ジャック・ウェバーの霊現象(参考資料)
参考資料
   エクトプラズム(J・G・E・ライト)
  霊媒(ナンドー・フォドー)
  英国国教会〝スピリチュアリズム調査委員会〟多数意見報告書
  A・R・ウォーレスの実験会ノート
  霊界(ウラ)からみた交霊会(シルバーバーチ)

訳者   あとがき
物理的心霊現象と認識論(梅原伸太郎)
 


        参考資料
        「エクトプラズム」                                                         J・G・E・ライト

1、エクトプラズムそのものを五感で実際に感じ取った人はいない。エクトプラズムの現
 象はエクトプラズムそのものではない。

2、エクトプラズムは〝物体〟というよりは現象の〝一過程〟である。
3、その過程はエーテル界(霊の世界)で行われる。従ってそれを地上の言語で説明する
 のはきわめて困難である。

4、重さと大きさを有し力の作用を受けているものを〝物〟と呼ぶが、もしもそのエクト
 プラズムがその三条件を有していることが判明した時は、これを〝物〟と呼んでよい。

5、実験中、霊媒の身体のある要素が分解して半物質体を構成する。コナン・ドイルはこ
 れを〝物質と物質との中間宿〟と呼んでいる。

6、その半物質体はわれわれがふつう言うところの物質とは性質を異にする。
7、霊媒の体内で分解された半物質体は、ガス体となって身体の〝穴〟(耳、鼻、喉等)
 から体外へでる。

8、〝穴〟だから出やすいのではない。そこの粘膜が表皮より通過しやすいからである。
9、粘膜を通過して体外へ出るとすぐ、ガス体の粘膜性の液体状に変化する。

10、その液状体は物質としての要素をいくつか具えてはいるが、引力との関係になると
 現段階では確答は出せない。なぜなら上下左右の運動が自由自在だからである。われわ
 れが腕を高く上げて力を抜くと、腕は引力の作用を受けて下に落ちる。もしもこの液状
 体を〝物〟とするならば、これは正に〝生き物〟である。

11、その色も今のところ確答は出来ない。なぜなら、色はそれに当てる光線(ライト)に
 よって変化するからである。

12、これまで写真に写った色を見ても、まばゆいほど白いものから真っ黒いものまで
 あって一定しない。

13、但し、その出る場所と色との間には顕著な傾向が見られる。すなわち、頭部から出
 るものは〝白〟、太陽神経叢から出るものは〝薄黒〟、ヒップの周辺から出るものはほ
 ぼ〝黒〟に近いといった具合である。

14、マージャリー(米国の女性霊媒)の実験会に出て来たウォルター霊の〝手〟はほと
 んど真っ黒であった。

15、液体は出る場所と同じ組織形態を取る傾向がある。すると色もその出る場所の組
 織と同じ色になる傾向があるのかも知れない。いずれにせよ写真に写った色が照明の性
 質のみによるものでないことだけは明確である。

16、それ自体が発光性の生き物なのかも知れない。というのは、ホタルの例で分かるよ
 うに、発光性の生物は自分で自由に光度を変えることが出来るからである。白い衣服を
 まとって出て来た物質化霊の白さは、単なる白色の物体にはとても見ることの出来ない
 ものである。列席者のワイシャツの白さなどは比べ物にならない。

17、物質化現象のときに限って床に水が散っていることがある。半物質体が霊媒の身体
 から出る際に多量の水分を含んでいると推察される。床に散っている時はそれが多すぎ
 た時であろう。

18、霊媒の体内で分解され、ガス体となって体外へ出た直後と、それが使用され始めた
 時とでは、その硬度に差がある。たとえば物体を浮揚させる場合、その物体に近づくに
 つれて硬度が増していく。

19、長く伸びて中間が肉眼に映じないほど希薄になっていても、そこで途切れているの
 ではない。かならず何ものかによって補充されているのであるが、その何ものかは固体
 でもなければ液体でもなく、ガス体でもない。ガス体よりも一段やわらかい何ものかで
 ある。

 にもかかわらずガスのように形が崩れることはなく、その安定性はまるで管にきっちり 
 と詰められた液体のようである。が、実際は管に詰められているのではなく、ただその  
 何ものかだけである。

20、その〝何ものか〟こそ、われわれが究めんとしているエクトプラズムである。これ
 まで説明したものは〝物質化されたエクトプラズム〟の現象であってエクトプラズムそ
 のものではない。

21、物質化霊の身体や衣服に触ってみると、ふつうの人間と少しも変わったところがな
 い。にもかかわらず、体重を計ってみると想像の1/5であったり 1/6 であったりする。
 この事実によって物質化霊の中身が何か異質のもので出来ていることを知ることが出来
 る。

22、右に述べた〝何ものか〟と同じものが物質化霊の形体を支えているものと推察され
 るが、われわれは以下この〝何ものか〟をエクトプラズミック・フォースと呼ぶことに
 する。

23、エクトプラズミック・フォースは電気の良導体である。
24、赤外線を当てるとその七〇パーセントまで反射する。
25、バリウム・シアン化白金を塗ったスクリーンを背後に置くと影が映る。

26、あらゆる金属を貫通し反応を示さない。
27、絶縁体には反応を示す。(以上は物理化学的考察)
28、生物学的に考察すると、物質化現象は〝出産〟の過程と同一である。すなわち霊媒
 が物質化する霊に形体を提供する現象である。

29、すべての出産また発生の過程が暗闇の中で行われるように物質化現象も暗室の中で
 行われる。科学者の説によれば地球の大気層がもう少し希薄だったら地球上に生命が発
 生することはおそらく不可能だった筈だという。

 ということは、生命の発生にとって光線が有毒であることを物語るものである。われわ
 れが現在太陽光線に耐え得るのは皮膚の細胞に光線に対する抵抗力が具わっているから
 である。いずれにせよ、心霊現象が暗室で行われることは異常でもなければ変態でもな
 い。あくまで自然の理法にかなっている。

30、あまり経験を積んでいない霊媒による実験では、現象が起きる直前に冷たい風が漂
 うことがある。これは、現象を起こすために室内のどこかでエネルギーの転換作業が行
 われていることを示す。

31、部分的物質化現象にかぎって極度に温度が下がる(4℃程度まで)ことがあるが、こ
 れは霊媒の力不足を補うために室内からもエネルギーを吸収するためではないかと推察
 される。

32、物質化されたものは、その大小・形態・種類の如何を問わず、かならずへそのお状
 の紐によって霊媒とつながっている。

33、暗室は母体の子宮に相当する。キャビネット内での準備は子宮内での胎児の発育に
 似ており、なるべく時間をかけることが望ましい。赤外線の発見によってキャビネット
 のカーテンにあまり神経質になる必要がなくなった。

34、人間の出産に危険と恐怖とが伴うと同様に、物質化霊がいよいよ出現する際にも非
 常な危険と恐怖(物質化霊自身の)とが伴うもので、列席者はそのことをよく心得て、
 勝手なことをせぬよう気をつける必要がある。危険を感知すると物質化霊はすぐ消えて
 しまう。

35、人間の物質化現象はいわば〝再創造〟であって、決して新たに想像するのではな
 い。したがってギリシャ神話などに出てくるような、半分が人間で半分が馬といった架
 空のものを創造することはできない。

36、物質化現象において物質化霊の生前の指紋を取ることが出来た。
37、この指紋作製の事実によって物質化現象の基本原理が明らかとなった。すなわち物
 質化現象とは霊魂の形体と同じものを拵えるのではなくて、霊魂の形体そのものの内部
 および外部にエクトプラズムが充填される現象である。
 
38、霊魂の形体といっても、その霊魂の現在の形体ではなく、死に際して地球圏に残し
 た〝型〟または〝殻〟である。その古い型の中に現在の霊魂が入ってエクトプラズムを
 まとうわけである。何十年あるいは何百年も前に死んだ子供がその頃のままの姿で出て
 くるのは右の原理に基づいている。

39、が、その原理にも例外がある。死産、流産、発育不全等のため地上生活を体験せず
 に他界した霊魂の場合である。この場合はその後エーテル界で発育した現在の身体のま
 ま出てくる。

40、心霊現象はエーテル界と物質界との協同作業であるが、物理的法則が無視または超
 越されるようなことは絶対にない。たとえば物質化霊の体重が五十ポンドである場合に
 は霊媒の体重がきっちり五十ポンド減っているという如くである。

41、また物体が浮揚した場合にはかならずそれを支えているもの、あるいは吊り下げて
 いるものが存在する。その場合、浮揚した物体の重量は霊媒にかかってくる。物体が三
 十ポンドであれば霊媒の体重が三十ポンド増している。(列席者に分散されることもあ
 る。───訳者)

42、物質化霊の体重が霊媒より重い時は、列席者その他から抽出して補わねばならな
 い。 

43、液状体は無定形の状態の時でも、すぐに組織化せんとする傾向を秘めている。
44、液状体が霊媒の身体のむき出しの裸の部分に出来た時はセロハンのような透明な
 シーツを構成する傾向がある。

45、反対に全身にきっちりと衣服をまとっている場合、あるいは液状体が衣服の内側に
 出来た時は、その液状体はチーズクロス(目の粗い薄地の綿布)のようになり、その形
 体も感触も霊媒の衣服に似る傾向がある。

46、液状体が霊媒から離れた場所で構成された場合は、その液状体の組成及び感触はそ
 の部屋にある織物(カーテン、ジュウタン等)に似る傾向がある。極端な場合はその織
 物の修繕箇所がそのまま現れることがある。

47、聖書にはわずかなパンが幾千個にも増え、数匹の魚が幾千匹にもなったという話が
 出ているが、右の事実によって、これと同じことが実験室内でも起きることが理解され
 る。たとえば列席者のハンカチと同一のものを拵えようと思えば、そのハンカチを〝鋳
 型〟にして液体状の上にプリントすればよい。

 ビールスの繁殖もこれと同じようにプリンティングによって簡単にできる(心霊実験に
 おけるビールスの繁殖は分裂によるのではない)。

 これによって聖書の奇跡が物品引寄せ現象(アポーツ)でないことがわかる。もしもその奇
 跡の原料となった数個のパンが小麦粉であったなら、増えたパンも小麦粉で出来ていた
 はずである。同じように、最初の数匹の魚がタラであったなら、増えた魚もタラだった
 はずである。

48、シーツに透明なものと繊維質のものとがあるのにはわけがある。透明なシーツには
 現象の過程を列席者に見せるためであり、繊維質のシーツは物質化霊の〝出産〟に際し
 て、それを保護するために使用される。いかなる生命の誕生にも保護嚢(ノウ)はつきも
 のである。

49、以上によってエクトプラズムの素材が室内の装飾品からも摂取されることが明らか
 となったが、それ以外に列席者の身体からも抽出されることがある。何度も列席したこ
 とのある人が極度の疲労を覚えた経験があるのはそのためである。

50、仮に赤い花を室内に生けておけば物質化霊の衣服にその花とそっくりの色が現れ
 る。女の人に赤い服を着てもらっても同じことが見られる。

51、寝間着のまま立ち会えばその寝間着とそっくりに柄が出る。背広で出席すればその
 背広と同じ色が出る。

52、インディアンの酋長が出る時は色とりどりの布切れをたくさん用意しておくとよ
 い。そういうことをすると〝偽装〟の嫌疑をかけられるかも知れないが、物質化するた
 めにはそれ相当の原料がいるのであり、しかもその原料はなるべく近くにあることを要
 する。

53、右の三項はエーテル化現象には適用できない。エーテル化現象は物質化現象とは別
 である。エーテル化現象については 74 で説明する。

54、物質化霊の口から自分の声が聞こえたり、隣に座っている人の声が聞こえたりする
 ことがある。この事実によって、声もコピーすることが出来ることが判る。

55、また列席者の指紋もコピーすることが出来る。
56、出現した物質化霊と一ばん密接な関係にあるのは、言うまでもなく霊媒である。

57、物質化霊と霊媒とは文字通り一心同体である。言ってみれば霊媒の身体が誇張し
 て、その一部を霊魂が占領している状態と思えばよい。

58、このように物質化現象は典型的な〝霊媒現象〟である。すなわち霊媒の身体と精神
 とを利用することによって生じる現象である。霊媒という一つの機構を霊媒自身と出現
 霊とが共同で使用していると言ってもよい。

 このことは、霊媒の口からアルコール、玉ねぎ、ハッカ、タバコ等の臭いがする時は、
 物質化霊の口からも同じ臭いがすることによって知れる。また物質化霊の指紋が霊媒ま
 たは、列席者のうちで一ばん多量にエクトプラズムを貸している人のものに似ているこ
 ともある。

59、物質化霊が汚れた場所や黒の顔料にさわって手を汚すと、霊媒の身体のどこか、と
 くにその汚れた部分と同じところ、あるいはその近くに、同じ汚れが現れる。

60、また右の原理と同じで、物質化霊に与える危害は霊媒あるいは立会人に及ぶ。その
 逆も同じである。それ故、許可なくして物質化霊あるいは霊媒、又はその物質化霊と関
 係ありと見た立会人に触れてはならない。(その立会人からもエクトプラズムが抽出さ
 れている場合──訳者)

61、物質化霊に触れること、ないしはその身体の一部、たとえば頭髪を切り取ることを
 許された場合にも、その場限りの模造品といった気持ちで手荒な取り扱いをすることは
 禁物である。58で説明した如く、たとえ形の上では模造品であっても、実質的には霊
 媒と密接不離、まさに一心同体の関係にあるからであるから、物質化霊の髪を取り取る
 ことは霊媒の髪を切り取ることと同じ気持ちで丁重に扱わねばならない。衣服の一部を
 切り取る時も同じことである。

62、切り取ったその一部はエクトプラズムそのものではない。エクトプラズミック・
 フォースという不可思議な力によって支えられた物質にすぎない。従って重さと大きさ
 を有し、力学的作用にも反応を示す。

63、切り取ったものを顕微鏡で細かく調べてみると、組織的には身体からとったもの、
 (頭髪等)は霊媒の表皮組織に酷似しており、衣服からとったものは室内にある繊維製
 品(とくに霊媒の衣服、カーテン等)の組織と全く同一であった。又、性質的には窒素
 化合物の性質を有し、フィラメントは単一であった。

64、物質化霊の体重は概して霊媒より軽いのが通例であるが、時には霊媒の体重をはる
 かにオーバーすることがある。これまでの最高記録としては約一三五キロというのが
 あった。こうした場合はきまって列席者の数も多い。この事実によっても、その原料が
 列席者からも相当抽出されていることが知れる。

65、物質化霊はまた霊媒には到底出しきれないような〝ばか力〟を出すことが出来る。
 そのような時は物質化霊以外の力が加わっているとみることは妥当であるが、ただそれ
 だけ、つまり外部から他の力が加わっただけと断定するのは早計である。

 なぜなら試しに扇風機を使用して物質化像に強烈な風を当ててみたところ、その物質化
 霊が軽く衣服の上に掛けていた一見しなやかな布が微動だにしなかった事実があるから
 である。これによって液状体の内部には特殊なエネルギー組織があるものと推察され
 る。

66、霊媒およびその周辺に存在しないもの(色など)は物質化霊に現れないことはすで
 に述べたが、たとえ存在しても現れないことがあるのは、心理的要因も含めて、何らか
 の理由があるものと推察される。

67、霊媒が白人である場合、出現する霊が有色人種であってもメラニン色素がないのが
 普通である。

68、アポーツはドラマチックな効果の演出のため、または証拠品として引き寄せられる
 ことがあるが、霊媒現象にとって不可欠の現象とは言い難い。引き寄せられたものは用
 が済めば消えて無くなることがある。

69、アポーツの事実は、現在まだ地上にいる人間が直接談話に出る事実によって立証で
 きる。人間には人体とそっくりの複体(ダブル)というものがあり、声の主は肉体から
 脱け出て(幽体離脱現象)複体の姿で実験室を訪れ、霊媒から抽出した液状体を複体の
 喉の型にはめ込んで話す。

70、物質化霊が鏡像(反射鏡)の形で出現することがある。すなわち地上で右ききだっ
 た人が左ききとなって出現し、頭髪を左に分けていた人が右に分けて出てくる、といっ
 た現象である。指紋が逆に映る場合もある。指紋の場合は単に平面的に反対になってい
 るだけでなく、凹凸まで逆になっていることもある。この鏡像現象の内面機構は今後に
 残された重要な課題である。

71、時として口に入れても入りそうな縮小物質化像が練り粉のようなエクトプラズムの
 中に出現することがある。それほど小さいにもかかわらず一切の形体と機能を具えてお
 り、決していい加減な模造品ではない。日本には樫の木を縮小して保存する技術はある
 が、人間が死に際に残す〝殻〟も、それと同じ原理で縮小されて保存されるのではない
 かという説もある。ともかく、これは物質化現象の解明のカギを握るものと思われる。

72、以上は純粋の物質化現象 Materialization についての研究であったが、このほかにも
 物質化現象の部類に属するものが三つある。すなわち変貌現象 Transfiguration 、偽装
 現象 Simulacrum、そして前にも述べたエーテル化現象 Etherealization である。 

73、変貌現象───これは液状体が霊媒の画面から滲み出て来て、それが次第にある霊魂
 の顔立ちに変わっていく現象である。ある霊魂とは霊媒に憑依している霊魂のことであ
 る。液状体が滲み出てきた時の様子は、ちょうど霊媒の顔を練り粉で塗りつぶしたみた
 いである。そのお化けのような顔が変化して憑依霊の顔立ちがすっかり出来あがると、
 キャビネットから出て来る。

74、偽装現象───これは出現しようとする霊魂が前もって自分とほぼ似た形体を拵えて
 おき、あとでその形体の中に入って自分の霊体に合わせる現象である。ちょうどわれわ
 れがコートを着るのと同じようなものだと思えばよい。

 コートを着るとわれわれはまず襟を合わせ、しわになったところを手ではたいたりして
 体裁をつくろう。それと同じように、ほぼ出来あがった形体の中に侵入した霊魂は、出
 来るだけ生前の自分に似せようとして内側からも外側からも細工を施し、まずまずの体
 裁が整ったところでキャビネットから出て来る。

 それ故その物質化像はあくまで〝自分に似せて作ったもの〟であり、平面的に似ている
 だけで立体感がないことが多い。それが〝作られる〟ものである以上は、それを〝作
 る〟技師が背後で働いているに違いない。

75、エーテル化現象───これは一口に言えば透き通って見える物質化像のことである。
 その内面機構は他の三種よりよほど単純なものと思われる。

 と言うのは、前の三種の物質化像に見られる物質化像の原料は必ずその室内に発見され
 るのに反し、エーテル化現象ではアメリカインディアンのあの派手な装束やインド人の
 宝石のついたターバンのような、実験室内に原料のないものまでまとっていることがあ
 るからである。エーテル化像はめったにしゃべらない。

 たとえしゃべっても、口が動いているのが判るだけで、声は全然と言ってよいほど聞こ
 えない。物質化の程度が希薄で声帯の粘膜がないためである。

76、以上がエクトプラズムに関する今日までの研究結果である。五感と知能とを駆使し
 て得た人間的努力の産物である。霊界人から教わったものは殆どない。結果(現象)か
 ら原因(内面機構・メカニズム)を探るほかはないからである。

77、同時に霊界人もメカニズムがよくわからないままやっていることもあるようであ
 る。それはちょうどわれわれが腕が上がるメカニズムを知らないまま上げ下げしている
 のと同じである。

 また食べたものがどういう具合に消化されるのか、なぜ物が見えるのか、なぜ聞こえる
 のかもよくわからないまま生活している。

 物質と霊質との関係はわれわれだけでなく霊界にもよくわからないことがあるのであろ
 う。ただ霊質の方が物質にまさる威力を秘めていることだけは確かである。が、確かな
 のはそこまでである。               
                              ❝ Ectoplasm❞ by J.G.E.Wright
  




            
霊 媒」                                                                   ナンドー・フォドー
注)フォドーの《心霊科学百科事典》の〝霊媒〟の項を主体にしてまとめた。性欲(セックス)の要素を考慮した見解はフォドーの師であるキャリントンに始まるものであるが、その後フォドーが発展させ心霊誌などで盛んに説いた。が、その説き方のまずさから誤解を受け、ついには裁判沙汰にまで発展、それが心霊家としてのフォードの名声に傷をつけることになったが、その見解を指示する例証が現実にある以上、不快なものとして敬遠すべきではなく、今後の研究に俟つべき課題の一つとして注目すべきであろう
 








〇霊媒現象と病理現象
 曾てはロンブローゾ、リシェ、ポドモア等の心霊学者によって霊媒現象が病理現象として扱われたことがあったが、今日では病理現象ではないとの説がほぼ一般的である。つまり、ヒステリーのような病的状態の発展したものではないということである。

見解に混乱が生じた原因は、マイヤースが述べているように、霊媒現象も病理現象と同じパターンで発生しているとの誤った観察にあった。病的現象は〝退歩性〟の現象であり、霊媒による現象は〝発展性〟の現象である。すなわち前者がすでに獲得された能力の病的変態現象であるのに対し、霊媒現象は人類の有する未知の能力の先駆けである。

 ジュネーブ大学の心理学教授 T・フラワノイは霊媒のヘレン・スミス夫人を徹底的に観察した結果、次のような結論に達した。すなわち〝霊媒現象を病理現象であるという見解はまったく見当ちがいと言うべきである。

滅多に見られない、例外的である、という意味においては確かに異常である。が、珍しいということは病的ということではない。私がそうした現象を真剣に、そして科学的に検討した数年間という期間ではその本質を断言するには十分とは言えない。ただ興味ぶかいのは、この道では最も徹底した研究を進めている国すなわち英国と米国の学者の間で最も支配的な見解が霊媒現象を実在と認めていることである。

そしてこれをヒステリーの特殊症状と見なすどころか、すぐれた能力、有益な能力、健全な能力と見なし、一方、ヒステリーは一種の退化現象であり、病的パロディであり、変態的戯画であると観ていることである。〟

 近代では人間の全てが潜在的に霊媒的素質を持っているという考えがある。 D・ブラッドレーは〝霊媒現象は、その中でも最も進歩的で強力なものでさえ、遠い未来において発達するであろう段階に比べれば、ぎこちないあがき程度のものでしかない。あと半世紀もすれば今日の数少ない優れた霊媒は最初にパラシュートで降りた人間にも匹敵する評価を与えられるであろう〟と述べている。

 これはいささか誇張のきらいがあるが、ステイントン・モーゼスの自動書記通信によると〝霊媒的素質は霊体に属するもので肉体のものではない。それは肉体が滅びたあとも存続する。地上で霊媒だった者は死後も相変わらず霊媒的素質を所有しており、われわれと共にそれを活用する。地上を離れる霊にはこの種の者がいちばん多い〟ということである。

 霊媒能力はきわめて繊細な性質をしている。その開発には用心と理解が肝要である。オリバー・ロッジも霊媒はわれわれが調査・研究するための繊細な道具として大事に扱うべきであると述べ、〝霊媒は一つの道具として、その習性と特質を熟知しなければならない。そしてある程度その扱い方のコツも知らねばならない。それはちょうど一流の器具メーカーが生産した器具でも使い方にコツがあるのと同じである〟と述べている。



〇年齢、性別、性欲の問題
 遺伝的霊能は芸術的才能と同じく、大抵突発的に、しかも若い年齢で発現する。ハイズビル事件で主役を演じたケート・フォックスがその後結婚して産んだ男の子が僅か五か月で自動書記現象を起こし、枕元やベッドの鉄の棚で叩音(ラップ)現象がほとんど毎日のように聞かれた。英国の直接談話霊媒クーパー夫人の七か月の子もラップで通信を行った。

僅か生後九日で自動書記を行った赤ん坊もいる。フランスでは十四~五か月の赤ん坊が完璧なフランス語で説教をした例が何例かある。二グノー教派の信者が迫害を受けた時にそれらの赤ん坊も投獄された。

 性別の差は顕著である。女性の霊媒の方が圧倒的に多い。とくに物理現象を得意とする女性霊媒が多いことは、体質的に女性の方がエクトプラズムが多い、あるいは抽出しやすいことを暗示していると思われる。

 が、それより問題なのは女性的機能の発育、端的にいえば性欲(セックス)が影響を及ぼしている事例が多く見られることである。有名なエバC(シー)とウィリー・シュナイダーには異常性欲症状が伴っていた。性欲を知らない子供の霊能者は水晶占いが最も適しているという古い記録もある。

コナン・ドイルが調査した妖精写真の主人公の二人の女性は、思春期に入ってからは妖精を見なくなっている。

ポルターガイストの発生は十二~十六歳の少年少女の居るところが最も多い。キャリントン博士は一九二一年コペンハーゲンにおける国際心霊研究学会の第一回総会で、体内に蓄積された性的エネルギーが正常に発散されずに、別の回路を経て心霊現象の形で体外に出たというケースも考えるとの見解を発表している。

その根拠として博士はゴライヤ―、エバC、パラディーノ等の実験で見られた生殖器との関連性、インドのヨガ僧が高等な恍惚状態(エクシタシー)を性的エネルギーと結びつけ、後者を前者へ転換する理論を説いていること、それがフロイトの精神分析学における〝昇華〟の理論、つまり性と宗教との関連性と同一であることを挙げている。

 
〇健康への影響
 過度の実験開催は極端に不節制な性癖───飲酒、喫煙、大食等を生むことがある。体力の極度の消耗が原因である。中毒症状と譫妄(センモウ)状態(外界からの刺激に対する反応を失い内面的な錯覚・妄想によって不穏な精神症状を見せる)で死亡した例が少なくない。

 が、過度の実験さえ控えれば健康上何ら差し障りはなく、むしろ健康を増進させる傾向さえ認められる。賢明な背後霊は絶え間なくアドバイスを与えて本人に気づかない面での健康管理をし、万一病気になった時も霊的な治療を施してくれる。

D・D・ホームなどは生来肺臓が弱かったにもかかわらず、ふつうの生活を送った場合に予想される寿命よりもはるかに長生きをした。

生まれつき虚弱だった霊媒で八十才以上の高齢まで生きた人が大勢いる。そうしたケースでは、背後霊のアドバイスで時おり霊媒活動を中断している事実も原因として挙げられる。

 よく霊媒は精神病になりやすいといわれるが、実際の統計では事実に反していることが明らかにされている。E・クローエル博士は四二の精神病施設を調査した結果、男性患者三二、三一三名のうち牧師が二一五名で、霊媒は男女合わせても僅か四五名であった。異常者の割合は牧師が一五九人中一人で、霊媒が七一一人中一人という結果が出た。


〇霊媒の危険性
 健康上の問題とは別に実験中の危険性の問題がある。これには二種類ある。一つは邪霊・悪霊の類による憑依、もう一つは物質化現象に伴う身体上の危害である。

 モーゼスは〝霊媒能力は必ずしも全ての人に勧められるものとは言い切れない。正直言って危険が伴うからである。危険が伴うことは全て避けるべきだと言うつもりはない。

危険を承知の上でやらねばならぬ仕事もある。が、はっきり言えることは、霊媒現象は計り知れない恩恵をもたらす一方、およそ恩恵とはいえないものまでもたらすことである。〟そう述べて、さらに具体的にこう述べている。

 〝霊媒能力の養成においては三つの重大なポイントを考慮しなければならない。すなわち、果してあなたは①賢明にして善性を持った、②安心して身を任せられる、③強力な力を持った霊との縁を得る自信があるか、ということである。もし自信が無ければ、あなたは深刻な危険に身を曝すことになることを覚悟しなければならない。〟

 次に身体上の危険性であるが、例えばデスぺランス夫人の実験会において、列席者の中に霊媒的素質の強い女性がいて、出現した物質化霊のエクトプラズムの殆どがその人から抽出されていた。その物質化霊を出席者の一人がいきなりひっかんだ。それがもとで(エクトプラズムが一気に人体に戻る時の衝撃で)その女性が重傷を負い、長いあいだ患った末に死亡した。

 危害を与えるのは列席者だけとは限らない。善霊と言えども知識と経験の不足から霊媒の取り扱いを誤り、それがもとで霊媒が健康を損ねることもあり得る。


〇霊媒の種類
 大きく分ければ物理霊媒と精神霊媒の二種類になるが、物理的現象にも多少の精神的現象が伴い、精神的現象にも多少の物理的現象が伴うものであるから、截然とは分けられない。

 物理的現象の主なものとしては叩音(ラップ)現象のような単純なもの、D・D・ホームがよく見せた、真っ赤に燃えさかる石炭を素手で掴んだり炎の中に頭を突っ込んだりする現象、見えざる手が楽器を演奏する音楽現象、鉛筆がひとりでに動いて文章を書いたり絵を画いたりする直接書記現象、そして最もドラマチックな人体の物質化現象。

これには顔だけとか手先だけのものと、全身がすみずみまで物質化して歩いたり、しゃべったり、時には飲食さえするものなどがある。心霊写真も一応この部類に入る。

 次に精神的現象の主なものは、自動書記、霊視、霊聴、入神談話、それに心霊治療も医学的な物療的方法に頼らないという意味で一応この部類に入れてよかろう。

 が、これとさきの心霊写真とは物理性と精神性の要素が複雑に絡み合った現象で、本来は別の部類として考えるべきであろう。  
                          ”Medium ” from An Encyclopedia of Psychic Science by Nandor Fodor 
 



              英国国教会〝スピリチュアリズム調査委員会〟多数意見報告書


注)一九三七年に時の大主教ウィリアム・ラングの諮問機関として設立された委員会が複数の霊媒を使用して行った二年に亙る心霊実験会の結果をまとめた多数意見(十名中七名)の報告書で、当のラング大主教によって発禁処分にされたものをモーリス・バーバネルを中心とするサイキック・ニューズ社のスタッフが極秘に入手して公表、一大センセーションを巻き起こした。委員会の性格上その内容がキリスト教的観察に偏っている嫌いはあるが、否定派の最右翼であった国教会が霊媒を通じその現象と通信の実在を認めている点に大いに意義がある
 








 『われわれが入手した証拠を解釈していく上で、霊媒を介して送られてきたいわゆる霊界通信(メッセージ)の本質と価値に関しては、経験の豊富さと用意周到さにおいてわれわれに優るスピリチュアリストの間で一般的になっている説を考慮に入れることが肝要である。

 その〝通信霊〟みずから述べていることに基づいて判断するに、通信霊や指導霊(ガイド)にもおのずから霊的発達程度に差があり、従って知識の範囲も限られ、さらに、その指導霊の監督のもとに霊媒現象の演出に従事する支配霊(コントロール)に至っては、往々にして人間的に非常に未熟である場合がある。にもかかわらずそうした特殊な作業に従事できるのは、一時的に分離した霊媒の人格の一部と密接につながっているからである。

 さて霊界通信、とくに霊的ないし哲学的に程度の高い通信がとかく議論の対象となり、また一般常識の範囲を超えた内容の通信を伝達する上において通信霊がどのみち遭遇する困難───大方のスピリチュアリストも認める困難の生じる要因は少なくとも三つはある。

 しかしながら、そうした通信が明かす霊界事情には本質的な矛盾撞着はいささかも見当たらないし、必ずしも絶対有りうるはずがないといったものでもない。ただ、今のところ科学的証明のできない単なる仮説にすぎず、また、矛盾もなく有り得ぬことでもないということが、通信そのものを正真正銘と断定する要因となるわけでもない。

 その立証は、出来ることなら、通常の科学的実験によるべきである。と言うことは、しかし、霊界通信というものが時として科学的根拠が無くとも十分な説得力を持つことがあるという事実を否定するものではない。

 ともかく、他界した友人や〝指導霊〟から通信を受けた時に感じる他界との接触感と、霊媒という特殊な通路を通して得られたというだけでその通信が何やら価値があるように思い込むこととは、截然(セツゼン)と区別して考える必要がありそうである。

 霊界通信に共通した一つの要素として、死後の世界における時間に厳密な〝連続性〟がないということは、注目すべき重要なことであろう。理由は他に求めることも可能であるが、とにかく通信霊たちがしばしば正確な時間について混乱したり、間違ったりするその有力な原因を示唆していて興味ぶかい。

 これは通信霊がある出来事の真の意味を理解していないからではなくて、むしろその理解している内容を、霊媒の受信能力とその通信を受け取る人間の理解力にマッチした形式で伝達することができないことから来るのかもしれない。

 きわめて重要なこととしてよく指摘されるのは、スピリチュアリズムが多くの点において、信心深い人々が抱いている最も高度な信仰の数々を再確認してること、さらには、そうした信心深い人々にとってもすでに意義を失ってしまった教義の真実性に新たな確認を与えていることである。

 これにも問題点はある。というのは、確認と言っても、それが必ずしも同じ根拠(スピリットの証言)に由来するものではなく、時には根拠が相反することさえあるからである。たとえば有力なスピリチュアリストの団体のうち少なくとも一つは反キリスト教的性格を帯びている。

スピリチュアリストに言わせれば、このように証言が食い違うのはスピリットが死後少なくとも短期間は地上で抱いていた信仰形式を維持し続けるからだと説明する。

 つまり人間全体としては、一段また一段と段階的に向上していくのであるが、真理とか善とかについての姿勢は、地上で身につけたものが死後に持ち越されるので、従って右に述べたキリスト教に対するスピリットの証言の食い違いは、その観点から説明されなければならないと言うのである。

 ここで付け加えておくべきことは、一応霊界通信が宗教の真実性を確認しているとした場合のその価値がどうであれ、スピリチュアリズムがわれわれにもたらしてくれたのは、宗教的真理について吾々が理解していることを事実に基づいて改めて強調してくれた、ということ以外に何も無さそうに思えることである。

 事実、スピリットからの通信と言われているものの中には、理解と霊的洞察力においてキリスト教の最高の水準に比してはるかに低いもの、しかも驚くことに、その通信霊の在世中の霊的洞察力と知的才能の水準よりむしろ低いものすら数多く見受けられるのである。

 愛の崇高さについても、新約聖書の「神は愛なり」という主張に匹敵するものが見られることは事実だが、キリスト教の持つ贖罪性についての叙述などは、人間の罪の重荷を背負ってくれるという根本的な(キリスト者の)受容の信仰ならびに十字架上での勝利ではなく、どうやら(復活における)物質化現象という奇跡を生じさせるある種のエネルギーのことであるらしく、キリスト教的福音の教えには遠く及ばないことがしばしばである。

 しかしながら、他界した友人がすぐ近くにいて霊界でも成長し続けており、その後も自分たちに関心を抱き続けているという認識は、それを実際に体験した者にとっては、〝聖霊との交わり〟(聖体拝領)の信仰に新たな即時性と新たな価値を加えてくれる以外の何ものでもないことは、確かに真実である。

 国教会の中心的教義の一つである、この〝聖霊との交わり〟をスピリチュアリズムが強烈に、そして身近なものとして価値を増してくれている事実は、信仰次第でいずれの日にか主イエス・キリストの御前に侍ることが出来るのだというキリスト者の基本的のなよろこびを傷つけることもなく、また自分たちは常にキリストと共にあるのだという気持ちを減じるものでない以上は、国教会もこれを否定すべき理由はまったく見当たらないように思える。

 スピリチュアリストの主張によると、福音書に見られるキリスト教的啓示の諸現象は本質的には心霊現象そのものであり、スピリチュアリズムがその証拠としている超常現象も、聖書中の出来事が歴史的事実であることの強烈な確証である───たとえば、(ナタニエルの物語に出てくる)霊視現象や、(わずかな魚で五千人分をこしらえたとか、なかんずくキリスト復活といった話に出てくる)物質化現象などは、超常現象の記録にほかならないと言うのである。

 イエスの病気治癒の奇跡もまた心霊治療家による治癒と同種のものであるという。もしもわれわれが現代の心霊現象を認めないとすれば、福音書の記録もまた、言い伝えとしてはともかくも、事実として認めては筋が通らないという認識を強く迫られているわけである。

 確かに、福音書に記されている奇跡的諸現象と、スピリチュアリストによる実験によって確かめられた現代の心霊現象との間に、実に明瞭な類似点があることは事実である。従ってもしもわれわれが後者を科学的論述と証明が出来ないという理由で疑問視しなければならないと主張するのであれば、聖書の奇跡も、キリストの復活そのものも、同じく科学的証明が出来ないものであることを付記しなければならなくなる。

 そこでわれわれとしては、こうしたキリスト教の中心的事象を信じる根拠は一体何なのかを自ら問わねばならない。

 その問いに対する回答は明確である。われわれはその根拠を信仰という基盤の上に置いているのであり、証明可能な科学的知識ではないということである。

 ではその信仰の根拠は何かと言えば、それは、われわれが理解しているナザレのイエスはまさにわれわれに対する神の言葉そのものであるという、あくまでも神秘的な信仰上の確信、もしくは、もっと平たく言えば、その論理的ないし霊的価値の理解、このいずれかに求められるべきである。

 われわれが福音書を受け入れるのは、その中に奇跡の事象が記されているからではなくして、われわれの心の奥に潜む霊的感性に強く訴えるものをもっているからである。

 しかし、そうなると、スピリチュアリストの主張に対しても同じ判断の基準を適用しなければならないことになる。すなわち、その主張の中には科学的研究の対象として相応しいものもあるが、一方、科学的証明や議論の対象になり得なくても、別の観点からすればキリスト教信者にも一考に値するものがあるという見方である。

 当委員会に具申された証拠報告をみるに、その膨大な量の異常現象の中で、厳格な科学的テストの点で事実として確かに立証は出来るが説明がつかない、といったものは殆ど見当たらないようである。

 現代心理学の知識が人間のもつ広範囲な能力と同時に、潜在意識とか無意識層とかの問題における誤解の源を明らかにしてくれている。それらと思想伝達、いわゆるテレパシーの可能性を考え合わせれば、霊媒を通じて伝えられる通信の多くが説明できるように思われる。

 もっとも、テレパシーそのものについて、納得のいく説明が為されていないということを忘れてはならない。が、多分、大部分の科学者はその説明は出来なくても、事実としては存在を認めるであろう。もしもテレパシーの存在が否定されれば、霊媒を通じての通信がやはり死者の霊から送られているのだという説が科学的に大いに勢いをもつことになる。

 が、テストと称して科学者が行っているものは本質的には即物的であり客観的であり非人間的なものである。従って果たしてそうした性質のテストで、本来人間的かつ霊的である価値の追求をそのテスト自体が台無しにしてしまいはしないか、ということも一考を要するであろう。

 というのも、多くの人々を得心させている体験は純粋の科学的研究の雰囲気の中ではまず起こり得ない性質のものなのである。偶発的であり、時たましか起きず、そして極めて独自性が強い。つまり全く同じものをもう一度と言うわけには行かないし、従って統計的分析もできない。

 このことに関連して留意すべきことは、人間というものは普段の人間関係や信仰においては、別にそうした厳格な科学的証明などは求めていないということである。大ていは直感的洞察力で正しいと判断しているのである。

 たとえばわれわれが自分の友だちを認識するとき、そのことと、その友人についての知識に関して科学的で立証性に富む説明が出来るというのとはまったく意味が違う。にもかかわらず、その知識に自信が無いわけでは決してない。同じことが神秘的体験についても言えるのである。

 どうやら人間個性の死後存続の問題においても、われわれはまさしくこの種の洞察力を拠り所としていて、科学的証明は、むろん出来るに越したことはないが、あくまで二次的重要性しかなく、絶対的な意義をもつものではないということなのであろう。

 それは同時に「われわれは信仰をもって歩む。視力をもって歩むにあらず」というキリスト教の信念についてもそのまま当てはまることである。

 かくしてスピリチュアリズムが科学的立証性を根拠としてきたことは、むしろ一つの弱点というべきであり、強みではないことになる。厳格な科学的方法で臨むかぎり、いつになっても確証は得られそうにない。

 われわれは科学的観点から次のような結論を下してもよいであろう。すなわち───
(物質化現象、物品引寄〈アポーツ〉、念動現象〈テレキネシス〉等の)物理的超常現象を支持する一点の疑念の余地もない科学的証拠はないということ。入手し得たかぎりの科学的証拠はみなそうした現象の発生を否定するものばかりである。

 さらに、精神的霊媒現象については、それを死者の霊の働きとする仮説よりも、霊媒ないし霊感者の精神内での無意識の働きとみる仮説の方が有力である。

 かくして人間個性の死後存続に関する厳格な意味での科学的評決は〝未だ証拠不十分〟としか言いようがない。また超感覚的知覚(ESP)の問題も科学的に検討中の課題である。

 ところが一方、顕著な個人的心霊体験の中には、霊媒を通じてのものを含めて、よほどの反証でもないかぎり、死後の存続と霊的交信の事実を認めざるを得ないものがあり、同時に、哲学、倫理、宗教の各面からの考察も同様の判定を強力に支持しているとみて差し支えない。

 そうした霊的交信について考えうるかぎりの説明を施し、疑わしい証拠をすべて排除してみても、そこになおかつ、どうしても説明のつかないある要素が残ることは全員が認めるところである。

 われわれとしては、それが死者の霊から送られてくるという仮説が正解である場合もあり得ると考える。

 慎重な表現ながらも、これだけのことが言えるということは、それなりの重大な結果が伴うことを予想させ、従って幾つかの警告を述べておく必要を生じる。

 まずスピリチュアリストみずから認めていることであるが、こうした現象において何でもすぐに信じてしまう態度が自己欺瞞につながり、ひいては各種の詐術を生むことになるのは明々白々たる事実である。

 入手した詐術の証拠をみてわれわれは大いにその点を痛感し、単なる好奇心からスピリチュアリズムに興味を抱きそうな人、あるいはクリスチャンとして聖書の導きのもとにみずから判断を下すべき責務から逃れるために、安易にスピリチュアリズムに入って行く人々に、声を大にして警告しておきたい。

 もちろん科学的資質を具えたクリスチャンがこの種の問題を一つの科学的研究課題とすることは結構なことである。もっとも、すでに述べたように、そうした研究にはおのずから限界がある。

 しかし低俗なレベルでの関心が、人間の魂と神との正しい関係に基づいた深い宗教心と取って代わるようなことは許さるべきではないし、同時にそれは間違いなく危険なことと言わねばならない。

 われわれクリスチャンが死者の霊との交信の可能性を認めたからといって、クリスチャンとしての道徳的義務や倫理的価値がいささかも変化を来すものでないことを、しかと銘記しておく必要がある。

 そのクリスチャンとしての必須の義務と価値を見失うことさえなければ、他界した友人と霊的交わりをもったと確信する者が、その体験によって心の広がりと不滅の友情を感じても問題はないであろう。

 但しその霊的接触を確信することと、受け取った通信の正確さと信頼性とはまた別ものであることを知ることが大切である。われわれが確認し、スピリチュアリストの多くが認めるように、信頼に値するとされている霊界通信でもとかく歪曲されている可能性は十分にあるからである。

  従ってそうした通信が、祈りを通じての聖霊の導きのもとに、われわれ自身が人間的理性によってチエックすることなしに受け入れられるとしたら、そこには大きな過ちの危険がある。

 とはいえ、この世で親しくしていた人々と今なお緊密な接触を持つことが可能であること、そして又、彼らがわれわれと同じく神の意志の理解と成就のために絶え間ない歩みを続けているという確信をよろこんで受け入れていけないという理由はない。

 スピリチュアリズムから受ける拭いきれない印象は、組織化されたスピリチュアリズム活動の大部分がその中心を神ではなく人間に置いているということで、その意味では物質的性格を帯びているということである。この限りにおていはスピリチュアリズムは宗教の代用物にすぎず、それ自体はおよそ宗教性を持っていない。

 さらにわれわれにとって印象的なのは、「あなたの祈りの生活、つまり神の認識は、スピリチュアリズム的体験によって強化されましたか」という質問に対し、第一線で活躍しているスピリチュアリストから得心のいく回答が得られなかったことである。この辺りに多くのクリスチャンがスピリチュアリズムに関わり合うのを躊躇する大きな理由がある。

 しかしスピリチュアリズムがある人たちにとって強烈に訴えるものが実際にあるとすれば、それは少なくとも一つには、国教会がその信仰の公言と実践において十分なる信念の裏付けが欠けていたからだともいえるのである。

 確かに往々にして生者同士の間にすら真実の交友精神が欠けているし、〝聖霊との交わり〟が真の、そして肌身に感じる現実性を失って、しばしば死語と化してしまっている。

 実際スピリチュアリズムは国教会が公言しながら現実には単なるまぼろしでしかなかったように思える実在に触れることが出来ると主張しているのである。もちろんそれがスピリチュアリズムの全てというわけではないが。

 多くの人にとってスピリチュアリズムへの関心はそれよりはるかに低級な動機から来ている。怪奇趣味をかきたてられる場合もあろうし、至って安易な条件下で慰安が得られるという場合もあろう。

 また一たん信仰を宣言すれば、それが絶対履行しなければならない責務を生活上に課すことになる。それを避けたい気持ちから安易な道を求めてスピリチュアリズムに走る者もいるかも知れない。

 スピリチュアリズムの交霊会や実験会はその参加者の霊的状態だけでなく、精神状態にとっても危険性があることがよく指摘されるが、現に異常といえるほど霊的なことに憑かれてしまっているケースがいくつかあることは事実である。

 が、そうしたケースを見るに、果してそうした一種の中毒者の見せる無批判的で無文別な気質が、その中毒の結果なのか原因なのかは判断がきわめて難しい。 

 心理学的に見れば、多分そうした精神的異常ないしアンバランスの状態にある人間がスピリチュアリズムの催す交霊会や実験会を、その病的状態の原因である抑圧された感情の自然な捌け口として利用しているのであろう。

 このことは実はキリスト教についても言えることで、往々にして偏執狂や、明らかに情緒不安定な人間の感情的捌け口となっていることがある。

 注目すべきことは、スピリチュアリストの間でも、情緒的に不安定的な者はもちろん、たとえ正常な人間でも動機が間違っていたり、誠実さに問題がある場合には、危険があるとして、それなりの配慮をしていることである。

 そのほかにも明確なことが多々あるにしても、確実に言えることは、証拠の解釈が困難な問題においては、スピリチュアリズムにもキリスト教の高度な倫理的規範が絶対必要であること、また信仰による神に身をゆだねた生活、及びそうすることによって得られるところの、信仰なき生活がとかく陥りがちな欲望と目的の矛盾衝突のない生活への確かな証が必要だということである。

 心霊現象は確かに存在するがそれは悪霊の仕業である、という意見が国教会内部に根強くある。確かに低級な霊が心霊現象を通じてわれわれに影響を及ぼすという可能性を頭から不合理またはこっけいな説として片づけるわけにはいかないが、立派な霊との接触の可能性はないとは到底考えられないであろう。

 キリスト教においても天使の存在の信仰は古来きわめて一般的である。

 が、いずれにせよキリスト者の生活は神に基づくものであり、その基本的活動は祈りと礼拝であり、それは詰まるところ人類への愛に帰着する。そうした基盤を持つ生活に悪魔の影響も、その他いかなる力も、何一つ恐れることはない。

 英国国教会は、かつての論争の所為で、死者への言及に余りに慎重すぎる。国教会の死者への祈りでは人は満足しない。言い回しがあまりに慎重すぎて、生者に対する祈りに比して、本当に死者のことを祈っているのかどうかが、必ずしも明瞭でないからである。

 一般的に言って、われわれは国教会全体のしっかりとした意見の統一 ───この世の問題だけでなく、死後の問題の認識の仕方にも、もっともっと自由であってしかるべきである。もっともその具体的な点のついては、議論によって決めるべきでことであり、それをここで提案するのは、このレポートの本来の目的から逸脱する。

 スピリチュアリズムが全ての認識上の誤りを排除し、謙虚にそして正確にその真相を明らかにした暁に、やはり確固たる真実を有することが判明したとしても、それは新しい宗教としてではなく、われわれの知識の足らざる部分を補うものであることを認識し、従ってこれまで信仰によって歩んで来たのを、これからはある程度この目で確かめながら歩めることになったと観ることが大切である。

 われわれの考えでは、これからは国教会の代表がスピリチュアリズムを信じる優れた知識人と常に接触を保つことが大切である。その点に関する具体的な指導については国教会当局にゆだねなければならない。』


 署名者

フランシス・アンダーヒル博士(Dr. Francis Underhill)カンタペリ主教・神学博士。
W・R・ マシューズ博士(Dr.  W.R.Matthews)セントポール大聖堂参事会員・神学博士。
ハロルド・アンソン(Canon Harold Anson)大聖堂院長・参事会員。
L・W・グレンステッド(Canon L.W.Grensted)オックスフオード大学教授・参事会員。
ウィリアム・ブラウン博士(Dr. William Brown)心理学者・博士。
P・E・サンドランズ (Mr. P.E.Sandlands)勅撰バリスター。

(グウェンドリン・)スティーブンスン夫人(Lady 〔Gwendolen〕Stephenson)侯爵夫人。
                                               The Majority Report of the Church of England Committee
 




       A・R・ウォーレスの実験会ノート


(注)世界的博物学者アルフレッド・R・ウォーレスは〝事実は頑固なものである〟との名言のもとに、学者的地位の失墜を覚悟の上で心霊現象の調査・研究を本格的に行い、その成果を《奇跡と近代スピリチュアリズム》と題して世に問うた。その中からウォーレス自身の体験と実験に関する部分を紹介する。その徹底した実証主義と真摯な態度はエドワーズと相通じるものがある。
 






 私が博物学の研究に没頭して、南洋諸島で十二年も放浪生活を送っていたころ、アメリカとヨーロッパにおいてテーブル現象とかラップ現象の呼び名ではやっているという不思議な現象の話を耳にした。当時の私はすでに催眠術の知識があり、人間に科学では説明のつかないために無視されている不思議なの能力があることを知っていたので、英国へ帰り次第本格的に調査してみようと心に決めていた。

そのころまでの二十五年間私は超人間的知性の存在に関しては全くの懐疑論者で、スピリチュアリストが騒いでいる奇跡的現象をそのまま真実として受け入れる可能性など、まず考えてもみなかった。その私が完全に思想を変えたのは、ひとえに証拠の力による。

死後の存続の問題に入っていったのは決して、死によって無に帰することを恐れたからではない。永遠の存続の可能性の証明とまではいかなくても、それを示唆する事実に真実性を確信するに至ったのは、私が永遠の存続に不条理なあこがれを抱いていたからではない。

実は私自身それまでの二十五年間に少なくとも三度は死に直面、あるいは、あと二、三時間の命というところまでいった経験がある。その時に感じたのは、せいぜい、これでこの美しい素晴らしい地球に別れを告げて、二度と目覚めることのない眠りにつくのかという、ほんのりとした物悲しさであった。

これは通常の健康時の私には決して湧かない感慨であった。当時の私は死後の意識的存在などという大問題は人間の理解を超えた問題であると思っていた。そこへ心霊現象という不思議な現象の話を耳にして、もしかしたら身体とは別個の目に見えぬ存在があるかも知れないという、漠然とした期待を抱いていた程度であった。

従って私が本格的にその現象の究明に乗り出した時は、希望的憶測や恐怖心によってゆがめられた先入観などは全くなかった。私の主観が事実をゆがめることはあり得ないと思っていたからである。また、〝霊〟などという用語に対して根強い偏見ももっていなかった。そして今もって固定的定義をもつに至っていない。

 私が初めてスピリチュアリズムなるものの現象を目撃したのは一八六五年の夏のことで、科学者で弁護士で懐疑論者である友人の家において、家族だけの列席者に混じって参加させてもらったときである。

かなり大きな円卓を囲んで着席し、両手をその上に置いて少しすると小さな動きが始まった。よくある回転とか傾斜ではなく、ステップのような、とぎれとぎれの穏やかな運動で、それでも暫くするうちに部屋の端から端まで移動していたこともある。

小さいが明瞭なたたくような音も聞こえた。観察中にありのままを綴ったメモを紹介しておく。

 「一八六五年七月二十二日───友人と奥さんと二人のお嬢さんとともに、低めの大きなテーブルを囲んで腰かける。昼間である。三十分ほどしてかすかにテーブルが動くのが感じられ、続いてかすかにたたくような音が聞こえた。それが次第に強くなっていった。

叩音は明瞭になり、動きは大きくなり、われわれは椅子をずらさねばならなかった。それから奇妙な振動を始めた。動物が身震いする動きにほぼ似ていた。

その振動がひじまで伝わってくるのを感じ取った。この現象がいろいろな変化を伴いながら二時間も続いた。あとで確かめたところでは、そのテーブルはよほどの力を入れないとあのようには動かせないことがわかった。

また例の叩音もわれわれがテーブルに手を置いているかぎり出せる可能性は見出し得なかった。」

 あるときは列席者が代わる代わる席を離れてみる実験をやってみた。が、現象は叩音もテーブルの動きも前と少しも変わらなかった。そこで今度は私が一人ずつ席を離れてみるようにお願いしたところ、人数が減るにつれて、現象そのものは続いても勢いが衰えていき、最後に私一人になった時は、柱かテーブルの脚をこぶしでたたくような音が二つ聞こえただけだった。

聞こえただけでなくその響きが小さいながら私の身体に感じ取れた。もしも人間が出したとすれば私以外には考えられないが、私は断じてたたいてはいない。こうした実験によりその音と動きには列席者もなんらかの形で関与していることは確かとなったが、もしもそれに意図的なまやかしがあったとすれば、友人の家族全員で私をだましていたことになる。

しかし別の日の実験では大きなテーブルが三十分も着席していて何の現象も起きなかった。そこで小さいテーブルに移ってみたところ、すぐさま叩音がおこりテーブルが動きはじめた。しばらくして再び大きい方のテーブルに戻ってみたところ、二、三分してから小さい方と同じ叩音と動きが起きた。

 テーブルの動きは必ずといっていいほど曲線をえがいた。それはまるで脚に前進するための鉤(カギ)でもついているみたいであった。右方向と左方向を交差に何回も繰り返し、ときにはそれを規則正しく行い、結果的には
ジグザグ状に進みながら部屋を横切るのであった。

ともかく以上の要領で都合十二回余りの実験がほぼ規則的に行われた。

 さて、こうしたテーブルの動きは列席者の誰かが(阻止されないかぎり)やったということも考えられると言われれば、それを否定するわけにはいかない。が、われわれの実験によって少なくとも必ずしもそうばかりとはいえないことが明らかとなった以上、全ての動きが人間がやっていると結論づけることはできないことになる。

一方叩音の方は、これは絶対に人間に出せる性質のものではなかった。テーブルのたれ板の下部を爪の長い指先でコツコツとたたく程度のものであった。全員の手はテーブルの上にあり、少なくとも私の目は常に見開いていたから、その叩音が列席者の指先によって出されたものでないことは得心している。

足の先に何か小さくとがったものをつけておけば確かに出せないことはなかったであろうが、もしそうだったとすると、以上紹介した実験は友人の家族全員で私をだましたまやかしであったことになる。

しかし三十分間も同じ位置にじっと着席していて何の現象も起きなかったことがあること、そして起きた現象もいま紹介した程度のものばかりで、それ以上にはなんの進展もなかったことなどの事実を考え合わせると、知性と教養豊かな四人の家族が何の得にもならない下らぬペテン現象に十数回にもわたって無駄な時間を費やすなどということはとうてい考えられない、と思うのである。私の当時のメモの最後に全てはこう記してある。

 「これらの実験を通じて、テーブルのまわりに順序よく着席し両手をテーブルの上に置くと、その列席者の身体から未知のエネルギーが出ることを得心した。」

 こうした実験観察をする少し前のことであるが、私は一人の紳士からその人の家庭内で起きている素晴らしい現象の話を聞かされていた。その中には固い物体が誰一人触りもせず、そばにもいないのに、目を見張るような動きをしたという話も混じっていた。

そして私にもぜひロンドンの女性霊媒マーシャル夫人 Mrs. Marshall のところへ行ってみるように勧め、その人の実験会なら同じような素晴らしい現象が見られると言った。

そこで私は一八六五年の九月のことであったが、たいてい友人を伴って、連続してマーシャル夫人を訪ねることになった。その友人は優れた化学者であり機械工であったが、同時に徹底した懐疑論者でもあった。

われわれ二人が目撃したものは大別して二種類になる。すなわち物理的現象と精神的現象である。両者ともたいへんな数と種類があるが、その中から特徴の明瞭なものを二、三選んで紹介しておこう。

 一、(私とマーシャル夫人を含む)四人の列席者が手を置いた小さなテーブルが、床から一フィートの高さまで垂直に浮き上がり、約二十秒間その位置に停止していた。見物人として離れて座っていた友人は、このテーブルの脚が完全に床から離れている様子を横から観察することが出来た。

 二、大きなテーブルで私の左側に T 嬢、右側にR氏が着席していた時、T嬢が弾いていたギターが手からすり抜けて床に降り、私の足の上を通ってR氏のところへ行き、氏の脚をつたってテーブルの上に現れた。私とR氏はその様子を細かく観察したが、それはまるでギターそのものが生きているか、それとも小さな、目に見えない子供がそれを持ち運んだみたいな感じであった。これはこうとうとしたガス燈の明かりの中で行われた。

 三、R氏の親戚の女性が座っていた椅子が彼女もろとも宙に浮いた。さらにその現象のあとピアノを弾いていた彼女がテーブルへ戻ったときのことである。腰かけようとすると椅子がすっと逃げる。引き寄せて腰かけようとするとまた逃げる。

これを三回繰り返したあと椅子が一見したところ床に固定されてしまったかのように動かなくなり、彼女の力では持ち上がらない。そこでR氏が代って持ち上げたが、それも必死に力を入れてやっとのことであった。この実験会は晴天の日の真昼、二つの窓のある一階の一室で行われたものである。

 体験のない読者にとってはいかに不思議でいかに非現実的に思えようと、こうした現象が数こそ少ないが私が叙述した通りに実際に起きたこと、そしてそこにはトリックとか詐術とかの疑いの余地は皆無であることを断言してはばからない。

どの実験の時もわれわれは始める前にテーブルと椅子を裏返して点検し、それがごく当たり前のものであること、床との間に何のつながりもないことを確かめ、われわれの望む位置にすえ、それから着席した。現象の幾つかは初めから終わりまでわれわれの手の下で発生し、いわゆる〝霊媒とは無関係であった。 

くぎが磁石に引き寄せられる現象とまったく同じ実在的現象であり、それ自体は磁石現象に比べても少しも信じられないことでも理解し難いことでもないと言える。

 次の最も多く発生した精神的現象は、列席者と縁のある個人の名前とか年齢、その他なんらかの特徴的なことをつづる現象である。現象的にはあやふやな点があるが、うまくいくと目撃した人には実に決定的な印象を与える。

疑い深い人間が持ち出す説は、列席者が文字盤に目をやるその様子───通信がつづられる方法は文字盤の一字一字に目をやっていくうちに大きい叩音(コウオン)がする。それが必要な文字ということになる───によって霊媒がどの文字かを察知する鋭さと能力にすぎないとするものであるが、はたしてそれだけで説明になるものかどうかを示すために二、三の例を紹介してみよう。

 私あての通信が初めてつづられたとき、私は極力ヒントになるものを与えないように文字盤の上を一定の速度で目を移動させた。にもかかわらず弟の死亡した場所の Para‘ 名前のHerbert‘ そして最後に私の要請に応じて、弟を最後に見た友人の氏名 Henry Walter Bates が正確につづられた。この日は私を入れた六人が初めてマーシャル女史を訪ねた日で、一人を除き、私を含む五人の氏名は女史には内緒にしてあった。その一人というのは私の妹(既婚)で、従って私の氏名を知るかぎとはなってていない。

 同じ実験会でR氏の親戚の若い女性に通信が送られるとの連絡があった。そこでその女性は文字盤を手もとに寄せ、文字をひとつひとつ指示するのではなく、文字の上を一定の速度で鉛筆を左右に動かした。

私がそれを観察しながら叩音(コウオン)を指示した文字を書き留めていった。そうやってつづられた氏名は思いもかけなかった Thomas Doe Thacker であった。

私は性のつづりが間違っているに相違ないと思ったが、その名前の主はその女性の父親で、右のつづりに間違いはなかった。そのほかにも数名の人名、地名、日時などが正確につづられたが、紹介するのはこれくらいにしておく。以上の氏名は、いかに鋭敏な超人的知性の持ち主でも察知する手がかりは考えられないからである。

 別の実験会に妹のほかにもう一人、今回が初めてという女性を伴って出席したとき、通信は列席者の躊躇する様子と霊媒の鋭敏さのせいであるとする説の愚かさを如実に示す現象を体験した。連れの女性はある特定の故人の氏名を要求し、例によって文字盤を手もとに置き、指示されたつづりを私が書き留めた。

最初に出た文字は yrn の三文字で、女性は〝あら、むちゃくちゃだわ。もう一度やり直しましょう〟と言ったが、次の e の文字がつづられて私はピンときたので〝そのまま続けてください。私にはわかりましたから〟と言った。こうしてつづられた氏名は Yrnehkcocffej だった。女性は相変わらず判読できずにいたので私がそれを Yrneh と Kcocffej に分けて見せた。

つまり Henry  Jeffcock を逆につづっていたのである。これはその女性の要求した故人の氏名の正確なつづりであった。

 力と知性の双方を必要とするもう一つの現象に次のようなものがある。あらかじめテーブルを点検しておき、その真下に私が密かに印をつけた用紙を鉛筆といっしょに置いておく。そして列席者は全員両手をテーブルの上に置く。

二、三分すると叩音が聞こえる。用紙を取ってみると William と書いてある。別の実験会に田舎から私の友人───霊媒とは一面識もなく一度も名前を口にしたこともない───が私とともに出席した。その友人の息子と名のる霊からの通信があったあと、右と同じ要領で用紙と鉛筆をテーブルの真下に置いたところ、二、三分して Charley T. Dodd と書かれた。

息子さんの姓名の正確なつづりである。両実験ともテーブルの下に器具は何一つ置いていなかったことは確実である。従ってもしも疑問に思うとすれば、果たして霊媒のマーシャル夫人がまずブーツを脱いで足の指で鉛筆と用紙を操り、名前を推測して書き記し、再びブーツ
を履き、その間ずっと両手をテーブルの上に置き、しかもそうした足の操作をだれにも気づかれないようにするということが可能かどうかということである。

 さて私はその後の数カ月間、マーシャル夫人のところへ行かないで自宅で同じ現象を起こそうと努力してみた。友人の R氏は間もなくわずかながらテーブルを動かす力があることを発見したが、意識的ないし無意識の筋肉作用でないことを得心させるほどのものではなかった。しかしそれによって得られた通信の文体と内容は、われわれの意識が関わっていないことを得心させるものを持っていた。

 そこでわれわれは明瞭な叩音等、もっと満足のいく現象を起こす力を持った人を知人の中に求めた。同じ条件下でいくらやっても、われわれだけでは満足のいくものが得られないと観念したからである。

そして妹が、同居している夫人が叩音だけでなくほかにも珍しい現象を起こす能力を持っていることを発見した。一八六六年十一月のことで、わたしはさっそくその夫人を呼んで私の家で一連の観察を開始した。その中から最も注目すべき現象を紹介しておく。

 テーブルクロスのない低目の大きなテーブルで全員が両手を上に置いて腰かけると、たいてい二、三分で叩音が聞こえはじめる。その音の出所はテーブル板の裏側で、そのいたるところから聞こえた。音の種類と大きさはいろいろで、針の先か長い爪の先で突くようなものから、こぶしや平手でたたくようなものまであった。

また爪でひっかくような音とか濡れた手のひらでペタッと押し当ててこするような音もあった。そうした各種の音が次から次へと驚くほど速いテンポで出てくる。しかもわれわれが指先でテーブルの上で出す音をほぼ正確に真似ることもした。

列席者の一人が口笛で吹いた曲になかなか上手に合わせたし、こちらの要求に応じて曲を演奏(?)したこともある。こちらがテーブルをたたく拍子にあわせて叩音を出したこともある。

こうしたものを自分の部屋で、明るい照明のもとで、自分のテーブルを用い、しかも列席者全員の手が見える状態のもとで繰り返し聞かされると、一般に言われている単純な説明では歯が立たないように思える。確かに、初めて叩音を耳のした時の第一印象は、だれかが足先で叩いているような感じがする。

そこでこの疑惑を晴らすためにわれわれは何度かテーブルのまわりで膝をついてみた。が、相変わらず叩音がするし、それもただ聞こえるだけでなく、叩音の響きまで両手に伝わってくるのである。

 もう一つの説は霊媒が腱をほぐしたり関節を鳴らしたりして出している音だというもので、これが科学者の間でいちばん一般的のようである。しかし、もしそうだとすると、だれかが自分の身体の骨または腱でもってコツコツという音やペタッという音、ピシャという音、ガリガリ引っかいたりこすったりする音を出し、しかもそれがだれかが指先で鳴らす音や曲に曲に合わせて素早く連続して出さねばならない。

さらにその音は列席者の位置からではなくテーブルの裏側から出し、その度に振動が列席者に伝わるようでなければならない。そんな芸当のできる人を連れて来てくれるまでは、こんなばかげた説を本気で信じる人間の浅はかさに、私が感嘆の念を抱き続けることを許していただいておく。

 これよりさらに驚異的で私が最大の関心を持って観察したのは、列席者の筋肉作用の可能性を排除した条件下で見られたテーブルの強烈なエネルギーである。

直径二十インチほどの小型の仕事台のまわりに列席者が立ち、その中央部あたりに全員が両手を互いに近づけて置いた。少しするとテーブルが左右に動きはじめ、やがて落ち着いたかに見えたら、こんどは床から垂直に六インチから1フィートほど上昇し、その位置に十五秒ないし二十秒ほど停止していた。その間、列席者の一人ないし二人がそのテーブルを押さえたりたたいたりしてみたが、ものすごい力で抵抗した。

 だれしも最初は誰かが足で持ち上げているような印象を受ける、そこで私はその疑念にこたえるために、二度目からテーブルの裏側にテッシュペーパーを張りめぐらし、足をつっ込むとすぐにを破れるようにしておいた。さて二度目もテーブルが浮上し、上から押さえつけるとまるで下に動物でもいるようなクッションを感じた。

やがて一たん床にゆっくりと降り、再び上昇して、最後は急に床に落ちたが、驚いたことにテッシュぺーパーはどこも破れていなかった。

 ただこの方法ではそのたびごとにペーパーと紐とを取り替えなくてはならない手間と、実験が始まるまでにうっかり破ってしまう恐れもあるので、それに代えて私はカンバスで覆った円筒をこしらえ、その中に、まるで井戸の中に入れるような格好でテーブルをすっぽりと入れた。高さが十八インチほどあったので、足もドレスのすそも中に入る気遣いはなかった。が、テーブルはおかまいなく上昇した。

霊媒の手は列席者の見ている目の前にちゃんと置かれていたから、間違いなく何か目に見えない力が作用していることは歴然としていた。この実験はくりかえし何回も行われた。以上の説明に絶対に間違いないことに自信がある。

 その他、わずか二、三度だけであったが、条件がよほど良いときにさらに驚異的な現象を目撃している。いつもの要領で大きいテーブルに向かって腰かけ、四フィートほど離れた位置にもう一つ小さいテーブルを置いた。

その位置は霊媒と私の妹の背後になる。その状態でみんなでおしゃべりをしていると、その小さいテーブルの方からかすかな音がするので目をやると、そのテーブルが短い間隔を置いてずり動きはじめ、やがて霊媒のすぐそばまで近寄ってきた。それはまるで強い引力作用でも受けているようであった。

そのあとわれわれの要請に応じて床の上に倒れて見せた。だれも指一本触れていない。しかもそれから、まるで生き物が立ち上がろうとしてもがくような仕草をした。別の実験では大きな革張りの肘かけ椅子が四、五フィート離れた位置から、ほんのちょっとした準備運動のあと、突如として霊媒の方へ滑るように寄ってきた。

 以上のような現象はどれも〝そんなばかな!〟と言われればそれでおしまいである。が、私は間違いなく事実であることを断言する。私をはじめ多くの
人々が繰り返し目撃した事実に対して、簡単に〝不可能の文字を使えるほど自然界について知り尽くした人間は、いかなる業績を立てた人であっても、この世には一人としていないはずである。

 一八六七年二月二十七日水曜の夜、注目すべき現象がいくつか起きた。出席者は私の妹、二コル嬢(現ガッピ―夫人)とその父親、H氏、それに私の若い友人であるM氏とM嬢で、私の妻とその妹もテーブルから少し離れた位置から観察していた。

暖炉はなく、ガス燈を少し抑えぎみにした。が、全てがよく見える程度の明るさである。全員が所定の位置に着くとすぐ叩音が聞こえた。調子が良好であるという内容であった。

そこでさっそく二コル嬢とその父親の中間の床の上に置いておいたワイングラスをテーブルの上に運んでみてほしいと要求し、さらにそれを何かでたたいてみてほしいと言った。

すると、ややあってから明瞭な澄んだ音が鳴り響いた。それがこんどは二個のグラスがぶつかり合う音に変わった(グラスは一つしか置いてない)。そのあとは次から次に聞こえるさまざまな音にわれわれはただ驚くばかりであった。

たとえば二つのグラスの一つがもう一つのグラスの中に入れられた状態で出る音から、もう一つのグラスへ落とされる時のカランという音まであった。いずれにしても二つのグラスをいろいろと操作して出す音にしか聞こえなかったが、部屋に置いてあったのは一つだけで、列席者全員の手はテーブルの上に置かれていて、まる見えであった。

 次にわれわれはそのグラスを再びテーブルの上に置き、二コル嬢とH氏の二人がそれを押さえて音が出ないようにしてみた。ところが少しの静寂のあと、グラスを軽く叩く時のなんとも名状し難いデリケートな音がして、それが次第に大きくなり、ガラスの鈴でも鳴らすような冴えた音になっていった。

それから数分間、さまざまなバリエーションで続けられ、やがて小さくなり、そして消えていった。その後、私はマレー半島から持ち帰った竹製のハープをテーブルの下に置いてみたところ、ひとりであれこれ姿勢を変えたあと弦が人間の指で鳴らすのと全く同じ澄んだ大きな音を出した。

グラスでの実験がうまくいっていたので、ハープではどうだろか、ハープにいっさい触れないで音を出せるかどうかを尋ねた。やってみよう、という合図があったのでそのハープをテーブルの上に置いた。すると、ややあってかすかな叩音が聞こえ、それが間もなく弦の音に変わっていった。それはワイングラスのときほど見事ではなかったが、明らかにハープの弦の音の擬音であった。

 こうした擬音を何の物体も用いずに出す現象は二コル嬢の特殊な霊力を活用していることを、叩音による通信で知らされた。余談になるが、ワイングラスによる擬音があまりに真に迫っていたので、列席者の中には会が終わってからテーブルを裏返して、どこかにもう一つのグラスを霊が持ち込んだのではないかと調べた者がいたが、結局何も見つからなかった。

 否定論者はわれわれの証言の中に〝出席者がやった可能性は絶対にない〟と言う表現が多すぎると批判するが、私は右の現象に置いてもやはり列席者が手を出した可能性はなかったことを断言してはばからない。そして、同じ条件下において人間が見事に同じことをやってのけて、しかもその方法をちゃんと説明してくれるまでは、やはり私はその主張を引っ込めるつもりはない。
       ”Notes of Personal Evidence” from MIRACLES AND MODERN SPIRITUALISM by A.R.Wallace 

 
 


  霊界(ウラ)からみた交霊会(シルバーバーチ)

(注)本文と以上四つの参考資料はいずれも人間側からの研究と観察であるが、もう一つ、霊界側からの観察を紹介しておく。これはモーリス・バーバネルを通じてほぼ半世紀にわたって語り続けた古代霊シルバーバーチの霊言を部分的に抄訳してまとめたものである。見えざる世界の、しかもすぐ身近に起きている意外な一面が窺えて興味深い。
 


    


 『すべてバイブレーションの問題です。バイブレーションを通じてどれだけ伝わるかの問題です。あなた方には霊媒の口をついて出たことしか分からない。出なかったものについては何もご存知ない。

 譬えてみれば電話でしゃべる時と同じです。あなたはただ受話器に話しかけるだけでいい。そして相手の言ったことを受話器で聞くだけです。が、あなたの声が相手に届くには大変複雑なメカニズムが働いております。

それを発明した人や電話局で働いている人々がいるわけですが、電話でしゃべっている時はそんな人のことは考えもしないし目にも見えません。交霊現象もいっしょです。あなた方は霊媒を通じて聞き、私たちも霊媒を通じて話かけるのですが、その途中のメカニズムは大変複雑なのです。

 この交霊会のために大勢のスピリットが働いております。発達程度もいろいろです。一方には地上に近い、多分に物質性を具えたスピリットがいます。そういうスピリットでないと出来ない仕事があるのです。

 他方、光り輝く天使の一団もおります。本来属している高い世界での生活を犠牲にして、地上のために働いております。少しでも多くの霊的真理を地上にもたらそうと心を砕いているのですが、今までのところ、それはまだ闇夜に輝くほのかな明かり程度でしかありません。

 しかし、それでもなおそうした神の使者が足繁くこの小さな一室に通うのは、ここが素晴らしい場所だからです。素晴らしいという意味は建物が大きいとか、高くそびえているとか、広いとかの意味ではありません。地上に真理という名の光を注ぐ通路としてここが一ばんすぐれているという意味です。こうしたサークルからこそ、地上世界は新しいエネルギーを摂取するのです。

 それ以外の、もろもろのスピリットを含めて、今夜だけで五千人もの霊がここに集まっております。あなた方のよく知っている人で交霊会というものに関心のある霊もおれば、こういう場所があることを今まで知らなくて、今日初めて見学に来たという霊もおります。

 また霊媒を通じて仕事をするために、私たちがここでどのようにやっているかを勉強しに来ている一団もおります。世界各地から来ております。

こちらの世界でも、地上に働きかける方法についての研究が盛んに行われているのです。霊的エネルギーをいかに活用するかが最大の研究課題です。それを無駄にしてはならないからです。そのために、こちらからいろんな形で人間に働きかけております。

自分では意識しなくても、霊界からのインスピレーションを受けている人が大勢います。 
 
 偉大な科学者も発明家も教育者も、元をただせば霊界のスピリットの実験道具に過ぎない場合があります。法則なり発明なり思想なりが地上に伝わればそれでよいのであって、どこそこの誰が、といったことは私どもにはまるで関心がないのです。

 宇宙はすべて協調によって成り立っています。一人だけの仕事というのはありません。だからこそスピリットは〝霊団を組織するのです。目的に必要とするスピリットを集め、そのうちの一人が代弁者(マウスピース)となって地上に働きかけます。

私も私の所属する霊団のマウスピースです(編者注ーmouth-pieceはパイプの吸い口、楽器の吹き口が本来の意味です)。霊団の一人として働く方が自分一人で仕事をするよりはるかにラクに、そして効果的にはかどります。仕事の成果はそうした霊団全部の力を結集した結果であるわけです。

 成果が素晴らしいということは霊団の調和がすばらしいということでもあります。それは、霊媒の出来がいいということが霊媒と支配霊との調和がいいということであるのと同じです。そうでないと必ずどこかにきしみが生じます。オーケストラと同じです。

演奏する楽器は一人一人違っていても、ハーモニーさえとれれば一つの立派なシンフォニーとなります。が、そのうちの一人でも音程を間違えば全体が台無しになってしまいます。調和が大切なゆえんです。

 『あなた方の住む物質界は活気がなくどんよりとしています。あまりにうっとしく且つ重く苦しいために、私たちがそれに合わせようと波長を下げていく途中で高級界との連絡が切れてしまうことがあります。

 譬えてみれば、こうして地上に降りて来た私は、カゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去って行く時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へよろこび勇んで飛び去って行きます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

 さて私があなたがたと縁のあるスピリットからのメッセージを頼まれる時は、それなりのバイブレーションに切り換えてメッセージを待ちます。その時の私は単なるマウスピースにすぎません。状態がいい時は連絡は容易にできます。が、この部屋の近辺で何かコトが起きると混乱が生じます。突如として連絡網が途切れてしまい、私は急いで別のメッセージに代えます。バイブレーションを切り換えなくてはなりません。

 そうした個人的なメッセージの時はスピリットの言っていることが一語一語聞き取れます。それは、こうして私が霊媒を通じてしゃべっている時のバイブレーションと同じバイブレーションでスピリットがしゃべっていることを意味します。しかし高級界からのメッセージを伝えるとなると、私は別の意識にスイッチを切り換えなくてはなりません。

シンボルとか映像、直感とかの形で印象を受け取り、それを言語で表現しなくてはなりません。それは霊媒がスピリットからの通信を受けるのと非常によく似ております。その時の私は、シルバーバーチとして親しんでくださっている意識よりもさらに高い次元の意識を表現しなければならないのです。

 とは言え、私は所詮この霊媒(バーバネル)の頭にある用語数の制限を受けるだけでなく、この霊媒の霊的発達程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長してくれれば、その分だけ、それまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。

 今ではこの霊媒の脳のどこにどの単語があるということまで分かっていますから、私の思うこと、というよりは、ここに来る前に用意した思想を全部表現することが出来ます。

 この霊媒を通じて語り始めた初期のころは、一つの単語を使おうとすると、それとつながったほかの要らない単語までいっしょに出て来て困りました。必要な単語だけ取り出すためには脳神経全体に目を配らなくてはなりませんでした。現在でも霊媒の影響を全く受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味では少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。が、私の言わんとする思想が変えられるようなことは決してありません。

 あなた方西洋人の精神構造は、私たちインディアンとはだいぶ違います。うまく使いこなせるようになるまでに、かなりの年数がいります。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質を持った人々の睡眠中をねらって、その霊体を使って試してみます。そうした訓練の末にようやくこうしてしゃべれるようになるのです。

 他人の身体を使って見ると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。一方でいつものように心臓を鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の全神経を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、こちらの考えを送り込みます。容易なことではありません。

 初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはならないのです。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには一歩一歩に全意識を集中します。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするようになるまで、やはり同じ経過を辿りました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働きます。

 人間の潜在意識はそれまでの生活によって働き方に一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れを一たん止めて、新しい流れを作らなくてはなりません。

もし似たような考えが潜在意識にあれば、その流れに切りかえます。レコードのようなものです。その流れに乗せれば自動的にその考えが出て来ます。新しい考えを述べようと思えば新しいレコードに代えなくてはならないわけです。

 この部屋に入ってくるのに、壁は別に障害にはなりません。私のバイブレーションにとって壁は物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。私のバイブレーションに感応するからです。もっとも、私の方がバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるまで十五年もかかりました。

 こうして霊媒のオーラの中に入っている時はまるで牢獄に入れられているみたいです。その間は霊媒の五感に支配されます。暗闇では物が見えません。もっとも足は使えません。私の仕事に必要でないものは練習しませんでした。

脳と手の使い方だけを練習しました。こうしてしゃべっている時に他のスピリットからのメッセージを伝えることがありますが、その時は霊媒の耳ではなく
私自身の霊耳で聞きます。すべてはオーラの問題です。私には私のオーラがあり、霊媒のオーラよりは鋭敏です。

そのオーラに他のスピリットがメッセージを送り込みます。それは言ってみれば電話で相手に話しかけながら同じ部屋にいる人の声を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているのです。同時には出来ませんが、切り換えることは出来るわけです。』
                         ❝ Behind the Scenes at Seances❞ by Sillver Birch





 
訳者あとがき                                                                              

 ハリー・エドワーズと言えば世界にその名を知られた英国の心霊治療家である。一九七六年に八三歳で他界するまでのほぼ半生をスピリチュアリズムの普及活動と心霊治療による治療活動に捧げている。特に後半生の治療活動は目覚ましく、世界各地からの治療申し込みの手紙が三十年間に延べ一四〇〇万通にも達している。

 そのすべてが実際の治療を受けたわけではないが、統計によると、氏の治療を受けた患者のハ十パーセントが〝好転〟し、そのうちの三十パーセントが〝完治〟している。そうした患者はすべて医学によって〝不治〟の宣告を下された人ばかりであることを忘れてはならない。

 言えかえれば医学治療で治癒率ゼロのものが、エドワーズ氏にかかると右の治癒率となるということで、これはまさに驚異という他はない。その中に〝奇跡〟と呼べるものが三十%もあるということである。

 エドワーズ氏の無二の親友であり、ジャック・ウェーバーの実験会の推進に終始協力した心霊ジャーナリストで霊媒のモーリス・バーバネル氏が、のちにエドワーズ氏の治療所を引き継ぐことになったレイ・ブランチ氏に対し

 「私が思うに、ヘンリーはイエス・キリストが地上で行ったことよりも大きい仕事をしていると思う」と語ったことがある。(ヘンリー氏の通称がハリー)

 その時二人は一緒に昼食中であった。ブランチ氏はコーヒーをまぜていた手を止め、多分バーバーネル氏が大ゲサなことを言ったテレ隠しに笑いだすだろうと思って氏の顔を見つめていた。が、メガネの奥の目はまさしく真実を語った人の目で、真剣そのものだったという。(レイ・ブランチ著「ハリー・エドワーズ───偉大なる治療家の生涯」)

 そのエドワーズ氏がジャック・ウェーバーとの出会いによって心霊現象の実験会に真剣に取り組んだ頃は、その治癒能力はまだ本格的な段階に至っていなかった。参考までに氏がはじめてスピリチュアリズムを知り、さまざまな霊的体験を経て、ついに心霊治療家となっていった過程を、心霊著述家ポール・ミラーとモーリス・バーバネルによるエドワーズ氏の伝記 Born to Heal から一部を抄訳して紹介しておこう。

 エドワーズ氏がはじめてスピリチュアリズムに触れたのは、エセックス州のある教会における霊視家のデモンストレーションに出席した時だった。エドワーズ氏はマジックが趣味で、マジッククラブに所属していたほどなので、その時もどうせタネがあるに決まっていると考え、そのタネを暴いてやるつもりで出席した。

 ところが、司会者の説明は何のことか理解できなかったが、霊視家が述べたことは証拠性があり、強烈な印象を受けた。氏はそこで二つの結論を出してみた。一つは霊視家の言ったことは間違いなく真実である。そしてもう一つは、しかしそれは〝さくら〟との共謀であるということ。

 それにしても───氏はもう一歩踏み込んで考えた。あの霊視家はあの時一回きりでなく何回も、それも幾つもの会場でやっている。もしそれをすべて〝さくら〟を使ってやるとなると相当な数のさくらがいるし、第一いつかはバレてしまうはずだ。かくして最後に到達した結論は、霊視現象は確かに言われた通り実在するということで、以来ずっと揺らぐことがなかった。

 二度目は一九三四年のことで、この時は夫人と友人のレイトン女史(写真No2参照)を伴って出席した。この時は公開の交霊会で誰でも自由に出席できたが、そこでもまた強烈な印象を受けた。

そして何回か出席しているうちに、これといって確証はないのだが、自分に協力しようとしているスピリットが何人かいることを告げられて、自分にどんな霊能があるかを試してみる気になり、三人でいっしょに霊能養成会に入会した。

 最初のうちはこれといって変化はなかったが、やがて「からだのリズムが速くなり、呼吸も速くなっていくのを感じ、自分の心が別の考えによって支配されてしまうのであるが、それを口に出そうとしてもノドが意のままにならなかった」という体験をする。

 そのうち今度は無理やり起立させられ、しゃべろうとする欲求が湧いて来て、つい大声で「全ての人類に平和を!」などと叫んで、他のメンバーをびっくりさせたりした。このことについてエドワーズ氏は、当時は平和と反戦運動のことで頭がいっぱいだったので「多分霊能を伸ばすためにスピリットが潜在意識の反射運動を利用してやったのでしょう」と説明している。

 この体験のあと氏は入神状態で演説するようになった(入神談話)。声も違えば、用語もまったく普段使っているものと違っていた。

 そのうち今度はパノラマ風の生き生きとした光景を霊視するようになった。それは決まって人生の表と裏を表したもので、神に背いてあがく罪深い人間と、天国へ向かう幸せな人間の姿であった。

 エドワーズ氏はそれまで祈りというものをしたことがなかった。ところが入神談話を重ねるうちに、その話の中に祈りの言葉がひんぱんに入るようになり、同時にバイブルの中の読んだこともない文章が飛び出すようになった。そうした入神談話が、まるで他人の話を聞くように、いつも意識的に聞こえたという。

従って氏自身にとってはそれだけで、すでに別の知的存在が自分の身体を使っている証拠として十分であった。

 その入神談話をしていたのは、ジョージ・デイズリー氏によってアメリカインディアンのホワイトフェザーという名の霊であることを教えられた。

 その頃から病気を治療したいという願望が次第に強くなっていった。エドワーズ氏は夫人と数少ない友人とで独自のサークルを結成し、本格的に霊能の養成を始めた。患者を直接治療する活動を開始したのは実はこの養成会においてであった。そして、なかなか成績がよいので、週のうち一日を治療日とすることになった。

 かくして心霊治療家としてのスタートが切られたのだった。

 ところで、読者の中にはなぜ心霊治療家のエドワーズ氏が分野のまったく異なるジャック・ウェバーという物理霊媒をこれほどまで熱心に実験の対象としたのか、疑問に思われる方がいるかもしれない。

 実はその疑問に対する回答の中にこそ、エドワーズ氏が心血を注いだ物理的心霊現象の真の意義が秘められているのである。そこを理解していただかないことには、本書を読まれた意味も、エドワーズ氏が本書を書いた意味も失われることになる。

 それは大きく二つに分けられる。一つは人間の五感では捉えられない知的存在(スピリット)がいることを立証すること。これは当然のことながら、その知的存在の生活する場、いわゆる死後の世界または霊界が存在することも意味する。目にこそ見えないが、この宇宙のどこかに存在するわけである。

 もう一つは、そのスピリットは人間の力量も想像もはるかに超えた驚異的な霊力(パワー)を出すことが出来るということを示唆している。死後の世界の存在も破天荒の事実であることに相違ないが、さきの疑問との関連において観るかぎりでは、この方がより重大な事実と言えるかも知れない。

そのパワーの中に〝不治の病〟をいとも簡単に治してしまう治癒力も含まれているからである。

 バイブルその他の聖典に見られる奇跡的治癒の数々も、原因は霊的パワーにあったのであり、その治療を施した人、たとえばイエス・キリストはそのパワーの通路にすぎなかったわけである。

 エドワーズ氏が本書を著わした時は、能力的にも人間的にも、また霊的知識の点でも、まだまだ未熟であった。

が、のちの偉大なる世界的治療家、バーバネルをしてイエス・キリスト以上と言わしめた大治療家が、その基礎づくりの時代において、二年間にわたってジャック・ウェーバーという一物理霊媒の心霊実験会に携わり、徹頭徹尾、まさにしつこいほどの細かい観察によって、スピリットの存在とその霊力の威力を目のあたりにし、そして得心したことは、その霊力の背後に控える高級神霊界の偉大なる配慮があったものと推察されるのである。

 思うに、本書で披露されたエドワーズ氏を始めとする各界の出席者の態度こそ、真理探究者の見本というべきである。事実は事実、現象は現象としてあるがままにその存在を認める。次にそれが時間的・空間的・力学的観点から見て霊媒自身の仕業でも、あるいは霊媒と列席者との共謀でもないことを立証する。

それを更に、写真で実証する。そして、この段階にきてはじめて目に見えぬ人間以外の知的存在の働きを想定する。

 心霊現象の調査研究にこれ以上の実証性と科学性はもはや無用である。これで十分である。あとは探究者個人の直感的洞察力の問題にかかってくる。

 科学の歴史にその名を残した偉人が一方において心霊現象に深くかかわってスピリチュアリズムの真実性を確信し、学会からの批判をものともせずにそれを公表し書物まで出版した例は少なくない。物理学者のオリバー・ロッジがそうであり、理化学者のウィリアム・クルックスがそうであり、博物学者のアルフレッド・R・ウォーレスがそうであった。

 そのウォ―レスがいみじくも言っているように「事実というものはどうしようもないもの」である。その「どうしようもないもの」を見栄や偏見からどうにかしようとする学者がいかに多いことか。まるで宇宙は自分が拵えたのだと言っているみたいな口を利く学者がいかに多いことか。

 事実は肯定するより否定する方がはるかに困難なはずである。シェークスピアではないが「この世にはお前が夢想だにしないものがいくらでもあるんだ」というセリフを献上してあげたい御仁が多すぎる。

 一方、摩訶不思議なものをすぐに有り難がる人種が多いのもまた困りものである。古来一宗一派を開いた人物が大なり小なり霊的能力を具えていたことは、洋の東西を問わず確かな事実であるが、今なおそうした「教祖さま」が生まれては消えて行っている。

こうした事実は超能力をそなえた人間のまわりに、その人を神の座に祭り上げようとする人間が大勢いることを示しており、同時にまた、その神輿(ミコシ)にすぐ乗ってしまう霊能者が多いということでもある。

 霊的能力そのものは善でもないし悪でもない。具えているからと言ってその人が偉いわけではない。英国の心霊治療家モーリス・テスターが心霊月刊誌ツーワールズ(一九八三年十一月号)で「心霊治療家を聖人と思うなかれ」と題して次のように述べている。


 「世間には、心霊能力を具えた人は他の面でも立派なものを具えているに相違ないという誤った認識がある。だから、そう思っている人は治療家を霊格の高い聖人と思い込み、病気を治すだけでなく未来のことも分かり、運命を改めることも出来ると信じて、結婚の相性から引っ越しの是非、はては投資の問題まで持ちかける。

 治療能力はいろんな人がもっている。どういうタイプの人がそれを授かるかは分からない。脳髄がそれに向いているということかも知れないし、同情心が普通の人間より強いからかもしれない。もしかしたら前世で人のために尽すことが少なかったので、その補いのために人の病を治す仕事をさせられているかも知れない。

その他いろんなケースが考えられるが、いかなる人間がいかなる理由で選ばれるのか、またそれをだれが選ぶのか、本当のことは私にも判らない。

 はっきりしていることは、それが霊的な能力にすぎないということだけである。霊格の高さを示すものはないのである。むしろその逆のように思えるケースがよくある。つまり人間的にみて程度が低いと思える治療師が大勢いる。そういう人は何とか立派そうに見せようと、いろいろ工夫をする。医師のような白衣をまとったり、診断用のベッドを置いたり、祭壇をしつらえてローソクをともし、香をたき、宗教的な置物を飾ったりする。

 こうしたやり方に見事に参ってしまう人がまた多いのである。だから例のルルドへ年間何万もの人が詣でるということにもなるのである。実際には、その何万人もの人のうち本当に治っている人の数は、私のような個人の治療家が一ヶ月で治す人数にも及ばないのであるが。

 何か錯覚しているのではないかと思える治療家も多い。一人の病人を治したことで、もう大変な使命を背負った神の使徒であると思い込み、自分の考えを神の声と信じて患者に説く。結局こうした治療家は自分を精神的指導者と思い込んでいるのであるが、これは錯覚である。

 心霊治療家は霊力の証人であってそれ以上のものではない。霊の威力(パワー)を見せつけることが出来る───そういう能力を授かっているということである。苦しい病から解放された患者がいろいろと知りたがるのは無理もないことである。

これは一体どういうことなのか。自分を治してくれたエルギーは一体何なのか。これから自分はどうすればいいのか、等々。が、そうした問いに一々答えてはいけない。

 治療家としての正しい態度は次のように言ってあげることである。〝お役に立ててうれしく思います。私はあなたを治してあげることによって霊の威力をお見せしたのです。これで霊力が存在することに得心がいかれたでしょう。

私は宗教家ではないから、その霊力をあなたがどう呼ばれてもかまいません。生命力、宇宙エネルギー、大霊、神、なんでもよろしい。私はあなたにドアを開いて差し上げた。

そこまでが私の仕事であって、そのドアの向こうにある真理の花園までどういうコースを辿って行くか、その真理をあなたの人生にどう摂り入れるか、それはあなた自身の問題です。これで私の役目は終わったということです。〟

 そこで私は治療家諸氏に〝驕るなかれ〟と申しあげたい。どう装ったところで、治療効果には何の影響もない。霊力はあなたを通過して流れるのであって、あなた自身から出ているのではない。あなたは単なる道具に過ぎない。あなた自身が霊力を出すのではない。あなたの外部から入り込んでくるのである。

 大勢の人が自分の足もとに跪くことを期待してはいけない。イエス・キリストですらたった十二人の弟子しかもたなかった。しかもそのうちの一人トマスは最後まで疑り深い人間だった。



 エドワーズ氏の辿った人生は決して平坦なものではなかった。生計を立てるという一人間としての苦労も並大抵ではなかったが、心霊治療家という仕事においても、医学界からの非難、、中傷、軽蔑の中を戦い抜くことはよほど強固な信念と自信、そして強じんな精神力なくして出来ることではなかった。

 もっともエドワーズ氏にはイエスをも凌ぐとまで評されたその驚異的な治癒力という武器があった。氏の人生のクライマックスは英国治療家連盟という全国組織結成し、その会長として次々と公開デモンストレーションを行ったころであるが、大ホールで何千人もの観衆と何十人、時には何百人という医師団を前に、数々の奇跡的治癒をいとも簡単に披露してみせた。目の不自由な人がその場で見えるようになったり、壇上に上がるにも人の手を借りねばならないほどの足の不自由な人が、片時も手離せなかった杖を置いて帰るというといったことは、氏に関するかぎり珍しいことではなかった。

 が、氏を語る上で決して忘れてならないことは、そうした超人的奇跡を次々と起こしながら、金銭欲と名誉心から完全に超脱していたことである。氏の態度のどこにも自惚れというものが見られなかった。もしもそれが目に付くような人柄であったら、バーバネルも〝イエス・キリスト以上〟とは言わなかったであろう。自惚れはすべてを帳消しにするものだからである。

 そうした偉大な人格を支えたものは何か。もちろん生来のもの───つまり生まれつき高い霊格をそなえた高級霊であったことは間違いない。が、高い霊格の持ち主も、肉体に宿り五感の牢獄に閉じ込められると、その霊的判断力は曇り、人間的煩悩に負けて道を見失ってしまうものである。

 エドワーズ氏の場合は霊的仕事の出発点において、このジャック・ウェーバーによる心霊実験を通じて、徹底的に霊の威力を見せつけられ、人間がいかに小さな存在であるかを思い知らされたということが、その後の人間形成の大きな支えになったものと推察される。物理的心霊現象の意義が氏において最も正しくかつ有効に発揮されたということが言えよう。

 コナン・ドイルが「電話のベルが鳴る仕掛けはたわいないが、そのベルが驚くべき知らせの到来を告げてくれることがある」と言っているが、まさに至言である。本書で紹介された現象を今すぐ目の前で見ることが出来ないのは残念であるが、少なくとも報道されている通りのものが現実に起きたということだけは紛れもない事実である。訳者自身それに類する実験に立ち会った者として確信をもって断言できる。

 その現象の示唆するところは正に人生はコペルニクス的転換をもたらす。訳者自身がその精神的革命を体験している。その体験が本書の翻訳のそもそもの動機であることを最後に付言しておきたい。

 なお翻訳に当たっては初版本(一九四〇年版)を使用した。その後出版社から改定新版の寄贈を受け、校正の際にそれを参照したが、写真は初版本の方が写りが良いのですべてそれを使用した。

   一九八五年八月
                                             近藤千雄




      物理的心霊現象と認識論      梅原伸太郎

 今回の配本(第四集)は物理的心霊現象に関するものである。他にも幾つかの小篇を集めて、本シリーズ中の資料篇といった趣となった。なかでも英国国教会がスピリチュアリズムについて調査した「多数意見報告書」は重要である。

 世界心霊法典全五巻のうち三巻は主観的心霊現象に属する霊界通信によるものを採っているが、スピリチュアリズムの基礎部分をなすものとしては物理現象も見過ごされてはならない。ことに近代人には神秘なるものに関して目に見える形での証拠をつかみたいという衝動が根底にある。

サンデーピクトリアル紙記者バナード・グレイの言葉はその典型的な心情を述べたものであろう。

「ことばによる証言ではなく、驚異的現象による実際の証拠をうることが目的である。病気が奇跡的に治ったとか、死者からの紛れもない存続の証拠となるメッセージを受け取ったとかの証言ではない。

私のような唯物的な精神構造をした人間にも得心のいく物的証拠である」(本書四四頁)。次の言葉はもっともっとさし迫った心の状態を示している。「ヒットラーだの枢軸国だの戦争の驚異だのといった類の問題より、今の私にとってはその方がより重要なのである」(同四五頁)と。われわれが本書をシリーズ中に加える理由は、世の多くのバーナード・グレイ氏の心情に答えるためである。

 スピリチュアリズムの側から言えば、物理的心霊現象はより高次の霊的真理に目を向けるための突破口になるのである。現象の有る無しも重要な科学上の問題であるには違いない。しかしそれの世界観に及ぼす影響となると更に重要である。

もし霊魂が存在するとするとわれわれの得たものは地球より重く大きい。何故なら、唯物論によればわれわれは死によって確実に地球その他一切を失う筈であるから。

しかしわれわれが地球以上のものを得るといっても
、霊魂存在の一点において疑いがあれば、他は砂上の楼閣となる。どのような高論卓説、霊智霊妙の神秘学もその基礎を築くことが出来ない。霊界が苦心の末物理的心霊現象を多発させた意図はそこにあったのであろう。

しかし人間の方は物理的心霊現象の存在は必ずしも霊魂及び霊界の存在の証明にはならぬという理論を立てはじめた。そしてそもそも霊媒とか交霊会で起こる現象は科学的証拠として認められないと言いはじめたのである。

苦心の末がこの始末であるから、私ならばこんな努力は止めてしまいたいと思うであろう。事実ここ数十年物理霊媒が世界的に払底してしまった。研究者たちはこれをおかしなことだと思っているが、霊界の方は、これからは霊的治療力に力を入れると宣言している(ハリー・エドワーズ著、梅原訳『霊的治療の解明』国書刊行会刊、参照)。

もともと交霊会における現象は多数者を納得させるためには不利である。人間の方が頭を切り替えて認識の方法を変えるか、科学的方法についてもう一段工夫を凝らすかするまでは、物理霊媒による啓蒙はとりやめというところであろう。

何度やってみせても信じるものは見た人だけ、結論も一向先に進まないという状況でであれば、霊界が物理現象を起こすそもそもの目的を考えてみると、世界的に物理的心霊現象が払底してしまったのも無理はない。かつては一つのものであった心霊研究(心霊現象についての純科学的研究)とスピリチュアリズム(科学的側面に加えて哲学的・宗教的側面を持つ)に切れ目が生じたのである。


 認識論上の問題
 これまで言われてこなかったことだが、物理的心霊現象を考えるうえでは、認識論上の問題を解決しなくてはならない。人類がこの問題をクリアしなかったために物理的心霊現象は未だになかったことになってしまっている。およそこのような認識論上の極北に位置するような事実に関しては、人間の認識の装置そのものを再検討してみることなしには、それが事実としてあったかなかったかをさえ決めることはできないのである。

 超常現象と呼ばれる事象はその言語上の定義からしても滅多に起きない種類のことである。それが常時起こるのであれば、そもそも、超常現象の中に分類する必要はない。超常現象は現代の科学の要求する「繰り返し」の基準になじまない。それは繰り返しはするが、科学者の要求するような条件のもとでは滅多に生起しないのである。

 しかし物理的心霊現象は、十九世紀以来、いわゆる交霊界と言われる条件のもとでは頻出した(それが頻出した理由については第三章『スピリチュアリズムの真髄』編者あとがきに述べた)。

多くの人がそれを目撃し、代表的な科学者たちもその現象の生起に立ち会ってそれを保証した。(クルックス、ウォーレス、ロッジ、リシェなど)が、結局人間の知識体系の中ではそれはなかったことなのである。
 
 実証的な人はよく「自分の目で見なければ信じられない」という。だがこのくらい科学を無視したことばはない。個人的に見られたことの多くは科学とは関係ないからである。

と同時に、このことばは元来、「他人の見たことは信じない」という宣言でもある。とするとあなたがその宣言者だとすると、物理的心霊現象は生起したとしても、それらが他人の目で見られたものである限り、あなたにとっては存在しない。幸いそれがあたなにとって見られるものになったとする。

すると今後はあなたが信じて貰えないということになろう。こうした難問を解決するためには、物理的心霊現象が盛んに起きて、多数の人に目撃されなければならないわけである。しかしそれは、先に述べた超常現象の定義からいって不可能なことである。

とすると物理的心霊現象は圧倒的多数者にとって、永遠に存在しないことになってしまうのであろうか? 「目に見る」主義の人にとってはその通りである。

物理的心霊現象はここ百数十年の間にかなりの回数(人類史のほかの時期と比べると比較にならないほどの高い確率で)生起し、観察されたが、これを見なかった人は見た人が何を言おうと無視し続けたのであった。

物理的心霊現象が起こるためには様々な難しい条件があり、その条件の満たされることは稀だが、人類全体を想う霊界の好意によって、それはある時期頻繁に起きたのである。(ハイズヴィル事件以降約百年間)。がしかし、人類はといえばごく僅か人々を除いてはこの機会を善用せず、その好意を無駄にしてきたのである。

 物理的心霊現象の起こったのは何も西洋においてだけではなかった。わが国でも昭和五年頃から浅野和三郎が物理霊媒の亀井三郎を発見した頃から交霊会で物理現象が見られるようになった。

奇妙なことに、それは浅野が四―ヨッパ、アメリカの心霊行脚の旅に出て、彼地のスピリチュアリストのグループとの接触があってからのことである。それまでは浅野の霊媒発掘の試みも実を結ばなかった。私は西洋スピリチュアリズムの現実レェルでの流入が行われたのは(浅野という稀有の使命をもった人物を通して)このときからではなかったかと推測している。

 代表的物理霊媒で当時の関係者たちからその能力を保証された人には、上記の亀井三郎を初めとして、元吉嶺山、津田江山、荻原真、竹内満朋らがいる。なかでもその現象がもっとも見事だったのは亀井三郎であったといわれている。

これらの現象を目撃した人の中には相対性理論との関係で有名な物理学者石原純、気象庁長官藤原咲平、東大伝染病研究所長長谷川秀治、東大工学部長大山松次郎、また東大教授・工業技術院長後藤以紀氏などがいた。なかでも後藤氏は専門のかたわら終始心霊研究に意欲を燃やした人で、多数の観察記録や論文を発表しておられる〔(財)日本心霊科学協会刊後藤以紀著『心霊科学と自然科学』〕。

また個人的にも理論的にも霊魂の存在を確信しておられる。日本では最も多くのこの種の実験に立ち会われた科学者であろう。これらの実験に立ち会った人は現象の生起に関しては殆どが文句なく認めたということである。

ただその現象の生起する理由となると霊魂を原因として認める人もいたが、現代科学では説明できないこととするのが一般的であったようである。これは科学者としてはむしろ当然の誠実さであったろう。

 後藤氏に伺ったところでは当時実験に立ち会った科学者は、事前にトリックなどがないように徹底的に調べていたので
現象の生起について疑う余地なく認めたが、心霊研究を専門にやっている立場ではないので他から質問などをされた場合に確実な答えをすることができない、それで自分が認めたということを世間に発表されるのは困ると言ったとのことである。

後藤氏によれば大体一流の科学者というものは科学の限界をよく知っているので、心霊現象が存在しないというようなことは言わないものだ。例えば湯川秀樹博士などがそうで、そう言うこともありうるという立場でいろいろ質問されたそうである。個人的体験的納得から、科学者としての知の体系に入れるというところまでは距離があるということであろう。

 物理的心霊現象は存在する。繰り返しも存在する。しかしそれはこうした現象の生起に必要な条件が満たされたときである、とスピリチュアリストは主張する。しかしそうした条件とは科学者の要求する条件とは違った条件においてなのである。

 物理的心霊現象が起こる条件とはなにか? 以下に思いつくままに挙げてみよう。
 まず第一に、物理的霊媒(物理的心霊現象を起しうる素質を持った人)の存在である。物理的霊媒は先天的にエクトプラズムの基となる生命原質(マイヤーズ霊のいわゆる複体───『人間個性を超えて』参照)を多量に保有した人であり、そのような人が存在する割合は数百万人に一人であると言われている。これに対して科学はそもそも霊媒の存在自体を認めていない。

 第二に、霊界の協力である。物理霊媒がいても霊界の協力がなければ現象は起こらない。このことは事情を知るものにとってはあたり前のことなのであるが、科学者は霊界の存在を認めていないから、実験に際してこの点を配慮しない。どちらかといえば現象を認める側がそれを起こすべきだと思っている。そして現象の生起を権利として要求しうると思っている。

 第三に、霊媒といえども人間であるということである。そのためには霊媒の生理や感情を考慮して、彼らが非常に困難な奉仕を遂行するための安定した適切な環境を用意しなけらばならない。

 第四に、交霊会における参会者(シッター)(実験ならば立会人ということになろう)の問題である。参会者は現象の生起に貴重な役割を果たす。まず物理現象の生起に必要なエクトプラズムは霊媒からばかりではなく、不足分は参会者からも集められる。

従って何人かこれを提供しうる人が必要である。このように、参会者は、生理的にも無意識的にも霊媒の協力者なのである。

 私はある有名な物理霊媒であった(物理霊媒として活躍できる期間は短い)
人から、参会者のなかに無意識的にこのエクトプラズムの貸与を拒否するものがあると霊媒は交霊中苦しくなる、またその参会者が誰か察知できて遂にはその参会者に怒りさえ覚えることがあると聞いたことがある。

また本書にもあるように、物体浮揚が起きるときその重量のかなりの割合が参会者に掛けられるというのである。そればかりではない。参会者はそもそもこうした交霊が行われる際に引き寄せられる霊界の吸引力として重要である。

何よりも重要なのは交霊の指導者(我が国のことばで言えば審神者:サニワ)であるが、その他の参会者も重要である。何故ならばそれによって接触を持ってくる霊の高下や種類や目的が決まるからである。

その他にも参会者の心理状態は霊媒に様々な心理的影響を与える。よく知られているのは交霊会がトリックであると思い込む参会者の心理が霊媒の心理に潜在意識下からトリックを強いる結果になるということや、過度に懐疑的な心理状態が現象を抑止する力として働くということである。
 

霊界が念の交錯場であるとすればけだしこれも当然のことなのである。とすると、参会者は単なる立会人でも傍観者でもありえず、交霊の重要な構成要件である。従って、参会者は本来厳選されなければならない。この条件が満たされない場合(科学的実験などの名目で)は霊界も霊媒もある程度危険覚悟でやらなければならないのである。

 細かなことであるが、交霊会に適した部屋はあまり広い場所でない方がよい。というのは広い部屋の場合には霊媒の身体から流出したエクトプラズムが広い部屋に拡散し易くなり、現象がおこりにくくなる。従ってあまり広い会場は適当ではない。

また会の初めに賛美歌を歌ったり音楽をかけたりすることがあるがこれは人間が心理的存在であることを考えれば当然である(発生した音波のエネルギーを霊が使うともいわれているが)。その他、参会者が男女交互に円形に並んだり、手を組み合わせたり、時として両脇の人が霊媒の手を握ったりというようなことが必要なこともあるが煩瑣になるので述べない。

またエクトプラズムと光りの関係や赤橙の使用については広く知られたことである。最後になったが交霊会全体を構成する人たちの精神的一致が必要である。

 以上くだくだしく述べる結果になったが、もし科学的実験の主催者がこうした配慮をした上で実験を行なわなければならないとしたら、現代ではそれが科学的実験であるとは認められないのではなかろうか。 

そうした霊的な知識と配慮によって実験を行う人は、科学者といわれるよりも司祭といわれる方がふさわしいと言われよう。従ってある条件の下では現象は確かに生起したが、それは科学の認める実験ではなかったことになる。本書に記録された誠実無比、一般人が行う実験としては恐らく最良のものであろう実験記録も、おそらくは同様の扱いを受けることであろう。 

訳者は、このくらい科学的であれば充分といっている
私自身もそう思う。しかし現代科学はこれに満足しまい。このようにして多数生起した心霊現象は(SPR や ASPR の記録したものを含めて)正統科学からは無視されてきたのである。

私は現代の科学者たちにこのような事実があることを直ちに受け入れよというつもりはない。自らなる成長というものが必要だ。しかし次のようには質問してみたい。

物理的心霊現象というものがもし仮に以上述べてきた条件の下にしか生起しないと仮定した場合、現代科学がこれに対応する方法が何かあるであろうか、と。

 従って、問題は事実としての物理的心霊現象があるかどうかという問題ではなく、そのような現象が霊媒とか交霊会とかいう特殊な条件の下で起こるとき、それを事実だとして認める認識の装置が人間の側にあるのかという問題である。

ある環境下である現象が起こるとき(仮にそれ以外の条件下では殆ど起きないとする)、その環境下でしか起こらない限りその現象の起こったことを認めないというのでは、最初から事実いかんに関わらずその現象を認めないというのと同じである。

つまり現象存否の審理が前提思考の段階で棄却されている。この場合交霊会にあるような条件を満たしつつなお科学的な実験を行うためには、科学者が霊媒の取り扱いとか霊界の要求を考慮しつつキメの細かな準備をしなければならないが、それが組織的に辛抱強く行われるためには、科学の側が意識の変更をしなければならない。

科学者はまずそのようなことは起こりえないとする前提思考をやめなければならぬ。そしてそのような実験には伴いがちな不成功や、霊媒のトリックや、無意識的な欺きに対しても、そうしたこともありうるという立場で辛抱強く(つまり一事が万事式の考え方をせず)あらねばならぬ。

そうした実験に立ち会っただけで科学者としての対面や地位に関わるというような恐れや不安や偏見が、科学者の社会のなかから取り除かれていなければならない。

そうでなければこのような霊的条件、社会的条件、認識論上の問題等の複雑にからんだ領域を公平に研究できる準備が整ったとはいえないのである。こうしたことを考え合わせれば、現代科学はこの問題を扱うに荒削りすぎており、もっと高次、かつ巧緻な研究体制を生み出すために成長しなければならないといわれても仕方あるまい。


 問題はこれのみではすまない。物理的心霊現象が起こったというだけでは、霊魂や霊界を認めることから甚だ遠い。物理的心霊現象や超常現象が生起することを認めても、これを別の理由から説明しようとする科学者が多い。(SPRの研究者や超心理学者の大半がそうであろう)

 このような人々はこうした現象の起こる真の原因については何も分かっていない。自ら分からないことを告白しておきながら、次のどちらかの説に固執する。一つは、人間に潜在する未知の脳力によるものだという能力延長説。

二つは、それが人間には未知の宇宙間のエネルギーの作用によるものだという説である。この二つのいずれも従来の科学説からすると不合理なものでありながら、彼らはこうした説を霊魂説よりもましだとするのである。

つまり不合理な説のあいだでも等級をつけている。しかし、その実この二つの仮説が霊魂説より合理的であるという根拠は何もないように見える(霊魂を認めた方が認識論上の多大な変更を強いられるということは事実であるが)。

霊魂仮説は従来の科学にとって違和感があるということと、宗教との長い闘争のあいだにできた本能的な身構えという以外にこの説の方がましであるという理由が見当たらない。

 しかし弊害の方はある。J・B・ラインは人間の ESP や PK 能力を科学的に認知せしめたということで多大な功績があった。しかし一旦この仮説を固めるや、スピリチュアリストの主張をことごとくこの仮説の範囲で説明しようという傾向を生じた。

多くの弟子たちのなかにはもっと強くこの説を押し進めようという傾向を生じた。こうなってみると、従来は心霊現象について科学的に説明できないという消極型の否定であったのが、「科学的に説明できる、但し、霊魂仮説以外の説で」というように一層積極的な霊魂否定説として登場してくるのである。

 かつてフロイドが深層心理説をもちだして人間の無意識に照明を与えたのはよかったが、リビドー説を絶対化しようとしたために、そしてそれを科学として虚構したために生じた弊害があった。今日、フロイドの説を額面通り認めようとする人は心理学者や精神科医のなかにもそう多くはあるまい。

 しかし神秘主義者からは評判のいいユング説からも同じような弊害がもたらされる恐れなしとしない。ユングは深層意識により一層深く光を当て、人間意識への理解や神秘なものへの感受性はより高いと言える。

「集合的無意識」、「シンクロニシティ―」、「原像」の各説は人類への偉大な貢献であったと評価してもよい。しかしすべてをそれで説明できると考えたときからその説は霊魂仮説のまえにたちはだかる。一歩ずつ真理に近づいてきてはいるのだが・・・。

人間はいずれ霊魂をその無垢のままに認めるときがこよう(本シリーズの読者はそれを納得されよう)が、それまでは、合理的であると思われる説の方がかえってそれから先に人間の思考を進ませないための砦となるのである。

何故それまでして、
霊魂仮説に対しては途中にあたる説をむしろましだと考えるのか。筆者はこれを認識論上の問題だというのである。


 スピリチュアリズムと心霊研究の一世紀半にわたる歴史を精査してみると、事実を事実として認知できない、という問題があることに気がつく(このことを疑問に思う人は直ちに調べてみることが出来る。本シリーズは資料の一部にすぎないのである)。

そしてそれを事実があるかないかの問題として論争しているように思っている。実際は事実があってもそれを事実として認知できないという問題があるのだ。

 一つは超常現象に対するときの科学的方法の不備と未成熟からくる。しかしもっと深く、科学や哲学や、それらを含めたわれわれの常識をつくりあげている認識の構造に問題があるのである。それを簡単に言ってしまえばわれわれの心の癖の問題なのである。

その癖とは、
一、世界をできるだけ少ない原理で説明したい
二、説明の際、われわれが物質と信じているものの原理から外へは出たくない
三、認識上の大きな変化には耐えられない。以上の三つである。

 一般に知的な人や、理性的な人は超常現象や霊魂の存在を信じないといわれているが、私の経験ではそのようなことはない。全く知的でない人が、頑固な否定主義者である。そして否定の論法は知的な人のそれと殆ど変わりがない。

要するに、認めないことにしているか、認めたくないのである。このような人は事実を精査してみようとはしないで断定的に推理している。しかし、スピリチュアリズムや心霊研究が自らに課している証拠採用の条件はこのような楽観的なものではない。

およそ現代においてこのような問題に真剣に取り組もうとする人は、グレイ氏と同等か、それに近い考え方をする人達なのである。従ってスピリチュアリストを軽信家というのは当たらない。

 歴史は繰り返しもしなければ、それを担う人間も科学的な実験の対象とはならない。にもかかわらず、人間の心に「歴史」は存在し、知の体系はそれを学問として存在せしめている。人類の知の体系は、今のところ同じ条件をスピリチュアリズムや心霊研究に関しては当てはめることを拒否している。

もし人類の知の体系がこの二者を認めることを拒む厳密性を適用するなら、大部分の「歴史」はないことになってしまうことであろう。「経済」も「法律」も「政治」もその他の学問も成立しないであろう。
 

 連続と非連続
 
 物理的心霊現象は合理的に説明できるだろうか。合理的説明とは何か。合理的説明とは、ある事柄を既に合理的であるとされていることとの連続の上で説明すことである。

この連続がどこかで切れていると、人はそれを合理的説明であるように感じない。つまり合理主義には説明の前提となる幾つかの原理があり、たとえその原理の斬新的延長を計ることがあろうとも、本質的にはそれらの原理と違背しないように説明するのが合理主義的説明なのである。

 ところで、物理的心霊現象を合理的であるとされている物理学上の諸原理で説明しようとするとうまくいかない。ゆえに合理的説明はできない、ということになる。

 しかし事実は科学的説明に先行する。既知の諸原理から説明できなくてもそれでそのことが「ない」ことにはならない筈である。ただうまく連続性が見出せないのである。

しかし、よく考えてみると、通常の場合でも合理的説明の連続を原因から原因へと辿っていけば、必ずどこかでそのこと自体は合理的であるとも非合理的であるとも判断できないような初めの部分、つまり事実そのものをそのままに受け入れざるを得ない点にぶつかる筈である。

 考えてみると自然の現象の連鎖のなかには必ずしもなだらかな連続性を示さないものがある。よく知られているように、進化論のなかにもミッシング・リンク「見失われた進化の輪」といわれるものがあって、われわれの目から見て自然はところどころ飛躍しているとみえる。

物質から生命へ、植物から動物へ、猿から人へ、そして人間における意識の出現、これらは連続しているようで連続していない。断絶の後の突然の出現はエマージェント(創出)という言葉で説明されているが、ようするに自然には非連続的な飛躍が各所にあるということだ。

 しかし自然が途切れたり飛躍しているように見えるのは、人間の認識の目から見るからであろう。自然がどこかで絶対的に途切れたり断絶したりしているのではないようだ。

しかし自然がところどころで力点をおいていわばダンゴ状になってつながっており、それが事象と事象の切れ目のように見えることのあるのは確かなことだ。自然の途切れたように見えるところはよく見ると必ず一筋の道がつながっている。

 われわれは自然をできるだけ簡潔に、少ない原理で説明できたらよいと思っている。そしてこれは知性の原理であると同時に実のところは行動の原理である。環境に対してできるだけ少ないエネルギーで効率的に対処したいためである。だから知性の原理は元はといえば生命体としての功利的な欲から出ている。

しかしこの欲がいつも適えられるとは限らない。われわれはしばしば自然をそのまま受け入れなければならない場面にぶつかる。そのようなとき過去や記憶のそのままの採用は許されないのだ。

 言っておかなければならない一つの重要なことは、われわれの認識の力は自然の穏やかな変化に対しては「合理」を感じ、自然の激しい急激な変化には「不合理」を感じるということである。

前者には「善」を感じ、後者には「悪」を感じとることさえもある。しかしこうした本能的で人間の身勝手な功利主義が自然の目から見て妥当なものであるという保証は何もない。

 自然がわれわれの目に飛躍して見えるとき、われわれはひとまずそれを受け入れなければならない。合理的な(というよりも功利的な)説明をつけることは後からやればよいのである。科学者は通常はよくこの方法を用いる。

しかし意識や霊魂の問題となると突然この機能を停止してしまう。既知の物質原理に反すると思うと観察さえもやめてしまうのである。

 エクトプラズムが最初に観察され、ノッチングやリシェの研究が出て以来何十年もたったが、科学はそれを研究の対象にするのをやめてしまった。それ以来研究の進展はない。

たしかにエクトプラズムといわれてるものの運動は既知の原理からは説明されず、想像を絶している。観察事例は極端に少なく、その研究は他の科学者から魔術の研究のように思われるかもしれない。しかしそれにしても科学がこれを正当な研究対象としなかったことは、ことの重要さからいえば卑怯であり怠惰である。

少なくともこれは霊魂のように目にも見えず手に取ることもできないといったようなものではないのである。自然が途切れ、合理的連続が突然の飛躍を見せるとき、そこに一筋の細い糸がつながっているかも知れないのだ。

 エクトプラズムはそれ自体が生命であるように動きまわる。自分の運動の方向や目的がよく分かっているように行動する。物を持ち上げたり支えたり摑んだりもする。気体のように拡散したかと思うと固体のように凝固する。物質を何なく透過し、人間の目には可視的なものになったり不可視的なものになったりする。

殆どあらゆる形に変形し生命体を細部に至るまで───形態ばかりではなく運動までも───模写する。しかもそれらを自発的に行っているように見えるのである。およそ古代の魔術師がやると思われたことは殆ど可能にしてしまうものであるから、科学者が敬遠し手品師が嫉妬するのも無理はない。 

  当然のことながら、エクトプラズムは霊魂そのものではない。しかし物質そのものであるとも言えない。エクトプラズムは反物質のようだと観察されている。

エクトプラズムはいわゆる物質よりも肉体以外の知性(すなわち霊魂)の意念に感応し易い性質があるようだ。故のこれを半物質と表現するのであろう。エクトプラズムの運動は観察者にとっては自動運動的であるが、霊界の説明によれば、その運動や変化はすべて霊の意念によって動かされているという。霊はエクトプラズムを動かし、それによって物質を動かす。

 中村弘治という日本人の医師が亀井三郎の実験を観察したところによると、霊媒から出て空中を流れるエクトプラズムの力線をまぢかに見ると、そのなかを細かい粒子状のものが顫動しつつ霊媒の身体の出口から流れ出て先端の方へ移動していたという。

ノーベル賞受賞生理学者シャルル・リシェによってプラズマ状であると観察されたこの粒子状のものは物体に浸透して、これを解体したり、変形し易くしたり、時としては消滅させる。あの世の説明によれば、エクトプラズムは物質の原子と原子の間に浸透しその結合を引き離すのだという。

金属は水につけた固いパンのように柔らかくなるであろ。更にこの原子間の距離を引き離せば、人間の目に物体は消滅したとみえるに相違ない。再度この感覚を近接せしめて物質を出現させることも出来るという。

 エクトプラズムは、その材料となるものが肉体から取り出されると同時に、それに何か別の霊的な要素が加えられて生成されるのだとあの世かからは説明されている。従って体内にあるままのものではないようである。しかしマイヤーズはそれを人間の複体をつくる材料と同じだと言っている(『人間個性を超えて』参照)。

 いったい人間の生体のなかで細胞がフレキシブルに連接しながら空間中で自在に位置を変えても形が崩れたり統一がなくなったりせず運動できるのは、完全に力学的に説明できることなのであろうか。

筋肉や筋を支えているのは骨格なのか、骨格を吊り上げているのが筋肉や筋なのか今ひとつ分からぬところがある。体内にエクトプラズム類似のものが存在し、自在に動きまわっていると考えた方が生命体の運動を説明し易いのではないか。

人体のフレキシブルな動き、自分の意思が瞬時に肉体の各所に伝えられ、連携的な動きをする事実をすべて神経細胞による通信の原理で説明するのはむしろ荒唐無稽ではなかろうか。

われわれが体を動かそうとするとまず何か力動感のようなものがそこに向かって流れたような気がするが、通信が流れたといわれるよりもエクトプラズム的な力が流れたといわれた方がピタリとくるのである。少なくともエクトプラズムの運動が観察された以上もはやそう考えた方が合理的である。

 また逆にエクトプラズムが体外に流れ出すとそれの存在する空間はまるで一つの生命場になったように物が吊り上げられたり移動したりする。エクトプラズムのある空間は体内と同じようになるのではなかろうか。

 第二の物質、第二の精神とも呼ばれるべき中間物質の奇想天外性は、それが常に生体のなかにあり、また光と併存しない性質をもつためにわれわれの目に触れないためである。いかに奇想天外のものであろうと絶えず目に触れていれば奇想天外ではありえまい。

 およそあらゆるもののなかからこのエクトプラズムに近い性質のものを想い浮かべればそれは物質ではなく「イメージ」である。

イメージは精神のなかにおけるエクトプラズムのカウンターパートである。逆にいえば人間精神のなかでもっとも物質に近い領域のものがイメージなのであろうか。(『不滅への道』第十五章〈記憶〉参照)これは精神が物質に影響力をもちたい場合の経路を暗示している。

 マイヤーズの通信によれば、複体は睡眠中に体外へ飛び出さず肉体内に留まる。睡眠中や「体外離脱」で飛び出してゆくのはもっと稀薄なエーテル部分である。エクトプラズムの流出は生体にとって通常は死を意味するのである。

エクトプラズムが体外に流出した霊媒の身体は体重を失い(ときには十キロほども)縮小凝固して死体のように横たわっているのが観察されるという。

複体が、先に『霊的治療の解明』で筆者の述べた生命磁場と同じものだとすると、肉体に生命と可塑性を与えているのはこの複体である。物質に穏やかな結合を許して、その間に自由性を供与し、意識存在や霊の意のままに感応し易くしているのは、このエクトプラズムに似た体内の半物質であることになる。

 精神と物質、霊魂と肉体は両者の性質があまりにも違いすぎる。合理的説明としては断絶している。しかし事実として両者が連関を保っていることは間違いのないことだ。

二つのものが連関をもちながら、その合理的な説明の糸が見つからないとき、われわれは普通二つのものの中間物を見付けようとするのではなかろうか。身体はいきなり霊魂と接触しているわけではない。

これは古来あらゆる神秘学の教えるところである。霊界の説明によっても、まず肉体に類似した複体があり、幽体があり、このような中間物を経て、それ以上の高次な霊の世界があるのである。自然は連続しそして時たま飛躍する。

神経細胞の結節点を見ると、その先端は結び合わされず、断絶している。そして両者の連絡は或る化学物質によって保たれていることが分かった。神経細胞と神経細胞は何故電線のように直接結び合っていないのであろうか。

 意識世界と物質世界はお互いに別の糸である。それは連関を保ってはいるが、互いに独立した存在の次元を構成している。このようなとき、二つの世界の連関は必ずしも直接的でない方がよい場合があろう。直接的であれば両者の独立性が保たれず、むしろ二つの糸は混乱するであろう。

非連続は緩衝地帯をつくり、濾過装置ともなり、弁としても働く
連絡の糸は太くなく微妙で、人間の目には見えないが存在する。自然の作為はかくも巧妙である

  「霊媒」、「エクトプラズム」───科学はなお暫くこの余りにも古典的で手垢のついた名称に恐れをなし、それに近づくことを体面にかかわると思いつづけるのであろう。

名称はいずれと名付けられようとも、科学が霊的世界に物質からの連続を求めるのであれば、そのとき踏査しなければならない領域がこの二つのものであることは、炳乎 として明らかである。
                                      (一九八五・八・十五)