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      ペットが死ぬ時      ──誰も教えなかった別れの意味──

                    目 
 1章 死後にも生命と生活がある
 2章 〝思考力〟をもつ動物たち
 3章 〝道理〟を弁える動物たち
 4章 〝人命救助〟で勲章を授かった動物たち
 5章 動物の第六感の不思議
 6章 動物にもテレパシーや霊視能力がある
 7章 交霊会での死後存続の証明
               ───客観的(物理的)な場合
 8章 交霊会での死後存続の証明
     ───主観的(精神的)な場合
 9章 動物たちは人間の愛を忘れない
10章  心霊写真による証明
11章 さまざまな体験
12章 霊界からの計らい
13章 死後はどうなるか
14章 古代霊シルバーバーチに聞く
15章 人間───この身勝手な動物
16章 霊的知識が要求する新しい道徳観
 おしまいに
 バーバネル夫妻のこと────あとがきに代えて    
 When your Animal Dies             

 by Sylvia Barbanell
 
 初 版 1940年
 本 版 1955年


  Spiritualist Press Ltd.,

  49 old Bailey,  London,


  E. C. 4 England.        
                   
 
                                   
 
              序

 動物保護協会初代会長 リンダフ・ハーガビー
        

 驚くほど知的で、愛らしくて忠実で、ちょっぴりわがままで勝気で、手を焼かせることもあった 〝バリー〟という名のセントバーナード犬が、今その巨体を横たえて、十二年の生涯を閉じようとしている。

 最後の呼吸に喘いでいるその姿は、いかにも苦しそうで、哀れだ。 

 いよいよ死期が近づいたと思えた時、バリーは最後の力をふりしぼって体を起こし、頭を私の顔に近づけて、情愛あふれる目で私の目を食い入るように見つめた。その目が、言葉よりも雄弁に、こう語っていた────


「ボクはこれであの世へ行くけど、向こうで待っているよ。また会おうね」と。
 バリーの生涯は、私にとっては〝魂〟 の存在を教えてくれる啓示の連続であり、それが人間による残虐行為によって苦しめられている動物の保護活動への大きな拍車となっていった。 死ぬ間際に見せたあの目が語っていたメッセージは、私への献身の不滅性を忘れぬようにとの、必死の訴えだったと思う。

 それから数年後のことである。死んだはずのバリーが、この目で見、この手で触れ、この耳で聞ける形体を具えて、交霊会に出現したのである。が、その話はここでは述べない。このユニークな書の中でバーバネル女史が、動物の死後存続について、疑い深い人間を驚かせ宗教家を戸惑わせるような証拠を、十分に提供してくれているからである。

 本書のメインテーマである動物の死後存続は、実は、ことさらに新しいテーマではない。目新しいことと言えば、それを証拠立てる膨大な量の事実が単純明快で常識的に述べられていること、つまり〝死んだ〟 はずの動物が地上へ戻ってきて、今なお存在し続けていることを示す数多くの例証が紹介されていることで、それは、〝伴侶〟 を失って悲しむ人の慰めとなるであろう。

 一九三七年にW・H・コック氏が 『動物と来世』 (未翻訳)という著書を出された。

英国国教会の牧師であり理学博士でもあったコック氏は、もしも人間に来世があるのなら、進化論を信じる者は、動物界のあらゆる種属にも────いかに進化の程度が低くても────それぞれの来世があるはずであることを主張した。氏は言う────

「創造主は人類だけを進化させたのではない。人類と同じく霊的創造物であり、究極的には必ずしも人類に劣らず、かつ又、その個性と特質とさらに発達させるための来世をも有する、他の種属をも地上で進化させてきて、今なお進化させつつあるのである」
 
 コック氏は生物界は全体として一つであり、何一つとして完全に隔離されているものはないという事実を強調する。こうした重大な真理を斬新な目で認めている点を、動物をあたかも、ただの(魂のない)生き物、又は創造主の〝うっかりミス〟の産物、ないしはビーフやベーコンの原料としか考えない宗教家は、真剣な反省の材料とすべきであろう。

 われわれ人間は、生物進化の法則によって、動物と緊密な関係にあるという事実から、もはや逃れられなくなっている。バーバネル女史はその発生当所からのつながりに着目している。人間と動物の間には完全な仕切り、絶対的な境界線というものは、事実上、存在しないのである。

 比較宗教学者は世界の宗教の中にあって動物が果たしている大きな役割に十分な関心を向けていない。その内側に秘められた人間味に満ちた意義を取り損ねている。

 たとえば未開人の間に見られる自然物崇拝、人間が動物に生まれ変わるという信仰、動物の崇拝、ある種の動物を神聖視し、かつ人間を守ってくれるものとして特別扱いにする風習などには、単なる好奇心を超えた深い意味があるのである。

 古代エジプトにおいては、多くの種類の動物が聖なるものと見なされ、神性が宿ると信じられ、神々の化身とされた。中でも犬は大切な化身であり、猫も内省の儀式における具象物とされた。著名な考古学者、ジョージ・ライスナー博士によると、エジプトにおいて犬が大変な丁重さと儀礼をもって葬られたことを物語るものが発掘されているという。時の王様の命令によって墓まで拵えてもらったその犬の石碑には次のような文が刻まれている。

《この犬は 〝国王陛下のボディガード〟 と呼ばれ、その高貴さゆえに、死後、誉れ高き霊として、犬神のもとに召されるであろう》

 この碑文には、その犬の霊が死後もその王様の霊に仕えるようにという祈りが込められているのである。

 動物の霊魂、転生における人間と動物との内的関係、慈悲と情愛による両者の絆、親近関係における人間の義務等々は、ヒンズー教や仏教の経典、古代ペルシャや中国の宗教説話、ギリシャやスカンジナビアの神話、インドのアショカ王の活動の中で説かれている。

 また忘れてならないものに、キリスト教聖者の物語がある。アッシジの聖フランチェスコが小鳥と話を交わし、オオカミに悪いことをしないように強く諌めた話(魂がなくては善悪の分別は付かないはずだ)、聖ロシュが犬もおかげで疫病による死を免れた話など、いくつもある。

 キリスト教聖者に見られる大きな特徴は、動物を人間の伴侶及び援助者と見なしていることである。同じ神の創造物として、進化こそ遅れているが、人間と一体関係にあるものと見ているということである。にもかかわらず、私が不審でならないのは、そうした聖者を崇敬の対象としている人たちが、動物を魂のない下等な存在として軽視し、もてあそんでいることである。

 いずこの国でも、国威の象徴や紋章をライオンとかワシ、クマ、オシドリ等に求めている事実を考えても、動物を軽視する考えは断じて間違いであり、その間違った考えが残虐行為の源泉となっていると思われるのである。

 私は書物を二つのカテゴリーに分類することにしている。〝生命力あふれるもの〟 と〝継ぎはぎだらけのもの〟 である。生命力あふれる書物は、真剣な生活、真実の観察と追求、全身全霊を打ち込む態度と寛容精神の産物である。

 これとは対照的に、ただの言葉の羅列、他人の説の借用、それに、時には愚にもつかぬ当世風の安っぽい言い回しをしてみたり、格好をつけて精神分析学的なややこしい説を立てたりする。その違いは、太陽の輝きと月の光の違いに譬えることもできよう。

 バーバネル女史によるこの著書は、まさしく〝生命力あふれるもの〟 の中に入る。生き生きとして人を楽しませるものがあり、示唆に富み、刺激的である。何も知らずにいる人には 〝有る筈がないもの〟 を扱っている。(いつの時代にも大発見や大発明といわれるものは一般の人にとっては〝有るわけがない〟 と思われるものばかりだった)。

 心霊実験会における信じられないような現象────人間も動物も物的身体が滅びた後にも生き続ける事を証明する現象────を、女史自身が直接に観察し、記録し、蒐集し、そしてまとめたものである。

 が、女史はそうした証拠を紹介することによって、死後も生き続けることは人間だけではなく動物についても間違いなく断言できることを読者に得心させようとしている。つまりは、可愛がっていた動物に先立たれて我が子を失ったような悲しみを味わっている人の為に書かれたものと言ってよいであろう。

 が、それが意味するところのものが及ぼす影響は絶大である。動物の肉や皮で商売をしている人にとっては、困ったことになるであろう。動物は人間の都合のよい便益のために存在すると勝手に考えている人々は、気まずい思いをさせられることと思う。

 なぜなら、食肉のために残酷な手段で殺したり、医学の進歩という美名のもとに惨い実験のための材料として使った動物が、実は肉体を失ったあとも、同じ姿の霊的身体を具えて霊界で生き続けているのである。

 そういう動物たちと霊界で再び会う事も有り得ることになる。万物の霊長たる人間の尊厳と優越性が危うくなりはしないだろうか。
 
                   動物保護協会初代会長     リンダフ・ハーガビー

 

     
 一章 死後にも生命と生活がある

 私たち人間は死後も生き続ける────肉体が無くなっても、個体性と自我意識と性格と記憶を携えて、次の世界でも生活を続けるというのです。

  そのことは、もはや一点の疑問の余地もないところまで立証されております。オリバー・ロッジ、ウィリアム・クルックス、アルフレッド・ウォーレスといった世界の科学界を代表するといっても過言でない大先輩によって、繰り返し確認されているのです。

 本書はその証拠を改めて披露することが目的ではなく、その事実の持つ動物との関わりにおいて論じることなので、、ここでは詳しく述べませんが、概略だけでも知っておいていただくために簡略に述べておきたいと思います。

 クルックス博士は化学と物理学における数々の貢献によって〝サー〟の称号を受けた世界的な科学者ですが、当時(十九世紀後半)の心霊現象騒ぎを耳にして、それが社会問題にまで発展して無視できなくなったので、当時の人気霊媒、すなわちD・D・ホーム、ケート・フォックス、フローレンス・クックの三人を四年間にわたって、化学や物理学と同じ科学的手段を駆使して実験し、その結果を季刊の学界誌に連載しました。

 その内容は心霊現象は間違いなく実在することを認めたもので、特にクック嬢による実験会にはケーティ・キングと名のる女性の霊が物質化して出現し、その姿が四十四枚もの写真に収められています。

 それは当然のことながら学界に大反響を巻き起こし、賛否両論が渦巻きましたが、博士自身は
 「十分な科学的手段と、十分すぎるほどの用心をした上で確かめたもので、誰が何と言おうと、私の信念に変わりはありません。人間が死後も生き続けることは、もはや 〝信仰〟 ではなく 〝事実〟 です。それは充分に証明されました」

 と述べて感情的な反論には一切取り合いませんでした。その研究成果は『スピリチュアリズムの現象の研究』(※)と題されて単行本となっています。

(※───現在では絶版であるが、心霊現象の科学的研究の原点として、その価値は今も衰えていない。ケーティ・キング霊の物質化の写真は本書八一ページの他に『人生は霊的巡礼の旅』(ハート出版)に一枚、『コナンドイル心霊学』(新潮選書)に二枚掲載されている。なお物質化現象については第七章を参照───訳者)


 オリバー・ロッジも 〝サー〟 の称号を持つ世界的物理学者で、バーミングガム大学の総長も歴任した人ですが、友人の誘いで出席した交霊会(六六ぺージ参照)に、第一大戦で戦死した長男レーモンドが 〝声〟で出現し、まぎれもない証拠を幾つも提供したことで死後の個性の存続を確信し、『レーモンド』(※)という大部の著書を出版しています。その後も数多くの著書を書いていますが、その基本にあるのは

「人間はもともとが霊的な存在であり、それが今この地上で物的身体をまとって生活しているのであって、その身体が滅んだあとも個性が存続するのは当たり前である」というものです。

 (※───野尻抱影による部分訳(三分の一程度)が『レイモンド』のタイトルで復刻されて人間と歴史社から出ている───訳者。
 
 次にアルフレッド・ウォーレスは、ダーウィンと並んで十九世紀を代表する博物学者ですが、ちょっとした霊的体験がきっかけとなって心理現象に関心をもつようになり、博物学と並行して本格的に研究し、その真実性を確信しました。が、気の毒だったのは、博物学の世界ではダーウィンも脅威を覚えるほどの業績を公表しはじめていましたが、まだ十分な〝権威〟 を持つに至っていなかったからでしょうか、

若すぎたからでしょうか、それとも階級制度が支配していた英国だったからでしょうか、その研究成果を学術誌に積極的に公表していったことが学者としての威信を失墜させる結果となってしまいました。


 が、生来の無欲恬淡(テンタン)の性格はそうした逆境を不幸として受け取らず、ウォーレスはその後も地道な研究を続けて、その成果を『奇跡と近代スピリチュアリズム』(※)と題して出版しています。

前記の二人の学者が自分の研究結果のみであるのに対し、この著書は上の二人の学者を含む多くの研究家やその反対論者の意見も紹介し、その矛盾や欠陥を指摘している点で、学術的な心霊書の白眉といえるでしょう。

 ※───拙訳が『心霊と進化と』のタイトルで潮文社から出ている───訳者。

  実は私にも第一次世界大戦で戦死した弟がいて、物理霊媒として有名なヘレン・ダンカン女史の交霊会に全身を物質化させて出現して私と会話を交わしています。


 物資化するというのは、霊がその身体 (死後にも肉体とは別の身体がある) に合わせてエクトプラズムという白い水蒸気のような物質をまとって出てくる現象をいいます。エクトプラズムは主として霊媒から抽出されるもので、霊媒だけでは十分ではない時は出席者からも少量ずつ抽出されます(詳しくは七章で)。

 身体を見せるといっても、頭のてっぺんから足の先まで、生前そっくりの姿を見せる場合と、顔だけを見せたり、指先だけを物質化させて指紋を取らせたりすることもあります。

 弟は全身を物質化させて出現し、「シルビア」と叫んで私に近づき、手を取り合いました。決して冷ややかな感触ではなく、温かく生身の手と変わりませんでした。

 しかし、もしもそのことだけで終わっていたら、よく似た人間を雇って演出したのではないのかとか、目の錯覚だったのではないかといった疑念も生まれかねませんが、そうではないことを立証する事実も明らかになっているのです。

 それは、弟の〝戦死〟にまつわる謎が十五年の歳月の後に、その日の本人の証言で見事に解決したことです。(第一次大戦は一九一四年に始まって一九一八年に終結)

 私の両親は軍当局から 「行方不明。多分戦死したものと推察される」 との公報を受けていました。そして、推定の死亡日まで書き添えてあったのです。

 ところが、その推定死亡日から三、四日後の日付で、友人の一人が弟から一通の手紙を受け取っている事が判明したのです。ただし、その手紙には住所が記してなく、フランスの戦闘地域の小さな町から投函されているとのことでした。内容は、負傷して入院しているが両親には知られたくいない、との主旨のことが述べられていました。

 ともかくも生きていることが分かって喜びを噛みしめたものの、その後ぱったりと音信が途絶えたことで、またもや不安が募ってきました。両親はたまらず軍当局に手紙でその後の消息をたずねました。

 が、そのことがかえって事態を混乱させる結果となりました。友人に宛てた病院からの手紙を調べた将校から、そういう町にそういう病院は存在しないということ、そして、その町へは軍を派遣したことはない、という返事が返ってきたからです。

 かくしてミステリーが出来上がりました。詰まるところ、もう死亡したという結論を下さざるを得ませんでした。が、どういう状況の中で死亡したのか、皆目見当がつきません。

 しかし、そのミステリーは交霊会であっさりと解けました。本人が出現して事の次第の真相を語ってくれたのです。そのいきさつはこうでした。
 
 「行方不明、たぶん戦死したものと推察される」との公報が出されたその日、弟は重傷を負って、そのままドイツ兵の捕虜となったというのです。そのことで両親を動転させてはいけないと思った弟は、親友へ宛てた手紙を認(シタタ)めて、それを、脱走を計画している同僚に託しました。

 その同僚は脱走に成功して、フランスのある町にたどり着き、そこでその手紙を投函したのでした。〝そういう町にそういう病院は存在しない〟こと、〝その町へは軍を派遣したことはない〟という軍当局の言い分は、その通りだったのです。が、脱走兵に手紙を託すなどということは想像を超えたことだったので、ミステリーが生じたわけです。

 弟はさらに、同僚が脱走に成功したあと間もなく、戦傷がもとで他界したと述べました。右の経過の説明が明快で筋が通っているのみならず、自分の死亡に関して関係者が理解に苦しんでいたことも知っていたことがこれで分かります。

 念のために弟は、自分の身元の証拠として、紙とエンピツを要求してそれに短い文章を書いて見せました。それを、前線から母親宛に届いていた手紙と照合してみたところ、締めくくりの言葉や署名なども含めて、全てが同一人によるものであることは間違いありませんでした。

 霊媒のヘレン・ダンカン女史は弟の生前の筆跡を見たこともないし、交霊会の出席に際して私は、弟からの手紙は一通も携えていませんでした。
 「ばかばかしいそんな話があってたまるか私は信じない」
 そうおっしゃる方がいるでしょう。それはその人のご自由です。が、事実、そういうことがあったのです。

 実は 〝死〟 は肉体から生命が脱け出て別の次元の世界へ移行する現象にすぎません。その事実は、死んだ筈の人間が生前と同じ個性を携えて交霊会に出現してくれることによって、繰り返し証明されております。その数は、数え切れないほどです。
 世界的な物理学者で哲学者でもあったオリバー・ロッジ卿はこんな仮説を述べております。

《死者は、今この時点でわれわれと同じ場所、われわれの身の回りに存在しているというのが私の説である。生命は実は物質の中に存在しているのではなくて、宇宙に瀰漫するエーテルの中に存在している。だからこそ、あの世とこの世の内的交信が可能なのである。

 われわれ人間というのも本来は霊的存在で、今ほんの一時期を物質をまとって生活していることを忘れてはならない。各自が個別性を持ち、永遠の個性を獲得するのは、多分、この物的身体による制約と隔離性によるのではなかろうか》

 その人間も、身体的に見るかぎりは〝動物〟なのです。先祖を辿ると、同じなのです。辿った進化の道は異なっても、同じ〝進化の木〟に属しているのです。その同じ木の一本の枝である人間が死後も存続するのに、もう一本の枝である動物が存続しないということが有り得るでしょうか。

 が、人間には、成長の過程で個的意識というものが芽生える時期が来ます。その時から〝自我〟というものを自覚するようになり、その個的意識の芽生えとともに、善悪の観念と、喜怒哀楽といった、もろもろの精神的属性が発達してきます。人間が動物界において最高位を占めているといわれるのは、その点においてです。

 が、動物はそうしたものとまったく無縁かというと、決してそうではありません。人間との親密な接触によって、人間的性質、意識、個性などを、ある程度まで発揮する動物がいます。人間から 〝移入〟されたといった方がいいかも知れません。人間と変わらない愛、同情心、信頼感、忠誠心などを持ったペットをご存知と思います。

 かなりの知力を発揮する犬がいます。理知的な判断を下すものもいます。不快感や不信感だけでなく、うれしさや喜びを表現する動物もいます。

 本書は、そうした動物の存在が示唆するものをテーマとして、人間と動物との霊的なつながり、動物の死後存続、死後における人間界との関係等について、高級霊界通信もまじえて、これまでに知られていることを紹介しようと思っております。


 
      
 二章思考力〟をもつ動物たち  

 犬と人間との付き合いは、どのくらいの年数になるのでしょうか(※)。正確な期間はともかくとして、動物の中でも一ばん長く、人間と生活を共にしてきていることは間違いない事実でしょう。

 ※───人間が犬の祖先を馴化(ジュンカ)させたのは今から五、六万年前とする専門家が多い───訳者。

 見たところ犬は、同じ犬の仲間よりも人間との触れ合いの方を好んでいるように思えます。その強い縁(エニシ)が、犬に高い知性を発達させたのかも知れません。

  私が入手した調査資料によると、六十頭を超す動物───四十四頭が犬───が、アルファベットを使用して考えを述べる能力を持っていることが分かっています。

 まずアルファベット二十六文字を識別し、数字を数えることができるようになると、こんどは前足を鳴らすか吠え声を出すか、あるいはその両方で、自分の考えを表現できるようになります。

 その見事な能力で有名になっている動物が少なくないことは、私から言うまでもないでしょう。科学者や大学教授、心理学者たちによる調査を受け、世界各地からひと目見ようという訪問客が大勢訪れておりました。

 動物保護協会にはそうした〝教養豊かな〟動物に関する資料や情報が豊富に保管されています。動物にも個的精神や好き嫌いがあることは、それで十分に証明されていると言えるでしょう。

記憶力や回想力もあることが分ります。ユーモア、理性、そして心霊的能力まで備えているものがいます。中でも驚くのは、数字の専門家さえ面食らうような問題を見事に説くものがいることです。

 実例を挙げてみましょう。

 コペンハーゲンのフライターグ・ローリンホーゲン男爵夫人のマチルダさんが、クールウェナルという名のオスのダックスフントを飼っていました。その愛犬に、マチルダさんは吠え声を一種の言語として(※)語らせることを始めました。
 
 ※───〝イエス〟の時は三度 〝ノー〟 の時は二度というモールス信号のような方法───訳者。

 その結果、驚くなかれ、クールウェナルは考えること、数えること、質問に答えるといったことが出来るようになっただけでなく、人間や世の中の問題についての質問にきちんと答えることが出来るようになったのです。

 話を耳にした研究家が一年間に延べにして七十四回もの実験をして確かめています。口頭による質問にも筆記による質問にも、クールウェナルは戸惑うことなく、スラスラと答えたといいます。人間同士の会話にもすすんで加わることもあったといいます。

 クールウェルナは時には生意気な態度を取ることもあったようです。神経学者で動物心理学者でもあるスイスのベルン大学の教授がテストに訪れた時のことです。その日すでに他の学者による調査でうんざりしていたクールウェナルは

 「もう疑い深い人間はご免だ帰ってくれ
 といった意味のことを大きな吠え声で言ったといいます。教授は笑いながら、
 「でも、私はあなたを信じているからこそこうしてはるばるやってきたのではないですか」

 と言った。これで納得したのか、クールウェナルはそれから一時間ばかり、教授と親しく語り合ったといいます。そして帰り際に教授が

 「そうそう、一つだけ聞くのを忘れていました。犬の魂についてはどうお考えですか」
 と尋ねると


 「人間の魂と同じく永遠です」
 と答えたそうです。


 マルチダさんの話によると、クールウェナルは宗教的な問題について語ることがあり、、自分の方から質問することもあったそうです。マルチダさんが教えようとすると

 「そんなことは、とうの昔から知っています」とか
 「同じことを何度言ったら気が済むのですか」
 といった意味のことを言うことがあったといいます。


 獣医として有名なマックス・ミュラー教授は 「このダックスフントは知性の世界では動物よりも人間と同等のレベルで生活している」と述べ、次のような驚異的な話を紹介しています。

 ある時クールウェナルの研究のために訪れた際に、飼い主のマルチダ夫人に花をプレゼントしたところ、その花の種類と本数とを正確に言い当てました。そして「すてきな香りですね」と言ったといいます。試しに教授と計算の競争をしたところ、クールウェナルの方が速くて正確だったそうです。

 またマルチダ夫人から、クールウェナルが有名な作家の引用文も覚えていることを聞かされた教授が

 「〝生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ〟 は誰の文章か」と聞くと
 「シェークスピア」
 と答えたといいます。


 ミュラー教授によると、このダックスフントは人間界の話題には異常なほど関心があって、一般常識としては犬には理解できないと思われていることでも、きちんと理解していたといいます。

 たとえば教授がマルチダ夫人と紅茶を飲みながら談笑していた時のことですが、犬を食用にしている国のことが話題になり、そばにいたクールウェナルに教授が
 
 「何の話をしてるか分ってるかな?」
 と聞くと


 「ああ、分かってるよ」
 という意味の返事です。そこで


 「何か言いたい事がある?」
 と聞くと


 「キリスト教では 〝殺す〟ということは全て禁じてるじゃないですか」
 という意味の返答だったそうです。

 では最後に、学術誌〝プログレス・トゥディ〟に掲載されたミュラー博士の結論を紹介しておきましょう。


《獣医である私にとって、こうした犬が吠え声と足踏みの動作によって、アルファベットの原理で見分けたり聞き分けたりして対話を交わすのを観察するのは、実に興味深い体験だった。

 もとより、これ以前にも思考力をもった動物の存在は承知していたが、このクールウェナルは衝撃的なケースだった。人間の動物に対する態度がいかに間違っているか、動物がいかに人間世界のことをよく見ているか、反対に人間がいかに動物の世界のことを理解していないかを教えてくれている。

 われわれはこれまで、動物なんかに思考力があるわけはないと思い込んでいた。が、これは人間の思い上がりだった。少なくともクールウェナルは思考し、熟考し、反復し、工夫し、結論を引き出し、

われわれより速く計算し、アルファベットと数字を用いてわれわれと対話をする。これはこれまでの常識を超えた驚くべき事実で、今、クールウェナルのお陰で、われわれも初めて知るところとなった。

 動物が人間に、そして人間が動物に意思を伝達できるという事実を認めることができる方にとって、結局、人類と動物の脳は異質なのではなくて程度の差があるだけであることは、明快に理解できるであろう》 

 
     
 道理〟を弁(わきま)える動物たち  

 馬が犬のように人間の家庭の中に入ることがなかったのは、図体が大きすぎるからでしょうか。でも、この大きすぎるペットも、人間との長いお付き合いによって、人間的性向をいくつか身につけており、、時には動物の本能的な賢さをはるかに超えた、理性的判断力と知能を見せることがあります。

 エルベルフェルト(旧西ドイツ)のカール・クロール氏が育てた馬には、ひづめを踏み鳴らすことで対話をしたり、難しい数学の問題を解くことができるものが、何頭もいました。平方根や三乗根の計算ができるものもいたといいます。

 これには多くの科学者の証言があります。『青い鳥』で有名なメーテルリンクもエルベルフェルトを訪ねて実験しています。そのうちの一頭はメーテルリンクも解けない数学の問題を見事に解いています。また、平方根を求める問題を出したところ、そのうちの一問には答えようとしないので、あとで調べてみたところ、その数字には平方根がないことが判明したとのことです。

 こうした話を聞くと必ず、それは何かのサインを使って飼い主が教えたのだろうと言う人がいますが、その後、目の見えない馬を使った実験で完全に否定されています。

これから紹介するのは、米国の心霊研究家のアーサー・ゴードビー氏による調査を受けた、ブラックベアという名のシェットランド産のポニー(小型の馬)の話です。

 飼い主はニューヨークのトーマス・バレット氏で、買ってすぐからそのブラックベアが人間の言葉に素早く反応するだけでなく、動物には考えられないほど高度な判断力を見せることに気づき、アルファベットを教え込んで簡単な単語を覚えさせ、単純な算術を教えていきました。

 ところが、そのブラックベアの能力はバレット氏の能力を凌ぐほどに進歩し、それが話題を呼んで、いろんな人が見物に来るようになりました。

 中には飼い主のバレット氏がトリックを使ってるに相違ないという見方をする人が多くいました。では、そうでないところをお見せしましょう、ということで行なった実験がうまくいくと、「なるほど」と得心するよりも「バレット氏はショーの天才だ。実に巧みにやるもんだ」 といった受け止め方をする始末でした。

 本格的な調査を目的に訪れたゴードビー氏も、最初はあまりの見事さに戸惑ったほどだといいます。が、繰り返し調査をしていくうちに、バレット氏は故意にも無意識にもトリックは使っていないとの結論に達しました。

 実はゴードビー氏が初めて訪れた時に、英国の心霊研究家のブライ・ボンド氏も同行していました。ボンド氏は『記憶の中の修道院』(※)という著書で有名な研究家で、本来は牧師で宗教建築士で考古学者と言う多彩な能力の持ち主です。


※───これは二人の霊媒による自動書記通信をまとめたもので、通信してきた霊は英国のグラストンべりにかつて存在した古い修道院の敬虔な修道士。その通信が届けられた時点ではそこに修道院が埋もれていることは知られてなかった。それが発掘作業によって事実であることが判明したというもの。その修道士は地上時代の修道院の素晴らしさが忘れられず、今もその土地に執着して、一歩も向上できずにいる。こういうのを〝地縛霊〟という───訳者。


 ボンド氏はブラックベアの数字(算数ではない)の能力に着目しました。もはや飼い主のトリック等という言い掛かりは問題にならないと判断していました。

 ボンド氏は黒板に正方形を描き、対角線を引いて、これを何と呼ぶかと聞いてみました。〝対角線〟 という答えが返ってくると思ったら、〝三角形の斜辺〟 という返事が返ってきたというのです。奇妙な答え方ではありますが、間違いではありません。

 次に出した問題は、一辺が五単位の正方形の対角線の長さは? というもので、単位(一センチとか二インチとか)を特定しないでおきました。ブラックベアは間髪をいれずに〝7〟と答えましたが、すぐあとで首を振りながら後ずさりしました。

 どうやらブラックベアも、単位を特定していないので、正確な数字は出せないことが分ったようでした。しかし、いかなる単位にせよ〝7〟がいちばん近い数値であることは間違いありません。

  こうしたテストによって、ブラックベアの能力が人間の能力としても高等なものであることから、ゴードビー氏は超能力の可能性もあるとの見方を強めて、その側面からの調査を始めました。

 まずブラックベアにこんな質問をしてみました。
 「私の頭の周りに何か色が見えますか」
 この質問にブラックベアはすぐさまうなずいて、ゴードビー氏に近づき、鼻の先をゴードビー氏の額に当てがいました。

 「何の色?」と聞くと

 「明るい」という答えです。
 「明るい何色ですか」と聞くと、驚いたことに
 「明るい光線」と答えたのです。

 なぜ驚くべきことかといえば、ゴードビー氏は 〝色〟の種類を求めていたのに、その指示に乗らずに〝光線〟 と答えたからです。

 そこでゴードビー氏がさらに探りを入れる質問をしてみたところ、その部屋に、いつもの人たちとは違う姿が見えていることが分かりました。

 何人いるかと尋ねると、男性が何人で女性が何人、と答え、その人たちの名前が分かれば教えてほしいというと、答えようとしません。どうやら返事を遮られている様子でした。さらに質問しようとすると、その人たちはもういないとの返事でした。

 明らかにこのブラックベアには人間の 〝背後霊〟 がついていたということです。これほどの霊的能力を持つ馬ですから、テレパシーにも反応して当たり前ですが、ある実験によって、必ずしもテレパシーではない、つまり質問者の脳裏にある答えを読み取っているのではないことが判明しています。

 それは一八六一年の米国の大統領について質問した時で、「誰か」という質問にはあっさりと「リンカーン」と答え、暗殺されたのがワシントンにいた時であることも、いとも簡単に答えました。

 そして、その暗殺者の名前を尋ねると
 「ブース」とだけ答えるので

 「呼び名は?」と尋ねると
 「ウィルクス」と答えました。この答えが問題なのです。ゴードビー氏の解説を紹介しましょう。

 「ブラックベアは図書館へ行って本を読むなどということをするはずがない。大学へ通ったわけでもない。家庭教師がいるわけでもない。十一年間をたった一人で、いや一頭で馬小屋の中で過ごし、時にはいろんな催しに連れて行ってもらったくらいのことです。

 そうした事情から考えると、右の暗殺者についての返事は実に不思議なのです。どの歴史書をみても暗殺者の名前は『ジョン・ウィルクス・ブース』と出ています。ところが彼の仲間達(彼は俳優だった)の間では『ウィルクス・ブース』と呼ばれていたのです。

 なぜブラックベアはその名前で答えたのでしょうか。かりに書物を読んだか、あるいはわれわれの頭の中から読み取ったとしたら、『ジョン・ウィルクス・ブース』と答えたはずなのです」

 このことから、かつてのブースの仲間が背後霊としてブラックベアに答えを教えていたということが想像できるわけです。結論としてゴードビー氏はこう述べています。

「ブラックベアは知能では驚異的とはいえませんが、霊界の人間からの通信を受け取る、動物としては珍しい霊的能力を持っているようです」

                     
 
     
 四章〝人命救助〟 で勲章を授かった動物たち
 
 人類は、その長い進化の歴史の中で、崇高な精神を発達させてきました。危機に際して我が身を犠牲にして他人の生命を救った話が数多く残っています。

〝愛〟と呼ばれている他人を思いやる心はさまざまな形で表現されていますが、それを人類史上もっとも顕著に、そして模範的な形で表現した人物と言えば〝ナザレ人〟イエスを第一に挙げるのに異議を挟む人はいないでしょう。

 かのナポレオンでさえ、こんな感想を述べたといいます。

「・・・・・・その点キリストは別格だ。キリストに関することの一つ一つが私には驚きである。その精神の高邁さには不意をつかれたような驚きを覚えるし、その意志の気高さには戸惑いすら感じる。キリストとこの世的なものとの間には、まず比較すべきものが見出せない。まったく別格なのだ。キリストに近づけば近づくほど、そしてキリストの生きざまを細かく見れば見るほど、すべてにおいて私には手の届かない存在であるように思えてくる」

 ところが、こうした犠牲的精神や勇気、愛他的行為は、実は人間の専売特許ではないらしいのです。本章では、そうした例をいくつか紹介してみましょう。

 第一次大戦中、フランスでそうした感動的な話がよく報じられ、のちにそれが英語に訳されて〝動物の魂〟 というパンフレットになりました。その〝まえがき〟にこういう一節があります。

「その〝人間の忠実なる友〟が大戦中に掛けがいのない存在としての働きを見せたのである。ある時は不寝番兵として、ある時は情報連絡員として、ある時は看護人として、ある時は食糧運搬係として、目覚ましい働きをした。その存在は兵隊たちにとって喜びの源泉だった。

 彼らには人間と同じく〝登録証〟と〝身分証明カード〟、軍装品とガスマスクが与えられていた。彼らは後方部隊でトレーニングを受けた後、第一線へと派遣された。

 彼らは実に恐れを知らぬ〝兵士〟だった。自分の生命を犠牲にしてフランス兵を救ったことも多かったが、窮地の兵士を見事に救い出したことも多かった」

 こうした戦争中における武勲の話だけでなく、普段の生活で人命を救った話も少なくありません。〝ビクトリア十字勲章〟という、ビクトリア女王が制定した大変名誉ある殊勲章がありますが、それにちなんで〝デイリー・ミラー〟 紙が 〝犬のビクトリア十字勲章〟 というのを制定しています。

 〝勇気をたたえて〟 という文字が刻まれたバッジのついた首章が贈られるのです。例えば次のような話が〝デイリー・ミラー〟紙が発行したパンフレットに出ています。


〇 ジップという名の五歳の小犬が家族と一緒にキャンプへ行った。ある夜、三人の子供が寝ているテントが火事になった。子供たちはぐっすり寝入っていて気づかない。その時ジップは、燃え盛る炎の中に飛び込んで、三人のベットのシーツを引きずり下ろして起こし、間一髪のところで救い出した。三人がテントの外へ出た直後に、そのテントが焼け落ちた。

〇 スコットランドのリッチーという老人がコーキーという犬を連れて山越えをしているうちに、猛吹雪になった。寒さに耐えきれなくなってリッチー氏がうずくまった時、コーキーはリッチー氏の首に巻きつくような形で一緒に寝て体温を維持させ、夜明けとともに援助を求めに走って、無事救出した。

〇 娘が車の後部によじ登っているのを知らずに父親がその車を発進させた。それを見たクラッカーという飼い犬が猛スピードで走って、その車の前に回り、車に体当たりして知らせようとした。それを二度、三度と繰り返してやっと車が止まった。何事かと車から出た父親は、娘が車の後ろにしがみついているのを見てびっくりしたが、娘は無事だった。しかし、クラッカーは全身打撲で死亡した。

〝人命救助〟は犬だけの専売特許ではありません。〝サンデー・エクスプレス〟 紙に次のような話が出ています。

 ロンドンのある家が火事になりました。それをいち早く気づいたその家の飼い猫が、台所のドアに何度も体当たりして大きな音を出し、家族を起こしたといいます。普通なら自分だけ逃げ出していいはずです。

 このように動物もいざとなると人間に優るとも劣らぬ勇気と機転を出すものです。そして人間と同じく危険を冒し、時には自らの命を犠牲にして人間を救っているのです。

 忠誠心や犠牲的精神は人間の最高の精神的属性とされています。それは霊性の最高の発露でもありますが、以上の数少ない例をみても、それが人間だけの専売特許ではない───動物でさえそうした崇高な精神を発揮することがあることが分かります。


 
          
 五章 動物の第六感の不思議  

 鳥類も含めて、動物の本能的な知覚能力、俗にいう第六感については、昔から不思議な話が多く語られています。
 戦争中には、動物に導かれて危うく爆撃を免れたという話がよく聞かれました。火事で焼失する家のネズミなどが二、三日前からいなくなるという話と共通しているように思えます。

 本章ではそうした話の中から、人間の頭ではとても解釈のつかない不思議な動物の行動の実例を幾つかあげてみましょう。

〝ニューズ・クローニクル〟紙によると、ある家族がイングランド北西部の州カンバーランドの小さな村から六十マイルも離れた土地に引っ越した時、一匹の猫も連れて行きました。その猫が三日後に三匹の子を産みました。ところが、翌週、その三匹の子猫もろともいなくなってしまいました。そして三週間後に、もとの村の家に四匹揃って戻ってきたというのです。

 生まれて一週間そこそこでは、子猫は満足に歩けないはずです。親が口にくわえて運んだとしても、一度に三匹は無理でしょう。一匹をくわえて運んでは、また戻ってきて次の一匹を運んだのでしょうか。ヒッチハイクでもしたのでしょうか。もしも一匹一匹運んだとなると、親は合計で三百マイル歩いたことになります。その間に野ねずみでも探しに行ったとすると、その行動は人間の常識では理解できません。

 同じ猫でも、船に住みついている猫は、寄港した土地での行動が実に不思議です。どこかに寄港すると、猫は必ず〝下船〟して、どこかへ姿を消します。が、出港の日には必ず戻ってくるそうです。〝ニューズ・クローニクル〟に掲載された J・フォード氏の話によると───

 氏の船に住みついている猫は、僅か三十分の寄港でも必ず〝下船〟して、どことなく姿を消すのですが、出港直前にきちんと帰ってくるというのです。一度は一週間も滞在したことがあるそうですが、その間一度も姿を見せないのに、いよいよ出港する日にはちゃんと帰ってきたそうです。

 〝エディンバラ・ディスパッチ〟紙にはもっと面白い話が出ています。商船のスター号の甲板長にとてもなついていた猫の話です。

 シドニーに近いコカツー島沖に投錨しているうちにその猫が姿を消し、十一月二十一日の出港の日になっても帰って来ないので、やむなくロンドンへ向かいました。

 ロンドンに着いたのは翌年の一月十四日でしたが、それから一週間後に、その猫が姿を現わしたのです。上船すると真っすぐに甲板長の船室へ直行しました。が、甲板長は盲腸炎の手術で上陸して不在でした。猫は甲板長は何処に行ったのかと、船中を探しまわったといいます。

 それにしても、一一、二〇〇マイルの距離を一体どうやって戻ってきたのでしょうか。スター号の船長はこう語ります。

 「考えられるのは、オーストラリアの定期船テミストクル号に乗ってきたということです。われわれの船とほぼ同じ頃に着いたので、運よく見つかったのでしょう」

 でも、一体それがロンドン行きであることをどうやって知ったのでしょう? 五感で判断できる性質のものでないことは確かです。

 方向感覚の不思議となると、鳥類にはその例が豊富です。実験的に行なって成功した最も驚異的な例に次のような話があります。

 フランス北部にアスラという町があります。そこへ、インドシナのサイゴン(現ホーチミン)から一羽の伝書バトを連れて行って放し、ちゃんと元の屋根裏に帰ってくるかどうかを試そうということになりました。

 距離は七、二〇〇マイルもあります。行きは藤カゴに入れて船で運びました。インド沖を通り、紅海を抜けて地中海へ出たのですが、その間ハトは一度もカゴの外に出ていないのですから、道中の地理や地形はまったく分からないはずです。

 ところが、アスラで放たれてから二十四日後に、サイゴンの屋根裏に帰ってきたのです。距離的にはこれが最長であろうと言われています。


  次は動物や鳥類の予知能力の話です。〝デイリー・エクスプレス〟 に次のような、主人の死を予知し、しかも主人と一緒に他界した不思議な犬の話が出ています。


 警察官のへバーン氏がくじ引きでワイヤー・ヘアード・フォックス・テリア(ワイヤーのような毛をした小型のテリア)をもらいました。が、よほどの縁があったのでしょう、そのテリアがへバーン氏にとてもなつくようになりました。ティムという名前をつけてやって、へバーン氏も可愛がっていました。

 ある日、サイクリングをしていて転倒したのがもとで、ヘバーン氏が寝つくようになりました。そして不思議なのは、よく吠えていたティムがその日から吠えなくなり、陰気になったことです。へバーン氏の奥さんが新聞記者に語ったところによると

「その日から一度も吠えなくなりました。そして、わたしたちに見えないものが見えるようになったらしいのです。家中を駆け回っては一点をじっと見つめるのです。今から思うと、死神が見えていたのだと思います」 というのです。

 その死に至るまでの経過が不思議なのです。へバーン氏の容体が悪化しはじめると、ティムは主人のベットの下に潜り込んだまま、うつろな目をして動こうとせず、食べることも拒否するのです。

 さらに、主人が昏睡状態に陥ると、ティムも夢うつつの表情となって家を出て行きました。奥さんが後に聞いた話によると、ティムは警察署へ行き、三度その署に入ったり出たりして、主人を探している様子だったといいます。

 それから家に帰ってきましたが、相変わらず回りのことはまったく意識していません。奥さんがティムの首や脚を曲げると、曲がったままの状態で動き回るのです。獣医に診てもらいましたが、身体的にはどこも異常はないというのです。念のために注射をしても、ビクリともしません。

 へバーン氏はその後肋膜炎と脊髄炎を併発し、さらに目も見えなくなったのですが、ティムも同じ症状を見せ、へバーン氏がついに 〝臨終〟 の宣告を受けた時、ティムも 〝臨終〟 を迎えたということです。

  へバーン氏がサイクリング中に転倒して早々に帰宅した時は、家族の者も近所の人も、まさかそれが原因で死を迎えることになるとは、誰一人として予想しませんでした。が、ティムはそれを〝予知〟していたのです。両者の愛の絆があまりに強かったために、主人の症状がことごとくティムにも反応したのでした。


 次はインコの可哀そうな話です。〝プログレス・トゥディ〟紙に、ダグラス・ヒュームという人によるこんな話が出ています。


 オーストラリアのニュー・サウスウェールズで、ある人がインコの巣から三羽のひなを失敬して、トラックでシドニーに向かって出発しました。ところが驚いたことに、盗まれたことに気付いた母鳥がその道中の二百マイルをずっと付き添って、カゴの中にいる三羽に植物のタネや昆虫を食べさせていたといいます。

 そのひな鳥たちはもうすぐ飛べるようになる直前だったようで、母親は近くの木にとまって、大きな声で、飛んで出て来なさいと言わんばかりに啼きはじめました。が、カゴの中にいるひなが飛び出せるはずはありません。

 間もなく悲しい出来事が起きました。母鳥の方もそのこと、つまり三羽は絶対に外に出られないことが分かったらしいのです。母親はどこかへ飛び去って、再び戻ってきて、いつものようにエサをやりました。ところが、エサと思えたのは実は毒草のタネだったのです。ひな鳥たちは、三羽とも相次いで死んでしまいました。

「哀れな母親の知恵というべきでしょうか。我が子がペットにされてしまうことを超能力で悟ったのでしょう」
 ヒューム氏はそう語っていますが、そう簡単に片付けられるものではないように私には思えるのです。
                     


       
 六章 動物にもテレパシーや霊視能力がある  

  心と心の直接のコミュ二ケーションを〝テレパシー〟 (以心伝心)といいます。耳はもちろんの事、五感のすべてを超越した連絡・伝達のことです。

 テレパシー現象は日常生活において想像以上に頻繁に起きているようです。一般には生者と生者との間に起きるものとの認識がありますが、肉体(物質)を超越している以上は、生者と死者との間で起きても当然であり、したがって死者と死者、つまり霊の世界の伝達手段もテレパシーであると言ってもよいわけです。ただ、霊から送られてくる通信を生者がキャッチした場合を特別に〝インスピレーション〟 と呼んでいます。
 
 さて、このテレパシーの能力は人間よりも動物の方が発達しているようです。どうやら人間は物質文明の発達によって霊的感覚が鈍り、次第に五感に限られた世界のみが実在であるかに思うようになりました。もっとも、そのお蔭で芸術が発達し、知的文化が高度になったという見方も出来るかも知れません。

 が、テレパシーや愛情によって人間との縁が生じた動物は進化が促進されて、人間と同じ精神的資質が発達してくるようです。これから紹介する動物保護協会の秘書 L・K・シャトー女史の愛犬も、その部類に入るでしょう。

 女史が飼っていたのはウェールズ産のテリアで、飼い始めた時から賢い犬だと思ったそうですが、十三年の寿命で、ある日ぽっくりと他界しています。名前をモノといい、毎朝近くの丘へひとりで遊びに行くのが日課でしたが、時間が実に正確で、必ず三〇分で帰ってきて、女史の部屋のドアを叩くのでした。

 ところが、いつもより帰りが遅い日がありました。女史は、車にでもひかれたのかと心配になりましたが、まだ着替えていなかったので、すぐに出かけるわけにいきません。とっさに女史は、心で信号を送ってみようと思いました。姿勢を正して静かにし、モノのイメージを描きながら心の中で

 「モノ、モノ、すぐに帰っておいで。待ち遠しいわよ」
 と繰り返し念じてみました。すると、二、三分後に、ドアを叩く音と共にモノが帰ってきました。
 これ一回だけだったら偶然ということも考えられます。女史もそう思って、大して不思議にも思いませんでしたが、二度目に同じことが生じてから偶然とは思えなくなり、その後も同じことが繰り返されるようになりました。

 そういう時の特徴の一つは、息が切れそうなほど猛なスピードで帰ってくるということでした。時間通りに帰ってくる時は、とてもおとなしくて、息は切れていないのです。

 「私のテレパシーを受けて、はっとして大急ぎで走って帰ってきたのでしょう」

 女史はそう語っていました。そうしたモノの霊感の鋭さを物語るもう一つの話に、このようなことがあります。
 
 女史が仕事から帰ってくる時刻はいつも決っていて、その三十分前ごろからモノは玄関にしゃがみ込んで、女史の帰りを待っていました。

 ある日、女史がいつもより早目に帰宅したことがありました。ところが玄関にモノの姿が見えないのです。家の者に聞くと、メイドが散歩に連れて出たというのです。それから十分後にモノが道路を猛然と突っ切って突進してくる姿が見えました。その後ろをメイドが必死に追いかけてきます。

 心臓の鼓動が静まってから、メイドがこんな話をしました、池のそばを楽しそうに散歩していたら、モノが急に立ち止まり、くるりと向きを変えて猛烈なスピードで家の方へ走りだしました。メイドが慌てて呼び止めようとしましたが、振り向きもしなかったというのです。

 「いつもなら、もう帰りましょうね、と言っても帰りたがらないのに、その時ばかりは何が何だか、わけが分かりませんでした」
 とメイドが語っていました。


 あとで時間を照合してみたところ、モノが急に立ち止まって家に向かって駆け出した時刻と、シャトー女史が帰宅した時刻とが一致しました。モノは、いつもは帰ろうとしても帰りたがらないほど散歩が好きでした。女史が帰宅した時にモノが出迎えてくれないことを不審に思ったその念が、テレパシーとなってモノに通じたのでしょう。

 次は私自身が目撃した、霊視能力の発達した犬の話です。A・E・ディーン女史は心霊写真の霊能で有名な方ですが、女史が飼っているセントバーナード犬には霊視能力があります。

 私はディーン女史の家を何度か訪れていますが、訪れると必ずその犬が出て来て、後ろ脚で立って、前脚を私の肩に置くのです。それがこの犬の挨拶なのです。大きな犬ですから、小柄な私はいつも倒れるようになります。

 さて、夫のモーリスと一緒に訪ねた時のことですが、妙な光景を目撃しました。どうやら私たちといっしょに訪れた〝見えざる客〟を私たちと同じ生身の人間と間違えたらしく、後脚で立って前脚を持ち上げる仕草をするのですが、その脚が空を切って床に落ちると、おかしいなといった表情をしながら、それを何度も繰り返すのです。明らかに、そこに誰かの霊姿が見えていたのだと思います。


 フレデリック・マイヤースの大著『人間の個性とその死後存続』(未翻訳)にも、ロバが子供の霊姿を見たと断定できる話が出ています。


 これはグッドールという画家がSPR(心霊研究協会)に報告した話ですが、グッドール氏が海岸のリゾート地からイスキア島(イタリアの火山島)へ移動するためにロバを雇いました。以下はその報告記事の一部です。

 「目的のホテルに着いて、まだロバに乗ったままの姿勢で宿の女主人と話しをしていた時です。そのロバがまるで雷にでも打たれたみたいに、その場に急にしゃがみ込んだのです。当然私はそのロバの頭の上にガクンと落ち、さらに溶岩でできた歩道に転げ落ちました。

 それから二、三日後のことですが、夜中に不思議な声が聞こえて目を覚ましました。その声は、末の子供が死んだというのです。そして、間もなく英国の家族から、末の子が病気で急死したとの手紙が届けられました」

 グッドール氏が言うには、子供が死亡した時刻とロバが倒れた時刻とがピタリ一致するので、たぶんロバは、父親のもとを訪れたその子供の霊姿に驚いたのだろうというのです。そう考えないことには、あの脚のしっかりしたロバがなんの原因もなしに倒れるわけがないというのです。


 もうひとつ面白い話があります。海軍将校の J・A・ゴッドリー氏はピーターというスキッパーキ犬(シッパッキとも)を飼っていました。とても偏屈な犬で、どの犬とも仲良くならず、すれ違う時は凄い吠え声で他の犬を追っ払うのでした。が、ゴッドリー氏にはとてもなつき、十四年の寿命で他界した後もいつもゴッドリー氏の側についていると、霊能者から言われるほどでした。


 ある日のことです。近くにジュディというメスのテリアがいて、これもゴッドリー氏になついていて、通りで見かけると側に寄りそってくるのですが、その日だけはゴッドリー氏を恐がるように避けて、通路のわきへ寄るのです。そして十メートル以内に近づこうとしないのです。

 初めのうちはなぜだろうと不審に思っていましたが、そのうちふと思いつきました。ピーターがゴッドリー氏といっしょに歩いていて、その霊姿を見たジュディが恐がったというわけです。
 たぶん歯をむいてジュディを睨みつけていたのでしょう。

           

           
 七章 交霊会での死後存続の証明    ───客観的(物理的)な場合 
 
 交霊会というのは、死者の霊が死後も立派に生き続けていることを、いろいろな現象で証明してみせることを目的として催す会のことです。

 第一章で紹介したように、十九世紀半ばから世界的な科学者が参加してその真実性を証明してくれましたが、実はバイブルにも出てきますし、どの民族にも太古からあったことです。

 これには大きく分けて客観的なもの、つまり目で見たり耳で聞いたり、手でさわったりして確認できるタイプのものと、主観的なもの、つまり目には見えないけど、たとえば今ここにこういう容貌の男性(または女性)がいて、こういうメッセージを述べていますが、お心当たりの方はいませんか、といった要領で、その当人にしか分からない内容のメッセージを伝えるものとがあります。

 いずれも場合も〝霊媒〟(ミーディアム) と呼ばれる媒体が必要です。客観的なものの場合には、生前と同じ形体を整えて見せたり、発声器官(声帯)をこしらえるための材料として、エクトプラズムという特殊物質を使用します。主観的なものの場合、霊がその霊媒の発声器官を使用して語るわけです。

ここでその詳しい解説をしている余裕はありませんので、適当な解説書(※)をひもといていただくことにして、本章では客観的な現象によって動物の死後存続が証明された話を紹介しましょう。


※───一般的な解説書としては、ハート出版から出ている拙著『人生は霊的巡礼の旅』が適当であろう。物理的な現象が写真入りで解説してある───訳者。


  私達夫婦が、霊言霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の家庭交霊会(ホームサークル)にレギラー・メンバーとして出席していた時のことです。ある晩、いつもの時刻に訪れてみると、ロバーツ女史が悲しげな表情で出迎えました。


 どうしましたかと尋ねると、その日の夕方、ご主人と共に散歩に出かけた時に、小鳥のヒナが地面に落ちているのを見つけたのだそうです。可哀そうにと思って家に持ち帰って介抱してやりましたが、間もなく死んでしまいました。

 情が移っていたご夫婦は、小鳥用のちっちゃい棺をこしらえて庭に埋めてやり、その上に木の葉をかぶせてやりました、そして女史が祈りの言葉を述べて、家に入ったところへ私たち夫婦が訪れた、ということでした。

 そのあと、いつもの通りの交霊会となったのですが、女史が無意識(トランス)状態に入るとすぐ、小鳥の啼き声と共に、パタパタという羽音が聞こえたのです。驚いていると、いつもの支配霊(※)が女史の口を借りて、そのいきさつを解説しました。

 簡単に言えば、墓までこしらえ、祈りの言葉を述べたロバーツ夫妻の愛の念が、小鳥の魂にまで響いて、その自然な反応としての感謝の気持ちの表現が、あのような現象となったということでした(※※)。

※───レッド・クラウドという名の北米インディアンで、この本の後半で登場するシルバーバーチと同じ霊系の支配霊。当時(二十世紀半ば)はブラック・クラウド、ホワイト・フェザー、ホワイト・イーグルといった仮名を使った支配霊が多く輩出した。

 シルビアの夫君モーリス・バーバネルは、自分も霊媒として金曜日の夜にハンネン・スワッファー・ホームサークル(その支配霊がシルバーバーチ)を主催すると同時に、エステル・ロバーツ女史の家庭交霊会にも毎週かならず出席して、細かいメモを取っている。

『バーバネルは語る』というカセットの中で現代の霊媒の中で誰が最高と思うかと聞かれてバーバネルは迷うことなく「エステル・ロバーツ」と答えている。そのロバーツ女史の口を借りてシルバーバーチ霊がバーバネル夫妻に語りかけたエピソートは有名である。無意識状態(トランス)の自分はこうやってしゃべってるのかと、妙な気持ちで聞いたと述懐している───訳者。


※※───人間の場合も同じであるが、とくにこうした動物類や鳥類が出現する時は、背後霊団による演出または手助けが必要である。ロバーツ女史は霊言を最も得意とし、七一ページに紹介したような大きなホールでの公開交霊会(デモンストレーション)は圧巻だったが、時には物質化現象も起きた───訳者。

 ポーランドの物理霊媒フランク・クルスキー氏による交霊会には、白昼でも物質化霊が出現したことで有名ですが、ある大学教授が科学誌〝サイキック・サイエンス〟で述べているところによると、動物が出現することも珍しくなく、犬や猫をはじめ、リス、ライオン、さらにはタカ、あるいはコンドルに似たものまで出現したことがあるといいます。
 
「彼らの行動は実に自然です。犬が出た時も、部屋の中を走り回り、しっぽを振り、出席者の膝の上に乗って顔をなめたりしました」

 とその教授は語り、コンドルが出て部屋中を飛び回り、その翼が壁や天井に当たってバタバタという音を立てたと述べています。

 同じく 〝サイキック・サイエンス〟 に同じクルスキー氏の交霊会に出席した H・マッケンジー女史の報告が出ています。それによると、背後霊の一人であるアフガニスタン人が、時おり、ライオンに似た大きな動物を連れて出現することがあったそうです。

「その物質化した動物がザラザラした舌で列席者を次々となめてまわり、しかも、ネコ科の動物特有の体臭を発散させたので、それがみんなの衣服にしみついて、まるで動物園で何日も暮らしたみたいに、いつまでもその臭いが鼻について閉口しました」
とマッケンジー女史は語っています。

 クルスキー氏の交霊会のもう一人の常連の出現霊に、威厳のある東洋人がいて、その霊が出る時は必ずイタチのような姿をした、小さくて可愛い動物も出てきたそうです。マッケンジー女史は語ります。

 「その動物はいつも大人しくて、みんなから〝おいで〟をされるほどの、列席者のお気に入りでした。が、東洋人が姿を消すと、その動物も姿が見えなくなりました。

 その動物はよくテーブルの上に跳び乗り、さらにテーブルから列席者の肩へと跳び乗り、その冷んやりした鼻の先で列席者の手や顔をクンクンと嗅ぎまわりました。時には何かに驚いたようにテーブルから跳び降りて部屋中を駆けまわり、置きものをひっくり返したり、テーブルや机の上の用紙をバラバラに蹴散らすのでした」


 ではここで、私が夫のモーリスと一緒に米国旅行をした時に出席した交霊会での体験を紹介して、物質化現象の驚異と謎を検討してみましょう。それには取り敢えずモーリスの著書 This is Spiritualism (日本語版『これが心霊の世界だ』潮文社)から引用するのが適切でしょう。

「・・・・・・米国を講演旅行していた時に、ペンシルベニアで物理実験に招待された。その時も霊媒と物質化像の両方を同時に見ることができた。両方を手で触ってみることによって、それが私の幻覚でないことを確かめた。
 
 霊媒はエセル・ポストパリッシュ女史で、私にとっては女史の交霊会に出席するのは初めてなので、前もって部屋とキャビネットを点検することを許された。キャビネットは部屋の隅をカーテンで囲んだだけのものだった。現象が本物かどうかは現象を見れば分かることなのだが、一応、霊媒を得心させる意味もあってか細かく点検させてもらった。

 部屋は奥行きがほぼ四十フィートもあり、気持ちのいい赤色光で照らされていた。物質化像は全部で数人は出た。そして部屋の端から端まで歩いた。

 中でも特に目立ったのはシルバー・ベルという名のインディアンの少女だった(写真参照)。霊媒の支配霊で、主として物質化現象を担当しているとのことだった。シルバー・ベルは得意気に額に輝いている星印を見せ、長く編んだ黒いおさげ髪を、〝これご覧〟と言わんばかりに見せびらかした。その髪は色も性質も霊媒のものとは全く違っていた。

 私は部屋の一番端にいたのであるが、シルバー・ベルは私のところまで歩いてきた。そして私の手を取ってキャビネットのところまで連れて行った。それからキャビネットの中に招き入れて、霊媒がちゃんとそこにいることを確かめさせた。

 確かに、私はそこにボストパリッシュ女史を確認した。さらにシルバー・ベルが私に、女史の髪の毛から足の先まで触ってみるようにと言う。その間シルバー・ベルはキャビネットの入口にいた。結局、私がいた位置は霊媒と物質化像の中間で、両方を同時に見とどけ、同時に触ってみることができたわけである。

 私が確認を終わると、シルバー・ベルは再び私の手を取って、部屋の端の席まで案内してくれたのだった」


 さて、こうして地上時代と同じ物的身体を再現することができる以上は、心臓とか脳とかの器官も、一時的にせよ、再製されている筈です。現に多くの科学者が交霊会に立ち合って、物質化霊の手首を握って脈拍を確認しています。ウィリアム・クルックス博士の実験では、外科医師会のガリー博士がケーティ・キングと名のる物質化霊の脈を計っている写真が撮れています。

 そのほか、出現した霊が水を飲んだりケーキを食べたりした例もあります。食べたものは物質化像が消えた後はどうなるのかという疑問が出そうですが、多分、エクトプラズムが分解する際に一緒に分解されて、霊媒の身体に吸収されるのであろうということになっております(※)。

 チャ-ルズ・ボサムという霊媒による交霊会で大きな犬が物質化して出てきたことがあります。部屋の中を勢いよく走り回ったあと、嬉しそうにシッポを振りながら、出席者の一人ひとりの手や顔をなめたり、膝の上に足を置いたりして、じゃれておりました。

 そのうちにノドが渇いたのでしょうか、部屋の奥へ行って、そこに置いてあった洗面器の水(物理実験では効果を上げる目的で水を置くことになっている)を飲みはじめ、最後の一滴まで、やかましいほどの音を立てながら、舌でなめ上げてしまいました。会の終了後に点検しましたが、どこにも水は見当たらなかったそうです。

※───それについては、なぜか霊側は詳しい原理を教えてくれないが、たぶん 〝気化〟 の作用が加わっていると推察される。その根拠として、信じられないような不思議な話を紹介しよう。

 一八九五年のことであるが、米国にフランシス・シュラターというい人物が忽然と現われ、驚異的な病気治療で話題をさらった。一日に千の単位の数の患者を治療し、指先が擦り減るほどだったという。先天性の障害から慢性病、聾唖、盲目、ガン、結核等々、何でも奇跡的に治していた。

 人々は神の申し子として崇め、ヒステリックな賛美者も現われたが、本人は淡々として、朝から晩まで、ひたすら治療していた。

 そんなある日、一八九五年十一月十四日の朝のことである。治療室を貸していたフォックス氏が、いつもは六時には姿を見せるシュラター氏が七時になっても姿を見せないので不審に思い、ドアを開けてみるとシュラター氏の姿がない。ベットに行ってみると一通の封筒が枕に留めてあった。開けてみるとこうあった───

 「フオックス殿。
 私の使命は終わり、父が迎えに参りました。さようなら。
 十一月十三日。 F シュラター」


 その後もシュラター氏の消息は沓(ヨウ)として分からない。
 イエス・キリストの遺体が墓からなくなったのはなぜかと問われて、シルバーバーチは一言

 「消えました」
 と答えている。霊的に浄化された人間の身体は気化されて大気と同化できるのであろうか──訳者。

                      
 
      
 八章 交霊会での死後存続の証明  ───主観的(精神的)な場合
 
 交霊会と呼ばれているものには大きく分けて二種類あります。ふつうの家庭でも応接間などを使って数人から十人程度の小人数で行う場合を 〝家庭交霊会(ホームサークル)〟 と呼び、大きなホールで百人とかそれ以上の出席者を前にして行うのを〝公開交霊会(デモンストレーション)〟と 呼びます。

 前章で紹介したように、ホームサークルでは何種類、あるいは何十種類もの現象が起きますが、デモンストレーションでは霊視能力で出席者の身内の他界者の容貌を叙述したり、霊聴能力でその霊からメッセージを伝えたりして、間違いなく身内の誰それであることの確証を与える、ということを主眼としています。そうした中に、ひょっこりとペットが出てくることがあるのです。そうした例をいくつか挙げてみましょう。

 ホームサークルでのことですが、へスター・ラインズという女性霊媒がパーマーという夫人の家に招かれて交霊会を開きました。ラインズ夫人が無意識状態に入ると、支配霊が出現して話しはじめました。すると間もなく話を止めて

「今、犬の霊がこの部屋に入ってきましたよ。この家で飼っておられるのとよく似ていますが、少し大きくて、しっぽも長くて、足の一本が白い毛をしていますね」

 これを聞いてパーマーさんはピンときました。同じ親から生まれた姉と弟の二匹の犬のうちの姉犬の方で、弟犬は亡くなった姉さん犬をとても慕っていて、今でも姉犬の箱で寝ているということでした。

 ホームサークルとデモンストレーションの両方に出現した例として、ハーバード・グレゴリー氏の二匹のフォックス・テリアがいます。二匹は二年の間隔で相次いで他界しましたが、それから二、三週間後に二匹とも姿を見せています。

 霊媒はその毛の色、背中と頭部の斑点などを適確に指摘しましたが、何よりも特徴的だったのは、しっぽが自然のまま長いことを指摘したことです。フォックス・テリアはしっぽを短く切るのが習慣で、切ったあとの切り株のような尾が特徴とされているのですが、グレゴリー氏はそれが嫌いで、切らせなかったのです。

 グレゴリー氏はもう一匹、ホイペット犬も飼っておりました。グレゴリー氏はその犬に格子柄のコートを着せていたのですが、霊媒はそれを見事に指摘したといいます。


 次は猫の例ですが、フローレンス・トンプソン女史によるデモンストレーションで、ある女性のために、父親が霊界からジミーという名の猫を連れてきているのを霊視して、その特徴を述べました。

ジミーの最大の特徴はしっぽに包帯を巻いていることでした。その女性が言うには、ジミーは車にひかれてしっぽを切断されたということでした。その他にも述べられた特徴はみなジミーのものと一致していたそうです。

 ここで注意しなければならないのは、人間の霊と同じく、動物の霊が出現した際に地上時代のままの障害箇所を見せるのは、決して今も同じ障害を引きずっているということではなく、本当に自分であることの確証として、あえて地上時代と同じ障害を再現してみせるということです。

 それは霊媒の技術者には難なくできることなのです。霊的身体は肉体のように障害を受けることは絶対にありませんから、地上でどんな障害を持っていた人でも、あるいは動物でも、死後は完全な身体に戻るのです。

 次もトンプソン女史のデモンストレーションでのことですが、ある女性に、霊界の妹が白と緑と赤の羽根をしたオウムを連れてきていることを告げ、さらに、こんな細かいエピソートまで指摘しました。

ある時、そのオウムが、窓のレースのカーテンを自分のカゴの中に引っ張り込んでズタズタに引き裂いてしまいました。それでその女性が鳥カゴを部屋の反対側に移したというものでした。まさにその通りです、とその女性は答えたそうです。



 さて、ステラ・ヒューズといえばスピリチュアリズムの歴史にその名を銘記さるべき女性霊媒の一人ですが、女史の交霊会には動物や小鳥が出現した話がよく聞かれます。

 たとえばデモンストレーションでの話ですが、ヒューズ女史の霊眼にしっぽのない猫が見えました。そして、その原因まで霊視して
 「これは誰かがドアを閉めた時に運悪くこの猫が入りかけて、しっぽを挟まれましたね」 
 と言いました。そう指摘された飼い主は、まさにその通りである事を認めたということです。

 ホームサークルでヒューズ女史が三羽のクジャクを見たことがあります。
 「名前はジュイ、ジュニパー、ジャニュアリですね?」

 と出席者の一人に言うと、聞かれた女性は 「その通りです」 と答え

  「アイルランドの自宅の庭をいつも優雅に飾ってくれて、私は大そう誇りにして可愛がっておりました」 
 と述べたそうです。


 ヒューズ女史のサークルの常連に法廷弁護士夫妻がいました。その二人は実に奇妙なペットを飼っていました。二匹のカエルでした。ところが、その二匹が、ある年の冬に寒さの為に 〝他界〟 してしまいました。そしてそれから程なくして弁護士のご主人も他界しました。

 さびしくなった奥さんがヒューズ女史に交霊会を要請しました。さっそく催された交霊会に間違いなくご主人が来ていることを証明したあと、ヒューズ女史は、驚いたことに、二匹のカエルが出たことを告げ、呼び名はアダムとイブでしょうと奥さんに言いました。その通りで、バイブルからこの名を選んだとのことでした。

 あとでヒューズ女史は、なぜその名前が分かったのかと問われて、例のアダムとイブのいるエデンの園の絵が目に映ったのでそう直感したとのことでした。

 こんな話もありました。ロンドンでのデモンストレーションで、遠方から来ていた女性に
 「ラッグスという名の犬を飼ってらっしゃいますね。でも、お気の毒ですけど、肉屋さんの車にひかれて死にましたよ」
 と述べました。するとその女性は自信ありげにこう答えました。

 「そんな知らせは届いておりません。何かの間違いだと思います」

 その女性はそれから二週間ロンドンに滞在してから自宅に帰ったのですが、ヒューズ女史の言った通り、愛犬のラッグスは肉屋のライトバンにひかれて他界していたそうです。


 
      
 九章 動物たちは人間の愛を忘れない

 フローレンス・キングストーン女史は動物好きであると同時に、すぐれた霊媒でもありました。いつしか〝動物交霊会〟とでもいうべき会が定期的に開かれるようになり、愛する動物たちを失った人々が大ぜい集まるようになりました。

 ある日の交霊会で出席者の中の一人の婦人のまわりに、たくさんの、しかもいろんな種類の動物の霊が見えるので、キングストーン女史が「何かわけがあるのですか ?」と尋ねると、「私は獣医なんです」という答えで、なるほどと納得がいったそうです。その獣医さんに病気やケガを治してもらったことに対する無意識の感謝の気持ちが、動物たちをそこへ自然に連れてきたのです。

 その獣医さんが、多分その中に自分が今でも気がかりなのが一頭いるはずであることを述べると、すかさずキングストーン女史はそれが犬であることを指摘してから、その犬は猟場管理人が過って撃ち殺したのでしょうと述べると、まさにその通りだとの返事だったそうです。

 別の日の動物交霊会で、キングストーン女史の霊眼に二匹のダックスフントが見えました。そして、その二匹と一緒に大きな枝編みカゴが見え、防水加工した布のカバーがついています。女史が

 「たぶん犬のねぐらだと思います。こんなのは初めて見ます」
 と言うと、そのダックスフントを飼っていた女性がこう答えた。

 「私には心当たりがあります。私が自分でこしらえた一風変わったバスケットで、それでその二匹を南アフリカへ三度も連れて行ったのですよ」


 さて、猫とか犬のペットは珍しくありませんが、牛のペットというのはあまり聞かれない話ではないでしょうか。ところが、こんな話があるのです。


 オーストラリア人のエリザベス・シルマンさんの農家では、何年もダーキーという名の牛を可愛がっていました。仕事をさせるとさっぱりダメなのですが、では肉牛にしてしまおうかと言うと、子供たちが大反対をするのです。

 大人しい牛で、子供たちは寝そべっているダーキーの背中や腹に乗って、好き放題のことをするのですが、ダーキーは怒りもせず、嫌な顔もせず、それを楽しんでいるかのように、じっとしているのでした。

 近所の農家にスポットという名の犬が飼われていましたが、この犬もシルマンさんの家族と遊ぶのが大好きで、ある時、その農家が五十五マイルも離れた場所へ引っ越した時、スポットはシルマンさんの家族が恋しくて、真夏の太陽のもとを歩いて帰ってきたそうです。

シルマンさんの家族が玄関の上がり段のところにスポットを見つけた時、足を痛め、お腹をすかして、身動き一つできない状態だったそうです。


 ところがシルマンさんの家族も都合でイギリスへ移住することになりました。ダーキーを連れて行くわけにはいきません。といって、仕事用に引き取ってくれる農家はどこにもありません。そこで、やむを得ない処置として、安楽死(薬殺)の専門家に預け、スポットは飼い主のところへ連れて行きました。

 それから一年後のことです。シルマン夫人はある土地の教会での公開交霊会(デモンストレーション)に出席しました。初めての土地で、出席者に顔見知りは一人もいません。まして、夫人の名前を知っている人はいません。

 ところが壇上の霊視能力者はシルマン夫人を指名して、そばに大きな牛がいて、こういう特徴とクセがありますと述べたのです。それはまさしくダーキーでした。そしてさらに黒の斑点のある白い犬がいて、夫人の注意を引こうとしていることを告げたのです。

 シルマン夫人はそれまでに飼った犬を思い出してみましたが、そう言う犬は飼ったことがないので、正直にそう言いました。実はそれがスポットだったのです。その後オーストラリアからの便りで、スポットが車にひかれて死亡したとの知らせが入りました。死亡した日と、霊視能力者が〝白い犬〟を霊視した日とが、ぴたりと一致しておりました。

 スポットはオーストラリアで五十五マイルも歩いて死にそうになりながらも、シルマンさんの家までやってきたのですが、今度は霊界から大好きなシルマン夫人のところへ挨拶に訪ねたのでした。飼い主であるかどうかは、動物にとってはどうでもよいことなのです。愛が通い合う人のところへ来たがるものなのです。


 最後に紹介するのは、老夫婦と老犬の心温まる話です。

 W・ボールドウィン夫妻は黒と灰色の混じった、かなり年のいった犬を飼っておりました。名前をダンディといい、メイドのアニーと大の仲良しでした。毎晩九時になるとダンディは居間の自分の席を立って台所へ行き、アニーから夕食をもらうのが日課でした。

 が、頭のいいダンディはアニーの〝休日〟を知っていて、その日は自分で台所から自分の皿をくわえてボールドウィン夫妻のところへ持って行き、今日はお二人が給仕してくれる番ですよ、と言わんばかりに差し出すのでした。

 そのうちボールドウィン氏が体調を崩し、医師の勧めでロンドンを離れて空気のきれいな場所へ移転することになりました。ところが、時を同じくして、ダンディも急速に視力が落ちて、盲目同然になってしまいました。

 移転先へ連れて行くわけにもいかず、置き去りにするわけにもいかず、獣医の勧める〝毒殺〟に渋々同意しました。といって、それまで我が子のように可愛がったものを簡単に片付ける気にはなれません。夫婦は一日、また一日と延ばしておりました。

 そんなある日の午後、メイドのアニーがダンディを散歩に連れて行ってやり、帰ってからいつものバスケットに入れてやり、ボールドウィン夫妻にも「いい子でしたよ」と、ひとこと告げました。

 その夜のことです。ダンディは寝る前に軽く散歩をする習慣なのですが、ボールドウィン氏がいつものようにバスケットの近くへ行って名前を呼んでも、出てきません。

 おかしいと思ってバスケットの中を覗いてみると、ダンディは既に冷たくなっておりました。薬ではなく自然が、ダンディを霊界へ連れて行ってくれたのです。

 その翌晩のことです。霊媒のハロルド・シャープ氏が訪ねてきました。シャープ氏とダンディは大の仲良しでしたので、ボールドウィン夫妻はダンディの死をすぐには告げかねておりました。ところが、三人が居間で談笑していた時───それはまさに九時ごろでした───ドアが勢いよく開いたかと思うと、ダンディがいつのも皿を加えて入ってきました。シャープ氏は大きな声で

 「ハロー、ダンディ
と叫びました。その様子はまさに生きたダンディに呼び掛けているようで、事実、シャープ氏はいつものダンディとばかり思っていたそうです。

                       
 
       
 十章  心霊写真による証明
  イングランド北西部のクルー市に住むウィリアム・ホープ氏(一八六三~一九三三)は心霊写真を専門とする霊媒で〝クルーサークル〟 という施設を主宰していました。この人に撮影してもらった写真には必ずといってよいほど他界した身内や友人・知人などが写っていて、それだけで死後の実在を信じるようになった人が少なくありませんでした。

 ホープ氏はもともとは職工で、ある日の昼の休憩時間に仲間の一人を、レンガ塀を背にして写真を撮ってやったところ、そこにいなかったはずの別の人物が写っていて、しかもその姿を通して背後のレンガ塀が見えるのです。本人に見せると、それは他界している姉だが、どうやってこんな写真をこしらえたのかと問われて、ホープ氏自身も困ったということです。
 
 それを第一号として、その後も次々と不思議な写真───死んでいるはずの人物が写っている写真が撮れるようになり、しかもそんな写真はその家の者も覚えがないことから、死後の存続を示す証拠として話題を呼ぶようになりました。

 そのうち英国国教会の大執事(副主教)でスピリチュアリズムにも理解のあったトーマス・コリー氏のすすめで心霊写真を本格的に研究するようになり、さらに同市に住む霊能者のバックストン女史と組んで〝クルーサークル〟 という心霊写真専門の機関を設立しました。

 さて、そのバックストン女史の家族が、ある日、ホープ氏に心霊写真を依頼しました。その頃は、父親が他界して間もない頃だったので、家族全員を撮ればきっと父親が姿を見せてくれるだろうと期待していたそうです。ところが、実際に写っているのは父親ではなくて、かつてバックストン家で飼っていたフロスという名の愛犬でした(一〇二ページ参照)。

 しかも、この写真で不思議でならないのは、フロスを一番嫌っていたエイミーの膝の上に乗っかるようにして写っていることです。実はエイミーのフロス嫌いは大変なもので、同じ部屋にフロスがいるのが我慢できず、エイミーがバックストン女史の家に遊びに来る時は、必ずフロスをエイミーに見えない場所へ連れて行かねばならないほどでした。

それが、なぜまた、よりによってエイミーの膝の上に乗っかっているのか───私には確かなことは分かりませんが、たぶん、あんなに嫌われても別に悪意は抱いてはおりませんよ、と訴えているのでしょう。

 
 もう一枚の写真は、ある婦人が他界した親戚の人の心霊写真が欲しくて、〝クルーサークル〟を訪れてホープ氏に撮ってもらったところ、一週間前に死んだ猫が写っていたというもので、しかも幼児の時に他界した子供から「お母さんへ」の書き出しで始まる文章も写っていました(一〇三ページ)。

〝猫はボクが面倒をみてるから心配しなくてもいいよ〟という内容で、この種の心霊写真はきわめてユニークです。

 前にも紹介したディーン夫人は 〝ジュリア局〟 と呼ばれる心霊施設を利用して、よく心霊写真を撮ってあげていました。ある時、二人の婦人が訪れて心霊写真を要請しました。ディーン夫人が撮ってあげたところ、そのうちの一人が飼っていた犬が写っていました。

 少し鮮明度が欠ける憾(ウラ)みがあるのでここで複写して紹介はしませんが、私はその犬の生前の写真と合わせて見せていただいて、そこに写っているのが紛れもなく同じ犬であることを確認しております。もう一人の婦人も、母親の像が写っていて、とても喜んでおられました。

 そうしたプロの写真霊媒でなくても、ごく普通の人が心霊写真を撮ったという話はよく聞きます。自分にそうした霊的能力があることを知らなかったまでのことです。

 では、フィルソンという女性が真昼にごく普通に撮ったスナップ写真(一〇五ページ参照)に、ご覧のとおりのテリアの小犬が写っていた話をくわしく紹介しましょう。

 T・R・モールス氏が季刊誌〝サイキック・サイエンス〟に掲載した記事によると、ヒーア夫人はタラという名のアイルランド産の大型猟犬と、カソールという名のテリアを飼っていましたが、カソールの方がまだ小犬のうちに死んでしまいました。ヒーア夫人の両腕に抱かれたまま息を引き取ったそうです。

 二匹はとても仲良しで、いつも写真に写っているような格好で寝そべっていたといいます(ここではタラは立っていますが)。この写真を犬舎番人やこの二匹を知る者に見せたところ、ひと目でそれと確認していますし、ヒーア夫人はこれを拡大し、それをさらに虫眼鏡で点検したところ、鼻の孔や耳の毛、その他細かい部分まで、間違いなくカソールであることを確かめています。

 この心霊写真の注目すべき特徴は、猟犬のタラの背中の線が実際より真っすぐに見えることです。ヒーア夫人が 〝サイキック・サイエンス〟 の中で語っているところによれば、あの日は真新しいフィルムを装填して、フィルソン夫人に四枚撮ってもらっていて、この心霊写真を除いた残り三枚では、タラの背中は自然な凹凸があるということです。これは光線の屈折による錯覚や、背景の反射によるものではなく、エクトプラズムによるものです。

 もうひとつ面白い事実があります。この写真が撮れた場所は二匹がよく一緒に遊んでいた 〝お気に入りの場所〟 で、特に夏の夕方はここに来ることが多かったということです。

 言うまでもないことですが、この心霊写真のフィルムは写真の専門家のもとへ送られて、二重写しでないことを確認されています。それと同時に、背景に類似物は存在しないかについても現地調査が行われております。何よりも日中の強烈な太陽のもとで撮られたということが、そうした嫌疑を否定します。それは、ヒーア夫人とタラの影を見れば分かるでしょう。

 実は〝サイキック・サイエンス〟には念のために二枚の写真が掲載されています。一枚はタラの背中の凹凸がよく出ている写真、もう一枚は生前のカソールをヒーア夫人が抱いているところの写真で、誰が見ても同じテリアであることを納得します。

 ヒーア夫人は、そのカソールが今でもタラと一緒にいることを確信しているということです。というのも、タラが夫人の目に見えない何ものかに向かって、低い声でクンクン語りかけていることがよくあるのだそうです。 

 

     
 十一章 さまざまな体験

 本章では、当人も気づかないうちに、霊視能力で死んだはずの動物たちを見ていたという体験を、いくつか集めて紹介しましょう。

  最初の話は、弁護士をしている英国人の体験を、その奥さんが〝サイキック・ニューズ〟紙の記者に語ったもので、次のような、実に興味深いものでした。

「主人はそれまでスピリチュアリズムのことは何も知りませんでした。読んだことも研究したこともありませんでした。それどころか、心霊的なものには偏見すらもっていて、私に対して〝あまり火遊びはしない方がいいぞ〟 などと言うほどでした」

 その弁護士がある日、新しい依頼人(女性)のところへ行く用事ができて、田舎の家まで出向きました。着いた時、出迎えたその婦人に可愛いテリアがじゃれついていて、嬉しそうに跳びはねては、婦人の顔を何度も見つめている場面を、ありありと見ました。

 用事を済ませて帰宅した弁護士は、さっそく奥さんにその話をして
 「あんなに美しいテリアを見たのも初めてだし、あんなに飼い主に夢中にじゃれているのも初めて見たよ」
 と語りました。

 その後のことです。当の依頼人がロンドンのアパートに引っ越してきたので、奥さんといっしょに挨拶に行きました。ところがテリアの姿が見えないので、弁護士が

 「犬はどうなさいました?」
 と聞くと、一瞬、重苦しい雰囲気になったあと、きっぱりと
 「私は犬は飼っておりません」
 という返事です。

 弁護士はそこで席をはずして、用を足しに部屋を出ました。その間のことです。その依頼人が弁護士の奥さんにこんな話をしたのです。

 「私は〝犬バカ〟と人から言われるほど犬が好きなのです。ですが、今まで一番可愛がっていた犬に惨い死に方をさせてから、もう二度と飼わないことにしているのです。

 戦時中のことでした。私は仕事でフランスへ長期間行くことになり、その犬を両親にあずけました。が、
 
その間に両親はその田舎の家をたたんで町へ出てしまい、犬を馬丁に預けたのです。が、その馬丁が心ない人で、ロクにエサをやらなかったらしいのです。私が事実を知って引き取りに行った時は、もう飢え死にする寸前で、間もなく私の膝の上で死んでしまいました」

 「その犬の品種は?」
 「白のハイランド・テリアです」

 弁護士夫婦がその家を失礼して外に出てすぐ、そんな話を知らないご主人が言いました。
 「あの人は犬を飼っていないと言ったが、ワシはこの目で見ているんだよ、あの田舎の家で・・・・・・妙だなあ」

 「それはどんな犬でした?」 と奥さんが聞くと
 「白のハイランド・テリアだよ」
 霊的なことは嫌いだったご主人も、その時、霊視能力で他界したテリアが地上の飼い主にじゃれているところを見ていたのです。

 次の話は黄色い毛のオスの猫に関するもので、〝ザ・キャット〟 という雑誌に掲載されたものです。
 その猫はウッド家の大切なペットでしたが、ある日からぷっつり姿を見かけなくなりました。家族の者全員で必死で探しましたが、どうしても行方が分かりません。見つからないことによる落胆もさることながら、その安否を思うと、家族の者は堪りませんでした。

 さて三週間も過ぎた、ある日の早暁のことです。玄関のドアをノックする大きな音に家族全員が目を覚ましました。猫をいちばん可愛がっていた娘のイザベルが出て、こんな時刻に訪ねてくるなんて一体だれだろうと思いながら、そのドアを開けてみると、誰の姿も見当たりません。

 「ところがです・・・・・・」とイザベルは語ります。
 「変だなと思いながらドアを閉めようとして、ふと下を見ると、猫の形をした黄色い影が玄関の中へ入ってきて、そのまま上がって階段の方へ走り、そこでどこへともなく消えてなくなったのです。

 どこかで死んで、霊となって我が家に帰ってきたのだと思います。三週間というもの、こんなに胸のはりさける思いをさせられたことはありません」

 チャールズ・トウィーデールといえば、スピリチュアリズムに関心のある人ならその名を知らない人はいないくらい有名な、英国国教会の司祭です。そのトウィーデール氏がある地方新聞で
 「動物も間違いなく死後に存続します」
 と前置きして、次のような話をしています。

 トウィーデール氏の母親の妹が犬を大変可愛がっていましたが、その犬がある事情で死に、それから五年後に、その妹も他界しました。

 それから更に五年たった頃から、その妹が真昼に物質化して姿を見せるようになり、数人の人が同時にそれを確認したこともありました。そのうち、妹といっしょに犬までが姿を見せるようになりました。その犬の体形や特徴が見事に出ていたということです。

 「そんなある日のことです・・・・・・」と
 トウィーデール氏は興味深い話を語っています。
 「私に母が、出現した妹を抱きしめようとしたところ、いっしょに出現していた犬が、自分の主人を守るかのように、うなり声を発しました。

 またある時は、まだヨチヨチ歩きをしていた私の娘が、他の数人の人たちといっしょにその犬のあとについて行き、犬が家具の下をくぐった所で姿を消すと、その娘も腹這いになって家具の下をくぐって、その犬の名を呼んだのです」

 次も二歳半の幼児が霊視した話ですが、その子の母親のゴタード夫人が〝犬の世界〟 という雑誌の中でこんな話をしています。

 「うちでは長いことコッカースパニエルを何匹か飼ってるのですが、幼い娘が、自分が貰った食べものは何でも犬たちにやってしまうので、いつもその子がどれだけ食べたかが分かりません。それで、私のうちでは食事どきには犬をダイニングルームに入れないことにしていました。

 そのうち、いちばん年老いたジルが薬殺せざるを得なくなりました。私は残りの犬を全部小屋の中に入れ、獣医を呼んで処置をしてもらいました。午前十一時ごろのことでした。

 さて、昼食の時間がやってきて、家族がみんなダイニングルームに集まっている時、子供用の高いイスに腰かけていた娘がカーペットを見下ろして
 〝ママ、ジルがいるよ!〟

 と、禁じられた時刻に犬がいることに驚いた様子で叫ぶのです。娘はジルが薬殺されていることは知りません。それで私は、そのジルの子のテスと間違えているのだと思って

 〝テスでしょ?〟 と聞くと
 〝ママ、ジルよ〟 と言うのです。

 二匹は親子ですから毛の色などはよく似ていましたが、娘が見間違えるはずはありません。その時テスは犬小屋に閉じ込められていたのですから、娘が見たのは間違いなくジルの霊だったはずです」


 続いての例は猫を霊視した話で 〝サイキック・ニューズ〟 に掲載されたものです。チャールズ・セイモア氏はよく交霊会に通うスピリチュアリストですが、ある日の交霊会で仲間の一人から、猫の霊が行ったり来たりするのをよく見かけるという話を聞かされました。

 その夜のことです。家族はたまたま外出してセイモア氏一人でした。書きものをしたあとベッドに入って、スイッチを消そうとした時でした。
 
〝ニャオー〟 という声がするのです。十秒間ほど同じ場所から聞こえました。場所もはっきり分かりました。ベッドのわきの、じゅうたんの中央です。その辺りをじっと見つめたのですが、声が聞こえるだけで、ついに姿は見えませんでした。

 「うちでは猫は飼っておりません。ですが、どこかの猫が迷い込んだのではないかと思い、念のためにその部屋だけでなく、家中のすみずみまで探してみました。が、やはり猫はいませんでした。

 それから数日後のことです。ある霊媒による交霊会に出席して、その支配霊に〝何か猫のことで私に関わりのある話をご存知でしょうか〟と尋ねると、〝知ってますとも。あの夜、声だけ聞こえた猫は、あなたが十年以上も前に飼っておられた黒猫ですよ〟との返事でした。私がとても可愛がり、その猫も私をずいぶん慕っておりましたので、それが他界してからは、代わりを飼う気になれませんでした」


 もう一つ面白い話を紹介しましょう。コリアー夫人は犬と猫を飼っておりましたが、お互いに嫉妬深くて、同じ部屋に一緒にいられないほどでした。そのうち犬の方が車にひかれて死亡しました。

 その夜、夫人はご主人と共に暖炉のそばで涙にくれておりました。その時です。イスの下でクンクン鼻を鳴らす声が聞こえるのです。かなり大きな声で、ご主人も

 「なんだ、あれは?」 と驚いたほどです
 その時です。そばにいた猫が起き上がって、そのイスの方をじっと見つめるのです。そして、毛を逆立てながら部屋を出て行ったというのです。

 「死んだ犬の霊が戻ってきていたに違いないと信じます」と、コリアー夫人は語っていました。

                        
 
      
 十二章 霊界からの計らい

 ハロルド・シャープ氏は、すでに何度も紹介したように優れた霊媒で、その交霊会にはよく動物が出現することで有名ですが、動物に対する人間の虐待行為(医学のための動物実験など)への反対運動にも熱心で、また、身寄りのない浮浪者の救済にも積極的に参加している方です。

  ある日、シャープ氏と私を含めて四人の出席者で催した交霊会で、支配霊(その日の霊媒の支配霊で、シャープ氏のではない)が
 「ハロルド、寒さで死にそうになっているものを救ってあげなさい。小さなものが重大な役目をすることもあるからね」
という謎めいたメッセージをシャープ氏に述べ、それで交霊会は終わとになりました。

 シャープ氏は、これはきっと、テムズ河畔やトラファルガー広場にたむろする浮浪者に食べるものを恵んであげている仕事を続けるようにという意味だろうと受け取ったそうです。

 さて、交霊会のあと紅茶で談笑し、夜明け近くになって帰宅しようと、玄関のドアを開けると、昨夜から降り続けていた雪の中に小さなシマネコが寒そうに丸くなっておりました。
 「これ、お前はどこの子かな?」

とシャープ氏が拾い上げながらつぶやきました。ネコは嬉しそうにノドをゴロゴロいわせるだけで、答えてくれません。が、シャープ氏は何やら意味ありげにそのネコを見回してから、

「まてよ、このネコは確かヘンドン通りのある家の玄関で見かけたが、これから行って尋ね当てててみよう」

と言い出しました。ヘンドンはロンドンの北西部郊外の住宅地で、そこからは二マイルもあります。連れの仲間たちは、そんな頼りない記憶でそんな遠くまで行くのは無謀だと言って、思い止まらせようとします。

 「もしも家が見つからなかったら、ネコはますます迷ってしまいますよ」とか

 「あなたが見たシマネコと同じものだということがどうして分かるのですか。シマネコはどれも似たり寄ったりじゃないですか」などと言います。

 が、そう言われれば言われるほど確信を深めたシャープ氏は、やはり行ってみることにしました。わきの下にその小ネコを押し込んで、ヘンドンへ向かって歩き始めました。

 朝とはいえ、まだ真っ暗です。目指した家に着いた時も真っ暗でしたが、ベルを鳴らすと、男の人が出てきました。

 「このネコはお宅のでしょうか」 

 と言いながら、わきの下から出して見せると  

 「ええ、そうですとも」という返事です。

 シャープ氏は〝やっぱり〟と思って喜びましたが、そのシマネコの名前が〝リトル・ワン〟(小さいもの)であることを聞かされて、昨夜の支配霊からのメッセージの意味がピンと来ました。

 その男の人は最近になって母親を失い、妻を失い、そして子供にまで先立たれて、失意のドン底にあったのです。シャープ氏はその家に一時間以上もお邪魔して、死後の生命の実在について話したと言います。

 興味を抱いたその人は、その後ヘレン・ダンカン女史の交霊会に出席しました。するとそこへ息子さんが物質化して出現し、感激の対面をしました。
 
その息子さんが語ったところによると、こうして父親を慰めてあげようと思って、あの〝リトル・ワン〟をシャープ氏のいる家の玄関に連れて行ったのだそうです。

 全ては霊界側の計らいだったのです。


  英国が生んだ世界的な物理学者で哲学者でもあったオリバー・ロッジ卿は、六十年に及ぶ霊的研究の結果を次のようにまとめております。

「動物にも死後の生命があるかという質問をよく受ける。それに対する私の答えは、愛情こそ生命にとって実在物であり、他の実在物と同様に、永遠に存在し続けるものである。宇宙は何よりも〝愛〟によって支配されており、愛の支配を受けるものが消滅することはありえない。

 そのことを象徴的に表現した言葉がいろいろとある。たとえば、神は私達の髪の毛一本一本まで数えられているとか、スズメ一羽が落ちるのもご存知であるといったことであるが、それがまさに真実を述べていることを証明するものを、われわれはすでに十分に手にしている。

 生命が存在を失うことは有り得ない。物質とのつながりを失うだけのことである。普通一般の植物や動物の生命には個性というものがなく、従って死後に個体としての存在はない。

 しかし、動物の中でも進化の高いものとなると、人間的資質をかなり身につけているものがいる。つまり彼らは個としての記憶を持つ段階にまで到達しており、それが個性の始まりである。

 その中に、人間との愛の関係によって存在を確保するに至っているものがいるのである」


 そう述べてから、第一次大戦で戦死した息子さんのレーモンドが交霊会に出現して、先に他界していたラリーという名の犬が自分を出迎えてくれた時の話をした感激的な思い出を語ったあと、さらにこう述べています。


「愛は束の間のものではなく、永続性がある。それゆえ地上時代に情愛が通い合っていた動物とは必ず再会できる。形体の違いは関係ない。死後に生き続けるのは魂と能力である。死んではじめて本当の意味で〝生きる〟ことになるのである。私の調査では四つ足の動物でも人間と同じレベルに達しているのがいるようである」

 死後の事情については、このあとの二つの章で詳しく取り上げたいと思います。

                        

         
 十三章 死後はどうなるか 

 前章でオリバー・ロッジ卿が述べているように、動物でも、高等なものになると、死後も個性を携えて生き続けることが明らかとなっています。

 では、犬なら犬、猫なら猫といった形体をどこまで維持するかとなると、いろいろな要素を考慮しなければならないでしょう。開発された自我意識の程度が問題ですし、人間との絆の強さも考慮しなければならないでしょう。

 時間、というよりは、私たちが地上で時間として意識しているものに相当するものが経過するにつれて、その絆が弱まっていくことも有り得るでしょう。人間は宿命的に完全へ向けて永遠の進化を続けますが、動物はそうでないかも知れません。進化しないという意味ではなく、進化の道程が人間とは異なるということです。

 再生の問題もあります。再生は進歩なのか後退なのかという問題もありますが、いずれにしても、これらの問題は死後の存続の問題のような〝証明〟となるものが得られない性質のものです。

 ですが、たとえ証明ができなくても、信頼できる霊界通信というものがあります。それは言いかえれば高級霊からのメッセージということですが、そこへ来ると私には自信をもって紹介できるものがあります。

 それは次章でたっぷりとご紹介することにして、ここでは、地上で愛情関係にあった人間と動物は、死後も、必要性があるかぎりは、生前のままの愛情関係が維持されるというのは事実であると断言しておきます。

 飼い主より先に他界した動物は、その飼い主と霊的につながりのある霊に世話を受けます。たとえばマーガレット・ビビアン博士が〝サイキック・ニューズ〟紙上で語っている話ですが、博士が飼っていた犬が他界したあと、交霊会に出て来たF・Rという友人が

 「犬は私が世話してますよ。あなたのそばにもしょっちゅう来ていますよ。あなたがこちらへ来られるまで、私がしっかりと世話をしますから、ご安心ください」
 と言ったそうです。


 では、そういう世話をしてもらえない動物、つまり霊界に顔見知りの人がいない場合はどうなるかということになりますが、心配いりません。霊界には動物の世話を専門の仕事にしている霊団がいて、新しい霊的環境に馴染むように世話をしているのです。

 原則として、人間の接触のあるなしにかかわらず、動物は全て 〝動物界〟 へ行きます。その動物界にも色々な環境があり、他界した動物は、その必要性、意識状態、死に方に応じて、最も適切な環境へ自然に引かれていくのだそうです。人間との情愛が特別に強かったものが、人間の霊の世界に留まっているとのことです。それも、いつまでも、というわけではないようです。

 〝界〟という用語を用いると、人間はとかく地理的なものを想像しがちですが、霊界は物質界と違って、固定された場所ではなく、霊的本性が生み出す〝状態〟 であり、霊格の程度の表われです。つまり同じ程度の霊性をもつものが集まって生活を営んでいるわけです。

 もちろん、使命を帯びて高い界層から低い界層へと降りてくることはあります。同じ意味で人間の界層から動物の界層へ降りてくる者もいるわけです。

 動物の界層における問題にもいろいろとあります。それまで愛情深い飼い主のもとで暮らしていたのが、事故などで急に霊界へ来て戸惑っている動物たちを何とかしてやらねばなりません。又、人間の食用とされた大量の動物の霊の処理の問題があります。

 そして、医学の進歩という美名のもとに動物実験の材料にされて霊界へ送り込まれる動物の問題もあります。

 そうした人間と動物との関係における善悪・正邪の問題にも、厳然とした神の摂理があります。人間の勝手な 〝都合〟 を超越した次元の問題、たとえば野生の鳥獣や昆虫が人間に及ぼす被害はどう理解すべきか、人間の生命をも奪う寄生虫や伝染性の病原菌にはどう対処したらいいのか、といった問題も、その神の摂理の観点から考えないといけません。

 その次元の課題となると、もはや〝死後存続の証拠〟と同じ意味での証拠はありません。信頼のおける高級霊の意見を伺うという以外に方法はありません。

 それを信じるかどうかは個人の選択に関わる問題であり、各自の 〝得心〟 の問題といってもよいでしょう。次章では私が最も信頼している古代霊シルバーバーチとの一問一答を紹介することにします。

 

          
 十四章 古代霊シルバーバーチに聞く

  私が所属しているサークルは正式の名を〝ハンネン・スワッファー・ホームサークル〟といいます。ハンネン・スワッファーという名前はご存知の方も多いことでしょう。本職は演劇評論家ですが、演劇の分野のみならず、幅広い分野で辛口の評論で知られ、〝フリート街の法王〟 の異名で恐れられている人です。

 フリート街は英国の新聞社が軒を連ねているところで、言うなればジャーナリズム界の御意見番と言ったところです。

 さて一九二〇年のことです。私は婚約者(フィアンセ)だったモーリス・バーバネルといっしょに、ある人の招待で交霊会というものに初めて出席しました。霊媒はブロースタインという名の中年の女性で、その人が無意識状態(トランス)に入ると、さまざまな国籍の人間の霊がその人の口を使ってしゃべりました。

 その状態を見ていたモーリスは、バカバカしいといった表情で一笑に付しましたが、二回目に出席した時にモーリスの様子が変わって、目をつむったまま何やらしゃべりだしました。そして自分はレッド・インディアンで、シルバーバーチという者だと言うのです。

 モーリスはやがて目を覚まし、自分がてっきり居眠りをしていたと勘違いして失礼を詫びましたが、他の出席者から「そうではない───あなたはこのブロースタインさんと同じことをなさったのですよ」 と言われたのです。

 ブロースタイン女史の交霊会にはその後行かなくなりました。というのは、同じことがモーリスの自宅で頻繁に起きるようになったからです。が、モーリスは自分に何の記憶もないのが不愉快で、その現象を嫌っておりました。

 そんな時にスワッファー氏がひょっこり訪ねてきて、シルバーバーチ霊の霊言を聞いて、その質の高さに注目しはじめました。スワッファー氏は 〝デニス・ブラットレー・ホームサークル〟 という、同じく文筆家のブラットレー氏が司会をしている交霊会のレギラーメンバーで、すでにスピリチュアリズムには完全な理解があったのです。

 スワッファー氏は、こんな素晴らしい霊言を証人数が聞くだけで終わるのは勿体ない───ぜひとも自分の家で定期的に催して、その霊言を速記録に撮るように進言しました。これが〝ハンネン・スワッファー・ホームサークル〟という名称の由来です。週一回金曜の夜に開かれました。

  そのうちスワッファー氏はその知名度を利用して各界の著名人を招待するようになりました。さらには、速記係も用意されて 〝サイキック・ニューズ〟 紙に前の週の霊言が連載されるようになり、それが爆発的な人気を博して、やがてそれをまとめて 〝霊言集〟 が発行されるようになりました。

 さてシルバーバーチは何者かということになりますが、それがよく分からないのです。レッド・インディアンだと言うのですが、その後シルバーバーチ自身が  〝告白〟 したところによれば、レッド・インディアンの姿をしているのは実は霊界の霊媒で、通信を送っている自分は三千年前に地上で生活をしたことのある人物で、今では地球圏と直接コンタクトが出来ない界層まで来たので、インディアンを中継役として使用しているのだというのです。

 では、その地上時代の身元を明かしてほしいと、これまでに何度お願いしたか知れませんが、そんなことより自分の説く霊的真理を理解することの方が大切ですと言って、答えようとしないのです(※)。

※モーリス・バーバネルは一九八一年に他界し、それでシルバーバーチの霊言は終わりとなった。そしてその本名はついに明かされないままとなっている───訳者。

 では、その霊言集の中から動物の問題を扱っている箇所をまとめて紹介しましょう。


 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それとも、いずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

シルバーバーチ「どちらとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関わっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かは、その動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。
もしも動物とその飼い主───この飼い主(owner)という言葉は好きではありません。

地上の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから。しかし、他に適当な言葉が見当たらないので、取り敢えず、この言葉を使用しましょう───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は動物界へ行く必要はありません。
 
しかし、もしも飼い主より先に他界した場合は、動物界へ行ってそこで面倒をみて貰わなくてはなりません。飼い主との愛が突如として切れたのですから、単独で放っておかれると動物も迷います。

地上では人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けたのですから、その主人が来るまで、ちょうどあなたがたが遠出をする時ペットを専門家に預けるように、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバーバーチ「長い進化の道程のどこかの時点で、神の、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。
 
 すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部始めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹で目を醒ましたわけです。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹を吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹を吹き込むことが出来るはずです。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るわけです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそ宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統括しています。

また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします、人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」

 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」


シルバーバーチ「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても分かれなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違うために、どうしても人間について行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、向上進化を求める霊性が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力が他の生命の進化を援助する方向へと発揮されていきます。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物は、いかに愛によって結ばれているとはいえ、そのスピードについて行けなくなり、やがてその愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂(※)の中に融合していきます」

※───人間の魂にも動物の魂にも類魂がいる。動物の場合は同じ種族の動物の魂の集団で、全体の責任をもつ守護霊はいても、個々の魂には意識はない。これが人間になると、同じ霊系、同じ親和力によって結ばれた、個的意識のある魂の集団のことで、その数は十の場合もあれば百の場合もあり、千の場合もあるという───訳者。


 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」


シルバーバーチ「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体としては未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間となります。

ペットして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけで、人間の進化についていけなくなって愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

シルバーバーチ「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。全体に対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて人間へと進化していきます」

「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

シルバーバーチ「そうです。人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、そうやって動物界から初めて人間界へ誕生してくる場合です」

 「一人の人間としてですか」
シルバーバーチ「そうです。双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり、個性を有しております。ただ、一方がベテラン霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階まで達した新入生です。

直前まで動物だったのが人間界へとジャンプしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の階段を辿って、今ようやく人間界へと達したのです」


 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

シルバーバーチ「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗波だのを口にするのは止めて下さい。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つご存知ない。困ったことです。それは措いて、あなたはまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットとして飼ったりはしないでしょう。

カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをぺットとしてして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいてきている為に、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


 「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

シルバーバーチ 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後にさがったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」

 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

シルバーバーチ 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合はそれぞれ一度ずつです。そうしないと進化になりません」

 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物の全てに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

シルバーバーチ 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つ指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。

あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」

 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

シルバーバーチ 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのですから・・・・・・」

 「動物実験の犠牲や食用になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」
 
シルバーバーチ 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂を単位として法則が働きます。進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働き方が違うのです。

特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異なります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言葉では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」

「シラミとかダニなどの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの産物ではないかと思うのですが・・・・・・」

シルバーバーチ 「仮りにホコリや病気のせいだとした場合、そのホコリや病気は一体だれがこしらえたのですか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、

さらにその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人達の利己心、非人間性に行きつきます。これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」


 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

シルバーバーチ 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、地上の暗黒地帯が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。
 
双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものでありながら、同時に又、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも支配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についても当てはまるのでしょうか」

シルバーバーチ 「全面的ではありませんが一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないのです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。

原始的なものからスタートして低い段階から高い段階へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高い所にいたり、今高いところに位置しているものが、将来は低い方になることもあります」

 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

シルバーバーチ 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。
 
といのは、進化というのは一種のサイクル、現代の思想家の言葉を借りればスパイラル(らせん状)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でもかまいません。要は進化というものが常に一直線に進むものでないことを理解していただければよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

シルバーバーチ 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと羊が仲良く寄り添うようになります」

 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表われではないでしょうか」

シルバーバーチ 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に比べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

 「大人しい動物の中にも絶滅したものがいますが・・・・・・」

シルバーバーチ 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等生もおり、模範生もおれば反逆児もおります。大人しい動物はさしずめ優等生だったわけです」

 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入っていくのですか」
シルバーバーチ 「違います」

 「動物の類魂は一つだけではないということですか」
シルバーバーチ 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

 「それがさらに細分化しているわけですか」
シルバーバーチ 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───はじめて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」

 「動物で一番進化しているのは何ですか」
シルバーバーチ 「犬です」

 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」
シルバーバーチ 「別に害はありません。全体のバランスから見て、ほとんど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれはずいぶん深入りした質問ですね」

 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」
シルバーバーチ 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置がいらないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置がいらないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。魂には居住地はいりません。

もっとも、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありませんが、もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形体に宿り、その形体で自己表現できる場が必要になります」

 「動物の類魂は地球上に対して物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

シルバーバーチ 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとをあまりに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないと錯覚してはいけません」

 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」
シルバーバーチ 「訪れません」

 「では死んでから行く世界にまるで馴染みがないわけですか」
シルバーバーチ 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼い主だけですから、飼い主が地上にいれば案内できない理屈になります」

 「飼い主が先に死んだ場合はどうなりますか」
シルバーバーチ 「その場合は事情が違ってきます。今述べたのは一般的な話です」

 「人間より動物の方が心霊能力が優れている場合があるのはどうしてですか」
シルバーバーチ 「人間が今送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。

動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物質文明が心霊能力を押さえ込んでしまったわけです。いわゆる霊能力というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の全てが発揮する筈の能力を今発揮しているわけです」


 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」
 
シルバーバーチ 「そうです、霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。いわゆる本能ともいわれているもので、ハトがどんな遠くからでも帰ってくるのもそれです。これも一種の進化の先がけで、その能力だけが特に発達したわけです」

 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくれることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

シルバーバーチ 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」

 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

シルバーバーチ 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺激された動物の全てがおります。そうした動物は、飼

い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物といっしょに暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。
 
そこには動物を喜ばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。
そして時には地上にいる飼い主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐しい雰囲気を味わいます。心霊知識のない人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言って騒ぐのはそんな時のことです。

何となくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・・・・」


 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

シルバーバーチ 「そうです。それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼い主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄なものはありません」


 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」
シルバーバーチ 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」

 「動物界は種属別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」
シルバーバーチ 「種属の別ははっきりしています」

 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」
シルバーバーチ 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」

 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」
シルバーバーチ「その通りです」

 「特に仲の良かったもの同士は別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」
シルバーバーチ 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」

 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」
シルバーバーチ 「猫です」

 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」
 
シルバーバーチ 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。必ず優等生と劣等生とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」

 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・・・・」

シルバーバーチ 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足を滑らせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカ早く、

そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種属が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも説明が困難です。もっともっと複雑なのです」


 「猿の種属が法則を犯したのでしょうか」

シルバーバーチ 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」

 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもあり得るのでしょうか」
シルバーバーチ 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。

 人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えられないでしょう。これが人間の定型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、全体の型は同じです。

動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあって、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」

 「猿の転落もやはり自由意志に関係した問題ですか」

シルバーバーチ 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」

 「動物に個としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」
シルバーバーチ 「個々には理性的判断力はなくても、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力はなくても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」

 「それは植物の場合にも言えるわけですか」
シルバーバーチ 「そうです」

 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」
シルバーバーチ 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません」

 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」
 
シルバーバーチ 「結果論からすればそうかも知れませんが、ではナッツがなぜ豊富にあったかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。
 
つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。

私の言わんとしているのはその点なのです。人間はとかく宇宙の法則を何か生命のない機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、

その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が加えられています。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。

どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。しかし同じ型にはまっていても、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。

別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた時代ということです。いずれにせよ、型は型です」

 「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」
 
シルバーバーチ 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界の援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちで一生懸命なあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし罪は罪です」

 「でもあなたは、動機が一ばん大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

シルバーバーチ「動機はなるほど結構なことかも知れませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることがわからないはずはありません。それでもなお実験を強行するということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(ミナ)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」

 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

シルバーバーチ 「そうです。同時に人類も動物も助けるために来ているのです」

 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」
シルバーバーチ 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」

 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」
シルバーバーチ 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」

 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」
シルバーバーチ 「神の摂理に反した方法で手に入れた治療法では病気は治せません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験から発見できません」

 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」
シルバーバーチ 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」

 「私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになりますか」

シルバーバーチ 「すべて生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

 「でも、ウチのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

シルバーバーチ 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽のにわとりを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります? すべての地上の生命は神の前には平等なのです。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。

キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。人間がにわとりやキツネを殺してもいいというのが道理であるとしたら、あなたの兄弟姉妹を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪う者はいつかその責任を取らなくてはなりません」

 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか」
シルバーバーチ 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合についてブツブツ文句を言います。私の地上のふるさとである北米インディアンについても同じです。インディアンはもともと戦争とか、

俗にいう火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」

 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが、何故でしょうか」
シルバーバーチ 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」

 「ほかの国の霊覚者の教えにはよく説かれているようですが・・・・・・」
シルバーバーチ 「それは全部とは言いませんが大部分がイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の規範のように考えたがりますが、それは間違いです。

イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。イエスにはイエスの限られた使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情を持っていても、使命達成のために、その教えをできるだけ制限したのです。
 
 その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、難解なドグマに代わる単純明快な人の道を説くことでした」

 「動物への愛を説かない教えは完全とは言えないのではないでしょうか」

シルバーバーチ 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟 ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」

 では最後に、英国のテレビ番組 「サファリ」 を制作したデニス夫妻 Michael & Armand Denis を招待してシルバーバーチが讃辞を述べた時の様子が霊言集に見えますので、これを紹介したいと思います。夫妻は熱心なスピリチュアリストとして有名です。


「あなた方(夫妻)は肉体に閉じ込められて霊覚が邪魔されているので、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり、従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

 大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり障害を与えたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が地上の片隅の暗闇を少しでも少なくするために努力することによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

 その点あなた方は大自然の大機構の中で動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人類の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが、人間の愚かさと欺瞞によって惹き起こされていることは、残念ながら事実なのです。

 慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間同士であっても動物であっても、結局は人間自身の進化をおくらせることになるのです。人間が争いを起こしているようでは自然界に平和は訪れません。

 平和は友好と一致と強調の中にこそ生まれます。それなしでは地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続ける限り、災害はなくなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営む時、地上に平和が訪れ、神の国が実現するのです。

 残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が愛は愛を生み、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間自らが破滅の道を辿ることになります。聖書にも『風を播いてつむじ風を刈る』(ホセア記・八・七)という言葉があります。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになります。

 何ものに対しても憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命のあるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。くじけてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹謗等々。
 
これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません。所詮はそれが全ての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、後は欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することが出来るのです。

 お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。
 
お二人が生涯を傾けている動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜなら人間は動物と共に進化の道を歩むべき宿命にあるからです。共に手を取り合って歩かねばならないのです。動物は人間の食欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

 自然界の生命は全てが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間同士を越えて、草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは是非とも阻止しなくてはいけません。

 装飾品にするために動物を殺すことは神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対にやめなければなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事に携わる者は、常にそうした人間としての道徳的原理にうったえながら戦わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

 動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のために仕事を続けて下さい。多くの残酷な行為が無知なるが故に横行しています。

そうした行為は霊的知識を知って目が覚めれば、たちどころに消えてしまうのです。さらに、一つの霊的知識に目覚めると、その知識の別の意味にも目覚めてくるものです。そうやって心が目を覚ました時こそ、魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです」


 

           
 十五章 人間───この身勝手な動物

 考えてみると、人間ほど矛盾に満ちた行為をしている生き物は他にいないのではないでしょうか。神の化身かと思うほど気高い行為をする人がいるかと思えば、悪の権化のように悪虐非道を平気でする人間がいます。

 クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う日です。その日に、あるいはそのイブにご馳走をいただくのは良いとして、七面鳥をその為に飼育し絞めて食卓に上るというのは、一体だれの許可を得てやっているのでしょうか。

あの日一日だけで世界中で果たして何百万羽が殺されていることでしょう。その事実をイエス・キリストが喜ばれるはずはないと思うのですが・・・・・・

 また、自分の愛している動物たちがちょっと傷ついても大騒ぎをして獣医さんのところへ駈け込むのに、動物実験でメスを入れられ、やがて殺されていく同じ種類の動物へは一片の同情も憐れみも憤慨も覚えない人がいます。そういう人はきっとこう弁解するでしょう。

「酷いことであることは私も認めます。でも、結局は人類の福祉のために行われているわけでしょう?他の手段では成就し得なかった素晴らしい発見がたくさんなされています。それによってどれだけ人類の苦痛が軽減されたことでしょう」


 しかし、この理屈がいかに根拠のないものであるかは、この人には考えの及ばないことでしょう。リンダフ・ハーガビー女史が会長を務める動物保護協会のような、動物の立場に立った考えから行動している組織団体に足を運んでみられるとよろしい。そんな弁解がただの人間の身勝手にすぎないことを思い知らせるような資料が豊富に集められています。


 前章で紹介したシルバーバーチの霊言の中にも、病気には必ずそれに最も適切な治療法が用意されている───がそれは、動物に苦痛を与えるやり方からは絶対に生まれない、といった意味のことが述べられています。

 道徳的に間違っていることが科学の世界で正当化されるということは、絶対に有り得ないのです。

 人間がこうした身勝手な理屈をでっち上げる原因はいろいろと考えられますが、最大の原因と思われるのは、物的身体という、存在として最も次元の低い媒体に包まれて、その波動から脱け出るのが容易でないということではないでしょうか。

 ですから、いわゆる〝死〟という過程を経て物的身体から解放されると、感覚が鋭敏となり理解力が深まって、地上時代の行為の間違いが強烈に意識されるようになります。

 そこから良心の呵責が始まり、魂の煩悶に苦しむことになります。それがいわゆる〝地獄〟なのです。

 〝サイキック・ニューズ〟紙に掲載された記事に、かつて地上で動物の生体解剖ばかりをやっていた人物が交霊会に出現して、その間違いを切々と訴えた話がありました。その霊はこう訴えました。

「動物実験という悪には、どうか、今後とも全力を挙げて闘いを挑んで下さい。これは人類の進化を遅らせている最も強力な悪の勢力の一つだからです」


 自分の行為には自分が責任を持つという原則は、死後の生命の存続という事実があって初めて生きてきます。つまり、私たちはどうあがいたところで、地上時代の行為の結果からは逃れることはできないということになるからです。地上で送った人生が、そのまま死後の生活の基礎となるのです。


 リンダフ・ハーガビー女史を初めとする動物保護協会のメンバーは、多くの国のと場を訪ねて回り、動物にも魂があって死後も生き続けるという事実を説いて、その事実の認識に基づいたと畜の有り方に一考を求めるという努力をしています。その努力は少しづつ報われて、改善が見られるということです。

 こうした人たちの努力を見ていると、多分この人たちが地上を去って霊界入りした時には、無数の物言わぬ生命の集団の出迎えを受けることだろうと想像しています。その目には 〝ありがとう〟 の気持ちがにじみ出ていることでしょう。

 では、交霊界での興味深い現象を二例紹介しておきましょう。いろいろと考えさせてくれるものを秘めているように思います。


 一つはオズボーン・レナード女史が霊媒となって行なった交霊会での話で、〝サイキック・ニューズ〟 紙上に載ったものです。

 ある寒い夜の交霊会で、レナード女史は膝の上に毛皮のコートを掛けて無意識状態に入りました。女史が一番大切にしている上等の毛皮だったそうです。

 ところが、会が終わって意識が戻ってみると、膝の上の毛皮が見当たりません。調べてみると、その毛皮がズタズタに引き裂かれて、部屋の隅へ放り投げられているのです。出席者に何があったのかと尋ねると、支配霊のフィーダが憑依するや否や、出席者への挨拶もそこそこに、膝の上のコートをしきりに見つめ、やがて嫌悪と狼狽に満ちた叫び声を上げて

 「オズボーンが死んだ動物の下敷きになってる!」
 と言ったかと思うと、狂ったようにその毛皮を引き裂いて放り投げたというのです。レナード女史は最後にこう述べています。

 「フィーダによくもあんな力が出せたものだと思うのですが、私はその後、毛皮というものがどんな過程でこしらえらえられるのかを調べてみました。そして、身の毛もよだつ残酷な場面を想像して、もう二度と毛皮は買わないことにしました」(※)

※───ー現在(一九九二年)英国の総てのデパート(ハロッズを始めとして)からは、毛皮コーナーが姿を消している。動物保護協会の運動が見事に実を結んだと言える───訳者。
 
 もう一つは地上でと畜を職業としていた男が、死後 〝地縛霊〟 となってさ迷っているうちに地上のある人物に無意識のうちに憑依して、その人物を精神病者にしてしまいました(※)。

その霊がニューヨークのエドワード・ランドール氏による〝招霊会〟(※※)によって見事に目覚めて、精神病者とされていた人まで正常に復したという話で、これも 〝サイキック・ニューズ〟 紙に掲載されたものです。


 ※───地縛霊というのは大体において肉体を失ったことに気づかず、地上にいるつもりで生前の居場所や行きつけの場所をうろついている霊のことで、そのうち波動の合った人間のオーラに引っかかる。表面的にゴミやホコリがひっつく程度のことなら日常茶飯によくあることで、そのうち離れて行ってしまうが、両者に霊的な因果関係(因縁)がある場合や、霊の方に悪意がある場合には憑依の程度が深まって、

当人の意識の中枢、特に言語中枢にまで入っていき、霊の考えや語ったことが脳に反響するようになる。つまり一つの意識中枢で二つの意識が無秩序に働くので、支離滅裂なことを言うようになる───訳者。

※※───そうした憑依霊を患者から引き離して霊媒に乗り移らせ、その霊の置かれている状況を悟らせるように指導する会のことを招霊会という。

 これと同じことを米国の精神科医のカール・ウィックランド博士が三〇年以上も実験・研究して、その結果を Thirty Years Among the Dead という書物にまとめている。招霊会は意外に頻繁に行なわれているが、その記録となると非常に少なく、ここに出ている ランドール氏によるものも記録としては残されていない。ウィックランド博士の記録の日本語訳はハート出版から出る予定───訳者。


 さて、ランドール氏が司会をする招霊会で、かつてと畜を仕事としていた人間の霊が霊媒に憑ってきました。その時点ではランドール氏には何の予備知識もありません。いかなる素姓の霊であるかは分からないのです。

ランドール 「これまであなたが置かれていた状況を教えてください」

霊 「動物の目と鳴き叫ぶ声に取り囲まれていました。その他には何も・・・・・・あたり一面が目なのです。何千、何万もの目に見つめられ続けて・・・・・・その恐ろしい状況を想像してみてください

ランドール 「多分それはあなたがと畜した動物の目ではないでしょうか」
霊 「そうです。私は30年間、精肉包装工場で働いておりました」

ランドール 「一頭を殺すたびに、あなたはその目を見ていたのではないですか」
霊 「ええ、見ましたとも。今もそのままが見えます」

ランドール 「殺すたびにあなたが見たその動物の目が、あなたの潜在意識に焼きついていたのです。鳴き声が聞こえるとおっしゃいましたが、原因は何だと思いますか」

霊 「私が殺した動物の悲鳴です。羊、牛、豚・・・・・・」

ランドール 「その動物たちの悲鳴があなたの潜在意識に焼きついていたのです。その総巻物が、肉体がなくなった今、あなたの目の前に広げられているのです。あなたの行為に反省を求めているのです。あなたに聞こえるのは、その哀れな動物たちが目前に迫った自分の最期を直感して泣き叫んでいる、その声です」

霊 「それだけではありません。私のいる場所にひっきりなしに血がしたたり落ちているのです。どんなことでもしますから、どうかこの状態から私を救い出してください

 そこでランドール氏は霊的摂理について、懇々と諭しました。霊の方も神妙に聞き入っているうちに、霊的波動に変化が生じてきました。

ランドール 「さ、もう大丈夫です。新しい生活に入れます。そして、これまでの過ちの埋め合わせができます。あなたの心掛け一つで・・・・・・」

霊 「人間と同じように動物にも死後の生命があるのでしょうか?」

ランドール 「ありますとも

霊 「どこにいるのでしょう? 何とかしてやりたいのです───とくに子羊のことが気掛かりで…」

ランドール 「必ずしも動物界での仕事をしなけばならないとは限らないでしょう」

霊 「もう二度とあんな目に遭うのはご免こうむります。キリスト教でいう地獄へ落ちた方がまだまだましなくらいです。私と同じ仕事に携わっている人たちが気の毒でなりません。そういう人たちがこちらへ他界してきた時に、助けになってあげなければと思っています」

ランドール 「それが、これからのあなたの使命かも知れませんよ。頑張ってくださいね」

 支配霊が語ったところによると、その霊の償いの仕事は、やはり動物界での仕事ではなく、全く別の仕事になるとのことだったそうです。

                                             

          
 十六章 霊的知識が要求する新しい道徳観  

 前章で紹介したオズボーン・レナード女史は、霊能者の大半がそうであるように、ある特殊な土地から発せられるバイブレーションに過敏に反応することがあるそうです。

 〝サイキック・ニューズ〟に載った女史の体験談によると、ロンドン北部の一角に、いつも陰気で憂うつな気分に襲われる場所がありました。女史は読書好きで、よく図書館に通うのですが、そのとき必ずその地点を通過するというのです。その時の気分は強烈で、その気分から解放されるのにかなりの時間が掛かったそうです。

 そのうち女史は、その原因を真剣に考えるようになりました。その気分に襲われるのはきまって高いレンガ塀のところに差し掛かった時です。とても高い塀で、その門はいつも閉じられていて、中が見えません。工場か倉庫だろうと女史は思っていたそうです。

 そんなある日、いつもと違う道を通って図書館へ行った時、異様な気分に襲われる場所があり、見ると門の扉が開いています。中をのぞいてみると、その広い敷地を沢山の仔牛がどこかへ連れて行かれる光景が目に入りました。

 そこへたまたま通りかかった人に「ここは何をする所ですか」と尋ねると、大規模なと場だということでした。レナード女史もこれで納得がいきました。不快なバイブレーションはそこから放たれているのでした。

 では、そうした施設で大量に殺されていく動物たちは、死後、どういう運命を辿るのでしょうか。これから紹介するのは、レナード女史が幽体離脱の状態で霊界を訪れて、そうした動物の群れを観察した時の様子を綴ったものです。

 幽体離脱というのは、人体とよく似た形をした〝幽体〟 と呼ばれる霊的な身体に宿って肉体から離れ、地上界ないし霊界を探訪する現象のことで、その間、肉体と幽体とは 〝玉の緒〟(※)と呼ばれるもので繋がれています。それが切れた時が 〝死〟 で、要するに肉体からの離脱が一時的か永久かの違いにすぎません。

※───生命の綱という意味で〝ライフ・コード〟と呼ぶこともある。日本語では〝魂の緒〟と書くこともある。拙著『人生は霊的巡礼の旅』(ハート出版)にはそれを撮影した貴重な写真が載っているので参照されたい───訳者。

 では、レナード女史の体験を My Life in Two Worlds (二つの世界にまたがる生活───未翻訳) から引用してみましょう。

「ある夜、肉体から出たあと私は、いつものように上昇して行かないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気が付くと、暗くて狭い通りに立っていた───というよりは、立っている姿勢を保っていタだけで、地面に足をつけていなかった。足元が汚泥で気持ちが悪かったからである。
 
 あたりを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物の間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、ところどころ、広く空いているところがあり、そこから囲いのある広い敷地へと通じている。

 そこから中をのぞいてみると、そこには動物の群れがいる───仔牛、豚、羊など───が、みんな死んでいる。いや生きている───地面に横たわったまま身体を動かしているのだ。私にはピンと来た。今しがたと畜されたばかりなのだ。

 私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とても見られたものではなかった。
 
それほど惨たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで、平均的人間が死後ただちに赴く世界をたびたび訪れてきたが、この場所はそれとは全く異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものであることは私にも分かっていた。が、ともかくも私にはこれ以上その状態を叙述する気になれない。

 そのうち誰かが私に語りかけているのを感知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。後でその声の主は私の背後霊団の一人であることが分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。

 あの惨たらしい雰囲気は、人間の食糧として毎日のようにおびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その忌むべき行為から生まれるもので、物質界に極めて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。

 その恐怖と苦痛、それに、誰をということもない恨みの念があたりに渦巻いていて、それが、建物や壁よりもなお強い存在感をもって迫ってくる。先ほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。

 それは、動物たちがどれほどの苦痛を味わっているかの指標であるばかりでなく、それが地上界の霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという」


 レナード女史は、この体験をしてからは、動物の肉を食べるのを止めたそうです。それまでの女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだということ、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。

「しかしですよ・・・・・・」 と反論する方がいるかも知れません。
「もしも殺さずにおいたらどうなりますか? 地球上に動物があふれはしませんか?」
 またある人は、キツネやウサギがもたらす人間環境や農作物への破壊行為の話を持ち出し、人間が殺しているから大したことにならずに済んでるのだと主張するでしょう。

 
 お答えしましょう。まず牛をはじめとする家畜の問題ですが、人間が食肉用に飼育しさえしなければ、そんな問題は生じないのです。肉類は必ずしも必須の食糧ではありません。植物食だけで十分に健康を保っている人が大勢います。

 道徳的理由からだけでなく、健康上の観点から肉食を止めた人は、そのほとんどが健康を取り戻しております。
 
 私はと畜を即時中止させよとか、今日から肉類は一切摂るなと言っているのではありません。それは出来ない相談です。が、私が訴えたいのは、あなたが食している肉は、あなたと同じ物的身体をもち同じ空気を吸って生きていたのを、人間の身勝手で命を奪われ食用にされた動物の身体だということ、そして、人間と同じ苦痛と恨みを抱きながら死後の世界へと連れて行かれたのだという事実を知ってほしいということです。


 殺す前に苦痛を与えて太らせたり、味を良くするための処置を施すのも、本来は人間の良心が許さないことであるはずです。例えば鶏の性殖腺を除去するのは、肉の味をよくするためだそうですが、その手術は麻酔もせずに、しかも医学には素人の者がやっていることをご存知でしょうか。

 またフランス料理で有名なフォワグラは、無理やりに過食させて病的に太らせたガチョウの肝臓を使うのですが、エサを詰め込む道具を使用してわざわざ病気になるまで食べさせておいて、それを殺して病的な肝臓を食べるというのですから、どう考えても健全な食生活とはいえません。

 残念ながら私の国の英国でも大変人気のある料理だそうですが、禁止している国もあることを知っておくべきでしょう。

 毛皮の問題も是非考えてほしいものです。あなたが着用する動物の毛皮はどれほど高価なものかは存じませんが、その為に動物たちがどれほどの苦痛を味わったかをお考えになったことがあるでしょうか。
 動物の保護や愛護のための活動をしている施設へ行けば、身の毛もよだつほどの現実を語ってくれることでしょう。



      
 おしまいに  

 フローレンス・キングストーン女史は、霊媒の中でも特に動物との縁の深い方で、その交霊会にはよく動物が出現します。物質化する場合もあれば、霊視してその様子を語って聞かせることによって、多くの動物愛好家に慰めと喜びを与えている人です。

 そのキングストーン女史が幽体離脱で動物界を見物して、その様子を次のように述べています。
 人間と同じく動物も、死の直後は睡眠状態にあり、その中で早く目覚めるものと、長時間にわたって眠り続けるものとがいますが、置かれている環境は柔らかい淡い黄金色に輝き、動物たちは生前そのままの姿で快適に遊び暮らすようになります。

 その中にあって可哀想なのが、大量にと畜されたり薬殺されたりした動物たちで、とくにと畜されたものは恐怖におののき、本能的に復讐心に駆られて暴れ回っているといいます。

 が、霊界はそうした動物たちの看護に当たる専門家がいて、それなりの手段を講じているので、そのうち興奮も収まって、それぞれの種属の界へと連れて行かれます。その中でも特に人間との愛情関係が強かったものが人間界へ留まり、かつての飼い主が気づいてくれなくても、いっしょの生活を営んでいるというのです。

 ですから、愛する動物たちの死を必要以上に悲しむのはよくありません。戻ってきた動物たちの方がむしろ戸惑います。動物は人間の子供と同じで、単純で素直ですから、言葉を発しなくても、手で撫でてやらなくても、心に愛情を抱いているだけで、それを感じ取ってくれるのです。

 悲しみの念を抱き続けていると、動物たちの方はなぜ悲しんでいるのか、なぜ涙を流しているのかが理解できないのです。

 あなたには霊視能力はないかも知れません。可愛がっていた動物たちがすぐそばに来てくれていても、それが見えません。毛並みのいい猫のあの毛ざわりは、もう感じ取ることはできないかも知れません。明るくさえずってくれた小鳥の歌声は、もう聞かれないかも知れません。

 しかし、一度あなたが愛情を注いだ動物たちは、必ずあなたの側に帰ってきております。そして、生前と同じ愛の波動を感じ取っているのです。あなたが地上の務めを終えて霊界入りした時、きっとその動物たちが迎えに来てくれるはずです。

 そこで、最後に私からのお願いがあります。人間の機微を知らない安直なアドバイスとの批判を浴びそうですが、本書で紹介した霊的知識の上に立って申し上げることですので、ともかくも耳を傾けてみてください。

 愛する動物を失ったら、なるべく早い機会に新しい動物を求められることです。前のと似ていなくてもいいし、全く別の種類でもいいでしょう。それが前の動物の代わりをしてくれるわけではありませんが、少なくとも気を紛らし、悲しみを和らげてくれるでしょうから、あなたの精神衛生上からいっても良いだけでなく、霊界の動物たちにとっても、良い波動を受けるようになって喜ばれるはずです。

 それが理由の一つです。もう一つ理由があります。人間の愛を必要としている動物たち───捨てネコ、野良犬等───があまりに多い今の時代では、一匹でも人間が面倒を見てやるべきではないでしょうか。
 そういう気持ちになってくれる方が一人でも多くなってくだされば、本章を上梓した私の労が報われることになるのです。



         
 バーバネル夫妻のこと───あとがきに代えて 

 本書の著者シルビア・バーバネルは、ご存知の方も多いことと思うが、第十四章で紹介した古代霊シルバーバーチの霊媒だったモーリス・バーバネル氏の夫人である。

 実業家を志していた十八歳(一九二〇年)のモーリスが、ある日、招待された交霊会でいきなりシルバーバーチ霊によって憑依されてしゃべるという体験をする。それを最初として、以来七十九歳で他界するまでの六十年間、毎週一回、一時間半ないし二時間、シルバーバーチのマウスピースとして文字通り心身を献げる生涯を送ったが、シルビアはそのモーリスの伴侶として、影の形に添う如き一心同体の生活を送っている。

 シルビアの年齢は不詳であるが、モーリスが十八歳で交霊会に招待された時も〝フィアンセ〟 として同席していたという事実から推察して、たぶん二人は同い年の幼馴染だったのではなかろうか。

 が、幸か不幸か、二人には子供が無かった。人情としてはさぞかし 〝わが子〟 が欲しかったことであろう。が、その後、〝ミスター・スピリチュアリズム〟 と呼ばれるようになるほどの縦横無尽、八面六臂(ハチメンロッピ) のモーリスの活躍ぶりから考えると、平凡な家庭人としての幸せを犠牲にして、二人が一体となってスピリチュアリズムのための生涯を送るべき使命を負わされていたのであろう。

  その二人の業績を幾つが拾ってみよう。

 モーリスの業績で筆頭に挙げられるのが、本書にも度々引用されている〝サイキック・ニューズ〟 という心霊週刊紙を創刊したことである。しかもそれを、第二次大戦中も、他の一般紙が休刊したにもかかわらず一度も休まず発行し続けたことは、特筆大書に値するであろう。

 本人もそれが余程自慢だったらしく、誇らしげに語ることがよくあったという。よほどの覚悟がいったのであろう。

それを可能にしたのは、シルバーバーチの霊言の連載を心待ちにしている読者からの要望が驚くほど多かったこと、またシルバーバーチの交霊会が霊的に最悪の条件下でも、シルバーバーチ自身の決断で絶対に休会としなかったという事実であったと私は推察している。

 シルバーバーチみずから語ったところによると、戦況の悪化によって霊的回線が乱れて高級界との連絡が途切れがちになった時でも、今地上で苦しい思いをしている人たちのことを思うと、断じてあきらめるわけにはいかないと、霊団の者を叱咤激励したという。中には 「もうこれ以上は無理です」 と中止を進言した者もいたというのである。

 シルビアの手になる本書の初版は一九四〇年であるから、第二次大戦が勃発して二年目で、ヨーロッパでの戦闘が最も激しかった時期である。にもかかわらず終戦の前年の四四年に第二版が刷られ、さらに終戦の翌年の四六年に第三版が、五〇年には第四版、五五年には第五版が出ている。

しかも初版以来半世紀を過ぎた今でも絶版となっていないこと自体が驚異というべきであるが、それが人類史でもかつてなかった世界的規模の大戦を乗り越えてのことだったことを思うと、まさしく奇跡というべきであろう。 

 先にも述べた通り、モーリスには 〝ミスター・スピリチュアリズム〟 というニックネームがあった。それには、そう呼ばれるのも無理からぬエピソートがあったのである。

 私の机の上に The Church of England and Spiriturlism (英国国教会とスピリチュアリズム)と題する、わずか十ページばかりのパンフレットがある。

 それは、カンタベリーとヨークの二大主教(英国国教会はカンタベリーとヨークの二つの管区に分けられ、カンタベリーが中心)の合意のもとに 〝スピリチュアリズム調査委員会〟 が一九三七年に設置され、二年間、複数の霊媒を使って研究・調査をした上でまとめられた 〝多数意見報告書〟 である。および腰ながらもスピリチュアリズムの真実性を認めた画期的な内容となっている。

 が、実は、そのパンフレットはバーバネルが中心となって 〝サイキック・ニューズ〟 のスタッフが必死に工作した末の一大スクープで、国教会としてはこれを 〝極秘〟 として発禁処分にしていたのである。

 調査委員会が発足した後、〝二年後にその結果を公表する〟 というのが、ラング大主教とテンプル大主教の二人による、国教会一般会員に対する基本的な約束だった。

会員の中にはかねてからスピリチュアリズムに関心を示す者が多く、信仰的に動揺を来たしている者や疑問を抱き始めている者は、国教会が正面きって研究することになったことを大歓迎し、その結果の公表を心待ちにしていたのである。

 ところが、二年をとっくに過ぎても何の音沙汰もない。そこでバーバネルの指揮で、〝サイキック・ニューズ〟のスタッフが調査委員会のメンバーとの接触を開始した。

 そして七人のうちの一人を説得して 〝報告書〟 の全文のコピーを取ってもらって入手し、それを〝サイキック・ニューズ〟 紙に掲載した。

 このことで国教会の内部はもとより一般市民の間でも大きな話題となると同時に、スピリチュアリズムの真実性が天下に知れわたるきっかけともなった。モーリスが 〝ミスター・スピリチュアリズム〟 と呼ばれるようになったのは、そうした経緯からである。

 参考までにモーリスの代表的な著作である This is Spiritualism (『これが心霊の世界だ』潮文社)の中から、上の 〝多数意見報告書〟 にまつわる部分を引用して紹介しよう。

《宗教に関するかぎり全く偏見のない人間はいないし、自分の宗教を弁護しない人間もまずいない。大方の人間にとって、宗教は、成人後よほどの精神的ないしは霊的体験でもない限り、子供時代に植え付けられたものが基盤になっているものだ。(中略)

 宗教家がスピリチュアリズムに接した時の態度は、ちょうど医者が心霊治療に接した時の態度に似ている。全てが大学で学んだ医学と矛盾するのである。交霊会で起きる現象はどうしても神学とは相容れない。正統派観点に固執しているので、それ以外のものに接すると、忠誠心を試されているように感じるのかも知れない。

 したがって交霊会で起きる現象はバイブルにある奇跡とまったく同質のものなのに、それを〝新しい啓示〟  として認めることができなくても、あながち驚くには当たらない。(中略)

 その仕事柄、聖職者は当然、霊的なものについては専門家であってしかるべきなのに、死後の生命についての無知は、あきれ返るほどである。彼らは毎日のように、死への心構えを信者に説き、愛する者を失った人々に慰めの言葉をかけているはずである。

なのに、何故にこの有様なのか。やはり最初に植え付けられた正統派的教義に基づく神学的概念が、死後存続についての新たな理解を妨げているのである。

 実は英国国教会は、二年間にわたって正式にスピリチュアリズムを調査・研究しているのである。ところが、その報告書が上層部から発表を禁じられたのである。それを私がすっぱ抜き、心霊紙上に公表した。もしもそうしなかったら、そのまま永遠に埋もれていたであろう。

 私は、もしもその報告書の内容がスピリチュアリズムにとって不利なものであったら、決してランべス宮殿(カンタベリー大主教の住居)の整理棚に仕舞い込まれるはずはないと主張し続けた。(中略)

 そもそも国教会がスピリチュアリズム調査委員会を設置したのは一九三七年のことで、それから二年間にわたって、霊媒を使った組織的な研究を行ったのちに、その結論を出した。
 
十名のメンバーのうちの七名が〝多数意見〟に署名し、残りの三名は〝中立〟の少数意見に署名した。多数意見は全体としてスピリチュアリズムの真実性を肯定していた。(中略)
 
 報告書を新聞に公表したことで、私はカンタベリーのラング大主教から非難された。確かに英国の一般紙がその話題を大々的に取り上げたために大問題になった。うろたえた大主教は、ある著名なスピリチュアリストに頼んで、何とか騒ぎを鎮めてくれるよう、協力を求めたほどである。

 が、有力メンバーの一人マシューズ神学博士は、報告書の発禁に公然と反対した。レンドール参事会員も、次のような烈しい調子で、そうした教会の態度を非難した。

「この調査委員会による結論の公表を禁止させた〝主教連中〟 による心ない非難や禁止令、何かというと極秘を決め込む態度こそ、国教会という公的機関の生命を蝕む害毒の温床となってきた、了見の狭い聖職権主義をよく反映している。

 こうした態度が生み出す怒りの程度と重さを真に理解している者はほとんどいない。自由な討議の禁止は苛立ちを生むだけに留まらない。それは〝聖職権主義こそ敵なり〟 というスローガンを潤色し、言い逃れの口実を与えることになるのだ」

 その後テンプル氏がカンタベリー大主教に任命された時、私は書簡で、是非委員会報告を正式に公表するように、何度もお願いした。書簡のやり取りは長期に及んだが、ついに平行線をたどったままだった。

 社会主義の改革運動では同じ聖職者仲間から一頭地を抜いている人物が、宗教問題では頑として旧態を守ろうとする。現実の問題では恐れることを知らない勇気ある意見を出す人物から届けられる書簡が、ことごとく 〝極秘〟 とか〝禁〟 の印を押さねばならないとは、一体どういうことだろうか。(中略)
  
 私の持論は、宗教問題に限らず人間生活の全てにおいて、伝統的な物の考え方が新しい考え方の妨げになるということである。その固定観念が新しい観念の入る余地を与えないのである。いかなる宗派の信者にとっても、スピリチュアリズムの思想を受け入れる上で、その宗教そのものが邪魔をするのである。(後略)》

 最後に、バーバネル夫妻と私の個人的なお付き合いについて、少しだけ触れておきたい。

 私がモーリスと初めて文通を交わしたのは、大学を出てすぐの年で、週刊誌 〝サイキック・ニューズ〟 と月刊誌〝トゥー・ワールズ〟 の記事の転載許可を求める手紙を出したことに始まる。生まれて初めての英文手紙であるばかりでなく、権利を請求する大事な手紙でもあるので、「英文手紙の書き方」 等というものを買い求めて、一通り勉強した上で出した。

 それだけに、返事が来るまでの時間が長く、そして不安で仕方がなかったのを覚えている。いよいよ届いた返事を開ける手ももどかしく、さっと目を通すと、簡潔な文章で〝喜んでその権利を与えます〟 といった主旨のことが書いてあるのを見て、天にも昇る心地がしたものだった。

 その後、同出版社の出版物の翻訳出版の権利を取得する手紙をその都度交わしたが、そのうちバーバネルは 「わが社は貴殿に対する要求権利の一切を放棄します」 という一文まで下さった。つまり同出版社の著作物は一々断らずに自由に翻訳出版して結構、という意味である。

 その後一九八一年の一月四日に、念願のモーリスとの対面が叶えられた。ここに掲載された写真は三枚の内の一枚で、最初の一枚を撮った後、カメラマンが 「もしも目をつむっていたら永遠に目をつむることになるから、もう一枚撮りましょう」 と冗談めかして言ったので、思わず笑い出したところである。

 その日は一月四日で、七日にもう一度立ち寄って「明日帰ります」という別れの挨拶を述べた。それが今生での別れとなってしまった。その年の七月にモーリスが急逝したからである。

 実は四日の初対面の時に、日本からの土産として、飾り用の舞扇をプレゼントした。思った通り扇の開き方に戸惑ったので、こういう具合にと言って開いてみせたら、その美しさに感嘆の声を上げてから、すぐに「これはシルビアに持って帰ります」と言って、仕舞った。

その時の雰囲気に私は、たった一人の家族、たった一人のこの世の伴侶、といった、シルビアへの思いやりの気持ちを感じ取ったものだった。

 そのシルビアとはその時は会えなかったが、モーリスの他界後、何度も慰めの手紙を出した。シルビアも必ず返事を書いてよこした。そして三年後に私は二度目の訪英を予定し、シルビアとも面会すべく、前もって打ち合わせの連絡を交わした。が、

一つだけ気がかりだったのは、その頃からシルビアの手紙にタイプの打ち損じが目立つようになり、たまに綺麗な文面の時には、ハウスキーパーが代わって打った旨が記してあったことである。かなり弱ってきたのだなと思っていた。

 が、ただ弱ってきただけではなかった。モーリスの親友のM・H・テスター氏宅を訪ねて夕方までお邪魔し、別れ際に「これからシルビアの家を訪ねます」と言ったら、奥さんが「それは無駄でしょう」と言う。何故かと聞くとテスター氏が

「シルビアは身体は健康なんですが、記憶喪失症が酷くなってきたので、会ってもあなたが誰だか分かりませんよ」と言う。

 私は困った。折角ロンドンまで来て会わずに帰るのは失礼するように思える。といって、会っても「あんたは誰なの?」とでも言われては困る。手紙では何度もやり取りはあっても、まだ一度も会ったことがないのであるから、なおさらそうなる可能性は大きい。

 パブリックスクールに入学直前の息子(14)を連れていたので、不愉快な体験をさせてはいけないという用心も働いた。

 迷いに迷った挙げ句に、私はついに訪ねないまま帰国した。ところが、帰国後しばらくして、シルビアから 「何故来てくれなかったのですか」 という手紙が届いた。どうやらその頃のシルビアは、記憶が途切れたり戻ったりを繰り返しながら、次第に途切れる期間が長くなりつつあったらしいのである。

 そのことは、やむを得ない事情があったとはいえ、その後もずっと私の心に引っ掛かるようになった。今でも、当時をふと思い出すと 〝たとえ分かってもらえなくても訪ねるべきだった〟 と思うことがある。

 が、バーバネル夫妻とは、死後、必ず会うことは間違いない。その時、私は真っ先にそのことを詫びたいと思っている。

 本書の著者シルビア・バーバネルとその夫モーリス・バーバネルとは、私はそういうご縁があったのである。
                             近藤千雄