シルバーバーチの霊訓(一)目次 
シルバーバーチ・シリーズの刊行に当って  

 まえがき
古代霊シルバーバーチと
      霊媒モーリス・バーバネル

一章  あなたとは何か
二章  なぜ生れてきたのか
三章  なぜ苦しみがあるのか  
四章 〝物〟に惑わされない生き方 
五章  霊的交信の難しさ 

六章  役に立つ喜び

七章  心霊治療と生命力 
八章  愛の力   
九章  霊とは何

十章  質問に答える
   
十一章 おしまいに 
十二章 シルバーバーチの祈り

   訳者あとがき
 解説 霊的啓示の系譜
                                                                   
 
    発行所 〒162          
 東京都新宿区市ヶ谷2-31
             潮文社               
                                                                       
  Guidance  from   Silver Birch              
      Edited by Anne Dooley 
        Psychid Press Ltd.
         London, England               
 
 シルバーバーチ・シリーズ刊行に当たって 

 私は、ほぼ一年半前 (一九八四年五月) に 「シルバーバーチ霊言集」 全十一巻を総集した 『古代霊は語る』 を潮文社より上梓した。正直言って、その出版に際して訳者自身も潮文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。

ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた。英語の素養のある方からは原書の入手方法についての問い合わせもあった。そして、当然予想されたこととして、霊言集全十一巻を全訳してほしいという希望が多く寄せられた。

 『古代霊は語る』の〝あとがき〟の中で私は「今この十一巻を一冊にまとめて、何という無謀なことをしたのだろうと、恰も過ちを犯してしまった時のような気持ちがふと湧くときがある。が・・・(中略) 決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバーバーチの説かんとしていることは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である」 と述べた。

そして今もその確信に変わりはないが、多くの読者からの希望を受け取るごとに、かなえられるものであれば全巻を訳しておくのも私の使命かも知れないという考えが深まっていった。そしてこの度潮文社のご理解を得て、幾つかの条件のもとにその実現に努力してみることになった次第である。

 〝条件〟を考慮しなければならない最大の原因は、内容的に重複する箇所が多いことにある。 『古代霊は語る』 と題して一冊にまとめた理由もそこにあるが、〝まとめる〟という作業がエッセンスだけに絞ることになる傾向を避けられないことは確かで、現に読者から〝もっと細々(コマゴマ)とした悩みごとの質疑応答はないのでしょうか〟といった手紙も寄せられている。

そして、確かにそれが豊富にあるのである。全訳によってそれが紹介できることを有難いと思う一方、重複は是非避けたい気持ちもある。そこで翻訳のシリーズは原典のシリーズのそのままの置き替えではなく、重複箇所を削除し、編者による冗漫な解説も省かせていただくことにした。その点をご了解ねがいたい。

 霊言集は五〇年余りにわたって蓄積された膨大な量の霊言をハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーがそれぞれの視点から編集したものである。そのうち二人のメンバーが二冊ずつ出しているので、全部で九人によって十一冊が編集されたことになる。

先日、メンバーの一人でバーバネルの秘書だったパム・リバ女史に手紙で確かめたところ、これ以後新たに編集する予定は今のところ無いということであった。

 いま改めてその十一巻に目を通してみると、その扱い方は一冊一冊に特徴があり、実に多彩である。その中から本シリーズの第一巻としてアン・ドゥーリー女史の Guidance from Silver Birch (シルバーバーチの導き) を選んだのは、本書が全巻の中でもシルバーバーチの霊訓をもっとも平易な形でまとめてあり、また 「まえがき」 でシルバーバーチと霊媒バーバネルについての詳しい紹介があり、本シリーズの初巻を飾るものとしていちばん適当とみたからである。

 また全巻の中で本書が最もページ数が少なかったことが、巻末に私自身の長文の解説 「霊的啓示の系譜」 を載せる余裕を与えてくれることにもなった。これによって人類史の背後の霊的な流れの中における
「シルバーバーチの霊訓」の位置を理解していただけるものと信じている。

 熱心な読者の為に、願わくば一冊でも多く、そして少しでも早く出せることを心から念じている。

                      一九八五年七月  近藤 千雄     




 まえがき

  古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

 四〇年余り前 (一九二〇年ごろ) のことである。文人による社交クラブで司会役をしていた十八歳の議論好きの青年が、思わぬ成り行きからスピリチュアリズム (章末注①) の研究に引きずり込まれた。そしてある心霊家の招きでロンドンの東部地区で催されていた交霊会 (注②) なるものに一種の軽蔑心を抱きつつ出席した。

 これといった感動も覚えぬまま会の成り行きを見ていたその青年は、入神した人間の口をついてインディアンだのアフリカ人だの中国人だのが代わるがわるしゃべるのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。そして列席者の一人から 「あなたもそのうち同じことをするようになります」 と言われた時もアホらしいといった気持ちで軽く聞き流した。のちにこれが現実となるとは神ならぬ身には知る由もなかった。

   二度目に出席した時、青年は途中でうっかり〝居眠り〟をしてしまい、目覚めてから慌てて失礼を詫びた。ところが驚いたことに他の出席者たちから 「居眠りをなさっている間あなたはインディアンになっておられましたよ。名前も名のってましたが、その方はあなたがお生まれになる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演なさるようになるとも言ってました」と言われた。

 この時も青年は一笑に付した。しかしどこか心の奥にひっかかるものがあった。そしてその後出席する度に入神させられ、そのたびに同じインディアンがしゃべった。はじめのうち片言英語しか話せなかったのが次第に流暢になっていった。

 その青年の名はモーリス・バーバネル。(注③) そしてインディアンはシルバーバーチ (注④) と呼ばれるようになった。両者は顕と幽の相反する世界にいながら密接に結びついた仕事で世界的に知られるようになる運命にあった。

前者は練達の宣伝家、著作家、編集者として、後者はハンネン・スワッハー氏 (注⑥) の言葉を借りれば〝他のいかなる説教家よりも多くの心酔者をもつ〟雄弁な説教者としてである。

 スワッハーの言葉には説得力がある。スワッハー自身がその会の司会者であり、今日までその交霊会はハンネン・スワッハー・ホームサークルの名称で知られているからである。それにスワッハーはジャーナリズム界では〝フリート街の法王〟の異名を取る反骨のジャーナリストとして長くその存在を知られている人物である。

 そのスワッハーの勧めでシルバーバーチの霊言が心霊誌上で公表されるようになってからも、霊媒がバーバネルであることは内密にされた。

バーバネルにしてみれば自分を通じての霊的教訓はいくら宣伝されてもそれだけの価値はあるが、それを掲載するサイキックニューズ誌とツーワールズ紙の主筆が実はその霊媒であるというのは、受け取られようではまずい印象を与えるのではないかという用心があったのである。

そういう次第でバーバネルがシルバーバーチの霊媒であるという事実は二十年余りも極秘にされていたが、いったい霊媒は誰なのかという次第に高まる一般のうわさを放置するわけにもいかなくなり、ついに一九五七年八月二四日のツーワールズ紙上でバーバネル自ら公表したのであった。

 シルバーバーチについてスワッハーはこう述べている。 「シルバーバーチは実はインディアンではない。いったい誰なのか、本当のところは分からない。本来属する界は波長が高すぎて地上とは直接の交信が不可能であるために低い界の霊 (霊界の霊媒) の幽体を使用している。

シルバーバーチと名のるインディアンはたぶんその幽体の持ち主であろう。その証拠に彼はこう言っているのである。〝いずれ私の身元を明かす日も来ることでしょう。私は仰々しい名前を使うことによって敬愛を受けたくはありません。私が語る真理によって私の真価を証明するためにあえて素朴なインディアンに身をやつしております。それが自然の理というものなのです〟と。」

 これらの教説が霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかとの批評家の質問に対してスワッハーは、両者が別個の存在であることを示す決定的な事実がいくつかあると言う。例えばシルバーバーチは再生説(注⑥)を説くが、バーバネルは通常意識の時はこれを否定し、入神すると反対に再生説を主張する。

 シルバーバーチ自身も自分が心霊家がよく持ち出す〝霊媒の第二人格〟でないことを示す証拠をこれまで何度も提供している。例えば霊媒の奥さんのシルビアに対してシルバーバーチが、今度のエステル・ロバーツ女史 (注⑦) の交霊会でかくかくしかじかのことを直接談話 (注⑧) で言います、と約束したことがある。

そしてその約束どおりのことが起きた。いっしょに出席していたバーバネルも初めてシルバーバーチの声を直接聞いて感動を覚えたという。

 「文は人なり」 とは十八世紀のフランスの博物学者ビュフォンの名言であるが、これはシルバーバーチに関する限り人間性のみならず教説の説き方についても言える。霊媒のバーバネルもシルバーバーチの説き方の巧みさをまさに〝霊の錬金術〟であると激賞してこう述べている。

 「年がら年中ものを書く仕事をしている人間から観れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ、それ自体がすでに超人的であることを示している。

ペンで生きている他のジャーナリスト同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っぴきでやっと満足の行く記事が出来上がる。ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。

その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を昂揚し、気高さを感じさせる。シルバーバーチの言葉には実にダイヤモンドの輝きにも似たものがある。ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。」

 南アフリカにおけるスピリチュアリズムの中心的指導者であるエドマンド・ベントリー氏もその著者の中でシルバーバーチとバーバネルの相違を〝一目瞭然〟であると評し、とくに弁舌のさわやかさと文体の美しさにおいて際立った対照を見せていると述べてからこう続ける。

 「バーバネルも確かに優れた演説家である。公開の演壇上で、宴会の席で、選挙の応援演説で、あるいは何万人もの聴衆を前にした集会の演説等々での体験から氏は実に弁舌さわやかであり、ユーモアのあるエピソートを混じえるのも巧みであり、なかんずく法廷弁護士にも似た理路整然とした説明にただならぬ才能を見せる。

 しかしシルバーバーチはこうした人間的評価の域を完全に超えている。シルバーバーチには荘厳さと威厳があり、それに王者の風格ともいうべき高度な素朴さと情愛とが一体となった風合いが感じられる。

あえて説明するには及ばぬことであるが、その表現力の幅広さ、用語の選択の適確さ、

生気溢れる爽やかな弁舌をみれば、シルバーバーチと名のる存在が明らかにバーバネルとは別個の霊界からの訪問者であり、それが豊富な知識と叡智と才能を携えて訪れ、地上の人間の身体を借りて語っていることは明白である。」

 そのシルバーバーチがバーバネルの身体を完全に使いこなすに至る過程をバーバネル自身が次のように語っている。

 「はじめのころは身体から二、三フィート離れたところに立っていたり、あるいは身体の上の方で宙ぶらりんの格好で自分の口からでる言葉を一語一語聞き取ることができた。シルバーバーチは英語がだんだん上手になり、はじめのころの太いしわがれ声も次第にきれいな声──私より低いが気持ちのよい声──に変わっていった。

 ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば〝心地良い降服〟である。まず気持ちを落着かせ、受身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。

そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。すると一種名状し難い温かみを覚える。ふだんでも時折感じることがあるが、これはシルバーバーチと接触したときの反応である。

温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そして鼾にも似たものになる。

すると意識が薄らいでいき、まわりのことが分からなくなり、柔らかい毛布で包まれたみたいな感じになる。そしてついに〝私〟が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか私にも分からない。

 聞くところによると、入神はシルバーバーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバーバーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は、部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。

時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

  入神状態がいくら長引いても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして一杯の水を頂いてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を一杯いただく。

忙しい毎日であるから、仕事が終わっていきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日どんなに変わった出来ごとがあっても、入神には何の影響もないようである。

あまりにも疲労がひどく、こんな状態では良い成果が得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変わらない成果が得られていることを知って驚くことがある。

 私の体験では交霊会の前はあまり食べないほうが良いようである。胸がつかえた感じがするのである。また、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者 (招待客) についてあらかじめあまり知らない方がうまくいく。

余計なことを知っているとかえって邪魔になるのである。」


 私(アン・ドゥーリー) にとっては一九六三年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー六人に私を含む招待客六人の計十二人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。

 聞いた話では交霊会は〝テーブルの振動〟によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。

死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。テーブルに〝生命〟が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。

出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。

何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーときしむ音を出しながら人間が頷くような動作から、苛立つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。

 そうした現象がひと通り終わって全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。そして私は神秘家の言う〝聖霊の降下〟を垣間見ることとなった。

 驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌し始めたのである。仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻を口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。

が、それから八〇分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。

いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。バーバネル氏の身体がしゃっべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。

 その日、シルバーバーチは出席者の一人一人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。ただ序(ツイデ)に付け加えれば、その日この強(シタタ)か者の私を含む三人の女性が涙を流した。悲しみの涙ではない。感激の涙である。

こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根柢から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。

 さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。私はこう質問した。「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が耐えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」

シルバーバーチ「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか」


 次に私は 「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」 と尋ねた。

シルバーバーチ 「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界 (死後の世界) で報われます。神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来事をチェックしているからです。その働きは完璧です。宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。

無限ある愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものはすべて神の属性だからです。

 苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」


 このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義文化の危険な曲がり角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。

 とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。

                             一九六六年  アン・ドゥーリー


 注釈

①スピリチュアリズム Spiritualism

  狭義には、古来〝奇蹟〟または〝超自然現象〟と呼ばれてきたものを組織的に調査・研究した結果、その背後に〝霊魂〟つまり他界した先祖の働きがあるとする〝霊魂説〟およびそれを土台とする死後の生命観、道徳観、神に関する思想・哲学を意味するが、広義には、次の注②の交霊会を通じその死者との交信や心霊現象一般を指すこともある。ラテン諸国ではスピリティズム Spiritism と呼んでいる。


②交霊会 

 霊媒を通じて死者の霊と交信したり心霊現象を観察したりする会で、出席者が十人前後の私的な集いと科学的調査研究を目的としたものとがある。西洋では前者を家庭交霊会(ホームサークル)と呼ぶが、日本では双方とも心霊実験会と呼んでいる。


③モーリス・バーバネル Maurice Barbanell  (1902~1981)

  ミスター・スピリチュアリズムの異名をとった英国第一級の心霊ジャーナリストで、本文で紹介されている二つの週刊心霊誌 (ツーワールズは後に月刊誌となる) の主筆をつとめつつ、シルバーバーチの霊言霊媒として五十年余りにわたって毎週一回 (晩年は月一回) 交霊会を開き、数え切れない人々に啓発と慰安を与えた。


④シルバーバーチ  Silver Birch

 バーバネルの遺稿 「シルバーバーチと私」 によると当初は別のニックネームでよばれていたが、それが公的な場で使用するには不適当ということで、本人自らこの名をを選んだ。

面白いことに、そう決まった翌日バーバネル氏の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺 (シルバーバーチ) の木の絵はがきが入っていたという。常識では、距離的に考えてすぐ翌朝に届く筈はない。

 
⑤ハンネン・スワッハー   Hannen Swaffer  (1879~1962)

 〝フリート街の法王〟(フリート街は英国の新聞社が林立する通り) と呼ばれた世界的なジャーナリスト。シルバーバーチの霊言を高く評価し、当初は自宅に呼んで交霊会を開き、のちにバーバネルの自宅で定期的に行われるようになり、その霊言を二つの心霊誌に掲載させる一方、自分の知名度を利用して各界の名士を招待して、スピリチュアリズムの普及と理解に大いに貢献した。


⑥再生説

 いったん他界した人間が再び人体に宿って地上に誕生してくるという説。スピリチュアリズムの中でも賛否両論があり、従って定説とはなっていないが、シルバーバーチはこれを五十余年にわたって首尾一貫して説き続け、その説に矛盾撞着は見られない。

これを肯定する霊の間にも諸説があり、中には否定する霊さえいるが、その間の事情についてシルバーバーチはこう語っている。

 「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するにはたいへんな年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても再生の事実を全く知らない者がいます。なぜか。それは死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。

その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが・・・」


⑦エステル・ロバ―ツ Estelle Roberts

 英国屈指の女性霊媒で、多彩な霊能を発揮したが、中でも霊視と霊聴の適確さは完璧であった。中心的支配霊はブラック・クラウドと名のるやはりインディアンで、直接談話 (注⑧参照) でユーモア溢れる話術で列席者と親しく交わった。

バーバネルは女史を英国最高の霊媒として敬意を表し、毎週開かれる交霊会に出席して細かくメモを取り、それを中心的資料として名著 This is Spiritualism  (邦訳「これが心霊の世界だ」 潮文社刊) を著わした。


⑧直接談話

 シルバーバーチは入神中のバーバネルの発声器官を使用した。これを入神談話または霊言現象と呼ぶが、霊媒の身体を使わず直接空中からメガホンを使って話しかけるのを直接談話と呼ぶ。この際も実際にはエクトプラズムという霊質の物質でメガホンの中に人間と同じ発声器官をこしらえている。




   
 第一章 あなたとは何か  

 いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。  

 ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた〝小さな自分〟以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。

今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分りにならないでしょう。
 となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

 そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。

霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

 それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。


その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。

 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地をよくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。

 この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

 あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加することができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げることが出来ます。

その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せることができるのです。

 あなた方にはそれぞれにこの世で果たすべき仕事があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていくことが必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。そうすることは暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることであり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たしたことになります。

 宇宙にはある計画に沿った〝摂理(キマリ)〟というものがあります。私たちはそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意志による選択の自由が与えられています。東洋の諺に〝師は弟子に合わせて法を説く〟というのがあります。霊的に受け入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。

こちらから求めなくても良いのです。豁然と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

 と言っても私どもはあなた方の生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われることを可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになるということです。


内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、私ども霊界の者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助することによって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せることになるのです。

 悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分からずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し延べなければならないのです。

 もしも私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗黒の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利くことがあれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言していることになりましょう。

決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言することばかりです。真理と誤謬とがいつ果てるともない闘いを続けております。たぶん〝完全〟が成就されるまで続くことでしょう。しかし完全ということは事の性質上絶対に成就されることはありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっているわけです。

 これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないことでしょう。

怖じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

 これまでも私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界に近づいてまいりました。私一人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の一人です。なぜその必要があるのか。


それは今、地上人類に降りかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭堡を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破壊に陥れることになるからです。

 人類は物質文明を自負しますが、霊的には極めてお粗末です。願わくばその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達することを祈ります。つまりこれまで〝物〟に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

 進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、ということを唯一の目的として努力しているのです。

 嫉妬心、口論、諍い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃することは可能です。そして、それに代わって思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律することができます。

それにはその根幹として、霊性において人類は一つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。


明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった一歩であっても偉大な価値があるからです。たった一人でいいのです。

全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上において元気づけてあげることができれば、それだけであなたの人生は価値があったことになります。そして一人を二人に、二人を三人としていくことができるのです。

 
 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。

霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標を残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

 〔地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為されていることを強調して次のように述べる──〕

 援助を求める真摯な熱意が等閑(ナオザリ)にされることは決してありません。衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受け入れる扉を開いたことになります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。

元来地上の出来ごとを表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来ごとを表現することは不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

 いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えが出来たことになります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気付かぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそであること、それが肉体を道具として生きているのだということが理解できないのです。

 人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体があって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。

その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出て来たのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。


 そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使することなく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人と言えます。

 霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。

物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。


 魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙でも最も強力なエネルギーの一つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。

これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

 この霊的自覚が確立された時、あなたにはこの世的手段をもってしては与えることも奪うことも出来ないもの──盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有することになります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ──自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

 人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい、種を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶に会っても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけまません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。あなたを小馬鹿にして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねて来ることでしょう。

 私たちを互いに結びつける絆は神の絆です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。


 宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるようなことがあってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。

種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出すことを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやに靡(タナビ)き、かくして全世命が法則に従って生命活動を営んでおります。

 私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることはできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。

                   

 
    
 二章 なぜ生れてきたのか

 地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。

 あなたがた地上の人間にとっての大きな問題点は、やむを得ないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。つまり、あまりにもこの世的・物質的観点からのみ人生を考えていることです。

人生には確かに地上的な要素がありますが、同時に霊的なものであり、永遠に続くものなのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。それでは十全な判断は出来ません。


神の子には、一人の例外も無く、善悪ともに〝埋め合わせ〟の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。

 人生には目的があります。しかしその目的は、それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。自由意志といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

運命全体としての枠組みは出来ております。しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第だということです。

 もしかしたら、そのブループリントさえ自覚できないかもしれません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。時にはそれが悲嘆、無念、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。

もしも神があなたを創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無いことになりましょう。そこに〝埋め合わせの原理〟が働いていることを理解しなくてはいけません。

つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。
 
 つまり二重の仕組みになっているわけです。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。魂の奥には物質界のいかなるエネルギーよりも大きい威力が秘められています。宇宙は大霊の一部だからです。それが無ければ生命は存在しません。

なぜなら生命は霊そのものだからです。物質はカゲに過ぎません。霊という実在の殻に過ぎません。この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟りの程度にかかっています。


 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊の無いところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。

霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。物質を崇拝する人間は間違った偶像を拝していることになります。そこに実在が無いからです。物質は一時的な存在に過ぎません。

 霊はすべての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。人間という形体によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力なのです。いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いております。

 自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。霊の表現形態は無限だからです。無限なるものに制限を加えるわけには参りません。その生命の背後の力をあなた方は〝神〟と呼び、私は〝大霊〟(※)と呼びます。それは全ての霊の極致であり源泉であり頂上であるからです。
 
いかなる形態を取ろうと、創造者たるその大霊の表現であることに変わりありません。 (※シルバーバーチはこの〝大霊〟Great Spirit の他に〝白色大霊〟Great White Spirit という呼び方をします。白色とは実は無色透明を意味しているのですが、やはり〝神〟Got という言い方もよくしますので、本書では特殊な場合を除いてこの〝神〟に統一しました。──訳者)
 
 残念ながら、人の為に役立つ仕事はなかなか思うにまかせないものです。私が法則をこしらえたのではありません。

宇宙の理法はこうなっているということをお教えしているだけです。最大の貢献をなさんと心掛ける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その困難、その難問こそが、そうした志をもつ人々の魂の奥底を掘り起こし、奉仕の仕事に役立つ道具として是非とも具えねばならない隠れた資質を活用させることになるからです。

 奉仕という名の硬貨(コイン)にもその価値を示す表示があるということです。真に役立つ人間になるためには魂の最奥まで響く強烈な体験がなくてはなりません。

魂が円熟の花を咲かせるためには奥深く耕されなければなりません。そのことを思うと、私は時として、その逆であってくれればいいのだが・・・・・と思うことがあります。つまり自己犠牲の道を歩む人間がいうなれば〝バラ色の人生〟を歩むことができればと思うのです。しかし、その美しいバラにもトゲがあります。 

  以上、霊についての真理を幾つか紹介しましたが、私がそれを変更するわけには参りません。できもしないことをあたかもできるかのように言うわけにはいきません。できないものはできないのです。無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。 

完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋め合わせがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤によって行われます。犠牲的生活によって魂が〝損〟をすることはありません。

また利己的生活によっていささかも〝得〟をすることはありません。魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ〝ゲッセマネの園(※)〟に生き、どれだけ〝変容の丘(※※)〟に達するかにあります。そこには神の真の愛の働きがあります。

(※キリストが最大の苦難と裏切りにあった場所──苦難の象徴。※※キリストがこの世のものと思えぬ輝ける姿に変容した丘──苦難克服の象徴。──訳者)
 人のために己を棄てる仕事にもいろいろあります。ある者は人目につく派手なものであり、ある者は人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つことです。霊的真理の悟りを一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人に施すことです。

不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的なことではなく、真実の相を教えてあげなくてはなりません。

 大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知ることです。その地上生活を無知の暗闇の中ではなく、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐに伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落ち着きをもって生きるべきです。

 あなた方は一時の勝ち負けのために備えているのではありません。目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の闘いに携わっているのです。成就したものがいかなる結果をもたらすかを安易に推し量ってはいけません。

今日世界各地で、難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。
 
 あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。しっかりとした手に守られております。これまでもずっと、それによって支えられてきました。もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っていることでしょう。霊的なものにとって〝恐れる〟ということがなによりも強烈な腐食作用を及ぼします。

恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。

 光の中ばかりで暮らしておれば光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。

果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません。


 人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。

この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。

 毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。

いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に付きます。片方無くして他方は有り得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。

何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。

 あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを〝過ち〟と呼ぶ方を好みます。


もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰一人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。

 光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。

 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。

私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、

神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が〝自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている〟などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。


もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束(オボツカ)ないことになります。あなた方が誕生する遥か以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。

何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の、太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。

それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

 故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。


見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践してみればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。

霊は物質の僕では無いのです。身体がひとりで呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

 霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。

    

                   

   
 三章 なぜ苦しみがあるのか

 この交霊会に出席される方々が、もしも私の説く真理を聞くことによって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。

それに厳然と対ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださることが私どもの真の目的なのです。

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落すような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。

 それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。

 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(コマネ)いて傍観するほかない場合がよくあります。

そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらうわけです。霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。


燦々と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が眼を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込める暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

 地上の人生はしょせんは一つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。

すなわち動物的進化の段階の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。

地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、是非とも厳しい試練が必要なのです。    


 運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られるわけですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。

その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。


 地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されております。そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢をとるか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるということです。

 地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界へ来た時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。

 そのことに関連して忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人よりより大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。 
 
 悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。

魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。


もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

 繰り返し述べてきたことですが、真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時期(トキ)を決するのは魂の発達程度です。

魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もないことですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソート(小話)にすぎません。   


 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。失意のどん底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。

あなた方にはまだまだ発揮されていない力──それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。

苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。


 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。

何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。

 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。

この世に生れてくる霊魂がみな楽な暮らしを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。これは酷しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。
 
 神は一瞬たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。

神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなた方自身さえも裁く資格はありません。


物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。当然かも見知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

 地上では必ずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤は必ず平衝を取り戻します。

霊的に見て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとっていちばん嫌なことが実は、あなたの祈りに対する最適の回答であることも有り得るのです。


 ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度では無く霊的尺度で判断するように努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。

しかしそれは必ずしもあなたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的なモノサシで批判することはやめなくてはいけません。
 
 絶対に誤まることのない霊的真理が幾つかありますが、その内から二つだけ紹介してみましょう。一つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害をこうむることはないということ。

もう一つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。この二つです。焦ってはいけません。何事も気長に構えることです。


何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日のごとき組織体を具えるに至るのに何百万年もかかりました。

その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤まることのないその力を信じることです。    

 解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。

悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」──こうおっしゃる方があるかもしれません。


しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。

一つとして偶然というものがないのです。偶発事故というものが無いのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分かるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

  あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。

心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。

愛の心と叡知をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことができるのです。愛が全ての根源です。愛──人間的愛──はそのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。

 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護があることを一片の疑いも無く信じることができなければいけません。苦難にも悲しみにも挫けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。

 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。


 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱すことがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。

絶対的な叡知であり、絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。


 はがねは火によってこそ鍛えられます。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。

そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。
 
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 霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、言わば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。

人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。

そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。


 知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則です。

恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。


 太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり預金があるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。

然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。


 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来あがります。どうもその点がよく分かっていただけないようです。

種を蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまくでそろった時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもがうまくいき、鼻歌交じりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。

 そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、そして厳しさを発揮しはじめることになるのです。そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。

それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレイーションなり、真理なり、美なりを引き出せるようになります。魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたはしょせん、現在のあなたを超えることは出来ません。

そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に勝ります。


霊は何ものにも勝ります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。
 
                   
 

     
 四章物〟に惑わされない生き方

 その日その日の煩わしい雑事に追いまくられ、心配事や悩み事を抱えた生活を送っていると、時としてあなた方は、なぜこんな目に遭わなければならないのかと思ったり、また、これもよくあることですが、気持の通じ合った仲だと思っていた人から冷たい態度に出られたりして、理想を求める旅路で初めて光を見た時の感激をつい忘れてしまいがちです。

 その感激的体験の純粋無垢の美しさは時の経過とともにある程度その輝きを失いがちなものであり、体験当初のあの喜悦を今一度味わうことは必ずしも可能ではありません。しかし、今私たちが携っている仕事は、それぞれの持ち場において測り知れない重大性をもっております。

肉体という物質の牢に閉じ込められ、意識を制限された状態で物的生活を送っているあなた方には、霊と心と身体の関係について明確な理解をもつことは不可能です。

気苦労の絶え間がありません。身体の要求を満たしてやらなくてはなりません。金銭の問題にも関わらなくてはなりません。そうした息つく暇もない生活の中であなた方はつい意識の焦点を外し、支援しようとして待機している背後霊の存在を忘れがちです。

 この交霊界での私のうれしい役目の一つは、そうした状況下に置かれているあなた方が、所期の聖なる目的に向けて導かんとする愛の力によって、意識するしないにお構いなく見守られているということを思い出させてあげることです。

その愛の光の証をお見せしたり、あなた方を取りまいているところの霊の世界の美しさを披露することは、たとえ要求されてもなかなか叶えられるものではありません。しかし、事実、間違いなく存在するのです。


 霧が視野を遮ることがあるかもしれません。しかし、しょせんは霧です。私どもの世界から光を射し込むことができるし、現にこうして射し込んでおります。

これまで何年もの準備期を経て、こうしてあなた方を奉仕の仕事に導いてきたように、これからもその光と力とがあなた方が道を迷わぬよう導き続けることでしょう。そして万一迷ってもすぐ元の道に立ち戻らせ、神への道を歩み続けさせるよう配慮することでしょう。


 あなた方は本当の意味で祝福を受けられた方たちです。なぜならば、あなた方は地上のいかなる富も影が薄くなるほど高価な霊的知識の所有者だからです。こう申し上げるのは、あなた方も是非私どもと同じ視野から人生を理解していただきたいからです。

私どもは地上生活を物的視野でなく、価値観も異なれば判断の基準も異なる霊的世界から眺めております。その視野からの判断の方が遥かに真実に近いと信じています。
 
 人間は物質の中に埋もれた生活をしているためにバイブレージョンが低くなっております。朝、目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波にのみ込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの等々いろいろあります。

が、いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後で霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素を閉め出してしまい、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。


 これは真理普及の仕事に携る人にも〝よくある話〟なのです。奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰り返しです。これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームのようなものです。

神の使徒の一人ひとりが、先覚者の一人ひとりが、預言者の一人ひとりが、その他霊感鋭き男女の一人ひとりが辿った道なのです。


悟りの道にも満ち潮と引き潮にも似た盛衰があるということです。しかし大勢の方々に申し上げたことですが、一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型(パターン)があります。静かに振り返ってみれば、何者かによって一つの道に導かれていることを知るはずです。

 あなた方には分らなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがあることでしょう。

無理もないことです。しかし私には、全てはちゃんとした計画があってのことです、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来事といったものは決して起きません。

 全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困難、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせる上での意味を持っているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。

容易にもらえるものはもらう価値はないことになります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。

 人生は全て比較対象の中で展開しております。光も闇もともに神を理解するうえでの大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。

愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は一本の棒の両端にすぎないのです。元は一つなのです。しかしその一つを理解するには両端を見なければならないのです。

それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

 〝完全〟は絶対に成就出来ません。なぜなら、それには〝永遠〟の時が必要だからです。私は謎めいたことを言っているのではありません。要するに完成へ向けての絶え間ない過程において、一歩前進すればそのまた一歩先が見えてくるということです。

知識と同じで、知れば知るほど知らなければならないことがあることを自覚するものです。知識にはこれでおしまいというものはありません。叡知にも真理にも理解にも霊的悟りにも、おしまいというものはありません。なぜなら、それらは全て無限なる神の一部だからです。

 地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。

それは無知の産物に他なりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。

 あなた方の〝呼吸する〟というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。

その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。

 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識の内に物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。

霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現し始めるということに過ぎません。

 あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。

正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最小限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。

 永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。

そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。


今と昔を較べるために過去のページを繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないことをご存じのはずです。 

人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。

 霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場をかいま見たことになります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、また物的なことに心を奪われたり偏ったりすることもありません。


安全も援助も全て〝霊〟の中に見出すことができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。

 この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ、日常生活の一つひとつに正しい認識を持つことができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。

私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるということです。


霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識は我身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

 もしも神が私に何か一つあなた方へプレゼントすることを許されたとしたら、私が何よりも差し上げたいと思うのは〝霊的視力〟です。この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。

あなた方は身の回りの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいものかをご存知ない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。


それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何一つ無いことを自覚される筈です。

 私たちは法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲内のことをするほかはありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。

人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申し上げてきたことですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。

霊の力は生命の力そのものだからです。生命は霊なしには存在しません。生命──その本質、活力、潜在力、こうしたものは全て〝霊〟であるからこそ存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。


 これは、全てが夢幻に過ぎない物質界に生きているあなた方にとっては理解の困難なことです。しかし、だからこそ、実在が見えざる世界にあること、おぼろげに見ている世界を実在と錯覚しないようにと警告することが私の任務であるわけです。

曇りのない視覚を持って実在が認識できるようになるのは、物質界から撤退して内的世界つまり霊界へ来た時です。私は地上の思想上の名称にはこだわりません。
 
団体や組織にも頓着致しません。霊力の顕現の道具であってくれればよいのです。受け入れてくれる備えのある人であればどんな人でも導き、教え、私なりの体験から得た叡知を僅かでもお授けするのが私の仕事なのです。

もう一つの側面として、こうして同志の協力のもとに、その霊的真理をより分かりやすい形で披露し、それによって一人でも多くの人が調和のとれた地上生活を送ることが出来るようにしてあげることです。


 私にとって大事なのは〝道具〟です。霊が地上に働きかけるには人間という道具が必要です。そこで、確実に霊波を受け止めてくれる霊能者を一人でも多く見出さねばならないというのが、いつもながら私どもにとって難題であるわけです。霊力は無限です。

然るに霊能者の数には限りがあります。霊力は無尽蔵ですから、霊媒はいくらいても多すぎることはありません。しかし〝師は弟子に応じて法を説く〟と言われるように、霊力も霊媒の受容力に応じたものしか授けられません。能力以上のものは受けられないのです。

 進化の法則は民族全体、国民全体、人類全体の単位で働いているように、個人単位でも働いております。となると当然あなたは、満ちては引き、引いては満ちながら進化していく霊力の流れによる様々な影響を受けるわけですが、問題はその霊力の流れそのものと、霊力が顕現される〝場〟──民族、国家等の組織の集合体をはじめ、その働きの場である建物とを混同しないことです。

人間はとかく自分の関わった組織や団体にのみに霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。人間側から勝手に操ることもできません。

個人としてあなた方にできることは、その霊力の流れる一個の場として出来るだけ純粋であるよう心がけ、できるだけ多くの霊力が顕現されるようにする──つまり人のために役立つようになることです。


 ついでに申せば、現代の地上には無数の〝通路〟を通してかつてなかったほどの霊力が注がれております。その通路は霊媒にかぎりません。それとは気づかぬままに通路となっている人も大勢います。また同じ霊力が他の分野においても活用されております。

 神の計画が変わることはありません。あなた方が自らを変えてその計画に合わせなくてはなりません。神の霊力の流れに調和し、日々の生活をその流れに乗って送れば、あなた方の地上での存在意義が完うされます。

霊力は地上的基準に従って働くのではありません。人間の勝手な打算的欲望で働きを早めたり自分の方に引き寄せたりはできません。〝風は思いのままに吹く。いずこより来たりいずこへ行くか汝らは知らず〟(ヨハネ3-8)


 星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰り返し、四季は一つ一つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。が、

その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうすることであなた自身もその営みに参加することができるのです。

神からの遺産を受け継いだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方一人ひとりであると同時にあなた方一人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。


あなた方は神の縮図であり、その拡大が神というわけです。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していくことによって、一歩一歩、無限なる神に近づいて行くのです。

 徐々にではありますが、光が闇を照らすように知識が無知の闇を明るく照らしていきます。生長、変化、進化、進歩、開発、発展 ──これが宇宙の大原則です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。

循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動 ──こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなた方も、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。

物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望します。それは人生全体を織りなすタテ糸とヨコ糸であるわけです。


 もしも現在の自分に満足し始めたら、それは退歩しはじめたことを意味します。今の自分に飽き足らず常に新しい視野を求めている時、その時こそ進歩している のです。あなた方の世界には〝自然は真空を嫌う〟という言葉があります。じっとしている時がないのです。前進するか、さもなくば後退するかです。

 霊は全生命の創造力であるからこそじっとしていることができず、どこかに新しい捌け口を求め、従って満足することがないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。

芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役に立つ仕事に携わることです。看板は何であっても構いません。

かかわる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。


 神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔いた種子は自分で刈り取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さを持って作用し、人間的制度にはお構いなしです。

地上生活では勝者がいれば敗者がいるわけですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断することができるようになるでしょう。

 と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くびるつもりは毛頭ありません。それは私にも痛いほどよく分かります。ただ、もしも私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私が神界から授けられた義務を怠ることになります。

永い歴史を振り返れば、余りの悲劇に指導者も〝世も末だ〟と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋もれてしまうと思い込んだものでした。しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続けることでしょう。

 私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません
しかし、もしも容易であったらそれだけの価値はないことになりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。

聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲がりくねった道です。己れを棄てること──これが進化の法則です。

 もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものとだしたら、これは永遠の叡知を嘲笑うことになります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。

善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。

私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。


 暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。

つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神の関わる問題ではなく、あなた方の自由意志に関わる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。

 地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。

それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。

神の力とエネルギーと援助を呼ぶ込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。

 私たちは相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、互いに役立つものを施し合っております。ここまで目を開かせていただいたことを神に感謝しましょう。これを土台として、私たちを創造し育み続けて下さる御力の存在を信じましょう。

その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心掛けましょう。私たちは神の御前にいるのだという自覚を常に忘れず、手を差しのべさえすれば必要なものが能力に見合っただけ施されるということを忘れないように致しましょう。それは無限の可能性を秘めた無限なる霊の無限なるエネルギーなのです。
 

                 
           
  
 五章 霊的交信のむずかしさ

 霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交わすような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取り難いことがあります。

混線したり故障したりして全く通じなくなることもあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる二つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解していただけると思います。

 霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも百パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。

その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか──完全か、部分的か、それとも全く融合しないか──によって支配の度合いが決まります。


支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうすることによって潜在意識に繋がった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝えるわけですが霊媒も人間ですから疲れていることもあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲みすぎ、たばこの吸いすぎ等々、それはもういろいろとあるものです。

そうしたことの一つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。


 これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。

ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失うことさえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引き締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

 とにかく容易なことではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られているというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持ちよく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。

地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても、地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者とのつながりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の一つにそれがあるのです。
 
 ですから、あまり無理なことを要求をしないで頂きたいのです。霊媒を責めないで頂きたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らないことを知ってほしいのです。

私どもは許される限りの手段を尽くしています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために、私なら私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分かりでしょう。


これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

 その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。いちばん元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的ないし霊的に程度が低く、精妙度が劣ります。

精神的に霊的に垢抜けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。──訳者)

 こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでもかなえられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思うことの全てが伝えられるともかぎりません。その霊次第です。

しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。


  霊の世界では言語を使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽にできると思ってはいけません。

こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連係を保つために数え切れないほどの〝糸〟を操っているのです。その内の一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

 このように霊界と地上との交信を理解していただくうえで説明しなくてはならないことがたくさんあります。簡単に出来ることのようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部そろえば簡単にできることは、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。


その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

 これで、私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われることがお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。

その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信にかかっていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないということになります。いったん精神的動揺をきたすと、その不安の念の本質的性格の為に霊的通信網が塞がれてしまいます。

 人間の心に浮かぶ思念がすべて霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。

しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心像として見過ごしてはいけないことだけは真実です。


 その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でないことを忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、二つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先のことです。

こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。よりよい成果を挙げるための努力が常になされているのです。

 何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供していただく以外に方法がありません。

その効果を高めるには第一に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になることが肝心です。かつては通信網も無ければチャンネルが一つもないという時代がありました。

 私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかということです。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が一人でも増えることは、地上人類の進歩と向上へ向けて叡知と霊力を広げる手段が一つ増えることを意味します。

これは重大なことです。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の一人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論まれた遠大な計画の推進者の一人であり、霊的悟りを開く用意の出来た者へ真理を送り届けることを仕事としているのです。

 ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚めさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげることです。それが本来自分に具わる霊的威厳と崇高さを自覚させることになります。その折角の贈り物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断ったことになります。
 
 私たちからお贈り出来るものは霊的真理しかありません。が、それは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。

そこが私には分からないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えのほかにも真理があることに得心がいかないのです。


どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思うことが時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じることは絶対にありません。

 キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。

中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をすることがありますが、それも必ずしも思うとおりにいかないものです。もしも困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦い体験も価値があったことになります。

 霊の世界からこうして地上へ戻って来るそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせることにあります。ただそれだけのことです。地上世界の出来ごとに知らぬふりをしようと思えばできないことはありません。別段地上との関わりを強制される謂れはないのです。また人間側にはわれわれに対して援助を強要する手段は何もないはずです。

ですから私達の尽力は全て自発的なものです。それは人間愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたいという願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかもしれません。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ているわけですから・・・。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが・・・・・。

 そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。
 
それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。

永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分と言う存在の拠って来る原因を知ります。

これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。


   霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。

霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。


 地上とのつながりをもつためには、それなりの道具がいります。つまり霊力を送り込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は、一つにはその霊力の受容力を増すということでもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するということが、イザという重大事、困難、危険に際して霊力を授けやすくします。

その霊力とは何かとなると、これはなかなか説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめることのできないものだからです。しかし、あくまで実体のあるものです。

生命力そのものであり、神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。


 その権限の仕方は無限です。生気を取り戻させるのもそうですし、蘇生させるのもそうですし、活気を与えるのもそうですし、再充電するのもそうですし、再興させるのもそうです。

霊感の形を取ることもあれば病を治すこともします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかけることもできます。人を治す仕事の為に治療所の奥に閉じこもる時、それは一方では霊力を受けるために霊的回路を開いていることでもあります。
 
二つの仕事は常に相携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされていることがあります。霊力の伝道はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

 現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、

間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込まれ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。


物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変わりありません。

酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。

 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。

 世の中には、ここに集える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。

絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法があることを教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬と迷信、腐敗した体制を打破してゆく、その基本的足場としての永遠の霊的真理を説くことが必要です。

 肉眼で見ることができず、手で触れてみることも出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触を持つことは容易なことではありません。

人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれているかぎり、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んで参ります。
 
多くの人になかなか分かっていただけないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないということです。

本人自らが回路を開いてくれないかぎり他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するための何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当り前のことです。

そこで是非ともあなた方には、今あなた方を支え援助している力が霊的なものであり、それには成就出来ないものは何一つないことを知っていただきたいのです。


 暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。

価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義──地上世界を蝕み、何のために生れて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この二つのガンに対する永遠の闘いです。

 善のための努力が徒労に終わることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終わることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。


いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つはありません。

真の安全は人間の目に映じぬ世界──地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。


 人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的実在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。

全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。

ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要ではないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変わりの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心を支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。


               
 
                  

 六章 役に立つ喜び

 人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、

自分が決して一人ぼっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。

 地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。

そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為は有りません。

どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物──人間、動物、その他何でもよろしい──の為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。



 こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目の当たりにしていると、それだけでのことで嬉しい気分に浸れるのではありません。

現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫に置き替えることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身を持って示すことができた時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。

 
そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんなことにはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

 その霊力が、道に迷ってあなた方のもとを訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりも遥かに意義ある存在です。
 
 病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。

説く人自らが信仰に自信を失っていることすらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切型の説教をオウムのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。


あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになることでしょう。

 ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(モロ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。

大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

 地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

 その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。


こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。


 自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視覚で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。
 
神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。


 しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信がいっそうその強さを増していくのです。

生命現象の全てが拠り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入り難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分一人で獲得していかねばならないのです。

 私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(三次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来ごとを支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。

その結果しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。(第二章参照)

 悟りの道に近道はありません。代わりの手段もありません。安易や道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。

悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

 さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々──病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人──要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差し伸べられるということも知っております。

 時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

 その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者──その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち── ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。

そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。

そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事は他にありません。

 愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなたの方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡知は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。


人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないでください。

 私としては、たった一言であっても、私の述べたことの中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出していただければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。


それはそれなりの機能があることは認めますが、霊の力はそんな〝建物〟に宿るのではありません。〝人間〟を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがいのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身を擲(ナゲウ)ってくれる人間一人の方が、そうした建造物全部よりも遥かに大切です。頑張ってください。
 
そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心掛けを忘れないで下さい。世間の拍手喝さいを求めてはなりません。この世に生れてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何一つ思い残すことのないよう、精一杯努力して下さい。
 
 ここに集える私たち一人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらすことによって、少しでも宇宙の大霊に寄与することができることの幸せを神に感謝いたしましょう。

人間として霊として、こうして生を享けた本来の目的を互いに果たせることの幸せを感謝いたしましょう。人のために尽くすことに勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげること、これは何にも勝る大切な仕事です。


 ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われることの幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かったことになるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。

これから後も人のために役立つ仕事に携わるかぎり、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にあることを、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向けることです。

それは人生について正しい視野と焦点を持つことになり、自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊に宿って自我を表現しているにすぎないこと、心がけ一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ることになるでしょう。

こうしたことは是非とも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

 自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供すること──これは人のために役立つことの最大の喜びです。

真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでのことは全てが準備であり、全てが役に立っているのです。

魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。


 地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では〝物〟を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。

人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死と共に消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。


なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献心から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

 世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりに出来るだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。

言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重要な仕事です。

手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生れて来たのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡知と理解を広める仕事に協力していることになります。


 肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。

それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。

霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。


真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

 イエスはそのことを〝豚に真珠を投げ与えるべからず〟と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものを持ってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。

私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

 あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。

知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。


 一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担ったことになります。これはあなた方に出来る仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできないことです。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。

私ども霊側も強引に命令することはしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりすることはいたしたくありません。あくまでも導くことを主眼としているのです。あなた方が何か一つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助することによって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。

協力し合うことによって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わることができるのです。


 残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。言わば一種の退廃的雰囲気の中で生きております──それが〝生きる〟と言えるならばの話ですが、霊の光の啓示を受けた人は幸いです。

私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。

 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、

それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。


霊こそ実在です。物質は実在では無いのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。

生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。


 
                  


   
 七章 心霊治療と生命力

 (本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である。──訳者)
 
 あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解していただきたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動を覚えなかったら、その治療は失敗したことになります。

もしもなんらかの霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげたことになるからです。

 それが常に変わらぬ心霊治療の隠れた目的です。治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生まれきたのかも知らず、従って何をなすべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。


たった一人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなた方の存在の意義があったことになります。

 真理普及の仕事が次第に発展しつつあること、霊的威力に目を向ける人が増えつつあることを私は非常にうれしく思っております。その人たちが困難に遭遇した時はいつでも援助の手を差しのべております。病気治療にはいっそう強力な生命力を注ぎ込みます。

しかし忘れないでいただきたいのは、何ごとにも必ずそれ相当の原因があるということです。


霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入るわけにはいかないのです。手助けはできます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげるわけには参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。

霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表われたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。私どもは霊力によって手助けすることは出来ても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。

 要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包含し、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。

ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験したことになります。


 その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら──本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とは言えないというのが私の考えですが──それは霊的自我に目覚めたということであり、存在の意義を成就し始めたことになります。

この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズムの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかし、それはしょせんは注意をひくためのオモチャに過ぎません。

いつまでもオモチャで遊んでいてはいけません。幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、よろこばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。


 一口に心霊治療と言っても、内面的にみれば磁気的(マグネチック)なもので生理的とも言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そしてわれわれ霊による最も程度の高いもの、すなわち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時期が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬の内に治してしまうものがあります。

健康体のもつ磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何のかかわりもありません。その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものはたいていこれによります。

その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎ込むやり方で、患者の身体に一切触れずに一瞬の内に治すことができます。


 その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用することができるのです。身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的に治癒する力が具わっております。ただそれにはそれなりの摂理があるということです。

 そもそも健康とは身体と精神と霊の三者の関係が健全であるということです。この三つの必須要素が調和のとれた状態にあることです。そのうちの一つでも正常に働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。 
 
三者の調和を保つ方法はその三者がそれぞれに与えられた地上での機能を果たすことです。霊力は素晴らしい威力を発揮します。これには反駁(ハンパク)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。

 
 霊的治癒エネルギーの威力を目のあたりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他ありとあらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治癒エネルギーはその生命力の一部なのです。

身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命はありません。霊から離れた物質に意識的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

 このように、ある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画の中において、その無限の生命力を使用する責任を担っていることになります。その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。

かつてはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けば、その霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴することになります。


 物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。

それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝えること、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。

 しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担ったことになります。

そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。

 全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきた目的だからです。

 霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうすることによって霊性も発達させなければなりません。

霊性こそが霊力の分量を決することになるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きることがありません。

霊的潜在力には際限が無いのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒についていろいろと試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。

こちらの世界には〝これでおしまい〟ということがないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間という道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果をあげるしかないのです。


 心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を一度に改心させることではありません。一度に一人の人間、一人の子供を治すことによって、いわば霊的橋頭堡を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。

千種万様の形をとる霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えが出来た者によってその真価が発揮されます。受入態勢が出来ているということが絶対条件なのです。

 人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。

こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、そこに一石二鳥の成果が得られていることが分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になるということです。


 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験による研究を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的のために地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。


三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬことはなくなり、老化現象によって死を迎えることになります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活のための霊的準備が整った結果としてそうなるのです。


 身体が病むということは精神か霊かのいずれかに不自然なところがあるということです。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。

魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。


 あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であったことになります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗でもあり、その患者は悟りへの道を失ったことになります。絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものに出来なかったわけです。

本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するためになさねばならぬことを啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせること、これが最も大事なことです。真理は真理です。絶対に変えるわけにはいきません。

それが真理です。人間の一人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現することによって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。事は極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

 そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が暗闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。ただし、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりにすぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。

疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡知と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きることのない霊的遺産を手にすることです。それが地上生活のあるべき本来の姿です。ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。

 そのことを思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれていくことを、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から開放してあげることが大事です。大切なのはそこなのです。

なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で〝生きる〟ということが始まるからです。治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。

障害とは無知であり、誤まった生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則った生活を送るようにならなければなりません。

 苦が全てというわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難があることが進化の必須の条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。

ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行くことです。この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。

生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁のことです。

 霊的治癒は魂がそれを受けるに値する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。

患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外らせたりすることはできません。

 ですから、人間としての最大限の成果をあげるべく努力をすることです。それが私から言える唯一の助言です。背後霊との協調性が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。この仕事は延々と続きます。人間は御し難いものです。しょせん地上は完璧な世界ではないからです。完璧であれば地上には居ないはずです。

寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいることを自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばならない責任があります。

 奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし一度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日出来ることだけをして、明日やるべきことは今日は忘れることです。

力に限界が来たら無理して出そうとするより補給することを考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

 限界があるのは実はエネルギーではありません。身体と言う機能の方です。いかなる機械も限界を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間の身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない機械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。良く管理し、保護し、大切にすべきです。

 どの分野であろうと、人のために尽くす仕事に携わる人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思うことがあることは私も承知しております。もう駄目かと思えることもあるでしょう。しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。

貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃される時が来ます。


そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩むことになることでしょう。

 地上で自由を享受するのは人間だけではありません。創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕えられ苦しめられ利用されて良いものは何一つありません。その代償は必ず支払わされます。

因果律は必ず働きます。人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしている処の神性をごまかすことは出来ません。

 全生命は不可分のものです。物的形態上の違いはあっても深奥での区別は無いのです。生命は一つなのです。霊は一つなのです。そして霊とは神であり、全存在に内在しております。かなうものならば、あなた方の視界を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光輝く霊的存在を一目お目にかけることができれば、と思うことしきりです。


立ちはだかる困難の一つひとつは、あなた方が是非とも迎えうち克服し、そうすることによって霊の力が物の力に勝ることを証明していかねばならない、一つの挑戦でもあります。
                 

 

     
 八章 愛の力

  愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。なのに愛は厳然として存在します。
宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。

愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。


生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。

 あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。

昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(ハンサ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

 心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。

なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。

 宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。

受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。


 そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。

受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。


 宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。

愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。

 好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感の持てない人を愛する──これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。
 
確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。

 最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けでは出来ません。が、

それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。


 願わくばあなた方の世界も是非そうあってほしいと思うことしきりです。私たちのことが理解できない人々はいろいろと勝手なことを言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。

手の届くかぎりの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの階層と感応するよう努力していただきたい。

あなた方は決して孤軍奮闘しているのではないこと、まわりにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいることを認識していただきたい。

そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて一歩一歩近づきつつあり、よりいっそう、その摂理と調和していきつつあることを理解していただきたいのです。


 単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、

証を授かり、それ一つを手掛かりとして他の多くの真理を信じることのできる人は、それ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡知そのものであるところの霊の力によって支配されていることを悟っているからです。

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。

物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

 我欲を棄て他人の為に自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。

排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。


 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりのよる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。

その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。


愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。

 霊の世界へ来た者がなぜ地上に舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。

地上の住民を脅かす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。

愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私達へ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。
 
 これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得たことを有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。

その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さはとうてい人間の言語では表現できません。

 あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを結集してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力はとうてい推し測ることはできません。

もっとも、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけのことです。

霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけを授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授けることはできません。
 
 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈することはありません。

霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

 神聖こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。

自分とは一体何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私達は愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。

 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。

これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。

気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたの周りに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

 私ども霊界の者が是非とも提供しなけらばならない証は、愛が不滅であること、死は愛し合う者の仲を裂くことはできないこと、物的束縛から脱した霊は二度と死に囚われることがないということです。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。

なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩── 愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。

 二人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡知をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合うことこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。

愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。

その魂と魂との結びつきが地上で実現することは極めてまれなことであり、むしろ例外的なことに属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。


 これは本来一体である親和性をもった魂が二つに分かれて地上へ顕現しているという、いわゆる〝同類魂〟(アフィニティー)の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅か五十~七十年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うということは極めて異例のことです。

幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの二人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合いを深めていくことになります。
 
 愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れることなく、死後も離れることはありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。

なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。──訳者)
              
  
              
     
 
 九章 霊とは何か

 霊とは何かを言語によって完璧に描写することは絶対に不可能です。無限だからです。言語はすべて有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで、霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかないことをご承知下さい。

 宇宙の大霊すなわち神が腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような人間的存在でないことは、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。

それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。


 こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむことができます。全体を理解するには余りに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わることのない道程です。

何故なら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大であることになります。

 では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか。

 それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。

要するに物的混沌から脱け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私
はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

 自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせることを目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受けることも多くなります。

まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。
 
(※サイキックとスピリチュアルの違いはこうした自我の開発のほかに心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第七章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、たとえば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。

つまり目の前に存在するもの──地上にせよ霊界にせよ──しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。── 訳者)

 ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正することができるようになります。自我の全ての側面──霊と精神と身体の調和を成就することができます。
 
かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って、霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真の繋がりを自覚するようになります。


 人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方一人ひとりが神であり、神はあなた方一人ひとりなのです。一人ひとりが神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

 その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるということがあります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差し伸べんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。

その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進するようになります。

 先にサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発せんとして精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出てくるのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけ出て来ます。

超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえて出来ないとは申しませんが、大変な修行のいることであり、しかも往々にして危険を伴います。

 霊格が向上するほど生命活動が協調によって営れていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。

そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。

一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。

すなわち世界の人間の全てが霊的に繋がっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。


 登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。

が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。

私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てること── これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。


 人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。

悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。


たったそれが一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差し伸べることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

 もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。

イエスが〝慈悲の心は耐え忍ぶもの〟(※)と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。

(※コリント前書13・4-この言葉は聖書では〝愛は寛容である〟と訳されております。イエスの言葉はこの後さらに次のように続きます。

〝愛は慈悲に富む、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ〟。──訳者)


 霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へなんらかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。

地上は未だに〝眠れる魂〟で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

 霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。


 こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。

決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐えきれないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身に付けたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

 その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格は有りません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことは出来ません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得る為には最低まで降りてみなければなりません。

こうした霊的覚醒、言えかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせず地上を素通りしております。

 ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遥かに学びやすく、その方が自然なのです。

悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格は有りません。

 教える立場に立つ者は自らが学ぶ者として然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦── 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばなければなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。

そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

 これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。

その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。

私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)の持つ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなに面白い実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。

(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。──訳者)


 地上には、自分を変えようとせずに世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革は先ず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることが出来なければ、他の人を改める資格はありません。

地上人類の霊的新生という大変な事業に携っていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

 宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が、本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮することです。

その光輝、その気高さ、その威厳の中に生きることです。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。


神の遺産は尽きることがありません。地上に誕生してくる者の全てが、当然の遺産としてその一部を無償で分け与えられております。

 人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴えることをしてあげることです。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良いことには違いありません。メッセージを送る側も送られる側も共に喜ぶことでしょう。しかし喜ばせるだけで終わってはいけません。

その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりすることよりも大事です。

ですが、霊界において目論まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させることです。


 その仕事にあなた方も携わっておられるわけです。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折することはありません。嵐が吹きまくることもあるでしょう。雨も降りしきることでしょう。

しかし、それによって傷めつけられることはありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護されることでしょう。

 煩わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。

ですから、あなた方としてはひたすらに人の役に立つことを心掛けるほかないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

 それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。


小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。土くれから出来た人間の身体に息吹きを与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

 真摯な奉仕的精神を持って然るべき条件さえ整えば、その霊力は受け入れる用意の出来た人へいつでも送り届けられます。怖じけてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。




   
 十章 質問に答える
 
 シルバーバーチの交霊会では開会の祈りと講和のあと〝何かお聞きになりたいことがありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう〟と述べる。

質問はあらかじめまとめておいて司会者が述べることもあるが(投書による質問もある)、招待客がその専門分野、例えば心霊治療について直接質問することもある。その内の幾つかを紹介する。


 問 「もう一度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか」

 答 「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終わるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

私どもが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が〝死〟をもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことができるということ。言いかえれば、悔やし涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。 

人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄に生きてきた人間は、その悪行の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完璧です。だますことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです。


 問 「祈りに効果があるでしょうか」

 答 「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネが欲しい、家が欲しい──こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。

そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。

つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。

 
その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。

こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの要求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。

つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。

それは血縁関係によって繋がっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。」

 問 「唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんな目に遭うのでしょうか。」

 答 「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。

 祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらでもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

 問 「霊界の医師にはガンの治療法が分かっているのでしょうか」

 答 「あらゆる種類のガンが治せるという意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ原因から発生しているのではないからです。身体的なものに由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。
 
その全てを同じ方法で治すことはできません。私たち霊界の者が地上の問題にかかわるにはそれなりの制約があることを理解して下さい。

人間から頼まれて〝ああ、その問題ですか。じゃあ、こうしなさい〟といった調子で受け合うわけには参りません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。ただし人生観が誤っていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません。

 霊界からの援助は二重に行われます。真摯で献身的な治療家が正しい霊的法則に則って治療に当たっている時、霊界からそのチャンスをうかがっているその道の専門家が自動的に引き寄せられます。次にその患者に受け入れる用意が出来ている時、霊的治癒エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。

霊界からの治療は全てこの霊力によってなされます。決して魔法の杖を使うわけではありません。霊力は患者の魂によって引き寄せられます。ですから、その魂が霊力を受け入れない限り反応は生じません。魂が窓を開けてくれない限り、霊力と魂とを繋ぐものがないのです。閉め切った魂とは接触は得られません。この他にもいくつかの要素があります。

ガンの直接の(物的)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的にかかわる問題もありますし、誕生以前に 地上人類以外の何らかの身体での生活の体験があるかどうかもかかわってきます。決して単純な問題ではないのです。

 問 「生まれ変わりは本当にあるのでしょうか。」
 
 答 「これは非常にややこしい問題です。というのは、この問題に関してはこちらの世界でも事実を知る者と知らない者とで意見がさまざまに分かれているからです。知らない者はあくまでも〝ない〟と主張し、知っている者は自分の体験から自信をもって〝ある〟と断言します。私は後者の一人です。

私にも体験があるからです。ですから再生が事実であるという点は問題ないとしても、その真相の説明となると、これは大変やっかいです。なぜかと言えば、何度も述べてきたように、再生するのは同じ霊であっても、物質界に顕現するのは同じ面ではないからです」


 問 「霊的法則は霊界でも地上でも同じ作用をするのでしょうか。」

 答 「違います。こちらでは同一レベルにまで進化した者同士の生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対照というものがありません。各自がその霊格に合った階層で生活しており、程度の低い者と高い者とが一緒に暮らすということがありません。

地上では精神的ならびに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそういうことはありません。ただし、使命を受けて(地上的言い方をすれば)低い階層へ降りて行けば別です。そうでない限り同じレベルの霊同志の生活が営まれます。

やがてそのレベル以上に向上してくれば次のレベルへ進んで行きます。ですから一つの階層で対照的な生活が営まれることがないわけです。


 とにかく私たちの世界には光と闇といった対照がなく、従って影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解が出来ております。そうでなかったらその階層におれません。

その階層に至るまではやはり光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。そうすれば実在の真相をより正しく理解するようになり、実相をあるがままに知ることができます。

 たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその〝全体像〟を見ることができれば、地上では見られない美しさが鑑賞できます。霊眼には全ての物の内側と外側とが見えるのです。


内側には地上のような外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。そして物的感覚では理解できない霊的な実体感を有しております。

私たちは地球の引力の作用を受けません。また永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度にふさわしい美しさも開発されます。こちらは創造進化の世界です。そこに生活する者自らが創造していく世界です。」



 問 「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう観られますか」

 答 「潮に満ち潮と引き潮があるように、物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気に進めるわけにはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたかに見えますが、まだまだ霊的真理について全く無知な人が圧倒的多数を占めております。

いつも言っているように、スピリチュアリズムというのは単なる名称にすぎません。


 私にとってそれは大自然の法則、言いかえれば神の摂理を意味します。私の使命はその知識を広めることによって少しでも無知をなくすることです。その霊的知識の普及に手を貸してくださるものは、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を贈りたいと思います。

神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。

時には潮が引いたように活動の目立たない時期もありましょう。そうかと思うとブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのが嫌になる人もおりましょう。が、こうしたことは神の計画全体から見ればほんの部分的現象にすぎません。


その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。

私は真理の普及に関して決して悲観的になることはありません。常に楽観的です。というのは、背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。

私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人々がわれわれの仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせることはできても、真理の前進を完全に阻止することはできません。ここが大切な点です。


遠大なる神の計画の一部だということです。牧師が何と説こうと、医者がどうケチをつけようと、科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は彼らには無いのです。」


 問 「死後の世界でも罪を犯すことがありますか。」

 答 「ありますとも! 死後の世界でも特に幽界と言う処は地上と非常によく似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の霊たちで、決して天使でもなければ悪魔でもありません。

高級すぎもせず、さりとて低級すぎもせず、まあ、普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭いきれない恨みや憎しみ、欲望などに囚われて罪悪を重ねることもあります。要するに未熟であることから過ちを犯すのです。」



 問 「弱肉強食の自然界をこしらえた創造主がどうして全てを愛する神であり得るのでしょうか。」

 答 「限りある知恵で無限の叡知を理解することはできません。宇宙規模の問題を肉眼だけを通して覗いてみても、つまり限られた知性でもって理解しようとしても解決は得られません。全体のごく限られた一部しか見えないからです。

確かに自然界には弱肉強食の一面があり、腹が空けば互いに食い合うこともしますが、それは自然界全体としては極めて些細な話であって、人間界と同様に動物界にも調和と協調の原理が働いております。チャンスに恵まれればその原理を如実に見ることができます。

 それとは別に人間としての責務に関わる一面もあります。つまり、上に立つ者が低い進化の過程にある者に対してもつ責務です。人間も動物も、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に一つの生命共同体を構成しているからです。

全生命は、進む時は共に進み、後戻りする時は共に後戻りします。ですから、人間が愛と慈悲と同情の心を発揮すれば、それこそオオカミと小ヒツジが相寄りそって寝そべるようになるでしょう。」


 問 「人間一人ひとりに守護霊がついているのですか。」

 
 答 「母体内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当たる霊が付きます。そして、その人間の死の瞬間まで、与えられた責任と義務の遂行に最善を尽くします。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。自覚して来れれば守護霊の方も仕事がやりやすくなります。

守護霊は決まって一人だけですが、その援助に当たる霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿るべき道があらかじめ分かっております。
 
が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。」


 問 「地上で犯す罪は必ず地上で報いを受けるのでしょうか。」

 答 「そういう場合もあれば、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。

しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質いかんに関わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。


その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すと、その罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです」



 問 「死とは何かを子供にどう説かれますか。」

 答 「その子供に理解力があればの話であることは無論ですが、死とは、小鳥が鳥かごから放たれて自由に羽ばたくように肉体から解き放たれて、より大きな生活の世界へ進んで行くことであると説明しましょう。」


 問 「いたいけない幼児が不治の病で苦しむのは何か原因があるのでしょうか。これで神が公正と言えるだろうかと思うことがありますが・・・。」

 答 「本来霊的な問題を物的尺度で解決することはできません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断することはできません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけで持って理解することはできません。

小さなものが自分より大きいものを理解出来るでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解出来るでしょうか。

  宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡知によって創造されているからです。法則が狂うということは絶対にありません。時に不公平のように思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。

全体が見えるようになれば考えが変わります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解することはできません。

  埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上に無いのですから、人間には理解する手掛かりがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。


 子供の身体は両親の血と肉とでこしらえられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受け継がれていくに決まっています。ですから、子供は両親の身体的欠陥まで頂戴することになります。

 しかし、子供は誕生という行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌ぐことは出来ません。物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意ができた時に初めて得られるものです。

私たちの説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それになんらかの感動を覚えた時、その人はその後に待ち受ける数々の真理を理解していく用意が出来たことを意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すようなことをしてはいけません。」



 問 「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか。」

 答 「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに疑問の余地はありません。進化の梯子を一段上を行く、いわば先遣隊です。 そのうち心霊的能力が人間の当たり前の能力の一部となる時代が来ます。地上人類は今精神的発達の段階を通過しつつある処です。このあとには必然的に心霊的発達の段階が来ます。

 人間が五感だけを宇宙との接触の通路としている哀れな動物でないことをまず認識しないといけません。五感で知り得る世界は宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。

精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションが備わっており、そのバイブレーションに感応する別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死を経て、高いバイブレーションの世界が永遠の住み家となる日が来ます。」


 問 「霊界のどこに誰がいるということがすぐに分かるものでしょうか。」

 答 「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単に分かります。大ざっぱに分類すると死後の霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。
 
帰りたがっている霊の場合は有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。が、帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは簡単に突き止めることはできても、地上と連絡を取ることは容易ではありません。嫌だと言うのを無理やり連れてくるわけには参りません。」


 問 「永遠の生命を考えると、地上でのこんな限られた物的体験に意義があるのでしょうか。」

 答 「永遠も無数の小さな体験の総計から成り立つのです。一つの体験、一つの行為、一つの言葉、一つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠を作るのです。その内の一つが欠けても完全性を失います。

例えば、二、三百名からるオーケストラの中でトライアングルを一度だけ鳴らす人がいるとします。分量から言えば全くささやかな存在ですが、もしもその人が、たった一回の演奏で音階を間違えたらどうなりますか。あるいは音が弱すぎて聞き取れなかったらどうなりますか。

オーケストラ全体が台無しになるでしょう。分かりますね。あなた方の地上生活での体験もそれと同じことです。一つひとつが魂の陶冶(トウヤ)のための一部───大切な一部を担っているのです。その体験は永久に魂に刻み込まれていきます。」
             

 

  第十一章  おしまいに

 地上の人間は〝身体〟を中心に物事を考えます。私たち霊界の者はその身体を通して自我を表現しなければならない〝霊〟のことを第一に考えます。その霊が正常に自我を表現しておれば、身体との関係も自然にうまくいきます。なぜなら物質は常に従者の立場にあり、主人ではないからです。霊が王様で物質はその従臣だということです。

 この真理が今日ここにお集まりの方々の人生を明るく照らし、大きな革命をもたらして参りました。自分とは何かを見出されました。地上の言語では表現できない真理、地上の富では評価できない悟りを得て来られました。

 霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらわしめるカギです。大切なのは身体への影響ではなく、魂の琴線に触れる体験です。ですから、私はこれより先のあなた方の生活に問題が生じないとは決して申しません。

苦労がないとも申しません。障害やハンディを背負うことがないとも申しません。もしそんなことを言えばウソになります。


 地上生活は内部の完全性が不完全な環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落としていく試練の場です。霊的開発と成就への道において困難と苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。

もしも霊的な宝が容易に手に入るのものであれば、それはもはや手に入れるほどの価値はないことになります。自己鍛錬、自己制御、自己開発、これを成就するのが人生の目的です。これは容易にできるものではありません。王道はないのです。

 悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わうこと── 魂はこうした体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することができるのです。

〝ゲッセマネの園〟を通らずして〝変容の丘〟へ辿り着くことはできません。

ナザレ人イエスの生涯は地上の人間の全てが体験するものと本質的において同じものです。敗北も勝利もともに必要です。敗北の味を知らずして勝利の味が分かるでしょうか。

 私は日常生活で是非とも活用すべき教訓をできるだけ簡潔に述べようと苦労しているのです。決して難解な哲学ではありません。いたって実用的な霊的教訓なのです。

それが人生から然るべきものを体得する方法を教えてくれます。魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表われます。すなわち真の自我を見出したことから生まれる魂の平安と自信です。


魂がその状態になった時を〝悟った〟というのであり〝神を見出した〟と言うのです。そうなれば人生のいかなる苦しみにも悲しみにも負けることはありません。なぜなら悟りを開いたあなたは、いついかなる時でも神の兵器庫の扉を開けることが出来るからです。

また、あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほどの重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです。


 私はこうした真理をあなた方だけでなく他の多くの方々に説いて参りました。それが常に心に住みついているようになれば、何ものにも脅えることがなくなることを知っているからです。霊の力は絶大です。しかし、その力も通路のあるところしか流れません。あなた方がその通路なのです。

あなた方がその通路を提供して下さり、その通路を通って霊力が地上に流入する。具体的に言えば、喜んで人のために役立とうとする心と精神と霊とを用意して下さることが、その霊力の流入する条件を提供することになるのです。


かくして霊力があなた方を通過する際に必ずその一部があなた方の中に蓄積されて参ります。そしてそれが、あなた方自身の霊的な糧となりましょう。そうなった時のあなたは、自分の方から心のスキを見せない限り、この世に悩みなど全くなくなります。

 あなた方はいろいろと多くの教訓を学んでこられました。教訓は自分で学ばねばなりません。私が代わりに学んであげるわけにはいきません。私たち霊界の者にとっていちばん辛いのは、愛する人間が困難の中にあって必死に頑張っているのを傍観することです。

傍観と言っても、何もしないという意味ではありません。できる限りの援助は致します。しかし、魂の成長にとって掛けがえのないチャンスを奪うことになることだけは許されないのです。


 イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17・22)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。

実にあなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中に居るのです。ということは自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿しているということです。それを引き出して使用することが、この世に生まれてきたそもそもの目的なのです。

 私はこれまでの身を持っての体験から、宇宙を支配する霊力に不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる神の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。

もしも地上人類が、その神の心をわが心として摂理と調和した生活を送ることが出来れば、地上生活は一変することでしょう。その力は幾らでも授かることができます。神がわが子に施す恩寵ほど気前のよいものはありません。

 ですから、決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安の念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取り越し苦労は蹴散らしなさい。そんな憂うつな有難からぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。

 人生の背後に秘められた目的を悟り、それと一体となった時、一時的にせよあなたの魂に霊的な静寂が訪れます。内と外からあなたを守る霊の力に身を委ねることです。
 
きっと援助を授けてくれます。歩むべき道を明確に示してくれます。問題に遭遇した時は、地上の雑踏、混乱、かんかんがくがくの論争から身を退き、魂の静寂の中へ引きこもり、霊の啓示を待つことです。

 霊の宝石は決して色褪せることがありません。地上的財産をふんだんに所有している人は、自分がその財産の管財人にすぎないことに気づいておりません。本当は自分のものではないことに気づいておりません。霊的真理を悟った人にとっては、知識に責任が伴うように、財産にも責任が伴います。

あなた方は宇宙最大の霊力の道具です。大司教(※)の礼服を着る必要もなければ、枢機卿(*)の指輪をはめる必要もありません。それはただの装飾品に過ぎません。

 実在とは何の関係もありません。あなた方を通路として働いているところの霊力はすべての法王、全ての大司教、全ての枢機卿より偉大です。宇宙最大の力なのです。
(※ともにカトリック系キリスト教会の最高位の聖職。──訳者)





      
第十二章 
 シルバーバーチの祈り


 ハンネン・スワッハー・ホームサークル、すなわちシルバーバーチ交霊会はきまってシルバーバーチの祈りの言葉で始まり、終わりも必ずシルバーバーチの祈りの言葉で締めくくられる。
祈りの内容は大同小異であるが、その表現は一つひとつ違い、出席者はその妙味に感嘆させられるのが常である。その中から典型的なものを紹介する。

 神よ───天地の創造主、至尊至高の絶対的な力、全存在の宿命の統括者にまします神よ、私たちはこれまであなたの得さしめ給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。

 私たちの為に暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私たち自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私たちを栄光と光輝とによりて温かく包んでくださったその叡智に対して深く感謝いたします。

 私がこうして存在することの真の理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私たちをお導きくださるその愛に深く感謝いたします。

 また、私たちのために真理普及の道を切り開いて下さった先達の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者たち、その他、宗教家、哲学者、賢聖 ───そのうちのある者は地上にては名も知られず、死して漸くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかれずにおりますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。


 これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。皆々と共に感謝の言葉を捧げるとともに、代わりて私たちがあなたの御力の通路となり、あなたの御計画推進の一翼を担い、御子たちのために役立つことができますよう導き給わんことを。

 ここに、ひたすら人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

(注釈──祈りの初めあるいは途中で神に呼びかける時、シルバーバーチは必ず Great White Spirit という言い方をします。普段の霊言の中では神のことを Great Spirit ── 時に God──と言っており、これを文字通りに訳せば〝大霊〟ということになります。

われわれ一人ひとりが〝霊〟で、その生みの親である神を〝大霊〟というのは理屈では分かりますが、これでは日本人にとって古来〝神〟という文字およびそれを口にした時の響きから受ける崇敬の念が感じ取れません。そこで私はこれまで、ある時は神と訳しある時は大霊と訳したりしましたが、

これをさらに White という形容詞が付くと、もはや日本語では訳せなくなります。と言うのは、シルバーバーチはホワイトという用語を〝無色〟の意味で用い、それによって〝無垢〟を象徴させているのですが、英語ではそれで良いとしても、これを〝白い〟とか〝白色の〟とか〝無色の〟とかの日本語に直すと、日本語特有の感覚的な〝味〟が強く出て理解の妨げになります。

その点、カミと言う言葉は、言霊的にみても響きの上からもシルバーバーチの説く God あるいは Great spirit とぴったりであるとの考えから、私は祈りの冒頭の Great White Spirit もあっさりと〝神〟と訳しました。

また、シルバーバーチは祈りの最後に必ず〝あなたの僕インディアン〟your Indian servant  と言うのですが、このインディアンがシルバーバーチ霊その人でないことは「まえがき」で編者がハンネン・スワッハーの言葉を引用して解説しています。
 
しかしこのインディアンの霊も紀元前の古代霊であり、神界 ── 少なくとも地球圏の最高界 ── の波長を受信できるほど進化した高級霊であることは間違いありません。

霊界の霊媒として元インディアンだった霊を使ったことには
、インディアンが民族的に心霊能力が優れていることも理由の一つでしょうが、私は、これまで白人中心の文明思想に毒されてきている地球人類への戒めが込められていると観ております。それはシリーズを読み通していただけば、きっと読み取っていただけるものと思います。)




 訳者あとがき 
 
 本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーの一人アン・ドゥーリー女史が編纂した Guidance from  Silver  Birch(シルバーバーチの導き)の全訳である。

 巻頭で紹介したように、霊言集は十一冊あり、一冊一冊に編纂者の特色が出ていて興味ぶかい。交霊会は開会の祈り ー 講話 ー 質疑応答 ― 閉会の祈りというパターンになっているが、その質疑応答は主に招待客との間で行われるから、そのつど新鮮味があり、シルバーバーチも巧みに質問者に合った説明をするので聞く者を退屈させない。
 
その相手が著名な学者であることもあれば、心霊研究家や心霊治療家であることもあり、青年牧師である場合もあれば、幼い子供たちであることもあり、それが霊訓の内容を多彩なものにしている。

 本書に収められたのは大部分が講話の部分であり、質疑応答も割に平凡なものを一つの章にまとめており、全体としてみればシルバーバーチ霊訓のエキスのようなものになっている。『古代霊は語る』を読まれた方には少し物足らなさを感じられるかもしれないが、シリーズである以上は全体としてのバランスを考えねばならず、その意味で、本書は初めての方にとって格好の〝入門書〟であるとみて選んだ。

巻末の「霊的啓示の系譜」はこれに物足らなさを感じられる方への配慮と受け取っていただきたい。                                                        
                              近藤 千雄

                           
 
      
 解説  霊的啓示の系譜

 歴史的に辿れば、人類全体としての啓発に寄与するほどの霊的啓示は、各民族個有の宗教の起源となった聖典に求めることができよう。モーセの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。

 これらの中でも日本の古神道いわゆる神ながらの道の思想は人工的夾雑物が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起源においては霊的であっても、時代とともに人間的主観によって歪められていくということである。

 〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今なお欧米においてロングセラーを続けるモーゼスの『霊訓』の中で、イムペレーターと名のる最高指導霊(実は旧約聖書に出て来る預言者マラキ)がこう述べている。

 「・・・・・聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がある。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去りて後は後継者を通じて啓示をもたらしてきた。

その一人 ── 神が人間に直接的に働きかけるものとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキゼデクがいる。


彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用するために世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民のために送りし神託の代弁者であった。

 ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当たりては事実の記録と単なる信仰の表現にすぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見受けられる。

それらは伝えられるがごとき秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。

それ故、たしかに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の一つひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。」

 こう述べた後、キリスト教を例にしてその系譜を明らかにする。


 「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者 ── イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者 ── モーセを導いた。

霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強力なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位にふさわしき人物とした。


その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界各地へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。

その時代はユダヤ民族にとりては、他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似性を持つ段階、すなわち古きものが消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする。霊的真理の発達段階であった。

 ここでもまた、推理を誤ってはならぬ。モーセの制定する律法は汝らの説教者たちの説くがごとき、いつの時代にも適応さるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。

すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使途によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。

      (中 略)

 今日なお存続せるかの「十戒」は変転きまわりなき時代のために説かれた、真理の一面にすぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、

すでにその段階を超えたる者に字句どおりに当てはめるべきものにはあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。

                 (中 略)

 メルキゼデクがモーセの指導霊となりたるごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断わっておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんが為に他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。

またその巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後もなお地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。

がそれは今の汝にはかかわりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘(キョウアイ)なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ。」 

 さてスピリチュアリズムは、人間が知性の飛躍的発達とともに霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回し始めた十九世紀半ば頃勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手することに成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、

オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』並びに『霊媒の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全十一巻である。

 以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙にいとまがないほどであり、内容的に貴重なものも少なくない。

もっと言えば、立派な通信を入手しながら、さまざまな事情から公表をあきらめたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。

 「さて〝聖職者というものは何でもすぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。

が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。


ちなみに私が本通信を〝信じるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信というものが実際に存在することを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることを明確に得心するのに十五年もかかった。」

 国教会の牧師だったオーエンはこれを出版したことで教会長老の怒りをかい〝回心〟を求められたが頑として聞きいれず自ら辞職している。可能性としては身の保全のためにそれを公表せずに焼却処分にすることも有り得たわけであり、現実にそうしたケースが他にいくつもあったであろうことは十分に推測される。

 さて『霊訓』の一節に人類の進歩とともに啓示の内容も進歩するという件りがあるが、右に紹介した霊界通信に絞ってみてもそれがうかがえる。例えば『霊訓』の中においては〝再生〟の問題は一切見当たらず、モーセの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅かに散見される程度である。この続編はモーセの恩師であるスピーア夫人が審神者となって得た霊言を主体に収録されているが、その中に次のような箇所がある。

「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずることの出来る問題である。大神のご臨席のもとに神庁において行われる神々の協議の中身につきては、神庁の下層部の者にすら知ることを得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊魂の究極の運命である。

神庁において神議(ハカリ)に議られしのちに、一個の霊が再び地上へ肉体を持って生まれるべしと判断されるか〝否〟と判断されるかは、誰にも分からぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。すべては良きに計らわれるであろう。


 すでに述べたごとく、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実にはあらず。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送ることはある。他にもわれわれなりの配慮により広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないからである。霊なら全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊は自ら己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ。」

 これはイムペレーターの霊言である。末尾の〝他にもわれわれの配慮により云々…〟という言葉からうかがえるように、再生は〝あるにはある〟といった程度に止めている。

 これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対的条件として前面に押し出し、〝人間の言語ではその真相はうまく伝えられないが・・・〟と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。

本書(アン・ドゥリー編)では再生に関する具体的な霊言は採録されておらず、僅かに第十章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の十巻の全部で詳しく説かれている。


 霊媒のモーゼスもバーバネルもともに英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする二つの霊的啓示が、一方は〝まだその時期ではない〟という態度を取り、他方が〝今こそその時期である〟という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに〝啓示の進歩〟を物語るものと観てよいであろう。

 今も述べたように、先に列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求めることが出来るという意味である。

すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で一つのクライマックスを迎え、それがいったん埋もれたあと、十九世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言あるいは自動書記の形で地上へ奔出しはじめたと観ることが出来る。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。


 「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんがために物質界へ降りた多くの神の使途の一人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮のもとに成就されつつあるところです。

          (中   略)

 イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今なお、二千年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働きかけております。その間イエスの霊は数え切れないほど何度もはりつけにされ、今なお毎日のようにはりつけにされております。」
 
───あなたが〝ナザレ人イエス〟と言う時、それは地上で生活したあの人間イエスのことですか、それともイエスを通して働いている霊的威力のことですか。

「あの人間イエスのことです。ただしその後イエスも向上進化し、地上時代よりはるかに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わさざるを得なかったのです。それでもなお、地上の人間でイエスほど霊の威力を発揮した者はおりません。イエスほど強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません。」

───この二千年の間に一人もいないのでしょうか。

「いません。前にも後にもおりません。地上という世界があの時代ほど偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私たちは地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのは、どれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合いが決まるのです。」


───霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送ることによってさらに奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。

「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。

各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです。」

 百年を生きるのがやっとというわれわれ地上人の人間にとって二千年とか五千年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い一時期にすぎないのであろう。

巷間(コウカン)にはこれから後の僅か百年二百年について、やたらに悲愴感を煽る勿体ぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖じけづかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。

もっとも、悠久の目をもってみれば〝悪質なイタズラ〟程度のものなのかもしれないが。


 純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的啓示の系譜の中に如実に見られる一大特質である。

 筆者が今携わっている仕事はいわば西洋的系譜の啓示を日本へ輸入することであるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。

私見によれば、それは多分神道的色彩を帯びることであろう。そしてそれを西洋へ逆輸出する形になるのかもしれない。そうすることによって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、いわゆる地上天国が築かれるのではなかろうか。

 ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識を持つには、一人筆者のみではないと信じている。

 では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。〝新しい啓示〟と〝古い啓示〟との間の矛盾の問題に言及してイムペレーターはこう述べている。

 「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と矛盾するということはあり得ぬ。ただしその真理は常にその時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。

人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入してはせっかくの品質を落し、勝手な推論と思惑とで上塗りする。時の経過とともにいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純でありこの世的なものとなってしまう。

 やがて新らしき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新らしきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はない。が、矛盾せるg如く思わしめるところの古き夾雑物がある。

まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

 神は決して押し売りはせぬ。このたびの啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。

神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。」
                                                                                                  近藤 千雄