はじめに
第一章 シルバー・バーチの使命

第二章 絶対不変の法則   ──因果律──
第三章 再生       ──生まれ変わり──
第四章 苦しみと悲しみと   ──魂の試練──
第五章 死後の世界  
第六章 動物の進化と死後の生命
第七章 心霊治療
第八章 交霊会の舞台裏
第九章 真理の理解を妨げるもの 
                    ──宗教的偏見──
第十章 おしまいに
 あとがき
 遺稿「シルバー・バーチと私」 
       ───モーリス・バーバネル
   巻頭言 
  あなたがもしも古き神話や伝来の信仰を持って足れりとし、あるいは既に真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はない。がもしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しい視野、新しき道を求めて已まぬものであることをご承知ならば、ぜひお読みいただいて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出していただきたい。
 

 そこには、すべての宗教の創始者によって説かれた訓えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠な霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明かりを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。                                                          シルバー・バーチ 

                                   
         

 はじめに
 シルバーバーチ Silver Birch というのは、英国のハンネン・スワッハー・ホームサークル Hannen Swaffer Home Circle という家庭交霊会において、一九二〇年代後半から五十年余りにわたって教訓を語り続けてきた古代霊のことで、紀元前一〇〇〇年ごろ地上で生活したということです。

 もちろん仮の呼び名です。これまで本名すなわち地上時代の姓名を教えてくれるよう何度かお願いしましたが、その都度、
  「それを知ってどうしようというのですか。戸籍調べでもなさるおつもりですか」 と皮肉っぽい返事が返ってくるだけです。そして、

 人間は名前や肩書にこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるでしょうが、それは非常にタチの悪い錯覚です。前世で私が王様であろうと乞食であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもよろしい。

私の言っていることが成るほどと納得がいったら真理として信じてください。そんなバカな、と思われたら、どうぞ信じないでください。それでいいのです」 というのです。今ではもう本名の詮索はしなくなりました。 


 霊視家が描いた肖像画は北米インデアンの姿をしていますが、これには三つの深い意味があります。
 一つは、実はそのインデアンがシルバーバーチその人ではないということです。インデアンはいわば霊界の霊媒であって、実際に通信を送っているのは上級神霊界の高級霊で、直接地上の霊媒に働きかけるには余りに波長が高すぎるので、その中継役としてこのインデアンを使っているのです。

 もう一つは、その中継役としてインデアンを使ったのは、とかく白人中心思考と科学技術文明偏重に陥りがちな西洋人に対し、いい意味での皮肉をこめていることです。

 むろん、それだけが理由の全てではありません。インデアンが人種的に霊媒としての素質において優れているということもあります。


そのことは同じ英国の著名な霊媒エステル・ロバーツ女史、Estelle Roberts の支配霊レッド・クラウド Red Cloud、グレイス・クック女史 Grace Cook の支配霊ホワイト・イーグル White Eagle 等が共に(男性の)インデアンであることからも窺えます。

 そして表向きはそのことを大きな理由にしているのですが、霊言集を細かく読み返してみますと、その行間に今のべた西洋人の偏見に対するいましめを読み取ることが出来ます。

 さらにもう一つ注意しなければならないことは、どの霊姿を見る場合にも言えることですが、その容姿や容貌が必ずしも現在のその霊そのものではなく、地上時代の姿を一時的に捉えて見せているにすぎないことが多いことです。シルバーバーチの場合も、地上に降りるときだけの仮化粧と考えて良いでしょう。

 さて、シルバーバーチの霊訓は「霊言集」の形でこれまで十一冊も出版されております。ホーム・サークルの言葉どおり、ロンドンの質素なアパートでの非常に家庭的な雰囲気の中で行われ、したがって英国人特有の内容や、その時代の世相を反映したものが多く見られます。

たとえば第二次世界大戦勃発の頃は 「地上の波長が乱れて連絡がとれにくい」 とか、 「連絡網の調子がおかしいので、いま修理を依頼しているところだ」 といった興味深い言葉も見られます。

 何しろ一九二〇年代に始まり、半世紀以上にわたって連綿と続けられてきたのですから、量においての質においても大変なものがあります。

 そこで私は、余りに特殊で日本人には関心の持てないものは割愛し、心霊的教訓として普遍的な内容のものを拾いながら、同時に又、理解の便を考慮して、他の個所で述べたものでも関連のあるものをないまぜにしながら、易しくそして親しく語りかける調子でまとめていきたいと思います。「訳編」としたのはそのためです。

 重厚な内容を持つ霊界通信の筆頭は何といってもモーゼスの「霊訓」 Spirit Teachings by S. Moses であり、学究的内容を持つものの白眉としてはマイヤースの「永遠の大道」 The Road to Immortality by F.  Myers  があげられます。後者には宇宙的大ロマンといったものを感じさせるものがあります。

 私事にわたって恐縮ですが、東京での学生時代やっとのことで両書の原典を英国から取り寄せ、宝物でも手にした気持ちで、大学の授業をそっちのけにして、文字通り寝食を忘れて読み耽った時期がありました。

 特に 「永遠の大道」 はその圧巻である 「類魂」 の章に読み至った時、壮大にしてしかもロマンに満ちた宇宙の大機構に触れる思いがして思わず全身が熱くなり、感激の涙が溢れ出て。しばし随喜の涙にくれたのを思いだします。

「霊訓」 は非常に大部でしかも難解です。浅野和三郎訳のものもありますが部分的な抄訳にすぎません。何しろ総勢五十人からなる霊団が控え、その最高指導霊であるイムペレーター(もちろん仮名)紀元前五世紀に地上で生活した人物───実は旧約聖書に出てくる予言者マラキ Malachi ───です。

筆記者すなわち直接霊媒の腕を操った霊はかなり近代の人物が担当していますが、イムペレーターの古さに影響されてか、文字に古典的な臭いがあります。もっともそれが却って重厚味を増す結果となっているとも言えますが・・・・・・。


 それに比べるとシルバー・バーチの霊訓はいたって平易に心霊的真理を説いている点に特徴があります。モーゼスとマイヤースが主として自動書記通信を手段としたのに対し、霊言現象という手段をとったことがその平易さと親しみやすさの原因と考えてもよいでしょう。

 私は、これを先ほど述べたように、一冊の原書を訳すという形式ではなく、十一冊の霊言集をないまぜにしながら、平たく分かり易く説いていく形で進めたいと考えています。

 時には前に述べたことと重複することもありましょう。それは原典でも同じことで、結局は一つの真理を角度を変えて繰り返し説いているのです。

 さらに私は、必要と思えば他の霊界通信、たとえば右のモーゼスやマイヤースの通信等からも、関連したところをどしどし引用するつもりです。大胆な試みではありますが、シルバー・バーチの霊訓の場合はその方法が一番効果的であるように思うのです。


 ここで、まことに残念なことを付記しなければならなくなりました。本稿執筆中の一九八一年七月、シルバー・バーチの霊言霊媒であったモーリス・バーバネル氏 Maurice Barbanell が心不全のために急逝されたとの報が入りました。急逝といっても、後一つで八十歳になる高齢でしたから十分に長寿を全うされ、

しかも死の前日まで心霊の仕事に携わっていたのですから、本人としては思い残すことはなかろうと察せられますが、われわれシルバー・バーチ・フアンにとっては、もっともっと長生きして少しでも多くの霊言を残して欲しかった、というのが正直な心境です。


 特に私にとっては、その半年前の一月にロンドンでお会いしたばかりで、あのお元気なバーバネルさんが・・・・・・としばし信じられない気持でした。あの時、バーバネル氏の側近の一人が私に 「あなたの背後には今度の渡英を非常にせかせた霊がいますね」 と言ったのを思い出します。

その時の私は何のことだか分かりませんでしたが、今にして思えば、私の背後霊がバーバネル氏の寿命の尽きかけていのを察知して私に渡英を急がせたということだったようです。

 同時にそれは、私にシルバー・バーチの霊訓を日本に紹介する使命の一端があるという自覚を迫っているようでもあります。氏の訃報に接して本稿の執筆に拍車が掛ったことは事実です。

 氏の半世紀余りにわたる文字通り自我を滅却した奉仕の生涯への敬意を込めて、本書を少しでも立派に仕上げたいと念じております。


 心霊はコマーシャルとは無縁です。一人でも多くの人に読んでいただくに越したことはありませんが、それよりも、関心を持つ方の心の飢えを満たし、ノドの渇きを潤す上で本書が少しでもお役に立てば、それがたった一人であっても、私は満足です。




    第一章 シルバー・バーチの使命

 シルバー・バーチが地上に戻って霊的的真理つまりスピリチュアリズムを広めるよう神界から言いつけられたのは、のちにシルバー・バーチの霊言霊媒となるべき人物すなわちモーリス・バーバネル氏がまだ母体に宿ってもいない時のことでした。

 そもそもこの交霊会が始まったのは一九二〇年代のことですから、シルバーバーチが仕事を言いつけられたのは一八〇〇年後半ということになります。

バーバネル氏が霊言能力を発揮し始めたのは十八才の時でした。正確なことは分からないにしても、とにかく人間の想像を超えた遠大な計画と周到な準備のもとに推進されたものであることは間違いありません。


 さて言いつけられたシルバーバーチが二つ返事でよろこんで引き受けたかというと、実はそうではなかったのです。

 『正直いってあなた方の世界に戻るのは気が進みませんでした。地上というのは、一たんその波長の外に出てしまうと、これといって魅力のない世界です。私が今定住している境涯は、あなた方のように肉体に閉じ込められた者には理解の及ばないほど透き通り、光に輝く世界です。

 くどいようですが、あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、やらねばならない仕事があったのです。しかもその仕事が大変な仕事であることを聞かされました。まず英語を勉強しなくてはなりません。

地上の同志を見つけ、その協力が得られるよう配慮しなくてはなりません。それから私の代弁者となるべき霊媒を養成し、さらにその霊媒を通じて語る真理を出来るだけ広めるための手段も講じなくてはなりません。

それは大変な仕事ですが、私が精一杯やっておれば上方から援助の手を差し向けるとの保証を得ました。そして計画はすべて順調に進みました。』

 その霊媒として選ばれたのが、心霊月刊誌 Two Worlds と週刊誌 Psychic News を発行している心霊出版社 Psychic Pressの社長であったモーリス・バーバネル氏であり、同志というのは直接的にはハンネン・スワッハー氏を中心とする交霊会の常連のことでしょう。

 スワッハー氏は当時から反骨のジャーナリストとして名を馳せ「新聞界の法王」の異名を持つ人物で、その知名度を武器に各界の名士を交霊会に招待したことが、英国における、イヤ世界におけるスピリチュアリズムの発展にどれだけ貢献したか、量り知れないものがあります。

今はすでにこの世の人ではありませんが、交霊会の正式の呼び名は今でもハンネン・スワッハー・ホームサークルとなっております。

 いま私は「直接的には」という言い方をしましたが、では間接的には誰かという問いが出そうです。


 一八四八年に始まったスピリチュアリズムの潮流は、そのころから急速に加速された物質文明、それから今日見るが如き科学技術文明という、いわば人間性喪失文明に対する歯止めとしての意義を持つもので、その計画の中にはモーゼスの「霊訓」のイムペレーターを中心とする総勢五十名からなる霊団がおり、

「永遠の大道」のフレデリック・マイヤースがあり、さらに、これはあまり知られてはおりませんが、ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」のリーダーと名告る古代霊を中心とする霊団がおり、


南米ではアラン・カルデックの「霊の書」を産んだ霊団があり、そしてこのシルバー・バーチを中心とする霊団がいるわけです。

 このほかにも大小さまざまな形でその大計画が推進され、今なお進められているわけです。心霊治療などもそのひとつで、中でもハリー・エドワーズ氏などはその代表格(だった)というべきでしょう。日本の浅野和三郎氏などもその計画の一端を担われた一人でしょう。

 が、分野を霊界通信に絞って見た時、歴史的に見てオーソドックス(正統)な霊界通信は右に挙げたものが代表格といってよいでしょう。そのうちマイヤースについて特筆すべき点は、こうしたスピリチュアリズムの流れを地上で実際に体験した心霊家としてあの世へ行っていることです。


そしてこのシルバー・バーチに付いて特筆すべきことは、前四者が主として自動書記通信である(注)のと違って霊言現象の形で真理を説き、質疑応答という形も取り入れて、親しく、身近な人生問題を扱っていることです。

(注──モーゼスの「霊訓」には「続霊訓」という百ページばかりの軸篇があり、これは霊言現象による通信も含まれています。その中でイムペレーターを中心とする数名の指導霊の地上時代の本名を明かしております)

 
 体験された方ならすぐに肯かれることと思いますが、数ある心霊現象の中でも霊言現象が一ばん親しみと説得力を持っています。

 もっとも霊媒の危険性と、列席者が騙されやすいという点でも筆頭かもしれません。が、それは正しい知識と鋭い洞察力を具えていれば、めったにひっかかるものではありません。

 シルバー・バーチも自分が本名を明かさないのは、真理というものは名前とか地位によって影響されるべきものではなく、その内容が理性を納得させるか否かによって判断されるべきものだからだ、と述べていますが、確かに最終的にはそれ以外に判断の拠り所はないように思われます。



 こう見てきますと、シルバーバーチを中心とする霊団がロンドンの小さなアパートの一室におけるささやかなホームサークルを通じて平易な真理を半世紀以上にもわたって語り続けてきたことは、スピリチュアリズムの流れの中にあっても特筆大書に値することと言ってよいでしょう。


 しかし霊団にとっては、それまでの準備が大変だったようです。シルバーバーチは語ります。

『もうずいぶん前の話ですが、物質界に戻って霊的真理の普及に一役買ってくれないかとの懇請を受けました。このためには霊媒と、心霊知識を持つ人のグループを揃えなくてはならないことも知らされました。私は霊界にある記録簿を調べ上げて適当な人物を霊媒として選びました。

それは、その人物がまだ母体に宿る前の話です。私はその母体に宿る日を注意深く待ちました。そして、いよいよ宿った瞬間から準備にとりかかりました』

 この中に出てくる「霊界の記録簿」というのは意味深長です。

 神は木の葉一枚も落ちるのも見落とさないというのですから、われわれ人間の言動は細大漏らさず宇宙のビデオテープにでも収められているのでしょうが、シルバー・バーチの場合は、霊媒のバーバネル氏が生まれる前から調べ上げてその受胎の日を待った、というのですから、話の次元が違います。続けてこう語ります。

 『私はこの人間のスピリットと、かわいらしい精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる面を細かく観察し、霊的に一体となる練習をし、物の考え方や身体上のクセをのみ込むように努めました。要するに私はこの霊媒をスピリットと精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです」

 参考までにここに出た心霊用語を簡単に説明しておきましょう。スピリットというのは大我から分かれた小我、つまり神の分霊です。それ自体は完全無欠です。それが肉体と接触融合すると、そこに生命現象が発生し〝精神〟が生まれます。私たちが普段意識しているのはこの精神で、ふつう〝心〟といっているものです。これには個性があります。

肉体の持つ体質(大きいものでは男女の差)、それに遺伝とか自分自身及び先祖代々の因縁など複雑に混ざり合ってそれが人生に色とりどりの人間模様を織りなしていくわけです。

 シルバーバーチは続けてこう語ります。

 「肝心の目的は心霊知識の理解へ向けて指導することでした。まず私は地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的にはそのいずれにも反発させ、いわゆる無神論者にさせました。それはそれなりに本人の精神的成長にとって意味があったのです。

これで霊媒となるべきひと通りの準備が整いました。ある日私は周到な準備のもとに初めての交霊会へ出席させ、続いて二度目の時には、用意した手順に従って入神させ、その口を借りて初めて地上の人に語りかけました。

いかにもぎこちなく、内容もくだらないものでしたが、私にとって実に意義深い体験だったのです。その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、ご覧の通りの状態になりました。今ではこの霊媒の潜在意識を完全に支配し、私の考えを百パーセント述べることが出来ます。」

 その初めての交霊会の時、議論好きの十八歳のバーバネル氏は半分ヤジ馬根性で出席したと言います。そして何人かの霊能者が代わるがわる入紳してインデアンだのアフリカ人だの中国人だのと名告る霊がしゃべるのを聞いて〝アホらしい〟といった調子でそれを一笑に伏しました。そのとき「あなたもそのうち同じようなことをするようになりますヨ」と言われたそうです。

 それが二回目の交霊会で早くも現実となりました。バーバネル氏は交霊会の途中で〝ついうっかり〟寝込んでしまい、目覚めてから「まことに申し分けない」とその失礼を詫びました。すると列席者からこんなことを言われました。

 「寝ておられる間、あなたはインデアンになってましたよ。名前も名告ってましたが、その方はあなたが生まれる前からあなたを選んで、これまでずっと指導して来られたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演することになるとも言っていましたヨ。」

 これを聞いてバーバネル氏はまたも一笑に付しましたが、こんどはどこか心の奥に引っかかるものがありました。

 その後の交霊会においても氏は必ず入神させられ、初めの頃ぎこちなかった英語も次第に流暢になっていきました。その後半世紀以上も続く二人の仕事はこうして始まったのです。


 では当のバーバネル氏に登場してもらいましょう。入神中の様子について氏は次のように述べています。
 「はじめの頃は身体から二、三フィート離れた所に立っていたり、あるいは身体の上の方に宙ぶらりんの格好のままで、自分の口から出る言葉を一語一語聴きとることが出来た。シルバー・バーチはだんだん英語がだんだん上手になり、初めの頃の太いしわがれ声も次第に綺麗な声───私より低いが気持ちの良い声───に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地良い降服〟である。まず気持ちを落ち着かせ、受け身的な心境になって、気分的に身を投げ出してしまう。そして私を通じてなにとぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。

すると一種名状しがたい温かみを覚える、普段でも時おり感じることがあるが、これはシルバー・バーチと接触した時の反応である。暖かいといっても体温計で計る温度とは違う。おそらく計って見ても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズムカルになり、そしていびきに似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、周りのことがわからなくなり、柔らかい毛布に包まれたみたいな感じになる。そして遂に〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか、私自身にもわからない。

 聞くところによると、入神はシルバー・バーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバー・バーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は部屋がどんなに暖かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

 入神状態が幾ら長引いても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水をいただいてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

いそがしい毎日であるから、仕事が終わるといきなり交霊会の部屋にとびこむこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日にどんな変わった出来事があっても、入神には何の影響もないようである。あまりに疲労が酷く、こんな状態ではいい成果は得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られているのを知って驚くことがある。

 私の体験では、交霊会の前はあまり食べない方がよいようである。胸がつかえた感じがするのである。又、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者(招待客)については、あらかじめアレコレ知らない方がうまく行く。余計なことを知っていると、かえって邪魔になるのである。」


 バーバネル氏はシルバー・バーチ霊の言わば専属霊媒です。かつては英米の著名人、たとえばリンカーンなども出たようですが、それは一種の余興であって、本来はシルバー・バーチに限られています。いずれにせよ、バーバネル氏が二つの心霊機関紙を発行する心霊出版社の社長兼編集長であることは良く知られていても、霊言霊媒であることは日本はもとより世界でも意外に知られていないようです。

 これは謙虚で寡欲なバーバネル氏が自分からそのことを喋ったり書いたりすることがまずないということに起因しています。シルバー・バーチが絶対に地上時代の名前を明かさないという徹底した謙虚さがそのままバーバネル氏に反映しているのでしょう。

 実は氏は自分の霊言を活字にして公表することにすら消極的だったのです。それを思い切らせたのが他ならぬハンネン・スワッハー氏でした。

 ここで私が直接面会して感じ取ったバーバネル氏の素顔を紹介しておきましょう。
 幸いにも私は一九八〇年の暮れに渡英し、多くの心霊家に面会する機会を得ました。バーバネル氏とは新年早々の五日に心霊出版社で面会し、帰国する前日にお別れの挨拶にもう一度立ち寄りました。

 女性秘書がドアを開けてくれて社長室に入った時、バーバネル氏が意外に小柄なのにまず驚きましたが、満面に笑みをたたえて、知性と愛情にあふれたまなざしでしっかりと私の目を見つめ、無言のまま両手を差し伸べて固く私の手を握り、左手でどうぞこちらへという仕草をされました。

そしてインターホンでスタッフや秘書にアレコレと(私のために)指示をされてから、ようやく私に向かって「二通目の手紙は(出発前までに)に間に合いましたか」という問いかけがあって、ようやく会話が始まりました。

 普通なら「はじめまして」とか「お元気ですか」といった初対面の挨拶があるところですが、そんな形式を超えた、あるいは、そんな形式を必要としない、心と心の触れ合いから入りました。

 その前日に面会したテスター氏も(拙訳「背後霊の不思議」の原著者)も、背恰好といい年恰好といいバーバネル氏と実によく似た老紳士で、その応対ぶりもそっくりで目と目が合っただけで通じあう感じでした。

 むろんこれはお互いがスピリチュアリズムという思想においてつながっているからでしょう、が私がこれまで接触のあった英米の教育者から実業家に至る多くの外人で人格者といえる人物は、クリスチャンであろうと無神論者であろうと、不思議に東洋的なものを感じさせる雰囲気を持っていたのが印象的です。

 バーバネル氏もテスター氏もまさにその通りで、私は何の違和感もなく、まるで親戚の伯父さんに出会ったような感じでした。二人はまた大の仲良しで、お互いの名前を出すのにミスター(Mr.)を付けずに呼び棄てにします。それが却って親しみを感じさせました。

 ついでに言えば、テスター氏の家の近辺には銀色をしたカバの木がそこかしこに見られます。それを英語でシルバー・バーチ・バーチと言うのです。バーバネル氏曰く、

 「テスターが二十数年前にあそこへ引っ越してきたのも意味があったんですヨ。」
 テスター氏夫妻は数え切れない程シルバー・バーチの交霊界に出席しています。


 さてバーバネル氏とテスター氏が良く似通った紳士だと言いましたが、一つだけ大きく違うものがあります。それは声の質です。

 テスター氏の声は風貌に似合わず細く澄んだ声で、かなり早口です。これと対照的にバーバネル氏の声は太くごつい感じで、ゆっくりとしゃべります。これはシルバー・バーチの影響でしょう。

 風貌もシルバー・バーチの似顔絵に非常に似ている感じですが、シルバー・バーチが憑ってくるとその感じが一段と強まり、声が一層ごつくなります。そしてしゃべり方が一語一語かみしめるようにゆっくりとした調子になり、英語のアクセントとイントネーション(抑揚)が明らかに北米インデアンの特徴を見せはじめます。

 しかし同時に、何とも言えない、堂々とした威厳に満ちた、近づき難い雰囲気が漂い始めます。ハンネン・スワッハ―氏はこう表現しています。

 「が、いったん活字になってしまうと、シルバー・バーチの言葉もその崇高さ、温かさ、威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることができない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバー・バーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをわれわれはひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。」

 これは十一冊の霊言集のうちの一冊に寄せた諸言の中から抜粋したものですが、同じ諸言の中に興味深いところがありますので、次いでに紹介しておきましょう。

 「霊媒のバーバネル氏が本当に入神していることをどうやって確認するのかという質問を良く受けるが、実はシルバー・バーチがわれわれ列席者に霊媒の手にピンをさして見るように言いつけたことが一度ならずあった。

おそるおそる軽く差すと、ぐっと深く差せと言う、すると当然、血が流れ出る。が入神から醒めたバーバネル氏に聞いてもまるで記憶がないし、そのあとかたも見当たらなかった。

 もう一つ良く受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのか、ということであるが、実はシルバー・バーチとバーバネル氏との間に思想的に完全に対立するものが幾つかあることが、そのよい証拠といえよう。

たとえばシルバー・バーチは再生説を説くが、バーバネル氏は通常意識の時は再生は絶対にないと主張する。その癖入神すると再生説を説く」

 この諸言の書かれたのが一九三八年ですから、すでに、四〇年も前のことになります。私が面会した時は再生問題は話題にのぼりませんでしたが、晩年はさすがの頑固なバーバネル氏も再生を信じ、記事や書物に書いておりました。


 本題に戻りましょう。シルバー・バーチが心霊知識普及の使命を言い渡され、不承不承ながらも引き受ける覚悟を決めたことはすでに紹介しましたが、覚悟をきめなければならない重大な選択がもう一つあったのです。それは、知識普及の手段として物理的心霊現象を選ぶか、それとも教説と言う手段を取るか、ということでした。

 ご承知の通り、物理的心霊現象は見た目には非常にハデで、物珍しさや好奇心を誘うにはもってこいです。しかしそれは、その現象の裏側で、霊魂が働いていること、言いかえれば死後の世界が厳然と存在することを示すことが目的であって、それ以上のものではありません。


 ですから、心霊現象を見て成るほど死後の世界は存在するのだなと確信したら、もうそれ以上の用事のないものなのです。霊界の技術者たちもその程度のつもりで演出しているのです。

 ところが現実にはその思惑通りにいっていないようです。というのは、現象は見た目には非常に不思議で意外性に富んでいますから、人間はどうしてもうわべの面白さにとらわれて、そのウラに意図されている肝心の意義を深く考えようとしないのです。

 たとえば最近テレビではやっている心霊番組をご覧になればその点に気づかれると思います。怪奇現象を起こしたり写真に映ったりする霊魂について、それが身内の人であるとか先祖霊であるとか自縛霊であるとか浮遊霊であるとか、いろいろ述べるのは結構ですし、その供養まで勧めるのはなお結構なことだとは思うのですが、

しかし話はいつもその辺でストップし、その先のたとえば死後の世界が存在することの重大性とか、その世界が一体どんな世界なのか、またそういう形で姿を見せない、その他の無数の霊たち、とくに優れた高級霊たちはどこでどうしているのか、といった疑問は一般から出てこないし、指導する霊能者の方からの解説もありません。


 その点について一通りの理解を持った心霊家ならいいとして、何も知らない人が同じ番組を見たら、死後の世界というところは実に不気味で、陰気で、何の楽しみも面白味もない、まるで夜ばかりの世界のような印象を受けるのではないかと案じられます。日本のテレビや雑誌に見る心霊の世界はおしなべてそんな傾向があるようです。

 そこへ行くとスピリチュアリズムは実に明朗闊達、広大無辺、そして自由無礙。人生百般に応用ができて、しかも崇高な宗教心も涵養してくれます。

 しかしそれは心霊を正しく理解した人に言えることで、実はそこに至るこまでが大変なのです。その第一の、そして最大の障害となっているのが、スピリチュアリズムが一般の宗教に見るような御利益的信仰心の入る余地がないということではないかと察せられます。


 人間は誰しも、理屈はどうでもいい、とにかくいま直面している問題──病気、家庭問題、仕事の行き詰まり等々を解決してくれればいい、と考えるものです。

 それ自体は決して悪いことでも恥ずべきことでもないのですが、ただそれが解決すればもうそれでおしまいということになると問題です。あるいは、その解決だけを目的としてどこかの宗教に入信する、あるいはどこかの霊能者におすがりする、というのも困りものです。それでは何の進歩もないからです。シルバーバーチもこんなことを言っています。

 「私がもしも真理を求めて来られた方に気楽な人生を約束するような口を利くようなことがあったら、それは私が紳界から言いつけられた使命に背いたことになりましょう。私どもの目的は人生の難問を避けて通る方法を伝授することではありません。難題に真っ向から立ち向かい、これを征服し、一段と強い人間に成長していく方法を伝授することこそ私どもの使命なのです」

℘28
 さてシルバーバーチは最終的に「説教」の手段を選びました。が、これは心霊現象の演出よりはるかに根気と自信のいる仕事です。なぜ困難な方を選んだのか、それをシルバー・バーチ自身に語ってもらいましょう。

 「自分自身の霊界生活での数多くの体験から、私はいわば大人の霊、つまり霊的に成人した人間の魂に訴えようと決意しました。真理を出来るだけ解り易く説いてみよう。常に慈しみの心を持って人間に接し、決して腹を立てまい。そうすることによって私がなるほど神の使者であるということを身を持って証明しよう。そう決心したのです。

 同時に私は生前の姓名は絶対に明かさないと重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号や地位や名声を棄て、説教の内容だけで勝負しようと決心したのです。

 結局私は無位無冠、神の使徒であるという以外の何ものでもないということです。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは、私のやっていることで判断していただきたい。私の言葉が、私の誠意が、そして私の判断が、暗闇に迷える人々の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです」

 人間の宗教の歴史を振り返って御覧なさい。謙虚であったはずの神の使徒を人間は次々と紳仏の座に祭り上げ、偶像視し、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。私ども霊団の使命は、そうした過去の宗教的指導者に目を向けさせることではありません。

そうした人人が説いたはずの本当の真理、本当の知識、本当の叡智を改めて説くことです。それが本物でありさえすれば、私が偉い人であろうが卑しい乞食であろうが、そんなことはどうでもよいことではありませんか。

 私どもは決して真実からはずれたことは申しません。品位を汚すようなことも申しません。また人間の名誉を傷つけるようなことも申しません。私どもの願いは地上の人間に生きるよろこびを与え、地上生活の意義は何なのか、宇宙において人類はどの程度の位置を占めているのか、
 
その宇宙を支配する神とどのようなつながりを持っているのか、そして又、人類同士がいかに強い家族関係によって結ばれているのかを認識してもらいたいと、ひたすら願っているのです。

 といって、別に事新しいことを説こうとしているのではありません。優れた霊覚者が何千年も昔から説いている古い古い真理なのです。それを人間がなおざりにしてきたために私どもが改めてもう一度説き直す必要が生じてきたのです。要するに神という親の言いつけを良く守りなさいと言いに来たのです。

 人類は自分の誤った考えによって今まさに破滅の一歩手前まで来ております、やらなくてもいい戦争をやります。霊的真理を知れば殺し合いなどしないだろうと思うのですが・・・。神は地上に十分な恵みを用意しているのに飢えに苦しむ人が多すぎます。

新鮮な空気も吸えず、太陽の温かい光にも浴さず、人間の住むところとは思えない場所で、生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人が大勢います。欠乏の度合いがひどすぎます。貧苦の度が過ぎます。そして悲劇が多すぎます。

 物質界全体を不満の暗雲が覆っています。その暗雲を払いのけ、温かい太陽の光の差す日が来るか来ぬかは、人間の自由意思一つにかかっているのです。

 一人の人間が他の一人の人間を救おうと努力する時、その背後には数多くの霊が群がってこれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力は絶対に無駄にはされません。奉仕の精神も決して無駄に終るようなことはありません。

誰かが先頭に立って薮を切り開き、後に続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道が出来上がり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

 高級紳霊界の神々が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが、人間の誤解と偏見とによって踏みにじられ、無駄に終わっていくのを見るからです。

そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせているのを見かけることもあります。無名の平凡人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

 私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志と共に、波長を物質界の波長に近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受け取ることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

 物質界に降りてくるのは、正直言って、あまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。

従って当然生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

 私が定住している世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびがみなぎり、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、互いに己の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

 それにひきかえ、この地上に見る世界は幸せであるべき所に不幸があり、光があるべき所に暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょう。神は必要なものはすべて用意してあるのです。問題はその公平な分配を妨げる者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

 それを取り除いてくれと言われても、それは私どもには出来ないのです、私どもに出来るのは、物質に包れたあなた方に神の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通じて運用されるかを教えて差し上げるだけです。ここにおられる方にはぜひ、霊的真理を知るとこんなに幸せになれるのだということを、身を持って示していただきたいのです。

 もしも私の努力によって神の摂理とその働きの一端でも教えて差し上げることが出来たら、これにすぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことが出来れば、こうして地上に降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。

私ども霊団は決してあなた方人間の果たすべき本来の義務を肩代わりしようとするのではありません。なるほど神の摂理が働いているということを身を持って悟ってもらえる生き方をお教えしようとするだけです。』


 この物質界は霊界から見てそんなにひどいところなのだろうか───右のシルバーバーチの言葉を読まれた方の中にはそんな感慨を抱かれた方が少なくなかろうと思います。

 が、シルバーバーチなどは霊言現象のせいで言葉に気をつけて表現している方で、一ばんひどいのになると「地球はまるでゴミ溜めのようなもの」だと書いている霊もいます。

 ここで参考までに有名な霊界通信のマイヤースの「個人的存在の彼方」を開いてみますと、第一部の第一章から地上生活に対して厳しい観察を述べています。

その表現も「このケチくさいチャチな時代」となっているのですから、およそ雰囲気は察せられると思いますが、この章は浅野和三郎訳では省略されておりますので、その中から部分的に抜粋して紹介してみましょう。

マイヤースは地上時代は古典学者であると同時に詩人でもありましたから、さすがに表現は穏やかですが、その意味するところは深長なものがあります。


 『健全なる精神と健全なる肉体───古代ギリシヤ人が求めた理想、つまり、美と力への憧憬を今こそ地上人類は我が理想、我が憧憬としなければならない。私は今、地球をいうなれば山の頂上から眺める立場にある。そこから見る地上は、将来に対する真の洞察、熱慮ある反省ももたぬ盲目同然の群集がただ右往左往するのみである。

 幼児期の思考と夢が既にその子の未来の原型を形成しているという。あたかも陶器が焼窯に入れられて固く仕上げられる以前にすでに形が出来ているように、人間の未来も歴史的過去においてすでに変えがたい形体が造られ、それが〝現在〟という時を通りすぎ〝永遠〟という名の神の時刻の中に記録されていくのである。

 それ故わたしは、今まさに幼児期にあってこれからの未来を形づくりつつある人類に対し、古代ギリシヤが求めた夢と理想───心と身体の健全さ、美と力への憧憬を思い出してもらいたいのである。

 私は決して人類に咎め立てする気もなければ、いたずらに迷わせるつもりで言うのではないが、現代人は人間というものを機械から截然(セツゼン)と切り離し、人生を〝金銭〟から切り離して考えるよう切望して止まない。

絶え間なく回転し、文化生活とやらの担い手である、あの怪物の如き機械のジャングルの中にあっては、健全なる知識を産み出す静思や瞑想の時も雰囲気も見いだせない。いったんその現代の怪物───唯物主義という名の悪魔の最後の権化である機械───の虜になったが最期、いかに深刻な運命が人類を待ち受けているかは、まさに知る者のみぞ知る、である。

 二千年あまり前、神の御子イエス・キリストは地上に降りて肉体をまとい、その生きざまによって天上の美をこの世にもたらした。この二十世紀においては唯物主義の申し子である〝機械〟が地上に降り、その教義が今まさに全世界を圧巻しつつある、そしてそれを人類は熱心に、強烈に信仰している。

 が、ここにもう一つの怪物がいる。大都会という名の怪物である。現代の都会は人間の集まりであるより、むしろ一つの機械の如き性格を帯びつつあり、このまま進めば、その機械が人間を振り回すことになりかねない。恐ろしいのは、その人間の集団が一つの集団心理に巻き込まれて、一気に戦争に突入することである。

が、そういう極端な形はとらなくても、人口の増加とそれに伴って増えるであろう無能な人間、弱い人間、堕落した人間、そして精神病者などによって不幸が生まれ悲劇が広がる危険性が多分にある。大都会という名の唯物主義の申し子は、ただ盲目的に質よりも量を求める。ただ機械的に人口を増やし、その結果不幸をも増やす。

 私は機械なんかブチ壊してしまえと言っているのではない。機械の本質をよくわきまえてほしいと言っているのである。魂を持たぬ機械は、思考する動物である人間の下僕であるべきであって、断じて主人の座に据えられるべきではない。

言い変えれば人間の生活と心に深刻なまでに影響を及ぼしている機械の力を人間自身がコントロールしチェックできるようでなければならない。その上でならば、人間の霊的進化のために、具われる力を思い切り発揮し、肉体と五感のよろこびを健全に味わいつつ、近代文明がふんだんにもたらしてくれる洪水の如き機械製品の恩恵に浴すればよいのである』


 この警告が第二次大戦前の一九三〇年代に出ていたという事実は、われわれ日本人にもいろいろと示唆を与えてくれます。警告通り日本は、マイヤースの言葉を借りれば、 「丘を駆け下りるように」 戦争への道を突進し、そして敗戦を迎えました。

そして一時は目覚ましい復興ぶりを見せますが、今や機械化された現代社会、言いかえれば人間性を喪失した科学技術文明の悪弊に悩まされ始めていることは、心ある人なら先刻お気づきのことでしょう。

 これは日本に限ったことではありません。世界の先進国と言われている近代国家は例外なくそうした文明病に悩まされています。

 なぜでしょう。なぜ人間は間違った方向ばかりに走りたがるのでしょう。シルバー・バーチの霊言に耳を傾ける前に私は、そうした人間の愚かさを批判し警鐘を鳴らし続けている数多くの良識ある知識人の一人である生化学者のセント・ジェルジ博士 Albert Szent-Gyorgyi の意見を紹介したいと思います。

博士はハンガリー生まれで現在はアメリカに在住していますが、ビタミンCの発見者として知られ、一九三七年にノーベル賞を受賞しています。

 もっとも博士は、受賞で得た〝生涯のんびり食べていけるほどのお金を〟これは国民の税金だからということで、社会に還元する方向でいっぺんに使い果たしています。

この事実一つだけでも博士のものの考え方がほぼ察しがつくというものですが、私の手元にある著書は特にこれからの若い世代のために書いた The Crazy Ape (狂った猿)という小冊子です。その「まえがき」の中でこう述べています。

 『人類が今まさに歴史始まって以来の最大の危機に直面していること、つまり、このまま行けば人類全体がそう遠からぬ将来においていっぺんに滅亡することも十分にありうるという危険な時期にさしかかっていることに、ほぼ疑いの余地はない。

なぜこんなことになってしまったのか、どうすればこの危機から脱することが出来るかについては、数え切れない程の意見が説かれてきた。軍事的見地から、政治的立場から、社会的観点から、経済的角度から、科学技術の面から、はたまた歴史的見地から、それなりの分析が為されてきた。

しかしながら大きく見落とされている要素がある。それは人間それ自身───生物学的存在としての人間そのものである。(中略)究極の問題は、果たして人類はおよそまともな人間のすることとは思えない、言わば狂った猿とでもいうべき振舞いをする現状を首尾よく切り抜けられるかということである。』

 そして続く第一章の冒頭でこう述べています。

 『人間はなぜ愚の骨頂ともいうべき振舞をするのか。それが私がこれから取り扱う問題である。ある意味では今日ほど人生をエンジョイできる時代は歴史上かつてなかった。寒さにふるえることもない。空腹を耐え忍ぶということもない。病気でコロコロ死んでいくということもなくなった。

つまり生きていく上で最低限必要とされるものが全て充足されたのは現代が初めてのことであろう。ところが同時に、自らこしらえた爆弾のたった一発で人類全部を絶滅し、あるいは環境汚染によってこの愛すべき母なる大地を住めない場所にしてしまう可能性を持つに至ったのも、歴史上はじめてのことである。』


 さらに次のような興味深いものの観方を提言して第一章をしめくくります。
 『もし人間が真に愚かであるとしたら、一体どうして地球上に発生してから百万年という歳月を首尾よく生き抜いてこれたであろうか。この問いに対しては二つの考え方ができるように思う。

一つは、人間は決してそんな愚かな存在ではない。むしろ地球という生活環境の方が人類が適応できないほどまでに変化してしまったのだという考えである。がもう一つ、こう考えることが出来よう。すなわち人間は今も昔も少しも変わっていない。人類というのは本来が自己破壊的なのだ。

ただこれまでは、一度に絶滅させるほど強力な武器を持つに至らなかっただけなのだというのである。確かに人間の歴史は無意味な殺し合いと破壊の連続であった。


それが人類全滅という事態に至らしめなかったのは、殺人の道具が原始的で威力に欠けていたからというにすぎない。だからこそ、どんなに烈しい戦争でも多くの生存者がいたわけである。が、現代の科学技術の発達で事情が一変してしまった。今や人類は集団自殺の道しかないのだ。
℘38 
 この二つの考えのどちらが正しいにせよ、とにもかくにもこの危機を切り抜けて生き延びるためには、一体どこがどう間違ってこんな事態に至ったかを見極め、そこから抜け出る可能性もしくは良い方法があるかどうかを早急に検討しなければならない。』

 翻訳権の問題がありますので、余り多く紹介できないのが残念ですが、私があえてスピリチュアリズムに直接関係ない人の意見を紹介したのは、スピリチュアリズムに関係のない、あるいは心霊を知らない人で案外スピリチュアリズム的な透徹したものの考え方をしている人が幾らでもいることを痛感しているからです。

 論語読みの論語知らずという諺がありますが、心霊心霊とやたら心霊を口にする人、あるいはその道の本まで書いている人がまるで心霊の神髄を理解していないことが多いのはウンザリさせられます。私は主義として、心霊とかスピリチュアリズムということを口にすることは滅多にありません。

そうしたものは自分の人生観やものの考え方の中で消化醗酵させておけばいいのであって、それが無形のエネルギーとして生きる力となり、人間性や生活態度に反映して行くのだと信じているからです。

 やはり人間の全てを決するのはその人の日常生活ではないでしょうか。シルバー・バーチもその点を繰り返して協調しています。

 「唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんなことになるのかという質問を良く受けますが、宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を長いこと迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうばかりとは言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。祭壇の前にひれ伏し神への忠誠を誓い〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物主義者とか無神論者、合理主義者、不可知論者と言った宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらでもあります。

問題は何を信じるかではなくて、これまでどんなことをして来たかです。そうでないと神の公正(Justice)が根本から崩れます。』


 少しわき道にそれたようですが、ではシルバー・バーチは右のセント・ジェルジ博士の提起した問題にどう答えるか、それを見てみましょう。シルバー・バーチは語ります。


 『人間はなぜ戦争をするのか。それについてあなた方自身はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間世界に苦しみが絶えないのでしょうか。

 その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である〝神〟が宿っていることを理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の霊が支配しているということです。

ところが人間は何かにつけて〝差別〟をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

 前にも言ったとおり、私どもはあなた方が〝野蛮人〟と呼んでいるインデアンですが、あなた方文明人が忘れてしまったその絶対神の摂理を説くために戻ってまいりました。

あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言いかえれば、神の摂理から遠く外れた文明を築かんがために教育し、修養し努力してきたということです。

 人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅したように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。

その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、つかの間の繁栄でなく、永遠の神の摂理の上に今一度文明を築き直す、そのお手伝いをするために私どもは地上に戻ってまいりました。

それは、私どもピリットと同様に、物質に包れた人間にも〝神の愛〟という同じ血が流れているからに外なりません。

 こういうと、こんなことをおっしゃる人物がいるかもしれません。“イヤ、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら不幸のままでいる方がまだましだ〟と。

 しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上とは互いにもたれ合って進歩してゆくものなのです。地上の文明を見ていると、霊界の者にも為になることが多々あります。

私どもは霊界で学んだことをあなた方に教えてあげようと努力し、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その総合扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。

 そのうち地上のすべての人種が差別なく混ざり合う日がまいりましょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割を持っているからです。

霊眼を持ってみれば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の教養を持ち寄って調和のとれた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあることが分かります。

 ここに集まられたあなた方と私、そして私に協力してくれているスピリットはみな、神の御心を地上に実現させるために遣わされた〝神の使徒〟なのです。私たちは良く誤解されます。

同志と思っていた者がいつしか敵の側にまわることがしばしばあります。しかしだからといって仕事の手をゆるめるわけにはいきません。神の目から見て一番正しいことを行っているが故に、地上にない霊界の強力なエネルギーのすべてを結集して、その遂行に当たります。

徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽を暴いていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され、後ずさりをさせられることがあります。しかしそれも一時のことです。

 われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人間を救い出し、もっと高尚でもっと気の利いた生き方を教えてあげたい。お互いがお互いの為に生きられるようにしてあげたい。

そうすることによって心と霊と頭脳が豊かになり、この世的な平和や幸福でなく、霊的な安らぎと幸福とに浴することが出来るようにしてあげたいと願っているのです。

 それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ、一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか父なる神の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、共に手を取り合って、神の摂理の前進を拒もうとする勢力を駆逐していこうではありませんか。

 こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然それを知らずにいる、あなた以外の人々にも、私がこうして語っているように次々と語り継がれていくべきです。自分が得た真理を次の人へ伝えてあげる───それが真理を知った者の義務なのです。

 私とて、霊界生活で知り得た範囲の神の摂理を、英語という地上の言語に翻訳して語り伝えているに過ぎません。

それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが、必ずしも私の解釈の仕方に得心がいくとはかぎらないでしょう。しかし忘れないでください。私はあなた方の世界とはまったく次元の異なる世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。

ですから、もしも私が語った言葉が十分納得ができない場合は、それはあなた方がまだその真理を理解する段階にまで至っていないか、それとも真理が地上の言語で表現し得る限界を超えた要素を持っているために、私の表現がその意味を十分に伝えきっていないのかの、いずれかでありましょう。

 しかし、私はいつでも真理を説く用意は出来ています。地上の人間がその本来の姿で生きていくには、神の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居眠りをしているよりは目覚めている方がいいはずです。

皆さんと共に、そういった居眠りをしている魂を目覚めさせ、神の摂理に耳を傾けさせてやるべく努力しようではありませんか。それが神と一体となった生活への唯一絶対の道だからです。

 そうなれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまいましょう。それを境に、それまでとは全く違った新しい生活が始まります。

 知識はすべて大切です。これだけ知っておれば充分だなどと考えてはいけません。私の方は知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できる限り吸収するよう努めていただきたい。


こんなことを言うのは、決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他人に授けてあげることこそ私にとって奉仕の道だと心得ているからに他なりません。

 知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇っていくのが進歩ということですから、もうこの辺で良かろうと、階段のどこかで腰をおろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収していくほかに道はありません。

 このことは物質的なことにかぎりません。霊的なことについても同じことが言えるのです。というのは、あなた方は身体は物質界にあっても、実質的には常に霊的世界で生活しているのです。

従って物的援助と同時に霊的援助すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところを良く認識していただきたい。あなた方も実際は霊的世界に生きている───物質はホンの束の間の映像にすぎないのだ───これが私たちのメッセージの根幹をなすものです。

 そのことにいち早く気づかれた方々がその真理に忠実な生活を送って下されば、私たちの仕事も一層やりやすくなります。スピリットの声に耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が、小さな我欲を棄て、高尚な大義の為に己を棄てて下されば、なお一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。

 繰り返しますが、私は久しく忘れ去られてきた霊的真理を、今ようやく夜明けを迎えんとしている新しい時代の主流として改めて説くために遣わされた、高級霊団の通訳にすぎません。要するに私を単なる代弁者として考えて下さい。

地上に霊的真理を普及させようと努力している高級霊の声を、気持ちを、そして真理を、私が代弁していると考えて下さい。その霊団を小さく想像してはいけません。それはそれは大きな高級霊の集団が完全なる意思の統一のもとに、一致団結して事に当たっているのです。

その霊団がちょうど私がこうして霊媒を使っているように私を使用して、霊的真理の普及に努めているのです。

 決して難解な真理を説こうとしているのではありません。いま地上人類に必要なのは神学のような大げさで難解で抽象的な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれている至って単純な真理、その昔、霊感を具えた教祖が説いた基本的な真理、すなわち人類は互いに兄弟であり、霊的本質において一体であるという真理を改めて説きに来たのです。

 すべての人種に同じ霊、同じ神の分霊が宿っているのです。同じ血が流れているのです。神は人類を一つの家族としておつくりになったのです。そこに差別を設けたのは人間自身であり、私どもがその過りを説きに戻ったということです。


 四海同胞、協調、奉仕、寛容───これが人生の基本理念であり、これを忘れた文明からは真の平和は生まれません。協力し合い、慈しみ合い、助け合うこと、持てる者が持たざる者に分けてあげること、こうした倫理は簡単ですが繰り替えし繰り返し説かねばなりません。

個人にしろ、国家にしろ、人種にしろ、こうした基本的倫理を実生活で実践するときこそ、神の意図した通りの生活を送っているといえましょう。

 そこで私の使命は二つの側面を持つことになります。すなわち破邪と顕正です。まず長いあいだ人間の魂の首を締めつけてきた雑草を抜き取らねばなりません。


教会が、あるいは宗教が、神の名のもとに押し付けてきた、他愛もない、忌わしい、不敬極まるドグマの類を一掃しなければなりません。なぜなら、それが人間が人間らしく生きることを妨げてきたからです。これが破邪です。

 もう一方の顕正は、誰にもわかり、美しくて筋の通った真実の教えを説くことです。この破邪と顕正は常に手と手を取り合って進まねばなりますまい。それを神への冒涜であると息巻いたり尻込みをする御仁に関わり合っているヒマはありません」

 シルバー・バーチの交霊会の全体のパターンは、最初に 「祈りの言葉」 があり、続いて右に紹介したような 「説教」 があり、そのあとに列席者との間の一問一答があり、そして最後にしめくくりの 「祈り」 があります。

 質問は個人的内容のものから哲学的なものまで種々様々ですが、時にはすでに説教の中で述べたことと重複することもあります。が、シルバー・バーチは類をいとわず懇切ていねいに説いて聞かせます。

 かつては週一回だった交霊会が晩年には月一回になったとはいえ、半世紀以上にわたる交霊会での応答は大変な量にのぼります。その中から各章に関連のあるものを選んで章の終りに紹介しようと思います。


 一問一答

問「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう見られますか」

シルバーバーチ「潮にも満ち引きがあるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気にやってしまうわけにはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたように見えますが、まだまだ霊的真理について、まったく無知な人が圧倒的に多数を占めております。

いつも言っているように、スピリチュアルズムというのは単なる名称に過ぎません。私にとってはそれは大自然の法則、言いかえれば神の摂理を意味します。

私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸して下さる者であれば、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を贈りたいと思います。

神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。

時には潮が引いたように活動が目立たない時期がありましょう。そうかと思うとブームの様な時期があり、そして再び無関心の時期がきます。普及に努力することがイヤになる人もおりましょう。が、こうしたことは、神の計画全体からみればホンの部分的現象に過ぎません。

その計画の中でも特に力を入れているのは心霊治療です。世界各地で起きている奇蹟的治癒は計画的なものであって決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。私は真理の普及について決して悲観的になることはありません。

常に楽観的です。というのは、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人がわれわれの仕事を邪魔し、遅らせ滞らせることはできても、真理の前進を完全に拒むことは決して出来ません。

ここが大切な点です。偉大なる神の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は、彼らにはないのです」


問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか」  

シルバーバーチ「ありますとも! 死後の世界でも特に幽界というところは非常に地上と似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の人たちで、決して天使でもなければ悪魔でもありません。

高級すぎもせず、かといって低級すぎもせず、まあ、普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭いきれない恨みや憎しみ、欲望等に囚われて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです」


問「人間一人一人に守護霊がついているそうですが・・・」

シルバーバーチ「母体における受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当たる霊がつきます。そしてその人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚すると否とでは大いに違ってきます。

自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。守護霊は決まって一人ですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめわかっております。が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。

つまり自分はこの男性にしようとか、あの女性がよさそうだ、とかいった勝手な注文は許されないのです。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されているのです」

日本語流にいえば「産土神の許可を得て・・・」ということになるなるのでしょうが、この問題は次の質問にある因果律、日本流に言えば因縁の問題もからみ、さらには再生問題にも係る重大な問題を含んでおります。最後の「こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております」というのはその辺も含めた言葉として解釈すべきです。


問「地上で犯す罪は必ず地上で報いを受けるのでしょうか」

シルバーバーチ「そういう場合もあるし、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間内に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことは出来ないのです。

しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質如何にかかわってきます。すぐに結果の出るものもあれば地上生活中に出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。

罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を産み、それだけ苦しみます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはいろんな事情が絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです」


問「霊界のどこに誰がいるということがすぐにわかるものでしょうか」

シルバーバーチ「霊界にはそういうことの得意な者がいるものでして、そういう人には簡単に分かります。大ざっぱに分類すると死後の世界の霊は地上に帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。

が帰りたがらない霊ですと、どこにいるのか簡単に突き止めることが出来ても、地上と連絡を取ることは容易ではありません。イヤだというのを無理に連れてくるわけにもいかないのです」

 俗に拝み屋という、霊魂との取り次ぎのような商売をしている人がいます。頼めばどんな先祖霊でも呼び出してくれるようですが、右のシルバー・バーチの答えを読めばそれが必ずしも信のおけるものではないことがわかります。

シルバー・バーチは霊界にはスピリットの所在を突き止めるのが得意な霊がいると言っておりますが、実はそれとは別に、地上の拝み屋のような低級な霊能者のところをドサ回りのようなことをしながら、声色を使ったりクセをまねたりして、信心深い人間をだまして面白がっているタチの悪い霊団がいることも忘れてはなりません。

そんな霊にからかわれないためにも、正しい心霊知識を少しでも多く身につけたいものです。


          
 
 第二章 絶対不変の法則───因果律


 前章ではシルバー・バーチと名告る高級霊を中心とする霊団が紳界からの使命を受けて、霊媒モーリス・バーバネル氏の口を借りて神の摂理を説くに至った経緯を述べました。

 その準備のためにシルバー・バーチはバーバネル氏の出生以前、それも母体に宿る瞬間から面倒を見たと言います。もちろんこれは霊言霊媒にふさわしい人間に育てるための面倒をみたという意味であって、私の推察では母体に宿る以前のバーバネル氏も実はシルバー・バーチ霊団の一人であって、使命達成について十分な打ち合わせを行った上で母体に宿ったに違いありません。一種の再生です。

 果たせるかな、氏にとって最後の記事となった一九八一年八月号の Two Worlds 誌の遺構の冒頭で、次のように告白しております。

 『私と心霊との関わり合いは前世までさかのぼると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッド・クラウドは私にとっては死後存続の決定的な証拠を見せつけてくれた恩人であり、

その交霊会においてサイキック・ニューズ紙出版の決定が為されたのであるが、そのレッド・クラウドの話によると、私は「こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に命を捧げる」と約束したそうである。』 (巻末〝バーバネル氏の遺稿〟参照)

 約束どおり氏は十八歳から七十九歳までのほぼ六十年間をスピリチュアリズム一筋に尽くしてきました。中でも特筆すべきことはサイキック・ニューズ社の社長を無報酬で務めたことです。まさに奉仕の生涯だったわけです。

 再生については別に章を設けて詳しく取り扱いますので、ここでは難しいことは述べませんが、こうした滅私奉公の大役を担った人物は例外なく高級霊の再生と見てよいようです。

 もっとも、それでも尚かつ、うぬぼれや見栄、肉欲などのいわゆる〝人間的煩悩〟に迷わされて、使命の道から脱線していくケースが多いのです。取りも直さず肉体と言うやっかいな欲望の媒体に宿っているからこそでしょう。

 オリバーロッジ Sir Oliver Lodge の著書に Phantom Walls (幻の壁)と言う、あまり知られていない随筆調の論文集があります。幻の壁とはつまりは肉体の五感を意味し、これが幻にすぎない存在であるといっているのですが、言ってみれば仏教の色即是空の思想と相通じるものがあります。

 オリバー・ロッジはもともと物理学者ですが、後年は心霊科学者となり、さらに、単なる心霊科学からいち早くスピリチュアリズム的思想に転換し、晩年は哲人を思わせる洗練された心霊思想を説いています。それを如実に物語るのが右の書で、その中に次の様な箇所があります。

 『われわれはよく「肉体の死後も生き続けるのだろうか」という疑問を抱く。が、一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結合している五、七十年の人生の終わったあとのことに間違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問に過ぎない。

というには、こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく 「死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である」 と言ってきた。

確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って地上に出てきたこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊が幾らでもいるのである。

 霊界から見れば、肉体の死後にも生命があるのは極めて当たり前のことであろう。言ってみれば地上の生命などは朝露のようなもので、日の出と共に蒸発してしまうはかない存在なのである。とは言え、生きている限りは肉体というのは実に厄介なシロモノである。

地上生活の困難の大部分は肉体の扱いにくさから生じていると言ってよい。肉体をまとっていくこと事態がまずやっかいである。そして、死ぬ時もまたやっかいである。その生から死への間もずっと手入れがやっかいである。が、肉体がわれわれではない。少しの間───ホンのちょっとの間だけ使用する道具にすぎないのである」


 古今東西の宗教が例外なく肉体的欲望を罪悪の根源とみなし、節制を説き、肉体を超越する修業の必要性を力説するのもむべなるかなと思われますが、それに関連してもう一つやっかいなことは、そうした重大なる使命の達成を妨げよう、挫折させようとする霊界の一方の勢力が鵜の目鷹の目で見張っているということです。

 そうした霊は人間のちょっとした心のスキ───よく魔がさすと言いますが、そうしたちょっとした邪念につき入って、ズルズルと深みへ引きずり込んで行きます。

はじめの頃は純粋で謙虚で誠心誠意の人だった霊能者が、いつしか自分は神である、仏である、と言い出し本来の使命を忘れて宗教としての勢力の拡大に躍起になり、権謀術数を巡らすようになっていきます。

 中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚を持ってす」というのがありますが、その点バーバネル氏やテスター氏のような愚直なまでに寡欲で謙虚であることが、宗教家や霊能者としての第一条件なのでしょう。

 シルバー・バーチに言わせれば、地上の宗教は既成、新興の別なくことごとく落第だそうです。つまり人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて解き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。


 そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞って見ましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」Eternal Natural Laws と呼んだり「紳的叡智」 Divine Wisdom と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律 The Law of Cause and Effect に収約されるようです。

 こう言うと「何だ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的な繰り返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。

 それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか理解できない人間の狭い量見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとっては、それが最上であり必須のものであるわけです。

 そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。果たして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。


 この「因縁を切る」という観念は、私の知る限りでは世界でも日本人だけのもののようです。そしてこれは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。

 たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」──誰しもそう考えます。そしてそれは多分当たっているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。

 手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊を捕まえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、大抵これで「因縁が切れた と思いがちです。

 が、ここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうどその因縁の消滅する時期だったかもしれませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在に過ぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。

 では因縁そのものが自然消滅するまでの手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる徐霊の必要な場合もありましょう。

ただ、それだけで事足れりとする考えは誤りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っている限り、又別の形で不幸や災厄が起こってきます。


 次に、自分に何のかかわりも無い遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまなければならないのかという疑問が生じます。一見もっともなような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問と言えそうです。

 自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。

これは生まれ変わり、つまり再生の問題に関わってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの関わり合いは絶対にないと、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。


 「そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです」


 これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その「有目的」と言うところに注目していただきたいのです。

つまり宇宙人生が魂の進化向上という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異なる点と言えましょう。ではこれからシルバー・バーチにその点を詳しく説いてもらいましょう。


「あなた方がスピリチュリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意思を表現しているのです。宇宙のどこを探しても、法則の支配しない場所など一か所もありません。

人間がこれまで知り得た範囲に限りません。それよりもはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。

 自然界の法則はいわば神の定めた法則です。およそ人間界の法律と言われるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法則は全てを尽くし、至らざるところはありません。

偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。あなた方は肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械を操りながら自己を表現しているわけです。

仮に悩みを抱いたりしますと、それは水門を閉ざすと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ不健康の要因ができあがります。あなた方がそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。


 また悩みは肉体の霊的大気とも言えるオーラにも影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。

悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病の要因となります。悩みや恐怖心を超越する──言いかえると自我のコントロールができるようになるには、永い年月と厳しい修養がいります。

 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費やされるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病は生じません。神の法則は完璧です。

そしてあなた方はその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中に幾らでも見出せるのです。


 私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその中に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいたら病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。

手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。


人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。

それを知ってそれなりの手段を講ずるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。

 私がいかにあなた方の幸せを願っているとはいえ、あなた方に変わってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任を取らされます。あくまで自分が責任を負うのです。

が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値する素晴らしい器官です。

地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。まさに驚異といっても良いものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。


 もちろん法則と調和した生活を送っておれば、病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。

 人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何やっても構わないというわけにはいかないということです。

肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異なってくる問題ですが、ただ、地上に生を受けた以上は、それなりの寿命と言うものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。

 たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたから見るほど純真ではないということです。

その腹の底にはオレは偉い人物だという自惚れがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆り立てる結果となっていることに気づかないのです。

 ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。

そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相(すがた)を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているからです。

 が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。

 別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスを、きちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。あなたは受け取るに与えするだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。

その価値判断はあなたの霊的進化程度を考慮したうえで行われます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対にあり得ません。

 大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。

原因があれば結果があり、その結果が新しい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。

 法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することも無く、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。

絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実を持ってしても動かすことは出来ません。』


 一問一答
問「何の罪のないはずの赤ちゃんがなぜ不自由な身体を持って生まれてくるのでしょうか」
p63
シルバーバーチ「外観だけで魂を判断してはいけません。つまり魂の進化と、その魂が使用する肉体の進化とを同列に並べて判断してはいけません。不幸にして父親ないし母親あるいはその両方から受ける遺伝の犠牲になって不具者となっても、そのことが魂の進化を妨げることはありません。

普通そういう魂にはそれなりの償いの原理が働いて、正常な人よりも親切心や寛容心、やさしさ等が豊かであることに気づかれるはずです。償いの原理は永久不変です。因果律は逃れようにも絶対に逃れられません」

問「かりに知能が正常でなく、まともな生活が出来ない場合、霊界へ行ってからどうなるのでしょう。霊界では地上世界での苦労や善行でその程度が決まると聞いておりますが・・・・・・」

シルバーバーチ「地上的なことと霊的なことを混同しておられるからそういう疑問が生じるのです。脳細胞に欠陥があると、確かに地上生活に障害をきたします。しかし魂というものは、たとえ脳細胞を通じて自己表現できない状態にあっても、自己の責任をちゃんと自覚できるものなのです。神の法則は魂の進化を至上目的として働きます。

霊界での生活が地上生活で決まるといっても生活の形態ではなく、その生活における自覚によって判断されるのです。ですから、地上の規範から見れば〝悪い〟ことであっても魂そのものに自覚がない場合には霊界では何の咎めもうけません。

精神異常者があなた方がいうところの〝他人の生命を奪う行為〟(別に奪っていないのですが)をしても、それは脳の機能が異常だったがために行われた行為ですから、罪にはなりません。霊界での規準は魂の自覚、動機です。これには寸分の狂いもありません」


問「脳に欠陥があれば地上生活が記憶できない───つまり地上生活から何も学べないのではないでしょうか」

シルバーバーチ「たしかのその通りで、生活が意識できないのですから、その分だけ本来なら体験できるものが体験できずに終わります。つまりそれだけ損をするわけです。しかし、それも因果律の結果ですから、いずれは埋め合わせがあります」

問「私たち人間は地上生活の体験と試練によって築いた性格をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神病者の場合はどうなりますか」

シルバーバーチ「魂の進化と魂の動機によって処遇されます」


問「ある人は汚れたスラム街に生まれ、ある人は美しいものに囲まれた裕福な環境に生まれますが、この不公平はどうなるのでしょう」

シルバーバーチ「大切なのは魂の進化です。あなた方は物質的なものさしで幸不幸を判断して、魂の開眼という観点から見ようとしません。生まれる身分が高かろうが低かろうが、魂が開眼してその内なる神性を発揮する機会はすべての人間に等しく与えられております。

その環境は物的なものさしで言えば不公平と言えるかもしれませんが、肝心なのはその環境を通じて魂の因縁を解消していくことです。つまり苦難を通じて魂の神性を開発していくことが究極の目的なのです」


問「でも悪い奴らが楽な暮らしをしているのはどうしてですか」

シルバーバーチ「またそのような観方をされる! ラクな暮らしをしている人が心の中も決してみじめでない、苦悩や苦痛などみじんもない、と判断するのは一体何の根拠があってのことですか。ニコニコしているからですか。きらびやかな暮らしをしているからですか。

豪華な衣装を着ていれば心も満たされるのでしょうか。因果律は魂の進化のためにあるのです。物質的な幸せのためにあるのではありません。そうでなかったら、この世に真の平等がないことになりましょう」


問「やっぱり汚れた環境よりは物的に恵まれた環境の方が良い行いが出やすいのではないでしょうか」

シルバーバーチ「私はそうは思いません。私の観る限り、偉大なる霊魂は大抵低い身分の家に生を享けています。現に過去の歴史をごらんなさい。

偉大なる指導者はみな身分の低い家柄から出ているではありませんか。環境が厳しいほど魂は力強くなるのです。悟りは環境との戦いから生まれるのです。外面からではなく内面から物事を観るようにして下さい」


問「魂の進化は常に肉体進化と同時に進行してきたのでしょうか」

シルバーバーチ「同時ではありません。人間の霊魂が宿れるようになるまで肉体はそれ独自の進化を辿る必要がありました」


問「死後も向上進化があるとすれば、反対に邪悪な心を起こして堕落する可能性もありうるわけですか」

シルバーバーチ「ありますとも霊界へ来て何十年たっても何百年たっても地上時代の物的欲望が抜けきらない者が大勢います。神の摂理を理解しようとしないのです」


問「なぜ神は地震や火山噴火などを未然に防いでくれないのでしょうか」

シルバーバーチ「あなた方が〝なぜ神は〟と不服をいう時、それは自然法則の働きに対して文句をいっていることを忘れないでください。

私は霊的な自然法則をありのままにお教えし、それに私自身の体験をまじえてお話しているのです。地震というのは地球の進化の過程における一種の浄化現象です。地球はまだまだ完成の域にはほど遠いのです」


問「その浄化活動のために何十人もの人間が犠牲になるのは不公平だと思うのですが・」

シルバーバーチ「死ぬということは決して不幸でも災難でもありません。私から観れば、魂が肉体の牢獄から解放される祝福すべき出来ごとです」


問「そうした災害で死亡する人は、その時期に死ぬべき人だったということでしょうか」

シルバーバーチ「その通りです。前世の因縁によってそこに居合わせたということです」


問「地上の人間より進化した人類の住む天体がほかにありますか」

シルバーバーチ「ありますとも! あなた方よりはるかに進化した人類の住む天体は幾らでもあります。地球という惑星は広大な宇宙の中の無数の惑星の一つに過ぎません。しかも地球より程度の低い惑星はたった一つしかありません」


問「生まれたばかりの子供が事故や殺人などで他界した場合、人間としてこの世に生を享けた意味がないのではないでしょうか」

シルバーバーチ「永遠なる生命を束の間の物的尺度で判断しているかぎり、そうした問題を正しく理解することは出来ません。人間の理解力には自ずと限界があります。いかなる聡明叡智の人でも所詮は完全に地上的知識の範囲を超えることはできません。

地上生活を終えて霊的知識の光で物事を見た時、それまで到底理解の及ばなかった深遠なる神の配慮があることをはじめて知ることになります。地上生活を送っている間は、すすけたガラス越しに見ているようなものです。物事の真相を知ることはとても不可能なのです。

目前の現象だけで物事を永遠の生命を判断しようとするのは、小学校時代の成績だけでその人の全生涯を判断しようとするようなもので、とんでもない話です。

中学、高校、大学と進み、そして社会人となってから、それまでの夢想だにしなかった体験を無数に積み重ねていくように、地上生活を終えて霊界に来てから霊的進化を遂げるにつれて、それまで夢想だにしなかった素晴らしい世界を見るようになります。

そして地上でかなえられなかった数々の望みが叶えられます。その段階に至るまで、神に文句を言ってはいけません」


ここでシルバーバーチが言っていることはシルバー・バーチ霊言集の、というよりシルバー・バーチ自身の、人間界に対する具体的な姿勢を良く表しているように思われます。

 つまりシルバー・バーチは人間が肉体に宿っているかぎり、どう努力してみたところで、所詮宇宙の真相を知り尽くすことはできない。小学校の秀才も中学、高校、大学の勉強は所詮歯が立たない。だから小学生は小学生なりの勉強をしておればよろしい。

それ以上のことは上の学校へ行けば段々に習うのだからというわけです。だからシルバー・バーチ霊言集は、全十一冊を通じて、平易な真理を繰り返し繰り返し説くことに終始しております。


 私もこうした考え方に全面的に賛成です。だからこそ四半世紀にわたって愛読してきたわけです。こうした考えは決して人間はつまらんと言っているのではなく、人間はあくまでも人間らしくという、いわば人間味を要求しているのです。

 霊能者と呼ばれる特殊な人を除いて、人間は基本的には五感によって生活するように出来ています。だから、その範囲でつつましく生活するのが人間にとって一番いいのです。

高僧がその五感の壁を突き破って豁然大悟したといっても、高級神霊界から観れば、すすけたガラス越しに見たに過ぎない。それもホンの幽界の上層部せいぜい霊界の入口あたりを垣間見たに過ぎないようです。その辺なら死ねば誰だってすぐに行ける所なのです。

 浅野氏は人間味というものを大切にされましたが、「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」という言葉を良く口にされたことも、私の師の間部先生から聞かされました。ムキになって究極を求めても、それは地上では所詮ムリだ、という意味なのです。

 とは言え、人間には抑え難い向学心や知識欲もあります。難しい高等数学なんか要らない、オツリの計算が出来れば結構というのも一つの理屈ですが、その理屈だけでは気が済まないのも人間です。

一見実生活に関係ないようでも、やはり高等数学や物理学は人間の向学心や知識欲が自然に要求するものであり、そこに理屈はありません。



℘70
  
 第三章 再生 ──生まれ変わり──
 
 因果律と切っても切れない関係にあるのが再生の問題です。つまり他界後あるいは期間をおいて再びこの地上(時には他の天体)へ生まれ出て、必要な体験を積み、あるいは前世の償いをするという説です。


シルバー・バーチはこの再生を全面的に肯定するスピリットの一人ですが、そのシルバーバーチの霊媒をつとめていたバーバネル氏が永い間この説に反対していたという事実は、シルバー・バーチとバーバネル氏が別人である───

言いかえればシルバー・バーチはバーバネル氏の潜在意識ではないということを示す有力な証拠として、今なお有名な語り草になっています。


 さて、一口に再生と言っても同じ人間がそっくりそのまま生まれ変わるのだという説、いわゆる全部的再生説、未浄化の部分だけが生まれてくるのだと言う説、いわゆる部分的再生説、全部でも一部でも無い、

ちょうど人間が子ダネを宿すように、守護霊(となるべきスピリット)が霊的なタネを母体の胎児に宿すだけだと言う説、いわゆる創造的再生説、等々があります。


 同じスピリチュアリズムにあって何故こんなに説が分かれるのか。その点をまずシルバー・バーチに説明してもらいましょう。

「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても、再生の事実を全く知らない者がいます。

なぜか、それは死後の世界が地上のように平面的でなく、段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段又一段と上がっていくと、再生と言うものが厳然と知るようになります。もっともその原理はあなた方が考える単純なものではありませんが・・・・・・」


 霊界にしてこの有様ですから、地上の人間に至っては尚更のことで、太古より世界各地に様々な再生にまつわる信仰がありました。

単に人間としての再生だけでなく、動物への生まれ変わりを説くものもあります。ただ機械的に何回も何回も、それこそ無限に再生を繰り返すと説く宗教もあります。

 では再生の真相はどうなのか、そしてその目的は何なのか、これをシルバー・バーチに説いてもらうことにしますが、その前に、再生問題を扱うに当たって大切な課題の一つに、用語の整理があります。

中でも一ばん中心的な用語となるのは「自我」「意識」「個人的存在」などで、これらを正しく理解していないと再生の真相は理解できません。

 浅野和三郎氏の名訳にマイヤースの「永遠の大道」「個人的存在の彼方」の二冊がありますが、前者の原題は The Road to Immortality となっていて、これを文字通り訳せば「永遠の不滅への道程」ということで、

結局後者の「個人的存在の彼方 Beyond Human Personality と同一の内容を意味していることになります。つまり個人的存在を超えた大我こそが真に永遠不滅の存在だというのです。

(私の師で浅野氏の弟子であった間部詮敦氏の話によりますと、浅野氏は人間味とは人間らしさというものを大切にされた方方だったそうで、この著書や訳書の題名にどこか文学的色彩や風味を感じさせるのはそのせいでしょう。私もこれは非常に大切なことだと思います。「永遠への大道」とすると味が損なわれるような気がします。)



 さて私たちが〝自分〟として意識しているものは実は絶対的な個人的存在ではなく、真の自我である大きな意識体の一部又は一面にすぎない。その個人的存在の彼方にある大我へ回帰していく過程が取りもなおさず人生であるというわけです。

 その個人的存在を超えた意識の集団をマイヤースは Group soul と呼び、これを浅野氏は 「類魂」 と訳しました。達意の名訳というべきで、これよりほかにいい訳語が思い当たりませんが、問題はその正しい理解です。マイヤースの通信を読んでみましょう。まず the Road to Immortality から


 『類魂は観方によっては単数でもあり複数でもある。一個のスピリットが複数の類魂を一つにまとめているのである。脳の中に幾つかの中枢があるように、心霊的生活においても一個のスピリットによって結ばれた一団の霊魂があり、それが霊的養分を右のスピリットからもらうのである。

 私は先に帰幽者を大別して「霊の人」「魂の人」「肉の人」の三つに分けたが、その中の「魂の人」となる大部分は再び地上生活に戻りたいとは思わない。

が彼らを統一しているスピリットは幾度でも地上生活を求める。そしてそのスピリットが類魂同士の強いきずなとなって進化向上の過程において互いに反応し合い刺激し合うのである。

従って私が霊的祖先というとき、それは肉体的祖先のことではなく、そうした一個のスピリットによって私と結びつけられた類魂の先輩たちのことを言うのである。

一個のスピリットの内に含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところの業(カルマ)は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世の業ではなくて、

私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型(パターン)のことを指すことがある。同様に私も自分が送った地上生活において類魂の他の一人の型を残すことになる。

かくして吾々はいずれも独立した存在でありながら、同時に又、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。

 そしてこの死後の生活に来て霊的に向上していくにつれて、われわれは次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げてその類魂の中に没入し、仲間たちの経験までもわがものとしてしまう。

ということは、結局人間の存在には二つの面があるということである。すなわち一つは形体の世界における存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である。

 地上の人たちは私のこの類魂説をすぐには受け入れようとしないかもしれない。たぶん彼等は死後において不変の独立性にあこがれるか、あるいは神の大生命の中に一種の精神的気絶を遂げたいと思うであろう。が私の類魂説の中には実はその二つの要素が見事に含まれているのである。

すなわちわれわれは立派な個性を持つ独立した存在であると同時に、また全体の中の不可欠の一部分でもあるのである。私のいう第四界 (色彩界) 、とくに第五界 (光焔界) まで進んでくると、全体としての内面的な協調の生活がいかに素晴らしく、また美しいかがしみじみと分かってくる。

存在の意義がここにきて一段と深まり、そして強くなる。またここにきてはじめて地上生活では免れない自己中心性、すなわち自己の物質的生命を維持するために絶え間なく他の物質的表現を破壊していかねばならないという、地上的必要悪から完全に解脱する。』


 以上は浅野氏の 「類魂」 の章の主要部分を原書に照らしながら読み易く書き改めたものです。私が浅野氏の訳に出会ったのは高校三年の時、ある先輩の心霊家の家を訪れた際に勝手に書棚をあさっているうちに、昭和初期の「心霊と人生」 と言う月刊誌 (浅野氏が主筆) が出てきて、その中に掲載されていたのを読んだのが最初でした。

 残念ながらその家には全部は揃っておりませんでした。しかし、題名の魅力もさることながら、その内容にただならぬものを感じた私は、大学へ進学してからも何とかしてこの全編を読みたいという気持ちを持ち続けました。

そして浅野氏の後を引き継いで 『心霊と人生』 を発行し続けている脇長生氏の主宰する都内数か所の心霊の集いに毎週のように出席して、該書を持っている人を探し求めました。

そして遂に探し出して、後日それをお借りして徹夜でざら紙のノートに写しました。今私が参照しているのもそのノートです。

 その後私はこの 「永遠の大道」 の原書をバーバネル氏の心霊出版社から取りよせて、浅野氏の訳と照らし合わせながら読み耽ったものですが、右の 「類魂」 の章まで読み来った時、宇宙の壮大でしかもロマンチックな大機構に触れる思いがして、思わず感激し、しばし随喜の涙にくれたことはすでに述べました。


 マイヤースは同書の別のところで、宇宙の創造主は多分大数学者ではなくて大芸術家だろうと述べています。

その意味は、宇宙の法則はシルバー・バーチも言っている通り寸分の狂いも無く数学的正確さを持って機能していますが、しかし同時にそこにうまみがあり、美しさがあり、ロマンがあると言うのです。私にもそれが分かるような気がします。

 さてマイヤースのもう一つの霊界通信に 『個人的存在の彼方』 があります。これも 『永遠の大道』 と同じく浅野氏が絶賛し翻訳しています。

これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳したものにすぎないことがわかりました。
℘76
 確かにこの第二部は圧巻であり、褒めることの滅多になかった浅野氏が絶賛したのも肯ける内容であることに間違いはないのですが (余談ですが、浅野先生が 「読んでも損はない」 と言った時は非常にいい本だということであり 「ちょっいいい」 と言った時はもう絶賛したことになったということを間部先生から聞かされました)、 

第一部及び第三部にも珠玉のような内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する 「再生」 Reincarnation の項で 「永遠の大道」 の 「類魂」 の章の足らざる部分を補うような形になっています。むしろこれを読んで始めて類魂というものが全体的に理解できるのではないかと思われます。


 「地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、今度は知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上へ戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私のいう 「肉の人」 はまず間違いなく再生する。

 私のいう 「魂の人」 の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない、が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械が回転するように生と死とを繰り返したと言う例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどと言うことはまず考えられない。

その説は明らかに間違っている。勿論原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そう言う人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかもしれない。が、

まず大部分の人間は二回から三回せいぜい四回位なものである。もっとも中には特殊な使命又は因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合も無いではない。

従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間と言う形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわることは絶対に無いと言うことである。

 たった二回や三回の地上生活では充分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるのかもしれない。が、その不足を補う為の配慮がちゃんと用意されているのである。

 乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある形態の中から種類と性質のまったく異なるものを無造作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っている。 

(不幸にしてそのうちの一つないし二つを失えば別だが) という点では全く同じであること、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているに過ぎない、ということである。



 そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験から見ればホンの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといっても多寡が知れている。

人間性の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということはまずできない相談だといっていい。

それなのに私は、地上生活の体験を充分に身につけるまでは (特殊な例外をのいては)、死後において高級界に住むことは望めない。とあえて言うのである。

 その矛盾をとくのが私のいう類魂の原理である。われわれはそうした無数の地上的体験と知識を身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない、他の類魂が集積した体験と知識を我がものとするのが可能なのである。

誰にでも大勢の仲間がおり、それらが旅した過去があり、今旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく 「旅」 である。

私自身はまだ一度も黄色人種としての地上体験を持たないが、私の属する類魂の中には東洋で生活をした人が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである.

 その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私はうまく吸収すれば、わざわざ地上に降りて生活する必要はないのである。

 こうした類魂という〝より大きな自分〟の中に入ってみると、意思と精神と感性とがいかにその偉力を増すものであるかが分かる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。

幾世紀にもわたる先人の叡智を、肉体という牢獄の中における〝疾風怒涛〟の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛と言う吸引力によってわがものとすることが出来るのである。

℘79
 仮に不幸にして不具の肉体を持って地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一ばん効果的であるという判断があったと解釈すべきである。

 たとえば白痴に生まれついたものは、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。

つまり他界後彼等は自分の犠牲者たちの苦しみを見て深く反省し、良心の呵責を感じるようになる。時にはその呵責が余りにも大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。

言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、更には犠牲者たちが自分に復讐しようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神分裂症になったまま再生するのである。

 再生には定まった型というものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、誰しも地上生活を振り返り、その意義を深く吟味する時期がかならず来る。

原始的人間であれば、それが知性でなく本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。

といって、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂も大抵の場合その指示に従うことになる。

 
 初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。

守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。

そこでその不足を補うために次に二つの方法が考えられる。一つは先ほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。

 後者の場合、地上の類魂は言わば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。

 霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中には入れない者もいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、今一度始めからやり直しを命じる。

私が前著を The Road to Immortality (永遠への道程)と呼び The Road of Immortality (永遠なる道程)としなかったのはそのためである。

中途で落伍する者がいるということである。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中に預けられ、仲間の活用に供されるのである。


 私は確信を持っていうが、私のいう〝霊の人〟のうちのある者は、たった一回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエス・キリストはエリヤの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の直接の表現、すなわちことばが肉となったのである。

イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとへ帰っていった。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエス・キリストの神性の秘密が存在する。』


 エリヤというのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者のことです。キリスト教界ではイエスはエリヤの再来であると説く人がいるためにこんなことをマイヤースも言うわけです。

 余談になりますが、シルバー・バーチがキリスト教について語っている中に 「今もしイエスが地上に再来し同じ教説を説いたら、真っ先に石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」

というくだりがあります。言うまでもなく、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教をはじめとして他の既成宗教のすべてに言えるのではないでしょうか。だからこそ改めて霊的真理を説くためにやって来たのだとシルバーバーチは言うのです。

 余談はさておき、以上のマイヤースの説明で、類魂というものが概略だけでもお分かり頂けたと思います。そして又、再生というものがその類魂の進化という大目的のために行われるものであることを理解いただけたと思います。
℘82
 再生の哲理をこの類魂の原理で説いたのは、私の知る限りではマイヤースが初めてですが、哲理の内容そのものは、シルバー・バーチが説くところやアラン・カルデックの 『霊の書』 に見られる複数の霊からの自動書記通信と完全に符節を合してしております。

 特にシルバー・バーチの場合は、 「それはマイヤースのいう類魂と同じものですか」 という問いに対して 「まったく同じです」 と断言しており、非常に興味を覚えます。

 これからそのシルバー・バーチの説くところを紹介していくわけですが、この再生問題に関するかぎりシルバー・バーチは一方的にしゃべるということをせず、質疑応答の形に終始しております。

 これはカルデックの 『霊の書』 でも同じで、察するところ、霊的なことには地上的用語で説明できないことがあり、中でも再生の原理はその最たるものであり、人間側からの質問の範囲に留めるということになったのでしょう。その証拠に、シルバー・バーチはこんなことを言っているのです。


 『宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者から見れば、それは実在のかすかなるカゲを見たに過ぎません。

鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問にどうして答えられましょう。

 私の苦労を察して下さい。譬るものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが地上にはそれがない。あなた方はせいぜい光と闇、日なたと日かげの比較ぐらいしかできません。

虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できない程の美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。』


 そういう次第でシルバーバーチには再生に関する長文の叙述はなく、細かい質疑応答からなっております。それはそれなりに非常に分かり易くいわゆる痒いところに手の届く利点があります。


 が、私の察するところでは、いい意味で人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。つまり宇宙の内奥に関するものには人間には絶対に理解できないものがあるらしいのです。それは右の引用文からも察せられますが、再生の大体の概念、基本的原理に関する限りでは、シルバー・バーチとカルデックとマイヤースは完全に同じことを説いております。

 私はこれが再生に関する真相───少なくとも人間に理解できる範囲での真相であるとみて差支えないと信じます。マイヤースの類魂説を冒頭にもってきたのも、それがシルバー・バーチの説くところと完全に符節を合し、再生の基本概念を伝える論説として適切であるとみたからです。

 これを細かく敷衍(フエン)する目的で、これからシルバー・バーチと列席者との一問一答を紹介してまいりましょう。

℘84  
  一問一答

 まず再生は自発的なのか、それとも果たすべき目的があって已むを得ず再生するのかという問いに対して、シルバー・バーチはその両方だと答えます。ということは、要するにそれなりの意味があって、それが得心がいったから再生するということかと聞かれて、まさにその通りだと答えます。それから次のような応答が展開します。


問「ということはつまり強制的ということですね」

シルバーバーチ「強制的という言葉の意味が問題です。誰かから再生しろと命令されるのではあれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。

 ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです」


問「死後は愛の絆のあるものが生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら、残った者との間はどうなるのでしょう」

シルバーバーチ「別に問題はありません。物質的な尺度で物事を考えるから、それが問題であるかのように思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。

一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、そのうちの幾つかが地上に再生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の一面との間には物質という壁が出来て、一時的な分離状態になることは確かです。が、愛のきずながあるところにそんな別れは問題ではありません」


問「霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵庫のようなものがあるのですか。地上では近ごろ産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供はいくらでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのですか」

シルバーバーチ「こう申し上げては何ですが、あなたの問いには誤解があるようです。あなた方が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは、霊魂が自己を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。

無限なるものに個性はありません。その一部が個体としての表現器官を得て地上に現れる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。〝霊〟は永遠の存在ですから、あなたも個体の宿る以前からずっと存在していたわけです。が、個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。

霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上に来て果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が大勢います。そして、その目的のための機会を与えてくれる最適の身体を探し求めているのです」



問「人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・・・」

シルバーバーチ「そうではありません。それは身体については言えますが、霊は無始無終です」


問「古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか」

シルバーバーチ「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」


問「類魂の一つ一つを中心霊の特性の表現と見てもいいでしょうか」

シルバーバーチ「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」


問「それはフレデリック・マイヤースのいう類魂と同じものですか」

シルバーバーチ「まったく同じです。ただし、単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやって来るのです」


問「その意識の本体に戻った時、各霊は個性を失うのではないかと思われますが・・・」

シルバーバーチ「川が大海へ注ぎ込んだ時、その川の水は存在が消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」


問「なぜ霊界通信のすべてが生まれ変わりの事実を説かないのでしょうか」

シルバーバーチ「説明のしようのないものをあれこれ述べても仕方がありますまい。意識が広がって悟りの用意が出来あがった時はじめて真理として受け入れられるのであって、要は霊的進化の問題です。再生など無いと言う霊は、まだその事実を悟れる段階まで達していないからそう言うにすぎません。

宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの話を芸術的センスのゼロの人に聞かせてどうなります。意識の程度が違うのです」


問「再生するのだということが自分で分かるのでしょうか」

シルバーバーチ「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとは限りません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で、一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はほんの少しであり、表現されない部分が大部分を占めます」


問「では無意識のまま再生するのでしょうか」

シルバーバーチ「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識していない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とても地上の言語では説明しかねます」


問「生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか」

シルバーバーチ「愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引き寄せ、又愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことは出来ません」


問「でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが」

シルバーバーチ「一致しないのはあなたの天上の観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が捉えたのであって、あなた方が捉えるのではありません。

賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとして見ても所詮は徒労に終わることを知っているからです」


問「これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しましな人間であってもいいと思うのですが・・・・・・」

シルバーバーチ「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は悟りの問題です」


問「これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか」

シルバーバーチ「そうです。無限に続きます。何となれば苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて始めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」


問「そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか」

シルバーバーチ「今日あなたには天国のように思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」


問「再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインデアンはインデアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に」

シルバーバーチ「そうとは限りません。目指している目的のためにもっとも適当と思われる国、民族を選びます」


問「男性か女性かの選択も同じですか」

シルバーバーチ「同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとはかぎりません」


問「死後霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせれるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか」

シルバーバーチ「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。

生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行く場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。

ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちというのがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」


問「自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか」

シルバー・バーチ「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然に分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。

私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。私はあるがままの事実を述べているだけですから。

人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」


問「再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えは如何でしょう」

シルバー・バーチ「暗闇にいるより明るいところにいる方がいいでしょう。少しでも多く法則を知った方が知らないよりはましでしょう。人間が神の分霊であり、それ故に死後も生き続けるという事実は、真理探究の終着駅ではありません。そこから本格的探究が始まるのです」


問「新しい霊魂はどこから来るのですか」


シルバー・バーチ「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこからくるというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。

ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」


問「ということは、われわれは神という全体の一部だということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。だからこそあなた方は常に神とつながっていると言えるのです。あなたと言う存在は決して切り捨てられることはあり得ないし消されることもあり得ないし、破門されるなどと言うこともあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」


問「でも、それ以前にも個体としての生活があったのでしょう」

シルバー・バーチ「これもまた用語の意味がやっかいです。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それは良くあることです。

但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します」



問「再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか」

シルバー・バーチ「こうした問題はすべて自然法則の働きいよって解決されます。再生すべき人は自分でもそう決心するのです。

つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの成長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。すべて魂自身が決めるのです」


問「再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏みはずして一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「すべての生命、特に霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根源的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。

一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が成長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら完全成る霊性を成就するには永遠の時間を要するからです」


問「先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか」

シルバーバーチ「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得がいくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。

全ては悟りの問題です。悟りが開かれれば、生命の神秘の理解が行きます。もっともすべてを悟ることはできません。全てを悟れる程の人なら、地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。

するとさらに次の段階の真理を理解する力が付くわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私は御免こうむります。

私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさしあげるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、〝そうですかそれは残念(アイアムソーリー)ですね〟と申し上げるほかありません」


問「霊に幾つかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活する事もあり得る、という風におっしゃいましたが、もうすこし詳しく説明していただけませんか」

シルバー・バーチ「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号に過ぎない地上の言語でもって説明しなければならない宿命を背負っております。言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。

これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神、 God  私のいう大霊 Great spirit の一部分です。あなた方に理解の行く用語で表現しようにも、これ以上の言い方はできません。


生命力 Life force  動力 dynamic、 活力 vitality、 本質 real essence, 神性 divinity ,それが霊です。仮に私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申す者です〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方かは皆目分かりません。
 
個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することのできる人───それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。

霊が引っ込めば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。

その霊に幾つかの面があります。それを私はダイヤモンドに例えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。もしも二人の人間が格別に相性がいい場合(めったにないことですが)それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。

そうなると当然二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」


問「あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係(ファミリー)のグループですか。同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか」

シルバー・バーチ「質問者がファミリーという言葉を文字どおりに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。

肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。霊的関係と言うものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものがきます。

地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。

同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合いひかれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することはあり得ることですし、現にどんどん誕生しております」


問「われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか」

シルバー・バーチ「そういっても構いませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまでも個性を具えた独立した存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」


問「では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百年かの後に完全に進化しきって一個霊になってしまうことは考えられませんか」

シルバー・バーチ「そういうことはあり得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりがないからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。

聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。おわかりですか。

個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのであり、個性的存在というのは霊魂に具わっている紳的属性の表現形式を言うのです。進化するにつれて利己性が薄れ、一方個性はますます発揮されていくわけです」


問「〝双子霊〟 Twin Souls というのはどういう場合ですか」

シルバー・バーチ「双子霊と言うのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生を享けた場合のことです。自分と同じ親和性を持った霊魂───いわゆるアフィニティ affinity ───は宇宙に沢山いるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生を享けるとは限りません。

双子霊のようにお互いが補い合う関係にある霊同士が地上で巡り合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。

霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、従ってその後も手に手を取り合って成長していきます。私が時おり〝あなたたちはアフィニティですね〟と申し上げることがありますが、その場合がそれです」


問「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」

シルバー・バーチ「肉体的にはその通りです。しかしそれもホンの束の間のことです。肝心なのは二人が霊的に一体関係にあるということですから、物質的な事情や出来ごとがその一体関係に決定的な影響を及ぼすことはありません。

しかも束の間とはいえ地上での何年かの一緒の生活は、霊界で一体となった時と同じく、素晴らしい輝きに満ちた幸福を味わいます」


問「物資地界に誕生する霊と誕生しない霊とがいるのはなぜですか」

シルバー・バーチ「霊界の上層部、つまり神庁には一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることが出来るのです。

当初から高級界に所属している紳霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります」


問「大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのきっかけで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということはあり得ますか」

シルバー・バーチ「自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これは殆ど機械的に作動します。

質問者が仰るように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、一ぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の世界を積み重ねていくうちに序々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります」


℘99
問「戦争とか事故、疫病などで何万人もの人間が死亡した場合も業だったと考えるべきでしょうか。持って生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争は避けられないものでしょうか。もし避けられないとすすると、それは国家的な業と言うことになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「業というのはつまるところ因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。

これは神の公平の証しとして神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公平は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないように配慮されています。

それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についてもあてはまります。次に寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。

しかし個人には自由意思があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなた方人間自身が解決すべきことです。

自由意思によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます」


問「寿命は魂そのものが決定するとおっしゃいましたが、すべての人間に当てはまることでしょうか。たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養などが具わっていないと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。もちろん再生してからの方が肉体器官の機能の限界のために大きな制限を受けます。しかし大半の人間は地上で辿るべき道程について再生前からあらかじめ承知しています」


問「地上で辿るべきコースがわかっているとすると、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「そうなると、前もってわかっているものをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上に再生する目的は、地上生活から戻ってきて霊界で行うべき仕事があって、それを行うだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかっているからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。

たとえば世界中の書物を全部読むことは出来ても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身に付いたこととは言えますまい。霊的成長と言うのは実際に物事を体験し、それにどう対処するかによって決まります。その辺に地上への再生の目的があります」


問「航空機事故のような惨事は犠牲者及びその親族が業を消すためなのだから前もって計画されているのだという考えは、私にはまだ得心がいきませんが・・・・・・」

シルバーバーチ「ご質問にはいろいろな問題を含んでおります。まず〝計画されている〟という言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。

その犠牲者───この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます───の問題ですが、これには別の観方があることを知ってください。つまり、あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。

が、私たち霊界の者にとっては、ある意味ではよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生するとあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。


反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大よろこびでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。

これは運命と自由意思という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定の枠の中で自由意思が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません」

p102  
問「事故が予知できるのはなぜでしょうか」 

シルバーバーチ「その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが、時間の未来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来時間というのは〝永遠なる現在〟だということです。このことを良く理解して下さい。

人間が現在と過去とを区別するのは、地上と言う三次元の世界の特殊事情に起因するものであって、本来過去も未来も無いのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になる事が今現在において知ることが出来ます

もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつのかは、これまた別の問題です。

単に物的感覚の延長に過ぎない透視、透聴の類の心霊的能力 Psychic powers によっても予知することが出来ます。

霊視・霊聴の類の霊感  spiritual powers  によっても知ることが出来ます。Psychic と spiritual  は同じではありません。いわゆるESP(Extra Sensory Perception 超感覚的視覚)は人間の霊性には何のかかわりも無く、単なる五感の延長に過ぎないことがあります」


問「占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を支配するものでしょうか」

シルバーバーチ「およそ生命あるものは、生命を持つが故に何らかの放射を行っております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は昨今の用語で言えば波長とか振動によって行われます。宇宙感のすべての存在が互いに影響し合っているのです。

雷雨にも放射活動があり、人体にも何らかの影響を及ぼします。言うまでもなく太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。

要するに大自然全てが常になんらかのエネルギーを放射しております。従って当然他の惑星からの影響も受けます。それはもちろん物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。

しかし、いかなるエネルギーも、いかなる放射性物質も、霊魂にまで影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度に過ぎません」


問「今の質問者が言っているのは、たとえば二月一日に生まれた人間はみな同じような影響を受けるのかという意味だと思うのですが・・・・・・」

シルバーバーチ「そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下に置かれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。もっともその時の条件によりますが。

いずれにせよ肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格を背負って生まれてきます。それは胎児として母体に宿った日や地上に出た誕生日によって、いささかも影響を受けるものではありません。


しかし、そうした肉体的性格や環境の如何にかかわらず、人間はあくまで霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。

その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服しえないことはありません。もっとも、残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂の方が右往左往させられておりますが・・・・・・」



  ℘104
 第四章 苦しみと悲しみと ──魂の試練──

 前章では再生というスピリチュアリズムの思想の中でももっと異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。

 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まず誰にとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。

私自身も哲学的思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢ぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。


 つまり〝生と死〟を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでに羽ばたいて、自由に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なおも続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。

 それというのもシルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けした霊界通信のお陰にほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。


 この死後の存続という事実は今では少なくてもスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探究の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信が述べるところが完全に符合を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相と見て差し支えないと信じます。

 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着も無く、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。

 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に注目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に具わるまで言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、難しく言えば霊格の進化が無ければ決して悟ることはできない、ということです。

 従って知識ばかりをいくら溜めこんでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチの譬えで言えば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体験しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。

 さてその〝体験〟ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようも無いほどの差があります。

男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的現象にすぎず、つき詰めて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。


 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生を繰り返しても地上体験による魂の成長には限度がある。

つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらとあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれが一番よく知っています。

 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味も無いことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。

シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。


 『あなた方もそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と開発にとってそれなりの教訓を持っていたことを知るはずです』

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みも無い人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバーバーチの教えに耳を傾けてみましょう。


『この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに厳然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。


 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身に付いたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るようにつとめることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。

解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。

 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もし楽に手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。

痛みと苦しみの最中にある時は、なかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばん薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長をしてもらいたいと願い祈りながら、です。

知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。


さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましてそれまで気付かなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人間は所詮は一つの永い戦いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される職場に身を置いていると言ってもいいでしょう。

魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。すなわち動物的進化の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である紳的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その戦いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。

 運命の十字路に差し掛かる度毎に、右か左の選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意思に任されています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。

そのチャンスを前にして、積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私の態度に出るか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によって決まります。

 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時に又、寿命尽きて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、と言ったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑なのです。

 そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。

才能がありながらそれを使用しないものは、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

 悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番よく眠れる魂に目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれている為に、それを目覚めさせるためにはよほどの強烈な体験を必要とします。

悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備が出来た時始めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかなる援助の手を差し伸べても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。

霊的知識を理解する時期を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなた方人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)に過ぎません。


 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。

失意のどん底にある時はもう全てが終わったかの感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力───それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。

それはラクな人生の中では決して発揮させません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法が無いのです。他にももしあるという人がいるとしても、私は知りません。

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気ラクな人生を送っている者よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。

 困難に愚痴をこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。

しかし後でその時を振りかえってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂が皆楽な暮らしを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。

これは厳しい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難が付きまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。
℘112  
 神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在の隅々まで通暁しております。神は法則としては働いているのであり、晴天の日も嵐の日も、神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度が余りにも小さすぎるのです。物的尺度でみる限り、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かもしれません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ずその平衡を取りもどします。

霊的に観て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身はわかりません。もしかしたらあなたにとって一ばんイヤなことが実は、あなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。

 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するようにつとめることです。というのは、あなた方に悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとっては幸福と思えることが、私どもから観れば不幸と思えることもあるのです。祈りはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれはかならずしもあなた方が望んでいる通りの回答ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一ばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物差しで批判することはやめなければいけません。



 絶対に誤ることのない霊的真理が幾つかありますが、そのうちから二つだけ紹介してみましょう。一つは動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう一つは人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。その二つです。あせってはいけません。

何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識を持った生命が誕生するのに何百年もの歳月を要したのです。

さらに人間という形態が今日のような組織体を持つに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のような霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤ることのないその力を信じることです。


 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも神性の開発のためにこそあるのです。 「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」───こうおっしゃる方があるかも知れません。

しかし私はそれを体験してきたのです。あなた方より遥かに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い歳月を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然というものがないのです。

偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼をおきます。


 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を棄て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ちしかも自信を持って生きることです。

そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智を持って臨めば何事もきっと成就します。聞く耳を持つ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛が全ての根源です。愛───人間的愛はそのホンのささやかな表現に過ぎませんが───愛こそ神の心の遂行者なのです。


 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、麻痺させます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。

℘115
 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自身に溢れ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対 all-powerful というだけではありません。

絶対的な叡智 all-wisdom であり又絶対的な愛 all-love でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。

 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目ざめて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。

夜明けの前に暗闇があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部である事を悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らないというわけにはいかないのです。

人間の進歩のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、言わばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てを通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

 ℘116
 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を生みださなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、折角の霊的雰囲気をかき乱します。われわれは信念と平静の雰囲気のなかにおいて始めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念はわれわれ霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

 太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり貯金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。

しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広まり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。

その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は臨むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。


そして一たん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。

そして一たん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり、美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意思が与えられるのです。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意思を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることはできません。そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。

いかなる困難、いかなる障害も、必ず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを作り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです』


 一問一答

問「もう一度やり直すチャンスは全ての人間に与えられるのでしょうか」

シルバー・バーチ「もちろんですとも、やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正によって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世はまさに不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも神の法即を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きたに人間は、その悪行の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。


隠すことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです」


問「祈りに効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。

ああして欲しい、こうして欲しい。金が欲しい、家が欲しい───こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

一方、魂の止むにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。こうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を意識するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。それが本能的に魂の潜在エネルギーを湧出させます。それが真の祈りなのです。

その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か言ったことがありますが、そうした祈りを敢えて無視してその状態のまま放っておくことが、その祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれ手段を講じる事が去って当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の心底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまりその願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起し、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。

危険の中にあっての祈りであれば保護するためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛によってつながっている類魂もおります。そうした霊達はみな自分もそうして救ってもらったことがあるので、その要領を心得ております」


問「いたいけな子供が不治の病で苦しむのはどうしてでしょう。神は本当に公正なのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊的な問題を物的尺度で解こうとしても所詮ムリです。ホンの束の間の人生体験で永遠を推し量ることは出来ません。測り知れない法則によって支配されている神の公正を地上生活という小さな小さな体験でもって理解することは絶対にできません。

小さなものが大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語ることが出来るでしょうか。部分が全体を説明できるでしょうか。

宇宙はただただ〝驚くべき〟としか形容のしようのない法則によって支配されており、私はその法則に満腔の信頼を置いております。なぜなら、その法則は神の完全なる叡智の表現だからです。従ってその法則には一つとして間違いというものがありません。

あなた方人間から見れば不公平に見えることがあるかもしれませんが、それはあなた方が全体のホンの一部しか見ていないからです。もし全体を見ることが出来たら、成るほどと思ってすぐさま考えを変えるはずです。

地上生活という束の間の人生を送っている限り〝永遠〟を理解することは出来ません。あなた方人間にはいわゆる因果応報の働きは分かりません。

霊界の素晴らしさ、美しさ、不思議さは、到底人間には理解できません。というのは、それを譬えるものが地上に存在しないからです。判断の基準には限界があり、視野の狭い人間に一体どうすれば霊界の真相が説明できるでしょう。


 ご質問の子供の病の話ですが、子供の身体はことごとく両親からの授かりものですから、両親の身体の特質が良いも悪いもみな子供の身体に受け継がれていきます。そうなると不治の病に苦しめられる子も当然出てまいりまししょう。しかし子供にも神の分霊が宿っております。あらゆる物的不自由を克服出来る神性を宿しているのです。

物質は霊より劣ります。霊のしもべです。霊の方が主人なのです。霊的成長はゆっくりとしていますが、しかし着実です。霊的感性と理解力は魂がそれを受け入れる準備が出来た時初めて身につきます。


従って私どもの説く真理も、人によっては馬の耳に念仏で終わってしまうことがあります。が、そういうものなのです。霊的真理に心を打たれる人は、すでに魂がそれを受け入れるまでに成熟していたということです。まるで神の立場からものを言うような態度で物事を判断することは慎むことです」


問「こんな戦争ばかり続くみじめな世の中に生まれてくる意義があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「生まれてくる来ないは自由意思の問題です。が、その問題はさておいて、地上の多くの部分が暗雲に覆われていることは確かです。が、惨めな世の中と言ってしまうのは適切ではないと思います。地球には地球なりの宇宙での役割があります。

生命の旅路における一つの宿場です。魂の修行場として一度は通過しなくてはならない世界です。もしも必要でなければ存在するはずがありません。存在しているということが、それなりの存在価値を持っていることを意味します。

 さて、その物質界に生まれてくるのは各自にそれなりの霊界での仕事があり、それを果たすための修練の場としてこの地上を選んでくるわけです。案ずるより産むが易しと言いますが、決断を下す際に縣念したことも、実際に地上へ来てみると、結構なんとかやっていけることがわかります。

あなた方が不幸な子を可哀そうにと思うその気持ちは得てして思い違いであることが多いのです。大人は子供の気持ちで考えているつもりで、その実、大人の立場から人生を眺めていることが多いのです。つまり子供自身にとっては恐ろしくも苦しくも無い体験を、大人の方が先回りして恐ろしかろう、苦しかろうと案じているのです」



問「でも、それが必要な場合があるのではないでしょうか。たとえば空襲などというのは体験のあるなしにかかわらず恐ろしいことには違いないでしょう」

シルバー・バーチ「おっしゃる通りです。私が言いたいのも実はその点なのです。子供というのは大人と同じ状態に置かれていても、その影響の受け方が違います。

オモチャの兵器をいじくっても、子供はその本当の意味、恐ろしさはわかりません。それは実は有難いことなのです。子供は何事も体験しないと理解できないのです。頭だけでは理解できないのです」


問「いかなる苦難の中にあっても、またいかなる混乱の中にあっても恐怖心を抱いてはいけないとおっしゃいました。解決はすべて己の中に見出せるとのことですが、それはどうすれば見出せるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間の全てが同じレベルの意識を持っているわけではないことを、まず認識して下さい。つまり今地上にいる何億何十億という人間の一人一人がみな違った段階を歩んでいるということです。その中には長い長い旅路に末にようやく魂の内奥の神性が発揮される段階に至った人がいます。

混乱の中にあって冷静さを失わず、内部の神性を発揮させる心構えの出来た人がいます。そういう人は必ずや解決策を見いだします。〝どうすれば〟ということですが、実はそういう疑問を抱くこと自体が、あなたがまだその段階に至っていないことを意味します。あなたも神の一部なのです。あなたにも神が宿っているのです。

それはホンの小さな一部ですが、神的属性の全てを潜在的に所有しております。完成されてはいませんが完全なのです。もしも苦境にあってその神性と波長を合わせ、心を平静に保ち、精神的に統一状態を維持することが出来れば、それは宇宙の大霊と一体となることであり、疑いも迷いもなく、従ってそこに恐怖心の入るスキはありません。

波長が合わないからです。そうした心構えが簡単にできるとは申しません。努力すれば出来ると言っているのです。現にそうした境地に達した人は大勢います」


問「地上生活を繰り返したあとの、魂の究極の運命はどうなるでしょうか」

シルバー・バーチ「究極の運命ですか。私は究極のことは何も知りません。最初と最後のことは私にはどうにもならないのです。生命は永遠です。進化も無限です。始まりも無く終りも無いのです。進化は永遠に続くのです」


問「自由意思の使用を誤ったが為に罪を犯した場合、神はなぜ過って使用されるような自由意思を与えたのでしょうか」

シルバー・バーチ「では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように捉えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも罪を犯せば聖人君子にもなれる可能性を持った生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかもしれませんが、自由意思も従って進歩もありません。

それでいいですか。進歩する為には成功と失敗の両方が必要なのです。失敗が無ければ成功も無いからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。


ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。

宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味は分かりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません」


問「自殺した者は霊界ではどうなるのでしょうか」

シルバー・バーチ「それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機が一番問題です。

キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です」



問「でも、自殺して良かったと言えるケースはないでしょう」

シルバー・バーチ「それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それで良かろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千何万年も苦しむという説は事実に反します」


問「自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか」

シルバー・バーチ「もちろんです」


問「神は耐えきれない程の苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐えきれない苦しみを受けるからではないでしょうか」

シルバー・バーチ「それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。

いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為に過ぎません。

果たすべき義務に真っ正面から取り組むことが出来ず、今自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一ばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変わらず自分がいる。

そして逃れた筈の責任と義務の観念が相変わらず自分に付きまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを作り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。


 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通りその思惑通りにはいきません。

が一方、これはそう多く有るケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思いすごしであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます」


 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。

一たん書き記したものはもう二度と書き換えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。

 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出てきます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスもふえます。背負い切れないほどの荷は決して負わされません。

なぜならその荷は自らの悪行がこしらえたものだからです。決して神が〝この男にはこれだけのものを背負わせてやれ〟と考えてあてがうような、そんないい加減なものではありません。


 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。

つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それをもと通りにすることが出来るはずです」


問「因果律のことでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです、それが全てです」


問「たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪がないと考えてよろしいでしょうか」

シルバー・バーチ「話をそういう風に持って来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。

 もちろん私はそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的に見ればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、やはりスタートに時点において、私が先ほどから言っている〝責任からの逃避〟の真理が働いているのです。

もしもその人が何かにつまずいたその時点で〝オレは間違っていた。やり直そう。その為にどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ〟と覚悟を決めていたら、不幸もつぼみの内に摘み取ることが出来たはずです。

 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われます。

ついにはノイローゼとなり、自分で自分が分からなくなっていくのです。問題はスタート時点の心構えにあったのです」


問「いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈時代でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味でそういうものは存在しません。

宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意思は認められています。しかしその自由意思にも又法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。

従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。

平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意思で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意思の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです」


問「病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとかという人がおりますが、本当でしょうか」

シルバー・バーチ「言っていること自体は正しいのですが〝与えられる〟という言い方は適切ではありません。私どもと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則の調和が乱れた結果として起きるのです。

言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払いにはまた別に補償という法則もあります。


物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。全ては進化を促す為の神の配慮なのです。

 教訓を学ぶ道はいろいろあります。最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気と言う形で現れることもあるわけです。

人生は光と影の繰り返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。

というのはその双方に神の意志が宿っているからです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい」


問「死体は火葬にした方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「絶対火葬にした方がよろしい。理由はいろいろありますが、根本的には肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体の周りに在世中の所有物や装飾品を並べてみた所で何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみや寂しさを誘うだけです。

 人間の生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対してあまり執着し過ぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具として良く働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。

同時に又、心霊知識も持たずにこちらへ来たものが地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。

 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間はおいてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれぐらい掛ることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません」



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 第五章 死後の世界     

一八四八年のフオックス家における心霊現象が近代スピリチュアリズムのキッカケとなったことはすでに常識となっておりますが、物事の受け取り方や解釈の仕方は人によって異なるもので、心霊現象をどう解釈するかという点に関しても、大きく分けて二つ、細かく分けると三つの観方があるようです。

 二つの分け方は言うまでもなく肯定するものと否定する者の二者で、肯定する側はもちろんスピリチュアリズム、否定する側───少なくても肯定することを躊躇している側の代表がSPR (Society for Psychical Research )という純粋の学術機関で、英米をはじめ多くの国にあります。

 SPRの基本的態度は心霊現象を科学的に検討するということに尽きるわけですが、科学的というのはあくまでもこれまで物質科学について行われてきた科学的方法という意味であって、それを超物質の分野である心霊問題にそのまま適用しようとするところに無理があるようです。

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  これまで度々紹介しているマイヤースなども心霊研究に興味を持ち始めた初期のころは英国SPRの会長までしたことがありますが、こんなやり方ではいつまでたってもラチが明かないと考えて、いち早く辞めております。

名探偵シャ―リック・ホームズの活躍する探偵小説で有名になったコナン・ドイル卿 A. Conan Doyle (本職は医師)や、ケーティ・キングと名告る美人物質化霊の出現した心霊現象の研究で有名なウィリアム・クルックス卿、あるいは英国を代表する世界的物理学者だったオリバー・ロッジ卿 Sir Oliver Lodge なども、それぞれにSPRの会長を務めておりますが、いち早く霊魂の存在を信じてSPRから離れていきました。

 英国で Sir (卿)の称号がつくということは大変なことで、そうした名誉のある地位の人が、予期される非難をものともせずに霊魂説を認めたことは注目に値します。

次いでに言えば、私の師である間部氏はもともと子爵の家柄ですが、戦前、官憲から心霊と爵位のどちらを取るかと迫られて、あっさりと爵位を捨てたという話を聞かされました。なぜか地上というところは昔から、あまりあからさまに真理を述べると迫害を受けるところのようです。

 そもそもSPRが霊魂説に踏み切れないのは、従来の科学的方法で検討するかぎりでは証拠不十分ということに理由があるのであって、頭から霊魂説を否定しているわけではありません。

それはちょうど刑事事件で証拠不十分の故に〝疑わしきは罰せず〟で無罪、というのと同じようなものですが、無罪になったからといって犯人がいなかったということにはならないように、物質科学的証明が出来ないからといって霊魂の存在を否定するのはあまりにも短絡的です。

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 心霊実験を見ても、心霊体験を聞いても、霊魂の存在は火を見るよりも明らかなのに、いかんせん物的証拠、それも従来の科学的方法で立証できるような証拠がないという理由で、SRPは今なお霊魂説に踏み切れずに、単なる資料集めとその分類に時を費やしておりますが、この調子ではまず永遠に結論の出る日は来ないでしょう。

コナン・ドイルも 「新しい啓示」 The New Revelation の中で 「これだけのものを見せつけられて尚かつ信じようとしないようでは、その人間の頭がどうかしている」 と語気を強く述べております。


 さて、細かく分けると三つになると言ったのは、霊魂説を認める人にも大きく分けて二種類あると考えられるからです。その一つは心霊現象や霊能をただ興味本位に取り上げ、見た目に映る異常さ、意外さ、面白さを目玉にしてこれを一つの商売にしている人たちです。


 心霊現象は確かに魅力があります。霊魂の存在を信じるには物理実験を見るに限ります。私自身もたった一度の実験会ですっかり霊魂の存在を信じるようになったのですが、問題はその後です。

 死んでもなお生き続けているとなると、その世界はどんな所なのか、その世界とこの世界はどうつながっているのか、神は存在するのか等々、興味と疑問は尽きることを知りません。

それを追求していくのがスピリチュアリズムであり、心霊実験もその案内役として始めて正当な意義を発揮するのです。その点を理解せず、いつまでも現象ばかりをいじくりまわしている人がどんなに多いことでしょう。

 こうした傾向は世界的に言えることのようです。拙訳「スピリチュアリズムの真髄」 の原著者レナードもその点を遺憾に思い、一種の警告を込めて The Higher Spiritualism 直訳すれば 『より高度なスピリチュアリズム』 と題したわけです。


私は、これは日本人にとってもいい警告になると信じて訳しましたが、これを更に一歩も二歩も先に進めたのが他ならぬシルバーバーチです。

 シルバーバーチは徹底して話題の中心を道徳、倫理、哲学に置き、心霊現象に関してはホンのちょっぴりしか述べていません。

 私の編纂もその影響を受けて、これまでご覧いただいたように、最初から非常に固い内容のものばかりになっておりますが、シルバーバーチ霊言集全十一冊の内容は二、三、四章の表題の順に比重が置かれていると考えていただければいいわけです。


 さて本章では少し趣を変えて、霊界とはどんな所なのか、死んだらどんな所へ連れて行かれるのか、といったことについてシルバーバーチに聞いてみることにしましょう。
 
 この問題つまり生命の死後存続の問題を扱うに当たって人間が一ばん心しなければならないことは、現実の地上生活の常識を一たん棄て去ることです。全てを白紙の態度で素直に受け止めることです。

 成人した人間はこの物的地上生活に慣れ親しんでいるために、こうした生活を当たり前と思い、さらには、こうした常識に合わないものは変だと思い、異常だと決めつけます。


 しかしよく考えてみますと、われわれとてもこの世に誕生した時は、ほとんど無に等しい状態だったのです。乳房を吸うという本能以外は何の能力もない状態だったのです。

それがやがて目が見えるようになり、寝返りを打つようになり、ハイハイをするようになりながら言語能力や立体感覚を発達させてきたのです。

 その道の専門書によりますと、ハイハイの仕方と脳の発育との間に密接かつ重要な関係があることです。さらに発達して歩いたり走ったり、ころんだり泣いたり、ケンカしたりいじわるしたりされたりすることにも、それなりの意味があるらしいのです。

 たとえば漢字を理解する能力───ただ単に暗記する能力とは別の、いわゆる語感───は幼児期に転んだり、でんぐり返しをしたり、鉄棒にぶら下がったり、水に頭から飛び込んだりする運動の中で発育しているらしいのです。

私自身の教育体験からもそれを実感することがありますが、最近の教育がそうしたことには無とん着に、実生活からかけ離れた詰め込み教育に終始していることは問題です。

 つい話がそれてしまいました。人間生活が三次元の世界の環境で作り上げられていることを述べようとして脱線してしまいましたが、しかし、われわれ成人はそういう過程を無意識のうちに体験し、すっかり地上生活に慣れきっているわけでこう見てきますと、

地上生活というのは実に特殊な環境の条件の中での生活であり、これを持って常識と考えたり、当たり前と思ったりすることは極めて危険なことだとも言えるわけです。

 ここで私が思いだすのは例のオリバーロッジの 『幻の壁』 です。すでに第三章で紹介しましたが、私は煩をいとわず、ここでもう一度引用しますので、ロッジの言わんとするところを良く理解していただきたいと思います。

私に言わせればロッジの考えは言わば〝死後の問題のコペルニクス的転回〟であり、こうした転回が出来ないと、レナードのいう Higher Spiritualism は理解できないと思うのです。


 『われわれはよく〝肉体の死後も生き続けるのだろうか〟という疑問を抱く。が、一体死後とはどういう意味であろうか。

もちろん肉体と結合している五、七十年の人生の終わった後のことには違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末転倒した思考から出る疑問に過ぎない。というのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。

これは実に特殊な現象というべきである。私は良く〝死は冒険であるが、楽しく待ち望むべき冒険である〟と言ってきた。確かにそうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。

こうして肉体をまとって地上に出てきたこと自体が奇蹟なのだ。失敗する者はいくらでもいるのである』


  “真相〟というものが見た目や常識による判断とはまるで違う、ということは科学の世界では珍しいことではありません。コペルニクスの地動説がその最たるものです。

正直言って今の世でも誰がどう見たって太陽の方が地球の周りを回っているようにしか見えませんが、実際は足元の地球の方が太陽の周りを回っているのです。

それも時速一六〇〇キロという猛スピードです。これが又人間の常識では信じられません。が事実であればそう信じるより他はありません。

 諸々の霊界通信によりますと、死後の世界は地球に近いところほど環境が地上に似ているということです。死の直後に置かれる環境などは地上そっくりだそうです。地面を踏みしめて歩くし、山もあれば川もある。花も木もあり、

それが上の世界へ行くにつれて美しさを増し、さらに神々しさを感じるようになっていき、さらに上の世界へ行くと地上の言語や常識では表現や理解もできなくなると言います。

 そう見てきますと、どうやらロッジがいうように、われわれはホンの束の間の冒険をしに地上に降りてきているというのが真実のようです。霊界が本来の生活の場で、ホンの束の間だけ、特殊な体験を求めて地上に来ているに過ぎないということです。

 もしそうであるとすれば、地上の苦も楽も、富も貧乏も、また違った目で見ることができるわけで、古来、幾多の僧侶や行者が難行苦行しながら悟ろうとした人生の謎も、スピリチュアリズムを正しく理解されれば、たとえ数学の難問がちょっとしたヒント一つですらすらと解ける如くに、簡単に悟ることが出来るわけです。

 私の師である間部詮敦氏は浅野和三郎氏の四魂説、すなわち人間は肉体の他に幽体、霊体、神体又は本体といいう三種のエーテル体があり、それぞれの生活の場としての物質界、幽界、霊界、紳界があるとう説を知った時、

それまで愛読していた古今東西の人生の書や哲学書を全部捨ててしまったと言う話を聞かされました。捨てたと言うのは比喩的に言ったのでしょうが、

確かにその四魂説やマイヤースの類魂説、シルバーバーチの因果律や再生説は、古来の理屈っぽい説教や難解な哲学書を超越した、まさに快刀乱麻を断つが如き、言わば宇宙の謎を解く大方程式であるように思えます。そこにスピリチュアリズム本来の妙味があり神髄があるわけです。

 ではその幽界、霊界、紳界とはどんな世界なのかこれを浅野氏とマイヤース、それに今回新しく紹介するトウィーデールという人がまとめた霊界通信によって検討し、最後にシルバーバーチで締めくくって見ようと思います。それにはまず、先に述べた浅野氏の四魂説から説きおこすのが一番理解に便であるようです。

 これから氏の 「心霊研究とその帰趨」 の第一章及び第二章から引用しようと思うのですが、その前に一言前置きしておきたいことがあります。

 この四魂説と四界説は浅野氏が晩年にもっとも力を入れた課題であったようで、氏自身は確固たる自信を持ちながらも、これを支持してくれる説が西洋に見当たらないことに一抹の不安と不満を抱いておられたことを、弟子である間部先生から聞いておりました。

そのうち私は米国のルース・ウェルチ女史の Expanding Your Psychic Consciousness by Ruth Welch (『心霊的意識の開発』)に四魂説をズバリ図示したイラスト(第2図)が出ているのを発見して早速お見せしたところ、

先生は飛び上がらんばかりに驚かれ、日頃あまり感情を表に出されない方なのに顔面を紅潮させて〝よくぞいい本を見つけてくれた〟と言って喜ばれたことを思い出します。
℘141
 その後、英国から取り寄せたトウィーデール紙の News From the Next World by C.Tweedale (『他界からの通信』) の中に今度は四界説をズバリ図示したイラスト(第1図)を発見しました。

その時はすでに間部先生は霊界の人となっておられましたが、私はこれで浅野氏説がスピリチュアリズムの定説と言うべき確固たる説であることを確信した次第です。

 まず四魂説について浅野氏はこう述べています。(意味に変化を来さない範囲で読みやすく書き改めます)



『(一)人間はその肉体の内に超物質的エーテル体を有っている。但しエーテル体とは概称であって、詳しく言えばそれは幽体、霊体、本体の三つに大別し得る。

(二)肉体、幽体、霊体、本体の四つは浸透的に互いに重なりあっているのであって、各個に層を為して遍在しているのではない。

(三)これらの四つの体はいずれも自我の行使する機関であって、それぞれの分担がある。すなわち肉体は主として欲望、幽体は主として感情、霊体は主として理性、本体は主として叡智の機関で、必要に応じてこもごも使い分けられる。

(四)概してエーテル体は非常に鋭敏に意念の影響を享け、その形態は決して肉体の如く固定的ではない。又その色彩、なかんずく感情の媒体である幽体の色彩は情緒の動きにつれて千変万化する。

(五)エーテル体は時空を超越している。少なくとも時空の束縛を受けることが極めて少ない。故にその活動は極めて神速自在である。

(六)エーテル体は人間の地上生活中に置いてもしばしば肉体を離脱するが、そうした場合には必ず白色の紐で肉体と連結されている。死とは右の紐が永遠に断絶した現象である』


 次に四界説について───

 『四大界──人間の自我表現の機関が四大別されるように、人間のおかれる環境もやはり四大別し得るようである。

すなわち (一)物質界、(二)幽界、(三)霊界、(四)紳界である。

 右の中、物質界はわれわれが五感を持って日常接触する世界であるから、これはここに説く必要がない。説明を要するのは幽界以上である。


幽界───とは、心霊研究の立場からすれば要するに地球の幽体と思えば良い。地球に限らず天地間の万有一切は自然法則の束縛から免れることはできない。従って地球にも無論幽体もあれば、霊体もあり、又その本体もあり、互いに浸透的に重なり合っている。

これらのすべての中でその構成分子が一番粗く、かつその容積が一番小さいのは無論地球の物質体である。地球の幽体ともなればその構成分子は遥かに微細で、内面は物質的地球の中心まで浸透し、又外面は物質的地球のずっと外側まではみ出している。

その延長距離についてはまだ定説はないが、しかし地球の幽体が他の諸天体、少なくとも太陽系所属の諸天体の幽体とどこかの地点で相交錯しているのではないかと思われる節がある。「ズテッドの通信」の中にこんな一節がある。

 「私達の住む世界 (幽界) は地上の人達が考えるところとは大分違う。幽界の居住者は物質的生活が営まれる諸々の天体からの渡来者である」

   ───中略───
 他にもこの種の通信はまだたくさんある。
 で、幽界について従来一般人士が抱いている観念には大々的修正を要するものがある。その要点を述べる。


(一)幽界は肉体を有する人間にとって密接な関係のある境地である。

 幽界はもちろん肉体を棄てた帰幽者の落ち着く世界には相違ないが、しかし人間は生前においてもその幽体を用いて間断なくこれと交渉を有している。各種の黙示録又はインスピレーション、思想伝達現象、交霊現象、霊夢などは殆ど全部幽界との交渉の結果である。


(二)幽界を単に距離で計ろうとするのは誤謬である。

 仏者のいわゆる西方浄土、十万億土等はむしろ単なる方便説で、実際には当てはまらない。幽界は要するに内面の世界で、場所からいえば大地の内部にも、又その外部にも亘っている。従ってわれわれの居住する物質界とて、その内面は立派に幽界である。


(三)幽界はまだ途中の世界である。

 幽界は物質界に比べれば比較にならない程自由であり、思念する事は直ちに具現化するといった世界であるが、しかし理想を距ることまだ甚だ遠く、取りとめない空想又は熾烈なる感情等によって歪曲された千変万化の現象が盛んに飛躍出没する境地らしい。

旧式の宗教家は、信仰次第で死後人間が直ちに光明遍照の理想世界に到達し得るように説くが、あれは事実に反している。


霊界───となると、そろそろ地上の人間の思索想像に余るものがある。むろんわれわれの内にも未発達ながら霊体はある。

故に一切の欲念や感情を一掃し、冷静透明、あたかも氷のような心境に入りて沈思一番すれば、霊界のある一局部との接触が敢えて不可能というわけではないが、しかし実際問題となれば、なかなか思うようにいかないのが現在の地上の人類の状態である。

神人合一だの、神は内にあるのだと、口に立派なことを述べる者は多いが、いずれも実は浅薄卑俗(せんぱくひぞく)なる自己陶酔に過ぎぬ。

その何よりの証には、そう公言する人達から殆ど何ら偉大なる思想も生まれず、又何ら破天荒の発明又は発見も現れないのではないか。要するにその説くところは単なる理想であり、空想であり、口頭弾であって、実際の事実ではない。

 実際問題とすれば、現在の地上の人類として僅かに期待し得るのは霊界とのすこぶる狭い、局部的の接触である。それもよほど優れた天分の所有者が刻苦精進の上で出来ることである。

首尾よくこれに成功した人がつまり人間界の偉大なる哲学者、科学者、思索家又は発明家達である。何分にも地上の人間は鈍重なる肉体で包まれ、又気まぐれな幽体で覆われているので、なかなかそれらを突破して、色も香も、歪みも、又錯(あやま)りもない、明鏡のような純理の世界には容易に突入し得ないのである。


 が、この霊界とてもまだまだ理想の世界ではない。この境地の最大の欠点は、それぞれの局面に分割されていることである。ある与えられた道筋の見通しはつくが、他の方面とのことは少しも判らないのである。


神界───つまり地球の本体となると、いよいよ以って筆をつくすべき余地がない。強いて想像すれば、それはおそらく他の諸天体と合流同化し、霊瑯清浄、自在無礙、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでも言うより他に途がないであろう。死んで幽界に入ったステッド等も次にように歎息している。

 「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己の取るにも足らぬ利害損失の念などはきれいに振り棄て、礼拝三昧、讃美歌三昧に浸るであろうと。そういった時代も究極においてはあるいは到達するかもしれない。

しかし現在のわれわれはまだそれを距ることは甚だ遠い。人間の地上生活は言わば一つの駅場、われわれの進化の最初の駅場にすぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。われわれはまだまだ不完全である。われわれはまだ個々の願望欲念を脱却し得ない。

われわれは依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりもはるかに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚歎に値する・・・・・・」


 人間は自己の置かれたる環境がいかに広大であるかを知り、成るべく奥へ奥へと内観の歩を進むべきであるが、同時によく自己を省みて、かりそめにも自然の秩序階級を無視し、社会人生に何の貢献をも為し得ない誇大妄想の奴隷になることを避けねばならぬ』


 浅野氏の説は極めて概略的で抽象的に過ぎ、理屈の上ではなるほどと思っても、これだけでは実感を持って理解することはとても無理です。それを補う為にトウィーデール氏の 「霊からの便り」 を紹介したいと思います。

 これは英国国教会の牧師であるトウィーデール氏が、霊能者である奥さんを通じて起きた各種の心霊現象をまとめたものですが、中でも注目されるのが自動書記通信です。

 通信者はコナン・ドイルを始めとして、小説家のエミリー・プロンテ、ピアニストのショパン、バイオリン製作者のストラドバーリ、天文学者のロバート・ボール等、世界的に著名だった人の他に二、三の知人や縁者から成っていて、それぞれ個別に質問を書いて出し、その用紙に書かれた回答をまとめたものです。


 霊媒の先入観が入るのを防ぐ意味で質問の内容は前もって奥さんに知らせず、入神してからさっと書いて出したと言いますが、回答はすぐさま書かれ、またそのスピードがものすごくて、時には用紙が破れることもあったということです。

 ではその中から他界直後の様子や霊界の位置などに関する興味深い部分を訳出してみましょう。果たして本当にショパンなのかドイルなのかといった問題はトウィーデール氏が徹底的に探りを入れておりますが、ここではあまり名前にこだわらずに、その内容に注目していただきたいと思います。特に天孫降臨をズバリ指摘している箇所は日本人には興味津々です。


℘148
 
 〇死の過程と意識について

問「死んで霊界へ行くと言う現象は怖ろしいですか、苦痛ですか」


ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」


問「まだ肉体の意識のある場合の話ですか」

ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の人だそうで、多くの人の為に尽くした人に付き添うために派遣されているということです。当分の間付き添うということでした」


問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」

ストラドバーリ「全然」 (ストラドバーリ は老衰死)


ショパン「死そのものは少しも苦痛ではないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方がつらかった」 (ショパンは結核で死亡)


問「そうでしたね。で実際に死ぬ時はどうでした」

ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もかもわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」


ドイル「私の場合は大変な激痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)


問「激痛はどこに感じましたか」
 
ドイル「全身を走り抜けたようです」


問「忘却と言うのは何のことですか」

ドイル「深い眠りです。目が覚めたら川岸の土手の上にいました」


ブロック(トウィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることは出来ませんでした。晩年は辛かったから死ぬのはうれしかったです」


タピサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことだかわりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の高いところにいたということだけです」

(霊視すると今では十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます───編者)

問「だからタピサちゃんにとっては、まだ死んだ記憶がないということね」

タピサ「そう、そうなの」



  〇死後の身体について

問「今あなたが使用している身体は形態、容貌、機能とともに地上時代の肉体とそっくりですか」


ストラドバーリ「今の身体はあなたの肉体とまったく同じで実感があります。実にラクです。眼はちゃんと見えます。ただ心の方が地上より大きく作用します」


ドイル「地上時代の肉体よりはるかに美しいです。しかもこうして地上に降りて来られます。機能的にも霊体の方が具合がいい。有難いことに痛みというものを感じません。地上の人生を終えたその場から今の人生が始まったわけです。


ブロック「このからだは地上の肉体と少しも変わりません。ただし、がっかりさせられることが多い。あれ持って来いこれ持って来いと、うまいものを注文するのだが、食べてみるとまったくうまくない」


タピサ「私はずっと今のままよ。そちらで私がどんな体をしていたか知りません。ただこれだけは言えます。みんなの目には見なくても、私はおうちの中をスキップして回ったり歌ったりしているということ」



  〇飲食と睡眠について

問「エーテル体を養うために必要なものがありますか。食べるとか飲むとか眠るとか・」

ストラドバーリ「そうしたいと思わないかぎり飲むことも寝ることもしません。その気になれば何でもできますが・・・・・・」


問「じゃ、あなたは食べることも寝ることも飲むこともしないわけですか」

ストラドバーリ「時にはすることがあります。寝ようと思えば寝られます」


ショパン「寝るも飲むも思いのまま。行くも戻るも思いのまま」 (ショパンは良く詩文で通信を書いていますが、意味を伝える程度に訳しておきます──訳者)


問「では呼吸もしているわけですか」

ショパン「然り」

ドイル『飲食の必要はありませんが、欲しいと思えば摂取できます。成長するにつれて地上的なものを欲しがらなくなり、求めなくなり、もっと高尚なものを求めるようになります」


ブロック「欲しいものは何でも手に入りますが、我慢もできます」


問「エーテル体を維持する上で必要ですか」

ブロック『必要です。ですが、摂取するものもみなエーテル質です。私は今持って幻影に悩まされております。これは、聞くところによると一種の罰だそうです。もっとも私の場合は地上の人のためになることもしているので、まだお手やわらかに扱って下さっています」

ショパン「本当に欲しくなれば食事をすることもあります。欲しいだけ食べればそれで止めます」

タピサ「私はやりたいことは何でもします。食べるし、飲むし、寝ることもあります。でもそうしなければならないことはありません。必要なものは全部空中(エーテル)から摂取していますから・・・・・・」



 〇時間の感覚について

問「時間を意識することがありますか。たとえば記録したり約束したりする上で時間の経過を計るための尺度が必要ですか」

ストラドバーリ「地上の時間とは異なりますが、それに相当するものはあります。私たちの時間は太陽時間で、光の変化で判断します」

問「光の変化は何が原因で生じるのですか」

ストラドバーリ「あなた方が見ている太陽です」


ショパン「時間はあります。さもないと大きな集会に参加する用意が出来ません。幽霊にも時間が分かることはあなた方も良くご存じのはずです。だって必ず真夜中にでるでしょう」


問「地上へ来られる時はやはり地上の時計を見て準備をされるのですか」

ショパン「地上に来る時はそうしますが、それ以外の時は地上の時刻は知りません」


問「ストラドバーリは霊界では太陽光線の変化で時間を知ると言っていますが・・・・」

ショパン「その通りです。太陽の光で動いています。時間がきましたので失礼します」

℘153
ドイル「こちらでも太陽の光による時間があります。地上の時間も太陽の働きによっているわけですが、太陽に関する認識に大きな違いがあるのです。あなた方にはちょっと理解できないことがあります。約束の時間はちゃんと決められます」


問「地上の時刻もわかりますか」

ドイル「分かります。地上に近いですから」



  〇霊界の位置について

問「いま現在どこに住んでいますか。霊界というのは一体どこにあるのですか」

ストラドバーリ「地球と同じような天体上に居ます。私はあなたのすぐ近くに居ます。私たちにはあなたの姿は良く見えますが、そちらからは見えないでしょう。霊能者は別ですが。私たちも天体上にいます。太陽も見えます。あなたがたが見ている太陽と同じです」


問「界は幾つありますか」

ストラドバーリ「七つです」  (第1図参照)


問「その七つの世界はミカンの皮のように、あるいは大気のように地球を取りまいているのですか」

ストラドバーリ「そうです、でも肉体を持ったものはここには住めません。地球は人間が住むようになる以前は高級な霊的存在、あなた方の言う天使がおりました (聖書の)創世記にある通りです」


問「ということは当時の地球は高級霊の通う場所だったわけですか」

ストラドバーリ「その通りです。物質化した霊魂がそのまま居残ったのが最初の人類です」


問「あなたのいる界は地表からどのくらいの位置にありますか」

ストラドバーリ「それは私には分かりませんが、かなり近いようです」


問「界と界との境は何か ゆか floor のようなもので仕切られているのですか」

ストラドバーリ「空間 space によって仕切られています」


問「それらの界が地表の上空になると、人間の目には透明なわけですね。それを通して星とか太陽とか惑星を見ているわけだから・・・・・・」

ストラドバーリ「ご説明しましょう。人間の目はある限られた範囲の光線しか受けとめることは出来ません。霊的なものは人間の目には映らないのです。

死んでこちらへ来ると最初はどこへ行っても違和感があり新しいことばかりですが、感覚が慣れてくると、こちらの土地、海、草木なども地上とまったく同じように実感があることが分かり、しかも遥かに美しいことを知ります」

ショパン「私の住んでいるところは地球から遠く離れています。円周の外にあります」


問「何の円周ですか。地球のことですか」

ショパン「地表から完全に離れています。こうして通信するために降りて来ている間はあまり離れていません」


問「エベレスト(八八四八m)が引っ掛かりますか」

ショパン「いいえ」


問「どのくらいの位置がありそうですか」

ショパン「およそ五万mです。ですが、距離とか空間はわれわれが移動する際は全く関係ないようです。心に思えばもうそこへ行っています」

ドイル「難しい問題です。同じ国の人間でも、その国についての説明をさせれば一人一人違ったことを言うでしょう。霊界についても同じで、霊によって言うことが違ってきます。私に言わせれば、私は今あなたの上空に居ます」


問「距離は地表からどの位ですか」

ドイル「分かりません」


問「地表に近い大気圏のあたりが幽界より上の界へ行く為の準備をする所、いわゆるパラダイスですか」(第1図)

ショパン「そうです。はじめは地上で過ごします。同じパラダイスでも地上から離れて第一界(幽界)に近い部分もあるわけです」


問「キリストも、それからキリストと一緒に処刑された別の盗人も、そこで目を覚ましたわけですか」

ショパン「そうです。キリストはそこから戻ってきて姿を見せたわけです」


問「そこは地球の表面になるのですか」

ショパン「そうです。中間地帯です。界と界との間には必ずそういうものがあります。人間はみな地上にいた時と同じ状態で一たんそこに落着きます。がそこで新しい体験をさせられます。

地上でも、九死に一生を得た人がその瞬間にまるでビデオを見るように自分の全生涯を眼前に見たという話がありますが、あれと同じで、地上生活の全てを、夢でも見るように、見せられます。犯した罪や過ちを反省し改めさせるためです。それをしないと先に行けないのです。反省しない人間は下降して行きます」


ブロック「私がここで見たものは、実にきれいな青色でした。どうよべばいいのでしょうか。何か島みたいで、青色をしていて、いかにも健康良さそうな感じでした。私は自分がどこに居るのか心細くなって付き添っていた人(指導霊)に〝ここは一体どこですか〟と聞いてみました。

すると〝ここは二つの界の中間層だ。そのうち慣れるだろう。大体ここに来る人間は仕事仕事で生涯を送った人ばかりだ〟という返事でした。さらにその後出会った人はこんな風に話してくれました。

“心配しないでよろしい。大丈夫ですよ。あなたはどうも宗教心が足りなかったようだが心掛けはまずまずだった。ここではその心掛けが大切だ。生まれた環境は自分の責任じゃない。宗教的でない環境に生を受ければ宗教心は芽生えにくいのは当然だが、そうした逆境の中にあって良い行いをすれば、その価値も一層増すというものだ。いつもその時の条件を考慮して評価されるわけだ〟と。

これでお分かりでしょう。ドイルも云っていたように、要するに大切なのは教義ではなくて行いです。地上の人間が Love(愛、慈しみ、思いやり)の真の意味を理解すれば戦争など起こらないのですが・・・・・・」

 編者中──浅野和三郎氏の著書の引用文の中に〝ステッドの通信〟というのがありましたが、これは The Blue Island by W. T. Stead のことです。これは文字通り訳せば〝青い鳥〟で仏教でいう極楽浄土、西洋でいう、パラダイスに相当するようです。

ここは地上生活での疲れや病を癒す一時休憩所のような場所であって天国 Heaven とは違います。天国と呼ぶにふさわしい界は浅野氏のいう神界、マイヤースのいう超越界でしょう。こうした問題は後で扱います。 


 さてトウィーデール氏はパラダイスについてドイルに尋ねます。

問「あなたは全ての霊は一たんここに来るとおっしゃいましたね」

ドイル「言いました」


問「ということは善人も悪人もみなここに来るということですか」

ドイル「その通りです。キリストが刑場で隣の盗っ人にこう言っているでしょう───〝今日この日に再び汝とパラダイスにて相見(アイマミ)えん〟と」


問「そうするとパラダイスも善人の行く場所と悪人が行く場所とに別れているわけですか」

ドイル「地上に善人と悪人がいて悪いことをした人間は刑罰を受けるように、パラダイスでも善人は幸せを味わい、悪人は喜びとか幸福感を奪われるという形での刑罰を受けます。

さらに犯罪を犯した人間はその現場にひきつけられて行きます。故意の殺人者は例外なく自縛霊になります。罪を悔い改める心が芽生えるまでは、何時までもその状態から抜け出られません。それはそれは長い間その状態のままでいる人間が大勢います」


問「そちらで見たり聞いたり触ったりする感覚は地上と同じですか」

ドイル「肉体よりずっと鋭敏です」


問「今この部屋にいますか、それとも遠く離れた所にいるのですか」

ドイル「あなたのすぐ後ろにいます」


問「私と同じように実体がありますか」

ドイル「ありますとも、立派に実体があります」


問「何百マイルも何千マイルも遠くから通信しているわけではありませんね」

ドイル「(皮肉たっぷりに)火星から通信しているわけではありませんよ」


問「部屋にあるものが全部見えますか」

ドイル「見えます。あなた方よりも良く見えます。視力が肉眼より鋭いですから」


問「霊魂は霊能者の肉眼を通してしか地上のものが見えないのだという人がいますが・」

ドイル「とんでもないあなた方と同じように、いやそれ以上に、私たちにとって地上のものは極めて自然に見えます」

最後に英国の著名な天文学者だったロバート・ボール卿 Sir Robert Ball の学者らしい解答を紹介します。


問「天文学者であられる卿にお伺いしますが、霊の世界は地球の近くにあるのでしょうか」

ボール「地球の外側をぐるりと取り巻いております」


問「地球からの距離はどのくらいでしょうか」

ボール「これは難しい問題です。三十キロ程度の近いものもあれば百キロほど離れているものもあり、遠いものになれば何千、何万キロも離れています」


問「人間に目には透けて見えるわけですか」

ボール「肉眼は限られたものしか見えません。霊の世界は肉眼にも天体望遠鏡にも映りません」


問「例えばガラスのコップのようなものを考えてもいいでしょうか。実体があり固いけど、透明であるという・・・・・・」


ボール「なかなかいい譬えです」

問「そうした世界はどの天体にもありますか」

ボール「あります。どの恒星にも惑星があるように、どの天体にもそれなりの霊の世界があり、同時にそれぞれの守護紳がいます。秘密はエーテルにあります」


問「大気圏を三十キロの高さまで上昇して行ったら霊の世界に触れることが出来ますか」

ボール「それは不可能です」


問「ということは霊の世界は透明であるだけでなく、身体に触れることも出来ないということですか」

ボール「その通りです」


問「本質はエーテルで出来ているのですか」

ボール「そうです」


問「霊界の秘密はエーテルにあるとおっしゃったのはその意味ですか」

ボール「さよう」


問「そのエーテル界の生活や存在は地上生活と同じく実感がありますか。そして楽しいですか」

ボール「はい、楽しくて実感があります。但し善人にとってのみの話です」 (善人 the good の文字に二本の下線が施されている)

問「地球の霊魂が太陽系の他の惑星、例えば火星や金星のエーテル界を訪れる事が可能ですか」

ボール「高級霊になれば可能です」


問「例えばオリオン座のペテルギウス星5,670,000,000,000,000キロ(5,670兆㌔)の様な遠い星でも同じですか」

ボール「同じです」


問「普通の霊魂は行けませんか」

ボール「行けません」


問「ではこういうことですか。つまり普通の人間は死後そのエーテル界で生活し、高級になると他の天体のエーテル界を訪れることが出来るようになる」

ボール「その通りです」


ボールはこのあと「この章は実に重要ですよ」 と付け加え、署名して終わりにしておりますが、高級霊になれば他の天体のエーテル界に行けるようになるということは、要するにエーテル界の上層部が他の天体の上層部と合流しているということを意味しています。

ヴェール・オーエン氏の「ベールの彼方の生活」に次の様な箇所があります。

 「以上のことからお分かりのように」、われわれが第1界から上層界へと進んで行くと、他の惑星と合流している界、つまりその界の中には地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界にと達する。

さらに進むと今度は他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する。

それにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを具えた高級神霊が存在し下層界から末端の物質界に至る全てに影響を及ぼしている。

かくしてわれわれはようやく惑星から恒星へ、そして一つの恒星から複数の集団へと進んできたが、その先にもまだまだもっと驚くべき世界が幾つも存在する。が第十界の住民であるわれわれには、それらの世界の事はホンの僅かしか分からないし、確実な事は何一つ判らない」


レナード氏の「スピリチュアリズムの真髄」はこうした死後の世界の区分の問題を実に詳しく扱っており、是非とも参考にしていただきたいと思います。

私が本章で敢えてトウィーデールの著書から引用したのは、本書が非常にいい内容を持ちながら一般に知られておらず、引用されることも無いので、この機会にと思ったわけです。

 特に天孫降臨を髣髴させる言説を霊界側から述べているのは、私の知る限り西洋では他に見当たらないようです。

 もっとも人類誕生の問題はまだそれを論じるに足るだけの十分な資料を積み重ねていないようです。しかしこれがスピリチュアリズムでないと絶対に説けない謎であることだけは断言できます。

 ダーウィンの進化論はいま学会でも集中砲火を浴びています。余りに唯物的過ぎ、あまりに単純すぎるところに原因があるわけですが、といってスピリチュアリズ的要素を取り入れた説が受け入れられる時期はまだまだ遠い先のようです。

 かつてダーウィンと同時代の自然科学者で心霊学者でもあった A・R・ウォーレスが〝霊的流入〟 spirituals  influx という用語を用いた説を発表したことがありますが、まともに取り合ってもらえないまま眠り続けています。当時としてはあまりにも飛躍的過ぎたからでしょう。

 ちなみに霊的流入というのは、ダーウィンのいうように人類がアメーバーから進化して動物的段階に至ったその最終段階で、紳的属性を持った人間の霊魂が宿ったという説で、シルバー・バーチも同じようなことを述べていますが、私のこの説と、先の天孫降臨の説の双方とも真実であると考えております。

つまり一方に動物的進化の過程でウォーレスのいう霊的流入を受けて人間へと跳躍した系統があり、他方に、高級霊の物質化による一方の系統があったと見るのです。



 思うにその物質化現象は霊界あげての大事業だったことでしょう。数えきれない程の失敗の繰り返しがあったことでしょう。時間もかかったことでしょう。日本の古典はその辺の事情を抽象的に物語っていて興味があります。

 これには異論もありましょう。が真相はどうであれ、今までに得た霊的知識を土台として、そうした問題に想像の翼を広げていくのは実に楽しいことです。

 その問題はこれ位にして、次にマイヤースの通信から死後の世界に関する箇所を紹介しましょう。例によって The Road to Immortality からですが、ここでは第三章を浅野和三郎訳「永遠の大道」を下敷きにしながら紹介します。

 『人間がその魂の巡礼において辿るべき工程をまとめればおよそ次のようになる。
 (一)物質界
 (二)冥府、又は中間界
 (三)夢幻界
 (四)色彩界
 (五)光焔界 (編者注──浅野氏の四界説に当てはめれば(三)(四)(五)が幽界、(六)が霊界(七)が紳界となる)

 (六)光明界
 (七)超越界
 各界の中間には冥府又は中間境があり、各霊はここでそれまでの行為と経験を振り返って点検し、上昇すべきか下降すべきかの判断を下す。


 (一)の物質界は地上の人間が馴染んでいるような物質的形態に宿って経験を積む世界である。これは必ずしも地上生活のみに限られない。遠い星辰の世界にも似たような物的条件を持った天体が幾らでもある。又その中には人体よりも振動の多いものもあれば少ないものもあり、まったく同じというわけではないが、本質的にはこれを〝物質的〟と表現しても差し支えない性質を具えているのである。

 (三)の夢幻界というのは物質界で送った生活と関連した仮相の世界である。

 (四)の色彩界ではもはや五感の束縛から脱し、意念による生活が勝ってくる。まだ形態が付随しており、従って一種の物的存在には相違ないが、しかしそれは非常に希薄精妙なる物体で、「気」と呼んだ方が適当かも知れない。この界はまだ地球又は各天体の圏内に属している。

 (五)の光焔界において各自の霊魂ははじめて永遠の生命における自己の存在の意義を自覚しはじめ、一つのスピリット(本霊)によって養われている同系の類魂たちの精神生活に通暁するようになる。

 (六)の光明界において各自の霊魂はその類魂たちの知的生活に通暁出来るようになり、仲間の全前世を知的に理解することになる。同時に物的天体上に生活している類魂の精神的生活にも通暁する。

 (七)最後の超越界は本霊ならびに本霊の分霊である類魂の全てが融合一体となって宇宙の大霊である神の意思の中に入り込む。そこには過去、現在、未来の区別が無く、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり実相である』

 マイヤースの説明は余りにも抽象的で簡単過ぎますが、これはあくまでも死後の世界の図表のようなものですから已むを得ません。マイヤースもこの後順を追って詳しく説明していきます。

そして遂に「類魂」の章に至るわけですが、これはすでに第三章で詳しく紹介しましたので、お読み下さった方には右の箇条書きだけで人間の辿るべき旅路が髣髴としてくることと信じます。

 こう観てくると、人間がいかに小さな存在であるかを痛感させられます。言ってみれば地上生活は宇宙学校のホンの幼稚園、いや保育園程度のものかも知れません。その程度の人間のすることであれば、よいことにせよ悪いことにせよ、程度はおのずから知れています。

 浅野和三郎氏はよく「人間はいい加減ということが一ばん大事じゃ」と言われたそうですが、これは己の小ささに気付いた、真に悟った人間にして始めて口に出来る言葉でしょう。

 浅野氏は又その著『心霊学より日本神道を観る の中で「人間味のいない人間は畢竟(ヒッキョウ)この世の片輪者で・・・・・・」と述べていますが、無理や禁欲や荒行で五官を超越し、あるいは抑え込もうとすることの愚を戒めているわけです。

私自身も精神的に又肉体的にかなり無理な修業を心掛けた時期がありましたが、その挙句に悟ったことは、結局神は人間にとって五感でもって生活するのが適切だから五官を与えて下さったのであり、要は節度 moderation を守ることに尽きるということでした。

 むろん人それぞれに地上生活の使命と目的があり、禁欲がその人にとって大切な意味を持つことがあり、それがいわゆる業(カルマ)の現れである場合もありましょう。

がシルバー・バーチも繰り返し述べていることですが、物事には必ずプラス面とマイナス面とがあり、禁欲生活によって得るものがある一方には、それ故に失わざるを得ないものが必ずあるわけで、それはまた別の機会に補わなければなりません。

 こうした禁欲とか行、戒律といったものは、その土台となるべき霊的知識が誤っていると飛んでもない方向へ走ってしまう危険性があり、スピリチュアリズムの真理に照らして見ると滑稽でさえある場合が少なくありません。

またそれ故に何千年何万年と、想像を絶する長い年月に亘って、自分が捉えた殻の中で無意味な、しかし本人は大マジメな暮らしを続けている霊が大勢いるようです。

そういった既成宗教の誤った教義については第九章で検討する予定でおりますので、ここではひとまず措いて、では最後にシルバー・バーチに死後の世界と生活ぶり、そしてこの世との関わり合いについて語ってもらいましょう。


 『私たちが住む霊の世界を良く知っていただけば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるものは、あなた方のためを思う何ものでもないことがわかっていただけるはずです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰が、ダテや酔狂で降りてまいりましょう。

 あなた方はまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみも無い、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形を持って眼前に現れる、追及したいことに幾らでも専念できる、
 
お金の心配が無い、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさはあなた方には分かっていただけません。


 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることは出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存じない。そしてなお、死を恐れる。

 人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。

なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。ただし、徐々にではあっても成長はしています。

霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。

 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が死んだと言って片付けている者の方が実は生命の実相ついてははるかに多くを知っております。

 この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢を悉く実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。

地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人の為に使用されるようになるのです。インスピレーションなどと言う仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。


 金銭の心配がありません。生存競争と言うものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは弱者に救いの手を差し伸べる力があると言う意味だからです。

失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それが全てです。

 地球へ近づくにつれて霊は思う事が表現できなくなります。正直いって私は地上へ戻るのは嫌なのです。

なのにこうして戻ってくるにはそういう約束からであり、地上の啓蒙の為に少しでも役立ちたいと言う気持ちがあるからです。そしてそれを支援してくれるあなた方の、私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。


 死ぬと言うことは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲と言う名の雑草で足の踏み場も無くなっている状態こそ悲劇です。

 死ぬと言うことは肉体と言う牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです、苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻る事が、果たして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、原語で説明のしようのない天上の音楽を聴けるようになることが悲劇でしょうか。

痛むと言うことを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駆け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのですか。

 地上のいかなる天才画家と言えども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵画では表現出来ないでしょう。いかなる音楽の天才と言えども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。

いかなる名文家と言えども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

 今地球はまさに五月。木々は新緑に輝き、花の香が漂い、大自然の恵みがいっぱいです。あなた方は草花の美を見て”なんと素晴らしいこと”と感嘆します。

 その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた摸作程度しかありません。地上の誰一人見たことのない花があり、色彩があります。

その他小鳥もおれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなた方もその美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時あなたはいわゆる幽霊となっているわけですが、その幽霊になった時こそ真の意味で生きているのです。

 実は今でもあなた方は毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないでいるだけです。それは死んでこちらへ来た時の準備なのです。その準備なしにいきなりくるとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。

肉体の束縛から解放されると、睡眠時間に垣間見ていたものを全意識を持って見ることが出来ます。その時全ての記憶が蘇ります。」


℘171  
 一問一答

問「死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたこと───多分低い世界だろう思いますが、それを思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか」

シルバー・バーチ「低い界へ引きつけられていくような人はやはり睡眠中にその低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。

なぜかと言うと、そういう人の目覚める界は地上と極めてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります」


問「朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか」

シルバー・バーチ「睡眠中あなた方は肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。

その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその肉体は思い出せません。なぜかというと脳が余りにも狭いからです。小は大を兼ねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは例えば小さな袋の中に無理やりに物を詰め込むようなものです。袋には自ずからと容量というものがあります。

ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。

実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は〝地上に戻ったらかくかくしかじかのことを思い出すんですヨ〟と言っておくのですが、どうも思いだしてくださらないようです。

みなさんお一人お一人にお会いしてるのですヨ。そしてあちらこちら霊界を案内してさし上げているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいです。決して無駄になりませんから・・・・・・」



問「死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。何一つ無駄になりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものかと言った地上の人間のお粗末なタンカを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない人間程己の愚かさをさらけ出すのです」


問「睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的ですか」

シルバー・バーチ「仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし、たいていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。

そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをするというのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。

あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐに慣れるかどうかの問題です。

闇の中にいて光を見ていない人は慣れるにはずいぶん時間がかかります。地上での体験も、こちらでの体験も、何一つ無駄なことはありません。そのことをよく胸に刻んでおいて下さい」


問「霊的知識なしに他界した者でも、こちらからの思いや祈りの念が届くのでしょうか」

シルバー・バーチ「死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。
その意味でもわれわれは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学を無くすべく闘わなければならないのです。

それが霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかありません。長い長い休息が必要となるのです。又、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。

反対に人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます」


問「死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか」

シルバー・バーチ「死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識がなくても、死後の世界に早く順応します」


問「そういう人、つまり死んだらそれでお終いと思っている人の死には苦痛が伴いますか」

シルバー・バーチ「それも霊格の程度次第です。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大ていは無意識だからです。死ぬ時の様子が自分で認識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます」


問「善人が死後の話を聞いても信じなかった場合、死後のそのことで何か咎めを受けますか」

シルバー・バーチ「私にはその善人とか悪人とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識はないよりはあった方がましです。がその人の神の価値は毎日をどうやって生きてきたかに尽きます」


問「愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では嫁に行くとか嫁を貰うと言ったことはないと言っておりますが・・・」

シルバー・バーチ「地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとっては何より自由な世界への入口の様なものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。

が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死と共に両者は離れてきます。それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年をとるといったことではなく、成長、進化、発達という形で現れます。

つまり形態ではなく魂の問題となるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないといったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。


男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上っておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます」


問「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一番多いですか」

シルバー・バーチ「もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。

従って醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に表れて、霊格が下がるのが分かります。そうした罪を地上の言語で説明するのはとても難しく、先ほど言ったように、利己主義の罪というより他にいい表現が見当たりません」


問「死後の世界が地球に比べて実感があり立派な支配者、君主、又は神の支配する世界であることは分かりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか」

シルバー・バーチ「霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。

又地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて上へ上へと上昇して参ります」


問「地上で孤独な生活を余儀なくされた者は死後も同じような生活を送るのですか」

シルバー・バーチ「いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来れば又新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。神の摂理は上手く出来ております」


問「シィークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか」
℘177    
シルバー・バーチ「とくに愛情を感じ、慕っている人物には、大ていの場合会うことが出来るでしょう。共通の絆 a natural bond of sympathy が両者を引き寄せるのです」


問「この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへ来られるまでは本当の実態感は味わっておられません」


問「ということは地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか」

シルバー・バーチ「だから言っているでしょう。地上よりもっと実感がある。と、こちらの方が実在なのですから・・・・・・あなた方は言わば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識していないのです」


問「霊界では意念で通じ合うのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか」

シルバー・バーチ「意念だけで通じ合えるようになるまでは言語もつかわれます」


問「急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるのでしょうか」

シルバー・バーチ「魂の進化の程度によって違います」


問「呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか」

シルバー・バーチ「魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると目が開きます。周りに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所───病院なり休憩所なり───に連れていかれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます」


問「愛し合いながら宗教的因縁などで一緒になれなかった人も死後は一緒になれますか」

シルバー・バーチ「愛をいつまでも妨げることは出来ません」


問「肉親や親戚の者とも会えますか」

シルバー・バーチ「愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません」


問「死後の生命は永遠ですか」

シルバー・バーチ「生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです」


問「霊界はたった一つだけですか」

シルバー・バーチ「霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にも、それぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです。

その無限の霊的世界が二重三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなたが知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだいくらでも存在します」


問「その分布状態は地理的なものですか」

シルバー・バーチ「地理的なものではありません。精神的発達の程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます」


問「ということは私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか」

シルバー・バーチ その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような〝地域〟とか〝層〟が存在します」


問「たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「もしその人がいけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたら咎めは受けません」


問「動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いを受けます。

その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償が伴います。責任という代償です」

 以上各種の資料を引用しながら死後の世界を見てきましたが、全体を通じて最も注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあるという点であろうかと思います。

 地上生活中の体験と知識が死後に役立つという現実的な意味にとどまらず、地上生活中の意識や道徳感覚が時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあるという意味においても、多寡が六、七十年の人生と軽く見くびることが出来ないものがあるようです。

 たとえば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性が去って災いして、死後自分の知的想像力で作り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは〝知的牢獄〟と呼んでいます。かく宗教の指導者やその熱烈な信者にも当然同じことがいえます。

 この問題は別の章で改めて取り扱うことにして、話を元に戻して、もしも地上生活と死後の生活とに現実的にも道徳的にも何の因果関係がないとしたら、また仮に関係があるにしても、それが仏教に見るような永遠の地獄極楽説とか、キリスト教に見るような、嫉妬したり報復したりする気まぐれな界の支配する世界だとしたら、

一体われわれは地上生活をどう生きたらいいでしょう。まったく途方に暮れるばかりではないでしょうか。

 そうした観点から改めてスピリチュアリズムを見ると、それがいかに合理的で、知性も道義心も宗教心も快く満足させてくれるものであることを再認識するのです。

しかし、同時にもう一つの観点、すなわちオリバー・ロッジの説に見られるコペルニクス的転回によってこれを見ますと、地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当たり前といえるわけです。

われわれは肉体という鈍重な衣服をまとってホンの束の間を地上で暮らしているわけで、すぐまた元の生活すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が危険を冒して地上にやってくるに過ぎないのです。

 とは言え、地上に生を受けるということは、ロッジも言っているとおり、そう易々と叶うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです。 「帰経文」 という経に次のような箇所があります。

 「人身受け難く、今巳(すで)に受く、仏法聞き難く、今巳(すで)に聞く。此の身今生に度(サト)らずんば、更に何(いづれ)の生に度(さと)らん、我等もろともに、至心(ししん)に三宝に帰依(きえ)し奉(たてまつ)る」

 死後の世界を知ったからといって、われわれは、かりそめにも地上生活を軽んじることがあってはならないと思います。その戒めを良く表した俳句があります。決して名句とは言えないまでも、良き教訓を含んだ句として最後に紹介しておきます。

 浜までは海女(あま)も蓑(みの)きる時雨(しぐれ)かな
                           高紳覚昇著「般若心経講義」より
  



℘182     
 第六章 動物の進化と死後の生命

 動物にも死後の生命があるのか。あの世で再び会うことが出来るのかという問題は、スピリチュアリズムに関心のある人にとって共通した関心事ですが、動物をいわゆるペットして我が子のように可愛がっている人々にとって大きな関心事であろうかと思われます。

 心霊問題に熱心な方なら、動物の存続を証明する確証を何らかの形で得られておられることでしょう。心霊写真に動物が写っていることが良くありますし、霊界通信でもそれを証言する霊がいくらでもいます。

 さて、ひと味違った霊界通信に、英国の女性心霊治療家オリーブ・バートンの 「子供のための心霊童話」 Spirit Stories for Children, retold by Olive Burton というのがあります。これはバートン女史のお嬢さんのエドウィーナちゃんの守護霊が語った一種の童話で、一つ一つの話に立派なカラーの挿画も付いていて、

日本も早くこうしたものが出せる世の中になってほしいと思われる心霊書ですが、この童話の中ではペットだけでなく野獣も含めた動物の全てが、人間(の霊)と完全に調和した生活を送っている様子が描かれており、それがそのまま霊界での真実であると述べて述べています。

 それより先の一九四〇年に、バーバネル氏の奥さんであるシルビア・バーバネル女史が When your Animal Dics というのを出しています。

文字どうり動物の死後を扱ったもので、出版と同時に大変な反響を呼び、幾度か版を重ねております。この本を読んでスピリチュアリズムを信じるようになったという人が少なくありません。

私はこれもいずれは日本では出さねばならない心霊書の一つだと考えておりますが、その第十八章に動物に関するシルバーバーチの霊言が特集してあります。

 もちろん一九四〇年までの十年余りの間の霊言が引用されているわけで、その後もシルバーバーチは折に触れて動物愛護を説き、娯楽のための狩猟、食用のための屠殺、科学に名を借りた動物実験の罪悪性を戒めておりますが、

その十八章にはシルバー・バーチシリーズ(全十一冊)に編集されていないものが相当あり(注)、しかも内容的に見てそれで全てをつくしているようですので、ここではその十八章をそのまま引用することにしました。

 単に動物の死後の問題にとどまらず、生命の進化、自我の発生など、心霊学徒にとっては興味深い問題が次々と出てきます。章の初めは当然のことながら、シルバー・バーチという霊の紹介に費やされておりますが、われわれにとっては不要ですので、早速本題に入ります。

(注──このシリーズでは各編者が半世紀に亙るシルバー・バーチの霊言の中から自分の主観によって編集したもので、従って全十一冊が霊言の全てではないわけです。何冊かに重複して編集されていれる部分もあれば、どの霊言集にも載せられていない部分もあるわけで、その一例がこれから紹介する部分です)



問「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

シルバー・バーチ「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛ががかかわっているからです。死後も生前のままの形態を維持するか否かは、その動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。

もしその動物と飼い主───その飼い主 (owner) という言葉はすきではありません。他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。

愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。しかし、もしも飼い主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒を見てもらわなくてはなりません。

飼い主との愛が突如としてきれたのですから、単独で放っておかれると動物も迷います。地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門店に預けるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」

 
問「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバー・バーチ「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力を身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部初めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹きで目を覚ましたわけです。

さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことができるのです。人間は神の一部です。従って進化の順序のなかで人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込むことができる筈です。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって動物の魂に自我意識を芽生えさせることができるのです。それがその後の永い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命の全てのカギです。

動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。

また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」

 
問「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

シルバー・バーチ「いえその点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間についていけなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されて行きます。

そうやって人間が霊的に向上すれば向上するほど、動物はいかに愛によって結ばれているとは言えそのスピードについていけなくなり、やがてこの愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます」


問「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

シルバー・バーチ「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体としてはまだ1個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物では無くなり、人間となります。

ペットして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、元の類魂の中に戻るしかありません」


問「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

シルバー・バーチ「そんなことはありません。魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。

今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」


問「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。人間界への誕生には二種類あります。古い霊が地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から初めて人間界へ誕生してくる場合です」


問「一人の人間としてですか」

シルバー・バーチ「そうです双方とも霊魂です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を有しております。ただ一方がベテラン霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上にやって来るのに対し、他方は、やっと人間の段階まで達した新入生です。

直前まで動物だったのが人間へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階を辿って、今ようやく人間へと達したのです」


問「セオソフキー(神智学)の教えと同じですね」

シルバー・バーチ「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つご存じない。

困ったことです。
それは措いて、あなたはまさか蜘蛛を家の中に持ちこんでペットして飼ったりしないでしょう。

カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことをしないでしょう。それはあなたとそういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方犬とか猫、時に猿などをペットして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ変わって来る段階まで近づいてきているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生れ代わるということを意味するのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前へ行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化して行きます。中には例外的なものも生じます。

動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬よりも知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ変わるのですか。それとも一回きりですか」

シルバー・バーチ「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ変わっては類魂全体のために体験をもちかえります。動物の場合はそれぞれ一度ずつです。そうしないと進化になりません」


問「われわれ人間としては、犬や猫などペットと同じように、生物の全てに対して愛情を向けることが望ましいでしょうか」

シルバー・バーチ「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があると言うことは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。

あなたに心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

シルバー・バーチ「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのですから」


問「屠殺とか動物実験などの犠牲になった代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

シルバー・バーチ「もちろんそれにはそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂を単位として法則が働きます。進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働き方が違うのです。

特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に埋没してしまうので、個的存在とは条件が異なります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問「シラミとかダニなどの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「仮に病気やホコリのせいだとした場合、そのホコリや病気は一体だれがこしらえたのですか。原因を辿れば人間の利己心にいきつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。

たしかに直接の原因は衛星の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そう言う環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人達の利己心、非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己性を棄て、弱者を食い物にするような真似を止め、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」


問「それはたとえば、ハエのようなものには当てはまらないでしょう」

シルバー・バーチ「いいですか、大自然は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。

人間は神のよって創造されたものでありながら、同時に又、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしてもすこしずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理して行かねばならないからです。」


問「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

シルバー・バーチ「全面的ではありませんが一応は当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないのです。いろいろと変化しながら永遠に続くのです。

原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります。」


問「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

シルバー・バーチ「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種のサイクル、現代の思想家の言葉を借りればスパイラル(螺旋状)画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。

要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただければよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」


問「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

シルバー・バーチ「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄り添うようになります」


問「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

シルバー・バーチ「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したものもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」


問「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「進化の一ばんの指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とも言うべきものです。

進化というのはどの段階おいても一定の型に
はまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ優等生だったわけです」


問「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

シルバー・バーチ「違います」


問「動物の類魂は一つではないということですか」

シルバー・バーチ「各種属にそれぞれの類魂がいます」


問「それがさらに細分化しているわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問「動物で一ばん進化しているのは何ですか」

シルバー・バーチ「犬です」


問「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

シルバー・バーチ 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは随分深入りした質問ですね」


問「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

シルバー・バーチ「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置がいらないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。もっとも、形態の中に宿れば別です。類魂そのものには形態はありませんが、もしも形態をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問「動物の類魂は地球上に対して何か物的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。

地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないと錯覚してはいけません」


問「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

シルバー・バーチ「訪れません」


問「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

シルバー・バーチ「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれができるのは飼い主だけですから、飼い主が地上にいれば案内できない理屈になります」


問「飼い主が先に死んだ場合はどうなりますか」

シルバー・バーチ「その場合は事情が違ってきます。今述べたのは一般的な話です」


問「人間より動物の方が心霊能力が優れている場合があるのはどうしてですか」

シルバー・バーチ「人間が今送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもし文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。つまり人間は文明と引き換えに心霊能力を犠牲にしたわけです。

動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。

人間の場合は物質文明が心霊能力を抑え込んでしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力を今発揮しているわけです」


問「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰ってきたりしますが、これも心霊能力ですか」

シルバー・バーチ「そうです霊能者にも同じことができます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。いわゆる本能といわれるもので、ハトがどんな遠くからでも帰って来るのもそれです。これも一種の進化の先がけで、その能力だけがとくに発達したわけです」


問「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出てくる様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助けあうことがあるのですか」

シルバー・バーチ「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

シルバー・バーチ「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺激された動物のすべてがおります。

そうした動物は飼い主の手から離れたことで寂しがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

そこには動物を喜ばせるものが何でもそろっており、やりたいことが何でもできるので、いらいらすることがありません。そして時には地上にいる飼い主の家の雰囲気内まで連れてこられ、暫しその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識の無い方人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言って騒ぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・・・」


問「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

シルバー・バーチ「そうです。それ以外の人について戻って来ることはありません。ところでその世話をしている人はどんな人だと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのと一緒です。

犬とか猫、その他人間が可愛がっている動物が飼い主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役立っているわけです。知識は何一つ無駄なものはありません」


問「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

シルバー・バーチ「そうです。そうしたチャンスをよろこんで引き受けてくれる人が大勢います」


問「動物界は種類別に分けれているのですか、それとも全部が混ざり合っているのですか」

シルバー・バーチ「種族の別ははっきりしています」


問「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

シルバー・バーチ「そうです。とにかく自然に出来上がっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「特に仲の良かったもの同士は別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

シルバー・バーチ「そういうことです。すべてが至って自然に出来上がっていると考えて下さい」


問「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか、猿ですか」

シルバー・バーチ「猫です」

問「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

シルバー・バーチ「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。必ず優等生と劣等生とがいます。人間はたしかに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。

長い長い進化の道程において、猿はいわば足を滑らせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうしても説明が困難です。もっともっと複雑なのです」


問「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

シルバー・バーチ「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなっかったということです」


問「では猿と同じように、将来、犬が進化した段階を滑り落ちることもありうるのでしょうか」

シルバー・バーチ「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。

種の型がほとんど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかもしれませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。

 人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と足、二つの目と一つに鼻が大きく変化することは考えられないでしょう。これが人間の定型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、全体の型は同じです。

動物の場合はこの傾向がもっと強くて霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問「猿の転落もやはり自由意志に関係した問題ですか」

シルバー・バーチ「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問「動物には個体としての意識が無いのに、なぜ類魂全体として判断ができるのですか」

シルバー・バーチ「個々には理性的判断が無くとも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。

個々には判断力はなくても、永い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問「それは植物の場合にもいえるわけですか」

シルバー・バーチ「そうです」


問「それは外的要因によって生じるのではないですか」

シルバー・バーチ「そうですがあなたがおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えてさらに、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません」


問「例えば猿の鉱物であるナッツ類が豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

シルバー・バーチ「結果論からすればそうかも知れませんが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の働きを考慮しなくてはいけません。

つまり人間の目には外的な要因に見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私が言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が加えられています。といってもその基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗して見たところで、その法の枠はどうしようもなく、結局は順応していくほかありません。

しかし同じ型にはまっていても、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしていくことも出来ます。

別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ型は型です」


問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」

シルバー・バーチ「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界の援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。

ただ動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし罪は罪です」


問「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人間のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

シルバー・バーチ「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分からないはずはありません。それでもなお実験を強行するということは、それなりの責務を自覚しているものと看做されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を相互的に考慮したうえで判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうです、同時に人類も動物を助けるためにきているのです」


問「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

シルバー・バーチ「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

シルバー・バーチ「許されません。残虐な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えと全く相入れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」
 

問「動物を実験材料とした研究からは、たとえば癌の治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

シルバー・バーチ「神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験からは発見できません」


問「そうした酷い実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

シルバー・バーチ「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


問「私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになりますか」

シルバー・バーチ「全ての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪う事は許されません」


問「でもウチのにわとりを二十羽も喰い殺したのんですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「では、かりに私がその狐に銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを打ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命は神の前には平等なのです。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。

キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの兄弟姉妹を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問「オーストラリアではウサギの異常繁殖が驚異となっておりますが、これについてはどうでしょうか」

シルバー・バーチ「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合についてブツブツ文句を言います。私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。

インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー・ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。その内人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう。」


問「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

シルバー・バーチ 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。

イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。イエスにはイエスの限られた使命があり、イエス個人としては動物を初めとして全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その訓えを出来るだけ制限したのです。

その使命というのは、当時の西欧世界をむしばんでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」



問「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

シルバー・バーチ 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」


 以上がシルビア・バーバネル著『動物の死後』に収録されているシルバーバーチの霊言です。霊言集にも動物に言及したものは無いことはないのですが、右に紹介したものが一番まとまっているようです。


 では最後に、英国のテレビ番組 「サファリ」 を製作したデニス夫妻 Michael & Armand Denis を招待してシルバーバーチが賛辞を述べた時の様子が霊言集に見えますので、これを紹介したいと思います。夫妻は熱心なスピリチュアリストとして有名です。

『あなたがた(デニス夫妻)は、肉体に閉じ込められて霊覚が邪魔されているので、ご自分がどれ程立派な仕事をされたかご存じないでしょう。

お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物の間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。

強きものが弱きものを助け、知識あるものが無知なものを救い、陽のあたる場所にいるものが地上の片隅の暗闇を少しでも少なくするために努力することによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。

地上の難題や不幸や悲劇の多くが、人間の愚かさや欺瞞によって惹き起されていることは、残念ながら真実なのです。

慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊では無く、自然の調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こす時、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間の人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が争いを起こしているようでは自然界に平和は訪れません。

 平和は友好と一致と協調の中にこそ生れます。それなしでは地上は苦痛の癒える時が無く、人間が無用の干渉を続ける限り災害は無くなりません。

人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時、地上に平和が訪れ神の国が実現するのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を生み、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道を辿ることになります。諺にも 「風を播いてつむじ風を刈る」 と言います。悪い事をすればその何倍もの罰をこうむることになります。

 何ものに対しても憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。くじけてはなりません。

あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗などなど。

これは悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせにいう場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、他ならぬ心霊知識であらねばなりません。

所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。心霊知識を理解すれば、後は欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。

お二人が生涯を傾けている動物は、究極的には人間が責任を負う存在です。なぜならば人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩かねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象では無いのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命は全てが複雑に絡み合っており、人間の責任は、人間同士を超えて、草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは是非とも阻止しなくてはいけません。

装飾品にするために動物を殺すことは神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺傷は絶対にやめなければなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携る者は、常にそうした人間としての道徳的原理にうったえながら闘わなくてはいけません。

小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を傷め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだと言う信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けて下さい。多くの残酷な行為が無知なるが故に横行しています。

そうした行為は霊的知識を知って目が覚めれば、たちどころに消えてしまうものです。さらに、一つの霊的知識に目覚めると、その知識の別の意味にも目覚めてくるものです。そうやって心が目を覚ました時こそ、魂が自由への道を歩み始めた時でもあるのです。』

    



  ℘209 
 第七章 心霊治療

 「心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終わったことになります」

 シルバーバーチの心霊治療感を煎じつめるとこの言葉に尽きるようです。つまり心霊治療も魂の開発のための一つの手段であって、単なる病気治療だけに止まるものではないというのです。

 数ある驚異的心霊現象の中でも特に心霊治療、つまり奇蹟的治療の現象は、歴史の中に多くの例を見ることができます。

聖書に出てくるイエスの話などは、聖書と言う世界的超ベストセラーのお陰であまりにも有名ですが、実際には洋の東西を問わず、世界のどこでも起き、今なお毎日のように起きていると言っても言い過ぎではありません。

 しかし、一人の患者を見事に治療した心霊治療家が次の患者も同じように奇蹟的に治せるかというと、かならずしもそうではありません。そこに〝なぜか〟という疑問が生じます。

そしてその因果関係を辿って見ると、シルバーバーチが一ばん強く説いている因果律の問題に逢着します。因果律は当然、これ又シルバーバーチが強調する〝苦難の意義〟と密接につながっており、それは結局人生そのものということになります。

シルバーバーチが心霊治療を他の現象以上に重要視するのは、それが人生そのものの意義と共通した要素を持っているからに他なりません。

 ではシルバーバーチに語ってもらいましょう。
 

 『人間には、ただ単に病気を治すだけでなく、魂の琴線に触れて霊的真理に目覚めさせる偉大な霊力が宿されております。私はこれからこの霊力について語り、あなた方にぜひ理解していただきたいと思います。というのは、心霊治療もそこに本来の存在理由があるからです。

 心霊治療によって奇蹟的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、その心霊治療は失敗に終わったことになります。

魂の琴線に触れた時こそ本当に成功したといえます。
なぜなら、その体験によって魂の奥にある神の火花が鼓舞され、輝きと威力を増すことになるからです。


 心霊治療の背後にはかならずそうした目的があるのです。治療家はそうした神の計画の一部を担ってこの世に生まれてきているのです。

すなわち、この世に在りながら自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたのかを悟れず、
従って死ぬまで何を為すべきかが分からぬまま右往左往する神の子等に、霊的真理と永遠の実在を悟らせるためにその治癒力を与えられて生まれてきたのです。これほど大切な仕事はありません。


その治癒力でたった一人でも魂を目覚めさせることが出来れば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。たった一人でもいいのです。それだけでこの世における存在価値があったと言えるのです。

 最近、この道での仕事が盛んになり、霊力に対する一般の関心がますます大きくなってきつつあることを私は非常にうれしく思っております。地上の同志が困難に直面すれば、われわれは出来る限りの援助を惜しみません。病気治療には一層多くのエネルギーをつぎ込みます。

しかし忘れてならないのは、あらゆる出来事には必ずそれ相当の原因があるということです。霊界からいかなる援助を差し伸べても、この原因と結果の相関関係にまで干渉することだけは絶対に出来ないのです。援助はします。がすでに発生したある原因から生じる結果を消してあげることは出来ません。

 私たちは〝奇蹟〟を起こす力はないのです。自然法則の連続性を人為的に変える事は絶対にできないのです。神の法則は一瞬の断絶もなく働いております。


瞬時たりとも法則が休止することはありません。宇宙間何一つとして神の法則なしに発生する事はありえないのです。もしも、ありとあらゆる手段を尽くしても治らなかった病が心霊治療によって治ったとすれば、それは宇宙に霊的エネルギーが存在することの生きた証拠と受け取るべきです。

すなわち、それまで試したいかなるエネルギーにも優る強力なエネルギーが存在することを如実に思い知らされる絶好のチャンスなのです。

 数ある心霊現象にはそれぞれに大切な意義がもたらされていますが、それが何であれ、霊的な真理へ導くためのオモチャに過ぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはおかしいでしょう。いつかは大人へ成長しなくてはいけないでしょう。大人になれば、もはや子供だましのオモチャはいらなくなるはずです。


 心霊治療(ヒーリング)にもいろいろあります。一ばん基本的なものは磁気治療(マグネティックヒーリンク)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるもので、一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。

次の段階はその磁気的治療法とこの後に述べる純粋の心霊治療の中間(サイキックヒーリング)というもので、遠隔治療は主にこの療法で行われております。

そして最後に今述べた純粋のスピリチュアルヒーリングで、治療家が精神統一によって波長を高め、同時に患者がそれを受け取る態勢が整った時に一瞬のうちに行われます。人間の側から見れば奇蹟的に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そう言う現象が起きる機が熟していたのです。

 人間は一人の例外も無く神の分霊を宿しております。要はその神的エネルギーをいかにして発揮するかです。

肉体にも自然治癒力というのがあり、その治癒力が働きやすい条件さえ揃えば自然に治るように、霊的存在であるあなたがたには霊的治癒力も具わっており、その法則を理解しそれに従順に生きておれば、病気は自然に治るはずのものなのです。
℘213  
 健康とは肉体(ボディ)と精神(マインド)と霊(スピリット)が三位一体となった時の状態です。三者が調和した状態が健康なのです。そのうちの一つでも調和を乱せば、そこに病という結果が生じます。調和を保つにはその三者がそれぞれの機能を法則に忠実に果たすことです。

 霊は素晴らし威力を秘めております。その存在を無視し、あるいはその働きを妨げれば、天罰はてきめんに現れます。

 それと同じエネルギーの見本がいたるところに存在します。そもそもこの物的大宇宙を創造したエネルギーがそうですし、大海原を支えるエネルギー、万有引力のエネルギー、惑星を動かすエネルギー,その他地上の人間、動物、植物、昆虫、等々ありとあらゆる生命を生育せしめるエネルギーがそれと同じものなのです。

 要するに治療エネルギーも生命力の働きの一部なのです。身体に生命を与えているのは霊です。物質そのものには生命はないのです。霊が宿っているからこそ意識があるのであって、身体そのものには、意識はないのです。

あなた方を今そうして生かしめている生命原理と同じものが、悩める者、病める者、苦しむ者を救うのです。

 しかし痛みや苦しみを取り除いてあげることが心霊治療の目的ではありません。あくまで手段なのです。つまり眠れる魂を目覚めさせ、真の自分を悟らせるための手段に過ぎないのです。

病気で苦しみ続けた人が心霊治療によって霊的真理に目覚め地上生活の意義を悟れば、その治療家は遠大な地上救済計画における自分の責務を見事に果たしたことになり、そうあってこそ私たちスピリットが援助した甲斐があったことになるのです。

 身体の病気が治癒することよりも、その治癒がきっかけとなって真の自我に目覚めることの方が、遥かに大切なのです。それが真の目的なのです。そこまで行かない心霊治療は、たとえ病気は治せても、成功したとは言えません。

 こうした心霊治療の真の意義が理解されるには長い長い年月を要します。心霊治療に限らず、霊界の力を地上に根づかせるには、大勢の人間を一気に動かそうとしては駄目です。一人の人間一人の子供という具合に、一度に一人ずつ根気よく目覚めさせ、それを霊的橋頭保として、しっかり固めていくほかありません。

なぜなら、真理に目覚めるということは、そのキッカケが心霊治療であれ、交霊会であれ、あるいは物理実験会であれ、本人の霊的成長度がその真理を受け入れる段階まで進化していることが大前提だからです。

 魂にその準備が出来ていない時は心霊治療も効を奏しません。いかに優れた心霊治療でも治せない病気があるのはそのためです。従って失敗したからといって心霊治療を批判するのは的はずれなのです。

患者の魂がまだまだ苦しみによる浄化を充分受けていないということです。すべて自然法則が支配しています。トリックなどありません。いかなる心霊治療もその法則の働きを勝手に変えたり曲げたりする力はありません。

 もちろん苦難が人生のすべてではありません。ホンの一部に過ぎません。が苦難のない人生もまた考えられません。それが進化の絶対条件だからです。

地上は完成された世界ではありません。あなた方の身体も完璧ではありません。が完璧になる可能性を宿しております。人生の目的はその可能性を引き出して一歩一歩と魂の親である神に向かって進歩していくことです。

 その進化の大機構の中で程度と質を異にする無数のエネルギーが働いており複雑に絡み合っております、決して一本調子の単純なものではありません。

が、生命は常に動いております。渦巻状を画きながら刻一刻と進化しております。その大機構の働きのホンの一端でも知るためには、人生の真の目的を悟らなくてはなりません。

 苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。

魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。

地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、貪欲が我がもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当たりません。

 医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。

すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見いだせません。

℘216
 真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それをか弱い動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。


神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるように意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。

 肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないと言うことです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。

それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでも宜しい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものではなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです』


 以上がシルバーバーチの基本的概念です。心霊治療の価値と必要性をこれほど協調するスピリットを私は他に知らないのですが、その考えの厳しさも又格別です。

しかし基本的概念としてはそれが真実であり理想であろうと考えます。その理想に一歩でも近づこうとするところに治療家としての努力の余地があると言えるのではないでしょうか。

 あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手たちとの一問一答を紹介します。が、その前に、心霊治療に関して必ず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどう言うことか、という点について私見を述べてみたいと思います。

 それは私の師である間部詮敦氏の治療法を紹介するのが一番都合がよいようです。間部氏は本来は心霊治療家で、私は側近の一人としてその治療の様子をつぶさに観察して参りましたが、やはり除霊と供養を重点においておりました。

 具体的に説明すると、まず患者をうつぶせ寝かせました。そしてその背に手を置くと、その手が身体の悪いところに自然に動いていきます。その要領で三十分ほど施療したあと、患者を正座させ、背後から霊視します。すると病気にまつわる霊、いわゆる因縁霊が出てきます。

これは多分間部氏の背後霊が連れてくるのだろうと思われますが、霊視が終わると、患者にその霊の容姿を説明して、その名前又は戒名をたずねます。

それを二枚の短冊に書き、うち一枚を患者に手渡して、仏壇に備えて三日間お水をあげ、その水を清浄なところに捨てるようにと言います。霊が古くて名前が分からない時は、およその年齢の見当を付けて、例えば 「五十代の霊」 というふうに書きます。

 主として関西地方と中国地方を回られたので、自宅(三重県)に戻られた時は短冊もかなりの枚数になっていたと思われますが、それを神棚に供えて祈念し、霊を一人一人呼び出して(多分背後霊が連れてきて)、死後の世界の存在を教え、向上進化の必要性を説き、指導霊の言うことに従うように諭します。

もちろん背後霊の働きかけも盛んに行われたことであろうことが推察されます。

 さてこれで万事うまく行ったかというと、必ずしもそうではありません。たとえば私の家族の場合はよく父方のおじいさんが出ました。そのたびに話を聞いて、その時は一応得心するのですが、またぞろ出てきていろいろと災いをもたらしました。

別に何の遺恨があってのことでもないのですが、晩年に精神に異常をきたし、不幸な最期を遂げた人でしたから、その人がうろうろするだけで非常に良くない影響を与えたわけです。

 バーバネル氏の This is Spiritualism (拙訳 『これが心霊の世界だ』 潮文社刊) に霊の肖像画を専門にしているフランク・リ―アという人の話が詳しく出ていますが、その中でバーバネル氏は

「死者を画く時はなぜかその人間の死際の、いわば地上最後の雰囲気が再現され、リ―ア氏も否応なしにその中に巻き込まれる。その意味でリ―ア氏自身、自分の描いた肖像画の枚数分だけ死を体験したことになる」 と述べ、さらに別のところでは

 「この種の仕事で困ることは、そのスピリットの死の床の痛みや苦しみといった、地上生活最後の状態を霊能者自身も体験させられるということである。

なぜかは十分に解明されていないが、多分ある磁力の作用によるものと思われるが、スピリットが始めて地上に戻って来た時は地上を去った時の最後の状態が再現されるのである」 と述べています。
℘219
 間部氏もそのたびに 「またおじいさんですなあ」 といって首をかしげておられましたが、考えてみると酒やたばこ (それにもう一つありそうですが・・・) がなかなか止められないのと同じで、どうしても霊的自我が目覚めず、地上への妄執が断ち切れなかったのでしょう。

これに類することで興味深いことがいろいろあって、私には勉強になりました。

 さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でも分かる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。

因縁という用語はもとは因縁果という言葉からきたもので、因が諸々の縁を経て果を生むという意味だそうです。(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。

 つまりシルバーバーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバーバーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁がはいり込んで複雑にしていきます。

病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。

 従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことには成らない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすればことが済むというものではないようです。

 次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人がもっとも有名です。

 この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。

それをまとめたのが Thirty Years Among the Dead で 田中武氏が訳しておられますので、一読をおすすめします。 (『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)

 ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。

 
 たとえば浅野和三郎氏が 「幽魂問答」 と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対といってよいくらい起こり得ない話です。

日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くもの、という先入観があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩に過ぎません。

 シルバーバーチはある交霊会で供養の是非を問われて 「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとは思われません」 と述べておりますが、シルバーバーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から見た説であることを認識する必要があります。

つまり永遠の世界を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊は必ずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。

また民族によって治療法が異なるように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異なってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるかもしれない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。


 一問一答 (質問者はハリー・エドワーズを中心とする治療家グループ)

問「心霊治療によって治るか治らないかは患者の魂の発達程度にかかっていると言われたことがありますが、そうなると治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであると言うことになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「あなた自身はどう思いまいすか」魂に働きかけないとしたら、他に何に働きかけますか」


問「まず魂が癒され、その結果肉体が癒されるということでしょうか」

シルバー・バーチ「その通りです」


問「では私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

シルバー・バーチ「精神もあくまで魂の道具に過ぎません。従って魂が正常になれば、おのずと精神状態も良くなる筈です。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達してなければ、肉体への反応も起こりません。魂が一段と発達するまで待たねばなりません。

つまり魂の発達を促すためのいろんな過程を体験しなければならないわけです。その過程は決して甘いものではないでしょう。なぜなら魂の進化は安楽の中からは得られないからです」


問「必要な段階まで魂が発達していない時は霊界の治療家も治す方法はないのでしょうか」

シルバー・バーチ「その点は地上も霊界も同じことです」


問「クリスチャン・サイエンスの信仰と同じですか」

シルバー・バーチ「真理はあくまでも真理です。その真理を何と名付けようと私たち霊界の者には何の係りもありません。要は中身の問題です。

仮にクリスチャン・サイエンスの信者が心霊治療のお陰で治ったとしても、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のお陰だと信じても、それはそれでいいのです」


問「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、患者の魂を治療すると言うのは何だかとりとめのない感じがするのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「あなたがたは少しどころか大いに貴重な役割を果たしておられます。第一あなたがた地上の治療家がいなくては私たちも仕事になりません。

霊界側から見ればあなたがたは地上と接触する通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。電波が流れる、その通路というわけです」


問「流れるというのは何に流れるのですか。肉体にですか魂にですか」

シルバー・バーチ「私どもは肉体には関知しません。私の方からお聞きしますが、例えば腕が曲がらないのは腕の何が悪いのですか」

問「生理状態です」

シルバー・バーチ「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのですか」

問「無くなっています。病気に負けて、病的状態になっています」

シルバー・バーチ「もしその活力が再びそこを通い始めたらどうなりますか」

問「腕の動きも戻ると思います」

シルバー・バーチ「その活力を通わせる力はどこから得るのですか」

問「私どもの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」

シルバー・バーチ「腕を無理やりに動かすだけでは駄目でしょう」

問「力ではどうにもなりません」

シルバー・バーチ「でしょう。そこでもしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

問「すると私ども心霊治療家の役目は患者が生まれつき具えている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、そればかりではありません。というのは、患者は肉体をまとっていますから、波長がどうしても低くなっています。それで霊界からの高い波長を持った電波を送るには一たんあなたがた治療家に電波を送り、そこで波長を患者に合った程度まで下げる必要が生じます。

あなたがたをコンデンサーに譬えたのはそういう役目を言ったわけです。そういう過程を経た霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇蹟のようなことが起きるわけですが、

前にも言いましたように、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢が出来ていない時は何の効果も生じません。
結局、治るか治らないかを決める最終の条件は患者自身にあるということになるわけです」



問「神を信じない人でも治ることがありますが、あれは・・・・・・」

シルバー・バーチ「別に不思議ではありません。治癒の法則は神を信じる信じないにお構いなく働きます」


問「さきほど治癒は魂の進化と関係があると言われましたが・・・・・・」

シルバー・バーチ「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がおります。霊格の高さは信仰心の強さで測れるものではありません。行為によって測るべきです。

よく聞いて下さい。あなたががた治療家に理解しておいていただきたいのは、あなたがたは治るべき人しか治していないということです。つまり、治った人は治るべき条件が揃ったから治ったのであり、そこに何の不思議もないということです。

あんなに心掛けの立派な人がなぜ治らないだろうと不思議がられても、やはりそこにはそれなりの条件があってのことなのです。ですが、よろこんでください。

あなたがたを通じて光明へ導かれるべき人は幾らでもおります。皆が皆治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないでください。

と言っても、それで満足して、努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言う通り、神の意志は愛だけでなく憎しみの中にも表現されています。

晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。それと同じく、成功と失敗とは永遠の道連れですから、失敗を恐れたり悲しんだりしてはいけません」


問「治療による肉体上の変化は私たちにもよく分かりますが、霊的な変化は目で確かめることが出来ません」

シルバー・バーチ「譬え百人の霊視能力者を集めても、治療中の霊的操作を全部見極めることは出来ないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。

肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者を上手く操る操作は、それはそれは複雑になります。

無論全体に秩序と調和がいき亘っておりますが、法則の裏には法則があり、そのまた裏に法則があって、言葉ではとても尽くせません」


問「肉体上の苦痛は魂に何の影響も与えないとおっしゃったように記憶しますが・・・」

シルバー・バーチ「私はそんなことを言った覚えはありません。肉体が受けた影響は必ず魂にも及びますし、反対に魂の状態は必ず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。

一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えて良いのです。肉体なしには自我の表現は出来ないのですから」


問「では肉体の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う手がないと見たら魂の悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということもなさるわけですか」

シルバー・バーチ「それは患者によります。原則として霊体が肉体から離れるのはあくまで自然法則によって自動的に行われるべきです。もっとも人間の気まぐれから自然法則を犯して死を早めていることが多いようですが・・・・・・」


問「でも、明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われる例がありますが・・・・・」
℘227
シルバー・バーチ「ありますが、いずれも周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが・・・・・・」


問「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」

シルバー・バーチ「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死を遂げるとかならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。

それがどんなものになるかはその人によって異なりますが、どんなものであれ、あなた方地上の治療家としては出来るだけ苦痛を和らげてあげることに意を用いておればよろしい」


問「絶対に生きながらえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるような手を加えることは良いことでしょうか。悪いことでしょうか」

シルバー・バーチ「私はあくまで〝人間は死すべき時に死ぬもの〟と考えています」


「肉体の持久力を弱めれば死を早めることになりますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「どうせ死ぬと分かっている場合でもそんなことをしてはいけません。あなたがたの辛い立場はよくわかります。また私としても、好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備が出来た時に来るべきものです。

それはちょうど柿が熟した時に落ちると同じです。熟さないうちにもぎ取ったものは渋くて食べられますまい。治療もあくまで自然法則の範囲内で手段を講ずべきです。

たとえば薬や毒物ですっかり身体を壊し、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。

まずそう言う観点から考えていけば、どうすればいいのかがおのずと決まってくると思います。何事も自然法則の範囲内で考えなくてはいけません。

もちろん良いにせよ悪いにせよ何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いか悪いかは霊的法則にどの程度通じているかによって決まることです。

つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきなのです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません」


問「魂の治療の点では私たち地上の治療家よりも霊界の治療家の仕事の方が大きいですか」

シルバー・バーチ「当然そうなりましょう」


問「すると私たちの役割は小さいということでしょうか」

シルバー・バーチ「小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療方法には二通りあります。一つは治療エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治療エネルギーに変えてあなた方が使用するわけです。

もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に備わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう」

℘229
問「いえ、理屈は良く分かります。ただ実感としては理解できませんが・・・」

シルバー・バーチ「では説明を変えてみましょう。まず、生命とはそもそも何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質と異なったものであり、いわゆる理化学的な研究対象には成り得ないものだからです。

で、私は、よく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識を持ち、呼吸し、歩き、考えるその力、又樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。

ですから、あなたが今そこに生きている事実そのものが、小規模ながらあなたも神であり大生命の流れを受けていることを意味しています。

私がさっき述べた治療法は、その生命力の働きの弱った患者の魂に特殊な霊波、言わば生命のエッセンスのようなものをその霊格に応じて注ぎ込んでやることなのです。

むろんこれは病気が魂にある場合のことです。ご承知の通り病気には魂に病因があるものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的な場合は治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今述べた生命力を利用します。が、この方法にも限度があります。

というのは、あなた方治療家の霊格にもおのずから限度がありますし、患者も同様だからです。またいわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」


問「魂の病にもいろいろあって、それなりの影響を肉体に及ぼしているものと思いますが、そうなると病気一つ一つについて質的に異なった治療エネルギーがいるのではないかと想像されますが・・・・・・」

シルバー・バーチ「まったくその通りです。ご存じの通り人間は大きく分けて三つの要素から成り立っています。一つは今述べた霊(スピリット) でこれが第一原理です。存在の基礎であり、種子であり、全てがここから出ます。

次にその霊が精神(マインド) を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し互いに影響し合い、どれ一つ欠けてもあなたの存在は失くなります。三位一体というわけです」


問「精神と肉体とが影響し合うわけですか」

シルバー・バーチ「そうです霊的な発達程度からくる精神状態が肉体を変えていきます。意識的に変えることも出来ます。インドの行者などは西洋の文明人には想像もできないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思い通りに操ることが出来ることを示すよい例でしょう」


問「そういう具合に心霊治療というのが魂を目覚めさせるものであるならば霊界側からの方がよほどやりやすいのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「そうとも言えますが、逆の場合が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ、自縛の霊になってしまうものが多い事実からもおわかりのとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、大抵は物的な波長にしか反応を示さず、私達の送る霊波にはまったく感応しないものです。

そこであなた方地上の治療家が必要となってくるわけです。
従って優れた心霊治療家は霊的波長にも物的波長にも感応する人でなければなりません。心霊治療家に限らず、霊能者と言われている人が常に心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。


霊的に向上すればそれだけ高い波長が受けられ、それだけ仕事の内容が高尚になっていくわけです。そのように法則が出来上がっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。

ただ一人、前人未踏の地を歩みながら後の者のために道しるべを立てて行くことになります。あなたがたはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」


問「先ほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに変換されると言われましたが、この転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われるはずですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「使用するエネルギーによって異なりますが、いにしえの賢人が指摘している〝第三の目〟とか太陽神経叢などを使用することもあります。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する〝場〟なのです。

これ以外にも患者の潜在意識を利用して健全な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」
 

問「説明されたところまではわかるのですが、もっと具体的に、どんな方法で、いつ、どこで転換されるのか、その辺が知りたいのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「そんな風に聞かれると困ってしまいます。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いて譬えるならば、さっきも言ったコンデンサーのようなことをするのです。

コンデンサーと言うのは電流の周波を変える装置ですが、だいたいあんなものが用意されていると思って下さい。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、心霊実験での物質化現象などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない・・・・・・」


問「一種の〝中間物質〟ですか」

シルバー・バーチ「そうです。スピリットの念波を感じ易く、しかも物質界にも利用できる程度の物質性を備えたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体ないしは太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。

その活エネルギーは全身に行き亘ります。電気的な温みを感じるのはその時です。知っておいていただきたいことは、とにかく私たちのやる治療法には決まり切ったやり方というものがないということです。患者によってみな治療法が異なります。

また霊界から次々と新しい医学者が協力にまいります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どんな放射線を使ったらどんな反応が得られたか、その結果を細かく検討します。

なかなか捗(はかど) らなかった患者が急に良くなり始めたりするのは、そうした霊医の研究結果の表れなのです。また治療家のところへ来ないうちに治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。

実質的な治療というものは、あなたがたが直接患者と接触する以前にすでに霊界側において、その大部分が為されていると思って差し仕えありません」


問「そうすると、一方では遠隔治療を受けながら、もう一方では別の治療家のところへ行くという態度は治療を妨げることになる成るわけでしょうか」

シルバー・バーチ「結果を見て判断なさることです。治ればそれでよろしい」


問「なぜそれでいいのか理屈が分からないと、われわれ人間は納得できないのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障をきたさないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから一概に言いきるわけにはいきません。あなただって、患者をひと目見てこれは自分に治せるとは言い切れますまい。

治せるかどうかは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分通りしか治せない患者も、他の治療家のところへ行けば良くなるかもしれません。条件が異なるからです。

その背後つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと断定的な言葉は使えなくなるはずです。神の法則には無限の奥行きがあります。あなたがた人間としては正当な動機と奉仕の精神に基づいて精一杯人事を尽くせばよいのです。後は落着いて結果を待つことです」


問「細かい点は別として、私たちが知りたいのは、霊界の医師は必要とあらばどの治療家にでも援助の手を差し伸べてくれるかということです」

シルバー・バーチ「霊格が高いことを示す一ばんの証明は、人をえり好みしないということです。私たちは必要とあらばどこへでも出かけます。これが高級神霊界の鉄則なのです。あなたがたも決して患者を断るようなことをしてはいけません。

あなた方はすでに精神的にも霊的にも立派な成果を上げております。人間的な眼で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。従って自分のやったことがどんな影響を及ぼしているかもご存じないようです」


問「複数の人間が集まって一人の患者のために祈念するという方法をとっている人がいますが、効果があるのでしょうか」

シルバー・バーチ「この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご存じの通り、宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇蹟と言うものは絶対起こりません。

もしもその祈りが利己心から発したものでしたら、それはそのままその人の霊格を示すもので、こんな祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげていという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りにはおのずから霊力も具わっていますから、高級神霊界にも届きましょうし、自動的に治癒効果を生むことも出来るでしょう。要するに祈る人の霊格によって決まることです」

℘235
問「祈りはその人そのものということでしょうか」

シルバー・バーチ「そう言うことです」


問「大僧正の仰々しい祈りよりも素朴な人間の素朴な祈りの方が効果があるということでしょうか」

シルバー・バーチ「大僧正だから、あるいは大主教だからということで祈りの力が増すと考えては間違いです。肝心なのは祈る人の霊格です。どんなに仰々しい僧衣をまとっていても、その大僧正が筋の通らない教義に凝り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。如何にも力が増しそうですが、案外効果は少ないものです。要するに神は肩書や数ではごまかされないということです。

祈りとは本来、自分の波長を普段以上に高めるための霊的な行為です。波長が高まればそれだけ高級霊との接触が生じ、必要な援助が授かるというわけです。あくまで必要な援助だけです。いくらたのんでみても、必要でないもの、叶えてあげるわけに行かないものがあります。

その辺の判断は然るべき法則に基づいて一分一厘の狂いもなく計算されます。法則をごまかすことは出来ません。神に情状酌量を頼んでもムダです。人間は自分自身をごまかせないということです」


問「治療の話に戻りますが、患者に信仰心を要求する治療家がいますが、関係ないと言う人もいます。どうなのでしょうか」

シルバー・バーチ「心霊治療に限らず霊的なことに関しては奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言え切れないことばかりなのです。信仰心があった方が治り易い場合いが確かにあります。

その信仰心が魂に刺激を与えるのです。しかしあくまで自然法則の知識に基づいた信仰でして、何か奇蹟でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対にひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」


問「神も仏もないと言っている人が治り、立派な心掛けの人が治らないことがあって不思議に思うことがあるのですが・・・・・・」

シルバー・バーチ「人間の評価は魂の発達程度を基準にすべきです。あなたがたの観方は表面的で、内面的観察が欠けています。魂そのものが見えない為に、その人はそれまでにどんなことをして来たかが判断できません。治療の効果を左右するのはあくまでも魂です。

ご承知の通り、私も何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれより遥かに長い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の正確無比なことです。

知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。

人間も含めて宇宙の個々の生命は其々にあるべき位置に所を得ていると言う事です。何事も憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して生活なさい。そして、後は神にお任せしなさい。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。

あなたがたは所詮私達のスピリットの道具にすぎません。そして私たちも又さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分よりも偉大なる力が全てを良きに計らってくれているのだと信じること、それが何よりも大切です」




    
 第八章 交霊会の舞台裏

 太陽が地球の周りを回っているのではない。地球の方が太陽の周りを回っているのだ───これはもう常識中の常識ですが、たとえ学問的にはそうだとしても、われわれ人間の目にはやはり太陽は東から昇り西へ沈んでいます。つまり現実の感覚としては太陽の方が地球を巡っているというのが実感です。

 またその地球が太陽の周りを回る速度は時速一六〇〇キロだそうですが、どう考えても地球は静止しているというのが実感です。

 このように実感と真相とが大きく異なる例はいくらでも挙げられますが、実は霊的なことについても同じ様な錯覚をしていることが案外多いようです。

地上という三次元の物的生活に慣れきっていることから生じる錯覚です。その錯覚がいけないというつもりはありません。実感は実感としてやむを得ないのですが、真実の相についての知識を是非持っていなくてはいけないと思うのです。

 その好い例が自動書記現象です。霊能者の手がひとりでに動いて次々と文章が書かれていく様子を見ていると、どう見ても霊が乗り移って腕そのものを直接あやつっているかに思えます。

事実そういうケースも皆無ではないのですが、高級霊からの通信となると往々にしてリモートコントロール式に霊波であやつっている場合が多いのです。通信者は高級界にいるわけです。

 この〝高級界〟という言葉自体についても、人間はとかく空の高いところを想像しがちですが、これも地上的感覚から生じる錯覚です。地上の言語ではどうしても高いとか低い、あるいは向上とか下降とかの用語を用いざるを得ませんが、原理的にはバイブレーション(振動)の問題です。

 ある時列席者の一人がシルバーバーチにこんな質問をしました。「他界直後の幽界から更に向上していった高級霊が人間と交信する時、わざわざ幽界まで降りてくるのですか」

 
 これに対してシルバーバーチはあまりに意外な質問に驚いた様子で 「いえ、いえ、そうじゃありません。地上に一ばん近いところまで降りて来ないと通信できないと思ってはいけません。

通信しようと思えば、それなりの手段(霊媒)さえ見つかれば、どんな高級な界からでも直接の通信を送ることは可能です。要はバイブレーションの問題です」 と答えています。

 ここで参考までに私自身の強烈な体験を紹介しますと、恩師の間部氏は各地の支部を回られると必ず会員と共に神前で「大祓」(オオバライ)をはじめ幾種類かの祝詞をあげました。ある支部での祈祷が終って散会し、二、三の側近の者と就寝前の雑談に耽っていると、先生がこんな話をされました。

 大祓を上げていたところ祭壇の上あたりに大きな光の輪が出来ました。光といってもややぼやけた感じだったそうですが、やがてその輪の中にもう一つ小さい輪が出来ました。前の輪より一段と明るいのです。輪の中全体が明るいのです。

何だろうと見ていると更にその中央にもう一つ、くっきりとした輪が出来て、その中全体が皓々と輝いて見えました。

何かあると見つめていると、その中央に〝空海〟という二文字が見事な達筆で書かれ、書かれたかと思うと、その光の輪と共にパッと消えてしまった、というのです。

 当時私はまだ学生で、その話を聞いてただあの空海が自分たちのところに出てくれたという嬉しさと、空海ほどの高級霊が出る先生はやっぱり霊格が高いのだな、といった感慨しか抱きませんでしたが、のちにその事を思い出して、あれがいわゆる〝霊的地場〟なのだと理解するようになりました。

つまり高級霊が出られる高い波長の磁場を三段階でこしらえたわけで、空間における位置あるいは場所は祭壇のあるところと一緒だったわけです。光の輪は多分空海の霊団が人間流に言えば手をつなぐ格好で捉えたのでしょう。本当のことは分かりませんが・・・・・・。

 さてシルバー・バーチが入神したバーバーネルの口を借りてしゃべる時は直接シルバー・バーチがバーバーネルの身体に宿ります。身体といっても実質的にはオーラのことです。

最初の「まえがき」でも紹介したように、シルバー・バーチというのはそのバーバーネルに宿るインデアンその人かというとイエスでもありノーでもあります。

 つまりインデアンは自分の事をシルバー・バーチと名告り幽界よりはるかに高い界の存在で「波長を下げて地上に降りてくるのは息がつまるほどの苦痛です」と述べているほどですが、観方を変えればそうやって何とか波長を下げて直接人間を支配できる、いわば〝霊媒的素質〟を持ったスピリットであるということが出来るわけです。

が実質的な通信を送っているのは、そうした中間的存在による中継を必要とするほど高級な界のスピリット、日本流に言えば八百万の神々の一柱と見てよいと私は考えております。


が、その神も決して遠く離れた高い空のどこかから見下ろしているのではない。その交霊会の開かれている同じ部屋の中に居ると考えてもいいわけです。

 シルバーバーチは語ります。

 『すべてはバイブレーションの問題です。バイブレーションを通じてどれだけ伝わるかの問題です。あなた方には霊媒の口をついて出たことしか分からない。出なかったものについては何もご存じない。

 譬えてみれば電話でしゃべる時と同じです。あなたはただ受話器に話しかけるだけでいい。そして相手の言ったことを受話器で聞くだけです。

が、あなたの声が相手に届くには大変複雑なメカニズムが働いております。それを発明した人や電話局で働いている人々がいるわけですが、電話でしゃべっている時はそんな人のことは考えもしないし目にも見えません。

交霊現象もいっしょです。あなたがたは霊媒を通じて聞き、わたしたちも霊媒を通じて話かけるのですが、その途中のメカニズムは大変複雑なのです。

 この交霊会のために大勢のスピリットが働いております。発達程度もいろいろです。一方には地上に近い、多分に物質性を備えたスピリットがいます。そういうスピリットでないと出来ない仕事があるのです。

 他方、光り輝く天使の一団もおります。本来属している高い世界での生活を犠牲にして、地上のために働いております。少しでも多く霊的真理を地上にもたらそうと心を砕いているのですが、今までのところ、それはまだ暗夜に輝くほのかな明かり程度しかありません。

 しかし、それでもなおそうした神の使者が足繫くこの小さな一室に通うのは、ここがすばらしい場所だからです。すばらしいという意味は建物が大きいとか、高くそびえているとか、広いとかの意味ではありません。

地上に真理という名の光を注ぐ通路としてここが一ばんすぐれているという意味です。こうしたサークルからこそ、地上世界は新しいエネルギーを摂取するのです。

 それ以外の、もろもろのスピリットを含めて、今夜だけで五千人もの霊がここに集まっております。あなたがたのよく知っている人で交霊会というものに関心のある霊もおれば、こういう場所があることを今まで知らなくて、今日初めて見学に来たという霊もおります。

 また、霊媒を通じて仕事をするために、私たちがここでどのようにやっているかを勉強して来ている一団もおります。世界各地から来ております。こちらの世界でも、地上に働きかける方法についての研究が盛んに行われているのです。

霊的エネルギーをいかに活用するかが最大の研究課題です。それを無駄にしてはならないからです。そのために、こちらからいろんな形で人間に働きかけております。自分では意識しなくても、霊界からのインスピレーションを受けている人が大勢います。


 偉大な科学者も発明家も教育者も、元をただせば霊界のスピリットの実験道具にすぎない場合があります。法則なり発明なりが地上に伝わればそれでよいのであって、どこそこの誰が、といったことは私どもにはまるで関心がないのです。

 宇宙はすべて協調によって成り立っています。一人だけの仕事というのはありません。だからこそスピリットは〝霊団〟を組織するのです。目的に必要とするスピリットを集め、そのうちの一人が代弁者(マウスピース)となって地上に働きかけます。

私も私の所属する霊団のマウスピースです。(編者注──mouth-piece はパイプの吸い口、楽器の吹き口が本来の意味です) 霊団の一人として働く方が自分一人で仕事をするよりはるかにラクに、そして効果的にはかどります。仕事の成果はそうした霊団全部の力を結集した結果であるわけです。

 成果が素晴らしいということは霊団の調和がすばらしいということでもあります。それは、霊媒の出来がいいということが霊媒と支配霊との調和がいいということであると同じです。そうでないと必ずどこかにきしみが生じます。オーケストラと同じです。

演奏する楽器は一人一人違っていても、ハーモニーさえ取れれば一つの立派なシンフォニーとなります。が、そのうちの一人でも音程を間違えば全体が台無しになってしまいます。調和が大切なゆえんです。』


 シルバーバーチの交霊会が開かれた場所は最初はハンネン・スワッハー氏の自宅でしたが、のちにバーバネル氏の平屋のアパートの一室(バーバネル氏の書斎)となりました。

いつも使っている椅子に腰かけて入紳するだけのことです。が、その何の変哲もない部屋に、天使の一団をはじめとして科学者、化学者、技術者、研究生、見物人、果てはやじ馬まで入れて五千人ものスピリットが詰めかけているというのです。シルバー・バーチが 「あなたがたは何もご存じない」 と言うのがわかるような気がします。

 シルバー・バーチの交霊会は私的なもので、出席者も十数人のレギラーに制限され、これに特別に招待された人が二、三人加わるという、至ってささやかなものですが、英米では、大きな会場で何百人、何千人もの聴衆を前にした公開交霊会(デモンストレーション)というのが良く開かれます。

 霊能者が壇上に上がってスピリットからのメッセージを次々と列席者に伝えていくのですが、そういう会には無数の霊が群がってきますから、背後霊団は霊能者の周りを囲んで邪魔が入らないようにし、一方メッセージを送りたいと詰めかけるスピリットの中からどれを選ぶか苦心するそうです。

それだけの配慮をしても野次馬や聞き分けのない嘆願者がしつこく付きまとって、ひと言でいいからしゃべらせてくれとせがむのだそうです。

 高級な霊団に守られた霊媒にしてこの通りですから、霊能者だ、超能力者だというだけで無節操に担ぎあげることがいかに危険であるかがお分かりと思います。

 以上は交霊会全体の裏側を紹介したのですが、シルバー・バーチがバーバネルを支配してしゃべる、そのメカニズムはどうなっているのかをシルバー・バーチに語ってもらいましょう。


 『あなたがたの住む物質界は活気がなくどんよりとしています。あまりにうっとうしく且つ重苦しいために、私たちがそれに合わせようと波長を下げていく途中で高級界との連絡が切れてしまうことがあります。

 譬えてみれば、こうして地上に降りて来た私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去っていく時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へよろこび勇んで飛び去っていきます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

 さて私があなた方と縁のあるスピリットからのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。

状態がいい時は連絡は容易に出来ます。が、この部屋の近辺で何かコトが起きると混乱が生じます。突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。
℘246 
 そうした個人的なメッセージの時はスピリットの言っていることが一語一語聴きとれます。それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションでスピリットがしゃべっていることを意味します。

しかし高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを原語で表現しなくてはなりません。それは霊媒がスピリットからの通信を受け取るのと非常によく似ております。

その時の私は、シルバーバーチとして親しんで下さっている意識よりも更に高い次元の意識を表現しなければならないのです。

 とは言え、私はしょせんこの霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受け入れるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけ、それまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。


 今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるということまで分かっていますから、私の思うこと、というよりは、ここに来る前に用意した思想を全部表現することが出来ます。

 この霊媒を通じて語り始めた初期の頃は、一つの単語を使おうとすると、それとつながった他のいらない単語まで一緒に出て来て困りました。必要な単語を取りだすためには、脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。

用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

 あなたがた西洋人の精神構造は、私たちインデアンとは大分違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数が要ります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質を持った人々の睡眠中を狙って、その霊媒を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。


 他人の体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。 一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、脳を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺戟しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。

 初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはならないのです。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには一歩一歩に全意識を集中します。

そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿りました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。

 人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方に一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。

その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れを一たん止めて、新しい流れを作らなくてはなりません。

もし似たような流れが潜在意識にあれば、その流れに切り替えます。レコードのようなものです。その流れに乗せれば自動的にその考えが出てきます。新しい考えを述べようと思えば新しいレコードに代えなくてはならないわけです。

 この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。

私のバイブレーションに感応するからです。もっとも私の方はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるまで十五年もかかりました。

 こうして霊媒のオーラの中に入っている時はまるで牢獄に入れられているみたいです。その間は霊媒の五感に支配されます。暗闇では物が見えません。もっとも足は使えません。私の仕事に必要でないものは練習しませんでした。脳と手の使い方だけ練習しました。

こうしてしゃべっている時に他のスピリットかがメッセージを伝えることがありますが、その時は霊媒の耳ではなく私自身の霊耳で聞きます。すべてはオーラの問題です。私には私のオーラがあり、霊媒のオーラより鋭敏です。そのオーラに他のスピリットがメッセージを送り込みます。

 それは言ってみれば電話で相手に話しかけながら、同じ部屋にいる人の声を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているのです。同時には出来ませんが、切り換えることは出来るわけです」

℘249
   一問一答

問「霊言現象は霊が霊媒の身体の中に入ってしゃべるのですか」

シルバー・バーチ「必ずしもそうではありません。大ていの場合オーラを通じて操作します」


問「霊媒の発声器官を使いますか」

シルバー・バーチ「使うこともあります。現に今の私はこの霊媒の発声器官を使っています。拵えようと思えば私自身の発声器官を (エクトプラズムで) 拵えることも出来ますが、そんなことをするのは私自身の場合はエネルギーの無駄です。

私の場合はこの霊媒の潜在意識を私自身のものにしてしまいますから、全身の器官をコントロールすることが出来ます。いわば霊媒の意思まで私が代行し───霊媒の同意を得たうえでの話ですが──暫く身体をあずかるわけです。終わって私が退くと霊媒の意識が戻って、いつもの状態に復します」


問「霊媒の霊体を使うこともありますか」 

シルバー・バーチ「ありますがその霊体も常に肉体につながっています」


問「仕事を邪魔しようとするスピリットから守るために列席者にも心の準備が要りますか」

シルバー・バーチ「いります。一番大切なことは身も心も愛の一つに成りきることです。そうすれば愛の念に満たされたスピリット以外は近づきません」


問「霊界側でもそのための配慮をされるのですか」

シルバー・バーチ「もちろんです。常に邪魔を排除していなくてはいけません。あなたがた出席者との調和も計らなくてはなりません。最高の成果を上げるために全ての要素を考慮しなければなりません。こちらにはそのために組織された霊団がおります」


問「霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識を持った方がいいでしょうか。それともそんなことをしないで自分の霊媒能力に自信を持って、それ一つで勝負した方がいいでしょうか」

シルバー・バーチ「それは霊能の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという考えには賛成できません。知らないよりは知っている方がいいに決まっています。知識というものは自分より先に歩んだ人の経験の蓄積ですから、勉強しそれを自分のものとするように努力した方がいいでしょう。私はそう思います」


問「立派な霊能者となるには生活面でも立派でなくてはいけませんか」

シルバー・バーチ「生活態度が立派であれば、それだけ神の道具として立派ということです。ということは生活態度が高度であればあるほど、内部に宿された神性がより多く発揮されていることになるのです。日常生活において発揮されている人間性そのものが霊能者としての程度を決めます」


問「ということは、霊格が高まるほど霊能者として向上すると言っていいのでしょうか」

シルバー・バーチ「決まりきったことです。生活面で立派であればあるほど霊能も立派になります。自分の何かを犠牲にする覚悟の出来ていない人間にはロクな仕事は出来ません。このことは、こうして霊界でも生活を犠牲にして地上に戻ってくる私たちが学ばされる教訓といってもいいでしょう」


問「他界した肉親や先祖霊からの援助を受けるにはどうすればいいでしょうか」

シルバー・バーチ「あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。

その人たちの念があなた方を動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけないようにしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。

穏やかな心、安らかな気持ち、希望と信念と自身に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊がよってまいります。


 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人の雰囲気、成長の度合い、進化の程度に掛っています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。

霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そう言う人はスピリチュアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。

宗教の違い、民族の違い、主義主張の違い、そんなものはどうでもよろしい。冷静で、穏やかで、明るい心を保つことです。それが霊界の愛する人々、先祖霊、高級霊からの援助を得る唯一の道です。恐れ、悩み、心配、こうした念がいちばんいけません」


問「そういう霊にこちらからの念が通じますか」

シルバー・バーチ「一概にイエスともノーとも言いかねます。魂の進化の程度が問題となるからです。波長の問題です。もし双方がほぼ同程度の段階にあれば通じるでしょう。が、あまりに距離があり過ぎれば全く反応し合いませんから通じないでしょう」


問「他界した人のことを余り心配すると霊界での向上の妨げになるでしょうか」

シルバー・バーチ「地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。スピリットはスピリット自身の行為によって向上進化します。人間の行為とは関係ありません」


問「世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれで良いのでしょうか」

シルバー・バーチ「〝良い〟という言葉の意味次第です。世俗から離れた生活は心霊能力の発達には好都合で、その意味では良いともと言えるでしょう。

が私の考えでは、世俗の中で生活しつつ、しかも世俗から超然とした生活の方がはるかに上です。つまり霊的自覚に基づいた努力と忍耐と向上を通じて同胞のために尽くすことが、人間本来のあるべき姿だと思います」


問「世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか」

シルバー・バーチ「いちばん偉大なことは他人のために己を忘れることです。自分の能力を発達させること自体は結構なことです。が開発した才能を他人のために活用することの方がもっと大切です」


問「これからホームサークルを作りたいと思っている人たちへのアドバイスを・・・・・・」

シルバー・バーチ 「いやな思いをすることのない、本当に心の通い合う人々が同じ目的を持って一つのグループをこしらえます。

週一回、同じ時刻に同じ部屋に集まり、一時間ばかり、あるいはもうすこし長くてもよろしい、祈りから始めて、そのまま冥想に入ります。目的、動機が一番大切です。面白半分にやってはいけません。

人のために役たたせるために霊能を開発したいという一念で忍耐強く、粘り強く、コンスタントに会合を重ねていくことです。そのうち同じ一念に燃えたスピリットと感応し、必要な霊能を発揮すべく援助してくれることでしょう。

言っておきますが、私どもは何かと人目を引くことばかりしたがる見栄っ張りの連中には用はありません。使われず居眠りをしている貴重な能力を引き出し、同胞のために人類全体のために有効に使うことを目的とした人の集まりには大いに援助します」



      
 第九章 真理の理解を妨げるもの ───宗教的偏見───
p254
 シルバー・バーチ霊言集が全部で十一冊あることはすでに述べましたが、その十一冊がシルバー・バーチ霊言の全てというわけではありません。

五十年余りにわたる膨大な霊言を九人の編者(うち二人が二冊ずつ)が自分なりの視点から編纂したもので、むしろ残されたものの方が多いのではないかと想像されます。

従って、霊媒のバーバネルが他界したこれからのちにも何冊か出版される可能性が十分あり、私などもそれを首を長くして待っている一人です。

 それはそれとして、バーバネル自身が著した書物が二冊あります。一冊は、人生を健康で力強く生き抜くためのスピリチュアリズム的処生訓を説いた Where There is a Will (「霊力を呼ぶ本」潮文社)もう一冊はスピリチュアリズムを現象面と思想面の双方から説いた This is Spiritualism(「これが心霊の世界だ」同)です。

 さて後者の中に 「英国国教会による弾圧」 と題する一章があります(日本語版では割愛)。国教会というのはローマカトリック教会から独立したキリスト教の一派で、形式的には英国民の大半がその会員ということになっており、文字通り英国の国教ということができます。

 日本の宗教とは事情が異なり歴史的背景も違いますので比較対象は無理ですが、その本質はこれから紹介するその国教会とスピリチュアリズムの論争とも闘争とも言える一つの事件を辿っていけば自ずと理解していただけると信じます。

その火付け役、ないしは主役として英国の宗教界に一大センセーションを巻き起こしたのが、ほかならぬバーバネルだったのです。

 心霊現象の科学的研究が、SPR を代表とする資料の蒐集一本のやりの一派と、その現象に思想的ないし哲学的意義を認めて、いわゆるスピリチュアリズムへと発展させていった一派があることは 第五章で述べましたが、

そのスピリチュアリズムの先駆者となったフレデリック・マイヤース、オリバー・ロッジ、コナン・ドイル、アルフレッド・ウォーレス、ウィリアム・クルックスといった、人類の知性を代表するといっても過言でない知識人は、みな英国人です。

 そうした歴史的背景と同時にバーバネルがハンネン・スワッハーという英国ジャーナリスト界の大物を後援者に持ったことが、どれほどスピリチュアリズムの普及を促進したか、その陰の力は量り知れないものがあります。

 もっとも〝普及〟は必ずしも受け入れを意味しません。そういうものがあるという事実の認識に止まる人も多いのですが、その段階まで行くことだけでも、国家的に見て大変な進歩です。

これから紹介するバーネルと国教会の対立は、そういった事情を背景としていることをまず認識していただかねばなりません。と同時に国教会も基本的教説においてはキリスト教の他の宗派と大同小異ですから、これをスピリチュアリズムとキリスト教の対立と考えても差し支えないと思います。


 一九三七年のことですが、自らも心霊的体験を持つエリオット牧師と神学博士のアンダーヒルが当時のヨーク大主教 (国教会はカンタベリーとヨークの二大管区に区分され、カンタベリーが全体の中心) であったテンプルに会い、これほどまでスピリチュアリズムが話題にのぼるようになった以上、国教会として本格的に調査研究して態度を明確にすべきではないかと進言しました。


 テンプルはカンタベリー大主教のラングと協議し、その進言を聞き入れて、さっそく十名からなるスピリチュアリズム調査委員会を発足させました。そして二年後にその結果を報告すると約束しました。

ここまでは実に見上げた態度だったのですが、約束の二年が過ぎてから、調査結果の報告書(レポート)をめぐって宗教的偏見がむき出しになり始めました。ラングの命令でそのレポートが発禁処分にされたのです。


 この時点からバーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが活動し始めます。スタッフは、レポートの公開を拒むのは明らかにその内容が心霊現象の真実性を肯定する者になっているからだという認識のもとに、それに携わったメンバーとの接触を求めます。

そしてついに全部ではないが報告書の大部分───肯定派七人による多数意見報告書───を入手し、それをバーバネルの責任のもとに、思い切ってサイキック・ニューズ紙に掲載しました。

 案の定、それは英国内に大変な反響を呼びました。蜂の巣をつついたような、と形容しても過言でないほどの騒ぎとなり、たまりかねたラング大主教は、張本人であるバーバネルを厳しく非難する一方、国教会とスピリチュアリズムの同盟を求める会の会長であるストバート女史に、何とか騒ぎを鎮めてほしいと頼むほどでした。

 が報告書は絶対公表すべきであるという意見が足元の国教会内部からも次々と出され、「この調査委員会による結論の公表を禁止させた〝主教連中〟による心ない非難や禁止令、それに何かというとすぐ〝極秘〟を決め込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となってきた了見の狭い聖職主義を良く反映している」といった厳しい意見が公然と出されました。

が国教会首脳は頑として公表を拒否し続けました。バーバネルはその著書の中でこう述べています。


 「私はその後テンプル博士がカンタベリー大主教に任命された時、書簡でぜひ委員会報告書を正式に公表するように何度もお願いした。書簡のやり取りは長期間に及んだが、ついに平行線を辿った。

社会主義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、こと宗教問題となると頑として旧態を墨守しようとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある意見を出す人物からの書簡をことごとく〝極秘〟か〝禁〟の印を押さなければならないとは一体どういうことだろうか。」

 サイキック・ニューズ紙に掲載された多数意見書は 「英国国教会とスピリチュアリズム」 と題されて、パンフレッドとしてサイキック・ニューズ社から発行されました。私の手元にもそれがあります。

 が、もともとバーバネルの意図は報告書を入手することではありませんでした。内容は初めからおよその見当がついており、スピリチュアリズムにとってそれは今さら取り立てて意味のあるものでないことは分かっていました。

バーバネルが求めたのは英国国教会が宗教的偏見を超えて心霊現象の真実性を認めるという、真理探究者としての、あるいは聖職者としての公明正大な態度でした。それが出来ない国教会首脳に対する憤りと無念さが至る所に窺われます。たとえば───

 「この、かつてのヨーク大主教、後のカンタベリー大主教にとっては、その責務への忠誠心の方が死後の存続という真理への忠誠心より大事ということなのだろうか。」

 「私の持論は、宗教問題に限らず、人間生活のすべてにおいて、伝統的なものの考え方が新しい考えの妨げになるということである。

固定的観念が新しい観念の入る余地を与えないからである。いかなる宗教の信者においても、宗教それ自体がスピリチュアリズム思想を受け入れる上で邪魔をするのである。」

 こうしたバーバネルの既成宗教についての考え方はシルバー・バーチと全く同一です。その理解の便に供する意味で、このあと、英国国教会の流れをくむ一派であるメソジスト派の牧師とシルバー・バーチとの二度にわたる論争を紹介したいと思います。
 
論争と言ってもその言葉から受けるほど激しいものではありません。それは多分にシルバー・バーチの霊格の高さによることは明らかですが、同時に、その牧師が真摯な真理探究心を持っていたからでもあります。

そうでなければシルバー・バーチが交霊界へ招待するはずはありません。二人の論争を通じて、ひとりキリスト教にとどまらず既成宗教全体に共通して言える一種の弊害を認識していただきたいと思います。なおその青年牧師の立場を考慮して氏名は公表されておりません。

 参考までにメソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立した宗派です。ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱している点からその名があるのですが、基本的理念においては国教会とは大同小異と見て良いと思います。

 ある時そのメソジスト派の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な討論が為されました。がその合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれました。

 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊界というものに出席させて貰えないかと頼みました。

予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示)と言う本を読んだだけでしたが、スワッハーは快く招待することにし、

 「その会ではシルバー・バーチという霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべるから、その霊と存分に議論されるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その変わり後でよそへ行って、十分な議論をさせてもらえなかったといった不平や不満をいわないでいただきたい。

質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにします。そうすれば喧嘩になる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方から喧嘩を売られれば別ですヨ」

と如何にもスワッハーらしい、ちょっぴり皮肉を込めた。しかし堂々とした案内の言葉を述べました。

 さて交霊会が始まると、まずシルバー・バーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおらその青年牧師に話かけました。

シルバー・バーチ「この霊媒にはあなたがたのいう〝聖霊〟の力がみなぎっております。これがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなたかたのいう〝復活せる霊〟の一人です」

(聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説───父なる神〔キリスト神〕、子なる神 〔イエス〕 そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるものですが、スピリチュアリズム的に観れば、その三者を、結びつける根拠はありません。実にキリスト教とスピリチュアリズムの違いはそこから発しています。シルバー・バーチもその点を指摘しようとしています)


牧師「死後の世界とはどういう世界ですか」

シルバー・バーチ「あなたがたの世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」


牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

シルバー・バーチ「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから。あなたが属している宗派の創立者ウェスレ―も霊感の鋭い人でした。やはり霊の力に動かされておりました。それはご存じですね」


牧師「おっしゃる通りです」

シルバー・バーチ「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。

宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなたがたのいう天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間も、ダメな人間も、あなたがたの言う神、私の言う宇宙の大霊と結ばれているのです」


牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのですか」

シルバー・バーチ「地上ではどうやって認識しあいますか」


牧師「目です。目で見ます」

シルバー・バーチ「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ているのではありませんか」


牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

シルバー・バーチ「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。が肉体は影にすぎません。光源は霊です」


牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」

シルバー・バーチ「罪にもいろいろあります。が最大の罪は神への反逆でしょう。神の存在を知りつつも、尚それを無視した生き方をしている人々。そういう人が犯す罪が一ばん大きいでしょう」


牧師「われわれはそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」

シルバー・バーチ「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」


牧師「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」

シルバー・バーチ「文字はどうでもよろしい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけではなく、ほかのいろんな本にでています。それから、人の為に尽くそうとする人々の心には、その人がどんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、ちゃんと神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」


牧師「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

シルバー・バーチ「〝改心〟とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」


牧師「たとえば、良くないことばかりしていた人がそのまま他界した場合と、死ぬ前に改心した場合とでは死んでからどんな違いがありますか」

シルバー・バーチ「あなたがたの本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これは真理であり、変えることは出来ません。今のあなたそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと思っているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへ来れば分かります」

ここでシルバー・バーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、なぜ連れて来たのかと尋ねると、 「この人から訪ねてきたのです」 と答えます。そこでシルバー・バーチがその牧師に向かって 「インディアンが聖書のことを良く知って驚いたでしょう」と言うと、「よくご存じのようです」と答えます。

すると別の列席者が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えします。牧師はすかさず三千年前つまり紀元前十世紀の人間であるダビデの名前を出して、シルバー・バーチに、そういう人間がいたことを知っているかと尋ねます。それに対してこう答えます。


シルバー・バーチ「私は白人ではありません。レッド・インデアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなたがたのおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私は、これまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインディアンよりもはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。

今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」


牧師「そちらへ行くとどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

シルバー・バーチ「一ばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと為しとげたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分ります。逃してしまった好機が幾つもあったことを知って後悔するわけです」


牧師「キリスト教への信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが」

シルバー・バーチ「主よ、主よと、何かと言うと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それが全てです。口にする言葉や、心に信じることではありません。

頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰と言うものを持たなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」

 ここで列席者の一人が、イエスは神の分霊なのかと問います。それに対してこう答えます。

シルバー・バーチ「イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなくすべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」


牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました。〝私と父は一つである。私を見たものは父を見たのである〟と。これはすなわちキリストが神であることを述べたのではないでしょうか」

シルバー・バーチ「もう一度聖書を読み返してご覧なさい。〝父は私より偉大である〟と言っていませんか」


牧師「言っております」

シルバー・バーチ「また〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております。〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在します吾等が父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」


牧師「キリストは〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしています。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列においていません」

シルバー・バーチ「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするであろう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらないことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」


牧師「神は地上人類を愛するが故に息子を授けられたのです」

シルバー・バーチ「イエスはそんなことを言っておりません。イエスの死後何年もたってから二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」


牧師「二ケーア会議?」

シルバー・バーチ「西暦三二五年に開かれています」


牧師「でも私が引用した言葉はそれ以前からあるヨハネの福音書に出ていました」

シルバー・バーチ「どうしてそれが分かります?」


牧師「いや、歴史にそう書いてあります」

シルバー・バーチ「どの歴史ですか」


牧師「どれだかは知りません」

シルバー・バーチ「ご存じの筈がありません。一体聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

℘267
牧師「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

シルバー・バーチ「いや、それよりもっと前の話です」


牧師「聖書は西暦九〇年に完成しました」

シルバー・バーチ「その原典になったものは今どこにあると思いますか」


牧師「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」 と言って一つだけ挙げます。

シルバー・バーチ「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」

 牧師がこれに応えきれずにいると───

シルバー・バーチ「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外へ出されたことがないのです。あなた方がバイブル(聖書)と呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しのそのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。

ところが、いつになっても再臨しないので、ついに諦めて記録を辿りながら書きました。イエス曰く───と書いてあっても、実際に言ったかどうかは書いた本人も確かではなかったのです」

牧師「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料 (イエス語録) の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが」

シルバー・バーチ「私は何もそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。私はただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。

聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

 こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらはすでに前章までの紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終わり、何日か後に再びその牧師が出席して再び論争がはじまります。

最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、すべての人間を愛することが出来るか否かといった、いかにも聖職者らしいものでした。シルバーバーチは答えます。


シルバー・バーチ「それは不可能なことです。が、そうした努力をしなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。

怒ることなく、辛く当たることなく腹を立てることもないようでは、もはや人間でないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、何時まで経っても成長の連続です。それはこちらへ来ても同じです」

牧師「イエスは〝天の父の完全である如く汝等も完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

シルバー・バーチ「だから完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。すなわち内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っているのです。また〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり〟と言っています。

神は全人類を愛して下さる。だからわれわれも全ての人間を愛すべきだということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」

この質問にシルバーバーチが呆れたように、あるいは感心したような口調で、少し皮肉を込めてこう言います。

シルバー・バーチ「あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか」


牧師「そう考えます。完全な生活を送ったと思います」

シルバー・バーチ「一度も腹を立てたことがないとお考えですか」


牧師「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

シルバー・バーチ「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」


牧師「腹を立てることはいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います」

シルバー・バーチ「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなたがたはどんなことでも正当化なさるんだから・・・・・・」

 
ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出します。

シルバー・バーチ「私が言わんとしたのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。鞭を持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私がいわんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。

イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった───ただ普通の人より神の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。ありもしないことを無理にこじつけようとするのはよくありません。分かりましたか」

牧師「分かりました」

シルバー・バーチ「誰れの手も届かないところに祭り上げたらイエス様がよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分たち人間と同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留ることはイエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。

一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰れにでも出来ることばかりなのです。誰れもついて行けないような人だったら、せっかく地上に降りたことが無駄だったことになります」

 この後牧師が自由意思について質問すると、すでに紹介した通り各自に自由意思はあるが、あくまで神の摂理の範囲内での自由意思であること、つまりある一定の枠内での自由が許されているとの答えでした。

続いて罪の問題が出され、シルバー・バーチが結論として、罪というものはそれが結果に対して及ぼす影響の度合いに応じて重くもなり軽くもなると述べると、すかさず牧師がこう反論します。


牧師「それは罪が知的なものであるという考えと矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

シルバー・バーチ「罪は罪です。体が犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれもみな罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」


牧師「思念です」

シルバー・バーチ「思念はどこから来ますか」


牧師「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

シルバー・バーチ「では悪の思念はどこから来ますか」


牧師「分かりません」 と答えますが、実際は 「悪魔から」 と答えたいところでしょう。シルバー・バーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の欠陥をつきます。

シルバー・バーチ「神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しい物の中にも醜い中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。

お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟という風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものは切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。


日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたと言う存在は、思念を出したり受けたりする一個の器官です。

が、どんな恩恵を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。そうでしょう?」


牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そうした煩悩ばかりを抱いた人間が死に際になって自分の非を悟り〝信じよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるというケースがあるのをどう思われますか」

 この質問はキリスト教のもう一つの重要な教義である贖罪説とつながってきます。イエス・キリストへの信仰を告白することですべての罪が購われるという信仰が根強くあり、それが一種の利己主義を生む土壌となっております。

シルバー・バーチは折に触れてその間違いを指摘していますが、ここでもイエスの別の言葉を二、三引用したあと、こう語ります。

シルバー・バーチ「神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無尽の人生を送った人間が死に際の改心で一ぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで沁み込んだ汚れが、それくらいのことで一ぺんに洗い落とせると思いますか。

無欲と滅私の奉仕生活を送ってきた人間と、我儘で心の修業を一切疎かにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが許されるとしたら、果たして神は公正と言えますか。如何ですか」


牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの非難所を設けられたと思うのです。イエスはこう言われ・・・・・・」

シルバー・バーチ 「お待ちなさい。私はあなたの素直な意見を聞いているのです。素直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私にはわかっております。私は、あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師 「たしかにそれは公正とは言えないと思います。が、そこにこそ神の偉大なある愛の入る余地があると思うのです」

 そこでシルバー・バーチが、もし英国の法律が善人と悪人とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思うかと尋ねると、牧師は自分はそうは言っていないと弁明しかけますが、再びそれを遮って───

シルバー・バーチ 「自分がタネを蒔き、蒔いた物は自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことはできないのです」


牧師 「では悪の限りを尽くした人間が今死にかかっているとしたら、私はその人間にどう説いてやればいいのでしょう」

シルバー・バーチ 「シルバー・バーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまりいくばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。

自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」


牧師 「しかし罪を告白するということは、誰れにでもは出来ない勇気のある行為だとは言えないでしょうか」

シルバー・バーチ 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪は拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い道を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」

 ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスが信者の罪を贖ってくれるのだと主張しますが、シルバー・バーチは同じくイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。

するとまた牧師が別の言葉を引用しますが、シルバー・バーチも別の言葉を引用して、罪はあくまでも自分で償わなければならないことを説きます。そしてキリスト教徒が聖書一つにこだわることの非を諭して次のように語って会を閉じました。



シルバー・バーチ 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなたがたもぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎになるかもしれませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったという言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くは後の人が書き加えたものです。イエスがこうおっしゃっている、とあなたがたが言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。

そんないい加減なことをするより、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知って欲しいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。何も神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。

今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物 (霊媒・霊能者) は今も決して多くはありません。なぜそんな昔のインスピレーションにばかりすがろうとなさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。

 何故に全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の神が一個の人間、あるいは一冊の書物で全部表現出来るとでもお思いですか。私はイエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神の全てが一冊の書物の中のわずかなページで表現できてるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に、神はそれ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとでもお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全部を読み終わったことになるというのでしょうか。

 あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神の子としてのあなたに分かっていただきたいことは、神を一つのワクの中に閉じ込めることは出来ないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳のかたまりのような人間にも、神か仏かと仰がれるような人にも同じ神が宿っているのです。あなたがた一人一人に宿っているのです。

あなたがその神の御心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力とやすらぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」




 第十章 おしましいに
 シルバー・バーチによる交霊会は正式の名称をハンネン・スワッハー・ホームサークルと言いましたが、その第一回が何年何月に開かれたのかは明らかではありません。公表されていないし、もしかしたら記録すらないかもしれません。

というのは霊媒のバーバネル氏は、その会があくまでも私的な集まりだからという理由で、初めのころは霊言そのものの公表すら避けていたのです。

 バーバネルという人は自分を表にだすことを徹底的に嫌った人で、その態度は七十九歳で他界するまで変わりませんでした。

ところが真の意味で最良の親友だったハンネン・スワッハーは当時英国新聞界の法王とまで言われたほどの大物で、バーバネルとは対照的に、英国の著名人でスワッハーの名を知らない人はまずいないと言ってよいほどでした。

 スワッハーはその知名度を利用して各界の名士を交霊会に招待し、また招待された方は相手がスワッハーとなると断るわけにもいかず、必ず出席しました。

中には 「よしおれがバーバネルのバケ゚の皮をはがしてやる」 とか、「シルバー・バーチとかいうインディアンをオレが徹底的に論破してやる」 といった意気込みで乗り込んでくる連中もいたようですが、バーバネルが入紳してシルバー・バーチが語り始めると、その威厳ある雰囲気に圧倒されて、来た時の意気込みもどこへやら、すっかり感動して帰って行ったそうです。

 こうしたバーバネルとスワッハーという対照的な性格のコンビは実にうまい取り合わせで、それにシルバー・バーチが加わった三人組(トリオ)は多分、いや間違いなく、二人の出生以前から組まれた計画だったと想像されます。

バーバネルなくしてはシルバー・バーチもあり得ず、スワッハーなくしては霊言集の出版もなかったはずです。

 はじめ公表に消極的だったバーバネルをスワッハーが説き伏せて、霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に連載されるようになってほぼ半世紀が過ぎました。

そして私がその心霊紙で、霊視家によるシルバー・バーチの肖像画と共に初めて霊言に接して、一種異様な感動を覚えながら貪り読んで以来、三十年近い歳月が流れました。

 そして一九八一年七月にバーバネル氏が急逝した時、私はこれでついにシルバー・バーチの霊言にもピリオドが打たれたかと思い、その心の拠りどころとしてきただけに残念無念さも一入(ヒトシオ)でした。

また、何か一つの大きな時代が終わって自分一人が残されたような、言葉では形容しようのないさみしさをしみじみと味わったものでした。

 が、その霊訓は霊言集として残されている。それを日本の有志の方々───シルバー・バーチの言う〝それを理解出来るところまで来ている人々〟に紹介することが私の使命であるかもしれない。という自覚が私の魂を鼓舞し続け、それが本稿となって実現しました。

 シルバー・バーチ霊言集は延べにして二千ページ程度になります。それだけのものをこの程度のものにまとめてしまうのは、あるいは暴挙と言えるかもしれません。

しかしシルバー・バーチは単純で基本的な真理───いやしくも思考力を備えた者であれば老若男女のすべてが理解できる真理を繰り返し繰り返し説いたのであって、決して二千ページも要するほど難解な哲理を説いたのではありません。

私はこれまで紹介したものだけで十分シルバー・バーチの言わんとしていることは尽くしていると確信します。

 願わくば読者諸氏が、シルバー・バーチが繰り返し繰り返し説いたごとく、それを繰り返し繰り返し味読されることを希望します。恩師の間部先生が良く、霊界の前売券を買っておきなさい、と言われたのを思い出します。

宗教とか信仰はどうかすると地上生活を忌避する方向に進みがちですが、スピリチュアリズムだけはむしろ、死後の存在を現実のものとして確信することによって、地上生活を人間らしく生きよう。

地上生活ならではの体験を存分に積んでおこう───楽しみもそして苦しみも───という積極的な生活態度を生んでくれます。それは〝前売券〟を手にしているという安心感と自信が生んでくれます。間部氏はそういう意味で言われたのではないかと思うのです。


 そしてそれが、図らずしも、シルバー・バーチの訓えの中枢でもあります。

では最後にシルバー・バーチの締めくくりの霊言と神への祈りの言葉を紹介して本稿を閉じることにします。


 「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信を持っております。自分が偉いと思っているというのではありません。

私自身はいつも謙虚な気持ちです。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。

が、私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。

 私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信を持って語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。

威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

 私は出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。

私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行うという約束が出来ているということです。

私より優れた叡智を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に超えてはならないのです。

 そのスピリットたちが地上経綸の全責任を預かっているからです。そのスピリット集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。

私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指示を受けるのです。

 実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。

神界と言うのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。

 私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠く離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。

あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深くかかわって参りました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないことも分かります。

 私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから新しい叡智を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。


そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上界から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力して参りました。

 私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断と自由意思とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくはないのです。

死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。

 語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶さなるがよろしい。人間には自由意思が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。

私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。

 スピリットの中には自らの意思で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が、依頼された時は快く引き受けました。

 引く受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。


 私たちの願いはあなた方に生き甲斐のある人生を送ってもらいたい───持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。

 こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。

 私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕に過ぎなません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私が語ったことがあなたがたの何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。


 あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存じないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を備えた実在の人間です。

こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上と言う惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。

 では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界に者が、幾多の障害を乗り越えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。

 神よ、忝(カタジケ)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求めあって魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲がりくねった道をさ迷っております。

幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子等にそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩いの場となることを知らしめ賜わんことを。

 では神の御恵みの多からんことを。                                                                                                                                                シルバー・バーチ
  



       あとがき
 シルバー・バーチとバーバネルに関しては、本文と 「遺稿」 で十紹介されていると思うので、ここで改めて付け加えることは何もない。

 そこで最後に私とシルバー・バーチとの出会いと、その霊言をこうした形で紹介するに至った経緯について述べておきたい。

 そもそも私がシルバー・バーチ霊言集に接したのは大学二年の時だった。当時 (昭和三十年頃)、東京には日本心霊科学教会のほかにもう一つ、浅野和三郎氏の系統を受け継いだ心霊科学研究会というのがあった。(現状については寡聞にしてよく知らない)。

 ある日、別にこれと言った目的もなしに事務所を訪ねたところ、月刊雑誌 「心霊と人生」 主幹の脇長生氏が私が英文科生であることを知って 「サイキックニューズ」 という英字新聞を手渡し、これを持って帰って何かいい記事があったら訳してみてくれないかと言う。

言われるまま下宿に帰ってからページをめくっているうちに、例のインデアンの肖像画とともにシルバー・バーチの霊言が目についた。

その肖像画から受けた印象は、それまでの西部劇映画などから受けていたインデアンの印象とはまったく違った。一種名状しがたい威厳と叡智に満ちた賢人のそれだった。

 霊言の英文を一層その感を深くした私は、これを訳したいと思ったが、当時のお粗末な英語力ではとても自信がなく、何かほかの簡単な心霊現象に関する記事を訳し、それが 「心霊と人生」 に載って感激したのを覚えている。それが私にとって最初の翻訳であり、活字になったのもそれが最初だった。

 しかし印象という点ではその時に受けたシルバー・バーチの印象の方がよほど強烈で、そのごずっと忘れられず、サイキックニューズ社から次々と霊言集を取り寄せることになる。

最初に届いた Teachings of Silver Birch (一九三八年発行)は果たして何度読み返したか知らないが、とにかく余ほど読み返したに相違いないことは、ページが全部バラバラになってしまっていることからも窺える。

また至るところに見られる赤鉛筆による下線部分を読むと、当時の私がどんなことに悩んでいたか、何を知りたがっていたかが判って興味ぶかい。

 とにかくシルバー・バーチとの出会いは私の思想と人生を方向づける決定的な意味をもつものであった。僭越かも知れないが、シルバー・バーチはバーバネルの支配霊であったと同時に私の精神的指導霊でもあったと表現して、あながち間違いではないと思ってるほどである。

 さて、その出会いから四半世紀後の一九八〇年八月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏 (日本心霊科学協会評議員) から、福岡支部で発行している 「心霊月報」 に何か寄稿してほしいとの依頼があった。その依頼の手紙を読み終えたとたんに 「シルバー・バーチ」 の名が浮かび、ずっと脳裏から離れなかった。

 そしてさっそく九月から霊言集の翻訳と編纂に取りかかったのであるが、十月に入った頃から、ふと、英国へ行ってみようかという気になり、それが日増しに強くなっていき、十月ごろにはすでに行くことに決めて準備に取りかかっていた。

 準備には渡航のための準備もあったが、もっと大切なこととして、バーバネル氏やテスター氏といった、向こうで是非会うべき人々との面会の日程を組むために先方の都合を聞かねばならない。同時に私は高校生対象の英語塾を開いている関係で、冬休みか夏休みにしか行けない。

どっちにしようかと迷ったが、とにかく気が急くので冬休みを選んだ。本文でも言及したが、もしも翌年の夏休みにしていたら、この世でバーバネル氏に会うことはなかったことになる。私の背後霊が急かせたわけもあとで納得がいった。

 バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。「心霊月報」 は四、五回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど捗るので、発表の場を日本心霊科学協会の 「心霊研究」 に移して、もう一度最初から連載していただいた。

(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかも知れない。)

 バーバネル氏の訃報が入ったのはその頃だった。梅原氏の要請で 「モーリス・バーバネル氏を偲んで」 と題する一文を書いたが、その結びの節で私はこう述べた。

 「それにしても、ほぼ半世紀にわたって脈々と続いてきたシルバー・バーチの霊言がこれでついに途絶えるのかと思うと、学生時代から四半世紀にわたって愛読してきた私には、ただ惜しいという気持ちとは別に、何か一つ大きな時代が去ったような心細い感慨が、ひしひしと身に沁みるような想いがいたします。」

 もちろんこれは私の人間としての感慨である。バーバネルほどの人物に哀悼の念など贈る必要は無い。そもそもシルバー・バーチは霊界の人間であり、バーバネルも今そこへ逝った。地上での使命が終わってホットしていることだろう。

私もいずれはそこへ行く日が来る。そして多分バーバネルに、そして若しかしたらシルバー・バーチに会えるかもしれない。その時に、〝よくぞやってくれた〟と言われたい。

そう言われるような仕事を残したい。私はそんな気持ちを抱えながら本稿の執筆を続け、どうにかまる二年を掛けて仕上げたのだった。

 いま、その全十一巻を一冊の本にまとめ上げて、何という無謀なことをしたのだろうという、あたかも過ちを犯してしまった時のような気分がふと湧くことがある。

 が、何度も説明してしてきたようにシルバー・バーチは決して難解な哲学を延々と説き続けたのではない。誰れにでも理解できる平凡な霊的真理を平易な言葉で繰り返し繰り返し説いてきたのである。私は決して弁解していうのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバー・バーチの説かんとしたことは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である。

 むしろ私が真に恐れているのは、シルバー・バーチの流暢なる文体と、その後聞くことを得た生の声が伝える威厳に満ちた雰囲気を、果たして私の訳文がどこまで伝え得たかということである。

 が、これに対する答えはきわめて明瞭である。満足のいくほど充分に伝え得たはずはまずない。何となれば私はまだ五十そこそこの地上の人間であり、シルバー・バーチは三千年を生きた霊界のはるか上層部のスピリットだからだ。

 願わくは、拙い私の拙い翻訳から、その雰囲気の何分の一かでも読み取っていただければと思う。同時にシルバー・バーチの霊言の中に、他の何ものからも得られなかった新たな教訓を発見され、あるいは生きる勇気を鼓舞され、さらには霊的真理を知るよろこびを味わっていただければ、まる二年を掛けた私の努力も無駄でなかったという慰めを得ることが出来る。少なくとも私は終始そう祈りながら執筆したことを付記しておきたい。

 ちなみに本書の原典となった霊言集(ほとんどのものが絶版)は次の通りである。


   Teachings of Silver Birch             (1938)  

   Silver Birch Speaks                        (1949) 

   Silver Birch Anthology                    (1955)  

   Guidance from Silver Birch             (1966) 

   More Philosophy of Silver Birch      (1979) 

   Light from Silver Birch                     (1983) 

   More Teachings of Silver Birch        (1941)

   Wisdom of Silver Birch                     (1944)   

   More Wisdom of Silver Birch            (1945)

   Silver Bbrch Speaks Again               (1952)

   Philosophy of Silver Birch                 (1969) 


   Psychic Press Ltd..  London


 

 
   
 ●遺稿
 「シルバー・バーチと私」
                     
   モーリス・バーバネル                     近藤千雄 訳

 私と心霊との係りあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 『サイキック・ニューズ』 紙発刊の決定がなされたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げると約束をしたそうである。

 私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを始めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八歳の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。

 クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンで最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。

 私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係らず、私がそれに反論することによってデスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと、私のことを褒めてくれていた。

 実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん始めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終わって始めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。そ

んなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。


 同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。

母親は新人深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと懇願しても、厳として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃から随分聞かされた。

理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやりこめていたので、私は次第に無神論者に傾き、それから更に不可知論へと変わっていった。


 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリーサンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するように合図を送った。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないとと述べ、従ってそれを全く持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わるとサンダース氏が私に近づいてきて、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もし本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。

 〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論をだすまで六か月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくって見ると、その六か月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・

 そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行って見るとひどくむさくるしいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

 若い者も老人もいる。余り好感は持てなかったが、真面目な集会であることは確かだった。

 霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。

少なくても私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当たらなかった。


 しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。

ところが驚いたことにその 〝居眠り〟 をしている間 私がレッド・インデアンになっていたことを聞かされた。


 それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。

その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える (と、皆さんが言ってくださる) 響きとは似ても似つかぬものだったらしい。


 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性が融合することであるが、それがぴったりうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。


 始めのうちは私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身には分からないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。

 ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会が終わってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。

 が、今はもう見えなくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場の性である。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼とは三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。

延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間には密接不離なものになていった。


 二人は土曜の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も一九三二年に心霊紙 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別な形をとり始めた。

 彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓を一握りの人間にしか聞けないのは勿体ない話だ、と言いだした。元来が宣伝好きの男なので、それを出来るだけの大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキックニューズ』 紙に連載するのが一番得策だという考えを示した。

 始めは反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 が、もう一つ問題があった、現在シルバーバーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニックメームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何か良い呼び名を考えてもらわねばならなくなった。

そこで選ばれたのが  「シルバー・バーチ」 (Silver Birch) だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色(シルバー)の樺の木(バーチ)の絵はがきが入っていた。


 その頃から私の交霊会は、 「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」 と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。

しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。

 ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなると同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。

 シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアと言う女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつも、the scribe (書記)と呼んでいた。

 テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、のとシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。

 私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突き刺してみるように言ったことがある。血が流れでたらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。

 心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。

 問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話のようなものかもしれないが、電話と違ってこちらは生き物なのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。

霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。


 仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものを後で呼んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。

コンマやセミコロン、ピリオド等こちらで適当に書きこむほかは一点の非の打ちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時折混ざっていることである。

 シルバー・バーチが (霊的なつながりはあっても) 私とまったく別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。

 ある時シルバー・バーチがシルビアに向かって、〝あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟  と約束したことがあった。

当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。


 むろんロバーツ女史はそのことについて何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭のあいさつのなかで、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドは既に事情を知っているとの察しがついた。

 交霊会の演出に天才的うまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終わるぎりぎりまでかくしておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らせた。そしていよいよ最後となってシルビアに向かい、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。

暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた、そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。


 もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二―ナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。

 私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、今度はメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。

 ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会へ招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですが、レッドクラウドの許可を得てほしいと言う。

そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話がかかり、昨夜シルバー・バーチが現れて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。

 ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。




 訳者付記
 ここに訳出したのは、モーリス・バーバネル氏の最後の記事となったもので、他界直後に、週刊誌 『サイキック・ニューズ』 の一九八一年七月下旬号、及び月刊誌 『ツー・ワールズ』 の八月号に掲載されたもので、原文にはタイトルはないが、便宜上訳者が付した。 
 
                                                                                                                

 
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