世界心霊宝典Ⅴ 人間個性を超えて 
                      ジェラルディーン・カミンズ著 梅原伸太郎訳
   第三部 祈りと神秘経験
  第十二章 祈り  
 集団の祈り 
 孤独の谷での祈り      
 讃美と感謝   
 運命と祈り  
 静寂 

   第十三章 地獄     

 地獄と死後の生活       
 われわれは自分で地獄を創るか?    
 悪人の栄え 

   第十四章 正しい愛の道        
 知識と叡智           
 仏陀として知られるゴータマ        
 キリスト、ブッダ及び霊的世界         
 ナザリーンとキリストの弟子たち  
  
   第十五章 予見と記憶     
 概念的世界  
 霊能者の被暗示的性質 

 第十六章 自然霊    
 動物の死後存続  
                                     
     第十七章 狂気     
 第二の処置法    
 準備期間      
 地縛霊のいろいろ    
 老衰   
 憂鬱症    
 幻覚  
 妄想  


  第十八章 正義
  補遺    (E・B・ギブス)  
 一、肉体と魂と霊  
 二、人間個性を超えて
 三、ベルサイユ宮殿の冒険

  スピリチュアリズム一問一答 
   (梅原伸太郎氏に訊く)
  神霊の世界との出会い
  スピリチュアリズムと心霊研究
  スピリチュアリズムの意義    
  心霊現象の研究と霊的治療 
  スピリチュアリストとしての展望   
        挫折の法則 

   訳者あとがき    
(記憶・形態・類魂・霊能者の役割について・刊行のおわりに)
                                                       
 

「しかし結局のところ、永生のような重大な問題に関しては、私達は皆、苦しい懐疑の後に到達した自分の見解は発表し、他の全く違った道を辿って同じ信念に達した他人の意見は尊重するほどの心の大きさが必要である。前の世代にあらゆる信仰を窒息させた唯物論に反対するものは、どのような立場の人であろうと、真の意味で私達の『仲間』である。その人が』自分の用いる以外の武器で闘おうとそれは問題ではない。」

       ジェームズ・マーチャント卿編集による「死後の世界」(キリスト教
          とスピリチュアリズムによる)に寄せたロンドン司教の序文より
 

 


 
 
 
 
 
 
  
 
         
  第三部 祈りと神秘経験
 

       第十二章 祈り   

 祈りに関して言われるべきことのすべてはキリストによって完全に言われているので、このテーマについて書くことは難しい。そこで私が至高者との霊交の方法について何かを言うとすれば、それは福音書のことばの深い意味を充分に理解しているキリスト教徒が殆どいない──殊に礼拝者の心の態度に関して述べている件については──ことを言いたいためである。

 われわれキリスト教徒は、数世紀に亙って、祈りの実践を蔑み誤用してきた。われわれはそれを自己の利己的な目的のために用いてきたのである。敵の破壊を祈願し、神が選良──
それは社会のほんの一握りの人のことである──のみを心に留めるよう懇願した。

そして他者すなわち人類全体を無視したのである。さもなければわれわれは口先だけの饒舌家よろしくといったところで、言っていることについては何も考えず、ずっと昔に死んだ人の作った文句を、まるでそれらに魔術的な意味でもあるかのように、また、ことばの音そのものが望みの効果をもつとでもいうかのように機械的に唱えてきた。

恐らく歴史上で今ほど福音書に立ち帰り、祈りの真の性質と働きを再発見する必要のあるときはあるまい。

 私は不滅への道を地上の人よりも幾らか永く旅してきた者である。死後の生活において私は祈りの効果はそのことばにあるのではなくそのときの心の態度によるのだということが分かった。神を呼び、神に己れが心を開かんとする者はまず厳しく己れの心を浄めなければならぬ。

自らの創造者の前に祈願や嘆願の祈りをしようと決した時は、利己心の混入や己れの利益を計る気持ちがあってはならぬことを心に銘記しておかなければならない。そのときは人類同胞への想い、宇宙の奇(くし)びに触れる想いに満ち溢れた状態でなければいけないのである。

言い換えれば、自分自身の小さな個我から出て、あらゆる生命あるものの魂と融合しようとしなければならない。そこで初めて彼は神の前に立ち、祈りのことばを口にし、他人を傷つけたりするものでない限りにおいて、自分の赤心からの願いを述べることができるのである。

 祈りを無価値にする最たるものは疫病、戦争、経済的圧迫等のあるときである。このような時に神の前に立てば、それはいと高きものへの冒瀆であり罪である。しかし人生の苦難、その孤独、危険な圧迫に際して、心からの援助と慰めを願うなら、それは誤りではなく、扉は開かれるであろう。

しかしそれはいつもというわけではなく、また願いのままに聴き入れられるというわけでもない。というのも、魂は永遠への旅の巡礼であり、彼の通らなければならない道は例外的な場合を除いては、人生が困難で環境が絶え難いというだけでは変更できないものだからである。

 あなた方が自分のために祈るときは、本霊が賜物(たまもの)を下すようにと祈りなさい。ただ他人のために祈る時のみ、物質的窮乏やその軽減のことを願いなさい。もしあなた自身を幼子のようにして、繰り返し天の父への祈りをするなら、その祈りごとのなかにあるように、日々の糧を願っても無駄にはならないであろう。

しかしあらゆる祈りのうちでも最も大きなこの祈りを口にするとき、あなたは大人の心を奇麗に片づけて、キリストが彼の前に呼んだ子供たちの聖なる単純さに自分を戻さなければならない。キリストはその御言葉のなかで「幼子のごとくなければ、神の国に入ることはできない」と言ったのである。

 祈りの行為をなしつつある人は、今まさに神の国に入らんとしているのだということをよく心に留(と)めておかなければならない。彼は取るに足りない煩いや些細なことを気に掛ける日常意識から無限意識へと移っていく。彼は永遠の生命と一体にならなければならない。

それ故、心と目的を単純にして、疑いや恐れや不信その他神の国の入口を閉ざしてしまう人生のあらゆる重荷を投げ捨ててしまわなければならないのである。

 これまで私は祈りについての概括的な見方を披露してきた。人が神に近づく様々なやり方を詳しく書き示すには一冊の本を書かなければならないであろう。しかしながら私は、祈りはそれが捧げられる場所によって神聖さを増したりするものではないことを強調しておきたい。

寺や教会や古代の大寺院などの場所は、至高な存在との霊交に入ろうと思うなら、あなたが心を正すのによい助けになろう。同様に丘の上に独り祈ることも、自我の殻から脱出するのによい雰囲気を生みだす。

だから、それがよければそうした場所で祈るようにせよ。ただ、恐怖、懐疑、不信、利己心、怒り、嫉妬などのあらゆる霊の罪となるものは払い落としておきなさい。それらは蛇が鳥を捕らえるようにあなたを捕らえ、祈りの翼を完全に抑え込み、むしり取るからである。

 野生の鷗を心に描いてみなさい。それは崖の安全地帯を離れ、固い大地を後に海面を横切って速く見事に飛翔する。上昇し、浮かび、また舞い上がる。そのように祈りのときは神を求め、あなたの魂を上昇させ空にはばたかせなさい。

 私の意見は完全主義的忠告のように思えるかもしれない。しかし人それぞれのやり方ですればよいのである。知的感情的本性に従って、これらの勧めを加減よくあなたの生活に応用してくれればよい。

しかし本当の祈りを捧げたいと思う人なら、そのことばに確信とまことがあるときにだけ祈りなさい。純朴な羊飼いが子供の心で、つまり無邪気にひたすら神を信じて祈るなら、いかなる教会のいかなる高位の権威者よりも立派に確実に神に近づく。

 年月が過ぎ、中年が若さにとって変わり、煩いと責任があなたを包むにつれて、あなたはますます注意深く、じっくりと自分を見守るようにせよ。そして心を神に向け、あなたや他人に必要なことを祈願しようと心の準備が整うそのとき、あなたの祈る所がそのまま 「聖なる場所」 なのだというこの知識を胸に刻んでおくとよい。


 

    集団の祈り

 個人の祈りよりももっと難しいのが集団の祈りである。あなた方が集団のなかで祈るときは心が散乱し易く他人の個性の網に引っ張られ易い。しかしもし全体が一つの心になって魂の底から祈りのことばを唱えるなら、大勢が集まってする祈りには霊的力がある。その祈りは永遠の霊に届くばかりでなく、世の暗闇に霊感の明るい燈火を投げかけ、それが礼拝を意に介さない心の薄暗がりに明かりを点す。

何故なら、情動的で霊の吹き込まれた想念が熱烈に信念をもって発せられると、それは空間を伝播し、無分別、無自覚な心のなかに浸透する。

それはあたかもそのときの音声がエーテル中を伝播して地球の最果てまでも伝わり、それを受信すべく同調した装置によって聴取されるのと変わらない。

 ある大きな目的と必要から集団で全身全霊をもって祈る人々は、時満ちて豊かな収穫をもたらす種を蒔いているのである。しかし私はもう一度、機械的祈りや形式的な公祈禱は駄目だと言っておきたい。

馴れあいになりすぎて気が抜け、生命がないからである。心のまことも魂の美しさも響かせないただの祈り言を口さきから出しているだけだからである。

 あなた方が祈禱集を学び聖なる礼拝に参列することがあれば、あなた方はきっと、「連禱」のなかに私の言った「偽りの謙虚さ」の調子があることに気づくであろう。

牧師や出席者たちは繰り返し自分たちが罪人であることを嘆くが、その実、それほど自らを責めながら、大抵の場合自分を哀れとも罪深いとも感じていない。それ故われわれには、彼らが自分たちを無価値だとする信念を強調しすぎることによって、偉大にして力ある神を一所懸命なだめたりすかしたりしているとしか思われないのである。

 こうして祈る人は確かに余りにも軽々しく聖なる道に歩み入っていはしないか? もしわれわれを形相の世界を超えた人と比較するなら、間違いなくわれわれは霊的進歩の度合いにおいて切なくみじめである。しかし人は連禱のことばを唱えるときこの事実を知ってはいない。

そこでこの特殊な祈りは恐らく英国国教会にとっては慎重に扱われなければならぬものの一つであろう。もし彼がそのなかに含まれるそのことばに実感がなく、自分自身やまた他人に関してその真理を信じられないなら、そのとき
彼は黙っているままの方が遥かによい。
 私は知的偽善が微妙な敵で、祈る人を襲うなかでも最たる危険ではないかと思う。それ故、素朴さと広い視野をもってのみ、われわれはそれを克服し、また勝ち抜いて、それだけが祈りを永遠の霊との霊交たらしめる魂のあるべき真の態度に到達する。

 私はこれまで祈りを死後の世界との関係では述べてこなかった。われわれの愛した人は最後の審判の日がくるまで永い安息の状態にいると信じているキリスト教徒は、間違いなく、墓の向こうの世界に祈りはありえないと言うことであろう。論理的前提からすればこれは正しい言い分であるようである。

何故なら祈りは努力を要し、魂の労働は疑いもなく死者の永い眠りを妨げるからである。しかし私は不滅への道は無限に延び、努力や闘争や難題克服の勝利感は旅路の途中にある 「私たちの父の多くの館」 と呼ばれる休憩所間ですべて経験されると言ってきた。

そして帰幽者は祈りを必要とし、地上で絶えず祈っている男女よりは遥かに熱心にまたその真の意味を知って神との霊交を求めている。

 形相の世界にいるわれわれは、あなたがた地上人の決して窺い知ることのできないことであるが、どうすれば有限の状態を脱し無限に移行できるかを知っている。われわれもまた、あなた方がするように 「我らの父」 に泣いて訴えるのである。しかしわれわれは神の神秘の深い意味を知り、礼拝行為や接神を尊重している。
 
われわれが類魂に入り、その多くの部分や仲間の存在に気づき、一つの霊を分けもつとき、われわれは調和の祈りに入る。それは地上の大集団から立ち上ってくる最も崇高な祈り言(ごと) に勝る集団の祈りである。


何故なら、「聖霊」の臨在にまざまざと気づいているわれわれは、もっと容易にもっとうまくその御前に進み出て、神に願いの筋を申し上げるからである。

 さて、私はこの臨在ということばをよく気をつけて用いているつもりである。何故なら、私はこの語のほかに神が身近に遍満する感じを表す語を知らないからである。われわれは神の臨在のうちにいるのであるが依然として神を見ることはないであろう。

がしかし、太陽が薄い雲に隠れているときにさえその光線を人に射し注ぐように、われわれが類魂のなかで神を求めて祈りを嘆願するときには、神を感じとることができる。魂の霊眼には強すぎる 「光明」 を最後のヴェールが隠しているだけなのである。

その光はこのように弱められて全身に浸透し、輝く力を授けることにより、われわれを暖め、元気づけ、慰め、啓発してくれるのである。

 私はこうした経験を書き表わすことばを見出すことができない。その恍惚感は私が類魂の内に留(とど)まりながら、思い切って形相の世界を超えたところまで踏み入ったほんの短いあいだに知ったのである。それは仲間たちが魂の妙なる領域で礼拝をしているほんの僅かのあいだのことであったが。

 今は地上を去った多くの巡礼に関係のある祈りのことを長々と話すときではない。私は意識の階段を上りつつある人にとっての祈りは、あなた方の世界のどんな国のどんなことばで神を拝む人々にとってよりも遥かに現実的で重要であることを言いたいのである。

というのも、肉体は魂の感受性を殺し、霊的人間とかなたの光明のあいだに垂れ籠めている雲を厚くするからである。


 日々は眠りとともに死ぬ。祈るとき高次な世界の霊人の経験に参加する人は、この意味において死ななければならない。つまり昼が夜に変わるように身体から完全に脱け出さなければならない。そのときはもはや肉体を意識することなく、魂が自分の本霊に溶け込むなら、高次世界に上り、無心の熱情とまことをもって至高者に祈ることができる。

 神秘家や、素朴な人は、歴史上稀にではあるが、このような完全な祈りの経験をした。彼らは大体において、この高次世界へ参入したことを人に告げなかった。私は今はただ次の真理を明らかにするためにそれを言う。人間の信仰は山をも動かすであろうし、また、心から欲するなら、形相世界の更に上の次元に住む者たちの経験するような神との霊交を達成できるであろうと。


    
  孤独の谷での祈り
     


 ごく普通の人間の人生には、これといった喜びもないがさりとて格別の悲しみもない、どうにか満足すべき平穏無事の生活のつづく時期というものがある。このあいだは定まった仕事や娯楽を脅かすようなものは何もない。だが、どんな人でもいつかは心労や悲哀や重病、またひょっとして経済的損失などに見舞われることがある。

とにかくその人は突如として定まった人生の軌道から振り落とされ、自分の弱さや奥深い霊的孤独に気づかされる。今や何の援助もなく、神なしにであれ神と共にであれ、自分の卑小さと窮状に直面するのである。

しかしどうやって彼はこの暗夜に神を見つけたらよいのか。彼はどうやったら暗闇を手探りで進みこの孤独の谷においても 不可視の存在 を発見できるのであろうか?

 キリストが祈ったような祈りにおいてのみ彼は自分が孤独ではないことを発見するであろう。絶対の窮状を告白し、父への祈りを繰り返すことによってのみ彼は問題打開を計り、自分の孤独が神の遍満する臨在に満たされ、神が苦難の夜においても彼と共にあることを発見する。

 ひとたび父なる神との繋がりができると、彼の嘆願は聞き届けられるであろう。不幸は衣を脱ぐように脱け落ちるであろう。そのとき彼の魂は高揚し、拡大し、完全忘我の瞬間にこれまで決して経験したことのない力と決断を授けられるのである。

 それ故祈りと神の内在がもたらす確信とは恐らく、魂に対する影響の上では、あらゆる献身的な行為のうちでも最も重要なものである。

 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください」  〔訳註1〕

 人が短い人生のうちに十字架を負わされなければならないときは、その苦痛の底からこのことばをあげるがよい。何度も何度も繰り返しせよ。必ず無傷の勝利者となることであろう。 
 

       
     賛美と感謝
  

 神への賞賛と尊崇は個人と創造者のあいだに存在する。彼を心から神つまり 至高の精神 への賛美をしたい気持ちにさせる尊敬、憧憬、表現し難い畏れなどを神に伝えるためには、彼自身が敬意や感謝に満たされていなければならない。

 同様に、この気持ちを吐露しているときの魂の状態は、われわれと 最も聖なるもの とのあいだに内的な流れや交流を作り出す元となる。詩情溢れる世界的音楽に聴き入るときに神を賛美するとよい。巨匠によって書かれた交響曲は実際神への賛美のラプソディーである。それは音波に乗せて魂を いと高きもの へと運び、心と意識を創造者への恭しい感謝に低頭せしめる捧げものとなる。

 声のない祈りは口に出された祈りよりも力強い。魂は沈黙を通してこそもっとも神聖なものへ到達するからである。しかしこれは大部分の人にとっては困難な方法である。だからその祈願と賛美、懇願と内省のことばを声高に唱えせしめそれぞれの仕方で宇宙のメロディを歌わしめよ。

というのも生きとし生ける者は皆それぞれのやり方でその創造者に祈るからである。無神論者でさえ、人生のある時期にはその懐疑の鎧の紐を緩め、艱難に会えばそのときには見えざる神に歎き訴え、彼の嘆願を創造の心なき暗闇を通して訴える。

いつも時の書物のうちに想像し、型造り、刻み込む。いつも自分の素材のみではなく、宇宙の素材───各人からみるとバラバラで個別的な───をイメージし、またイメージし直す。

 人はそれぞれ独自の宇宙に住む傾向がある。ごく稀にだが、彼は孤立に気づき、そのときはその考えが彼を圧倒し地震のように彼を打ち砕く。しかし彼にとっても全人類にとっても彼自身の作った宇宙から逃走する手段がある。彼は祈りの扉を叩くことができる。そうすれば扉は開け放たれて、孤独の彼に 神の宇宙 は啓示されることであろう。


    
  運命と祈り
 


 私は決定論者ではない。私はすべての筋書きが永遠に書かれてしまっていて変更がきかないとは思わない。運命は祈りによって変えられるだろうが、それは一般に考えられているような風にではない。それは人の性格の変化によって変えられるのである。そのときもはや試練や苦難を具体的体験としては必要としない変化があったということである。

 悔い改めて全身から祈り出す祈りは 最高精神 に届き、その結果必ずその霊は還流する。すなわち神からの啓示は人が無限へと送り出す祈りによって穿(うが) った水路を通じてやってくる。

内的存在と溶けあい、心からの願いによって招霊された聖霊は人間をすっかり変え、粗野を和らげ、歪んだ心に美を与える。魂の土壌を浄め、弱さだけがあったところに力を与える。

かくして強められたこの地上の巡礼は、彼の恐れる試練や苦痛の原因となっていた彼の本性上の過ちを克服した。彼は祈りとその孤独な祈(ね)ぎ言(ごと) の力によって災厄から脱出した。

 しかしながら、祈りの最も高貴な形態は嘆願、懇請、賛美の類ではない。それは創造者たる父と子のあいだにおける霊的交流である。子は長老の助言と忠告を求める。というのも若者にとって「長老」のことばは叡智の源泉そのものであるから。

 叡智を求める祈りであれ。真理、人生万般の真なる行為、そのときどきの正しい思考を求める祈りであれ。絶えず熱意をもってこのような賜物が神から下されることを祈ろう。また祈りは根本においては未経験な若者と忠告を与える賢明にして慈しみ深き父とのあいだの交流を意味するのだという確信を心に刻みこめ



  
  静寂 
 

 日々の喧騒がわれわれを取り巻いている。われわれの肩にかかる荷物の重みと責任が甚だしいために、われわれは一瞬もその包みを道端に置き、静寂のなかに引き籠もることができない。このような静寂のうちにこそすべての精神に必要不可欠な生命賦活剤があるのである。もしあなた方が魂を痛ましむることなくこの世を過ごそうと思うなら、これを摂取すべきである。

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ」 このことばは恐らく普通の人には謎めいて聞こえるであろう。しかしこのことはこの世界の偉大な真理のひとつなのである。沈黙と孤独のなかにあってこそ、われわれはすべての仮装と虚飾を投げ捨て、人生の虚飾と見せかけを振り捨てることができる。

われわれは今や問題を厳しく直視し、われわれ自身を、弱々しくではあるが振り返ってみようと努力する。この反省を超えて更に進んだとき、受動状態で神に聴く瞑想へと入ってゆくのである。

 私は最大の敬意をもって 「神に聴く」 ということばを用いている。私はそれによって永遠の霊 (内在意識の知覚によってのみ捉えられる) についての触知しえない感知力を意味している。この感知力によって、われわれは修練努力の結果、日常の表面意識を鎮め、かくして静寂と孤独によって遂に神の驚異を知るに至る。

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」〔訳註2〕ということを知るようになる。

 このことばの意味を実際的体験によって悟得する人は殆どいない。しかしひとたびそれを体得するや巡礼にとってそれは精神と肉体に対する記念すべくまた驚嘆すべき征服と勝利なのである。

そしてこの内なる感覚の認知の始まりは、キリストの命令によって盲目の人の目が開いたのに等しく、彼はそこに驚異の新世界を見るのである。

 しかしこの喩(たと)えは単純すぎる。これだけでは最初に自我の獄から出た後の、静寂のなかであらゆるものの魂と一体化したという恍惚感を伝えることはできない。

 われわれが孤独のなかで無音の静けさに取り巻かれているときに味わう状態と統一の度合いは様々なのである。最初は沈黙のなかに自己の霊のかすかな光を見る。そしてその光に刺激される。しかしまだ 「非我」 との接触はない。これはまだ統一の初段階なのである。

第二の状態に入ったとき、意識は魂の世界に気づく。第三にこれが最後の段階であり、それには多くの労苦と探究の道のりを覚悟しなくてはならぬが、静寂のなかで 「神に聴く」 段階に達するのである。

 各人は勿論、自分なりの方法でこの聖なる恍惚への道を見出さねばならぬ。誰も長くはこの高みにとどまることができない。何となれば、人間には、たとえ条件が整っていたとしてもほんの僅かな瞬間しかこの高所の空気を呼吸することができないからである。この状態は主観的には一世紀ほどにも感ずるものだ。

かくのごとき実在感はわれわれにとって強烈すぎてむしろ恐ろしい。それは神への帰入の永い道のりにある他のあらゆる経験を超越する、余りにも高揚した平安の境地だからである。

 しかし地上的物理的な意味での時間をこの状態に適用して考えては駄目である。準備には長い時間がかかっても、原則として聖なる時間の静けさは、喩えて言えば夜の海面をかすめる燈台の燈火ほどにも持続しないからである。

 静寂のなかに入っていくとき、あらゆる想念を投げ捨てなければならない。これを行なうときは個人的生活や単独の感じを連想させず、「全体」を示唆するイメージを思い浮かべるがよい。

このシンボルを心に暖めていると、次第にあなたは変化してゆく。あなたの自我はゆっくりと解き放たれ、拘束的な神経の網や肉体の重みの感覚を振り捨てていく。最初の平安に満ちた静けさが達せられると、あらゆる感覚的なものからの滑走、沈下、移行が起こり、その後に目覚めがやってくる筈である。

 昼の喧騒が鎮められると夜の静けさが世界を支配し、あなた方の周囲に脈打つ無数の頭脳の活動を眠りに閉じ込める。そのときあなた方は日中よりも容易に 「非我」 の探索にでかけることができる。またもし自然が身近にあるときは、風吹く丘に登り、そこで人生の仮面をかなぐり捨て、非人格的な魂に対して自分を投げ出すのに必要なしじまと安らぎを見出すであろう。

この非人格的な魂は大変身近なものだが目には見えず、かすかであるがあなたの外にも内にもあると言える。が、それは最高の努力がなされたときにのみあなたに繋がるのである。

 懐疑家も信徒も皆、こうして自我の谷から這い上がり、能力に応じて時空から脱出し、遂には宇宙の永遠のリズムの鼓動を感じとるであろう。

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ」 このことばは地上に生きるあいだでさえあなた方を死後の世界に引きつける。あなた方は余り遠くまでいくことはできないが、もしあなたの状態がそれに相応しければごく稀な瞬間に、聖なる状態の経験をするであろう。それは本来、魂の旅路の最終に近づいた帰幽者だけが実感できる、ことばにならず人間的理解も超えた崇高な意識状態なのである。


 〔訳註〕
 (1) ルカ伝二十二章四十二節。
 (2) 使徒行伝十七章二十八節。 

 
 

       
       第十三章 地獄 〔原註1〕

 地獄はあなた方の内にある。このテーマに近づく者は諸々ある神学上の知識を頭から払拭しておかなければならない。

 ヴィクトリア朝時代にあっては地獄は深刻な現実のものとしてあり、仲間の多くが永劫の火のなかに投げ込まれるという信念に卑しくケチな快感を覚える信心家や、信心家ぶる人々の関心を引き寄せていた。

西洋人の大部分は、妬(ねた)む神によって罰が与えられるという考えをもっていない場合でも、少なくとも地獄をその凄まじい責め苦からは逃れようのないはっきりした場所として受け入れていたのである。

 さて、時の車輪が一回転した今となっては、新時代の人々は死後に罪人を待つ永劫の火という考え方を抱いてはいない。知的な人々が地獄について考えるとしたら、それは地上生活との関係においてのみである。もし運命が彼らを手荒く扱うなら、それは彼ら自身には何の罪もない最悪の不幸を不当にも味わわされていると感じるのである。

外的環境や不快な人間ないし彼らの肉体的遺伝が、今ここにある彼ら自身の個人的な地獄のなかで彼を苦しめる悪魔として考えられている。彼らは邪悪な金融業者や暴君的な支配者を罵り、彼らがやがてその相続者となる自分たち直接のグループを非難する。

もっとも私が言うのは人類のうちの知的な部分に関してのみである。彼ら第一次大戦以降の男女は、ヴィクトリア朝時代の先輩と同じく、こうした外的な影響は、地獄が彼らの内部にある以上非難するにあたらないことを認めようとはしない。

 悲惨という語の適用される状態は、地上においてばかりではなく死後の特殊な領域においても経験される。地獄ということばは、余りにも長いことある限定された区域を意味してきたので、説明不充分である。その実際の場所というのは、しばしば善悪の知識を持ちながら故意に悪く愚かな生き方を選ぶ人たちの意識のなかに見出されるであろう。

なるほど、地獄は明らかに正しい人間のなかにも暫くは宿り、その人は自分が原因ではない苛烈な悲劇に直面しなければならない場合があることも事実である。しかしそんな場合でも、その人にその苦悩の責任がないとは言えず、自分がその悲劇の書き手であるかもしれないのである。

というのも、前世において、彼が自分の行為によってか、または彼の類魂が彼のためにこの過酷な時期を作りあげた結果、彼には不当としか思えない現在の責め苦の状態が招来されたのかもしれないからである。

 罰という観念を捨てる必要がある。この語は過去の神学上の著作にしばしば登場した語で、信心深いサディストの高位聖職者が描きだしたものである。この世においても死後の世界においても、われわれが失敗したことで罰せられることはない。

われわれは一連の行為に引き続いて起こる当然の結果を経験するだけなのである。どうしても 「地獄の苦痛」 を味わわなければならないときは、それを成長のための苦痛とみなさなくてはならない。

すなわちわれわれはこうした経験が進歩のためには必要なことに気づかなくてはならない。地獄を通して天国に至るのである。地獄なしには天国もない。悪が善に対して必要であり、善が悪に対して必要なように、地獄と天国は互いに必要としあうのである。

 旅する魂の大多数は、その永い旅路の所々で、煉獄の火を想像上で経験しなければならない。しかしこれは清めであり浄化である。このような経験の後で旅人には必ず良いことがある。彼は霊的知覚を増し、なかんずく克己を学びとる。そして遂には地獄が彼を支配しないような時がくるのである。

そのときには彼は外的環境がどうであれ、心の静謐を維持し、永遠の霊との調和に生きることができるような意識状態に達しているのである。
      


  

   地獄と死後の生活    
  
 これまで述べたことは生前、死後の状態の両者にあてはまる。地獄に人の永く滞留する都市はない。地獄は個人の健康と最終的な救済のために必要な状態であるとみなさなければならない。その人が肉体人であれ帰幽者であれ、また地上時間の内にいようと、幻想世界の別の時間の内にいようと、あるいはまた形相の内にいようとそれは同じである。

 「永劫の火」という語は大変誤解を招き易い語で、現在では論理的精神の持ち主なら誰でも進歩の法則に従って、生き物が絶え間なくその苦痛を感受することはないことを認めている。この観念は自然の法則に反しているのである。実際、地獄と呼ばれる状態は、多様でそして時たま楽しいことどものあいだに、間欠的に、体験される筈である。

しかしこれはあくまでも最初 「動物的な人」 となり、それから 「魂的な人」、最後に人間的な不幸や苦痛を超えた高次世界へと進む普通の人のことを言っているのである。

 幻影の国すなわち 「努力なしの国」 においては人間的な観念が残っていることを思い出してもらいたい。だから、
嫉妬深かったり喧嘩好きな男女がこの死後の幸福国に入ると、この人々は古い所有欲や怨恨を持ち込み、自分と同じ型の人間を探して昔の情念を爆発させることがある。

無論、彼らの親しい人が遥かに進歩して追跡できなくなっている場合は別である。不滅への旅は独りで辿るものではない。たとえ一時的に仲間から全く引き離されたと思っても、遅かれ早かれ霊的引力の法則に従い、愛憎的関わりのある自己のサークルへと引き戻されるのである。

誰もわれわれが地獄と呼んでいる悔恨と惨めさの状態を永遠に苦しまねばならぬということはない。助けはいつもすぐ傍らにある。時満ちて、あなたが援助を受け入れる準備が整ったとき、愛する人があなたを救い、憔悴し打ちのめされたあなたを絶望から希望へと引き上げてくれる。

 道ゆく人が、後戻りしてまで疲れきり脱落しそうな魂を探す時ほど、愛の美しさを印象づけられることは恐らくない。キリストは彼が愛した子らを救うために天の最高の高みから地の深淵まで下りてこられた。しかし無数の魂が同じようにして父、兄弟、息子、母、妻、友人たちを個人的に探し求めた。

彼らはそのことによって自己の霊的力を増すのみならず、彼らが助けた魂の成長を促し、霊的な花を開花せしめるのである。

 私が「愛する」ということばを用いるとき、私は必ずしも一個人または異性に属する同魂者を指してはいない。この語が指す人は二人、三人、あるいはもっといるかもしれない。このことに関して法則は作りえない。何故なら人々が霊的引力に反応する仕方にはひどく相違があるからである。

彼らがめいめい自分の本性を追求し、類魂の特質に応じた進歩をすることもしばしばである。それ故、最高形態の愛にはいかなる拘束も設けることができない。われわれはただ愛が死と地獄を征服できることを知っているだけである。
                                                                                                                              
       
    われわれは自分で地獄を創るか?
 

 われわれが自分の地獄を創っていると一般化して言うのは必ずしも事実の正確な記述ではない。疑いもなく、ある魂たちは肉体の健康もエーテル体の健康も申し分なく、諸条件が良いにもかかわらず、故意に自分の地獄を創りだしている。

しかし多くの魂は過去世によって間接的には現在の苦悩に責任があるのかもしれないが、今生で現実に地獄を作っているわけではない。 

 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」 とキリストが言ったとき、キリストはゲッセマネの園で地獄を体験していたのである。

この神の珍(うず)の御子が全生涯の絶頂期の背後にある神の目的から解放されたいと祈らざるをえないほどに苦悩した不幸というものを思い描いてみよ。 

 あなた方の肉体と精神がもはや耐えられぬと思われるまでの悲劇のとき、またあなた方の慰め手である筈の神があなたを見捨ててしまうように思われるときには、ゲッセマネでの暗黒の時間と、父への哀訴の背後にあるキリストの感情の激変と苦悩を思い起こしてみよ。

それはあらゆる時代に響き渡った叫びであり、絶望の影が濃く谷を覆い、すべての高所が永遠に姿を隠し見えなくなってしまったかと思えるときには、霊的な精神の持ち主であっても皆、あげた叫び声である。

 ある人々は、それが続くあいだ超人間的な忍耐を要するような短期間の激越な苦悩には会わないですむかもしれない。しかしその代わりに性に合わない仕事を長々とやらなければならない不幸というものがある。彼らの魂は欲求不満でちぢこまり、野心は挫かれ抑圧される。

外面的には苛烈な体験のない生活を送っているように見えても、その永く引き続く試練は、短期間のいかなる激烈な苦痛より遥かに耐え難いものである。ほかにもまだ欲求不満の人々がいる。

仕事のない人達である。彼らは愛する者たちのためには卑しさも不安も忍び、何カ月も生きようと努力するが、救援は永く待った後にようやくやってくる。そのときは、恐らく心臓は未来を希望したり信じたりするのをやめて、止まってしまっていることであろう。

 こうした人達は私が 「魂の試練」 と呼ぶものに耐えているのであり、それは数日、数時間のあいだに最大苦悩を味わうのと同じことなのである。この世の栄華を味わっていると見える人も、気の合わない相手である妻や夫と生活すれば地獄である。進歩に必要な苦痛の過程は様々あるのである。

しかしながら救済は必ずやってくる。もし遅れて地上で間に合わなかったとしても、その分素晴らしい死後の世界の幸福と歓喜は確実に彼らのものとなる。

 形相の世界では巡礼は矛盾と闘争から時たま苦痛を味わうが、それはいかなる意味においても地上で忍んだような種類のものではなく、またそれを克服したときの歓喜と勝利感は計りしれないほど増大している。

 死後の最初の状態に地獄がないというのは普通の人の場合を言っているのである。異常に嫉妬深かったり利己的であったり、残忍であったり、人を騙すとかいう連中は幻想界に滞在中地獄の苦しみを逃れるわけにはいかないかもしれない。彼らの歪んだ性情が自己の欲望の充足を妨げるのである。

真の意味において人を愛するということのできない性格が霊的な引力を圧倒してしまう。地上で結婚し所有していた筈の相手が見つからないのである。彼らは他人の犠牲などはお構いなく自分たちだけが慰められ奉仕されるべきだという幻想の霧のなかを空しく手探りで探しまわらなければならない。

孤独の運命が彼らを待ち構えている。そのため彼らは永くこの状態にとどまっていず、地上に再生する手段を求める。しかしときたま、その内省的な地獄の経験によって真の愛が生まれることがある。

すると地獄はまるで召還を受けでもしたかのように消え去り、この帰幽者たちの広大な王国で彼らは近親者や気のあった人たちと再会する。

 地上からやってきた旅人は様々なので、その経験や、苦痛、快楽、歓喜、悲哀といったものについての彼らの死後の知識に一定不変の規則を定めることはできないのである。地上と 「努力なしの国」 において魂の織りなす模様は絶えず交錯したりほどかれたりしている。

多くの魂は身内の魂や同じ世代の親しい者たちがそこに集うまで幻想の国にとどまるのである。彼らは仲間を必要とし、一団となって旅するからである。但しそこにとどまらずに形相の世界に直進する魂も多くいる。このことは彼らが愛する人と断絶していることを意味しない。

彼らは幻想の国に帰り、短いあいだだが一時的に友人や親族と交歓することができる。そこで、後に残したものたちと全く切り離されるというような苦しみは味わわなくてもよいのである。この特殊地獄から解放されているということは帰幽者に与えられた少なからざる恩寵の一つなのである。

 死後の世界は地上やその住人から全く隔絶したものであるというのが俗世間の人の多くの見解である。越えることのできない淵があるという観念は勿論誤っている。霊的引力に従って働く者たちはしばしば死者たちとの交流の道をみつける。

そうだとしても、よく考える人たちのなかには、彼らが死後に再会するまで永い別離の期間があるなら、再び出会ったとき、彼らは一世代ものあいだ同じ経験も記憶も共有しなかったために見知らぬ者同士のようになってしまうのではないか、という思いに苦しむ人がいる。

恐らく、よき友人を失うことの苦悩は原則として認知し合えないことの恐怖に原因しているのであり、変化を通じて完全な別離となるかもしれないということの恐れなのである。この孤独地獄から、魂が完全な 「喪失感」 という形を取ってしまうこともありうる。

そうならないためにも後に残った者たちが、彼らを愛する死者たちと接触を失うことはなく、事情が許せば彼らと日常生活の一部を依然として共有することができることを理解すればよいのである。

 あなたが眠るとき、その魂は複体すなわち統一体のなかに入り、あなたは閾下自我に移行する。この自我は愛する人と霊交することができ、また現にそれをしているのである。愛する人たちもまた自分自身の閾下自我を通じてあなたと交渉をもつ。こうして経験の交流が行なわれるのである。

こうした経験は、原則として肉体記憶のなかには招致されない。しかし死後においてあなたは、睡眠の深部において体験した生活が、地上を去った後に残る複体のなかに記録されているのを見出すであろう。

そこで一世代の間あなたは愛する人達と別れるが、見知らぬ同士としてではなく年来互いに友好を暖めた同士として再会するのである。

 しかしながら、こうした経験はあなたの織りなす模様とデザインのなかに入ってきて永い旅路のなかで重要な意味をもつほんの僅かの人たちによってのみ共有される。あなたと共に記憶を保存する帰幽者はあなたの想像以上にそのことに気づいている。しかし彼らもまた他界で積極的な生活を送るあいだは眠りの身体を纏って地上からやってくる魂との出会いの記憶から離れているのである。

しかしながら、彼らが遂に同じ世界で会い、挨拶を交わすときには、揃って大自我のなかに入り込むことによって、この内なる生活が彼らに明かされるのである。

 人間がこの事実に気づくならこの世から多くの悲惨が取り除かれることであろう。そのために私はこの地獄に関する章で再び同じことを言っているのである。というのも完全喪失の感情は、最も絶望的な悲哀の一つと考えられようが、この悲哀は上記のことを受け入れさえすれば、忽ち消散してしまうからである。


  
    悪人の栄え

 邪悪で冷酷な人間が栄え、正直な人が酷(ひど)いめに あったり、挫折して中途で倒れるなどするのをみると、神の正義を信じ難いと思えることがしばしばであろう。

 実際、冷酷残忍な者が一生「地獄の火」に会わずに過ごしてしまうこともあるであろう。しかしこのような男はまだ野獣的創造段階に属するもので、意識の階梯の最下段にいるのである。彼はどこかで──恐らくは 「努力なしの国」 で──地上時代に味わわなかった地獄の苦しみを味わうことであろう。

永い歴史のなかでいつかは彼も成長しなければならず、成長は苦痛を通してやってくるからである。それゆえ残酷不正とみえるものの責任を神に帰してはならない。天秤は公平に釣り合いをとっている。各人にそのモノサシがあるのである。悪人にその報いの与えられるのが時空のどの時点であろうと問題であろうか?

この男を邪悪な奴とか悪人とか呼ぶ際には、彼はただ歪んで未成熟な段階の魂でこれから数限りない経験によって形造られてゆかなければならないこと、あなた方が今辿る道を彼も旅するのであり、いつかは試練を受け、あなた方が昔味わった辛い深刻な挫折を知るのだということを心に留(と)めておいて欲しい。

大多数の魂がかつてはこの未発達段階にあったのである。霊魂の示す様態は多様であるから。

 ヨブ記は人間霊魂の地獄克服を記し讃えた最大の賀詞である。実際、正義の人ヨブは意識の階段を駆け上がろうとする魂を象徴したものと考えられなければならないのである。この哀切、苦難の物語において神は試練を与えたといわれるが、この男を養ってきた本霊が彼に試練を課すことを望みかつ同意したことは確かである。

というのは、結局のところ至上精神たる神は本霊に選択の自由すなわち自由意思を委ねるからである。本霊は光であり、光の影響によって上方からわれわれに働きかける。が、本霊は全くわれわれと同じものという訳ではないので、例外はあるが、この土くれの肉体に深く埋められた意識に高い叡智を伝えることはできないのである。

 ヨブ記十九章〔原註2〕で彼は勝利に満ちた不滅の叫びを上げるのだが、その叫びはいつの時代にあっても死と地獄に打ちかつことであろう。「私は知る。私をあながうものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう」
    

 〔原註〕
(1)地獄(hell)厳密に言えば、地獄という語は「隠れた場所または界」(それは報酬であったり罰であったりする)を意味し、俗人がこれを堕ちた意味で使った、と学者はいう。ヴィクトリア朝時代にはそれは確かに拷問の場所と状態を意味した。便宜上私はこの語を一般的な意味で用いることにする。──マイヤーズ

(2)この章の数は通信霊の求めでここに挿入された。──ギブズ




   
     第十四章   正しい愛の道

 プラトンは正しい愛の道を見出した魂の旅について語っている。まず最初に地上のものに、ついであらゆる形態の美しさを認めなければならない。それから魂は次第に正しい行為、正しい原理を認め、遂にはすべてのものの究極の原理──すなわち絶対美の知識に到達する。

 プラトンが「正しい愛の道」ということばで旅の心得を述べたとき、彼は霊感を吹き込まれていたのである。しかし想像的理解のない愛は無力で魂を前進させずに後退させ、人を高い水準へでなく低い水準へと導くことがあることを心に留めておいてもらいたい。

そこで私は「正しい愛の道」といわずにむしろ 「叡智の道」 と言いたいのである。というのは叡智は愛が非地上的な純粋さに到達するようにと監督するからである。

この純粋さは槍のように生命の核心まで突き通り、存在の深部に達する。叡智は人に表面の醜さのなかにある美を見通す力を与え、ただの女性、醜悪な不具の老人、醜くく厭わしい生活と環境に取り囲まれながら外見からは想像できない精神の美しさを他人に示しつつ戦うすべての人々の魂に美を認める。

 是非ともプラトンの勧めに従って正しい愛の行ないを求めることにせよ。しかし知性によって通じる道は一つしかない。

そしてこの道を行く人は知性より大きくなければならず、叡智の扉を開く力が必要である。神知から吹き寄せる風に鳥のように浮かぶことができなければならないのだ。叡智だけが彼を前進させ正しい愛の道へと上昇させるからである。

 「真理についての正しい判断」このことばには、人が個別な愛のみではなく神愛についても知らなければならないすべてのことが含まれている。評価し判断する力によってのみ、また操作し計測することによって初めて人は金と金くそとを分離し、真と偽を見分け、そのことによって完成した絶対美を発見できるであろうから。
 
 そしてこれを瞑想的生活のうちにか、それともある高い目的をもった仕事のうちに見出す人は、必ずや永遠の価値についての知識を獲得するであろう。そしてこの泥の肉に縛りつけられているあいだに、本来死後の世界に属し、厳密に言えば地上の運命とは無関係な高次の意識世界に生きることができよう。

 このような人の生活は何と崇高であることか。彼はいわば神の知識をもった天使であり、肉の重みを感じながら大衆の悲しみを分かちもつことができる。この世を超え、嵐の上を飛ぶ鷗のように荒れ狂う騒乱を見、同時に地上の現実生活を特徴づける欲望、闘争、憎悪などの逆巻く波を超えた静寂の境涯に住んでいるのである。

 有限な心の持ち主は美を知らない。判断に慈悲の心なく、過ちを犯した人に憐れみをもたない清教徒なぞは本質的に地上に属し、私の述べた巡礼者のように二つの世界に住むことはできない。というのも寛大さに欠け、高次な世界への予見〔ヴィジョン〕がないからである。

「予見〔ヴィジョン〕がなければ人々は滅ぶ」(訳註1)のである。想像的知覚のないところでは個人は次第に霊的に悪化していくのであり、表面的には良い生活を送っていても内面的には知性の混乱した思考の霧のなかに迷い、注意しなければ来世においては低次の世界に沈んだり、全く魂が洗われないままで再び地上に戻ってくることになる。

 「絶対美」を求めるのなら、現実の地上生活を送るあいだは五官の喜びを軽侮すべきではない。何故なら彼はこうした種類ないし状態の生活を十分に経験するためにこそ地上に生まれてきたからである。

彼は花々や野原、山や海の美をめでるべきである。大都会の美、動き呼吸するすべての生き物の美しさを観賞すべきである。絵画や音楽に喜びを見出し、流麗なことばの美に心と魂を奮わせるなら、その人は罪深いどころか霊的力を増大させているのである。

 最後に精神的敏感さに関して言えば、彼は宇宙的生活を鋭く意識し続けなければならない。賢者は可視的世界の壮大、恐怖、不可思議、神秘を感じていなければならない。

 恋する者と孤高の人、快楽主義者と禁欲主義者、聖者賢者とタダの人、これらのすべての面が彼のなかに含まれていなければならない。しかし無論、賢者が劣った兄弟を抑え、最終的にはすべての性質を支配すべきである。

 完全な人間であったキリストのことを研究せよ。そうすればこれらの様々な面が明らかになろう。
 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(訳註2)このようにこの世の知識を持っていたあの「人」は言ったのである。

 「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」(訳註3)こう言って聖者は彼の天上的な夢を明らかにした。また姦淫をしている時に捕らえられた女の物語を通じてわれわれはこの賢者の一面をみる。キリストはこう言って女を責める人を咎めている。「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(訳註4)

 「幼子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である」(訳註5)人間的な愛の「声」はこう語った。人々はこうしたことばのなかに自分たちと同じ人間性を認めるのである。

 だが、快楽主義者はどうか。私がキリストのことを快楽主義者などと呼ぶと、疑問を感じ、冒瀆だと思う人さえいるであろう。しかし私は、水を葡萄酒に変えた「青年」に、また、かの女性が「彼」に香油を塗ったとき、「彼」の弟子たちにこうたしなめた「人」のなかに、私は快楽主義者の面影を見るのである。

「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない」(訳註6)

 マルタとマリヤの物語はいつの時代にもある種の女性たちの目には謎めいて見えたものである。しかし「マリヤはそのよい方を選んだのだ」(訳註7)とキリストが言ったとき、キリストのうちなる賢者がそれを言ったことに気づくなら、この女性たちは、朝早くから晩遅くまで家事に追われ心労に悩まされる女性に向けられた一見厳しくみえるこのたしなめの意味を理解できるであろう。

このことばの内にはすぐには理解し難い意味が隠されていたのを読み取れよう。すなわち、自我の一面だけが他のことを押しのけてマルタの生活を占領しかつ支配して、彼女の本性を傷つけていたのである。この本性そのものは元来多面的で、人間全体を形成し、土くれのうちに型どれらた「神」の似姿に栄光を与えるべきものなのである。

 同様に、禁欲主義者は、福音書に現われたキリストと一見なんの関わりもないようにみえよう。だが前の頁に戻ってみると、その初めの頃に荒野に行き、悪魔に誘惑されながらすべての王国を拒絶し、四十日と四十夜荒れ野で孤独に過ごした一人の男を見る。

 最後に、「神聖な生涯」の恐るべき最終場面では、賢者の光が鮮やかにそして永遠に光り輝やいている。というのもキリストのなかにおける賢者は、その弟子も世間も、もし死と復活の仲だちがなければ彼のことばを受け入れないであろうことを見抜いていたからである。

 この最も高貴な犠牲こそがかがり火に燈火を点じ、人間の思想と努力の傾向がどうなろうとも、あらゆる時代に亙って光明を投げかけつづけるのであろう。

 キリストがゲッセマネの園で苦しみもだえつつこう祈ったときには、この賢者が他のすべてを圧し、低い心を抑えたのである。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」

 かくして賢きものが、荒野の孤独のうちで、また、エッセネ人のなかにいて救いを求めた聖者をたしなめたのであった。聖者の側はこれ以降、神との霊交により、完全なる生涯を送ったというかもしれない。だが快楽主義者の方はこの孤独でまだ若さ溢れる人物に、生涯の年月の全うされることを、健全なる身体と美しき魂の生得権を要求したのである。

 愛の人は人間の絆を説いた。世間知の者は指導者の死は信者の散乱を招き、それまでの永年に亙る営為は紅葉の散りゆくように跡形もなく消え失せるだろうと推測した。賢者はしかし、暗黒の時にあって、すべてに打ち勝ち、自我の他の側面を抑え込んだのである。

恐怖の夜、賢者はキリストに彼が神の子なることを教え示した。かくて主は兵士たちに向かいあわれた。そして彼の告発者たちの前に立ったとき、再び沈黙のうちにその神の叡智を現わしたのである。

 私がイエスの最後の日々には賢者が支配したといっても、それは彼を貶めるためではない。何故なら賢者は永生の知識をもち、人の生涯を直視することのできる者の謂(いい)であるからだ。

賢者は聖霊の叡智を受けるのであり、それ故にこそまた、ごく稀な人の場合でさえ、その生涯の頂点、恐らくは人生の盛りのときにおいて、さもなければ静謐だが活力ある老年の最終の時においてしか完全な形では現われないものなのである。

 あなた方の時代の浅薄な思想家は、キリストの生涯の美を認めながら、一方でこう言う。彼はその最晩年の日々は狂気であり、死に屈服したのみならず、自らを神の子と呼ぶことによって死を招き込んだと。

 どの時代においても愚か者が賢者を狂人呼ばわりするものである。他人をきちがい呼ばわりする者こそが愚か者であり霊感の鈍い者であることが分かる。というのも、普通の凡庸な人は叡智に対して盲目であるから、キリストは、自ら神の子たることを宣言し、十字架上の死を甘受することによって初めてその生命とことばが永らえるということを知っていた、ということに気がつかないからである。

 神の子であったこの賢者は、偉人のように彼と共に歩む一時代を征服したのみならず、まだ生まれざる何百万の人々をも従えた。ほかのなにが滅びようとも彼の物語は滅びないであろう。何故なら彼の生涯は神の叡智の顕現だからである。

 福音書を学ぶときは、キリストの慎重な準備期間のことに注意せよ。イエスの心の多面性を見よ。彼がその本性の表現によって完成に達したことを知れ。この多面性によって、彼は性格の均衡を保ち、以来匹敵する者のない生涯を支配する力を獲得した。

それらによって彼はあらゆる階層の人間たち──取税人や平民、家事に忙しいマルタ、精神的なものの愛好者マリヤ、売春婦、司祭、学者、パリサイ人、漁師、金持ち、権力者、乞食など──を理解した。

これらの彼と本性上の様々な自我や様態を共感する人々を通して、これらあらゆる人々の誘惑、罪、性的悪徳などを理解した。これらの人々は、今日も二千年前と同じく人間の本性の代表者たちである。

 それ故、清教徒であれ快楽主義者であれ、本性の一面しか持たず、人生や永遠を一つの見方でしか見ない人たちは神の国から遠く隔たっている。あるいは少なくとも前途は遼遠であり、死後の世界で彼らを待ち受ける高次世界まで上ることは容易ではない。彼らは未発達な魂集団の構成単位たちなのである。  


   
    知識と叡智


 私が叡智の必要を説いたことと、「知識は美徳なり」 というあの考え方とを混同しないでもらいたい。ペダンチックな学者たちはいつの時代にもその生涯と行為によってこのことばの誤りであることを証明した。

知識は賢者を作らないということを何度繰り返しても繰り返し過ぎることはない。無学文盲のお百姓が哲学者や優秀な科学者や明敏な神学者にまるで欠けた叡智の恩寵に恵まれているかもしれないのである。

「先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう(訳註8)」この素晴らしいことばのうちにキリストは、私が 「叡智」 と呼ぶ聖霊の賜物を受けた純朴で名もない人々のことを言ったのである。          


   
    仏陀として知られるゴータマ


 イエスの生涯を仏蛇の例との比較において考えてみよう。キリストの不滅のことばとベナレスの最初の説教でゴータマの言った「四つの高貴な真理」(四諦) とを比較してみよう。それは以下の通りである。

 苦は普遍的なもので、人は誕生から死までそれから逃れられない。この苦の原因は欲望と煩悩であり、これが再生の導きとなり欲望や悲惨を継続させる。苦からの解放は欲望の制圧とあらゆる熱情の断滅によって得られる。

すなわち満ち足りており、かつ持たぬ物を持とうと渇望しない静かな心の状態によって得られる。この境地の達成は聖なる八つの道(八正道)を行なうことによって得られる(原註)。それらはすなわち、正しい信念(正見)、正しい希望(正思)、正しい発音(正言)、正しい行為(正業)、正しい生計の立て方(正命)、正しい目的と努力(正精進)、正しい記憶(正念)、正しい瞑想(正定)である。


 これらの「四つの高貴な真理」から高尚な倫理規定が発展した。仏陀はその信徒たちに次の規則を守って生活せよと言った。


 生き物を殺すな。人のものを盗(と)るな。断じて姦淫をしてはならない。虚偽を言ってはならぬ。酒類は避けよ。正午以後食事をするな。舞踏、歌謡、音楽、演劇等を見聴きするな。また花飾り、香料、香油、私的装飾等を用いるな。大き過ぎる寝台で寝るな。金銀を所有するな。

 この大雑把な説明だけでも仏陀の教えとキリストの教えは全く一致しないのが分かるであろう。それらは注意深く比較すればある幾つかの点で甚だしく相違している。

 仏陀は欲望を抑えることによる苦からの解脱を要求した。彼は苦の源を断つべきだと説いた。事実、彼の信徒たちは地上的本性の基本部分を殺してしまえと要求されたのである。

 一方、キリストは彼の弟子たちに欲望をコントロールすべきであり、彼らがめいめいの家での支配者になるようにも要望した。キリストは弟子たちにその本性の核心部分に死の宣告をさせはしなかった。

 カナの結婚式に出席した 「青年」 は水を葡萄酒に変え、仏陀がその信徒に要求した 「酒類をとるな」 の戒律を破った。女に貴重な香油を塗らせることを許したキリストはゴータマの規則を再び犯した。主が取税人や罪人と共に食事をし、魚や肉を食べたときもまた、この東洋の信仰の狭い道に外れたのであった。

 更にキリストのことばのなかには生への愛と欲求に満ちたものがある。「彼らに命を得させ、豊かに得させるため」(訳註9)ということばそのものが偉大な東洋の師とは一致しない視野の広さを表現している。

 私がここで言いたいのは、反省的、禁欲的生活のみならず神が人に与え給うたすべての感覚の使用による広く豊かな経験を通しても、必然的に霊的生活の豊かさが得られるということである。

 ナザレ人イエスの宗教は恐怖なしの宗教である。一方仏陀の宗教は道徳的怯懦(きょうだ) を暗示しており、そのことは彼の目的が霊的な進歩にあったとか、あるいは霊的な完成への憧れであったとかの美辞麗句──その目的は実のところ再生の定めから逃れることであった──によっては言い逃れられない。

 仏陀が信徒たちにすべての欲望を抑えること、五感を通して得られたいかなる幸福も邪悪な性質のものであり、それから逃れる為には彼らは逃亡し、いわば誘惑を避け、この世と肉に背を向けなければならないと要求するときは、彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。

 しかしながらキリストは、肉と悪魔に直面し、あらゆる種類の人々のなかに住み、欲望のコントロールされた表現のなかには悪を見なかった。

いや、彼はむしろわれわれがこの世から学ばなければならない教訓を活(い)かし、それらを勇敢に学び、われわれの性格を発展させ、死を超えた世界における意識の高次レヴェルを旅しつづけるのにもっと相応しいものとなる為にこの世界に生まれたことを認識していたのである。

 キリストが人里離れて祈りと内省に日を送るエッセネ派の隠者たちを非難しなかったのは本当である。彼はこうした運命がある種の人々には相応しいと分かっていた。しかし彼の送った生活をみれば、エッセネ派の静かな隠遁生活は、彼には満足すべきものではなく、その限界、つまりそれが人間の本性のごく一部のみを表現する結果になることに気づいていたことが分かる。       

そこで彼はもっと勇気あるコースを選び、世のなかに出てゆき、しかもそのなかで完全な生活を送ることがいかに可能かの範を示したのである。彼はいかなるときも彼の本性のどれか一部を枯らしてしまうようなことはしなかった。

彼はときとして怒ることも悲しむこともあったし、また幼子のように陽気で朗らかであるかと思えば気高く霊感に満ちて、司祭たちや学者やその他あらゆる卑しい悪の群れに立ち向かった。イエスは人々のために、地上で最も高貴な生活の道を創造してみせたのである。

 仏陀は高尚な道徳律を説教した。しかし彼は信徒たちに世間から隠遁し誘惑から遠ざかることを要求した。つまり生活に背を向けたのである。というのも禁欲主義者や聖者が自己内部の他の自我を圧倒し、遂にはすべての自我を支配したからである。

 そこで仏陀に関しては、キリストについて言えること──すなわち「完全な人間」──があてはまらないのである。ゴータマの本性の低い部分を聖者が占有した。彼はキリストのものであった人間的で同情的な叡智に支配されていなかった。その叡智の全き開花によって、主が真実神の子であることが証明されたのである。


      
    キリスト、ブッダおよび霊的世界

 一見、仏陀は「四つの高貴な真理」において有徳の全法則を宣したかに見える。 

 こうした境地は聖なる八つの道を行なうことによって得られる。それらはすなわち正しい信念、正しい希望、正しい発言、正しい行為、正しい生計の立て方、正しい目的と努力、正しい記憶、正しい瞑想である。  

 だが、仏陀が 「正しい」 という形容詞を用いるとき、彼はゴータマ流の 「正しい」 を指しているのである。それはキリストの言う 「正しい」 とは全く同じというわけではない。
 仏陀は、キリストの次のようなパリサイ人への答えに賛成しなかったであろう。

 「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、あなたの弟子たちは何故断食しないのですか」

 するとイエスは言われた。「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう」(訳註10)


 ここでイエスは、人生を楽しめるあいだは楽しむようにと勧めているのである。いつか喜びの日は過ぎ去って、断食しなければならない日が来るであろう。言い換えれば断食のときもあるが、幸せで健康な生活や無邪気な陽気さと喜びを求めてその欲望を満足させるためのときもあるというのである。

 仏陀もあの父と放蕩息子のあいだの和解については認めるに吝(やぶさ)かではあるまい。しかし、祝いの宴や、太らせた牛の食事、そして父の言う次のようなことばに対しては非難することであろう。「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」(訳註11)

 ゴータマはこうした言い方に含まれる熱っぽい調子や感情的陽気さを断滅せよと要求する。というのも、彼の冷たい禁欲的な性格は無害な楽しみのときの後にくる父の一層の苦悩──おそらくは兄弟間の嫉妬か放蕩息子の失敗によって引き起こされることになる苦しみ──を危険視することであろう。

しかしキリストは慈悲深い両親の自然な喜びを誉め、そうすることによって人間生活についての繊細な見方をしたのである。

 イエスは到るところで人々に言った。 「パリサイ人のように愁い顔をするな」 彼は楽しげであることが善良な人間の義務であると思っていたらしい節がある。

 キリストが 「わたしのために自分の命を失うものはそれを見出すであろう」 (訳註12)という不思議な、そして素晴らしいことばを言ったとき、 彼は金持ちや権力者を批判していたのである。しかしこの批判は、同じように仏陀の厳しい戒律にも当てはまるかもしれないのである。

 自我の統御を求める仏教徒ならば冷たい自己本位の道を実践しなければならない。彼は誰も傷つけない。人々に道徳や禁欲生活を教え導く限りにおいて、人々を益することもあるであろう。

しかしながら彼は自己の救済にのみかかずらわっている。自分の魂の幸せを得ることにのみに全力を投球している。欲望と、そこから発する人間感情のすべてを除去することによって人類全体からは孤立してしまう。やがて彼はいわば無人島に住むに等しいこととなる。このような修行の生涯の後には死後の世界においてどのような運命が待っているのであろうか。

 彼を再生の運命を逃れた正真正銘の仏教徒であると仮定してみよう。地上にあっては彼は通常人の罪は一つも犯さなかったが、未来のことに心を使い過ぎた。更に悪いことに彼は未来永劫までを考え詰めてしまった。従って来世においては彼は孤独に住み、地上生活のあいだ彼を閉じ込めていたさなぎの中に永遠に住む傾向がある。停滞し、植物的満足ともいうべき状態にとどまるのである。

恐らく仏教天国に到達したとの幻想に執着しつづけよう。にもかかわらず彼の地上的世界観は第三、第四の意識界へ進んでもなお彼を制約しつづけるほどであろう。彼は神聖なことどもについての瞑想をつづけるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。

彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠りつづける人のようである。もしそうでなければ、ふいの確信によって自己の幻想を打ち砕くときがくる。そして、通常生活で仲間たちと一緒に共同しなかったために類魂から孤立する決定を自ら下していたことに気づく。

そして第五界において、そこでの共同生活を通じて霊的に発展進歩すべき段階になっても、自分の兄弟たちに仲間入りができない。

つまり彼の生き方が彼を仲間から引き離してしまったのである。そこで彼は彼の恐れていた再生をするか、苦痛を忍んで知的自己没頭のさなぎ状態から脱け出すかの選択をしなければならないのである。

 もし彼が自己の全存在をはりつけにするような試練に耐えうるなら、そして類魂のすべての構成員に対して自己の魂を開き、単に知的な意味でばかりでなく実際的、行動的な意味で 「ひとりひとりお互いの肢体」(訳註13)であれという法則に従うなら、そのとき彼は恐らく彼に下された宣告から逃れることであろう。

すなわちそれは、少なくとも一つの地上生活で、彼がかつて逃避した経験のすべてに直面すること、恐怖と格闘してそれを克服し、愛者、孤高に住せんとする高慢者、快楽主義、禁欲主義、聖者、賢者(訳註14)などの魂の六つの様態を表現し、かつまた、できる限り賢者がすべてを支配するのに任せるこの世の叡智の探究者を表現しようとすべきであるという宣告である。

このような生涯にあっては、彼は大衆のうえに立ってある高い使命を遂行することになろう。というのも彼はとにかくその本性の一部を完成にまで導いたのであり、今や鎖をほどき、殆ど間違いなく、善なるものへの奉仕に参加して大きな影響力を与える人となるであろうから。    

   
 ナザリーンとキリストの弟子たち

 以上私は、仏教徒がその師の教えを文字通り遵守した場合に、死後の彼らの行く手をはばむ危険について述べた。しかしキリストの弟子たちが師を模範としてその足跡を辿る際に待ち構える危険についても述べておくのが公平というものであろう。

 クリスチャンということばは汚され貶(おとし)められてしまった。あらゆる時代の何百万といういわゆるクリスチャンが敵を罵り、隣人を憎み、その仲間に対して想像以上の迫害を加えた。

だから、キリストの信徒という意味でならクリスチャンという語は廃棄してしまった方がいい。「ナザレのイエス」 という言い方は高貴の霊感に満ちた生涯を送ったひとりの完全な人を想わせる。そこで私は主の御跡に従おうとする現代人を表現するときには「クリスチャン」 よりもむしろ 「ナザリーン」 という語を用いた方がよいと思う。

 ナザレのイエスはその信徒たちに人生に恐怖を持たずに立ち向かうようにという。彼らがその本性全体、つまり先に私の述べた六つの自我の様態を表現すべきだと要求する。

賢明にも彼は普通の人には実行不可能なほど高い行動基準を求めるのである。というのも、高き理念こそ超人間的努力を喚起しうるからである。イエスの戒めを文字通り実行できる人はいないであろう。しかし彼の弟子は、他のどんな師に従うよりも立派な生涯を送ることができよう。

というのも、キリストによって説かれた教義にその本質を示された 「偉大な霊の実在性」 は、これまで人間に説かれたもののうちでも最も高貴な理想だからである。他のどんな道もこれほどには辿ることが困難ではない。

ナザリーンが自己の信条に忠実であろうとすれば、二十世紀においては殊に、あらゆる困難に出会わざるをえない。彼は貧者に持ち物のすべてを与えることはできず、自分のパンを稼ぎかつ人を養わなければならない身であれば、明日のことを思わないわけにはいかない。

しかしそのようなときも人類の兄弟たちを心に留め、とりとめもない悩み事に身を任せるようなことがなければ、彼は主の教えに従っているといえるのである。

 イエスはわれわれを呪う者を祝福し、われわれの敵を愛せよと命じた。同様に、われわれを攻撃し傷つけようとする者に対し、極力、こうした人間味ある態度をとれるなら、その人はキリストの道を歩んでいるのである。

 ナザリーンは日毎に「私たちはひとりひとりお互いの肢体である」との考えを胸に刻むべきである。このことばは日々の行為に祝福をもたらす。この考えはそれを復唱する人に、他人ばかりか自分をも助ける寛大さを示唆するであろう。「私達はひとりひとりお互いの肢体である」と「汝の敵を愛せよ」のことばはそれ自身の秘められた叡智を含んでいる。

つまり他人を傷つける者は己れを傷つけ、他人を益する者は己れを益するの意である。キリストは家族の絆に関しては厳しく語った。彼の弟子は家族愛に自己を限定してはならない。

すべての人が兄弟とみなされるべきである。われわれは皆天の父の子であるから。この教えがきちんと胸に収まるなら、国家間の危険な相違点はなくなり、キリスト教のヨーロッパは、戦争の脅威や経済的利益追求の絶え間ない操作によって破廉恥にもキリストを否定するようなことはなくなるであろう。

それは国家間の障壁を取り払い、これらの暴力的に引き裂かれた諸国民は、実践的なナザリーンとして一つの家族のような統一と一致のうちに生きつづけるであろう。

 聖パウロの考えは幾つかの点でキリストより仏陀の考えと一致していた。聖パウロは死と罪、すなわち現代的に言えば生と情熱的愛を恐れていた。パウロはゴータマが自己の本性の欲望を恐れたようにそれらを恐れたのである。そして福音書の物語に不滅化された見事な生き方からは尻ごみしたのである。

 キリストは自己の本性を支配していたので恐れることはなかった。彼の弟子の目標は恐怖心なしの無邪気な状態に達することでなければならない。そうなればその弟子は仏陀や聖パウロの弟子よりも高次の意識の世界に住むことになろう。

 聖パウロは、人は皆本性上悪であり「オールド・アダム」と呼ばれる存在を内に持つと考えた。この遠祖アダムは仏陀が否定した欲望の別名である。実際、この二人の偉大な禁欲家たちは、罪を恐れる点においては一つであった。キリストには断じてこの「オールド・アダム」の嫌な面影はない。

彼はパウロが絶えず悩んだ罪の暴虐という問題にはかかずらわなかった。それ故、ナザレのイエスはおよそ罪とは無縁な存在で、彼が寓話で語ったようなあらゆる「才能」を役立てたのであった。彼はその生涯を十全に生き、人類への愛を通じて彼の本性のすべてを表現した。

キリストは憎まなかったけれど怒ることはあった。彼の見事な義憤はパリサイ人を非難したときや、両替人を宮から追い払ったときに一度ならず表わされた。

 キリストの弟子たちは純潔を求めるあまり正義の義憤に駆られ易かったかもしれない。この怒りは人間の本性から迸(とばし)り出るもので、偽善、貪欲、暴虐などを破壊することができる。仏教哲学のキーワードは自制と自己統御である。これとて自然人をあまり厳しく抑えると善への良き力を抑え、善導すれば全人類を益する筈の力を枯らすことにもなるであろう。

 聖パウロと仏陀は多くの才能を持っていた。しかし彼らはその天分を圧し殺し、信徒たちにも同じようにするよう勧めた。しかしながらキリストはその教えと生涯の足跡によって、神の与えた才能はすべて用いられるべきこと、人間本性のいかなる部分もおしつぶしたり焼却したりすべきではないことを示した。

 われわれは肉体、魂、そしてその二者を鼓舞する霊を持って現世に生まれた。これらの三者は自己を益し、他を益するために用いられるべきである。われわれは現世を豊かに生きるべきであり、ナザレのイエスの御跡を追う者としてパウロの説いたごとき罪や死とは関わりをもたない。仏陀が霊の道を求めたとき、その心を占めていた個人の救済へのいかなる懸念とも無縁なのである。

  
  *                          *                      *

 パウロはキリストの血が人を贖(あがな)い、またそれによって人の罪の許しをえることもできることを明らかにした。しかし人間はキリストの血によってというような魔術的なやりかたで救われることはありえないのだ。永い年月の勇気ある努力によってのみ自らを救うことができるのである。

人間は責任ある存在であり、彼や彼の属する意識世界、また「神」に対しても責任をもつ。そこで彼は芸術家のように本性にともなう涙と悲惨と喜びと愛のなかで営々と勤めなければならない。それは遂に本性が形と美しさを身につけ、真に絶対美のイメージや、それの似姿となるまではつづくのである。

 女性の劣等や、女性への恐怖、そしてまた神がふいの悔恨によって買収されるというようなパウロの考えは、歪んだ彼の本性によって吹き込まれたのである。その考えは彼のような高貴な自己否定の生涯を送る人に相応しくない。

 私のパウロへの批判は余りに厳しすぎるかもしれない。また遥かなその昔、私がこのタルサスの徒に対する敬意と憧れを表わそうとしたときとは、この偉大な聖者に対する私の評価が変わったとみられるかもしれない。しかし私は、以上述べたところでは、パウロをキリストと比較したのだということをはっきり理解してもらわなければならない。

キリストの光の前ではすべてのものが色褪せるのである。神人キリストと比較してみると、霊的ではあるが人間的な人間であるパウロは(彼でさえも)、ひどく見劣りしてみえるのである。


詩のなかで私は聖パウロの本性と生涯の高次な側面をことばに表わしてみようとした。そのことは必ずしも私が、彼の本性の感情的側面の表現であり初期における修行や青春時代の彼を取り巻く環境によって生み出された部分に関する彼の判断の誤りに気づいていなかった、ということにはならないのである。

人間誰しも理想の人間たりえない。多かれ少なかれ思考の過ちを犯すものだ。パウロが或る思考過程に如何にも人間らしい側面をもっており、教育や家の伝統、あの騒乱の時代における彼の同国人や種族に広くゆき渡っていた心の態度に影響されているようにみえたとしても、それはパウロの闘いの偉大さや、その生涯の高貴な性格、その目的の気高さをいささかも減ずるものではない。

ここでは私は詩人としてではなく批評家として書いているのである。従って両者のアプローチの方法にはかなりの違いがあるのである。

              *         *         *

 キリストと彼の生涯について書き、福音書に書かれたままを述べるに際して私は批評家たちの批判や論争を無視した。これらは帰幽者にとってはどうでもよいことだ。というのも私は福音書のなかに完全な生涯を見る。新約聖書のなかに後世の書き加えがあろうとなかろうと、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカの各福音書に書かれたあらゆる時代に通じる理想的生活の仕方のみを私は見ているのである。

この四つの福音書の意味や意義を理解することは容易ではない。しかしキリストの本性や、思想行動のなかに含まれる叡智を心にとどめ、その人生にうまく適用しさえすれば、それらは、人間個性を超えて神聖な超越的世界へといつかはわれわれを導いてくれる永い旅路に備えることができよう。

 キリストの神聖に対する永年の論争にも私は関心がない。すべての男女が本霊によって霊感を受け取っているのである。本霊とは神の一思想である。それ故、すべての男女が 「天にましますわれらが父」 の子である。が、キリストは最も尊い神の子である。

何故なら彼こそは人間形式に現われた神聖な叡智の本質の顕現といってもよいものだからである。

 偉大な導師たちのなかにあって、彼のみが愛の永遠法則の重要さを強調したのである。こちらの死後の世界において、われわれは愛が宇宙的意義をもつことを、地上の人々が決して知りえないところまで知っている。

人々が、もし宇宙の実態は心であって、物質は心の一つの表現形式であり、知的、指導的な原理よって織られた衣装であることを認めるなら、その意義をある程度までは理解できるかもしれないが。

 叡智に包まれた愛は、単なる物の総計から一つの宇宙を創り出すエネルギーなのである。

 人間は日常に思っているほど個性的でも孤立した存在でもない。彼は類魂の糸に編まれた一本の糸であるともいえる。それ故、もし叡智に包まれた愛が彼の一生の目標や目的、つまりは人生において獲得せんとする褒章──すなわちキリストの言った天に積まれる宝〔訳註15〕──となるなら、彼個人の救済、進歩の速さなどが促進されるであろう。

 というのは、もしこの愛の力が彼において強大であるなら、彼は類魂内の意識レヴェルを持ち上げることができ、彼がその一員である巨大な存在が統合するための強い力となるからである。

プラトンはこうした存在をそれがその本来の調和状態にあるとき、それを神と呼んだ。何故なら、ひとたび、この類魂的存在の角がとれ、全体として渾然とした一つの型をなすと、それは神の叡智を表現するものとなるからである。

 そこで巡礼の目的は単に自分自身の霊力の発達ばかりではなく、類魂全体の霊力の発達なのである。そしてキリストは山上の垂訓や「汝の隣人を愛せ」の戒めによってこうした創造の要石(かなめいし)を据えたのである。

 プラトンもまたそのことばで巡礼の発達進化に重要な貢献をしている。プラトン的愛は永遠の愛と美への崇敬と献身の態度を表わしているからである。

 この態度は主として宗教的性格をもつようにみえるかもしれない。しかしそれは普遍的宇宙的に適用されるもので、現代に行なわれている宗教に限定されるものでもない。それは人間個性を超えたものである。それはまた現代の男女の心からは消えてしまった神の神秘への尊崇というほどの意味である。

 わが世代の指導的思想家の或る者は、物質の分解や崩壊の具体的過程の研究に関わりをもった。その結果彼らは、至上精神や創造全体を導く知性の可能性を認める能力を失ったのである。

 現代文明世界の崩壊ではなく総合が存在するためには、プラトン的愛がもう一度再認識されなくてはならない。しかし、それにはキリストの生涯とことばの意義やそれが永遠の真理であるという感覚がともなわなければならない。

 地上生活は一つのエピソードであるといえるかもしれない。人は死後の世界でまだまだ多くのエピソードと向かいあわなければならない。彼がプラトンやキリストの教えに従うなら、彼は類魂の仲間の先頭に立つばかりではなく、総合化のエネルギーと叡智に包まれた偉大な宇宙法則を通じて上へと引き上げられるのである。

 というわけは、人が永遠の生命のうちに含まれる偉大な実在に勇んで入るときには、彼は自分自身の救済に関わるばかりではなく、彼の本性の完成に必要な彼の愛する人、他人、仲間の魂に関わるからである。

 主として個人の霊的悟りや救済にかかずらっているパウロや仏陀の弟子の夢よりも、キリストやプラトンの信徒の理想の方が素晴らしく、また美しい。

 死後の生活においては二つの道が看取される。われわれはその本性に従って仏陀の道に従うかナザレのイエスの道に従うかを選ぶのである。


〔原注〕
*通信霊の要望によってここのところがハーミワース百科事典から読まれた。E・B・ギブズ。

〔訳註〕
 ⑴ 箴言(しんげん)二十九章十八節。日本聖書協会『聖書』(一九五五年)により訳、「預言がなければ民はわがままに振舞う」ではこの文脈の意味が伝わらないので自訳した。

 ⑵ マタイ伝二十二章二十一節。
 ⑶ マタイ伝五章四十四節。
 ⑷ ヨハネ伝八章七節。
 ⑸ ルカ伝十八章十六節。
 ⑹ マタイ伝二十六章十一節。
 ⑺ ルカ伝十章三十八節 - 四十二節。
 ⑻ マタイ伝十九章三十節。
 ⑼ ヨハネ伝十章十節。
    ⑽ マルコ伝二章十八節 ー 二十節。

    ⑾ ルカ伝十五章三十二節。
    ⑿ マタイ伝十六章二十五節。
    ⒀ コリント人への手紙、十二章二十六節。
    ⒁ 賢者(sage)。これまでみてきたように、マイヤーズ霊は「賢者」を「聖者」(saint)の上位においている。賢者は単にこの世で高潔な生活を送る聖者とは異なり、神の叡智に恵まれた者である。熟さないことばを用いれば「叡智者」ということになろう。

    ⒂ ルカ伝十二章三十三節。




         
  第十五章 予見〔原註1〕と記憶

 大記憶 は宇宙生命のあらゆる振動の記録を含むといってよかろう。あらゆる経験がこの記録すなわち永遠の年代記に複写されている。過去、現在、未来が至上精神の想像力のうちに貯蔵されているといえよう。しかしこの大記憶は個人の記憶と混同されてはならない。

この両者は一なるものの他面という意味での違いがあるのである。各個人の記憶は大海に注ぐ一本の川に喩えられよう。ある時点をとってみると魂の意識に浮かび上がるのは記憶の一部分だけである。

しかし死後には心は解放され、束縛を緩められる。だが、意識が第五界と第六界に到達するまでは個人は限定された制限内に存在する。第五界では彼は類魂の他のメンバーの記憶と経験のうちに入り、そこで強烈に生きるための能力を著しく増大させる。だが意識の第五界においてさえ、彼は未だ大記憶の全体を把握することはできず、単に習慣的に類魂の記憶と知識を記録するのである。

 しかしながら、魂は肉体のうちにある間にも──前に言ったように──意識の高次レヴェルに上ることがある。私は恐らく瞬間的にだが大記憶に入り個人の記憶のなかにはない過去や未来のイメージを見ることがある。「高地人の第二の視力」といわれる予見の神秘は、こうした意識の上昇によって説明されうる。そのとき高次レヴェルに上った意識は断片的に、魂が以前には持ったことのない過去や未来の経験を見るのだと説明できる。

言い換えれば、魂は個人記憶から宇宙記憶へ移り、つかの間、宇宙的に生き、そしてまた個我や個人的記憶の範囲内に舞い戻るのである。

 帰幽霊が地上と交信しようとするとき、彼らは通信してくる個人的記憶の断片や、なかんずく彼らの会話、ことば使い、ものの見方に示す性格的特徴によって認知されるであろう。彼らに能力が賦与されていなければ──地上の人間のある者には預言の能力が与えられている──帰幽者といっても未来を予見することはできない。

言い換えれば彼らはこの状態に移行する力がない限り大記憶を頼りにすることができないのである。

 しかしながらかなりの数の帰幽者がもっと大きな展望をもつ心の王国に住んでいるので、彼らは時折、まもなく起きる事件を垣間見ることがある。というのも彼らは道のちょっと先を見通すことができ、地上での生存競争に関与している力についての大きな知識をもっているからである。



  概念的世界

 ヨセフがパウロの預言的な夢を解釈して以来、あらゆる時代を通じて、人が未来の事件についての心の映像を僅かながら睡眠から持ちかえるということがときたまあった。或る者は実際の事を縮小した形で見た。また他の者は、すっかり目覚めた状態で数カ月ないし数年後に起こる幾つかの出来事を、漠然とながら正しく予見したのである。

 夢見の人、預言者、見者、そして卑しくおとしめられてはいるが真正な占い師たちはすべて、一時的に他の時間次元に入り、あるいはむしろ心が半年先、五年先に飛び、そしてほんの瞬間だが神の想像力のうちの一思考作用として既に概念化された未来世界に入り込むのである。

 魂ないし覚醒した意識は、時たま任意に未来の映像の一場面を選択して見ることが可能なのである。これは実際には以下のように行なわれる。霊能者の意識の焦点が未来を知りたいと希望する人の開け放たれた心の状態と一時的に結びつく。すると霊能者は、その人の心を通じて、個人の歴史を貯蔵している「概念世界」のある部分と連結したエーテルの波に波長を合わせるのである。

 霊能者の仕事は容易なことではない。相談者が積極的で切迫した願望を持っていると、それは感情的な想いとなって現われる。殊に霊能者が依頼人の将来にとって最重要なことを予言するというようなときにそうである。

こんなとき相談者は、霊能者の意識を一時的に「概念世界」に繋げる接続の波線を切断してしまう。こうして引き戻されると、霊能者の意識は相談者のイメージ化された願望を読みとってしまい、それを未来の出来事として解釈してしまうことがある。多くの間違った予言がこのようにして生み出されるのである。



  霊能者の被暗示的性質

 霊能者が完全なトランス状態にあるときは、彼を支配する霊はしばしば半催眠状態なのである。そこで霊は暗示にかかり易い。物理現象を行なう霊媒が犯すインチキの多くはこうした状態に起因しているようだ。

もし交霊会に出席している誰かが、霊媒の詐欺やトリックをたとえ潜在意識下においてでも疑ったり予測したりすると、その想念は──特にそれが感情的な偏見に基づくときは──被験者に対する催眠的命令と同じような強い影響力を発揮するものである。

この作用者によってなされた自動的暗示が働いて、霊媒は詐術まがいの行為をしてしまうが、彼自身は全く無心なのである。

このインチキの張本人は実際のところこの現象の立会人たちであり、懐疑家と科学者たちがこの事実に気づき、彼らは人形でも傍観者でもなく、交霊会のなかの一役を演じており、馬鹿げた結果や通信霊の行為に積極的な影響を与えるのは彼ら自身なのだということを知るまでは、物理的心霊現象の本当の進歩はないであろう。

 感情的懐疑論者が、無意識のうちにでも、物理現象など起こりえないと思っていると、彼らは現象の発生を禁止したことになり、また催眠状態の通信霊に彼らが 無力だと強く暗示したことになる。この禁止のためにもし交霊会での現象が何も起こらないことになれば、彼らはそのことに全責任があるであろう。


〔原註〕
(1) 予見(Prevision)。予言の意味。




   
   第十六章 自然霊

 ギリシァ人のディオニソス信仰についてペーターは次のように記している。

 「事物について深く思考する高級知性は、木の葉脈のうちにある力や甘美の発生は何によるのかと問い詰める」と。実際、近代人にとって自然の科学過程であるものが、古代ギリシャ人にとっては生きた魂の介在なのである。ディオニソスの信仰によれば、樹木や花はこのような存在の住処(すみか)なのであった。

これは優雅な空想以上のものであり、今に詩人が、もう一度、樹木や植物には魂があるのかどうかを尋ねる時がくるであろう。遠からず写真が不思議なものを写しだすであろうから。しかしこの問いに対する私の解答は否定的である。魂ということばは、前に定義したように、或る心的な個性の意味をもっている。

 樹木や、植物や、そしてもっと単純な生命の形態は「非個性的な心」とでも言えるものによってコントロールされている。動物的生命の高次な形態においては、魂の初期形態のようなものが現われるが、結局それの発達したものが人間ということになるであろう。  

樹木と植物は呼吸し、神経組織をもつ。人間や、高等動物の構造原理のどこがそれらと違っているのか?  この質問には見えない世界の知識によってしか答えることはできない。前にも言ったように、人間には一生のあいだ、複体すなわち統一体が肉体につきそっている。

 その根源の核をなすのはエーテル体であり、それは老年期すなわち人の晩年において発達する。その頃次第に形をなして、死後において魂の着る衣装となるのである。エーテル体のなかには、霊妙体 subtle body の種が潜んでいる。もし旅人が地上に帰らず上方に旅することを決断するなら、この霊妙体が開花し、形相の世界で花を咲かせる。

 樹木や、植物や、それ以下の単純な生命の諸形態は複体だけをもち霊妙体をもたない。複体なしに植物は呼吸できない。複体は生命素を受け入れ、植物を養う。

植物が枯れたり死んだりするとすぐにも見えない統一体の崩壊が始まるということがそのうち認められようが、これは、実際正しい結論である。しかしながら、もっと低次の生命形態においてさえ、エーテル的エッセンスが死後に残り、それがすぐにも再生する。すなわちこの要素部分が植物世界に再帰し、昔ながらの四季の経過が再び繰り返されるのである。

 近代人の心は自然霊を信じないが、古代ギリシャの人々は、河や、渓谷や頂上や、小川に屯(たむろ)して目に見えない生きものと一緒に生活していた頃は、余程この真実に触れていたのである。そうでない場合には彼らの存在することは霊媒を通してのみ推測されていた。

当然のことながら、自然霊を「魂」ということばで呼ぶのは不適当である。魂とのあいだに或る種の類似はあるが、その活力は他の源泉からやってくるのである。

 いわゆる自然霊の性格は多様で、その見掛け上の単位は幾つかのものから成っている。例えば一年のある季節に森から放射されるエッセンスは複合合一され、ことばの通常の意味で無精神のままで、われわれが妖精と呼ぶあの形態をとる。そして森の木の茂った空地や川や湖のほとりに孤独を求めてさまよう人の身体に作用したり、その人の感情に影響を与えることがある。

 これに対する反応が穏やかでよいものであるときは、人の複体や統一体に栄養を与え、根本生命に触れさせることがある。また一方人間の方が習慣的にバランスを失っているようなときは、有害な暗示を受け易く、水や、大地や、空気や植物のエッセンスないし霊が有害な影響をあたえることもある。

霊的な反応がいかなるものにせよ、古代人が自然の山谷にはしばしばこうした目に見えないものが住んでいると信じていたことは正しい。こうした実体を人間のことばにするとき間違ってしまったのである。

 人間はエーテル体をもつことによって魂すなわち個人的精神作用の表現体となる。かくして人は高次意識の供給者となるのである。こうした人間の霊的構造を学ぶに際し、オーラと複体を混同してはならぬ。

 オーラとは肉体から出る生命の放射物であるといえよう。生きた人間との関連においてのみならず、意識の異なった次元にすむ様々な帰幽霊との関係において種々のオーラが観察される。

      


   
 動物の死後存続 
 
 この問題に関しては、『不滅への道』で述べたことに付け加えることは殆どない。われわれの物言えぬ友人である動物たちとは、もしわれわれが彼らに心からの愛着をもち、その愛情が報いられるなら、幻想世界でもう一度彼らと一緒になるであろう。しかし進化した動物だけが第三界で生活を共にするのである。

 しかし、肉体の死は必ずしも狩猟家の本能をすぐになくさせはしない。鳥や獣や魚を撃ったり殺したりすることに刺激を求めつづける者は、幻想の世界で、その本能をフルに満足させるが、その犠牲となるものは地上のような生命原理で生きているのではない。それらは単なる幻想の産物である。

幻想界の者たちは、永いあいだ、原則としてこの事実に気づかずに狩りを楽しみ続ける。例えばあなたの亡くなった友人からヤマシギ撃ちをつづけてきたと聞かされたとしてもそうしたことを信用することはできまい。

 しかしながら、もしあなた方が、この人物は無意識に地上記憶から自分の気に入った仕事を創り出しているのだと知ったら、そのときあなた方は死後の世界で依然としてヤマシギを撃ちつづけているという友人の主張を受け入れることができよう。

 このヤマシギは想像された想念形態であり、それは人の無意識下に心で形づくられるといえよう。鳥撃ちをしたい狩猟家は鳥を創造する。その鳥は彼の心から放射される電気的な波によって生気づけられ、欲望によって活発化するという意味で生きているだけである。が、

この鳥はエーテル体に属しているという点では現実のものである。しかし結局、狩猟家が、キジ、イワシャコ、ヤマシギが彼の想像力から飛び出してくるものであることに気づくとき、それらはもはや鉄砲をかついで出かけたあの素晴らしい日の強烈な喜びを与えなくなるであろう。

 第四界には御存じの通り動物は存在しないのだが、形相の世界には動物とか鳥とかに分類してもいいような仲間がいる。それらは不可思議で、奇妙で、美しく、またグロテスクである。彼らは萌芽期の魂であり、いつの日か地上に生まれることであろう。

                        *                      *                              *

 ローレンス・ジョーンズ卿は故 K・ウイングフィールド女史との交霊記録を記した個人的ノートをわれわれに送ってくれました。それは一九〇一年二月十六日の日付です。そのときウイングフィールドは入神状態でした。面白いことに、ジェラルディーン・カミンズ女史によって得られたのと同じような内容のことがそのなかに見られるのです。

ローレンス卿は次のように書いています。「私は狩猟家たちは死ぬと最初どうなるのか、また狩猟によって生きる種族などは死後どうなるのかと尋ねた」
 
 霊は答えて言った。「狩猟家は狩りを続ける。例えば鳥撃ちの人は鳥撃ちをする楽しみのために鳥を創造する。殺すのが楽しみではない。この世界には殺すようなものは何もないのだから。

地球の上方に一つの界があって、そこでは自分の望みのものが創り出せるのである。狩猟とか旅行とか、何かに全情熱を傾けて一生を過ごした人は同じことをし続けることができる。と言っても、いつもそうだというのではなく、気晴らしのためにこの界におりてくるのである。

しかし、暫くすると彼らは、そこには霊的なものが何もないので満足できないことに気づき、上の界へと上っていく。神は寛大にも彼が渇望するものを好きなだけ与えるのである。芸術と科学はこの限りではない。それらは霊的なものなので持続する。つまりそれらの内には魂があるのである・・・・・・」
                                                                                      ───E・B・ギブス



    
    第十七章  狂気〔訳註1〕
 
 「狂気」ということばで私は全国にある精神病院に収容されている患者と、自由にはしているが、強度の神経症に悩み、実際に時々自分のしていることに責任が持てなくなるために、社会生活に適応できないでいる人々を指すことにしたい。

 狂気は二種類に分けられると思う。最初のグループはある身体器官の損傷によって、複体すなわち統一体との連絡がもてなくなってしまった人達である。

この統一機構は魂の命令を脳に伝えるものである。もし肉体部分の病気が原因でこれとの連絡が途絶すれば、例えば魂は松果体や脳中枢を充分にコントロールすることが出来なくなり、その結果、人間は人生の海を目的もなくさまよう船のようになってしまう。

しかし舵手そのものが駄目になってしまった訳ではない。彼はただ部分的に自己の表現手段から切り離され、そのために経験を肉体中枢に効果的に記録できないだけなのである。それでも複体はまだ太陽叢や、他の神経中枢と繋がっているので、肉体は生命の供給を受け、潜在意識の指示に従って自然に機能し、完全な健康を維持しているのである。

 私はこれまで地縛霊という語で一般に知られている存在には触れなかった。これにも二種類ある。このなかには人霊ではない霊ないし人霊以下の霊があって、これらは地上に人間の形態で生まれたことがないものたちである。

これらの多くはかつては動物界に属していたものであるが、これが複体に干渉して人間を支配したり、また人間に憑依したりする。激しい狂気の幾つかは、こうした人霊にあらざる霊の憑依が原因で起こる。通常この患者たちは治癒不能であるが、この種の憑依はごく稀である。

 しかしながら、われわれの主としてぶつかるケースは、新参の死者が、人間の魂と複体とのあいだの通信に干渉することによって起こる狂気の例である。これらの死者は複体を通じて肉体器官にやってくる。この割合は少なくとも四十パーセントから五十パーセントのあいだであると思う。

精神病院に入れられた者のうちには冥府界の下部、もっと適切なことばで言えば 「テロリストの世界」 の住人によって憑依されているのである。

 粗暴な人間、殺人者、犯罪人、薬物中毒患者、力による支配のみを渇望するあくどい金融業者、嫉妬や復讐の欲望にとりつかれた者等々がこの世界に集まっている。そして、地上において身につけた一つの情熱、深く根ざした悪癖などに捕らわれている。

 研究者は、こうした存在は霊的欠陥のある男女にのみ憑依することをよく知っておかなければならない。自己中心的な人や意志の弱い者、無気力であったり未発達な魂は彼らに扉を開いているのと同じであるが、健康でバランスのよくとれた人々は、死の岸辺に打ち寄せられてきた仲間に対する責任や配慮の感覚を殆どか、全く欠いた人間のカスの如き霊を寄せつけない。

こうした霊は暗闇に呻吟し、低次な暗い情熱に身を任せ、利己心のみに没入し、本性の力を振り絞って後にしてきた地球への帰還を渇望する。高尚な生活や霊的世界の感覚もないので、彼らは光に辿りつき、そこに人間を認めるまではこの地上のすぐ隣の世界にとどまるのである。

この光は人間の男女の放つオーラである。それはさまよっている霊を牽き寄せるが、その霊はそのなかに夢中で飛び込み、そこで複体を肉体に結びつけている糸に絡み取られてしまうことが多いのである。

たちまち騒動がもち上がる。ある場合には帰幽者が自分の死んでいることを知らない場合がある。その霊は松果腺や、脳下垂体──人間個性が自己を表現するための重要な機関──と交渉する手段を獲得しようと必死にもがく。実際男の霊が女性の精神を襲っている場合もあり、うまくいけば、女性の肉体をコントロールしていることを自覚させられる。

 狂人の凶暴さの多くはこうした異常な状態におかれたことを知った帰幽霊の驚きによって惹起される。彼は他人の五感や記憶を通してぼんやりと物質世界を認める。しかし当然のことながら、この歪んで見える世界は、彼がまだ自分の死に気づかぬ場合は、彼のうちに激しい怒りか、恐怖の発作か、他のもっと子供っぽい感情を呼びさます。

肉体の主人公が強くて、統一体の、脳中枢を支配する部分を摑んでいる霊の把捉を緩めさせるほどであると、霊が支配者の地位から追放されることもあるが、しかしこれは滅多にないことである。ある場合には充分に心霊的な方法で処置されて、言い換えれば地上からの干渉によって、この霊が除去されることもある。

 一人の医師とかなりの力量のある優秀な霊媒がいれば、高貴な仕事を遂行して人類に貢献することができる。その場合は、彼らはある暗示法を用いて、憑依霊を狂人から霊媒の複体のなかへ誘導するのである。霊媒は深い入神状態に入れなければならず、また健康でバランスのとれた人でなければならない。処置の仕方は次の通りである。

 電気治療が施されてもよかろう。この力は憑依霊を混乱させ、その結果霊は強奪した体の拘束から逃れようともがくことになる。うまくいけば、この霊の注意は自然と、霊媒の周囲にかかる輝いたオーラの雲に引きつけられる。

霊媒がトランスに入ると、霊は必死でその体に憑依しその声帯を使用する。そこで医師が彼と会話し、彼が何故このような不自然な手段で地上に帰ろうとしたかを聞きだす。もしそれが無知によるもので、この他界からの闖入者が自分が死んだことを知らないでいるのなら、そのことについて教え、注意深い説得や示唆を与える。

そうするとその霊は自分が重大な罪を犯したことを理解し、盗んだ身体を返し、その獲物を放棄するようになるであろう。というのも医師は、彼が他人の肉体のなかにいては決して真の意味で生きつづけることはできず、現在の分裂状態を続ける限り悲惨なばかりだと教えるからである。

この医師は、霊に何か或る高い霊的な力や、彼よりも先に他界した友人ないし親戚に心を集中するように助言する。すると霊の想念は地上の音波のように伝わって、どの意識レヴェルであろうと彼らの心に届くのである。

 私はこれまでも、霊媒が完全なトランス状態にあるとき、彼を一時的にコントロールしている霊はしばしばある程度の催眠状態にあるので、暗示にかかり易いことを知っておくべきだと言ってきた。

原則として帰幽霊は立会人の忠告や命令に従うものである。こうして霊は患者の複体から永遠に身を退く。するとすぐにも、患者の魂が支配を回復し、再び正常な状態に戻る。彼を完全に混乱させていたと思われる狂気の残滓(ざんし)は跡形もなくなる。

 憑依霊を完全にトランスに入った霊媒に一時的に移す処置法は、現代ばかりでなく古代においても成功を収めていた方法である〔原註2〕。がしかし、私は、その価値は将来大いに認められるとしても、これを一般的な医学的治療に用いることは勧められない。

何故なら、未知の霊───それらはしばしば生前低次の人間レヴェルにあった───を一時的であるにせよ複体のなかに入れ、これに支配させ、またそれにより脳までも支配させるほどの犠牲を敢えてしても大丈夫なほどよくバランスのとれた性格と、心身両面の強さを兼ね具えた霊媒は、ごく少数しかいないからである。

 霊媒は心霊的に進歩していないときはかなりの危険に陥る。霊媒に移された憑依霊は──悪意があれば──支配する微妙な器官を傷つけるからである。従って、慎重にテストされ、例外的な力をもっていると分かった者だけが、用心深い医師の監督のもとにこうしたやり方で命をかけることが承認されるべきである。        

 天性の霊媒〔オートマティスト〕であるこうした例外的かつ貴重な人材は、ある情況のもとでは狂人を扱ってよい結果をだせるかもしれない。彼が知的でよくバランスのとれた人ならば、以下のようにして危険を冒すことなく人助けをすることができる。彼は交霊中、また支配霊や指導霊が憑依霊と一所懸命戦っているとき、はっきりと意識を保っていなければならない。

とはいっても、われわれは件の支配霊が既に古代オカルト知識を持っているものと仮定しなければならない。支配霊はあるシンボルや呪文を使って、心霊的力を呼び出すのだが、ある期間それが行使されると、患者が霊媒の行法をしているその場にいなくてもよい結果がえられるものである。

 勿論その場合、霊媒は患者が身に付けていたものを与えられることが必要だ。それが支配霊にとっての一つの焦点として働き、支配霊はそれによって患者の波長を見出し、またそれによって潜在意識との確かな交渉をもつのに役立つからである。

 私はここで単なる有能なオートマティストにとどまらない稀有な人々の場合を言っているのである。

彼らも同じ様にオカルト知識をもっていて、それによって、彼らの記憶のなかにある文化的基盤を利用できるような支配霊を引き寄せることが出来る。ソクラテスのデモンと同じように、この支配霊は彼が支配する霊媒よりも大きな視野をもち、精神錯乱に苦しむ人をかなり効果的に処置することが出来るであろう。
      

     
 第二の処置法

 エジプトやカルデア文明の時代には精神障害のある人々に理性や正気を回復させるための効果的な方法が知られていた。この知識を持っていたのは預言者とか導師とか言われた人のみで、それはほんの一握りの人にだけ伝えられ、ローマ人がパレスチナや南東ヨーロッパの支配者であったときにはまだ用いられていた。

 新約聖書に語られている多くの奇跡はこの治療の知識が用いられたものである。キリストが彼のもとに連れられてきた患者から悪魔を追い出したとき、彼はハーレー街の精神科医なら誰でもやっていることをやっていたのである、

つまり、他のケースに用いて成功したことを活用したのである。しかしこれに加えて、彼はその神力と同じように自己の人格的資質のすべてを祈りのなかに導き入れていたのである。

 聖書のなかで様々に物語られている悪霊除去の話は、単なる神話として見過ごされてはならない。それらのうちの或るものは「英国医事ジャーナル」に載る症例と同じくらい正確に事実を報告しているかもしれないのである。

 しかし紀元前三十年の医者は、今日の医学校が採用しているのとは違った方法で病気治療のための研究や準備をした。キリスト教時代の初期には、医学に志す者たちにとって、未来の仕事に備えての厳しい心身の苦行をし、人生のある一時期人々の群れから遠ざかって、完全な孤独のなかで生活することが必要不可欠なことであった。

もし彼が、他人の精神状態ばかりではなく自己の肉体も支配できるような精神力を身につけ、かつそれを増大させたいなら、暫く他の人間意識との接触を避けなければならなかった。

 われわれが今問題にしているのは主として精神病のことである。紀元前三十年頃の導師であり医師であった人にとっては、完全な意識を保ちながら、精神病者を瞬間的に治療し、その理性と正常な知性を回復させることが可能だったというのは本当である。

もしこのような治療は信じ難いと近代の懐疑家が言うならば、それは彼が、判然たる奇跡的治療が起こるためには、医師の心身に永い修練と準備が必要なのだという事実を知らないでいるためである。 

この修練期間を通じて、彼はまた、帰幽者の住む目に見えない世界が存在することを認め、そしてまたその世界のことを学ばなければならない。言い換えれば現代の医学生のカリキュラムとして解剖学が重要であるのと同様に、心霊研究が重要だったのである。

 しかし、導師が力を獲得し狂人をコントロールするためには、瞑想と精神統一の様々な訓練を通じて、自己の精神を強め、それによって至高精神と接触しなければならない。スパルタ式の猛訓練や、生命力の実験研究を通じて、彼は自分自身の肉体器官や複体をはっきりと見る力を獲得する。

やがて彼は自己統御に成功し、神経エネルギーや神経中枢を通して複体から肉体に流れ入る生命力をコントロールできるようになったのである。

 彼の霊的解剖学の研究がどのようなものかを明確にしてみよう。複体は肉体のエーテル的な相似物である。この両者は人生の最初の頁から最後の頁まで一緒に旅をする。二つの形態は組織され、生命力にコントロールされている。生命力は意識によってコントロールされ組織されている。

人間精神は、殊にそれが群集化したときや大都市に集まったときは、無意識に相手の意識のなかに飛び込んでいく。われわれが相互不可侵であると信じている境界部分は交錯する。人間は自らそう思っている程には思考や個性の独立性をもたないものである。

 心霊王国の導師となろうとする医学生は、その学習のある時期、恐らくは初期において、世間から引き籠もって、彼の心の境界に、外からのどんな邪悪な攻撃からも防御できる防壁を築く。

 ここで精神統一のやり方の一つを述べておこう。実習者は一つの対象をそれと一体になるまで継続的にイメージしつづけなければならない。この行法は勿論、神秘家やオカルティストにはよく知られている。

ここでは細かく述べている暇はない。この修練が積もり、ついには神秘的生命の高次な状態に導かれるであろう。しかしそれはまた狂気に対する医学的治療の補助としても用いられてよいのである。

 偉大な導師イエスが、人からの邪霊の退去を命じたときは、通常この一体化の対象として人間を選んだわけで、すなわち、その意識は境界を突き破って流れ、患者の無意識を摑む。一方渾身の力で彼のもつ生命力を患者の複体のなかに集中して注ぎこむ。それは電気ショック療法の効果をもつので、憑依霊ないし悪霊はあたかも地震にでもあったように分捕っていた場所を手放さざるをえなくなる。

 この行為に伴う命令のことばは大変効果的な攻撃の役割を果たす。この敵は通常被暗示性の状態にあり、他者からの権威的命令に従い易いからである。

かくして憑依霊は占有状態を放棄せざるをえなくなり、この占有が長期的であった場合、またはこの悪霊ないし悪霊たちが完全な占拠を確立していたような場合には、代用物が与えられるべきである。

ガダラの豚〔訳註1〕の場合には悪霊は豚の群れのなかに入るように命ぜられたことをあなた方は思い出すことであろう。この見たところ気まぐれのような行為もちゃんと理屈にあっていたのである。

というのは、主は、お祓いされた霊が暗闇をさまよって、すぐさままた最初に彼らを惹きつけた光のなかに戻り、再び前の犠牲者に憑依するということをよく知っていたからである。そこで治療した患者の正気を持続させるために豚が犠牲にされたのである。

 「その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水のなかで死んでしまった」〔訳註2〕

 
──憑依していた霊が自分たちが動物の複体と結びつき、甚だ原始的な種類の体のなかに閉じ込められたのを知って激しい恐怖に襲われたのである。その気味の悪さと獣性に身震いして、彼らはひたすら逃げようとした結果、豚の自殺を引き起こしたのである。

この厳しい経験は彼らに忘れることのできない教訓となった。一たび、動物生命との異常な関係から解き放たれると、彼らはもはや人間に取りつこうとはしなかった。というのは、この二度目の死により、それまで知るべくもなかった自分自身の死に気づかざるをえなかったからである。

 既に述べたように、多くの未発達な魂は、自分たちがあの世に移ってしまったことを知らないでいるのである。物質的条件からなる感覚のみに執着するあまり、知的または霊的な精神過程があることや、地上生活のあいだに追求しなかった本性の高次な部分に気づかずにいるからである。  


  
  準備期間 

 日の出かまたは早朝に神との霊交を求めるのが主の習いであった。僅かな人以外は皆眠っており、何千何万という人の意識が鎮まり安らっているこの世界の静けさの故に、主はこの時間を選ばれたのである。

日中のせわしない時間では人々の想念波が霧のように集まって、主の御もとに付き従う魂たちの医師の仕事を邪魔し、干渉し、妨害したかもしれない。しかし、一瞬でも高次世界で叡智との交渉をもった日は、一日中それとの交流を持続できたであろう。

 必要とあれば彼は、キリストをして「わたしは世の光である」〔訳註3〕と叫ばしめたあの光を自分に引き寄せることができた筈である。そのとき彼は人間に知られるあらゆる知識を超えた知識を表現したのである。それは重い肉の衣を着て世間を歩く人でも、「創造的叡智」が彼を通して輝きその全存在を満たすという意味では、神となることが可能だという真理であった。

そうした時、僅かなあいだ人は、もし充分にそれが与えられるときは山をも動かし、病を癒し、悪霊を追放し、「不滅の生命のことば」を語る神力をかすかにでも獲得するかもしれないのである。

 とはいえ、あの偉大な時代に、キリストだけが自分を「世の光である」と主張出来たのであろう。ほかの誰もあのように聖霊に包み込まれ、創造者のようになることは出来なかったのである。「風も命じなば従わん」〔訳註4〕このことばは、現代の合理主義者には馬鹿げた誇張のように聞こえ、そんなことをいう者は均衡を欠いた精神の持ち主で誇大妄想に陥っていると恐らくは言われることであろう。

しかし暫くのあいだ神の創造的叡智に満たされた主は、風のコースを変えることが出来たのである。何故なら、その瞬間、彼は「形成力」の表現する通路となり、大地を創造し、自然法則をもってそれを維持した大想像力の通路となったからである。

そしてこの法則そのものの働きを通して現実に空気の流れを変え、風を支配し、北から南へ吹く風を西から東へ吹かせることもできよう。恐らくいかなる人も、彼ほど自己統御を達成し、「自然」を支配するだけの完全な精神のコントロールに成功した人はいないであろう。

しかし、神の国の子供たちである僅かな人たちは霊的または知的本性の研究と進歩に捧げられた一生を通じ、いかにすれば手で触れただけで病気を治し、一言の命令で精神障害者を癒し、水の上を歩くことによって引力の法則を克服したり、或いは現実にパンと魚の奇跡を再び惹起することが出来るほど物質をコントロールすることができるかを学ぶのである。

 いわゆる奇跡を生みだすプロセスは、次のように言えるかもしれない。すなわち、精神集中〔コンセントレーション〕によって、精神原理 The principle of mind がかなりの高い振動にまで高められ、人間という媒介物を通して暫くのあいだ物質を支配し、自然法則の知識を通し、またその不可測の起源との交流によってそれをコントロールするのであると。

 現代の医学生はそのカリキュラムの幅を広げることで利益をえるかもしれない。キリストの時代の導師たちに必要だった訓練の細かな点をすべて踏襲することは彼の手におえないことである。がしかし、自己の心の研究と開発のために時間の一部を割くことはうまく行くであろう。

私は前のところで、短時間、ある対象に意識を没入させる集中法のことを述べた。毎日数分間の訓練をすることでよい。もし天分があれば、明確な力を与えられ、自己統御にも成功しよう。

それは単に、彼が患者を訪ねていくとき自信をもたせるばかりではなく、彼がただ居るというだけで患者たちに活力を賦与することを可能にするかもしれない。

こうして、医師が、形が心を創るのではなく、心が創造し、───知性は凡庸であっても忍耐強く慎重に行なうなら───物質や肉体をかなりコントロール出来ることを学んでいるので、病人はたいへん利便を受けることであろう。


     
 地縛霊のいろいろ 

 狂気について書きながら、私はこれまで邪霊、つまり古代においては悪魔と呼ばれていた凶暴な霊についてのみ言及してきた。しかしながら、無知でくだらぬ考えにとりつかれた多くの人霊たちが死の門口のところで道草を食っているのである。

彼らは別段の邪悪な考えもなく、また霊的進化の過程についても何等の観念も持たない者たちだといえるかもしれない。一生を通して彼らはいかなる霊性ももたず、ただ物質感覚のみに生きてきたのである。

 不滅への道を歩むこうした旅人は、永遠の旅路のこうした連続的な性格を全く分かっていない。彼らは感覚的経験や濃密な物質世界のみを激しく求めて、他人の人格を部分的に支配することに成功する。彼らはある種の狡智をもって、憑依しようと狙った他人の身体のなかに彼らの居場所を確立してしまう。この種の犠牲の典型的な例が多重人格の場合にみられる。

こうした種類の二重憑依は憑依霊の腕次第で手際よく運ばれる。霊は初め肉体に繋がった一本ないし二本の重要な連絡線を最初はそっと手中に収めることによって患者の複体にうまく憑依し、暫くのあいだ生命体全体を完全に意識的にコントロールするのである。

 もう一つの憑依の例は間欠的に起こる妄想が特徴であるが、その妄想には一、二愚かしかったりつまらなかったりすることはあるものの、狂暴なところはない。このようなケースでは、私が今言ったような未発達未成熟な魂は、通常死後の世界において仮眠状態でおり、かなりの期間それがつづくのである。

彼らは地上のことや、後にしてきた生活に全く心をとられてしまっている。彼らの本性は知的、霊的な努力とは無縁である。小さな利己心や心の怠惰が、彼らをこの状態にとどまらせ、そこへまた他の霊たちが類は類をもって集まる。

夢みる帰幽者の霊は、ある弱い人間の潜在意識のなかに入り込んでそれと混じりあい、患者の潜在意識下の記憶に現われるある特殊な行為や固有の空想を再生しようとする。

 まだ明瞭に自己表現ができる状態なのにもかかわらず、憑依された人はこの侵入した他の魂から仄(ほの)めかされた特殊な行為や、思考様式や、コンプレックスなどを何度も繰り返さざるをえない。実際魂が魂のうちに、心が心のうちに住むことができるのである。

 このような症例では自己暗示と催眠療法が有効である。但し侵入した意識が永いこと住みついていたり強力に居座っていなければであるが。この場合、闖入(ちんにゅう)した霊ははっきり目覚めた活発な意識をもってはいない。

そうした夢の状態では霊の意識は統一を欠き集中の焦点がないのである。肉体を支配したいという意図や計画的な欲望は自覚化していない。従って閾下自我の下層に属する侵入の黒雲は人間の現在の知識によってもくい止め、患者の心から除去することができる。

馬鹿げた妄想に悩んではいるが、まだ正気や正常な生活を維持できる多くの人はこのカテゴリーに属し、彼らの身内や担当医師の手に負えない問題を提供する。

彼らを隔離するのはしばしば残酷なことになりかねないし、まだ不可能でもあるからである。しかし、部分的には合理的な生活が出来たとしても、夢みる闖入者が次第に目を覚まし憑依しようとしたり、患者の心に消えない傷をつけないように緊急に処置される必要がある。

      
  老衰
 

 年老いた人に見られる老衰の形跡について考えるとき、彼らがもうすっかり死のかなたの世界で生きていることをよく知っていなければならない。そして老人の潜在意識が、地上を夢みる霊に侵入されていない場合でも、本人の魂の離脱により、その頭脳はある程度集合的意識が発散する浮遊的想念の影響を受け入れ易い。

かつては知的で活動的であった人が散漫で意味の分からぬことばを発することがあるのは此処から起きる。実際のところ老人の意識は今や全面的に中間界に住んでおり、閾下自我の一部だけが神経中枢との活発な交渉をもちつづけている。その神経中枢は脳内にはなく、主として身体器官と結びついている。

「老衰者」と呼ばれる大変年とった人は、本当は「肉体から離れた霊」と呼ばれる方がよい。彼は既に死んでいるからである。彼は三途の川を渡ってしまっており、ただ体だけが残ったのである。それに知的生命を賦与していた「言葉」はもうない。
  
 
     
    憂鬱症  

 医師に尋ねれば恐らく、憂鬱症(メランコリア)にかかっている人を治すのは不可能ではないとしても、極めて難しいと言うであろう。この不幸な精神病とその永続的特性は、憑依霊の理論と、なかんずく件の人物に憑依せんとする霊の特殊性格を理解すれば、もっと容易に理解できよう。

 通常このような侵入霊は死後あらゆる犠牲を払っても地上に戻りたいという激しい望みをもっている。時としては彼らには悪意はなく、むしろ強い意志や、しばしば鋭い知性さえ持っている。しかし彼らは前に述べた霊たちと同じく、地上の価値だけを認めているのである。

「富んでいる者が神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい【訳註5】」という。

ことばは、特殊な意味でここに用いることができよう。勿論、キリストのこのことばはもっと広い意味がある。しかし、富と与えられる快楽を享受した人が死の関門を超えると大変なハンディキャップをもつというのはある程度事実を表わしているのである。

彼らは物質の歓びに浸り、数々の欲望の贅沢三昧な満足を求めて生きたために、自分自身の心のなかに避難場所がなく、死後には空白があるのみなのである。そして生前は容易に手に入れることのできた物質的な歓びを心から熱望するので、目に見える物質世界に引き寄せられる。

彼らは熱烈に地上への帰還を求め、大概は考えなしに私が前に述べたようなやり方で誰か弱い人の身体に憑依する。しかし帰幽霊が強い感情の原動力に促されて、しっかりと統治権を握り、元の居住者たる霊に退去を命ずるとき、彼らはしばしば恒久的に見知らぬ人の複体に捕らえられるのである。

ゆっくりと、しかし確実に、彼らは自分の罪、すなわち半分は真の事情を知らぬところから犯した過ちに気づく。彼らは牢獄に繋がれ、利己的欲望によって他人の肉体に繋がれていることを知る。しかし余りにも無知であり、また閉ざされた地上の生活を送ったことが災いして、彼らは自分を解放するだけの一大奮発が出来ないのである。

 こういう人は大抵普通の人で、ひどく後悔している。彼らには償いの可能性はないように思える。彼らには霊の自由を回復し、肉体のコントロールを気の進まぬ主人公に返すだてが見つからないのである。そこで彼らは絶望に陥り、患者の頭脳に自殺を吹き込まない場合でも、重い憂鬱症に引き籠ろうとするのである。

 何日も何年も彼は荒廃した苦悶の表情で、無気力のままに過ごす。一方彼の本来の魂は引き籠もり、見知らぬ絶望の囚人がその場所を占めている。憑依霊はその場所を放棄することもできなければそれの合理的な一貫性のある使い方をすることもできない。

おそらくキリストの時代に規定の修行過程を終えた導師だけが侵入者を解放してはっきりした憂鬱症患者を治すことができたのであろう。


      
    幻覚

 幻覚は、虚偽の感覚が印象されることだと医者は言ってきた。それには視覚的なもの、聴覚的なもの、触覚的なものがある。一般に、幻覚は自分の記憶から切り離された憑依霊が掻き立てる患者の内面生活に関係した内容のものである。これらの憑依霊は見知らぬ者の記憶中枢を使用して悲惨な結果を生んでいるのである。

 このような場合、敵は間をおいて攻撃するが、原則として知的な支配はしない。彼らは間欠的に患者と交渉をもつ。あるいはそうではなく永続的な憑依だとしても表現の機構を使いこなしていない。

多くの場合、憑依霊はピアノに向かって、二つのキーを代わるがわる叩く子供みたいである。この楽器で初めから終わりまで弾きこなすまでの腕はなく、何度も同じ音を繰り返しているだけである。

 この種の例は毎日同じ自己非難を繰り返しつづけている精神病者にみられる。彼ないし彼女はある罪を犯した。例えば二千ポンドを盗(と)ったとか、叔母を殺したとかいうのである。こうした場合、侵入者は患者の潜在意識下にある抑圧された欲望やイメージを始動させるだけである。

実際には二つの魂が争う結果、彼らのいる界での知的な活動は麻痺してしまっているのである。そこで心のなかの一つの場面───二千ポンドの盗みとかの───が精神の全域を占領し、いわば、完全な精神的無能者にしたててしまうのである。

 ノイローゼが前生において支配的であった状況からくる場合には、その患者は憑依されているという範疇には入らないのである。彼らは統一体にある欠陥をもち、その症状を医師がみれば、二重人格があるかどうか、つまり二つの精神が一つの肉体機構をコントロールしようとしているかどうかが分かるであろう。 


     
    妄想

 妄想の二つの主要なタイプは誇大妄想と被害妄想である。この両者においては、二つの自我が混じりあい、第三の自我つまり、潜在意識下の生命の基本要素からなる偽りの人格を作りあげているのである。

 ある女性は自分がヴィクトリア女王であると宣言し、女王の役を演じようと努力する。彼女は恐らくいつも卑しく劣等な地位にいたのである。二つの魂が一体になり、自我の埋もれた深層から材料を引き出して、多分に自動機械のような特徴を具えた新しい性格を作り上げるのである。

というのは、これもまた、二つの魂が混交して互いに他を抑制し合うところから生ずる麻痺によって,正常な知性の統一が失われている例だからである。

 大部分の場合、侵入霊は個人的意識の記憶中枢にある材料を利用しようとするのだということを記憶せよ。しかし侵入霊はその上に彼の固定観念を刻印し、それによって一層たちの悪い混乱を作りだすのである。

 精神錯乱の原因は推論能力の混乱にあるのではなく、推論能力に与えられる材料の混乱にあるといってよいであろうか。というのも、異常な神経症状は心の葛藤に起因するようにみえるであろうが、例えば集団本能と個体本能間の葛藤は狂気の神秘を説明していないのである。

葛藤は魂の防御力を弱める。そこである場合には、患者の潜在意識が憑依霊の閾下自我と患者のそれの複合体からくる暗示的材料を受け入れてしまうのである。そして第三の実体の干渉が、やがて狂気の状態を招くのである。

     *          *          *

 以上述べたところから魂の侵入といっても様々な度合いがあり、また、憑依霊の力次第、それが身体機関を操る能力次第、その魂の潜在意識の状態次第で違ってくることがはっきりしたであろう。犠牲者の肉体的、心霊的性格は引き起こされる狂気の性質と種類を決定する。

こうしたとき、医師は心理学的処方を適用しようとするであろう。彼は患者を調べて「精神──分析」───すなわち私の死後に発達をみた学問───を用いようとする。しかし、私は確信をもって断言してもよい。

憑依霊がこうした治療で癒されるとしたら、それは患者の注意を直接コンプレックスと呼ばれる固定観念に引きつけることより、患者が侵入霊を放出するきっかけをつくるからである、と。

 一たび患者の知的注意が心の暗がりに焦点を合わせると、その暗がりの所有者は敵の侵入者に打ち勝つことができる。憑依霊は、結局は見知らぬ人の潜在意識下の記憶と関係をもつには不利な立場にあるのである。

この心の暗がりとは恐らくある古い恐怖であって、これが犠牲者をしてその暗がりに目を背けしめ、心を無防備にし、侵入勢力に明け渡す結果となったのである。知性の光がそこに当たると闇は晴れて消え去り、患者は完全な正気を回復するのである。

 しかしまた、精神分析による治療法が、患者に正常と均衡を取り戻すのに失敗する例もある。この種の短いエッセイで、治療法について詳しく論ずることは不可能である。

しかしながら私は、精神分析の失敗は、多くの場合、患者がコンプレックスの影響から解放されると同じくらい容易にコンプレックスに圧倒されてしまうという事実によることを言っておきたい。

コンプレックスは他の知性体によって刺激されると、ある人工的な生命をおびるからである。そこで私は、精神分析は、憑依する実体がないか、またはあってもそれの憑依が確固としたものとなっていないために私が述べたような方法で容易に放逐される場合に限って成功するというのが正確なところだと信ずる。

 この小論では狂気の全域を扱うことも、また、見えない意識世界が地上生活のある時期に、精神病にかかり易い欠陥人間に与える影響を表面的にせよ論ずることも出来なかった。私は統一体の損傷や奇形による狂気の多数例についても言及できなかった。

実際、憑依によって引き起こされる多くの症例においては、この統一体がやがて相当な痛手を受けるのであり、不治の場合には、原則として重大な損傷を被るか部分的に機能を停止してしまうのである。


〔原註〕
(1)私は死後三十五年のあいだに狂気について研究したことはなかった。以下の小論は私の知己である三人の帰幽者の要望で書かれたものである。つまり私は彼らの秘書役を果たしただけである。それ故この小論にある内容の大部分、あるいは実際のところ、それが配列される仕方についても私の責任はない。しかし読者はそこここに私の文を発見するかもしれない。それらは不透明で困難な問題に関する私の浅薄な知識から出たものある。─── F・W・H・マイヤーズ
 
(2)カール・ウィックランド博士の Thirty years Among the Dead をみよ。─── E・B・ギブズ(日本訳には、浅野和三郎訳 『死者と交わる三十年』、田中武訳『医師の心霊研究三十年』<(財)日本心霊科学協会刊>がある。いずれも抄訳であるが、後者の方が詳しい───訳者)。

〔訳註〕
(1) マタイ伝八章二十八節。
(2) マタイ伝八章三十二節。
(3) ハネ伝九章五節。
(4) マタイ伝八章二十三節~二十七節。
(5) マタイ伝十九章二十四節。


    
     第十八章 正義

  人々が公正な神を云々するとき、通常は神に人間的な誤謬の性質を帰属せしめているのである。神というと、彼らは公正な裁判官とか、反社会的な罪人を罰する人を考える。

しかし人間には地上生活のあいだは完全に公平な精神で、果たして正義がなされたかどうか、罪人はその報いを受けたかどうかを知ることはできない。神聖な宇宙精神だけが罪人の過去や彼が属する社会のすべての成員の過去を知っている。

それ故この宇宙精神だけが人間の偏見に束縛されずに裁断を下し、いわゆる犯罪者を許したり矯正したりすることができるのである。従って、人間の定義するような正義は、宇宙的に考察し永遠の光の下に見る正義とはすべての点で違っている。

しかしこうした見方はいつも人間には隠されている。人間は限定された観念のうちに生きねばならないのである。そして神は正義とは何の関わりもないということが出来る。というのも人間はこの語を偏った無知なやり方で用いているからである。

人間はいわゆる犯罪者の潜在的未来や過去をみることはできず、原則として、社会全体が真の犯罪人であり、社会自体の無関心や無能力によって、犯罪を犯したり法律を破ったりせざるをえない環境に個人を置いたのではないかどうかを考察することはできない。

 われわれはある意味では皆、侵犯者であり犯罪者なのである。われわれは不完全で、無知で、馬鹿げた存在で、何度も何度も神の法を犯す。そして永遠の霊が公正な───人間の考える意味で公正な───神ならばわれわれは実際、厳しい罰を受けて、二度と生きては審判の座につくことがないであろう。

しかし宇宙の霊は慈悲深いので、正義を人間が考えているようにはみなさない。そして至高精神は悪を単なる無秩序、分離、不完全な想像力とみなしている。それは無秩序を通じてゆっくりと進化し、遂には類魂や宇宙的生命のうちの秩序的、調和的状態に至るのである。
                                                     

        補 遺  

 一、肉体と魂と霊                                                               E・B・ギブズ

 E・B・ギブズによる以下の記事は、一九三七年三月十八日発刊の「ライト」誌に掲載されたものです。


 『人間個性を超えて』 の出版後すぐに、スタンリー・ド・ブラス氏が手紙で、私に 『不滅への道』 や上記の本においてフレデリック・マイヤーズがしばしば触れている種々の 「身体」 について、詳しく説明してもらって欲しいと書きおくってこられました。この答えはこれまで発表されていません。

これらは問題をはっきりさせてくれるので(通信霊の見解ですが)これを記録することは興味深いことと思います。ド・ブラス氏の御厚意で質問を引用することができました。それが以下の小論です。


 『人間個性を超えて』 に言及したド・ブラス氏の手紙からの引用。

 「統一力としての複体と、エーテル体との関係はどうなっているかを説明していただけますか? 両者は私には同じもののように思えるのです。あなたが『魂は複体を仲介者として働く』というとき、あなたは魂を私のいう『霊』の意味で用いているのでしょうか? 

私は自分の説を正当化しようとしているのではなく、誤りがあれば正して頂きたいのです」


 機会をみて私は通信者に右の質問を読み上げました。以下がその答えです。

 ド・ブラス氏のご親切で誠に啓発されるお手紙に対する私の感謝の気持ちをお伝えしていただきたい。
 私は意識的な心と、意識的な活動すべてを表現したいときは、故意に「魂」ということばを用いた。

 しかしながらこうした意識も、本霊すなわち超越的な意識からの啓示と、物質的身体のもつ五感や欲望や本能といったものからくる反応や、通常人が覚醒中保持したり使用したりできる記憶からの反応の混ざりあったものであるといえよう。

 「霊」とは、肉体の反応によって印象されたり影響されたりすることのない大自我の一部であると定義できるであろう。それは高次の界に存在し、人間の魂───つまり意識的精神───が親しく「霊」に包まれると、予見の能力が驚くほど拡大する。こうした際、人は時空を超え高次の神秘的生活を知る。

しかし地上生活にいるあいだは人は長く無我の高みにとどまることができない。魂はどうしても肉体に戻らねばならないのである。そして精神は再び複合した状態となり、物質世界の条件と生活に反応する。一方ときおり、魂はその発達次第で啓示的光に照射される。その光は忽ち闇を追い払い、正しい思考や、賢明な決断や、賢明で非利己的な愛を促すのである。

 私は複体を精神と脳のあいだにある媒体であるとみなしている。これはエーテル質のもので高次ないし低次の霊と繋がりをもち、コントロールする魂が様々な機能を調和的に操作することを可能にする乗り物なのである。それは脳と知性を結び、そのメッセージを伝達する機構でもある。複体は半物質的な性質をもつが、それは物質の先祖といってしかるべきものだからである。


 ド・ブラス氏からの再度の手紙には次のようにありました。
 「『複体』と『アストラル体』は正確に定義されていないようです。私には、肉体、魂、霊の方がここでは理解し易いように思われます。肉体は物質に、魂はエネルギーにそれぞれ属し、霊は指令を発する力というように。思考の力は全物質宇宙の様々な段階に共通で、それのどの一部分の意味でも用いられるべきではないのです。

それは生き物の一機能であり、実態ではありません。そこでこの世にあるあいだのエーテル体には『複体』を、あの世での魂の外観に対しては『エーテル体』という語を用いるべきなのでしょうか?

あの世とこの世とのあいだでは常に表現の混乱があります。それで私達のことばを正確にするのは難しいことです───私の望みはこちらで可能な限りの正確さを期するということです。『アストラル体』は『エーテル体』と同一だと思うのですが」


  後日、私は右の手紙をマイヤーズに読んで聞かせました。彼は魂と霊と、複体の語の定義をはっきりさせることに賛成して次のように書きました。


 魂の殻(ハスク)はエーテル体を含んでいる。私は生きているあいだのこの二つを、複体ないし統一体と呼んでいる。はっきりさせるためにはド・ブラス氏の素晴らしい表現すなわち肉体、魂、霊を用いることがよいと思う。

 「複体」は現世にいるあいだの「エーテル体」のこととして用いられてよいであろう。但しそのためには、これが二つに分けられること、すなわち、ハスクないしは死において肉体を離れる活力部分と、深い睡眠中に物質から離れるエーテル部分の二つがあるということを知っていなければならない。

 帰幽者について書くときはエーテル体という語が用いられるべきである。しかしこの「エーテル体」なる語は死後の世界における魂の属性のすべてを伝えていないかもしれない。というのは魂は、われわれが「エーテル体」と言っているこの極端に可塑的な形体物以上の何かである。

魂は、私の考えでは、帰幽者の活発な意識生活にとって重要な推進力でありエネルギーである。

 「精神」(マインド)という語は、ド・ブラス氏の言うように、宇宙の一部をいうときには用いるべきではない。しかし私は、魂という語に帰幽者の魂という意味では、精神を活用し精神に頼る推進力の意味を籠めたい。「エーテル体」という語はこの力ないしエネルギーをいうときは適切ではないと思う。

私はエーテル体を単なる形ないし、われわれがこの世で所有する外形のことだとみなしているからである。それは、人間の意識存在の全体を記述するときには肉体ないし物質体という語が不敵切なのと同じである。

「魂」という語は、エーテル状態での魂的存在をいうときに必要であるのと同じようにこの世にあるときの状態をいうためにも必要である。



 肉体
 複体───ハスクとエーテル部分から成る。
 魂───推進力、地上で活発な生活を送るあいだの意識的部分。
 霊───上方からの啓示と光である。それは丁度画家が絵や構図を見守っているように、全体を隈なく見ているのであるが、その働きは間をおいて認識される程度である。

 以上の四つの語は地上にいるあいだの人間を記述するものである。

 エーテル体───死後の人間の外観、外形。
 魂───推進力ないしエネルギー。
 霊───上方からの光と啓示。


 オカルティストは「アストラル体」ということばで帰幽者のエーテル体を意味していると思われる。しかし「アストラル」という語は捨てられるべきである。その語は記述しようとしていることと何の関わりももたない。

「霊妙体、イメージ体、光明体」などは、われわれが死の直後の状態との関係では論じない方がよい用語である。原則としてその段階はそれらの出番ではないからである。



  
    『人間個性を超えて』                                                   E・B・ギブズ

 ギブズによる次の記事が一九三六年、十月二十九日「ライト」誌に載せられました。日本についての偶発的な言及が示すように、一九三九年における戦争の可能性が一九三三年になされているという点でも興味深いものです。参会者(シッター)たちは、見られる通り、この言及をアビシニア戦争やスペイン内乱と結びつけて考えたものです。

 オズボーン・レナード夫人の支配霊フェダ(訳註1)は、通信霊たちはしばしば、何かしきりに言いたいこと、あの世で心に留めたことがあるといった風で交霊会にやってくると言っておりました。

 同じことが『人間個性を超えて』を書いたときのマイヤーズにもいえます。何度か、最初の決まった前置きなしに文を書こうとあせっているように見えたことがあります。特に最初の「ケチで、ちっぽけな時代」を書いたときがそうでした。

これはオリバー・ロッジ卿のための交霊会がもたれたあとで書かれたものですから、われわれは───少なくとも私は───何か卿への言及があるものと思っていました。

しかし次のような短い前置きがそのときあっただけでした。「アスター(訳註2)、詩人(訳註3)の方を向きなさい」「フレデリック・マイヤーズです。今晩は」三カ月後に書き加えられた最後の節を別として、この小論全体は一時間十七分のあいだに筆記されました。

マイヤーズは書いているあいだとても落ち着かず興奮しているようでした。小論を書き終えた後で彼はこう書きました。
                                      
「マダム、お許し頂きたい。私は黒い影が地球に射すのを見たのです。その影は落ちないかもしれません。人は選択の力をもっているからです。しかしこう警告せざるをえませんでした。お許し頂きたい。この稿を『ケチで、ちっぽけな時代』と題して下さい。人間を犬と罵れば、怒りとまではいかなくとも、少なくとも関心を引き起こせましょう。今夜私は人間を犬呼ばわりいたしました」

 
 「昔ながらの戦争の危険が、すぐにではなくとも数年のうちにある。人類最大の希望は『国家』と呼ばれる物質神を実際に放擲(ほうてき)するところにある。何となれば、国家というようなものは元来なく、様々な程度と段階における意識、人間の大集団、すなわち白色、黄色、黒色そして褐色というような人種があるのみなのである。

そしてあらゆる民族は量ではなく質を理想とすることを学ばなければならない。すなわち、美と力は数の制限とコントロール、及び宇宙的同朋感覚によって獲得されるのである」

 「戦争というのはロシアやドイツの戦争のことですか?」私は尋ねました。

 「そうです。そして日本もです」と彼は答えた。「それはやってこないかもしれない。過去のものとは違った新しい宗教、新しい信仰がどうしても必要だ」

 右は一九三三年十二月に書かれました。御覧のように、ロシア、ドイツが戦争の中心となることは私が言い出したことです。多分、そのとき国の名前を持ち出したのはいけなかったのです。

霊媒に暗示を与えないような仕方で質問のことばを選ぶべきでした。しかし、その後明らかになったように、「影」はアビシニヤ戦争や「スペイン内乱」を象徴したものだったようです。ロシアやドイツのお互いに対する態度は来るべき将来、ヨーロッパの平和を脅かすようにはみえますが。

 一九三四年三月に、マイヤーズは突然、当時それまで書いてきたものとは全く何の関わりもないと思われた一節を書きました。その節の最後になって彼はそれをこの「ケチで、ちっぽけな時代」に付け加えるように指示したのです。
 
 クレオファス団の通信者もそうですが、フレデリック・マイヤーズが自分の書いたことを、いつ、どこで書いたかまで大変よく覚えているのは毎度のことのようです。これは勿論、通信者が霊媒───マイヤーズがオートマティスト(霊媒)を呼ぶときの好みのことばで言えば「通訳者」───と交渉をもっているときだけのことかもしれません。しかし、それは事実なのです。

 右の小論を書いた翌日、マイヤーズはこう書きました。「皆さん、私は前回に感情的になって書いていたのではないかと思う。著述家というものは書いているときはあらゆる感情を超えていなければならない。私は自分のエッセイが救世軍の熱弁のようになっていないかと懸念する。

しかし私は実際信仰復興論者ではないことを確言します。私はしばしば彼らに我慢できなくなり、低俗でありきたりの考え方を攻撃し、撃破したくなります」

 「蓮華の園」のときも同じようなことがありました。これは一時間二十分ほどで書かれたのです。フレデリック・マイヤーズは交霊会が始まると同時に、「今晩は皆さん、永遠の仮装会についての話をつづけましょうか?」といい、そのとき突然彼はあのエッセイを書き始め、終わるときにこう付け加えて書きました。

「お許しください。御婦人の皆さん。私は突然このエッセイの着想に心を満たされてしまったのです。すぐにも書かねばならなかったのです」

 他のときには、彼は到着するやいなや忘れるのを恐れでもするかのように書き始めます。それから原稿を書いているあいだに彼は中断し、私が書き上った原稿を置いている方向に霊媒の手をふって、彼のために読み上げてくれるように指示します。私が声を上げて読むと、なにがしかを原稿の中断した部分に挿入してそれを書きとめます。

別のときにはあるエッセイの途中で余白に、「私の最初の節をここに挿入してください」と書きました。それから書記をつづけたのです。

 以下はこうしたやり方の一例です。「フレデリック・マイヤーズです。今晩は、ご婦人の皆さん、私は次のエッセイの主題を是非とも皆様に御披露したい。それは、『叡智に包まれた愛は、ものの総体から宇宙をつくる総合化のエネルギーである』ということであります。

この主題こそ死後において多くの人間の魂に訪れる状態を総括するものである」私はマイヤーズがこのことばを急いで書こうとしたのももっともなことであると思います。
 
 また一方、一九三四年九月の「ライト」に一挙に掲載された「休戦記念日(アーミスティス・デイ)」と題するエッセイは、私の知る限りでは全くあの世での計画なしに書かれたものです。編集者は私にこのテーマに関するメッセージを貰うことはできないかと尋ねました。

カミンズ嬢はそのときアイルランドにいて、このことを知りませでした。四日のち、彼女が帰ってきて、われわれは交霊会をもちました。最初の雑談の後、私は突然、マイヤーズに「アーミスティス・デイ」について何か知っているかと質問しました。

すると彼は、それがヨーロッパ諸国間の戦争が終わったことを意味するのは承知していると答えました。これ以上の準備は何もなく彼は最初の六つの節を書きました。それから休んでこう言いました。「準備なしにやってきたので適切なことが言えたかどうか心配だ」と。

彼は最後のところを読んで聞かせてくれるようにと要求しました。そしてその後彼は最後の節を除いた残りの部分を書きました。最後のところは後で書き加えられたのです。文体の美に関しては、準備されて書いたものとその場で書かれたものとのあいだの差はないと思います。

 私からの質問に答えて、マイヤーズは、「最初の発想はこの世を離れて考える」と言いました。もしオートマティストの心が交霊前に鎮まっていれば───カミンズ嬢はいつでもそう努力するのですが───彼はときどき交霊前に「彼女の心のなかを気ままに探ってみる」とも言いました。

この書の第二部に関してはマイヤーズはしばしば、彼の観念を表わす適当なことばがないと洩らしていました。「私はことばにならない観念と苦闘している」と彼は書いています。

「通訳者は私を待っている。しかし恒星生活を記述できるようなことばが思い浮かばない」そして再びこう言いました。「───はっきり言って私がこの恒星上の運命に関する複雑な問題を書くことは、私に何の幸福も与えない。というのも、それは、あたかも燃料なしで火をたくようなものだからである。

思考はそこにある、しかしそれを正確に表現するためのことばは創られていない」と。ある日、この本の難しい章を通信しているとき、彼は軽い調子で何かを書いてから、仕事に戻らなくてはと感じ、ふいにこう言った。

 「さて、もう一度、星の観測に戻ろう」───そう言って第二部を再開したのです。

 通信者の身元証明に関する大事なことが一年ほど前に明るみに出ました。『人間個性を超えて』とは別のある原稿の最初のところで、マイヤーズは「死すべき人の心は死すべき物によって動かされる」ということばを用いました。ローレンス・ジョーンズは、それをフレデリック・マイヤーズが翻訳したヴィルジルの詩からの引用であると発見したのです。

sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt(涙は涙を誘い、名誉は名誉をもたらす。そして死すべき人の心は死すべき物によって動かされる)・・・Classical Essays, 一二〇頁参照。(この本を私たちのどちらも読んでいません)


〔訳註〕
(1) フェダ(Feda)オズボーン・レナード夫人の支配霊で、彼女が霊信を受け取るときの仲介役。霊能者には必ずこうした支配霊がつく。『不滅への道』参照。

(2) アスター(Astor)ジェラルディーン・カミンズの支配霊。
(3) フレデリック・マイヤーズのこと。 


   
     三、ヴェルサイユ宮殿の冒険                                E・B・ギブズ

 ダンヌ氏のよく知られた『ある冒険』という本は、モバリー嬢とジョーダン嬢の二人の女性がヴェルサイユ宮殿で体験したことを分析したもので、そのとき二人は十八世紀のなかに真っ直ぐ入ってゆき、フランス革命以前の人々や事件を見たのです。後になって、十二年以上にもわたる膨大な歴史研究の結果、二人の見たものが確証されました。


 以下は一九三六年七月十六日の 「ライト」 に載ったE・B・ギブズによる記事です。


 『ある冒険』 を論評してプレヴォスト・バタズビー氏は こう言っています。「そこでその時それは正しく起きたことなのである。真実性から言っても、完全性から言っても、資料的な面から言っても独自な一つの心霊現象としてそれは存在する。

ではそれは何を意味するか? J・W・ダンヌ氏はシリアリズム(訳註1)という理論がこの事件を如何に説明するかということを述べた覚え書きをこの号に寄せている。読者のなかにはそれで納得いくと思う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない」(私はバタズビー氏のこの点に関する素直さには打たれます)氏は更にこうつづけています。

 「過去の世紀に入り込むだけなら、われわれの用いることばの曖昧さからいって、これをある種の透視であるということも出来よう。しかし、この御婦人方は起こったことを見ただけではないのである。

十八世紀のなかに入っていっただけではなく、十八世紀の方が二人のところへやってきたのである───二人は一場面を見ただけではなく、その場面をつくる機構(メカニズム)を体験しつつあったのである。二人は小径を通り、森を抜け、橋を渡ったのである。そのどれも現実にはそこになかった。シリアリズムは実際にこのような現象を解明しうるのであろうか
?」 

 こうした論及からみますと、以下の見解が興味深く思われます。それはF・W・H・マイヤーズが『人間個性を超えて』を通信してきたときに偶発的に書かれたものです。彼はこの本の一二三頁(本書一七一頁)に載せられた詩というよりもむしろ散文詩とでも呼ぶべきものを、気晴らし的に書いていたのです。

 マイヤーズはその詩を説明してから、こう書きました。

 「この少女は意識の主観状態で過去の時間に入ることによって、実際に過去の時間を生きたのである。これはある名前を明らかにしたくない御婦人がヴェルサイユ宮殿の庭を散策していたときにマリー・アントワネット時代に生きたというのと同じことである。

彼らは皆、適切な主観状態にあったために大記憶の一局面に入り込んだだけなのである。この説明は単純そのものである。

しかし疑いもなく───もしあの体験がなおも議論されているなら───深遠で理解できないといった性質の多くの終わりのない議論の方が、その起源を神秘のヴェ―ルに包み、その昔デルフォイの神託に仕えていた人々に与えられていたような特別の尊敬を学者たちに保証するものなのである。

私はこの御婦人方がその『時』のうちに生きたのだと信ずべき理由がある。つまり彼らはその時代と結びついていたので、その光景は彼らの大自我の記憶のなかに含まれていたのである。そのために、彼らが昔の懐かしい環境にやってくると、ごく自然に、二人にとっては現在である過去に自動的に転がりこんだのである。

というのも過去の記憶のすべてはわれわれの現在なのであるから。心霊研究の徒はこの説明を受け入れないであろう〔訳註2〕。それは余りにもやさしく、その意味を説明するのに長いことばはいらないのである」


 右の記事を書いた後、私はそれをたまたまロンドンに来ていたカミンズ嬢に渡しました。彼女はバタズビー氏の見解を読み、マイヤーズの説明は、モバリー嬢とジョーダン嬢が実際に声を聞いたという事実を説明できないと指摘しました。暫く考えた後、彼女はこの問題に対する解答はないと認めました。

われわれ二人はこの不思議の説明を求めて『人間個性を超えて』を調べましたが、この事例をうまく説明するような箇所を見つけられませんでした。

そこで私はいつかマイヤーズに尋ねて問題を解決して貰うことを提案しました。以下のことがその結果です。


 フレデリック・マイヤーズが署名し、多少のコメントをした後、私は先に記した彼の見解を読みました。そして、これらの見解では、ある男が現われて、「マダム、マダム、ソコヲ通ッテハイケマセン」Medames, Medames, il ne faut pas passer par la 云々と言ったのが聞こえたことの説明にはならないと指摘しました。答えはこうです。

 「このことばは、過去の世紀にこの男が発したものである。彼はそのころ宮廷に属していた婦人たちに向かってそれを言ったのである。

二人の婦人の現在意識の前で、前世紀におけるこのちょっとした場面が演ぜられたのであった。つまりそれらは大記憶のなかにあって、二十世紀の意識中枢に連なっているのである。ここにこの経験の独特な性格がある。私は『現在意識の前で演ぜられた』という言い方を用いた。

しかしこのエピソードは絶えず進行中である。この『ソコヲ通ッテハイケマセン』ということばは一生のあいだいつもこの御婦人方の耳には聞こえていた筈である。

しかし実際に聞こえてきたのは、条件が整って、二人が初めにこのことばの発せられた場所を通ったときであった。われわれは条件さえよければ見もし聞きもする。すべてはエーテル界に記録されているのであるから。」

 マイヤーズは『人間個性を超えて』の三四頁(本書四五頁)をみるように指示し、そこには、それらの記憶のなかには魂は住まないと書かれてある筈だと言いました。驚いてその本を取りあげ、自動書記をとるカミンズ嬢の前に置き、「四次元界」と題するところからあちこちを読んで聞かせました。

ふいに彼は次の章句のところで呼び止めました。そこには、「それらは自動的で、次々に立ち現われる情景にはそれらを支配する魂が入っていないため、生気というものが感じられないのである」と書かれていたのです。


 更に彼は説明をつづけます。
 「暫時この二人の御婦人は見物人となり、その心は『人形劇』といわれるべきもののなかに入っていったのである。婦人たちだけが生きていて、記憶や知性を用いていたのである。しかし彼らに話し掛けたのは単なる操り人形である。

───かつて II ne faut pas Passer Par Ia ということばを発した魂によって生命を与えられてはいない只の人形なのである。しかしこのことばは一九三六年の今も振動しつづけている。『聞く耳のあるもの』〔訳註3〕には最初に随伴した行為との関連で聞こえることがある。

 音もまた場面と同じく振動し続けている。音だけが中断して情景は継続するということがありえようか? 一つを受け入れて他を排するのは論理的ではない。ある大師〔訳註4〕は大記憶のなかに過去の場面を見ることができる。しかし彼らも情景に伴う音声を聞くことは難しいのである。

というのはこうした記録はもっと大きなもっと目覚めた意識を必要とするからである。この御婦人方の場合には、前世の経験によって見聞きするのに必要な力を与えられたのであった。」                                               
                                      
〔訳註〕
(1)シリアリズム(Serialism)連続的透視。一情景だけではなく連続的に場面の展開する霊視のことであろう。
(2)こうした説明は、科学的な説明を好む心霊研究者たちには受け入れられそうもないものである。心霊研究とスピリチュアリズムの違いについては『不滅への道』解説参照のこと。
(3)マタイ伝十三章十六節「しかし、あなたかたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」
(4) アデブト(adepts)大師。厳しい自己否定と自己開発の修行によって、人類を指導しうる状態にまで自己を高めた超人のこと。神智学では、彼らはチベットの山中に住まい、数百年生きることがあるという。マイヤーズの通信を参借すれば、第五界に入って、恒星界で火の試練を受け、地球に戻って来た霊がこれに匹敵すると言えるかもしれない。


 
 

                     スピリチュアリズム一問一答
          ───梅原 伸太郎氏に訊く───

 ───────────────────────────────────────心霊の世界との出会い

 =まずはじめに梅原さんご自身が、スピリチュアリズム、あるいは心霊研究の分野に、深く入られた動機をお伺いしたいと思います。

梅原=私が確か二十六、七の頃だったと思うんですが、それまで私は哲学、科学哲学という領域を大学院で専攻していたのですけれども、その前は学部でフランス文学なんですよ。ポール・ヴァレリーという人をテーマにしたわけですけれど、私が元来興味を持っている領域というのは、精神および意識なんです。

ヴァレリーのテーマになっているのは、精神それ自体、意識それ自体なんですが、私自身も全く同じ関心を抱いていまして、とくに意識のメカニズムに興味が集中してきました。意識の構造がどうなっているのか、考える自分があって、考えられる対象があるとすると、両者の関係はどうなっているのか、自分の意識というものは一体どこまで自分の意識的な操作の対象となりうるかという問題ですね。

とにかく精神現象それ自体についてできるだけ知りたい、全部知りたいという衝動が非常に強かったわけです。いわば内面的な意識の達人になろうと思って、思春期以降の全青春を投入していたようなもので、とにかく朝、昼、晩と考えることが仕事のようなものだったのですね。

文学からも埒〔らち〕外に出た、いわば狂的な徒弟修業時代のようなものだったと今では思っています。そういうことで、フランス文学から科学哲学に変わり意識と論理の問題、それから意識とイメージの問題を考えていたわけです。

=極めて合理主義的なアプローチのしかたですね。

梅原=ええ、こういう風に合理主義で押し進めてゆくと、自分の精神については解明できたような気になる段階があるわけですよね。それから同時に、自分以外の世界についても非常によく分かった。了解できたと思う時期が、これは誰にもあることだと思うんですけれども、そういう段階があって、一応安心しきっていたという時期があるわけですね。

 ただ一方で、そういう合理主義的な考え方でいきますとね、自分の内面的な生命感覚と大いに矛盾してくるんです。私は自己の内的感覚も誠実にとり上げて排除しない方針でしたから当然のことでしょう。

精神のメカニズムを徹底的に追及してゆくことは、ある意味では自分自身の生命構造の秘密をいじりまわす結果になるんです。意識について合理主義を徹底するかぎり、生命は生きえない面がありますね。

 そこでこの心霊世界との接触の動機になるのですが、当時、弟が司法試験の勉強をしていまして、それがうまくいかなくて軽度のノイローゼ状態になっていたようなんですね。それでいつの間にか霊能者めぐりのようなことをはじめまして、最初は私は黙って弟の報告を聞いていたんです。

そのうち日本心霊科学協会にも顔を出しまして、当時、高齢の非常に有能な───亡くなりましたが───霊能者がおりましたが、その霊能者から「徳さん」という我々もほとんど知らなかった曾祖母の名前を言われて帰って来たんですね。

 そこで、「おかしい」と思い調査してみようと思ったのがキッカケです。むろん例のテレパシー説というのを検討してみたんですが、テレパシー説にしたって不合理は不合理なんですから、それでよいというわけにはいかないんです。

その後も、そこへ何回か訪ねて精神統一をしているうちに、同じ霊能者から、その人自身知り得るはずのない、そしてまた私自身知らなかった身内の先祖に関する事を告げられ、まったくどう説明してよいか分からず、随分妙な気持ちになったものです。

 そんなことがありまして、それまでの私の合理主義的な世界観が根底からグラつき出しました。今言ったようなことがあるとすると、自分の世界観というものが、たとえばそれが一つの特異現象であったとしてもですね、それを許すようなルールはこれまでの自分の中にはないから、全部根本から崩壊するわけですね。

そういう危機感を感じたわけです。これはもっと深く追求しなくてはいけないと思いました。いわゆる先祖の霊魂の世界などというものは全く考えなかったのですけれど、それはこっちがないとして済ましているだけで、向こうがあったらどうしようもないわけです。

 今までの精神とか意識に対する考え方をそのまま踏襲して、あわよくば哲学者になって全部説明できたつもりになっても、それが一つのフィクションであって、ごまかしの理論体系みたいなものを創ってしまう危険があるのではないか、一生というのは一回しかないんだから、もしそういう誤った人生観、世界観で一生を過ごしたら大変なことになる、これは一つ根本的に考え直さなきゃならないなというのが、心霊科学の世界に深入りしていった動機といえば動機なんです。


 
 ─────────────────────────スピリチュアリズムと心霊研究
  

=それではいよいよ本題に入りたいと思うんですけれども、まずスピリチュアリズムと心霊研究あるいは心霊科学との相違点を御説明いただきたいと思います。

梅原=スピリチュアリズムという言葉で問題になるのは、心霊研究とのかかわりですね。で、心霊という言葉が、心霊研究の場合は、サイキカル・リサーチで、サイキカルの意味なんですよ。ところが、霊交思想の場合は、スピリチュアリズムなんですね。

同じ「心霊」という言葉でサイキカルとスピリチュアリズムという二つの意味を表わしているわけです。そう言う面を排除して、田中千代松先生が「霊交思想」という言葉を使われたと思うんですね。


=あくまでも心霊研究という分野は違うんだと、区別するために霊交思想というわけですね。
 
梅原=そうですね。それとスピリチュアリズムの中にも後でも申し上げたいと思うんですが、思想的な意味だけではなくて、運動的、実践的な意味があるわけですね。欧米では実践的、運動的な色彩の方が強いんですよ。日本では、故浅野和三郎氏以降その点が希薄になっていたのかもしれませんけどもね。そこの点が霊交思想という言葉では排除されるという問題があるかもしれない。

 それから、心霊研究と、スピリチュアリズムと、もう一つ、今度のタイトルになってると思うんですけど、心霊科学という言葉ですね。これがどういうふうに関わるのかということをちょっと説明しておいた方がいいと思うんです。

端的にいいますとね、心霊研究という言葉は元来は、サイキカル・ㇼサーチという言葉の翻訳なんです。サイキカル・リサーチという言葉は、心霊現象についての、純科学的な研究というふうに定義されてるわけですね。

特にサイキカル・リサーチの面を代表するのは、英国に SPR(The Society for Psychical Research)というのがありまして、もう百年ほど純粋に学術的な研究団体を作って研究してるわけですけれども、これは現在では霊魂が存在するか、存在しないかについては態度保留になってるわけですね。

どちらかというと霊魂の問題については、まあ否定的な態度を採る人の方が多いと言った方がいいかもしれないですね。


=かなり著名な研究者が名を連ねてきましたね。あくまで合理的に捉えようとするわけですね。方法論として。

梅原=ええ、ところが一方、スピリチュアリズムの方はですね、これは霊魂の存在を抜きにしては語れないわけですね。霊魂の存在というものを確認するところから出発するわけですから。歴史的にみるとアメリカが発端で、その後英国が中心になったのですが、出発点においては心霊研究と仲良く共存していたのです。

むしろスピリチュアリズムから心霊研究が生み落とされたといった方が正確でしょう。しかし、いろいろの歴史的な過程を辿るうちに、両者が訣別してしまったのです。現に、欧米ではこの二つははっきり区別されているわけですよ、団体も違いますしね。

その考え方は、はっきり違うわけです。ですから、この二つを同時に一つのものとして語るのはむずかしいわけです。一方、心霊科学という言葉がありまして、これは実は、非常に僕は曖昧(あいまい)な言葉だと思うんですけれども、しかし、かなり実際は使われましてね、実用的な意味を持ってるかもしれない。


=現に、日本心霊科学協会で採用されている。

梅原=ええ、私もその会員なのですが、心霊科学の呼称は、ナンドー・フォドーという、『心霊科学事典(Encyclopaedia of Psychic Science)』を著わした人が用いています。それによりますと、心霊科学という言葉は、サイキカル・リサーチとスピリチュアリズムを含むというように定義しているんですね。私も一応、その定義に乗っかりたいと思うんですよ。


=サイキカルとスピリチュアルとでは同じ範疇(はんちゅう)に属する言葉だと思いますが、次元の相違があるのでしょうか。

梅原=はい。サイキカルのサイキは元々はギリシア語のプシュケで「魂」を表します。スピリチュアルの基の形は「スピリット」で霊を表わしています。同じ眼に見えぬものにも段階的な差別があって、霊は魂よりももっと高次のものと一応考えてよいと思います。魂は霊よりも肉体に近い中間的なものです。

人間精神の情動的な面を表わすとも考えられています。従ってサイキカルという言葉までは一応人間能力の延長といった解釈もとれるところから、サイキカル・リサーチは霊魂論の段階に足を踏み入れないでも済むといった面があり、SPRの人たちなどはこの言葉を用いているわけです。

私なりの一応のメドとしては遊離魂を考える段階からスピリットになると思っていますが、日本語では魂もまた遊離しますから、厳密なものではありません。

 ついでに言いますと、欧米でいう心霊研究者(サイキカル・リサーチャー) とは概して言えば教授資格か博士号を具えた人たちで、霊魂問題については保留、しかも実質的な研究に従事している人のことですから、日本にはこれに当たる人がほとんどいないということになります。

日本では従来、心霊研究者というのはほとんどスピリチュアリストというのと同義ですね。少なくとも分類上はそうなります。しかし心霊研究が超心理学に引き継がれたという観点をとれば、最近輩出しつつある超心理学者が心霊研究者ということになります。

 

   
────────────────────────────スピリチュアリズムの意義


=ところでスピリチュアリズムだとか、霊あるいは心霊というと一般の人はテレビや週刊誌、雑誌などのジャーナリズムによる影響がかなり大きいと思いますが、例えば先祖の祟りであるとか、水子の障りであるとかですね、そう言った次元で非常におどろおどろしいものだという印象を持っている人が多いと思います。

もちろんそれも心霊現象ないしスピリチュアリズムのなかに含まれるかもしれませんが、本来あるスピリチュアリズムとはどのような内容なのか、そのへん重要なところだと思いますのでお聞かせ願いたいと思います。

梅原=今おっしゃったような現象はすでに歴史以前から日本の社会的、宗教的現象の中にあったことなんで、そういうのを漠然と語る時は、私はむしろオカルティズム、あるいは、私のことばでいうと、俗流オカルティズムという言葉で全部ひっくくった方がいいんじゃないかと思うんです。

しかし、スピリチュアリズムについて語る場合には、やはりこれは、歴史的な視点がある程度必要だと思うんです。ですから、スピリチュアリズムというものが出てきた背景と、それを推進してきた人達の考え方というものをやはり一応、正しく受け取らないといけないと思うんです。

霊的なことの何もかもに関心を持つというのが、スピリチュアリズムの意味じゃなくて、私がスピリチュアリズムから受け取っている一番のポイントは、これは欧米の文献をちょっと読んでみると分かりますが、霊魂の存在、すなわち死後個性存続の問題だと思うんです。

なぜ死後個性存続の問題というのがそんなにポイントになるかと言いますと、結局霊魂の存在を認めるか認めないかという問題が、いろんな現代の思想との関連において、あるいは世界観、人生観との関連において決定的な意味を持つ点だからだと思うんですね。

霊魂というものが客観的に存在すると証明できるかどうか、スピリチュアリスト(霊交思想家)の立場に立てば、これはまさに前提とされてるわけですね。ところが彼らの運動、あるいはその啓蒙活動というものは、自分自身に死後存続の事実というものをくりかえし納得させるということにあるのではなくて、人類一般を対象としているところが特長でありまた意義がある訳なのです。

人類的な規模で霊魂の問題をはっきり確実なものとして捉えられるかどうかということは、非常に重大な問題です。それをはっきりさせないといけないというふうに考えているわけですね。

 スピリチュアリズムとそれに引き続いて心霊研究が勃興したのは十九世紀の半ば頃からだったのですが、その当時この領域の研究というのはアメリカ大陸の発見に比せられたんですね。

これを現代的に言い直せばもう一つの地球が出現したと同じくらいのショッキングな内容を含んでいるというふうに言ってもよいと思います。

このことはこれまで、世界というものが唯物論者的な視点で全部説明し考えられると思っていたのが、そうでない広大な領域、むしろ唯物論がその世界の一部にしか過ぎないんだというようなことで、領土の一部が増えたのではなくて、世界そのものがもう一つ加わったとか、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうような、そういう世界観の変革なわけですよね。

要するに、霊的な世界というものが現代の科学的な認識の上で徹底的に否定されてきた、学校教育の面でも否定されて、それから個人の精神形成史の上でも十歳くらいから二十歳くらいの間に徹底的にそれを否定する時期がありますね。また自分自身でもそういうことを知的成長のためにやらなきゃいけない、

というふうに考えてきたわけですね。そして自分自身の精神の中で徹底的に霊魂観の排除を行った、そう言う歴史があるわけですよね。それが知的であり、また合理的であって正しいんだという、いったんそういう世界観が確立されてるわけです。ですからそれに対して、いやそうではないんだという立場からの事実と証拠を持った反撃ですね。

スピリチュアリズムというのは、そう言うところに意味があるので、ですから否定の否定なわけですね。霊的な世界というものを、一度徹底的に知的に否定した後でなければ、このスピリチュアリズムの意味というのは分からない。これは個人の問題というよりも人類全体の意識の発展の問題です。

単に古典的霊的世界観を継承するというだけではすまない現代文明の問題が響いているわけです。

神秘家の人達にとっては、霊魂の存在などというものは当然なんでしょうが、しかしそれは、個人の立場においては確かにそうかもしれないけれども、人類全体の問題としては、霊魂の問題はまだ証明されたわけでも常識になったわけでもない。ですから、これをその個人の立場と人類の認識の成長の問題と分けて考えなきゃいけいないと思うんですね。

後者の場合に立つ時に、このスピリチュアリズムの立場というものが、非常に意味を持つわけです。神秘家は証拠の提供などと言うことを考えません。

彼らはむしろ秘密を守るのです。その時にまずその霊魂の実証の問題というのが第一の関門になるわけですね。その関門を通らなければ、後すべての霊的な問題が出て来ないという最初の通過点です。ここを通過しない神秘家や宗教家は自己欺瞞の輩だと僕は思っているんです。


=スピリチュアリズムの根柢に流れるのが死後の個性存続であるということは良く判るのですが、それ以外に我々の住んでいる物理的な三次元世界と、高度に意識が発達したというか高いレベルの霊魂といいますかね、そういう存在との、いわゆる交流あるいは交信を通して歴史の発展だとか文明の光明化とか、あるいは個人の幸福が実現され得るというような考え方があると思うんですけれども・・・・・・。
       
 
梅原=ええ、おっしゃる通りです。ですからスピリチュアリズムの基本的なテーゼを端的に言いますとね、まず、霊魂が存在すること、これは死後、個性が存続するのと同じようなことです。それから、霊界が存在する。それは霊魂が単に人間の肉体から遊離して存在するのではなくて、それが一つの霊的な社会を形成して、その世界が一つの階層を成して存在する。

すなわち非常に低次なレベルから神に至ると言ってもいいでしょうけれども、高次なレベルまで階層を成して存在する。それから霊界と我々の世界が交流するということですね。相互に交渉を持ち影響を及ぼし合っているということが非常に重要な点だと思うんですね。

それからもう一つ重要な点は、霊魂自体も成長し進歩するという観点をスピリチュアリズムは持っているわけですよ。

ですからスピリチュアリズムの啓蒙の問題を考えた時には、死後個性の存続をできるだけ多くの人に悟らせてですね。そして自分が霊的な存在であるということを納得させて、霊的な世界について目覚めさせるといいますか、そういう世界についての認識のきっかけをつくる、という意味があるわけです。

それから先を考えますと更に霊魂の進歩と成長の問題があると思うんですが、その段階に来ますとハイヤー・スピリチュアリズム(高等霊交思想)と言われていて、それは今言った前提からさらに進みまして、どうすればその霊魂というものが成長するのか、人生の問題、世界の問題を霊界との相互交渉があるという事実に基づいて、どういうふうに考え、人生をどういうふうに過ごしていくかと、そういう問題ですね。

これは、非常に高次な問題になると思うんです。ですから、ハイヤー・スピリチュアリズムを紹介していくことはこれからの一つの重要な課題と言えます。


=東洋あるいは日本では、輪廻転生の信仰と言いますか霊魂再生を信じている人が沢山いるしまたそういうふうに解釈するというか、あるいは信じることによって、非常に人生を生きて行く上にうまく説明がつけられると思っている人は、かなりいると思うんです。

たとえば具体的な例で言えば家族との関係、特に親と子の関係を考える場合、生物学的にいえば母親と父親の遺伝子を五十%ずつ引き継いで生まれ育つということは、何か自分自身の肉体の延長みたいな考え方になって、子供の鋳型が親であって、その鋳型を破ることはできないんだ、という考え方になってくると思うんです。

しかし輪廻転生あるいは再生と言いますか、魂が実在するというような人生観に立つと、たとえ親と子の関係であっても、生物学的関係とは別の見方と言いますか、人生におけるかかわりあい方が可能になると思うんですが。

また倫理観や道徳観についても、霊魂の存在というものを認めることによって、違ったものになるんじゃないかと思うんですけどね。スピリチュアリズムを信奉することによって人生を生きて行く上でですね、具体的にどういう形で反映され、また我々に影響を及ぼすことができるのでしょうか。

梅原=ハイヤー・スピリチュアリズムの各論の問題になりますと、それだけで大変な問題です。それだけでもう一回の対談が必要でしょう。霊魂の存在は階層を成していると先ほど言いましたが、我々に先祖や高級霊の導きがあると知ることは、これまで一階建てだった家が、二階建て三階建ての家に変るようなものなのです。

多層建築的人生観や行動様式が導きだされてくるのです。とにかく一階建てのときよりは厚みもあれば奥行きもあり、またずっと便利になることは間違いありません。スピリチュアリストでない人は二階以上を、あるのに使おうとしない単層主義者のようなものですね。私自身そのことで決定的に変わったと思っています。


=倫理観に与える影響についてはいかがでしょう。

梅原=個人のみかひいては社会制度や人間全体の生き方や行動様式に根本的な変革をもたらすと思います。
 霊界とこの世は相互交流的なものですから、放っておいても絶えず善悪の影響をあの世から受けているものですが、それを否定する考え方と受け入れる考え方とではお互いの波動の合い方が違いますから、結果もまた大きく違ってくると思います。

古来の英雄傑士などは、こうした高級霊の導きを本能的に知っている人々でしたから、その行動様式は通常の人と全く違っていたと思いますね。それは度々、憧憬(アスピレーション)とか霊感(インスピレーション)の形でやって来て人を導くものです。

ソクラテスが霊の導きを受けていたことは有名ですが、歴史上では霊媒からの言葉で奴隷解放をすすめたリンカーン、近くはチャーチル、ドゴール、アイゼンハウワーといった人々が知られざるスピリチュアリストでした。

 何も英雄だけ例にとる必要はないので、スピリチュアリズムの考え方を受け容れれば、人生は困難ではあるが、悩みというようなものは必要がないということがわかります。従ってノイローゼや精神異常は姿を消してゆくでしょう。

 人生上の諸問題をたえず魂の成長の一過程としてうけ容れる態度が身につきます。これは生前死後を通してのことですから、死というものは基本的に不安の材料ではなくなってゆくのです。このような考え方を持つ確信的なスピリチュアリストこそが、死者をも説得し、また導くことができるのです。

「供養」というようなことばも、こうした見地からもう一度検討し直す必要があると思うんですね。死についても、霊魂についても知らない人がどうして迷える死者を慰めたり救ったりすることができるでしょうか。形式的な先祖供養をする前に是非考えてほしい事柄です。


=何か具体的にごく一般の人が高い霊と接触できるというような方法とか修業法のようなものがありますか。

梅原=それこそ昔から「祈り」ということばで漠然と表現されていたものではないでしょうか。我々はこの祈りというような精神世界の事柄についても基礎的な知識や教養を身につけるべきだと言えます。現在親や世の中から漠然と教えられるだけの知識では不十分だと思います。

特殊な能力者の交霊や日本でも鎮魂法とか帰神法とかいう特別の交霊形態のことはこの際省いておいて、一般の人のために言いますと、私たちは日々の安らぎのひと時、また人生上の狭間(はざま)はざまにおいても、身体と神経をくつろがせて、できるだけ明るい気分で、高級霊や神の指導を受け容れる瞑想の習慣を身につける必要があると思いますね。この時必要なのは「念力」や「熱禱(ねっとう)
」ではなくて、謙虚に「聴く」という心の中の態度なんですね。皆この逆をやってしまうんです。

自分と言うものはあまり高級ではない自分という人霊が憑りついているようなものですから、瞑想の際には最初からこれを外しておかなくてはなりません。そうしないと高級霊の影響力は入って来れないんですよ。

 親子間の断絶や非行に走る子供の問題なども、自分以上に大きく高い存在からの導きを「聴く」という態度を普段から双方が持っていれば、自ずから解決するのではないでしょうか。

人類は自らが霊的存在であることを自覚して、時々神の前に「聴く」態度を身につけるべきでしょう。日本人ならば、朝の綺麗に掃き清められた神社の拝殿の前で静かに頭を垂れる心境です。このような時交霊はたえず行われているのだと考えて感謝の気持ちを持っていればそれでいいんです。

英国の指導的スピリチュアリストで大変有能な霊能者であるグレイス・クックという婦人はスピリチュアリストに対し、霊との交信(スピリット・コミュニケーション)ではなく、もっと進んで霊との相互交流(スピリット・コムニオン)をすべきだと教えています。

=スピリチュアリズムの教えの中で具体的に人生の指針となるようなものがありましら一つだけあげていただきたいのですが。

梅原=そうですね。イギリスのステイントン・モーゼスという人が、四十九柱からなる高級霊団から受け取った自動書記による霊信が『霊訓』という本になって、この本がスピリチュアリズムの古典的バイブルとされていますが、その中に、人間がこの世を幸福に過ごしかつ魂の進歩を確実にするための指針として、三つの義務を果たしなさいと教えています。

 その一つは神への義務で、神を愛し敬うこと。
 その二つは隣人への義務で、隣人の進歩を助けること。
 その三つは自己に対する義務で、これは幾つかありますが、
   第一に自分の肉体の保護といたわり、
   次に心と霊の進歩成長を助けるような知識と真理の吸収に努めること、
   第三に獲得した知識を実行に移すこと、
   そして最後に、祈りないし瞑想によって高級霊界との霊交を行うことです。

これは甚(はなは)だ簡単明瞭で誰にでも実行でき、かつ理性にもかなっているので、私も最もよい指針だと思っているのです。


 
 
 
───────────────────────────心霊現象の研究と霊的治療


=さて、ところでこれまではスピリチュアリズムの思想的な面についてお話しいただいたわけですけども、一方においてスピリチュアリズムの生み落した子供と言いますか科学的なアプローチの仕方に、サイキカル・リサーチ(心霊研究)の領域があります。

一口に心霊研究といっても、それが対象とする心霊現象はきわめて多岐にわたっている訳ですが、それらの現象の中で現在特筆すべきものを挙げて御紹介して頂けないでしょうか。

梅原=心霊研究について考えるとき、私の立場から超心理学の領域のことは一応除外して考えたいと思うんです。超心理学の研究は我々の現実からみますと、分かっていることを確実にしただけで興味ある発見は少ないんです。

 心霊研究が一時超心理学の方向へ突き進んだことはやむをえなかったかもしれませんが、私が科学者であったならば、おそらく人体及び生命そのものの研究に焦点を当てるでしょうね。

 霊的法則と物理的法則はある面から見ると全く異なった二つのものです。それは全く違った世界の法則であるように見えます。まず第一に前者は相互浸透的で、論理学の同一原理にさえ従いません。後者は非浸透分離的で、勿論同一原理に従わないことはありません。

前者は後者に比して時空に対してより自由度を有している。私の目から見ますと、前者すなわち霊的世界の法則はエントロピーの法則にさえ従わないように見えます。こうした霊的世界の特異な点が科学者や合理主義者から見れば、まさしく霊的世界など存在しないことの論拠にされる点だと思いますがね。

=確かに伝統科学のパラダイムでは心霊治療は認めがたいものでしょうね。

梅原=しかし霊的な世界は存在し、しかも物理的世界と交錯しています。今のところこの二つの極端に異なった世界を結びつける概念は、これも霊界の提供した言葉ですが、「振動」(バイブレーション)という概念しかないように見受けられますね。

あらゆる事象の秘密は「振動」にあるというわけです。このことはおそらく正しいでしょうが、我々としてはもっと具体的な分かり方をしたいだけです。

 二つの極端に異なったものの共通理解に達したい場合には、その両者の中間項を研究するのが一番いいんです。この場合両者の中間項というのは生命現象、もっと具体的には人体に表出される生命なんです。

 霊的な世界が物理的世界に影響力を現す際に、その通路となるものはこの生命なんですね。何故なら生命がこの中間項にあたるからです。一般に心霊現象は、そこに人体がなければ生起しません。そして人類の中でも最もこの通路になり易いものが霊媒者なんです。

私の観点から言えば、大きくいえば人体によらず、あらゆる動物的生命や植物的生命は、霊的世界が物的世界に影響力を持つ際のチャンネルになっており、それによって両者は相互作用を営んでいると思いますが、とりあえず人体を取り上げて研究するのが便宜的だと思うんです。

この人体を唯物論的観点からばかり研究しているのが現代医学ですが、それではダメなんです。

=それでは具体的に、両者の中間項として現象化したものにどのようなものがあるのですか。

梅原=人体と霊的な世界との中間項にあるのがエクトプラズムだと思いますが、このエクトプラズムはまさに霊的法則と物理的法則の両者に従う性質を持っており、心霊研究史上では明確にその存在が確認されているものです。

もし現代医学が唯物論的観点に立ってさえいなければ、たとえその観察例は稀だとしても正当な研究の対象にしていた筈のものです。これは一つのドグマが客観的に存在するものの観察すら拒ませていることの明らかな例証としてあげることが出来ると思うんですね。

エクトプラズムの研究としては欧米には、ノッチングやジェレーの詳細な研究がありますが、日本には戦前に中村宏治という関西のお医者さんであった人の有名な亀井三郎という物理霊媒を対象とした面白い観察例があることを指摘しておきましょう。


=念写についてはどうお考えですか。

梅原=中間項と言えば、世の人々は良く心霊写真を問題にしますが、なぜあの陰画紙に塗られる臭化銀という物質の性質を詳しく研究しようとしないのかと不思議に思っているんです。あれこそまさに、生命ある物質以外では、霊的世界の影響に対して易感的な物質ではないでしょうか。

少なくともそういう物質を探し出して研究すべきなんです。それと手前味噌になりますが、人間の意識のなかではイメージこそが霊的なものと物質的なものの中間項にあたるものです。
 

=ところでそのような立場で心霊現象あるいは超常現象を研究なさっている方を御紹介していただけますか。

梅原=ええ、一人はわが日本の本山博博士で、一人はブラジルの H・G・アンドラーデです。この両者とも人体と言う点に着目して、まさに心霊研究の真骨頂ともいうべき領域に研究を進めたのです。

 本山博士は長らく人体の気エネルギーについて研究し、気エネルギーが身体の真皮結合組織を通じて流れるという興味深い実証研究を致しましたが、最近は、人間の精神的意念が物理的な光を発生せしめるという真に注目すべき実験を行って、これを科学的手段で観測記録したのですね。実験に不備な点がなければ画期的と言ってもよい研究になると思います。

 もう一人注目してよいのはブラジルのアンドラーデですが、ブラジルというのはある意味で心霊研究が進んでいるところなんです。そこに精神生命物理学研究所(IBPP)という研究グループがあり、それはH・G・アンドラーデという人が率(ひき)いているのですがその人物がいわゆる熱心なスピリティスト(精霊主義者)なのです。

彼はスピリティズム(精霊主義)の側に立ち心霊研究家としても功績を上げている人で、ソ連で開発したキルリアン写真を世界で最も早く追試したのも彼なんですね。アンドラーデの仮説によると人体には生体磁場(バイオ・マグネティック・フイールド)というのがあるのだということです。

そしてこれが各細胞間を有機化してるんで、これを取り除くと生命というのは、土と同じようなものになってしまう、無機的なものになってしまう。で、霊界の方から操作してそのバイオ・マグネティック・フイールドっていうのを抜き取りますとね、有機体でなくなるわけですよね、土くれと同じようなものですね。


=原子、分子の単なる集合体というような感じになるわけですね。

梅原=その不要な部分を取り除くのに血も流れないし、すでに有気体でなくなってますから、簡単に不用な部分だけを取り除ける。


=粘土細工ができると言うわけですね。

梅原=そしてその後にもう一度バイオ・マグネティック・フィールドというのを流し込んでやると、また生命としてあるいは組織として統一的な働きを始める。そのような生命組織モデルと言いますかね、そういうものを考えてその生命単位に肉体を取り巻く生命の磁場みたいなものがあるんだと、こういうことを言ってるんですね。

たとえばある部分が死滅してもですね、その生命組織モデルというものがまだ有効である場合は、その部分は再生するんですね。肉体的に死滅しても破損しても、そのモデルそのものが残っていると再生が可能である。というようなことを理論立ててるんですよ。

それと物理的心霊現象によく現れるエクトプラズムと厳密にイコールなものであるかどうかはわかりませんけれど、とにかくそういうのは人体と重なってそれに浸透して存在するらしい、そしてその生命現象の元になっているんだという、一応そのような推測はできると思うんですね。


=ところで日本心霊科学協会の方ではどうなんでしょうか。実験会でエクトプラズムなどが出現したこともあるんじゃないでしょうか。

梅原=ええ、それはですね、戦後の実験会で物理霊媒はなやかし頃に東大教授・工業技術院長などを歴任された後藤以紀(もちのり)先生はじめそうそうたる研究者が厳密な準備と厳格な管理のもとにエクトプラズムの出現とか、その運動するさまを観察しているわけです。

しかしある時期から物理的な現象をおこさせる霊媒が、世界的に不足したというか現れなくなったんですね。まったくではないけれども、非常に少なくなった。

これは霊界の側からみますとね、あえて霊界の側からと言ってしまいますけれども、心霊現象は我々(霊界)がある目的もって起こしているんだということなんですよね。要するに人間にこういう世界があるぞということを知らせることが目的なんですね。

物を一メートル持ち上げるとか、物質を消して見せるとか現して見せるとか、そういう手品みたいなことをやって度肝を抜いて喜んでいるわけではないというんです。あくまで目的は、要するに、自分たちの存在証明なわけですよ。

そしてそれが人類にどういう影響を与えるかという問題、さっき言いましたような唯物論の爆発的な隆盛との関連で人間が霊的な世界というものをもう一度はっきり認識しなきゃならない、あるいは認識しないと危ないと、そういう観念に立ってるわけですね。

で、最初は彼らは物理現象を非常に盛んに起こしたと言います。それはその時代の人々の意識レベルに合わせたものであり、そういう現象を起こさないと当時の人々に霊的な世界を受け入れる準備がなかったというのです。人間の側にですね。

そういう物理的な現象をどうしても起こさなければ納得しない風潮が非常に強かった、それでそれを盛んに行ったというんですよ。


=それがどうして、現代では物理現象も起こりにくくなったし、また物理霊媒も少なくなってきたのでしょう。

梅原=現代はですね。当時ほど物理的現象にこだわる人間が少なくなっていると、霊媒の側は見ているようです。つまり再生の問題ともからむらしいんですけれども、現在アクエリアン・エイジが始まっていて、その時代に再生してくる人はわりとそういう面でソフトな心を持っており、必ずしもハードな物理現象を見なくても、霊界の存在というものを納得するような魂の持ち主が多い。

それで、彼らは主観的な心霊現象に切り換えているということを言っています。特に霊界の側から見ますと現在力を入れているのは霊的治療だというんですね。


=そう言えば、日本でも十年位前から、フィリピンの心霊手術が非常に話題になっていますね・・・。

梅原=霊的治療は考え方によっては物理的な心霊現象とも言えるし、主観的、精神的な心霊現象とも言えるし、またどちらにも入らないと言えるんですね。

霊的治療に力を入れてこの世を援助することによって、霊魂の存在について人類を啓発しようとしているんだということをはっきり彼らは言ってるんですね。ですからおそらく霊的治療が世界的に広まり成功して、それが人類に霊魂の存在を気付かせる役割を果たすと思うんです。

特に現代医学から不治であると言われた場合には、これはもう科学的な手段によってはなす術がないわけですね。しかし、そういう人間が奇跡的に回復するということを見た場合に、大部分の人が、何か物質以外のものの存在について考えるだろう。

あるいは自分自身も霊的な存在でなければ霊界からの援助というものを受けようがないわけだから、そういう意味で自分自身の霊的な成り立ちについて目を開くきっかけになるだろうと、そういう意味で我々は霊的治療というものを推進しているんだと言っているのです。

現に、ここ数十年の間に欧米では霊的治療が非常な成功を収めているんですね。その代表的な例は、 ハリーエドワーズですけれどもね。

この人はイギリスのシェアーというところに治療院を建てまして、数十人の霊的治療の協力者と一緒に霊的治療をしましてね、一九七六年に亡くなったと思うんですが、最盛期には年間七十五万通を超える治療依頼があったというんです。

それで、とにかく普通の人から見ると奇跡的な───彼らは奇跡ではないと言っていますが───もう枚挙にいとまがないほど膨大な実績を上げたわけです。


=霊的治療が世界的な規模で行われるようになるとすれば、これは、近代医学にとっては大変なインパクトを与えますし、心と肉体の因果関係を根底から見直さざるを得ないことになるでしょうね。

梅原=重要なことは、心霊手術にしても霊的治療にしても、近代スピリチュアリズムの運動の流れの中で起きて来ているということです。

いったいこうしたことは何を意味するものでしょうか。心霊手術者や治療者も一様に施療するのは自分ではなく、スピリットで、自分自身は道具に過ぎないと明言しているんです。

彼らを背後で指導する治療霊たちは、自分たちの目的は治療そのものにあるのではなく、人間たちに霊界の存在を気付かせて、霊的に啓発するためだと言っています。他の超常現象も皆そのことに意味があるので、単に人間の超能力を認めて、それに妙な理論をくっつけるだけでは何もならないのです。

 勿論霊的治療は昔ながらの信仰の中にも生起し、それはそれなりの信仰内における指導霊たちのいわば菩薩行なわけですが、現在世界各地に現れつつある霊的治療はそれとは規模も頻度も格段に違う、いわば霊界の戦略的なものなのです。

ですから予言しておいてもいいですが、これから霊的治療はますます盛んになり、世界各地に広がりますよ。この場合も大事なことは、このスピリチュアリズムの源泉に触れて、霊界と共同歩調とる治療家(ヒーラー)の誕生です。


 
 
────────────────────────スピリチュアリストとしての展望

=わかりました。そろそろ時間もなくなってきましたので、最後に今おっしゃったこと、スピリチュアリズムの本来の目的といいますか、その目標とするところをふまえた上で、今後スピリチュアリズムの運動を展開していく場合、具体的にどのようなことを考えておられるか、精神世界の展望をまじえながら今日のお話を締めくくって頂きたいと思います。
                                                                                                                 
梅原
=ちょっと矛盾したことを言うことになるかもしれませんが、心霊研究の歴史に挫折の法則」といわれているものがあるんです。「霊魂存在」の証明は、意図的にしようとすると、ここ一番という時になって必ず失敗するんですね。


=ほう。それはまたどんなことなんですか。


梅原=非常に名のある研究者の集まった大事な実験会で、いつもは起こっている現象が全く起こらなくなったり、低調になったり、極端な場合には、それまでトリックをやらなかった霊能者が突然トリックめいたことをやってしまうこともあります。

またあとになって反対論者につけ入る隙を与えるような実験のやり方の不備が発見される場合もあります。同じことが「超能力の証明」のときにも起きていますね。

福来友吉博士が東京帝大の学長の協力まで仰いで行なった念写の実験は、日本のアカデミズムの世界に超常現象の研究が入りこめるか入りこめないかの瀬戸際の出来事でしたが、未だに釈然としない奇怪ないきさつで、逆に福来さんが帝大から追われる原因となってしまった。

これらのことがいつも心霊研究全体を疑わせるものとして喧伝されるんですね。百の現象が一つの失敗例で否定されてしまう。

 西洋の研究者の間で言われている「挫折の法則」の一番いい例は、心霊研究史上最大の証拠物件と言われる、木で作った独立した二つのリングの交差の問題です。これはアメリカ心霊研究協会の会長だったウイリアム・バットンという人の提案でやった実験例なんですけど、異なった木の材質で作られた、

何組かのリングについての交差の実験が何回か行なわれ全て成功したのですが、不思議なことに、科学的証拠物件となるべきこれらのリングは、後日、厳重な保管の下にあったにもかかわらず、全部破壊されてしまっていたのです。人為的な原因はまったく考えられませんでした。

 物理的心霊現象はスピリチュアリズムの勃興期から戦後のある時期まで、優秀な物理霊媒が輩出して盛んに生起したのですが、これの客観的記録ということになると、いろいろ問題があり、写真なんかでもエクトプラズムが白色光を嫌うので赤橙下でとらなければならないという制約があったのです。

心霊写真はキメ手にならないというので、そこで暗闇でも自由に連続して写せるテレビのようなものが要求されたのですが技術の方が進んでこの条件を満たせるノクトヴィジョンのようなものができてくると、

今度はその時期になって、どういうものか物理霊媒の方が世界的に払底してきてしまって、現在では世界中のどこでもあまり物理的心霊現象が起こらなくなってしまったんです。

さらに、いったいどういう実験が行なわれれば科学的に霊魂の存在が証明できたことになるのかという問題に対しても、次々と妙なセオリーが現われてきました。その代表的なものは現在では超ESP仮説でして、結局どういう実験をしてみてもだめなんだというところまで行っちゃっているわけなんですね。

つまりこの超ESP説はESP能力の限度をはずしてしまったようなもので、霊魂仮説はどこまでいってもこれを凌駕することはできそうもありません。しかも科学的な視点に立つ人からみると同じように超常的な理論であっても、この超ESP説の方がなぜか科学的に見えるらしいのです。このような認識を改めなければどうにもならないのです。

    
=科学者は、どうしても霊とか心霊という言葉を使いたがりませんからね。

梅原=要するに、これらの事情等をひっくるめてみていろいろ考えてみますと、現在までのところ霊魂存在の問題を科学的な立場で完全に証明するというのは不可能かもしれない。それはなぜかというと、霊界自体にその証明を拒んでいるフシがあるということで、私はそれに意味があると思っているんです。

つまり、科学的に完全に証明されるということは、霊魂の存在についてそれを認めないことが不可能になるわけですね。つまりそれを認めることを強制されることになるわけですよ、科学的に。

信じたくない人も、あるいは魂がまだその段階に来ていない人も科学的にはそれを信じなくてはならない。ところで、霊的な知識というものは、それを獲得する人間の魂の成長の度合いに応じてというのが鉄則なのですね。このことをマスターとか導師とかいう段階の人々はよく知っています。

また誰でもいざ教える立場になれば分かることです。未熟な人間が霊魂および霊界の存在を教えられるとどういうことが起こるかというと、たとえば、中学生がビルの屋上から飛び降りるようなことが起こります。

霊界があるならそれもいいじゃないかというような理屈がつけられます。それから裁判のようなものはどうなるのでしょうか。この世で起こることにすべて霊界が関与しているとなった場合には、裁判官は決定を下すことができるでしょうか。交通事故の際、事故の補償をするのは果たして加害者の側であるべきか被害者の側であるべきかも問題になります。

真の霊的原因など裁判官に判断できるわけがないからです。そうした場合には霊能者を呼んで来ることになるでしょうか。しかしどの霊能者が一番正しいなどという基準が示せますか。

この世の論理が根底から覆えされて、収拾がつかなくなる可能性があるわけです。しかし科学が霊媒の存在を確証してしまった以上、裁判官もこれを顧慮せざるをえませんしね。


=つまり、最高裁判所は霊界の側ということになるわけですよね。

梅原=それから、霊能力の悪用の問題も出て来ます。これも大変な弊害をよぶでしょう。つまり知識は常に両刃の剣で、霊的な知識についてもそれがいえます。人間のモラルや魂の成長がこれに伴わない限り、悲惨なことになります。

ある意味では中世や古代の暗黒面が復活することになりかねません。しかも科学の保証付きで疑うことは許されないんですから、いったいどういうことになるでしょうか。個人の問題でもそうですが、人類全体の問題としても、霊の問題を解禁した場合の対処法を人間はまだ知らないのですね。

先ほどの裁判のことをとってもそうですが、社会制度その他の面でも充分に対応できる段階まで人間はまだ全体として進化していない。このような段階ではまだ証明は個人的なレベルにとどめた方がいい。霊界ではそう判断していると私は思いますね。


=数年前に比べると、確かに「精神世界」の台頭はめざましいものがありますが、全体としてみるとまだまだ圧倒的にマイノリティーですからね、とりわけ日本では。

梅原=しかし一方で、逆の強制も勿論よくないのです。つまり、霊魂が絶対にありえないという強制ですね。唯物論と科学が結びつくとこの型になります。現代の学校教育は暗黙の中にこのルールに則ってなされていますよ。これは魂に対する逆の強制で、それがいかに個人の魂の成長を抑え、傷つけているか計り知れません。

魂が霊の認識を必要とする段階が来ても、科学や唯物論の軛(くびき)あるいは伝統的パラダイムがあるためにそれから脱け出せないでいる人が無数にいます。魂にその時が来ても科学がそれを絶対的権威で抑えつける。

ある国々では政治的にさえそれを強制される、これは魂の自由の問題としても見過ごすわけにはいきません。

 ハイズヴィルの事件以来、霊的認識の民主主義が霊界の許可によって解禁になったと私は見ているわけですが、しかし無制約、無制限にではありません。人類全体はまだ霊的認識を謳歌しうる時期に達していないのです。しかしそれを求める人に対しては公平に与えられる時代がやって来ました。つまり一部宗教者や秘儀伝授者の特権ではなくなったのですね。

近代人はあたかも権利のごとくすべての知識の公平を要求し、科学はこの原則に立っていますが、霊的な知識についてはもともと非公開が原則だったのです。

教える場合には、師たるものが、弟子の魂の進化の度合いを見て一対一で教えたんですね。しかしその場合は弟子たるものがその知識を誤用した場合の責任は死後に至るまでも師の責任です。教えることを制限せざるをえないのも当然のことですね。

ハイズヴィル以降、霊的な知識が基本的認識の部分に限って解禁になったのには、大雑把に言って二つの理由が考えられると思います。一つは科学主義の成功と唯物論の潮流です。この二つは当面セットになって人類に受容されています。従って科学の成功は認識論的な霊魂の否定を結果するのです。

このようなことを霊界が黙視するわけはありません。従ってスピリチュアリズムの運動は、理性に訴え証拠を提供する形での唯物論への反撃です。

 もう一つは人類の進化の問題です。科学がここまで進んだということは人間の意識の進化がある一サイクルの極限まで進みつつあるということを意味しています。従ってもう一方の霊的意識もそれに応じた深まりを見せなければならない時期に来ていると思います。

その意味で私は、最近数十年におけるコンピューターの進歩を非常に象徴的な出来事として受け取っているんです。このように反霊的な、いわば科学技術の粋のようなものが大成功を収めて、ついに思考という人間意識の聖域にまで押し入っていこうとしている時期こそ、もう一方で霊的認識の深められる時でもあると考えるわけです。

右手の成長する時期は左手の成長する時期でもあるということです。言い換えれば神および高級霊界は霊的知識の普遍化を条件として、コンピューター的なものの普及を許したと考えられるのです。

 進化は一時代サイクルの終焉を意味するものでこの時期には試練が伴います。魂は試練なしには成長できないからです。試練の時代というのは他面から見ると危機の時代です。人類は次の進化期に進級するための大きな危機に直面していると思いますね。

科学的知識と霊的知識を総合して、いかにしてより高次の認識に達するかというテストの時代です。


=それこそ、総合の時代つまりアクエリアン・エイジに課せられた使命かも知れませんね。

梅原=今日、科学的知識ばかりではなく、政治的状況や経済的状況も、またそれらを取り巻く危機ですら世界的な規模での普遍性を獲得しています。人間殺傷兵器ですらも世界的な規模のものになりました。にもかかわらずなぜか思想だけが、相対主義に陥って普遍化とは逆の方向に進んでいます。

一つの思想は一つのグループの中だけでしか信じられていないのです。従って思想は今日の危機と対抗できるだけの普遍性を持ち合わせていません。思想は無力です。少なくとも現在の危機に対しては。

 
=そこで、スピリチュアリズムの現代的意義が問われると思いますが。

梅原=スピリチュアリズムの持つ単純平明な普遍性は思想のように狭いものではなく、むしろ「認識」に近いものです。欧米の人はアウェアネス(覚識)と言っています。それは例えば「霊魂は存在する」という認識です。スピリチュアリズムは特にそれを言い立てます。

ほかで言わないからこそスピリチュアリズムがそれを言うのです。こうした高い普遍性こそが今は必要だと思うのです。そして人類をある高次な認識に向かって結びつけることになるのだと思いますね。

 人類の次の段階の進化のために、霊的世界への基本的認識が開示され、これをできるだけ多くの個人の魂に刻みつける必要が生じたのだと思うのですね。その基本的認識とはスピリチュアリズムの三つのテーゼです。すなわち、死後の個性存続(霊魂存在とその不滅)、顕幽の相互交渉そして魂の永遠の進化です。

スピリチュアリズムの運動は、この三つの基本的認識のために証拠を提供しつづけ、人類を霊的目ざめのために鼓舞することです。スピリチュアリズムはそれを個人のレベルを超えたある規模で行なおうとしており、従ってこれは世界的潮流として現われているんです。

そのことが先ほども言いました人類の進化と危機の普遍化に対応するものとして時代的に要請されているわけです。

 スピリチュアリズムの真理を科学的真理のように絶対的なものとして人類に強制はできないと言いましたが、またその必要もないんです。当面の戦略としては唯物論に対して五分五分の論拠を提供できれば十分だと思いますね。少なくとも唯物論の強制から免れさせて、個々の魂に選択の余地を与えれば上出来です。あとは個人の魂の責任と進化の問題になると考えています。

人類全体が七分とか八分の割合でスピリチュアリズムの共通認識を持つようになったときは、人類は全体として次の進化のためのイニシェーションを通過することでしょう。

そしてそれがダメなときは当然退歩と破壊が予測されます。最近高まってきた人類の危機と破滅のあらゆる予言はこうした兆候の一方の面を現わしていると私は考えています。

 さて、いよいよ質問に対する答えになりますが、こうしたスピリチュアリズムの世界的な潮流に呼応して、日本にもこのスピリチュアリズムの橋頭堡(ブリッジ・ヘッド)を築く必要があると考えます。

もう一つは、こうしたスピリチュアリズムの歴史的、人類的要請をよく理解して、純粋にまた献身的に貢献できるスピリチュアリストの出現が望まれますね。とくに霊能者と言われる人々や啓蒙運動の組織者たちにこのことを理解してほしいんです。いずれ日本にもスピリチュアリストのユニオンが出来ることでしょう。


 現在日本でスピリチュアリストとして分類されるべき人々は、日本心霊科学協会の大部分の会員も含めて、スピリチュアリストというよりも、むしろスピリチュアリズムのある一面の需要家たちであると考えられます。ほとんどの人はスピリチュアリズムと俗流オカルティズムの区別をせず、功利的な感情からスピリチュアリズムに接触点を持っているのですね。

勿論最初はそれで構わないわけですが、肝心のスピリチュアリズムの供給者に擬(なずら)せられる人たちがスピリチュアリズムの源泉に触れていず、またその本質を理解もしていないので世の中の澎湃(ほうはい)たる精神世界に対する要求に対して指導性を発揮しえず、また方向性を与えることもできないでいるのが現状ではないでしょうか。

ですから人類の霊化に先立って、まず確信的なスピリチュアリストの養成、つまり指導者層の覚醒の方が必要だと思っているんです。

 しかし別の面から言えば、スピリチュアリストはどこにでも、また密かにも存在します。何も決まった団体に属していなくてもよいわけですね。私の目から見れば、この『たま』などもスピリチュアリストが出しているのではないかと思うぐらいですよ。

日本にシュタイナーの人智学を紹介された高橋巌(いわお)先生がかって私の前でシルバー・バーチを引用されながら人智学はスピリチュアリズムであると明言されました。

目的や方向は同じだけど、それぞれの役割と強調点が違うだけなんですね。スピリチュアリズムはその基礎的部分を担当するので、霊的義務教育だと私は表現しているんです。隣人の霊的成長を援(たす)けることは人間の義務なのです。

人類の霊的覚醒と来るべき進級試験のために、第一関門の通過者たちが横に緩やかな連合を形成すべきで、こうした考え方への同調者はかなり多いと私は見ているんです。


=アクエリアン革命(コンスパイラシー)というわけですね。

梅原=スピリチュアリズムを理論と実践と普及の三つの観点から考えてゆくことが必要だと思います。しかもそれらを総合的な視点から組織論的にも考え合わせる人材の出現が望まれます。私自身は必要に迫られてこの四つの点に留意したつもりです。

 考えてみますと、私自身それほど変わった事件や個人的体験に遭遇したわけではありません。私自身の精神に触れる習慣と、理詰めの思索と霊能者と言われる人々に接触することによってこの世界に引き入れられました。

しかし何よりも肝心だったのは、誠実なと言ってもよいスピリチュアリストたちが残した諸記録を人間の体験として読んだことが魂を揺さぶり、その魂の感動によって確信的なスピリチュアリストになったのだと思います。この程度のことは誰にでも起こりえます。

もし超常現象に出くわさなければスピリチュアリストになりえないのならば、人類の多くが体験するような事柄は超常現象とは言えないことですから、それは最初から不可能なことです。

人々が私と同じだけの資料文献を偏見なく読む機会を持ったならとたえず思います。当面スピリチュアリズムがいかなるものであるか、それがいかに高貴であって、かつ人類の必要と合致するかを知らせるための資料提供の仕事をしなくてはならないと思っているんです。

 スピリチュアリストは、スピリチュアリズムの理念を体して、社会に貢献できる態勢を早く整えるべきだというのが私の基本的な考え方です。それから、霊的なことを扱う団体は、どこの団体でもそうですが、指導者層がその責任と理念をはっきり自覚すべきです。

そうでなければ一指も手を染めない方がよいのです。霊的なことは両刃の剣で、放任しておけば社会的な害悪となるか、最悪の場合にはブラックに利用される可能性が高いからです。

(以上は、雑誌『たま』一九八四年二月刊二十九号掲載インタビュー「スピリチュアリズムの再生」より転載しました。なお再録にあたり、多少の手直しをしたことをお断わりいたします。───梅原)
 



   
 訳者あとがき

 マイヤーズの通信において意識の進化はたえず「記憶」と「形態」と「類魂」の関係において論じられていることに読者は気がつかれたであろうか。これはあくまでもマイヤーズ霊による霊界各界の識別の立て方であって、他にも意識や存在レヴェルを識別する基準はありうるであろう。

例えばアリストテレスのように純粋知の現われる度合いにおいて形而上の髙下を定めるやり方、またスウェーデンボルグのように各界においてキリスト教的な「愛」の発現する度合いや人体との照応関係(高い世界は頭部に照応し、低い世界は足に照応するというように)において霊的世界の高低を見、神への距離を階梯づけるやり方がある。

また神智学や人智学にもそれぞれ高次世界の識別法というものがある。しかし近代においてはスピリチュアリズムにおいても他の神秘学においても、物質を粗と見、これがリファインされ純化してゆく過程に高次世界をみようとする考え方が通底しているようである。そして更にこの精妙化をある根源的なもののヴァイヴレーションの精粗によって説明しようとする考え方がある。マイヤーズの通信もそうした見方の一つである。

 こうした基準の立て方がないと、一部の霊媒の報告のように、単に「もっと明るい」とか「もっと暗い」とかの識別しかできないことになる。甚だしい場合にはただ単にことばで「高い」「低い」といい、「───界」などとそれらしい名前をつけるだけにとどまっている。

上層世界へいくに従って建物が立派だというようなつまらないものもある。これでは霊界の記述として甚だ要領をえないし、絵空事程度の印象しかあたえないのである。

 意識というこの自己明証的な存在(誰でも自分の意識が存在することについてはよく分かっている)ほどいざ定義するとなると捉えどころのないものはない。この意識を具体的に把握するために、「記憶」「形態」「類魂」の視点をとったマイヤーズ霊の炯眼(けいがん)には脱帽する。

例えば諸君が死後の世界といわず現世に一個の意識として自己と相対したとする。諸君は記憶と向かいあわざるをえない。諸君が自己運動する一個の意識として体験から学ぶと決めたとする。諸君は即ち諸君の記憶と向かいあわざるをえない。

 また諸君の意識は自己を身体という形態のなかに見出す。われわれの意識は形態のなかに住んでおり、他の形態とのあいだで相互作用を営んでいるのである。

 意識は形態のなかに住み、個であるとの自覚をもつが、しかしこうした個の意識は身体という形態表現によらないときは他との境界が甚だあいまいなものである。意識は自分以外の他の意識存在を自己と同一視する傾向がある。共感、共存、同一化、相互浸透の感覚は意識にとって個の感覚よりも本質的なものだ。意識は絶えず自己と他の関係を本質的なものとして自覚している。

そうした本質的感覚を離れたときは不安、不幸、そして非現実の実感が生じ、極端な場合にはそれが病として発現する。マイヤーズ霊はこの個と全体の関係を不可視世界の類魂の問題として提示したのである。類魂についてのマイヤーズ霊の霊信は個と全体の問題についての初めての説得的な啓示である。

      *       *       *

 以下は右の観点からの筆者の覚え書である。甚だ未整理で、誤りも多いと思うが将来の霊学的な検討の材料として参考のために摘記(てきき)することにした。文中に印をつけたところは、筆者の考えや推測が多くなっている部分である。

 

  記憶 
  記憶は脳のなかになく、エーテルのなかに保存される。自己の精神をつぶさに観察し反省する習慣を身につけた者は、こうしたマイヤーズ霊の示唆にむしろ同意するのではなかろうか。御承知のように類似の観点がベルグソンの『物質と記憶』(" Essai sur les données immédiates de la Conscience " 1889)のなかに述べられている。

われわれは少なくともイメージの現われたり消えたりするところまでは自己観察できるわけであって、そうした出現と消滅の過程を眺める限り、マイヤーズ霊の霊界からの指摘に格別な違和感を持たないように思える。記憶がエーテル体の中に保存される様をマイヤーズは次のように述べている。

 あなた方のまわりに巨大な蜘蛛の巣があると想像せよ、この蜘蛛の巣の糸が記憶ないし、想念を、あたかも電線が電信を送るように脳髄に運ぶ。というよりむしろ、精妙体の援助で幽的流動体の上に刻印されたイメージの信号を脳に送るといった方がよい。(『不滅への道』一三二頁) 

 また同じ「記憶」の章のところで、イメージを思い出すためには「適切な努力をもって幽糸とイメージを引き寄せ」ることが必要だと述べられている。


 *この章でトム・ジョーンズの名前の想起に関して記されたところは、書記の一部が抜け落ちているのか、マイヤーズのいう通訳上の間違いがあるためか、文意がよく伝わらない。

そのまま受け取ると、イメージの想起に関してそのつど幽的流動体に新たな刻印がなされるような印象を受ける。しかしイメージは記憶段階で既に幽的流動体の上に刻印されている筈である。従って記憶の際のことが混同されているような感じもする。

また精妙体(といっても身体のことではなく、訳語の「体」は物体などのときの「体」のつもりである。精妙質と言った方がよいかもしれない)の働きについてもよく分からない。精妙なエーテル質(エーテルにも何段階かあるらしい)に記憶されたイメージが幽的流動体のところにやってくるというようにも考えられる。大事な点であるが保留にせざるをえない。

また言語の記憶される場所および言語とイメージの関係づけられる場所についても述べられていないが、これはやはり幽的流動体のなかと考えてよいであろう。

 冥府において地上記憶はすべて再現され、魂はそこを通り過ぎるあいだに記憶による自己の生涯の点検をする。これがいわゆる閻魔庁の鏡にあたるのであろう。マイヤーズは長い画廊のイメージでこれを語っている。

 幻想界では地上記憶が魂の環境の大部分を構成している。幻想界は地上経験による魂の欲求不満をとりあえず満たす場所であるらしい。冥府と共に一種の補正期間の役割をしているようである。この段階では魂は類魂の大記憶とは殆ど接触がない。魂はまだ類魂の目的とするところにも気づかずにいる。


幻想界は全体が一種の睡眠期と名づけてよいのかもしれない。冥府が概して地上記憶からの「苦」を受け取る場所とすれば、幻想界は地上記憶から「快」を受け取る場所ともいえよう。

しかしオリバー・ロッジが「まだほかにも進歩の低い段階の人や、よからぬ考えを持った人の行くべき所があるのであるが・・・・・・」というように、マイヤーズの伝える冥府と幻想界のあいだに幻想界下部ともいうべき所が(他の霊界通信を参照すれば)あるとも思われる。

 色彩界はまず地上記憶の破壊、ついでエーテル界における形態の再創造、そして創造物の形態の理想化の時期である。魂は類魂のそれを意識してその存在の意図を漠然とながら悟るとともに、類魂の記憶である大記憶に次第に近づき、魂は時々この大記憶のなかに入って他の類魂の仲間の記憶を学習する。

魂の進歩にとって直接関係のない記憶はすべて類魂の記憶のなかに預けられてしまっている。そのため、この界の魂が地上と通信するときは、大記憶の中に自己の記憶を取り戻しにいくという。


この大記憶のなかに入るときは───地上に通信するときもそうだが───魂は地上にあるときの催眠状態にも似たマイヤーズの名付ける主観状態(第一、睡眠状態、第二、主観状態、第三、通常意識───前掲書一六六頁)で行くというが、このことは重要である。

こうした意識の変容状態は地上におけるような例外的な状態ではなく、高次世界の魂の生活にとっては必須のものだということになる。魂と魂が同一化する際の必要技能といってもよかろう。

私自身審神者として交霊に立ち会うときの経験からいえば、霊媒に憑かる霊がこうした催眠に似た状態にあり、現界の人の指示に従いやすい状態であることをしばしば観察している。

 第五界には大記憶がある。他界の魂ばかりではなく地上の人も例の特殊な意識状態で魂の記憶のなかに入ってゆくことがありうる。交霊のときに出現した霊の記憶を探るのがしばしば霊媒の方の役目であるというのも面白い。心霊研究者の推測と一致するからである。

霊媒は参会者の記憶の中からも霊の過去についての資料を探り出すという。この辺も研究者の知っておくべき点である。高次の霊が未来について一度考えたこともまた類魂の大記憶のなかに保存されている。地上の能力者がこれを読み取れば未来予知も可能なことになる。

 第六界以上の記憶については書き記すこともあまりない。第四界にいるというマイヤーズ霊の記述も第六界以上のことについては漠然としている。



  形態
  肉体には複体エーテル体、統一体、幽的流動体などと呼ばれる)が重なり合い、浸透しあって存在している。肉体は物質界における魂の形態的表現であり、複体は魂と肉体の媒体として存在し、相互の連関を可能ならしめる。また物質である肉体に全体的な統一を与えているのはこの複体である。

複体は霊的世界から生命素の供給を受けており、これの供給が絶たれると人間は死ななければならない。また複体は類魂からの高次の意志や、マイヤーズによって「反射」と呼ばれている指示や示唆を受け取っており、これを複体流のイメージに翻訳、翻案、時としては変形する。


神話、伝説、物語は複体のこうした機能と関係していよう。
 複体はエクトプラズムを分泌する。エクトプラズムは細胞や神経に霊的な栄養を供給している。このエクトプラズムが多量に分泌される人物がいわゆる霊媒となる。


このような人は、過感的で時としては体外流出するエクトプラズムのお蔭で、自己の魂の作用以外の他魂(現界及び他界の)からの作用を受けやすいのである。とはいえ、通常人であっても皆この複体やエクトプラズムを体内にもっているから、これを通じて他の魂や霊的存在からの影響を無意識裡には蒙っている。

そのような意味において人間はすべて霊媒である。複体がある以上、人間が本質的に霊媒である運命から逃れることはできない。クンダリーニが上がるとか、太陽叢が開けると低級霊媒になるとかのヨガ流の表現はもっと本質的に、もっと総合的に考察されなけばならない問題であると思われる。

 睡眠中はこの複体のうちからその精妙な部分(これが複体と区別してエーテル体と呼ばれる場合もある)が肉体から抜け出て、類魂や他の霊的存在と接触しそれらからの影響を受け取る。この影響は翻訳、変形された形で夢となり、あるいは無意識のなかに保存されてわれわれの日常的な行動に影響を及ぼす。

  幽的流動体は神経魂とも言われ、肉体の神経作用から受け取った五官などの知覚を刻み込み記憶として保存する。また脳や肉体との相互作用を営む。それ故、このものが一見、自我そのもの、魂そのものであるような錯覚を与える。

しかしこれは自我の本体でも魂そのものでもない中間物で、その働きは殆どが自動化作業である。この部分に蓄えられた記憶は神経記憶と呼ばれ、類魂の大記憶とは区別される。

  
*内在意識内在精神という訳語も用いた)はこの複体レヴェルの機能から始まって魂や類魂に連なっているのであろう。一つ未解決の問題がある。

意識の本体が肉体になくエーテル体や魂の方にあるとすれば、肉体からエーテル体が離れた睡眠時に何故われわれの意識がなくなる(というふうに思われる)かという問題である(死後や幽体離脱によって肉体から離れた魂は意識をもちつづけると報告されている)。

この問題は仮に以下のように解釈しておく。あたっていないかもしれない。睡眠中も魂の意識は失われるわけではなく意識作用は営まれ、アウェアネス(気づき)は持続している。

しかし、エーテル体が肉体に戻った瞬間にその記憶は忘れられる。つまり肉体を通しての知覚作用が余りにも優勢となるためにそれが魂の意識を表面から駆逐してしまう、と考えるのである。

これは覚醒時においても魂は絶えず意識を有しているが、同じく肉体および複体レベルの知覚が優勢であるために自覚化されないという解釈にもつながる。われわれが何か話そうとするとき、現意識レベルでは次の次に話すところまでは意識化されていない。しかし、話のストーリーは魂のレヴェルで次々に創られているのだと考えるのである。

聴衆の前で即席に長い話をする場合、どう考えても現意識だけで一貫した話のストーリーが出来てくるとは思えない。われわれは次に何を話すかを現意識では知っていず、また考えてもいないからである。しかるに前後の矛盾なく次々に話す事柄が準備されているという印象をわれわれは受ける。実際このことは難問である。

しかし魂のレヴェルの意識ではこれを知り、かつ次の話の準備も整えているのだということになると説明がしやすい。それが知覚などの印象が強くて自覚されないのだ、と考えるのである。そうすると意識作用はいわば二重構造になってくるが、そう考えてはいけない理由というのは、先入見さえ持たなければ特にないのではないか。

肉体を持つあいだの現意識(顕在意識)とは肉体と幽的流動体とが相互作用を営むところにあるのであろう。


肉体を含め物質世界はエーテルないしそれ以上の霊的次元と比べると振動が粗雑で、変化速度が緩慢である。従って物質形態間の相互作用の結果が現われるのも緩慢である。

そのため魂は現界においてはその分ゆっくりとした学習ができる。物質世界を離れると変化速度が速く、周囲の反応も敏感すぎてそうはいかない。従って絶えず間違いを犯すような魂にとっては住みにくいことになる。

 死とともに複体は肉体から分離する。冥府の経過期においては複体の表皮部分(外殻)は脱ぎ捨てられその中から精妙なエーテル部分のみが離脱し、幻想界へと旅立つ。

 幻想界の環境は大部分地上時代の記憶によって構成される。当初魂はこの周囲の環境を造り変える自由を持たない。丁度夜の夢が昼の経験に影響されるように地上時代の思い出が幻想界に持ち越され、魂の心的、感情的レヴェルに合わせて再構成される。

但し地上時代に愛情をもって他人と接した人は幻想界の仲間たちから手を貸してもらえるために豊かな生活を経験できる。魂の周囲の環境以外のエーテル世界全体については、「偉大な霊智の魂(恐らく第五界以上の上級の魂集団───訳者)の思念集中によって生み出」されるものらしい。

魂が力を獲得するにつれて周囲の状況を整え、幻想によって次第に天国の生活をつくりだす。魂は幻想界において自己の欲するところを好きなだけ繰り返し、遂にはそれにも飽きてしまう。

 幻想界の人(「魂的な人」、および「動物的な人」)は再生する。
 地上の霊媒に通信を送るのは大部分がこの段階の魂で、それぞれの幻想を語るに過ぎない。

 第四界の色彩界では魂はエーテル体を脱ぎ捨て更に精妙な振動をもった霊妙体を身に纏う。色彩界において魂は形態の理想を追求する。その前にまず地上的形態の破壊が行なわれる。魂は地上的形態の虚構であることを知り、あらゆる形象の破壊を徹底して行なう。

そのことによって形態の統御法を学び、遂にはあらゆる形態を自由に創造する力を獲得する。従ってこの界の魂は自己の形姿を自由にすることができる。


地上の人間に自分の形姿をどの様に見せるかも自由であろう。この界は文字通り色即是空、空即是色の世界である。しかしこれで悟ったというには未だ早い。

 色彩界においてはすべての魂が芸術家であろう。自他共に形態のあらゆる理想を追求し創造するので、色彩界はあらゆる形態に満ち溢れる。ここにすべての地上的形態があるといわれる。


地上の植物や動物の形態、芸術家のイメージ、発明家の着想の元はすべてこの界にあるのであろうか。
 色彩界の魂はごく稀にしか再生しない。新しい魂(これは第五界において生み出されるらしい)に自己の過去の枠組み(カルマ)を託して地上に送りだす。

 第五界に進むにあたって魂は火の身体(火焔体)を身に纏い、他の恒星世界に転生する(太陽人の誕生)。恒星世界における原子は地球に比べると猛烈なスピードで振動し、身体のなかの原子の組み合わせも瞬時に入れ代わってしまう。マイヤーズはこの恒星における生活は第二の物質的世界だと言っている。

物質自体がエーテル体のように高速度で振動している世界なのであろう。こうした試練のなかで魂は宇宙人格としての資格を身につける。広い宇宙にはむしろこの段階に達した魂の方が惑星の地上圏で人間形態をとる魂より多いという。彼らはまだ完全な存在ではなく、感情もあれば闘争心もあるとマイヤーズはいう。

 この界には人類とは別の進化系列で進化した高次の存在がおり、その形態は人間よりもむしろ動物、特にと呼ばれるものの形態に似ている。この自然霊も宇宙類魂のなかでの大事な役割を果たしている。

 第五界における存在形態は「一即多、多即一」に近づきつつあり、個体としての輪郭は失われる。魂は個性を脱し、大自我霊と一体になり、自ら大自我そのものになっている。その在り方は幾つかの炎が集まって一つの火をなし、全体の輪郭が不定形に存在するという在り方に等しい。

大自我霊は形態を自由に変える力をもっており、地上の人がこの大自我霊を呼び出す力をもてば、自分の身体や物の形態すらも変えることができる。

 第五界の魂は宇宙社会の構成メンバーとして地上からみれば神にも等しい強大な力をもっている。彼らうちのある者は物質法則の隅々まで計算し、その物質法則や調和の維持に従事している。幻想界はこの大自我霊の統括範囲にあたる。彼らは地上圏の部分的な統括を任されることがある。

  
 第五界の魂は複数で新しい魂を生みだす。

*第五界の大自我霊はどこかチベットに住んで地球経営にあたるというアデプトや我が国でいう産土神、また各宗教でいう守護神を思わせる。こうした第五界の魂と交流のできた人は偉大な神秘力を現わし、一つの大きな宗教の開祖となることも可能であろう。

 第六界においては魂はあらゆる形態的表現の束縛から脱しており、いわゆる個性というようなものは解消して自己の本霊と一体になっている。

 ここにおいて次の第七界に進むためにすべての類魂の仲間たちの到着を待ちうける。
第七界は文字通り神の世界であり、一切の時空的顕現の外に出ている。時空は神の想像力の流出ともいうべきものである。

 
 類魂
 類魂については第三巻『不滅への道』の解説に詳しく記したので詳説はさけたい。

類魂と意識の問題で一番重要なのは、魂は元々一つの霊(本霊)から発しているので、共感共在的な在り方がその本性だということである。地上での分離的な在り方から出発して上昇するに従い、魂は次第にそのことを自覚し、類魂のなかに融け込んでゆく。

第五界あたりがその分岐点で、大自我、大意識、大記憶というようなものは皆この時点に集まっている。

個我に対する大我の源はひとまずここにある。さらに淵源をたどれば第六界の本霊ということになるが。それぞれの魂は類魂としての相互浸透、相互学習をするための機能をその各々のなかに予めもっているのである。

愛、共感、宗教的心性、超常的知覚、憑依、霊媒、超意識、カルマ、再生、未来予知、霊的治療、前生透視その他諸々のことがこの類魂と意識の問題から解答を受け取ることが出来るように思う。読者の思索に委ねたい。


 霊能者の役割について
 スピリチュアリズムと霊媒───霊能者といっても同じであるが───その存在は切っても切り離せない関係にある。そのためにスピリチュアリズムはしばしば非難される。科学者からも宗教家からも、良識あるという市民からも、神秘家からさえもである。要するに霊媒などといういかがわしい連中にうつつを抜かしているからだというのである。

  しかし本集を読まれた方々はそのような偏見はお持ちになるまい。純正な霊媒とは人類のために如何に貴重な知識をもたらしてくれるものかを納得されるのではないかと思う。しかしここに示し得たのは限られた例証だけである。

第三巻でお分かりのように未だスピリチュアリズムの資料と文献は山積みなのである。それらの資料文献がことごとく人間は霊的存在だということを教えているのである。このことは幻想ではあるまい。

 スピリチュアリズムにおける霊媒の働きは二つに大別されると考える。一つはステイントン・モーゼスや本集には収録しなかったがモーリス・バーバネルのように、霊的世界についてや人間存在についての高次の知見をもたらしてくれる種類の霊媒である。

もう一つは、とにかく人間が霊的存在であり、肉体と離れた霊魂の存在は事実だということを人々に実感させてくれる霊媒である。ジャック・ウェバーなどはそれに当たるであろう。ジェラルディーン・カミンズ女史の場合にはその両者の中間に当たるかもしれない。

 スピリチュアリズムにおける霊媒の働きが二大別されるとして、私は大部分の霊媒の役割は後者に限る方がよいと感じている。そして事実一世紀半にわたるスピリチュアリズム運動の目的の大半はそこにあったのである。

そうである理由は第一に、モーゼスやカミンズやモーリス・バーバネルによってもたらされた高次の霊的知識や教訓は(私はそれらを何ものにも替え難く貴重なものだと思うが)、一つの新しい啓示のようなものであって、一世紀のあいだに幾つも期待できるものではないこと。

第二にそうした高次の霊的知識や教訓は諸宗教と競合し、スピリチュアリズム自体が一つの新興宗教とみなされる恐れがあること。

第三に、高度な霊的知識や教訓などの正しさは結局それ自体が証明の対象にはならないので真ともいえず偽ともいえず、また高次の霊的知識といってもセオソフィなどの教える霊的知識などと競合する。

競合しても一向構わないともいえるが、そうした教えがあることをもってスピリチュアリズムの特色といかなくなるからである。

 それより何より私は、一般の霊能者が安易に人類の教師や救済者たらんと目差すことによって生ずる弊害をひそかに予感し、憂うるのである。「霊的教師症候群(グル・シンドローム)」とM・H・テスター(有名な英国の霊的治療家)はいう。霊能力者は自己の特殊な能力と任務について、謙虚に自己限定を課した方が良い場合が多いように思う。

私は霊的教師や救済者の出現を決して妨げる者ではない。しかし次のことを心に銘記しておいてもらいたい。霊能力者は人の教師たらんとすれば、人格において教師となれ。救済者たらんとすれば真に己を滅した奉仕者たれ

 スピリチュアリズムの特色と使命は、何といっても死後の個性の存続(つまりは肉体を離れた霊魂の存在)に強い証拠を与えることだと思われる。心霊研究と境を接しているところからみてもその辺に力点がおかれてることが分かるのである。

如何に高次な霊的知識が述べられようとも、霊魂の存在が納得できなければそれらのすべては砂上の楼閣となる。すべての高度な霊的真理を生かすも殺すもこの点にあるのである。単に霊的真理というだけでは到底科学的真理や唯物論に対抗することはできない。

 霊魂の存在については、自分自身の直覚や行や瞑想による体験体察でそれを知りうればそれはそれでさぞよいことであると思う。しかしそうはいかない人々が殆どである。

科学であろうとする心霊研究、超心理学そしてサイ科学はこの点では当分助けにはならないであろう。

私はスピリチュアリズムの意義と使命を体した霊媒が日本中に何十人かいればよいと思う。そうした人達はその人の許へいけば霊魂の存在について必ず納得のいく証拠を見せてくれる人達である。

そのような人々の集まった場所が各国に一個所あれば、いつか世界は変わるであろう。何故なら、何人たりともそこへ行けば確証がもてるというのであれば、疑問を持つ人があればそこへゆけばよいからである。

霊魂存在の一点が納得出来ないために高度な霊的世界の認識に足を踏み入れることが出来ないでいる人が多くいる。そのような人々にとってはそのような場所は福音である。

のみならず、懐疑家であろうと、厳正な科学者であろうと、政府機関の者であろうと、またマスコミ関係者であろうとそこにゆけばすべて納得するというのであれば、やがて霊魂存在については社会の常識化し、唯物論には壊滅的な打撃を与えよう。

 そのためにはスピリチュアリズムの意義と使命を体した、真に奉仕的な、純正な霊媒が出なくては駄目である。そうした霊媒が世に出るためにはまずスピリチュアリズムの崇高な目的と理念が世に広まらなければならない。そのためには基本となる文典がなければならない。

編者が困難を押して本集の刊行を推し進めた理由である。随分迂遠で狂的な情操のなせる業と思う人もいるかもしれない。しかしスピリチュアリズムに挺身した先人たちの数代にわたる無垢の情念を思えば何ほどのこともないのである。

現に天は近藤千雄氏が今日の時点では奇跡的とも言った本集の刊行を助けたではないか。スピリチュアリズムの持つ理想が達成されるのは数代の後でもよかろう。しかし私達に出来るのは現在におけるささやかな一歩である。

 なお、『人間個性を超えて』の翻訳には、サイキック・プレス社一九五二年版(初版は一九三五年)を用いた。



 刊行のおわりに
 今から二年半ほど前の私が本集の刊行の最初の打診を編集者から受けたときの時点を思い起こすと、その頃私は日本におけるスピリチュアリズムの啓蒙と普及に一生を賭けても悔いないという想いを抱いていた。そしてその想いを決して人に語り尽くすことも説明することもできないと感じていた。

そしてそうした理想達成のための基礎作業に身を挺するといった日常であったためにかえって、私には編集者の申し出を受け入れる時間的余裕はないと感じていた。

しかし、具体的に本集刊行の計画を射程のうちにいれる直前において、私の人生上における未曾有の困難にであったのであった。そしてそのことは私の決心を固めさせるのに役立った。

 スピリチュアリズムの普及と浸透が様々な困難に出会うことは先人たちの歩んだ道をみても思い半ばに過ぎるものがある。まして研究に実践を併せ行なうとすればその困難は重畳(ちょうじょう)する。机上にスピリチュアリズムを云々する人々はけだしこの困難について知りえないであろう。

たとえ全身全霊をもって道のために尽したところで、人の足下をすくい、石を投げ、唾を吐きかけるということばも軽いほどの報いを受けるものである。それに比べれば誤解などというものは未だ友情の範囲なのであろう。

 想いの強烈さと希薄さは同じ理想のなかにあってさえ人を別(わか)つものである。私は私の困難の原因となり、人と霊の通る道を妨げた人々にいかなる遺恨も持つまい。それらの人々が悪意であったにしろ善意であったのにしろ、私の前に置かれた石はいささか私の筋肉と意志の力を強めたのである。

 そして私はわが国において新たにスピリチュアリズム、或いは更に広く霊的真理の普及の戦列に加わる人達にこう言えばよいと思う。私たちも先人も出来ることをしたのだから、あなた方もまた本集を野戦の枕として、いかなる困難に出会おうとも挫けず先に進みなさいと。

 おわりに際し、本集刊行を助けて下さった近藤千雄氏および編集者、その他の皆様に心から感謝の意を表します。             (一九八五・十二・十五)