(本書は古い漢字も多く非常に読みづらいので、現代風に書き込みました。したがってその意味する漢字も文章も、書かれた方、また読まれた方、夫々の解釈の違いも当然あるかと思います。その点を理解したうえでお読みください。原書も是非読まれますようお願いいたします) ホームページ管理人


 霊界通信  「小桜姫物語」  浅野和三郎著   潮文社

目次
一、 その生い立ち                  
二、 その頃の生活           
三、 輿入れ
四、 落城から死
五、 臨終
六、 幽界の指導者
七、 祖父の訪れ
八、 岩窟
九、 神鏡
十、 親子の恩愛
十一、守刀
十二、愛馬との再会
十三、母の臨終
十四、守護霊との対面
十五、生みの親魂の親
十六、守護霊との問答
十七、第二の修行場
十八、龍神の話
十九、龍神の祠
二十、龍宮への鹿嶋立
二十一、龍宮街道
二十二、唐風の御殿
二十三、豊玉姫と玉依姫
二十四、なさけの言葉
二十五、龍宮雑話
二十六、良人の再会
二十七、会合の場所           
二十八、昔語り
二十九、身の上話
三十、 永遠の愛
三十一、香織女
三十二、無理な願
三十三、自殺した美女
三十四、破れた恋
三十五、辛い修行
三十六、弟橘姫
三十七、初対面

三十八、姫の生い立ち
三十九、見合い
四十、 相模の小野
四十一、海神の怒り
四十二、天狗界探検
四十三、天狗の力業
四十四、天狗の性来
四十五、龍神の修行場
四十六、龍神の生活
四十七、龍神の受持ち    
四十八、妖精の世界
四十九、梅の精
五十、   銀杏の精
五十一、第三の修行場
五十二、たきの白龍

五十三、雨の龍神
五十四、雷雨問答
五十五、母の訪れ
五十六、つきせぬ物語
五十七、有難い親心
五十八、可憐な少女
五十九、水さかづき
六十、   母性愛
六十一、海の修行場
六十二、現世のお浚い
六十三、昔の忠僕
六十四、主従三人
六十五、小桜神社の由来
六十六、三浦を襲った大津波
六十七、神と人との仲介
六十八、幽界の神社
六十九、鎮座祭
七十、 現在の祝詞
七十一、神馬
七十二、神社その日々
七十三、参拝者の種類
七十四、命乞い
七十五、入水者の救助
七十六、生木を裂かれた男女
七十七、神の申し子
七十八、神々の受持ち
 
 
 
  

解説
本書を繙かるる人達の為に   浅野和三郎

本書を作成したものは私でありますが、私自身その著者にはあたらない。私はただ入神中のT女(浅野和三郎氏の奥方)の口から発せられる言葉を側で筆録し、そして後で整理したと言うに過ぎません。それなら本編はむしろT女の創作かと言うに、これもまた事実には当てはまっていない。

 入神中のT女の意識は奥の方に微かに残ってはいるが、それは全然受身の状態に置かれ、そして彼女とは全然別個の存在、小桜姫と名乗る他の人格が彼女の身体を支配して、任意に口を動かし、又、任意のものを見せるのであります。従ってこの物語の第一の責任者はむしろ右の小桜姫かもしれないのであります。


 つまるところ、本書は小桜姫が通信者、T女が受信者、そして私が筆録者、総計三人で出来あがった、一種特異の作品、いわゆる霊界通信なのであります。現在欧米の出版界には、こう言った作品が無数に現れておりますが、本邦では、翻訳書以外はあまり類例がありません。

 T女にこうした能力が始めて起ったのは、実に大正5年の春の事で、数えて見ればもう20年の昔になります。最初彼女に起こった現象は主として霊視で、それは申し分なきまで的確明瞭、よく顕幽を突破し、又遠近を突破しました。

超えて昭和4年の春に至り、彼女はある一つの動機から霊視のほかにさらに霊言現象を起こすことになり、本人とは異なったある人格がその口頭器官を占領して自由自在に言語を発するようになりました。

「これで漸くトーキーが出来上がった」私達はそんな事を言って歓んだものであります。「小桜姫の通信」はそれ以後の産物であります。


 それにしても右のいわゆる「小桜姫」とは何人か、本文をお読みになれば分る通り、この女性こそは相州三浦荒井城主嫡男荒次郎義光の奥方として相当世に知れた人なのであります。その頃三浦一族は小田原の北条氏と確執を続けていましたが、武運拙く、落城三年の後荒次郎はじめ一族の殆ど全部が城を枕に討死を遂げた事は余りにも名高き史的事蹟であります。

その際小桜姫がいかなる行動に出たかは、歴史や口碑の上では余り明らかではないが彼女自身の通信によれば、落城後間もなく病に掛り、油が壺の南岸、濱磯の仮寓で寂しく帰幽したらしいのであります。それからあらぬか、同地の神明社内には現に小桜神社(通称若宮様)と言う小社が遺っており、今尚里人の尊崇の標的(マト)となっております。

 次に当然問題となるのは小桜姫とT女との関係でありますが、小桜姫の告ぐところによれば彼女はT女の守護霊、言わばその霊的指導者で、両者の関係は切っても切れぬ、固き因縁の絆で縛られていると言うのであります。それに就きては本邦並びに欧米の名ある霊媒によりて調査を進めた結果、どうも事実としてこれを肯定しなければならないようであります。


 尚面白いのはT女の父が海軍将校であったために、はしなくも彼女の出生地がその守護霊と関係深き三浦半島の一角、横須賀であったことであります。更に彼女は生涯の最も重要なる時期、十七歳から三十三歳までを三浦半島で暮らし、四百年彼女の守護霊が親しめる山河に自分も親しんだのでありました。

これは単なる偶然か、それとも幽冥のせかいからのとちなしか、神ならぬ身には容易に判断し得る限りではありません。

 最後の一言して置きたいのは筆録の責任者として私の態度であります。小桜姫の通信は昭和四年から現在に至るまで足掛八年に跨りて現れ、その分量は相当沢山で、すでの数冊のノートを埋めております。

またその内容も古今に亘り、、顕幽に跨り、またある部分は一般的、またある部分は個人的といった具合に、随分まちまちに入り乱れております。

従ってその全部を公開することは到底不可能で、私としては、ただその中から、心霊的に見て参考になりそうな箇所だけを、なるべ秩序立てて拾い出してみたに過ぎません。

で、材料の取捨選択の責めは当然私が引き受けねばなりませんが、しかし通信の内容は全然原文のままで、私意を加えて歪曲せしめたような箇所はただの一ヶ所もありません。その点は特にご留意お願いしたいと存じます。(十一、十、五)



小桜姫物語

 一、その生い立ち
 修行も未熟、思慮も足りない一人の昔の女性がおこがましくもここにまかり出る幕ではないことはよく存じておりますが、   





二、その頃の生活    



三、輿入れ     



四、 落城から死



五、臨 終       



六、幽界の指導者   



七、祖父の訪れ 



八、岩 窟



九、神 鏡    



十、親子の恩愛    



十一、守り刀
体がなくなっても、こちらの世界へ引移ってきても、現世の執着が容易にとれるものではない事は、すでに申し上げましたが、ついでにもう少しここで自分の罪を申し上げておくことに致しましょう。口頭ですっかり悟ったようなことを申すのは何でもありませぬが、実地に当たってみると思いの外に心の垢の多いのが人間の常でございます。

 私も時々こちらの世界で現世生活中に大変名高かった方々にお逢いすることがございますが、そうきれいに魂の磨かれた方ばかりも見当たりませぬ。『あんな名僧知識と謳われた方がまだこんな薄暗い境涯に居るのかしら・・・』時々意外に感ずるような場合もあるのでございます。







十二、  


十三、母の臨終  
岩屋の修行中に誰かの臨終に出会ったことがあるか、とのお尋ねでございますか。・・・それは何度も何度もあります。私の父も、母も、それから私に手元に召し使っていた、忠実な一人の老僕なども、私が岩屋にいるときに前後して没しまして、その都度私はこちらから、見舞いに参ったのでございます。

 何れあなたとしては、幽界から見た臨終の光景を知りたいとおっしゃるのでございましょう。宜しゅうございます。では、見本のつもりで私の母の亡くなった折の模様を、ありのままにお話し致しましょう。

 わざわざ調べるのが目的で行った仕事ではないのですから、むろんいろいろ見落としはございましょう。その点は十分お含みを願っておきます。機会がありましたら、誰かの臨終の実況を調べに出掛けてみても宜しゅうございます。ここに申し上げるのはホンの当時の私の見たまま感じたままのお話でございます。

 それは私が亡くなってから、もうよほど経ったとき、かれこれ二十年近く過ぎた時でございましょうか、ある日私が例の通り御神前で修行しておりますと、突然母の危篤の知らせが胸に感じて参ったのでございます。そうした場合には必ず何らかの方法で知らせがありますもので、それは死ぬる人の思念が伝わる場合もあれば、また神様から特に知らせていただだく場合もあります。

 その他にもまだいろいろありましょう。母の臨終の際には、私は自力でそれを知ったのでございました。

 私はびっくりしてさっそく鎌倉の、あの懐かしい実家へと飛んでいきましたが、もうその時はよくよく臨終が迫っておりまして、母の魂はその肉体から半分出たり入ったりしている最中でございました。

 人間の目には、人の臨終と言うものは、ただ衰弱した一つの肉体に起こる、あの悲惨な光景しか映りませぬが、私にはその外にもまだいろいろな光景が見えるのでございます。なかんずく一番目立つのは肉体のほかに霊魂…つまりあなた方のおっしゃる幽体が見えますことで…

 ご承知でございましょうが、人間の霊魂と言うものは、全然肉体と同じような形態をして肉体から離れるのでございます。それは白っぽい、幾分ふわふわしたもので、そして普通は裸でございます。それが肉体の真上の空中に、同じ姿勢で横臥している光景は、決してあまり見よいものではございませぬ。
 
 

 その頃の私は、もう幾度も経験がありますので、さほど思いませんでしたが、初めて人間の臨終に出会ったときは、何とまあ変なものかしらと驚いてしまいました。

 もう一つおかしいのは肉体と幽体との間に紐がついていることで、一番太いのが腹と腹とを繋ぐ白い紐で、それはちょうど小指くらいの太さでございます。

 頭部の方にもう一本見えますが、それは通例前のよりもよほど細いようで・・・。むろんこうして紐でつながれているのは、まだ絶息し切らない時で、最後の紐が切れた時が、それがいよいよ人の死んだ時でございます。

 前申す通り、私が母の枕辺に参りましたのは、その紐が切れる少し前でございました。母はその頃もう七十位、私が最後にお目にかかった時とは大変な相違で、見る影もなく、老いさらぼひておりました。私はすぐ耳元に近づいて『私でございます・・・』と申しましたが、人間同志で、枕元で呼び交わすのとは違い、何やらそこには隔てがあるようで、果たしてこちらの意志が病床の母に通じたかどうかと不安に感じられました。

 尤もこれは地上の母に就いて申し上げることで、肉体を棄ててしまってからの母の霊魂とは、むろん自在に通じたのでございます。母は帰幽後間もなく意識を取り戻し、私とは幾度も幾度も会って、いろいろ越し方の物語に耽りました。母は死ぬる前に、父や私の夢を見たと言っておりましたが、勿論それはただの夢ではないのです。

 つまり私たちの思い(意志)が夢の形式で、病床の母に通じたものでございましょう。

 それは兎に角、私の母の断末魔の苦悶の様を見るに見かねて、一生懸命母の体を撫でてやったのを覚えています。これはただの慰めの言葉よりも幾分効き目があったようで、母はそれからめっきリと楽になって、間もなく息を引き取ったのでございました。すべて何事も真心を込めて一心にやれば、必ずそれだけのことはあるもののようでございます。

 母の臨終の光景について、もう一つ言い残してならないのは、私の目に、現世の人達と同時に、こちらの世界の見舞い者の姿が映ったことでございます。母の枕辺には人間は約十人余り、何れも目を泣き腫らして、永の別れを惜しんでおりましたが、それらの人たちの中で私が生前存じておりましたのはたった二人ほどで、他は見覚えのない人達ばかりでした。

 それからこちらの世界からの見舞者は、第一が、母より先に亡くなった父、続いて祖父、祖母、肉親の親類縁者、親しいお友達、それから母の守護霊、司配霊、産土の御使い、・・・いちいち数えたらよほどの数に上がったのでございます。とにかく現世の見舞者よりはずっと賑やかでございました。

 第一、双方の気分がすっかり違います。一方は自分たちの仲間から親しい人を失うのでございますから、沈み切っているのに、他方は自分たちの仲間に親しき人を一人迎えるのでございますから、むしろ勇んでいるような、陽気面持をしているのでございます。こんなことは全く思いもよらぬ事柄でございまして・・・

 他にまだ気づいた点がないではありませぬが、下手な言葉でとても言い尽くせぬように思われますので、母の臨終の物語は、ひとまずこれくらいにしておきましょう・・・



十四、守護霊と対面









十五、生みの類魂の親
 成るべく話の筋道が通るよう、これからすべてを一纏めにして、私が長い年月の間にやっと纏め上げた、守護霊に関するお話を順序良く申し上げてみたいと存じます。それにつきては、少し奥の方まで遡って、神様と人間との関係から申し上げねばなりませぬ。

 昔の諺に『人は祖に基づき、祖は神に基づく』とやら申しておりますが、私はこちらの世界へ来て見て、この諺の正しいことに気づいたのでございます。

神と申しますのは、人間がまだ地上に生まれなかった時代からの元の生神、つまりあなた方の仰る『自我の本体』または高級の『自然霊』なのでございます。畏れ多くはございますが、

我が国の御守護神であらせられる邇邇藝命様(ニニギノミコト)を始め奉り、邇邇藝命様に従って降臨された天兒屋根命(アマノコヤネノミコト)天太玉命(アマノフトダマノミコト)など申す方々も、何れも皆そうした生神様で、今もなお昔と同じく地の神界にお働き遊ばしてお出でになられます。

その本来のお姿は白く光った玉の形でございますが、よほど真剣な気持ちで深い統一状態に入らなければ、私どもにもそのお姿を拝することはできませぬ。まして人間の肉眼などに映る気遣いはございませぬ。尤もこの玉の形は、凝と鎮まり遊ばした時の本来のお姿でございまして、

一旦お働き遊ばしました瞬間には、それぞれ異なった、世にも神々しいお姿にお変わり遊ばします。

更に又何かの場合に神々がはげしい御力を発揮される場合には荘厳と言うか、雄大と申そうか、とても筆紙につくされぬ、あの恐ろしい龍姿をお現はしになられます。一つの姿から他の姿に移り変わることの速さは、到底造りつけの肉体で包まれた、地上の人間の想像の限りではございませぬ。

無論これらの元の生神様からは、たくさんの御分霊・・・つまりお子様お生まれになり、その御分霊からさらにまた御分霊が生まれ、神界から霊界、霊界から幽界へと順々に階段がついております。

つまりすべてに亘りて連絡は取れておりながら、しかしそのお受け持ちがそれぞれ違うのでございます。

こちらの世界をたった一つの、無差別の世界と考えることは大変な間違いで、たとえば邇邇藝命様に於かれましても、一番奥の神界に於て御指図遊ばれるだけで、その御命令はそれぞれの世界の代表者、つまりその御分霊の神々に伝わるのでございます。

おこがましい申分かは存じませぬが、その点の御理解が充分でないと、地上の人類に発生した経路が良くお判りにならぬと存じます。希薄で、清浄で、殆ど有るか無きかの、光の塊と申しあげてよいような形態(おからだ)をお持ち遊ばされた高い神様が、一足飛に濃く鈍い物質の世界へ、その御分霊を植えつけることは到底できませぬ。

神界から霊界、霊界から幽界へと、段々にそのお形態(からだ)を物質に近づけてあったればこそ、ここに初めて地上に人類の発生すべき段取りに進み得たのであると申すことでございます。

そんな手続きを踏んであってさえも、幽から顕に、肉体のないものから肉体のあるものに、移り変わるには実に容易ならざる御苦心と、また殆ど数えることのできない歳月を閲したということでございます。

一番困るのは物質と言うものの兎に角崩れ易いことで、いろいろ工夫して造ってみても、皆半端で流れてしまいます。立派に魂の宿になるような、完全な肉体は容易に出来あがらなかったそうでございます。

その順序、方法、また発生の年代の発生等につきても、ある程度まで神様から伺っておりますが、只今それを申し上げている遑ははございませぬ。いずれ改めて別の機会に申し上げることに致しましょう。


 兎に角、現在の人間と申すものが、最初神の御分霊を受けて地上に生まれたものであることは確かでございます。もっと詳しく言うと、男女両柱の神々がそれぞれ御分霊をだし、その二つが結合して、ここに一つの独立した身霊が造られたのでございます。

その際どうして男性女性区別が生ずるかと申すことは、世にも重大なる神界の秘事でございますが、要するにそれは男女いずれかが身霊の中枢を受け持つかで決まることだそうで、よく気をつけて、天地の二神誓約の段に示された、古典の記録をご覧になれば大体の要領はつかめるとのことでございます。

 さて最初地上に生まれ出た幼児ー無論それは力も弱く、知恵も乏しく、そのままで無事に成長し得る筈はございませぬ。誰かが傍から世話をしてくれなければとても三日とは生きていられる筈はございませぬ。そのお世話係がつまり守護霊と申すもので、陰から幼児の保護に当たるのでございます。

勿論最初は父母の霊、ことに母の霊の熱心なお手伝いもありますが、だんだん成長すると共に、ますます守護霊の働きが加わり、最後には父母から離れて立派に一方立ちの身となってしまいます。

ですから、生まれた子供の性質や容貌は、ある程度両親に似ていると同時に、また大変に守護霊の感化を受け、時とすれば殆ど守護霊の再来と申しても差し支えない位のものも少なくないのでございます。

古事記の神代の巻に、豊玉姫からお生まれになられたお子様を、妹の玉依姫様が養育されたとあるのは、つまりそう言った秘事を暗示されたものだと承ります。


 申すまでもなく子供の守護霊となられるものは、その子どもの肉親と深い因縁の方・・・つまり同一系統の方でございまして、男子には男性の守護霊、女子には女性の守護霊が附くのでございます。人類が地上に発生した当初は、専ら自然霊が守護霊の役目を引き受けたと申すことでございますが、

時代が過ぎて、次第に人霊の数が加わると共に、守護霊はそれらの中から選ばれるようになりました。

無論例外はありましょうが、現在では数百年前ないし千年二千年前に帰幽した人霊が、守護霊として主に働いているように見受けられます。私などは帰幽後四百年余りで、さして新しい方でも、又さして古い方でもございませぬ。

 こんな複雑な事柄を、私の拙い言葉でできるだけ簡単にかいつまんで申上げましたので、さぞお分かりにくい事であろうと恐縮している次第でございますが、私の言葉の足りないところは、何卒あなた方の法でよきようにお察しくださるようお願いいたします。



 



十六、守護霊との問答
 岩屋の  




十七、





  十八、



十九、龍神の祠(ホコラ)
 順序として、これからぼつぼつ龍宮界のお話を致さねばならなくなりましたが、もともと口の拙い私が、私よりもっともっと口の拙い女の口を使って通信を致すのでございますから、さぞすべてがつまらなく、一向に他愛のない夢物語となってしまいそうで、それが何より気がかりでございます。

と申して、この話を省いてしまえば私の幽界生活の記録に大きな穴が開くことになって筋道が立たなくなるおそれがございます。まあ致し方ございませぬ、せいぜい気をつけて、私の実地に見たまま感じたままをそっくり申し上げることに致しましょう。

ここでちょっと申し添えておきたいのは、私の修行場の右手の山の半腹に在る、あの小さい龍神の社のことでございます。私は龍神宮行きをする前に、所中その祠へ参拝したのでございますが、それがつまり私に取りて龍宮行きの準備だったのでございました。

 私はそこで乙姫様からいろいろと有難い教訓やら、お指図やら、またお優しい慰めのお言葉やらをいただきました。お蔭で私は自分でも気が付くほどめきめきと元気が出て参りました。「その様子なら汝も近いうちに乙姫様のお目通りができそうじゃ・・・。」指導役のお爺さんもそんなことを言って私を励ましてくださいました。

ここで私が竜神さまの祠へ行って、いろいろ指図を受けた等と申しますと、現生の方々の中には何やら異様にお考えになられる者がないとも限りませぬが、それは現世の方々が、まだ神社と言うもの、性質をよくご存知ないためかと存じます。

お宮と言うものは、あれはただお賽銭を上げて、柏手を打って、頭を下げて引きさがるために出来ている飾物ではないようでございます。

真心を込めて一生懸命に祈願をすれば、それが直ちに神様の御胸に通じ、同時に神様からもこれに対するお答えが下り、時とすればありありとその姿までも拝ませて頂けるのでございます・・・。つまりすべては魂と魂との交通を狙ったもので、こればかりは実に何とも言えぬほどうまい仕組みになっているのでございます

私が山の修行場におりながらどうやら龍宮界の模様が少しづつ判りかけたのも、まったくこの有難い神社参拝の賜でございました。

勿論地上の人間は肉体という厄介なものに包まれておりますから、如何に神社の前で精神の統一をなされても、そう容易には神さまとの交通はできますまいが、私どものように、肉体を棄てこちらの世界へ引っ越したものになりますと、ほとんど全ての仕事はこの仕掛けのみによりて行われるのでございます。

なに人間の世界にも近頃電話だの、ラジオだのと言う、重宝な機械が発明されたと仰るか・・・それは大変結構なことでございます。しかしそれならなおさら私の申し上げることが良くお判りの筈で、神社の装置もラジオとやらの装置も、理屈は大体似たものかも知れぬ・・・。

まあ大変つまらぬことを申し上げてしまいました。では早速これから龍宮行きの模様をお話させていただきます。



二十、龍宮へ鹿島立





二十一, 二十二, 二十三, 二十四, 二十五, 二十六, 二十七, 二十八, 二十九, 三十, 三十一, 三十二,   




三十三,自殺した美女 




三十四,





 三十五,辛い修行  ℘135
・・・「死後私はしばらくは何事も知らずに無自覚で暮らしました。したがってその期間がどれくらい続いたか、むろんわかるはずもございませぬ。そのうちふと誰かに呼ばれたように感じて眼を開きましたが、辺りは見渡す限り真っ暗闇、何がなにやらさっぱり分からないのでした。

 それでも私はすぐに、自分はもう死んでいるな、と思いました。もともと死ぬ覚悟で居ったのでございますから、死ぬということは私には何でもないものでございましたが、ただあたりの暗いのにはほとほと弱ってしまいました。しかしそれがただの暗さとはなんとなく違うのでございます。

例えば深い深い穴蔵の奥といった具合で、空気がしっとりと肌に冷たく感じられ、そして暗い中に、何やらうようよ動いているものが見えるのです。 



 それはちょうど悪事に襲われているような感じで、その不気味さと申したら全くお話になりませぬ。そしてよくよく見つめると、その動いているものが、何れも皆異様の人間なのでございます。頭髪を振り乱しているもの、身に一糸を纏わない裸の者、血みどろに傷ついて居るもの・・・ただ一人として満足の姿をした者はおりませぬ。


 ことに気味の悪かったのは私のすぐ側に居る、一人の若い男で、太い荒縄で、裸身をグルグルと捲かれ、ちっとも身動きが出来なくされております。するとそこへ怒りの眦を釣り上げた、一人の若い女が現れて、悔しい悔しいとわめき続けながら、件の男にとびかかって、髪を毟ったり、顔面をひっかいたり、足でけったり、踏んだり、とても乱暴な真似を致します。

 私はその時、きっとこの女はこの男の手にかかって死んだのであろうと思いましたが、とにかくこんな呵責の光景を見るにつけても、自分の現世で犯した罪がだんだん怖くなってどうにも仕方なくなりました。私のような頑なな者が、どうやら熱心に神様にお縋りする気持ちになりかけたのは、偏にこの暗闇の内部の、世にも物凄い見せしめの賜でございました。」


三十六, 三十七, 三十八, 三十九, 四十, 四十一, 四十二, 四十三, 四十四, 四十五, 四十六, 四十七, 四十八, 四十九, 五十, 五十一, 五十二, 五十三, 五十四, 五十五, 五十六, 五十七, 五十八, 五十九, 六十、 六十一, 六十二, 六十三、


       六十四、


  
六十五,小桜神社の由来
 ついうっかりお約束をしてしまいましたので、これから私が小桜神社として祀られた次第を物語らなければならぬ段取りになりましたが、実は私としてはこんな心苦しいことはないのでございます。

ご覧の通り私などは別にこれと申して優れた器量の女性でもなく、また修行と言ったところで、多寡が知れているのでございます。こなものがお宮に祀られるというのは確かに分に過ぎたことで、私自身もそれはよく承知しているのでございます。

ただそれが自自何時である以上、よんどころなく申し上げるようなものの、決して私が良い気になって居る訳でもなんでもないことを、くれぐれもお含みになって頂きとう存じます。私に取りてこんなしにくい話は滅多にないのでございますから・・・。

 だんだん事の次第を調べますると、話はずっと遠い昔、私がまだ現世に生きていた時代に遡るのでございます。前にもお話した通り、良人の討死後私は所中そのお墓詣りを致しました。

なにしろお墓の前へ行って瞑目すれば、必ず良人の在りし日の面影がありありと眼に映るのでございますから、当時の私に取りてそれが何よりの心の慰めで、よほどの雨風でもない限り、滅多に墓参を怠るようなことはないのでした。『今日もまたお目に掛って来ようかしら…。』

私としてはただただそれ位のあっさりした心持で出かけたまでのことでございました。この墓参りは私が病の床につくまでざっと一年余りも続いたでございましようか。


 ところが以外にもこの墓参が大変に里人の感激の種子となったのでございます。

『小桜姫は本当に烈女の鑑だ。まだうら若い身でありながら再縁しようなどという心は微塵もなく、どこまでも三浦の殿様に操を立て通すとは見上げたものである。』そんなことを言いまして、途中で私とすれ違う時などは、土地の男も女も皆涙ぐんで、いつまでもいつまでも私の後ろ姿を見送るのでございました。


 里人からそんなにまで慕ってもらえました私が、やがて病のために倒れましたものでございますから、そのために一層人気が出たと申しましょうか、いつしか私のことを世にも類なき烈婦
・・・気性も武芸も人並み優れた女丈夫ででもあるように囃し立てたらしいのでございます。

そのことは後で指導役のお爺さんから伺って自分ながらびっくりしてしまいました。私は決してそんな偉い女性ではございませぬ。私はただ自分の気が済むように、一筋に女子として当たり前の途を踏んだまでのことなのでございまして・・・。


 尤も、最初は別に私をお宮に祀るまでの話が出た訳ではなく、時々思いだしては、野良への行き帰りに私の墓に香華を手向ける位のことだったそうでございますが、その後ふとした事が動機となり、とうとう神社というところまで話が進んだのでございました。

まことに人の身の上というものは何ならさっぱり見当が取れませぬ。生きている時には散々悪口を言われたものが、死んでから口を極めて誉められたり、またその反対に、生前栄華の夢を見たものが、墓場に入ってから酷い辱めを受けたりします。

そしてそれが少しもご本人には関係のない事柄なのですから、考えてみればまことに不思議な話で、煎じ詰めれば、これはやはり何やら人間以上の奇な力が人知れず奥の方で働いているのではないでしょうか。少なくとも私の場合にはそうらしく感じられてならないのでございます・・・。




六十六,三浦を襲った大津波
 さて只今申し上げましたふとした動機と言うのは、ある年三浦の海岸を襲った大津波なのでございました。それは滅多にないくらいの大きな時化で、一時は三浦三崎一帯の人家が全滅しように思われたそうでございます

 するとその頃、諸磯の、ある漁師の妻で、普段から私のことを大変尊信してくれている一人の婦人がありました。『小桜姫にお願いすれば、どんな
ことでも叶えてくださる・・・』そう思い込んでいたらしいのでございます。で、いよいよ嵐(暴風雨)が荒れ出しますと、右の夫人がさっそく私の墓に駆けつけて一心不乱に祈願しました。

『このままにして置きますと、三浦の土地はみな流れてしまいます。小桜姫様、何卒あなた様のお力で、この災難を免れさせて頂きます。この土地でお縋りするのはあなたさまより外にはござりませぬ』

丁度その時私は海の修行場で相変わらず統一の修行三昧に耽っておりましたので、右の夫人の熱誠込めた祈願が何時になくはっきりと私の胸に通じてきました。これには私も一と方ならず驚きました。

『これは大変である。三浦は自分に取りて切っても切れない深い因縁の土地、このまま土地の人々を見殺しにはできない。殊にあすこには良人を始め、三浦一族の墓もあること・・・。一つ龍神さんに一生懸命祈願してみましょう・・・。正しい祈願であるならばきっと御神助が降るに相違ない・・・』


それから私は未熟な自分に出来る限り熱誠を込めて、三浦の土地が災厄から免れるようにと、龍神界に祈願を込めますと、間もなくあちらから『願いの趣聴き届ける・・・。』とあり難いお言葉が伝わって参りました。

 果たして、さしものに猛り狂った大時化が、間もなく収まり、三浦の土地はさしたる損害もなく済んだのでしたが、三浦以外の土地。たとえば伊豆と、房州とかは百年来例がないと言われるほど残害を蒙ったのでした。

 こうした時にはまた妙に不思議な現象が重なるものと見えまして、私の姿がその夜右の漁師の妻の夢枕に立ったのだそうでございます。

私としては別にそんなことをしようと言うつもりはなく、ただ心にこの正直な夫人を愛しい女性と思っただけのことでしたが、たまたま右の夫人が霊能らしいものをものをもって持っていたために、私の思いが先方に伝わり、その結果夢に私の姿までも見ることになったのでございましょう。

そうしたことは格別珍しいことでも何でもないのですが、場合が場合とて、それがとんでもないことになってしまいました。


『小桜姫様は確かに三浦の土地の守護神様だ。三浦の土地が今度不思議にも助かったのはみな小桜姫のお蔭だ。現に小桜姫のお姿が何某の夢枕に立ったということだ・・・。有難いことではないか・・・。』 

 私とすればただ土地の人たちに代って龍神さんに御祈願を込めたまでのことで、私自身に何の働きのあったわけではないのでございますが、そうした経緯は無邪気村人に分かろうはずもございません。

で、とうとう私を祭神とした小桜姫神社が村人全体の相談の結果として、建立される段取りになってしまいました。

 右の事情が指導役のお爺さんから伝えられた時に私はびっくりしてしまいました。私は真っ赤になってご辞退しました。

『お爺様、それはとんでもないことでございます。私などはまだ修行中の身、力量と言い、また行状と言い、とてもそんな資格のあろう訳がございませぬ。他の事と違い、こればかりはご辞退申し上げます・・・・・・。』がお爺さんはいつかな承知なさらないのでした。

 そなたが何言おうと、神界ではすでに人民の願いを聞き入れ、小桜姫神社を建てされることに決めた。他の器量は神界で何もかもご存知じゃ。そなたにはただ誠心誠意で人と神との仲介をすればよい。今更我儘を申し立てたとて何にもならんぞ…。

『左様な訳のものでございましょうか』

 私としては内心多大な不安を感じながら、そうお答えするより外に詮術がないのでございました。

 


 六十七,神と人との仲介
 以上述べたところで一と通り話の筋書きだけはお分かりになったと存じます。神に祀られたと言えば、一寸大変なことのように思われましょうが、内容は決してそれ程のことではないのでございまして…。

 大体日本の言葉が、肉眼に見えないものを悉く神と言ってしまうから、甚だ紛らわしいのでございます。神と言う一の字の中にはとんでもない段階があるのでございます。諺にも上には上とやら、一つの神界の上には更に一段高い神界があり、その又上にも一層奥の神界があると言った按配に、

どこまで行っても際限がないらしいのでございます。現在の私どもの境涯からいえば、最高のところは矢張り昔から教えられている通り、天照大御神様の知ろしめす高天原の神界・・・それが事実上の宇宙の神界なのでございます。

そこまでは、一心不乱になって統一をやればどうやら私どもにも接近されぬでもありませぬが、それから奥はとても私どもの力量では及びませぬ。指導役のお爺さんに伺ってみましても、あまり要領は得られませぬ。つまりない訳ではないが、限りある力量ではどうにもしようがないのでございましょう。

高天原の神界から一段降ったところが、とりもなおさず吾々の住む台地の神界で、ここに君臨あそばすのが、申すまでもなく皇孫命様にあらせられます。ここになるとずっと吾々との距離が近いとでも申しましょうか、御祈願をこうむれば直接神様からお指図を受けることも出来、

またそう骨折らずにお神姿を拝むこともできます。尤もこれは幾らか修行が積んでからのことで、最初こちらへ参ったばかりの時は、なにが何やら腑に落ちぬことばかり、恥ずかしながら皇孫命様があらゆる神々を統率あそばす、真の中心の御方であることさえも存じませんでした。

『幽明交通の途が途絶えているせいか、近ごろの人間はまるっきり駄目じゃが・・・。』指導役のお爺さんがそう言ってさんざんお叱りを受けたような次第でございました。

私達でさえ、すでにこれなのでございますから、現生の方々が戸惑いをなさるのも無理からのことかもしれませぬ。これは矢張りお爺さんの言われ通り、この際、大いに奮発して霊界との交通を盛んにする必要がございましょう。

それさえできればこんなことは造作もなく分かることなのでございますから・・・。


 今更、申し上げるまでもなく、皇孫命様をはじめ奉り、直接そのお指図の下に働き遊ばす方々はいずれも活神様・・・つまり最初からこちらの世界に活き通しの自然霊でございます。

産土の神々は申すに及ばず、八幡様でも、住吉様でも、但はまた弁財天様のような方々でも、その御本体は悉くそうでないものはございませぬ。つまるところここまでが、ほんとうの意味の神様なので、私どものように帰幽後神として祀られるのは本当の神ではありませぬ。

ただ神界に籍を置いているというだけで・・・。もっとも中には随分修行の積んだ、立派な方々もないではありませぬが、しかし、どんなに優れていても人霊はやはり人霊だけのことしかできませぬ。

一と口に出したら、本当の神さまと人間との中間に立ちてお取次ぎの役目をするのが人霊の仕事。まあそれくらいに考えて頂けば、大体よろしいかと存じます。少なくとも私のような未熟なものにできますことは、やっとそれだけでございます。

神社に祀られたからと申して、矢鱈に難しい問題など私のところにお持ち込みのなられることは固くご辞退いたします。精一杯お取次ぎは致しますが、私などの力量で何一つできものでございましょうか・・・。 
  



六十八、霊界の神社
 かれこれする中に、指導役のお爺さんから、お宮の普請が、もう大分進行しているとお知らせがありました。

「あと十日も経てばいよいよ鎮座際の運びになる。形こそ小さいが、普請はなかなか手が込んでいるぞ…。」

 そんな風評を耳にする私としては、これまでの修行の引っ越しとは違って、何となく気がかり・・・幾分輿入れの花嫁さんの気持ち、と言ったようなところがあるのでした。つまり、うれしいようで、それで何やら心配なところがあるのでございます。

『お爺さま、鎮座際とやらの時には、私がそのお宮に入るのでございますか・・・。』

『いやそれとも少し違う・・・現界にお宮が建つときには、同時に又こちらの世界にもお宮が建ち、そなたとしてはこちらの御宮の方へ入るのじゃー。がそなたも知る通り現幽は一致、幽界のことは直ちに現界に映るから、実際はどちらとも区別がつけられないことになる・・・。』

『現界の方では、どんなところに御宮を建てているのでございますか。』

『あそこは何と呼ぶか・・・つまり籠城中にそなたが隠れていた海岸の森蔭じゃ。今でも里人たちは、遠い昔のことをよく記憶していて、わざとあの地点を選ぶことに致したらしい・・・。』

『では油が壷のすぐ南側に当たる、高い崖のあるところでございましょう、大木のこんもりと茂った・・・。』

『その通りじゃ。が、そんなことはこのわしに訊くまでもなく、自分で覗いて見たらよいであろう。現界の方はそなたの方が本職じゃ・・・。』

 お爺さんはそんなことを言って、まじめに取り合って下さいませんので、やむを得ずちょっと統一して、覗いて見ると、果たしてお宮の所在地は、私の昔の隠家のあったところで、あたりの
模様はさしてその時分と違っていないようでした。普請はもう八分通りも進行しており、大工やら屋根職やらが、何れも忙しそうに立ち働いているのがみえました。

『お爺さま、やはり昔の隠れ家のあった所でございます。たいそう立派な御宮で、私には勿体なうございます。』

『現界のお宮もよく出来ているが、こちらのお宮は一層手が込んでおるぞ。もうとうに出来上がっているから、入る前に一度そなたを案内しておくと致そうか・・・。』

『そうして頂けば何より結構でございますが・・・。』

『では、これからすぐ出かける・・・。』

 相変わらずお爺さんのなさることは早急でございます。

 私達は連れだって海の修行場を後に、波打ち際の綺麗な白砂を踏んで東へ東へと進みました。右手はのたりのたりといかにも長閑な海原、左手はこんもりとした樹木の繁った丘続き、どう見ても三浦の南海岸をもう少し綺麗にしたような景色でございます。ただ海に一艘の漁船もなく、また陸に一軒の人家も見えないのが現背と違っている点で、それがために何やら全体の景色に夢幻に近い感じを与えました。

歩いた道程は一里あまりでございましょうか、やがて一つの奥深い入江を廻り、二つ三つ松原をくぐりますと、そこは鬱蒼たる森蔭のこじんまりせる別天地、どうやら昔私が隠れていた浜磯の景色に似て、更に一層理想化したような趣があるのでした。

 ふと気が付いてみると、向こうの崖をすこし削った所に白木造のお宮が木の葉隠れに見えました。

大きさは約二間四方、屋根は厚い杉皮葺、全面は石の階段、周囲は濡縁になっておりました。

『どうじゃ、立派なお宮であろうが・・・。これでそなたの身もようやく固まった訳じゃ。これからは引っ越し騒ぎもないことになる・・・。』

 そう言われるお爺さんの顔には、多年手がけた教え児の身の振り方の付いたのを心から歓ぶと言った、慈愛と安心の色が漂っておりました。

私は勿体ないやら、うれしいやら、それに又遠い地上生活時代の淡い思い出までも打ち混じり、今さら何と言うべき言葉もなく、ただ涙ぐんでそこに立ちつくしたことでございました。




      
六十九 鎮座際
 そうする中にいよいよ鎮座際の日が参りました。

『現界の方では今日は偉い祭騒ぎじゃ』







    
七十, 





    
七十一,



 
七十二,




七十三,参拝者の種類    



七十四,命乞い   



七十五,入水者の救助    




七十六,生木を裂かれた男女   




七十七,神の申し子




七十八、神々の受け持ち
 神々の受持ちと申しましても、これは私がこちらで実地に見たり、聞いたりしたところを、何の理屈もなしに、ありのまま申し上げるのでございますから、どうぞそのおつもりで聞いていただきます。こんなものでも幾らか皆様の手がかりになれば何より本望でございます。

 現世の方々が、何はおいても第一に心得ておかねばならぬのは、産土の神様でございましょう。これはつまり土地の御守護にあたらるる神様でございまして、その御本体は最初から活き通しの自然霊・・・つまり龍神様ででございます。

 現に私どもの土地の産土様は神明様と申しあげて居りますが、やはり龍神様でございまして…稀に人霊の場合もあるようにお見受けしますが、その補佐には矢張り龍神様が附いて居られます。ドーもこちらの世界のお仕事は、人霊のみでは何かにつけて不便があるのではないかと存じられます。

 さて産土の神様のお任務の中で、何より大切なのは、やはり人間の生死の問題でございます。

現世の役場では、子供が生まれてから初めて受付ますが、こちらでは生まれるずっと以前から、それがお判りになって居りますようで、何にしましても、一人の人間が現世に生まれると申すことは、なかなか重大な事柄でございますから、上の次第は産土の神様から、それぞれ上の神様にお届けがあり、

やがてやがて最高の神様の手許まで達するとのことでございます。申すまでもなく、生まれる人間には必ず一人の守護霊が附けられますが、これも皆上の神界からの御指図で決められるように承って居ります。

 それから人間が亡くなる場合にも、第一に受け付けてくださるのが、やはり産土の神様で、誕生のみが決してそのお受け持ちではないのでございます。

これは氏子としては是非心得ておかねばならぬことと存じられます。最もそのお仕事はただ受け付けてくださるだけで、直接帰幽者をお引き受けくださいますのは大国主命様(オオクニヌシノミコトサマ)でございます。

産土の神様からお届けがありますと、大国主命様の方では、すぐに死者の行くべきと所を見定め、そしてそれぞれ適当な指導役をつけてくださいますので・・・。指導役はやはり龍神様でございます。

人霊では、ややもすれば人情味があり過ぎて、こちらの世界の躾をするのに、あまり面白くないようでございます。つまり現世では主として守護霊、また幽界では主として指導霊、のお世話になるものと思われれば宜しゅうございます。

 尚生死以外にも産土の神様の御世話に預かることは数限りもございませぬが、ただ産土の神様は言わば万事の切り盛りをなさる総受付のようなもので、実際の仕事には皆それぞれ専門の神様が控えて居られます。つまり病には 病気直しの神様、武藝には武藝専門の神様、その他世界中のありとあらゆる仕事は、それぞれ皆受け持ちの神様があるのでございます。

人間と申すものは兎角自分の力一つで何でもできるように考えがちでございますが、実は大なり、小なり、皆陰から神々のお力添えがあるのでございます。

 さすがに日本国は神国と申されるだけに、外国とは違って、それぞれの名の付いた、尊い神社が至る所に見いだされます。それらの御本体を調べてみますと、二通りあるように存じます。


 一つは優れた人霊を御祭神としたもので、橿原神宮、香椎宮、明治神宮などがそれでございます。

また他の一つは生神様を御際神といたしたもので、出雲の大社、鹿島神宮、霧島神宮等がそれでございます。ただし、いかにすぐれた人霊が御本体でありましても、その控えとしては、必ず有力な龍神様がお付遊ばしておられますようで・・・・・・。

今さら申し上げるまでもなく、すべての神々の上には皇孫命様がお控へになって居られます。つまり御方が大地の神霊界の主宰神におわしますので・・・・・・。更にもう一つ奥には、天照大御神様がお控へになって居られます、それは髙天原・・・・・・つまり宇宙の主宰神におわしまして、とても私どもから測り知ることのできない、尊い神様なのでございます。

神界の組織はざっと申し上げたようなところでございます。これらの神々の他に、この国には観音様とか、不動様とか、その他さまざまなものがございますが、私がこちらで実地に調べたところでは、それは途中の相違・・・つまり幽界の下層に居る眷属が、かれこれ区別を立てているだけのもので、

奥の方は皆一つなのでございます。富士山に登りますにも、道はいろいろつけてございます。教えの道も矢張りそうした訳のものではなかろうかと存じられます。

                                                        完結



  小桜姫は実在の人
守護霊と私
                                   浅野多慶子
 そもそも小桜姫という女性を霊視したのは大正五年の春の頃でございます。当時私は、横須賀に住み、神の存在すら知らず、極く平凡な毎日を送っておりました。相州走水神社に参拝の折、「弟橘姫の命により、この石笛を、小桜姫に賜う」との霊視の下に、境内にて二つ穴の開いた、拳大の石を拾いましたが、ただ不思議なことと思いつつ、そのまま意味を深く考えもせず過ごしてしまいました。

 時を経て、昭和四年春に至り、愛児新樹の突然の死により、霊界との通信を始めることことになりました。霊界からの新樹の、たつての希望により、私が、受信することになりましたが驚くべき事には、小桜姫も、通信を送り、霊界より、協力したいとの、お申し出がございました。

当時、私共は、この通信を受けるため日々、精進に務めました。あの石笛の清澄な響きの内に、深い深い統一に入るという状態を得るには、並々ならぬ事でございました。小桜姫は、私の守護霊であるということは、その頃になって、新樹より知らされました。

 子供は、私の守護霊をたびたび訪問し、親しみを抱きながら、霊界の探求にいそしみました。その有様は、幽明を異にしていても、現世と少しも、変りませんでした。

 小桜姫は、お読みくださいます通り、神社に祀られておられます。三浦のどこの地か、まったく判りませんでした。

 昭和五年の春、岡田氏、主人(浅野和三郎)と、私、娘(美智子)と四人連れで、神社を探しに出向きました。あちらこちら、それらしき森を訪ね歩き、最後に、油壷の岩場の対岸に、神社と思われる佇まいを発見、折よく漁師に頼み、渡してもらいました。

 鳥居の奥には、神社が表面に、その左右に小さな社がございました。向かって左の社に、額づきますと、小桜姫様が、鎮座遊ばすお姿に接し、「ここが、小桜姫のお社です」と、思わず、喜びの声をあげてしまいました。その時、浜にいた古老も、小桜姫をお祭りしてあると申しておりました。

 心霊講座に紹介してございます外国の物理現象、霊言現象、その他の心霊現象意ついて、主人が、英国、米国よりの帰朝論文を発表致して、待つ間もなく、日本にも、多数の霊媒が現れました。

東京、大阪、名古屋、その他の都市における講演会、物理実験会は、世間の学者、名士の御理解を深め、いまから、思いますと、日本の心霊研究の、一番充実した時期であったと思われます。多事多難の研究に、小桜姫様の御助力を賜りつつ、八年間に及ぶ膨大な通信は、その折々の、問題解決の緒になりました。

 通信も、回を重ね、、霊界通信として、出版の運びとなりました。安住画伯の筆になる、姫のお姿は、数ある内で一番良いものを選び、表紙となりました。昭和十二年二月に、出版される直前に、主人(浅野和三郎)は急逝致しました。

出版は、当時大変な反響を呼びました。以後読者が、全国より、小桜姫神社に参拝されております。また小桜姫と私との間には、以後、多方面にわたり霊界通信が続きました。

折から私も齢八十六歳となりました。昭和四十四年秋、横須賀衣笠城に在住の、岩間伊先生のご訪問を受けました。先生は、現在、日本の国史研究の権威として、日本を始め、欧米諸国にまで知られ、著書も多数にて、五十年にわたって、史実の研究に努力されている方です。

 また先生は、三浦直系四十一代、三浦一族会長として、活躍をされております。

 先生は十年位前より、一週に一度または二度、美しい婦人の訪問を、枕辺で受け続けていました。時刻は午前一時より二時までの丑の刻で、夢の中の婦人は、身分の高い三十歳位の美しい方で、お召しになっている衣装の色や形、態度、表情など、霊界通信の中の小桜姫と、余りにも一致する点が多いので、史実的に調査をしたい旨のご相談でございました。

以後、三浦一族の研究として小桜姫をお祀りしてある諸磯の若宮様、墓所、慰霊の仏像、その他姫ゆかりのあるお地蔵様、馬頭観音など、また津波の件は霊界通信と史実が、一致すること、姫の御実家、鎌倉浄明寺の屋敷跡の確認、と数々の発見に、小桜姫は、三浦荒次郎の奥方として、確かに実在していたという調査結果が出ました。

「三浦氏十七代の三浦介義意の婦人小桜姫に昭和四十四年十二月二十四日丑の刻に別紙の通り、諡を致しました。然らば、明年好月好日に、諸磯の神明神社の若宮に鎮めまするが最もよろしいと存じますのでご承知ください。
                          岩間伊
       諡                         昭和四十四年十二月二十四日
 三浦都比花開美女命(ミウラツコノハナサクヤヒメノミコト)