スピリチュアルな生き方Q&A/もくじ
        まえがき&編者まえがき

第1章  祈り
第2章  啓示と宗教
第3章  ナザレのイエスとキリスト教

第4章  死後の世界
第5章  再生──生まれかわり
第6章  生・老・病・死・苦──地上人生の意義
第7章  霊的治療  
(スピリチュアル・ヒーリング)
その原理の目的と問題点

第8章  動物と人間との関わりあい
第9章  さまざまな問題
第10章 神──大霊とは
   (モーリス・バーバネル 


  
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シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A」

                 崇高な存在との対話
     
     スタン・バラード / ロジャー・グリーン共著
 
                                        近藤千雄 訳 
                      
                        ハート出版               
      

  まえがき
 
 本書を手にされたいきさつは、人それぞれに異なるであろう。第一に考えられるのは、古くからのシルバーバーチの愛読者で、その崇高な英知と人生への霊的洞察から多くを学んでいるので、何の躊躇もなく手にされたというケースである。また、シルバーバーチのメッセージを、地上のみならず、死後の人生の指針としている人から贈られたという方もいるであろう。

 本書は、そういう方を決して裏切らないであろうことを断言しておきたい。もしかしたら書店でふと目にとまったからという方、あるいは新聞広告を見て興味を覚えて買ったという方もいることであろう。いわば偶然のなせるわざであるが、お読みになれば決して偶然ではなく、何らかの形で霊的な導きがあったのだと、ご理解がいくことであろう。

 ともあれ、シルバーバーチの訓えの素晴らしさを、今ここで筆者の拙い筆で改めて宣伝しようとは思わない。それよりも、本書の二人の編纂者の労をねぎらいたい心境である。

すでに発刊された(そして廃刊となった)数多くの霊言集の中から珠玉の「Q&A」を抜き出して一冊にまとめるというアイデアそのものに敬意を表したい。こういう形で読むと、シルバーバーチが一段と身近に感じられ、その意味の深さを改めて認識することになるであろう。
 
                                     霊的真理普及財団・会長  ロイ・ステマン
 


   編者まえがき  

   人生のスピリチュアルな面とサイキックな面に関心を向けながら求道の旅を続けている人々のために、遭遇する疑問への回答を与えてくれる一冊の書を用意してあげたい。───これが本書を編纂した理由である。

  また、われわれが「勉強会」を始めた時、何か手頃なテキストがないものかと話し合ったことがある。スピリチュアリズムの枠内でも起こり得る誤解や勝手な解釈を一掃したもの、というのが第一の条件であったが、そうなると 「シルバーバーチ」 の名で知られている、あの高級霊が遺してくれた宇宙哲学と生きる英知以外にはあり得ないのではないかという結論に達した。

 本書に盛られた質問には、実質的には一九二〇年から始まった交霊会で何度も出されているものがある。が、シルバーバーチはその都度、内容を深めたり敷衍(フエン)したりして答えているので、本書でも重複をいとわず掲載した。

 霊言集の出版が終わった今、こうした形でシルバーバーチの霊言を世に出すということは、真理普及に改めて貢献することになる。この一冊によって光を見出す人が一人でもいれば、われわれの努力も無駄ではなかったことになる。                                                                                                                                          スタン・バラード
                                                                                                     ロジャー・グリーン

    


 シルバーバーチとは何者か                                        訳者
  本書を手にして「まえがき」と「編者まえがき」に目を通した時、シルバーバーチの霊言集がほとんど廃刊となった今でも、英国において「霊的真理普及財団」や「勉強会」という形で脈々と生き続けていることを知ってうれしかった。 
 
 人間は形而上的にも形而下的にも 「なぜ?」 と問いかけたくなるものにあふれている。
たとえば 「地動説」 という厳然たる事実が常識となるまでに何百年もかかったが、一体なぜ地球が太陽の周りを回転するのかは、いまだに謎である。
 
まっすぐに進もうとする地球を太陽が引っ張るから、というのは単なる原則的解説であって、では、なぜ地球はまっすぐに進もうとするのかは、天文学でもいまだに謎である。 

 こうした 「なぜ?」 と問いかけたくなることは、人生にはいくらでもある。本書は、そのいくつかに納得のいく回答を与えてくれる。かけがえのない英知の泉であるが、シルバーバーチと名のる霊は一体いかなる存在なのであろうか。本書によってはじめて知ったという方のために、おおよそのところを紹介しておきたい。

 シルバーバーチというのは、霊媒のモーリス・バーバネルの口を使って、一九二〇年から六〇年間にわたって霊的教訓を語り続けてきた古代霊の仮の名で、今から三〇〇〇年前頃、つまりイエス・キリストより一〇〇〇年も前に地上で生活したということ以外、地上時代の国籍も姓名も地位も不明のままで終わった。

 せめて姓名だけでも教えてくれるよう何度かお願いしたが、その都度、
「それを知ってどうしようというのですか。人間は名前や肩書きにこだわるからいけないのです。もしも私が歴史上有名な人物だと分かったら、私がこれまで述べてきたことに一段と箔がつくと思われるのでしょうが、それは非常にたちの悪い錯覚です。

 前世で私が王様であろうと召使であろうと、大富豪であろうと奴隷であろうと、そんなことはどうでもでもよろしい。私の述べていることに、なるほどと納得がいったら真理として信じてください。そんな馬鹿なと思われたら、どうぞ拒否してください。それでいいのです」

 と答えるのが常で、そのうち出席者も聞かなくなってしまった。
 ただ一つだけはっきりしていることは、霊視能力者が描いた肖像画が北米インディアンの姿をしていても、実はそのインディアンがシルバーバーチその人ではないということである。

 インディアンは、いわば霊界の霊媒であって、実際にメッセージを送っているのは高級神霊界の存在で、直接地上の人間に働きかけるには波長が高過ぎるので、その中継役としてインディアンを使っていたのである。近代の科学的霊魂学ともいうべきスピリチュアリズムによって、死後も今と同じ意識をもって生き続けることが明らかとなった。

これを 「個性の死後存続」 と呼び、これは 「地動説」 と同じく科学的事実として、好むと好まざるとにかかわらず、万人が認めざるを得ないものである。

その詳しい解説は第4章に譲ることにして、シルバーバーチが繰り返し説いている特徴的な教訓の一つは、仏教で「生・老・病・死」 を不幸としてとらえているのとは対照的に、そうしたものを体験するところに地上生活の意義があり、いわば魂の肥やしとして前向きにとらえることが、死後の向上につながると説いていることである。

 第6章を 「生・老・病・死・苦──地上人生の意義」 という見出しにしたのは、これがシルバーバーチの教えの圧巻だからである。そこには在来の全ての宗教に見られる 「現世利益」(げんせりやく) 的な気休めの説教はカケラもない。

「事実なのですから、そう述べるしかありません。もしも私が地上生活をらくに生きる方法があるかに説いたら、それは私が高級神霊界からあずかった使命に背いたことになります」 とまで述べているのである。

 シルバーバーチの教説は、その意味で 「大人の人生指導原理」 といえるかも知れない。気休めのありがたい話を好まれる方には厳し過ぎるかもしれない。が、現実界を見れば、気休めやご利益信仰など吹っ飛んでしまうような事象が毎日のように起きている。今後とも、それは変わることはないであろう。

 本書によって生きる勇気を与えられることを願っている。


                                                ※                           ※
   
   第1章 祈り                                                                         
【Q1】
 祈るということは大切でしょうか?

 それは、その祈りがどういうものであるかによって違ってくることです。祈りの文句を目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に波動を起こすだけです。

 が、誠心誠意、魂の底からの祈り、大霊 (第10章参照) の心と一体となり、大霊の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものが、その人を大霊の僕として、よりふさわしく、よりたくましくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。


【Q2】 
 祈りは主観的なもので、客観的な結果は生み出さないとおっしゃるのでしょうか?人間的に立派になるだけで、具体的には何も生み出さないのでしょうか?

 真実の祈りは、人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。

 私のいう祈りは、他人の書いた意味のわからない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めようとする真摯な願いです。その結果として、感応するインスピレーションに満たされて一段とたくましい存在となります。


【Q3】

 他人のために祈ることにも、何か効用がありますか?

 あります。真摯な祈りは決して無駄になりません。思念は生きものだからです。


【Q4】

 遠隔治療にたずさわる治療家による祈りにも、実質的な効果があるのでしょうか?

 あります。先ほどの質問に対しては個人としての祈り (注) を念頭においてお答えしましたが、あらゆるかたちの祈りについてもいえることです。祈っているときは、サイキックな (心霊的) エネルギーを出しており、これを治療専門の霊が利用するのです。

 訳注──「個人としての祈り」 と断ったときのシルバーバーチの念頭には、グループで行なう遠隔治療のことがあったことが前後の文脈からうかがえる。グループで円座をつくり、中心に特定の患者がいるとの想定のもとに祈る方法である。


【Q5】
 他に援助が得られないとき、祈りを通じて霊界からの援助を要請してもよいものでしょうか?

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長に感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは、心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうしてほしい、ああしてほしといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大きな霊的活動です。

それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならない、というのがいちばん的確な表現かと思います。

 「何とぞ私を役立たせ給え」───これ以上の祈りの言葉はありません。「大霊とその子らのために、自分を役立たせたい」 と祈ることよりも偉大なる仕事、大いなる愛、崇高なる宗教、高邁なる哲学はありません。

 どういうかたちでもよろしい。摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、お腹をすかしている人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い思いに沈んでいる人を明るい気持ちにしてあげることでもよろしい。つまりは、その人のためになることであれば、どんなことでもよいのです。

自分のことをあとまわしにしてでも、他人のために役立つことをする術を身につければ、それだけ内部の霊性、すなわち大霊が発現することになるのです。ことは、簡単なのです。

 ところが、聖職者たちは教会を建立し、そのなかで得体の知れない説教をします。私にも理解できないようなむずかしい用語を散りばめ、〝宗教的〟であると信じている儀式をします。が、そんなことはどうでもよろしい。

くじけそうになっている人のところへ行って元気づけてあげ、疲れた人に休息の場を与えてあげ、空腹の人に食べ物を施してあげ、のどの渇いた人に飲み物を与えてあげ、暗闇のなかに沈んでいる人に新しい光明を見出させてあげるのです。そのとき、あなたを通して大霊の摂理が働いています。


【Q6】

 祈りに何の回答もないように思えることがありますが、そんなとき、霊的にはどうなっているのでしょうか?
 
 人間の内部には人間くさいものと神性を帯びたものとが同居していて、両者の間で常に葛藤があります。霊性に軍配があがったときは大霊と一体となったときで、崇高な喜びに浸ります。人間性に軍配があがったときは、霊的自我は落胆しています。

 人生には、しばしば本人がこうあってほしいと思っている道ではなく、当人の存在意義が最大限に発揮される道へ、いやおうなしに導かれることがあります。たとえば、この部屋には、毎日毎晩、霊の一団が訪れています。

その霊団の一人ひとりが、本来なら一直線に向上の道を歩みたいところを、それをしばらくおあずけにして、この部屋に光の環(サークル)を構築するための環境条件を整えるために参加しているのです。いずれここが、暗い地上の片隅まで照らす灯りの始原の一つとなります。そういう仕事に比べれば、地上の人間的な悩みごとなど、ものの数ではありません。

 身を横たえる家もなく、星空のもとで寝て雨風にさらされ、満足に食べるものにもありつけない人が現実に大勢いるというのに、ここにお出でのみなさんの祈り求めるものが、大霊の目から見て、そんなに大切だと思われますか。
 
 みなさんに自覚していただきたいのは、みなさんも大霊の大計画に参画しているということ、そのなかでみなさんご自身の小さな人生模様を織っているということです。今は、その大計画がどういう図柄であるかはわからなくても、そのうちすべてが明かされる日が来ます。そのとき、すべての人種、すべての肌色が、それぞれに役割を果たしていることがわかります。そのときが地上天国になったときです。

 表向きは何事も生じていないかに思えるときでも、霊的刺繍は着々として織り込まれているのです。昼となく夜となく、大霊の計画は休むことなく続けられており、最終的には人間の一人ひとりがいくばくかの貢献をしています。

 人間から、ときおり自分の魂の成長にとってためにならないもの、かえって進化を遅らせることになるものを要求されます。それは、かなえてあげるわけにはいきません。またときおり、それを手にするに値するだけの努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そしてときとして、(要求を)受け入れるだけの十分な準備をなさっているものを要求されます。それは、ここという好機を見はからって与えられます。みなさんの祈りは、口に出す前から、大霊は、先刻ご承知なのです。

 
【Q7】

 教会で毎日のように唱えられている祈りに、効用があるのでしょうか?

 祈る人それぞれで違うでしょう。口先だけの祈りは空虚な音の響きに過ぎません。魂を込めた祈り、熱誠と憧憬に満ちた祈り、大霊に一歩でも近づきたいとの熱望に燃えた祈りであれば、その熱望そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥(シンオウ)まで届くことでしょう。


【Q8】

 たとえば、幼な子が飲んだくれの親に更生してもらいたいと思って祈る祈りに、効用はあるのでしょうか?

 誠意ある祈りには、それなりのパワーがあります。そのパワーがどこまで物的次元に転換されるかは、さまざまな条件によって違ってきます。今あげられた例の場合ですと、飲んだくれの父親の魂が問題となります。つまり、その祈りのパワーがその琴線にふれるか、それとも霊的なものから遠ざかり過ぎて何の反応も示さないかによって違ってきます。この質問には 「イエス」 「ノー」 では答えられません。


【Q9】

 でも、何らかの影響はあるでしょう?

 人のために役立ちたいという祈り、真理、光明、導きを求めての祈り、これはすべてその人の魂の進化の指標です。その心は物的身体から出たものではなく、霊そのもの、すなわち大霊の一部であり、したがって大霊のパワーを秘めているのです。しかし、それを発揮するためには艱難辛苦の体験を通じて、霊性が進化しなければなりなせん。それまでは、パワーは発揮できません。


【Q10】

 祈りは霊界のだれかが聞き届けてくれるのでしょうか?それとも、その祈りと調和するバイブレーションに反応するパワーを、人間のほうで想定する必要があるのでしょうか?

 そもそも祈りとは魂の発現です。そこのところをまず明確にしておきたいと思います。光明すなわち導きを求めて叫ぶ魂の渇望です。その熱誠そのものが回答をもたらすのです。それが思念のパワーを起動させるのです。それが回答を引き寄せる原因であり、回答が結果です。霊界のだれかが、人間が祈るのを待っている必要はありません。

 なぜなら、人間の祈りの性質によって、それが届く範囲というものが自動的に決まり、その人間の霊性の進化の度合いに応じて、引き寄せられるべき霊が自然に引き寄せられるのです。その霊たちは、地上人類のために働く決意ができていますから、そのパワーが人間の祈りが生み出したパワーを増幅させます。それは思念の波動であり、霊性の一部です。

 つまり、祈る人間の霊性に応じて、宇宙のエネルギーが働くのです。ということは、稼働させることができる宇宙エネルギーは、祈る者の霊格によって、その範囲が自然に決まるということです。

 祈る人の霊性の進化の程度によっては、何らかの理想の観念を思い浮かべて、それに意念を集中するほうがいい場合があるでしょう。そのほうがやりやすいというのであれば、私はあえて否定はしません。

 しかし肝心なのは大霊であり、生命の原則であり、大自然の摂理です。大霊は完全ですから、摂理も完全です。あなたがたの内部に宿る大霊も完全であり、それがあなた方を通じて発現しようとしているのです。祈りにしても、人のための献身にしても、大霊を発現しようとする魂の行為です。そうした魂を開発しようとする行為が、霊性の進化を促すのです。


【Q11】

 あらゆることが変えようにも変えられない法則によって支配されている以上は、大霊に祈っても何にもならないのではないでしょうか?祈りとは、大霊に法則を変更してくれるように頼むことではないかと思うのです。

 私は、祈りをそのようには理解していません。祈りとは、大霊に近づかんとする魂の切実な願いです。その行為そのものが内部に宿る大霊を発現させ、未踏の階層まで至らしめてくれるのです。そこに不公平も特別の配慮もありません。祈りという行為によって魂が身を引き締め、大霊をより多く発現し、それだけ多くの恵みをわがものとすることができるということです。大霊の恵みは無限です。そして、あなたの魂も無限に開発されていきます。


【Q12】

 なぜ人間は、神に罪の赦しを乞うのでしょうか?摂理を犯せば自動的に罰が下されるのではないでしょうか?

 赦しを求めて祈っても、摂理が手直しされることはありません。支払うべき代償は支払わねばなりません。しかし、赦しを求めて祈るということは、自分の間違いに気付いて大霊との調和を求め始めたことを意味します。自我を見つめ、内省し始めたことを意味します。本当の意味での霊性の進化が始まったのです。


【Q13】

 われわれは、摂理に向かって祈るべきなのでしょうか?

それは違います。自分の内部と外部に存在する大霊に向かって祈るのです。波動の調整とひたむきな向上心によって、大霊という無限のパワーとの一体化を少しでも促進しようとする営みです。より多くの光明、より多くの知識、より多くの英知と理解力を求める切実なものであらねばなりません。そういう祈りならば、必ず報われます。なぜならば、誠心誠意の訴えそのものが、内部の神性を発現させるからです。


【Q14】

 ときおり、こちらが祈り求めないうちに霊界からの援助をいただくことがありますが、われわれの必要性をどうやってお知りになるのでしょうか?

 切実な祈りは、然るべき目標に届くものです。必死に祈れば (私の言う 「祈り」 は 「要求」 ではありません)、その祈りは必ず目標に届きます。磁気的引力の法則が働くのです。祈りがかけ橋となって回答が届けられるのです。


【Q15】

 大霊に直接語りかけることができますか?

 あなたは大霊であり、大霊はあなたです。あなたと大霊との違いは、「性質」 ないしは 「本質」 にあるのではなく 「程度」 にあります。大霊は完全の極致であり、あなたはそれに向かって、はてしない努力を続けるのです。

 したがって、大霊は内部にも外部にもあることになります。あなたが神性を発現したとき、すなわち愛、寛容、慈悲、哀れみ、慈善などの行為を実行に移したとき、あなたは大霊と通じあっていることになります。なぜならそれは、大霊があなたを通して働きかけていることにほかならないからです。


【Q16】

 悲しみのどん底にありながら、祈るということをしない人がいますが、どうなのでしょう?神の存在を信じない以上、救いようがないのでしょうか?

 大霊の存在を信じる信じないは問題ではありません。そのことで、大霊がお困りになることはありません。


【Q17】

 ですが、そういう人でも救いがあるのでしょうか?さまざまな理由から神に祈ることも信じることもできないでいながら、大変な悩みを抱え、救いが必要な人がいます。

 救いをいただく資格は、大霊の存在を信じるか信じないかで決まるのではありません。その時点までに到達した精神的、ならびに霊的進化の程度によって決まることです。手助けをいただく資格があるからいただくのです。これも原因と結果の自然法則です。


【Q18】

 霊側では、人間側が祈るまで待っているのでしょうか? それとも、人間側が要求するしないにかかわらず、聞き届けたり無視したりするのでしょうか?

 絶対的な法則によって経綸されている宇宙の大機構のなかにあって、人間、あるいは何らかの形態の存在が忘れ去られるということはあり得ません。自然法則は完壁ですから、すべての存在を包含しており、何一つ、だれ一人その枠からはみ出ることはありません。

 地上の人間が、大霊の目からもれるということはあり得ません。人間の一人ひとりがおかれている情況は、すべて把握されています。祈りがかなえられた場合は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的進化の段階で、当人にとってふさわしいものがかなえられたのです。


【Q19】
 宗教集団で行なう日課の祈祷は、霊界に何か影響を及ぼすのでしょうか?

 ほんのわずかな間でも、波動が一つにまとまれば影響が出るでしょう。が、祈りとは、本来はやむにやまれず発する魂の叫びです。組織的な体制で、機械的に行う行事は祈りではありません。


【Q20】

 スピリチュアリストの集会のなかには、祈りの日を設けているところがありますが・・・・・・。

 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを 「スピリチュアリスト」 と呼んでみても何の意味もありません。大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。


【Q21】

 祈れば、聞き届けてもらえるのでしょうか?

 聞き届けてもらえることもありますが、それは祈りの中身と動機によります。人間はよく、中身の性質上、聞いてあげるわけにはいかないものを要求します。要求通りにしてあげたら霊性の進化を妨げ、あるいは人生観を狂わせてしまうからです。

 祈りというものを、人間の側からの要求を聞いて霊界で審議会を開き、「よかろう」とか「それはならぬ」といった返事をするような図を想像してはいけません。祈ることによって波動を高め、より次元の高い階層と通じることによって、然るべき回答が届けられる条件を整えるのです。


【Q22】

 祈りの機能は何でしょうか?

 本当の祈りとご利益信仰との違いを述べれば、祈りが、本来、どうあるべきかがおわかりいただけると思います。ご利益信仰は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい、お金がほしい、家がほしいといった物的欲望には、霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな欲求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。

 一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、万物の背後にひかえる霊力との融合を求める祈りといった、真実の祈りがあります。こうした祈りには魂の内省があります。つまり、自己の不完全さと欠点を自覚するがゆえに、真摯に祈ります。それが内在する霊的エネルギーを発現することになり、その姿勢そのものが祈りの回答を受け入れる態勢となるのです。

 これまで何度か述べたように、人間の祈りのなかには、それを完全に無視することが最高の回答であるものがたくさんあります。言うとおりにしてあげることが、かえって当人にとってプラスにならないとの判断があるのです。

 しかし、魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める願望は、自動的に成就されます。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを巻き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が、次のステップのために引き寄せられます。

危険のなかにあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。そのなかには血縁関係によってつながっている霊もいれば、愛の絆によって結ばれている類魂もいます。そうした霊たちはみな、かつて地上時代に、自分も同じようにして救われた体験があるので、その要領を心得ています。


【Q23】

 霊界側は、祈りをどう見ているのでしょう。

 祈りは、人間としての義務を逃れるための臆病者の〝避難所〟ではありません。祈りは、実際の行為で果たさねばならないことの代用となるものではありません。祈りは、義務を免除してもらうための手段ではありません。祈りは、大霊の摂理を出し抜くための手段ではありません。

それはいかなるかたちの祈りによっても不可能ですし、途切れることのない原因と結果のつながりを寸毫(スンゴウ)も変えることはできません。

 自分を役立てたいという願い、義務と責任を自覚した心から発していない祈りを、すべて無視してください。そしてその後に、サイキックないしはスピリチュアルなものとして、ある種のバイブレーションを生み出す祈りが残ります。そのバイブレーションが回答を呼び寄せるのです。それは必ずしも、当人が期待したとおりのものではありません。当人が発したバイブレーションが生み出した自然な結果です。 


【Q24】
 本当の祈りは、自分の意志を大霊の意志と調和させることだとおっしゃいましたが、どうやって調和させるかについては述べておられませんが・・・・・・。  

 祈り方がわからないという方は、無理して祈るべきではありません。祈りとは、精神と霊の行為、自分の意志を大霊の意志と調和させるための手段です。いくらやっても調和させることができないときは、それはあなたの祈りが効果を生み出さなかったということを意味します。真実の祈りには、その後に行為が伴わなければなりません。

 つまり、祈りの行為によって、自分を大いなる生命の力と荘厳さと支配力に調和させることで、それを満身に受け、宇宙的意識と一体となり、精神・霊的に一段と強くなって、より大きな貢献ができるようにならねばなりません。これが、私が理解している祈りです。


【Q25】

 公式の祈りの日に、どういう意義があるのでしょうか?

 祈りに公式も非公式もありません。昼と夜の区別もありません。祈りを発する当人以外の何者によっても影響を受けることはありません。当番の者が先導して述べる機械的な祈りには、何の価値もありません。

 そういう規約になっているため、あるいはそういう習慣になっているために顔をあわせて行なう祈祷───すっかり慣れっこになっているために、何の感慨もわいてこないような祈祷では、大霊に一歩たりとも近づけてくれません。人間にとって必要なものは、大霊は先刻ご承知です。人数を多くして嘆願する必要はありません。

 

                               

     第2章  啓示と宗教

【Q1】
 霊媒というのは生まれながらのものなのでしょうか?それとも養成することも可能なのでしょうか?

 霊的能力がそなわっているということが第一条件です。それは授けられるものです。人間は、霊的存在であるからには霊的属性を備えていますから、その意味では、潜在的にはすべての人間が霊媒であるといえます。


【Q2】

 霊が支配するためには、霊媒は深いトランス状態に入る必要があるのでしょうか?

 その必要はありません。霊媒が深いトランス状態に入らなくても、支配霊や指導霊はメッセージを伝えることができます。トランス状態の利点は、霊媒の構成要素(肉体・精神・霊)を自由に操ることができるという点にあります。霊媒の意識のでしゃばりを抑えるほど、仕事がやりやすくなります。しかし、支配霊や指導霊にとって、霊媒がトランス状態に入ることは必須というわけではありません。


【Q3】

 霊媒現象およびスピリチュアリズム全体の普及のために、われわれは何をすべきかについて助言をいただけませんか?

 スピリチュアリズムのあらゆる側面において、常に新しい要素が生まれ出ています。霊媒現象でも物理的なものが次第に影をひそめ、病気治療と霊的知識の分野で高次元の側面が徐々に出始めています。進化のサイクルが変わったということです。

 どうすべきかとお尋ねですが、鼓舞されるままに進めばよろしい。あらかじめ用意されたものというものは何もありません。現在のあなたも、何かに鼓舞されてここまで来たのです。それと同じ力に任せればよろしい。その力は、これまで一度もあなたを見捨てたことはありませんでした。

地上のいかなるものよりも大切な霊的知識を手にするよう、今日まで導いてくれたのです。ひたすら前進することです。ベストを尽くすことです。その力が導き支えてくれます。


 【Q4】

 トランスを伴う現象は、健康に影響があるでしょうか?

 ありますが、よい影響しかありません。ただし、トランス現象に関わる法則を守っていれば、のことです。たとえば、一日に三回も四回も交霊会を催せば、当然のことながら健康に害を及ぼすでしょう。常識的な線で定期的に行ない、演出される現象に進歩が見られれば、健康はむしろ増進するはずです。

 なぜかといえば、そういう状態のときに、霊媒の身体を流れる霊的エネルギーは活力に富んでいて、会を催すたびに少しずつその活力を残していくからです。使い方一つで、健康を増進することにもなれば、阻害することにもなります。


【Q5】

 心に念じたことは、必ず霊に通じるものでしょうか?

 そうとは限りません。波動的に合致しているか否かによります。合致していれば通じます。もっとも、霊的な親和性のある魂同士であれば、地上と霊界の隔たりに関係なく、思念や要望は即座に通じます。

 
【Q6】

 以前に比べて、霊界から通信を届けるのが容易になってきているのでしょうか?

 容易になりました。混沌とした状態が次第に消え、秩序ができてきました。(戦争が生み出した)激しい、凶暴な感情が後退し、消えていきつつあります。地球を取り巻いていた怨恨の霧に晴れ間が見えるようになり、それだけ地上界に近づきやすくなりました。この傾向は今後も進展することでしょう。


【Q7】

 霊視能力者が霊の姓名を伝えるときに、「姓」が伝えられないことがありますが、なぜでしょうか?

 大体において、姓は呼び名よりも受け取りにくいのです。これは音のバイブレーションの感得力の問題に帰します。呼び名のように聞き慣れているものは、伝えやすく受け取りやすいのです。変わった名前、一般的でない名前ほど伝えにくく、また受け取りにくいものです。

 さらにいえば、こちらの世界から霊媒または霊能者に送り届ける情報の多くは、絵画またはシンボルのかたちをとりますから、姓のような抽象的なものは伝えにくいのです。もちろん、霊視力ないしは霊聴力が格別に鋭い人は、鮮明に受け取ることができます。

 ですが、ここで忘れてならないのは、霊的能力の善し悪しは姓が正しく受け取れるか否かで決まるわけではないということです。要は、霊の身元の証拠になるものが示せるか否かです。


【Q8】

 ホームサークル(交霊会・実験会)には、ドアキーパー(玄関番・門衛)がいるそうですが、どういう役目をしているのでしょうか?

 ドアキーパーの役目は、ドアキーパーであることです。当たり前のことのようですが、邪霊やヤジ馬霊を排除するためのバリアをこしらえる力を操ることができるようにならないことには、その役目は果たせません。その力の源は、実はあなた方出席者であり、その集合的な力であることをご存じでしょうか?出席者一人ひとりから引き出し、担当の指導霊(ドアキーパー)がそれを素材にバリアをこしらえるのです。要するに、霊界のエネルギーと人間から引き出したエネルギーとを混合してバリアをこしらえ、サークル活動に使うのです。


【Q9】

 スピリチュアリズム勃興以前にも、霊的な啓示があったのでしょうか?

 突発的な啓示はいくつかありましたが、持続しませんでした。スピリチュアリズムと銘打った今回の啓示は組織的なものであり、コントロールされたものであり、規制されたものです。

 人間の想像をはるかに超えた協調関係のもとに計画されたプロジェクトで、その背後の組織は途方もなく広大であり、緻密な計算のもとに実行に移されています。すべてに打ち合わせがなされているのです。

 霊界の扉が地上へ向けて開かれることに決したとき、それは十分な熟慮の末に決したのであり、したがって、いったん開かれた以上は二度と閉じられることはありません。

 私たちの使命は、目的性のあるもの、意義のあるものを授けることであり、霊的なことにも法則があることを証明する一方で、死後の世界についての知識と慰めを与えることです。つまり、死後の世界にも摂理・法則があることを説きあかすだけでなく、霊に関わる真理をお教えすることです。
 
 私たちの使命に立ちはだかるものとして、間違った教えのうえに築かれた巨大な宗教的組織があります。何世紀にもわたって築きあげられてきたものを切り崩さねばなりません。誤った教義・信条のうえに築かれた聖職者の支配構造を破壊しなければならないのです。
 
 私たちは、物質界の子らに、いかにすれば迷信から解放され、霊的真理の陽光を浴びることができるか、いかにすれば誤った教義の奴隷状態から脱け出ることができるかをお教えしようと努力しているところです。これは容易ならざる仕事です。なぜなら、いったん宗教の罠にかかってしまうと、正しい霊的真理が、その迷信の厚い壁を突き抜けるには、長い長い年月を要するからです。

 私たちは、霊的真理の宗教的意義を説きあかしたいと努力しています。地上界の人間が、その霊的な意義を理解したとき、戦争や流血による革命より偉大な革命が成就されるからです。それは魂の革命であり、世界中の人間が本来享受すべきもの、霊的存在としての自由を満喫する権利を要求するようになります。

そのとき、足かせとなっていたものすべてが、ひとたまりもなく消し飛んでしまいます。私たちが忠誠を尽くすのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の自然法則です。


【Q10】

 私は、ドグマや組織宗教には、すっかり落胆しています。しかし、教会には存在価値を認めるのですが・・・

 教会設立の起源に立ち戻ってみましょう。キリスト教の教会も、他の宗教の教会、寺院、シナゴーク(ユダヤ教の礼拝堂)、チャペルなどと同じく、遠い過去においても霊界から地上界への働きかけがあったからこそ、存在するようになったのです。そこでは常に(霊媒がいて)、いわゆる〝しるしと不思議〟、ときには奇跡的現象が発生していました。

 それは、当時の信仰や教義やドグマの間違いを教える目的をもっていました。霊界からの働きかけが、本来は、病人を癒し、正しい生き方を教え、人生の基本原理、すなわち、物質は殻であり、霊こそ実在であることを強調することにあるという点において、神性を帯びていることを証明するものでした。

 ところが残念ながら、これまでの歴史を見ればおわかりのとおり、そういう霊力のほとばしりは一時的なもので終わっています。

 次第に神学者が(霊媒を押しのけて)支配するようになり、俗世的な頭で教義をこしらえ、霊的啓示にとってかわるようになりました。不毛の言葉が生きた啓示を凌ぎ始めたのです。その後も霊力のほとばしりに伴って、〝しるしと不思議〟と奇跡が発生してきました。同じことがいく度も繰り返されたのです。


【Q11】

 あなたのおっしゃる「宗教的寛容」を明確に説いていただけませんか?宇宙が絶対的な自然法則によって支配されているとか、その法則は完璧で永遠不滅であるといった教えは、ある意味ではドグマ的で、寛容性に欠けていると言えないでしょうか?

 私はこれまで、絶対に間違ったことは言わないと主張したことは一度もありません。あなた方と同じ人間的存在であり、理性に訴えることを第一の心がけとして真理を説いてきました。私のいうことを拒絶したら罰が当たるようなことは、暗に、におわせることもしていないつもりです。こちらへ来てみてわかった真相はこうなっていますということをお伝えしているだけです。

 どう受け取るかは、あなた方の判断に任せます。なるほどと納得がいけば受け取ってください。納得がいかなければ拒否なさればよろしい。信頼を勝ち取る方法がほかにあるでしょうか?

 ご利益(あめ)と天罰(むち)ですか?とんでもない。私たちは、愛と常識で信頼を勝ち取り、共通の基盤のうえで語りあえることをモットーとしてのぞんでいます。


【Q12】 

 あなたの教えは、一般の人々を対象にしておられるのでしょうか?もしそうであれば、初期のキリスト教が説いたような単純なもの、たとえば、贖い(あがない)の教義を説いたほうがよろしいのではないでしょうか?高級霊による霊界通信よりも、そのほうが現代人には役に立つのではないでしょうか?

 ご質問の根底にあるものは間違っていると、あえて申しあげます。私の教えが大衆を意図したものであることは認めます。また、大衆が理解し、吸収し、ありがたく思うような真理は単純なものであり、その単純なものこそが、大衆が宗教に求めているものを提供するというのが私の考えです。

教訓の真髄は単純そのもの、すなわち、真実であるということに尽きます。他の条件はどうでもよろしい。

 その点、ひきあいに出された教え(キリスト教)が支持を失ってしまったのは、その教義が真実でないからです。そのなかの一つである贖罪説を例に出されましたが、罪を贖うのはあくまでも自分自身であって、他のだれにも贖うことはできません。

あなたの人生の責任は、あなたが背負うのです。あなたが犯した罪を赦してくれる者はいません。原因と結果の法則を阻止したり変更したりすることのできる者はいません。寸分たがわぬ正確さをもって働きます。


【Q13】

 スピリチュアリズムと伝統的宗教との融合が望ましいのでしょうか?
 
 それは言葉の遊戯に過ぎません。私は、タイトルやラベルや種類分けには興味はありません。要は真理を普及させ、人類を迷信から解放し、大霊の子が死後に待ち受ける生活にそなえた、生き甲斐ある生活ができるようにしてあげる───そうした目的に沿ったものであれば私は大歓迎ですし、魂の解放にとって意義があります。

スピリチュアリズムといい、伝統的宗教といい、いずれも漠然としていて、これを言葉で解説しようとすると混乱してしまいます。私の関心は、光明を求め内部の神性を発現して、自分より恵まれない人々の役に立つことをしようと心がけている一人ひとりの人間です。

 一人ひとりの人間が授かった資質を活用して最善を尽くし、日々、大霊の計画とその子らのために寄与しているのだと実感する、それだけで十分です。霊能を授かった人は、一般の人にはできないかたちでの人助けができるという、はかりしれない恩恵に浴しています。ほとんど毎日のように訪れる素晴らしいサービスのチャンスに、心躍るほどの喜びを感じるようでなければいけません。

 が、知識には責任が伴うことを忘れてはいけません。霊能者は、崇高な真理を授かっているばかりでなく、崇高なエネルギー、神性を帯びた生命力そのものも授かっていることを忘れてはいけません。

 地上界を霊的に浄化し再生させる仕事にたずさわるということは、大変な責任を伴います。が、常に導きがあります。自信をもって進んでください。毎日、霊的歓喜を覚えるほどのサービスのチャンスがもたらされます。

           

 第3章 ナザレのイエスとキリスト教

【Q1】
 聖書(バイブル)には、真実が語られているのでしょうか?

 聖書は、霊的真理と人間的夾雑物の混ぜものです。


【Q2】

 キリスト教でもそうですが、宗教の指導者の生と死と復活を、太陽系や四季のめぐりといった、自然現象と関連した神話上の神々になぞらえているものが多いのはなぜでしょうか?

  それは、人間が自分たちの指導者には超自然的能力があったのだと思いたいために、太古の神話からそうしたものを借用したからです。

当時の人間は、まだ自然法則という概念をもちあわせていませんでした。それで彼らは、自分たちの指導者は、自分たちにはない超越的資質をそなえた超常的人物であったことにしたいと思い、民族同士でそれぞれの神話を借用しあったわけです。

 それはしかし、大霊の使者によってもたらされた教えを汚染するまでには至っていません。それぞれの時代、それぞれの民族において、それぞれの必要性に応じて、大霊の真理と英知と愛を反映したものが届けられています。


【Q3】

 そうした宗教上の人物は、大自然の運行と連動しているのだと、信奉者は信じています。つまり、自分たちの教祖さまの生涯は自然現象を暗示している(たとえば、死後の復活は冬のあとに春が訪れるのと同じ)と信じているのですが、これは単なる偶然でしょうか? 

 あなたのおっしゃるのが、聖書にあるようにナザレのイエスが磔刑(はりつけ)になったときに、天地が慟哭するかのように、稲光とともに嵐が吹きまくったという話のことであれば、それは事実ではありません。死んだ人間もみな、地上へ戻ってくることを意味するのであれば、それは事実です。さきほど述べた大霊の使者の生涯に関しても、同じようなこじつけがみられます。


【Q4】

 「聖霊に対する罪」というのは、どういう罪でしょうか?

 聖霊に対する罪は、聖霊の存在を否定することです。

訳注───このシルバーバーチの答えは、キリスト教を代弁したものではなく、霊的真理に照らして批判的に答えたもの。つまり、キリスト教神学でいう 「三位一体説」、すなわちゴッドとイエスと聖霊が一体であるとの説が誤りであるとの立場から、次の質問(Q5)に対する答えで述べているように、キリスト教では実質的には聖霊の存在をみずから否定しているのだから、その意味でキリスト教者自身が罪を犯していることを指摘している。 


【Q5】

 聖霊とは何なのでしょう?

  霊界から届けられる霊的エネルギーのことです。キリスト教では教義の一つとして抽象的には認めていますが、私たちが 「地上界のすべての人間が、その恩恵に浴しているものです。こうしてみなさんと語りあえるのも、その霊力のおかげです」 と言うと、それは聖霊ではないと反発します。たとえ一時であっても、霊の世界と物質の世界が目的において、こうして一つになることを可能にしてくれるのは、聖霊すなわち大霊のエネルギーのおかげなのです。


【Q6】
 聞くところによると、キリスト教のどの教派においても、洗礼を受けることによって、死後その教派の霊団に迎えられて、新しい環境に順応するように世話をしてもらえるのだそうですが、それが事実だとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか?

  この大宇宙を稼働させている力、この物的身体に生命の息吹を吹き込んで霊的存在としてくれている力、無数の天体のすべてに存在を与え、自然法則として顕現している力、無数の次元の生命として顕現している大霊、太古より多くの預言者や霊媒を通して顕現してきた大霊、すべての存在の内部と背後にあって働いている力、その無限大の力である大霊が、人間が水をかけられているかどうかでお困りになることはありません。

 大切なのは、各自の人生が摂理にかなっているか否かです。赤子に数滴の水をかけたからといって、摂理がごまかせるわけではありません。摂理は変えられないのです。原因には、それ相当の結果が出るようになっているのです。


【Q7】

 キリスト教は、多くの立派な人間を生み出したのではないでしょうか?

 その人はクリスチャンになろうとなるまいと、立派な人間になっていたはずです。


【Q8】 
 でも、イエスの教えにしたがったからこそ、立派になったのではないでしょうか?

 地上界の人間が本当にナザレのイエスを見習った生き方をしたら、人類の歴史に新たな一章が始まったことになるでしょう。残念ながら、まだ始まっていません。私の目にはその兆候はどこにも見えません。

 忠誠を尽くすべき人物を裏切るような生き方をしながら、この私に向かって 「クリスチャン」 という用語を用いることはやめてください。イエスも言っているではありませんか───「私に向かって主よ、主よ、と言っている者のすべてが天国に入れるわけではない。天に在します父の御心を実践する者のみが入れるのである」 と。


【Q9】 

 クリスチャンのなかには教義にあまりこだわらず、それでいて我欲のない立派な生涯を送った人物がいく人もいましたね?

 そういう人物は、立派なクリスチャンとは言えません。だめなクリスチャンということになりましょう。ですが、立派な人物だったのです。忘れないでください。いかなる教義も必ず魂を束縛します。

 人間は、教義を守ることによって立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人類は教義の名のもとに殺し合い、火刑に処してきました。魂を縛るもの、手かせ足かせとなるもの、自由な生き方を阻むものは、いかなるものであっても排除しなくてはいけません。


【Q10】

 イエスは教会がいっているように 「神の唯一の子」 だったのでしょうか?それとも、ふつうの人間の子で、偉大な霊的能力をそなえていたのでしょうか?

 イエスは、大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した使者の一人でした。地上での使命は成就しましたが、まだ全使命の一部が残っています。今、それを成就するために霊界から指揮しているところです。忘れてならないのは、イエスという一人物を崇めるのは間違いだということです。

 崇拝の対象とすべきものは大霊のみであって、その大霊の使者を崇めてはいけません。またイエスは、自然法則にのっとって地上界へ降誕してきました。自然法則を無視して物的生命を授かることはできません。法則を無視して地上へ生まれてくることも、地上界から私たちの世界へ来ることもできません。


【Q11】 

 そのことを、イエスは聖書のどこかで言っていますか? 

 私が訴えるのは大霊の法則のみです。何かというと言葉の松葉杖にすがるような人は、大霊が今も働いている、今もインスピレーションを地上の人間に届けてくださっている、今も真理を啓示してくださっているということを悟るまで、霊性の進化を待つしかありません。

 霊的法則は、今でも同じように働いているのです。霊的エネルギーは、今でも霊媒を通して働くことができるのです。あの聖書の時代と同じように、大霊の道具となることができるのです。聖書は立派な本かもしれませんが、もっと立派な〝本〟があります。大宇宙そのものです。

大霊の摂理で構成されており、その本からみなさんは、他のいかなる本───それがいかに立派で、いかに大切にされ、いかに崇められていても、それよりはるかに多くのことを学ぶことができます。


【Q12】

 イエスは今、どこにいて、何をなさっているのでしょうか?

 ナザレのイエスなる人物を通して顕現した霊は、二〇〇〇年前に開始した使命を果たすべく、今も働いています。その霊は二〇〇〇年前に十字架に架けられましたが、実はその後も数え切れないほど架けられ、今では毎日のように架けられています。しかし、その霊は大霊の分霊ですから、地上界に秩序と安寧をもたらすべく、これからも道具のあるところに働きかけて、その影響力を広げていくことでしょう。


【Q13】 

 あなたがイエスについて語るとき、それは人間イエスのことですか? それともイエスを通して働きかけた霊的勢力の総合ですか?

 人間イエスのことです。ですが、その後イエスは大きく進化し、地上時代よりもはるかに高等な意識を発現しています。地上で発現する意識の高さが、生まれ落ちた時代と土地柄に相応したものにならざるを得ない以上、やむを得ないことです。それでも、ナザレのイエスを通じて発現した霊性は、地上に降誕したいかなる人物をも凌ぐものでした。イエスほど霊性を強烈に顕現した者は、ほかにいないということです。


【Q14】

 この二〇〇〇年間に、でしょうか?

 前にも後にもいません。イエスが発現した霊性は、地上界で発現した大霊の霊性のなかでも最大のものでした。だからといって私たちは、イエスという一個の人物を崇めることはしません。イエスを通じて発現した霊性には敬意を表します。どれだけ霊力の道具になったかで受けるべき敬意の度合いが決まる、というのが私たちの認識の仕方だからです。


【Q15】

 霊界では、イエスのような人物を地上へ送って、さらに啓示を届ける計画があるのでしょうか?

 必要性が変われば、それに応じて手段も変えないといけません。忘れてならないのは、地上世界は、ますます複雑になり、ますます相互依存の傾向が強まっていますから、霊界とのコミュニケーションのチャンネルも新たに開かねばならなくなっていることです。

 霊界側は、地上界のさまざまな気質、さまざまな慣習、ものの考え方、生活様式を考慮しなければなりません。メッセージの内容も自然環境や特質、民族的習慣にあわせなくてはなりません。言語による制約もあり、それを読んだり聞いたりする人たちの程度にあわせなくてはなりません。しかし、その背後で鼓舞している根源的エネルギーは同じです。

 キリスト教界では、死者からよみがえって姿を見せ、生命が永遠であることを証明して見せた人物に敬意を表しています。その人物は物質化して、証拠として磔刑の傷跡を見せています。その後も顕現しています。こうした現象をキリスト教界では、証明はできなくても事実として信じているのです。ところが、それは神の子イエスだから発生した奇跡であると独断します。

 しかし、私たち霊界の者が、こうして交霊会に出現し、死後の世界の実在を証言し、大霊の永遠性とその摂理・法則の不変性を説くことができるのも、奇跡ではなく、イエスのよみがえりと同じく、法則にのっとった自然現象なのです。つまり、すべての人間がよみがえるのです。生命の法則がそうなっているからです。


【Q16】

 伝統的宗教を扱うに際しては、寛大な態度でのぞむべきでしょうか、厳しい態度でのぞむべきでしょうか?

 おそれることなく、真実を語ることです。あなたは大霊の使いです。邪説を論破し、虚偽を暴きなさい。おそれることはありません。


【Q17】 

 スピリチュアリズムを受け入れれば、伝統的宗教は捨て去るべきでしょうか?

 私はラベルには関心がありません。はたしてスピリチュアリストなのかも定かでありません。確認する儀式をしたことがないからです。自分がどういう信者であるかを宣言しても何の意味もありません。私たちが関心をもつのは、日常生活をどう生きているかです。

 宗教とは何なのでしょう? 教会やシナゴーグやチャペルや寺院に通うことでしょうか? 人間のこしらえた信条の受け入れを宣言することでしょうか? ローマ・カトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですとかいうことでしょうか?

 宗教とは、大霊に少しでも近づくような生き方をすることです。大霊の御心があなたを通じて発現することです。宗教とはサービスです。 

 霊界からの啓示のすべてを手にしながら、あいかわらず伝統的宗教の教義にしがみついている人がいたら、その人のことを気の毒に思ってあげなさい。心のなかで、その人のために祈ってあげなさい。その人は、まだまだ初歩の段階にいるのですから。


【Q18】

 宗教の指導的立場にいる者が霊的真理に目覚めたとき、旧式の概念は捨て去るべきでしょうか?

 人間各個の義務というものを、私たちは至上の原則と位置づけています。自分のすることには自分が責任を負うということです。

 霊的真理に関して屁理屈で言い逃れをしても何にもなりません。霊的意識が芽生えれば、良心の声がどうすべきかを教えてくれるものです。それをなるほどと認識したら、そのとおりに実行しなければなりません。それができない人はその程度の人なのですから、それをとがめることは正しくありませんし、適切でもないと考えます。


【Q19】

 スピリチュアリズムは、いずれ普遍的な宗教となるのでしょうか?
 スピリチュアリズムというのは、いくつかの霊的真理の存在と意義と作用について与えられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは生き方そのものであって、特定の信仰を受け入れることではありません。


【Q20】 

 教会やチャペル、シナゴーグなどは存在価値があると思われますか? 

 あるものもあれば、ないものもあります。そういう場所にいる者が、無意識のうちにせよ霊の影響を受け、インスピレーションを受けるようであれば、光明と知識と英知と真理を広めるための道具となりますから、大いに役立つでしょう。

 インスピレーションもなく、古い形式や儀式、朽ち果てた教義の繰り返しで、神学の一字一句にこだわった説教しかできないようでは、何の役にも立ちません。

いずれにしても、一概にはどちらとも言えません。だめ呼ばわりするところばかりでもありませんし、絶賛したくなるようなところばかりでもありません。それぞれに長所と短所があり、本来のサービスをしているところもあれば、していないところもあります。

        

 第4章 死後の世界 
 
【Q1】
  死後の世界は、どこにあるのでしょう?
 
 今、あなた方が生活している世界の別の側面、肉眼に見えず肉耳にも聞こえない世界です。今こうして存在しているのと同じ場所に存在しているのです。死後、わざわざそこへおもむく必要はありません。今いるところが霊界なのです。
 
 それが感識できないのは、霊的な感覚が発達していないからで、それが発達して霊界の波動あるいは振動(何と呼ばれても、かまいません)と調和すれば見えるようになります。

 つまり、霊界という別の世界が存在するわけではないのです。顕と幽にまたがる大宇宙を構成する無数の側面の、一つの側面に過ぎません。


【Q2】

 死んだ後、生前のアイデンティティーはどうなるのでしょうか? たとえば二、三十年前に他界した妻を夫が確認できるのでしょうか? 向上が著しくて近づくことができないということもあり得るのでしょうか?

 アイデンティティーは変わりません。個性も変わりません。意識も変わりません。霊的品性が増し、容姿が大きくなっていることがありますが、個的存在としては生前とまったく同じです。霊的感覚が鋭くなり能力も深まっています。シミや障害や傷跡は消えてなくなっていても、本人とはっきりと認識できます。容姿も(すぐには)変わりません。

自我を表現するための道具ないしは手段は霊となっても必要だからです。その道具、つまり霊的身体は、地上で生活しているときから存在しているのです。


【Q3】

 死に方というものが霊界へ行ってから影響するでしょうか? 自然な死に方のほうが霊界に溶け込みやすいのでしょうか?

 もちろんです。大いに影響します。すべての人間が霊的知識をもち自然な生き方をすれば、いわゆる死ぬということが、らくで苦痛のないものになります。また、肉体が死滅した後、霊体になじむための調整をしなくてすみます。ですが、残念ながら、そういうケースは、めったにありません。

 地上を去って、私たちの世界へやってくる人間の大半は、自分の霊的宿命や構成、霊的実在の本質について極端に無知です。それに加えて、死ぬべき時期が熟さないうちにこちらへやってくる人があまりに多過ぎます。そういう人は、私がよくたとえているように、熟さないうちにもぎとられた果物がおいしくないのと同じで、未熟です。果物は熟せば自然に落ちます。同じように肉体に宿っている霊が熟せば、肉体は自然に朽ちて霊体から離れるものです。

 今、こちらの世界には、すっぱい果物やしぶい果物がどんどん送られてきています。そういう霊を霊的環境へ適応させるために、私たちはいろいろと手を尽くし、監視し、世話をやかねばなりません。あらかじめ霊的知識をたずさえていれば、私がたずさわっているような仕事はずっと楽になるのですが・・・・・・。

 死に方によって、間違いなく死後の目覚めが大きく違ってきます。死ぬということは、霊体が肉体から脱皮して態勢を整えることです。決して痛みを伴うものではありません。何らかの病気で死んだ場合は、その反応が残る場合があるかもしれません。その影響が大きい場合は、医者に相当する霊界の専門家が立ちあいます。

集まっている縁故の霊とともに、その死体とつながっている生命の糸(シルバーコード)が完全に切れて、無事に霊界へ誕生するように手助けします。

 次に考慮しなければならないのは、死後の目覚めの問題です。それが早いか遅いかは、その新参者の霊的意識の程度によって違います。死後の生命の存続についてまったく無知である場合、あるいは間違った死後の概念を吹き込まれていて、正しい理解に時間を要する場合は、肉体の睡眠に相当する霊的休息という過程が必要になります。

 その過程は自覚が芽生えるまで続きます。地上の時間感覚で長いこともあれば、短いこともあります。個人によって違います。正しい知識があれば問題はありません。物的波動の世界から脱け出て霊的波動の世界へと入り、新しい環境への順応もすみやかです。目覚めの瞬間は歓喜に包まれます。その目覚めをじっと待ち望んでいた、縁ある人々との再会となるからです。
 
 そもそも死というものは、少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。死は自由をもたらしてくれます。みなさんは、赤ちゃんが生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ誕生していく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。

同じように地上ではだれかが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは、地上生活で果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意が、その霊にそなわったことを意味するからです。

 次のことをぜひ理解してください。すなわち、死は死んでいく者にとっては悲劇ではなく、後に残された者にとっての悲劇に過ぎないということです。暗黒から光明へとおもむくことは悲しむべきことではありますまい。悲しんでいるのは、実は、その人に先立たれた自分のことであって、肉体の束縛から解放されたその人のことを悲しんでいるのではありません。その人はより幸せになっているのです。

もう肉体の病に苦しめられることがなくなったのです。激痛にさいなまれることがなくなったのです。天賦の霊的資質が発現し、何の障害もなくそれを発揮し、援助を必要としている人々のために役立てることになるのです。

 毛虫が美しい蝶になったことを悲しんではいけません。鳥かごが開け放たれて、小鳥が大空へ飛び立ったことを泣き悲しんではいけません。肉体を離れた魂が自由を獲得したことを喜び、そして、あなたも大霊から授かった能力を発揮すれば、その魂が味わっている美しさと喜びをいくらかでも知ることができることを知ってください。

 死というものが存在することにも意味があるのです。一つの踏み石ないしはドアのようなものであり、そこを通過することによって、より自由な霊の世界へと入ることになるのです。


【Q4】

 唯物主義者をもって任じている人は、死後どうなるのでしょうか?

 地上人類は長い間、信心深い人間は、信仰心のない人間よりも優れているという思い違いをしてきました。必ずしも、そうとはいえないのです。ある宗教的信条を信じたからといって、それだけで霊的に立派になるわけではありません。判断の基準になるのは日常生活です。

 現在の霊的本性は、本人のこれまでの日常生活での心と体の行為がこしらえたものです。ですから、神の存在を信じ教義を受け入れたことで〝選ばれし者〟の一人となったと信じている人よりも、唯物主義者、無神論者、合理主義者、懐疑論者をもって任じている人のほうが、霊的に上である場合が多いのです。大切なのは、何を信じるかではなくて何をしたかです。そうでないと〝神の公正〟が根本から崩れます。

〝神の公正〟を人間の思惑で判断してはいけません。大霊の意志の反映ですから、大自然と同じように、人間の望み・思惑・願望などにおかまいなく働きます。神の公正と人間の公正とを比較して論じることは無意味です。

人間の公正は必ずしも正しくありません。判断を誤ることがあり得ます。無実の者が罪人にされたり、罪人が無実になったりすることもあります。人間であるからには間違うということは避けられません。絶対的不謬性(誤りを犯さない)はあり得ないからです。


【Q5】
たとえばH・G・ウェルズ(注)のように、スピリチュアリズムを否定し、生涯にわたって合理主義者で通した知性派の人間が他界して、死後にも生活があると知ったときは、どういう反応をするのでしょうか?

 生涯をかけて築いた人生哲学がひっくり返されるわけですから、とても納得がいきません。宇宙そのものがどこか狂ったに違いないと思います。自分が自信をもって、論理的かつ科学的に論証した宇宙観とそぐわないからです。それを調整していかねばならないわけですが、それには長い長い論争と語らいが続きます。

訳注───H.G.Wells(1866~1946)は、英国が生んだ世界的な文明評論家で 『The Outline of History (文明の概論)』 がその代表作であるが、Q4の回答のなかでシルバーバーチが述べているように、霊格が高くても生まれ落ちた国家や環境によって間違った人生観・宇宙観を抱いていることがよくあり、知性が強いだけに死後の〝調整〟がむずかしいことになる。特に宗教的指導者は信奉者とともに自分の想念でこしらえた孤立した世界で何千年、何万年と暮らしているという。 『マイヤースの通信』 では、これを「知的牢獄」と呼んでいる。


【Q6】
 間違った信仰をたずさえて霊界入りする者が多いとのことですが、『ヨハネ福音書』では、信ずる者こそ救われると説かれています。
 
 それは間違いです。死後も生き続けるのは、信条や教義やドグマを信じるからではなく、自然法則によって生き続けるようになっているからです。宗教とは何の関係もありません。因果律と同じく自然の摂理なのです。


【Q7】
死んでいく者の多くが死後の存続の事実を知らず、めまいのような状態にあるそうですが、それは子どもにも言えることでしょうか?

 その子どもの知識がどのようなものかによります。地上界の無知と迷信の産物によって汚染され過ぎていないかぎりは、本来そなわっている霊的資質が生み出す感性が、直観的理解へと導きます。


【Q8】
 死後どれくらいたつと、地上界へ意思を伝えることができるようになるのでしょうか?

 事情によって異なります。死後何世紀もたっているにもかかわらず、真相に目覚めない者がいます。一方、真理を明確に理解していて、霊媒現象の原理にも通じている者もいます。そういう者なら、死んで何分もしないうちにでも出現できます。


【Q9】
 魂はいくつもの側面があり、そのうちの一つが地上に誕生できるとおっしゃっていますが、他の側面は、どこか別の階層で進化しているのでしょうか?

 私たち霊的世界に住む者は、霊的なものを説明するにあたって地上界の言語を使用しなければなりません。言語は物的なものであり、魂は非物的なものです。物的でないものを物的な言語でどう説明するか───これはあなた方の言う語義論に関わる大問題です。

私に言わせれば、魂とは、すべての人間に宿っている神 (God)、私が 「大霊(Great Spirit)」 と呼んでいるものの一部です。それはこういうものですと、形状や寸法を述べることは不可能なのです。魂とは、生命力(life force)、動力(dynamic)、生気(vitality)、実質(real essence)、神性(divinity)といった用語で表現するしかありません。

 魂というものを、多分、あなた方は自分と同じような〝人物像〟や〝個的存在〟の観念で想像なさるのでしょう。

でも、もし私が 「あなたは、だれですか?」 と尋ねたらどう答えますか?名前をおっしゃっても、それだけではあなたが何者であるかはわかりません。それはあなたを呼ぶときの名称に過ぎません。では、一体あなたという魂は何なのか? 個性をもつ存在、理非曲直を判断する能力をもつ存在、思考力をもつ存在、愛を知り地上界の人間的体験の綾を織りなす情感を表現できる存在、それが魂です。

 人間が地上で生活できているのは、魂が物的身体に活力を与えているからです。魂が引っ込めば、身体は活力を失って死にます。その魂に地上で使われているような名前はありません。本質的には大霊と同じですから、無限の存在です。そして、無限ですから無限の表現が可能です。

魂には多くの側面があるというのは、そういう意味です。それを私はダイヤモンドにたとえているわけです。それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです。

 まれにですが、同じダイヤモンドの二つの側面が降誕して地上で出会うことがあります。これを 「アフィニティ(affinity)」 (注)といいます。そういう場合は、両者の間に完全な調和が見られます。同じグループを構成する魂同士だからです。これは再生(生まれかわり)の問題とつながってきます。

つまり、同じダイヤモンドの各側面が、それぞれに何度も地上へ生まれ出て知識を増やし、自己開発し、体験を積んで、ダイヤモンド全体としての進化を促すのです。

訳注───affinityはもともと「親近性」を意味する語で、霊的な親近性をもった魂、同じ霊系に属する魂を指す。『マイヤースの通信』 では 「Group Soul」 という用語を用いているが、両者がまったく同じものであることをシルバーバーチ自身が認めている。

日本語では浅野和三郎氏が 「類魂」 と訳しそれが定着しているが、「affinity」はそのまま英語読みが定着している。なお、次のQ10の回答の後半の表現から推察すると、シルバーバーチは 「Group soul」 を人間的要素の残っている段階、言い換えると地球圏内に限っているふしがうかがわれる。


【Q10】
類魂というのは家族のことでしょうか? 霊的発達程度の同じ者の集まりでしょうか?趣味・性向 の似た者同士でしょうか? それとも何かもっと別のものでしょうか?

 「家族」という用語の意味が文字通りの意味、つまり血族や結婚によってつながった者を意味するのであれば、それは違います。純粋に肉体に起因する地上的な縁は、必ずしも死後も続くとは限りません。

 霊的関係には、究極的にはアフィニティがあり、親近性が少し劣るものとして血縁の要素が残っているものがあります。血縁関係は、永遠・不変の原理に基づくものではありません。永続性のあるものは、永遠・不変の原理に基づくものだけです。

 類魂は、人間的要素を含む霊的親近関係にある魂によって構成されています。同じダイヤモンドの側面同士ですから、自動的に引きあい、引かれあうのです。ある特殊な目的を成就するために同じダイヤモンドの複数の側面が地球上に生まれ出て、〝より大きな自我〟であるダイヤモンド全体の進化に寄与するということはあり得ますし、現に行なわれています。


 【Q11】
 大きなダイヤモンドの一側面という言い方をされました。つまり、私もある魂の集団の一人ということになりますが、これは、われわれが永遠に生き続ける存在であるとすると、他の大勢の仲間のために地上経験を積む必要があるというのが、私には論理的に納得がいかないのですが・・・。

 全宇宙を通じて作用と反作用が生じています。はるか遠くにいる人間でも、あなたの存在に大きな影響を及ぼし、結果として宇宙全体の情報が増えていくことになるのです。肉体的にも精神的にも霊的にも、あなたが孤立するということはあり得ないのです。その仲間をグループと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、しょせんは言語を超えたものを言語で表現しようとしているに過ぎません。

 一体 「あなた」 とは何者なのでしょう? また、「あなた」 という存在はいつから始まったのでしょう? 受胎の瞬間から始まったのでしょうか? ナザレのイエスは 「アブラハムが生まれる前から私は存在していた」 と言いましたが、これは何を意味しているのでしょう?霊としては、常に存在していたという事実を述べたに過ぎません(注)。

あなたも常に存在していましたし、私も常に存在していました。そうした霊的存在の側面が、肉体をまとって地上界で生活することはあり得ることです。

 私の言うことが納得できないとおっしゃる方と論争するつもりはありません。常々私は、自分の理性が反発することは拒絶なさってくださいと申しあげています。

 私たちがもし、みなさんの好意、あるいは愛と言えるものをいただけるとしたら、それは私たちが真実を述べていることを、みなさんの理性が認めたからに違いありません。もしも好意がいただけないとしたら、私たちの意図した目的が果たせていないことになりましょう。

 私たちは、しょせん、私たちが手にした知識を、これこそは間違いないと確認したうえで積み重ねていくしかありません。そこから始めてゆっくりと、そして段階的に、より高い道をめざして探求の歩みを続けようではありませんか。

訳注───イエスのセリフは 『ヨハネ福音書』 のユダヤ教のリーダーたちとの論争のなかで述べられたもので、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、イエスがその人物より前から存在していたと述べたことに「生意気だ」と言って憤慨し、石を投げつける場面である。シルバーバーチが「‥‥と述べたに過ぎません」と言ったのは、「アブラハムが生まれる前から存在していた」 という言葉は別に失礼でも生意気でもないのに、その意味がわからずにリーダーたちが憤慨したからである。


【Q12】
地上で魂の琴線にふれる体験をしなかった者は、そちらへ行ってどういうことになりますか?

 とてもやっかいな問題です。何の予備知識もなしに初体験をさせられる大人に似ています。霊的なことにまったく疎い状態で新しい生活を始めるわけですから、地上界でも霊界でも不適応者というわけです。霊界生活にそなえた教訓を学んでいないから、そういうことになるのです。準備不足だったわけです。


【Q13】
そちらで、どういった処置をとられるのでしょうか?

 自覚の芽生えない者は手のほどこしようがありませんから、再び地上界へ送り込むことがあります。霊的感性が芽生えるのに何百年もかかることがあります。


【Q14】
霊界の知人・友人などが手助けしないのですか?

 できるかぎりのことはします。が、霊的感性が芽生えるまでは暗闇のなかにいるのです。覚醒のないところに光は届きません。

 そういう人たちのことを気の毒に思ってあげるべきです。せっかくの地上生活が無駄に終わったのですから。霊的資質を発揮することができなかったのです。学生時代に学ぶべきことを学ばなかったために、卒業してからの大人の生活への準備ができていないのと同じです。

 地上生活は、死後に必ず訪れる霊的生活へのかけがえのない準備期間です。体験の一つ一つが進化のために支払う代価なのです。地上生活は一本調子では終わりません。光と影があり、晴天の日と嵐の日があります。


【Q15】
 導きにも一般的な摂理・法則があるのでしょうか?それとも、それを届ける特殊な施設があるのでしょうか?祈りや瞑想にも効用があるのでしょうか?

 すでに何度も申しあげたことを、もう一度言わせていただきましょう。「師は弟子に応じて法と説く」───この名言が何よりの答えではないでしょうか? あなた方が心配なさることではありません。

導きはすべて、大霊から届けられるのです。地上圏に関わる神庁から派遣される使者や他の高級神霊が、ときとして、あなた方が地上へ降誕する以前から、指名を受けて背後霊団に加わっている場合があります。

 そうした高級霊が、あなた方の誕生以前に、自分の存在を知らせてくれる場合があります。ときには特殊な仕事を言いつけて、本人の了承を得る場合もあります。そういう霊を何と呼ぼうとかまいません。

そういう高級霊がひかえている場合があるということです。使命を置き去りにすることは絶対にありません。その使命は、『祈祷書』 の言葉を借りれば、「神がそなたの管理を配下の天使(注)に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」のです。

訳注───ここで言う 「神庁からの使者」 「高級神霊」 「天使」 は、もちろん守護霊と考えてよいが、言い回しから感じられるところでは、特殊な使命を帯びた、守護霊以外の超高級霊も含まれているようである。その一例が、ほかでもない、このシルバーバーチや 『霊訓』 のインペレーターである。

 シルバーバーチは、バーバネルの守護霊ではないし、インペレーターは、モーゼスの守護霊ではない。スピリチュアリズムのような人類史に残るような大イベントを遂行するに当たっては、守護霊は直接タッチしないもので、神庁から派遣された高級霊がたずさわっている。

バーバネルの守護霊はついに一度も出現しなかったし、モーゼスの守護霊も、「The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy (モーゼスの背後霊団)」によると、インペレーターを指揮官とする四九名の霊団のほかにもう一人「プリセプター(「教師」の意味の仮の名)」と名のる総監督がいたというから、多分これがそうではないかと筆者は見ている。一度だけ姿を見せて、すぐに引っ込んだという。前出の原書には、BC九年のヘブライの預言者エリヤであることをにおわせる箇所がある。


        

 第5章 再 生 生まれかわり  

 
 
【Q1】
意識がいくつかに分かれて働くということは、あり得ることでしょうか?
 今、あなたは物質の世界で自分を意識していますが、それは本源の大きな意識のほんの一部です。同じ本源の意識には、他の階層で発現している小さな意識がいくつもあります。


【Q2】
それぞれに独立しているのでしょうか?

 いえ、独立はしていません。あなたを含めた小さな意識は、一個の大きな霊的実在の部分的表現です。全体を構成する部分的意識であり、それらが(さまざまな階層で)質的に異なる媒体で自我を表現しています。

 ときおり、それらが合体することはあります。ですから、小我同士は必ずしも見ず知らずというわけではありませんが(注)、互いの存在を意識するのは、何らかの媒体を通して自己表現をし始めてからのことです。そして、最終的には合流点にたどり着いて、すべての小我が大我と一体となります。

訳注───熱心なシルバーバーチの愛読者なら気づかれたかもしれないが、十数年前に潮文社から出した 『シルバーバーチの霊訓』 第四巻にこれと同じQ&Aがあり、今、それを念のために目を通してみると、明らかな誤訳の箇所が見つかった。「必ずしも見ず知らずというわけではない」のところを「気づかないこともある」と訳している。翻訳者にありがちな思い込み違いによる誤訳である。「訳者あとがき」参照。


【Q3】
二つの部分的意識(ダイヤモンドの一側面・分霊)が、地上で会っていながら、そうと気づかないことがあるでしょうか?

 大きな意識を一つの大きな円であると想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。ときおり、分霊同士が会ってお互いが同じ円のなかにいることを認識しあいます。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再びもとの円が完成されます。


【Q4】
分霊同士で連絡しあうことができますか?

 必要があれば、できます。


【Q5】
二つの分霊が、同時に、地上に誕生することがありますか?

 ありません(注)。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる階層での体験を積むということが、本来の目的です。同じ階層へもう一度戻ってくることはありますが、それは成就すべきことが残っている場合に限られます。

訳注───これは 「原則として」 という文言を入れるべきであろう。前章のQ9の回答の最後の一節では「affinity」という用語を用いて、二つのアフィニティが出会うことがあると述べている。ただし「まれにですが」と断っている。

その直前の回答の最後で「それらの側面が、別々の時期に地上に生まれ出て体験を積み、ダイヤモンド全体としての進化に寄与するのです」と述べているが、これが原則であって、アフィニティ同士が出会うのは例外的であると理解すべきである。


【Q6】
体験による教訓は仲間から得られても、進化のための因果律は自分で解消していかねばならないと考えてよいでしょうか?

 そのとおりです。個々の分霊は一個の大きな意識の構成分子であり、それらがさまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて自我の本体を意識していくわけです。


【Q7】
そうやって、進化のある一点において、すべてが一体となるわけですね?

 そういうことです。無限の時をへてのことですが‥‥。


【Q8】
個々の分霊の地上への降誕は一回きり、つまり自我の本体としては再生はあっても、分霊としては再生はないと考えてよいでしょうか?

 それは、成就すべき目的が何であるかによります。同じ分霊が二度も三度も降誕してくることがありますが、それは特殊な使命がある場合に限られます。


【Q9】
一つの意識の個々の部分、というのはどういうものでしょうか?

 これは説明の難しい問題です。あなた方地上の人間には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方のいう生命は、実は最も下等な形態で顕現しているのです。生命の実体───思いつくかぎりのものすべてを超越した意識をもって生きる、高次元での生命の実情は、とても想像できないでしょう。

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションにふれたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。

鈍重なる物質によって表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう?

 私の苦労を察してください。たとえるものがあればどんなにからくでしょうが、地上にはそれがありません。あなた方には、せいぜい光と影、日向と日陰の比較くらいしかできません。虹の色はたしかに美しいでしょう。ですが、地上の言語で説明できないほど美しい霊界の色彩を虹にたとえてみても、美しいという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。


【Q10】
分霊の一つ一つを本霊の徳性の表現と見てよろしいでしょうか?

 それはまったく違います。こうした問いにお答えするのは、生まれつき目の不自由な方に、晴天の日の、あの澄みきった青空の美しさを説明するようなもので、たとえるものがないのですから困ります。


【Q11】 
フレデリック・マイヤースのいう「類魂」(注)と同じものと考えてよいでしょうか?
 
 まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する小意識の集団で、その全体の進化のために体験を求めて降誕してくるのです。

訳注───「類魂説」 は俗に 「マイヤースの通信」 と呼ばれている 『永遠の大道』 と 『個人的存在の彼方』 のうち、前編でその基本原理が述べられ、後篇でそれを敷衍・発展させたもので、スピリチュアリズムに画期的な発展をもたらした。参考までに、前編の第六章 「類魂」 の章をかいつまんで紹介しておく。

 「類魂は見方によっては単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめているのである。脳のなかに幾つかの中枢があるように、霊的生活においても一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊からもらうのである。(中略)

 一個の統括霊のなかに含まれる魂の数は二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない。ただ仏教でいうところのカルマは確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指すことがある。

 同様に私も、自分で送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる。かくして我々は、いずれも独立した存在でありながら同時にまた、いろいろな界で生活している他の霊的仲間たちからの影響を受け合うのである。(中略)

 我々は、この死後の世界へ来て向上していくにつれて、次第にこの類魂の存在を自覚するようになる。そして遂には個人的存在に別れを告げて類魂のなかに没入し、仲間たちの経験までも我がものとしてしまう。結局のところ人間の存在には二つの面があると理解していただきたいのである。

即ち一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」


【Q12】
その本霊に戻ったときに、分霊は個性を失ってしまうのではないかと思われるのですが。

 川の水が大海へ注ぎ込んだとき、その水は存在が消えてしまうのでしょうか? オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか?

 
【Q13】
再生の決定的な証拠を、なぜそちら側から提供してくれないのでしょうか?

 霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などあり得るでしょうか? 意識に受け入れ態勢が整い、再生が法則であることに理解がいってはじめて、事実として認識されるのです。再生はないと説く者が私の世界にもいるのはそのためです。まだ、その事実を悟れる段階に達していないから、そう言うに過ぎません。

宗教家が、その神秘的体験をビジネスマンに語っても仕方ないでしょう。芸術家が、インスピレーションの体験話を芸術的センスのない者に聞かせてどうなるでしょう。理解できるわけがないでしょう。意識の次元が違うのです。


【Q14】
そろそろ再生するということが、自分でわかるのでしょうか?

 魂そのものは本能的に自覚します。しかし、精神を通して(知覚的に)意識するとは限りません。大霊の一部である魂は、永遠の時の流れのなかで一歩一歩、少しずつ自我を表現していきます。しかし、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されていない部分が大半を占めています。


【Q15】
では、無意識の状態で再生するのでしょうか?

 それも霊的進化の程度によって違います。再生する霊のなかには、自分が以前にも地上生活を送ったことがあることを知っている者もいれば、まったく知らない者もいます。

魂が自覚している、つまり霊的意識では自覚していても、それが精神によって知覚されていないことがあるのです。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、あなた方の言語で説明するのはとても困難です。


【Q16】
生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれかわりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか?

 愛は必ず成就されます。なぜなら、愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は、必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同士を永久に引き裂くことはできません。

 
【Q17】
でも、再生を繰り返せば、互いに別れの連続ということになりませんか? これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが‥‥。

 一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と、私の天上の幸せの観念のほうでしょう。宇宙とその法則は大霊がこしらえたものであって、その子どもであるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は、新しい事実を前にすると、自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしても、しょせんは徒労に終わることを知っているからです。


【Q18】
これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもよいと思うのですが‥‥。

 物質界にあっても聖人は聖人ですし、最低の人間はいつまでも最低のままです。体験を積めば、必ずそれだけ成長するというものではありません。要は、魂の進化の問題です。


【Q19】
これからも無限に苦難が続くのでしょうか?


 そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練をへてはじめて、神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられてはじめて、その輝きを見せるように、神性も苦難の試練にさらされてはじめて、強くたくましい輝きを見せるのです。


【Q20】
そうなると、死後に天国があるという概念の意味がなくなるのではないでしょうか?


 今のあなたには天国に思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは、今より少しでも高いものをめざして努力するところにあるからです。


【Q21】
再生するときは前世と同じ国に生まれるのでしょうか?たとえば、インディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人にという具合に。

 そうとは限りません。めざしている目的のために最も適当と思われる国や民族を選びます。


【Q22】
男性か女性かの選択も同じですか?

 同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。


【Q23】
死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当でしょうか?神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか?

 償うとか罰するとかの問題ではなく、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれかわるということは、必ずしも罪の償いのためとは限りません。ギャップ、つまり、欠けているものを補う目的で再生する場合がよくあります。

もちろん、償いをする場合もあり、前世で学ぶべきだった教訓を改めて学びにくるという場合もあります。償いのためとは限りません。

 ましてや、二度も罰せられることはあり得ないことです。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不十分ということがないのです。完璧なのです。大霊そのものが完璧だからです。


【Q24】
自分は、地上生活を何回経験しているということを明確に認識している霊がいますか?

 います。それがわかる段階まで成長すれば、自然にわかるようになります。必然的にそうなるのです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできません。名前をいくつかあげても結構ですが、それでは〝証拠〟にはならないでしょう。何度もいってきましたように、再生の事実はこうして〝説く〟だけで十分なはずです。

 私は、大霊の摂理について、自分がこれまでに理解したことを述べているのです。知ったとおりを述べているだけです。私の言うことに納得がいかない人がいても、それは一向にかまいません。受け入れてもらえなくてもよいのです。私と同じだけの年数の霊界生活を送れば、考えが変わるでしょう。


【Q25】
再生問題は異論が多いからそれは避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるほうがいいという考えはいかがでしょう?

 闇のなかにいるよりは、光のなかにいるほうがよろしい。無知のままでいるよりは、摂理を少しでも多く知ったほうがよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励むほうがよろしい。向上をめざして奮闘するのがよいに決まっています。

 死後存続の事実を知ることが真理探究の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それゆえに〝死の関門〟を、何の苦もなく、何の変化もなく通過できるという事実を知ったら、それですべてがおしまいになるのではありません。そこから、本当の意味での〝生きる〟ということが始まるのです。

                  

第6章 生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 ・ 苦・・・・・・地上人生の意義 
 
【Q1】
人間(ヒト)として地上に誕生してくるのは、進化のどの段階でしょうか?


 霊としては常に存在していました。霊とは生命であり、生命とは霊だからです。あなたという存在は、常に存在してきたのです。
 あなたも大霊の一部ですから、いつから存在し始めたという〝始まり〟はないのです。しかし、一個の独立した意識的存在としては、生命の流れのなかのどこかで存在を得なければなりません。

 受胎というのは、男性と女性の細胞が合体して、その個的存在に自我を表現する媒体を提供する現象です。媒体を得るまでは、生命力は発現しないのです。その媒体を提供するのが、地上の両親です。双方の細胞が合体して一個の生命体を形成した時点で、霊的粒子がそれに付着し、物的世界での表現を開始します。

それが意識の始まりだというのが私の説です。その瞬間から意識のある個的生活が始まります。それからは永遠に個的実在であり続けます。


【Q2】
胎児のどの段階で霊が入るのでしょうか? 

 何度も出された質問ですが、回答はいつも同じです。受胎が発生した時点で、すでに生命があります。そして、生命のあるところには霊が存在します。

 納得できない方がいるであろうことは、私も承知しています。しかし、私は断言します───精子と卵子が一体となり、ミニチュアのかたちで媒体としての機能をそなえた瞬間から、霊は地上生活を開始します。 


【Q3】
次から次へと霊が地上へ誕生しています。一方、地上では人口増加が問題となっています。霊を生産すれば人口は増えるに決まっていますが、霊は一体どこからやってくるのでしょうか?

 その質問には誤解があるようです。霊は、あなた方人間がこしらえるのではありません。人間は、霊が自我を発現するためのチャンネルをこしらえるだけです。根源的存在である霊は、時空を超越したものであり、ものさしで計量することはできません。人間が行なっているのは、霊が身体に宿って、個別的存在を獲得するための手段(媒体)を提供することです。 


【Q4】
スピリチュアリズムを占星術と同類と見ている人がいます。その人たちは、人生の出来事が星によって宿命づけられ操られていると考えていますが。 

 人生は、一連の振動(Vibrations)、放射線(Radiations)、放散物(Emanations)から成り立っており、森羅万象のあらゆる相の影響を受けています。それらが、あなたに何らかの影響を及ぼしていることは事実ですが、どれ一つとして、抵抗できないほど強力なパワーをもつものではありません。

 生まれた日に、ある星が東の地平線上にあったからといって、その星によって人生が運命づけられるというのは事実ではありません。

 あらゆる天体、あらゆる自然物、宇宙のあらゆる存在物、あらゆる生命体が、何らかの影響を及ぼすことでしょう。しかし、あくまでも主人は、あなたです。最終責任はあなたにあり、霊的進化の程度によって自分の運命を決定づけています。

 私が言いたいのは、要するにあなたも神の一部であること、そして、神性を宿すがゆえに、創造力を宿すがゆえに、この宇宙を創造した力の一部であるがゆえに、その身体を牛耳ろうとする力に打ち克つことができるということです。

 わかりやすく言えば、私も影響力の一つです。あなたがつきあう人たちも何らかの影響を与えます。お読みになる本も影響力をもっています。しかし、あくまでも影響力に過ぎません。それによって、あなたが圧倒されることもないし、絶対的に支配されることもないでしょう。


【Q5】
死ねばおしまいと思って他界していった者は、どうなるのでしょう? 
 
 自然法則によって死のうにも死ねないのですから、覚醒してから現実に直面せざるを得ません。霊的事実に得心がいくのにどれほどの時間がかかるかは、霊的進化の程度、霊性がどの程度発達しているか、新しい環境にどう適応していくかによって決まります。

 霊的事実に得心がいくのは、霊的理解力が目覚めたときです。あらかじめ霊的知識があれば、得心はよほど早いでしょう。ですから、私たちは無知と誤解と迷信、人工の教義や間違った神学と闘わねばならないのです。こうしたものは、どれ一つとして死後の目覚めに役立ちません。そうした夾雑物をすっかり払い落とすまでは、魂は長い長い休息(注)のなかで自己改造を強いられるのです。 

訳注───ここで言う 「休息」 は二つの解釈ができる。一つは睡眠と同じ状態で、地上生活の過酷な辛苦によって疲弊した魂が、安らぎを得て無意識状態となり、その間に霊界の医師団によって治癒エネルギーによる癒しを受ける。

その長さは人によってまちまちで、長い人は何ヶ月も何年もかかることがあり、地上的時間では、はかりしれない要素があるようだ。

 もう一つは、その状態から覚醒して現実と直面し、地上時代の認識を改めて、霊的実在に目覚めていくのが通例であるが、シルバーバーチの回答にもある 「地上的夾雑物」 を完全に払い落とすまでには何百年、何千年、ときには何万年もかかることがあり、人によっては地上へ再生する必要が生じる場合もあるという。その次元の魂は、いわば夢幻のなかで生きており、実在界の高級霊から見れば酔生夢死の休息状態と変わらないらしい。

 
【Q6】
そもそも地上生活の目的とは何でしょうか? 

 そもそもの目的は、本来の自分を理解することです。そのためには、物的身体の機能と霊としての資質を存分に発揮することが必要です。物的なことに偏って、霊的存在としての義務をおろそかにするのもいけませんが、霊的なことに偏って物的存在としての義務をおろそかにするのも間違いです。両者のバランスをとり、この世にありながら、この世的人間に堕することのないようにすべきです。

 肉体は神の分身である霊の神殿ですから、十分な手入れが必要です。そして成長と進化の過程にある霊は、その肉体を通して、成長と進化のための機会を与えられる必要があります。

 地上生活の目的は、地上を去った霊が次の階層での生活になじめるように、さまざまな体験を積むことです。そこで、まず地球へやってくるのです。地球は、トレーニングセンターです。肉体に宿った霊が、次の次元の生活への装備を提供してくれる教訓を学ぶための学校のようなものです。

 そういう理由から、私は改めて申しあげます。あなた方が嫌な体験と思っているものが、最高の薬になっていることがあるのです。本当の自分を見出すのは日向の生活のなかではなく、嵐のような生活のなかなのです。雷鳴が鳴り響き、稲光がひらめいているときです。

 人間は厳しく磨かれ、清められ、純化されなければなりません。絶頂もどん底も体験しなければなりません。地上生活だからこそ体験できるものを、体験しなくてはいけません。そうした体験によって霊性が強化され、補強され、死の向こうに待ち受ける生活への準備が整うのです。

 地上生活の目的は、霊性を活気づけることです。そのために、地上界の出来事は二面性と二極性を鮮烈に体験するようになっており、そこに地上生活の地上生活たるゆえんがあるのです。たとえば、善と善でないものが同居しています。これは、私たちの世界にはないことです。高次元の世界には、対照的なものが存在しないのです。

 地上生活の目的は、魂がその霊的資質を発揮できるように、さまざまな体験をするチャンスを与えて、霊性を一段と強化することです。そのために悪もあれば罪もあり、暴力も存在するのです。

 地上の全生命の存在目的は、人類をはじめ動物、その他の全生命に宿る神性に火がともされて火種となり、灯火となり、火焔となって燃えさかるように、刺激的体験を得ることです。霊的意識が目覚め、地上にありながら、生命の現象的側面にとどまらず、もっと大切な内的側面をも理解して、その恵みを享受するようになります。 


【Q7】
永遠の時の観念からすると、地上生活はあまりにも短く、どれほどの意義があるのかといいたくなりますが‥‥。 

 永遠も無限の小さな体験のつながりです。一つ一つの経験、一つ一つの行為、一つ一つの言葉や思念が、いくら小さなものであっても、永遠の時のなかで、それなりの役割を果たしています。それらの体験の蓄積が、永遠を形成するのであり、どれか一つを欠いても完全でなくなります。オーケストラによる演奏と同じです。

 たとえば、トライアングルの演奏家は、二百人あるいは三百人で構成されたオーケストラのなかでは最もめだたない存在でしょう。しかし、たった一回だけめぐってくる自分の演奏箇所で、もしも音階を間違えたり、音量が足らなかったりしたら、全シンフォニーが台無しになってしまいます。それはおわかりですね?地上生活も同じです。魂の鍛錬にとっては欠かせない一部なのです。そして、それが魂に消すことのできない跡形を印していくのです。 


【Q8】
戦争、痛み、精神的ならびに肉体的苦しみ、病気、悲しみ、愛、憎しみ、喜び、幸せといった地上的体験は、人類の発達と進歩にとって欠かせない神の計画の一部なのでしょうか? 

 神の計画という見方は間違いです。戦争は大霊が起こすのではありません。病気は大霊が与えるのではありません。そうしたものは、物質界の人間が自由意志の使用を過ったために引き起こされるのです。もちろん、学ぶべき教訓はあるでしょう。が、それは人間同士で身の毛もよだつ残虐行為をしなくても学べるはずです。人間同士で勝手にやっていることを、大霊のせいにしてはなりません。 


【Q9】
地球上の自然災害は、神の計画の範囲内で起きているのでしょうか? 

 そう言ってよいでしょう。因果律という動かし難い法則によって支配されているという意味で、神の配剤からはみ出ることはあり得ないからです。絶対的支配力をもつその因果律が、人間に制約を加えるということです。

 少し乱暴なたとえですが、人間の科学がいくら発達しても、物的宇宙を完全に破壊するほどの爆薬を開発することはできません。そこに限界があります。

 一夜にして地球が破壊されることはありません。大霊は、その無限の愛と英知によって宇宙間のあらゆる次元の存在(極大のものから極小のもの、複雑なものから単純なものに至るまでの全存在)に配慮した自然法則を用意しておられます。その自然法則は、進化という目的にそって機能するのであって、変革によって機能するのではありません。

となれば、当然、その法則によって人間の力は制約を受けます。どうしようもないこともある、ということです。自由意志はあります。しかし、ある一定限度内でのことです。 


【Q10】
本当の自由とはどういうことでしょうか?
 
 私は、いかなるテーマも霊の体験という光に照らして考察します。人間というのは、物的身体を通して自我を表現している霊です。ところが、いく百万とも知れない地上の霊が窒息させられ、踏みつぶされ、抑圧され、踏みにじられています。
 本当の自由とは、好き勝手なことをする権利のことではありません。出来心や気まぐれや性癖のおもむくままにする権利のことではありません。自由には責任が伴います。そして、何のためにこの地上におかれているかという、存在の目的についての理解がなければなりません。


【Q11】
自由意志とカルマは、どう関係づけたらよいのでしょうか?

 生命のすべてが、自然法則による規制を受けています。筋の通らないことや奇跡や偶然によって起きることはありません。すべてが原因と結果、種まきと刈り取りの摂理の働きによります。そうでないと、宇宙は大混乱に陥ります。無限の配剤、無限の知性の働きを示す証拠なら、どこへ目をやっても存在します。

 四季のめぐり、惑星や星雲、潮の満ち引き、無数の姿かたちをした花々にも見られます。どれ一つとっても、法則によって営まれているのです。その法則の枠を離れることがないということですから、そこに制約があるということになります。しかし、法則の裏に別の次元の法則が存在します。物的法則だけに限りません。精神の働きにも法則があり、霊的次元にも法則があります。

 自由意志という要素、ある条件下で、右か左かを選択する力と能力をそなえているということは、神の配剤の一つです。それを最善に、そして最高に活用すれば、あなたの所属する民族、この地上世界、宇宙、森羅万象の霊的発展と進化の一翼を担うことができるのです。なぜなら、あなたも、霊的には大霊の一部だからです。

 全存在物に生命を付与している神性が、あなたにも内在しているのです。その意味で、あなたはミクロの大霊なのです。大霊が所有する無限の属性をあなたも所有しているのであり、それを発現していくための無限の時も用意されているのです。

 明朝、あなたはいつもより一時間早く起きてもよろしいし、一時間遅く起きてもよろしい。起きたくなければ、そのままベッドのなかにいてもよいでしょう。起きてから散歩に行ってもよいし、ドライブに行ってもよいでしょう。かんしゃくを起こしてもかまいませんし、思い直して我慢するのも、あなたの自由です。このように、あなたに許されていることはいろいろとあります。

 しかし、太陽の輝きを消すことは、あなたにはできません。嵐を鎮めることは、あなたにはできません。あなたの力を超えているからです。このように、選択の範囲が限られているという意味で、あなたの自由意思にも制約があります。

 そしてもう一つ、あなたの精神的ならびに霊的発達の程度による制約があります。たとえば、人を殺めるという行為は、だれにでもできます。が、あなたにはできないでしょう。これまでに築いてきた人間性および霊性が、それを許さないからです。

 ですから、どちらかの選択をするとき、そこには人間性と霊性の程度が関わっているのです。ここにも、宇宙によくあるパラドックス(一見矛盾しているかに思えること)があります。自由といっても、一定限度内の自由ということです。

 さて、ここからもう一歩踏み込まねばなりません。カルマの問題が出されたからです。これも、たしかに考慮に入れなくてはならない重大なテーマです。なぜかといえば、地上へ誕生するに当たって、前もって、カルマの解消をスケジュールのなかに入れている人が少なくないからです。その自覚は、すぐには意識の表面に出てきませんが、意識するしないに関係なく、そのことも自由意志に制約を加えます。

(原書では、この項目はここで終了しているが、カルマへの言及が足りないので、霊的治療家のハリー・エドワーズとのQ&Aのなかから、参考になる部分を編集して紹介しておく)

あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生というはしごの一つの段の上に立っているわけです。それがどの段階であるかが、その人に注がれる治癒力の質・量を決します。それが私のいう「カルマ的負債」です。

 あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり、死ぬこと以外に返済の方法がないほど負債が大きい人もいます。もう一度チャンスを与えられる人もいます。そんな人が、あなたとの縁で完治することになる場合もあります。

 精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。それは、当人に賦課された税金のようなものであり、自分で綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは他の何者によっても書き換えることはできません。

 はじめに私は、すべては法則の枠のなかに存在すると申しあげました。何ごとも、それを前提として働きます。人間のいう「奇跡」は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っています。そこに自由の制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。

 治療家にできることは魂を解放し、精神に自由を与えることです。その結果が、自然に身体にあらわれます。それが、カルマ的負債を返済する手助けになるのです。私が、霊的治療家はその患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが最も重要な役目であると申しあげる理由はそこにあります。


【Q12】
航空機事故は、犠牲者のカルマ的負債を償却するためにもくろまれるのでしょうか?もしそうだとすると、予言や虫の知らせがあるのはなぜでしょうか?それによって人生が一八〇度変わってしまいます。 

 むずかしい問題です。まず 「もくろまれる」 という言い方は適当でありません。いかにも悲劇を引き起こすために、わざと事故を計画したことになるからです。何ごとも原因と結果の法則によって生じています。そうした悲劇の犠牲者(あなた方にならってそう呼んでおきますが) には別の見方があることを忘れないでください。

 死は地上の人間にとっては恐ろしいことのようですが、私たちにとっては喜ぶべきことなのです。赤ちゃんが地上へ誕生して行ったとき、こちらでは泣いて見送る者が大勢いるのです。そして、死んで肉体から解放された者を喜んで迎えているのです。

 しっくり理解できないかもしれませんが、永遠の時の流れのなかでの宇宙の大機構において、宿命という要素が役割を演じています。定められたことと自由意志という二つの矛盾した要素が絡んだ、複雑なテーマです。両方とも真実です。定められた運命のなかで、自由意志が許されているということです。このように説明するのが最もわかりやすいでしょう。

 予知の問題ですが、これは三次元の脳の意識から離れて、たとえ一瞬にせよ、より高い次元の階層に入り、その次元での時間に接したときに体験するものです。そもそも時間とは〝永遠の現在〟なのです。あなた方が、過去とか未来と呼んでいるものを決定づけるのは、地上次元でのあなたと時間とのつながりです。その三次元の物的束縛から離れて本来の時間と接したとき、人間にとって未来であるものが現時点で感得できるのです。


【Q13】
人間のひとりに守護霊(注)がついているというのは本当でしょうか? 

 受胎の瞬間から、ときにはそれ以前から、誕生してくる魂を守護する霊が付き添います。「神がそなたの管理を配下の天使に託し、諸事にわたりて配慮させ給う」という 『祈祷書』 の言葉は、文字どおり真実です。その霊は、あなたが死の関門を通過してこちらへ来るまで、能力の限りを尽くして守護してくれます。

その関係は、あなたがその事実を知っているほど行き届いたものになります。まったく知らずにいると、何かとやりにくいものです。守護霊は一人ですが、それを補佐する指導霊が何人かいます。

 あなたの人生にどういうことが待ち受けているかは、守護霊にはわかっていますし、そのことに関して勝手な干渉は許されません。だれの守護霊になるかについて選り好みも許されません。私たちの世界は組織の行き届いた世界です。

訳注──「守護霊」は、英語でも 「Guardian Angel(守護天使)」で、ともに「守る」という意味が込められているために、とかく母親がヨチヨチ歩きのわが子を、ころばないように、ケガをしないようにと守っているかの印象を与えがちであるが、「諸事にわたりて配慮させ給う」 という 『祈祷書』 の表現どおり、当人のカルマの解消や使命の成就のために、大所高所から配慮するのが本来の使命であり、そのためには病気や困難もあえて体験させることもあることを知らねばならない。Q15の回答の波動の原理も考慮する必要があろう。


【Q14】
だれが任命するのでしょうか?

 親和力の法則です。

訳注──シルバーバーチの言う「アフィニティ」、マイヤースの言う「類魂」のなかの一人が、全体を統括している高級霊によって任命されるのであるが、その基本において働いているのは親和力である。


【Q15】
災害から救われるケースと救われないケースとがありますが、守護霊との関係はどうなっているのでしょうか?

 すべては、その時点での環境条件によって支配されます。だれにも守護霊がついているのは事実ですが、その事に気づいている人はどれほどいるでしょうか?もし気づいていなければ、無意識のうちに霊感でも働いていないかぎり、守護霊は地上界と感応することはできません。

 このように、霊の働きかけというのは、地上界の人間が条件を整えることが大前提なのです。条件がそろうと、つまり人間側が霊界の波動と調和した道具になってくれると、守護霊や指導霊が物質界と感応し、物質に強く働きかけることができます。

 奇跡的救出や保護や導きの話が数多く語られていますが、いずれもそうした条件が整ったときなのです。人間側が条件を整えないといけないのです。私たち霊にとって、人間は〝手〟のようなものです。手がなくては、地上界で何の仕事もできません。


【Q16】
愛する伴侶を失って、失望のあまり自殺する人がいますが、許されることでしょうか?

 許されません。あくまでも摂理にのっとって生きなければなりません。摂理の働きは常に完璧なのです。その摂理の背後では、すべてのものに内在し、すべてのものを通して働く大霊の愛と英知が働いているのです。その摂理に干渉する権利は、だれにもありません。それを無視して自らの命を絶てば、その代償を支払わねばなりません。

 リンゴを熟さないうちにもぎとれば、まずくて食べられません。霊が然るべき準備もなしに無理やり次の次元へ行くと、その調整に長い長い時間をかけて代償を支払わねばなりません。そのうえ、願いとは裏腹に、乱れた波動のために、愛する人との間にみぞをつくってしまい、かえって離ればなれになってしまいます。 


【Q17】
自殺はすべて許されないのでしょうか?

 一概にすべていけないとは言えません。その人がそれまで生きてきた人生、その間に発達させた資質、霊性の進化の程度、そして何よりも大切なものとして、動機は何かによって、死後におかれる状態が違ってきます。

キリスト教では自殺を一つのカテゴリーに入れて、すべて罪悪であると説いていますが、そういうものではありません。もちろん基本的には、生命を自ら断つ権利はありませんが、そういう行為に至るには、それなりに考慮すべき要素、情状酌量すべき事情があることは疑いの余地がありません。

 地上生活を中断して魂にプラスになることは、何一つありません。が、だからといって、自殺した魂がすべて、気の遠くなるほど長い間、暗黒界でもいちばん暗いところに押し込められるわけではありません。


【Q18】
自殺が、霊的進化の大きなつまずきであることは間違いないでしょう?

 もちろんです。何ごとにも例外はありますが、それはきわめて少数です。ご承知のように、私は、何ごとも動機が大きな比重を占めると申しあげています。が、魂の裁きは、行為そのものが受けます。

 あなたは、自分の人生の書を、自分の筆で書いているのです。書いたものは消せません。ごまかすことはできません。自分で自分を裁くのです。摂理は決まっており、改められることはありません。ですから、私は「自分の責任には、臆せず正面から立ち向かいなさい」と申しあげるのです。いかなる窮地も、案じているほど暗いものではありません。 



【Q19】
死刑制度をどう見られますか?

 人を殺した人間だから殺してもよいという理屈は、霊的には通らないということを、これまで私は躊躇することなく申しあげてきました。

 地上界の人間は、正義と復讐とを区別しないといけません。復讐心という最低の人間的感情からすれば、憎いやつを地上界から消すことは正義と思えるかもしれませんが、それでは未熟な魂を霊界へ送り込むだけで、それによって成就されるものは何一つありません。公正な裁きがなされないといけません。

国による殺人を行なっても、地上界はカケラほども霊的に進化しません。それどころか「目には目、歯には歯」の復讐の場に堕落してしまいます。激情が理性を凌駕したところに正義は生まれません。

 肉体の死後にも生命が存続することは、議論の余地のない事実なのですから、それに基づいた原理・原則を信念としなければなりません。死後の生活に何の準備もしていない者が、次々と地上界から送られてくるために、こちらでは面倒なことがますます増えています。なかには、冤罪によって処刑されているケースや、不当な刑を受けているケースもあります。

 生命は神聖なものであり、人間が与えたり奪ったりすべきものではありません。生命は物質から創造されるのではありません。物質が生命によって創造され、維持されているのです。生命は霊的なものであり、大霊を始原としており、神性を帯びているのです。ですから、生命とその物的顕現を扱うときは、最高の慈悲心と思いやりと同情心をもってのぞむべきです。そして、動機は間違っていないかを確認することを忘れないでください。

 死刑制度では、問題は何一つ解決しません。罪を犯した人のことを思いやる心こそが、摂理を成就させるのです。いかなる方法をとるにせよ、更生を促進するものであるべきで、決して復讐心を生み出すようなものであってはなりません。 


【Q20】
人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっていますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか?

 いいえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正しければ正しい決着をみます。出産を制限することも、その動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。

 しかし、霊の世界には、地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえているという現実も忘れないでください。


【Q21】
妊娠中絶はいけないとおっしゃっていますが、どの段階からいけないことになるのでしょうか?

 中絶行為をしたその瞬間からです。(妊娠してすぐでもいけないかと念を押されて)とにかく中絶が実施された瞬間から間違いを犯したことになります。いいですか、あなた方人間には、生命を創造する力はないのです。あなた方は、生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。

 中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から、霊は子宮に宿っています。中絶されれば、その霊は、未熟な霊的身体に宿って霊界で生き続け、成長しなければなりません。中絶によって物的表現の媒体をなきものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児の自然な成長を阻止したことになるのです。もっとも、これも動機しだいで事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

 私の住む世界の高級霊で、人工中絶を支持する霊は一人もいません。が、動機を考慮しなければならない特殊なケースがあることも事実です。行為そのものは、絶対にいけないことですが。

 あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがって、その生命が物質界に顕現するための媒体を、勝手に滅ぼすべきではありません。物質をなきものにしたことで、すべてが終わったわけではないこと、それに関わった当事者は、いつの日か、その中絶によって地上への誕生を阻止された霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると、私は考えています。


              

  第7章 霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)その原理の目的と問題点 

 【ヒーリングの原理(治療家グループを前にしてのシルバーバーチの霊言)】

 ヒーリングによって奇跡的に病気が治る───それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によって、その人が霊的真理に目覚めるところまでいかなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。魂の琴線にふれたときこそ、本当に成功したといえるのです。なぜなら、その体験によって、魂の奥にある大霊の火花が放電し、輝きと威力とを増すことになるからです。

 ヒーリングの背後には、必ずそうした目的があるのです。あなた方は、そうして大霊の計画の一部を担って、この世に生まれてきているのです。すなわち、この世に在りながら、自分で自分が何者であるかを知らず、何のために生まれてきたかが悟れず、したがって、死ぬまで何をなすべきかがわからぬまま右往左往する大霊の子らに、霊的真理と永遠の実在を教えるために、人を癒すという力を与えられて生まれてきたのです。

 
 これほど大切な仕事はありません。その治療力で、たった一人でも魂を目覚めさせてあげることができれば、それだけでも、この世に生まれてきたことが無駄でなかったことになります。
 
 ヒーリングにも、いろいろあります。最も基本的なものは、磁気治療(マグネティック・ヒーリング)で、治療家の身体から出る豊富な磁気の一部を患者に分けてあげるものです。一種の物理療法と考えてもよろしい。これには霊界の治療家は関与しません。
 
 次の段階は、その磁気治療と、この後述べる純粋な霊的治療の中間に位置する心霊治療(サイキック・ヒーリング)で、遠隔治療(アブセント・ヒーリング)は主としてこの方法で行なわれます。
 
 そして最後が、本格的な霊的治療(スピリチュアル・ヒーリング)で、治療家が精神統一によって波動を高め、同時に患者の側の受け入れ態勢が整ったときに、一瞬のうちに行なわれます。
 
 人間の側から見れば奇跡に思えるかもしれませんが、因果律の働きによって、そういう現象が起きる機が熟していたのです。

 しかし、痛みや苦しみを取り除いてあげることが、ヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段なのです。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。

 病気で苦しみ続けてきた人が、あなた方による治療で奇跡的に治り、その体験によって霊的真理に目覚めて地上生活の意義を悟れば、あなた方は、遠大な地球浄化計画における責務を果たしたことになり、そうなってこそ、私たち霊界の者が援助したかいがあったことになるのです。

 

【Q1】
ヒーリングを行なうということは、どういうことでしょうか?

 生命力、すなわち霊的エネルギーが、そのヒーラーを通して患者に注ぎ込まれて魂と接触し、病気を引き起こした要因が何であれ、それによって乱されている調和を修復し、枯渇しているバッテリーに充電することです。

 大切なことは、ヒーラー自身も、それまでの人生で苦痛の何たるかを味わっていて、訪れる患者を真に思いやることができることです。治療の法則は、それを基盤にして働くのです。


【Q2】
病気になりやすい生活環境にいる患者の場合、体調を崩すたびに治療を施してあげるべきなのでしょうか?

 ヒーラーの役目は、救いを求めて訪れる魂に癒しを与えることです。その後、その患者がどうなるかは、あなたが関わることではありません。患者自身の責任です。身体が健康になっただけであれば、そのヒーリングは失敗だったことになります。本来の目的は、魂が目を覚まして活動的になることです。

 霊的治療の体験の結果として、患者がその後の人生のあり方について深く考えるようにならなければ、失敗だったとみなければなりません。ヒーラーを通して注がれるエネルギーは、身体の病気を癒すだけでなく、精神にも感動を与えて、人生とは何かについて革命的な理解をもたらさなければならないのです。時間がかかるゆえんです。


【Q3】
求められれば、同じ病気を何度でも治療してあげるべきだということでしょうか?

 あなたのほうから拒否してはなりません。一つの魂が救いを求めてきたのです。依頼されたヒーラーは、どう対処すべきかについて、勝手な規定を設けるべき立場にはありません。癒すことが仕事なのです。

それによって、患者の魂が感動すれば霊的啓発を得ることでしょう。かりに感動するまでに至らなくても、たとえ短い期間でも、身体が健康を取り戻すことになるでしょう。

 求められれば最善を尽くし、決して断ってはなりません。いつでも応じる態勢でいるべきです。その後、患者自身の不摂生によってさらに健康を害しても、それは患者自身の責任であって、あなたがかまうことではありません。


【Q4】
「魂に受け入れる用意ができる」とは、どういう意味でしょう?

 黄金にたとえれば、掘り出されたままの土塊が、精製の過程をへて純金となったときです。浮き沈みのないモノトーンの人生───光ばかりで暗闇がなく、喜びばかりで悲しみがなく、食べるものが豊富にあって空腹を知らない人生を送っていたら、本当のありがたさはわかりません。人生の両極を体験してこそ、地上生活の目的と意義を理解することができるのです。


【Q5】
心霊手術によって治療できるようになるためには、ヒーラーは新たにどのような勉強が必要でしょうか?

 ヒーリングというものを、肉眼で確認できるかたちで見せるもののように考えてはなりません。ヒーリングの本質は霊的なものです。基本的には、患者の魂を目覚めさせることが目的です。

魂に受け入れる用意ができていれば、精神も正常となり、身体も正常となります。魂と精神と身体、この三者が正常な調和を取り戻すということです。その状態を健康というのです。全体の一体化であり、調和状態のことです。

 心霊手術で腫瘍を摘出すること自体は、ヒーリングの目的ではありません。目的は、あくまでも魂に感動を与えることです。その意味では、霊にもガンが生じることがあり得ることになります。

利己主義、その他の悪性の腫瘍が潜在しているかぎりは、真の霊的成長は得られません。生命現象で支配的な立場にあらねばならないのは霊性です。霊性が支配的になるまでは、調和も健康も幸せも充実感も得られません。


【Q6】
一瞬の間の治療も、霊的発達程度とカルマ、その他もろもろの要素が絡んでいるとおっしゃっていますが、ブラジルやフィリピンでは心霊手術によって簡単に治っています。どう違うのでしょうか?

 それもすべて因果律という自然法則の働きの結果です。患者の魂のヒーリングを受ける機が熟すると、そのチャンネルとなるべきヒーラーと出会うように環境条件が整うものです。そして、結果的に心霊手術がうまくいったとします。

が、たとえ腫瘍が摘出されて身体がらくになっても、それだけで自動的に魂の霊性が目覚めるわけではありません。霊的摂理の働きでそういう段階に到達し、これから魂の霊性が点火されて大きな焔となって燃えあがる、千載一遇のチャンスが訪れたということです。

 つまり、二つの要素が働いているわけです。一つは、その患者の魂のヒーリングを受ける用意が整い、その結果を出せるヒーラーと出会う、というめぐりあわせです。

もう一つは、そのヒーリングの影響によって患者の霊性が目覚め、霊的自覚の光のなかで生きるようになる絶好のチャンスとのめぐりあわせです。病的症状は消えても、霊的感性が芽生えなかったら、物的には成功しても、霊的には失敗だったことになります。


【Q7】
その種の霊的な外科手術は、治療法として問題ないのでしょうか?

 「果実によりて木を知るべし」(『マタイ伝』)「毛を刈り取られた羊には神は風を和らげる」(フランスのことわざ)といいます。霊的エネルギーは、時と場所、国と時代によって条件が異なります。

また、霊的現象の操作と霊的エネルギーの注入は、総合的な判断のもとで計画的に実施されます。基本的には、患者の身体的、精神的、そして霊的必要性にあわせて行ないます。具体的には体質、教育、環境、理解力を勘案したうえで、どういう治療法が最も適切かを決めます。


【Q8】
心霊手術がブラジルやフィリピンで行なわれて、英国で見られないのはなぜでしょうか?

 霊的気候が異なるからです。精神的風土も異なります。(それらの国では)目に見える現象的な方法のほうが、より霊妙な影響力を使用する方法よりも要求されるのです。それはちょうど100年前(19世紀後半)の英国で、目に見えない霊的なものを物理的な現象で演出する必要があったのと同じです。現在の英国ではその必要はありません。

 しかし、教育水準、文化程度、理解力などが英国と大きく異なる国においては、現在でも現象的なものが要請されています。そこに生活する人々の必要性にあわせなければならないのです。


【Q9】
でも、現在の英国でも、そういう手術に興味をもちながら、要望がかなえられずにいる人が大勢います。やはり、気候が大きな要素なのでしょうか?

 一つには気候です。大気が手術に大きく影響するからです。しかし、同時に霊的な条件もあります。心霊手術は、英国に住んでいる人には向いていません。問題は、人間が何を望んでいるかではなくて、何がいちばん向いているかです。高度な霊的資質を秘めていながら、最低の物的次元のものを求めている人が多過ぎます。これでは進歩も発達も望めません。


【Q10】
私は、たった今、ガン患者を治療してきたのですが、痛みが出始めました。納得がいかないのですが‥‥。

 痛みをやわらげるだけなら可能でしょう。医学的な方法もあります。痛みだけを問題とするなら、むずかしくはありません。耐え切れないほどになっても、霊的に見れば、まだまだ最終判断を下す段階ではないというのが私の持論です。

 もしも一個の霊の地上的生命について、きわめて限られた医学的知識しかもちあわせない医師に、その最終判断を下す権利を与えてよいと私が申し上げたら、これまで私が説いてきた教えを裏切ることになるでしょう。


【Q11】
霊界の医師には、ガンの治療法がわかっているのでしょうか?

 あらゆる種類のガンを治す一つの治療法という意味での、特殊な治療法はありません。原因が同じではないからです。肉体的原因もあれば精神的原因もあり、霊的原因もあります。それらを同じ方法で治療することはできません。

 さらに、それ以前の問題として、霊界と地上界の関係のあり方について理解していただかねばならないことがあります。私たちは、あなた方がてこずっている問題に関して「こうしなさい、ああしなさい」と要請されれば、何でも簡単に解決策を教えるというようなことはしません。地上界の問題は、地上界の人間が解決するのが本筋です。

しかし、いくら努力を重ねてみても、罪のない動物に残酷な苦しみを与えたり、人間としての本来の生き方を間違えたり、あるいは患者がまだ癒されるだけの資格が整っていなければ、本当の治療法は見つかりません。

 霊界からの働きかけは二通りあります。一つは、霊的な理解のある人間が真摯に、そして献身的に霊的治療にたずさわっていれば、親和力の法則で同じ分野を専門とする高級霊を呼び寄せて、援助を受けます。

 もう一つは、患者の魂に受け入れ態勢が整ったときに摂理が働いて、霊的な治療エネルギーが注入されます。ヒーリングはすべて、霊的エネルギーによって行なわれるのです。

魔法の杖があるわけではありません。霊力がその患者の魂に引き寄せられるのです。したがって、魂に受け入れる用意ができていなければ、反応は生じないことになります。魂の霊的意識が開かれるまでは、磁気的なつながりはできません。閉じられたままであれば、何の接触も生じません。

 もちろん、ほかにもいろいろと要素があります。病気の原因が何であるかによっても違ってきます。何を目的に生まれてきたかによっても違ってきます。誕生するに当たって特殊な体質の身体を選んだ場合は、それも考慮に入れなくてはなりません。この問題は単純ではないのです。


【Q12】
癲癇になる原因は何でしょうか?また、治るのでしょうか?

 原因は脳に障害があって、精神からの連絡を正しく受け止められなくしていることです。もちろん、いかなる病気も治ります。“不治の病”というものはありません。治してもらえない人がいるだけです。


【Q13】
幼い子供が激痛を伴った不治の病に苦しんでいる場合、何に原因があるのでしょうか?また、公正といえるでしょうか?

 霊的な問題を物的な尺度で解くことはできません。永遠という時を、地上生活というカケラほどの体験で裁いてはいけません。無限の摂理によって支配されている神の公正を、目の前の束の間の現象だけで理解することはできません。

小さいものが大きいものを理解することはできません。一滴の水が大海を裁けるでしょうか。部分に全体がわかるでしょうか。

 宇宙は私たちの想像を絶した摂理によって経綸されており、これに私は常に敬虔な敬意を払っています。完全な英知から生み出されたものだからです。誤りというものがあり得ないのです。人間の目から見れば公正とは思えないかもしれませんが、それは限られた一部しか見ていないからです。

全体を見ることができれば、ご意見も変わるでしょう。ほんの短い地上人生を送っている人間には、永遠は理解できません。埋めあわせ、ないしは償いというものが、どういう具合に行なわれるか、人間には理解できません。

 あなた方には、霊の世界の豊かさ、美しさ、不思議さを理解する手だてがありません。地上のどこを探しても、比較・対照するものが見当たらないからです。

ならば当然、理不尽と思える事態の裏側にどのような摂理が働いているかを、判断力も視野も限られているはずのあなた方に、どうして説明できましょう?不公平や理不尽を口にされる方は、まだ人間を身体だけの存在として考えている、つまり物的世界の観点から考えており、永遠の観点から見ていないのです。

 霊そのものは、性病を患うことはありません。霊が不具になったり、奇形になったり、腰が曲がったりすることはありません。親の遺伝的体質や後天的性癖は受け継ぎません。地上で自我を表現するために宿っている身体には影響しますが、それが個性を変えてしまうことはありません。

 たしかに、地上的観点から見れば、つまり物的見地からのみ人生を見つめれば、病弱な身体で生まれてきた人のほうが、健康な身体で生まれてきた人より辛い思いをすることでしょうが、それは宿っている霊については当てはまりません。

身体が病弱だからといって霊も貧弱ということはなく、身体が健康だからといって、霊も健全というわけではありません。それどころか、霊的進化にとってかけがえのない体験である痛みと苦しみを数多く味わっただけ、それだけ霊的に豊かになっているとも言えるのです。


【Q14】
治らない患者は、治る資格がまだできていないからだとおっしゃいましたが、それでは単純すぎるように思えるのです。それでは悪人はいつまでたっても治らず、善人はいつでも治るということになるからです。

 そんなに単純なものではありません。それは、あまりに皮相な見方です。問題を霊の目で見ていないからです。たとえば、苦難は人間にとってはご免こうむりたいものでしょうが、私たちから見れば実にありがたいものなのです。凶事に遭うと、人間は万事休すと思いますが、私たちの立場から見ると、それが新たな人生の始まりであることがあるのです。

 善とか悪とかいった用語を、あたかも善人という人種、悪人という人種がいるかのように、物的基準で用いてはいけません。私たちの価値基準は、あなた方の価値基準とは必ずしも同じではありません。私は、治るためにはそれだけの霊的な資格がなければならないと言っているのです。善人とか悪人といった言い方はしていません。

魂が真の自我に目覚めれば治る資格ができたことになります。そうなったときに、治療が効を奏するのです。


【Q15】
カルマとの関係はどうでしょうか?

 患者のなかには、前世でこしらえたカルマをもち越している人がいます。そのカルマ、つまり因果律が成就されずに残っている場合は、治療効果が出ないでしょう。

 霊的進化の過程で因果律が成就している場合、つまり、原因に対する結果が出切って、カルマが清算されている場合は、治療は成功するでしょう。魂に霊的治療エネルギーを受け入れる準備ができているからです。


【Q16】
その治療エネルギーをそちらで準備する、つまり、一人ひとりの患者の特殊な条件にあわせて調合する方法を教えていただけませんか?

 これは、説明がとても困難です。非物質的なものを叙述する用語が見当たらないからです。よく理解していただきたいのは、そのエネルギーは生命力そのもの、生命素そのものであることです。生気そのものです。無限に存在するものです。融通無碍(ユウズウムゲ)、つまり無限の形態をとることができます。どんな組み合わせでも可能です。

 その仕事にたずさわる者として、知識と経験と理解力を身につけた、さまざまな次元の霊がひかえています。地上の化学者や科学者に相当する人たちもいます。そうした霊は、この生命力、この霊的エネルギーのさまざまな成分を調合して、一つの特性をもったものをこしらえる、英語で言えば「characterize」するのです。

これはよい表現です。絶えず実験を繰り返しています。チャンネルである治療家を通して、病状を念頭において可能なかぎり調整しています。

 こうした説明しかできません。要するに、訪れる患者に応じてエネルギーが調整されるのです。これには、患者のオーラが大いに参考になります。オーラには、病気を生み出した霊的および精神的状態が正直に残っていますから、それを参考にして調合します。


【Q17】
それには霊界の担当医の精神的(mental)な努力を要するのでしょうか?

 「mental」という用語は不適切です。実体のある作業だからです。実際に混合するのです。私たちも、あなた方のいう化学物質に相当する霊的素材を使用します。もちろん、精神(マインド)も使用します。霊界では、精神がすべてをこしらえるうえでの実体のある媒体だからです。


【Q18】
その治療エネルギーの通路として、ヒーラーの肉体または霊体は、どの程度まで使用されるのでしょうか?遠隔治療の場合とは違うことを念頭においての質問ですが‥‥。

 でも、遠隔治療でも、あなた方ヒーラーの身体が使われるのですよ。


【Q19】
肉体や霊体が使われるのですか?それとも単に患者と霊とを一体化するためのつなぎ役として使われるのでしょうか?

 ヒーラーの霊体を使用しなければなりません。


【Q20】
その過程を説明していただけませんか?

 ヒーラーは、テレビジョンのようなものです。霊的なバイブレーションがヒーラーに届けられ、それが半物質的治療光線に転換されて、それが患者に注がれます。ヒーラーは、変圧器のような役を果たしています。


【Q21】
それが、どうやって患者に届けられるのでしょうか?

 患者が治療を要請したということで、つながりができています。思念がヒーラーへ向けてのバイブレーションを生んでいます。そこに絆ができたわけで、その波長で治癒力が患者へ送られるのです。


【Q22】
自分のために、だれかが遠隔治療を要請してくれていることを患者自身が知らない場合は、どうなりますか?

 患者と関わりのあるだれかが知っているはずです。そうでなかったら、その患者に向けて治療が行なわれるはずがないでしょう。


【Q23】
ヒーラーが、病状を察して、一方的に遠隔で治療を施してあげる場合はどうなりますか?

 それだけで、霊的なつながりができています。


【Q24】
でも、患者のほうからは思念が出ていません。

 いえ、出ています。ヒーラーがその絆をこしらえています。こちらの世界では、思念に実体があることを忘れてはいけません。私があなたを見ても、肉体は見えません。霊媒の目を使えば見えるかもしれませんが…。

 私たちにとっては実体があるのは思念のほうであり、実体がないのは肉体のほうです。ですから、あなたが思念を出せば、それが実在物となるのです。それがバイブレーション──波動をこしらえ、それが遠隔治療で使用されるのです。


【Q25】
治療のたびに、それをこしらえる必要があるのでしょうか?

 一度つながりができれば、その必要はありません。霊界とのつながりはすべて磁気的なもので、一度できたら、二度と切れることはありません。


【Q26】
霊的治療を受けるうえで、信仰のあるなしは関係ないと理解していますが、患者が邪悪な思念を抱いていると、それが治療を妨げると考えてよろしいでしょうか?

 私は信仰をもつこと自体には反対していません。それが理性を土台としていて盲目的でなければ結構です。スピリチュアリズムの思想を正しく理解した方なら、手にした真理が全体のほんのひとかけらに過ぎないことはご存じと思います。

 物的身体に閉じ込められているあなた方が、真理のすべてを手にすることは不可能なことです。霊界へ来ても同じことです。となると、手にしたかぎりの知識を土台とした信仰をもたねばならないことになります。

 さて、そうした知識を土台とした理性的信仰をもっていることは、大いに結構なことです。そのこと自体に何ら問題はないと思います。それが治療にとって好ましい楽観的な雰囲気をこしらえるからです。霊的エネルギーは明るく楽しい、愉快な精神状態のときに最も有効に作用し、反対に、いじけて疑い深く、動揺しやすい心は、霊的雰囲気をかき乱して、治療の妨げになります。


【Q27】
ヒーラー自身が病気になった場合は、他のヒーラーにお願いすべきでしょうか?それとも自分で治す方法があるのでしょうか?

 ほかのヒーラーにお願いする必要はありません。それよりも、いつも使用している霊的エネルギーを直接自分に奏効させる方法を工夫すべきです。神に祈るのに教会まで行く必要がないように、治癒エネルギーを自分自身に向けることができれば、他のヒーラーのところへ行く必要はありません。そのためには自分の心、自分の精神、自分の魂を開かないといけません。


【Q28】
サークル活動(勉強会・霊能養成会など)に参加できるヒーラーは、能力を発達させるうえで有利ですが、そういう機会に恵まれていない人のために何かアドバイスをいただけないでしょうか?それに、交霊会に出席することはヒーラーにとって不可欠でしょうか?

 あとのご質問からお答えしますと、これにはきっぱりと「ノー」と申しあげます。霊の能力はあくまでも霊の能力です。それを授かって生まれたのであり、授かった以上はそれを発達させる責任があります。ピアニストとしての才能をもって生まれた人は、練習と鍛錬によってそれを発達させなければならないのと同じです。

 では、治療能力はどうやって発達させるか。その答えは、サークル活動に参加することではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機によっても発達を促されます。日常生活の生き方によっても発達します。可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。できるだけ多くの人を治してあげたいという願望によっても発達します。

自我を発達させる唯一の方法は、自我を忘れることです。他人のことを思いやれば思いやるほど、それだけ立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。ひたすら他人のために役立つことをしたいと願い、こう反省することです───「大霊は自分に治病能力を与えて下さったが、はたしてそれにふさわしい生き方をしているだろうか?」と。これを基本的姿勢として生きていれば、治病能力は自然に力を増し、質を高めていきます。


【Q29】
治療にたずさわるときは、ヒーラーは完璧な健康状態であるべきでしょうか?

 霊的なエネルギーで治療する人は、他の霊的現象の霊媒と同じく、道具です。つまり、受けたものを伝達するチャンネルです。自分の内部にためるのではなくて外部に送り出すのです。ですから、ヒーラーの身体のどこかが病んでいても、必ずしもそれが治病能力を阻害するとは限りません。治病能力は霊的なものであり、病気は物的なものです。


【Q30】
医者は、大病にもストレスや仕事上の心痛が原因であるものがあるといいます。そうしたケースでは(身体と精神と霊の)不調和は、どの程度まで関わっているのでしょうか?

 今、おっしゃったことは、私が別の言葉で言っているのと同じことです。仕事上の心痛と呼んでおられるのは、私の言う「不調和状態」のことです。精神と肉体と霊とが正しい連携関係にあれば、仕事上の心配も、その他いかなる心配も生じません。心配する魂は、すでに調和を欠いているのです。

 霊的実在についての知識を手にした者は、心配の念を宿してはなりません。とりこし苦労は陰湿な勢力です。霊性の進化した魂には縁のないものです。あなたは、それを仕事上の心痛と呼び、私は不調和状態と呼ぶのです。

 自分が永遠の霊的存在であること、それゆえ物質界には何一つおそれるものはないことを悟ったら、心配のタネはなくなります。


【Q31】
ほんの数分で治してしまうヒーラーもいれば、長時間かけても一向に変化が見られないヒーラーもいます。どうなっているのでしょうか?

 果実を見て木を知るべし、です。大切なのは結果です。ヒーラーは、霊団との最高の調和をめざして日常生活を律すべきです。そうすれば必ずよい結果が得られます。

 あなた方は、身を正すことだけを心がければよろしい。あとは私たちがやります。援助の要請が拒否されることはありません。霊力を出し惜しむようなことは絶対にいたしません。私たちは常に、お役に立つための努力を重ねています。人を選り好みしません。どんな人でも歓迎します。霊力は、すべての人に恩恵をもたらすべく存在しているのですから。

訳注───この質問に対する答え方には、いろいろな視点が考えられるが、この回答は抽象的過ぎるきらいがある。総合的にはQ13,14,15に尽くされているが、次のQ32がその具体例と言えるであろう。


【Q32】
幼児の両脚が奇形である場合に、片方は治ったのに、もう一方は何の反応も見せないことがあります。なぜでしょうか?

 それぞれの脚にそれぞれの原因があって、同じ治療法では治せないということです。一つ一つ治療法が異なります。それぞれの実情にあわせた治療が行なわれます。それぞれに特徴があるのです。

 こうした問題を地上のみなさんにできるだけ平易に説明しようとすると、とても骨が折れます。ほかにも考慮しなければならない条件がいろいろとあるのです。奥に隠れた原因があって、それに絡んだ霊的摂理が働いており、さらにその奥にも次元の異なる摂理が働いているのです。

 霊的治療は、見かけほど単純ではないのです。ただ、患部を治せばよいというものではありません。考慮されるのは、患者の魂の資質に関わることです。それにいかなる影響が及ぶか、治療がいかなる意味をもつことになるか、なぜその治療家のもとを訪れたのか、魂が目を覚ます霊的進化の段階に到達しているか、といったことです。

 いずれも物的尺度では、はかれないことばかりです。が、霊的治療にはそれらがすべて関わっているのです。なぜなら、治療にたずさわっている間は、生命力そのものを扱っているからです。ということは、宇宙の永遠の創造活動に参加していることになります。私が治療の重大性を強調する理由は、そこにあります。


【Q33】
精神に異常のある方は本当に気の毒でならないのですが、ヒーラーとして無力であることを痛感させられます。

 精神の病も治すことができます。私たちに身をゆだねる───あなたに要請されるのは、それだけです。自分を通して霊的エネルギーが流れるようにするのです。じかに治療できない患者には遠隔治療を施してあげなさい。霊的治療は、もはや地上に根づいています。退散させられることはありません。

 ヒーラーとしてのあなたにも、あなたなりの貢献ができます。しかも、とても重要な役割です。忘れないでいただきたいのは、無限の進化の計画のなかにおいて、あなたも神聖なる通路として大霊のお役に立っているということです。光栄このうえない仕事です。が、それだけに責任も重いということです。


【Q34】
心臓移植の問題ですが、霊的視点からどう見ておられますか?

 何ごとも動機が大切です。心臓移植にも、命を永らえさせてあげようという動機に発しているものがあることは、疑いの余地はありません。が、一度実験的に移植手術をしたことがはずみになって、次から次へと手術が行なわれるようになり、いつしか患者を救うという目的からはずれていくことになりかねません。

 それに、そもそも動物を残酷な目にあわせて治療法を開発しようとすること自体、霊的に見て許されることではありません。残酷な手段では健康は発見できません。人間のエゴに発した手段からは、大自然の秘密は見出せません。

 臓器を一人の人間から別の人間に移植することに、私は賛成できません。私は、輸血すら賛成できないのです。私は、あくまで私個人としての考えですが、そもそも物的生命を永らえさせることが、医学の至上目的であるとは思いません。地上の人間は、あくまで日常生活を霊的・精神的・物的の面で良心に恥じない生き方を心がけるように教育すればよい、という考えです。心に宿すことが正しければ行ないも正しくなり、身体も正常に働きます。

 臓器を移植することでは、病気の解決にはなりません。本当の解決法は大霊の意志にのっとった生き方に徹することです。同胞のことを思いやると同時に、この地球という天体を共有している生き物のすべてに対しても、思いやりの情をもたねばなりません。動物は、人間の物的寿命を延ばすための実験材料として地上に送られているのではありません。


【Q35】
現段階では、心臓移植は必ず失敗すると考えてよろしいでしょうか?

 成功することもあることは十分に考えられます。私が心配しているのは、霊的観点から見て、動物実験が間違った方向へ向かい始めていることです。

現在の医学界は、人間の幸せのために献身すべき者がとるべき方向に進んでいません。今のやり方では、健康は見出せません。健康とは、調和のことです。医学がやっていることは、一時的な人体のパッチワークに過ぎません。

 人間の本質を理解しないといけません。いたって簡単なことです。人間は物的身体と精神と霊の三位一体の存在として、一人ひとりが独自に創造されています。三位一体ですから分解することはできません。

臓器だけを交換することはできないのです。三者で一つの全体を構成しているのです。健康というのは、その三者の一体化、調和、リズム、協調です。それが健康の要諦であり、薬品や医術によって健康になるのではありません。それは一時的な症状の緩和に過ぎません。

 人間は、あまりに無知の度が過ぎます。相変わらず 「死」 をおそろしい怪物のように扱っています。たしかに、死ぬことは怖いかもしれません。しかし、死も大自然の摂理の一環であることは、明らかな事実です。死なないようにすることが地上生活の目的ではありません。地球は、トレーニング・センターです。必ずおもむくことになっている次の生活の場にそなえて、教訓を学ぶところです。

 死すべきときが訪れたときは、いかなる医術をもってしても生き永らえさせることはできません。どうやら医学者も、何をもって死とするかは自信がないようです。死の瞬間について論争しています。が、本当の死は、玉の緒 (シルバーコード) が切れて、霊的身体が物的身体を離れたときです。その現象が起きたら最期、いかなる名医も生き返らせることはできません。


               
第8章 動物と人間との関わりあい 

【Q1】
霊的に正しければ、物的な面もおのずから正されるとおっしゃっていますが、痛みつけられ、大量に殺戮され、酷使されるために生まれてきているとしか思えない動物には、それは当てはまらないように思います。動物は、何も悪いことはしていないのではないでしょうか?

 その見方は間違いです。同じく霊といっても、人間の霊と動物の霊とでは、範疇(カテゴリー)が違うのです。人間には正しい選択をすべき義務が与えられています。

 いい換えれば、そこに自由意志の行使が許されているということです。それによって人間は、宇宙の進化を促進することもあれば、妨害することもあるわけです。この天体上で共存している動物に関しても、それをどう扱うかについて、ある一定範囲で選択する自由が与えられています。

 人間の世界には悪用・誤用が多過ぎます。そのなかでも決して小さいとはいえない問題が、動物への残酷な医学的行為と、食糧としての身勝手な濫用です。しかしこれは、人間が進化するための、一種の必要悪なのです。もしも人間から自由意志を奪ったら、個的存在としての発達と進化を遂げるチャンスがなくなってしまいます。ここに問題の核心があります。


【Q2】
そういう事態が生じることが、なぜ許されるのかが理解できません。

 「生じることが許される」ことに疑問を抱くということは「許されないようにすべきである」とお考えになっていることになりますが、それは人類から自由意志を奪ってしまうことになります。繰り返しますが、自由意志を奪ってしまえば、人類はただの操り人形となってしまい、内部の神性を発現するチャンスがなくなってしまいます。霊的資質が発達せず、地上生活の基本的な目的が失われます。

 地上世界は、霊にとっての保育所であり、学校であり、トレーニング・センターです。さまざまな挑戦に遭遇し、それを克服しようと努力するなかで自由意志を行使してこそ、霊性が進化するのです。


【Q3】
人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなくて、人間の頭上に降りかかるべきだと思うのですが‥‥。

 「埋め合わせと懲罰」の法則があります。あなたが行なう善いこと悪いことのすべてが、自動的に霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律を免れることは絶対にできません。

 埋め合わせと懲罰の法則は、その中核をなすものです。罪もない庶民が、支配者の横暴によって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いを受けた動物にも、それなりの埋め合わせがあります。


【Q4】
人類は、これからもずっと、動物に残酷な扱いを続けるのではないかと思うのですが。

 いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を少しずつ理解していくでしょう。一朝一夕に残虐行為がなくなるとは言いません。人類は進化しつつある世界の、進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。が、進化というのは螺旋状(スパイラル)に進行するもので、一見すると向上しているようには見えなくても、全体として見ると、徐々に向上しているものです。

 そうでないと、進化していないことになります。無限の英知と愛によって、すべての物、すべての人間について、然るべき配慮が行き届くように構成されていることを認識しなくてはいけません。


【Q5】
残酷なことをしたら、その結果がすぐに出るといいのですが‥‥。どうも人類は、うまく罪を免れているように思えてなりません。

 うまく罪を免れる者は一人もいません。摂理は間違いなく働きます。たとえ結果が地上で出なくても、霊界で出ることを断言します。因果律は、いかなる手段をもってしても変えられません。

永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があれば必ず結果が生じます。それから逃れられる者は一人もいません。もしいたら、大霊は大霊としての絶対的な条件である「完全なる公正」を失います。

 そのこととは別にもう一つ、私がいつも強調していることがあります。残念ながら人類は、宿命的に短期間の視野しか目に入らず、永遠の観念でものごとを考えることができないことです。あなた方には、地上で発生していることしか目に入りませんが、その結果は霊界で清算されています。


【Q6】
地上の動物が、気高い情や知性といった人間的資質を発達させた場合でも、死後は、やはり動物のままなのでしょうか?それとも、そのうち人間界へと進化していくのでしょうか?

 進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体として同じ摂理の一部を構成しています。あなた方人間に潜在している霊性と動物の霊性とは、質的にはまったく同じものです。進化の度合において差があるだけで、本質においては違いはありません。

 霊は無限ですから、可能性においては、人間でも動物でも驚異的な発現力を秘めていますが、霊的には両者とも、一本の進化の道に属しています。その道程の、どの段階で動物へ枝分かれし、どの段階で人類へ枝分かれするかは、だれにも確言できません。そこに、とりたてて問題となる要素はないと思います。


【Q7】
動物も人間と同じ進化の道程をたどるのでしょうか?

 動物は、動物独自の進化の道程をたどります。といっても、全生命の進化に背後に存在するパターンの一部です。発達と呼んだほうがよいかもしれません。

たとえば、もし私が 「子どもは親と同じ進化の仕方をするものですか?」 と聞いたら、その答えは 「イエス」 でもあり 「ノー」 でもあるでしょう。人類のすべてがたどるパターンは決まっているのですが、その枠内で、意識の発達に伴って自由意志の行使範囲が広がるからです。

 霊を宿したものは、例外なく無限の発達の可能性を秘めています。動物も、進化のパターンのなかで受けもっている役割にしたがった進化の道程をたどります。因果律は絶対です。現在あるものは、過去にあったものの結果です。それ以外にありようがないのです。

 生命の根源は一つです。千変万化の生命現象も、霊的な絆で一つにつながっているのです。が、草花、樹木、小鳥、野獣、あるいは人類が、それぞれの進化の法則によって支配されているように、動物も独自の法則によって、進化が規制されているのです。


【Q8】
動物界にも、高等・下等の差別があるのでしょうか?

 ありません。それぞれの動物に、たどるべき進化の道程があります。生あるものは霊であるがゆえに生きているのです。霊は生命であり、生命は霊です。ですから、創造されたもの───小鳥も魚も花も木も果実も、すべて霊なのです。

 高等・下等の問題ですが、これは無数の生命形態のなかの他の生命と比べて、進化のどの段階にあるかの差に過ぎません。たとえば人間は、魚に比べれば高い段階にあるかもしれませんが、霊界の上層界の存在に比べれば低い段階にあることになります。


【Q9】
動物のなかには、同族の他のものたちより抜きん出て発達していて、人類と同じ資質を発揮しているものがいるように見受けられますが‥‥。

 当然、そうあって然るべきです。なぜかと言いますと、進化の世界においては、進化を先どりした前衛的なものと、その種族の平均的な発達程度から遅れている後衛的なものとがいるものです。それはちょうど、人類においても天才とか改革者、聖人といった霊性を顕著に発揮して、人類の未来の姿を顕示している者がいるのと同じです。

動物のなかにも、同じ種族の者より数段も進化しているものがいて、人間にも匹敵するほどの英雄的行為や献身的行為を見せることがあるのも、同じ範疇に属します。

 資質の発達は、早い側面もあれば遅い側面もありますが、同じ天体上に棲息する生命体のすべての調和(のとれた生命連鎖)を維持するうえで、最終の責任を担っているのは人類です。

 しかし、人類がどのような(間違った)行為をしでかしても、大自然の摂理の一環として、必ずそれに対する埋め合わせの法則が用意されています。人類には、動物がそれなりの進化の道程を順調に歩むように配慮すべき義務があるのです。それを怠ると、それに対する代償を支払わなければなりません。残酷な扱いをしている人間は、その行為のすべてに対して、霊的な代償を支払わねばならなくなるでしょう。


【Q10】
動物に投与している抗生物質などの薬品類が、めぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか?

 それは、他の生命に害悪を及ぼすと、必ずそれに対して責任をとらされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。

 貪欲以外に何の理由づけもなしに、動物を檻のなかで飼育し、動物としての生得の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルのなかで因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。

動物であろうと草花であろうと、小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと、親切と協調しかないのです。


【Q11
自分たちの使命を維持するために、人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横どりし、さらにひどいこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強盗にも似た生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを「愛の造物主」の観念とどう結びつけたらよいのでしょうか?

 人間は、自分たちのすることに責任をとることになっており、その行為の一つ一つが霊性に影響を及ぼします。その際に必ず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかった場合は、その行為はあなたの霊性にプラスに働きます。

 霊的摂理は、原因と結果との関係、種まきと刈り取りの原理のうえに成り立っており、これだけは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つが、それ相当の結果を自動的に生み出します。そこに、ごまかしの余地はありません。

 悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任をとらされます。その苦しみは自分で背負わねばなりません。善い行ないをした場合でも、それが見栄から出ていれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然な発露としての善行であれば、あなたを霊的に向上させます。それが摂理とうものなのです。

 堂々申しあげているように、「殺害」の観念がつきまとう食品は、なるべく摂取しないほうがよろしい。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならないケースがあることは認めます。

 霊的向上をのぞむ者は、いかなる犠牲を払っても、大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なものです。霊が発揮すべき側面は、いつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。

しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために大霊は、自由意志というものをお与えになったのです。


【Q12】
地上界でおそろしい動物虐待が行なわれているのを見ていながら、なぜ霊界から阻止してくれないのでしょうか?

 それは、宇宙が自然の摂理で支配されているからです。(第10章Q1参照)。残念なことに、地上の人間の大半が、霊性の発達の欠如から、自分たちを生かしめているものが、同じ地上の他の生き物のすべてを生かしめているものと同じ「霊」であることを理解していません。つまり、動物も物的身体をたずさえた霊的存在であることに、理解がいかないのです。

 大半の人間は、自分たちが万物の霊長であると信じていながら、だからこそ他の生きものに対して責任があることに気づいていません。高い段階にいる者が、低い段階にいる者に手を差しのべるべきなのです。


【Q13】
生体解剖は許されることでしょうか、間違ったことでしょうか?人類に何らかの益をもたらすでしょうか?

 人間は、動物を解剖するという手段で自分たちの健康が達成されると信じて、何の罪もない動物に無用で残酷な行為や恐怖を与えていますが、これは間違いです。

 私は、動物を使っての実験のすべてに反対です。何一つ正当化する理由が見つからないのです。動物は、人間による保護と管理のもとに生きるべく、地球上に送られてくるのです。ですから、人間には、動物の成長と進化を促進させる義務があります。その動物をむごい目にあわせるのは、動物が人間に見せる愛着や献身や忠誠に報いる行為としては、いささかお粗末過ぎます。

自然界には、人間の病を治す薬効成分がいろいろなかたちで存在し、人間が発見するのを待っています。動物的創造物にそういう無益な干渉をしなくても、大霊は、必要なものはすべて用意してくださっているのです。

 霊界から援助している霊たち、人間の苦痛を軽減する方法を心得ている霊医たち、地上の医者が「不治」の診断を下した病を治すこともできるほど進歩した霊界の医学者たちは、生体解剖の手段はとりません。

山野に自生するハーブや霊的治療エネルギーを使用します。何ものにも苦痛は与えません。宇宙は道義的な意図で満ちあふれています。非道義的な意図は、大霊の摂理に反します。


【Q14】
人類は、生体解剖という手段では救えないということを悟る一歩手前まできているでしょうか?

 私は、生体解剖という手段では何一つ人類に益するものは得られない、と言っているのではありません。そういう痛い目にあわされるいわれのない動物に、残酷なことや苦しい思いをさせることは、宇宙の霊性に反することだから正しくないと言っているのです。そこのところが、医学界が理解できずにいるところです。

 人間は動物よりも大切な存在であるとの先入観で、動物実験を正当化し、それによって人類の健康と幸せを促進する権利があると思い込んでいます。しかし、これは間違いです。霊的に間違っていることは絶対に許されません。

この地球上において仲良く協力しあって、生きるべき者すべての幸せを促進する方向で、努力しなくてはいけません。

愛こそが摂理を成就させるのです。

(注)他の生物に苦しみを与えているようでは、人類に愛があるとはいえません。

訳注───「愛こそが摂理を成就させる(Love is the fulfilling of the law.)」の意味を私なりに解説しておくと───。

 宇宙の摂理は「進化」を志向して無限の次元にわたって構成されている。「良心が痛む」というのが、その顕著なあらわれである。したがって、ここで言う「成就する」とは、進化の方向へ向かって摂理が働くということになる。

 これは、イエスの有名なセリフ「右の頬を叩かれたら左の頬を出してやりなさい」(『マタイ5』)の訓えのなかで最高のかたちで具体化されていると考えられる。叩かれて叩き返していたら「目には目、歯には歯」の報復の繰り返しになって、業(カルマ)の消えるときがない。

どちらかが、その愚かさを悟って叩き返さない態度に出れば、そこで摂理が一段と高められた次元で成就される。その力が、本当の意味での愛であるということであろう。



              
第9章 さまざまな問題

【Q1】

もしも放送番組でスピリチュアリズムについて語るとしたら、どのように説明されますか?

  生命に「死」はないことを説きます。人間は不滅・不死の存在であること、死を悲しみ、頬を涙で濡らして別れた人が、無言ですぐ傍に立っていること、「無言で」といっても、人間の耳に聞こえないからであって、本人は自分の存在を知らせようと悲痛な声で、長いこと叫び続けるという事実を話します。

 むしろ、地上の人間のほうが死者、生命の実相に気づかずにいるという意味で、死んでいるのも同然であること、大霊が創造した宇宙の無限の美に目を閉じていることを説いて聞かせます。

 つまり、人間は無限の宇宙のなかのほんのかけらほどに過ぎない、地上という物質界のことしか感識できないようになっているのです。目に映じない大気中では、莫大な生命活動が繰り広げられています。魂の窓を開きさえすれば、その強大な霊的エネルギーを認識して強くたくましくなることでしょう。

 スピリチュアリズムは、大霊を共通の父として、世界の民族のすべてが霊的な兄弟であるという福音を説きます。その認識を妨げているのが、地上だけにしか通用しない概念、間違った教義のうえに建てられている教会、特権の占有、暴君の傲慢と権力、ムチを手にしたお粗末な支配者です。

 スピリチュアリズムの教えが広まるということは、民族間の反目がなくなることを意味します。国家間のバリア、人種差別、階級差別、肌色による差別の消滅を意味します。その他、教会、礼拝堂、寺院、モスク(イスラム教の教会)、シナゴーク(ユダヤ教の礼拝堂)などによる差別の消滅を意味します。なぜなら、それぞれ大霊の真理の一部を秘めており、他のいかなる宗教も、自分たちの宗教と根幹において矛盾しないことを理解するようになるからです。

【Q2】

幽界を脱して霊界へおもむいた霊が、地上界と通信をするときは、幽界まで降りてくるのでしょうか?

 いえいえ、そうではありません。メッセージを中継してくれる霊を見つけます。いわば、中継のための道具を採用するわけですが、道具とはいえ、霊性が幽界のレベルを超えているだけでなく、それ以上のものが求められます。

 物質界の次の段階である幽界にいるものだけが、地上界と通信できると思ってはいけません。その先の上層界にいる者でも、直接の交信が可能です。ただし、上層階のバイブレーションを中継できる霊媒を見つけることができるか否かにかかっています。

【Q3】

霊は、睡眠中の私たちの意識に、きちんと印象づけられたかどうかがわかるものでしょうか?

 いいえ、必ずしもわかるとは限りません。こうした交霊会においても、どの程度のことが伝えられたかは、その時点ではわからないものです。平常時に、こちらから指導しようとして意念を送った場合でも同じです。

 訳注──シルバーバーチと霊媒のバーバネルとの関係に限っていえば、バーバネルが母親の胎内に宿った瞬間から関わり、その成長の過程をつぶさに観察し、自分の専属霊媒として操作方法を研究したので、意図したことが100%伝わっていると明言している。

 これほどまで用意周到に準備した通信霊と霊媒の関係は、他に例を見ないもので、それだけに霊的な人類史におけるシルバーバーチの出現の意義は想像以上に大きいものと思われる。訳者の直観的判断では、その霊的教訓の真価が本格的に衆目を集めるようになるのは、今世紀半ばから後半にかけてではないかと推察している。

【Q4】

霊的通信のなかでも、自動書記による通信がいちばん頼りにならないように思えるのですが、なぜでしょうか?

 すべては霊媒の能力次第です。未熟な霊媒ですと、地上界で行き交っている想念と霊界から送られてくる想念との区別ができないのです。霊的能力の発達程度の問題であって、発達すればするほど、地上界の想念を排除し、霊界の影響力を受けやすくなるものです。道具が未熟なのに、私たちをとがめてはいけません。霊界側は、そちらが用意してくれる道具で仕事をするしかないのです。

【Q6】

もしも善人が、死後存続の真理を聞かされていながら信じなかった場合、そちらへ行って何か報いがあるのでしょうか?

 善人とか悪人とかの意味が私にはわかりませんが、肝心なことは、どういう人生を送ったかということ、どれほど人のために役立つことをしたかということ、潜在する大霊の資質を開発する機会をどれほどもったかということです。それがすべてです。

 死後存続の事実は、知らないよりは知っていたほうがいいでしょう。が、最後の試金石は、どのような日常生活を送ったかということです。

【Q6】

霊的真理を知った者は、この現代社会をどう生きていくべきでしょうか?

 真理を知った者は、とりこし苦労をするようなことがあってはなりません。これまで地上界にはトラブルが絶えませんでしたが、社会の秩序が霊的原理のうえに築かれるようになるまでは、これからもトラブルは絶えないでしょう。物的原理のうえに築こうとすることは、砂上に楼閣を築こうとするようなものです。内部に争いごとがありながら、外部に平和が得られるわけがありません。憎しみと暴力と敵意と貪欲と怠惰に溢れた世界に、どうして協調的生活があり得ましょう?

 愛とは、摂理を成就することです。地上のすべての人間が、互いに兄弟であり姉妹であること、そして人類という大家族は、霊的な親類知己によって構成されていることを知ったみなさんは、互いに睦みあうことができなくてはなりません。

 大霊がその神性の一部を全存在に植えつけて、霊の鎖が全地球を取り巻いているからこそ、それは可能なのです。

 しかし現在のところ、人類は、自分たちが基本的には霊的存在であり、一人として孤立無援の人間はいないこと、進化も退歩も共同体としての運命をたどるという、不変の事実の認識が欠けています。

 それを認識することは、あなた方の責任です。いつも申しあげているとおり、知識を手にした者は、それをいかに実践に生かすかについての責任をとらされます。霊的真理の存在を知った以上は、つまり霊力というものが働いていることを知ったら、もはや今日や明日のことで不安を抱くようであってはなりません。

 あなたの霊が危害を被ることはありません。あなたが手にした真理、あなたに啓示された真理に忠実に生きていれば、いかなる試練の業火に遭っても、やけどを負うことはありません。地上生活で生じるいかなる災難によっても、霊的に傷ついたり打ちひしがれたりすることはありません。条件さえ整えば、霊力がどれほどのことを生み出すことができるかを示すものなら、日常生活のなかにいくらでも見出すことができます。

 残念ながら、こうした霊的真理を手にした人は少数であり、多数ではありません。大半の人間は物的財産こそ、武力こそ、支配力こそ、傍若無人な生き方こそ、奴隷を使役することこそ、力があることの証拠だと思い込んでいます。

 しかし、大霊の子は、生まれながらにして、身体・精神・霊的に自由でなければならないのです。こうした真理が徐々に広がり、すみずみまで浸透していくにつれて、地球人はより大きな自由のなかで生き、日々の生活に光沢も増すことでしょう。神性を帯びた進化の力がゆっくりと、そして少しずつ顕現していきます。妨害することはできます。遅らせることもできます。しかし、そのために大霊が、その意志を変更することは絶対にありません。

 もしも人間の力が、大霊の意志を凌駕することがあるとしたら、地球はとっくの昔に壊滅していたことでしょう。霊は物質に勝ります。大霊が宇宙を絶対的に支配しているのです。その大霊の真理を手にしたあなた方に、元気を出しなさい、真っ直ぐに前を向いて歩きなさい、地上にも死後の世界にも、おそれるものは何一つありません、と申しあげているのはそのためです。道は必ず開けます。

【Q7】

霊の立場から見て、死体は火葬がよいと思われますか?

 はい、常々そのほうがよいと思っています。焼却してしまったほうが、自分は肉体だという観念に終止符を打つ効果があるからです。

【Q8】

夢はどう理解したらよいのでしょう?なかには霊界旅行の記憶とはいえないものがあるように思えますが‥‥。

 夢は、実に多様です。しばらく脳が沈黙している間に、残像が反応する純粋に物質的なものもありますし、食べたものの影響が反応する場合もあります。それとは別に、霊界での体験の記憶を断片的に思い出す場合があります。なぜ歪んだかたちで見えるのかといえば、霊界へ来ている間は物的束縛から解放されていて、その間に見たものを脳という窮屈な機能で再現しようとするからです。

【Q9】

睡眠中は霊体が肉体から抜け出て、肉体はいわば空き家になるわけですが、その肉体に地縛霊が入り込んだり憑依したりしないのはなぜですか?背後霊のだれかが〝当番〟で警護にあたるのでしょうか?
 
 そのようなことにならないように自然法則ができあがっているからであって、憑依されるような条件を宿していないかぎり、低級霊に憑依されることはあり得ません。霊は身体のなかにいるのではありません。霊と身体とはバイブレーションが違うからです。あなた(本当のあなた)は、その肉体のなかにいるのではありません。心臓と肺の間に押し込められているのではありません。あなたという存在は、肉体という地上の機械をとおして自我を表現している〝意識〟です。

睡眠中は、その意識が肉体をとおしてではなく、霊体をとおして自我を表現しているのであり、したがって、その間は霊的階層で生活していることになるわけです。他の霊が、あなたの肉体に入り込んでくるとか、こないとかの問題は生じません。寝入ると同時にドアが開き、だれかがのこのこ入ってきてドアを閉める、といった図を想像してはいけません。そんなものではありません。その間も自我は肉体を管理しながらも、意識は別の次元で表現しており、肉体に戻るべき時間がくるとすぐに意識が戻ります。

【Q10】

すると、憑依された場合は、霊的自我が憑依することを許したということでしょうか?

 そうではなくて、憑依を可能にする条件を、当人みずからがこしらえていたということです。あくまでも当人の問題です。

 たとえば、あなた方人間が、愛と献身の心を宿せば、それに感応して高級霊が引き寄せられます。それと同じ法則です。親和力の法則は善にのみ働くのではありません。悪にも働くのです。最大の福祉に役立つ法則でも、悪用することができるのです。高く上がっただけ、それだけ下がることもありますし、堕落しただけ、それだけ高尚な次元まで霊性を高めることもできます。

【Q11】

人類は自然界の恵みを破壊し、もはや、とりかえしのつかないものがたくさんあることはお認めになると思いますが、地下資源も同じで、地球と言う人類の住みかも心細くなってきました。

 でも、地球には莫大な潜在資源が秘められているのですよ。これから明かされていくもの、発見されていくものがたくさんあります。人類は、進化の最終局面に到達したのではありません。まだまだ初期の段階です。

 霊的真理を理解した人は、決して絶望しません。その楽観主義は、啓示された知識から生まれます。その知識を手にした人は、絶対的な霊力に全幅の信頼をおくことができます。

 その長い歴史を通じて人類は、幾多の災厄に逢ってきましたが、それを見事に生き抜いてきました。気づかないうちに進歩しています。進化は自然法則の一環ですから、これからも進化し続けます。霊的進化も、その一環です。

【Q12】

地上生活を何度か体験した後、人間は究極的にどうなるのでしょうか?

 究極の運命ですか?私は「究極」のことは何も知りません。始まりと終わりについては、私はどう扱っていいのかわかりません。生命には限りがないのです。進化も無限に続くのです。サイクルには、終わりも始まりもありません。生成発展は、無限に続くのです。

【Q13】

あなたは霊側としてよけいな手出しができず、人間の判断に任せるしかないことがあるとおっしゃったことがあります。つまり、自由意志による選択に任せるということですが、それが機械のなかにスパナを投げ入れる(予定の計画をぶち壊しにする)ことになったらどうなりますか?

 自由といっても、ある一定限度内でのことで、無制限の自由というのはあり得ません。霊的成長と、進化に伴う情況によって条件づけられ制約された自由意志です。何でも好きにできるという、まったく制約のない完全な自由意志ではありません。

【Q14】

われわれ人間が投げ入れるスパナが、機械全体に及ぼす影響はたいしたことはないという見方も可能ではないでしょうか?

 スパナを投げ入れて機械の一部を破壊することはできますが、全部をぶち壊すことはできません。及ぼす影響は、全体のごく一部だということです。大霊の意図を根本から台無しにしてしまう、あるいは大霊の計画を行き詰まらせるほどのダメージを与える手段をもっている人は、地上世界にはいません。

【Q15】

地上界にはさまざまな思想・信仰がありますが、どう対処すべきでしょか?スピリチュアリズムに批判的な者は自分たちの信仰を押しつけてきますが、寛容的な態度でのぞむべきでしょうか?それとも徹底的に排除して〝わが道〟を行くべきでしょうか?私自身の考えとしては、キリスト教の活動に関しては寛容的であるべきですが、思想・信仰に関してはスピリチュアリズム的なものを、こちらから押しつけていくべきだと思うのです。スピリチュアリズムは、信仰薄き者に宗教心を植えつける格好のものだと考えます。

 「スピリチュアリズム」といった用語は、ただの言葉に過ぎません。私たちは、言葉には関心がありません。言葉というのは、観念や真理を表現する道具に過ぎません。私たちとしては、霊の力(あなた方のいう神、私のいう大霊の力)が地上のどこでもよいから根づいてくれることを願っているのです。私たちが行なうことの背後には、必ずそういう目的があるのです。

 なぜ霊力を根づかせたいか?それは魂の琴線にふれさせ、本当の意味で生き甲斐を感じさせてあげたいからです。それがどこであってもよいのです。教会のなかであっても、教会の外であっても、家庭内であってもよいのです。目標とするのは個々人の魂です。手の届くかぎりのところで行ないます。

 物的な眠りから覚める段階に来ている者のほうから、あなた方のもとを訪れる場合もあるでしょうし、あなた方のほうから訪れて、霊的真理の種子を植えつけることもできるでしょう。もしも効を奏さなかったら、涙を流してあげなさい───自分のためではなく、種子が根づかなかった人のためにです。せっかくのチャンスなのに、それが生かせなかったのですから…。しかし、根づく条件の整った人は、そこここにいるものです。やがて芽を出し、花を咲かせ、ついには美と愛の結晶を実らせます。神性を帯びた種子だからです。そのときはじめて、真の自我に目覚めたことになるのです。

 地上生活のそもそもの目的は、人間的存在の全側面、すなわち物的資質、精神的資質、霊的資質を発現することであり、それがまんべんなく発現されるまでは、自己実現ができているとはいえません。肉体と精神のみで生きているだけで、幻影を追い求め、実在を知らずにいます。それが霊性に目覚め始めると、霊的資質の開発と冒険へのドアを開くことになります。それが地上に誕生した、そもそもの目的です。魂が、真の自我を見出すためです。

 ですから、大切なのは、どういう場で真理に目覚めるかではなくて、真理に目覚めるということ、そのことです。地上生活に苦痛と悩みが絶えないのはそのためです。つまり、もはや物的なものでは解決のつかない窮地に追い詰められ、霊的なものを受け入れる用意が整うのです。バイブルにも「風はおのが好むところに吹く」(『ヨハネ3』)とあります。どこでもよろしい、吹きたいところを吹いていればよろしい。受け入れる者に出会えば、精いっぱい自分を役立てることです。

【Q16】

物欲や権勢欲は、死後の世界でも存在するのでしょうか?

 死後の世界でも、幽界の低階層では、あいかわらず物欲と権勢欲が残っています。忘れてならないのは、死ぬということは肉体がなくなるだけで、霊的には生前と少しも変わっていないということです。しかも地上と違って、死後の世界は思念が実体をもつ世界です。あなたの考えることがリアルであり、実体があるのです。

 やっかいなのは、地上時代の物欲や権勢欲が鎖となって、地球圏へ縛りつけることです。物的に死んだのですが、霊的にも死んでいて、こちらの世界よりもそちらの世界のほうに近い存在となっています。困ったことに、そういう存在が、地上界の欲望と権力欲にとりつかれた人間を、ますます深みに引きずり込んでいくのです。

【Q17】

霊媒の口を借りてしゃべるとき、その身体のなかに入るのでしょうか?

 必ずしも、そうではありません。たいていは霊媒のオーラをとおしてしゃべります。

【Q18】

霊媒の発声器官を利用することもあるのでしょうか?

 あります。現に今の私は、霊媒の発声器官を使用しています。私自身の発声器官をこしらえることもできないことはないのですが、エネルギーの無駄になります。今の私は、霊媒の潜在意識をコントロールしています。これで全身の機能をコントロールすることができます。

 つまり、霊媒の意識と入れかわっているわけで、霊媒の同意を得たうえでやっていることです。こうしているときは、霊媒の身体をお預かりしているわけで、用事が終わるとオーラから脱け出ます。すると、霊媒本人の意識が戻って、ふだんのコントロールを再開します。

【Q19】

霊媒の霊的身体も入れかわっているのでしょうか?

 ときどき入れかわることがありますが、その霊的身体は、常に物的身体とつながっています。

【Q20】

古い屋敷で修道士が歩きまわる足音のような、意味もなく繰り返される機械的な現象は、何が原因でしょうか?

 霊によって引き起こされるものもありますが、今おっしゃったような現象は、地上に残した強烈な意念の幽質の印象が引き起こしています。しかし、幽霊騒ぎは、大体において地縛霊の仕業と思ってよろしい。

【Q21】

催眠状態での退行現象は、過去世の証拠でしょうか、それとも憑依現象でしょうか?

 退行現象において前世との接触を得ることは、時として可能です。しかし、語られることが必ずしも前世であるとは限りません。

 精神の潜在的可能性は莫大なもので、その全貌に通じた人はまだ一人もいません。創造力もあります。潜在的な願望もあります。一時的に霊に憑依される可能性もあります。こうしたことを全部、考慮に入れなくてはいけません。さらには、いわゆる幽体離脱の場合もありますし、催眠的トランス状態で飛び込んでくる一連の印象に過ぎないこともあります。そうしたケースでは、過去世を述べているとはいえません。

【Q22】

神童と呼ばれる子どもについて、ご説明願えませんか?

 三つのケースがあります。過去世の記憶をそのままもちこして再生した場合が一つ。もう一つは、本人は無意識であっても霊的影響に鋭敏で、霊界からの教養や英知や真理をそっくり受け取ることができる場合。そして三つめが、人類の進化の先駆けとしての、いわゆる天才です。

【Q23】

蚊によって伝染するマラリヤや眠り病などを予防するために、殺虫剤をスプレーするのは間違っているでしょうか?

 すべての生命を尊重しなければならないことはいうまでもありませんが、これは動機と程度問題です。ある事情で病気をまん延させる悪条件がそろっている場合は、スプレーを使用する動機は正しいでしょう。生命への敬意も、それが繁殖し過ぎて危害を及ぼすことが間違いなければ、程度をやわらげざるを得ないでしょう。同じように、ナンキンムシが繁殖した家屋には、殺虫剤をスプレーして生活しやすくしてあげるのは間違ってはいません。

【Q24】

直観とは何でしょうか?

 直観(注)とは、霊が直接的に働く手段です。通常の地上的な推論の過程を飛び越えて、電光石化の速さで結論を導きます。同じ問題について、ふつうならじっくりと時間と思索を重ねた末に到達するものを一瞬のうちに入手する、一種のインスピレーションです。

 訳注──英語では「Intuition」となっていて、同義語に近いものとしては「虫の知らせ」を意味「hunch」くらいしか思い浮かばないが、日本語にはこの「直観」のほかに、「直感」「直覚」「勘」というように、意味が微妙に異なる表現がいくつもある。ここで「直観」としたのは、シルバーバーチの答えがまさにそれを意味しているからで、「直覚」もこれに入るであろう。「直感」とか「勘」は、必ずしも霊的なインスピレーションではなく、長年の経験から生まれたものであろう。

【Q25】

化の極致において神と合一したとき、われわれは個性を失ってしまうのでしょうか?

 進化の極致は涅槃(ニルバーナ)に到達することではありません。霊的進化は、個性の無限の開発へ向けての歩みです。個性が薄らいでいくのではなく、逆に鮮烈になっていくのです。潜在能力が開発され、より多くの知識を身につけ、性格が強化され、神性がますます発揮されていきます。大霊は無限の存在ですから、開発は無限に続きます。完全というものは達成されません。完全へ向けての無限の努力が続くのです。自分を失うことは永遠にありません。逆に、永遠に自分を発見していくのです。

【Q26】

その極致を言語で説明することはできませんか?

 できません。なぜなら、そこは言語を超越した境地であり、階層だからです。意識と直覚だけの次元で成り立っている世界であり、そこへ到達してみないと理解できません。大いなる意識の海に、個性を埋没してしまうのではありません。大海の深淵が、あなたの個性のなかに包み込まれていくのです。

【Q27】

地上で孤独な人生を強いられた人は、死後も孤独な人生を送ることになるのでしょうか?

 いえ、いえ、そんなことはありません。摂理は常に完璧です。魂は地上生活の試練の報奨をみずから受け、怠惰をみずから罰するのです。愛と情愛で結ばれた者たちは死後、必ず再会します。魂が自然に引きあうのです。

【Q28】

死後低級界へおもむく者は、どんな状態におかれるのでしょうか?睡眠中に訪れた階層(多分低級界だと思うのですが)での体験が役に立つのでしょうか?

 低級界へおもむくような人間が、睡眠中に訪れる階層はやはり低級界ですから、その間の記憶は役に立ちません。環境が地上界とそっくりですから…。

【Q29】

物質化現象は、心霊現象としては高級でしょうか、低級でしょうか?

 一つの魂にしたがって幸せをもたらす者、あるいは霊的摂理の知識を授けるきっかけとなるものは、どんなものでも役に立ったことになります。高級とか低級とかの判定を下してはいけません。それを必要としている人の役に立ったか否かで評価すべきです。

【Q30】

心霊現象は、霊媒が霊的に向上するにしたがって質がよくなるのでしょうか?

 生活の質が高まるほど、その霊媒による現象の質が高まるのが常です。自分を役立てるためなら、喜んで自分を犠牲にする覚悟ができていない人間からは、価値あるものは生まれません。私たちはみな、そのことを学ぶために地上へ戻ってくるのではないでしょうか?

【Q31】

現代になって、物理現象が見られなくなったのは、なぜでしょうか?

 それは物理的進化の法則だけでなく、霊的進化の法則もあるからです。地上界におけるものの考え方の風潮が変わったのです。物理現象は、霊的実在を物理的に証明しなければ承知してくれない時代には必要でした。当時の科学者は、自分の専門の範疇になじまないものは受け入れる準備ができていなかったのです。

 現代の地上人類は、核分裂によって生じる「功」と「罪」の双方を体験しています。唯物主義の基盤が完全に崩れてしまいました。これ以上分解できないと思っていた原子が、どんどん分解されていって、物理学者も物質が個体ではないこと、実在は不可視の世界にあることを受け入れるようになりました。

 そうしたものの考え方の変化に呼応して、霊的治療が発達し普及しています。条件がそろったときは、物理的な医療に勝るエネルギーの存在を見せつけます。

【Q32】

花や植物にも意識があるのでしょうか?

 あなた方が考える意識とは異なりますが、人間のバイブレーションとは次元の異なるバイブレーションに反応します。偶然の体験でその秘密を知り、それを応用して花や野菜や植物の栽培で成功している人が大勢います。

【Q33】

「精神一到何事か成らざらん」の気概でのぞめば、何でもかなえられますか?

 その質問には、条件つきでないとお答えできません。望むものが何でもかなえられるわけがないからです。人間にできることには、自然法則によって一定の制約があります。もしなかったら、地球を含む宇宙全体が基盤としている大原則を、破壊したり止めたりすることができることになります。

ことわざの主旨に反対しているわけではありません。ただ、ほしいものが何でもかなえられるかに受けとるのは愚かです。極端な例ですが、太陽がほしいと思っても手に入るわけがありません。

【Q34】

道徳・不道徳は、何を基準に判断すべきでしょうか?

 あなた方地上の人間から見て道徳的に思えることが、私たち霊界の者にはきわめて不道徳に思えることがあります。生命観の違いが、その違いを生むのです。私に言わせれば、道徳的であるということは、自分が悟った最高の原理に照らして行動しているという理念を信念として生きることです。それは、たとえば人にやさしくするということであり、人の役に立つということであり、哀れみの心を忘れないということです。

 またそれは、いかなる意味においても人を傷つけないということであり、人の進歩を妨げないということであり、自分の理想としている真理に忠実でなかったと、後になって恥じ入るような振る舞いをしないということです。

 以上が、私が理解している道徳性、私だったらこう説くと思う道徳観です。地上界の道徳性が高いか低いかは、あなた方人間がそれをどう解釈するかによります。本質的に、経済的に、霊的に見て向上している面もありますが、遅れている面もあります。進化というのは一直線に進むものではないのです。

【Q35】

核エネルギーは、善でしょうか悪でしょうか?

 私は、核エネルギーそのものを悪だとは見ていません。その使用法によっては悪になりうるものを秘めていることは事実ですが、同時に莫大な恩恵をもたらすものを秘めています。それは、それを管理する者の判断にかかっているということです。

【Q36】

すべての道は神に通じる、つまり同じ場所に行き着くのでしょうか?

 同じ「場所」という用語が問題です。私だったら、すべての道は創造の大始原としての神に通じる、と表現します。

 あなた方の言う「神」、私の言う「大霊」は無限の存在です。となれば、完全なる愛と英知そのものである大霊へ通じる道は、無限に存在することになります。

 大霊は生命であり、生命は霊です。生命を授かったものはすべて、誕生の宿命的遺産の一部として神性を秘めています。そして、地球という惑星で生を営む存在はすべて、永遠の巡礼の旅を歩んでいるのであり、それは究極においては大霊という一つのゴールへ向かっているのです。

 どういう道を歩むかは問いません。巡礼者が正直な目的意識をもち、真摯に自己実現を求め、授かった資質を発揮して、あなたという存在がいたことで地球が少しでも豊かになったと言われるような人生を生きることです。

【Q37】

霊界にもプライバシーはあるのでしょうか?

 ありません。何一つ隠すことができません。すべてが知れるのです。ということは、何一つ恥じることがないということでもあります。地上界では騙すこともできますし、裏切ることもできます。姓名を変えることも法的に可能です。しかし、個性を変えることはできません。

【Q38】

霊界側がスピリチュアリズムを広めようとしておられるのであれば、なぜマスコミなどを通じて宣伝活動をなさらないのでしょうか?

 おやおや、これは驚きました。あなたはおわかりになっていないようですね。知識が広まるのは結構なことであるに決まっています。ですが、宣伝という手段を用いることにどれほどの価値があるのでしょう?魂の琴線にふれるということがどういうことかを、あなたはご存じないようです。霊界側では霊界側なりの手段を用意しています。計画はできているのです。あとは、地上界のみなさんの協力なのです。

 といって、私たちは魔法の杖を振るわけではありません。神秘的な処方箋があるわけではありません。私たちがすることは、宇宙の霊的摂理を啓示することだけです。その摂理と出会った人の魂が感動を覚え、自分も大霊の一部であり、したがって、自分を通じて大霊が働くこともあるということを理解していただくことです。それがいわば、霊界側の宣伝活動であり、これは今後とも決してやめることはありません。ブームという一時的な大騒ぎによってではなく、魂と心情に訴える、つまり本来の自分である霊的自我に訴えることによって、ゆっくりと着実に広めてまいります。

【Q39】

予知夢は、霊界から「送り届けられる」のでしょうか?

 そういう場合もあります。背後霊が危険を察知して送り届けるのです。が、本人自身が肉体の束縛から解き放たれている間に未来の出来事を察知して、夢のかたちでもち帰る場合もあります。

【Q40】

有色人種と白人との結婚は好ましくないことでしょうか?

 私も有色人種です。これ以上申しあげる必要があるでしょうか?地上では色素、つまり肌の色で人間の優劣が決まるかに考えがちですが、これは断じて間違いです。

 人のために自分を役立てたその仕事の価値が高い人ほど、優秀なのです。それ以外に基準はありません。肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は、魂の程度を反映するものではありません。地上世界では、とかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち、霊性です。

 すべての民族、あらゆる民族、あらゆる肌色の人間が大霊の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっています。

 大自然の見事なわざをご覧なさい。広大な花園に無数の色彩をした花々が咲き乱れていても、ひとかけらの不調和も不自然さも見られません。すべての肌色の人間が融合しあったとき、そこに完璧な人種が生まれます。

【Q41】

宗教とは何でしょうか?

 宗教とは、同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。本来の宗教は、地上の世俗的概念とはほとんど関係ありません。人間の魂に内在する神性を、地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と大霊とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを強化するものでなければなりません。

自分一人の世界に閉じこもらずに、広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは、人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることが、すなわち宗教です。

 それ以外のこと(教義とか儀式など)は、どうでもよろしい。肉体が朽ちてしまえば、それまで後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが、空虚で無価値で無意味で無目的であったことを知ります。

魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は、自分を役立てることによってのみ促進されるのです。他人のために自分を忘れているうちに、大きさと強さを増すのです。

 これまで地上には、あまりに長い間、あまりに多くの宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いてきました。しかし、その宗教が最も大事にしてきたものは、実質的には何の価値もありません。過去において流血・虐待・手足の切断・火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義や信条への忠誠心は、人間の霊性を一センチたりとも増していません。

 それどころか、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、さらには家族間にも無用の対立関係を生みました。論争のタネともなっています。分裂と不和を助長することばかりを行なってきました。大霊の子らと一つに結びつけることに失敗しています。私が宗教的建造物や組織としての宗教に関心がないのは、そのためです。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは、日常の行ないです。

【Q42】

青少年の宗教教育は、どうあるべきでしょう?

 そもそも教育とは何かといえば、住んでいる世界の価値ある住民となるために必要な知識を授けることです。宇宙の自然法則を教える必要があります。授かっている才能を知らしめる必要があります。それを開発することが、自分のみならず、社会全体への貢献につながるからです。

 さて、お尋ねの宗教教育の問題ですが、若い魂がこれから始まる人生の闘争に堂々と立ち向かい打ち克っていくための備えとして、最も重大な役割を果たすものです。青少年もすべて大霊の一部であり、本質的には霊的存在ですから、「自由」がもたらすあらゆる恩恵のなかで生きていくべく意図されているのです。

その魂を幼いうちから小さな枠に押し込めてしまうということは、自由という、霊的存在としての基本的権利を否定することになります。鎖につなぐことであり、霊的奴隷にしてしまうことです。

 自由であるということが、教育の最も大切な点です。私の考えでは、宗教の真のあり方について学んだ子どもは、自由のなかで成長します。宗教を教える者が、私的な魂胆に基づいた指導をして、古い神話や寓話を詰め込むようなことをすれば、それは子どもの精神の泉を汚すことになります。もしも知性が十分に発達していれば反発を覚えるはずの間違った教義を、判断力のない幼い時期から教え込むことは、宗教にとって、教育にとって、そして何よりも子ども自身にとって不幸なことです。

 そうした不自然な教育は、必ず反動を生みます。抵抗する術を知らない年齢で間違った指導をされた魂は、いずれそうした教育に背を向けます。若い芽は、真っ直ぐに伸びるように意図されています。その芽に間違った水を与えれば、霊的存在の根そのものを傷めることになり、成長が阻害されます。


【Q43】

もう一度やり直すチャンスは、だれにでも与えられているのでしょうか?

 もちろんです。やり直すチャンスが与えられないとしたら、宇宙は愛と公正によって支配されていないことになります。もしも地上人生の物語が墓場で一巻の終わりになるとしたら、地上世界は矛盾だらけで、せっかく送った人生への報奨も罰も与えられない人が無数にいることになります。

 地上界の人間にお届けしようと、私たちが奮闘している知識のなかでも最高に輝いているのは、墓場で人生が終わるのではないこと、苦難の生涯を送った人や挫折の人生に終わった人にも、埋め合わせとやり直しのチャンスが与えられ、地上界のために貢献しながら逆賊の汚名を着せられた人にも、悔し涙をぬぐうチャンスが与えられるという知識です。

 生命は、死後にも続くのです。続くからこそ、内部の資質(地上での発現を妨げられた資質)を改めて発現させるチャンスが与えられますし、逆に、愚かにも地上で威張り散らし、自然の摂理も逃れられるのだと思い込んでいた者は、その誤りを矯正するための試練を体験しなければなりません。

 そうした事実を知って、少しもおそれを抱く必要はありません。他人を思いやり、慎み深い生活を送っている人は、何一つ怖がることはありません。怖がるべきは、利己的な人生を送っている人たちです。

【Q44】

こうした交霊会を開くに当たっては、前もって準備をなさることがあるのでしょうか?

 あります。不純な影響力を排除しなければなりません。私たちの霊団のオーラと、あなた方地上のメンバーのオーラとの融合を図らねばなりません。最高の成果が得られるように、あらゆる要素を点検しないといけません。

 その目的に向かって、高度な組織体制で交霊会にのぞみます。

【Q45】

交霊会を台無しにしようとして侵入する邪霊を、排除する手段も講じるのでしょうか?

 もちろんです。そのかなめとなるのは、地上のメンバーのすべてが、愛の心に満たされることです。そうすれば、愛に満たされた霊しか近づきません。

【Q46】

霊的知識の程度は受け入れ能力によって決まるそうですが、そうなると、霊的に受け入れ準備のできていない人間には、霊媒を通して「証拠」を提供するのが賢明ということになるのでしょうか?

 証拠を手にすることと魂の成長とは、何の関係もありません。受け入れる能力によって決まるという意味は、真理を理解するために霊界のどの次元まで入り込めるかで決まるという意味です。いい換えれば、その人の魂の発達程度によるということであって、そのことと証拠を手にするということとを混同してはなりません。両者は必ずしも連携しません。生命が死後も続くという証拠を十分に手にしていながら、その魂の霊性がまったく開発されていない人がいるものです。

【Q47】

霊の僕として働く者は、安楽な生活を期待してはならないというのは事実でしょうか?

 地上に霊的真理を根づかせる仕事にたずさわっている人はみな、なまやさしい道ではないことを実感しているに相違ありません。もしも楽に達成されるものであれば、たいした価値はないことになりましょう。霊的報奨は、刻苦勉励の末に得られるものです。が、いったん手にしたら、決して失われることはありません。

【Q48】

スピリチュアリズムの第一線で活躍している人が、とかく世俗的なことで挫折することが多いのはなぜでしょうか?

 霊の僕として活動する者は、とことんしごかれ、試されなければならないからです。霊の大軍の兵士であらんと志す者は、襲いかかるいかなる困難にも耐え、障害をものともせず、すべての難題に挑むだけの強靭さがなくてはなりません。

最初の困難の一撃であっさりと怖じけづくような兵士で何の役に立ちましょう?大いなる貢献をする者は、清めの業火でしごかれ、試されなければなりません。それを潜り抜けてはじめて、鋼鉄のごとき強靭さとがまん強さが身につくのです。

 世間の目に挫折として映るものは、実は霊界で用意した試練なのです。使命を帯びて生まれてきた者が、安楽な生活に甘んじ、何の試練もストレスも嵐も困難も体験しないようでは、期待していた性格は築かれず、待ち受ける仕事を完遂するだけの力は発揮できないでしょう。

【Q49】

世間から隔絶し、孤独のなかで瞑想にふける隠遁者によって、何かよいものが成就されるものでしょうか?

 その「よいもの」というのが、何を意味するのかによって返答が違ってきます。世俗の喧騒から逃れるということは、霊的なものを発現させるうえでは好条件であるかもしれません。その意味ではよいことかもしれませんが、私にいわせれば、世俗のなかにいてなお世俗にまみれず、奮闘と努力と修行によって自己開発して、大霊から授かった資質によって社会に貢献するほうがよほど立派です。

【Q50】

心霊的(サイキック)と霊的(スピリチュアル)とを使い分けておられますが、どう違うのでしょうか?同じものでしょうか?

 よく似ていますが、まったく同じではありません。いわゆる超能力はすべて「サイキック」(注)なものですが、これに霊界の存在が働きかけて(この交霊会のように)高等な目的のために活用するようになると「スピリチュアル」なものになります。

超能力はみな、霊的身体から出ているのですが、それが発達して高等な霊的エネルギーと融合するようになると「霊的能力」となります。

 訳注──人間をはじめとして動物や鳥類、魚類には、先天的にサイキックな能力がそなわっている。渡り鳥の習性や、サケが生まれた川へ戻ってくる感覚が不思議がられているが、これもサイキックな能力で、動物がもっとも鋭い。

かつては人間が最も鋭かったのであるが、知性の発達による文明化によって、そういう能力、いわゆる第六感が不必要となって退化したといわれている。

 ユリ・ゲラー以来、超能力がもてはやされているが、物理的な解釈のつかないものはすべて、サイキックなものと考えてよいであろう。次元的には物質のレベルに近く、それなりの次元での法則が働いているのであって、決して摩訶不思議なものではない。

ただ「そんなことができて、だからどうだというの?」と聞かれて返答のしようがないところに、サイキックの次元の悲しさがある。

【Q51】

霊界でも過ちを犯すことがあるのでしょうか?

 あります。死の直後の世界は地上と非常によく似ていて、住んでいる者も、地上の平均的な発達程度の者です。天使でもなければ悪魔でもありません。ごく平凡で、高級霊でもなく低級霊でもありません。ですから、判断の誤り、英知の欠如から過ちを犯します。妬みや憎しみ、我欲などから判断を誤ります。要するに未熟なのです。

【Q52】

霊界が地上界の写しのようなものだとすると、スラムやひどい労働環境のようなみにくい側面も再現されているのでしょうか?

 死の直後の世界でも、低い階層にはそういうものが再現されています。それ以外の環境での生活を知らない未熟な霊にとっては、それが似合いの環境だからです。もちろん、実在の世界ではなく、そこに住む者の精神的発達程度の反映にすぎません。

 「なぜこんなむさ苦しいところで、生活しなきゃならんのだ」と反発を覚えるようになったその瞬間に、その環境から脱け出ます。いつまでも居残るのは、思考力が乏しくて、それ以外の環境が思いつかない者、そして次に、まだ霊性に向上する意欲がめばえていない者、この二種類です。

 忘れてならないのは、そうした環境の存在も、霊的生命の発達上の急激な変化に面食らわないようにとの、大自然の配剤の一環だということです。もしそうした似合いの環境がなければ、新しい環境が与えるショックは精神を混乱させるほど大きなものとなるでしょう。

【Q53】

昨今のスピリチュアリズムの動向をどう見ておられますか?

 潮に満ち潮と引き潮があるように、ものごとには活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気呵成に進めるわけにはいきません。表面的にはスピリチュアリズムも、かなりの進歩を遂げ、(キリスト教界との論争などで)大きな勝利を収めたように見えますが、霊的真理についてまったく無知な人が多過ぎます。

何度も言ってきましたように、スピリチュアリズムというのは単なる名称に過ぎません。

 私にとってそれは大自然の法則、大霊の摂理を意味します。私の使命は、その知識を広めることによって、少しでも無知をなくすことです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるのであれば、一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を送りたいと思います。

 大霊の計画は、きっと成就します。私が得ている啓示によっても、それは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっています。ときには潮が引いたように活動のめだたない時期があるでしょう。そうかと思うと、ブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのがいやになる人もいるでしょう。しかし、それは大霊の全体から見れば、部分的現象にすぎません。

 この計画のなかでも、特に力を入れているのが霊的治療です。世界各地で起きている奇跡的治療は、計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治療の原因が霊力にあることを知らしめるように、霊界から意図的に行なっていることです。

 私は、真理の普及に関して決して悲観的になることはありません。常に楽観的です。というのも、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私は、これまでの成果に満足しています。

 地上の無知な人々が、われわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻止することはできません。ここが大切な点です。遠大な大霊の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医学者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展とともに、霊的真理が普及していくのをストップさせる力は、彼らにはないのです。

【Q54】

スピリチュアリズムは組織的信仰としてよりも、これまでと同じように影響力として伸びていくほうがよいのでしょうか?

 スピリチュアリズムを信仰とするご意見には賛成できません。知識です。あなた方には風の向きを変えることができないように、知識の発展ないしは普及をコントロールすることはできません。真理は、自然の営みで花開いていくのです。あなた方の力で開かせることはできないのです。あなた方にできることは、一人でも多くの人々が、その真理を手に入れることができるように、あなた方みずからが、その提供の手段となることだけです。

 ですから、その知識がどういう影響を及ぼすかは、あなた方には査定できません。普及していく通路を、前もって規制することもできません。

 あなた方にできるのは、自分の責務に忠実であること、自分の判断力に照らして業務を遂行すること、どこにいても人のために自分を役立てること、自分が入手したものは人にも譲り渡すこと、そしてあなた方の存在がかもし出す霊の芳香を漂わせることです。それが発酵素の役割を果たします。それが人間界のあらゆる活動分野に浸透し、吸収されていきます。あなた方のお一人お一人が自分でベストだと信じることに精を出し、きっと役に立つと信じる方法で、霊的真理を広めていくことです。

【Q55】

私たちも内部に大きな問題を抱えています。力を発揮するためには団結する必要があるのですが、今のところ、それができていません。この問題を解決するための方策を考えているのですが、何かコメントをいただけませんでしょうか?

 団結は容易に達成されるものではありません。号令をかけて団結させるわけにはいきません。理解力の発達とともに、徐々に成長して達成されるものです。

 問題は、人類は知性・道義心・霊性において、一人として同じレベルの者はいないということです。一つの共通の基準というものがないのです。あなた方の組織内においても、会員の一人ひとりが異なった進化の段階にあるという単純な事実から生じる衝突が少なくありません。

 霊的な悟りというのは、霊性が進化してはじめて得られるものです。高級霊との一体化によって得た悟りは、あなたにとっては明々白々であっても、その段階まで到達していない人とは分かちあうことができないのです。したがって、あなたは、今のあなたにとって可能な手段によって、あなた一人の判断で最大限の貢献をする以外にありません。

 実は、私たちも常に同じ問題に直面しているのです。私たちは、地上の人間の協力を得なければならないのですが、なかにはこちらの要求する基準に満たない者がいます。でも、それで最善を尽くすしかありません。それでも、光明が少しずつ広がっていきつつあることに気づかれるはずです。

 大切なことは、このサークルのような集会を催すと、さまざまな伝統と環境をもち、異なった言語や慣習をもったさまざまな国の人々が顔をあわせることになり、お互いに学びあうことができるということです。たとえば、自分たちの国が遅れていることを思い知らされることがあれば、それがよい刺激となります。

 案ずることはありません。最善を尽くすことです。これ以上は力が及ばないと思えば、むきにならずに、私たちに任せることです。人間は、最善を尽くすことが求められているのであって、それ以上を求められることはありません。

【Q56】

霊界は一つでしょうか?

 そうです。たった一つあるだけですが、無限の表現形態があるということです。地上界はもとよりのこと、他の惑星上の生命もそのなかに含まれています。それぞれに霊的階層が存在するからです。

【Q57】

死後の世界についての通信がまちまちなのは、なぜでしょうか?

 忘れてならないのは、私たちは無限の世界に住んでいること、したがってそこで生活する者が体験することには無限のバラエティーがあるということです。死後の世界には無限の次元があり、同じくこの場に存在する者でも、それぞれに違った体験があるということになります。

 かりに、今あなたが霊界のだれかと対話をするとします。その男性または女性の霊があなたに語って聞かせる内容は、その霊がその時点までに体験したことに限られます。その後、その霊が一段と高い階層へ向上すれば、前に語ったことを撤回せざるを得ないような体験をすることでしょう。

 ですから、どういう内容の通信が地上界へ届けられるかは、その通信霊の進化の程度次第ということになります。地上の波動に近い階層の霊ほど、これから向上していくことになっている階層に関する表現能力が限られていることになります。

 私からのアドバイスは、いつもと同じです。霊界からの通信は(うのみにせずに)理性をもって検討しなさいということです。「おかしい。これは納得できない」と思ったら、躊躇なく拒絶することです。私も含めて霊界からの通信者も、絶対に間違いを犯さないということはあり得ないのです。まだまだ完全の域に到達していないからです。完全に至るには、永遠の時を要します。それは、何度もいっていますように、終わりのない過程なのです。

【Q58】

「時間」は人工的なものでしょうか?

 人工的というよりは、無数の次元があるということです。人工的なのは時間の計り方です。「時間」そのものは実在です。存在します。「空間」も存在します。ただ、その計り方が正確でないのです。人間が時空を見る焦点距離に限りがあるからです。他の要素に関する知識が増えていけば、焦点距離がそれだけ真実に近づき、鮮明度を増します。

【Q59】

こちらから送る思念はすべて、他界した霊に伝わっているのでしょうか?

 単純に「イエス」とも「ノー」とも答えられません。相手の霊的進化の程度によって違ってくるからです。もしも精神的・霊的に地上の人間と同じレベルのままであれば、その思念は届くでしょう。が、その後の進化が著しくて、はるか上層界へ向上していれば次元が異なりますから、その思念は届かないでしょう。

【Q60】

動物の肉を食べたことで、他界してから罰せられるでしょうか?

 大霊のか弱い創造物を殺して食べることが間違っていることを確信する段階まで進化した人は、いけないことと知りながら犯した行為に対する報いを受けます。

 その段階まで達していない人であれば、いけないことという自覚が魂に芽生えていないのですから、罰を受けることはありません。知識には必ず代価を払わされます。その代価が義務というわけです。

【Q61】

人類のすべてが肉食をやめて菜食にすれば、より幸せな世のなかになるでしょうか?

 ご質問に対する答えは「イエス」であることを断言します。いろいろな点から見て、肉食は好ましくありません。身体的・精神的・霊的視点から見て、そう断言します。道義的問題だけでなく、健康上の問題も含まれます。そして何よりも、霊的観点から私は、人類の進化に伴って、いつかは人類の大半が、ますます菜食主義になっていくであろうことを断言します。

           

 第10章 神──大霊とは

【Q1】

神とは何でしょうか?

 神とはこういうものですと、ひとまとめにしてお見せすることはできません。無限なる存在だからです。いかなる言語も概念も説明図も有限です。小なるものが大なるものを包含することはできません。ただ、宇宙をご覧になれば私のいう大霊がいかなるものかが、いくらかはおわかりになるでしょう。

あくまで自然法則(注)によって規制され、千変万化の現象のすみずみに至るまで配剤が行き届いています。極微の世界から荘厳をきわめた極大の世界に至るまで、生を営み運動し呼吸するもの、要するに宇宙に存在するものすべてが、大自然の法則によってコントロールされています。

法則の支配を受けないものは何一つ存在しません。季節は一つ一つ順を追ってめぐり、地球は地軸に乗って回転し潮は満ち引きを繰り返します。どんな種をまいても芽を出すのは内部にあったものです。本性が出るのです。

法則は絶対です。新しい発見も、いかなるものであろうと、どこで行なわれようと、同じ法則によってコントロールされています。何一つ忘れ去られることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることもありません。

 その法則として働いているものは一体何か?無限なる存在です。旧約聖書に出てくる巨人のような人間ではありません。復讐心に満ち、機嫌を損ねると地上に疫病をまき散らすような、そんな気まぐれで憤怒に燃えた神ではありません。歴史と進化のあとをたどれば、人類社会は未開から徐々に向上進化しており、その背後で働いている力が慈愛を志向する性質のものであることがわかります。ですから、すべてを支配し、すべてを治め、すべてを監督し、しかもすべてのなかに存在する無限なる愛と英知は、みなさんが霊性の進化に伴って徐々に悟っていくものです。それを私は「大霊」と呼んでいるのです。

 訳注──「法則」と訳したのは原語では「laws」となっている。最初に出ている「自然法則」は「natural laws」であるが、この用語には「物理的法則」の感じが強い。シルバーバーチが「laws」というときは倫理・道徳でいう「摂理」も含まれているので、その色彩が強いときは「摂理」を用いることにしている。ときには「摂理・法則」と訳すこともある。「man’s laws」となれば「人間が定めた法律」となる。

【Q2】

大霊はいずこにも存在する──私たち人間のすべてにも宿っているとおっしゃるのでしょうか?

 (顕幽にまたがる)全創造物として顕現している大霊の総和とは別個の大霊というものは存在しません。

 人間的存在としての神は、人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火炎もうもうたる地獄も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。そうしたものは限られた視野しかもたない人間の想像的産物に過ぎません。大霊は法則なのです。されさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

 なぜなら、すべてが不変にして不滅、完璧にして全能の法則によって治められていることを悟れば、完全無欠の公正が間違いなく存在し、宇宙の創造的活動の大機構のなかにあって、だれ一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

【Q3】

大霊とはだれなのでしょうか、あるいは何なのでしょうか?愛の精神ないしは愛の情感でしょうか?

 大霊とは宇宙の自然法則のことです。顕幽にまたがる全生命の背後の創造力です。完全なる愛であり、完全なる英知です。大霊は全宇宙に瀰漫しています。あなた方がご存知のその小さな物的宇宙だけでなく、まだご覧になっていない宇宙にも瀰漫しています。

 大霊はすべての生命に充満しています。あらゆる存在の内部に息づいています。あらゆる法則、あらゆる摂理にも大霊が宿っています。生命であり、愛であり、すべてです。創造された私たちに、どうして創造者が叙述できましょう。無限の壮大さをもつものを、お粗末な概念しか描けない私たちにどうして叙述できましょう。

【Q4】

人類の歴史を通じて大霊が、個としての霊を通してではなく直接語りかけたことがありますか?

 大霊は人物ではありません。神々しい個的存在ではありません。個的存在を超えたものです。摂理と愛と英知と真理の究極的権化です。大霊はこの広大無辺の宇宙で絶えまなく作用している無限の知性です。

【Q5】

その大霊を幼い子どもに、どう説いて聞かせたらよいでしょうか?

 説く人みずからが、全生命の背後で働いている力について明確な認識をもっていれば、それは別にむずかしいことではありません。

 私だったら、大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのような夜空の星に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝きと名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。ささやきかけるようなそよ風、それになびいて揺れる松の林に目を向けさせます。さらさらと流れるせせらぎと怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的をもち、法則によって支配されていることを指摘します。

 そしてさらに、人間がこれまで自然界で発見したものはすべて、法則の枠内に収まること、自然界の生成発展も法則によって規制されていること、その全体に広大にして複雑な、それでいて調和のとれた一つのパターンがあること、全大宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も嵐もそよ風も、その他ありとあらゆる生命活動が、いかに複雑をきわめていても、その秩序によって経綸されていることを説いて聞かせます。

 そう説いてから私は、その背後の力、すべてを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙の全パノラマと、まだ人間に知られていない見えざる世界までも支配している霊妙な力、それを大霊と呼ぶのだと結びます。

【Q6】

あなたは大霊はすべてのものに宿る──全存在の根源であるから愛にも憎しみにも英知にも不道徳にも宿っているとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す人間も正しいことをする人間と同じように、大霊の摂理のなかで行動していることになります。愛と平和を説く者と同様に、憎悪と戦争を説く者も、摂理のなかで行動していることになります。すべてが大霊の摂理の一部である以上、その摂理に違反する者はいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか?

 完全が存在する一方には、不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しています。完全も、不完全から生まれるのです。完全は、完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪も、その進化の工程における途中の階梯に過ぎません。終わりではありません。

 あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だといっているに過ぎません。それはあなただけに通用する考えです。あなたと何の関わりもなければ、また別の判断をなさるでしょう。いずれにせよ、大霊は全存在に宿っています。

【Q7】

では、大霊は、地震にも責任を負うのでしょうか?

 大霊は法則です。万物を支配する摂理です。宇宙のどこにもその支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻──こうしたものが地上の人間の頭脳を悩ませているのは承知しています。しかし、それらもみな、宇宙間の現象の一部です。宇宙も進化しているのです。そこで生活を営む生命が進化しているのと同じです。

 物質の世界は完全からはほど遠い存在です。しかもその完全は、いつまでたっても達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものです。

【Q8】

ということは、大霊も進化しているということでしょうか?

 そうではありません。大霊は法則であり、その法則は完璧にできあがっています。が、物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。地球も進化していることを忘れてはいけません。地震や嵐や稲妻はその進化のあらわれです。地球は火焔と嵐のなかで誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、たのしい小鳥のさえずりは大霊のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は、大霊とは関係ないというものではありません。そうしたものもすべて、大霊の絶対的法則によって営まれているのです。

 同じように、あなた方は、堕落した人間や他人に害を及ぼすような人間を、大霊はなんとかしてくれないのかとおっしゃいます。しかし、人間一人ひとりは、自由意志が与えられており、霊性の進化とともにその正しい活用法を身につけていきます。霊的進化の階梯を上がるにつれて、それだけ多くの自由意志が行使できるようになります。言い換えれば、現在のあなたの霊格があなたの限界ということになります。

 しかし、あなたも大霊の一部である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服することができます。霊は物質に勝ります。霊が王様で、物質は召使いです。霊がすべてに君臨しています。全生命のエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊なのです。

【Q9】

大霊は、自分が創造した宇宙とは別個の存在なのでしょうか?

 そうではありません。宇宙は大霊の反映そのものです。つまり、大霊が宇宙組織となって顕現しているのです。

 ハエに人間界のことが理解できるでしょうか?魚が鳥の生活を理解できるでしょうか?犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか?星が虚空を理解できるでしょうか?すべての存在を超えた大霊を、あなた方人間が理解できるはずはありません。

 しかし、あなた方も魂を開発することによって、一言も語らずとも、魂の静寂のなかにあって大霊と直接の交わりをもつことができるのです。そのときは、大霊とあなたとが一つであることを悟ります。それは言葉では言い表わせない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂のなかにおいてのみ、味わえるのです。

【Q10】

魂が意識をそなえた個的存在となるには、物質の世界との接触が必要なのでしょうか?

 そうです。意識を獲得するためには、物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。「物(matter)」から「霊(spirit)」へと進化していくのです。つまり、物的身体との結合によって、物的人物像を通して自我を表現することが可能となります。「霊」は「物」に宿ることによって自我を意識するようになるのです。

【Q11】

となると、大霊は、われわれ人間を通して体験を得ているということでしょうか?

 そうではありません。あなた方の進化が、すでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。

【Q12】

でも、われわれは大霊を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか?

 それは、あなた方を通じて顕現している部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体は、もともと完全です。

宇宙を構成している根源的要素です。生命の息吹です。それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。

あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されます。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。あなた方自身であるところの霊が顕現する媒体(注)を発達させているのです。

 訳注──これはQ10の回答との関連において理解しなければならない。原語で「bodies」となっているところから、シルバーバーチが「物(matter)」を地上の物質だけに限っていないことがわかる。幽体も霊体も、厳密な意味では「物的身体」である。

【Q13】

霊が自我を表現する媒体も、さまざまな形態の「物」でできているということでしょうか?

 そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、したがって完全な法則があなた方を通して働けないから、あなた方を通して顕現している法則が完全でないということになります。あなた方が完全へ近づくほど、より多く完全な法則があなた方を通して顕現するようになります。

 こう考えてください。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨けば磨くほど、より多くの光を反射するようになります。要するに、すべての存在がよりいっそうの顕現を求めて、絶えまえまなく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申しあげたつもりです。原石はいらない、宝石だけがほしい、という虫のいい話は許されません。

【Q14】

でも、人間一人ひとりに、善いものと悪いものの概念があるのではないでしょうか?

 それは、その時点での話です。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すれば、その概念は捨て去られます。あるべき道から逸脱してしまった人間を通して完全な摂理・法則が顕現しようとして生じた、不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申しあげるのは、そこに理由があります。

【Q15】

それでは、大霊は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか?

 私は、原初のことは何も知りません。終末のことも何一つ知りません。知っているのは、大霊は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。大霊の法則は完璧なかたちで機能しています。(今のたとえで言えば)あなたは完全な光をおもちです。

 ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを「光は不完全だ。光は悪だ」とは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上界で「悪」と呼んでいるものは、不完全な段階で大霊を表現している〝不完全さ〟を意味しているに過ぎません。

                       
第11章 大自然の摂理 
【Q1】

宇宙の全生命を統率している摂理について説明していただけませんか?

 私たち(注1)は、大霊の定めた永遠不変の自然法則を第一義として、これに敬虔なる忠誠とまごころを捧げます。絶対にしくじることのない摂理、絶対に誤ることのない法則、身分の上下に関係なく、すべての存在にわけへだてなく配剤されている英知だからです。

 だれ一人として無視されることはありません。だれ一人として見落とされることはありません。だれ一人として忘れ去られることはありません。だれ一人として孤立無援ということはありません。大霊の摂理・法則が行き届かなかったり、その枠からはずれたりする者は一人もいないのです。この宇宙に存在するという、その事実そのものが、大霊の法則が働いたことの証しなのです。

 人間がこしらえる法律は、そのまま適用できないことがあります。書き換えられることがあります。成長と発展が人間の視野を広め、知識が無知を駆逐し、情況の変化が新たな法律を必要とすることになれば、古い法律は破棄されたり改められたりします。しかし、大霊が定めた摂理は、新たに書き加えられることがありませんし、〝改訂版〟を出す必要もありません。修正されることもありません。今働いている摂理はすべて、無限の過去から働いてきたものであり、これからもそのまま永遠に働き続けます。不変にして不滅です。

 ここで、根源的摂理である因果律について、霊言集の各所で述べているものを集めて紹介しておきましょう。

 因果律の働きは完璧です。原因があれば数学的正確さをもって結果が生じます。その原因と結果のつながりに寸毫たりとも影響を及ぼす力をもつ者は一人もいません。刈り取る作物はまいた種から生じているのです。人間はみな、地上生活での行ないの結果を魂に刻み込んでおり、それを消し去ることは絶対にできません。その行ないのなかに過ちがあれば、その行為の結果はすでに魂に刻み込まれており、その一つ一つについて、然るべき償いを終えるまでは霊性の進化は得られません。

 因果律は根源的なものであり、基盤であり、変更不能のものです。自分が種をまいたものは自分で刈り取る──これが絶対的摂理なのです。原因があれば、それ相当の結果が数学的正確さをもって生じます。それ以外にはあり得ないのです。かわって、その結果が新たな原因となって結果を生み出し、それがまた原因となる──この因果関係が途切れることなく続くのです。咲く花は、間違いなく、まいた種に宿されていたものです。

 無限の変化に富む大自然の現象は、大きいものも小さいものも、単純なものも複雑なものも、みな因果律にしたがっているのです。だれ一人として、また何一つとして、その因果関係に干渉することはできません。もしも原因に不相応の結果が出ることがあるとすれば、地上界も物的宇宙も、霊的宇宙も大混乱に陥ります。私の言う大霊もあなたの言うゴッドも、創造神も絶対神も、愛と英知の権化でもなく全存在の極致でもなくなります。

 宇宙は、絶対的公正によって支配されています。もしも犯した過ちが、呪文やマントラを口にするだけで消し去ることができるとしたら、摂理が完全でなかったことになります。自然の大原則が簡単に変えられたことになるからです。

 大自然は、人間的な願望におかまいなく、定められたコースをたどります。成就すべき目的があるからであり、それはこれからも変わることはありません。人間も、その大霊の意志と調和した生き方をしている限りは、恵みある結果を手にすることができます。あなたの心の持ち方次第で、大自然は豊かな実りをもたらしてくれるということです。

 善い行ないをすれば、それだけ霊性が増します。利己的な行ないをすれば、それだけ霊性が悪化します。それが自然の摂理であり、これだけはごまかすことができません。死の床にあっていくら懺悔の言葉を述べても、それで悪行がもたらす結果から逃れられるというものではありません。

 どの法則も大法則の一部です。いずれも大霊の計画の推進のためにこしらえられたものですから、全体としての調和を保ちながら働きます。これは、物質界の人間は男性・女性の区別なく、自分が犯した罪は自分の日常生活における苦難のなかで自分で償うしかないこと、それを自分以外のだれかに転嫁できるかに説く誤った教義(注2)は捨て去らなければいけないことを教えています。

 人間は自分自身が、自分の魂の庭師です。英知と優雅さ、美しさといった霊性の豊かさを身につけるうえで必要なものは、すべて大霊が用意してくださっています。道具は全部そろっているのです。あとは各自がそれをいかに賢明に、いかに上手に使うかにかかっています。

 大霊は無限なる存在であり、あなた方はその大霊の一部です。完全な信念をもって摂理に忠実な生活を送れば、大霊の豊かな恵みにあずかることができます。これは地上のだれについても、例外なく言えることです。真理に飢えた人が完全な信念に燃えれば、きっと然るべき回答を得ることでしょう。

 摂理とはそういうものです。何事にも摂理があります。その摂理に忠実であれば、求める結果が得られます。もし得られないとしたら、それはその人の心がけが摂理にかなっていないことの証しでしかありません。歴史書をひもといてごらんなさい。最下層の極貧の出でありながら、正しい心がけで真理を求めて、決して裏切られることのなかった人は少なくありません。求めようとせずに不平をかこつ人を例にあげて、なぜあの人は…といった疑問を抱いてはなりません。

 もう一つの摂理をお教えしましょう。代償を支払わずして、価値あるものを手にすることはできないということです。優れた霊媒現象を手にするには、霊的感性を磨かねばなりません。それが代償です。それをせずに金銭を蓄えることに専念すれば、それにも代償を支払わなければいけなくなります。

 金儲けに目がくらんで本来の使命をおろそかにすれば、この地上では物的な豊かさを手にすることができるかもしれませんが、こちらへ来てから本来の自我がいかに貧しいかを思い知らされます。

 訳注1──シルバーバーチが「私たち(we)」と言うときは、自分を中心とした霊団を指す場合と、シルバーバーチの言う「liberated beings」、つまり「物」による束縛から解放された高級霊を指す場合とがある。ここでは後者である。

 訳注2──改めて指摘するまでもなく〝誤った教義〟は、キリスト教の「贖罪説」のことで、「イエスへの信仰を告白した者」といった条件つきの法則は全体の調和を乱すという意味。

【Q2】

では、悪人が健康で仕事もうまくいき、善人が苦しい思いをしていることがよくあるのはなぜでしょうか?

 自然の摂理を地上界の現実に照らして判断するのは、基準があまりにもお粗末過ぎます。地上人生は途方もなく巨大な宇宙人生のほんの短い一面に過ぎず、個々の生命は死後も永遠に生き続けるのです。

 が、それはそれとして、地上の現実を、今おっしゃったような表面的な実情で判断してよいものでしょうか。心の奥、魂の中枢、精神の内側までのぞき見ることができるものでしょうか。一人ひとりの内的生活、ひそかに抱いている思い、心配、悩み、苦しみ、痛みがわかるものでしょうか。わかるのはほんの一部でしかありません。

 実際は、あらゆる体験が魂に刻み込まれているのです。楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐の体験を通して、霊性は磨かれていくようになっているのです。

【Q3】

人生の教訓が愛と哀れみを身につけることであるのなら、なぜ大自然は肉食動物という、むごい生き物を用意したのでしょうか?

 大自然が悪い見本を用意したかに受け止めるのは間違いです。大自然は大霊の表現です。大霊は完全ですから、大霊の用意した摂理も完璧です。大自然は、その摂理のおもむくままに任せれば、必ずバランスと調和を保つようにできています。

 ですから、人間が大自然と調和した生き方をしていれば、地上世界はパラダイス、いわゆる〝神の王国〟となるはずです。
 
 たしかに、肉食動物はいます。が、それは〝適者生存〟という大自然のおきての一環としての存在であり、大自然の一側面に過ぎません。全体としては「協調・調和」が自然のあるべき姿です。「共存共栄」と言ってもいいでしょう。人間がきちんと手入れをして自然と調和していれば、素晴らしい〝庭〟になるでしょう。

 実は、ほかならぬ人類こそが、地球上の最大の肉食動物なのです。何百万年もの歴史のなかでこれほど破壊的な創造物を私は知りません。

【Q4】

摂理の働き方は、地上界も霊界も同じなのでしょうか?

 いえ、同じではありません。霊界では、ある一定の進化のレベルに達した者が、同じ階層で生活しているからです。ということは、地上のように同じ界に対照的な体験をもつ者がいないということです。全員が同じ霊格に達した者ばかりなのです。未発達な霊が、高級な霊と同じ階層にいるということがないのです。地上では、毎日毎日、さまざまな知的ならびに霊的発達レベルの者と交わります。霊界では、そういうことがないのです。

 もっとも、特殊な使命を帯びて自分の界より低い界へ下りていくことはあります。そういうことでもないかぎり、私たちが出会うのは、霊的に同じ発達レベルの者ばかりです。霊性が向上すれば、それ相応の階層へ向上していきます。そこでも同じ霊格の者ばかりが生活しています。

 とにかく、私たちの世界には、暗黒と光明といった対照的なものは存在しません。影というものが存在しないのです。霊的光明のなかで生きる段階にまで到達した者は、光明とは何かについての理解ができています。そうでなかったら、光明界にはいられないでしょう。その段階にまで到達していない者は、光と闇で織りなされる夢幻の階層から抜け切っていないことを意味します。

 霊性がさらに向上すれば、そういう対象を必要としない理解の仕方が身につきます。実在についての理解力が増し、実相を実相として悟るようになります。

 霊的洞察力が身につけば、たとえば一本の花を見ても、その美しさの内側と外側まで見えるので、地上では理解できない、その花の全体像がわかるようになります。色彩一つをとってみても、地上界にない無限のバリエーションがあります。微妙な色調があり、また肉眼では理解できない、素材そのものに託された霊的な意味もあります。

 私たちの世界は、地球の引力の影響は受けません。夜はなく、常に明るい光に包まれています。霊性が高まるほど、美しさの内奥が顕現されていきます。

 その意味で、私たちの世界は、創造的な世界です。すなわち、そこに住む者が自らの霊力で創造していく世界です。

【Q5】

地上での行為、地上生活中に、因果律が働くのでしょうか?

 そういうこともありますし、そうでないこともあります。因果律は、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。が、必ず成就されます。そういうように宿命づけられているからです。原因と結果とを切り離すことはできません。

 ただ、原因の性質によって、それが結果を生み出すまでの時間的要素に違いがあります。ですから、行為によっては地上生活中に反応が出る場合もあり、出ない場合もあります。が、霊的な余波は機械的に影響を及ぼしています。

 なぜなら、たとえば他人を傷つけた場合、その行為は機械的に行為者の魂に刻み込まれていますから、その罪の深さに応じて行為者自身の魂も傷ついて霊性が弱まっています。その結果が、地上生活中に表面化するか否かはわかりません。そのときの環境条件によって違ってきます。当人の永遠の霊的生命を基準にして配剤されるものです。

 埋め合わせの原理は、自動的に働きます。絶体絶命の窮地にあって援助と導きを叫び求めても、何の働きかけの兆候もないかに思えるときがあることでしょう。が、実は、そんななかにあっても、人のために役立つことができるという事実そのものが、豊かな埋め合わせを受けていることの証しなのです。自分も、だれかのおかげで霊的真実に目覚めたのです。このことは、治療家や霊媒としての仕事にたずさわる人に、特に申しあげたいことです。

 もしも埋め合わせと懲罰の原理がなかったら、大霊の絶対的公正はどうなるのでしょう?罪悪の限りを尽くした者と、聖人君子に列せられるような有徳の人物とが、同等の霊性を身につけることができるでしょうか?もちろん、できません。人のために役立つことをすれば、それだけ霊性が高まります。利己的なことをすれば、それだけ霊性が下がります。

 あなたの霊的宿命をよくするのも悪くするのも、あなた自身です。責任はすべて、あなた自身にあります。もしも死の床で懺悔して、それで生涯で犯した罪がもたらす結果からすっかり逃れることができるとしたら、それはお笑いものであり、悪ふざけです。

【Q6】

若いときに犯した罪の償いを、死んで霊界へ行ってからさせられるということがあるのでしょうか?地上にいる間に償いをさせられることもあるのでしょうか?

 すべては環境条件によって決まることです。自分が犯した罪は自分で償う──これは不変の摂理です。魂に刻み込まれた汚点を完全に消し去るまでは、向上進化は得られません。その過ちがいつなされたか(若いときか、中年か、年老いてからか)は関係ありません。能力のすべてを駆使して償わねばなりません。

 その努力を始めたとき、あるいはそう決意したとき、あなたの魂のなかで過ちを正すための別の側面が動き始めます。摂理の仕組みは、そのように簡単なのです。

 若いときに犯した間違いは、肉体を通して顕現している間のほうが償いやすいでしょう。地上で犯したのですから、地上のほうが償いやすいはずです。償いが遅れるほど修正もむずかしくなり、霊的進化を妨げます。

 大切なのは、自分の過ちを素直に悔いて償いを決意したとき、ふだんから見守っている霊団の者(類魂)が、間髪を入れずに、力添えに馳せ参じるということです。向上進化を志向する努力を、人間界の経綸に当たっている高級霊は、決して無駄に終わらせません。

                   
第12章 霊性の進化 

【Q1】

本人の罪でもなく親の罪でもないのに、子どもが手足や目の障害を抱えて生まれてくるのはなぜでしょうか?

 魂というものを外見だけで判断してはいけません。魂の霊性の進化と、それが地上で使用する身体の進化とを混同してはいけません。

 たとえ遺伝の法則で、父親または母親、あるいは双方から障害を受け継いでいても、それが霊性の進化を妨げることはありません。

 よくご覧になれば大抵おわかりになると思いますが、身体上の欠陥をもって生まれた人は、魂のなかに埋め合わせの原理をもちあわせているものです。五体満足の人よりも他人への思いやり、寛容心、やさしさをその性格のなかに秘めています。因果律の働きから逃れられるものは何一つありません。

 親となる人は来るべき世代の人間に物的身体を授ける責任があるわけですから、当然その身体をできるだけ完全なものにする義務があります。その義務を怠れば(注)、それなりの結果が出ます。法則は変えられないのです。

 訳注──一般的には食生活が考えられるが、タバコやアルコール、麻薬などの弊害を示唆しているようにも思える。母親からの直接の影響はいうまでもないが、父親からの間接的な影響も無視できないであろう。

【Q2】

精神に異常があれば責任はとれません。(あなたがおっしゃるように)霊界では、地上で培った性格と試練への対処の仕方によって裁かれるとなると、そういう人が霊界へ行った場合、どのような扱いになるのでしょうか?

 あなたも、物的なものと霊的なものとを混同しておられます。脳細胞が異常をきたせば、地上生活は支離滅裂となります。表現器官が異常をきたしているために自我を正常に表現できないわけですが、そうした状態のなかでも魂そのものは自分の責任を自覚しています。

 大霊の摂理は、魂の発達程度に応じて働きます。地上的な尺度ではなく、永遠の英知が魂を裁くのです。ですから、地上的な常識では間違いと思えることをした魂が、地上において(不当な)裁きを受けることはあるでしょうが、実質的には魂に責任はないわけですから、霊界に行ってその責任をとらされることはありません。

 同じことが、狂乱状態のなかで、人の命を奪ったり自殺したりした場合にもいえます。表現器官が正常でなかったのですから、責任は問われません。

 こちらの世界の絶対的な判定基準は、魂の動機です。これを基準とするかぎり、誤りは生じません。

【Q3】

脳の障害のために地上生活の体験から何も学ぶことができなかった場合、霊界ではどういう境涯におかれるのでしょうか?

 表現器官が正常でないために、地上で体験すべきものが体験できなかったわけですから、それだけ損失を強いられたことになります。貴重な物的生活の価値を身につけることができなかったわけです。しかし、そうしたなかにも「埋め合わせの原理」が働いています。

【Q4】

われわれは地上でのさまざまな試練によって身につけた人間性をたずさえて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか?やはり、そのままの人間性で裁かれるのでしょうか?

 そういう人の場合は、それまでの魂の進化の程度と動機(注)だけで裁かれます。

 訳注──この〝動機〟についてさらに質問してほしかったところである。訳者の推察では、これは再生(生まれかわり)とつながる問題であり、質問者がさらに突っ込んで問いただせば説明してくれたはずである。

【Q5】

地上では、精神的にも道徳的にも衛生的にも、不潔きわまるスラムのような環境に生まれついて、つらい、そして面白くない生活を送らねばならない者がいる一方、美しいものに囲まれ、楽しい人生が約束された環境で育つ者もいます。こうした不公平には、どのような配慮がなされるのでしょうか?

 魂には、その霊性の進化の程度が刻み込まれています。地上の人間は、物的尺度で価値判断をし、魂の発現という観点からの判断をしません。身分の上下にかかわらず、すべての人間に、他人のために自分を役立てるチャンスが訪れます。それは言い換えれば、自我意識に目覚めて、その霊性を発現するチャンスです。その霊性こそが唯一の判定基準です。

 物的基準で判定すれば、地上界は不公平ばかりのように思えますが、本当の埋め合わせの原理が魂の次元で働いています。それによって、魂があらゆる艱難を通して、自我を顕現していくように意図されているのです。

【Q6】

でも、悪い人間がよい思いをしていることがありますが、なぜでしょうか?

 それも、あなた自身のこの世的な基準による判断に過ぎません。よい思いをしているかに見える人が、惨めな思い、虐げられた思い、懊悩や苦痛に悩まされていないと、何を根拠に判断なさるのでしょう?いつもニコニコしているからでしょうか?贅沢なものに取り囲まれた生活をしているからでしょうか?豪華な服装をしていれば魂も満足しているのでしょうか?永遠の判断基準は霊であって、物を基準にしてはいけません。そうしないと、真の公正がないことになります。

【Q7】

でも、やはり罪悪や飢餓、その他、低俗なものばかりがはびこる環境よりもよい環境のほうが、立派な動機を生みやすいのではないでしょうか?

 私は、そうは思いません。私が見てきたかぎりでは、偉大なる魂は必ずといってよいほど低い階層に生まれついています。偉人と呼ばれている人はみな、低い階層の出です。耐え忍ばねばならない困難が多いほど、魂はそれだけ偉大さを増すのです。本来の自我を見出させてくれるのは困難との闘争です。ものごとを外側からではなく、内側から見るようにしてください。

【Q8】

霊性は、物的生命と同時進行で進化してきたのでしょうか?

 同時進行ではありましたが〝同じ道〟ではありませんでした。霊が顕現するための道具として、物的身体のほうが霊よりも先に、ある程度の進化を遂げておく必要があったからです。

【Q9】

われわれは、死後も努力次第で向上進化するのであれば、罪深い動機から転落することもあるのでしょうか?

 ありますとも!こちらの世界に来ても、地上的な欲望から抜け切れずに、何百年も、ときには何千年も、進化らしい進化を遂げない者が大勢います。地上時代と同じ欲求と願望に明け暮れる生活を送り、霊的な摂理など理解しようとしません。身は霊界にあっても、地球の波動のなかで生活しており、霊的なものにまったく反応しないまま、刻一刻と霊性が堕落していきます。

【Q10】

そうやって際限もなく堕落していって、最後は消滅してしまうのでしょうか?

 そういうことはありません。内部に宿された大霊の火花が今にも消えそうに明滅するまでになることはあっても、完全に消えてなくなることはありません。大霊と結びつける絆は永遠なるものだからです。いかに低級な魂も、もはや向上できなくなるというほど堕落することはありません。いかに高級な魂も、もはや低級界の魂を救えないほど向上してしまうことはありません。

【Q11】

個霊は死後さまざまな階層をへて、最後は大霊と融合し、その後、物質その他の成分となって宇宙にばらまかれるのでしょうか?

 私は、完全の域まで達して完全性のなかに融合してしまったという個霊の話を聞いたことがありません。完全性が深まれば深まるほど、まだまだ完全でないところがあることに気づくことの連続です。そうやって意識が開発されていくのです。意識は、大霊の一部ですから無限であり、無限性へ向けて永遠に開発し続けるのです。究極の完全性というものを私たちも知りません。

【Q12】

でも、個霊が進化していくうちに類魂のなかに融合し切って、個々のアイデンティティーを失ってしまうのは事実ではないでしょうか?

 私の知るかぎり、そういうことはありません。ただ、次のようなことはあります。成就すべき大切な仕事があって、心を一つにする霊団が、知識と情報源を総動員してそれに没頭し、そのなかの一人が残り全員を代表してスポークスマンとなる、ということです。その間は全員が一つの心のなかに埋没してアイデンティティーを失っています。が、それも一時的なことです。

【Q13】

ペットは死後もそのまま存続しているそうですが、ふつうの動物でも存続しているのをご覧になることがありますか?

 あります。現在では犬や猫が人間のペットになっていますが、私たちが地上にいた頃は、ふつうの動物でも、私たちの仲間だったものがたくさんいました。人間との交わりで個性を発現した動物は、そのままの個性をたずさえて存続していました。もっとも、動物の場合は永遠ではありません。わずかな期間だけ存続して、やがて類魂のなかに融合していきます。その類魂が種を存続させるのです。

 大霊の子である人類は、大霊の霊力を授かっているがゆえに、意識がまだ人類の進化の次元にまで達していない存在に対して、その霊力を授けることができることを知らねばなりません。それが愛であり、その愛の力によって、まだその次元に達していない存在の進化を促進してあげることができるのです。

【Q14】

そのように人間にかわいがられた場合は別として、原則として動物も個性をたずさえて死後に存続するのでしょうか?

 存続しません。

【Q15】

動物が原則として個性をたずさえて存続しないとなると、たとえば人間にかまってもらえない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなるのでしょうか。創造した者と創造された者との関係として見たとき、そういう動物の生命に大霊の公正はどのようなかたちで示されるのでしょうか?

 地上の人間の理解力を超えた問題を解説するのは容易ではありません。これまで私は、動物は死後、類魂のなかに融合していくと述べるにとどめてきましたが、その段階で埋め合わせの原理が働くのです。絶対的公正の摂理の働きによって、受けるべきでありながら受けられなかったもの、すべてについて埋め合わせがあります。

 しかしそれは、人間の進化の行程とは次元が異なります。しいてたとえれば、十分な手入れをされた花と、ほったらかしにされてしぼんでいく花のようなものでしょう。あなた方には、その背後で働いている摂理が理解できないかもしれませんが、ちゃんと働いているのです。

【Q16】

個々の動物について埋め合わせがあるのでしょうか?

 いえ、類魂としてです。受けた苦痛が類魂の進化を促すのです。

【Q17】

そのグループのなかには苦痛を受けた者とそうでない者とがいるはずですが、それがグループ全体として扱われるとなると、埋め合わせを受けるべき者とその必要のない者とが出てきます。そのへんはどうなるのでしょうか?

 体験の類似性によって、各グループが構成されます。

【Q18】

ということは、虐待された者とそうでない者とが、別々のグループを構成しているということでしょうか?

 あなた方の身体が、さまざまな種類の細胞から構成されているように、類魂全体にもさまざまな区分けがあります。

【Q19】

ばい菌のような原始的生命はなぜ存在するのでしょうか?また、それが発生し消毒されるということは、宇宙が愛によって支配されていることと矛盾しませんか?

 人間には自由意志が与えられています。大霊から授かっている霊力と、正しいことと間違ったこととを見分ける英知とを用いて、地上界を〝エデンの園〟にすることができます。それをしないで、ほこりと汚れで不潔にしておいて、それが生み出す結果について大霊に責任を求めるというのは虫がよ過ぎないでしょうか?

【Q20】

地上的生命の創造と進化が、弱肉強食という血染めの行程をたどったという事実のどこに、善性と愛という神の観念が見出せるのでしょうか?

 そういう意見を述べる人(注)は、なぜそういう小さな一部だけを見て全体を見ようとしないのでしょうか?進化があるということ、そのことが神の愛の証しではないでしょうか?その人たちは、そういう考えが一度も浮かんだことがないのでしょうか?人間が低い次元から高い次元へと進化するという事実そのものが、進化の背後で働いている摂理が愛の力であることの証しではないでしょうか?

 訳注──答えが直接質問者に向けられていないのは、多分、質問が読者からの投書だったのであろう。主語が「you」でなく「they」となっているところからそう判断したのであるが、もしかしたら質問が「という意見を述べる人がいますが…」となっていたのかもしれない。

        


  訳者あとがき 

 読者というのは、はじめてその本を読む人のことと理解してよいと思うが、本書に関するかぎりは、はじめての方に加えてすでにシルバーバーチを繰り返し読んでいる方が多い──むしろ、そういう方のほうが圧倒的に多いに違いないという想定のもとに、「あとがき」を書かせていただく。

 そのあと新しい読者のために、シルバーバーチ霊からのメッセージの中継者として生涯を捧げたモーリス・バーバネルの手記を紹介する。

 「編者まえがき」の冒頭で述べられているように、本書はすでに霊言集として十数冊の単行本として発行されているもののなかから、Q&A、つまり交霊会の出席者からの質問にシルバーバーチが答えたものばかりを編集したものである。

私は霊言集の原書をすべてそろえており、そのすべてを翻訳して一六冊の日本語版として四つの出版社から上梓した(巻末参照)。

 したがって、本書の原書を手にしたときは、その日本語版にあるものばかりなのだから、あえて訳す必要性はないと考えていたのであるが、「勉強会」を進めていくうちに、こういう問答形式のテキストも使い勝手がよい、むしろそのほうが効用が大きいように思えてきた。

 そこで翻訳に着手して、一章ごとに「勉強会」で披露していったのであるが、そのうち気がついたのは、部分的には訳した覚えがあっても、全体としては別個のものが、かなりの頻度で出てくることだった。

同じシルバーバーチが述べたことであるから、どこか似ていることを述べていても不思議はないのであるが、そのうち〝編纂〟という作業に関して、日本人と英国人との間に考え方の違い、大げさに言えば、精神構造の違いをほうふつさせる事実が明るみになってきた。

 それは、原書の編集者は、単に霊言を集めてテーマ別に区分けするというだけではなく、ときには別々の交霊会での霊言をつぎはぎして新しい文章をこしらえることがあるということである。

無駄、ないしはなくてもよいと思える文章を削るのはまだしも、そこで述べていないもの──たとえ別の箇所で述べていても──それをつぎ足してかたちだけ整えるのは、いささか悪趣味が過ぎるのではないかと思うので、私はそれを発見したときは削除した。

 そんな次第で、既刊の霊言集に出ているものと本書に出ているものとの間に〝似て非なるもの〟があるときは、本書のほうが正しい、つまりよけいなつけ足しをしていないと受け取っていただきたい。もちろん、表現を改めたところは少なからずあるが‥‥。

 もう一つ気づいたことは──これは嬉しい発見であるが──どの霊言集にも掲載されていない問答がいくつか見られることである。

そこで考えたのであるが、どうやら二人の編者は、前任者たちが霊言集を編纂したときの資料、つまり交霊会の速記録やテープ録音を文字に転写したもののなかから、新たに拾い出したものを採用したのではないかということである。

 これは、そうした資料に直接アクセスできない者にとっては実にありがたいことで、もしも条件が整えば、私自身がそうしたものの発掘の旅に英国まで行ってきたい心境である。未公開のものがいくらでもあるはずであるから‥‥。

 さて、回答で指摘したとおり、私自身の誤訳も見つかった。ある意味では大切な発見で、本文でもお詫びかたがた注を施しておいた。「not」を見落とした単純ミスで、いわゆる「思い込み違い」である。

が、その単純ミスがその後の文章の意味をわかりにくくしてしまうという、二重の過ちを犯したことになる。この一節はシルバーバーチ特有の、簡潔にして含蓄の深い文章の典型で、たった数行であるがきわめて難解である。

テーマは「アフィニティ」説で、二十世紀初頭に入手されたフレデリック・マイヤースの「類魂」説と基本的に同一である。

 けがの功名で、はからずも今回の誤訳の発見によって解説がしやすくなったので、ここで「霊魂」とは何か、それが「進化する」とはどういうことかを、改めて解説しておきたい。

 まず用語の意味を整理しなければならない。日本人は「霊」と「魂」を並べて「霊魂」という呼び方をする。見方によってはそれで問題ない場合もあるが、スピリチュアリズムでは明快に区別している。

 それをシルバーバーチの言葉で説明すると──「霊」とは全存在の根源的生命力で、無形・無色、影もかたちもないという。われわれ人間について言えば、身体のどこそこにあるという〝場所をもつ〟存在ではなく、「しいて言えば、意識です」とシルバーバーチは言うのであるが、この「しいて言えば」と断ること自体が、必ずしも「意識」とは言えない状態での存在もあることを示唆している。

 それについては後述するとして──「魂」とは、その霊が自我を表現するための媒体をまとった状態を指す。地上では、物的身体という媒体に宿って生命活動を営んでいるわけで、その意味で、人間も「霊」であると言ってもよいし、「魂」であると言ってもよいし、「霊魂」であると言っても間違いではないことになる。

シルバーバーチが用語にこだわらずに、ときには矛盾するかのような使い方をするのは、決していい加減な表現をしているわけではない。シルバーバーチがわれわれの実体を鳥瞰図的に見ているのに対し、われわれは脳の意識を焦点として考えているので、どうしても視野が狭くなり、字句にこだわることになる。

 日本の古神道には「一霊四魂」という思想がある。霊は自我で、その表現媒体として四つの魂、すなわち荒霊(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)があるというもので、スピリチュアリズムでいう自我と肉体・幽体・霊体・神体(または本体)の四つの身体という説とまったく同一である。

 さらには、これらの身体に相応した物質界・幽界・霊界・神界があるというわけであるが、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。

 さて、自我である「霊」は、無始無終の存在として、単細胞生物にはじまって植物、動物と、その媒体を変えながら進化し、最後に「霊的流入(Spiritual Influx)」という過程をへてヒトの身体に宿る。そして、この段階ではじめて自我意識が芽生える。霊的生命の発達と進化の過程における「画期的飛躍」と呼んでよいであろう。

 シルバーバーチが「見ず知らずというわけではない」と述べたのは「意識的には知らない」という意味に解釈してよいであろう。無限の資質と可能性を秘めた霊的生命が、無意識の静的状態から動的状態へと移行し、機能的進化を重ねたあげくに「霊的流入」という飛躍をへてヒトとなり、自我意識と個性をそなえて、精神的ならびに霊的進化の旅に出ることになる。その旅に終点はないという。

 では、本書に掲載されていないシルバーバーチの霊言で、「霊的流入」を考慮してはじめて理解できる一節を紹介しておく。

「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。

 そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。

 かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」

では、このたびはじめてシルバーバーチと出会ったという方のために、シルバーバーチの専属霊媒としての生涯を送ったモーリス・バーバネルの手記を紹介する。

 これはバーバネルの後継者として週刊紙『サイキック・ニューズ(Psychic News)』の編集長となったトニー・オッセンに「自分が死んでから公表してほしい」といって手渡したもので、その遺言どおり、1979年7月の他界後に同紙に掲載された。 
 
 
 シルバーバーチと私                       モーリス・バーバネル
 
私の記憶によれば、スピリチュアリズムなるものをはじめて知ったのは、ロンドンで催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた18歳のときのことで、およそドラマティックとは言えないことがきっかけとなった。

 クラブで私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、どうにか大過なくやりこなしていた。

 もう一つは、講演の内容いかんにかかわらず、私がそれに反論することでディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が「なかなかやるじゃないか」と誉めてくれていた。

実はその頃、数人の友人が、私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん、はじめてのことで、私は大真面目で出席した。ところが、終わってはじめて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。

たとえ冗談とはいえ、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。

 同時に、その頃の私は、他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教には背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が、「教会での儀式に一人で出席するのはみっともないから、ぜひ同伴してほしい」と嘆願しても、頑として聞かなかった。

二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈のうえでは必ずといってよいほど、父のほうが母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わっていった。

 こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただきたく、その背景として必要だと考えたからである。

 ある夜の会で、これといった講演者のいない日があった。そこで、ヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼は、スピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終わると、同僚が例によって私のほうを向き、反論するようにとの合図を送ってきた。

 ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近、にせの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、したがって、それをまったくもちあわせない私の意見では価値がないと思うと述べた。これには出席者一同が驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。

 終わると、サンダース氏が近づいてきて「体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしそうだったら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか」と尋ねた。「ええ……」──私はつい、そう返事をしてしまった。が、「結論を出すまで六か月の期間がいると思います」と付け加えた。

 そのことがきっかけで、サンダース氏は、私を近くで開かれていた交霊会へ招待してくれた。約束の日時に、私は、当時、婚約中だったシルビアを伴って出席した。会場に案内されてみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。

若い者もいれば、老人もいる。あまり好感はもてなかったが、真面目な集会であることはたしかだった。

 霊媒は、ブロースタインという中年の女性だった。その女性がトランス状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。

そして事実、そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが「死者」であることを得心させる証拠は、何一つ見当たらなかった。

 しかし、私には、六か月間、スピリチュアリズムを勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが、会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり居眠りをしてしまった。目を覚ますと、私はあわてて非礼を詫びた。ところが驚いたことに、私は居眠りをしていたのではなく、レッド・インディアンが、私の身体を借りてしゃべっていたことを知らされた。

 それが私の最初の霊媒的トランス体験だった。何をしゃべったかは、自分にもまったくわからない。聞いたところでは、ハスキーで、のどの奥から出るような声で少しだけしゃべったという。その後、現在に至るまで大勢の方々に聞いていただいている、地味ながら人の心に訴えるとの評判を得ている響きとは、似ても似つかぬものだったらしい。

 しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホーム・サークルが誕生した。シルバーバーチも回を重ねるごとに、私の身体のコントロールがうまくなっていった。

コントロールするということは、シルバーバーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまくいくようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。

 はじめのうち、私は、トランス状態に入るのはあまり好きではなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が、私自身にわからないのは不当だという、生意気な考えのせいであったと思われる。

 ところが、あるとき、こんな体験をさせられた。交霊会を終わってベッドに横たわっていたときのことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声、つまり私の口を使っての霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことが、その後もしばしば起きた。

 が、その後、それは見られなくなった。それは、ほかならぬハンネン・スワッファーの登場のせいである。その後「フリート街の法王」(フリート街は、ジャーナリズム界の通称)と呼ばれるほどのご意見番となったスワッファーも、当時からスピリチュアリズムには彼なりの体験と理解があった。(別の交霊会で劇的な霊的体験をして死後存続の事実を信じていた)。

 そのスワッファーが、私のトランス霊言に非常な関心を示すようになり、シルバーバーチ霊をえらく気に入り始めていた。そして、これほどの霊的教訓がひと握りの人間にしか聞けないのはもったいない話だといい出した。

元来が宣伝好きの男なので、それをできるだけ多くの人に分けてあげるべきだと主張し、『サイキック・ニューズ』(週刊の心霊紙)に連載するのがいちばんいいという考えを示した。

 はじめ、私は反対した。自分が編集している新聞に、自分の霊的現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん論議したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。

 その頃から、私の交霊会は「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」と呼ばれるようになり、同時に、その会での霊言が毎週定期的に掲載されるようになった。

当然のことながら、霊媒は一体だれなのかという詮索がしきりになされたが、かなりの期間、内密にされていた。しかし、顔の広いスワッファーが次々と著名人を招待するので、いくら箝口令を敷いても、いつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して事実を打ちあける記事「シルバーバーチの霊媒はだれか──実はこの私である」を掲載したのだった(カッコ内は訳者。わかりやすく編集した箇所もある)。