意のどん底にある時は、もう全てが終わってかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。あなた方にはまだまだ発揮されていない力、それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。

苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法が無いのです。他にあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

 人生の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者より大きく力強く成長して行くと言う事は、それこそ真の意味での御利益と言わねばなりません。

 何もかもがうまくいき、日向ばかりを歩み、何一つ思い患う事のない人生を送っていては、魂に力は発揮されません。

何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部である地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、されが悟りを開くと言う事です。

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困難に愚痴をこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。無論困難のさなかにある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。

辛いのですから、しかし、後でその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って神に感謝するに相違ありません。

この世に生れてくる霊魂がみな楽な暮らしを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。

これは厳しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。

神は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、青天の日も嵐の日も神の働きです。

有限なる人間に神を裁く資格は有りません。宇宙を裁く資格もありません。

 地球を裁く資格もありません。あなた方自身でさえも裁く資格は有りません。

物的尺度が余りにも小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。当然か見知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

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地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。なぜならば因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。

ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いも無く働き、天秤は必ず平衝を取り戻します。霊的に見て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身には分かりません。

 もしかしたらあなたにとって一番嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることもありうるのです。

 ですから、なかなか難しい事ではありますが、物事は物的尺度では無く霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸と思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。


 しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるような形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一番望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することは止めなくてはいけません。

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絶対に誤まることにない霊的真理が幾つかありますが、その内から二つだけ紹介して見ましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないと言う事。

もう一つは、人の為という熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられると言う事。この二つです。焦ってはいけません。何事も気長に構えることです。

何しろ地上に意識をもった生命が誕生するするのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日の如き組織体を具えるに至るのに何百万年もかかりました。

その中からあなた方の様に霊的真理を理解する人が出るのにどれ程の年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。

誤まることのないその力を信じることです。    

解決しなければならない問題も無く、挑むべき闘争も無く、征服すべき困難も無い生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。

悲しみも苦しみも神性の開発の為にこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」…こうおっしゃる方がいるかもしれません。

しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年で無く何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。

一つとして偶然というものがないのです。偶発事故というものがないのです。全てが絶対不変の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。

私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

あなた方は一体何を恐れ、またなぜに神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を吾が心とするのです。」

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。

愛の心と叡知をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことができるのです。愛が全ての根源です。

愛…人間的愛…は、そのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。
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霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護がある事を一片の疑いも無く信じることがなければいけません。

 苦難にも悲しみにも挫けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。恐怖心こそ人類最大の敵です。

恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させる筈の力をうちひしぎ、寄せ付けません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。

 努めて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。

 ただ単に力が絶対というだけではありません。絶対的な叡知であり、絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。

はがねは火によってこそ鍛えられます。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。

 夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのは自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

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 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなければいけません。影と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、

言わば硬貨の表と裏の様なものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

 人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた法則があるのです。

 神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばおワンセット(一組)なのです。

 そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかは有りません。盲目的信仰では無く、知識を土台とした信仰です。

 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産みださなくてはいけません。

 そういう義務があるのです。それも一つの法則です。恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、折角の霊的雰囲気をかき乱します。私達霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触出来るのです。

恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

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太陽が燦々と輝き、すべてが順調で、銀行にたっぷり預金があるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力が発揮すべき絶好のチャンスです。

 然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆を掲げる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。どうもその点がよくわかって頂けないようです。

 種を蒔きさえすれば芽が出ると言うものではないでしょう。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。そうした条件が全てうまくでそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
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 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもがうまくいき、鼻歌交じりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。

そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。

 そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮することになるのです。そしていったん身につけたら、もう二度と失う事は有りません。

それを機に霊界と磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレイーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。

魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたはしょせん、現在のあなたを超えることは出来ません。

そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に勝ります。

霊は何事にも勝ります。霊こそ全てを作り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。
                      三章終り
 




     
四章 ”物”に惑わされない生き方

 その日その日の煩わしい雑事に追いまくられ、心配事や悩み事を抱えた生活を送っていると、時としてあなた方は、何故こんな目に遭わなくてはならないのかと思ったり、

またこれも良くあることですが、気持のよく通じ合った仲だと思っていた人から冷たい態度にでられたりして、理想を求める旅路で初めて光を見た時の感激をつい忘れてしまいがちです。

 その感激的体験の純粋無垢の美しさは時の経過と共にある程度その輝きを失いがちなものであり、体験当初のあの喜悦を今一度味わう事は必ずしも可能ではありません。しかし今私達が携っている仕事は、それぞれの持ち場において測り知れない重大性をもっております。

 肉体と言う物質の牢に閉じ込められ、意識を制限された状態で物的生活を送っているあなた方には、霊と心と身体の関係について明確な理解をもつことは不可能です。

気苦労の絶え間がありません。身体の要求を満たしてやらなくてはなりません。金銭の問題にも関らなくてはなりません。そうした息つく暇もない生活の中であなた方はつい意識の焦点を外し、支援しようと待機している背後霊の存在を忘れがちです。

 この交霊界での私の嬉しい役目の一つは、そうした状況下におかれているあなた方が、初期の聖なる目的に向けて導かんとする愛の力によって、意識するしないにお構いなく見守られていると言う事を思い出させてあげることです。

その愛の光の証をお見せしたり、あなた方を取り巻いているところの霊の世界の美しさを披露することは、たとえ要求されてもなかなか叶えられるものではありません。しかし事実、間違いなく存在するのです。

 霧が視野を遮ることがあるかもしれません。しかし所詮は霧です。私どもの世界から光を射し込むことができるし、現にこうして射し込んでおります。

これまで何年もの準備期間を経て、こうしてあなた方を奉仕の仕事に導いてきたように、これからもその光と力とがあなた方が道を迷わぬよう導き続ける事でしょう。そして万一迷ってもすぐ元の道に立ち戻らせ、神への道を歩み続かせるよう配慮することでしょう。

 あなた方は本当の意味で祝福を受けられた方達です。なぜならば、あなた方は地上のいかなる富も影が薄くなるほど高価な霊的知識の所有者だからです。こう申し上げるのは、あなた方も是非私どもと同じ視野から人生を理解して頂きたいからです。

 私どもは地上生活を物的視野でなく、価値観も異なれば判断の基準も異なる霊的世界から眺めております。その視野からの判断の方が遥かに真実に近いと信じています。
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人間は物質の中に埋もれた生活をしているためにバイブレージョンが低くなっております。

 朝、目を覚まし、未だ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波にのみ込まれて行きます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労にすぎぬものなど色々あります。が、いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのでですが、

そう言うものに心を奪われてしまうと、背後で霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素を閉め出してしまい、霊的流入を遮断する一種の壁をこしられえてしまいます。

 これは真理普及の仕事に携る人にも”よくある話”なのです。奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームの様なものです。

神の使徒の一人一人が、先覚者の一人ひとりが、預言者の一人ひとりが、その他霊感鋭き男女の一人一人が辿った道なのです。

 悟りの道にも満潮と引き潮にも似た盛衰があると言う事です。しかし大勢の方に申し上げたことですが、一人ひとりに人生にはあらかじめ定められたパターンがあります。静かに振り返ってみれば、何者かによって一つの道に導かれていることを知る筈です。
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 あなた方には分らなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。

人生のまっただ中で時としてあなた方は、一体なぜこうなるのかとか、何時になったらとか、どう言う具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあるでしょう。

 無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことなのです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行を見ればわかるように、宇宙には偶然のめぐりあわせとか偶然の一致とか、ひょんな出来事といったものは決して起きません。

 全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るか誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困難、障害、失敗に全てがあなたの魂を目覚めさせる上での意味を持っているのです。価値ある賞程手に入れるのが困難なのです。

容易にもらえるものはもらう価値は無い事になります。簡単に達成した者ほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難の中でも最も困難なものです。

 人生はすべて比較対象の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。

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もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり、闇は闇で無くなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼で無くなり夜は夜で無くなります。愛と憎しみがなければ愛は愛で無くなり憎しみは憎しみで無くなります。

 その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。

それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

 ”完全”は絶対に成就出来ません。なぜなら、それには”永遠”の時が必要だからです。私は謎めいたことを言っているのではありません。要するに完成へ向けて絶え間ない過程において、一歩前進すればそのまた一歩先が見えてくると言うことです。

 知識と同じで、知れば知るほど知らなければならないことがあることを自覚するものです。知識にはこれでおしまいというものはありません。叡知にも真理にも理解にも霊的悟りにも、お終いと言うものはありません。なぜなら、それらはすべて無限なる神の一部だからです。
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 地上生活には何一つ怖いものは有りません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。

 それは無知の産物に他なりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知と言う名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。

 あなた方の呼吸すると言う何でもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。

 その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が一度たりとも止まったことがあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。
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 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体では無いのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識の内に物質の世界にのみ生きていると思いこんでいるからです。本当はあなたがたと私とは同じ宇宙の中に存在するのです。

霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬと言う事は物的身体による認識を止めて霊的身体によって魂の別の側面を表現し始めると言う事に過ぎません。

 あなた方が直面する悩み事は私にもよくわかっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいかないと言う事です。

 正しい視野にたって考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最小限度の考慮を払い、決して偏ることは無いでしょう。

そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。

 永遠なるものを日常の出来事を基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取り巻く環境によって判断を下しがちです。

そしてそれまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまでの日常的問題に追いまくられているからです。

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 今と昔を比べる為に過去の頁を繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導の後がありありと窺える筈です。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進める様でなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないとをご存じの筈です。

人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることは在りません。

 無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは忘れてはならない大切な真理です。

 霊の世界の存在を知っている者は、より大きな生活の場を垣間見たことになります。

宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことが出来なくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、又物的な事に心を奪われたり偏ったりすることもありません。

 安全も援助も全て”霊”の中に見出すことが出来ます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。
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この真理があなたの生活を支配し始めた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生れ、日常生活の一つ一つに正しい認識を持つことができるようになります。

 あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るなと言っているのではありません。私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真理を忘れてしまいがちであると言う事です。

 霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識は我身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

 もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私が何よりも差し上げたいと思うのは”霊的視力です”。

この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。あなた方の身の回りの見えざる世界の輝きがどれ程素晴らしいものかご存じない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質と言う霧が全てを遮断しています。

 それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。

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その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つないことを自覚される筈です。

 私達は法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲のことをするほかありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。

 人の為に役立てようと心掛ける人に私は何時も申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。霊の力は生命の力そのものだからです。

生命は霊なしには存在しません。生命・-・その本質、活力、潜在力、こうしたものはすべて”霊”であるから存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。

 これは全て夢まぼろしに過ぎない物質界に生きているあなた方にっては理解困難なことです。しかし、だからこそ、実在が見えざる世界にあること、おぼろげに見ている世界を実在と錯覚しないようにと警告することが私の任務であるわけです。

曇りのない視覚を持って実在が認識できるようになるのは、物質界から撤退して内的世界つまり霊界へ来た時です。

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 私は地上の理想上の名称には拘りません。団体や組織にも頓着致しません。霊力の道具であってくれればよいのです。受け入れてくれる備えのある人であればどんな人でも導き、教え、私なりの体験から得た叡知を僅かでもお授けするのが私の仕事なのです。

 もう一つの側面として、こうして同志の協力のもとに、その霊的真理をより分かりやすい形で披露し、それによって一人でも多くの人が調和のとれた地上生活を送ることが出来るようにしてあげることです。

 私のとって大事なのは道具です。霊が地上に働きかけるには人間という道具が必要です。そこで確実に霊波を受け止めてくれる霊能者を一人でも多く見出さねばならないと言うのが、いつもながら私どもにとって難題で在るわけです。霊力は無限です。

 然るに、霊能者の数には限りがあります。霊力は無尽蔵ですから、霊媒はいくら居ても多すぎることは在りません。しかし”師は弟子に応じて法を説く”と言われるように、霊力も霊媒の能力の受容力に応じたものしか授けられません。能力以上のものは受けられないのです。

 進化の法則は民族全体、国民全体、人類全体の単位で働いているように、個人単位でも働いております。となると当然あなたは、満ちては引き、引いては満ちながら進化していく霊力の流れによる様々な影響を受ける訳ですが、問題はその霊力の流れそのものと、

霊力が顕現される”場”・-・民族、国家間の組織の集合体をはじめ、その働きの場である建物とを混同しないことです。人間はとかく自分の関った組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚されがちですが、霊力と言うものは何者によっても独占されるものではありません。

 人間から勝手に操ることも出来ません。個人としてあなた方にできることは、その霊力の流れる一個の場として出来るだけ純粋であるよう心掛け、出来るだけ多くの霊力が顕現されるようにする・-・つまり人の為に役立つようになることです。

 ついでに申せば、現代の地上には無数の”通路”を通してかつてなかったほどの霊力が注がれております。その通路は霊媒に限りません。それとは気づかぬままに通路となっている人も大勢います。又同じ霊力が他の分野においても活用されております。

神の計画が変わることはありません。あなた方が自らを変えてその計画に合わせなくてはなりません。神の霊力の流れに調和し、日々の生活をその流れに乗って送れば、あなた方の地上での存在意義が完うされます。霊力は地上的基準に従って働くのではありません。

人間の打算的欲望で働きを早めたり自分の方に引きよせたりは出来ません。

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 ”風は想いのままに吹く。いずこより来たりいずこへ行くか汝は知らず”(ヨハネ3-8)

星は寸分の狂いも無くその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り」、それぞれに荘厳にして途方も無く雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中で役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありませんが、

その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうすることで貴方自身もその営みに参加することができるのです。神からの霊的遺産を受け継いだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。

 神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。

あなた方は神の縮図であり、その拡大が神と言う訳です。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。

 徐々にではありますが光が闇を照らす様に知識が無知の闇を明るく照らしていきます。成長、変化、進化、進歩、開発、発展、これが宇宙の大原則です。一口に進化と言ってもそこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。

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循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動・-・こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調の様で内面は実に複雑です。その波間に生きるあなた方も、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。

物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望します。それは人生全体を織りなす縦糸と横糸であるわけです。

 もしも現在の自分に満足し始めたら、それは退歩し始めたことを意味します。今の自分に飽き足らず、常に新しい視野を求めている時、その時こそ進歩している のです。

あなた方の世界には”自然は真空を嫌う”と言う言葉があります。じっとしている時がないのです。前進するか、さもなくば後退するかです。

霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず、どこか新しい捌け口を求め、従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。

芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役立つ仕事に携ることです。

 看板は何であってもかまいません。かかわる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

 神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相当の結果を生み、自分が捲いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地も無ければ罰の免除もありません。

摂理は一分一厘の狂いも無く働きます。不変、不易であり、数学的正確さを持って作用し、人間的制度にはお構いなしです。

 地上生活では勝者がいれば敗者がいる訳ですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれかによっても惑わされてはなりません。やがてその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。

 と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くびるつもりは毛頭在りません。それは私にも痛いほどよくわかります。ただ、もしも私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私は神界から授けられた義務を怠ることになります。

 長い歴史を振りかえれば、余りの悲劇に指導者も”世も末だ”と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋もれてしまうと思いこんだものでした。

p83 しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続けることでしょう。

 私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません。

しかし、もしも容易であったらそれだけの価値は無い事になりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にもまして困難なものです。

 聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲がりくねった道です。己を棄てること・-・これが進化の法則です。

 もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものとだしたら、これは永遠の叡知を嘲笑う事になります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはなりません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。

 善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとに一部だけを除外して、これだけは神と別個のもの、何かしら、誰かしら、兎に角別種のエネルギーの仕業で在るなどとは言えません。

私は何時も宇宙はすべて両極性によって成り立っていると申しております。
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 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。

つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的力がどちらへ発揮されるかは神の関る問題ではなく、あなた方の自由意志に関る問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあると言う事です。

 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの遺産でありこれを開発することが個人の責務と言う事です。

 それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由と言う事です。但し忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないと言う事です。

神の力とエネルギーと援助を呼ぶ込むための手段は常に用意されています。

 しかしその為には時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中で出来るだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

 私達は相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、お互いに役立つものを施し合っております。此処まで目を開かせて頂いたことを神に感謝しましょう。これを土台として、私達を創造し育み続けて下さる御力の存在を信じましょう。

その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心掛けましょう。

 私達は神の御前にいるのだという自覚を忘れず、手を差しのべさえすれば必要なものが能力に見合っただけ施されることを忘れないように致しましょう。それは無限の可能性を秘めた無限なる霊の無限なるエネルギーなのです。

                        四章終り




           
 五章 霊的交信のむずかしさ
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 霊界の通信者が伝えたいことが百%伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取りがたい事があります。

 混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上と言う平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの間の交信がいかに困難であるかは容易に理解して頂けると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識の浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百%うまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラとがどこまで融合するか、完全か、部分的か、それとも全く融合しないか、によって支配の度合いが決まります。

 支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。


その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝える訳ですが、霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、

タバコの吸いすぎ等等それはもういろいろとあるものです。そうしたことの一つ一つが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。
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 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在意識があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させて、おとなしくさせるしかないとこが良くあります。

時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

 酷い時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我を失う事さえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷やりとして身の引き締まるような雰囲気が一番よろしい。

 とにかに容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。敢えてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られると言うのも、そこに理由があるのです。

愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

 地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した愛念がある限りは、いかなる障害も突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界から地上へ働きかける原動力の一つにそれがあるのです。
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 ですから、余り無理な要求をしないでいただきたいのです。霊媒を責めないで頂きたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

 私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を必要とします。その為に私なら、私本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお判りでしょう。

 これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。

これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。

エクトプラズムは決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。・・・(著者訳は略します)。

p91 
 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでも叶えられるかと言えば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思う事の全てが伝わるのとも限りません。

その霊次第です。しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

 霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作が又大変です。

これを霊視能力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからと言って、それが楽にできると思ってはいけません。こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数えきれないほどの”糸”を操っているのです。

 その内の一本が何時切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はお終いです。 このように霊界と地上との交信を理解していただく上で説明しなくてはならないことが沢山あります。
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 簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこに色々と邪魔が入るのです。

その邪魔の為にうまく行かなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお判りでしょう。

しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信と言う単純直截なものとなります。

 その成功不成功は背後霊との合体の確信に基ずく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安な念に動かされるほど結果は良くないと言う事になります。一旦精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念が全て霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけない事だけは事実です。
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 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際に色々と混乱が生じます。

混乱なく運ぶように成る時代はまだまだ先のことです。

 こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究が為されております。より良い結果をあげるための努力が常に為されておるのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気付かれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。

私達霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供して頂く以外に方法がありません。

 その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私達が通信を送り届ける、と言う具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つも無いと言う時代がありました。
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 私が理解に苦しむのは、地上の人間は無知と言う名の暗闇を好み、真理と言う名の光を嫌うのかと言う事です。

私達はその真理の光を広げ、人に役立てるために手段となるべき人を何時も探し求めております。そう言う人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

 これは重大なことです。私達の携る使命全体の背後には重大な目的が託されています。

私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚めさせ、当然然るべき真理を悟らせるのが私達の仕事です。言ってみれば霊への贈り物を届けてあげることです。

それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを目覚めさせることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。

 私達からお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。

p95 それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私にはわからないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。

 どうやらそう言う人々は、神がもし自分達の宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であると考えるに相違ないと思う事が時折あります。神の取る手段は人知の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係になると、これは厄介です。自分達の教義こそ絶対的真理であるとまじめに信じており、それをこの上なく大事なものとして死守せんとしています。

実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

 中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうして偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。

 神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせると言う荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思う通りにいかないものです。もしも困難や悲哀、病気等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来事に知らぬふりをしようと思えば出来ないことはありません。別段地上との関りを強制される謂れは無いのです。

又地上側には吾々に対して援助を強要する手段は何もない筈です。

 ですから私達の尽力はすべて自発的なものです。それは人類愛とも言うべきものに発し、援助の手を差しのべたいと言う願望があるからこそです。それも一種の利己主義と言われれば、確かにそうかもしれません。

 愛と言うものは往々にして利己主義に発するものが多いものです。

 身を霊界において、次から次へと地上生活の落後者とも言うべき人間が何の備えも無いまま送り込まれてきているのを見ているわけですから…その人達が、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上と言う学校でちゃんと学ぶべきものを学んできてくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・。
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 そこで私達は何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとしているわけです。すなわち人間は誕生と言う過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだと言う事を教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。

 それが肉体と共に成長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的成長に関心を抱く者は幾らかおります。が、霊的成長に関心を抱く者は極めて少数に限られております。

 永続性のある実在は霊のみです。もしも私達の尽力によって人間を霊的本性を目覚めさせることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。

自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。至って簡単なことなのですが、それが私達の活動の意義に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活の上に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、自惚れ等などを追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基ずく平和を確立することでしょう。
霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。

p98 地上とのつながりを持つためには、それなりの道具が要ります。つまり霊力を送りこむための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すと言う事でもあります。

魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和することが、いざという重大事、困難、危険に際して霊力を受けやすくします。

 その霊力とは何かとなるとそれはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまでも実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

 その権限の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形をとるものもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることも出来ます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いている事でもあります。
p99 
 二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発の為のサークル活動に参加し、何時になっても何の変化がないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々と為されていることがあります。

霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達して来れば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。

それは、間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊が余りに奥に閉じ込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のまま放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。

 物質性にすっかり浸り切り、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、未だ辺りを照らすほどの光を持たぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を覚まし、自我に目覚め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的なつながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。
p100 
 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することは出来ます。

 世の中にはここに集える私達に較べて精神的、霊的な豊かさに欠ける人がいます。そう言う人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にする為に、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私達霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれている限り、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んでまいります。
p101
 多くの人になかなか分かって頂けないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないと言う事です。

本人自らが回路を開いてくれない限り他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。

 分ってみれば何でもない当り前のことです。そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものでありそれには成就出来ないものは何一つないことを知って頂きたいのです。

 暗闇にいる人達に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は充分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。

 これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義・-地上世界を蝕み、何のために生れてきたのかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へ堕落させている、この二つの癌に対する永遠の闘いです。
p102

 善の為の努力が徒労に終わることは決してありません。人の為になろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすように事があってはなりません。

成果が表れないことに失望してはなりません。人にために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人で一人であがいているのではありません。

 いかなる状況のもとであろうと、周りには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。

 物質の世界にはこれだけは安全と言うものは何一つはありません。真の安全は人間の目に映じぬ世界・-地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。

 人間にとって真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、又有るものは塵と砕けても、霊的存在のみは不変、不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。

 捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂の様な移り変わりの激しい物的存在ではなく、

不変の霊的真理を心の支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。

                           五章終り




   
六章 役に立つ喜び
p106
 人生において、自分が役に立つと言うことほど大きな喜びは有りません。何処を見ても闇ばかりで、数えきれない人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ますたびに今日はどうなるのだろうかと言う不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあ

って、たった一人でも心の平静を見出し、自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれていると言う霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも勝る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在そ実相に目覚めることです。

あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしている言わば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そう言う人達の中の立った一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻ぶる残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることが出来たら、それに勝る行為は有りません。

 どう理屈をこねて見たところで結局は神の創造物・・・人間、動物、その他なんでもよろしい・・・の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教は有りません。
p-107 
 こうした仕事の為に神の使節として遣わされている私達は幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なき続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけのことで嬉しい気分に浸れるものではありません。

 現実の何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き換え、虐待を憐憫に置き換えることが出来た時、あるいは協調と親善の生き方を身を持ってしめすことが出来た時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。

真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

 そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事は有りません。

無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教室、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義のある存在です。
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 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄る辺ない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすら良くあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。

あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人の為に役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人達に流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせる事になるでしょう。

 ただこの道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められれおります。

自分の事よりまず人の為と考える人は稀です。

大義の為に一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返って御覧になれば、そうした条件にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の進むべき方角への道標がちゃんと示されていることを明確に認識される筈です。

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これまで一点の疑念も疑問の余地もないその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。

証拠を目に見ず耳に聴くことも無く、それでもなおこの道に勤しむことができる人は幸せです。あなた方の周りには、あなた方より幸せが少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかを予め承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知の上で生れて来ているのです。

その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我・・・より大きな自分に、新たな神性を付加して行くのです。その意味では”お気の毒に・・・”等と同情する必要も無く、地上の不公平や不正に対して憤慨することも無いわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。
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 私が”魂が知っている”という時、それは細かい出来事の一つ一つまで知り尽くしていると言う意味ではありません。どう言うコースを辿るかを理解していると言う事です。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くと言う事は、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで達しないことがあります。

するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大河の一部として融合して行きます。

 自分が果たしてどの程度の人間なのか、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方では無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野でものを見ることが出来ません。

四六時中物的視野で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

 魂への影響を推し量ることが出来ない。そこが実は一番大切な点です。

肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何も影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合のよい方向へ向けさせようとしても無駄です。
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 神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間・・・叡知を身につけたと言う意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。

身体的、精神的、霊的苦痛が伴います。この三つの要素の内の二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。霊性の開発は茨の道です。

 苦難の道を歩みつつ、後は自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。
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  私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元的の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来事を支配する大自然の摂理の見事さに感嘆するばかりです。

 その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟ると言う事は最後はみな一人でやらねばならない・・・”ゲッセマネの園*”に踏み入り、そして変容の丘に登らねばならないのだと言う事です。(第二章参照

 悟りの道に近道は有りません。代わりの手段もありません。安易や道を見つけるための祈りも儀式も教義も経典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段ではだめなのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それは関係ありません。

 悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんな事を説くのは説教者面をしたいからではありません。それまで自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかも知れませんが、人の為に役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々・・・病める人、肉親を失える人、絶望の淵に居る人、人生の重荷に耐

えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられると言う事も知っております。
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 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。
 
 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者・・・その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち・・・ばかりではありません。

あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

 そのお陰でどれ程の成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることは出来ません。しかし分らないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。
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 そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。

その様なものはあなたの方の方から心にすきを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息場所です。いざという時はそれを求めるがよろしい。

 人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。例え目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方の周りにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出して頂ければ、もうそれだけで嬉しいのです。私達に必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院の会館ではありません。

それはそれなりの機能がある事は認めますが、霊の力はそんな”建物”に宿るのではありません。

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 ”人間”を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎてとして掛けがいのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(なげう)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部より遥かに大切です。頑張ってください。

そしてこれからも機会を逃さず人の為、人の為、という心掛けを忘れないでください。

 世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れたそもそもの目的を果たしているのだと言う自信を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。

 ここに集える私達一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。

人の為に尽くす事に勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。

ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かった事になるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。
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 これから後も役立つ仕事に携る限り、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にある事を、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

 それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけひとつで自分を通じて神の力が地上に顕現すると言う実相を悟ることになるでしょう。

 こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑事に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思いだせないものです。

ですが、あくまで霊が主人であり物は召使です。霊が王様であり物は重臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること・・・

 これは人の為に役立つことの最大の喜びです。真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それで良いのです。それが大事なのです。それまでのことは全て準備であり、全てが役に立っているのです。

魂は其々の使命の為に常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がる為にはどん底まで下りなければならないのです。

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 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では”物”を有難がり大切にしますが、こちらではまったく価値を認めません。人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性は認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるものです。

が、他人の為に施した善意は決して消えません。

 なぜなら善意を施す行為に携る事によって霊的成長が得られるからです。博愛と情熱と献心から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消える事のない印象を刻みこんでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。

が、もしもあなたが他人の為に自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることが出来たら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

 言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れてきたのかを悟り、地上を去るまで何を為すべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。

 肝心なことはそれを人生においてどう体現して行くかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度こそ他人と分かち合う義務が生じます。分かち合う事によって霊的に成長して行くのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないと言う事です。

 自分で成長して行くのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することも出来ないのです。霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。

真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。 

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 それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないと言う事です。

 イエスはそのことを”豚に真珠を投げ与えるべからず”と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものを持ってしても他人を変えることは出来ないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

 私達は同胞の番人では無いのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行う事、心に思う事、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたに出来ることはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることは出来ません。

どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きな代償を払わされます。知識には必ず責任が伴うからです。

 真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。
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 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなたがたに出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。

 魂に真の自我を悟らさせてあげているのであり、これは他のいかなる人にも出来ないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。私ども霊界側も強引に命令したくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることは致したくありません。

あくまでも導くことを主眼としているのです。

 あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を上げるように協力しているのです。協力することによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関る重大な仕事に携ることができるのです。

 残念ながら多くの人間が実態と影、核と心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております。・・・それが”生きる”と言えるならばの話ですが、霊に光の啓示を享けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張ってくださいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

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自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについて正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方達でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上と言う物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。

 霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなたがたはその実在を見ることも触れて見ることも感じることも出来ないかも知れません。少なくても物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。

あなた方は永遠の存在であることを自覚してください。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上ですごしている巡礼者に過ぎません。
                            六章終り




   
七章 神霊治療と生命力
  (本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である)
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 あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解して頂きたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の神髄だからです。

身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。

 もしも何らかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげたことになるからです。

 それが常に変わらぬ霊的治療の隠れた目的です。

治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生れてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。

 たった一人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。一人で良いのです。それであなた方の存在の意義があったことになります。
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 真理普及の仕事が次第に発展しつつあること、霊的威力に目を向ける人が増えつつあることを私は非常に嬉しく思っております。その人達が困難に遭遇した時は何時でも援助の手を差しのべております。病気治療には一層強力な生命力を注ぎこみます。

しかし忘れないで頂きたいのは、何事にもそれ相当の原因があるという事です。

 霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入る訳にはいかないのです。手助けは出来ます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげる訳には参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。

 霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それは原因と結果の法則が働いたことを意味します。

私どもは霊力によって手助けすることは出来ても、その法則の働きによる結果に対しては干渉出来ません。

 要するに奇蹟は起こせないと言う事です。大自然の因果律は変えられないと言う事です。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みも無く働いております。
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 全てを包含し、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法をしても治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇蹟では無く霊的法則が働いた証と考えるべきです。

 地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験したことになります。

 その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら・-本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とはいえないと言うのが私の考えですが・-それは霊的自我に目覚めたと言う事であり、

存在の意義を成就し始めたことになります。この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。


スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかしそれは所詮は注意をひくためのオモチャに過ぎません。何時までもオモチャで遊んでいてはいけません。

幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、喜ばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。

 一口に心霊治療と言っても、内面的にみれば磁気的(マグネチック)なもので生理的と言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そして吾々霊による最も程度の高いもの、
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すなわち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時期が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬の内に治してしまうものがあります。健康体の磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何のかかわりもありません。

その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものは大抵これによります。その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎこむやり方で、患者の身体には一切触れずに一瞬の内に治すことができます。

 その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用することができるのです。

身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的治療する力が具わっております。ただそれにはそれなりの摂理があると言う事です。

そもそも健康とは身体と精神と霊の三者の関係が健全であると言う事です。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあることです。その内の一つでも働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。三者の調和を保つ方法はその三者が
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それぞれに与えられた地上での機能を果たすことです。霊力は素晴らしい機能を発揮します。これには反駁(ハンパク)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。

 霊的エネルギーの威力を目のあたりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、

引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他あらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治療エネルギーはその生命力の一部なのです。

 身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命は有りません。霊から離れた物質に霊的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

このようにある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画のなかにおいて、その無限の生命力を使用する責任を担っていることになります。

その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。嘗てはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けばその霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴する事になります。

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物質的にも精神的にも病的状態のある地上には、為さねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。

それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝える事、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。

しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な一計画の翼を担ったことになります。

そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開く鍵です。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。
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それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。

全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきたことの目的だからです。

霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうすることによって霊性も発達させなければなりません。

霊性こそが霊力の分量を決することになるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きることがありません。

霊的潜在力には際限がないのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒について色々と試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。

こちらの世界には”これでおしまい”と言う事がないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間と言う道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果を上げるしかないのです。
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心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を一度に改心させることではありません。一度に一人の人間、一人の子供を治すことによって、いわば霊的橋頭堡を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。

千種万様の形をとる霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えができた者によってその真価が発揮されます。受入体制が出来ていると言う事が絶対条件なのです。

人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、

そこに一石二鳥の成果が得られていることが分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になると言う事です。

人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。全ての病気はそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的の為に地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。
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精神と霊と肉体の正しい連系関係です。三つの機能が一体となって働くと言う事です。これは動物を苦しめたり体内から特殊性分を抽出したりすることによって得られるのではありません。宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。

そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬことはなくなり、老化現象によって死を迎えることになります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活の為の霊的準備が整った結果としてそうなるのです。

精神が病むと言う事は精神か霊かのいずれかに不自然なところがあると言う事です。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常である筈です。身体に出る症状はすべて愛と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。

大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。

魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療これが大切なのです。
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あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であったことになります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗でもあり、その患者は悟りへの道を失ったことになります。

絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものに出来なかったわけです。

本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するために為さねばならないことを啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせること、これが最も大事なことです。真理は真理です。絶対に変える訳にはいきません。

それが真理です。人間の一人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現することによって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。ことは極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。但し、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりに過ぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。

疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡知と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きることのない霊的遺産を手にすることです。それが地上生活のあるべき本来の姿なのです。

ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。
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そのことを思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれて行くことを、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から解放してあげることが大事です。大切なのはそこなのです。

なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で、生きる、と言う事が始まるからです。

治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。

障害とは無知であり、誤まった生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則った生活を送るようにならなければなりません。

苦が全てと言うわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界は有りません。苦しみと困難があることが進化の必須条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。

ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行くことです。

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この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。

生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているのかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁のことです。

霊的治療は魂がそれを受けるに値する段階に至るまで何人と言えども受けられません。

いかに優れた治療家にも治せない患者がいることがそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。

いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外らせたりすることはできません。

ですから、人間として最大限の成果をあげるべく努力をすることです。それが私達から言える助言です。背後霊との協調関係が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。

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 この仕事は延々と続きます。人間は御しがたいものです。しょせん地上は完璧な世界では無いからです。完璧であれば地上にはいない筈です。

寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいることを自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばばらない責任があります。奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。

神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし一度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日出来ることだけをして、明日やるべきことは今日は忘れることです。

力に限界が来たら無理して出そうとするより補給することを考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

限界があるのは実はエネルギーではありません。身体と言う機能の方です。いかなる機械も限度を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間に身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない器械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。

良く管理し、保護し、大切にすべきです。
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どの分野であろうと、人の為に尽くす仕事に携る人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思う事があることは私も承知しております。もうだめかと思えることもあるでしょう。

しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃されるときが来ます。

そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩むことになるでしょう。地上で自由を享受するのは人間だけではありません。

創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕えられ苦しめられ利用されてよいものは何一つありません。その代償は必ず支払わらされます。因果律は必ず働きます。

人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしている処の神性をごまかす事は出来ません。

全生命は不可分のものです。物質形態上の違いはあっても深奥での区別は無いのです。

生命は一つなのです。そして霊と神であり、全存在に内在しております。かなうものならば、あなた方の視野を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光り輝く霊的存在を一目お目にかけることができれば、と思うことしきりです。

立ちはだかる困難の一つ一つは、あなた方が是非とも迎え討ち克服し、そうすることによって霊の力が物の力に勝ることを証明していかねばならない、一つの挑戦でもあります。

                 第七章終り



     
八章 愛の力
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愛は大きさを測ることができません。重さをはかることも出来ません。いかなる器具をもってしても分析することは出来ません。なのに愛は厳然として存在します。

宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。

生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿りついた高級界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言”愛は死を乗り越える”を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。昼の後には夜が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は確実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を上ります。

日常の煩瑣(ハンサ)な雑事の渦中にあって、時には僅かな時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己の存在の原動力である霊性に発現の機会を与えて下さい。
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心に恐れをを宿してはいけません。完全に拭いさらないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てる筈がありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えてきた能力がこれからもその役目をはたしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。

それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落ち着きを身につけなければなりません。

そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受け取ることができます。それが神の摂理なのです。そう言う仕組みになっているのです。

p142 
受入、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されると言う事です。受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。

宇宙の存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。

全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。

そしていつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

好感を覚える人を愛することは優しいことです。そこには徳性も神聖さもありません。

好感の持てない人を愛する・-・これが魂の霊格の高さを表しています。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
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確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければなりません。他人に出来ないことをする。これが奉仕の奉仕たるゆえんだからです。

可哀想にと思える人にやさしくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる。これは優しいことです。

しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心がけでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛すると言うこと以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己の為に何も求めません。

向上進化の梯子を登って行けば、己の為に何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。

願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。

私達のことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私達自身はどう評価されたいとも思っておりません。手の届く限りの人々に手を差しのべたいと思うだけです。

その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するように努力して頂きたい。
p144
あなた方は決して孤軍奮闘していりのではないこと、周りにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識して頂きたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、より一層、その摂理と調和していきつつあることを理解して頂きたいのです。

単なる信仰、ただそう信じていると言うだけでは、厳しい体験の嵐が吹けば呆気なく崩れてしまいます。が、知識に根差した信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それを一つの手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。
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人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは証明可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり、物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないことを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外交的愛の方が上です。いかなる物質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。

家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりのよる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残である防衛本能によって支配されていることが良くあります。が、
p146 
愛の最高の表現は己を思わず、報酬を求めず、温かさすら伴なわずに、全てのものを愛することができることです。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜざなら自我を完全に滅却しているからです。

愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって現れます。

霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るのかご存知ですか。

大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよい筈です。地上の住民を脅かす老いと病と数々の煩悩に別れを告げたのです。

なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方へ愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。

霊界においていかなる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効をを奏することが出来ないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
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これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されると言う認識を得たことを有難く思うべきです。

あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるが宜しい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりも尚身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

あなた方はこれまで、愛に発する利他行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見てまいりましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温かく包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し量ることは出来ません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈はわかってみれば簡単です。

資格あるものが授かると言うだけのことです。霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるには人間の受容力です。人間が少しでもその受容力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらには何時でも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることは出来ません。
p148
常に上を向いて歩んでください。下を向いてはいけません。太陽の光は上から射します。

下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体験しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私達を支えている力であり、その尊い遺産を発揮しその宿命を成就するよう導いてくれる力です。

宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。

その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。
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完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。

進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人の為に役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵のある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張り巡らされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の中を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度死に囚われることがないと言う事です。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。

愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現のなのです。

p150 
互いが互いの為に尽くす上で必要な如何なる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なもの、害なるものを知りません。愛は己のためには何も求めないのです。

死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わう事を可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死のよって引き裂かれることは決してありません。

神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それゆえにありとあらゆる煩悩・-・愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り越えて働きます。

二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合う事こそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、更には根源的な霊的な結びつきへと進みます。
p151
その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分れて地上で顕現しているという、いわゆる”同類魂”(アフィニティー)の思想で、古来からあります。

それが一体となるには何百万年、何千年もの歳月を要します。それが僅か50~70年の短い期間に地上と言う小さな天体上で巡り合うと言う事は極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。

人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。

愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り越えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結びあった者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛はすべてのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体として一部を構成するものは永遠にして不滅です。
                     八章終り
               



     
九章 霊とは何か
p-154

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語は全て有限です。私はこれからそれを何とか説明して見ようと思いますが、いかにうまく表現して見たところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知ください。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

 こうした大まかな表現によって私達は自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。

全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

 何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、憐れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。

その量が多ければ多いほど、それを発現して行く霊は偉大であることになります。
155
ではいかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようと言うものです。要するに物的混沌から抜け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、

私はどれと言って特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりを緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションをうけることも多くなります。

 まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル*)な面が開発され宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。

(*サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、例えば単なる透視力は動物の腸能力と同じで五感の延長に過ぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの・・地上にせよ霊界にせよ・・しか見えません。これが背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像又シンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです・・・訳者)


 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。

自我の全ての側面・・・霊と精神と身体の調和を成就することができます。かくして霊性が本来の優位を確立して行くことに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。

 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人一人なのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。

 地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。言わば無限の花を咲かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されると言う事があります。無論無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。

ですが無意識であっても、全然発揮されないよりは増しです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

 その人のために役立てようとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。


 先にサイキックと言う用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階を指します。

悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力にさきがけてでてきます。

 超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

158 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営れていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何もありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

 そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私達がこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。

 皆と協力し合って生きていくように出来ているのです。

 この見解を世界中に広めなければなりません。すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きんでることは許されないのです。

 登るも下るもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。

何故なら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに到るまで、持ちつ持たれつの関係が行き渡っております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

 が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。

 他人の援助を頼まずに独立で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。私はただその方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること・・・・これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。

それが宇宙の大霊の意思だと信じるからです。そうでないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治療を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。

要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。

 たったそれが一人であっても立派に神の意思を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。
p-160
 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益にもなりません。摂理をごまかすことは出来ないのです。完璧なのです。

 イエスが”慈悲の心は耐え忍ぶもの*”と語ったのは神の意思の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(*コリント前書13・4・・・この言葉は聖書では”愛は寛容である”と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。”愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己の利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ…”訳者)

 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へ何らかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治療を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。

が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実際に目覚めさせることです。

 地上はいまだに”眠れる魂で一杯です”生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への撹醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。

一旦霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して成長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担う事になります。


 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の試練、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。

霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

 決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥、最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けた者こそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。
p-162 
 「その試練に耐えきれないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りて見なければなりません。」

 こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。

 ですから、いざこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信条によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方がはるかに学びやすく、その方が自然なのです。

 悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のどん底を体験しなければなりません。自分以外の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

考える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。

p-163  
 霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となる為の鉄則です。

そうでなければ有難いのだがと私は思う事があります。しかし側の者にはわからないあなただけの霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。

 何故ならその艱難辛苦こそ全ての疑念と疑惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値は有りません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整える為には魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければなりません。

 心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くはいません。私達がかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、

つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。

他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格は有りません。

 地上人生の霊的新生と言う大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見させなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮させなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。

もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがいのない霊的遺産を存分に発揮することです。その光輝、気高さ、その威厳の中に生きることです。

p-165 
 いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、、いかなる名称の宗教よりも偉大です。

 神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなたのもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶでしょう。

しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

 その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。

病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間に霊的覚醒を促進させることです。

 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。

神の道具として託された絶大な信頼を裏切らない限り、決して挫折することは有りません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。しかし、それによって傷めつけられることは有りません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

 煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であることを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心がけるほかないのです。あなた方を通して働いているこの力はこの宇宙、想像を絶する広大なこの全宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大な大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。

土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。

 それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

真摯な奉仕的精神を持って然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へ何時でも送り届けられます。怖じけてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

                  九章 完




   
十章 質問に答える
p168 
 シルバーバーチの交霊界では開会の祈りと講和のあと”何かお聞きになりたいことがありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう”と述べる。

質問は予めまとめておいて司会者が述べることもあるが(投書による質問もある)招待客がその分野、例えば心霊治療について直接質問することもある。その内の幾つか紹介する。


問「もう一度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか」

答「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公平とによって支配されていないことになります」

 墓に埋められて万事が終わるとしたらこの世は実に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が死をもって終了するのではないと言う事、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、みんなもう一度やり直すことができると言う事。

 言えかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。
p169
 人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪行の償いをするチャンスが与えれます。

 神の公正は完璧です。騙す事も、ごまかす事も出来ません。全ては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです。


 問「祈りに効果があるでしょうか」

 答「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。金が欲しい、家が欲しい、こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。

 そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、 霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。
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 そうした祈りには魂の内省があります。つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる体制となっているのです。ただこれまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合が良くあります。

 こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの要求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

 つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護の為のエネルギーが引き寄せられ、同時に救急の為の霊団が派遣されます。

 それは血縁関係によって繋がっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。」
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 問「唯物論者や無神論者は死後の世界でどんな目に遭うのでしょうか。」

 答「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いと言う考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからと言って、

それだけで霊的の向上する訳ではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです」

 祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、選ばれし者の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方が遥かに霊格が高いといったケースがいくらでもあります。

問題は何を信じるかではなく、これまで何をしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。


 問「霊界の医師にはがんの治療法が分かっているのでしょうか」

 答「あらゆる種類のガンが治せると言う意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ
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 原因から発生しているのではないからです。身体的に由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。その全てを同じ方法で治すことは出来ません。私達霊界の者が地上の問題にかかわるにはそれなりの制約があることを理解して下さい。

 人間から頼まれて”ああ、その問題ですか”。じゃあ”こうしなさい”といった調子で受け合うわけには参りません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。

但し人生観が誤まっていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません」

 霊界からの援助は二重に行われます。真摯で献身的な治療家が正しい霊的法則に則って治療にあたっている時、霊界からそのチャンスをうかがっているその道の専門家が自動的に引き寄せられます。

次にその患者に受け入れる用意が出来ている時、霊的治療エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。

 霊界からの治療は全てこの霊力によって為されます。決して魔法の杖を使う使うわけではありません。霊力は患者の魂によって引き寄せられます。ですから、その魂が霊力を受け入れない限り反応は生じません。魂が窓を開けてくれない限り、霊力と魂とを繋ぐものがないのです。
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 閉め切った魂とは接触は得られません。この他にもいくつかの要素があります

癌の直接の(物的)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的にかかわる問題もありますし、誕生以前に地上人類以外の何らかの身体での生活のあるかどうかもかかわってきます。決して単純な問題ではないのです。


 問「生まれ変わりは本当にあるのでしょうか」

 答「これは非常にややこしい問題です。というのは、この問題に関してはこちらの世界でも事実を知る者と知らない者とで意見が様々に分かれているからです。

知らない者はあくまでも”ない”と主張し、知っている者は自分の体験から自信をもって”ある”と断言します。私は後者の一人です。

 私にも体験があるからです。ですから再生が事実であるという点は問題ないとしても、その真相の説明となると、これは大変厄介です。何故かと言えば、何度も述べてきたように、再生するのは同じ霊であっても、物質界に顕現するのは、同じ面ではないからです」
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 問「霊的法則は霊界でも地上でも同じ作用をするのでしょうか」

 答「違います。こちらでは同一レベルまで進化した者同士の生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対象と言うのがありません。

 各自がその霊格に合った階層で生活しており、程度の低い者と高いも者とが一緒に暮らすと言う事がありません。

 地上では精神的ならびに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそう言う事はありません。ただし使命を受けて(地上的な言い方をすれば)低い階層へ降りていけば別です。そうでない限り同じレベルの霊同志の生活が営まれます。

やがてそのレベル以上に向上して来れば次のレベルへ進んでいきます。ですから一つの階層で対照的な生活が営まれることは無いわけです。

 とにかく私達の世界には光と闇と言った対照がなく、従って影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解が出来ております。そうでなかったらその階層におれません。

その階層に至るまではやはり光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。
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そうすれば実在の真相をより正しく理解するようになり、実相をあるがままに知ることができます。たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその”全体像”を見ることができれば、地上では見られない美しさを観賞できます。霊眼には全てのものの内側と外側とが見えるのです。

内側には地上の様な外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。

 そして物的感覚では理解できない霊的な実体験を有しております。私達は地球の引力の作用を受けません。又永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度に相応しい美しさも開発されます。こちらは創造造化の世界です。

そこに生活する者自らが創造していく世界です」


 問「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう見られますか」

答「潮に満潮と引き潮があるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる活動も一気に進めるわけにはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたかに見えますが、

まだまだ霊的真理について無知な人間が圧倒的多数を占めております。何時も言っているように、スピリチュアリズムと言うのは単なる名称に過ぎません。

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 私にとってそれは大自然の法則、言えかえれば神の摂理を意味します。私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるものは、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に称賛の拍手を送りたいと思います。

 神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。

地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。時には潮が引いたように活動の目立たない時期がありましょう。そうかと思うとブームの様な時期があり、そして再び無関心の時期がきます。普及に努力するのが嫌になる人もおりましょう。

が、こうした神の計画全体から見れば本の部分的現象に過ぎません。

 その計画の中で特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。

私は真理の普及に関して決して悲観になることはありません。常に楽観的です。と言うのは、
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 背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人々が吾々の仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることは出来ても、真理の前進を完全に阻止することは出来ません。ここが大切な点です。

 遠大なる神の計画の一部だと言う事です。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくが宜しい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は彼らにはないのです」

 問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか」

 答「ありますとも! 死後の世界でも特に幽界と言う処は地上と非常によく似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の霊達で、決して天使でもなければ悪魔でもありません。高級すぎもせず、さりとててい急すぎもせず、まあ、普通の人間と思えば良いでしょう。

判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭いきれない恨みや憎しみ、欲望などに囚われて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです」
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 問「弱肉強食の自然界をこしらえた創造主がどうして全てを愛する神でありうるのでしょうか」

 答「限りある知恵で無限の叡知を理解することは出来ません。宇宙規模の問題を肉眼だけを通して覗いて見ても、つまり限られた知性でもって理解しようとしても解決は得られません。全体の極限られた一部しか見えないからです。

 確かに自然界には弱肉強食の一面があり、腹が空けばお互いに食い合う事もしますが、それは自然界全体としては些細な話であって、人間界と同様に動物界にも調和と協調の原理が働いております。チャンスに恵まれればその原理を如実に見る事が出来ます。

 それとは別に人間としての責務に関る一面もあります。つまり上に立つ者が低い進化の過程にある者に対してもつ責務です。人間も動物も、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しているからです。

全生命は、進む時は共に進み、後戻りするときは共に後戻りします。ですから、人間が愛と慈悲と同情の心を発揮すれば、それこそオオカミと子羊が相寄り添って寝そべるようになるでしょう」
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 問「人間一人ひとりに守護霊がついているのですか」

 答「母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当る霊がつきます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。

自覚して来れば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。

 守護霊は決まって一人だけですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間が辿るべき道があらかじめ分かっております。が、

その道に関して好き嫌いは許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。」


 問「地上で犯す罪は必ず地上で報いを受けるのでしょうか」

 答「そういう場合もあれば、そうでない場合もあります。いわゆる因果律と言うのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、何時かは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことは出来ないのです。しかし
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 何時成就されるかという問題になると、それはそそ原因の性質いかんに関ってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中にでないものもあります。

 その作用には情状酌量といったお情けは無く、機械的に作動します。罪を犯すと、その罪がその人の魂に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中にでるか否かは私にも分りません。様々な事情の絡んだ複雑な機構の中で行われのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることは確かです」

 問「死とは何かを子供にどう説かれますか」

 答「その子供に理解力があればの話であることは無論ですが、死とは、小鳥が鳥かごから放たれて自由に羽ばたくように肉体から解き放たれて、より大きな生活の世界へ進んでいくことであると説明しましょう」


 問「いたいけない幼児が不治の病で苦しむのは何か原因があるのでしょうか。これで神が公正と言えるだろうかと思う事がありますが・・・」
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 答「本来霊的な問題を物的尺度で解決することは出来ません。地上生活と言う極めて短い機関の体験でもって永遠を判断することは出来ません。神の公正には無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけで持って理解することは出来ません。

小さなものが自分より大きいものを理解出来るでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解出来るでしょうか。

 宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡知によって創造されているからです。法則が狂うと言う事は絶対にありません。

特に不公平に思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。全体が見えるようになれば考えが変わります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解することは出来ません。

 埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上にないのですから、人間には理解する手立てがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。
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 子供の身体は両親の血と肉とでこしらえられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受け継がれて行くに決まっています。ですから、子供は両親の身体的欠陥まで頂戴することになります。

 しかし子供は誕生と言う行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌ぐことは出来ません。

物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意ができた時に初めて得られるものです。

 私達の説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それに何らかの感動を覚えた時、その人はその後に待ち受ける数々の真理を理解して行く用意ができたことを意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すようなことをしてはいけません。」

 問「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」

 答「霊能者とか霊媒と呼ばれている人間が進化の先駆けであることに疑念の余地はありません。進化の梯子を一段上を行く、言わば先遣隊です。

その内心霊的能力が人間に当り前の能力の一部となる時代が来ます。地上人類は今精神的発達の段階を通過しつつある処です。この後には必然的に心霊的発達の段階が来ます。

人間が五感だけを宇宙との接触の通路としている哀れな動物でないことをまず認識しないといけません。五感で知り得る世界は宇宙のほんの一部です。それは物的手段で鑑識出来るものに限られています。人間は物質を超えた存在です。

 精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションが備わっており、そのバイブレーションに感応する別の次元の世界が存在します。

 地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死を経て、高いバイブレーションの世界が永遠の住み家となる日が来ます」


 問「霊界のどこにだれがいると言うことがすぐに分るものでしょうか。」

 答「霊界にはそう言う事が得意な者がおります。そう言う霊には簡単に分かります。大雑把に分類すると死後の霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。

p184 
帰りたがっている霊の場合は有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。が、帰りたがらない霊ですと、何処にいるかは簡単に突き止めることは出来ても、地上と連絡をとることは容易ではありません。嫌だと言うのを無理やり連れてくるわけには参りません。」


 問「永遠の生命を考えると、地上でのこんな限られた物的体験に意義があるのでしょうか」

 答「永遠も無数の小さな体験の総数から成り立つのです。一つの体験、一つの行為、一つの言葉、一つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。

そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠を作るのです。その内の一つが欠けても完全性を失います。

 たとえば、二、三百名からなるオーケストラの中でトライアングルを一度だけ鳴らす人がいるとします。分量からすれば全くささやかな存在ですが、もしもその人が、たった一回の演奏で音階を間違えたらどうなりますか。あるいは音が弱すぎて聞き取れなかったらどうなりますか。

オーケストラが全体が台無しになるでしょう。分りますね。あなた方の地上生活での体験もそれと同じことです。一つ一つが魂の陶冶のための一部、大切な一部を担っているのです。その体験は永久に魂に刻み込まれて行きます。」

              十章終り



    
十一章 おしまいに
p188
 地上の人間は”身体”を中心に物事を考えます。私達霊界の者はその身体を通して自我を表現しなければならない”霊”のことを第一に考えます。

その霊が正常に自我を表現しておれば身体との関係も自然にうまく行きます。なぜなら物質は常に従者の立場にあり主人ではないからです。霊が王様で物質はその従臣だという事です。

 この真理が今日ここにお集まりの方々の人生を明るく照らし、大きな革命をもたらして参りました。自分とは何かを見出されました。地上の言語では表現できない真理、地上の富では評価できない悟りを得てこられました。

 霊こそ実在であると言う真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめる鍵です。大切なのは身体への影響ではなく、魂の琴線に触れる体験です。

ですから、私はこれより先のあなた方の生活に問題が生じないとは決して申しません。苦労がないとも申しません。障害やハンディを背負うことがないとも申しません。もしそんなことを言えばうそになります。

 地上生活は内部の完全性が不完全な環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落していく試練の場です。霊的開発と成就への道においては困難と 苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。

もしも霊的な宝が容易に手に入るものであれば、それはもはや手に入れる価値はないことになります。自己鍛錬、自己制御、自己開発、これを成就するのが人生の目的です。これは容易にできるものではありません。王道はないのです。
p188
 悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いとの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わう事…魂はこうして体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することが出来るのです。

”ゲッセマネの園”を通らずして”変容の丘へ”辿りつくことは出来ません。

 ナザレ人イエスの生涯は地上の人間の全てが体験するものと本質的において同じものです。敗北も勝利もともに必要です。敗北の味を知らずして勝利の味が分かるでしょうか。

 私は日常生活で是非とも活用すべき教訓を出来るだけ簡潔に述べようと苦労しているのです。決して難解な哲学ではありません。至って実用的な霊的教訓なのです。

それが人生から然るべきものを体験する方法を教えてくれます。魂の神の満足は内的な静寂と輝きとなって現れます。

 すなわち真の自我を見出したことから生れる魂の平安と自信です。
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 魂がその状態になって時を”悟った”というのであり、”神を見出した”と言うのです。そうなれば人生のいかなる苦しみにも悲しみにも負けることはありません。なぜなら悟りを開いたあなたは、いついかなる時べも神の兵器庫の扉を開けることができるからです。

又あなたに解決できない程大きな問題、背負いないほど重い荷を与えられる事はありません。

 それが与えられている時は、それだけのものに耐えうる力があなたにあるからです。

私はこうした真理をあなた方だけでなく他の多くの人々に説いてまいりました。それが心に住みついているようになれば、何ものにも脅えることがなくなることを知っているからです。霊の力は絶大です。しかしその力も通路のあるところしか流れません。

 あなた方がその通路なのです。あなた方がその通路を提供してくださり、その通路を通って霊力が地上に流入する。具体的にいえば、喜んで人にために役立とうとする心と精神と霊とを用意して下さることが、その霊力の流入する条件を提供することになるのです。

かくして霊力があなた方を通過する際に必ずその一部があなた方の中に蓄積されて参ります。

 そしてそれが、あなた方自身の霊的な糧となりましょう。そうなった時のあなたは、自分の方から心のスキを見せない限り、この世に悩みなど全くなくなります。

 あなた方はいろいろと多くの教訓を学んでこられました。教訓は自分で学ばなければなりません。私が代わりに学んであげるわけにはいきません。私達霊界のものにとって一番つらいのは、愛する人間が困難の中にあって必死になって頑張っているのを傍観することです。

 傍観と言っても何もしないと言う意味ではありません。出来る限りの援助は致します。しかし、魂の成長にとって掛けがいのないチャンスを奪う事になることはだけは許されないのです。

 イエスは「神の御国はあなたの中にある」(ルカ17・22)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中にいるのです。

と言う事は自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿していると言う事です。それを引き出して使用することが、この世に生れてきたそもそもの目的なのです。

 私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊力に不動の信頼を置いております。一分一秒の狂いも無く、深甚なる愛の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性には私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。もしも地上人類が、

その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることができれば、地上生活は一変することでしょう。その力はいくらでも授かることは出来ます。神が我が子に施す恩寵ほど気前の良いものはありません。
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 ですから決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安な念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取越し苦労は蹴散らしなさい。そんな憂鬱な有難がらぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。

 人生の背後に秘められた目的を悟り、それと一体となった時、一時的にせよあなたの魂に霊的な静寂が訪れます。内と外からあなたを守る霊の力に身を委ねることです。

きっと援助を授けてくれます。歩むべき道を明確に示してくれます。問題に遭遇した時は、地上の雑踏、混乱、かんかんがくがくの論争から身を退き、魂の静寂の中へ引きこもり、霊の啓示を待つことです。

 霊の宝石は決して色褪せることがありません。地上的財産をふんだんに所有している人は、自分がその財産の管財人に過ぎない事に気づいておりません。本当は自分のものではないことに気づいておりません。霊的真理を悟った人にとっては、知識に責任が伴うように、

財産にも責任が伴ないます。あなた方は宇宙最大の霊力の道具です。大司教の霊服を着る必要もなければ、枢機卿の指輪をはめる必要もありません。それはただの装飾品に過ぎません。

実在とは何の関係もありません。あなた方を通路として働いているところの霊力は全ての法王、全ての大司教、全ての枢機卿より偉大です。宇宙最大の力なのです。

             十一章終り



    
第十二章 シルバーバーチの祈り
 神よー天地の創造主、至尊至高の絶対的な力、全存在の統括者にまします神よ、私達はこれまであなたの得さし給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。

私達のために暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私達自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私達を栄光と光輝とによりて温かく包んで下さったその叡知に対して深く感謝いたします。

 私がこうして存在することの全ての理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私達をお導き下さるその愛に深く感謝いたします。

又私達のために真理普及の道を切り開いて下さった先達の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者達、その他、宗教家、哲学者、賢聖、その内のあるものは地上にては名も知られず、死して漸くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかれずにおられますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。

 これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。

皆々と共に感謝の言葉を捧げるとともに、代わりて私たちがあなたの御力の通路となり、あなたの御計画推進の一翼を担い、御子達のために役立つことができますよう導き給わんことを。ここにひたすら人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インデアンの祈りを捧げます。


解説…霊的啓示の系譜…近藤千雄
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イエスは
「地上を旅する者であれ、地上を住処とするなかれ」 「この世を旅する者であれ、この世の者となるなかれ」と説く

キリスト教の説くイエス・キリストではありません。偽り伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座に祭り上げられたキリストではありません。  
              不滅の真理p186