あなたの運勢を開く
  背後霊の不思議
 M・H・テスター著  近藤千雄訳
     発行所    潮文社
〝HOW TO BE HEALTHY,
    WEALTHY,  AND WISE〟
         BY  M.H.  TESTER
  Published by Psychic Press Ltd.,
      23  Great Queen Street,
  London WC 2B 5BB. ENGLAND
 

          目 次
 まえがき
第一章 なぜ病気になるのか
第二章 健康へのカギ
第三章 心霊治療家の仕事
第四章 生命の源にプラグを差し込め
第五章 成功へのカギ
第六章 財運を招くコツ
第七章 本当の財産とは
第八章 満ち足りた人生を送るには
第九章 知恵を働かせるコツ
第十章 性生活の偏見をなくそう
第十一章 質問に答える
 あとがき
  付録『死』とは何か
   ──悩める人へのガイドブック        
       


                                                      


  ま え が き
 古来いずこの国でも〝早寝早起き〟の徳が説かれている。お国柄によってさまざまな意味が込められているのであろうが、とにかく早く床につき、グッスリ寝て、翌朝早く目が覚めれば気分は爽快だし、昨日の疲れもとれようし、イヤなことも、すっかりとは行かないまでも、ずいぶん忘れさせてくれる。

 こうなれば仕事もはかどることだろうし、万事が調子よくいくに違いない。これを西洋のことわざでは、

 「早寝早起きは人間を健康に、裕福に、そして懸命にする」

と言っているが、まさにその通りかもしれない。

 ところが世の中には早寝早起きのできない人がいる。早く床についても、なかなか寝つかれない人がいる。いくら寝ても寝たりない人がいる。こうしたこともまた事実である。あなたはいかがであろうか。

 人間だれしも人に好かれたいと思うし、よい人だと言われたいし、役に立つ人間でありたいと思う。また仕事の上で成功したいと願い、金銭上の悩みから解放されたいと思い、生き甲斐を感じたいとも思う。そしてまた、かりに悩みごとが生じても、それを立派に自分で解決できる人間になりたいと思うものである。

 本書はそうした願いや欲望をかなえさせる方法を説いたものである。病める人、悩める人には希望を与え、失敗した人には成功への秘訣を教え、無知なるが故に過ちを犯している人には知識を授けてあげたい。いわば人生のブループリント(青写真)を用意したつもりである。

 といって、ただ単にブループリントを用意しただけではない。そうしたさまざまな不幸の原因、つまりなぜ病気になったのか、なぜ失敗したのか、そこで、どうすればその原因が取り除けるか、どこをどう修正すればよいのか、といった点についても説いてある。

そうした私の処方箋を忠実に実行していただければ、必ずや健康で快適な生き生きとした人生を手にされるであろうことを自信をもって断言する。

 かく言う私は一介の心霊治療家である。一日およそ二十人から三十人の患者を治療しているが、その九十九パーセントまでが医学的に〝不治〟とされている人たちである。

 歩けない人、ものが言えない人など、医学から見放された人が私のもとに来ては杖を置いて帰り、「ありがとう」という言葉が言えるようになって帰って行く。そうした人たちからの感謝の手紙を週に何十通も受け取っている。

 そうした治療家としての体験を通して、私は人間および人生について普通では学べないものを数多く学んだ。いわば患者が私に教えてくれたわけである。

 病気になる人には病気になるような一つの型がある。その型にはまらないようにさえすれば病気は避けられる。また過去のそうした誤った型から脱して首尾よく健康を回復した人は、単に健康だけでなく、必ずそれ以外の何物かをも獲得してくれる。

すなわち人生に落ち着きと自信を取り戻し、現代生活の複雑さに耐えていけるだけの抵抗力といったものを身につけてくれる。

 こうして心身の病を治療できる私が、それを未然にふせぐ方法を知っていても不思議はないであろう。私は本書で、自信をもってそれを説いている。病気に代わって健康を与え、無知に代わって知識を授け、それを基盤として快適で生き甲斐のある人生を築いてもらうべく、いろいろな角度から説いた。

 「ではあなたはいかなる方法で治療するのか」
 そうお聞きになるかも知れない。

 実は私自身は何もしないのである。私はただ、患者に手を当てがって精神を統一するだけである。すると、辺りに遍在する心霊的生命力が私を通じて患者に流れ込む。ただそれだけのことである。

いわば私はラジオであって、アナウンサーではない。健康も成功もその生命力の波長にダイヤルを合わせさえすればよいのであるが、不健康な人はその生命の流れを日常生活におおて何らかの形で阻害してるのである。

 では、その障害とはどんなものか。そしてどうすれば自分でそれが取り除けるか。それは本書をじっくり読んでいただけばわかっていただけるはずである。






第一章 なぜ病気になるのか
 「自分はどうしてこんな目に合うのだろう。真面目に生きてきたつもりだ。間違ったことは何一つしていないはずだ。なのになぜ病気にならなきゃいけないんだ。なぜこのおれが・・・・・・」

 ごもっともである。なぜであろうか。その原因究明にとりかかるまえに、病気というものについて一つだけはっきりさせておきたいことがある。それは、病気というものは決してバチが当たってなるものではないということである。

 子供のころ、おとぎ話やお説教の中で聞かされた迷信めいた話が、大人になっても潜在意識の中に以外に根強く残っていて、それがいろいろなコンプレックスを生むことがあるものである。

 交通違反の点数制ではないが、何か人間の言行にも一定の点数があって、それをオーバーすると病気になるとでも思っている人がいるらしい。そんな人の頭の中には子供のころに見た白衣をまとった長老が今も控えていて、こう語りかけるのである。

 「コレコレ、お前は日曜日に教会へ行かなかったな。妹にいじわるをしたな。お父さんに口ごたえをしたな。寝る前にお祈りをしていないな。もういかん。お前をハシカにしてやる。よいな」と。

 が、こうしたバチ当たり的な因果関係は絶対にないことを、まずはっきり認識していただきたい。

 病気はバチが当たってなるものでは決してない。そうではなくて、病気になるようなちゃんとした原因があって病気になっているのである。

 心配ごとが絶えないと胃かいようになる。原因は心配であり、その結果が胃かいようという形で現れたのである。心の平静を失ってイライラしたり、明朗さを失ってふさぎ込んでしまう。そうした心の異常が病気を生むのである。

それをバチが当たったのだと言いたいのなら、バチを当てたのは当の本人に他ならない。たとえ話でわかりやすく説明してみよう。

 たとえばハイウェーをドライブしていて車がパンクしたとしよう。幸いスペアを用意していたし道具も備えてあったので、わけなく取り換えて再び車を走らせた。ところが間もなく、そのタイヤが外れて転覆事故となった。これはバチがあたったのだろうか。

 とんでもない。ナットの締め方が足らなかったのである。それが原因であり、結果が事故となったにすぎない。ところがそれだけではどうも気持ちがおさまらない。

出がけに靴のヒモが切れたのが原因だとか、途中で霊柩車を見たのがいけなかったとか、あれこれと昔からの迷信に適当な理屈をつけては後悔し、ふさぎ込んでいく。そして立派な病人になっていく。

 ただの事故でこの程度である。これが人をはねようものなら、どんなことになるかおよその想像はつくであろう。

 大部分の病気はこうした感情によって引き起こされているのである。なるほど、痛みや不快感はまぎれもなく身体的症状である。胃かいようになれば胃が痛む。これは胃壁の筋肉がひきつるからである。が、今日では胃かいようのそもそもの原因は、精神的なストレスであるというのが常識である。

 胃かいように限らない。大部分の病気がそうなのである。むろんこれは大ざっぱな言い方である。もしもあなたが今入院中であれば、

 「冗談じゃない。この痛みがなんで精神的なものか!」
と思われるであろう。ごもっともである。

 が、私が言わんとしているところをよく理解していただきたい。精神的なストレスがどういう過程をへて身体上の病気を引き起こすかを次に説明してみよう。

 人間の身体はきわめて複雑はメカニズムをしている。これまで人類が発明した機械工学、電子工学のすべてが体内に収められているといってもよい。現代の花形のコンピューターなども人体のコンピューターに比べればまるでオモチャのようなものである。それほど精巧なコンピューターが人体を支配してる。

 が、その働き、つまり人体の機能について、人間はいまだに驚くほど無知である。それでもはっきりしていることは幾つかある。ホルモンなどの分泌物のバランスが精密に保たれていること、糖分が過剰になると糖尿病になること、赤血球が不足すると貧血を起こし、血圧が下がりすぎると死亡する、血液の凝固が高まりすぎると血栓症を引き起こす、等々。

 人体のこうした生理上のバランスは化学物質のように過敏である。首筋が硬直すると頭痛をひきおこす。筋肉を被っている皮膜がけいれんを起こすとリュウマチになる。要するに人体のあらゆる部分のバランスが保たれている状態が健康なのであって、少しでもそれが崩れると何らかの病的症状が現れる。

 では、なぜバランスが崩れるのか。あなたが最初に投げかけられた疑問───自分はなぜこんな目にあうのだろう、という問いに対する答えを求めることにしよう。

 たとえ話から始めよう。

 さっきからあなたは揺り椅子に腰かけて、のんびりと書物を読んでいたとしましょう。そのうち心地よい眠気を催して寝入ってしまった。が、やがて突如として目をさました。あたりはまっ暗である。部屋にはあなた一人しかいない。

たしか物音で目をさましたはずである。街灯が通路を通って部屋の中までうっすらと影を運んでいる。よく見ると一人の男がピストルを手にして立っているではないか!

 あなたは恐怖のどん底におちいった。動機が早鐘のように打つ。冷汗が背筋を気味わるく流れおちる。こんな時、あなたの体内ではアドレナリンという物質が急速に高まっていく。

 また血球の数が異常に増えていく。血圧が一気に百ばかりハネ上がる。胃の幽門が閉鎖される。こうした変化はことごとく外敵からの攻撃に備えて、人体の指令室からの命令に従って生じているのである。

間もなく一代の車が通りかかり、そのヘッドライトによって一瞬部屋が明るくなった。瞬間その人影の正体がわかった。何のことはない。通路に置いてある彫像の影だったのである。ピストルに見えたのはそれに立てかけてあったステッキの持ち手だった。目をさまさせた物音は猫の仕業であった。

「こん畜生め! 人さわがせをしやがる!」

あなたはニガ笑いをしながら明りをつけ、ウィスキーでもひっかけてからタバコに火をつけ、再び本を読み始める。この時あなたの身体は自動的に休めの指令を発している。

 バランスが一瞬のうちに取り戻される。動悸はおさまり、脈はくも正常に戻り、全身の緊張がほぐれ、血球の異常増加も止まり、凝結度も血圧も正常値にさがる。呼吸も静かである。かくして身体に平和が戻った。

 これは極端なたとえであって、こうした事態はやたらにあるものではない。あったら大変である。時たまであればこそ、異常な生理現象もすぐに正常に戻るわけである。が、かりにこれに似たことが毎日のように、あるいは一日に何度となく生じたらどうであろう。恐怖でなくてもいい。カンシャクのようなものでも同じである。


 たとえばあなたが有能なビジネスマンだとしよう。朝出勤してまず机の上に積まれた手紙に目を通す。その一通に契約破棄が通告してあった。あなたの会社にとってそれはどうしても破棄されては困る大切な契約である。すでのそのために銀行から多額の融資を受けている。
 
 驚きが次第に怒りに変わってきた。

 「畜生! オレを何だと思ってやがるんだ! ようし見てろ。思い知らせてやる」

 そう思いながら、すぐさま秘書に命じて手紙の用意をさせる。顔が赤らんでいる。動悸が大きくなってきた。全身に異常事態発生の警報が鳴りわたる。血圧が上がる。凝結度が高まる。そのほか、前の例で述べたような生理現象が次から次へと生じる。

 手紙を書かせたあとタバコに火をつけ、コーヒーを飲み、イスに腰かけて、憮然とした表情で考え込む。

 その間わずか数分のことであるが、グッタリ疲れをおぼえる。

 こうしたことが一日数回あったとしよう。そして、こんな日が一カ月に何回かあったとしよう。一年では何百回にもなるであろうし、それを何十年も続けていると、たとえば血液の凝固性が慢性的に高まってしまう。

つまり凝血因子が血中に残るようになり、それが凝結して血液の流れを阻害するようになる。いわゆる血栓症である。また、血液がしょっ中はげしく上下するために血管が弾力性を失い、カッとなった時などに疲れて出血する。いわゆる脳いっ血である。

 これは精神的な例であって、これで死に至る人は少なくないが、死に至らない人がいわゆる病人となるわけである。

 胃かいようなどがそのもっともよい例である。心の不安定が胃液の分泌を狂わせ、胃酸が出すぎて絶えず胃壁を刺戟するために次第にただれてくる。これを胃かいようと言うのである。

 こうした感情によってひき起こされる病気が全体の何パーセントを占めるかは正確には言い難いが、ある医者は九十五パーセントという数字を出している。

 以前わたしは胃病の臨床記録を見せてもらったことがある。一般開業医から送られてきた細かい診察記録を分析したものであるが、それによると胃の病気の七十五パーセントが感情的な原因からきていることが分かった。

また、頭痛とか倦怠感、便秘、めまい、ノドの炎症、腹痛、首筋や背中の痛みなどは殆どが感情的なものに起因しているといっていいらしい。

 はっきりとした数字を出す専門家もいる。疲労倦怠感は九十%、便秘は七十%、頭痛は八十五%、ノドの炎症は九十%、胃の膨満感(ガスの発生)は九九・五%が感情によるという。

 医大などで使用するテキストにはほぼ千種類に及ぶ病名が記載されており、学生はこれをマル暗記させられるのであるが、病名はそんなにあっても、その大半の原因はただ一つ感情だというわけである。

 要するに精神の不安定が生理的なバランスを崩し、それがさまざまな病的症状を生んでいく。痛む、むかつく、疲れやすい、関節が凝る、そのほか、できもの、機能不全、便秘、ノイローゼにも似た不快感、といったような日常聞き慣れた症状が次々と出てくる。

 が、誰が悪いのでもない。何が悪いのでもない。あなた自身の心構えが悪いのである。


 身体の整理的バランスをコントロールしている中枢は幾つかあるが、中でも一ばん重要な働きをしているのが脳下垂体である。大脳の下部に位置し、エンドウ豆ほどの大きさである。これが警報に対して一ばん敏感に反応を示すが、意識的にコントロールすることはできない。

 そのことは内臓器官につても言えることである。手を握りしめたり開いたりすることは意識的にできるが、心臓の機能はそれができない。つまり脈はくとか血圧といった、生理上のバランスを保持するための機能を意識的に変えることは不可能なのである。

ましてや、そういった機関を管理している脳下垂体のような中枢機関は意識的にはどうしようもない。

 たとえば今、何かで大失敗をして気落ちしているとしよう。こんな時「なにをクヨクヨしているか。案ずることはない。そのうち思いがけないことが起きて、きっとうまく行くさ」と自分に言い聞かせても気分は一向に晴れないであろう。

 あるいは頭がズキズキ痛む。首筋が凝っているからだということはわかっていても、その凝っている筋肉に向かって、「ラクにしろ!」と命じても始まらない。


 「ではわたしの場合はどうなのでしょう。わたしはめったに腹を立てないし、こわい目にあうこともないのですが、それでも何かと病気がちです」

 こんな読者もおられるであろう。が、怒りとか恐怖心ばかりが病気の原因なのではない。ほかにも不健康な悪感情はたくさんある。その代表とも言うべきものが〝不安〟である。

 われわれ地球人は今まさに〝不安の時代〟に生きている。第二次世界大戦後も小規模とはいえ戦火の絶え間がない。地上が平和でない証拠である。世界では戦慄すべき核兵器の生産競争が際限もなくエスカレートし、それがひいては世界経済を圧迫している。

 第三次世界大戦への不安が日ましに現実性を帯びてきている。一たび大戦となろうものなら、二十四時間以内に地球全土を廃墟と化すに十分な兵器が貯えられているといわれる。現在の人類はその危険を完全におさえ切るほど大人になりきっていないし、その能力があるとも思えない。

 もしかしたら故意にではなく、うっかりして国境を侵犯した行為に対してコンピューターが核兵器発射の命令を指示するかもしれない。そうなったら一瞬のうちに大量殺人が行われる。

今、アメリカや西洋諸国ではヒッピーのような若者がわけのわからぬ儀式や偶像崇拝に夢中になっているが、二十歳になるその一人がこんなことを私に言ったことがある。

 「オレたちはョ、しょせん三十まで生きられっこねェのさ」

 要するに「はたして自分は生き永らえることができるか」というのが現代の人類に共通した大きな不安なのである。

 また、こうした不安に加えて、唯物的商業主義が生み出すさまざまな煩わしさも病気の諸因となっている。新聞、雑誌、テレビなどが次から次へと魅力的な広告宣伝をやる。警戒しているつもりでも、やはり以前に比べると買わないでいいものを知らないうちに買わされている。

 カラーテレビを買って大喜びしたのはついこの間のこと、今では二代目、三代目を買い込んでいる。買うために貯金をする必要もない。「お持ち帰りは今、お支払いはボーナス時で結構」とくるから、つい気楽に買ってしまう。

冷蔵庫しかり、洗濯機しかり、クーラーしかり、セントラルヒーティングしかり、衣服などもシーズン毎に新しいものを買わされる。海外旅行も、しない者は時代遅れのような感じがして、つい行ってしまう。

 しかし常識的に考えて、こうした出費が全部きれいにまかなえるはずはない。揃えるものは揃え、やりたいことをやったあとに残るものは赤字である。ローンという負わずもがな重荷を背負い、赤字を埋めるための煩わしい戦いが始まる。これはおそらく誰しも身に覚えのある気苦労の最たるものであろう。

 かくして、果たして何歳まで生き残れるかという未来への不安に加えて、その日その日の金銭的な気苦労が重なるわけであるが、これにさらにもう一つの病的不安が加わる。すなわち〝過去への後悔〟である。

 人間誰一人として過ちを犯さない人はいない。それ自体は少しも悪いことではない。否、むしろ失敗とは、いわば人生勉強を自学自習しているようなものであって、その意味で失敗のない人には進歩はないと言ってもよいであろう。

 が、失敗してそこから何かを学びとる態度と、失敗をくやみ、ふさぎ込んでしまうのとでは大いに違ってくる。失敗から生ずる不安と恐怖、こうした感情は体内に複雑な不調和音を鳴りひびかせ、正常なコンピューターの働きを徐々に狂わせていく。

 調和を乱す悪感情は他にもまだまだ沢山ある。うぬぼれ、どん欲、肉欲、いやしさ、ねたみ、怠惰、これに前に述べた怒りを加えて、神学では〝七つの大罪〟と呼んでいるが、何も神学流にむずかしく考えることはない。要するに自然への反逆と考えればよいわけで、これらの不自然の繰り返しが病気という不自然な結果を生む。これをもう一つ別なたとえで説明してみよう。これは実際にあった話である。


 あるアメリカの開業医が忙しい毎日を送っていた。それまで頼りにしていた看護婦が結婚してやめてしまったからであるが、代わりの看護婦がなかなか見つからない。反対に患者の方は一向に減らない。オーバーワークを重ねているうちに、ついに肩の組織炎を生じてしまった。

 有能な医者だから組織炎が単なる筋肉のケイレンにすぎないこと、それもほとんどが感情的に誘発されるものであることを熟知していた。が、理屈はわかっていても思うようにはならなかった。いつしか、いけないと思いながらも痛み止めを常用するようになった。

 が、ある時面白い事実に気がついた。思い切って午後を休診にして魚つりに行ったときのことである。釣り糸をtれてノンビリと構えている間はまったく痛みを覚えないのに、家路について我家に近づくにつれて、次第に痛みを感じ始めるのである。

 何ごとも学問的に分析しないと気がすまない彼は、こんど釣りに行く時どの辺りから痛みが止まるかを確かめることにした。その日は朝から痛み止めを服用せず、じっと我慢して、いつどこで痛みが止まるかを注意していた。

やがて急に痛みが消えた。それまでの激痛がウソのように消えている。彼はすぐにハンドルをまわしていま来た道をもどってみた。すると千メートルもいかないうちにまた激痛が戻った。

 彼は正確な位置をつきとめようと、またハンドルをまわして逆戻りしてみた。すると二、三分も行かないうちに痛みが消えた。彼はそれを何回か繰り返して正確な位置を確かめ、あたりを見渡した。そこは郊外のハイウェーで、彼の車以外は一台も走っていない。

見わたすかぎり草原が広がっている。と、一つの看板が目に入った。それには〝州境界線〟としるしてあった。

 結局こういうことだったのである。アメリカでは州ごとに担当地区がきめられているので、彼にとってその州境界線を越えたとたんに〝ここはもう自分の担当区域ではない〟という意識が働いて、無意識のうちに責任からの重圧から解放されていたのである。

これが再び境界線に入ると潜在意識が担当医師としての責任感を意識して、それが反射的に組織炎を誘発していたわけである。

 では、原因がそうとわかって彼の痛みが消えたかというと、そうはいかなかった。

単なる知識だけではこの種の病気は治らない。そのうちに看護婦が見つかってラクにはなったが、仕事に対する責任感と重圧感は抜け切れず、相もかわらず釣りに行った時以外は激痛に悩まされた。

特に重病患者を診る時や看護婦が休暇をとって休んだ日などはひどい痛みを覚えるという。

 ここであなたが落たんするには及ばない。これを解決する方法はちゃんとあるのである。それは次章で述べるとして、ここではとにかく、病気の大半が感情的ないし神経的なものによって誘発されているということを認識していただきたいのである。

自分に限ってそんなことはない。などと言う考をまずかなぐり捨てて、静やかにひややかに自分自身をよく見つめなおしていただきたい。きっとどこかに気持ちの上でひっかかりがあることに気づかれるはずである。


 外科的な病気も例外ではない。概してわれわれは肉体そのものの健康管理にあまり真剣ではない。運動らしい運動をしない。良くないと言われる食べものでも平気で食べる(食生活については第十一章でくわしく述べる)。

衛生観念もまだまだ低い。生活環境がきわめて不自然である。こうした悪条件の中で、肉体機能が健全に働くはずはない。

 昔の人のように、仕事で馬を乗りまわすことがない。筋肉労働が少ない。旅行するにも自動車か汽車の中でじっと座っているうちに目的地に着くので、歩くということがない。こうした生活は次第に人体の背骨の下部を弱めるので、少し立ち続けたり、たまの休みに遊び過ぎると、すぐに腰の部分に痛みを覚えるようになる。

 単なる筋肉の痛み程度ならまだよいが、これが進行するといわゆるヘルニアとなる。
 これも日常生活の自然な動きで元に戻ることが多いが、精神上のストレスが重なると筋肉に異常な緊張を与え、背骨の並びに狂いが生じてくる。

するとこれが坐骨神経を圧迫する。いわゆる坐骨神経痛というのがこれである。この神経は脚から足の先まで通っているので、悪化すると足の先がマヒするようになる。

 病院へ行くときまってやってくれるのが、背骨を引っ張る治療法である。背骨をひき伸ばしているうちに、はみ出ている骨が元に戻るという理屈でやるわけであるが、なかなか理屈どおりにはいかない。やがて手術というコースをたどることになるが、手術しても一向に治らない場合が多い。

 ヘルニアは最近急激に増えてきた病気で、外科的な病気としてそれなりの療法がいろいろと試みられているが、その要因は精神的なストレスにあるのであるから、初期の段階において、そのストレスつまり精神上のしこりを取り除いてやることが一ばん大切である。

 私も治療家の一人としてこの種の患者を扱うことが多く、今ではちょっとした専門家のような格好になっているが、私の診たところでは純粋に外科的なもの、たとえばゴルフなどで腰をひねりすぎるといった原因からくるものも皆無ではないが、大ていはそう言った外因に精神的なストレスが加わって悪化させている。

 いま外因に精神的ストレスが加わるといったが、形の上でそうした経過をたどっていても、実際には精神的なものが骨の異常そのものを直接誘発している場合もある。最近見た患者でこんなのがある。

 この患者はハンディが7という相当なゴルファーであるが、難しい位置からのドライバー・ショットの時に腰がギグッときた。私のところへ来た時は、左右のおしりの位置がずれるほどに狂っており、ビッコをひき痛みに顔を歪めていた。

 治療しながら私は例によって精神的な誘因を確かめるべく日常生活や仕事のことをいろいろと聞き出してみた。すると素直に白状した。最近は難しい仕事が重なって毎日のように仕事を家に持ち帰る日が続き、ゴルフをしていた時も、外見とはおよそ正反対に、頭の中は仕事のことで緊張しきっていたというのである。

結局、そうした緊張が腰の骨に異常をきたした要因であることを説いて聞かせたのだった。


 病気の原因にはいろいろある。遺伝的なものもあるし先天性の欠陥もある。戦争、交通事故といった不可抗力の原因もある。こうしたものについては後で説くことにして、ここではとにかく、病気の大半が精神的なものからきている事実を素直に認めていただきたいのである。

 もし認められないのなら、かかりつけの医者にその点を確かめてみるのもよかろう。その点がすっかり得心がいってから、次の章へ進んでいただきたいと思う。




                                           


 第二章 健康へのカギ
 健康こそは生きがいある人生の源泉である。かの米国の大思想家エマーソンもその著『処世訓』の中で「健康こそ第一の財産なり」と言っている。

 健康を損ねると、あなたの生活能力は間違いなく半減する。肉体のみならず精神的にも半減する。せっかくの成功のチャンスをみすみす逃し、あるいはチャンスをチャンスと気づかずに見過ごしてしまうことにもなる。社会的にも商売上でも、いわばただの通行人となってしまう。

 つまりそこに楽しいことがあるのに、あるいは絶好のチャンスが来ているのに、それと気づかずにボサーッとして通り過ぎてしまう。

 健康であれば、何でもやってみたくなる。やってみると出来る。逆に不健康であれば、簡単なことでも面倒くさく思える。ちょっとした問題が生じても大へんな難題のように思えて、しりごみしてしまう。

 現代人はこうした不健康状態を、インフレや重税のように、半ばあきらめの心境で受け止める傾向がある。ブツブツ文句は言うが、それを解決するキメ手を知らない。

 インフレと重税───この二つの大きな社会的病気は、物質万能主義的な考え方にその病根があることは歴史家の認めるところである。が、個人としてはそれをどうしようにも問題があまりに大きすぎる。

従って文句をいいながらもあきらめの心境で何とか生きていくのは致し方ないかも知れないが、自分の病気をあきらめの心境で放っておくのは愚かである。

  病気は方法次第でかならず治るんである。そのカギをこれからお渡しするから、それを自分でカギ穴に差し込んで、健康への扉を開いていただきたい。

 前章で繰り返し述べたように、病気の大半は感情によって誘発されている。感情が動揺すると体内のコンピューターが指令を発して、生理作用を調節しようとする。この作用は意識的にやろうとしても出来るものではない。これは体内の特殊な暗号によって行われるのである。

ではその暗号とは何か。それがあなたの〝心の姿勢〟なのである。

 かりにあなたが〝恐れ〟の姿勢をとると、コンピューターは「休め」の状態から、大急ぎで「防御体制」の指令を発し、みるみるうちに生理現象が変化する。腹をたてた場合も同じである。みるみるうちに顔が赤くなり、目がつり上がり、唇が震え出す。

 うっかり口をすべらした事柄や中傷によって相手を激怒させることもあるし、自分が中傷されている状態を心の中で勝手に想像しただけでもムラムラと憎しみを覚え、身体が熱くなることもある。そうした激しい感情による生理変化は驚くほど早い。

最近こんな例があった。


 それはそれは仲むつまじい夫婦があった。ことに旦那さんは奥さんが可愛くてしかたがなく、生活のすべてが奥さん中心に動いているといってもよかった。

 ところがその奥さんが、 事もあろうに、他の男性とかけ落ちしてしまった。「永久に戻る気持ちはありません」と書き置きがしてあった。その日まで日焼けして見るからにたくましい頑健そのものだった旦那が、その書き置きを読むなり全身の力が抜けてしまい、寝込んでしまった。やがて病院へ運び込まれた。

 診察してみると、驚いたことに早くも全身に病的表情が現れていた。まず胃がひどいけいれんを起こす。何一つ食べられない。水を一口飲んでも七転八倒の苦しみとなる。ひどい頭痛が続く。四十度近い体温が一向にさがらない。

血圧は一三五の正常値から二四〇までハネ上っている。大小便の失禁が続く。全身に発疹が出る。もう死んでしまいたいと思う。現に死にそうなところまで行った。

 何がこの男をこんな無残な状態に追い込んだか。ほかでもない。死ぬほど愛していた妻に裏切られたという精神的ショックが一瞬のうちに健全な生理的バランスを打ち崩してしまったのである。精神的ショックによる反動は実に早い。

今の今まで健全そのものだったこの男も、妻に裏切られたと思ったホンの数秒のうちに、重病人となってしまったのである。
 がしかし、崩れるのも早いが回復するのもまた実に早い。


 ある女性が勤め先から疲れ切って帰ってきた。仕事が気に入らないし、毎日毎日同じことばかりさせられてウンザリしている。今日もまた、クシャクシャ気分で返ってきた。

早く風呂に入り、軽い食事をとって一刻も早く寝床に入りたいと思っているところへ電話が鳴った。ボーイフレンドからである。コンサートへ行こうという。彼女の大好きな俳優によるショーもある。コンサートの後パーティがあって、その俳優に会うこともできるから、ぜひ行こうという。三十分後に彼氏が誘いにきてくれることになった。

 コンサートは素敵だった。パーティでは大好きな俳優とダンスができた。夢見る心地である。パーティは夜中の二時まで続いた。帰宅した時もまだ興奮がさめやらず、一晩中踊っていたい気持ちであった。

 なんという変わりようであろう。昨日の夕方、疲れきって帰宅し一刻も早く寝たいと思っていた彼女に、何がこんな元気を吹き込んだのだろう。どこから舞踏会へ行くエネルギーを得たのであろうか。

 カラクリは至って簡単である。要するに心の姿勢が変わったのである。彼女は今の今まで疲れ切っていた。そんな時の体内のコンピュウーターは「疲れているから早く休息しろ」という指令を発している。

これを受けた神経中枢は代謝速度を落とし、暖かい風呂と軽い食事の後すぐに寝る態勢を整えている。そこへ彼氏から電話がかかり、パーティへ誘ってくれた。そのよろこびが一瞬のうちに生理作用を変えてしまった。

 それまでの疲れと憂うつと不満が一変して、興奮と期待とよろこびになった。表情に生気が満ちあふれている。コンピュウーターが「疲れているから休息しろ」の指令から「新しい場所へ行くからスタミナと笑顔を用意しろ」に切りかわっているのである。

その指令に従って代謝が活発となり、夜中の二時まで踊り続けても疲れを感じなかったわけである。

 こうして例を見てもわかるように、健康へのカギはただ一つ、あなたの〝心の姿勢〟にあるのである。身体のコンピューターは頭脳で操作するのではない。願いによっても操ることはできない。うれしいとか悲しいとか面白いといった、きわめて原始的な感情によって左右されているのである。

 悲しい報せで病気になり、うれしい知らせでいっぺんに元気になる。

 一例をあげると、自分の投資している会社が倒産したという知らせで床に伏すかと思うと、宝くじが当たったという知らせで病気などどこかへふっ飛んでしまう。

 かりに今、あなたが家でソワソワしながら知らせを待っているとしよう。やがて電報が届いた。不幸な知らせである。とたんに胃のあたりがキリリと痛みはじめた。足の力が抜けてソファに座り込んでしまうだろう。

 反対にうれしい知らせ、たとえば「長男無地誕生」といった知らせであれば、大の男が飛び上がって「バンザイ」を叫ぶかもしれない。世の中が急に明るくなったような気がして、何をやっても楽しくて仕方がない。

 こんな風に悪感情は身体機能の不調和をもたらし、それが病気の原因となる。ところが反対に、明るい感情は調和を保ち、あるいは乱れた調和を回復させる。その状態が健康というわけである。


 「おっしゃることはよく分かるが、うれしい知らせをそう毎日毎日待っているわけにもいくまい」

 こうおっしゃる方があるかも知れない。

 それは確かにそうなのだが、いま私はそういった各別のうれしいことがなければ、健康になれないと言おうとしているのではない。毎日の生活は今まで通りでいいのである。

何一つ変える必要はない。ただ変えなければいけないのは、あなたの心の姿勢だと言っているのである。この点が大切なところなので、よく認識していただきたい。逆境において勇敢であれと言っているのではない。口をへの字にむすんで頑張れと言っているのでもない。あなたのかかえている悩みが下らぬことだと軽く見ているわけでもない。

 私は悩みごとや心配ごとのない人生を夢想するほど単純な人間ではない。人それぞれに何らかの悩みやかかえていることは百も承知である。

 問題はその悩みや心配ごとに対するあなたの心の姿勢が楽観的、積極的、希望的であるか、それとも悲観的、消極的、絶望的となるかである。

 後者の姿勢をとった時、そこに現れる感情はすべて正常な生理的バランスを破壊するものばかりである。すなわち心配、怒り、我欲、ねたみ、偏狭、貪欲、肉欲、高慢、うらみ、恐怖、ざっとこんなところが挙げられる。

このうちどれ一つをみても、あなたを病気にし、あるいは場合によっては死ぬ到らしめかねない恐ろしい感情であることを知らねばならない。

 かくして健康への第一にカギはまずあなたの日常における心の姿勢を楽観的、積極的、希望的な方向へ切り替えることにある、ということになる。

 ではいかにして切り換えるか。何十年にもわたって維持されてきた姿勢がそう簡単に切り替えられるものでないことは、私も先刻承知である。その最低とも言うべき方法が、今はやりの鎮静剤の使用である。

 これは最近では、一つの社会問題となりつつあることなので、読者もよくご存知のはずである。英国の例で言うと、鎮静剤の処方を受ける人の数は年平均なんと四五〇万人にのぼる。これは病院へ行って処方を受けた人の数であるから、これ以外に薬局で手に入れる比較的軽い鎮静剤を使用している人の数を加えると、その数字は見当もつかない。

さらにアルコールという名の鎮静剤もある。が、いずれにしても所詮は一時しのぎの、紛らわしの手段にすぎない。

 心の姿勢を変えるのに、そんな薬やあるこアルコールはいらない。自分の意思の力で変えることができるのである。その秘訣、いわば健康へのカギを回す秘訣をこれから伝授しようというわけである。

これさえ身につけば、ケンカっぽい性格が優しい性格となり、怒りっぽい人が静かな男となり、敵意が愛情にかわり、偏狭さが大らかさにかわるはずである。

 その秘訣とは、人間の心はたとえ事実はそうでなくてもそうだと言い聞かせればそのような反応を示すという、この特徴を応用することである。

 ここで話をすすめる前に、これまで学んだことをザッと反復してみよう。人体の生理的バランスは一種のコンピューターによって管理されている。その指令は〝思考〟とは関係のない独特の暗号によって伝達される。

その暗号がとりもなおさず〝心の姿勢〟なのである。そしてその姿勢、つまりうれしいとか、楽しいとか、イヤだとか、憎らしいといった感情は、かならずしも実際の現実とはつながっていなくてもよいというところが大切な点である。

 始めのところであげた例で、物音で目を覚ましたあなたがピストルを手にした人影におびえる話をしたが、ピストルも人影もあなたの幻影にすぎなかった。また他人が自分の悪口を言っているのではないかという単なる猜疑心が身体を熱くするほど興奮させ、唇を震わせる話もした。これらはみな、実際の事実とはなんらかかわりはない。
 
 このように、人間の生理的機能は実際の事実がどうであろうと、心がそれに対してどういう姿勢をとるかによって、健全なバランスを強化することにもなり、逆に崩すことにもなる。

そこで、つとめて明るく積極的な姿勢をとるように心がければ、病気にならないという理屈になる。しかもその姿勢は、みせかけであってもよいというのである。実際に楽しいことがなくてもよい。ほんとに楽しい身体と感じなくてもよい。

わざとでよいから楽しく振る舞い、楽しい気分にもっていく。すると、コンピューターは「楽しいぞ」という暗号を中枢に送り、そこから連鎖的に健康な生理的反応が生じる。ここがミソなのである。

 こうした事実のもつ意味の重要さを、よくよく認識していただきたい。子供だましのような単純なことだが、その意味するところはきわめて重大である。これを逆に見れば、重大な意味をもつが事実は至って単純ということでもある。

とにかく、その単純な事実のウラに健康と富と成功のカギが秘められているのである。

 あなたはいわば俳優になったつもりで、幸せな人間の役を演じればよい。そうすれば実際に幸福な人間になれる。元気はつらつたる人間の役を演じればよい。やがて本当に元気はつらつな人間になっていく。冷静な人間の役に徹すればよい。いつしか少々のことでは腹をたてない人間になっているであろう。

 体調が思わしくなく、いつも憂うつで、なおかつ私の言うことが信じられないという方は、とにかく一度ためしてみてはいかがであろう。だまされたつもりで、次に私が言うとおりにしてみられたい。

 人に見られては恥ずかしかろうから、風呂場にでも入ってカギをかけていただこう。風呂場には大てい鏡がある。その鏡に向かって一つの名演技を演じていただこうというのである。内心バカバカしいと思っていてもかまわない。

大切なのは頭で考えることではなくて、あなたの心の姿勢であり態度なのである。それがワザとであってもい。ミセカケであってもいい。とにかくそう振る舞えばよいのである。

 さて、ではこう振る舞っていただこう。今、あなたのもとに素晴らしい知らせが舞い込んだとしよう。何でもよい。とにかくうれしい知らせである。あなたが全身が熱くなるほどうれしくなってバンザイを叫ぶ。

 「やった! ついにやったぞ! これでオレの未来は万々ざいだ。そうし、やるぞ!」

 満面に笑みを浮かべ、子供のように全身でうれしさを表すのである。決してやさしいことではない。最初のうちはアホらしいやら照れくさいやらで、思うようにいかないかも知れない。が、とにかく私を信じて一日に一回でいいから、こうしてうれしさ一ぱいの人間の役を演じてみることである。その日一日、きっといつもと違った雰囲気を感じるようになるはずである。それが効果の現れ始めた証拠である。

 これを続けていくうちにいつしか憂うつさを忘れ、体調が整っていくのを知るはずである。胃かいようの人であれば、激痛を忘れている時が多くなる。頭痛もちの人であれば、頭痛をすっかり忘れている日があることに気がついて、びっくりするはずである。

 「では、これで一切の病気が治るか?」

 と問われれば、差し当たってノーと答えざるを得ない。なんとなれば、今は、私は感情から誘発された病気を主体に話しを進めているのである。しかもその種の病気が、全体の九五パーセントを占めているというのである。感情に関係なく生じている病気についてはあとで述べよう。

 では伝染病の病気はどうか。これもいま述べた方法でやれば必ず防げる。というのは伝染性のものでも、実際には普通の病気以上に気の持ち方が影響しているからである。カゼがその一ばんよい例である。

年中カゼをひいている人がいるかと思うと、何年もカゼ一つひかない人もいる。何が原因でこんな違いが生じるのであろうか。カゼのビールスに好き嫌いがあるのだろうか。

ある意味ではそうだともいえる。が、その好き嫌いとは意識的に選り好みしているのではなくて、ビールスの繁殖しやすい体質と繁殖しにくい体質とがあるということである。

 ではビールスの繁殖しやすい体質とはどんな体質で、ビールスを受け付けない体質とはどんな体質を言うのか。これも実はほかならぬ生理的バランスの問題である。

生理的機能がバランスよく活発に働いている時には、ビールスが侵入しても繁殖できずに死んでしまう。反対にバランスが乱れていると、活発に繁殖してカゼの症状をひきおこす。そしてなかなか回復しない。

 そのことは医者という職業をみればよくわかる。医者は一日に何十人という患者に接している。その中にはひどい伝染性の病気を持ってくる人もいるであろう。とことが、医者が患者から病気をもらうということはめったにない。

それは医者が病気を恐れないどころか、治してあげようという気構えで対するからであり、同時にまた一日中忙しくしているからでもある。

 私もその一人である。特に私の場合は、医学的に〝不治〟とされた人がほとんどであり、重病人が少なくないのであるが、かつて患者から病気をうつされたという経験はたったの一度もない。

 何かと病気がちな人は実は何が悪いのでもない、誰が悪いのでもない、自分自身の心の姿勢に誤りがあることをまず認識しなくてはいけない。そんな人は今日から、イヤ今すぐに心を明るく愉快に、そして活発にする努力を始めなくてはいけない。

 そのやり方はすでに述べた。始めから楽しくなれなくてもよい。そう振る舞うのである。人に失礼なことをされても笑って返すことである。腹の立つようなことを言われても、グッとこらえて、つとめて平静を装うことである。

人を恨まないことである。イエスは「右の頬をぶたれたら左の頬も出しなさい」と教えた。これは実際にぶたれた時のことを言っているのではない。

どんなイヤなことを言われ苦るしめられてもそれに反抗せず、相手の気がすむようにさせてやりなさいという意味である。なかなか実行できないことではある。がしかし、その努力はきっとあとで報われるはずである。

 また病気を意識しないことである。朝、近所の人から、
 「やあ、お早う。どうです調子は?」

と聞かれたら、どんなに具合がおかしくても、
 「ありがとう快調です。今日素晴らしい一日になりそうです」

とでも答えることである。もしこれを、
 「イヤ、どうも調子が変なんですョ。カゼでもひいたんじゃないかとおもうんです」

などと答えようものなら、そのまま立派なカゼになってしまう。そんな弱気な姿勢の人の身体では、ビールスは喜んで繁殖する。


 前に私は女房に逃げられて全身ガタガタになった男の話をしたが、これなどは人間が気の持ちよう一つでどうにでもなる典型的な例である。とにかく人間は感情の動物であり、精神的ショックに弱く出来ている。ならばその逆を行って精神をきたえ、ささいなことに動じない姿勢を作り上げれば、生理的バランスを常に健全に保てるはずである。

 何かあるとすぐに動揺し、自分で自分がコントロールできなくなる人は、次に簡単な精神修養法をお教えするからぜひ実行していただきたい。

 ホンの数分間でいいから静かにしていられる部屋を選び、上着をとって横になる。安楽椅子に腰かけるのもよい。男性はネクタイをゆるめ、ベルトをはずす。

女性であれば、身体をしめつけるような肌着をとる。次に明るさは大なり小なり刺戟性があるのでカーテンで部屋を薄暗くする。左右の手を重ね、足を交差させ、目を閉じ、眼球の力を抜いて動きにまかせる。

 この状態で深呼吸をする。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き、吐いたあと、次に吸い込むまで少し間を置く。これを数分間くりかえす。以上である。

 これが精神を落ち着かせる最上の方法である。というのも、こうした所作によって身体のコンピューターは〝休め〟の指令を発し、生理機能が調和をとりもどすのである。

 これで、あなたはいわば落ち着いた冷着な人間のマネをしたわけである。それでよいのである。これを必要と思った時に、何回でも繰り返すことである。そのうちこれが習性となり、本当に落ち着いた人間になっていく。

 もともと人間の身体というのは自然に回復するようにできているのである。これを自然治癒力とか自然良能といっている。外科治療の一切と内科治療のほとんど全部が、この自然治癒力の存在を前提として成り立っている。

例えば外科医が手術をする時、あとで切り口を縫い合わせれば必ずもとのように引っ付くことを信じているからこそ、安心してメスをいれることができるのであって、これがもしも確かでないとしたら外科医術は根底から崩れてしまう。

 内科とて同じである。大部分の病気は患者をベッドに寝かせ、ストレスをできるだけ少なくし、気を使わせないように、そして身体が冷えないようにしてやるなど、自然治癒力の働きやすいようにしてやるだけのことであって、薬は補助的にその治癒力を促進させたり症状を軽くすることを目的としたものである。薬そのものが治すのではない。

 この自然良能は、驚くほどの潜在力をもっている。病気がなかなか良くならない場合は、その働きを妨げているものがあるからであって、障害を取り除いてさえやればメキメキとよくなる。

 その端的な例が傷口の治療である。ケガをすると、その傷口を治療するために身体自身が万全の処置をとるようにできている。血球その他、その治療に必要な化学物質が瞬時のうちに生産されてドシドシ現場に送られる。

その際人間にしてやれることといえば傷口を清潔にして有毒な細菌の感染を防いでやることぐらいであって、人体に具わっている自然良能の仕組みは遠く人知の及ぶところではない。

 かりに熱が出たとすれば、それが毒素を燃焼させるためである。肝臓や腎臓も老廃物を取り除いたリ解毒したりする仕事を四六時中絶え間なく行っている。こうした自然治癒力をスムーズにそして最大限に発揮させる条件が、肉体的には生理的バランス、精神的には明るく積極的な心の姿勢だというのが私の主張なのである。


 かくして本章をまとめると、健康へのカギは、あなたの肉体的生理はあなたの心の姿勢に応じて変化するという事実であり、このカギをまわす秘訣は、肉体はみせかけの心の姿勢にも反応を示すという事実である。

 これを活用すれば、たとえ面白くなくても愉快に振る舞うことによって生理を活発にし、淀んでいる自然治癒力を発揮させるという理屈になる。

 要は実行してみることである。一度にうまくできなくても、繰り返し練習してみることである。やがてこれが習慣的な性格をつくりあげていく。習いが性となるのである。

 今やあなたは健康へのカギを手にされた。それをどう使うかはあなた次第というところまで来ているのである。



                                           


第三章 心霊治療家の仕事

 私は心霊治療家である。別にユニークな存在とほどのこともない。

 私の所属する英国心霊治療家連盟には、何万人という治療家が登録している。その大部分は、本職つまり生計を立てるための仕事を別にもち、余暇を利用して治療を施している人が多い。

 そう言う人は治療費は取らない。心霊治療は万人にわけへだてなく施さるべきものだと信じているからである。むろん地方には、これを職業として専門的に営業している人もいる。それはともかくとして、一体心霊治療とはどんなものなのか。はたして本当にきくものなのかどうか。そんな点を取り上げてみたいと思う。


 私のことを信仰治療家だという人がいる。が、私はあくまで心霊治療家である。心霊治療と信仰治療とはまるきり原理がちがう。まずその区別をはっきりさせてから、本論に入りたいと思う。

 第二章で述べたように、人体には自然治癒力というものが具わっている。つまり心理的および生理的条件さえ整えば、大ていの病気やケガは自然に治ってしまうようにできている。

それを良い方に促進させるのも感情であれば、それを阻止して悪化させるのもまた感情である。かならず良くなると信じている人は、もう大して永生きできないと思い込んでいる人に比べて、治る可能性がはるかに高い。

 このことは大ていの医者も看護婦もよく承知しているので、患者に接する時はかならず良くなるという気持ちにさせることこそ回復への重大な第一歩と心得ている。これを単に第一歩に留めず、それが全てであると信じているのが信仰治療である。

 つまり信仰治療家は治るという信念を吹き込みさえすればいかなる病気も治るのだと信じ、そのためにいろいろなテクニックを用いる。患者に初めて対面する時の態度にも細かい計算がある。

 まず患者を圧倒し、すごい人だという印象を与えて全幅の信頼をかち取る。患者はその人のそばにいるだけで治るような気がしてくる。

 続いてその気持ちを一層もり上げるために、厳かな雰囲気のうちに儀式を行う。立派な法衣をまとう人もいる。厳粛に飾られた祭壇があり、ズラリと並ぶローソクに火がともされ、聖歌が流れて、ムードはいやが上にも盛り上がる。その中で、恍惚たる表情の祈祷師が何やら語りはじめる。

 前もってこの療法による奇跡的治癒の数々を聞かされている患者は、こうして宗教的ムードの中で感激の念を禁じ得なくなる。医者に見放され、自分に自信を失い、絶望の淵にいる者が多いだけに、こうしたやり方で喜びと希望の念が呼びさまされ、奇蹟的に良くなる例は確かに少なくない。

 が、この療法には多くの欠点がある。よく指摘されることは、いま説明したようにその回復が強烈なムードの中で得られたものだけに、一たんそのムードから覚めてしまうと、また病状がぶり返すことが多いということである。

早い人は家に帰ったとたんに調子が悪くなる。二、三日しておかしくなる人もいる。当然また治療してもらいに行く。たしかに良くなる。が、家に戻るとまたおかしくなる。

 こうしたことを繰り返していくうちに、患者は次第に真相に目ざめはじめ、本当の治癒ではなかったのだと知って絶望感に襲われることになる。

 が、この療法の最大の欠点は、一度そうしたハデな療法を受けると、心霊治療のような地味なやり方を物足りなく感じるようになることである。同じ信仰治療と言っても、いろいろと種類があってひと通りではない。

さあ立ち上がって歩いてごらん式の暗示的なもの、〝ブーズー教〟という宗教にまで発展しているまじない式のものなどいろいろあるが、すべてに共通しているのは人間のもつ想像力を利用している点である。

 それ自体はけっして悪いことではない。私が前章で心の姿勢を変える方法として述べたのもやはり想像力を活用しているのであるが、私のやり方が日常生活を通じて徐々にではあるが自らの力で積極的に改革していくのに対して、信仰治療の場合は強烈なムードの中で暗示を受けて、一時的に幻惑されるにすぎない点に問題がある。

 フランス西部のピネレー山脈の麓にルールドという町があり、そこに有名なほら穴がある。そのほら穴の中の泉に浸ると病が治るという信仰があり、そこに聖母マリアが出現したというのでマリアの聖堂まで建立して世界的に有名になってしまった。

毎日のように各地から大勢の病弱者が訪れていて、中には確かに奇蹟的に治っている人もいるらしいが、その数は〝ルールドの奇蹟〟として有名になって以来のものを全部含めても、心霊治療家が一ヶ月に治している数ほどにしかならない。


 さて私は心霊治療家である。信仰治療家ではない。私は何一つ手の込んだことはしない。いたって地味である。患者が訪ねて来ると静かな部屋へ案内する。治療室などと言う特別な部屋は要らない。静かでさえあればそこが治療室になる。

自宅であれば客間を使い、ロンドンの勤務先(心霊出版社ツーワ―ルズ)の応接室でやることもある。治療中に体温が上がるので、大ていシャツをめくり上げネクタイをゆるめ、いたってラフな恰好で治療にあたる。

 さて患者に腰かけていただいてから、病状について説明していただく。前もって申し込みの手紙で大よその病状は知らされているのであるが、治療を始めるに当たって、今一度初めから詳しく経過を聞かせてもらう。そのわけはあとで述べるとしよう。

 部屋はこれといって宗教的な感じのする装飾はしていない。ローソクを灯すこともしない。香を焚くわけでもない。聖歌を流すこともしない。むろん法衣も無ければ祭壇もない。自宅の場合は友人が訪ねてきた時と何ら変わりはないし、勤務先の場合は一人の顧客を接待するのと少しも変わらない。

 私は患者に向かってこう説明する。私は心霊治療家であって、一般の医師の資格はもっていない。また皆さんから依頼されるままに治療を施すのであって、これを職業としてやっているのではない。従って、治療費は一銭もいただかない。

しかし同時に、一般の医者のように治療に関して何一つ保証はうけあえないから、治るか治らないか試してみるくらいの気持ちでいてほしい。

治れば結構なことで私もうれしいが、治らなくても元々と思っていただきたい。どうしても謝礼がしたいというのでしたら、そこにある献金箱へ入れてくださればよい。慈善事業への寄付に使用させていただきます。といった内容である。

 そんなそっけない態度は治療を施す立場の人間としての温かみと同情に欠けるかの印象を与えるかも知れないが、実は私のような心霊治療家のところへ来る人の大半は現代医学に見放された、いわば不治の病を抱えた人ばかりである。

鼻かぜやハシカなどでやって来る人はいない。方々の医者をあるきまわり、さんざんいじくられ、薬をあびるほど飲まされ、あげくの果ての「これはあなたの持病と思って我慢していただくほかありません」と冷たくあしらわれた人たちなのである。

 つまり最後の頼みとして、私のもとに来ているのである。その中にはかつて私が治してあげた人から聞いてきた人もいる。あるいはかつて私自身が心霊治療によって奇蹟的に救われた体験を綴った拙著『The Healing  Touch』を読んで駆けつけた人もいる。

いずれにせよ、もはやカッコいい話やお上手などで動かされる人たちではない。私はそう言う人に、縁あって私のもとに神が連れてこられたのだという真剣な気持ちで接するのである。


 さて患者の病状を聞き、私の考えを話してから、いよいよ治療にかかる。まず上着を取ってもらい、背もたれのない丸い椅子に腰かけていだく。次の私の右手をひたいに左手をエリ首のところに当てがう。

 私は音楽が好きなので、患者の気分をほぐす目的で音楽を流すこともある。決して宗教的ムードを出すためではない。その証拠に私がかける音楽はモダンジャズからクラシックまで種々さまざまである。


 さて、そうしたくつろいだムードの中で私自身は、実は通常意識から潜在意識へとスイッチを切り換えている。治療をやり始めの頃はこれに十分から十五分もかかったが、今では二、三分でできる。その心理的操作の感覚は言葉では説明しにくいが、強いて言えば、うつらうつらち白日夢を見ているような心地とでも言えようか。

 もっとも、決して夢を見ているわけではい。通常意識が空っぽになり、浅い入神状態にあるのだと思われる。その間は部屋の様子や患者の存在を忘れており、やがてその状態から目覚めた時、患者を見て一度どこかで会ったような人だなどと、錯覚を覚えることがある。

 私がそうやって通常意識を休めている間に、私の身体を伝って何やら不思議なエネルギーが流れるのがわかる。その様子はとても言葉では説明できそうにない。また私から時間の観念が消え失せてしまう。治療に何分かかったか、さっぱり分からない。

ときとして右手に振動を感じることがあり、熱を覚えることもある。そんな時は全身が熱くなる。ネクタイをゆるめ、シャツをめくりげるのはそのためである。

 こうして右手をひたいに左手をエリ首のところに当てた恰好でしばらくするうちに、私の手はその人の一ばん悪い箇所にひとりでに移動しはじめる。悪い箇所とはかならずしも痛い箇所ということにはならない。

ヘルニアなどの場合、坐骨神経を圧迫して足先がしびれることがり、患者はしきりにその痺れを口にされるが、私の手はその根本原因であるところの腰の部分に行く。

 治療に要する時間は正味十分程度である。病状を聞いたリ入神状態に入るに要する時間等を入れると三十分ほどにもなるであろうか、霊的な治療は入神中のほぼ十分間に行われるようである。

 前に述べたように、私は治療の前にもあとにも何一つ有難いお話しはしない。にもかかわらず、大ていの患者は治療のあと感激の涙を流す。男女の別、地位の上下に関係ない。今でも印象に残っている例としては、五十才位の教養豊かな男性が私の足元にしがみついて思い切り泣いたことがある。女性などは顔をクシャクシャにしてしまう。

 そんなわけで、前もってテッシュぺ-パーを山ほど用意することにしている。むろん中には泣かない人もいる。ただじっとすわって心の静寂の中に浸っている人もいる。

 いずれにしても、こうした反応は私が演出して盛り上げたムードのせいでない点に注意していただきたい。まわりには何一つ宗教的装飾はないし、有難いお話をするわけでもない。ごく普通の雰囲気の中で起きているのである。

 さてそうした感激の嵐がおさまったころ「いかがですか」と尋ねてみる。ただの一回の施療で痛み、こり、その他の病的な症状があとかたもなく消えている人もおれば、まだ幾分残っている人もいる。そんな場合は大てい一週間後にもう一度来て頂く。

また全然変化を感じない人もいる。心霊治療をやり始めた頃はこんな患者に出あうとガッカリしたものであるが、のちにそれが決して失望すべきことでないことを知った。

 というのは、施療直後に何の変化のない人でも、二、三日のちに急に快方へ向かう人が非常に多いことがわかったのである。また急速な回復は認められなくても、体力が増し苦痛がラクにしのげるようになりました。という便りをいただくこともある。

このように心霊治療にはあとからじっくり効き目が出てくることがよくある。なぜか、それは心霊治療の原理を知れば納得のいくことである。それを次に紹介しよう。


 まえがきの中で述べたことだが、われわれの身辺には生命力が充満している。宇宙エネルギーと呼んでもいいし、宗教的に神と呼んでもよい。自然界を研究すればするほど、この生命力のすばらしさに感嘆せずにはいられなくなる。

雪の花びらを顕微鏡でのぞいても、あるいは夜空を望遠鏡でのぞいても、その緻密さ、その広大さ、そして何よりもその美しさに心をうたれない人はないはずである。

 ダイヤモンドの構造の美事さ、野辺に咲く花の可憐さ、生体の機能の不思議さ、水に泳ぐ魚、空に飛ぶ鳥、四季のうつりかわり、汐の干満、人間の脳の複雑さ、赤ん坊の完璧さ、どれ一つ取ってみてもその神秘性に感嘆せずにはいられない。

つまり、そこに創造主〝神〟の存在を意識せずにはいられないのである。

 神とは要するに宇宙のデザイナーのことである。完璧なデザインがあるからには、それを創り出したデザイナーがいるはずである。そのデザインたるや単なる机上の青写真ではない。一糸乱れぬ因果律に従った創造があり発展がある。

その創造発展を推進していく強大なパワーがまた存在する。それが宇宙に充満しており、それが病気を治してくれるのである。

 「では、その生命力とやらを見せてくれまいか」
 こうおっしゃる方があるかも知れない。が、現代人はこんな幼稚な質問をしてはいけない。生命力は目に見えるものではない。感受するものである。要は、それを感受する装置の問題である。

 仮に浦島太郎が竜宮からこの現代に帰ってきたとしよう。誰かが音楽の話をする。浦島太郎はその音楽とやらを見せてくれないかと言うであろう。あなただったらこの際どう説明するだろうか。

 私だったらポケットからトランジスタラジオをとり出し、

 「いいですか、音楽というのは目に見えるものではなくて耳で聞くものなのです。音楽は私たちの身のまわりに常に存在するのですが、普通の耳では聞けません。それを受信する特殊な装置がいるのです。それがこれです。このボタンを押すと装置が働いて音楽を受信して、私たちの耳に運んでくれるのです。ホラ、いいですか、いま聞こえてきますよ」と。

 心霊治療家としての私はいわばこの受信装置のようなものである。まわりに遍在する生命力を受け入れて、その波長つまり強さ、電気で言えばボルトを調節して患者に注入するのである。その生命力が補質的にいかなるものかは私自身もよく知らない。

それは電気というものがどんなものかよく知らずにいるのと同じである。知らなくてもいい。要はそれを正しく活用すればよいのである。

 もしも私が暗い部屋にいて、誰かになぜ電灯をつけないかと聞かれ、
 「イヤ、この目で電気を見たこともないし知識もないもんだから」

とでも答えようものなら、笑いものにされるであろう。電気の本質を知らなくても、スイッチを押すことさえ知っておればことは足りるのである。もう少し電気のたとえ話を進めてみよう。


 今ここに三つの部屋があるとしよう。どの部屋も中はまっ暗である。

 第一の部屋の人は電気屋を呼んで電源にスイッチを入れてもらったまではよかったが、ソケットに電球を入れることを知らない。暗い暗いと文句ばかりをいいながら暮らしている。

 二番目の部屋の人はちゃんと電球をつけてから電源のスイッチを入れてもらった。やがてぱっと明るくなって部屋中が光であふれた。当たり前のはなしであるが、最初の人に比べれば幸せ者である。

 だが三番目の部屋の夫婦はもっと賢明である。主人は電気についての学識がある。アンペアを調べた上で自分はラジオでクラシックを聞きフランス語講座を勉強する。一方奥さんの方は電気ミシンで縫物に精を出す。

 三つの部屋には同じ電流が流れているのである。が、その利用の仕方はこのように三者三様、ムダにしている者もあれば大いに活用している者もいる。電気屋は電源にスイッチを入れるまでが仕事であって、その電気を何に使用するかは知ったことではない。そこでそういった面での指導者がいてくれると助かる。

 第一の部屋の人のように電気についてまったく無知な人は電球の取り付け方を教えてやる。いっぺんに部屋が明るくなって大よろこびである。

 第二の部屋の人には、トースターだとかヒーターといった電気製品があることを教えてやればよい。電気とはかくも重要なものかと有難がるであろう。

 第三の部屋の夫婦にはテープレコーダーなどの利用法を教えてやれば、ラジオ講座の録音ができて勉強が一層効果的になるであろう。

 こうしたたとえ話はそっくりそのまま心霊治療にも当てはめることができる。電気に相当するのが生命力であり、電気屋は治療家であり、指導する人は背後霊ということになる。

 背後霊と聞いて驚かれるかもしれないが、心霊治療にはかならず霊魂が背後に控えていて指導に当たっている。スピリットが働きかけると、治療家は誰かが自分の肉体に侵入して自分自身がわきへ押しやられたような感じを受ける。

私がはじめてそれを体験した時は異様な感じがしたが、しかし決して〝不自然〟なものではなかった。今では治療の一つの重要なプロセスとして受け入れている。もっとも、治療家のすべてが同じプロセスをへるとは限らないが・・・・・・。


 さて、そうした心霊治療能力を具えていても治療家自身にはその活用方法のすべてがわかっているわけではない。つまりこの病気はこうすればよいといった個々の治療法は治療家自身にはわからない。

それはさっきの電気のたとえ話の中の電気屋のようなもので、部屋に電流が通じるようにしてあげるまでが彼の仕事で、その電気を何に使うかは関知するところではない。

 そこでその〝無知〟な治療家に代ってスピリットが有効な活用方法を考えるわけで、大てい複数のスピリットがこれに当る。私の場合は一人の指導者格のスピリットがいて、必要に応じて各分野の専門家をつれてくるようである。

内科、外科、神経科、整形外科等々、それぞれみな違う霊がいるらしい。もっとも私の方でいちいち存在を感知しているわけではない。時によってはまったく無意識のうちに終わることもある。

 患者の中には治療直後はなんの変化も感じなかったが二、三日後に目に見えてよくなったという人がいるが、こういう場合は私の背後霊が訪問して本人の知らぬうちに治療をしているのである。

 また患者によっては、誤った信仰のために心霊治療というものに対して、潜在的に拒絶反応のようなものを持っている人がいる。言うまでもなくキリスト教的信仰が大半を占めるが、中でもいちばん多いのが、教会以外での治療はすべて悪魔のそそのかしによるものだという信仰である。

 理性的に考えればバカバカしい話であるが、子供の頃の無地の心にしみ込んだ信仰は恐ろしいもので、成人してからいろいろな障害となる。

 そんな場合、背後霊は待機してじっと様子をうかがっているようである。そして、何かの拍子、たとえばそうした潜入観念のほぐれた熟睡中などに、一気に治療エネルギーを注ぎ込む。

患者は朝目が覚めてみると、ウソのようによくなっているので、びっくりして私に知らせてくる。が、私はこうした例はたびたび体験しているので別に驚かない。それが心霊治療の妙味でもあるからである。

 治り方が薄皮をはぐようにゆっくりとしているタイプもある。これにもやはり背後霊の配慮があるのである。というのは、患者によってはあまり急激な回復がかえってショックとなって逆効果をきたす場合もある。

そんな時、背後霊は患者の体調に合わせて治療エネルギーを少しずつ注入し、全身の代謝機能の回復を待つ。やがてもう大丈夫という線まで回復したところで、一気に全快へともっていく。

 
 さて同じ心霊治療でも、今まで説明したのとはまったく別のタイプの治療法がある。遠隔治療というのがそれである。つまり遠く離れた場所にいる患者に治療を施すのである。

遠隔治療という言葉をはじめて聞いた時は私も疑問に思ったのであるから、読者が疑問に思われても不思議はない。例によってたとえ話でわかりやすく解説しよう。

 最近のオリンピックは宇宙中継されるようになったが、地球の裏側で行われている競技がどういう仕組みで画面に映るのであろうか。細かい専門的なことは別として、テレビカメラによって撮られた映像が分解されて宇宙衛星に送られ、そこから世界各地の中継所に送られ、そこで中継された電波を各家庭のアンテナがキャッチして画面に映し出すわけである。

 こうしたことはかつてのラジオ時代には想像も及ばなかったことであるが、それが今では現実となっている。しかも、われわれ人間自身が考え出したことなのである。自然法則の操り人形にすぎない人間でも、これだけのものを考え出した。

 
ならば、この大宇宙を創造した神に遠隔治療くらいの芸当ができないはずはないではないか。要するに、私なら私という治療家を中継所として、治癒エネルギーを患者に送るわけである。具体的に説明しよう。

 患者から一通の手紙が届く。差出人は一六〇キロ離れたところに住んでいる。寝たきりでお訪ねできないので、遠隔でお願いしますとと書いてある。私はその手紙を両手で持って精神を統一する。すると背後霊が私を通じて患者の存在位置と様態を察知する。

続いて治癒エネルギーを送る。といっても患者の性格によっては、治療を受け入れる条件が整うまで待つこともある。

 いずれにせよ効果は確実に現れる。感謝状が週に数十通に及ぶことからもそれが察していただけると思う。一、二週間前までは一歩もベッドから離れられなかった人が、直接出向いて礼に来られることもある。私などはまだ数の少ないほうである。

 治療家によっては、週に何百通もの礼状を受け取る人もいる。英国全土を合計すると、おそらく週に何千人もの重症患者が完全に治癒している計算になる。驚くべき事実である。

 念のために付言するが、遠隔治療は単なる祈りや気のせいで治っているのではない。治療家と背後霊との連繋のもとに行われる入念な施療の結果なのである。祈りも確かに威力を持っている。私はそれを否定するつもりはない。ただ心霊治療に関する限り祈りは必要ではないしむしろ治療を妨げることにもなりかねないことを指摘しておきたい。

 少し前こんなことがあった。郊外に住む知り合いの婦人から電話があり、

 「娘の病気が一向によくならず、もしかしたら自殺もしかねない状態なのです」
という。娘さんの家は私のところからさほど遠くもなかったので、さっそく行ってみた。なかなか立派な屋敷に住み二人の子供がいて、外観はいかにも仕合わせそうに見える。

ところがその娘さんというのは母親に似てひどい神経過敏症で、極度に張りつめた毎日を送っている。そこへもってきて脛骨脱臼症で四六時中首に包帯を巻いている。

むろん医者にみてもらってはいるが一向によくならない。四六時中痛む。いっそのこと死んでしまおうと思いつめるようになっていた。そこへ私が訪ねた。私を見るなり彼女はこう言い放った。

 「何しに来たの。あんたに何ができるというのヨ。信仰治療ならとっくに都会でやってもらったわ。牧師に出来ないことをなんであんたが出来るのヨ」

 牧師の悪口を言うわけにはいかない。少しやりづらかったが、何とか説得して治療を施してみた。効果は確かにあった。今ではずっとよくなっている。しかし私の観るところでは、彼女の母親の存在が彼女の生活を大きく邪魔しているように思える。

信仰というものについてこの母親が考えを根本から改めないかぎり、全治することはムリのように思える。

 この例でもわかるように、病気は信仰だけで治るものではない。もし治るのだったら「神さまなにとぞこの痛みを取り除いてください」と一心に祈れば事足りるはずである。と同時に、信仰心というものを持ち合わせない赤ん坊や幼児は治らないことになってしまう。

 心霊治療はこれとはまったく異なる。それはあなたのまわりに存在する宇宙エネルギーを取り入れ、それによって身体のもつ自然良能を賦活した生理的バランスを回復させるやり方であって、どこにも摩訶不思議的要素はない。

ただその治り方に奇蹟といえるほど瞬間的なものがあることは事実である。しかし一方、薄皮をはぐように遅々とした治り方を示すこともある。

 いずれにしても、その治癒の原因が身のまわりに常に存在している宇宙エネルギーを活用している点は同じである。次章では、そのエネルギーをあなた自身で活用する方法を伝授しようと思う。


                                     


   第四章 生命の源にプラグを差し込め
  健康を取り戻す方法として私はこれまで二つの方法を紹介した。
     一つは心の姿勢を変えることによって生理的バランスを回復するやりかた。

    もう一つは心霊治療によって宇宙生命を注入してもらうやり方である。
 そしてこれからもう一つ、第三の方法を紹介しようと思う。それは宇宙生命の源そのものに自らプラグを差し込んでエネルギーを摂取する方法である。

 かりにあなたがいま新しい洗濯機を購入したとしよう。さて、まっ先にしなければならないことは何であろうか。そのとおり、まず使用説明書をよく読むことである。電源にプラグを差し込んでもヒューズが飛ぶ恐れはないか。

つまりボルト、アンペアに余裕があるかどうかを確かめる必要がある。また使用する水は普通の水でよいのか温水にする必要はないのか、セットの仕方はどうなっているのか、排水ホースはどちら側につないだ方が使いやすいか等々、実際にしようするまでに知らねばならないことがいろいろとある。

 最近の洗濯機はなかなかよく出来ている。が、いくら性能がよくなっても、人体の巧妙さ精妙さにはとてもかなうものではない。世界最高のコンピューターでさえも、人体に比べればまるで子供のオモチャである。

そうなると、洗濯機の使用に先立っていろいろと知らねばならないことがあるように、人間についても正しい知識を持つ必要があるのは理の当然であろう。

 そこで、これからひとまず人間とは何かについて私の説明をよく聞いていただきたいのである。

 まず第一に知っていただきたいことは、肉体があなたではなく、また脳味噌があなたでもないということである。では自分とは一体何なのか。それは肉体と脳を使って自己を表現しているところの目に見えないあるもの、つまりスピリットなのである。

目に見えないからといって影も形もないものを想像してはいけない。肉眼に見えないというだけであって、霊眼をもってすれば立派に見える。

 そのスピリットが肉体と脳をあやつって生活しているのが現実のあなたなのである。

 これを逆に考える人がいる。つまり肉体や脳から精神が生じるのだというのであるが、それはちがう。あなた自身は肉体の誕生以前からスピリットとしてすでに存在していた。

それが肉体の(母胎内での)発生と同時に結合して今日に至っているのである。肉体は霊の道具であり脳はそのコンピューターだと思えばよい。言ってみれば、肉体は地上生活を送るための一時的な借りものにすぎない。

 死というのはその肉体という道具が使えなくなった状態であって、宿っていた霊は昆虫が殻を脱ぎ棄てるように肉体から脱け出て、次元の異なる別の世界に生き続けるのである。といって決して新しい世界に行くわけではない。実際はもといた世界に戻るのである。

 いきなり難しい話になってこんがらがる向きもあるかも知れないが、心の窓を広く開いて、ひととおり私の説に耳を傾けていただきたい。

これは私が勝手に考え出した説ではない。心霊学という新しい学問が最後の結論として打ち出した確定的な事実であるから、いたずらに疑ってかかるよりも、一日も早くこうした人間観に慣れることが得策である。そうすることによって、どれだけ人生観が変わることであろうか。ではもっと話を進めよう。

 この世はいわば教育の場である。人間教育、魂の教育の場である。さきに述べたとおり、もともとあなたはスピリットの世界にいた。霊界でもいろいろと学ぶことはあるが、これだけは地上生活でないと学べないというものが必ずある。だからこそ、地球の存在価値もあるわけである。

 あなたは魂の親であるところの守護霊や指導に当たってくれる霊たちのアドバイスをうけて、最終的に自分で地上行きを決心した。あなた自身が決めたのである。魂の永い永い進化の道程において、ぜひとも一度あるいは二度、あるいは幾度も幾度も地上生活を経験しておく必要があると判断したわけである。

 具体的に言えば、たとえ忍耐力に欠けているとか物質苦労が不足しているとか、あるいは人情の機微にふれることが少なすぎると感じて、そうしたものを補うには地上生活が一ばん適当であると判断したわけである。

やがて地上の一対の男女の間に愛が芽生え、母体に種子が宿る。その種子にあなたの霊、つまりあなたという個性を持った神の分霊が結合するのであるが、それに先立ってそれまでの一切の記憶の集積層をそっくり霊界にあずけることになる。

その記憶は再び霊界に戻った時に取り戻すことができるが、霊格の発達した人なら地上生活においても思い出すことができる。

 さてあなたの辿る人生のコースは一コマ一コマがきちんと定められている。が、それにいかに対処するかはあなたの自由意思にまかされる。

それはちょうど学生時代にたとえれば、小学校六年間を同じ学校に通い同じ教科を同じ日数だけ学んでも、勉強するしないは本人の自由であるのと同じである。別のたとえで言えば、七日ごとに日曜日が訪れるのは万人に共通していることであり、暦にきちんと定められていることであるが、その日曜日に何をするかは本人の自由であるのと同じである。

 人生という旅の道程において、あなたはいろいろな苦労に遭遇するであろう。それにいかに対処するかによってあなたの進歩の度合いがわかる。

ある時は必死に対処し、またある時は失意のドン底に落とされるかもしれない。そうした体験の一つ一つは実は神がセットした試練なのである。

 つまり、あなたにとってそれが必要とみたからこそ神が与えるのである。その意味では失敗も苦労も病気も必ずしも直接あなたの責任とはいえないかも知れない。が、問題はそうしたことに対処するあなたの姿勢である。

 たとえば、私をたずねてくる患者の多くは、開口一番、「私の人生は不幸の連続です」とグチをこぼす。これがまずいけない。自分一人が世の中で苦労しているかのように思い込むそのいじけた心の姿勢がいけないのである。

実際には誰にでもあることが、その人には苦痛に思えて不平不満が増す。が、つまりは神がセットしたテストに不合格だったということである。それも真剣に取り組まなかったから不合格となったまでである。

 もちろん、時には誰かの援助を必要とするほど大きな苦難に直面する場合もあるであろう。大学にたとえれば専任の先生に質問しなければならないことだってある。

この複雑な人生においてどうしても援助をお願いしなければならない難題は幾らでも生じる。そんな時、その相談相手になってくれるのがあなたの背後霊なのである。
 
 その背後霊は、実はあなたが霊界からこの現実界に再生する際に相談相手になった霊魂である。彼らはその高い霊格ゆえに、あなたが人生においていかなるコースをたどるかを前もって見通してしている。

したがってそれに対処するための方策もちゃんと心得てくれている。問題はいかにしてその霊魂と交信するかである。それでは次にその方法をお教えしよう。

 今ある問題をかかえているとしよう。いろいろ努力してみたがどうもうまくいかない。

といっても、この際その問題は利己的なものでないことを前提にしよう。ロールスロイスが買いたいとかギャンブルでひと儲けしたいとか、あるいはもっと豪華な家に住みたいとか、そんな物理的な自分本位の欲望や野心は困る。

そういう性質の目的をかなえる方法については別に説くことにして、差し当たってここでは物質的野望は切り離していただきたい。物質的なものでなくても、あなたにとって切実な問題はいくらでもあるはずだ。

 あなたはそれを解決しようとこれまで最善をつくしたつもりだが、ついにうまくいかなかったと仮定しよう。そのことでこれから背後霊にお願いするわけであるが、その方法は実は二章で紹介した精神統一の方法をもう一歩進めさえすればよいのである。

 精神統一の方法について私はこう述べた。すなわち静かな部屋を選び、窓のカーテンを引いて薄暗くする。男性は上着を脱ぎネクタイをゆるめベルトをはずす。

女性は身をしめつけるような下着は着がえた方がよい。クツも脱いだ方がよい。すわり心地のよいイスでゆったりとくつろぐ。三章のところで述べたのはここまでであった。

 さて、その状態であなたが今かかえている問題を声に出して述べる。人に話しかけるとうな調子でしゃべる。そして今まで、自分なりに最善をつくしてきたつもりだが、自分一人の手に余るのでよい知恵を授けていただきたい、とお願いする。

 そうお願いしてから頭の中を空っぽにする。実はこれがなかなか難しい。何も考えまいとするとかえって余計な雑念が湧いてきて、それを払いのけようとするとますます絡んでくる。そんな時は何も考えまいとするよりも、いっそのことその逆をいって、あるひとつの考えに集中した方がよい。たとえば白いバラの花を想像してそのイメージに全神経を集中するのである。

 バラの花はおそらく、あなたの人生の悩みには何の関係もないはずである。だからいいのである。悩みごとに関係のある事物はいけない。それが先入主となって背後霊からの通信を邪魔するからである。

 そうやってバラの花のイメージを思い浮かべながら静かにしていると、身体がくつろいでくる。ウトウトと軽い眠りにおちいる人もいる。それでよい。やがてわれに戻ったら立ち上がって大きく伸びをして、身支度をキチンと整え、冷たい水を飲む。何とも言えないさっぱりとした気分になる。

 これであなたは背後霊に心の窓を開いたことになる。言いかえると背後霊との間に心の触れ合いができたのである。この触れ合い(Commune)(コミューン) が大切なのであって、語り合い(Communication)(コミュニケーション) はかならずしも必要でない。

コミュニケーションは特殊な霊能がないとできないが、コミューンならだれにでもできる。またできるだけ多くその機会をもつ必要がある。いま説明したやり方がその一つであるわけである。

 背後霊とのコミューンをもつと非常に気持ちがよくなり、イライラした緊張感がほぐれてくるのが普通である。それもそのはずである。今までかかえていた難問を背後霊にあずけたことでになるからである。

 が、その回答つまり背後の援助がいつどんな形であらわれるかはまったく予想がつかない。

二、三日するうちに人が変わったように考えが変わってしまうこともある。インスピレーション式に頭にパッと解決方法がひらめくこともある。なんの気なしにやり始めたことが、解決につながっていることもある。あるいは事情が急に変化しておのずと解決してしまうこともある。

 いずれにせよ、背後霊からみてあなたにとって一ばん戒めなければならないのは、自分の欲にこだわって、こうして欲しいああして欲しいと、勝手な要求を出すことである。

卑近な例でいえば、どうしても大金がほしいという時に競馬の優勝馬を教えてほしいとか、近所に憎たらしい人がいていつもイヤな思いをさせられている場合、あの人がどこかへ移転するように取り計らってほしい、といった類の願いごとである。

 常識的に考えて、程度の高い霊がこんな要求にまともに応じるわけはない。もし思った通りの事態になったとしたら、それはむしろ警戒を要することである。はたして真にあなたの幸福を思う霊の取り計らいであるかどうか、はなはだ疑問だからである。

最初に私が、背後霊に物事を頼む時は利己的な欲に発した時は切り離してほしいと述べたのはそのためである。


 私も大きな問題にぶつかると背後霊におまかせすることにしている。私自身の身体を中心に綴った『The Healing Touch』が出版されるに至るいきさつは中々面白い経過をたどったのでそれを紹介してみよう。

 私が心霊治療を始めて二、三年経った頃のことである。それまで何百人かの患者を手がけてみて、そういう人たちに一つの共通した要因があることを知った。すなわち真理を知らなすぎるということである。

 たとえば、肉親を失って悲しむ。これは誰しも同じであり、人間である以上当然のことである。が、悲しみのあまり生理的バランスを崩し、あげくの果てに心霊治療を受けなければならないほどに至るのは、死後の存続という真理を知らないからである。

 人間は死を一つの区切りとして、新しい世界に生まれ変わる。いわば幼稚園から小学校へ進学するのである。

それをなぜ嘆き悲しむのであろうか。私の知る限りでは、文明国の葬式はどれもこれもみな野蛮であり残酷であり、ある意味において滑稽このうえないと言いたいのである。

 こうした内容の話を私は一人一人の患者によく話して聞かせてきたわけであるが、そのうちいい加減うんざりしてきて、ひとつ、これをまとめて一冊の本にしてみたらどうだろうかと思いはじめた。

ある晩方、タイプライターに向かった私はカバーを取りはずす前に、さっき述べたような要領で背後霊とコミューンのひと時をもち、私の考えを聞いてもらって援助をお願いしてみた。それからカバーを取りはずし、頭にうかぶままをタイプして出来あがったのが小冊子『死とは何か──悩める人のガイドブック』(巻末付録参照)である。

 できあがるとすぐ、封筒に入れて心霊紙『ツーワ―ルズ』の編集長であるモーリス・バーバネル氏へ送り、よろしくご配慮ねがいたいと書き添えた。

短いものではあるが雑誌の記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバーネル氏の返答は、簡潔にして明快であった。連載記事の一切を割愛して、一挙に掲載するというのであった。

 予想したとおり大きな反響があった。死というものについて、いかに多くの人がガイドを必要としていたかが如実に実証されたわけである。出産についてのガイドブックは山ほどある。婦人科の医学書は実にくわしく書いてある。また人生のガイドブックも多い。

いろんな人生哲学がある。が、死の真相を説いた書物はまだ出ていない。それを私は書いたのである。やがて小冊子となって出版された。前おきが長くなったが、話はここから発展するのである。

 バーバネルが編集長をしているツーワ―ルズ社はグレートクィーンストリートにあり、そこに有名なコンノートルームという、高級レストランや宴会場の集まった場所がある。

その一室での昼食会に一人の出版業者が出席していた。会が一段落した時、彼は息抜きにその向かい側にある心霊書店のショーウインドーをのぞき込んでいた。そこに例の私の小冊子も並んでいた。彼はそれを見て興味をひかれたらしく、すぐに買い求めた。

 その翌日のことである。その男から電話があって、私に何か本を書いてみる気はないかという。私は直接彼と何回か面会して、いろいろと私の体験談や治療家となるに至る経過を話して聞かせた。すると彼は体験談を自叙伝風にしたものに心霊治療の話を加え、さらに例の小冊子に述べたような死の真相を付け加えて、一冊にまとめてほしいという。

 私は直ぐにOKしてさっそく仕事に取りかかった。書きあがるとすぐ原稿をその出版業者に送った。ところがなかなか返事がない。それどころは、どうしたことであろう。

やがて原稿が送り返されてきた。曰く、内容は気に入ったが最終的に出版を引き受けてくれる人が見つからないのだという。つじつまの合わない言い訳である。結局、この人は宗教的偏見から出版を断ってきたに違いない。

 この原稿はずいぶん時間をかけて書いた。それが人もあろうに、それを依頼した当人からヒジテツをくわされたのであるから、ショックでなかったと言えばウソになる。私は残念でならなかった。内容には自信がある。この種の本はまだ見かけたことがない。何とか出版したいと思った。

 そこで私は静かな部屋で背後霊にお願いをした。どうかいい出版業者を世話してほしい・・・・・・と。

 その効果は二、三日後に早くも現れた。ある出版者の取締役と昼食を共にするチャンスにめぐまれた私は、抜け目なくその話を持ち出した。

すると、一度原稿を拝見したいというので早速お送りしたところすぐOKになり、ロンドンとニューヨークで同時発売の運びとなった。一九七〇年のことである。反響は予想した通り絶大であった。今でも読者から週に五十通から六十通の感謝状が届いている。


 こうした背後霊の援助は、やり方さえ正しければ誰にも得られる。ちょうどに地上生活で電気をいろんなことに活用しているように、背後霊が生命力を活用してあれこれと面倒を見てくれるわけである。ただし、それがどんな形で現れるかは人間には予測できない。

霊的な働きについて人間がよく知らないからである。少なくともこの世にいるかぎり、背後霊に一切をおまかせするほかはない。

 人間というのは決して一刻平等にできあがっていない。それぞれ霊的進化の程度が違っている。仮に、今ちょうど同じ時刻に二人の人間が誕生したとしよう。一人は動物的段階をやっと終えて人類としてはじめて地上に生を享けた。

もう一人はすでに何回かの地上生活を体験して高度な霊格を身につけている。成人してこの人は偉大な哲学者あるいは聖人といわれるような人になるかも知れない。が、前者は屠殺場の屠殺人としての生涯を送るかも知れない。

 あなたも、今あなたがつき合っている仲間とは進化の段階が異なる。あなたの方が進んでいるかも知れないし、遅れているかも知れない。が、それはどうでもよい。要はあなたがこれまでに積み重ねてきた知識と体験をもとに、今何をするかである。

 が、電気をいじくるのに前もって電気についての知識がないと危険が伴うように、心霊知識をよく身につけた上でないと霊的生命源にむやみにプラグを差し込むのは危険このうえない。心霊知識はこれが初めてという人は、ぜひ本章は最後まで読み通していただきたい。それを受け入れるか否かはそれからの問題である。

 さて、煩雑な日常生活を忘れて静かに精神統一をすることは、背後霊との触れ合いの機会を与え、必要な援助を受け、生命力を流れ込ませることになる。

触れ合いに成功したあとの気持ちはさわやかそのものである。一度その味をしめると悩みというものから縁が切れる。自我へのこだわりを棄てるからである。悩みこそが体内の生理的バランスを崩す大敵であることはすでにのべた。

それがきれいに消えてしまうのであるから、緊張がほぐれ、バランスが回復すると同時に、精神的に生まれ変わったような気分になるのも当然であろう。

 この精神統一を少なくとも一日一回行い、同時に先に述べた〝心の姿勢〟に気をつければ驚くほど元気になり爽快になる。これを繰り返すうちに、やり方にこだわらなくなる。

さきに白いバラを想像して意念を集中しろといったが、その必要が無くなる。次に時と場所にこだわらなくなる。いつでもどこでも、たとえば仕事でも列車の中でも、まわりの世界から遮断し、魂の奥深くもぐりこむことができるようになる。

つまり生命の源に、いつでもどこでもプラグを差し込むことができるようになるわけである。

 背後霊というのは我欲から出た要求でなければ何でも聞いてくれる。要求を妥当と見ると、それに必要な処置をいろいろと講じてくれる。電気工事夫が配線をしてくれるのと同じ要領で、生命の源と連結しスイッチをまわし、必要な生命力が流れ込むように工面してくれる。

 こんな素晴らしい話はないのだが、人によってその受け取り方はまちまちであろう。宇宙の生命力うんぬんも結構だが、とにかく金さえあれば何も文句をいわんという人もいるであろう。ひたすら商売繁盛を祈ってわき目もふらず邁進している人もいるであろう。

そういう人にとっては取引が大きくなることが成功にほかならないであろうし、またある人はロールスロイスに乗れるようになることが何よりも成功のシンボルであるかも知れない。庭付きの豪華な家、プール付きの大邸宅、こうしたものにあこがれてコツコツと働いている人も多い。

 が、ここで思い出していただきたい。いったい自分がこの世に生を享けた目的は何だったのか。霊格を高めること、つまり魂の進化のために必要な体験を積むべく生まれてきたのではなかったのか。

物的要求のために邁進するのも結構であるが、人生の週末を迎えると、人間は誰しも一体何のために生きてきたのだろうかと思うものである。その時、山ほどの財産を貯えたことに満足する者はまずいない。大邸宅で往生できることをこのうえない冥利と感じて死んでいく人間もいない。むしろそういう人ほど、人生のむなしさを痛感するものである。それも当然であろう。なんとなれば、人間は所詮は霊的存在だからである。

 では、人間は何に一ばん生き甲斐を見いだすのだろうか。それは、自分という一個の人間がこの世に生きたことによって少しでも人のためになったということである。言いかえると人の霊的進化のうえで自分の存在が少しでも役に立ったということである。

つまり他人にとっての自分の存在価値が、この世での自分の存在価値を決定づけるのである。


 毎日の生活の視点をそこに置きかえてみるとよい。あなたの人生はガラリと様相を一変するに違いない。くだらぬことにあくせくしなくなる。張りつめた気持ちがゆったりとしてくる。そして何よりも大きな変化は、死を恐れなくなるということである。

 死という現象は少しもこわいものではない。痛みも不快感もない。気がついてみると自分が、本当の自分が肉体の上にただよっている。両者は銀色に輝く一本の紐でつながっている。

その紐は呼吸をしているかのように脈うっているが、やがて力を失いどこかへ消えてしまう。肉体の顔に白い布が置かれるのはこの時である。

 あなたは死んだ。が、実際に死んだのはあなたの肉体であって、あなた自身、本当のあなたは銀色のモヤの中を上昇していく。やがて背後霊が迎えに来て、手を取って案内してくれる。案内されたところには、生前あなたと縁が深かった人たちが待っている。

そのうちモヤが晴れて、一面煌々たる色彩ゆたかな世界が広がる。あなたは地上生活を卒業したのである。

 それから何週間、何ヶ月、何年、何百年、何千年後のことかは分からない。ある日のこと、指導霊が真剣な顔つきであなたを呼ぶ。あなたは黙って座る。すると目前にまるでテレビで見るように、あなたのそれまでの生活の一切が映し出される。

良かったこと悪かったこと、バカげたこと真面目なこと、何もかもが映し出される。何一つ隠すことができない。その場を逃げ出そうにも逃げられない。ただじっと見つめているほかはない。

 画面が終わった。こんどはそれを分析検討しなければならない。みずから求めて地上へ行った当初の目的は達成されたのであろうか。次はどうすべきだろうか。もう一度地上へ戻るべきか、それとも一段高等な別の世界へ挑戦してみるべきだろうか。

霊界に留まって誰かの背後霊として働く方法もある。が、いずれを選ぶにしても決定権はあなたにある。指導霊のアドバイスはある。が、最終的に結論を出すのはあなた自身である。

 その結論をいま出したとしよう。あなた自身はこれこそ自分の成長にとって最適と思うコースを選び、その機の熟するのを待つ。やがてその時期が訪れた。あなたは霊界の友人知人にしばしの別れを告げる。そしてそれまでの記憶の一切が拭い去られる。

 時を同じくして地上の一対の男女に愛の炎が燃え、生命の種子が芽ばえる。そしてその種子にあなたが宿ることになる。

あなたがこの度の人生において天才となるか低能児となるか、有名人となるか平凡な生活を送るか、こうしたことはこの時点においてすでに決定づけられているのである。が、そのいずれになるかが問題なのではない。その人生を如何に生き抜くかが大事なのである。

 話が少しわきへそれたように思われるかも知れないが、決してそうではない。本章は生命の根源についての話である。その根源についていくらかでも知り、その活用法を知ることは当然必要である。

 もっとも、私の話をどう受け取るかは人によって異なるであろう。霊魂の世界が実在するという点についても、あっさり認める人もあれば厳然たる証拠を出さなくては信じられないという人もいるであろう。私はそういう人を決して非難はしない。

むしろ私は、納得のいくことだけを信じなさい、証明されないものは信じなさるなと言いたいのである。大見得を切った言葉のように響くかも知れないが、これまで述べてきたことに関して、私は十分自信をもっているつもりである。

 では心霊治療の真実性は何が証明するのか。それはほかでもない、心霊治療によって病気が確実に治っているという事実そのものである。

私はかつて宣伝というものをしたことがない。なのに、次から次へと患者が来る。これは治った人が宣伝してくれるからである。理屈で心霊治療の説明をするよりも〝治った〟という厳然たる事実が人を動かしているのである。

 精神統一による心の姿勢の改造についても、理屈をこねて疑ってかかるまえに、一度自分でやって見ることである。証拠となる臨床記録なら山ほどある。が、疑ってかかる人には治療例を並べてみてもダメに決まっている。とにかくやってみることである。やってみて、もし何の効果も感じなければ信じなければよいのである。

 が、何の効果もないことを私が人にすすめるだろうか。私自身は心身ともにすこぶる健康である。健康法を人にすすめねばならない義務も必要性もない。健康法を必要としているのはあなた自身ではないか。

 死後の存続というのは確かに破天荒とも言うべき重大事であり、今ただちに納得できなくてもやむを得まい。初めて聞いてすぐに納得のいく性質のものでないからである。

が、今私はその事実を前提として話を進めているのであるから、とにかくここでは、それを事実として認めていただこう。あなたは永遠に生き続けるのである。

ということは、あなたは死なないということである。たとえ肉体は死んでも、あなたの個性はそのまま別の世界に生き続けるということである。この事実の重大さにお気づきであろうか。その死後の世界にこそ生命の源が実在するのである。

 私のいう心霊治療とは、その根源の世界との連繋作業によって治療するやり方なのである。死後もなお医学を勉強している人々が、私の身体を通じて生命力をこの世に送ってくれるのである。その意味で私も一種の霊媒である。

 霊媒にもいろいろある。私の場合は生命力あるいは治療エネルギーを中継する役であるが、知識や情報やメッセージなどを中継する役の人もいる。

ふつう霊媒というと暗い部屋で手足を椅子に縛られて、そのまわりで物体が飛んだり跳ねたり気味の悪い物音がしたりする人のことを想像しがちであるが、これも霊媒には違いないが、先に述べた霊媒とは根本的に性質が異なる。

今その詳しい説明をする余裕はないが、ひと言だけつけ加えると、霊媒となる人のタイプというものは別にきまっていないということである。

大柄であるとか小柄であるとか、金持ちであるとか貧乏であるとか、教養があるとか無学文盲であるとか、そう言った違いは別に関係ないということである。

 では何によって霊媒を評価したらよいのか。よい霊媒と悪い霊媒はどこで見わけたらよいかということになると、私は躊躇することなく、その人の奉仕的精神の程度によると言いたい。つまり私利私欲に走る人、生意気な人は霊能も大したことはなく、事が事だけに危険性がある。そんな霊媒にすぐれた背後霊がつくはずがないのである。

 そこで私が(妻と共に)初めて霊能者を訪ねた時の体験談をしよう。霊媒の名はエステル・ロバーツといい、女性の霊媒であった。通された部屋は小さな部屋で、カーテンもなく普通の明るさであった。

妻も私も女史とは一面識もない。女子はひじ掛け椅子に腰かけ、時おり耳をすまして霊の声を聞くようなしぐさをしながら、ごく普通の態度で話す。

 その時女史が口にした話題はかつて誰にも話したことのない、妻さえ知らない戦時中の出来事で、私自身も永年忘れていたことであった。その出来事というのはこうであった。

 戦場での話であるが、ある作戦を開始するに当たって、私が行くべきか、誰かほかの者が行くべきかで意見が分かれた。そして最終段階で一人の将校が行くことにきまった。

ところが、その将校は敵弾に当たって帰らぬ人となったのである。私はむろん無事だった。が、私が行くべきだったという気持ち、そして私が行っておれば恐らく私が死んだはずであろうという考えが私に頭から消えなかった。その将校は親友であり、入隊以来ずっと起居を共にしてきた男であった。

 女史はその将校の容貌、姿恰好、軍服などを細かく説明し、敵弾にやられた時の状況まで描写した。そしてさらに将校からの伝言をこう伝えた。

「あの時のことを君が悔やむことはない。僕は死ぬべくして死んだのであって、君はあの時は死ぬべき人間ではなかったのだ。君には何一つ責められるべきところはない。と。

 私にとって、この伝言は他にいかなる心霊現象にもまして死後の存続という事実の強力な証明となった。

 その後さらにいくつかの体験をして、今では私にとって死後の存続は信じる信じないの問題ではなく、あたりまえの事実となってしまった。

 死をすべての終わりと思いながら空しい人生を送るか。それとも私のように死後の世界の存在を当たり前の事実として、その知識の上に力強い人生観をうち立てるか。その差はあまりに大きすぎるとは思われないだろうか。

 まったく無知のままでいるのも気の毒であるが、こうして私の体験を読むことによって、こんなにすばらしい真理があることを知ったあなたが、それを単なる一片の知識としてしまっておくのもまた実にもったいない話である。

あなたもみずから体験してみてはどうであろうか。そう、生命の源に自分でプラグを差し込んでみることだ。



           
   第五章 成功へのカギ
 本章をお読みになるまえに、これまで四章にわたって私が紹介した健康法を一度確かめてみられるようお願いする。

欲を言えば本書を一たん最後まで通読してから、もう一度第一章から第四章までを読み返されると一ばん効果があるのであるが、それも大変であろうから、せめてこれまで私がお勧めした健康法のうち、一つでも実際に体験してみていただきたい。成るほどと思われること絶対にうけあいである。

 健康を損ねているおられる方はどこか違ってきたことを感じられるであろうし、特に病気らしい病気をしておられない方でも、今までにない元気が出てくることに気づかれるはずである。元気が出ると何かやりたい気持ちが湧いてくる。

そこが大切なのである。そのやる気こそが実はこれから私が解き明かそうとしている成功へのカギの原動力なのである。

 さて、過ぎてしまったことでいつまでもクヨクヨしないこと、これはすでに述べた。済んだことは済んだこと、きっぱりと割り切らなくてはいけない。悔恨、無念、腹の虫がおさまらないといった精神状態は何のたしにもならない。

それどころか、実際には恐ろしいほど破壊的な影響を及ぼしているのである。過去を振り返るのは、そこから何かを学びとる時だけでよい。あなたは次に列記するようなグチをこぼしたことはないだろうか。胸に手を当ててよく反省みてみていただきたい。

 「何をやってもうまくいかない。これ以上やって何になる」
 「オレには失敗と不運がつきまとっているようだ」
 「オレは要するに運がないんだ。とにかくまずいことが起きるようになっているんだ」

 「またヤラれた。もう二度と人を信用しないぞ」
 「オレは成功しないように出来てるんだ。失敗するように出来てる人間なんだ」
 「どうも人とうまくやっていけない。自意識過剰なんだ」

 「自分は人とうちとけるということができない。これはどうしようもない生まれつきの性格なんだ」
 「あのことさえなかったら絶対に成功していたんだが・・・・・・」


 こうしたグチや後悔は仕事で失敗した者がよく口にするのであるが、あなたはいかがであろうか。正直に反省してみていただきたい。そして、確かにこれはよく口にしていると思われるものに印を付けてみていただきたい。

実はそれがあなたの成功しない原因を象徴的に示しているのである。つまりそんな弱気なグチをこぼすようでは、成功は決して訪れてこないと見ていただきたい。

 そのグチをよく検討してみるがよい。そんなグチを言うべき根拠が果たして実際にあるだろうか。どこにもないはずである。結局、あなたは事実を口にしているのではなくて、あなた自身の心の姿勢がそういうグチとなって反映しているのである。

 心の姿勢ひとつで病気にもなるし、重病から回復することもあることはすでに述べた。が、心の姿勢の及ぼす影響はそれだけに止まらない。心掛け一つで環境も変え、対人関係で相手を操ることも出来る。

 それには、病気治療の時と同じように二つのエネルギー源を利用する。一つはあなた自身の内部にひそむエネルギーにカツを入れる方法であり、いま一つはあなたのまわりに充満する生命の根源にプラグを差し込む方法である。

この二つの方法を一つのたとえ話によって説明してみよう。


 ここに二人の男がいるとしよう。年齢は三十半ば、二人の子持ちである。二人とも新しい仕事を始めたが思うようにいかず、銀行からの借金が増え続けている。やがて銀行から通知が来た。ローンがオーバーぎみなので、事情を聞きたいから出頭願いたいという。来るものが来たわけである。二人はたまたま同じ職業に従事し、似たような条件下で四苦八苦しているところである。ところが銀行へ出頭した時の態度がまるで違うのである。

 最初に出頭したA氏は神経質である。仕事の腕は悪くないのだが自信というものを持ち合わせない。相談室に通された彼は終始うつむきソワソワして、まともに担当者の顔が見られない有様である。

「すみません
」を連発するばかりで、今後の見通しもアイデアも示さない。ついに銀行側から資金援助の打ち切りを宣告されて、スゴスゴと引き下がった。

 そのあとに出頭したB氏はなかなかのやりてである。今は確かに苦しいが、六ヶ月以内に何とか返済のメドをつける自信を持っている。手持ちの資金のすべてを項目別に明示し、現在の手持ちの仕事を列記して差し出し、担当者に一つ一つ説明していく。

そして仕事をもっと増やし、規模を拡大し、得意先を広げるためのプランを話して聞かせる。さらに銀行側に助言依頼人を世話するようにたのむなど、積極的な姿勢を見せる。

こうなると銀行側も資金援助を打ち切るはずはない。それどころか、返済期日の延長というオマケまでつけてくれた。

 おそらくA氏は事業の失敗を銀行からの援助打ち切りのせいにするであろう。銀行が援助を打ち切らなかったら大丈夫なはずだ。運が悪いとこんなことになってしまう。何をやってもダメだ・・・・・・といった調子である。

 その点、B氏は成功の秘訣を心得ている。グチもこぼさないし弁解もしない。事実をありのまま見つめ、必要な手をドシドシうっていく。その積極的な姿勢が、銀行側を動かしたわけである。こういう人は成功への軌道に乗った人である。どうしても成功せずにはおかない人である。

 成功にも軌道がありパターンがある。そのパターンにはまらない人は決して成功しない。そしてそのパターンの第一条件がこのB氏のような積極的実行力なのである。

物事がうまくいかない時、その対応策をアレコレ考えるのも結構であるが、考えたらすぐさま実行に移す行動的姿勢の方がもっと大切である。


 実際問題として完全な失敗というものはそうやたらにあるものではない。大ていが一時的な行き詰まりであり、軽いつまずきにすぐない場合が多い。従って積極的に打開策を講ずれば、きっと道は開かれるはずである。

弱気が一ばんいけない。転んだらすぐ起き上がり、ホコリを払って再び歩み出すのである。その実例として、現在ある生命保険会社の社長にまでなっている一セールスマンの若き日の苦労話を紹介しよう。


 彼は生命保険会社の外交員としてスタートした。誰しも自分の仕事を一ばん難しいと思うものであるが、セールスマンという職業ほど難しい仕事はない。

一度やってみられるとよく分かる。体力と神経の両方をすりへらしながらどこというあてもなく歩きまわり、あげくのはてに一本の契約もとれないということが多い。これほど根気と勇気のいる仕事はない。彼も一日中歩きまわった。

脈のありそうな家に何度も足を運び、これはと思った所には真夜中にも尋ねたこともある。

 が、数ヶ月を経たころには彼はすっかかり体力と神経を消耗していた。そしてホテルに泊まった。ある日、幻滅と悲哀に耐え切れなくなって、もうこれ以上セールスをやめようと決心した。その時ふと考えた。仲間にはすごい奴がいる。

面白いほど契約を取り、高級車を乗り回し、立派な邸宅をかまえ、結構このうえない生活を送っている。自分のセールスの仕方にどこか間違いがあるに違いない。

そう思った彼は机に向かってカバンから書類をとり出し、数は少ないがこれまで成功した時の状況をノートにまとめてみた。少ないけど成功したという事実に変わりはないではないか。よし、これを分析して自分自身の成功のパターンを引き出し、それを他の見込み客に当てて行けばよいのだ。彼はそう考えた。

 分析に手間はかからなかった。結局彼が引き出したパターンは、客がオーケーした時は最初に訪ねた時か二回目ということであった。つまり二回目以降は何度訪ねてもムダだということである。彼は努力家であり根気強い。

それが何度でも訪ねてみるしぶとさの原動力であったわけであるが、セールスに関するかぎり、二度訪ねてダメな客はそのあと何度訪ねてもムダだということがわかった。

幻滅と挫折感が強いのは同じ人を今度こそはとしつこく訪ねすぎるところからきていることがわかった。多い時は六回も足を運び、しかも断られている。

 こう分析して、彼は一抹の光明を見る思いがした。やる気が出てきた。「これからは二度で勝負しよう。二度訪ねてダメだったら、リストから抹消していこう」彼はそう決心して床についた。

 彼の考えは見事に当たった。一軒を二度以上訪ねないということは、新しく訪ねる家が増えることを意味する。また二度しか訪ねまいという決心は二度までに何とかオーケーさせようという意気込みを生むことになる。彼はその意気込みでドンドンまわった。

やがて成績がうなぎ上りに上昇していった。そしていつの間にかトップにおどり出た。今その彼は、世界屈指の生命保険会社の社長となっている。


 この実話には生きた教訓がある。仕事がうまくいかない時は、なぜうまくいかないかを分析検討してみることが第一だということである。どこかに間違いがあるからこそうまくいかないのであるから、それをいち早く発見して是正していくことである。

自己弁護してはいけない。グチをこぼすのはなおいけない。実行あるのみである。

 失敗者によくあることであるが、自分のやり方のどこが悪いかを知りながらそれに対処するための手段を講じない人がいる。これでは何にもならない。分析してみて、成るほど自分のやり方には無駄が多いことを知る。

正直に欠点を認めたまではよいが、それに続く行動がない。おまけに「どうしたらいいかわからない」などとグチる。わからないのではない。積極的行動に出る姿勢がないのである。

 とにかく思いついたことを積極的に行動に移す。はたしてそれが効を奏するかどうかにこだわってはいけない。今すぐ立ち上がって何かを始めることである。

 〝行動〟こそ失敗への最良の矯正手段である。自分を取り囲む情勢がいかに暗雲低迷していても、姿勢だけは常に積極性を失ってはいけない。弱気になってはいけない。たとえば金を借りた相手が気にかかって仕方がない時は、逆に思い切ってその人に会いに行くがよい。

会って、堂々たる態度で将来の楽観的見通しを述べるがよい。健康と幸福と成功、この三つをあなたの態度から感じ取らせるのである。健康へのカギといっしょで、たとえ見せかけであっても明るく振る舞うことが、やがて幸運を呼ぶことになる。

 運はあるとかないとかいう性質のものではない。呼び寄せるものなのである。このことを忘れてはいけない。言いかえれば、幸運はあなた自身が生み出すものなのである。

 「あいつは運のいい奴だ。運よく成功する条件が揃っていたんだ」

 こんなことを言う人がいるが、これも失敗者のグチである。自分はたまたま成功の条件が整っていなかったから失敗したのだと弁解したいのであろうが、他人の成功も自分の失敗もことごとく運のせいにするようでは、そこには努力も進歩の余地もなく、したがって成功する気づかいは毛頭ないことになる。

 運が良いかに見えたその男は、おそらく人知れず仕事に必死になっていたはずである。仮に保険のセールスマンだとすれば、寝ても覚めても保険のことを考えていたであろう。

食事をしている時もコーヒーで一服している時も、あるいは集会で同僚と談笑している時も、電車に乗っている時さえも、保険のことを考え保険の話をしていたかも知れない。そのひたむきな努力が幸運を呼ぶ大口のお得意さんに行き当たる。

それがキッカケで次から次へと面白いほど契約が取れる。かくして彼は成功者となった。これを側から見て運のいい奴だというのは、努力することを知らない人間の情けない言い訳というべきである。

 失敗したくないのなら、成功者となりたいのなら、何でもいいから今すぐ実行に取りかかることだ。欲望は成功を呼びよせ、不安は失敗を招く。このことをしっかりと心に銘記しなくてはいけない。

 イヤ、一切の消極性を排除するというモットーからすれば「不安は失敗を招く」という言い方も排除すべきかもしれない。欲望は成功を呼びよせる。難しい理屈はいらない。

文字の通り、言葉の通りなのである。欲しいと思えばそれが手に入るというのである。むろん一生懸命でなければいけない。寝ても覚めてもそのことが脳裏から離れないようでないといけない。

 と同時に、欲望の動機にも注意が必要である。利己的な欲や他人対する悪意に発したことは絶対に避けなければならない。道徳的見地からみて、何ら恥じることのないものであれば、一心に念じて行動すれば必ず成功が得られるはずである。

 私は今あえて「念じて行動すれば」という言い方をした。念じただけではダメだというのである。行動に移らななくてはいけないというのである。夢も願いもただ心に抱いただけでは実を結ばない。それ相当の行動が伴って初めて実現されるのである。


 では、これまで述べたことをまとめてみよう。失敗した時自分はどんな言い訳や弁解をしているかをよく反省して、以後、それを絶対に口にしないことを自分に誓うこと。

過去のいきさつは一切忘れて教訓だけを胸にしまっておくこと。仕事がうまくいかない時はその原因を分析して、自分のやり方のどこが間違っているかを見届けること。次に自分の目標を定めてそれを強く念じ、かつ行動すること。

 以上がこれまで私が述べてきたことの要旨である。ではこれからどうしたらよいのか。

行動、行動というが、どんなことをしたらよいのか。それをこれから述べようというのである。

 ひと言で言えば「人を動かし事をあやつることを始める」のである。もうこれからは手をこまぬいて事態の進展にまかせるようではいけない。自分が事を起こし、人を動かすことを考えなくてはいけない。それが出来るのである。

やればできるのである。が、それにはそれなりのコツがある。それをこれから紹介しよう。

 先に私は「欲望は成功を呼びよせる」と述べたが、本当は「行動に結びついたチャンスを通じて」という言葉を挿入すべきところである。

ただあまり文句が長くなると口調が悪くなるので、あのよう述べたわけである。で、その行動に結びついたチャンスを通じてというのを、これから悦明しよう。

 まず目標をしっかり定めていただこう。といっても、あまり飛躍しすぎてはいけない。

セールスマンであると仮定した場合、さっきのアメリカの生命保険会社の社長となったセールスマンの話を読んで、よしオレも社長になってやろうなどと思うこと自体は悪いことではないが、物事には順序があり階梯がある。

社長という地位は差し当たっての目標とするには飛躍しすぎている。まずあなたは現在の担当地区での成績をトップにすることを目標にしてはどうであろう。

 目標をそうきめたら、今度はその目標を心に焼きつけなくてはいけない。そのための方法としては、毎朝それを声に出して自分に言って聞かせるのが一ばんよい。

 「オレはオレの地区でトップになってみせるぞ」と。

 次にセールスの商品をよく勉強することが大切である。ただ売りまくればよいというものではない。セールスの本質は結局は自分自身を売ることである。その自分自身が商品についてあいまいな知識しか持ち合わせないようでは、人の心を動かすことはできない。

はっきりとした詳しい知識をもち、まず自分自身がその商品にホレて、ホントにいい品だと思うようでなくてはいけない。

 さて以上の二点について万全を期したあなたは、昨日とはまったく違ったセールスマンに生まれ変わっている。まず第一に目標がはっきりしている。地区で最高成績を収めることである。次に商品知識が完璧である。あなたは自分の商品にホレている。

この二つの条件を揃えたあなたは、セールスの態度にもそれを反映させなくてはいけない。ピリッとひきしまり、それでいて楽観的、積極的でなくてはいけない。

 さあ、いよいよあなたは客を訪問する段階となった。ドアをノックする。が、ちょっと待っていただこう。客に会う前にもう一つ注意しておきたいことがある。それは、商品売ろうとしてはいけないということである。

 「じゃあ客に会って何をするんだ。売るのが商売ではないか」そうおっしゃるかもしれない。ごもっともである。

 が、実にそこにセールスのコツがあるのである。たしかに買っていただく、あるいは契約していただくのが最終の目的ではあるが、最初かた「買わせよう、契約させよう、判をつかせよう」とする姿勢を見せるのはヘタなやり方である。

 では何から始めたらよいか。まず相手がどういう人であるかを知り、同時に自分という人間を知ってもらうことである。そのために何でもいいから話を始める。

そしてその話を通じて相手が何に一ばん興味をもっているかを知り、それに話しを合わせていくのである。すると人間は妙なもので、自分に素直に興味を示してくれると、変わって自分の方から相手に興味を示したくなるものである。

 かくして、商品を離れて人間的親しみとなつかしさを感じるようになる。あなたは人を動かしたのである。

 いきなり商人的態度に出られると、誰しも警戒的態度をとるものである。するとそこに売手と買手の対立関係が生じる。それではいけない。まず人間的な信頼関係を抱かせる──これがセールスの第一のポイントである。

 いまセールスマンの仕事を例に取り上げたのはたとえ話として一ばん説明しやすいからで、同じことはどんな仕事についても言える。つまり相手に対して素直に興味を示すことが、相手を動かす一ばんのコツなのである。

自分に関心を示されて嬉しく思わない人はいない。その嬉しい気持ちがあなたに対する態度に反映して、あなたの喜びそうなことをしてあげたいという気持ちを起こさせる。

 態度や物腰というものは恐ろしいほど伝染性の強いもので、たとえば和やかな笑い声に包まれた部屋の中で、一人だけしかめ面をするのはまず困難である。葬式の最中に楽しい顔をするのも容易なわざではない。これと同じで、人間は相手の態度しだいでどうにでも気持ちが変わるものである。あなたが気持ちの良い態度で相手に関心を示せば、かならず相手も気持ちよくあなたと、あなたの仕事に関心をもつはずである。

 日頃からよく顔を合わせる人に、どんな些細なことでもいいから親切を施すことである。きっと相手からうれしいことが返ってくるはずである。直ぐに返ってくるとは限らない。何をするにもそれなりのチャンスが必要だからである。が、

そうしたお返しを予期するのではなく、そうずることが健康的であり自然の理法にかなっているからという心構えで親切を施すのである。おそかれ早かれ、あなたの蒔いた幸せのタネが至るところで芽を出し、実を結び、成功への大きな基礎を築いてくれる。

 人それぞれに異なった生活環境があるから、具体的にどうすればよいかは人によって異なる問題であり、一概には言えない。が、いかなる環境であれ、根本的に共通した原則がある。

 まず第一に大切なことは、今まで仕事がうまく行かなかったのは日頃のあなたの心の持ち方のどこかに間違いがあったからであることを反省して、この日を境として、心の姿勢を大改造することである。物の考え方、やり方を根本的に改めることである。

 次に大切なことは生活および仕事にはっきりとした目標をもつことである。とりとめのない生活、漫然とした仕事は人間をだらけさせる。かといって、大それた目標をもつのも感心しない。階段を一歩一歩登るように、いまより一段上に目標を定める。

 次にその目標を、毎朝、自分に言って聞かせ、意識をそのことに集中する。成就するまでは、どんなことがあっても変えてはならない。かくして目標を心に念じながら一日を開始するのであるが、それが生活上のことであれ仕事上のことであれ、一つ一つの言動が直接その目標に結びついていなければならないということはない。

 目標を達成する手段はいろいろあろうが、絶対に欠かせない条件は人との接触をなるべく多く持つとということである。

接触するということは必ずしも面と向かって会うことを意味しない。電話をかけるのも接触であるし、手紙を書き送るのも接触である。が、直接会うに越したことはない。

 もっとも、できるだけ多くの人と接触しろといっても、全く無関係の人と接触する必要はない。差し当たってあなたと生活上ないし仕事上でつながりのある人と接触すればよい。接触して明るく気持ちよい態度で対話をもち、些細なことでもよいから相手がよろこぶようなことをしてあげる。あるいは話してあげる。

 その時、目標を意識してはいけない。商売根性から出た見せかけの善意であってはいけない。目標は毎朝出がけに言い聞かせてあるから、潜在意識に深く刻み込まれているはずである。それが無意識のうちに相手を動かし、成功への地ならしをしてくれている。

 だからあなたは、人に会った時はひたすら相手に善意を施すことだけを考えればよい。

大きい小さいは問題ではない。いわゆる〝小さな親切〟でもいいし、大きくて自分の手に負えそうにない問題でもいい、真剣に相手の身になって努力してあげることである。

 かくして一日が終わる。何だか一日中本来の目標とは関係のないことばかりしたような気がするかも知れない。が、それでいい。あせってはいけない。目先の欲に走ってはいけない。毎日そうすることに大きな成功へのタネ蒔きをしているのである。やがて機が熟すれば芽を出し、思いもよらない幸運を呼び寄せてくれるに相違ない。願ってもないチャンスが次々と訪れ、仕事が、そして生活全体が面白いほど順調に運ぶようになる。

 そして、やがて最初の目標が達成される。そうしたら目標をもう一段高いところに掲げ、前と同じようにそれを毎朝自分に言って聞かせて、潜在意識に強く印象づけてしまう。あとは今述べたとおりのパターンに従えばよい。

即ち、なるべく大勢の人に接触して相手に善意の施しをする。するとその善意が幸運となって、あなたのもとに舞い戻ってくる。仕事がうまくいく。目標が達成される。また一段高い目標に挑戦する。

 こうしているうちに最後の大目標まで到達する。
 成功したあなたを見て人は言うかもしれない。

 「あいつは運のいい奴だ。たまたま成功する条件が揃っていたんだ」 
と、かつてあなたが失敗を重ねた時に口にした言葉だ。

 が、あなたは決してたまたま運がよかったのではない。努力が幸運を呼んだのだ。それはあなたと私が一ばんよく知っている。
 


          
 第六章 財運を招くコツ

 人間誰しも金持ちになりたいと思う。もう少しお金があれば、生活がラクになるのだが・・・・・・そう思っている人が大部分であろう。本章はそういう人のために書いてみる。

従ってもしあなたが現在の生活に満足し、別に金持ちになりたいとも思わないなら、本章は飛ばしていただこう。あなたには無意味だからである。

 皮肉でなしに、あなたは本当にしあわせな方である。つつましく収入の範囲内の生活に満足し、それ以上の物的要求もなく、ぜいたくも求めない。これは一種の悟りであり、そこまで悟った人には本章をはおろか本書を読まれること自体が無意味かもしれない。
 
 が、私が日ごろつき合っている人の中には残念ながら、その様な悟りを開いた人はまず見当たらない。大抵の人が少しでも多くの金がほしいと思っている。

むろんその動機は人によってさまざまである。方々を駆けまわる忙しい仕事をしている人は車を欲しがり、わずかな年金で暮らしている孤独な老人はテレビを欲しがる。こうした人がもう少し金があればと思うのは当然であり、欲が深いと決して言えない。

 一方ぜいたくな欲望をもった人もいる。三台も車をもっている人が今度はヨットがほしいとか、奥さんがダイヤモンドのネックレスがほしがったりすることもある。ぜいたくではあるが、もっと金がほしいという点では同じである。


 さて本章は「財運を招くコツ」と題してあるが、これを「金をつくるコツ」としなかったことには理由がある、金はつくろうとしてつくれるものではなく、来るべき人のところげ自然に集まってくるものだからである。

ニセ札づくりはなるほど金を作ってはいるが、これは意外にコストが高くついて割の合わない商売らしい。おまけに見つかったら更に高くつく。造幣局も金をつくってはいるが、自分のふところに入るのは雀の涙ほどである。月給袋を手にして情けなく思う御仁もあるに違いない。

 冗談はさておいて、ここで金というものが一体いかなるものであるかを考えてみたい。例によってたとえ話で行こう。

 あなたが今、小さな島で暮らしているとしよう。島には山から絶え間なく清流が湧き出て、海へ注いでいる。それが島での唯一の水源だとしよう。

 さて生きていくためには作物をつくらなければならない。そのためには水がいる。そこであなたはその川から水をひくことになる。コツコツと堰をつくりミゾを掘り、ようやく田畑を潤すのに成功した。近所の人たちも同じようにして自分の田畑に水をひいた。

ところが中には怠け者がいて、堰をつくろうとせず。ミゾを掘ろうとしない。当然の結果として田畑は枯れ収獲はゼロとなる。

 一方には欲ばりもいる。必要以上に大きな堰をこしらえ、水路になみなみと水をたたえ、その余った水は貯水池をこしらえて貯える。そのうち近所の怠け者を雇って田畑を耕させる。やがて隣接する田畑を買い占め、その地主を労働者として雇う。

 こうして数少ない金持ちがやがてその島の土地の大半を所有するようになる。こうした人たちがいわゆる有産者階級を構成し、そしてあなたのように自分の土地を守り、つつましく真面目に生活している人が中産階級を構成することになる。

 金というのはこの話でいえば水のようなものである。金は天下のまわりものといわれるように、あなたのまわりを水のように流れているのがお金である。

水が無くなったからといって雨を降らせるわけにもいかないように、金が足らないからといって自分でこしらえるわけにはいかない。

 が、水を田畑に引くように金の流れを幾らかでもあなたの方へひくことはできる。

その引く分量が多くて有り余るほどであれば金持ちということになるし、少なすぎる時は貧乏となる。ではどうすれば欲しいだけの金を自分の方へ引き寄せることができるかということになるが、その前にあなたは一体なぜ金がほしいかをよく反省してみる必要があるように思う。まずそれから始めよう。

 大げさに言うと、今の世の中で金を使わずにいるということは至難の業である。朝起きて夜寝るまで、何を見てもどこを見ても、そこには必ず宣伝がある。

手を変え品を変えて財布の紐をゆるめさせようとしている。朝起きて新聞を開く、どのページにも宣伝がある。全面を使ったすごい広告もある。一歩外へ出ると目に耳に、否応なしに宣伝が入ってくる。雑誌を買って開いて見えると、至るところに広告が出ている。

帰宅してテレビのスイッチを入れると、これまたコマーシャルの連続である。

 よく見ると、なるほど広告宣伝されているものは家にあるものより上等だし、きれいだし、便利そうである。二十四回払いだの三十回払いだのと長期の分割払いになっている。

頭金も実に安い。中には頭金不要というのもある。クレジットをご利用くださいというのもある。要するに品物は今すぐお手もとに、お支払いはあとでという条件を再興の売り物にして宣伝するから、つい買ってみようかという気にもなる。

 昔と違って、今では広告宣伝も一つの科学的技術となりつつある。心理学にもとづいて消費者心理を細かく分析し、それを巧みに利用して買いたい気持ちを起こさせる。

 第一に、いま家にあるものが古くさく思えるようにする。
 第二に、あんなものもあって悪くないなと思わせる。
 そして第三に、それを買うことによって充実した生活、本当の幸福、あるいは楽しい性生活が保証されるような気持ちにもっていく。

 こうした巧みな宣伝の洪水のなかにあって、かりに気持ちのどこかで「無理に買わなくてもいいじゃないか
」と思っていても、ほんとはそれを買う金がないのだという現象に気づくと、やはり面白くない。

 現代はまさに物質崇拝の世の中である。人生の成功不成功が物によって計られる時代である。たとえば高級車をもつことが成功のシンボルとされる。豪華な家、豪華な衣服、なんでも豪華なのが成功を象徴する。バカンスを楽しむ場所にも格があるらしい。

一年に何回行くかも問題になるらしい。子供の通う学校も格付けされている。室内装飾品が豪華なこと、庭園が大きいこと、プールがあること、ヨットをもっていること、地中海に別荘をもつこと等々、数え上げたらキリがない。

 これに加えて銀行預金の額、不動産の大小がまた人間を格付けする。金に糸目をつけない剛毅な男がいい男とされる。こういう人を金持ちといい、自分でもそう自認する。

 さて、こうした世の中にあってあなたが金持ちになりたい、あるいはもう少し金がほしいと望むことを、私は決して悪いことだとは思わない。そう思わぜるような世の中になってしまったからである。

 が、願わくばあなたにだけはそうした欲を適度におさえる自制心が備わっていることを期待したいものである。なぜなら、足れるを知ることこそ幸福への唯一の道だからである。自制心を失ったが最期、人間の欲望は際限を知らない。

 事をもつ。結構なことである。が、一家に一台で十分な筈なのに奥さんが自分の車を欲しがる。仕方なしに買ってやる。さあ、こうなったらもはや価値や便利さの問題でなくなり、見得の問題となる。

そのうちロールスロイスが欲しくなる。次は外国製のスポーツカーにしてみたくなる。

 近所の誰それがマジョルカ島へ遊びに行ってきたと聞くと、ならばウチはジャマイカにでも行かないと気持ちがおさまらない。隣の家が21インチの白黒テレビを買った。さっそく21インチのカラーテレビを買いに行く。

 こうして買いたいだけ買い、使いたいだけぜいたく三昧をした挙句のはてに、長者番付のトップになってみたいという他愛もない欲望のとりこになる。百万の単位から千万の単位を目指し、それが達成されると今度は億の単位をめざす。

 私はこうした人たちを気の毒な人種だと思う。一種の中毒患者だからである。必要があって金を貯めているのではない。ただ金にとり憑かれているのである。さっきの水のたとえで言えば、他人の迷惑も考えず、むやみやたらに自分の田畑に水をひき貯水池に貯えているようなものである。

 金は天下のまわりもの。必要な人のところに必要なだけ出まわっておればよいのである。その流れに勝手に堰を築き、必要以上に自分のふところに溜め込む。その他愛なさに気がつかないのが私には気の毒に思えるのである。

実際問題として貧乏ほど気楽なものはない。いわゆる足れるを知る心境になり、無いものは無いで済ませる生活術を心得さえすればそれで済む。他人に迷惑をかけることもない。

これに反しお金というものは、それをもつことによって、さまざな誘惑と戦わねばならなくなる。

 ここで思い出していただきたいのであるが、あなたは魂の進化の修行場としてこの地上生活を選んで生まれて来たのである。その見地からすればいったん金を手にした以上、それをいかなる目的に使用するかがあなたの価値を決定づけしまうわけである。

 富はいわゆる諸刃の剣である。使い方を誤ると、自分自身を傷つけなかねない危険性がある。ところが大ていの金持ちは財産の確保と隠匿に必死になる。たとえば金融業を始めたり、相続税を免れんがための税法上の勉強を始めたりする。

何のためにそうまでするのかといえば、自分の死後も家族がぜいたくな暮らしが出来るようにとの親心かららしい。まったく余計な親心というものである。

 世の親はとかく息子に自分の仕事をつがせたがるものである。何度も言うように、人間は一人一人進化の程度が違う。子供の方が親よりよほど進化している場合もある。

そんな場合、自分が続けてきた金儲けと、それにまつわるあくどい商根を息子に受け継がせようとしても、本人はおそらく有難がらないだろうし、反発するかもしれない。

 その逆の場合、つまり息子が人類に進化したばかりの幼稚な霊魂である場合は、気狂いに刃物のたとえに似て、もてあました金で何をしでかすかわからない。金は多ければ多いだけ、持つ者の責任も大きくなるはずのものである。が、残念ながらその辺を心得た億万長者を私は知らない。

 金は着実に人の心をむしばむ。そのおそろしさを悟るまでは巨額の金は持つべきではない。

 さて、なぜ金がほしいかの命題に戻ろう。幸いにしてあなたは金の価値の限界を心得ているとしよう。痛いほど金の恐ろしさを知っている。だから、あなたの場合は真実もう少しだけ余分の金が欲しいというに過ぎない。結構である。が、

たとえ金の恐ろしさを知るあなたでも、少額とはいえ一たん金儲けに着手することは導火線に点火するようなものであり、その爆発によって他人に、そして自分自身に、思わぬ被害を与える危険性が多分にある。

そこで、点火に先立って何のために金が要るのかという点を、今一度点検してみる必要がある。つまり金儲けの動機である。

 そのために、次に述べる私の提案を忠実に実行していただきたい。まず紙と鉛筆を用意していただこう。次にこの節の切れ目のところで一たん本書を閉じていただこう。

閉じてから静かに瞑目して、一体自分はいまなぜ金が欲しいのか、その動機を思いつくままに記していただきたい。欲しいものを書くのではない。なぜそれがほしいかを正直に書きだすのである。では本を閉じていただこう。


 いかがであろう。うまく書けたであろうか。こればかりはあなた自身の問題であるから、私はただ信じるほかはない。よろしい、正直に書かれたものと信じよう。では続いて、それを次の尺度で合否の判定を下していただきたい。

 すなわち、その動機に道義的にやましいところはないか、そして誰かあなた以外の人のしあわせに少しでも役立つものであるかどうか。

 この判定に合格すれば、これから私が述べる金儲けのコツも存分に威力を発揮するが、やましいところがあったり、他人に迷惑を及ぼしかねない危険性をはらんでいる場合は決してうまくいかない。が、ともかくあなたはこの動機テストにパスしたとして話を進めよう。

 さあ、これからいよいよ金儲けに精を出すわけであるが、ものには必ず準備というものがいる。毎日のように練習しているスポーツ選手でも必ず準備運動を怠らない。金儲けも同じである。その第一は罪悪感を捨てること、つまりお金、ゼニ、富といったものについて抱いてるきたないという感覚を拭い去ることである。

 古来いずこの国でも貧乏人は清いもの、金持ちはけがらわしいものとする傾向がある。

子供の頃に読んだ童話や物語に出てくる金持ちは大てい悪い人、いじわるな人で、まじめで勤勉な人はみな貧乏人と相場が決まっている。善良な大地主の話は出てこないのである。大てい貧乏な小作人に対して横暴な限りをつくす極悪人に仕立ててある。

こうしたことも手伝って、われわれはとかく金銭というものに対して一種の罪悪感というものを抱いている。そして金儲けを目的とした仕事をする人々を軽蔑する傾向がある。

 が、こうしたことは誤った先入観がそうさせるのであって、金儲けそのものは動機さえ正しければ決して悪いことはない。人間は元来病気するようにはできていない。病気になるのは心がけが悪いからだと言うことは前に述べた。

私はこれとまったく同じことが貧乏についても言えると思うのである。
 すなわち、人間はもともと貧乏するように出来ていない。貧乏するのはどこか心がけに間違ったところがあるからであって、心がけを正して努力すれば、人に迷惑をかけるほどの貧乏はしなくて済むはずである。

 今も言ったように貧乏というのは心の姿勢の反映である。貧すれば鈍するというように、一度貧乏すると原因をすべて環境のせいにして、何とかしようとする気力を失いがちである。そして所詮オレは金には縁のない男なんだとあきらめてしまう。

貧乏するように生まれついているのだと決めつけてしまう。

 愚か者とはこういう人のことである。金との縁を妨げているのは、その情けない無気力の姿勢にあることを知らない愚か者である。あなたは絶対に、このような考え方に陥ってはいけない。

金は自分から呼び寄せるものである。そのコツをこれからお教えしようというのである。


 これであなたは準備運動を終わった。〝カネをかせぐ〟ということへの余計な気がねをかなぐりすてた。自分は貧乏に生まれついているのだというあきらめの心境からも脱した。二度とこの二つの愚かな考えのとりこにならぬよう気をつけねばならない。
 
 さて、いよいよ金儲けに取りかかるのであるが、成功のコツのところでも述べたように、目標はまず手ごろなところから始めよう。一度に大金をかせごうとしてはいけない。

金儲けにも時間と努力がいる。途中であきらめるようなことになってもいけないから、比較的ムリのない額から始めるがよい。その額は自分のおかれた境遇に合わせて決めることである。決めたら、それをカードに楷書で次のように書き留める。

 「何が何でも百万円を呼び寄せてみせる」

 百万のところを五十万とでも一千万とでもするがよい。書いたらそのカードをふところにしまっておいて、朝起きた時と夜寝る前の二回、声に出して読み上げる。そうすることによって、あなたの目的が潜在意識に深く刻み込まれるのである。

 が、これと一緒に、もう一つ潜在意識に刻み込まねばならないものがある。それは百万なら百万の金が現実に手に入った時のドラマチックなシーンである。例えば銀行の係の者から「おめでとうございます。ついに百万に達しましたョ」と言われて握手を求められているシーン。あるいは自宅で山と積まれた札束を一枚一枚ていねいに数えている。

数え終わって奥さんを呼ぶ「おい、とうとう百万になったぞ」そのほかどんなシーンでもいいが、大事なことは具体的で、しかも単純であること。そして一度決めたらそのシーンを絶対に変えないことである。

 そのシーンをさっきのカードを読み上げるごとに思いうかべ、カードとシーンとが反射的に一体となるように潜在意識にたたき込むのである。

これが習慣となりきったら汽車の中でもバスの中でも、車を運転している時でも、あるいは机に向かっている時でも、そっと脳裏に思いうかべてはヤル気を鼓舞していくのである。 

 次にしなければならないのことは、成功のカギの場合と同じように、出来るだけ多くの人と接触することである。電話や手紙も悪くはないが、なるべくならじかに接触することである。相手はかならずしも金持ちとか実力者でなくてもいい。何でもない人との接触が大きなチャンスにつながることもある。

 ただ注意しなければならないのは、誰に会うにしろ、相手を利用してやろうという魂胆をもたないことである。ではどんな心掛けで接すべきか。

それは成功のカギのところでも述べたように、どんな些細なことでもよいから、いい事をしてあげようという心掛けである。郵便切手を売っているところがわからなくて困っている人に、ていねいに教えてあげることもいい事である。

タクシーへの合図の仕方がまずくて、なかなか止められずオロオロしている老人に代って、タクシーを止めてやることも善行である。駐車場を探している人に、最寄りの駐車場の名前と場所をメモして教えてあげるのも善行である。車輪の取り替えをしている人に手を貸すのもまた善行である。

 こうした善行を積み重ねていくうちに、やがてそれが醗酵し、潜在意識に刻み込まれた目的を実現する方向へ働きはじめる。やがて初期の目的が達成される。達成したら次の目的を一段と高いところに定める。

それが達成されたらまた一段と高くする。そうやって少しずつ目標を大きく高くしていく。


 こんなことで本当に金儲けができるのかと思われる方がいるかも知れない。大丈夫、きっと金の方からあなたの方へやってくるようになる。何はともあれ、自分で試してみることである。一銭の元金がいるわけでもなし、やって損をするものでもない。

要は金の使い道にやましいところがなければ、私が述べた通りの手順を忠実に実行することである。
 
 では本章の締めくくりに、その手順をまとめて箇条書にしてみよう。

 一、金銭に対する罪悪感や蔑視思想をすてる。
 二、動機にやましいところがないことを確かめる。
 三、儲ける金額を定めてカードに書き記す。
 四、その金を現実に手にしたシーンを想像する。
 五、そのシーンと金額とを朝と晩の二回、慣れてきたら折あるごとに想起して、潜在意識に焼き付ける。
 六、人との接触をできるだけ多くする。
 七、接触する人に少しでもよいことをしてあげる。
 


       
 第七章 本当の財産とは

 財産というと誰しもまず金銭を思い浮かべるが、お金だけが財産なのだろうか。イヤ、その前に、金がはたして財産と言えるだろうか。

 
実は本当の意味では財産とは言えないのである。金というのは物の価値を計る基準の一つであり、物をやり取りする際に使用される便宜上のものに過ぎない。

 ちょっと考えれば分かることであるが、世の中には金という基準で計れない価値を持ったものが幾らでもある。健康の値段は幾らかと言われても困る。車いすの生活をしている億万長者は全財産を払ってもいいから歩けるようになりたいと思うであろう。

 幸福は金では買えない。金と言うのは実際そんなものなのである。

 古来、多くの人が財産とは何かという定義を試みている。私はすこし抽象的になるが〝これだけは絶対に必要だ〟と思うもの、それがその人にとっての財産であると定義したい。

 具体的に言うと、たとえばアラビアの砂漠の遊牧民にとっては、金より何より〝水〟こそが絶対的な財産であろう。彼らにとって水道の話などはまさに魔法のランプ以上の夢物語と思えるであろう。

が、われわれ都会人にとって水道は正直言って涙が出るほど有難いものではない。

 仮に、あなたがトランクにぎっしり札束を詰め込んで航海しているとしよう。盗まれては一大事と、夜もオチオチ眠れないかもしれない。

 ところが途中で嵐に遭い、船が難破して無人島に流れ着いたとする。トランクはしっかりと握って離さなかったが、食べるものが無い。買う金は腐るほどあっても買うものが無いのだからどうしようもない。

 一方、同じ島に流れ着いたもう一人は金は一銭も持たないが缶詰だけは離さなかった。空腹に耐えきれなくなったあなたは、その人を見て恐らくトランクの金ぜんぶと缶詰一箇でもいいから取引しようと思うに違いない。が、

相手は金をいくら貰っても缶詰はくれないであろう。金とはそんなものなのである。

 別のたとえでいこう。ある夜あなたの家に泥棒が入ったとする。めぼしいものが無かったので壁に掛けてあった油絵を失敬した。逸品ではあるが、まだ保険はかけていなかった。結局あなたは金も、そして命の次に大切にしていた油絵も失ったことになる。

 が、仮に油絵を医師の免状に置きかえて考えてみよう。その免状を手にするまでには数十年にわたる勉学と学費が掛かっていることは確かだが、あなたは同じように失意のドン底に落ちるだろうか。

 おそらく平気なはずである。免状は複製ができるからである。ということは、学問や医師としての腕は盗もうにも盗めないとということである。言いかえると、心の財産は金にはかえられないということである。


 ここまで話を進めれば、私が本章で何を言わんとしているかがお分かりであろう。

生きていく上においてこれだけはどうしても要るもの、それがあなたの真の財産だとはいうものの、問題はその考え方である。あなたにとって絶対に必要なものとは何か。自分でよく考えてみる必要がありそうである。

 金はたしかに必要である。金がなくては何一つ買えない。が、絶対的価値をもつものかどうかを考えてみると、決してそうでないことは今述べたとおりである。

 私の知人に大金持ちが何人かいるが、普通の人に比べてはたしてしあわせな生活を送っているかというと決してそうではない。要するに、金は必要以上にもってもしょうがないということである。必要なだけの金を前章で述べたようなやり方で手にすることは結構であるが、金の魔力にとりつかれて金儲けの中毒にかからなければ幸いである。

 一見すると、金持ちの生活はどことなく落ち着いた雰囲気があり、人間的にもいかにも出来た感じを与えるものであるが、実は金という化粧で装った見せかけだけの幸福である場合が多い。

化粧をはぎ落すと、そこには意外な内面、たとえば劣等感、家庭的不和、性格異常といったものが折り重なって存在し、陰うつこのうえない毎日を送っていることが多い。

 金持ちを決して羨ましがってはいけない。金持ちは金持ちなりにその欲の代償を十分に支払わされているのである。「欲しいものは欲しいだけとるがよい。ただしそれだけのお代も頂戴しよう」これはスペインの古い話に出てくる神さまの言葉である。

 こんな次第であるから金銭の話はこれきりやめにしよう。つまり財産のリストから金という文字を抹消していただきたいのである。大切な財産はほかにいくらでもある。

それを例によって、メモ用紙に列記してみてはどうだろうか。自分にとって命の次に大事だと思うものを正直にかいてみていただきたいのである。

 ではここで本書をひとまず閉じて、いま言ったことを実行していただこう。


 さて、うまく書けたであろうか。私は信じるほかないから正直に書かれたものと信じて話を進めよう。

 では、今あなたが書いた財産目録の一つ一つに、次の判断基準を当ててみていただきたい。すなわち、それを財産とすることに良心の呵責を感じないか、ということである。

 思うに現代人は、いい事はいい事、悪い事は悪い事として真っ正直に認めないで、何とか理屈をこねて弁解する傾向が強すぎるように思う。

 盗み一つを例にとり上げて見ても、盗むことは理屈抜きに悪い事であるはずなのに、「盗みをさせるような状態にしておいた持ち主にも責任の一端がある」だの、「その子の生まれ育った環境に酌量の余地がある」だの、「遺伝的要因も考慮する必要がある」だのと、本人のみならず、まわりの者までが弁護する。弁護できなくなると物の考えが古くさいだの、若者の考えを理解していないだの、道徳観が反動的だのと屁理屈を並べる。

 「黙らしゃい!」私だったらこう一喝したいところである。

人間には本能的に善悪を判断する能力が具わっている。盗むことが悪いことであり、無欲の愛が美しいものであることに何の理屈もないはずである。男女の別も年齢の差もない。いい事はいい事だからであり、悪いことは悪いことだから悪いのである。

 が、この問題については別の章で詳しく扱うつもりであるから、ここではこれ以上のべまい。とにかくここではあなたの動機は何か、その動機にやましいところはないかという単純な判断基準を当てはめていただければよい。


 前にも言ったとおり、お金が欲しいという欲求自体は決して悪ではない。生活をもっと楽しくしたい。生きるよろこびを心ゆくまで味わいたい。これは人間として自然な欲求であり、むしろ、そうでないといけないとも言える。

その手段として車がほしい。カラーテレビが欲しい。ヨットがほしい、プールを設けたい。そのほか人によって、それぞれの欲求をもつことは悪いことではない。

 ある人は世界旅行が夢だという人もいるだろう。人気歌手となって、耳を聾せんばかりの拍手をあびてみたいと思っている若者もいるいるだろう。建築家になって、天にも届かんばかりの大ビルデングを建ててみたいと思っている建築家の学生もいるであろう。

医者になって、不幸な人々を救ってあげるのが念願だという医学生もいるだろう。

 ベストセラーを書いてみたいという文学青年もいるかもしれない。カーレースで優勝してみたいという元気な若者もいるだろう。スイスに別荘を建て、思いきり豪華な設備を具えてみたいという贅沢な夢を抱いている人もいるだろう。

 ところが、永年にわたって私がアンケートの形で大勢の人から聞いた「一ばん大切なもの」をまとめてみると次のような結果になったのである。

 第一、健康であること。
 第二、しあわせであること。
 第三、人に愛される人間であること。
 第四、必要以上のお金があること。
 第五、平穏無事であること。
 第六、安全であること。


 これがアンケートの結果であるが、あなたが書いたものと比べてどう思われるだろうか。

 仮に、現在の生活が右の六項目の全部を満たしているとしよう。では、そのうちのどれか一つが欠けたらどうなるだろうか。素直に考えていただきたいのである。

 たとえば、もし交通事故で半身不随になってしまったらどうだろう。ふとした過ちから後ろ指を指される人間になったらどうだろう。あるいは思いがけないことから暴力団に脅迫されるような事態になったら、日常生活はどうなるだろう。

 自分は間違ってもそんなことにはならないなどと考えてはいけない。いつどんなことでこうした事態になるか、誰一人として予測できないのである。大したことは無かろうなどと多寡をくくってはいけない。人間としてのしあわせ、家庭の平和といったものが何を土台にして成り立っているかを真剣に考えてみなくてはいけない。

 そこで、アンケートの結果をもう一度よく見ていただきたい。四番目を除いて、残り五項目はいずれも、さきに例としてあげた医師の免状と同じく、人から盗まれることも人から盗むことも出来ないものばかりであることに気づかれるであろう。

 つまり目に見えない財産ばかりなのである。このうち健康についてはすでに述べた。四番目のお金のかせぎ方についても述べた。これから残る四つの財産について、どうすればそれが確保できるか、あるいは取り戻せるかという問題に進みたいと思う。

 ダグラス・ジェロルドという人の書いたものに、
 「しあわせは我家の炉辺にはぐくまれるものである。よその庭から摘んでくるものではない」
という言葉がある。むベなるかなである。
 
 仮りに、あなたは今自分のことを幸せだと思えないとしよう。あなたはそれを環境のせいにしてはいないだろうか。たとえば車がないからとか、ステレオが買えないからなどと思ってはいないだろうか。金持ちと結婚しておれば、こんな惨めな思いをしなくてすんだろうに、などと思ってはいないだろうか。

 知人の中にはタヒチ島に別荘を持っている者がいる。バハマ諸島にもっている者もいる。自分にもそんなことができればどんなにかしあわせだろうに──そんな考えを抱いていないだろうか。

 このほか、その人その人によってさまざまな夢があり、それが満たされないことを不孝の原因にしているのが大半であろう。

 が、実際問題として幸福というのはそうした環境や持ち物とは殆ど関係がないのである。問題は心のもち方なのである。言いかえれば〝悟り〟である。金銭や物へのこだわりを捨てた無欲の心境になりさえすれば、どこにいても、何が無くても、幸せの気持ちをかみしめることができる。

逆に物へのこだわりが大きければ大きいほど、たとえ使い切れないほどの財産をもっていても、あるいは御殿のような屋敷に住んでいても、真のしあわせは味わえるものではない。

 「条件や環境は問題ではない。心のしあわせに王様と家来の区別はない」

 これはアレキサンダー・ポープという詩人の言葉である。しあわせのカギは自分の心にあるということである。なるほど才能によって幸不幸が左右される場合もある。

画家、彫刻家、作曲家、声楽家、こうした人たちは自分の才能を発揮することによって成功している人たちと言える。が、人類全体の数からみれば、こうした人たちの占める割合はきわめて少ないはずである。大部分の人間は特殊な才能を持ち合わせないとみてよい。

だからこそ、そういったいわゆる芸術家が重宝されるのである。

 もしもあなたが豊かな才能に恵まれ、金銭的にも不自由しないご身分であれば、それに越したことはない。心から祝福申しあげたい。

 が、この種の本を読んでおられるからには、あなたも健康がすぐれないか、事業に失敗したか、貧乏をしているか、少なくとももう少し金が欲しいと思っておられる人であろうと想像する。そうして、そのことを不幸の言い訳にしておられるに違いない。

そういうあなたに、これから私が申し上げることを忠実に実行していただきたいのである。

 まず鉛筆とメモ用紙を用意していただこう。その用紙に今あなたが持っている財産を一つ一つ書きしるしていただきたいのである。頭の中に思いうかべるだけではいけない。そういう横着をするからいけないのである。

几帳面に一つ一つ書き出してみることである。では私といっしょにやってみよう。

 まずあなたは〝自由〟というかけがいのない財産がある。人に迷惑をかけないかぎり何をしようと何を信じようと自由である。全国民が例外なくこんな有難い財産を与えられている国は、世界広しといえどもそう多くはない。

 次に雨露をしのげる〝家〟がある。寒さをしのげるだけの〝衣服〟がある。飢えをしのぐに足るだけの〝食べ物〟がある。これらもかけがいのない財産である。

このニ十世紀において、いまだに世界中いたるところで家もなく、ボロ着をきて食べ物をあさり歩いている動物同然の生活者が何百人もいることを知るべきである。

 彼らは一生涯〝家〟と呼べるようなものをもつことなく終わる。食べることも、洗濯することも、それから排便することさえも〝屋根〟のあるところではできないのである。また〝満腹する〟ということがどんなことか知らない人が数知れないのである。

大都市のド真ん中で生活しながら、寝間で寝たこともないまま生涯を終えるのである。次に進もう。

 あなたは〝学校教育〟を受けている。〝読み書き〟ができる。精神的に〝正常〟である。生きていく上において何一つ欠陥がない。人を愛し愛されることができる。なんと結構なことであろう。

 正常な〝目〟があり〝耳〟がある。当たり前と思ってはいけない。当たり前のものがまともに揃っていない人が数知れないのである。

 〝手足〟が二本ずつある。物が持てる。字が書ける。歩ける。跳べる。何と有難いことか。ちょっと拾いあげただけでも、あなたはこれだけの財産がある。人間の原点、つまりはだかの自分に戻って素直に見つめてみると、この外にもまだまだ有難いことがたくさんあるはずである。

これほどの好条件に恵まれながら、あなたが生活のうえにおいて、あるいは仕事のうえにおいて失敗を繰り返し、あるいはまた自分のことを不孝な人間だと思うことが私には理解できないのである。やはりあなたは心の姿勢に問題があるのではなかろうか。

 私は失敗したこと自体を責めるつもりはない。失敗は誰にでもある。仕事で成功した人、巨額の富を築いた人にも失敗の繰り返しがあったはずである。その失敗の積み重ねが成功の基礎を築いたともいえる。
 
 が、彼が一般の人と異なるところは、失敗したあとの心の姿勢である。失敗しても失敗しても、積極的な前向きの姿勢を捨てなかった点である。たとえ話をしよう。

 今どこかをドライブしているとしよう。やがてロータリーに差しかかった。どっちに行こうかと迷ったが、とにかくある方向へハンドルを切った。ところがそのコースを行くうちに、霧が出てきて視界が急に悪くなってきた。

 しまったと思いながらも引き返すわけにもいかず、とにかく行けるところまで行こうと車を進めた。田舎道である。轍の跡を便りにノロノロ進むほかはない。

が霧はますます深くなり、やがてまったく視界がきかなくなって、止むなく停車した。

 前方を見るとぼんやり何かが見える。車から出て近づいてみるとレンガ塀である。えらいことになってしまった。行き詰まりである。あなただったらどうするだろうか。成功者と失敗者との違いがはっきり現れるのがこんな時なのである。

 仮に、A氏とB氏の場合を考えてみよう。A氏はレンガ塀のまわりをたんねんに調べ、どこかに抜け道は無かろうかと必死にさがす。何とか車の通れそうな小道をみつけて車を進めてみた。が、まずいことにドロ沼に車輪を取られてしまった。万事休すである。

A氏はあっさりと車を捨てて歩くことにした。「所詮オレは車をもつ柄じゃないんだ。これからは歩くことにしよう」とひとり言を言いながらトボトボと帰っていった。

 一方B氏はレンガ塀があると知るなりすぐに車を逆戻りさせ、もとのロータリーのところまで戻って、そこで改めて方角を選んで車を走らせた。その道もどこかで行き止まりかもしれない。が、行き詰ったらまた引き返して別の道を行くであろう。

B氏の字引には〝失敗〟という文字がないのである。行き詰ったらすぐにやりかたを変えて新しい挑戦をこころみるのである。

 人生の道、仕事の道においても、あなたはB氏のような積極的な姿勢で臨むことである。行き詰ったら、あきらめずに別の方向をこころみる。それがダメと知ったら、すぐまた別の方法で臨む。

 こうしてあれこれとやり方を変えて挑戦することは、今さっき教えてあげたあなたの持てる財産のすべてをフルに発揮させるチャンスともなる。

財産はただ所有しているだけでは何にもならない。チャンスを与えてどしどし使用しなくてはいけない。要するに、エネルギッシュに活動することである。米国の政治家ダニエル・ウェブスターも、

 「失敗の要因は資本不足より大部分はやる気不足にある」
と喝破している。


 見方を変えれば、失敗は成功のための絶好の勉強材料である。成功から学ぶことは誰にでもできる。大切なことは失敗から学ぶことである。

 さっきの例でいうと、この道はダメだと気づいたらすぐ元に戻って別の道を行くのである。同じ道でウロウロしていては、結局はドロ沼にはまり込んでニッチもサッチも行かなくなる。

車のたとえ話ではその愚かさがすぐにわかるが、事業においてはなかなか頭の切り換えができず、いつまでも同じ道で無駄な努力をくり返している人が実に多いのである。

そして結局はくたびれて、あきらめて、一切を投げ出してしまう。これまでのあなたはそんなタイプではなかったろうか。

 これで成功者と失敗者の別れ目、ひいては冨者と貧者の分かれ目がはっきりと認識できたことと思う。要するに心の姿勢の問題なのである。前方に立ちはだかるレンガ塀を見て、一方は万事休すとあっさりあきらめ、他方はこれは道を間違えたと後戻りして、別の道を行こうとする。その違いが失敗と成功という形で現れ、ひいては財運を呼ぶ力の差となって表れる。もう一例あげて見よう。

 ここに裕福で有能な ビジネスマンがいるとしよう。一代で財を築き、プール付きの豪華な家に住み、子供は一流校に通っている。家族全員健康で、しあわせで、何も言うことがない。

 さて、この男が思いもよらぬ経済情勢の変化で一夜にして破産したとしよう。家をはじめ不動産一切を抵当に取られてしまった。自分のものと言えるのは妻と子供しかない。こうした事態に立ち至って二つの姿勢が考えられる。

 一つは前の例と同じで、もうダメだと絶望する場合である。彼はこんな弱音を吐く。

 「もうダメだ。何もかも失った。何か小さな職でも探そう。安月給でも何とか食べていければいい。子供には今の学校はやめてもらう。そして、この家を出て公営住宅に住むことにしよう。万事休すだ
」こう観念することによって名実ともに万事休してしまう。

 もう一つの姿勢はその正反対である。彼は毅然とした態度で妻にこう語る。

 「気を落とすんじゃないぞ。破産したといっても、まだ我が家にはかけがいのない財産が残っているじゃないか。我々夫婦と可愛い子供たちだ。みんな元気だし、笑うことだってできるじゃないか。またオレたちには人生の悟りが出来ている。

素晴らしい友人がいる。こんな素敵な財産はないぞ。そのうえオレには昨日までとかわらぬ頭脳が具わっている。記憶力も衰えていない。あらゆる才能がそっくり残っている。

今度の失敗で大いに反省させられることはあったさ。が、オレは昨日までは成功者だったんだ。そのオレが今度の失敗で昨日よりはるかに大きな体験と教訓を身につけたんだ。成功しないはずがないじゃないか。オレは一からやりなおすぞ。

前よりずっと大きな成功を手にしてみせるぞ。心配せずに見ていてくれ」と。


 なんという違いであろう。同じ才能の持ち主が前者の態度をとることによってみじめなほど小さな人間となってしまったのに対し、後者の態度をとることによって、さらに一段と大きな人間へと成長していく過程がよくわかっていただけると思う。

 たいていの人間は持てる才能の一〇パーセントしか普段使用していない、というのが大脳生理学の結論である。ということは、使用されずに残っている才能が九十パーセントもあるということである。私が心の姿勢を積極的にせよと言うのは、その残された才能をフルに発揮させることになるからにほかならない。

 つまり一つの失敗を才能の限界と観念せず、持てる潜在能力を引き出す絶好のチャンスと考えて、しくじるごとに意気を燃やして挑戦しろと言っているのである。

本当の意味での失敗と言えるものは存在しない。自分で失敗とキメつけることは実は環境や条件の不備にかこつけて、自分の努力不足、意志薄弱、信念欠如を弁解することにしかならない。


 私の治療室を訪れていかにも自分が世界で一番不幸な人間であるかのように悩みを語る患者に対して、私はいつも例のヘレンケラー女史の話を持ち出すことにしている。

 ご存知のとおり、ヘレン・ケラーは生れて数ヵ月にして完全なメクラでオシでツンボという三重苦の状態になってしまった。まったくこれは普通に言う「不自由」などという言葉では言いつくせる状態ではない。仮に。大人になってからでも大変なことである。

教養もひと通り身につけ、物とはどんな恰好をしているのか、花とはどんなに美しいものか、光とはどんな色をしているかといったことを知ったうえであれば、まだ不自由の度合いも違っていたであろう。

 ところがヘレン・ケラーの場合はまだ自我意識の全然ない赤ん坊の時から三重苦を背負わされたのである。手で触ってみる以外には物を知る手段がまったくないのである。

光の明るさを知らない。花の美しさを知らない。人間の声も音楽も知らない。こうしたまったくの暗黒と無音の世界に育った彼女には、当然のことながら教養を得る手段は完全に封じられていた。

 その彼女がサリバンという女性の献身的な努力で物に一つ一つ名前があることを知るようになり、次第に教養を身につけ、ついには、自分より恵まれている不具の人々の救済のために生涯を捧げたのである。

見えない、聞こえない、話せない、この絶望的とも言える三大苦を背負ったヘレン・ケラーでさえ自分のことを〝不幸な人間だ〟とは一言も言わなかった。

 彼女は著書の中でこんなことを言っている。

 「失敗は決して恥ずべきことではない。自己の個性の奥ふかく内在する宝を掘り起こす過程の一つにすぎない」

 五体満足のわれわれこそ、もって銘すべき言葉である。


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