ベールの彼方の生活(四)         G・V オーエン著    
 
 

 一章 測りがたき神慮

    1 大聖堂への帰還
    2 静寂の極致
    3 コロニーのその後   
    4 バーナバスの民へ支援の祈りを

 二章 聖なる山の大聖堂
    1起  源
    2構  造

 
三章  霊の親族(アフィニティ)
    1 二人の天使
    2 双子の霊
    3 水子の霊
 
 四章   天界の大学 
    1 五つの塔
    2 摂理(ことば)が物質となる
 
 七章 天界の大群、地球へ

   
1 キリストの軍勢
    2 先発隊の到着
    3 お迎えのための最後の準備
    4 第十界へのご到着
 
 八章   地球浄化の大事業
    1 科学の浄化
    2 宗教界の浄化         キリスト教の間違い
    3 キリストについての認識の浄化
    4 イエス・キリストとブッダ・キリスト

 九章  男性原理と女性原理
    1 キリストはなぜ男性として誕生したか
    2 男性支配型から女性主導型へ
    3 崇高なる法悦の境地
    4 地球の未来像の顕現

 

 五章  造化の原理
    1 スパイラルの原理 
    2 文明の発達におけるスパイラル
    3 二人三脚の原理
    4 通信の中断

 六章  創造界の深奥
    1 人類の未来をのぞく
    2 光沢のない王冠
    3 神々による廟議     火星人
    4 キリスト界
    5 物質科学から霊的科学へ
    6 下層界の浄化活動
    7 人類の数をしのぐ天界の大軍      
       地球浄化大作戦の理由       
 
 
 十章  天上、地上、地下のものすべて
    1 地球進化の未来
    2 宇宙的(コズミック)サイコメトリ   
    3 精霊とその守護天使の群れ
        訳者あとがき
          



      The Life Beyond the Veil
 Vol. IV The Battalions of Heaven
             by  G.  V.  Owen
     The  Greater  Worid  Association
             London,  England

 
 

                                             

一章 測りがたき神慮

     1 大聖堂への帰還          
    一九一八年一月二十一日 月曜日        

 これからは光明界へ向けての旅となります。例の〝光のかけ橋〟の下の谷の暗さは地上の夜の暗さであったと私が言えば、これまでいた暗黒界の都市の暗さの程度(ほど)がご想像いただけるであろう。

漆黒の闇は何も見えない暗さのことです。が、こちらにはそれよりさらに濃い闇が存在する。地上では闇はただ暗いだけのことですが、暗黒界の闇には実体があり、上層界からの保護を受けていない者にとっては、まさに恐怖なのです。

哀れにもその濃厚なる闇へと引き寄せられた者は、あたかも水に溺れるのにも似た窒息せんばかりの苦しみを覚えます。しかもそこには沈みゆく身を支えてくれる板切れ一枚ない。

苦しみの極みにやがて逆上と絶望が忍び寄り、冒涜の地獄を次から次へとさ迷い歩きながら、いつになっても、光明界へと向かうきっかけが己れの心一つに掛かっていることに気づかないのです。

 さよう、その奥深き暗黒界の闇には確かに一種の濃度があるのです。ただし、そこに住む者には薄ぼんやりと見透す視力が具わっています。もっとも、それが何らかの恩恵をもたらすわけでもありません。


それどころか、その視力に映じるものは身の毛もよだつものや悪意に満ちたものばかりであり、それが彼らの苦しみを一段と辛辣なものにしていくのです。

彼らの中にはかつてこの地上に生活し地上社会で交わった者もいる。生まれながらにして邪悪だった者もいれば名声と地位を誇った者もいる。このようなことを述べるのは、死後の真相を貴殿を通じて地上の人々に伝えたいと思うからです。

と言うのも、地上には、絶対神そのものであるが故に地獄は存在しないと論ずる者がいます。確かにそのものです。が、そう述べる者がどこまでその絶対愛を理解しているか──ほんの初歩的なものでしかない。

一方こうして貴殿に語りかけている吾々霊団の者はどうかと言えば、これまでの永き道程にもかかわらず未だに究極には到達できずにいます。

が、がまさしくであるとの確信を抱くに十分なだけの──と言ってもまだ一かけらほどでしかないが──神の叡智(摂理)を理解することを得ております。完全なる理解はできません。

しかしこれまで得た知識が〝叡智において完全であり完全なるそのものである〟との信仰をますます拡大し、より確固たるものにしてくれたことは確かです。


──リーダーさん、お聞きしたいことがあります。いつでしたか、睡眠中に私も暗黒の地下の仕事場を訪れたことがあるのですが、そのことをあなたはご存知でしたか。もしご存知でしたら、私が訪れたのはあなたが奴隷を救出された鉱山と同じところだったのでしょうか。どこか似通ったところもありましたが、違うところもありました。

 貴殿の睡眠中の体験のことは勿論よく存じております。と言うのも、こうして貴殿を使って通信を送る作業を準備するに当たって吾々は貴殿の生活について総合的に検討してあるのです。貴殿の扱い方に粗相があってはならないからです。

この種の仕事に抜擢(ばってき)される人間は、目的はそれぞれ違っていても、こちらで徹底的に調べ上げており、その生活ぶりは一つとして見落とされることがないものと思われて結構です。

 さてご質問の件ですが、あの場所は例の都市から数マイルほど離れた位置にある別の鉱山で吾々がお話したボスの子分によって支配されております。そこは、ボスに対して反抗的態度をとった者が連れていかれるところで、そこで徹底的にしごかれながら、吾々が訪れた鉱山よりもさらに厳しい監視下で働かされています。

それに比べれば吾々が訪ねた鉱山の奴隷は挫折感が強いだけに誰かにすがりつこうとする傾向があり、その意味で割合自由にされているところがあるわけです。

貴殿が行かれた場所はその地域へ初めて送り込まれた者がいったん置かれるところで、それだけにまだそこでの仕打ちの残酷さの程度を知らず、そのしごき方も知らずにおります。


 ──動物がいましたが、あれは何の用があるのでしょう。

 その者たちを威嚇し見張るように訓練してあるのです。


 ──でも動物がそんな地獄に落ちるようなことをしでかすはずがないし、そんな用事に使われるいわれもないと思うのですが・・・・・・


 貴殿が見られた動物は一度も地上に生を享けたことのない動物たちです。地上に生を享けた動物は明るい界層へ向かいますが、あそこの動物たちは悪の勢力によって創造されたもので、彼らにはそこまでは創造できても、地上へ誕生させるほどの力はありません。

そこで暗黒界の環境を形成している成分によって形態だけは立派な動物の姿をしておりますが進化はせず、これからもずっとあのままです。

貴殿があの境涯での動物の存在を不審に思われたのも無理はありません。あの種の動物は地上の動物的生命の秩序の中に組み込まれていないのです。地上の動物種族の進化に関与できる能力を有するのは創造界においてもよほど高い界層まで到達した神霊に限られます。

以上、非地上的真理を地上の言語で述べてみましたが、ご理解いただけましたか。


 ──一応わかりました。どうも。大へん謎めいた話で私には思いも寄らないことです。が、これは以後じっくり時間をかけて考えていけば、他の謎を解くカギにもなりそうです。


 いかにも。そういう姿勢で取り組めばきっと役に立ちます。その際に次のことを念頭に置いていただきたい。

すなわち宇宙をのみの光で照らして考察すると、当然、は否定的な要素でしかないことになりますが、それを逆さまに考える──つまり反対の端から出発してのみの生命の流れに逆らって進めていけば、暗黒界にも光明界の大天使や中天使や小天使に相当する強力な悪の存在がいるということです。但し一つだけ大きな相違点がある。それはこういうことです。

 天界の進化の階梯を下から上へ登っていくと次第に崇高さを増し、ついには究極的存在に至ることになりますが、暗黒界においては完成の極致というものがない───絶対的存在はいないということです。

すべての点で言えることですが、この点においても暗黒界の勢力には完成というものがなく、神性に欠けるが故に秩序もない。もしそうでなかったら暗黒の勢力が光明の勢力と対等となり、そのうち光明界が侵略され、がその反対の憎と醜にとって代られ存在の場を失うことにもなりかねない。

そうなると最高神の目的が歪められ、宇宙が進化の道を踏み外し、脇道へ外れて遭難し、幾星霜を経るうちに大混乱が生じ、ついにはその目的を成就できずに終わることになるでしょう。
 
 そこで、いかに暗黒の勢力が強力とはいえ全能ではないようにできているのです。全能は唯一絶対の宇宙神のみの大権なのです。

神は全知全能であるが故に、たとえ我が子が反逆して横道へ外れても、その我儘の程度を知悉(ちしつ)しているが故に、いずれは自らの意志により無条件に抵抗を止め、神の愛の絶対性を認めるに至るようにと、数世紀にも及ぶ放浪の旅をもお許しになるのです。

その時点において初めて宇宙の初めと終わりの謎が明確に理解され、神の叡智を悟るのです。

  吾々が知り得た限りの神の御国──それとて程度は知れているが──について地上の言語で語れるのはこれまでです。吾々は吾々なりにもっと表現力に富む言語があるのですが・・・・・・地上の言語ではこれ以上は語れません。もっとも、貴殿の方にご質問があれば別ですが・・・・・・


──どうも。その件に関してはありません。

 では今回はこれで一応終わりとしましょう。どうやらカスリーンが貴殿にひとこと告げたいことがあるようなので、吾々の固苦しい影響力を引き上げて彼女自身の心根(こころね)のやさしい思念にゆずることにしましょう。

彼女の魅力ある性格から出るものをそのまま言わせてあげたいのです。彼女は実に心優しい性格で、吾々の書記として辛抱強く頑張ってくれております。その献身的な協力に対して吾々は心から感謝いたしております。貴殿とはまた機会を得てお会いしましょう。

お寝すみなさい。の明るき光が貴殿並びに教会の信者の方々とともにありますように。みなさんは自覚なさっている以上に光輝に包まれておられます。いつの日かそれを目の当たりにされる日も来ることでしょう。


 訳者注──多分このあとすぐカスリーンからのメッセージがあったのであろう。それが載せられていないのは多分その内容がプライベートなものだったからであろう。 




  2  静寂の極致                    
   一九一八年一月二十五日 金曜日

  吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休息して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。

そこへ吾々の界からの使者がやって来て、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。と言うのも、第十界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。

彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。

そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。

それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。

 その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要な時には然るべき援助を授かっておられます。

 さて途中の界でのことは省略して、一気に第十界に帰ってからの話に入りましょう。

 第十界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大喜びで吾々の帰還を待ちわびており、吾々の土産話を熱心に聞きたがりました。

そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ〝聖なる山〟の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて〝聖なる山〟を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。

そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来て見ると、そこに大群集が集まっており、跪いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥すらくれる者は一人もいませんでした。

 地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第十界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。
 
 かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。

さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。

太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、殆どその存在は知られなくなることであろう。

しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。

 ところがこの第十界までくると、そのエーテルを十倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な一つの存在を有している。

つまり音が無いという意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。それも一種のバイブレーションをもつ存在である。

がその周波は極めて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の一といえども想像できるものではありません。

 最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送って下さった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。

 使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺われました。

というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。

しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身を持ってその模範を垂れ、聖なるへの道をお示しになられたのです。

実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどのの美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。

 吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。

その理由は地上人類の一人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。
 

 やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。合図と言ってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手にのお姿があった。

は二度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの──吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。

 その頭部の上方に七人の尊い天使のお姿が一列に並んで見える。腕で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がりの少し後方の床へ目線を落としているようであった。

身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、
自然にその色合いが出ているのである。

地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン──ピンクとはちがいます。今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります──それにブルー等々が混じっている。

ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。

その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。

それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。

七人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、僅かな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。

 祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は七人の天使に比べて一だんと鮮明度が強烈で、容貌の細部までよく見ることができました。頭部には二重の冠をつけておられる。一つの冠の内側にもう一つ見える。

外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混じった白色をしている。その二つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で一つの固まりとなっています。

身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの)──この色は地上には存在しません──のマントを羽織っておられる。

胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいまの容姿を私に出来る限りに叙述しております。

時に地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の伝えたいこととは程遠いことばかりです。胸もとにはルビーの首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。

右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。

そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。


──そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。

 似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。

悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。
 
そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れるのどかさの中に吸収されつくしておりました。
 
 貴殿は今その時ののお顔に地上の肖像画に見えるようなあごひげが付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけた限りでは、ありません。実は私はがあごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。

すでに五十回ないし六十回はご尊顔を拝しているのですが・・・・・・もっともそれは否定する理由にはなりません。があごひげを付けてはならない理由はありません。

時にはお付けになって出られるのかもしれません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。

 さて吾々がを見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおらがお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの十五人に向けてとくに語られたお言葉は──語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが──およそ次のようなものでした。


  「さて、暗黒の飛地より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。

群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私はがお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。

数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。

その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。

そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどり着いた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。

 さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。

私も同じように傷を負いました。彼の地の者をこの光明界へと誘わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。

余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。

そして又、時には、これで果たしては父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。

私も又、他のことと同様このたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」

(訳者注──最後の一文は多分はりつけにされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った──
父よ、御心ならば何とぞこの苦しみの杯を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを〟と。

そして有名な最後の一句エリ、エリレマ、サバクタニ〟──
神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや──を唱えて息を引き取った

 
 は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。

それはあたかも今そうして話をされている最中も七人の神々しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。

しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのはみずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再びのお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。

  「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」

 が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の〝礼拝の冠帯(ダイアデム)〟に付け加えられたのです。はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。

  「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。

急いで着手してはなりません。が着手したら総力をあげて忍耐強く取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要な時は私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。

が必要以上に求めてはならぬ。その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。

そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったが為に支障をきたすことがあってはならぬ。

そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」

 そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で〝神ぞ在します〟と言われました。

 そう述べているうちにと七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。

が、その静寂の中にの存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものがの御声であり、吾々のために語りかけて下さっていることを知りました。

そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。


 
 
3 コロニーのその後                      
   一九一八年一月二十八日    月曜日

 かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば・・・・・・実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。


──ええ、二、三お尋ねしたいことがあります。まず第一は、前回の通信で〝礼拝の冠〟でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。


 こちらの世界では情緒も思念も、何一つとして外部に形体をとって現われないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわちに発しています。

現象界の思念はすべてそのという焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源はで、そこから発したものが再びに回帰していくという、果てしない循環運動をしております。その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしはとの一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。

つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、ある者は天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが〝もの〟とよぶものすべてとなって顕現されている。

それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって生産され、その想念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現形態を取ります。

 それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。

ですから、たとえば貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。
 
 荘厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。

(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)それで一人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。

 そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきた時の吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が一つ加えられていたのです。

 お一人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みに溢れた形で実施されます。私があの頭飾りを〝礼拝の冠帯〟と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。

その時になると吾々の頭髪の上に形体を現わし、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が一界また一界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。
 
今それに加えてもう一つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。

 そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。

貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。

℘39
──どうも。ではあなたが大ぜいの人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。
 
  あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。

 よろしい。ではお話しいたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの二、三名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。

私は彼の仕事ぶりに百パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していた通りにならなかったからです。

 そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。

完全性に欠けているようでした。でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。

 そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿───この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう───そのバーナバス殿が指導性を持った人物ではあっても指揮命令を下すタイプではないことが判ってきたのです。

彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力に欠けるのです。

そのうち彼自身もそのことに気づき始め、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。

そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。

この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。

(※Barnabas は聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで〝慰めの子〟〝訓戒〟などの意味があるという。パウロの友人で使徒の一人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない──訳者)
 
 彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。

金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。

私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう一つ別のことを発見しました。

 私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りは精々薄明りといったところで、およそ〝光〟と言えるものではありませんでした。

ところが私が訪れる毎に一段と〝光〟と言えるものに近づいていき、可視性の度合いがその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは一つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。


と言うのも、各自に未来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれてまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。

 かくして二人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為し遂げ、これからもなお為し遂げていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとっても喜びでした」


──周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。

 その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。

 その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている十二の部族から一万二千人ずつ(計一四四、〇〇〇人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。

さよう、吾々が救出した人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論まれたことです。

吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。


ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも明瞭な関係はありません。が、暗示的な意味はあります。

それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の──どう言えば貴殿に分かっていただけようか──そういう領域を形成することでしょう。新しい界層ではありません。天界の中の新しい領域です。

 さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやって来て、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰り返すので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。

そのうち嫌がらせが当分なくなりました。
が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。

そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非実在界ではよくあることなのです。


 しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く列しい戦いでしたが、ついに撃退しました。

それは彼らが──奇妙で矛盾しているように聞こえるかもしれませんが──真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。

 
その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラの持つ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。

 その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。

これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難──否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深いりしないことにします。
 
かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。


 こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。

かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘り始めました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとでは全く違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。


 このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。

 どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。

その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。


コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。

 貴殿へ私より愛と祝福を。
 

      
バーナバスの民へ支援の祈りを
               
  
一九一八年二月一日 金曜日       

 カスリーンが貴殿に伝えたいことがあるようです。吾々は彼女の話が終わったあとにしましよう。


──ほう、カスリーンが ?

  そうです。私です。最近ザブディエル霊団との接触があって、あなたへの伝言を授かりましたので、そのことでお話したかったのです。霊団の方たちから何も心配することはないからそう伝えてほしいとのことです。

私たちが奥さんに通信を送っているときに霊団の方たちが近くに来てメッセージを伝えたことがありましたが、あなたはそれをザブディエル様ご自身から送られたのか、それとも霊団の一人がザブディエル様の名前で送ってきたのかと思っておられますが、あのときはザブディエル様が直々に──といっても霊団の方が付き添っておられましたが──お伝えになりました。霊団のメンバーの一人ではありません。

ご自身です。ザブディエル様はそのことを知ってほしく思っておられるのです。


──二、三日前の夜に出られた方が私の妻に、霊団の方たちはみなザブディエルというネームを付けているのを見たとおっしゃっていましたが、それはベルトにでも書かれていたのでしょうか。


 そうです。はい。
 
──ザブディエル殿が霊団を率いておられることをその時まで知りませんでした。それで私はあの時に出られた方をザブディエル殿と勘違いしたのではないかと思ったわけです。と言うのは、霊はよく所属する霊団の指導者の名前を使用することがあると聞いていましたので・・・・・・

 よくあることです。ちゃんとした規律のもとに行われる慣習です。ですが、あの時はザブディエル様ご自身が出られて話されたのです。


──ありがとう、カスリーン。おっしゃりたいことはそれだけですか。

 そうです。どうぞリーダーさんへ質問なさってください。あなたが質問を用意されていることをご存知で、先ほどから待っておられます。

 
──分かりました。ではリーダーさん、まず最初に前回の話題に戻って次のことをお聞きしたいのです。救出された一四四、〇〇〇人によるコロニーがいずれ天界で新しい領域を形成するとおっしゃいましたが、そうなった時にあなたはどんな役目をなさるのでしょうか。

何らかの形で関与なさるであろうという感じを抱いているのですが、いかがですか?


 あのようにきちんとした数の者が選ばれて新しい領域を形成することになったことには意味があります。実は私自身はバーナバス殿にあずけたあと二度目に訪ねた時に初めてそれを知ったのです。

それ以来私も、いま貴殿が察しておられることが有り得ないことでもないと感じております。

まだ具体的なことは何も聞かされておりません。また貴殿の仰るような時期には至っておりませんので・・・・・・今あの都市の者たちが目指している光明に首尾よく融合できるようになるには、まだまだ準備が要ります。

その上、彼らの進歩はためらいながらの遅々としたものなのです。そうでないと丹念な注意と計画のもとに選ばれたあの人数の意味が崩れる恐れがあるのです。

というのは、万一進歩性の高い者から次々と独自の歩調で進歩していったら、全体の団結に分裂が生じ、みんなで申し合わせたことが無に帰すからです。

 今も申した通り、私はあのコロニーについて何の指示も受けておりませんし、今後いかなるコースを辿るかも聞かされておりません。現在の進歩を見守るだけで満足し、そこに喜びを見出しているところです。

それ以外のことは吾々を指揮してくださっている神庁の方々の決定に俟つのみです。

 しかし次のことだけは言えるかも知れません。まえに吾々霊団の数のことをお話しました。十五名でした。あのとき私は七の倍数にリーダーとしての私という言い方をしました。

それは六人ずつ二つの班になっていて各班に一人ずつ班長を加え、さらに全体を統率する者として私を加えれば、これで十五名となります。そういう見方でこの新しいコロニーを見ると興味がありそうです。実はそのコロニーの発端、少なくとも初期の発展には貴殿も寄与しておられます。その意味でも、その進歩ぶりに興味を持たれるに相違ありません。


──この私が寄与するなんて考えられませんが・・・・・・

 でも、立派に寄与しておられます。貴殿はあの部族の様子がこちらから地上へ届けられた、その媒体です。心ある人々はそれを読まれて彼らの発展を祈り、善意の思いを寄せ、吾々援助者のことも思ってくださることでしょう。それが彼らの発展に寄与することになるのです。


──私はこれまで彼らのために祈ることなど思ってもみませんでした。

 それは貴殿が吾々の指示で書いたことの現実味を理解するだけの時間的余裕がなかったからです。理解がいけば祈る気持ちになられるでしょう。そうでなかったら私は貴殿を見損なったことになります・・・・・・いや、ぜひ祈るようにお願いします。


──きっと祈ります。

 そうです。祈るのです。そして貴殿がこちらへお出でになればご自分の目でその部族をご覧になり、貴殿のそうした祈りが彼らの力となっていることを知って、うれしく思われることでしょう。

彼らの進歩は遅々としていますから、貴殿がお出でになってからでも十分に間に合います(※)。ですから、彼らのために祈るのです。こちらでお会いになったとき貴殿に愛と感謝を捧げる人が少なくないはずです。それは気の毒な人への同情と同じです。

彼らが今まさにその状態にあるのです。〝バーナバスの民〟と呼んであげてください。そう心の中で念じてやってください。(※ちなみにオーエン氏は一九三一年に他界している──訳者)


──あなたの民と考えても良いのではないですか。

 それはいけません。私の民ではありません。貴殿は先走りしすぎます。いつかは私の民となるかも知れませんし、私もそう望んでおります。というのも、あの者たちは私にとって我が子、可愛い我が子も同然だからです。

言わば死者も同然の者の中から救い出した、いたいけない子供なのです。私にとって何を意味するかは貴殿の胸の中での想像にお任せします。

どうかバーナバス殿とキャプテンと同様に彼らのためにも祈り、そして愛念を送ってやっていただきたい。彼らはみな貴殿の同胞でもあるのです。そして吾々を通じて実質的なつながりを持っているのです。他の人々にも祈ってくださるようお願いしてください。


──私がうっかり見落としていたことを教えていただいて、お礼を申し上げます。

 それに、吾々の話に出た他の人たちのためにも祈ってやっていただきたいのです。彼らも向上のための祈りと支援を大いに必要としております──お話したあの暗黒の都市のかつてのボスとその配下の者たちのことです。

地上の人でも、地獄にいる者のためにしてあげられることがあることを理解してくだされば、地上にまで及んでいる彼らによる禍(わざわい)を減らすことにもなるのです。

つまり、その気の毒な霊たちを少しでも光明へ近づけ、その苦しみを和らげてやることによって、地上へ大挙して押し寄せては霊的に同質の人間、ひいては人類全体の邪悪性を煽っている霊たちの数とその悪念を減らすことにもなるのです。

 人間は上へ目をやって光明を求めて努力することはもとより結構なことです。が、下へ目を向けて、苦悶の淵にあえいでいる霊がその淵から脱け出るように手助けすることはそれ以上に徳のあることです。

思い出していただきたい。その昔、みずからがそれを実践なさったのです。そして今日なおの配下の者たちがなさっていることなのです。

 は、その昔、に託して地上へもたらした恩寵を今なおふんだんに授けて下さっています。願わくば貴殿の霊と行為において、が貴殿をその恩寵をもたらしたと一つになさしめ給わんことを祈るものです。

父の恩寵です。それをその子イエスに託して地上という暗黒の人間にもたらしたのです。そして今なお途絶えることなくもたらしてくださっているのです。

 このことを篤と銘記していただきたい。そうすれば貴殿が授かったように他の人々にも授けずにはいられなくなることでしょう。そしてそれが貴殿の魂の安らぎと喜びとを増すことにもなるのです。


 
    二 章  聖なる山の大聖堂
 
   1 起     原                                                             
    一九一八年二月五日 火曜日  
           
 貴殿はかの聖なる山の大聖堂の起源と構造について語ってほしがっておられる。
 それは第十界と第十一界の中間に位置している。ということは、両方の界から見ることが出来るということであり、どちらにも属していないということです。

 その起源はこうです。ずいぶん昔のことですが、試練の末に首尾よく第十界から第十一界へと向上していく者が大勢いた時代がありました。
 
しかし第十界は下層界での修行の旅の中で身につけた霊力と霊性の全属性が仕上げられ、まとめあげられる界であると言えないこともありません。

つまりここで雄大な旅程の一段界を終え、次からはそれまでとは次元の異なる進化と発達の段階が始まる、その大きな節目に当たる界なのです。

 そうしたスピリットが向上の過程において果たしてきた仕事はおおむね守護と強化の目的を帯びていた。多分貴殿は守護霊と呼びたいであろう。その任務はたしかに発達を促進するし、向上するにつれてますます崇高性を帯びていきます。

が、地上ならびにそのあとに続く下層界において見守られ援助を受けている者との関係においては、さまざまな様相を呈していても、本質においては同じ次元に属することです。

 しかし、この第十一界に突入するスピリットには別の次元の仕事が待ち受けております。いよいよ〝創造性〟を帯びたものとなっていきます。

同じく宇宙の大いなる神秘を学ぶにしても現象として顕現しているところの〝動〟のエネルギーではなく、父の館に住める大天使のもとに近づくにつれて見出されるところの潜在的創造エネルギーについて学ぶのです。

そうすることによって彼らはそれまで身につけた霊性に加えて、より高い霊性を身につけ、一界又一界と上の界へ融合していき、創造の神秘の巨大さを崇高なる美しさの中で明かされる境涯への突入に備えるのです。それが聖堂の使用目的の一つであり、実はそれが最大の目的でもあります。

その他はここで述べるほどのものではありません。それよりは貴殿は聖堂の建物の平面図と立図を描写して欲しがっておられるようです。

吾々もそのつもりでおりますが、それに先立ってぜひ心しておいていただきたいことがあります。それは、今述べた使用目的の叙述においてもそうなのですが、その様相についての吾々の叙述は不完全を免れないということです。

それというのも、聖堂は物質ではなく霊質によって出来上がっているのみならず、その霊的大気と環境が昇華作用によって強烈さを測り知れないほど増しております。

それを力学ないしエネルギーの潜在力の用語に置き換えて何と呼ぶべきか───吾々はいい加減な当てずっぽうは控えたい。何となれば地上の言語ではとても当を得た表現は不可能だからです。

 聖堂建立の目的を一言にしていえば、さまざまな異質の様相を持つ二つの界の融和です。

つまり第十界を去って第十一界へと突入する段階に至ったスピリットたちがここに集結し、かなりの期間滞在しながら折りある毎に第十界ないしそれ以下の界へ降りては、それまでと同じように、その界の住民の援助と守護と指導と啓発に従事する。

しかしそれと同時に上層界のスピリットに付き添って第十一界へと足を踏み入れることも始める。初めのうちはあまり深く入りません。またあまり長く滞在しません。

が、霊力を強化し、その界の精妙なバイブレーションに慣れるにつれて少しずつ奥へ踏み入り、かつ又、滞在期間を長くしていきます。戻ってくるとその聖堂で休息を取ります。

と言っても、多分その間に下層界への任務を言いつけられて降りていくことになろう。

現に貴殿はそうした任務の一つとして私が霊団とともに下層界、それも地獄ともいうべき境涯まで降りていった話を受け取っておられる。あの任務は吾々にとって実に厳しい試練でした。

何しろ吾々が足を踏み入れた界は一つや二つではなく、地上からこの界に至るまでの全域に亘った上に、さらに地上より低い界までも踏み込んだのです。

忍耐力と環境への適応能力と、霊団全体が身体的並びに精神的に一丸となって吾々の通常の生活環境と気候とはまったく懸け離れた条件下での問題を処理していく能力をこうまで厳しくテストされたことには、それなりの意図がありました。

聖堂の居住者であり、第十一界への突入の段階を迎えた私にとってはそれが最終的な試練であり、私に付き添った霊団のうち十二名にとっては第九界より第十界への向上のための試練であり、残りの二名にとっては第十界よりこの聖堂へ入ってそこの居住者となるための試練でした。

 また私が例の一団を暗黒界から救出し光明界へ向けて導く任務を与えられたことには特別の意味があったことに気づかれるでしょう。いよいよ創造的能力が威力を増し鍛えられていく上層界へ召される前の、私にとっての最終的な試練だったのです。

その時はそれが理解できず、今なお本当に理解しているとは言えませんが、こうした中にも私の最終的な啓発はすでに始まっているらしく、かつてあれほどの苦界に身を沈めていたのが今はどうにか寛ぎを見出し、少なくとも約束した道に励む者にとって幸せとは何かを知ることが出来るまでになったあの者たちを待ち受けている栄光が、私にも少しばかり見透すことができるように思えるのです。

 
 ──ではあなたはすでに第十界から第十一界へ入られたわけですか。
 
 まだ恒久的に十一界の住民になったわけではありません。今のところまだ聖堂の住民の一人です。ですが次第に十一界の環境条件に調和していきつつあります。

そうした生活を構成する要素は数かぎりなく、しかもそのうちのどれ一つを取ってみても極めて重要なことばかりなので、そのうちの一つでも見逃さずにお伝えしたいと思う一方、その千分の一を語るにしても、貴殿にはその時間も用語もないという情況なのです。

 聖堂での滞在はまず必ずといってよいほど長期間に及びます。私の場合は格別に永くなることでしょう。その理由はこうです。

 私には監督し援助し向上の道から外れないようにしてやらねばならない大事な預かりものがあります。バーナバスの民のことです。今でも私は時おり彼らの目に映じる身体をまとって自ら訪ねなければなりません。

ですから、いつ何どきでもその状態になれるよう体調を整えておかねばなりません。それも現在の界層から一つや二つ下がった境涯ならまだしも、はるか下界の、言うなれば宇宙の暗い果てに降りていかねばならないのです。

 従って今の私には二重の仕事があるわけです。この聖堂のある台地へ立って一方の手は天上へ向けて何ものかを得んとし、もう一方の手は下界へ下ろして何ものかを与えんとしている。

そうです。そういうわけです。どうやら分かっていただけたようですので、これ以上駄弁は要らないですね。私の言わんとするところはお分かりでしょう。


 ──ザブディエル霊は第十一界へ入られたのでしたね。

 いかにも。重要な任務は十一界へ移ったわけです。ですが、時おり聖堂へ立ち寄られ、そこで曽ての身体的条件をまとわれて下界へと降りていかれる。戻られるとやはり聖堂を通過して本来の任務地へと向かわれる。

 さて、聖堂の様子や環境についてはこの度はこれまでとしよう。引き続き聖堂の内部を紹介することにしようと思います。が、今回はこれにて終わりとします。貴殿は力を使い果たしておられる。

 
 ──最後にひとことお名前のことでお聞かせください。〝リーダー〟というのが唯一私が存じ上げてるお名前ですが、これが私はどうも感心しません。

 これは恐れ入りました。しかし、地上の聖賢がいかなる名言を吐こうと(※)名前というものにはある種の力があるものです。私は聖堂より上の界においては別の名で知られておりますが、下層界では〝アーネル〟の名で呼ばれております。よろしかったら貴殿もそうお呼びくださって結構です。

(※どの名言を指すのかは心当たりがないが、私の知る限りではシェークスピアの「ロメオとジュリエット」にこんな一節がある。

 いったい名前に何の意味があるというのか
 バラと呼んでいるあの花、
 あれをどう呼びかえようと
 あの美しさに何の変りもあるまいに──訳者)


 ──私の母からの通信に〝アーノル〟という名前の方が出てきましたが・・・・・・

 地上には天上の名前をうまく表現する文字の配列も語句もありません。ご母堂が紹介されたのはこの私です。どちらでもお好きなようにお呼びください。いずれにせよ、これからはその名前でいきましょう。その名前でよろしいか──いや、貴殿に〝感心〟していただけるであろうか?

 ──これは一本やられました。結構です。そうお呼びすることにしましょう。

  ぜひそうしていただきましょう。何しろ今までの名前では貴殿に耐えがたい思いをさせ、あまり好意を持っていただけなかったのですから。ではお寝みを申し上げましょう。
                              アーネル  ±

  原著者注──アーネルが署名したのはこの日が最初で、それ以後は必ず署名し、さらに十字の記号を付した。(見慣れない記号であるが、その象徴的意味を三章の終わりのところで説明している──訳者)
 
 
     
   2  構 造                                                    
     一九一八年 二月 八日 金曜日          

 〝聖なる山の大聖堂〟の使用目的についてはすでに述べました。今度はその構造そのものについて少しばかり述べてみましょう。と言っても、詳しいことは説明しません。不可能だからです。

 広大な草原に切り立った崖が聳えております。その頂上の台地に聖堂が建っております。草原から目に入る部分は小さな翼廊だけで、本館は見えません。何千何万もの大群集が集結して見上げた時にまず目に入るのは、こちら側に面した翼廊のポーチとその側壁とアーチ型の窓である。

高々と聳えるその位置、雄大な規模、均整のとれた建築様式は、その位置から見上げただけでも実に堂々としていて、且つまた美しいものです。

 そのポーチから入り、それを通り抜けて中へ入ると、吾々は右へ折れ、天蓋はあっても側壁の無い柱廊(コロネード)を通って進みます。

そのコロネードは、通路と交叉する幾つかの箇所を除いては、本館全体をかなりの距離を置いて取り囲むように走っており、吾々の位置から左手へ行くと中央聖堂へ至り、右手へ行くと別の幾つかの翼廊へと至る。

その翼廊の一つひとつにポーチが付いている。しかしそれは全部第十一界の方角へ向いており、吾々が通った翼廊だけが第十界へ向いている。

翼廊は全部で十一個あり、その一つひとつに特殊な使用目的がある。その〝十〟という数字は下界の十の界層とは関係ありません。それから上の十の界層と関連しているのです。


 ──その〝十〟という数字には第十界の方を向いているポーチも含まれているのですか。

 いえ、あれはあれのみの独立した存在で、関係するのは下界のことのみです。十個の翼廊は第十一界およびその後に続く十の界層と関連しております。それぞれの翼廊に大きなホールがあります。翼廊は一つひとつ形が違っており、二つとして同じものはありません。

貴殿には理解しかねることかも知れませんが、各翼廊はそれと関連した界を構成する要素の特質を帯びており、常にその界と連絡が取れております。上層界の情報はぜんぶそこの翼廊に集められ、第十一界の言語に翻訳された上で、その場で処理されるか、必要とあれば関連した地域へ発信される。

 また、聖堂内の住民が上層界へ赴いている間もこの翼廊と間断なく連絡が維持され、一界また一界と上昇していくのを追いながら絶えず連絡を取っている。

 吾々はコロネードと交叉している通路の一つを左へ折れます。その通路は中庭を通り、庭園を過(よぎ)り、そして森を突き抜けています。

いずれも美しく手入れされ、噴水あり、彫像あり、池あり、色とりどりの玉砂利を敷きつめた小道、あずまや、寺院──その幾つかは上層界の寺院の複製ですが実物ほど雄大ではない──があります。そしてついに(複数の建物から成る)本館へ辿り着きました。

本館にも十個のポーチがついています。ただしここのポーチは通路とは連絡されておらず一つひとつが二本の通路から等間隔の位置にあり、通路はすべて本館と直接つながっております。

つまりポーチは通路にはさまれた地域に立っており、各地域がかなりの広さを持っております。地上ならさしずめ公園(パーク)と呼ぶところでしょう。

何しろ聖堂全体は途方もなく広く、各地域に常時何万を数える住民が住んでいるのです。それほど一つひとつの地域は広く、そこに家屋と庭園が点在しているのです。

 さて吾々は第十二界の翼廊と第十三界の翼廊───こういう呼び方をしているわけではありませんが、貴殿の頭の混乱を避けるために便宜上そう呼ぶまでのことです───の中間に位置するポーチの前まで来て足を止めました。

その一帯に広大なテラスが広がっています。ポーチとつながっていて、美しい土地を次第に上昇しながら、はるか地平線の彼方に見える山々の方へ向けて広がっている。

実はそこから本来の第十一界が始まります。大聖堂は第十一界の一番端に位置していることになります。つまりポーチからいきなりテラスとなり、それがその地域全体に広がっているわけです。

目も眩まんばかりの琥珀色の石段があってそれを登っていくのですが、足元を照らす光が外の光と融合し、それが登りゆく人の霊的性格によって輝きを変えます。

 ここで銘記していただきたいのは、貴殿らが死物ないし無生物と呼んでいるものも、ここでは他の存在に対して反応を示すのです。

石は緑草や木々に影響を及ぼすと同時に、自分も影響を受けます。木々のすぐ側に人間が立つと、お互いの性質によってさまざまな影響を及ぼし合います。家屋や建造物のすべてについて同じことが言えます。

 ポーチそのものがまた実に美しいのです。形はまるくもなく角ばってもおらず、ちょっと人間には想像できない形をしております。私がもしこれを〝形というよりは芸術的情感〟とでも表現したら、貴殿はそれを比喩として受け取ることでしょう。

しかしその情感に地上のいかなる建造物よりもしっかりとした永続性が具わっているのです。その成分を真珠層のようだと言ってもよろしい。液晶ガラスのようであると言ってよろしい。そんなものと思っていただけば結構です。

 さて、中へ入ると大きな楕円状の空間があります。天井は植物と花をあしらった格子細工がほどこしてあり、それらの植物はポーチの外側に根をはっているものと内側に根を下ろしているものとがあります。しかしこんな話はやめて先へ進みましょう。吾々はついに聖堂の大ホールへと入っていくことになります。


──暗黒界からお帰りになってすぐにキリストをご覧になったホールですか。

 同じホールです。地上で屋根と呼んでいるのと同じ意味での屋根は付いておりません。といって青空天井でもありません。屋根のあるべきところに堂々たるアーチ形をした天蓋が高く聳えており、色とりどりの液晶の柱によって支えられております。

しかし天蓋のへりは流動する線状を呈し、光の固まりのようなものとつながっております。と言ってもその固まりは普段そこに参集する者にも貫通できない性質をしております。しかも、いっときとして同じ色を呈しておらず、下のホールで催される儀式の内容によってさまざまな変化をしております。

 そこの祭壇、それとその背後にある〝謁見の間〟については既に述べました。大ホールに隣接して、そうした〝間〟がまわりに幾つもあります。

その一つが〝式服着用の間〟です。いかにも地上的感じがするかも知れませんが、そこで行われるのは単なるコートやマントの着更えだけでなく、実に重大な儀式が行われることを知っていただきたいと思います。それについて述べてみましょう。

 その大ホールにおいて、時おり、はるか上層界から送られてくる電気性を帯びた霊力の充満する中で厳かな儀式が行われることがあります。

その際、その霊力を帯びる第十一界を最低界とする下層界の者は、各々その霊力によって傷つくことなく吾が身にとって益となるように身仕度を整える必要があります。そこで〝式服着用の間〟において着更えの作業が真剣に行われることになります。

その行事は神聖さと霊力とを具えた専門の霊が立ち会い、式服が儀式に要求される色合いと生地と様式を整えるように、こまごまと指導します。

そのすべてに、着用する当人の霊的本性が影響します。つまり当人の内的資質が式服の外観に出てくるわけです。そうなってはじめて大ホールへの入場を許され、やがて行われる儀式に参列することになるのです。

 その儀式はある一団が使命を帯びて他の界層へ赴くに際しての〝歓迎の儀〟であることもありましょう。その場合は参列した者が霊力を一つにまとめて、送られる者へ与えることが目的となります。従ってすべてが完璧な融合・調和の中で行う必要があります。

そこで霊格の劣る者、ないしは新参の者は、その目的で〝着用の間〟において周到な調整をしておかねばなりません。

 さらには、大ホールでの〝顕現〟が近づいていることもありましょう。キリストと同等の神格を具えた方かもしれませんし、大天使のお一人かも知れませんし、もしかしたらキリストご自身かも知れません。そんな時は式服の着用も入念に行われます。

さもないと益を受けるどころか、反対に害をこうむることにもなりかねません。もっとも、私が聞いたかぎりでは、一度もそのような例はありません。しかし理屈の上では十分に有り得ることなのです。

 しかし、この界へ来たばかりの霊が、強烈な霊力を具えた神霊の顕現ないし何らかの強烈な影響力が充満しているホールに近づくと、次第に衰弱を覚えるということは往々にしてあることです。

そこでその人はいったん引き返すことになりますが、それは実は霊力が試されているのです。その体験に基づいて自分にいかなる鍛錬が欠けているかを認識することになります。それはそれで恩恵を受けたことになります。

 この大聖堂を先に述べた山の頂(イタダキ)から眺めれば、おびただしい数の塔とアーチ道とドームと樹木と風致地区(家屋を建ててはいけない土地)を具えた一つの都市のように見えることでしょう。

その中央の宝石からあふれ出る光輝は遠く彼方まで届き、言うに言われぬ美しさです。

宝石と言ったのは、ドームあるいは尖塔の一つひとつが宝石のような造形をしており、それが天上的な光と言葉となって光り輝いているのです。言葉と言ったのは、一個の建物、一個の色彩、または一群の色彩が、そこの住民には一個の意味として読み取れるからです。

また住民が柱廊玄関、バルコニー、屋上、あるいは公園を行き来する姿もまた実に美しいものです。あたりの美観や壮観とほどよく調和し、その輝きと同時に安らぎをも増しています。

と言うのも、住民と聖堂とは完全に一体関係にある──言い換えれば、以前に述べたように一種の呼応関係にありますから、そこには不調和の要素はいささかも存在せず、配置具合もすべて完璧な調和を保っております。

もしこの聖堂都市を一語にして命名するとしたら、私は〝調和の王国〟Kingdom of Harmony とでも呼びたいということです。そこにおいて音と色と形、それに住民の気質とが和合の極致を見せているからです。
                                      アーネル   ± 

  
 三章   霊の親族
(アフィニティ)
(アフィニティと言う用語はいわゆる類魂(グループソール)よりも親和性の強い間柄に使用される──訳者)

   1  二人の天使                                              
  一九一八年 二月十一日     月曜日   

 では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が〝歓送の儀〟ならびに〝顕現〟と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。この度の行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。

 今しも中央大ホールには大聖殿の総監からの召集で第十一界の各地から晴れやかな面持ちの群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、姿全体にどこか緊張感が漂っています。

というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。

その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。
 
 全員が集合した時、前回申し上げた天上の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。

私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結した時は濃い深紅のビロードの色調となっていました。

地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の表情に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備が出来ていることを窺わせておりました。

 そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引き起こし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。

その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって一個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として一つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において一つになり切っていたのです。

 やがて謁見の間へ通じる道路の前に一個の雲状の固まりが現われ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。

さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうと言うことです。

 その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。

それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパピリオン──濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館──の姿を見せました。半円形をした周囲に全部で七本の柱が並び、さらに表面玄関の両わきに二本見えます。

この二本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。

パピリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われぬメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました───聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。


 やがて天蓋の下、七本の柱のちょうど中央に当たる位置に一台の四輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。五頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。

肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る繻子(サテン)の掛けものもパピリオンの色彩を反映してうっすらと輝いております。

 続いてその馬車の中に現れたのは美しい若い女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。

琥珀色といってもよろしいが、同じ琥珀でもパピリオンの柱のそれとは感じが異なります。

もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。

頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混じった色をしておられます。

 さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が・・・・・・いけません。

その方が吾々にいかなる意味を持つのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。


 では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。

一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもたらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽くしたかの感覚をすべての者に降り注ぐ。

すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(キヨ)さと哀れみと愛へ向かうところの、恐れることを知らぬ心と純粋性。

以上のものをひとまとめにして、これを〝女王〟という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。

 さて、その女王が後ろを振り向いて一ばん近い二頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。

するとそこへホールの反対側の二階の回廊から一人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。

そのお二人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦み合い───互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。


 ──その若者の様子を述べていただけませんか。

 若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば〝対〟の存在です。ただし一つだけ異なるところがありました。

身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤みがかっていたことです。それ以外にお二人を見分けるものはとくにありませんでした。

性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お二人には役割があります。

 お二人は、これより、ある雄大な構想を持つ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。

その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。

 現在ある天体上の生命がようやく〝知性〟が芽生えはじめる進化の階梯に到達していてその生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです

人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。

一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。計画のすべてを受け持つのではありません。

また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた〝創造の天使たち〟と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。

その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げて生きつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。

彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ──これを地上に擬(なぞら)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです

 間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。

といって、いきなり創造に携わるのではなく──それはずっと先の話です──創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。

それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。

 ここで注目していただきたいのは、お二人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。

この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お二人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。

そこに謎が秘められているのです。つまり一方が主であり他方が従であるはずのお二人がなぜ等位の形で一体となることが出来るかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からこれ以上話さないことにします。

あなた方ご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を直感していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる──訳者)

 いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団──遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。

ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ──環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質で出来ている奈落の底へと一気に下がって行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。

 かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。

もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。

 さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
                                           アーネル ±

 訳者註──ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項が箇条書きにしたことが四日後の次の通信の冒頭から窺われる。

 
   
     
   2 双子の霊                                                  
     一九一八年 二月十五日   金曜日       

 ──前回お話しくださった儀式のことは、あれでおしまいですか。まだお話しくださることがあるのでしたら、私の質問に対する答えはあとまわしにしてくださって結構です。そちらのご都合に合わせます。

 どちらでも結構ですが、(前回のおしまいのところで)お書き留めになった質問の中に今ここでお答えしておいた方がよいものがあるようです。


 ──〝二人の天使は地上ではどこの民族に属していたか〟──この質問のことでしょうか。

 それです。そのことに関連してまずご承知おき願いたいのは、あの二人の若い天使の誕生は実は太古にまで遡るということです。
 
あれほどの霊力と権威とを悠久の鍛錬と進化の過程を経ずして獲得し、それをあのような任務に行使するに至るという例はそう滅多にないことです。お二人は双子霊なのです(※)。

地球がまだ現在のような環境となっておらず、人類がまだこれからお二人が霊団を率いて赴く天体上の人種と同じ発達段階にあったころに地上で生活なされました。その段階の期間は随分永く続きました。その間にお二人は知性の黎明期を卒業し、それから霊界入りしました。

その時点から本格的な試練がはじまり、同じ人種の中でも格別に進歩性の高いお二人は、各種の天体を低いものから高いものへと遍歴しながら、最後は再び地上圏へ戻って来て、さらに進化を遂げられました。

そのころは地球も合理的思考の段階、ほぼ今日の人類と同じ発達段階に到達しておりました。(※ Twin souls シルバーバーチはこれを一つの霊の半分ずつが同時に物質界に誕生した場合のことで、典型的なアフィニティであるという──訳者)


 ──青銅器時代、それとも石器時代、どっちですか。

 同じ人類でも今おっしゃった青銅器時代にある人種もいれば鉄器時代にある人種もおり、石器時代にある人種もいます。人類全体が同じ歩調で進化しているのではありません。そのくらいのことはご存知でしょう。今の質問は少し軽率です。

 地上人類が知性的発達段階にあった時期──こう言えば一ばん正確でしょう。それは歴史的に言えばアトランティスよりもずっと前、あるいはレムリアと呼ばれている文明が登場するより前のことです(※)。

お二人は地上近くの界層まで降りて強力な霊力を身につけ、さらに知識も身につけ、もともと霊性の高いお方でしたから、一気に地球圏を卒業して惑星間の界層へと進まれ、さらには恒星間の界層へと進まれたものと想像されます(第一巻六章参照)。

と言うのも、敢えて断言しますが、それほどの使命を仰せつかる方が、自転・公転の運動と相互作用を続ける星雲の世界を統率する途方もない高級エネルギーに通暁していないはずはないからです。

(※アトランティス大陸もレムリア大陸も共に伝説上のものとする説があるが、実際に存在していたことがこれで知れる──訳者)

 お二人が自分たちがアフニィティであることを悟ったのはそのあと霊界へ戻ってからのことで、霊的親和力によって自然に引き寄せられ、以来ずっと天界の階梯を向上し続けておられるのです。


──地球以外の惑星との
接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。

 再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。もしそうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。

というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、全く同じ素材で出来ている天体は二つとなく、全く異なるものもあります

 それ故、貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質ものでないとして否定されることでしょう。

そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも地上の場合と同じように、今私が行っている方法で訪れたのです。

 私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物質的身体をまとうことは致しません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。

私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく判ります。物的世界のことはそこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。

魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです。

 お二人の体験を私自身の体験を通してお答えしてみたのですが、これでお分かりいただけたでしょうか。
  

 ──どうも恐縮です。よく分かりました。

 結構です。お気づきでしょうが、創造全体としては一つでも、崇高なる喜悦の境涯にまでも〝多様性〟が存在し、その究極の彼方において成就される〝統一性〟の中において初めて自我についての悟りに到達する。

それまではの時計の振子が永遠から永遠へと振り、その調べのリズムがダイナミックな創造の大オーケストラの演奏の中で完全に融合し全体がたった一つの節となってしまう。

その崇高なる境涯へ向けて一日一日を数えながら辿った来(こ)し方を振り返るごとに、それまでの道程が何と短いものであるかを痛感させられるものです。

 私が今置かれているところもやはり学校のようなところです。この界へ上がり聖堂へ入ることでようやく卒業した試練の境涯から、ほんの一段階うえの学校の低学年生というところです。お二人の天使もここを通過されてさらに高い学校へと進級して行かれました。

そしてこのたびのように、かつてのご自分と同じ鍛錬の途上にある者の教師として、あるいは指導者として戻って来られるのです。


 ──お二人の名前を伺いたいと思っていたのですが・・・・・・

 思ってはいたが前と同じように断られるのではないかと思って躊躇された・・・・・・のですね?  さてさて、困りました。やはり(アルファベットで)書き表せる名前ではないのです。こうしましょう。貴殿の思いつくままの名前をおっしゃってみて下さい。それを差し当たってのお名前といたしましょう。


 ──これまた思いも寄らなかったことです。

 いやいや、今お考えになって書いてくださればよろしい。本当の名前を知っていながらそれが書き表せない私よりも(何もご存知でない)貴殿が適当に付けてくださる方がいいでしょう。本当のお名前はアルファベットでは書こうにも書けないのです。さ、どう呼ばれますか。


 ──マリアとヨセフではいかがでしょう。

 これはまた謎めいたことをなさいました。その謎は貴殿にはよくお判りにならないでしょうが、ま、その名前で結構です。いけないと言っているのではありません。

結構ですとも。お二人をお呼びするにふさわしい意味をもつ名前を歴史上に求めれば、それしかないでしょうから。その意味については述べないでおきます。〝聞く耳ある者は聞くべし〟(マルコ4・9)です。

ではその名前で話を進めましょう。マリアにヨセフ。貴殿はその順序で述べられました。その順序でまいりましょう。ぜひそうしてください。それにも意味があるのです。


 ──地上時代の名前や年代はとても伝えにくいようですね。そちらからの通信を受けている者には一様にそう感じられます。どうしてなのでしょう?

 貴殿は少し問題を取り違えてますね。今おっしゃったのはかつての地上での名前と生活した時代のことでしょう。


──そうです。

 そうでしょう。では名前のことからお話ししましょう。これは死後しばらくは記憶しています。しかしそのうち新しい名前をもらってそれをいつも使用するので、地上時代の名前は次第に使わなくなります。

すると記憶が薄れ、おぼろげとなり、ついにほとんど、ないしは完全に記憶が消滅してしまいます。地上に親族がいる間はさほどでもありませんが、全員がこちらへ来てしまうと、その傾向が促進されます。

やがて何世紀もの時の流れの中で他の血族との境界線がぼやけて混り合い、一つの血族だけのつながりも薄れて、最後は完全に消滅します。例外もあるにはあります。

が、それも僅かです。それと同時に少しずつ名前の綴りと発音の形態が変わっていき、そのうちまったく別の形態の名前になります。しかし何といっても進化に伴って地上圏との距離が大きくなるにつれて地上時代への関心が薄れていくことが最大の要因でしょう。

霊界でのその後の無数の体験をへるうちに、すっかり忘れ去られていきます。記録を調べれはいつでも知ることはできます。が、その必要性も滅多に生ずるものではありません。
 
 地上時代の年代が思い出しにくいのも似たような理由によります。吾々の関心は未来にありますので、この問題はさしあたっての仕事にとっても無意味です。

もう一つの事情として、地上時代のことが刻々と遠ざかり、一方では次々と新しい出来ごとがつながっていくために、今ただちに地上時代のことを拾い出してそれが地上の年代でいつだったかを特定するのはとても困難となります。

もっとも地上の人間からのそうした問い合わせに熱心に応じる霊がいるものでして、そうした霊にとっては簡単に知ることができます。

が吾々のように他に大切な用件があり、今という時間に生きている者にとっては、急に航行先の変更を命じられて回れ右をし、すでに波がおさまってしまった抗行跡を引き返して、その中の一地点を探せと言われても困るのです。

その間も船は大波をけって猛スピードで前進しているのです。その大波の一つ一つが地上の一世紀にも相当すると思って下さい。そうすれば私の言わんとしていることが幾らかでもお分かり頂けるでしょう。

 では今回はこの辺で打ち切って、次の機会に同じ話題を取り上げ、神の名代である二人の天使、マリアとヨセフについて今少し述べることにしましょう。
                                                                                             アーネル ±

      
  3 水子の霊の発育                                      
    一九一八年 二月二十二日   金曜日     

 今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。

 それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を一日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。

そういう子供は眠ったままの状態でこちらへやって参ります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。

ただ、地上の空気を吸ったことが無く、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ一つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。

従ってそれぞれの器官はほぼ完全に近い状態であっても完全に出来上がってはいません。その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。

そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質は具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。

 こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な
発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。

それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。
数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発達の土台として使用することができます。

が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を一つ一つ重ねていくだけとなります。

 この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。

そこで、出来るだけ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。
 
むろんこれは肉体では出来ませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確立されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能な限り普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。

それでもやはり、地上に誕生した体験を持つ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。

しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親との繋がりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係まで持てるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。

 かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、一つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい〝多様性〟の要素をもたらすことになります。

 以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触の無い子供は正常な発育が得られない──他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。

かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。

(※地上において子宝に恵まれず母胎本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる──訳者)

   ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。

 その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ち合わせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。

ですから、二人の間の絆は──かりに残っていても弱いものですが──子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方は既に母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。

 子供の方では母親を認識しております。そして母親の気付かないうちにもいろいろと援助しております。しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。

 この話を持ち出したのは、吾々から見ると地上にはこうした(水子の)問題において母性が持つ重責が余りに無視されているからです。

地上にて花開くことなく蕾のうちにむしり取られた、そうした優しい花は余りにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。

といって今その子供たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。

ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代わりに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。

そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。


 ──お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが・・・・・・


 それが実は、あるのです。
   今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。

 今夜この話題を持ち出したことは、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリヤとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。

実は遠い昔、お二人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお二人の話をしておいたのです。お二人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。

                                             アーネル  ±

 追伸──この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味が込められていますが、その一つが〝両性の一体化〟です。ここではその意味で記しております。



    
 四章  天界の大学  
 
     1 五つの塔      
  一九一八年 三月十八日    金曜日

 第十界の森林地帯の真っ只中に広大な空地があります。周囲を林に囲まれたその土地から四方へ数多くの道が伸びており、その道からさらに枝分かれして第十界のすみずみまで連絡が取れております。

その連絡網は、瞑想と他の界層との通信を求めてその空地へ集まってくる人々によってよく利用されています。その一帯を支配する静穏の美しいこと。茂る樹木、咲き乱れる花々、そこここに流れる小川、点在する池、群がる小鳥や動物たちが、修養を心がける者たちを自然に引きつけ、その静穏の雰囲気に浸らせます。

 が、これから述べるのはその中心にある空地のことです。空地といっても地上ならさしずめ平野と呼ばれそうな広大な広さがあります。そこには庭園あり、噴水あり、寺院あり、建物あり。それらがみな研究と分析・調査の目的に使用されています。

そこは一種の大学ですが、その性格は〝美の都市〟とでも呼ぶにふさわしいものを具えております。と言うのは、そこでは美と知識とがまったく同等の意図を持つに至っているかに思えるのです。


 形は長円形をしています。その片方の端には森の緑から巾の広い背の高いポーチが突き出ており、その両側に木が立ち並び、その樹木の上空に建物の翼廊が姿を見せています。 その翼廊の壁の高い位置にバルコニーが付いていて、そこから空地全体を見晴らすことができます。

建物の残りの部分はすっぽり森林に包まれており、塔とドームだけがポーチよりはるかに高く聳え立っております。それが無かったら森林の中に一群の建造物が存在することに誰も気づかないでしょう。それほど周囲に樹木が密生しているのです。

 塔は五つあります。うち四つは型は違っていても大きさは同じで、その四つにかぶさるようにドームが付いています。残りの一つは巨大なものです。あくまでも高く聳え、その先端が美しいデザインの帽子のようになっています。

あたかも天界のヤシの木のようで、その葉で王冠の形に線条細工が施され、それに宝石が散りばめてあり、さらにその上は銀河に似たものが同じく宝石をふんだんに散りばめて広がっております。


 これら四つの塔とドームと大塔には神秘的な意味が込められており、その意味は例の大聖堂を通過した者でなければ完全な理解はできません。それが大きな儀式の際に理解力に応じた分だけが明かされる。その幾つかは〝顕現〟に形で説明されることもあります。

そのうちの一つをこれからお話するつもりですが、その前にそこの建物そのものについてもう少し述べておきましょう。



 ポーチの前方に左右に広がる池があり、その池に至る道は段々になっています。大学の本館はその水面から聳え立っており(※)、周辺の庭園と群立する他の小館とは橋でつながっており
、その大部分に天蓋が付いています。

ドームのあるホールは観察に使用されています。観察といっても大聖堂の翼廊での観察とは趣きが異なり、援助を送ったり連絡を維持するためではなく、他の界層の研究が目的です。そこでの研究は精細をきわめており、一つの体系の中で類別されています。

それというのも、天界においては他の界との関連性によって常に情況が変化しているからです。ですから、こうした界層についての知識の探求には際限がありません。

(※霊界の情況は地上の情況になぞらえて描写されるのが常であるが、地上圏から遠ざかるにつれてそれも困難となる。この部分もその一つで、一応文章のままに訳しておいたが、これでは地上の人間には具体的なイメージが湧いて来ないであろう。が、私の勝手な想像的解釈も許されないので、やむを得ずこのままに留めておいた──訳者)


 四つの小塔にはそれぞれ幾つかの建物が付属しています。それぞれに名称がありますが、地上の言語では表現ができないので、取りあえずここでは〝眠れる生命の塔〟──鉱物を扱う部門、〝夢見る生命の塔〟──植物を扱う部門、〝目覚める生命の塔〟──動物を扱う部門、そして〝自我意識の塔〟──人間を扱う部門、と呼んでおいてください。


 大塔は〝天使的生命の塔〟です。ここはさきの四つの生命形態を見おろす立場にあり、その頂点に君臨しているわけです。その段階へ向けて全生命が向上進化しつつあるのです。
 
 それらの塔全体を管理しているのが〝ドームの館〟で、各塔での分析調査の仕事に必要な特殊な知識はそこから得ます。つまりその館の中で創造・生産されるものを各分野に活用しています。

 四つの小塔は一つ一つデザインが異なり、平地から四つを一望するとすぐに、全体としていかなる創造の序列になっているかが知れます。

そういう目的をもってデザインされているのです。内部で行われる仕事によって各塔にそれ特有の性格がみなぎり、それが滲み出て外形をこしらえているのです。

 大塔は見るからに美しい姿をしております。その色彩は地上に見出すことはできません。が、取りあえず黄金のアラバスターとでも表現しておきましょう。それにパールを散りばめた様子を想像していただければ、およその見当がつくでしょう。

 それは言うなれば液晶宝石の巨大にして華麗な噴水塔という感じです。水が噴き出る代わりに囁くようなハーモニーが溢れ出て、近づく者に恍惚状態(エクスタシー)に近い感動を覚えさせずにはおきません。

 周辺の水がまた美しいのです。花園をうねりながら流れるせせらぎもあれば大きな池もあり、その水面(みなも)に五つの塔やドーム、あるいは他の美しい建物が映っており、静かな、落ち着いた美しさを見せています。

その感じを貴殿に分かりやすく表現すれば、揺りかごの中の天使の子供のようです。では、これより貴殿を大塔の中にご案内して、その特徴を二、三ご紹介しましょう。
 
 この塔は何かの建物の上にあるのではなく、基礎からいきなり聳え立っております、その内部に立って見上げたら、貴殿は唖然とされるでしょう。階が一つもなく、屋根のようなものもなく、ただ虚空へ向けて壁(四方にあります)が山の絶壁のように上へ上へと伸びているだけです。

そしてその頂上は星辰の世界のど真ん中へ突きささっているかの如くです。その遥かはるか遠くにその塔の先端の縁(ヘリ)が、あたかも塔そのものから離れてさらにその上にあるかのように見えます。それほど高いのです。

 その壁がまた決してのっぺりとしたものではないのです。四方の壁が二重になっていて、間(ま)が仕切ってあり、各種のホールや天使の住居(すまい)となっております。外部を見ると通路あり、バルコニーあり、張り出し窓あり、さらには住居から住居へと橋がループ状につながっております。

壁の上に対角線状に見えるものは、そこの部屋から部屋へ、あるいは楽しみのための施設から別の施設へとつなぐ階段です。庭園もあります。塔の側壁から棚状に突き出た広大な敷地にしつらえてあります。

この方尖塔は実に高くそして広大なので、そうした付属の施設──中へ入ってみるとそれぞれに結構大きなものなのですが──少しも上空を見上げた時の景色の妨げにならず、また一ばん先端の輪郭を歪めることもありません。

 また、よく見ると光が上昇しながら各部屋を通過していく際に変化したり溶け合ったり、輝きを増すかと思えば消滅していったりしております。

たとえば塔の吹き抜けに面したある住居のところでは真昼の太陽に照らされているごとくに輝き、別の住居のところでは沈みゆく夕日が庭を照らし、夕焼空を背景にして緑の木々やあずま屋が美しく輝いて見えます。

さらに別のところでは春の爽やかな朝の日の出どきの様相、さよう、そんな感じを呈しております。小鳥がさえずり、小川がさざ波を立てて草原へ流れていきます。この驚異の世界にも〝流れる水〟は存在するのです。

 音楽も流れています。あの部屋から一曲、この部屋から一曲と聞こえてきます。時には数か所から同時に聞こえてくることもありますが、塔の広さのせいでお互いに他のメロディの邪魔になることはありません。

 さて、以上お話したこと──全体のほんの一かけらほどでしかありませんが──を読まれて貴殿はもしかしたら、その大塔の中がひどく活気のない所のように思えて、建立の動機に疑問を持たれるかもしれません。

が、先ほど私が各塔に名付けた名称を思い出していただけば、決してそうでないことが分かっていただけるでしょう。

この大塔は四つの小塔を指揮・監督する機能を有し、そのためのエネルギーを例のドームから抽(ひ)き出すのです。そこにはきわめて霊格の高い天使が強烈な霊力と巾広い経験を携えて往き来し、かつて自らが辿った道を今歩みつつある者たちの援助に当たります。

すなわち測り知れぬ過去において自分が行ったことを、四つの小塔とドームの館に住む者が永遠の時の流れの中の今という時点において励んでいるということです。進化の循環(サイクル)の中で、先輩の種族が去って新しい種族が今そこに住まっているのです。

 これでお気づきと思いますが、そこでの仕事がいかに高度なものであるとはいえ、そこはあくまでも第十界であり、従ってあくまでも物事の育成の場であって創造の界ではないのです。

でも、創造へ向かいつつあることに間違いはなく、第十界では最高の位置にある施設の一つです。


 ──アーネルさんご自身もその大学を卒業されたのですか。

  しました。四つの塔を全部通過するコースを終えました。それが普通のコースです。


 ──ドームも館もですか。

 学徒として入ったことはありません。別の形で同じことを修了しておりましたから。実は私は四番目の塔を終えたのちに大塔直属の天使のお一人に仕える身となったのです。大聖堂へ行けるまでに修行できたのもその方のお陰です。

例の暗黒界への旅の間にずっと力をお貸しくださったのもその方で、そのことは旅から帰って初めて知りました。その方はそうした援助の仕事を他の者にもしておられました。それがその方の本来の仕事だったのです。(※)

 神の祝福を。                                                                  アーネル  ±
(※過去形になっているのは現在は別の仕事に携わっているからであろう。〝その方〟について何も述べていないが、同じ霊系の一人、つまり類魂の一人であるに違いなく、こうした関係は地上に限らず上級界へ行っても同じであることが分かる──訳者)



    
 
2  摂理(ことば)が物質となる                    
   
一九一八年 三月 四日 月曜日

 五つの塔から成る大学の構内は常時さまざまな活動に溢れていますが、せわしさはありません。中央水路へ通じる数々の小水路を幾艘もの船が往き来して、次々と渡航者を舟着き場へ下ろしています。

その水辺近くまで延びているテラスや上り段には幾千ともつかぬ参列者が群がっており、新しい一団がその明るい賑わいを増しています。いずれもある大きな顕現を期待してやって来るからです。

参加者はそれぞれ個人としての招待にあずかった人ばかりです。その地域の者なら誰でも参加できるのではありません。ある一定の霊格以上の者にかぎられています。

 招待者が全員集合したところで天使の塔から旋律が流れてきました。続いて何が起きるのであろうかと一斉に注目しています。ではそのあとの顕現の様子を順を追って叙述しましょう。

 音楽がボリュームを増すにつれて、その塔を包む大気が一種の霞を帯びはじめました。しかし輪郭が変わって見えるほどではありません。そして塔は次第に透明度を増し、それが上下に揺れて見えるのです。

つまり色彩に富んだ液晶ガラスのように、外側へ盛り上がったかと思うと内側へのめり込んでいくのです。

  やがて吾々の耳にその音楽よりさらに大きな歌声が聞こえてきました。それは絶対紳とその顕現であるキリストへの讃歌(テデウム)でした。そのキリストの一つの側面がこれより顕現されるのです。


 ──そのテデウムの歌詩を教えていただけませんか。

 いえ、それは不可能です。その内容だけを可能な限り地上の言語に移しかえてみましょう。こうです──

  「遠き彼方より御声に聞き入っております私どもは、メロディの源であるキリストこそあなたであると理解しております。あなたのみことばを聞いて無窮がをもたらしたのでございます。

 あなたの直接の表現であらせられるキリストの目にあなたのお顔を拝している私どもは、あなたは本来無形なる存在であり、その御心より形態を生じ、がむき出しのままであることを好まず、光を緯
(よこ)糸とし影を経(たて)糸として編まれた衣にて包まれいると理解しております。

 あなたの御胸の鼓動を感じ取っております私どもは、がそのように包まれているのはあなたがのすべてであり、あなたのでないものは存在しないからでございます。

   あなたのそのを私どもはキリストによって知り得るのみであり、そのキリストはあなたが私どもに与え給うたのと同じ形態をまとって顕現されることでございましょう。

 私どもはあなたを讃えて頭(コウベ)を垂れます。私どもはあなたのものであり、あなたを生命と存在の源として永遠におすがりいたします。この顕現せる生命の背後に恵み深き光輝が隠されております。

 キリストの顕現とその安らぎを待ち望む私どもにお与えくださるのは、御身みずからのことに、ほーかーなーりーまーせーぬ」

 最後の歌詞はゆっくりと下り調子で歌われ、そして終わった。そして吾々は頭を垂れたまま待機していました。

 次に聞こえたのは〝ようこそ〟という主の御声でした。その声に吾々が一斉に顔を上げると、主は天使の塔の入り口の前に立っておられます。その前には長いそして広い階段が水際まで続いています。その階段上には無数の天使が跪いています。
 
その塔に所属する天使の一団です。総勢幾千もの数です。は塔へ通じる大きなアーチ道から遠く離れた位置にお一人だけ立っておられます。

が、その背後には階段上の天使よりさらに霊格の高い天使の別の一群が立ち並んでいます。の降臨に付き添ってきた天使団です。

 今や天使の塔は躍動する大きな炎のごとく輝き、大気を朱に染めてそれがさらに水面に反映し、灼熱に燃えあがるようにさえ思えるのです。

 その時です。がまず片足をお上げになり、続いてもう一方の足をお上げになって宙に立たれました。塔の頂上を見上げると、その先端に載っている王冠状のものが変化しはじめているのが分かります。あたかも美しい生きもののように見えます。

レース状の線条細工がみな躍動しており、さらによく見ると、そのヤシの葉状の冠には数々の天使の群れが宝石を散りばめたように光って見えます。

ある群れは葉に沿って列をなして座し、ある群れは基底の環状部に曲線をなして立ち、またある群れは宝石の飾り鋲に寄りかかっています。王冠を構成しているあらゆる部分が天使の集団であり、宝石の一つ一つがセラピム(※)の一団であり、炎のごとく輝き燃え上がっているのでした。(※キリスト教で最高神に直接仕える第一級の天使──訳者)

   やがてその塔の頂上部分がゆっくりと塔から離れてならびに付き添いの天使団が立ち並ぶ位置の上空高く上昇し、それからゆっくりと下降してテラスに着地しました。

内部にはすでに千の単位で数えるほどの天使がいます。そして吾々も水路を横切ってその内部へ入るように命じられました。(その大塔は湖の中央に聳えている──訳者)

 私が階段の頂上まで来て見下ろすと、滔々(とうとう)とした人の流れが、喜びの極みの風情で、新しくしつらえた宮殿の中へ入って行くのが見えました。私もその流れに加わって何の恐れの情もなく中へ入りました。すべてが静寂、すべてが安らぎとよろこびに溢れておりました。

 入ってみると、その王冠の内側は広く広大なホールとなっており、天井が実に高く、下から上まで宝石と宝玉に輝いておりました。透し細工に光のみなぎった薄もやが充満し、それがそのままホールの証明となっておりました。

壁は少し垂直に伸びてからアーチを描いて穹陵(きゅうりょう=西洋建築における天井の一形式)となり、その陵線がサファイア色をした大きな宝玉のところで合流しています。

壁の材質は透明なクリスタルで、外側の天界の様子を映し出す性質をしており、どの天使が飛来しどの天使が去って行ったかが、いながらにして分かるようになっています。

この王冠はテラスへ下降してくる間にそのように模様替えされたに相違ありません。普段は完全に青空天井になっておりますから。


──出席者は全部で何名だったのでしょうか。

 私には分かりません。でものお伴をした霊は少なくとも千五百名を数えたに相違ありません。そして吾々招待を受けた者はその六倍を下りませんでした。それに塔の直属の霊がおよそ三千名はいました。大変な集会だったのです。

 このたびの顕現はその大学における科学に関する指導の一環として行われたものです。それがどんなものであるかはすでにお話しました。

それまで吾々は研究を重ね、資料を豊富に蓄積しておりました。そこへが訪れてそうした知識がそれより上の境涯へ進化して行きながら獲得されるについての知識といかに調和したものであるかをお示しになられたのです。

 
 ──もう少し詳しくお話ねがえませんか。今のでは大ざっぱすぎます。
 
 そうでしょう。私もそれを残念に思っているのですが、といってこれ以上分かりやすくといっても私には出来そうにありません。でも何とか努力してみましょう。

 冗漫な前おきは抜きにして一気に本論へ入りましょう。あのとき神のことばがそのまま顕現したのでした。すでに(第二巻で述べたので)ご承知の通り、宇宙創造の当初、神の生命のエネルギーが乳状の星雲となり、それが撹拌されて物質となり、その、物質から無数の星が形成されるに至った時の媒介役となったのが、ほかならぬことばでした。ことばこそ創造の実行者だったのです。

すなわちがそのことばを通して思惟し、その思念がことばを通過しながら物質という形態をとったということです。(※Word  は聖書などでことばと訳されているので一応それに倣ったが、シルバーバーチの言う宇宙の摂理、自然法則のことである──訳者)

 この問題は永いあいだの吾々の研究課題でした。が降臨されて宇宙の創造における父なる神の仕事との関連においてのことばの意味について吾々が学んだことに、さらに深いことを説明なさったのは、上層界における同種の、しかしさらに深い研究につなげていくためでした。残念ながらこれ以上のことは伝達しかねます。


 ──このたびがお出でになられた時の容姿を説明していただけませんか。

 は大ホールの中空に立っておられ、最後まで床へ下りられませんでした。最初私はそれがなぜだか分かりませんでした。が顕現が進行するにつれて、その位置がこのたびのの意図に最も相応しいことが分かってきました。

視覚を使って教育するためだけではありません。中空に立たれたのは、その時のの意図が自然にそのような作用をしたのです。

そしてお話をされている間も少しずつ上昇して、最後は床と天井の中間あたりに位置しておられました。それはその界層における力学のせいなのです。そう望まれたのではなく、科学的法則のせいだったのです。

 さらに、冠の外側に群がっていた天使が今は内側の壁とドームの双方に、あたかも生きた宝石のごとく綴れ織(タベストリ)り模様に群がって飾っているのでした。

 さて貴殿は主の容姿を知りたがっておられる。衣装は膝までのチュニックだけでした。

澄んだ緑色をしており、腕には何も──衣服も宝石も──付けておられませんでした。宝石はただ一つだけ身につけておられました。胴のベルトが留め金でとめてあり、その留め金が鮮血の輝くような赤色をした宝石でした。

腰の中央に位置しており、そのことは、よくお考えいただくと大きな意味があります。

と言うのは、父なる神と決して断絶することはありませんが、この界層における仕事に携わるために下りて来られるということは確かに一種の分離を意味します。造化の活動のためにみずから出陣し、そのためにより顔をそむけざるを得ません。

意念を〝霊〟より〝物質〟へと放射しなければならないのです。
その秘密が宝石の位置に秘められているのです。このことは語るつもりはなかったのですが、貴殿の精神の中にその質問が見えたものですから、ついでに添えておきます。

 マントは付けておられませんでした。膝から下は何も付けておられませんでした。両手両脚とお顔は若さ溢れる元気盛りのプリンスのそれでした。頭髪にも何も付けておられず、中央で左右に分けておられ、茶色の巻き毛が首のあたりまで下がっておりました。

いえ、目の色は表現できません──貴殿の知らない色ばかりです。それにしても貴殿の精神はについての質問でいっぱいですね。これでも精一杯お答えしてあげてるつもりです。


 ──についてのお話を読むといつもその時のお姿はどうだったのかが知りたくなります。私にとっても他の人たちにとっても、それがをいっそう深く理解する手掛かりになると思うからです。そのものをです。

 お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら貴殿が地上界にいる限りの真相はほとんど理解し得ないでしょう。現在の吾々の位置に立たれてもなお、そう多くを知ることはできません。それほどは偉大なのです。

それほど地上のキリスト教界が説くような窮屈な神学からはほど遠いものなのです。キリスト者はを勝手に捉えて小さな用語や文句の中に閉じ込めようとしてきました。

はそんなもので表現できるものではないのです。天界においてすら融通無碍であり、物的宇宙に至っては主の館の床に落ちているほこり一つほどにしか相当しません。にもかかわらずキリスト者の中にはにその小さなほこりの中においてすら自由を与えようとしない人がいます。この話はこれ以上進めるのは止めましょう。


 ──それにしても、アーネルさん、あなたは地上では何を信仰しておられたのでしょうか。今お書きになられたことを私は信じます。が、あなたは地上におられた時もそう信じておられたのですか。

 恥ずかしながら信じていませんでした。と言うのも、当時は今日に較べてもなお用語に囚れていたのです。しかし正直のところ私は神の愛について当時の人たちには許しがたい広い視野から説いていました。それが私に災いをもたらすことになりました。

殺されこそしませんでしたが、悪しざまに言われ大いに孤独を味わわされました。今日の貴殿よりも孤独なことがありました。貴殿は当時の私よりは味方が多くいます。

貴殿ほど進歩的ではありませんでしたが、当時の暗い時代にあっては、私はかなり進んでいた方です。現代は太陽が地平線を緩めはじめております。当時はまさに冬の時代でした。


──それはいつの時代で、どこだったのでしょう?

 イタリアです。美しいフローレンスでした。いつだったかは憶えてはいません。が神が物事を刷新しはじめた時代で、人々はそれまでになかった大胆な発想をするようになり、教会が一方の眉をひそめ国家がもう一方の眉をひそめたものです。

そして──そうでした。私は人生半ばにして他界し、それ以上の敵意を受けずに済みました。


──何をなさっていたのでしょう。牧師ですか?

 いえ、いえ、牧師ではありません。音楽と絵画を教えておりました。当時はよく一人の先生が両方を教えたものです。


 ──ルネッサンス初期のことですね?

 吾々の間ではそういう呼び方はしませんでした。でも、その時代に相当しましょう。そうです!  今日と同じようにがその頃から物事を刷新しはじめたのです。

(それが何を意味するのかがこれからあとの通信の主なテーマとなる──訳者)そしてがそのための手を差しのべるということは、それに応えて人間もそれに協力しなければならないことになります。大いに苦しみも伴います。

が刷新の仕事は人間一人苦しむのではありません。のベルトのルビーの宝石を思い出して、がいつもお伴をして下さっていると信じて勇気を出していただきたいのです。
                                                                                                 アーネル   ± 
 
     
   3 マンダラ模様の顕現                           
    一九一八年三月 八日   金曜日     
 
 吾々招待にあずかった者が全員集合すると、のお伴をしてきた天使群が声高らかに讃美の聖歌を先導し、吾々もそれに加わりました。貴殿はその聖歌の主旨(モチーフ)を知りたがっておられる。それはおよそ次のようなものでした。
 
 「初めに実在があり、その実在の核心からが生まれた。
 が思惟し、そのからことばが生まれた。
 ことばが遠く行きわたり、それに伴っても行きわたった。ことばの生命(イノチ)にして、その生命ことばをへて形態をもつに至った。

  そこに人間(ヒト)の本質が誕生し、それが無窮の時を閲(ケミ)して神の心による創造物となった。さらにことばがそれに天使の心と人間の形体とを与えた。

 顕現のキリストはこの上なく尊い。ことばをへてより出て来るものだからである。そして神の意図を宣言し、その生命キリストをへて家族として天使と人間に注がれる。

 これがまさしくキリストによることばを通しての天使ならびに人間における神の顕現である。神の身体にほかならない。

 ことばの意志と意図を語ったとき虚空が物質に近い性質を帯び、それより物質が生じた。そしてより届けられる光をことばを通して反射した。

 これぞ神のマントであり、神のことばのマントであり、キリストのマントである。

   そして無数の天体がことばの音楽に合わせて踊った。その声を聞いてよろこびを覚えたのある。なぜならば、天体が創造主の愛を知るのはことばを通して語るその声によるのみだからである。

 その天体はまさに神のマントを飾る宝石である。

 かくして実在よりが生まれ、よりことばが生じ、そのことばより宇宙の王としてその救済者に任じられたキリストが生まれた。

 人間は永遠にキリストに倣う。永遠の一日の黄昏どきに、見知らぬ土地、ときには荒れ果てた土地を、わが家へ向けて、神へ向けて長き旅を続けるのである。今はまさにその真昼どきである。

 ここがとそのキリストの王国となるであろう」


 こう歌っているうちにホール全体にまず震動がはじまり、やがて分解しはじめ、そして消滅した。そしてそれまで壁とアーチに散らばっていた天使が幾つかのグループを形成し、それぞれの霊格の順に全群集の前に整列しました。

その列はの背後の天空はるか彼方へと続いていました。さらに全天にはさまざまな民族の数え切れないほどの人間と動物が満ちておりました。全創造物が吾々のまわりに集結したのです。

 動物的段階にあった時代の人間の霊も見えます。さまざまな段階を経て今や天体の中でも最も進化した段階に到達した人種もいます。さらには動物的生命───陸上動物と鳥類──のあらゆる種類、それに、あらゆる発達段階にある海洋生物が、単純な形態と器官をしたものから複雑なものまで勢揃いしていたのです。

 さらには、そうした人類と動物と植物を管理する、これ又さまざまな段階の光輝をもつ天使的存在も見えました。その秩序整然たる天使団はこの上ない崇高性にあふれていました。それと言うのも、ただでさえ荘厳なる存在が群れを成して集まっていたからであり、

王冠のまわりに位置していた天使団も今ではそれぞれに所属すべきグループのメンバーとしての所定の位置を得ておりました。

 全創造物と、中央高く立てるキリスト、そしてそのまわりを森羅万象が車輪のごとく回転する光景は、魂を畏敬と崇拝の念で満たさずにはおかない荘厳そのものでした。

 私がその時はじめて悟ったことですが、顕現されるキリストは、地上においてであれ天界においてであれ、キリストという全存在のほんの小さな影、その神性の光によって宇宙の壁に映し出されたほのかな影にすぎないこと、そしてその壁がまた巨大な虚空の中にばらまかれたチリの粒から出来ている程度のものであり、その粒の一つ一つが惑星を従えた恒星であるということです。


 それにしても、その時に顕現されたの何とお美しかったこと、そしてまた何という素朴な威厳に満ちておられたことでしょう。全創造物の動きの一つ一つがのチュニック、目、あるいは胴体に反映しておりました。

の肌の気孔の一つ一つ、細胞の一つ一つ、髪の毛の一本一本が、吾々のまわりに展開される美事な創造物のどれかに反映しているように思えるほどでした。


──あなたが見たとおっしゃる創造物の中にはすでに地上から絶滅したものやグロテスクなもの、どう猛な動物、吐き気を催すような生物──トラ、クモ、ヘビの類──もいたのでしょうか。


 ご注意申し上げておきますが、いかなる存在もその内側を見るまでは見苦しいものと決めつけてはいけません。

バラのつぼみも身をもちくずすとトゲになる、などという人がいますが、そのトゲも神が存在を許したからこそ存在するわけで、活用の仕方次第では美しき女王のボディガードのようにバラの花を護る役目にもなるわけです。

 そうです、その中にはそういう種類のものもいました。バラとトゲといった程度のものだけでなく、人間に嫌われているあらゆる生物がいました。はそれらをお捨てにならず、活かしてお使いになるのです。

 もっとも吾々は、そうした貴殿がグロテスクだとか吐き気を催するようなものと呼んだものを、地上にいた時のような観方はせず、こちらへ来て教わった観方で見ております。その内面を見るのです。

すると少しもグロテスクでも吐き気を催すようなものでもなく、自然の秩序正しい進化の中の一本の大きな樹木の枝分かれとして見ます。

邪悪なものとしてではなく、完成度の低いものとして見ます。どの種類もある高級霊とその霊団がの本性の何らかの細かい要素を具体的に表現しようとする努力の産物なのです。

 その努力の成果の完成度が高いものと低いものとがあるというまでのことで、の大業が完成の域に達するまでは、いかなる天使といえども、ましてや人間はなおのこと、これは善であり、これは邪性から生じたものであるなどと宣言することは許されません。

内側から見る吾々は汚れなきのマントの美しさに固唾(かたず)をのみます。中心に立たれたそのお姿は森羅万象の純化されつくしたエッセンスに包まれ、それが讃仰と崇敬の香りとなってに降り注いているように思えるのでした。

 その時の吾々はもはや第十界の住民ではなく全宇宙の住民であり、広大なる星辰の世界を流浪(さすら)い、無限の時を眺望し、ついにそれを計画した存在、さらにはの作業場においてその創造に従事した存在と語り合ったのです。

そして新しいことを数多く学びました。その一つひとつが、今こうしてこちらの大学において高等な叡智を学びつつある吾々のように創造界のすぐ近くまでたどり着いた者のみが味わえる喜びであるのです。

 かくして吾々はかの偉大なる天使群に倣い、その素晴らしい成果───さよう、虫けらやトゲをこしらえたその仕事にも劣らぬものを為すべく邁進しなければならないのです。

それらを軽視した言い方をされた貴殿が、そのいずれをこしらえようとしても大変な苦労をなさるでしょう。そう思われませんか。ま、叡智は多くの月数を重ねてようやく身につくものであり、さらに大きな叡智は無限の時を必要とするものなのです。

 そこで吾々大学で学んでいた者がこうして探究の旅から呼び戻されて一堂に招集され、いよいよホールの中心に集結したところで突如としてホール全体が消滅し、気が付くと吾々は天使の塔のポーチの前に立っているのでした。

 見上げると王冠はもとの位置に戻っており、すべてがその儀式が始まる前と同じになっておりました。ただ一つだけ異なっているものがありました。

こうした来訪があった時は何かその永遠の記念になるものを残していくのが通例で、この度はそれは塔の前の湖に浮かぶ小さな建物でした。ドームの形をしており、水面からそう高くは聳えておりません。

水晶で出来ており、それを通して内部の光が輝き、それが水面に落ちて漂っております。

反射ではありません。光そのものなのです。かくしてその湖にそれまでにない新しいエネルギーの要素が加えられたことになります。


 ──どんなものか説明していただけませんか。

 それは無理です。これ以上どうにもなりません。地上の人間の知性では理解できない性質のものだからです。それは惑星と恒星のまわりに瀰漫するエネルギーについての吾々の研究にとっては新たな一助となりました。

そのエネルギーが天体を包む鈍重な大気との摩擦によっていわゆる〝光〟となるのです。

吾々はこの課題を第十一界においてさらに詳しく研究しなければなりません。新しい建造物はその点における吾々への一助としての意味が込められていたのです。
                                アーネル ±

 ──カスリーン、何か話したいことありますか。
 
  あります。こうして地上へ戻って来てアーネルさんとその霊団の思念をあなたが受け取るのをお手伝いするのがとても楽しいことをお伝えしたいのです。

みなさん、とても美しい方たちばかりで、わたしにとても親切にしてくださるので、ここでこうして間に立ってその方たちの思念を受信し、それをあなたに中継するのが私の楽しみなのです。


 ──アーネルさんはフローレンスに住んでおられた方なのに古いイタリア語ではなく古い英語で語られるのはどうしてでしょう?

 それはきっと、確かにフローレンスに住んでおられましたが、イタリア生まれではないからでしょう。

私が思うにアーネルさんは英国人、少なくとも英国のいずれかの島(※)生まれだったのが、若い時分に移住したか逃げなければならなかったか──どちらかであるかは定かでありませんが──いずれにしても英国から出て、それからフローレンスへ行き、そこに定住されたのです。

その後再び英国へ帰られたかどうかは知りません。当時はフローレンスに英国の植民地があったのです。(※英国は日本に似て大小さまざまな島から構成されているからこういう言い方になった──訳者)


──誰の治世下に生きておられたかご存知ですか。

 知りません。でも、あなたがルネッサンスのことを口にされた時に想像されたほど古くはないと思います。どっちにしても確かなことは知りませんけど。


 ──どうも有難う。それだけですか。

 これだけです。私たちのために書いてくださって有難う。


 ──これより先どれくらい続くのでしょう?

   そんなに長くはないと思います。なぜかって? お止めになりたいのですか。


 ──とんでもない。私は楽しんでやってますよ。あなたとの一緒の仕事を楽しんでますよ。それからアーネルさんとの仕事も。でも最後まで持つだろうかと心配なのです。つまり要求される感受性を維持できるだろうかということです。このところ動揺させられることが多いものですから。

 お気持ちは分かります。でも力を貸してくださいますよ。そのことは気づいていらっしゃるでしょう? 邪魔が入らなくなったことなど・・・・・・アーネルさんがこれから自分が引き受けるとおっしゃってからは一度も邪魔は入っていませんよ。


 ──まったくおっしゃる通りです。あの時までの邪魔がぴたっと入らなくなったのが明らかに分かりました。ま、あなたが〝これまで〟と言ってくれるまで続けるつもりです。神のみ恵みを。では又の機会まで、さようなら。
 おやすみなさい。                                                                          カスリーン  

 
  
 五章  造化の原理

   1   スパイラルの原理                                     
     一九一八年 三月十一日  月曜日

 ──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

 私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの (avenues とあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟division ではなく、横切って通るための〝路〟road でもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟department なのです。

 そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初におては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

 私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

 その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側はの思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)。

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

 原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

 さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い性分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

 鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

 同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

 ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

  月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

 以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

 こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。

 
 ──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。 

 しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

 では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

 吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働らかせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する───これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

 しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物───植物的生命の創造を観てみましょう。
 
 例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。


──どうもお話について行けないのですが・・・・・・もう少し説明していただけますか。

 では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

 天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

 このことは途上に関しても言えることです。

 従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

 さて先程述べかけた類似に原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

 この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。


 同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の美がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

 これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
                                  アーネル ±


 訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。


    
2  文明の発達におけるスパイラル
 一九一八年 三月十五日 金曜日

  ──今夜はどういう目的でいらしたのでしょうか。

 例の顕現で学んだ教訓についての叙述を続けたいと思います。


 ──例の類似性についてのお話の最後の部分がよく理解できませんでした。私には今一つ要領を得ない感じがしました。私は正しく受け止めていたでしょうか。

 結構でした。取り損ねられたのは応用についての部分です。あの時はすでに消耗が度を越していたようです。今夜はその補足説明しようと思います。

 さて、物的世界を支配する原理、すなわち物質の形態による外部への生命の顕現は霊的世界にも当てはまります。


 まずスパイラルですが、これはそれ自体まさしく霊的世界に見られる原理の物的類似物と言えます。それは当然のことで、物的原子のすべてが意念の操作による産物だからです。その意念の大根源です。そのから湧き出た動的意念が中間の界層を整然たる順序をへて降下し、物質の中に究極の表現を見出しているのです。

したがって物的世界に見られるものは、そうした中間層を通過してきたエネルギーの産物なのです。前の例ではそのエネルギーがスパイラル運動によって発せられているのが分かります。

これは、もしそのエネルギーが流れる霊的界層においてもスパイラルの原理が働いているからこそであって、もしそうでなかったら有り得ないことです。ではどういう具合に働いているかを述べてみたいと思います。

 実はヤシの葉状の王冠がそのスパイラルの原理の一つの象徴でした。スパイラル状に編まれておりましたし、例の顕現の中で王冠のまわりに集結した天使群も当然スパイラル状に整列しておりました。

それが彼らの仕事の象徴のようなもので、その位置の取り具合によって吾々に教訓を読み取らせる意図があったのです。

 では次にこれを動物的生命の創造に見てみましょう。

 そもそも〝感覚〟による動作が最初に見られるのは植物です。そしてそこにもスパイラルの原理がはっきりとした形で現れているのが分かります。

たとえば豆科の植物は他のつる科の植物もみなそうであるように、スパイラル状に伸びます。典型的なスパイラルを描くものもあれば、少し形の崩れたものもありますが・・・・・・

 樹液の流れも幹を上昇しながら直線から曲線へ移行しようとする傾向を見せます。巻きひげによって登って行く植物も、ひげをスパイラル状に巻き付けて支えています。空中を遠く飛び散る種子も同じような曲線を描きながら地面へ落下します。

こうしたことは全てスパイラルの原理の働きの結果で、太陽から送られるバイブレーションが地上の植物にまで届くのにもそれが作用しています。つまり虚空を通過してくる際にはミニチュアの形でスパイラル運動が生じ、みずから天体の回転を真似ているのです。

 さてこれを動物界に見てみると、やはり同じ原理が働いていることが分かります。たとえば、小鳥は空中を飛ぶのにも滑空するのにも決して一直線は描かずに曲線を描く傾向があり、長い距離を行くとやはりスパイラル運動をしていることが明らかになります。

同じことが海中の動物にも陸上の動物にも言えます。ただ、進化すると、高等なものほどそれが明確に認められなくなります。

自由意志が行使されるようになるからで、それが中心的原則から外れた行動を生むようになります。逆に自由意志が少なくなるほどその原則が明確に見られます。

たとえばカタツムリの殻をご覧になればよく分かります。海の動物の殻にも同じものが数多く見られます。自由意志に代って本能が作用しているからです。
 

 一方、人間に関して言えば、個々の人間の個性よりも各民族全体を指導する大精神(※)に関わる事象においてそれは顕著に見られます。たとえば文明は東から西へと進行し、幾度か地球を楯回(じゅんかい)しています。その地球は太陽を中心として動いている。

しかし太陽の子午線は赤道に沿って直線上に走っているわけではなく、地球がどちらかに傾くたびに北に振れたり南に振れたりしている。

こうした地球の動きは太古における地球の動きの名残りであり、同じスパイラル運動が支配している星雲から誕生したことを示しております。こうして現在は顕著なスパイラル運動はしていないとはいえ、地球上の文明の進路が続けて二度同じコースをたどることは決してありません。

文明の波が前と同じ経線のところまで戻ってきた時には地球自身の両極は何度か───北極が南へ、南極が北へ──傾いております。かくして太陽からの地球へのエネルギーの放射の角度が変わると、文明の進路も変化します。

こうしてその文明は言うなれば地球にとっての〝新たな発見〟という形を取っていくわけです。

(幻の大陸と言われている)レムリアとアトランティスの位置についての憶測を考えていただけば、私の言わんとするところがお分かり頂けるでしょう。(※地球の守護神のこと。これを人間的容姿を具えた神様のように想像してはならない。

地球の魂そのものであり、無形の霊的存在であり、前巻で述べた通り、これがキリストの地球的顕現である。人間はすべてその分霊を受けて生まれる。それを最も多くそして強力に体現したのがイエス・キリストということである──訳者)
 
 それだけではありません。この原理は文明のたどるコースだけでなく文明の産物そのものをも支配しています。これは説明がさらに困難です。

こちらの世界ではそれを鮮明に認識することができます。と言うのも、人類の精神的活動の様子が地上より生き生きと見えるだけでなく、広範囲の年代のことを一度に見ることが出来るからです。

そういう次第で私は、人類の歩みが着実に上へ向いていること、しかしそれは巨大なスパイラルを描いていると明言することができます。

 その意味を分かっていただくには、〝太陽の下に新しいものなし〟(旧約・伝道の書1・9)という言葉を思い出していただくのが一番良いでしょう。

これは文字通りの真理というわけではありませんが、ある程度は言い当てております。貴殿は、新しい発見が為されたあとでそれに似たものがすでに何千年も前に予測されていたということを聞かされたことがあるでしょう。

私は予測されていたという言い方は賛成できません。そうではなくて、このたびの新しい発見はそれに先立つ発見が為された時に科学が通過しつつあったスパイラル状の発達過程の位置のすぐ上の時期に当たるということです。

発明・発見のスパイラルはあくまでも上昇しながら楯回しているわけです。ですから発明・発見が〝新しい〟というのは、前回の楯回の時のものの新しい翻案という意味においてのみ言えることです。


──例を挙げていただけませんか。

  エーテル分子(※)の人類の福祉のための活用がそのよい例といえるでしょう。この分野の科学は実にゆっくりとした段階で研究されてきたことにお気づきでしょう。

とりあえず〝燃焼〟の段階から始めてみましょう。燃焼によって固体が気化されました。次に、これによって熱を発生させることを知り、さらに熱によって生産した蒸気を利用することを知りました。

続いて同じ気化熱を蒸気を媒介とせずに利用することを知り、さらに微細なバイブレーションを活用することを知り、今日では急速に蒸気が電気へと変わりつつあります。

が、さらに次の段階への一歩がすでに踏み出されており、いわゆる無線の時代へ移行しつつあります。
 
(※エーテルの存在はかつてオリバー・ロッジなどが主張していたが今日の科学では否定される傾向にある。

がこの通信霊アーネルは第三巻でも明らかにその存在を認めた説明をしている。〝エーテル〟といい〝霊〟といい、地上の人間がそう呼ぶから霊の方でもそう呼んでいるまでのことで、科学が存在を認めようと認めまいと、あるいは、たとえ認めてそれをどう呼ぼうと、霊の方は存在の事実そのものを目の当たりにした上で語っているのであるから、

現在の科学理論でもって通信の内容の是非を論じるのは主客転倒であろう。なおこの一節は過去一世紀間の科学の発達を念頭に置いてお読みいただけば理解がいくであろう──訳者)

 ところが実はこうした一連の発達は、完成の度合いこそ違え、現代の人間には殆ど神話の世界の話となっている遠い過去の文明の科学者によって為されたことがあるのです。

そしてさらに次の段階の発達も見えているのです。それは〝エーテルの活動〟に代わって〝精神の波動〟(※)の時代が来ているということです。

このことも実はすでに優れた先駆者の中にはその先見の明によって捉らえた人がいたのです。が、道徳的に十分に発達していない人間によって悪用されるといけないので、その発表を止められていたのです。

現代の人類でもまだ科学として与えられるにはもう少し霊的進化が必要でしょう。今の段階で与えられたら、益になるより害になる方が大きいでしょう。

(※エーテルの波動は言わば物的科学の原理ということであり、精神の波動は霊的科学の原理のことと解釈できるが、ただ最近見られる程度のもので超能力の威力を予測してはならない。まだまだ幼稚すぎるからである──訳者)
 
 それは別として、現段階の科学の発達は、同じ分野に関して、前回の周期(サイクル)の時にストップしたままの段階よりはさらに発達することでしょう。

前回のサイクルにおいて科学の発達が下降しはじめ、それまでに成就されたものが霊界側に吸収されて、次のサイクルが巡ってきた時点で、それまでの休息の時代に霊界で担当の霊によってさらに弾みをつけられたものが、受け入れるだけの用意の出来た人類に授けられることになります。

 霊界を内側と呼ぶならば地上界は外側ということになり、すでに述べたエーテル原子の動きと同じ原理が地上界に再現されていることになります。

 この問題にはまだまだ奥があるのですが、それを貴殿が理解できるように言語で述べることは不可能です。

要するにこれまで説明してきた原理が今私が例を挙げたような力学においてだけでなく、政治においても、植物及び動物の〝種〟の育成においても、天文学においても、化学においても働いていると理解していただけば結構です。


──占星術と錬金術とは現代の天文学と化学との関係と同じ類似性をもつものだったのでしょうか。

 それは違います。断じてそうではありません。

今夜の話は(人間の歴史の)世紀(センチュリー)を単位としたものではなくて(地球の歴史の)代(エオン)を単位としています。

占星術と錬金術はその二つの時代の科学の直接の生みの親であり、私のいう巨大なスパイラルの中の同じサイクルに属し、その距離はわずかしか離れておらず、すこし傾斜した同じ平面にあります。

 私のいう類似物とは違いますが、ただ、化学については一言だけ付け加えておきたいことがあります。それで今夜はおしまいにしましょう。

 化学というのは高級神霊が中心的大精神に発したバイブレーションが多様性と変異性とへ向けての流れを統御していく活動の中でも最も外的な表現であるということです。

すなわち神に発した生命の流れが霊の段階を通過して物質となって顕現する活動の中で、化学的物質が分化の過程によって細分化され、さらに分子となっていきます。

そして最低の次元に到達するとその衝動が今度は逆方向へ向かい、上方へ、内部へ、と進行します。分析化学に携わる人はその統一性から多様性へと向かう衝動に従っているわけです。

反対にそれを統合しようとする化学者はその流れに逆らっているわけですから、試行錯誤の多い、効率の悪い仕事に携わっていることになります。

多様性から統一性へと向かわせようとしているからです。言わば内部におけるコースがまだまだ外部へ向けてあくまでスパイラル状に行進を続けようとしているのに、その人だけは宇宙原子の一ばん外側のスパイラルで踵(きびす)を返してしまっているのです。

 この通信は前回の通信と照らし合わせて検討してください。
                                                                                                 アーネル  ±

    
   3  二人三脚の原理
  一九一八年 三月二十二日 金曜日    
 
 今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。

 エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。

 創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司る者が必ず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。

その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。

 当時──はるか太古のことですが──その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が二つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。と言っても真っ向から対立したわけではありません。

その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が〝悪〟と呼ぶ要素が生まれたのです。今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。

が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。

永遠の存在であるの目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば一つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。

 造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。

と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(タマモノ)があふれている──否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。

遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものがあります。


 現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素晴らしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。

ただ見落としてならないのは、そうしたぎこちない創造物の中にも、今なお造化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。

そうした基礎工事に較べれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。今貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。

その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。

 そこで私のいうもう一つの原理はこうです。発展というのは必ず二重のコースが並行して進みます。

一つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるのコースですが、それと並行して必ず、その対であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。両者は常に並んで走る二人のランナーのようなものです。

一人は〝統一性から多様性へ〟のランナー、もう一人は〝霊から物質へ〟のランナーです。二人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。

 ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。

その標識とは地上の科学者が〝宇宙〟と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。実はそれが宇宙の全てではありません。

もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面に過ぎません。その背後には造化を司る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。

 しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。

と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕ぎ手と荷上げ人足に過ぎなかったのが今や一人ひとりが船長の資格を持ち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。

 さて私が先ほど混乱が生じたと申し上げたのは、その造化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企てたことです。

艦隊はすでに悠久の時を閲しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。疾風と怒涛の真っ只中です。

各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。

そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。

 以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわちが外部へ向けて顕現していく存在の場です。艦隊はの命を受けて造化に当たる天使群によって創造された顕幽にまたがる宇宙です。

外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている物的宇宙です。帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。

最も外部の地点まで辿り着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。

今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから──不活潑な物質の港から活潑な外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。

そのうち帆に風いっぱいに受けてぶじ帰路に着くことでしょう。そして士官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の港に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめの微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。


──混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。

 私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば〝読み間違えた〟ように思えるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではないのです。私は貴殿からは見えないところに位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの一歩先を歩んでいるだけです。

私およびここにいる私の仲間たちには、その〝間違えた〟と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。

我々が〝悪〟だとか〝不完全〟だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの──無限なる大海の真っ只中の小さな一滴にすぎないのです。

その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。

吾々はその真っ只中の一点の島に当たって砕け散ったカップ一杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの一かけらを取り上げての偉大なる叡智に評価を下してはなりません。

 あるとき一匹のアリが仲間に言いました。

 「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから・・・・・・」
  
 「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。

ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。

「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ・・・・・・」

 人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。 
                                アーネル ±
   

 

 4 通信の中断

 一九一八年三月二十五日  月曜日

 吾々がこれまでに述べたことは、言ってみればの衣のふさべりに触れた程度にすぎません。その衣はの光と美をおおい隠すと同時に、それを明かすこともします。

貴殿が精神をお貸しくだされば吾々はもう少し深入りできそうです。お伝えしたいことはいくらでもあります。貴殿の伝達能力の範囲で可能なかぎりのことをお話してみましょう。

  そのことでお願いしておきたいのは、日常生活の身のまわりに生じる出来ごとの裏側に存在するの意図を吾々が説き明かすのを、根気よく聞いていただきたいということです。霊界の者は人間の一人一人に生じる出来ごとに細かく通じております。

そこでこちらから手助けしようとするのですが、さまざまな障害のために見過さざるを得ないことがあります。吾々霊団の者としても、際限なく広がり何一つ行く手を遮るもののないエネルギーを秘めた生命の海の中にあっては、ほんの小さな存在にすぎません。

 物質となって顕現している宇宙と、全存在の源であり、収穫の時期にはすべての稔りが取り入れられる大中心との因果関係については、すでにいくつか述べました。

 ところで、吾々が例の王冠状の大ホールの中に立った時、大中心から流れくる強烈なエネルギーによる圧迫感を身辺に感じ取って、みな陶然となりました。

そこには静寂と威厳と美の中にことばキリストとなって顕現していたのです。

ここのところによく注目してください。そのとき吾々はキリストの霊と、そのキリストを通して奥深き未知なる存在から流れ来たったものを目のあたりにしていたのです。

それはキリストを通して垣間みる以外には吾々にとってまったく未知の世界なのです。それが今キリストを通して吾々の同化吸収力を超えた重みとスケールをもって放射され、強烈なエネルギーの威圧を感じていたのです。

しかもキリストがすぐ目の前におられてその個性の内部と背後の光のいくばくかを吾々の教化と高揚とより完全なる喜びを味わわせるために放射されていることだけは確実に理解することができました。

 キリストは例の創造活動の大展覧が周囲に展開し終るまで完全な静止状態のまま立っておられました。その様子はあたかも創造の驚異を吾々に展示せんがために全能力を最高に緊張させておられるようでした。

それが終り、雄大な展覧が完了すると、そこで一息入れられました。するとその背後に玉座が出現し、
同時に玉座の背後に得も言われぬ美しい天使の姿が次々出現し礼拝の姿勢でじっとしています。

するとキリストがくるりと背をこちらへ向け、七つの階段を上がって玉座に腰かけられました。するとその上がり段の前に通路が現われ、それが伸びて人類を展示してある区画を取り囲むように位置する天使群のところまで来ました。

すると天使の群れはその通路を通って玉座の前まで足を運び、そこで全員が立ち止まり、視線を地面へ向けました。

するとその背後の人類の区画の方角から歌声が響いてきました。遠い遠い虚空の腹部から出てくる壮大なダイヤペーソン(音域の全てが一つになった音)のようなハミングで、あたかも天体と天体との間にハーブの弦を張ったのかと思われるほどの壮大さでした。

その低音のハミングの調和のとれた響きはキリストの前に整列した天使群の一体化を象徴しておりました。

 そう見ていると、玉座の背後から一人の輝く大天使が現われ、キリストの右に立って、集結した天使群に語りかけました。

その言葉は吾々にも鮮明に聞き取ることができました。が、その間も遠き虚空の彼方から響いてくる歌声は止まず、その歌声の響く中でその大天使はキリストが全宇宙による愛を顕現されるために払われた犠牲が立証されたことを語って聞かされたのでした。

 原著者注──この時点で私の霊力が尽き、それ以降(まる一年間)交信が途絶えた。霊力が尽きたのは牧師としての仕事と第一次大戦に関連した仕事による私の過労のせいである。この二つの足枷は私には大きすぎ、このように突然、通信がストップしてしまった。

 (半月後の)四月十日の水曜日に妻がプランセットで通信していた中で父親にこう質問した。

 「ジョージ(オーエン)との通信はなぜストップしたのでしょうか」

 
すると次のような返事が綴られた。

 
「説明しよう。あのころジョージは疲労がひどく、そのうえ夏も近づいていて、自分でも通信を中止したい気持になっていた。たしかに休息が必要な状態になっており、これで良くなるだろう。これで通信が終わってしまったと思ってはいけない」
 
 
 訳者注──その疲労のせいと思われるが、この第五章の通信はこれまでになく読みづらく、従って訳しにくかった。

とくに最後の通信はオーエン自身のキリスト教的先入観がかなり混入しているのではないかと思われるふしがある。が、

かつてのナザレのイエスが死後その本来の霊的資質を取り戻し、地上経綸の主宰霊として大々的に活躍していることは、イムペレーターもシルバーバーチも異口同音に述べていることであり、本通信に出てくる〝キリストの顕現〟は、イムペレーターのいう〝高級神霊による讃仰の祈りのための会合〟、シルバーバーチのいう

〝指導霊ばかりの途方もない大集会〟などの催しにおいてもそのイエスが主宰していることを考え合わせると、民族・国家の違いによって大小さまざまな形はあるにしても、今なおひんぱんに行われているものと私は信じている。

 
     
   

  六章 創造界の深奥

 1 人類の未来をのぞく 
 
   一九一九年二月十九日 水曜日

 今夜貴殿とともにいるのは、一年前に王冠状の大ホールにおける儀式についての通信を送っていた霊団の者です。ご記憶と思いますが、あの時は貴殿のエネルギーの消耗が激しかったために中止のやむなきに至りました。

このたび再度あの時のテーマを取り上げて、今ここでその続きを述べたいと思います。

キリストへの讃仰のために最初に玉座に近づいたのは人類を担当する天使群でした。
すると玉座の背後から使者が進み出て、幾つもの部門に大別されたその大群へ向けて言葉をかけられた。

天使とはいえその部門ごとに霊的発達程度はさまざまで、おのずから上下の差がありました。その部門の一つひとつに順々に声をかけて、これから先の進化へ向けて指導と激励の言葉をお与えになられたのでした。

 以上が前回までの要約です。では儀式の次の段階に進みましょう。
 創造の主宰霊たるキリストが坐す玉座のまわりに一群の霧状の雲が出現しました。その中で無数の色彩がヨコ糸とタテ糸のように交錯している様子は見るからに美しい光景でした。

やがてその雲の、玉座のまうしろになる辺りから光輝が扇状に放射され、高くそして幅広く伸びていきます。はその中央の下方に位置しておられます。

 その光は青と緑と琥珀色をしており、キリスト界の物的部門──地球や惑星や恒星をこれから構成していく基本成分から成る(天界の)現象界──から生産されるエネルギーが放散されているのでした。

 やがてその雲状のものが活発な動きを見せながら凝縮してマントの形態を整えたのを見ると、色彩の配置も美事な調和関係をみせたものになっておりました。

それが恍惚たる風情(ふぜい)の中に座する主宰霊キリストに掛けられ身体にまとわれると、それがまた一段と美しく映えるのでした。全体の色調は青です。

深く濃い青ですが、それでいて明るいのです。縁どりは黄金色、その内側がボーダー(内ベリ)となっていて、それが舗道に広がり、上がり段にまで垂れております。

ボーダーの部分がとくに幅が広く、金と銀と緑の色調をしており、さらに内側へ向けて深紅と琥珀の二本の太い筋が走っております。時おり永い間隔を置いてその青のマントの上に逆さまになった王冠(そのわけをあとでオーエン氏自身が尋ねる──訳者)に似たものが現れます。

冠の緑にパールの襟飾りが付いており、それが幾種類もの色彩を放っております。パールグレー(淡灰色)ではなくて──何と言えばよいのでしょうか。

内部からの輝きがキリストの頭部のあたりに漂っております。といって、それによってお顔が霞むことなく、後光となってお顔を浮き出させておりました。

その後光に照らされた全体像を遠くより眺めると、お顔そのものがその光の出る〝核〟のように見えるのでした。しかし実際はそうではありません。

そう見えたというまでのことです。頭部には王冠はなく、ただ白と赤の冠帯が付けられており、それが頭髪を両耳のうしろで留めております。前にお話した〝祈りの冠帯(ダイアデム)〟にどこか似ておりました。


 ──このたびは色彩を細かく説明なさっておられますが、それぞれにどんな意味があるのでしょうか。

 吾々の目に映った色彩はグループごとに実に美しく且つそれなりの意図のもとに配置されていたのですが、その意図を細かく説明することは不可能です。が、大体の意味を、それも貴殿に理解できる範囲で述べてみましょう。

 後光のように広がっていた光輝は物質界を象徴し、それを背景としてキリストの姿を明確に映し出し、その慈悲深い側面を浮き上がらせる意図がありました。頭部の冠帯は地上の人類ならびにすでに地上を去って霊界入りした人類の洗練浄化された精髄の象徴でした。


 ──赤色と白色をしていたとおっしゃいましたが、それにも意味があったのでしょうか。

 ありました。人類が強圧性と貪欲性と身勝手さの境涯から脱して、すべてが一体となって調和し融合して一つの無色の光としての存在となっていくことを赤から白への転換として象徴していたのです。

その光は完璧な白さをしていると同時に強烈な威力も秘めております。外部から見る者には冷ややかさと静けさをもった雪のような白さの帯として映じますが、

内部から見る者にはそれを構成している色調の一つひとつが識別され、その融和が生み出す輝きの中に温か味を感じ取ります。外側から見ると白い光は冷たく見えます。内側から見る者には愛と安らぎの輝きとして見えます。


 ──あなたもその内側へ入られたわけですか。

 いいえ、完全に内側まで入ったことはありません。その神殿のほんの入口のところまでです。それも、勇気を奮いおこし、意念を総結集して、ようやくそこまで近づけたのでした。しかもその時一回きりで、それもお許しを得た上でのことでした。

自分で神殿の扉を開けたのではありません。創造界のキリストに仕える大天使のお一人が開けてくださったのでした。

私の背後へまわって、私があまりの美しさに失神しないように配慮してくださったのです。すなわち私の片方の肩の上から手を伸ばしてその方のマントで私の身体をおおい、扉をほんの少しだけ押し開けて、少しの間その状態を保ってくださいました。

かくして私は、目をかざされ身体を包みかくされた状態の中でその内側の光輝を見、そして感じ取ったのでした。それだけでも私は、キリストがその創造エネルギーを行使しつくし計画の全てを完了なされた暁に人類がどうなるかを十分に悟り知ることができました。

すなわち今はそのお顔を吾々低級なる霊の方へお向けになっておられる。吾々の背後には地上人類が控えている。吾々はその地上人類の前衛です。が、

計画完了の暁にはお顔を反対の方向へ向けられ、無数の霊を従えての玉座へと向かわれ、そこで真の意味で全存在と一体となられる。その時には冠帯の赤は白と融合し、白も少しは温みを増していることでしょう。

 さて、貴殿の質問で私は話をそらせて冠帯について語ることになってしまいましたが、例の青のマントについては次のように述べておきましょう。

すなわち物質の精髄を背景としてキリストおよびマント、そして王座の姿かたちを浮き上がらせたこと。冠帯は現時点の地上人類とこれ以後の天界への向上の可能性とを融合せしめ、一方マントは全創造物がより出でて外部へと進化する時に通過したキリストの身体をおおっていること。

そのマントの中に物質と有機体を動かし機能させ活力を賦与しているところの全エネルギーが融合している、といったところです。

その中には貴殿のご存知のものも幾つかあります。電気にエーテル。これは自動性はなくてもそれ自身のエネルギーを有しております。それから磁気。そして推進力に富んだ光線のエネルギー。

もっと高級なものもあります。それらすべてがキリストのマントの中で融合してお姿をおおいつつ、しかもお姿と玉座の輪郭を際立たせているのです。

 
──さかさまの王冠は何を意味しているのでしょうか。なぜさかさまになっているのでしょうか。

 キリストは王冠の代りに例の赤と白の冠帯を付けておられました。そのうち冠帯が白一色となりキリストの純粋無垢の白さの中に融合してしまった時には王冠をお付けになられることでしょう。

その時マントが上げられ広げられ天界へ向けて浮上し、こんどはそのマントが反転してキリストとその王座の背景として広がり、それまでの光輝による模様はもはや見られなくなることでしょう。

又その時すなわち最終的な完成の暁に今一度お立ちになって総点検された時には、頭上と周囲に無数の王冠が、さかさまではなく正しい形で見られることでしょう。

デザインはさまざまでしょう。が、それぞれの在るべき位置にあって、以後キリストがその救える勇敢なる大軍の先頭に立って率いて行く、その栄光への方向を指し示すことでしょう。                             アーネル  ±
 
                                        
 訳者注──王冠がなぜさかさまについては答えられていないが、それがどうであれ、霊界の情景描写は次元が異なるので本来はまったく説明不可能のはずである。

アーネル霊も〝とても出来ない〟と再三ことわりつつも何とか描写しようとする。すると当然、地上的なものに擬(なぞら)えて地上的な言語で表現しなければならない。しかもオーエンがキリスト教の概念しか持ち合わせていないために、その擬えるものも用語も従来のキリスト教の色彩を帯びることになる。

 たとえば最後の部分で私が〝最終的な完成の暁〟とした部分は in that far Great Day となっていて、これを慣用的な訳語で表現すれば〝かの遠い未来の最後の審判日〟となるところである。が〝最後の審判日〟の真意が直訳的に誤解されている今日では、それをそのまま用いたのでは読者の混乱を招くので私なりの配慮をした。

マント、玉座等々についても地上のものと同じものを想像してはならないことは言うまでもないが、さりとて他に言い表しようがないので、そのまま用いた。
 
 
      
     2 光沢のない王冠
 
  一九一九年二月二十日  木曜日

 やがて青色のマトンが気化するごとくに大気の中へ融け入ってしまいました。見るとは相変わらず玉座の中に座しておられましたが、装束が変わっていました。

両肩には同じ青色をしたケープ(外衣)を掛けておられ、それが両わきまで下り、その内側には黄金の長下着を付けておられるのが見えました。

座しておられるためにそれが膝の下まで垂れていました。それが黄金色の混った緑色の幅の広いベルトで締められており、縁どりはルビー色でした。

冠帯は相変わらず頭部に付いていましたが、その内側には一群の星がきらめいて、それがのまわりにさまざまな色彩を漂わせておりました。

は右手に光沢のない白い王冠を持っておられます。のまわりにあるもので光沢のないものとしては、それが唯一のものでした。それだけに一層吾々の目につくのでした。

 やがてが腰をお上げになり、その王冠をすぐ前のあがり段に置かれ、吾々の方へ向いてお立ちになりました。それから次のようなお言葉を述べられました。

  「そなたたちはたった今、私の王国の中をのぞかれ、これより先のことをご覧になられた。が、そなたたちのごとくその内部の美しさを見ることを得ぬ者もいることを忘れてはならぬ。かの飛地にいる者たちは私のことを朧(おぼ)ろげにしか思うことができぬ。

まだ十分に意識が目覚めていないからである。ラメルよ、この者たちにこの遠く離れた者たちの現在の身の上と来るべき宿命について聞かせてあげよ」


 すると、あがり段の両わきで静かに待機していた天使群の中のお一人が玉座のあがり段の一ばん下に立たれた。白装束をまとい、左肩から腰部へかけて銀のたすきを掛けておられました。

その方がにうながされて語られたのですが、そのお声は一つの音声ではなく無数の和音(コード)でできているような響きがありました。

共鳴度が高く、まわりの空中に鳴り響き、上空高くあがって一つひとつの音がゴースの弦に触れて反響しているみたいでした。一つ又一つと空中の弦が音を響かせていき、やがて、あたかも無数のハーブがハーモニーを奏でるかの如くに、虚空全体が妙(たえ)なる震動に満ちるのでした。

 その震動の中にあって、この方のお言葉は少しも鮮明度が失われず、ますます調子を上げ、描写性が増し、その意味する事柄の本性との一体性を増し、ますます具体性と実質性に富み、あたかも無地のキャンパスに黒の絵の具で描きそれに色彩を加えるような感じでした。

したがってその言葉に生命がこもっており、ただの音声だけではありませんでした。

 こう語られたのです──

  「の顕現がはるか彼方の栄光の境涯にのみ行われているかに思えたとて、それは一向にかまわぬこと。主は同時にここにも坐(ま)します。われらはの子孫。の生命の中に生きるものなればなり。

 われらがその光乏しき土地の者にとりてがわれらに対するが如く懸け離れて見えたとて、それもかまわぬこと。彼らはわれらの同胞であり、われらも彼らの同胞なればなり。

 彼らが生命の在(あ)り処(か)を知らぬとて──それにより生きて、しかも道を見失ったとて、いささかもかまわぬこと。手探りでそれを求め、やっとその一かけらを手にする。しかし少なくともそのことにおいて彼らの努力は正しく、分からぬながらもわれらの方へ向けて両手を差しのべる。

 それでも暗闇の中で彼らは転び、あるいは脇道へと迷い込む。向上の道が妨げられる。その中にあって少しでも先の見える者は何も見えずに迷える者が再び戻ってくるのを待ち、ゆっくりとした足取りで、しかし一団となりて、共に進む。

 その道程がいかに長かろうと、それは一向にかまわぬこと。われらも彼らの到着を待ち、相互愛の中に大いなる祝福を得、互いに与え与えられつつ、手を取り合って向上しようぞ。

 途中にて躓(つまず)こうと、われらへ向けて歩を進める彼らを待たん。あくまでも待ち続けん。あるいはわれらがキリストがかの昔、栄光の装束を脱ぎ棄てられ、みすぼらしく粗末な衣服をまとわれて、迷える子羊を求めて降りられ、地上に慰めの真理をもたらされたごとくに、われらも下界へ赴きて彼らを手引きしようぞ。

  をしてそうなさしめた力が最高界の力であったことは驚異なり。われらのこの宇宙よりさらに大なる規模の宇宙に舞う存在とて、謙虚なるその神の子に敬意を表し深く頭を垂れ給うた。

なんとなれば、すでに叡智に富める彼らですら、宇宙を創造させる力がに他ならぬこと──全宇宙がに満ちによりて構成されていることを改めて、また一だんと深く、思い知らされることになったゆえである。

 ゆえに、がすべてを超越した存在であっても一向にかまわぬこと。われらにはその子キリストが坐(ま)しませばなり。
 
 われらよりはるかに下界にの子羊がいても一向にかまわぬこと。キリストはその子羊のもとにも赴かれたるなり。

 彼らがたとえ手足は弱く視力はおぼろげであろうと一向にかまわぬ。キリストが彼らの力であり、道を大きく誤ることなく、あるいはまた完全に道を見失うことのなきよう、キリストが彼らの灯火(ランプ)となることであろう。

 また、たとえ今はわれらが有難くも知ることを得たより高き光明界の存在を彼らが知らずとも、いつの日かわれらと共によろこびを分かち、われらも彼らとよろこびを分かつ日が到来しよう──いつの日かきっと。

 が、はたしてわれらのうちの誰が、このたびの戦いのために差し向けられる力を背に、かの冠を引き受けるのであろう。自らの頭に置くことを申し出る者はどなたであろうか。それは光沢を欠き肩に重くのしかかることを覚悟せねばならぬが。

 信念強固にして一途なる者はここに立ち、その冠を受け取るがよい。
 今こそ光沢を欠くが、それは一向にかまわぬこと。いずれ大事業の完遂の暁には、内に秘められた光により燦然と輝くことであろう」

 語り終ると一場を沈黙が支配しました。ただ音楽のみが、いかにも自ら志願する者が出るまで終わるのを渋るが如くに、物欲しげに優しく吾々のまわりに漂い続けるのでした。

 その時です。誰一人として進み出てその大事業を買って出る者がいないとみて、キリスト自らが階段を下りてその冠を取り上げ、自らの頭に置かれたのです。

それは深く眉のすぐ上まで被さりました。それほど重いということを示しておりました。そうです、今もその冠はキリストの頭上にあります。しかし、かつて見られなかった光沢が少し見えはじめております。

 そこで主が吾々にこう述べられました──
 「さて友よ、そなたたちの中で私について来てくれる者はいるであろうか」
 その御声に吾々全員が跪(ひざまず)き、主の祝祷を受けたのでした。  
                                                                                       アーネル  ±  
  

   
   3 神々による廟議
(びょうぎ)         ♰

 一九一九年二月二十六日 水曜日

 ──その〝尊き大事業〟というのは何でしょうか。 (訳者注──前回の通信との間に一週間の空白があるのに、いかにもすぐ続いているような言い方をしているのは多分その前に前回の通信についての簡単なやり取りがあったか、それともオーエンがそのように書き改めたかのいずれかであろう)

  それについてこれから述べようと思っていたところです。貴殿も今夜は書き留めることができます。この話題はここ何世紀かの出来ごとを理解していただく上で大切な意味をもっております。

  まず注目していただきたいのは、その大事業は例の天使の塔で計画されたものではないということです。これまでお話した界層よりさらに高い境涯において幾世紀も前からもくろまれていたことでした。

いつの世紀においても、その頭初に神界において審議会が催されると聞いております。
まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去のことは簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀のことは詳しく披露されます。

前世紀までの二、三年のことは全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とをいっしょにした聴聞会を催します。

それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚せまらぬ雰囲気の中に行われるとのことです。


 ──〝同族惑星〟という用語について説明してください。

 これは発達の程度においても進化の方向においても地球によく似通った惑星のことです。つまり地球によく似た自由意志に基づく経路をたどり、知性と霊性において現段階の地球にきわめて近い段階に達している天体のことです。

空間距離において地球にひじょうに近接していると同時に、知的ならびに霊的性向においても近いということです。


 ──その天体の名前をいくつか挙げていただけますか。

 挙げようと思えば挙げられますが、やめておきます。誰でも知っていることを知ったかぶりをして・・・・・・などと言われるのはいやですから。

貴殿の精神の中にそれにピッタリの成句(フレーズ)が見えます──to play to the gallery (大向うを喜ばせる、俗受けをねらう)。もっともそれだけが理由ではありません。同じ太陽域の中にありながら人間の肉眼に映じない天体もあるからです。

それもその中に数えないといけません。さらには太陽域の一ばん端にあって事実上は他の恒星の引力作用を受けていながら、程度においては地球と同族になるものも、少ないながら、あります。それから、太陽域の中──


 ──太陽系のことですか。

 太陽系、そうです──その中にあってしかも成分が(肉眼に映じなくても)物質の範疇(はんちゅう)に入るものが二つあります。現在の地上の天文学ではまだ問題とされておりませんが、いずれ話題になるでしょう。しかしこんな予言はここでは関係ありません。

 そうした審査結果がふるいに掛けられてから、言わば地球号の次の航海のための海図が用意され、ともづなが解かれて外洋へと船出します。


 ──それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。

 それらではなくそのと単数形で書いてください。審議会はたった一つだけです。が会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同というわけではありませんが、変わるとしても二、三エオン(※)の間にわずかな変動があるだけです。

創造界の神格の高い天使ばかりです。その主宰霊キリストというわけです。(※ EON 地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える──訳者)


 ──(キング)ですか。

 そう書いてはなりますまい。違います。その審議会が開かれる界層より下の界層においてはですが、その審議会においては主宰霊です。これは私が得た知識から述べているにすぎません。実際に見たわけではなく、私および同じ界の仲間が上層界を通して得たものです。これでお分かりでしょうか。もっと話を進めましょうか。


 ──どうも有難うございました。私なりに分かったように思います。

 それは結構なことです。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。

 では先を続けさせていただきます。以上でお分かりのとおり、審議会の主宰霊たるキリストみずからが進んでその大事業を引き受けられたのです。

それは私と共にこの仕事に携わっている者たちの目から見れば、そうあってしかるべきことでした。すなわち、いかなる決断になるにせよ最後の責任を負うべき立場の者がみずから実践し目的を成就すべきであり、それをキリストがおやりになられたということです。

今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真只中におられ、地球へ降下されたあと、すでにその半ばを成就されて、方向を上へ転じての古里へと向かわれています。

この程度のことで驚かれてはなりません。もっと細かいことをお話する予定でおります。
以上のことは雄牛に突きさした矢印と思ってください。抜き取らずにおきましょう。途中の多くの脇道にまぎれ込まずに無事ゴールへ導くための目印となるでしょう。

脇道にもいろいろと興味ぶかいことがあり、勉強にもなり美しくもあるのですが、今の吾々にはそれは関係ありません。私がお伝えしたいのは地球に関わる大事業のことです。他の天体への影響のことは脇へ置いて、地球のことに話題をしぼりましょう。

少なくとも地球を主体に話を進めましょう。ただ一つだけ例外があります。
  火星人 
貴殿は地球以外の天体について知りたがっておられる様子なので、そのうちの火星について述べておきましょう。最近この孤独な天体に多くの関心が寄せられて、科学者よりも一般市民の間で大変な関心の的となっております。そうですね?

  
 ──そうです。ま、そう言っても構わないでしょう。

 その原因は反射作用にあります。まず火星の住民の方から働きかけがあったのです。地球へ向けて厖大な思念を送り、地球人類がそれに反応を示した──という程度を超えて、もっと深い関係にあります。

そうした相互関係が生じる原因は地球人類と火星人類との近親関係にあります。天文学者の中には火星の住民のことを親しみを込めて火星人(マーシャン)と呼んでいる人がいますが、火星人がそれを聞いたら可笑しく思うかも知れません。

吾々もちょっぴり苦笑をさそわれそうな愉快さを覚えます。火星人を研究している者は知性の点で地球人よりはるかに進んでいるように言います。そうでしょう?


 ──そうです。おっしゃる通りです。そう言ってます。

 それは間違いです。火星人の方が地球人より進んでいる面もあります。しかし少なからぬ面において地球人より後れています。私も訪れてみたことがあるのです。

間違いありません。いずれ地上の科学もその点について正確に捉えることになるでしょう。その時はより誇りに思って然るべきでしょう。吾々がしばしば明言を控え余計なおしゃべりを慎むのはそのためです。同じ理由でここでも控えましょう。


 ──火星を訪れたことがあるとおっしゃいましたが・・・・・・

 火星圏の者も吾々のところへ来たり地球を訪れたりしております。こうしたことを吾々は効率よく行っております。私は例のにおいてキリストの霊団に志願した一人です。

他にもいくつかの霊団が編成され、その後もさらに追加されました。幾百万とも知れぬ大軍のすべてが各自の役目について特訓を受けた者ばかりです。

 その訓練に倣(なら)ってこんどはみずから組織した霊団を特訓します。各自に任務を与えます。

私にとっては地球以外の天体上の住民について、その現状と進歩の様子を知っておくことが任務の遂行上不可欠だったのです。大学を言うなれば次々と転校したのもそのためでした。とても勉強になりました。その一つが〝聖なる山〟の大聖堂であり、もう一つは〝五つの塔の大学〟であり、火星もその一つでした。


 ──あなたの任務は何だったのか、よろしかったら教えてください。

 〝何だったのか〟と過去形をお使いになられました。私の任務は現在までつながっております。今夜、ここで、こうして貴殿と共にそれに携わっております。その進展のためのご援助に対してお礼申し上げます。                                                                       
                                                              アーネル ±
 

   
     4   キリスト界
       

  一九一九年二月二十七日  木曜日

──これまでお述べになったことは全て第十一界で起きたことと理解しております。そうですね、アーネルさん?

 ザブディエル殿がお示しになった界層の数え方に従えばそうです。私には貴殿の質問なさりたいことの主旨が目に見えます。精神の中で半ば形を整えつつあります。取りあえずそれを処理してから私の用意した話に移ります。

 すでにお話したとおり、この大事業の構想は第十一界で生まれたのではなく、はるかに上層の高級界です。キリスト界についてはすでに読まれたでしょう。

そこが実在界なのですが、語る人によってさまざまに理解されております。そもそも界層というのは内情も境界も、地上の思想的慣習によって厳密に区分けすることは不可能なのです。しかし語るとなるとどうしても区分けし分類せざるを得ません。

吾々も貴殿の理解を助ける意味でそうしているわけですが、普遍的なものでないことだけは承知しておいてください。吾々も絶対的と思っているわけではありません。

表面的な言いまわしの裏にあるものに注目してくだされば、数々の通信にもある種の共通したものがあることを発見されることでしょう。

  界は七つあって七番目がキリスト界だと言う人がいます。それはそれで結構です。ザブディエル殿と私は第十一界までの話をしました。これまでの吾々の区切り方でいけばキリスト界は七の倍に一を加えた数となるでしょう。つまりこういうことです。

吾々の二つの界が七界説の一界に相当するわけです。七界説の人も第七界をキリストのいる界とせずに、キリストが支配する界層の最高界をキリスト界とすべきであると考えます。

 吾々の数え方でいけば第十四界つまり七の倍の界が吾々第十一界の居住者にとって実感をもって感識できる最高の界です。

その界より上の界がどうなっているかについての情報を理解することができないのです。

そこで吾々は、キリストがその界における絶対的支配者である以上は、キリスト自身はそれよりもう一つ上の界の存在であらねばならないと考えるのです。その界のいずこにもキリストの存在しない場所は一かけらも無いのです。

ということは、もしもその界全体がキリストの霊の中に包まれているとするならば、キリストご自身はさらにその上にいらっしゃらねばならないことになります。

それで七界の倍に一界を加えるわけです。以上がこれまでに吾々が入手した情報に基づいて推理しうる限界です。そこで吾々はこう申し上げます。数字で言えばキリスト界は第十五界で、その中に下の十四界のすべてが包含される、と。

吾々に言えるのはそこまでで、その十五界がどうなっているのか、境界がどこにあるのかについても断言は控えます。よく分からないのです。

しかし限界がどこにあろうと──限界があるとした上での話ですが──それより下の界層を支配する者に霊力と権能とが授けられるのはその界からであることは間違いありません。そこが吾々の想像の限界です。そこから先は〝偉大なる未知〟の世界です。

ただ、あと一つだけ付け加えておきましょう。ここまで述べてもまだ用心を忘れていないと確信した上で申しましょう──私は知ったかぶりをしていい加減な憶測で申し上げないように常に用心しております。

 それはこういうことです。私がお話した神々による廟議と同じものが各世紀ごとに召集されているということです。その際、受け入れる用意のある者のために啓示がなされる時期についての神々の議決は、地球の記録簿の中に記されております。

かくして物的宇宙(コスモス)の創造計画もその廟議において作成されていたわけです。
 
                             アーネル±

          
 5 物質科学から霊的科学へ
  一九一九年二月二十八日  金曜日 

 人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。

その会議の出席者は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。

後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。

しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。

大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。

人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを堂々たる王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。

いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこにはとその廷臣の住む宮殿があります。しかし自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。

吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。


 ──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。

 キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。
 
地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。

今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48―訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。

周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。

人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。

絶対にいたしません。
むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。

 あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。

しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。

 翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。

 「はて、不思議なことがあるもの・・・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。

しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一ぱいやっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」


 ──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?

 そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。 
                                                                                               アーネル  ±

 訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。
 
 

    
  6 下層界の浄化活動    
 一九一九年三月三日  月曜日

 大事業への参加を求められたあと私が最初に手がけたのは下層界の浄化活動でした。太古においては下層の三界(※)が地球と密接に関係しており、また指導もしておりました。その逆も言えます。すなわち地球のもつ影響力を下層界が摂り入れていったことも事実です。

これは当然のことです。なぜなら、そこの住民は地球からの渡来者であり、地球に近い界ほど直接的な影響力を受けていたわけです。(※いわゆる〝四界説〟に従えば、〝幽界〟に相当すると考えてよいであろう──訳者)

 死の港から上陸すると、ご承知のとおり、指導霊に手引きされて人生についてより明確な視野をもつように指導されます。そうすることによって地上時代の誤った考えが正され、新しい光が受け入れられ吸収されていきます。

しかしこの問題で貴殿にぜひ心に留めておいていただきたいのは、地上生活にせよ天界の生活にせよ、強圧的な規制によって縛ることは決してないということです。

自由意志の原則は神聖にして犯すべからざるものであり、間断なく、そして普遍的に作用しております。実はこの要素、この絶対的な要素が存在していることによる一つの結果として、霊界入りした者の浄化の過程において、それに携わる者にもいつしかある程度の誤った認識が蔓延するようになったのです。

霊界へ持ち込まれる誤った考えの大半は変質の過程をへて有益で価値ある要素に転換されていましたが、全部とはいきませんでした。

論理を寄せ付けず、あらゆる束縛を拒否するその自由意志の原理が、地上的な気まぐれな粒子の下層界への侵入を許し、それが大気中に漂うようになったのです。永い年月のうちにそれが蓄積しました。

それは深刻な割合にまでは増えませんでした。そしてそのまま自然の成り行きにまかせてもよい程度のものでした。が、その当時においては、それはまずいことだったのです。その理由はこうです。

 当時の人類の発達の流れは下流へ、外部へ、物質へ、と向かっていました。それが神の意志でした。

すなわちはご自身を物的形態の中に細かく顕現していくことを意図されたのです。ところがその方向が下へ向かっていたために勢いが加速され、地上から侵入してくる誤謬の要素が、それを受け入れ変質させていく霊的要素をしのぐほどになったのです。

そこで吾々が地上へ下降していくためには下層界を浄化する必要が生じました。地上への働きかけをさらに強化するための準備としてそれを行ったのです。


 ──なぜ〝さらに強化する〟のですか。

 地球はそれらの界層からの働きかけを常に受けているのですが、それはその働きかけを強めるために行なった───つまり、輪をうまく転がして谷をぶじに下りきり、こんどは峰へ向けて勢いよく上昇させるに足るだけの弾みをつけることが目的でした。それはうまく行き、今その上昇過程が勢いよく始まっております。

 結局吾々には樽の中のワインにゼラチン状の化合物の膜が果たすような役割を果たしたのです。知識欲にあふれ、一瞬の油断もなくがっちりと手を取り合った雲なす大軍がゆっくりと下降していくと、そうした不純な要素をことごとく圧倒して、地球へ向けて追い返しました。

それが過去幾代にもわたって続けられたのです(この場合の〝代〟は三分の一世紀──訳者)。間断なくそして刃向かう者なしの吾々の働きによって遠き天界と地上との間隔が縮まるにつれて、その不純要素が濃縮されていきました。

そしてそれが次第に地球を濃霧のごとく包みました。
圧縮されていくその成分は場所を求めて狂乱状態となって押し合うのでした。

 騒乱状態は吾々の軍勢がさらに地球圏へ接近するにつれて一段と激しくそして大きく広がり、次第に地上生活の中に混入し、ついにはエーテルの壁を突き破って激流のごとく侵入し、人間世界の組織の一部となっていきました。

 見上げれば、その長期にわたって上昇し続けていた霧状の不純要素をきれいに取り除かれた天界が、その分だけ一段と明るさを増し美しくなっているのが分かりました。

 下へ目をやればその取り除かれた不純なる霧が──いかがでしょう、この問題をまだ続ける必要がありましょうか。地上の人間でも見る目をもつ者ならば、吾々の働きかけが過去二、三世紀の間にとくに顕著になっているのを見て取ることができるでしょう。

今日もし当時の変動の中に吾々の働きを見抜けないという人がいれば、それはよほど血のめぐりの悪い人でしょう。

 実はその恐ろしい勢力が大気層──地上の科学用語を拝借します──を突き破って侵入した時、吾々もまたすぐそのあとについてなだれ込んだのでした。そして今こうして地上という最前線にいたり、ついに占領したという次第です。
 
 しかし、ああ、その戦いの長くかつ凄まじかったことといったらありませんでした。そうです。長く、そして凄まじく、時として恐ろしくさえありました。しかし人類の男性をよき戦友として、吾々は首尾よく勝利を得ました──女性もよき戦友であり、吾々はその気概を見て、よろこびの中にも驚嘆の念を禁じ得ませんでした。

そうでした。そうでした。地上の人類も大いに苦しい思いをされました。それだけにいっそう人類のことを愛(いとお)しく思うのです。しかし忘れないでいただきたい。

その戦いにおいて吾々が敵に深い痛手を負わせたからには、味方の方も少なからず、そして決して軽くない痛手を受けたのです。人類とともに吾々も大いなる苦しみを味わったということです。

そして人類の苦しむ姿を近くで目のあたりにするにつけ、吾々がともに苦しんだことをむしろ嬉しく思ったのです。吾々が地上の人々を助けたということが吾々のためにもなったということです。人類の窮状を見たことが吾々のために大いに役立ったのです。


 ──(第一次)世界大戦のことを言っておられるのですか。

 そのクライマックスとしての大戦についてです。すでに述べた通り、吾々の戦いは過去何代にもわたって続けられ、次第にその勢いを募らせておりました。そのために多くの人が尊い犠牲となり、さまざまな局面が展開しました。

今そのすべてを細かく述べれば恐らく貴殿はそんなことまで・・・・・・と意外に思われることでしょう。少しだけ挙げれば、宗教的ならびに神学的分野、芸術分野、政治的ならびに民主主義の分野、科学の分野──戦争は過去一千年の間に大変な勢いで蔓延し、ほとんど全てのエネルギーを奪い取ってしまいました。

 しかし吾々は勝利を収めました。そして今や太陽をいっぱいに受けた峰へ向けて天界の道を揃って歩んでおります。かの谷間は眼下に暗く横たわっております。

そこで吾々は杖をしっかりと手にして、顔を峰へ向けます。するとその遠い峰から微(かす)かな光が射し、それが戦争の傷跡も生々しい手足に当たると、その傷が花輪となって吾々の胸を飾り、腕輪となって手首を飾り、破れ汚れた衣服が美しい透かし細工のレースとなります。

何となれば吾々の傷は名誉の負傷であり、衣服がその武勲を物語っているからです。そして吾々の共通の偉大なるキャプテンが、その戦いの何たるかを理解し傷の何たるかもむろん理解しておられる、キリストにほかならないのです。

 では私より祝福を。今夜の私はいささかの悲しみの情も感じませんが、私にとってその戦いはまだ沈黙の記憶とはなっておりません。

私の内部には今なお天界の鬨(かちどき)の声が上がることがあり、また当時の戦いを思い出して吾々の為にしたこと、またそれ以上に、吾々が目にしたこと、そして地上の人々のために流した涙のことを思い起こすと、思わず手を握りしめることすらあるのです。

もちろん吾々とて涙を流したのです。一度ならず流しました。何度も流しました。と言うのも、吾々には陣頭に立って指揮されるキリストのお姿が鮮明に見えても、人間の粗末な視力は霧が重くかかり、たとえ見えても、ほんの薄ぼんやりとしか見えませんでした。それがかえって吾々の哀れみの情を誘ったのでした。

 しかしながら、自然にあふれ出る涙を通して、貴殿らの天晴れな戦いぶりを驚きと少なからぬ畏敬の念をもって眺めたものでした。よくぞ戦われました。

美事な戦いぶりでした。吾々は驚きのあまり立ちつくし、互いにこう言い合ったものでした──吾々と同じく地上の人たちも同じ、同じキャプテンの兵士だったのだと。

そこですべての得心がいき、なおも涙を流しつつ喜び、それからキリストの方へ目をやりました。キリストは雄々しく指揮しておられました。そのお姿に吾々は貴殿らに代って讃仰の祈りを捧げたのでした。                                                                              
                                      アーネル ±
 
                                            地上浄化大作戦の理由
     
     7 人類の数をしのぐ天界の大軍
  

   一九一九年三月五日 水曜日
 
  これまでお話したことは天界の大事業について私が知り得たかぎり、そして私自身が体験したかぎりを叙述したものです。それを大ざっぱに申し上げたまでで、細かい点は申し上げておりません。

そこで私はこれより、吾々が地上へ向かって前進しそして到着するまでの途中でこの目で見た事柄をいくつかお伝えしようと思います。が、その前に申し上げておきたいことがあります。それは──

 作戦活動としての吾々の下降は休みなく続けられ、またそれには抗し難い勢いがありました。一度も休まず、また前進への抵抗が止んだことも一度もありませんでした。

吾々霊団の団結が崩されたことも一度もありませんでした。下層界からのいかなる勢力も吾々の布陣を突破することはできませんでした。しかし個々の団員においては必ずしも確固不動とはいえませんでした。

地上の概念に従って地上の言語で表現すれば、隊員の中には救助の必要のある者も時おり出ました。救出されるとしばし本来の住処で休息すべく上層界へと運ぶか、それとも天界の自由な境涯においてもっと気楽で激しさの少ない探検に従事することになります。

 それというのも、この度の大事業は地球だけに向けられたものではなく、地上に関係したことが占める度合は全体としてはきわめて小さいものでした。

吾々が参加した作戦計画の全体ですら、物的宇宙の遠い片隅の小さな一点にすぎませんでした。大切なのは(そうした物的規模ではなく)霊的意義だったのです。

すでに申し上げたとおり地上の情勢は地球よりかなり遠く離れた界層にも影響を及ぼしておりましたが、その勢いも次第に衰えはじめており、たとえその影響を感じても、一体それは何なのか、どこから来るのか分からずに困惑する者もいたほどです。

しかし他の惑星の住民はその原因を察知し、地球を困った存在と考えておりました。たしかに彼らは地球人類より霊的には進化しています。

ですから、この度の問題をもしも吾々のようにかって地上に生活して地上の事情に通じている者が処理せずにいたら、恐らくそれらの惑星の者が手がけていたことでしょう。

霊的交信の技術を自在に使いこなすまでに進化している彼らはすでに審議会においてその問題を議題にしておりました。彼らの動機はきわめて純粋であり霊的に高度なものです。

しかし、手段は彼らが独自に考え出すものであり、それは多分、地球人類が理解できる性質のものではなかったでしょう。そのまま適用したら恐らく手荒らにすぎて、神も仏もあるものかといった観念を地球人に抱かせ、今こそ飛躍を必要とする時期に二世紀ばかり後戻りさせることになっていたでしょう。

過去二千年ばかりの間に地上人類を導き、今日なお導いている人々の苦難に心を痛められる時は、ぜひそのこともお考えになってください。

 しかし、彼らもやがて、その問題をキリストみずからが引き受けられたとの情報がもたらされました。すると即座に彼らから、及ばずながらご援助いたしましょうとの申し出がありました。

キリストはそれを受け入れられ、言うなれば予備軍として使用することになりました。彼ら固有のエネルギーが霊力の流れにのって送られてきて吾々のエネルギーが補強されました。それで吾々は大いに威力を増し、その分だけ戦いが短くて済んだのでした。

 これより細かいお話をしていく上においては、ぜひそうした事情を念頭においてください。これからの話は、過去の出来ごとの原因の観点から歴史を理解する上で参考になることでしょう。

将来人間はもっと裏側から歴史を研究するようになり、地上の進歩の途上におけるさまざまな表面上の出来ごとを、これまでとはもっと分かり易い形でつなぎ合わせることができるようになるでしょう。

 人間が吾々霊的存在とその働きかけを軽く見くびっているのが不思議でなりません。と言うのは、人類は地球上に広く分布して生活しており、その大半はまだ無人のままです。全体からいうとまだまだきわめて少数です。それに引きかえ吾々は地球の全域を取り囲み、さらに吾々の背後には天界の上層界にまで幾重にも大軍が控えております。

それは大変な数であり、またその一人ひとりが地上のいかなる威力の持ち主よりも強烈な威力を秘めているのです。

 ああ、いずれ黎明の光が訪れれば人類も吾々の存在に気づき、天界の光明と光輝を見出すことでしょう。そうなれば地球も虚空という名の草原をひとり運行(たび)する佗しさを味わわなくてすむでしょう。

あたりを見渡せば妖精が楽しげに戯れていることを知り、もはや孤独なる存在ではなく、甦れる無数の他界者と一体であり、彼らは遥か彼方の天体上──夜空に見えるものもあれば地上からは見えないものもありますが──の生活者と結びつけてくれていることを知るでしょう。

しかしそれは低き岸辺の船を外洋へと押し出し、天界へ向けて大いなる飛躍をするまでは望めないことでしょう。        
                                                                                            アーネル ±

     
 七章 天界の大軍、地球へ

  1 キリストの軍勢
   一九一九年三月六日  木曜日 

 天界の大草原のはるか上空へ向けてキリストの軍勢が勢揃いしておりました。上方へ向けて位階と霊格の順に一段また一段と階段状に台地(テラス)が連なり、私も仲間の隊員とともに、その上方でもなく下方でもなく、ほぼ中間に位置するあたりの台地に立っておりました。雲なす軍勢の一人一人がそれぞれの任務を帯びていたのです。
 
 このたびの戦いに赴くための準備が進行するうちに吾々にさまざまな変化が生じておりました。

その一つは地球圏の上層界と前回の話に出た他の複数の惑星の経綸者の双方から霊力の援助をうけて吾々の磁気力が一段と増し、それにつれて視力も通常の限界を超えて広がり、それまで見ることを得なかった界層まで見通せるようになったことです。

その目的はエネルギーの調整──吾々より上の界と下の界の動きが等しく見えるようになることで、言いかえれば視力の焦点を自在に切り換えることができるようになったということです。

これで一層大きな貢献をするためにより完璧な協調態勢で臨むことになります。下の者は上の者の光輝と威力を見届けることができて勇気を鼓舞されることにもなり、さらに、戦いにおいて指揮と命令を受けやすくもなります。

 私はその視力でもって上方の光景と下方の光景、そしてあたり一面を見渡して、そこに見た驚異に畏敬の念を抱かずにはいられませんでした。それまで数々の美と驚異を見ておりましたが、その時に見た光景ほど驚異に満ちたものはありませんでした。
 
 地球の方角へ目をやると、さまざまな色彩が幾つもの層を成して連なっています。それは私の界と地上界との間の十の界層を象徴する色彩で、これより下降すべく整列している軍勢の装束から放たれているのでした。

その下方、ちょうどその軍勢の背景となる位置に、霧状のものが地球を取り巻いているのが見えました。

そのどんよりとして部厚く、あたかも濃いゼリー状の物質を思わせるものがところどころで渦を巻いている中を、赤色と暗緑色の筋や舌状のものがまとわりついているさまは、邪悪の化身である身の毛もよだつ地獄の悪行に奔走しているさまを彷彿とさせ、見るからに無気味なものでした。
 
 その光景に吾々は別にしりごみはしませんでした。恐怖心はいささかも抱きませんでした。それどころか、愛と僚友意識の中で互いに手を取り合い、しばし厳粛な思いに浸りました。

これからの吾々の旅はあの無気味な固まりと立ち向かい、しかもそれを通過しなければならないのです。目指す地球はその中にあるのです。

何としてでも突き抜けて地球まで至らねばなりません。陰うつ極まる地球は今こそ吾々の援助を必要としているのです。その無気味な光景を見つめている私の脳裏に次のような考えが浮かびました──〝人間はよくもあの恐ろしい濃霧の中にあって呼吸し生きていられるものだ〟と。

 吾々自身について言えば、吾々の仕事は、すでに述べた通り、質の転換作用によって少しでも多く吾々の組織体の中にそれを取り入れていくことでした。

どうしても消化不可能なものはさらに地獄の奥へと追いやり、言うなれば自然崩壊をまつほかはありません。大変な〝食事〟だと思われるでしょう。しかも大して〝美味〟ではありません。

それは確かですが、それほどの軍勢で、しかもキリストをリーダーとして、吾々はきっと成就できるとの確信がありました。

 続いて吾々は向きを変えて、こんどは上方へ目をやりました。すると幾重にも連なる台地に光り輝く存在が、ある者は立ち並び、ある者は悠然と動きまわっているのが見えました。

その台地の一つ一つが天界の一界であり、それがパノラマ式に巨大な階段状に連なって延々と目も眩まんばかりに上方へと伸び、ついに吾々の視力では突き通せない光輝の中へと突入し、その頂上が視界から消えました。

その光輝を突き抜けて見届けうるのは吾々よりはるか上方の、光輝あふれる界層の存在のみでした。吾々にとってはただの光の空間であり、それ以外の何ものにも見えませんでした。

 それでも、可能なかぎりの無数の輝く存在を目にすることだけでも吾々に大いなる力を与えてくれました。最も近くの界層の存在でさえ何とすばらしかったことでしょう。

吾々より下層の者は見たこともない色調をした光輝を放つ素材でできた長衣(ロープ)に身を包んでおられました。

さらに上層界の存在はゴースのごときオーラに包まれ、身体はその形も実体も麗しさにあふれ、その一体一体が荘厳な一篇の詩であり、あるいは愛と憧憬の優しい歌であり、優雅にして均整の取れた神であり、同格の神々とともに整然たる容姿を完全に披露してくださっておりました。

その位置を貴殿なら多分はるか彼方と表現するところでしょう。確かにはるか彼方ではありました。が吾々の目にはその形状と衣装が──その形体を包む光輝を衣装と呼ぶならば──全体と同時に細部まで見ることができました。

 しかし、それとてまだ中間の界層の話です。そのまた先には吾々の視力の及ばない存在が無数に実在していたのです。そのことは知っておりました。

が、知ってはいても見ることはできません。吾々の霊格にとってはあまりにも崇高すぎたのです。そしてその頂上には吾らがキリストが君臨していることも分かっておりました。

 その光景を見つめながら吾々仲間はこう語り合ったものです──〝目(ま)のあたりにできる光景にしてこの美しさであれば、吾らがキリストの本来の栄光はいかばかりであろうか〟と。

しかし吾々の感嘆もそこまでで、それから先へ進むことはできず、一応そこで打ち切りました。と言うのも、間もなくそのキリストみずから吾々の指揮のために降りて来られることが判っていたからです。

その折には地球へ向けて下降しつつ、各界の住民の能力に応じた波長の身体をまとわれるので、吾々の視力にも映じる可視性を身につけておられることも知っておりました。

天界の大軍の最高位にあらせられるキリストみずからその大軍の中を通り抜けて、一気に地球の大気圏の中に身を置かれるということだったのです。

 然り、然り。キリストほどのリーダーはいません。天使ならびに人類を導く者としてキリストに匹敵する霊は、神格を具えた無数の存在の中にさえ見出すことはできません。

私は厳粛なる気持でそう断言します。と申しますのも、天界の経綸に当たる神々といえども、その力量は一列平等ではなく、地上の人間と同じくその一柱一柱が独自の個性を表現しているのです。

平凡な天使の部類に属する吾々もそうであり、さらに神聖さを加えた階級の天使もそうであり、さらにその上の階級の天使もそうであり、かくして最高級の大天使ともなれば父なる神の最高の美質を表現しておりますが、それにも各々の個性があるのです。

 そうした多種多様な神々の中にあっても、指導者としての資質においてキリストに匹敵する者はいないと申し上げるのです。私がさきほど語り合ったと述べた仲間たちも同じことを申しておりました。そのことについては改めて述べるつもりでおります。その時は以上の私の断言が正しいか否かがはっきりすることでしょう。   
                                                                                              アーネル ±
 
      
     2    先発隊の到着
  一九一九年三月七日  金曜日

 十重二十重(とえはたえ)と上方へ延びている天界の界層を見上げつつ、吾々は今や遅しと(キリストの降臨を)お待ちしておりました。

その天界の連なる様子はあたかも巨大なシルクのカーペットが垂れ広がっているごとくで、全体にプリーツ(ひだ)とフラウンス(ひだべり飾り)が施された様子は天界の陽光を浴びてプリズムのごとく輝くカスケード(階段状の滝)を思わせます。

プリーツの一つ一つが界層であり、フラウンスの一つ一つが境界域であり、それが上下の二つの界をつなぎ、それぞれの特色ある色彩を一つに融合させておりました。その上方からきらめく波がその巨大なマントを洗うように落ちて来ます。

色彩が天上的光輝を受けて、あたかも宝石のごとくきらめきます。その宝石の一つ一つが天使であり、それぞれに天上的光輝の美しさを一身に受け、そして反射しているのです。

 そう見ているうちに、吾々の視力の届くかぎりの一ばん高い位置の色彩がゆっくりと変化しはじめました。本来の色彩をとどめつつも別の要素、新たなきらめきが溢れております。

それを見て吾々はキリストならびに従者の一行がようやく吾々の視界の範囲まで降下してこられたことを知りました。

シルクのプリーツの一つがすぐ下のプリーツへ重なり、あたかも次のプリーツに口づけし、そのプリーツが同じように頭を垂れて頬を次のプリーツの肩にそっと触れていくのにも似た光景は、何とも言えない美しさでした。
 
 以上が吾々が見たキリストの降臨の最初の様子です。吾々には突き透せない光輝の中から今やっとお出ましになり、一歩一歩地球へ近づきつつもなおその間に広大な距離を控え、各界にその霊力を放散しつつ降りて来られるようでした。

流れ落ちる光の波はついに吾々の界より二、三手前の界層の境界域に打ち寄せてまいりました。そこまで来てさらに一段と理解がいきました。

吾々が見ているのはキリストの近衛兵の大連隊が光輝を発しつつ前進してくる様子だったのです。しかしキリストのお姿はまだ見えませんでした。
 
 その途方もない霊力と栄光の顕現にただただ感嘆と高揚にしばし浸っているうちに、こんどは吾々自身の内部から、愛と慈悲の念と今まさに始まらんとしている大事業に全力を投入しようとの決意の激発による魂の興奮を覚えはじめました。


それは同時に、いよいよキリストが近くまでお出でになられたことを告げるものでした。

 いよいよお出でになられた時の様子、さらには吾々の界を通過して下界へ降りて行かれた時の様子、それはとても言葉では尽くせません。あまりにも荘厳すぎるのです。が、私にできるかぎり何とか表現してみましょう。

 魂の興奮は次第に度合いを増し、吾々はお出ましの瞬間を見届けんものと、身を乗り出し首を伸ばして見つめました。まず目に入ったのは側近の随行者の先遺隊でした。

その一行は吾々にお迎えの準備を促す意味がありました。と言うのは、この度のお出ましはこれまでに私がたびたび叙述した顕現とは異なるのです。大事業の完遂のために幾千万とも知れぬ大軍を率いて、その本来の威力と栄光のままにお出ましになられるのです。

吾々もそのご威光を少しでも多く摂取する必要があり、それにはゆっくりとした過程で順応しなければなりません。そこでまず先発隊が派遣され、道中、必要とみた者には叡智を授け、ある者には祝福を与え、またある者には安らぎの口づけをするのです。

いよいよその一行が悠揚迫らぬ態度で吾々のところまで来られました。いずれ劣らぬ尊い霊格を具えられた方ばかりです。

上空を飛翔される方々と吾々の間を通り抜けて行かれる方々とがありました。そして吾々の誰かに目が行き、一瞬のうちにその足らざるところを察知して、必要なものを授け、そして先を急がれました。

上空を行かれる方から指示が出されることもありました。全体が強調的態勢で行動し、それが吾々にとって大きな教訓となりました。


──あなたご自身には何かありましたか。  

 その一行の中には女性が混じっておりました。それは吾々の霊団も同じです。地上の戦争にも女性が派遣されるでしょう。吾々も女性ならではの援助の仕事のために女性を引き連れておりました。

 そのとき私は仲間から離れて後方にいました。というのは、従者の一行に話しかけたい者が大ぜいの仲間とともに前の方へ出て来たからです。

するとその私のところへ一対の男女が近づいて来られ、にっこりと微笑まれて双方が私の手を片方ずつ握られました。男性の方は私よりはるかに体格があり、女性の方は男性より少し小柄でした。いずれ劣らぬ端整な容姿と威厳を具えておられますが、そうした従者のいずれもがそうであるように、素朴な謙虚さと愛を感じさせました。

男性の方はもう一方の手を私の肩に置いてこう言われるのです──〝アーネル殿、貴殿のことを吾々二人はよく存じ上げております。吾々は間断なく生じる仕事においていつも互いの資質を出し合って協力し合っている間柄です。

実はこのたびこの界を通り過ぎることになって二人して貴殿をお探ししておりました。このご婦人から貴殿に申し上げたいことがあるようです。かねてよりそのことを胸に秘めて機会をうかがっておられました〟

 さてその婦人は実にお美しい方で、男性の光輝と相まった眩しさに私はただただ狼狽するばかりで、黙って見まわすしか為すすべがありません。

すると婦人はその握りしめていた手をさらに強く握られながら幾分高く持ち上げられました。続いて婦人の美しい頭にのっていた冠が私の目の前に下りて来ました。

私の手に口づけをされたのです。そしてしばしその姿勢を保たれ、私は婦人のしなやかな茶色がかった髪に目を落としました。まん中で分けられた髪が左右に垂れ、黄金のヘアバンドを付けておられました。私はひとことも口が利けませんでした。

高揚性と至純な聖(キヨ)さに溢れたよろこびが私を圧倒してしまったのです。それはとても筆舌に尽くせるものではありません。

 それから私はおもむろに男性の方へ目をやって私の戸惑いの気持ちを訴えました。すると婦人がゆっくりと頭を上げ私の顔を見つめられ、それと時を同じくして男性の方がこう言われたのです──〝アーネル殿、このご婦人は例の少女ミランヌの祖母に当たられる方です〟

 そう言われて婦人の方へ目を向けると、婦人はにっこりとされてこう言われたのです。

 「お礼申し上げます、アーネル様。あなた様は私が遠く離れ過ぎているために出来なかったことをしてくださいました。実はその子が窮地におかれているのを見て私はあなたへ向けて送念いたしました。あなたは私の願いに鋭敏に反応してくださいました。

間もなくその子も自分からお礼を申し上げるに参ることでしょうが、私からひとことお礼をと思いまして・・・・・・」

 そう言って私の額に口づけをされ、やさしく私のからだをご自分のおからだの方に引き寄せられました。それからお二人そろって笑顔でその場を立ち去られました。

その時の強烈な印象はその後いささかも消えやらず、霊的には常に接触が取れているように思います。今もそれを感じます。

 貴殿はミランヌなる少女が何者であろうかと思っておられる。実は私もその時そう思ったのです。もっともその少女との係わり合いについてはよく覚えております。

 古い話ではありません。あるとき仕事をしていると、貴殿も体験があると思いますが、誰かが自分に注意を向けているような感じがして、ふと仕事の手を休めました。そしてじっと受身の気持でいると、声ではなくて、ある種の衝動を覚え、すぐさまそれに従いました。

私は急いで地上へ向かいました。たどり着くとまた外部からの力で、今まさに地上を去って霊の世界へ入ろうとしている若い女性のところへ一直線に導かれていきました。最初は何のためなのかよく分かりませんでした。

ただそこに臨終を迎えた人体が横たわっているというだけです。が、間もなく分かりました。そのすぐ脇に男の霊が立っていて、その女性の霊が肉体から離れるのを待ちかまえております。

その男こそ地上でずっと彼女に災いをもたらしてきた霊で、彼女が肉体から離れるとすぐに邪悪の道へ引きずり込もうと待ちかまえていたのでした。

 その後のことをかいつまんで言えば、彼女が肉体から出ると私は身を挺してその男が近づくのをさえぎり、男の近づけない第三界の安全な場所へ運んだということです。今ではさらに二界層向上しております。その間ずっと私が保護し介抱してきました。

今でも私が保護者となってあげている霊の一人です。これでお分かりでしょう。お二人にお会いして、あの時の要請の出どころが分かり、同時に、その要請に応えて私が期待どおりにお役に立っていたことを知って、とてもうれしく思った次第です。

 そうした喜びは地上にいる間は理解できないでしょう。しかしイエスは施物分配の話と、首尾よく使命を全うした者を待ちうける歓迎の言葉の中に、そのことをすでに暗示しておられます。こう言っておられます──〝よくぞ果たされた。

そなたたちの忠誠心をうれしく思う。さ、私とともに喜びを分かち合おう〟(※)

 私もイエスとともに喜びを分かち合う光栄に浴したのです。ささやかながら私が首尾よくそれを全うして、今こうして一層大きな喜びの中に新たな大事業に参加することを許されたのです。多分ご婦人の言葉はキリストがお述べになる言葉そのものだったのだと確信しました。キリストの喜びとは常に献身の喜びなのです。
                                                                                                 アーネル ±

 (※マタイ25・21。この部分は聖書によって用語や若干の違いが見られるが、そのいずれもこの通信の文章とはかなり異なっている。アーネル霊は霊界の記録を見ているのであるから、この方が実際のイエスの言葉に近いのであろう──訳者)
 

 
   
    3 お迎えのための最後の準備
  一九一九年三月十日  月曜日

 以上のような経緯(いきさつ)は地上的に表現すれば永い歳月に及んでいることを知っておいていただきたい。その間、吾々には吾々なりの為すべきことがありました。地上でも、一つの改革が進行している間も一般大衆にはそれぞれの日常生活があります。

吾々もそれと同じでした。しかし吾々の生活全体を支配している〝思い〟──何にたずさわっていても片時も心から離れなかったのは、キリストの降臨と、そのための上層界の態勢づくりのことでした。いずこへ赴いてもそれが窺えました。

時には仲間が集まってキリストの接近による光輝の変化のことを細かく語り合うこともありました。

とくに上層界から使者が訪れ、吾々の界層の環境に合わせた身体をまとい、山の頂上とか中空に立って集合を命じた時はほとんど全員が集まりました。
指定の場所に集まった者は何ごとであろうと期待に胸をふくらませるのでした。

  前回に述べたのもその一つでした。

 しかしそうした時以外はいつもの生活に勤しみ、時には領主からお呼びが掛かって将来の仕事のための特別の鍛錬を受け、また時には特別の使命をさずかって他の界層へ赴いたりしていました。

他の界層へ赴いている間は連絡関係がふだんより緻密さを増します。
急な用事で帰還命令が出された時に素ばやくそれをキャッチするためです。

 そうしたふだんの体験にも貴殿に興味のありそうなもの、ためになるものがいろいろとあるのですが、それは今は措いておき、将来その機会がめぐってくれば語ることにしましょう。さし当たっての私の目的はキリストその人の降臨について語ることです。

 吾々キリストの軍勢の一員として選ばれた者は、例の天使の塔の聳える風致地区内に集合しました。待機しながらその塔の頂上にのっているヤシの葉状の王冠を見上げると、一人また一人と天使の姿が現れ、全部で大変な数になりました。

ひざまずいている者、座している者、立っている者、例のレース細工によりかかっている者など、さまざまでした。他の場所からその位置へ移動してきたのではありません。

吾々の見ている前で、吾々の視力に映じる姿をまとったのです。最初は見えなかったのが見える形をまとったのです。見えるようになると、どの天使も同じ位置に留まっていないであちらこちらへと動きまわり、対話を交えておりました。

霊格の高い、かつ美しい方ばかりです。同じ光景を前にも叙述したことがあります。顔ぶれはかなり変わっておりましたが、同じ天使も多く見かけました。

  さて全天使が揃うと新たな現象が見えはじめました。それはこうです。

 王冠の中に初めて見るものが現れました。十字架の形をしており、中央から現れて上昇しました。そのヨコ棒の片側に最後に到着した天使が立ち、その左手をタテ棒の上部にあてています。他の天使にくらべて一まわり光輝が広がっています。

身体も十分に吾々の界の環境条件に合わせ終わると左手をお上げになり、吾々を見下ろされながら祝福を与えてくださいました。

それから鈴の音のような鮮明な声で話しかけられました。大きな声ではありませんが、はるか下方に位置する吾々ならびにその地区一帯に立ち並ぶ者全員にまで届きました。

遠くの丘や広い草原にいる者もあれば、屋上にいる者、湖のボートに乗っている者もいました。さてその天使はこう語られました。

 「このたび貴殿たちを召集したのは、いよいよこの界へお近づきになられた吾らが主キリストについてのメッセージを伝え、ご到着とご通過に際してその意義を理解し、祝福を受け損なうことのないよう準備をしていただくためである。

 貴殿たちはこれまで幾度かをご覧になっておられるが、このたびのお出ましはそれとはまったく異なるものであることをまず知られたい。

これまでは限られた目的のために限られた必要性にしたがって限られた側面を顕現してこられた。が、このたびは、そのすべてではないが、これまでをはるかに凌ぐ王威をまとわれてお出ましになられる。これまでは限られた所用のために降りてこられた。このたびは大事業への父なる大神の勅令を体して来られるのである。

 これはただならぬ大事業である。地球は今や貴殿らによる援助の必要性が切迫している。それ故、主が通過されるに際し貴殿ら一人一人が今の自分にもっとも欠けているものをお授けくださるようお願いするがよい。

それによってこれより始まる仕事に向けて体調を整え、完遂のための体力を増強することができるであろう。

 万遺漏(ばんいろう)なきを期さねばならないことは言うまでもないが、さりとてのご威光を過度に畏れることも控えねばならない。は貴殿らの必要なるものを携えて来られる。

ご自身にはさような必要性はない。貴殿らのために燦爛たる光輝をまとわれてお出ましになるのである。その光輝のすべてが貴殿らのためである。それ故、遠慮なくそれに身を浸し、その磁気的エネルギーに秘められている力と高潔さとを己れのものとなさるがよい。

 では、これより貴殿らの思うがままに少人数でグループを作り、私が今述べたことについて語り合ってもらいたい。私が述べた言葉はわずかであるが、それを貴殿らが膨らませてほしい。行き詰まった時は私の仲間がその解釈の手助けに参るであろう。

そうすることによって主が間もなくお出ましになられた時に慌てずに済むであろうし、この界を通過される間にその目で見、その耳で聞き、その肌で感じて、さらに理解を深めることになるであろう」

 話が終わるとすぐ吾々は言われた通りにしました。例のヤシの葉状の王冠の中にいた天使たちはその間も姿をずっと消されることはありませんでした。それどころか、吾々の中に降りてこられて必要な援助を与えてくださいました。

その時の魂の安らぎの大きかったこと。おかげでキリストがいつ通過されてもよいまでに全員がそれなりの準備を整えることができました。

キリストの生命力の尊い流れから汲み取って吾々のものとすることができるのです。
それはキリストの内的叡智と決意の洗礼を受けることに他なりません。

 以上がキリストの降臨までに開かれた数々の集会の最後となりました。終わるとキリストの霊との一体感をしみじみと味わい、静寂と充足感の中にそのご到着をお待ちしました。
                                                                                             アーネル ±

  
  4 第十界へのご到着
 一九一九年三月十一日  火曜日

 吾々は第十界の高台に集合しました。人里離れた場所で、住居もまばらでした。建物はそのほとんどが中央の大塔との連絡のために使用されるものです。大塔は常時広大な地域にわたって眺望をきかせております。

──それは、もちろん、あなたが前にお話になった大聖堂の住民になられる以前の話ですね?

 そうです。(これから語る)ご降臨に際してキリストを拝したのは、ご降臨全体としてはずっと後半のことです。

当時の私はすでに第十界まで向上しており、その界の住民としての期間はかなり長期間に及んでいました。キリストがようやく十界の境界域に到達されたのは私が十界にいた時のことです。

 そのとき吾々は遠くの山脈に目をやっておりました。透き通るような光輝に映え、緑と黄金の色合いをしておりましたが、それに変化が生じはじめました。

まず緑が琥珀色を通して見た赤いバラのように、赤味がかったピンクになりました。それが次第に光沢を深めていき、ついに山並み全体が純金の炎のごとく輝きました。その中で従者が先頭をきって右へ左へと動き、それが光の波となってうねるのが見えます。

そのうちその従者の姿が吾々の方へ向けて進んでくるのが見えはじめました。キリストから放たれる光の雲を背景として、その輪郭をえどるように位置しております。

それぞれに憐憫たる光輝を放ち、雄大な容姿とそれに似合った霊力を具えておられます。

男性と女性です。それに、そこここに、男女が一体となった天使がいます。二つにして一つ、一つにして二つ──この話はこれ以上は述べません。

その神秘は貴殿には理解できないと思うからです。私も言語では表現しかねます。両性でもなければ中性(無性)でもありません。この辺で止めておきましょう。見るからに美しい存在です。男性というには柔和さが強すぎ、女性というには威厳が強すぎる感じがいたします。

 その一団が吾々の界の環境条件に波長を合わせつつ進入し、全天空を光輝と壮観で満たしたのです。吾々の足もとまで降りて来られたのではありません。

上空を漂いつつ、あたかも愛のそよ風のごとく、それでいて力に溢れ、深遠にして神聖なる神秘への理解力を秘めた優しさと安らぎの雫(しずく)を落としてくださるのでした。

その愛のしるしが降りそそがれる毎に吾々は、それまで理解の及ばなかった問題について啓発され、これから始まる仕事への力量を増すことになりました。

 天使の中には、大気が稀薄で吾々住民のほんの少数の者にしか永住困難な(そのときは一人の姿も見当たらなかった)高い峰に位置を取っておられる方がいました。

あるグループは一つの峰に、もう一つのグループはそれより遠く離れた峰に、という具合に位置して、全域を円形に囲み、その区域内の山と山との間にさらに幾つかのグループが位置しておりました。

 そのように位置を構えてからお互いに器楽と声楽による音楽で呼びかけ合い、それが一大ハーモニーとなって全天空に響きわたりました。

その音楽がまた新たな影響を吾々に及ぼしました。さきの愛の雫とは別に、あたかも安らかに憩う吾が子をさらに深き憩いへと誘う母の甘いささやきのごとき優しさを加えたのでした。

 やがて地平線の色調が深まって深紅色と黄金色とになりました。まだ黄金が主体でそれに深紅が混じっている程度でしたが、これでいよいよキリストが吾々の界のすぐそこまで来られたことを察知いたしました。

 そして、ついにお出ましになられました。そのお姿を現された時の様子、あるいはその顕現全体の壮観を私はいったいどう表現すればよいでしょうか。それを試みようとするだけで私は恐怖のあまり躊躇してしまうのです。

それはあたかも宮廷の道化師に君主が載冠に至る様子を演じさせ、その粗末な帽子でもって王冠を戴く様子を演じさせ、粗末な一本の棒切れでもって王笏(しゃく)を手にした様子を演じさせ、粗末な鈴でもって聖歌隊の音楽に似させることを命じるようなもので、

それは君主への不敬をはたらくこと以外の何ものでもありません。いま私が試みようとして躊躇するのはそれを恐れるからです。

 しかしもしその道化師が君主をこよなく尊敬しておれば、持てる力を総動員して人民に対する君主の振舞を演じ、同時にそのパロディ(粗末な模倣)が演技力と道具の不足のためにいかに実際とは似ても似つかぬものであるかを正直に述べるであろう。

私もそれに倣(ナラ)って、謙虚さと真摯な意図を唯一の弁明として語ってみましょう。

 キリストを取り巻く光輝はますますその強さと広がりとを増し、ついに吾々のすべてがその中に包み込まれてしまいました。

私からもっとも遠く離れた位置にいる仲間の姿が明確に識別できるほどになりました。それでも全体の大気はバラ色がかった黄金色を帯びていました。吾々の身体もその清澄な霊力の奔流に洗われていました。

つまりキリストは吾々全体を包むと同時に一人一人をも包んでおられたのです。吾々はまさにキリストその人とその個性の中に立ちつくし、吾々の中にもまわりにもキリストの存在を感じていたのです。

その時の吾々はキリストの中に存在を保ちつつ、しかもキリストの一部となり切っておりました。しかし、それほどまで吾々にとって遍在的存在となっても、キリストは外形をまとって顕現なさろうとはしませんでした。  

 私にはキリストが吾々の周辺や頭上にいらっしゃるのが分かるのです。それは言葉ではとても表現が困難です。身体を具えた局所的存在として一度にあらゆる場所におられるようであり、それでいて一つの存在なのです。

そう表現するほかに良い表現が思い当たりません。それも、およそうまい表現とは言えません。

私が思うに、キリストの全人格からまったく同じものを感じ取った者は、吾々の中にはいなかったのではないでしょうか。私にとっては次に述べるようなお方でした。

 体軀はとても大きな方で、人間二人ほどの高さがありましたが、でっかいものという印象は与えません。〝巨人〟のイメージとは違います。吾々と変わるところのない〝人間〟なのですが、体軀だけでなく内面性において限りない高貴さを具えておられます。

頭部に冠帯を付けておられましたが、紅玉(ルビー)と黄金(ゴールド)が交互に混ざり合った幅の広い、ただのバンドです。

両者が放つ光は融合することなく、ルビーは赤を、ゴールドは黄金色を、それぞれに放っております。それが上空へ向けて上昇して天空いっぱいに広がり、虚空に舞う天使のロープに当たって一だんとそのロープの美しさを増すのでした。

 おからだは全身の素肌が輝いてみえましたが、といって一糸もまとっていないのでもありません。矛盾しているようですが、私が言わんとしているのは、まずその全身から放たれた光彩がその地域のすみずみにまで至り、すべてをその輝きの中に包みます。

するとその一部が吾々が抱いている畏敬の念というスクリーンに反射し、それが愛の返礼となってキリストのもとに返り、黄金の鎧のごとくおからだを包みます。その呼応関係は吾々にとってもキリストにとってもこの上なく快いものでした。

キリストは惜しげもなくその本来の美しさの奥の院の扉を開いてくださる。そこで吾々はその儀式にふさわしい唯一の衣服(畏敬の愛念)を脱ぎ、頭を垂れたままそれをキリストのおからだにお掛けする。そして優しさと崇敬の念に満ちた霊妙なる愛をこめてキリストへの絶対的信頼感を表明したのでした。

  しかしそれ以前にもすでにキリストの栄光を垣間見ておりましたから(六章Ⅰその他)、キリストの本来の力はそれでもなお控え目に抑えられ、いつでも出せる態勢にあることを知っておりました。

キリストは何一つ身にまとわれなくても、吾々配下の軍勢からの(畏敬の念という)贈りものを金色(こんじき)の鎖帷子(くさりかたびら)としてまとっておられたのです。

贈りものとはいえ所詮はすべてキリストのものである以上、キリストからいただいたものをお返ししたにすぎません。(ロープで隠されているはずの)おみ足がはだけておりました。

と言うのは、吾々からの贈りものは吾々がいただいたものには及ばず、その足りない分だけロープの長さが短かくなり、足くびのところで終っていたのです。

 そのキリストがここの一団、そこの一団と次々と各軍団のもとをまわられる時のお顔はいやが上にも厳粛にして哀れみに満ちておりました。

それでいて最初に姿を現された中心的位置を離れるようにも見えないのです。そのお顔の表情を私は、広げられた巻きものを見るように、明瞭に読み取ることができました。

その厳粛さは、口にするのも畏れ多き天上界──罪と無縁ではないまでも知識として知るのみで体験として知ることのないキリスト界からたずさえて来られたものであり、一方哀れみはほかのカルバリの丘での体験から来ておりました。

その二つが神にして人の子たるキリストの手によって天と地の中間において結ばれているのです。キリストは手をかざして遠く高き界層の天使へと目を向け、罪多き人間のために何を為さんとしているかを見届けながら、地球よりその罪の雫をみずからの額に落とされ、その陰影によってお顔を一だんと美しくされます。

かくして崇高なる厳粛さと悲しみとが一つに融合し、そこから哀れみが生じ、以来、神的属性の一つとなったのです。

 さらには愛がありました。与えたり与えられたりする愛ではありません。すべてを己れの胸の中に収め、すべてのものと一体となる愛。その時のキリストは吾々を包み込み、みずからの中に収められたのでした。

 また頭上には威厳が漂っておりました。それはあたかも全天の星を腕輪(ブレスレット)に、惑星をしたがえた太陽を指輪(シグネット)にしてしまうほどの、大いなる威厳でした。

 このようにしてキリストはお出ましになり、このような姿をお見せになったのです。それは今では過去のものとなりました。が、今なおその存在感は残り続けております。

吾々がいま拝するキリストはその時のキリストとは異なりますが、見ようと思えばいつでもそのシーンを再現し臨場感を味わうことができます。これも神秘の一つです。私は次のように考えております──は地上へと去って行かれた。

が、そのマントのすそが伸びて、通過していった界層のすべてを光で包まれた。さらに下へ下へと進まれ、ついにかの地球を取り囲む毒気に満ちた濃霧のごとき大気の中へと入って行かれた・・・・・

 その威厳に満ちたご尊顔に哀れみの陰を見ている吾々の心にを哀れむ情が湧くのを禁じ得ませんが、同時に敬愛と崇拝の念も禁じ得ません。

なぜなら、汚れなき至純のキリストにとって、その恐怖の淵は見下ろすだに戦慄を覚えさせずにおかないことですが、みずから担われた使命にしりごみされることはありませんでした。平静に、そして不敬の心をもって、浄化活動のための闘いに向かわれました。

そのお姿を拝して吾々はキリストとともにあるかぎり必ず勝利を収めるものと確信いたしました。キリストはまさしく空前絶後のリーダーです。

真の意味でのキャプテンであり、その御心に母性的要素すらうかがえるほどの優しさを秘めながらも、なお威厳あふれるキャプテンであられます。                                                                                                                              アーネル ±

 
       
  八章 地球浄化の大事業

  1 科学の浄化
  一九一九年三月十二日  水曜日

 さて、今やキリストの軍勢に加わった吾々はキリストのあとについて降下しました。いくつかの序列にしたがった配置についたのですが、言葉による命令を受けてそうしたのではありません。

それまでの鍛錬によって、直接精神に感応する指示によって自分の持ち場が何であるか、何が要求されているかを理解することができます。それで、キリストとの交霊によって培われた霊感にしたがって各自が迷うことなくそれぞれの位置につき、それぞれの役割に取りかかりました。

 ではここで、地球への行軍の様子を簡単に説明しておきましょう。地球の全域を取り囲むと吾々は、その中心部へ向けていっせいに降下していきました。こういう言い方は空間の感覚──三次元的空間の発想です。

吾々の大計画の趣旨を少しでも理解していただくには、こうするよりほかに方法がないのです。

 キリストそのものは、すでに述べましたように、遍在しておりました。絶大な機能をもつ最高級の大天使から最下層の吾々一般兵士にいたるまでの、巨万の大軍の一人一人の中に同時に存在したのです。自己の責務について内部から霊感を受けていても、外部においては整然とした序列による戦闘隊形が整えられておりました。

最高の位置にいてキリストにもっとも近い天使から(キリストからの)命が下り、次のランクの天使がそれを受けてさらに次のランクへと伝達されます。

その順序が次々と下降して、吾々はそれをすぐ上のランクの者から受け取ることになります。その天使たちは姿も見えます。姿だけでしたら大体三つ上の界層の者まで見えますが、指図を受けるのは、よくよくの例外を除けば、すぐ上の界層の者からにかぎられます。

 さて吾々第十界の者がキリストのあとについて第九界まで来ると、吾々なりの活動を開始しました。まず九界全域にわたってその周囲を固め、徐々に内部へ向けて進入しました。するとキリストとその従者が吾々の界に到着された時と同じ情景がそこでも生じました。

九界にくらべて幾分かでも高い霊性を駆使して吾々は、その界の弱い部分を補強したり、歪められた部分を正常に修復したりしました。それが終了すると、続いて第八界へと向かうのでした。

 それだけではありません。九界での仕事が完了すると、ちょうど十一界の者と吾々十界の者との関係と同じ関係が、吾々と九界の者との間に生じます。

つまり九界の者は吾々十界の者の指図を受けながら、吾々のあとについて次の八界へ進みました。八界を過ぎると、八界の者は吾々から受けた指図をさらに次の七界の者へと順々に伝達していきます。

 かくしてこの過程は延々と続けられて、吾々はついて地球圏に含まれる三つの界層を包む大気の中へと入っていきました。そこまでは各界から参加者を募り、一人一人をキリストの軍勢として補充していきました。しかしここまで来ていったんそれを中止しました。

と言うのは、地球に直接つながるこの三つの界層は、一応、一つの境涯として扱われます。なぜなら地球から発せられる鈍重な悪想念の濃霧に包まれており、吾々の周囲にもそれがひしひしと感じられるのです。

黙示録にいう大ハルマゲドン(善と悪との大決戦──16・16)とは実にこのことです。吾々の戦場はこの三つの界層にまたがっていたのです。そしてここで吾々はいよいよ敵からの攻撃を受けることになりました。  


 その間も地上の人間はそうしたことに一向にお構いなく過ごし、自分たちを取り巻く陰湿な電気を突き通せる人間はきわめて稀にしかいませんでした。が、

吾々の活動が進むにつれてようやく霊感によって吾々の存在を感じ取る者、あるいは霊視力によって吾々の先遺隊を垣間見る者がいるとの話題がささやかれるようになりました。

そうした噂を一笑に付す者もいました。吾々を取り巻く地上の大気に人間の堕落せる快楽の反応を感じ取ることができるほどでしたから、多くの人間が霊的なことを嘲笑しても不思議ではありません。

そこで吾々は、この調子では人間の心にキリストへの畏敬の念とその従僕である吾々への敬意が芽生えるまでには、よくよく苦難を覚悟せねばなるまいと見て取りました。しかしそのことは別問題として、先を急ぎましょう。

 とは言え、吾々の作戦活動を一体どう説明すればよいのか迷います。もとより吾々は最近の地上の出来ごとについて貴殿によく理解していただきたいとは願っております。

すばらしい出来ごと、地獄さながらの出来ごと、さらには善悪入り乱れた霊の働きかけ──目に見えず、したがって顧みられることもなく、信じられることもなく、しかし何となく感じ取られながら、激しい闘争に巻き込まれている様子をお伝えしたいのです。

貴殿の精神の中の英単語と知識とを精一杯駆使して、それを比喩的に叙述してみます。それしか方法がないのです。が、せめてそれだけでも今ここで試みてみましょう。

 地球を取り巻く三層の領域まで来てみて吾々は、まず第一にしなければならない仕事は悪の想念を掃討してしまうことではなく、善の想念へ変質させることであることを知りました。

そこでその霧状の想念を細かく分析して最初に処理すべき要素を見つけ出しました。吾々より下層界からの先遺隊が何世紀も前に到着してその下準備をしてくれておりました。ここでは吾々第十界の者が到着してからの時期についてのみ述べます。

 地球の霊的大気には重々しくのしかかるような、どんよりとした成分がありました。実はそれは地上の物質科学が生み出したもので、いったん上昇してから再び下降して地上の物質を包み、その地域に住む人々に重くのしかかっておりました。

もっとも、それはたとえ未熟ではあっても真実の知識から生まれたものであることは確かで、その中に誠実さが多量に混じっておりました。

 その誠実さがあったればこそ三つの界層にまで上昇できたのです。しかし所詮は物的現象についての知識です。いかに真実味があってもそれ以上に上昇させる霊性に欠けますから、再び物質界へと引き戻されるにきまっています。

そこで吾々はこれを〝膨張〟という手段で処理しました。つまり吾々は言わばその成分の中へ〝飛び込んで〟吾々の影響力を四方へ放散し、その成分を限界ぎりぎりまで膨らませました。膨張した成分はついに物質界の外部いっぱいにまで到着しました。が、

吾々の影響力が与えた刺戟はそこで停止せず、みずからの弾みで次第に外へ外へと広がり、ついに物質界の限界を超えました。

そのため物的と霊的との間を仕切っている明確な線──人間はずいぶんいい加減に仕切っておりますが──に凹凸が生じはじめ、そしてついに、ところどころに小さなひび割れが発生しました──最初は小さかったというまでで、その後次第に大きくなりました。

しかし大きいにせよ小さいにせよ、いったん生じたひび割れは二度と修復できません。

たとえ小さくても、いったん堤防に割れ目ができれば、絶え間なく押し寄せていたまわりの圧力がその割れ目をめがけて突入し、その時期を境に、霊性を帯びた成分が奔流となって地球の科学界に流れ込み、そして今なおその状態が続いております。

 これでお分かりのように、吾々は地上の科学を激変によって破壊することのないようにしました。過去においては一気に紛砕してしまったことが一度や二度でなくあったのです。

たしかに地上の科学はぎこちなく狭苦しいものではありますが、全体としての進歩にそれなりの寄与はしており、吾々もその限りにおいて敬意を払っていました。それを吾々が膨張作用によって変質させ、今なおそれを続けているところです。

 カスリーン嬢の援助を得て私および私の霊団が行っているこの仕事は今お話したことと別に関係なさそうに思えるでしょうが、実は同じ大事業の一環なのです。

これまでの吾々の通信ならびに吾々の前の通信をご覧になれば、科学的内容のもので貴殿に受け取れるかぎりのものが伝えられていることに気づかれるでしょう。大した分量ではありません。それは事実ですが、貴殿がいくら望まれても、能力以上のものは授かりません。

しかし、次の事実をお教えしておきましょう。この種の特殊な啓示のために貴殿よりもっと有能で科学的資質を具えた男性たち、それにもちろん少ないながらも女性たちが、着々と研さんを重ねているということです。道具として貴殿よりは扱いやすいでしょう。

 その者たちを全部この私が指導しているわけではありません。それは違います。私にはそういう資格はあまりありませんので・・・・・・。各自が霊的に共通性をもつ者のところへ赴くまでです。そこで私は貴殿のもとを訪れているわけです。

科学分野のことについては私と同じ霊格の者でその分野での鍛錬によって技術を身につけている者ほどにはお伝えできませんが、私という存在をあるがままにさらけ出し、また私が身につけた知識はすべてお授けします。

私が提供するものを貴殿は寛大なる心でもって受けてくださる。それを私は満足に思い、またうれしく思っております。

貴殿にのより大きい恩寵のあらんことを。今回の話題については別の機会に改めて取りあげましょう。貴殿のエネルギーが少々不足してきたようです。                                                                                    アーネル ±  

 
   
    2 宗教界の浄化
   一九一九年三月十七日  月曜日

 次に浄化しなければならない要素は宗教でした。これは専門家たちがいくら体系的知識であると誇り進歩性があると信じてはいても、各宗教の創始者の言説が束縛のロープとなって真実の理解の障害となっておりました。

分かりやすく言えば、私が地上時代にそうであったように(四章2参照)ある一定のワクを超えることを許されませんでした。そのワクを超えそうになるとロープが──方向が逆であればなおのこと強烈に──その中心へつながれていることを教え絶対に勝手な行動が許されないことを思い知らされるのでした。

その中心がほかでもない、組織としての宗教の創始者であると私は言っているのです。イスラム教がそうでしたし、仏教がそうでしたし、キリスト教もご多分にもれませんでした。

 狂信的宗教家が口にする言葉はなかなか巧みであり、イエスの時代のユダヤ教のラビ(律法学者)の長老たちと同じ影響力を持っているだけに吾々は大いに手こずりました。

吾々は各宗教のそうした問題点を細かく分析した結果、その誤りの生じる一大原因を突きとめました。

私は差しあたって金銭欲や権力欲、狂言という言わば〝方向を間違えた真面目さ〟、自分は誠実であると思い込んでいる者に盲目的信仰を吹き込んでいく偽善、こうした派生的な二次的問題は除外します。

そうしたことはイスラエルの庶民や初期の教会の信者たちによく見られたことですし、さらに遠くさかのぼってもよくあったことです。私はここではそうした小さな過ちは脇へ置いて、最大の根本的原因について語ろうと思います。
 
 吾々は地球浄化のための一大軍勢を組織しており、相互に連絡を取り合っております。が各小班にはそれぞれの持ち場があり、それに全力を投入することになっております。

私はかつて地上でキリスト教国に生をうけましたので、キリスト教という宗教組織を私の担当として割り当てられました。それについて語ってみましょう。

  私のいう一大根本原因は次のようなことです。
  
 地上ではキリストのことをキリスト教界という組織の創始者であるかのような言い方をします。が、それはいわゆるキリスト紀元(西暦)の始まりの時期に人間が勝手にそう祭り上げたにすぎず、以来今日までキリスト教の発達の頂点に立たされてきました。

道を求める者がイエスの教えに忠実たらんとして教会へ赴き、あの悩みこの悩みについて指導を求めても、その答えはいつも〝のもとに帰り主に学びなさい〟と聞かされるだけです。

そこで、ではその主の御心はどこに求めるべきかを問えば、その答えはきまって一冊の書物──イエスの言行録であるバイブルを指摘するのみです。その中に書かれているもの以外のものは何一つの御心として信じることを許されず、結局はそのバイブルの中に示されているかぎりのの御心に沿ってキリスト教徒の行いが規制されていきました。

  かくしてキリスト教徒は一冊の書物に縛りつけられることになりました。なるほど教会へ行けばいかにもキリストの生命に満ち、キリストの霊が人体を血液がめぐるように教会いっぱいに行きわたっているかに思えますが、しかし実はその生命は(一冊の書物に閉じ込められて)窒息状態にあり、身体は動きを停止しはじめ、ついにはその狭苦しい軌道範囲をめぐりながら次第に速度を弱めつつありました。  
 
  記録に残っているイエスの言行が貴重な遺産であることは確かです。それは教会にとって不毛の時代を導く一種のシェキーナ(ユダヤ教の神ヤハウェが玉座で見せた後光に包まれた姿──訳者)のごときものでした。

しかし、よく注意していただきたいのは、例のシェキーナはヤコブの子ら(ユダヤ民族)の前方に現れて導いたのです。

その点、新約聖書は前方に現れたのではなく、のちになって崇められるようになったものです。それが放つ光は丘の上の灯台からの光にも似てたしかに真実の光ではありましたが、それは後方から照らし、照らされた人間の影が前方に映りました。

光を見ようとすれば振り返って後方を見なければなりません。そこに躓(つまず)きのもとがありました。前方への道を求めて後方へ目をやるというのは正常なあり方ではありません。

 そこに人間がみずから犯した過ちがありました。人間はこう考えたのです──主イエスはわれらの指揮者(キャプテン)である。がわれらの先頭に立って進まれ、われらはそのあとに付いて死と復活を通り抜けて主の御国へ入るのである、と。

が、そのキャプテンの姿を求めて彼らは回れ右をして後方へ目をやりました。それは私に言わせれば正常ではなく、また合理性にそぐわないものでした。

 そこで吾々は大胆不敵な人物に働きかけて援助しました。ご承知の通りイエスは自分より大きい業(ワザ)を為すように前向きの姿勢を説き、後ろから駆り立てるのではなく真理へ手引きする自分に付いてくるように言いました。(※)

そのことに着目し理解して、イエスの導きを信じて大胆に前向きに進んだ者がいました。

彼らは仲間のキリスト教者たちから迫害を受けました。しかし次の世代、さらにその次の世代になって、彼らの蒔いたタネが芽を出しそして実を結びました。(※ヨハネ14・12)

 これでお分かりでしょう。人間が犯した過ちは生活を精神的に束縛したことです。

生ける生命を一冊の書物によってがんじがらめにしたことです。バイブルの由来と中味をあるがままに見つめずに──それはそれなりに素晴らしいものであり、美しいものであり、大体において間違ってはいないのですが──それが真理のすべてであり、その中には何一つ誤りはないと思い込んだのです。

しかしキリストの生命はその後も地上に存続し、今日なお続いております。四人の福音書著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)によって伝えられたバイブルの中のわずかな言行は、およそキリスト教という流れの始源などではあり得ません。

その先の広い真理の海へと続く大きい流れの接点で立てているさざ波ていどのものにすぎません。

 そのことに人間は今ようやく気づきはじめています。そしてキリストは遠い昔の信心深き人々に語りかけたように今も語りかけてくださることを理解しはじめております。

そう理解した人たちに申し上げたい──迷わず前進されよ。後方よりさす灯台の光を有難く思いつつも、同時に前方にはより輝かしい光が待ちうけていることを、それ以上に有難く思って前進されよ、と。

なぜなら当時ナザレ人イエスがエルサレムにおられたと同じように今はキリストとして前方にいらっしゃるからです。(後方ではなく)前方を歩んでおられるのです。

恐れることなくそのあとに付いて行かれることです。手引きしてくださることを約束しておられるのです。あとに付いて行かれよ。躊躇しても待ってはくださらないであろう。福音書に記されたことを読むのも結構であろう。が、

前向きに馬を進めながら読まれるがよろしい。〝こうしてもよろしいか、ああしてもよろしいか〟と、あたかもデルポイの巫女に聞くがごとくに、いちいち教会の許しを乞うことはお止めになることです。そういうことではなりません。

人生の旅に案内の地図(バイブル)をたずさえて行かれるのは結構です。進みつつ馬上で開いてごらんになるがよろしい。少なくとも地上を旅するのには間に合いましょう。

細かい点においては時代おくれとなっているところがありますが、全体としてはなかなかうまく且つ大胆に描かれております。しかし新しい地図も出版されていることを忘れてはなりません。ぜひそれを参照して、古いものに欠けているところを補ってください。

しかし、ひたすら前向きに馬を進めることです。そして、もしもふたたび自分を捕縛しようとする者がいたら、全身の筋肉を引きしめ、膝をしっかりと馬の腹に当てて疾駆させつつ、後ろから投げてかかるロープを振り切るのです。

残念ながら、前進する勇気に欠け前を疾走した者たちが上げていったホコリにむせかえり、道を間違えて転倒し、そして死にも似た睡眠へと沈みこんで行く者がいます。

その者たちに構っている余裕はありません。なぜなら先頭を行くキャプテンはなおも先を急ぎつつ、雄々しく明快なる響きをもって義勇兵を募っておられるのです。その御声を無駄に終わらせてはなりません。

 その他の者たちのことは仲間が大勢いることですから同情するには及ばないでしょう。
死者は死者に葬らせるがよろしい(マタイ8・22)。そして死せる過去が彼らを闇夜の奥深くへ埋葬するにまかせるがよろしい。

しかし前方には夜が明けつつあります。まだ地平線上には暗雲が垂れこめておりますが、それもやがて太陽がその光の中に溶け込ませてしまうことでしょう───すっかり太陽が上昇しきれば。そしてその時が至ればすべての人間は、が子等をひとり残らず祝福すべくただ一個の太陽を天空に用意されたことに気づくことでしょう。

その太陽を人間は、ある者は北から、ある者は南から、その置かれた場所によって異なる角度から眺め、したがってある者にとってはより明るく、ある者にとってはより暗く映じることになります。

しかし眺めているのは同じ太陽であり、地球への公平な恩寵としてが給わった唯一のものなのです。

 または民族によって祝福を多くしたり少なくしたりすることもなさりません。地上の四方へ等しくその光を放ちます。それをどれだけ各民族が自分のものとするかは、それぞれの位置にあって各民族の自由意志による選択にかかった問題です。

 以上の比喩を正しくお読みくだされば、キリストがもし一宗教にとって太陽のごときものであるとすれば、それはすべての宗教にとっても必然的に同じものであらねばならないことに理解がいくでしょう。

なんとなれば太陽は少なくとも人間の方から目を背けないかぎりは、地球全土から見えなくなることは有り得ないからです。たしかに時として陽の光がさえぎられることはあります。しかし、それも一時(いっとき)のことです。           
                                                                                               アーネル ±

  
    3 キリストについての認識の浄化
  一九一九年三月十八日  火曜日 
 
 前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。

 実は吾々キリスト教界を担当する霊団はいよいよ地球に近づいた時点でいったん停止しました。吾々の仕事のさまざまな側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。

集合するとキリストみずからお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。
 
 そのときの吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。

ですから吾々の目にキリストのロープがはっきりと映りました。膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。

吾々は一心にそのロープに注目しました。なぜかと言えば、そのロープに地上の人間がさまざまな形で抱いているキリストへの情感が反映していたからです。

 それがどういう具合に吾々に示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してロープを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。


それを吾々が分析してみました。その結果わかったことは、その光の中に真の無色の光線が一本も見当たらないということでした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。

 吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。それは荒療治を必要とするものでした。

人間はキリストからその本来の栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加えることをしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬまがいものでした。やたらと勿体ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、響きだけは大ゲサで仰々しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。


 ──例をあげていただけませんか。

 キリスト教ではキリストのことを神(ゴッド)と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においてはなお言い足りておりません。キリストについて二つの観点があります。

一つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のお一人です。と呼んでいる存在はそれとは別です。

それは人間が思考しうるかぎりの究極の実在の表現です。従ってキリストより大であり、キリストに所属する存在であり神の子です。

 しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。

この全知全能という用語は響きだけは絶大です。しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳にくらべれば貧弱であり矮小(わいしょう)です。

その吾々ですらまだ地上界からわずか十界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、はたしていかばかりのものでしょうか。

キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのようなことは決して述べていないのですが、さらに続けてこう言います──しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。

 人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国のすべてをもってしてもキリストを包含することはできないと言います。

 こうしたことをこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏敬の念をもってその玉座の足台に跪く者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした歪められた光をかき集めることは不愉快なのです──たまらなく不愉快なのです。

そうした誤った認識のためにのロープはまったく調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜い色彩でを汚してしまったことでしょう。が、

その神聖なるロープがの身体を護り、醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。

 吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、〝地上的キリストの取り壊し〟でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆していることでもあります。説明しましょう。

 建物を例にしてお話すれば、腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。ぜんぶ取り壊さずに建ったまま修復できます。

が一方、ぜんぶそっくり解体し、基盤だけを残してまったく新しい材料で建て直さなければならないものもあります。地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストのことではありません。

神学的教義、キリスト教的ドグマによってでっち上げられたキリストのことです。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは本来のキリストとは似ても似つかぬものです。ぜひとも解体し基礎だけを残して、残がいを片づけてしまう必要があります。

それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。

 このこと──ほんの少し離れた位置から私が語りかけていることを、今さらのごとく脅威に思われるには及びません。このことはすでに幾世紀にもわたって進行してきていることです。

ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のロープをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいロープ──永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたロープを用意しております。

その涙の宝石はのパビリオンの上がり段の前の舗道に撒かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのロープを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。   
                                              アーネル ±
 
  
4 イエス・キリストとブッタ・キリスト
 一九一九年三月十九日  水曜日

 キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。

関連性があると言ったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。

一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出すことでしょう。

 しかし人間の心はいつの時代にあっても一つの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。

そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取ることは普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかったということを教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。

そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改めることにしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。そして心を動揺させます。

しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求めるごとくに、教会の権威にしがみつきます。

 一方、大胆さが過ぎて、これでキリストの謎がすべて解けたと豪語する者もいます。彼らは〝キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった〟というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。

かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、叡智に長(た)けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々にくらべれば遥かに多くのことを知っておられながら、まだすべては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。

 地上の神学の大家たちは絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多いことはいたしません。それはそうでしょう。

親羊は陽気にたわむれる子羊のように威勢よく突っ走ることはいたしません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。

 さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした人たちから生まれるのです。

前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに〝キリスト人間説〟を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。

 実は私はこの問題を出すのに躊躇しておりました。キリスト教徒にとっては根幹にかかわる重大性をもっていると見られるからです。ほかならぬ〝救世主〟が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多いことでしょう。

それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇するのですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。

願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが・・・・・・。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物にすぎないモヤの中から生まれているからです。

いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物であることに変りはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされることになります。その信仰の念もキリストに届くことは届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。

それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、勇気をもってキリストの真実について考えようとする者を、キリストはいささかも不快に思われることはないとの確信が持てるまでに、

キリストへの愛に燃えていただきたいのです。
吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れることはありません。

なぜなら吾々は所詮キリストのすべてを理解する力はないこと、謙虚さと誠意をもって臨めば、キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも微罰もあり得ぬことを知っているからです。

 同じことを貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遥かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像をはるかに超えたものであることを確信なさるがよろしい。


 ──キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッタなどがそれだというのですが、本当でしょうか。

 事実ではありません。そんなに、あれやこれやに生まれ変ってはおりません。そのことを詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。

とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとってもいまだに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから、せめて私の知るかぎりのことをお伝えしようとするとどうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。

 ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通してを顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。

またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストはの一つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。

 人間も一人一人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかしすべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。

しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方がブッダ・キリストに優ります。

が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この二つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります。

 貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に兄貴としてまた友人としての主イエスを見出されるがよろしい。

その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出すことでしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就することができれば、こちらへ来られた時にはさらにその先を歩んでおられることを知ることになります。

天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは結構ですが、その時にも、すぐ身のまわりも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれていることを忘れてはなりません。

 ある夏の宵のことです。二人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(バア)ちゃんがローソクの光で二人の長靴下を繕っておりました。そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。

 「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」
 するとメアリが言いました。

 「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じがしないもの」

 こうして二人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに二人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一ばん素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。

 「そんな暇はありませんよ。お前たちの長鞄下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一ばん好きな星に腰かけてるんだもの。これがあたしには一ばん重宝(ちょうほう) しているよ」                                       アーネル ± 
 

 
      九章 男性原理と女性原理
 
 1 キリストはなぜ男性として誕生したか
 
 一九一九年三月二十一日  金曜日

 貴殿に興味のありそうな話題は多々あるのですが、話が冗漫(じょうまん)になるといけませんので割愛させていただき、兄弟(けいてい)かきにせめぐ今日の危機(第一次大戦一九一四~一八──訳者)に至らしめた大きな原因について述べようと思います。

 それはつまるところ、霊的なそしてよりダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であったと言えます。

その傾向が西洋人の生活のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染めはじめました。それは実際面にも表れるようになり、一般社会はもとより政治社会、さらには宗教界にも表れ、ついには芸術界すらその影響から逃れられなくなりました。

すでにお話した物質と形態へ向けて〝外部へ、下方へ〟と進んできた宇宙(コスモス)の進化のコースを考えあわせていただければ、そのことは別段不思議とは思えないでしょう。

 顕現としてのキリストについてもすでに述べました。私はこう述べました──いかなる惑星に誕生しようと、言いかえれば、地上への降誕と同じ意味でいかなる形態に宿ろうと、キリストはその使命を託された惑星の住民固有の形態を具えた、と。

そのことは降誕する土地についても言えますが、同時に降誕する時代についても言えます。

 ではこれより私は、ガリラヤのイエスとしての前回の地上への降誕について述べてみます。

人間は次の事実すなわち、少なくとも吾々が知るかぎり、神性において性の区別はないこと、男性も女性もないこと、なのにイエスは、いつの時代においても、かのガリラヤにおいても、男性として降誕したという事実のもつ重要性を見落としております。私はこれよりその謎について説明してみます。

 これまでの全宇宙の進化は〝自己主張〟すなわち形体をもって自己を顕現する方向へ向かってまいりました。絶対的精髄であるは、本来、人間が理解している意味での形体はありません。悠久の(形態上の)進化もようやく最終的段階を迎えておりますが、その間のリーダーシップを握ったのは男性であり、女性ではありませんでした。

それには必然性があったのです。自己主張は本来男性的な傾向であり、女性的ではないからです。男性は個性を主張し、その中に自分の選んだ女性を組み入れて行こうとします。

その女性を他の女性から隔絶して保護し、育(はぐく)み、我がものとしていきます。我が意志が彼女の意志──つまり女性は自分の意志のすべてを男性の意志に従わせます。

その際、男性の性格の洗練度が高いか低いかによって女性に対する自己主張の仕方に優しさと愛が多くもなり少なくもなります。しかし、その洗練というものは男性的理想ではなく女性的理想へ向かうものです。この点をよく注意してください。大切な意味があるのです。

 そこで地球について言えば──このたびは他の天体のことには言及しません──悠久の進化の過程において、身体的にも知性的にも力による支配の原理が表現されてきました。

この二元的な力の表現が政治、科学、社会その他あらゆる分野での進歩の推進的要素となってきました。

それが現代に至るまでの地上生活の主導的原理でした。人類の旗には〝男性こそリーダー〟の紋章が描かれておりました。
キリストが女性としてでなく男性として地上へ誕生したのはそのためでした。

 しかし、男性支配の時代はやっとそのクライマックスを過ぎたばかりです。と言うよりは、今まさにそれを越えつつあります。そのクライマックスが外部へ向けて表現されたのが前回の大戦でした。


 ──その大戦のことはすでに多くを語っていただいております。これからまたその話をなさるのではないでしょうね。

 多くは語るつもりはありません。しかし私がその惨事について黙することは、その大戦で頂点を迎えた、人類の進化に集約される数々の重大な軌跡を語らずに終わることになります。その軌跡が大戦という形で発現したのは当然の成り行きであり不可避のことだったのです。

冷静に見つめれば、自己主張の原理の良い面は男性的生活態度が創造主の面影をほうふつとさせることですが、それは反面において自分一人の独占・吸収という野蛮な側面ともなりかねないことが分かるでしょう。

洗練された性格の男性は女性に対して敬意を抱きますが、野獣的男性は女性に対して優位のみを主張します。同じ意味で、洗練された国家は他の国家に対して有益な存在であることを志向し、相手が弱小国家であれば力を貸そうとするものです。が、

野蛮な国家はそうは考えず、弱小国を隷属させ自国へ吸収してしまおうとする態度に出ます。

 しかし、程度が高いにせよ低いにせよ、その行為はあくまでも男性的であり、その違いは性質一つにかかっております。善性が強ければ与えようとし、邪性が強ければ奪おうとします。が、与えることも奪うことも男性的性向のしからしむるところであり、女性的性向ではありません。

与えることは男性においては美徳とされますが、女性においては至極(しごく)あたりまえのことです。
男性は功徳を積むことになりますが、女性はもともとその性向を女性本能の構成要素の中に含んでおります。

 キリストはこの自己主張の原理をみずから体現してみせました。それが人類救済の主導的原理だったのです。男性としてキリストも要求すべきものは要求し、我がものとすべきものは我がものとしました。これは女性のすることではありません。が、
 
徹底的にその原理を主張してしまうと、こんどは男性の義務として、すべてを放棄しすべてを与えました。が、

その時のキリストは男性としての理想に従っているのではなく女性としての理想に従っているのです。しかも女性としての理想に従っていながら、いっそう完全なる男性でもあるのです。

このパラドックスはいずれ根拠を明らかにしますが、まずはイエス・キリストの言葉を二、三引用し、キリストが身体的には男性でありながら、男性と女性の双方の要素が連帯して発揮されている、完全なる神性の顕現であることをお示ししましょう。

 「人、その友のために己れを棄つる、これに優る愛はなし」(ヨハネ15・13)確かにそうですが、それは男性的な愛です。それよりさらに大なる愛が存在します。

それは敵のために己れの生命を棄てることです。自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿を見ていて私は、そこに女性特有の(友のために捧げる愛よりも偉大な)憎き相手に捧げる愛を見るのです。

イエスは自分を虐待する者たちのために自分の生命(イノチ)を棄てました。私にはそれはイエスの本性に宿る男性的要素でなく女性的要素が誘発したように思えるのです。

 また、なぜ「奪うよりは与える方が幸福」(使徒行伝20・35)なのか。男性にとってはこの言葉は観念的にも実際的にも理解が困難ですが、女性にとっては容易にそして自然に理解がいきます。

男性はそれが真実であることに同意はしても、なお奪い続けようとするものです。女性は与えるという行為の中によろこびを求めます。

受けたものを何倍にもして返さないと気が済まないのです。このことを考え合わせれば、今だに論争が続いている例の奇蹟に敬虔の念を覚えられることでしょう。つまり、わずかなパンを何十倍にも増やして飢えをしのがせた行為も同じ女性的愛から発していたのです。
 しかしこの問題はこれ以上深入りしないでおきましょう。

 私が言いたかったことをまとめると次のようなことになります。つまりこれまでの地上世界はすべての面において英雄的行為が求められる段階にあったということ。

従って〝雄々しい力〟という言葉が誰の耳にも自然な響きをもって聞こえ、〝女々(めめ)しい力〟という言い方から受ける妙な響きはありません。

 しかし男性は神威の一つの側面──片面にすぎないのです。その側面がこれまでの永い地上の歴史の中で存分に発揮されてきました。が、

これより人類が十全な体験を積むためには、もう一方の側面を発揮しなければなりません。これまでは男性が先頭に立って引っぱってきました。そしてそれなりの所産を手にしました。これからの未来にはそれとは異質の、もっと愉しい資質が用意されております。                                                                                     アーネル ±
 
      
 
     2 男性支配型から女性主導型へ

 一九一九年三月二十四日  月曜日

 吾々から送られるものをそのまま書き記し、疑問に思えることがあってもいちいち質問しないでいただきたい。全部を書き終わってから読み直し、全体として判断し、部分的な詮索はしないでいただきたい。

このようなことを今になって改めて申し上げるのも、吾々が用意している通信は多くの人々にとって承服しかねるものであろうと思われるからです。ですが、とにかく書き留めていただきたい。

吾々も語るべきことは語らねばなりません。それをこれより簡略に述べてみましょう。

 キリストがガリラヤのイエスとして地上に降誕するまでの人類の進化は、知性においても力においても、男性の〝右腕〟による支配の線をたどっておりました。

それが人類進化における男性的要素でした。他にもさまざまな要素があったにしても、それは本流に対する支流のようなもので、進化の一般的潮流にとっては大して意味はありません。私はこれよりそうした細かいことは脇へ置いて、本流について語ります。

 イエスは地上に降り、人間社会の大混乱を鎮静させるためのオイルを注がれました。聞く耳をもつ者に、最後の勝利は腕力にせよ知力にせよ強き者の頭上に輝くのではなく、〝柔和(ニュウワ)なる者が大地を受け継ぐ〟(詩篇37・11)と説きました。

受け継ぐのです。奪うのではありません。お分かりでしょう。イエスは人類の未来のことを語っていたのです。

 この言葉を耳にした者は実際的であると同時に美しくかく真実であることを認めました。そして以来二千年近くにわたって両者を融合させようと努力してまいりました。

すなわち支配力に柔和さを継ぎ木しようとし、国内問題、国際問題、社会問題その他あらゆる面で両者をミックスさせようとしたのです。が両者は今なお融合するに至っておりません。
そこである者はキリスト教は公共問題においては無能であると言います。

その結論は間違っております。キリストの教えは地上の人生において唯一永続性のある不変の真理です。

 人間は暴力と威圧による支配が誤りであったことを認識しました。が、それを改めるためにこれまでに行ってきたことは、その誤った要素はそのまま留めておいて、それを柔和さという穏やかな要素によって柔らげることでした。

つまり一方では男性が相変わらずその支配的立場を維持しつつ、他方では女性的要素である柔和さによってその支配に柔らかさを加味しようと努力したのです。

結果は失敗でした。あとは貴殿にも推察がつくでしょう。唯一残されたコースはその誤った要素を棄て、女性的要素である柔和さを地上生活における第一位の要素としていくことです。
  地球の過去は男性の過去でした。地球の未来は女性の未来です。

 女性は今、自分たちの性の保護のための何か新しいものの出現を期待する概念が体内から突き上げてくるのを感じております。それは感心しません。

ひとりよがりの考えであり、従ってそうあってはならないことだからです。かの昔、一人の女性が救世主を生みましたが、それは女性の救世主としてではなく全人類の救世主として誕生しました。現在の女性の陣痛から生まれるものも同じものとなるでしょう。

 何か新しいものを求める気持の突き上げを感じて女性は子孫への準備に取りかかりました。男児のための衣服を作りはじめております。私は今〝男児〟と言いました。

女性が作りつつある衣服はやはり男性のためのものなのです。そのための布を求めに女性は、男性だけが売買をしている市場へ行って物々交換を申し出ました。

〝私たち女性にだって男性の仕事はできます〟と言います。そのとき女性は自分が新しいブドウ酒を古い皮袋に入れているにすぎないことに気づいていません。いけません。女性が男性の立場に立つことをしては両者とも滅びます。

女性は男性がこれまでに学ばされてきた苦い体験から女性としての教訓を学び取らなくてはいけません。男性はどこに挫折の原因があったかを学びました。

ではどうすべきかが分からぬまま迷っております。片方の手で過去をしっかりと握り、もう一方の手を未来に向けて差し出しています。が、その手にはいまだに何も握られていません。過去を握りしめている手を放さないかぎり空をつかむばかりでしょう。  
 
  女性は今、かつての男性がたどったのと同じ道をたどろうとしています。男性と対等に事を牛耳ろうとしています。しかし女性の未来はその方向にあるのではありません。

女性が人類を支配することにはなりません。単独ではもとより、男性と対等の立場でも支配することにもなりません。これからは女性が主導(リード)する時代です。支配するのではありません。

 前にも述べた通り、これまでの地球の進化は物的なものへ向けての下降線をたどって来ました。そこでは男性が先頭に立ち、荒々しい闘争のために必要な甲冑がよく似合いました。が、

その下降線も折り返し点に到達し、今まさにそこを後にして霊的発達へ向けて上昇を開始したところです。
霊の世界には人間が考え出した(神学の)ような、ややこしい戒律(キマリ)による規制はありません。あるのはただ愛による導きのみです。

地上にも、優位の立場からの支配は女性の性(さが)に不向きであることを悟った暁に女性が誘導(ガイダンス)によってリードしていく場があります。

 しかし、その女性主導の未来がどういうものであるかは、いかなる形にせよ説明するのはとても困難です。と言うのも、これまでのそうした主導権の概念は支配する者と支配される者、抑える者と従わされる者、といった二者の対立関係を含んでおりますが、これからの主導権にはそうした対立関係は含まれていないからです。

この〝主導〟という用語からしてすでに一方が先を行き他方がその後に付いていくという感じ、一種の強制観念をもっています。これからの人類を待ちうけていると私が言っている主導はそれとは異なるものです。

 次のように説明すればどうでしょうか。それはイエス・キリストにおいて明白に体現されております。男性としての美質が一かけらの不快さも醜さも伴わずに体現されていると同時に、女性としての優しさが一かけらの弱々しさも伴わずに融合されております。

未来は両者が、すなわち男性と女性とが、いかに完璧に一方が他方を吸収した形であっても、二つの性としてではなく、一つの性の二つの側面という形をとることになります。

 力の支配するところでは〝オレが先だ。お前はあとに付いてこい〟ということになります。愛の支配するところでは言葉は不要です。以心伝心で〝最愛なる者よ、ともに歩もう〟ということになります。

 私の言わんとすることがこれでお分かりと思います。
 

 ──分かります。ただ、今日までの慣習に親しんできている者にとっては、一方が(優しく)手引きし他方が(素直に)付いて行くようでなければ進歩が得られないというのは、いささか理解が困難です。

 おっしゃる通りです。今の言いまわしにも苦心のあとがうかがえます。いま貴殿は地上でいう組織や整然とした規制、軍隊や大企業における上下の関係を思わせる語句を使用しておられます。

 もちろん天界においても整然たる序列が存在します。しかしそれは権力の大小ではなく、あらゆる力の背後に控えるもの──がそうあらしめるのです。

 実際においてそれが何を意味するかを次の事実から微(カス)かにでも心に描いてみてください。比喩的な意味ではなく実際の事実として、地上でいうところの高い者と低い者、偉大な者と劣等なる者は存在しません。

地上から来たばかりの霊と天使との間にもかならず共通した潜在的要素が存在します。
 
その意味で、若い霊も潜在的には天使と同じであるのみならず、さらに上の大天使、力天使、能天使とも同じであると言えるのです。

(訳者注──ここではオーエンがキリスト教の牧師であることから神学における天使の分類用語を使用しているまでのことで、実際にそういう名称で呼ばれているわけではない。要するに造化の仕事に直接たずさわっている高級霊と考えればよい)

 さらに、たとえば天使と父との関係について言えば、地上的な観点からすれば当然天使の方が小さい存在ですが、天界全体として考えた時、両者の関係は一つの荘厳なる実在すなわち絶対神の中に吸収されてしまいます。

そこにおいては天使も絶対神と一体となります。〝より大きい〟も〝より小さい〟もありません。それは外部にまとう衣服については言えましょう。

宝石のわく飾りのようなものです。が、内奥の至聖所ではその差別はありません。

 そのことはキリストの顕現の度に思い知らされることです。すなわちキリストはたしかにであり吾々はその従臣です。しかしキリストはその王国全体と一体であり、その意味において従臣もその王の座を共有していることになるのです。

キリストが命を下し、指揮し、吾々はその命に服し、指揮に従います。が、命じられたからそうするのではなく、キリストを敬慕するからであり、キリストもまた吾々を敬愛なさるからです。お分かりでしょうか。

ともかく、こうした天上的な洞察力の光をいくばくかでも人類の未来へ向けて照射していただきたい。きっとそこに、こうして貴殿に語りかけている吾々に啓示されているものを垣間みることができるでしょう。

 また次のことも銘記してください。理性というものは男性的資質に属し、したがって私のいう未来を垣間みる手段としては不適当であることです。

直感は女性的資質に属し、人間の携帯用望遠鏡のレンズとしては理性より上質です。

思うに女性がその直感力をもって未来をどう読まれるにしても、理性的に得心がいかないと満足しない男性よりは、私が言わんとすることを素直に理解してくださるでしょう。女性は知的理解をしつこく求めようとしません。理屈にこだわらないのです。

あまりその必要性がないとも言えます。直感力が具わっているからです。それで十分間に合いますし、これより先は女性と男性の双方にとってそれがさらに有益となっていくことでしょう。


 ──例によって寓話をお願いしたいですね。 
 
   ある金細工人が王妃の腕輪(ブレスレット)に付ける宝石としてルビーとエメラルドのどちらにしようかと思案しました。彼は迷いました。ルビーは王様がお好みであり、エメラルドは王妃がお好みだったからです。

思案にあまった彼は妻を呼んで、どう思うかと聞いてみました。すると妻は〝あたしだったらダイヤにする〟と答えました。

〝なぜだ。ダイヤはどっちの色でもないぞ〟と聞くと、〝お持ちになってみられてはいかが?〟と答えます。彼は言われた通りに持参してみることにしました。

 恐るおそる宮殿を訪れてまず王様にお見せしたところ、〝でかしたぞ。このダイヤはなかなかの透明度をしている。ルビーの輝きがあふれんばかりじゃ。さっそく妃(キサキ)のところへ持っていって見せてやってくれ〟と言います。

そこで王妃のところへ持っていくと王妃もことのほか喜ばれ、〝なかなか宝石に目が高いのお。このダイヤはエメラルドの輝きをしている。さっそくそれでブレスレットを仕上げておくれでないか〟とおっしゃいます。

 わけが分からないまま帰ってきた金細工人は妻になぜ王妃はこのダイヤが気に入られたのだろうかと聞いてみました。

すると妻は〝お二人はどんなご様子だったのですか〟と尋ねます。〝お二人とも大そうお気に召されたんだ。王様はなかなか上質でルビー色をしているとおっしゃり、王妃もなかなか上質でエメラルド色をしているとおっしゃった〟と彼は言いました。

 すると妻は答えました。〝でもお二人のおっしゃる通りですよ。ルビー色もエメラルド色も、砕いてみれば何もない無色の中から出ているのであり、ほかにも数多くの色が混ざり合っているのです。

愛はその底にすべての徳を融合させて含んでおり、一つ一つの徳が愛の光線の一条(ヒトスジ)なのです。王様も王妃もその透明な輝きの中にお好みの色をごらんになられたのです。

お二人が違う色をごらんになったからといって別に不思議に思われることはありません。
お互いの好みの色はその結晶体の中で融合し、自他の区別をなくして本来の輝きの中に埋没してしまっているのです。それはお二人が深く愛し合う仲だからですよ〟
                                           アーネル ± 

 
     3 崇高なる法悦の境地

     一九一九年三年二十五日  火曜日

 さて、未来へ向けて矢が放たれたところで一たん出発点へ戻り、これまでお伝えしたメッセージを少しばかり手直しをしておきましょう。私が述べたのは人類の発達途上における目立った特徴を拾いながら大ざっぱな線について語ったまでです。

しかし人類が今入りかけた機構は単純ではなく複雑をきわめております。次元の異なる界がいくつも浸透し合っているように、いくつもの発展の流れが合流して人類進化の大河をなしているのです。

 私がこれからは男性支配が女性の柔和さにその場をゆずると言っても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味ではありません。そういうことは有り得ません。

人類の物的形態へ向けての進化には創造主が意図した目的があるのであり、その目的は、成就されればすぐに廃棄されてしまう程度のものではありません。ようやく最終段階を迎えつつある進化の現段階は、男性の霊的資質を高める上で不可欠だったのです。

ですから、その段階で身につけた支配性は、未来の高揚のために今形成しつつある新しい資質の中に融合されていくことでしょう。

 ダイヤからルビーの光が除去されることはありません。もしそうなればダイヤの燦然たる美しさが失われます。そうではなく、将来そのダイヤが新たな角度から光を当てられた時に、その輝きがこれまでよりは抑えられたものになるということです。

かくしてこれからのある一定期間は、そのまたたきが最も顕著となるのはこれまでのルビーではなくエメラルドとなることでしょう。(訳者注──前回の通信の最後の寓話になぞらえて、ルビーが男性的性格、エメラルドが女性的性格を象徴している)

 また遠い過去においてそのルビーに先立って他の色彩が顕著であった時期があるごとく、ダイヤの内奥には、このエメラルドの時代の終ったあと、永遠の時の中で然るべき環境を得て顕現するさらに別の色彩があるのです。

 さらに言えば、私のいう女性の新時代は激流のごとく押し寄せるのではなく、地上の人間が進歩というものを表現する時によく使う言い方に従えば、ゆっくりとした足取りで訪れます。言っておきますが、その時代はまだ誕生しておりません。が、

いずれ時が熟せば誕生します。その時期が近づいた時は──イヤ、(ここで寓話に変わる──訳者)救世主は夜のうちに誕生し、ほとんど誰にも気づかれなかった。

しかも新しい時代の泉となり源となった。それから世の中は平凡なコースをたどり、AUC(ローマ紀元。紀元前七五三年を元年とする)を使用している間は何の途切れもなく続いた。

が今日、かの素性の知れぬ赤子(イエス)の誕生がもとでキリスト教国のすべてがDU(西暦紀元)を採用することになり、AUCは地上から消えた。貴殿は私の寓話を気に入ってくださるので、どうか以上の話から何かの意味を読み取ってください。
 
 また例の天使の塔におけるキリストの顕現の話を思い出していただきたい。あれはこの地上への吾々の使命に備えるための学習の一環だったのです。

私の叙述から、その学習がいかに徹底したものであったかを読み取っていただけるものと思います。物的宇宙の創造を基盤とし、宇宙を構成する原子の構造を教えてくださったのです。

それが鉱物、植物、動物、そして人間となっていく永くかつ荘厳な生命の進化の過程が啓示されたのです。さらに学習は続き、地球に限定して、その生命を構成する要素を分析して、種類別に十分な検討を加えました。

それから地球の未来をのぞかせていただき、それが終わって今こうして貴殿にメッセージを送っているわけです。


 その人類の未来をのぞかせていただいた時の顕現のすべてを叙述することはとても出来ません。ダイヤモンド(※)の内奥には分光器にかからない性質の光線が秘められているからです。


ですが、その得も言われぬ美と秘密と吾々にとっての励ましに満ちた荘厳なるスペクタクルについて、貴殿にも理解しうる範囲のことを語ってみましょう。(※これも前回の通信の寓話になぞらえて、すべての色彩が完全に融合したときの無色透明な状態を象徴している──訳者)

 地球を取り巻く例の霧状の暗雲が天界の化学によって本来の要素に分析されました。それを個々に分離し、それぞれの専門家の手による作業にまかされました。

その作業によって質を転換され、一段と健康な要素に再調合する過程がほぼ完了の段階に近づいた時に、吾々は各自しばし休息せよとの伝達をうけ、その間は他の霊団が引き受けてくれました。

 そこで吾々は所定の場所へ集合しました。見ると天界のはるか上層へ向けて一段また一段と、無数の軍勢が幾重にも連なっておりました。

得も言われぬ壮麗なる光景で、事業達成への一糸乱れぬ態勢に吾々は勇気百倍の思いがいたしました。その数知れぬ軍勢の一人一人が地球上の同胞の救済のために何らかの役割分担を持ち、その目的意識が総監督たるキリストにおいて具現されているのでした。

 それを内側から見上げれば、位階と霊格にしたがって弧を描いて整列している色彩が、あたかも無数の虹を見るごとくに遙か遠くへと連なっておりました。

 そしてその中間に広がる、一個の宇宙にも相当する大きさの空間の中へ、すでにお話したことのある静寂という実体(一章2)が流れ込んできました。それはすなわち、そこに吾らがが実在されるということです。

静寂の訪れを感じて吾々はいつものごとく讃仰のために頭(コウベ)を垂れました。崇高なる畏敬の念の中に法悦を味わい、目に見えざる来賓であるキリストを焦点とした愛の和合の中にあって、吾々はただただ頭を垂れたまま待機しておりました。                                                                                                                             アーネル ±

 
      4 地球の未来像の顕現
 一九一九年三月二十八日  金曜日

 この段階で吾々はすでに、それぞれの天界の住処(スミカ)にふさわしい本来の身体的条件を回復しておりました。それ故、吾々は実際は地球を中心としてそれを取り囲むように位置しているのですが、地球の姿はすでに吾々の目には映じませんでした。


もちろんこのことは私自身の境涯に視点をおいて述べたまでで、私より地球に接近した界層の者のことは知りません。多分彼らにはそれらしきものは見えたことでしょう。これから述べることは私自身の視力で見たかぎりのことです。

 私はその巨大な虚空の内部を凝視しました。すべてが空(クウ)です。その虚空が、それを取り巻くように存在する光輝によって明るく照らし出されているにもかかわらず、その内部の奥底に近づくにつれて次第に暗さが増していきます。

そしてその中心部になるとまさに暗黒です。そう見ているうちに、その暗黒の虚空の中心部から嘆き悲しむ声に似た音が聞こえて来ました。

それが空間的な〝場〟を形成している吾々の方角へ近づくにつれてうねりを増し四方へ広がっていきます。が、その音が大きくなってくるといつしか新しい要素が加わり、さらにまた別の要素が加わり、次々と要素を増していって、ついに数々の音階からなる和音(コード)となりました。

初めのうちは不協和音でしたが吾々に近づくにつれて次第に整い、ついには虚空の全域に一つに調和した太く低い音が響きわたりました。そうなった時はもはや嘆き悲しむ響きではなく、雄々しいダイヤペーソンとなっておりました。

 それがしばらく続きました。するとこんどはそれに軽い音色が加わって全体がそれまでのバス(男声の最低音)からテノール(男性の最高音)へと変わりました。変化はなおも続き、ついに吾々が囲む空間全体に女性の声による明るい合唱が響きわたりました。

 そのハーモニーが盛り上がるにつれて光もまた輝きを増し、いよいよ最高潮に達したとき吾々が取り囲む内部の空間が得も言われぬ色合いを見せる光輝に照らし出されました。

そしてその中央部、すなわち吾々の誰からも遠く離れた位置で顕現が始まっていることが分かりました。それは次のようなものでした。

  まず地球が水晶球となって出現し、その上に一人の少年が立っています。やがてその横に少女が現れ、互いに手を取り合いました。

そしてその優しいあどけない顔を上方へ向け、じっと見つめているうちに二人ともいつしか青年に変身し、一方、立っている地球が膨(フク)れだして、かなりの大きさになりました。

するとその一ばん上部に曲線上に天蓋のついた玉座が出現し、女性の方が男性の手を引いて上がり段のところへ案内し、そこで女性が跪(ひざまず)くと男性だけが上がり段をのぼって玉座の中へ入りました。

 そこへ大ぜいの従臣が近づいて玉座のまわりに立ち、青年に王冠と剣(ツルギ)を進呈し、豊かな刺しゅうを施した深紅のマントを両肩にお掛けしました。それを合図に合唱隊が次のような主旨の祝福の歌をうたい上げました。

 「あなたは地球の全生命の主宰者として、霊の世界よりお出ましになられました。あなたは形態の世界である外的宇宙の中へ踏み込まれ、あたりを見まわされました。

そして両足でしっかりと踏みしめられて、地球がどこかしら不安定なところを有しながらも、よき天体であるとお感じになられました。それから勇を鼓して一方の足を踏み出し、さらにもう一方の足を踏み出され、かくして地上を征服なさいました。

 そこで再び周囲を見渡されて、あなたのものとなったものを点検なさいました。それに機嫌をよくされたあなたは、その中で最も麗しいものに愛をささやかれました。そのとき万物のがあなたのために宝庫よりお出しになられた全至宝の中でも、あなたにとっては女性が最愛の宝物となりました。

 征服者としての権限により主宰者となられたあなたへの祝福として詠唱した以上のことは、その通りでございましょうか」
 青年は剣を膝の上に斜めに置いてこう答えました。

 地上での数々の闘いに明け暮れた私をご覧になってきたそなたたちが歌われた通りである。正しくご覧になり、それを正しく語られた。さすがにわれらの共通のの家臣である。

 さて私は所期の目的を果たし、それが正当であったことを宣言した。武勇において地上で私の右に出る者はおりませぬ。地球は私が譲りうける。私みずからその正当性を主張し、今それを立証したところである。

 しかし私にはまだ心にひっかかるものがある。これまでの荒々しい征服が終了した今、私は次の目標をいずこへ求めればよいのであろう。永きにわたって不穏であった地球もどうにか平穏を取り戻した。が、まだ真の平和とは言えぬ。

地球は平穏な状態にうんざりとし、明日の平和を求める今日の争いにこれきり永遠に別れを告げて、真の平和を求めている。
 
 そこで、これまで私を補佐してこられたそなたたち天使の諸君にお願いしたい。幾度も耳うちしてくれた助言を無視して私がこれまでとかく闘いへの道を選んできて、さぞ不快に思われたことであろう。それは私も心を痛めたことであった。

しかし今や私も高価な犠牲を払って叡智を獲得した。代償が大きかっただけ、それだけ身に泌みている。そこで、これより私はいかなる道を選ぶべきか、そなたたちの助言をいただきたい。

私もこれまでの私とは違う。助言を聞き入れる耳ができている。今や闘いも終わり、この玉座へ向けて昇り続けたその荒々しさに、われながら嫌気がさしているところである」

 そう言い終わると従臣たちが玉座の上がり段を境にして両わきに分かれて立ち並び、その中間に通路ができました。するとその中央にさきの女性が青のふちどりのある銀のロープで身を包んで現れました。

清楚に両手を前で組み、柔和さをたたえた姿で立っておられます。が、その眼差しは玉座より見下ろしている若き王の顔へ一直線に向けられています。

 やがて彼はおもむろに膝の上の剣を取り上げ、王冠を自分の頭から下ろして階段をおり、その女性のそばに立たれました。そして女性が差し出した両腕にその剣を置き、冠を頭上に置きました。それから一礼して女性の眉に口づけをしてから、こう告げました。

 「そなたと私とで手を取り合って歩んで来た長い旅において私は、数々の危機に際してそなたの保護者となり力となって来ました。嵐に際しては私のマントでそなたを包んであげました。

急流を渡るに際しては身を挺して流れをさえぎってあげました。が、行く手を阻(ハバ)む危険もなくなり、嵐も洪水も鎮まり、夏のそよ風のごとき音楽と化しました。そして今、そなたは無事ここに私とともにあります。

 しかし、この機をもって私は剣をそなたに譲ります。その剣をもってその王冠を守ってきました。ここにおいてその両者を揃えてそなたに譲ります。

もはや私が所有しておくべき時代ではなくなりました。どうかお受け取りいただきたい。これは私のこれまでの業績を記念する卑しからぬ品であり、あくまで私のものではありますが、それが象徴するすべてのものとともに、そなたにお預けいたします。

どうかこれ以後もそなたの優しさを失うことなく、私が愛をもって授けるこの二つの品を愛をもって受け取っていただきたい。それが私より贈ることのできる唯一のもの───地球とその二つの品のみです」

 青年がそう言い終わると女性は剣を胸に抱きかかえ、右手を差しのべて彼の手を取り、玉座へ向かって階段を上がり玉座の前に並んでお立ちになりました。

そこでわずかな間を置いたあと彼は気を利かして一歩わきへ寄り、女性に向かって一礼しました。すると女性はためらいもなく玉座に腰を下ろされました。彼の方はわきに立ったまま、これでよしといった表情で女性の方を見つめておりました。

 ところが不思議なことに、私が改めて女性の方へ目をやると、左胸に抱えていた剣はもはや剣ではなく、虹の色をした宝石で飾られたヤシの葉と化しておりました。

王冠も変化しており、黄金と鉄の重い輪が今はヒナギクの花輪となって、星のごとく輝く青と緑と白と濃い黄色の宝石で飾られた美しい茶色の髪の上に置かれていました。その種の黄色は地上には見当たりません。

 若き王も変っておりました。お顔には穏やかさが加わり、お姿全体に落着きが加わっておりました。そして身につけておられるロープは旅行用でもなく戦争用でもなく、ゆったりとして長く垂れ下がり、うっすらとした黄金色に輝き、そのひだに赤色が隠れておりました。
 そこで青年が女性に向かってこう言いました。

 「私からの贈りものを受け取ってくれたことに礼を申します。では、これより先、私とそなたではなく、そなたと私となるべき時代のたどるべき道をお示し願いたい」

  これに答えて女性が言いました。

 「それはなりませぬ。私とあなたさまの間柄は、あなたさまと私との間柄と同じだからでございます。これより先も幾久しく二人ともども歩みましょう。ただ、たどるべき道は私が決めましょう。しかるべき道を私が用意いたします。

しかし、その道を先頭きって歩まれるのは、これからもあなたさまでございます」         
                                                                                            アーネル ± 
 

 十章 天上、地上、地下のものすべて (ピリピ2・10、黙次録5・13)

 1 地球進化の未来
   
一九一九年四月一日  火曜日

 やがて吾々が取り囲む虚空全体にふたたび静寂が行きわたりました。見るとお二人は揃って玉座の中に坐しておられます。女性の方から招き入れたのです。

 すると第十界まで軍団を率いてこられた方で吾々の地球への旅の身支度を指導してくださった大天使のお一人の声が聞こえてきました。玉座より高く、その後方に位置しておられました。こうお述べになりました。  
 
 「余の軍団の者、ならびに、この度の地球への降下に参加を命じられた者に告ぐ。ただ今の顕現はこれよりのちの仕事に理解をもって取り組んでもらうために催されたものである。

その主旨については、指揮を与える余らもあらかじめ知らされてはいたが、今あらためて諸君にお知らせした次第である。よく銘記せられ、前途に横たわる道をたじろぐことなく前進されたい。

父なる神は吾らの最高指揮官たるキリストに託された仕事のための力をお授けくださる。

キリストを通じてその霊力の流れがふんだんに注がれ、使命の達成を可能にしてくださるであろう。吾らが創造主への崇敬の念を片時も忘れまいぞ」

 言い終るのと時を同じくして燦然と輝く霧が玉座に漂い、やがて地球全体をおおいはじめ、もはや吾々の目に地球の姿は見えなくなりました。おおい尽くすと全体がゆっくりと膨張をはじめ、虚空の四分の一ほどにもなったところで膨張を止めました。

すると今度はそれが回転しはじめ、次第に固体性を帯びていくように見えてきました。固いといっても物質が固いというのとは異なります。物的地球が半透明になるまで精妙(エーテル)化した状態を想像されれば、大体のイメージはつかめるでしょう。

 地軸を中心にして回転していくうちに、こんどはその表面に陸と海の形が現れました。今日の地形とは異なります。吾々はいま未来の仕事の場を見せられているのです。現在の地形が変化しているごとく、それも次第に変化していたのですが、変化のスピードは速められていました。

つまり来るべき時代が短縮されて眼前に展開し、吾々はそれを動くモデルとして読み取っていたわけです。

 さらにその上に都市、民族、動物、それにさまざまな用途の機械類が出現しました。かくして全表面を吾々の方角へ向けながら回転し続けているのを見ていると、その進化の様子が手にとるように分かりました。

 たとえば貴殿の国を見てみましょう。最初は二、三年後の姿が目に入りました。やがてそれが視界から消え、そして次に見えた時は沿岸の形状や都市と住民の様子が少し変化しておりました。

こうして地球が回転するごとに陸地をはじめとして人類全体、建築物、交通機関、そのほか何万年、何十万年もの先までの人工の発達の様子が千年を数時間の単位に短縮されて出現しました。
私の説明はこうして用語を貴殿の感覚に置きかえなくてはなりません。

吾々にとって年数というのは、地上の人間とは感覚的に同じものではありません。

 もっとも、こうした形で私が人類に代わって遠い未来という深海で漁をしてあげるのは許されないことでしょう。人類は自分の夕食の魚は自分の網で取らなくてはいけません。

それが筋というものです。もっとも、よい漁場を教えてあげることくらいのことは私にも許されています。この私を信頼のおける漁船団長と思ってくださる方は、どうぞ私の海図にしたがって探求の旅へ船出してください。

 さて地球は永い永い年月にわたる航海を続けるうちに、ますます美しさを増してきました。表面の光が増し、大地そのものも内部からの輝きを増しておりました。

また人間は地球上でさほどせわしく東奔西走している様子は見えません。それというのも大自然の摂理との調和が一段と進み、その恩寵にますます敬服し、激情に振り回されることも少なくなり、内省的生活の占める割合が増えているからです。

かくして地球のすべての民族が協調性を増し、同時に霊力と安らかさとを送りやすくなった吾々との一体性も増しております。

 吾々はその一体性が進むのを見ていて、吾々がかつて数々の戦乱の末に獲得した豊かな幸福をこの人類の若き同胞たちが享受してくれていることを知り、興奮さえ覚えるのでした。
 やがて地球そのものも変化しておりました。それを述べてみましょう。

 貴殿をはじめ、最近の人間の精神の中に新しい用語が見られます。サイコメトリという言葉です。これは物体に刻み込まれた歴史を読み取る能力と私は理解しております。

実はそれには人間がエーテルと呼んでいる成分の本性と、その原子に内在するエネルギーを知り尽くすまでは十分に理解できない真相が隠されております。

いずれ人間がこのエーテルという宇宙的安定基剤(コズミックバラスト)を分析的かつ統合的に扱うことができる時代が来ます──地球が回転するのを見ていてそれを明瞭に観察したのです。

その時になれば今人間が液体やガス体を扱うようにエーテル成分を扱うようになるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。現段階の人間の身体はまだまだ洗練が十分でなく、この強力なエネルギーを秘めた成分を扱うには余ほどの用心がいります。

当分は科学者もそこに至るまでの下準備を続けることになるでしょう。   
                                                                                              アーネル ± 
 
   
      2 宇宙的
(コズミック)サイコメトリ
   
一九一九年四月二日  水曜日

 それ故そうしたサイコメトリ的バイブレーションは──吾々が物質を研究した上での結論ですが──物質に瀰漫(びまん)するエーテルに書き込まれている、ないしは刻み込まれているのです。それだけではありません。

エーテルが物質の成分に作用し、それによって活性化される度合によって、その物質の昇華の度合が決まっていきます。

つまり活性化された成分が外部からエーテルに働きかけ、浸透し、それを物質との媒介物として活用するのです。物質の成分は地上の化学者も指摘するとおりエーテルの中に溶解した状態で存在するわけです。

その点は地上の化学者の指摘は正しいのですが、その辺は大自然の秘奥の門口であって、その奥には神殿があり、さらにその先には奥の院が存在する。

物質科学の範疇を超えてエーテル界の神殿に到着した時、その時はじめて大自然のエネルギーの根源がその奥の院にあることを知ることになります。その奥の院にこそ普遍的〝霊〟が存在するのです。
 
  これで大自然のカラクリがお分かりになると思います。普遍的な〝霊〟が外部から、つまり基本的成分がエネルギーの量においても崇高性の度合においてもすべてをしのぐ界層から活発にエーテルに働きかけます。その作用でエーテルが活性化され、活性化されたエーテルがさらに物質の基本分子に作用し、そこに物質という成分が生まれます。

 ただし、この作用は機械的なものではありません。その背後に意志が働いているのです。意志のあるところには個性があります。

つまるところエーテルに性格を賦与するのは個性をもつ存在であり、その影響がそのまま物質に反映されていきます。それ故こういうことになります───エーテルを通して物質に働きかける霊的存在の崇高さの程度に応じて、物質の成分の洗練の度合が高くもなり低くもなる、ということです。(第一巻P217参照)

 ということは地球そのもの、および地球上の全存在物を構成している物質の性質は、それに向けて意識的に働きかけている霊的存在の性格と共鳴関係にあるということです。両者は物質に宿っているかいないかの違いがあるだけで、ともに霊(スピリット)なのです。
 
 したがって地球人類が霊的に向上するにつれて(未来の)地球もそれを構成する成分に働きかける影響力に対して、徐々にではあっても着実に反応していきました。

物質がより洗練され、より精妙化されていきました。内部からの輝きを増していったのはそのためです。これは宇宙規模のサイコメトリにほかなりませんが、本質的にはいま地上に顕現されているものと同一です。

 地球ならびに地球人類の精妙化が進むにつれて霊界からの働きかけもいっそう容易になっていき、顕幽間の交信も今日よりひんぱんになると同時に、より開放的なものとなっていきました(※)。

そして、途中の階段を省いて結論を急げば、顕幽間の交信がごく当たり前のものとなり、且つ間断なく行われる時代にまで到達しました。そしてついにこれからお話する一大顕現が実現することになります。(※シルバーバーチは霊格が向上するほど自由意志の行使範囲が広くなると述べている──訳者)

 が、それをお話する前に述べておきたいことがあります。私の話は太陽およびその惑星系にしぼり、遠い銀河の世界のことは省きます。 
 
  地上の天文学者は自分たちが確認した惑星をすべて〝物的天体〟としております。さらに、それらの惑星を構成する物質がその成分の割合において地球を構成する物質と同一でないことも発見しております。

しかしもう一歩進んで、物質の密度の差を生じさせる原因の一つとして、もう一つ別の要素が存在するところまでは気づいておりません。

それが私がこれまで述べてきた霊的要素で、それが惑星系の進化の長旅において地球より先を歩んでいる天体の進化を促しているのです。

 実はそれ以外に地上の人間の視力では捉えることの出来ない別の種類の惑星が存在するのです。精妙化がすでに物質的段階を超えてエーテル的段階に至っているのです。霊的までは至っていません。物質的状態と霊的状態の中間です。

その種の天体の住民には地球を含む惑星系のすべてが見えます。そして強力な影響力を行使することができます。それは、地球人類より進化はしていても、霊格において霊界の住民よりはまだ地球人類に近いからです。

 それはそれなりに、れっきとした惑星なのです。ところが、それとはまた別の意味でのエーテル的天体がいくつか存在します。その一つが地球を包みこむように重なっております。その天体の構成するエーテルの粗製状態のものが地球に瀰漫しているのです。

と言って、地球のためだけの存在ではありません。また、のっぺらとしたベルト状のものではなく、表面には大陸もあれば海もあり、住民もいます。

その大半はかつて地球上で生活したことのある者ですが、中には一度も地上生活の体験のない者もいます。血と肉とから成る身体としての顕現の段階まで達していないのです。
 

 ──いわゆる幽界のことでしょうか。

 その名称は使用する人によって必ずしも同じように理解されておりませんが、貴殿の理解しているものに従って言えば、私のいうエーテル的天体は幽界とは違います。

今お話したとおりのものです。聞くところによれば、そこに安住している人間に似た住民はみな、ずいぶん古くからの生活者で、これから先いつまでそこに住んでいられるか確かなことは不明であるとのことです。彼らは太古の地球人類の一種の副産物なのです。
 

 ──あなたがこの地球へ降りてこられる時はそのエーテル的天体を通過してくるわけですか。

 場所的に言えばそういうことになります。が、通過する際にその環境に対して何の反応も感じません。感覚的にはその存在を感じていないということです。私がこれまで第一界、第二界、第三界と呼んできた界層とは何の関係もありません。

造化の系列が別で、実に不可思議な存在です。吾々の行動の場から離れており、したがって詳しいことはほとんど知りません。

さきほど申し上げたことは──あれ以外にもう少し多くのことが判っておりますが──これまでそうした別の要素の存在を知らなかったがために理解に苦しんでいたことを説明するために教えていただいたことです。それでやっと得心がいったことでした。   
                                                                                              アーネル ±


      3    精霊とその守護天使の群れ  
       一九一九年四月六日 木曜日  
 
 さて、地ならしができたところで、お約束の顕現の話に入りましょう。その主旨は吾々にこれから先のコースをいっそう自信を持って進ませるために、現在の地上人類の進化がいかなる目標に向かって進行しつつあるかを示すことにありました。  
 
  吾々の目の前に展開する地球はすでにエーテル的なものと物的なものとが実質的にほとんど同等の位置を占める段階に至っております。

身体はあくまで物質なのですが、精妙化が一段と進んでかつての時代──貴殿の生きておられるこの現代のことです──よりも霊界との関係が活発となっております。

 地球そのものが吾々の働きかけに反応して高揚性を発揮し、地上の植物が母親の胸に抱かれた赤子にも似た感性をもつに至っております。

 その地上にはもはや君主国は存在せず、肌の色が今日ほど違わない各種の民族が一つの連合体を組織しております。

 科学も現在の西欧の科学とは異なり、エーテル力学が進んで人間生活が一変しております。もっとも、この分野のことはこれ以上のことは述べないでおきましょう。私の分野ではないからです。

以上のことはこれから顕現される吾々への教訓を貴殿にできるだけ明確に理解していただくために申し上げているまでです。

 さて地球は地軸上でゆっくりと回転を続けながら内部からの光輝をますます強め、それがついに吾々までも届くようになり、それだけ吾々も明るく照らし出されました。

するとその地球の光の中から、地球の構成要素の中に宿る半理知的原始霊(いわゆる精霊のことで以下そう呼ぶ──訳者)が雲霞のごとく出てきました。奇妙な形態をし、その動きもまた奇妙です。その種のものを私はそれまで一度も見かけたことがなく、じっとその動きに見入っておりました。

個性を持たない自然界の精霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働いているものとがあります。

鉱物の精霊はこの分野を担当する造化の天使によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。

が、植物の精霊になるとその分野の造化の天使から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

 同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状態にすぐ表れます。たとえば性質の相反する二つの鉱物、あるいは共通した性質をもつ二つの鉱物を、化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応もともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

 ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。

しかしこれが動物界になると、その精霊も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また造化の天使も整然とした態勢で臨んでおります。
 
 その精霊たちが地中から湧き出て上昇し、地球と吾々との中間に位置しました。すると今度はその精霊と吾々との間の空間から造化の天使たちが姿を現しました。現実には常に人間界で活動しているのですが、地上にそれに似た者が存在しませんので、その形態を説明することは出来ません。

一見しただけで自然界のどの分野を担当しているかが判る、と言うに留めておきましょう。大気層を担当しているか、黄金を扱っているか、カシの木か、それとも虎か───そうした区別が外観から明瞭に、しかも美事に窺えるのです。

形、実質、表情、衣──そのすべてに担当する世界が表現されております。もっとも衣は着けているのといないのとがあります。

いずれにせよ、その造化の天使たちの壮観には力量の点でも器量の点でも言語を絶した威厳が具わっております。それぞれに幾段階にもわたる霊格を具えた従者をしたがえております。

その従者が細分化された分野を受けもち、最高位の大天使と、動物なり植物なり鉱物なりとの間をつないでおります。

 さて、その天使群が地球の光輝の中から湧き出てきた精霊たちと合流した時の様子は、いったいどう叙述したらよいでしょうか。こう述べておきましょう。

まず従者たちが精霊へ向けて近づきながら最高位の大天使を取り囲みました。かくまうためではありません。ともかく包み込みました。すると精霊たちもそのいちばん外側の従者たちと融合し、その結果、地球のまわりに美しい飾りのようなものが出来あがりました。

 かくして地球はかつてない光輝を発しながら、あたかも玉座を納めたパピリオンのカーテンのごとく、上下四方を包むように飾る、生き生きとした精霊群の真っ只中にありました。今や地球は一個の巨大な美しい真珠のごとく輝き、その表面に緑と金色と深紅と琥珀色と青の縞模様が見えていました。

そしてその内部の心臓部のあたりが崇敬の炎によって赤々と輝いて見え、造化の天使とその配下の無数の精霊に鼓舞されて生命力と幸福感に躍動し、その共鳴性に富む魅力を発散しておりました。    
 
 その時です。生き生きとしたその飾りの下からキリストの姿が出現しました。完成せるキリストです。かつてのキリストの叙述にも私は難儀しましたが、いま出現したキリストを一体どう叙述したらよいでしょうか。途方に暮れる思いです。

 おからだは半透明の成分でできており、地球ならびにそれを取り巻く無数の精霊のもつ金色彩をみずからの体内で融合させ完全な調和を保っておりました。そのお姿で、煌々たる巨大な真珠の上に立っておられます。

その真珠は足もとでなおも回転し続けているのですが、キリストは不動の姿勢で立っておられます。地球の回転は何の影響も及ぼしませんでした。

 衣服は何も着けておられませんでした。が、その身辺に漂う生命の全部門の栄光が、その造化にたずさわる大天使を通して澎湃(ホウハイ)として押し寄せ、崇敬の念の流れとなって届けられ、それが衣服の代わりとしておからだを包み、お立ちになっている神殿に満ちわたるのでした。

 お顔はおだやかさと安らかさに満ちておりました。が、その眉にはお力の威厳が漂っておりました。神威がマントのごとく両肩を包み、紫がかった光に輝く豊かな起伏を見せながら背後に垂れておりました。

 かくして吾々は地球を囲みつつキリストの上下四方に位置していたことになります。もっとも、キリストにとっては前も後ろも上も下もありません。

吾々のすべてが、吾々の一人一人が、キリストのすべて──前も後もなく、そっくりそのままを見ていたのです。貴殿にはこのことが理解できないことでしょう。
でもそう述べるほかに述べようがないのです。その時の吾々はキリストをそのように拝見したのです。

 そう見ているうちに、無数の種類の創造物が各種族ごとに一大合唱団となってキリストへの讃仰の聖歌を斉唱する歌声が響いてきました。それが創造的ハーモニーの一大和音(コード)となって全天界ならびに惑星間の虚空に響きわたり、各天体をあずかる守護の天使たちもそれに応唱するのでした。

 それほどの大讃歌を地上のたった一つの民族の言葉で表現できるはずがないのは判り切ったことです。でも、宇宙の一大コンサートの雄大なハーモニーの流れに吾々の讃仰の祈りを融合させて、その聖歌の主旨だけでも、私にできるかぎりの範囲で表現してみましょう。

  「蒼穹の彼方にははたして何が存在するのか、私どもは存じませぬ。地球はあなたの天界の太陽が放つ光の中のチリほどの存在にすぎぬからでございます。

しかし父なる大神のキリストにあらせられるあなたの王国の中のこの領域を見てまいりました私どもは、このことだけは確信をもって信じます──すべては佳きに計らわれている、と。

 私たちの進む道において、この先、いかなることが永却の彼方より私たちを出迎えてくれるや、いかなる人種が住むことになるや、いかなる天使の支配にあずかることになるや──こうしたことも私たちは今は存じませぬ。

それでもなお私たちは恐れることなく進み続けます。ああ、よ、私たちはあくまでもあなたのあとに付いて参るからでございます。力と愛とが尊厳の絶頂の中で手に手を取ってあなたの両の肩に窺えます。

 父なる神がいかなるお方であるか──それは最愛の御子たるあなたを拝しお慕いしてきて、私どもはよく理解できております。あなたを逢瀬の場として私どもの愛がの愛と交わります。私どもはをあなたの中において知り、それにて安んじております。

 よ、私どもの目に映じるあなたは驚異に満ち、かつ、この上なくお美しい方であらせられます。しかし、それでもなお、あなたの美のすべては顕現されておりませぬ。それほど偉大なお方であらせられます。

 本来の大事業において私どもは心強く、楽天的に、そして恐れることなくこの身を危険にさらす覚悟でございます。叡智と力と創造的愛の完成せるキリスト、私たちはあなたの導かれるところへ迷わずあとに続いてまいります。

 私たちは霊格の序列と規律の中で、あなたへの崇敬の祈りを捧げます。何とぞあなたの安らぎの祝福を給わらんことを」      
                                                                                         アーネル   ±                                                                                                                           (完)


       訳者あとがき

 前巻の〝あとがき〟の最後のところで私は〝いよいよ翻訳に取りかかる時は、はたして自分の力で訳せるだろうかという不安が過(よぎ)り、恐れさえ覚えるものである〟と述べた。

結局四度この不安と恐れを味わい、いまやっと全四巻を訳し終えた。
長い長いトンネルをやっと抜けたといもう事実は事実であるが、そこにホッとした安堵感も満足感もない。

はたしてこんな訳でよかっただろうかという不安とも不満ともつかぬ複雑な感慨が過(よぎ)る。

 とくにこの第四巻は訳が進むにつれて私の置かれている立場の厳粛さと責任を痛感させられることになった。単に英語を日本語に直す訳者としての責任を超えて、天界の大軍が一千有余年の歳月をかけた地球浄化の大事業に末端的ながらも自分も係わっているという自覚から遁れるわけにいかなくなった。

これは自惚れとか尊大とかの次元を超えた、いわく言い難い心境である。本通信の重大性を理解してくださった方ならば、そういう自覚と責任感なしに訳せるものではないことはご理解いただけるであろう。

 この道の恩師である間部詮敦氏(以下先生と言わせていただく)との出会いは私が十八歳の高校生の時で、そのとき先生はすでに六十の坂を越えておられた。

その先生がしみじみと私に語られたのが〝この年になってやっと自分の使命が何であるかが判ってきました〟という言葉であった。私は〝先生ほどの霊格をおもちの方でもそうなのか〟といった意外な気持ちでそれを受けとめていたように思う。

その私が五十の坂を越えて同じ自覚をもつに至った。この心境に至るのに実に三十年の歳月を要したことになる。

 ここで改めて打ち明けておきたいことがある。実はその出会いから間もないころ先生が私の母に、私が将来どういう方面に進む考えであるかを非常に改まった態度でお聞きになられた。(そのとき先生は私の将来についての啓示を得ておられたらしい)

 母が「なんでも英語の方に進みたいと言っておりますけど・・・・・・」と答えたところ、ふだん物静な先生が飛びあがらんばかりに喜ばれ、びっくりするような大きな声で、

 「それはいい! ぜひその道に進ませてあげて下さい」とおっしゃって、私に課せられた使命を暗示することを母に語られた。何とおっしゃたったかは控えさせていただく。ともかくそれが三十年余りのちの今たしかに実現しつつあるとだけ述べるに留めたい。

 母はそのことをすぐには私に聞かせなかった。教育的配慮の実によく行き届いた母で、その時の段階でそんなことを私の耳に入れるのは毒にこそなれ薬にはならないと判断したのであろう。私が大学を終えて先生の助手として本格的に翻訳の仕事を始めるようになってから「実は・・・・・・」といって打ち開けてくれた。 
 
   母は生来霊感の鋭い人間であると同時に求道心の旺盛な人間でもあった。当市(福山)に先生が月一回(二日ないし三日間)訪れるようになって母が初めてお訪ねしたとき、座敷で先生のお姿を一目見た瞬間〝ああ、自分が求めてきた人はこの方だ〟と感じ、〝やっと川の向う岸にたどり着いた〟という心境になったと語ったことがある。

 それに引きかえ父は人間的には何もかも母と正反対だった。〝この世的人間〟という言葉がそのまま当てはまるタイプで、当然のことながら心霊的なことは大きらいであった。

それを承知の母はこっそり父の目を盗んで私たち子供五人(私は二男)を毎月先生のところへ連れていき、少しでも近藤家を霊的に浄化したいと一生けんめいだった。

やがてそのことが父に知れた時の父の不機嫌な態度と、口をついて出た悪口雑言は並大抵のものではなかったが、それでも母は自分の考えの正しいことを信じて連れて行くことを止めなかった。

 そのころ運よく当市で催された津田江山霊媒による物理実験会に、それがいかなる意義があるかも知らないはずの母が兄と私の二人を当時としては安くない料金を払って出席させたのも、今にして思えば私の今日の使命を洞察した母の直感が働いたものと思う。

当時は津田霊媒も脂の乗り切った時期で、『ジャック・ウェーバーの霊現象』に優るとも劣らぬ現象を見せつけられ、その衝撃は今もって消えていない。

 当時のエピソートは数多いが、その中から心霊的にも興味あるものを一つだけ紹介しておきたい。

 当時の母は一方では近藤家のためだと自分に言い聞かせつつも、他方、そのために必要な費用はそのことを一ばん嫌っている主人が稼いでくれているものであり、しかもそれを内しょで使っているということに心の痛みを覚えていた。

そこである夜、先に寝入って横向きになっていびきをかいている父に向かって手を合わせ〝いつも内しょで間部先生のところへ行って済みません。

きっと近藤家のためになると思ってしていることですから、どうかお父さん許してくださいね〟と心の中で言った。すると不思議なことに、熟睡しているはずの父が寝返りをうちながら〝ああ、いいよ〟と言った。それを見て母は〝ああ、今のは守護霊さんだ。

守護霊さんは分かってくださってるんだ〟と思って、それまでの胸のつかえがきれいに消えたという。けだし母の判断は正解であった。私はこの話を母から二度も聞かされたが、この話には母の人間性のすべてが凝縮されているように思う。

〝苦〟と〝忍〟の中にあってなお思いやりの心を忘れないというのは、宗教的な〝行〟の中よりもむしろこうした平凡な日常生活での実践の方がはるかに難しいものである。

シルバーバーチが〝何を信じるかよりも日常生活において何を為すか──それが一ばん大切です〟と述べているのはそこを言っているのである。

 母はこうした心霊的なエピソートがいろいろとあるが、今そのすべてを語っている余裕はない。ともかくそれらのすべてが今私がたずさわっている英国の三大霊訓およびこれから発掘されていくであろう人類の霊的遺産の日本への紹介という仕事につながっていることを、今になってやっと痛感させられているところである。

 私は最近その母のことを生身の背後霊だったとさえ思うようになった。母にも母なりの人生があったことであろうが、その中での最大の使命は私を間部先生と縁づけ、そして以後ずっと勇気づけ父から庇ってくれたことにあったように思う。

あるとき母が少しはにかみながら私に一通の封書を見せてくれた。間部先生からの達筆の手紙だった。読んでいくうちに次の一文があった──〝あなたのような方を真の意味での人生の勝利者というのです・・・・・・〟母にとってこれ以上の慰めとなる言葉はなかったであろう。

 では父はどうかと言えば、最近になって私は、そういう父なかりせば果たして今日の私にこれだけの仕事ができたかどうか疑問に思うことがある。

もしも父が俗に言う人格者(これは大巾に修正を必要とする言葉となってきたが)で聞き分けのいい人間だったら、こうまでこの道に私が情熱を燃やすことにはならなかったのではないかと思われるのである。

  母は真の人生の指導者を求め続けてそれを間部先生に見出した。そしてそれを千載一遇の好機とみて、父から何と言われようと、何とかして子供を先生に近づけようとした。

そして私が大学を終えたのち父の期待を裏切って何の定職にもつかずに先生のもとへ走ったことで父が激高し、その責任を母になすりつけても、母は口応えすることなくじっと我慢して耐えてくれた。

こうしたことの一つ一つが節目となって私はこの道にますます深入りしていった。そうした観点から見るとき、その父の存在もまた神の計画の中に組み込まれていたと考えることができる。今ではそう信じている。

 その父がこの〝あとがき〟を書いている日からちょうど一か月前に八三歳で他界した。

母がいかにも母らしくあっさりと十年前に他界したのとは対照的に、父は二年間の辛い療養生活ののちに息を引き取った。二年前、私の『古代霊は語る』が出て間もないころに脳こうそくで倒れたのであるが、その時はすでに私のその本をひと通り読み通していて、〝すらすらと読めるからつい最後まで読んじゃった。

もう一度読み直そうと思っているよ〟と語っていた。それから一週間もしないうちに倒れて長男の家で療養を続けていたのであった。

 その父が一週間前にやっと私の夢に姿を見せてくれた。白装束に身を包み、元気だった頃とは見違えるほどアクの抜けた顔で立っていたが、私が顔を向けるとうつむき終始無言のままだった。

これから修行の旅にでも出かけるような出で立ちで、ひとこと私に言いたいことがあるような感じがした。

それは口にこそ出さなかったが、かつての父に似合わず小さくなっている態度が私に言葉以上のものを物語っていた。
私が他界した時はぜひ母とともに笑顔で迎えてくれることを祈っている。

 父と母と私、それに間部先生の四人によるドラマはすでに終り、私は曲がりなりにも与えられた使命を果たしつつある。その間の数えきれないほどの不愉快な出来ごとも、終ってしまえばすべてが懐かしく、そして何一つ無駄ではなかったことを知らされる。
 
 あとは、最初に述べたように、果たしてこんな訳でよかったのだろうかという責任感が残るばかりである。その重大性を知るからこそ責任感も痛切なものとなる。

 が、シルバーバーチがよく言うように、人生は、この世にあろうとあの世にあろうと、すべてが途中の階梯である。この霊界通信は通信霊の古さのせいで原典そのものが古風な英語で書かれており、私はこれを原典のそれなりの味を損なわない程度に現代風にアレンジして訳したつもりであるが、それもいつかは古すぎる時代がくるであろう。

それは人間界の常としてやむを得ないことである。その時代にはその時代で有能な人材が用意されていることであろう。そう期待することで一応、訳者としての肩の荷を下ろさせていただきたい。

 訳の是非は別として、この通信そのものは私が改めて解悦するまでもなく、これまでの〝死後の世界〟についての概念に大巾な修正を迫る重大な事実を数多く含んでいると信じる。

日本の神ながらの思想をはじめとして世界各地の古代思想において神話風に語られてきている天地創造の真相を〝霊〟の〝物質〟への顕現としてとらえ、さらに宇宙のチリほどの存在にすぎない地球の過去一千有余年にわたる特殊事情を説き、それが現在のスピリチュアリズムの潮流につながっている事実を示唆している。

 いずれ日本にも日本人に親しみやすい形での〝新しい啓示〟が与えられる日が到来することであろうが、私見によればそれは、こうした西洋的啓示によって日本人特有の〝霊〟についての曖昧かつ摩訶不思議的概念を改められ、霊こそ実在とした合理的かつ論理的概念を十分に摂取してからのちのことになるであろう。その辺に本通信の日本人にとっての意義があると私は観ている。

 最後に、こうした特異な通信を快く出版してくださった潮文社に対して深い感謝の意を表したい。                                           (一九八六年)
 
 

 新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数、寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

    平成十六年二月     
                                 近藤 千雄
 
   
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