あなたの運勢を開く
  背後霊の不思議
 M・H・テスター著  近藤千雄訳
     発行所    潮文社

〝HOW TO BE HEALTHY,
    WEALTHY,  AND WISE〟
         BY  M.H.  TESTER
  Published by Psychic Press Ltd.,
      23  Great Queen Street,
  London WC 2B 5BB. ENGLAND
 
    

 

          目 次
 まえがき
第一章 なぜ病気になるのか
第二章 健康へのカギ
第三章 心霊治療家の仕事
第四章 生命の源にプラグを差し込め
第五章 成功へのカギ
第六章 財運を招くコツ
第七章 本当の財産とは
第八章 満ち足りた人生を送るには
第九章 知恵を働かせるコツ
第十章 性生活の偏見をなくそう
第十一章 質問に答える 神とは 
 あとがき
  付録『死』とは何か
   ──悩める人へのガイドブック        
       
                                                      


  ま え が き
 古来いずこの国でも〝早寝早起き〟の徳が説かれている。お国柄によってさまざまな意味が込められているのであろうが、とにかく早く床につき、グッスリ寝て、翌朝早く目が覚めれば気分は爽快だし、昨日の疲れもとれようし、イヤなことも、すっかりとはいかないまでも、ずいぶん忘れさせてくれる。

 こうなれば仕事もはかどることだろうし、万事が調子よくいくに違いない。これを西洋のことわざでは、

 「早寝早起きは人間を健康に、裕福に、そして賢明にする」

と言っているが、まさにその通りかもしれない。

 ところが世の中には早寝早起きのできない人がいる。早く床についても、なかなか寝つかれない人がいる。いくら寝ても寝たりない人がいる。こうしたこともまた事実である。あなたはいかがであろうか。

 人間だれしも人に好かれたいと思うし、よい人だと言われたいし、役に立つ人間でありたいと思う。また仕事の上で成功したいと願い、金銭上の悩みから解放されたいと思い、生き甲斐を感じたいとも思う。そしてまた、かりに悩みごとが生じても、それを立派に自分で解決できる人間になりたいと思うものである。

 本書はそうした願いや欲望をかなえさせる方法を説いたものである。病める人、悩める人には希望を与え、失敗した人には成功への秘訣を教え、無知なるが故に過ちを犯している人には知識を授けてあげたい。いわば人生のブループリント(青写真)を用意したつもりである。

 といって、ただ単にブループリントを用意しただけではない。そうしたさまざまな不幸の原因、つまりなぜ病気になったのか、なぜ失敗したのか、そこで、どうすればその原因が取り除けるか、どこをどう修正すればよいのか、といった点についても説いてある。

そうした私の処方箋を忠実に実行していただければ、必ずや健康で快適な生き生きとした人生を手にされるであろうことを自信をもって断言する。

 かく言う私は一介の心霊治療家である。一日およそ二十人から三十人の患者を治療しているが、その九十九パーセントまでが医学的に〝不治〟とされている人たちである。

 歩けない人、ものが言えない人など、医学から見放された人が私のもとに来ては杖を置いて帰り、「ありがとう」という言葉が言えるようになって帰って行く。そうした人たちからの感謝の手紙を週に何十通も受け取っている。

 そうした治療家としての体験を通して、私は人間および人生について普通では学べないものを数多く学んだ。いわば患者が私に教えてくれたわけである。

 病気になる人には病気になるような一つの型がある。その型にはまらないようにさえすれば病気は避けられる。また過去のそうした誤った型から脱して首尾よく健康を回復した人は、単に健康だけでなく、必ずそれ以外の何物かをも獲得してくれる。

すなわち人生に落ち着きと自信を取り戻し、現代生活の複雑さに耐えていけるだけの抵抗力といったものを身につけてくれる。

 こうして心身の病を治療できる私が、それを未然にふせぐ方法を知っていても不思議はないであろう。私は本書で、自信をもってそれを説いている。病気に代わって健康を与え、無知に代わって知識を授け、それを基盤として快適で生き甲斐のある人生を築いてもらうべく、いろいろな角度から説いた。

 「ではあなたはいかなる方法で治療するのか」
 そうお聞きになるかも知れない。

 実は私自身は何もしないのである。私はただ、患者に手を当てがって精神を統一するだけである。すると、辺りに遍在する心霊的生命力が私を通じて患者に流れ込む。ただそれだけのことである。

いわば私はラジオであって、アナウンサーではない。健康も成功もその生命力の波長にダイヤルを合わせさえすればよいのであるが、不健康な人はその生命の流れを日常生活において何らかの形で阻害しているのである。

 では、その障害とはどんなものか。そしてどうすれば自分でそれが取り除けるか。それは本書をじっくり読んでいただければわかっていただけるはずである。






第一章 なぜ病気になるのか
 「自分はどうしてこんな目に合うのだろう。真面目に生きてきたつもりだ。間違ったことは何一つしていないはずだ。なのになぜ病気にならなきゃいけないんだ。なぜこのおれが・・・・・・」

 ごもっともである。なぜであろうか。その原因究明にとりかかるまえに、病気というものについて一つだけはっきりさせておきたいことがある。それは、病気というものは決してバチが当たってなるものではないということである。

 子供のころ、おとぎ話やお説教の中で聞かされた迷信めいた話が、大人になっても潜在意識の中に意外に根強く残っていて、それがいろいろなコンプレックスを生むことがあるものである。

 交通違反の点数制ではないが、何か人間の言行にも一定の点数があって、それをオーバーすると病気になるとでも思っている人がいるらしい。そんな人の頭の中には子供のころに見た白衣をまとった長老が今も控えていて、こう語りかけるのである。

 「コレコレ、お前は日曜日に教会へ行かなかったな。妹にいじわるをしたな。お父さんに口ごたえをしたな。寝る前にお祈りをしていないな。もういかん。お前をハシカにしてやる。よいな」と。

 が、こうしたバチ当たり的な因果関係は絶対にないことを、まずはっきり認識していただきたい。

 病気はバチが当たってなるものでは決してない。そうではなくて、病気になるようなちゃんとした原因があって病気になっているのである。

 心配ごとが絶えないと胃かいようになる。原因は心配であり、その結果が胃かいようという形で現れたのである。心の平静を失ってイライラしたり、明朗さを失ってふさぎ込んでしまう。そうした心の異常が病気を生むのである。

それをバチが当たったのだと言いたいのなら、バチを当てたのは当の本人に他ならない。たとえ話でわかりやすく説明してみよう。

 たとえばハイウェーをドライブしていて車がパンクしたとしよう。幸いスペアを用意していたし道具も備えてあったので、わけなく取り換えて再び車を走らせた。ところが間もなく、そのタイヤが外れて転覆事故となった。これはバチがあたったのだろうか。

 とんでもない。ナットの締め方が足らなかったのである。それが原因であり、結果が事故となったにすぎない。ところがそれだけではどうも気持ちがおさまらない。

出がけに靴のヒモが切れたのが原因だとか、途中で霊柩車を見たのがいけなかったとか、あれこれと昔からの迷信に適当な理屈をつけては後悔し、ふさぎ込んでいく。そして立派な病人になっていく。

 ただの事故でこの程度である。これが人をはねようものなら、どんなことになるかおよその想像はつくであろう。

 大部分の病気はこうした感情によって引き起こされているのである。なるほど、痛みや不快感はまぎれもなく身体的症状である。胃かいようになれば胃が痛む。これは胃壁の筋肉がひきつるからである。が、今日では胃かいようのそもそもの原因は、精神的なストレスであるというのが常識である。

 胃かいように限らない。大部分の病気がそうなのである。むろんこれは大ざっぱな言い方である。もしもあなたが今入院中であれば、

 「冗談じゃない。この痛みがなんで精神的なものか!」
と思われるであろう。ごもっともである。

 が、私が言わんとするところをよく理解していただきたい。精神的なストレスがどういう過程をへて身体上の病気を引き起こすかを次に説明してみよう。

 人間の身体はきわめて複雑なメカニズムをしている。これまで人類が発明した機械工学、電子工学のすべてが体内に収められているといってもよい。現代の花形のコンピューターなども人体のコンピューターに比べればまるでオモチャのようなものである。それほど精巧なコンピューターが人体を支配してる。

 が、その働き、つまり人体の機能について、人間はいまだに驚くほど無知である。それでも、はっきりしていることは幾つかある。ホルモンなどの分泌物のバランスが精密に保たれていること、糖分が過剰になると糖尿病になること、赤血球が不足すると貧血を起こし、血圧が下がりすぎると死亡する、血液の凝固が高まりすぎると血栓症を引き起こす、等々。

 人体のこうした生理上のバランスは化学物質のように過敏である。首筋が硬直すると頭痛をひきおこす。筋肉を被っている皮膜がけいれんを起こすとリュウマチになる。要するに人体のあらゆる部分のバランスが保たれている状態が健康なのであって、少しでもそれが崩れると何らかの病的症状が現れる。

 では、なぜバランスが崩れるのか。あなたが最初に投げかけられた疑問───自分はなぜこんな目にあうのだろう、という問いに対する答えを求めることにしよう。

 たとえ話から始めよう。

 さっきからあなたは揺り椅子に腰かけて、のんびりと書物を読んでいたとしょう。そのうち心地よい睡気を催して寝入ってしまった。が、やがて突如として目をさました。あたりはまっ暗である。部屋にはあなた一人しかいない。

たしか物音で目をさましたはずである。街灯が通路を通って部屋の中までうっすらと影を運んでいる。よく見ると一人の男がピストルを手にして立っているではないか!

 あなたは恐怖のどん底におちいった。動悸が早鐘のように打つ。冷汗が背筋を気味わるく流れおちる。こんな時、あなたの体内ではアドレナリンという物質がものすごい勢いで血液の中へ送り込まれ、ケガをした時に備えて凝血度が急速に高まっていく。

 また血球の数が異常に増えていく。血圧が一気に百ばかりハネ上がる。胃の幽門が閉鎖される。こうした変化はことごとく外敵からの攻撃に備えて、人体の指令室からの命令に従って生じているのである。

 間もなく一台の車が通りかかり、そのヘッドライトによって一瞬部屋の中が明るくなった。瞬間その人影の正体がわかった。何のことはない。通路に置いてある彫像の影だったのである。ピストルに見えたのはそれに立てかけてあったステッキの持ち手だった。目をさまさせた物音は猫の仕業であった。

「こん畜生め! 人さわがせをしやがる!」

あなたはニガ笑いをしながら明りをつけ、ウィスキーでもひっかけてからタバコに火をつけ、再び本を読み始める。この時あなたの身体は自動的に休めの指令を発している。

 バランスが一瞬のうちに取り戻される。動悸はおさまり、脈はくも正常に戻り、全身の緊張がほぐれ、血球の異常増加も止まり、凝血度も血圧も正常値にさがる。呼吸も静かである。かくして身体に平和が戻った。

 これは極端なたとえであって、こうした事態はやたらにあるものではない。あったら大変である。時たまであればこそ、異常な生理現象もすぐに正常に戻るわけである。が、かりにこれに似たことが毎日のように、あるいは一日に何回となく生じたらどうであろう。恐怖でなくてもいい。カンシャクのようなものでも同じである。


 たとえばあなたが有能なビジネスマンだとしよう。朝出勤してまず机の上に積まれた手紙に目を通す。その一通に契約破棄が通告してあった。あなたの会社にとってそれはどうしても破棄されては困る大切な契約である。すでにそのために銀行から多額の融資を受けている。
 
 驚きが次第に怒りに変わってきた。

 「畜生! オレを何だと思ってやがるんだ! ようし見てろ。思い知らせてやる」

 そう思いながら、すぐさま秘書に命じて手紙の用意をさせる。顔が赤らんでいる。動悸が大きくなってきた。全身に異常事態発生の警報が鳴りわたる。血圧が上がる。凝血度が高まる。そのほか、前の例で述べたような生理現象が次から次へと生じる。

 手紙を書かせたあとタバコに火をつけ、コーヒーを飲み、イスに腰かけて、憮然とした表情で考え込む。

 その間わずか数分のことであるが、グッタリと疲れをおぼえる。

 こうしたことが一日数回あったとしよう。そして、こんな日が一カ月に何回かあったとしよう。一年では何百回にもなるであろうし、それを何十年も続けていると、たとえば血液の凝固性が慢性的に高まってしまう。

つまり凝血因子が血中に残るようになり、それが凝結して血液の流れを阻害するようになる。いわゆる血栓症である。また、血圧がしょっ中はげしく上下するために血管が弾力性を失い、カッとなった時などに破れて出血する。いわゆる脳いっ血である。

 これは精神的な例であって、これで死に至る人は少なくないが、死に至らない人がいわゆる病人となるわけである。

 胃かいようなどがそのもっともよい例である。心の不安定が胃液の分泌を狂わせ、胃酸が出すぎて絶えず胃壁を刺戟するために次第にただれてくる。これを胃かいようと言うのである。

 こうした感情によってひき起こされる病気が全体の何パーセントを占めるかは正確には言い難いが、ある医者は九十五パーセントという数字を出している。

 以前わたしは胃病の臨床記録を見せてもらったことがある。一般開業医から送られてきた細かい診察記録を分析したものであるが、それによると胃の病気の七十五パーセントが感情的な原因からきていることが分かった。

また、頭痛とか倦怠感、便秘、めまい、ノドの炎症、腹痛、首筋や背中の痛みなどは殆どが感情的なものに起因しているといっていいらしい。

 はっきりとした数字を出す専門家もいる。疲労倦怠感は九十%、便秘は七十%、頭痛は八十五%、ノドの炎症は九十%、胃の膨満感(ガスの発生)は九九・五%が感情によるという。

 医大などで使用するテキストにはほぼ千種類に及ぶ病名が記載されており、学生はこれをマル暗記させられるのであるが、病名はそんなにあっても、その大半の原因はただ一つ感情だというわけである。

 要するに精神の不安定が生理的なバランスを崩し、それがさまざまな病的症状を生んでいく。痛む、むかつく、疲れやすい、関節が凝る、そのほか、できもの、機能不全、便秘、ノイローゼにも似た不快感、といったような日常聞き慣れた症状が次々と出てくる。

 が、誰が悪いのでもない。何が悪いのでもない。あなた自身の心構えが悪いのである。


 身体の整理的バランスをコントロールしている中枢は幾つかあるが、中でも一ばん重要な働きをしているのが脳下垂体である。大脳の下部に位置し、エンドウ豆ほどの大きさである。これが警報に対して一ばん敏感に反応を示すが、意識的にコントロールすることはできない。

 そのことは内臓器官につても言えることである。手を握りしめたり開いたりすることは意識的にできるが、心臓の機能はそれができない。つまり脈はくとか血圧といった、生理上のバランスを保持するための機能を意識的に変えることは不可能なのである。

ましてや、そういった器官を管理している脳下垂体のような中枢器官は意識的にはどうしようもない。

 たとえば今あなたが、何かで大失敗をして気落ちしているとしよう。こんな時「なにをクヨクヨしているか。案ずることはない。そのうち思いがけないことが起きて、きっとうまく行くさ」と自分に言い聞かせても気分は一向に晴れないであろう。

 あるいは頭がズキズキ痛む。首筋が凝っているからだということはわかっていても、その凝っている筋肉に向かって、「ラクにしろ!」と命じてもしようがない同じく便秘の際に「ラクな気分で早く出てこい」と命じても始まらない。


 「ではわたしの場合はどうなのでしょう。わたしはめったに腹を立てないし、こわい目にあうこともないのですが、それでも何かと病気がちです」

 こんな読者もおられるであろう。が、怒りとか恐怖心ばかりが病気の原因なのではない。ほかにも不健康な悪感情はたくさんある。その代表とも言うべきものが〝不安〟である。

 われわれ地球人は今まさに〝不安の時代〟に生きている。第二次世界大戦後も小規模とはいえ戦火の絶え間がない。地上が平和でない証拠である。世界では戦慄すべき核兵器の生産競争が際限もなくエスカレートし、それがひいては世界経済を圧迫している。

 第三次世界大戦への不安が日ましに現実性を帯びてきている。一たび大戦となろうものなら、二十四時間以内に地球全土を廃墟と化すに十分な兵器が貯えられているといわれる。現在の人類はその危険を完全におさえ切るほど大人になりきっていないし、その能力があるとも思えない。

 もしかしたら故意にではなく、うっかりして国境を侵犯した行為に対してコンピューターが核兵器発射の命令を指示するかもしれない。そうなったら一瞬のうちに大量殺人が行われる。

今、アメリカや西洋諸国ではヒッピーのような若者がわけのわからぬ儀式や偶像崇拝に夢中になっているが、二十歳になるその一人がこんなことを私に言ったことがある。

 「オレたちはョ、しょせん三十まで生きられっこねェのさ」

 要するに「はたして自分は生き永らえることができるか」というのが現代の人類に共通した大きな不安なのである。

 また、こうした不安に加えて、唯物的商業主義が生み出すさまざまな煩わしさも病気の諸因となっている。新聞、雑誌、テレビなどが次から次へと魅力的な広告宣伝をやる。警戒しているつもりでも、やはり以前に比べると買わないでいいものを知らないうちに買わされている。

 カラーテレビを買って大喜びしたのはついこの間のこと、今では二台目、三台目を買い込んでいる。買うために貯金をする必要もない。「お持ち帰りは今、お支払いはボーナス時で結構」とくるから、つい気楽に買ってしまう。

冷蔵庫しかり、洗濯機しかり、クーラーしかり、セントラルヒーティングしかり、衣服などもシーズン毎に新しいものを買わされる。海外旅行も、しない者は時代遅れのような感じがしてきて、つい行ってしまう。

 しかし常識的に考えて、こうした出費が全部きれいにまかなえるはずはない。揃えるものは揃え、やりたいことをやったあとに残るものは赤字である。ローンという負わずもがなの重荷を背負い、赤字を埋めるための煩わしい戦いが始まる。これはおそらく誰しも身に覚えのある気苦労の最たるものであろう。

 かくして、果たして何歳まで生き残れるかという未来への不安に加えて、その日その日の金銭的な気苦労が重なるわけであるが、これにさらにもう一つの病的不安が加わる。すなわち〝過去への後悔〟である。

 人間誰一人として過ちを犯さない人はいない。それ自体は少しも悪いことではない。否、むしろ失敗とは、いわば人生勉強を自学自習しているようなものであって、その意味で失敗のない人には進歩はないと言ってもよいであろう。

 が、失敗してそこから何かを学びとる態度と、失敗をくやみ、ふさぎ込んでしまうのとでは大いに違ってくる。失敗への後悔、失敗から生ずる不安と恐怖、こうした感情は体内に複雑な不調和音を鳴りひびかせ、正常なコンピューターの働きを徐々に狂わせていく。

 調和を乱す悪感情は他にもまだまだ沢山ある。うぬぼれ、どん欲、肉欲、いやしさ、ねたみ、怠惰。これに前に述べた怒りを加えて、神学では〝七つの大罪〟と呼んでいるが、何も神学流にむずかしく考えることはない。要するに自然への反逆と考えればよいわけで、これらの不自然の繰り返しが病気という不自然な結果を生む。これをもう一つ別なたとえで説明してみよう。これは実際にあった話である。


 あるアメリカの開業医が忙しい毎日を送っていた。それまで頼りにしていた看護婦が結婚してやめてしまったからであるが、代わりの看護婦がなかなか見つからない。反対に患者の方は一向に減らない。オーバーワークを重ねているうちに、ついに肩の組織炎を生じてしまった。

 有能な医者だから組織炎が単なる筋肉のケイレンにすぎないこと、それもほとんどが感情的に誘発されるものであることを熟知していた。が、理屈はわかっていても思うようにはならない。いつしか、いけないと思いながらも痛み止めを常用するようになった。

 が、ある時面白い事実に気がついた。思い切って午後を休診にして魚つりに行ったときのことである。釣り糸を垂れてノンビリと構えている間はまったく痛みを覚えないのに、家路について我家に近づくにつれて、次第に痛みを感じ始めるのである。

 何ごとも学問的に分析しないと気がすまない彼は、こんど釣りに行く時どの辺りから痛みが止まるかを確かめることにした。その日は朝から痛み止めを服用せず、じっと我慢して、いつどこで痛みが止まるかを注意していた。

やがて急に痛みが消えた。それまでの激痛がウソのように消えている。彼はすぐにハンドルをまわしていま来た道をもどってみた。すると千メートルもいかないうちにまた激痛が戻った。

 彼は正確な位置をつきとめようと、またハンドルをまわして逆戻りしてみた。すると二、三分も行かないうちに痛みが消えた。彼はそれを何回か繰り返して正確な位置を確かめ、あたりを見渡した。そこは郊外のハイウェーで、彼の車以外は一台も走っていない。

見わたすかぎり草原が広がっている。と、一つの看板が目に入った。それには〝州境界線〟としるしてあった。

 結局こういうことだったのである。アメリカでは州ごとに担当地区がきめられているので、彼にとってその州境界線を越えたとたんに〝ここはもう自分の担当区域ではない〟という意識が働いて、無意識のうちに責任感の重圧から解放されていたのである。

これが再び境界内に入ると潜在意識が担当医師としての責任感を意識して、それが反射的に組織炎を誘発していたわけである。

 では、原因がそうとわかって彼の痛みが消えたかというと、そうはいかなかった。

単なる知識だけではこの種の病気は治らない。そのうちに看護婦が見つかってラクにはなったが、仕事に対する責任感と重圧感は抜け切れず、相もかわらず釣りに行った時以外は激痛に悩まされた。

特に重病患者を診る時や看護婦が休暇をとって休んだ日などはひどい痛みを覚えるという。

 ここであなたが落たんするには及ばない。これを解決する方法はちゃんとあるのである。それは次章で述べるとして、ここではとにかく、病気の大半が感情的ないし神経的なものによって誘発されているということを認識していただきたいのである。

自分に限ってそんなことはない。などと言う考えをまずかなぐり捨てて、静かにひややかに自分自身をよく見つめなおしていただきたい。きっとどこかに気持ちの上でひっかかりがあることに気づかれるはずである。


 外科的な病気も例外ではない。概してわれわれは肉体そのものの健康管理にあまり真剣でない。運動らしい運動をしない。良くないと言われる食べものでも平気で食べる(食生活については第十一章でくわしく述べる)。

衛生観念もまだまだ低い。生活環境がきわめて不自然である。こうした悪条件の中で、肉体機能が健全に働くはずはない。

 昔の人のように、仕事で馬を乗りまわすことがない。筋肉労働が少ない。旅行するにも自動車か汽車の中でじっと座っているうちに目的地に着くので、歩くということがない。こうした生活は次第に人体の背骨の下部を弱めるので、少し立ち続けたり、たまの休みに遊び過ぎると、すぐに腰の部分に痛みを覚えるようになる。

 単なる筋肉の痛み程度ならまだよいが、これが進行するといわゆるヘルニアとなる。
 これも日常生活の自然な動きで元に戻ることが多いが、精神上のストレスが重なると筋肉に異常な緊張を与え、背骨の並びに狂いが生じてくる。

するとこれが坐骨神経を圧迫する。いわゆる坐骨神経痛というのがこれである。この神経は脚から足の先まで通っているので、悪化すると足の先がマヒするようになる。

 病院へ行くときまってやってくれるのが、背骨を引っ張る治療法である。背骨をひき伸ばしているうちに、はみ出ている骨が元に戻るという理屈でやるわけであるが、なかなか理屈どおりにはいかない。やがて手術というコースをたどることになるが、手術しても一向に治らない場合が多い。

 ヘルニアは最近急激に増えてきた病気で、外科的な病気としてそれなりの療法がいろいろと試みられているが、その要因は精神的なストレスにあるのであるから、初期の段階において、そのストレスつまり精神上のしこりを取り除いてやることが一ばん大切である。

 私も治療家の一人としてこの種の患者を扱うことが多く、今ではちょっとした専門家のような格好になっているが、私の診たところでは純粋に外科的なもの、たとえばゴルフなどで腰をひねりすぎるといった原因からくるものも皆無ではないが、大ていはそう言った外因に精神的なストレスが加わって悪化させている。

 いま外因に精神的なストレスが加わるといったが、形の上でそうした経過をたどっていても、実際には精神的なものが骨の異常そのものを直接誘発している場合もある。最近診た患者でこんなのがある。

 この患者はハンディが7という相当なゴルファーであるが、難しい位置からのドライバー・ショットの時に腰がギクッときた。私のところへ来た時は、左右のおしりの位置がずれるほどに狂っており、ビッコをひき痛みに顔を歪めていた。

 治療しながら私は例によって精神的な誘因を確かめるべく日常生活や仕事のことをいろいろと聞き出してみた。すると素直に白状した。最近は難しい仕事が重なって毎日のように仕事を家に持ち帰る日が続き、ゴルフをしていた時も、外見とはおよそ正反対に、頭の中は仕事のことで緊張しきっていたというのである。

結局、そうした緊張が腰の骨に異常をきたした原因であることを説いて聞かせたのだった。


 病気の原因にはいろいろある。遺伝的なものもあるし先天性の欠陥もある。戦争、交通事故といった不可抗力の原因もある。こうしたものについては後で説くことにして、ここではとにかく、病気の大半が精神的なものからきている事実を素直に認めていただきたいのである。

 もし認められないのなら、かかりつけの医者にその点を確かめてみるのもよかろう。その点がしっかり得心がいってから、次の章へ進んでいただきたいと思う。




                                           


 第二章 健康へのカギ
 健康こそは生きがいある人生の源泉である。かの米国の大思想家エマーソンもその著『処世訓』の中で「健康こそ第一の財産なり」と言っている。

 健康を損ねると、あなたの生活能力は間違いなく半減する。肉体のみならず精神的にも半減する。せっかくの成功のチャンスをみすみす逃し、あるいはチャンスをチャンスと気づかずに見過ごしてしまうことにもなる。社会的にも商売上でも、いわばただの通行人となってしまう。

 つまりそこに楽しいことがあるのに、あるいは絶好のチャンスが来ているのに、それと気づかずにボサーッとして通り過ぎてしまう。

 健康であれば、何でもやってみたくなる。やってみると出来る。逆に不健康であれば、簡単なことでも面倒くさく思える。ちょっとした問題が生じても大へんな難題のように思えて、しりごみしてしまう。

 現代人はこうした不健康状態を、インフレや重税のように、半ばあきらめの心境で受け止める傾向がある。ブツブツ文句は言うが、それを解決するキメ手を知らない。

 インフレと重税───この二つの大きな社会的病気は、物質万能主義的な考え方にその病根があることは歴史家の認めるところである。が、個人としてはそれをどうしようにも問題があまりに大きすぎる。

従って文句をいいながらもあきらめの心境で何とか生きていくのは致し方ないかも知れないが、自分の病気をあきらめの心境で放っておくのは愚かである。

  病気は方法次第でかならず治るのである。そのカギをこれからお渡しするから、それを自分でカギ穴に差し込んで、健康への扉を開いていただきたい。

 前章で繰り返し述べたように、病気の大半は感情によって誘発されている。感情が動揺すると体内のコンピューターが指令を発して、生理作用を調節しようとする。この作用は意識的にやろうとしても出来るものではない。これは体内の特殊な暗号によって行われるのである。

ではその暗号とは何か。それがあなたの〝心の姿勢〟なのである。

 かりにあなたが〝恐れ〟の姿勢をとると、コンピューターは「休め」の状態から、大急ぎで「防御体制」の指令を発し、みるみるうちに生理現象が変化する。腹をたてた場合も同じである。みるみるうちに顔が赤くなり、目がつり上がり、唇が震え出す。

 うっかり口をすべらした事柄や中傷によって相手を激怒させることもあるし、自分が中傷されている状態を心の中で勝手に想像しただけでもムラムラと憎しみを覚え、身体が熱くなることもある。そうした激しい感情による生理変化は驚くほど早い。

最近こんな例があった。


 それはそれは仲むつまじい夫婦があった。ことに旦那さんは奥さんが可愛くてしかたがなく、生活のすべてが奥さん中心に動いているといってもよかった。

 ところがその奥さんが、 事もあろうに、他の男性とかけ落ちしてしまった。「永久に戻る気持ちはありません」と書き置きがしてあった。その日まで日焼けして見るからにたくましい頑健そのものだった旦那が、その書き置きを読むなり全身の力が抜けてしまい、寝込んでしまった。やがて病院へ運び込まれた。

 診察してみると、驚いたことに早くも全身に病的症状が現れていた。まず胃がひどいけいれんを起こす。何一つ食べられない。水を一口飲んでも七転八倒の苦しみとなる。ひどい頭痛が続く。四十度近い体温が一向にさがらない。

血圧は一三五の正常値から二四〇までハネ上っている。大小便の失禁が続く。全身に発疹が出る。もう死んでしまいたいと思う。現に死にそうなところまで行った。

 何がこの男をこんな無残な状態に追い込んだか。ほかでもない。死ぬほど愛していた妻に裏切られたという精神的ショックが一瞬のうちに健全な生理的バランスを打ち崩してしまったのである。精神的ショックによる反動は実に早い。

今の今まで健全そのものだったこの男も、妻に裏切られたと思ったホンの数秒のうちに、重病人となってしまったのである。
 がしかし、崩れるのも早いが回復するのもまた実に早い。


 ある女性が勤め先から疲れ切って帰ってきた。仕事が気に入らないし、毎日毎日同じことばかりさせられてウンザリしている。今日もまた、クシャクシャ気分で帰ってきた。

早く風呂に入り、軽い食事をとって一刻も早く寝床に入りたいと思っているところへ電話が鳴った。ボーイフレンドからである。コンサートへ行こうという。彼女の大好きな俳優によるショーもある。コンサートの後パーティがあって、その俳優に会うこともできるから、ぜひ行こうという。三十分後に彼氏が誘いにきてくれることになった。

 コンサートは素敵だった。パーティでは大好きな俳優とダンスができた。夢見る心地である。パーティは夜中の二時まで続いた。帰宅した時もまだ興奮がさめやらず、一晩中踊っていたい気持ちであった。

 なんという変わりようであろう。昨日の夕方、疲れきって帰宅し一刻も早く寝たいと思っていた彼女に、何がこんな元気を吹き込んだのだろう。どこから舞踏会へ行くエネルギーを得たのであろうか。

 カラクリは至って簡単である。要するに心の姿勢が変わったのである。彼女は今の今まで疲れ切っていた。そんな時の体内のコンピューターは「疲れているから早く休息しろ」という指令を発している。

これを受けた神経中枢は代謝速度を落とし、暖かい風呂と軽い食事の後すぐに寝る態勢を整えている。そこへ彼氏から電話がかかり、パーティへ誘ってくれた。そのよろこびが一瞬のうちに生理作用を変えてしまった。

 それまでの疲れと憂うつと不満が一変して、興奮と期待とよろこびになった。表情に生気が満ちあふれている。コンピューターが「疲れているから休息しろ」の指令から「新しい場所へ行くからスタミナと笑顔を用意しろ」に切りかわっているのである。

その指令に従って代謝が活発となり、夜中の二時まで踊り続けても疲れを感じなかったわけである。

 こうして例を見てもわかるように、健康へのカギはただ一つ、あなたの〝心の姿勢〟にあるのである。身体のコンピューターは頭脳で操作するのではない。願いによっても操ることはできない。うれしいとか悲しいとか面白いといった、きわめて原始的な感情によって左右されているのである。

 悲しい報せで病気になり、うれしい知らせでいっぺんに元気になる。

 一例をあげると、自分の投資している会社が倒産したという知らせで床に伏すかと思うと、宝くじが当たったという知らせで病気などどこかへふっ飛んでしまう。

 かりに今、あなたが家でソワソワしながら知らせを待っているとしよう。やがて電報が届いた。不幸な知らせである。とたんに胃のあたりがキリリと痛みはじめた。足の力が抜けてソファに座り込んでしまうだろう。

 反対にうれしい知らせ、たとえば「長男無事誕生」といった知らせであれば、大の男が飛び上がって「バンザイ」を叫ぶかもしれない。世の中が急に明るくなったような気がして、何をやっても楽しくて仕方がない。

 こんな風に悪感情は身体機能の不調和をもたらし、それが病気の原因となる。ところが反対に、明るい感情は調和を保ち、あるいは乱れた調和を回復させる。その状態が健康というわけである。


 「おっしゃることはよく分かるが、うれしい知らせをそう毎日毎日待っているわけにもいくまい」

 こうおっしゃる方があるかも知れない。

 それは確かにそうなのだが、いま私はそういった格別のうれしいことがなければ、健康になれないと言おうとしているのではない。毎日の生活は今まで通りでいいのである。

何一つ変える必要はない。ただ変えなければいけないのは、あなたの心の姿勢だと言っているのである。この点が大切なところなので、よく認識していただきたい。逆境において勇敢であれと言っているのではない。口をへの字にむすんで頑張れと言っているのでもない。あなたのかかえている悩みが下らぬことだと軽く見ているわけでもない。

 私は悩みごとや心配ごとのない人生を夢想するほど単純な人間ではない。人それぞれに何らかの悩みをかかえていることは百も承知である。

 問題はその悩みや心配ごとに対するあなたの心の姿勢が楽観的、積極的、希望的であるか、それとも悲観的、消極的、絶望的となるかである。

 後者の姿勢をとった時、そこに現れる感情はすべて正常な生理的バランスを破壊するものばかりである。すなわち心配、怒り、我欲、ねたみ、偏狭、貪欲、肉欲、高慢、うらみ、恐怖、ざっとこんなところが挙げられる。

このうちどれ一つをみても、あなたを病気にし、あるいは場合によっては死に至らしめかねない恐ろしい感情であることを知らねばならない。

 かくして健康への第一のカギはまずあなたの日常における心の姿勢を楽観的、積極的、希望的な方向へ切り換えることにある、ということになる。

 ではいかにして切り換えるか。何十年にもわたって維持されてきた姿勢がそう簡単に切り換えられるものでないことは、私も先刻承知である。その最低とも言うべき方法が、今はやりの鎮静剤の使用である。

 これは最近では、一つの社会問題となりつつあることなので、読者もよくご存知のはずである。英国の例で言うと、鎮静剤の処方を受ける人の数は年平均なんと四五〇万人にのぼる。これは病院へ行って処方を受けた人の数であるから、これ以外に薬局で手に入れる比較的軽い鎮静剤を使用している人の数を加えると、その数字は見当もつかない。

さらにアルコールという名の鎮静剤もある。が、いずれにしても所詮は一時しのぎの、紛らわしの手段にすぎない。

 心の姿勢を変えるのに、そんな薬やアルコールはいらない。自分の意志の力で変えることができるのである。その秘訣、いわば健康へのカギを回す秘訣をこれから伝授しようというわけである。

これさえ身につけば、ケンカっぽい性格が優しい性格となり、怒りっぽい人が静かな男となり、敵意が愛情にかわり、偏狭さが大らかさにかわるはずである。

 その秘訣とは、人間の心はたとえ事実はそうでなくてもそうだと言い聞かせればそのような反応を示すという、この特徴を応用することである。

 ここで話をすすめる前に、これまで学んだことをザッと反復してみよう。人体の生理的バランスは一種のコンピューターによって管理されている。その指令は〝思考〟とは関係のない独特の暗号によって伝達される。

その暗号がとりもなおさず〝心の姿勢〟なのである。そしてその姿勢、つまりうれしいとか、楽しいとか、イヤだとか、憎らしいといった感情は、かならずしも実際の現実とはつながっていなくてもよいというところが大切な点である。

 初めのところであげた例で、物音で目を覚ましたあなたがピストルを手にした人影におびえる話をしたが、ピストルも人影もあなたの幻影にすぎなかった。また他人が自分の悪口を言っているのではないかという単なる猜疑心が身体を熱くするほど興奮させ、唇を震わせる話もした。これらはみな、実際の事実とはなんらかかわりはない。
 
 このように、人間の生理的機能は実際の事実がどうであろうと、心がそれに対してどういう姿勢をとるかによって、健全なバランスを強化することにもなり、逆に崩すことにもなる。

そこで、つとめて明るく積極的な姿勢をとるように心がければ、病気にならないという理屈になる。しかもその姿勢は、みせかけであってもよいというのである。実際に楽しいことがなくてもよい。ほんとに楽しいと身体で感じてなくてもよい。

わざとでよいから楽しく振る舞い、楽しい気分にもっていく。すると、コンピューターは「楽しいぞ」という暗号を中枢に送り、そこから連鎖的に健康な生理的反応が生じる。ここがミソなのである。

 こうした事実のもつ意味の重要さを、よくよく認識していただきたい。子供だましのような単純なことだが、その意味するところはきわめて重大である。これを逆に見れば、重大な意味をもつが事実は至って単純ということでもある。

とにかく、その単純な事実のウラに健康と富と成功のカギが秘められているのである。

 あなたはいわば俳優になったつもりで、幸せな人間の役を演じればよい。そうすれば実際に幸福な人間になれる。元気はつらつたる人間の役を演じればよい。やがて本当に元気はつらつな人間になっていく。冷静な人間の役に徹すればよい。いつしか少々のことでは腹をたてない人間になっているであろう。

 体調が思わしくなく、いつも憂うつで、なおかつ私の言うことが信じられないという方は、とにかく一度ためしてみてはいかがであろう。だまされたつもりで、次に私が言うとおりにしてみられたい。

 人に見られては恥ずかしかろうから、風呂場にでも入ってカギをかけていただこう。風呂場には大てい鏡がある。その鏡に向かって一つの名演技を演じていただこうというのである。内心バカバカしいと思っていてもかまわない。

大切なのは頭で考えることではなくて、あなたの心の姿勢であり態度なのである。それがワザとであってもいい。ミセカケであってもいい。とにかくそう振る舞えばよいのである。

 さて、ではこう振る舞っていただこう。今、あなたのもとに素晴らしい知らせが舞い込んだとしよう。何でもよい。とにかくうれしい知らせである。あなたが全身が熱くなるほどうれしくなってバンザイを叫ぶ。

 「やった! ついにやったぞ! これでオレの未来は万々ざいだ。ようし、やるぞ!」

 満面に笑みを浮かべ、子供のように全身でうれしさを表すのである。決してやさしいことではない。最初のうちはアホらしいやら照れくさいやらで、思うようにいかないかも知れない。が、とにかく私を信じて一日に一回でいいから、こうしてうれしさ一ぱいの人間の役を演じてみることである。その日一日、きっといつもと違った雰囲気を感じるようになるはずである。それが効果の現れ始めた証拠である。

 これを続けていくうちにいつしか憂うつさを忘れ、体調が整っていくのを知るはずである。胃かいようの人であれば、激痛を忘れている時が多くなる。頭痛もちの人であれば、頭痛をすっかり忘れている日があることに気がついて、びっくりするはずである。

 「では、これで一切の病気が治るか?」

 と問われれば、差し当たってノーと答えざるを得ない。なんとなれば、今は、私は感情から誘発された病気を主体に話しを進めているのである。しかもその種の病気が、全体の九五パーセントを占めているというのである。感情に関係なく生じている病気についてはあとで述べよう。

 では伝染病の病気はどうか。これもいま述べた方法でやれば必ず防げる。というのは伝染性のものでも、実際には普通の病気以上に気の持ち方が影響しているからである。カゼがその一ばんよい例である。

年中カゼをひいている人がいるかと思うと、何年もカゼ一つひかない人もいる。何が原因でこんな違いが生じるのであろうか。カゼのビールスに好き嫌いがあるのだろうか。

ある意味ではそうだともいえる。が、その好き嫌いとは意識的に選り好みしているのではなくて、ビールスの繁殖しやすい体質と繁殖しにくい体質とがあるということである。

 ではビールスの繁殖しやすい体質とはどんな体質で、ビールスを受け付けない体質とはどんな体質を言うのか。これも実はほかならぬ生理的バランスの問題である。

生理的機能がバランスよく活発に働いている時には、ビールスが侵入しても繁殖できずに死んでしまう。反対にバランスが乱れていると、活発に繁殖してカゼの症状をひきおこす。そしてなかなか回復しない。

 そのことは医者という職業をみればよくわかる。医者は一日に何十人という患者に接している。その中にはひどい伝染性の病気をもってくる人もいるであろう。ところが、医者が患者から病気をもらうということはめったにない。

それは医者が病気を恐れないどころか、治してあげようという気構えで対するからであり、同時にまた一日中忙しくしているからでもある。

 私もその一人である。特に私の場合は、医学的に〝不治〟とされた人がほとんどであり、重病人が少なくないのであるが、かつて患者から病気をうつされたという経験はたったの一度もない。

 何かと病気がちな人は実は何が悪いのでもない、誰が悪いのでもない、自分自身の心の姿勢に誤りがあることをまず認識しなくてはいけない。そんな人は今日から、イヤ今すぐに心を明るく愉快に、そして活発にする努力を始めなくてはいけない。

 そのやり方はすでに述べた。始めから楽しくなれなくてもよい。そう振る舞うのである。人に失礼なことをされても笑って返すことである。腹の立つようなことを言われても、グッとこらえて、つとめて平静を装うことである。

人を恨まないことである。イエスは「右の頬をぶたれたら左の頬も出しなさい」と教えた。これは実際にぶたれた時のことを言っているのではない。

どんなにイヤなことを言われ苦しめられてもそれに反抗せず、相手の気がすむようにさせてやりなさいという意味である。なかなか実行できないことではある。がしかし、その努力はきっとあとで報われるはずである。

 また病気を意識しないことである。朝、近所の人から、
 「やあ、お早う。どうです調子は?」

と聞かれたら、どんなに具合がおかしくても、
 「ありがとう快調です。今日素晴らしい一日になりそうです」

とでも答えることである。もしこれを、
 「イヤ、どうも調子が変なんですョ。カゼでもひいたんじゃないかとおもうんです」

などと答えようものなら、そのまま立派なカゼになってしまう。そんな弱気な姿勢の人の身体では、ビールスは喜んで繁殖する。


 前に私は女房に逃げられて全身ガタガタになった男の話をしたが、これなどは人間が気の持ちよう一つでどうにでもなる典型的な例である。とにかく人間は感情の動物であり、精神的ショックに弱く出来ている。ならばその逆を行って精神をきたえ、ささいなことに動じない姿勢を作り上げれば、生理的バランスを常に健全に保てるはずである。

 何かあるとすぐに動揺し、自分で自分がコントロールできなくなる人は、次に簡単な精神修養法をお教えするからぜひ実行していただきたい。

 ホンの数分間でいいから静かにしていられる部屋を選び、上着をとって横になる。安楽椅子に腰かけるのもよい。男性はネクタイをゆるめ、ベルトをはずす。

女性であれば、身体をしめつけるような肌着をとる。次に明るさは大なり小なり刺戟性があるのでカーテンで部屋を薄暗くする。左右の手を重ね、足を交差させ、目を閉じ、眼球の力を抜いて動きにまかせる。

 この状態で深呼吸をする。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き、吐いたあと、次に吸い込むまで少し間を置く。これを数分間くりかえす。以上である。

 これが精神を落ち着かせる最上の方法である。というのも、こうした所作によって身体のコンピューターは〝休め〟の指令を発し、生理機能が調和をとりもどすのである。

 これで、あなたはいわば落ち着いた冷着な人間のマネをしたわけである。それでよいのである。これを必要と思った時に、何回でも繰り返すことである。そのうちこれが習性となり、本当に落ち着いた人間になっていく。

 もともと人間の身体というのは自然に回復するようにできているのである。これを自然治癒力とか自然良能といっている。外科治療の一切と内科治療のほとんど全部が、この自然治癒力の存在を前提として成り立っている。

例えば外科医が手術をする時、あとで切り口を縫い合わせれば必ずもとのように引っ付くことを信じているからこそ、安心してメスをいれることができるのであって、これがもしも確かでないとしたら外科医術は根底から崩れてしまう。

 内科とて同じである。大部分の病気は患者をベッドに寝かせ、ストレスをできるだけ少なくし、気を使わせないように、そして身体が冷えないようにしてやるなど、自然治癒力の働きやすいようにしてやるだけのことであって、薬は補助的にその治癒力を促進させたり症状を軽くすることを目的としたものである。薬そのものが治すのではない。

 この自然良能は、驚くほどの潜在能力をもっている。病気がなかなか良くならない場合は、その働きを妨げているものがあるからであって、障害を取り除いてさえやればメキメキとよくなる。

 その端的な例が傷口の治癒である。ケガをすると、その傷口を治療するために身体自身が万全の処置をとるようにできている。血球その他、その治癒に必要な化学物質が瞬時のうちに生産されてドシドシ現場に送られる。

その際人間にしてやれることといえば傷口を清潔にして有毒な細菌の感染を防いでやることぐらいであって、人体に具わっている自然良能の仕組みは遠く人知の及ぶところではない。

 かりに熱が出たとすれば、それは毒素を燃焼させるためである。肝臓や腎臓も老廃物を取り除いたリ解毒したりする仕事を四六時中絶え間なく行っている。こうした自然治癒力をスムーズにそして最大限に発揮させる条件が、肉体的には生理的バランス、精神的には明るく積極的な心の姿勢だというのが私の主張なのである。


 かくして本章をまとめると、健康へのカギは、あなたの肉体的生理はあなたの心の姿勢に応じて変化するという事実であり、このカギをまわす秘訣は、肉体はみせかけの心の姿勢にも反応を示すという事実である。

 これを活用すれば、たとえ面白くなくても愉快に振る舞うことによって生理を活発にし、淀んでいる自然治癒力を発揮させるという理屈になる。

 要は実行してみることである。一度にうまくできなくても、繰り返し練習してみることである。やがてこれが習慣的な性格をつくりあげていく。習いが性となるのである。

 今やあなたは健康へのカギを手にされた。それをどう使うかはあなた次第というところまで来ているのである。



                                           


第三章 心霊治療家の仕事

 私は心霊治療家である。別にユニークな存在というほどのこともない。

 私の所属する英国心霊治療家連盟には、何万人という治療家が登録している。その大部分は本職、つまり生計を立てるための仕事を別にもち、余暇を利用して治療を施している人が多い。

 そういう人は治療費を取らない。心霊治療は万人にわけへだてなく施さるべきものだと信じているからである。むろん地方には、これを職業として専門的に営業している人もいる。それはともかくとして、一体心霊治療とはどんなものなのか。はたして本当にきくものなのかどうか。そんな点を取り上げてみたいと思う。


 私のことを信仰治療家だという人がいる。が、私はあくまで心霊治療家である。心霊治療と信仰治療とはまるきり原理がちがう。まずその区別をはっきりさせてから、本論に入りたいと思う。

 第二章で述べたように、人体には自然治癒力というものが具わっている。つまり心理的および生理的条件さえ整えば、大ていの病気やケガは自然に治ってしまうようにできている。

それを良い方に促進させるのも感情であれば、それを阻止して悪化させるのもまた感情である。かならず良くなると信じている人は、もう大して永生きできないと思い込んでいる人に比べて、治る可能性がはるかに高い。

 このことは大ていの医者も看護婦もよく承知しているので、患者に接する時はかならず良くなるという気持ちにさせることこそ回復への重大な第一歩と心得ている。これを単に第一歩に留めず、それが全てであると信じているのが信仰治療である。

 つまり信仰治療家は治るという信念を吹き込みさえすればいかなる病気も治るのだと信じ、そのためにいろいろなテクニックを用いる。患者に初めて対面する時の態度にも細かい計算がある。

 まず患者を圧倒し、すごい人だという印象を与えて全幅の信頼をかち取る。患者はその人のそばにいるだけで治るような気がしてくる。

 続いてその気持ちを一層もり上げるために、厳かな雰囲気のうちに儀式を行う。立派な法衣をまとう人もいる。厳粛に飾られた祭壇があり、ズラリと並ぶローソクに火がともされ、聖歌が流れて、ムードはいやが上にも盛り上がる。その中で、恍惚たる表情の祈祷師が何やら語りはじめる。

 前もってこの療法による奇跡的治癒の数々を聞かされている患者は、こうして宗教的ムードの中で感激の念を禁じ得なくなる。医者に見放され、自分に自信を失い、絶望の淵にいる者が多いだけに、こうしたやり方で喜びと希望の念が呼びさまされ、奇蹟的に良くなる例は確かに少なくない。

 が、この療法には多くの欠点がある。よく指摘されることは、いま説明したようにその回復が強烈なムードの中で得られたものだけに、一たんそのムードから覚めてしまうと、また病状がぶり返すことが多いということである。

早い人は家に帰ったとたんに調子が悪くなる。二、三日しておかしくなる人もいる。当然また治療してもらいに行く。たしかに良くなる。が、家に戻るとまたおかしくなる。

 こうしたことを繰り返していくうちに、患者は次第に真相に目ざめはじめ、本当の治癒ではなかったのだと知って絶望感に襲われることになる。

 が、この療法の最大の欠点は、一度そうしたハデな療法を受けると、心霊治療のような地味なやり方を物足りなく感じるようになることである。同じ信仰治療と言っても、いろいろと種類があってひと通りではない。

さあ立ち上がって歩いてごらん式の暗示的なもの、〝ブーズー教〟という宗教にまで発展しているまじない式のものなどいろいろあるが、すべてに共通しているのは人間のもつ想像力を利用している点である。

 それ自体はけっして悪いことではない。私が前章で心の姿勢を変える方法として述べたのもやはり想像力を活用しているのであるが、私のやり方が日常生活を通じて徐々にではあるが自らの力で積極的に改革していくのに対して、信仰治療の場合は強烈なムードの中で暗示を受けて、一時的に幻惑されるにすぎない点に問題がある。

 フランス西部のピネレー山脈の麓にルールドという町があり、そこに有名なほら穴がある。そのほら穴の中の泉に浸ると病が治るという信仰があり、そこに聖母マリアが出現したというのでマリアの聖堂まで建立して世界的に有名になってしまった。

毎日のように各地から大勢の病弱者が訪れていて、中には確かに奇蹟的に治っている人もいるらしいが、その数は〝ルールドの奇蹟〟として有名になって以来のものを全部含めても、心霊治療家が一ヶ月に治している数ほどにしかならない。


 さて私は心霊治療家である。信仰治療家ではない。私は何一つ手の込んだことはしない。いたって地味である。患者が訪ねて来ると静かな部屋へ案内する。治療室などと言う特別な部屋は要らない。静かでさえあればそこが治療室になる。

自宅であれば客間を使い、ロンドンの勤務先(心霊出版社ツーワ―ルズ)の応接室でやることもある。治療中に体温が上がるので、大ていシャツをめくり上げネクタイをゆるめ、いたってラフな恰好で治療にあたる。

 さて患者に腰かけていただいてから、病状について説明していただく。前もって申し込みの手紙で大よその病状は知らされているのであるが、治療を始めるに当たって、今一度初めから詳しく経過を聞かせてもらう。そのわけはあとで述べるとしよう。

 部屋はこれといって宗教的な感じのする装飾はしていない。ローソクを灯すこともしない。香を焚くわけでもない。聖歌を流すこともしない。むろん法衣も無ければ祭壇もない。自宅の場合は友人が訪ねてきた時と何ら変わりはないし、勤務先の場合は一人の顧客を接待するのと少しも変わらない。

 私は患者に向かってこう説明する。私は心霊治療家であって、一般の医師の資格はもっていない。また皆さんから依頼されるままに治療を施すのであって、これを職業としてやっているのではない。従って、治療費は一銭もいただかない。

しかし同時に、一般の医者のように治療に関して何一つ保証はうけあえないから、治るか治らないか試してみるくらいの気持ちでいてほしい。

治れば結構なことで私もうれしいが、治らなくても元々と思っていただきたい。どうしても謝礼がしたいというのでしたら、そこにある献金箱へ入れてくださればよい。慈善事業への寄付に使用させていただきます。といった内容である。

 こんなそっけない態度は治療を施す立場の人間としての温かみと同情に欠けるかの印象を与えるかも知れないが、実は私のような心霊治療家のところへ来る人の大半は現代医学に見放された、いわば不治の病を抱えた人ばかりである。

鼻かぜやハシカなどでやって来る人はいない。方々の医者をあるきまわり、さんざんいじくられ、薬をあびるほど飲まされ、あげくの果ての「これはあなたの持病と思って我慢していただくほかありません」と冷たくあしらわれた人たちなのである。

 つまり最後の頼みとして、私のもとに来ているのである。その中にはかつて私が治してあげた人から聞いてきた人もいる。あるいはかつて私自身が心霊治療によって奇蹟的に救われた体験を綴った拙著『The Healing  Touch』を読んで駆けつけた人もいる。

いずれにせよ、もはやカッコいい話やお上手などで動かされる人たちではない。私はそういう人に、縁あって私のもとに神が連れてこられたのだという真剣な気持ちで接するのである。


 さて患者の病状を聞き、私の考えを話してから、いよいよ治療にかかる。まず上着を取ってもらい、背もたれのない丸い椅子に腰かけていだく。次に私の右手をひたいに左手をエリ首のところに当てがう。

 私は音楽が好きなので、患者の気分をほぐす目的で音楽を流すこともある。決して宗教的ムードを出すためではない。その証拠に私がかける音楽はモダンジャズからクラシックまで種々さまざまである。


 さて、そうしたくつろいだムードの中で私自身は、実は通常意識から潜在意識へとスイッチを切り換えている。治療をやり始めの頃はこれに十分から十五分もかかったが、今では二、三分でできる。その心理的操作の感覚は言葉では説明しにくいが、強いて言えば、うつらうつらと白日夢を見ているような心地とでも言えようか。

 もっとも、決して夢を見ているわけではい。通常意識が空っぽになり、浅い入神状態にあるのだと思われる。その間は部屋の様子や患者の存在を忘れており、やがてその状態から覚めた時、患者を見て一度どこかで会ったような人だなどと、錯覚を覚えることがある。

 私がそうやって通常意識を休めている間に、私の身体を伝って何やら不思議なエネルギーが流れるのがわかる。その様子はとても言葉では説明できそうにない。また私から時間の観念が消え失せてしまう。治療に何分かかったか、さっぱり分からない。

ときとして右手に振動を感じることがあり、熱を覚えることもある。そんな時は全身が熱くなる。ネクタイをゆるめ、シャツをめくり上げるのはそのためである。

 こうして右手をひたいに左手をエリ首のところに当てた恰好でしばらくするうちに、私の手はその人の一ばん悪い箇所にひとりでに移動しはじめる。悪い箇所とはかならずしも痛い箇所ということにはならない。

ヘルニアなどの場合、坐骨神経を圧迫して足先がしびれることがあり、患者はしきりにその痺れを口にされるが、私の手はその根本原因であるところの腰の部分に行く。

 治療に要する時間は正味十分程度である。病状を聞いたリ入神状態に入るに要する時間等を入れると三十分ほどにもなるであろうが、霊的な治療は入神中のほぼ十分間に行われるようである。

 前に述べたように、私は治療の前にもあとにも何一つ有難いお話しはしない。にもかかわらず、大ていの患者は治療のあと感激の涙を流す。男女の別、地位の上下には関係ない。今でも印象に残っている例としては、五十才位の教養豊かな男性が私の足元にしがみついて思い切り泣いたことがある。女性などは顔をクシャクシャにしてしまう。

 そんなわけで、前もってティッシュぺ-パーを山ほど用意することにしている。むろん中には泣かない人もいる。ただじっとすわって心の静寂の中に浸っている人もいる。

 いずれにしても、こうした反応は私が演出して盛り上げたムードのせいでない点に注意していただきたい。まわりには何一つ宗教的装飾はないし、有難いお話をするわけでもない。ごく普通の雰囲気の中で起きているのである。

 さてそうした感激の嵐がおさまったころ「いかがですか」と尋ねてみる。ただの一回の施療で痛み、こり、その他の病的な症状があとかたもなく消えている人もおれば、まだ幾分残っている人もいる。そんな場合は大てい一週間後にもう一度来て頂く。

また全然変化を感じない人もいる。心霊治療をやり始めた頃はこんな患者に出あうとガッカリしたものであるが、のちにそれが決して失望すべきことでないことを知った。

 というのは、施療直後に何の変化のない人でも、二、三日のちに急に快方へ向かう人が非常に多いことがわかったのである。また急速な回復は認められなくても、体力が増し苦痛がラクにしのげるようになりました。という便りをいただくこともある。

このように心霊治療にはあとからじっくり効き目が出てくることがよくある。なぜか。それは心霊治療の原理を知れば納得のいくことである。それを次に紹介しよう。


 まえがきの中で述べたことだが、われわれの身辺には生命力が充満している。宇宙エネルギーと呼んでもいいし、宗教的に神と呼んでもよい。自然界を研究すればするほど、この生命力のすばらしさに感嘆せずにはいられなくなる。

雪の花びらを顕微鏡でのぞいても、あるいは夜空を望遠鏡でのぞいても、その緻密さ、その広大さ、そして何よりもその美しさに心をうたれない人はないはずである。

 ダイヤモンドの構造の美事さ、野辺に咲く花の可憐さ、生体の機能の不思議さ、水に泳ぐ魚、空に飛ぶ鳥、四季のうつりかわり、汐の干満、人間の脳の複雑さ、赤ん坊の完璧さ、どれ一つ取ってみてもその神秘性に感嘆せずにはいられない。

つまり、そこに創造主〝神〟の存在を意識せずにはいられないのである。

 神とは要するに宇宙のデザイナーのことである。完璧なデザインがあるからには、それを創り出したデザイナーがいるはずである。そのデザインたるや単なる机上の青写真ではない。一糸乱れぬ因果律に従った創造があり発展がある。

その創造発展を推進していく強大なパワーがまた存在する。それが宇宙に充満しており、それが病気を治してくれるのである。

 「では、その生命力とやらを見せてくれまいか」
 こうおっしゃる方があるかも知れない。が、現代人はこんな幼稚な質問をしてはいけない。生命力は目に見えるものではない。感受するものである。要は、それを感受する装置の問題である。

 仮に浦島太郎が竜宮からこの現代に帰ってきたとしよう。誰かが音楽の話をする。浦島太郎はその音楽とやらを見せてくれないかと言うであろう。あなただったらこの際どう説明するだろうか。

 私だったらポケットからトランジスタラジオをとり出し、

 「いいですか、音楽というのは目に見えるものではなくて耳で聞くものなのです。音楽は私たちの身のまわりに常に存在するのですが、普通の耳では聞けません。それを受信する特殊な装置がいるのです。それがこれです。このボタンを押すと装置が働いて音楽を受信して、私たちの耳に運んでくれるのです。ホラ、いいですか、いま聞こえてきますよ」と。

 心霊治療家としての私はいわばこの受信装置のようなものである。まわりに遍在する生命力を受け入れて、その波長つまり強さ、電気で言えばボルトを調節して患者に注入するのである。その生命力が本質的にいかなるものかは私自身もよく知らない。

それは電気というものがどんなものかよく知らずにいるのと同じである。知らなくてもいい。要はそれを正しく活用すればよいのである。

 もしも私が暗い部屋にいて、誰かになぜ電灯をつけないかと聞かれ、
 「イヤ、この目で電気を見たこともないし知識もないもんだから」

とでも答えようものなら、笑いものにされるであろう。電気の本質を知らなくても、スイッチを押すことさえ知っておればことは足りるのである。もう少し電気のたとえ話を進めてみよう。


 今ここに三つの部屋があるとしよう。どの部屋も中はまっ暗である。

 第一の部屋の人は電気屋を呼んで電源にスイッチを入れてもらったまではよかったが、ソケットに電球を入れることを知らない。暗い暗いと文句ばかりをいいながら暮らしている。

 二番目の部屋の人はちゃんと電球をつけてから電源のスイッチを入れてもらった。やがてぱっと明るくなって部屋中が光であふれた。当たり前のはなしであるが、最初の人に比べれば幸せ者である。

 だが三番目の部屋の夫婦はもっと賢明である。主人は電気についての学識がある。アンペアを調べた上で自分はラジオでクラシックを聞きフランス語講座を勉強する。一方奥さんの方は電気ミシンで縫物に精を出す。

 三つの部屋には同じ電流が流れているのである。が、その利用の仕方はこのように三者三様、ムダにしている者もあれば大いに活用している者もいる。電気屋は電源にスイッチを入れるまでが仕事であって、その電気を何に使用するかは知ったことではない。そこでそういった面での指導者がいてくれると助かることになる。

 第一の部屋の人のように電気についてまったく無知な人は電球の取り付け方を教えてやる。いっぺんに部屋が明るくなって大よろこびである。

 第二の部屋の人には、トースターだとかヒーターといった電気製品があることを教えてやればよい。電気とはかくも重宝なものかと有難がるであろう。

 第三の部屋の夫婦にはテープレコーダーなどの利用法を教えてやれば、ラジオ講座の録音ができて勉強が一層効果的になるであろう。

 こうしたたとえ話はそっくりそのまま心霊治療にも当てはめることができる。電気に相当するのが生命力であり、電気屋は治療家であり、指導する人は背後霊ということになる。

 背後霊と聞いて驚かれるかもしれないが、心霊治療にはかならず霊魂が背後に控えていて指導に当たっている。スピリットが働きかけると、治療家は誰かが自分の肉体に侵入して自分自身がわきへ押しやられたような感じを受ける。

私がはじめてそれを体験した時は異様な感じがしたが、しかし決して〝不自然〟なものではなかった。今では治療の一つの重要なプロセスとして受け入れている。もっとも、治療家のすべてが同じプロセスをへるとは限らないが・・・・・・。


 さて、そうした心霊治療能力を具えていても治療家自身にはその活用方法のすべてがわかっているわけではない。つまりこの病気はこうすればよいといった個々の治療法は治療家自身にはわからない。

それはさっきの電気のたとえ話の中の電気屋のようなもので、部屋に電流が通じるようにしてあげるまでが彼の仕事で、その電気を何に使うかは関知するところではない。

 そこでその〝無知〟な治療家に代ってスピリットが有効な活用方法を考えるわけで、大てい複数のスピリットが指導に当る。私の場合は一人の指導者格のスピリットがいて、必要に応じて各分野の専門家をつれてくるようである。

内科、外科、神経科、整形外科等々、それぞれみな違う霊がいるらしい。もっとも私の方でいちいち存在を感知しているわけではない。時によってはまったく無意識のうちに終わることもある。

 患者の中には治療直後はなんの変化も感じなかったが二、三日後に目に見えてよくなったという人がいるが、こういう場合は私の背後霊が訪問して本人の知らぬうちに治療をしているのである。

 また患者によっては、誤った信仰のために心霊治療というものに対して、潜在的に拒絶反応のようなものを持っている人がいる。言うまでもなくキリスト教的信仰が大半を占めるが、中でもいちばん多いのが、教会以外での治療はすべて悪魔のそそのかしによるものだという信仰である。

 理性的に考えればバカバカしい話であるが、子供の頃の無地の心にしみ込んだ信仰は恐ろしいもので、成人してからいろんな障害となる。

 そんな場合、背後霊は待機してじっと様子をうかがっているようである。そして、何かの拍子、たとえばそうした潜入観念のほぐれた熟睡中などに、一気に治療エネルギーを注ぎ込む。

患者は朝目が覚めてみると、ウソのようによくなっているので、びっくりして私に知らせてくる。が、私はこうした例はたびたび体験しているので別に驚かない。それが心霊治療の妙味でもあるのである。

 治り方が薄皮をはぐようにゆっくりしているタイプもある。これにもやはり背後霊の配慮があるのである。というのは、患者によってはあまり急激な回復がかえってショックとなって逆効果をきたす場合もある。

そんな時、背後霊は患者の体調に合わせて治療エネルギーを少しずつ注入し、全身の代謝機能の回復を待つ。やがてもう大丈夫という線まで回復したところで、一気に全快へともっていく。

 
 さて同じ心霊治療でも、今まで説明したのとはまったく別のタイプの治療法がある。遠隔治療というのがそれである。つまり遠く離れた場所にいる患者に治療を施すのである。

遠隔治療という言葉をはじめて聞いた時は私も疑問に思ったのであるから、読者が疑問に思われても不思議はない。例によってたとえ話でわかりやすく解説しよう。

 最近のオリンピックは宇宙中継されるようになったが、地球の裏側で行われている競技がどういう仕組みで画面に映るのであろうか。細かい専門的なことは別として、テレビカメラによって撮られた映像が分解されて宇宙衛星に送られ、そこから世界各地の中継所に送られ、そこで中継された電波を各家庭のアンテナがキャッチして画面に映し出すわけである。

 こうしたことはかつてのラジオ時代には想像も及ばなかったことであるが、それが今では現実となっている。しかも、われわれ人間自身が考え出したことなのである。自然法則の操り人形にすぎない人間でも、これだけのものを考え出した。

 
ならば、この大宇宙を創造した神に遠隔治療くらいの芸当ができないはずはないではないか。要するに、私なら私という治療家を中継所として、治療エネルギーを患者に送るわけである。具体的に説明しよう。

 患者から一通の手紙が届く。差出人は一六〇キロ離れたところに住んでいる。寝たきりでお訪ねできないので、遠隔でお願いしますと書いてある。私はその手紙を両手で持って精神を統一する。すると背後霊が私を通じて患者の存在位置と様態を察知する。

続いて治癒エネルギーを送る。といっても患者の性格によっては、治療を受け入れる条件が整うまで待つこともある。

 いずれにせよ効果は確実に現れる。感謝状が週に数十通に及ぶことからもそれが察していただけると思う。一、二週間前までは一歩もベッドから離れられなかった人が、直接出向いて礼に来られることもある。私などはまだ数の少ないほうである。

 治療家によっては、週に何百通もの礼状を受け取る人もいる。英国全土を合計すると、おそらく週に何千人もの重症患者が完全に治癒している計算になる。驚くべき事実である。

 念のために付言するが、遠隔治療は単なる祈りや気のせいで治っているのではない。治療家と背後霊との連繋のもとに行われる入念な施療の結果なのである。祈りも確かに威力を持っている。私はそれを否定するつもりはない。ただ心霊治療に関する限り祈りは必要でないしむしろ治療を妨げることにもなりかねないことを指摘しておきたい。

 少し前こんなことがあった。郊外に住む知り合いの婦人から電話があり、

 「娘の病気が一向によくならず、もしかすると自殺もしかねない状態なのです」
という。娘さんの家は私のところからさほど遠くもなかったので、さっそく行ってみた。なかなか立派な屋敷に住み二人の子供がいて、外観はいかにも仕合わせそうに見える。

ところがその娘さんというのは母親に似てひどい神経過敏症で、極度に張りつめた毎日を送っている。そこへもってきて頸骨脱臼症で四六時中首に包帯を巻いている。

むろん医者にみてもらってはいるが一向によくならない。四六時中痛む。いっそのこと死んでしまおうと思いつめるようになっていた。そこへ私が訪ねた。私を見るなり彼女はこう言い放った。

 「何しに来たの。あんたに何ができるというのヨ。信仰治療ならとっくに都会でやってもらったわ。牧師に出来ないことをなんであんたが出来るのヨ」

 牧師の悪口を言うわけにはいかない。少しやりづらかったが、何とか説得して治療を施してみた。効果は確かにあった。今ではずっとよくなっている。しかし私の観るところでは、彼女の母親の存在が彼女の生活を大きく邪魔しているように思える。

信仰というものについてこの母親が考えを根本から改めないかぎり、全治することはムリのように思える。

 この例でもわかるように、病気は信仰だけで治るものではない。もし治るのだったら「神さまなにとぞこの痛みを取り除いてください」と一心に祈れば事足りるはずである。と同時に、信仰心というものを持ち合わせない赤ん坊や幼児は治らないことになってしまう。

 心霊治療はこれとはまったく異なる。それはあなたのまわりに存在する宇宙エネルギーを取り入れ、それによって身体のもつ自然良能を賦活し生理的バランスを回復させるやり方であって、どこにも摩訶不思議的要素はない。

ただその治り方に奇蹟といえるほど瞬間的なものがあることは事実である。しかし一方、薄皮をはぐように遅々とした治り方を示すこともある。

 いずれにしても、その治癒の原因が身のまわりに常に存在している宇宙エネルギーを活用している点は同じである。次章では、そのエネルギーをあなた自身で活用する方法を伝授しようと思う。


                                     


   第四章 生命の源にプラグを差し込め
  健康を取り戻す方法として私はこれまで二つの方法を紹介した。
     一つは心の姿勢を変えることによって生理的バランスを回復するやりかた。

    もう一つは心霊治療によって宇宙生命を注入してもらうやり方である。
 そしてこれからもう一つ、第三の方法を紹介しようと思う。それは宇宙生命の源そのものに自らプラグを差し込んでエネルギーを摂取する方法である。

 かりにあなたがいま新しい洗濯機を購入したとしよう。さて、まっ先にしなければならないことは何であろうか。そのとおり、まず使用説明書をよく読むことである。電源にプラグを差し込んでもヒューズが飛ぶ恐れはないか。

つまりボルト、アンペアに余裕があるかどうかを確かめる必要がある。また使用する水は普通の水でよいのか温水にする必要はないのか、セットの仕方はどうなっているのか、排水ホースはどちら側につないだ方が使いやすいか等々、実際に使用するまでに知らねばならないことがいろいろとある。

 最近の洗濯機はなかなかよく出来ている。が、いくら性能がよくなっても、人体の巧妙さ精妙さにはとてもかなうものではない。世界最高のコンピューターでさえも、人体に比べればまるで子供のオモチャである。

そうなると、洗濯機の使用に先立っていろいろと知らねばならないことがあるように、人間についても正しい知識を持つ必要があるのは理の当然であろう。

 そこで、これからひとまず人間とは何かについて私の説明をよく聞いていただきたいのである。

 まず第一に知っていただきたいことは、肉体があなたではなく、また脳味噌があなたでもないということである。では自分とは一体何なのか。それは肉体と脳を使って自己を表現しているところの目に見えないあるもの、つまりスピリットなのである。

目に見えないからといって影も形もないものを想像してはいけない。肉眼に見えないというだけであって、霊眼をもってすれば立派に見える。

 そのスピリットが肉体と脳をあやつって生活しているのが現実のあなたなのである。

 これを逆に考える人がいる。つまり肉体や脳から精神が生じるのだというのであるが、それはちがう。あなた自身は肉体の誕生以前からスピリットとしてすでに存在していた。

それが肉体の(母胎内での)発生と同時に結合して今日に至っているのである。肉体は霊の道具であり脳はそのコンピューターだと思えばよい。言ってみれば、肉体は地上生活を送るための一時的な借りものにすぎない。

 死というのはその肉体という道具が使えなくなった状態であって、宿っていた霊は昆虫が殻を脱ぎ棄てるように肉体から脱け出て、次元の異なる別の世界に生き続けるのである。といって決して新しい世界に行くわけではない。実際はもといた世界に戻るのである。

 いきなり難しい話になってこんがらがる向きもあるかも知れないが、心の窓を広く開いて、ひととおり私の説に耳を傾けていただきたい。

これは私が勝手に考え出した説ではない。心霊学という新しい学問が最後の結論として打ち出した確定的な事実であるから、いたずらに疑ってかかるよりも、一日も早くこうした人間観に慣れることが得策である。そうすることによって、どれだけ人生観が変わることであろうか。ではもっと話を進めよう。

 この世はいわば教育の場である。人間教育、魂の教育の場である。さきに述べたとおり、もともとあなたはスピリットの世界にいた。霊界でもいろいろと学ぶことはあるが、これだけは地上生活でないと学べないというものが必ずある。だからこそ、地球の存在価値もあるわけである。

 あなたは魂の親であるところの守護霊や指導に当たってくれる霊たちのアドバイスをうけて、最終的に自分で地上行きを決心した。あなた自身が決めたのである。魂の永い永い進化の道程において、ぜひとも一度あるいは二度、あるいは幾度も幾度も地上生活を経験しておく必要があると判断したわけである。

 具体的に言えば、たとえば忍耐力に欠けているとか物質的苦労が不足しているとか、あるいは人情の機微にふれることが少なすぎると感じて、そうしたものを補うには地上生活が一ばん適当であると判断したわけである。

やがて地上の一対の男女の間に愛が芽生え、母体に種子が宿る。その種子にあなたの霊、つまりあなたという個性を持った神の分霊が結合するのであるが、それに先立ってそれまでの一切の記憶の集積層をそっくり霊界にあずけることになる。

その記憶は再び霊界に戻った時に取り戻すことができるが、霊格の発達した人なら地上生活においても思い出すことができる。

 さてあなたの辿る人生のコースは一コマ一コマがきちんと定められている。が、それにいかに対処するかはあなたの自由意志にまかされる。

それはちょうど学生時代にたとえれば、小学校六年間を同じ学校に通い同じ教科を同じ日数だけ学んでも、勉強するしないは本人の自由であるのと同じである。別のたとえで言えば、七日ごとに日曜日が訪れるのは万人に共通していることであり、暦にきちんと定められていることであるが、その日曜日に何をするかは本人の自由であるのと同じである。

 人生という旅の道程において、あなたはいろいろな苦労に遭遇するであろう。それにいかに対処するかによってあなたの進歩の度合いがわかる。

ある時は必死に対処し、またある時は失意のドン底に落とされるかもしれない。そうした体験の一つ一つは実は神がセットした試練なのである。

 つまり、あなたにとってはそれが必要とみたからこそ神が与えるのである。その意味では失敗も苦労も病気も必ずしも直接あなたの責任とはいえないかも知れない。が、問題なのはそうしたことに対処するあなたの姿勢である。

 たとえば、私をたずねてくる患者の多くは、開口一番、「私の人生は不幸の連続です」とグチをこぼす。これがまずいけない。自分一人が世の中で苦労しているかのように思い込むそのいじけた心の姿勢がいけないのである。

実際には誰にでもあることが、その人には苦痛に思えて不平不満が増す。が、つまりは神がセットしたテストに不合格だったということである。それも真剣に取り組まなかったから不合格となったまでである。

 もちろん、時には誰かの援助を必要とするほど大きな苦難に直面する場合もあるであろう。大学にたとえれば専任の先生に質問しなければならないことだってある。

この複雑な人生においてどうしても援助をお願いしなければならない難題は幾らでも生じる。そんな時、その相談相手になってくれるのがあなたの背後霊なのである。
 
 その背後霊は、実はあなたが霊界からこの現実界に再生する際に相談相手になった霊魂である。彼らはその高い霊格ゆえに、あなたが人生においていかなるコースをたどるかを前もって見通してしている。

したがってそれに対処するための方策もちゃんと心得てくれている。問題はいかにしてその霊魂と交信するかである。それでは次にその方法をお教えしよう。

 今ある問題をかかえているとしよう。いろいろ努力してみたがどうもうまくいかない。

といっても、この際その問題は利己的なものでないことを前提にしよう。ロールスロイスが買いたいとかギャンブルでひと儲けしたいとか、あるいはもっと豪華な家に住みたいとか、そんな物質的な自分本位の欲望や野心は困る。

そういう性質の目的をかなえる方法については別に説くことにして、差し当たってここでは物質的野望は切り離していただきたい。物質的なものでなくても、あなたにとって切実な問題はいくらでもあるはずだ。

 あなたはそれを解決しようとこれまで最善をつくしたつもりだが、ついにうまくいかなかったと仮定しよう。そのことでこれから背後霊にお願いするわけであるが、その方法は実は二章で紹介した精神統一の方法をもう一歩進めさえすればよいのである。

 精神統一の方法について私はこう述べた。すなわち静かな部屋を選び、窓のカーテンを引いて薄暗くする。男性は上着を脱ぎネクタイをゆるめベルトをはずす。

女性は身をしめつけるような下着は着がえた方がよい。クツも脱いだ方がよい。すわり心地のよいイスでゆったりとくつろぐ。三章のところで述べたのはここまでであった。

 さて、その状態であなたが今かかえている問題を声に出して述べる。人に話しかけるような調子でしゃべる。そして今まで、自分なりに最善をつくしてきたつもりだが、自分一人の手に余るのでよい知恵を授けていただきたい、とお願いする。

 そうお願いしてから頭の中を空っぽにする。実はこれがなかなか難しい。何も考えまいとするとかえって余計な雑念が湧いてきて、それを払いのけようとするとますます絡んでくる。そんな時は何も考えまいとするよりも、いっそのことその逆をいって、あるひとつの考えに集中した方がよい。たとえば白いバラの花を想像してそのイメージに全神経を集中するのである。

 バラの花はおそらく、あなたの人生の悩みには何の関係もないはずである。だからいいのである。悩みごとに関係のある事物はいけない。それが先入主となって背後霊からの通信を邪魔するからである。

 そうやってバラの花のイメージを思い浮かべながら静かにしていると、身体がくつろいでくる。ウトウトと軽い眠りにおちいる人もいる。それでよい。やがてわれに戻ったら立ち上がって大きく伸びをして、身支度をキチンと整え、冷たい水を飲む。何とも言えないさっぱりとした気分になる。

 これであなたは背後霊に心の窓を開いたことになる。言いかえると背後霊との間に心の触れ合いができたのである。この触れ合い(Commune)(コミューン) が大切なのであって、語り合い(Communication)(コミュニケーション) はかならずしも必要でない。

コミュニケーションは特殊な霊能がないとできないが、コミューンならだれにでもできる。またできるだけ多くその機会をもつ必要がある。いま説明したやり方がその一つであるわけである。

 背後霊とのコミューンをもつと非常に気持ちがよくなり、イライラした緊張感がほぐれてくるのが普通である。それもそのはずである。今までかかえていた難問を背後霊にあずけたことになるからである。

 が、その回答つまり背後の援助がいつどんな形であらわれるかはまったく予想がつかない。

二、三日するうちに人が変わったように考えが変わってしまうこともある。インスピレーション式に頭にパッと解決方法がひらめくこともある。なんの気なしにやり始めたことが、解決につながっていることもある。あるいは事情が急に変化しておのずと解決してしまうこともある。

 いずれにせよ、背後霊からみてあなたにとって一ばん良いとみた方法をとるのであるから、背後霊にお願いするにあたって一ばん戒めなければならないのは、自分の欲にこだわって、こうして欲しいああして欲しいと、勝手な要求を出すことである。

卑近な例でいえば、どうしても大金がほしいという時に競馬の優勝馬を教えてほしいとか、近所に憎たらしい人がいていつもイヤな思いをさせられている場合、あの人がどこかへ移転するように取り計らってほしい、といった類の願いごとである。

 常識的に考えて、程度の高い霊がこんな要求にまともに応じるわけはない。もし思った通りの事態になったとしたら、それはむしろ警戒を要することである。はたして真にあなたの幸福を思う霊の取り計らいであるかどうか、はなはだ疑問だからである。

最初に私が、背後霊に物事を頼む時は利己的な欲に発したことは切り離してほしいと述べたのはそのためである。


 私も大きな問題にぶつかると背後霊におまかせすることにしている。私自身の体験を中心に綴った『The Healing Touch』が出版されるに至るいきさつは中々面白い経過をたどったのでそれを紹介してみよう。

 私が心霊治療を始めて二、三年経った頃のことである。それまで何百人かの患者を手がけてみて、そういう人たちに一つの共通した要因があることを知った。すなわち真理を知らなすぎるということである。

 たとえば、肉親を失って悲しむ。これは誰しも同じであり、人間である以上当然のことである。が、悲しみのあまり生理的バランスを崩し、あげくの果てに心霊治療を受けなければならないほどに至るのは、死後の存続という真理を知らないからである。

 人間は死を一つの区切りとして、新しい世界に生まれ変わる。いわば幼稚園から小学校へ進学するのである。

それをなぜ嘆き悲しむのであろうか。私の知る限りでは、文明国の葬式はどれもこれもみな野蛮であり残酷であり、ある意味において滑稽このうえないと言いたいのである。

 こうした内容の話を私は一人一人の患者によく話して聞かせてきたわけであるが、そのうちいい加減うんざりしてきて、ひとつ、これをまとめて一冊の本にしてみたらどうだろうかと思いはじめた。

ある晩方、タイプライターに向かった私はカバーを取りはずす前に、さっき述べたような要領で背後霊とコミューンのひと時をもち、私の考えを聞いてもらって援助をお願いしてみた。それからカバーを取りはずし、頭にうかぶままをタイプして出来あがったのが小冊子『死とは何か──悩める人のガイドブック』(巻末付録参照)である。

 できあがるとすぐ、封筒に入れて心霊紙『ツーワ―ルズ』の編集長であるモーリス・バーバネル氏へ送り、よろしくご配慮ねがいたいと書き添えた。

短いものではあるが雑誌の記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバーネル氏の返答は、簡潔にして明快であった。連載記事の一切を割愛して、一挙に掲載するというのであった。

 予想したとおり大きな反響があった。死というものについて、いかに多くの人がガイドを必要としていたかが如実に実証されたわけである。出産についてのガイドブックは山ほどある。婦人科の医学書は実にくわしく書いてある。また人生のガイドブックも多い。

いろんな人生哲学がある。が、死の真相を説いた書物はまだ出ていない。それを私は書いたのである。やがて小冊子となって出版された。前おきが長くなったが、話はここから発展するのである。

 バーバネル氏が編集長をしているツーワ―ルズ社はロンドンのグレートクィーンストリートにあり、そこに有名なコンノートルームという、高級レストランや宴会場の集まった場所がある。

その一室での昼食会に一人の出版業者が出席していた。会が一段落した時、彼は息抜きにその向かい側にある心霊書店のショーウインドーをのぞき込んでいた。そこに例の私の小冊子も並んでいた。彼はそれを見て興味をひかれたらしく、すぐに買い求めた。

 その翌日のことである。その男から電話があって、私に何か本を書いてみる気はないかという。私は直接彼と何回か面会して、いろいろと私の体験談や治療家となるに至る経過を話して聞かせた。すると彼は体験談を自叙伝風にしたものに心霊治療の話を加え、さらに例の小冊子に述べたような死の真相を付け加えて、一冊にまとめてほしいという。

 私は直ぐにOKしてさっそく仕事に取りかかった。書きあがるとすぐ原稿をその出版業者に送った。ところがなかなか返事がない。それどころか、どうしたことであろう。

やがて原稿が送り返されてきた。曰く、内容は気に入ったが最終的に出版を引き受けてくれる人が見つからないのだという。つじつまの合わない言い訳である。結局、この人は宗教的偏見から出版を断ってきたに違いない。

 この原稿はずいぶん時間をかけて書いた。それが人もあろうに、それを依頼した当人からヒジテツをくわされたのであるから、ショックでなかったと言えばウソになる。私は残念でならなかった。内容には自信がある。この種の本はまだ見かけたことがない。何とか出版したいと思った。

 そこで私は静かな部屋で背後霊にお願いをした。どうかいい出版業者を世話してほしい・・・・・・と。

 その効果は二、三日後に早くも現れた。ある出版者の取締役と昼食を共にするチャンスにめぐまれた私は、抜け目なくその話を持ち出した。

すると、一度原稿を拝見したいというので早速お送りしたところすぐOKになり、ロンドンとニューヨークで同時発売の運びとなった。一九七〇年のことである。反響は予想した通り絶大であった。今でも読者から週に五十通から六十通の感謝状が届いている。


 こうした背後霊の援助は、やり方さえ正しければ誰にも得られる。ちょうど日常生活で電気をいろんなことに活用しているように、背後霊が生命力を活用してあれこれと面倒を見てくれるわけである。ただし、それがどんな形で現れるかは人間には予測できない。

霊的な働きについて人間がよく知らないからである。少なくともこの世にいるかぎり、背後霊に一切をおまかせするほかはない。

 人間というのは決して一列平等にできあがっていない。それぞれ霊的進化の程度が違っている。仮に、今ちょうど同じ時刻に二人の人間が誕生したとしよう。一人は動物的段階をやっと終えて人類としてはじめて地上に生を享けた。

もう一人はすでに何回かの地上生活を体験して高度な霊格を身につけている。成人してこの人は偉大な哲学者あるいは聖人といわれるような人になるかも知れない。が、前者は屠殺場の屠殺人としての生涯を送るかも知れない。

 あなたも、今あなたがつき合っている仲間とは進化の段階が異なる。あなたの方が進んでいるかも知れないし、遅れているかも知れない。が、それはどうでもよい。要はあなたがこれまでに積み重ねてきた知識と体験をもとに、今何をするかである。

 が、電気をいじくるのに前もって電気についての知識がないと危険が伴うように、心霊知識をよく身につけた上でないと霊的生命源にむやみにプラグを差し込むのは危険このうえない。心霊知識はこれが初めてという人は、ぜひ本章は最後まで読み通していただきたい。それを受け入れるか否かはそれからの問題である。

 さて、煩雑な日常生活を忘れて静かに精神統一をすることは、背後霊との触れ合いの機会を与え、必要な援助を受け、生命力を流れ込ませることになる。

触れ合いに成功したあとの気持ちはさわやかそのものである。一度その味をしめると悩みというものから縁が切れる。自我へのこだわりを棄てるからである。悩みこそが体内の生理的バランスを崩す大敵であることはすでにのべた。

それがきれいに消えてしまうのであるから、緊張がほぐれ、バランスが回復すると同時に、精神的に生まれ変わったような気分になるのも当然であろう。

 この精神統一を少なくとも一日一回行い、同時に先に述べた〝心の姿勢〟に気をつければ驚くほど元気になり爽快になる。これを繰り返すうちに、やり方にこだわらなくなる。

さきに白いバラを想像して意念を集中しろといったが、その必要が無くなる。次に時と場所にこだわらなくなる。いつでもどこでも、たとえば仕事場でも列車の中でも、あるいは停車した車のなかでも、まわりの世界から遮断し、魂の奥深くもぐりこむことができるようになる。

つまり生命の源に、いつでもどこでもプラグを差し込むことができるようになるわけである。

 背後霊というのは我欲から出た要求でなければ何でも聞いてくれる。要求を妥当と見ると、それに必要な措置をいろいろと講じてくれる。電気工事夫が配線をしてくれるのと同じ要領で、生命の源と連結しスイッチをまわし、必要な生命力が流れ込むように工面してくれる。

 こんな素晴らしい話はないのだが、人によってその受け取り方はまちまちであろう。宇宙の生命力うんぬんも結構だが、とにかく金さえあれば何も文句をいわんという人もいるであろう。ひたすら商売繁盛を祈ってわき目もふらず邁進している人もいるであろう。

そういう人にとっては取引が大きくなることが成功にほかならないであろうし、またある人はロールスロイスに乗れるようになることが何よりも成功のシンボルであるかも知れない。庭付きの豪華な家、プール付きの大邸宅、こうしたものにあこがれてコツコツと働いている人も多い。

 が、ここで思い出していただきたい。いったい自分がこの世に生を享けた目的は何だったのか。霊格を高めること、つまり魂の進化のために必要な体験を積むべく生まれてきたのではなかったのか。

物的要求のために邁進するのも結構であるが、人生の終末を迎えると、人間は誰しも一体何のために生きてきたのだろうかと思うものである。その時、山ほどの財産を貯えたことに満足する者はまずいない。大邸宅で往生できることをこのうえない冥利と感じて死んでいく人間もいない。むしろそういう人ほど、人生のむなしさを痛感するものである。それも当然であろう。なんとなれば、人間は所詮は霊的存在だからである。

 では、人間は何に一ばん生き甲斐を見いだすのだろうか。それは、自分という一個の人間がこの世に生きたことによって少しでも人のためになったということである。言いかえると人の霊的進化のうえで自分の存在が少しでも役に立ったということである。

つまり他人にとっての自分の存在価値が、この世での自分の存在価値を決定づけるのである。


 毎日の生活の視点をそこに置きかえてみるとよい。あなたの人生はガラリと様相を一変するに違いない。くだらぬことにあくせくしなくなる。張りつめた気持ちがゆったりとしてくる。そして何よりも大きな変化は、死を恐れなくなるということである。

 死という現象は少しもこわいものではない。痛みも不快感もない。気がついてみると自分が、本当の自分が肉体の上にただよっている。両者は銀色に輝く一本の紐でつながっている。

その紐は呼吸をしているかのように脈うっているが、やがて力を失いどこかへ消えてしまう。肉体の顔に白い布が置かれるのはこの時である。

 あなたは死んだ。が、実際に死んだのはあなたの肉体であって、あなた自身、本当のあなたは銀色のモヤの中を上昇していく。やがて背後霊が迎えに来て、手を取って案内してくれる。案内されたところには、生前あなたと縁が深かった人たちが待っている。

そのうちモヤが晴れて、一面煌々たる色彩ゆたかな世界が広がる。あなたは地上生活を卒業したのである。

 それから何週間、何ヶ月、何年、何百年、何千年後のことかは分からない。ある日のこと、指導霊が真剣な顔つきであなたを呼ぶ。あなたは黙って座る。すると目前にまるでテレビを見るように、あなたのそれまでの生活の一切が映し出される。

良かったこと悪かったこと、バカげたこと真面目なこと、何もかもが映し出される。何一つ隠すことができない。その場を逃げ出そうにも逃げられない。ただじっと見つめているほかはない。

 画面が終わった。こんどはそれを分析検討しなければならない。みずから求めて地上へ行った当初の目的は達成されたのであろうか。次はどうすべきだろうか。もう一度地上へ戻るべきか、それとも一段高等な別の世界へ挑戦してみるべきだろうか。

霊界に留まって誰かの背後霊として働く方法もある。が、いずれを選ぶにしても決定権はあなたにある。指導霊のアドバイスはある。が、最終的に結論を出すのはあなた自身である。

 その結論をいま出したとしよう。あなた自身はこれこそ自分の成長にとって最適と思うコースを選び、その機の熟するのを待つ。やがてその時期が訪れた。あなたは霊界の友人知人にしばしの別れを告げる。そしてそれまでの記憶の一切が拭い去られる。

 時を同じくして地上の一対の男女に愛の炎が燃え、生命の種子が芽ばえる。そしてその種子にあなたが宿ることになる。

あなたがこの度の人生において天才となるか低能児となるか、有名人となるか平凡な生活を送るか、こうしたことはこの時点においてすでに決定づけられているのである。が、そのいずれになるかが問題なのではない。その人生を如何に生き抜くかが大事なのである。

 話が少しわきへそれたように思われるかも知れないが、決してそうではない。本章は生命の根源についての話である。その根源についていくらかでも知り、その活用方法を知ることは当然必要である。

 もっとも、私の話をどう受け取るかは人によって異なるであろう。霊魂の世界が実在するという点についても、あっさり認める人もあれば、厳然たる証拠を出さなくては信じられないという人もいるであろう。私はそういう人を決して非難はしない。

むしろ私は、納得のいくことだけを信じなさい、証明されないものは信じなさるなと言いたいのである。大見得を切った言葉のように響くかも知れないが、これまで述べてきたことに関して、私は十分自信をもっているつもりである。

 では心霊治療の真実性は何が証明するのか。それはほかでもない、心霊治療によって病気が確実に治っているという事実そのものである。

私はかつて一度も宣伝というものをしたことがない。なのに、次から次へと患者が来る。これは治った人が宣伝してくれるからである。理屈で心霊治療の説明をするよりも〝治った〟という厳然たる事実が人を動かしているのである。

 精神統一による心の姿勢の改造についても、理屈をこねて疑ってかかるまえに、一度自分でやって見ることである。証拠となる臨床記録なら山ほどある。が、疑ってかかる人には治療例を並べてみてもダメに決まっている。とにかくやってみることである。やってみて、もし何の効果も感じなければ信じなければよいのである。

 が、何の効果もないことを私が人にすすめるだろうか。私自身は心身ともにすこぶる健康である。健康法を人にすすめねばならない義務も必要性もない。健康法を必要としているのはあなた自身ではないのか。

 死後の存続というのは確かに破天荒とも言うべき重大事であり、今ただちに納得できなくてもやむを得まい。初めて聞いてすぐに納得のいく性質のものでないからである。

が、今私はその事実を前提として話を進めているのであるから、とにかくここでは、それを事実として認めていただこう。あなたは永遠に生き続けるのである。

ということは、あなたは死なないということである。たとえ肉体は死んでも、あなたの個性はそのまま別の世界に生き続けるということである。この事実の重大さにお気づきであろうか。その死後の世界にこそ生命の源が実在するのである。

 私のいう心霊治療とは、その根源の世界との連繋作業によって治療するやり方なのである。死後もなお医学を勉強している人々が、私の身体を通じて生命力をこの世に送ってくれるのである。その意味で私も一種の霊媒である。

 霊媒にもいろいろある。私の場合は生命力あるいは治療エネルギーを中継する役であるが、知識や情報やメッセージなどを中継する役の人もいる。

ふつう霊媒というと暗い部屋で手足を椅子に縛られて、そのまわりで物体が飛んだり跳ねたり気味の悪い物音がしたりする人のことを想像しがちであるが、これも霊媒には違いないが、先に述べた霊媒とは根本的に性質が異なる。

今その詳しい説明をする余裕はないが、ひと言だけつけ加えると、霊媒となる人のタイプというものは別にきまっていないということである。

大柄であるとか小柄であるとか、金持ちであるとか貧乏であるとか、教養があるとか無学文盲であるとか、そういった違いは別に関係ないということである。

 では何によって霊媒を評価したらよいのか。よい霊媒と悪い霊媒はどこで見わけたらよいかということになると、私は躊躇することなく、その人の奉仕的精神の程度によると言いたい。つまり私利私欲に走る人、生意気な人は霊能も大したことはなく、事が事だけに危険性がある。そんな霊媒にすぐれた背後霊がつくはずがないのである。

 そこで私が(妻と共に)初めて霊能者を訪ねた時の体験談をしよう。霊媒の名はエステル・ロバーツといい、女性の霊媒であった。通された部屋は小さな部屋で、カーテンもなく普通の明るさであった。

妻も私も女史とは一面識もない。女史はひじ掛け椅子に腰かけ、時おり耳をすまして霊の声を聞くようなしぐさをしながら、ごく普通の態度で話す。

 その時女史が口にした話題はかつて誰にも話したことのない、妻さえ知らない戦時中の出来事で、私自身も永年忘れていたことであった。その出来事というのはこうであった。

 戦場での話であるが、ある作戦を開始するに当たって、私が行くべきか、誰かほかの者が行くべきかで意見が分かれた。そして最終段階で一人の将校が行くことにきまった。

ところが、その将校は敵弾に当たって帰らぬ人となったのである。私はむろん無事だった。が、私が行くべきだったという気持ち、そして私が行っておれば恐らく私が死んだはずであろうという考えが私の頭から消えなかった。その将校は親友であり、入隊以来ずっと起居を共にしてきた男であった。

 女史はその将校の容貌、姿恰好、軍服などを細かく説明し、敵弾にやられた時の状況まで描写した。そしてさらに将校からの伝言をこう伝えた。

「あの時のことを君が悔やむことはない。僕は死ぬべくして死んだのであって、君はあの時は死ぬべき人間ではなかったのだ。君には何一つ責められるべきところはない」と。

 私にとって、この伝言は他のいかなる心霊現象にもまして死後の存続という事実の強力な証明となった。

 その後さらにいくつかの体験をして、今では私にとって死後の存続は信ずる信じないの問題ではなく、あたりまえの事実となってしまった。

 死をすべての終わりと思いながら空しい人生を送るか。それとも私のように死後の世界の存在を当たり前の事実として、その知識の上に力強い人生観をうち立てるか。その差はあまりに大きすぎるとは思われないだろうか。

 まったく無知のままでいるのも気の毒であるが、こうして私の体験を読むことによって、こんなにすばらしい真理があることを知ったあなたが、それを単なる一片の知識としてしまっておくのもまた実にもったいない話である。

あなたもみずから体験してみてはどうであろうか。そう、生命の源に自分でプラグを差し込んでみることだ。

 

           
   第五章 成功へのカギ
 本章をお読みになるまえに、これまで四章にわたって私が紹介した健康法を一度確かめてみられるようお願いする。

欲を言えば本書を一たん最後まで通読してから、もう一度第一章から第四章までを読み返されると一ばん効果があるのであるが、それも大変であろうから、せめてこれまで私がお勧めした健康法のうち、一つでも実際に体験してみていただきたい。成るほどと思われること絶対にうけあいである。

 健康を損ねておられる方はどこか違ってきたことを感じられるであろうし、特に病気らしい病気をしておられない方でも、今までにない元気が出てくることに気づかれるはずである。元気が出ると何かやりたい気持ちが湧いてくる。

そこが大切なのである。そのやる気こそが実はこれから私が解き明かそうとしている成功へのカギの原動力なのである。

 さて、過ぎてしまったことでいつまでもクヨクヨしないこと、これはすでに述べた。済んだことは済んだこと、きっぱりと割り切らなくてはいけない。悔恨、無念、腹の虫がおさまらないといった精神状態は何のたしにもならない。

それどころか、実際には恐ろしいほど破壊的な影響を及ぼしているのである。過去を振り返るのは、そこから何かを学びとる時だけでよい。あなたは次に列記するようなグチをこぼしたことはないだろうか。胸に手を当ててよく反省みてみていただきたい。

 「何をやってもうまくいかない。これ以上やって何になる」
 「オレには失敗と不運がつきまとっているようだ」
 「オレは要するに運がないんだ。とにかくまずいことが起きるようになっているんだ」

 「またヤラれた。もう二度と人を信用しないぞ」
 「オレは成功しないように出来てるんだ。失敗するように出来てる人間なんだ」
 「どうも人とうまくやっていけない。自意識過剰なんだ」

 「自分は人とうちとけるということができない。これはどうしようもない生まれつきの性格なんだ」
 「あのことさえなかったら絶対に成功していたんだが・・・・・・」


 こうしたグチや後悔は仕事で失敗した者がよく口にするのであるが、あなたはいかがであろうか。正直に反省してみていただきたい。そして、確かにこれはよく口にしていると思われるものに印を付けてみていただきたい。

実はそれがあなたの成功しない原因を象徴的に示しているのである。つまりそんな弱気なグチをこぼすようでは、成功は決して訪れてこないとみていただきたい。

 そのグチをよく検討してみるがよい。そんなグチを言うべき根拠が果たして実際にあるだろうか。どこにもないはずである。結局、あなたは事実を口にしているのではなくて、あなた自身の心の姿勢がそういうグチとなって反映しているのである。

 心の姿勢ひとつで病気にもなるし、重病から回復することもあることはすでに述べた。が、心の姿勢の及ぼす影響はそれだけに止まらない。心掛け一つで環境も変え、対人関係で相手を操ることも出来る。

 それには、病気治療の時と同じように二つのエネルギー源を利用する。一つはあなた自身の内部にひそむエネルギーにカツを入れる方法であり、いま一つはあなたのまわりに充満する生命の根源にプラグを差し込む方法である。

この二つの方法を一つのたとえ話によって説明してみよう。


 ここに二人の男がいるとしよう。年齢は三十半ば、二人の子持ちである。二人とも新しい仕事を始めたが思うようにいかず、銀行からの借金が増え続けている。やがて銀行から通知が来た。ローンがオーバーぎみなので、事情を聞きたいから出頭願いたいという。来るものが来たわけである。二人はたまたま同じ職業に従事し、似たような条件下で四苦八苦しているところである。ところが銀行へ出頭した時の態度がまるで違うのである。

 最初に出頭したA氏は神経質である。仕事の腕は悪くないのだが自信というものを持ち合わせない。相談室に通された彼は終始うつむきソワソワして、まともに担当者の顔が見られない有様である。

「すみません
」を連発するばかりで、今後の見通しもアイデアも示さない。ついに銀行側から資金援助の打ち切りを宣告されて、スゴスゴと引き下がった。

 そのあとに出頭したB氏はなかなかのやりてである。今は確かに苦しいが、六ヶ月以内に何とか返済のメドをつける自信を持っている。手持ちの資金のすべてを項目別に明示し、現在の手持ちの仕事を列記して差し出し、担当者に一つ一つ説明していく。

そして仕事をもっと増やし、規模を拡大し、得意先を広げるためのプランを話して聞かせる。さらに銀行側に助言依頼人を世話するようにたのむなど、積極的な姿勢を見せる。

こうなると銀行側も資金援助を打ち切るはずはない。それどころか、返済期日の延長というオマケまでつけてくれた。

 おそらくA氏は事業の失敗を銀行からの援助打ち切りのせいにするであろう。銀行が援助を打ち切らなかったら大丈夫なはずだ。運が悪いとこんなことになってしまう。何をやってもダメだ・・・・・・といった調子である。

 その点、B氏は成功の秘訣を心得ている。グチもこぼさないし弁解もしない。事実をありのまま見つめ、必要な手をドシドシうっていく。その積極的な姿勢が、銀行側を動かしたわけである。こういう人は成功への軌道に乗った人である。どうしても成功せずにはおかない人である。

 成功にも軌道がありパターンがある。そのパターンにはまらない人は決して成功しない。そしてそのパターンの第一条件がこのB氏のような積極的実行力なのである。

物事がうまくいかない時、その対応策をアレコレ考えるのも結構であるが、考えたらすぐさま実行に移す行動的姿勢の方がもっと大切である。


 実際問題として完全な失敗というものはそうやたらにあるものではない。大ていが一時的な行き詰まりであり、軽いつまずきにすぎない場合が多い。従って積極的に打開策を講ずれば、きっと道は開かれるはずである。

弱気が一ばんいけない。転んだらすぐ起き上がり、ホコリを払って再び歩み出すのである。その実例として、現在ある生命保険会社の社長にまでなっている一セールスマンの若き日の苦労話を紹介しよう。


 彼は生命保険会社の外交員としてスタートした。誰しも自分の仕事を一ばん難しいと思うものであるが、セールスマンという職業ほど難しい仕事はない。

一度やってみられるとよく分かる。体力と神経の両方をすりへらしながらどこというあてもなく歩きまわり、あげくのはてに一本の契約もとれないということが多い。これほど根気と勇気のいる仕事はない。彼も一日中歩きまわった。

脈のありそうな家に何度も足を運び、これはと思った所には真夜中に訪ねたこともある。

 が、数ヶ月を経たころには彼はすっかり体力と神経を消耗していた。そしてホテルに泊まった。ある日、幻滅と悲哀に耐え切れなくなって、もうこれきりセールスをやめようと決心した。その時ふと考えた。仲間にはすごい奴がいる。

面白いほど契約を取り、高級車を乗り回し、立派な邸宅をかまえ、結構このうえない生活を送っている。自分のセールスの仕方にどこか間違いがあるに違いない。

そう思った彼は机に向かってカバンから書類をとり出し、数は少ないがこれまで成功した時の状況をノートにまとめてみた。少ないけど成功したという事実に変わりはないではないか。よし、これを分析して自分自身の成功のパターンを引き出し、それを他の見込み客に当てていけばよいのだ。彼はそう考えた。

 分析に手間はかからなかった。結局彼が引き出したパターンは、客がオーケーした時は最初に訪ねた時か二回目ということであった。つまり二回目以後は何度訪ねてもムダだということである。彼は努力家であり根気強い。

それが何度でも訪ねてみるしぶとさの原動力であったわけであるが、セールスに関するかぎり、二度訪ねてダメな客はそのあと何度訪ねてもムダだということがわかった。

幻滅と挫折感が強いのは同じ人を今度こそはとしつこく訪ねすぎるところからきていることもわかった。多い時は六回も足を運び、しかも断られている。

 こう分析して、彼は一抹の光明を見る思いがした。やる気が出てきた。「これからは二度で勝負しよう。二度訪ねてダメだったら、リストから抹消していこう」彼はそう決心して床についた。

 彼の考えは見事に当たった。一軒を二度以上訪ねないということは、新しく訪ねる家が増えることを意味する。また二度しか訪ねまいという決心は二度までに何とかオーケーさせようという意気込みを生むことになる。彼はその意気込みでドンドンまわった。

やがて成績がうなぎ上りに上昇していった。そしていつの間にかトップにおどり出た。今その彼は、世界屈指の生命保険会社の社長となっている。


 この実話には生きた教訓がある。仕事がうまくいかない時は、なぜうまくいかないかを分析検討してみることが第一だということである。どこかに間違いがあるからこそうまくいかないのであるから、それをいち早く発見して是正していくことである。

自己弁護してはいけない。グチをこぼすのはなおいけない。実行あるのみである。

 失敗者によくあることであるが、自分のやり方のどこが悪いかを知りながらそれに対処するための手段を講じない人がいる。これでは何にもならない。分析してみて、成るほど自分のやり方には無駄が多いことを知る。

正直に欠点を認めたまではよいが、それに続く行動がない。おまけに「どうしたらいいかわからない」などとグチる。わからないのではない。積極的行動に出る姿勢がないのである。

 とにかく思いついたことを積極的に行動に移す。はたしてそれが効を奏するかどうかにこだわってはいけない。今すぐ立ち上がって何かを始めることである。

 〝行動〟こそ失敗への最良の矯正手段である。自分を取り囲む情勢がいかに暗雲低迷していても、姿勢だけは常に積極性を失ってはいけない。弱気になってはいけない。たとえば金を借りた相手が気にかかって仕方がない時は、逆に思い切ってその人に会いに行くがよい。

会って、堂々たる態度で将来の楽観的見通しを述べるがよい。健康と幸福と成功、この三つをあなたの態度から感じ取らせるのである。健康へのカギといっしょで、たとえ見せかけであっても明るく振る舞うことが、やがて幸運を呼ぶことになる。

 運はあるとかないとかいう性質のものではない。呼び寄せるものなのである。このことを忘れてはいけない。言いかえれば、幸運はあなた自身が生み出すものなのである。

 「あいつは運のいい奴だ。運よく成功する条件が揃っていたんだ」

 こんなことを言う人がいるが、これも失敗者のグチである。自分はたまたま成功の条件が整っていなかったから失敗したのだと弁解したいのであろうが、他人の成功も自分の失敗もことごとく運のせいにするようでは、そこには努力も進歩の余地もなく、したがって成功する気づかいは毛頭ないことになる。

 運が良いかに見えたその男は、おそらく人知れず仕事に必死になっていたはずである。仮に保険のセールスマンだとすれば、寝ても覚めても保険のことを考えていたであろう。

食事をしている時もコーヒーで一服している時も、あるいは集会で同僚と談笑している時も、電車に乗っている時さえも、保険のことを考え保険の話をしていたかも知れない。そのひたむきな努力が幸運を呼ぶ大口のお得意さんに行き当たる。

それがキッカケで次から次へと面白いほど契約が取れる。かくして彼は成功者となった。これを側から見て運のいい奴だというのは、努力することを知らない人間の情けない言い訳というべきである。

 失敗したくないのなら、成功者となりたいのなら、何でもいいから今すぐ実行に取りかかることだ。欲望は成功を呼びよせ、不安は失敗を招く。このことをしっかりと心に銘記しなくてはいけない。

 イヤ、一切の消極性を排除するというモットーからすれば「不安は失敗を招く」という言い方も排除すべきかもしれない。欲望は成功を呼びよせる。難しい理屈はいらない。

文字の通り、言葉の通りなのである。欲しいと思えばそれが手に入るというのである。むろん一生懸命でなければいけない。寝ても覚めてもそのことが脳裏から離れないようでないといけない。

 と同時に、欲望の動機にも注意が必要である。利己的な欲や他人対する悪意に発したことは絶対に避けなければならない。道徳的見地からみて、何ら恥じることのないものであれば、一心に念じて行動すれば必ず成功が得られるはずである。

 私は今あえて「念じて行動すれば」という言い方をした。念じただけではダメだというのである。行動に移らなくてはいけないというのである。夢も願いもただ心に抱いただけでは実を結ばない。それ相当の行動が伴って初めて実現されるのである。


 では、これまで述べたことをまとめてみよう。失敗した時自分はどんな言い訳や弁解をしているかをよく反省して、以後、それを絶対に口にしないことを自分に誓うこと。

過去のいきさつは一切忘れて教訓だけを胸にしまっておくこと。仕事がうまくいかない時はその原因を分析して、自分のやり方のどこが間違っているかを見届けること。次に自分の目標を定めてそれを強く念じ、かつ行動すること。

 以上がこれまで私が述べてきたことの要旨である。ではこれからどうしたらよいのか。

行動、行動というが、どんなことをしたらよいのか。それをこれから述べようというのである。

 ひと言で言えば「人を動かし事をあやつることを始める」のである。もうこれからは手をこまぬいて事態の進展にまかせるようではいけない。自分が事を起こし、人を動かすことを考えなくてはいけない。それが出来るのである。

やればできるのである。が、それにはそれなりのコツがある。それをこれから紹介しよう。

 先に私は「欲望は成功を呼びよせる」と述べたが、本当は「行動に結びついたチャンスを通じて」という言葉を挿入すべきところである。

ただあまり文句が長くなると口調が悪くなるので、あのよう述べたわけである。で、その行動に結びついたチャンスを通じてというのを、これから説明しよう。

 まず目標をしっかり定めていただこう。といっても、あまり飛躍しすぎてはいけない。

セールスマンであると仮定した場合、さっきのアメリカの生命保険会社の社長となったセールスマンの話を読んで、よしオレも社長になってやろうなどと思うこと自体は悪いことではないが、物事には順序があり階梯がある。

社長という地位は差し当たっての目標とするには飛躍しすぎている。まずあなたは現在の担当地区での成績をトップにすることを目標にしてはどうであろう。

 目標をそうきめたら、今度はその目標を心に焼きつけなくてはいけない。そのための方法としては、毎朝それを声に出して自分に言って聞かせるのが一ばんよい。

 「オレはオレの地区でトップになってみせるぞ」と。

 次にセールスの商品をよく勉強することが大切である。ただ売りまくればよいというものではない。セールスの本質は結局は自分自身を売ることである。その自分自身が商品についてあいまいな知識しか持ち合わせないようでは、人の心を動かすことはできない。

はっきりとした詳しい知識をもち、まず自分自身がその商品にホレて、ホントにいい品だと思うようでなくてはいけない。

 さて以上の二点について万全を期したあなたは、昨日とはまったく違ったセールスマンに生まれ変わっている。まず第一に目標がはっきりしている。地区で最高成績を収めることである。次に商品知識が完璧である。あなたは自分の商品にホレている。

この二つの条件を揃えたあなたは、セールスの態度にもそれを反映させなくてはいけない。ピリッとひきしまり、それでいて楽観的、積極的でなくてはいけない。

 さあ、いよいよあなたは客を訪問する段階となった。ドアをノックする。が、ちょっと待っていただこう。客に会う前にもう一つ注意しておきたいことがある。それは、商品を売ろうとしてはいけないということである。

 「じゃあ客に会って何をするんだ。売るのが商売ではないか」そうおっしゃるかもしれない。ごもっともである。

 が、実にそこにセールスのコツがあるのである。たしかに買っていただく、あるいは契約していただくのが最終の目的ではあるが、最初から「買わせよう、契約させよう、判をつかせよう」とする姿勢を見せるのはヘタなやり方である。

 では何から始めたらよいか。まず相手がどういう人であるかを知り、同時に自分という人間を知ってもらうことである。そのために何でもいいから話を始める。

そしてその話を通じて相手が何に一ばん興味をもっているかを知り、それに話しを合わせていくのである。すると人間は妙なもので、自分に素直に興味を示してくれると、代わって自分の方から相手に興味を示したくなるものである。

 かくして、商品を離れて人間的親しみとなつかしさを感じるようになる。あなたは人を動かしたのである。

 いきなり商人的態度に出られると、誰しも警戒的態度をとるものである。するとそこに売手と買手の対立関係が生じる。それではいけない。まず人間的な信頼関係を抱かせる──これがセールスの第一のポイントである。

 いまセールスマンの仕事を例に取り上げたのはたとえ話として一ばん説明しやすいからで、同じことはどんな仕事についても言える。つまり相手に対して素直に興味を示すことが、相手を動かす一ばんのコツなのである。

自分に関心を示されて嬉しく思わない人はいない。その嬉しい気持ちがあなたに対する態度に反映して、あなたの喜びそうなことをしてあげたいという気持ちを起こさせる。

 態度や物腰というものは恐ろしいほど伝染性の強いもので、たとえば和やかな笑い声に包まれた部屋の中で、一人だけしかめ面をするのはまず困難である。葬式の最中に楽しい顔をするのも容易なわざではない。これと同じで、人間は相手の態度しだいでどうにでも気持ちが変わるものである。あなたが気持ちの良い態度で相手に関心を示せば、かならず相手も気持ちよくあなたと、あなたの仕事に関心をもつはずである。

 日頃からよく顔を合わせる人に、どんな些細なことでもいいから親切を施すことである。きっと相手からうれしいことが返ってくるはずである。直ぐに返ってくるとは限らない。何をするにもそれなりのチャンスが必要だからである。が、

そうしたお返しを予期するのではなく、そうすることが健康的であり自然の理法にかなっているからという心構えで親切を施すのである。おそかれ早かれ、あなたの蒔いた幸せのタネが至るところで芽を出し、実を結び、成功への大きな基盤を築いてくれる。

 人それぞれに異なった生活環境があるから、具体的にどうすればよいかは人によって異なる問題であり、一概には言えない。が、いかなる環境であれ、根本的に共通した原則がある。

 まず第一に大切なことは、今まで仕事がうまく行かなかったのは日頃のあなたの心の持ち方のどこかに間違いがあったからであることを反省して、この日を境として、心の姿勢を大改造することである。物の考え方、やり方を根本的に改めることである。

 次に大切なことは生活および仕事にはっきりとした目標をもつことである。とりとめのない生活、漫然とした仕事は人間をだらけさせる。かといって、大それた目標をもつのも感心しない。階段を一歩一歩登るように、いまより一段上に目標を定める。

 次にその目標を、毎朝、自分に言って聞かせ、意識をそのことに集中する。成就するまでは、どんなことがあっても変えてはならない。かくして目標を心に念じながら一日を開始するのであるが、それが生活上のことであれ仕事上のことであれ、一つ一つの言動が直接その目標に結びついていなければならないということはない。

 目標を達成する手段はいろいろあろうが、絶対に欠かせない条件は人との接触をなるべく多く持つということである。

接触するということは必ずしも面と向かって会うことを意味しない。電話をかけるのも接触であるし、手紙を書き送るのも接触である。が、直接会うに越したことはない。

 もっとも、できるだけ多くの人と接触しろといっても、全く無関係の人と接触する必要はない。差し当たってあなたと生活上ないし仕事上でつながりのある人と接触すればよい。接触して明るく気持ちよい態度で対話をもち、些細なことでもよいから相手がよろこぶようなことをしてあげる。あるいは話してあげる。

 その時、目標を意識してはいけない。商売根性から出た見せかけの善意であってはいけない。目標は毎朝出がけに言い聞かせてあるから、潜在意識に深く刻み込まれているはずである。それが無意識のうちに相手を動かし、成功への地ならしをしてくれている。

 だからあなたは、人に会った時はひたすら相手に善意を施すことだけを考えればよい。

大きい小さいは問題ではない。いわゆる〝小さな親切〟でもいいし、大きくて自分の手に負えそうにない問題でもいい、真剣に相手の身になって努力してあげることである。

 かくして一日が終わる。何だか一日中本来の目標とは関係のないことばかりしたような気がするかも知れない。が、それでいい。あせってはいけない。目先の欲に走ってはいけない。毎日そうすることに大きな成功へのタネ蒔きをしているのである。やがて機が熟すれば芽を出し、思いもよらない幸運を呼び寄せてくれるに相違ない。願ってもないチャンスが次々と訪れ、仕事が、そして生活全体が面白いほど順調に運ぶようになる。

 そして、やがて最初の目標が達成される。そうしたら目標をもう一段高いところに掲げ、前と同じようにそれを毎朝自分に言って聞かせて、潜在意識に強く印象づけてしまう。あとは今述べたとおりのパターンに従えばよい。

即ち、なるべく大勢の人に接触して相手に善意の施しをする。するとその善意が幸運となって、あなたのもとに舞い戻ってくる。仕事がうまくいく。目標が達成される。また一段高い目標に挑戦する。

 こうしているうちに最後の大目標まで到達する。
 成功したあなたを見て人は言うかもしれない。

 「あいつは運のいい奴だ。たまたま成功する条件が揃っていたんだ」 
と、かつてあなたが失敗を重ねた時に口にした言葉だ。

 が、あなたは決してたまたま運がよかったのではない。努力が幸運を呼んだのだ。それはあなたと私が一ばんよく知っている。
 


          
 第六章 財運を招くコツ

 人間誰しも金持ちになりたいと思う。もう少しお金があれば、生活がラクになるのだが・・・・・・そう思っている人が大部分であろう。本章はそういう人のために書いてみる。

従ってもしあなたが現在の生活に満足し、別に金持ちになりたいとも思わないなら、本章は飛ばしていただこう。あなたには無意味だからである。

 皮肉でなしに、あなたは本当にしあわせな方である。つつましく収入の範囲内の生活に満足し、それ以上の物的要求もなく、ぜいたくも求めない。これは一種の悟りであり、そこまで悟った人には本章はおろか本書を読まれること自体が無意味かもしれない。
 
 が、私が日ごろつき合っている人の中には残念ながら、その様な悟りを開いた人はまず見当たらない。大抵の人が少しでも多くのお金がほしいと思っている。

むろんその動機は人によってさまざまである。方々を駆けまわる忙しい仕事をしている人は車を欲しがり、わずかな年金で暮らしている孤独な老人はテレビを欲しがる。こうした人がもう少し金があればと思うのは当然であり、欲が深いとは決して言えない。

 一方ぜいたくな欲望をもった人もいる。三台も車をもっている人が今度はヨットがほしいとか、奥さんがダイヤモンドのネックレスをほしがったりすることもある。ぜいたくではあるが、もっと金がほしいという点では同じである。


 さて本章は「財運を招くコツ」と題してあるが、これを「金をつくるコツ」としなかったことには理由がある、金はつくろうとしてつくれるものではなく、来るべき人のところへ自然に集まってくるものだからである。

ニセ札づくりはなるほど金を作ってはいるが、これは意外にコストが高くついて割の合わない商売らしい。おまけに見つかったら更に高くつく。造幣局も金をつくってはいるが、自分のふところに入るのは雀の涙ほどである。月給袋を手にして情けなく思う御仁もあるに違いない。

 冗談はさておいて、ここで金というものが一体いかなるものであるかを考えてみたい。例によってたとえ話で行こう。

 あなたが今、小さな島で暮らしているとしよう。島には山から絶え間なく清流が湧き出て、海へ注いでいる。それが島での唯一の水源だとしよう。

 さて生きていくためには作物をつくらなければならない。そのためには水がいる。そこであなたはその川から水をひくことになる。コツコツと堰をつくりミゾを掘り、ようやく田畑を潤すのに成功した。近所の人たちも同じようにして自分の田畑に水をひいた。

ところが中には怠け者がいて、堰をつくろうとせず。ミゾを掘ろうとしない。当然の結果として田畑は枯れ収獲はゼロとなる。

 一方には欲ばりもいる。必要以上に大きな堰をこしらえ、水路になみなみと水をたたえ、その余った水は貯水池をこしらえて貯える。そのうち近所の怠け者を雇って田畑を耕させる。やがて隣接する田畑を買い占め、その地主を労働者として雇う。

 こうして数少ない金持ちがやがてその島の土地の大半を所有するようになる。こうした人たちがいわゆる有産者階級を構成し、そしてあなたのように自分の土地を守り、つつましく真面目に生活している人が中産階級を構成することになる。

 金というのはこの話でいえば水のようなものである。金は天下のまわりものといわれるように、あなたのまわりを水のように流れているのがお金である。

水が無くなったからといって雨を降らせるわけにもいかないように、金が足らないからといって自分でこしらえるわけにはいかない。

 が、水を田畑に引くように金の流れを幾らかでもあなたの方へひくことはできる。

その引く分量が多くて有り余るほどであれば金持ちということになるし、少なすぎる時は貧乏となる。ではどうすれば欲しいだけの金を自分の方へ引き寄せることができるかということになるが、その前にあなたは一体なぜ金がほしいかをよく反省してみる必要があるように思う。まずそれから始めよう。

 大げさに言うと、今の世の中で金を使わずにいるということは至難の業である。朝起きて夜寝るまで、何を見てもどこを見ても、そこには必ず宣伝がある。

手を変え品を変えて財布の紐をゆるめさせようとしている。朝起きて新聞を開く、どのページにも宣伝がある。全面を使ったすごい広告もある。一歩外へ出ると目に耳に、否応なしに宣伝が入ってくる。雑誌を買って開いて見ると、至るところに広告が出ている。

帰宅してテレビのスイッチを入れると、これまたコマーシャルの連続である。

 よく見ると、なるほど広告宣伝されているものは家にあるものより上等だし、きれいだし、便利そうである。二十四回払いだの三十回払いだのと長期の分割払いになっている。

頭金も実に安い。中には頭金不要というのもある。クレジットをご利用くださいというのもある。要するに品物は今すぐお手もとに、お支払いはあとでという条件を最高の売り物にして宣伝するから、つい買ってみようかという気にもなる。

 昔と違って、今では広告宣伝も一つの科学的技術となりつつある。心理学にもとづいて消費者心理を細かく分析し、それを巧みに利用して買いたい気持ちを起こさせる。

 第一に、いま家にあるものが古くさく思えるようにする。
 第二に、あんなものもあって悪くないなと思わせる。
 そして第三に、それを買うことによって充実した生活、本当の幸福、あるいは楽しい性生活が保証されるような気持ちにもっていく。

 こうした巧みな宣伝の洪水のなかにあって、かりに気持ちのどこかで「無理に買わなくてもいいじゃないか
」と思っていても、ほんとはそれを買う金がないのだという現実に気づくと、やはり面白くない。

 現代はまさに物質崇拝の世の中である。人生の成功不成功が物によって計られる時代である。たとえば高級車をもつことが成功のシンボルとされる。豪華な家、豪華な衣服、なんでも豪華なのが成功を象徴する。バカンスを楽しむ場所にも格があるらしい。

一年に何回行くかも問題になるらしい。子供の通う学校も格付けされている。室内装飾品が豪華なこと、庭園が大きいこと、プールがあること、ヨットをもっていること、地中海に別荘をもつこと等々、数え上げたらキリがない。

 これに加えて銀行預金の額、不動産の大小がまた人間を格付けする。金に糸目をつけない剛毅な男がいい男とされる。こういう人を金持ちといい、自分でもそう自認する。

 さて、こうした世の中にあってあなたが金持ちになりたい、あるいはもう少し金がほしいと望むことを、私は決して悪いことだとは思わない。そう思わせるような世の中になってしまったからである。

 が、願わくばあなたにだけはそうした欲を適度におさえる自制心が備わっていることを期待したいものである。なぜなら、足れるを知ることこそ幸福への唯一の道だからである。自制心を失ったが最後、人間の欲望は際限を知らない。

 車をもつ。結構なことである。が、一家に一台で十分な筈なのに奥さんが自分の車を欲しがる。仕方なしに買ってやる。さあ、こうなったらもはや価値や便利さの問題でなくなり、見得の問題となる。

そのうちロールスロイスが欲しくなる。次は外国製のスポーツカーにしてみたくなる。

 近所の誰それがマジョルカ島へ遊びに行ってきたと聞くと、ならばウチはジャマイカにでも行かないと気持ちがおさまらない。隣の家が21インチの白黒テレビを買った。さっそく21インチのカラーテレビを買いに行く。

 こうして買いたいだけ買い、使いたいだけ金を使ってぜいたく三昧をした挙句のはてに、長者番付のトップになってみたいという他愛もない欲望のとりこになる。百万の単位から千万の単位を目指し、それが達成されると今度は億の単位をめざす。

 私はこうした人たちを気の毒な人種だと思う。一種の中毒患者だからである。必要があって金を貯めているのではない。ただ金にとり憑かれているのである。さっきの水のたとえで言えば、他人の迷惑も考えず、むやみやたらに自分の田畑に水をひき貯水池に貯えているようなものである。

 金は天下のまわりもの。必要な人のところに必要なだけ出まわっておればよいのである。その流れに勝手に堰を築き、必要以上に自分のふところに溜め込む。その他愛なさに気がつかないのが私には気の毒に思えるのである。

実際問題として貧乏ほど気楽なものはない。いわゆる足れるを知る心境になり、無いものは無いで済ませる生活術を心得さえすればそれで済む。他人に迷惑をかけることもない。

これに反しお金というものは、それをもつことによって、さまざまな誘惑と戦わねばならなくなる。

 ここで思い出していただきたいのであるが、あなたは魂の進化の修行場としてこの地上生活を選んで生まれて来たのである。その見地からすればいったん金を手にした以上、それをいかなる目的に使用するかがあなたの価値を決定づけてしまうわけである。

 富はいわゆる諸刃の剣である。使い方を誤ると、自分自身を傷つけかねない危険性がある。ところが大ていの金持ちは財産の確保と隠匿に必死になる。たとえば金融業を始めたり、相続税を免れんがための脱税法の勉強を始めたりする。

何のためにそうまでするのかといえば、自分の死後も家族がぜいたくな暮らしが出来るようにとの親心かららしい。まったく余計な親心というものである。

 世の親はとかく息子に自分の仕事をつがせたがるものである。が、何度も言うように、人間は一人一人進化の程度が違う。子供の方が親よりよほど進化している場合もある。

そんな場合、自分が続けてきた金儲けと、それにまつわるあくどい商根を息子に受け継がせようとしても、本人はおそらく有難がらないだろうし、反発するかもしれない。

 その逆の場合、つまり息子が人類に進化したばかりの幼稚な霊魂である場合は、気狂いに刃物のたとえに似て、もてあました金で何をしでかすかわからない。金は多ければ多いだけ、持つ者の責任も大きくなるはずのものである。が、残念ながらその辺を心得た億万長者を私は知らない。

 金は着実に人の心をむしばむ。そのおそろしさを悟るまでは巨額の金は持つべきではない。

 さて、なぜ金がほしいかの命題に戻ろう。幸いにしてあなたは金の価値の限界を心得ているとしよう。痛いほど金の恐ろしさを知っている。だから、あなたの場合は真実もう少しだけ余分の金が欲しいというに過ぎない。結構である。が、

たとえ金の恐ろしさを知るあなたでも、少額とはいえ一たん金儲けに着手することは導火線に点火するようなものであり、その爆発によって他人に、そして自分自身に、思わぬ被害を与える危険性が多分にある。

そこで、点火に先立って何のために金が要るのかという点を、今一度点検してみる必要がある。つまり金儲けの動機である。

 そのために、次に述べる私の提案を忠実に実行していただきたい。まず紙と鉛筆を用意していただこう。次にこの節の切れ目のところで一たん本書を閉じていただこう。

閉じてから静かに瞑目して、一体自分はいまなぜ金が欲しいのか、その動機を思いつくままに記していただきたい。欲しいものを書くのではない。なぜそれがほしいかを正直に書きだすのである。では本を閉じていただこう。


 いかがであろう。うまく書けたであろうか。こればかりはあなた自身の問題であるから、私はただ信じるほかはない。よろしい、正直に書かれたものと信じよう。では続いて、それを次の尺度で合否の判定を下していただきたい。

 すなわち、その動機に道義的にやましいところはないか、そして誰かあなた以外の人のしあわせに少しでも役立つものであるかどうか。

 この判定に合格すれば、これから私が述べる金儲けのコツも存分に威力を発揮するが、やましいところがあったり、他人に迷惑を及ぼしかねない危険性をはらんでいる場合は決してうまくいかない。が、ともかくあなたはこの動機テストにパスしたとして話を進めよう。

 さあ、これからいよいよ金儲けに精を出すわけであるが、ものには必ず準備というものがいる。毎日のように練習しているスポーツ選手でも必ず準備運動を怠らない。金儲けも同じである。その第一は罪悪感を捨てること、つまりお金、ゼニ、富といったものについて抱いているきたないという感覚を拭い去ることである。

 古来いずこの国でも貧乏人は清いもの、金持ちはけがらわしいものとする傾向がある。

子供の頃に読んだ童話や物語に出てくる金持ちは大てい悪い人、いじわるな人で、まじめで勤勉な人はみな貧乏人と相場が決まっている。善良な大地主の話は出てこないのである。大てい貧乏な小作人に対して横暴な限りをつくす極悪人に仕立ててある。

こうしたことも手伝って、われわれはとかく金銭というものに対して一種の罪悪感というものを抱いている。そして金儲けを目的とした仕事をする人々を軽蔑する傾向がある。

 が、こうしたことは誤った先入観がそうさせるのであって、金儲けそのものは動機さえ正しければ決して悪いことはない。人間は元来病気するようにはできていない。病気になるのは心がけが悪いからだと言うことは前に述べた。

私はこれとまったく同じことが貧乏についても言えると思うのである。
 すなわち、人間はもともと貧乏するように出来ていない。貧乏するのはどこか心がけに間違ったところがあるからであって、心がけを正して努力すれば、人に迷惑をかけるほどの貧乏はしなくて済むはずである。

そのために、まず第一に今述べたように金銭にたいする誤った先入観を拭い去っていただかねばならない。その次にやっていただく準備運動は、自分は金に縁のない人間だという考えを捨てることである。

 今も言ったように貧乏というのは心の姿勢の反映である。貧すれば鈍するというように、一度貧乏すると原因をすべて環境のせいにして、何とかしようとする気力を失いがちである。そして所詮オレは金には縁のない男なんだとあきらめてしまう。

貧乏するように生まれついているのだと決めつけてしまう。

 愚か者とはこういう人のことである。金との縁を妨げているのは、その情けない無気力な心の姿勢にあることを知らない愚か者である。あなたは絶対に、このような考え方に陥ってはいけない。

金は自分から呼び寄せるものである。そのコツをこれからお教えしようというのである。


 これであなたは準備運動を終わった。〝カネをかせぐ〟ということへの余計な気がねをかなぐりすてた。自分は貧乏に生まれついているのだというあきらめの心境からも脱した。二度とこの二つの愚かな考えのとりこにならぬよう気をつけねばならない。
 
 さて、いよいよ金儲けに取りかかるのであるが、成功のコツのところでも述べたように、目標はまず手ごろなところから始めよう。一度に大金をかせごうとしてはいけない。

金儲けにも時間と努力がいる。途中であきらめるようなことになってもいけないから、比較的ムリのない額から始めるがよい。その額は自分のおかれた境遇に合わせて決めることである。決めたら、それをカードに楷書で次のように書き留める。

 「何が何でも百万円を呼び寄せてみせる」

 百万のところを五十万とでも一千万とでもするがよい。書いたらそのカードをふところにしまっておいて、朝起きた時と夜寝る前の二回、声に出して読み上げる。そうすることによって、あなたの目的が潜在意識に深く刻み込まれるのである。

 が、これと一緒に、もう一つ潜在意識に刻み込まねばならないものがある。それは百万なら百万の金が現実に手に入った時のドラマチックなシーンである。例えば銀行の係の者から「おめでとうございます。ついに百万に達しましたョ」と言われて握手を求められているシーン。あるいは自宅で山と積まれた札束を一枚一枚ていねいに数えている。

数え終わって奥さんを呼ぶ「おい、とうとう百万になったぞ」そのほかどんなシーンでもいいが、大事なことは具体的で、しかも単純であること。そして一度決めたらそのシーンを絶対に変えないことである。

 そのシーンをさっきのカードを読み上げるごとに思いうかべ、カードとシーンとが反射的に一体となるように潜在意識にたたき込むのである。

これが習慣となるように潜在意識にたたき込むのである。これは習慣となりきったら汽車の中でもバスの中でも、車を運転している時でも、あるいは机に向かっている時でも、そっと脳裏に思いうかべてはヤル気を鼓舞していくのである。 

 次にしなければならないことは、成功のカギの場合と同じように、出来るだけ多くの人と接触することである。電話や手紙も悪くはないが、なるべくならじかに接触することである。相手はかならずしも金持ちとか実力者でなくてもいい。何でもない人との接触が大きなチャンスにつながることもある。

 ただ注意しなければならないのは、誰に会うにしろ、相手を利用してやろうという魂胆をもたないことである。ではどんな心掛けで接すべきか。

それは成功のカギのところでも述べたように、どんな些細なことでもよいから、いい事をしてあげようという心掛けである。郵便切手を売っているところがわからなくて困っている人に、ていねいに教えてあげることもいい事である。

タクシーへの合図の仕方がまずくて、なかなか止められずオロオロしている老人に代って、タクシーを止めてやることも善行である。駐車場を探している人に、最寄りの駐車場の名前と場所をメモして教えてあげるのも善行である。車輪の取り替えをしている人に手を貸すのもまた善行である。

 こうした善行を積み重ねていくうちに、やがてそれが醗酵し、潜在意識に刻み込まれた目的を実現する方向へ働きはじめる。やがて初期の目的が達成される。達成したら次の目的を一段と高いところに定める。

それが達成されたらまた一段と高くする。そうやって少しずつ目標を大きく高くしていく。


 こんなことで本当に金儲けができるのかと思われる方がいるかも知れない。大丈夫、きっと金の方からあなたの方へやってくるようになる。何はともあれ、自分で試してみることである。一銭の元金がいるわけでもなし、やって損をするものでもない。

要は金の使い道にやましいところがなければ、私が述べた通りの手順を忠実に実行することである。
 
 では本章の締めくくりに、その手順をまとめて箇条書にしてみよう。

 一、金銭に対する罪悪感や蔑視思想をすてる。
 二、動機にやましいところがないことを確かめる。
 三、儲ける金額を定めてカードに書き記す。
 四、その金を現実に手にしたシーンを想像する。
 五、そのシーンと金額とを朝と晩の二回、慣れてきたら折あるごとに想起して、潜在意識に焼き付ける。
 六、人との接触をできるだけ多くする。
 七、接触する人に少しでもよいことをしてあげる。
 


       
 第七章 本当の財産とは

 財産というと誰しもまず金銭を思い浮かべるが、お金だけが財産なのだろうか。イヤ、その前に、金がはたして財産と言えるだろうか。

 
実は本当の意味では財産とは言えないのである。金というのは物の価値を計る基準の一つであり、物をやり取りする際に使用される便宜上のものに過ぎない。

 ちょっと考えれば分かることであるが、世の中には金という基準で計れない価値を持ったものが幾らでもある。健康の値段は幾らかと言われても困る。車いすの生活をしている億万長者は全財産を払ってもいいから歩けるようになりたいと思うであろう。

 幸福は金では買えない。金というのは実際そんなものなのである。

 古来、多くの人が財産とは何かという定義を試みている。私はすこし抽象的になるが〝これだけは絶対に必要だ〟と思うもの、それがその人にとっての財産であると定義したい。

 具体的に言うと、たとえばアラビアの砂漠の遊牧民にとっては、金より何より〝水〟こそが絶対的な財産であろう。彼らにとって水道の話などはまさに魔法のランプ以上の夢物語と思えるであろう。

が、われわれ都会人にとって水道は正直言って涙が出るほど有難いものではない。

 仮に、あなたがトランクにぎっしり札束を詰め込んで航海しているとしよう。盗まれては一大事と、夜もオチオチ眠れないかもしれない。

 ところが途中で嵐に遭い、船が難破して無人島に流れ着いたとする。トランクはしっかりと握って離さなかったが、食べるものが無い。買う金は腐るほどあっても買うものが無いのだからどうしようもない。

 一方、同じ島に流れ着いたもう一人は金は一銭も持たないが缶詰だけは離さなかった。空腹に耐えきれなくなったあなたは、その人を見て恐らくトランクの金ぜんぶと缶詰一箇でもいいから取引しようと思うに違いない。が、

相手は金をいくら貰っても缶詰はくれないであろう。金とはそんなものなのである。

 別のたとえでいこう。ある夜あなたの家に泥棒が入ったとする。めぼしいものが無かったので壁に掛けてあった油絵を失敬した。逸品ではあるが、まだ保険はかけていなかった。結局あなたは金も、そして命の次に大切にしていた油絵も失ったことになる。

 が、仮に油絵を医師の免状に置きかえて考えてみよう。その免状を手にするまでには数十年にわたる勉学と学費が掛かっていることは確かだが、あなたは同じように失意のドン底に落ちるだろうか。

 おそらく平気なはずである。免状は複製ができるからである。ということは、学問や医師としての腕は盗もうにも盗めないということである。言いかえると、心の財産は金にはかえられないということである。


 ここまで話を進めれば、私が本章で何を言わんとしているかがお分かりであろう。

生きていく上においてこれだけはどうしても要るもの、それがあなたの真の財産だとはいうものの、問題はその考え方である。あなたにとって絶対に必要なものとは何か。自分でよく考えてみる必要がありそうである。

 金はたしかに必要である。金がなくては何一つ買えない。が、絶対的価値をもつものかどうかを考えてみると、決してそうでないことは今述べたとおりである。

 私の知人に大金持ちが何人かいるが、普通の人に比べてはたしてしあわせな生活を送っているかというと決してそうではない。要するに、金は必要以上にもってもしょうがないということである。必要なだけの金を前章で述べたようなやり方で手にすることは結構であるが、金の魔力にとりつかれて金儲けの中毒にかからなければ幸いである。

 一見すると、金持ちの生活はどことなく落ち着いた雰囲気があり、人間的にもいかにも出来た感じを与えるものであるが、実は金という化粧で装った見せかけだけの幸福である場合が多い。

化粧をはぎ落すと、そこには意外な内面、たとえば劣等感、家庭的不和、性格異常といったものが折り重なって存在し、陰うつこのうえない毎日を送っていることが多い。

 金持ちを決して羨ましがってはいけない。金持ちは金持ちなりにその欲の代償を十分に支払わされているのである。「欲しいものは欲しいだけとるがよい。ただしそれだけのお代も頂戴しよう」これはスペインの古い話に出てくる神さまの言葉である。

 こんな次第であるから金銭の話はこれきりやめにしよう。つまり財産のリストから金という文字を抹消していただきたいのである。大切な財産はほかにいくらでもある。

それを例によって、メモ用紙に列記してみてはどうだろうか。自分にとって命の次に大事だと思うものを正直にかいてみていただきたいのである。

 ではここで本書をひとまず閉じて、いま言ったことを実行していただこう。


 さて、うまく書けたであろうか。私は信じるほかないから正直に書かれたものと信じて話を進めよう。

 では、今あなたが書いた財産目録の一つ一つに、次の判断基準を当ててみていただきたい。すなわち、それを財産とすることに良心の呵責を感じないか、ということである。

 思うに現代人は、いい事はいい事、悪い事は悪い事として真っ正直に認めないで、何かと理屈をこねて弁解する傾向が強すぎるように思う。

 盗み一つを例にとり上げて見ても、盗むことは理屈抜きに悪い事であるはずなのに、「盗みをさせるような状態にしておいた持ち主にも責任の一端がある」だの、「その子の生まれ育った環境に酌量の余地がある」だの、「遺伝的要因も考慮する必要がある」だのと、本人のみならず、まわりの者までが弁護する。弁護ができなくなると物の考えが古くさいだの、若者の考えを理解していないだの、道徳観が反動的だのと屁理屈を並べる。

 「黙らしゃい!」私だったらこう一喝したいところである。

人間には本能的に善悪を判断する能力が具わっている。盗むことが悪いことであり、無欲の愛が美しいものであることに何の理屈もないはずである。男女の別も年齢の差もない。いい事はいい事だからいいのであり、悪いことは悪いことだから悪いのである。

 が、この問題については別の章で詳しく扱うつもりであるから、ここではこれ以上のべまい。とにかくここではあなたの動機は何か、その動機にやましいところはないかという単純な判断基準を当てはめていただければよい。


 前にも言ったとおり、お金が欲しいという欲求自体は決して悪ではない。生活をもっと楽しくしたい。生きるよろこびを心ゆくまで味わいたい。これは人間として自然な欲求であり、むしろ、そうでないといけないとも言える。

その手段として車がほしい。カラーテレビが欲しい。ヨットがほしい、プールを設けたい。そのほか人によって、それぞれの欲求をもつことは悪いことではない。

 ある人は世界旅行が夢だという人もいるだろう。人気歌手となって、耳を聾せんばかりの拍手をあびてみたいと思っている若者もいるだろう。建築家になって、天にも届かんばかりの大ビルデングを建ててみたいと思っている建築科の学生もいるであろう。

医者になって、不幸な人々を救ってあげるのが念願だという医学生もいるだろう。

 ベストセラーを書いてみたいという文学青年もいるかもしれない。カーレースで優勝してみたいという元気な若者もいるだろう。スイスに別荘を建て、思いきり豪華な設備を具えてみたいという贅沢な夢を抱いている人もいるだろう。

 ところが、永年にわたって私がアンケートの形で大勢の人から聞いた「一ばん大切なもの」をまとめてみると次のような結果になったのである。

 第一、健康であること。
 第二、しあわせであること。
 第三、人に愛される人間であること。
 第四、必要以上のお金があること。
 第五、平穏無事であること。
 第六、安全であること。


 これがアンケートの結果であるが、あなたが書いたものと比べてどう思われるだろうか。

 仮に、現在の生活が右の六項目の全部を満たしているとしよう。では、そのうちのどれか一つが欠けたらどうなるだろうか。素直に考えていただきたいのである。

 たとえば、もし交通事故で半身不随になってしまったらどうだろう。ふとした過ちから後ろ指を指される人間になったらどうだろう。あるいは思いがけないことから暴力団に脅迫されるような事態にでもなったら、日常生活はどうなるだろう。

 自分は間違ってもそんなことにはならないなどと考えてはいけない。いつどんなことでこうした事態になるか、誰一人として予測できないのである。大したことは無かろうなどと多寡をくくってはいけない。人間としてのしあわせ、家庭の平和といったものが何を土台にして成り立っているかを真剣に考えてみなくてはいけない。

 そこで、アンケートの結果をもう一度よく見ていただきたい。四番目を除いて、残り五項目はいずれも、さきに例としてあげた医師の免状と同じく、人から盗まれることも人から盗むことも出来ないものばかりであることに気づかれるであろう。

 つまり目に見えない財産ばかりなのである。このうち健康についてはすでに述べた。四番目のお金のかせぎ方についても述べた。これから残る四つの財産について、どうすればそれが確保できるか、あるいは取り戻せるかという問題に進みたいと思う。

 ダグラス・ジェロルドという人の書いたものに、
 「しあわせは我家の炉辺にはぐくまれるものである。よその庭から摘んでくるものではない」
という言葉がある。むベなるかなである。
 
 仮りに、あなたは今自分のことを幸せだと思えないとしよう。あなたはそれを環境のせいにしてはいないだろうか。たとえば車がないからとか、ステレオが買えないからなどと思ってはいないだろうか。金持ちと結婚しておれば、こんな惨めな思いをしなくてすんだだろうに、などと思ってはいないだろうか。

 知人の中にはタヒチ島に別荘を持っている者がいる。バハマ諸島にもっている者もいる。自分にもそんなことができればどんなにかしあわせだろうに──そんな考えを抱いてはいないだろうか。

 このほか、その人その人によってさまざまな夢があり、それが満たされないことを不孝の原因にしているのが大半であろう。

 が、実際問題として幸福というのはそうした環境や持ち物とは殆ど関係がないのである。問題は心のもち方なのである。言いかえれば〝悟り〟である。金銭や物へのこだわりを捨てた無欲の心境になりさえすれば、どこにいても、何が無くても、幸せの気持ちをかみしめることができる。

逆に物へのこだわりが大きければ大きいほど、たとえ使い切れないほどの財産をもっていても、あるいは御殿のような屋敷に住んでいても、真のしあわせは味わえるものではない。

 「条件や環境は問題ではない。心のしあわせに王様と家来の区別はない」

 これはアレキサンダー・ポープという詩人の言葉である。しあわせのカギは自分の心にあるということである。なるほど才能によって幸不幸が左右される場合もある。

画家、彫刻家、作曲家、声楽家、こうした人たちは自分の才能を発揮することによって成功している人たちと言える。が、人類全体の数からみれば、こうした人たちの占める割合はきわめて少ないはずである。大部分の人間は特殊な才能を持ち合わせないとみてよい。

だからこそ、そういったいわゆる芸術家が重宝されるのである。

 もしもあなたが豊かな才能に恵まれ、金銭的にも不自由しないご身分であれば、それに越したことはない。心から祝福申しあげたい。

 が、この種の本を読んでおられるからには、あなたも健康がすぐれないか、事業に失敗したか、貧乏をしているか、少なくとももう少し金が欲しいと思っておられる人であろうと想像する。そうして、そのことを不幸の言い訳にしておられるに違いない。

そういうあなたに、これから私が申し上げることを忠実に実行していただきたいのである。

 まず鉛筆とメモ用紙を用意していただこう。その用紙に今あなたが持っている財産を一つ一つ書きしるしていただきたいのである。頭の中に思いうかべるだけではいけない。そういう横着をするからいけないのである。

几帳面に一つ一つ書き出してみることである。では私といっしょにやってみよう。

 まずあなたは〝自由〟というかけがいのない財産がある。人に迷惑をかけないかぎり何をしようと何を信じようと自由である。全国民が例外なくこんな有難い財産を与えられている国は、世界広しといえどもそう多くはない。

 次に雨露をしのげる〝家〟がある。寒さをしのげるだけの〝衣服〟がある。飢えをしのぐに足るだけの〝食べ物〟がある。これらもかけがいのない財産である。

このニ十世紀において、いまだに世界中いたるところで家もなく、ボロ着をきて食べ物をあさり歩いている動物同然の生活者が何百万人もいることを知るべきである。

 彼らは一生涯〝家〟と呼べるようなものをもつことなく終わる。食べることも、洗濯することも、それから排便することさえも〝屋根〟のあるところではできないのである。また〝満腹する〟ということがどんなことか知らない人が数知れないのである。

大都市のド真ん中で生活しながら、寝間で寝たこともないまま生涯を終えるのである。次に進もう。

 あなたは〝学校教育〟を受けている。〝読み書き〟ができる。精神的に〝正常〟である。生きていく上において何一つ欠陥がない。人を愛し愛されることができる。なんと結構なことであろう。

 正常な〝目〟があり〝耳〟がある。当たり前と思ってはいけない。当たり前のものがまともに揃っていない人が数知れないのである。

 〝手足〟が二本ずつある。物が持てる。字が書ける。歩ける。跳べる。何と有難いことか。ちょっと拾いあげただけでも、あなたはこれだけの財産がある。人間の原点、つまりはだかの自分に戻って素直に見つめてみると、この外にもまだまだ有難いことがたくさんあるはずである。

これほどの好条件に恵まれながら、あなたが生活のうえにおいて、あるいは仕事のうえにおいて失敗を繰り返し、あるいはまた自分のことを不孝な人間だと思うことが私には理解できないのである。やはりあなたは心の姿勢に問題があるのではなかろうか。

 私は失敗したこと自体を責めるつもりはない。失敗は誰にでもある。仕事で成功した人、巨額の富を築いた人にも失敗の繰り返しがあったはずである。その失敗の積み重ねが成功の基礎を築いたともいえる。
 
 が、彼が一般の人と異なるところは、失敗したあとの心の姿勢である。失敗しても失敗しても、積極的な前向きの姿勢を捨てなかった点である。たとえ話をしよう。

 今どこかをドライブしているとしよう。やがてロータリーに差しかかった。どっちに行こうかと迷ったが、とにかくある方向へハンドルを切った。ところがそのコースを行くうちに、霧が出てきて視界が急に悪くなってきた。

 しまったと思いながらも引き返すわけにもいかず、とにかく行けるところまで行こうと車を進めた。田舎道である。轍の跡を便りにノロノロ進むほかはない。

が霧はますます深くなり、やがてまったく視界がきかなくなって、止むなく停車した。

 前方を見るとぼんやり何かが見える。車から出て近づいてみるとレンガ塀である。えらいことになってしまった。行き詰まりである。あなただったらどうするだろうか。成功者と失敗者との違いがはっきり現れるのがこんな時なのである。

 仮に、A氏とB氏の場合を考えてみよう。A氏はレンガ塀のまわりをたんねんに調べ、どこかに抜け道は無かろうかと必死にさがす。何とか車の通れそうな小道をみつけて車を進めてみた。が、まずいことにドロ沼に車輪を取られてしまった。万事休すである。

A氏はあっさりと車を捨てて歩くことにした。「所詮オレは車をもつ柄じゃないんだ。これからは歩くことにしよう」とひとり言を言いながらトボトボと帰っていった。

 一方B氏はレンガ塀があると知るなりすぐに車を逆戻りさせ、もとのロータリーのところまで戻って、そこで改めて方角を選んで車を走らせた。その道もどこかで行き止まりかもしれない。が、行き詰ったらまた引き返して別の道を行くであろう。

B氏の字引には〝失敗〟という文字がないのである。行き詰ったらすぐにやりかたを変えて新しい挑戦をこころみるのである。

 人生の道、仕事の道においても、あなたはB氏のような積極的な姿勢で臨むことである。行き詰ったら、あきらめずに別の方向をこころみる。それがダメと知ったら、すぐまた別の方法で臨む。

 こうしてあれこれとやり方を変えて挑戦することは、今さっき教えてあげたあなたの持てる財産のすべてをフルに発揮させるチャンスともなる。

財産はただ所有しているだけでは何にもならない。チャンスを与えてどしどし使用しなくてはいけない。要するに、エネルギッシュに活動することである。米国の政治家ダニエル・ウェブスターも、

 「失敗の原因は資本不足より大部分はやる気不足にある」
と喝破している。


 見方を変えれば、失敗は成功のための絶好の勉強材料である。成功から学ぶことは誰にでもできる。大切なのは失敗から学ぶことである。

 さっきの例でいうと、この道はダメだと気づいたらすぐ元に戻って別の道を行くのである。同じ道でウロウロしていては、結局はドロ沼にはまり込んでニッチもサッチも行かなくなる。

車のたとえ話ではその愚かさがすぐにわかるが、事業においてはなかなか頭の切り換えができず、いつまでも同じ道で無駄な努力をくり返している人が実に多いのである。

そして結局はくたびれはて、あきらめて、一切を投げ出してしまう。これまでのあなたはそんなタイプではなかったろうか。

 これで成功者と失敗者の別れ目、ひいては冨者と貧者の分かれ目がはっきりと認識できたことと思う。要するに心の姿勢の問題なのである。前方に立ちはだかるレンガ塀を見て、一方は万事休すとあっさりあきらめ、他方はこれは道を間違えたと後戻りして、別の道を行こうとする。その違いが失敗と成功という形で現れ、ひいては財運を呼ぶ力の差となって現れる。もう一例あげて見よう。

 ここに裕福で有能な ビジネスマンがいるとしよう。一代で財を築き、プール付きの豪華な家に住み、子供は一流校に通っている。家族全員健康で、しあわせで、何も言うことがない。

 さて、この男が思いもよらぬ経済情勢の変化で一夜にして破産したとしよう。家をはじめ不動産一切を抵当に取られてしまった。自分のものと言えるのは妻と子供しかない。こうした事態に立ち至って二つの姿勢が考えられる。

 一つは前の例と同じで、もうダメだと絶望する場合である。彼はこんな弱音を吐く。

 「もうダメだ。何もかも失った。何か小さな職でも探そう。安月給でも何とか食べていければいい。子供には今の学校はやめてもらう。そして、この家を出て公営住宅に住むことにしよう。万事休すだ
」こう観念することによって名実ともに万事休してしまう。

 もう一つの姿勢はその正反対である。彼は毅然とした態度で妻にこう語る。

 「気を落とすんじゃないぞ。破産したといっても、まだ我が家にはかけがいのない財産が残っているじゃないか。我々夫婦と可愛い子供たちだ。みんな元気だし、笑うことだってできるじゃないか。またオレたちには人生の悟りが出来ている。

素晴らしい友人がいる。こんな素敵な財産はないぞ。そのうえオレには昨日までと少しもかわらぬ頭脳が具わっている。記憶力も衰えていない。あらゆる才能がそっくり残っている。

今度の失敗で大いに反省させられることはあったさ。が、オレは昨日までは成功者だったんだ。そのオレが今度の失敗で昨日よりはるかに大きな体験と教訓を身につけたんだ。成功しないはずがないじゃないか。オレは一からやりなおすぞ。

前よりずっと大きな成功を手にしてみせるぞ。心配せずに見ていてくれ」と。


 なんという違いであろう。同じ才能の持ち主が前者の態度をとることによってみじめなほど小さな人間となってしまったのに対し、後者の態度をとることによって、さらに一段と大きな人間へと成長していく過程がよくわかっていただけると思う。

 たいていの人間は持てる才能の一〇パーセントしか普段使用していない、というのが大脳生理学の結論である。ということは、使用されずに残っている才能が九十パーセントもあるということである。私が心の姿勢を積極的にせよと言うのは、その残された才能をフルに発揮させることになるからにほかならない。

 つまり一つの失敗を才能の限界と観念せず、持てる潜在能力を引き出す絶好のチャンスと考えて、しくじるごとに意気を燃やして挑戦しろと言っているのである。

本当の意味での失敗と言えるものは存在しない。自分で失敗とキメつけることは実は環境や条件の不備にかこつけて、自分の努力不足、意志薄弱、信念欠如を弁解することにしかならない。


 私の治療室を訪れていかにも自分が世界で一番不幸な人間であるかのように悩みを語る患者に対して、私はいつも例のヘレンケラー女史の話を持ち出すことにしている。

 ご存知のとおり、ヘレン・ケラーは生れて数ヵ月にして完全なメクラでオシでツンボという三重苦の状態になってしまった。まったくこれは普通に言う「不自由」などという言葉では言いつくせる状態ではない。仮に、大人になってからでも大変なことである。

教養もひと通り身につけ、物とはどんな恰好をしているか、花とはどんなに美しいものか、光とはどんな色をしているかといったことを知ったうえであれば、まだ不自由の度合いも違っていたであろう。

 ところがヘレン・ケラーの場合はまだ自我意識の全然ない赤ん坊の時から三重苦を背負わされたのである。手で触ってみる以外には物を知る手段がまったくないのである。

光の明るさを知らない。花の美しさを知らない。人間の声も音楽も知らない。こうしたまったくの暗黒と無音の世界に育った彼女には、当然のことながら教養を得る手段は完全に封じられていた。

 その彼女がサリバンという女性の献身的な努力で物に一つ一つ名前があることを知るようになり、次第に教養を身につけ、ついには、自分より恵まれている不具の人々の救済のために生涯を捧げたのである。

見えない、聞こえない、話せない、この絶望的とも言える三大苦を背負ったヘレン・ケラーでさえ自分のことを〝不幸な人間だ〟とは一言も言わなかった。

 彼女は著書の中でこんなことを言っている。

 「失敗は決して恥ずべきことではない。自己の個性の奥ふかく内在する宝を掘り起こす過程の一つにすぎない」

 五体満足のわれわれこそ、もって銘すべき言葉である。

 
                                                                                          
 
      

 第八章 満ち足りた人生を送るには  
 
 生きるよろこび───これは人間のすべてが求めているといってよいであろう。あなたも例外ではないと思う。それで結構である。

 では、一体満ち足りた人生とは何ぞやと聞かれると、これがまたなかなかの難問である。文豪エミール・ゾラはこう言っている。「もし、自分が新しい宗教を始めるとしたら、たった一つの教義しかつくらない。すなわち〝愉快に生きるべし〟」と。

 金をしこたま貯めてロールスロイスを乗りまわし、地中海を望む別荘を建て、美食のかぎりをつくし、豪華な衣服をまとい、給仕を置いて身のまわりの世話一切をやらせる。

こんな生活もなるほど面白いかもしれないが、果たしてこんな生活から真の生きるよろこびが得られるだろうか。こんな利己的な、そして物質に埋もれた生活に生甲斐が見出せるだろうか。答えはノーにきまっている。

 前七章にわたる私の説に少しでも興味を感じられた方なら、こんな生活は一週間もしないうちにうんざりしてくるはずである。そして何かやり甲斐のある仕事はないものかと思いはじめるにきまっている。

奪うばかりで与えることのない生活は、大自然の法則に反しているからである。結局、このやり甲斐という言葉に、満ち足りた人生のカギが秘められているといってよい。

誰だって楽しいこと、ラクなことはイヤではない。晴れた日に家族連れで遊びに出かけたり、子供の誕生日とか両親の結婚記念日とかにどこかで御馳走を食べるとか、かねてから欲しい欲しいと思っていたものを買いに出かける、といった種類のことは大いに結構なことであり、それなりの意義のあることである。

 が、こうしたことを毎日のように続けたらどうだろう。アゴの落ちそうなご馳走でも、そう毎日食べさせられたらウンザリしてくるにきまっている。やはり普段は質素なものを食べて、時たまおいしいものを食べるからこそ、そのおいしさが身にしみるわけである。

 英国の大思想家ジョン・スチュアート・ミルも著書の中で、

 「私は幸福というものが、欲望を満足させることよりも欲望を控えることによって得られるものであることを、ようやく悟るようになった」

 と述べているが、この言葉の意味がおわかりであろうか。これこそ、本当に悟りを開いた人の実感である。欲望を追求する意欲が足りなかったことに対する弁解の言葉などと思ってはいけない。

 生きがいを感じる生活と言っても、その中身は人によって異なるであろう。あなたにはあなたなりの生きがいのある生活があり、それも年齢とともに変化していくであろう。

私も若い頃は高級車のベントリーに美人を乗せて、高級レストランへ連れていくのが夢だった。が、今はベントリーはあっても、乗ることはめったにない。

食事も肉類は一切取らず、三度三度質素な菜食で、量も少ない。妻は背の高いブロンド美人だが、こうも三度三度一緒に食事をしていては・・・・・・イヤ、余計な話はよそう。

 とにかく生き甲斐の感じ方は人によって異なり、年齢とともに変化するものであるが、その根本において共通しているものが一つある。健康でなければならないということである。

 海の好きな人は、たとえばヨットに乗って波間をただよっている時が一ばん生き甲斐を覚えるのだろうが、泳げない人には海は生き甲斐の場所にはなり得ない。

 山の好きな人は、はたから見て何であんな危険なことが面白いのかと思える山登りに真に生きていることの実感を味わうわけだが、高所恐怖症の人には山は縁はない。

 何に生きがいを求めるにしても健康が第一の資本となる。健康を損ねたらおしまいである。と言っても私のいう健康とは病気をしていないといった消極的な意味での健康ではない。積極的に物事に挑戦していく力強い性格を生み出す健康体である。

 が、このことに関してはすでに述べた。これからの話はそれを前提として進めていこう。


 あなたは健康そのものである。悩みもない。過去への後悔もない。将来への不安もない。が、これだけでは地上生活を営めない。生きていくうえにおいて是非ともなくてはならないものは何かを考えると、まず家が必要である。が、家といってもいろいろある。

カヤぶきの家でぱちぱちとマキの燃える暖炉のある家がいいという人もおれば、窓を開くと自動車の騒音が聞こえるセントラルヒーティング付きの大都会のマンションがいいという人もいるだろう。

 一方キャラバンで放浪するのを理想の生き方と考える人もいるだろうし、山小屋の生活にたまらない魅力を覚える人もいる。要するに寝る場所があれば、外観がどんな恰好をしていていようと、家は家である。

 次に必要なのは衣服である。が、これまたその人の好みと生活環境の違いによって、いろいろと理想が異なる。山の中の生活と海辺の生活では着るものが大いに違ってくるし、大都会に住む人と田舎に住む人とでは自然に違いが生じてくる。

 食べ物となるとなおさらである。毎日ビフテキを食べないと腹がおさまらない人がいるかと思うと、サラダを食べない日は何か忘れ物をしたみたいだという人もいる。

要するにタデ食う虫も好き好きで、はたからとやかく言うべき性質の問題ではない。

 そうした好みの違いは生活環境や今まで辿ってきた人生の違いのあらわれであって、これも、これからの生活の変化によって年齢とともに変化していくであろう。が、どう変化しようと絶対に変わらないのは、人間生きていくうえにおいて衣食住が必要だという事実である。となると、それをまかなうだけのお金が必要となってくる。

 そこで、あなたは人並みに働いて独立した経済生活を営む。やがて結婚する。子供ができる。するとあなた自身にいろんな好みがあるように、奥さんや子供にもいろいろと違った好みがあることが分かってくる。

 乗り物一つをとっても、自分が自転車でいいと思っていても奥さんが乗用車を欲しがるかもしれないし、息子は乗馬がしたいと言い出すかもしれない。

 音楽にしても、自分はレコードを聞くだけで満足していても娘はピアノを欲しがるかもしれないし、息子はギターを買えと言い張るかも知れない。

 また、あなたは読書が趣味で、書物に取り囲まれている部屋が一ばんくつろぐといっても、奥さんは絵画のコレクションが趣味かもしれないし、子供たちはテレビを見ている時が一ばんおとなしいということもあるだろう。

 このように好みの違いはどうしようもない問題であるが、ただ忘れてならないのは、今述べたような趣味や好みは本当の生き甲斐の源泉ではないということである。ただ単に、好きなことができるというのが生きがいではない。

では、本当の生きがいを生むものは何か。世界の哲人はこの点に関しては全く同じことを説いている。すなわち「真の生きがいは他人に対する愛と奉仕の精神から生まれるものである」と。

 私は生まれつき現実ばなれのした〝きれいごと〟を並べるのは性に合わない。だからこそ当初から私は、理性の納得のいかない説は信じるなと大見得を切ってきた。

ここまで私の説に耳を傾けてくださったあなたは、多少なりとも私の説に〝筋〟を見いだして下さった方であろうと信じる。ならば、ついでにもう少しお付き合いねがって、この生き甲斐の問題についても私の説を信じてもらいたいのである。

決して絵に書いたモチのような話はしない。それなりの根拠があるからこそ堂々と説くのである。


 さていよいよ本論に入るが、あなたが本当に生き甲斐のある人生を送りたいと願うなら、まず隣人に対して素直な善意を示せるようにならなくてはダメである。隣近所のお付き合いが難しいものであることは私も認める。

善意が善意として通じない人がいることも知っている。無知な人、自己中心的な人がいて調和を乱しがちであることも知っている。しかし、だからといって善意を引っ込めてもよいという弁解は許されない。

 物質の世界に絶対的な物理法則があるように、心の世界にも絶対不変の神の摂理がある。その一ばんの要となるのが愛であり善意なのである。イエスはこう言った。

 「汝等たがいに愛を負うるのほか何をも人に負うなかれ。人を愛する者は律法を全うするなり。・・・・・・愛は律法の成就なり」(ロマ書第十三章)

 このイエスのいう愛とは善意のことであり、法律とは神の摂理のことである。つまり人の道で一ばん大切なのは隣人に対する善意であり、これがひいては神の道に叶うのだというのである。物の考え方に相違があっても、善意さえあればお互いに理解し合うことはできるはずである。意見は違っても善意さえあれば仲良く生きていけるはずである。

 このことは人間を一個の発電所に例えてみるとよくわかる。発電所というのは電気をこしらえて各方面へ送るところである。が、電気を貯えておくことはできない。

つまり発生した電気はドンドン使う必要がある。もし需要がおちれば出力を落として電力の発生を抑えなくてはいけない。さもないと、機械にムリがいって故障してしまう。全く需要が無くなれば、操業をストップしなくてはならない。

 
 さて人間は発電所のようなものだといったが、人間が出すのはもちろん電力ではなく霊力である。その霊力の強さを表す単位はボルトやオームやワットではない。これがすなわち愛であり善意なのである。

 あなたがその愛なり善意なりを接触する人ごとに施していけば、あなたという発電所はフル操業して霊力を生産することになり、そこに生きがいを感じることになる。

 反対にあなたが自己中心的で、物質的にも精神的にも人に施すということをしない生活をしていると、これはつまり霊力の需要がないということであり、あなたは霊的な生産活動をストップしなければならなくなる。それは言い換えれば霊的な死を意味する。

 あなたは操業を完全にストップした工場、あるいは廃業して野ざらしになっている工場を見たことがあるだろうか。何とも言えない、わびしい感じがするものである。愛も善意も忘れた人間は、たとえ肉体としては生きていても、霊的には野ざらし工場と同じく何の存在価値もない、わびしい存在となってしまう。


 私はよく人と人生問題を議論する。議論とは私流に言わせれば脳の柔軟体操であり、やったあと非常に気持ちがいい。もちろん、必ずしも意見の一致をみるとは限らない。が、私は何も相手を説き伏せるために議論するのではない。どんな考えをもっているかを知ろうとする態度で臨む。

 一ばん多いのが「神なんか存在しない」という説である。われわれ人間はこの地球という天体に偶然に発生したのであって、目的も価値も人の道も神の摂理もない。死ねばそれでおしまいだ、という。

 なるほど、こういう前提に立てば人間はまったく空しい存在であり、何を好んできまじめな人生を送るのかという考えも出てくる。「食べて飲んで遊んで、やりたいことをやって楽しまなきゃ損だ」という人生観が生まれても当然であり、それがその人にとっては満ち足りた人生なのだろう。

 が、生憎と人生はそんな風には出来ていないのである。人間がこの世に生まれたことは厳とした目的があり意味がある。私の勝手な思惑や推量でそう言っているのではない。心霊学という学問によって、厳然たる事実のうえに立証されているのである。

 「神は空間を嫌う」という言葉がある。無造作に散らばっているかに見える物的宇宙は実は寸分の狂いもない法則によって展開している。

同じように好き勝手に動いているかに見えるわれわれ人間の世界も、実は一糸乱れぬ因果の法則によって支配されているのである。その人間世界の根源を支配しているのが愛であり、善意なのである。人間は互いに愛の施しをしなければならない。善意を出し合うことが人生を意義あらしめるのである。


 人間は時として自分の殻に閉じこもりたくなるものである。こう人間の数が増えてくると、つき合いが煩わしくて利己的な考えに傾きやすくなるのも無理はない。

 が、実は人間が多くなれば多くなるだけ、それだけお互いの依存度も高くなり、従ってなおさらお互いの立場を理解し合い、積極的に善意を施し合わねばならないのである。

つまり現代人の幸福は人間関係一つにかかっているといってよい。自分の殻に閉じこもることは他人との関係を嫌い、あるいは他人の存在を無視することであって、そこからは生き甲斐ある人生は出てこない。ただ我欲が深まるだけである。

 利己主義と我欲は不幸と病に通じ、無私と奉仕の精神は満ち足りた生活と健康に通じる。その原理は発電所のたとえでお分かりいただけたはずである。

 あなたという霊的発電所は善意という名の霊力を自分以外の人々に送ることによって初めてその機能を正常に働かせ、従って故障という名の病も生じない。

「陰徳あれば陽報あり」と古えの聖賢も説いている。国際ロータリークラブの会長アーサー・シェルドンが協会のモットーとして考えた文句は結局 He profits most who serves best. の六語につきた。これは「陰徳あれば陽報あり」と何ら変わるところはない。


 本章は「満ち足りた人生を送るにはどうすればよいか」という問題を扱ってきた。そしてその答えは結局〝愛〟と〝奉仕〟の二語につきることを説いた。両者は車の両輪と同じで、一方があっても片方を欠いては十全とは言えない。

 それは発電と送電に似ている。発電はしてもこれを各方面へ送電することをしなければ意味がないし、送電設備をそなえても発電しなければ何の役にも立たない。

それと同じで、いくら心が愛と慈悲に満ちていても、それを奉仕という形で他人に施さなければ意味がないし、奉仕奉仕と口で言っても、それに愛と善意がこもっていなければ奉仕にはならない。愛がすべての原動力であり、その愛の実践が奉仕なのである。


 さて、これまで私は人間を一個の発電所にたとえて話をしてきた。あなたという発電所が愛という霊力を出し続けているかぎり、健康で満ち足りた生活を楽しむことができる。何事も善意に解釈し明るく受け止めるからである。

 イヤなことが無いというのではない。誰にだってイヤなこと苦しいことはある。ただ、それを明るい広い心で受け止めるから〝悩む〟ということが無い。自分には立派な背後霊がついて決して悪いようにはしないという信念があるから、イライラしない。

 が、もしあなたが思いがけない事件に巻き込まれて、心ならずもある人を憎むようになったらどうなるだろうか。発電所のたとえで言えば交流が突如として直流に変わったようなものである。電圧がニ四〇ボルトから一気に四五〇ボルトにあがる。

何の予告もなしにこんなに上がると、各方面に異常事態が発生する。つまり有難く受けていた側が、今度は実害をこうむることになる。人間の場合だと、憎しみの念が相手に伝わって精神的平和を乱すことになる。

 電力の場合は多すぎるからといって余分の電力を発電所に送り返すわけにはいかないが、人間の場合は幸か不幸かそれが出来るのである。

できるというよりも、調和を乱すような念波をはね返す性質を備えているといった方がよいかもしれない。一種の拒絶反応である。

 しかも、(ここが大切な点なのだが)返される時、はずみでその念が倍も三倍も勢いを増すという性質がある。つまり悪意、怒り、嫉妬、軽蔑心、こうした悪感情はみな倍加されて本人のところに戻ってくるのである。

 愛情や善意を出し惜しみ、右のような悪感情をむき出しにする人は、自分が出した分量の倍、あるいはそれ以上の悪感情をみずから招いているようなものであり、それが健康に、あるいは精神面に測り知れない害悪を及ぼしている。調子を崩すだけではない。

実感としての痛みを覚えさせることもあり、ひどい時は死の原因となることすらある。日常生活の禍の殆どが、こうした自分が出した悪感情のお返しによって起きていることを知らねばならない。


 我欲というのは恐ろしいものである。不幸、病気、犯罪の根本原因はことごとくこの我欲に捉われることから発生している。

この事実に気づかぬ人こそ本当の意味での無知な人、愚かな人というべきであり、力こそ善なりと信じ、金こそ全てだと思い込んでいる人こそ真の愚か者というべきである。

 誰が言ったかは知らないが、「暴力とは無能な人が訴える最後の手段である」という言葉がある。また聖書には「剣に生くる者は剣にて滅ぶ」という意味の言葉がある。

悪意、憎悪、嫉妬、怒り等はたしかに一種の暴力である。いわば精神的暴力である。しかもその念はかならず自分のところに戻ってくるのである。それもただ戻ってくるのではない。はね返る時に勢いを増して戻ってくるというから恐ろしいのである。

 では、もしあなたがそういう悪意の対象とされた場合はどうすべきか。成り行きに任せておけば、あなた自身の調和が乱されるばかりでなく、あなたがはね返す悪念で当人も傷ついていく。

自業自得だという考えかたもできるが、これは神を知った人間の考えとしては落第である。悪意には善意で返し、憎しみには愛で返してやるのが最高の心掛けである。

 そんなわけにはいかない奴もいるヨ、とおっしゃりたいのではなかろうか。その気持ちもわかる。たしかに愛せない人、好意を向けたくない人がいるものである。が、そう思っているかぎり、あなたも相手と同じ次元から脱していないことになりはしないだろうか。

 憎い相手を愛するのは、確かに難しい。が、「成らぬ堪忍するが堪忍」という諺と同じで、その難しいことを何とか実践しようと努力するところに、魂の成長もあるわけである。相手も神の子である。何か良いものをもっているはずである。その良い面を認めて慈しみの心を向けてやることである。

 悪意に満ちた人間をなぜ慈しむ必要があるのかと思われるかもしれない。が、よく考えていただきたい。そういう人は悪感情に囚われているのである。

自分という小さな心の世界に閉じこもり正常な判断力を失って、低級な悪念のとりこになってしまっているのである。こういう人こそ気の毒な人であり、外部からその悪念のカベを破ってやらねばならないのである。

 あなたが受けた憎しみをそのまま返していたら、また戻ってくる。また返す、また戻ってくるというふうに、いつまでたっても悪循環は断ち切れない。お互いの傷つけ合いがいつまでも続くことになる。これは神を知る人間の賢明なやり方とはいえまい。

送られてきた悪感情をそっくり受けとめ、代わりに愛と善意の念を送り返してやることこそ、神の道に叶った心掛けである。

 あいつはつまらん人間だという評価を下すのは極めて容易であり、あなたの立場も一応は弁護される。が、それでは次元が低すぎると言っているのである。もう一歩高い次元から見つめて、相手も神の子だ、何か良い面をもっているはずだという見方で臨めば、あなたも一段と霊的に高められると同時に、相手も暗い我欲の牢獄から救われることになる。

 こんな話をご存知であろうか。ヒトラー政権化のドイツにおけるユニークな教育実験の話である。医学、遺伝子、育児学、栄養学、その他ありとあらゆる面で完璧な体制のもとで優秀な子供を育ててみようという実験的試みがなされた。

 まず性格的に父親として母親として理想的と診断された健康な男女を集めて、理想的な自然環境のもとで結婚生活を送らせてみた。

 やがて子供ができると育児専門家のもとにあずけられ、栄養、運動、情操教育に細心の注意をはらいながら育てられた。

 が、実験は失敗した。予想とは正反対に、鈍感で元気のない、しかも知能的に意外に低い子が多すぎたのである。

 その後、いろいろとその原因調査が行われ、その結果きわめて興味深い結論が出された。すなわち、その子供たちは受胎、出生、育児の各段階において最も大切な〝愛情〟という栄養が欠けていたということである。

科学の粋を集めて行われた育児も、親の愛情を補うことはできなかったわけである。

 これに関連して思い起こすのは園芸の腕のことを英語で Green Fingers (緑の指)ということである。どうしてそう呼ぶようになったかというと、これが園芸家の植物に対する愛情と密接な関係があるのである。

 つまり同じく花を栽培するにしても、我が子を育てるごとく、愛情をこめて手を加える人の指先は緑色をおびてくるというのである。このように育てられた花は生き生きとして、生け花にしても持ちがいい。反対に商売本位に量産することしか考えない人が栽培した花は生きが悪く、すぐしおれる。

 そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、事実なのだから仕方がない。グリーン・フィンガーズという言葉がそれを雄弁に物語っているといえよう。

 この事実はとりもなおさず、花にも愛情を感受する感受性が具わっていることを示すものであり、同時にまた、生命の発育にとって愛情というものがいかに大切であるかを示しているとも言える。むろん動物も同じであり、植物よりも反応が速くまた強烈である。

 こうしたすばらしい威力をもつ愛が人間に通用しないはずはない。今もしあなたが自分のことを不幸だと思い、人生が面白くないと感じ、何とか生きがいある満ち足りた人生を送りたいと願うのなら、ただちにこの本を置いて外へ飛び出すがよい。

そして困っている人、気の毒な人のところへ行って、優しい言葉で助けになってあげることだ。一人暮らしの老人がいるであろう。見舞客の来ない病人がいるであろう。

 イヤ、何も外へ出る必要はない。身内の人であなたが冷たく当っている
人はいないだろうか。嫁につらく当ってはいないだろうか。姑にいじわるをしていないだろうか。もし心あたりがあれば、明日からと言わず今この時点から心を入れかえて、理屈も打算も抜きにして、ひたすら善意の心で優しくしてあげることだ。

 誰にだって良い面があるはずである。悪い面には目をつむって、ひたすらその良い面を見て、いい人だ、いい人だと思ってあげることだ。
 
 あなたの、そうした〝人を美化する〟念波はかならずあなたのもとに帰ってくる。倍も三倍も威力を増して戻ってくる。いつしか、あなたはなぜか無性に楽しくなってくる。

 生きていることが楽しくなってくる。あなたは真の生きがいを感じはじめたのである。 


 

         
 第九章 知恵を働かせるコツ

 どういうわけか、人間は知恵というものを自分のそとに求めようとする傾向がある。困るとすぐ誰かのところを訪ねる。あるいは書物をひもとく。

 なるほどそうすることによって何らかのアドバイスを得ることはできる。ある種の知恵を得ることも出来る。自分と同じ窮地において他人がどうしたかを知ることができて、参考にはなる。が、知恵は絶対に得られない。得られたと思うのは一種の錯覚である。

 そもそも知恵とは、よそから借りられる性質のものではない。英知という人間のもつ最高の判断力の結果が知恵であり、その奥において霊的感受性と深くつながっている。

つまり本人にとって一ばん適切な知恵は、その人の霊的発達に応じた霊的感受性によって決まることであり、他人にとって最高の知恵が必ずしも自分にとって最高であるとはかぎらない。むしろ弊害をもたらすことすらある、ということである。

 その意味で、本書も知恵の書ではない。私の個人的体験にもとづいて、この複雑な物質万能の世の中を生きていくうえでの物の考え方、心の持ち方を説いたものである。

もしも知恵を授けるつもりならば、「理性の納得のいかないことは信じるな」などとは言わないはずである。


 人間は洋の東西を問わず、古来、心のよりどころとして何らかの宗教書を座右に置いてきた。キリスト教徒はバイブルを、ユダヤ教徒はタルマッドを、マホメット教徒はコーランを、仏教徒はお経を、といった具合である。

 私は決してこの事実を無視するつもりはないし、悪いことだとも思わない。私が言いたいのは、そういった経典を唯一無二の絶対的な拠りどころとしてすがり、そこから有難い知恵を得たつもりでいても、実はそれは本当の意味での知恵となっていないことである。

それはあくまでも断片的な借り物であり、当人の表面的な判断力で選り出した他人の知恵であって、かならずしも当人の悩みの根本的な解決とはならないということである。

 知恵というのは、さきほども言ったように、本人の霊的な判断の加味されたものでなくてはならない。あくまで本人の判断である。私が理性の納得のいかないことは信ずるなと言い、証拠のあやふやなものは拠りどころとするなと言ったのはそのためである。

 繰り返すが、私は聖典や経典を無視しろといっているのではない。それを絶対視してマルのみ込みする傾向を戒めているのである。聖典や経典自体は善でもなければ悪でもない。要は、それを読む人の心構えの問題である。

書かれてある語句を一つ一つ検討すると成るほどいいことを言っている。が、それをそのまま今のあなたに当てはめることには問題があると言っているのである。


 では、いかなる態度で臨めばよいかということになるが、私はいつも「自分自身に忠実でありなさい」と説いている。自分自身に忠実ということは、我欲と、その我欲が生むところの悪感情を捨て切った、まるはだかのあなた自身に成り切ることである。

無我の境地に入れば、当然そこに背後霊からのインスピレーションがひらめく。

 無我の境地に入る方法はすでに、繰り返し説いたから詳しい説明は省こう。要するに静かな場所で心身ともにくつろいだ状態にして、今あなたがかかえている問題や要求を口頭で述べるのである。

 では、そんな余裕のない時はどうすればよいのか。つまり、今すぐ判断を下さなければならないが家に帰ってくつろいでいる暇はない、というケースも確かにあり得る。

たとえば会社のミーティングの席上において、今まさに会社の命運を左右するような大問題について最終的な結論を出す段階に入った。その決定はあなたが下さなくてはならない。が、あなたにも自信はない。こんな時どうすればよいか、ということである。

 こんな時はまず用紙に出席者の意見を列記する。そして、これこれの方法を採用した時はどちらにどれだけの損得があり、しかじかの方法を採用した時はどちらがどれだけの損得をこうむる、と言ったことを書き記す。それが出来たところで、ほんの一、二分間黙禱する。

 いかにコンピューターが発達した今日でも、人間のコンピューターほど早くて効果的なものはない。本当に我欲を棄て切り、無我の境地で精神を統一すれば、その時点における最善の策が一瞬のうちにひらめくはずである。

 もしもひらめかなかったなら、あるいはその策を採用してうまくいかなかったとしたら、その原因は精神の統一が充分でなかったか、それとも完全に無我になり切っていなかったかのいずれかである。自分個人としてはこうしたいのだが、といった欲がチラチラしているようでは、せっかくの背後からのインスピレーションも着色されてしまう。

 
 精神統一には訓練が必要である。また我欲を捨てるということも容易なわざではない。が、ぜひともやらなければならないことであり、修得すればこれほど価値あるわざはほかにないといってよい。

 思うに、現代人はいささかうぬぼれがすぎてはいないだろうか。科学者といい宗教家といい、あるいは科学技術者といい、もはや知るべきものはすべて知り尽くしたと言わんばかりの態度が見られる。

 特に神学者は神について全てを知り尽くしたと豪語する。二千年前に神イエスを通じてすべての真理を人類にさずけてあると信じ、その後に出たいかなる啓示もみな悪魔のそそのかしによるものであり、神を冒瀆するものであるという。イヤ、二千年前ではなく五千年前だと主張する学者もいる。

 そう主張する宗教学者に、私はわざとこんなことを言ってみることがある。「私にも神からの啓示があるんですよ。これまでの啓示はすべて間違いで人をあやまらせるものだというんですがね」と。すると、きまりきって「神を冒瀆するにもほどがあります」と言って、怒りの表情を見せる。が私に言わせれば、そういう宗教家こそ神を下らん存在になり下がらせている真の意味での冒涜者だと言いたいのである。

 人間は貴賤上下の区別なく、みんな毎日のようにその人なりの啓示と指導を受けているのである。教会も寺院も神社もいらない。神はいついかなる場所にも存在し、チャンネルさえ合わせれば誰でもその啓示を受けることができる。

 キリスト教は神をむやみに権力と威厳をふりかざす時代遅れの頑固おやじのようにしてしまっているが、これこそ冒瀆というべきではなかろうか。

 科学者も似たり寄ったりの過ちを犯してきている。空を飛ぶ考えが持ち出された時、科学者たちは口を揃えて、もし人間が空を飛べるなら、神ははじめから翼をつけてくれていたはずだと一笑に付した。

 自動車の計画が持ち出されると、一時間に三十キロものスピードで走られては目的地に着くまでに客はみんな死んでしまうよ、と言って取り合わなかった。

 初めて蒸気船が大西洋を横断したと聞いた時、そんなはずはない、あの距離を渡るには船に積み込めないほどの燃料がいるはずだと言って信じようとしなかった。こんなバカバカしい話が実際にあったことを忘れてはいけない。現代でも心霊学に対してまったく同じような態度をとっているのである。


 科学者に輪をかけて傲慢なのが医学界である。医学的に不治と診断され、病院を追い出された患者が日に何千人となく心霊治療家を訪れ、その殆どが全治している事実を今もって認めようとしない。

認めないだけならまだしも、心霊治療に協力した医者は即刻医師会の名簿から除名するという暴挙までするのであるから、もはや無知を通りこして罪悪と言わねばならない。

 「天網恢々疎にして漏らさず」という。こうした真理への反逆はつまるところ物質主義と高慢と偏見の所作であり、真理への扉をみずから閉じるようなものである。

心の目を覚まし既成概念の牢獄を打ち破って、まったく新しい視野から自分自身を、そして人生全体を見直さないかぎり、真理の扉は開かれない。生涯を挫折と失意の繰り返しで終わることになる。
 

 あなたは心の奥底では悪いことだと知りつつも、表面では適当な弁解をしているようなことはないだろうか。精神分析学ではこれを「自己妥協」と呼ぶ。つまり心の中で「まあいいじゃないか」と妥協してしまうことである。思い出すとどうもすっきりしない。

心のどこかにひっかかりがある。でもまあいいじゃないかと打ち消す。これがつまり自分自身に忠実でない証拠だと私は言うのであるが、そんな体験はあなたにはないだろうか。

 本書は実践を説いた本である。お説教をしているのではない。どうやって実践すべきかを説いているつもりである。従ってもしも私の指摘が図星だと感じられたなら、これきりそんな都合のよい自己妥協などはやめて、真理に徹底的に忠実になっていただきたいのである。

 今もし、何かの問題をかかえて判断に迷っているのなら、ただちにこの本を閉じて、その場で黙禱して心を空っぽにし、背後霊に知恵をお願いすることだ。


 「たかが日常の問題でそう神だ仏だと大ゲサに言うこともなかろう」とおっしゃる方がいるかもしれない。「常識で判断すればよいではないか。くるみを割るのに金庫破りの七つ道具を用意するようなマネはせんでもよい
」とおっしゃる方がいるかもしれない。が、私はそうは思わない。

 たかが日常の問題というが、日常の何でもない隣人関係にも、青少年犯罪を扱うのとかわらぬ真剣さと知恵が必要なのである。神の真理は極大の世界だけでなく極微の世界にも行きわっており、小をおろそかにすることは大をおろそかにすることである。日常生活における善意の判断は生涯のかかった重大問題の判断にも影響を及ぼす。

 詮じつめれば、人生百般の問題は道義心の問題の一つに帰着するのである。

 いつだったか、テレビのインタビューで、ある商業銀行の頭取が語った言葉を今も覚えている。その頭取は人事問題については「処分は即座に、ただし事後処理は慎重に」ということをモットーにしていると話した。

たとえばセールス会社を経営していてセールス・マネージャーの腕が悪いことがはっきりしたとする。そんな際、彼だったら即刻クビにして敏腕家と置きかえるという。

何となれば、その会社の成功と、その会社とかかわりあっている無数の人々や家族の将来がその人にかかっているからだという。

 ただし、彼はそのマネージャーをただクビにして放っておくことはしない。この仕事ならと思う仕事を世話するか、一年ないし二年間年金を支給するか、それとも責任賠償額とでもいうべきものを支払って、とにかくその人が絶対生活に困らないようにしてあげるという。

 そこに彼なりの道義心が働いているわけで、そういう細心な人だからこそ銀行家として成功しているのだと思う。


 表面だけを見ると、人間の社会は確かに、複雑そうに見える。が、それは詮ずるところが我欲が絡まっているからにすぎないのであって、人間の原点である道義心に立ち返って真っ正直に判断すれば、すべては簡単に解決する。

 我欲を捨て打算を捨て、はだかの自分に立ち返って背後霊に知恵を乞うのである。そんな単純に割り切れるものではないとおっしゃるかも知れない。が、そう考える時のあなたは実は問題が割り切れないのではなくて、あなたの気持ちが割り切れないにすぎない。

つまり我欲を捨てきれないのである。損得の感情が働いているのである。

 我欲を捨てて道義心に忠実になるには確かに勇気がいる。真に勇気のある人というのは、いついかなる時でも道義心という神の声に忠実に従える人のことである。

 あなたにはあなたの人生があり、行く手には数々の問題が待ち受けているであろう。が、楽しいこと、すばらしいことも待ちうけている。人生とはいわば旅である。道中にはいろんなことが起きる。危険な山道を通らねばならないこともあるし、ぬかるみもあろうし、嵐に遭うこともあろう。

 そうかと思うと、歩きやすい平坦な道もある。素晴らしい景色をながめ、口笛を吹きながら歩く楽しい道中もあるであろう。そのうち道が四方に別れていて、道標も見当たらず、どっちへ行くべきか迷うこともあろう。たまたま運よくそのあたりに詳しい人に出合って迷わずに済むこともあるが、だれ一人聞く人がないこともあろう。

 が、そんな時も少しもあわてることも心細がることもない。あなたには背後霊がついているではないか。我欲を捨て打算を捨てて、道義の鏡をきれいにすることだ。

 それには勇気がいる。思い切りがいる。が、それ以外に方法はない。しかもそれが一ばん神の道に叶った確かな方法でもあるのだ。

 


        
           第十章 性生活の偏見をなくそう

 健康と富と成功を得る方法をいかに立派に説いても、性の問題を無視しては完全とはいえない。というよりも、致命的と言ってよいほどの手落ちともいえる。

性愛およびそれによってもたらされるところの悦びと幸福感は、心身両面の健康生活にとって極めて重要な要素を占めている。その事実を心霊治療家としての生きた体験から説明して認識していただくのが本章の目的である。

 人間だれしも、何らかの偏見を多かれ少なかれ持っているものである。偏見のない完璧な人間というのは有り得ない。というのも、人間は所詮は生れ落ちてから今日に至るまでの教育と環境、遺伝、さまざまな人生体験によって形成されてきたものだからである。

そしてそれが一つの偏見となって、無意識のうちにあなたの性生活をしばりつけているはずである。

 そうなると、性の問題一つにしぼってみた場合、結局それも、あなたならあなたの生まれついた家庭、地方、国家の信仰上のしきたりや親のしつけ等によって大きく影響を受けているはずである。

 私はこれからそういったしきたりや偏見、タブーの一切から離れて、全く新しい自由な観点から性を検討してみたいと思うのである。あなたもしばらくは一切の既成観念から離れて、虚心坦懐に私の意見に耳を傾けていただきたいのである。

 第一に認識していただきたいのは、性にはこれが正常と言えるような基準又は標準は無いということである。

 人間一人一人顔かたちが違うように性欲の強さも千差万別であり、性的快感がもたらすところの心理的、感情的、知能的な効果もまた千差万別である。あなたがこれが正常だと思い込んでいるのは実はあなたにとっての正常を意味するのであって、それを他人に当てはめて批評するのは間違いである。

 たとえば、体位の問題を取り上げてみても、かつてキリストの宣教師が太平洋諸島の布教に乗り出した時、男上位のいわゆる「正常位」を説いたら原住民はバカバカしいとばかりに大笑いしたという話が残っている。

原住民は原住民なりの楽しい体位があるわけであり、それを正常と思っているのである。

今でもそこの原住民は宣教師の説いた正常位のことを「宣教師体位」と呼んで笑いのタネにしているという。

 
この一例を見てもわかるように、ところ変われば品かわるのたとえで、性についての考えも小は地域により大は民族によってみな異なるのが実状である。性についての偏見を拭い去るには世界各地の性風習をあるがままに見ていくのが一ばん効果的のように思われる。

 現代の文明国では一夫一婦制が当たり前のように考えられているが、歴史を見ればわかるように、古代はむろんのこと、つい近世まで、いずこの国でも一夫多妻が一般的であった。その例を中国に見てみよう。

 西洋人はモーゼを文明の始祖のように考えがちであるが、モーゼの時代つまり今から五千年前には中国は西洋よりはるかに高度の文明を持っていた。すでに文字があり、すぐれた詩人や劇作家がいた。三千年前には絹織物を完成し、陶器の製造法を考案し、印刷術も発明していた。孔子のごとき大思想家が輩出して透徹した人生訓を残している。

 その中国の性観念は至って単純で正直であった。つまり性は楽しむべきものである。が、度が過ぎると飽きがくるから、夫婦でいろいろと工夫をこらし勉強もしなくてはならない、というものであった。

 男が妻をめとる。妻は夫を喜ばせるべく秘術をつくし、夫も妻に不満の残らないよう工夫する。仕事のうえでも孔子の訓えを忠実に守って、夫は夫として妻は妻としての義務にいそしむ。

 が、やがて子供が出来る。妻には母親としても仕事が付加されるから、夫に対する妻としての務めがおろそかになる。そこで二番目の妻をめとる。若くて元気だから夫は満足し、家事の手伝いもするから正妻も助かる。

 が、その二番目の妻にもやがて子供ができる。すると男はあっさりと三番目の妻をめとる。妻としてではなく妾として何人かの女を置く者もいる。あるいは遊郭にハケ口を求める者もおろう。中国ではこうしたことが別に「悪い」ことではなく、トラブルの原因となることもなく、ごく当たり前のこととして認められていたのである。

 趣きは少し異なるが、古代ギリシャにおいては男女ともに肉体美そのものを崇拝した。男性は観衆の前で一糸まとわず肉体を披露し、女性は腰のまわりにごく簡単なものをまとうだけでその肉感あふれる美を披露したものだった。

そこには淑女ぶった態度も羞恥心もない。ひたすら自分の肉体の美しさを自慢し、見る者はまたそれを賛美したのだった。

 当然のことながら、この風習は性生活そのものにも反映し、肉体的快楽を求める風潮が強かった。同性愛も盛んで、別に異常とはみなされなかった。

 インドにおいても性の悦びを心ゆくまで楽しもうとする風潮は強く、古来、単なる動物的交接以上の楽しみを得るための工夫がなされてきた。

その指導書が、今では古典として残っている有名な『カーマ・スートラ』で、性生活におけるマナーやエチケットまで細かく指導している。今日ではいささか陳腐な感じも無いではないが、その説くところは至って健全で範とするに足るものが少なくない。

 概して、欧米人はエチケットにはとても厳しい。かつて、アメリカでベストセラーになったものに、エミリー・ポストという女性の書いたエチケットの本があった。

社会生活を営む上でのエチケットとマナーを説いたものであるが、非常にくだけていて、全体的に自由主義的思想が行きわたっている。その点、インド人のエチケットは固苦しく形式的な面が強いが、そのインドにおいて、世界的に有名なカーマ・スートラという性生活のマナーとエチケットの本が出たという事実は注目に値する。

人間生活において、性生活がいかに重要であるかを示しているとみてよい。

 同じような傾向は日本においてもみられる。日本とインドその間に性思想の交流があった歴史も無いのに、両国には非常に似通ったものがみられる。

性は楽しむべきものであり、本来楽しいものなのだ。美味しい食事、心なごませる生け花、精神を落ち着かせる掛け軸などと同じように、人間生活を豊かにする要素として性を扱ってきた。遊郭が芸術の温床のような役割を果たしていた点は、日本的性観念を示す大きな特徴として注目してよい。

 もう一つ、日本の風習で面白いのは男女が混浴する温泉場があることである。そこではヨーロッパ人が想像するように羞恥心を感じる者はひとりもいない。

それどころか、日本に来るヨーロッパ人までが平気で入るようになるというから不思議である。やはりそれが自然だからではなかろうか。

 次にアラブにはインドのカーマ・スートラによく似た『香りの園』The Perfumed Garden という性愛の書がある。これも性の技法から作法、心掛けなどを説いたもので、なかなか高度な中身をもっている。その根本思想はやはり性愛を一種のレクリエーションと見なし、その悦びを素直に堪能すべきだというところにある。
 

 もともとアラブ人は、男女の数が平均している社会では一夫一婦制が好ましいという考えを持っていた。が所詮、それは理想であって、一方において男の本能が許さず他方また妻が家事に追われて夫への配慮を忘れていくことが一夫一婦制の維持を困難にさせたというのが実状である。

 戒律の厳しさで知られるユダヤは、その歴史を見ると厳しくなければならないそれなりの理由があったのである。ユダヤの戒律と言えばモーゼの十戒を思い出すが、当時のモーゼは実は非常に難しい問題をかかえていた。

奴隷として働かされていたイスラエル人を大挙してエジプトから脱出させたのはよいが、これを統率していくには奴隷根性を捨てさせ民族意識と誇りを持たせ、良い意味での闘争心を植えつけなければならない。

 一方、土地は荒涼としていて太陽は灼熱のごとく照りつける。こうした環境の中ではまず第一に体力の無駄な消耗を防ぐことが要求される。次に一単位として家族の団結が要求される。ユダヤの戒律はこうした環境を背景として生まれたことを理解しなくてはいけない。

 長い年月にわたって戒律にしばりつけられてきたユダヤ人は、その戒律の正当性をうんぬんするよりも、戒律を犯すことの罪意識の方が先に立つ。

たとえば姦通罪は姦通そのものが罪だという意識よりも、姦通によって出来るかもしれない子供が法律によってユダヤ人として認められないから困る、という意識の方が強いのである。子供は女が産む。そこで、ユダヤの法律は女に厳しく出来ていた。

姦通罪も女の方にだけ適用された。男には姦通罪はなかったのである。


 南アメリカのアマゾンの奥地に面白い結婚の風習をもつ人種がいる。男が結婚年齢に達すると首長のところへ出頭する。すると、首長はその男の性格や能力を検討したうえで適当な嫁を探してやる。興味ぶかいのは、その嫁は決まって中年の未亡人だということである。

中年であるから家事はもとより性生活のテクニックも心得ているから、若いダンナは満足するにきまっている。いわば嫁が母親的役割を兼ねるわけである。

 が、やがて年上である妻の方が先立つ時期が来る。するとまた首長のところへ行く。首長はこんどは若い嫁を世話する。

嫁は何ごとにつけ未経験だが、男はすでに万事に知恵と体験がある。若い嫁は男にリードされて心ゆくまで性の歓びを味わい、男の方は忘れかけていた青春のよろこびを呼び戻すことになる。いわばダンナが父親的要素を兼ねているわけである。

 が、今度はダンナの方が先立つ時期がくる。すると、女は首長のところへ出向いて若いムコを世話して貰う。若いダンナは経験豊かな嫁にリードされて抵抗なく夫婦生活を営み、一方中年の嫁は若々しい男の性に、忘れかけていたものを呼びさまされることになる。

 こうした風習が今日でもスムーズに抵抗なく行われていると聞くが、私はこの種族は決して野蛮とは言えないと思うのである。

 次に一転して禁欲主義の最右翼であるところのキリスト教に触れてみたい。

 あるところにテントの製造を商売にしているサウロという男がいた。晩年になって南ヨーロッパからギリシャ諸島、小アジア、イタリア、スペインの各地を旅した。彼はてんかんの持病があり、また大の女ぎらいであった。歴史家の中には彼をインポ(性的不能者)だったとする者もおれば、ホモ(同性愛)だったとする者もいる。

 このサウロが実は、キリストの有名な弟子パウロであり、キリスト教の性的戒律を生み出した人物である。この戒律は肉体的欲望を〝悪〟ときめつけ、従って肉体的欲望の所産であるところの出生そのものが悪であり、結局人間の存在そのものも根源的には悪であるという思想に発している。

 要するに人間は悪のかたまりであり、なかんずく性欲が諸悪の根源である。その悪から少しでも善に近づく道は禁欲生活であり、処女性であり、夫婦それぞれの貞節であり、裸体をむやみに人目にさらさないことである、という。ヨーロッパ人の性観念に罪悪感と羞恥心を注入したのはこうしたキリスト教的戒律である。

 つまり、教会が信者に対してこの罪悪感と羞恥心を吹き込むことによって、教会とのつながりを保ち強化しようと努力してきたことが、信者の心に性交は本来いけないことという観念を植えつけてしまったのである。そして今日では、そのことがかえって諸悪の根源となってしまった感がある。性問題の専門家であるカンフォート博士もその著書の中で

 「性というごく当たり前の自然現象を厄介な問題としてしまったその最大の責任はキリスト教にある」と断言している。

 確かに、教会のこうした固陋な反進歩的教説は数多くの精神的ないし神経的な病気を生んでいる。特に、西洋諸国ににおいては離婚をはじめとする人間関係の破綻や不和は、その大半がキリスト教的戒律からくる罪悪感、不安感、挫折感といったものによって惹き起こされているといってよい。

 実際の治療に当たっている私は、そういった根拠のない宗教的罪悪感や抑圧観念から病気になっている事実を、まのあたりに見せつけられている。だからこそ、右のようなことが断言できるのである。初めのうちは精神的ないし心理的なものでとどまっているが、やがて肉体にはっきりと症状が出てくる。胃かいよう、腫よう、偏頭痛、関節炎、慢性的消化不良、喘息、吹き出物、そして癌。

 本章のはじめのところで、私は一切の先入観、既成観念を棄て去って欲しいと要求したが、〝一切〟は無理としても、ここまで私の説に耳を傾けられたからには、あなたの性愛観にもかなりの変化をきたしていることを期待しよう。

 そう期待したうえで、私はこんどは性のあり方について積極的な立場に立って、人間の性生活はかくあるべきだ、という意見を述べてみたいと思う。ご批判はそのあとにしていただこう。


 言うまでもなく性は本来悪ではない。目によって美しいものを観賞し、舌によっておいしいものを味わうのと同じように、性器によって肉体の快感を味わうことは極めて自然なことであり、有難いことであり、これが自然にできることに感謝しなければならない。

これを罪悪感や過度な羞恥と結びつけるなどは、もってのほかというべきである。身体そのものが性的快感を味わうように出来ているのであるから、罪悪感や羞恥心から性行為を忌み嫌うというのは実に愚かなことである。

 イヤ、私に言わせれば、性を否定することこそ神を否定することだと言いたい。性を抑制せんとする人たちがとかく病的なまでに精神的に歪められている事実が、その何よりの証拠だと思う。神は何ひとつ不要なものは与えていないはずである。

また具わっている道具は使うのが自然なはずである。

 宗教的とは別に、生理的な面から性行為を有害視する人がいるが、これもまた大変な誤りである。精子も卵子も適度に消費するようにできている。生理的機能に異常のある場合は別として、正常な機能を備えた男女なら、欲するままに行動して決して害はない。

正常であれば害になる前に欲求が止まるはずである。少しぐらいの疲労は、若い健康な男女なら一晩熟睡すれば回復するはずである。

 若者は自然な性行為を知るまでには、いろんな形で性の快感を味わい欲求のハケグチを求めようとするものである。その一つの現れが自慰行為であるが、これも至って自然な行為であり害も無い。大人になってからでも、これを性のハケ口として精神安定のために行うことは極めて賢明なことである。

 ところがこの自慰行為においても、キリスト教的罪悪感に根差した有害説によって、どれだけ多くの若者が精神的に苦しい思いをさせられてきたか測り知れない。

つまり生理的に抑えようにも抑えきれなくて自然な衝動によって行うのだが、その時の心理状態は悪いことをしているという罪悪感がつきまとい、それがかえって生理的にも悪影響を及ぼし、結局は精神的にも肉体的にも性のハケ口として効用を少しも果たさないことになるのである。これほど愚かで罪づくりな話は無いと言っていい。

 ある孤児院で興味ぶかい調査が行われた。そこの子供たちは当初は性行動についてあまり厳しい監視をされていなかった。それで殆ど全員が自慰行為の体験を持っていたが、ある時、実験的にその子供たちを二つのクラスに分け、一つのクラスではそれまでどおり自由に行動させ、もう一つのクラスには厳格な監視と説教を徹底させてみた。

 やがて成人して社会へ巣立っていったあと、福祉員が追跡調査を行った。その結果は厳格に育てられたクラスの全員が何らかの精神的症状を訴え、中には精神病院に入院したほどの重症患者もいたが、一方自由に行動させたクラスには一人も病的症状を訴えるものはいなかった、ということだ。


 自慰に次いで問題となるのは婚前交渉であろう。が、これについても私は自由な考えをもっている。これも自慰行為と同じで、性にめざめた若者が体験する自然な行動であり、正常な結婚生活に入るまでの段階的体験の一つと見るべきだと思う。

少なくともこれを宗教的な意味での罪悪と決めつけるのはもってのほかである。その根拠を説明しよう。

 成人からみて何でもないことでも、若者にとってたまらない魅力の対象となるものが沢山ある。音楽、芸術、スポーツ、自動車、その他何もかもが新鮮な興味の源泉である。そしてその中に性というものが入ってくる。

 素直に考えれば、若い男女がお互いの肉体の秘密を知りたいという衝動を覚えるのは自然である。これを暴行とか強姦とかいう形で体験するのはむろん罪悪であるが、愛し合っている者同士が心の関係から肉体の関係にまで発展していくのは極めて自然な成り行きであり、これは断じて罪ではない。

 が、まったく問題がないわけではない。女性が妊娠した場合である。中絶は絶対に許されない。なぜなら霊的にみれば人間は母体に宿った時から事実上の地上生活が始まっているからである。母体から出て呼吸を始めた時を一般に誕生といっているが、実際には母体に宿った時が誕生なのである。

 そうなると妊娠した以上は責任をもってその子を出産し育てあげる義務があることを、まず自覚しなくてはいけない。もしそれがイヤだというなら、妊娠しない工夫をすることである。つまり避妊である。

 宗教家の中には避妊をも罪として禁止する人がいるが、これはナンセンㇲである。どうしても生まれてくる宿命を持った子なら、いかなる避妊法を講じても必ず妊娠してしまう。人間がそこまで心配する必要はない。

 次に結婚後の問題に進もう。よく問題になるのが浮気であろう。もちろん単なる色好みによる浮気は許すわけにはいかない。が、

奥さんが余りに淡白すぎたり潔癖すぎたりして旦那の要求を拒否しすぎる場合は、たとえ旦那が〝外食〟しても奥さんは文句をいえた義理ではない。旦那の浮気を弁護するのではなくて、不自然な夫婦関係の副産物として、これはやむを得ない結果だと言いたいのである。

 というのは、こんな時もし旦那があくまで貞節を要求され、それを正直に完うしようとすれば、よくよく出来た人間でないかぎり、精神的な面で不自然な反応があらわれ、ついには肉体的にも異常をきたすようになるにきまっている。

 こんな時、お国柄によっては公然と二人目の妻をめとったり、いわゆる二号さんを置いたリするところもあろうが、〝先進国〟ではそれが許されない。となると、当然の成り行きとして〝こっそり〟とやるほかないことになる。

霊的にまだまだ未熟な地球上においては、単なる法律や戒律によって形の上だけきれいごとを説くよりも、もっと肉体の自然な欲望を素直に認めて、その欲求を満たすための現実的な手段を講ずることの方が大切ではなかろうか。

 よく考えてみると、一夫一婦制というのは男女の数がほぼ平均しているからそうなっている面が多分にある。考えてもみるがよい。もし男性の数が女性の半分とか三分の一とかになったら、どういうことになるか。逆に女性の数が極端に少なくなったら、どういう
現象が生じるか。大方の想像は大体一致するはずである。

 そういう面から考えても一夫一婦制というのは結婚形態としては数ある形態の中の一つに過ぎず、それも男女の数が平等な社会における便宜上の制度だということになる。


 以上私は従来の性道徳観からみて、異論とも非道とも言える説を述べてみた。が、私自身はすこしもそうは思っていない。何となれば従来の性観念のよってきたる根源にさかのぼってみると、性的に不能または異常な一個の人間によって作られた戒律に発していることが分かったのである。

 異常な人間の書いた掟に、どうして正常な人間が従わねばならないだろうか。従う必要もないし、第一従えるわけがないではないか。

それをムリして従わねばならぬと信じ込み、肉体的にも精神的にも不自然な努力を強いられて、古来どれだけ純真な若者あるいは成人があらぬ性的罪悪感に悩まされ、それが原因でどれほど多くの副産物的罪悪を生んできたことか。

現代人はこの点をよくよく反省し、厳正に見極めなければいけないと声を大にして叫びたい。

 たしかに人間は肉体のみで生きているのではない。が、霊も肉体に宿って生活している以上、自然な肉体的欲求を抑えたり無視したりしては肉体そのものに不健康であるのみならず、ひいては精神的にも悪影響を及ぼし、結局は肝心の霊的進化をも妨げることになる。このことを私は単なる理屈からではなく、多くの患者に接してそう結論せずにはいられないから言っているのである。

 結論として言いたいのは、要は動機が一ばん大切だということである。動機が自然な欲求に発したものであれば、決して罪悪ではないということである。

 この点は性の問題に限らない。人生百般みなそうであろう。人に迷惑をかけず、責任を自覚したうえであれば、何をやってもかまわない。罪悪感でもって人間を小さく縛りつけ、まともな性行為一つできないような、そんなだらしのない人間をこしらえるよりも、責任を自覚しながらノビノビと行動する人間に育てることの方がどれだけ立派か知れない。

 そのためにはまず、あなた自身が従来の根拠のないタブーや迷信から脱し、人間の原点に立ち返ることが先決だと思うのである。

 


                       
 第十一章 質問に答える

 私は心霊治療家として毎日幾人かの患者の治療に当たっている。大ていの患者は、来た時はただただ治してもらいたい一心なので、それ以上のことを考える余裕はない。が、良くなってくると、いろいろと質問をするようになる。

 直接聞く場合もあれば、手紙で質問してくることもある。心霊的なこと、道徳的なこと、心理学的なこと、生理学上のこと等々あらゆる分野にわたって質問を浴びせてくるので、私もうかうか勉強をおこたれない。

お蔭でずいぶんかしこくなった。いわば患者から教えられたわけである。

 さて、あなたもここまで私の説に耳を傾けてくださったからには、疑問に思うこと、聞いてみたいことが多々あるのではないかと察している。といって具体的にどんな疑問を抱いているかは知るよしもないが、これまでの体験からおおよその見当はつく。

これから掲げる質問とそれに対する私の回答を読んでいただければ、全部とはいかないまでも、大ていの疑問は氷解していくものと確信する。それが本文での筆不足を補うことになることを期待している。



(一)悩みや病気は何かの罰でしょうか

 信心深い人がよく抱く疑問ですが、決してバチが当たったのではありません。
 病気になるには次の三つの原因がからんでいます。

 まず第一に、日常生活や人間関係で難しい問題が生じます。これは地上という特殊な生活環境における神の試練であって、一人の例外も無く人間のすべてに共通した条件です。つまり誰だって難しい問題をかかえているのです。

 が、これに対する反応は人によって異なります。

 それが第二の原因をこしらえるのです。つまり問題に対する心の姿勢です。順序良く片付けていく人と、またか、といった気持ちで対処する人とでは大いに違ってきます。これを悩みとしてしまう人は、病気への最短のコースを辿っていることになるのです。

 それがやがて、第三の原因をこしらえる。つまり、その悩みの連続が肉体に反応を示すようになります。これで立派な病人になったわけです。

 私のところに来る患者の大部分が最初かならず「私の人生は悩みの連続です」と口を切ります。そこで私は言ってやります。

 「とんでもない。実際にあるのは〝悩〟みではなくて〝問題〟なんです。問題に対してクヨクヨ悩むのがいけないんです」と。

 神は問題を与えても、決して悩みは与えません。罰も与えません。もし与えているというのなら、その与えている張本人は自分自身だということを知ってください。



(二)〝最後の審判〟は本当にあるのでしょうか

 これもキリスト教が生んだ恐怖心の一つで、地上で犯した罪のために死後、寝巻き風のロングシャツをまとった白髪の老人によって裁きを受け、イエス・キリストを信じる者だけが救われるというのですが、こんな馬鹿げた話はないでしょう。

 すでに説いたことですが、物的宇宙に寸分の狂いのない物理的法則があるように、人間の思想、感情、行為のすべてにも因果律というものがあり、それ相当の責任を取らされるようにできています。

その責任は地上の時の流れの中においてさまざまな形で取らされており、イエスといえども釈迦といえども、代わって償えるものではありません。

 では十分な償いをせずして他界した場合はどうなるのかという疑問をもたれるのかもしれませんが、それは次の世界で償うことになるのです。地上と死後とを切り離して考えるからそういう疑問が出るのであって、あなたはそのまま生き続けるのであり、同じ宇宙の中で生活しているのです。ただ次元が異なるというに過ぎません。

 心霊学によると死の関門を通過して霊界にめざめると、地上生活のあらゆるできごとが、あたかもテレビのビデオテープを見るように眼前に展開するといいます。

良かったこと、悪かったこと、努力したこと、頑張ったこと、怠けたこと、
ズルがしこくやったこと等々が次々と映し出されます。見栄も欺瞞も剥ぎ取られた赤裸々なあなたの姿を見せつけられるのです。見ているあなたは当然いろいろと考えさせられる。

もう一度地上に降りて、今度こそ立派に生きてみようと思うかもしれない。つまり再生です。あるいは自分の地上生活に満足し、もう一段高い世界へ行ってみようという気持ちになるかもしれません。そこにはかなりの選択の自由があるようです。

 その判断はいずれにせよその場にのぞんでみないと分からないことですから、今から想像しても意味がありません。

それよりもあなたがいま心がけるべきことは、霊界に行って赤裸々な自分を見るように今この時点で現在の自分を赤裸々に見つめて、偽りのない真っ正直な人生を送ることです。神の御心に叶った人生を送っておれば何も恐れることはないはずです。



(三)まじめな生活を送れば報われるでしょうか

 〝まじめな生活〟とはどんな生活のことか、また〝報われる〟というのはどういうことを意味するかが問題でしょう。

 本書を読んでくださった方なら、その辺の本当の意味がわかっていただけると思いますが、もしも〝まじめ〟という意味を、たとえばあなたの信じる宗教の教義を忠実に守るとか、一地方の慣習に従い先祖伝来の家風をそのまま引きつぐことだとすると、そんなまじめさは神には通じません。

我欲を捨て、他人のために心をくだき、死後の存続を信じて霊性の開発にいそしむ───これならば神の心に叶った生活であり、大いに報いを受けるでしょう。すなわち〝健康と富と成功を得る〟ことができること疑いなしです。 



  (四)神の存在を信じますか

 私は信じます。自然界のいずこを見渡しても、そこには必ず〝意匠〟があり〝構図〟があることはご存知でしょう。

 小は原子から大は星雲に至るまで、数学的正確さと芸術的な美しさを具えた設計があります。デザインがあるからには、それを設計したデザイナーがいるにきまっています。それをゴッドと呼んでもエホバと呼んでもアラーと呼んでも、あるいは大霊と呼んでも生命力と呼んでも同じことです。

 ただし、神というものが人間と同じような姿恰好をしていて、常に自分への帰依の祈りを要求しているように説くのは私の理性が許さない。神はあくまでも人間の想像を超えた存在であり、われわれはその片鱗を僅かに見出しているにすぎないのです。

人間の霊的進化とは要するに神をより多く知ることだといってもよいでしょう。

 ボルテールはこんなことを言っています。

 「宇宙のことを考え出すとわけがわからなくなる。が、私のはめている腕時計には間違いなくそれを創造した人がいるのと同じで、宇宙にもそれを創造した何者かがいるに違いない」と。



(五)宗教をどう思いますか

 いかなる宗教も、もとはと言えば一個の人間から生じたのです。その人は大てい心霊能力を具え、ふつうの人に見えないものをみたり聞いたり予言したりしました。あるいは手を触れたり祈ったりするだけで病人を治すこともしました。が、その人が教祖となったというのではありません。

 その人自身はそうやって自分の能力を駆使して衆生済度を実践したまでなのですが、その死後、あとに残った弟子たちはどうしても能力が劣ります。すると能力で統率するのでなくて、教義や戒律でもって信者をまとめようとする動きが出てきます。こうして宗教団体が出来あがるのです。

 たとえばキリスト教を例にとってみますと、イエスはもともとユダヤ教徒で、アラブ人の容貌をした、色の浅黒い人間だったろうと想像されます。おそらく早くから心霊的な勉強と修養を重ね、少しずつ真理に目覚めていったはずです。

やがて数々の心霊現象と病人の治療によって人々をひきつけ、多くの弟子を連れて放浪しました。そして最後に、ローマの為政者
よって弾圧され悲劇的な最後を遂げたわけですが、イエス自身は一度たりとも〝キリスト教〟などという言葉を口にしたことはなく、最後までユダヤ教徒だったのです。

 ところがその死後、弟子達はイエスへの畏敬の念が強かったために、その生前の行跡をいろんな形(手紙など)で書き残しました。

それがいつの時代かに誰かによって編纂されたのが聖書なのです。が、その聖書に書かれている行跡が果たして本当かどうかはきわめて疑問のあるところで、あまりに矛盾が多いために聖書学者の中にイエスという人物の実在そのものを否定する人もいるほどです。

 ですが、一方聖書には一貫して流れている珠玉の真理があることも事実です。それは愛と奉仕とが最高の美徳であると説き、人類はみな平等であり、一人の例外も無く死後に存続するという思想です。

 実をいうと、こうした素朴な真理はどの宗教でも説いていることなのです。それが時代の違い、あるいは環境の違いなどによってさまざまに脚色され、変形され、また土着の民話や神話などが付着して、次第に複雑になり、もったいぶった仰々しい教義が作られていったのです。そうした夾雑物を拭い去れば、いずれの宗教もみな同じ真理すなわち人類同胞、愛と奉仕、死後の存続を説いているのです。

 私は非常に信心深い人間ですが、教会その他、宗教施設には一切通いません。私にとってそうしたものは単なる建造物にすぎず、信仰の場としてより、むしろ人間のうぬぼれの記念碑としてしか目に映らないのです。

 私にとって宗教とは、端的に言うと自分本来の霊的生命と、この世で与えられた物的生命の融合です。つまりこの物質万能主義の世の中にあって、霊性に目覚めていない人と神との縁の架け橋の役目をつとめることです。

 

(六)自分以外の者への責任はどこまで負うべきでしょうか

 これも〝責任〟という言葉の問題がありますが、かりにあなたが父親の立場にあれば当然子供を一人前に育てる責任があります。すなわち衣食住を適度に満たし、愛情を傾けて、この世の人間として一人前にしてやる義務があります。

 が、観点を霊的な立場においてみると、この世に生まれてくる霊は誕生の時点においてすでに霊格の差があり、それに応じた目的使命をもっているのですから、たとえ父親といえども干渉することは許されません。

 たとえばあなたに二人の息子がいるとしましょう。一人は父親のあなたよりはるかに霊格の高い霊魂かもしれません。そういう霊にとっての本当の生きがいはあなたが考えるものとは当然違ってくるはずです。

あなたが財産を譲ろうとしても「金はいらん」といって奉仕の道に入るかも知れませんし、出家して僧侶になるかもしれません。あなたはそれに反対する権利はないのです。

 一方もう一人の息子は霊的に未熟で善の認識の程度が、きわめて低く、いわば動物的段階を脱しきっていないかも知れません。そして、やがて成人して屠殺場で働くようになるかも知れません。が、あなたはそれを止める権利もなければ責任もなく、「あんな息子にしたのは父親の自分が悪かったのだ」などと悔やむ必要もないわけです。

 あなたがこの世で全責任をもつべき人間は一人しかいません。それは外ならぬあなた自身です。自分自身への責任には口実も弁解も言い逃れも許されません。自己弁護して責任を回避しても、それだけあなたの霊的進化が遅れ、損をするだけです。

そして、どうせいつかは責任を取らされるのです。ならば一切の虚偽や見栄をかなぐり捨てて、自分の行為と思想と言葉に責任をもとうではありませんか。

 

(七)食生活はどうあるべきでしょうか

 何を食べるべきかを考える前に、今われわれはどんなものを食べさせられているのかを検討してみましょう。

 まず最初に、おそらくあなたも最高の栄養物と思い込んでいる〝肉〟のことですが、これが実は大変な毒物であることを知ってください。最近の食用肉(牛、豚、にわとり)がどんな方法で飼育されているかご存知でしょうか。

できるだけ太らせるための合成ビタミンやタンパク、病気にかからせないための何十種類もの抗生物質を飼料に混ぜ、さらに別の薬品を皮下注射します。そしていい加減な大きさに成育すると屠殺場に連れていかれ。むごたらしい雰囲気の中で殺されてしまいます。

 殺されるとすぐ首と四肢を切り落とされ、まだピクピク動いているうちに冷凍されます。それから何ヵ月あるいは何ヵ年かして冷凍庫から引き出され、解凍され、いかにも新鮮に見せるために染料を使って着色し、繊維を柔らかくするために木づちで叩き、味を良くするために化学調味料の中に浸します。

こうしてようやく一般の家庭の食卓にのぼらされるわけですが、それをいかにも上肉だといって舌鼓を打ち、栄養を取っているかに錯覚し、豊かな食生活をしていると誇りを感じているのですから哀れです。無知ほどこわいものはありません。

 肉類だけではありません。ある有名なメーカーのビスケットを分析したら次のような結果がでました。

 「小麦粉、プロセスチーズ、綿実油、大豆油、コーンフラワー、合成香料、塩、砂糖、脂肪酸エステル、卵黄、ベーキングソーダ―、グルタミン酸ナトリウ
ム、ヒドロキシルアミン、ヒドロキシトルエン、合成着色料、プロプリガレート」

 なんというひどい合成品でしょう。聞きなれない名前はみな有害物質です。ツヤのいいリンゴ、赤々としたニンジン、プラム、ナシ等々、店頭に並ぶおいしそうな果実や野菜類も油断がならない。おびただしい農薬によって栽培され、おそろしい染料で着色されているからです。農薬による汚染は野性の動植物を日に日に滅亡の運命へ追いやっています。

人体には無害だという人がいますが、一体何を根拠に言っているのでしょう。

人間がたった一種類の食物だけを食しているのならともかく、一日何十種類もの食物を摂取するのですから、その一つ一つに含まれている農薬や合成添加物の蓄積がどんな影響を及ぼすか、ちょっと想像しただけでも恐ろしくなります。
 
 では私自身どうしているか。どんなものを食べているかという話を次にいたしましょう。

 私の家は私を入れて五人家族です。その中で肉類を取らないのは私一人です。食卓につくと、妻が仔牛だの豚だのアヒルだのをナイフで切り割いて子供たちに分けているのを見つめていますが、私にはそれが赤ん坊を切り割いているようにみえて耐えられません。

私の皿に盛ってあるのは野菜に卵にチーズといったものばかりです。他の家族とまったく違った食事をとっているのですが、家族には同じものを強制しません。いつの日か、私の食事の正しさがわかってくれる時が来ると確信しているからです。

 本書では病気の原因をいろいろと説きましたが、実はその重要なカギをにぎるものとして、食事の問題があるのです。ことに現代では、いわゆる悪食による病気が増えつつあります。

 私は人間は穀類と新鮮な野菜と果実、ピーナツのようなナッツ類、卵、チーズ、ミルク等を適当に食しておれば、栄養的に十分に健康を保てると考えています。

神は決して、動物を不自然に飼育して殺すという残酷なことをしなければ生きていけないようには作っていないと信じます。植物だけで十分生きていけるし、それがまた食糧危機といわれている今日の食糧問題を解決する道であるとも思います。

 もちろん何を食べようとあなたの勝手です。が、フランスの作家で食通としても知られたブリヤ・サバランの次の言葉をよくよく味わっていただきたい。

 「人がどんなものを食べているかによって、私にはその人がどんな性格の人間であるかがわかる」



(八)酒やたばこはどうでしょうか

 誰が何と言おうと、酒は所詮はアルコールであり、一種の薬品であることを知ってください。クスリに中毒はつきものです。アルコールによる中毒の恐ろしさは今さら私が述べるまでもなく、社会問題の一つとなっています。酒なしに生きていけないという人は言わばオモチャなしに遊べない幼児と同じで、人間的に未熟であることを示しています。

 一方、タバコの害は酒以上にすでに語りつくされて、科学的にもはっきりとした結果が出ているのですから、私から注意するまでもないでしょう。要するに、百害あって一利なしの一ばんの見本といってよいでしょう。

 たばこの癖は酒以上にタチが悪く、一度吸うことを覚えると、余ほどの精神力がないかぎり、やめることは無理のようです。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを一度目の当たりにしたら、一ぺんに気分が悪くなり、吸うのが恐ろしくなります。

 イヤ、そのことならよく知っている。命を縮めることも知っている。肺を痛めることも知っている。金のムダ使いであることも知っている。だが、だからといってタバコをやめようとは思わないという方は、どうぞお吸いになって下さい。知らずにやっていることならムリにもお止めしますが、百も承知のうえなら酒もタバコもどうぞお好きなようにやってください。所詮はあなた自身の問題ですから。



(九)人間には自由意志というものがあるのでしょうか。それとも運命がキチンと定められているのでしょうか

 自由意志と運命の問題についてはすでに数多くの本が書かれています。人間は将棋の駒のようなもので、何ものかによって一挙手一投足まで操られているのか。運命というものがキチンと定まっていて、芝居のように筋書きどおりに動くだけなのか。

インドなどではこの運命観が非常に強くて、貧民街などで見かける乞食はみな「自分は乞食の人生を運命づけられているのだ」と信じて、物乞い以上のことは何もしようとしません。
  
 西洋にもこの種の運命諦観思想とでも言うべき思想を抱いている人は少なくないようです。若気の至りでついつい肉体関係にまで行ってしまった男女が「こうなるのも宿命だったんだ」などと真面目な顔をして言うらしいのですが、好き合った者同士でやった楽しい体験を、なぜそう深刻に弁解しようとするのか、私にはわかりません。

 なるほど、理屈を単純に組み立てればそういうことにならないこともないでしょう。つまり宇宙には凡てを支配する全知全能の神がいて、雀一羽、木の葉一枚といえどもその生死を見のがすことはないとなると、われわれ人間の生死もその神によって支配され身動きができないはずだというわけです。

 が、これがあまりに単純な論理であることは、少しでも融通のきく頭の持ち主ならすぐわかるはずです。ナチス・ドイツのヒトラーが、神の与えた宿命によってあのような残虐行為をやったとはとても考えられないでしょう。

十三世紀から十九世紀にかけて続いたローマ・カトリックによる非道きわまる宗教裁判の犠牲者たちが全知全能の神の思し召しだったとは、まともな理性の持ち主には到底考えられないことです。

 ではどうだというのか。宇宙は偶然の産物で目的も計画も無く、人間は何をしようと勝手にできているとでもいうつもりか。そうは言っておりません。

もしも私が精子と卵子の偶然の結合によって生産された気まぐれの産物だとすると、何のけじめもない無味乾燥な人生を送っていることになりましょう。「何をしようとオレの勝手だ」こういう人生観が生まれても仕方がないことになります。

 結論を申しましょう。両方とも真理の半分しかとらえていません。宇宙には確かに厳然たる目的と計画があり摂理があります。好むと好まざるとにかかわらず、あなたもその機構の中の一部であり、逃れようにも逃れられない宿命を負っております。

 たとえば、あなたは男性としての生を享け背は低く色浅黒く、髪の色も黒だとしましょう。これだけは変えようにも変えられますまい。

生まれついた国家、民族も生年月日も宿命といってよいでしょう
。個性も霊格も前もって定まっています。それを進化向上させる目的をもってこの世に生まれ出て来たのです。

 また、どういうタイプの人生を送るかも定まっています。寿命も定まっています。ビッコになるか、脳性マヒになるか、万能スポーツマンになるかも定まっています。頭の良し悪しも定まっています。人生の航路において遭遇する困難や事件などもあらかじめ定まっています。

 実はこうした一定のワクの中で、あなた自身の自由意志が与えられているのです。これを大学生活にたとえれば容易に理解が行きます。

 かりに、A大学のB学科に入ったとしましょう。その大学はいつ始業式があって、何年後に卒業するということが、あらかじめ定まっています。またその間に学ぶ教科の数、使用する教材、担当教授の顔ぶれ、試験の時期、休暇の日数等々もあらかじめわかっているわけです。

 が、だからといって、学生に自由意志がないわけではないでしょう。つまり、真面目に出席しようが適当にさぼってデートを楽しもうが、学校側の知ったことではありますまい。試験でいい点を取るか悪い点を取るかも本人の努力次第でしょう。結果として首尾よく卒業するか、留年するかも本人次第でしょう。

 人生もこれとまったく同じです。男女の別、顔の美醜、貧富の差、知能程度、性格、霊格、こうしたものは前もって定まっています。が、そうした条件のもとであなたがどういう人生を送るかは、あなた自身の自由意志の問題なのです。



(十)私も死後生き続けるでしょうか
 その通り。あなたも私も、そして人間すべてが一人の例外もなく死後も生き続けます。これは〝信仰〟ではなくて〝事実〟なのですからどうしようもありません。生きたくないといっても生きています。

 洗礼を受ければ永遠の生命が与えられるとか、懺悔してかくかくしかじかの教義を信奉すれば天国へ行ける、とか言った説も誤りです。好むと好まざるとにかかわらず、人間はすべて現在の個性のまま死後も生き続けるのです。死んだと思っているのは肉体だけで、霊的なあなた、本当のあなたはちゃんと生きつづけております。意識も今のままです。

 結局、自分だと思っていたこの肉体は実はただの道具であって、肉体と別個の存在である本当のあなたが肉体に宿って操縦していたのです。

ちょうど車を運転するのと同じです。車が故障して動かなくなったからといって、ドライバーが死んだわけではないでしょう。肉体をオーバーコートにたとえてもよいでしょう。温かい春になって、重くてきゅうくつなオーバーを脱ぎ棄てるように、肉体という鈍重な道具を地上に捨てていくのが死というわけです。

 実は死後の世界にも何段階かの階梯があり、上には上があります。死んですぐの世界からもう一段高い世界へ進もうとした時、自分の経験不足、霊格の低さを自覚して、もう一度地上へ再生してくるかも知れません。あるいは地球以外の天体へ行くかもしれません。

再生して天才になるか低能児になるか、王子になるか乞食になるか、スポーツマンになるか身体障害者になるか、それは今から予想はできませんが、そんなことはどうでもいいのです。要はその人生から何を学ぶかということです。

 たとえば、脳性マヒの人を見ると気の毒に思いますが、実はその肉体に宿っている霊は気の毒がっている人たちよりはるかに霊格が高くて、一層の進化のために敢えてそうした不自由な身体に宿って、そうしなくては得られない貴重な体験を積んでいるのかも知れません。

 また金持ちをとかく羨ましがりますが、その人自身は実はその大金をどこまで有効に人のために使うかをテストされているのかも知れません。表面だけを見て羨ましがったり気の毒がったりするのは禁物です。人それぞれの霊格に似合った目的をもって生まれているのですから。
 

        
 あとがき
 宇宙には人間の力ではどうしようもない不変不滅の法則が存在する。その一つで根源的なものが原因結果の法則、いわゆる因果律である。あなたが今おかれている環境に対していかなる気持ちでどう対処するかによって、次の環境が定まるというのである。

 そこで私は、人間はもともと健康で快適な人生を送るように出来ているのだという信念のもとに、健康と富と成功を手にするには現在の環境に対していかなる姿勢でどう対処すればよいかを、心霊学の原理と私自身の心霊治療家としての体験をもとにして説いてみた。

 人間はみな死後も生き続ける。霊的生命は決して断絶しない。進化向上にとって必要な体験を得んがために、それぞれに適した環境に生を享けているのである。あなたはまず、自分で選んだ今の人生に全責任をもつべきである。

その責任を果たさずに迷いの人生を送ると、また地上に戻って来なければならない。

 こんな本を読むんじゃなかった────そう思っておられる方もあるかも知れない。が、もうおそい。真理を知ってしまったからには、それなりの責任と義務が生じる。弱音を吐かずに前向きに積極的に生きることだ。

 最後にあなたのために祈ろう。

 「神よ、どうにもならない宿命を堂々と受け入れるだけの度胸を与えたまえ。改められるものは躊躇なく改めていく力を授けたまえ。そして正邪、善悪、適否を誤らず識別する知恵を賜わらんことを」
                             M・H・テスター



 訳者あとがき
 本書は心霊学の日常生活における実践を説いたものである。もっと正直に言えば、スピリチュアリズムの実践的指導書である。

 心霊学が即スピリチュアリズムではない。心霊現象あるいは超自然現象と呼ばれている異常現象を学問的に解明したのが心霊学であり、その原理を道徳、哲学、宗教の各面に活用したのがスピリチュアリズムである。

つまり心霊学はスピリチュアリズムの科学面を代表するものであり、その意味で心霊学はスピリチュアリズムの中で初めてその価値を発揮するものである。心霊学そのものだけでは存在価値はないといってよい。

 ところが昨今の一般的傾向を見ると、心霊学───それも目に映じる他愛ない現象、たとえばスプーンを曲げるとか、物体を動かすとかいった、心霊学の中でもほんの一部にすぎない現象に興味が集中し、いわば興味本位の見せもの的人気に終始しているきらいがある。本来の有り方からすれば、これは文句なしに堕落といってよい。

 こうした傾向を慨嘆し警告を発する声は日本のみならず欧米においても昨今しきりに耳にする所であるが、テスター氏はそういった次元を超越して、氏自身の治療家としての体験をもとに、スピリチュアリズム的観点から、実生活における物の考え方の思い切った転換を力説している。

その説くところまさに心霊的であり、しかも自信と説得力がある。

 それもそのはずで、氏自身がかつて二年近い闘病生活で殆ど人生に絶望しかけていたとき、一心霊治療家によって奇蹟的に回復した体験があるのである。これが氏をスピリチュアリズムに開眼させ、さらには自ら心霊治療家になるキッカケとなった。

 氏にとってスピリチュアリズムは生き甲斐の源泉であり、心霊治療は神への感謝の念の実行である。最後の質問の章で言っているように、これが氏にとっての宗教なのである。

本書に説いていることは氏みずから実践していることばかりであり、決して単なる理屈ではない。本書が世界十数か国語に翻訳されている理由もその辺にある。

 本書の翻訳に当たってテスター氏と交わした手紙を通じて私は、氏が真に無欲と奉仕の精神に徹した善意の人であることを感じとってはいたが、昨年(一九八一)一月に氏を英国サセックス州のお宅のお訪ねした時、数時間にわたる会話の中で、その誠実さと奉仕の精神を改めて感じとった。

又、氏の治療効果はBBC(英国放送協会)も取材に来るほど知れわたっている。

 世界の勝れた宗教はみな、詮ずるところ無欲と愛と奉仕を説いている。本書はささやかな書ではあるが、その説くところはいかなる宗教書にも負けない卓越したものをもっており、氏の説くところを正しく理解し実践すれば、いつどこにいても宗教心の実践が可能である。

ここに本書の価値があり、同時にまた多くの霊界通信が指摘するように、スピリチュアリズムの目的と意義もそこにある。

 私が本書の翻訳を思い立った動機もそこにある。本書によって一人でも多くの日本人が新しい人生観を確立されんことを望んでやまない。

 なお本書は昭和四十一年に「こうすれば健康と富と成功が得られる」という書名で日本心霊科学協会から発行されたが、この度潮文社の要請を受け、書名を改め、わずかではあるが加筆訂正を施し、さらに原著者のロングセラーである小冊子「死とは何か──悩める人へのガイドブック」を巻末に添えて再発行される運びとなった。

潮文社のご厚意と、その潮文社の要請を快諾して下さった日本心霊科学協会に対し厚くお礼を申し上げたい。



        
      付録   The Bewildered Man‘s Guide to ‘ Death
    『死』とは何か──悩める人へのガイドブック  

 いま、かりに医学関係の図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物がところ狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。

われわれ門外漢──門外婦人とでも言うべきか──のための本も大変な数である。それに加えて最近では至るところで婦人のための講演があり、診察所(クリニック)があり、テレビ番組がある。

 人間の誕生については驚くべき段階まで研究が進んでいると言える。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。

 さて、無事出産の過程を経てこの世に出てくると、こんどは、いかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく、目にも見せてくれる。最近出版された人生の書をちょっと拾ってみても──

 The Power of Positive Thinking(人を動かす)、How to Live 365 Days a Year(一年三六五日をいかに生きるか)、How to Stay Alive All Your Life(生涯を生き生きと暮らす法)、How to Stop Worrying and Start Living (悩みを忘れて生きる法)等々がある。

 地球を破壊するか、それとも無節操な快楽の場にするか、そんなことに躍起になっているように思える今の時代に、こうした真面目な人生指南の書が次々と出て来ることは注目すべきことではある。

 もっとも、難解な人生哲学ならいつの時代にもあった。が、そうした哲学書は神学者か大学出のエリートが読むものと相場が決まっていた。

また誰しも何らかの人生の書に接する時期はあるもので、バイブルなどもある意味では人間の生き方を説いた書であり、かつては(西洋の)どこの家庭でもこれを人生訓として父親が読んで聞かせたものである。

今日の人生訓と異なるのは、最近のものが平易な日常語で書かれていて、誰にでも理解できるという点である。実際それは徹底して大衆を相手に書かれているのである。

 これでおわかりの通り、今やわれわれは、この世にいかにして生まれいかに生きるかについては、ありとあらゆる知識を手にしたと言えよう。が、いかにして死ぬか、についてはなぜかまだ一冊もお目にかかっていない。

 一冊もないというのは語弊があろう。死とは何かという問題を扱った書物があることは私も認める。がそれはみな宗教家の書いたものである。

宗教家というのは、まず第一に宗教的理論に終始するという点、第二にいかなる教えもその人の宗派的教説から離れることを許されないという点、この二点において徹頭徹尾一つのワクの中に閉じ込められている。

しかも大方の宗教は古くさい罪と罰の教義の上に成り立っている。真面目に生きておれば報われ、悪いことをすると罰せられるというのである。が現実にはかならずしもそうでないから、それは死んでから裁かれるのだと言い出す。すなわち、まじめにしておれば天国へ行き、悪いことをすればかならずや地獄へ行くのだ、と。

 こうしたいい加減なハッタリ理論は当然正常な思考を歪めてしまう。宗教家は天国と地獄、罪と罰の理論からしか死の問題を扱えないのである。

 私は書物を読んでいていつも感じるのであるが、本当によくわかった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実に分かりやすいのである。が、

よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解出来ないところが出てくる。読み終ってみると、読み始める前よりも一層分からなくなっている、といったことになる。

 死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が一度も死を経験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。

 こうなると、平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か死後の保証のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通い始めるのもそのあらわれである。

慈善事業に寄付したりするのもそのためである。そして、いいおじいちゃん、あるいはおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。

それもこれも、六、七十年にわたって人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうしたわずか二、三年あるいは数年の〝立派な行い〟によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。

 もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それもお座なりの宗教的教説にしばられず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間──霊界のスピリット──によって書かれた死の参考書が必要なのである。

 死ぬということは生きるということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日一日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければいかなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身で通したければそれでもよい。

が死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を買われたお金も決して無駄ではないであろう。



 自分とはいったいなんだろう
 あなたがまず第一に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教えこまれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。天国も地獄も忘れよう。

天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたりいじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。

 さらに、〝最後の審判〟の教えも忘れてしまおう。要するに聖典教典の類を忘れてしまうのである。そして死というものを一度も考えたことのない自分に戻るのである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。さらにこんどはその前、つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に・・・・・・

 こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く。しゃべる。歌う。車を運転する。が肉体そのものがそうしているのではない。そうしたことをさせる何かが内部にある。

その何かが〝精神〟である。ではこの精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。

精神は肉体を操る、いわばコントロール・ルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発しているのである。

 脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。が、その脳をとり出してビンの中で保存することも出来る。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれでわかる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それを買って食べる人もいる。

 実はこうしたものとは全く別に、第三の要素があって、それが肉体と精神とともにあなたという一個の人間を構成しているのである。その第三の要素がスピリットである。

そのスピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。

 ではその証拠を見せてくれ──あなたはそうおっしゃるかもしれない。スピリットを見せろとおっしゃるかもしれない。が、スピリットは人間の目には見えないのである。ここに一人の人間がいる。衣服をはぎとれば肉体が見える。頭にドリルで穴を開ければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見当たらない。

 死体をごらんになったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうその人はそこにはいない。ただの抜け殻。肉と骨と繊維の固まりにすぎない。放っておくとすぐに腐敗するので穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。

 その死体がその人そのものだったのだろうか。その肉のかたまりが愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論をたて、異性に求愛したのだろうか。

誰にもそうは思えない。何か大切なものが失われている。つまりスピリットが抜けているのである。つまりその肉体は死んだのである。

 人間は肉体と精神とスピリットの三つの要素から出来上がっている。

そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、一個の生命体としての存在を与えているスピリット。この三つである。

 死に対して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。〝自分〟は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質体を通して六、七十年の地上生活で自分を表現しているのである。


 なぜこの世に生まれて来たのか
 実はこの世とはまったく別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやってきた。そしてまたそこへ戻っていくのである。この世と違うと言っても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が違うのである。

 かりにリップ・バァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が百年後のいま地上に戻ってきたとしよう。そこであなたはこう教えてあげる。

 「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですョ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり、歌もあるし、しゃべっている人もいる、劇もやっています」と。

 それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いするであろう。そこであなたは、やおら、ポケットからトランジスタラジオをとり出してスイッチを入れる。なるほど、いろんな声、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつつまれた気分になるであろう。

 実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異なるために感じられないだけである。従ってそれを感じとろうと思えば、トランジスタラジオのような特殊な受信機が必要である。それがいわゆる霊能者または霊媒と呼ばれている人たちである。

 私はいまガイドブックを書いているのであって専門書を書いているのではない。あまり入り組んだことは述べない。スピリチュアリズムの専門書ならたくさん出ているから、細かいことはそちらにお願いして、私はただ案内するだけに留めたい。

 スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。言ってみれば特別の教育施設、それもきわめて基礎的な教育を受ける場である。

あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦とチャンスを求めてやって来たのである。

 地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ系統に属するスピリットで、困難や悩みに当たってアドバイスをしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。

実はあなたがこの世に来るに際しては、その背後霊(となるべき仲間)といっしょになって地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的にはあなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。

 その仲間たちはあらかじめ地上を霊界から調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちに別れを告げる。これはあなたにとっても仲間たちにとっても悲しみであろう。

というのは地上生活中も背後霊として援助するとは言っても、その意識の疎通は肉体によってずいぶん制限されるからである。

やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間をねらって、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。

 ここでちょっと横道へそれるが、いま世界で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットは宿っていないからである。が、

いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。

 それ故に堕胎は一種の殺人行為と考えねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は九ヶ月に亘って母体のぬくもりと気楽さの中で成長する。そして十ヶ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間に霊界から地上に移行するのである。

 われわれ地上の人物は子供が誕生すると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当り前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した際、霊界では悲しみを味わっている。なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。

反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。なぜなら仲間と再会できるからである。

 さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。

 苦難に直面したり病気になったり、大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。

 「どうして私はこんな目に遭うのでしょうか。私は真面目に生きてきたつもりです。人を傷つけるようなことは何一つしていません。なのになぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。

 実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。がそうやって鍛えられてはじめて一段と立派な刀となるのである。苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、この苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。

 そんな不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受け止めて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得、そうした神の試練を受けられるようになった自分をむしろ誇り思うのである。

 要するに地上生活は勉強なのである。人生が与えるさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか、それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。


 自由意志はあるのだろうか
 人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。この自由意思と宿命についてはとんでもない説が横行している。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。

人生はすでに〝書かれてしまっている〟───つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的にきまっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して乞食同然の生活に甘んじる。 

 もう一方の極端な説は、何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけて生きていく連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。

 両者とも完全に真実を捉えそこねている。まず宿命について考えてみよう。かりにヨーロッパの白色人種として生まれたとしよう。これだけは変えようにも変えられない。

黒人に生まれる可能性もあったし東洋人に生まれる可能性もあった。が現実は長身で細身で色白、そして青い目をしている。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けている。これもどうしようもない。

 また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。できることなら十六世紀に西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかもしれない。がどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。

寿命の長さも決まっている。どんな人生を送るか、その大よその型も決まっている。また苦難の内容──病気をするとか、とんでもない女と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気──こうしたこともみなあらかじめわかっている。

 あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。ただし地上生活中のある時期に必ず霊的自我にめざめる瞬間というのがある。これもわかっている。

 宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意思はあってもその因果律の支配から逃れることはできない。水仙の球根を植えれば春になると水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。

 それは極めて単純な法則である。科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為にはかならず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。

 さきに、地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異なるし、霊的進化の程度にもよる。

 たとえば、ひどい痛みに苦しんでいるとする。仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだあげくに、ある心霊治療家を知って、奇蹟的に治った。うれしい。涙が出る。感謝の念が沸き出る。

 実はその時こそあなたが真の自我に目ざめた時である。この機に、その感謝とよろこびの気持ちでもって、自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのようにできあがっているのか、信仰とは、幸福とは、と言ったことを一心に学べば、その時こそあなたにとっての神の啓示の時なのである。

 こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちの道を取るかに迷っている時が考えられる。

道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。左を取れば確実に大金が入るが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。といった場合もあるであろう。神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間である。

 さらにもっと日常的な例では、自分自身は厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐をもって臨む、その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。

 因果律は絶対に変えられない。歪げることも出来ない。無視することも出来ない。

このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶのである。

生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種──こうしたワク組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。


 悪いことをするとバチが当たるか
 罰にもさまざまな意味がある。みんなと同じことが許してもらえないというのも罰であろう。たとえば他の友だちがお菓子を貰ったのに自分だけ貰えないという罰がある。

学校で弱い者いじめをしているうちに次第にみんなから嫌われて友だちがいなくなる。これも罰を受けたのである。良心の呵責も罰である。良心に背く行為をして「悪いことをしてしまった」という気持ちが嵩じて心身ともに病的状態に陥ることがある。

 思考力を具えた成人が過ったことをすると、それ相当の苦しみを味わう。これは因果律の働きである。たった一度の過ちが人生を歪め、何をやってもうまくいかない。

良心が痛み、心穏やかな日が一日としてない。晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったこと知る。何のために生まれて来たのかもわからないということになる。

 反対に良い行いは気分を和ませ、すっきりとして晴れやかである。その気持ちがまわりの人々にも好感を与え、何もかもうまく行く。晩年にわが人生を振り返って、充実した幸せな人生であったと思う。

 善か悪か、正しいか間違っているかの判断は生涯つきまとう問題である。正しく生きれば充実した幸せな人生となるし、過ちを犯すと無味乾燥な人生に終わる。

現代の精神科医はいろんな理屈をこねるようであるが、善悪は厳然と存在し、霊的に成長するほどその感覚が鋭くなるものである。

 過ちを犯さない者はいない。が、ある一定の条件下において何が一ばん正しいかを判断することは誰にでもできる。たとえば、いま盛んに行われている生体解剖と動物実験は残酷な行為であり間違っている。

道義的に間違った行為が医学的に正当化されるわけがない。人をだます。ウソをつく。約束を破る。これらはみな悪である。仕事においても真っ正直でなければいけない。道義的に間違ったことが仕事の上で正当化されるわけがない。

 毎日の人と人との関係において、各自の道義の鑑に照らした行動の規範というものを維持することは可能である。それを過ると人生が無意味で空虚となる。あなたが求めようとしたものが逆にあなたを蝕んでしまう。そこに因果律の働きがある。

 そこであなたは尋ねるであろう。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、善い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうか、と。

 そんなことは絶対にない。が、次のようなことは必ず体験させられる。まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに地上生活を振り返る。

正しかったことも間違っていたことも細大もらさずビデオのように再現され、この判断は正しかったが、ここはいけなかった。ここでこんなことをしたから、こうなったのだ、といった調子で背後霊から説明を受ける。

 それから背後霊と話し合って、もう一度高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上生活を体験する必要があるかを判断する。もし再度地上に戻ると決まったら、しばらく休息を取り、精神統一をしながら調整する。

 やがて準備が整う。指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。それまでに何世紀も経っていることもある。いよいよ時機が到来すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を棄てて地上の一女性の胎内へと入っていく。宇宙学校の第二学期が始まったのである。


 自殺と死産と幼児の死について
 地上に生を享けた時、すでに寿命の長さがきまっている。その寿命がつきないうちに不自然な方法で生命を断つと、その埋め合わせをするために再び地上に戻ってこなければならない。

 自殺をするのに勇気は要らない。自殺は実は臆病者のとる手段である。くじけず生き通すことこそ勇気がいるのである。自殺は何の解決にもならない。自殺者は本来なら生きるべきであった失われた年数を生きるために再び地上に戻ってくることがある。

死産とか若死するのはこうしたケースである場合がある。

 死ぬということを刑罰のように考えてはいけない。死は次の世界へのステップにすぎない。死亡証明書はいわば宇宙学校の卒業証書のようなものである。学生が大学を出て社会生活に入るように、地上という学校を卒業して次の世界へ進む、その関門にすぎない。

 いざ卒業となると誰しもそれまでの学校生活に後ろ髪を引かれる思いがするように、他界入りした人間はしばし地上生活に思いが残る。しかし前進するほかない。さまざまな思いも、新しい世界の物珍しさと自由の中に、いつしか忘れ去られていく。

 地上に生まれてくるスピリットの中には、ホンのわずかな体験しか必要としない者もいる。従って若死する者のすべてが前世に自殺したものと考えてはいけない。

高級なスピリットが子供の生活を体験しにやってくることがよくあるのである。そういう子は愛らしさと純真さとやさしさに光り輝いて見える。


 背後霊とは
 人間にはかならず複数の指導霊がついている。知識と体験を積んだスピリットで、地上生活を送る人間を陰から指導援助してくれる。

 その中には本人の親戚に当たる人、たとえば祖父などがいる場合もあるし、数世紀も前に他界した霊で、特殊な体験を生かして指導に当たることになった者もいる。いずれにしても、そのスピリットたちとはこの世に生まれる前は霊界で一緒だった仲間である。

地上生活中ずっと面倒を見て、地上を去る時もまっ先に迎えてくれる。

 背後霊とはいろんな形で連絡が取れているのであるが、普通の言語による連絡はできない。それだけ連絡路が狭められているのである。

たとえば背後霊はあなたの脳裏にある考えを吹き込んだり、あなたの悩みを解決してくれそうな人のところへ案内したり、その他いろんな手段を講じて援助する。どこでどういう援助があってこうなった、といったことは霊能者には分かるが、普通の人間にはわからない。

 その霊能者、ときに霊媒とも呼ぶが、これはスピリットと直接交信する能力を具えた人のことで、中には入神状態でやる人もいる。いわば深い睡眠のような状態に入り、その間に背後霊の一人がその身体を使って話をする。

〝霊を呼びよせる〟などと言う人がいるが、実際には霊の方から人間に交信を求めてやってくるのである。人間側としては交霊会にでも出席して通信を待つほかはない。

 しかし間接的な通信なら日常生活において出来ないことはない。波長を整えることによる方法である。ラクな服装で安楽イスにでも腰掛ける。部屋は薄暗く静かにして、外部から邪魔されないように配慮する。ネクタイをはずし襟を開き、上着を取り、靴を脱いでゆったりとした気分になる。そして目を閉じてゆっくりと呼吸をする。

 その状態が背後霊にとってあなたと交信するのに最も望ましい状態である。その状態をしばらく続ける。ニ十分くらいたって何の変化もなくてもあきらめてはいけない。そのまま寝入ってしまってもかまわない。大切なのは悩みを忘れてしまうことである。

リラックスして夢見心地になることである。こうしたことを何度か繰り返しているうちに、ある時ふと緊張がほどけて、ある考えが外から飛び込んでくるようになる。それですんなり難問が解決したり見通しが立ったりする。背後霊のおかげである。



 死ぬときはどんなふうになるのか
 寿命が尽き、いよいよ死ぬ時期が近づくと、一種の緊張の弛みを感じる。苦痛も不快感も消える。そのうち肉体からふわっと浮き上がるような感じがする。アドバルーンのような感じである。ふと下を見ると自分(の肉体)が横たわっている。

 その肉体と本当の自分とは細い銀色のようなもので繋がっている。それがいきいきとした光輝を発しながら鼓動している。これがいわゆる玉の緒、生命の糸である。

上昇するにつれてその紐が 伸びて細くなり、同時に光輝も薄くなって、ついには消えてしまう。紐も見えない。その時あなたは死んだのである。しばらくは浮いたままの状態で下を見おろしている。気分は良く、ラクである。

やがてさらに上昇して灰色のモヤの中を通っていく。するとそこに仲間たちが待っている。地上時代の背後霊である。笑顔で迎え握手をする。そして一緒にモヤの中を通り抜けていく。そこが死後の世界である。

 スピリットの容姿はその人の最盛期の相をしている。一人ひとりみな違う。四十代の働きさかりの姿をしている男性もおれば、二十代の最高に美しい容姿をしている女性もいる。人間が死んであの世へ行くと、みなそれぞれの最高の容姿に変わっていく。

老人はシワが消えて絶頂期の相になる。そしてその相をずっと維持する。ただ変化するのは霊的成長とともにオーラの輝きが増すということだけである。

 子供であれば地上でいう成人の段階まで霊界で成長する、もちろん縁ある人と再会し先に死んでいった友達とも逢える。すっかり成長すると、今度は地上からやってくる人たちの案内や指導の役をしたりする。そしてある時期が来ると、もう一段高い世界へと進んで行く者もあれば、もしも物質体験が不足しているとみれば、さきに述べた順序を経て再び地上へと戻ってくる。


 霊界にも結婚生活があるか

 死後の世界では肉体がなく、従って肉体的欲望つまり性欲がない以上、地上でいうところの結婚はない。愛によって結ばれて共に暮らすということが霊界の結婚であり、そういう形態は地上でもないことはない。

性欲に起因する肉体的交渉も一種の愛の形態ではあるが、地上にしろ霊界にしろ、結婚の真の形態は二人の人間の間の霊的親和力による一体的生活をいう。

 従って地上で夫婦であった者が他界した場合、両者の間に真の愛があれば──というより真の愛が存在する時にのみ、両者は霊界でも一緒に生活することができる。

かりに片方が先に他界した場合は、地上に残った配偶者を霊界から見守る。そしてその配偶者が地上を去ると出迎えて再び一緒の生活を始める。

 ただしそれは真の愛によって結ばれた二人の場合である。愛こそが判断の基準である。

教会で結婚式を挙げようと回教の寺院で挙げようと、あるいはただの入籍だけで済まそうと、そんなことは何の関係もない。二人の間に親和力が存在すれば、つまりもともと一つの魂が男女に別れてこの世に生まれた場合であれば、両者の結婚は二つの魂が一つに結合されることであり、これなら死後も一体のままである。

 もしもその親和力の関係が存在しない場合は霊界では必ず別れ別れになる。たとえば友情によって結ばれていても生活は別々になる。

 では離婚して別の人と結婚した場合はどうなるかということになるが、答えは簡単である。魂の親和力による結合は一度しかあり得ないのであるから、地上で何度結婚しようと、霊界で真の魂の相手を見つけて、そこで結ばれるのである。


 死ぬ前にどんな準備をしたらいいか
 何も準備などする必要はない。大急ぎで慈善事業に寄付したり、急に真面目な顔して教会へ通いはじめたり、あるいは聖人君子のようないいカッコをしても何にもならない。

 死後を恐れるからそんなことをするのである。永遠の火あぶりの刑がこわくて善行を施すのは愚かである。神と取引しようとしても無駄である。死にそなえる方法はただ一つ──自分の道義心に忠実に生きること、これしかない。

 世界の宗教の歴史を繙いてみるとよい。いつの時代のどの国にも、かならず霊覚を具えた指導者が出て人の道を説いている。キリストの山上の垂訓、モーゼの十戒、マホメットのコーラン、どれを読んでも必ず共通したものが流れている。すべての宗教、全ての思想に共通した黄金律がある。細部では相違点もあろうが、驚くほど多くの共通点を見いだすはずである。

 その黄金律を自分で見いだすことである。自分で勉強し、さきに説いたように、背後霊に対し無欲になりきって指導を仰ぐことである。自分にとってどう生きるのかが一ばん正しいか、それを自ら判断し自ら実行することである。

 神も仏も信じず、ぜいたく三昧の暮らしをしている億万長者を見て、あんな人でも成功しているではないか、などと思ってはいけない。金は確実に魂を蝕む。

あなたが羨ましがっているその人は、もしかしたら冠状動脈血栓症を患い、子供がなく、その気晴らしにぜいたく三昧をしている気の毒な人かも知れない。霊界へ行ってから地上生活がほとんど無意味だったことを知るであろう。むしろ哀れむべき人なのである。

 それよりもむしろ、質素ながら満ち足りた生活を送っている人々、きちんとした夫婦生活を営み、子供に囲まれ、友人にめぐまれ、すすんで他人のために心を砕き、悲しみに沈む人を慰め、人を勇気づけることのできる人。心にぬくもりをもった人。霊的真理にめざめた人。そういう人にこそ目を向けるべきである。

 死ぬということは実は楽しい冒険であり、右のような魂の目覚めた人こそ堂々と、そして平然と、その冒険に挑戦できる人である。はたしてあなたはどうであろうか・・・・・・。



  背後霊の不思議トップへ