ベールの彼方の生活(三)       G・V・オーエン著    近藤 千雄訳

                  目  次
       The Life Beyond the Veil
   Vol.Ⅲ The  Ministry of  Heaven      
           By  G.  V.  Owen
       The  Greater World Association
            London,   England


一章 天使による地上の経綸
 1  霊界の霊媒カスリーン
 2  憩いの里
 3  生命の河 
 4  生命の気流
 5  天界の音楽と地上の音楽
 6過ぎにし昔も来る世々も
 7後なる者、先になること多し
       靴職人

二章 霊的交信の原理
 
三章 天界の経綸
   1  寺院の建造
     ──十字を切ることの意味
四章 サクラメントの秘義 
   2  婚姻    
   3  

五章 生前と死後
   1  一兵士の例
   2  一牧師の場合

六章   宇宙の創造原理・キリスト 
   1  顕現としてのキリスト
   3  究極の実在

七章 善悪を超えて
   2  使命への旅立ち  
   3  苦の哲学      深い筋
   4  さらに下層界へ

八章 暗黒街の探訪
    1  光のかけ橋
    3  冒涜の都市
    4  悪の効用  霊的力学
    5  地獄の底
 


  
 一章 天使による地上の経綸

 1 霊界の霊媒カスリーン           
 
一九一七年九月八日 土曜日

 私(※)は今あなたの精神を通して述べております。感応したままを綴っていただき、評価はその内容をみて下してください。そのうち私の思念をあなたの思念と接触させることなく直接書き留めることが出来るようになるでしょう。

そこでまず述べておきたいのは、こうした方法による通信を手掛ける人間は多くいても、最後まで続ける人が少ないことです。それは人間の思念と私たちの思念とが正面衝突して、結果的には支離滅裂なことを述べていることになりがちだからです。

 ところで私が以前もあなたの手を使って書いたことがある──それもたびたび──と聞かされたら、あなたはどう思われますか。実は数年前この自動書記であなたのご母堂とその霊団が通信を送ってきた時に、実際に綴ったのはこの私なのです。

あれは、あの後の他の霊団による通信のための準備でもありました。
今夜から再び始めましょう。あっけない幕開きですが・・・・・・。書いていけば互いに要領が良くなるでしょう。

(※ここで〝私〟と言っているのはカスリーンである。第一巻並びに第二巻の通信も実はこのカスリーンが霊界の霊媒として筆記していたのであるが、未発表のものは別として少なくとも公表された通信の中では、カスリーンの個性が顔をのぞかせたことは一度もなかった。

それが、本書ではこうして冒頭から出て来てみずからその経緯を述べ、このあと署名(サイン)までしている。しかし回を追うごとに背後の通信霊による支配が強くなっていき、八日付けの通信では途中でオーエン氏が〝どうも内容が女性のお考えになることにしては不似合のように感じながら綴っているのですが、やはりカスリーンですか〟と、確かめるほどになる。

そして第二章になるとリーダーと名告(なの)る男性の霊が前面に出て来る。─訳者)


  「神を愛する者には全てのこと相働きて益となる」(ロマ8・28) ───この言葉の真実性に気づかれたことがありますか。真実なのですが、その真意を理解する人は稀です。人間の視野が極めて限られているからです。〝全てのこと〟とは地上のことだけを言っているのではなく、こちらの霊の世界のことも含まれております。

しかもその〝全てのこと〟が行き着く先は私どもにも見届けることが出来ません。それは高き神庁まで送り届けられ、最後は〝神の玉座〟に集められます。が、働きそのものは小規模ではありますが明確に確かめることが出来ます。

右の言葉は天使が天界と地上界の双方において任務に勤しんでいることを指しているのであり、往々にして高き神庁の高級霊が最高神の命のもとに行う経綸が人間の考える公正と慈悲と善性の観念と衝突するように思えても、頂上に近い位置にある高級霊の視野は、神の御光のもとにあくまでも公正にして静穏であり、私たちが小規模ながら自覚しているように、その〝神の配剤の妙〟に深く通じているのです。


 今日、人間はその神の使徒に背を向けております。その原因はもしも神が存在するならこんなことになる筈がないと思う方向へ進んでいるかに思えるからです。

しかし深き谷底にいては、濃く深く垂れこめる霧のために、いずこを見ても何一つ判然とは見えません。あなたたちの地上界へは霊的太陽の光がほとんど射し込まないのです。


 このたびの(第一次)大戦も長い目で見ればいわば眠れる巨人が悪夢にうなされて吐き出す喘(あえ)ぎ程度のものに過ぎません。安眠を貪(むさぼ)る脳に見えざる光が射し込み、音なき旋律がひびき、底深き谷、言わば〝判決の谷〟(ヨエル書)にいて苛立(いらだ)ちの喘ぎをもらすのです。これからゆっくりと目を覚まし、霧が少しずつ晴れ、

(眠っている間に行われた)殺戮(さつりく)の終わった朝、狂気の夜を思い起こしては驚愕(きょうがく)することでしょうが、

それに劣らず、山頂より降り注ぐ温かき光に包まれたこの世の美しさに驚き、つい万事が愛によって経綸されていること、神はやはり〝吾らが父〟であり、たとえそのお顔は沸き立つ霧と冷たき風と谷底の胸塞ぐ死臭に遮られてはいても、その名はやはり〝愛〟であることを知ることでしょう。


  それは正にこの世の〝死〟を覆い隠す帳であり、その死の中から生命が蘇るのです。その生命はただただ〝美しい〟の一語に尽きます。なぜならば、その生命の根源であり泉であるのが、ほかならぬ〝美〟の極致である主イエス・キリストその人だからです。

 ですから、神の働きは必ずしも人間が勝手に想像するとおりではないこと、その意図は取り囲む山々によって遮られるものではなく、光明と喜悦の境涯より届けられることを知らねばなりません。私たちの進むべき道もそこにあるのです。では今夜はこれまでにします。

 これも道を誤った多くの魂の暗き足元を照らすささやかな一条(ひとすじ)の光です。

 願わくば神が眠れる巨人をその御手にお預かり下さり、その心に幼な子の心を吹き込まれんことを。主の御国は幼な子の心の如きものだからです。そして、その安眠を貪り、何も見えず何も聞こえぬまま苛立つ巨人こそ、曽て主が救いに降りられた人類そのものなのです。                                                                                                                                                         カスリーン

 2 憩いの里                                            
    一九一七年一月六日 火曜日

  讃美歌に〝岸辺に生命(いのち)の木は茂れり〟という句がありますが、この言葉はよく考えると、二つの意味があるようです。もちろん植物がその養分を河(※)から摂取するという表面的な意味もありますが、こちらの世界へ来てみて私たちは、地上の営みの一つ一つがいかに霊的な意味を持っているかを理解します。

つまりその表面的な現象が、人間の目に映るのと同じ程度の自然味をもって私たちに訴える霊的真理を秘めているのです。


作者がその天界の事情によく通じていたかどうか、それは知りません。ですが、少なくともそれを書かせた霊には、聞く耳を持つ者に対して地上的現象以上のものを伝えんとする意図があったことは考えられます。

そこで、これから私は天界の科学に私以上に通じておられる方々のご援助を得て、それを天界の事情に当てはめ、私の知識の及ぶかぎり拡大解釈してご覧に入れようと思います。(※ここに言う〝岸辺〟は次の八日付の通信に引用される〝生命の河〟と同じく、〝ヨハネ黙示録〟に画かれている霊界の河のことである。──訳者)


 もっとも、今の私の念頭にあるのは河というよりは、地上なら内海(うちうみ)とでも呼ぶべき大きな湖で、この第六界を大きく二つに分ける独立した境界域を形成しております。岸辺はとても変化に富み、岩だらけで切り立った崖となっているところもありますが、なだらかな芝生と庭園の趣も持ったところもあります。

また私の目には一本一本の樹木よりも、ぎっしりと繁った森が青味がかった黄金色に輝く湖を帯状に取り巻いているのが見えます。それはさらに丘を越え高原をおおい、一方、切り立った崖を新緑で縁(ふち)どっています。
 
    その岸辺の近くに、とくに繁った木立ちに囲まれて、大きな施設(ホーム)が建っております。そこは湖を渡ってくる人々のための憩いの場です。ある者は陸と海を越えての長距離の旅で疲れきっております。

第五界からようやくこの界へ辿り着いた新参がいます。この新しい国をさらに奥深く入るために身体をこの界の条件に順応させる必要があるので、ここで一服するのです。

また、使命を帯びて下層界へ、時には今の私のように地上界まで降りてきた人もいます。


その帰途、必ずとも言えませんが、しばしこの土地に立寄って、これよりそれぞれの界の領主あるいは霊団の指揮者に成果を報告しに行くために、体力を回復させるのです。

中には再び下層界へ赴くためにいったんここに戻って元気を回復し、急を要するので内陸を通らずにその湖を通って下り、未完のまま残されている仕事の完遂に奮闘する人もいます。


    それから時折──これは決して珍しいことではないのですが──上層界の高級霊が地上ないしはその途中のどこかの界へ訪れる時、あるいはその帰途にここにお立ち寄りになり、しばし滞在なさってその光輝あふれる霊性で招待者を喜ばせることがあります。

まさしくここは憩いの里──この里に入った時の安らぎは入ってみた者でないと分かりません。援助を必要とする者のために危険を伴う高き使命に奮闘したあとのこの里での憩いは、私たちの最大の愉しみの一つなのです。

湖の岸辺のいかにも相応しい位置に、こんもりとした木立に囲まれて佇(たたず)む住処──そこは薄暗い天界の低地に蒔かれた善意の種子が実を結び、それを領主にご報告申し上げる処なのです。

愛の旗印のもと、激しくかつ鋭い痛撃のやり取りの中に勝ち取った数々の戦勝記念品もまたここに持ち帰り、英気を養い心を癒す縁(よすが)とされます。かつて主イエスが勇気を持って闘いそして勝ち得た、生きた戦利品と同じなのです。


 そろそろお疲れのようです。こうして書いていくうちに無理なくラクにあなたの腕が使えるようになるでしょう。私からの愛と感謝の気持ちをお受けください。ではお寝み。
 


 3 生命(いのち)の河                              
    一九一七年十一月 八日  木曜日

 ではその〝憩いの里を〟を後にして内陸への旅をしてみましょう。その道中にもいろいろと学ぶことがあることでしょう。あなたも私も共に巡礼者であることを忘れてはなりません。

同じ光明へ向けて同じ道を歩んでいるのであり、この界と次の第七界との境界にある高い山脈を越えて、さらにさらに向上の道に励まなくてはならないのです。

 私たちはその里の敷地と庭園を後にして、広々とした田園地帯に続く長い並木道を行きます。行きながら気づいたことは、その道は一直線に走っているのではなく、そこを通って海に注ぐ小川のある谷に沿っているのです。では、先に進む前に、ここでその小川の水の持つ性質を幾つか説明しておきましょう。


〝生命の水〟の話をお読みになったことがあると思いますが、これは比喩ではなく文字どおり生命の水なのです。と言うのは、こちらの世界の水には地上の水にない成分が含まれていて、それぞれの水が他に見られない独特の成分を含んでいるのです。

川にせよ泉にせよ湖にせよ、水は高級霊によって管理されており、精気と啓発の徳が賦与されているのです。

その水を浴びることによって高級霊の賦与した生命波動から精気を吸収し啓発されていくのです。私が知っている噴水池が高い塔の屋上に設けてありますが、装置を作動させると深遠な雰囲気のハーモニーを持つ一連の和音を響かせます。

(第一巻一三五頁参照)これはその土地で何かの催しがある時に近隣の人々を召集するための合図の鐘の代わりに使われております。

しかもその噴水のしぶきはかなりの広い範囲にわたって飛び散り、さまざまな色彩の光の花びらとなって、その一帯の家や庭園に落ちていきます。

その花びらにはこれから催される集会のおよその性格と目的の主旨を伝えるものが含まれており、それを浴びる人の全身に心地よき温もりを漲(みなぎ)らせ、ぜひ出席したいと思わせるところの同志愛と連帯意識を自覚させるものも含まれているのです。

その地域一帯に集会の時と場所を知らせることも兼ね、同時に、しばしば高き界から講演のため、あるいはその界の領主の名代としてある仕事を執行するために訪れる天使についての情報を知らせることもあります。

 
 いま私どもが歩いているすぐ側を流れている川の主成分は〝安らぎ〟です。この川の側を通る人は、地上の人には遠く理解の及ばない方法でその安らぎの成分を吸収するのです。川面の色彩、色合い、流れのざわめき、両岸に繁る植物、岩石や土手の形や雰囲気、等々がみな安らぎを与えるように構成されているのです。

また地球に近い下層界での仕事を終えて例の湖を渡って帰ってくる霊の中にも、その安らぎを必要とする者が大勢おります。

私たちは時として大変な奮闘努力を余儀なくされることがあるのであり、地上の人がよく想像するように、のんびりと単調な生活を送っているのではないのです。

そこで時としてしばし肩の荷を下ろして憩い、待ち受ける次の仕事に備えて、使命成就に必須の安らかにして強力なる霊的静寂を取り戻す必要があるのです。

 
 さらに、ここでは全ての存在が滲み入るような個性を持っていることを理解していただかねばなりません。一つ一つの森、一つ一つの木立、一本一本の樹木、そのほか湖も小川も草原も花も家も、ことごとく滲み入るような個性を持っているのです。

それ自体は人格的存在ではないのですが、その存在、その属性、その性分は自然霊のたゆまぬ意志の働きの結果なのです。ですから、それと接触する者が摂取するのは自然霊の個性であり、またその人の感受性の度合いによって摂取量も違ってくるわけです。

たとえば樹木に対して特に感受性の強い人もいれば、小川に対して強い反応を示す人もいるといった具合です。しかし、やはり建築物に対しては誰もが反応を示すようです。中に入った時がとくにそうです。

それというのも、自然霊というのは人間と少しかけ離れた存在ですが、建物の建造に当たる霊は人間と同じ系列の高級霊であるという点で、質、程度ともに自然霊ほど遠くかけ離れた存在ではないからです。


 実はそうしたこちらの世界で当たり前のことが、程度こそ違いますが地上界の普通一般の人にも起きているのです。人類は現段階ではまだ物質にどっぷりと浸っていますから、その結果として感覚が鈍いというだけです。

明瞭性の度合いが劣るというだけで、真実性の度合いは決して劣らないのです。


 さっきからあなたの精神の中に質問が形成されつつありますが、何でしょうか。おっしゃってみて下さい。お答えしますから。


──実は内容が女性のお考えになることにしては不似合な感じがしております。お聞きしますが、私の手を使いたいとおっしゃったのはカスリーンですが、今書いているのもそうですか。


 そうです。私です。ですが、私一人のおしゃべりでは満足なさるわけがないでしょう。

まさか私が一人で無駄話などするつもりだとは想像なさらなかったはずですが、いかがですか。とにかく私としては、そんなみじめな想像をされないためにも、私があなたを使うのとほぼ同じように私を使う方を何人か用意しました。

男性ばかりではありません。女性の方も何人かおられます。
全体が一つの声、一つのメッセージとなるように一体となって作業しており(*)、したがって私が綴る言葉はさまざまな知性がブレンドしたものなのです。

このところあなたの抵抗感(**)が少し和らいでいますので、まずまずうまく行っております。どうかこの状態を維持してください。私たちもこちらなりに最善を尽くしますから。

 ではお寝み。こうして書いていくことによってますます進歩が得られますように。
 (*二章の1で具体的な説明がある。**オーエン氏はこの段階でもまだ時おり疑念を抱くことがあった。次の十日付の通信の末尾でもそれが表面化している。─訳者)


    
    4 生命の気流                                        
     一九一七年十一月十日 土曜日

 〝天界からお声が掛かる〟──あなたと私がまさにそれです。私があなたに呼びかけると私は上層界の方から呼びかけられ、その方たちはさらに上層界の神霊からお声が掛かり、かくして最後は、かの遠き昔、父なるより呼ばれて薄暗き地上へと派遣された主イエスにまで辿り着きます。

私たちが絶大なる確信を抱くことが出来る根拠は実に、霊力乏しき低地の者へその強力な霊力をお授けくださる崇高なる神霊から〝お声が掛かる〟という事実にあります。


 〝下界へ参れ〟との命を受けるということは、これはもうただ事ではないのです。下界へ向けて歩を進めるにつれて環境も私たちの身体も次第に光輝を失っていき、いよいよ地上界へ辿り着いた時には、あたりを見極めることが容易でないほどの状態となっています。

 が、それも初めのうちだけです。次第に目が地上の波長に慣れてきて、やがて見えるようになります。これを繰り返すことによって、ますます容易になります。もっとも、そのこと自体は少しも有難いことではありません。

有難いのは、そうなることによって地上で仕事が出来るということです。
と言うのは、私たちの目に映る地上の光景はおよそ楽しいものではなく、一時も早く自分の界層(くに)へ帰りたい気持ちに駆られます。

その意味でも前回お話した水辺の景色や施設が有難く望ましいものであるばかりでなく、私たちの仕事にとって絶対に不可欠のものなのです。

これに関連して、もう一つお話しなければならない機能があります。それは、その〝憩の里〟には上層界から送られてきた生命力が蓄えられていて、それが気流となってその里一帯を流れており、必要な者に存分に与えられるということです。


私たちがいざ地上へ向かう時は途中でこの里に立ち寄り、その気流に身を浸して体力と活力を摂取します。地上に近づいた時に必ずしもその効力を実感しませんが、実際には澎湃として身辺を洗い、身体に滲み込んでいます。

そして、ちょうど海中に潜っているダイバーが海上から送られる空気で生命を維持するように、私たちを支えています。

自由で広大な海上からの光が届かぬ海底は薄暗く、水という鈍重な要素のために動きが重々しくなりますが、私たちもこうして地上に降りている間はまったく同じ条件下にあります。

ですから、聞いてもらいたいことがうまく述べられなかったり、用語を間違えたり、通信内容に不自然なところがあっても、どうかそれは大目に見ていただき、決して邪霊に騙されているかに思わないでいただきたいのです。

潜水服に身を固められたダイバーが水中で別のダイバーに話しかけている図でも想像してみて下さい。私たちベールのこちら側にいる者にとって、それがいかに根気とたゆまぬ努力を要することであるか、まして人間の言い分に耳を傾けることは尚のこと根気のいるものであることが、これで理解していただけるでしょう。


 ですが同時に、この地上での仕事を終え、くるりと向きを変えて天界へ上昇して行くと、そうした不自由を味わっただけ、それだけ遠き〝憩の里〟から流れてくる生命の気流をいち早く感じ取ることにもなります。

 生命力の波動が再び身辺を洗います。疲れた頬に心地よく当たります。くすんでいた飾りの宝石も次第に本来の輝きを取り戻します。

 衣服は一段と明るい色調に輝き、髪は光沢を増し、目から疲れと暗さが消え、そして何よりも有難いのは、私たちの耳に神のお召しのメロディが聞こえはじめ、次第に明瞭さを増していくことです。それは、神の蔵に蓄えるべき如何なる収穫を得たかをお確かめになるために、私たちを〝収穫の祝宴〟に招いてくださっているのです。

 さて、これ以上お引き留めするのはやめましょう。あなたは一刻の遅れも許されない大切なお仕事が進行中であることは私にもよく分かっております。

 あと一つだけ添えましょう。それは、こうしてあなたに呼びかける私たちとあなたとの間に再び懐疑の念が頭をもたげていることです。ですが、この度の通信があなたご自身から出たものでないことは確かでしょう。


──どうすればそれが私に納得できますか。

 忍耐あるのみです。それが進歩を確かなものとし、確信を深めるのです。おやすみなさい。安らぎのあらんことを。

 カスリーン並びに他の通信霊より慎んで申し上げます。


  
  5 天界の音楽と地上の音楽                      
    一九一七年十一月十二日 月曜日

──オルガン奏者がこれから演奏を始めますが、邪魔にならないでしょうね。
 
 邪魔にならないどころか、逆にはかどります。好い機会ですので、今夜は天界の音楽について少しばかりお話しておきましょう。そうなのです。私たちにも地上のあなた方と同じような音楽があるのです。

しかし──この〝しかし〟はとくにアクセントを強くして申し上げておきます──実は地上の音楽は天界にある音楽の〝貯蔵所〟からこぼれ落ちた程度のものに過ぎません。壮麗な輝きを持つ天界の調べは地上界へも届いているのです。

ですが地上を取り巻く厚いベールを通過する際にどんどんその輝きを失っていきます。地上で名曲とされているのもその程度のものに過ぎないのです。

 ではこれから私が、そうした天上の音楽がどういう具合に地上へ届けられるかを説明します。どうか思い切り想像の翼を広げて聞いてください。いくら想像を逞しくしてもなお及ばないでしょう。

 目にも見えず耳にも聞こえず(*)──天界の音楽のあの崇高な躍動、盛り上がりと下降、そして魂の奥底まで響く力強さは、とうてい人間の肉耳(にくじ)には感応しないのです。

(*これはシェークスピアの〝真夏の夜の夢〟の一節であるが、天界に人間には聞こえない壮大な妙音が流れているという思想は紀元前からピタゴラスなどが説いていた。──訳者)

 それどころではありません。受信と通訳の二つの機能を併せ持つ脳を備えた物的身体に宿っているかぎり、天界の調べのあの得(え)も言われぬ美しさのイメージは、とても人間には想像できないでしょう。まして産み出すことなど全く不可能でしょう。

 その天界の最高界から最切に流れ出た旋律がいかなるものであったかは、この低地にいる私たちには測り知ることはできません。それはあなた方地上の人間に私たちの界の音楽が想像できないと同じです。

 ただ、このことだけは断言できます。これしか判らないと言ってもいいでしょう。

(そう思う程度のことです。いずれにせよ私たちの間では常識とされていることですが)それは〝の御胸〟こそ音楽におけるハーモニーの源であるということです。の偉大なる〝心臓部〟です。

そこからのメロディの愛の調べが流れ出て、最も感応しやすい界層がそれを受け、他のもろもろの要素と合体して〝美〟の根源たるにいやが上にも近づいていきます。かくて永遠の時の経過の中で遥か高き上層界の神霊が荘厳さと崇高さを帯び、神的属性を身に付けて行きつつあるのです。
 
 しかしこの問題は次元が高すぎて、私ごとき者にはとてもうまく叙述できません。このたびの目的は数少ない言葉を精いっぱい駆使して、その流れが私たちの界まで下降してきた後地上まで送り届けられる過程を私たちに知り得た範囲で叙述することです。

私たちの界を通過した旋律はその音色を構成する微粒子の一つひとつが膨張して互いに押し合い、密度を失い、かくて漸く地上との境界に辿り着いた時は基調(テクスチャー)のキメが非常に粗いものとなっていて、地上的感覚にしか感応しなくなっております。

 具体的に言えば、第六界まで流れて来た
のが一つの受け入れ容器を見つけます。二つまたはそれ以上のこともあります。それが貯蔵所となり、それを利用してさまざまな節や旋律が構成され、小さくはあっても強烈な作品が再び地上へ向けて下降を開始します。

が下降しはじめた瞬間から先に述べたような膨張が始まります。ですから、あなた方が受け取った時はそれはすでに純粋なエキスではなくなっており、いわば原液が薄められた状態となっております。

これを譬えてみれば壁に開けられた小さな穴から真暗な部屋に射し込んだ光のようなもので、小さくても射し込んだ時は強烈だったものが、突き当りの壁に届いた時は性質が遥かに弱まっており、さらに雑音も加わっていて、それは隙間から飛び込んだ時の輝きを失わせることにしかなりません。

 もっとも、そうして地上に届く音楽でも魂を高揚させる素晴らしいものがあることは事実です。となると私たちの界の音楽がいかに素晴らしいものであるかは、思い半ばに過ぎるものがあるでしょう。

私たちは痛いほどに魂を鼓舞する旋律に心を奪われてしまいます。それを聞いた一人ひとりがみずから霊的エネルギーの集積体となり、さらにそれを各自の個性によって解釈し形体を賦与して、自分より低い界層の者へ送ります。その際、その音楽に秘められた繊細さと効力の度合いがその道の専門家によって適当に下げられます。

高き天界の大音楽家より発せられた旋律を捉え幾らかでも留めることができる地上の程度の高い音楽家の理解力に合わせて、あまり繊細過ぎないようにとの配慮からそうするのです。

 出来ればもっと話を進めたいのですが、そろそろあなたの受信度が悪くなってきました。そこであと一言だけ簡単に述べておきます。何事も同じですが、この問題においても父なるより末端の人間に至るまでの整然たる階梯を通じて、次の大原則が支配しているのです。

すなわち〝父が自らの中に生命を宿すごとく父はその子イエスに生命を与え給うた〟ということです。単に生命のみではありません。生命現象の全てを含めての話です。その一つが音楽であるわけです。

 そのイエス様が父の貯蔵所から受ける生命を大天使に分け与えるごとくに、大天使もまたその能力に応じて小天使へと授けて行く───両親が子に生命を授けるように単に生命のみを与えるのではなく、愛と美と高尚な思想と天界のメロディをも併せて授けられます。

 では、私を通じてメッセージを届けている霊団の者になり代って、カスリーンが愛の祝福を申し上げます。
 

       
 6 〝過ぎにし昔も来る世々も          
  一九一七年十一月十三日 火曜日

 以上、父なる神の愛の流れ、天界の水とその効用、そして音楽について述べました。そこで今夜は最高界で定められた厳令を下層界へ向けて行使することを責務とする神霊によって目論まれた、ある特殊な目的の為のエネルギーの調節について少しばかり言及してみたいと思います。
 
こう言えば、地上という最前線にて生活する貴殿(*)には、地上に割当てられる責務が遥か天界の上層界の神霊によって、その程度と目的を考慮して定められていることがお判りであろう。役割分担によるそうした計画が下層界へ向けて末は地上に到るまで伝達されます。

その感識の仕方は各自異なる。感識の度合いも異なる。ある者は鮮明に、ある者は不明瞭に感識する。それだけ用心の度合いが劣るということです。

しかし地上生活という生存競争の渦中にいる者には、もし自ら求めて人生とは何か、自分はいかなる目的に向けて導かれているかについての確証を得たいと望むのであれば、人生の秘密の巻物を読むことが許されます。

(*そろそろリーダーと名告る高級霊、実は第一巻でアーノルの名で紹介された霊が強く表に出はじめ、文体が古めかしさを帯び始める。──訳者)

 とは言え、遠き未来まで見通すこと、あるいは垣間見ることを許される者は極めて少数に限られます。イエスがかつて述べた如く〝今日一日にて足れり〟(*)が原則なのであり、人間の信頼心が堅固にして冷静でありさえすれば、確かにそれで足りよう。

未来が絶対に知り得ないものだからではない。知り得るのであるが、人生の大目的を知り得るのは余程高度の能力と地位の者に限られているからに過ぎない。

吾々の能力も僅かに先のことを知り得る程度のものであり、平均的人間の能力に至っては一寸先も見えないであろう。

先ほど述べたの大計画も、数多くの界層を通過して来るからには当然、各界の色合いを加味され、いよいよ地上に至った時はあまりの複雑さのために究極の目的が曖昧模糊として見分け難く、吾々のように地上に関わってある程度のコツを身に付けた者にとっても、往々にして困難なことがある。そこに実は信仰の目的と効用があります。

すなわち自分の義務は自覚できても、それ以上のことは判らない。そこで計画を立てた高級界の神霊にはその目的が瞭然と見えているに相違ないとの確信のもとに勇気を持って邁進するのです。

その計画遂行の手となり足となるべき者が信念に燃え精励を厭わなければ、計画を立てた者にとっては目的成就の為の力を得たことになる。が、もし信念を欠き精励を怠れば、成就は覚束(おぼつか)ないことになる。

なぜなら全ての人間に選択の自由があり、その問題に関するかぎりいかなる者も意志を牛耳られることはないからです。信頼心をもって忠実に突き進んでくれれば目的成就は固い。

が、たとえ計画からそれたコースを選択しても、吾々はそれを強制的に阻止することはしない。教育的指導はするが、それも穏やかに行う。そしてもしそれが無視されるに至った時は、もはや好きにやらせるほかはない。

一人ぼっちになってしまうという意味ではありません。すぐに別の種類の霊的仲間が付くでしょう。数に事欠くことはありません。


(*マタイ6・34。〝この故に明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。〟)

 具体的に説明してみよう。たとえば科学に関する書物が必要になったとします。するとまず〝科学〟を基調とする界層の霊団が内容の概略を考える。
 
それが〝愛〟を基調とする界層へ届けられます。そこで和(やわ)らかい円味(まるみ)を吹き込まれ、今度は〝美〟を基調とする界層へ送られます。すると調和と生彩を出すための解説が施され、それがさらに地上人類の特質を研究している霊団へ送られます。

その霊団はその内容を分析検討して、それを地上へ届けるのに最も相応しい(霊界の)民族を選択します。選択すると、最終的に託すべき界層を慎重に選ぶ。と言うのは、仕上げとして歴史的事例を付加する必要があるかも知れないし、詩的風味を注入した方がよいかも知れないし、もしかしたらロマンス精神を吹き込む必要があるかも知れません。

かくして、ただの科学的事実として出発したものが、地上に辿り着いた時は科学的論文となっていたり、歴史的梗概(こうがい
となっていたり、小論文となっていたり、はては誌とか讃美歌となっていたりするわけです。

 ちなみに貴殿がよく親しんでいる讃美歌を右の言説に照らして見直されると、吾々の言わんとするところが僅かでも判っていただけるでしょう。例えば〝神の御胸はいとも奇(くす)し〟(二八番)は宇宙哲学あるいは宇宙科学の解説的論文として書き変えることが出来る。

また〝誰(た)れにも読める書(ふみ)あり〟(**)、〝過ぎにし昔も来る世にも〟(八八番)などは神の摂理の歴史的研究の根幹を成すものであり、その研究を基調とする界層において、多分、最初の創作の段階でそうした誌文に盛り込まれたものに相違ない。

貴殿もすぐに理解がいくことと思いますが、そうした計画は一つの界層において全てが仕上げられるのではなく、数多くの界層を経過するのであり、しかも一つの界から次の界への伝達の仕方も必ずしも一様でない。

また頭初は書物として計画されたものが、幾つかの界層を経るうちに、あるいは議会の法令となり、あるいは戯曲となり、時には商業上の企画に変わることすらある。

その方法・手段には際限がない。とにかく、の創造の大業の促進と人間の進化のための計画に関わる者が決断したことが実行に移されるのです。

かくて人間は高き世界より監視し指導する神霊の仕事を推進していることになる。ならば、そうと知った者は背後に強大な援助の集団が控えることを自覚し、何ものをも恐れることなく、途中で狼狽(うろた)えることなく、勇気を持って邁進することです。


 カスリーンより。以上は私が代筆したものですが、私自身からも一言付け加えたいと思います。

 右のメッセージは私より遥かに多くの知識を持つ方々が、世の為に働くさまざまな人間のために贈られたものです。ですが、私の観るところではあなたの今の仕事にも当てはまるものと考えます。いかなる人間のいかなる仕事も、天界の指導と援助を受けないことはありません。お別れに当たって私からのこのささやかなメッセージをお受け取り下さい。ささやかではありますが、これはカスリーン本人からのものです。

 (**これは英国の詩人キーブル John Keble の作品であるが、日本語の讃美歌集にも英語の讃美歌集にも見当たらないところをみると、讃美歌ではなく誌歌なのであろう。「オックスフォード引用句辞典」にその一節だけが載っている。その意味は、宇宙には真理を求める者、心清き者、キリストの心を持つ者であれば誰でも読める書が用意されている、ということ。──訳者)

    
   
 7 〝後なる者、先になること多し〟      
     一九一七年十一月十五日 木曜

  吾々が地上生活を送っていた時代には〝霊的真理の道を選んだ者はすぐに後悔するが最後には必ず勝利を得る〟と言われたものです。それを身を持って証明した者が少なくとも吾々の霊団の中にも幾人かいます。視野をこの短い地上的時間に縛られることなく、限りない永遠性に向けていたからでした。

今この天界より振り返り、これまでの旅路を短縮して一枚の絵の如く平たく画いてみると、そのカンバスでとくに目立った点が浮き彫りにされ、そこから読み取れる教訓に沿って本来のコースを定めることも可能です。

 それにしても、天界の光に照らし出されたその絵は、かつて吾々がその最中において悪戦苦闘した時に想像していたものと何という違いであろう。そこで貴殿に忠告しておくが、人生全体と日々の暮らしを形作っているさまざまな要素の価値判断においてあまりに性急であってはならないことである。

今にして思えば、当時吾々が携わった仕事が偉大であったのは全体として見た場合のことであって、一人ひとりの役割に目を向ければ実にささやかなものであり、大切だったのは個々の持ち前ではなく、それに携わる動機のみであったことが判る。

というのも、一個の偉大な事業のもとに参加する者が多ければ多いほど、それだけ存在価値も分散し、役割分担が小さくなっていくのが道理だからです。
重要なのは根気よくそれに携わる動機である。事業全体としての趣旨は人類のためであり、一人一人がその恩恵に浴するが、その分け前は至って僅かなものです。

しかし一方、動機が気高くさえあれば、世間がそれをどう評価しようと問題ではない。人生という闘争の場において自分に最もふさわしい役割を与えられたのであるから。


──何だかややこしくなって来ました。好い例を挙げて説明していただけませんか。 

例ならば幾らでもあります。では一つだけ紹介しよう。

    地上の言い方をすれば〝何年も前〟のことになるが、靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。

こちらで出迎えたのもほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分如き身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで十分うれしく思った。
案内された所も地上近くの界層の一つで、決して高い界層ではなかった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。

と言うのも、苦労と退屈と貧困との闘いのあとだけに、そこに安らぎを見出し、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕も出来たからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、みんなが親切にしてくれて幸福そのものだった。

 あ
る日のこと──地上的に言えばのことであるが──彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。中をのぞくと彼は横になって一冊の本をどこということなく読んでいる。

その本は彼がその家に案内されてここがあなたの家ですと言われて中に入った時からそこに置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前──何といったか忘れたが──を呼ぶと彼はむっくと起き上がった。

  「何を読んでおられるのかな?」と天使が聞いた。

  「別にたいしたものじゃありません。どうにかこうにか私にも理解できますが、明らかにこの界の者のための本ではなく、ずっと高い界のもののようです」と男は答えた。

  「何のことが書いてあるのであろう?」

  「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神のために整然と働く上層界の男女の大霊団のことなどについて述べてあります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとに暮らしていたようです。話ぶりがそれを物語っております。

しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解力においても何一つ差別がなくなっております。

目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実から私はこの本はこの界のものではなく、遥か上層の界のものと判断するわけです。その上この本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。

と言うのは、政治家的性格や統率者的手腕、リーダーとしての叡智、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかも知れませんけど・・・。一体なぜこんな本が私の家に置いてあったのか、よく判りません」

 そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である、彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴じられた自分の名前があるのに気づいたからである。戸惑いながら彼はこう言った。

 「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今まで私の名前が書いてあるとは知りませんでした」

 「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは、あなたの勉強のためということです。いいですか。ここはあなたにとってはホンの一時の休憩所に過ぎないのです。

もう十分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取り掛からなくてはいけません。ここではありません。この本に出ている高い界での仕事です」

 彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、しり込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。

「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です」

 そこで天使がこう語って聞かせた。

 「そう言う言葉が述べられるということだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾であり防衛手段の一つなのです。それにあなたは、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。

あなたはあの地上生活の中で攻撃のための武器も強化し鋭利にしておられた。例えば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の財布の負担を軽くしてあげようと考えた。儲ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。

それをモットーにしておられたほどです。そのモットーがあなたの魂に泌み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われません。
 
 その上あなたは日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植えつけ、屋根ふきなどを手伝い、時には病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの明りで取り戻した。そうしなければならないほど世活費に困っておられた。

そうしたことはあなたの魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私たちの肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないという、そういう見晴らしがきく利点があるのです。

ですから、正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は暗く陰気に映ります。

 この他にも、あなたの地上での行為とその経緯(いきさつ)について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれは措いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。

実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団がいるのです。霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。

その使命は地上近くの界を訪れ、他界して来る霊を引き取ることです。新参の一人ひとりについてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。もう、いつでも出発の用意が出来ており、そのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します」

 それを聞いて彼は跪き、額を天使の足元につけて涙を流した。そしてこう言った。

 「私にそれだけの資格があれば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一団の方々を知りませんし、私に従ってくれないでしょう」

 すると天使がこう説明した。「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いを犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。

と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時、あなたはその肉体から脱け出て、いつもその界を訪れていたのです。そうです。地上にいる時からそうしていたのです。

その界においてあなたも彼らと一緒に訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたのご存知の方ばかりのはずです。彼らもあなたをよく知っております。

大天使も力になってくださるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません」

 
そう言い終わると天使は彼を従えてその家を後にし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を越えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体がどことなく大きく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはその姿はもはやかつての靴直しのそれではなく、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。

 
道中は長びいたが楽しいものであった。(長びいたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の待つところへやって来た。ひと目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見た時には、彼はすでにリーダーとしての自信が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。



     

 二章 霊的交信の原理

  思念の濾過装置ーカスリーン 
    
   一九一七年十一月十六日  金曜日

  貴殿にとっては吾々の述べることの大半がさぞ不思議に思えることでしょう。吾々は現実に見ることも聞くことも出来るが、貴殿はかつて一度も見聞きしていないのであるから無理もないことです。そこで何か不可解なことがある時は次のことを思い起こしてほしい。

すなわち、今貴殿が耐え忍ばねばならない霧は、かつて吾々も遭遇したことがあるということです。ということは、貴殿の今の苦しい立場も疑念も吾々にとって決して理解できない性質のものではなく、貴殿がたびたび見せる躊躇(ためらい)も吾々にとって少しも驚きではないということです。

が、それはそれとして、貴殿の脳裏に浮かぶものをそのまま綴っていただきたい。

それを後で容赦ない批判的態度で読み返してみられたい。完璧性には欠けるかも知れないが、実質においても外殻(ガイカク)においても、苦心しただけの価値があることを認められるに相違ない。外殻よりも実質の方が重要であるが、更にその奥には核心がある。

吾々の通信もその核心まで見届けてほしい。何となれば、もし吾々の通信に幾らかでも価値があるとすれば、そこにこそ見出されるであろうからです。



──文章がいささか古めかしいですね。古い言いまわしの方が近代的なものよりお得意とお見受けします。私が近代的な語句を使用しようとしても、すぐに古風な言いまわしが割り込んできてそれを押し出してしまいます。そういうことがしばしばあります。

 当たらずといえども遠からず、というところであろう。かつての古い語句や言いまわしのクセが顔を出し、その方が使い勝手が良いので、ついそちらへ偏ることは事実です。が、何なら貴殿の脳の中から近代的なものを取り出して使用するように努力しましょう。貴殿がそう望まれるのならそうしてもよい。


──それには及びません。私はただこうした傾向があまり一般的でないので述べてみたまでです。例えば私が教会で説教を行っている時に指導してくれる霊は古い言い回しはしません。

 それはそうであろう。吾々の仕事においては各自のやり方に少しずつ違いがあるものです。正直言って彼の場合も時たまはうっかり生前使い慣れた言い方をしそうになるに相違ない。が彼はそうならぬよう心掛け、貴殿の言い方に倣っている。

うっかり聴き慣れない言い方をすると聴衆が変に思い、貴殿がどうかしたのではないかと、牧師としての適性を疑いかねないでしょう。

一方吾々は貴殿に書き取ってもらうことを前提としてしゃべるので、力強く印象付けないと使い物にならない用語や連語があり、そのために貴殿が戸惑い、書くのを躊躇することにもなる。が、それを避けようとすると肝心の目的からそれてしまうのです。



──では、どのようになさっておられるのか具体的に説明してください。

  さて、さて、これは特殊な方法であるから、たとえ説明しても部分的にしか理解していただけないでしょう。が出来るかぎり説明してみよう。まず今夜ここに居合わせているのは七人のグループです。時にはもっと多いこともあるし少ないこともある。

何を述べるかは予(あらかじ
め大ざっぱにまとめてあるが、どのような表現にするかは貴殿の姿を見て精神状態を確かめ、同時に貴殿がそのあと何をする予定であるかを調べてから決める。それから貴殿から少し離れたところに位置をとる。

あまり近いと吾々の影響つまり数人の精神から出る意念の放射が一つにまとまらずにバラバラの形で貴殿に届けられ、貴殿の意識に混乱が生じる。

少し離れていると、それがうまく融合して焦点が定まり、貴殿に届く時には一つに統一され、語法にも一貫性ができあがる。

貴殿が時おり単語や語句を変に思って躊躇するのは、あれは吾々の思想が混ざり合ったままで、用語が決まるまでにまとまっていない時である。それで貴殿は筆を止める。が融合作用が進行して一つにまとまると貴殿の頭に一つの考えが閃き、また筆を進めることになる。確か貴殿はそれに気づいておられるはずですが・・・・・・。



──気づいてました。ただ、なぜそうなるのかが判りませんでした。
 
 無理もないことです。では先を続けよう。吾々が思想を貴殿へ送るわけだが、時にはそれが貴殿の言うようにひどく古くさい表現となって、貴殿はとっさにその意味を捉えかねることがある。それを修正するために中間に近代的な濾過装置を用意している。吾々がこのたび語りたいのはこの濾過装置のことである。

 それが実は他ならぬカスリーンです。カスリーンが間に入ってくれるおかげで吾々の思念を貴殿に届けることが出来るのです。これにはいろいろと理由がある。霊的状態が吾々よりも貴殿の方に近いということがまず第一である。

つまり吾々にはこちらへ来てからの年数が長く、地球そのものから遠く離れているので、地上的習慣や手段との馴染みが薄くなっていますが、その点カスリーンは比較的新しい他界者なので、しゃべる言葉がまだ貴殿に感応しやすい。


次にそれと関連した理由として、カスリーンにはまだ言語の貯えが残っていることが挙げられる。彼女は今でも地上の言語で思考することができる。しかもその言語は吾々のものより近代的である。もっとも吾々に言わせれば現代語は感心しない。

何やら合成語のような感じがするし、適確さに欠けるように思う。が、それなりの良さを持っているからには、吾々もアラ探しは控えねばなるまい。

吾々とて相変わらず偏見があり偏狭性を拭い切ってはいない。そうした人間的弱点はどこかに潜んでいるもので、こうして地上へ降りてくると、これまでの進化の道程で一度は捨て去ったはずのものが再び頭をもたげるのです。

地上に戻るとそうした人間的感情を再び味わうことになるが、それもまんざら悪いものでもありません。結構楽しいものです。


そうした点においてもカスリーンの方が貴殿に近く、それで吾々の思念の流れをいったん彼女を通過させて貴殿に届けるのです。また吾々が貴殿から少し離れたところに位置しているのは、吾々が一体となった時の威力が貴殿を圧倒してしまうからです。

オーラと言う語を使用してもよい──この言葉はあまり好きではないが、ここでは使わねばなるまい。つまり吾々のオーラの融合したものが貴殿に何とも言えぬ心地良さ──一種の恍惚状態──に導いてしまう。が、それでは貴殿が書き取れないことになる。

吾々がこうして降りて来るのは貴殿並びに他の大勢の人々に理性を持って読んでいただき、願わくば理解していただくために、文章として綴るのが目的なのですから。


 貴殿は今タイムキーパー(時間記録器)の文字盤へ目を向けられた。それを貴殿らはウォッチ(時計)と呼んでおられる。

なぜこのようなことを? 吾々が古い言いまわしを好む一例として述べてみたまでです。ウォッチと言うよりはタイムキーパーと言った方が吾々にはぴったりくる。が、吾々の好みを押し付けるつもりはありません。礼を失することになるでしょう。


いま貴殿が文字盤──それをどう呼ばれてもよいが──に目をやられた意味も判っております。そこでお寝みを申し上げるとしよう。貴殿並びに皆様に神の祝福のあらんことを、失礼します。

 カスリーンですが、私からも一言付け加えさせていただけますか。


──もちろん。どうぞ。

 いま霊団の方たちが何かおしゃべりをされてます。まるで昔なじみのように、別れ際にはいつも暫くおしゃべりをされるのです。いよいよ行ってしまう時はすぐにそれと知れます。いつも最後は皆んなで私の方を向いて、有難う、さよなら、と言ってくださるのです。光り輝く素敵な男性ばかりです。

時には女性の方が付いて来ていることもあります。それは男性的精神構造では理解できない問題を扱う時だろうと私は思っています。その女性の方がどなたであるかは知りません。でも威厳のある、美しい、しかも優しい感じの方です。では今回はこれでお別れします。間もなくまた参ります。一緒に筆記していただいて有難う。


──さようなら、カスリーン。有難うは私の方から言うべきだと思うけど。

 でも始めはあまり気乗りがしなかったのではないですか?


──そうね。片付けなければならないことが沢山あるものだから。それに、四年前の通信(第二巻)の時の苦しさが今も忘れられないのでね。

 でも、通信の再開の話は前もって打ち合わせてあったのでしょ? 憶えてらしたのでしょ? それに、思ったほど苦痛は感じないでしょ?


──両方ともおっしゃる通り。

 とくに、苦痛が少なくなったのは間違いないと思う。このカスリーンが間に入っているからです。ですから、これから先も私の存在を忘れないでね。

さようなら。そしてもう一度有難うと言わせていただきます。ルビーちゃん(※)なら〝それにキスも〟とでも言うところでしょうけど、それは娘だけの特権ね。私は愛と善意をこめて、ただ、さようなら、とだけ申し上げます。                                    カスリーン

(*オーエン氏の女児で、カスリーンが二十八歳で他界してから三年後にわずか十五か月で他界している。──訳者)


      
  通信を妨げるもの                   
   
一九一七年十一月十七日  土曜日

 吾々が送り届け貴殿が綴ったものをあとで読み返してみると、さまざまな入り組んだ事情のために、ぜひ伝えたいと思ったことがうまく表現されておらず、逆に思いも寄らないことが表に出ていることがあります。

こうしたことは通信を送る側の界と受け取る側の界との間に部厚いベールが存在することから当然生じることです。そのベールを境とした双方の大気は性質がまったく異なるために、吾々から発送した思念がそのベールに突入した際に急速にそして極端にスピードが落ち、思念の流れが乱れ、その境界線上において混乱が生じることは避け難い。


それは譬えてみれば川堰(かわぜき)を越えて流れ落ちる水のようなもので、その表面に激しい波が立つ。

そこで吾々はなるべく静かな底流を利用することになります。そうすれば通信内容も鮮明となる。しかし、こうしたことは数多い問題の一つに過ぎません。


 もう一つ、こういう問題もあります。人間の脳は実によく出来た器官ではあるが、あくまで物質であるために吾々の思念が脳に届いても、あるいは強く突き当っても、物質の固さのために内部への滲透が阻害され、その場で完全にストップされることもある。

と言うのも、吾々から出る思念のバイブレーションが高度であり、その微妙さが密度の粗い脳との感応を妨げるのです。


 さらに、こちらには地上の言語では表現できないことが数多く存在します。色彩にしても、スペクトルには感応しても人間の目には見えないものがある。が、

人間の目はおろか、スペクトルにも感応しない崇高な色彩も存在します。音も同じで、地上では絶対に感応しないものがある。エネルギーにしても、人間には利用もできないし存在を証明してみせることも出来ないものが存在する。人間側に知識も経験もないからです。


こうした事情から〝四次元〟という用語が用いられることがあります。必ずしも正確な表現とは言えないが、そう表現しておく方が、まったく述べずにおくよりはましかも知れません。といって吾々がそれを高く評価していると受取ってもらっては困るが・・・・・・。

とにかく、そうしたものやその他の無数の要素が入り組んで存在し、吾々の生活環境を形成しているわけです。

が、それについて、あるいは人間の目に映じる地上の諸現象との因果関係について語ろうとすると、とたんに吾々は大いに当惑し、人間に理解してもらい且つなるべく吾々の知る実相から掛け離れない程度に説明するには、一体どうしたものかと思案にくれるのです。


 これでお判りと思うが、こちらの界から地上界へ通信を送るには大変な操作が必要であり、それがまた決して容易ではないのです。が、それだけにやり甲斐の在る仕事でもある。吾々は鋭意努力して少しでも満足の行く仕事を残したいと思います。

 地上の人間がもし吾々の存在と吾々との協調関係についてもっと信仰心を持ってくれれば、吾々もずっと仕事がやり易くなることでしょう。

またその信仰がもっと大胆にして強烈なものとなり、心がもっと素直にそして一途なものとなってくれれば、霊的環境が改善されて仕事がやり易くなり、吾々からの援助が受け入れ易くなるでしょう。

 
たとえば吾々にとっては西洋人よりもインド人の方が思念が伝わり易い。それはインド人が西洋人よりも霊的なものに馴染んでいるからです。西洋においては有機物と無機物──と西洋人は考えるがこれは誤りです──つまり物質の科学と、何かというと同盟や機構を作ること──いわば政治力学──にばかり躍起となります。

(*)それも必要であり、しかも立派に成し遂げている。さらにはそれを世界的規模にて行うのも必要なことではあった。

が、それもすでに現在の時勢に関するかぎり、ほぼ完全に近い。吾々としては西洋人がそろそろチャンネルを切り換えて霊的世界へ目を向けてくれるのを期待しています。

そうなってくれれば地上と連絡したがっている大勢の者にとって、そのチャンスを与えられることになる。その時も近い。

そして援助せんとする勢力もその時を今や遅しと待ち構えている。吾々にとっての最大の敵は西洋の物質万能主義であり、それとの闘いに吾々は貴殿と同じく喜びを持って挑みます。またそう易々とサジは投げません。

 今夜はこれ以上述べません。貴殿は疲れて来ました。ではお寝み。神の安らぎを。

 (*折しも第一次大戦が終局へ向かいつつある時で、三国同盟協商とかのことを指しているのであろう。──訳者)

 
        
 3  人間診断のスペクトル            
 一九一七年十一月二十二日 木曜日

  再び貴殿の精神をお借りして、吾々が人間界に対して行う仕事と援助の方法について、もう少し述べてみたいと思う。理解していただけると思いますが、天界は広大な範囲にまたがり、その住民の数は文字どおり無数であり、従って人間界への関わり方もまた地域によってさまざまであり、霊団の進化の度合いによっても異なります。

そこで、ここでは吾々の霊団の話に限定し他の霊団のことまでは言及しないことにします。実は霊団どうしで互いの強化と協力のために相手霊団の仕事の進展具合を研究し合っており、従って範囲を広げればキリがないのです。そこで吾々の霊団に限ることにしたい。

 こうして吾々の界より地上へ降りてきて人類のために授けるよう託されたものは数多くあります。それを幾つかに分類し、中でも特殊なものが幾つかの霊団に割り当てられる。ここにいる吾々七人はその霊団の中の一つの班を構成している。

その仕事が今こうして行っているように一連の通信をまずカスリーンを通して送り、さらに貴殿を通して地上の人々に届けるということです。霊団の数は時の経過とともに変わります。新しく加わることもあれば、古いメンバーが上層へ召されて行くこともある。

現在のところでは総勢三十六名です。それが六名のメンバーと一人のリーダーで一個の班をこしらえていますが、それは原則であって、その時々の仕事の内容次第でもっと多くなる時もあれば少なくなることもある。

一人でなく複数で行動する理由はエネルギーを結集して強化するためだけではなく、一つに融合した時の各メンバーの影響力のコンビネーションを考慮してのことです。このことはすでに説明しました(本章1)。


そのコンビネーションの効果を上げるためには、それを伝達するための地上の霊媒、場合によっては霊界の霊媒ともうまく調和しなければなりません。それがうまく行かないと確実性が乏しく、大なり小なりの誤りが生じやすくなります。仕事によってはそれを必要としないこともありますが、それは今は措いて、現在の吾々の仕事に限ることにする。

 今の吾々の仕事には二人の霊媒がいる。すなわちカスリーンと貴殿です。カスリーンは通訳
──そう呼ぶのが適切であろう──として吾々の班の一人に加わっています。

彼女と貴殿の二人については過去何か月にも亘って観察を続けてきました。まず貴殿に目をつけました。そのきっかけは貴殿がご母堂から(第一巻)、そしてのちに吾々の霊団の最高指揮者であられるザブディエル殿から(第二巻)通信を受けていることを知ったからです。


──ザブディエル様について何か教えていただけませんか。

 喜んでお教えしたいところであるが、それは適切な時期を選んで改めて述べるとしよう。今夜は控えたい。

 さて吾々はそれから貴殿の精神構造と、そこに蓄積されているそれまでの地上生活の中身、それは貴殿の霊───貴殿の霊的身体と思えばよい。吾々はその意味で使用します──とその健康状態、そして、これ以後の仕事の完遂のために要請される要素等を分析検討し、そして最後に貴殿の魂そのものの質と性格を出来る限り診断した。

それから、そうした調査結果を吾々の界で使用しているスペクトルにかけてみたのである。


(地上の科学者が使用するスペクトルとはあまり似ていないが、地上の科学者が光波の分析に使用するのと同じように吾々はそれを人間の診断とオーラの分析に使用している)

こうして貴殿は何も知らないうちに吾々によって細心の注意をもって調査されテストされていたのです。つまり吾々は貴殿の詳細な診断書を作成して、それをザブディエル殿がかつて貴殿を使用される時に作成された診断書と比較し、また精密さにおいては劣るが、ご母堂の霊団が最初に貴殿に思念を印象付ける方法で通信を送る際に用意された相当くわしい記録とも比較してみました。

 以上三つの記録が貴殿の進歩の様子を明らかにしてくれました。貴殿はある面では・・・・・・貴殿のことを明かしてもよいであろうか。


──結構です。どうぞ。

 
 貴殿はある面では進歩しておられたが、別の面では退歩しておられた。それは主に今継続中の(第一次)大戦のために時間と思考が奪われているせいでもある。総合的に診断すれば貴殿は三、四年前に比べて霊媒としては少し劣っておられるように見受けられる。

が吾々は、この程度ならば何とか以前とほぼ同程度に使用できるとの結論に達したのです。問題は貴殿が奥深い霊覚を失っておられることであった。

つまり霊的高揚や法悦状態に導き、内的視力とも言うべき想像性豊かな能力と内的聴力に吾々が働きかけるのを可能にしてくれるものが消え失せていることでした。しかし何とか使用できる、そして使用するうちに改善される可能性もあると判断して、貴殿を吾々の道具とすることに決めたのです。

 そのほかにも吾々は、上がったり下がったりしながらの進化のコースは、右の三つの記録をつなぎ合わせた時の一直線のコースとは必ずしも一致しないことを発見しました。

そこに幾つかの食い違いがあったのです。そして吾々の記録とすぐその前の(ザブディエル殿の)記録との間の食い違いは吾々の診断の方に原因があり、ザブディエル殿のために記録を作成した霊団の手落ちではなかったことが判明しました。

これは吾々の採用した例の特殊な方法を考慮していただけば驚くには当たりません。何しろ貴殿の進歩は決して一定方向ではなく、数々の方向への線が複雑に交叉して絡み合い、そこに混乱が生じていたのです。ともあれ落度は吾々の側にありました。

 今夜はこれにて終わり、明日また同じ問題を扱うことにしたい。このたびは貴殿は一度ならず中断し、それも必要以上に間延びした。その意味で今夜は貴殿はあまり扱い易くありませんでした。これ以後こうしたことのないようにするために何か良い方法を考えねばなりますまい。

何とかやってみましょう。ではお寝み。貴殿の進まれる道にの祝福のあらんことを。


        
 4  男性原理と女性原理         
 一九一七年十一月二十三日  金曜日

 前回の話を続けたい。
 吾々霊団の精神的融合体と、そこから出る思念体の流れを受け取る貴殿の鉛筆と用紙との間の連絡関係は、今まさに完璧な状態に近づきつつあります。

頭初、貴殿の人間性と特質の調査を終えたあと吾々は、こんどは吾々と貴殿との間を取り次ぐもの──その思念体の流れを受け取り、屈折させ、ある程度まで変質させ、言ってみればスペクトルの中の無用の要素、つまり人間の網膜に感応しない要素に相当するものを取り除くことのできる存在(カスリーン)を探す必要に迫られた。

これでお判りの様に、最終的に貴殿に届けられるのは吾々が最初に発送したもの全部ではないのです。

それは譬えてみればスペクトルの中の可視光線と呼ばれている部分、つまり赤外線と紫外線を除いた波長でできた、人間の目に映じる部分と同じである。人間の手によって綴られる通信に筋の通らないものが見られる要因も、そうした複雑な事情によります。 


 法則というものは全ての分野で一貫しており、どこか相通ずるものがあるもので、この問題においても同じである。例えば人間の目に映じる白色光は合成体ではなく統一体であるが、吾々の霊団についても同じことが言える。

つまり白色光が複数の色彩を統一して一色の光波つまりは無色の光の流れをこしらえるのと同じように、吾々霊団も六名の要素の寄せ集めではなく、融合統一することによって、あたかも一つの精神のように思えるほどの一体性を作り出す。

そこから出る思念がカスリーンという素晴らしい媒体を通過することで一層その度合を強める。その一体性を出すためには各自の霊力の割合をうまく調節しなければならない。

さもないと効果が損なわれます。それはちょうど光を構成している色彩の割合が崩れてそのうちの一つでも目立つと、もはや無色ではなくなり色合いが出てしまうのと同じです。


 さてここまでの説明は言ってみればプディングの材料を一つ一つ用意してきたようなものです。このままではまだオーブンには入れられない。もう一つだけ大切なものを忘れている。と言うよりは軽く扱い過ぎている。吾々がカスリーンに目を付けたのは、貴殿の血縁関係の一人との間の交友関係と二人の間の親和性とがあったからです。


──ルビーのことですか。

 いかにも。他にはいないでしょう。貴殿のお嬢さんのルビーはカスリーンにとって親友であると同時に指導者でもあります。うまくしたものです。と言うのは、カスリーンについても貴殿の場合とほぼ同じような調査をしたのですが、そのうち吾々の仕事の成否を左右しかねない、非常に微妙でしかもほほえましい問題に逢着したのです。

吾々六人は男性である。カスリーンは女性である。地上と同じように、こちらの世界でも科学の分野は圧倒的に男性が支配しており、地上との関係においても男性の頭脳の方が働きかけ易いものです。


そこで──勿体ぶらず結論を急ぐが──吾々は一方において吾々男性と通じ合うことができ、他方において女性とも通じ合える人物を見つけ出した。

それがルビーで、吾々の通訳のような役をしてくれています。彼女はこちらの世界の存在であり、同時に吾々の霊団の一人でもあり、従って実際の事実にも通じ、それもすでに長い期間に及んでいる。

メンバーの一人として霊団とよく調和しており、同時に女性の特性においてカスリーンともウマが合う。吾々の精神活動──思念操作──の全体をまとめ上げ、ブレンドした上で、さらにそれをカスリーンを通して貴殿に届けてくれるのはルビーなのです。


通信全体を通しての思想とその表現に男性的雰囲気が漂っているのに気づかれるであろう。それは霊団の中の班を構成している吾々六人の男性的要素が支配しているからです。

しかし、その中にあって時おり女性的要素が顔を出すのに気づかれるであろう。それは通信の内容上、女性がリードして吾々男性が哀れにも車を後押しするような形で力を貸した方が都合がよい時です。カスリーンも時おり顔をのぞかせることがあるでしょう。

そしてそれが彼女特有のナイーブな雰囲気をもたらして可愛らしさを感じさせるであろう。吾々にとっても同じです。



──お聞きしていると今回の通信はこの先かなり長く続きそうな感じがします。嫌がってるように受け取られては困るのですが、前回(第二巻)の時が苦痛だったものですから・・・・・・。


 いや、いや、そう怖がられることはない。今回の通信──そう大そうなものではないが──に当たってずいぶん骨を折ってきたが、貴殿が止めたいと希望されるなら、いつ止めても結構です。が、私が観たところ貴殿は吾々霊団を見放すようなことはなさらないであろう。

現に貴殿は、こうして吾々に接近して通信に耳を傾けることを結構楽しんでおられる。このまま私の意図した通りに通信が続きそうである。

ただ貴殿が懸念しておられるので私から一言申し上げておくが、吾々が目論んでいるのはザブディエル殿の通信ほど大きなものではない。あれほど深刻な内容のものではありませんが、しかし有益であるに相違ないと思う。



──あなたは時に〝私〟と言い、時に〝吾々〟とおっしゃっています。思うにそれはあなたの通信に二つの面があるからでしょう。流れは一つでも、その流れを構成している要素は複数である。それで七人が時に複数でしゃべり時に単数でしゃべる。そうじゃないですか。


──まずい説明とも言えない。ある程度は正鵠(せいこく)を得ている。が、ある程度、です。〝私〟と言ってる時は(現在のところ)三十六名の霊団全体のリーダーの資格において語っており、〝吾々〟と言う時はこの小班の他の六名を代表して〝私〟が語っている。

そこで貴殿もよく考えてほしい。統一性と多様性、単数と複数とがいかに見事にしかも、この通信に見られるように、いかに簡単に使い分けが可能であるかをです。


    よく承知していただきたい。こちらの世界には肉体に宿っている者がどうあがいても探り得ない深層があります。何となれば、地上というところは崇高なる〝三位一体の神秘〟を秘蔵した宇宙最奥の聖殿の〝外郭〟に過ぎないからです。


<原著者ノート>この通信のあとカスリーンが私の妻が使用しているプランセットを通じて私のことで次のようなことを言って来た。「ジョージ(私)は明日教会で一人になれるでしょうか。〝リーダー〟が彼にあまり会話をさせないようにと望んでおられるのです。

話をしに来る人たちがジョージに余計な神経を使わせるのを気にしておられます。明日早朝に〝リーダー〟が通信を送られるので私がその準備に参ります。カスリーン」


私が「そのリーダーというのはあなたの属する班のリーダーのことですか」と聞くと、

「そうです。私たちはいつも〝リーダー〟とお呼びしています」とのことだった。これで私はこれ以後の通信の全てをリーダーからのものと判断した。



   
 三章 天界の経綸

  寺院の建造        
 一九一七年十一月二十七日 火曜日


  
話題はこちらで用意してあり、いつでも述べられる態勢にあります。再び貴殿の精神をお貸しいただきたい(*)。こちらで進行中の仕事を吾々が監督する要領を知っていただくために、つい最近吾々の界で起きた出来ごとをぜひ貴殿に語って聞かせたいと思うのです。

(*前にも述べたことであるが、霊界の者から見ると人間の精神は人間自身が想像しているような無形の観念ではなく、具体的な実質があり触れると実感がある。訳者)


 それは、ほかでもない、寺院風の建物の建造です。その建造の目的は強いて言えば天界のエネルギーが地上へ届き易いようにそこで調整するためである。今ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。

これよりまずその建物に使用する資材を説明し、続いてその用途を述べるとしよう。


 資材にはさまざまな色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではない。全体として一つなのである。吾々は設計図が出来上がったところで、こぞって予定された敷地へ向かった。

その敷地は第五界の低地と高地の中間に位置する台地にある。なお吾々の通信における界層の数え方はザブディエル殿に倣っていることを承知されたい。数え方は霊団によってさまざまですが、貴殿にとってはすでに親しんでいるものが良かろうということでそうすることにしました。

また、それが他の数え方と較べてなかなかうまく出来ています。他のものはあまりに複雑すぎたり、反対にあまりに大ざっぱすぎたりします。その点ザブディエル殿の数え方は言わば中庸を得ているので、ここではそれに倣(なら)うことにします。


 さて敷地に到着すると吾々は、まず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行ったのち、そのエネルギーを基礎工事へ向けた。すると、そのエネルギーが敷地からゆっくりと湧き出て来て、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。

そこへ大天使が姿を現わし、吾々のエネルギーを一つにまとめて一たんご自分の霊力の中に収められ、それを少しずつ放射しつつ、穏やかに吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間、吾々は念波の放射を手控えて見守っていた。


 何ゆえ大天使までお出ましになるのか──貴殿にはそれが不思議に思われるであろう。

理由(わけ)を述べよう。一つの霊団として吾々もそれ相当の修養を積み、協調的仕事にも長いあいだ携わってきた。

しかし脆弱(ぜいじゃく)な第一段階の基礎工事の仕上げに当たっては、吾々より遥かに強烈な霊力をお持ちの大天使によって、吾々の放射したエネルギーを調節していただく必要がある。


それを怠ると形体にキズが残ったり、思わぬ不備から構造が崩れ、折角の努力が烏有(うゆう)に帰することも有りうる。そのほかにも理由はあるが、それは吾々の言語を理解してもらえない以上は説明困難です。

もっとも、次のように考えていただけば、手段はともかくとして、理由だけは多分わかっていただけるであろう。

つまり原理的に言えば誕生時の〝へその緒〟の切断、死亡時の〝たまの緒〟の切断、もしくは堰の水門の急激な閉鎖、大体そういったものに類似したものを想像していただけばよい。そうすれば地上の言語で表現できないものを、おぼろげにでも理解していただけるでしょう。


 こうして第一期工事はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であって、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服したのち吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、大小の塔を強固にすることである。

最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えて行き、最後にドームにまで達する。


これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が、外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そしてそれが終わると最後に全体を引き締めて、幾世期にも亘る持続性を与えることである。

 吾々はしばし工事に携わっては少し休み、その間にエネルギーを補充し、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰りかえし、その寺院風の建物に全身全霊を打ち込んだ。

美の創造に携わることほど楽しく且つ有難いものはない。吾々の建造せるその建物は大きさといい、デザインといい並はずれて雄大なものであり、同時に又、その雄姿が自分たちの力で着々と美しさを増していったのであるから尚のことであった。


 こちらの世界における建築が全てこれと同じ方法で行われるとは限らない。が、いかなる方法にせよ、出来上がったものは建築家による建造物というよりは〝吾が子〟のような存在となる。すべてが建造者のエネルギーと創造力とによって作られたものだからです。

そうして出来あがった建物が、のちにその建物において仕事をする者の理想に叶って居ることも論を俟(ま)たない。

 
何となれば、その建物にはすでに生命がこもっている。意識的生命ではないが、一種の感性を宿しているからです。こう言えばよかろうか。つまりこちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば肉体とそれに宿る霊との関係のようなものである。

肉体と霊とは覚醒時は言うに及ばず、睡眠中でも常に連絡を保持している。それと同じく、吾々建造者はたとえ完成後に各地へ分散しても、常にその建物を意念の焦点として互いに連絡を取り合っているのです。

その生き生きとした実感と満足感は実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らないであろう。もっとも、こちらへ来た者のすべてが創造の仕事に携わるとは限らないが・・・・・・。


 さて建物としての一応の形が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等々にそれなりの装飾を施し、柱廊は柱廊らしく仕上げ、噴水には実際に水を通してその流れ具合を確かめる。

それをするのに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って仕上がり具合を点検する。手先はあまり使用しない。主役を務めるのは頭と心である。


 そこまで終了すると、以後は吾々が実際にその建物で生活して、地上の言い方をすれば毎日のように部屋から部屋へ、ホールからホールへと足を運び、設計図に照らして少しずつ手直しをする。そして最後に全体を美しく飾って終わりとする。

 こうして吾々による仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使が再度遥か高遠の世界から降りて来られ、細かく点検して回られた。そしてもし不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が、時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直々にお言いつけになることもある。

 かくして落成の日が訪れると、その大天使がもう一人の大天使を伴って再びお出でになられた。霊格がさらに上の方である。

その権威はイスラエルで言えばアロン(*)とその弟子たちのそれにも相当しよう。ギリシャならば神官、キリスト教ならば主席司祭にも相当しよう。その時の目的は建物の〝聖化〟とでも呼ぶべきものである。(*ユダヤの最初の大司祭。モーゼの兄──訳者)


 
──献堂式(*)でしょうか。(*新築の教会堂を神に奉納する儀式──訳者)

 
 それで良かろう。地球を含む低級界とを結ぶ保護のための拠点となり、同時に又、それ以後そこに住む人々がの恩寵と霊力に与る中継の場となるのである。

 地上の寺院は天界の寺院のお粗末な模倣に過ぎない。が、その目的と機能は本質的には同一である。イスラエルにおいては雲が地上界とエホバ神との中継をすると考えられた。

古代エジプトにも同じ考えがあった。ギリシャの都市国家においては寺院の霊的活力が衰えていたが、まだ少しは残っていた。イスラエルにおいては天界からの援助と高揚という特殊な側面にはまったく関心を示さないようである。

私はイスラムの霊界を訪ねてみたことがあるが、そこには顕幽の交わりが根本的に違った形で行われていることを知った。キリスト教の(霊界の)教会堂にも同じくその観念はあるが、程度の差が著しい。

キリストを祀(まつ)る幾つかの教会堂においてはキリストとその側近の大天使の顕現がもう少しで見られる段階に至っている。実際に見られるようになるのも遠い先のことではなさそうに私には思える。


 そういう次第で、地上の寺院も基本理念においては同じものを持っており、遠い過去が引き継がれているのであるが、それがこちらの世界では目に見えて霊験あらたかとなり、見た目に美しくもあり、天界の高地へ向けて一界又一界と上昇して行く者への祝福に満ち満ちているのである。


──今回お建てになった寺院には特別な使用目的があるのでしょうか。

 あれは第五界の各地、時にはそれより下の界から訪れる者が身を浸すエネルギーの貯蔵所としての機能を開始しかけているところです。

訪れた者は色彩の持つ霊妙な波動に浸り、堂内を流れる生命を秘めた小川と噴水に身を洗われ、すみずみまで漲(みなぎ
る霊妙な旋律に包まれて、欠乏した生命力を補い、鈍化した知力を啓発される。そこに注目されたい。単なる保養所ではありません。

もっと質の高い機能を有している。それから先の魂の向上の旅に備えて体力をつけ、入手する知識を即座に、そして効率よく理解する知性を身に付ける場でもあることは確かであるが、同時に、その聖堂を焦点として愛と生命力を注ぎ、彼ら巡礼者の向上を待ち受ける高級神霊との霊的交わりを得るところでもあるのです。



──向上する者は必ずそこを通過しなければならないのでしょうか。

 そうと決まっているわけではありませんが、第五界の者は大半がそこを通過します。この界は永く滞在する者がわりに、いや、ずいぶん多いところです。各自の特性を点検し調整して円満さを身に付けなければならない、大切な界だからです。

(第二巻八章参照)その意味では卒業しにくい界であり、滞在が永びいている者が多く見出される理由はそこにある。聖堂の建立もそのためであった。その必要性が生じたのである。出来上がってまだ日も浅く、これからいろいろと機能を発揮していくことであろう。

また経験を積むにつれて細かい手直しも施されることであろう。


 が、その聖堂まで来て中を覗いてみて学ぶべきものが特に見当たらず、自己の中に改めるべきものも見当たらないほどのゆとりをもってこの界を卒業して行く者もいる。

そうした優等生的霊魂はさっさと上の界へと進み、その道すがら祝福を垂れ、通過する道が一段と輝きを増すほどである。近くの者はそれを有難がり、その姿を見て勇気を鼓舞される。地上ではこうしたことは見かけぬであろう。

が第五界まで向上した者は品性卑しからず、己れより美しく且つ高き霊力を具えた者を見ることが己れ自身の美徳を高め、かくして〝全ての子〟の真実味をいやが上にも確認することになるのである。

 
         
2 象徴(シンボル)の威力──十字を切ることの意味  
    一九一七年十一月二十八日  水曜日

 貴殿がもし吾々の存在を疑わしく思うような気分になった時は〝十字〟を切っていただくとよろしい。それだけでも吾々が守ってあげていることを認識されると同時に、貴殿と吾々との間に割って入ろうとするあの手この手の邪魔を排除することができます。

身体を張って邪魔するのではなく、思念を放射し、それがモヤのように漂って吾々の視界を遮るのです。程度から言うと吾々よりも彼らの方が貴殿の近くまで接近し、吾々の望んでいる好条件を奪ってしまうことがあるので、よくよく注意していただきたい。



──十字を切るとどういう効果があるのですか。

 それが象徴するところの実在の威力が発揮されます。よく考えてみると記号というものも実は大きな威力を発揮しているものです。それは記号そのものに能動的な力が潜んでいるからではなく、それが象徴しているところの存在ないしはエネルギーの潜在力のせいです。


──例えば?

 例えば貴殿がいま使用しておられる文字も単なる記号に過ぎない。が、それによって綴られた文章を親しみと愛を持って読む者は、こうしたものを全く読むことなく人生を終わる者と違って、こちらへ来てからの進歩を促進する適応性を蓄えることになる。

一人の王様の名前も、その王を象徴する記号に過ぎないが、その名前を軽々しく口にする者は、その王の署名のもとに布告された命令を無視する者と同様に、秩序ある国家においては軽々しく見逃されることはない。


それによって生じる混乱と不統一が原因となって国家の運営が著しく阻害されるからです。故に、名前というものは崇敬の念をもって扱わねばならない。地上に限りません。

天界においても同じことです。たとえば大天使の名をぞんざいに呼ばわる者は、携わる仕事が何であれ、その者の立場を危うくしかねない。そういうことになっているのです。

そして最高の御名であるの御名は、貴殿らの聖典で規制されているように最高の敬意をもって扱わねばなりません。


 さて、もともと〝十字架〟の記号は吾々が教わり、遠い過去より今日に至るまでに地上の人間に啓示された数多くの聖なる記号の中の一つに過ぎない。ところが今日では他のいずれにも増して威力を持つに至っている。

ほかでもない、地上の進歩のために注がれる〝生けるキリスト〟の生命の表象(しるし)だからです。他の時代には他の──ためらわずに書かれよ──キリストの世があった如く(※)、今の世は天界の政庁から派遣された最後の、そして最高のキリストの世という意味において特殊な世なのである。

それ故、十字架を使用する者はキリストの生命を意味するおん血によって書かれた 親署を使用することを意味し、たとえキリストの絶対的権威を認めずその愛を理解せぬ者も、キリストの十字架の前にはおのずと頭を垂れなければならない。

何となればそれを前にすればその威力を思い知らされ畏れおののくからである。
(※キリストの名で呼ばれる存在が他にもいたということにオーエン氏が戸惑いを見せている。イエス・キリストの真相についてはこの後三つの章で細かく説かれる。訳者)


──では、地獄にいる者でもキリストの十字架の威力が分かるということですか。

 まさにその通りである。ここで少しばかりその問題に触れておきたい。というのも、地上には理解力が不足しているために、この記号にあまり崇高の念を覚えぬ者が多いからです。私はしばしば薄暗い低級界を訪れることがあるが──最近は他に用があって訪れていないが──訪れた時はなるべく十字を切らないようにする。

何となれば、心に少なからず苦悶を抱く哀れむべき魂にとっては、十字を切ることがその苦悶の情をいっそう掻き立てることになるからです。



──十字を切られた時の反応を実際の例で話してください。

 あるとき私は、地上からの他界者の一人で、妙なことにいきなり第二界へ連れて来られた人物を探しに派遣されたことがあった。当然そこは居心地がよくなくて、やがて薄暗い下層界へと引き下ろされて行った。

なぜこのようなことになるのかは今ここで詳しい説明はしない。滅多にないことであるが、まったく有り得ないことでもないのである。
 
指導と案内に当たる者の認識不足によって、あちこちで同じような事態が起きていることは事実です。一生けんめいになるあまり、善意が先走って判断力と洞察力を追い越すことがあるもので、少し複雑で問題の多い人物の処遇に当たって、往々にしてそういうケースが生じます。

さて私は陰鬱な境涯へ降りて身体が環境に適応しきるのを待って、いよいよ捜査を開始した。市(まち)から市へと捜し歩いたあげくに、やっとその人物の気配を感じる門の前まで来た。貴殿には私の述べることが容易に理解できないであろうけど、構わず筆を進められたい。そのうち理解できる日が来ます。

さて、中へ入ってみると、まず目についたのは広場一帯をおおう陰気な光で、そこにかなりの数の群集が集まっていた。空気はまるで鍛冶屋の如く火照(ほて)り、群集が気勢を上げると明るさを増し、意気消沈すると弱まるというふうであった。

その中央に石の台があり、そこに私の探し求めている人物が立っていた。何やら激しい口調で群集に向かって演説をぶっている。私は蔭に隠れて聞き入った。


 彼は〝贖(あがな)い〟と〝贖い主〟について語っていた。が、その名が出てこない。暗に言及しているだけである。そこに注意していただきたい。二度、三度と名が出かかるのであるが、どうしても出ない。口元まで出かかると顔に苦痛の表情が浮かび、手をぐっと握りしめ、しばし沈黙し、それからまた話を進めた。

誰の名を言わんとしているのかはその場の誰一人として知らぬ者はいなかった。彼は悔い改めの必要性を長々と説いた。

そして自分が宗教心の不足から否応なしに、ほんのわずか垣間みた天国と光明界からこの苦悶と悔恨の境涯へ引きずり下ろされたことを語って聞かせた。彼はこう語った──自分はこの界へ降りて来る道すがら、この目を見開いて道をしかと確かめてきた。

だから、どこをどう行けば光明界へ行き着くかをよく知っている。が、その道は長く苦しい登り坂となっており、しかも暗い。そう述べてから、自分と共に出発する意志のある者を募り、羊の群れの如く一団となり手を取り合って進めば、例え道中は苦しくとも必ず目的地に辿り着き、ゆっくりと休息できる。

ただ道中ではぐれぬよう注意する必要がある。道なき峡谷を通り、左右の見分けもつかぬ森林地帯を抜けて行かねばならぬ。

万一はぐれたら最期、道を見失って一人永遠にさ迷い続けることになる。いずこをさ迷っても常にそこは暗闇であり、また極悪非道の輩が待ち伏せして通りかかる者に残虐のかぎりを尽くす危険がある。だから絶対に自分が掲げる旗から目を離さぬように。

そうすれば恐れるものは何もない。なぜならその旗には道中に耐えるだけの強大な力のシンボルとなるものを用意するつもりでいるからだ、と。


 以上が彼の演説の要旨である。これに対して群集はまんざらでもない反応を示しているようであった。彼は台から降りて、しばし黙したまま立っていた。すると群集の一人がこう聞いた──「どういう旗を考えてるんだ。何の紋章を飾るつもりだ。我々が付いて行くのに分かるものでないと困るぞ」と。

 するとさっきの男が再び広場の中央の石の上に立って右手を高く上げ、それを下ヘ向けて直線を描くように下そうとするが、下せない。何度も繰り返すが、その度に手がしびれるようであった。そして結局最後は──彼を知る私には見るに忍びない光景であったが──大きな溜息と苦悶の涙と共に、その手をだらりと力なくぶら下げるのだった。
 
 が間もなく、彼はきりっと姿勢を正し、顔に決意の表情を浮かべて、もう一度試みた。

そして何とか手を垂直に下すことができた。すると、どうであろう、その手の辿ったあとに微かに光輝を放つ一本の線が描かれているではないか。そこで又力をふりしぼり、用心深く、今度はその垂直の線の真ん中よりやや上あたりに横棒を描こうとして手を上げるのであるが、またもや出来ない。


 私には彼の心が読めていた。光明界への旅に彼が掲げ持つ旗の紋章として十字架を飾ることを群集に示そうとしているのである。あまりの哀れさに私は進み出て、ついに彼の側に立った。そして、まだうっすらとではあるが目に見えている直線をなぞった。

ゆっくりとなぞった。するとさっと光輝が増して広場全体と群集の顔という顔を照らし出した。次に私は横棒を画いた。それも同じように光輝を放った。私はその光輝を避けて、見えないところに身を隠した。


 ところが、その直後に狂乱した声と泣き叫ぶ声が聞こえてきたので再び出てみた。十字架はやや輝きを失っていたが、群集は、ある者は地面にひれ伏し、ある者はのたうち回りながら顔を隠し、十字架のイメージを消そうと必死になっていた。

嫌っているのではない。そこの群集はすでに自分の罪に対して良心の呵責を覚える段階にまで達した者たちであった。

苦痛の原因はその良心の呵責を覚えさせるほどの〝進化〟そのものであった。悔恨の情が罪悪と忘恩の不徳に対する悲しみへと変化し、その進化そのものが悲しみの情に一層の苦痛を加えていたのである。


 くだんの男はそうした群集のようにひれ伏さずに両手で顔を覆い、両ひじを膝の上に置いて跪き、他の者たちと同じく悔恨の情にからだを二つに折り曲げるようにして悶えていた。

 私はやっと気がついた。私のした事は彼らにとって余りに早まった行為だったのである。慰めになると思ってやってあげたことが実は彼らの古傷に手荒らに触れる行為となっていたのである。そこで私は群集を鎮めるためにその友人に代ってあの手この手を打った。

そして何とか治まった。が私は、その時その場で、これ以後は低級界ではよくよくのことがない限り十字架のサインは使用しない決心をした。心に傷を持つ者はそれが痛みを増す結果になることを知ったからです。



──今その男のことを〝友人〟と呼ばれましたが・・・・・。

 その通り。彼は私のかつての友人だったのです。二人は地上で同じ大学で哲学を教えたことがありました。彼はまっとうな生活を送り、時には奇特な行いもしないでもありませんでした。が、残念ながら敬虔な信仰心に欠けていた。もっとも今はもう順調に向上の道を歩み、善行にも励んでいますが・・・・・・。

 さきの話に戻りますが、どうにか旗が出来上がった。しかしそれはおよそ旗と呼べるしろものではなかった。二本の木の枝、それも節だらけの曲がったものを十字に組んだものに過ぎない──この界層でもそんな樹木しか見当たらないのです。

それでも彼らには立派な十字架に見えるのだった。横棒がぐらぐらしている。彼らの一途な気持ちと彼らにとっての深刻な意味合いを考えると、あまりにグロテスク過ぎるが、彼らにとってそれは自分たちを守ってくれる霊力を意味し、又、その源でありキリストを意味する。

したがってそれはそれなりに彼らにとって最も〝聖なるしるし〟であり、よろこび勇んで、しかし沈黙と畏敬の念をもって付いて行くべき目標であった。

二本の枝の交わる部分を結わえている赤の布切れは血の流れの如くなびいていた。そして彼らはいよいよその十字架の後について長き旅に出発した。足は痛み、疲れ果てることもしばしばであろう。が、

光明が見出せることを信じて、あくまでも高地へ高地へと進み続けることであろう。


──どうも。これでお終いにしたいのですが、最後に一つだけお聞きしたいことがあります。昨夜の例の聖堂のことですが、最初にその建立の目的は地上界への援助のためとおっしゃって、あとでそれとはまったく違った使用目的を話されました。そこのところが納得できません。ご説明ねがえますか。

 吾々の述べたことに何ら誤りはありません。ただ吾々が意図したほど明瞭には伝わっていないだけです。昨夜は貴殿は重々しい感じがしていました。今も疲れておられる。吾々の意図していた真意は次の機会に述べるとしよう。では今宵もの祝福のあらんことを。

 
       
 勇気をもって信ずる                
 一九一七年十一月二十九日 木曜日

  約束どおり例の建物についての問題点を説明しましょう。実は問題というほどのものは何もないのです。憶えておられるでしょうが、あの建物は第五界およびそれより下の界の住民を対象としていると述べました。その中には当然地球も含まれます。

地球は外観こそ違え、本質的には貴殿らが霊界と呼んでいる世界と少しも変わらない。その建物から出た影響力は中間層を通過して、最後は地上界にも至ります。表現が明確さを欠いていたようです。別に吾々が先を急いだからではありません。

貴殿の限界のせいです。すなわち精神的ゆとりと受容力とを欠いておられた。

 この二つは密接に関連しています。静けさと安らかさのゆとりをもたぬ者は、環境条件の異なる界層からやって来た吾々の思念及び出発の際に携えて地上界との境界のぎりぎりのところまで運んできている穏やかな霊力には感応しません。

その霊力は地上界に至るまでにある程度は散逸しますが、全部を失うわけではない。ぶじ持ち来ったものを、それに反応を示す者とそれを必要としている者に分け与えんとします。が、吾々とてそのうち善意とエネルギーが枯渇する。

そこで補給のために澄み切った天界へと舞い戻る。そこが全ての霊力と安らぎの源泉だからです。


 ここで例の聖堂が関わってきます。それが用途の一つなのです。すなわち高き天界から送られてきた霊力と数々の恵みを蓄えておき、必要に応じて地球を包む下層界の為に使用するというわけです。

 仕事が進展していけばまた新たな用途も見出され、今行われている仕事と組み合わされていくことになります。

 さて、貴殿は今夜はこの仕事にかかるまでに何かと用事が続き、またこのあとも貴殿を待っておられる人々がいるようなので、あまり長く引き留めることが出来ない。そこで今夜は早く切り上げようと思うので、通信はあと少しだけ──それも貴殿がまだ明確に理解していない点を指摘するだけに止めておきましょう。
 
 吾々がこうして地上界へ下りてきても、吾々の到来を心待ちにし通信を期待している人でさえ必ずしもすんなりと交信状態に入れないことがあります。

貴殿でもそういう場合があります。例えば吾々が身近にいることをどうにか気付いてくれたことが吾々には判る。ところが交信が終わると貴殿の心に疑念が生じ、単なる自分の想念に過ぎなかったように結論し、霊的なものであったと思ってくれない。


このように吾々の側から送信しにくく貴殿の側がそれを受信しにくくさせる原因は、主として信ずる勇気の欠如にある。貴殿は自分ではその勇気なら人後に落ちないつもりでおられる。

吾々もそれをまったく認めぬわけでもありませんが、こと霊的交信の問題となると、真理探究の仕事における過ちを恐れすぎる傾向がしばしば見受けられます。

 次のように言い切っても決して言い過ぎではないでしょう。つまり貴殿が何か身近に存在を感じた時は必ず何かがそこに存在する。それは貴殿にとって望ましいもの、あるいは見分けの付くものであるかも知れないし、そうでないかも知れない。

が、何であれ、そこに何かの原因があってのことであるから、冷静に通信を受け続ければ次第にその本性がはっきりしてきましょう。


貴殿は最初それを知人の誰それであると判断する。が、実際はそうではなくて全く別人であったとする。が、それは落ち着いて通信を受けていくうちに必ず判ってくるはずのものです。

ですから、誰かの存在を感じたら、余計な憶測を排除し、同時に判断の誤りについての恐怖心を拭い去っていただきたい。そして、送られて来るものを素直に受けるだけ受けた上で、その通信内容から判断を下しても決して遅くはありません。


 この度はこれで終わりにしておきましょう。貴殿は他の用事で行かねばなりますまい。その仕事に限らず、日々のすべてのお仕事に神の御力のあらんことを。


      
4 美なるものは真なり        
 一九一七年十一月三十日 金曜日


 〝美〟なるものは〝真〟である──これが天界において最も目立つ原則の一つです。逆の言い方をすれば、見た目に醜(みにく)く歪(いびつ)なものは、細かく観察すると必ずどこか真実の持つ特質に欠けていることが判ります。

吾々が〝真実〟というときは貴殿らがまたは父と呼ぶところの究極の精神(こころ)と調和したものを意味する。

父より湧き出ずるものには必ず秩序があり、その子孫たる吾々の至高にして至純なる憧憬と相通ずるものがある。その特質に相応しいものは〝美〟を惜いて他にありません。

何となれば美なるものは見た目にも心地よいものだからです。愛の本質を知る者にとって、その愛を心地よく包むものは〝調和〟です。

その愛のみが上(のぼ)せうる馳走に何の食欲もそそられない者は、どこか愛に逆らうものを宿している者にかぎられます。そして、ここで銘記すべきことは、愛はより出ずるものであると同時にそのものでもあるということです。

 そこで吾々は陸の風景にせよ海の風景にせよ、あるいは人間の顔にせよ身体にせよ、その美しさ、その均整美はの倉庫より取り出せる美の表現であり、真なるものもの意思と調和したもの以外は有り得ないことを理解しているので、美なるものはすべて真であり、真なるものはすべからく美を具えていなければならないと言うのです。

 の生命の流れが汚されるのはその本流に逆らう何らかのエネルギーが流入するからであり、この譬えはそのまま人類に当てはまる。

すなわち一家庭ないしは一国家内の不和はそれ自身の中にあるのではなく、その源ははるか天界においての目的と意志に逆らうものが混入した時点にまで遡ることができる。

 しかし、の御力はあくまでも〝奇しきもの〟である。究極的にはがそうした不純な要素をも有用なるものに変え、活用を誤った神的生命力の対立的表現の一つ一つから、人間も天使も含めた全存在の向上進化のために役立つものを抽出していく。


──おっしゃることが(私の筆で)正しく表現できているかどうか私には判りませんが、いずれにしてももう少し判り易い話題、そして単純に表現できるものにしていただけないでしょうか。

 では、すでに話題にした例の大聖堂について今少し述べるとしましょう。この話題なら貴殿の霊聴力と同時に霊視力も使用できるので、吾々にとっても表現しやすく、貴殿にとっても受けやすいでしょう。貴殿は今夜は吾々の期待するほどの心の平静さが見られません。   
(創造物) 
 その大聖堂に大きな塔が付いている。が、その塔に吾々が解(げ)しかねる一角があった。その大塔は建物の角に立っており、正方形をしている。その四つの角の一つが他の三つと様子が異なるのだった。

が、妙なことに吾々の中の誰一人として、他の角と比較して何が欠けているとかどこがどう違っているとかが判らなかった。

四つの角を同時に見た時は、私の目には形も均整も他と全く同じに見える。ところが他の三つを見てからその角に目をやり、さらに近づいてその台座を見て回ると、明らかに調和に欠けるものを感じる。何度やっても同じものを感じるのです。

余計な話は省略して結論を急ぎましょう。結局その欠陥を見出したのは、その建築に携わった吾々のうちの誰でもなく、たまたまその第五界を通りかかった、もう一つ上の界の方で、その方があとで詳しく原因を教えて下さったのであった。

 その方は暗黒の下層界で大きな対立や反乱が起き、その悪影響が境界を接したすぐ上の界へ及んでいる時に、その鎮圧に赴く霊団のお一人である。

そうした騒乱による悪影響は強烈で、上の界まで及んで進歩を阻害し、ようやく光明界へ向けて向上せんと必死に努力している霊を挫けさせ、一時的に努力を怠らせる結果となる。もっとも、よほどの騒乱でないかぎり完全に絶望的なものには至らない。

その方はそうした騒乱が発生した時に霊団の一人として暗黒界へ降りてその鎮圧に当たり、せっかく光明に目覚めて向上しかけた霊が足を引っぱられぬように配慮する仕事に携わっておられる。

 吾々を困惑させていた塔の異常の原因をすぐに突き止めることができたのも、そうした烈しい仕事に永く携わってこられたからである。その方はまず四つの壁を入念に点検されてから、その建物を離れて遠くの丘に上がり、そこからしばらく塔を見つめておられた。

やがて戻って来られ、吾々を平地に呼び集めて、およそ次のような言葉で欠陥を説明してくださった。

 「皆さんがこの聖堂の建築に携わっておられた時、この塔の部分だけを残してまず他のホールの仕上げを急がれた。それが終わってから持てるエネルギーの全てをこの塔を強固にする作業に集中された。そのとき仕事に夢中になって一つだけ見落されたことがあります。

四つの側面の手入れに同じ頭数(あたまかず)で当たるべきだったことです。その上、高く聳えた塔の上の部分に遠くからの光が当たった時に下の部分で働いていた人たちの意思がその方へ奪われ、その時そこを流れていた霊力に十分に曝(さら)されなかった。

ちょうどその時です。たまたま私たちの一団が暗黒界での仕事からの帰りにここを通りかかりました。私たちは悪戦苦闘したあとで、すっかり体力を消耗していましたので、そこを流れていた霊力を吸収してしまったのです。

そのとき四つの側面に同じ人数が携わっていれば良かったのですが、私たちもそうとは知らずに、その数の少ない問題の部分から吸収してしまったということです。

ですから問題の角は形と均整がいびつなのではなくて、素材のキメが粗いのです。この私の話を念頭に置かれてもう一度よくご覧になれば、他の三つの角に較べてその角だけが色調が暗いことに気づかれるでしょう。

それは今も言ったとおり私たちによって生命力を奪われ光沢を失ったからで、形態は他と少しも変わらないのに、見た感じが見劣りがするわけです」

 そのあと吾々もその通りであることを確認し、その修復を行ったが、それは簡単に済みました。最初に建築に携わった同じメンバーを集めて仕事に取り掛かりました。

全員から湧き出る意念の流れをその問題の箇所に向けて放射すると、次第に色調が明るさを増して他の部分と同じ光輝を放つようになりました。そして完全に同じとなった段階で意念の放射を止めました。仕上がりは上々で、完璧な調和を見せておりました。

 これでお判りの通り、そもそもの原因はまだ建築が完全に仕上がっていない段階で暗黒界でエネルギーを使い果たした一団がそうとは知らずに近くを通りかかったことにあった。悪というものは本質的には侵略的なものではなく消極的なものです。

善性の欠如にすぎません。善なるものには力があります。暗黒界での仕事でエネルギーを使い果たした一団が吸い取った力も善なる天使の力です。

吾々の側を通りかかった時に無意識のうちに生命力を再摂取したのも、元はといえば暗黒界の悪影響に原因があり、それが不調和を生んだ。それは美の欠如を意味する。かくして吾々は廻りめぐって〝美なるものは真である〟という最初の言葉に戻って来た。

では失礼します。祝福を。


  
         
 宇宙の全てが知れる仕組み               
  一九一七年十二月三日 月曜日


 こうして地上へ降りてくる時、吾々は道中でこんなことを語り合ったりします──これから向かう国は霧と黄昏(たそがれ)の世界だ。その奥地に入り込んだら吾々自身の光と熱をかなり放出することになるかもしれない、と。

高き界層にいる時からそれが判ります。貴殿はそれにはいかなる化学、もしくは理法が働いているのかと不思議に思うでしょうが、その詳しい原理は到底地上の言語では説明できません。


が、もし貴殿に興味がおありならば、これを後で読まれる方々のためにも、その概略だけでも何とか説明してみましょう。

──どうも。ぜひ説明していただきたいです。

 では、できるだけ簡略に説明してみます。そもそもこうした霊的交信の必要性の中でも第一に大切なものは貴殿にはもう容易に知れるでしょう。地上の人間と天界の吾々とを一つの海、同じ大海の中に浸(ひた)らせる普遍的原理としての効用です。

私が言っているのは霊的生命、霊力、霊的エネルギーのことです。
霊的生命は貴殿に取っても吾々にとっても、そして少なくとも吾々の推理と想像の翼の及ぶかぎりにおいて、吾々よりさらに上層界の神霊にとっても同じものを意味します。

霊的生命こそ地上の生命現象の拠って来たる根源であることは貴殿も容易に納得してくれるであろう。この原因と結果の相関関係は界が上がるにつれて緊密の度を増して行く。

それは当然、延々と最高界までも続くという理屈になります。その最高界は完全なる調和の世界であろう。が、その完全なる世界においてこそ、吾々が洞察するかぎり、その因果律が最も顕著に働いているであろうことが予想される。


 こういう次第であるから、吾々が一個の霊的エネルギーの大海という時、それは単なる空想的観念を述べているのではなく、現実に吾々自身の手によって操作できる具体的な事実について述べている。このことをまず第一に認識していただきたい。

 次に認識すべきことは、地上から上層界へ向けて進むときに界と界との間に完全な断絶は無いということです。聖書には深い裂け目の話があることは承知しています。が、そこに何も無いのではない。その淵にも底がある。それも地上と次の界との間にあるのではない。遠く脇へそれた位置にあり、向上して行く道には存在しません。

 各界の中間には一種の境界域があり、そこで融合し合ってひと続きになっている。従ってそこを通過する者は何の不安もない。しかし、互いに接する二つの界にはそれぞれ明確な特徴がある。そしてその境界域はどっちつかずの中間地帯というわけではなく、両界の特質が渾然と融合し合っている。

従って何も無いというところはどこにもなく、下から上へ段階的に実質的つながりが出来ているのである。以上の二つの事実を前提として推論すれば、吾々と地上の人間は潜在的に直接の交信関係があるという結論が極めて自然に出て来るであろう。

次に、ではこうした条件を吾々がどのように活用しているかを説明せねばなりますまい。

 これには数多くの方法がありますが、そのうちでもよく使用されるものを三つだけ紹介しておきましょう。この家(*)には窓が数多くあっても、よく使用する窓は幾つかに限られているのと同じことです。(*オーエン氏の自宅──訳者) 
 
 第一の方法は、地上に関する情報や報告が地上と接した界層の者によって、ひっきりなしに上層界へ送られ、その情報処理に最も適した界まで来る。

これが極めて迅速に行われる。が、その素早い動きの中にあっても、通過する界ごとにふるいにかけられ、目ざす界に届けられた時はエキスだけとなっている。

地上の人間の願望も祈りも同じようにふるいにかけられた上で高級界へ届けられる。そうしないと地上特有のアクのためにその奥にある崇高な要素が、届けられるべき界層まで届かないのである。この方法についてはこれ位にしておきます。まったくの概略であるが、先を急がねばならないので已むを得ません。

 次は〝直接法〟とでも呼ぶべきものです。地上には特殊な使命を帯びて高級界からの直接の指導を受けている者がいます。中には非常に高級な光り輝く天使もいて、地上よりはるかに掛け離れた界層に所属している。そういう霊になると直接地上界まで降りて来られないことがある。

というのは、霊格は高級であっても必ずしも万能というわけではない。地上界まで降りるためには途中の界層の一つ一つにおいて、それぞれの環境条件に順応させる必要があり、それには莫大なエネルギーがいる。

安全が十分に保障されている時は敢えてそれを行うことがあるし、それも決して珍しいことでもありませんが、無駄な浪費は避けたい。霊的エネルギーがいくら無限だといっても無益なことには使いたくない。そういう時には原則としてこの直接法を使用するわけです。

 そのためには、地上的な言い方をすれば電話または電信に似た装置を架設する。振動または波動による一本の線で地上界とつなぐのです。その敷設には指導に当たる霊と指導される人間の生命力の融合したものが使用される。

〝敷設〟だの〝生命力〟だのと、あまり感心しない用語を使っていますが、貴殿の脳の中に他に良い言葉が見当たらないので、已むを得ません。ともかく、こうした方法によって交感度の高い通信が維持されるのです。(守護霊と人間との関係が原則的にこれに当てはまる──訳者)

 これは言ってみれば脳と身体との関係を結ぶ神経組織のようなものです。意識しない時でも常に連絡が取られており、必要に応じて機能する。地上の人間の思念や願望が発せられると瞬間的に届けられて、最も適切な処置が為される。

 以上の二つの方法によりさらに入り組んだ三つ目の方法があります。〝普遍的方法〟とでも言えるかもしれません。どうもしっくりしませんが、已むをえません。

第一の方法では地上から上層界へと流れる思念が各界で必要な処置を施される。それはちょうど大陸を横断して郵便馬車が配達していくようなもので、途中で馬を交代させたり休憩したりしないだけと思っていただければよろしい。

第二の方法では通信網はいつでも使えるように入力されている。電話にいつも電気が通っているようなものです。それが地上の人間と指導霊とを直接結びつけています。

 この第三の方法では過程(プロセス)がそれとは全く異なる。地上界の人間のあらゆる思念、あらゆる行為が、天界へ向けて放送され録音され記録されている。能力を有する者なら誰でもそれを読み、聞くことが出来ます。生(なま)のままであり、しかも消えてしまうことがない。が、その装置は言語では説明できません。

前の二つの方法の説明でも不便な思いをさせられたが、この方法の説明では全くお手上げです。が、せいぜい言えることは、一人ひとりの人間の一つ一つの思念が宇宙全体に知れ渡り響き渡っているというだけである。

宇宙に瀰漫(びまん)する流動体──何と呼ばれようと結構である(オリバー・ロッジの言うエーテル質のことであろう──訳者)──の性質は極めて鋭敏であり緻密(ちみつ)であり連続性に富んでいるので、かりに貴殿が宇宙の一方の端をそっと触れただけでも他の端まで響くであろう。

いや、その〝端〟と言う言葉がまたいけません。地上での意味で想像していただいては、こちらの事情に合わなくなります。

貴殿にその驚異を少しでも判っていただくために私が伝えようとしているのは、救世主イエスがとくに名称を用いずに次のようにただその機能(はたらき)だけを表現したものと同じである。

曰く〝汝の髪の毛一本が傷つくも、一羽のひなが巣から落ちるのも、なるは決してお見逃がしにはならない〟と。

(イエスがこういう譬えをよく用いたことは事実だが、この通りの文句は私が調べたかぎりでは見当たらない。オックスフォード引用句辞典にも載っていない。たぶん霊界の記録からの引用であろう。そのことは次章の最初の通信からも窺(うかが)える。訳者)




  

四章 サクラメントの秘義  
(訳者注───サクラメントというのはキリスト教の儀式の中でもとくに大切にされている儀式で、〝秘跡〟と訳されることが多いが、各派によって異なるのでここでは言語のまま用いた。)
 

    


 聖体拝領(最後の晩餐)         
  一九一七 年十二月四日 火曜日

  貴殿は受け取った観念を文章に綴ってくれればそれで宜しい。そしてそれが吾々の霊団からのものであることに疑念を抱かれる必要はまったくありません。

と言うのも、一方において吾々は貴殿が筆記されている間は貴殿の身柄をしっかりと確保し、他方において吾々の通信を横取りして自分たちの通信に使用せんとする狡賢(ずるがしこ)い霊の集団を排除すべく努力をしているからである。

それが可能なのも、カスリーンを通じて実際に貴殿との通信を始めるずっと以前から貴殿について準備し、また吾々の側の準備をも着々と積み重ねてきたからです。

 さて今夜はキリスト教の聖なる儀式の問題について語ってみたい。キリスト教界において今なお行われており、キリストを主と仰ぐ者にとって大いに関心を持つべきものだからです。中でも聖体拝領の儀式(マタイ26)はキリストを主と仰ぐ者にとって生涯にわたる意味を秘めている。

これには数々の意味が含まれてるので、これより少しばかり述べてみたい。まず、その由来について。

 現存する聖典から推察されるように、キリストの生涯については過去幾世紀にもわたって伝えられてきたものよりも記録されずに終わったものの方がはるかに多い。大ざっぱに読んでもそれが推察できるであろう。

しかも残っている記録も、本質においては相通じるものがあっても、細かい点になると曖昧なところが多い。残っている記録は数多くあったものの中のごく一部に過ぎないことを知らねばならない。

他の記録は完全に地上から消滅したか、未だどこかに残っていて、いつの日か陽の目を見ることになるかもしれない。が、こちらの世界にはその全記録が保存されており、吾々もこの度それを勉強したところです。これから述べることはそれを根拠にしています。

(訳者注──その一例が自動記霊媒カミンズ女史を通じて書き記された The Scripts of Cleophas で聖書の欠落した部分やその後の歴史を物語る通信が見事な散文体で書かれている。これは第一級の聖書研究家やキリスト教の聖職者によって〝正真正銘〟の折紙がつけられている)

 そのとき主イエスは肉体を具えた存在から肉体なき存在へと変化を目前にしていた。死期の迫ったことを知ったイエスは、十二人の弟子との会合の中で、自分の死後もこの弟子たち並びに自分の教えに従う者との霊的交わりを強化し、自分を生命力の源とさせるための、思い出と霊交の儀式を行ったのです。

ここで前回に述べた霊交の三つの型を思い出していただきたい。最高界より流れくるところの脈動する生命力は、その鋭敏さゆえに、の王国全体(*
)に張り巡らされている特殊な組織への針の先でつついたほどの衝撃さえ中心的始源まで波及し、即時に反応が返ってくることが理解していただけよう。

その反応と緻密性(ちみつせい)と即時性を具体的に説明せんとしても、地上にはそれを譬えるべきものが何一つ見当りません。ここではせめて〝運動する粒子はその速度が速ければ速いほどそれに加えられる外的刺激による反応が大きい〟という法則を思い出していただくに留めてきましょう。

(*最高界といい王国というも地球的規模における話。イエスは普遍的キリスト神の地球的表現すなわち地球の守護神の部分的表現である。六章でその詳しい説明が出る─訳者)

 なるより湧き出た生命の流れがまずに至り、の霊性を加味されて御国のすみずみにまで放散されるのは、その組織があるからこそです。その組織への衝撃が例の〝主の祈り〟(マタイ・6)とともにパンとぶどう酒による儀式によって与えられる。

すると会衆の前に並べられた品々にその生命の流れが注がれ、の生命と融合し、主みずから述べられた如くに、それが主の聖体とおん血に変わる。貴殿らが使用する祈りは〝祈願〟であると同時にの生命を受け入れることへの会衆の〝同意〟を意味します。

何となれば、同意なくしてはいかなる恩恵といえども人間に押し付けることは許されないからです。その同意は必ずしも声に出す必要はない。要は〝心〟です。

それが地球へ向けて流れくるの生命力の流れに遭遇し、オリーブ山を越えてサレムへ来られるイエスを迎えに集まった者たちと同じように、そこで合流しの流れの即時的反応を受けて再び元の会衆へ戻ってくる。

 こうして与えられる恵みは三つの形を取る。まず第一は霊と霊との交わり、すなわち祈願する者ととの交わりです。第二はその霊を包むところの身体すなわち霊体の健康と活力の増進です。そして第三がその二種類の作用の自然な結果、つまり内的活力と肉体との融合です。

 これを吾々はキリストの総身(*)の活性化と呼びます。すなわち根源からの生命の流れと合流し、一人ひとりが活力を得ることによってキリスト自身も活力を増進していくのです。

(*顕幽にわたる地球規模の自然界そのものをさす。第六章で詳しく解説──訳者)

 この聖体拝領の儀式にはもう一つの意味が秘められています。が、その説明は簡略なものに留めざるを得ません。何となれば、いかに努力してみたところで、その真相の全てを伝えることは無理だからです。吾々にも吾々の言語があるのですが(*)、それでは貴殿の方が理解できず、さりとて地上の言語では全く用を為さない。

その真相は地上の言語の痕跡を留めない上層界にわたることであり、最高界に近い崇高な界層の言語でしか伝え得ないものです。  

(*死後の世界では言語は使用されないと言われるが、音声による形態の言語は無いという意味であって、地上の各民族によって言語が異なる如く、各界層によってその表現形式の異なる言語があるようである──訳者)

 聖書にあるごとくパンとぶどう酒という二つのありふれた品物はイエスの聖体とおん血に変わる。
 
従ってそれはその言葉(マタイ26・26~29)を発したイエスの一部となったことになります。このことに関してこれまで、一体なぜ肉と骨と血でできた身体をまとっているイエスにそれが出来たのかという疑問があったようですが、実は人間は一人の例外もなく、生涯を通じてひっきりなしに、外部の物体と霊的に反応し合っている。

身にまとったものには、その人の個性が泌みこむ。手を触れるものにも住まう家にも個性が伝わり、それは永遠に消えることがない。そういう性質を生まれながらにして具えているのです。(心霊学でいうサイコメトリ現象がそれを証明している──訳者)

 イエスは、ユダヤとガリラヤにおいて病める人や不自由な者をその生命力で癒したごとく、また弟子たちに霊力を吹き込みその生命力で鼓舞したごとく、そのパンとぶどう酒に生命力の流れを注ぎ、かくしてそれは真実の意味においてイエスの身体(からだ)となり血となったのです。

 今日とて同じです。イエスは晩餐が終わればあとは十字架にかけられるのを最後に、すべてが終わりとなる身であった。そのような身の上の者が自分とからだと血を永遠のものとして授けるはずはありません。

そうではない。その時のパンとぶどう酒、十二人の弟子たち、並びにそこに参集せる者たちへ注がれたのは、その時のイエスが束の間の地上生活のためにまとい、やがて使い古した衣服のごとく棄てられる肉体と血ではなかった。

また、始源から流れくる生命力の流れの通路となったイエスの霊体でもなかった。それはイエスの霊そのもの、今も昔も変わらぬ永遠なるキリストの生命そのものであり、それは肉体があろうと無かろうと同じことであった。

なぜなら霊力や霊的エネルギーに関する限り、そうした形式は問題ではないからです。表現形式はどうあろうと、表現されるもの自体は少しも変わりません。

 それ故、最後の晩餐においてパンとぶどう酒がの願いと意図のもとに生命力の貯蔵庫となり、その意味においての聖体とおん血となったと言うのは正しいわけです。

そして又、イエスのからだがこの世から消えたからといって、そのことはの働きかけを阻止するどころか、むしろ一つの媒体がなくなったことによって、より一層容易にそして直接的に働きかけることが可能となったと言えます。

少なくとも肉体が無いということは、より流れ出る生命力がパンとぶどう酒に注がれることを妨げることにはなりません。

 それゆえ司祭が会衆の同意のもとに、パンとぶどう酒を食卓に並べ置き高き天界の在(おわ)の犠牲を祈願する時、それは実質においての御胸に手を置き、高き天使の在す天上界へ目を向け、なるの顔を見つめ、人類のためにその子イエスの愛と認識を嘆願していることになるのです。

もしその司祭が素直にして幼子の如き心の持ち主であるならば、今日でさえその手の下にの御胸の静かなる生命の鼓動を感じ取ることができるでしょう。その生命力による援助のもとに、その祈りの念は聖にして純なる天界へと送り届けられ、の祈りそのものとして嘉納されることになるのです。

        
  
 2 婚 姻                                                 
    一九一七年十二月五日 水曜日

 昨夜はサクラメントの中でもとくに深遠な意味をもつものを取り上げました。今夜はそれよりは重要性は劣るものの、キリストを主と仰ぎ絶対と信じる者の生活において見逃せない意義を持つものを取り上げたい。

吾々がサクラメントと言う時、それはキリスト教界における狭い宗教的意味で用いているのではなく、霊力の始源に一層近い位置においてその働きをつぶさに観察することのできる吾々の境涯における意味で用いております。

 まず最初に、創造的機能を具えた二つの存在の結合としての婚姻について述べましょう。人間はこれを二つの〝性〟のたどるべき自然な成り行きとして捉え、男性と女性とが一体となることで成就されると考えます。

実はそれは絶対不可欠の条件ではありません。ただそれだけのことであれば、人間を両生動物(単性生殖動物)とすればよかったことになります。

が、今日のごとき理想的形態での物的存在が確立されるよりはるか以前、最高神界において議(はか)られしのちに神々は創造の大業を推進するための摂理の一つを定められた。

それは貴殿や地上の思想家が考えるような、人類が男女二つの性に分かれるという単なる分裂としての発達ではなく、性というものを物質という存在形態への霊の発展進出のための一要素とすることであった。霊は物的形態以前から存在する。

それが物的形態に宿ることによって個性が誕生し、物的形態の進化と共にその個性を具えた自我が発達して互いに補足し合うことになった。性はあくまでも一つなのです。それが二種類から成るというまでの話です。

肉と血液とで一個の人体が構成されるように、男と女とで一個の性を構成するわけです。

 神がなぜそう決定したか。吾々の知り得たかぎりにおいて言えば、それは自我をいっそう深く理解するためである。もっとも、これは大いなる謎です。吾々とてその全貌を知るカギは持ち合わせていません。

が、男性と女性の二つの要素を創造することによって〝統一性〟の真意がいっそう理解しやすくなったと解釈しています。つまり統一が分裂して霊の世界より物質の世界へと誕生し、やがて再び霊の世界へと回帰して元の統一体を回復することにより、その統一性への理解を得るということです。

という絶対的統一体に含まれる二大原理が、それを一つとして理解し得ない者のために、二つに分離して顕現したわけです。

男性が女性を知るということは結局は自我をいっそう明確に理解することであり、女性が男性を知るのも同じく自我への理解を深めることになります。

なぜなら両者はこの物質という形態の中での生活の始まる以前においては別個の存在ではなかったのであり、したがって物質界を後にした生活において、いずれは再び一体となるべき宿命にあるのです。

 つまり天界の深奥を支配するその絶対的統一性が下層界へも及ぶためには、地上人類を構成すべき個々の存在にその二つの原理を包含させる必要があった。かくして婚姻が生じた。実にこの婚姻は人類のたどるべき宿命の折り返し点なのです。

 〝静〟の大根源が無限の発展という目的をもって〝動〟へ顕現したとき、全体を支配した基調はただ一つ〝多様性〟であった。かくしてその無数の存在の中に個性を特質と形態の原理が導入されるに至った。その多様性の最後の、そして究極の作用となったのが、貴殿らがセックスと呼んでいるところの生殖機能としての二つの性の創造であった。

 その段階において再び一体化へ向けて進化せんとする反動的衝動が生まれる。絶対的統一体すなわちへ向けての第一歩が踏み出されるのです。

 かくして物的意味における両性と同時に霊的意味における両性の融合から、その両性を一つに体現した第三の要素が誕生する。主イエスこそ人類としてのその完璧な体現者であり、その霊的本質は男性的徳性と女性的徳性のほどよく融合せるものでした。

 その大原理は身体上にも同じくあてはまります。男性の胸にはかつての女性の象徴が二つ付いているであろう。生理学者に尋ねてみるがよい。体質的にも女性的なものが含まれており、それが男性的なものと一体となって人間という一個の統一体をこしらえていることを証言してくれるであろう。

 この両性の一体化された完全無欠の人間は、これより究極の完全状態へ向けての無限の奮闘努力を通じて、己れを空しくし他を愛し他へ施しをすることが実は己れを愛し己れに施すことになること、そして又、己れの下らなさを自覚する者ほど永遠の天界において恵みを受けるという叡智に目覚めることであろう

この叡智を説いた人を貴殿はよく知っている。わざと妙なこと、謎めいた原理を語ったわけではありません。貴殿も吾々も今なおその崇高なる叡智を学びつつあるところであり、その奥義にたどり着くまでにはまだまだ果てしない道が前途に横たわっています。が、主イエスはすでにそこへ到達されたのです。

 
      
                     
  一九一七年十二月六日  木曜日

  これまで述べたことはごく手短に述べたまでであって、十分な叙述からほど遠い。述べたくても述べられないのです。たとえ述べても分量が増えるばかりで、しかもそれが貴殿の自由な精神活動の場を奪い、真意の理解を妨げることになるでしょう。

吾々としては取りあえず貴殿が食するだけのケーキの材料として程よい量の小麦を提供する。

それを貴殿が粉にしてケーキを作り、食べてみてこれはいけると思われれば、今度はご自分で小麦を栽培して脱穀し粉にして練り上げれば、保存がきくのみならず、これを読まれる貴殿以外の人へも利益をもたらすことになる。では吾々の叙述を進めましょう。

 前回の通信で婚姻が進化の過程における折り返し点であると述べましたが、この表現も大ざっぱな言い方であって、精密さに欠けます。そこで今回はこの問題の細かい点に焦点をしぼり、その婚姻の産物たる子供──男児あるいは女児──について述べてみましょう。

 生まれくる子供に四つの要素が秘められていることは(前回の通信を理解すれば)貴殿にも判るでしょう。父方から受ける男性と女性の要素と、母方から受ける女性と男性の要素です。

父方における支配的要素は男性であり、母方における支配的要素は女性です。この四つの要素、と言うよりは、一つの要素の四つの側面、もっと正確に言えば二つの主要素と二つの副次的要素とが一個の子孫の中で結合することにより、性の内的原理の外的表現であるところのそうした諸要素がいったん増加して再び一つになるという、一連の営みが行われるわけです。

 かくしてその子も一個の人間として独自の人生を開始する──無限の過去を背負いつつ無限の未来へ向けて歩を進めるのです。

 どうやら貴殿は洗礼とそれに続く按(あん)手礼(手を信者の頭部に置いて祝福する儀式)について語るものと期待しておられたようですが、そういう先入主的期待はやめていただきたい。吾々の思う通りに進行させてほしい。

貴殿からコースを指示されて進むよりも、貴殿の同意を得ながら吾々の予定通りに進んだ方が、結局は貴殿にとっても良い結果が得られます。

吾々には予定表がきちんと出来上がっているのです。貴殿は吾々の述べることを素直に綴ってくれればよいのであって、今夜はどういう通信だろうか、明日はなんの話題であろうかと先のことを勝手に憶測したり期待してもらっては困るのです。

吾々としては貴殿の余計な期待のために予定していない岬を迂回したり危険な海峡を恐る恐る通過することにならないように、貴殿には精神のこだわりを無くしてほしく思います。

吾々の方で予定したコースの方がよい仕事ができます。貴殿に指示されるとどうもうまく行かないのです。

 
──申しわけありません。おっしゃる通り私は確かに次は洗礼について語られるものと期待しておりました。サクラメントの順序を間違っておられるようです──聖餐式(せいさんしき)、それから婚姻と。でも結構です。次は何でしょうか。

(訳者注──本来の順序は洗礼が第一で聖餐式がこれに続き、婚姻はずっとあとにくる)


 〝死〟のサクラメントである。貴殿にとっては驚きでしょう。もっとも人生から驚きが無くなったらおしまいです。それはあたかも一年の四季と同じで、惰性には進歩性がないことを教えようとするものです。進歩こそ神の宇宙の一大目的なのです。

 〝死〟をサクラメントと呼ぶことには貴殿は抵抗を感じるでしょう。が、吾々は〝生〟と〝死〟を共に生きたサクラメントと見なしています。

〝婚姻〟をサクラメントとする以上はその当然の産物として〝誕生〟もサクラメントとすべきであり、さらにその生の完成へ向けての霊界への誕生という意味において〝死〟をサクラメントとすべきです。

 誕生においては暗黒より太陽の光の中へ出る。死においてさらに偉大なる光すなわち神の天国の光の中へと生まれる。どちらが上とも、どちらが下とも言えない。

〝誕生〟においては神の帝国における公権を与えられ、〝洗礼〟によって神の子イエスの王国の一住民となり、〝死〟によって地上という名のその王国の一地域から解放される。

 誕生は一個の人間としての存在を授ける。それが洗礼によって吾が王の旗印のもとに実戦に参加する資格を自覚させる。そして死によってさらに大いなる仕事に参加する───地上での実績の可なる者は義なる千軍万馬の古兵(ふるつわもの)として、〝良〟なる者は指揮官として、〝優〟なる者は統治者として迎えられるであろう。

 したがって〝死〟は何事にも終止をうつものではなく、〝誕生〟を持って始まったものを携えていく、その地上生活と天界の生活との中間に位置する関門であり、その意味において顕幽両界を取り持つ聖なるものであり、それで吾々はこれを吾々の理解する意味においてサクラメントと呼ぶのです。

 これで結果的には〝洗礼〟についても述べたことになるでしょう。詳しく述べなかったのは、主イエスの僕としての生涯におけるその重大な瞬間を吾々が理解していないからではありません。他に述べるべきことが幾つかあるからです。

そこで〝死〟のサクラメントについてもう少し述べて、それで今回は終わりとしたい。貴殿にも用事があるようですから。

 いよいよ他界する時刻が近づくと、それまでの人生の体験によって獲得しあるいは生み出してきたものの全てが凝縮し始める。これはそれまでの体験の残留エキス──希望と動機と憧憬と愛、その他、内部の自我の真の価値の表現であるところのものの一切です。

ふだんは各自の霊体と肉体の全存在を取り巻き、かつ滲み渡っている。それが死期が近づくにつれて一つに凝縮して霊体に摂り入れられ、そしてその霊体が物的外被すなわち肉体からゆっくりと脱け出て自由の身となる。それこそが天界の次の段階で使用する身体なのです。

 しかし時として死は衝撃的に、一瞬のうちに訪れることがある。そのとき霊体はまだ霊界の生活に十分な健康と生命力を具えるに至っていない。そこで肉体から先に述べた要素を抽出し霊体に摂り入れるまで上昇を遅らせる必要が生じる。

実際問題としてその過程が十分に、そして完全に終了するまでは、真の意味で霊界入りしたとは言い難い。

それは譬えてみれば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を時間をかけてゆっくりと摂取していかねばならない。

 そういう次第で吾々は〝死〟は立派なサクラメントであると言うのです。きわめて神聖なものです。

 人類の歴史において、そのゆるやかな物体の過程──人間の目にはそれが死を意味するのですが──を経ずに肉体を奪われた殉教者がいる。貴殿が想像する以上に大勢いました。が、いずれの過程を経ようと、本質においては同じです。

主イエスは死が少しも恐るべきものでないことを示さんとして、地上的生命から永遠の生命への門出を従容(しょうよう)として迎えた。

その死にざまによっては、人間の目にいかなる形式、いかなる価値として映じようが、死とは〝神の心〟より流れ出る〝生命の河〟の上流へ向けて人類がたどる、ごく当たり前の旅のエピソードであることを示したのでした。


 

    
 五章 生前と死後

 1 兵士の例                                                       
   一九一七年十二月七日 金曜日


 地球を取り巻く暗闇──光明界から使命を帯びて降りてくる霊のすべてがどうしても通過せざるを得ない暗闇を通って、地上という名の〝闘争の谷〟から光明と安らぎの丘へと、人間の群れが次から次へと引きも切らずにやってまいります。


これからお話しするのは、その中でも、右も左も弁えない無明の霊のことではなく、〝存在〟の意味、なかんずく自分の価値を知りたくてキリストの愛を人生の指針として生きてきた者たちのことです。彼らは地上においてすでに、その暗闇と煩悩の薄暮の彼方に輝く太陽が正義と公正と愛の象徴であることを知っておりました。

 それゆえ彼らはこちらへ来た時に、過ちではなかろうかと気にしながらも生きてきたものを潔く改める用意と、天界へ向けての巡礼の旅において大きく挫折しあるいは道を見失うことのないよう蔭から指導していた背後霊への信頼を持ち合わせているのです。

 それはそれなりに事実です。が、彼らにしてもなお、いよいよこちらへ到来してその美しさと安らぎの深さを実感した時の驚きと感嘆は、あたかもカンバスの上に描かれた光と蔭だけの平面的な肖像画と実物との差にも似て、その想像を超えた躍動する生命力に圧倒されます。


──判ります。私にはその真実性をすべて信じることが出来ます、リーダーさん・・・・・・あなたがそちらでそう呼ばれていることをカスリーンから聞いております・・・・・・
 でも、何か一つだけ例をあげていただけませんか。具体的なものを。

 無数にある例の中から一つだけと言われても困りますが、では最近こちらへ来たばかりの人の中から一人を選んでみましょう。現段階では吾々の班は地上界との境界近くへ行って新参の案内をする役目は仰せつかっていませんが、それを仕事としている者と常に連絡を取り合っておりますので、その体験を参考にさせてもらっています。

では、つい先ごろ壁を突き抜けてきたばかりで、通路わきの草地に横になっていた若者を紹介しましょう。


──〝壁〟というのは何でしょうか。説明していただけませんか。

 貴殿らの住む物質界では壁といえば石とかレンガで出来ていますが、吾々のいう壁は同じく石で出来てはいても、その石はしっかりと固いという意味で固形をしているのではありません。

その石を構成しているところの分子は、地上の科学でも最近発
見されたように常に波動の状態にある。そしてその分子の集合体も地上でエーテルと呼ぶところの宇宙に瀰漫する成分よりもさらに鈍重な波動によって構成されている。

そもそも〝動〟なるものは意念の作用の結果として生じるものであり、また意念を発するのは意識を持つ存在です。


したがって逆に考えれば次のようなことになりましょう。まず一個の、または複数の意識的存在がエーテルに意念を集中するとそこに波動が生じる。そしてその波動から分子が構成される。

それがさらに別のグループ(天使団と呼んでもよい)の意念の働きによって濃度の異なる凝固物を構成し、あるいは水となり、あるいは石となり、
あるいは樹木となる。

それゆえ、あらゆる物質は個性的存在である意念の物質化現象であり、その個性的存在の発達程度と、働きかけが一個によるか複数によるかによって、構成と濃度が異なるわけです。つまり意念の不断の放射がその放射する存在の発達程度に相応しい現象を生み出すわけです。


 霊界と物質界との間には常にこうした一連の摂理が働いているのです。

 さきの〝壁〟は実は地上界から放射される地上独特の想念が固まってでき、それが維持されているものです。すなわち天界へ向けて押し寄せてくる地上の想念が地上に近い界層の想念によって押し返される。

これを繰り返すうちに次第に固さが増して一種の壁のようなものを形成する。
その固さと素材は吾々霊界の者には立派に感触があるが、地上の人間には一種の精神的状態としてしか感識できません。

貴殿らがよく〝煩悶の暗雲〟だの〝霊的暗黒〟だのと漠然と呼んでいる、あれです。


 従って吾々が〝その壁は地上の人間の想念によって作られている〟と言うとき、霊の想像力の文字どおりの意味において述べているのです。全ての霊に創造力があり、肉体に宿る人間は本質的には霊です。

そしてその一人ひとりが吾々と同じく宇宙の大霊の一焦点なのです。それゆえ霊界との境界へ向けて押し寄せてくるこの想念の雲は霊的創造物であり、それを迎えうって絶えず押し返し続け地上圏内に止めているところの霊界の雲と同じです。


本質において、あるいは種類において同じということです。程度において異なるのみです。つまり程度の高い想念体と低い想念体との押し合いであり、その時々の濃度の割合によって霊界の方へ押し込んで来たり、また地上近くへ押し返されたり、を繰りかえしている。

が、それにも限界があり、全体としてみればほぼ定位置に留まっており、決して地上圏からそう遠ざかることはありません。


 さて、貴殿の質問が吾々に一つの大きなテーマを課す結果になりました。今日の地上においては未だ科学の手の届いていない領域の一つを無理して地上の言語で語ることになってしまいました。

いずれ科学が領域を広げた暁には地上の誰かが人間にとってもっと馴染みやすい用語で、もっと分かり易く説明してくれることでしょう。


──大体の流れは掴めました。どうも済みませんでした。

 さてその男は道路わきの芝生に横になっていましたが、その道は男を案内して来た者たちの住居の入り口に通じる通路でした。間もなく男は目を開いて、あたりの明るい様子に驚きの表情を見せたが、目が慣れてくると彼を次の場所まで案内するために待機している者たちの姿が見えてきた。

 最初に発した質問が変わっていた。彼はこう聞いたのである──「私のキット(*)はどうしたのでしょうか。失くしてしまったのでしょうか」(*ふつうは身の回り品のことであるが、ここでは兵士の戦闘用具──訳者)

 すると、リーダー格の者が答えた。「その通り、失くされたようですね。でも、その代りとして私たちがもっと上等のものを差し上げます」

 男が返事をしようとした時あたりの景色が目に入り,こう尋ねた。「それにしてもこんなところへ私を連れてきたのはどなたですか。この国は見覚えがありません。敵の弾丸(たま)が当たった場所はこんな景色ではありませんでしたが・・・・・・」

そう言って目をさらに大きく見開いて、今度は小声で尋ねた。「あの、私は死んだのでしょうか」

 「その通りです。あなたは亡くなられたのです。そのことに気づかれる方はそう多くはありません。私たちはこちらからずっとあなたを見守っておりました。

生まれてから大きく成長されていく様子、職場での様子、入隊されてからの訓練生活、戦場で弾丸が当たるまでの様子、等々。あなたが自分で正しいと思ったことをなさってきたことは私たちもよく知っております。


すべてとは言えないまでも、大体においてあなたはより高いものを求めてこられました。ではこれから、こちらでのあなたの住居へご案内いたしましょう」

 男は少しの間黙っていたが、そのあとこう聞いた。「お尋ねしたいことがあります。よろしいでしょうか」

 「どうぞ、何なりとお聞きください。そのためにこうして参ったのですから・・・・・・」

 「では、私が歩哨に立っていた夜、私の耳に死期が近づいたことを告げたのはあなたですか」

 「いえ、その方はここにいる私たちの中にはおりません。もう少し先であなたを待っておられます。もっとしっかりなさってからご案内しましょう。ちょっと立ってみてください。歩けるかどうか・・・・・・」

 そういわれて男はいきなり立ち上がり、軍隊のクセで直立不動の姿勢をとった。するとリーダー格の人が笑顔でこう言った。

「もう、それはよろしい。こちらでの訓練はそれとはまったく違います。どうぞ私たちを仲間と心得てついてきて下さい。いずれ命令を授かり、それに従うことになりますが、当分はそれも無いでしょう。


その時が来れば私たちよりもっと偉い方から命令があります。あなたもそれには絶対的に従われるでしょう。叱責されるのが怖くてではありません。偉大なる愛の心からそうされるはずです」


 男はひとこと「有難うございます」と言って仲間たちに付いて歩み始めた。いま聞かされたことや新しい環境の不思議な美しさに心を奪われてか、黙って深い思いに耽っていた。

 一団は登り道を進み丘の端を通り過ぎた。その反対側には背の高い美しい樹木の茂る森があり、足元には花が咲き乱れ、木々の間で小鳥がさえずっている。その森の中の小さく盛り上がったところに一人の若者が待っていて、一団が近づくとやおら立ち上がった。

そして彼の方からも近づいてくだんの兵士のところへ行って、片腕で肩を抱くようにしていっしょに歩いた。互いに黙したままだった。


 すると突如として兵士が立ち止まり、その肩にまわした腕をほどいて若者の顔をしげしげとのぞき込んだ。次の瞬間その顔をほころばせてこう叫んだ。「なんと、チャーリーじゃないか。思ってもみなかったぞ。じゃあ、あの時君はやはりダメだったのか?」

 「そうなんだ。助からなかったよ。あの夜死んでこちらへ来た。すると君のところへ行くように言われた。君にずっと付いて回って、出来るだけの援助をしたつもりだ。が、そのうち君の寿命が尽きかけていることを知らされた。

僕は君にそのことを知らせるべきだと思った。と言うのも、僕が首に弾丸を受けた時君が僕を陣地まで抱きかかえて連れて帰ってくれたが、あのとき君が言った言葉を思い出したんだ。

それで君が静かに一人ぼっちになる時を待って(死期の迫っていることを知らせるべく)できるだけの手段を試みた。あとでどうにか君は僕の姿を見るとともに、もうすぐこちらへ来るぞという僕の言葉をおぼろげながら聞いてくれたことを感じ取ったよ」

 「なるほど〝こちらへ来る〟か・・・・・・もう〝あの世へ行く〟(*)じゃないわけだ」(*第一次大戦ごろから〝死ぬ〟ということを英語で俗に go west 〝西へ行く〟と言うようになった。ここでは死後の世界から見れば〝行く〟ではなく〝来る〟となるので come west と言ったわけである──訳者)

 「そういうわけだ。ここで改めてあの夜の君の介抱に対して礼を言うよ」

 こうした語らいのうちに二人だけがどんどん先を歩んだ。と言うのも、他の者たちが気をきかして歩調を落とし、二人が生前のままの言葉で語り合うようにしてあげたのである。

 さて吾々が特にこの例を挙げたことにはいろいろとわけがあるが、その中で主なものを指摘しておきたい。


 一つは、こちらの世界では地上での親切な行為は絶対に無視されないこと。人のために善行を施した者は、こちらへ来てからその相手から必ず礼を言われるということです。

 次に、こちらへ来ても相変わらず地上時代の言語をしゃべり、物の言い方も変わっていないことです。ために、久しぶりで面会した時にひどくぶっきらぼうな言いかたをされて驚く者もいる。今の二人の例に見られるように軍隊生活を送った者がとくにそうです。

 また、こちらでの身分・階級は霊的な本性に相当しており、地上時代の身分や学歴には何の関係もないということです。この二人の場合も、先に戦死した男は軍隊に入る前は一介の労働者であり、貧しい家庭に育った。

もう一人は世間的には恵まれた環境に育ち、兵役に就く前は叔父の会社の責任のあるポストを与えられて数年間それに携わった。が、そうした地位や身分の差は、負傷した前者を後者が背負って敵の陣地から連れて帰った行為の中にあっては関係なかった。こちらへ来てからは尚のこと、何の関係もなかった。

 こういう具合に、かつての知友はこちらで旧交を温め、そしてともに向上の道に勤しむ。それというのも、地上において己れの義務に忠実であった者は、美と休息の天界において大いなる歓迎を受けるものなのです。

そこでは戦乱の物音一つ聞こえず、負傷することもなく、苦痛を味わうこともない。地上の労苦に疲れた者が避難し、生命の喜びを味わう〝安らぎの境涯〟なのです。
                   


       
  一牧師の場合                                      
 一九一七年十二月十日 月曜日
 
 前回のような例は言わば地上の戦場シーンがこの静けさと安らぎの天界で再現されるわけであるから、貴殿にとっては信じられないことかも知れませんが、決して珍しいことではありません。人生模様というものはそうした小さな出来ごとによって織なされていくもので、こちらへ来ても人生は人生です。

かつての同僚がこちらで再会し、地上という生存競争の荒波の中で培った友情を温め合うという風景は決してこの二人に限ったことではありません。

 では、さらにもう一歩踏み込んで、別のタイプの再会シーンを紹介してみよう。吾々との間に横たわる濃霧の下で生活する人々に知識の光を授けたいと思うからです。その霧の壁は人間の限られた能力では当分は突き破ることは不可能です。

いつまでもとは言いません。が、当分の間すなわち人間の霊覚がよほど鋭さを増すまでは、こうした間接的方法で教えてあげるほかはないでしょう。
 
 第二界には地上界からの他界者が一たん収容される特別の施設があります。そこでは〝選別〟のようなことが行われており、一人ひとりに指導霊が当てがわれて、霊界での生活のスタートとしてもっとも適切な境涯へ連れて行かれます。

その施設を見学すると実にさまざまなタイプの者がいて、興味ぶかいことが数多く観察されます。中には地上生活に関する査定ではなかなか良い評価をされても、確信と信念とかの問題になると、ああでもないこうでもないと、なかなか定まらない者もいます。

誤解しないで頂きたいのは、それは施設でその仕事に当たっている者に判断能力が不足しているからではありません。

新参者もまず自分自身についての理解、つまりどういう点が優れ、どういう点が不足しているか、自分の本当の性格はどうかについて明確な理解がいくまでは、はっきりとした方向決めはしない方がよいという基本的方針があるのです。

そこで新参者はこの施設においてゆっくりと休養を取り、気心の合った人々との睦(むつ)び合いと語らいの生活の中において、地上生活から携えてきた興奮やイライラを鎮め、慎重にそして確実に自分と自分の境遇を見つめ直すことになります。

 最近のことですが、吾々の霊団の一人がその施設を訪れて、ある複雑な事情を抱えた男性を探し出した。その男性は地上では牧師だった人で、いわゆる心霊問題にも関心を持ち、いま吾々が行っているような霊界との交信の可能性についても一応信じていた。

が彼はもっとも肝心な点の理解が出来ていなかった。であるから、内心では真実で有益であると思っていることでも、それを公表することを恐れ、牧師としてお座なりのことをするだけにとどまった。

肝心な問題をワキへやったのです。というのも、彼は自分には人を救う道が別にある・・・が今それを口にして騒がれてはまずい・・・・・・それはもっと世間が理解するようになってからでよい・・・・・・その時は自分が先頭に立って堂々と唱導しよう・・・・・・そう考えたのです。

 そういうわけで、真剣に道を求める人たちが彼を訪ねて、まず第一に他界した肉親との交信は本当に可能かどうか、第二にそれは神の目から見て許されるべきことであるかどうかを質しても、彼はキリスト教の聖霊との交わりの信仰を改めて説き、霊媒を通じての交わりは教会がテストし、調査し、指示を与えられるまで待つようにと述べるにとどまった。

 ところが、そうしているうちには彼自身の寿命が尽きてこちらへ来た。そしてその施設へ案内され、例によってそこで地上の自分の取った職業上の心掛けと好機の活用の仕方についての反省を求められることになっていた。

 そこへ吾々の霊団の一人が──

──まわりくどい言い方をなさらずに、ズバリ、彼の名をおっしゃってください。

 〝彼〟ではなく〝彼女〟、つまり女性です。ネインとでも呼んでおきましょう。

 ネインが訪ねたとき彼は森の小道──群葉と花と光と色彩に溢れた草原を通り抜ける道を散策しておりました。安らかさと静けさの中で、たった一人でした。というのも、心にわだかまっているものを明確に見つめるために一人になりたかったのです。

 ネインが近づいてすぐ前まで来ると、彼は軽く会釈して通り過ぎようとした。そこで彼女の方から声をかけた。

 「すみません。あなたへの用事で参った者です。お話することがあって・・・・・・」
 「どなたからの命令でしょうか」

 「地上でのあなたの使命の達成のためにの命を受けて、あなたを守護し責任を取ってこられた方です」

 「なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人ひとりが自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか」

 「たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを、私たちもこちらへ来て知らされたのです。

つまりあなたが地上で為さったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。

守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう」


 「私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の公正の概念に反することです」

 「でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。

私たちは他人の喜びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます」

 「どういう意味でしょうか。具体的におっしゃってくださいますか」

 「慈善という面で立派な仕事をなさったことは守護霊さまは喜んでおられます。神と同胞への愛の心に適ったことだったからです。が、あなたみずから受難について説かれたことを実行するまでに至らなかったことは悲しんでおられます。

あなたは世間の嘲笑の的になるのを潔(いさぎよ)しとしなかった。不興を買って牧師としての力を失うことを恐れられた。つまり神からの称賛より世間からの人気の方を優先し、暗闇の時代から光明の時代へ移り始めるまで待って、その時に一気に名声を得ようと安易な功名心を抱かれました。

が、その時あなたは意志の薄弱さと、恥辱と冷遇を物ともしない使命感と勇気の欠如のために、大切なことを忘れておられました。

つまりあなたが到来を待ち望んでいる時代はもはやあなたの努力を必要としない時代であるかも知れないこと、闘争はすでに信念強固なる他の人々によってほぼ勝ち取られ、あなたはただの傍観者として高見の見物をするのみであるかも知れないこと、又一方、その戦いにおいて一歩も後へ退かなかった者の中には、悪戦苦闘の末に名誉の戦死を遂げた者もいるかも知れないということです」


 「いったい、これはどういうことなのでしょう。あなたはいったい何の目的で私のところへ来られたのでしょうか」

 「その守護霊さまの使いです。いずれその方が直々にお会いになられますが、その前に私を遣わされたのです。今はまだその方とはお会いになれません。あなたの目的意識がもっと明確になってからです。つまりあなたの地上生活を織り成したさまざまな要素の真の価値評価を認識されてからのことです」

  「判りました。少なくとも部分的には判ってきました。礼を言います。実はこのところずっと暗い雲の中にいる気分でした。
 
なぜだろうかと思い、こうして人から離れて一人で考えておりました。あなたからずいぶん厳しいことを言われました。ではどうしたらよいのかを、ついでにおっしゃっていただけますか」

 「実はそれを申し上げるのが私のこの度の使いの目的だったのです。それが私が仰せつかった唯一の用件でした。つまりあなたの心情を推し量り、ご自身でも反省していただき、あなたに向上の意欲が見られれば守護霊さまからのメッセージをお伝えするということです。

今あなたはその意欲をお見せになられました──もっとも心の底からのものではありませんが・・・・・・。そこで守護霊さまからのメッセージをお伝えしましょう。あなたがもう少し修行なされば、その方が直々にご案内してくださいます。

その方がおっしゃるには、取りあえずあなたは第一界に居所を構えて、そこから地上へ赴いて、こちらの光明の世界の者との交信を求めている人たちの気持ちをよく汲み取り、その人たちをキリストの光明と安らぎへ向けて向上させてあげるために慰めと勇気づけのメッセージを送ることに専念している(光明界の)人たちの援助をなさることです。

あなたの教会の信者だった人の中には、悲しみに打ちひしがれた人たちのために交霊会を開き、他界した肉親との交信をさせて喜ばせ、かつ、自らも喜びを得ようと努力しておられる人もいます。

今こそあなたはその人たちのところへ赴き、あなたの存在を知らしめ、あなたが地上時代に説かれたことを撤回するなり、語るべきでありながら勇気がなくて語らずに終わった真理を説いて聞かせるなりすべきです。これは恥を忍ばねばならないことではあります。

でも、それによって地上の信者は大いに喜びを得るでしょうし、あなたの潔い態度に好意を抱くことでしょう。と言うのは、その方たちはすでに今のあなたの位置よりはるかに高い天界からの愛の芳香を嗅ぎ取っているのです。

でも、どうなさるかはあなたの自由意志に任されております。言われる通りになさるなり、拒否なさるなり、どうぞご自由になさってください」


 彼はしばし黙して下を向いていた。必死で思いを廻らしていた。その心の葛藤は彼のようなタイプの人間にとって決して小さなものではなかった。果たせるかな彼は決断に到着することが出来ず、後でもっとよく考えてからご返事しますとだけ述べた。

怖れと優柔不断という、かねてからの彼の欠点が相も変わらず彼をマントの如くおおい、その一線を突き破りたくても突き破れなくしていた。ネインは自分の界へ戻って行った。
が、彼女が求めに来た嬉しい返事を携えて帰ることはできなかった。


──それで結局彼はどうしました? どういう決断をしたのでしょうか。

 このあいだ聞いたところでは、まだ決めていないとのことでした。もっとも、この話はつい最近のことで、まだ結末に至る段階ではありません。彼の自由意志によって何らかの決断を下すまでは結末はあり得ないでしょう。

貴殿が催される〝交わりの集会〟へは彼のような立場の霊が大勢参加するものです。 


──交わりの集会というのは聖餐式のことでしょうか。それとも交霊会のことでしょうか。

 どう言い変えたところで同じでしょう。確かに地上の人間に取っては両者は大いに違うでしょうが、吾々には地上の基準で考えているのではありません。どちらにせよ同じ目的、つまり両界の者と主イエスとの交わりを得るためです。吾々にとってはそれだけで十分です。

 ところで吾々が派遣した女性のことですが、貴殿はなぜこのような使命を女性が担わされたのか──キリスト教の牧師を相手にしてその行為と態度を論じ合わせたのはなぜかと思っておられる。その疑問にお答えしましょう。

 答えは至って簡単です。実は彼には幼少時代に一人の妹がいたのですが、それがわずか二、三歳で夭折した。そして彼一人が成人した。例の女性がその妹です。

彼はその妹を非常に可愛がっていた。であるから、もしもその人生においてもう一段高い霊性を発揮していたら、たとえその後の彼女が美しく成人していても、すぐに妹と知れたはずです。が、低き霊性故に彼の視界は遮られ、視力は曇らされ、遂に彼女は自分が実の妹であることに気づいてもらえないまま去って行った。

 げに吾々は、喜びにつけ悲しみにつけ一つの家族のようなものであり、それを互いに分かち合わねばならない。主イエスも地上の人間の罪と愛、すなわち喜びと悲しみを身を持って体験されたのですから。


  
   
 六章 宇宙の創造原理・キリスト  

1 顕現としてのキリスト                       
   一九一七年十二月十一日 火曜日


  こうして通信を送るために地上へ降りてくる際に吾々が必ず利用するものに〝生命補給路〟(ライフライン)とでも呼ぶべきものがあります。それを敷設するのにかなりの時間を要しましたが、それだけの価値は十分にありました。初めて降りた時は一界また一界とゆっくり降りました。

各界に特有の霊的な環境条件があり、その一つひとつに適応しなければならなかったからです。

 これまで何度往復を繰り返したか知れませんが、回を重ねるごとに霊的体調の調節が容易になり、最初の時に較べればはるかに急速に降下できるようになりました。

今では吾々の住まいのある本来の界での行動と変わらぬほど楽々と動くことができます。かつては一界一界で体調を整えながらだったのが、いまでは一気に地上まで到達します。最初に述べたライフラインが完備しており、往復の途次にそれを活用しているからです。


──あなたの本来の界は何界でしょうか。

 ザブディエル殿の数え方に従えば第十界となります。その界についてはザブディエル殿が少しばかり述べておられるが、ご自身は今ではその界を後にして次の界へ旅立っておられる。

その界より上の界から地上へ降りて来れる霊は少なく、それも滅多にないことです。

降りること自体は可能です。
そして貴殿らの観念でいう長い長い年月の間にはかなりの数の霊が降りてきていますが、それは必ず何か大きな目的───その使命を自分から買って出るほどの理解力を持った者が吾々の十界あるいはそれ以下の界層に見当たらないほどの奥深い目的がある時にかぎられます。

ガブリエル(第二巻三章参照)がその一人であった。今でもの使者として、あるいは遠くへあるいは近くへの指令を受けて赴いておられる。が、そのガブリエルにしても地上近くまで降りたことはそう滅多にない。

 さて、こうして吾々が地上界へ降りて来ることが可能なように、吾々の界へも、さらに上層界から高級な天使がよく降りて来られる。それが摂理なのです。

その目的も同じです。すなわち究極の実在へ向けて一歩一歩と崇高さを増す界を向上していく、その奮闘努力の中にある者へ光明と栄光と叡智を授けるためです。


 かくして吾々は、ちょうど貴殿ら地上の一部の者がその恩恵に浴するごとく、これからたどるべき栄光の道を垣間見ることを許されるわけです。そうすることによって、はるか彼方の道程についてまったくの無知であることから免れることができる。

同時に、これは貴殿も同じであるが、時折僅かの間ながらもその栄光の界を訪れて、そこで見聞きしたことを土産話として同胞に語り聞かせることも許されます。


 これで判るように、の摂理は一つなのです。今おかれている低い境涯は、これより先の高い境涯のために役立つように出来ています。

吾々の啓発の使命に喜んで協力してくれる貴殿が未来の生活に憧れを抱くように、吾々は吾々で今おかれている境涯での生活を十分に満喫しつつ、の恩寵と自らの静かな奮闘努力によって、これよりたどる巡礼の旅路に相応しい霊性を身につけんと望んでいるところです。


 そういう形で得られる情報の中に、キリストの霊と共に生活する大天使の境涯に関する情報が入ってくる。渾然一体となったその最高界の生活ぶりは、天使の表情がすなわちキリストの姿と目鼻だちを拝すること、と言えるほどです。

 底知れぬ静かな潜在的エネルギーを秘めた崇高なる超越的境涯においては、キリストの霊は自由無碍なる活動をしておられるが、吾々にとってその存在は〝顕現〟の形をとって示されるのみです。が、その限られた形体においてすら、はや、その美しさは言語に絶する。

それを思えば、キリストの霊を身近に拝する天使たちの目に映じるその美しさ、その栄光はいかばかりであることであろう。


──では、あなたもそのキリストの姿を拝されたことがあるわけですね。

 顕現としては拝しております。究極の実在としてのキリストの霊はまだ拝したことはありませんが・・・・・・。


──一度でなく何度もですか。

 いかにも。幾つかの界にて拝している。権限の形においては地上界までも至り、その姿をお見せになることは決して珍しいことではない。ただし、それを拝することの出来る者は幼な子のごとき心の持主と、苦悶の中にキリストの救いを痛切に求める者にかぎられます。


──あなたがキリストを拝された時の様子を一つだけお話ねがえませんか。

 では、先日お話した〝選別〟の行われる界で、ちょっとした騒ぎが生じた時のお話をお聞かせしましょう。その時はことのほか大ぜいの他界者がいて大忙しの状態となり、少しばかり混乱も起きていた。

自分の落着くべき場所が定まらずにいる者をどう扱うかで担当者は頭を痛めていた。
群集の中の善と悪の要素が衝突して騒ぎが持ち上がっていたのです。

というのも、彼らは自分の扱われ方が不当であると勝手に不満を抱きイラ立ちを覚えていたのです。こうしたことはそう滅多に起きるものではありません。が、私自身は一度ならずあったことを知っております。


 誤解しないでいただきたいのは、そこへ連れて来られる人たちは決して邪悪な人間ではないことです。みな信心深い人間であり、あからさまに不平を口にしたわけではありません。心の奥では自分たちが決して悪いようにはされないことを信じている。

ただ表面では不安が過(よぎ)る。
その明と暗とが複雑に絡んで正しい理解を妨げていたのです。

口先でこそ文句は言わないが、心では自分の置かれた境遇を悲しみ、正しい自己認識への勇気を失い始める。よく銘記されたい。自分を正しく認識することは、地上でそれを疎かにしていた者にとっては大変な苦痛なのです。


地上よりもこちらへ来てからの方がなお辛いことのようです。が、この問題はここではこれ以上深い入りしないことにします。

 さきの話に戻りますが、そこへその界の領主を勤めておられる天使が館より姿を見せられ、群集へ向けて全員こちらへ集まるようにと声を掛けられた。

みな浮かぬ表情で集まって来た。多くの者がうつ向いたまま、その天使の美しい容姿に目を向ける気さえ起きなかった。柱廊玄関から出て階段の最上段に立たれた天使は静かな口調でこう語り始めた──なぜ諸君はいつまでもそのような惨めな気持ちでいるのか。


これよりお姿をお見せになる方もかつては諸君と同じ立場に置かれながらもの愛を疑わず、首尾よくその暗雲を突き抜けてのもとへと帰って行かれた方であるぞ、と。

 首をうなだれたまま聞いていた群集が一人また一人と顔を上げて天使の威厳ある、光輝あふれる容姿に目を向け始めた。その天使は本来はずっと高い界層の方であるが、今この難しい界の統治の任を仰せつかっている。

その天使がなおも叡智に溢れた話を続けているうちに、足もとから霧状のものが発生しはじめ、それが全身を包みこみ、包まれた容姿がゆっくりとその霧と融合し、マントのようなものになった。その時はもはや天使の姿は見えなかった。が、それが凝縮して、見よ! 

今度は天使に代って階段上の同じ位置に、その天使より一段と崇高な表情と一段と強烈な光輝を放つ姿をした、別の天使の姿となりはじめたではないか。

その輝きがさらに強烈となっていき、眼前にその明確な容姿を現わした時、頭部に巻かれたイバラの飾り輪の下部と胸部には、いま落ちたばかりかと思われるほどの鮮血の跡が見て取れた。が、


いやが上にも増していく輝きに何千何万と数える群集の疲れた目も次第に輝きを増し、その神々しい容姿に呆然とするのであった。

今やそのイバラの冠帯は黄金色とルビーのそれと変わり、胸部の赤き血痕は衣装を肩で止める締め金具と化し、マントの下にまとうアルバ(祭礼服の一種)は、その生地を陽光の色合いに染めた銀を溶かしたような薄地の紗織の中で、その身体からでる黄金の光に映えていた。


その容姿はとても地上の言語では説明できない。その神々しき天使は他ならぬ救世主イエス・キリストであるという以外に表現のしようがないのである。

その顔から溢れでる表情は数々の天体と宇宙の創造者の一人としての表情であり、それでありながらなお、頭髪を額の中央で左右に分けた辺りに女性的優しさを漂わせていた。冠帯は王として尊厳を表わしていたが、流れるようなその頭髪の優しさが尊大さを掻き消していた。

長いまつげにはどこかしら吾々に優しさを求める雰囲気を漂わせ、一方、その目には吾々におのずと愛と畏敬の念を起こさせるものが漂っていた。

 さて、その容姿はゆっくりと大気の中へ融合していった──消えていったとは言わない──吾々の視力に映じなくなっていくのをそう感じたまでだからです。その存在感が強化されるにつれて、むしろその容姿は気化していったのです。

 そしてついに吾々の視界から消えた。するとその場に前と同じ領主の姿が現われた。が、その時は直立の姿勢ではなかった。片ひざをつき、もう一方のひざに額を当て、両手を前で組んでおられた。

まだ恍惚たる霊的交信状態にあられるので、吾々はその場を失礼した。その時はじめて吾々の足取りが軽く心が高揚されているのに気づいた。もはや憂うつさは消え、いかなる用事にも喜んでいつでも取り掛かれる心境になっていた。

入神状態にあられる領主は何も語られなかったが、〝私は常にあなたたちと共にあるぞ〟という声が吾々の心の中に響いてくるのを感じた。吾々は満足と新たな決意を秘めて再び仕事へ向かったのでした。
 

   
 
 イエス・キリスト                                  
    一九一七年十二月十二日 水曜日


 吾々のことを想像なさる時、はるか遠くにいると思ってはなりません。すぐ近くにいます。貴殿は直接書いているのがカスリーンであるから吾々はどこか遠く離れたところから彼女へ思念を送っていると考えておられるようですが、そうではない。

霊的身体を調節しながら降下してくる難しさを克服した今、貴殿のすぐ近くに来るために思念を統一することは容易です。天界においても同じですが、地上にも霊格の格差というものがあります。

吾々にとっては、動物的次元からさほど霊的に進化していない人類に近づくことは敢えて不可能とは言わないにしても、きわめて困難なことです。一方、吾々に憧憬の念を抱いてくれている人に対しては、吾々としても精一杯努力してその人が背のびできる最高の段階で折合うようにする。

貴殿の場合もそうです。これで少しは貴殿の気休めになると思うのですが如何でしょう。


──初めの説明は私もそう理解しておりました。しかし、あとの方の説明が事実だとするとカスリーンは必要ないことになりませんか。

 そのことに関しては以前に少なくとも部分的には説明したつもりですが、ここで少しばかり付け加えておきましょう。貴殿に知っておいていただきたい事実が二、三あります。

すなわち──まず霊団の大半がかなり古い時代の人間であるのに較べてカスリーンは貴殿の時代に近いことがあげられます。


そのため平常時においては吾々より貴殿の霊的状態に近く、吾々は貴殿の内的自我とは接触できても、言語能力とか指の運動能力を司る部分つまり肉体の脳への働きかけとなるとカスリーンの方が容易ということになります。

また吾々の思念を言語に転換する際にも彼女が中継してうまくやってくれます。もっとも、それはそれとして、貴殿と吾々とは完全に調和状態で接触していることは事実です。



──質問があるのですが・・・・・・

 どうぞ──ただ一言ご注意申し上げるが、貴殿は知識が旺盛な余り先を急ぎすぎる嫌いがあります。一つ尋ねて、それが片付いてなお余裕のある時にさらに次の質問をお受けしましょう。


──
どうも。キリストの地上への降下の問題についてですが、肉体に宿るべく父の住処を離れたあと地上へ至るまでの途中の界層の一つ一つで環境条件に波長を合わせていく必要があったと思われます。キリストほどの高い境涯から降りてくるには余ほどの〝時〟を閲(けみ)する必要があったと思うのですが・・・・・・。


 吾々が教わったかぎりにおいて言えば、キリストは地球がまだ形体を持つに至る以前、すなわち非物質的存在の時から存在していた。

そして、いよいよ物質が存在し始めたとき宇宙神は、
物的宇宙を今貴殿らが知るところの整然とした星座とするために、キリストをその霊力の行使の主宰霊 Master Spirit とされた。

が、存在はしても、当時まだ物的宇宙に形態がなかったごとくキリストの霊みずからも形態を具えていなかった。
そして宇宙が物的形態を賦与された時にまず霊的形態を具え、それから物的形態を具えるに至った。

当時の天地創造の全現象の背後にキリストの霊が控え、無限の時を閲して混沌(カオス)より整然たる宇宙(コスモス)へと発展するその道程はすべてキリストの霊を通して行われたのであった。それは混沌たる状態を超越するあの強大な存在による外部からの働きかけなくしては不可能であった。

何となれば、秩序に欠けるものから秩序を生ずるということは、新たな要素を加えずしては有り得ないからである。かくして宇宙はキリスト界とカオスとの接触の産物にほかならない。

 カオスとは物質が 未知の可能性を秘めた状態である。コスモスとは物質がその潜在力を発現した状態である。とは言え、その顕現されたものは〝静〟の状態を〝動〟の状態へと転じさせた、その原動的エネルギーの現象的結果に過ぎない。

動とはつまるところ潜在的意念の活動の総計である。意念はその潜在的状態から顕現へと転換する過程においては、その創造力として働く意念の性質に相応しい動の形を取る。

かくして万物の創造主はキリストの意念を通してその創造活動を悠久の時の流れの中で行使し続け、ついにコスモスを生んだのである。

 さて以上の説明によって吾々が抱いている概念をいくらかでも明確にすることが出来たとすれば、キリストが物質的宇宙の創造の当初より存在していたこと、それ故に地球が徐々に物質性を帯び、形態を整え、ついには顕著な年代的特徴を刻んでいくに至るその全過程において存在し続けていたことが解るであろう。

言いかえれば地球それ自体が創造原理を宿し、それに物的表現を与えていったということである。そのことは地球そのものから鉱物と植物と動物という生命形態が生まれてきた事実によって知れる。そこで、友よ、結局いかなることになると思われるか。

ほかでもない。地球並びに物的全宇宙はキリストの身体にほかならないということです。


──地上に誕生したあのキリストですか。

     と一体なるキリスト、そして一体なるが故にの個性の一部であったところのキリストです。ナザレ人イエスは父の思念の直接の表現体であり、地球人類救済のためのキリストとして肉体をまとったのです。

友よ、貴殿の心に動揺が見られるが、どうか思念の翼を少しばかり広げていただきたい。
 
 太陽系の他の惑星上には人類とは異なる知的存在が生活を営んでいる。他の太陽系の惑星上にもまた別の存在が生活を営んでいる。さらに他の星雲にもおよびそのキリストとの間に人類と同じつながりを持つ存在がいて、人類と同じように霊的交わりを持つことが出来る。

が彼らの形態は人類とは異なり、思念の伝達も、人類が言語と呼んでいる方法とは異なる。それでいて創造神とそのキリストとの関係は人類の場合と同じなのです。

彼らにとってもキリストは彼らなりの形態を持って顕現する必要があったのであり、今なお必要です。が、それはナザレ人イエスと同じ人間的形態をまとって現われるのではありません。それでは彼らには奇異に思われるでしょう。否、それ以上に、意味がないでしょう。

彼らには彼らなりの形態をとり、交信方法も彼ら独自のものがあり、彼らなりの合理的プロセスを活用している。こうしたことは、地動説を虚空にかなぐり棄てながらも精神的には相も変わらずまるでミイラの如く物的観念によってぐるぐる巻きにされている者にとっては、およそ納得のいかないことでしょう。

彼らはその小さい世界観から一歩も出ることが出来ず、創造神にとって重大な意義を持つ天体がこの地球以外にも存在することが得心できないのです。

 そこで吾々はこう表現しておきましょう──ガリラヤに来たキリストは宇宙的キリストの地球的顕現に過ぎない。が、真のキリストであるという点では同じである、と。

 では結論を述べるとしよう。もっとも、以上述べた程度では無窮の宇宙の美事な韻律が綴った荘厳にして華麗なる物語、星雲の誕生と結婚、そしてそこから生まれた無数の恒星の物語のほんの一章節ほどにも満たないでしょう。

 要するにキリストは、エネルギーが霊的原動力の活性化によって降下──物質化と呼んでもよい──
していく過程の中で降下していったということです。鉱物もキリストの生命の具現です。

何となればあらゆる物質がキリストの生命から生まれているからです。バラもそうです。

ユリもそうです。あらゆる植物がキリストの生命を宿しており、一見ただの物質でありながら美しさと素晴らしさを見せるのはその生命ゆえであり、そうした植物的生命も理性へ向けて進化しているのです。

しかし植物に宿っているかぎりその生命は、たとえ最高に進化しても合目的的活動の片鱗を見せるに留まるでしょう。キリスト的生命はまた地上の動物にも顕現しています。

動物も人間と同じくキリスト的生命の進化したものだからです。キリストの意念の最高の表現が人間であった。

それがやがて不可視の世界から可視の世界へと顕現した。つまり人間を創造したキリストみずからが人間となったのです。つまり人間に存在を与え存続させているキリストがその思念を物質に吹き込み、それがナザレ人イエスとなって顕現したのです。

それゆえ創造神より人類創造のための主宰権を委託されたキリストみずからが、その創造せる人間の子となったということです。

(質問に対する答えは)以上で十分であろう。さらに質問があれば、それは次の機会まで待っていただくことにしましょう。神とそのキリストは──その共同作業が人間を生んだのですが──貴殿がその親子関係と宿命を理解し、さらに他の者にも理解させんとする努力を多とされることでしょう。

 
 
  
 3 究極の実在                                         
   一九一七年十二月十四日 金曜日

  前回は貴殿の質問にお答えして物質界へのキリストの降下について述べました。ではこれより本題に戻って、これまでの続きを述べさせていただこうと思います。

今回の話は物的コスモスの深奥へ下って行くのではなく霊的コスモスへの上昇であり、その行き着く先は貴殿らが〝父なる住処〟と呼ぶところの境涯です。そこが現段階での人類の想像力の限界であり、存在の可能性へ向けての人類の思考力もそこから先へ進むことは不可能です。

 それに、こちらへ来て見て吾々もというものが本質は確かに崇高この上ないとは言え、まだ存在のすべてではないということを知るに至りました。

物質界を超えたところに霊界があるごとく、人智を超えた光と、至純の中に至誠を秘めた、遠く高き界層のそのまた彼方に、のみの存在にあらずして、たるものの本質をすべて自己の中に収めてしまい、霊的存在のすべてを包含して、さらに一段と高き崇高さを秘めた宇宙を構成している実在が存在するということです。


(訳者注──モーゼスの『霊訓』によると地上を含めた試練と浄化のための境涯のあとに絶対無の超越界があるという。右の説はそれを指しているものと推察される。が、その超越界の一歩手前まで到達しているイムペレーター霊でも、その先がどうなっているかについては何も知らないという)

 惑星の輝きは中心に位置する太陽の放射物のごく一部にすぎず、しかもそれ自体の惑星的特質による色彩を帯びているごとく、物的宇宙は霊の影響をごく僅かだけ受け、その特質による色彩を帯びたものを反射することによって、同じように霊的宇宙の質を向上させ豊かにする上で少しづつ貢献している。

がその太陽とて自己よりはるかに大きい、恒星の集団である星雲の中のごく小さな一単位である太陽系の一部にすぎないように、の世界も吾々の理解力をはるかに超えた規模と崇高性を具えたもう一つ別の存在の宇宙の一部にすぎない。

そして星雲もさらに広大な規模の集合体の一単位に過ぎない──これ以上広げることは止めにしましょう。理性と理解力を頼りとしながら道を探っている吾々には、これ以上規模を広げていくと、あまりの驚異に我を忘れてしまう恐れがあるからです。

 それ故に吾々としては本来の栄光の玉座へと戻られたキリストの後に付いて、いつの日かそのお側に侍(はべ)ることを夢見て、幾百億と知れぬ同志と共に数々の栄光に満ちた天界の道を歩むことで満足しようではありませんか。

 無窮の過去より無窮の未来へと時が閲するにつれてキリストの栄光もその大きさを増していきます。

何となれば天界の大軍に一人加わるごとに王国の輝きにさらに一個の光輝を添えることになるからです。吾々が聞き及んだところによれば、その光輝は、天界の最も遠く高き界層の目も眩まんばかりの高所より眺めれば、あたかも貴殿らが遠き星を見つめるごとくに一点の光として映じるという。

瀰漫する霊の海の中にあってはキリスト界の全境涯は一個の巨大な星であり、天界の高所より眺めればその外観を望むことができる。もっとも、このことは今の吾々には正しく理解することはできません。が、ささやかながらも、およそ次のようなことではあるまいかと思う。

 地上から太陽系全体を一つの単位として眺めることは不可能であろう。地球はその組織の中に包まれており、そのごく一部に過ぎないからです。が、アークツルス(牛飼座の一つ)より眺めれば太陽系全体が一つの小さな光球として見えることであろう。その中に太陽も惑星も衛星も含まれているのです。

同じように。そのアークツルスと他の無数の恒星を一個の光球と見ることのできる位置もあるでしょう。かくして、キリストの王国と各境涯を一望のもとに眺めることのできる超越的境涯がはるか彼方に存在するというわけです。

そしてその全組織は、それを構成する生命が物質性を脱して霊性へと進化してゆく悠久の時の流れの中で少しずつ光輝を加えていく。


つまり私は霊的宇宙全体を一つの恒星に見立て、それを一望できる位置にある高き存在を、霊の界層を超越した未知と無限の大いなる〝無〟の中の存在と見なすのです。

 その超越界と吾々第十界まで向上した者との隔たりは、貴殿ら地上の人間との隔たりとも大して差がないほど大きいものです。かりに人間から吾々までの距離を吾々と超越界との距離で割ったとすれば、その数値は計算できないほどの極小値となってしまうでしょう。

 が、恒星の集団のそのまた大集団が、悠久とはいえ確実なゴールへ向けて秩序整然たる行進を続けているごとく、霊の無数の界層もその宿命へ向けて行進している。その究極においては霊の巡礼の旅路は超越界へと融合し、そこに完全の極地を見出すことでしょう。

 その究極の目標へ向けてキリストはまず父の御胸より降下してその指先でそっと人類に触れられた。その神的生命が、魂の中に息づく同種の生命に衝動を与えて、人類は向上進化の宿命に目覚めた。そして至高の君主の後に付いて、他の天体の同胞に後れを取らぬように、ともに父の大軍として同じ目標へ向けて行進し続けているのです。
 
 
──一つよく理解できないことがあります。吾らがは幼な子の純心さについて語ってから〝神の御国はかくの如き者のものなり〟と述べています。あなたのこれまでのお話を総合すると、私たちは年を取るにつれて子供らしさの点において御国に相応しくなくなっていくという風に受け取れるように思います。

たしかに地上生活については私も同感です。が、これでは後ろ向きに進行する、一種の退行現象を意味することになるでしょう。

しかも地上生活が進化の旅の最初の段階であり、それが死後のいくつもの界層まで続けられるとすると、子供らしさを基準として進化を測るのは矛盾するように思えます。その点をどう理解したらよいでしょうか。


 
 子供はいくつかの資質と能力とを携えてこの世に生まれてきます。ただし幼少時の期間は無活動で未発達の状態にある。存在はしていても居睡りをしているわけです。それが精神的機能と発達とともに一つ一つ開発され使用されるようになる。

そうすることによって人間はひっきりなしに活動の世界を広げ、そして、広げられた環境が次から次に新しいエネルギーを秘めた界層と接触することによって、そのエネルギーを引き寄せることができるようになる。

私のいうエネルギーは創造性と結合力と霊的浄化力とを秘め、さらには神の本性を理解させる力も有しています。

それらの高度なエネルギーをどこまで活用できるか──霊的存在としても人間の発達はそれに掛かっています。幼な子を御国の者になぞらえるのはその心が父なる神の心に反しない限りにおいてのことです。

人間の大人もその能力の開発の道程においてはそのことを銘記し幼な子の如き心を失わなければ、その限りなく広がりゆく霊的能力は壮大な神の目的に沿って、人類ならびに宇宙的大家族の一員であるところの他の天体の知的存在の進化のために使用されることになるでしょう。

が、もし年齢的ならびに才能上の成長とともに幼児的特質であるところの無心の従順さを失っていくとしたら、それは神の御心にそぐわなくなることを意味し、車輪の回転を鈍らせる摩擦にも似た軋みが生じ、次第に進化の速度が鈍り、御国の辺境の地へと離れていき、離れるにつれて旅の仲間との調和が取れにくくなる。

一方その幼児的従順さを失わず、生命の旅において他の美徳を積む者は、退行することなくますます御国の子として相応しい存在となって行く。

ナザレのイエスがまさしくその見本でした。その生涯の記録の書から明確に読み取れるように、父なるの御子として、その心は常に御心と完全に一体となっていた。少年時代にあってもその心を占めていたのは父なるについてのことばかりであった。

(修行時代に)自己中心的にならず世俗的欲望から遠ざけたのは父の館であった(*)

ゲッセマネの園にあってもあくまで父の御心と一体を求めた(**)。十字架上にあっても父のお顔を振り返ろうとした。しかしそのお顔は地上時代の堕落の悪気によって完全に覆いかくされていた。が、それでもその心は神の御心から片時もそれることなく、肉体を離れるや否やへ向けて一気に旅立って行った。

さらにイースターの日にはマグダラのマリヤに約束された如く(***)その日をへの旅路の道標としてきっと姿をお見せになる。

パトモス島の予言者ヨハネが天界の大聖堂にて主イエスと再会した時、イエスはヨハネに対してご自分が父の御心と完全に一体となっていたことを父が多とされて、天界にても地上と同じように、霊力と共に最高の権威を委ねられたと述べた。

吾々のごとく地上にてはささやかな記録(バイブル)を通じて知り、こちらへ来てからは直々にそのお姿を拝した者が、汚れなき霊性に霊力と完成された人間性の威厳が融合し、その上に神性の尊厳を具えた童子性をに見出して何の不思議があろう。

 さよう。友よ、の御国の童子性を理解するのは天界の高き境涯にまで至った者のみなのです。


(*モーゼスの『霊訓』によると、イエスの背後霊団は一度も肉体に宿ったことのない天使団、日本神道で言う〝自然霊〟によって構成され、イエスも自分が出世前その霊団の最高の地位(クライ)にあったことを自覚し、一人でいる時は大てい肉体から脱け出てその霊団と交わっていたという。

**ゲッセマネとはイエスがユダに裏切られ生涯で最大の苦悶に遭遇した園。父との一体を求めたというのはその時に発した次の言葉のことで、祈りの最高の在り方としてよく引用される──〝父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給え。しかし私の望みより、どうか御心のままになさらんことを〟。***マルコ16・9~11。訳者)
 


      
 七章 善悪を超えて
 
 1 聖堂へ招かれる                
  一九一七年十二月十七日  日曜日


 これまで吾々は物的宇宙の創造と進化、および、程度においては劣るが、霊的宇宙の神秘について吾々の理解した限りにおいて述べました。

そこには吾々の想像、そして貴殿の想像もはるかに超えた境涯があり、それはこれより永い永い年月をかけて一歩一歩、より完全へ向けて向上していく中で徐々に明らかにされて行くことでしょう。吾々がそのはるか彼方の生命と存在へ向けて想像の翼を広げうるかぎりにおいて言えば、向上進化の道に究極を見届けることはできません。

それはあたかも山頂に源を発する小川の行先をその山頂から眺めるのにも似て、生命の流れは永遠に続いて見える。流れは次第に大きく広がり、広がりつつその容積の中に水源を異にするさまざまな性質の他の流れも摂り入れていく。人間の生命も同じです。

その個性の中に異質の性格を摂り入れ、それらを融合させて自己と一体化させていく。

川はなおも広がりつつ最後は海へ流れ込んで独立性を失って見分けがつかなくなるごとく、人間も次第に個性を広げていくうちに、誕生の地である地上からは見きわめることの出来ない大きな光の海の中へ没入してしまう。

が、
海水が川の水の性分を根本から変えてしまうのではなく、むしろその本質を豊かにし新たなものを加えるに過ぎないように、人間も一方には個別性を、他方には個性を具えて生命の大海へと没入しても、相変わらず個的存在を留め、それまでに蓄積してきた豊かな性格を、初めであり終わりであるところの無限なるもの、動と静の、エネルギーの無限の循環作用の中の究極の存在と融合していきます。

また、川にいかなる魚類や水棲動物がいても、海にはさらに大きくかつ強力な生命力を持つ生物を宿す余裕があるごとく、その究極の境涯における個性とエネルギーの巨大さは、吾々の想像を絶した壮観を極めたものでしょう。

 それゆえ吾々としては差し当たっての目標を吾々の先輩霊に置き、吾々の方から目をそらさぬかぎり、たとえ遠くかけ離れてはいても吾々のために心を配ってくれていると知ることで足りましょう。

生命の流れの淵源は究極の実在にあるが、それが吾々の界そして地上へ届けられるのは事実上その先輩霊が中継に当たっている。そう知るだけで十分です。吾々は宿命という名の聖杯からほんの一口をすすり、身も心も爽やかに、そして充実させて、次なる仕事に取り掛かるのです。


──どんなお仕事なのか、いくつか紹介していただけませんか。

 それは大変です。数も多いし内容も複雑なので・・・・・・。では最近吾々が言いつけられ首尾よく完遂した仕事を紹介しましょう。
 
 吾々の本来の界(第十界)の丘の上に聖堂が聳えています。


──それはザブディエル霊の話に出た聖堂──〝聖なる山〟の寺院のことですか。(第二巻八章4参照)


 同じものです。〝聖なる山〟に聳える寺院です。何ゆえに聖なる山と呼ぶかと言えば、その十界をはじめとする下の界のためのさまざまな使命を帯びて降りて来られる霊が格別に神聖だからであり、又、十界の住民の中で次の十一界に不快感なしに安住できるだけの神聖さと叡智とを身につけた者が通過して行くところでもあるからです。

それには長い修行と同時に、十一界と同じ大気の漂うその聖堂と麓の平野をたびたび訪れて、いずれの日にか永遠の住処となるべき境涯を体験し資格を身につける努力を要します。

 吾々はまずその平野まで来た。そして山腹をめぐって続いている歩道を登り、やがて正門の前の柱廊玄関(ポーチ)に近づいた。


──向上するための資格を身につけるためですか。

 今述べた目的のためではありません。そうではない。十一界の大気はいつもそこに漂っているわけではなく、向上の時が近づいた者が集まる時節に限ってのことです。

 さてポーチまで来てそこで暫く待機していた。するとその聖地の光輝あふれる住民のお一人で聖堂を管理しておられる方が姿を現わし、自分と一緒に中に入るようにと命じられた。吾々は一瞬ためらいました。吾々の霊団には誰一人として中に入ったことのある者はいなかったからです。

するとその方がにっこりと微笑まれ、その笑顔の中に〝大丈夫〟という安心感を読み取り、何の不安もなく後ろについて入った。その時点まで何ら儀式らしいものは無かった。そして又、真昼の太陽を肉眼で直視するにも似た、あまりの光輝に近づきすぎる危険にも遭遇しなかった。

 入ってみるとそこは長い柱廊になっており、両側に立ち並ぶ柱はポーチから聖堂の中心部へ一直線に走っている梁(はり)を支えている。ところが吾々の真上には屋根は付いておらず無限空間そのもの──貴殿らのいう青空天井になってる。

柱は太さも高さも雄大で、そのてっぺんに載っている梁には、吾々に理解できないさまざまなシンボルの飾りが施してある。中でも私が自分でなるほどと理解できたことが一つだけある。

それはぶどうの葉と巻きひげはあっても実が一つも付いてないことで、これは、その聖堂全体が一つの界と次の界との通路に過ぎず、実りの場ではないことを思えば、いかにもそれらしいシンボルのように思えました。

その長くて広い柱廊を一番奥まで行くとカーテンが下りていた。そこでいったん足を止めて案内の方だけがカーテンの中に入り、すぐまた出て来て吾々に入るように命じられた。

が、そのカーテンの中に入ってもまだ中央の大ホールの内部に入ったのではなく、ようやく控えの間に辿り着いたばかりだった。その控えの間は柱廊を横切るように位置し、吾々はその側面から入ったのだった。

これまた実に広くかつ高く、吾々が入ったドアの前の真上の屋根が正方形に青空天井になっていた。が、他の部分はすべて屋根でおおわれている。

 吾々はその部屋に入ってから右へ折れ、その場まで来て、そこで案内の方から止まるように言われた。すぐ目の前の高い位置に玉座のような立派な椅子が置いてある。それを前にして案内の方がこう申された。


 「皆さん、この度あなた方霊団をこの聖堂へお招きしたのは、これより下層界の為の仕事をしていただく、その全権を委任するためです。これよりその仕事について詳しい説明をしてくださる方がここへお出でになるまで暫くお持ちください」

 言われるまま待っていると、その椅子の後方から別の方が姿を見せられた。先程の方より背が高く、歩かれる身体のまわりに青と黄金色の霧状のものがサファイヤを散りばめたように漂っていた。

やがて吾々に近づかれると手を差し出され、一人ひとりと握手をされた。そのとき(あとで互いに語りあったことですが)吾々は身は第十界にありながら、第十一界への近親感のようなものを感じ取った。それは第十一界の凝縮されたエッセンスのようなもので、隣接した境界内にあってその内奥で進行する生命活動のすべてに触れる思いがしたことでした。

 吾々は玉座のまわりの上り段に腰を下ろし、その方は吾々の前で玉座の方へ向かって立たれた。それからある事柄について話されたのであるが、それは残念ながら貴殿に語れる性質のものではない。秘密というのではありません。

人間の体験を超えたものであり、吾々にとってすら、これから理解していくべき種類のものだからです。が、そのあと貴殿にも有益な事柄を話された。

 お話によると、ナザレのイエスが十字架上にあった時、それを見物していた群集の中にイエスを売り死に至らしめた人物がいたということです。


──生身の人間ですか。

 さよう、生身の人間です。あまり遠くにいるのも忍びず、さりとて近づきすぎるのも耐え切れず、死にゆく〝悲哀(かなしみ)の人〟イエス・キリストの顔だちが見えるところまで近づいて見物していたというのです。すでに茨の冠は取られていた。

が、額には血のしたたりが見え、頭髪もそこかしこに血のりが付いていた。その顔と姿に見入っていた裏切り者(ユダ)の心に次のような揶揄(からかい)の声が聞こえてきた───

〝これ、お前もイエスといっしょに天国へ行って権力の座を奪いたければ今すぐに悪魔の王国へ行くことだ。お前なら権力をほしいままに出来る。イエスでさえお前には敵わなかったではないか。さ、今すぐ行くがよい。

今ならお前がやったようにはイエスもお前に仕返しができぬであろうよ〟と。

 その言葉が彼の耳から離れない。彼は必死にそれを信じようとした。そして十字架上のイエスに目をやった。彼は真剣だった。しかし同時に、かつて一度も安らぎの気持ちで見つめたことのないイエスの目がやはり気がかりだった。

が、死に瀕しているイエスの目はおぼろげであった。もはやユダを見る力はない。

(そそのか)しの声はなおも鳴りひびき、嘲(あざけ)るかと思えば優しくおだてる。彼はついに脱兎のごとく駆け出し、人気のない場所でみずから命を捨てた。

帯を外して首に巻き、木に吊って死んだのである。かくして二人は同じ日に同じく〝木〟で死んだ。地上での生命は奇しくも同じ時刻に消えたのでした。

 さて、霊界へ赴いた二人は意識を取り戻した。そして再び相見えた。が二人とも言葉は交わさなかった。ただしイエスはペテロを見守ったごとく(*)、今はユダを同じ目で見守った。そして〝赦〟しを携えて再び訪れるべき時期(とき)がくるまで、後悔と苦悶に身を委ねさせた。

つまりペテロが闇夜の中に走り出て後悔の涙にくれるにまかせたようにイエスは、ユダが自分に背を向け目をおおって地獄の闇の中へよろめきつつ消えて行くのを見守ったのでした。

(*イエスの使徒でありながら、イエスが捕えられたあと〝お前もイエスの一味であろう〟と問われて〝そんな人間は知らぬ〟と偽って逃れたが、イエスはそのことをあらかじめ予見していて〝あなたは今夜鶏の鳴く前に三度私を知らないと言うだろう〟と忠告しておいた。訳者)

 しかしイエスは後悔と悲しみと苦悶の中にあるペテロを赦したごとく、自分に孤独の寂しさを味わわせたユダにも赦しを与えた。いつまでも苦悶の中に置き去りにはしなかった。その後みずから地獄に赴いて探し出し、赦しの祝福を与えたのです。(後注)

 以上がその方のお話です。実際はもっと多くを語られました。そしてしばらく聖堂に留まって今の話を吟味し、同時にそれを(他の話といっしょに)持ちかえって罪を犯せる者に語り聞かせるべく、エネルギーを蓄えて行われるがよいと仰せられた。

犯せる罪ゆえに絶望の暗黒に沈める者は裏切られた主イエス・キリストによる赦しへの希望を失っているものです。げに、罪とは背信行為なのです。

 さて吾々が仰せつかった使命については又の機会に述べるとしましょう。貴殿はそろそろ疲れてこられた。ここまで持ちこたえさせるのにも吾々はいささか難儀したほどです。

 願わくは罪を犯せる者の救い主、哀れみ深きイエス・キリストが暗闇にいるすべての者とともにいまさんことを。友よ、霊界と同じく地上にもの慰めを深刻に求めている者が実に多いのです。貴殿にもの慈悲を給わらんことを。


 訳者注──ここに言う〝赦し〟とはいわゆる〝罪を憎んで人を憎まず〟の理念からくる赦しであって、罪を免じるという意味とは異なる。

イエスもいったんはユダを地獄での後悔と苦悶に身をゆだねさせている。因果律は絶対であり〝自分が蒔いたタネは自分で刈り取る〟のが絶対的原則であることに変わりないが、ただ、被害者の立場にある者が加害者を慈悲の心でもって赦すという心情は霊的進化の大きな顕れであり、誤った自己主張の観念からすべてを利害関係で片づけようとする現代の風潮の中で急速に風化して行きつつある美徳の一つであろう。


 
   
2 使命への旅立ち              
 一九一七年十二月十八日  火曜日

 お話を給わった拝謁(はいえつ)の間を出て、吾々はその高き聖所を後にした。お話は私がお伝えしたよりもっと多かった。それを愛をこめて話してくださり、吾々は使命へ向けて大いに勇気づけられた。

ポーチまで進み、やがて立ち止まって広い視界に目をやった。下方には草原地帯が横たわり、左右のはるか彼方まで広がっている。

その先に丘が聖所を取り巻くように連なっており、そこから幾すじかの渓流が平野へ向けて流れ、吾々から見て左方向にある湖で合流している。

それがさらに左方向へ流出し、その行く手に第十界と第九界との間に聳える山脈が見える。そう見ているうちに、さきほど話をされた方が吾々の中央に立たれ、ご自身の霊力で吾々を包んで視力をお貸しくださり、ふだんの視力では見えない先、これから赴かねばならない低い界層をのぞかせてくださった。

初め明るく見えるものが次第に明るさが薄れ、かすんで見えるものがおぼろげに見え、ついには完全なモヤとなった。その先は吾々が位置した最も見えやすい位置からでも見透すことは不可能だった。

と言うのも、そこはすでに地球に隣接する界層及びそれ以下の境涯であり、地上界へ行きたい者はひとまずその境涯から脱出しなければならず、一方地上で正しい道を踏み外した者は自然の親和力の作用によってその境涯へと降りて行く。地獄と呼んでいるのがそれである。

なるほど、もし地獄を苦痛と煩悶と、魂を張り裂ける思いをさせることを意味するのであれば、そこを地獄と呼ぶのも結構であろう。

 さて必要な持ち物と、これより先に控える仕事を吟味し終えると、吾々はその方に向かって跪き、祝福をいただくとすぐに出発した。まず左手の坂道を下り、山間(あい)を通り抜けて、そこからまっしぐらの長い旅なので、四つの界層を山腹に沿って一気に空中を飛翔(ひしょう)した。

そして第五界まで来て降下し、そこでしばし滞在し、そこの住民が抱える悩みごとの解決にとって参考になるように、入念に言葉を選んで話をした。


──旅の話を進められる前に第五界でのお仕事の成果をお話ねがえませんか。

 吾々の仕事は各界で集会を開いて講演をすることでしたが、そこでの話がその最初となりました。まずそこの領主──第五界の統率者の招きにあずかりました。

その領主は、どの界でもそうですが、本来はその界よりも高い霊格を具えた方です。が、吾々が滞在したのは行政官の公舎でした。

行政官はその界でいつまでも向上出来ずにいる者たちの問題点に通暁しておられ、吾々がいかなる立場に立っていかなる点に話題をしぼって講演すべきかについて、よきアドバイスを与えて下さる。

 さて、そういう悩みを抱えた人々が公舎の大ホールに集まった。実に大きなホールで、形は長円形をしています。ただし、片方の端がもう一方より圧縮された格好をしています。


──西洋ナシのようにですか。

 はて、これはもう、ほとんど忘れかけた果実ですのでしかとは申せませんが、さよう、大体の格好は似ていましょう。ただしあれほど尖った形ではありません。その細い方の外側には大きなポーチがかぶさるように付いており、会衆はそこから入りました。
 
演壇は左右の壁から等距離の位置にあり、吾々はそこに上がりました。実は吾々の霊団の中に歌手が一人いて、まず初めにその時のために自分で作曲した魅力あふれる曲を歌いました。

その内容は──すでにお話したものも含まれていますが──究極の実在であるがいかなる過程でその霊力を具象化し、愛がいかにして誕生し、の子等(造化に携わる高級神霊のこと──訳者)がその妙味に触れてそこから美が誕生するに至ったかを物語り、それ故にこそすべての美に愛が宿り、すべての愛が純朴であり、いかなる形で表現されても美にあふれていること。
 
しかし現象界の発展のために働く者の意志が愛に駆られた美の主流に逆らう方向へと働いた時、そこに元来の至純さと調和しない意志から生まれる或る種の要素が生じ、そのあとに創造される存在は美しくはあっても完全なる美とは言えず、また、ますます激しさを増す混沌たる流れに巻き込まれてさらに美的要素を欠く存在が出現したが、それでも根源より一気に一直線に下降を続けた者の目には見えない美しさを、おぼろげながら具えていた・・・・・・

 そう歌いました。会衆は身じろぎひとつせず聴き入っていた。それほどその曲が美と愛の根源から流れ出て来るような雰囲気を帯びていたのです。

またその言葉そのものが〝究極にして絶対〟の存在とは〝統一〟であり、それ自体に多様性はあり得ず、それまでに生じた多様性はてこ的存在としての意義を持つ──つまり多様性の中に表現されたものが抵抗によって再び高揚され統一へ向かうという哲学を暗示しておりました。

 さて、歌が終わると会場を重厚な静けさが支配し、全員が静粛にしていた。身じろぎ一つする者がいない。立っている者は立ったまま、ベンチあるいはスツールに腰を下ろしている者もそのまま黙しており、何かに寄り掛かってしゃがみ込んでいる者もそのままの気楽な姿勢でいた。

そのことをはっきりと見てとった。誰ひとり位置を変える者もいなかった。それは、はるか彼方の生命とエネルギーの力強い脈動の中に生まれた歌の魔力が彼らを虜にし、今の境涯と知識とで精一杯頑張ろうという決意を秘めさせたからです。

 ややあって、いよいよ私が語る段取りとなった。すでに先の歌い手が、抑え気味に、しかし甘美な声で歌い始めていた。それでも、天体の誕生の産みの痛みの時代の物語に至るとその痛みに声が激しさを増し、勢いとエネルギーが魂の中で激しく高まり、痛ましいほどの壮大な声量となってほとばしり出るかの如くであった。
 
それからカオス(混沌)が自ら形を整えてコスモス(宇宙)となり、さらに創造主の想像の中から各種の生命体が誕生する段階になると、声と用語の落着いたリズムが整然たる進行の中で次第に平穏となり、最後は単一音で終わった。

それはあたかも永遠の創造活動が今始まったばかりで未だ終局していないことを暗示するために、そのテーマを意図的に中天で停止させたかのようでした。
 
  そのあとを継いで語り始める前に私は一呼吸の間を置いた。それは私の話に備えて頭の中を整理させ、あたりに漂う発光性の雲の中でその考えをマントのごとく身にまとわせ、話をしている私の目に各自の性格と要求とが読み取れ、私の能力において出来うるかぎりの援助を与えるためでした。

 それからいよいよ講演に入った。全員に語りかけながら同時に個々の求めるものを順々に満たしていった。多様性となって顕現し虚空に散らばったものを再び一点に集約し、美そのもの、愛そのものである究極の実在からの熱と光りとを吸収しそして発散するところの大いなる霊的太陽について語った。

また、ペテロとユダの背信行為と裏切りとその後の後悔の話──一方は地上において束の間の地獄を味わい、一千年もの悔恨を一カ月で済ませて潔白の身となった。

そこに秩序あるの家族内での寛恕と復権の可能性が見られること。もう一方は最後まで懺悔の念が生じず、自分が絶望の狂乱の中で金で売った人物(イエス)が死を迎えた時に、いつもの自暴自棄的気性のために早まって(首を吊って)この世から逃げた。が、

これで消えてしまったと思い込んだ思惑とは裏腹に彼は生き続けていた。しかし彼はなおも懺悔の念は生じず、イエスみずからが、迷える小羊を探し求めるごとくに、奥深き地獄の峡谷へユダその他の罪人に会いに赴いた。

そして陰気さと、触れられるほどの真実味のある暗闇の中にいる彼らに光と愛そのものであるの存在と、その聖なる御子を通じて愛の輝きが想像を絶した宇宙の果てまで、そしてその地獄の世界までも投射されている事実を語って聞かせた。

彼らは最後に光を見てから何十年何百年ものあいだ光というものを見ておらず、今では光とは何か、どのように目に映じるものかもほとんど忘れている。

その彼らの目に久しぶりに一条(ひとすじ)の光が見えてきた。もとよりイエスは彼らの視力に合わせてご自分の身体を柔らかい、優しい、ほのかな光輝で包み込んでおられた。

その足元へ一人また一人と這い寄ってくる。その目から涙がこぼれ落ちている。それがイエスの光に照らされてダイヤモンドのしずくの如く輝いて見える。その中の一人に裏切り者のユダもいた。そしてイエスから赦しの言葉を聞かされた。

ペテロがのちにイエスにあったときの寛恕の愛を聞かされたごとくにであった。

 聴衆はじっと聞き入り、そして私の述べていることが、宇宙の君主であり愛そのものであるところのへの一体化についてであり、そして又そのへの従順さが生み出すところの産物──それは人間から見れば難問でありながら実はその一体化を促すためのてこ的意義を持つものであることを理解し始めていた。

 私は静寂のうちに講演を終わり、同じく静寂のうちに他の者とともに演壇を下り、ホールを出て公舎を後にし、次の旅へ向かった。行政官が総出で吾々をていねいな感謝の言葉とともに見送ってくださり、吾々も祈りでもってこれに応えた。かくしてその界を後にしたのであった。


   
 
3〝苦〟の哲学                                  
   一九一七年十二月十九日  水曜日

  さて吾々は急がずゆっくりと歩を進めました。と言うのは、そろそろ吾々の霊的波長が容易に馴染まぬ境涯に近づきつつあったからです。が、どうにか環境に合わせることができました。そしてついに地上から数えて二番目の界の始まる境界域に到達した。便宜上地上界をゼロ界としておきます。


──話を進められる前にお尋ねしておきたいことがあります。あなたがある種の悩みを抱えていたために他の界よりも長期間滞在されたというのは第五界だったのではありませんか。

 貴殿の要求は、私を悩ませしばらくその界に引き留めることになった問題の中身を説明してほしいということのようですな。よろしい。それはこういうことでした。

 私はすべての人間が最後はが万物の主(ぬし)であることを理解すること、そしてそのより出でた高級神霊がそのことを御座(みくら)の聖域より遠く離れた存在にも告げているものと確信していた。

しかしそうなると吾々のはるか下界の暗黒界───悲劇と煩悶が渦巻き、すべての愛が裏切られ、その普遍性と矛盾するように思える境涯に無数の哀れな霊が存在するのはなぜか。

 それが私の疑問でした。昔からある悪の存在の問題です。私には善と悪という二つの勢力の対立関係が理解できないし、それを両立させることは少なくとも私の頭の中ではできなかった。つまり、もしも神が全能であるならば、なぜ一瞬たりとも、そして僅かたりとも悪の存在を許されたのであろうか、ということでした。
 
 私は久しくそのことに思いをめぐらしていた。そして結果的に大いに困惑を増すことになった。なぜなら〝神の王国〟の内部でのこうした矛盾から生まれる不信感が、目も眩まんばかりの天界の高地へ向上していく自信を私から奪ってしまったからです。

私はもしかしたらその高地で心の平静を失い、これまで降りたこともない深淵へ落ちて深いキズを負うことになりはせぬかと恐れたのです。

 煩悶しているうちに私は、いつもここという時に授かる援助をこの時も授かる用意が出来ていたようです。自分では気づかないのですが、啓発を受ける時はいつもそれに値するだけの考えが熟するまで私は論理的思考においてずっと指導を受け、その段階において直感的認識がひらめき、それまでの疑念のすべてが忘却の彼方へと一掃され、二度と疑わなくなるのでした。
 
 ある日のこと──貴殿らの言い方で述べればのことですが──私は小さな赤い花の密生する土手の上で東屋に似た木蔭で腰を下ろしていた。先の難問を考えていたわけではありません。他にもいろいろと楽しい考えごとはあるものです。

私はすっかり辺りの美しさ──花、木々、小鳥、そのさえずりに浸っていた。その時ふと振り返ると、すぐそばに落着いた魅力あふれる容貌の男性が腰を下ろしていた。

濃い紫のマントをつけ、その下からゴースのチュニック(*)が見える。そしてそのチュニックを透かして、まるで水晶の心臓に反射して放たれたような光が身体から輝いて見えた。肩に付けられた宝石は濃い緑とすみれ色に輝き、髪は茶色をしていた。

が、目は貴殿のご存知ない種類の色をしていた。(*ゴースはクモの糸のような繊細な布地。チュニックは首からかぶる昔の簡単な胴衣。なおこの人物が誰であるかはどこにも説明が出てこないが、多分このリーダー霊の守護霊であろう。訳者)
 
 その方は前方へ目をやっておられる。私はお姿に目をやり、その何とも言えない優雅さにしばし見とれていた。するとこう口を開かれた。

 「いかがであろう。ここは実に座り心地が良く、休息するには持ってこいの場所であるとは思われぬかな?」

 「はい、いかにも・・・・・・」私はこれ以上の言葉が出なかった。

 「がしかし、貴殿がそこに座る気になられたのは、きれいな花が敷きつめられているからであろう?」

 そう言われて私は返答に窮した。するとさらにこう続けられた。

 「さながら幼な子を思わせるつぼみの如き生命と愛らしさに満ちたこれらの赤い花の数々は、こうして吾々が楽しんでいるような目的のために創造されたと思われるかな?」
 
 これにも私はただ「そこまで考えたことはございませんでした」と答えるしかなかった。

 「そうであろう。吾々は大方みなそうである。しかも吾々が一人の例外もなく、片時も思考をお止めにならず理性から外れたことを何一つなさらぬの子孫であることを思うと、それは不思議と言うべきです。

吾々がいくら泳ぎ続けてもなおそこはの生命の海の中であり、決してその外に出ることがない。それほど偉大なの子でありながら、無分別な行為をしても赦されるということは不思議なことです」

 そこでいったん話を止められた。私は恥を覚えて顔を赤らめた。その声と話ぶりには少しも酷(きび)しさはなく、あたかも親が子をたしなめるごとく、優しさと愛敬に満ちていた。が、言われていることは分かった。

自分は今うかつにも愛らしく生命に溢れた、しかし、か弱い小さな花を押しつぶしているということです。そこで私はこう述べた。

 「お放ちになられた矢が何を狙われたか、より分かりました。私の胸深く突きささっております。これ以上ここに座っていることは良くありません。吾々のからだの重みでか弱い花に息苦しい思いをさせております」

 「では立ち上がって、いっしょにあちらへ参りましょう」そうおっしゃってお立ちになり、私も立ち上がってその場を離れた。

 「この道へはたびたび参られるのかな?」
 並んで歩きながらその方が聞かれた。

 「ここは私の大好きな散策のコースです。難しい問題が生じた時はここへ来て考えることにしております」

   「なるほど。よそに較べてここは悩みごとを考えるには良いところです。そして貴殿はここに来て土手のどこかに座って考えに耽る、と言うよりは、その悩みの中に深く入り込んでしまわれるのではないかと思うが、ま、そのことは今はわきへ置いて、前回こちらへ来られた時はどこに座られましたか」

 そう聞いて足を止められた。私はその方のすぐ前の土手を指さして言った。

 「前回こちらへ来た時に座ったのはここでした」

 「それもつい最近のことであろう?」

 「そうです」

 「それにしては貴殿のからだの跡形がここの植物にも花にも見当たらない。嫌な重圧をすぐさまはね返したとみえますな」

  確かにこの地域ではそうなのである。その点が地上とは違う。花も草も芝生もすぐさま元の美しさを取り戻すので、立ち上がったすぐ後でも、どこに座っていたかが見分けがつけにくいほどである。これは第五界での話で、すべての界層がそうとは限らない。地上に近い界層ではまずそういう傾向は見られない。

 その方は続けてこう言われた。
  
 「これは真価においても評価においても、創造主による人間の魂の傷に対する配剤とまったく同じものです。現象界に起きるものは何であろうとすべてのものでありお一人のものだからです。では私に付いてこられるがよい。

貴殿が信仰心の欠如のために見落しているものをお見せしよう。貴殿は今ご自分が想像していた叡智の正しさを疑い始めておられるが、その疑念の中にこそ愛と叡智の配剤への信仰の核心が存在するのです」

 それから私たち二人は森の脇道を通り丘の麓へ来た。その丘を登り頂上まで来てみると森を見下ろす高さにいた。はるか遠い彼方まで景色が望める。

私は例の聖堂のさらに向こうまで目をやっていると、その聖堂の屋根の開口部を通って複数の光の柱が上空へ伸びて行き、それが中央のドームのあたりで一本にまとまっているのが見えた。それは聖堂内に集合した天使の霊的行事によって発生しているものだった。

 その時である、ドームに光り輝く天使の像が出現し、その頂上に立った。それは純白に身を包んだキリストの顕現であった。衣装は肩から足もとまで下りていたが足は隠れていない。

そしてその立ち姿のまま衣装が赤味を帯びはじめ、それが次第に濃さを増して、ついに深紅となった。まゆのすぐ上には血の色にも似た真っ赤なルビーの飾り輪があり、足先のサンダルにも同じくルビーが輝いていた。

やがて両手を高く上げると、両方の甲に大きな赤い宝石が一つずつ輝いていた。私にはこの顕現の私にとっての意味が読み取れた。最初の純白の美しさは美事であった。が今は深紅の魅力と美しさに輝き、そのあまりの神々しさに私は恍惚となって息を呑んだ。

 喘ぎつつなおも見ていると、その姿の周りにサファイヤとエメラルドの縞模様をした黄金色の雲が集結しはじめた。が、像のすぐ背後には頭部から下へ向けて血のような赤い色をした幅広いベルト状のものが立っており、さらにもう一本、同じような色彩をしたものが胸のうしろあたりで十文字に交わっている。

その十字架の前に立たれるキリストの姿にまさに相応しい燦爛たる光輝に輝ていた。

 平地へ目をやると、そこにはこの荘厳な顕現を一目見んものと大勢の群集が集まっていた。その顔と衣服がキリストの像から放たれる光を受けて明るく輝き、その像にはあたかも全幅の信頼を必要とするところの犠牲と奉仕を求める呼びかけのようなものが漂っているように思えた。

それに応えて申し出る者は、待ち受ける苦難のすべてを知らずとも、みずから進んでその苦難に身を曝す覚悟が出来ていなければならないからである。が、

その覚悟のできた者も、多くはただ跪き頭を垂れているのみであった。もとよりはそれを察し、その者たちに聖堂の中に入るよう命じられ、中にて使命を申しつけると仰せられた。そしてみずからもドームを通って堂内に入られた。そこで私の視界から消えた。
 
 私はそばに例の方がいらっしゃることをすっかり忘れていた。そして顕現が終わったあとも少しの間その方の存在に気づかずにいた。やっと気付いて目をやった時、

そのお顔に苦難の体験のあとが数多い深い筋となって刻まれているのを見て取った。
もとよりそれは現在のものではなく遠い昔のものであるが、その名残りがかえって魅力を増しているのだった。

 しかし私から声をお掛けできずに黙って立っていると、こうおっしゃった。

    「私は貴殿に悲哀の人イエスの顕現をお見せするためにこの界のはるか上方から参っております。はこうしてみずからお出でになっては悲哀を集めて我がものとされる。それは、その悲哀なくしては今拝見したごとき麗しさを欠くことになるからです。

にあれほどの優しさを付加する悲哀は、その未発達の粗野な状態にあっては苦痛を伴って地上を襲い、激痛をもって地獄を襲うものと同一です。

この界においては各自その影を通過する時に一瞬のものとして体験する。吾々とての御心のすべてには通暁し得ない。しかし今目のあたりにした如く、時おり御心のすべてに流れる〝苦の意義〟を垣間見ることが出来る。

その時吾々が抱く悩みから不快な要素が消え、いつの日かはより深い理解が得られるとの希望が湧き出てきます。


 しかし、その日が訪れるまでは主イエスが純白の姿にての御胸より出て不動の目的をもって地上へ赴いたこと、そこは罪悪と憎悪の暗雲に包まれていたことを知ることで満足しています。

さよう、イエスはさらに死後には地獄へまでも赴き、そこで悶え苦しむ者にまで救いの手を差しのべられた。そしてみずからも苦しみを味わわれた。

かくして悲哀の人イエスは父の玉座の上り段へと戻り、そこで使命を成就された。が、
戻られた時のイエスはもはや地上へ向かわれた時のイエスではあられなかった。聖なる純白の姿で出発し深紅の勝利者となって帰られた。

が流した血は自らのおん血のみであった。敵陣へ乗り込んだ兵士がその刃を己の胸に突きさし、しかもその流血ゆえに勝者として迎えられるとは、これはいかにも奇妙な闘いであり、地上の歴史においても空前絶後のことであろう。


 かくして王冠に新たなルビーを加え、御身に真っ赤な犠牲の色彩を一段と加えられて、出発の時より美しさを増して帰られた。そして今や、主イエスにとりて物質界への下降の苦しみは、貴殿が軽率にも腰を下ろしても変わらぬ生長力と開花力によっていささかも傷められることのなかった草花のごとく、一瞬の出来ごとでしかなかった。

主イエスは吾々の想像を絶する高き光と力の神界より降りて来られて、自己犠牲の崇高さを身を持ってお示しになった──まさには私にとっての奇しき叡智の保証人でもあるのです。

 では罪悪の悲劇と地獄の狂乱はどうなるのか。これも、その暗黒界を旅してきた者は何ものかを持ち帰る。とその子イエスの愛により、摂理への従順の正道を踏み外して我が儘の道を歩める者も、その暗黒より向上してくる時、貴重にして美妙なる何ものかを身につけている。

それが神と密接に結びつけるのです。さよう、貴殿もいずれその奇しき叡智を悟ることになるであろう。それまで辛棒強く待つことです。が、それには永き時を要するでしょう。

貴殿がその神秘の深奥を悟るのは私より容易ではなく、私ほど早くもないかも知れません。なぜなら貴殿はかの悔恨と苦悶の洞窟の奥深く沈んだ体験の持ち合わせがないからです。私にはそれがあるのです。私はそこから這い上がって来た者です」


     
  さらに下層界へ               
 一九一七年十二月二十日 木曜日

 さて、吾々はいよいよ第二界へ来た。そして最も多く人の集まっている場所を探しました。と言うのも、かつてこの界に滞在した頃とは様子が変っており、習慣や生活様式に関する私の知識を改めざるを得なかったのです。

貴殿にも知っておいていただきたいことですが、地上に近い界層の方がはるか彼方の進化した界層に較べて細かい点での変化が激しいのです。

いつの時代にも、地上における学問と国際的交流の発展が第二界にまで影響を及ぼし、中間の第一界へはほとんど影響を及ぼしません。

また死後に携えてきた地上的思想や偏見が第二界でも色濃く残っておりますが、それも一界また一界と向上して行くうちに次第に中和されて行きます。かなり進化した界層でもその痕跡を残していることがありますが、進歩の妨げになったりの子としての兄弟関係を害したりすることはありません。

第七界あるいはそれ以上の界へ行くとむしろ地上生活の相違点が興味や魅力を増すところの多様性(バラエティー)となり、不和の要素が消え、他の思想や教義をないがしろにすることにもならない。

さらに光明界へ近づくとその光によって〝神の御業の書〟の中より教訓を読み取ることになる。そこにはもはや唯一の言語を話す者のための一冊の書があるのみであり、のもとにおける一大家族となっております。

それは地上のように単なる遠慮や我慢から生まれるものではなく、仕事においても友愛においても心の奥底からの協調関係から、つまり愛において一つであるところから生まれるものです。

 うっかりしていました──私は第二界のことと、そこでの吾々の用事について語るのでした。

 そこではみんな好きな場所に好きなように集まっている。同じ民族のものといっしょになろうとする者もいれば、血のつながりよりも宗教的つながりで集まる者もいました。政治的思想によってサークルを作っている者もいました。

もっぱらそういうことだけで繋がっている者は、少し考えが似たところがあればちょくちょく顔を出し合っておりました。

例えばエスラム教徒は国際的な社会主義者の集団と親しく交わり、帝国主義者はキリスト教信仰にもとづく神を信仰する集団と交わるといった具合です。

色分けは実にさまざまで、その集団の構成分子も少々の内部変化があっても、大体において地上時代の信仰と政治的思想と民族の違いによる色分けが維持されていました。 

 それにしても、吾々第十界からの使者が来ることはすでにその地域全体に知れ渡っておりました。と言うのも、この界では地上ほど対立関係から出る邪心がなく、かなりの善意が行きわたっているからです。

かつて吾々が学んだことを今彼らも学んでいるところで、それで初めのうち少し集まりが悪いので、もし聞きたければ対立関係を超えていっしょに集まらねばならぬことを告げた。

吾々は小さなグループや党派に話すのではなく、全体を一つにまとめて話す必要があったからです。

 すると彼らは、そう高くはないが他の丘よりは小高い丘の上や芝生のくぼみなどに集結した。吾々は丘の中腹に立った。そこは全員から見える位置で、背後はてっぺんが平たい高い崖になっていた。

 吾々はまず父なるを讃える祈りを捧げてから、その岩の周りに腰を下ろした。それからメンバーの一人が聴衆に語りかけた。彼はこの界のことについて最も詳しかった。

本来は第七界に所属しているのであるが、この度は使命を受けてから、道中の力をつけるために第十界まで来て修行したのです。
 
 彼は言語的表現においてなかなかの才能を有し、声を高くして、真理についての考えが異なるごとく服装の色彩もさまざまな大聴衆に向かって語りかけた。声は強くかつ魅力に富み、話の内容はおよそ次のようなものでした。

 かつて地上界に多くの思想集団に分裂した民族があった。そうした対立を好ましからぬものと考え、互いに手を握り合うようにと心を砕く者が大勢いた。

この界(第二界)にも〝オレの民族、オレの宗派こそ神の御心に近いのだ〟と考える、似たようなプライドの頑迷さが見受けられる。吾々がこうして諸君を一個の民族として集合させ、神からのメッセージを伝えるのも、これよりのちの自由闊達にして何の妨げもない進化のためには、まずそうした偏狭さを棄て去ってしまわねばならないからである、と。

 これを聞いて群集の間に動揺が見られた。が、述べられたことに何一つ誤りがないことは彼らも判っていた。

その証拠に彼らの目には、吾々のからだから発する光輝が彼らをはるかに凌いでいることが歴然としており、その吾々もかつては今の彼らと同じ考えを抱いていたこと、そして吾々が当時の考えのうちのあるものはかなぐり捨て、あるものは改めることによって、

姿も容貌も今のように光輝を増したことを理解していたからです。だからこそ静かに耳を傾けたのです。

 彼はいったんそこで間を置いてから、新たに彼の言わんとすることを次のように切り出しました。

 「さて、の御国への王道を歩んでおられる同志の諸君、私の述べるところを辛棒強く聞いていただきたい。かのカルバリの丘には実は三つの十字架があった。

三人の救世主がいたわけではない。救世主は一人だけである。同じ日に三人の男が処刑されたが、父の王国における地位(くらい)が約束できたのは一人だけであった。王たる資格を具えていたのは一人だけだったということである。


三人に死が訪れた。そのあとに憩いが訪れるのであるが、三人のうち安らかな眠りを得たのは一人だけだった。なぜであろうか。

それはが人間を自己に似せて創造した目的、および洪水の如き勢いをもって千変万化の宇宙を創造した膨大なエネルギーの作用について理解し得るほどの優しき哀れみと偉大なる愛と聖純なる霊性を身につけていたのはイエスの他にいなかったからである。


あまりの苦悩に疲れ果てたに安らかな眠りを与えたのには、邪悪との長き闘いとその憎悪による圧倒的な重圧の真の意味についての理解があったからであった。

主イエスは最高界より物質界へ降りて差別の世界の深奥(しんおう)まで究(きわ)められた。そして今や物的身体を離れて再び高き天界へと昇って行かれた。そのイエスが最初に心を掛けたのは十字架上でイエスに哀願した盗人のことであり、次は金貨三十枚にてイエスを売り死に至らしめたユダのことだった。

ここに奇妙な三一関係がある。が、この三者にも、もう一つの三一関係(神学上の三位一体説)と同じく、立派に統一性が見られるのである。

 それは、盗人も天国行きを哀願し、ユダも天国へ行きたがっていた。それをへの贈物として求めそして見出した。が、地上へ降りてしかもそこに天国を見出し得たのはのみだった、ということである。

盗人は死にかかった目で今まさに霊の世界への入り口に立てる威風堂々たる王者の姿を見てはじめて、天国は地上だけに存在するものでないことを悟った。


一方の裏切り者はいったん暗黒界への門をくぐったのちにの飾り気のない童子のごとき純心な美しさを見てはじめて天国を見出した。

それに引きかえは地上において既に天国を見出し、なるの御国がいかなるものであるかを人々に説いた。それは地上のものであると同時に天界のものでもあった。


肉体に宿っている間においてはその心の奥にあり、死してのちは歩み行くその先に存在した。つまるところの御国は天と地を包含していたのである。御国は万物の始まりの中にすでに存在し、その時点においての御心から天と地が誕生したのであった。

 そこで私は、人間一人ひとりが自分にとっての兄弟であると考えてほしいと申し上げたいのである。カルバリの丘の三つの十字架上の三人三様の特質に注目していただきたい。

つまり完全なる人物すなわち主イエスと、そのイエスが死後に最初に救った二人である。そこにもの意志が見出されるであろう。

つまり上下の差なく地上の人間のすべてが最後は主イエス・キリストにおいて一体となり、さらによりなお偉大なるのもとで一体となるということである。
そこで、さらに私は諸君みずからの中にもの性格とユダの性格の相違にも似た多様性を見出してほしいのである。

そして、かく考えて行けばなるの寛大なる叡智によって多様性をもたらされた人類がいずれは再びその栄光の天国の王室の中にて一体となることが判るであろう。


何となればの栄光の中でも最も大いなる栄光は愛の栄光であり、愛なるものは憎しみが分かつものを結び合わせるものだからである」

 
  

      
  章 暗黒街の探訪
 
  光のかけ橋                  
 一九一七年 大晦日


 ここまでの吾々の下降の様子はいたって大まかに述べたにすぎません。が、これから吾々はいよいよ光輝が次第に薄れゆく境涯へ入っていくことになります。

これまでに地上へ降りて死後の世界について語った霊は、生命躍如たる世界については多くを語っても、その反対の境涯についてはあまり多くを語っておりません。いきおい吾々の叙述は理性的正確さを要します。


と言うのも、光明界と暗黒界について偏りのない知識を期待しつつも、性格的に弱く、従って喜びと美しさによる刺戟を必要とする者は、その境界の〝裂け目〟を吾々と共に渡る勇気がなく、怖気づいて背を向け、吾々が暗黒界の知識を携えて光明界へ戻ってくるのを待つことになるからです。

   さて、地上を去った者が必ず通過する(すでにお話した)地域を通りすぎて、吾々はいよいよ暗さを増す境涯へと足を踏み入れた。すると強靭な精神力と用心ぶかい足取りを要する一種異様な魂の圧迫感が急速に増していくのを感じた。

それというのも、この度の吾々は一般に高級霊が採用する方法、つまり身は遠く高き界に置いて通信網だけで接触する方法は取らないことにしていたからです。

これまでと同じように、つまりみずからの身体を平常より低い界の条件に合わせてきたのを、そこから更に一段と低い界の条件に合わせ、その界層の者と全く同じではないがほぼ同じ状態、つまり見ようと思えば見え、触れようと思えば触れられ、吾々の方からも彼らに触れることの出来る程度の鈍重さを身にまとっていました。

そしてゆっくりと歩み、その間もずっと右に述べた状態を保つために辺りに充満する雰囲気を摂取していました。そうすることによって同時に吾々はこれより身を置くことになっている暗黒界の住民の心情をある程度まで察することができました。

 その土地にも光の照っている地域があることはあります。が、その範囲は知れており、すぐに急斜面となってその底は暗闇の中にある。

そのささやかな光の土地に立って深い谷底へ目をやると、一帯をおおう暗闇の濃さは物すごく、吾々の視力では見通すことができなかった。

その不気味な黒い霧の上を薄ぼんやりとした光が射しているが、暗闇を突き通すことはできない。それほど濃厚なのです。その暗黒の世界へ吾々は下って行かねばならないのです。

 貴殿のご母堂が話された例の〝光の橋〟はその暗黒の谷を越えて、その彼方のさらに低い位置にある小高い丘に掛かっています。その低い端まで(暗黒界から)辿り着いた者はいったんそこで休息し、それからこちらの端まで広い道(光の橋)を渡って来ます。

途中には幾つかの休憩所が設けてあり、ある場所まで来ては疲れ果てた身体を休め、元気を回復してから再び歩み始めます。

と言うのも、橋の両側には今抜け出て来たばかりの暗闇と陰気が漂い、しかも今なお暗黒界に残っているかつての仲間の叫び声が、死と絶望の深い谷底から聞こえてくるために、やっと橋までたどり着いても、その橋を通過する時の苦痛は並大抵のことではないのです。

 吾々の目的はその橋を渡ることではありません。その下の暗黒の土地へ下って行くことです。


──今おっしゃった〝小高い丘〟、つまり光の橋が掛かっている向こうの端のその向こうはどうなっているのでしょうか。
 
 光の橋の向こう側はこちらの端つまり光明界へつながる〝休息地〟ほどは高くない尾根に掛かっています。さほど長い尾根ではなく、こちら側の端が掛かっている断崖と平行に延びています。その尾根も山のごとく聳えており、形は楕円形をしており、すぐ下も、〝休息地〟との間も、谷になっています。

そのずっと向こうは谷の底と同じ地続きの広大な平地で、表面はでこぼこしており、あちらこちらに大きなくぼみや小さな谷があり、その先は一段と低くなり暗さの度が増していきます。暗黒界を目指す者は光の橋にたどり着くまでにその斜面を登って来なければならない。

尾根はさほど長くないと言いましたが、それは荒涼たる平地全体の中での話であって、実際にはかなりの規模で広がっており、途中で道を見失って何度も谷に戻ってきてしまう者が大ぜいいます。

いつ脱出できるかは要は各自の視覚の程度の問題であり、それはさらに改悛の情の深さの問題であり、より高い生活を求める意志の問題です。

 さて吾々はそこで暫し立ち止まり考えを廻らしたあと、仲間の者に向かって私がこう述べた。

 「諸君、いよいよ陰湿な土地にやってまいりました。これからはあまり楽しい気分にはさせてくれませんが、吾々の進むべき道はこの先であり、せいぜい足をしっかりと踏みしめられたい」

 すると一人が言った。

 「憎しみと絶望の冷気が谷底から伝わってくるのが感じられます。あの苦悶の海の中ではロクな仕事はできそうにありませんが、たとえわずかでも、一刻の猶予も許せません。その間も彼らは苦しんでいるのですから・・・・・・」

 「その通り。それが吾々に与えられた使命です」──そう答えて私はさらにこう言葉を継いだ。「しかも、ほかならぬの霊もそこまで下りられたのです。

吾々はこれまで光明を求めてのあとに続いてきました。これからは暗黒の世界へ足を踏み入れようではありませんか。なぜなら暗黒界もの世界であり、それを主みずから実行してみせられたからです」(暗黒界へ落ちた裏切り者のユダを探し求めて下りたこと。訳者)
 
 かくして吾々は谷を下って行った。行くほどに暗闇が増し、冷気に恐怖感さえ漂いはじめた。しかし吾々は救済に赴く身である。酔狂に怖いものを見に行くのではない。そう自覚している吾々は躊躇することなく、しかし慎重に、正しい方角を確かめながら進んだ。

吾々が予定している最初の逗留地は少し右にそれた位置にあり、光の橋の真下ではなかったので見分けにくかったのです。そこに小さな集落がある。

住民はその暗黒界での生活にうんざりしながら、ではその絶望的な境涯を後にして光明界へ向かうかというと、それだけの力も無ければ方角も判らぬ者ばかりである。

行くほどに吾々の目は次第に暗闇に慣れてきた。そして、ちょうど闇夜に遠い僻地の赤い灯を見届けるように、あたりの様子がどうにか見分けがつくようになってきた。あたりには朽ち果てた建物が数多く立ち並んでいる。

幾つかがひとかたまりになっているところもあれば、一つだけぽつんと建っているのもある。いずこを見てもただ荒廃あるのみである。

吾々が見た感じではその建物の建築に当たった者は、どこかがちょっとでも破損するとすぐにその建物を放置したように思える。あるいは、せっかく仕上げても、少しでも朽ちかかるとすぐに別のところに別の建物を建てたり、建築の途中で嫌になると放置したりしたようである。

やる気の無さと忍耐力の欠如があたり一面に充満している。絶望からくる投げやりの心であり、猜疑心からくるやる気のなさである。ともに身から出た錆であると同時に、同類の者によってそう仕向けられているのである。

 樹木もあることはある。中には大きなものもあるが、その大半に葉が見られない。葉があっても形に愛らしさがない。煤けた緑色と黄色ばかりで、あたかもその周辺に住む者の敵意を象徴するかのように、ヤリのようなギザギザが付いている。幾つか小川を渡ったが、石ころだらけで水が少なく、その水もヘドロだらけで悪臭を放っていた。

 そうこうしているうちに、ようやく目指す集落が見えてきた。市街地というよりは大小さまざまな家屋の集まりといった感じである。それも、てんでんばらばらに散らばっていて秩序が見られない。通りと言えるものは見当たらない。

建物の多くは粘土だけで出来ていたり、平たい石材でどうにか住居の体裁を整えたにすぎないものばかりである。外は明かり用にあちらこちらで焚き火がたかれている。

そのまわりに大勢が集まり、黙って炎を見つめている者もいれば、口ゲンカをしている者もおり、取っ組み合いをしている者もいるといった具合である。

 吾々はその中でも静かにしているグループを見つけて側まで近づき、彼らの例の絶望感に満ちた精神を大いなる哀れみの情をもって見つめた。そして彼らを目の前にして吾々仲間どうしで手を握り合って、この仕事をお与えくださったなるに感謝の念を捧げた。


   
  2 小キリストとの出会い             
  一九一八年一月三日 木曜日

 さて彼らのすぐ側まで来てみると、大きくなったり小さくなったりする炎を囲んで、不機嫌な顔つきでしゃがみ込んでいる者もいれば横になっている者もいた。吾々の立っている位置はすぐ後ろなのに見上げようともしない。

もっとも、たとえ見上げても吾々の存在は彼らの目に映らなかったであろう。彼らの視力の波長はその時の吾々の波長には合わなかったからです。

言いかえれば吾々の方が彼らの波長にまで下げていなかったということです。そこで吾々は互いに手を握り合って(エネルギーを強化して)徐々に鈍重性を増していった。すると一人二人と、何やら身近に存在を感じて、落ち着かない様子でモジモジしはじめた。

これが彼らの通例です。つまり何か高いものを求めはじめる時のあの苛立ちと不安と同じものですが、彼らはいつもすぐにそれを引っ込める。

と言うのも、上り行く道は険しく難儀に満ち、落伍する者が多い。最後まで頑張ればその辛苦も報われて余りあるものがあるのですが、彼らにはそこまで悟れない。知る手掛かりといえばこの度の吾々のように、こうして訪れた者から聞かされる話だけなのです。

 そのうち一人が立ち上がって、薄ぼんやりとした闇の中を不安げに見つめた。背の高い痩せ型の男で、手足は節くれだち、全身が前かがみに折れ曲がり、その顔は見るも気の毒なほど希望を失い、絶望に満ち、それが全身に漂っている。

その男がヨタヨタと吾々の方へ歩み寄り、二、三ヤード離れた位置から覗き込むような目つきで見つめた。その様子から吾々はこの暗黒の土地に住む人間のうち少なくとも一にぎりの連中には、吾々の姿がたとえ薄ぼんやりとではあっても見ることが出来ることを知った。

 それを見て私の方から歩み寄ってこう語りかけた。

 「もしもし、拝見したところ大そうやつれていらっしゃるし、心を取り乱しておられる。何か吾々にできることでもあればと思って参ったのですが・・・・・・」

 すると男から返事が返ってきた。それは地下のトンネルを通って聞こえる長い溜め息のような声だった。

 「いったいお前さんはどこの誰じゃ。一人だけではなさそうじゃな。お前さんの後ろにも何人かの姿が見える。どうやらこの土地の者ではなさそうじゃな。いったいどこから来た? そして何の用があってこの暗い所へ来た?」

 それを聞いて私はさらに目を凝らしてその男に見入った。と言うのは、その不気味な声の中にもどこか聞覚えのあるもの、少なくともまるで知らない声ではない何ものかが感じられたのである。そう思った次の瞬間にはたと感づいた。

彼とは地上ですぐ近くに住む間柄だったのである。それどころか、彼はその町の治安判事だった。

そこで私が彼の名を呼んでみた。が私の予期に反して彼は少しも驚きを見せなかった。困惑した顔つきで私を見つめるが、よく判らぬらしい。そこで私がかつての町の名前を言い、続いて奥さんの名前も言ってみた。

すると地面へ目を落とし、手を額に当ててしきりに思い出そうとした。そうしてまず奥さんの名前を思い出し、私の顔を見上げながら二度三度とその名を口ずさんだ。それから私が彼の名前をもう一度言ってみた。すると今度は私の唇からそれが出るとすぐに思い出してこう言った。

 「わかった。思い出した。思い出した。ところで妻は今どうしてるかな。お前さんは何か消息をもってきてくれたのか。どうしてオレをこんなところに置いてきぼりにしやがったのかな、あいつは・・・・・・・」

 そこで私は、奥さんがずっと高い界にいて、彼の方から上がって行かないかぎり彼女の方から会いに下りてくることはできないことを話して聞かせた。が彼にはその辺のことがよく呑み込めなかったようだった。

その薄暗い界でよほど感覚が鈍っているせいか、そこの住民のほとんどが自分がいったいどの辺りにいるのかを知らず、中には自分が死んだことすら気付いていない者がいる。

それほど地上生活の記憶の蘇ることが少なく、たとえ蘇ってもすぐに消え失せ、再び記憶喪失状態となる。それゆえ彼らの大半はその暗黒界以外の場所で生活したことがあるかどうかも知らない状態である。

しかしそのうちその境涯での苦しみをとことん味わってうんざりし始め、どこかもう少しましなところでましな人間と共に暮らせないものかと思い始めた時、その鈍感となっている脳裏にも油然として記憶が蘇り、その時こそ良心の呵責を本格的に味わうことになる。

 そこで私はその男に事の次第を話して聞かせた。彼は地上時代には、彼なりの一方的な愛し方ではあったが、奥さんを深く愛していた。そこで私はその愛の絆をたぐり寄せようと考えた。が、彼は容易にその手に乗らなかった。

 「それほどの(立派になった)人間なら、こんな姿になったオレのところへはもうやってきてはくれまいに・・・・・・」彼がそう言うので

 「ここまで来ることは確かにできない。あなたの方から行ってあげるほかはない。そうすれば奥さんも会ってくれるでしょう」

 これを聞いて彼は腹を立てた。

 「あの、高慢ちきの売女(ばいた)オレの前ではやけに貞淑ぶりやがって、些細な過ちを大げさに悲しみやがった。今度会ったら言っといてくれ。せいぜいシミ一つないきれいな館でふんぞり返り、ぐうだら亭主の哀れな姿を眺めてほくそえむがいい、とな。

こちとらだって、カッコは良くないが楽しみには事欠かねえんだ。口惜しかったらここまで下りてくるがいい。ここにいる連中みんなでパーティでも開いて大歓迎してやらぁ。じゃ、あばよ、だんな」

 そう吐き棄てるように言ってから仲間の方を向き、同意を求めるようなうす笑いを浮かべた。

 その時である。別の男が立ち上がってその男を脇へ連れて行った。この人はさっきからずっとみんなに混じって座っており、身なりもみんなと同じようにみすぼらしかったが、その挙動にどことなく穏やかさがあり、また吾々にとっても驚ろきに思えるほどの優雅さが漂っていた。

その人は男に何ごとかしばらく語りかけていたが、やがて連れだって私のところへ来てこう述べた。

 「申し訳ございません。この男はあなた様のおっしゃることがよく呑み込めてないようです。皆さんが咎めに来られたのではなく慰めに来られたことが分かっておりません。あのようなみっともない言葉を吐いて少しばかり後悔しているようです。

あなた様とは地上で知らぬ仲ではなかったことを今言って聞かせたところです。どうかご慈悲で、もう一度声を掛けてやってください。ただ奥さんのことだけは遠慮してやってください。ここに居ないことを自分を見捨てて行ったものと考え、今もってそれが我慢ならないようですので・・・・・・」

 私はこの言葉を聞いて驚かずにはいられなかった。あたりは焚火を囲んでいる連中からの怒号や金切り声や罵り声で騒然としているのに、彼は実に落着き払って静かにそう述べたからです。私はその人に一言お礼を述べてから、先の男のところへ行った。

私にとってはその男がお目当てなのである。と言うのも、彼はこのあたりのボス的存在であり、その影響力が大であるところから、この男さえ説得できれば、後は楽であるとの確信があった。

 私はその男に近づき、腕を取り、名前を呼んで微笑みかけ、雑踏から少し離れたところへ連れて行った。それから地上時代の話を持ち出し、彼が希望に胸を膨らませていたころのことや冒険談、失敗談、そして犯した罪の幾つかを語って聞かせた。

彼は必ずしもその全てを潔く認めなかったが、いよいよ別れぎわになって、そのうちの二つの罪をその通りだと言って認めた。これは大きな収穫でした。

そこで私は今述べた地上時代のことにもう一度思いを馳せてほしい・・・・・・そのうち再び会いに来よう・・・・・・・君さえよかったら・・・・・・と述べた。そして私は彼の手を思い切り固く握りしめて別れた。

分かれた後彼は一人でしゃがみ込み、膝をあごのところまで引き寄せ、向こうずねを抱くような格好で焚き火に見入ったまま思いに耽っていました。

 私はぜひさきの男性に会いたいと思った。もう一度探し出して話してからでないと去り難い気がしたのです。私はその人のことを霊的にそろそろその境涯よりも一段高いところへ行くべき準備ができている人ぐらいにと考えていました。

すぐには見つからなかったが、やがて倒れた木の幹に一人の女性と少し距離を置いて腰かけて語り合っているところを見つけた。女性はその人の話に熱心に聞き入っています。

 私が近づくのを見て彼は立ち上がって彼の方から歩み寄ってきた。そこで私はまずこう述べた。

 「この度はお世話になりました。お蔭さまであの気の毒な男に何とか私の気持ちを伝えることが出来ました。あなたのお口添えが無かったらこうはいかなかったでしょう。

どうやらこのあたりの住民のことについてはあなたの方が私よりもよく心得ていらっしゃるようで、お蔭で助かりました。ところで、あなたご自身の身の上、そしてこれから先のことはどうなっているのでしょう?」

 彼はこう答えた。

 「こちらこそお礼申し上げたいところです。私の身の上をこれ以上隠すべきでもなさそうですので申し上げますが、実は私はこの土地の者ではなく、第四界に所属している者です。私はみずから志願してこうした暗黒街で暮らす気の毒な魂を私にできる範囲で救うためにここに参っております」

 私は驚いて「ずっとここで暮らしておられるのでしょうか」と尋ねた。

 「ええ、随分長いこと暮らしております。でも、あまりの息苦しさに耐えかねた時は、英気を養うために本来の界へ戻って、それから再びやってまいります」

 「これまで何度ほど戻られましたか」

 「私がこの土地へ初めて降りてきてから地上の時間にしてほぼ六十年が過ぎましたが、その間に九回ほど戻りました。初めのうちは地上時代の顔見知りの者がここへやってくることがありましたが、今では一人もいなくなりました。みんな見知らぬ者ばかりです。でも一人ひとりの救済のための努力を続けております」

 この話を聞いて私は驚くと同時に大いに恥じ入る思いがした。

 この度の吾々一団の遠征は一時的なものに過ぎない。それを大変な徳積であるかに思い込んでいた。が、今目の前に立ってる男はそれとは次元の異なる徳積みをしてる。己れの栄光を犠牲にして他の者のために身を捧げているのである。

その時まで私は一個の人間の同胞(とも)のために己れを犠牲にするということの真の意味を知らずにいたように思う。

それも、こうした境涯の者のために自ら死の影とも呼ぶべき暗黒の中で暮らしているのである。彼はそうした私の胸中を察したようです。私の恥じ入る気持ちを和らげるためにこう洩らした。

 「なに、これも主イエスへのお返しのつもりです──もあれほどの犠牲を払われて吾々にお恵みくださったのですから・・・・・・

 私は思わず彼の手を取ってこう述べた。

 「あなたはまさしく〝神の愛の書〟の聖句を私に読んで聞かせてくださいました。の広く深き美しさと愛の厳しさは吾々の理解を超えます。理解するよりも、ただ讃仰するのみです。が、それだけに、少しでもに近き人物、言うなれば小キリストたらんと努める者と交わることは有益です。思うにあなたこそその小キリストのお一人であらせられます」

 が、彼は頭を垂れるのみであった。そして私がその髪を左右に分けられたところに崇敬の口づけをした時、彼はひとり言のようにこう呟いたのだった。

 「勿体ないお言葉──私に少しでもそれに値するものがあれば──その有難き御名に相応しきものが一かけらでもあれば・・・・・・」

 
 
 3 冒涜の都市                                       
    一九一八年一月四日  金曜日

 その集落を後にしてから吾々はさらに暗黒界の奥地へと足を踏み入れました。そこここに家屋が群がり、焚き火が燃えている中を進みながら耳を貸す意志のある者に慰めの言葉や忠言を与えるべく吾々として最善の努力をしたつもりです。

が、残念なことにその大部分は受け入れる用意はできていませんでした。反省してすぐさま向上の道へ向かう者は極めて少ないものです。
 
多くはまず強情がほぐれて絶望感を味わい、その絶望感が憧憬の念へと変わり、哀れなる迷える魂に微かな光が輝き始める。そこでようやく悔恨の情が湧き、罪の償い意識が芽生え、例の光の橋へ向けての辛い旅が始まります。

が、この土地の者がその段階に至るのはまだまだ先のことと判断してその集落を後にしました。

吾々には使命があります。そして心の中にはその特別の仕事が待ち受けている土地への地図が刻み込まれております。決して足の向くまま気の向くままに暗黒界を旅しているのではありません。ただならぬ目的があって高き神霊の命によって派遣されているのです。

 行くほどに邪悪性の雰囲気が次第に募るのを感じ取りました。銘記していただきたいのは、地域によって同じ邪悪性にも〝威力〟に差があり、また〝性質(たち)〟が異なることです。

同時に又、地上と同じくその作用にムラが見られます。邪悪もすべてが一つの型にはまるとはかぎらないということです。

そこにも自由意志と個性が認められているということであり、どれだけ永い期間それに浸るかによって強烈となっているものもあれば比較的弱いものもある。それは地上においても天界の上層界においても同じことです。

 やがて大きな都市にたどり着いた。守衛の一団が行進歩調で行き来する中を、どっしりとした大門を通り抜けて市中へ入った。それまでは姿を見せるために波長を下げていたのを、こんどは反対に高めて彼らの目に映じない姿で通り抜けたわけです。

大門を通り抜けてすぐの大通りの両側には、まるで監獄の防壁のような、がっしりとした作りの大きな家屋が並んでいる。

そのうちの何軒かの通風孔から毒々しい感じの明りが洩れて通路を照らし、吾々の行く先を過(よ)ぎっている。そこを踏みしめて進むうちに大きな広場に来た。

そこに一つの彫像が高い台の上に立っている。広場の中央ではなく、やや片側に寄っており、そのすぐそばに、その辺りで一番大きい建物が立っていた。

 彫像はローマ貴族のトーガ(ウールのゆるやかな外衣)をまとった男性で、左手に鏡を持って自分の顔を映し、右手にフラゴン(聖餐用のぶどう酒ビン)を持ち、今まさに足もとの水だらいにドボドボとぶどう酒を注いでいる──崇高なる儀式の風刺(パロディ)です。

しかもその水だらいの縁にはさまざまな人物像がこれまた皮肉たっぷりに刻まれている。

子供が遊んでいる図があるが、そのゲームは生きた子羊のいじめっ子である。別のところにはあられもない姿の女性が赤ん坊を逆さに抱いている図が彫ってある。

すべてがこうした調子で真面目なものを侮っている──童子性、母性、勇気、崇拝、愛、等々を冒涜し、吾々がその都市において崇高なるものへの憧憬を説かんとする気力を殺がせる、卑猥(ひわい)にして無節操きわまるものばかりである。

あたり一体が不潔と侮辱に満ちている。どの建物を見ても構造と装飾に唖然とさせられる。しかし初めに述べた如く吾々には目的がある。嫌なことを厭(いと)ってはならない。使命に向かって突き進まねばならない。

 そこで吾々は意念を操作して姿をそこの住民の目に映じる波長に落としてから、右の彫像のすぐ後ろの大きな建物──悪の宮殿──の門をくぐった。

土牢に似た大きな入り口を通り抜けて進むと、バルコニーに通じる戸口まで来た。バルコニーは見上げるようなホールの床と天井の中間を巻くようにしつらえてあり、ところどころに昇降階段が付いている。

吾々はその手すりのところまで近づいてホールの中をのぞいた。そこから耳をつんざくような強烈な声が聞こえてくるが、しばらくはそれを発している人物が見えなかった。

そうして吾々の目があたりを照らす毒々しい赤っぽい光に慣れてくると、どうやら中の様子が判ってきた。

 すぐ表面に見えるホールの中央にバルコニーへ出る大きな階段がらせん状に付いている。それを取り囲むようにして聴衆が群がり、階段もその中ほどまで男女がすずなりになっている。が、その身なりはだらしなく粗末である。

そのくせ豪華に見せようとする意図がみられる。たとえば黄金や銀のベルトに首かざり、銀のブローチ、宝石をあしらったバックルや留め金を身につけている者がそこらじゅうにいる。が、ぜんぶ模造品であることは一目で判る。

黄金に見えるものはただの安ピカの金属片であり、宝石も模造品である。その階段の上段に演説者が立っている。大きな図体をしており、邪悪性が他を威圧する如くにその図体が他の誰よりも大きい。

頭部にはトゲのある冠をつけ、汚らしい灰色をしたマントルを羽織っている。かつては白かったのが性質(がら)が反映して煤(すす)けてしまったのであろう。

胸のあたりにニセの黄金で作った二本の帯が交叉し、腰のあたりで革紐で留めてある。足にはサンダルを履き、その足もとに牧羊者の(先の曲がった)杖が置いてある。が、見ている吾々に思わず溜息をつかせたのは冠であった。

トゲはいばらのトゲを黄金であしらい、陰気な眉のあたりを巻いていた。


 帰れるものなら今すぐにも帰りたい心境であった。が、吾々には目的がある。どうしても演説者の話を最後まで聞いてやらねばならなかった。そのときの演説の中身を伝えるのは私にとって苦痛です。貴殿が書き取るのも苦痛であろうと思います。

が、地上にいる間にこうした暗黒界の実情を知っておくことです。なぜなら、こちらの世界にはもはや地上のような善と悪の混在の生活がない。善は高く上がり悪は低く下がり、この恐ろしい暗黒界に至っては、善による悪の中和というものは有り得ない。悪が悪とともに存在して、地上では考えられないような冒涜行為が横行するようになります。

 何と、彼が説いていたのは〝平和の福音〟だった。そのごく一部だけを紹介して、後はご想像にお任せすることにしたい。 


 「そこでじゃ、諸君、吾々はその子羊を惨殺した獣を崇拝するために、素直な気持ちでここに参集した。子羊が殺害されたということは、われわれが幸福な身の上となり呪われし者の忌まわしき苦しみを乗り越えて生きて行こうとする目的にとっては、その殺害者は事実上のわれわれの恩人ということである。

それ故、諸君、その獣が子羊を真剣に求めそして見出し、その無害の役立たずものから生命(いのち)の血液と贖いをもたらしてくれたごとくに、諸君も、つねに品性高き行為に御熱心であるからには、その子羊に相当するものを見つけ出し、かの牧羊者が教え給うたごとくに行うべきである。

諸君の抜け目なき沈着さをもって、子羊の如き惰性の中から歓喜の熱情と興奮に燃える生命をもたらすべきである・・・・・・そして女性諸君。げすな優雅さに毒されたその耳に私より一服の清涼剤を吹き込んで差し上げよう。

私を総督に選出してくれたこの偉大なる境涯に幼児はやって参らぬ。がしかし、諸君に申上げよう。どうか優しさをモットーとするこの私と、私が手にしているこの杖をとくと見てほしい。そして私を諸君の牧羊者と考えてほしい。

これより諸君を、多すぎるほどの子供を抱えている者のところへこの私がご案内しよう。

その者たちは、かつてせっかく生命を孕みながら、あまりに深き慈悲ゆえに、その生命を地上に送って苦をなめさせるに忍びず、生け贄としてモロック(*)の祭壇に捧げたごとく、その母なる胸より放り棄てるほど多くの子供を抱えている。

さ、諸君、生け贄とされた子をいとおしみつつも、その子の余りに生々しき記憶におびえ、それを棄て去らんと望む者のところへ私が連れて参ろう」(* 子供を人身御供(ひとみごくう)として祭ったセム族の神。レビ記18・21、列王記23・10。訳者)

 こうした調子で彼は演説を続けたが、その余りの冒涜性のゆえに私はこれ以上述べる気がしません。カスリーンに中継させるのも忍びないし、貴殿に聞かせるのも気がひけます。

それを敢えて以上だけでも述べたのは、貴殿並びに他の人々にこの男の善性への冷笑と愚弄(ぐろう)
的従順さの一端を知っていただきたかったからであり、しかも彼がこの境涯にいる無数の同類の一つのタイプに過ぎないことを知っていただくためです。

いかにも心優しい人物を装い、いかにも遠慮がちに述べつつも、実はこの男はこの界層でも名うての獰猛(どうもう)さと残忍さを具えた暴君の一人なのです。

確かに彼はその国の総督に選ばれたことは事実ですが、それは彼の邪悪性を恐れてのことだった。その彼が、見るも哀れな半狂乱の聴衆を〝品性高き者〟と述べたものだから、彼らは同じ恐怖心にお追従(ついしょう)も手伝って彼の演説に大いなる拍手を送った。

彼はまた聴衆の中の毒々しく飾った醜女たちを〝貴婦人〟と呼び、羊飼いに羊が従うごとくに自分に付いてくるがよいと命じた。

するとこれまた恐怖心から彼女たちは拍手喝采をもって同意し、彼に従うべく全員が起立した。彼はくるりと向きを変えて、その巨大な階段を登ろうとした。

 
 彼は次の段に杖を突いて、やおら一歩踏み出そうとして、ふとその足を引いて逆に一歩二歩と後ずさりし、ついに床の上に降りた。全会衆は希望と恐怖の入り混じった驚きで、息を呑んで身を屈めていた。その理由はほかならぬ階段の上段に現われた吾々の姿だったのです。

吾々はその環境において発揮できる限りの本来の光輝を身にまとって一番上段に立ち、さらに霊団の一人である女性が五、六段下がったところに立っていました。

エメラルドの玉飾りで茶色がかった金色の髪を眉(まゆ)
の上あたりでしばり、霊格を示す宝石が肩のあたりで輝いており、その徳の高さを有りのまま表している。胴の中ほどを銀のベルトでしばっている。こうした飾りが目の前の群集の安ピカの宝石と際立った対照を見せている。

両手で白百合の花束を抱えているその姿は、まさしく愛らしい女性像の極致で、先ほどの演説者の卑猥な冒涜に対する挑戦でした。

 男性も女性もしばしその姿に見とれていたが、そのうち一人の女性が思わずすすり泣きを始め、まとっていたマントでその声を抑えようとした。が、他の女性たちも甦ってくるかつての女性らしさに抗しきれずに泣き崩れ、ホールは女性の号泣で満たされてしまった。

そうして、見よ、その悲劇と屈従の境涯においては久しく聞くことのなかった純情の泣き声に男たちまで思わず手で顔おおい、地面に身を伏せ、厚い埃もかまわずに床に額をすりつけるのだった。

 が、総督は引っ込んでいなかった。自分の権威に脅威が迫ったと感じたのである。全身に怒りを露(あらわ)にしながら、ひれ伏す女性たちのからだを踏みつけながら、大股で、最初に泣きだした女性のところへ歩み寄った。それを見て私は急いで階段の一番下まで降りて一喝した──

 「待たれよ私のところへ来なされ

   私の声に彼は振り返り、ニヤリとしてこう述べた。

 「貴殿は歓迎いたそう。どうぞお出でなされ。吾輩はここにいる臆病な女どもが貴殿の後ろのあのご婦人の光に目が眩んだようなので正気づかせようとしているまでじゃ。みんなして貴殿を丁重にお迎えするためにな・・・・・・」

  が、私は厳しい口調で言い放った。

 「お黙りなさい ここへ来なされ

 すると彼は素直にやって来て私の前に立ったので、続けてこう言って聞かせた。

 「あの演説といい、その虚飾といい、冒涜の度が過ぎますぞ!  まずその冠を取りなさい。それからその牧羊者の杖も手放しなさい。よくもを冒涜し、の子等を恐怖心で束縛してきたものです」

  彼は私の言う通りにした。そこで私はすぐ側にいた側近の者に、さきほどよりは優しい口調でこう言って聞かせた。
 
 「あなた達はあまりに長いあいだ臆病すぎました。この男によって身も心も奴隷にされてきました。この男はもっと邪悪性の強い者が支配する都市へ行かせることにします。これまでこの男に仕えてきたあなた達にそれを命じます。

そのマントを脱がせ,そのベルトを外させなさい。を愚弄するものです。彼もいつかはそのに恭順の意を表することになるであろうが・・・・・・」
 
 そう言って私は待った。すると四人の男が進み出てベルトを外しはじめた。男は怒って抵抗したが、私が杖を取り上げてその先で肩を抑えると、その杖を伝って私の威力を感じておとなしくなった。

これで私の意図が叶えられた。私は彼にそのホールから出て外で待機している衛兵に連れられて遠い土地にある別の都市へ行き、そこでこれまで他人にしてきたのと同じことをとくと味わってくるようにと言いつけた。

 それからホールの会衆にきちんと坐り直すように言いつけ、全員が落着いたところで最初に紹介した歌手に合図を送った。すると強烈な歌声がホール全体に響き渡った。

その響きに会衆の心はさらに鼓舞され、そこにはもはやそれまで例の男によって抑えられてきた束縛の跡は見られなかった。あたりの明りから毒々しい赤味が消え、柔らかな明るさが増し、安らかさが会場にみなぎり、興奮と感激に震える身体を爽やかに包むのでした。


──どんなことを歌って聞かせたのでしょうか。

  活発な喜びと陽気さにあふれた歌──春の気分、夜の牢獄が破られて訪れる朝の気分に満ち、魂を解放する歌、小鳥や木々、せせらぎが奏でるようなメロディーを歌い上げました。

聖とか神とかの用語は一語も使っておりません。少なくともその場、その時には、一切口にしませんでした。彼らにとって何よりも必要とした薬は、それまでの奴隷的状態からの解放感を味わうように個性に刺戟を与えることでした。

そこで彼は生命の喜びと友愛の楽しさを歌い上げたのでした。と言って、それで彼らがいきなり陽気になったわけではありません。言わば絶望感が薄らいだ程度でした。

そのあとは吾々が引き受け、訓戒を与え、かくしてようやくそのホールが、かつては気の向かぬまま恐怖の中で聞かされていた冒涜の対象イエス・キリストの崇拝者によって満たされる日が来ました。

崇拝といっても、善性にあふれた上層界でのそれとは較べものになりませんが、調和の欠けた彼らの哀れな声の中にも、この度の吾々のように猜疑心と恐怖心に満ちた彼らの邪悪な感情のるつぼに飛び込んで苦心した者の耳には、どこか心を和ませる希望の響きが感じられるのでした。

 それからあとは吾々に代って訪れる別の霊団によって強化と鍛錬を受け、それから先の長くかつ苦しい、しかし刻一刻開けてゆく魂の夜明けへ向けての旅に備えることになっており、吾々は吾々で、さらに次の目的地へ向けて出発したのでした。


──そのホールに集まったのは同じ性質の者ばかりですか。

  ほぼ同じです。大体において同質の者ばかりです。性格的に欠けたところのある者も少しはおりました。それよりも、貴殿には奇異で有り得ないことのように思える事実をお話しましょう。         
 
彼らのうちの何名かがさきの総督の失脚のお伴をすることになったことです。彼の邪悪性の影響を受けて一心同体と言えるほどまでになっていたために、彼らの個性には自主的に行動する独立性が欠けていたわけです。

そのために、それまで総督の毒々しい威力の中で仕えてきたごとくに、その失脚のお伴まですることなった。が、その数はわずかであり、別の事情で別の土地へ向かうことになった者も少しばかりいました。

しかし大多数は居残って、久しく忘れていた真理を改めて学び直すことになりました。

遠い昔の話は今の彼らにとっては新鮮に響き、かつ素晴らしいものに思えるらしく、見ている吾々には可哀そうにさえ思えました。


──その後総督はどうなりましたか。

 今も衛兵が連れて行った遠い都市にいます。邪性と悪意は相も変らずで、まだまだ戻っては来れません。この種の人間の高尚な者へ目を向けるようになるのは容易なことではないのです。


──衛兵が連れて行ったと言われましたが、それはどんな連中ですか。

 これはまた難しい質問をなさいましたね。これはについて、その叡智、その絶対的支配についてもっと深く悟るまでは、理解することは困難な問題の一つです。

一言でいえば神の支配は天国だけでなく地獄にも及んでいるということで、地獄も神の国であり(悪魔ではなく)のみが支配しているということです。先の衛兵は実は総督を連れて行った都市の住民です。

邪悪性の強い人間であることは確かであり、への信仰などおよそ縁のない連中です。ですが総督を連行するように命ぜられた時、誰がそう裁決したのか聞こうともせず、それが彼にとって最終的な救済手段であることも知らぬまま、文句も言わずに命令に従った。

この辺の経緯の裏側を深く洞察なされば、地上で起こる不可解な出来ごとの多くを解くカギを見出すことが出来るでしょう。

 大ていの人間は悪人はの御国の範囲の外にいるもの───罪悪や災害はのエネルギーが誤って顕現したものと考えます。しかし実は両者ともの御手の中にあり、悪人さえも、本人はそうと知らずとも、究極においてはそれなりの計画と目的を成就させられているのです。

この問題はしかし、今ここで扱うには少し大きすぎます。では、お寝みになられたい。吾々の安らぎが貴殿のものとなるよう祈ります。
 
 
 
 4 悪の効用                                                    
   一九一八年一月八日   火曜日

 こうした暗黒の境涯において哀れみと援助を授ける使命に携わっているうちに、前もって立てられた計画が実は吾々自身の教育のために(上層界において)巧妙に配慮されていることが判ってきました。

訪れる集落の一つひとつが順序よく吾々に新たな体験をさせ、吾々がその土地の者に救いの手を差しのべている間に、吾々自身も、一団と高き界から幸福と教訓を授けんとする霊団の世話に与(あずか)るという仕組みになっていたわけです。

その仕組みの中に吾々がすでに述べた原理の別の側面、すなわちに反抗する者たちの力を逆手に取っての仕事に活用する叡智を読み取っていただけるでしょう。


──彼らの納得を得ずに、ですか。

 彼らの反感を買わずに、です。暗黒界の奥深く沈みこみ、光明界からの影響力に対して反応を示さなくなっている彼らでさえ、の計画に貢献すべく活用されているということです。

やがて彼らが最後の審判の日(第一巻五章参照)へ向けて歩を進め、いよいよ罪の清算が行われるに際して、自分でこそ気が付かないが、そういう形での僅かな貢献も、少なくともその時はの御心に対していつもの反抗的態度を取らなかったという意味において、聖なるものとして考慮に入れてもらえるのです。


──でも前回に出た総督はどうみてもその種の人間ではないと思いますが、彼のような者でもやはり何か有用性はあったのでしょうか。

 ありました。彼なりの有用性がありました。つまり彼の失脚が、かつての仲間に、彼よりも大きな威力を持つ者がいることを示すことになったのです。

同時に、悪事は必ずしも傲慢(ごうまん)さとは結びつかず、天秤(てんびん)は遅かれ早かれいつかは平衡(へいこう)を取り戻して、差引勘定がきっちりと合わされるようになっていることも教えることになりました。

もっとも、あの総督自身はそれを自分の存在価値とは認めないでしょう。と言うのも、彼には吾々の気持ちが通じず、不信の念ばかりが渦巻いていたからです。

それでも、その時点ですでに部分的にせよそれまでの彼の罪に対する罰が与えられたからには、それだけのものが彼の償うべき罪業の総計から差し引かれ、消極的な意味ながらその分だけ彼にとってプラスになることを理解すべきです。


 もっとも、貴殿の質問には大切な要素が含まれております。総督の取り扱い方は本人は気に入らなかったでしょうが、実はあれは、あそこまで総督の横暴を許した他の者に対する見せしめの意味も含まれておりました。

吾々があの界へ派遣され、あのホールへ導かれたのもそれが目的でした。その時はそうとは理解しておらず、自分たちの判断で行動したつもりでした。が実際には上層界の計画だったというわけです。

 さて、貴殿の方さえよろしければもっと話を進めて、吾々が訪れた土地、そこの住民、生活状態、行状、そして吾々がそこの人たちにどんなことをしてあげたかを述べましょう。あちらこちらに似たような性質(たち)の人間が寄り集まった集落がありました。

寄り集まるといっても一時的なもので、孤独感を紛らわすために仲間を求めてあっちの集落、こっちの集落と渡り歩き、嫌気がさすとすぐにまた荒野へ逃れて行くということを繰り返しています。その様子は見ていて悲しいものです。

 ほとんど例外なく各集落には首領(ボス)が──そして押しの強さにおいてボスに近いものを持つ複数の子分が──いて睨みをきかせ、その威圧感から出る恐怖心によって多くの者を隷属させている。

その一つを紹介すれば──これは実に荒涼とした寂しい僻地をえんえんと歩いてようやく辿り着いた集落ですが──まわりを頑丈な壁で囲み、しかもその領域が実に広い。中に入ると、さっそく衛兵に呼び止められました。衛兵の数は十人ほどいました。そこが正門であり、翼壁が二重になっている大きなものです。

みな図体も大きく、邪悪性も極度に発達している。吾々を呼び止めてからキャプテンがこう尋問した。

  「どちらから来られた?」
  「荒野を通っていく途中ですが・・・・・・」

  「で、ここへは何の用がおありかな?」
 その口調には地上時代には教養人であったことを窺わせるものがあり、挙動にもそれが表れていた。が、今ではそれも敵意と侮蔑(ぶべつ)で色付けされてる。それがこうした悲しい境涯の常なのです。

 その尋問に吾々は───代表して私が───答えた。
 「こちらの親分さんが奴隷のように働かせている鉱山の労働者たちに用事がありまして・・・・・・」

 「それはまた結構な旅で・・・・・・」いかにも愉快そうに言うその言葉には吾々を騙そうとする意図が窺える。「気の毒にあの人たちは自分たちの仕事ぶりを正しく評価し悩みを聞いてくださる立派な方が一日も早く来てくれないものかと一生懸命でしてな」

 「中にはこちらの親分さんのところから一ときも早く逃れたいと思っている者もいるようですな。あなた方もそれぞれに頭の痛いことで・・・・・・」

 これを聞いてキャプテンのそれまでのニコニコ顔が陰気なしかめっ面に一変した。ちらりと見せた白い歯は血に飢えた狼のそれだった。その上、彼の気分の変化とともに、あたりに一段と暗いモヤが立ちこめた。そしてこう言った。

  「この私も奴隷にされているとおっしゃるのかな?」
  「ボスの奴隷であり、ヒモでいらっしゃる。まさしく奴隷であり、さらに奴隷たちの使用人でもいらっしゃる」

  「でたらめを言うとお前たちもオレたちと同じ身の上にするぞ。ボスのために金と鉄を掘らされることになるぞ」
         霊的力学
 そう言い放って衛兵の方を向き、吾々を逮捕してボスの館へ連れて行くように命じた。
が私は逆に私の方からキャプテンに近づいて彼の手首に私の手を触れた。するとそれが彼に悶えるほどの苦痛を与え、引き抜いていた剣を思わず放り出した。私はなおも手を離さなかった。

私のオーラと彼のオーラとが衝突して、その衝撃が彼に苦痛を与えるのであるが、私には一向に応えない。私の方が霊力において勝るために、彼は悶えても私には何の苦痛もない。貴殿もその気があれば心霊仲間と一緒にこの霊的力学について勉強なさることです。これは顕と幽にまたがる普遍的な原理です。勉強なされば判ります。さて私は彼に言った。

  「吾々はこの暗黒の土地の者ではありませんぞ。の御国から参った者です。同じ生命を受けておりながら貴殿はそれを邪悪な目的に使って冒涜しておられる。今はまだ貴殿はこの城壁と残虐なボスから逃れて自由の身となる時期ではない」

 彼はようやくその偉ぶった態度の薄い殻を破って本心をのぞかせ、こう哀願した。
 「なぜ私はこの地獄の境涯とあのボスから逃れられないのですか。ほかの者は逃れて、なぜこの私だけ・・・・・・」
 
 「まだその資格ありとのお裁きがないからです。これより吾々がすることをよくご覧になられることです。反抗せずに吾々の仕事を援助していただきたい。そして吾々が去ったあと、そのことをじっくりと反省なさっておれば、そのうち多分その中に祝福を見出されるでしょう」

 「祝福ね・・・・・・・」そう言って彼はニヤリと笑い、さらに声に出して笑いだしたが、その笑いには愉快さは一かけらも無かった。が、それから一段と真剣な顔つきでこう聞いた。
 
 「で、この私に何をお望みで?」
 「鉱山の入口まで案内していただきたい」
 「もしイヤだと言ったら?」
 「吾々だけで行くことにする。そして貴殿は折角のチャンスを失うことになるまでですな・・・・・・」

 そう言われて彼はしばらく黙っていたが、やがて、もしかしたらその方が得かもしれないと思って、大きな声で言った。

 「いや、案内します。案内します。少しでも善行のチャンスがあるのなら、いつも止められているこの私にやらせていただきます。もしあのボスめが邪魔しやがったら、こんどこそただじゃおかんぞ」

  そう言って彼は歩き出したので吾々もその後に続いた。歩きながら彼はずっと誰に言うともなくブツブツとこう言い続けた。

 「彼奴とはいつも考えや計画が食い違うんだ。何かとオレの考えを邪魔しやがる、さんざん意地悪をしてきたくせに、まだ気が済まんらしい。云々・・・・・・」
 
 そのうち振り返って吾々にこう述べた。

 「申し分けありません。この土地の者はみな、ここでしっかりしなくては、という時になるといつも頭が鈍るんです。多分気候のせいでしょう。もしかしたら過労のせいかも知れません。どうかこのまま私に付いてきてください。お探しになっておられるところへ私がきっとご案内いたしますので・・・・・・」

 彼の物の言い方と態度には軽薄さと冷笑的態度と冷酷さとが滲み出ている。が、今は霊的に私に牛取られているためにそれがかなり抑えられていて、反抗的態度に出ないだけである。

吾々は彼の後について行った。いくつか市街地を通ったが、平屋ばかりが何のまとまりもなく雑然と建てられ、家と家の間隔が広く空き、空地には目を和ませる草木一本見当たらず、じめじめした場所の雑草と、熱風に吹かれて葉が枯れ落ち枝だけとなった低木が見える程度である。

その熱風は主として今吾々が近づきつつある鉱山の地下道から吹き上げていた。

 家屋は鉱山で働く奴隷労働者が永い労働のあとほんの僅かの間だけ休息を取るためのものだった。それを後にしてさらに行くと、間もなく地下深く続く坑道の大きな入口に来た。が、近づいた吾々は思わず後ずさりした。猛烈な悪臭を含んだ熱風が吹き出ていたからである。

吾々はいったんそれを避けてエネルギーを補充しなければならなかった。それが済むと、心を無情にして中に入り、キャップテンの後について坑道を下りていった。彼は今は黙したままで、精神的に圧迫を感じているのが分かる。

それは、そうでなくても前屈みになる下り道でなおいっそう肩をすぼめてる様子から窺えた。

 そこで私が声を掛けてみた。振り向いて吾々を見上げたその顔は苦痛に歪み、青ざめていた。

 「どうなされた?ひどく沈んでおられるが・・・・・・この坑道の入口に近づいた頃から苦しそうな表情になりましたな」

 私がそう言うと彼はえらく神妙な調子で答えた。

  「実は私もかつてはこの地獄のような焦熱の中でピッケルとシャベルを握って働かされた一人でして、その時の恐ろしさが今甦ってきて・・・・・・」

 「だったら今ここで働いている者に対する一かけらの哀れみの情が無いものか、自分の魂の中を探してみられてはどうかな?」

 弱気になっていた彼は私の言葉を聞いて坑道の脇の丸石の上に腰を下ろしてしまい、そして意外なことを口にした。

 「とんでもない。とんでもない。哀れみが必要なのはこの私の方だ。彼らではない・・・」

 「でも、そなたは彼らのような奴隷状態から脱し、鉱山から出て、今ではボスと呼んでいる男に仕えている、結構な身の上ではありませんか」

 「貴殿のことを私は叡智に長けた人物とお見受けしていたが、どうやらその貴殿にも、一つの奴隷状態から一段と高い権威ある奴隷になることは、粗末なシャツをトゲのある立派なシャツに着替えるようなものであることをご存知ないようだ・・・・・・」

 恥ずかしながら私はそれを聞いて初めて、それまでの暗黒界の体験で学んだことにもう一つ教訓を加えることになりました。この境涯に住む者は常に少しでもラクになりたいと望み、奴隷の苦役から逃れて威張れる地位へ上がるチャンスを窺っている。が、

ようやくその地位に上がってみると、心に描いていた魅力は一転して恐怖の悪夢となる。

それは残虐で冷酷な悪意の権化であるボスに近づくことに他ならないからである。なるほど、これでは魅力はすぐに失せ、希望が幻滅とともに消えてしまう。それでも彼らはなおも昇級を志し、野心に燃え、狂気の如き激情をもって悶える。そのことを私は今になってやっと知った。

その何よりの実物教訓が今すぐ目の前で、地獄の現場での数々の恐怖の記憶の中で気力を失い、しゃがみ込んでいる。その哀れな姿を見て私はこう尋ねた。

 「同胞としてお聞きするが、こういう生活が人間として価値あることと思われるかな?」

 「人間として・・・か。そんなものはこの仕事をするようになってから捨てちまった──と言うよりは、私をこの鉱山に押し込んだ連中によって剥ぎ取られちまった。今じゃもう人間なんかじゃありません。

悪魔です。喜びといえば他人を痛めつけること。楽しみと言えば残虐行為を一つひとつ積み重ねること。そして自分が味わってきた苦しみを他の者たちがどれだけ耐え忍ぶかを見つめることとなってしまいました」

 「それで満足しておられるのかな?」
  彼はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて口を開いた──「いいや」

 それを聞いて私は再び彼の肩に手を置いた。私のオーラを押し付けた前回と違って、今回は私の心に同情の念があった。そして言った。

 「同胞(とも)
 ところが私のその一言に彼はきっとして私を睨みつけて言った。

 「貴殿はさっきもその言葉を使われた。真面目そうな顔をしながらこの私をからかっておられる。どうせここではみんなで愚弄し合っているんだ・・・・・・」

 「とんでもない」と私はたしなめて言った。

 「そなたがいま仕えている男をボスと呼んでおられるが、彼の権威は、そなたが彼より授かった権威と同じく名ばかりで実質はないのです。そなたは今やっと後悔の念を覚えはじめておられるが、後悔するだけでは何の徳にもなりません。

それが罪悪に対する自責の念の部屋へ通じる戸口となって初めて価値があります。この土地での用事が終わって吾々が去ったあと、今回の私との間の出来ごとをもう一度はじめから反芻し、その上で、私がそなたを同胞と呼んだわけを考えていただきたい。

その時もし私の援助が必要であれば呼んでください。きっと参ります──そうお約束します。ところで、もっと下りましょう。ずっと奥の作業場まで参りましょう。早く用事を終えて先へ進みたいのです。ここにいると圧迫感を覚えます」

  「圧迫感を覚える? でも貴殿が苦しまれる謂われはないじゃありませんか。ご自分の意志でここへ来られたのであり、罪を犯した結果として連れて来られたわけではないのですから、決してそんなはずはありません」

 それに対する返事として私は、彼が素直に納得してくれれば彼にとって救いになる話としてこう述べた。

 「にお会いしたことのある私の言うことをぜひ信じてほしい。この地獄の暗黒牢にいる者のうちの一人が苦しむ時、はその肩に鮮血の如き赤色のルビーを一つお付けになる。吾々がそれに気づいての目を見るとも同じように苦しんでおられるのが判ります。

こうして吾々なりの救済活動に携わっている者も、と同じほどではないにしても、少なくとも苦しむ者と同じ苦しみを覚えるという事実においてはと同じであるということをうれしく思っております。

ですから、そなたの苦しみが吾々の苦しみであること、そしてそなたのことを同胞(とも)と呼ぶことを驚かれることはありません。大いなる海の如き愛を持ってがそう配慮してくださっているのですから」



 

 5 地獄の底                                           
   一九一八年一月十一日  金曜日

 私の話に元気づけられたキャプテンの後に付いて、吾々は再び下りて行った。やがて岩肌に掘り刻まれた階段のところに来て、それを降りきると巨大な門があった。キャプテンが腰に差していたムチの持ち手で扉を叩くと、鉄格子から恐ろしい顔をした男がのぞいて〝誰だ?〟と言う。

形は人間に違いないが、獰猛な野獣の感じが漂い、大きな口、恐ろしい牙、長い耳をしている。キャプテンが命令調で簡単に返事をすると扉が開けられ、吾々は中に入った。

そこは大きな洞窟で、すぐ目の前の隙間から赤茶けた不気味な光が洩れて、吾々の立っている場所の壁や天井をうっすらと照らしている。近寄ってその隙間から奥を覗くと、そこは急なくぼみになっていて人体の六倍ほどの深さがある。吾々は霊力を駆使してあたりを見まわした。

そして目が薄明りに慣れてくると、前方に広大な地下平野が広がっているのが分かった。どこまで広がっているのか見当もつかない。そのくぼみを中心として幾本もの通路が四方八方に広がっており、その行く先は闇の中に消えている。

見ていると、幾つのも人影がまるで恐怖におののいているかのごとく足早やに行き来している。時おり足に鎖をつけられた者がじゃらじゃらと音を立てて歩いているのが聞こえる。


そうかと思うと、悶え苦しむ不気味な声や狂ったように高らかに笑う声、それとともにムチ打つ音が聞こえてくる。思わず目を覆い耳をふさぎたくなる。苦しむ者がさらに自分より弱い者を苦しめては憎しみを発散させているのである。あたり一面、残虐の空気に満ち満ちている。私はキャプテンの方を向いて厳しい口調で言った。

 「ここが吾々の探していた場所だ!  どこから降りるのだ!?」
 彼は私の口調が厳しくなったのを感じてこう答えた。

 「そういう物の言い方は一向に構いませんぞ。私にとっては同胞(とも)と呼んでくれるよりは、そういう厳しい物の言い方の方がむしろ苦痛が少ないくらいです。

と言うのも、私もかつてはこの先で苦役に服し、さらにはムチを手にして他の者たちを苦役に服させ、そしてその冷酷さを買われてこの先に出入口のある区域で主任監督となった者です。そこはここからは見えません。


ここよりさらに低く深い採掘場へ続く、幾つもある区域の最初です。それからさらにボスの宮殿で働くようになり、そして例の正門の衛兵のキャップテンになったという次第。

ですが、今にして思えば、もし選択が許されるものなら、こうして権威ある地位にいるよりは、むしろ鉱山の奥底に落ちたままの方がラクだったでしょうな。そうは言っても、二度と戻りたいとは思わん。イヤです・・・・・・イヤです・・・・・・」


 そう言ったまま彼は苦しい思いに身を沈め、私が次のような質問するまで、吾々の存在も忘れて黙っていた。

 「この先にある最初の広い区域は何をするところであろう?」

 「あそこはずっと先にある仕事場で溶融され調合された鉱石がボスの使用する凶器や装飾品に加工されるところです。出来上がると天井を突き抜けて引き上げられ、命じられた場所へ運ばれる。

次の仕事場は鉱石が選り分けられるところ、その次は溶融されたものを鋳型に入れて形を作るところ。
一ばん奥の一ばん底が採掘現場です。いかがです?  降りてみられますか」

  私はぜひ降りて、まず最初の区域を見ることでその先の様子を知りたいと言った。

  それでは、ということで彼は吾々を案内して通風孔まで進み、そこで短い階段を下りて少し進むと、さっき覗いた隙間の下から少し離れたところに出た。

その区域は下り傾斜になっており、そこを抜けきって、さっきキャプテンが話してくれた幾つかの仕事場を通り過ぎて、ついに採掘場まで来た。
私は何としてもこの暗黒界の悲劇のドン底を見て帰る覚悟だったのである。

 通っていった仕事場はすべてキャプテンの話したとおりだった。天井の高さも奥行きも深さも途方もない規模だった。が、そこで働く何万と数える苦役者はすべて奴隷の身であり、時たま、ほんの時たま、小さな班に分けられて厳しい監視のもとに地上の仕事が与えられる。が、

それは私には決してお情けとは思えなかった。むしろ残酷さと効率の計算から来ていた。つまり再び地下に戻されるということは絶望感を倍加させる。

そして真面目に、そして忠実に働いていると、またその報酬として地上へ上げてもらえる、ということの繰り返しに過ぎない。空気はどこも重苦しく悪臭に満ち、絶望感からくる無気力がみんなの肩にのしかかっている。それは働く者も働かせるものも同じだった。


 吾々はついに採掘場へ来た。出入口の向こうは広大な台地が広がっている。天上は見当たらない。上はただの暗黒である。ほら穴というよりは深い谷間にいる感じで、両側にそそり立つ岩は頂上が見えない。それほど地下深くに吾々はいる。

ところが左右のあちらこちらに、さらに深く降りて行くための横坑が走っており、その奥は時おりチラチラと炎が揺れて見えるほかは、殆どが漆黒の闇である。


そして長く尾を引いた溜め息のような音がひっきりなしにあたりに聞こえる。風が吹く音のようにも聞こえるが空気は動いていない。立坑もある。その岩壁に刻み込まれた階段づたいに降りては、吾々が今立っている位置よりはるか地下で掘った鉱石を坑道を通って運び上げている。

台地には幾本もの通路が設けてあり、遠くにある他の作業場へ行くための出入口につながってる。その範囲は暗黒界の地下深くの広大な地域に広がっており、それは例の〝光の橋〟はもとより、その下の平地の地下はるかはるか下方に位置している。

ああ、そこで働く哀れな無数の霊の絶望的苦悶・・・・・・途方もない暗黒の中に沈められ、救い出してくれる者のいない霊たち・・・・・・


 がしかし、たとえ彼ら自身もあきらめていても、光明の世界においては彼らの一人ひとりを見守り、援助を受け入れる用意のできた者には、この度の吾々がそうであるように、救助の霊が差し向けられるのである。

 さて私はあたりを見回し、キャプテンからの説明を受けたあと、まわりにある出入口すべての扉を開けるように命じた。するとキャプテンが言った。

  「申しわけない。貴殿の言うとおりにしてあげたい気持ちは山々だが、私はボスが怖いのです。怒った時の恐ろしさは、それはそれは酷いものです。こうしている間もどこかでスパイがいて、彼に取り入るために、吾々のこれまでの行動の一部始終を報告しているのではないかと、心配で心配でなりません」

 それを聞いて私はこう言った。

 「吾々がこの暗黒の都市へ来て初めてお会いして以来そなたは急速に進歩しているようにお見受けする。以前にも一度そなたの心の動きに向上の兆しが見られるのに気付いたことがあったが、その時は申し上げるのを控えた。今のお話を聞いて私の判断に間違いがなかったことを知りました。

そこで、そなたに一つの選択を要求したい。早急にお考えいただいて決断を下してもらいたい。吾々がここへ参ったのは、この土地の者で少しでも光明を求めて向上する意志のある者を道案内するためです。そなたが吾々の見方になって力をお貸しくださるか、それとも反対なさるか、その判断をそなたに一任します。

いかがであろう、吾々と行動を共にされますか、それともここに留まって今までどおりボスに仕えますか。早急に決断を下していただきたい」

 彼は立ったまま私を見つめ、次に私の仲間へ目をやり、それから暗闇の奥深く続く坑道に目をやり、そして自分の足もとに目を落とした。それは私が要求したように素早い動きであった。そして、きっぱりとこう言った。

 「有難うございました。ご命令どおり、すべての門を開けます。しかし私自身はご一緒する約束はできません。そこまでは勇気が出ません───まだ今のところは」

 そう言い終わるや、あたかもそう決心したことが新たな元気を与えたかのごとく、くるりと向きを変えた。その後ろ姿には覚悟を決めた雰囲気が漂い、膝まで下がったチュニックにも少しばかり優雅さが見られ、身体にも上品さと健康美が増していることが、薄暗い光の中でもはっきりと読み取れた。

それを見て私は彼が自分でも気づかないうちに霊格が向上しつつあることを知った。極悪非道の罪業のために本来の霊格が抑えられていたのが、何かをきっかけに突如として魂の牢獄の門が開かれ、自由と神の陽光を求めて突進しはじめるということは時としてあるものです。

実際にあります。しかし彼はそのことを自覚していなかったし、私も彼の持久力に確信が持てなかったので黙って様子を窺っていたわけです。

 そのうち彼が強い調子で門番に命ずる声が聞こえてきた。さらに坑道を急いで次の門で同じように命令しているのが聞こえた。その調子で彼は次々と門を開けさせながら、吾々が最初に見た大きな作業場へ向かって次第に遠ざかっていくのが、次第に小さくなっていくその声で分かった。
 
 
6 〝強者つわものよ、何ゆえに倒れたるや〟     
  一九一八年一月十五日 火曜日

 そこで吾々はこの時ばかり一斉に声を張り上げて合唱しました。声のかぎりに歌いました。その歌声はすべての坑道を突き抜け、闇の帝王たるボスの獰猛(どうもう)な力で無数の霊が絶望的な苦役に甘んじている作業場や洞窟のすみずみにまで響きわたりました。

あとで聞かされたことですが、吾々の歌の旋律が響いてきたとき彼らは仕事を中止してその不思議なものに耳を傾けたとのことです。

と言うのも、彼らの境涯で聞く音楽はそれとはおよそ質の異なるもので、しかも吾々の歌の内容(テーマ)が彼らには聞き慣れないものだったからです。
 

──どんな内容だったのでしょう。

 吾々に託された目的に適ったことを歌いました。まず権力と権威の話をテーマにして、それがこの恐怖の都市で猛威をふるっていることを物語り、次にその残酷さと恥辱と、

その罠にかかった者たちの惨状を物語り、続いてその邪悪性がその土地にもたらした悪影響、つまり暗闇は魂の暗闇の反映であり、それが樹木を枯らし、土地を焦がし、岩場をえぐって洞窟と深淵をこしらえ、水は汚れ、空気は腐敗の悪臭を放ち、至るところに悪による腐敗が行きわたっていることを物語りました。

そこでテーマを変え、地上の心地良い草原地帯、光を浴びた緑の山々、こころ和ませるせせらぎ、それが、太陽の恵みを受けた草花の美しく咲き乱れる平地へ向けて楽しそうに流れていく風景を物語りました。

続いて小鳥の歌、子に聞かせる母の子守歌、乙女に聞かせる男の恋歌、そして聖所にてみんなで歌うへの讃仰の歌──それを天使が玉座に持ち来り、清めの香を添えてに奉納する。

こういう具合に吾々は地上の美を讃えるものを歌に託して合唱し、それから更に一段と声を上げて、地上にて勇気を持っての道を求め今はなるの光と栄光のもとに生きている人々の住処──そこでは荘厳なる樹木が繁り、豪華けんらんたる色彩の花が咲き乱れ、
なるの僕として経綸に当たる救世主イエスの絶対的権威に恭順の意を表明する者にとって静かなる喜びの源泉となるものすべてが存在することを歌い上げました。


──あなたが率いられた霊団は全部で何名だったのでしょうか。
 
 七の倍にこの私を加えた十五人です。これで霊団を構成しておりました。さて吾々が歌い続けていると一人また一人と奴隷が姿を現しました。青ざめ、やつれきった顔があの坑道この坑道から、さらには、岩のくぼみからも顔をのぞかせ、また吾々の気付かなかった穴やほら穴からも顔を出して吾々の方をのぞき見するのでした。

そしてやがて吾々の周りには、恐怖におののきながらもまだ光を求める心を失っていない者たちが、近づこうにもあまりそばまで近づく勇気はなく、それでも砂漠でオアシスを見つけたごとく魂の甦るのを感じて集まっていた。

しかし中には吾々をギラギラした目で睨み付け、魂の怒りを露(あらわ)にしている者もいた。

さらには吾々の歌の内容が魂の琴線に触れて、過去の過ちへの悔恨の情や母親の子守歌の記憶の甦りに慟哭して地面に顔を伏せる者もいた。彼らはかつてはそれらを軽蔑して道を間違えた──そしてこの道へ来た者たちだったわけです。

 その頃から吾々は歌の調子を徐々にゆるやかにし、最後は安息と安らぎの甘美なコードで〝アーメン〟を厳かに長く引き延ばして歌い終わった。

 するとその中の一人が進み出て、吾々から少し離れた位置で立ち止まり、跪いて〝アーメン〟を口ずさんだ。これを見た他の者たちは彼にどんな災難がふりかかるのかと固唾(かたず)をのんで見守った。と言うのも、それは彼らのボスに対する反逆に他ならなかったからです。

が、私は進み出て彼の手を取って立たせ、吾々の霊団のところまで連れてきた。そこで霊団の者が彼を囲んで保護した。これで彼に危害の及ぶ気遣いはなくなった。

すると三々五々、あるいは十人二十人と吾々の方へ歩み寄り、その数は四百人ほどにもなった。そして、まるで暗誦文を諳(そら)んずる子供のようにきちんと立って、彼に倣って〝アーメン〟と言うのだった。

坑道の蔭では舌打ちしながら吾々へ悪態をついている者もいたが、腕ずくで行動に出る者はいなかった。そこで私は、希望する者は全員集まったとみて、残りの者に向けてこう述べた。

  「この度ここに居残る選択をした諸君、よく聞いてほしい。諸君より勇気のある者はこれよりこの暗黒の鉱山を出て、先ほどの吾々の歌の中に出てきた光と安らぎの境涯へと赴くことになる。

今回は居残るにしても、再び吾々の仲間がの使いとして訪れた時、今この者たちが吾々の言葉に従うごとく、どうか諸君もその使いの者に従う心の準備をしておいてほしく思う」

 次に向きを変え、そこを出る決心をした者へ勇気づけの言葉を述べた。と言うのも、彼らはみな自分たちの思い切った選択がもたらす結果に恐れおののいていたからです。

  「それから私の同志となられた諸君、あなた方はこれより光明の都市へ向けて歩むことになるが、その道中においてボスの手先による脅しには一向に構ってはなりませんぞ。もはや彼はあなた方の主(ぬし)ではなくなったのです。

そして、もっと明るい主に仕え、然るべき向上を遂げた暁には、それに相応しい衣服を給わることになります。が、今は恐れることなく一途に私の言うことに従ってほしい。間もなくボスがやってきます。全てはボスと決着つけてからのことです」

 そう述べてから、吾々がキャプテンとともにそこに入ってきた門、そして四百人もの奴隷が通ってきた門の方へ目をやった、それに呼応するかのように、それよりさらに奥の門の方から騒々しい声が聞こえ、それが次第に近づいてきた。

ボスである。吾々の方へ進みながら奴隷たちに、自分に付いてきて傲慢きわまる侵入者へ仕返しをするのだとわめいている。脅しや呪いの言葉も聞こえる。恐怖心から彼の後に付いてくる哀れな奴隷たちも彼を真似してわめき散らしている。

 私はボスを迎えるべく一団の前に立った。そしてついにそのボスの姿が見えてきた。 


 ──どんな人でしたか──彼の容貌です。

 彼もの子であり従って私の兄弟である点は同じです。ただ、今は悪に沈みきっているというまでです。それ故に私としては本当は慈悲の心から彼の容貌には構いたくないのです。彼が憎悪と屈辱をむき出しにしている姿を見た時の私の心にあったのは、それを哀れと思う気持ちだけでした。

が、貴殿が要求されるからにはそれを細かく叙述してみましょう。それが〝強者(つわもの)よ、何ゆえに倒れたるや〟(サムエル書(2)1・19)という一節にいかに深い意味があるかを悟られる縁(よすが)となろうと思うからです。

 
 図体は巨人のようで、普通の人間の1.5倍はありました。両肩がいびつで、左肩が右肩より上がっていました。ほとんど禿げあがった頭が太い首の上で前に突き出ている。煤けた黄金色をしたソデなしのチュニックをまとい、右肩から剣を下げ、腰の革のベルトに差し込んでいる。

錆びた(鎧)のスネ当てを付け、なめされていない革の靴を履き、額には色褪せた汚れた飾り輪を巻いている。その真ん中に動物の浮き彫りがあるが、それは悪の力を象徴するもので、それに似た動物を地上に求めれば、さしづめ〝陸のタコ〟(というものがいるとすればであるが)であろう。

彼の姿の全体の印象を一口で言えば〝王位の模倣〟で、別の言い方をすれば、所詮は叶えられるはずもない王位を求めてあがく姿を見る思いでした。その陰険な顔には激情と狂気と貪欲と残忍さと憎しみとが入り混じり、同時にそれが全身に滲みわたっているように思えた。実際はその奥には霊的な高貴さが埋もれているのです。

つまり善の道に使えば偉大な力となったはずのものがマヒしたために、今では悪のために使用されているにすぎない。彼は足をすべらせた大天使なのです。それを悪魔と呼んでいるにすぎないのです。


 ──地上では何をしていた人か判っているのでしょうか

  貴殿の質問には何なりとお答えしたい気持ちでいます。質問された時は私に対する敬意がそうさせているものと信じています。そこで私も喜んでお答えしています。どうぞこれからも遠慮なく質問されたい。

もしかしたら私にも気づかない要因があるのかも知れません。その辺は調べてみないと分かりませんが、ただ、それに対する私の回答の意味を取り違えないでいただきたい。

そのボスが仮に地上ではこの英国の貧民層のための大きな病院の立派な外科医だったとしても、少しもおかしくありません。もしかして牧師だったとしても、あるいは慈善家だったとしても、これ又、少しも不思議ではない。

外見というものは必ずしも中身と一致しないものです。とにかく彼はそういう人物でした。大ざっぱですが、この程度で我慢していただきたいのですが・・・・・・


 ──余計な質問をして申しわけありません。
 
  いや、いや、とんでもない。そういう意味ではありません。私の言葉を誤解しないでいただきたい。疑問に思われることは何なりと聞いていただきたい。貴殿と同じ疑問を他の大ぜいの人も抱いているかもしれない。それを貴殿が代表してることになるのですから・・・・・・
  
  さて、そのボスが今まさに目の前に立っている。わめき散らす暴徒たちにとっては紛れもない帝王であり、後方と両側に群がる人数は何千を数える。

が、彼との間には常に一定の距離が置かれている───近づくのが怖いのである。左手にはムチ紐が何本もついた見るからに恐ろしい重いムチがしっかりと握られていて、奴隷たちは片時もそのムチから目を離そうとせず、他の方向へ目をやってもすぐまたムチへ目を戻す。

ところがそのボスが吾々と対峙したまま口を開くのを躊躇している。そのわけは、彼が永い間偉そうに、そして意地悪く物を言うクセが付いており、いま吾々を前にして、吾々の落着き払った態度が他の連中のおどおどした態度とあまりにも違うためにためらいを感じてしまったのです。

 そうやって向かい合っていた時である。ボスの後方に一人の男が例の正門のところで会った守衛の服装の二人の男に捕らわれて紐でしばられているのが私の目に入った。蔭の中にいたので私は目を凝らして見た。なんとそれはキャプテンだった。

私はとっさに勢いよく進み出てボスのそばを通り──通りがかりにボスの剣に手を触れておいて──二人の守衛の前まで行き「紐をほどいてその男を吾々に渡すのだ」と命じた。

 これを耳にしたボスが激怒して剣を抜き私に切りかかろうとした。が、すでにその剣からは硬度が抜き取られていた。まるで水草のようにだらりと折れ曲がり、ボスは唖然としてそれを見つめている。

自分の権威の最大の象徴だった剣が威力を奪われてしまったからである。もとより私自身は彼をからかうつもりは毛頭なかった。しかし他の者たち、即ち彼の奴隷たちはボスの狼狽した様子に、ユーモアではなく悪意からでる滑稽さを見出したようだった。

岩蔭から嘲笑と侮りの笑い声がどっ沸きおこったのである。するとどうであろう。刀身が見る間に萎れ、朽ち果て、柄(つか)から落ちてしまった。

ボスは手に残った柄を最後まで笑っている岩蔭の男を目がけて放り投げつけた。その時私が守衛の方を向くと、二人は慌ててキャプテンの紐をほどいて吾々の方へ連れてきた。

 とたんにボスのカラ威張りの雰囲気が消え失せ、まず私に、それから私の仲間に向かって丁寧におじぎをした。その様子を見ても、このボスは邪悪性が善性へ向かえばいつの日か、吾らがの偉大なる僕となるべき人物であることが分かる。

  「恐れ入った・・・・・・」彼は神妙に言った。「あなた様は拙者より強大な力を自由に揮(ふる)えるお方のようじゃ。そのことには拙者も潔くカブトを脱ごう。で、拙者と、この拙者に快く骨身を惜しまず尽してくれた忠実な臣下たちをどうなさるおつもりか、お教えねがえたい」


 いかにも神妙な態度を見せながらも、彼の言葉のいたるところに拗ねた悪意が顔をのぞかせる。この地獄の境涯ではそれが常なのである。すべてが見せかけなのである。奴隷の境遇を唯一の例外として・・・・・・

 そこで私は彼に吾々のこの度の使命を語って聞かせた。すると彼はまたお上手を言った。

  「これはこれは。あなた様がそれほどのお方とは存じ上げず、失礼を致した。そうと存じ上げておればもっと丁重にお迎え致しましたものを・・・・・・しかし、その償いに、これからはあなた様にご協力を申し上げよう。さ、拙者に付いて参られたい。正門まで拙者が直々にご案内いたそう。皆さんもどうぞ後に続かれたい」

 そう言って彼は歩き始め、吾々もその後に続き、洞窟や仕事場をいくつか通り抜けて、吾々が鉱山に入って最初に辿り着いた大きな門へ通じる階段の手前にある小さな門のところまで来た。

 

7 救出                                                     
  一九一八年一月十八日 金曜日

 そこまで来てみると、はるか遠くの暗闇からやってきた者たちも加わって、吾々に付いてくる者の数は大集団となっていた。いつもなら彼らの間で知らせが行き交うことなど滅多にないことなのですが、この度は吾々のうわさは余程の素早さで鉱山じゅうに届いたとみえて、その数は初め何百だったのが今や何千を数えるほどになっていた。

 今立ち止まっているところは、最初に下りてきたときに隙間から覗き込んだ場所の下に当たる。その位置から振り返っても集団の前の方の者しか見えない。が、私の耳には地下深くの作業場にいた者がなおも狂ったようにわめきながら駆けて来る声が聞こえる。

やがてボスとその家来たちの前を通りかかると急に静かになる。そこで私はまずボスに向かって言って聞かせた。

  「そなたの心の中をのぞいてみると、さきほど口にされた丁寧なお言葉に似つかわしいものが一向に見当たりませんぞ。が、それは今は構わぬことにしよう。こうして天界より訪れる者は哀れみと祝福とを携えて参る。

その大きさはその時に応じて異なる。そこで吾々としてもそなたを手ぶらで帰らせることにならぬよう、今ここで大切なことを忠告しておくことにする。

すなわち、これよりそなたは望み通りにこれまでの生き方を続け、吾々は天界へと戻ることになるが、その後の成り行きを十分に心されたい。

この者たちはそなたのもとを離れて、そなたほどには邪悪性の暗闇の濃くない者のもとで仕えることになるが、そのあとで、どうかこの度の出来ごとを思い返して、その意味するところをとくと吟味してもらいたい。

そして、いずれそなたも、そなたの君主であらせられる方の、虚栄も残忍性も存在しない、芳醇(ほうじゅん)な光の国より参った吾々に対する無駄な抵抗の末に、ほぞをかみ屈辱を覚えるに至った時に、どうかこうした私の言葉の真意を味わっていただきたい」

 彼は地面に目を落とし黙したまま突っ立っていた。分かったとも分からぬとも言わず、不機嫌な態度の中に、スキあらば襲いかかろうとしながら、恐ろしさでそれも出来ずにいるようであった。そこで私は今度は群集へ向けてこう語って聞かせた。

  「さて今度は諸君のことであるが、この度の諸君の自発的選択による災難のことは一向に案ずるに足らぬ。諸君はより強き方を選択したのであり、絶対に見捨てられる気遣いは無用である。

ひたすらに忠実に従い、足をしっかりと踏まえて付いて来られたい。さすれば程なく自由の身となり、旅の終わりには光り輝く天界の高地へとたどり着くことが出来よう」

 そこで私は少し間を置いた、全体を静寂がおおった。やがてボスが顔を上げて言った。

  「おしまいかな?」

  「ここでは以上で留めておこう。この坑道を出て大地へ上がってから、もっと聞きやすい場所に集めて、これから先の指示を与えるとしよう」

  「なるほど。この暗い道を出てからね。なるほど、その方が結構でしょうな」
 皮肉っぽくそう述べてる彼の言葉の裏に企みがあることを感じ取った。 

 彼は向きを変え、出入口を通り抜け、家来を引き連れて都市へ向かって進みはじめた。
吾々は脇へ寄って彼らを見送った。目の前を通り過ぎて行く連中の中に私はキャップテンの姿を見つけ、この後の私の計略を耳打ちしておいた。彼は連中と一緒に鉱山を出た。そして吾々もその後に続いて進み、ついに荒涼たる大地に出た。

 出てすぐに私は改めて奴隷たちを集めて、みんなで手分けして町中の家という家、洞窟という洞窟をまわってこの度のことを話して聞かせ、いっしょに行きたい者は正門の広場に集まるように言って聞かせよと命じた。

彼らはすぐさま四方へ散っていった。するとボスが吾々にこう言った。

 「彼らが回っている間、よろしかったら拙者たちとともに御身たちを拙宅へご案内いたしたく存ずるが、いかがであろう。御身たちをお迎えすれば拙者の家族も祝福がいただけることになるのであろうからのお」 

 「無論そなたも、そしてそなたのご家族にも祝福があるであろう。が、今ただちにというわけには参らぬし、それもそなたが求める通りとは参らぬ」

 そう言ってから吾々は彼について行った。やがて都市のド真ん中と思われるところへ来ると、暗黒の中に巨大な石の構築物が見えてきた。住宅というよりは城という方が似つかわしく、城というよりは牢獄という方が似つかわしい感じである。

周囲を道路で囲み、丘のように聳え立っている。が、いかにも不気味な雰囲気が漂っている。どこもかしこも、そこに住める魂の強烈な暗黒性を反映して、真実、不気味そのものである。住める者が即ち建造者にほかならないのである。

 中に通され、通路とホールを幾つか通り抜けて応接間へきた。あまり大きくはない。そこで彼は接待の準備をするので少し待ってほしいと言ってその場を離れた。彼が姿を消すとすぐに私は仲間たちに、彼の悪だくみが見抜けたかどうかを尋ねてみた。

大半の者は怪訝な顔していたが、二、三人だけ、騙されていることに気づいていた者がいた。そこで私は、吾々がすでに囚われの身になっていること、周りの扉は全部カギが掛けられていることを教えた。

すると一人がさっき入って来たドアのところ行ってみると、やはり固く閉ざされ、外から閂(かんぬき)で締められている。その反対側には帝王の間の一つ手前の控えの間に通じるドアがあるが、これも同じく閂で締められていた。

 貴殿はさぞ、少なくとも十四人のうち何人かは、そんな窮地に陥って動転したであろうと思われるであろう。が、こうした使命、それもこの暗黒界の奥地へ赴く者は、長い間の鍛錬によって恐怖心というものはすでに無縁となっている者、善の絶対的な力を、いかなる悪の力に対しても決して傷つけられることなく、確実に揮(ふる)うことのできる者のみが選ばれていることを忘れてはならない。

 さて吾々はどうすべきか──それは相談するまでもなく、すぐに決まったことでした。十五人全員が手をつなぎ合い、波長を操作することによって吾々の通常の状態に戻したのです。それまではこの暗黒界の住民を装って探訪するために、鈍重な波長に下げていたわけです。

精神を統一するとそれが徐々に変化して身体が昇華され、まわりの壁を難なく通過して正門前の広場に出て、そこで一団が戻ってくるのを待っておりました。

 ボスとはそれきり二度と会うことはありませんでした。吾々の想像通り、彼は自分に背を向けた者たちの再逮捕を画策していたようです。そして、あのあとすぐに各方面に大軍を派遣して通路を封鎖させ、逃亡せんとする者には容赦ない仕打ちをするように命じておりました。

しかし、その後はこれといってお話しすべきドラマチックな話はありません。衝突もなく、逮捕されてお慈悲を乞う叫びもなく、光明界からの援軍の派遣もありません。

いたって平穏のうちに、と言うよりは意気地のない形で終息しました。それは実はこういう次第だったのです。


 例の帝王の間において、彼らは急きょ会議を開き、その邸宅の周りに松明を立て、邸内のホールにも明りを灯して明るくしておいて、ボスが家来たちに大演説を打(ぶ)ちました。それから大真面目な態度で控えの間のドアの閂を外し、使いの者が接待の準備が出来たことを告げに吾々の(いるはずの)部屋へ来た。

ところが吾々の姿が見当たらない。そのことがボスの面目をまるつぶしにする結果となりました。すべてはボスの計画と行動のもとに運ばれてきたのであり、それがことごとくウラをかかれたからです。

家来たちは口々に辛らつな嘲笑の言葉を吐きながらボスのもとを去って行きました。そしてそのボスは敗軍の将となって、ただ一人、哀れな姿を石の玉座に沈めておりました。

 以上の話からお気付きと思いますが、こうした境涯では悲劇と喜劇とが至るところで繰り返されております。しかし全てはそう思い込んでいるだけの偽りばかりです。すべてが唯一絶対の実在と相反することばかりだか
です。

偽りの支配者が偽りの卑下の態度で臣下から仕えられ、偽りのご機嫌取りに囲まれて、皮肉と侮りのトゲと矢がこめられたお追従を無理強いされているのです。


<原著者ノート>救出された群集はその後〝小キリスト〟に引き渡され、例のキャプテンを副官としてその鉱山からかなり離れた位置にある広々とした土地に新しい居留地(コロニー)をこしらえることになる。鉱山から救出された奴隷のほかに、暗黒の都市の住民の男女も含まれていた。

 実はこのあとそのコロニーに関する通信を受け取っていたのであるが、そのオリジナル草稿を紛失してしまった。ただ、この後(第四巻の)一月二十八日と二月一日の通信の中で部分的な言及がある。
  


   訳者あとがき

 一つの問題についての意見が各自まちまちであるのは人間世界の常であるが、宗教問題、とくにこうした霊界通信の解釈においてそれが顕著であるように思われる。東洋では仏典、西洋ではバイブルの解釈の違いがそれぞれの世界で無数といってよいほどの宗派を生み、今なお新興させつつある事実がそれを如実に物語っている。

それは死後の下層界、つまり地球に隣接した世界においても同様であるらしく、むしろ地上の現状はその反映にほかならないというのが真相であるらしい。

 それはともかく、本書を含めて、筆者がこの二、三年来紹介してきた西洋的啓示、いわゆるスピリチュアリズム的霊界通信に対する読者の反応もさまざまであろう。

 頭から否定してかかる人がまず多いであろう。その否定派にも、霊言とか自動書記という事実そのものを否定する人と、その事実は認めても、その原因は霊媒の潜在意識にあると簡単に片づけている人とがいる。そういう人にとっては、人間の潜在意識とはいかなるものなのか──その潜在意識に思想的通信を語る能力。

あるいは綴る能力があるかどうかは別に問題ではないらしい。筆者にはその方がよほど有りそうにないことのように思えるのだが・・・・・・

 他方、霊的なものとなったら何でも有難がる人もいる。霊媒と自称する人が口にすること、あるいは綴ることはすべて有難いものとして、その真偽性、内容の程度、思想的矛盾といったことは一切問わない。

この種の人は、死後の下層界にはそういう信じ易いお人好しを相手にして、空よろこびさせては快哉(かいさい)を叫んでいる低級霊の集団が世界を股に掛けてドサ回りしている事実をご存知ない。霊界の者にとって他界者の声色やしぐさを真似たり身元を調査するくらいのことは朝めし前であることも又ご存知ない。

 さて霊界通信の信憑性を計る尺度には主観・客観の双方に幾通りもあろうが、それを今ここで論じる余裕はない。それだけで一巻の書となるほど大きな問題だからである。

が、そのいずれにも属さない尺度として、時代の波に洗われてなお揺るぎない信頼を得ているもの──言いかえれば霊界通信のロングセラーであるということがあげられる。

筆者がこれまで紹介してきたもの──この『ベールの彼方の生活』をはじめとして『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』の三大霊訓はいずれも世界的ロングセラーである。

 人によっては、なぜそんな古いものばかりを、と思われるかも知れない。が、筆者は古いからこそ信憑性が高いとみているのである。いい加減なものはいずれアラが出る。

その点右の三つの通信はいずれも百年前後の時代の波に洗われてなお一点のケチもつけられたことのない、正真正銘の折紙付きのものばかりである。

 今その三者を簡単に比較してみるに、シルバーバーチは〝誰にでも分る霊的教訓〟をモットーとしているだけに、老若男女の区別なく、幅広い層に抵抗なく受け入れられているようである。神をインディアンの用語である〝大霊〟the Great Spirit と呼び、キリスト教の用語である God をなるべく用いないようにしている。

イエス・キリストについても、本質はわれわれ一般人と同じである──ただ地上に降誕した霊の中で最高の霊格を具えた人物、としているだけで決して特別扱いをしていない。

交霊会が開かれたのが英国というキリスト教国だっただけにキリスト教に関連した話題が多いのは当然であるが、それを普遍的観点から解説しているので、どの民族にも受け入れられるものを持っている。世界中に熱烈なファンがいるのもむべなるかなと思われる。

 一方、モーゼスの『霊訓』はかつてのキリスト教の牧師である霊媒モーゼスと霊団の最高指導霊イムペレーターとの間のキリスト教を主題とした熾烈な問答集であり、結果的にはモーゼスのキリスト教的先入観が打ち砕かれてスピリチュアリズム的解釈が受け入れられていくことになるが、イムペレーター自身はキリスト以前の人物であり、内容的には普遍的なものを含んでいても、主題が主題だけに、キリスト教に縁のない方には読みづらいことであろう。

 これがさらに『ベールの彼方の生活』になると、オーエン自身はもとより背後霊団が地上時代に敬虔なクリスチャンだった霊ばかりなので、徹頭徹尾キリスト教的である。

そして第三巻の本書に至っていよいよ(オーソドックスなキリスト教からみて)驚天動地の内容となってきた。そのことはオーエン自身が通信を綴りながら再三にわたって書くのを躊躇している事実からも窺えよう。

 その重大性に鑑みて、この〝あとがき〟は頭初は「解説」として私見を述べるつもりでいたのであるが、いざ書き始めてみると、リーダー霊の述べていることが日本古神道の宇宙創成説、いわゆる造化の三神ならびに国生みの物語と余りに付節を合することにますます驚きを覚え、これを本格的に、そしてまた責任ある態勢で扱うには筆者の勉強が余りに未熟であることを痛感し、差し当たって断念することにした次第である。

 これ以外にも本書には注目すべき事柄が幾つも何気ない形で語られている。シンボルの話は〝九字を切る〟ことの威力を思い起こさせ、天使の名をみだりに口にすることを戒める話は言霊(ことだま)の存在をほうふつとさせ、最後のところでボスの館を脱出した方法は物品引寄現象も同じ原理であることを教えている。

その他、一つひとつ指摘してそれに心霊的ないし古神道的解釈を施していけば、ゆうに一冊の書となるであろう。将来の興味ぶかいテーマであることは間違いない。

 筆者がこの霊界通信全四巻を入手したのは二十数年前のことである。それ以来何度か目を通しながらも、その文章の古さと内容の固さのせいで、正直いって一種の取っつきにくさを拭えなかった。

しかし、いずれは世に出すべきものであり、また必ずや重大な話題を提起することになるとの認識は変わることがなかった。いよいよ今回それを訳出するに当たって、訳者としての良心の許す限りにおいて、その〝取っつきにくさ〟を取り除くよう工夫し、キリスト教的なものには、素人の筆者の手の届くかぎり注釈を施し、出典もなるべく明記して(本文には出ていない)読者の便宜を計ったつもりである。

 ついでにもう一つ付け加えれば、実はこの全巻の各章には題がついているが各通信の一つひとつには何も付いていない。ただ日付と曜日が記されているのみである。このままでは余りにも芸が無さすぎるので、筆者の判断で内容に相応しいと思う題を考えて付した。老婆心ていどのこととして受け取っていただきたい。

 これであと一巻を残すのみとなった。オーエン自身も第四巻が圧巻であると述べている。どの巻も同じであるが、いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過り、恐れさえ覚えるものである。あと一巻──背後霊団並びにオーエン氏のかつての通信霊の援助と加護を祈らずにはいられない心境である。
  
            一九八六年一月                                                     近藤 千雄