貧窮の中の小さな王者       

 
霊界通信 イエスの少年時代
                     G・カミンズ著    山本貞彰訳

    絶好の訳者を得て
                              近藤千雄  

   序文 エリック・パーカー
  THE CHILDHOOD OF JESUS
        By Geraldne Cummins
            Psychic Press Ltd.
             London. England
             First Printed 1937
             This Edition 1972
24 大祭司アンナスの衝撃(ショック)
                                                           
 


     絶好の訳者を得て
                                 近藤千雄

 ジェラルディン・カミンズといえば日本ではマイヤースの通信『永遠の大道 と『個人的存在の彼方』で知られている。

この二編がスピリチュアリズム思想に飛躍的な発展をもたらした重大な霊界通信であることに異議を唱える者はいないが、カミンズの評価が日本ではとかくこの二編のみで行われることに私はひそかに不満を覚えていた。
 
 と言うのは、カミンズの自動書記通信にはその二編のほかにキリスト教の根幹にかかわる重大な通信が幾編か存在するからである。

イエスの少年時代を扱った The Childhood of Jesus` 同じくイエスの青年時代を扱った The Manhood of Jesus` バイブルの「使徒行伝」と「ロマ書」の欠落部分を埋めるといわれる年代記 Scripts of Cleophas` 同じく「使徒行伝」のパウロのその後の足跡を綴ったとされる I Appeal Unto Caesar`そして同じくパウロの晩年、暴君ネロの時代を描いた When Nero was Dictator である。

 私がこれらを重大な資料と見なす理由は、その通信内容をスピリチュアリズムにまったく関心のない、否、むしろ内心は否定したく思っていたはずの第一級の聖書研究家や神学博士が徹底的に吟味して、これに〝正真正銘〟の折紙をつけていることである。

 さて私もこれまで英国の霊界通信をいくつか翻訳してきた。当然のことながらそれらはキリスト教的色彩が濃い。幸い私はキリスト教系の大学の英文科に学び、キリスト教について〝常識的〟な知識は具えていたので何とか訳すことができたが、深い専門的知識を必要とする通信は、正直言ってまったく歯が立たなかった。そして原書は空しく書棚の片隅で眠り続けていた。

 そんな時、昭和六十年十一月半ばのことであったが、私の訳書の一読者から一通の封書が届いた。

二十数年にわたってキリスト教聖公会で司牧された経歴をのべ、さらに今スピリチュアリズム思想に出会ってキリスト教に対する観点が大きく変わりつつある旨をのべ、その上で今後の自分の進むべき道について私の助言を求めてこられたのだった。それが本書の訳者、山本貞彰氏である。

 その後山本氏と何度か文通を交わしているうちに私は、この人こそカミンズのキリスト教関係の通信を訳すべき方だという直感を得て、まず本書の原書を進呈してみた。私の直感は間違っていなかった。

氏はその通信の内容上の重大性と同時に、その文学的な美しさに魅せられ、さっそく翻訳を思いたたれ、そしてこのたびついに完訳された。キリスト教界からすっかり身を引かれた今、氏はそのシリーズの翻訳を畢生(ヒッセイ)の事業と心に決めておられる。

私は氏はそれを最大の使命として生まれて来られた方だと信じている。これまでのキリスト教との縁もその布石だったに相違ないのである。

 日本はキリスト教国ではないとは言え、その信仰が大勢の日本人の人生に多大の影響を及ぼしていることは紛れもない事実である。私は在来の一宗教としてのキリスト教は忌避するが、キリストの説いた基本的真理はスピリチュアリズムと相通じるものであり、正しく理解すれば日本にも無くてはならぬ存在価値を持つものと信じている。

 イエスならびにその使徒たちの時代に関するこうした一連の霊界通信が〝正真正銘〟であるということは、キリストをはじめとしてその使徒たちが死後もなお存在しつづけ、ほぼ二十世紀後の今、カミンズという秀れた通信回路を得て地上へ情報を送ってくれたということを意味する。

 願わくばキリスト教関係者がその事実を事実として素直に直視して、キリストの教えの真髄を理解する一助とされることを切望してやまない。



    序  文                                                                                                                               エリック・パーカー   
                      
 この本は、とても美しい物語です。私はこれを何と表現したらよいかわかりませんが、〝幻の書〟とでも言っておきましょう。

腕の悪い大工というイエスの見方は、おそらく伝統的考え方には見当りませんし、ヘリという浮浪者と旅をすることや、砂漠の部族に関しては、私が他の書物でお目にかかったことがなく、始めて知ったことであります。


 著者は、パレスチナ地方に関してかなり詳しく熟知しておられるようですが、私には、設定されている舞台が一種の霊界と呼べるところで語られているようにも思えるのです。

 それにしても登場人物は、強烈な個性を持った人間として生きぬき、仲違いをする男女として描かれ、私たちと同じような行動様式が示されています。

 中心的人物、イエスについて私が最初に感じたことは、実に愛すべき人間ということであり、実はこのことが物語の美しさをつくり出す泉となっているのです。文体も又不思議な程美しく、話法も平易であるため、この作品は広範囲の大衆の心をとらえるのではないかと信じるものであります。


                      主な登場人物
ゼリータ ・・・・・・マリヤの祖母
マリヤ・クローパス・・・・・・ヨセフの実姉

キレアス ・・・・・・ゼリータの従兄弟
ベナーデル ・・・・・・
ナザレの律法学者

ヘ   リ ・・・・・・異邦人、エジプトの人
シケム ・・・・・・神殿づきのパリサイ人

ハレイム ・・・・・・ナザレの魚問屋
ハブノー ・・・・・・流浪の部族の長
※ イエスの弟妹
     ・トマス
     ・ヤコブ
     ・セツ (双生児)
     ・ユダ  (  ”    )
     ・レア  (妹)
※ クローパス家の息子                   
      ・ヤコブ
      ・ヨセフ
      ・シモン
      ・ユダ 
  


  1  マリヤの誕生

 ユダヤ民族がローマの支配下にあって大いに苦しんでいた頃、ある若い漁師と妻がガリラヤ湖の岸辺に住んでいた。

 舟と網を操る男とその妻は、二人とも素朴な人間で、お互い同士のこと以外はなにも考えず、近所付合いもせず親戚の所にも行かなかった。二人だけで充分に満足していたからであった。

深い愛の結晶として女の子が授かり、〝マリヤ〟と名付けた。マリヤはこの夫婦を有頂天にさせたが、その後何年たっても子宝に恵まれず夫は悲嘆に暮れていた。それがもとで彼は仕事の張りをすっかり失くしてしまった。

 ある日のこと、マリヤの居るところで、父は母及び父の実母ゼリータに彼の悲しみの原因をうちあけた。娘のマリヤは心を痛め、自分がなにか過ちを犯して父の大きな重荷になっているのではないかと恐れた。マリヤは祖母ゼリータに言った。
 
 「私が男の子でないためにお父さんを悲しませています。どうしたらお慰めできるんでしょうか」 祖母は答えた。

 「おまえはどんなことをしても聖書に書いてあることを変えることは出来ないよ。お父さんはね、ローマの支配を粉砕し、神の民イスラエルを苦しみから解放し、地上の諸国を立ち上らせることのできる息子が欲しいと願っているんだよ」

 更にマリヤが尋ねると祖母は預言者(1)の言ってることを教えてくれた。なんでも救いのために一人の男が現われ、聖なるエルサレムを征服者の手から奪還しユダヤ人を偉大な民族にするというのである。マリヤは言った。

 「そんなら私はだめね、女なんですもの」

 マリヤの表情は暗かった。ゼリータはマリヤを抱きよせて接吻し、微笑みながら言った。

 「神様のなさることはとても不思議なもので、だれにもわからないんだよ。おまえが大きくなったら、ユダス・マカビ―(2)よりもっと偉い男の子を産んでちょうだいね。

立派な預言者になって異邦人を照らす光となり、イスラエルの神の前にすべての人がひれ伏すようにさせるのよ。ああ早くそんな日が来たらいいのにね」

 マリヤは祖母が言ってることが殆どわからなかったが、とてもうれしかった。それからというものはガリラヤの湖畔で遊ぶ子供たちのだれよりも喜々として日々をおくった。マリヤは両親のしつけによく従い、他の子供たちとは遊ぼうとしなかった。

 月日がたつにつれて漁師の心を痛めた悲しみは次第にうすれていった。彼は遂に男の子が授からないのは神の思し召しであると断言した。現在四人が仲良く暮らすことで満足した。

そのかわりに神は他の面でふんだんに恵みを与えたのであろうか、この漁師の家は栄えた。彼の網さばきは絶妙で、銀色の魚が大量に取れ、飛ぶように売れたからである。

 彼らは陽当たりのよい、沢山花が咲く所に住んでいた。冬の寒さにうたれることはなく、夏の日差しに庭の植物が焼かれることはなかった。その辺の土地は水利に恵まれていた。彼らは、望むものはすべて与えられた。

マリヤはすくすく成長し、花のような美しい乙女になって幸せな日々をおくっていた。マリヤの母は歌いながら家事に専念し、祖母は愛にあふれている家族のためにいつも感謝の祈りをささげていた。

大抵の男女は貧乏や争いごとのために苦労しているのだが、ゼリータの息子と嫁の二人は一心同体で何ひとつ心配の種はなかった。

 初冬のある日のこと、太陽は顔を出さず強い風が吹いていた。風は山の方から湖を横切って吹き荒れていた。一瞬湖面に変化が起こった。恰も目に見えない農夫たちが湖の上を竿で叩きながら横切って行くかのように、泡がおどり狂ったようにシューシューと音をたて、怒り狂った波が天に向かってはね上る勢いであった。

ゼリータの息子の舟はとても古くて小さな穴があちこちにあいており、そこから水が侵入してくるのであった。漁師たちは勇敢に働いていた。

突然激しい突風が山側から吹いてきて、まるで獰猛な鷹のようにゼリータの息子の舟を襲った。あっという間に舟は荒れ狂った波の中にのまれてしまった。

空は真黒で黒ずんだ雨が湖面に降りそそぎ、岸からは漁師たちの舟は全く見えなくなっていた。重苦しい夜の帷が唸り声をあげている地上におりてきた。

女たちは一カ所に集まって、湖上で右往左往している男たちのために嘆き悲しみ、真剣に祈っていた。月や星のない陰うつな時が流れた。

何の徴もないままに東の丘に夜明けの気配を感じる頃、微かな望みがわいてきて、女たちの真剣な祈りがきかれたのではないかと思えるようになった。

夜があけて風が静まり、漁師たちが岸辺に戻ってきたときはみんな感謝の祈りをささげた。しかし彼らは悲しい報せをもってきた。

ゼリータの息子の舟は前夜の夕暮頃波にのまれ沈んでしまったのである。太陽が天高く昇った頃、湖には再び静けさが戻ってきた。天空はまるで神がまたいで歩かれたようにキラキラと光り輝いていた。

世界が再び微笑みかける頃、五人の男たちがマリヤの住んでいる家に重い荷物を運んできた。彼らはひとことも語らずに頭をさげ、奥の薄暗い部屋へ進んで行った。祖母が床の上にひろげたリネンシーツの上に息子の傷だらけの亡骸を安置した。

マリヤの母は激しい戦慄におそわれた。娘のマリヤが見ていて恐ろしくなるくらい激しくふるえていた。

マリヤもふるえながら頭をたれていたが誰もマリヤが居ることに気付かなかった。なぜならば母が父の亡骸の側に卒倒して動かなくなってしまったからである。

この夫婦はガリラヤ中でこれほどまでに愛し合った者はいない位相思相愛の仲であった。生前すごしてきた二人の日々は、思いも心も全くひとつであった。彼らにとって天国は彼らの居る所であった。だからこそこの瞬間はマリヤの母にとって暗黒と絶望であった。

この二人は森の中の若樹(わかぎ)のように強かった。だが遂に二人は逝ってしまった。夫が他界した直後に彼女の霊も間もなく暗黒に閉ざされた肉体を離れ去ったのである。

 祖母は突然逝ってしまった息子夫婦のために香料と亡骸を包む布の用意をととのえてやらねばならなかった。亡骸は岩を削ってつくられた墓の中に納められ永遠の休息に入った。

 葬式が終ってからマリヤは祖母のところに行き、服の折り目の中に顔を埋めながら死んだ父母を生き返らせて欲しいとしきりに祈るのであった。祖母はマリヤを何度となく慰めてやり、これからは神様が父であり、祖母が彼女のお母さんになるんだよ、と言いきかせた。


(註1)
旧約聖書のイザヤ書7・14──〝それゆえ主はみずから一つのしるしをあなたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を生む。その名はインマヌエルととなえられる。〟(イザヤは紀元前八世紀に活躍した四大預言者の一人)

(註2)
紀元前一七五 ── 一六四、シリア王アンテオコス四世エピファネスは、ユダヤ人を迫害し、エルサレムの神殿に押し入り、異教の祭壇を築いてユダヤ人の怒りをかった。その時老祭司マタテアスが立ち上り義勇軍を結成し、息子ユダスはシリア軍を撃退してユダヤに勝利をもたらした。以来ユダスの名はユダヤ救済の英雄として語り伝えられた。


  2 マリヤの悲願
 
 ガリラヤ湖の岸辺にあった家を売って、ゼリータとマリヤはナザレにやってきた。(ナザレはガリラヤ湖の西方に広がる丘陵地帯で北部パレスチナに散在するガリラヤの町のひとつ。ルカ2・26参照─訳者註


 二人は野原に建っている羊飼いの小屋に住みついた。ガリラヤの人たちは皆親切で、たえ間なくゼリータのところに心暖まるものを運んできた。無花果や何匹かの魚をとどけたり、収穫のときなどには、小麦などをもってきた。

死んだ父親は布にかなりのお金をくるんで残してくれたので、祖母とマリヤが貧乏をしていても大いに役立った。ゼリータは年をとるにつれ外出もできなくなっていた。

 真昼の日差しが小屋の中にさしこんでいてもゼリータは手探りで歩かねばならなかった。このような苦しみの中にあっても彼女は悲しむことがなく、以前の元気な頃のように彼女は多くの恵みを神に感謝するのであった。そんな祖母を見てマリヤはたずねるのであった。

 「愛する者がとり去られた上、視力を失い、働くこともできなくなり、自分で家の入口のところまで歩いていくのにやっとのことだというのに、どうして賛美の祈りなんかできるんですか?」 そこでゼリータはおだやかに言った。

 「苦しみが与えられるには、必ず目的があるのです。苦悩から本当の喜びと勝利が生まれてくるのです。イスラエルの民は(1)エジプトによって随分多くの苦しみを受けたじゃありませんか。そのあとで乳と蜜のしたたる約束の地が与えられたのですよ」 マリヤは祖母の話をきいておだやかになり、もっと先祖の話をして欲しいとねだった。

 薄暗い小部屋の中で昔の偉大な人物について多くのことをマリヤは知ることができた。視力を失った祖母が聖書について語る内容があまりにもすばらしかったので、時々マリヤは目の前に本当の人物が現れて動きまわるように思えた。

少年(2)ダビデが、まる腰で彼女の前に立ちはだかり、手には石投げ器だけを持ち、暗がりの中からペリシテ人の巨体がぬーと現れたかと思うと少年ダビデの投げた石に撃たれて倒れてしまい、小さな住まい一杯に巨体を横たえるのであった。

マリヤはガリラヤからまだ一歩も外に出たことがなかったが、金色の屋根に輝くエルサレムの神殿などを真近かに感じることができた。彼女はまた、ペリシテとの戦い(3)や、バビロニヤによる攻撃によって民族全体がバビロニアに捕囚となる悲劇や民族の嘆きなどを知ることができた。

 さらに多くの預言者たちが一人ずつ目の前に現れては通りすぎて行った。イザヤ、エリヤ、エレミヤといった偉大な預言者や沢山のすばらしい人たちが、ゆったりとした衣を身にまとい、高貴な表情をうかべて語ったことは、〝乙女がみごもってイスラエルの救済者が生まれる〟ということであった。

ユダヤ人にとって忘れられないギリシャ人の征服についても詳しく語られた。

(第一章註2参照)そんなときは貧しい小さな部屋の中で祖母は珍らしく激しい口調で語った。

祖母が若い頃、村の律法学者(モーセの律法を解釈する聖書学者で法廷判事の顧問をつとめる上流階級・権力者──訳者註) から聞いた話が、そのままマリヤにも語り伝えられた。

こんな乏しい小屋の中でもマリヤにとっては、すばらしい夢を織りなす幻と喜びにあふれる場所となったのである。

 今やギリシャ人にとってかわって、ローマ人が支配しユダヤ人の信仰心を堕落させようとしていた。〝シオン〟という聖都(エルサレムの別名)を汚そうとしていた。マリヤは祖母にたずねた。

救済者は何という町や村から出現するのか、そしてその
方、即ちメシヤ(救世主)の母として誰が選ばれるのか、きっと預言者と言われた方ならば母となる人の名前や種族のこともわかっているのではないか。ゼリータはルーツに関することは全く知らなかった。

今でもエルサレムに於いてさえ、救世主に関する情報は全くないとのことであった。

マリヤはこのような祖母の言葉で満足しなければならなかった。父を亡くしてからというものは、まるで森の中にひそんでいるファウヌス(半神半羊)のように、同じ世代の者と付き合おうとせず、その上ゼリータと世間話をしようとやってくる年増の女たちと口をきこうともしなかった。

 祖母から多くの話を聞いてから、彼女は壮大な幻を描き、殊にメシヤ到来の年代的核心をつかもうと努力し、ローマを征服してくれるイスラエル民族の救済者のことで頭が一杯であった。

 ある日のこと、マリヤはゼリータに自分自身のことではなくユダヤ全体のために祈れば神はそれをかなえて下さるかどうかをたずねてみた。すると祖母は即座に答えてくれた。

 「もしお前が毎日お祈りし、自分をいつも清らかに保ち、他人と交渉を断って願い続ければ、きっと神様はお前の願いをききいれて下さるだろうよ。昔の預言者たちも何か特別な恵みを求めるときには、一人で荒野に退いてお祈りしたものだよ」

マリヤは自分の夢を教えようとしなかった。他人に知られることによって夢が汚されやしないかと思ったからである。それからは、マリヤがたった一人で丘や野をさまよい歩き大きな声をはりあげながら神に祈った。近所の人たちは祖母に言った。

 「マリヤはもう子供ではないんだから、そろそろ近所の娘たちと付き合って色んなことを勉強させたらどうだろうか。今のようにいつも独りでいるとだんだん世間知らずになってしまうよ」

 冬が去り、春がやってきて、丘一帯に色とりどりの花が咲き乱れていた。葡萄の木は新芽をふき出し、木々の枝は緑の装いをまとっていた。鳥のさえずりが地上にひびき渡り、あらゆる生命の躍動が全面にみなぎっていた。

マリヤは祖母に挨拶してから毎日のように外出した。けれども友達をつくろうとはしなかった。

彼女はどこかに立ち寄ることもなく山の上に登り、ただ独りで過ごすのであった。木陰のもとでひざまずき、魂の底からわき上がる渇きが祈りとなって、昔父から聞かされた言葉がきっかけとなって芽生えた願いを神へぶつけた。

何回となく日の出を楽しみ、ほの暗い朝の静けさの中で鳥たちが射しこんでくる光の中を飛び回るさまを見つめていた。今や彼女の霊は喜びにみたされていた。

彼女はすでに自分が神の選びにあずかったこと、来るべき時に、メシヤの母となるべきことを信じられるようになっていた。

美しい春の季節に彼女の夢は陽光と花々とで織りこまれていった。幻はガリラヤの蒼々とした水面に映り、 遥か北方にそびえる白雪をいだいた山々や、こぼれるように微笑をたたえる湖の岸辺からは、誰もが否定できない希望と確信が贈られてきたのである。

マリヤの夢が必ずかないますように、そして神は何ひとつ御出来にならないことはない・・・とマリヤは確信し、その度合いを増していった。彼女にとって周囲の人々はすべて影に等しいものであった。彼らは彼女の人生と何のかかわりを持つことはなかった。

彼女にとって、人生とは、暁に目覚め、透徹した素晴らしい生活を毎日おくることであった。

山々を散策し、神との交わりを続け、時として美しい花々を摘みとり、ひたすら祈りと夢に明け暮れていた。

(註1)
紀元前一二八〇年頃、イスラエル民族がエジプトの奴隷となり苦役に服した。預言者モーセが現れて民族をエジプトから解放し、シナイ半島を四〇年間放浪し、十戒を授かり、紀元前一二四〇年頃パレスチナに入ることができた。旧約聖書、出エジプト記に詳述されている。

(註2)
紀元前一〇〇〇年頃、イスラエルの黄金時代を実現させたダビデ王が、少年時代に敵方ペリシテ人の巨漢ガテのゴリアテという勇者を投げ石器ひとつで倒してしまったというエピソード。

(註3)
ペルシャの前身、バビロニヤが、紀元前五八七年にエルサレムを陥落させ、イスラエル民族を捕囚としてバビロニヤに連れていったという古事。旧約聖書、エレミヤ書に詳述されている。




  3 神との出逢い

 暫くすると町中にマリヤが毎日のように独りで森や丘に居ることが知れわたった。ある善良な女がゼリータを叱って言った。

 「何か悪いことがマリヤの上に起こらねばよいがね。なにしろ若い娘がたった一人で人里はなれた所をうろついているんだからね。全く利口じゃないよ。どうだろうか、マリヤをうちの娘と一緒に働かせてみないかね。そうすりゃ少しはまともになろうというものだよ」

 祖母はそれを聞いて心を痛め、マリヤに言った。近所の娘たちと仲良くして一緒に働き、少くとも嫁入り前の娘が妻となり男を識(し)るに必要なことを先輩たちから教わるようにと。けれどもマリヤは泣きふしてしまい、ゼリータはマリヤの妙な言動にただおろおろするばかりで、彼女の胸に抱きよせて祈るしかなかった。

 「あたしね、丘の上の寂しい所で神様を呼び求めていたの」

 「そうかい、それで神様はお答え下さったかね」

 「はい、ちゃんとお答え下さいました。それがね、ただの御言葉だけでなく、野原で長い間祈り続けているときに二度も神様が顕(あらわ)れて下さったのよ。

そのとき私は試されていること知りました。もし私が昔の預言者のように断食をして真実に生きるならば、きっとイスラエルを救う男の子を生む母親に選ばれるでしょう」


 これを聞いた祖母は大声をはりあげ、だまりこんでしまった。夜がきて鳥や獣が寝しずまり、人の声や物音が全く聞かれなくなった頃、視力を失った祖母は誰よりも強い確信をいだいた。

 「マリヤよ、きっとお前が選ばれるだろうよ、心の底から気高い目的のために続けて神様にお願いしてごらん。きっと主の天使があらわれて下さるだろうよ。

でもこんなことは誰にもしゃべっちゃいけないよ。今までのようにお前のやりたいようにやりなさい。決してまわりの人が言うことを気にすることはないよ」


 そこでマリヤは今まで通りやってきたことを変えずに進めることができた。曲りくねった道を歩いていて例の善良な女(ひと)とばったりでくわしたとき、マリヤを家にさそい入れようとするのであるが、マリヤは見向きもしなかった。

彼女は腹を立て、マリヤに何にも注意を与えない祖母のことを責めた。そればかりか、マリヤが丘の上で何やら
変なことをしているなどと悪口を言い始めた。それからは子供たちまでがマリヤのことを悪し様に言った。

 「あの娘(こ)は私たちを馬鹿にしているのよ

 彼らはマリヤが通りすがりに聞こえよがしに言った。

 「ねえ、あの娘(こ)をからかってやろうよ」

 「あんな高慢ちきな奴の鼻をへし折ってお辞儀させてみようじゃない」

 子供たちや若い女の子たちは一緒になって口汚い言葉をあびせかけ、あげくのはてには泥や土をマリヤに投げつけるのであった。

マリヤはただ黙って不安な表情をたたえていた。マリヤが怖がっているのがわかると、ますます大胆になり、止まるところを知らない勢いであった。

突然若者の声がして静けさがもどった。ヨセフという若者が駆けよってきてこのさわぎを静めてから言った。

 「この恥知ずめ この娘は父もなく母もなく、どんなに心を痛めているかわからないのか。それなのにお前たちはこの娘をいじめ、たった一人で歩いていることをいいことにしてからかっている。この娘は本当は聖なる人なんだぞ

 「えっ、聖なる人だって?」

 「そうだ、僕の姉がちゃんと見とどけているんだ。彼女が独りで野を歩き、長い間祈り続け、聖なる御名(みな)につかえる道を探り、神様の御旨(みむね)にかなう在り方を求め続けているんだ。実に見上げたもんだよ。

彼女は崇高な目的に向かってつき進んでいるにちがいないんだよ」

 ヨセフの言葉に女や子供たちは、きまり悪そうにいじめるのを止めてしまった。彼らは若い大工の威力に圧倒されてしまい、恥じ入るのであった。ヨセフの姉だけがマリヤの秘密の夢を知り弟に話していたのである。

 それからというものは、だれが彼女に話しかけてもマリヤには苦にならなかった。マリヤは祈りに出かけるので、家に居る時間はとても短かかった。

 ある日のことマリヤは朝早く外出したが、突然わが家に帰ってきた。それは祖母がいるはずのわが家が急に空っぽになったように思えたからである。

マリヤが敷居をまたいでわが家に入る時、誰か見なれない人が彼女の傍をすれちがった。彼女は確かにそれを感じたのであるが家の中にはだれも居なかった。

恐怖心が高まり、薄暗い部屋に集中した。そして命が脱け出るような脱力感を味わった。マリヤは急いで祖母のもとに駆けより、閉じられた目や、動かぬ手足にふれた時、即座に祖母が死んでいることを知った。


 

  4 羊飼いの不思議な話

 一人ぼっちになったマリヤには友だちもなく、ただ若者ヨセフと姉だけが暖かく声をかけ、寂しいときに慰めてくれた。

この兄弟は貧しかったので、なんとかマリヤを助けてやれる親戚はいないものかと探しまわった。一週間もたたないうちにヒゲもじゃの〝キレアス〟という男がナザレにいることをつきとめた。

彼は亡くなった祖母の従兄弟にあたる者で、マリヤをひきとってくれることになった。キレアスの妻は年をとっていて子供もなく、老夫婦二人だけでエルサレムへ通じる街道筋で旅館をやっていて、ちょうど家事全般の仕事を手伝ってくれる女中を必要としていた。

 そんなわけでマリヤは遂になつかしい丘や、とても他人とは思えぬ程に親切にしてくれた二人の友ヨセフと姉とも分れを告げねばならなかった。

 マリヤの新しい生活の場となったこの旅館は、エルサレムへ向かう旅行者や巡礼者が通る街道筋の谷の中にたっていた。

普段はあまり人通りがないが、大きな祭りなどがあるときには客でいっぱいになり、マリヤは朝早くから夜遅くまでこまねずみのように立ち働き、自分の部屋も客に提供して自分は隣接した馬小屋で寝る始末であった。


客の面倒から旅館全体を掃除するのがマリヤの仕事であった。そんなわけでマリヤは多くの客からよその土地のことや、とても珍しい冒険談などを聞くことができた。彼女はそれらをすべてを夢という布地に織りこんでいった。

暇なときは主人のキレアスと妻の老夫婦だけになることが多かった。夕方になると羊飼いたちが丘のあちこちから集まってきて、楽しい歓談が始まるのであった。マリヤは野性的な労働者たちの世話をしながら彼らの話に耳を傾けるのがとても楽しかった。

羊の世話や毛を刈りとる作業のこと、彼らや番犬が狼と格闘したときのこと、ペストの流行や泥棒の災難にあったときの話などであった。

彼女はそれらをすべて心の糧として吸収した。ハー
プの名手がたった一本の弦でも大事に弾くように、マリヤにはひとつの話が心に深く刻みこまれていた。

それは預言者によって語られた一人の王様のことで、ダビデ王(1)の末裔(すえ)として生まれ侵入者ローマから救い出してくださる方のことであった。一人の若い羊飼いが目を輝かせながら言った。

 「そりゃひどい風が丘のあたりを吹きまくっていた夜のこと、真暗だった空が突然明るくなってね、ぶったまげたもんだよ。たき火のまわりで縮こまってブルブルふるえていてよ、どうなるのかと思っていただが、なんとも言えぬ喜びがいっぱいになってきただよ。

なんでだかさっぱりわからねえだが、おれたちは〝どうだ 夜になったばかりだというのに、キラキラ光り輝く夜明けがきちまったぞ〟てなことを言ってただよ。

神様は時間をまちがえなすったのだろうか、この冬の真最中に、夜が世界の支配者として居すわっているときに、神様は東の空から太陽を呼び出しちまっただよ」

 「おれたちはみんな物も言わず、小さくなったたき火に身をよせて、一睡もしねえでその光景にみとれちまっただよ。

それからよ、静々(しずしず)と光が丘のあたりから動き始めてよ、そりゃすげえ輝きの輪になってよ、暗やみをおしのけちまっただよ。みるみるうちにその輪が大きくなってよ、でっけい星のような形になっちまったで、まるで大空が真ぷたつにブチ割れたみてえに見えただよ」

 「ところがよ、そのでっけい輝いた星がよ、ものを言い出したからおどろいちまっただよ。

〝わたしは神の天使だ、わたしはイスラエルに喜びの音信(おとずれ)をもってきた。見よ、お前たちの中から一人の女が選ばれた。その女は前から預言されていたように一人の男の子を生むであろう、その子はすべての人々を支配し、ローマ、ギリシャ及び異邦人をひざまずかせる者になるであろう〟てなことを言っただよ」

 「おれたちはみんなきもをひやしただが、天使さまの様子がとってもおだやかだったので、おれたちは少し大胆になってよ、頭をさげながらその救世主をみごもった乙女のところに案内してけれやってたのんだだよ。

したらよ、おれたちの声が終らねえうちによ、光はきえちまい、天使様も消えちまっただよ。そしてもとのひでえ風が吹きまわる真暗な夜になっちまっただよ」

 最後の羊飼いが目を輝かせながら言った。

 「あの夜からおれたちは何度も天使さまがおいでくだせえと祈って待っていただが、あらわれてもらえねえでよ、つかれちまっただよ。おれたちはどうしても救世主のおっかさんにあいてえだよ」

 彼らの話には全く無頓着なキレアスは、うすめたまずい葡萄酒をのませていた。暫くして羊飼いたちは丘の方へと羊の群れのもとに帰っていった。

マリヤは羊飼いたちに現れた天使の御告げのことを心に深く刻みつけていた。夜になって一人きりになってから、以前よりも一層熱心に彼女の願いを神に祈り求めるのであった。


(註1)
イスラエル王国時代の第二代の王(紀元前一〇一二~九七二在位)で国民に最も愛された偉大な英雄であった。(旧約聖書サムエル記上、下を参照)
   
   

     5  東方の星

 さてこの旅館はエルサレムからあまり遠くない不毛の地に立っていた。このあたりは、まるで復讐の女神の祟(たた)りにでもあったように皺(しわ)くちゃで、禿頭のような格好(かっこう)をしていた。

ただ春のほんの一時だけ緑っぽくなる程度で、それもチョビチョビと生えるだけであった。しかもまたたく間に萎れしまうのであった。

夏になると、岩だらけの谷や断崖の丘には樹木も花もなく、むきだしの石は灼熱の太陽に焦がされて、行きかよう人々の足を痛めてしまうのである。


 マリヤはこのような苛酷な自然の中で生きのびねばならず、すっかり痩せおとろえ、心が挫けてしまうこともあった。

そんなときには彼女はガリラヤ時代のことを思いだし、葡萄の樹木で覆われた斜面の光景、美しい花畑、紺色に輝いている平和なガリラヤ湖を憧れるのであった。しかし彼女は自分の願っている夢が次第に大きくなっていくのを感じていた。
 
 収穫の季節がやってきて、この旅館の主人は大がかりな仕度を始めた。妻とマリヤには家全体の掃除を命じた。

彼の考えでは、〝仮庵(かりいお)の祭(1)〟(幕屋の祭ともいう)が近づいていたので多ぜいの巡礼の旅人がここを通ってエルサレムへ向かうと思ったからである。このときは多くのユダヤ人が聖なる都シオン(エルサレム)に熱い思いを向けるのである。旅館の主人の思惑(おもわく)は的中した。無数の旅人がこの前を通りすぎて行った。

妻もマリヤも朝早くから夜おそくまで旅人の世話に追いまくられていた。御客のなかに、遥か遠くのユーフラテス河の向こう側からやってきたユダヤ人がいた。彼らはマリヤに微笑みかけ、自分たちの世話をして欲しいと願い出た。彼らの様子は他の巡礼とはちがい、高価な衣服を身につけていた。

それで旅館の主人はこれらの珍客を丁寧にもてなした。マリヤは急いで食事の用意を始め、葡萄酒を髭を生やした人々の前に並べた。彼らが食事を終えてから互いに語り出した。

 「私たちはエルサレムに行ってヘロデ王様(2)に逢おうではないか。彼に逢えば私たちの知らない部分を補ってくれるだろうよ」

 そこで旅館の主人は、彼らに何の目的で旅をしているのかを尋ねた。しかも民衆から尊敬されていないヘロデから何をききだそうとしているのか尋ねた。一人の白い髭を生やした賢人が答えた。

 「私たちは救い主が間もなく御生まれるになるということを知ったのです。私たちは救い主の到来を告げる星を見たのです。私たちはどうしてもその救い主を見つけ拝みたいと願っているのです」 主人は尋ねた。

 「その御方は何処で御生まれになるのでしょうか」

 「預言者の言葉によりますと、その御方は、なんでもベツレヘムという所を誕生の地として御選びになったと言われています。〝ああベツレヘムよ、汝はユダヤの町々の中でいと小さき町ではない〟と記されているのです。そこで私たちはそこに行って救い主を探そうと思っています」 別の髭もじゃの客人が言った。

 「いやいや、ベツレヘムなんかじゃありませんよ、先生 あなたは賢い方でいらっしゃる。なぜイスラエルの王ともあろう御方がそんな辺鄙(へんぴ)な町でお生まれになるとおっしゃるのですか」

 三番目の者が言った。

 「その御方の誕生地については全く知られていないんですよ。とてもじゃないが、救い主の父君や母君のことさえわかっていないんですからねえ」 更に別な客人が言い出した。

 「そんなことはないですよ、その方の父君はダビデ王様の末裔(すえ)なんですからね」

 賢者たちは互いにゆずらず、激しい口調で救い主の到来についての論争を続けた。かの白い髭の賢者が彼らの激しいやりとりを心配しながら、小声でマリヤを呼んだ。

 「叡智というものは、得てして赤子や清い心の持主によって語られるものじゃ。どうかね、お前さんは救い主がそこで御生まれになると思うかね」 マリヤは大胆に答えた。

 「もちろんですとも、先生。主の御使いの方が丘の上の羊飼いに顕れて、メシヤの誕生を御告げになったそうですよ!!

 これを聞いた賢者は、とびあがらんばかりに驚いた。そしてマリヤにその件に関する経緯について次から次へと質問し、彼女が救い主の誕生について語られた預言をよく知っていることに驚いた。この老人は、別れの挨拶を言う前に、マリヤをつかまえて、至高なる神の御子を見出した時は、黄金と宝石を持参して御子の揺籠(ゆりかご)の前に拝みに来ると言った。それを聞いた灰色の髭の賢者がきいた。

 「もし救い主が卑しい身分の家にでも生まれたらどうなさるんですか」

 「ああ、たとえ我が主、御民の王が星空の真下に生まれ、頭を覆(おお)うものが無くても、私はその方を拝みまするぞ また、たとえその御方が羊飼いの帽子の中に寝かされていたとしても、私は拝みまするぞ!  実際のところ、誰が明日の偉大な出来事を知っているというのだろうか。

たとえ羊飼いの息子が救い主(メシヤ)の座にすえられようとも、私は驚きやせん。すべてが変えられていくのじゃ。此の世の誰が一体身分の卑しい者が民を治める座につかないなどと言えるであろうか。真実が語らんとしていることに耳を傾けてみるがよい 先なる者は後に、後なる者は先になるのじゃ

 マリヤはこの老賢者が語った一句一句を全部心に刻みつけていた。その夜、彼女が馬小屋の藁ぶとんの上に
体をよこたえながら、もうガリラヤのことを回想することなく、自分が救い主の母となった夢を見る程に成長していた。


(註1)
「過越(すぎこし)の祭」、「ペンテコステ」 と共にユダヤの三大祭のひとつ。昔イスラエル民族が四〇年間モーセに率いられてシナイ半島を流浪し、天幕生活をしていたことを記念する。殊に果物類、油、葡萄の収穫が終わったことを感謝する祝祭となった。九月~十月にかけてエルサレムの神殿で行われた。

(旧約聖書、出エジプト記23・16・、レビ記23・33~36、民数記略29・12~39、申命記16・13~17を参照)


(註2)
 ヘロデ大王と言われたヘロデ王家の始祖。イエス誕生当時のユダヤ王で、性格残忍、血縁者も殺害する非道の人間で評判は悪かった。エルサレムに華麗な宮殿を建設し、紀元前20年同地に神殿の再建に着手した。赤子イエスを殺すためベツレヘム地域に生まれた嬰児(みどりご)を虐殺した。(新約聖書のマタイ伝2・1~18及び2・16以下参照)

   


      受胎のしらせ

 冬が過ぎ去った。旅館の住人とくにキレアス老夫婦は厳しい寒さに完全に参っていた。若いマリヤでさえ、憂うつな気分で過ごした厳しい冬であった。マリヤはいつもガリラヤ地方の暖かい微風を思い出していた。

ガリラヤの湖を覆う柔らかな空気、湖面から立ちこめる霧、そして周囲の山々は雪の帽子をかぶっていて丘から丘へと風が音をたてながら吹いていたのを思い出すのであった。

 遂に春がやってきた。まるで森の中でじっとしている臆病な鹿のようにやってきた。一日一日が這い歩きでもしているかのようにやってきた。岩場でさえ、あちこちに緑の葉でかなでられる喜びの足音がきかれるようになり、石と石の間から春の挨拶をかわしていた。小さな灌木たちは緑の帽子をかぶり、燦々
と春の陽が輝いていた。

 春の訪れと共に、マリヤの魂も次第に目覚め、一刻一刻と神に近づいていった。このような季節には余りお客がなく、マリヤは昔ガリラヤで習慣となっていた瞑想をするために寂(しず)かな場所を探し歩いた。それからは彼女の夢は次第に膨(ふく)れあがり、全く現実のものとなっていくのを感じていた。

 ある晩のこと、身体をよこにして眠りにつこうとしている時に、主の御使いがあらわれて彼女にその使命を告げられた。マリヤは恐れることも驚くこともなく、そのときの模様を後になってからヨセフの実姉マリヤに語ったことがあった。

 「私は直ぐに大天使(1)ガブリエル様がやってきたことを知りました。私は跪いて掌を合せました。私が長い間熱望していたことを叶えて下さり、大天使様が神様の祝福を運んできて下さったのですから、ちっとも怖くなんかありませんと申し上げました。

そうしたら大天使様がおっしゃいました。〝神様に愛されているマリヤよ、あなたは女のうちで最も祝された御方です。

なぜならば、あなたは男の子を生むために選ばれたからです。その子にイエスと名付けなさい。彼は多くの人々の救い主(めしや)となるでしょう。そして先祖ヤコブの御座とダビデ王の御座にすえられるでありましょう〟」

 夜は更けゆき、音ひとつきかれない静寂のなかで大天使ガブリエルは、跪いているマリヤのもとから離れ、閉まっている戸を通りぬけ、石だたみの上を音も無く歩き、立ち去ったのであった。彼女はもはや自分が望んだものが空しくならず、また夢で終ることもなく、現実のものになったことを強く自覚した。実に彼女は全世界の女のうちより選ばれ祝されたのである。

 大天使ガブリエルが訪れた明くる日のこと、一人の若い男と女が谷こえ山こえ、曲りくねった道を通ってこの旅館にやってきた。旅館の主人は早速この二人のために食事の準備をするようにマリヤに命じた。その若い男とは大工ヨセフであった。彼が入ってきたときはマリヤがパンを拵えているところで、彼の方から 「ヤー」 と声をかけ挨拶をした。

後ろからついてきたヨセフの姉マリヤは、マリヤのところに駈け寄り、両方の頬に接吻し、両腕をまわして抱き合い、久しぶりの再会を喜びあった。

 食事をすませるとヨセフは騾馬(らば)に水と草をやりに外へ出て行った。二人のマリヤは谷間の道を散歩しながらお互いに胸のうちを明かしあった。

 「私ね、近いうちに商人のクローパスと結婚するのよ」 ヨセフの姉が言った。「彼ったら、何年も私のことを追いまわしたのよ。もうすっかり根負けしてしまったわ」

 散々話し合ってからマリヤは大天使ガブリエルのことや、あの夜馬小屋の中で御告げを受けたことを話した。ヨセフの姉は遂にマリヤがイスラエルの救い主イエスの母となる約束を知って興奮した。二人の間に突然沈黙が流れた。そしてヨセフの姉の表情が硬張(コワバ)った。

 「そんなことって本当にあるのかしら。だってあなたは肝心なこと何ひとつ知らないじゃないの 赤子がどんなふうに生れてくるとか、どんなふうに神の御座から統治なさるとかそんなことぐらいは知っておくべきだわ」

 「私はね、どんなふうに実現するのか知らないけど、神の御子を私が生むということは、太陽が東から上ると同じくらい確実に実現すると信じているのよ」

 そこに突然ヨセフがやってきた。二人のマリヤは話題を変えてこのことについて話さなかった。暫くしてヨセフの姉はとても疲れたので少し休みたいと言いだした。そこでヨセフとマリヤの二人で散歩を続けることにした。

マリヤは、あちこちで美しい小花を摘みヨセフにあげた。又とても楽しそうに歌った。ヨセフは今でもガリラヤの丘や湖のことを思い出しては悲しんでいるのかをたずねた。

 「とんでもないわ、私はもうなにも悲しいことなんかないわ。だって私は神様から選ばれた女なんですもの。こないだ主の使いがあらわれて教えて下さったのよ。だから私は毎日ばら色、夜は安らかな眠りが与えられ、昼間の労働もちっとも苦にならず、何ひとつ悩まずにすごせるの。

私には直接感じなくても神様はいつも私と一緒に居て下さるんじゃないかしら。だから私の心はとってもおだやかなのよ」

 ヨセフはこのとき初めてマリヤが大天使ガブリエルと直接話しあったことを悟った。けれども大天使が語った御告げの内容についてはひとこともふれなかった。なぜならば今は御告げの内容にふれないほうが自分の心の秘密を知っているヨセフの姉を傷つけずにすむと思ったからである。

 そうこうしているうちに陽が西の丘陵地帯に沈みかけたころ、ヨセフはマリヤに自分の望みをうちあけた。彼はマリヤをナザレに連れ返って結婚したいと願った。

マリヤは彼の突然の申し出をきいて驚き、手にしていた小花を道端に落とし足でふんづけてしまった。ヨセフはマリヤの前に跪き、手をあわせ、ぜひ自分の望みを聞いてほしいと哀願した。そしてマリヤを愛していること、そしてどんなことでもマリヤを守り抜いていくという強い意志をあらわした。

 「ここでの生活は一日中辛い思いをするだけだよ、あなたの主人はとても苛酷な男だと思わないかね。あなたにはいつも荒々しい言葉をはいて、こき使っているじゃないか。一日中働きづめで、こんな寂しい所で一生辛い思いをさせられるだけだよ。ガリラヤに帰ろうよ。あなたの好きなガリラヤ湖にさ。

そうすれば僕はあらゆる悩みや苦しみからあなたを守ってあげられるんだが。僕の妻になってくれないか。ガリラヤでは今でも近所の人たちは、あなたのことを変人扱いをして本当に頭にくるよ。

でも僕の妻になれば、いくらなんでもそんなことは言わせやしないよ。僕の姉もクローパスと婚約しているから間もなく家を出ていくしね、そうしたら僕一人になるんだよ」

マリヤはその言葉を聞いているうちに突然泣き出して、それはとても出来ないことだと言った。マリヤはヨセフのもとから足ばやに駈けだして、暗くなった谷間を走り、一気に自分の寝る馬小屋に帰って、泣きじゃくりながら恐怖に身をふるわせていた。そこへヨセフの姉がやってきてマリヤを慰めいたわるのであった。


(註1)
へブル語で 「神の強い人」 という意味で、ミカエル、ラファエルと並ぶ三位の天使である。洗礼者ヨハネの誕生をその父ザカリヤに告知 (ルカ伝1・11,19参照)、マリヤにはキリストの母となることを告知した。(ルカ伝1・26参照)旧約聖書のダニエル書8・16、及び9・21にも記されている。


     

         大きな星

 その夜は、まことに霊妙な輝きに覆われ、天空はあたかも神が無数の宝石をちりばめた衣をまといながら歩いておられるようであった。地上は青色の外套で覆われ、人々には平和なひとときが与えられていた。

雪解けの水は小川に溢れ、ごうごうという音をたてながら飛沫(しぶき)をあげ、その音は眠れる間中ひびき渡っていた。

 マリヤは二人に別れを告げた。彼女は天から見放されたかのように、再び孤独な生活が始まった。馬小屋の中で寝るとき、破れた屋根の隙間から空が見えるのであった。空を眺めているうちに、天空に輝く宝石(星のこと)がそれぞれペアになって楽しそうにダンスを踊ったり歌をうたったりし始めるのである。

暫くして彼女は眠りに入った。目覚めたとき空が急に変化しているのを感じた。ひとつの大きな星があらわれて、彼女の真上に輝いていた。腕を伸ばして挨拶をしようとするのであるが、彼女の口は固く閉ざされて動かず、喜びの言葉も発することができなかった。突然彼女はそれがあの白鬚の賢者が東方で見た星であることに気がついた。

暗い馬小屋の一帯が内側から光が照らし、一人ずつ東方の賢者が行列を作って通りすぎて行った。手には各々台付きの黄金杯、没薬
(1)、乳香(2)などを持っていた。彼らはマリヤには目もくれず、飼葉桶(かいばおけ)の前に立ち止まり、跪いて頭を垂れ、捧げ物を桶のわきに置くのであった。

マリヤはただ黙ってこの光景にみとれていた。自分の息子が飼葉桶の中に寝かされているのを感じ取った。ガリラヤ湖の上を吹き抜けて行く微風のように、大天使ガブリエルの囁(ささや)く声が柔らかくひびいてきた。 「至高なる救い主よ、ヤコブの御座に永遠にすえられるであろう」


(註1)
アラビア・アビシニアに産する樹からとる芳香の樹脂で、高価な香料。(旧約聖書、出エジプト記30・23参照)

(註2)
かんらん科に属する乳香
樹で、樹皮を傷つけて出る分泌物を乾燥して得る香料。主として祭儀用として使われていた。(旧約聖書、イザヤ書43・23、及びレビ記24・7参照
     

    8  神秘の受胎

 眠らずに過ごした夜が去り、朝がやってきた。陽は照らなかったが、地上はしごく御機嫌であった。花々は妙なる芳香を漂わせ、川の細流(せせらぎ)はひかえめな歌を奏で、鳥のさえずりは荒野にひびいていた。

 マリヤは家の中の汚れ物を川辺に運んできて、きれいなつめたい水で洗濯をしていると、彼女をとりまく大地が話し始めるのを聞いた。草や木々でさえ、沈黙に向かって静かな喜びの物語を話しかけているように思えた。春の生命が楽しい日々に、すべてのものを躍動させていたからである。マリヤの頭上には、鳥の胸に生える白灰色の羽毛のような雲が空一面に広がっていた。

 すると柔らかな一条の光が神のもとから一瞬のうちに乙女に向けて発せられた。マリヤにとって、かつて味わったことのない喜びが胸いっぱいに広がっていった。

これですべてのものが完了した。マリヤは唯メシヤ到来の日を忍耐強く待たねばならないことを知った。マリヤはその夜、神の選びに与(あずか)ったことを知った。彼女はこれから起ころうとしていることを幻で見ることができた。

 霊という種が、処女という土壌に蒔かれた。その霊が成長し、解放者となり、彼の魂に触発された人たちは、彼の前に頭を垂れるのである。頭上に生命の冠を被り、望む者すべてに救いをもたらすのである。

 その日の高原は風もなく、谷間にひびく客足の音もなかった。旅館の主人は旅に出かけていた。おかみさんは家の中で昼寝をしていた。マリヤがたった一人で戸外で働いているうちに、夢見心地と
なり、幻を見ていた。

神の霊が彼女の魂に宿るのを感じた。恐怖どころかむしろ神の御子が彼女の魂の中で休息し眠っておられるという実感を覚え、彼女が此の世に生まれて以来、かつて味わったことのない喜びが全身にみなぎってくるのであった。

彼女が昔一人で丘や野を歩いたときに、暖かく導いて下さった神様に感謝の祈りをささげずにはおられなかった。

夕闇がせまる頃、空を覆っていた雲が西の方から切れてきて、黄金の冠のようなものが天から降りてきたかと思うとあたり一面を照らし、神の栄光の輝きを放つのであった。

 岩の上に干しておいた洗濯物はすっかり乾いていた。マリヤはそれらを籠の中にとり入れ、夢心地でよたよたと歩き出した。谷間から吹き上げてくる暖かい春風は頬にあたって心地よく、かさかさと音をたてながら今日一日と共に去って行くのであった。

 マリヤは途中で跪き、何度も感謝の祈りをささげた。この日には二度と味わえない甘美な霊的体験を味わい、生涯消えることのない神の栄光に与った。人っ子一人いないこの瞬間に、 マリヤは遂に彼女の魂に神の純霊(1)を宿したのである。

このような神秘的な出来事は、おそらく賢いと言われる人々や理解の乏しい人々に悟られず、かえって幼な子や心の清い人々に受けいれられるのであろう。

 谷間はすっぽりと夜の帷に包まれていた。マリヤは旅館に帰り、衣類を始末しているうちに、おかみさんはやおら昼寝から目をさました。おかみさんは、主人キレアスの夕食の支度をすますと、パンと山羊の乳を平らげた。

それから窓側にローソクの火を点し旅から帰ってくるキレアスの目じるしとした。窓から馬小屋に目を向けたときには、マリヤはすでにその中で深い眠りについていた。その馬小屋には、苦しみを通して与えられたあらゆる思い出が留められていたのである。


(註1)
ドイツの神秘家マイスター・エツクアルト(一二六〇~一三二七)は、「マリヤは胎内に御子を宿す前に彼女の魂に宿していた」と記している。

      


      死線をさまよう

 ユダヤの丘陵地帯には、夏の強い日射しを避けるものが殆んど無かった。それで春が過ぎてから戸外での労働は、まさに疲労との戦いである。不運にも昼の間全く休めない連中の辛さといったら
地獄の沙汰である。

 年老いたおかみさんは病いに倒れ、死んでしまった。それでその分だけマリヤの仕事が増えてしまった。旅館全体の掃除はもちろんのこと主人やお客の世話までしなければならなかった。キレアスは年をとって気むずかしく、マリヤに対し口うるさく、朝から晩までのべつ小言を言い通しであった。

マリヤはもう夢を見るどころではなかった。彼女が一寸でも手を休ませようものなら、大声をだして彼女を責め立てるのであった。こんな状態が一年近くも続いたので、十七才という娘盛りのマリヤの頬はこけ、骨と皮となり、涙も乾いてしまうほどであった。ガリ―船(1)を漕ぐ奴隷のようにこき使われていたのである。

一番悲しかったことは、夢がすっかり奪われてしまったことで、彼女の疲労はその極に達していた。神様の臨在感もうすれ、静かなひとときでさえ神様と話すこともできなかった。

マリヤは全く独りになることが出来ず、苦しみから逃れる術もなかった。彼女は遂に馬小屋の入口に躓いて藁の上に倒れてしまった。それでも主人に殴られるのではないかと思い、足をひきずるようにして仕事を始めるのであった。そんな状態で来る日も来る日も一日中牛馬のようにこき使われていたのである。

 秋が近づいた頃、マリヤの体力は限界に達していた。妙な恐怖感が彼女の魂を襲った。夕闇がせまった頃、周辺の谷間には悪霊が行ったり来たりしているような気配を感じた。悪霊が彼女の耳元で囁いた。その悪霊はキレアスの下僕で、マリヤが馬小屋に居る間中見はるためにやって来たと言った。マリヤは一睡もできず、ひと晩中悩まされ続けた。

彼女は大声をあげて叫びたかった。悪霊が彼女のまわりをうろつき、棍棒で殴りつけるからである。彼女には、こんな恐ろしいときでも祈る力さえ与えられなかった。マリヤはひとことも口がきけなかった。 神様は自分のことをすっかり忘れてしまったと思いこんでいたからである。


 あくる日の夕方、ガリラヤ地方へ向かう旅人の一団がやってきて旅館にとまることになった。その中に〝ミリアム〟という女がいた。彼女は昔マリヤの家の隣に住んでいて、マリヤが丘で祈っていた頃マリヤのことをひどく嘲笑した張本人であった。マリヤがこの一団のため手早くもてなしている最中に、あやまって水差しを落としてしまった。

主人はマリヤを呪い出し、ありとあらゆる悪魔の名前を挙げながら彼女を罵った。ミリアムは目ざとく引きつっているマリヤと知ると大声で言い出した。

 「これはこれは、マリヤじゃないか 漁師の娘で、ナザレでは評判の悪い娘だったね。うちの娘がさ、この悪魔の娘とおしゃべりしても被害はなかったけどさ、本当に呪われているよ、この娘は この家からおん出してしまいなよ。そうすりゃ、あんたも楽になるだろうよ」

 ミリアムはしきりに自分の娘をヨセフと結婚させたがっていた。それなのにヨセフは、マリヤ以外の娘には目もくれないことをよく知っていたので、わざと大げさにマリヤの放浪ぐせを悪くののしったのである。マリヤはすっかり縮みあがり、まるで鋭い槍で胸を刺されたように呻き悲しんだ。ミリアムの亭主は旅館の主人に充分な金を払った。

この主人にミリアムの噂を信じさせるためであった。キレアスはミリアムを喜ばせようと思い、いきなり棍棒をふりあげ、マリヤを家の外へつきとばし、体中をめったうちにした。マリヤは気絶して石の上に卒倒してしまった。キレアスはそのようなマリヤに目もくれず家の中に入り、ガリラヤから来た連中の話に耳をかたむけていた。

 夜になってマリヤは目を覚まし、体中に烈しい痛みをおぼえた。這うようにして馬小屋に戻った。翌朝目を覚ましたときには高い熱を出していた。

 一週間が過ぎてようやくマリヤは藁の上に立ち上れるようになり、熱もさがった。しかし彼女には恐怖がおそった。もう自分にはキレアスに仕える力がない、そんな自分は家から放りだされ、野原で野垂れ死にするのではないかと思った。それ程キレアスという男は非情な人間であった。

 その日の夕方、キレアスはパンと水を持ってきて言った。

 「明日までに起きられなければ、おれはお前を野原にひきずり出してやる、そこで死んじまったらいいさ もうおれは、ガリラヤで悪魔よばわりされていた奴の面倒を見てやるもんか」

 キレアスが出ていくと、マリヤは立ち上がり、遂に舌のもつれが解けて神に祈り始めた。余りにも心細かったので、叫ぶように神をよばわった。どうか天使をつかわして窮地からお救い下さいと祈った。マリヤは荒野でジャッカルや狼の餌じきになったら大変だと思ったからである。

キレアスの脅迫に恐れおののいて叫び声をあげていると、耳元で「マリヤよ、マリヤよ」 という声がきこえてきた。その声が非常におだやかであったので、天使のささやきであると思った。彼女の祈りがきかれたのだと思った。

ところが痛みは烈しさを増し、死の境を彷徨っていた。もう駄目かと思った。自分は見捨てられ、救い主の母になれないと思ったからである。また耳元でささやく声がした。目を覚まして彼女が見たものは天使ではなく、若い大工のヨセフの顔であった。そのとたん、彼女の心から死の恐怖、暗黒の荒野、独りぽっちの心細さが消えていた。

ヨセフは死の恐怖に追いこんだ地獄のようなこの家にマリヤをおいておくことには、もう我満ができなかった。彼はキレアスとかけあってマリヤは自分の許婚(いいなずけ)であるから今すぐナザレに連れて帰ると宣言した。

二人の男は散々ののしりあった挙句、キレアスはミリアムの話した醜聞 や若い大工を怒らせるような下品な言葉を使い、彼女を苛酷に扱ったわけを弁明した。

実際マリヤの体には棍棒で叩かれた生傷が沢山あり、彼女の両足は苛酷な仕事で老人の足のようになり、食物もろくすっぽ与えられなかったのである。これを知ったヨセフは初めこの旅館の主人を徹底的にぶちのめしてやろうと思ったのだが、老人の頭の白髪を見て我慢をした。

 「全くこいつは悪魔のとりこになってしまった。こいつを独りにしておけば悪魔の餌食になるだろう。これ以上の天罰はないからね」

 と吐き出すようにヨセフは言った。はたしてこのことが、その年の冬がやってきたときに実現した。旅館の主人は悪魔の餌食になり、無残な最期をとげたのである。


(註1)
(かい)のある古代・中世期の帆船で、奴隷や囚人に櫂をこがせた。最も苛酷な労役であった。 



     10   暖かい介抱

 ヨセフはマリヤを連れて旅立った。彼は旅の最中に弱りきっていたマリヤが死んでしまうのではないかと心配した。

それで道沿いから離れた丘の上に休息できる場所を探し求めていた。するとそこに数人の羊飼いが火を囲んで夕食をたべているのに行きあった。早速挨拶をかわし、今までの経緯を話したところ羊飼いたちは暖かく歓迎してくれた。一人の羊飼いが言い出した。

 「キレアスって奴は、大分前から悪魔にとりつかれていたようだ。おれはあいつが女を叩いているところを見たんだが、奴にやめろと言えなかったんだよ。奴は金持ちのおれの主人と友達なんだよ」 別な羊飼いが言った。

 「マリヤはちっとも悪くはないぜ。おれたちは彼女が聖なる人と思っているんだよ」 三人目の羊飼いが言った。

 「彼女はきっと特別な目的が与えられているんだぜ

 こんな会話がうとうとしていたマリヤの耳にきこえてきたので、彼女は一旦消えかかった甘美な喜びが芽生えてくるのを感じた。

彼女の体の傷跡の痛みでなかなか寝つかれなかったが、目をあけて星を
見ているうちに、きらめく星が一層身近かに感じられ、再び彼女の心を明るく照らす輝きとなっていた。更にそれは、神の衣にぬいこまれた宝石の輝きでもあった。

 彼女はあくる朝、陽がのぼるまですやすや眠り、その間に羊飼いたちは囲いから出した羊の群れを犬に追わせながら立ち去っていった。


         


     11  悪女のたくらみ

 ナザレにも秋がやってきた。樹々はすべて紅色、金色、銀色に変わっていた。秋の微風は清澄で肌寒く、砂漠やガリラヤ湖を越えて、真白で背の高い建物の立ち並ぶローマの街々にまで吹きぬけていくのである。全く始めの数カ月は、陽の光がマリヤの目をたのしませた。

丘から見おろす風景はすばらしく、どこを見てもすべてが懐かしかった。彼女は故郷に帰ってきたのである。その地は彼女に神々しい夢を与え、神と共に歩いていたという生きた証拠を与えてくれた所であった。騾馬に乗ってゆっくりと高台から降りていった。夕陽が長い影をつくっていた。

最初の暗闇が流れるように通り過ぎたと思うと、星屑や月の淡い光が射しこんできて、疲れている旅人の足元を明るく照らし始めた。喜びが胸にこみあげてくるので、ひとことも喋ることができなかった。

銀色に輝くガリラヤ湖を眺め、湖上に浮かぶ漁師たちの舟影を見ながら二人はただユダヤ教の規則(1)に従った挙式ができればよいがと考えていた。しかし明くる朝まで何も話さなかった。ヨセフはこの旅ですっかり参っていた。

 二人は結婚したばかりのクローパスの妻、ヨセフの姉に助けを求めることになった。姉はマリヤのために食事の世話をし、体ちゅうに受けた打撲傷をきれいに洗浄し、オリーブ油で痛みを和らげた。

 翌朝,早くからミリアムがやってきて戸を叩くのでヨセフが戸を開けた。ミリアムの顔付きはひきつっており、無情そのものであった。ミリアムは二人だけで話しあおうと目で合図した。家の外の庭までくるとミリアムは馬鹿なことを次から次へと捲(まく)し立てるのであった。

 「漁師の娘のマリヤはね、おやじが死んでから野山をさまよって、野蛮人のような生活をしてたのさ。お前さんだってあの娘がガリラヤの丘でうろうろ歩きまわっていたのを知ってただろうよ ありゃ、絶対悪魔の仕業にちがいないよ。従兄弟のやってた旅館にいたときも、同じことをしてたのさ。逐一旅館の亭主から聞いちまったんだ。

お前さんがいくら努力しても彼女から悪魔は追い出せっこないよ。お前さんあの娘を嫁さんにするなんて馬鹿なことはおよしよ あの娘は本当に評判が悪いんだよ、今のうちにあの娘を追払っちまうんだね

 これを聞いたヨセフは、かんかんに怒り、すんでのところでミリアムをぶちのめすところであった。愛するマリヤのためを思えばこそ、このお喋り者の口封じに挑戦した。

 「あの娘はね、夜明けのしじまのように純情で潔い女なんだ。彼女は神と語り合い、丘の上を独り歩きするときは、いつでも神と共に歩いていたんだ。お前のように純情な心をふみにじる下衆(げす)の女にはわかるもんか。

さあ とっとと出ていってくれ しらがの生えた頭がぶちのめされないうちにな これ以上おれの嫁さんになる娘のことを口にしたら承知しないからな。とっとと消え失せろ

 ミリアムは無言でそこを立ち去り、家に帰ってから更に悪いたくらみを計画した。ヨセフはマリヤに惚れこんでいる、しかし式を挙げる様子も見られない、これは何かマリヤに他人に話せない罪を犯しているからだ。そうだ、マリヤの醜聞(スキャンダル)をばらまいてやるに限る、とミリアムは巧妙な企みを実行した。

それでマリヤはガリラヤでは全く村八分にされてしまったのである。誰からもかまってもらえず、道を歩けばひそひそと私語(ささや)かれ、じろじろ見られるのであった。彼女に聞こえよがしに卑しいことが話されても、マリヤには何のことやらさっぱり解らなかった。

マリヤは本当に幼な子のように純粋で、汚れをしらなかった。ヨセフは自分の愛する人が散々貶(けな)され、傷つけられているのをじっとこらえていた。彼の顔付きは怒りでひきつっていた。姉のところへ行き、身も心も呑み尽してしまう疫病のような悪女どもをどうしたらよいか相談した。姉は言った。

 「そんなことを言われたからといって、お前の愛が萎(しぼ)むわけじゃないでしょう。私がマリヤに話して、どんなことを言われても対抗できるように武装してあげるわよ」

 姉は無垢なマリヤに、悲しみの背後に喜びがひそんでいることを話してきかせるのであった。

(註1)
トーラ (モーセの律法) ── イスラエルの道徳律、礼拝儀式、民法を含む細則。殊に婚約中に他の男と関係した者は即刻死刑となった。
ヨセフは懐妊しているマリヤを妻として受け容れるのにどれ程悩みぬいたか、余人の想像を絶するものがあったに違いない。


       
 
     12   赤子イエスに関する預言

 ヨセフとマリヤは、ひっそりと結婚し、ナザレを出て見知らぬ所へ旅立った。旅の途中でマリヤは男の子を生んだ。それは恐ろしくもあったが、同時にうれしくもあった。赤ちゃんが死にそうになったので貧しい旅館を探し介抱した結果、死をまぬがれることができた。

衰弱しきったマリヤの体も日毎に回復し、ヨセフと口がきけるようになった。ヨセフはマリヤとの約束を守り、その子を〝イエス〟と名づけた。マリヤが懐妊する前に、大天使ガブリエルの御告げをうけていたからである。

 マリヤが産後の潔めの式(1)に与(あずか)ろうとしている頃、大きな悩みごとで途方にくれていた。ヨセフは口数が少なくなり、すっかりふさぎこみ、目もよどんでしまった。彼らにはナザレに戻ってもそこに住むことができなかった。なぜなら町のおかみさんたちが二人のことをひどく中傷していたからである。

生まれた赤ちゃんは、ヨセフの子ではなく、見知らぬ男との間に生まれたという中傷であった。ヨセフとマリヤは、とある律法学者(2)と相談をした結果、エルサレムへ上京し、神殿にお参りして、その子に関する神様の御神宣をきいてくることになった。

 聖都エルサレムを目にしたとき、マリヤは小躍りして喜んだ。太陽の光に輝く塔がそびえたつ神殿を目の当りに見て驚いた。神殿の入口からきこえてくる祭司たちの祈の歌声や、トランペットの高尚な響きにうっとりとするのであった。恰も胸に抱いている赤ちゃんに呼びかけているかのように思えた。

 もうマリヤは当惑することはなかった。彼女は信仰によって強められ、彼女とヨセフの間に重くのしかかっていた闇が取り除かれる日が近くやってくることを信じていた。

 彼らは雉鳩の番(つがい)を神殿に捧げ、帰ろうとするとき、早朝の祈のときに彼らに話しかけてくれた一人の老祭司とばったり出逢った。彼の名は〝シメオン〟と言い、高潔な人であった。彼の顔は霊の光に輝いていた。

シメオンは彼ら二人を呼び、古い偉大な神殿内の一室に案内した。
そこで彼は朗々と神様を讃える美しい祈を捧げた。ヨセフとマリヤはそこに跪き、彼の口をついて出てくる感謝の詩篇や彼の気高い風貌に心をうたれた。間もなく彼らはこの老祭司が、マリヤのだいている赤ちゃんのことを言っていることに気がついた。

老祭司は大声でこの赤ちゃんをイスラエルの栄光である〝メシヤ〟と言って讃えるのであった。

疑いは晴れ、恥と苦悩はまるで夜鳥のように消え失せてしまった。ヨセフはもう投げやりになることもなく、又ガリラヤで近隣中から悪口を言われることに怖れをなすこともなくなった。ヨセフはマリヤの方を見て、にっこりと笑った。

その笑顔の中から、二人の仲には何の拘泥(こだわり)も無く、暗い影が消えてしまったことを彼女は知ることができた。

 更に驚いたことには、老祭司シメオンが赤ちゃんをマリヤから受けとり、だきかかえながら祝福した。そこへ老女アンナ(敬虔な女預言者=訳者)が入ってきて、いきなり大声をはりあげ、この赤ちゃんがメシヤとして来臨して下さったことを神様に感謝するのであった。老祭司が言った。

 「この子は、イスラエルの多くの人々を立ち上らせたり沈めたりするであろう。見よ、鋭い刃がこの子故に、母マリヤの胸を貫き通すであろう」

 この預言めいた言葉を聞いたヨセフは、シメオンに近より、彼の耳元で心配そうに話しだした。マリヤのことで近隣の者がふれまわっている中傷のことや、大天使ガブリエルがマリヤに御告げをしたとか、あらいざらい今までのことを話した。そして最後に、この子がメシヤなどと言いふらしたら、どんな非道(ひど)い目にあわされるか分らないと言った。そこでシメオンはいい知恵を与えてくれた。

 「このことは誰にも喋ってはならない。この子にも、物心がつくまでは教えてやらないがよかろう。ひっそりと暮らし、この子が少年になるまで見守ってやりなさい。きっと神様の使命を果たすときが来るであろう。いつ、どんなふうに立ち上るかはわからないが、彼はイスラエルだけではなく、外国人、否全人類の救いのために立ち上がるであろう」

 この老祭司の知恵にあふれた言葉に心から感謝してヨセフとマリヤは神殿を立ち去った。彼らは貧しかったので、すぐにナザレへ引き返さなければならなかった。ヨセフはナザレにしか仕事をするところがなかったからである。蓄えたわずかなお金も全部使いはたしてしまったので、ヨセフは毎日夜おそくまで働かねばならなかった。

 エルサレムに別れを告げてから、マリヤの心には大きな喜びが満ちあふれていた。ナザレに帰ってきてからは、マリヤはどんな女とも口をきかなかった。赤子をだいている姿を見せれば、きっと彼女たちの好奇心を刺戟し、口うるさくなると思ったからである。

たまさかであるが、ヨセフの仕事が休みで家に居り、近所の連中が祭りで出払っているときには、独りでこっそり野原へでかけて行き、小川のほとりに腰をおろし、そよ風にゆらぐ樹々の葉音や、せせらぎの音に耳をかたむけていた。

こんなひとときが、彼女の日頃の疲れをやわらげ、彼女の新しい人生に勇気を与えてくれた。とかくヨセフが他人の噂を気にするあまり、仕事がとれず苦しい思いをすることもあった。ヨセフはいつでも彼女には優しかった。しかし大天使ガブリエルやシメオンの啓示のことは、一切口にするなと命令した。

 「今はとても辛く、危ないときだ。非難されないようになるまでがんばるんだ。本当にわかってくれるような友達ができるまで」 とヨセフは言うのであった。マリヤも息子のイエスのことを思い、ヨセフの命令に従った。

 このようにひっそりと身を縮めるような生活をしているにも拘わらず、大変なことが起きてしまった。赤子をだいて外出しているときを狙われて、数人の悪女共がマリヤのあとをつけ、しつこくからかったり嘲ったりした。マリヤは家に帰り、暫くの間ふるえがとまらず、泣きふしていた。

純真無垢なマリヤにとって、わけのわからぬ凶暴な言葉の嵐は大きな傷痕となったのである。


(註1)
旧約聖書のレビ記12・2の規程に従って、イスラエルの婦人は出産後、一定期間中 (四〇日間) 汚れているとみなされ、神殿内に入って礼拝に参列することが許されなかった。

これは男の子の場合で、更に女の子を出産したときは、八〇日間も汚れているとみなされていた。汚れの日があけてから、定められた捧物を持参して清めてもらうことを〝潔めの式〟と言っていた。


(註2)
モーセの律法を解釈する法律家のことで、現代の法廷判事顧問のような権威ある存在であった。当時のユダヤ人社会では、民衆から尊敬され、上流階級の意識が強く、〝ラビ〟(私の先生)と呼ばれることを好んだことから、第一世紀の終り頃から、ラビという称号は、律法学者を呼ぶのに用いられるようになった。



    
     13   村八分の四年間

 四年の年月が流れた。ヨセフの姉、マリヤ・クローパスが帰ってきた。彼女はナザレを離れている間、大工の弟から何の便りもなかった。そんな訳で、マリヤが昔のままであるか、それとも別人のようになってしまったか、あれこれと想像しながら帰ってきた。いざ会ってみると、二人とも幸せそうではなかった。

 「あら、お前たら、長い顎鬚なんかつけちゃって、どうしちゃったのよ あれからまだ四年しか経っていないのにね」彼女は大工の妻のことには全くふれなかった。

なぜなら、マリヤは以前のような瘦せこけた娘ではなくなり、とてもふくよかで美しくなっていたからである。今ではもう立派な女となり、歳月が彼女の容貌を変えてしまった。手足もふっくらとなっていた。しかし彼女の額(ひたい)には悲しみの痕が歴然と刻みつけられていた。まるで昔の痩せこけたマリヤの席に全く別の女が座っているようであった。

三人の子供たちが土間で遊びまわっていた。彼女の手は休む間もなく、食事の支度をしたり、糸紡ぎの仕事に夫ヨセフと共に働いていた。彼女は布を織り上げ、堂々たる風格で立ち働いているので、マリヤ・クローパスは少なからず驚いてしまった。

 「あなた、本当に変ったわね。マリヤ 心まで変わってしまったの?」
 「何も言えないわ」、 とマリヤは答えるだけであった。しかし返答の声には悲しみの響きがこもっていた。

 「そう自棄(やけ)になるもんじゃないわよ これからが花を咲かせる年代(とき)じゃないか。ねえマリヤ あなた今でも夢を見るの?」

 「とんでもない!! 一日だってそんな日があるもんですか。うちにはね、食べなきゃならない口が五つもあるんですから。それに、夫は病気で長いこと寝ていたんですよ。だから借金だらけでね、全部返してしまうまでは、こうして休みなく働かなくちゃならないんですよ」

 マリヤ・クローパスは、マリヤが本心をぶっけていることを知った。そして弟がどんなに辛い思いでいるかも察知した。

 「姉さん、マリヤの深い愛情が無ければ僕はとっくの昔に死んでいるよ マリヤは一日中夜おそくまで働いて、僕が立ち上れるまで、一家が飢死にしないようにがんばっているんだよ」 とヨセフが言った。

これを聞いて姉はとても悲しかった。素早くマリヤに目を向けてみると、たしかにマリヤの顔には苛酷な労働と苦労の痕が深く刻みこまれていた。

 「じゃ、夢どころではなく、イスラエルの救世主になる息子のことも構ってやるひまはないわね」 と、姉はささやいた。
 
 「お祈する間もないのよ、もう何カ月もの間ナザレの道を歩くのがやっとで、あの丘の上には行けないんですものね」

 「だけど、この三人の男の子のうちの一人は確かに大天使から選ばれたんでしょう。あなたは大天使様の約束を忘れてしまったのかい。あなたの処にあらわれて下さったあの方の約束を

 「いいえ 忘れられるもんですか でも此の頃は、こんなに不幸が重なっても大天使様は来て下さらないんです。この子たちを飢死にさせまいと
思い、いやいやながらも、あの非道(ひど)いミリアムの所にパンをわけてもらいに行ったりして・・・・・・」

 「それじゃ、大天使様の約束はもうだめだというの?」
 「私の子供たちをよく見て下さい そうすれば、ひとりでに答えはおわかりでしょう」

 遂にマリヤ・クローパスは、マリヤの辛い答えの中にイエスの母親として、何かつかえるものがあるのではないかと察し、優しく話しながら、ひとことひとこと頷き、マリヤの心に潜んでいる悲しい記憶を引き出すように努力した。遂にマリヤが心に秘めていた心配事を彼女にうちあけた。

それは、まるで体につきささった槍を引きぬくときのように苦しみ、全身をふるわせながら告白するのであった。

 「私たちは、初めの頃の生活はそんなに苦しくなかったわ。ひもじい思いもせず何とか食べられるだけで満足していたの。ところが、あのミリアムが、いやがらせの材料を見つけては、それは口では言えないようなひどいいじめ方をするの。ミリアムはヨセフを借りきって自分の家の大工仕事や庭仕事をやらせるんです。

ある日の夕方、とってもむし暑い一日でした。ヨセフが何も食べないで働いていることを承知の上で彼を呼び入れ、新しい葡萄酒をのませたの。彼はあまりお酒には強くないのと、おなかが空っぽだったので、頭がくらくらし、口が軽くなってしまったから大変、私のことや、大天使ガブリエルの約束によってイエスが生まれたことをペラペラと喋ってしまったのよ。それを知った仲間たちは、鬼の首でもとったように私のことを嘲けり、口汚くののしったの。

それからがもっと大変、それを伝え聞いた長老たちがかんかんになって怒り、神を冒涜するも甚だしい罪悪、言語道断であるとののしって、よってたかってヨセフをミリアムの家から放り出してしまったんです。

彼はよろめきながら歩いているのを若者たちが見てヨセフをからかったので、彼はかっとなって若者たちを殴りつけてしまったの。夏も終りに近づいていたので、ミリアムの庭にあった井戸の水は枯れ、蓋もしていなかったので、酔ったヨセフはその中に足をふみはずして落ちてしまったんです。

地上に引き上げるのに随分時間がかかってしまい、引き上げてみると、もう自分では動けない程衰弱していました。背中は傷だらけで、まるで死人のようでした。

それからは、このあばら屋の中で何週間も手当てを続け、パンを買うお金もなく、子供たちは泣き叫ぶのです。おまけにその年は、収穫が思わしくなく、葡萄やオリーブが不作でね、いつも私たちに親切にして下さった近所の人たちも飢えてしまい、自分たちが餓死しないようにするのが精一杯なのよ。

そこで意を決してパンをもらうためにミリアムの家に行き、戸口の前に立ったの。ミリアムったら、まるで毒蛇が猛毒を唇の真下に溜めこんでいるみたいに、私やイエスのことを口汚くののしり、それをじっとこらえて聞いている私をめがけてパンを投げつけるのよ。くやしくって・・・・・・」

 そうこうしているうちにヨセフの体はよくなっていっても、大天使様やイエスのことで受けた心の傷は直らず、ヨセフはいつも白い目で見られるようになったの。彼の腕はたいしたもので、彼程の職人はガリラヤでも見つからないと言われていたのに、この辺の人たちはそんな彼を嫌って、職人をわざわざテベリヤから高い金を払ってまで連れてくるしまつなのよ。

 最近は人々の気持ちもやわらいできたので、このまま私たちが何ひとつ喋らなければ、なんとか暮らしていけると思うわ。この冬も飢えなくてよさそうなのよ」

 「そうだわよ 口にはよくよく注意しなくちゃね。とくに約束されたメシヤのことは絶対喋っちゃだめよ

 「はい、そうなんです。そんなことしたら、もう生きていけないわ。またミリアムがろくでもない事を言いふらすんだから。私は馬鹿だから、つい冒瀆めいたことを話してしまうんじゃないかと思ってびくびくしているのよ」 マリヤは頭をたれて、嫉妬に狂った一人の女の恨みによって蒙ったあらゆる苦悩や心配事を顔にあらわしていた。

 暫くしてマリヤ・クローパスが言った。

 「何が冒瀆なもんですか とんでもない。私はマリヤのことを信じるわ 大天使様が夜中にあらわれて、あなたに約束された通り、きっと実現するわよ」 マリヤは泣きながら言った。

 「お姉さまが一緒に居て下されば私もとっても心強いんだけど、なんだか私自信がないの。私には学もないし、律法学者が来ておっしゃるのよ、私の信じていることなんか当てになるもんかって。それはきっと、悪魔の囁きにきまっているって、言うの」

 ヨセフが庭から声をかけたので、姉は彼の所へ行った。そしてマリヤが若い頃体験した不思議な出来事を弟が信じなくなっていることを知った。むしろそんな忌まわしいことなんか消えてなくなってしまえばよいとすら思っていた。ヨセフは姉に言った。

 「そのおかげでおれは殺されるところだった。やっぱりありゃ悪魔のしわざだよ
 「じゃ、あの老祭司シメオンの預言はどうなの?」

 「ありゃ偽預言者だよ みてごらんよ、おれたちの抱いた馬鹿げた夢のおかげで散々な目にあったじゃないか。おれはそんなものに関わるなんて真平(まっぴら)だよ。この忌まわしいことを心の奥深くたたみこんでしまうか、それともこんな思い出を抹殺できなけりゃ、どんな罰でも受けるつもりだよ。

この地上から殺されたっていいよ。もう二度とこんな恥ずかしいことを誰にも言わないって約束するよ、姉さん。おれたちはひとこともそれに触れさえしなければ、きっと幸せになれると思うよ」

 マリヤ・クローパスは実に賢い女であったのでマリヤを呼んで、もう一度だけやさしく諭すのであった。

 「どんなに苦しくても、恥じたり怖がったりしたらだめよ。昔のことは誰にも言わないように用心しなくちゃね。でも初子(ういご)について与えられた預言は大事にしておいて、心の中でしっかりしまっておくといいわ。

一人になって静かになったときには、そのことを深く思いめぐらして、あなたが若いときに丘の上で神様がおさずけになった賜物(たまもの)が本当であったかどうかを考えてごらんなさいよ
」 マリヤは黙って聞いていた。


  

     14  平和な七年間

 ガリラヤの商人のもとで働いていたクローパスは、とても誠実な人であったのでエルサレムやエリコ (エルサレムより東方へ18マイル、死海の北端より5マイルの所にあり、ヨルダン川西域の最古の町) の地域まで仕事をまかされていた。妻のマリヤ (ヨセフの姉) も夫と共にナザレから遠くはなれて暮らしていたので、ガリラヤの丘や湖のことをすっかり忘れていた。そこに、旅人たちがヨセフとマリヤの消息をはこんできてくれたのである。

クローパスの親戚の者がやってきて、ナザレの大工は今とても幸せに暮らし、家の者も皆平和に過ごしていることを伝えた。二人は全く別人のようになっているという。崇高な幻のことは一切触れなかったので、忌まわしい迫害は二度とおきなかったという。

旅人の報せによると、彼らの家の戸口に潜んでいた苦悩と恐怖という化け物はすっかり消え失せてしまったようである。それから七年の歳月が流れた。時間はまるで雇われた人のように、喜びや悲しみの下僕となってあらわれた。

ヨセフとマリヤにとって、それは一瞬のように流れていった。彼らは七年の間、大天使ガブリエルの約束事とか、初子に関する預言や幻についてはひとことも喋らなかった。

 ある一人の金持ちの魚問屋がいて、クローパスにナザレで働いてもらいたいと申し入れてきた。それでクローパス夫妻は、曲りくねった道を驢馬に乗ってエルサレムからナザレに向かって旅立ったのである。彼女はへとへとに疲れてしまった。

 ふと、向かうから小さな子供たちが夢中で話しながらこちらに歩いてくるのが目に入った。彼らはこの暑い日に、勉強を終えて学校から帰る途中であった。その中の一人がヨセフの息子であることを知った。その子のふさふさした黒髪や、胴まわりのがっちりしているところ、そして熟した葡萄のような暗黒色の目をしていたからである。

<この子は、たしかに最初の子じゃないわ、でも変ね、初子は威風堂々として美しくなければならないのに、この子ったら、まるで半病人みたいに貧弱だわね>とマリヤはブツブツ呟いた。

がっちりしている子の側に、青銅色の肌をした少年が立っていた。その子の目は木陰の池のような薄茶色をしており、気難しい顔付きで、髪は枯葉のような色をしていた。青ざめた頬は、強さや気力のようなものが見られず、後ろ姿は何となく弛 (たる) んでおり、ほっそりとしたスリムな身体つきは、まるで樺の木のようであった。

喋るときは全身をふるわせるので、強烈な霊にとり憑かれているようであり、自分では制御できないようであった。

 マリヤ・クローパスは夫に言った。

 「本当にこの子ったら、人の魂を揺さぶり、燃え上らせる力をもっているんだわ。しばらくこの二人の子をじっくり観察しなくちゃね」 彼女は旅で疲れている驢馬を休息させた。

 そのうちに薄茶色の目をした男の子が首をふってわめきだした。

 「もうやめた 丘の上に行って一人遊びさせてくれよ」 黒い目をしたがっちりした子が怒り、仲間をけしかけてその子をいじめだした。沢山の蜂がたった一匹の蜂をせめたてるように、その子を叩き罵った。

マリヤ・クローパスは見るに見かねて夫に止めさせるように頼んだのであるが、とりあわなかった。自分を呼んでくれた魚問屋の所へ急いでいたからでもあった。

 夕方になってマリヤ・クローパスは大工の家に着いた。マリヤは愛想よく迎え入れた。彼女はすっかりガリラヤの女になりきっていた。顔付も以前のようでなかった。夕食をたべているところに二人の男の子が家の中に入ってきた。

ナザレに入る前に出逢った子たちであった。がっちりとして背の高い子の名は〝トマス〟と言い、最初に生まれた子ではないことを知った。エルサレムの神殿で告げられた老シメオンの言葉を以前耳にしていた彼女は安心した。

なぜなら、彼女が思っていた通り、この黒髪の男の子は群れの中の一人であったからである。彼は逞しく強そうな身体をしているのであるが、どことなく品が無く、目は虚(うつろ)であった。もう一人の痩せた薄茶色の髪の少年を見上げながらマリヤ・クローパスは彼の腕をとりながらマリヤに言った。

 「ひと目でこの子が〝イエス〟だとわかったわ、あなたの若いときとそっくりじゃないの。普通の人間とはどことなく違った不思議なムードを持っているわね」 イエスは伯母の手をとってにっこり笑った。彼はひとことも喋らなかったが、慈悲深い顔付きや星のように輝いている神秘的な目付きに、伯母の心は深い感動をうけた。

そのとき何か突発的な出来事が起こって、恰も此の世からあの世に移り住んだような錯覚をもったのである。驚きの余り、体中を震わせ、不思議な感銘から徐々に平常な心に戻ることができた。日が暮れると、子供たちは眠りにつき、母マリヤが仕事を終えてから庭にいる姉のところにきて言った。

 「イエスは優しそうな顔つきで、きゃしゃな体をしているけど、トマスの方は一つ年下なのに強そうでハンサムで、仲間うちのリーダーなんだから本当に驚いちゃうわ。夫ヨセフが言う通り、トマスは偉くなるんでしょうね。どんな人になるのかわからないけど、きっとみんなから尊敬される人物になるんじゃないかしら」

 「イエスはどうなの?」、とマリヤ・クローパスはすかさずきいた。

 「ヨセフが言うのよ、あいつは駄目だってね。ときどきヨセフが心配して悪霊に欺されないように見張っているのよ。大きくなったらきっと私たちに恥をかかせることになるからってね。

イエスはね、独り歩きをして浮浪者や乞食と仲よしになり、同じ年頃の子とは遊ぼうとしないの。そして髭を生やした浮浪者の足元に何時間も腰をおろして彼らの話に夢中になっているのよ。あの子ったら。おまけに何も知らないくせに、ナザレにいる律法学者のことを貶(けな)すんだから、本当にあきれてしまうわ」 マリヤ・クローパスはムッとして言った。

 「イエスは人々の心を刺戟して、きっと多くの人に義憤を感じさせ立ち上らせるのよ。だから私はイエスが好きなのよ」

 「そうなのねえ、あの子ったら早口で、しかも私が日頃気を使っている町のお偉方のことになると、目茶苦茶にこき下ろし、お偉方の怒りなんかは全く頓着しないでやっつけちゃうのよ。今にきっとあの子は、みんなをそそのかして逮捕されるようなことになるんじゃないかしら。とても心配だわ」

 「だけどイエスはとても大人しいし、私には丁寧だったわよ。私がナザレに帰ってきたとき道ばたで見かけたんだけど、弟のトマスに口のあたりを殴られても彼の腕を掴まえて、軽蔑の眼で彼をじっと見上げるだけで殴り返そうとしなかったのよ」

 「だからトマスはもっとひどく怒るのよ、弟にやられたら殴り返してやるといいのにね。あの子ったら他の子のようになれず、自分勝手なことをしたり、かと思うと急に怒りだしたり、私の心はいつも穏やかじゃないのよ」

 「イエスは、あなたが若いときに祈り求めて咲いた花なのよ!! イエスを責めちゃだめよ。そんなことしたらあなたの幻が台無しになってしまうわ」 





      15  日の出の語らい

  暫くの間マリヤ・クローパスは家事に忙殺されていた。子供はまだ幼く、毎日育児や家事に追われていた。彼女はイエスのことについて、とりわけ出生前の大天使の約束や誕生直後のことなどに注意深く思いを寄せていた。彼女は長男の幼いヤコブに言いきかせた。

 「あなたの従兄弟のイエスと仲良く遊びなさい。そしてイエスのことを色々きかせてちょうだいね。イエスはね、自分の年令(とし)よりもずっと賢い子だから、お前の模範として真似るといいわ。でもイエスの悪口を言ったり、いじめたりする子とは遊んじゃいけないよ」

 ヤコブは同じ年頃の子供の中では、平和を好む穏やかな性格であった。彼は喧嘩も言い争いもせず、とても謙虚であった。彼は母の約束を守り、イエスの言動をすべて記録した。マリヤ・クローパスが集めたイエスの物語は、すべてヤコブの報告に基づいたものであった。

 ガリラヤ湖の北側は、なだらかな丘陵になっていた。何年かたつうちに、とても美しい森が丘の斜面に生い茂り、オリブの木立や葡萄畑が丘一面に広がっていった。ナザレの北側には高原地帯があって、そこから山々を眺めることができた。

 朝早くイエスはその高原に通じる険しい道をよじ登って丘の頂上へ行った。ヤコブもそっとイエスの後についていった。ヤコブは自分よりも年上の従兄弟に不愉快な思いをさせまいと思って、自分の心を開かないようにしていた。

イエスは後をふりむきもせず、目前に聳える丘を見すえながら前へ進んで行った。住宅地から遠くはなれ、誰の目からも見られない所に来るまでは休もうとはしなかった。目的地に着いたとたん、イエスの顔付きが変わった。静かに歌をうたい、花を摘み、草の上に寝そべって飛びかよう鳥たちを見守っていた。

静けさが心の中にみなぎったとき、彼はそこに跪(ひざまず)き頭を低く垂れた。ヤコブが見守っているうちにイエスの肩が大きく上下し、彼の体全体が心の嵐に出合ったように震えだした。その状態が去ると非常に静かになり、ヤコブがそっと近づいてみると、何と彼の顔は天を仰ぎ光り輝き、まるで天使の顔のようであった。

イエスは膝をついたまま上体を挙げ、両手を大きく開いて、二度か三度挨拶をかわした。大声をあげながら聖書の言葉を口にし、その言葉が真理に基づいているかどうかを質(ただ)し、更に神の御意志(みこころ)を明確にあらわしている御言葉があるか否かを尋ねた。

その光景は、まるで律法学者を目の前にして大事な教えを授(う)けているかのように見え、賢者どうしが話しあっているようにイエスは振る舞った。周囲にはイエスしか居ないのに、誰かと熱っぽく話したり相槌を打つのであった。

 ヤコブはイエスのまわりを見回し、生い茂った森の中をのぞき、あちこちを丁寧に探しても律法学者らしき人は見当らなかった。ヤコブの目には、ただ森や足元に生えている草むらや天空の青空しか見当らなかった。ヤコブは静けさの中で呟いた。<彼は花や鳥と話しているんだろうか?>答えは得られなかった。

ヤコブにとっては、イエスが神の知恵の御言葉を空中に描いているようにしか思えなかった。話しては止め、空中に耳を傾けイエスの目付きからそうとしか思えなかった。人っ子一人住んでいない寂しい場所であった。ヤコブの悩みは大きくなっていった。彼は次第に従兄弟に恐怖をおぼえるようになった。

イエスは日の出に輝く空気に向かって語りかけ、遠い遥か彼方のカルメル山から吹いてくる微風(そよかぜ)に返事をし、ガリラヤ湖を横切ってきた風のように囁いていたからである。ヤコブはイエスが語り合っている相手のことよりも、イエスが口にしている言葉の方に注意してみることにした。

 ヤコブはこのことを一部始終母に話した。母はヤコブにもっと接近して、イエスが石や草や空気と本当に話し合っているのかどうか調べるように言った。


 「お母さん、イエスはね、石や草と話しているんじゃないよ。たしかに誰かが居るんだよ、もしかしたら悪魔かもしれないってナザレの律法学者が言うんだ。

悪魔はよく子供たちにあらわれて変なことを囁くんだってさ。僕にも気を付けろって言われたんだ。そんなときには指を両耳にさし込んで逃げろっていうんだよ。悪魔と言葉をかわしたら忽ち地獄につき落とされてしまうんだって」

 「イエスは悪魔となんか話すもんですか 何も怖がることはありません 私が言った通りにイエスに近づいてごらんなさい。思いきって、イエスが誰と話しているかをきいてみるといいんだよ」


 そこである曇った朝、空一面に雲が広がり、霧が湖の上を覆っているとき、ヤコブはイエスが跪いて静かに祈っている岩から数メートル離れた所にある樹蔭(こかげ)に隠れていた。静かなひとときが流れ、ゆっくりと光が射し込んできた。薄暗い所では東の空を見上げながら囁いている人の顔ははっきり解らなかった。突然イエスは立ち上り熱心に叫んだ。

 「主よ、御話下さい 私は此処に居ります」 それから暫く沈黙が続き再びイエスが叫んだ。

 「だから私たちは、すべて神の子なのですね ハイ、ハイ、その通りです。・・・・・・悪人でさえも迷(まよ)いの中に居る者も、そして・・・・・・異邦人(ユダヤ人以外の民族を異邦人と称し、神の選びにあずからない罪深い民族と考えていた──訳者註) でさえ神の子なのですね、だからこそ神はすべての人々に憐れみをかけられるのですね」 再び沈黙が流れた。

すると突然腹の底から絞り出すような声を出して、イエスの質問が確かな返事として返ってきたような感じがした。知恵ある御言葉に接した者が見せる喜びの色がイエスの顔全体にみなぎっていたからである。

 日の出の太陽がイエスの顔を照らし、イエスは立ち上り、誰かと一緒にいるかのようにあちこちと歩き回った。このようにして一時間程経った頃、ヤコブはついに我慢しきれず、隠れていた樹陰からとび出して、ワナワナと震えながら叫んだ。

 「誰と話しているんですか?」

 イエスが従兄弟のヤコブだとわかると、厳しい口調で静かにするように命令した。イエスの声があまりに凄かったのでヤコブはその場で竦(すく)んでしまった。イエスは一緒に居た人と思われる方にお辞儀をしてからヤコブのもとにやってきた。

 「私と話していたお方を見なかったかい?」
 「いいえ、誰も見ませんでした」

 「あの方は預言者だった方で、僕に話しているのを聞かなかったかい?」
 「いいえ、なんにもきこえませんでした。律法学者は悪魔だけが子供の耳元で囁くとおっしゃってます」

 「私と話しておられた輝くような御方が暗黒の王子ベルゼブル(1)だと思うかい?」

 「とんでもありません。あの方が悪魔だと言っているんじゃありません、ただ、あの律法学者は何でも知っている学校の御方です、先生が律法学者の言う通りに従いなさい、て言われたのです」 暫くの間イエスは黙っていた。彼は草むらに生えている白い花を摘みとってヤコブに言った。

 「律法学者はこの百合の花がどうして成長し、美しい花を咲かせるか知っているだろうか? 彼は生命の秘密を知っているだろうか?  彼は茎を伸ばし、葉をつけ、蕾をならせ、美しい花を咲かせる種の不思議な秘密をみんな知っているだろうか?」 ヤコブは答えた。

 「いいえ、彼はそんなことは知らないと思います。神様だけが、それをお創りになったのですから御存知です。学校の先生はそうおっしゃいました。」

 「そんなら律法学者は何にも知らない訳だろう?」 ヤコブは困惑した表情で頭をたてに動かし、イエスに同意した。イエスは続けた。

 「この一輪の花のことすら解らない方が、それ以上の難しいことを解るはずがないじゃないか」
 「そうですねえ」

 「律法学者は何も知らないからこそ、悪魔が僕の耳元で囁いたなどと言ってるんだよ。静かな早朝に、輝ける預言者と話していることなんか解るはずがないじゃないか

 「はい、それはそうですね。でも、律法学者は深く学問をした御方です。あなたがどなたと話していたかを言ってくれなければ、彼には分ってもらえません。それに、あなたは僕よりも年上の少年ですが、学問をおさめたわけではないので・・・・・・」

 「僕はね、丘の上で独りで居るときに、天におられる父上(神様)が私に直接話して下さったんだよ」

 この言葉を聞いたとたん、ヤコブは地上に倒れ、がたがた震えだした。暫くの間頭もあげず、じっとしていた。彼は日頃長老たちから、至高なる神様の御名前を大声で口にしてはならないと厳しく教えられていたからである。

それは絶対に口にしてはならない神聖な御方であり、至聖中の聖なる御方であるから、賢者や祭司のみが口にできることと教わっていた。だからヤコブは、その御方のことを口にしたイエスは即刻撃たれて、地上に倒れ死んでいるのではないかと思った。

そっと頭をあげて見ると、驚いたことに、イエスは彼の目の前に立っていて、ほほえんでいるではないか。

 「ヤコブ お前は何をそんなにびくびくしているんだい」

 「やっぱりあなたは悪霊にとり憑かれているんだ ただ預言者や聖なる御方が至聖なる御方のことを口にできるって、律法学者の〝ベナーデル〟が言ってました」

 「ベナーデルだって? こんな小さな花に隠されている秘密すら解らない方が ねえヤコブ そんな人の話をどうして信じているのかい、彼は年老いて白い髭を生やしているだけじゃないか。神様は僕の父上なんだ。

そしていつも僕の心の中に居て下さることを知らないのかい だからこそ日の出の静かな頃、このあたりで父上の神様と話ができるんだよ。ヤコブ お願いだからこのことは誰にも言わないでおくれ。特に律法学者のベナーデルにはね」

 「もちろんですとも、僕は口がさけても言うつもりはありません、とっても恐ろしいことですから」 ヤコブは目を地上におとしながら悲しそうに言った。

 「僕は此処に来なければよかったんです。そうすればあなたの暗い秘密も知らずにすんだのですから」

 「ねえ、これは決して暗い秘密でもなんでもないんだよ。僕にとって最もうれしいことなんだ。天の父上とこうして話ができるときが一番幸せなんだよ。お前もせめてその御声を聴くことができたらいいのだが。

夜明けの静けさの中から、あふれるような神様の御言葉が魂の中に流れこんできて、もう何も恐れるものが無くなり、喜びでいっぱいになれるんだよ」 ヤコブは小さな声で弱々しくささやいた。

 「あなたは、まるで自分が神様にでもなったように話している。しかも天の父上と自分が全くひとつであるかのように」 ヤコブの顔面は蒼白になり、ただイエスにあきれるばかりで、何とも言えない恐怖におそわれた。

 「そうじゃないんだよ、僕はただ神様の子供だと言ってるんだ、子は父に似るように、僕は天の父上のようになりたいと願っているんだよ。預言者エリヤ(2)がこの丘の上で僕にあらわれて下さって、どうしたら神様と話し合えるかを教わったんだ。そのおかげで、こうして神様と出逢うことができるようになり、つとめて神様の御意志(みこころ)を実践しようと努めているんだよ」

 ヤコブはイエスの話に耳を傾けているうちに、不思議にも次第と恐怖心がうすれ、逆に畏敬の念が心の中に充満してくるのを覚えた。

 「あなたこそ将来偉大な〝ラビ〟になられる御方です!!

 「いやいや、僕はラビなんかになるつもりはないんだよ。ただ僕は天の父上の御意志(ミココロ)を実践したいと思っているだけなんだよ」

 その後、イエスは二度と口を開かなかった。彼は野原をどんどん歩いて行った。イエスの容姿は雲のようなものに包まれ、ヤコブから遠くはなれてしまった 。

 再び独りになったイエスは、瞳をきらきら輝せながら、ガリラヤ湖の風景や周囲の山々の間をぬうように流れる河を眺めていた。西の方には慈悲深いカルメル山が聳え立ち、その向こうにはギルボアの山々の峯がかすかに見えていた。その手前には、丸みを帯びた乳房のようなタボル山があった。

目を遥か東の方にやると、起伏の無い高原が果てしなく広がっていた。南の方に目をやると、サマリヤの向こう側にかくれている聖都シオン(エルサレムのこと)があって、胸をふくらませながらあれこれと想像をめぐらしていた。

赤子のときに行ったきりで、何ひとつ憶えていなかった。イエスは、父上の都エルサレムを見上げる日を待ちこがれていた。彼は近いうちに偉大なる神の都に行けることを確信していた。聖都を歩き回り、神殿の庭々をめぐりながら、神と交わることを夢見ていた。後日になってこの夢のことをヤコブに語ったのである。


(註1)
旧約聖書、歴王紀下1・3には、〝バアル・ゼブブ〟即ちエクロンの神と記されている。ゼブブとは地獄の神の意で、全体として神を冒瀆する汚神のことを指している。

(註2)
紀元前九世紀頃に活躍したイスラエル初期の預言者。ヤーヴェ(神の名)に忠実なあまり当時のアハブ王に追放された。救世主(めしや)の先駆者としてイスラエルの民衆から絶大な期待がかけられていた。イエスが布教をしていた頃には、洗礼者ヨハネという傑物が預言者エリヤの再生と思われていた。


    

     16   ヨセフの悩み
 
 マリヤ・クローパスがヨセフの家を訪ねると、ヨセフが腹をたてていた。彼女には直ぐイエスのことで腹をたてていることがわかった。イエスがしょんぼりしていたからである。イエスが何か悪いことでもしたということでもなさそうだった。

ヨセフとイエスはお互いに愛し合っているのであるが、根深い誤解が両者を苦しめていた。

彼女はまもなくいざこざの原因を知った。彼女にとっては実に馬鹿馬鹿しいことと思われた。それは学校で授業中にイエスが居眠りをしていたことを先生から聞かされたからである。年齢順からいうと、イエスはクラスで最年長であったが、成績はビりだというのだ。ヤコブの話などから察してマリヤ・クローパスがヨセフに言った。

 「イエスは一寸変わってるのよ。他(よそ)の子とはちがう生き方をしているのよ、きっと。彼は偉大な底力を宿していると思うわ、ねえヨセフ、彼はきっとイスラエルの教師になる器かもしれないよ」

 「冗談じゃないよ、姉さん、奴は今日にでも聖書を勉強し、ヘブル語の書き方を憶えないと、ナザレ中の大馬鹿者と言われるにきまっているよ」 ヨセフは続けて言った。

 「奴はいつもトラブルを起こしやがって、苦痛の種をばらまくんだ。おれは奴と弟のトマスに仕事を教えこむんだが、奴は仕事の最中にでも居眠りをやらかすんだよ、ちっとも役立とうとしないんだ。トマスの方が年下なのに学問もやるし手先も器用なんだよ」

 「へえ、そうかねえ。でもイエスには知恵があるじゃないか」

 「知恵っていうのは律法学者が持っているもので、あんな餓鬼にあるわけないじゃないか」

 「そんなことないわよ。イエスの友だちに逢って聞いてみてごらんよ、どうしてどうして
彼は知恵の宝庫だっていうじゃないか 言葉の持っている偉大な力なんて、驚きだよ、奇跡だよ

 「馬鹿言っちゃ困るよ。イエスはね、奴の無知と横柄のおかげで、おれたち両親に散々恥をかかせるんだよ」

 「イエスはね、私にはとっても礼儀正しいよ。それにいつでも私のために井戸から重い水がめを家まで運んできてくれるのよ。イエスは一体どんな悪さをしたっていうのよ?」

 「それじゃ、あのナザレの律法学者がね、・・・・・・」 とヨセフは言いかけたのであるが、姉の質問にはこれ以上逆らわないことにした。イエスの肩をもっている姉を、とんでもない方向に追いやってしまうのではないかと恐れたからである。


 
       17  異邦人〝ヘリ〟の挑戦

 律法学者という存在は人々から尊敬されていた。天使が彼らの学識を祝福していると考えられていたからである。

どんな事柄について語っても称賛された。彼らがモーセの律法について講じるときには、ガリラヤ地方では、彼にたてつく者は一人もいなかった。この地方の住人はみんな単純素朴であったからである。

彼らは知恵というものがただ律法学者の口によって語られるものと信じこんでいた。律法学者への道は狭き門であった。エルサレムに群がっている多くの教師たちは、まるで巣箱の蜂のように聖都に集まっていた。

彼らは単純なガリラヤ人を軽蔑していたので、ナザレにはたった一人の律法学者しか居らず、住民の尊敬を集めていた。彼は〝ベナーデル〟と言って、ガリラヤ湖周辺の人によく知られていた。彼はまめにナザレを歩き回り、町や村を訪問した。彼の地声は大きく、異邦の地テベリヤやピリポ・カザリヤの町々にもとどかんばかりであった。

その弁舌は短剣のように鋭く、ローマ人の英知をも切り刻んでしまうと噂されていた。彼は昔ピリポ・カイザリヤで熱心に腕をみがいていたという。ヨセフはそれをいつも得意そうに言っていた。 <ナザレには誰にでも自慢できる律法学者がいるんだぜ。そりゃみんな頭をさげるし、彼の話はいつも立派なんだから>

 最初の頃は、この町では噂通りの彼であった。ある日のこと、ナザレの旅館に旅人がやってきた。彼らは立派な見なりをした異邦人であった。その旅人の一人が律法学者に挑戦して、泉のほとりで話し合いたいと申しこんだ。

なぜなら、この律法学者が本当の知恵を持っているのはイスラエルの子等だけであると公言していたからである。ベナーデルが誇らしげに言いふらしていた。この申し出に対してベナーデルは、ギリシャ系の異邦人と自分の身をおとしてまで話し合う気はさらさらなかったのである。

言うことがふるっていた。<信仰の篤い者は、余程悲しい必要がない限り異邦人と食事をしたり話したりしないものである>と。

それを伝え聞いた異邦人はあざ笑って言った。<律法学者はびくついているんだ。ユダヤ人だけが知恵を持っているなんて証明できないことを承知しているんだ。知恵というものは、流浪(さすら)える鳥が到る所で木に巣を作るようなものであることを知っているのだ。彼は全く馬鹿なやつよ>

 異邦人が言っていることを伝え聞いたガリラヤの人々は、そんなことを言われて黙っていることはない、直ぐにでも泉のほとりに行って話し合い、散々言いこめて恥をかかせ、ナザレから追い出してしまったらどうかと主張した。しかしベナーデルはその要求を容れなかった。

そのかわり彼は怒り狂った猛獣のように荒れ狂い、三日間もぶっ通しで妻にあたり続けた。律法学者に挑戦を試みた異邦人の仲間は立ち去って、彼一人だけ旅館にとどまった。

彼はガリラヤの湖や山々の美しさに魅せられて、暫くそこに滞在したかったからである。彼は〝ヘリ〟と言って、イエスと仲良くなり、ガリラヤの山々や湖畔をめぐり歩いていた。

ヘリはイエスの顔の輝きをいち早く悟り、この少年が丘の上でどんな不思議な体験をしたのか熱心に耳を傾けた。

へりはイエスに色々と質問をした。その度にはね返って来る返答は鋭い刃のようで、うれしいことに彼の魂が真に求めていたものであった。ヘリはイエスに自分のことを〝エジプトの人〟と呼ぶようにたのんだ。エジプトで生まれたからである。

 「私の両親はギリシャ人であったが、エジプト生まれで、人生の土台を其処で築いたんだよ。だから私はギリシャ人ではあるが、エジプト人なのだよ。

私は随分あちこちと旅をしたんだが、ユダヤ人だけが住む所が変わっても自分の国籍や人種の名前を変えようとしないんだんね。実にこの点は偉い民族だと思うよ。それで私は故郷に帰るまでにこのユダヤのことをうんと勉強しようと思っているんだよ」


 「その理由はね、唯一の神様を拝んでいるから、どんな環境にいてもふりまわされないからなんです。ユダヤ人たちの信仰は、ガリラヤの山々にみられる岩のようにどっしりとしているのです」 エジプトの人はイエスの言葉を聞いてとても喜んだ。彼はイエスの仲間たちと泉のほとりに集まって、熱心な知恵の交換会を開きたいと言い出した。

イエスは三、四人の仲間をつれてきて早速交換会を開いた。この異邦人は、平凡な人々と対等に話し合うことによって様々な知識が得られることを知っていたので、律法学者と話す機会を失っても、素朴な人たちから知識という宝物を手にしたことをとても喜んだ。

 さてイエスは、自分が一人の偉大な賢者と話し合っているとは全然知らなかった。この人の話を聞いていると喜びがわいてきて、心の窓を開いて心中のすべての秘密をさらけ出したくなるような衝動をおぼえるのであった。

まるで本当の兄のように、何でも相談相手になり、優しく、忍耐強く話を聞いてくれるので、丘の上での一人歩きのことを話しても決して嫌な顔をしなかった。そんな訳で、この二人は互いに尊敬しあうようになり、真理探究意欲という確かな絆によってしっかりと結ばれていったのである。

今まで参加していた交換会の仲間たちは次第に来なくなってしまった。この異邦人の言ってることが全然わからなかったからである。イエスだけがこの英知の市場で、時代や民族を遥かに超えた知恵を交換することができた。

 ところが弟のトマスは、間もなくイエスと異邦人のことを嗅ぎつけて彼らの集会のことを律法学者に告げ口した。

おまけに次のようなことを学校の先生に密告した。 <イエスは夜になると、淫らな話やギリシャの猥褻(わいせつ)な物語に熱中して、ちっとも勉強をしていない> と。律法学者はヨセフの家にでかけて行った。ベナーデルは暗い表情で、息子イエスがとんでもないことをしていると話しだした。

 「お前さんは我らの大切な律法を知っているだろう 律法では、豚を飼ってはならぬとな。だから豚をたべているような汚れたギリシャ人の知識を学んではならぬというのに、お前さんの息子は悲しいことに、この戒めを破って大罪を犯しとるというじゃないか 彼は罰せられねばならぬわい。とにかくじゃ、あの異邦人めとつきあわないようにさせるんだね」

 律法学者ベナーデルは、ヨセフの家から帰る途中、イエスはきっと泉のほとりで例の異邦人と別れを惜しんでいるにちがいないと思い、道ばたの陰で異邦人が行ってしまうのを見とどけてからイエスに近より、烈しく怒り、イエスをののしったのである。
 



     18  最初の受難

 夕方になってナザレの人たちが泉のほとりにやってきた。群れの中にクローパスもいた。彼は正直な人間で、あの律法学者とは正反対であった。クローパスは妻からイエスのことを聞いていたので、よく承知していた。

目前で律法学者ベナーデルが猛(たけ)り狂った蛇のように猛毒をイエスに浴びせかけ、少年をののしっているのを見て、クローパスは仲裁に入り、どうしてこんな酷いことをするのかと質した。

クローパスは立派な商人で、ナザレでは幾らか財産も持っていたので、ベナーデルは彼に対しては一目も二目もおいていた。そこでベナーデルは、多勢の人が集まっている
ことを悪用して、いきなりイエスの悪口を並べたてたのである。

<イエスは律法を破った大罪人である。モーセに逆らい、神に逆らった> と言いふらした。なにも知らない人々はこれを聞いて恐れをなした。律法学者のひどい仕打ちを恐れたからである。居あわせた人々は、目の前で茫然と立ちすくんでいるイエスを眺めていた。イエスはそれに対してひとことも弁解しようとしなかった。

イエスには静けさと気高い雰囲気が漂っていた。これを冷静に観察できたのは、おそらくクローパスだけではなかったろうか。彼は商人として多くの異国の人々を相手に仕事をしてきたので、これはとても異常なことだと判断し、驚くばかりであった。

目前に立っているイエスの存在は、もうただの少年ではなく、ヨルダンの隠者とたたえられている灰色の髭の老人ベナーデルよりもはるかに偉大で清純に見えた。イエスは幼少の頃より、内なる霊の炎によって変容するのであった。

律法学者も群衆もそんなイエスには気付かず、ある者は棒切れをふりまわしながらイエスを脅し、他の者は腕をふりあげてイエスに襲いかかろうとした。しかしイエスをとりまく静けさには勝つことができず、怒り狂うベナーデルを不動のままにらみつけているイエスに近よることができなかった。

 クローパスは体も大きく腕力もあった。彼は暴力をふるおうとしている群集をなだめ、静かになってからベナーデルに向かって言った。

 「あなたは、この子が律法を破り、神にそむいたと言ってお責めになりましたね。もっと公正に事を進めてはいかがです?  彼にも弁明するチャンスを与えるべきではありませんか 私たちは、すべてのことが明らかにならないうちに人を審(さば)いたリ罰したりすることはできないんですよ!!

 聴衆はクローパスの主張に賛成した。そこでイエスとベナーデルが聴衆の面前でお互いに話し合うことになった。イエスはみんなの前に手をあげながら訴えた。

 「僕は何の罪も犯してはおりません。もしこのラビが僕の質問に答えてくれるなら、僕が決して罪を犯していないことが解ってもらえると思います」

  律法学者は小僧のような少年から挑戦されたので、更に大声でわめきたてた。<こいつはガリラヤ一の大馬鹿者で、わしと口のきける奴じゃない こいつが犯した罪をみんなで懲らしめてやるんだ!!>クローパスが言った。

 「あなたはこの子が正しかったと言われるのが怖いのですか?」
 「とんでもない、そんなことがあるもんか

 「そうですか、そんなら勇気をもってこの子の言い分をお聞きになったらどうですか?」
 
 とりまく群衆も<そうだ そうだ それが公平なやり方だ>と囁きあっていた。律法学者は仕方なくイエスと対面した。イエスはたずねた。

 「あなたは僕が異邦人と話したということで神に逆らったとおっしゃいます」

 「その通りだ、そりゃ大変悲しむべき大罪じゃ。お前はあいつらと仲良くしておったからじゃ、それも一度ならず、ひんぱんにつきあっていたではないか」 イエスは答えた。
 
 「ラビ、あなたは大変学問のある方でいらっしゃいます。そこで先生におたずねしますが、神様はこの世界とすべてのものをお創りになったというのは本当でしょうか?」

 「おお、その通りじゃ、だがその御方の名前を妄(みだ)りに口にしてはならんのじゃ、だのにお前の汚らわしい口でその方を冒瀆したではないか」 イエスはめげずに続けた。

 「それならば、この世界をお創りになった神様は、人類をもお創りになったはずですが?」

 「あたりまえよ 神は手始めに、アダムの鼻の穴から息を吹きこまれ、すべて生命(いのち)ある者とされたことは、イスラエルの赤んぼでも知っておるわい」 ベナーデルは嘲笑った。

 「それならば僕と話した異邦人も神様の御手によって創られた方ではないでしょうか?」

 律法学者はここで言葉がつまってしまった。彼の顔は歪み、イエスの質問の目的がわかりかけてきた。クローパスはすかさず言った。

 「そうだとも、神はすべて生きるものをお創りになったのだ あのエジプトの人もそうなのだ」 イエスは言った。

 「神様がお創りになった方と僕が話しあったからといって、どうして僕が大罪を犯すことになるのでしょうか?」

 聴衆はざわめきだした。その中に居合わせた旅の人が円陣の外側から叫んだ。

 「よくぞ言った!! 本当にお前は勇敢な子だ」  聴衆もベナーデルも、熱気に包まれていたので誰が叫んだのか解らなかった。ベナーデルは完全にぶちのめされてしまい、この少年の知恵に腹を立てるばかりであった。彼も負けずに言いがかりをつけてきた。

 「神の創られた者も堕落して、悪魔に魅入られる者だっているんだぞ あの異邦人め、否、異邦人は全部だ ベルゼブルの家来なんじゃ、だからあいつらはもう神の子ではないんじゃ。それなのにお前は、悪魔の血が流れている奴と話し合って大罪を犯したのじゃ」

 「そうですか、もし異邦人があなたのおっしゃる通り悪魔の王子ベルゼブルに連れていかれてしまったというならば、連れ戻す努力をしたらいかがです? 異邦人もきっと神様の驚くべき御力によって立ち帰ることができると思うのですが、そうじゃないんですか? そのためにはどうしても彼らと話し合うことしかないと思うのですが。

羊の群れから迷い出た羊がいるときには、羊飼いは懸命に探し出そうとするじゃありませんか あなたが上辺だけでなく、本当に知恵のある方ならば、異邦人から求められれば堂々と話し合って、彼の無知と堕落を改心させてあげられるではありませんか」

 「いやあ、全くその通り 私はみんなの前であなたと話し合えるチャンスが来たようだ」 とエジプトの人が群衆をかきわけながらベナーデルの前にやってきた。

 「もしこの論争に負けたら、私はあなたの教えや、おっしゃることに何でも従いますよ」

 この言葉を聞いて律法学者はわなわなと震えだした。ベナーデルはとても臆病で、自分があまり才知に長けていないことを承知していたからである。ベナーデルは、形振(なりふ)り構わずまるで狂った狼のように、エジプトの人を罵りまくった。

 「このギリシャ人を見ろ こいつはこの子をすっかり駄目にしてしまったのだ。それだけではあきたらず、偶像を拝ませようとしているのだ。奴を直ぐに追い出してしまうんだ こいつをナザレから追い出さなきゃ、もっとたくさんの子供たちが堕落して、預言者が言っている地獄になっちまうんだぞ

 クローパスの努力も空しく、律法学者とイエスをとり囲んでいた群衆が騒ぎだした。この連中は途中からかけつけた野次馬で、始めからの経緯(いきさつ)を知らなかったせいもあって、ベナーデルがエルサレムから来た律法学者というだけで頭からベナーデルを盲信していた。

だから群衆は、ベナーデルの命令に従い、この異邦人をとりかこんで烈しく罵り、彼をめがけて石を投げつけ始めた。遂に異邦人はその場から逃げ出し、群集はまるで犬のように彼のあとを追いかけていったのである。

 暫くして泉のほとりに残ったのは、律法学者とイエス、及びヨセフの三人であった。ヨセフは弟のトマスからイエスが律法学者につっかかって、散々侮辱(ぶじょく)していると聞かされて、急いでかけつけた。

彼はトマスの悪意とでたらめな情報を信じこんでいたので烈しく怒り、道にすてられている塵芥(ごみ)をやにわにひっつかんでイエスの頭に投げつけた。それだけでは気がすまず、イエスを殴りつけた。

ベナーデルはヨセフに命じた<イエスを棒でぶちのめし、絶食させ、一日中大工仕事をさせなさい>と。気の弱いヨセフは、ベナーデルの命令は必ずまもると約束し、頭をかがめながらイエスを連れて帰った。


 家に帰ると、ヨセフは妻を呼び、家の中で遊んでいた子供たちを外に出してから、今日の出来事を詳しく話してきかせた。特に律法学者から散々非難された事を強調した。話が終ると母マリヤは哀れな目付きでイエスを見やり、悲痛な声で言った。

 「まさか この子が神を冒瀆するなんて あなたはそんなに悪いことを本当にやったの? みんなの前で聖なる神様の御名を汚したのですか?」

 「ちがいます、お母さま。律法学者はまちがっています。彼の言ったことは、ひとつを除いてみんなウソなんです。そのひとつというのは、僕があのギリシャ人と話し合ったということです。この方はとてもためになることを話してくれました。彼は賢い人で、本当にためになることを沢山話してくれたのです」

 ヨセフが口をはさんだ。
 「律法学者がまちがっていたのなら、なぜお前は抗議しなかったのか?」

 「そんなことが役にたつと思いますか? お父さんだってあのベナーデルはウソをつかないと信じているんでしょう。いつもそうおっしゃっていましたね」

 ヨセフはうらめしそうに言った。
 「ああ、あの異邦人めが、すっかりお前を目茶苦茶にしてしまったんだ。お前はまどわされているんだよ」
 
 イエスが言葉を尽して説明しても、単純なヨセフにはわかってもらえず、律法学者が彼に命じた通りにイエスがくたくたになるまで、イエスを棒でたたき続。この時からイエスはヨセフにびくびくするようになった。全身にうけた打ち傷は治っても、ヨセフに対する不信感は簡単にいやされなかった。

 マリヤ・クローパスがヨセフの所を訪ねたとき、彼女はすばやくイエスが受けた災難の疵(きず)の深さを知った。イエスは、そのときまで、どれ程父母を慕っていたか彼女はよく知っていたからである。

両親ともイエスの言うことを信じないで、あの律法学者が並べたてたウソを信じてしまった。母マリヤは、隣近所で大恥をかくことになった。彼らの目は冷たく、不快感を表わし、子供たちにはイエスから遠ざかるように言ったので、イエスは暫くの間、全く一人ですごさねばならなかった。

 クローパスは、あの大騒ぎがあった夜、のっぴきならぬ用事ができて、ピリポ・カイザリヤに行っていた。しかし帰ってくると、妻からイエスが律法学者から酷い仕打ちを受けて事態が悪化していたことを知った。

そこでクローパスは、直ぐヨセフのところへでかけて行き、あの時の経緯を詳しく話してきかせ、ヨセフとマリヤに、イエスが言っていることが真実であることを信じさせようとした。それに対してヨセフが言った。

 「あの子の受けた心の疵(きず)はもうなおらないでしょうよ。律法学者がウソを言ったとしてもあれだけの尊敬を集めている権威者には歯がたちませんよ。私に仕事をくれた人たちも今ではそっぽを向いてしまうし、すっかり信用を失くしてしまいましたよ。ばんかいするには、よほど時間がかかるでしょうよ」

 クローパスは言った。
 「この世は無情だね。なんとかならんのかね」 マリヤが言った。

 「全然らちがあきませんわ」 ヨセフが続いて言った。

 「今の私たちにとって大事なことは、だれが子供たちをくわせてやるかなんですよ」

 ヨセフの言葉が終わらないうちに、イエスが家の中に入ってきた。彼の顔には、ありありと悲哀が色こくあらわれているのをクローパスは見てとった。

 母マリヤは彼をしっかりと抱きしめて、目に涙をいっぱいためながら、何度もイエスに接吻するのであった。この二人の母子は、ひとつ心になっていた。



 
   19  聖都への旅行計画
 
 長い辛い時期であったが、ヨセフは爪に火をともすような暮らしの中から小銭を貯めていった。わずかばかりであったが、これだけあれば何とか目的が達成されると思った。

彼の目的は、マリヤを連れて聖都エルサレムに行き、過越祭(1)に参加することであった。この二年間というものはその願いが果たせず、イエスの下に生まれた弟妹たちを養育するのに馬車馬のように働き通した。幸いなことに、彼が造った彫り物が例の異邦人の目にとまり、なにがしかのお金をもらったので三人分の旅費ができたのである。

 イエスは体の傷もなおり、ようやく歩いて話せるようになったのでマリヤはイエスに語ってきかせた。イエスが生まれたとき、エルサレムの神殿に行き、そこで大いなる栄光を体験したことなどを語った。エルサレム行きが叶いそうになったので、彼女は言った。

 「これは神様の思し召しよ。イエスが祝福を受ける年齢に達したからお前もいっしょにでかけましょうよ そうしたらきっと隣近所の人たちもお前を見直して、もう白眼(しろめ)で見られなくなり、友だちができるかもしれないね」

 ヨセフは反対してマリヤに言った。
 「とんでもないよ、今度はトマスをエルサレムにつれていく番さ」

 仕事場で木工作業をしていたトマスは、ヨセフが大声をはりあげているのを聞いていた。マリヤは言った。

 「トマスは年下です。この次にしましょうよ」

 「いいや、イエスは祭礼には連れていかないよ、おれは、その方が賢明だと思っているんだ。あんな馬鹿な子をつれていってみなよ、神殿で大恥をかかされるにきまっているよ。友人や親戚の者が見て、あの馬鹿な子は一体誰なんだってきかれたら、何と答えりゃいいんだい」

 「でもあなたの姉さんが言ってたわ。あの子は鳥のように賢く、ナザレの井戸のように思慮深いってね、測りしれないとも言ってたわよ」

 「笑わせるんじゃないよ。それはベタニヤの井戸のように水無しの井戸のことだろうよ。夏の終り頃に駱駝(らくだ)に水をのませようと井戸につれていって、一滴の水ものめず悲しませるようなもんだ。

あの子は本当に知恵なしもいいところよ、学校の
先生が言ってたが、あの子は全然字も書けないとというじゃないか。

聖書もひとことも読めないなんて情無(なさけ)ないやつだ。なんでも来週までに生徒の中から中央のお偉いさんがやってきたときに読んできかせる朗読者を選ぶんだそうだ。きっとトマスあたりが選ばれるんじゃないかって言ってたよ。

こんなにできる子をエルサレムに連れていかないてはないだろう。それにな、先生がとても心配していることは、イエスには相変わらず悪霊がとり憑いているから、あの子を旅にでもつれて行ったら最後、神殿の庭で悪霊が暴れだし大騒ぎになるかもしれないって言うんだよ」

 「あの先生は腹黒い人だわ。そんなことあてにならないわよ。あの子が律法学者をやっつけたばっかしに、がんとしてイエスのことを受けいれないんだから」

 「とにかくイエスはな、聖書が全然読めないんだぜ どの子もみんなそう言ってるぜ
 マリヤは内心とてもくやしかったが、やっつける材料がみつからなかった。

 イエスは仕事場の工具の上に柳のようにもたれかかり、暴風のようなヨセフの言葉に傷ついていた。その悲しみがマリヤにも伝わりとてもつらかった。トマスの快感とは正反対にイエスの悲しみは深かった。ヨセフは強情な夫であったから、そう簡単には折れなかった。そこでマリヤは賢い姉のマリヤ・クローパスのところに行って相談することにした。


(註1)
イスラエル三大祭りのひとつ。ヘブライ語で Pesach (ペサ) という。モーセの率(ひき)いるイスラエル人をエジプトから救出するため、神はエジプト人の長子と家畜の初子の生命をうばい恐怖を起こさせたとき、イスラエル人は、屠殺した子羊の血を家の門口の両側の柱と鴨居とにぬり、自分たちは死をまぬがれた。殺して回る天使は、血を門口にぬった所を 「過ぎ越した」 ということから過越祭と名付け、エジプト脱出の記念として毎年春に祝うようになった。


 
    20  暁に預言者エリヤと語る

 イエスと同じ年頃の子供たちは、律法学者を恐れて誰もイエスと遊んだり話したりしなかったので、彼は年下の子供たちとガリラヤの野辺で遊んでいた。年下の子供たちはこの大きな少年が大好きだった。

イエスは彼らには大変優しく振まい、花や葉や石などで色々なものをつくっては喜ばせていた。ある時には、小さな子をおんぶしてやったり、退屈している子の相手をしていた。

 車座になって座り、子供たちは幻の中からとり出してくるイエスの話に夢中になっていた。マリヤ・クローパスは遂に子供たちが木の下にたたずんでいる光景を見つけた。彼女も熱心に楽しそうな話に耳を傾けていた。それは天国のことや、一人一人の子供たちを見守っている天使が危ない目にあわないように見守っていることなどが話された。

話が終り子供たちが帰って行ったあと、マリヤ・クローパスはイエスの腕をとって過去の忌まわしいことについて慰めようとしたが成功しなかった。彼はエルサレム行きを心から望んでいたが、母の約束もきっと実行されることはないと諦めていた。

 「トマスをおしのけてまで僕が行きたいとは思いません。でもやっぱり巡礼の旅に行けないと思うと悲しいんです。お母さんが約束してくれたのですが、もう一人約束してくれた人がいるんです」

 始めのうちはそれが誰であるか、その名前を明かさなかった。マリヤ・クローパスは、イエスがよく丘の上で瞑想するのを知っていることを彼に告げたので遂に打ち明けて言った。

 ある夜明けのこと、一人の預言者が自分の前に現われて、来年は必ずエルサレムに行くであろうと言ったことを話した。しかし彼女には信じられないことであった。もう夜が明けようとしていたので、イエスは夢でも見ているのであろうと思っていた。

 誰かの声がひびいている気配を感じた。声のする方へとゆっくり歩いて行った。声に吸いこまれるように進んで行った。声が止んだ地点に、細い小道があった。そこからは町が微かに見えた。間もなく彼女は誰かが歩いてくる足音に気がついた。それは少年が険しい道をよじ登ってくる足音であった。

彼女の心には疑いの雲は晴れていた。視界が開け、夜という衣の裾が次第に西の方へ転がるように消えていった。

 そこには棒立ちになっているイエスの姿があった。一時間以上も身動きもせず、息づかいの音もきこえなかった。日の出の輝きが増してきて金色の光と濃い影とがイエスの周囲に広がっていた。

雲雀(ひばり)がさえずり、鶫(つぐみ)がイエスの肩に止まっては素早く飛び立って行き、周囲の草の葉にとび降りるのであるが、鳥の体がとても軽いのか草の葉は、この愉快な歌い手が止まっても折れなかった。亀があちこちと這い回り、小川はさらさらと音をたてて流れていた。そこに居たどんな生き物もイエスを怖がる様子は見られなかった。

みんなイエスの友だちのように振るまい、歌い、飛び回り、餌をとってきて雛鳥に食べさせ、少年イエスの静かな姿のまわりに不思議な喜びの空気が漂っていた。

 突然彼女は大きな変化が起こったのを見た。鳥も花も、なにもかも消えてしまったのである。白い髭を生やした老人が少年の側に立っていた。二人は親しそうに話し合っていた。マリヤ・クローパスは、もしかしたらこの方は天使かと思ったり、大天使ミカエルか大天使ガブリエルの御使いの者かと思った。

いや、この方こそ預言者にちがいないとも思った。マリヤはもう疑う余地はなかった。彼女はイエスに関する真実を知った。かつてイエスが息子ヤコブに言ってたように、イエスは神の子であった。そうでなければどうしてこんな夜明けにイスラエルの昔の預言者と話し合うことができるだろうか。じっと見つめていたマリヤ・クローパスは手で顔を覆った。

そして再び二人を見ようとして顔をあげると、もはや預言者の姿はそこになかった。暫くの間彼女は、青い水をたたえたガリラヤ湖の光景を眺めていた。そして心の中で、イエスは選ばれた人として、今にきっとイスラエルの偉大な教師として大きな力をあらわすときが来るにちがいないと思った。


 
   21  王者の片鱗

 学校の先生は、まるで羊の群れの周囲を嗅ぎ歩くように、イエスの周囲をうろつき回った。何か懲らしめてやろうと、恐ろしい目付きで彼を睨みつけていた。手には棒を持ち、悪意に満ちた眼光をたたえていた。

 生徒たちはその日の放課後、誰か一人が、こっぴどく罰せられそうな予感がしていた。彼らは直ぐ先生の心の中にあるものを見抜いていた。それはみんなの前で、何か失敗をやらかす生徒は誰であるか想像できたからである。

なぜならば、先生はイエスの横まで来るとピタリと立ち止り、射るような目付きで彼を睨みつけたからである。

どの生徒もみんなこの先生から睨まれるのを怖がっていた。しかしイエスは平然として頭を挙げ、じっと教師の顔を見上げていた。イエスの顔付きは教師の悪意に満ちた怨みと、力づくで脅そうとする残酷な態度に挑戦しようとする無言の返事であった。

 丁度その日は、エルサレムから偉いパリサイ人(1)が学校に来て、生徒が聖書を読んできかせる日になっていた。そのために、生徒の中から聖書の朗読者が一人選ばれることになっていた。こんなとき選ばれた生徒が、読み方をまちがえようものなら、町中に知れわたり、大恥をかくことになるのである。

 遂に偉いお客様が入ってきて、演壇の側の席に腰をおろした。はたせるかな、教師は、棒で机を叩きながらイエスを呼び出し、聖書朗読の一番手を命じた。生徒たちは心配であった。イエスは余り勉強もしないし、いつでもヘブライ語には弱いことを知っていたからである。その彼が今、口語体ではないヘブライ語に直面させられたのである。

教師はわざと無差別に開かせたページの最初の行から読むように命じた。イエスは怖気(おじけ)ず、堂々としていた。生徒たちの方が却って怖れをなし、まちがいなく教師の手にしている棒が振り上げられると思っていた。

 イエスが聖書をめくっていると、あの偉いお方が言い出した。

 「これは不思議な少年だ きっと高貴な生まれのお方じゃろうて。わしは彼の態度が気に入った。彼の名は何というのかな、そして親の名前は?」 教師が答えた。

 「はい先生、彼は貧しい大工の息子でございます」

 「彼はまことにイスラエルの王、ダビデの子孫にちがいない なぜなら彼の姿は鷹のように凛々しく、小柄な貧弱な体つきをしているがとても高貴な顔付きをしているからじゃ

 賢者の言葉は低い声で語られたので生徒たちにはよく聞きとれなかった。しかしダビデの子孫という言葉を耳にして、ひどく怒り出した教師の顔を見て、イエスに好意をよせていた二、三の友だちはふるえ上った。<あの偉いお方がお帰りになったあとに、イエスはきっと背中の皮がはがれる程棒で叩かれるにちがいない> とヤコブは思ったとたん、目から涙が流れだすのであった。

 イエスは頭を上げ、開かれた〝詩篇〟(2)の題目を述べた。

 「もうよい、早く読みなさい 一言もまちがえてはならんぞ お前の年頃の子供は、それぐらいのところはみんな諳(そらん)じているんだからね」 と教師はせかせた。少年イエスは朗々と聖書を読み始めた。


〝万軍の主よ、

  あなたのすまいは如何に麗しいことでしょう。

  わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、

  わが心とわが身は生ける神にむかって喜び

   歌います。

  すずめがすみかを得、

  つばめがそのひなをいれる巣を得るように、

   万軍の主よ、わが王、わが神よ、
 
  あなたの祭壇のかたわらに
 
  わがすまいを得させてください〟
 
               (詩篇第八十四篇、1―3)


 つかえることなく、ためらうこともなく、イエスは朗々と読みあげた。その美しいこと、しかも主の宮を恋したう言葉の調子の美しいことに全員が感動し、腰のまがったパリサイ人も背すじをのばして直立し、読み手のイエスに大きな喜びを伝えるのに両手を挙げてサインを送った。

その日の朝のように、このような感動をもって聖書が語られたことはなかった。その声はハープのように響き、美しいメロディーが次から次へと湧いてくるのであった。

教師が途中で止めさせようとするのであるが、かの客人がそれを許さず、続行を命じた。それは彼の言葉がまるで美しい音楽のようであり、客人のような老人にさえ、新しい幻(ビジョン)が与えられるのを感じたからであった。

 このことが後になって他の母親たちに伝わるや否や、生徒たちはみんなイエスは全く変わったことを証言した。

以前には見られなかった目の輝き、あのすばらしい声の響きの前には、イエスの貧弱な体つきは問題ではなかった。従兄弟のヤコブだけはその秘密を知っていた。彼はイエスと一緒にナザレの山々を歩いていた頃のことを思い出していた。

 遂に朗読が終り、聖書が閉じられると、パリサイ人はイエスに手招きをして彼の近くに呼び寄せ、イエスの腕に体をよせながら教師に向かって叫んだ。

 「もうこれでよい 他の生徒に読ませなくてもよろしい。この子はずっとわしの傍に居るがよい 彼の声は何とすばらしいのじゃろう。わしはこのすばらしい楽器の背後に控えておられる偉大なる霊のことが知りたいのじゃ この聖なる御言葉に添えられた、うるわしいものは、人間の言葉ではなく魂そのものの響きだからじゃ

 石畳の上まで垂れさがっている帯(しんくちゃー) をひきづりながら、威厳のあるパリサイ人は、イエスを伴って陽の当る方へ歩いて行った。二人はゆっくりと草原の上を歩き、老人が熱心に語り、少年は丁寧にゆっくりと受け答えするのであった。

この様子を見ていた単純なナザレの人々は 「大工の馬鹿息子」 で知られていたイエスに驚いてしまった。かの高名なイスラエルの師が誉めぬいたからであった。

 それ以来、あの腹黒い律法学者、ベナーデルや友人たちは、イエスのことを褒めそやした。

 学校の中では、怒り狂った教師が生徒にあたりちらし棒をふりまわしていたが、もうそれはイエスに及ばないものとなってしまった。教師はもうイエスに対してふるってきた権威をすっかり失くしてしまったことを感じていた。ただ彼は歯をくいしばりながら、今まで暗かった生徒たちの表情が急に明るくなったのを眺めるだけであった。

 パリサイ人がイエスに別れを告げるとき、もしエルサレムに来るようなときがあったら、ぜひ神殿にきて自分を訪ねるように言った。

 イエスは悲しげに答えた。
 「きっと大きくなるまではお逢いできないと思います」

 「いいとも。時の流れは早いものじゃ。なあ、イエスよ、もう一度お前の胸に隠されている〝リュート〟の音と、賢い響きの御言葉を聞きたいもんじゃ」

 「はい先生、僕もそのつもりでいます」
 イエスは、ぺこんと頭をさげた。

(註1)
紀元前二世紀におけるユダヤ教の一派で、サドカイ派と並んで勢力があった。従って神殿に於ける権限は絶大なるものがあった。律法の実践に熱心であったので、反対者から〝ファリザィ〟(分離者) と言われるようになった。

(註2)
旧約聖書中の教訓書である。内容は、百五十篇からなる詩と祈りを集めた詩集である。大部分はダビデ王の手によって作られたと言われている。ユダヤ教でも、現今のキリスト教でも、典礼に多くとりいれている。ユダヤ人は会堂、神殿、祭日、巡礼のとき好んでこれを唱えていた。
 
 
 
   22  マリヤ・クローパスの証言

 マリヤは川で洗濯をしていた。衣類を揉みながら近くの草むらで遊ばせている赤子の方を見守っていた。彼女は朝早くから夜遅くまで働き通し、エルサエム行きの旅の仕度に追われていた。

しかし彼女にはその楽しみも消え失せてしまった。ヨセフがイエスのことをどうしても連れていかないと言い張っていたからである。そのときのイエスの悲しそうな顔を忘れることができなかったからである。木蔭のもとで佇(たたず)んで休息をとり、ナザレの景色を眺めていた。

すると急に道路ぎわで騒がしくなり、池で泳いでいた白鳥たちが羽をばたつかせていた。みると一人の女がこちらに向かって走ってきた。髪をふり乱し帽子も横に捻れていても、そんなことにはお構いなく叫んだ。

 「ねえあなた耳よりな報せがあるのよあなたが吃驚(びっくり)するような素晴らしいニュースがあるのよ

 「そんなことあるはずないわよ」

 「それが本当にあるのよ」 とマリヤ・クローパスが近づいてきて言った。
 「もうなんにも心配することなんかないわ あなたはね、イスラエルの偉大な預言者の母なんだから」

 「まさか。そんなのは御伽噺(おとぎばなし)
 「そうじゃないのよ わたし見たの、私きいたのよ、だからそう言ってるのよ」

 「イエスったら、悲しませることばっかしやるんだから、どうして喜べると思うの」

 「わたしがね、イエスのことを話してあげるわよ、よく聞いてちょうだいな、マリヤ 私がね、朝早く丘の上でイエスを見ていると、彼の様子が変わってきてね、天の空に不思議なものが現れたの。真白な衣を着けた方が地上に降りてきてイエスの傍に立ったの。二人が話し始めたのよ。近よってみると、その賢者は杖によりかかってイエスの相手をしてるじゃないの」

 「それ本当なの? その方はどなたなの? 何ておっしゃる方なの?」
 「ただの人間じゃないのよ、何でも〝エリヤ〟て言ってたわ

 「何百年も昔におられた方とどうして話ができるの? それにその方がどうしてエリヤだってわかったの?」

 「そりゃすぐわかるわよ 第一真っ白な髭を生やしていて聖書にある通りのお姿なんですもの、鳥でさえ囀るのを止めて、シーンとなってしまったのよ」

 「お姉さん一人だけだったの?」
 「そうよ」

 「ごめんなさい、私どうしても信じられないの。お姉さんは夢でも見てらしたんじゃないかしら。律法学者にはむかったり、聖書も読めないイエスがそんな偉い方と話すなんて」

 「でも彼は立派に天使や預言者と話しているのよ 太鼓判を押してもいいわ。彼にはね、昔あなたにさずけられた神様の賜物(たまもの)があるのよ、あなたこそ昔天使ガブリエルと話したことを忘れちゃったの あの丘の上を、天のお父様と一緒に歩いていたことを忘れてしまったの? 救い主の母となるという大天使の約束をあきらめてしまったの、どうなの

 「そのおかげでとても悲しい目にあったことをどうして忘れられるもんですか。私、大馬鹿だったのよ、高望みなんかして、苦痛の種をいっぱい集めることにしかならなかったんだから」

 「そんなことないわよ。もし本当にあなたが大天使様の言われたことを信じるなら、あなたが心の底から願ったような、とても心の清い息子がエリヤと話し合っても決して不思議じゃないと思うわ」 マリヤは手にしていた洗濯物を放り出し、両手で顔を覆った。

暫くの間彼女は体を震わせて泣き通した。そしておもむろに姉の祈りに応えるかのように言った。

 「私が泣いたのは、あれ以来大天使ガブリエルが二度と私にあらわれて下さらなかったからなの。それにイエスのことも怖くてね。昔私が幻を見たばっかっしに、とんでもない目にあったので、きっとイエスも私と同じ目に逢うんじゃないかしら。あの子は他の子のように平凡であってくれればよいのにね」

 「そりゃちがうわよ。彼はきっとすばらしくなるわよ。彼の内に秘められている深い知恵は誰も測り知ることなんかできないからね。そりゃそうと、私ね、主人と今度過越祭にエルサレムへ行くんだけど、イエスを連れてってもいいかしら?」

 「それはとってもありがたいことですわ。でもヨセフが一銭だってあの子にかけるのはもったいないって言うのよ。彼は一銭だって恵んでもらうことをきらうと思うわ」

 「恵むなんてとんでもない 私たちわね、イエスを信じているのよ。だから神様におささげする献金のつもりでいるの」

 「そんならすぐヨセフに話してみて下さい。きっと姉さんから話せば、いやとは言わないかもしれませんから」

 それからこの二人の女は衣類をかき集め、赤子をだっこしてナザレに帰ってきた。ヨセフは扉の上に張る横木を作っていた。姉の説得も上の空で聞いていた。ヨセフは、イエスが学校でくだらないことばかりやるので大恥をかかされていることを繰り返し言うだけだった。彼は頑としてエルサレム行きを許さなかった。

 彼と姉とが話し合っているところに、近所の人たちがどやどや仕事場に入ってきて、にぎやかに話し始めた。そしてさかんにヨセフのことを褒めそやすのであった。あのパリサイ人がイエスのことを誉めたことを聞きつけたからである。

 一人の者が言い出した。

 「あの大先生が言ってましたよ。お宅は、ダビデ王様の子孫にあたるんですってね。そうすると大変な御家柄になるんですね」

 二人目の者が続いて言った。
 「エルサレムの律法学者でも、お宅のイエスのように聖書を朗々と読める者は居ないと言うじゃありませんか

 三人目の者が言った。
 「みんなが言うには、イエスが大きくなったら、きっと大学者ヒル様のようになるんじゃないかって」

 彼らが、わいわい話し合っている間に、マリヤは姉に言った。

 「お姉さんえらいことになったわね。やっぱりお金を貸してください。イエスを過越祭に連れていくことにきめたわ。なあに、午前中は糸を紡ぎ、午後は一生けんめい働いて借金を返すわ。ねえ、お姉さん、私が失っていたものを昔のように戻して管さって本当にうれしいわ」

 「そうこなくちゃね、マリヤ イエスがエリヤと話したことを疑っちゃだめよ

 「はいはい、もう二度とそんなこと言いませんわよ。それに悲しむこともね。だって大天使ガブリエルの約束が本当に実現するんですもの。あのとき、みんなが言ってたような、噓つきの悪戯(いたずら)天使の仕業じゃなかったんですね。本当に大天使ガブリエルだったんですね」

 そこにイエスが入ってきた。母マリヤは彼のもとにかけより、イエスの肩に手をかけて言った。

 「イエスよ、あなたは私の喜びの泉です。私の日々の誇りです。今度こそあなたと一緒に過越祭にでかけましょうね。そこで街々や金色に輝く神殿の姿が見られるのです。

そこで多くのことを学びとり、捧げ物をするのです。神様は心から私たちの巡礼の旅を祝福して下さるでしょう。二人の息子を連れて聖なる都に上京できるなんて、なんてすばらしいことでしょう」 マリヤはイエスを抱きしめた。

 近所の人たちが帰ってから、マリヤはイエスと二人きりになって最後の疑問をぶつけた。
 「どうして字が読めなかった子が急に賢者や学者のように完璧に聖書が読めたのかしら?」

 「僕が天のお父様とお話するときに、どうして字が必要なんでしょうか」
  「そうじゃなくて、ほら、学校でのことだよ」

 「あのときのことですか。それは天のお父様が僕と一緒に居られたからですよ。僕は天の御父の子供じゃありませんか

 ヨセフが大声でマリヤのことを呼んだので、もうこれ以上イエスと話しておられず、話は中断された。イエスの言っていることがよく解らなかったので、マリヤが姉のそばを通りぬけるとき姉の耳元でささやいた。

 「あの子ったら、またヨセフを悩ますような変なことを言い出すのよ、あの子が変なことを言い出したら、あっちの方へ連れ出して下さいね、もうやりきれませんからね」 姉のマリヤ・クローパスが言った。

 「そうだろうね、あの子が言っていることが解らないからだよ、でもね、私には解るの。あれはね、神様があの子の額に御自分の徴をおつけになり、将来神様の働きをするようになるとの思し召しなんだよ」 この言葉を聞いたマリヤは、改めて心に深く刻みつけるのであった。



 
   23  いよいよエルサレムへ

 学校の教師は、このままでは治まらなかった。あちこちでナザレ中の子供たちを集めては次のようにふきこんだ。

 「お前たちは、あの偉いお方のおっしゃったことをそのまま親に話したと思うが、あれは冗談でおっしゃったんだと言いふらすんだ 前言を取消さなきゃ今度はお前たちをひどい目にあわすからな、よくおぼえておけよ」 教師の粗暴な性格を知りぬいていた子供たちはふるえ上って答えた。

 「はい、そういたします。先生の命令通りにいたします」

 そこで彼らは家の者や親戚の者にふれまわり、あれはラビの本心ではなく、そうあったらいいなということを言ったまでだと吹聴した。

それで事態は一変してしまった。イエスは見向きもされなくなった。再びひどい噂が口から口へと伝わった。蛇の毒のような悪巧みは、すべてこの教師と律法学者によって仕組まれたものであった。それでヨセフは、イエスの自慢話をしなくなった。しかし彼はイエスにはとても親切になったのでマリヤは安心できたのである。


 あの異邦人ヘリが再びやってきた。相変わらず汚いぼろぼろの着物を身につけて、道路ばたに腰をおろしていた。ヘリはイエスのよき理解者であった。彼は何時間も太陽、月、星など天体のことや、戦いのたえない地上のことを話してきかせた。

さらに、この世界には、春に大きくなる穀物の葉のように、逞しい有色人種があちこちに発生してくる様子などを話してくれた。ヘリは砂漠に住んでいる遊牧民族のことにふれ、いつか必ず彼らにあわせてやると約束した。

 「あの人たちは本当に面白い連中なんだぜ。エルサレムにいる学者たちよりはずっとましなことを話してくれるんだ」

 彼の話は心に深く刻みこまれていった。イエスは親から独立できたら、きっと遊牧者たちを探しに行こうと考えるようになった。しかし今度のエルサレム行きのことを考えているうちに、エルサレムに行ったら神殿に行き、学校で約束してくれた偉いラビを訪ねる計画などをへりに話した。

 「エルサレムに行ったらね、あの大先生が律法の知恵を教授してくれるんだそしたら、そこに居すわって、もうナザレには帰らないんだ神殿に寝とまりして、そこに出入りする学者たちから話がきけたらどんなにすばらしいだろうね」

 「そりゃよした方がいいぜ。お前は、言ってみれば、野生の鳥みたいなもんだからな。お前はたちまち籠の中の鳥にされちまうぜ。お前の魂は根こそぎ骨抜きにされ、折角の霊力を失くしてしまうことになっちまうよ。ねえ、おれと約束をしてくれよ、絶対にナザレに戻ってくるとな。そのラビが神殿に止(とど)まれと言ったって絶対に断わるんだぜ

 「うん、そうするよ。神殿の庭は天国の外庭みたいな所だろうから、そんなことをしたら、きっと追払われてしまうだろうね」

 「ガリラヤの方がずっといいぜ。いや、それよりも砂漠の方がもっと賢いぜ。おれはなにもエルサレムにいる学者にケチをつける訳じゃないが。問題は、健全であるかどうかなんだよ。

来世の生活に健全な影響を及ぼすもの、それは地上の高い処ばかりじゃなく、生きている勉強は道ばたでも得られるように、見知らぬ処で見知らぬ人々と話し合うことによって手に入るんだぜ」 イエスはヘリの言うことが正しいと理解できたので、今度の祭りに上京しても、家族と一緒に必ずガリラヤに帰ってくることを約束した。


 いよいよエルサレムに出発するときが近づくと、マリヤの心中には喜びが炎のように燃えさかった。歌ったり、笑ったり、一刻もじっとしてはおられず動き回っていた。彼女の心には一点の曇りもなかった。

彼女はマリヤ・クローパスのお陰で、若い頃に享受(う)けた大天使の約束を再び待ち望むことができるようになった。

彼女の愛情や優しさはすべてイエスに注がれた。夜明け頃、エルサレムへ出発するときには、イエスをしっかりと摑まえてはなさなかった。巡礼の一団は、それはすばらしい世界で包まれていた。

旅をする子供たちには、何と言ってその喜びを表わしたらよいか、その言葉がみつからなかった。彼らは言葉をはずませながら長老たちに質問の矢をあびせ、道中で見るものすべてが新鮮であった。

エスドラエロンの深い谷間にキション川(列王紀上、18・40参照) が流れ、そこで預言者エリヤが偶像バアル神の預言者をやっつけてその預言者四百五十人をその川に投げすてたと言われている場所や、遠くの方に聳えているギベオンの山や谷を眺めながら進んで行った。長老たちは、くたくたになるまで先祖たちの物語をきかせるのであった。

 エルサレムに近づくと、少し様子が変化した。日が沈み、うす暗い道にさしかかったとき、遥か上の方から岩づたいに水がしたたり落ちてきて、みんなを驚かせた。そこは〝涙の谷〟と言って、イエスの心の中にひとつの影のようなものが横切った。上の方に目をやると、そこには岩の狭間に沢山の墓があるのが見えた。

イエスはそのとき、人間の生命の儚いことを感じていた。彼は <人間の肉体は、鳥がこのうす暗い谷間を飛び去っていくように消えていくのだ。それは何と目にもとまらぬ速さであろう> とヤコブに呟いた。それから暫く喋らなかった。

 ヤコブはイエスに、どうして長い間歩いて足が痛くなっているのに、そんなにうれしそうな顔をしているのかと尋ねた。彼は答えた。

 「だって明日は、いよいよエルサレムなんだよ どんなものが見られるかと思っただけでも胸がわくわくしてくるんだ。きっと天使だって僕以上に喜ぶことなんか出来ないと思うよ



 
  24  大祭司アンナスの衝撃(ショック)
 
 朝早く目を覚ますと、土がむき出しになっている丘に冷たい風があたり、空はどんよりと曇っていた。幼いヤコブは、陽気に唄ながらエルサレムへ向かっている巡礼の群れの中にあって、一人でふるえていた。

ヤコブは自分よりも大きなイエスの手をしっかりと握りしめ、「ねえ、僕、怖いよ もっときつく握ってよ」 と言った。

実は、エルサレムを囲んでいる外壁に沿って、かなりの数の十字架が立っており、その上に磔になっている残酷な姿が目に入ったからである。死んでいるものもおり、まだ生きて苦しみもがいている者もいた。

禿鷲(はげわし)が彼らの周囲に飛来して鋭い口バシで死人の肉をついばんでいた。まだ生きている者は、恐怖のあまり、うめいたり悲しんだりして、額から油汗をふきだしていた。ヤコブはイエスにしがみついていた。イエスは静かに立ち止り、顔は真っ青になり、悲しみを隠しきれず、乱ぼうな口調で言った。

 「これが天の御父の町なのか

 巡礼の一団は、男も女も、そこを通り抜けたとたん、再び大声ではしゃぎ出し、賛美の詩篇を声高らかに歌い、両手を神殿の方向に向けて楽しげなメロディーに酔いしれていた。

クローパスとヨセフを中心とする一団は、道の曲がりくねったあたりに横になるところを見つけ、その上にねそべった。そこは汚い穴の中で、日中でも太陽が当たらなかった。それでもねぐらにありつけた人は幸運であった。

 その夜はみんなぐっすり眠れたか性か、明くる朝早くヤコブが目をさました。隣で寝ていたイエスの寝顔を見ているうちに昨日の悲しみは跡形もなく消えていた。

 ヤコブとイエスは母からパンをもらってから外の狭い歩道で遊んでいた。ふとあたりを見回すと、遠くにユフラテ河地域からやってきた髭を生やしたユダヤ人がいた。アンテオケやアジアから来た人々もいた。男も女も子供たちもみんな疲れた目付きで起き上がってきた。

顔にはありありと食物に飢えていることをあらわしていたが、同時に希望と夢に輝いていた。もうすぐ神殿で神を讃える喜びが近づいており、さらに其処では、たとえ一瞬(ひととき)であってもローマ人の支配から自由になれることがたまらなくうれしかったからである。

神殿の中庭には、イスラエルの人々が入ることを許され、外国人は、たとえローマの高官であっても入ることができなかった。それだけに、イスラエルの人々の喜びは大きかった。

 ヤコブもイエスもはしゃいでいた。ところが突然、赤子を抱いていた一人の女が泣きだして、通りの家の前で座りこんでしまった。立ち上がろうと努めるのであるが、よろよろと後ろの方へ倒れてしまうのである。彼女は夫に言った。

 「もう私は一歩も歩けないわ。疲れている上に何も食べていないんですもの。お乳も干からびてしまってこの子も飢えているわ。私ここで待っているから、あなただけ神殿に行って、捧げ物をしていらっしゃいな」

 夫の顔には明らかに暗い怒りがこみあげていた。まわりの巡礼者たちがざわめいていた。

 「私たちはとても貧しく、その上昨夜エルサナムへ入った所で、なけなしの僅かなお金まで盗られてしまったのです。ですから一切れのパンでも結構ですから妻に食べさせてやりたいのですが」

 「おれたちには、ひとかけらの食いものも残っとらんよ。おらが持っている金もつかえねえだよ、おれの妻や子供が飢えちまうからな」

 他の者が言い始めた。一人ひとり、弁解を言い始めた。目の前にいる困った人に対して、何もできない理由を並べたてた。自分の町や村に帰れる分しか持ち合わせがないということであった。それに神殿に行ったら捧げ物もしなければならないととも言った。赤子は火のついたように泣き、女はそこで泣き伏してしまった。

 周囲の人たちは、もうこの夫婦には目もくれず、曲がりくねった道を通って神殿の方へと立ち去っていった。

可哀想な夫婦だけになったとき、イエスはその女の方へかけより、その日の分としてあてがわれていた食料を全部差し出した。女はじっと見つめ、ひとことも言わず、冬の間飢えきっている狼のようにガブリついた。女が食べ終わってから、厳しい表情をしたユダヤ人が、イエスを祝福しながら言った。

 「小さな先生よ あんたの捧げ物は神殿で捧げられるものより尊いものだね

 イエスは何も言わず、踵を返して一行の方へ戻って行った。イエスはヤコブに厳しく言った。
 「このことは誰にも言うんじゃないよ

 「だって、あなたのほうが神殿につくころに空腹で倒れてしまうよ。僕の分は全部食べちゃったし、どうしたらいいの?」

 「いいんだよ、ヤコブ  私の天のお父様がちゃんと養って下さるんだからね」

 「あなたのお父さんが知ったら、きっと怒りだすと思うよ。お父さんは、大切な自分の分を他の人にあげちゃだめだって言ってたじゃないか 巡礼の中には食料を持たずにやってくる人がいるんだってよ」

 「僕が言っているのは、天にいらっしゃる神様のことだよ。そのお父様が、あの人に僕の分をあげなさいとおっしゃったんだよ これだけはお父さんもお母さんも、律法学者やパリサイ人でもできない命令なんだよ。天の御父様に対しては、僕はただ〝はい〟と言って従うだけなんだ。此の世のお父様には、私のことについて審(さば)く権威はないんだよ、ヤコブ」

 ヤコブはイエスの顔を見ながら黙ってしまった。始めのうちは、一行からはなれてしまったことを心細く思っていたが、イエスは清らかで真っすぐな人だと信じて従っていた。

ところが、あの見知らぬ女がわりこんできて、ヤコブからイエスの心がはなれてしまったように思った。両親からいいつけられたことを平気でふみにじってしまうイエスなんて、と思った。

 いよいよ神殿の柱廊が見えてくると、そんなことはすっかり忘れてしまった。山あいの渓流のように、巡礼の一行はあちこちの小径からふきだしてきた。大きなアーチの下をくぐり、ソロモンの柱廊や王の柱廊の前で礼拝した。

あたり一面に、ざわめきが起こった。二人の少年には奇妙な言葉がきこえてきた。両替する商人の罵声である。イエスがヤコブの耳元でささやいた。

 「ごらんよ、いつか必ずこの商人たちのいる神殿が崩れる日が来るよ もう二度とあくどい商売ができなくなるんだ。これらの柱はみんなゆれ動き、倒れ、大きな石は道の上に落下して粉々に砕けてしまうんだ。この商人たちはみんな死んでしまい、蝗(いなご)の大軍が通り過ぎた跡のように、緑地帯はすべて消え失せてしまうんだよ」

 「何て恐ろしいことを言うんですか、そんなことが知れたら、いっぺんに投獄されてしまいますよ」 ヤコブは目に涙をいっぱいためながらイエスのことを悲しんだ。イエスはこのようなヤコブを見て優しく手をとって言った。

 「そんなに怖がらなくってもいいんだよ。僕の時がまだ来ていないんだからね」 イエスはおどけた口調でヤコブの涙をぬぐってやり、彼を笑わせるようなことを言って慰めた。すっかり機嫌が直った二人は、父たちが待っている神殿の中庭へ入って行った。そこは婦人が入れない神聖な場所であった。

何時間か祈りがささげられ、鳩や子羊などの捧げ物が潔られ、イエスもヤコブも有頂天であった。高貴な庭のすばらしさ、神殿で焚かれる香のかんばしいこと、行き来する祭司たちの着ている輝くような祭服、薄暗い至聖所のおごそかな光景、あちこちからやってきた信仰あつい人々の礼拝風景など、見る者すべてを圧倒していた。

 昼を過ぎたころはみんな疲れてしまい、女たちと逢うことになっている場所で待っていた。すると突然群衆をかき分けるように堂々たる馬車と一緒に、一人の大きな体つきのパリサイ人がやってきた。イエスはヤコブの耳元でささやいた。

 「あの方は僕の友達だ。お父さんがくるまでここで待っててね。お父さんには、あのパリサイ人と話していると言ってちょうだい」 幼いヤコブは、うん、と返事をしたものの、イエスがパリサイ人という身分の高い人と話しこもうとする無茶な勇気に飽きれていた。

ところが髭を生やした老人が、ニコニコしながらイエスの手をとり、親切な言葉をかけながら彼を歓迎しているではないか。度肝を抜かれたヤコブは親との約束をすっかり忘れてしまい、パリサイ人とイエスのあとを追いかけて行った。

 群衆は大きな部屋の真ん前に群がっていた。その中には数人の番人と、色模様をつけた服の長老がつめていた。

パリサイ人はこの部屋の前でイエスと話していたので、パリサイ人の話を聞きたいと思って群がっていた人々は、ひとことも口をきかず辛抱強く待っていた。すると突然大きな部屋の扉が開いて、一人の男が出てきてどなりだした。

 「さあさあ、道をあけろ 神の大祭司様がお成りになりますぞ 道をあけろ、もっとうしろにさがれ」 あたりの人々から歓声があがった。堂々としていたパリサイ人の様子が急に変わった。彼の誇らしげな表情が消えていた。大祭司が彼の真ん前に立ち止ったからであった。パリサイ人は地上の石に額がつかんばかりに頭を低くたれた。

周囲の人垣は神殿の柱の後に半分ほどかくれてしまった。それで背の低いヤコブは視線が遮られてしまい、やっと話し声だけがきこえてきた。パリサイ人と大祭司は、エルサレムの道にさらされている半逆人のことを話していた。

幼いヤコブは、大祭司の御付きの者がみんな引きさがっているのに、イエスだけがパリサイ人の近くに立っているので吃驚(びっく) りしてしまった。大祭司は額にしわをよせながら盛んにローマの支配者たちの馬鹿げていることについて話していた。

 「彼らは私に酷い圧力をかけているのだ。こんな非常識な時代には、気狂いどもが反乱すれば必ず軍隊によって鎮圧されてしまうのだよ。先だっては、ローマ総督が、いっそのこと神殿の中庭にでもローマ軍が駐屯すればどんなにか皇帝(カイザル)はお喜びになるだろう、てなことを言い出す始末だ。

彼の言葉には、いつも刺(とげ)があるんだ。いつだって私と話すときは、我々を冒瀆するような脅しをかけてくるんだからね。もうこの神聖な神殿も不潔極まる外国人の手から守られるという保証はなくなったようだね」

 二人がこのような話をしていても、御付きの者たちには全然きこえていなかった。突然大祭司アンナスは、パリサイ人のすぐ傍に居るイエスに気がついて怒りだした。

 「この子は一体何者だ ここにも潜り込んだ敵方のスパイではないのか?」
 「いいえ、ちがいます。大祭司様。この子は私の親しい知り合いです」

 「そんなことはどうでもよい。即刻ひっとらえて牢獄にぶち込んでしまえ

 この声を耳にしたヤコブは震え上がってしまった。大祭司の激しいそぶりから、投獄とは死刑にあたることを察知したかからである。大祭司は一人の家来に、子供をひっ捕らえるよう合図をしていると、パリサイ人はイエスの体をしっかりと抱きかかえながら口早に低い声で言った。

 「この子はまだ子供です。あなた様が何をおっしゃっているかもよく分かっていないのです。どうか寛大なご慈悲をお願いします」

 「いや、ならん、この段に到って慈悲など必要ない

 「お言葉ではありますが、この子はナザレから遥々やってきた小僧っこです。世の中のことは何もわかっていない田舎者なんです。彼は祭りに詣でるために、初めてエルサレムへ上京してきたのです」 パリサイ人は真剣になってナザレで彼と初めて逢ったときのことを話し出した。彼の弁舌はさわやかであったので、大祭司の怒りは一陣の突風のように過ぎ去った。

 侮(あなど)るような笑みをたたえながら大祭司はイエスの方をふり向いて言った。

 「エルサレムに居る律法学者が、一年もかけて学んだものよりもずっと賢いことを、一時間足らずでこの大先生に注ぎ込んだとは、本当に驚いたね。一体誰がそんなことを教えてくれたんだい?」 イエスは答えた。

 「天の御父様です」

 「こりゃすごい謙遜だ。自分の才能を隠すとは 知恵は稀なもの、乏しきもの程おおきなものを言いくさる。私はお前の賢いそのひとことが気に入った。私に知恵が与えられて以来、何と久しい年月が流れたことよ」

 この言葉を耳にした幼いヤコブには、どうしてもイエスをからかって、パリサイ人をいじめているとしか思えなかった。

 「平和をつくりだす者は何と幸いでありましょう。彼らは神の子と呼ばれるでしょう」 とイエスは小さな声で言った。この言葉を聞いた大祭司の顔色が変わった。さっきまでパリサイ人と話し合っていたローマ人の支配に心を痛めていたからである。

 「おお、よくぞ言ってくれたな、少年よ 現実はなあ、誰にとっても平和を保つことは実にむずかしいのじゃ、敵が刃を向けてきたらどうやって平和を保てると思うかね?」 イエスは言った。

 「敵を愛することですよ そして迫害する者のために祝福を祈ることによって初めてできることです」

 この言葉を聞いて、大祭司アンナスは頭を後に倒し、草むらのように生やしている髭の間から大きな笑い声を出し、高貴な大部屋がひっくりかえらんばかりに笑った。

 「なあ、お前、やっぱり大先生の言っている通り、人智から遥かに遠くにあるナザレの夢想家なんだねえ。昔、モーセが神のことばとしていわれた〝目には目を、生命には生命を〟ということを知らんのかね」

 「はい先生 しかし復讐は再び復讐を呼んで、それを、繰り返すことは本当に知恵と言えるでしょうか、憎しみを以って征服者に勝てるはずはありません。でも先生なら愛によって征服者に勝つことができると思います」

 「おお、小さな助言者さんよ お前は人類のことをまるっきり知らないんだ」 溜め息をつきながら大祭司は続けた。

 「確かにお前の言う通りだ、でもお前には賢さと馬鹿が同居しているのじゃ。つまり、お前のようなものが支配者になったら、お前の知恵は、たちどころに国民全体を破滅させてしまうだろうよ。子羊だと知った狼は、愛もへったくりもなく、貪るように自分の餌食にくらいついてくるだろうよ」 イエスはなおも答えて言った。

 「狼も訓練次第ではないでしょうか。聖書にも、狼と子羊が共に暮らすと書いてあるじゃありませんか」 (旧約聖書イザヤ書11・6)

 「そりゃそうだ、預言者イザヤは、わしらの時代のことをさして言っているんじゃないぞ、でもお前は仲々賢い奴だ、それが夢想家の果実だとしても、わしは気に入った。でもなあ、征服者が手に手に武器を持って攻めてきたら、いろいろとかけひきをしながら、味方が生きのびることを考えるだろうよ。

やっぱり武器を持っている者が主人なのだよ、この世では。そんな主人を馬鹿な奴と軽蔑するかもしれないが、そいつの言いなりになってしまうんだよ」 周囲の者は、はらはらしながらこの様子をうかがっていたが、イエスは堂々と大祭司の顔を見つめているうちに、大祭司の心の中に誰にも言えない深い秘密が隠されていることを察知した。それでイエスは静かに言った。

 「霊界に於いては神ならぬ人間を〝主人〟と言ってはなりません」

 このイエスの放った一撃は、大祭司アンナスの顔を素手で殴りつけるよりも大きな衝撃(ショック)を与えた。

 「神ならぬ人間を主人と言ってはならぬ、とな こんな単純なことが果たして本当なのだろうか」 と呻くように大祭司はつぶやいた。暫くの間、この二人は、じっとお互いの顔を見つめ合っていた。イスラエルを支配しているこの大祭司の顔には深い悲しみが現れて、放心したように頭を垂れていた。

 突然頭をあげてパリサイ人に向かって言った。

 「わしはこの奇妙な少年ともっと話したいのだが、今日はもうこれ以上話したくない 奴は知恵があり過ぎて理解力をにぶらせているのじゃ。夢見る者の落ち行く宿命じゃ。だがなあ、奴の言っていることが本当なら、一国の破滅はおろか、ローマ帝国も根こそぎ破滅してしまうだろうよ。何と恐ろしいことよ。お前も奴についていけなくなるだろうな」

 これらの言葉を言い残して、大祭司は群がる人々の挨拶やお世辞をていねいに受けながら、部屋の中に消えて行った。大祭司の姿には威厳もなく、顔に憂いが漂っていた。イエスの放ったあの一言が、彼の秘密の部分を抉ったからである。

 かつて、青年時代に心から憧れていた真理と知恵の道を思いだしていた。その道は、くねくねした道であり、今ではその片鱗さえも残っていなかった。
 
 
   25  神と富との狭間に

 そもそもマリヤが救世主(メシヤ)を産みたいとの切なる願いをもって神に祈り、その実現を夢見たのは、ユダヤ民族の救済のためであった。彼女が若かった頃、ユダヤの国全体がローマ帝国の手によって大変悲しい思いをさせられていた。

彼らの信仰はふみにじられ、散々苦しめられたので、ユダヤ人はローマ皇帝を恨み、若者は革命の機会を狙い、軍隊と結託して秘かに陰謀を企て、ユダヤおよびその周辺からローマの勢力を撃退しようとした。

 〝ユダ〟と名のるゴール人が、ユダヤの青年を指導してシーザーの軍隊と真っ向から戦いを挑んだことがあった。彼らは勇敢に戦ったのであるが、力およばず、何百という多くの若者が殺されてしまった。

ユダは暫くの間身をひそめ、丘の上で態勢を整え、再びローマ軍と戦ったのであるが、遂にローマ軍に敗れ、滅ぼされてしまった。その後時々若者たちが軍を組織してはローマ軍を襲撃するのであった。

このような徒輩(やから)は 「反逆者ユダ」 の手下として知られるようになった。なぜならば、ユダがローマからの自由を望むユダヤ人の心に、解放の火を点火したからであった。 (新約聖書、使徒行伝5・37参照)


 さて、ローマを悩ませた小刻みな反乱は、当時のローマ総督〝キリニウス〟の怒りをひき起こし、ユダヤ人の支配者階級の長老たちを震え上がらせる結果を招いた。〝サンヒドリン〟(1)のメンバーであった祭司たちは、力づくでは到底ローマ人をユダヤから放り出すことはできないことをよく知っていた。

それだけに支配者たちは、反乱が起きないようにと厳重に監視した。殊にローマ総督から、神殿内部の権力を直々にあずかっていたパリサイ人や祭司は、自分の権力の座を奪われないようにと、必死になって反乱を食い止める努力をしていた。そのうちの一人が、大祭司アンナスであった。


彼は二人の〝主人〟に仕えねばならなかった。一人は、全ユダヤの最高の指導者たる、大祭司として仕える神であり、同時にもう一人は、ローマ皇帝であった。ローマの寵愛を受ける代償として、皇帝の意思通りに従わねばならなかった。

 ローマに仕える代償は高価なものであった。アンナスの家の富は益々豊かになった。彼の親族はすべて、キリニウス総督の恩恵に浴し、大きな利益を享受していた。しかしアンナスの心は穏やかではなかった。

ひと晩でも安眠できる日はなかった。彼は常に神殿の長老たち、熱心党(2 極端な国粋団体)、パリサイ人、サドカイ人(親ローマ派の一大政党) の動きや、ローマからの直接の指令に悩まされていた。

けれども彼が享ける莫大な報酬の故に、ローマ皇帝の命に服し権力の座を保ってきた。しかし彼は悲しくも、過ちを犯していることを知っていた。だから彼は、少年イエスが彼の心をすべて見透かしていることに驚いた。

少年イエスが口にした言葉は少なく、その内容は大祭司を驚かすほどのものではなかった。しかしこの少年の稀にみる才能、即ち深い悩みを見透かし、過去の記憶をかき回す才能に啞然としたのである。

 彼は若い頃、神と人とに忠実に仕える人間になりたいとの夢を持っていた。現実の彼は、毎日のように人々を裏切っていた。ローマ皇帝の言いなりになって、同胞のユダヤ人のためといいながら自分の地位を保全していた。もし彼がローマ総督の命令に背くようなことをすれば、たちまち馘(くび)になることを承知していた。

 大祭司のしもべたちは、大祭司の心境が穏やかでないことを感知していた。アンナスは部屋中を行ったり来たり歩き回っていたからである。アンナスの相談相手をしている一人の年老いた律法学者が突然入ってきて、心を痛めている大祭司に尋ねた。こんなことをしたら、いつもなら大声でどやされるところであるが、この時には、もの柔らかな調子で話し出したので驚いてしまった。

 「馬鹿な少年めが ありゃきっとガリラヤの羊飼いか何かであろう。わしを責めおって、心の底まで揺さぶりおった」

 「そんな奴は番兵に掴まえさせて棒で叩きのめしたらよかったじゃありませんか、大祭司さま

 「いやいや、これはきっと神様の御指図だろう」 彼は溜息をつきながら言った。


 「わしはなあ、この聖都エルサレムに反乱が起きないように努力をしてきたことは知っとるだろう。それを少しでも怠って見ろ、この神殿はたちまちローマ人に潰されちまっただろう」

 「そうですとも大祭司様、あなたこそ立派にイスラエルのために尽くしておられます。あなた様こそ真の平和論者であられます」

 大祭司は、ほほえみながらイエスの言った言葉を思い出して呟いた。


 「そうか、だから神の子というのか。わしは平和を保とうとして罪を犯してきたのじゃ。ローマ人がわしらの信仰を侮り散々貶(けな)すのを密かに助けてきたようなものじゃ。まるで草むらに隠れている毒蛇のように狡猾(ずる)く立ち回っていたのじゃ」 律法学者が鋭い口調で言った。

 「大祭司様あなたはずっと平和を探し求めてきたではありませんか」

 「そこだ ずっとだ、不名誉にもな ガリラヤの一羊飼いが、わしの若い頃おぼえていた賢者の諺を思いださせてくれたのじゃ。 <神ならぬ人間を主人と言ってはならない> とな。聖なる大能の神の御名において、わしの本当の主人は、ユダヤ人やローマ人であってはならんのじゃ おお、なんということか 明日は総督キリニウスから、わしの返事を迫られておるのじゃ。

ローマ皇帝がエルサレムの神殿までも支配したいと言ってきてるのじゃ。もし羊飼いの助言に従って、それを拒否すれば、神の御意志に叶うことになり、神殿は聖なるものとして外国人に汚されずにすむという訳じゃ」

 「そりゃいけません大祭司様、そんなことをなさったら、皇帝を怒らせてしまいますぞ」

 「神ならぬ人間を主人と呼んではならんという偉大なる教えに反するよりは、ローマ皇帝に反する方がよいではないか?」

 「あなた様は、即刻、馘になり、同族の方々はすべて路頭に迷うことになりましょう。あなたさまは、大祭司の座を追われてしまうのですぞ。いやいやそれどころか、生命まで落とされることになりましょう。この件につきましては、大祭司様と総督のお二人以外の者は誰も知らないのですから、適当に処理されてはいかがでしょうか。

外国人が勝手に神殿に入ってきて恥ずかしめたとしても、自分の預かり知らぬことと言えばすむことではありませんか」

 「へびの悪知恵め わしが本当に神を主人として崇める者であれば、サンヒドリンを招集し、全議員の前でこの汚らわしい問題をどう処理したらよいかを話すのじゃ。それから全議員の代表として総督の処に行き、次のようにぶっ放すのじゃ。<サンヒドリンの名に於いて宣言する。もしローマ皇帝が、神聖なる神殿を汚すなら、われら全員、死をもって迎える>とな」

 「大祭司様、それは狂気の沙汰ですぞ」

 「おおそうともさ、正しい道とは、気狂いじみているものじゃ。だがなあ、その前に、もう一つやっておくべきことがあるのじゃ。つまり、わしが総督の処へ行き、わしの考えを打ちあけてみるのじゃ。わしの出そうとしている命令を知れば、総督は真っ青になって、わしの言うことを聞くじゃろうて」

 「それは名案ですね。でもそんな脅迫じみたことが本当にできるのでしょうか」

 「あたりまえだ。わしが本気でやるという決意のほどを示さなければ、誰がわしの言うことを信じると思うか」 大祭司は、威厳のある手つきで、律法学者に直ちに立ち去るように合図をした。なぜなら、大祭司はもう彼の甘言に誘惑されることはないと思ったからである。


(註1)
ユダヤの最高裁判所。サドカイ派、パリサイ派、長老の三派より各々代表をだし、大祭司が議長となって審議する。議員は全部で七十二人から構成される。

(註2)
ユダヤの極端な国粋主義者の団体で、ローマ帝国に反抗するために、テロ活動を展開し、ローマを悩ませていた。
  



   26  アンナスとキリニウスの友情 

 ある日の日没頃、エルサレムに居る二人の支配者が窓辺に立ちながら街を見おろしていた。

 民衆の家々は雑然と建ち並んでいて、家々の間を細い路地が曲がりくねっていた。二人は遥か遠くの方で動いている人の群れが、蚊の大軍のように映った。大祭司が口火を切った。

 「この民衆の生命は、あなたの権力によって左右されているのですぞ、総督殿」

 「そうですねえ。でも、あの人たちは一体何を考えているのか、私にはさっぱり解らないんですよ。その意味では、野にいる獣(けもの)よりも性質(たち)が悪いといえませんか。あの人々は、我々には、判をおしたように黙りこくって、ただ黙々と我らの支配に従っているのです。これでは生き地獄のようであり。永遠の眠りのようでもあると思います。

最も高貴であられるらラビ殿、あの人たちはどうしてあれ程神殿やその名誉に強くこだわっているのですか?」

 「それは我らの神なる主を重んじているからでございます」

 「それでは困るのです。あなたに全権を託しておられる方は、カイザル(ローマ皇帝)でありますぞ、大祭司殿。貴殿はまず第一にカイザルに義務を果たしてもらわねばなりません」

 「カイザルに対しては、もちろん法的権威であられる方に従わねばなりませんが、神殿のことに関しては、われらの神に従うべきものと考えております」

 「私は、あなたのよき友人としてそれを理解することが出来るのですが、どうしても、その御言葉は地上の主であられる皇帝(カイザル)を批判する響きを持っているのです。ローマ皇帝は、神殿でさえ支配する権力をお持ちのはずです。

帝国内のあらゆる領土及び国民のものは、すべて私のものであると皇帝は言っておられます。ですから神殿も、帝国内に属するユダヤ人が集まる場所としてカイザルの支配下にあるものです」 大祭司は答えた。

 「総督殿、私に委ねられた権限で申し上げます。私は、口はばったいようですが、全議会のすべての議員を私の思うままに動かすことができるのです。総督も御存知の通り、ユダヤの国はサンヒドリンの議員たちの手で牛耳られています。この際ですから、はっきり申し上げておきますが、カイザルがどうしても聖なる神殿を我がもとしたいというのでしたら、ユダヤ人全員を一人残らず虐殺なさるのがよいでしょう」

 「なにをそんなに血迷っておられるのですか、大祭司殿。あなたの御言葉をそのままカイザルの耳に入れようものなら、あなたは、たちどころに今お召しになっている金色に輝く服装が剥奪されてしまうでしょう。

権力だけが物を言うのですぞ。名を与え、またすげかえることができるのです。あなたの同族はみんな全財産を没収され、この街に住む最も貧しい連中と全く変わらなくなってしまうでしょう。権力から離れた人間など、まことに哀れな存在なのです。それに、私も同様総督の地位を奪われてしまいます。

あなたは高貴なラビとして私に深い愛情を示し、私を尊重してくださいました。そのあなたの愛情は今どこに行ってしまったのですか。友情の誓いを破り、サンヒドリンにかけこんで私を裏切り、完全な信頼関係をひっくりかえしてしまわれるのですか」

 アンナスは、呻くように叫んだ。

 「私にローマの手先となって、支配者の思うがままになれとおっしゃるのですか」 アンナスは怒りと苦痛で彼の大きな体を震わせた。キリニウスは、柔らかく口を開いた。

 「私たちは初めてユダヤ人と外国人の間に友情を培ってきました。そのことは誰にも話さず、あなたと二人だけの秘密として守ってきました。だからこそ私たちには格別な喜びが与えられたのです。私たちの出逢いと友情は、民衆の誰とも比べることのできない高価なものでした。

あの当時私たちはお互いに語りあったじゃありませんか、死後も、地獄までも一緒に行きましょうと。それをあなたはあきらめろとおっしゃいます。もう私たちには苦しみも楽しみも失くなってしまいます。

一塊(いちかい)の塵(ちり)となってしまうのです。残り少ない余生をどうしたらよいのでしょうか。私たちがいなくなったら、民衆に対するあなたの名誉や信頼は一体どうなるのでしょうか。権力の座にいる間は、もっと楽しく、一日の真昼のように明るくやっていこうじゃありませんか。

あなたの神が我々を作ろうと、私たちの神々がつくろうと、それは大した問題ではありません。私たちの義務は、自分自身と子孫を守ることではないでしょうか。子供たちだけが私たちに不滅の道を与えてくれるのです。

そんな馬鹿げたことをすれば、あなたや私をも滅ぼしてしまいます。あなたは私のすべての喜びを盗み取り、私の老後までも奪い取ってしまうのです。尊いアンナス様、どうかわが子孫の名に於いてお願い致します。我が最後の人生を栄させてください。喜びと名誉にあずからせてください。今後の数年間は私にとって最後のものとなるでしょう。

どうか酷い仕打ちをなされず、平和を破らないでください。それだけではありません。アンナス様の御子様方に対しても正しい配慮をなさるべきではありませんか。大祭司様、どうか彼らをも裏切らないでください」

 アンナスは、思いがけない総督の哀願に驚いてしまった。大祭司のすぐ傍で待機していた例の律法学者は、二人の秘密会談が行われている間に、三回も口をはさもうと努力したのであるが、できなかった。高い塔の聳えている神殿は、夕陽をうけてきらきらと輝いていた。

白く塗られている部分は、夜になってもうす明るかった。祭司たちの歌う詩篇の流れが微風に乗って心地よく伝わってきた。その上大勢の人々の話し声や歌声などが、まるでバベルの塔のように、ごちゃごちゃと混ざり合って聞こえてきた。大祭司は大声で言った。

 「あれは我が民の声だ、見よ、風に乗ってわしの処へやってくる。わしはその声に耳をかたむけにゃならん。それは風に乗ってくる神の御声じゃ。わしはそれに従わねばならんのじゃ

 大祭司はキリニウスの方を向いて堂々と話し出した。

 「私はユダヤ人です。あなたは外国人です。私たちは友情で結ばれてきました。でも、私の体の中に流れている血を変えることはできません。私たちはまた先祖の名を変えることもできません。

大きな溝が、私とあなたの間にあるのです。そして両者をつなぐ橋はかけられないのです。あなたがおっしゃる通り、二人で一緒に地獄へ行くことはできます。しかし真実のユダヤ人は、神とその国家を裏切れないのです」

 「しかし大祭司様、あなたは私が今願ったような些細なことでも実行してこられたではありませんか。あなた流に言わせていただくなら、あなたは民衆を裏切ってきたことになるのですぞ」

 「おっしゃると通りです。だからこそ、私はそれを修復したいのです。キリニウス殿!!襤褸(ぼろ)をまとった羊飼いの少年が神殿にやってきて、とても阿保なことを言いました。でも彼が言っていることは神の御告げのようなものでした。それがひどくこたえましてね、こんなことを言うんです。 『神ならぬ人間を主人と言ってはならない』 とね。

これを聞いてから、なぜか、神殿のことや自分の子供たちへの愛情などは、どうでもよくなってしまったのです。こうして今あなたが寄せて下さる友情は、涙がでる程うれしいのです。この友情は、長い間誰にも知られず、ひたかくしに隠してまいりました。今でもこの友情の炎が消えないようにと祈っている程です。

けれども私はやはりユダヤ人であり、あなたは外国人という宿命を背負っているのです。大祭司として私一人だけでも神に頭をさげ、礼拝し、選ばれた民族にお仕えしなければなりません。これが私の心境なのです。

カイザルに対する御処置に関しては、あなたの思う通りにやってください。カイザルからの公文書にはもう目を通す必要もありますまい。私の生涯は今終わったのです」

 キリニウスは、大祭司の両手を固くにぎりしめながら涙を流した。
 「おお、なんと偉大なるラビであろうか!! あなたの御決意には心から感激いたしました、しかしカイザルからの返事が到来するときには、私の生涯にとっても終わりとなることでしょう」
 

 それから何年か経ってから、カイザルの神殿支配に関する公式決定が発令された。キリニウス総督は、ローマ皇帝より厳しい指令を受け、大祭司アンナスに対しては、病気を理由にして大祭司のポストを退くよう命令されていたのであるが、キリニウスはカイザルの命令を無視し、アンナスを現職にとどめた。

総督キリニウスの勇敢な行為と大祭司に対する友情は、例の律法学者だけが知っているのみで、ユダヤ人やローマ人双方とも二人の間に何があったのかは知るよしもなかった。

 遂に総督も現職を剝奪され、ローマ本国へ送還された。しかし彼の名は、ユダヤの歴史には記録されず、ただ〝ガリラヤの羊飼い〟と言う文字だけが残されている。

 彼の後任として、〝バレリウス・グラーツス〟が総督に任命され、彼は慎重な態度で臨んだ。赴任当初は、大祭司の追放策をすぐに実施しなかった。アンナスは、イスラエルの長老や民衆から尊敬されていたからである。暫くして彼はその口実を見つけるのに成功した。

それはアンナスがこの神殿の支配を他の者にゆずろうとしていることを突き止めたからである。アンナスにとってこの時期程悲しいときはなかった。彼には依然として<支配欲>が残っていたので、大祭司のポストを離れたくなかった。

そこで彼は実に巧妙な術策を計画し、彼の娘婿〝カヤバ〟を大祭司にすえて、背後から神殿を支配することになった。そんな訳で、<神ならぬ人間を主人と呼んではならない>という言葉をすっかり忘れてしまったのである。一片(ひとかけら)の良心をも失ってしまったのである。

その後、彼は、こっそりとローマに媚びへつらい、尊大なサンヒドリンの議員たちに <おべっか> を使っていたのである。だからこそ、将来再びイエスと再会したときには、イエスに対して最も残酷な判決、即ち〝十字架形〟(1)をくだすことになったのである。かくしてアンナスの麗しい反省の念もローソクの火のように、あっけなく吹き消されてしまったのである。

(註1)
十字架を重罪人の磔刑(たっけい)の道具として用いたのは、おそらくフェニキア人が最初であろう。ローマ帝国がその方法をとり入れるとき、それが余りにも残酷なので、奴隷や凶悪犯人のほかは適用しなかった。



   27  燕の羽を生やそうとする雀

 幼いヤコブは大きな柱の陰から抜け出し、脇目もふらず、大祭司の入っていった部屋の前から逃げ出した。あのときには、イエスの勇気に惚れこんでいて、恐怖を感じていなかったのであるが、やがてその気持ちもふきとんでしまった。

巨大な神殿を目前にして大きな街にいる夥(おびただ)しい群衆を意識したとたん、自分がまるで荒野を彷徨う人間というよりも、狼の洞穴(ほらあな)に放り込まれたような恐怖に襲われた。

薄暗くなった街の中をさまよい、怖い気持ちを押し殺し、唇を強くかみしめていた。口の周りから鮮血が流れていた。遂にヤコブは母親を探し当て、顔を埋めながら大声で泣きじゃくった。

みんなはヤコブに尋ねるのであるが、イエスのことは一切聞き出すことはできなかった。なぜならば、幼いヤコブの心には、あの偉大な大祭司の怒声(どせい)が耳にこびりついていたからである。ひとことでも見た儘のことを話そうものなら、首ねっこを掴まえられて、地獄の燃えさかる火の中に放り込まれてしまうと思いこんでいたからである。


 イエスの弟トマスが言った。

 「お父さん、イエスとヤコブが立っていた大きな柱から、戻ってきなさいと言われたので僕はちゃんと言うことを聞いたのですが、あの二人はちっともいうことを聞きませんでした。特にイエスは、厚かましくて、ラビの後にのこのこついて行き、内庭に入ってしまいました。それで僕は二人とも見失ってしまったのです。

それからヤコブがどの辺をうろついていたのかわかりません。でも急いで行ってみると、イエスがあのパリサイ人の後ろにぴったりくっついているじゃありませんか。僕もどうしたらよいか困ってしまいました。

お父さんの言いつけを思いだして、あの大きな柱の下で待っていたのです。お兄さんは、また変な病気に取りつかれているのかと心配になって、知らずに内庭へ入ってしまったのです。そうしたら護衛の者がひどく怒り、ここは一般者が入ると罰せられると言われたのです。ですから僕は再び柱の処に戻り、お父さんが来るのを待っていたんです。

僕は兄を見守るために、偉い人しか入れない場所に足をふみいれてしまったんです。僕のせいじゃありません
」 ヨセフは言った。

 「そうだとも お前の兄が、お前くらい知恵があって従順ならいいのだが。あいつは親の言うことを聞かず、おまけに聖なる場所に入り込んで。ひどいことをやってくれたね。全く手が付けられりゃしない

 二人の女は何か恐ろしいことがイエスの身の上に起こりゃしないかと心配でたまらなかった。この二人は心からイエスを愛していたからである。

 「ここに平安がありますように」 と言って聞きなれた声がひびいてきた。みんながその方を見ると、細身のイエスが夕陽に輝く金色の光の中に立っていた。彼の顔付は、実に美しく、神秘的で、両眼の輝きは王者の風格を備えているように見えた。パリサイ人と話し合ってからのイエスの風貌は一変していた。

父のヨセフでさえ、後ずさりする程であった。ヨセフはイエスをひどく叱るつもりで言い出した。

 「お前は聖なる場所に入りこんで、汚していたと聞いているが、それは本当か?」
 「とんでもありません。僕がどうして聖なるものを汚すというんですか。清らかな心の持ち主がどうして汚すことができるのですか?」

 「昔の病気がまた始まったようだな、しかも幼いヤコブまで巻き添えにして、今まで何をしてきたのかぜんぶを話してごらんなさい」

 イエスは頭を横に振って何ひとつ答えようとしなかった。そんなイエスをみて、ヨセフは激しく怒りだした。イエスはなおも沈黙を続け、何ひとつ語らなかった。周囲(まわり)の者は気が気でなく、何でもいいから話すように強く迫った。

それでもイエスは口を開こうとしなかった。例のパリサイ人との固い約束を守っていたからである。

(おど)してもすかしてもイエスの固い口を割らせることができないと知ると、今度は幼いヤコブに矛先を向け始めた。怯えたヤコブは、口がきけず、ただベソをかいて泣きじゃくるだけであった。

困り果てた家族の者は夕方になったので、神殿から街へ出て行き、宿探しを始めた。ヨセフは一家の長として何とかイエスの口を割らせる懲罰はないものかと考えあぐんでいた。マリヤに夕食の支度をさせ、イエスの分だけは別に用意させた。そしてヨセフは頑固な気持ちを和らげ、両親の言うことを聞いたら夕食をたべさせてやると言った。

母マリヤはいろいろとイエスに意見をするのであるが、かくも深く愛している母親に対しても頑として口を閉ざすのであった。

 マリヤは一晩中ねむれず、ヨセフの懲罰を無視して息子に食べ物を与えたいと思っていた。夜明け頃、一条の光が射し込んで来た頃、マリヤは起き上がり、ヨセフがぐっすり眠っていることを見とどけてから、這うようにして戸の傍で横になっているイエスの処に行った。イエスは眠っていなかった。

 薄暗い部屋の中で、彼の顔は青白く見えた。マリヤが耳元でささやいた。

 「イエス 起き上がって外に出てきなさい。音をたてるんじゃないよ。何かおなかにいれるものを用意してあげるからね」

 イエスは母のよう通りにやってみたが、体の方が弱っていて、いうことをきかず、地上に倒れてしまった。

 「僕もうだめだよ。断食と疲れで立ちあがれないんです。お母さん、僕のことを構わないでください。お母さんこそ眠った方がいいですよ」 マリヤはときどきひどくびくついて、ヨセフにさからったときに見まわれる癇癪玉(かんしゃくだま)を怖れた。

ヨセフは気の短い人であった。井戸に転落してから彼の健康は勝れず、病める体は彼の魂を蝕み、ますます八つ当たりをするようになった。マリヤは彼の機嫌を損ねないように気を配ってきたのであるが、息子を思うあまり、恐怖心をふりはらって、ぐっすりとねこんでいる夫の傍へにじり寄った。

ヨセフの腰にしっかりと結びつけている葡萄酒の入った革袋をそーとはずしてから、家族の者が寝ている間を忍び足でまたぎながらイエスの処へ運んできた。イエスに葡萄酒をのませ、パンを食べさせてから戸外へ連れだした。

 「ねえ、お前は今日神殿に行くのを止めとくれ。お父さんが目を覚ましたら、昨日のことをあやまって、何もかも全部話してしまったらどうだい。そうでもしなきゃ、私たちの楽しみが目茶目茶になってしまうんだよ」

 「お母さん、それはどうしてもできないんです。僕はそのことを絶対に誰にも言わないと約束したのです」

 「一体誰とそんな約束なんかしたの?」 母は悪友でなければよいがと、怖れながら質問した。
 「とても偉い賢者です。それ以上僕に言わせないでください」

 母はイエスのためになることだということを懇々と諭した。母は、イエスとヨセフの関係が日ましに悪化していることを恐れた。そしてその溝は次第に大きく広がってきて、父のイエスに対する偏見が抜き差しならぬところまで悪化し、目を覆いたくなるようなひどい折檻をするようになっていた。イエスは母から少し離れて言った。

 「お母さんは、うちのお父さんの名誉を大切にするようにおっしゃいますが、その前に、天におられる本当の御父様のことを大切にしなければならないんじゃないでしょうか。僕が嘘をつき、大事な約束を破ったらどんなに天の父上を裏切ることになるでしょう。

僕たちは、天の父に似せられてつくられたんじゃないのですか?  僕は絶対に口を開きません」 マリヤは答えた。

 「よくわかりました。その代り、明日からは、自分勝手に出掛けることは許しません 私たちから離れないように、いつも一緒にいてちょうだい。ねえ、お願いだから、何でもお父さんの言うことを聞くと約束しておくれ」

 「出来ないことを約束しろとおっしゃるのですか?」
 「両親の言うことがきけないのですか?」

 「そうではありません。僕はどうしてもやらねばならないことがあると言っているのです。お母さん」

 二人が話し合っていると、宿の中からヨセフの呼ぶ声がしたので、母は急いでヨセフの処へとんで行った。マリヤはもう臆病な妻ではなかった。勇敢な母として何もかも自分がイエスに対して行ったことを告白した。

ヨセフが肌身はなさず持っていた葡萄酒は、病気で倒れた時や、旅の疲れで動けなくなったときの非常用として大切にとっておいたものであった。その葡萄酒をイエスに飲ませたことを正直に話したのである。マリヤのやったことを知ったヨセフはひどく機嫌が悪かった。それから二日間というものは、二人の間に冷戦が続いた。

ヨセフが口を開くときは、マリヤにあたるようなことしか言わなかった。でも殆んど黙りこくっていた。それがかえってマリヤには辛かった。それまでは、エルサレムという大きな聖都に来て新しい体験や様々な喜びを分け合っていた。それでも俗人であったが、ヨセフは心のやさしい男であった。

 夜になってから彼は小さなプレゼントをマリヤにさし出して、おれが悪かったと詫びを入れ、マリヤの御機嫌をうかがった。

彼はもうイエスのことを持ちだすのをきらい、またひどく折檻したことを詫びる気もなかった。昔の古傷がもたげてきて、イエスのことを誤解していたことや、大恥をかかされたことを思い起こしていたからである。ヨセフは同行しているクローパスに嘆いて言った。

 「イエスは時々阿保な霊にとりつかれ、とてつもない馬鹿なことをやらかすんですよ。ナザレでは律法学者なんかにたてついて自分の馬鹿をさらけ出すんだから、始末におえないやつですよ」 クローパスは彼に意見した。

 「あなたは、まるで燕の羽を生やそうとする雀のような御方だ あなたは遥か遠い彼方にまで飛んでいける羽をつけたイエスには到底追いつけないでしょうよ。すべての点でイエスはあなたと違うからです。あとになって悔やまねばならないような審判はなさらない方がよいですね」
 


                                                                                                   
  28  先なる者が後に 

 それから二日間というものは、イエスは母の一行の中にあって、一時間足りとも母のもとを離れなかった。

婦人が入れない神殿の中庭の前でもイエスは中庭に入らず、母たちと行動を共にした。きっと中庭に入って祈りたかったことであろうが、一切それもしないで、女たちと同行した。母マリヤは鳥のように明るくお喋りし、時々歌ったり、はしゃいだりしていた。イエスとマリヤ・クローパスがお互いに尊重し合っている様子がとてもうれしかった。

 彼らが市場にさしかかって商人たちが売りさばく様子を眺めていた。店頭では色取りどりに美しく刺繍された布地が人目を引き、殊に単純なガリラヤの女たちの心をとらえた。その他蜂蜜、穀物、ワイン、豪華な服、食品類、豊かな果物などが並べられていた。女たちが店頭の珍しい商品を見ている間、イエスは通り過ぎて行く群衆を見つめていた。

店頭の品々を物欲しそうに眺める飢えた乞食、遠くからやってきたユダヤ人、エチオピア人、ギリシャ人、エラム人などがいた。さらにアラビアやローマからやってきたユダヤ人もいた。

ある人の顔は枯れ葉のよな茶褐色をしており別な人の顔は熟した葡萄のような黒ずんだ色をしていた。若者たちの髪の毛は美しく、周囲の山々からやってきた羊飼いや農夫などもいた。これらの人々はみんなエルサレムの一大行事である過越祭に参加するためにやってきたのである。

 母マリヤはこのような雑踏の中では、到底イエスは夢見るひまなんかないだろうと思った。


 イエスは目の前を通り過ぎて行く人々の顔を丹念に見入っていた。まるで通行人の数をかぞえ、一人一人の顔の特徴を念入りに掴もうとしているのであった。マリヤ・クローパスはめざとくそれに気付き、イエスに何をしてるのかと聞いた。イエスは答えて言った。

 「この人たちの胸のうちに何が潜んでいるかを見ていたんです。人の額を見ると、その人の性格や過去が封印されていますが、目を見ると何を求めているかが解るんです。

物質的なものか、霊的なものか、あるいは、権力的なものか、奉仕的なものかといった具合にね。でもね、僕がこうしてこれらの人々が何を求めているのかを読み取っていると、やはり天の御父様が僕に与えようとしておられるお仕事はこれなのだということが解ってきたのです」 すかさず母マリヤが言った。

 「お前は本当に変な子ね、こっちにきて一緒に楽しみましょうよ。他人様(ひとさま)の秘密なんか探るようなことはおよしなさい」

 イエスは母のあとについて行った。一行は笑ったり、冗談を言い合ったりしながら一日中あちこちを歩きまわった。

みんなはくたびれたが、母とイエスは本当に楽しむことができた。彼らは見るもの聞くものすべてに感動をおぼえ、互いに喜びを分かち合った。この喜びにあふれた平和をかき乱す二人の者、ヨセフとトマスが一緒でなかったことを幸いして、此の世のものとも思えぬ程の喜びを味わった。

それは人間が地上を離れて赴く最初の世界に共通する無垢なる意念(おもい)が支配していたからである。

 夜になってガリラヤ勢が集まってきて、その日にあったことを互いに話し合った。親族の一人がイエスを詰(なじ)ってヨセフに言った。

 「お前さんの子供はまだ一人前に成長しとらんようだね。それにとても女々しい男の子のようだ。あの子はいつも母親と叔母にくっついているんだから」 みんなが、どっと笑いイエスのことを嘲った。するとヨセフが眉をひそめながら言った。

 「みんなが言う通りだ。こいつは大工の腕も上がらないし、おやじの言うこともきかない。こいつはもう子供じゃないのに年下の子供と遊んだり、年上の女どもとしか話さないんだよ」 イエスは憤然として言った。

 「僕はね、人の心の中に隠されているものが何であるかを知りたいのです。普通の大人よりも、女性や子供たちの方がとっても正直に教えてもらえるのです。彼らは僕らと違ったやり方で〝生命〟(いのち)のことを感じとっているのです。

僕が大人になる前に、子供や善良な女性の心の中に秘められている無垢な清らかさや美しさを知っておきたいのです。

さもなければ、僕の心は盲目になり、霊的に乏しくなってしまいます。ですから幼い子供たちや、か弱い女性の方がみなさんよりも偉いのかもしれません。〝先なる者が後になり、後なる者が先になる〟のです」

 ヨセフは嘆くような調子で言った。

 「馬鹿もいい加減にしろ、いつになったらお前から阿保な霊が立ち去るのだ ナザレの律法学者も言うはずだよ。

親の誇りも喜びも消しとんでしまうような馬鹿者だってね。何だって、先の者が後になり、後の者が先になったりするんだ! 子供が大人よりも偉かったり、乞食がサンヒドリンの大先生より偉いだなんて なんてこった、この馬鹿息子めが、頭でも冷やしてきたらどうだ」

 イエスがむきになって反論しようとしたが、母親の合図で彼は黙ってしまった。後日マリヤ・クローパスがイエスに質問した。

 「あの時あなたが言っていたことはどういう意味なの? ええと、最初の者が最後になったり、最後の者が最初になるとか言ってたけど。それから、か弱い者や乞食が支配者や大先生よりも偉いとか、それ本気で信じているの?」

 「僕はね、この世のことではなく、霊界のこと、それに、これからやってくる〝とき〟のことを話そうとしたのです。

僕はあの日、クレテ島(地中海第四の島)からやってきたユダヤ人の巡礼者が、もう一人の巡礼者に一片(ひとかけ)らのパンを与えているのを見たのです。パンを求めた巡礼者はお金が無くて、食べるものが買えず、せめて子供にだけでも食べさせてやりたいと叫んでいたのです。

パンを与えたクレテ人は、弟から何て馬鹿なことをしたのかと責められていました。天の父なる神様の目からごらんになれば、どうしても此の貧しいクレテ人の方が最初に神様から迎えられる人であり、飢えた子供の泣き声を聞きながら知らん顔をして通り過ぎて行った金持ちは、神様から迎え入れられるのは仲々むずかしいということです」


 「でも金持ちの中にも善意を大切にしている人がいるかもしれないわ。あなたが見かけたけちな金持ちがそうだったからといって、みんながそうだと決めつけてはいけないわ」

「でもね、伯母さん、金持ちが霊的に向上したり、愛の業をすることは、とても難しいのです。自分の財産のことしか頭にないからです。だから金持ちは、飢えた子供たちの叫び声が耳に入らず、霊界のことを考える余地もなく、まして人々の心に宿っている愛のことがわからないのです。

支配者や金持ちの商人は、一見して偉そうに見えますが、神様から見たら、決して偉くはないということです」

 マリヤ・クローパスは、この言葉を聞いて黙りこくってしまった。イエスの言っていることが、地上のものではなく、霊界の知恵であることを感じとったからである。そういえばガリラヤの丘でイエスが預言者エリヤと共に歩いていた光景や、それよりずっと前に、彼の母マリヤが同じ丘の上で神様と対話してしたことを思いだしていた。



 
  29  イエスを見失う

 ヨセフの心には重苦しい雲がたなびき、イエスに近寄るのが苦痛であった。支配者や偉い人々に向けられたイエスの言葉が妙に胸につかえて、ヨセフの心は荒々しくなっていた。

ヨセフとイエスの仲がこれ以上険悪になっては大変だと感じてるマリヤは、クローパスの処に行ってこのことを打ちあけた。賢い商人クローパスは何か困ったことがある時には、自分の顎鬚をひっぱりながら妻の方を眺めるのであった。妻は彼に提案した。

「ねえ、あなた、ヨセフの泊まっている宿はせまいので、エルサレム滞在の最後の二日間はイエスをうちで引き取りましょうよ。私たちはイエスを愛しているからとてもうれしいわ」

 話は直ぐまとまり、クローパス夫妻はイエスの面倒を見ることになった。ヨセフの態度は一変した。彼の陰うつな気分はたちまち消えてしまい、マリヤとトマスと三人で愉快に街を歩き回った。神殿に行ったり、あちこちを見物した。昔の仲間の処を訪ねて挨拶をしたり、エルサレムに引っ越した連中と旧交を温めたりした。

 神殿に来て、ヨセフとトマスの二人が大きな礼拝堂の中に入り祈りをささげた。荘厳な讃美歌に耳を傾け、香炉からたちこめる煙が堂内に満ちて芳香を放ち、うっとりとして彼らの心がなごむのであった。三人は満ち足りた気分で神殿を立ち去った。翌日も神様の御守りのうちに過ごせることを信じながら。

 さて、イエスはクローパスに連れられて行動した。イエスは森の中の仔鹿のように温和(おとな)しく見えたが、同時に野性的でもあった。

クローパスはしきりにヨセフとイエスの間にわだかまっている誤解の原因を聞き出そうと努めるのであるが、彼は全然心の扉を開かず何も言わなかった。それでもクローパスはとても楽しかった。

イエスの心にある麗しい愛と強さをひしひしと感じるからであった。それは実に澄み切った清らかさと機智に富んでおり、まるで大きな鳥が目にもとまらぬ速さで山や平地を飛びかけるようであった。

イエスの話を聞いていると、クローパス夫妻の心に次から次へと豊かな幻が浮かび、二人がもう少し若かったらきっとイエスに立派な相談役になって欲しいと願い出たであろうと思える程であった。彼は心から尊敬される律法学者のようであったからである。

 ガリラヤの一行が、いよいよエルサレムを去ろうという前日になってペタニヤに住んでいるクローパスの下僕から一通の手紙が届けられた。それには、折角エルサレムまでおいでになったので、数キロしか離れていないペタニヤの実家に立ち寄って欲しいと書いてあった。

クローパスと妻は相談の末、予定よりも一日早くエルサレムを発つことにするとヨセフに知らせた。

 次の朝、クローパス夫妻は、イエスと話しているのが楽しいので、ヨセフの宿にはやらず、出発間際までイエスを留めおいた 。クローパスはイエスに両親が泊まっている宿に行き、両親が最後の神殿訪問を終えて帰ってくるまで待っているように言った。クローパスの妻マリヤが言った。

 「またこの子は仔鹿のようにどこかへ行ってしまうんじゃないの」

 「とんでもない。彼はそんなことはしないよ、マリヤ 彼はちゃんと言われた通りヨセフの宿に行くとも。僕たちと一緒になってからはイエスはなんでも言うことを聞いたじゃないか」 妻マリヤは溜息をつきながら言った。

 「そうだわね、でも天のお父様から話しかけられたら最後、誰が何を言っても聞きやしないんだから」 クローパスは笑った。

 「おまえも世の母親と全く同じだね、子供にはあまり必要もないことをくどくと言うんだから。イエスに関しては全く心配ないよ

 「そうだわね、イエスは私の本当の子供のように可愛いのよ。だからイエスがヨセフやマリヤのもとに居るときには、とても落ち着かなくて心が休まらないんだわ」

 一条の柔らかい光が、クローパスの妻の顔をよぎった。夫が目を見張るような美しい妻の顔を見て、二人の間は再び新鮮な仲になるのであった。この夫婦はお互いに罵りあったことがなく円満な良きカップルであった。


 イエスはクローパスに言われた通り、曲がりくねった道を歩いてヨセフの宿に行った。そこには誰も居なかった。

暫く宿にいてから彼は考えた。これでいったんクローパスの言うことは果たしたのだと。彼は再び足の向くままに歩き始めた。足は一人でに神殿の方へ向かった。後になってヤコブに打ち明けた話
によれば、彼はそのとき幻に導かれていたということである。

 <天の御父様が私を導いてくださったのです。それで父母のことは全く頭にありませんでした。やがて祭司の庭の入口にも行くように言われました。そこで用事が告げられるであろうとも言われました。>

 イエスは待っている間中、広い神殿の中に居て多勢の巡礼者が出たり入ったりしているのを眺めていた。余程綿密な打ち合わせでもしない限り、親族や友人と逢える場所ではなかった。しかし例のパリサイ人が心配そうな顔付をしながらイエスの目の前を通って行くではないか。

イエスは小おどりしながら見守っていると、彼はまるでイエスには用はないと言わんばかりに入口の方へ歩いて行った。すると急に立ち止まり、ぐるっとこちら向いてイエスの方を見た。目に輝きがともったと思うとイエスの方に歩いてきて両手をさし出しながらイエスに挨拶した。

 「イエスじゃないか お前を探していたのじゃ」 彼は自分のことをすっかり忘れてしまったかのように、大声をはりあげて自分についてくるように言った。二人は秘密の道を通り神殿を抜け出し、ひとことも喋らずにパリサイ人の家にたどりついた。パリサイ人はイエスを客として迎え入れたのである。

 「夕方になると親たちが僕の帰りを待っているんですが」

 「そうだね、わしの召使を出して、わしと一緒にいるからと知らせてあげよう」 パリサイ人の胸のうちには、多くの心配事が詰まっていた。それで彼は遂にヨセフとマリヤに召使を遣ることをすっかり忘れてしまった。


 ヨセフとマリヤは、クローパスがひとあし早く出発したことを知っていたので、イエスも一緒について行ったと思い込んでいた。二人は何一つ心配することなく、明くる朝早くガリラヤの一行と共にガリラヤに向けて出発した。連日の観光や巡礼の旅でみんなの足は痛んでいた。彼らがクローパス夫妻に追いついたときには、足が折れそうに疲れきっていた。

クローパスがたずねた。

 「イエスはどこに居るのかね」 ヨセフは言った。

 「お兄さんと一緒じゃなかったんですか?」

 「そうじゃないんだ、僕たちが発つ前に、あなたの宿へ行かせたんだが」

 「まさか 私たちは全然見かけませんでしたよ」

 「そんならイエスは、私どもの言うことを聞かず、エルサレムに残っていて、今頃街の中をさまよっているんじゃないだろうか」

 マリヤは大声をはりあげて叫んだ。

 「どこへ行ってしまったの? もう帰ってこなかったらどうしましょう 悪人にさらわれて奴隷にでも売りとばされているんだわ」 マリヤの深い悲しみを感じたヨセフは、イエスへの怒りを通りこして懸命にマリヤを慰めようとしたが無駄であった。夜になってもマリヤは眠れず、一晩中彼女は喚き続けた。

 「私の大切な宝物、私の愛する息子よ、もう二度とお前に逢えなくなってしまったんだわ 奴隷に売り飛ばされたか、熱心党に捕まって反逆分子にさせられたか、どちらかにきまっているわよ ああ あの子が私からもぎ取られるくらいなら、だれか私の右手を切り落としてちょうだい あの子を取り戻してくれたら、喜んで私の目をくりぬいてもいいわ」

 マリヤはひと晩中喚き通し、体を捩(よじ)らせながらのたうちまわった。ヨセフはもう手が付けられず、クローパスに助けを求めた。クローパスは堰を切ったようにヨセフに言った。

 「今直ぐにエルサレムに引き返すんだ 僕の驢馬を使いなさい。絶対に歩いてはだめだ このままぐずぐずしていたらマリヤがもだえて死んでしまう。母親の愛情とは、こんなにも強いものとは今まで知らなかった」  ヨセフが言った。

 「マリヤとイエスの絆は特別なんですよ。マリヤはイエスのことを何も知らないんですよ。奴は苦痛と悲しみの因(もと)をつくるだけなんですから」 ヨセフの言葉を遮るようにクローパスは言い放った。

 「マリヤが冷静になったときを見はからって、一刻も早くエルサレム行きのことを話してあげなさい。きっと落ち着きを取り戻すと思うから」

 クローパスは、イエスのことを理解できないヨセフの心を嘆いた。何を言っても聞く耳を持っていないことが悲しかった。ヨセフとイエスは、まるで言葉が通じない外国人のようであった。


  30  大いなる知恵を語る

 エルサレムに戻ったヨセフとマリヤの目には、この街がアラビアの荒野よりもひどい不毛の地に見えた。彼らは方々を歩き回り、知らぬ人や巡礼者を片っ端からつかまえては、細身で浅黒い少年を見かけなかったかと尋ねた。しかし全くつかみどころが無かった。

二人は万策尽きて何をしたらよいかもわからなかった。次男のトマスはクローパスに預けてきた。

 そうこうしてるちに、まる二日が過ぎてしまった。イエスに関する手がかりは何ひとつ得ることができなかった。マリヤは、まるで強い陽射しに照りつけられた花の
ように萎んでいった。

 ふと、ヨセフは大工や石工がより集まってつくっている組合のことを思いだし、その親方の処にでも出かけてみる気になった。その親方は、今ではかなり高い地位にあげられ、パリサイ人や祭司の間でも結構重んじられていた。恐る恐るこの親方を尋ねた結果、ガリラヤ人の噂を耳にすることができた。

愚か者はぺらぺら喋り、賢い者は相手の言うことに耳を傾けるものである。御多聞にもれず、ヨセフはぐう愚者の役割を発揮した。彼はイエスのことについて不必要なことまでも、ぺらぺらと喋りまくった。

 「やつは近頃こんなことまで言うんです。偉い者程卑しいんだ、なんてぬかすんです。ひどいことを言うじゃありませんか、国の支配者や長老たちは、庶民よりも下衆(げす)な人間だとか、祭司さまや議員の大先生でも奉公人同然だなんて言いくさるんでね」

 これを聞いていた親方は顔をしかめながら言った。

 「お前の息子がそんな馬鹿げたことを言ってるんじゃ、確実に、熱心党の連中にとっつかまっているよ。やつらはあの丘の上にうようよいるんだよ。そんな噂きいたことないかね」 ヨセフは知らないと答えた。親方は続けた。

 「とても馬鹿げた話だから、本当かどうかわからないんだが、何でも祭りになると熱心党のやつらが街中をうろつき、エルサレムに上京してくる阿保な小僧たちを掴まえていくそうだ。奴らの手口というのは、お前たちを立派な兵隊にして軍と戦うイスラエル軍の将校にしてやると言って欺(だま)すんだそうだ。

きっと同じ手口でお前の息子もエルサレムでしょっぴかれちまったんだよ。今頃は、やつらの隠れ家にしている洞穴(ほらあな)にでもいるんじゃないか。やつらは、イスラエルの救済てな格好いいことを口実にしてるんだよ。

実際にやってることは、商人たちの行列を狙って、盗人を働いているんだ。そういえば家の手合いの者が昨日の夕方、街の外で西の方へ連れていかれる若者たちを見かけたそうだ、イエスもその中にいたんじゃないか。

何でも水が欲しいって言っていた若者が、さかんに〝イエス〟と呼んでいたそうだ。お前が話してくれた息子のイメージとそっくりな気がするね。権威にたてついて支配者や長老たちを罵ったんだよ、お前の息子は。金持ちの商人を襲って、とっつかまって、今頃エルサレムの城壁の外で樹に吊りさげられているんじゃないか」

 親方の最後の言葉を聞いた途端、マリヤは卒倒してしまった。ヨセフは身をかがめてマリヤを抱き上げ、親切な親方の家に運んだ。おかみさんが甲斐甲斐しく介抱した。泥をふきとってくれたり、気付薬などを与えてくれた。

徐々にマリヤは回復したが、いっぺんに老けこんでしまった。ひとことも口をきかず、ただ言われるままに身を委せていた。

その夜は親方の家に泊めてもらうことにした。次の日になって、もう一日だけでもゆっくりするように勧めてくれたのであるが、マリヤは次の日の朝には、ナザレに帰りたいとヨセフにせがんだ。マリヤは淡々とヨセフに言った。

 「ナザレに帰ったらきっとよくなると思うわ。この街はとてもやかましくて居たたまれないわ。私が愛しているイエスの性格からは、どうしてもあの子が泥棒の仲間になって、洞穴の中に住んでいるとは思えないの。

きっと何か不運な罠にひっかかっているんじゃないかと思うわ。今私の前に天使があらわれて、イエスが悪霊に取りつかれていると言っても私は絶対に信じないわ。ねえ、ヨセフ今から親方が言ってた城壁の外に行き、本当にあの子が樹に吊り下げられて死んでいるか見に行ってみましょうよ。この眼で確かめなきゃ,死んでも死にきれないわ」

 親方の家を出るとき、彼らはもう一度神殿に立ち寄って、イエスが悪者から救い出されるように祈ろうということになった。単純なガリラヤ人は、尊敬を集めている親方の言ったことを一語一句疑うことを知らなかった。親方は金持ちで雄弁だったので、このガリラヤ人は彼が言っていることが最も正しいと思いこんでいた。

ヨセフとマリヤが神殿に通じる石階段を登りかける頃は、もう薄暗くなっていた。むしあつい風が街の中を吹いていた。ヨセフとマリヤは、よろめくように歩いていた。もう二度と帰ってこない息子のことを思いつめながら。


 
マリヤヨセフは、離ればなれになって祈った。二人は神殿のど真ん中にいて、そこから動こうとしなかった。ヨセフは自分を責めながらマリヤに言った。

 「おれが間違っていたんだ。軽率なことばかり言ってイエスの心を傷つけちまったんだ。だから臍(へそ)を曲げたんだよ。あんなにどやしつけなければイエスは泥棒の仲間などにならなかったのに、なんとおれは馬鹿なことをしてしまったんだろう マリヤ おれを許してくれ。

おれは、腕のいい大工としてあいつが誇りに思えるように一生懸命やってきたつもりなんだよ」  ヨセフは頭を低く垂れ、押し黙ってしまった。マリヤは彼を慰め、彼の弱さや失望を救おうと努めた。

マリヤは静かな道を選びながら群衆から遠ざかった。ヨセフはマリヤの腕に引かれ、慰めの言葉をきいていた。二人はいつのまにか聖所の中に踏み込んでいるのを知らなかった。一人の老人が手を叩いて大声を出すまでは解らなかった。そこは祭司や長老以外の者は一切入ってはならない聖所であったからである。

二人が目をあげて見ると、そこには美しい色の祭服を着て、髭を生やした賢者たちの顔が多勢いて、その前に一人の細身の少年が石のブロックの上に立ち、互いに話し合っている様子が見えた。

ヨセフとマリヤには、長老たちの質問や少年の賢い返答のやりとりの内容がさっぱり理解できなかった。二人が少しずつ近づいて顔の輪郭がわかる所まで来たとたん、マリヤは叫んだ。

 「あれはイエスよ 私の愛するイエスだわ」 マリヤはすんでのところで、目の前にいた白い髭の老師をつきとばしてイエスのところにかけよろうとしたが、ヨセフはマリヤをしっかり押さえつけながらささやいた。

 静かにしろよ、マリヤ この方たちは、お偉い方々だ。支配者、長老、律法学者の方々だ。さあ、地べたに頭を押し付けてお辞儀をしなくては」


 一人の少年が白い祭服を着せられて、長老賢者の真只中に立ち、預言者のような風格で語り出す偉大な知恵を耳にして、彼らは大いなる喝采をおくるのであった。その様子を見ていたヨセフとマリヤは、再び穏やかになっていった。 
 
 
  31   パリサイ人の不吉な夢

 ろうそくの火が灯っている部屋の中で、パリサイ人はうろうろと歩き回っていた。彼の手と唇は常に忙しそうに動いていた。親しい律法学者や少年イエスが立っている前で、ぶつぶつ呟いていた。机の上には沢山の本が積んであった。パリサイ人は言った。

 「平和について調べてみたが、この聖書からはなにも回答は得られなかった。一体どうしたらよいのじゃ。どんなふうに読んだらよいのじゃ。わが民族が異邦人に対して膝をかがめ、カイザルに頭を下げねばならないとは」

 パリサイ人は不平をならしていた。そばにいた律法学者は、てっきり自分の主人であるこの方が少年イエスのことを嫌っていらいらしているのかと思った。彼は主人の耳元でささやいた。

 「上さま、お心の中を隠さず御告げ下さい。この少年を部屋から追い払いましょうか?」
 パリサイ人は立ち止ってイエスの方を眺め、ニヤリと笑った。

 「乞食少年だと ばかを言うでない。この方は計り知れない宝物の持ち主じゃ。しかもわしの不注意な発言を絶対外部に漏らさぬ立派な鍵を持っておられる方じゃ」

 居合わせた律法学者は、次第にイエスの容貌から信頼と平和を感じとっていた。パリサイ人は大きな独りごとを言った。

 「そうだ 平和だ。我々が住む地上にかつて平和があっただろうか」
 彼はきびしい調子で律法学者に言った。

 「もう行ってよろしい。イエスよ こっちに来て、わしのそばにかけなさい」 律法学者は部屋のすみに行ったが、部屋から出ようとはしなかった。自分の主人が、神殿内をうろついていた少年を余りにも大切にするので、すっかりうろたえてしまった。イエスはパリサイ人の足元に座った。

このパリサイ人は豊富な知識を持ち、しかも 「選民の旗手」 とまで言われた程の人物であった。 彼は大祭司の怒りやサンヒドリンの反対をものともせず、ローマに対して柔軟な姿勢をとり続けてきたからである。しかし彼を悩ませる問題が山積していた。

 「外国の勢力が武器を持って我がユダヤ民族を征服してしまった。彼らは徹底的にローマ型に変革しようとしているのじゃ。だがのう、我がユダヤ民族は、たとえ捕虜になっても唯一の神への信仰は捨てないだろう。

我々にはメシヤが速やかにやってきて、ローマ人を我が領土から追い出し、我がユダヤ民族が地上を支配するという言い伝えがある。なあイエスよ、わしはこの祭りの間、二度も同じ夢を見たのじゃ。

一人の男がやってきて、わしを外へ連れ出し、エルサレムの街が見えるところまで行ったのじゃ。

空が白みかける頃、ものすごい光があらわれて、そこら中の景色が一色になってしまったのじゃ。わしがオ
リブ山の頂上に立っていると、沢山の人が集まっているのが見えたのじゃ。戦いの叫び声が聞こえてきて、嘆きの声がみなぎり、死の翼がわしのそばを通り抜けていったのじゃ。

夜が明けると、あの死の翼が神殿めがけて突進し、金色の塔を粉々に破壊してしまうのじゃ。わしはそのものすごい光のことや、それがどこからやって来たのかを知るようになったのじゃ。高い天空に暗い穴が開いていて、そこから煙のようなものが舞い降りてきたのじゃが、実は、それが何と悪霊の頭ベルゼブルが率(ひき)いる軍団だったのじゃ。

夢の中の幻が段々と細くなってきて再び一本の大きな炎となり、天空に昇り消えていったと同時に、エルサレムの街やうごめく人々の姿も消えてしまったのじゃ。それからまた戦いの叫び声が聞こえ、ベルゼブルがあらわれおった。

この光景が際限なく繰り返されてから、遂に神殿の金色の屋根が吹きとんでしまい、大きな支柱は滅茶苦茶に崩れ落ち、祭壇が破壊され、大きな壁は粉みじんになり、全部地中に吞まれてしまったのじゃ。イエスよ、この恐ろしい夢の解きあかしをしてくれないか」

 暫くしてイエスは口を開いた。

 「ラビ、その夢は神の御告げです。それは先生にとって悲しみではなく、平和の訪れです。世の終わりが近づいています。時が熟しているのです。メシヤが間もなく現れて、神の王国をお建てになるでしょう。その時が来たら、この神殿も、先生が夢でご覧になったように滅びてしまうのです。その夢はまさにその時が近づいていることの徴なのです」

 「神殿が滅びるのは我々ユダヤ人が滅びること、いや、イスラエルの神への信仰が滅びることになりませんか?わしはなあ、この夢は、昔わしが怖れていたことが実現するのではないかと心配しとるんじゃ。つまり、我がユダヤ民族が滅びるのではなくて、異教徒にやっつけられて、異教の神々を拝まされるようになるということじゃ。

そんな夢にどうしてわしが落ち着いておられると思うのじゃ、それこそ大変な痛みなのじゃ」

 イエスは続けて説明した。

 「この夢はたしかに天国が間近に実現するという兆しです。私の天の父上様が私にそのようにおっしゃっているのです。今の神殿が亡くなったあとには、人の手にて造られない神殿が、神の御手によって建てられ、わが民族の栄光になるであろうと、おっしゃっています」 パリサイ人は驚いてイエスを睨みつけながら尋ねた。

 「なんて変なことを言うのじゃ、手にて造らぬ神殿などあるものか。神殿が亡くなったらどうやって神を讃え崇めるのじゃ」

 「それはちゃんと聖書に記されているじゃありませんか、〝主の民は牛のように閉じ込められ、荒廃と飢餓がやってくる。主の民は嘲けられ、拒否され、長老たちは刃にかけられる〟と。また別なところで預言者が言っているではありませんか。

苦難の後、これはおそらくローマの支配のことを言っているのだと思いますが、〝主なる神は再びシオン(エルサレムのこと)を建てられ、そこではもはや戦いも荒廃もなく、祭司や長老が人類を治めるであろう〟と。

その上、この預言者はすばらしいことを言っています。〝太陽はもはや昼間の光とはならず、月も我らを照らすあかりとはならない。主なる神御自身が永遠に我らを照らす光として輝き、栄光となる。嘆きの日が終わる時、あなたがたはその地を嗣ぐであろう〟と。(旧約聖書イザヤ書60・19~21)」
 
  パリサイ人は言った。
 「それはそうだが、神殿が滅び、我々が飢え死にしたら、もう何もかもおしまいになるんじゃないか?」

 「太陽が消え失せ、月も光も失うというのは、この世の終わりを指して言っているとお考えでしょうが、そうではないんですよ、先生 預言者が選民イスラエルに約束したのは此の世のことではなく、破滅の後にやってくる〝神の国〟のことを指しているのです。

エルサレムが潔められ、民が救いに与るのは、全く新しい世界、新しい時代になされるのです。神御自身が光となって治められる王国は、此の世を超えた、天の御父の国なのです。

それは肉眼には映らず、霊眼で見ることの出来るすばらしい王国なのです。〝永遠の光のうちに過ごす〟と記されているように、神の光のうちに歩いている人間には、手で拵えたような鈍重な神殿はもう必要(いら)ないのです。

真理と愛のための殿堂といっても、手のかわりに理性によって、大工の道具や人力のかわりに霊の力によって建てられる殿堂です」 パリサイ人は悲しそうに頭を振りながら言った。

 「それはとっても美しい夢だね、イエス でもわしはねえ、本気で考えているんだがね、ユダヤ人がみんな立ち上がって、ローマ人をわしらの領地からつまみ出したら、どんなに痛快なことじゃろう。わしは本当のところ、死んでからどうなるのかわからんのじゃ。

お前はきっとわしのことを頼りないと思っておるじゃろうが、預言者が言われたように、死の向こう側にはすばらしい王国が在ればどんなにうれしいことかのう。イスラエルはきっと今年の夏の終わり頃には萎れた草の葉のようになっちまうだろう。サドカイ人や大祭司などは、この国をローマに売り飛ばそうと虎視眈々としているようじゃ。

いずれ此の国は裏切られ、祖国の名も地上から抹殺されてしまうだろう。民衆が決起したら、彼らは反乱のかどで死刑にされたユダのように、みな殺しにされてしまうじゃろう」 イエスは言った。

 「ラビ 剣をとる者は剣で滅びます」
 「わかっとる。けれどもいったい救いはどこからやってくるのじゃ、一体全体

 老賢者〝シケム〟は少年イエスを見つめながら優しく尋ねた。イエスはあたかも親が息子に対して同情を示すときの柔和な眼差で老賢者を眺めていた。老賢者は吃驚(びっく)りした。これでは、まるで立場が全く反対ではないかと思ったからである。

老賢者が若い長老の足元にひれ伏して、知恵と慰めを得ようとしているかのように振る舞っていたからである。

 イエスが再び話しだすと、その声は以前にナザレの学校でこのパリサイ人の心を虜にしてしまったときの美しい旋律と同じように響き出した。

 「ラビ! 僕がこうして座っていても、本当の僕のことがお見えにならないのです。先生が僕の頭に手をおき、僕が先生の手をつかんでいても、それが本当の僕ではないんです」

 「お前は、何と馬鹿なことを言いだすんじゃ? わしは、ちゃんとお前が見えるし、うす暗いろうそくの光の中でもお前のことがはっきりわかっとるぞ」 イエスはすかさず言った。

 「ラビ! 僕の顔は、ただのお面(ますく)です。僕の手や頭は、被い(カバー)です。僕はこの頭や体でもありません。この手足でもないのです。本当の僕とは、ここに来いとか、あそこに行けとか、僕に指示を与える理性なんです。本当の僕とは、僕の唇を開いて話をさせたり、色々な言葉を出させる霊(スピリット)の力なんです。

でも先生の目にはその僕の本体(スピリット)は見えないのです。先生が僕のことが解るというのは、僕と話しているときに働く理性のおかげなのです。この体は本当の僕ではありません。本当の僕は、僕のことを動かしている支配者(スピリット)なんです。僕の言っていることに賛成していただけますか、先生」

 「もちろんだよ、イエス わしは、唯物主義のサドカイ人のやつらとはちがうからな、お前の言っていることはよくわかるとも、でもな、今は国民のことで悩まされ、神殿の崩壊という不吉な夢におびえているわしに、それがどんな助けになるんじゃ?」 イエスは答えた。

 「先生は目に見える外面的なものが崩壊することを恐れていらっしゃいます。外面(うわべ)だけのものはすべて失われていきます。人間の寿命は、せいぜい六十年くらいでしょう。でも魂の寿命はどれくらいでしょうか。

おそらく永遠ではないでしょうか。私たちが本当に神様から選ばれた民族であるならば、私たちは立派な神の子等ではありませんか。魂が永遠に生きながらえるということは、私たちの知識では捉えることができません。それを考えれば、地上のひとときに於ける<誇り>だの<権力>なんて一体何なんでしょうか? 

地上のものはすべて溶けて亡くなってしまうものばかりです。ですから地上的な勝利だとか財産なんかに目を奪われてはなりません。それよりは盗人や征服者などのいない、したがって、戸に鍵をかけることも、逃げまわることも必要(いら)ない天に宝を積み上げようじゃありませんか」 老賢者〝シケム〟は溜息をついて言った。

 「せめても、わしが死ぬ前に、エルサレムを治めるイスラエルの救済者(メシヤ)をみたいもんじゃ。我がイスラエル民族だけが地上に正義の王国を築くことができると信じておるのじゃ。預言者もそう言ってるのだが、まさか噓を言ってるわけじゃあるまい」

 「もちろんですとも、ラビ 私たちが生きてる時にそれは実現すると思いますよ。誰が一体時の徴を読みとることができるでしょうか。天の父なる神様が僕に告げて下さいました。

〝正義の王国は、ここにある、あそこにあるというふうに建てられるものではなく、人の心の中に築かれるものだ〟とおっしゃいました。別な言葉で言いますと、人の心の中に、愛と喜びの王国が築かれていなければ、決して神の王国は地上にやってこないということです」

 イエスの話を聞いているうちに、このパリサイ人の心には、イエスのいだいている幻の意味が少しずつ解りかけてきた。彼はイエスの頭に手をおいて言った。

 「本当にお前はわしの先生じゃ。一体どこからそんなすばらしい知恵を仕入れてきたのじゃ。ガリラヤには、これ程勝れた学者や長老がおらんのじゃないか」

 「僕の知っていることは、みんな天のお父様からいただいたものなんです。ガリラヤの山々を、夜明けごろ歩き、お父様とお話するんです。天のお父様こそ僕の生命、力の泉なんです。だから僕はお父様と全くひとつになっているんです」

 老賢者が優しくイエスに言った。

 「明日の朝、わしと一緒に神殿に行こう。そして威張りくさっている律法学者たちに、お前の話を聞かせてやろう。彼らは、わしが今晩混乱したように、お前の話を聞いてきっと混乱するじゃろう」

 民衆から最高の権威者として尊敬されてきたこの老賢者は、少年イエスの中に秘められている、あふれるような知恵に接し、小躍りした。その夜も次の日も、このパリサイ人は、まるで我が子のようにイエスと共にいる喜びを味わった。

自分の本当の息子に関しては、ただ悲しい思い出しか残っていなかった。彼の息子は、ユダに従って、ローマに敵対行為をとったため、あえなく死刑の露と消えていったからである。


  32   私の息子をお返しください

 ナザレの少年は神殿で語り始めた。その言葉は両刃の剣のように鋭く、百戦錬磨の論客をへこましてしまった。最初のうちは陽気に話をしていたが、段々と学者たちが真剣になり、どんな注解書から引用しているかを質し始めた。イエスの返答が余りにも単純で意味深いので、居合わせた学者たちは、ただ驚嘆するばかりであった。

 二日目には、一人の長老がみんなと相談して、イエスを中央の石台の上に立たせて言った。

 「もう我々は何を言ってもイエスにはかなわないので、もっと充分に時間をかけて彼の話を聴いてみたいと思う。それから彼の知恵について正当な判断をくだそうじゃないか」

 老賢者たちは笑いながら同意した。心の中では、どうせこの小僧めがボロを出すに違いないと思っていたからである。質疑応答だけでは、その人の真意を理解することができない、演説させれば学識内容や欠点が顕れると考えたからである。しかしイエスは、全く怯む様子もなく、神の子として少年時代を過ごしてきたときに天の御父より示された人間の理性の働きのすばらしさについて語った。

聴衆は、ただただ舌をまくばかりであった。ある部分は、ラビ・ヒレル(当時尊敬されていた学者)の言葉に置き換えて彼らの理解を助けた。しかしイエスの話は、他の引用だの、参考資料だの、まわりくどいことが無く大胆に語ったのである。彼は次のように語った。

 『天の王国は、畑に隠されている宝のようなものです。人がそれを発見すると、持っていた全財産を売り払ってその畑を買うのです。天の王国は、また、種子(たね)の中で一番小さな、ひとつぶの芥子種(からしだね)のようなものです。土に蒔かれ育つと、大きな木になって地上に陰を作って、鳥がかくれ家に利用できるほどになります』

 イエスはこのように譬話を用いながら、深遠な意味を解き明かすのであった。天の王国は、善人の心に蒔かれると大きく育って大木となり、多くの人々がそこにやってきて慰めを得ることを示したのである。人間というものは、最初どんなに小さな存在であっても(芥子種のように)、偉大な存在になれることを説いたのである。

イエスは多くの知恵ある言葉を語った。並居る律法学者や権威者たちが、うっとりとして彼の知恵に聴き入っていた。彼は疲れたように見える頃になって、遠くからこの様子を見ていたマリヤがヨセフに言った。

 「ねえ、ヨセフ、イエスのところへ行きましょうよ。この人たちに息子だということを知らせてやりましょうよ


 「いや、だめだよ。おれの服と言葉の訛りで、すぐガリラヤの田舎者だということがばれてしまうから、いやなんだよ」 ヨセフはあとずさりをした。

マリヤはイエスを愛していたのでそんなことにはお構いなく、学者たちの間をくぐり抜けながら前の方へ進んで行った。彼らはそんなマリヤには気付かず、熱心に話し合っていた。マリヤは下からイエスの衣の裾を掴まえたが、イエスは全く気がつかなかった。マリヤは声を大きくして言った。
  
 「息子よ 私たちは三日間もお前を探しまわったんだよ お前はどうして私たちをこんなひどい目にあわせるんですか?」 くるりとふりかえってイエスはマリヤを見つめていたが、イエスは全く見知らぬ人が居るように思えた。

彼の心は遠くにあって、偉大なラビを相手にしていたからである。イエスは即座につぶやいた。

 『僕は今、天のお父様の仕事をしているのが解らないのですか』 この言葉にマリヤはがっくりして、そこにしゃがみこみ、泣きだしてしまった。白髪の大勢の賢者たちに圧倒されていたマリヤは、イエスの呟きの意味も解らずに、すっかり度肝をぬかれてしまったからである。例のパリサイ人〝シケム〟がやってきて言った。

 「あなたがイエスのお母さんですか?」  やさしく声をかけられたのでマリヤは胸をなでおろした。

 「ああ、先生、私の息子をお返しください。私たちは空しい思いをしながら三日のあいだイエスを探し回ったのです。山のふもとにたむろしている盗賊に捕まって泥棒にでもなってしまったのかと心配してました」

 パリサイ人は言った。
 「彼はもう一日、イスラエルの偉大なる教師を務めるでしょう。それがすんでから、イスラエルの誇りと栄光という〝お土産品〟を添えてお返し致しましょう。ここにおられる大勢の学者、長老たちも、お父様の名誉をほめたたえるでしょう」 こう言ってからパリサイ人はイエスに尋ねた。

 「このまま、ずっとわしの家にとどまってもよいのじゃよ。それともガリラヤへ帰って御両親にお仕えするか、どうかね」

 「先生、それはとても難しい質問ですね。でもやはり、先生の御指図に従います」 暫く考えてからパリサイ人はゆっくりとした調子で話しだした。

 「そうだなあ、もしお前がわしの家に止まって神殿の中で勉強を続けていったら、お前の磨ぎすまされた知恵をねたむやつがきっと出てくるじゃろう。それよりは、わしのシッポを脱がせた知恵をお前に授けられたガリラヤの山々に戻ったほうが、遥かに賢明じゃ、やっぱり帰りなさい そして大人になるまでご両親に仕えるのじゃ。

その間にガリラヤの美しい湖や野山で、もっともっと輝くような知恵の宝を積み上げるのじゃ。そのかわり、大人になったら、必ずわしのところに来て、わしの息子になるのじゃぞ」

 マリヤは怯えているヨセフをパリサイ人のところに連れてきた。この老賢者〝シケム〟は、マリヤとヨセフを自分の家に案内した。彼はこの家族のために、旅に必要なものを用意し沢山の御土産品を持たせた。彼はイエスのことを褒めちぎったので、ヨセフは感極まって地に平伏してしまった。


    33 腹黒い教師の罠(わな)   

 流れゆく時間の扉に、誰も掛け金をおろすことは出来ない。ましてや、時代の変化や気まぐれを止めることはできない。

 イエスがガリラヤに戻ってきて再び両親と一緒に暮らしていると、隣近所の人たちがみんな彼に好意をよせてきた。見ず知らずの者まで交際を求めてくる始末であった。それはエルサレムでのイエスの功績と名声が燎原(りょうげん)の火のごとくにナザレ中に知れわたったからである。

おまけに例のパリサイ人が、相当な金額を贈り、イエスが過酷な労働をしなくても、ゆったりと学ぶことが出来るように配慮してくれたのである。この特別な恩賜金の話は、イエスの名声をいやが上にも高くして、前に散々貶(けな)していた者までイエスを誉めるようになった。彼らはイエスのところにやってきて親友になってほしいと要求した。

それだけではなく、色々な相談事をもちこんできて、彼の話を熱心にきこうとした。単純な連中は、こんなにも態度を急変させる偽善者に対して目を白黒させていた。昔は散々馬鹿よばわりしていた者が、急にイエスのことを持ち上げるからである。こんな連中は、なんでもかんでも権威さえあればよいのである。

馬鹿呼ばわりを率先してやっていたナザレの律法学者、ベナーデルも例外ではなかった。何の躊躇(ためら)いもなく、大工の息子は必ず賢者になって、イスラエルの大先生になるであろうと宣伝した。さらに、相当な金額の恩賜金までもらったということで、ナザレの者はわれもわれもとイエスの友人になりたいと願い、それを自慢する程であった。


 ヨセフの家族がエルサレムから戻ってきた一週間後に、学校の教師がヨセフの仕事場に姿をあらわした。ひねくれ者の教師が言った。

 「ヨセフさん 私はあなたの息子さんが大変な名誉を受けられたそうで、本当にうれしかったよ。ところでね、私は決して威張れるような者じゃないが、こういうのも何だが、イエスが示した知恵というのは、みんなこの私が教えこんだものなんだよ。彼が学校に通い始めた頃からずっと教えてきたのは、この私なんだよ。そうだろう。

言ってみれば、神殿に集まった学者先生たちを驚かせた知恵の言葉は、みんな私が教えてやったものなのさ 私がイエスに教え、イエスがそれをものにして、学者先生たちの前で披露したというわけさ ねえ、ヨセフさんよ、私はあなたから御礼を言ってもらつもりはサラサラないんだよ。あなたの息子さんを通して与えられた名誉がうれしいだけなんだよ」
 
 単純な大工ヨセフは言った。 

 「いやいや、まことに先生のおかげですよ、あれは、何はともあれ、先生には深く感謝しておりますとも」

 「私はね、ヨセフさん、褒美なんか欲しくて言ってるんじゃないんだよ。私は本当に不束者(ふつつかもの)なんだからね」

  ヨセフはうろたえながら彼に尋ねた。 

 「ねえ先生、ちょっと教えていただきたいのですが・・・・・・実は、イエスがエルサレムの神殿で、盛んに〝父親〟とか〝父上〟といったことを口にしていたのですが、この父親とは一体誰のことでしょうね? あんなに力ある知恵の言葉を授けた父親のことですよ。 この私でないことぐらい、よく解っているつもりですが」

 「そのことだよ、ヨセフさん そりゃ決まっているだろう それは、ほれ、この私なんだよ イエスはね、そんな回りくどいことを言っているが、私のことを誉めてくれたんだよ。知恵に関しては私が彼の父親同然なんだよ。

それとも誰かほかにそう呼べる人を知っているかね?」 ヨセフはすっかり彼に乗せられてしまい、マリヤを呼んで教師をもてなすように言った。老獪(ろうかい)な偽善者は酒を飲まされ、陽気に振る舞った。そこにイエスが入ってきた。

 「やあ、よくやったね、イエス」 と言いながら教師は彼に接吻して挨拶をした。彼は学校の生徒として実に勤勉であり、ガリラヤ中で最も賢い少年であると褒めあげた。イエスはひとことも言わず、この教師の顔を見つめていたが、くるりと背を向けて外に出て行こうとした。マリヤが呼び止めて言った。

 「ねえ、イエス、エルサレムでお前がラビたちに話していた〝父親〟とは一体だれのことなの? 今ここではっきり言ってごらん。ここにいるお父様のことではないでしょう?」

 「はい、そうではありません、お母様」 ヨセフが口を入れた。

 「やっぱりそうだろう。お前が隠したっておれにはちゃんとわかっているんだ。それはここに居られる先生のことだろう」  ヨセフは上機嫌の教師を指差しながら言い放った。突然イエスの顔に怒りがこみ上げてきた。イエスは急いで教師の方にふり向くと、激しく教師を睨みつけて言った。

 「あなたは、私がエルサレムでラビたちに申し上げた天のお父様と呼ばれたいのですか?」

 「もちろんだとも。どうしてそんな怖い顔をしているのだ? 私はとってもうれしいんだよ、お前が示した知恵の言葉は、みんな私のものであることをよくおぼえていてくれたね」 イエスは憤然として言った。

 「偽善者は、ペチャクチャとよくお喋りするものです。偽善者がどんなに多くを語っても、それは全然知恵とは無関係なのです」 イエスは、まるで他人がものをいっているような調子で続けた。

 「私が言っているお父様とは、あなたのことではありません!! はっきり言っておきますが、あなたのその弛んだ唇でもの言う言葉はすべて、反対に、神の御名を汚しているのです。昔あなたは、私を馬鹿者と呼んでいましたね。

そして今になって、馬鹿者である私の父親になりたいとおっしゃる・・・・・・もし、本気でそんなことをおっしゃるんでしたら、何と恥しらずなことでしょう 言うこと為すことすべてが、全く馬鹿げていると思いませんか ガリラヤ中のどこを見回しても、私ほど愚鈍な子供は見当たらないと、あちこちで宣伝なさったことに対して、何と言い訳をなさるつもりですか? ぜひ聞きたいもんですね

 ヨセフとマリヤは、息子の語気にすっかり圧倒されてしまい、口を大きくあけたまま、恐る恐る教師を見守るばかりであった。やおらヨセフが立ち上がって言った。

 「イエス、お前は頭にきおったな 何と馬鹿なことを言っているんだ お前はこの先生を尊敬していないのか?」

 「偽善を内に隠し持っている人間を尊敬するわけにはいきません。年令には関係ないのです。人はすべて素直で、真心を持っている人が敬われるのです。名声や財産によって言うことを捻じ曲げるのは最低の人間です。

でもお母さん、烈しい口調で人を傷つけてしまって、ごめんなさい。でもこんなふうに、はっきりと教師に言えたことをうれしく思っています。どんな人間でも、蒔いた種は自分で刈り取らねばならないんですからね

 こう
言い残してイエスは戸口から出て行った。仔鹿のように素早く出て行ったので、ヨセフも止めることは出来なかった。教師の名誉は、これで全く無に帰してしまったのである。

 
 
   34  野生の仔鹿のように
 
 一日が暮れようとしていた。月が静かに湖の上に登ってきた。幼いヤコブは母と手をつなぎながら細い道を通り、藪のところで立ち止まった。ヤコブは鶫(つぐみ)のような鳥声をまねて、三回口笛を吹いた。

古い木の枝につかまっていたイエスが、マリヤ・クローパスの通る道に飛び降りてきた。静まりかえった中で突然枝の折れる音がしたので、マリヤ・クローパスは小さな悲鳴をあげた。彼女はイエスに言った。

 「ねえ、ヤコブを許してあげてちょうだい。私が、いらいらしていたので、見るにみかねてお前の隠れ家に案内してくれたんだから」

 「許すも何もありませんよ、でもどうして僕と逢いたかったんですか?」 彼女は野性の仔鹿に口早に言った。

 「とにかく私の言うことを聞いてちょうだい。ねえ、イエス。私はいつもあなたの味方なんだから」
 「いいですよ伯母さん」

 「お前のお母さんから聞いたんだんだけど、今日のお昼頃、学校の教師がやってきて、お前のことを褒めていたそうね。そこにお前が入ってきて、ヨセフが言うには、お前がとても生意気なことを言ったんだってね。お父さんはお前を見つけ次第教師の処に連れてって、教師に謝らせると言ってたよ」

 「僕があの教師から学んだことは、苦痛に耐えることでした。でも知恵や知識は何ひとつ与えてくれませんでした。だから僕はあの教師を知恵の父と呼んで嘘をつきたくないんですよ。どうしても言えというなら、僕は偽善者の父と呼びたいんです」

 「まあ、なんとひどいことを言うのだね、お前は」
 「時として、ひどい言葉によって治ることもあるんです」

 「それはそうと、今晩お前が家に帰ると、お父さんは無理矢理にもお前を教師に謝らせるんじゃないかしら」
 「僕は断然そんなまちがったことはやりません」

 「でもね、イエス、お父さんのいうことを聞かないと、お母さんがとっても傷つくと思うのよ」

 「お母さんは、できるだけ傷つけたくないと思っています。でも僕はこのことで屈服してしまったら、もうなにもかも駄目になってしまうんです。真理として大切にしてきた光、それはいつまでも消えることがなく、私たちすべての人々の心の中に灯されている光に対して大きな罪を犯してしまうのです」 イエスは熱をこめて話した。すかさずマリヤ・クローパスが言った。

 「お父さんを先ず大切にすべきじゃないの? これも天の神様の命令ではないのかい、イエス」 イエスは黙ってしまった。胸のうちで苦しん悩んでいた。あちこち歩き回り、足もとでカサカサと草や小枝の音がきこえていた。

 「お父さんの言う通りにしたら、僕は罪を犯してしまうんだ。そうなったら何もかも他人の言うなりになってしまいます。僕の喜びも平和もふきとんでしまいます」

 「お前の平和って何なの?」
 「それは天の御父様の御心を行うことです」

 「ねえ、イエス、もうそろそろ私にお前の本心を打ちあけてもいいんじゃない? お願いだから、他人には天の御父様のことを口にしないでちょうだい そうでないと、今度はもっとひどい目にあうわよ。

ナザレの人たちはそれを狙っているのだわ。お前が今までのように天のお父様のことを言い続けたら、きっとお前のことをこの町から放り出し、お前の両親がとても恥ずかしい思いをするわよ」


 「御忠告ありがとう、伯母さん。僕の言っていることが真実であると認められるのは、まだ先のことです。でも僕はこの件に関してお父さんの言いなりにはなりません。もう僕は学校には行きません。だから教師に対して
謝罪したり、彼の虚栄心をくすぐるような〝偽り〟を犯さなくてもよいのです」

 「ああ、なんて悲しいことを言うんだい。きっとヨセフはお前を折檻して、お母さんはますます苦しむことになるわ」
 「もう私は家に帰りません。僕は森の中で暮らします」


 「ねえ、私の家にいらっしゃいよ、私がお前をかくまってあげるわ」
 「そんなことをしたら、お父さんが怒りますよ」

 イエスは微笑みをうかべながら彼女に言った。イエスの顔からはもう厳しい表情が消えていた。マリヤ・クローパスは尋ねた。

 「それもそうね。ヨセフを怒らしたら、主人も心おだやかじゃないわね。でもお前は今晩どこで寝るつもりかい?」
 「狐には穴があります。鳥にも巣があります。でも僕には寝るところがないのですよ」


 「やっぱりお父様のところに帰ったら」
 「いいえ、それはできません。山の中で木の葉や草で自分の塒(ねぐら)を作ります。どうか心配なさらないでください。必ず旨くやりますから」

 「でも山には食べ物に飢えた野獣がうろついているというじゃないか」
 
 「僕はとてもすばしこいのです。それに僕には、あなたが聞こえない音でも聞くことができるんです。その音によって何がやってくるかがわかるんです。どんな鳥がとんでいるか、その大きさも、たけり狂っている野獣もわかります。

さらに羽をつけた昆虫や草むらの中を這いまわる蛇の言葉も解るんです。ちっとも心配はいりません。野の生き物はすべて私の友だちなんです。人間だけが僕を憎んでいるのです」

 マリヤは長い間イエスと話してから、イエスに約束させた。一日の終わりには必ず逢うということを。マリヤ・クローパスはパンと肉を彼に与え、三人は寂しい場所であることを忘れてしまう程楽しく話しあった。 

イエスは父ヨセフとぎくしゃくする前までは、とても快活で、話すときも朗らかで、よく冗談を飛ばしていたものである。それも思い出になってしまった。

 三人が食べ終わると、イエスは口笛を吹き、歌った。森の音楽とでもいうか、野獣の声や、鳥の声などを上手にとり入れながら、うっとりとすようなメロディをマリヤ・クローパスとヤコブに聞かせた。彼女にとって自分の息子以上に可愛がってきた少年イエスと別れるのが辛かった。

遂に彼女は腰をあげ、月に照らされた小道を通って湖畔の方に向かって立ち去った。イエスは名残惜しそうに別れを告げ、茂った草原の中に二人の姿が消えるまで見送っていた。妻が居ないので、夫クローバスが探しにやってきた。

ちょうど曲がり角でばったりと出逢った。夫は彼女に小言を言ったが、彼女は弁解ひとつしないで、森の中の野生の仔鹿のことを包み隠さず彼に話してあげた。後になって、母マリヤも遠くから息子のことを見守っていたことがわかった。この二人の女は、くよくよ思っているヨセフの前では、なるべくイエスのことを話さないようにしていた。



   35  自然を我が家に

 初めのうちは,雨つゆをしのぐ納屋もない所で、星の真下でイエスは眠っていた。真っ暗闇の中で、たった一人で居ても彼は怖くなかった。蛍が飛び交って、イエスの頭上でダンスを踊っていた。

蝙蝠(こうもり)が羽をバタつかせながら飛び回り、哀れな鳴き声をたてながら藪から藪へと渡って行った。時折、動物たちが枝の間をざわつかせて歩き、目を覚ますこともあった。

 初夏の夜は風もなく、平和な空気が大地や星空を覆っていた。イエスは急いでオリーブ畑のある険しい坂道を駆け上り、農家が点々と並んでいる地域から離れた荒野へ出てきた。彼はまだ薄暗いオークの森の中へ入っていった。

突然彼は立ち止った。ジャッカルの咆える声を耳にしたからである。そのうちに鳥たちが羽をばたつかせ、あたり一面を照らしていた月も雲におおわれて真暗になってしまった。その夜はいつもの緊張が緩んでいた。知恵の面では豊かでも、賢い少年は、すっかり子供に戻ってしまい、すすり泣きをしながら暗い木立の中でうろうろしていた。

彼はじっと息を殺しながら恐怖におびえ、葉のおい茂った小枝をつかみ、ちぢこまっていた。再びジャッカルが咆えだすと、今度は鳥の鳴き声は止まり、すべての生き物も鳴りを潜めてしまった。イエスは絶望しながら細々と口を動かした。<天に在(ましま)すお父様、悪魔から私をお救い下さい。今夜のような恐ろしい夜から私をお守りください>

 暫くすると、心地よい一条の光が射しこんできた。遠くで輝いていた古参の星々は、地上に沢山の光をまき散らし、地上の靄を吹き飛ばし、まるで沢山のろうそくの火が灯っているように荒野を明るく照らしていた。イエスは立ち上がり、額の汗をぬぐい、感謝の言葉を口ずさんだ。彼の体からは震えがとまり、背筋を伸ばすことができた。

再び賢さが舞い戻った。棒を使いながら歩けそうな道を探し、ようやくのことで林の中の空地にたどりついた。

枝の間に寝られそうな場所を見つけ、そこに葉をもぎ取ってきては積み重ね、恰好な塒(ねぐら)をつくった。木の幹がとっても大きいので、彼はゆったりとねころんで休むことができた。もうジャッカルや狼は怖くなかった。彼はぐっすりねむった。

 夜明けという〝お喋り屋〟が眠っている少年の魂をゆさぶった。イエスはゆっくりと目をさまし、あたりを見まわすと、何と驚いたことに、ひとつの小屋が目に入った。野獣や悪魔の恐怖は早朝の美しい光によって消えていった。

あたり一面がパラダイスのように思われた。はしゃぎまわる鳥の囀りも加わって、暫しの間夢心地になっていた。孤独な生活程此の世で素晴らしいものはないと思えた。

 太陽が真上に差し掛かった頃、イエスは丘から降りてきて一気に湖畔まで歩いた。彼は水泳が得意であったので、銀色に輝く浅瀬であろうと深い処であろうと、自由自在に泳ぎ回った。長い間泳いだので疲れをおぼえ、湖畔に生えている〝ギンバイカ〟(1)や〝タチジャコウ草〟(2)の間にねころんで空の雲を見つめ、ゆったりと空中を舞っている鳥を眺めていた。突然、うしろの葦の中から声がした。

 「こりゃ驚いた、イエス おまえはまるで魚だね 人間の子じゃないね、道から見ていたんだが、まるで魚
みたいに泳いでいるじゃないか」

 イエスは吃驚(びっくり)して後をふりかえると、懐かしい〝ヘリ〟が立っていた。彼は天下の風来坊であった。、二人は早速、ヘリが棕梠の木の下に作った、ギンバイカの小屋に直行した。砂漠の放浪者ヘリと若い弟子イエスの二人は、別れてから今日に到るまで、自分にふりかかった出来事を語りあった。

へりはイエスの話を聞きながら、心の中ではイエスの味わった経験を年代順に整理していた。暫くの間沈黙してからイエスに言った。

 「暫く私と一緒にここですごすといいよ。そうしたらお前に病気を治す薬草の作り方を教えてやろう。体と理性の働きを使って癒す方法もね。夏の間、ここにいれば飢えることもないし、お前もじっくり勉強して、もっと人のために役立つ知恵を身につけたらどうかね」

 イエスは顔に昔の傷跡のあるこの賢者の申し出を心から喜んで、彼の指示に従う生活を始めたのである。


(註1)
南欧産のふともも科の常緑灌木。夜は芳香を放つ白色の木で、愛の象徴として古くヴィーナスの神木と見なされた。

(註2)
ヨーロッパ原産の小低木。薬用、香料などに用いられる。せんじ薬またはエキスとして、せき止めにし、ソース、カレーその他の調味料に加えて賞味される。



   36  可愛い妹レア

 ガリラヤ地方にも、沢山の貧乏人と僅かな金持ちとが住んでいた。大抵の人々は楽しそうに暮らしており、明日のことを余り心配しなかった。食物が足らなくなっても、どうにかこうにか飢えをしのいでいた。

貧しい漁師たちは、ローマの権力で莫大な税金を徴られても、何とか楽しみを見つけ、太陽に輝くガリラヤ湖を眺めては、さまざまな夢を描いて気持ちをまぎらわすのであった。彼らは月夜に森で鳴くナイチンゲールのように唄い、朝から晩までメロディと共にすごすのであった。

 ヨセフは、ガリラヤ人の楽観的気質を持ちあわせていないようだった。いつも取越苦労をして、眉にしわをよせていた。彼は悲観的な幻想に悩まされるのである。そのヨセフが、エルサレムから帰ってきてからは、例の教師とはぎくしゃくしていても、とても機嫌がよく、冗談をとばしては楽しそうに暮らしていた。

仕事が順調に運んでいたからである。イエスが家出した最初の頃は、腹をたててはいたが、それもかえってイエスのためになるだろうと考えるようになっていた。それから家の中は平和になった。

 イエスがエルサレムで大変な評判になったおかげで、ヨセフと息子のトマスには沢山の仕事が持ち込まれるようになった。仕事の量が俄(にわか)に増えたので、三男のヤコブにも手伝わせ、セツには使い走りをさせた。ナザレの人々は、猫も杓子もヨセフに仕事をたのみ、ヨセフのことを煽(おだ)てあげた。

よほど高貴で、才能に恵まれた父親でなければ、あれ程すばらしい息子イエスは育てられない、とまで言った。単純なこの大工は、すっかりのぼせてしまい、イエスのことを思い浮かべては、うれしそうにしていた。マリヤがどんなに頼んでも、イエスの扱い方については、自分の考えを曲げなかった。ヨセフはマリヤに口ぐせのように言った。

 「お前の生んだ放蕩息子が帰ってきても、教師に詫びをいれなければ、絶対に家には入れてやらないぞ」
 マリヤはそれを聞くたびに目に涙をためて言うのであった。

 「そんなら、あの子はいつまでたっても家に入れやしないじゃありませんか」

 「そんなのは、おれのせいじゃない。イエスには、学校に行かせたが、うちはもっと生活をきりつめて、三人の息子たち、トマス、ヤコブ、セツには、せめて読み書きぐらいは家で教えてやらなくちゃ。それに今まで随分苦労をしてきたから、三人の息子たちにも仕事をさせて金を儲けようじゃないか」

 「まあ、あきれた! 今でも随分お金が入ってくるじゃありませんか。あなたの名前がナザレ中に有名になったのも、イエスの知恵のおかげじゃありませんか。それでもあなたは不足なんですか。あなたがもう少し賢ければ、もうあの子に命令なんかすべきじゃないわ。かえってあの子に耳をかたむけるべきよ」

 ヨセフの顔色が変わった。そのとき末娘のレアが手に沢山の花をかかえてヨセフの処にやってきた。レアが入ってこなかったら、どんなにひどい言葉で罵っていただろう。

レアはヨセフの大きな手のひらに花をおいた。レアが幼児語で、だっこしてくれと強請(ねだ)ったので、彼はレアを肩車にして外へ出て行った。この幼い末娘レアは、とても明るく可愛らしかった。ヨセフは、ことのほかレアを愛し、彼女のことを〝金の宝〟と呼ぶほどであった。

ヨセフの目は輝き、レアを地上に降ろして胸に抱きよせ、優しくレアの耳元でささやいた。レアが頼むと、天気の日には仕事場から出てきて散歩に出かけた。小川のほとりでは、水をとばしたり、泥んこ遊びをした。レアと遊んでいると、ヨセフは辛いことをみんな忘れてしまい、レアの言うなりになる、優しい父親となるのであった。

マリヤは満足していた。子供のことに関しては、ヨセフは実に親切で理解のある父親であった。レアは全く例外で目に入れても痛くない娘であった。彼女の金髪の頭は、彼にとって言い尽くせぬ神秘であり、彼女の可愛らしいお喋りは、無限の喜びであった。

仕事が順調にはかどり、レアが彼の傍に居るときは、喜びの杯があふれるばかりであった。彼はマリヤに言った。

 「神様は私たちに沢山の祝福を与えて下さった。いつまでもこの幸せが続くとよいのだが。子供たちはこの儘大きくならず、僕の仕事もそこそこで、お前とレアがそばに居てくれて、来る日も来る日も今のように歌ったり遊んだりできるといいんだが」 弾んだような声でマリヤが答えた。

 「この金髪のお嬢さんをさらっていくお婿さんがあらわれたら、あなたの顔は仏頂面になり、やきもち父さんになるわね。きっとあなたは気狂いのようになるわよ」

 マリヤはこれ以上何も言えなかった。ヨセフの唇が彼女の口にふたをしてしまったからである。ヨセフはこんな風にして丘の上を独りで歩いていた少女マリヤに恋をしていた青年時代の愛をあらわすのであった。



 
   37  神霊治療の業を磨く

 夜が訪れた。太陽という金色の梭(ひ)(織物に使う 道具(シヤトル))が弛んだ縦糸を使って多色の衣服地を織ろうとしているかのように、ガリラヤの山々や湖の様子が無気味な色に見えていた。

 ヘリとイエスは、岩だらけの道に立ってカルメル山の方角を眺めていた。少年イエスの心には、様々な疑問が浮かんでいた。海をへだてた向こう側にある外国はどんな処なのだろうかと。へりにきいてみた。ヘリは答えた。

 「私には悲しい思い出があるのだよ。一体どんな人の中に真実があるのか、一生けんめい探し求めていたのだよ。

こいつは本当に大変なことでね、ダイヤやオパールを探すよりもむずかしいのだよ。律法学者やパリサイ人にも逢ってみたが、全然だめだった。私が若いころ決心して、いろんな人間に逢って勉強したいと思ってね。

石工として働きながら,あちこちの街に行っていたのさ。テベリヤ、それからピリポ・カイザリヤなどではね、異教の神々を祀る神殿の土台造りをやってみた。また、船員になって、アンテオケ、アテネ、アレキサンドリア、エペソといった大きな町にも行ってみたのさ。

ある期間中にその町々に住んでみて、色々な人と逢ってみたのだが、誰一人として幸せや平安を教えてくれたものはいなかった。ところがね、ある日のこと、東方からやってきた一人の男に私にその人の国に来て見ないかと誘われてね。

もしかしたらお前の探しているものが見つかるかもしれないというのだよ。それで私は軍人になって、ある金持ちの商人に雇ってもらったんだよ。この商人は、たいした方で、沢山の隊商を動かし、没薬、乳香、その他沢山の高価な商品をアラビア砂漠の向こうから運ばせていたのだ。

それで宝物を泥棒から守る護衛に任命されたという訳さ。私はある時、インドの大きな町にやってきたとき、これが東方の世界だなと思ったのさ、けれども私には、そこに喜びも平安も感じられなかったのだ。私は青春時代のすべてをを賭けて探しだそうとしたのだが、段々とやる気を失ってね、いやになってしまったんだよ。

大きな町には神様が住んでおられるとは思えなかったのだ。王宮の周辺には、きらめくような寺院が並んでいた。

王や支配者の華麗な建物とは裏腹に、狭くて汚い小路をはさんで、飢えた人々や、障害者が住んでいるのだよ。曲がりくねった道端には、目のない乞食が、あちこちにいて、両足を震わせながら嘆き声をあげているんだよ。

主人の手で肢体をもぎ取られた奴隷たちが路上に座っており、汚れきった小さな部屋の中には、病人がうずくまっているんだよ。どんな悪いことをしても、この町ではとるに足らぬ小さなこととして処理されてしまうのだ。

町がどんなに美しくても、私は苦悩している人々、貧しい人々、奴隷の流す涙などに目をつむることができなかったのだよ。しかもこのような人々が浜の真砂のように沢山いるんだよ。イエスよ、人々が集まる町という所は、強盗と悪人の巣のようなものなんだ。喜びの代わりに絶望が待ち受けているんだよ。

 私は遂に荒野に出て、流浪を続ける一部族とばったり出逢ったのだ。この部族の人々はとても強く、烈しい性格で、時折お互いが斬りあったり、旅人を襲ったりするんだ。

彼らはまるで砂漠や岩山の陰に潜むハイエナみたいなやつなのだが、町の人々には見られないすばらしいものを持っているんだ。自分がどんなに喉が渇いていても、水を求める人には水筒の水をそっくり飲ませてしまうような人類愛は、まさに王侯貴族に優る気高さを感じさせるんだ。

私自身がアラビヤの不毛な地を旅して死にかけていたとき救ってくれたのも、この砂漠の流浪部族だ。そのおかげで、今まで失いかけていた神への信頼が呼び戻され、この連中と一層親しくなってしまったんだよ。

烈しいこの人々には私が町の人々には発見できなかった知識と知恵があるんだよ。それで私はもう石工や、船員や、
兵隊などをやめて、この連中と一緒に暮らすことにしたんだよ。流浪の旅というやつは、とても辛いものだが、ようやく今までの苦労が報いられたという訳なんだ」 イエスはすっかりおどろいて尋ねた。

 「彼らはどんなすばらしいものを持っているんですか?」 ヘリは答えた。
 「私が町でこせこせと暮らしていた時には、エホバ(神)の道は隠され、私の心は病んでいた。あの砂漠の中で流浪の部族と暮らしているときには、エホバの道は明るく私を導き、心のうちに喜びがあふれるのだ」

 イエスはこの話を聞いてへりに懇願した。
 「ねえ、僕もそこへ連れていって下さい」

 「今はだめだ、イエス。とにかくお前が今すぐやるべきことは、御両親と和解することだよ。お前の体は柔らかだから、到底焼けつくような日射しのもとで、飢えの連続という厳しい生活は無理だ。三年がまんしろよ。

そうしたらきっとお前をつれてってやるよ きっとお前は砂漠の古老から、エルサレムの律法学者や文献などでは得られない知恵を受けるだろうよ。神殿にたむろしている学者が口にすることは、まるでアジアの古い葡萄酒のようで、我々の理解力を鈍らせるばかりか、世界の靄(もや)の中で手探りさせるばかりだよ」

 イエスは力強く言った。
 「わかった。ヘリの約束を信じて待ってます」

 「そうとも。必ず約束を果たしてやるよ。私はこの流浪人から初めて信仰の道を学ぶことができたんだからね。彼らは烈しく残酷なところがあるが、町の連中のように偽善はやらないぜ 彼らが口にする言葉は、まるで山に横たわる不動の岩山のように、真実そのものなんだよ」

 二人はしばらくの間沈黙しながら、金色に輝いているカルメル山が次第に夕闇に包まれていく光景を眺めていた。山の輝きが雲に蔽われていくさまは、実に神秘そのものであった。

 二人は森まで降りると、夕食の支度にかかった。火を熾(おこ)し、魚を焼いた。水は小川からくんできた。月が頭上高くあがる頃、二人は残り火の上にポットを載せて薬草を入れ、煮出した。

 ヘリはイエスに病気の癒し方を伝授した。一つは何種類かの草を混ぜ合わせ、薬草の効力を高める方法と、もうひとつは、意識の働きによって治療者の体の中に治癒力を湧出させる方法であった。

 夏の間、ヘリの薫陶を受け、ついにイエスは自分の体の中に治癒力が湧き出るようになるのを感じた。そしてその力を病人に与える方法や、その力が尽きた時に補給する方法も会得することができたのである。

 ヘリは、この少年が常ならぬ若者であることを感じとっていた。彼の魂は強靭で、肉体は治癒力の倉庫にふさわしく清らかであった。彼は医者として求められる、生命力の増強に適したあらゆる条件を備えていた。ヘリは最新の注意力をこめてイエスに言った。

 「お前は大人になったら、さぞかし大きな働きをするようになるだろうよ。でもな、断っておくがお前の力は、お前に心を開き、お前を信じようとしない限り癒すことができないよ。だから病人を見て、どうしたらこの人に信仰を持たせることができるかどうかよく見極めた上でやることだね」

 朝早く、日の出の頃をみはからって、ヘリはイエスを座らせ、治癒力を豊かに備えている目に見えない体(霊体、幽体)に刺激を与え、その力を引き出す業を施した。この業を通して語られた知恵の言葉によって、イエスは、此の世のものではない天の知恵に充ち満ちた平和と甘美を味わったのである。


 イエスは、週に三回ほど、陽が沈んでから、ナザレの丘のふもとまで降りてきて、マリヤ・クローパスと幼いヤコブと逢い、食べ物と様々な情報を受けていた。ある日のこと、幼いヤコブからとても悲しい報せを聞かされた。

多くの人々が高熱にうなされているという報せであった。ヨセフが可愛がっていたレアまでも高熱にやられ、危篤状態になっていた。イエスはころげるようにヘリの処へやってきて、へりに薬草をもってナザレに行ってくれないかと哀願した。ヘリはうつむきながら答えた。

 「私がナザレに行けば、みんな私めがけて石を投げつけるだろうよ。私がナザレを出るときには、私のことを砂漠の犬と罵ったくらいだからな。

どうして私を軽べつした人々の手で私の平和をこわそうとするんだ。私は二度と町や村にはいかないと心に誓ったんだよ。では、こうしようじゃないか。私がこの小川で休んでいる間、レアのことを観察してはどうだろう」

 「此処から五キロ以上もある所で寝ている子供を、しかも四つの壁に囲まれている部屋の中をどうやって見ることができるんですか?」

 「しっ だまって。レアがこの水面に映るかもしれないぞ」 ヘリはそう言いながら小さな岩で囲まれた池の水面を見おろしていた。ひな鳥が母親の翼の陰でゆったりとしているような一日が流れた。やがて夜になってから、ヘリが頭をもたげながら言った。

 「こんな馬鹿げた連中には、レアの病気なんか治せっこないさ。みんなレアの周囲をびっしりととりまいているだけなんだ。レアの熱はどうも最高に達しているようだが、僅かばかり体力が残っているから、もう三日間くらいはもつだろうな。今週の終わり頃、安息日(土曜日)が来るまでは、死の天使の手にはかけられないだろうよ」 このことを聞いていたイエスは、もっと強くへりに行ってほしいとたのんだが、頭を立てにはふらなかった。

 「そうだ、お前の体に治癒力を満たしナザレに行かせよう 水がいっぱい入っている水差しのようにお前の体の中に治癒力が充満していれば、きっとお前の妹の生命を救えるかもしれない、少なくとも死の道をたどっている苦しみをやわらげてやれるはずだ」 イエスは否応なしに彼の言う通りに従った。

それからへりは、一昼夜の間、少女の体を蝕んで死に追いつめようとしている悪霊に打ち勝てるだけの強い力をイエスに授けるのに全力をかたむけた。ヘリは一時間程休みを入れ、空飛ぶ燕のように心を解放した。弟子もよく師の言うことに従った。もう一度あの小川の池を覗き込んだ。

 「ああ レアがひどい熱にうなされているのがみえるぞ お前のお母さんがレアの部屋には居ない。馬鹿な連中が大勢レアのベッドの周囲でべチャクヤお喋りしてやがる、一体病人を何だと思っているんだ。野生の驢馬のように大声でしゃべっていやがるんだ。

お前のお父さんは、どうしたらよいかわからずに、家中をうろうろしているだけだ」 イエスは言った。

 「ねえ、僕もう行ってもよいでしょう?」

 「いや、まだ早い」

 「レアが死んでしまったらどうするんですか。ただ、じっとここで彼女が死ぬのを待っているんですか」

 「お前が彼女を救うときがまだ来ないのだ。お前の体は疲れている。それじゃ何にもならないんだ。治癒力がまだ充分じゃないんだよ」

 「愛するレアが死んでしまう」 イエスは両手をねじり、頭を垂れ、初めて味わう深い悲しみにわなわなと手足をふるわせていた。ヘリは鋭い口調でイエスに言った。

 「私の言う通りにしなさい そうすればレアは助かるだろう。私にさからえばレアの生命は保証できない」 イエスはもう何も言わず、賢者の後に従って山から降り、湖の岸辺までやってきた。ヘリは何時間も黙っていることがあった。この夜ばかりは彼の無言はこたえた。

 二人は無言のまま歩き、小川の処に来て乾いた葉を敷いた。ヘリはただ一言 「ねなさい」 と言った。イエスはそこで横になった。湖畔の柳の樹々が星の光をさえぎっていた。深い眠りが彼の瞼を閉じさせた。

 
 イエスが目をさましたときは、あたかもリンゴの花の満開のときのように、熟睡のあとの爽やかさを味わった。そのとき、ヘリが遂に口を開き、イエスに命令した。

 「ただちにナザレに行きなさい。右にも左にも曲がらず、真っすぐお父さんの家に急ぎなさい。お前が悪霊をたたき出すんだ お前が偉大な霊の力から流れ出る美しい旋律(メロディ)の容器(うつわ)となって働くのだ。一つだけ忠告しておこう。恐れないことだ。恐れることは霊力の援軍を裏切る行為なのだ。怒ってはいけない。

また悲しみに負けてはならない。感情に負けて理性を失わないように気をつけるんだ。感情でぐらついた体や心は、偉大な霊の力に仕えることができないからだ」

 イエスは頭をたてに振り、彼の親切な忠告に充分気をつけますと返事をした。イエスはまたたく間に姿を消した。イエスに知恵を伝授したこの流浪の人は溜息をついて、独り言を言った。

<彼は自分では気付いていはいないが、もうすでに一人前の教師になっている。何年も苦労し、食を断って修行した私にも、まだ与えられていない大きな霊力がすでに備わっているようだ。彼ほど心の美しい汚れのない人間は他に見たことがない。娑婆で汚されなきゃいいのだが>

 
   38  最初の奇跡・・・・・・妹レアのために

 レアの部屋は女たちでいっぱいだった。彼女たちは、なんだかんだとお節介をやいていた。ある女は、田舎で知られている様々な療法を施していた。しか
しどれもみな効き目がなかった。熱はますます高くなり、レアはうわごとを言い出し、頭は焼けるように熱かった。

 ヨセフはレアの傍に座り、頭を低く垂れ、目はどんよりとして無気力であった。ヨセフは苦しむレアをまともに見ることができなかった。回復の望みは一切断たれてしまった。彼はまるで墓場の幽霊にでもとりつかれたような姿であった。うめき声が止み、瞼を閉じて少女は静かになった。

 「もう臨終だわ」 と女たちがささやいた。

 クローパスがお祈りをしようと言ったので、みんながひざまついた。静まりかえった部屋に、ヨセフのすすり泣きだけがきこえた。マリヤは小部屋に居た。そのときイエスが家の敷居の上に立っているのに気がついた。

マリヤの目には喜びと絶望が去来していた。イエスはひざまずいて祈っている女たちの間をくぐり抜けてレアの傍に立ち、両手をゆっくりとレアの腕においた。彼女を慰め、癒しを施した。すべてが順調に運んでいった。誰も彼がするのを止めなかった。ただ、いずれ我が家にもやってくるかもしれない死の天使に戦(おのの)いているのであった。

 イエスはレアの手をにぎりながら話し出した。樵(きこり)が斧をふり上げて、樹に打ち込むように、あたりの静けさを破った。

 「レア 目をさまして起き上りなさい

 そのときレアは、両目を開けてベッドのわきに降りて真すぐに座った。そして呆気に取られている父母の方を見ながら」長い髪の毛をかきあげた。イエスはもう一度言った。

 「レア 床につきなさい もう病気は治ったよ

 レアは彼の言う通りにした。なごやかな表情がありありと顔にあらわれていた。ほっぺたは色づき、傍に立っているイエスの顔を見つめていた。イエスはなおもレアを見据えたまま唇を動かし、額からは大粒の汗がにじみ出ていた。

男も女もひとことも語らず、イエスがいつ死の天使と格闘して捻じふせたかも知らなかった。ただ最後の方で、イエスが身をかがめて妹の顔を拭いてやったり、手足をきちんとなおしてやってから、

 「さあ、レアはもう直ぐ元気になるよ 病気が治ったんだよ」 とイエスが言ったときに、ようやく我に返ったのである。

 よろけるようにイエスは出口を探し、土の上に寝そべって、じっと動かないでいた。呆気に取られて黙っていた人々は騒(ざわ)めき出し、イエスの仕草を見つめていた。幼いレアはぐっすりと眠っていた。ヨセフが額に手をあててみると、もうすっかり熱が下がり、平熱になっていることがわかった。また耳をレアの口元に当ててみると、呼吸も正常にかえっているのがわかった。

 「イエスは、私たちのためにレアを返してくれたのだ!!」 ヨセフは夢心地であった。
 「イエスに歓迎の挨拶をしましょうよ」
 「いや、歓迎どころじゃないよ おれはイエスに謝らなくっちゃね」  


 
   39  ヘリとの固い約束(神癒の禁止)

 マリヤの三番目の息子〝ヤコブ〟は外見の好い少年であった。彼は目上の人の言うことにはなんでも従った。そのためにはいつも自分を殺していなければならなかった。それで彼は学校の教師はもちろんのこと、彼を知っている人々からは模範的な少年と言われていた。細面(ほそおもて)で薄い唇の少年は熱心に教師の言うことに耳をかたむけていた。

彼は聖書の言葉をすばやく暗記してしまったのである。しかし彼の知識は、ただ機械的に暗記したものであったので理解とはほど遠いものであった。


 レアの紳癒が行われた翌日には、家族の順番が一変していた。従来は、イエスに対するヨセフの悪感情から一番末席であったのが、突然最大の待遇を受け、父の右側に席がもうけられた。今までイエスの悪口を言ってた隣近所の人々からは、とても親切で優しい言葉がかけられた。

彼はいち早く人気者になり、あちこちから相談をかけられるようになった。父ヨセフも弟たちにイエスを大事にするように命じた。家の中には、まるで別の主人が居るようであった。

けれどもイエスは決して思い上ることなく、穏やかな微笑をうかべながら彼らのもてなしを断った。

 ある日のこと、三男のヤコブがイエスに話しかけた。

 「お兄さんは、今まで散々悪口を言われていたのに、今度の奇蹟でみんなから崇められるようになり、先輩の長老たちまでお兄さんの言うことに耳をかたむけるようになりました。一体だれからそんな力をいただいたのですか? 僕なんかは、ただ聖書を暗記しているだけで、どこから引用されているかは全然わからないんです」

 「その通りだよ、学校の教師は言葉の意味なんかは教えてくれないよ。僕は前から、こんなことではなんにも勉強にはならず、聖書の意味を識ることはできないと思っていたんだ。だから学校に通っていた頃は、教師のことなんか眼中になかったんだ。全く馬鹿げていたので我慢できず、遂に教師も僕のことを悪く言い出したという訳さ。

それに反して、あの流浪者ヘリは、すばらしい知恵の持ち主であることがわかったんだ。彼からヘブル語で聖書を読むことを教わり、聖書の解釈をならい、遂にエルサレムからやってきた偉いパリサイ人の前で堂々と聖書を読むことができたんだよ。その上、レアが死にかかったときも、病気を治す業を教えてくれたんだ」

 このことを知ったヤコブは倒れんばかりに驚いて言った。

 「僕は癒しの霊力は欲しいけど、あの乞食みたいなヘリとつきあうなんてごめんだな どんなに聖書のことが明るくなっても、あいつの仲間だと思われたくないですよ。だってヘリは、罪人で悪魔と一緒に暮らしているそうじゃないですか」 イエスは言った。

 「善人はとかく悪人呼ばわりされるものなんだ。ヘリを非難するやつは一体誰なんだ? 彼の本来の姿をおしえてやらなくちゃ」

 「ナザレの律法学者が言うには、流浪の民族は碌なことしかやらないんですって。モーゼを通して顕れた神様を拝まないというではありませんか。ヘリは漁師の家で食事をする時には手も洗わず、お祈りもしなかったので土間に座らされたそうですね。なんでも僕たちが尊敬しているエルサレムの偉い人たちを散々こき下ろしたそうです。

あのミリアムおばさんも、ヘリの目には悪魔が住んでいるといってましたよ。 ミリアムおばさんの子供を睨みつけたとたん、悪魔が体の中に入りこんだそうです。お兄さんがエルサレムに行っている間に、ミリアムおばさんが音頭を取って、ヘリをナザレから追い出そうとみんなが石の雨をふらせたんですよ」

 「あの女の口には猛毒があることをみんな知ってたくせに」

 「でもね、今度ばかりはナザレの律法学者も後押ししてね、ヘリは悪魔と通じ合っていると言いふらしたんですよ。それに最初の石を投げつけたのも律法学者だったんだそうですよ」

 「昔の預言者も同じ目にあったんだ」

 「でも僕はヘリから教わるのはいやなんです」

 「滅多にないチャンスじゃないか。ヘリこそ百年に一人しかあらわれない人物だよ。これから僕はヘリの処へ行かなくちゃ。お前も一緒においでよ。お前の夢が叶うように祈ってあげようではないか」

 「僕の夢ですって?」
 「そうとも、お前はエゼキエルかあるいはイザヤのような立派な預言者になりたいんだろう?」

 「そうだけど・・・・・・でもやっぱりヘリから教わるのはいやです あれは悪魔ですからね」

 イエスはささやくように呟いた。

 「民衆と律法学者だけがヘリのことを悪人だと言っているんだよ。昔から正義をおし進めようとした預言者たちも全く同じ目にあったんだよ
」 ヤコブはイエスの言った最後の言葉には耳をかさず、自分の本心を口にするだけであった。イエスは悲しそうにこの少年を見つめ、吐き出すように言った。

 「どうしたらお前に大切な知恵を分けてあげられるだろうか。お前の心は全く閉ざされてしまっているんだ。お前には此の世のことしか眼中になく、知恵者と称する偽善者の言うことしか耳に入らないんだ。ヤコブ お前の心がきれいにならなければ、お前の正しい理解力を縛りつけている鎖を解きほぐすことはできないんだよ」

 「もうそんなことは沢山です。ヘリは悪魔なんです。長老たちもみんなそう言っています。砂漠をうろつくような放浪者はみんな放蕩者なんですよ


 イエスが再びへりに逢いに行ったとき、彼は荷物をからげて旅に出るところであった。イエスはあわててたずねた。
 「どこへ行かれるんですか?」

 「もうこれ以上は長居できんのだ。仲間も待っているからね。焦げつくような夏になると、干からびた砂の中に隠れている水脈を見つけてやらにゃならんのだ。それに病人を治したり、薬草を岩山のごつごつした処に育ててやらねばならんのだ」 イエスはへりに、一日も早く戻ってきてほしいとたのんだ。

 「私はもう三年は帰ってこないだろうな。その間は、お父さんに仕えるんだよ。近所の人たちがお前に病気を治してほしいとたのまれても、決してひきうけてはならんぞ。お前に伝授した薬草でも使ってはいかん」

 イエスはどうして力を隠し、悲しんでいる人たちに背を向けなければならないのかときいた。

 「将来、お前が大人になったら、きっと大勢の病人を癒すことになるだろうよ。手足の不自由な人を歩かせ、目の見えない人たちに見えるようにしてやるだろうな。今お前がそれを引き受けたら、必ず失敗するということをよく覚えておきなさい なぜなら、お前の近所の連中は、お前を赤子の時から知っているからだ。

連中の心の中に信仰を引き出すことはできないからなんだよ。霊力による癒しの業は、神を信じる者に与えられるんだ。お前のことを褒める者がいても、それは必ずお前を憎む集団になるんだよ。それは嫉妬のなせる業なのだ。

嫉妬という毒には、何ものも敵(かな)わず、病気を回復する力さえ失わせてしまうのだ。お前のときがくるまでは、丘の上で天の御父と交わりを続け、独りでお前の理性と体を鍛えあげるんだ。私が再び戻ってきたときには、お前はきっと、自由に癒しの力を駆使できる者になっているだろうな。我が兄弟よ さらばじゃ

 
 
   40  金持ちの依頼を断る

 ひと夏の間、熱病は多くの人々を襲った。ナザレは日に日に嘆き悲しむ声で充満していた。女たちの泣き声や嘆きは頂点に達し、若者も老人もすべて明るさを失い家の中に閉じこもっていた。

そんな状態の中で、イエスの話が伝わった。正直言って、その頃はナザレの人々にとってヨセフや家族のことはどうでもよかったのである。イエスのことを耳にした連中がやってきて言った。

 「なんでもあんたの息子さんが、癒しの術を弁えておられ、妹さんの病気を治されたとうかがいましたが」 ヨセフは鼻を高くして言った。

 「あそこをご覧なさい。庭で飛んだり走ったりしているでしょう。あの子がひどく熱病にやられ、危篤状態までいったのです」 この言葉を聞いた人たちは、喜びと驚きの声をあげた。彼らはヨセフに哀願した。是非そのときに使った薬草で病人を治してほしいと言い出した。ヨセフは説明した。

 「息子イエスは、その薬草で治したのではありません。妹の病気を治したのは、彼の体とその中に宿っている霊の力によるものだったのです」 一人の客が言った。

 「そんな馬鹿な 薬草と患者の血が混じり合って熱を追い出したんですよ」 ヨセフはむっとして言った。
 「レアの病気を治したのは、イエスの霊力だったんですよ 私は噓は言いません

 「いやいや、どうも。私たちはただ、お宅の息子さんに来ていただいて、我が家から忌まわしい熱病を放り出してほしいんですよ。ぜひ息子さんにたのんでくれませんか」

 ヨセフは答えた。
 「あれは今外出しています。でも帰ってきたらたのんでみましょう」

 「息子さんが病気を治してくださったら、もちろん、たっぷり御礼をするつもりなんです」
 近所の人々はイエスに期待して帰っていった。


 ヘリが与えた忠告は、イエスにとって彫刻刀のように鋭く響いた。ヘリと別れを告げて帰ってくると、父ヨセフが先程のいきさつをイエスに伝えた。イエスはきっぱりと答えた。

 「僕はどんな病人のところにも行きません。僕はもう二度と病気を治すようなことはしません。別に医者を探すように言って下さい」

 「お前、まさか失敗することを恐れているのかい? お前はレアの生命を立派に救ったじゃないか」
 「はい、それは本当です」

 「魚問屋の〝ハレイム〟さんがやってきてな、急いでお前に来てくれと言うんだ。今にも若い細君が死にかけているんだ」

 「僕はもう病人なんかで煩わされたくないんですよ」

 「ハレイム・・・・・・て言えばナザレ中に聞こえた金持ちだ。あの方の要求だけでもきいてやれば、きっと舟の建造をこのわしにやらせてくれるに決まっているよ」

 「僕のときがまだ来ていないんですよ,お父さん」 イエスはやるせなく、溜め息をついた。随分大勢の人々が熱病で苦しんでおり、イエスの助けを欲しがっているのを知っているだけに、ヘリの忠告がイエスにはずっしりとのしかかっていた。

ヨセフは苛立ってきたが、命令することもできず、マリアと一緒になって絶望のどん底に喘ぐ魚問屋の名をあげながらイエスに哀願した。イエスはつっ立ったままで、額から大粒の汗が流れだした。両手をきつく握りしめ、静かに祈っていた。マリヤもヨセフの傍に居て、何とかよい返事を引き出せないかとイエスの顔をじっと見ていた。

 「やっぱり、僕には、僕にはできないよ」 イエスはヘリとの約束に板ばさみになって、どうすることもできなかった。ヨセフはなおもイエスに哀願した。

 「お前がやらなきゃ、近所の連中がどんなになるか、わかってくれ。お前が変な意地を張って、困っている人たちを
無視すれば、どんなに私たちがひどい目にあうかわかりゃしない。お前には立派な治癒力がそなわっているじゃないか。レアを死の淵から引きあげて、恐怖を吹き飛ばしてやったじゃないか」

 「あれはね、レアが僕のことを天使のように信じてくれたからなんですよ。でもこの人たちは僕のことをただの大工の息子と思い、しかも、中には、昔教師や律法学者が散々悪口を言ってた息子だと思っているんですよ。そんな人たちに効き目があるはずがないじゃありませんか」

 こう言い残してイエスはヨセフとマリヤの前から立ち去った。二人はた呆然(ぼうぜん)と空を見上げ、空しく星空を眺めているだけであった。


 
   41  慈悲の父ヨセフ

 魚問屋のハレイムは、別の大工に船の建造を依頼した。しかしヨセフの設計を生かしてくれたので、からくもヨセフは仕事にありつけた。マリヤは言った。

 「これは神様の思し召しですよ。これだけでも感謝しなくちゃね」

 イエスが立ち去ってから七日が過ぎた。彼からは何の音沙汰もなかった。八日目の朝になって、ヨセフの姉マリヤ・クローパスがヨセフの処にかけこんできた。着物が乱れており、ベールもくしゃくしゃだった。夫クローパスが職を失ったことを告げにきたのである。

 「夫に仕事をくれていた商人が次から次へと流行病(はやりやまい)で死んでしまったの。だから今では夫に仕事をくれる商人が一人もいなくなって・・・・・・・パンを買うお金もないのよ」 悲しみながら彼女の話を聞いているうちに、マリヤは昔何回も自分たちが困っているときに助けてもらったことを思いだしていた。

そこでヨセフに、昔彼の知らない様々な助けを受けていたことを話し、先頃エルサレムでパリサイ人からもらったお金を用立てたらどうかと言った。ヨセフはじっと考えてから言った。

 「そりゃいい考えだ。クローパスが仕事が見つかるまで、それで何とかやりくりするといいね」 マリヤ・クローパスが言った。

 「でもあれはイエスの勉強のためにいただいたお金じゃないの。どうしてそれを勝手に手をつけるの?」 
ヨセフの表情が暗くなった。マリヤがすかさず答えた。

 「その中から私に預けた分があるの。なんでもイエスが言うには、本当に困っている人がいたら、このお金をあげてちょうだいって」

 これを聞いてマリヤ・クローパスは、そのお金をおしいただくように受け取って帰っていった。マリヤとヨセフが二人きりになり、互いに深い悲しみに襲われるのであった。<イエスはまだ帰ってこない>と溜息をついて二人はひとことも口をきかなかった。


 九日目になってイエスは家に帰ってきた。顔にはありありと空腹感があらわれ、骨と皮になって現れた。全身が空腹と疲労でわなわなとふるえていた。ヨセフは手にしていた道具を放り投げ、急いでかけより、<よく帰ってきた!!

といたわりの言葉をかけ、マリヤに熱いスープをつくるように言い、急病人のためにとってあった少量の葡萄酒をもってきた。マリヤが急いで食事の支度をしている間、ヨセフは水さしに水を汲んできて彼の血がにじんでいる泥足を洗い、額を冷やし、そーっと床(ベッド)の上に寝かした。暫くして彼は眠り始めた。

 だいぶたってからマリヤはイエスを起こし、食物を与え、葡萄酒をのませると、彼はすっかり元気を回復した。マリヤはイエスが草や木も生えていない荒野をさまよって、わずかな野イチゴしか口にしていないことがわかった。イエスはどうしてこんな寂しい荒野をさまよったかを言おうとしなかった。


 トマスが入ってきて両親に言った。

 「お兄さんが荒野をさまよっている間、僕はずっとお父さんの仕事を手伝っていたんだ。いつでも僕はお父さんの言いつけを守っているのに、どうしてお兄さんは勝手に出て行ってお父さんの言うことを聞かないんですか。

挙句の果てには疲れはて、お父さんのベッドに寝かされ、僕たちにはひどいパンしかくれないなんて、お兄さんには肉とおいしいパンをあげ、家の中にあるいいものはみんなお兄さんにあげちまうんだから。何のために僕が一生けんめい働いているのかわかりゃしないよ。全く頭にくるよ!!」 マリヤが言った。

 「私たちはね、イエスがもう二度と帰らないんじゃないかと思ったのよ」 ヨセフもすかさず言った。

 「その通りだ 野たれ死にしたんじゃないかと思った者が見つかったんだ。再び生き返ったんじゃないか

 トマスはなおもふくれながら不平を言った。

 「まずいパンと濁ったミルク、これが僕たちが一生けんめい働いた報酬(むくい)なんですか? もう僕はがまんできません。僕はピリコ・カイザリヤかティペリヤの町へ行って、誰かにやとってもらいます」

 ぷっとして家をとび出したトマスの後を追ってヨセフはトマスの服をきつく掴んだ。父の強い力に引っ張られたトマスは立ち止った。父はトマスに戻るよう説得した。

 「トマスや、わしのものはみんなお前のものではないか 何か欲しいものがあるなら言ってみなさい。きっとお母さんが心配してくれるだろうよ。お前は我が家の大黒柱なんだ。今からなんでもお前の思う通りにするがいいさ。

だから家に戻っておいでなさい。お前が心を広くしてくれさえすれば、イエスも家からとび出さないで、みんなと一緒に暮らすようになるんだから」

 トマスは不承不承(ふしょうぶしょう)家に帰ってきた。しかし兄弟とは口もきかず、両親の楽しそうな会話にも、そっぽを向いていた。この時から、トマスとイエスの関係は決定的に悪くなった。


 
   42  ヨセフの重い病気

 ガリラヤの喜びの歌声は飢えに苦しむ叫び声に変わり、笛やコーラスはすすり泣きに変わってしまった。熱病が猛威をふるった夏が過ぎ、厳しい冬がやってきた。いたる所大飢饉にみまわれた。外国から役人が食糧を買いあさりにやってきて、ほんのわずかな収穫でも多額の金で買い取った。

町中の欲張り連中は、畑の隅から隅まで血まなこになって落穂を拾い集めた。貧乏人は寒さと飢えで次から次へと死んでいった。まことにひどい冬が荒れまくったのである。


 ヨセフには沢山の仕事が舞こみ、金持ちになっていった。飢えた羊飼いや農民がやせ衰えているのに、ヨセフは豊かであった。しかし彼は稼いだ金を貯めようとはせず、穀物や無花果を高い金を出して買い求めては、常時彼を頼ってくる旅人や孤児たちに与えていた。親類の者がそんな鷹揚(おうよう)なふるまいを諫めようとすると、ヨセフは反論するのであった。

 「貧しい隣人たちを忘れてはならない。もしも母子だけの家庭や孤児(みなしご)が困っているのを忘れるくらいなら、小麦の代わりに薊(あざみ)が生え、大麦のかわりに麦撫子(むぎなでしこ)が生えればよいさ。

もしも飢えている旅人を見て彼を入り口からしめ出すくらいなら、私の鋸の歯がまるくなりのみが錆びつき、プラタナスの木が倒れ、斧の刃が私や息子たちを切りきざむほうがましだよ」  ヨセフの親戚たちは呆れかえり黙って立ち去った。

しかし陰では <あんなことをしていると、いつかは乞食みたいになるさ あのお人よしには全くあきれたもんだ>とささやいていた。

 ヨセフは息子のトマスやイエスと一緒に金持ちの農夫のために、夜中まで働いていた。その日の仕事が終るとき、賃金を受け取るのであった。

マリヤは、山から訪ねて来る飢えた人々や、困っている子供、さらに漁師の家族たちに食物を与えていた。その冬は特に不漁が続き、小さな魚さえ取れず漁師たちは毎晩空っぽの網を浜辺に広げ、腹をすかせていたのである。


 春がやっと来て悪夢のような飢饉も去っていった。

 ヨセフは過労がたたり、重い病気にかかってしまった。昔うけた背中の傷が痛みだし、腰の痛みも劇しかった。やはり井戸に落ちて重傷を負ってからは、彼の体は完全ではなかった。今度ばかりは余りの痛さのために、遂に寝込んでしまい、立ち上ることができなかった。

 そこで風采のよい若者、トマスが父の代わりに親方になり、木工技術に関するすべての采配を振るった。もちろん兄弟であるイエスも彼に従った。しかしイエスの技巧は未熟で、どちらかといえば木工作業には余りむいていなかった。鋸で真っすぐに切ったり、鉋(かんな)を上手にかけることができなかった。
 
弟であるトマスには彼がグズで、頓馬に思えた。トマスは口の悪い樵たちと付き合っていたので、心の底までひねくれていた。トマスは兄にむかってどなるのであった。

 「このうす馬鹿者めが、鋸の背中で木が切れるとでも思うのかよ おめえがそれを使うと、歯がボロボロになっちまうよ」 こんなふうにイエスに八つ当たりしていることを聞いたヨセフは、床(ベッド)の中からトマスに言った。

 「トマス、そんなふうに兄を責めないでおくれ、彼は母さんの若いときに似ていて、いつも夢を見ているので、手の方がうまく働かないんだ。そこへいくとお前は本当に私の子だ。わしに似て手先も器用だし、大工として立派な才能も備わっている。わたしは本当にうれしいよ。

お前がそうやって働いてくれるので私の唯一の慰めであり、弱っている私の支えになっているんだ。だからお前も、もっと賢くなって、その熟練の腕をふるい、イエスには優しくしてやってくれないか。

これでもお母さんがやっきになってイエスの腕を磨こうとしているんだが、あまり効果はないと思うがね。兄をいたわってあげなさい。彼は商売の経験もないし、腕もないから、きっとこの家の家長にはなれないだろうな。なにしろ家長は、一家を支えていかねばならんからねえ


 ヨセフの忠告があってから、トマスはますますつけあがってしまった。彼は公然とイエスを軽蔑し、彼の弟たち、ヤコブ、セツ、ユダを引き込んで、彼を嘲(あざけ)った。遂にイエスの仕事といえば、材木はもとより、ときには重い石材を運ばせるようになった。それを弟たちは手伝おうとはしなかった。


 ヘリが立ち去って一年が過ぎた頃、イエスは母に言った。

 「冬の間中お世話してあげた羊飼いが僕に山に来ないかと誘って下さるんです。僕を一人前の羊飼いにしてやるというんです。お母さんが許して下さるのなら僕は喜んで彼の言う通りにしたいんですが。

山は僕にとって本当に良い友達ですし、空の星は人の手で作った屋根よりもずっと親切なんです」 マリヤはそんな荒野に行かないでほしいとイエスに懇願した。

 「強盗にでも襲われたらどうするのかい。第一羊の番なんかは、大工の息子がてがけるにはとても卑しい仕事じゃないのかい。お父さんだってきっと賛成しないと思うよ」 それでイエスはその話は思い止まって、大工の仕事を続けていた。相変わらず弟たちから馬鹿にされながら。

 セツがトマスに言った。
 「お兄さん、イエスはあんなに馬鹿にされても、よく毎日あんなに愉快そうにしていられるね」 ヤコブが答えた。

 「そうだとも。やつはいつも真理を真面目に追及し、自分の欠点なんか棚にあげてやっているんだから、ニコニコしていられるんだよ。第一、やつは安息日(1)なんかそっちのけなんだ。仕事が終わると伯母さんの家に行って、従兄弟のヤコブやヨセフと一緒に働いて、クローパス家の手伝いなんかしているんだ。

この三週間とも、やつは安息日に会堂の礼拝にも行かないで、日の出から夜まで山の中をほっつき歩いているんだからね」

 弟たちは口を揃えて父の前でイエスのことを非難した。さき頃、貧しい農夫の山羊が病気で弱っているのを見て、ちょうど安息日というのに、薬草を煮出して山羊に飲ませていたとか、独り暮らしの老人のために、またもや安息日だというのに、林の中で木を伐り出し、重い材木を運んでいたことなどを話した。

この話を聞いた父はイエスを呼んで、どうしてそんなことをしたのかと尋ねた。イエスは答えて言った。

 「困っている人たちを悲しませたくないんです。与える喜びはどんな宝石にも及ばない値打があるんですね」 ヨセフは頭ごなしに言い放った。

 「六日間働いて、七日目には必ず安息日を守りなさい。働いて休むんだ。モーセの十戎を大切に守って、変な噂をたてられないようにしなさい お前は安息日の掟を破った罪がどんなに重いかをしっているだろう!!」 父はきびしい口調でイエスに説教した。彼は黙って聞いていた。それ以来、弟たちから直接非難されることはなくなった。


 トマスとヤコブの二人の弟は、次第にまともな考え方をするようになった。彼らにはあるひとつの目標があり、それが一本のローソクの火のように彼らの心を照らしていた。トマスは自分の夢を実現させるために、稼いだ金を蓄えていた。彼はナザレを離れエルサレムに行って職人の親方になりたいと思っていた。

ヤコブは一家の家長としてすばらしい家庭と財産を築き、衣食住を豊かに暮らす夢を描いていた。彼もまたエルサレムに憧れてはいたが、トマスとは少し違っていた。彼はとてもまじめな少年だったので、彼は神殿の中に住みこんで毎日エホバの神に祈りをささげ、イスラエルの救済をねがうことであった。

この二人の兄弟は一本の軛(くびき)につながれている二頭の雄牛のようであった。二人とも一日も早く重荷をおろして自分の夢が叶うことを望んでいたからである。

しかしイエスはこんな軛につながられてはいなかった。彼は心の中に光を持ち、働くことを喜び、弟たちから馬鹿にされてもユーモアで応対していた。

長い間病床にあったヨセフもイエスにはもう説教などはしなかった。弟たちは父をあきらめてナザレの律法学者に相談していた。律法学者は必ずイエスを見張っているように命じていた。そして彼は、そのうちイエスが大罪を犯して失脚するだろうと預言していた。


 ある日のこと、母マリヤはイエスを呼びよせて言った。

 「この二年間、お父さんは病気で苦しみ、春が来たというのに痛みはますますひどくなってね、とても気の毒なのよ。お願いだから、レアを生き返らせたお前の秘密の力をかしておくれでないか」

 イエスは母の要求をきいて悩み始めた。母を心から愛していただけに、断るのがとても辛かった。ヘリからあれほど警告されていたにもかかわらず彼はひきうけてしまったのである。週の始めの日(日曜日)の夕方、弟たちが仕事に出ている間に神癒を施すことになった。

病人の寝ている部屋では、マリヤとヨセフの姉の二人が準備を整えていた。二人の敬虔な女が見守る中で、イエスは静かに祈っていた。イエスが口にする言葉は彼女たちには全く解らなかった。

暫くしてイエスがヨセフの方に近寄り、ヨセフにとり憑いている悪魔に向かって、<出て行け もう二度とこの肉体に入るな>と言った。二人の女は、そのときイエスの体から太陽の光線のようなものが発射されるのを見た。

イエスは体をかがめながら、その光を懸命にヨセフの体に注ぎ込んだ。暫くすると姉のマリヤ・クローパスは、弟の体の上に雲のようなものが覆ってイエスの発射した光を呑み込んでしまうのを目撃した。

折角の光がその雲にさえぎられて患部に届かないのである。ヨセフの心の中に、イエスに対する信頼が失せていたからであった。トマスやヤコブから散々イエスの悪口をきかされていたので、疑惑の重みにあえいでいたのである。

イエスは烈しく呼吸をしながらもう一度悪魔払いを試みた。汗と涙がイエスの頬を伝わり、彼の顔面は蒼白となった。いかなる努力も空しく、ヨセフは横たわったまま苦痛の声をあげ、不信の目でイエスを見上げていた。

 「僕には出来ません。父と私をつなぐ橋がどうしてもかからないんです」 イエスは呟きながら暖炉のそばにうずくまり、ぺたんと座りこんでしまった。戸口には、トマスやヤコブが立っていた。彼らは二度目にイエスが試みた悪魔払いを目撃した。天界よりの恵みの光をイエスが発射したにもかかわらず、父の不信によって悲しくも紳癒は成功しなかったのである。

(註1)
週の七日目(土曜日)のことを〝サバト〟(安息の意)と称し、ユダヤ人はこの日に一切の労働を休み、会堂に集まって神に礼拝をささげることが義務づけられていた。携帯する重量や歩行距離にも厳格な制限が加えられ、殊にパリサイ派の人々はこれらの掟を重視し実践に努力した。

従ってこれを破る者は重罪のひとつとみなされ、厳罰に処せられた。新約聖書の福音書では、イエスが十字架刑に処せられた最大の根拠として、安息日の掟を破ったことが直接の引き金となったと記されている。
 
 

   43  神様は何処に

 母マリヤでさえ、義姉から多くのことを知らされているのに、イエスのことを疑うようになった。彼女はトマスが彼を非難しているのを聞いていた。兄は偽善者だと。彼はもっともらしいことを言っているが、独善的であり徒(いたずら)に時間を無駄にしているといって非難した。そこにナザレの律法学者がヨセフのところにやってきた。

 イエスからは目を離すんじゃないよ。あの子は安息日を守らずに風来坊の異邦人と附き合っていたんだからな。やつらは札付きのごろつきどもで、捕まえようとしても仲々つかまらないそうだ。

イエスは従兄弟のヤコブやヨセフまでもまきこんでいるようだ。だからマリヤ・クローパスにもこのことを教えてやった方がいいと思うがね」 これを聞いた単純なヨセフは、血が頭にのぼった。

しかし厳しく叱れば今度こそはイエスは家出して、羊飼いに成り下がってしまうだろうと考えた。それから数日たってから、トマスが父の処に入ってきて早口で喋りまくった。

 「ねえ、お父さん、イエスはまた安息日を破ったんだぜ。まずいことに今度はみんなに知られちまったんだ。もうはずかしくてたまったもんじゃないよ。会堂に来ていた連中がみんなおれたちのことを軽蔑し、おれたちの信用はこれでがた落ちだぜ」 トマスが喋っているところにイエスが部屋に入ってきた。ヨセフはトマスに部屋を出るように促してから、静かに話し出した。

 「トマスが言うには、又お前は安息日の掟を破ったそうだね」 イエスは答えて言った。

 「熱にうなされていた一人暮らしの老婆(おばあさん)がいてね、どうしても見のがせなかったんです。僕がそばで見守っているうちにだんだんと熱が下がってきたんですが、今度は反対に体温がさがって冷えてくるんです。このままだと死んでしまいますから、小枝を拾い集めてきて火をもやし暖めてあげたんです。

それでこの老婆は生命を取りとめたのです。僕が薬草を煮出して飲ませたら手足の痛みもひいたのです。僕のやったことは悪魔の業でしょうか? 神様に対して罪を犯すことになるのでしょうか?」

 「安息日には、住いの中で火をもしてはならならんと記されているではないか それなのにお前はその掟を破ったのだ。大罪を犯したとは言わぬが、安息日の掟を破ったといっているんだ


 「安息日の掟は、人のためにつくられたものです。人は安息日の掟のためにつくられたのではありません!!

 イエスはそれ以上のことは何も言わなかった。突風が木々を揺さぶるような激しい怒りがこみ上げてきて、イエスの体をわなわなと震わせるのであった。部屋の外でこれを盗み聞きしていたトマスが部屋に入ってきた。父がとめるのを無視して、興奮しながら早口で言った。

 「この恥知らずめ お前のおかげで家中が滅茶苦茶にされちまったんだ。お前のいやらしい台詞(セリフ)は誰かさんの受け売りにきまっているわい。あの小汚い乞食や札付きのごろつきと付き合っているからこうなるんだ。おれたちは町の人から仕事をもらってメシの種にありついているんだ。

みんなおまえのことを知ったら、おれたちはメシの食い上げだ、その上このナザレからたたき出されちまうさ」 トマスが息急(いきせき)切ってここまで怒鳴りちらすと、まるで犬同士がキャンキャン吠えたような勢いで、ヤコブが怒鳴り始めた。

 「あんたは三週間も安息日をさぼって、山に行き、会堂に行かなかったんだよ」 すかさずイエスは言った。

 「神様は、山の頂上と会堂と、どちらに近くおられると思うのか? はっきり言っておくが、僕はいつも山の高い処におられることを体験しているんだ。会堂にはいつもおられるとは限らないんだ。

神様はね、日の出の静けさの中におられるんだよ。聖霊は野の百合のような静けさの中に注がれ、銀色に輝く湖の上を渡ってこられ、ギルボアの連山からも、カルメル山の白雪からも、ガリラヤの谷からも、高い青空からもやってこられるんだ。神様は、夜明けとともに、静かな所で深い交わりを与えて下さるんだ。

神様と全くひとつになる時は、人から離れていなければできないんだよ」 ヤコブとトマスは同時に口を開こうとしたので父ヨセフは手で彼らを黙らせ、二人の弟の訴えを取り上げるつもりで言った。

 「イエスや、私は、お前が家をほったらかしにしてどこへ行こうが、かまいやしない。大目に見てきたつもりだが、かえってそれがよくなかったようだ。結局、弟たちを困らせる結果になってしまったのだ。お前は病気の老婆を救うために小枝を拾い集め、安息日を破ったというが、どうして安息日以外の週日にそれをやらなかったのかい。

こないだなんか、弟たちが一生けんめい働いていたのに、二日間も山を歩きまわっていたそうではないか。一体それはどういうわけなんだ」

 「僕の仕事は一応義務を果たしているつもりです。ノコのめたてをしたりして」  しかしヨセフはイエスの言い分には耳をかさず、イエスがどんなに怠け者であるかを責め立て、弟たちの精勤ぶりを褒めるのであった。

しかし火を吐くような熱弁をふるうイエスの前では、やかましいトマスでさえ自分の言いたいことを喋ることができなくなってしまった。

イエスは続けて語り続けた。トマスに言った。

 「直ぐにくさってしまう此の世の糧のために日々労するものは永遠の生命を保証する〝天の糧〟を失ってしまうんだよ お前はこの町で、腹を満たす食物を得ようとしているが、僕はあの山の上で、神様からの食物を得ようとしているんだ。トマスよ、よく聞きなさい 僕はお前の心の中に記されている筋書きがちゃんとわかっているんだ。

お前は一日の稼ぎでは満足できず、一枚一枚銀貨(コイン)を貯え、将来職人の頭になって、エルサレムで旗揚げしようと計画をしているようだ。そう、ヤコブもだ。お前は、それこそ見当違いな慾のために働いているようだ。

お前もトマスと同じようにこつこつと小金を貯めてエルサレムに行き、神殿の中に住みついて長い祈りをささげ、沢山の献金をしたいと計画しているようだ。お前はヘブル語を暗承しただけで、ちっとも聖書の内容を理解していないのだ。

祈りだって同じだ。成文祈禱(他人が作った祈りを文章にしてあるもの)を暗記してただの機械的にとなえているだけで、ちっとも心の底から祈ってやしないんだ。

神殿という聖なる処に行かなければ至高なる神様に近づくことができないのかい?  神様を神殿の中に閉じ込められるとでも思っているのかい? 山の上には来られないというのかい? ガリラヤの野辺ではたやすくお逢いできないというのかい? 湖畔もかい? 〝平和〟と〝静けさ〟があればどこにでも、神様に通じる道があるんだよ」

 ヤコブはがっくりと頭を垂れ、恥ずかして身が縮む思いがした。イエスが自分の心をすべて読んでいたからである。しかしトマスはピンと来なかった。自分の慾にとらわれていたからである。それでなおもイエスの悪口を言い出した。

 「お前はなまけものだ、ただ自分の楽しみだけを追っかけまわしているだけじゃないか」
 イエスは悲しそうに弟を眺めながら言った。

 「おなじ母の胎から生まれ、しかも一歳しかちがわないトマスよ、なぜ同じ幻を見ることができないんだ。情けないことだ。僕に逆らってどんな得があるんだ。僕に答えてごらん、理性は肉体より勝っているんではないのか? 生命は労働より価値があるんではないのか」 トマスはうす笑いをしながら言った。

 「そんな愚にもつかぬ謎に答えられるかよ、馬鹿馬鹿しい。おれはお前みたいなへそまがりな生き方はまっぴらごめんだぜ。父さんがおれをとるか、おまえをとるか父さんに選んでもらおうじゃないか。もうお前となんか同じ屋根の下で仕事をやるもんか」

 トマスはこんな捨てぜりふを残して戸口に立ち、サンダルのほこりをはたき落としてから家から出て行った。彼はナザレの律法学者のところへ向かったのである。


 
   44  父とは誰か

 ある晩のこと、月が煌々(こうこう)と照らす頃、ナザレの中心にある井戸のまわりに若者が集まってきた。一日の仕事を終えてから生き生きするものを求めてやってきた。彼らはグループ毎に集まって話し合っていた。イエスがサークルを移動しながらみんなの話に耳をかたむけていた。

 農夫のグループでは、鋤(すき)や種の植えつけなどが話題となっていた。牛飼いたちは、牛や草原のこと、あるいは荷運びの運賃のことを話し合っていた。葡萄畑の栽培をしている青年は、ぶどうの気まぐれなこと、ぶどうの収穫、ぶどう酒づくりのことを話していた。ある者は折角の稔りを邪魔された害虫のことや果実の減収のことをぼやいていた。

オリーブ畑を持っている者は、樹木に関する豊かな知識を披露し、鍛冶屋はかまどの温度のこと、陶工は、土のこね方や焼き物の形のことを話していた。

 そこに漁師たちがやってきた。彼らも古くなった舟や穴だらけの網のことをぶつぶつ言いながら、来年にはいいことがあるかも知れないなどと話し合っていた。昔は大漁で船が沈まんばかりの魚を売って、かなりの収入があった
ものだが、今では漁師の取り分が少なく、魚問屋に売買をまかせているという。

職人たちがめいめい自分たちのことを話している間、イエスは黙って彼らに耳をかたむけているのであった。このサークルの輪が広がって、誰言うともなくナザレにやってくる旅人たちも井戸のまわりにやってくるようになった。旅人たちは自分の故郷のことや、ローマ軍の戦争、外国の町々の風俗などを語っていた。

 そんな訳で、偉大な霊力の持ち主であるイエスにとっては願ってもない情報を得ることができた。イエスの唇は、閉じられたままではおかなかった。集まってきた若者たちに、それは実に機知に農む譬話をして聞かせるのであった。

マリヤ・クローパスの息子たち、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダなどもイエスの話がおもしろいので、夜の会合には欠かさず顔を出すようになった。イエスは、鳥や獣や花など身近なものを通して神様のことを説明し、争いのたえない此の世界に関する譬話を語るのであった。

 マリヤ・クローパスの息子たちは全く夢中になり毎晩出席した。賢い農夫や職人と愚かな農夫や職人の見分け方とか、種まきの譬話、金持ちと貧乏人、乞食、孤児、多くの家畜を持っている人等々、実に豊富な話が沢山とび出すのであった。そうこうしているうちに、この噂が若者たちの間に広がり、おしかける人数も激増し、一体誰が来ているのかわからないほどになっていた。

 さて、イエスが弟たちから悪しざまに言われた日の夜、いつものように重い気持ちで井戸のそばにやってきた。その夜には、まさか魚問屋ハレイムが来ているとは全く知らなかった。ハレイムがイエスに質問した。

 「ナザレの丘の上で、夜明けにあなたの前に現れる御方がいると聞いていますが、その方はどなたでしょうか?」イエスは一瞬調子はずれの質問がとび出したのでためらったが、即座に答えた。

 「私の天のお父様です。山に居るときには私の近くにいらっしゃるのです。町にいるときよりも一層身近にいて下さるのです。本当に天のお父様とは静かなところでお逢いできるのです。その御蔭で沢山のことを教わり、生き生きとさせてもらえるのです」

 「あなたは、天のお父様のおっしゃった通りに実行していますか?」
 「はい、私はいつでも神様の戒めを守り、愛のうちに住んでおります」

 驚いたことに、またもやそこにナザレの律法学者が来ており、ハレイムが続けて質問するのを押しとどめて言った。
 「その父はどこに居るのじゃ?」

 「父は私の中に居られます。私も父のうちに居ります。此の世の人々はその父を御存知ありません。しかしいずれ多くの人がこの静かな山の中で天の御父の知恵を探しにやってくるでしょう。そして私が御父と出逢ったように、彼らも天の御父を見いだすようになるでしょう」

 イエスは、まるで夢みる者のように話していた。天の幻が彼の魂を満たし、神の平和が彼を覆っていたからである。しかし彼の足元には二人の狡賢(ずる)い男が蛇のように這いずり回っているのに気がつかなかった。イエスはなおも言葉を続けて天の御父に関する秘密を語るのであった。

 
   45  弟トマスの家出

 ヨセフとマリヤは暗い部屋の中でお互いの手をとりながら話し合っていた。話はもっぱら過ぎ去った若い頃のことで、子供がまだ与えられず、病気で苦しめられなかった時代のことであった。ひとしきり話した後で、突然ヨセフは,自分によく似ている息子トマスを呼んで言った。

 「イエスはきっと羊飼いにでもなるだろうよ。このあいだもそう言っていたからね。イエスは家にいつくような子ではなさそうだ」 マリヤがすかさず口をはさんだ。

 「そんなことは許しませんよ。最初に生まれた子を青年になるまでは我が家で育てなくちゃ。トマスさえ寛大であれば、イエスだって家に戻ってくるわよ」

 「おれは絶対許さない」 とヨセフは怒鳴った。マリヤは続けて言った。
 「たった一人の息子でも家から追い出されたなんて思われたくないわよ 家は子供たちにとって巣のようなものでしょう。そんなことをされたら、死ぬまで傷つくじゃないの


 「イエスは他処へ行けばいいんだよ」 ヨセフはベッドの横に立てかけてある杖で床の上を叩きながら大声をはりあげた。マリヤも負けていなかった。

 「私たちはみんなひとつになって此の屋根の下で暮らすのよ。イエスがいなければ、私たちは真二つに割れてしまうのよ そんなこと許せるもんですか」 マリヤは延々とまくしたて、ヨセフに迫るのであった。マリヤの話が終わる頃にはヨセフの心もおだやかになり、イエスを呼んで言った。

 「お前はたしか羊飼いになりたいと言ってたね。私は今ではお前のやりたいことをさせてやろうと思うんだが」

 「お父さん、もうあの話は済んでしまいました。ベタニヤの若者がきまってしまいました。もう空きがないんです。だから僕は家にいて仕事をすることにしたんです」


 その日の夜、イエスはある人たちから耳よりの噂を聞いた。井戸のそばでイエスの話をきいていた若者たちが、悪い習慣を捨て、とても善い生活を始めたという噂であった。イエスはうれしかった。彼らは、天の御父によって導かれた最初の果実であったからである。

マリヤも、イエスが家にとどまることを知ってとても喜んだ。マリヤは夫にたのんでイエスに忠告した。

 「息子イエスよ、もう放蕩は止めなさい。もっと賢くなって弟たちのように働きなさい。私が平和の祈りをしている間、お前は炉辺で休んでおればよいのだ」


 ヨセフはマリヤの意向を叶えてやったので、次にトマスを呼ぶように言った。ところがトマスの靴はあったが彼の腰には旅支度が出来上がっていた。大工道具の一式が入っている荷物が床の上に用意されていた。ヨセフはひとことも語らずに、彼の手をとり、トマスの顔を見つめた。

年齢(とし)に似合わず髪は長く真っ黒で、肩幅が広くがっちりとして、まるで樫の木のようであった。ヨセフは言った。

 「お前は私にとって長男のように思えてならんのだ。お前を誰よりも愛し信頼しているよ」 トマスが父に言った。

 「お父さん、僕はこの家の職場に居残って、母さんや妹のために働きたかったのです」
 「わたしの職場は永久にお前たちのためにあるんだぞ。体を休める処もな」 そこまでヨセフが言いかけたとき、トマスはそれを遮って言った。

 「でも僕は出て行くんだ テベリヤ街道が僕を待っているんだ」 ヨセフは叫んだ。
 「やめろ!  やめろ

 「お父さん、あなたがこうしたんじゃありませんか」 この若い大工は荷物をとりあげて入り口の方へ向かった。彼はイエスの方をふり向いて、まるで毒蛇のようなひどい捨て台詞を吐いた。

 「おやじの家には、もうおれとおめえの居場所はねえんだよ おれたちは他人同然で、一緒に住める間柄じゃねえんだぜ」

 イエスは何も言わなかった。トマスの顔をじっと見すえていたが、トマスは目を伏せながら、そそくさと門から出て行った。

 
   46  ねじ曲げられた出生の秘密

 その後トマスからは何の消息もなかった。ヨセフは一日中愛する息子を失ったことを嘆いていた。イエスや三男のヤコブは腕が悪く、双子の兄弟セツとユダはまだ幼かったので、誰も大工として一人前の働きができる者がいなかった。ヨセフは弱音を吐き、乞食にでもなりたいと喚くのであった。

マリヤは嵐で折られたような小枝のようにもみくしゃにされていた。夫は一日中マリヤに当たり散らした。イエスは母を慰めながら言った。

 「明日のことは何ひとつ心配しないでください。雀を見てごらんなさい。彼らは軒の上にとまって元気に暮らしているではありませんか。種を蒔くこともせず、収穫を刈り取る作業もいたしません。今日一日に必要なものだけを集めてくるんです。私たちも鳥や木や花のように、すべてを天の御父さまにおまかせするんです。

天の御父は決してお見捨てになりませんからね
」 これ以上イエスは語ることができなかった。ヨセフは大声でイエスに、だまれ、と命令したからである。

 夕暮れになって灯がともされる頃になってもヨセフの声は嵐のように吹き荒れた。すっかり怯えてしまったマリヤは、入口の戸に鍵もかけず、誰かが訪ねて来るのを待っていた。突然ナザレの律法学者とトマスが入ってきた。トマスは偉そうな口調で母とイエスに、部屋から外へ出ろ、と命令し、父の居る所へ律法学者を案内した。

長い間二人はヨセフの部屋にいた。マリヤは悲しい思いで静かに見守っていた。彼女は自分が怯えていることに気付いていなかった。昔、食べるものがなくなって、鬼のような女ミリアムの戸口の前に立ち、乞食をしていた頃の辛い時代が去ってから長い歳月が流れたからであろう。

暫くして律法学者と若者が何かささやきながら庭の方へ行った。トマスだけが戻ってきて入り口に鍵をかけ、イエスに向かって命令した。

 「お父さんの処へ行きな お前に言いたいことがあるってさ」 マリヤも一緒に行こうとしたが、トマスが母の肩を両手でおさえながら居間の方に引き戻して言った。

 「だめだよ母さん、お父さんがイエスに言おうとしていることは、女の耳には入れられれないんだよ」 こう言ってトマスはその部屋に鍵をかけ、母をその中に閉じ込めてしまった。

その部屋には妹が寝ていた。母は冷静に苦痛を受けとめ、数をかぞえながら、ゆっくり歩いたり、壁に映る自分の影の長さを測ったりしていた。彼女は余りの恐ろしさに、口にする言葉もなく、お祈りすることもできなくなっていた。


 イエスが小さなヨセフの部屋に立っていると、ヨセフはまるで他人のような目付きでイエスを見ながら言った。

 「お前は大変な悪事を働いてくれたね。それがどんな結果になるか、わかっているのか?」

 「一体僕がどんな悪事を働いたというんですか?」
 
 「とに角、私の話を聞きなさい。私が昔お前の母さんと結婚しようとしていた頃、母さんはすでに、お腹に子供ができていたんだ。ナザレにいた質の悪い女共がそれを言いふらしたので、ある人は、いっそのこと公開してしまったら、と忠告した。しかし私は彼女を見知らぬ所に連れていって、其処でお産をさせたんだ。それがお前だったのさ。

当時は、これでもちょっとした腕前の大工としてナザレ中に聞こえていたので、本当はナザレに帰ってきてメシの種にありつきたかったのだ。でもこんな事情では直ぐに帰れず、噂の熱(ほとぼり)が冷めるのをじっと待っていたんだ。

善良なおかみさん連中が亭主に口止めさせて、私の仲間には知られないようにしてくれてね。時というのは、眠りのようなもので、時がたつに連れてみんなの記憶から汚らわしい噂が消えていったので、遂にナザレに帰ってきて平和に暮らせるようになったのだ。ところがだ、お前の馬鹿なお喋りが眠れる森の蛇をさまさせてしまったんだ」 イエスは叫んだ。

 「僕の出生について何ひとつ知らされていないのに、どうして僕が罪を犯すことになったんですか?」

 「それで、金持ちのハレイムのやつが、近所中に言いふらしているんだそうだ。お前が丘の上で、お前のお父さんと一緒に歩いていることを、井戸のまわりに集まっていた多くの若者に堂々と話したというではないか。それが大変な醜聞にふくれ上がり、お前がナザレ中の若者を悪魔の道にひきずりこもうとしていると言うんだ」イエスは反論して言った。

 「僕は地上の父親のことはなにも言ってはおりません。僕は至高な気高い天の神様のことを御父と言っていたのです。天の父なる神様が静かな丘の上に居る私のところにあらわれて、将来僕が果たさねばならない大切な働きについて話し合ったと言ったのです。

そのような天の御父の尊い御言葉をナザレの若者に分け与えることがどうして大罪にあたるんですか? 律法学者やハレイムは僕の言うことをねじまげて、僕をこの町から追い出そうとしているんです」

 「お前はな、もうナザレには住めなくなったんだ」

 「そんなことはありません。僕はここに居てあの偽善者たちの化けの皮をひんむいてやりたいのです」

 「そんなことはどうでもよいのだ。それよりお前の母さんのためを思うなら、今直ぐにナザレからこっそり出て行かねばならないんだ。ハレイムのやつが、母さんの恥をさらイだしてしまったんだよ!!」 あまりの恐怖に襲われたヨセフはもうイエスの言うことが聞けなくなり、ただ、イエスに夜明け頃この町から出てゆくことを命じるだけであった。イエスは静かに答えていった。

 「ではもう今までの兄弟は赤の他人となり、私の母親も他人となることをお望みなんですね」 ヨセフは大声で叫んだ。

 「ああ、そうだとも。でもそれは、暫くの間だけなんだ。多分時が来たらまた戻ってきてお前を歓迎しようと言ってるんだ。でもこんな恥さらしの噂がかき消えるまでは絶対に帰ってきてはならんぞ!!

 「そこまでおっしゃるなら僕は直ぐナザレから出て行って、他人の中に僕の兄弟や母を見つけることにいたします!!

 イエスは素早く戸口のところにかけよった。そして暫くそこに立ち止っていた。背後からきっと、父の最後の言葉か祝福が与えられるかもしれないと思った。だが何にも与えられなかった。母の部屋を通る時、母から熱っぽく聞かれたが何一つ答えなかった。ただ唇をあわせながら母の平安を祈り、誰も居ない部屋を探して横になった。やがてトマスが入ってきて彼のそばに横になったが、二人はひとことも口をきかなかった。

まだ鶏が鳴く前の薄暗い中をイエスが家から出て行くのをトマスだけが眺めていた。彼は細い道を、暁の靄の中に姿を消していった。
 
 
 
   47  クローパス夫妻イエスを匿(かく)まう

 その朝、ナザレの腹黒い連中は、イエスが町から出て行ったことを知った。それから1週間近く、イエスのことで持ちきりだった。特に律法学者、ハレイム、教師らが口をそろえて彼の出生の秘密をばらまいた。

もちろん、手がつけられぬ程ねじまげて語られた。彼らはイエスの弟たちのことを褒めそやした。良い父親を持ち、仕事に精を出す働きぶりは、ナザレの模範であると言いふらした。イエスのことを悪く言うことによって、この兄弟は町の人々の人気をかい、殊にトマスは有頂天になっていた。

 マリヤだけが深い悲しみに沈み、ただ黙々と耐え抜いた。ヨセフは、あの晩律法学者が部屋に入ってきて何を言ったのかは話さなかった。マリヤは二度とものを言わなくなった。彼女は何か悪いことが起こりそうな予感に怯えていた。

目の前に昔の忌まわしい光景が横切った。旅館でキレアスにいじめられたこと、求婚された頃のこと、最初の子供を生んだ直後の不幸な日々のこと、どれもこれもみな彼女の心を八つ裂きにするものばかりで、もうイエスを探し出そうという気力も、外に出て働く意欲もみんな失くしてしまった。


 イエスが家を出てから七日目になると、彼女はナザレをぬけ出して、クローパスの家を訪ねた。マリヤ・クローパスの注文の衣服が織りあがったからである。真から善良なマリヤ・クローパスを相手に次から次へと悲しい出来事を話した。彼女は本当に思いやりの深い女であったので、どんな野性の鳥でも彼女にはなついてしまうのだった。

慈愛に満ちた心を持ってマリヤの語ることを聞いた。どんなときでもマリヤ・クローパスは、怯えているマリヤにとって慰めであった。

 「イエスは此処に居るのよ、マリヤ 彼が家出してからずっとよ」 母マリヤはびっくりして大声で叫んだ。しかしマリヤは、まるで真昼の太陽で萎んでしまった花のようにうなだれていた。二人は長い間黙ったまま座っていた。マリヤは打ちのめされ、不吉な幻だけが去来していた。マリヤは何をしてよいのか全く分からなくなってしまった。突然彼女は叫び出した。

 「私の夫と四人の息子は結束してしまい、私の最初の息子が孤立してしまったのよ 彼らの間には決定的な溝ができてしまったわ。だから私は、イエスの運命をとるか、ヨセフの方に行くか、どちらかを選ばなくてはならなくなったの」 マリヤ・クローパスが答えた。

 「私は堂々とイエスの味方になるわよ 彼がどんなひどい目にあっても、私の家をいつでも提供するわ。だけど主人が言うのよ。きっと彼の敵は多くの人を扇動して彼を石うちにするってね。だからあと二日間はイエスを家に匿っておくの。明後日、クローパスが仕事でエルサレムに行くから、イエスを連れてってもらうのよ。

そうすればあなたはいつでもイエスに逢えるでしょう? こんな処でひどい目にあわなくてすむわよ
」 マリヤが急に声を震わせて言った。

 「私こわい イエスの顔をまともに見れないわ。きっと私を責めるんじゃないかしら」

 「なにを言っているのよ。あなたは。あの天使ガブリエルの約束をすっかり忘れてしまったの? あの時、あなたは救世主を生むって預言の御言葉をもらったことを覚えていないの? 一人で山の中を歩き、神様と交わった時のことを思いだしてごらんなさいよ

 「私には、あの夢から悲劇が始まったのよ。でもあのときは、とてもうれしい不思議な体験だったの。ああ もうイエスと顔を合わせるのが怖いわ、私行かなくちゃ。もしトマスやセツと一緒に祭りにでかけていって、エルサレムで逢えればね、今はやめておくわ」

 「イエスはね、全く別の世界に行ってしまうのよ。見ず知らずの人に雇ってもらうんだから。そりゃ寂しいと思うけど。だから今息子の頭に手をおいて祝福し、顔に接吻くらいしてあげてもいいんじゃないの」 マリヤは頭で頷いた。マリヤはただ接吻するだけで、急いで我が家へ帰って行った。


   48  汚れた町の塵を足から払い落とす時

 ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ(クローパスの息子)は、ナザレの連中の噂をイエスに伝えた。毎晩イエスの話を聞いて改心した若者たちが全く散ってしまったという情報である。周囲の圧力に屈服して、若い先生イエスを裏切ったということである。しかも律法学者、魚問屋ハレイム、教師、数人のお喋り女によってばらまかれたイエスの中傷によるものであった。

マリヤ・クローパスの息子たちは、彼らの従兄弟を歓迎しイエスに尽した。彼らはイエスを兄弟として迎えたのである。そんな暖かい心尽しを受けても、なおイエスの心を襲った〝ふさいだ(メランコリ)気持ち〟は晴れなかった。

最近のイエスは、しょぼんとして、すっかり精気を失っていた。マリヤ・クローパスは、きっと不本意な旅をして商人につかわれるのがとてもいやのだろうと察していた。実のところ、彼は悪魔的な考えがはびこっている物質的世界から逃げ出したかった。イエスはマリヤ・クローパスに語った。

 「此の世は真理の御霊(みたま)を受けることはできません。此の世はそれを見たこともなく、それを全く知らないからです。これからは〝はい〟と〝いいえ〟しか言わないことにします。ですからもう二度と天の御父のことは語りません」 マリヤ・クローパスは賢明にも常に穏やかにふるまい、へたな慰めの言葉をかけなかった。

彼女はイエスの額に手を当てたり、みつめたり、彼と心が一つになるように努め、彼の悲しみを分けあったのである。彼女は夫に言った。

 「思春期に体験する悲しみほど深く、大きいものはないわね。ねえ、あなた、私とても心配なんだけど、やっぱり彼をエレサレムに連れて行かないでちょうだい。商人にもまれ、彼はまた傷つけられてしまうわ。こんなときには本当の母親のようにいたわってあげなくっちゃね」

 「彼だってすぐ一人前になり、不屈な人間になれるよ こんな所で甘やかさず自立させてみたらどうかね。うちの息子たちにもよくないじゃないか」 マリヤ・クローパスはこの件については夫に反対できないことを知っていた。

そこで彼女はイエスに夫の意思を伝えた。イエスは何にも云わず、ただ頭をうなだれているだけであった。


 突然けたたましい鳥の声のような口笛がきこえてきた。段々と大きくなり、人間の歌声のようになり、家の前でぴたりと止まり戸と叩いた。部屋の中にひそんでいたイエスは、急に外へ飛び出していった。イエスはその口笛や歌声を知っていたからである。なんと、ヘリが家に入ってきて荷物を床の上におろし、イエスの手をとった。

 「どうしてここに居ることを知ってたの? 前に別れるとき三年て言ってたのに、あれからまだ二年しかたっていないじゃないか」

 「お前がわしを呼んだんだ」
 「だって僕の声があんな遠い砂漠に届く筈ないじゃないか」

 「毎晩お前はわしのことを呼び続けておったね。わしが火のそばに座ると必ずお前の呼ぶ声がきこえてくるんじゃ。

初めのうちは余り気にもしなかったんだが、三度目からはもうのっぴきならぬ祈りの声に変っているではないか。それで遥か彼方から旅を続け、ここにきたのじゃよ。随分疲れたが、お前を見つけ出せて本当によかった」

 「今度こそ砂漠に連れていってくれるの?」
 「そうともさ、今度こそわしと一緒についてくるがいい。だが、一体全体何事が起ったのかい。先ずそれを聞かせてくれ」

 「僕、今は話せないんだ」 イエスは溜息をつきながら言った。
 「わしが汚れた町の塵を足から払い落す時は恐ろしかった。エホバの神への道が見えなかったからじゃ。わしが砂漠に行って、浮浪者の仲間と生活するときは楽しかった。エホバの神への道が煌々(こうこう)と見えていたからじゃ」





   49  灼熱地獄の旅(アラビアの砂漠)
  
 ヘリのすすめで、イエスは小さな財布に数枚の銀貨を用意した。旅をするにあたって、一本の杖と、着古した上着一枚と二日分の食糧をもって出発した。

 さて二人の旅人がシリヤの町を通り過ぎた頃、ヘリの知恵が段々とイエスに解るようになってきた。まずは、何と言ってもイエスの足から血がふき出してきて夕方には精根尽きて卒倒してしまったのである。

ヘリは砂漠に入る入り口付近の旅籠で彼をねかせ、彼が元気になるのを待った。翌朝、イエスは元気をとりもどしたが、足の方はすっかりむくんでいた。それでヘリは一枚の銀貨をとり出して驢馬を買い求め、イエスを驢馬に乗せた。

ヘリはまた袋の中に棗椰子(なつめやし)の実や蝗(いなご)を詰め、飲み水を瓶に入れ、バターミルクの入った容器を驢馬の鞍にくくりつけた。これだけの用意ができたので、いよいよ〝砂漠の犬〟とか〝廃墟〟という名で知られている 『流浪(さすらい)の部族』を探しに二人は出発した。

 流浪の部族は、ヘリが言っているように、一ヶ所で長い間とどまるようなことはなかった。草の多い牧草地を見つけては野生動物を捕獲し、その肉を食べていた。季節はとても良いときで、日中は暖かく、夜は寒かった。イエスは、陽が沈むと上着を着こんでうれしがっていた。彼はまた驢馬の背中に敷かれた毛織物が気に入った。

 たら腹夕食をとると昼間の疲れが出てきてその場で寝込んでしまった。しかし砂が冷えてくると、一時間もたたないうちに寒さで震え上がってしまい、目があいてしまうのであった。イエスはもう我慢ができなくなって、彼と一緒にくっついて寝ているへりをゆさぶりおこした。ヘリは目をさまして言った。


 「砂を掘って寝ないと、お前へは病気になっちまうな。ここは温暖なガリラヤとはちがうからすぐまいっちまうぜ」 ヘリとイエスは五〇センチほどの穴を掘り、二人はその中でぐっすり寝た。ヘリは優しい母親のように彼を労わった。彼の休むところには毛織物を敷いてやったり、バターミルクを飲ませたりするのであった。

 このようにして砂漠での第一夜は何事もなく過ぎ去った。ヘリは彼から片時も目を離さず、注意深く体の健康に気を配っていた。彼は次第に朝夕にやってくる烈しい温度差に耐えられるようになってきた。

 砂漠は一見、町に住む人々にとっては全く無情な所のように思われている。食物も飲み物もなく、見た目には荒涼たる砂の荒野で、キラキラと砂が光り、砂の山があり、あるいは塔もあり、砂の欄干が続き、所々に岩の断崖があり、神の創造以来全く変化がなかったようにそそり立っていて、気の弱い旅人には本当にすさまずい光景として迫ってくるのである。

しかし此処に慣れ親しんでくると反対に理性の働きを高め、人間の心を造り主(神)に一層近づける役割を果たしてくれるのであるから不思議なものである。ひとときの間、神はイエスに以前よりも一層近くにおられ、全くひとつになり、偉大にして永遠なる平和の内に一体となっておられた。

 この偉大なる神との合一こそイエスに絶大な霊力を与え、後になって目覚ましい奇蹟を行い、絶えがたい苦しみに耐え、珠玉のような数々の言葉となっていくのである。イエスの示した喜びや苦しみの鋭い感覚は、奇しくも荒野ですごした第一週に養われていたのである。

 しかしながら砂漠は果てしなく広がっていて、一向に目指す部族の手がかりは掴めなかった。遂に驢馬がへばってしまった。この驢馬は野性でない故に、あまり丈夫ではなかった。

ある暑い日に、驢馬はとうとう地上に倒れてしまった。もうこれ以上生きられないことを察知したヘリは、ナイフをとり出し、驢馬の心臓を刺して楽にしてやった。そのときのへりはいつもと違って喋りまくった。

 「わしは何にも恐ろしいものはないんだ。わしは、水もなく、生き物がいない荒涼たる荒野や砂漠にいても平ちゃらなんだ。けれどもわしはお前がこわくなってきたのじゃ。イエスよ、お前は今でも穏やかな性格を保ち、雨水をいっぱい吸い込んだガリラヤの牧草地のような豊かさを失っていない。何と不思議なことじゃろう」 イエスは答えて言った。

 「僕は天の御父に祈っているから、耐える力を与えて来下さるんだよ、へり」

 二人はなおも先に進んで行った。今までのように休息をとることができなくなっていた。歩いているところがまるで地獄のようであった。焼け付く砂の上は、灼熱地獄であった。それでも先へ先へと喘ぐようにつき進んで行った。

遂にイスは砂上に倒れ、苦しい息づかいとなり、へりに水を飲ませて欲しいと言った。善良なヘリは、明日のことは考えなかった。今この水を彼に与えなければ、イエスの生命は危ないと思った。しかし、もし流浪の部族に出逢えなかったら・・・・・・イエスは完全に死んでしまうであろう。


 
   50  地獄で仏に出逢う

 イエスの体がかすかに動いた。ヘリは急いで彼のもとに走り寄った。唇はどす黒く、目は窪み、頬はこけていた。低い弱々しい声がした。

 「僕にかまわず急いで先へ進んでください。僕はもう無用の重荷ですから・・・・・・」

 「とんでもない。わしはお前を見捨てやしないぞ。お前の額には、高貴な運命が印されているんだ。灼熱の毒蛇もお前の生命を吞み込むことはできないだろうよ。お前の体をまるめてボール球にし、苦しみ悶えているお前の魂と一緒に地獄に投げ込んでしまえ!!」 ヘリは立ち上がって、怒りで全身を震わせ、彼の太い脚と拳をふり上げて、東から
登ってきた太陽に向かって戦いを挑むのであった。

 「生ける神の御加護により、おれはこの子をお前からもぎとってやる おれの頭上の冠にかけて誓ってやる お前の禿頭(はげあたま)をひっかんで無情の苦しみを投げ飛ばし、炎の舌をやっつるけるんだ!!」 へりは何やら沢山の呪文を次から次へと口走った。

言いたいだけ言ってしまうと、彼の怒りは静まり、気分も爽快となった。でもイエスの方は身動き一つしないで呻きながら言った。

 「空が僕を押しつぶしてしまう。ヘリ、ヘリ、まわりが真っ暗だよ

 ヘリは彼の弱々しい訴えにはひとことも答えず、遠くに生えている草むらの方へ歩いて行った。彼はやわらかな砂山の傾斜面にさしかかって、身ぶるいするほど驚いた。よく見ると小さい足跡が残っているではないか。

風に吹き飛ばされる砂は、足跡をけしてしまうのであるが、目の前に何と人間と駱駝の通った足跡がはっきりと残っているではないか。ヘリは無我夢中でその足跡を辿って進んで行った。真昼近くになって、彼は平地から盛り上がっている砂利の先端が見えるところに辿りついた。そのあたりから、ちらほらと草が生い茂り、土の表面が隠れていた。

 焼けつくような陽光を浴びながら一時間も歩かないうちに彼の声はかすれ、遂に荒野で倒れてしまった。彼はじっとしているわけにはいかなかった。イエスの命が彼にかかっていたからである。彼の命を救うためにはどうしても砂漠の奥地に住んでいる 『流浪の部族』 を探し出さねばならなかった。

 風が一瞬やんだかと思うと、突然ある音がきこえてきた。人間ではない何ものかが駆けずり回っていた。ヘリは草むらの中に身をひそめ、耳を大地に押し付けながら様子をうかがっていた。突然、叫び声が静けさを破った。

それは、ガゼルの一群が草むらからとび出して傾斜面を駆け下りて行き、東へ西へと散って行った。(ガゼルは、レイヨウ(かもしか)の一種で、アフリカ、西アジアに産する小型で足の速い動物=訳者註)

 ガゼルの一群が通り過ぎてから、ヘリは地面の上に大の字になった。そのとき空中に槍がとんで行く音が聞こえ、動物の体が石の上にどさっと倒れる音がした。ハンター(狩人)の叫び声がして獲物の方へとんでいった。

間もなく数人の男たちが、笑ったり話し合いながらヘリのそばまでやってきた。彼らは獲物以外には目もくれなかった。近くまでやってきたときにヘリを見て、用心深く見守っていたが、彼らは盗賊ではなく、ヘリが血まなこになって探していた友人『流浪の部族』の仲間であった。

跳びあがらんばかりにうれしかった。彼らもヘリであることがわかり、有頂天になってへりを肩に載せ、ヘリの指示に従って死にかけていたイエスの所に運んでもらった。

 「早く行って下さい。イエスはもう死んでいるかもしれないが」と、ヘリは叫んだ。野生の男たちは答えた。

 「わかった、わかった、おれたちは全力で走っているんだよ」 彼らは野性のガゼルのように突っ走った。彼らには灼熱の太陽などはへいちゃらだった。疾風のようにイエスの所へ来て見ると、イエスは気絶していたがまだ息をしており、彼の霊は肉体を離れていなかった。

彼らは自分たちの息子でもあるかのように優しくイエスを担いで彼らのテントまで運びこみ、女たちに介抱させた。
 
 まる二日間苦しんだ後、安らかな眠りに入っていった。彼は遂に安らかに目を開き、薄明かりに光る砂漠のマントを見たのである。


 さて、『流浪の部族』 はアラビアからやってくる盗賊の群れを恐れていた。最近では、随分物持ちになっているそうである。砂漠の狼たちは、仔牛、山羊などを全部かっさらっていき、驢馬や家財道具まで持ち去っていくからであった。

だからヘリが血まなこになって彷徨っている時期には、わざと泥棒でさえよりつかない水無し地帯を選んで生活していたのである。盗賊もそんなところでは渇きのために忽ち死んでしまうことをよく知っていた。

ところがこの部族は、砂漠の民として古くから暮らしているので、神から教わった特別の知恵により、驚くべきことに、砂の中に隠されている宝物(水)を見つけることができるのであった。水は荒野に隠された宝物と呼ばれていた。

しかもこの人々だけが水無しの土地で水を探し当てることができた。〝水無しの土地〟とは、アラビアの中心にあって盗賊や旅人、さらに野獣からも恐れられている名称であった。この部族だけが砂漠の知恵を持っており、そこに住むことができたのである。

 部族の長(かしら)である〝ハブノー〟が言った。
 「へり 本当によく来れたな 天使がお前と一緒に歩いてくれたんだよ。この夏の真昼間に、この水無しの土地へ案内できるのは、天使だけだからね」



 
   51  失明の父

 この部族の中では、イエスはよそ者扱いされていた。彼の話すことが一風変わっていたからであった。それに彼らは町の者をひどく嫌っていた。時々彼らは市場に手造りの道具類や、駱駝の毛、壺、鉄製器などを売りに行くと、町の者から野次られたり軽蔑されたりした。

それでイエスも彼らが嫌っている町の住民の一人のように思われていたが、うわべでは愛想よく応対していた。イエスは〝神の旅人〟と呼ばれ、部族の長の食卓に座った。彼らの食事はとても貧弱で卑しいものであったが、この神の旅人に対しては、おいしいバターなど、とっときの栄養物が与えられた。

イエスはみんなと同じ食物、蝗(イナゴ)やなつめ椰子を食べたいと言ったので彼らを怒らせてしまった。ヘリはイエスに

 「お前は彼らに恥をかかせるのか」 と言いながら、彼らの行為を素直に受けるように教えた。イエスは何事もへりの言う通りに従った。

 三日目の夜になってから、ヘリはイエスに部族の規則(きまり)について説明した。

 「彼らはお客を一週間だけかくまうことになっている。一週間が過ぎたら、水筒に水を入れ、旅に必要なもの入れた袋を持たせ、神の御加護を祈りながら出発させるのだ。

しかし、お前が彼らのために、何か役立つものをもっていることが証明されたなら、彼らは居残ることに同意して部族の一人として迎えてくれるのだ。そこでお前はどうするかね。部族の一人として残ってもいいし、出て行ってもよいが」

 「僕はここに残っていたいんです。そして彼らの生活の知恵を全部吸収したいんです。そうしたら僕はそのお礼に、彼らのために尽します」 ヘリは言った。

 「そうか、それがよかろうな。しかし彼らは何かの特技か、霊的な力を要求するだろうがね」 さて、イエスは早速仕事場に連れていかれた。部族の者たちは、駱駝の鞍を木で作る仕事を与えた。粗末な道具しか無く、削りそこなった鞍は凸凹が多くて到底生きた驢馬の背中にはのせられなかった。木工作業は見事に失敗した。

次に鍛冶屋の仕事にまわされた。そこでは牧者が牛の飼料を運ぶ道具や女たちが薪を伐採する斧を作っていた。そこでもイエスの手伝いは必要ないと言われた。そんな訳で、部族の長は、イエスに部族の仲間にはなれないという宣告を下した。それで一週間以内にここを出て行くように言い渡された。

 ところがその頃になって、イエスはとても大切なことを発見していた。かなりの子供や若者が、強い太陽光線や不潔な蠅で目をやられ、失明していることに気がついた。そこでヘリと一緒に不毛な荒野を歩き回り、鳥が殆どく食いちらした裸山の裂け目の間に薬草が生えているのを見つけた。

この薬草をつんできて、これを鍋で煎じ、その汁を失明した人たちの目にぬった。次の朝になると瞼の上に鱗のような薄い膜ができており、膜がおちるとすっかり見えるようになっていた。彼らには信じられない奇蹟であった。救われた者たちが喜びの声をあげながら、イエスを肩の上にのせ、部族の長、ハブノーの処にやってきた。

 十二人の失明者がこの客人の手によって奇蹟的に救われたことを知ったハブノーは、わざと心を鬼にして彼らに言った。

 「これはあの少年に薬草の作りかたを教えたヘリの手柄だよ」

 ハブノーは、イエスを部族の仲間に加えたいと言っている十二人の要求をがんとして退けた。これは実に無慈悲な判決だった。一族を率いる指導者にとって、この暑い夏の日々には、乏しい食料と水は黄金よりも大切なものであった。余程の才能の持ち主でない限り同居は許されなかったのである。

 ハブノーのテントの中には、洗いたての羊毛のような真っ白い髭と頭髪をはやした老人が座っていた。額のしわは深く、かなりの高齢者であることが一目でわかった。昔は立派な顔立ちであったが、今では目が見えなくなり、暗い所でじっと座り続けていた。ハブノーがイエスに言った。

 「私の父があなたに大変興味を持っています。私が席をはずしますから、どうか父と話し合って下さい」 イエスは老人の足もとに座り、かさかさと木の葉がゆれるような声を聞き入っていた。

この老人はどうやら平和について語っているらしく、様々な質問をイエスになげかけるのであった。遂にイエスの口はゆるみ出した。イエスはナザレを出て以来、ナザレ人から悪しざまに言われてきた霊の働きや理性のことは、二度と口にすまいと決心していた。しかしこの失明した穏やかな老人は遂にイエスからことばを引き出したのである。

イエスは間もなく、農夫の話やガリラヤの葡萄畑やオリーブ畑の話を始めた。老人の心は大きな高まりを覚えた。彼の息子ハブノーが戻ってきたとき、老人は息子に訪ねて言った。

 「お前はこのお客様をどうするつもりかな?」
 「私は彼の家に帰そうと思っています。彼はわが部族には余り役立たない職人のようですからね」

 「この御客様をわしのそばにおいてくれないか。彼は私に黄金のような立派な話をしてくれたのじゃ。しかも彼の手がわしの体に触れると徐々に力が湧いてくるのじゃ、
不思議なことじゃ。本当に彼の話はすばらしい!! わしの僕として迎えたいのじゃが」

 ハブノーは父を喜ばせたいと望んだので、イエスを部族の長(かしら)のテントの中に住まわせることにした。日が経つにつれて、イエスはこの部族の隠された部分を知るようになった。彼らの短所と長所は、町の
人とは違っていた。ひどく荒れると、彼らはお互いを殴りあったり蹴ったりして烈しい気性をあらわすのである。

 ある晩のこと、イエスは鍛冶屋がパンを盗んだ泥棒に槍をふりまわして脅迫するのを見ていた。怒りのあまり彼はその男を殺してしまった。しかしこの鍛冶屋は優れた職人であったので、その行為は不問になった。

ハブノーはこの鍛冶屋が造った道具、草刈鎌、槍、斧などがよく売れることを承知していた。それでカインのように親族を殺害したにもかかわらず、無傷のまま不問となった。

 部族が流浪の途中で数日間の休みをとる夜には、音楽を奏で、メルディに合わせてとびまわり、異常な興奮状態になるのであった。奇声を発し妙なステップを踏んで踊るのである。ある者は女を求めて欲情をあらわにした。イエスはこのような邪悪なことは、ガリラヤでは見たことがなかった。

このように荒々しく、平気で罪を犯す連中ではあるが、この部族の人々の心に一片(ひとかけら)の悪意も見いだすことができなかった。彼らは卑しい言葉を口に出さず、イエスには親切で、彼を心から褒めたたえた。彼ほど歴史に詳しい者を知らないと言って驚嘆していたからである。その上彼は、多くの病人を癒し、女や子供たちには優しくふるまった。
 
 
   52  砂の上に書いた文字〝メシヤ〟

 流浪の部族は、イスラエル十二支族の子孫であったが、ユダヤ人の間では大変嫌われ、浮浪者と呼ばれていた。彼らは自由気儘に暮らしていたので一般の厳格なユダヤ人の目には汚らわしく思えた。彼らはモーセによって与えられた形式的な儀式や祈祷を守らなかった。


 失明した老人は、いつしかイエスに心を許すようになり、遂に今まで滅多に口にしなかった先祖のことについて話し出した。

 「わしはエルサレムで生まれた、れっきとしたユダヤ人で、しかもパリサイ派の家で育った。ところが此の地に移住した者は何もかも失くしてしまったようで本当に悲しんでおるのじゃ。祭りの日は守らず、祈りもせず、モーセの律法による潔めも全くやらないしまつじゃ


 イエスは、ゆっくりとした調子で答えた」

 「そんなことを悲しまなくてもよいんです。内面的なお恵みは、先ず神様から与えられ、その後で外面的に〝徴〟(しるし)として現れてくるものです。あなたの部族は断食や長たらしい祈りはささげませんが、とても気高い幻を持っておられます。悔いる心も持っているし、とても謙虚です。

それは多くの誇り高いパリサイ人でも足元にもおよびません。いやエルサレムにいるパリサイ人だけではありません。ガリラヤにいる律法学者や敬虔な人と言われている人たちにも及びません」 老人が言った。

 「わしは失明を理由に、あの連中が何をしているか、わざと知らないふりをしているのじゃよ。けれども彼らは憎み合ったり、色事に耽ったり、ろくなことしかしていないとハブノーが教えてくれるのじゃ」

 「たしかにそうかもしれません。でもそれだけではないようです。なかにはとても気高い幻を持った者がいることも事実です。僕がここに来た最初の頃ですが二人の男が喧嘩をして倒れてしまいました。二人とも激昂し、刃物で相手の胸を刺しあったのです。それからというものは、この二人はしょっちゅういがみ合っていました。僕は二人に言いました」

 「敵を愛するのです。あなたを害するものを祝福してあげなさい。そうすれば部族の長
ハブノーやみんなに神様の御恵みがあたえられるんですよ

 彼らは憮然として私をにらみつけていました。それから暗い表情で二人とも歩き出したのです。どんどん歩いているうちに最初の男は疲れてしまい、砂の上にねころんで眠ってしまいました。いがみ合っていた相棒は、この時ばかり寝ている男の水筒を盗んだのです。

水筒には彼が大事にとっておいた最後の飲み分しか入っていませんでした。夜になってから目をさました男は、自分のパンを相棒に分けてあげました。相棒は食糧を一つも持っていなかったからです。相棒はひったくるようにパンにかじりつきました。食べ終わった男は笑いながら言いました。

 「お前は馬鹿なお人好しだ」 それからまたパンをくれた男を殴りつけたのですが、殴られた男はそのまま寝込んでしまいました。夜になりとても寒くなりましたが、下着しか身につけていないこの男はすっかり風邪をひいてしまい、 明くる朝には熱を出してしまいました。そこに部族の者がやってきて、殴りつけた男に言いました。

<お前は我々の仲間にひどいことをしたもんだね>と言って軽蔑のかぎりをつくして彼をなじったのです。すると彼は突然人が変わったように、熱を出している男のそばに行き、彼に水を飲ませ、暖かい食べ物を作り、一生けんめい介抱したのです。

遂にこの二人は、敵だった二人は、お互いに愛し合うようになり、部族に大きな影響(平和)をもたらしたのです。

 ハブノーのお父さん 僕に答えてくれませんか? この二人は祭りや断食を守らず、長い祈りをしなかったからという理由で、最後の審判の日に裁かれるでしょうか? それとも私が知っている律法学者が、同じ審判の日に、彼の思いや言葉には一片の慈悲もなく、自分以下の者を軽蔑したり憎んだりした者が、モーセの定めた儀式や祈祷を忠実に守ったからといって神様の救いにあずかれるのでしょうか? さあ 僕に答えていただけませんか!!

 老人は微笑をたたえながら言った。

 「審判に日には、この二人の男が先に救いにあずかれるとも お前は大変な目利きのようじゃ。おねがいだから、あんたの本当の名前と正体をわしにあかしてくれないか。わしが思うに、きっとお前さんは、この悩める時代にイスラエルの光として再生してきた立派な預言者ではないのかね?」

 イエスは何にも答えなかった。そのかわり、手にしていた杖で砂(1)の上に字を書いた。しかしそこに居合わせたものは誰一人としてその名前を読める者はいなかった。その文字は、メシヤ(キリストの意)を意味する隠語であった。

 後になって、その文字を見た弟子は、二度とそれを口にすることも見ることもしなかった。その意味があまりにも恐ろしかったからである。

(註1)
当時は箱の中に砂を入れて、教師が砂の上に字を書き、生徒がその上をていねいになぞって字を覚えていた。従って推測ではあるが、イエスはこのとき砂の入った箱の中に字を書いたものと思われる。大事に保存されていたのであろう。(訳者註)

 


   53  感動の奇跡

 夏が終わろうとしている頃、この部族は盗賊に襲われた。多くの者が負傷し、二、三人の者が殺された。牛や驢馬も略奪された。その後食糧不足の時期に入り飢えに苦しめられた。しかし着るものや食べ物をすべて平等に分け合って危機を乗り越えるのであった。

 彼らは砂漠と町の接する地点に移住して、稼ぎの仕事を始めた。壺や鍋を作っては町の人に売るのである。みんな一生けんめいに働いた。そうこうしているうちに春がやってきて、再びアラビアの奥地へと帰っていくのである。彼らには砂漠が本当の我が家であったので大変うれしかった。


 失明の老人はイエスに自分の本心を打ち開け、深い悲しみに苦しんでいることを語った。

 「長い年月の間、暗黒に閉ざされ、孤独のどん底に突き落とされ、神を疑うようになりました。わたしはこんな年齢になっても、まだ失明をあきらめることができないんです。ひょっとしたら、日の出や日没の美しさ、荒野の絶景、勇敢な男たちの姿、女の愛らしさ、働く喜び、愛と談笑の歓びなどが見られるかもしれないってね。

でもこのような人生の豊かさや喜びも失明によってすべて奪われてしまいました。なんと苦しいことか、その言葉もありません。そんなことで、私は造り主であられる御方の慈悲というものを疑うようになり、神様はなんと惨い御方かと思うようになりました」 イエスは何度も説得するのであるが、老人の憂愁を払いのけることはできなかった。

それからというものは、イエスはみんなから離れ、一人で祈り、断食を始めた。今や彼は、再び癒しの霊力を呼び求める準備を開始したのである。

彼は、あの忌まわしい公衆の面前で、天の父よと口に出して祈ってから久しい間ひとことも天の御父のことは口を閉じて語らなかった。しかし今度だけは、砂漠の谷や禿山の頂上に立って、大声で〝天の父よ〟と叫び続けた。

 ある晩のこと、ヘリはイエスのあとを追い、大きな石の陰から彼を見守っていた。暫くすると声がして、イエスが一人しか居ないのに、二人の人影が見えた。二人はあちこちと歩き回っていた。ヘリは耳を長くして話し合っていることを聞き取ろうとしたが、なま温かい微風にさえぎられてよく聞き取れなかった。

そのうちイエスの方が仲間から離れ、足早に駆け出していった。夕暮れの陽光が見知らぬ人のまわりを包み、その方と光が溶けあったかと思うと人影が消えて光だけになってしまった。

ヘリの目は幻影を見損なうような節穴ではなかった。イエスの体からは、星の光のような輝きが発射され、ヘリは我を忘れて見とれていた。イエスは、ヘリが感嘆の叫び声をあげたのも気付かずに、一目散に駈けおりて、夕陽に赤く染まっている流浪(さすらい)の部族のテントに向かっていた。へりもイエスのあとを追いかけた。

イエスは一気に部族の長ハブノーのテントにやってきて中に入り、失明の老人の手をとった。いつもは薄暗いハブノーのテントの中が星のきらめきのように明るく輝いていた。

 イエスの手が老人の目玉に三度触れた。触れるたびに彼は鋭い命令を発した。
 「開けよ!! 汝を愛する人々並びに汝が愛せし大地を見よ!!

 それからイエスは、老人をテントの入り口まで連れて行き、三度目の命令を発したときは、その声が余りに大きいので、集まってきた人たちが、しーんと静かになってしまった。みんなが一斉に敬愛してきた老人の方を見守った。みんなは総立ちとなった。老人は両腕を大きく広げながら彼らの方に歩いてきた。

 「我が子等よ!! わしは再び見えるようになったのだ!! このガリラヤの若者が、わしの目の上に手をおいてくれたのだ!! 見よ!! たちどころにわしの目が見えるようになったのだ!!

大きなどよめきが起こった。喜びのどよめきであった。老人は部族の一人一人の名前を言いながら挨拶をかわした。彼らの服の色、目の色、背丈の大きさなどを口にしながら。

 部族の長は最初のうちは我と我が目を疑っていたのであるが、この段になって、イエスが本当に父の目を開けてくれたことを信じた。


 よく晴れた夜、人々は踊り、歌い、この偉大なる奇蹟を祝う祭りを行った。この時に初めて彼らはイエスを兄弟として賞賛し、彼を抱擁し、真に部族の一人として容認した。

 イエスが寝ようとしているときにヘリが彼に尋ねた。

 「あの山でお前のそばに立っていた御方は誰だったのかい? その方は何という御方なのかい?」

 「僕はその方の名前は知らないんだよ、へり」

 「では、どうしたら、あの輝きの正体を探し出せるのかを教えてくれよ」

 「自分自身で探すしかないよ、へり あふれる生命と喜びが、今ようやく僕のものになったんだよ この生命と喜びが、人々の理解をへて平和をうみだすんだよ」




   54 あなたの名は?

 星屑が空で光を失い始めた頃、老人はむっくりと起き上った。音をたてないように、眠っている息子のそばを通り、部族のテントへ向かった。

 誰も起きているものはいなかった。。見張り番の二人の男も、消えかかった焚火のそばでうたた寝をしていた。老人は足取りも軽やかに、雑魚寝している者の中にイエスを探し歩いた。イエスを見つけると腰をかがめ、耳元でささやいた。二人は静かにそこから離れ、砂漠を通って例の山に登った。

東の空が明るくなってきた頃、老人は立ち止り、顔を東の方へ向け、造り主なる神に感謝の叫び声をあげた。長い歳月の末に、自分の肉体の窓を開けて下さったこと、こうして日の出の栄光を崇めることができたことを深く感謝した。

 「わたしは二度とあなたのことを疑うことはいたしません 私は心からあなたを崇めます。私はあなたの御前にひれ伏します。

聖にして、言葉に尽せぬ御方よ!! たとえ今この瞬間にお迎えが来ても、私は文句を言わず、喜んで参ります。あなたの計り知れない慈悲によって、あの山々や、人々の顔、あらゆる美しい大自然を再び見させて下さったのですから、まことに私はあなたを信じ、心安らかに喜びをもって、眠りにつくことができます!!

 これらのことを語り、祈ってから二人とも沈黙を続けていた。
 畏敬の念が二人をすっぽりと包みこんでいた。東の空は燃え始め、大輪の花のように色付き、全天がきらきらと輝いていた。

 突然、老人がイエスに向かって尋ねた。

 「あなたの名前を聞かせて下さい」

 「もう御存知ではありませんか 僕の名はナザレのイエスですよ」

 「そうそう、ナザレのイエスとは、救世主(キリスト)となられるイエスだね」

 老人がこう言ったとき、若いナザレの少年の顔が暗くなった。

 「そうではないんです 今はまだそうではないんですよ

 少年は悲痛な声を出し、体を震わせながら、光が射しこんでくる東の方に向き直った。暫くして再び平和が戻ってきた。彼は、ぽつりと語った。

 「あなたの御意心(みこころ)が行われますように!! 私のではなく!!




    訳者あとがき
 
 著者のジェラルディン・カミンズ(一八九〇~一九六九) は、厳しくも美しい自然に恵まれたアイルランドで、大学の先生をしていたアシュレー・カミンズ教授の娘として誕生した。カミンズは、英国に於ける今世紀最大の霊能者の一人として欧米のスピリチュアリズムに貢献した人物である。

その代表的著書として 『不滅への道』 (国書刊行会、世界心霊宝典第二巻)があり、霊界を語った白眉として尊重されている。(抄
訳としては浅野和三郎訳 『永遠の大道』 が潮文社から出ている)

 イエスの伝記というものは、正確な意味で何一つ存在していないと言ってもよい。新約聖書中の福音書は、元来イエスの受難物語 (十字架上の死と復活) に重点を置いてかかれたものであるから、イエスの重要な背景をなす 「生いたちの記」 が完全に欠落していることになる。

 カミンズは彼女の偉大なる霊能によって 「母マリヤの背景」 と 「イエスの成育史」 というもっとも重要な部分を提供してくれたのである。聖書にまったく見られない人物や、出来事をも加えながら、イエスの少年時代を中心に展開されている雄大なドラマは、読む者の魂を揺さぶり、救いに導く大切な霊的養分をふんだんに注入してくれる。

多感な少年イエスが、あらゆる苦汁をなめさせられても、真の救いを求めて修行をつんで行く姿には、感涙相むせぶ場面が幾度もあり、読む者の魂を浄化してくれる不思議な力がこもっている。

 
 歴史的には、マリヤに関する解釈が二つに分かれていて、未だに決着がついていない。ひとつは、ヘルヴィディアン説で、イエスの兄弟はマリヤが生んだとするものである。それに対してエピファニアン説があり、イエスの兄弟は夫ヨセフの先妻の子であると主張する。

どちらの説にしろ、マリヤに関して明確なことは、第一に、処女懐妊であり、第二は、重労働に耐えた女であったということである。水汲み、洗たく、粉ひき、はた織りは女の仕事で過酷な労働であり、本書でのマリヤは多産(六人の子供)であるから、彼女はかなりがっちりとした体格の女性であったに違いない。


 さて本書は一体何を言わんとしているのであろうか。イエスは最初期待していた神殿(ユダヤ教)には救いが無いことを知らされた。

ユダヤ教を代表する大祭司アンナスは、ローマの金権政治の犬になっており、ユダヤ教のラビ(教師)は徹底した教条主義者で、少なくともイエスにとっては腹黒い偽善者であり、稀にみる善人として登場する老パリサイ人シケムでさえ、神殿という建造物にしがみついている臆病者であった。

結局イエスは、組織としての宗教や儀式的教条主義に救いが無いことを見抜いて、名もない異国の浮浪者ヘリを真の指導者と仰いで山野に於いて修行を続け、遂にアラビアの 「流浪の部族」、もとをただせば皮肉なことに脱ユダヤ教の人々に兄弟として迎えられるのであった。では一体何が救いであっただろうか。

学者の高邁な哲理でもなく、組織的伝統的宗教団体でもなく、・・・それは賢明なる読者にお任せするとしよう。

 本書の中で、マリヤもイエスも 「山野をよく歩く人」 として描かれていることに気付いておられることと思う。ギリシャ語で歩くことを <ぺリパテオウ> と言い、しっかり生き抜くという意味を持っている。

人生は旅であることを暗示している。独りで歩くのである。何のためか。瞑想のためである。しかも日の出に瞑想した。神と出逢い。神と語り、霊の力を得た。これを基盤としていたからこそ、ミシュナ(ユダヤ教の細かな規程、例えば安息日など) など怖くなかった。逆にミシュナが少しでも差別や人間性無視の原因となったとき猛然と反対した。

第18「最初の受難で外国人へりをかばってリンチにあったように。


 最後にこのようなすばらしい著書を進呈してくださり、翻訳に関するあらゆる御世話と忠告を与えて下さった近藤千雄氏に深甚の感謝と敬意を表したい。同氏は我が国における数少ないスピリチュアリズムの研究者の一人であり、その正しい発展のために全力を尽くしておられる方である。

更に拙い翻訳を出版までこぎつけて下さった潮文社の社長、小島正氏の御厚意にも心から感謝する次第である。このような一種の 「幻の書」 によって一人でも多くの方々が、霊的に豊かになっていただければ本当にうれしく思う。本書を読んだある英国人は、次のように述べている。

 「予期せざる発想という列車に乗って、未知の国に向かい、此の世ならぬ旅をしているような美しい物語である」と。



  新装版発行にあたって

 この世は愛によって創られ、愛によってささえられているにもかかわらず、人間だけが、この重大な真理を無視した生き方を続けている。この事実を最も露骨にえぐり出してくれたのが 「イエスの少年時代」 である。
 テロや憎しみが世界中に広がっている今日、一人でも多くの人たちがイエスの生き様を知って、愛に目覚めた生き方を始めてほしいと願っている。「イエスの成年時代と合わせて読んで頂きたい

         平成十六年五月   
                                                                                          山本貞彰