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            シルバーバーチの霊訓(五)

     目 次  
 A・W・オースティン編 近藤 千雄訳
     巻頭言
          まえがき(編者)     
          シルバーバーチの祈り 
                  

   一章 シルバーバーチとは何者か   
   二章 死は第二の誕生    
   三章 死後の後悔

   
   四章 軽蔑と嘲笑の中で  
        ──スピリチュアリズムの歩み   
   五章 迷いの過去から悟りの未来へ   
   六章 イエスはいま何をしているか                                              
   七章 動物は死後どうなるか   
   八章 病気は自分で治せる 
   九章 神は愛の中にも憎しみの中にも                                          
      十章   二人の幼児と語る
   十一章 青年牧師との論争
   十二章 参戦拒否は是か否か
   十三章 質問に答える     

   解説   「動機」と「罪」(訳者) 
        More Teachings of Silver Birch
           Edited by  A.W. Austen
              Psychic Press Ltd.
              London, England
 

     
         巻頭言

 あなたがもしも古き神話や伝来の信仰をもって足れりとし、あるいはすでに真理の頂上を極めたと自負されるならば、本書は用はない。が、もしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めてやまぬものであることをご存知ならば、ぜひお読みいただいて、世界のすべての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出して頂きたい。

 そこにはすべての宗教の創始者によって説かれた教えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後にもなお続く魂の旅路に必要不可欠の霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明りを灯し、魂を豊かにしてくれることであろう。

その中にはあなたの理性を反発させ、あなたの知性を侮辱するものは何一つない。なぜなら、すべては愛の心と奉仕の精神から生まれたものだからである。
                                                                                           シルバーバーチ


 
  まえがき  (編者)

 本書はほぼ一世紀前に(※)霊界において開始された大々的布教活動───すべての宗教の教義の下に埋もれてしまった必須の霊的真理を掘り起こし、その本来の単純素朴な形で地上に蘇らせる活動の一環として出版されるものである。

世界各地で催されている交霊会(ホームサークル)において、民族を異にする霊媒を通じて働きかけている支配霊たちが目的としているのは、人間に霊的実在を教え霊的叡智を授けることによってお互いがお互いのための生活を送り、そうすることによって同胞精神に満ちた新しい世界を招来する一助となるように導くことにある。
  (※一八四八年のスピリチュアリズムの勃興をさす
───訳者)

 本書に収められているのは世界的に敬愛されている古代霊からの教訓である。その名をシルバーバーチというが、これは本名ではない。いま彼が所属している世界では名前はどうでもよいのだといって明かそうとしないのである。が、いつかは明かす日が来ることを約束している。


(※)それまでは私も語られた言葉だけで彼がいかなる人物であるかを判断することで満足するとしよう───誰が語っているのかは分からないままそのメッセージを受け入れていくことにしよう。

(※一九八一年バーバネルの死によってそれも果たされないまま終わった。いつかは明かすと言ったは、明かしてもよい時期が来たら明かすという意味で言ったのであろう。が現実にはシルバーバーチという人物像が強烈となるにつれて地上では誰だったのかという興味が次第に薄れ、そのせんさくが無意味に思われるようになっていったというのが実情である───訳者)


 過去九年間ほぼ週に一回の割でこの霊のメッセンジャー(使い)の入神談話を速記してきて───彼は自分のことを上層界の神霊によって派遣されたメッセンジャーに過ぎないと言い、功績を自分のように言われるのを嫌うが───私はシルバーバーチを高貴な個性と明確な視野と表現の流暢さとを兼ね具えた高級神霊の一人として尊敬するようになった。

 冷やかな活字では彼の言葉の温かさ、サークルに出席して個人的に接した者が肌で感じ取る情愛を伝えることはできない。一度も交霊会に出席したことがなく活字によってのみシルバーバーチを知る者には、直接(じか)にその声を耳にしているメンバーほどには彼の人類を思いやる心は感じ取れない。

 われわれメンバーにとってはシルバーバーチは同席しているメンバーとまったく変わらない実在の人物である。

彼が常に訴えるのは理性であり、行いの試金石は動機であり、望みとしているのは自分を役立てることのみである。慈悲の心と思いやりと理解力に溢れるシルバーバーチは決して人を諌めることはしない、しばしば非難の矛先を組織へ向けることはあっても、決して個人へは向けない。
 
援助の要請も絶対に断らない。自分が役に立つ可能性があればいかなる労苦もいとわず、いかに難しい説明も試みてくれる。

 初めて出席した招待者が礼を述べると、シルバーバーチはきまって、礼は神に述べなさいと言う。そして〝私は一介の僕に過ぎず、礼を述べていただくわけにはまいりません。

すべては神へ捧げるべきです〟と述べる。と言うのも、シルバーバーチの主張するところによれば、かつての使者によってもたらされたメッセージがその使者を崇める者たちによって影が薄くなってしまっている。

したがって我々がシルバーバーチに感謝するようになれば、それは何時かはシルバーバーチという使者を崇めてメッセージは二の次となり、ついには本来の使者を台無しにしてしまいかねないというのである。

その本来の使命は各自が自分の力で神との直接の繋がりを待つべきであり神保者(※)は無用であることを教えることにある。 (※キリスト教で説くイエスのように神との仲立ちをする者───訳者)



      シルバーバーチの祈り

 これまでシルバーバーチが述べた祈りの言葉は数知れないが、表現はさまざまでもその趣旨に本質的な違いはない。大別すると、開会に際して成功を祈るもの Invocation と閉会に際しての感謝の祈り Benediction とがある。それぞれの典型的なものを紹介する。


○ Invocation

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。

あなたは決して無知な人間が想像する如き嫉妬深い、横暴な方ではございません。又残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。

 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹が創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理───絶対に誤らず、絶対に連続性を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。

物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はあり得ないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有り得ないのでございます。

なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性の全てを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。

 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。

すなわち、あなたの霊は彼らの全てをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。

理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。

 私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理───霊眼を開き霊耳を持って聞き霊力の働きかけに素直に従って霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。

それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場を取る無数の霊に呼びかけております。

これこそが私どもの祈り───心から、魂の奥底から湧き出る願いであるとともに、可能なかぎり人のために己を役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。

その目標へ向けて私どもは真摯なる気持ちでもって自信を持って邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。


 ○  Benediction

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場を後に致します。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。

 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。

世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁(よすが)となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申しあげます。

  あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。



     
    一章 シルバーバーチとは何者か

 「私は荒野に呼ばわる声です(※)。神の使徒以外の何者でもありません。私が誰であるかということが一体何の意味があるのでしょう。私がどの程度の霊であるかは私のやっていることで判断していただきたい。

私の言葉が、私の誠意が、私の判断が、要するにあなた方人間世界における私の仕事が暗闇に迷える人々の心の灯となり慰めとなったら、それだけで私はしあわせなのです」(※マタイ3・3。世に容れられない警世家、革命家などのこと───訳者)

 これはある日の交霊会でメンバーの一人がシルバーバーチの地上での身元について尋ねた時の答えである。シルバーバーチがインディアンではないこと、本来の高遠の世界と地上との間の橋わたしとして一人のインディアンの幽体を使用しているところの、高級霊団の最高指揮者であるということまでは、われわれにも知れている。が、これまで好奇心から幾度地上時代の実名を尋ねても、まだ一度も明かしてくれていない。

ラベルよりも仕事の成果の方を重んじるのである。自分個人に対する賞賛を極度に嫌い、次のように述べる。

 「私は一介の神の僕に過ぎません。今まさに黎明を迎えんとしている新しい世界の一役を担う者として、これまで忘れ去られてきた霊的法則を蘇らせるために私を地上へ遣わした一団の通訳にすぎません。

私のことをいつもマウスピース(代弁者)としてお考えください。地上に根付こうとしている霊力、刻一刻と力を増しつつある霊の声を代弁しているに過ぎません。私の背後には遠々と幾重にも連なる霊団が控え、完全なる意志の統一のもとに、一丸となって協調体制で臨んでおります。

私がこの霊媒(バーバネル)を使用するごとくに彼らも私を使用し、永い間埋もれてきた霊的真理───それが今まさに掘りおこされ無数の男女の生活の中で、本来の場を得つつあるところですが───それを地上の全土に広げんとしているのです」

───でも私達にとって、あなたは単なる代弁者の声では無く実在の人物です。

 「私は別に私には個性がないと言っているわけではありません。私にもちゃんと個性はあります。ただ、こちらの世界では〝協調〟ということが大原則なのです。一つの大きなプランがあり、それに従って共通の利益のために各自が持てるものを貢献し合うということです。

身分の高いも低いもありません。あるのはそれまでに各自が積み上げてきた霊的成就の差だけです。開発した霊的資質と能力を自分より恵まれない人のために惜しみなく活用し、代わってその人たちも自分より恵まれない人のために持てるものを提供する。かくして地上の最低界(※)から天界の最高界に至るまで連綿として強力な霊的影響力の輪がつながっているのです」

(※地獄のこと。地上の人間から見れば他界した者はすべて〝あの世〟の人間、つまり霊界の所属のように考えがちであるが、それは目に見えない存在となったからそう思えるまでのことで、霊的な程度の点ではその大半が地上圏に属しており、霊界側からみれば肉体のあるなしに関係なく〝地上の人間〟であることに変わりはない。

モーゼスの『霊訓』のイムペレーター霊は宇宙を大きく三層に分類し、最下層の煉獄の七つの界の最高界が地上で、次に試練の中間層がやはり七界つづき、その後に真の実在界が存在するという。その究極の到達点はいかなる霊にも知り得ないと述べている──訳者)



───地上もそういうことになれば素晴らしいことですね。

 「いずれはそうなるでしょう。神の意志は必ずや成就されていくものだからです。その進行を邪魔し遅らせることはできます。しかし、その完成・成就を阻止することはできません」

 この件に関して別の交霊界で次のように述べている。

 「私はこれまであなた方の友として、守護者として、指導者として接してまいりました。いつもすぐ側に待機していること、私がいかなる霊格を具えた存在であろうとそれはあなた方人間との親密な接触を妨げることにならないこと、あなた方の悩みや困難に関心を抱き、できうる限りの援助の手を差しのべる用意があることを知っていただきたいと思ってまいりました。

 よろしいですか。私は確かに一方では永遠の真理を説き霊力の存在を明かさんとする教師的存在ですが、他方、あなた方お一人お一人の親しい友人でもあるのです。あなた方に対して親密な情愛を抱いており、持てる力で精一杯お役に立ちたいと努力いたしております。

どうか、困ったことがあれば、どんなことでもよろしい、いつでもよろしい、この私をお呼びください。もし私にできることであればご援助しましょう。もし私に手出しできないことであれば、あなた方みずからが背負わねばならない試練として、それに耐えていくための力をお貸しいたしましょう」


 さらに別の機会にこう語っている。

 「これまでの永い霊界での生活、向上・進化を目指して励んできた魂の修行の旅において私がみずから学んできたこと、あるいは教わったことはすべて、愛の心を持って快く皆さんにお教えしております。

そうすることを神がお許しになると信じるからです。ではその動機とは何か───それは、私のこうした行為を通じて私があなた方に対していかに情愛を感じているか、いかにあなた方のためを思っているかを分かっていただき、そうすることによって、あなた方の背後に控えている力には神の意図が託されていること、霊の豊かさと実りを何とかしてもたらしてあげようとしている力であることを認識していただくことにあります。


要するにあなた方への愛がすべてを動かし、神から発せられるその愛をあなた方のために表現していくことを唯一の目的といたしております。

 私たち霊団の者は功績も礼も感謝も一切求めません。お役に立ちさえすれば良いのです。争いに代わって平和を見ることが出来れば、涙にぬれた顔に代わって幸せな笑顔を見ることができれば、病と痛みに苦しむ身体に代わって健康な身体を見ることができれば、悲劇を無くすことができれば、意気消沈した魂に巣くう絶望感を拭い去ってあげることができれば、それだけで私たちは託された使命が達成されつつあることを知って喜びを覚えるのです。


 顧わくは神の祝福のあらんことを。顧わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い、神の愛があなた方の心を満たし給い、その力を得て代わってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを切に祈ります」

 このようにシルバーバーチは自分自身ならびに自分を補佐する霊団の並々ならぬ情愛をよく披瀝する。盛夏を迎え、これでしばし閉会となる最後の交霊会で次のような感動的な別れの挨拶を述べた。

 「この会もこれよりしばらくお休みとなりますが、私たちは無言とはいえすぐ側で引き続きあなた方とともにあって、可能なかぎりインスピレーションと力と導きをお授けいたします。

一日の活動が終わり、夜の静寂を迎えると、あなた方の魂は本来の自分を取り戻し、物質界の乱れたバイブレーションを後にして───ほんの束の間ですが───本当の我が家へ帰られます。その時あなた方は私たちとともに、いつの日か恒久的にあなた方のものとなる喜びのいくつかを体験されます。

 しかし、これまでの努力のお陰でこうして数々の障壁をのり越えて語り合えるとはいえ、私たちはふだんは物質というベールによって隔てられておりますが、いついかなる時も身近にいて、情愛を持って力になってあげていることを知ってください。

私たちがお持ちする力は、宇宙最高の霊力であることを心強く思ってください。私たちはもっとも身近にして、もっとも親密な存在である、あなた方のために尽くすことによって、神に仕えんとする僕に過ぎません。

 私のことを、ほんの一、二時間のあいだ薄明かりの中でしゃべる声ではなく(交霊会では照明を弱くする───訳者)、いつもあなた方の身のまわりにいて、あなた方の能力の開発と霊的進化のために役立つものなら何でもお持ちしようとしている、躍動する生命に溢れた生きた存在とお考えください。

語る時はこうして物的感覚(聴覚)に訴える方法しかないのは間どろこしいかぎりですが、私はいつも身近に存在しております。必要な時はいつでも私をお呼びください。私にできることであれば喜んで援助いたしましょう。私が手を差しのべることを渋るような人間でないことは、皆さんはもうよくご存知でしょう。

 樹木も花も、山も海も、小鳥も動物も、野原も小川も、その美しさを謳歌するこれからの夏を満喫なさってください。神を讃えましょう。神がその大自然の無限の変化に富む美しさをもたらしてくださっているのです。その内側で働いている神の力との交わりを求めましょう。


森の静けさの中に、その風のささやきの中に、小鳥のさえずりの中に、風に揺れる松の枝に、寄せては返す潮の流れに、花の香に、虫の音に神の存在を見出しましょう。

 どうか、そうした大自然の背後に秘められた力と一体となるようにつとめ、それを少しでも我がものとなさってください。神はさまざまな形で人間に語りかけております。教会や礼拝堂の中だけではありません。予言者や霊媒を通してだけではありません。数多くの啓示が盛り込まれている聖典だけではありません。

大自然の営みの中にも神の声が秘められているのです。大自然も神の僕です。私はそうしたさまざまな形───語りかける声と声なき声となって顕現している神の愛を皆さんにお伝えしたいのです」

 こう述べたあと最後に、これまでサークルとともに、そしてサークルを通して世界中の人々のために推進してきた仕事における基本的な理念を改めて説いて会を閉じた。

 「私はあなた方が愛の絆によって一丸となるように、これまでさまざまな努力をしてまいりました。より高い境涯、より大きな生命の世界を支配する法則をお教えしようと努力してまいりました。
 
また、あなた方に自分という存在についてもっと知っていただく───つまり(霊的に)いかに素晴らしくできあがっているかを知っていただくべく努力してまいりました。さらに私はあなた方に課せられた責任を説き、真理を知るということは、それを人のために使用する責任を伴うことをお教えしてまいりました。

宗教的儀式のうわべの形式に捉われずに、その奥にある宗教の核心、即ち援助を必要とする人々のために手を差しのべるということを忘れてはならないことを説いてまいりました。

絶望と無気力と疑問と困難に満ちあふれた世界にあって私はあなた方に霊的真理を説き、それをあなた方がまずみずから体現することによって同胞にもその宝を見出させ、ひいては人類全体に幸福をもたらすことになる───そうあってほしいと願って努力してまいりました。

 私はかつて一度たりとも卑劣な考えを起こさせるような教えを説いたことはありません。一人たりとも個人攻撃をしたことはありません。私は終始〝愛〟をその最高の形で説くべく努力してまいりました。

私は常に人間の理性と知性に訴えるように心掛け、私たちの説く真理がいかに厳しい調査・探求にも耐えうるものであることを主張してまいりました。

そうした私に世界各地から寄せられる温かい愛念を有難く思い、私の手足となって仕事の推進に献身して下さるあなた方サークルの方々の厚意に、これからも応えることができるよう神に祈りたいと思います。

 間もなく私は会を閉じ、通信網を引っ込めます。ふたたび皆さんとお会いできる時を大いなる期待をもって心待ちに致しましょう。もっとも、この霊媒の身体を通して語ることを中止するというまでです。決して私という霊が去ってしまうわけではありません。

もしもあなた方の進む道を影が過(よぎ)るようなことがあれば、もしも何か大きな問題が生じた時は、もしも心に疑念が生じ、迷われるようなことがあれば、どうかそれらは実在ではなく影にすぎないことをご自分に言い聞かせることです。羽をつけて一刻も早く追い出してしまうことです。

 忘れないでください、あなた方お一人お一人が神であり、神はあなた方お一人お一人なのです。この物的宇宙を顕現せしめ、有機物・無機物の区別なく、あらゆる生命現象を創造した巨大な力、恒星も惑星も、太陽も月も生み出した力、物質の世界に生命をもたらした力、人類の意識に霊の一部を宿らせた力、完璧な法則として顕現し、すべての現象を細大漏らさず経綸しているところの巨大な力、その力はあなた方が見放さないかぎりあなた方を見放すことはありえません。


その力を我が力とし、苦しい時の隠れ場とし、憩いの場となさることです。そして、いついかなる時も神の衣があなた方の身を包み、その無限の抱擁の中にあることを知ってください。

 シルバーバーチとお呼びいただいている私からお別れを申し上げます───ごきげんよう」

      
          

          
    
    二章 死は第二の誕生 
 
 シルバーバーチは〝死〟を悲しむべき出来ごととは見ていない。それどころか、より大きな意識、より広い自由、潜在意識をより多く表現できる機会(チャンス)を与えてくれる、喜ぶべき出来ごとであると説く。

 「この交霊会も死が幻影であることを証明する機会の一つです。すなわち死の淵を霊的知識で橋渡しをして、肉体という牢獄を出たあとに待ち受ける充実した新たな生活の場の存在を紹介するために私たちはこうして戻ってきているということです。

何でもない、実に簡単なことなのです。ですが、その簡単なことによって、これまでどれほど意義ある仕事が成し遂げられてきたことでしょう。

手を変え品を変えての普及活動も、結局は古くからの誤った認識を駆逐するためにその簡単な事実を繰り返し繰り返し述べているにすぎません。その活動によって今や霊的知識(スピリチュアリズム)への抵抗が少しずつ弱まり、橋頭堡が少しずつ広がりつつあります。

われわれの活動を歯牙にかけるに足らぬものと彼らが多寡をくくっていたのも、つい先ごろのことです。それがどうでしょう。今やあなた方の周りに、崩れゆく旧態の瓦礫が散乱しております。

 私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体───これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊的存在である───この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。

実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。

 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは、何気なく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。

一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、自らの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。


古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。

 私の説く真理を極めて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受け止める方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。

私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなた方西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるが故に真理であり続けます。

 あなた方にとって当り前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神と繋がっている───私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。

神とのつながりは絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、決して断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神の如き人間になることもできれば動物的人間になることもできます。

自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。

 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現して行かなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。

 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。

人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登って行くのです」

 別の交霊会で、肉親を失ってその悲しみに必死に耐えている人に対してシルバーバーチがこう述べた。

「あなたの(霊の世界を見る)目がさえぎられているのが残念でなりません。(霊の声を聞く)耳が塞がれているのが残念でなりません。その肉体の壁を超えてご覧になれないのが残念でなりません。あなたが生きておられる世界が影であり実在でないことを知っていただけないのが残念でなりません。

あなたの背後にあって絶え間なくあなたのために働いている霊の力をご覧にいれられないのが残念でなりません。数多くの霊───あなたのご存じの方もいれば人類愛から手を差しのべている見ず知らずの人もいます───があなたの身の回りに存在していることが分かっていただけたら、どんなにか慰められるでしょうに。地上は影の世界です。実在ではないのです。

 私たちの仕事はこうした霊媒だけを通して行っているのではありません。もちろん人間世界特有の(言語によって意志を伝える)手段によって私たちの存在を知っていただけることをうれしく思っておりますが、実際にはその目に見えず、その耳に聞こえずとも、あなた方の生活の現実に影響を及ぼし、導き、鼓舞し、指示を与え、正しい選択をさせながら、あなた方の性格を伸ばし、魂を開発しております。そうした中でこそ(死後の生活に備えて)霊的な成長に必要なものを摂取できる生き方へと誘うことが出来るのです」


 ある年のイースタータイム(※)シルバーバーチは〝死〟を一年の四季のめぐりに見事になぞらえて、こう語った。

(※イースターはキリストの復活を祝う祭日で、西洋ではクリスマスと並んで大々的に祝う。その時期は国によって少しずつズレがあるが、当日をイースターサンデー、その日を含む週をイースターウィーク、五〇日間をイースタータイムという───訳者)

 「四季の絶妙な変化、途切れることの無い永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。全ての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに具えて自然が声をひそめはじめる秋。

 地上は今まさに大自然の見事な顕現───春、イースター、復活───の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。

間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。

 こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代(※)において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマの星辰の動きの中に、神々の生活───自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。

自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。

(※シルバーバーチは文明の発達そのものを少しも立派なものとは見ていない。それによって人類の霊的な感覚がマヒしたとみており、その意味でこの表現に〝野蛮〟と言うイメージは込められていない───訳者)

 同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れ果てた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。

冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学び取ってください。そしてこれまで自分を見捨てることの無かった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信して下さい」


 スピリチュアリストとして活躍していた同志が他界したことを聞かされてシルバーバーチは───

 「大収穫者すなわち神は、十分な実りを達成した者を次々と穫り入れ、死後にたどる道をより明るく飾ることをなさいます。

 肉眼の視野から消えると、あなた方は悲しみの涙を流されますが、私たちの世界ではまた一人物質の束縛から解放されて、言葉で言い表せない生命のよろこびを味わいはじめる魂を迎えて、うれし涙を流します。

私はいつも〝死〟は自由をもたらすものであること、人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しい自由、新しいよろこび、そして地上で発揮せずに終わった内部の霊性を発揮する機会(チャンス)に満ちた世界での生活を始めたことを知って喜んでいることを説いております。

ここにおいでの方々は、他界した者が決してこの宇宙からいなくなったのではないとの知識を獲得された幸せな方たちですが、それに加えてもう一つ知っていただきたいのは、こちらへ来て霊力が強化されると必ず地上のことを思いやり、こうして真理普及のために奮闘している吾々を援助してくれているということです。
 
 その戦いは地上のいたるところで日夜続けられております───霊の勢力と醜い物的利己主義の勢力との戦いです。たとえ一時は後退のやむなきにいたり、一見すると霊の勢力が敗北したかに思えても、背後に控える強大な組織のおかげで勝利は必ず我がものとなることを確信して、その勝利へ向けて前進しつづけます。

いずれあなた方もその戦いにおいて果たされたご自分の役割───大ぜいの人々の慰めと知識を与えてあげている事実を知って大いなるよろこびに浸ることになりましょう。

今はそれがお分かりにならない。私たちと共に推進してきた仕事によって生きるよろこびを得た人が世界各地に無数にいることを今はご存じでありません。

 実際はあなた方はこうした霊的真理の普及に大切な役割を果たしておられるのです。その知識は、なるほどと得心がいき心の傷と精神の疑問と魂の憧憬の全てに応えてくれる真実を求めている飢えた魂にとって、何ものにも替えがたい宝となっております。

太古の人間が天を仰いで福音を祈ったごとくに、古びた決まり文句にうんざりしている現代の人間は、新たなしるしを求めて天を仰いできました。


そこで私たちがあなた方の協力を得て真実の知識をお持ちしたのです。それは正しく用いさえすれば必ずや神の子すべてに自由を───魂の自由と精神の自由だけでなく身体の自由までももたらしてくれます。

 私たちの目的は魂を解放することだけが目的ではありません。見るも気の毒な状態に置かれている身体を救ってあげることにも努力しております。

つまり私達の仕事には三重の目的があります───精神の解放と魂の解放と身体の解放です。そのことを世間へ向けて公言すると、あなた方はきっと取越苦労性の人たちから、そう何もかもうまく行くものでないでしょうといった反論に会うであろうことは私もよく承知しております。


しかし、事実、私たちの説いている真理は人生のあらゆる面に応用が利くのものです。宇宙のどこを探しても、神の摂理の届かないところがないように、地上生活のどこを探しても私たちの説く霊的真理の適用できない側面はありません。

 挫折した人を元気づけ、弱き者、寄るべなき者に手を差しのべ、日常の最小限の必需品にも事欠く人々に神の恩寵を分け与え、不正を無くし、不平等を改め、飢餓に苦しむ人々に食を与え、雨露をしのぐほどの家とてない人々に住居を提供するという、

こうした物質界ならではの問題にあなた方が心を砕いている時、それは実は私たち霊の世界からやって来る者の仕事の一部でもあることを知っていただきたいのです。

その種の俗世的問題から超然とさせるために霊的真理を説いているのではありません。霊的な真理を知れば知るほど、自分より恵まれない人々への思いやりの気持ちを抱くようでなければなりません。その真理にいかなる名称(ラベル)を付けようと構いません。


政治的ラベル、経済的ラベル、宗教的ラベル、哲学的ラベル───どれでもお好きなものを貼られるのがよろしい。それ自体なんの意味もありません。大切なのはその真理が地上から不正を駆逐し、当然受けるべきものを受けていない人々に生得の権利を行使させてあげる上で役立たせることです」


 そして最後に〝死〟にまつわる陰湿な古い観念の打破を説いて、こう述べた。


 「その身体があなたではありません。あなたは本来、永遠の霊的存在なのです。私たちはこうした形で週に一度お会いして僅かな時を過ごすだけですが、そのことがお互いの絆を強化し接触を深めていく上で役に立っております。毎週毎週あなた方の霊そのものが霊的影響力を受けて、それが表面へ出ております。

その霊妙な関係は物的身体では意識されませんが、より大きな自我は実感しております。また、こうしたサークル活動はあなた方が霊的存在であって物的存在でないことを忘れさせないようにする上でも役立っております。人間にはこうしたものが是非とも必要です。


なぜなら人間は毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、物的生活に必要なものを追い求めてあくせくしているうちに、つい、その物的なものが殻に過ぎないことを忘れてしまいがちだからです。それは実在ではないのです。
     
 鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているに過ぎません。身体が人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具に過ぎません。

その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。

その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。


程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。それはあらゆる物的概念を超越した存在です。すべての物的限界を超えております。あなた方の想像されるいかなるものよりも偉大なる存在です。

  あなたはまさに一個の巨大な原子───無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。

身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り、真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は死と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。

それは相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。


 しかし死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。

もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの蘇った霊をご覧になることができるでしょう。

 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの鳥が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。

よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。


死の意味がお分かりになるはずです。そして死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門に過ぎないことを得心なさるはずです。

 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を今すぐあなた方に身を持って実感していただけないことは私は実に残念に思います。しかしあなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇を無くすることができます。

人類はもう、何世紀も迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途を辿っております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです」 
            


   
    三章 死後の後悔

 「皆さんは他界した人がぜひ告げたいことがあって地上へ戻ってきても、有縁の人たちが何の反応も示してくれない時の無念の情を想像してみられたことがあるでしょうか。

大勢の人が地上を去ってこちらへ来て意識の焦点が一変し、初めて人生を正しい視野で見つめるようになり、何とかして有縁の人々にうれしい便りを伝えたいと思う、その切々たる気持ちを察したことがおありでしょうか」


 ある日の交霊会でシルバーバーチは出席者にこう問いかけて、人間がいかに五感の世界だけに浸り切り、いかに地上生活の意義を捉えそこねているか、そしてそれが原因となって死後の生活にいかに深刻な問題を生じさせているかに焦点を当てた。

 「ところが人間が一向に反応を示してくれません。聞く耳を持たず、見る目も持ちません。愚かにも人間の大半はこの粗末な五感が存在の全てでありそれ以外には何も存在しないと思い込んでおります。

 私たちは大勢の霊が地上へ戻って来るのを見ております。彼らは何とかして自分が死後も生きていることを知らせたいと思い、あとに残した人々に両手を差しのべて近づこうとします。やがてその顔が無念さのこもった驚きの表情に変わります。もはや地上世界に何の影響も行使できないことを知って愕然とします。

どうあがいても、聞いてもらえず見てもらえず感じてもらえないことを知るのです。情愛に溢れた家庭においてもそうなのです。その段階になって私たちは、まことに気の毒なのですが、その方たちにこう告げざるを得なくなります───こうした霊的交流の場へお連れしないかぎりそうした努力は無駄ですよと」



 以上の話は一般家庭の場合であるが、シルバーバーチはこれを宗教界の場合にも広げて、宗教的指導者もご多分にもれないことを次のように語る。

 「私はこれまで何度か地上で教会の中心的指導者として仰がれた人たちに付き添って、かつての信仰の場、大聖堂や教会を訪ねてみたことがあります。彼らはこちらへ来て誤りであることを知った教義がそこで今なお仰々しく説かれ続けているのを見て、そうした誤りと迷信で固められた組織を存続させた責任の一端が自分達にもあることを認識して悲しみにうなだれ、重苦しい思いに沈みます」

 ───針のむしろに座らされる思いをさせられることでしょう。

 「罪滅ぼしなのです。それが摂理なのです。いかなる大人物も自分の犯した過ちは自分で責任を取らねばなりません。各自が自分の人生への代価を自分で支払うのです。収支の勘定は永遠の時の流れの中で完全な衡平(つりあい)のもとに処理され、だれ一人としてその法則から逃れることはできません」

 ───その人たちはどうすれば過ちを正すことになるのでしょうか。

 「間違った教えを説いた人々の一人一人に会わなければなりません」

 ───説教をした相手の一人ひとりに会わねばならないのでしょうか。

 「そうです」 

 ───でも、その時までにすでに本人が真理に目覚めていることもあるでしょう。

 「そういう場合は、それだけその宗教家はラクをすることになります」

 ───正しいことをしていると信じていた場合はどうなりますか。そに点も考慮されるのでしょうか。

 「もちろん考慮されます。常に動機が大切だからです」


 ───その場合でも一人ひとりに会わなければならないのでしょうか。

 「魂がそう信じていたのならその必要はありません。が、現実はそうでない人が多いのです。名誉心と思いあがり、所有欲と金銭欲が真理よりも優先している人が多いのです。

いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、今度はその組織がその人間をがんじがらめに束縛し始めます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説を繰り返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。


 私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一心に説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを捨てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。

間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、言っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して〝これ以外に民を導く方法が無いではないか。説くべき教えが他に無いではないか〟と開き直っている人たちです。

 しかし、たとえそうとは知らずに間違った教えを説いた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとは言えません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです」 

 ここでかつてのメソジスト派の牧師が尋ねた。

 ───私もこれまでに説教した相手のすべてに会って間違った教えを正さなければならないということでしょうか。

 「そうです。その時点までにその相手がまだ真実に目覚めていなければ───言いかえればその魂があなたの間違った教えによって真理の光を見出すのを遅らされていれば、それを正してあげないといけません」

 ───そうなると大変です。私は随分多くの人々に説いてきましたから。


 「他の全ての人と同じようにあなたも自分のしたことには全責任を取らなければなりません。でも、あなたの場合はそうご心配なさることはありません」

 別のメンバーが口添えしてこう述べた。
 ───この方は牧師をおやめになられてから多くの人たちのために献身しておられ、その人たちが力になってくれるでしょう。


 「その通りです。永遠・不変の公正はけっしてごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧にいれたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。

 人に法を説く者が重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。私はたびたび言っております───あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。

一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。

厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無頓着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません」

 このことに関蓮して、別の日の交霊会で興味深い死後の事実が明かされた。メンバーの一人が、最後の審判の日を待ちながら何世紀もの間暗い埋葬地で暮らしている霊(地縛霊の一種)を大ぜい救ってあげた話を聞かされたがそんな霊が本当にいるかと尋ねた。

 「それは本当の話です。それが私達にとって大きな悩みのタネの一つなのです。そういう人たちはその審判の日をただ待つばかりで、その信仰に変化が生じるまでは手の施しようがありません。
 
死んだら大天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで待つのだという思念体を事実上地上の全生涯を通じて形成してきております。その思念体をみずから破壊しない限り、それが一つの思想的牢獄となって魂を拘留し続けます。

 死んだことを認めようとしない人も同じです。みずからその
事実を認めない限り、私たちはどうしようもないのです。

 自分がすでに地上の人間でないことを得心させることがいかに難しいことであるか、あなた方には想像がつかないでしょう。あるとき私は地上でクリスタデルフィアン(※)だった人と会って、えんえんと議論を交わしたことがあります。彼は私を見据えてこう言うのです───
〝こうして生きている私がなぜ死んでるとおっしゃるのでしょう〟と。どうしても私の言うことが信じてもらえず、〝復活〟の日まで待つと言い張るのです。そしてそこに留まっていました」

(※奇しくもスピリチュアリズム勃興の年である一八四八年に設立されたキリスト教系の新興宗教。バイブルを唯一の教義として既成神学の三位一体説を否定し、キリストの再臨とエルサレムを中心とするキリストによる祭政一致の地上王国の到来を信じた───訳者)  



 ───何をして過ごすのでしょうか。

 「ただ待つだけです。こちらには〝時間〟というものがないことを忘れないでください。もし自分が待っているという事実に気がつけば、その思念体が破れるはずなのですが───自分でこしらえた牢獄なのですから。ですが、こうした事実を地上の人間に伝えるのは大変です。

あなた方がお考えになるような時間が無いのです。なぜなら、私たちの世界は軸を中心に回転する天体ではありませんし、昼と夜を生じさせる太陽も無いからです。昼と夜の区別がなければ昨日と今日の数えようがないでしょう」

 ───時間的な刻みはなくても時間の経過はあるのでしょう?

 「ありません。まわりの出来ごととの関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。

時間というのは出来ごととの関連における地上独自の尺度にすぎません。あなたが無意識であれば時間は存在しません。出来ごととの関連が無くなるからです。夢を見ている間も出来ごとの関連が普通とは変化しています。肉体に繋がれている時よりも出来ごとが速く経過するのはそのためです」

                    
 

   
 四章 軽蔑と嘲笑の中で
          ───スピリチュアリズムの歩み

 一九世紀半ばから始まった科学的心霊研究、そしてその結果としてスピリチュアリズムの名のもとに盛んになり始めた霊的知識は、既成宗教界の侮蔑と弾圧の中にあっても着実に普及してきている。スピリチュアリズムの発端からほぼ百年の歩みを振り返ってシルバーバーチはこう述べた。(本書の初版は一九四一年───訳者)


 「私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。〝テーブルラッパー〟(※)───彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的を持った一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。

各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響力に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言が全ての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃はテーブルの叩音(ラップ)による通信が盛んに行われた───訳者)

 その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命感を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。

ほどなくして───実に短期間のうちに───そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。

 僅か百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこに皆さんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具───背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。

霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯火として持ち歩いてくれる人です。


  私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャー自らがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほど神のメッセンジャーであることを認識させることです。

それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まず自らが身を修め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。

 世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物が至る所で崩壊しつつあります。私達の説く霊的真理(スピリチュアリズム)は(心霊学という)知識を土台として築かれております。

その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら真実───霊的事実───を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう」


  同じテーマについて別の交霊会で───

 「真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰り返し繰り返し宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが、変革が生じつつあります。

新しいものが旧(ふる)いものと取って替わるとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。

 常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理は至って単純であるがゆえに、誰にでも分かり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。

すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実〝神の子〟であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。

 霊の目を持って見る者は民族、国家、気候、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つに繋ぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。余りに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓(つまず)いてきました。

 私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫(すんごう)だに変えることはできません。

霊性を一分(ぶ)たりとも増すことも減らすことも出来ません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。


 今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりが出来たことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。

新しい通信網が出来たことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けて下さい。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私達の武器は真理と理性です。

そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。

 神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦は致しません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意は決して揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、

勇気ある心の有ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。

心に迷いを生じてさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。

 意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。

勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐を持ってしても挫かせることはできないとの自信です。

 私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。 

あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信を持って生きてください。しかし同時に、知識には必ず責任が伴うことも忘れてはなりません。

知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。

 その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることが出来るように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。

親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義に関わる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影を潜め、生命の充実感を地上に生きる人の全てが味わえることになるでしょう」


 ここでメンバーの一人がこうした心霊知識の普及を既成宗教の発端と同列に並べて考えようとする意見を聞いて、シルバーバーチはこう説いた。

 「私たちはこれまで確かに成功を収めてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。

これを体系化して幾つかの信条箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。その他地上に誕生した宗教の全てが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛錬、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。

それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。


 真理の持つ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。

過去の宗教はすべて───例外なしに───今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです。一つの真理の側面に過ぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。

たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。


 これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力を持ってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。

その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各地で盛んに口にされるようになってきていることで分ります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとお構いなく流入し、新しい前哨地が設立されます。


 ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質的万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。

神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界を繋ぐ霊媒だからです。知識と光と叡知の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルと言う)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります」

 こうした霊媒を仲介役として始められたスピリチュアリズムに対する抵抗がよく話題にされるが、その中から典型的なシルバーバーチの霊言を紹介しよう。

 「私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐え抜き闘い抜いてまいりました。

宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。

そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘導せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言の限りを浴びせます。

 しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡知の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。

神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲(いけにえ)が必要であった。などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力を持ってしても自然の摂理に介入出来たためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造の全てを否定する者です。

なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。

 そうしたものに代わって私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつて指導者の一人ひとりが神の叡知の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。

人間に贖(あがな)い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変わりません。

変るのは程度の上下であって、本質は決して変わりません。向上進化というのはその潜在的神性をより多く顕現していく過程にほかならないのです。

 いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。

かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代(トキ)を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生え始めている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。

 永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。

私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有難がってはいけない───知的な目を持って真理を探究し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです」


 しばしの休暇ののちに再会された交霊会でシルバーバーチは年二回開かれるという霊界での指導霊の総会(※)に出席していたと言い、〝光の世界から影の世界へ、実在の世界から幻影の世界へ戻って来るのは気が進まないものです〟と述べてからこう続けた。

(※これはスピリチュアリズム思想推進のために経過報告と次の計画の指示を仰ぐための会合で、世界的規模で行われる。これが年に二回ということであるが、このほかにも実質的に地上の経綸に当たっている霊界の上層部において慣例的に行われる。〝讃仰のための集い〟もある。

オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻に、通信霊のアーネルがその会場に入った時の雰囲気を〝音が無いという意味での静けさではなく静寂という実体が存在する〟と表現している。

又モーゼスの『霊訓』にはイムペレーターからの通信がしばらく途絶えたのでモーゼスがその理由を尋ねると〝地上の用事とは別の用事があって留守にしていた〟と言い、霊界の上層部における神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために他の多くの霊とともに一堂、集結したのだと言う。その時の日付けが十月十二日となっている。

日本で十月のことを神無(かんな)月と呼ぶことには〝神の月〟と〝神がいなくなる月〟の二つの説があるようであるが、私は両者は詰まるところ同じことに帰すると思う。古代の日本人はそれを直感していたのである───訳者)



 「そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。

私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵───霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足───を得させると言う(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。


 その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。

あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれより辿らねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気を持って邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです」

 更に地球規模の霊的活動における指導霊と交霊会の役割りに言及して───

 「過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けて下さい。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。

予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛(まご)うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。

人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過ごしている、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。

 私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。

 もはやそうしたものが許される時代は終わったのです。真理が理解されるに従って暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
 神のみ恵みの多からんことを」


     

   
   五章 迷いの過去から悟りの未来へ

 スピリチュアリズムの前途には大きな仕事が待ち受けている。霊的交信の目的はただ単に地上の人間に慰めをもたらすことではない。

ある日の交霊会でシルバーバーチは〝生命の法則について精神的側面、道徳的側面、物的側面、ならびに霊的側面から理解を深めるように指導し、身体的に不健全な人が少なくなると同時に霊的に未熟な人も少なくしていくことが我々の使命の一端です〟と述べて、スピリチュアリズムの目指すべき方向を暗示した。それを別の日の交霊会で次のように敷衍(ふえん)した。

 「私どもは自己中心主義、物質万能主義、無知、暗黒等々、人生の楽しさ、明るさ、安らぎを奪う勢力のすべてを一掃すべく努力しております。地上のため───それだけを望んでおります。それなのに、つまり地上のためになることをのみ望み、何一つ邪なものを持ち合わせず、人間性の中に下品なもの、あるいは低俗なものには決して訴えることがないのに、なぜ人間は私たち霊の働きかけを毛嫌いするのでしょうか。

 より次元の高い真理、より深い悟りの道をお教えしようとしているのです。人生の基盤とすべき霊的原理を理解していただこうと努力しているのです。人間の内部に宿る霊的可能性を認識し、真の自我とその内奥に存在する神性を見出していただきたいと願っているのです。

私たちは人間の理性───人間として最高の判断力に訴えております。一段と次元の高い生命の世界を支配する摂理をお教えし、宇宙の物的側面だけで無く、もっと大きな部分を占めているところの永遠不滅の霊的側面を理解していただこうと願っているのです。

 私たちの努力目標は人類が幻を追い求め影を崇めることのないように、霊的真理の実在を得心させることによって人生観を誤った信仰でなく確実な知識の上に確立し、大自然の法則に基づいた本当の宗教心を持ち、たとえ逆境の嵐が吹き荒れ、環境が酷しく、いずこに向かうべきかが分らなくなった時でも〝事実〟に裏打ちされた信仰心によってあらゆる試練、あらゆる苦難に耐えていけるようにしてあげることです。私たちの使命は霊的使命なのです。

人間が内奥に神すなわち実在の生命を宿していることをお教えし、従って人間は動物ではなく一人ひとりが神であることを自覚し、同じ神性が宇宙の他のすべての生命にも宿っていることを知っていただくことを使命としているのです。

 その認識が行きわたれば地上は一変します。理解が広まるにつれて新しい光が射し込み、永遠の大機構の中での人間の位置を悟ることになります。私たちが訴えるのはややこしい神学ではありません。時代遅れの教説ではありません。

素朴な理性───あらゆる真理、あらゆる知識、あらゆる叡知の真偽を判断する手段に訴えております。

もしも私の述べることにあなた方の知性を侮辱し理性を反撥させるようなものがあれば、それを無理して受け入れることは要求しません。最高の判断基準に訴えることによって人間が真の自分を見出し、真の自分を見出すことによって神を見出してくださることを望んでいるのです。

 真理は決して傷つけられることはありません。決して破壊されることはありません。後退させられることはあります。抑えつけられることもあります。しかし永久に埋もれてしまうことはありません。

真なるものが損なわれることはあり得ません。嘘言を持っていかに深くいかに固く埋め尽くされても、いつかは必ず表に出てきます。真理を永遠に抑えつけることはできません。

いま私たちが旗印としている真理は地上にとって重大な役割を担っております。人間というものは煩悶の時代になると永いあいだしがみついていた教説を改めて検討し、それが果たして苦難と困難のときに慰めとなり力となってくれるであろうかと思いはじめるものです。

 霊的実在についての真理を片隅に押しやることはできません。人間がひとりの例外もなく神の子であり成就すべき霊的宿命を背負った存在であるとの証は、宇宙における人類の本当の位置を認識し無限にして永遠の創造の大業の一翼を担う上で絶対必要なことです。

私たちの存在自体を疑う人がいることでしょう。存在は認めても影響力を疑う人がいることでしょう。もとより私たちは万能を主張するつもりはありません。私たちも常に数々の限界とさまざまな制約に直面していることは、これまでたびたび述べてきたことです。しかし私たちがあなた方を援助することができるという事実に疑う余地はないでしょう。

 私たちには霊力というパワーがあります。これは宇宙の全生命を生み、それに形態を与えている力です。正しい環境と条件さえ整えてくれれば、私たちはそのパワーを活用してあなた方を導き、保護し、援助することができます。

それも決してあなた方だけという限られた目標のためでなく、あなた方を通じて顕現した霊力がさらに他の人へも波及して、その人たちも霊的なパワーを感得できるようになるのです。

前途に横たわる道は決して容易ではありません。しかし協調精神をもって臨み、平和的解決を希求し、慈悲心に裏打ちされた公正を求め、憎しみと復讐心に根ざした観念を完全に排除して臨めば、明るい未来をすぐ近くまで招来することができることでしょう」


 これは一九三九年に第二次大戦が勃発して間もない頃の交霊会での霊言で、最後の部分はその大戦のことを指している(本書の出版は一九四一年──訳者)

 さらにメンバーからの質問を受けてこう語っている。


 「物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。

ご自分を表現しておられるその身体、地上と言う大地、住んでおられる住居、口にされる食べ物───どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それはことごとく〝影〟であり〝光〟でないことを申し上げねばなりません。

あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です」


 そうした地上とはまったく異なる世界についての知識を得ているサークルのメンバーの一人に〝その知識はあなたにどういう変革をもたらしましたか〟とシルバーバーチの方から質問したことがあった。それを全部聞き終わったあとこう語った。

 「こうしてお聞きしてみますと、あなた方ひとにぎりの方たちにあっても、わずか二、三年間の霊力との接触によっていかに大きな変革がもたらされたかが分ります。となれば、これを世界中に普及させることによってその数を百万倍にもすることができるということです。

それは無知を一掃し、暗闇の中で進むべき道を見失った人々に灯を与え、全宇宙の背後に存在する大目的を教えてあげることによって達成されることでしょう。
℘71
 人類がいかに永いあいだ道を見失なってきたかご存知でしょうか。人類を先導すべき人たち、霊的指導者であるべき人たちみずからが盲目だったのです。玉石混交の信仰を持って事足れりとしてきました。宗教的体系をこしらえ、その上に教義とドグマで上部構造を築きました。

儀式と祭礼を発明しました。教会(チャーチ)(キリスト教)、寺院(テンプル)(仏教)、礼拝堂(シナゴーグ)(ユダヤ教)、モスク(イスラム教の礼拝堂)等々を建造しました。神とその子等との間に仕切りを設けたのです。それぞれに経典をこしらえ、わが宗教の経典こそ本物で宇宙の真理のすべてを包蔵していると主張し合いました。

かんかんがくがく、宗教家としての第一の心掛けであるべき愛の心を忘れ、その上なお情けないことに、憎悪と敵意を持って論争を繰り返してきました。

 予言者、霊覚者、哲人、聖者の類をすべて追い払いました。真の〝師〟たるべき人々を次々と迫害していきました。神の声の通路であるべき人々の口を塞いでしまいました。腐敗した組織にはもはや神の生きた声が聞かれる場がなくなってしまいました。

開かれたビジョンを閉ざし、すべての権力を聖職者に帰属させ、神へ近づける力は自分たち以外にはないことにしてしまいました。聖職者の中にも高徳の人物は数多くいました。ただ、惜しむらくは、その人たちも(そうした環境の影響のために)宗教の唯一の礎石(いしずえ)であり人類にその本領を発揮せしめる原動力である霊力の働きかけに無感覚となっておりました。
℘72
 人類の歴史において大きな革命を生んできたのは全て霊の力です。素朴な男性または女性が霊感に鼓舞されて素朴なメッセージを威信を持って語り、それを素朴な平凡人がよろこんで聞いたのです。今その霊力が、かつてと同じ〝しるしと奇跡〟を伴って再び顕現しております。

目の見えなかった人に光が戻り、耳の聞こえなかった人が聴覚を取り戻し、病の人が健康を回復しております。邪霊を払い、憑依霊を取り除き、肉親を失った人たちに慰めをもたらしております。

 多くの魂が目を覚まし、霊の大軍が存分にその威力を見せることが出来るようになりました。〝死〟の恐怖を取り除き、〝愛〟が死後もなお続きその望みを成就している事実を示すことができるようになりました。インスピレーションは(イエスの時代に限らず)今なお届けられるものであること、人間の心は(他界した時点のままでなく)死後も改めていくことが出来ること、(宗教的束縛から)

精神を解放することが可能であること、自己改革への道が(宗教的教義に関係なく)開かれていること、(宗教的活動から離れたところにも)自分を役立てる機会はいくらでもあること、霊力に鼓舞されて報酬を求めずこの世的な富への欲望を持たずに〝よい知らせ〟を教えてあげたい一心で、すべての人に分け隔てなく近づく用意の出来た魂が存在している事実を立証しております。

℘73
 これほどまで美しい話、これほどまで分り易い話、人生の本質をこれほど簡明に説き明かしてくれる話に耳を傾けようとしない人が多いのは一体なぜでしょうか。光明を手にすることができるのに一体なぜ多くの人が暗黒への道を好むのでしょうか。なぜ自由よりも束縛を好むのでしょうか。

 しかし、われわれはあなた方が想像される以上に大きな進歩を遂げております。難攻不落と思えた古い壁───迷信、既成権力、ご生大事にされている教義、仰々しい儀式を堅固に守り続けてきた壁が音を立てて崩れつつあります。急速に崩壊しつつあります。

一方では多くの魂が霊的真理に感動し、精神に光が射しこみ、心が受容性を増し、よろこんで私たちの教説に耳を傾けてくれております。過去数年間の進歩ぶりを見れば、われわれの勝利はすでにゴールが目に見えていると宣言してもよい時機が到来したと言えます。

その確信を私は語気を強く宣言します。もはや絶望の戦いではなくなりました。私たちが自己中心の物質第一主義に根ざした古い時代は終わった、新しい時代が誕生している、と述べる時、それは有るがままの事実を述べているのです。

 かつて地上において苦難と犠牲の生涯を送った人々、強者と権力者によって蔑まれる真理を護るためにすべてを犠牲にした人々───その人たちがいま霊界から見下ろし、霊的大軍の前進ぶりを見て勝利を確信しております。
℘74
むろんこれは比喩的に述べたまでです。銃を手にした兵士がいるわけではありません。われわれの弾薬は霊力であり、兵器は理性と良識です。私たちは常に人間の知性に訴えます。もっとも、時としてその知性が無知と迷信と依怙地な強情の下敷きとなってしまっているために、果たして(普遍的判断基準であるべき)知性が存在するのだろうかと迷うこともあるでしょう。

しかし、よく目を見開いて自分でそのしるしを求めることです。あなた方にはその判断力があり、囚われなきビジョンを手にする能力をお持ちです。その力で、暗闇を突き通す光を見届けて下さい。


 われわれはもはや軽蔑の対象とされた曽ての少数派ではありません。片隅で小さくなっていた内気な小集団ではありません。科学的立証を得て、やはり真実だったと確信した堂々たる大軍であり、恥じることない社会的位置を獲得し、霊的事実の福音を誇りを持って説いております。

霊的なことを口にしたからといって軽蔑されることはもうありません。それは過去の無知な人間がしたことです。今はそれを知っていることで尊敬される時代です」

 訳者注───モーゼスの『霊訓』によると、かの 〝十戒〟を授かったモーゼが従えていた七十人の長老はみな霊格の高い人物だったという。これは世界に共通した事実であって、古代においては霊感が鋭くかつ霊的なことに理解のある者が要職につき、いわゆる祭政一致が当然のこととされた。
℘75
 それが物質科学の発達と共に意識の焦点が五感へと移行し、物的なものさしで測れないものが否定されていった。ところが皮肉なことに、その物質科学みずからが物質の本質は常識的に受け止めてきたものとは違ってただのバイブレーションに過ぎないことを突き止めたのと時を同じくして、再び霊的なものへと関心が高まりつつある。

 シルバーバーチはそうした潮流の背後には霊界からの地球的規模の働きかけがあることを指摘している。オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻〝天界の大軍〟篇はそれを具体的に叙述して、その総指揮官がキリストであると述べている。シルバーバーチ霊団も、イムペレーター霊団もその大軍に属し、最前線で活躍していたことになる。


 


   
   六章 イエスはいま何をしているか

 ナザレのイエスは今どういう仕事に携っているのだろうか。ある日の交霊会でシルバーバーチは、イエスは今すっかり教義とドグマと権力という雑草におおわれてしまった霊的真理の本来の姿をいま一度明らかにするための霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者であると述べた。

 そのことについて別の日の交霊会で次のように述べた。

 「ほぼ二千年前にイエスは磔刑(はりつけ)にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子に相応しい人物だったからにほかなりません。このままでは自分達の立場が危ないと思ったのです。

私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〝真理〟を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在しつづけます。

キリスト教会の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘しい限りの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません」
 
───そういうキリスト教は死滅してしまった方がましだとおっしゃるのでしょうか。

 「私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔で出来た教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心が無いのです。私が関心を向けるのは〝魂〟です。

それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。

一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。

 確かにキリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が、私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かねばならないからです。

真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞の為に自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。

然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。

新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません」

 
 ───イエスの意気込みが察せられます。

 「誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス───そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタべリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。

イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。

 今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかし今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。


しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません」

 
 シルバーバーチによると、イエスは年二回、イースターとクリスマスに行われる指導霊ばかりの会議を主宰しているようである。その時期には交霊会も二、三週間にわたって休暇となる。時おりその前後の交霊会で会議の様子を説明してくれることがある。次に紹介するのは休暇に入る前の最後の交霊会での霊言である。
 
 「この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが、本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。

自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存じないあなた方、

たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰った時、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。
          
 これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のために喜んで犠牲にしてきた〝生命の実感〟を味わいます。

これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存じのとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。

その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスピレーションに触れて味わう最大級の感激も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。

 その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽りに伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。

人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです」

 休憩に入る直前の交霊会では、シルバーバーチがサークルのメンバーにそれまでの成果を語って協力に感謝するのが常である。

 「あなた方と私たち霊団との愛の親密度が年とともに深まるにつれて私は、それがほかならぬ大霊の愛のたまものであると感謝していることを知っていただきたいと思います。すなわち大霊の許しがあったればこそ私はこうして地上の方々のために献身できるのであり、たった週に一度あなた方とお会いし、

それも、私の姿をお見せすることなく、ただこうして語る声としてのみ存在を認識していただいているに過ぎないにもかかわらず、私を信じ、人生のすべてを委ねるまでに私を敬愛して下さる方々の愛を一身に受けることができるのも、大霊のお力があればこそだからです。


そのあなた方からの愛と信頼を私はこの上なく誇りに思います。あなた方の心の中に湧き出る私への熱烈な情愛───私にはそれがひしひしと感じ取れます───を傷つけるようなことだけは絶対に口にすまい、絶対に行うまい、といつも誓っております。

 私たちのそうした努力が大きな実りを生んでいることが私はうれしいのです。私たちのささやかな仕事によって多くの同胞が真理の光を見出していることを知って私はうれしいのです。無知を打ち負かし迷信を退却せしめることができたことが私はうれしいのです。

真理が前進していること、そしてその先頭に立っているのがほかならぬ私たちであることがうれしいのです。絶え間なくしかけてきた大きな闘いにおいてあなた方が堅忍不抜の心を失わず挫折することがなかったことをうれしく思います。

役割を忠実に果たされ、あなた方に託された大きな信頼を裏切ることがなかったことをうれしく思います。私の使命があなた方の努力の中に反映して成就されていくのを謙虚な目で確かめているからこそ、私はあなた方のその献身をうれしく思うのです」


 このあと、いつもの慣例に従ってメンバーの一人ひとりに個人的なメッセージを送り、そのあとこう述べて別れを告げた。


 「さて、別れを惜しむ重苦しい気持ちの中にも、再びお会いできる日を心待ちにしつつ、私はみなさんのもとを去ります。これより私は気分一新のために霊的エネルギーの泉へと赴きます。高遠の世界からのインスピレーションを求めに赴きます。

そこで生命力を充満させてから再び一層の献身と、神の無限の恩寵の一層の顕現のために、この地上へ戻ってまいります。あなた方の情愛、今ひしひしと感じる私への餞(はなむけ)の気持ちをいただいて、私はこれより旅立ちます。そうして再び戻って来るその日を楽しみにいたしております。どうか常に希望と勇気を失わないでいただきたい。

冬の雪は絶望をもたらしますが、再び春がめぐってくれば大自然は装いを新たにしてほほ笑みかけてくれます。希望に胸をふくらませ、勇気を持って下さい。いかに暗い夜にも必ず登りゆく太陽の到来を告げる夜明けが訪れるものです。


 では、これにてお別れします。神は常にあなた方を祝福し、その無限の愛がふんだんにもたらされております。神の霊があなた方すべての人々の霊に行きわたり、日々の生活の中に誇らしく輝いております。

 これより地上の暗闇をあとにして高き世界の光明を迎えに参ります。そしてお別れに際しての私の言葉は、再び訪れる時の挨拶の言葉と同じです───神の祝福の多からんことを」


 こうして地上を去って霊界での大集会に列席したあと、再び戻ってきたシルバーバーチはこう述べた。

 「その会合において私はかつての私の栄光の幾つかを再び味わってまいりました。地上世界の改善と進歩のために奮闘している同志たち、人類の福祉のために必要な改革の促進に情熱を傾ける同志たちによる会議に私も参加を許されました。

これまでの成果がこと細かに検討され、どこまで成功しどの点において失敗しているかが明らかにされました。そこで新たに計画が立て直され、これから先の仕事───地上人類の進化の現段階において必要な真理を普及させる上で為さねばならない仕事のプログラムが組まれました。

 地上世界のために献身している大勢の人々───死によって博愛心を失うことのなかった人々ともお会いしました。そして、ちょっぴり私ごとを言わせていただけば───こんなことは滅多にないのですが───過去数か月間においてささやかながら私が成し遂げたことに対してお褒めの言葉を頂戴いたしました。

もとより私はお褒めにあずかる資格はないと思っております。私は単なる代弁者にすぎないからです。私を派遣した高級霊団のメッセージを代弁したにすぎず、それをあなた方が広めてくださったのです。

 ともあれ、こうして私たちの説く真理が人生に迷っている人々、心は重く悲しみに満ち、目に涙をためた大勢の人々に知識と慰めと激励をもたらしていることは確かです」

               
 
 
    
    七章 動物は死後どうなるか

  動物は死後どうなるのか───これは誰しも一度は考えてみたことのあるテーマであろう。ある日の交霊会で、そのテーマを本格的に扱った本を執筆中のシルビア・バーバネル女史がシルバーバーチに集中的に質問した。

(訳者注───のちにそれが、When Your Animal Dies と題されて出版され、スピリチュアリストに限らず動物問題に関心のある人たちの間でも大反響を呼んだ。それを読んで人間の死後の存在に確信を持つに至った人も少なくないという。オースティンの原典にはその日の交霊会の記録の十分の一程度しか紹介されていないので、本章にはバーバネル女史の原典からそっくり引用させていただいた)


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」


 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」


問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」

 

問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。



問 「すると動物の場合は個性を失ってしまうということですか」

 「その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び越えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません」


問 「せっかく人間との接触で得たものが消えてしまうのでは愛がムダに終わったことになりませんか」

 「そんなことはありません。類魂全体に対して貢献をしたことになります。類魂全体としてその分だけ進化が促進されたことになるのです。共通の蓄えに対する貢献です。今までその類魂に無かったものが加えられたわけです。全体のために個が犠牲になったということです。

そうしたことが多ければ多いほど類魂の進化が促進され、やがて動物の段階を終えて、人間の形体での個体としての存在が可能な段階へと進化していきます」


問 「その時点で人間界へと誕生するわけですか」

 「人間界への誕生には二種類あります。古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と〝新しい霊〟が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」


問 「一人の人間としてですか」

 「そうです。双方とも霊魂(スピリット)です。双方とも自我意識を持った霊であり個性を持った霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。

直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです」


問 「セオソフィー(神智学)の教えと同じですね」

 「何の教えでもよろしい。私に対して、学派だの宗派だのを口にするのは止めて下さい。私はそういうものに一切関心がありません。世の評論家というのはアレコレとよく知っていることをひけらかすだけで、その実、素朴な真理を何一つ知りません。

それはさて措いて、あなた方はまさか蜘蛛を家の中に持ち込んでペットして飼ったりはしないでしょう。カブト虫に温かい人間愛を捧げるようなことはしないでしょう。それはあなたと、そういう昆虫との間の隔たりを意識するからです。進化の道程において遥かに遅れていることを本能的に直感するからです。

一方、犬とか猫、時に猿などをペットとして可愛がるのは、一種の親近感を意識するからです。もうすぐ人間として生まれ代わってくる段階まで近づいて来ているために、動物の方でも人間の愛を受け入れようとするのです」


問「では下等動物が人間に飼われるということは、その動物はもうすぐ人間に生まれ代わるということを意味するのでしょうか」

 「進化にも、突然変異的な枝分かれ、いわゆる前衛と、後戻りする後衛とがあります。つまり前に行ったり後ろに下がったりしながら全体として進化していきます。中には例外的なものも生じます。動物で知的な面でずいぶん遅れているものもいれば、小鳥でも犬より知的に進化しているものがいたりします。しかしそうした例外と、全体の原理とを混同してはいけません」


問 「動物の類魂は同じ種類の動物に何回も生まれ代わるのですか、それとも一回きりですか」

 「一回きりです。無数の類魂が次々と生まれ代わっては類魂全体のために体験を持ち帰ります。動物の場合それぞれ一度ずつです。全体として再生する必要はありません。それでは進化になりません」


問 「われわれ人間としては、犬や猫などのペットと同じように、生物のすべてに対して愛情を向けることが望ましいのでしょうか」

 「それはそうです。しかし同じ反応を期待してはいけません。愛情は愛情を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶというのが原則ですが、進化の程度が低いほど反応も少なくなります。

あなたの心に怒りの念があるということは、それはあなたの人間的程度の一つの指標であり、進歩が足りないこと、まだまだ未熟だということを意味しているわけです。あなたの心から怒りや悪意、憎しみ、激怒、ねたみ、そねみ等の念が消えた時、あなたは霊的進化の大道を歩んでいることになります」


問 「動物がようやく人間として誕生しても、その人生がみじめな失敗に終わった場合は、再び動物界へ戻るのでしょうか」

 「そういうことはありません。一たん人間として自我意識を具えたら、二度と消えることはありません。それが絶対に切れることのない神との絆なのです」


問 「屠殺とか動物実験等の犠牲になった場合の代償───いわゆる埋め合わせの法則はどうなっていますか」

 「もちろんそれにもそれなりの埋め合わせがありますが、一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働きます。

進化の程度が異なる動物と人間とでは因果律の働きが違うのです。特に動物の場合は原則として死後は類魂の中に個性を埋没してしまうので、個的存在とは条件が異ります。類魂全体としての因果律があるのですが、残念ながら人間の言語では説明のしようがありません。譬えるものが見当たりません」


問 「シラミとかダニの寄生虫は人間の邪心の産物だという人がいますが、本当でしょうか。あれはホコリとか病気などの自然の産物ではないかと思うのですが・・・」

 「そのホコリや病気は一体何が原因で生じるのでしょうか。原因を辿れば人間の利己心に行きつくのではありませんか。その利己心はすなわち邪心と言えます。たしかに直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、ホコリとか病気、直射日光や新鮮な空気の不足とかにありますが、さらのその原因を辿れば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人たちの同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつきます。

これは一種の邪心であり、私に言わせれば人間の未熟性を示しています。そういう利己心を棄て、弱者を食いものにするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」

問 「それは、たとえばハエのようなものには当てはまらないでしょう」

 「いいですか。大自然全体は今なお進化の過程にあるのです。自然界のバランスは人類の行為如何によって左右されており、人類が進化すればするほど、自然界の暗黒が減っていくのです。人間の霊性の発達と自然界の現象との間には密接な関係があるのです。

人間の存在を抜きにした自然界は考えられないし、自然界を抜きにして人間の進化はあり得ません。双方の進化は大体において平行線を辿っています。人間は神によって創造されたものであると同時に、神の一部として、宇宙の進化の推進者でもあり、自分自身のみならず、自分の属する国家をも司配する自然法則に影響を及ぼします。

 私は今、人間と自然界の進化は大体において平行線を辿ると言いました。両者にはどうしても少しずつズレが出てくるのです。なぜなら、過去の世代が残した業は必ず処理していかねばならないからです」

問 「今おっしゃったことは恐ろしい野獣についてもあてはまるのでしょうか」

 「一応当てはまります。ただ忘れないでいただきたいのは、進化というのは一定の型にはまったものではないことです。いろいろと変化をしながら永遠に続くのです。原始的なものからスタートして低い段階から高い階段へと進むのですが、かつては低いところにいたものが次第に追い抜いて今では高いところにいたり、今高い所に位置しているものが、将来は低い方になることもあります」


問 「では進化にも後戻りということがあるわけですか」

 「それを後戻りと呼ぶのであればイエスという答えになりましょう。というのは、進化というのは一種の円運動(サイクル)、現代の思想家の言葉を借りれば螺旋(スパイラル)を画きながら進むものだからです。どちらの言い方でも構いません。要は進化というものが常に一直線に進むものではないことを理解していただけばよろしい。一歩進んでは後退し、二歩進んでは後退し、ということを繰り返しながら延々と続くのです」

問 「動物同士は殺し合っているのに、なぜ人間は動物実験をやってはいけないのでしょう」

 「それが人間の進化の指標だからです。人間が進化すればするほど地上から残忍性と野蛮性が消えていきます。愛と慈しみと寛容の精神が地上にみなぎった時、動物の残忍性も消えて、それこそライオンと小羊が仲良く寄りそうようになります」

問 「しかし動物の残忍性も動物としての発達の表れではないでしょうか」

 「あなたもかつては動物だったのですよ。それがここまで進化してきた。だからこそ太古に較べれば動物界でも随分残忍性が減ってきているのです。トカゲ類で絶滅したのもいます。なぜ絶滅したと思いますか。人間が進化したからです」

問 「おとなしい動物の中にも絶滅したものもがいますが・・・」

 「進化の一番の指標が残忍性に出るといっているのです。太古でも進化上の枝分かれが幾つもありました。それらは進化の先進者とでも言うべきものです。進化というのはどの段階においても一定の型にはまったものではありません。優等生もおれば劣等性もおり、模範生もおれば反逆児もおります。おとなしい動物はさしずめ〝火を吐く怪獣〟を追い抜いた優等生だったわけです」

問 「寄生虫の類も動物と同じ類魂の中に入って行くのですか」

 「違います」

問 「動物の類魂は一つだけではないということですか」

 「各種属にそれぞれの類魂がいます」

問 「それが更に細分化しているわけですか」

 「そうです。細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊───初めて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中の最も進化した類魂です」


問 「やはりサイクルを画きながら進化していくのでしょうか」

 「そうです。すべてサイクル状に進化します」

問 「動物で一番進化しているのは何ですか」

 「犬です」

問 「寄生虫の類魂の存在は害を及ぼしますか」

 「別に害はありません。全体のバランスから見て、殆ど取るに足らぬ勢力ですから。でもこれは普段あまり触れることのない深入りした質問ですよ」

問 「動物の類魂の住処はやはり動物界にあるのですか」

 「私にはあなたより有利な点が一つあります。それは地理を学ばなくてもいいということです。場所とか位置が要らないのです。霊的なものは空間を占領しないのです。地上的な位置の感覚で考えるからそういう質問が出てくるのです。

魂には居住地はいりません。最も、形体の中に宿れば別です。類魂そのものには形体はありません。もしも形体をもつとなれば、何らかの表現形態に宿り、その形態で自己表現できる場が必要になります」


問 「動物の類魂は地球上に対して何か物質的なエネルギーを供給しているのでしょうか。地球にとってそれなりの存在価値があるのでしょうか」

 「進化の過程においての存在価値はあります。ただ気をつけていただきたいのは、どうもあなた方は物的なものと霊的なものとを余りに区別しすぎるきらいがあります。地上に存在していても立派に類魂の一部でありうるわけで、死ななければ類魂の仲間入りが出来ないわけではありません」


問 「ペットも睡眠中に霊界を訪れますか」

 「訪れません」


問 「では死んでからいく世界にまるで馴染がないわけですか」

 「ありません。人間の場合は指導霊が手を引いて案内してくれますが、動物の場合はそれが出来るのは飼主だけです。飼主が地上にいれば案内できません」


問 「飼主が先に死んだ場合はどうなりますか」

 「その場合は事情が違ってきます。いま述べたのは一般的な話です」


問 「人間より動物の方が心霊能力がすぐれている場合があるのはどうしてですか」

 「〝進化〟の観点からいえば、まだ人間となる段階には到達していませんが、人間がいま送っているような〝文化生活〟を体験していないからです。人間がもしも文化生活の〝恩恵〟に浴さなかったら、もっと早い段階で心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。

つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物的生活の必要性から本来の心霊能力が押さえ込まれてしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間の総てが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです」


問 「動物にはいわゆる第六感というのがあって災害を予知したり、知らないところからでもちゃんと帰って来たりしますが、これも心霊能力ですか」

 「そうです。霊能者にも同じことが出来ます。ただ動物の場合はその種属特有の先天的能力である場合があります。これも一種の進化の先駆けで、その能力だけがとくに発達したわけです。ハトのようにどんな遠くからでも帰って来る能力もそれです。本能と呼ばれていますが、一種の〝先見の明〟です」


問 「死んだばかりの犬が別の犬と連れだって出て来ている様子を霊能者が告げてくることがありますが、犬同士でも助け合うことがあるのですか」

 「ありません。ただし地上でその二匹が一緒に暮らした経験があれば連れだって出ることはあります」


問 「その手助けをする人間の霊がかならずいるのでしょうか」

 「そうです。高い者が低い者を援助することになっているのです。それが摂理です」


問 「動物界にはどんな種類の動物がいるのでしょうか」

 「地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間と殆ど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼い主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物と一緒に暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。

その専門家は永いあいだ動物の研究をしてきていますので、その正しい対処の仕方を心得ており、自然な情愛の発露を動物へ向けることが出来るのです。そこには動物をよろこばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐かしい雰囲気を味わいます。

心霊知識のない人でも自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時です。なんとなくあの辺にいたような気がするといった程度に過ぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達しているからです」


問 「動物界で世話をしている人間が連れてくるわけですか」

 「動物界でその管理に当たっている人たちで、それ以外の人について戻ってくることはありません。ところで、その世話をしている人はどんな人たちだと思いますか。動物が大好きなのに飼うチャンスがなかった人たちです。

それはちょうど子供が出来なくて母性本能が満たされなかった女性が、両親に先立って霊界へ来た子供の世話をするのといっしょです。犬とか猫、その他、人間が可愛がっている動物が飼主に先立ってこちらへ来ると、動物が大好きでありながら存分に動物との触れ合いが持てなかった人間によって世話をされるのです。

もちろん獣医のような動物の専門家がちゃんと控えております。それもやはり地上で勉強したことがそのまま霊界で役に立っているわけです。知識は何一つ無駄にはされません」


問 「病気で死亡した動物の場合も人間と同じように看護されるのですか」

 「そうです。そうしたチャンスを喜んで引き受けてくれる人が大勢います」


問 「動物界は種類別に分けられているのですか、それとも全部が混り合っているのですか」

 「種族の別ははっきりしています」


問 「動物界は一つでも、それぞれの境界があるということですか」

 「そうです。とにかく自然に出来あがっております。一つの大きなオリの中に飼われているのではありません」


問 「猫は猫、犬は犬に分けられているわけですか」

 「その通りです」


問 「特に仲の良かったものは別でしょう。その場合は互いに境界の近くに来るわけですか」

 「そういうことです。すべてが至って自然に出来あがっていると考えて下さい」


問 「犬の次に進化している動物は何ですか。猫ですか猿ですか」

 「猫です」


問 「なぜ猿ではないのでしょう。人間と非常によく似ていると思うのですが」

 「前にも述べましたが、進化というのは一本道ではありません。かならず優等生と劣等性とがいます。人間は確かに猿から進化しましたが、その猿を犬が抜き去ったのです。その大きな理由は人間が犬を可愛がったからです」


問 「犬が人間の次に進化しているから可愛がるのだと思っていましたが・・・」


 「それもそうですが、同時に人間の側の好き嫌いもあります。それからこの問題にはもう一つの側面があるのですが、ちょっと説明できません。長い長い進化の道程において、猿はいわば足をすべらせて後退し、残忍にはならなかったのですが、ケンカっぽく、そして怠けっぽくなって歩みを止めてしまい、結局類魂全体の進化が遅れたのです。

それと同時に、というより、ほぼその時期に相前後して、犬の種族が進化してきました。猿よりも類魂全体の団結心が強く、無欲性に富んでいたからです。しかしどうも話が複雑になりすぎたようです」


問 「猿の種族が法則を犯したのでしょうか」

 「法則を犯したというのではなく、当然しなければならないことをしなかったということです」


問 「では猿と同じように、将来、犬が進化の段階を滑り落ちるということもありうるのでしょうか」

 「それはもう有り得ないでしょう。というのは、すでに何百万年もの進化の過程を辿って来て、地上の種がすっかり固定してしまったからです。種の型が殆ど定型化して、これ以上の変化の生じる可能性はなくなりつつあります。物質的進化には限度があります。形体上の細かい変化はあるかも知れませんが、本質的な機能上の変化は考えられません。細かい変化は生じても、すっかり形体が変わることはありません。

 たとえば人間の場合を考えてごらんなさい。現在の型、すなわち二本の腕と脚、二つの目と一つの鼻が大きく変化することは考えらません。これが人間の標準の型となったわけです。もちろん民族により地方によって鼻とか目の形が少しずつ違いますが、型は同じです。動物の場合はこの傾向がもっと強くて、霊界の類魂に突然変異が発生することはあっても、それが地上の動物の型を大きく変化させることはまずないでしょう」


問 「猿の転落もやはり自由意志に関連した問題ですか」

 「それは違います。自由意志は個的存在の問題ですが、動物の場合は類魂全体としての問題だからです」


問 「動物に個体としての意識がないのに、なぜ類魂全体としての判断が出来るのですか」

 「本能による行動と本能の欠如による行動の違いがあります。個々には理性的判断力のない動物でも、働くか怠けるかを選ぶ力はあります。必要性に対して然るべく対処するかしないかの選択です。そこで種としての本能が伸びたり衰えたりします。個々には判断力は無くても、長い進化の過程において、種全体として然るべき対処を怠るという時期があるわけです」


問 「それは植物の場合にも言えるわけですか」

 「言えます」


問 「それは外的要因によっても生じるのではないですか」

 「それはそうですが、あなたのおっしゃる外的というのは実は内的でもあるのです。それに加えて更に、霊界からコントロールする霊団の存在も考慮しなくてはいけません。その霊団もまた法則、進取性、進歩といった要素に支配されます」


問 「たとえば猿の好物であるナッツが豊富にあれば、それが猿を怠惰にさせるということが考えられませんか」

 「そういうことも考えられますが、ではナッツがなぜ豊富にあったのかという点を考えると、そこには宇宙の法則の働きを考慮しなくてはいけません。つまり人間の目には外的な要因のように見えても、霊界から見れば内的な要因が働いているのです。私の言わんとしているのはその点なのです。

人間はとかく宇宙の法則を何か生命の無い機械的な、融通性のないもののように想像しがちですが、実際は法則と法則との絡まり合いがあり、ある次元の法則が別の次元の法則の支配を受けることもありますし、その根源において完全にして無限なる叡知によって支配監督されているのです。

法則にもまず基本の型というものがあって、それにいろいろとバリエーション(変化)が生じます。といっても、その基本の型の外に出ることは絶対に出来ません。どんなに反抗してみたところで、その法のワクはどうしようもなく、結局は順応していくほかはありません。

しかし同じ型の中にあって、努力次第でそれを豊かで意義あるものにしていくことも出来るし、窮屈で味気ないものにしてしまうことも出来ます。別の言い方をすれば、その法則に調和した色彩を施すのも、あるいはみっともない色彩を塗りつけてしまうのもあなた次第ということです。いずれにせよ、最後は型に収まります」


 別の日の交霊会で動物実験が道徳的側面から取り上げられた。

問「動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか」


 「ためになる仕事をしようと努力している人は必ず霊界から鼓舞し支援し霊力をもたらそうとしている人たちの援助を受けます。神の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持ちでいっしょうけんめいなあまり、それが動物に苦痛を与えていることに全く無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし摂理を犯していることに変りありません」


問 「でもあなたは動機が一番大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか」

 「動機はなるほど結構なことかもしれませんが、法の原理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分っていながらなお意図的に苦しみを与えるということは、それなりの責務を自覚しているものと看做(みな)されます。

動機は人のためということで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えるということは賛成できません」


問 「動物は人類のために地上に送られてきているのでしょうか」

 「そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです」


問 「動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思いますが」

 「それはそうです。人類のためということも含まれているということです」


問 「動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか」

 「許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませて、何が正義ですか。それは私どもの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです」


問 「動物を実験材料とした研究からは、たとえばガンの治療法は発見できないという考えには賛成ですか」

 「神の摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれにちゃんとした治療法が用意されています。しかしそれは動物実験では発見できません」


問 「そうしたむごい実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか」

 「宇宙が自然法則によって支配されているからです」


 さらに別の交霊会で、キツネ狩りに参加した人が自分は間違ったことをしたのでしょうかと尋ねた。すると───

 「すべての生命のあるものは神のものです。いかなる形にせよ、生命を奪うことは許されません」

問 「でもうちのにわとりを二十羽も食い殺したんですが・・・・・・」

 「では、かりに私がそのキツネに銃を与えて、二十羽も鶏を食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなります。すべての地上の生命にとって必要なものは神がちゃんと用意してくださっています。

人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなく、人間自身が勝手な考えを持つからです。地上の人間が向上進化すれば、そうしたあくどい欲望はなくなります。キツネやにわとりをあなたがこしらえたのなら、これをあなたが食べても誰も文句は言いません。

人間がにわとりやキツネを殺していいというのが道理であるとしたら、あなたの同胞を殺してもいいという理屈になります。生命は人間のものではありません。神のものです。生命を奪うものは何時かはその責任を取らなくていけません」


問 「オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてどうでしょうか」

 「人間は本来そこにあるべきでないところに勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。

私の地上の故郷である北米インデアンについても同じです。インデアンはもともと戦争とか、俗に言う火酒(ウイスキー、ジン等の強い酒)、そのほか不幸をもたらすようなものは知らなかったのです。

白人が教えてくれるまでは人を殺すための兵器は何も知らなかったのです。そのうち人間も宇宙のあらゆる生命───動物も小鳥も魚も花も、その一つ一つが神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを知るようになるでしょう」


 更に別の日の交霊会で───

問 「イエスの教えの中には動物に関するものが非常に少ないようですが何故でしょうか」

 「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかったからです」


問 「ほかの国の霊覚者の訓えにはよく説かれているようですが・・・・・・」

 「それは全部とは言いませんが大部分はイエスよりずっと後の時代のことです。それはともかくとして、あなた方はイエスを人類全体の模範のように考えたがりますが、それは間違いです。イエスはあくまで西欧世界のための使命を担って地上へ降りてきたのであって、人類全体のためではありません。

イエスにはイエスの特殊な使命があり、イエス個人としては動物を始めとする全ての生命に愛情をもっていても、使命達成の為に、その教えを出来るだけ制限したのです。その使命というのは、当時の西欧世界を蝕んでいた時代遅れの腐敗した宗教界にくさびを打ち込んで、人生の照明灯(サーチライト)として難解なドグマに代わる単純明快な人間の道を説くことでした」


問 「下等動物への愛を説かない教えは完全とは言えないではないでしょうか」

 「もちろんそうです。ただイエスの場合はその教えをよく読めば動物への愛も含まれています。イエスは例の黄金律を説きました。すなわち〝汝の欲するところを人に施せ〟ということですが、この真意を理解した人なら、他のいかなる生命にもむごい仕打ちは出来ないはずです」
                       




   
   八章 病気は自分で治せる

 サークルのメンバーの一人で心霊治療家を目指している人が自分の病気を話題に出した。するとシルバーバーチは言下に───

 「その病気を追い出してしまいなさい。自分は絶対に病気にはならないのだと自分に言い聞かせるのです〝医者よ、汝みずからを癒せよ〟───この古い言葉をご存じでしょう」(ルカ4・23)


 ───そのことを考えたことはあります。やはり病気は自分で治せるのでしょうか。

 「治せるだけでなく、げんに治しております。魂の優位を主張し、肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。

 肉体は精神の従僕です。精神は肉体に隷属しているのではありません。肉体は束の間の存在であり精神は永遠の存在です。肉体はいずれ朽ち果てます。精神が宿っている間だけ現在の形態を維持している一時的な存在です。それがその人ではありません。その人の表現体であり、道具であり、地上で認識してもらうための手段です。

その肉体が精神によって歩きまわることを教わり、筋肉を動かすことを教わり、血液を循環させることを教わり、心臓を鼓動させることを教わり、内臓の全ての機能を働かせることを教わったごとくに、こんどはその(リズムを狂わせている)機能に本来のリズムを取り戻させることによって病気や疾患や異常を無くしてしまうことができるはずなのです」


───ということは誰でも自分で健康を回復できるということでしょうか。


 「まさにその通りです。ただしそのためには〝自分は神である。無限の創造活動の一部を担う存在である。全生命への責任を担う霊的存在である。本来は完全なる霊なのだ〟と宣言できる段階まで悟りができなくてはなりません」

 ここで別のメンバーがその教えはクリスチャン・サイエンス(※)と同じであることを指摘した。

(※信仰治療または信念によって自らを治すことを主義とした新興宗教の一派で、メアリ・エディという女性霊媒者によって創設された。が、この後でシルバーバーチも指摘するように肉体は無いと思えと説いたところに間違いがあり、それを死後 『霊界からのエディの告白』 と題する懺悔の通信の中で認めている。

霊感の鋭い人で霊的事実についての理解はあったが、豪華な教会を建ててやろうという野心が自分を過らせたと告白している───訳者)



 「私はいわゆるクリスチャン・サイエンスが説く真理を全面的に否定はしません。かなりの程度まで正しい教えを説いておりますが、その多くが脇道へ外れてしまいました。物質の存在を否定するに至ったところに問題があります。

私は物質は実在するがあくまで精神の支配下にあると説いております。あなたは無限の可能性を具えた存在です。その肉体があなたではありません。

その肉体を使用している霊なのです。つまりあなたは肉体を具えた霊であって、霊を宿した肉体ではないということです。肉体は現在の形体をせいぜい五十年、六十年、あるいは七十年、もしかして百年のあいだ維持しながら次第に朽ちていき、やがて元のチリに帰ります。しかし霊はそういう経過はたどりません。不滅の素材で出来ているからです」 


───私たちのすべてが治病能力を具えているのになぜ心霊治療家の存在が必要なのでしょうか。


 「神の摂理を知らない人が多すぎるからです。みんなそんな摂理なんかあるわけがないと思い込み、健康を回復する法則を実践できる段階まで意識を高めることが出来ないと決めてかかっているからです。神の摂理に従って生きれば病気も異常も生じません。

肉体に異常が生じるのは摂理に反した生き方をしているからです。(霊と精神と肉体の)調和が乱れると病気になり、自分自身の努力、または霊界からの治療エネルギーによって調和を取り戻すまでその状態が続きます」


───自分で治した場合でも霊界からの援助を受けているのでしょうか。

 「そういう場合もあり、そうでない場合もあります。というのは、人間は常に何らかの思念、観念、エネルギーといった影響力をまわりから受けているからです。しかし同時にあなた方も霊であり、生命の大霊の一部であり、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出して我がものとし、ふだんより大きな力を発揮できるのです。

人類が今の段階ですでに進化の頂上に到達したと思われますか。現在の文明の状態を見れば、まだまだ人類には成長と進化の余地があることが明白ではないでしょうか。
 
 あなた方も神性を宿しておられるのです。ほんの小さな火花にすぎませんが、人間の一人ひとりに宿されているのです。その火花を煽(あお)いで大きな炎とするか、それとも手入れを怠って消えてしまいそうにするか、それは各自の自由意志によってみずからが決めていくことです。誰も代わって決めることは出来ないからです。

各自が自分の運命の裁決者なのです。自分の未来を自分で形成していくのです。神性を発揮するか否かはあなた方自身が選択することです。代わって選択してあげようにも出来ないのです。向上進化は自分が自覚しない限り、側から促進してあげることはできません」
 

───各自に神が宿っているのであれば、自然に発揮されてくるのではないでしょうか。

 「夏の盛りの大自然の美事な景観をご覧になれば、その背後にそれだけのものを発揮する種子が宿されていたはずだとは思われませんか。例えばバラのあの可憐な花びらと芳しい香りもみな一個の小さな種子の中に宿されていたのであり、それがまずつぼみの形で顕現されます。

バラの美しさのすべてがそこに宿されているのですが、それはつぼみが開かないことには発揮されません。あなた方の魂には神が宿っております。そのつながりは永遠であり、決して断絶はありません。しかし、その神の属性をどれだけ発揮するかは各自が決めることです」

 心霊治療はどういうメカニズムで病気を治すのか、治療家と患者との間にどういう関係が生じるのかを問われて───

 「賦活性を持った放射線が注入されるのです。病気に応じて種類が異なります。どういうものかと言われても、地上にはそれに類するものが見当たりませんので説明できません。たとえばX線、無線、磁気、電気といったものもあくまで〝用語〟であって、本質を伝えてはいません。

要するにこちらの世界には病気を癒す力を持った放射線、エネルギー───どう呼ばれても結構です───が存在し、それを使用するのです。賦活性をもった生命力の一種で、それを人類のために使用できるまでに進化した霊が駆使しているのです。


 霊的啓示を授ける者が叡知の泉から汲み上げるように、心霊治療家は健康の泉から治癒力を汲み上げることができます。同じく、必要な物的証拠を提供する霊は、地上でまだ知られていない何種類かの気体を使用しています。すべての生命が刻一刻と進化していることを認識して下さい。

学問は墓場で終わるのではありません。開発は死とともにストップするのではありません。霊魂は叡知を蓄積しつつ、どこまでも前進し続けます」


 別の日の交霊会で治療を妨げる最大の障害物は患者の不安と取り越し苦労であることをシルバーバーチが指摘すると、メンバーの一人がすかさず質問した。


───心配するのもやむを得ないこともあるのではないでしょうか。それとも、心配することは絶対にいけませんか。

 「いいとかいけないとかの問題ではありません。その念が連絡の通路を塞いでしまうのです。治療エネルギーの流れを妨げ、近づけなくしてしまうのです。心配の念を抱くとそれが大気に響いて、その人のまわりにわれわれの進入を妨げる雰囲気をこしらえてしまいます。

冷静で受容的雰囲気でいてくれれば容易に接近できます。確信を抱いている時、完全な信頼心を抱いてくれている時は接触が容易です。信念が完全に近づけば近づくほど、自信が深まれば深まるほど、それだけわれわれとの接触が緊密になります」

 この心霊治療を医事法違反として規制する法案が英国議会に提出されたときシルバーバーチは、たとえ全議員がそれに賛成しても、たとえ権力者のすべてが支持しても、たとえ教会のすべてがこぞって同意しても、心霊治療を地上から撲滅してしまうことは出来ないと述べてから、こう続けた。


 「神の業であるからには心霊治療はそうしたものを乗り越えて存在しますし、また存続させねばなりません。私たちが啓示している自然法則は人間の法律によって成立するものではありませんし、その普及が妨げられるものでもありません。私どもは誤まることを避け難い人間がこしらえた法律にはまったく関心がありません。

神の法則、不変、不易にして不可変、全知全能の摂理、無始の過去より存在し無窮の未来まで存続しつづける摂理を説いているのです。人間がわれわれのこと並びにわれわれの説く真理のことにどうケチを付けようと一向に構いません。

 かつて地上世界の改革に努力した人々、理想に燃えて同胞のために献身した人々は、人類の最先端を歩んでいたために、進化の階梯において一歩先んじていたために、侮(あなど)りと蔑(さげす)みと嘲(あざけ)りを耐え忍ばねばなりませんでした。

そして使命を終えてこちらへ来ると、後世の人間は彼らのことを人類の模範として崇拝し、そうしながら一方では同時代の超能力者をはりつけにして葬りました。真理というものは確立されるまでには数々の闘いに打ち勝たねばならないものなのです。


 恐れてはなりません。われわれのすべてに存在を与えてくれている力、地上のために私たちを地上へ派遣してくださっている力、あなた方にみずから体現させてあげたいと私たちが望んでいるところの力は、宇宙の全生命を創造した力と同じものなのです。それはあなた方の方から見捨てない限りあなた方を見捨てることはありません。

 地球はこれからもずっと地軸を中心に回転し続けます。太陽はこれからもずっと輝き続けます。すべての天体が定められたコースを運行し続けます。潮は満ち引きを繰り返し、春の後には夏が、夏の後には秋が、秋のあとには冬がめぐってきます。

それはその背後で支える力が無限であり誤まることが無いからです。これだけの大自然の見事なスペクタクル(壮観・美観)を目の前にしながらあなた方は、それと同じ霊力が地上世界のことでしくじりを犯すことがあり得ると思われますか。

 その霊力を顕現させる道具が存在するかぎり、人のために役立ちたいと願う男性あるいは女性がいて下さるかぎり、私たちは病気に苦しむ人を癒し、生命が墓地の向こうにも存在することを証明し、永遠の霊的実在の証(あかし)を提供し続けます。

そうすることが物質万能主義を永遠に駆逐し、霊の働きかけの実在を曖昧なものにしてきた教条主義の暗闇を排除し、奉仕を基調とする真の宗教を確立することになるからです」

 では、そもそも病気とは何であろうか。シルバーバーチはこれを霊と精神と肉体の三位一体の協調関係が崩れた状態であるという。ではそれを崩す原因は何であろうか。純粋な精神的原因、純粋な霊的原因というものがあるのであろうか。

前生との関係は? 病気というものが人生に於ける最大の苦痛の原因であるだけに、心霊治療の問題は人生そのものの問題であるともいえる。その解答を次の問答から読み取っていただきたい。まずシルバーバーチがこう述べた。


 「物的身体と霊的身体との間に相関関係があり、両者は絶え間なく反応し合っております。物的身体は霊的身体にその存在自体を依存しており、霊的身体は物的身体にその表現を依存しております。物的身体を通して獲得する経験が霊的身体の成長を決定づけていきます」

───肉体は幽体を原型としているのですか。

 「そうです」  

───となると病気になった場合は幽体を治療すべきなのでしょうか。

 「必ずしもそうではありません。病気の原因がどこにあるかによります。純粋に霊体から来ているものであれば霊体を治療することによって治せます。が、原因が純粋に肉体的なものであれば、霊的方法よりは物的方法の方が効果があります。

 ご承知の通り、あなたは今の時点でも霊魂です。ただ、こうして霊的身体と同時に物的身体を通して表現している間は、物的世界のことは物的身体を通して感得しております。そして、物的世界に生じたことは物的身体に影響を及ぼすと同時に霊的身体にも影響を及ぼします。

 同時に、霊的身体へ影響を及ぼすものはことごとく物的身体へも影響を及ぼします。かくして、両者の間の作用と反作用が絶え間なく行われております。物的、精神的、霊的の三つの影響力の間に絶え間ない相互関係が営まれております」

(訳者注───精神は霊が肉体を操作するためのコントロールルームのような存在で、霊にとっては実質があり実感がある)


───伝染病は純粋に物的原因によるのでしょうか。


 「必ずしもそうではありません。実際は肉体に原因があるのではなくて霊に原因がある病気も数多くあります」

───それはどんな原因があるのでしょうか。

 「利己主義、強欲、金銭欲。イエスが、治療した患者に〝汝の罪は赦されたり〟と述べた話はご存じでしょう。病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らねばなりません。どちらの場合でも同じ方法で治すことも不可能ではありませんが、物的な治療法の方が効果が大きい病気があります。

病気の影響が霊的身体にまで及んでいる場合があり、あるいは霊的身体にそもそもの原因がある場合もありますが、霊的身体そのものが病気になることはありません。物的身体との相互関係の異常に過ぎません。その異常がバイブレーションを乱し、物的身体との関係を乱し、それが病気となって現われます。


 怒りが脾臓を傷めることがあります。嫉妬心が肝臓を傷めることがあります。そうした悪感情が異常の原因となり、バランスが崩れ、調和が乱れます。病気が進行してバランスが完全に崩れてしまうと霊的身体が脱出のやむなきに至ります。それが死です」


───腕を失った場合、それは幽体の腕にどんな影響を及ぼしますか。

 「幽体の腕に影響が及ぶような事態は決して起きません。両者の相互関係の欠如という事態にはなります。が、幽体の腕は肉体に宿っている間は働こうにも働けません。それはともかくとして、私たちの口から〝この病気は治りません〟という言葉をお聞きになったことはないでしょう。治る望みは必ずあります。ただ、そのためにいろいろと考慮しなければならない要素があるということです。

 人間には物的身体と霊的身体とがあり、両者は生命の紐、言うなれば命綱で結ばれております。病気、異状、あるいは年齢といったものが物的身体に忍び寄るにつれて両者の相互関係が次第に緊密度を失ってまいります。そうした中で物的世界からの離脱の準備が進行しているわけです。


病気には物的、精神的、霊的の三つの原因があります。骨折も霊的に治すことが出来ないことはありませんが、物理的な手当の方が簡単でしょう」


───遺伝子疾患と神の公正とをどう結び付けられますか。

 「地上へ生を享ける時は因果律によってその霊が当然宿るべき身体に宿ります。前世で身に付けたものを携えて現世をスタートいたします。前世を終えた時点でふさわしいものを携えて再生するのです。遺伝的疾患も少しも不公平ではありません。(前世に照らして)これからの進化にとって必要なものを成就するのにふさわしい身体を与えられるのです」


───心霊治療によって治る人と治らない人がいます。患者と魂の進化という観点から見て種類が異なるのでしょうか。

 「そうではありません。誰であろうと霊界へ旅立つべき時がくれば、いかなる治療家もそれを阻止することはできません」


───でも、治療家のところへ行かなかったらもっと早く死んでいたということもあるでしょう。

 「それも数日かそこいらの話です。永遠の時の中でそれがどれ程の意味があるのでしょう」 


───だったらいっそのこと心霊治療家も要らないことになりませんか。

 「そうはまいりません。苦しむ人を救ってあげたいという情は神の心の自然の発露だからです。人間の病気や異状の多くは魂の進化の程度の低さに由来するのではなく、無知から神の摂理に反した生き方をするからです。もっとも、神の摂理に反した生き方をするのは、その摂理が理解できる段階まで魂が到達していないから、と言う観方もできることは確かです。魂が摂理と一体となる段階にまで進化すれば病気は生じません」


───二人の人間が同じ病気で苦しんでいて、一方は治り他方は治らないという場合がありますが、これは不公平ではないでしょうか。

 「そもそも心霊治療家のところへ足を運ぶということ自体、偶然のことと思われますか。偶然ではありません。偶然というものはあなたの世界にも私の世界にも存在しないのです。断言します───神の摂理は完璧です。いずれあなたもその働きを理解し、その完璧な摂理をこしらえた完全なる愛の存在を知って、私と同じように、まるで鉄鎚を食わされたような思いをなさる日が来るでしょう。

 私たちはすべて───私も同じなのです───暗闇の中で手探りで進みながら時おり光明の閃きを見つけ、摂理への洞察力を手にします。そこで感嘆します。しかし暗闇の中にいる限り摂理の全貌が見えませんから、私たちはそれをとかく偶然のせいにし、運よくそうなったのだと考えます。しかし、断言しますが、偶然というものは存在しません。

 そう言うと皆さんはきっと〝では自由意志の問題はどうなるのか〟と聞かれるでしょう。確かに人間には自由意志が与えられております。が、その自由意志の範囲は魂の進化の程度によって規制されると申し上げたはずです。

自由は自由です。が、その自由にも程度があるということです。自由は自由です。が、それも宇宙の法則、すべてを経綸している法則の中における自由だということです。宇宙最大の組織であろうと極小の生命体であろうと、その法則から逃れることはできません。何ものも神の摂理から逃れることはできません。完璧なのです」


───心霊治療家と磁気治療とはどういう点が違うのでしょうか。

 「まったく違います。磁気治療は治療家自身の持つエネルギーによって治します。心霊治療は治療家が背後のスピリットの波長と一体となり、通常の手段では物質界に感応しない霊波がその治療家を通して流れ込むのです」


───一卵性双生児が同じ病気にかかり医学では不治と診断されて見放された場合、霊界からの力で二人とも治すことができるでしょうか。

 「私にはどちらとも言えません。病気の軽減及び治療のための霊力はちゃんと存在しますが、それがどう活用されるかは、その霊力が流れる治療家の適合性にかかっています。現段階における地上世界はまだ神の治癒力の活用がその頂点まで達しておりません。治療家が霊的に向上すれば、それだけ多くの治癒力が流れます。私たち霊界側の問題であると同時にあなたがた地上側の問題でもあります。

所詮われわれは媒介役に過ぎません。この霊媒(バーバネル)の背後にこの私(シルバーバーチ)がいます。この私の背後に私より高い存在が控えており、その背後にさらに高い存在が控えています。その連鎖関係は無限に続いているのです」




   
   九章 神は愛の中にも憎しみの中にも

  シルバーバーチの説く神の概念はスピリチュアリストにとっても当惑させるものを含んでいる。常識的な愛と善のみの神の概念から、善も悪も、愛も憎しみも超越した〝法則〟としての存在を説くからである。その真意を次の問答から理解していただきたい。(同じ編者による Teachings of Silver Birch からの抜粋と組み合わせて構成した───訳者)
 

───神とは何でしょうか。あるいは何者でしょうか。それは愛───すべての者に宿る愛の精神、ないしは感覚でしょうか。

  「神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界の区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。

  神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕にすぎないわれわれがどうして主人(あるじ)を知ることを得ましょうか。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれにどうして測り知れない大きさを持つ存在が描写できましょう」 


───神はすずめ一羽が落ちるのもご存知であると教わっています。ですが世界の莫大な人口、いわんやすでに他界した幾百億と知れぬ人間の一人ひとりに起きることを細大もらさず知ることがどうして可能なのでしょうか。

  「神と呼ばれているところのものは宇宙の法則です。それはすべての存在に宿っております。すべての存在が神なのです。各自の魂が自分を知っているということは神がその魂を知っているということです。すずめが神であるということは神がすずめを知っているということです。

神が風に揺れる木の葉に宿っているということは、その木の葉が神であるということです。あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的支配下にあります。その法則を超えたことは何一つ起きません。すべてが自然法則すなわち神の範囲内で起きているのですから、すべてが知れるのです」
 

───あなたは神がすべてに宿る───全存在の根源であるから愛にも憎しみにも、叡智にも不徳にも神が宿るとおっしゃいます。そうなると、過ちを犯す者も正しいことをする人間と同じように神の法則の中で行っていることになります。

愛と平和を説く者と同じく、憎悪と戦争を説く者も神の法則の中で行動していることになります。すべてが神の法則の一部である以上、その法則に違反する者もいないことになってしまいますが、この矛盾をどう説明されますか。


  「完全が存在する一方には不完全も存在します。が、その不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生れるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

 生きるということは進化することです。前に向かって進むことであり、上へ向かって努力することであり、発達であり開発であり発展であり進展です。あなた方のおっしゃる善も悪もその進化の行程における途中の階梯に過ぎません。終りではありません。


あなた方は不完全な理解力でもって判断しておられます。その時点においては善であり、その時点においては悪だと言っているに過ぎません。それはあなただけに当てはまる考えです。あなたと何の係わりもなければ、また別の判断をなさいます。とにかく神は全存在に宿っております」 


───では神は地震にも責任を負うわけですか。

 「神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙のどこにもその法則の支配を受けないものは存在しません。

 地震、嵐、稲妻───こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。

物質の世界は完全からはほど遠い存在です。そしてその完全はいつまでも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものだからです」



───ということは神も進化しているということでしょうか。

 「そうではありません。神は法則でありその法則は完璧です。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しているということです。地震もかみなりも進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

 日没と日の出の美しさ、夜空のきらめく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどと言うことは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。

 それと同じ寸法であなた方は、神が存在するならばなぜ他人に害を及ぼすような邪悪な人間がいるのかとおっしゃいます。

 しかし人間各個に自由意志が与えられており、魂の進化とともにその活用方法を身につけてまいります。霊的に向上しただけ、それだけの多くの自由意志が行使できるようになります。あなたの現在の霊格があなたの限界ということです。

しかし、あなたも神の分霊である以上、人生のあらゆる困難、あらゆる障害を克服していくことができます。霊は物質に優ります。霊が王様で物質は召使です。霊がすべてに君臨しております。全生命のエッセンスです。つまり霊は生命であり、生命は霊なのです」


───神という存在はその神がこしらえた宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

 「いえ、宇宙は神の反映です。神がすなわち宇宙組織となって顕現しているのです。蠅に世の中のことが分るでしょうか。魚が鳥の生活を理解できるでしょうか。犬が人間のような理性的思考ができるでしょうか。星が虚空(こくう)を理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神をあなた方人間が理解できないのは理の当然です。

 しかしあなた方は魂を開発することによって、ひとことも語らずとも、魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことができるのです。その時は神とあなたとが一つであることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙の全ての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです」
 

───霊が意識を持つ個的存在となるためには物質の世界との接触が必要なのでしょうか。

 「そうです。意識を獲得するためには物的身体に宿って誕生し、物的体験を得なければなりません。物 matter から霊 spirit へと進化していくのです。つまり物的身体との結合によって、物的個性を通して自我を表現することが可能となります。霊は物に宿ることによって自我を意識するようになるのです」

(訳者注───質問者は地上の物質を念頭に置いて the world of matter と言っているが、シルバーバーチは spirit との対照におけるmatter の観点から答えていることに注意する必要がある。死後の世界でまとう身体もその一種であり、その精妙化が進むにつれて霊性が発揮されやすくなる。

それを進化というのであり、その究極がイムペレーターのいう〝静の世界〟、インド哲学でいうニルバーナ、いわゆる涅槃の境涯である。

ただ従来はそれが飛躍的に、ないしは短絡的に捉えられており、悟りを開いた人は死後すぐその境涯へ行くかに考えられてきたが、イムペレーターによるとそこに至るのに何百億年かかるか想像もつかないと述べている。

いずれにせよ、そこに至るまでは〝物の世界〟にいるのであり、地上と同じく主観と客観の世界にいるのである。その中でも地上の物質界が最も鈍重というまでのことである)
 
 
───となると神はわれわれを通じて体験を得ているということでしょうか。

 「そうではありません。あなた方の進化がすでに完全であるものに影響を及ぼすことはありません。」

───でもわれわれは神を構成する分子です。部分の進化は全体に影響を及ぼすのではないでしょうか。

 「それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけです。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。

それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。あなた方が霊という別個の存在を進化させているのではありません。

あなた方自身であるところの霊が顕現する身体(※)を発達させているのです」
(※bodies と複数になっていることからも、さきの訳者注で述べたこと、つまりシルバーバーチが〝物〟を地上だけにかぎって考えていないことが窺える。幽体も霊体もシルバーバーチに言わせると〝物的身体〟なのである───訳者) 


───霊が自我を表現する身体にもさまざまな種類があるということでしょうか。

 「そういうことです。法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、従って完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

 こう考えてみて下さい。光と鏡があって、鏡が光を反射している、鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨いてより立派なものにすれば、より多くの光を反射するようになります。

 要するに、すべての存在がより一層の顕現を求めて絶え間なく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申し上げたつもりです。原石は要らない、宝石だけくれ、というムシのいい話は許されません」
 

───でも各自にとって良いもの悪いものの概念があるのではないでしょうか。

 「それはその時点での話に過ぎません。進化の途上において到達した一つの段階を表現しているだけです。魂がさらに向上すればその概念を捨ててしまいます。不完全な道具を通して完全な法則が顕現しようとして生じた不完全な考えであったわけです。すべてが大切だと申し上げるのはそこに理由があります」
 

───それでは神は原初においては善ではなかったということになるのでしょうか。

 「私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも常に存在し続けるということだけです。神の法則は完璧に機能しております。つまり今の譬え話で申し上げた通り、あなたは完全な光をお持ちです。

ですが、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光が悪だとは言えないでしょう。


まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で〝悪〟と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません」
 

───創造力を持つ存在は神と呼ぶ唯一の存在のみで、われわれには何一つ創造する力はないと考えてよいでしょうか。

 「神は無窮の過去から存在し未来永劫(えいごう)に存在し続けます。全生命が神であり、神は全生命です。ならば、あなた方に何が創造し得ましょう。しかし魂が進化すれば進化するほど宇宙をより美しくし、完成させていくことができます。

進化の程度が未熟であるほど宇宙における位置が低いということになります」
(訳者注───〝宇宙をより美しく完成させていくことが出来る〟ということは神の創造の大業に参加できるということである。

『霊訓』 にも 『ベールの彼方の生活』 にもその趣旨のことが述べられているが、マイヤースは 『個人的存在の彼方』 の中でこれを〝創造されたものが創造する側にまわる。そこに生命と宿命の秘密が存在する〟と表現している)



───愛の神が人間の最低の感情の一つである憎しみの中にも存在するということが理解できないのですが・・・・・・

 「それは今だに神というものを人間的存在と考える概念から抜け切っていないからです。神とは法則なのです。法則がすべてのものを維持し保持し顕現させているのです。神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。

晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。
健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの想像する神のせいにしたくないものを感じ取ったのと同じです。

 神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。これは私が繰り返し説いていることです。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。

愛と憎しみは表裏一体です。
愛という形で表現できる性質は憎しみを表現する時に使用する性質と同じものなのです。人生は常に比較対照の中で営まれています。

 たとえば、もしも日向にばかりいたら日光の有難さは分らないでしょう。時には曇りの日があるから太陽の有難さが分るのです。人生も同じです。苦しみを味わえばこそ幸せの味が分るのです。

病気になってみて初めて健康の有難さが分かるのです。病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。それが人生のあらゆる側面を支配しているのです」
 
 ここで別のメンバーが、たとえば悪を憎むためには当人が憎しみという要素を持っていることが必要となるのではないか、われわれは憎むということを学ぶべきだということにならないかといった趣旨のことを述べた。すると───

 「私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。

 
 自分から〝悪人になってやろう〟〝利己主義者になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人間はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。

目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない人間なのです。

利己主義とは、利他主義が方角を間違えたにすぎません。善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。
   
 神の表現をそのように限定すれば、もはや絶対神が絶対でなくなります。それは条件つきの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限、全智、全能、不可変、不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。


 神を、右手にナザレのイエスを従えて玉座に坐している立派な王様のように想像するのはそろそろやめなければなりません。それはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体───雄大な千変万化の諸相の一つひとつに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです」


 この問答がサイキックニューズ紙に掲載されるとすぐに反響があった。(交霊会はいつも週末に催され、その記事はすぐに翌週に掲載された───訳者)


 読者からの批判的な手紙が読み上げられるのを聞き終わったシルバーバーチはこう答えた。

 「困りました。そうした方たちは永いあいだ神とは善なるものにのみ存在すると教え込まれてきているからです。神とは一個の人間、誇張された立派な人間であるかに想像し、人間から見て良くないもの、親切とはいえないもの、賢明でないものは所有してほしくないというにすぎません。

しかし神は人間的存在ではありません。法則なのです。
それが全生命を支配しているのです。法則なくしては生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。

そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長と共に理解力も芽生えてきます。神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではラチがあきません。ではその悪魔は誰がこしらえたかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます」



───悪魔はキリスト教が生み出したのでしょう?

 「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っております。改善と成長───絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。

人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。
痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。

地上にもし悪が存在しなければ、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう」



───いつの世にもその時点での人類の進化の段階からみて不正と思えるものが存在するということでしょうか。

 「そういうことです。進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになるものだからです。私が進化は永遠ですと言い、宇宙には始まりも終りもありませんと申し上げるのはそのためです。向上の道に終点はありません。無限に続くのです。

それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。が、低いものがなければ高いものもあり得ないことになります。人生は一本調子(モノトーン)ではありません。
 
光と蔭、晴天と嵐、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、美と醜、善と悪の双方が揃わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解できるものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通してはじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能性が発揮されるのです。

そういう摂理になっているのです。私がそう定めたのではありません。私はただそれを自ら身に修める努力をしてきて、今それを皆さんにお教えしているだけです。


 人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。黄金色に輝く天国も火焔もうもうたる地獄も存在しません。

そうしたものはすべて視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。

なぜならば、世の中が不変にして不可変、全知全能の法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。
 
 だからこそ全てが知れるのです。だからこそ何一つ手落ちというものがないのです。だからこそ人生のあらゆる側面が宇宙の大機構の中にあって然るべき位置を占めているのです。だからこそ何一つ見逃されることがないのです。いかに些細なことでも、いかに巨大なことでも。すべてが法則のワク内に収められているからです。

すべてが法則だからです。存在を可能ならしめている法則なくしては何一つ存在できないのが道理です。法則が絶対的に支配しているのです。

人間に与えられている自由意志が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と存在しますし、また機能してもらわなくては困ります。私はキリスト教の神学は人類にとって大きな呪いであったと思っています。しかし、その呪われた時代も事実上終わりました」

 
              


     
   十章 二人の幼児と語る

 サークルの正式のメンバーではないが、シルバーバーチの〝お友だち〟として毎年クリスマスが近づくと交霊会に招待されて、シルバーバーチと楽しい語らいを持っている子供がいる。ルース(女児)とポール(男児)の二人で、ともに心霊ジャーナリストの P・ミラー氏のお子さんである。

これから紹介するのはそのミラー氏がサイキックニューズ紙に発表したその日の交霊会に関する記事である。


 まずシルバーバーチが次のような祈りの言葉を述べた。

 「神よ、なにとぞ私たちにあなたの愛、あなたの叡知、あなたの慈悲を知る力を授けたまえ。素朴さと無邪気さの中にあなたに近づき、童子のごとき心をもつ者のみに示される真理を悟らしめ給わんことを。あなたは不変にしてしかも変転きわまりなき大自然の栄光の中のみならず、童子の無邪気さの中にも顕現しておられるからでございます」

 そして二人に向かい、あたかも慈父のごとき口調で、目にこそ見えなくてもたびたび二人の家を訪れていることを述べ、さらに、

 「私はあなた達と遊んでいるのですよ。妖精や天使たちといっしょに、そして、とくにあなたたちに霊の世界のすばらしさを教えようとしている人たちといっしょに、あなたたちのお家(うち)を訪れているのですよ」
と述べた。


 すると最近になって霊視力が出始めたルースが寝室で見かける〝光〟は何かと尋ねた。ポールもルースといっしょにいる時に同じものを見かけることがある。シルバーバーチはそれが妖精と天使が見せてくれているものであることを説明してからルースに向かって、

 「あの光はその妖精たちが携えてくる〝守護の光〟で、あなたたちを取りまいております」と述べ、今度はポールに向かって、

 「霊の世界には地上で遊ぶチャンスが与えられないうちに連れてこられた子供がそれはそれはたくさんいるのです。そういう子供たちをあなたたちと遊ばせるために連れ戻すことがあります。あなたたちとの遊びを通して、まだ一度も体験したことのないものを得ることができるのです」


 ルースがシルバーバーチにこうして霊界からお話をしに戻って来てくれることにお礼を言うと、シルバーバーチは、


 「いえ、いえ、あなたたちこそ私の話を聞きに来てくれてありがとう。こうしてお話をしに来ることによって私は、みなさんが私のお話から得られる以上のものを頂いているのです。お二人の心には私の本当の住処である高い境涯の純粋さが反映しております。

その純粋さは地上近くで仕事をしている霊にとって、とても大切なものなのです。それをお二人の心の中に見つけて、いつも慰められております」

ルース 「霊界のお友達に会いに戻られるのは楽しいですか」
 
 「もちろん楽しいですとも、ルースちゃんがもしお家から遠く離れて暮らし永いことお父さんお母さんに会わずにいたら、いよいよお家へ帰ることになったと聞かされた時はうれしくないですか。

私はもうすぐ〝多くの住処〟のある私の本当の〝父の家〟に帰って(※)そこで大勢の私の愛する霊、私を愛してくれてる霊、私にこの使命を授けて下さった霊と会うことになっております。ですが、それは、人生の旅を理解するための知識を必要としている地上のさらに大勢の人たちのお役に立つための力をいただくためです」

(※ヨハネ14・2 〝わが父の家には住処多し〟───霊界にもさまざまな生活の場があるということ。訳者)

ルース 「私も妖精を見るのが楽しみです」

 「そういう楽しみをさずかったことを感謝しなくてはいけませんよ。何も感じない人が大ぜいいるのですから」

 
 ここで二人が霊媒のびざに座ってシルバーバーチに口づけをさせてほしいと言う。それが終わると今度は霊界について何か楽しいお話をしてほしいと頼んだ。するとシルバーバーチは───


 「霊界にも広い広い動物の王国があることをご存知ですか。そこでは動物のあらゆる種類が───動物も小鳥も───襲ったり恐がったりすることなくいっしょに暮らしております。ライオンが小羊と並んで寝そべっても、ケンカもせずえじきになることもありません。

美しい花園もたくさんあります。そこに咲いている花々はそれぞれの種類に似合った色彩、濃さ、形をしています。地上では見られない色彩がたくさんあります。

また美しい湖、山々、大きな川、小さな川、豪華な羽毛と目の覚めるような色彩をした小鳥がたくさんいます。昆虫も綺麗な種類のものがたくさんおります。地上で見かけるものよりは変異しています。(物質界という)さなぎの段階を通過して、本当の美しい姿を見せているからです」

ポール 「地上でもし小羊がライオンのそばに寝そべったら、まるごと食べられてしまいます」

 「地上のことではありませんよ。こちらの世界のお話ですから大丈夫です」

ルース 「シルバーバーチさんのお家はきれいでしょうね」

 「それはそれは美しくて、とても言葉では言い表せません。絵かきさんが描こうとしても、ぜんぶの色あいを出す絵の具が地上にはありません。音楽でその美しさを表そうにも、地上の楽器では出せない音階があります。〝マーセルおじさん〟───シルバーバーチの肖像画を描いた心霊画家のマーセル・ポンサン氏でその日も出席していた───に聞いてごらんなさい。

あの人は絵かきさんです。時おりインスピレーションで見ている霊界の美しさを描く絵の具が無いとおっしゃるはずですよ」



ルース 「寝ている間に霊界へ行ったことを覚えていないのですけど・・・・」

 「大きな精神で体験したことが人体の小さな脳に入りきれないからです」

ポール 「シルバーバーチさんは英語がはっきりと話せるのですね」(ふだんのバーバネルよりもっとゆっくりと、そして一語一語はっきりと発音してしゃべる───訳者)


 「そのことを有がたいと思っています。こうなるまでにずいぶん永い時間がかかりました。ポール君がおしゃべりできるようになるのとほぼ同じ位の年数がいりました。このぎこちない地上の言葉をしゃべるようになるために私はずいぶん練習しました。


私の世界ではそんな面倒がいりません。言葉はしゃべらないのです。こちらは思念の世界です。あるがままが知れてしまうのです」

ポール 「ウソをついても知られないようにすることができますか」


 「ウソというのが存在できないのです。神様の摂理(おきて)をごまかすことはできないからです。あるがままの姿が映し出されるのです。見せかけも、ごまかしも、ぜんぶはぎ取られてしまい、そのままの姿がみんなに見られるのです。でも、それを恐がるのは自分のことしか考えない人たちだけです」

ルース 「いまイエスさまが話そうと思えば霊媒を通じて話すことができますか」

 「いいえ。イエス様は王様が家来の者を使うように私たちを使っていらっしゃいます。私たちはイエス様の使節団なのです。イエス様のお考えを地上の人たちに伝え、地上の人たちの考えをイエス様にお伝えするのです。でも、イエス様の霊はいつも私たちとともにあります。けっして遠くにいらっしゃるのではありません。

前にもお話ししたことがありますが、私がイエス様のところに行く時は───もうすぐ参りますが───ルースとポールという名前の二人の良い子の考えと言葉と愛とをたずさえて参ります。ご存じのようにイエス様は子供が大好きなのです」


 二人がこの言葉の意味を考えている少しの間沈黙が続いた。やがてルースが言った。

ルース 「霊や妖精がいることを信じることができてうれしいです。いつまでも信じていたいと思います」


 「そうですとも、その信仰を忘れてはいけませんよ。人に笑われても気にしてはいけません。こんなすてきな信仰が持てて幸せだなあと、それだけを思っていればよろしい。それを笑う人は何も知らないのです」


 こう述べてからシルバーバーチはサークルのメンバーに 「この子は心の中で妖精を見たいという念をしきりに抱いているので、いま見せてあげようとしているところです」と述べ、妖精はバイブレーションが高いので普通の人間の目には見えないけど、いつか皆さんにも(物質化して)お見せできるでしょうと言った。


 ここで私(ミラー)が誰か私の友人が来ていますかと尋ねるとシルバーバーチは、

 「人間というのは面白いですね。よくそういう質問をなさいますが、愛の繋がりのある人はいつもそばにいてくれているのです。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。みなさんは肉体という牢に閉じ込められているからそれに気づかないだけです。
 
霊の世界には時間もありませんし距離もありません。意識の焦点を合わせさえすればいいのです。私はこれから遠くへ参りますが、あい変らずここにいると言ってもいいのです。この問題はここでは深入りしないでおきましょう。二人の子供が混乱しますから」

ポール 「僕たちはどのようにして物事を思い出すのでしょうか。」

 「一つのことを知ると、それは〝記憶の部屋〟にしまわれます。そしてその知識が必要になると、知りたいという欲求がテコになって(タイプライターのキーのように)その知識を引き出します。すると記憶がよみがえってきて、使用されるのを待ちます。使用されるとまた記憶の部屋へ戻っていきます。一度学んだことは決して失われません。いったん憶えたことは決して忘れません」

ルース 「じゃ、あたしたちが考えていることが全部そちらから分るのですか」
  
 「親しい間柄の霊には分ります。人間の心の中は開いた本のようなものです。親しい人にはみな読み取れます。親しくない人には分かりません。近づけないからです」

ルース 「あたしはシルバーバーチさんが大好きです。どう説明してよいのか分らないくらい好きです」と言って、ポールと一緒に霊媒の顔をじっと見つめた。

 「私だってルースちゃんとポール君が大好きですよ。この気持ちは愛の大中心からくる愛、世界全体を支配している愛、宇宙全体を動かしている愛、全部の生命を優しく抱きしめ、たった一人の子供も、どこにいようと何をしようと、絶対に見放すことのない愛と同じものなのです。

それが、宇宙が始まる前から、そして宇宙が終わった後も、永遠に霊を一つに結びつけるのです。それは永遠に変わることのない神さまの愛であり、愛の神さまです。その愛の心をお二人が出すたびに神さまの心が発揮され、宇宙の創造の仕事が続けられるのを助けることになるのです」

  この対話にサークルの全員が涙を流した。

 続いて話題がシルバーバーチのインディアンとしての地上時代の生活に移った。まず山ふところでの〝水〟に左右された生活の様子を語った。

その生活は素朴で、現代生活にありがちな問題や、せかせかしたところがなかったこと、日が暮れると子供の霊がやって来て、良い子はもう寝る時間ですよと告げてくれたこと、寝入ると霊の世界へ遊びに行ったことなどを話して聞かせた。そして最後にこう述べた。

 「ではもう一つだけお話ししてお別れすることにいたしましょう。私は間もなく地上を離れ、いくつもの界を通過して私の本当の住処のある境涯へ行き、そこで何千年ものあいだ知り合っている人たちとお会いします。地上のために働いている人たちばかりです。しかもたびたび苦しい思いをさせられています。私はこれからそこへ行って、かつて身に付けた霊力を取り戻してきます。

 そこへ行って私はこれから先の計画を教えていただき、これまでに私が仰せつかった仕事をちゃんとやり遂げているかどうか、どこまで成功しどこが失敗したか、それを次の機会にやり直すことが出来るかどうかをお聞きします。

それからみんなで揃って大集会に出席して、そこであなたたちがイエスさまと呼んでいる方とお会いします。するとイエスさまは美しさとやさしさと理解と同情にあふれたお言葉を掛けてくださいます。 

そのとき私たちは神さまのマントで包まれます。愛の衣で包まれます。そして神さまの尊い力で身を固めて一人ひとりに授けられた新しい使命に向かって出発します。

お二人のような子供から〝シルバーバーチさんが大好き〟と言われるごとに私は〝ああ良かった〟と思います。なぜなら私たちの仕事は愛を得てはじめて成し遂げられるものであり、愛の反応を見出してはじめて仕事がうまく行っていることを知るからです」

 どうかその天界の光が皆さんの毎日の生活に反映されることを祈ります。神の恵みがいつもみなさんとともにあることを祈ります。ここにおいでのみなさんは今まさに神が託した霊団の保護のもとにいらっしゃいます」

 かくして二人の子供にとってその年で最高の一日が終わった。霊媒が意識を取り戻してふだんのバーバネルに戻り、二人に話りかけると、二人は驚いた様子で見つめていた。そして娘のルースは私に抱きつき、涙を流しながら言った───〝シルバーバーチさんとお友達になれて、あたし、ほんとにしあわせよ〟と。
              
           
           

   
 十一章 青年牧師との論争

 ある時メソジスト教派(※)の年次総会が二週間にわたってウェストミンスターのセントラルホールで開かれ、活発な報告や討論がなされた。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

(※メソジストというのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し弟のチャールズと共に一七九五年に国教会から独立して一派を創立したキリスト教の一派で、ニューメソッド、つまり新しい方式を提唱していることからその名があるが、基本的理念においては国教会と大同小異とみてよい───訳者)


 そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッハーを訪ね、一度交霊会というものに出席させてもらえないかと頼んだ。予備知識としてはコナン・ドイルの The New Revelation (新しい啓示) という本を読んだだけだという。が、スワッハーは快く招待することにし、

 「明日の晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名告る霊が入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところは反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わり、あとでよそへ行って、十分な議論がさせてもらえなかったといった不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。

その会の記録はいずれ活字になって出版されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いもいらないでしょう。もっともあなたの方からケンカを売られれば別ですが」という案内の言葉を述べた。
 
 さて交霊会が始まると、まずシルバーバーチがいつものように神への祈りの言葉を述べ、やおら青年牧師に語りかけた。


 「この霊媒にはあなた方のおっしゃる〝聖霊〟の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃべらせるのです。私はあなた方のいう〝復活せる霊〟の一人です」


(訳者注ー聖霊というのはキリスト教の大根幹である三位一体説すなわち父なる神キリスト、子なる神イエス、そして聖霊が一体であるという説の第三位にあるが、スピリチュアリズム的に見ればその三者を結びつける根拠はない。キリスト教とスピリチュアリズムの違いは実にそこから発している。シルバーバーチもその点を指摘しようとしている)


牧師 「死後の世界とはどういう世界ですか」
 
 「あなた方の世界と実によく似ております。但し、こちらは結果の世界であり、そちらは原因の世界です」

(訳者注───スピリチュアリズムでは霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるといっているが、それは宇宙の創造過程から述べた場合のことで、ここでシルバーバーチは因果律の観点から述べ、地上で蒔いたタネを霊界で刈り取るという意味で述べている)

牧師 「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

 「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから、あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師 「おっしゃる通りです」

 「ところが現在の聖職者たちは〝霊の力〟に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、一ばん低い地上の世界も、あなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」


牧師 「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

 「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師 「目です。目で見ます」

 「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう」

牧師 「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

 「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊が見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」


牧師 「地上での最大の罪は何でしょうか」

 「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
 ここでメンバーの一人が 「その点を具体的に述べてあげて下さい」と言うと、

 「神の存在を知りつつもなおそれを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪が一番大きいでしょう」
 
 別のメンバーが 「キリスト教はそれを〝聖霊の罪〟と呼んでおります」と言うと、
 「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」


牧師 「〝改訳聖書〟をどう思われますか。〝欽定訳聖書〟と比べてどちらがいいと思われますか」


 「文字はどうでもよろしい。いいですか。大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です」


牧師 「改心しないまま死んだ人はどうなりますか」

 「〝改心〟とはどう言う意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師 「たとえば、ある人間は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬまえに反省します。両者には死後の世界でどんな違いがありますか」

 「あなた方の本(聖書)から引用しましょう。〝蒔いた種は自分で刈り取る〟のです。これだけは変えることができません。今のあなたにそのままを携えてこちらへ参ります。

自分はこうだと信じているもの、人からこう見てもらいたいと願っていたものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分ります」 

 そう言ってからシルバーバーチはスワッハーの方を向いて、この人には霊能があるようだと述べ、「なぜ招待したのですか」と尋ねると、スワッハーは 「いや、この人の方から訪ねて来たものですから」と答えた。するとシルバーバーチは再びその牧師に向かって、

 「インディアンが聖書のことをよく知っていて驚いたでしょう」と言うと牧師が「よくご存じのようです」と答えた。すると別のメンバーが「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすぐに年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一〇〇〇年頃のイスラエルの王である。


 「私は白人ではありません。レッドインディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし私はこれまで、西洋人の世界に三千年前のわれわれインディアンよりはるかに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つと言えます」


牧師 「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう。やはり後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

 「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分ります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのにやらなかったこと、そうしたことが逐一分かります。逃してしまった好機(チャンス)が幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師 「キリストへの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)されるのでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣(なら)うことになると思うのですが」

 「主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。

実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です」


 ここで列席者の一人がイエスは神の分霊なのか問うと───

 「イエスは地上に降りた偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。

いや、今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」

牧師 「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物がウソをつくはずがありません。キリストは言いました───〝私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである〟と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

 「もう一度聖書を読み返してごらんなさい。〝父は私よりも偉大である〟とも言っておりませんか」

牧師 「言っております」

 「また、〝天に在しますわれらが父に祈れ〟とも言っております〝私に祈れ〟とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が〝天に在しますわれらが父〟であるわけがないでしょう。〝私に祈れ〟とは言っておりません。〝父に祈れ〟と言ったのです」

牧師 「キリストは〝あなたたちの神〟と〝私の神〟という言い方をしております。〝私たちの神〟とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いていません」

 「〝あなたたちの神と私〟とは言っておりません。〝あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう〟とも言っております。あなた方キリスト者にお願いしたいのは、聖書を読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。

霊的実相に照らして解釈しなくてはなりません。存在の実相が霊であるということが宇宙の全ての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師 「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けられたのです」と述べて、イエスが神の子であるとのキリスト教の教義を弁護しようとする。

 「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年もたってから例の二ケーア会議でそんなことが聖書に書き加えられたのです」

牧師 「二ケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師 「でも私がいま引用した言葉はそれ以前からあるヨハネ福音書に出ていました」

「どうしてそれが分ります?」

牧師 「いや、歴史にそう書いてあります」

 「どの歴史ですか」

牧師 「どれだかは知りません」

 「ご存じのはずがありません。いったい聖書が書かれる、そのもとになった書物はどこにあるとお考えですか」

牧師 「ヨハネ福音書はそれ自体が原典です」

 「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師 「聖書は西暦九〇年に完成しました」

 「その原典になったものは今どこにあると思いますか」

牧師 「いろんな文書があります。例えば・・・・・・」と言って一つだけ挙げた。

 「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
 牧師がこれに答えられずにいると───


 「聖書の原典はご存じのあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写し(コピー)の写しの、そのまた写しなのです。

おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。


ところが、いつになっても再臨しないので、ついに諦めて記憶を辿りながら書きました。イエス曰く───と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです」

牧師 「でも、四つの福音書にはその基本となったいわゆるQ資料(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的な事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが・・・・・・」


 「私は別にそうしたことが全然起きなかったと言っているのではありません。ただ、聖書に書いてあることの一言一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。聖書に出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用が随分入っていることを忘れてはいけません」

牧師 「記録に残っていない口伝のイエスの教えが書物にされようとしていますが、どう思われますか」 

 「イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方をおろそかにしています。

〝福音書〟なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。

 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧(よろい)として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するものすべてに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉より大切です」


牧師 「この世になぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

 「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練を経てはじめて人間世界を支配している摂理が理解できるのです」

牧師 「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが・・・・・・」

 「あなたは神に仕える身です。大切なのは〝霊〟に関わることであり、〝肉体〟に関わることでないことくらいは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の苦しみより大きいものです」

メンバーの一人が 「現行制度は不公平であるように思えます」と言うと、

 「地上での出来ごとはいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかはご自分の天秤を手にされてバランスを調節する日がまいります。

自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることはできません。罪が軽くて済んでる者がいるようにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の豊かさを見抜く力がないからそう思えるのです。

 私がいつも念頭に置いているのは神の法則だけです。人間の法則は念頭においていません。人間のこしらえた法律は改めなければならなくなります。変えなければならなくなります。が、神の法則は決してその必要がありません。

地上に苦難がなければ人間は正していくべきものへ注意を向けることが出来ません。
痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、神の分霊であるところのあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

 もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした神の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている神を、一体あなたは何の資格を持って裁かれるのでしょう」


牧師 「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

 「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師 「それは、その、あれこれや読んだり・・・・・・、それに説教もよくします」

 「私もよく本を読みます。それに、今こうして大変な説教をしております」

牧師 「私は英国中を回らなくてはなりません」

 「私の方は霊の世界中を回らなくてはなりません。それに私は、天命を全うせずにこちらへ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間がかかります。

あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場にいらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいらっしゃいます。ただ壇上に上がって意味もない話をしゃべりまくっているだけです。

 しかし、あなたが自らを神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開かれれば、古(いにしえ)の予言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によってあなたの魂が満たされるのです。そうなることによって、あなたの働かれる地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです」

牧師 「そうあってくれればうれしく思います」

 「いえ、そうであってくれればではなくて、真実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っております。みなさん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説ばかりこだわって実践を疎かにしたことを自覚するのです。

そうして、できればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えるのです。

 あなたは今まさに崩壊の一途を辿っている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生───真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴なうことでしょう。

しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間のすべてが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことができるのです」

 その牧師にとっての一回目の交霊も終わりに近づき、いよいよシルバーバーチが霊媒から去るに当たって最後にこう述べた。

 「このあと私もあなたが説教なさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさったとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師 「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈ってまいりました」

 「祈りはきっと叶えられるでしょう」

 以上で第一回目の論争が終わり、続いて第二回の論争の機会が持たれた。引き続いてそれを紹介する。


牧師 「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

牧師 「イエスは〝天の父の完全であるごとく汝らも完全であれ〟と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師 「私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っております。また、〝ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり〟とも言っております。神は全人類を愛して下さる。

だからわれわれもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか」


 この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさろうとするんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な生活を送ったと思いますか」

牧師 「そう思います。完全な生活を送られたと思います」

 「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師 「当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います」

 「腹を立てたことは一度もないとお考えですか」

牧師 「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

 「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方は何でも正当化なさるんですから・・・・・・」 

 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出した。

 「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。

怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった───ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。わかりましたか」

牧師 「わかりました」

 「私はあなたのためを思えばこそこんなことを申し上げるのです。誰の手も届かないところに祭り上げたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。

自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。

イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」



 話題が変わって───

牧師 「人間にも自由意志があるのでしょうか」

 「あります、自由意志も神の摂理の一環です」

牧師 「時として人間は抑えようのない衝動によってある種の行為に出ることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか」

 「あなたはどう思われますか」

牧師 「私は人間はあくまで自由意志を持った行為者だと考えます」

 「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは神の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは神の愛から生まれた法則で、神の子すべてに平等に定められており、それを変えることは誰にもできません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師 「もし自由だとすると罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合より恐ろしいことに思えます」

 「私に言えることは、いかなる過ちもかならず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらへ来て正さなくてはなりません」

牧師 「感心できないことをしがちな強い性癖を先天的に持っている人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人とそうでない人がいます」

 「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心では善くないことであることに気づいているものです。その道義心をあくまでも無視するか否かは、それまでに身に付けた性格によって違ってくることです。罪というものはそれが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなります」

  これを聞いてすかさず反論した。

牧師 「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

 「罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか」

牧師 「思念です」

 「思念はどこからきますか」

牧師 「(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます」

 「では悪の思念はどこから来ますか」

牧師 「わかりません」(と答えているが実際は〝悪魔から〟と答えたいところであろう。シルバーバーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の矛盾を突く──訳者)

 「神はすべてに宿っております。間違ったことの中にも正しいことにも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。

空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。お分かりになりますか。神とは〝これとこれだけに存在します〟というふうに一定の範囲内に限定できるものではないのです。

全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。


神はすべてに宿ります。あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。

もしもあなたが、あなたのおっしゃる〝完全な生活〟を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」



牧師 「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりを抱いている人間が死に際になって自分の非を悟り〝信ぜよ、さらば救われん〟の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の〝回心の教義〟をどう思われますか」


 「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〝たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん〟(マルコ8・36)〝まず神の国とその義を求めよ。

しからばこれらのものすべて汝らのものとならん〟(マタイ6・33)この文句はあなた方はよくご存じですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。


それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〝神を侮(あなど)るべからず。己の蒔きしものは己れが刈り取るべし〟(ガラテア6・7)これもよくご存じでしょう。
 
 神の摂理は絶対にごまかせません。暴若無人(ぼうじゃくぶじん)の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落とせると思われますか。

無欲と滅私の奉仕的精神を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〝すみませんでした〟の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。いかがですか」

牧師 「私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ・・・ 」

 「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いておる言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私には分っております。私は、あなた自身がどう思うかと聞いているのです」

牧師 「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかしそこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

 「この通りを行かれると人間の法律を運営している建物があります。もしその法律によって生涯を善行に励んできた人間と罪ばかりを犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師 「私は、生涯を真っ直ぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が・・・私は───」

 ここでシルバーバーチがさえぎって言う。

 「自分が種を蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです」

牧師 「では悪の限りを尽くした人間がいま死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを私はどうその人間に説いてやればいいのでしょうか」

 「シルバーバーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい」

牧師 「しかし、罪を告白するということは誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

 「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。

元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が休まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です」


牧師 「しかしイエスは言われました。〝労する者、重荷を背負える者、すべて我れに来たれ。汝らに安らぎを与えん〟 (マタイ11・28)」

 「〝文は殺し霊は生かす〟(コリント後3・6)というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字どうりに実行しなければならないのだと言ってみても無駄です。今日あなた方が実行していないことが聖書の中にいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう」

牧師 「イエスは〝善き羊飼いは羊のために命を捨つるものなり〟(ヨハネ10・11)と言いました。私はつねに〝赦し〟の教を説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

 「神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する───それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは〝そう言ったと思う〟という程度のものでしかありません。


そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。

 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡知、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今も決して多くはありません。

しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです」

牧師 「私は私の心の中にキリストがいて業をなしていると説いています。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

 「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。

イエスよりずっと前に地上に生を受けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許して下さらなかったということですか。

 神のすべてが一冊の書物の中のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一ページを読み終わった時、神の真理の全てを読み終えたことになるというのでしょうか」


牧師 「そうであってほしくないと思っています。時おり何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

 「あなたもいつの日か天に在します父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応わしい住処に住まわれます。神に仕える者としてのあなたに分かっていただきたいことは、神を一つのワクの中に閉じ込めることはできないということです。神は全ての存在に宿るのです。

悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人と同じように神とつながっているのです。あなた方一人ひとりに神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎとが、あなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師 「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

 「誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人が独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今なおその国の宗教の発生と共に出来たカレンダーを使用しております。私は決してイエスを過小評価するつもりはありません。

私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が規範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう」


牧師 「キリストの誕生日を西洋歴の始まりと決めたのがいつのことだかよく分っていないのです。ご存じでしょうか」

 「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。

肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると───大てい道路を掘り起こす仕事ですが───一生けんめい働き、終わると僅かばかりの賃金をもらっている人たちです。その人たちが住んでいるのはいわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。

 ところが同じ町にあなた方が〝神の館〟と呼ぶ大聖堂があります。高く聳えていますから太陽が照ると周りの家はその影になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これで良いと思われますか」

牧師 「私はそのダーラムにいたことがあります」

 「知っております。だからこの話を出したのです」

牧師 「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」 
 
 「あのようなことでイエスがおよろこびになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、わずかな賃金しかもらえない人々が存在し、他方にはお金のことには無とん着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名告るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、いったいあなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。 

 あなたは経典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵を全ての子に分け与えたいと望んでおられることが分りませんか。

飢え求めている人がいる生活物質を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬキリスト者が同じことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があるでしょうか。

 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職に在る者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。

その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体だれが涼しい顔をしていられましょう。

 その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。

私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めていくための一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。

 あなたに理解していただきたいことは、聖書のテキストのことをうんぬんするよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意思を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

 あなたは(メソジスト教の)総会から抜け出て来られました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めてまいりましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱を拭う為に一致協力しない限り、それは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」 

牧師 「数年間に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」 

 「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻って来るようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れています。

しかしイエスは社会のすみずみにまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなた方から足を運ばなければならないのです。

 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡知の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。

魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

 そう述べてから最後にその牧師のために祈りを捧げた。

 「あなたがどこにいても、何をされても、常に神の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が神の霊感を受け入れられることを祈ります。

願わくは神があなたにより一層の奉仕への力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし、そこへ訪れる人々がそこにこそ神が働いておられることを理解してくれるようになることを祈ります。

 神が常にあなたを祝福し、支え、神の道に勤(いそ)しませ給わんことを。願わくは神の意図と力と計画について、よりいっそう明確なる悟りを得られんことを。
 では神の祝福を。御機嫌よう」 

             


   
 十二章 参戦拒否は是か否か

 参戦拒否、徴兵忌避といった不戦主義はスピリチュアリズムにおいてだけでなく、すべての宗教においてその是非が問われ続けている問題である。

 シルバーバーチは常に道義心───魂の奥の神の声───が各自の行為の唯一の審判官であると説き、従ってその結果に対しては各自が責任を取らねばならないと主張している。

その論理から、母国を守る為には戦争も辞さず、必要とあらば敵を殺(あや)めることも一国民としての義務であると考える人をシルバーバーチは咎めない。これが〝矛盾〟と受け止められて批判的な意見が寄せられることがあるが、これに対してある日の交霊会でこう弁明した。

 「批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げてきながら、今度は〝英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦いである。聖戦である〟と宣言する者に加担しているとおっしゃいます。

 私は永年にわたってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意ぶかくふり返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示されたワクに沿って私なりに謙虚に説いてきた素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。

今も私は、これまで述べてきた通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、リンゴは熟せば自然に落ちます。もし熟さないうちにもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。
 
熟さないうちに、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備ができないうちに肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟なまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。

 その観点から私は、これまで述べてきたことのすべてをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信を持って支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〝動機〟であることも説いております。

 まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、いわゆる〝国民兵役〟への準備に国を挙げて一生懸命になっておられた時分に、〝こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〟との質問に私は〝そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〟と申し上げました。

 いま英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、
あるいはいかに多くの憎しみの種子を蒔いても、少なくともこの度の戦争は英国自ら仕掛けたものではないことは確かです。

しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、いくぶん自衛の目的も兼ねて、弱小国を援助するという役目をみずから買って出ております。

もしも兵役に喜んで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界のために貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。

 動機が何であるか───これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反撥するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟を持って戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。


 派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はおやめになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私たちはけっして咎めません」

───それでも、やはり人を殺すということがなぜ正当化されるのか、得心できません。

 「必要とあれば───地上的な言い方をすれば───相手を殺す覚悟の人は、自分が殺されるかもしれないという危険をおかすのではないでしょうか。どちらになるかは自分で選択できることではありません。相手を殺しても自分は絶対に殺されないと言える人はいないはずです。もしかしたら自らの手で自らを殺さねばならない事態になるかもしれないのです」

 さらに別の質問を受けてシルバーバーチはその論拠を改めて次のように説明した。


 「私たちは決して地上世界がやっていることをこれで良いと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻って来て、失われてしまった教えを改めて説くようなことはいたしません。


どもは地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうとしているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。

すべての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的ものさし、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪と縁のない人間には何の係りもありません。

 かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準をもうけることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤まることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合いによって定まります。

あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力───それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有りうるのです。

 個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。すべての言いわけ、すべての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になりきり、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。

その声はけっして誤まることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。

押し殺されることはあります。無視されることもあります。うまい理屈や弁解や言いわけでごまかされることもあります。しかし私は断言します。良心は何時も正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤まることのない判断基準です。

 私たちに反論する人たち、特にローマカトリック教会の人たちは、私たちが自殺を容認している───臆病な自殺者を英雄または殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私たちは変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。

確かに臆病であるがゆえに自殺という手段で責任を免れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでもなお、その逃れようとした責任に直面させられます。

しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺───行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは〝動機〟です」


 ここでメンバーの一人が、不治の病に苦しむ人が周りの人たちへ迷惑をかけたくないとの考えから自殺した例をあげた。するとシルバーバーチは───


 「そうです。愛する妻に自由を与えてやりたいと思ったのかもしれません。〝自分がいなくなれば妻が昼も夜もない看病から解放されるだろう〟───そう思ったのかもしれません。その考えは間違いでした。真の愛はそれを重荷と思うようなものではないはずです。

ですが、その動機は誠実です。心がひがんでいたのかもしれません。しかし、一生けんめい彼なりに考えたあげくに、そうすることが妻への最良の思いやりだと思って実行したことであって、けっして弱虫だったのではありません」
 

 では最後に〝戦うことは正しいことだと思いますかという質問に対するシルバーバーチの答えを紹介しておこう。これは大戦が勃発する前のことであるが、その主張するところは勃発後と変わるところはない。これを〝矛盾〟と受け止めるかどうか───それは読者ご自身が全知識、全知性、全叡知を総動員して判断していただきたい。


 「私はつねづねたった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一ばん大切だということです。そうすることが誰かの為になるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命ずるままに実行なさることです。私個人の気持ちとしては生命を奪い合う行為はあってほしくないと思います。生命は神のものだからです。

しかし同時に私は、強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。ただし、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください」


───例えばもし暴漢が暴れ狂って手の施しようがない時は殺すという手段も止むを得ないのではないでしょうか


 「あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかったはずだということです。

人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私たちに出来ることは、真理と叡知の原則をお教えし、それに私たち自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。


 血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由のための戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異議は唱えません。どうして非難できましょう。明日の子供のために戦っている今日の英雄ではありませんか。

 私にできることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、いわゆる流派にも属さないのです。

 人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも───敵にも味方にも───立派な魂を持った人がいるものです。ですから、動機とは何か───それが一ばん大切です。こうすることが人のためになるのだと信じて行なうのであれば、それがその人にとって正しい行為なのです。


知恵が足らないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。なぜなら魂にはその一ばん奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。

 私は常にあなた方地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私たちの規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用できる永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志が全てを規制し、真の公正が行きわたります。

 その日その日の気まぐれな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一ばん大事だと思うものを必要以上に意識するために、判断が歪められがちです。

宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。

 地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私たちが何の同情も感じていないと思っていただいては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私たちはよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私たちはそうした地上の日常の変転極まりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。

 どうかその事実から勇気を得て下さい。そこにインスピレーションと力とを見出し、幾世紀にもわたって善意の人々が夢見てきた真理の実現のために働き続けて下さい。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明(たいまつ)を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです」(巻末〝解説〟参照)



   
 十三章 質問に答える

(一)──戦争になると友情、仲間意識といったものが鼓舞されるという意味では〝宗教心〟をより多く生み出すことになると言えないでしょうか。

 「それはまったく話が別です。それは〝窮地〟に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの〝大変さ〟を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態をお互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。

しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る〝人のためを思う心〟です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。

 何でもない真理なのです。ところが実はその〝何でもなさ〟がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力を持った新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。

その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。

 しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。

あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。

 人類は余りに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。


しかし神は〝内側〟にいるのです。〝外側〟にはいません。賛美歌の斉唱、仰々しい儀式───こうしたものはただの〝殻〟です。宗教の真髄ではありません。

 私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発する為の生き方を説いているのです。

それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において〝常識〟と思える知識ばかりを求めます。余りに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです」


(二)──休戦記念日に当たってのメセージをお願いします。(訳者注──一九一八年に始まった第一次大戦の休戦日で、これが事実上の終戦日となった。毎年十一月十一日がこれに当たり二分間の黙祷を捧げる。こうした行事を霊界ではどうみているか、日本の終戦記念行事と合わせて考えながら読むと興味深い。なおこの日の交霊会は第二次大戦が勃発する一九三九年の一年前である)

 「過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。

宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分らない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式を繰り返すだけでした。

 この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。

英雄的戦没者と呼びながら、実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。

本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれを反抗する側に回っている宗教界は恥を知るべきです。

戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の縁ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じ込められているからにほかなりません。

 聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目を敢えて瞑(つむ)り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知識を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。

今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基礎を置いていたからです。強力な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁(ろんぱく)されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。

われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません」


(三)──これほど多数の戦死者が続出するのを見ていると霊的知識も無意味に思えてきます。
   (この頃第二次大戦が最悪の事態に至っていた──編者)

 「死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私は決して戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい」

───でも戦死していく者は苦痛を味わうのではないでしょうか。

 「苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。
 
いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれることに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。

その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかもしれませんが、とにかく死は悲劇ではありません」



───後に残された者にとってのみ悲劇ということですね。


 「解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。

ぜひとも〝生〟のあるがままの姿を知って下さるように願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。
そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。
 
しかしそれは、これから先に待ち受ける生活に較べれば、ほんのひとかけらに過ぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひと時だけ物的世界に顕現しているにすぎません」


(四)───霊界の指導者は地上の政治的組織にどの程度まで関与しているのでしょうか。

 「ご承知と思いますが、私たちは人間がとかく付けたがるラベルには拘りません。政党というものにも関与しません。私たちが関心を向けるのは、どうすれば人類にとってためになるかということです。

私たちの目に映る地上世界は悪習と不正と既成の権力とが氾濫し、それが神の豊かな恩恵が束縛なしに自由に行きわたるのを妨げております。そこで私たちはその元凶である利己主義の勢力に立ち向かっているのです。永遠の宣戦を布告しているのです。

そのための道具となる人であれば、いかなる党派の人であっても、いかなる宗派の人であっても、いかなる信仰を持った人であっても、時と場所を選ばず働きかけて、改革なり改善なり改良なり───一語にして言えば奉仕のために活用します」


───それには本人の自由意志はどの程度まで関わっているのでしょうか。

 「自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。

そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。

 お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から、何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。

各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合いが関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです」


(五)───各国の指導的立場にある人々の背後でも指導霊が働いているのでしょうか。

 「むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。

 たとえば地上である種の改革事業を推進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。

同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者等がこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするものです」


───指導者が霊の働きかけに反応しない場合はどうなりますか。

 「別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応───本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。

むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです」


(六)───各国にその必要性に応じた霊的計画が用意されているのでしょうか。

 「すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程を経てもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。

さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです」



(七)───人類の福祉の促進のために霊界の科学者が地上の科学者にインスピレーションを送ることはあるでしょうか。

 「あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。

残念ながら人間の霊的成長と理解力の不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊の為に使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです」


(八)───そちらからのインスピレーションの中には悪魔的発明もあるのでしょう?

 「あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質(たち)の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしようもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。

こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ち受ける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです」

              
 

    
 解説 「動機」と「罪」

 本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムにはまったくの素人だった人で、さっそくある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せつけられ、いっぺんに参ってしまった。

その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍をしている。

最近の消息はわからない。Psychic News′ Two Worlds のいずれにも記事が見当たらないところをみると、すでに他界したのかもしれない。筆者が一九八一年と八四年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。

 この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短かすぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。

記者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。

 さて、本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そしてまた同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。また人間としてどうしても理解しかねるものもある。

 たとえば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年ものあいだ自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。

さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
 
 それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何カ月、あるいは何年にもわたる経験を夢で見ることがあるのは確かである、霊は反対に人間にとって何か月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこがわれわれ人間には理解しにくい。

 が、それを地上で体験する人がいることは事実である。ガケから足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪にかかわる体験のすべてを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分が絶対に間違っていないといった反省をしたという。


野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
℘242
 しかし太陽は東から昇り西に沈むと言う地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。

それと同じで、われわれ人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいるかぎりは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。

 神の概念も今すぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解できない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。

 しかし〝動機〟と〝罪〟の問題はあの世へ行ってからでは遅い、現在のわれわれの生活に直接かかわる問題であり、ぜひとも理解しておかねばならない問題であろう。

 筆者個人としては、こうした問題を意識しはじめた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。

 字面(じずら)だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
℘243
 シルバーバーチはつねづね〝動機が一ばん大切〟であることを強調し〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない───その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年たったあとでも苦しい思いをし反省させられることであろう。

 それは自分が親となってみてはじめて子としての親への不孝を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。

しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入ってくる。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに坐らされる思いがするのと共通している。

 戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、
℘244
その時点ではすでに自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出てくることなのであろう。

 さらにもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。

これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今すぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないと同じであろう。

 ことに社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。

 戦争がいけないことは分り切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、
そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を受けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何らかの宗教の教義からきているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。

〝私は強い意志を持った人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。

 これを発展させていくと、いわゆる俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知るかぎりでは高級霊ほど勇気を持って俗世を生き抜くことの大切さを説いている。

イエスの言う、Be in the world, but not of the world.(俗世にあってしかも俗人になるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんでくる───

 「全存在のホンのひとかけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたらさいご二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。


汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・・・人間は己れに啓示されそして理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」
 
 次に良寛の辞世の句はそれを日本的に表現したものとして私は好きである。


       うらを見せ   おもてを見せて   散るもみじ       良寛                            



  新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、
この度、装いを新たにして出されることになりました。
 
天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれていることでしょう。

                   平成十六年一月        近藤 千雄