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   スピリティズムによる福音   

                                                       目         次     10章~19章
  第10章 憐れみ深い者は幸いです
   1、神があなたを赦してくれるよう、
           あなたは人を赦しなさい  
   5、 敵対者と和解すること   
   7、神にとって最も喜ばしい犠牲  
   9、目の中のおが屑と杭       
   10、人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。
        罪を負わないものが最初の石を投じなさい

      ♦霊たちからの指導  
 14,攻撃を赦すということ
 16,寛大さ    19,他人を叱ることは許されますか。
 他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めること
  は赦されていますか   
   21,他人の悪を見つけることが役に立つことが
         ありますか。

  第11章  自分を愛するように隣人を愛しなさい
    1,最大の戒め 自分にしてほしいと思うことを
                   他人に行う債権者と債務者の話
    5,カエサルのものはカエサルに返しなさい

      ♦霊たちからの指導 
  8,愛の法 
 11,エゴイズム  
   13,信心と慈善 
   14,罪人に対する慈善 
   15,悪人の為に命を犠牲にするべきか


  第12章    あなたたちの敵を愛しなさい
      1,悪を善によって報いる     5,他界した敵  
      7,あなたの右の頬を打つような者には
             左の頬も向けなさい

      ♦霊たちからの指導    
      9,復讐  
    10,憎しみ 
 11,果し合い
 第14章 あなたたちの父母を敬いなさい
 孝心 誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか
 肉体的な親族と霊的な親族
 霊たちからの指導       
   恩知らずな子供と家族の絆


  第15章 慈善なしには救われません
 霊が救われるために必要なこと   
    善きサマリア人の話   
  最大の戒め 
  聖パウロによる慈善の必要性   
  教会なしには救われません。
  真実なしには救われません
   ♦霊たちからの指導 
 慈善なしには救われません


  第16章 
  富と神の両方に仕えることはできません
 財産家の救い       強欲から身を守る 
   ザアカイの家でのイエス    
    悪しき金持ちの話          タラントの話       
   神意に従った富の使い方。富と貧困の試練       
   富の不幸
       霊たちからの指導   
   真なる財産 
   富の使い方 
   地上の財産への執着心を捨てること    
   財産の相談


  第17章  完全でありなさい
 完全性の特徴  善人   
   善いスピリィテスト   種を蒔く者の話
 ♦霊たちからの指導  義務  徳  
   上位の者 この世の人類 
   肉体と霊を大切にしなさい
  第13章  
  右手が行うことを左手に知られてはなりません
    1,見せびらかすことなく善を行うこと     
   4,見えざる不幸  5,やもめの寄付       
   7,貧しい者、身体の不自由な人を招くこと。
        見返りを求めずに与えること

     ♦霊たちからの指導   
     9,物質的な慈善と道徳的な慈善     
    11,善行  
    17,慈悲 
 18,孤児たち   
    19、感謝されない善行      
    20,排他的な善行

 
  第18章 
  多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
  結披露宴のたとえ話    狭き扉     
  主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入る
  わけではない
  多くを受けた者は多くを求められる
  ♦霊たちからの指導  持つ者に与える  
 行いによりキリスト教徒であることを知る

  第19章 山をも動かす信仰
 信仰の力 宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件 
  枯れたイチジクの木の話
  ♦霊たちからの指導   
      信仰-希望と慈善の母 
  人間的な信念と神への信仰
 


 


 


 ℘179       
第10章    憐れみ深い者は幸いです 

 神があなたを赦してくれるよう、あなたは人を赦しなさい     

、 憐れみ深い者は幸いです 、その人は憐れみを受けるからです。(マタイ 第五章 7)


、もし人の罪を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなたたちの父もあなたたちの罪をお赦しになりません。(マタイ 第六章 14,15)


、もしあなたたちの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。もし聞きいれたら、あなたは兄弟を得たことになります。(マタイ 第十八章 ⒖)
 
 その時、ペテロがみもとに来て言った、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。イエスは言われた、「七度を七十倍するまでと言います」。
                                                                   (マタイ 第十八章 21,22)


、憐れみ深くない者は、温和で平和を愛することが出来ないことから、憐れみとは温和さえ補足するものであると言えます。憐れみは他人の過ちを赦し、忘れることによって成り立ちます。

憎しみと怒りは、その魂が小さく、気高くないことの表れです。攻撃を忘れることは高貴な魂だけに属するもので、そのような魂は、人がその魂に対して行おうとした悪を高所から眺めることが出来るのです。一方は常に落ち着くことが無く、悲しく苦しい感覚です。他方は落ち着いた、慈善と温和さに満ちた感覚です。

「断じて許すことが出来ない」という人は不幸です。なぜなら、その人は人間によって非難されないとしても、必ず神に非難されることになるからです。


自分自身が他人を赦すことができないのに、自分の過ちを赦してもらう権利があるでしょうか。兄弟を赦す時、七度まででなく、七度を七十倍するまで赦しなさいということによって、イエスは、

憐れみは限りないものでなければならないと教えています。しかし、赦し方には違った二つの方法があります。一方は偉大で高尚な、真なる寛大さによって、いかなる下心を持つことなく、その責任の全てが相手に在ったとしても、その人の自己感情と感受性を傷つけないように優しく扱います。


もう一方の方法は、攻撃されたり、攻撃されたと判断すると、相手に屈辱的な条件を強要し、赦したことの重圧を感じさせ、それによって安心を与えるのではなく、苛立ちを与えることになります。


手を差し伸べるのは善意からでは無く、見栄によってであり、そうすることにより皆にたいし、「私が何と寛大であるか見るがよい」と言います。

このような場合、何れの側にとっても誠実な和解をすることは不可能です。それは全くの寛大さでなく、自尊心を満足させる為の手段でしかありません。どのような争いに置いても、和解を求めて、

自分自身の利害にかまわずに、慈善と真なる魂の偉大さを見せるものが、必ず公平な人々の同情を得ることが出来るのです。




 敵対者と和解すること
あなたの敵対者と道を共にしている時は、直ちに和解しなさい。さもなければ、敵対者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は役人に渡し、あなたは牢屋へ送りこまれてしまうでしょう。誠に言います。最後の一銭を払い終わるまで、そこからでることはできません。     (マタイ 第五章25、26)



、善の行いと同様に、一般に赦しの行いには道徳的な影響ばかりでなく、物質的な影響もあります。

私たちの知る通り、死は私たちを敵から解放してはくれません。反逆的な霊は何時も憎しみとともに、その怒りの対象となる者を死後の世界を超えて追いかけていきます。

そのことから、「犬を殺してしまえばその犬の怒りも消える」と言った諺を、人間に当てはめるのは間違いであるということになります。悪霊は、悪を働きたい相手に対して、その相手が肉体に収まり続け、それによって自由が余り与えられないままであり続けることを望みます。

そうあることでその相手は苦しめ易くなり、その利益や最愛の者を攻撃することが可能となるからです。大多数の憑依、特にかなり重傷な服従的憑依や支配的憑依の原因を、こうした事実の中に見出すことが必要です。憑依された者と支配する者は、殆どの場合、過去の復讐心の犠牲となっており、

それがほぼ間違いなくそうした行動の動機となっています。神は、彼らの行った悪を罰するためか、あるいは悪を行っていないのであれば、寛大さや慈善に欠けたことによって他人を赦すことができなかったことを罰するために、そうした憑依が起こることを許します。


ですから、未来の平安に目を向け、出来るだけ早く隣人に対して行ってきた悪を改め、敵を赦すことによって、死を迎える前に、あらゆる不和の原因、あらゆる過去の恨みの深い動機をも消滅させることも重要なのです。

こうすることにより、一方の世界における敵をもう一方の世界における友とすることが出来たり、少なくとも、赦すことを知る者が復讐を味わうことが無いように神がしてくれるための良い機会となります。イエスが私たちにできるだけはやく敵と和解するように勧めた時、

単に現世での不和を避けるように望んだのではなく、不和が未来の人生においてまでも続くことが無いことを望んだのです。イエスは、「最後の一銭を払い終わるまで」、つまり神の正義が完全に満たされるまで、「そこから出ることはできません」と言ったのです。



℘183
   神にとって最も喜ばしい犠牲

、だから、もしあなたが祭壇の前で供え物を捧げようとしたとき、そこで兄弟たちがあなたに対して反感を抱いていることを思いだしたのであれば、その供え物を祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟たちと仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げに来なさい。  (マタイ 第五章 23,24)



、「まずあなたの兄弟と仲直りをしに行き、その後で供え物を捧げにきなさい」ということにより、イエスは、神にとって最も喜ばれる犠牲とは一人一人の悪い感情であるということを教えたのです。

神に赦しを求める前に他人を赦すことが必要であり、兄弟に対し何らかの悪を働いているのであれば、それを改めることが必要なのです。そうすることによってのみ、供え物は喜ばれることになります。

なぜなら、供え物はいかなる悪い考えにも汚されていない、純粋な心から送られたことになるからです。ユダヤ人には物質的な供え物を捧げる習慣があり、イエスは人々の習慣に自分の言葉を合わせる必要があったため、この教訓を具現化したのです。

キリスト教徒は供え物を精神化するため、物質的な供え物を捧げたりはしませんが、キリスト教徒に対してこの教訓がなんの力も持たないわけではありません。魂を神に捧げる時には、

清らかな形で捧げなければならないのです。神の宮に入るなら、あらゆる憎しみや反感、兄弟に対する悪い考えも宮の外にやらなければなりません。そうすることによってのみ、

その人の祈りは永遠に神の足元に届くことが出来るのです。もし神に喜ばれたいのであれば「祭壇の前に置き、まずあなたの兄弟と仲直りをしに行きなさい」と言う言葉を、イエスは教えてくれるのです。




目の中のおが屑と杭

なぜあなたは、あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の中にある杭が見えないのですか。また、自分の目の中に杭があるというのに、あなたの隣人に対し、「あなたの目の中のおが屑を取り除かせてください」と、どうしていうことが出来るでしょうか。

偽善者よ、まず自分の目の中の杭を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、あなたの隣人の目の中のおが屑を取り除くことが出来るでしょう。




、人間の悪癖の一つに、自分自身の悪を見つける前に他人の悪を見つけるということがあります。自分自身を判断するには、自分を鏡で見るように、兎に角自分の外へ出て、自分を他人だと思って問うてみなければなりません。「自分が行っていることを他人が行っていたら、それを見て私はどう思うだろうか」。

間違いなく自尊心というのもが、肉体的であれ道徳的であれ、人間に自分の欠点を見ぬふりをさせているのです。このような特徴は根本的に慈善に反しています。なぜなら、真なる慈善とは慎ましく、簡素で寛容だからです。誇らしげな慈善など非常識なものです。

なぜならこの二つはお互いに打ち消し合うからです。実際に、自分の人間としての重要性とその性格の優越を信じている自惚れの強い人が、同時に、他人の持つ悪によって自分を引き立てる代わりに他人の持つ善を目立たたせ、自分を目立たなくさせるだけの自己放棄の気持ちを持つことが出来るでしょうか。

だからこそ、自尊心は多くの悪癖を生みだし、また、多くの美徳を否定するものでもあるのです。

自尊心は人間の行動のほとんどにおいて、その根拠もしくは原動力となっています。進歩の一番の障害となる自尊心を、イエスがあれほど打ち消そうとした理由はそこにあるのです。



℘184
人に裁かれないよう、人を裁いてはいけません。罪を負わないものが最初の石を投じなさい
十一
人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません。なぜなら、あなたが他人を裁いたのと同じようにあなたが裁かれることになるからです。他人に対して用いる秤と同じ秤で、あなたも量られることになるでしょう。  (マタイ 第七章 1,2)



十二、すると、ファリサイ人や書記官たちが、姦通の罪によって捕らわれた女をイエスのところへ連れてきて、人々の前に立たせ、イエスに向かって言った、「先生、この女は貫通によって捕えられたところです。モーゼはその法によって、姦通する者は石で撃ち殺せと命じています。それについてあなたはどのようにお考えですか」。

イエスを訴える口実を作るため、イエスを試そうとこのように言ったのである。イエスは身をかがめると、地面に指で何かを書かれていた。しかし、人々がしつこく問い続けるのでイエスは立ち上がっていわれた、「あなたたちの中で、罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

そして再び身をかがめて地面に物を書き続けられた。イエスに質問した人々は、イエスの言った言葉を聞くと、年老いた者たちから順番に、次から次へとその場を去って行った。やがてイエスと女だけが広場に残された。

イエスは立ち上がり、女にお尋ねになった、「女よ、あなたを責めた人達はどこへ行ったのでしょう。誰もあなたのことを責めなかったのですか」。

女「いいえ、誰も」と答えると、イエスは女に言われた、「私もあなたを責めません。さあ行きなさい。今後、再び罪を犯してはいけません」   (ヨハネ 第7ー8章 3‐11)



℘185
十三、「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」とイエスは言いました。この一言によってイエスは私たちが他人に対して寛容であることを義務としています。

なぜなら、自分自身に対して寛容を必要としない人間は誰一人居ないからです。この言葉は、私たちが自分自身を判断する基準以上の厳しさによって他人を判断してはならず、また、自分自身も赦してもらいたいと思うようなことで他人を責めてはならないのだということを私たちに教えてくれています。

誰かをある失敗によって非難する前に、自分について同じような非難が当てはまらないかどうか、見てみなければなりません。

他人の行動に向けられる非難は、二種類の力によって引き起こされます。悪を抑圧しようという力と、行動が非難されている者に対する不信を強めようとする力です。

後者であれば、そこに悪意や中傷しか存在せず、弁解の余地はありません。前者であれば賞賛されるべきものともなり得、特定の場合には、人にやるべきことを指示することができます。なぜなら、

そこから結果的に善が生まれる筈だからであり、又そうでなければ社会と言うものは決して悪を排除することが出来ないからです。人間にとってその同胞の進歩を助けることは必要ないのでしょうか。

必要であるがゆえに、「人に裁かれないよう、人を裁いてはなりません」という考えを、全く文字通りに受け取らないことが大切なのです。

イエス自身が悪と戦い、力のこもった言葉によって私たちに模範を見せてくれたことからも、イエスが悪を非難することを禁止したとは考えられません。しかし、人を非難するだけの権威は、非難する者の道徳的権威にもとづいて存在するのだということを教えたかったのです。

他人を非難したことで自分自身も同じく罪を犯すということは、この権威を放棄することであり、抑制する権利を失うことなのです。ある権威を与えられた者が、その権威によって他人に適用しようとする法や規則を自ら破るのであれば、私たちの内なる本心はそのような者に対する敬意を失い、

どのような自発的な服従をも拒むことになります。善にもとづく規範によって支えられた権威以外に、正当な権威というものは神の目には映りません。このことが同様にイエスの言葉にも強調されているのです。




 ♦霊たちからの指導                        * 

 攻撃を赦すということ 
十四
私の兄弟を何度許せばよいのでしょうか。七回ではなく、七回の七十倍赦さねばなりません。

この言葉はイエスの伝えた言葉の中でも、より強く知性に響き、心の中では最も強く唱えられるべき言葉です。イエスが使徒たちに教えた簡潔に要約されながらも熱望に満ちた祈りの言葉と、これらの慈悲深い言葉とを比べてみると、いつも同じ考えに辿り着くでしょう。


完全なる正義であるイエスはペテロに答えます。「限りなく人を赦さねばなりません。その攻撃はしばしば行われるものであっても、一つ一つの攻撃を赦さねばなりません。他人からの攻撃、悪行、屈辱によって傷つかずに済むように、あなたの兄弟たちに自分を忘れることを教えなければなりません。

それにより心は優しく、慎ましくなり、自分の温和さを量ろうなどとは決してしなくなります。結局、あなたが天の父にしてほしいと望むことを、あなた自身がしなければならないのです。

天の父はあなたを繰り返し赦してくれているではありませんか。あなたは、何度神の赦しが下り、あなたの過ちが消されたかを数えたことがあるでしょうか」。


だから、このイエスの答えを聞き入れ、ペテロのように、自分自身に当てはめてください。人を赦し、寛大さをもって、慈悲深く、心を広く、あなたたち自身の愛に気前よくあってください。主が補充してくれるのですから与えて下さい。主が赦してくださるのですから、他人を赦してください。


主があなたを引き上げてくれるのですから、自分を下げてください。主があなたを主の右側に座らせてくれるのですから、自分自身を下げてください。

愛する者たちよ、天高く輝く主のもとよりあなたたちに送るこの言葉を学び、伝えてください。

主は常にあなたたちの方を向き、十八世紀前に開始された骨の折れる仕事を愛を込めて行い続けているのです。あなたもあなたの兄弟たちに赦してもらう必要があるのですから、あなたの兄弟たちを赦してください。その赦されるべき行いがあなたに個人的な損害を与えたのだとしても、

それはあなたが寛大になるためのもう一つの契機であると考えなければなりません。なぜなら、他人を赦すことの真価は赦す悪の重さに比例するからです。あなたの兄弟たちが軽い攻撃しかしていなかったのだとすれば、彼らの過ちを赦すことに何の価値もないことになります。

 スピリティストたちよ、言葉においても、行動においても、他人の侮辱を赦すことが虚空なものとなってはならないことを決して忘れてはなりません。

もしあなたが自分たちのことをスピリティストと呼ぶのであれば、あなたたちが行うことのできる悪を忘れ、実現することのできる善以外のことは考えず、真なるスピリティストとならなければなりません。その道を歩みだした者は、思考の上でもその道から遠ざかろうとしてはなりません。

なぜなら、あなたたちは思考に関して責任を持たねばならず、神はそのことを知っているからです。

思考の中からすべての怒りを奪い去ってください。神は一人一人の心の底にどのような感情があるのかを知っています。私は隣人に対して何の反感もない、と毎晩のように言いながら就寝できる者は幸いです。   (シモン ボルドー、1862年)


十五、敵を赦すということは、自分自身の赦しを求めることです。友人を赦すことは友情の証を示すことです。他人の攻撃を赦すことは自分が向上することを示すことです。

友よ、だから神に赦してもらえるよう、他人を赦してください。なぜなら、あなたが強情で、しつこく、頑固であり、軽い攻撃に対しても厳しいのであれば、日ごとにあなたがより多くの赦しを必要としているのだということを、どうして神に忘れてもらおうと望めるでしょうか。


おお、「断じて赦さない」と言う者は、自分自身を咎めていることになるのですから不幸な者です。

自分自身の内面を見つめてみれば、あなた自身が攻撃者であったことが判るかもしれません。軽い失望にはじまり不和に終わるその戦いの、最初の一撃を加えたのはあなたであったのかもしれません。

あなたが他人を傷つける言葉を与えたのかもしれません。あなたは必要なだけの温和さを用いましたか。相手が余りにも気性が激しくて、間違いなくその相手に過ちがあるかもしれません。しかし、そうであるからこそ、あなたは寛大でなければならず、相手をあなたの非難の的から外さねばならないのです。

ある場合においては、本当にあなたが他人の攻撃の犠牲者であったと仮定しましょう。しかしその一件の仕返しをしようと考える事によって、本来であれば簡単に忘れ去られて居たかも知れないことを、激しい議論にまで発展させていないでしょうか。


その一件の悪い結末を食い止めることがあなたにできたのであったとすれば、あなたにも責任があったことになります。あなたの行動にまったく非のうちどころがなかったと仮定しましょう。その場合、あなたが寛容であればあるほど、あなたの功労は大きいのです。

しかし、赦し方には全く違った二つの方法があります。口先だけの赦しと心からの赦しです。多くの人は、その対立した相手に対し、「私はあなたを赦します」といいますが、心の中ではその人に起こる悪を喜び、それをその人が受けるべき報いであると言います。


どれだけの人が「赦す」と言いながら、「しかし、決して仲直りはしない。一生相手の顔も見たくない」と付け加えることでしょうか。このような「赦し」は福音に則った赦しと言えるでしょうか。

いいえ。真の赦し、キリストの教える赦しとは、過去をベールで覆う赦しです。神は見せかけだけでは満足しないため、そのような真の赦しだけがあなたたちの功労として数えられるのです。神は心の奥深くや、心に秘めた考えをも調べます。無駄な言葉や見せかけによって神を騙すことは誰にもできません。

完全かつ絶対的に他人の攻撃を忘れることは、偉大な魂だけにできることです。恨みは常に魂の劣等、不完全のしるしです。真の赦しとは言葉よりも行動によって知ることが出来るのだということを忘れないでください。                (使徒パウロ リヨン、1861年)



 寛大さ 
十六
スピリティストたちよ、全ての人間がその兄弟のために持つべき、甘く、兄弟愛に満ちた感情でありながら、ほんの僅かな人達だけがその使い方を知っている寛大さについて、私たちは今日あなたたちにお話します。寛大さというものは、他人の短所を見つけ出すことをせず、また、見つけたとしても、

そのことを口に出したり、他人に言いふらしたりしません。反対にその短所を隠し、そのことが自分以外の誰にも知られることが無いように努め、もし悪意を持った人達がそのことを知ったとしても、彼らに対して、いつでも過ちを犯したものをかばうための弁解を用意しています。

その弁解とは、称賛に値する本心からのものです。人の過ちについて、表向きには寛大に受け止めるふりをしながら裏で不誠実な証言をするような弁解ではありません。

寛大さは相手を助けるため以外には、決して他人の悪い行いを気に掛けることはありません。しかし、相手を助ける場合でも、出来る限りその悪い行いを軽くしようとします。衝撃的な注意をしたり、口で相手を咎めたりはしません。忠告だけを、それもそれとないやり方で相手に示します。


もし、相手を非難するのであれば、あなたの言葉はどのような意味を持つことになるでしょうか。あなたは非難しているのですから、同じ過ちを犯すことはなく、つまりあなたは非難した相手よりも価値のある人間であるという結論になります。

おお、人類よ、いつになったらあなたたちは自分の兄弟の過ちを気に掛けることなく、自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の行動を咎めることができるようになるのでしょうか。いつになれば自分自身だけに対する厳しい目を持つことが出来るのでしょうか。

自分自身に対して厳しく、他人に対して寛大でありなさい。一人一人の心に秘められた部分の動きを見ることができ、全ての行動の動機を知っているがために、あなたが見つけたり、非難したり、批判したりする過ちを、何度も赦してくれる、最後の審判を下す者のことを覚えていてください。

大きな声を上げ、「破門だ」と叫ぶあなたたちこそが、より重大な過ちを犯しているのかも知れないのだということを覚えておいてください。


 友よ、寛大であってください。寛大さは人々を引きつけ、穏やかにし、元気づけますが、厳しくすることは、元気を失わせ、人々を遠ざけ、苛立たせます。    (守護霊ヨセフ ボルドー、1863年)



十七、その過ちがどんなものであったとしても、他人の過ちに対して寛大であってください。自分の行動以外を厳しく非難してはなりません。神はあなたたちに対して寛大であり、あなたたちも他人に対してそうであるべきなのです。

 強い者たちは耐えなければなりません。彼らが忍耐強くあるように励ましてあげてください。弱い者たちには、どんな小さな後悔さえも考慮してくれる神の善意を示してあげることによって、

彼らを強くしてあげてください。白い羽を人間の過ちの上に差し延べてくれることによって、何が不純であるのかを見ることができない者たちの目からその過ちを隠してくれる、後悔の天使がいることをすべての人に教えてあげてください。あなたたちの父の無限の慈悲を理解し、あなたたちの思考や、

特にあなたたちの行動において、「私たちを攻撃した人達のことを赦しますので、私たちの過ちもお赦しください」ということを決して忘れてはなりません。この言葉のもつ崇高な価値を理解してください。言葉自体が素晴らしいだけでなく、その中に込められた約束も素晴らしいものだからです。


 主にあなたたちの赦しをお願いする時、あなたたちは何を求めていますか。あなたたちの罪を忘れてほしいと思うだけですか。忘れることはあなたたちに何も残してくれません。

なぜなら、もし神があなたたちの過ちを忘れることで満足するのであったとしたら、神は罰することもしなければ償ってくれることもしないからです。行ってもいない善に対して報酬を受けることはできず、悪を行ってしまったのであれば、たとえそのことを忘れてもらうことが出来たとしても、

尚更報酬を受けることはできません。あなたたちの過ちに対して赦しを求め、神の恵みによって再び同じ過ちを繰り返さないように願い、新しい道を進み出すのに必要な力を求めてください。

その新しい道とは服従と愛の道であり、その中であなたは、後悔を改善に結びつけることができるようになるでしょう。


 あなたの兄弟を赦す時、単に過ちを忘却のベールで覆うだけで満足してはなりません。このベールはほとんどいつも、あなたたちの目には透明に映ります。あなたたちの赦しに愛を加え、あなたたちが天の父にして欲しいと望むようなことをあなたたちの兄弟にしてあげてください。汚点を残す怒りを愛によって清めてください。

イエスがあなたたちに教えてくれた、疲れを知らない生きた慈善を、模範を示すことによって他人に伝えてください。イエスが地上で生活した間、ずっと行ったように、生きた慈善を肉体の目に見えるように伝え、またそれが霊の目にしか見えなくなってしまった後にも、休むことなく伝えてください。

この神聖なる模範に則って、その足跡に沿って歩んでください。その模範は、あなたたちを戦いの後に、休息を取ることのできる避難所へと導いてくれます。イエスのように十字架を担ぎ、痛々しくとも勇気をもってカルバリオへと昇っていってください。その頂上には栄光が待っているのです。
 (ボルドーの司教ヨハネ、1862年)




十八、親愛なる友よ、自分たちに対して厳しく、他人の弱みに対して寛大であってください。ほんの少しの人達しか気づいていませんが、これも聖なる慈善を実践する方法の一つなのです。

あなたたちはみな、克服しなければならない悪癖や、改めなければならない短所、変えなければならない習慣を持っています。あなたたちすべてが重い負担を抱えていますが、進歩の山を登るためにはそれを軽くしなければなりません。それなのになぜ、他人のこととなると頭がはっきりし、自分自身のことになるとそれほどまで盲目になってしまうのですか。


あなたたちは、自分たちを盲目にし、下落の方向へと歩ませている自分の目の中の杭にも気付かず、いつになればあなたを傷つける兄弟の目の中の些細なものを気にすることを止めるのでしょうか。

あなたたちの兄弟である霊たちのことを信じてください。自分を他の兄弟たちと比べ、その美徳や長所においてより優秀であると考える自尊心の強い人は皆、愚かで罪深いのであり、神の審判が下る時、神に罰せられることになります。慈善の真なる性格は、慎ましさと謙遜であり、

他人の表面的な欠点を探すことなく、隣人に、その人の良いところ、徳の高いところを目立たせようとすることから成るのです。

なぜなら、例え人間の心が堕落の深淵のようであったとしても、その心の隠れた奥底には、必ず霊の本質の輝く火花の様な善なる感情の種子が存在するからです。


 慰安をもたらす祝福された教義であるスピリティズムを知り、主が送られた霊たちの健全な教えを有効に利用する者は幸いです。こうした者たちにとって教えは明確であり、的を射た方法を教えてくれる次の言葉を、長い道のりの間いつも読むことが出来るのです。

「慈善の実践、自分に対して行うように、隣人に対して慈善を行う」を簡潔に表すならば、すべての人に対して慈善を行い、あらゆるものの上に神に対する愛を抱いてください。

なぜなら、神に対する愛はあらゆる義務を要約しているからです。慈善を行うことなしに神を愛することは不可能であり、神はそのことを全ての創造物のための法としているのです。
                         (ヌウ“ェールの司教デュフェートル ボルドー)




他人を叱ることは許されますか。他人の不完全性を指摘し、他人の悪を広めることは許されていますか   
十九
 誰も完全ではないのですから、誰にも隣人を叱る権利はないのだということが出来るのではないでしょうか。

 もちろんそうではありません。なぜならあなたたちは、一人一人が全ての人の進歩のために働かなければならず、また、あなたたちが面倒を見る人の為には特に働かなければならないからです。しかし、

そうであるからこそ、有益な意図によって慎重に人を叱らなければならないのであって、通常ありがちなように、相手を痛めつけることの喜びのためであってはなりません。

相手を痛めつけるために叱るのであれば、その人の検閲は悪意でしかなくなります。

有益な意図によって叱るのであれば、それは慈善によって要求された任務として、出来る限りの注意が払われなければなりません。さらに、他人に向けた批判は私たち自身にも向けられることになるので、自分も叱られるべき立場にないかどうか見なければなりません。



二十、その人に取って何の益ももたらさない他人の不完全性に気づくことは、そのことを人に広めなかったとしても咎められるべきことなのでしょうか。

 そこにある意図によります。確かに悪が存在するのであれば、その悪を見つけることは禁じられていません。全ての場所に善だけしか見ることができなかったとしたら不都合です。

それは進歩を妨げることになります。人の悪に気づき、世間に不必要にその人の悪評を立てることによって、隣人に損害を与える処に過ちが生じるのです。それに悪意が伴い、他人の欠点を見つけたことに満足しながら行うのであれば、なおさら咎められるべきことです。

しかし、悪の上をベールで覆い、それを公に知らせまいとし、その悪を研究し、他人の中に非難したことを自ら避けようと、個人的な利益に結び付けるためにのみそれを観察するのであれば、ことは全く逆になります。このような観察は、道徳を学ぼうとする者にとっては有益ではないでしょうか。

実例を学ばなければ、どうやって人間の不完全性を表すことが出来るでしょうか。
                                                                                     (聖王ルイ パリ、1860年)



二十一、他人の悪を見つけることが役に立つことがありますか

この問題は非常にデリケートでありそれに答えるには、よく理解された慈善に訴える必要があります。

もしある人の不完全性がその人にしか損害を与えないのであれば、その不完全性を他人に広めることに何の意味もありません。しかし、もしその不完全性が他人にも損害を与えるのであれば、一人よりも複数の利益を重視する必要があります。状況に応じて偽善と虚偽の仮面を剥ぐことも一つの任務です。

なぜなら、多くの人が騙され、犠牲者となるよりも、一人だけが罠にはまった方がましであるからです。そのような場合には、利点と不都合をよく秤にかけて見極める必要があります。 
                                                                             (聖王ルイ パリ、1860年) 




第11章     自分を愛するように隣人を愛しなさい     

 最大の戒め 自分にしてほしいと思うことを他人に行う債権者と債務者の話    

、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうと尋ねた、「先生、律法のうちで最大の戒めとはなんですか」。イエスは答えられた。

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これが最も大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。全ての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また預言者も同様です」。    (マタイ 第二十二章 34-40)   


、そして、あなたが人々にそのようにしてほしいと思うことを、あなたも彼らにしてあげなければなりません。なぜならそれが律法であり預言者であるからです。  (マタイ 第七章 12)


、天の国は、王がしもべたちと勘定の清算をするようなところである。勘定の清算がはじまると、一万タレントを借りていた者が現れた。しかし彼にはそれを支払うすべがなかったので、王はその人に、

借金を支払えるように、その人自身とその妻子、またその所有するもの全てを売るように命じた。

そのしもべはひれ伏し、「すべてお支払いしますから、どうぞお待ちください」と懇願した。すると王はその人を憐れに思い、その負債を免除し、自由にしてやった。ところがそのしもべは出て行くと、自分に百デナリの借金をしていた仲間のしもべに出会ったので、その人の喉元を掴み、首を締め付けながら、

「私に借りているものをみな返せ」と言った。その仲間の奴隷はひれ伏し、全てをお支払いしますから、どうぞお待ちください」と言った。しかし、それを聞こうともせず、負債を全て支払うまでその人を牢獄に閉じ込めるように命じてしまった。

そのしもべの仲間たちは、この様子を見て心を痛め、王にそのことを報告しに行った。すると王は、そのしもべを目の前に連れて来させて、「邪悪なしもべよ、私はお前が懇願したのですべての負債を取り消してやったのだ。だから、

おまえも自分の仲間のことを、私がお前に憐れんでやったのと同じように憐れんでやるべきではなかったのか」と言い、大いに憤り、その負債をすべて支払うまで獄に閉じ込めるように命じた。


 あなたたち一人一人に対して兄弟が行った罪を心の底から赦すのでなければ、天におられる私の父もまた、あなたたちをこのようになさるでしょう。      (マタイ第十八章 23-35)


、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。他人にしてほしいと思うことを他人のためにしてあげなさい」。ここには、慈善がもっとも完全な形で言い表されています。なぜなら、これらの言葉には私たちが隣人に負う義務が要約されているからです。他人にすべきことの基準として、この中にある、

「自分自身にして欲しいこと」ということ以外に、これほど確実な基準は存在しません。私たちは同胞に対して、私たちの彼らに対する献身、慈悲、寛大さ以上のものを、どうして強要することが出来るでしょうか。この金言を実践することによってエゴイズムは破壊されます。

これらの言葉を人間が行動の基準とし、そのつくりだすあらゆる制度の基盤とすれば、真なる兄弟愛を理解し、平和と正義が人々を治めるようになるでしょう。憎しみや不和はもはや存在しなくなり、調和、統合、相互の慈悲心が生まれることになるでしょう。



   カエサルのものはカエサルに返しなさい  

、ファリサイ人は出て行くと、どうにかして言葉でイエスを混乱させようとたくらんだ。そして使徒たちをヘデロ派の人々と共にイエスのもとに行かせ、このように言わせた、

「先生、あなたは真実によって、神の道を、その人が誰であるかに関わらず教えてくれることを知っています。それでは、このことに対してどうお考えか教えてください。私たちは税金をカエサルに納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

しかし、イエスは彼らのたくらみに気づき、答えて言われた、「偽善者たちよ、なぜ私を試そうとするのですか。税金を支払う時に使う硬貨を私に見せてください」。そして一デナリの硬貨を見せると、イエスはお尋ねになった、「この肖像と銘刻は誰のものですか」

彼らは、「カエサルのものです」と答えた。するとイエスは、「そうであるなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われた。彼らはその答えを聞くと驚き、イエスをその場に残して立ち去った。 (マタイ 第二十二章 15-22、マルコ 第十二章 13-17)


、イエスに対する質問は、ローマ人の課する税金を忌み嫌うユダヤ人が、その税金の支払いを宗教的な問題であるとした状況から生まれました。多くの政党がその税金に反対して設立されていました。

その税金の支払いは、彼らの間では当時のいらだたしい問題となっていたのでした。そうでもなければ、このような質問をイエスにすることは無かったでしょう。「私たちは税金をカエサルに支払わなければならないのでしょうか。それとも支払わなくてもよいのでしょうか」。

そこには罠が仕掛けられており、返答によって、ローマの権威か、ユダヤの異論者たちのいずれかが、イエスに対して逆らうことを期待して質問したのでした。

しかし、イエスはその悪意を知っており、それぞれの物が与えられるべき者に与えられなければならないのだという正義の教えを説き、この難題を切り抜けたのです<→序章Ⅲ「パブリカン(徴税官)」>。



、しかし、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というこの文は、厳密にまったく文字通りに理解されるべきではありません。

イエスのすべての教えの中にあるように、そこには特定の場合における実用的な形で大原則が要約されているのです。この原則は、自分たちに対して行ってほしいと思うことを他人に対して行わなければならないという、もう一つの教えの結果なのです。その教えは、

どのような道徳的・物質的損害を他人に与えることも、他人の利益を無視することもとがめています。そして、みなが自分の権利を尊重して欲しいように、一人一人の持つ権利が尊重されるべきであるということを示しています。

一般に、個人に対しても、家族や社会、権威に対しても、このことは同じように広めて考えられます。



 ♦霊たちからの指導                                 * 

愛の法

 霊的に進歩することにより、本能はその進歩のレベルまで引き上げられ、情操へと変化していきますが、そうした情操の最も卓越した形である愛の中に、イエスの教義は完全に要約されています。

人間はその起源においては本能しか持っていません。それがやがて進化し、形が崩されて行くと、感覚に変化していきます。教育され、浄化されると情操に変化します。情操の最もデリケートな部分が愛です。

その愛とは、一般的な低俗な意味のものではなく、内なる太陽のように、人類を超えたあらゆる啓示や熱望を、その焦点に凝縮し集めたものです。愛は人間の個人性を人々との協調性に置き換えます。

愛は社会的な貧困を打ち消します。人間であることを超え、苦しむ兄弟他たちを広い愛情によって愛する者は祝福されます。肉体の貧困も魂の貧困も知らない者は祝福されます。そのような者の足取りは軽く、自分の身体を抜け出して移動しているように感じます。イエスが愛という神聖なる言葉を発すると、殉教者たちは希望に酔いしれ、劇場へと降りて行ったのです。


 スピリティズムの到来によって、神の言葉の中の二番目の言葉が伝えられました。注意深く聞いてください。「再生」、この言葉は空になった墓場の墓石を持ち上げ、死と言うものに打ち勝ち、衝撃を受けた人々にその知的財産を示してくれるのです。それが人間を虐待に導くのではなく、

自分自身の存在を認識し、征服し、高尚に変貌することに導いてくれるのです。血は霊を取り戻しましたが、今度は霊が人間を物質から取り戻さねばならないのです。


 人間はその起源においては本能しか持っていないのであると私は言いました。ですから、まだ本能によって支配されている者は、目的の地よりも出発点に近いところにいるのです。

目標に向かって進んでいくには、情操を育てるために本能に打ち勝たねばならず、つまり、物質の中に眠る種子を抑制し、情操を完成させる必要があるのです。本能は情操の兆しであり、その種子のようなものです。どんぐりの中にかしの樹が隠されているように、本能の中には進歩が隠されているのです。

進歩の遅れた者とは、さなぎからゆっくり解放されつつも、依然として本能に支配されている者のことです。霊は畑の様に耕さなければなりません。本来における豊かさは、今日の労働によってもたらされます。労働は地上における財産以上に、栄光の向上をもたらします。その時、

全ての存在を統合する愛の法を理解することが可能となり、天における幸せの序曲である魂の優しい喜びをその中に求めることが出来るでしょう。



九、
 
愛とは神なる精髄からできたものであり、最も卑しい者から最も高尚な者まで、あなたたちはこの神聖なる火の火花をみな心の底にもっています。誰でもこのことは証明できるに違いありません。

人間は、どんなに卑しく、貧しく、あるいは罪深くとも、誰か、もしくは何かしらの物に対し、生き生きとした熱烈な愛情を抱き、その気持ちはそれを弱めようとするどんな試みに対しても抵抗し、多くの場合、崇高な調和に至ります。


 私が誰か、もしくは何かしらの物と言ったのは、あなたたちの中には愛に溢れる心を持ちながら、その気持ちの富を動物や植物、あるいは物質的な物のために費やしてしまう人達がいるからです。

そうした人達は一種の人間嫌いの人達で、人類一般に対して不満を持ち、自分の周りに愛情と同情を求めようとする自分たちの魂の自然の傾きに抵抗し、愛の法を本能の条件にまで引き下げてしまう人達のことです。しかしどれだけそうしようとも、神が人類を生んだ時に授けた活発な種子を抑えることはできません。

この種子は道徳性と知性とともに発達し、しばしばエゴイズムによって圧迫されながらも、誠実で長続きする愛情を生み出す甘い聖なる美徳の源となり、人生の険しく荒涼とした道のりを乗り越えるための支えとなってくれるのです。


 自分たちが羨ましいと感じている愛情深い同情を、他人が分かち合いに来るという考えから、再生を受付ない人々がいます。可哀想な兄弟たちよ。あなたたちの愛情はあなたたちをエゴイストにしてしまうのです。あなたたちの愛は親しい親類や友人の輪の中にだけ狭められ、

その他の人に対して無関心になってしまいます。よろしいでしょうか、神の教える愛の法を実践するには、あなたたちの兄弟を無差別に愛するために一歩一歩近づいていかなければなりません。

その任務は長く、困難ですが、いつか達成されるでしょう。神はそうなることを望んでおり、愛の法が、第一の最も重要な規則でなければならないのです。なぜなら、個人的なエゴイズムの他に、血筋中心のエゴイズム、階級的なエゴイズム、国家的なエゴイズムが存在する中で、どのような形であろうと、あらゆるエゴイズムを愛の法はいつの日か滅ぼすことになるからです。イエスは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言いました。


では隣人とはどこまで指すのでしょうか。家族でしょうか、宗派でしょうか、それとも国家でしょうか。いいえ、人類全体を指すのです。

より優れた世界においては、相互の愛がそこに住む進歩した霊たちを導き,和を築いていますが、近々著しい進歩を遂げることになっているあなたたちの惑星においては、そこで起きる社会的変化のために、神を映し出すことこの崇高な法を、そこに住む者たちが実践するようになるでしょう。


 愛の法がもたらす結果とは、人類の道徳的向上と、地上における人生の幸福です。この規律の実践がもたらす有益な結果を知ることにより、最も反抗的な者や、最も悪徳な者も自らを改めることになるでしょう。自分にして欲しくないことを他人にしてはなりません。

その反対に、あなたたちが行うことのできる全ての善を他人にしてあげなければなりません。


 人類の心の不毛さや冷静さを信じてはいけません。嫌々ながらもそうした心は、真なる愛の前には譲ることになります。真なる愛とは磁石のようなもので、抵抗することはできないのです。真なる愛との接触は、あなた達の心の中に潜む愛の種子を発芽させ、活発にさせます。

追放と苦境の天体である地球は、やがてこの聖なる火によって浄化され、その表層に慈善、謙遜、忍耐、献身、甘受、忍従、犠牲といった、すべての愛の産物が実践されるのを見ることができるようになるでしょう。ですから、福音記者ヨハネの言葉に聞きあきることがあってはなりません。


あなたたちが知るように、病と老いによって彼が説法を続けることが出来なくなった時、「子供たちよ、お互いに愛し合いなさい」というこの優しい言葉だけを繰り返しました。

愛する兄弟たちよ、これらの教えを役に立ててください。それを実践することは難しくとも、魂はそこから多くの益を得ることになります。私を信じ、あなたたちにお願いする崇高なる努力をしてください。

「お互いに愛しなさい」。そうすることにより、近い将来、地球は楽園へと変化し、そこには正しい者たちの魂が休みに集まることでしょう。(フェヌロン ボルドー、1861年)



、親愛なる同胞たちよ、ここにいる霊たちが私を通じ伝えています。「愛されるために、大いに愛しなさい」。この考えはまったく正しく、その中には日々の苦しみを和らげ、慰めてくれるものすべてを見出すことができます。分かりやすく言うならば、この知恵ある教えを実践することにより、

あなたたちは物質を超えて向上し、地上における肉体の被いを後にする前に霊的に進歩することが可能となるでしょう。未来を理解するためのスピリティズムの研究を発展させることにより、

一つの確信を持つことができるようになるでしょう。あなたたちの魂の熱望に応える約束の全てが、

実現されながら神に向かって歩んでいるという確信です。ですから、あなたたちは物質に束縛されることなく、自らを高く持って物事を判断しなければならず、神へ考えを寄せることなしにあなたたちの兄弟を非難してはなりません。

愛するということの深い意味は、人間が誠実、正直、良心的に、他人に対して、して欲しい思うことをしてあげるということです。兄弟たちを困らせているあらゆる痛みを自分の周りに探し、それを和らげてあげようと親身になって感じることです。人類全体を自分大きな家族の様に考える事です。


なぜなら、この世界に居る期間が過ぎた後、より進歩した世界において、その家族の全ての者と再会することになるからです。そうした家族を作っている霊とは、あなたたちと同じ、無限の宇宙に向かって向上していく神の子です。だから、寛大な神があなたたちに授けてくれた兄弟を拒んではなりません。


もし兄弟たちがあなたたちの必要としているものを与えてくれていたなら、それはあなたたちに喜ばしいことではありませんか。ですから、いかなる苦しみに対しても、いつも希望と慰安の言葉を持ち、完全なる愛と正義を持つことができるようになってください。


「愛されるために、大いに愛しなさい」という賢明な勧告を信じてください。この言葉は道をひらきます。そしてこの革新的な言葉は、確実で不変の道を辿る言葉です。私の言葉を聞く者は、すでに多くを得ています。なぜなら、あなたたちは百年前に比べれば限りなく良くなっているからです。

あなたたちの利益のために、大いに変化し、過去には拒んでいた自由と同胞愛や、無数の新しい考えを喜んで受け入れることができるようになりました。このように今から百年経った後には、疑いもなく、

あなたたちがまだその頭の中に収めることができないことを、同じような容易さによって受け入れるようになっている筈です。


 スピリティズム運動がこれほど大きく前進した今日、スピリティズムの中で何時も変わることなく述べられている正義と確信の考えが、非常に早く知的階層に受け入れられてきたことがわかります。

これらの考えがあなたたちの中に潜む神聖なもの全てに応えます。あなたたちの中には発芽が間もない種子が植えられているからです。その種子とは、一世紀前、地球上の社会の中に植えつけられた偉大なる進歩の考えのことです。

そしてすべてが神の方向へ向かって連鎖しているため、授かり、受け入れられた全ての教えは世界的に隣人への愛に置き換えられることになることでしょう。

そのため、人間として受肉している霊たちは、物事をよりよく捉え、理解することが出来るため、地球の隅々にまで手を差し伸べることになります。一人一人がお互いに理解し愛し合い、全ての不正義や、人間同士の不和の原因を滅ぼすために集まることになるでしょう。 

「霊の書」には、スピリティズムによる偉大なる確信なる考えが記されています。この規律をよく理解し、適用することによって、あなたは来たるべき世紀の驚異的な奇跡、つまり人類の物質的。精神的な全ての関心を調和させる奇跡を起こすことになるでしょう。「愛されるために、大いに愛しなさい」

                                                                       (元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンスン1863年)
 
 

   エゴイズム
十一
 エゴイズムは人類の大きな傷であり、人類の進歩を妨げるものなので、地上から姿を消さなければなりません。さまざまな世界の階級の中で、人類の階級を上げることが、スピリティズムに託された役割です。ゆえに、

エゴイズムは、真なる信者がその武器であるその力と勇気を差し向ける標的でなければなりません。

勇気と私が申し上げるのは、多くの人が他人に勝つ前に、自分自身に打ち勝つ必要があるからです。ですから、一人一人がその努力の全てを、自分の中のエゴイズムと戦うことに費やさねばなりません。

全ての知性をむさぼる怪物、自尊心の産物であるエゴイズムは、地上の世界における全ての惨めさの原因であることは確かです。エゴイズムは慈善を否定するものであり、それ故に、人類の幸せにとって最大の障害であると言えます。

 イエスは慈善の模範を示しましたが、ポンティオ・ピラトはエゴイズムの例を示しました。

つまり前者、正義なる者が殉教の道を辿ったのに対し、後者には「私には関係のないことだ」言いながら手を引いたのです。ユダヤ人たちに「この者は正しい者であるのに、なぜ十字架にかけようとするのか」とまで言いながら、処刑を続行させたのです。


 人間の心の弊害であるこの慈善とエゴイズムの対立は、キリストの教えがその任務を完全に果たしていないことによるものです。

高級な霊たちは新しい信仰の使途であるあなたたちにこの悪を根絶する任務と義務があり、あなたたちの進行を妨げている障害を取り除き、キリスト教に全ての力を注がなければならないのだということを明らかにしているのです。地球がさまざまな世界の中で向上することができるように、

地上からエゴイズムを追放してください。人類はもう大人の服に着替える時期が来ており、そのためには、まずあなたたちの心からエゴイズムを追放しなければならないのです。 (エマヌイルパリ、1861年)



十二
 もし人類がお互いに愛し合っていたならば、慈善はよりよく実践されていたでしょう。しかし、そのためにはあなたたちが心にまとう鎧から解放され、隣人の苦しみにもっと敏感になれるように努力することが大切です。キリストは、キリストを求める人の誰をも決して軽んじたりはしませんでした。

キリストを求めたものは、誰であっても拒否されることはありませんでした。姦淫した女や罪人もイエスによって助けられましたが、イエスはそのことによって自分自身の名声に傷が付く事を決して恐れたりしませんでした。では、

あなたたちは何時になればイエスをすべての行動を模範とするようになるのでしょうか。

地球上を慈善が支配した時、悪は存続しきれず、恥ずかしがってその姿を消していきます。悪はどこに居ても居心地が悪く感じるため、どこかに隠れてしまいます。その時悪は消滅します。そのことをよく理解しておいてください。


 あなたたち自身が模範を示すことから始めてください。すべての人に対し、区別することなく慈善的であってください。あなたたちのことを軽蔑の眼差しで見る人達のことを気にしないように努力してください。全ての正義は神の手に委ねてください。

なぜなら、神は毎日、神の国において麦と雑草とを選別しているからです。

エゴイズムは慈善を否定するものです。慈善無くして社会生活の中に平和は無く、さらには、安全というものが無くなります。エゴイズムと自尊心は手を取り合って存在していますが、

それらによって人生は何時もずるい者だけが勝つことのできる競争となり、もしくは最も尊い愛情が足もとに踏みにじられ、神聖な家族の絆さえも軽んじられる、利害の対立になってしまいます。
                                (パスカル サンス、1862年)




信心と慈善
十三
 愛する子どもたちよ、人類を幸せにすることのできる社会秩序を人類の間に保つためには、信心の伴わない慈善では不十分であることを私は最近申し上げました。信心無くして慈善を行うことは不可能です。宗教を持たない人々の間にも実際、気前のよい衝動を見ることができます。しかし、

厳密に言う慈善とは、献身と、あらゆる利己的な利害を絶えず犠牲にすることよってのみ実践できるのであり、そうすることを感得させ、現世の十字架を勇気と忍耐をもって担ぐことを可能にしてくれるのは信心以外にはありません。

子どもたちよ、喜びに貪欲な人間が、地上での運命に錯覚し、自分の幸せだけを心配することが許されているのだと思い込んでしまうことは人間に取って無益なのです。

永遠の中で神が私たちを幸せにするように創造したことは確かですが、地上での生活は、物質世界と肉体の力を借りることによってより容易に達成することのできる、私たちの道徳的完成のためのみに使われなければなりません。人生の一般的な苦しみ以外にも、あなたたちそれぞれが持つさまざまな好み、

傾向、必要性などもあなたたちが完成するための手段であり、あなたたちに慈善の練習をさせているのです。なぜなら、お互いが犠牲を払ったり譲歩し合ってのみ、これほどまでに多様化した人々の間で調和を保つことが出来るからです。


 しかし、この世の人間に幸せが約束されていることを断言するのも、物質的な喜び以前に、善の実践の中にその幸せを求めるのであれば正しいことになります。キリスト教の歴史は、喜びを感じながら苦しみに向かって行った殉教者たちのことを教えてくれています。

今日、あなたたちの社会においては、キリスト教徒となるために殉教の炎に立ち向かうなど、命を犠牲にする必要はなく、ただ、エゴイズム、自尊心、虚栄心さえ犠牲にすればよいのです。

信心によって支えられ、慈善に感得されるのであれば、あなたは勝利を収めることが出来るでしょう。  
 (守護霊クラクフ、1861年)




 罪人に対する慈善
十四
 真なる慈善とは、神が世界に教えた最も崇高な教えの一つです。その教義の真なる使徒たちの間には、完全なる同胞愛が君臨しなければなりません。

不幸な者たちや罪人たちを同じ神の創造物として愛さねばならず、それは、彼らにもあなたたちと同じように後悔することにより、神の法を犯した過ちに対する神の赦しと慈悲が与えられるからです。

求める者たちへの赦しと同情を拒むあなたたちは、彼らよりも罪が重く、さらにとがめられるべきだと考えてください。なぜなら、殆どの場合、彼らはあなたが知っているような神の存在を知らないのであり、故に彼らに求められるものはあなたたちよりも少ないからです。


 おお、他人を判断しないでください。親愛なる友たちよ、他人を裁かないでください。なぜなら、あなたたちが人を裁く前に用いる判断の基準は、あなたたちを裁くときにはより厳しく用いられることになり、あなたたちが絶え間なく犯した過ちに対する寛容を必要とすることになるのです。

世間では小さな過ちとさえも考えられないような行動で在っても、純粋な神の目には罪として映る行動が多く存在することをあなたたちは知らないのですか。


 真なる慈善は施しや、あなたたちとともに生きる人達への慰安の言葉だけから成り立っているのではありません。いいえ、神はあなたたちに求めているものはそれだけではありません。

イエスによって教えられた崇高なる慈善とは、あなたたちの隣人に関わる全てのことに対する不断の慈悲心からも成り立っているのです。この崇高なる美徳を、あなたたちは施しを必要としていない多くの人々に対して行うことができ、愛、慰安、励ましの言葉は彼らを神のもとへ導くことになるでしょう。

もう一度繰り返して申し上げますが、地球に同胞愛が君臨する時は近づいています。人類を統治するのはキリストの法です。その法とは節度と希望を与え、魂を至福の国へと導くことが出来るのです。

ですから、同じ父の子としてお互いに愛し合って下さい。あなたたちと不幸な者たちを区別しないでください。なぜなら、神はあなたたちすべてが同じであることを望んでいるからです。誰も軽んじてはなりません。神はあなたたちの間に、重い犯罪人があなたたちの教師として存在することを認めたのです。

やがて人類が真なる神の法を実践することが可能となった時、これらの教えは不必要になり、劣った霊たちはそれぞれが住むにふさわしいより劣った世界へ散らばって行ってしまうでしょう。


 あなたたちはそうした劣った霊たちに対し、救援の祈りをしなければならないということを私は申し上げます。それは真なる慈善です。ある罪人に対し、「惨めな奴だ。地上から追放されるべきだ。このような者は死んだだけでは甘すぎる」などと決して言ってはなりません。

そうです、絶対にそのように言ってはなりません。あなたたちの模範となるイエスのことを考えてください。


イエスは、そばに不幸な者が居たら何と言うでしょうか。その人のことを悲しみ、多くを必要としている病人のようにとらえ、手を差し伸べるでしょう。あなたたちは実際には同じことはできないでしょうが、少なくとも不幸な者の為に祈り、その者がまだ地上に生きている間は、霊的な援助を与えてあげることができます。

信心深く祈れば、後悔の念がその者の心を打つかもしれません。罪人も最良の人間と同じようにあなたたちの隣人なのです。道に迷い、反抗的になってしまった魂も、あなたたちの魂と同じように、

完成するために創造されたのです。ですから、不幸な者がそのぬかるみからでることができるように助け、その者のために祈ってください。(フランスのイザベル ルアーブル、1862年)



悪人の為に命を犠牲にするべきか  
十五
 ある人が死の危機に直面しています。彼を助けるには自分自身の命を危険にさらす必要があります。しかし、死に直面している人は悪人で、もし、助ければ再び新しい罪を犯す可能性があります。にもかかわらず、命の危険を冒してまで彼を救うべきでしょうか。

 この問題は非常に重要な問題であり、私たち霊に疑問としておこるのも当然なことです。例え悪人であっても、私たちの命の危険を冒して救うべきかを知ろうとしてここで扱っている以上、私の道徳的進度に応じてこの問題にお答えいたします。

献身は盲目です。敵兵もが助けられるように、社会の敵、つまり悪人も助けてください。そのような場合において、死だけがその哀れな者の人生を奪おうとしているとあなたは考えますか。

いいえ、恐らくその者の過去の人生すべてが奪おうとしているのです。なぜ考えるのですか。人生の最期の時を奪うその瞬間に、その迷える者は過去の人生を振り返ります。もっと正しく言うならば、過去の人生が彼の前に現れるのです。死は彼にとっても早く訪れるかもしれません。

再生は恐ろしいものになるかもしれません。だから、人類よ、身を投じてください。

スピリティズムの科学によって明らかにされたあなたたちは、身を投じ、彼を危険から救ってください。すると、あなたたちを罵りながら死んで行ったかも知れなかったはずのその悪人は、あなたたちの腕の中に飛び込んでくるかもしれません。しかし、

あなたたちは、彼がそうするかどうかを問うてはならず、援助に走らなければなりません。なぜなら、援助することによってあなたたちの心の中で「あなたたちには助けることが出来る。彼を助けよ」と叫ぶ声に従うことが出来るからです。(ラムネ― パリ、1862年)




   第12章   あなたたちの敵を愛しなさい   
悪を善によって報いる

、「あなたたちの隣人を愛し、あなたたちの敵を憎みなさい」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。

「あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちのために祈りなさい。そうすることによって、あなたたちは、善人の上にも、

悪人の上にも太陽を昇らせ、聖なる者にも、不正なる者にも雨を降らす、天におられるあなたたちの父の子となることが出来るのです。

なぜなら、あなたたちだけを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受け取ることが出来るでしょうか。徴税官でさえそのようにしているではありませんか。

あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っているということになるでしょうか。異教徒たちも同じことをしているではありませんか」。  (マタイ 第五章 43-47)

「あなたたちの正義が、書記官やファリサイ人たちの正義よりもまさっていなければ天の国へ入ることはできません」。    (マタイ 第五章 20)



、「罪人でさえ、愛してくれる人を愛することが出来るのですから、もしあなたたちが、あなたたちを愛してくれる人だけしか愛さないのであれば、あなたたちはどんな功労があることになるでしょうか。

罪人でさえも同じ事が出来るというのに、もしあなたたちが、あなたたちに善を行ってくれる人だけにしか善を行わないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるでしょうか。

罪人でさえお互いに貸し借りし合い、同じ便宜を受けているのに、もし、あなたたちが同じ頼みを聞いてくれる相手にしか貸さないのであれば、あなたたちにはどんな功労があることになるでしょうか。しかし、あなたたちは敵を愛し、すべての人に対して善を行い、

そのことによって何も期待することなく貸せば、あなたの受ける報酬は大変大きなものとなり、恩知らずの者にも、悪人にもよくして下さる神の子に、あなたたちはなることが出来るでしょう。ですから、あなたたちの神が慈悲に満ち溢れているように、あなたたちも慈悲に満ち溢れるようになりなさい」。    (ルカ 第六章 32-36)



、隣人への愛が慈悲の原則であるならば、敵を愛することは慈悲の崇高な適用です。なぜなら、その美徳はエゴイズムと自尊心に対して収められた大勝利のうちの一つであるからです。

しかし、一般に人々はこの場合における愛という言葉の持つ意味を間違えるものです。イエスはこれらの言葉によって、普段兄弟や友人に対して持つ親和さと同じものを、敵に対して持たねばならないと言いたかったのではありません。親和さは信用を前提としています。しかし、

私たちに悪を望んでいるということを私たちが知っている者に対して信用を持つことはできません。

彼がそのような態度を悪用することを知りながら、彼に対して友情を広げることはできません。お互いに疑い合っている人たち同士には、同じ考えを共有する人たちの間にあるような共感の表現は存在しません。結局、誰にも、友だちといる時に感じる喜びと同じ喜びを、敵といる時に感じることはできないのです。

 これら二つの違った状況における感じ方の違いは、物理的法則の結果です。悪意のある思考は、痛々しい印象のあるフルイドの連鎖となります。善意に満ちた思考は私たちを心地良いフルイドの広がりによって包んでくれます。

そのことによって、敵が近づいてきた時と友だちが近づいてきた時の感じ方の違いを経験することが出来るのです。

ですから、敵を愛するということは、彼らと友だちとの間にまったく区別を付けてはならないという意味にはなりません。この考え方を実践するのが難しく見えたり、あるいは不可能であると考えるのは、私達の心の中に、友だちのためにも敵のためにも同じ場所を設けなさいと、イエスが私たちに示したことを誤って理解しているからなのです。

人類の言語は語彙(ゴイ)に乏しいので、さまざまな微妙な違いや感じを表現するために同じ語彙を用いなければならないとすれば、場合に応じてその説明を変えなければならないのです。


 ですから、敵を愛するということは、自然の中に存在しない愛情を持ちなさいということではありません。なぜなら、敵と接する時、心臓は友だちと接する時とは全く違った様子で鼓動するからです。

敵を愛するということは、彼らに対して憎しみも、怒りも、復讐の欲望も持たないことです。何かのたくらみによってではなく、無条件に彼らの行う悪を赦すことです。彼らとの和解の障害となるものを置かないことです。彼らに対して悪を望むのではなく、善を望むことです。

彼らが達成する善に対して苦しむのではなく、喜ぶことです。彼らが必要とする時には、確かな救いの手を差し伸べてあげることです。言葉と言動によって、彼らにとって害となるものを回避してあげることです。彼らをはずかしめることではなく、あらゆる悪を善によって報いることです。

これらのことを行うとする者は、あなたたちの敵を愛しなさいという掟を守ることになるのです。



、敵を愛するということは、不信人な者にとっては全くばかげたことです。現世だけが全てあると考える人は、敵を見る時、自分の平静を乱す有害な存在としか捉えることが出来ず、死のみによってその敵から解放されるのができるのだと信じています。

そこから復讐の気持ちが生まれます。世間の目に対して、自尊心を満足させるため以外には敵を赦そうとはしません。場合によっては、本当に赦すことは自分に取って恥ずべき弱さであると感じます。

復讐をしなかったにしても同じだけの怒りを保ち続け、悪の望みを心に秘めることになります。

 神を信じる者、とりわけスピリティストの見方は違っています。なぜなら、過去と未来を考慮し、それらに挟まれた現世は一時的なものでしかないことを知っているからです。そこで悪人や不道徳な人達に出会うことを覚悟しなければならないのは、地球という場所がそうした宿命にあるからです。

彼らの悪意は耐え抜くべき試練の標的であり、高く引き上げられた場所に視点を置くことによって物質的であろうと人為的であろうと苦しみの辛さは減ることになります。

試練に大して不平をいわないのであれば、その試練の役割を担ってくれている人達に対しても不満を述べるべきではありません。試練の経験を悲しむ代わりに、神に感謝するのであれば、甘受と忍耐を示すための機会を与えてくれているその手に感謝するべきなのです。

このように考えると、自然に赦す心が生まれます。それに加え、寛大であればあるほど、自分の目にも自分の存在の高さが高く映るようになり、敵の悪意のこもった攻撃が届かなくなるように感じることが出来るでしょう。

 世の中で高い身分にある人たちは、自分よりも劣っていると感じる人々に侮辱されても、それを攻撃とは受け取りません。人類の住む物質世界よりも上の、道徳の世界の高い位置へ昇った人も同じです。

そのような人は、憎しみや怒りを抱くことは自分を卑しめ、下劣にすることを理解しています。自分の敵を上回るには、より高貴に、より寛大になり、大きな魂を持つ必要があるのです。 




 他界した敵

、スピリティストには、まだ他にも敵に対して寛大でなければならない理由があります。第一に、スピリティストは、人間にとって、悪意を持った状態が永遠に続くものではないことを知っています。

悪意を持った状態というのは、一時的に不完全的な状態にあるということであり、子どもがその欠点を直して行くように、悪人もいつの日かその過ちを認識し、善くなるのだということを知っているのです。

更に、死は敵を物質的な存在から解放してくれるだけであり、敵は地上を後にしてからも憎しみをもって追いかけてくることが出来るのだということを知っています。そして、このように目的を達成することができなかった復讐心は、より大きな苛立ちを生み、一つの存在から次の存在へと続いていくのだということも、スピリティストは知っています。

スピリティズムは、経験と、見えない世界と見える世界の間を支配する法によって、「憎しみを血とともに消す」という表現が根本的に間違っていること、そして、本当は死後も血が憎しみを増幅させるのだということを証明することが出来るのです。

そうしたことにより、赦すこと「敵を愛しなさい」と言うキリストの崇高な教えの実際の有効性をスピリティズムは示しているのです。たとえ無意識のうちにであっても、善なる行いによって、少なくとも全ての報復の口実を奪うことができます。

生前であろうが死後であろうが、敵を友達に変えることができます。悪の行いによって敵が苛立てば、彼自身が神の正義の道具となり、赦さぬ者を罰することになるのです。



、したがって、敵は生きている人たちの中にも、また他界した人たちの中にもいます。見えない世界に存在する敵たちは、多くの人たちに見られるように、憑依や支配によってその悪意を示しますが、

それらは試練の一種であり、他の試練がそうであるように、それらについても人間の進歩に寄与するためには甘受し、地球の劣った性格から来る結果であると受け止めなければなりません。

地上に悪い人間が存在していなかったとすれば、その周囲に悪い霊も存在していなかったでしょう。

生きている敵に対して好意を用いなければならないのであれば、他界した敵にも同じ方法を用いなければならないということができます。

 昔、残酷な生贄によって地獄の神々を鎮めることをしましたが、これらの神々とは悪い霊たちのことであったのです。地獄の神々は悪魔たちに引き継がれて行きましたが、それらはどちらも同じ事です。

スピリティズムはこの悪魔と言うものが、いまだに物質的な本能を棄てきっていない不道徳な人間の魂に他ならず、彼らの抱く憎しみを慈善によって葬らなければ、誰にも彼らを静めることはできないことを示しています。単に悪を働くことを止めるだけでは効き目は無く、それに加えて、

彼らが自ら救うように善の道に導く事によってこそ効果があります。「あなたたちの敵を愛しなさい」という教えは、現世と地球上についてだけ限って説かれたものではなく、それ以前に、宇宙の同胞愛と連帯の大きな法の一部として存在するものなのです。



 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい

「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。悪いものに手向かってはなりません。彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

あなたに一㍄歩けと強いるような者とは、一緒に二㍄行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断ってはいけません。   (マタイ 第五章 38‐42)



、一般に「面目」と呼ぶものに関する世界中の偏った見方は、自尊心や自己の性格を賛美する気持ちによって生まれる不快で敏感な状態を生み、その気持ちは人間に、侮辱を侮辱によって報いたり、

ののしりをののしり返したり、地上の感情の範囲を超えることが出来ない道徳観で正義と思われることによって仕返しをさせます。だからモーゼの法には、「目には目を、歯には歯を」と、モーゼの時代にあった形で表されているのです。

キリストが来ると、「悪は善によって報いなさい」「悪い者に手向かってはなりません。彼が、一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」と言いました。誇りの高い人にとって、この金言は臆病さを表しているように見えます。なぜなら、

侮辱を仕返しすることなく耐える方が勇気が必要であるということを知らないからです。これは、彼らの視界には現世を超えた未来が入らないからです。

 しかし、この金言を文字通り守らなければならないのでしょうか。そうではありません。目を攻撃されたなら相手の目をつぶしなさい、というもう一つの金言と同じように、文字通りに受け取るものではありません。これらの教えをすべての価値において理解するのであれば、たとえ合法的であってもいかなる制裁も非難し、悪を行う者には脅かすことなく自由な機会を与えよ、と理解すべきです。もし、

悪に対して攻撃の歯止めをかけないのであれば、すべての善がその犠牲になってしまいます。自己防衛の法は自然の法であり、誰も殺人者の前に首を出そうとはしません。ですから、この金言の意味をはっきりさせるのであれば、イエスはすべての自己防衛を禁止したのではなく、報復を非難したのです。

一方の頬をたたいた者にもう一方の頬を出しなさいということによって、悪を悪によって仕返ししてはいけないととうことを別の言葉で表したのです。人間はへりくだることによってその自尊心を打ち消すのに都合の良いものは全て受け入れなければなりません。

最大の栄光は、人を傷つけるよりも、攻撃をせずに攻撃を受け、人の不正に耐えることです。人を騙すよりも騙される方が、他人を損なうよりは自分を損なう方が善いのです。

それは同時に、自尊心の見せ合いでしかない果し合いを否定するものです。悪を罰しないことは神の正義と、未来における人生を信じることによってのみ、私たちの自己への愛情と自分の利益に対して放たれる攻撃に辛抱強く耐えることが出来るのです。ですから、

何時もあなたたちに申し上げています。「あなたたちの目を未来に向けてください。物質の世界よりも高い世界に自分を引き上げることができたなら、この地上のできごとで苦しむことはなくなるでしょう」

 

 ♦霊たちからの指導                   *    
復讐
、復讐とは、人間の間から姿を消しつつある野蛮な習慣のうちで、最後まで残存したものの一つです。復讐は果し合いのように、キリスト時代の初期の頃から人類が戦ってきた、野蛮な習慣の最後に残った痕跡の一つであり、したがって、復讐が存在するということは、それを行おうとする霊の遅れを示していることになります。

友よ、だから、自らをスピリティストであることを宣言し、述べる者の心を、この感情が動かすようなことが決してあってはなりません。復讐することは、よく知っている通り、

キリストの「あなたたちの敵を赦しなさい」と言った教えにあまりにも反することであり、赦しを拒む者はスピリティストでないばかりでなく、キリスト教徒でもありません。復讐を思いつく時、心が偽りや低俗さに根ざしているのであればさらに致命的です。

実際に、この致命的で盲目の感情に身を任せてしまう人は、人目につくところで復讐することはありません。それらの感情の方が強い時、敵がいるだけで情熱、怒り、憎しみが燃え上がり、その残忍な者は、敵と呼ぶ相手に相手の上に襲い掛かります。しかし、多くの場合、

偽善的なみせかけを装い、その人を活気づける心の底にある悪い感情を見えなくしています。隠れた道を通り、敵の影を追い、身の危険なしに敵を傷つけるのに適当な時を待ちます。

相手から離れ、いつもこっそりと観察しながら憎しみのこもった罠を準備し、都合の良い時がやってくると、相手のコップに毒を注ぐのです。憎しみがそれほどまでには至らない場合には、相手の名誉や愛情を傷つけます。中傷を退けることなく、裏切りのあてつけを風に乗せてあらゆる方向へ上手に広め、

行く道に積もらせていきます。結果的には迫害者の一陣が通った後に現れた追われる者は、以前その人を迎えてくれていた友好的で善意に溢れた顔の代わりに、冷たい顔つきに出合って驚くことになります。差し出していた手を、今度は握ることさえも拒否され、びっくりしてしまいます。

最後には、最も親しかった友だちや家族でさえもその人を避けるようになり、打ちのめされてしまいます。ああ、そのように復讐する者は、自分の敵の目の前で相手をののしる者よりも百倍罪深いのです。

ですから、こうした野蛮な習慣は棄てなければなりません。こうした過去のやりかたは捨て去らなければなりません。今日、いまだに復讐する権利があると思っているスピリティストは、「慈善なしには救われない」という標語を掲げる集団にはふさわしくありません。そうです、

大いなるスピリティストの家族の一員が未来において、人を赦す代わりに復讐の衝動に身を任せてしまうなどと私は考え続けることはできません。  (ジュール・オリブィエ パリ、1862年)


憎しみ
、お互いに愛し合えば、あなたたちは幸せになります。あなたを無関心にさせてしまう人、憎しみ、落胆を与える人を特に愛さなければいけないということを、心に深く刻んでください。あなたたちの模範とするキリストは、この献身の模範をあなたたちに見せてくれました。

愛の使者であるキリストは、愛のために生命と血液を捧げるまで愛しました。あなたたちを侮辱し、迫害する者たちを愛することの犠牲は、あなたたちにとって悲痛なものです。

しかし、まさにその犠牲が、あなたたちを彼らよりも優位に置くのです。彼らがあなたたちのことを憎むのと同じように、もし彼らを憎むのであれば、あなたたちは彼ら以上の価値はありません。

彼らを愛することは、あなたたちの心の祭壇で神に捧げる汚れのない供え物であり、その供え物の心地よい香りは高く神のもとまで届くことになります。愛の法は一人一人に差別なく、すべての兄弟を愛することを強いるのですから、悪い振る舞いに対して心を固くしてしまってはいけません。

反対にそれは最も厳しい試練なのです。私は、その苦しみを地上に生きている間経験しているので、そのことがよくわかります。しかし、神はそこに在り、愛の法を破る者を現世、

または来世において罰するのです。親愛なる子供たちよ、愛が人を神に近づけ、憎しみは人を神から遠ざけるのだということを忘れないでください。   (フェヌロン ボルドー、1861年)



果し合い
十一
人生を旅に見立てて、ある決められた場所へ向かっていかなければならないのだと考え、日毎の困難も苦にせず、まっすぐ伸びた道からその足取りを踏み外さない人だけがまさに偉大であるといえます。

その目をいつも到達しようとする目的地に向け、道行く彼を傷つける障害物や茨をも気にかけません。

それらは彼を傷つけるのではなく、かすめるだけで、彼の進歩を妨げるものではないことを知っています。ある不正に対して復讐をするために人生の日々を費やすことは、人生の試練にひるんでしまうことであり、神の目には罪として映ります。

人は受けた損害に目を奪われ復讐してしまうのですが、それを防ぐことができれば、復讐はばかげたもので、正気の沙汰ではないように映るはずです。


 果し合いによる殺人は、あなたたちの法に定められているとおり罪深いことです。いかなる場合に置いても、誰も自分の同胞の命奪う権利はもっていません。それは神の目に罪と映るのであり、神はあなたたちの従うべき行動に線を引いてくれているのです。ここでは、

他のいかなる場合にも増してあなたたちは自分自身の判事となっています。あなたたちは自分たちが赦した分だけ赦されるのだということを覚えておかなければなりません。赦すことによって、

あなたたちは神に近づきます。なぜなら、力の強さは温厚さと同族であるからです。地球上で、人類の手によって人類の血が一滴でも流される間は、平和と愛の君臨する真なる神の国がそこに根付いていないのであり、あなたたちの惑星からは恨みや、不和、戦争が永遠に排斥されなければならないのです。


そのような時が来れば、果し合いと言う言葉は、既に過ぎ去った遠く漠然とした過去の記憶の中にのみ存在することになります。(アルジェルの司教アドルフ マルマンド、1861年)



十二、ある場合には、果し合いは疑いもなく、命を軽んじた肉体的な勇気の証明でありますが、それは確実に、自殺と同様に道徳的な臆病さの証明でもあります。自殺する人は人生の苦しみに立ち向かう勇気を持ってません。果し合いをする人は他人の攻撃に耐える勇気を持っていないのです。

キリストはあなたたちに、右の頬を打った者には左の頬も差し出す方が、不正によって仕返しをするよりも価値があり、より尊いことだと教えてくれませんでしたか。イエスはオリーブの園でペテロに、

「あなたの剣をしまいなさい。剣によって人を殺した者は剣によって殺されます」と言いませんでしたか。このように言うことによって、イエスはいつも果し合いを非難しませんでしたか。子どもたちよ、

実際にこの暴力的な気質、血が多く、怒りに満ちた性質から生まれたこの勇気が、最初の攻撃に対して唸り声を上げているのではないでしょうか。

最も軽い不正も、血によってのみ洗い流すことが出来ると考えている人がどこに魂の偉大さが見られるというのでしょうか。ああ、そのような人はおののかなければなりません。

その人の良心の奥底では、いつも次のような言葉が叫びます。

「カインよ、カインよ。あなたは弟に何をしたのですか」。この声にその人は、「私の名誉を守るために血を流すことは必要だった」と答えます。しかし、その人の良心は響き返します。

「残り少ない地上での生活のほんのわずかな時間の間、人間の前にのみあなたの名誉を守ろうとし、神の前に守ろうとしなかった」と。可哀想な愚かな者よ。キリストはあなたたちから受けた侮辱に対して、少しでも血が流されることを強いるでしょうか。

あなたたちはキリストを茨と槍によって傷つけただけでなく、恥辱の十字架にかけ、更にキリストに残酷な苦しみの中で罵声を浴びせたのです。それはどの屈辱に対して、キリストはあなたたちに少しでも謝罪を求めたでしょうか。羊飼いイエスの最後の叫びとは、

自分を処刑する者たちに対する赦しの願いではありませんでしたか。おお、イエスのようにあなたたちを攻撃する者の為に祈り、赦してください。

 友よ、「お互いに愛しなさい」という教えを憶えていてください。そうすれば、憎しみで鳴り響く一撃に対して微笑みで答え、侮辱に対し赦しで答えることが出来るでしょう。世間はきっと怒りに満ちて立ちあがり、あなたたちを臆病者として扱うでしょう。

額を高く上げ、キリストの模範のように、その額を茨によって締め付けられることを恐れないことを見せ、あなたたちの手を、自愛と自尊心にしか過ぎない偽りの名誉の、見かけを守るために認められた殺人の共犯者にしたくないのだとということを示さなければなりません。

神はあなたたちを創造した時、他人の生死を決める権利をあなたたちに預けたのでしょうか。いいえ、この権利は再建と改正のため、神によって自然だけに与えられました。あなたたちに対して神は、

自分自身を棄てることさえも許しません。自殺者と同じように、果し合いをした者は、神の前に姿を現す時血によって印がつけられており、どちらに対して、最高の判事である神は、厳しく長い罰を用意するのです。

自分の兄弟に対して「ラッカ(愚か者)」と言った者が正義によって裁かれることを神が定めたのであれば、自分の兄弟の血で手を染めて神の前に現れる者に対する罰はどれだけ厳しいものとなることでしょうか。   (聖アウグスティヌス パリ、1862年)



十三、果し合いは、昔は神の審判とも呼ばれてましたが、今だに社会を支配する野蛮な制度の一つです。では、もし二人の敵対者が、争いの決着をつけるために煮え立つ湯につけられたり、赤く燃える鉄をあてられたりして、その苦しみによく耐えた方が正しいのだとされる方を見たら、

あなたたちは何と言うでしょうか。全くばかげた習慣であると考えないでしょうか。果し合いとは、このようなことすべてよりもさらに悪いものです。果し合いの上手な者とってそれは、

あらゆる計画のもとに彼の放つ一撃が有効であることを確信した上で行われる冷血の殺人です。

能力のなさと弱さのために、打ち負かさせることがほぼ決められてしまった相手にとっては、冷めた考えで行われる自殺であると考えることができます。多くの場合、問題を偶然に委ねることで、このような犯罪的な選択を避けようとしていることも知っています。しかし、

それでは中世の時代の神の審判に、別の方法で遡っていることになりませんか。その時代、罪に対する責任は現在よりも遥かに小さかったのです。神の審判という呼び名自体が信心の存在を示していますが、

それは、無実の者が死んでしまうことを神が赦す筈がないという、神の正義に対する素直な信仰でした。しかし、結局、果し合いにおいては、全てが野蛮な力に任せてしまうため、責められた者が死んでしまうことも珍しくなかったのです。

 馬鹿らしい自己中心的な愛、つまらぬ虚栄心、気の狂った自尊心は、いつになればキリストの慈善、隣人愛、キリストの教え、模範となった謙虚さにとって代わられるのでしょうか。

それが実現した時にはじめて、いまだに人類を支配するこの恐ろしい定めが消滅するのであって、法律によってそれを抑制することはできないのです。なぜなら、悪を禁止するだけでは事足りないからです。善の原理と悪意の恐れが人類の心に宿らなければならないのです。(ある守護霊 ボルドー、1861年)
 


十四、自分が求めるべき賠償の要求を拒んだり、自分を攻撃した者に対する謝罪を求めなかったら、自分は人からどのように見られるだろうか、とあなたたちは何時も言います。あなたたちのように、

愚かで遅れた人間はあなたを非難するでしょう。しかし、知性的で道徳的な進歩の光に明るく照らされている者は、あなたが真なる知性に従って進んでいると言うでしょう。

 少し考えてみて下さい。あなたたちの自尊心は、何の意図もなく、攻撃する意志もなく、あなたたちの兄弟たちによって述べられたたった一つの言葉によって傷つけられたと感じ、辛辣な態度で返答することで口論を引き起こします。決定的な時がやってくる前に、

自分自身にキリスト教徒としての行為をしているかどうか問い直しているでしょうか。なにかをあなたの同志から奪うことによって、社会に対してどれだけの責任を追うことになるでしょうか。

夫から妻を奪ったり、子供から母親を奪ったり、保護してくれていた父親から息子を奪ったりした後に、あなたたちを襲うことになる後悔について、考えてみたことがあるでしょうか。攻撃をした者は、誰かに謝罪する責任を負います。しかし、

攻撃した者が自分の欠点を認識し自ら自然に謝罪する方が、攻撃されて不平を言う権利を持つ者の命を危険にさらすよりも貴いことではないでしょうか。

自分自身がひどく傷つけられたと感じたり、愛しい人が傷つけられたと攻撃した者が感じるのは、場合によっては、自己愛だけが原因となっているのではないかと私は思います。傷つけられた心は苦しみます。

しかし、不名誉な行為を行う可能性のある惨めな者に対して、私たちの身を投じ、命を危険にさらすことはばかげているばかりか、そこに存在していた何かしらの感情は、その者が死んだとしても消えないのではないでしょうか。

 実際に血が流されると、事実は誇張されて轟くことになります。それが偽りであるなら、自分自身に降りかかってくることになり、もし、真実であったとすれば、沈黙の中で埋葬されなければなりません。したがって復讐への渇きを癒すことしか残りません。


ああ、この悲しい満足は、殆どいつも、この人生の間でも、苦しい後悔に場所を譲ることになります。
攻撃する者が死んでしまうとすれば、どこで改善することが出来るでしょうか。

   慈善が人類の行動を規制するようになった時、人類の行動と言葉はこの金言に一致するようになります。

「あなたたちにして欲しくないことを他人にしてはなりません」。この言葉を実現させることにより、あらゆる不和の原因は消滅し、果し合いや、民族対民族の果し合いである戦争の原因も、ともに消えていくことになるでしょう。               (フランシスコ・ザビエル ボルドー、1861年)



十五、世慣れた人、運の強い人々はたった一言の衝撃的な言葉や、取るに足らぬことの為に、神から授かった命を投げ捨てたり、神にのみ属する同胞の命を投げ捨てますが、そのような人達は、愚かさや乏しさのために他人の家に入って盗みを働き、それを阻もうとする者を殺してしまう者より百倍も罪深いのです。

そのような場合は、たいてい無教育な者が関わっているのであり、善と悪の認識が不完全なのです。

それに対して、果し合いを行う者はより教育を受けた階級に属しています。一方は野蛮な殺人を行いますが、他方は社会が赦してくれるよう、順番を踏んで周到に殺人を行います。

全く、果し合いを行う者は、復讐の気持ちによって激怒したはずみで相手を殺してしまった不幸な者よりも、無限に罪深いのだということを私は付け加えておきます。

果し合いを行う者には、感情の激化と言う言い訳はできません。なぜなら、侮辱を受けてから復讐するまでの間、そこには必ず考え直す時間が存在しているからです。ゆえに、果し合いを行う者は、冷静に前もって計画を考えているのです。その敵をもっとも安全に殺すために、全てを研究し、計算します。

自分自身も命を危険にさらすことは事実ですが、そのことは世間の目には、果し合いを行う者の、命を惜しまぬ勇気ある行動として映り、名誉を回復させることになるのです。しかし、

自分自身は安全だと考える側に勇気が存在するでしょうか。強者の権利が法を構成していた野蛮な時代の遺産である果し合いは、真の意味での名誉の尊重と、人類が本来の人生に対してより鮮明な信仰を抱くようになるにつれ、消滅していくことでしょう。 (聖アウグスティヌス ボルドー、1861年)



<備考>果し合いはだんだん珍しいものになりつつあり、幾つか非常に痛々しい例もありますが、時代の流れとともに、その数は遠い昔に行われていたとは比較にならない程少なくなりました。

昔、人は誰かに会う予定なしに家を出ることはなく、でる時には必要な準備をしていました。

その時代の特徴的な習慣として、人々は、目に見えるように、あるいは隠して、攻撃や防御をする為の武器をいつも携帯していたことがあげられます。そうした武器の使用が廃止になったことは、その習慣がすたれたことを示しています。紳士たちが鉄の鎧を持ち、槍で武装して馬を乗りまわした時代から、

やがて簡易な剣が名誉のしるしや装飾品として腰に付けられるようになった変化を見ることは、とても興味深いことです。習慣に見られるもう一つの変化に、一対一の戦いが、昔は道の真っ只中、人々の目の前で戦うのに必要な広さだけを残し群集に取り巻かれて行われていたのが、

今日ではそんな光景を見ることはできなくなったということがあります。現在では、人の死とは心の動揺を伴うものですが、過去の時代においては、死に対して誰も注意を払う者はいなかったのです。スピリティズムはこれらの野蛮な時代の最後の痕跡を消し、人類に慈善と兄弟愛の精神を吹き込むのです。




  第13章      右手が行うことを左手に知られてはなりません    

 見せびらかすことなく善を行うこと
一、人々に見てもらおうと、人前で善を行うことが無いように気を付けなさい。なぜなら、そうしないと、天の父からの報いを受けることはできないからです。

人に施しを与える時には、偽善者たちが路上や神殿でしているように、人に褒められようとして、そのことを言いふらしてはなりません。誠に言いますが、彼らはすでにその報いを受け取っているのです。

施しを与える時には、右手が行うことを左手に知られてはなりません。そうすれば、その施しは誰にも知られないものとなり、あなたたちの父は、密かに行われていることを見て、あなたたちに報いを与えて下さるのです。(マタイ第六章 1‐4)


、イエスが山から降りて来られると、大勢の人々がその後を追った。その時ハンセン病を患う者がイエスに会おうとやってきて、イエスを讃えながら言った、「主よ、もしあなたがそう望むのであれば、私の病を癒してください」。

イエスは手を伸ばすと彼に触れて言われた、「私はそれを望みます。病が癒されますように」。とすると、ハンセン病の症状が消えた。そしてイエスは彼に言われた、「誰にもこのことを言ってはなりません。しかし、祭司たちにあなたの姿を見せ、モーゼによって教えられた恵みを捧げ、人々に証明しなさい」。  (マタイ第八章 1‐4)


、見せびらかすことなく善を行うことは大きな価値があります。与える手を隠すことは更に価値があることです。それは確実な道徳的優位性の証ですが、と言うのも、世間一般より高いところからもたらされるものに対して目を向けるということは、今生から自分を切り離し、来世に身を置くことが必要となるからです。

一言で言うならば、人類の上に身を置き、人間の証言によって得られる満足を棄て、神に認められるのを待つことです。神にではなく、人々に認められることを好む者は、神にではなく人々の方を信じているということであり、未来における生活よりも、現世により価値を置いていることになります。

もしそんな筈はない、というのであれば、自分の言っていることと信じていることが違っていることになります。

 与えたものを受け取った者が、その恩恵を声を大にして言い振らしてくれることが期待できなければ、人に与えない人がどれだけいることでしょうか。

公の場では多くを与えながらも、隠れた場所では小銭一枚さえも与えない人がどれだけいるでしょうか。だからこそ、イエスは言ったのです。「人に見せびらかすように善を行った者は、すでにその報いを受け取っているのです」。真に善行によって自分自身の栄光を地上に求める者は、

すでに自分に対してその支払いを行っているのです。その人に対して、神はもはや何も負うものがありません。その人はただその自尊心への罰が残されているのです。

 右手が行うことを左手に知られてはなりません。という言葉は、謙虚な善行の特徴を見事に示しています。しかし、真の謙虚さが存在するとすれば、偽りの謙虚さ、見せかけの謙虚さも存在します。

与える手を隠しながらも、そのほんの一端だけが見えるようにしておき、周りを見まわし、それを隠すのを誰かが見てくれているかどうかを気に掛ける人がいます。

これはキリストの金言の恥ずべき物まねです。自尊心の強い善行者が、人間の間でさえもその価値を下げられてしまうのであれば、神の前でもそうではないでしょうか。

このような人々も地上においてすでにその報いを受けているのです。人々に見られることにより、彼らは満足しているのです。彼らが受けることが出来るのはそれが全てなのです。

では、善行の恩恵の重さを、それを受ける人に負わせ、恩恵を受けていることを認識していることの証を示すことを強要し、その置かれた立場を意識させ、恩恵を与えるために払われている犠牲の大きさや、その値段の高さを自慢する人々は、どのような報いを受けることが出来るでしょうか。

おお、こうした者からは、その自尊心に対する最初の罰として、その名前を人々に祝福され口にしてもらう機会さえも奪われ、地上における報いを受けることはできません。

虚栄心のために乾かされた涙は、天に昇っていくのではなく、恩恵を受ける立場にある苦しむ者の心に再び落ち、その心を痛めることになります。

この様にして行われた善からもたらされる益は何もなく、自尊心の強い善行者はそのことを嘆くことになりますが、嘆き悲しまれた恩恵とは、偽りの、価値のない貨幣でしかありません。

 
 見せびらかすことなく行われた善行には二重の価値があります。受ける人の感受性を守るのであれば、受ける人は人間としての威厳を保ち、自分自身に対して不快を感じることなく恩恵を受けることが出来、そうであるならばその善行は、物質的な慈善であるばかりでなく、道徳的な慈善でもあります。

というのも、ある仕事による対価を受け取ることと、施しを受け取ることでは大いに違うからです。
 

一方仕事を施しの形に変えることは、その方法によっては、恩恵を受ける者を侮辱するものであり、他人を侮辱する時、そこには常に自尊心と悪意が存在します。真なる慈善は、それとは反対に、善行を隠したり、気を悪くさせる可能性のある最も小さいことさえも防ごうと細やかに気を使い、工夫を凝らさなければなりません。

なぜなら、どんな小さな道徳的な不和でさえも、必要以上に問題を大きくすることになるからです。自尊心の強い者の慈善は受ける人を圧迫しますが、真なる慈善は温和で優しい言葉を身に付け、それによって受ける人を、善行を働く者の前に気楽にさせます。

本当の寛大さは崇高で、善行者は自らの立場を逆にし、善を働く相手の前に自分が受益者であるのだと感じる方法を知っています。これが「右手が行うことを左手に知れてはなりません」ということの意味なのです。



 見えざる不幸
、大きな災害の時には、災害から復興するための感情に駆られ、寛大な衝動に満ちた慈善を見ることができます。しかしこうした一般的な災害と並行して、

人目につくことの無い幾千もの個人的な災害が発生しています。これらの見えざる目立たない不幸は、救済を求めることを待たずに、真の寛大さによって見つけ出されるものです。

 きちんとした簡素な衣服に身を包み、同じような質素な服装をした女の子を連れたその品の良い女性は誰でしょうか。あるみすぼらしい家に入っていきますが、もちろんそこの住民のことを知っているのでしょう、玄関で丁寧に挨拶をしています。彼女はどこへ行くのでしょうか。

子供たちに囲まれたある母親が横たわる屋根裏まで上がってきます。彼女がやってくると、そこにいる者たちの痩せた顔に喜びの笑みがこぼれます。彼女はそこにいる者たちの苦しみを和らげに行ったのです。

彼女は優しく心休まる言葉とともに、彼らが必要としているものを持ってきましたが、その言葉は、乞食ではない彼らが、恥ずかしいと感じることなくその善意を受け止めることができるようにします。

父親は入院しており、その間、母親は労働によって家族の必要としているものを賄うことが出来ないのです。

その女性のお蔭でその可哀想な子供たちは寒さに凍えることもなければ、お腹を空かすこともありません。子供たちはしっかりとした服を着て学校へ行くことができ、母親の胸から弟たちに与える母乳が無くなる心配もありません。

彼らの間で誰かが病気になったとしても、この善き婦人は彼らの必要とするであろう物質的援助を拒むことは無いでしょう。彼らの家を出ると彼女は病院へ行き、そこにいる父親を慰問し、その家族の様子を伝えることによって父親を安心させます。

道の曲がり角には車が彼女を待っており、その車にはみなが必要としている物が全て積まれ、次から次へと人々を訪ねていきます。訪れる人々に対して、どのような宗教を持っているのか、どんな意見をもっているのか等と尋ねることはありません。

なぜなら、すべての人が神の子であり、自分の兄弟であるのだと思って居るからです。

一回り終えると自分に、良い一日が始まったと言います。彼女の名前は何と言うのでしょうか。どこに住んでいるのでしょうか。誰もそのことを知る人はいません。貧しい人々に彼女は何の意味も持たない名前を教えてあります。しかし、彼女が人々を慰める天使であることに間違いありません。

毎晩、天の父へ向けた彼女に対する感謝の言葉をカトリック教徒からも、ユダヤ教徒からも、プロテスタントからも聞くことができます。

どうしてそんな質素な服装をしているのでしょうか。外見によって人々の貧しさを辱めないためです。

なぜ、彼女の娘について来させるのでしょうか。どうやって善行を行うのかを娘が学ぶことが出来るためです。若い娘も慈善を行いたいと思っています。しかし母親は彼女に言います。

「あなた自身が何も持っていないのに、何を人に与えることが出来るのですか。たとえ私があなたに何かを手渡し、それをあなたが誰かに与えたとしても、あなたにとってどんな価値があるのでしょうか。

その場合、実際に慈善を行っているのは私だということになります。それによってあなたにはどんな功労があったことになるでしょうか。それでは正しくありません。病気の人達を訪ねる時、あなたは私が彼らの面倒を見るのを手伝って下さい。それだけでもたくさんだと思いませんか。

これ以上簡単なことはありません。役に立ち技術を身に付けてこの子供たちに洋服を縫ってあげなさい。そうすればあなた自身が持つ物を人に与えることができます」。

この様にして、真なるキリスト教徒であるその母親は、キリストの教えてくれた美徳の実践をその娘に教えているのです。彼女はスピリティストでしょうか。そのようなことは重要なことではありません。


 家の中では自分の置かれた立場上、全く普通の女性として振る舞います。しかし、彼女は神と自分自身の良心によって認められることしか求めないため、彼女が何をしているのか知る者はいません。

ところがある日、予期せぬ時に、彼女が世話をしている人の一人が手作の作品を売りに彼女の家にやってきました。この女性は彼女を見てそれが自分の世話してくれている人だということに気づきました。

すると彼女は、「静かに。誰にも言ってはいけませんよ」と言うのでした。それはイエスが言っていたのと同じことです。



 やもめの寄付
、イエスは賽銭箱の前に座り、人々がどのようにそこにお金を入れて行くのかを見守られていると、多くの豊かな人々が賽銭箱にたくさんのお金を入れて行くのが見られた。そこへ、ある貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨を二枚だけ賽銭箱に入れた。

するとイエスは使徒たちを呼んで言われた。「誠に言いますが、あの貧しいやもめは、誰よりもたくさん寄付をしました。他の者たちは皆、豊富にあるものを与えましたが、彼女は、乏しい中から持っている生活を支えるもの全てを与えたからです」。(マルコ 第十二章 41-44 第二十一章 1‐4)


、多くの者が、必要なものが不足しているから望むだけの善を行うことが出来ないと歎き、豊かになることを望むのは、その富を有効に活用したいからだと言います。それは紛れもなく賞賛に与えすることであり、それは全く誠実な願いである人もいます。

しかしながら、ほとんどの人が、善を行うことに対して全く無関心なのではないでしょうか。

他人に対して善を行いたいと望みながらも、まず自分自身に対して善を行うことを重んじ、自分に不足している贅沢をもう少し楽しみ、その残りを貧しい人達に与えようとしている人がいないでしょうか。

こうしたもう一つの欲望は、恐らくそうした欲望を持つ自身の目にさえも見えていないのですが、もし彼らが自分自身をよく調べてみるなら、それを心の底に見つけ出すことが出来るでしょう。

真なる慈善とは、自分のことよりも優先して他人のことを考える事なのですから、そうした欲望はよい意図の功労を全く打ち消してしまいます。この場合の事前の高尚さとは、各々がその労働の中で、

自分の力、知性、才能を活かすことによって、それぞれの寛大な意向を実現させるために不足しているものを求めるところにあります。その中には神を最も喜ばせる自己犠牲が存在します。

不幸にして大多数の人々は、財産探しをしたり、偶然の好機を待ったり、予期せぬ遺産相続を期待したりなどといった、途方もない計画に走り、最も手っ取り早く、努力なしに豊かになる方法ばかりを夢見ています。

また、そうした目的を遂げるために霊的な援助が受けられるかと期待する人達は、何と言えばよいのでしょうか。彼らは全くスピリティズムの神聖なる目的が何であるかをわかっておらず、また、神が人間と交信することを許した霊たちの役割というものについてはなおさら知らないのです。

結局彼らは失望によって罰せられることになるのです。  ([霊媒の書]第二部 294,295) 

 その意図にまったく私欲的な考えを含んでいない人々は、自分に必要なものを少しでも失うことなく人に与える金持ちの金よりも、必要なものを失ってでも人に与える貧しい者の寄付の方が、

神の天秤には重く計られるのだということを思いだし、心に望む全ての善を行うのは不可能であるということを知って、慰められなければなりません。実際貧困を大規模に救済することが出来るのであれば、前者の行いの方が偉大です。

しかし、そうした行いができないのであれば、状況に従って可能な限り行わなければなりません。ただ、人の涙を乾かすことが出来るのはお金だけで、お金がないからと言って黙っていて良いものなのでしょうか。

心からその兄弟たちの為に役に立とうと思う者にはみな、その望みを叶えることが出来る機会が何回も与えられます。そうした機会は見つけようとすればその姿を現します。ある方法が見つからなかったとしても、別の方法が見つかるでしょう。

なぜなら、自分の能力を、仕事をしたり、人の肉体的、もしくは道徳的な苦しみを和らげたり、人の役に立つ努力に向けることのできない人はいないからです。

誰もが、お金がない、仕事がない、時間がない、休みがないと言っているうちは、なにも隣人の為に捧げることはできません。しかしそこには、貧しい者の寄付や、やもめの寄付が存在するのです。
 
 



 貧しい者、身体の不自由な人を招くこと。見返りを求めずに与えること

、イエスは自分を招いた者に言われた、「晩餐をしたり、食事の席を設ける時には、あなたたちの友人、兄弟、親類あるいは裕福な隣人を招いてはいけません。なぜなら彼らはその後、

あなたたちに受けたものを返そうとあなたたちを招くからです。小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な人を招きなさい。彼らはお返しをする方法がないので、あなたたちに祝福されるでしょう。正しい人々が復活する時、あなたたちは報いられるでしょう」。

これらの言葉を聞いていた列席者の一人がイエスに言った、「神の国でパンを食べる者は幸いです」。
                                                                                         (ルカ 第十四章 12-14)



、祝いの宴を行う時には、あなたたちの友達やだち兄弟、親類、あるいは裕福な隣人を招いてはいけません。と言ったイエスの言葉は、言葉通りに取ればばかげたものですが、そこのある精神を理解するならば、崇高なものです。

友だちの代わりに、道にいる物乞いを集めて食卓につくことをイエスが意図したわけではありません。

イエスの言葉の殆どいつも比喩的に使われているのは、思考の繊細な色合いを感じることが出来ない人には、強いイメージによって鮮明な色彩を放つように見せることが必要だからです。

この考えの核となる部分は次の言葉に示されています。「彼らにお返しする方法がないので、あなたたちは祝福されるでしょう」。

つまり報われることを考えに入れて善を行ってはならず単に善を行うことに対する喜びの為に行わなければならないということです。強烈な比較を使うことによって、イエスは言いました。

「小宴を催す時はむしろ、貧しい者や身体の不自由な者、足や目の不自由は人を招きなさい。彼らにはお返しする方法がないのです」。小宴と言う言葉は、大きな宴のことではなく、あなたたちがふだん楽しんでいる贅沢に加わる場合であると理解しなければなりません。

しかしながら、この注意を促す言葉は文字通りに理解することもできます。何と多くの人が、招かれたことを光栄に思い、お返しに招いてくれる人だけを宴の席に招いていることでしょうか。

反対に、自分より不幸な親類や友人を招くことで満足する人もいます。あなたたちのうちの何人がこの中に数えられるでしょうか。この様にすれば、目立たず大きな事業を行うことができます。

誠心誠意、見せびらかすことなく、善を目立たなくさせることができるのであれば、このように行う人は、目の不自由な人や身体の不自由な者を探しに行かなくとも、イエスの教えを守ることが出来るのです。



   ♦霊たちからの指導                        ★   


 物質的な慈善と道徳的な慈善
、「お互いに愛し合い、他人には私たちがして欲しいと思うようなことをしてあげましょう」。どんな宗教も、どんな道徳も、これら二つの考えに要約されています。これらがこの世で守られたなら、みなが幸せになるでしょう。そこには反感や不快は存在しないでしょう。

さらに、貧困もなくなるでしょう。なぜなら、裕福な者の贅沢な食卓から、多くの貧しい者が食事をすることができるようになるからで、そうなれば私が最後の人生を過ごした薄暗い街角にいたような、全てに事欠いた、惨めな子どもたちを引き連れた可哀想な女性たちをもう見ることもなくなるでしょう。

豊かな者たちよ、このことを少し考えてみて下さい。出来る限り不幸な者たちを助けてあげてください。

神がいつの日か、あなたの行った善に対する報いを与えてくれるように、またあなたたちが住んでいた地上から出てくる時、あなたたちに感謝する霊たちが並んであなたたちをより良い幸せな世界へ迎えてくれるように、他人に対し与えて下さい。

 私の最後の人生において、役に立つことが出来た相手と死後の世界において再会した時の喜びをあなたたちも知ることができたなら。

 ですから、あなたたちも隣人を愛してください。自分たちを愛するように愛してください。なぜなら、不幸な者を寄せつけまいとするとき、あなたたちは過去の友人、父親、兄弟を自分から遠ざけようとしているのかもしれないということをすでに知っているからです。

だから、霊の世界に戻って不幸な者たちが誰であったのかを知った時、どんな失望を感じることになるかを考えてみて下さい。

物質的には何の負担もなく、誰にでも行うことができるのに、実践するとなると最も難しい道徳的な慈善というものがどういうものであるのか、よく理解してほしいと思います。

道徳的な慈善とは、生きる者たちがお互いに辛抱し合うことであり、それはこの遅れた世界、あなたたちが現在肉体を持って生まれている世界においては、非常にまれにしか行われていないことです。

私の言うことを信じてください。自分よりも愚かな者には話をさせておき、自分は黙っていることが、人間にとって大きな利益をもたらすのです。人を冷かしているばかりの人の口から洩れる冷やかしの言葉に耳を傾けないことや、あなたを侮辱の笑みを浮かべて見下す人達を無視することは、一種の慈善なのです。

彼らは多くの場合自分たちがあなたたちよりも優れていると誤って思い込んでおり、唯一の真の世界である霊の世界においては、あなたたちよりも劣っていることが珍しくありません。この場合、必要なのは謙虚さではなく、慈善です。なぜなら他人の悪に関心を持たないことは道徳的な慈善であるからです。

だからと言って、この慈善は他の慈善の妨げとなってはいけません。ゆえにあなたたちの同胞を軽んじることが無いように、特に注意をしてください。私があなたたちにすでにお伝えしたことをすべて覚えておいてください。

今日あなたが拒む一人の貧しい者は、今日より劣った条件に置かれた過去のあなたたちにとっての大切であった誰かなのかも知れません。地上で幸いにして幾度か助けることができた貧しかった人と、私はこちらで会うことができましたが、今度はその人に、私が助けを懇願することになりました。

貧しい者や、病気の者を拒む前に、私たちは皆兄弟なのだとイエスが言ったことを覚えておいてください。さようなら。苦しんでいる人たちのことを考え、祈ってください。(ロザリア修道女 パリ、1860年)
 

、友よ、私はあなたたちの多くが次のように言うのを聞いたことがあります。

「私自身に必要なほんの少しの物さえも所有していないのに、どうして慈善を行うことが出来るでしょうか」。

 友よ、慈善を行う方法は幾千もあります。思考によっても、言葉によっても、慈善を行うことはできます。思考によって行うには、光を見ることなく他界していった、見捨てられた貧しい人々のために祈ることができます。心を込めて放たれた祈りは彼らに慰安を与えます。

言葉によって行うには、日々出会うあなたたちの仲間によい助言をしたり、落胆したり、失うことによって神を冒涜することになってしまった者には、「私もあなたと同じでした。

自分が惨めだと思って居ました。しかしスピリティズムを信じました。そしてご覧の通り私は幸せです」ということができます。


「無駄だ、私の人生は終わろうとしており、生きてきたとおりに私は死んで行くのだ」と言う年老いた者には、「神は誰に対しても平等にその正義を用います。最後の労働者のことを思いだしてください」ということができます。

この世のことばかりに気を取られてしまっている仲間たちによって悪癖が付いてしまい、悪の誘惑に負けてしまう子どもたちには、「親愛なる子どもたちよ、神はあなたたちのことを見ているのです」と言うことができ、あなたたちはその温かい言葉を繰り返すことに飽きてはなりません。

そうした言葉は、子供たちのその幼い知性を芽生えさせ、彼らを怠け者でなく、立派な人間にすることになります。これも慈善の一つです。

あなたたちのうち、「ああ。地上には余りにも多くの人間がおり、神はすべての者を見ることはできまい」という人がいます。友よこの言葉をよく聞いてください。

「山の頂上にいる時、そこから何十億の砂粒に目が届きませんか」。いいですか。神も同じようにあなたたちを見ることが出来るのです。あなたたちはそれらの砂粒が風にまかれ、まき散らされることを許しますが、神も同じようにあなたたちがその自由意思を働かせることを許すのです。


ただし、神はその無限の慈悲により、あなたたちの心の底に良心という名の注意深い番人を置いてくれました。彼の声を聞いてみて下さい。その声はあなたたちに良い忠告だけをしてくれます。時々あなたたちは、悪の心と戦わせることによって彼を無感覚にしてしまいます。

すると彼は黙ってしまいます。しかし追い払われたその哀れな番人は、あなたたちの中に後悔が陰をのぞかせると、再びあなたたちに自分を聞いてもらおうとします。

その声を聞き問うてみて下さい。多くの場合、彼から受け取る忠告によって、あなたたちは慰めを得ることができます。

 友よ、新しい連隊が現れる度に将軍は旗を掲げるものです。私はあなたたちに標語として次のキリストの言葉を捧げます。「お互いに愛し合いなさい」。この規律を守り、その旗の下に集まれば、幸運と慰安を得ることが出来るでしょう。  (ある守護霊 リヨン、1860年)




 善行
十一、友よ、善行はあなたたちに最も純粋で甘い喜び、つまり後悔にも無関心にも邪魔されることの無い心の喜びを与えてくれます。ああ、

美しい魂たちの持つ寛大さが、どれほど偉大で柔らかいものであるかを理解することが出来れば、その感覚は、自分自身を見つめる時と同じように他人を見つめることができるようになり、そのことによって兄弟に衣服を与えるために自分の衣服を脱ぐことができるようになります。

友よ、他人を幸せにするということだけに身を捧げることが出来たなら、神の代理人として、辛さと苦しみばかりの人生しか知らない家族に喜びを届けることが出来た時、彼らの苦しめられた表情が、とたんに希望に輝くのを見た時の喜びは、地上のどんな宴にも例えることはできません。


なぜなら、食べるものにも不足した不幸な彼らは、「お腹が減った」と言う、鋭い刃物のように母親の心を突き刺す言葉が、生きることが苦しむことであることをまだ知らぬ子供たちによって、繰り返し泣き叫ばれるのを聞いたことしかなかったからです。

おお、その時、一寸前には失望しか感じていなかった者に再び喜びが生まれたのを見た時に受ける印象が、どんなに素晴らしいものかを理解しなければなりません。あなたたちがあなたたちの兄弟との間との間に持つ義務を理解しなければ なりません。不幸な者たちに会いに出掛けてください。


中でも、より苦しみの大きい、目立たぬ不幸の救済に出掛けて下さい。愛する者たちよ、救い主の次の言葉を心に抱き出かけて行って下さい。

「これらの小さい者たちに服を着せる時、あなたは私を通じて服を着せているのです」 


 慈善。全ての美徳を一つにまとめる崇高な言葉よ、それが人々を幸せに導くのです。慈善を実践することにより、その人は自分自身の未来における無限の喜びを創っているのであり、地球上に追放されている間は、やがて後に愛に溢れる神のもとに集まる時に受けることのできる喜びを、試しに味わうことで慰安としているのです。


神なる美徳よ、地上で満足を味わうことのできた唯一の時を与えてくれたのはあなたでした。肉体を持って生きる私の兄弟たちよ、「人生の苦しみの為の薬となる、心の安らぎ、魂の喜びは慈善に求めなさい」と伝える友の声を信じてください。

おお、神を非難しそうになった時には、あなたたちより、下方に目を向けてください。和らげてあげるべき不幸がどれだけあることか、家族を持たぬ子供たちがどれだけいることか、死が訪れた時、親しい助けの手を誰からも差し伸べられることなく目を閉じて行く老人がどれだけいることか見てください。

やらなければならない善が、何と多く存在することか!おお!不平を言ってはなりません。

反対の神に感謝し、あなたたちの同情、あなたたちの愛、あなたたちのお金を、この世の富を受け継ぐことができず、苦しみ孤立に衰弱した者たちすべての為に、精一杯費やしてください。この世で最も甘い喜びを感じることができるようになり、また、その後には――それは神のみが知っているのです。
                                     (アルジェルの司教 ボルドー、1861年)



十二、「善を行い、慈善的になりなさい」。これがあなたたちの手に中に握られた天に入るための鍵です。永遠の幸福は、どれもが「お互いに愛しなさい」と言う戒律の中に含まれているのです。

魂は隣人への献身なしに霊的に高い次元昇っていくことはできません。魂は慈善の衝動の中にのみ幸運と慰安を見つけることが出来るのです。善人となり、あなたたち兄弟を助け、恐ろしいエゴイズムの傷を捨て去りなさい。この勤めを遂げることが出来れば、永遠の幸福への道が開かれます。

更に、美しい献身の行動や真の慈善の行動が語られるのを聞いて、歓喜と内なる喜びによって心がうち響くのをいまだに聞いたことが無い人が、あなたたちの間にどれだけいることでしょうか。

もしあなたたちが、善を行うことがもたらす快楽だけを求めることが出来れば、何時も霊的成長の道を歩むことができるでしょう。規範に事欠くことはありません。意欲を見るのがまれなだけなのです。

あなたたちの歴史は、大勢いの善人たちの慈悲深い思い出を守っているのだということを覚えておいてください。

イエスは、愛と慈善に関することを全てあなたたちに伝えませんでしたか。なぜ神からの教えを軽んずるのですか。なぜ神からの言葉に耳を閉ざし、そこにあるあらゆる善なる規律に心を閉ざすのですか。

私はあなたたちに、もっと福音の朗読に関心を持ち、それをもっと信じてほしいと思います。それなのに、あなたたちはその本を軽んじ、中身のない言葉の倉庫であるかのように考え、封の切られぬ手紙のように扱い、その見事な法のことを忘れ去ってしまいます。

あなたたちの悪はすべて、神の法の要約をあなたたちが自ら放棄することによって生まれるのです。イエスの献身を伝える頁を読み、それを学んで下さい。

強い者たちよ、お互いに愛し合ってください。弱い者たちよ、あなたたちの温情、新人をあなたたちの武器としてください。人の心を動かし、いつもあなたたちの教義を広めるようにしてください。

私たちがやってきたのは、あなたたちに勇気を与えるためです。神によって許されたためにこうして私たちは現れ、あなたたちの熱望と美徳を刺激しにきたのです。

しかし、一人一人が望むのであれば各々意欲と神の助力で事足りるのです。霊現象は、目の閉じた人、不従順な心の持ち主のためにのみおきるのです。


 地上のあらゆる美徳は、慈善という根本的な美徳がその礎とならなければなりません。慈善という美徳なしに、他の美徳は存在し得ません。慈善なしには幸運を期待することもできなければ、慈善のない道徳的な手引きというものも存在しません。

慈善なしには信仰心も存在しません。というのも、信仰心とは慈善に満ちた心を光らせる、純粋な輝きのことに過ぎないからです。


 慈善はどの世界においても、永遠の救いの支えです。創造主の放つ最も純粋な放射です。慈善は被創造物に与えられる創造主の美徳そのものです。この至上の神意を私たちはどうして軽んじることができるでしょうか。

そのことを知りながら、自分の中にある慈善を妨げ、神からもたらされるこの感情を退けるほど非道な心を持っているのは誰でしょうか。慈善、この甘い慈愛に反抗するほど悪い息子となっているのは誰でしょうか。

 私が行ってきたことについては、あえて言うつもりはありません。なぜなら、霊たちも自分たちが行ってきたことに対して恥ずかしい気持ちを抱くからです。しかし、私がはじめたことは、あなたたちの同胞たちの慰安に最も貢献することの一つであったと考えています。


私が行ってきたことを引き継ぐ任務が、責務として自分に与えられることを霊たちが願うのをしばしば見ることができます。神の慈悲深い任務についている、親愛なる情け深い兄弟、姉妹たちの間にそうした霊たちを見ることができます。

彼らは犠牲と献身のみがもたらす喜びを感じながら、私があなたたちに勧める美徳を実践しています。彼らの状況がどれだけの敬意に値し、彼らが果たす任務がどれだけ守られ、尊ばれているかを見ることは、私の計り知れない喜びです。

善意に満ちた堅実な意欲溢れる善人たちよ、力を合わせ、慈善を広める事業を大々的に継続してください。この美徳を実践することにより、あなたたちのための報酬を見つけることができます。

現世を生きるうちから現れることのない霊的な喜びは存在足ません。力を合わせ、キリストの教えに則ってお互いに愛し合ってください。そうありますように。
                                                (聖ブィンセント・デ・パウロ パリ、1858年)



十三、人々は私のことを「慈善」と呼びます。私は神のもとへ続く本道を歩んでいます。私に付いてきて下さい。あなたたちのすべてが心がけるべき目標を知っているからです。

今朝、いつもの散歩にでかけてきて、心が悲しくなり、あなたたちに次のことを伝えにやってきました。おお、友よ、貧困、涙、それらすべてを拭うにも、その何と多いことでしょうか。無駄だとは思いながらも何人かの母親たちを慰めようと、彼女たちの耳元で呟きました。

「勇気を出してください。あなたたちのことを見守る善き心を持った人々がいるのですよ。あなたたちは見捨てられることはありません。辛抱強くいてください。神はそこにいるのです。あなたたちは神に愛され、神に選ばれたのです」。

彼女たちには私の声が聞こえたようで、驚きに目を丸くして私の方を向きました。彼女たちの外見から、霊を束縛する彼女たちの肉体は飢えていることが分かります。

私の言葉は確かに彼女たちの心を静めたでしょうが、彼女の空腹を満たすことはできませんでした。

彼女たちに向かって繰り返しました。「勇気を持ってください。勇気を出してください」。すると、子どもに母乳を飲ませていたまだ若い一人の哀れな母親は、痩せた胸から十分な栄養を得ることのできないその小さな命を私に守ってほしいと願うかのように、その子を腕に抱え、空に向かって差し出したのでした。

 友よ、別の場所では、仕事を失った老人たちが、ついには家もなく、貧困のあらゆる苦しみに縛られながらも、その惨めさを恥じて物乞いなどしたことが無いために、道行く人々の慈悲を懇願しているのを私は見ました。

私は何も持ってはいませんが、心が同情で一杯になり、彼らのために物乞いとなって、寛大で情け深い人々の心によい思考をもって貰おうと、あらゆる場所へ行き人々の善意を刺激して回りました。友よ、そのために私はここへ参り、あなたたちに伝えに来たのです。

「家に食料もなく、かまどに火をつけることも出来ず、寝床には毛布もない可哀想な人々がその辺にたくさんいます」。私はあなたたちには何をするべきかは申しません。あなたたちの善なる心の自発性に任せます。


私がその方法をあなたたちに教えたとしたら、あなたたちの善行は何のメリットももたらさくなってしまいます。次のことだけを申し上げます。「私は慈善であり、私はあなたたちに苦しむ兄弟たちのために手を差し伸べます」。  

 
しかし、頼むこともあれば、与えることもあり、与える時には多くを与えます。あなたたちを大きな宴に招き、あなたたちの全てを満足させることのできる木を提供します。その木がどれほど美しく、

どれほど多くの花が咲き、実を結んでいるかを見てください。行きなさい、行きなさい。善意という名のこの偉大なる木がもたらす果実をすべて収穫することができるように。

あなたたちが実を収穫したその枝に、私はあなたたちが行ってきた全ての善行を括りつけ、その木を神のところへ持っていきます。すると神は、再びその木を沢山の実で茂らせてくれます。

善意は尽きることがないからです。友よ、私の掲げる旗に従う者たちのうちに数えられるように、私についてきて下さい。恐れることはありません。私はあなたたちを救いの道へと導きます。なぜなら、私は「慈善」だからです。   (ローマで殉教したカリタ  リヨン、1861年)



十四、慈善を行うことを、あなたたちの多くは、施しを与えることばかりだと間違えていますが、実際にはさまざまな方法があります。そしてそれらの間には大きな違いがあります。

友よ、施しは、貧しい者たちの負担を軽くするという意味で、時によっては大切です。しかし、それはほとんどの場合、施しを与える側にとっても、受け取る側にとっても屈辱的です。慈善は、逆に、与える側と受け取る側とを結びつけ、さまざまな見えない形で実践されているのです。

家族内で、または友達同士でも、お互いが寛大になり、相互の弱みを赦し合い、誰の自尊心をも傷つけないようにすることによって慈善的になることができます。

あなたたちスピリティストは、あなたたちと同じように考えない人達に対する接し方の中で、相手に衝撃を与えたり、彼らの確信していることに対して攻撃するのではなく、私たちの集会に親切に誘って、私たちの考えを聞いてもらい、彼らの心の中に私たちが入っていける入り口を見つけることによって、慈善的になることが出来るのです。これも慈善の一つの在り方です。



 今度は、貧しい人達、富を受け継ぐことのできなかった人々に対する慈善とはどういうものなのかを聞いて下さい。彼らは、自分たちの貧困を不平を言うことなく受け入れることが出来れば、神に報われることになりますが、そのようにできるかどうかはあなたたちにかかっているのです。

そのことを例をもちいて明らかにしましよう。

毎週、あらゆる年代の女性が参加するある集会を私はよく見ます。私たちにとって、ご承知の通り、彼女たちはみな姉妹です。何をしているのでしょうか。忙しそうに、とても機敏に働いています。

指を早く動かしています。彼女たちの心が一つとなって鳴り響き、彼女たちの表情が何と楽しそうであるか見てください。一体何の目的で彼女たちは働いているでしょうか。冬が近づき、貧しい家々には生活の厳しさが増していきます。

夏の間、忙しく蟻のように働いても必要なだけの蓄えをすることができず、殆どの道具が質に入れられてしまっているのです。可哀想な母親たちは、この冬の季節の間に寒さと飢えに苦しむであろう子供たちのことを思って心配し、泣いています。不幸な女性たちよ、どうか忍耐強くいてください。


神はあなたたちよりも、より多くの富の分配を受けている人達の感情に訴えたのです。

彼女たちは集まり、衣服をつくっているのです。後日、そのうち雪が地表を覆い、あなたたちがそのいつも苦しむ身の口から「神は不公平だ」とこぼす時、貧しい人々の為に働くことを自任した、この善なる働き手たちの一人が現れるのを見ることが出来るでしょう。

彼女たちがそのように働くのはあなたたちのためであり、あなたたちの苦しみは祝福に変わります。なぜなら、苦しむ者の心の中には、憎しみのすぐ後ろに愛が潜んでいるからです。


 これらの働き手たちには元気づけが必要ですが、彼女たちのところには、善霊たちからの通信があらゆる方向から届いているのを見ることができます。この会には、活動に参加する男性たちも協力し、それらの朗読を行って人々を喜ばせます。

そして私たち霊はすべての人々の熱意に、それも一人一人に対して応えることができるように、そのような働き手たちに祝福と言う天の国で唯一流通する貨幣によって、即金で支払う善い顧客を連れて行くことを約束し、そればかりではなく、彼らにとってその貨幣が欠くことが無いよう、間違いなく保証いたします。   (カリタ リヨン、1861年)



十五、親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。

あなたたちは何を赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大なることも慈善ではありませんか。 

寛大になることによってのみ慈善を行うことも出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善につては、一つ別の世界での話をしましょう。

二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを計ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。

二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。

「この袋は私のものだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。

もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。

しかし驚いたことに、二つの袋を天秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。

しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。


次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし天秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。

あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。

反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 
                                                                             (ある守護霊リヨン、1861年)



十六、家の仕事に時間を費やす必要のない、ある裕福で幸運な女性は、同胞たちの役に立つ仕事のために、幾らかの時間を費やすことが出来ないでしょうか。

娯楽に費やすお金の残りで、寒さに震える不幸な者たちの為に上着を買ってあげてください。

その繊細な手で粗末でも温かい服を縫ってあげてください。生まれてくる子供たちに服を着せようとしている母親を手伝ってあげてください。そうすることによってあなたの子供を飾るレースの飾りが少なくなったとしても、貧しい母親の子供は身体を暖める衣類を得ることが出来るのです。

貧しい者たちの為に働くことは、神のブドウ園で働くことです。


 貧しい職人であるあなたは、余剰の富を持っていなくても、兄弟たちに対する愛に満ち、少ない中からでも何かを人に与えようとするのであれば、所持する唯一の宝であるあなたの時間の内から、一日の何時間かを与えて下さい。

裕福な人達を引きつける優雅な細工をつくるのです。夜業の成果を売れば、あなたの兄弟たちを助けるために、あなたの役割を担うことができます。細工に用いるリボンの数は何本か減るかもしれませんが、はだしで歩く者に靴を与えることが出来るでしょう。

そして神に人生を捧げたあなたたち女性も、あなたたちにできる仕事をしてください。しかし、あなたたちの仕事は、あなたの能力と忍耐力によってあなたたちの注意を引くために礼拝堂を飾るばかりではいけません。

娘たちよ、あなたたちの仕事の生産物は、神の前にいるあなたたちの兄弟たちを助けるために向けられるのですから、大いに働いてください。貧しい者たちは神の愛する子供たちです。彼らの為に働くことは神を讃えることです。

「空を飛ぶ鳥たちに神は食物を与える」と言う神の言葉のようになってください。あなたたちの手の中で編む金と銀を、衣類や食物を得ることができない者たちへのそれに変えてください。それを行えばあなたたちの仕事は祝福されます。


 生産することができる者はみな、与えて下さい。あなたの才能を、あなたのひらめきを、あなたたちの心を与えて下さい。そうすれば神はあなたたちを祝福します。

世俗的な人々にしか作品を読まれない詩人たち、文学者たちよ。彼らの娯楽を満足させるだけでなく、あなたたちの作品の幾つかを、苦しむ者を助ける為に捧げることも忘れないで下さい。画家、彫刻家、あらゆる分野の芸術家たちよ。

あなたたちもその知性を、兄弟たちを助けるために使って下さい。そのことによってあなたたちの栄光が衰える訳ではなく、幾らかの苦しみが軽減されることになるのです。

 誰にも与えることはできます。どんな階級に属していようと、分かち合えるものをなにか持ちあわせています。

神があなたたちに与えてくれたものがなんであろうと、その一部は、生きるために必要なものさえも不足して居る者たちの為に負っているのであり、なぜなら、その立場になれば、他人に対して自分たちにも分けてほしいと思うに違いないからです。

地上におけるあなたたちの宝は減るかもしれません。しかし、天におけるあなたたちの宝は増やされます。そこではこの世で蒔いた善行の種が、百倍になって収穫されることになるでしょう。(ヨハネ ボルドー、1861年)


 
 慈悲
十七、慈悲はあなたたちを天使たちに近づける美徳です。あなたたちを神のもとへ導く慈善の姉妹です。ああ、あなたたちの同胞の苦しみと貧困の悲しい光景を見て、あなたたちの心に同情を起こしてください。

あなたたちの涙が薬となって彼らの傷の上に流れ、善意に溢れる同情によって希望と甘受の気持ちを彼らに届ける時、何と大きな喜びを感じることができるのでしょうか。この喜びは、不幸の隣で生まれるものですから、ある種の苦痛を伴っているのは確かです。

しかし、その中には、世俗的な快楽の辛い味はなく、そうした快楽が後に残すような虚しい失望感もありません。人の心の中に浸透するような優しさによって彼らを包み、魂を喜びで満たしてください。心から感じられる慈悲は愛です。

愛とは献身です。献身とは自分自身の忘却であり、不幸な者たちに捧げられたこの忘却と克己は優れた美徳であり、それは聖なる崇高な教義と、神より送られた救い主が一生の中で教えてくれた美徳です。

 この教義が、その根本の純粋さによって確立されるとき、全ての民がその教義に従う時、地球は幸せとなり、そこには調和、平和、そして愛が君臨することになるのです。

 あなたたちを進歩させるもっとも正しい感情とは、あなたたちの中にある、エゴと自尊心を征服し、あなたたちの魂を謙虚にし、隣人への愛と善意を持ち合わせるようにする慈悲の気持ちです。

慈悲の気持ちは、兄弟たちの苦しみの奥底まであなたたちを入り込ませ、あなたたちが彼らに手を差し延べ、同情の涙を流すことを促します。だから、この天から来る感情をあなたたちの中で抑制するようなことがあってはなりません。

苦しむ者たちの惨めな光景を見ることによって楽しい生活が幾らかの時間でも邪魔されることになると言って、苦しむ者たちの側から身を遠ざけようとする心の堅くなった利己的な人々のように振る舞ってはなりません。

自分が役に立てる時に、無関心であり続けようとする自分を恐れてください。後ろめたい無関心と言う対価によってあがなわれた安堵は死海の静けさであり、海面下には腐り、堕落した泥沼が隠されているのです。

しかし、慈悲とは利己的な人々が恐れているような混乱や嫌悪と、どれほどかけ離れていることでしょうか。疑いもなく他人の不幸に接すると、自分のことばかり考える魂は自然に深い苦痛を感じることになり、その感情はその人全体を震わせ、その人を痛々しく動揺させます。

しかし、そこで勇気と希望を不幸な兄弟に与えることが出来れば、その報酬は大きなものとなります。その兄弟は、友情に満ちた手で手を握られたことに感動し、時には目に涙を浮かべあなたたちに優しい眼差しを向け、後のその目を天に向け、支えとなってくれる慰め手を送ってくれたことに感謝します。

慈悲は憂鬱ですが、天から届く、第一の美徳である慈善の前触れであり、慈善の姉妹として慈善の恩恵を準備し、高尚なものとするのです。(ミカエル ボルドー、1862年) 
 



 孤児たち
十八、兄弟たちよ、孤児たちを愛してください。特に幼少期において、孤独に見捨てられることがどんなに悲しいことか、あなたたちにお教えすることが出来たならば、神は孤児たちが存在することを許しますが、それは私たちが彼らの両親となって支えることを、私たちに勧告するためです。

神なる慈善が、可愛そうな見捨てられた存在を寒さと飢えの苦しみから遠ざけるようにし、その魂が悪癖へと道を外してしまうことが無いようにして下さい。

見捨てられた子供に手を差し延べる者は、神の法を理解し、それを実践していることになるのですから、神を喜ばせることになります。

あなたが助ける子供が、別の人生において大切な人であったということも多々あるということを考えると、その場合には、そのことを思いだすことが出来たとすれば、もはやそれは慈善を行っているのではなく、義務を遂行しているに過ぎないのです。友よ、この様に苦しむ者は皆あなたの兄弟であり、

あなたの慈善を受ける権利を持っているのです。とはいっても、それは人の心を悲しめる慈善や、受け取る手にやけどをさせる施しであってはなりません。というのは、

あなたたちの施しはしばしば苦い味を持っているからです。苦しむ者の粗末な家が病に見舞われたために悲惨な状況に追い込まれているのでなかったとしたら、そうした苦い施しのうち、どれほどが受け取ることを拒まれていたでしょうか。

あなたの与える利益に、あらゆる利益のうちでも最も貴重な利益である、言葉による利益、慈愛による利益、友情による溢れる笑みによる利益を、一緒に優しく与えて下さい。

自分を守ろうとする態度は、血の流れる心に剃刀の刃を立てるのに等しいことなので避けてください。

そして、善を行うことは、あなた自身の利益のためであり、また、あなたの愛する人達の為でもあるということを心に留めておいてください。  (ある親しい霊 パリ、1860年)



   感謝されない善行
十九、恩知らずの人々と出会わないようにと、善行を行いながらも感謝されなかったからと言って、善を行うことを止めてしまう人たちのことをどう考えるべきでしょうか。

 こうした場合、そこには慈善よりもエゴイズムが多く存在します。なぜなら、善に対して感謝することを示す態度を見せてもらうために行われる善行とは、私心を棄てて行われる善ではないからであり、私心を棄てて行われる善だけが、神に喜ばれるのです。そこには自尊心も存在します。

なぜなら、そのような人は自分の足元に感謝の証を示そうとひれ伏す、恩恵を受ける人たちの謙虚さを見て楽しんでいるからです。自分の行う善に対する報酬を地上に求める者は、天においてその報酬を受け取ることができません。神は善行に対する報酬をこの世に求めない者たちを評価するのです。


 善を行った相手が、そのことに対して感謝することがないことが前もってわかっていたとしても、弱い者をいつも助けなければなりません。あなたが助けた相手がそのことを忘れた時には、

恩恵を受けた者たちがあなたに感謝した時よりも、より価値あることとして神は考慮してくれるということを確信してください。あなたたちが善行に対して感謝されないことを神が赦すのは、善を行うあなたたちの忍耐力を試すためなのです。


 一時的に忘れられた善行が、良い実を結ばないと誰が言い切ることが出来るでしょうか。反対にそれは、時間を掛けて発芽する種であるのだということを信じて下さい。不幸なことに、あなたたちは現在のことしか目に入りません。

あなたたちは他人の為に働くのではなく、自分たちの為に働いてばかりいます。善行は最も冷え切った心をも和げます。この世においては忘れられてしまうかも知れませんが、肉体の被いから自由になった時、善行を受けたその霊はそのことを思いだし、その記憶がその人に対する罰となります。

彼は自分が恩知らずであったことを嘆き悲しむことになります。次の人生で自分の過ちを改め、恩義を返そうとし、善を施してくれた人に仕える人生を求めようとすることも稀ではありません。

 

 この様に、疑わずともあなたはその道徳的進歩に貢献することができたことになり、次の教訓の意味を正確に理解することができるようになります。

「善が無駄になることは決してありません」。そればかりではなく、落胆することによって善を行う気力を失うことなく、私心を棄てて善を行ったことの功績を得ることが出来るのですから、自分自身に対しても働いたことになります。


 ああ、友よ。あなたたちの前世と現世のすべてのつながりを知ることが出来たなら、お互いの進歩のための、人類の一人一人を結びつける関係の広さを、一目で見ることが出来たなら、創造主の善意と英知に大いに感心するでしょう。

神はあなたたちが何時か神のもとに辿り着くことができるように、生まれ変わることを許すのです。(守護霊 サンス、1862年)



 排他的な善行
二十
 同じ考え方、同じ思想、同じ政党の人同士の間で行われる善行とは正しいものですか。

正しくありません。なぜなら、人類は皆兄弟であり、政党、宗派と言った考え方は必然的に廃止されるべきものであるからです。真のキリスト教徒は同胞たちを兄弟として見ることができ、助けを必要としている者を救済する前に、その人が何を信じ、どう考えているかなどと言うこと知ろうとはしません。

あるいは、あるキリスト教徒が自分とは違う信仰を持っているからと言って、苦しむ者を拒否したとしたら、そのキリスト教徒は、私たちの敵を愛さなければならないと教えたイエス・キリストの教訓を守っていることになるでしょうか。

ですから、何も意識することなくその苦しむ人を救済してください。もしその人が宗教上の敵であるとすれば、そうすることが彼にあなたの宗教を受け入れてもらえるようにする方法であり、あなたがその人を拒否したとすれば、その人はあなたの宗教を憎むことになるでしょう。(聖ルイ パリ、1860年)
 



  第14章  あなたたちの父母を敬いなさい

、あなたたちは戒めを知っています。姦淫をしてはなりません。殺してはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。誰をも欺いてなりません。あなたたちの父母を敬いなさい。
 (マルコ 第十章 19、ルカ 第十八章 20、マタイ 第十九章 18-19)


、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい



 孝心
、自分の父親と母親を愛することが出来ない人には、隣人を愛することができないことから、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めは、慈善と隣人愛の一般的な法から導き出すことができます。

しかし「敬いなさい」という表現は、父母に対して更に負う義務、すなわち、孝心を含んでいます。

神はこの様に顕すことで両親に対する愛には彼らに対して守らねばならない義務である敬意、注意服従、寛大さなどが伴わねばならないことを示し、それは、隣人に対して一般に求められる慈善の全てよりも、さらに厳しく守らねばならないことなのです。

この義務は当然、父親や母親に代る人に対してもあてはまりますが、献身の義務が少なければ少ないほどその功労も大きいのです。この戒律を守れない者を、神はいつも厳しく罰します。


「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う言葉は、単に尊敬しなさいと言うことからなるものではありません。彼らが必要とするときには、彼らの介護をしなければなりません。彼らが年老いた時、

彼らが静養できるようにしてあげなければなりません。私たちが幼かった頃、彼らが私たちにしてくれたように、彼らを優しく囲んであげなければなりません。


 特に、何も持たない父母に対してそうすることは、真なる孝心を表しています。自分たちに必要なものを何一つ失うことなく、両親が飢え死にすることだけは無いようにと必要最低限のことだけを行い、

また、自分たちには最高のものや、最も心地良いものを残しておき、両親については道に放置しないまでも、家の最も居心地の悪いところに追いやりながら、自分たちは偉大なことを行っていると考えている人々は、この戒律を守っていることになるでしょうか。


嫌々ながらそれを行ったり、両親に家事を行うことの重圧を負わせ、残された人生の代償を高く支払わせたりしないのであればまだましです。年老いた親たちが、若くて強い子供たちの為に、仕えなければならないというのでしょうか。子供たちに母乳を与えてくれていた時、

母親はその母乳を子供たちに売ろうとしたでしょうか。子供たちが病気だった時夜通しで看病したことや、必要なものを手に入れようとして歩いた道のりを、母親は果たして数えていたでしょうか。

子供たちは、貧しい両親に対して最低限必要なものだけでなく、可能な範囲の中で、ちょっとした小さな気遣いや、愛情のこもった介護の義務を負っているのであり、それらは子供たちがすでに受け取った神聖なる借金の金利を支払うことにしか相当しないのです。こうした孝心だけが神を喜ばすことになります。


弱かった時に自分を守ってくれた人達に、自分が何を負って居るのかを忘れてしまう人は哀れです。

彼らは子供たちの安らかな生活を確保するために何度も厳しい犠牲を払い、子供たちに物質的な生活を与えながら道徳的な生活をも与えたのです。恩知らずな者たちは哀れです。

そのような者たちはやがて、恩知らずと放棄によって罰せられます。彼らは最も大切な愛情によって傷つけられることになりますが、それは時として現世のうちに起こり、そうでなければ別の人生において
必ず、人に対して行ったと同じことで苦しむことになります。

 中には義務を無視し、子供たちに対してあるべき姿を持たない父母がいることも確かです。しかし、そうした親を罰するのは神の義務であり、その子供たちの役割ではありません。子供はこうした親たちを非難する権限はないのです。なぜなら、子供たちは恐らくそのような親を持つに価したからなのです。

慈善の法が、悪を善によって返すことや、他人の不完全性に対して寛大であること、隣人の悪口を言わないこと、他人の侮辱を赦し忘れること、敵をも愛することを命じているのであれば、子供にとって、

これらの義務を親との関係において果たすことが、どれだけ重要なことであるか判ります。したがって、子供たちは自分たちの親に対する品行の中で、隣人との関係についてイエスが教えたことの全てを規則として取り入れ、他人との関係で非難される行動は、両親との関係においては更に、

大きな非難を受けることになるということを、いつも覚えておかなければなりません。そして前者との関係においては、罪と考えられることがあるということを覚えておかなければなりません。なぜなら後者の場合においては、慈善の欠如ばかりか、忘恩が加わるからです。



、「主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい」と神は言いました。

なぜこの言葉は天の生活ではなく、地上での生活を報酬として約束しているのでしょうか。その説明は次の言葉に見ることができます。

「主であるあなたたちの神が与えてくれる」と言う言葉は、現代の十戒の形式から除かれていますが、こうした言葉が特別な意味を与えているのです。言葉を理解するには当時のヘブライ人たちの考え方や状況について言及しなければなりません。彼らはいまだ死後の世界について知ることは無く、

その視野は肉体を持った人生を超えるものではありませんでした。従って目で見えないものよりも、目で見えるものによって印象付けられる必要があったのです。そこで神は、子供たちに話しかけるように、彼らの理解の届く言葉によって、彼らを満足させることができるもので期待を持たせたのです。

ヘブライ人は砂漠に住んでいました。神が彼らに与えるのは、約束された土地、それは彼らの熱望するものでした。彼らはそれ以外の物は何も望んでいなかったのです。

神は、彼らがもし戒律を守るのであれば、その地で彼らが長く生きるであろう、つまり、その土地を長い間所有するであろうと言ったのです。


 しかし、キリストの出現の時代を確かめると、彼らはその考え方より発展させていたことが分かります。より物質的でない糧を取るべき時代が到来すると、イエス自身が彼らに対し、「私の国はこの世のものではありません」と言いながら、霊的人生について教え始めます。
 「地上ではなく、向こう側で、あなたたちは善行の報酬を受け取ることになるのです」これらの言葉によって、約束された土地は物質的な土地ではなくなり、天の母国となるのです。
 

こうした理由によって、「あなたたちの父母を敬いなさい」と言う戒めを守ることが呼び掛けられる時、彼らに地上の土地が約束されるのではなく、天が約束されるのです。(→第二章、第三章)



誰が私の母で、誰が私の兄弟なのでしょうか

、そしてイエスが家に戻られると、そこには大勢の人々が集まっており、食事をとることもできなかった。そのことを知ると、身内の者たちはイエスを取り押さえに出て来た、気が狂ったと思ったからである。


 しかし、母親と兄弟たちが外で待っているのを見ると、人々はイエスを呼ぶように言った。するとイエスの周りに座っていた人々はイエスに言った、


「あなたのお母さんと兄弟たちがあなたを外で呼んでいます」。イエスは答えて言われた。

「誰が私の母親で、誰が私の兄弟なのでしょうか」。そして自分の周りに座っていた人々を見回すと、「ここに私の母親と兄弟がいます。神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、母親なのです」と言われた。      (マルコ 第三章 20,21、 31-35 マタイ第十二章 46-50)



、イエスの善意とあらゆる人に対する普遍の慈悲からすると、イエスの言葉の幾つか一見、風変わりに聞こえます。不信人な者はそうした部分を取り上げ、イエスが矛盾していると言って攻撃するための武器とします。

しかしイエスの教義には原則として、その基盤に愛と慈悲の法があることを否定することはできません。イエスが一方で築いたものを、もう一方で崩しているとは考えられません。

ゆえに結果として、まさに次のことが言えます。もしイエスの言ったあることが基本的原則と矛盾しているのであれば、伝えられた言葉が正しく再生されなかったか、正しく理解されなかったか、もしくはそれらの言葉はイエスのものではないことになります。
 


、この場面では、驚くことに、イエスの親戚に対する無関心が見受けられ、ある意味では母親を裏切ったように捉えることができます。

 イエスの兄弟については、彼らはあまりイエスを好んでいませんでした。進歩の遅れた霊たちであり、イエスの任務を理解することができませんでした。イエスを変わり者と考え、イエスの行動や教えは彼らの心を動かすことは無く、誰一人としてイエスの使途として従う者はいませんでした。

それでも、イエスの敵から彼らもある程度は警戒されていたと言われています。そして、実際にはイエスが家族の前に現れると、彼らはイエスを兄弟としてと言うよりも変わり者として扱いました。

ヨハネははっきりと、「彼らはイエスを信じていなかった(→ヨハネ 第七章 五)」と記しています。 


 母親に関して、イエスに対するその優しさを誰も否定することは無いでしょう。しかしながら、彼女も息子の任務について正確に理解していなかったことを知るべきで、彼女はイエスの教えを守ることは無く、パブテスマのヨハネのようにイエスの証人となることはありませんでした。


 彼女の中で勝っていたのは母親としての気遣いだったのです。イエスが母親を裏切ったと見るのは、イエスのことを知らない者の見方です。「父母を敬いなさい」と教えた者の考えの中に、

母親への裏切りが隠されている筈がありません。したがって、たとえ話の形をほとんどいつもとることによって、ベールに隠されたイエスの言葉が持つ、本来の意味を求めることが必要です。

 イエスはどんな機会をも無駄にすることなく教えを説きました。そこで家族が到着したのを見て、肉体的な親族と霊的な親族との違いについてはっきりと示すためにその機会を利用したのです。

 

 

 肉体的な親族と霊的な親族
、血液のつながりは必ずしも霊的なつながりを生むわけではありません。肉体は肉体より生じますが、霊は霊から生まれるのではなく、霊は肉体の形成以前から既に存在しているのです。

父親が息子の霊を創造するのではありません。父親は息子のために肉体的な被いを用意したに過ぎませんが、そのことが息子の進歩のための知的・道徳的発展を補助する役割を果たしているのです。


 一つの家族に生まれてくる者たち、特に近い親族として生まれる者たちは、多くの場合、過去の人生での関係から結びついている好意的な霊たちであり、地上における人生で、お互いにその愛情を表します。

 しかし、その霊たちが、前世でお互いの反感によって引き離された霊たちで、お互いにまったく馴染まない者同士であることから、地上ではそれをお互いの敵意として表すこともあり、その場合、その人生はその霊にとって試練となります。

家族の真なる絆とは、血液の絆ではなく、観念の共有や共感によって結ばれる絆であって、その絆は生れる以前、生きている間、そして死後にも霊たちを結びつけます。違った両親もつ二人が、血のつながる兄弟以上に結びつきの強い霊的な兄弟であり得ます。

このようなことから、霊的絆で結ばれた兄弟はお互いに引かれ、求め合うことになり、一方で、私たちが日々目にすることが出来るように、血縁のある兄弟同士が拒絶し合うことがあるのです。

そこには道徳的な問題が存在するのですが、それを、スピリティズムだけが存在の複数性の理解によって説明することが出来るのです。(→第四章 13)


 即ち家族には二種類あります。霊的な絆で結ばれた家族と、肉体的な絆で結ばれた家族です。

前者の方が継続性があり、霊の浄化によってより絆が強まり、魂のさまざまな移住を通じて霊界で永続します。後者の絆は物質と同じように時間が立つと消滅し、多くの場合、道徳的には現世中に消えてしまいます。

これらのことをイエスは理解し易いように伝えるため、使徒たちに、ここに私の母親と兄弟がいます。つまり私の霊的絆によって結ばれた家族であると言い、神の意志によって行う者はみな、私の兄弟、姉妹、そして母親なのです。と言ったのです。


 血縁のある兄弟たちがイエスに抱いた敵意はマルコの話の中に明確に表わされており、イエスを独占しようとして霊を失ったと言ってきた部分に見られます。彼らの到着が知らされると、イエスは彼らが自分に抱く気持ちを承知の上で、霊的な視点からそのことを使徒たちに述べたのです。

「ここに私の(真なる)母親と兄弟がいます」。イエスの母親は兄弟たちと共にいましたが、

イエスは教えを一般的に述べたのであり、決して肉体的絆を持つ母親が霊的な絆を持つ母親と違って無関心の対象となるべきだと言ったのではないのであって、そのことをイエスは、他のさまざまな場面で十分に証明しています。



        
♦霊たちからの指導                      恩知らずな子供と家族の絆

、忘恩は、エゴイズムから直接的に生み出された結果の一つです。誠実な心は何時もそれに抵抗します。しかし、子供たちの親に対する忘恩は、更に憎悪のこもったものです。

この視点から特に忘恩について考慮し、原因と結果について分析してみましょう。この場合にも、他の場合がそうであるように、スピリティズムは人間の心が抱く大きな問題の一つに光をあててくれます。

霊は地上を後にする時、その霊の質的に固有の感情や美徳を持ち合わせて行き、宇宙において完成を遂げたり、光を受けようと望むまでそのまま止まったりします。したがって多くの霊たちは暴力的な憎悪に溢れ、満たされない反逆の欲望を抱いています。

しかし、彼らの一部は、他の一部よりも進歩しており、真実の一辺を垣間見ることになります。

すると憎悪に溢れた感情がもたらす不幸な結果を味わうことになり、善き決意をしようと言う気持ちを抱くことになります。神のもとへ辿りつくには、慈善と言うたった一つの合い言葉しかありません。

しかし侮辱や不正の忘却なき慈善は存在しません。赦しなき慈善も、憎悪に満ちた心による慈善も存在しません。

すると、そうした霊たちは今までにしたことの無いような努力によって、それまで地上で誰を憎んでいたのかを見ることができるようになります。しかし、憎んだ相手を見ると、彼らの心に中には怨みがこみ上げてきます。赦したり、自分自身を犠牲にしたり、彼らの財産、家族、

もしくは名誉を破壊した相手を愛すると言った観念に抵抗します。しかし、不幸な彼らの心は動揺します。彼らは躊躇し、ためらい、相反する感情によって気持ちが乱されます。

その試練の最も決定的な時に、善の決意が優勢であれば、彼らは神に祈り、善霊たちが彼らに力を授けてくれるように懇願することになります。


 結果的には、何年もの瞑想と祈りの後に、その霊は自分が嫌った者の家族の一員の肉体を利用することになります。新たに生まれようとする肉体の運命を自ら満たしに行けるよう、上位からの命令を伝える霊たちに許可を求めます。選ばれた家族の中で、その霊の行いはどうなるのでしょうか。

それはその霊の善き決意に強く固執するかどうかにかかっているのです。かつて憎んだ相手と常に接触することは恐ろしい試練であり、いまだ十分に強い意志をもっていなければ、そこで挫折してしまうことも珍しくはありません。この様に善き決意を持ち続けるかどうかによって、ともすれば、

共に生きるように招かれた相手の友達までもが敵になってしまうことがあるのです。ある子供たちに見られる、理解しがたい本能的な反発や憎悪は、この様にして説明することが出来るのです。

 その時の人生の中に、そのような反感を実際に生む原因となるようなことは何も起きていません。その原因を知るには、私たちの目を過去の人生に向ける必要があるのです。

ああ、スピリティストたちよ、人類のもつ大きな役割を理解しなければいけません。肉体が創られるとき、その中に宿る魂は進歩するために宇宙からやってくるのです。あなたたちの義務についてよく知り、その魂が神に近づくことができるように、あなたたちの全ての愛情を注いでください。

それが神よってあなたたちに任された任務であり、それを忠実に遂げることができればその報酬を受け取ることが出来るのです。その魂にあなたたちが払う注意と与える教育は、その魂の未来での完成と平安を助けることになります。神はすべての父親にも母親にも、

「私があなたに加護を任せた子を、あなたたちはどうしましたか」と尋ねるのだということを覚えておいてください。

もしあなたの責任でその子の進歩が遅れたままであったなら、罰としてその魂を苦しむ霊たちの間に見ることになり、その時、あなたはその魂の幸せの責任を負っていることになります。すると、あなたたちは後悔の念に悩まされ、あなたたちの犯した過ちの謝罪を求めます。

あなたたちの為に、そしてその魂のために、再び地上に生まれてその魂をより注意深く見守り、その魂もそのことを認識したうえで、その愛によって返礼することになります。


 だから、母親を拒絶する子供やあなたたちに対して恩知らずな子供を追い出してはなりません。

そうしたことやそうした子供があなたに与えられたことは、単なる偶然ではありません。それは過去についての不完全な直感の現れなのであり、そのことから、あなたたちはある過去の人生においてすでに大いに憎んだか、あるいは大いに攻撃されたかのいずれかであると推測することが出来ます。

どちらかが、償うためか、試練の為にやって来たのです。母親たちよ、あなたたちを不愉快にさせる子供を抱きしめ、自分に言って下さい。「私たち二人のどちらかに責任があるのです」と。

神が母性に結び合わせた神聖なる喜びを享受するのに、あなたたちが相応しくなるように、子供たちに、私たちは地上で完成し、愛し合い、祝福されるために生まれてきたのだということを教えてあげてください。

ああ、しかしあなたたちの多くは、過去の人生から引き継いでいる生まれつきの悪の傾向を、教育を通じて摘み取る代わりに、罪深い弱さか、あるいは不注意によってそれらを保ち、大きくしてしまっており、やがてあなたたちの心は子供たちの忘恩で痛めつけられ、それがあなたたちにとって試練の始まりとなるのです。

任務はあなたたちの目に映るほど難しくはありません。地上の知識は必要としません。無知な者にも知識のある者にも、その役割を果たすことができ、スピリティズムは人類の魂の不完全性の原因について知らしめることにより、その役割の達成に役立ちます。


 小さい時から子供は、前世から持ち越した善または悪の本性の兆候を表します。両親はそれを研究しなければなりません。いかなる悪も、エゴと自尊心からもたらされます。ですから、

両親はそうした悪癖の芽の存在を示す小さな兆候を警戒し、より深く根を張る前に、それらと戦うように注意をしなければなりません。樹木から欠陥となる芽を摘み取る善の庭師のようにしなければなりません。

エゴイズムと自尊心を成長させてしまったのであれば、後になってから忘恩によって報いられても驚いてはなりません。両親が子供の道徳的進歩に応じて、すべてやるべきことを行ったにもかかわらず、

その成果がないのであれば、自分自身を負い目に感じる必要はなく、良心は平静を保つことができます。

そうした時、努力の成果が生まれないことから来るごく自然な苦しみに対して、神は、それが単にその子共の遅れから来るものであり、今開始された事業は次の人生において完了し、その忘恩の息子はその愛によって償ってくれるのだという確信を与えてくれることによって、偉大な慰安を残してくれているのです(→第十三章 19)。


神は試練を求める者の能力を超えた試練を与えることはありません。達成することのできる試練がもたらさせることしか許しません。もし成功を収めることが出来ないのであれば、それは可能性が不足したからではありません。意欲が欠けていたのです。

悪の傾向に抵抗する代わりに、それを楽しんでいる人達のなんと多いことでしょうか。こうした人達は、後の人生における涙と苦しみが待ち受けているのです。しかし、後悔に対して決して扉を閉ざすことの無い神の善意を賞賛してください。苦しむことに疲れ、自尊心を捨て去った罪人は、

いつの日か足元に身をひれ伏す放蕩息子を迎えようと神は両腕を広げていることに気づくのです。よく聞いてください。

厳しい試練は、神への思いを抱きながら受け止められるのであれば、それはほとんどいつも苦しみの終わりと霊の完成を告げるものなのです。

それは至上の時であり、その時、そうした試練がもたらす成果を失って再びやり直すことを望まないのであれば、その霊は何よりもまず、不平を言うことによって失敗しないようにしなければなりません。不満を述べる代わりに、あなたたちに与えられた勝つための機会を神に感謝し、

神が勝利の褒美をあなたたちの為にとっておいてくれるようにしなければなりません。そうすれば、地上の世界の渦からでて霊の世界に入った時、あなたたちは戦闘から勝利を収めて戻ってきた兵士のように、そこで喝采を受けることになるのです。


 あらゆる試練の中で最も厳しいのは、心に害を及ぼすものです。勇気を持って物質的な損失や貧困に耐える者も、家族の忘恩に傷つけられ、家庭内の苦しみに負けてしまいます。おお、

それは何と痛々しい苦しみであることでしょうか。しかし、そうした時、神の創造物が無期限に苦しむことは神の望むところではないのだから、魂の破壊が長引こうとも永遠の絶望は存在しないのだ、という確信と、悪の原因の認識以外に、何か有効に道徳的な勇気を立て直してくれるでしょうか。

苦しみの短縮が、悪の原因そのものを破壊するための一つ一つの努力にかかっているのだという考え以上に、力を与え、励ましとなるものがあるでしょうか。

しかし、そのためには、人間はその視線を地球上だけにとどめたり、人生が一度きりだと考えたりしないようにする必要があります。視線を高く上げ、、過去と未来の無限へと向けなければなりません。

そうして忍耐強く待てば、神の正義があなたたちに明らかにされます。なぜなら、地上では本当に恐ろしいものとして見えていたものが、解釈可能となるからです。そこで開いた傷口も、単なるかすり傷であると考えることができるようになります。

こうして全体に向けて投げかけられた視線によって、家族の絆の真の姿があなたたちに明らかにされます。もはやメンバーが単なる壊れやすい物質的な絆で結びついているようには見えなくなり、

再生によって破壊されるのではなく、浄化されて行くことによってより固く結びつき、永続していく霊の絆によって結びついているように見えるようになるのです。


 好みの類似性、道徳的進度、集まろうと導く愛情によって、霊たちは家族を形成します。その霊たちは、地上に住む間、グループを形成するために探し合いますが、それは宇宙においてもそうしているのであり、均質でまとまった家族というのはここに起因しているものなのです。

もし、その人生の巡歴の間に一時的には別々になっても、新しい進歩を成し遂げ、後に幸せな再会をすることになります。しかし、自分だけの為に働くのではいけないために、進歩のためになる慰めと善き規範を受けることができるように、進歩の遅れた霊が彼らの間に生まれてくることを神は許されるのです。

そうした霊が、時として他の霊たちにとって混乱の種となることがありますが、これがそれらの霊たちにとって試練や遂行せねばならない義務となるのです。

 だから、進歩の遅れた霊たちを兄弟の様に迎え入れてください。助けてあげて下さい。そうすれば、あなたが何人かの遭遇者たちを救済したことを、後に霊界において家族が祝福してくれるでしょうし、

また遭難者たちも、自分が救済する立場になった時には他人を助けることができるでしょう。
  (聖アウグスティヌス パリ、1862年)


   

                  
  第15章  慈善なしには救われません。  

霊が救われるために必要なこと 善きサマリア人の話

、人の子がその尊厳によって、全ての天使たちに伴われて来る時、彼はその栄光の座につくでしょう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊は右側に、山羊は左側に置くでしょう。その時王は、右側にいる者たちに向かって言うでしょう、

「私の父に祝福された者たちよ、世のはじめからあなたたちの為に準備された王国を手に入れなさい。

なぜならば、私が飢えていた時には食料をくれ、喉が渇いていた時には飲み物をくれ、宿を失った時には宿を貸してくれ、裸でいた時には衣服を着せてくれ、病んでいた時には訪ねてくれ、投獄されていた時には私に会いに来てくれたからです」

すると、正しい者たちは言うでしょう、

「主よ、いつ私たちが、あなたが飢えていた時に食料を与え、喉が渇いている時に飲み物を与えたというのでしょうか。いつ私たちが、あなたが宿を失ったのを見て宿を貸し、裸の時に衣服を与えたというのでしょうか。そしていつ、あなたが病んでいたり投獄されていることを知り、訪ねて行ったというのでしょうか」。


すると王は答えるでしょう。

「誠に言います。私の最も小さい兄弟に対してそれらのことを行った時、それは何時も私に対して行ったのと同じことです」。


続いて左側にいる者たちに言うでしょう。

「邪悪な者たちよ、私の側から離れなさい。悪魔とその使いのために準備された永遠の炎の中に入ってしまいなさい。なぜなら、私が飢えていた時、食べるものをくれず、喉が渇いた時、飲み物をくれず、宿が必要であった時、宿を貸さず、服をまとっていなかったとき、衣服を着せず、病み、投獄された時、私を訪れてくれなかったからです」。

すると彼らは答えるでしょう、

「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えているのを見て食料を与えず、喉が渇いているのを見て飲み物を与えず、衣服もなく、宿もなく、病み、投獄されているのを見てそれを助けなかったというのでしょうか」。

すると彼は答えて言うでしょう、

「誠に言います。これらの最も小さい者たちに対する救済を行わなかったのは、すなわち、私自身に対して救済を行わなかったのです」。


そしてそれらの者は永遠の苦悩へと行き、正しい者たちは永遠の命へと行くのです。(マタイ 第二十五章 31-46)


、するとそこへ、ある律法学者が現れ、彼を試そうとして言った。「先生、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。

イエスは彼に答えて言われた、「律法には何と書いてありますか。どのように読むことができますか」

彼は答えて言った、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。


するとイエスは言われた、「大変よく答えました。そのように行えば、永遠の命を得ることが出来るでしょう」。

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「隣人とは誰のことですか」。


イエスはその言葉を聞いて、彼に言われた、「エレサレムからエリコへ向かっていたある男が泥棒に捕まってしまい、泥棒はその男から盗み、男を傷だらけにし、瀕死の状態にしたまま去って行った。

すると、そこへ司祭が同じ道を通ってやってきたのだが、その男を見ると、向こう側を通って行った。

次にレビ人がやはりその場所を通ったが、その男を見ると、やはり向こう側を通って行った。

しかし、旅をしていたサマリア人が、その男が横たわっているのを見て憐れに思い、その男に近づくと、油とワインを傷口に塗って手当てをし、その後自分の馬に乗せて宿へ連れて行き、その男の看病をした。

翌日(この男の面倒をよく見てください。お金が足りなかったら私が戻った時に払います)と言って、二デリカの金を宿主に渡した。この三人のうち、誰が泥棒に捕まった男の隣人でしょうか」。

律法学者は答えた、「彼に対して慈悲を掛けた者です」。するとイエスは言われた、「それならば行って、同じことを行いなさい」。(ルカ 第十章 25-37)



、イエスの道徳の全ては慈善と謙虚さに要約されています。すなわち、エゴイズムと自尊心に相反する二つの美徳です。イエスの全ての教えの中には、永遠の幸福に導くこれらの二つの美徳が示されています。

「魂の貧しい者、すなわち謙虚な者は幸いです、なぜなら天の国は彼らのものだからです」と言いました。

「心の清い者は幸いです」「柔和で平和をつくる者は幸いです」「慈悲深い者は幸いです」「あなたたちと同じようにあなたたちの隣人を愛しなさい」「自分にして欲しいと思うことを他人にしてあげなさい」「あなたたちの敵を愛しなさい」「赦されたいのであれば、あなたに対する攻撃を赦しなさい」

「見せびらかすことなく善を行いなさい」「他人を評価する前に自分自身を評価しなさい」謙虚さと慈善こそ、イエスが私たちに勧め、また、彼自身が模範を示したものです。

自尊心とエゴイズムこそ、戦い続けなければならないものです。また、慈善は勧められるだけではありません。明白に、はっきりとした言葉を用いて、未来における幸福の絶対的な条件として示されております。


 最後の審判を描いた場面の中でも、その他の多くの場面でそうであるように、単なるたとえ話として表された部分を区別しなければなりません。イエスが話をした人達のような、いまだに純粋で霊的な問題を理解することのできない人達に、イエスは印象的で衝撃的な具体的イメージを与えなければなりませんでした。

イエスの言うことを彼らがよりよく学ぶためには、形の上で当時の考え方からあまり遠ざからないものとしなければならず、イエスの言葉や、明白に説明することができなかった部分の真なる解釈については、後世に残す必要があったのです。

しかし、その説明の象徴的なたとえや装飾的な部分に沿ってある考えが支配しています。すなわち、正しい者に用意された幸福と悪い者に用意された不幸の考えです。

 その最高の審判における判決の理由は何なのでしょうか。訴訟書はなににもとづいているでしょうか。

審判者は果たして、取り調べられる者があれこれのしきたりを重んじたかとか、あれこれの行いを守ったかなどと尋ねているでしょうか。いいえ、そのようなことは尋ねていません。

たった一つのことしか尋ねていないのです。それは慈善を行ったかどうか、と言うことだけであり、次のように判定されたのです。「あなたたちの兄弟たちを助けた者は右へ行きなさい。彼らに対して冷たく対応した者は左に行きなさい」。

ところで、ここで信仰性について述べているでしょうか。ある方法で信じる者と、別の方法で信じる者との区別を付けているでしょうか。

いいえ。イエスはサマリア人を、異教徒と考えられていたにもかかわらず隣人愛を実践するものとして、慈善の欠ける正統派よりも上位に位置づけています。すなわち慈善を単に救いの条件のうちの一つとしているのではなく、唯一の条件であるとしているのです。

もしその他の条件があったのであれば、イエスはそれについて述べていたはずです。慈善を第一におくのは、それが暗黙のうちにその他の全てのことを含んでいるからです。すなわち、謙虚さ、優しさ、善意、寛大さ、正義等です。なぜなら、それは自尊心とエゴイズムの絶対的な否定であるからです。
      

    

 最大の戒め
、さて、イエスがサドカイ人たちを黙らせられたことを聞いたファリサイ人たちは、一団となって集まった。そのうちの一人は律法学者であったが、イエスを試そうとして尋ねた、

「先生、律法のうちで最大の戒めとは何ですか」。イエスは答えられた、

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。これがもっとも大切な第一の戒めです。同様に第二の戒めは、自分を愛するように隣人を愛しなさい。全ての律法がこれら二つの戒めにかかっており、また、預言者も同様です」。(マタイ 第二十二章 34-40)


、慈善と謙虚さ、それらが救済の唯一の道です。エゴイズムと自尊心、それらは破滅の道です。この原則は次の簡潔な言葉の中に明確にされています。

「主であるあなたの神を、心から、全霊を込めて愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。

あらゆる法も預言者たちもこれらの二つの戒めを守らなければならないとしています」。そして、神への愛と隣人への愛の解釈に間違いが無いようにするため、次のように付け加えています。

「ここに第一の戒めと同等の第二の戒めがあります」。つまり、隣人を愛することなく神を本当に愛することも出来なければ、神を愛することなく隣人を愛することも出来ないのです。隣人に対する慈善を行うことなく神を愛することはできないのですから、人間のあらゆる義務は次の金言に要約されることになります。

「慈善なしには救われません」



 聖パウロによる慈善の必要性
、たとえ私が、人類の持つすべての言語を話せたとしても、天使の言葉を話そうとも、私に慈善がないのであれば、音を立てる銅鑼(ドラ)かシンバルと同じです。たとえ私に、

あらゆる神秘を解き明かすことのできる預言の才があったとしても、またあらゆる物事に対する知識を持っていたとしても、また、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。

また、貧しい者に食べ物を与える為に私の財産を施し、私の身体を焼かれるために捧げようとも、慈善がないのであれば、それらすべては私にとって何の役にも立ちません。


 慈善は寛容であり、情け深い。慈善は嫉妬深くありません。高ぶったりはしません。自尊心に満ちることもありません。不作法をしません。自分の利益に囚われません。腹を立てることもなければ、何に対しても怒ることがありません。悪いことかと疑わせることはありません。


真実に喜ぶことはあっても、不正に喜ぶことはありません。全てに耐え、全てを信じ、全てを待ち、全てを受け入れます。

さて、信心、希望、慈善と言う、いつまでも存続する三つの美徳があります。しかし、その中で最もすばらしいものが慈善です。(パウロ 第一コリント 第十三章 1‐7,13)



、この様に聖パウロはこの偉大なる真理を理解したのです。「天使の言葉を話そうとも、あらゆる神秘を説き明かすことのできる預言の才があったとしても、山をも動かすほどの信心を持っていたとしても、私に慈善がないのであれば、私は何者でもありません。

信心、希望、慈善と言う三つの美徳のうち最もすばらしいのが慈善です」。間違いなくこの様に、慈善を信心にも勝って位置づけています。慈善はあらゆる人の手に届くところにあるからです。

つまり無知な者から、賢者、裕福な者、貧しい者まで、特別な信仰とは全く関係なく、誰の手にも届くのです。さらに、真なる慈善を定義し、善行の中ばかりではなく、隣人に対する善意と慈悲心、心のあらゆる特性の中でそれを示しています。     



 教会なしには救われません。真実なしには救われません

、「慈善なしには救われません」という金言が、全世界的な原則として、神の子全てに至上の幸福への扉を開いている一方で、「教会なしには救われません」と言う教理は、根本的な神に対する信仰と魂の不滅に基づいているのではなく、すべての宗教に共通な、ある特定の教理に対する特別な信仰にもとづいています。

それは絶対的で排他的なものです。神の子を一つに統合するどころか、分裂させてしまいます。兄弟たちに対する愛を刺激する代わりに、家族や仲間同士であるにもかかわらず、お互いを永久に極悪と考え、それぞれの異なる宗派に苛立ちを植えつけ、けん制させ合います。

墓を前に全てが平等であるという偉大なる法を無視し、これらの教理はお互いを休息の場所においてさえも反発させます。


「慈善なしには救われません」と言う金言は、神の前の平等と言う原則と良心の自由を神聖化しています。それを規則とすることにより、人類は皆兄弟であり、創造主を崇拝する方法がどうであろうとも、手を差し出し合い、お互いに祈り合うことが出来るのです。


「教会なしには救われません」と言う教理によれば、お互いがののしり迫害し合い、敵同士として生きることになってしまいます。お互いが容赦することなく非難し合っているために、父親が息子のために願ったり、息子が父親の為に願ったり、友人が友人の為に願ったりすることができません。

つまり福音の法とキリストの教えと根本的に対立する教理なのです。



、「真実なしには救われません」も、「教会なしには救われません」と同じで、真実と言う特権を主張しない宗派が存在しないことから、やはり排他的であると言えます。

毎日知識の領域は絶え間なく広がり、考えは改まっていくと言うのに、どんな人間に、全てを所有していると自慢することが出来るというのでしょうか。絶対の真実はより高い分類の霊たちだけに所属し、

地上に生きる人類にはその所有を主張することはできません。なぜなら、人類はすべてを知るようにはできていないからです。人類は単に、相対的でその進度相応の真実を熱望することしかできません。

もし神が、絶対的な真実を得ることを、未来における幸福の条件と明示していたならば、その一般的な規則を唱えていた筈であって、一方で、慈善はその最も広い意味においては誰にでも実践することができるものなのです。

スピリティズムは福音に従って、どんな信仰とも無関係に、神の法が守られる限り誰に対する救済も認め、「スピリティズムなしには救われません」と言うことはありません。また、

いまだに真実の全てを教えると主張するようなことはできないため、「真実なしには救われません」と言うこともありません。なぜなら、これらの教えは敵対する者たちを、統合し永続させる代わりに分裂させてしまうからです。



♦霊たちからの指導
      慈善なしには救われません

、親愛なる子供たちよ、「慈善なしには救われません」と言う金言の中には、人類の地上での、そして天における目的地が述べられています。なぜ地上での目的地なのかと言えば、この旗のもとに人類は平和に生きることが出来るからです。

なぜ天における目的地かと言えば、慈善を実践した者は神の前に恵みを受けることになるからです。

この金言は天に灯るたいまつであり、人生の砂漠にある人類を案内する輝く支柱であり、人類を約束された土地へと導いてくれます。その金言は、選ばれた者たちの頭上にある聖なる後光のように天に輝き、地上では、イエスが「私の父に祝福された者たちよ、私の右側に行きなさい」

と伝える者たちの心の中に刻まれています。彼らがその周りに放つ慈善の香りによって、あなたたちは彼らを知ることが出来るでしょう。

この天からの金言よりも正確に、人類の義務を要約したものはありません。その金言を規則として掲げること以上に、うまくスピリティズムの性格を証明する方法はなく、したがってスピリティズムは最も純粋にキリストの教えを映し出しています。

この金言を案内とすれば、人類は決して道を誤ることはありません。だから、親愛なる仲間たちよ、その深い意味とその重要性を検討し、自分たち自身でその応用を見つけることに身を捧げてください。

あなたたちの全ての行動を慈善の支配下におけば、良心は答えてくれます。それはあなたが悪を働くことから遠ざけてくれるばかりではなく、善を行わせてくれます。それは消極的な美徳だけでは不十分であるからです。能動的な美徳が必要です。

善を行うには、意志を行動に移すとこが何時も必要です。悪を働かずにいるだけなら、怠慢と無関心でいるだけで事足りる場合が殆どなのです。友よ、

スピリティズムの光を享受することが許されたことを神に感謝してください。それを享受しただけで救われるわけではありませんが、キリストの教えをあなたたちが理解するのを助けることにより、

あなたたちをより良いキリスト教徒にしてくれるのです。だから、あなたたちの兄弟があなたたちを見て、真なるスピリティストとは真なるキリスト教徒と同じであり、慈善を行う者は所属する宗派に関わらず、全てがイエスの使徒なのだということを知ることができるように努力をしてください。
                                                                               (使徒パウロ パリ、1860年)




 

 第16章  富と神の両方に仕えることはできません  
 財産家の救い  
、誰にも二人の主人に仕えることはできません。なぜなら、一方を愛し、他方を憎むことになるか、一方に親しんで、他方の気持ちを疎んじることになるからです。(ルカ 第十六章 13) 



、すると彼のもとに青年がやって来て言った。
「善き師よ、永遠の命を得るためには何をすればよいのでしょうか」。するとイエスは答えて言われた、「なぜ私を善いというのですか。善いのはただ神のみです。永遠の命に入りたいのであれば戒めを守りなさい」。「どんな戒めですか」。青年は問い返した。

「殺してはなりません。姦淫をしてはなりません。盗んではなりません。偽証をしてはなりません。父母を敬い、自分と同じように隣人を愛しなさい」。青年は言った、

「私はそれらすべての戒めを守っています。それでもまだやらなければならないことは何でしょうか」。イエスは言われた、「もし完全になりたいのであれば、帰って所有するもの全て売り払い、

貧しい者にそれらを与えれば、天における富を得ることができます。その後来て、私についてきなさい」。この言葉を聞くと、青年は多くの財産を所有していたので悲しくなり、去って行った。

するとイエスは使徒たちに言われた、「誠に言いますが、富んだ者が天の国へ入ることは難しいことです。また、更に申し上げますが、ラクダが針の穴を通ることの方が、富んだ者が天の国へ入るよりも容易なことなのです」。

 (マタイ第十九章 16-24 ルカ 第十八章 18-25 マルコ 第十章 17-25)   




強欲から身を守る

、群集の中のある者が言った、「先生、私の兄弟に相続した財産を分けるようにおっしゃってください」。イエスは言われた、「おお、人よ。誰が私を、あなたたちを裁き、あなたたちの財産の分割をするように仕向けたのですか」。そして更に言われた、

「いかなる強欲からも身を守るように注意しなさい。人が何に富んでいようが、その者の命はその者の所有する財産には関係がありません」。 


そこで続けて次のたとえ話を語られた、「畑が豊作だったある金持ちがいた。そしてこのように自分の中で思いを巡らせていた (もはや収穫物を蓄える場所がなくなってしまったが、どうすればよいだろうか)。 

そしてこのように言った、(私の穀物倉庫を壊し、もっと大きな穀物倉庫を建て、そこに私の全財産とすべての収穫物を保管しよう。そして自分の魂にこう言おう。魂よ、何年分もの食料を沢山蓄えてある。安心して休み、食べ、飲み、楽しめ)。

すると神はその者に言われた、(何と気が狂ってしまったことか、まさに今夜あなたの魂を奪うであろう。そうしたら、あなたが蓄えたものは何の役に立つであろうか)。

自分だけの為に富を蓄える者には、このことが当てはまり、そのような者は神の前には豊かではありません」。(ルカ 第十二章 13-21)      



ザアカイの家でのイエス

、エリコに入ると、 イエスはその町をお通りになった、そこにはザアカイという名の、徴税関の頭で大変富んだ者がいた。彼はイエスと知り合いたくて、イエスがどんな人か一目見ようと望んでいたが、背が低かったため、群集に遮られて見ることができなかった。

そこで群集の前へ走って行くと、そこを通られる筈のイエスを見ようと、イチジクの木に登った。イエスはそこへやって来られると目線を上の方に向け、ザアカイを見ると彼にこう言われた、「ザアカイよ早く下りてきなさい。今夜あなたの家に泊めてもらう必要あります」。

ザアカイは直ちに木から下りると喜んでイエスをお迎えした。それを見てみな不満げに言った、「イエスは罪人の家に泊まりに行かれた」(→序章 Ⅲ 「パブリカン(徴税官))。

ザアカイは主の前に出ると言った、「主よ、私は財産の半分を貧しいものに分け与え、何であろうと、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。

するとイエスは言われた、「今日この家には救いが来た。なぜなら彼もアブラハムの子供であるからです。人の子が来たのは、失われたものを尋ねだして救うためなのです」(ルカ 第十九章 1‐10)
         

    
悪しき金持ちの話  

、ある金持ちがいて、彼は紫の衣や高級な布をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた。また、ラザロと言う名の乞食がいて、その全身はできもので覆われており、金持ちの家の扉の前に横たわって、

その家の食卓から落ちるパンくずでその飢えを癒そうとしていた。しかし、誰もそれを与えてくれる者はなく、ただ犬がそのできものをなめに寄って来るだけであった。


 さてこの乞食は死に、天使たちによって、アブラハムのもとへ連れて行かれた。金持ちも死んだのだが、その墓場は地獄であった。苦しみに遭っているとき、目を上げると遠くにアブラハムとラザロが見えた。そこで金持ちは言った。

「父アブラハムよ、私を哀れに思い、私の舌を冷やすために指先で水を濡らしたラザロをこちらへ送ってください。この炎に包まれた苦しみは大変恐ろしいものです」

 しかし、アブラハムは答えて言われた
「息子よ、あなたは生きている間に富を受け取り、ラザロは悪いものを受けた事を思い出しなさい。だから今彼は慰められ、あなたは苦しみの中にいるのです。

また、私たちとあなたたちの間には永遠に深い淵が存在しており、それ故にここからそちらへ行こうとする者は行く事が出来ず、また、あなたのいる場所から誰もこちらへ来る事は出来ないのです」


 金持ちは言った、「そうであるならば、父アブラハムよ、お願いいたします。ラザロを私の父の家へ送ってください。私には五人の兄弟がいますが、彼らがこの苦しみの場所へ来る事が無いように、ラザロにこの事を警告していただきたいのです」

アブラハムは彼に言われた「彼らにはモーゼや預言者たちがおり、そのものたちの話を聞くがよかろう」

「違います、父アブラハムよ。もし死者の誰かが彼らに会いに行けば、彼らは懺悔することでしょう」。


 アブラハムは答えられた、「彼らがモーゼや預言者の話を聞かないのであれば、たとえ死者が生き返ろうとも、そのものの助言を信じる事はありません」  (ルカ 第十六章 19-31)
 

タラントの話         
、また天国は、ある人が旅に出る時、そのしもべどもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。ある主人が、それぞれの能力に応じ、一人には五タラントを、別の者には二タラントを、そしてまた別の者には一タラントを与えて旅に出た。

 すると五タラントを受け取った者はその金で商売をし、もう五タラントを儲けた。二タラントを受け取った者は、同じようにしてもう二タラントを儲けた。

しかし、一タラントしか受け取らなかった者は、地面に穴を掘ると、主人のお金をそこに隠した。長い年月が経過し、しもべたちの主人が戻ってくると、勘定をするために彼らを呼んだ。


 五タラントを受け取った者はもう五タラント差し出すと言った。「ご主人様。あなたは私に五タラントを預けました。ここにそのお金とそれによって稼いだもう五タラントをお返しします」。

主人は答えて言った。「良き忠実なしもべよ。お前は小さなことにも大変忠実であったので多くのものを管理させよう。主人の喜びをともに分かち合うがよい」。

二タラントを受けた者は自分の番になると言った。「ご主人様。あなたは私に二タラントを授けられました。ここにその二タラントと、私の稼いだもう二タラントをお返しします」。

主人は答えて言った、「良き忠実なしもべよ。お前は小さいことにも忠実だったので多くのものを管理させよう。主人の喜びを共に分かち合うがよい」。


次に一タラントだけを受けた者が来ると言った、「ご主人様。あなたは厳しいお方で種を蒔かぬところを刈り、なにも散らさないところからも集めます。ですからあなたを恐れ、預かった一タラントを地中に隠しておきました。ここにそのお金があります。あなたのお金をお返しいたします」。

すると主人は答えて言った、「悪しき怠惰なしもべよ。あなたは私が、蒔かないところから刈り、散らさないところから集めることを知っているのか。それなら、私のお金を銀行に預けておくべきであった。

そうしたら私が帰ってきて、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろうに。その者より一タラントを取り戻し、十タラントを持つ者に渡すがよい。

すでに持つ者には与えられそれらは富より蓄えることになるが、持っていない者は、僅かばかりの持っているものまで取り上げられるであろう。この役に立たないしもべを外の暗闇へ放り出しなさい。そこで彼は泣き、歯を震わせるであろう」。(マタイ 第二十五章 14-30)



神意に従った富の使い方。富と貧困の試練 

、イエスの幾つかの言葉を、霊によってではなく、文字通りに解釈した場合に受け取れるように、富がもし救いの絶対的な障害となるのであったとすれば、富を容認した神は、富に抗しきれないような人々を破滅に導く手段を与えたことになりますが、それは道理に反しています。

富と言うのは、それが与える魅力や誘惑に人を引き込むので、貧困よりも危険な試練であることは疑う余地もありません。富は自尊心やエゴイズム、みだらな生活への欲求を強く刺激します。

それは人類を地上につなぎとめる最も強い絆であり人々の考えを天の方向から遠ざけることになります。貧困から豊かになってしまうと、しばしばそれに有頂天となってしまい、すぐに元の境遇や、ともに貧困を生き抜いてきた仲間や助けてくれた仲間のことを忘れてしまい、それらに対し鈍感で、利己的になり、自惚れてしまいます。

しかし、富みによって道程が困難になるとは言え、救済が不可能になったり、それが救済の手段となり得ないのではありません。ある程度の毒が、思慮と分別を持って用いられれば、健康を取り戻すことに役立つように、富が何に役立つのかを知る者にとっては、富は救済の手段ともなり得るのです。


 永遠の命を得る手段を尋ねた青年に対してイエスが、「所有するものをすべて売り払い、私についてきなさい」と言った時、絶対的な条件として、一人一人が所有するものを捨て、救済はその代償として得られるのだということを確立させようとしたのでは勿論ありません。

そうではなく、地上への財産の執着が救済の障害になる、と言うことを示したかったのです。戒めを守っているのだから自分は永遠の命を得るにふさわしいと考えていた青年は、自分が所有する財産を放棄するということを拒否しました。

永遠の命を得たいという彼の願望は、それを犠牲にしてまで得ようというところまで到達していなかったのです。

イエスが彼に示した提案は、彼の考えの根底を裸にするため決定的な試験であったのです。

彼は、疑いなく、世俗的な考えにおいては全く正直で、誰にも損害を与えず、隣人の悪口を言わず、自惚れず、高慢でなく、父母を敬っていたかもしれません。しかし真なる慈善に欠けていました。

彼の美徳は自己放棄にまでは達していなかったのです。イエスはそのことを示したかったのです。「慈善なしには救われません」という原則をあてはめたのです。


 この言葉を厳密にとらえるのであれば、その意味は、地上の限りない悪の原因であり未来の幸せにとって有害である富の廃止と言うことになります。又拡大解釈するならば、富を得る手段としての労働の否定と言うことになります。しかし、それはばかげた解釈であって、

それでは人類を再び原始的な生活へ戻すことになってしまい、それゆえに神の法である進歩の法に矛盾するものとなってしまいます。


 富が多くの悪の原因となり、悪い感情をかきたてて、多くの罪を引き起こすのであれば、それは富を責めるのではなく、神から授かったすべての能力と同じように、それを濫用してしまう人類を責めなければならないのです。

人類にとって最も役立つものも、濫用すれば有害なものになってしまうのです。

それは地上の世界が劣った状態にあるということの結果です。もし富が、悪しか生み出すことのできないものであったなら、神はそれを地上へ与えることは無かったでしょう。富が善を生むように仕向けるか否かは、人類の権限に属するのです。

もしそれが道徳的進歩に関わる要素でなかったとしても、知性的な進歩に関わる強力な要素であることは間違いありません。


 実際に、人類には地球上の物質的向上のために働くという役割があります。いつの日か地表が受け入れるべき人口の全てを迎えることができるように、地球上の障害物を除き、衛生的にし、準備することが人類の裁量に任されています。絶え間なく膨らむこの人口に食物を与えるには、

生産性を上げる必要があります。食料が不十分である国は、不足する食糧を国外に求める必要があります。だからこそ、異国民同士のつながりが必要になってくるのです。

それをより容易にするためには、人々を画する物理的な障害を取り除き、通信をより早くすることが必要なのです。こうした仕事は何世紀にもわたる事業ですが、人類は地球の奥底より物質を取り出さなければなりませんでした。それをより迅速に、安全に行える手段を科学に求めました。

しかしそれを実現させるためには資力が必要でした。人類が科学を生んだように、必要性が富を生み出したのです。この様に、物質的向上の為に働くことは、人類の知性を広げ、発展させますが、

最初は物質的な必要性を満足させるために集中させた知性は、後になって偉大なる道徳性真理の理解を助けることになります。富は実行するための最初の手段であり、それなしでは大きな役割も、活動も、刺激や調査も生まれません。

だから富みは、進歩の原理以外の何ものでもないと考えられるのです。
       


富の不幸
、 富の不平等は、現世のみに限って考えれば、解決しようとするだけ無駄な問題の一つでしょう。

最初に問われるのが次のような問題です。「どうして人類の全てが同じように豊ではないのだろうか」。富が平等に分配されないのは、一つの単純な理由からです。それは、

人類の全てが富を手に入れるために同等に知性的、活発、勤勉ではないからであり、また富を保つために同等に節制できるものでもなければ先見の明があるわけでもないからです。

ただし富が平等に分配されれば、一人一人に必要最低限のものが行き亘るはずだというのは、あくまで数学的に言えることであって、平等に分配したとしても、それぞれの性格や能力の違いからその均衡はあっという間に崩れてしまうのです。たとえ均衡を保ち、長続きさせることが可能であったとして、

一人一人が生きるために必要なものを所有していたとしたら、それは人類の厚生と進歩のためあらゆる偉業を廃止することになってしまいます。

そして分け前が一人一人の必要性を十分に満たすものだと認識されてしまえば、もはや人類を発見や有益な事業に駆り立てる刺激は存在しなくなります。神が特定の場所に富を集中させるのは、必要性に応じて、十分な量の富がそこから広がって行くようにするためなのです。


 このことを求めたところで、今度は、みなの善の為に富を役立たせる能力のない人々に、なぜ神は富を与えるのかと言う疑問が出てきます。しかしそこにも神の善意と英知の証が存在するのです。

神は自由意思を与えることで、人類が自分自身の経験によって善と悪の区別をつけ、自分の意志と努力の結果として善を実践するようになることを望んだのです。人類は、善や悪に必然的に導かれるものではなく、そうだとすれば人類は動物と同じく無責任で受動的な道具だということになってしまいます。

富は人間を道徳的に試すものなのです。しかし、それは同時に進歩のための強力な活動手段であるため、神はその富が長い間非生産的であることを望まず、そのためにいつでもそこから取り去るのです。

誰もが富を得、それを費やすために行動し、富のどのような使い方を知っているかを立証しなければなりません。

しかしすべての者が同時に富を所有することは数学的に不可能であるため、また、その上、もしすべての者が富を所有していたならば、惑星の向上を約束する労働に誰も就かなくなってしまうため、一人一人に富を得る順番があるのです。この様に、

今日富を所有しない者は、別の人生においてすでに富を得たことがあるか、もしくはこれから得ることになるのです。その他の、今日所有する者たちは、もしかすると明日にはそれを所有していないかもしれません。富める者も貧しい者もいます。

なぜなら神は正義であり、一人一人が順番に働くように命じるからです。貧困は、それによって苦しむ者にとっては辛抱と忍従の試練なのです。他の者にとって、富は慈善と献身の試練なのです。

ある人に見られるような富の悪用や、野心が引き起こす卑しい感情を見て、「あのような者に富を与えて、神は正しいのだろうか」と嘆くことには一理あります。確かに、もし人類にたった一度の人生しかなかったとしたら、地上の富のこのような分配を正当化するものは何も存在しません。

しかし、もし私たちが現世だけに目を向けるのではなく、その反対に、複数の人生全体を考慮するのであれば、全てが正義によって釣り合っているのです。ですから、貧しい者が神意を非難する理由も、

富める者を羨ましがる理由も、また富める者がその富によって自らを讃える理由もないことになります。


富が濫用されるとき、悪を防ぐのは法律や奢侈(シャシ)禁止令ではありません。法律は一時的に外見だけを変化させることはできますが、心を変えることはできません。そのため、そうした法律はつかの間しか持続せず、何時もその後には手におえぬ反動が訪れるのです。

悪の根源はエゴイズムと自尊心の中に存在します。いかなる種類の濫用も、人類が慈善の法によって支配された時、なくなることになるのです。 




 霊たちからの指導          真なる財産

、人間は、この世から持ち出せるように与えられたものだけを、本当の財産として所有しています。

地球に到着した時に手に入れ、離れる時に置いていくものは、この世にいる間だけ享受することができます。ですから、全ての放棄を強いられるのであれば、その富は、実際に所有しているのではなく、

単に所有権だけを得ているのだということになります。では、人間は何を所有しているのでしょうか。

肉体を使うことによるものは、何も所有していないのです。魂を使うことによるもの、すなわち、知性、知識、道徳的な性質は、全て所有しています。


それらは人間が地球に来るときに持参し、また持ち帰るもので、誰にもそれを奪い取ることが出来ないものであり、この世においてよりも、別の世界において、より有用となるものなのです。

この世から旅立つ時に、到着した時よりも豊かになっているかどうかは、その人自身にかかっています、したがって、善においてその人が獲得したものが、その人の将来の位置をもたらすことになります。誰でも遠い国へ旅立つときには、行く先の国で役に立つものを荷物としてまとめます。

そこで役に立たないと思われるもののことは気に掛けません。未来の人生に対しても同じように進んでください。そこであなたたちだけに役に立つものだけを蓄えておいてください。


 宿に到着した旅人に、代金が払えるのであれば、良い宿が与えられます。ケチな蓄えしかない者には、あまり快適でない宿が与えられます。自分のものとして何も持たない者は、粗末な寝台に寝なければなりません。霊の世界に辿りついた人間にも同じことが起こります。

どこへ行くかはその人の持ち物によります。しかし支払いは金でするのではありません。「地球ではどれだけ持っていたか」「どんな地位にあったか」「あなたは王子でしたか、それとも労働者でしたか」などとは誰も尋ねません。「あなたは何をもってきましたか」。このように尋ねられるでしょう。

財産や、地位によってではなく、持ちあわせている美徳の合計によってあなたを評価するのです。

この点に置いて、労働者の方が王子よりも豊かであることもあり得ます。地球を離れる前にどれだけの重さの金を別の世界への入場料として払ったかを申し立てても無駄です。そうした人はこう返されるでしょう。

「この場所は買うことはできません。善の実践により獲得できるのです。地上のお金で、あなたは農場や家や城を買うことはできました。ここでは、すべてを魂の質によって支払うのです。あなたはそうした質において豊かですか。そうであるならば、あらゆる幸福が待っている第一級の場所へ迎えられます。

そうした質に置いて乏しいのですか。それなら最低の場所へ行って下さい。ここではあなたたちの所有しているものに応じてあつかわれます」。    (パスカル ジュネーブ、1860年) 


、地上の財は神に属し、神はその望みに応じて分配します。人間はその利用権を与えられているに過ぎず、知性によってほぼ完全な形でその管理を行うことができます。しかし

それは人間の固有の財産ではないため、神はしばしばその予見を取り消すことがあり、富はそれを所有するに最も相応しい地位にあると信じる者からも逃げて行くことになります。

 あなたたちは、相続される財産に関してこのようなことが起こるのは理解できるが、労働によって得られた財産についてはそうなることは理解しがたい、と恐らくいうでしょう。疑いもようもなく、

正当な財産が存在するとすれば、それは正しく得られたこの後者の方であり、入手する時に誰にも損害を与えず、誠実に得られた場合のみに財産が正当に得られたと考える事ができます。

不当に得られたお金、つまり他人の損害のもとに得られたものに対しては、最後の一銭に対してもその精算が求められることになります。しかし、ある人の財産が、所有する人自身の努力によるものであったという事実は、その人が他界する時に何らかの利益をもたらすでしょうか。

財産を子孫に残そうとその人が苦心したところで、多くの場合それは無駄なことではないでしょうか。

もし神が、彼らの手に渡したいと全く望まないのであれば、何事もそれにあらがうことはできないのです。精算の必要なしに人間は、生きている間その所有物を利用し、濫用することが出来るでしょうか。いいえ、できません。その所有を許すことによって、恐らく神はその人生の間の努力、勇気、

勤勉さに対して報おうとしたのです。しかし、もしその人が自分自身の自尊心と欲求を満足させるためにそれを用いたとしたなら、そして、もしそうした所有物が破産の原因となるのであれば、それらのものは所有しないほうが良いのであり、一方で得たものを他方で失い、働きの功労を打ち消してしまうことになります。

地上を後にする時、神はその人に対して、もう報酬は受け取っているのだということになるのです。
                                                                 (守護霊M ブリュッセル、1861年)



 富の使い方
十一、富と神の両方に仕えることはできません。心を黄金への愛に支配されてしまったあなたたちは、このことをよく覚えていてください。

 あなたたちは、財宝が、他の人々よりも優位に立たせ、あなたたちを束縛する欲求を満たしてくれるからと言って、あなたたちはそれを得るために魂を売ってしまいます。それではいけません。富と神の両方に仕えることはできません。もしあなたの魂が肉体の欲に支配されていると感じるのであれば、

あなたたちを締め付けるくびきを急いで取り去りなさい。なぜなら、正義である厳しい神はこう言うからです。「不誠実なしもべよ、私があなたに託した財産をどうしましたか。善行の為のこの強力な動力をあなたは自己の満足のためにだけ用いました」と。


 では富の最良の利用とはどのようなことでしょう。その答えを次の言葉の中に探し求めてください。

「お互いに愛し合いなさい」。この言葉の中には、富の正しい利用の秘訣が込められています。隣人愛によって行動する者が辿るべき道が、そこにはすべて示されています。神をもっとも喜ばせる富の利用は、慈善の中に存在します。勿論、有り余る黄金を周りにばらまくことによって行われる、

冷たく利己的な慈善のことを私は言っているのではありません。不幸を探し出して、はずかしめることなくそれを立ち直らせる、愛に溢れた慈善のことを言っているのです。富める者よ、

あなたの余しているものを与えて下さい。そしてそれ以上のことをしてください。あなたにとって必要なもののうちの少しを与えて下さい。なぜなら、あなたが必要と思っているものも、現実には過分なものでしかないからです。しかし、知恵を用いて与えて下さい。騙されるのではないかと心配して、

不満を訴える者を拒否してはなりません。悪の根源を突き止めてください。まず苦しみを和らげてあげてください。その次に状況を知り、仕事、助言、愛情があなたの与えるお金よりも役に立つのではないかと考えてみて下さい。

あなたの周りに、物質的な救済と共に神への愛、労働への愛、隣人への愛を広めてください。尽きることなく、またあなたに大きな利益をもたらすことになる善行と言う基盤の上に、あなたの富を投じてください。知性的な富も、金銭的な富と同じように用いなければなりません。

教えの宝をあなたの周りに広めてください。あなたたちの兄弟にあなたたちの愛の宝をふりまけば、それらは実を結ぶことになるでしょう。(シェウ“ェルス ボルドー 1861年)



十二、人生の短さについて考える時、あなたたちにとって、絶えることの無い心配は物質的な豊かさであり、道徳的完成には重きを置かず、その方が永遠に重要であるにもかかわらず、それに対してはほとんど時間を割かないか、もしくはまったく従事することが無いのを見ると、私は心が痛みます。 

自分たちの行っている活動を前に、それらが人類の最も大切な利益を扱っているのだと言われるでしょうが、たいていそれらは、行き過ぎたあなたたちの必要性や虚栄心を満足させる状況に自分たちを置こうとしているか、不品行に身を任せているに過ぎません。

苦しみや悩み、不幸をどれほど一人一人が自分自身に強いていることでしょうか。多くの場合、十分すぎる財産をさらに増やそうと、眠れない夜を幾晩も過ごしているのです。

無知の積み重ねの中には働きがもたらす富と快楽に対する過度の執着によって苦しい仕事の奴隷と化してしまっていながらも、犠牲と功労の大きい人生を過ごしているのだ──自分のためではなく、あたかも他人の為に働いているかのように──と自惚れてしまっている人をたびたび目にします。

何と気の狂っていることでしょうか。あなたたちの未来や、社会的な便宜を有する者全てに課せられる兄弟愛の義務を無視しておきながら、エゴイズム、貪欲、自尊心によって生まれた手間と努力が認められるとあなたたちは本当に信じるのですか。

あなたたちは肉体のことしか考えていないのです。あなたの快適な生活、快楽だけがあなたたちの利己的な配慮の対象だったのです。いずれ死ぬ肉体によって、永遠に生きるあなたたちの霊を軽んじたのです。だからこそ、この活発で愛される主があなたたちの君主となったのです。

その主はあなたたちの霊に命令し、その奴隷としてしまうのです。神があなたたちに任せてくれた人生の目的とはこう言うことであったのでしょうか。(ある守護霊 クラクフ 1861年)



十三、人間は、神が手渡す富の管理者であり受託者であるがゆえに、自由意思によって決めたその富の使い方については厳しく精算が行われます。悪用は、個人的な満足にばかり使用したことからなります。

反対に、あらゆる使い方において他人の役に立つ結果を生む場合には、善い使い方であると言えます。

一人一人の功績は、自分自身に強いる犠牲の割合によります。善行は富の使い方の一つでしかありません。富は今日の貧困を緩和します。飢えを和らげ、寒さから守り、避難所の無い者にはそれを与えます。しかし、貧困を未然に防ぐという義務も、与えることと同様に不可欠で価値があることです。

それが特に大きな富の使命であり、富が創り出すあらゆる種類の仕事を通じて、その使命は達成されます。このように富を使った者が創り出した仕事から正当な利益を得るからと言って、もたらされる善が消失してしまうわけではありません。と言うのも、

仕事は、人間の知性を発展させ威厳を高めるとともに、生きる手段として自分で稼いでいるのだということを、誇りをもって言うことを可能にしてくれるからです。施し物を受け取ることは人間を辱め、

卑しくさせることになります。一人のてもとに集中した富は、それを負う者に快適さと豊かさを広める生きた水とならなければならないのです。


おお、富めるあなたたちよ。主の視点に従って富を使って下さい。あなたたちの心は、その有益な泉に癒される最初の者となるのです。この人生のうちに、心の中に空しさをもたらす利己的な物質的な快楽の代わりに、得も言えぬ魂の喜びを享受することが出来るでしょう。

あなたたちに名は地上で祝福され、地上を後にする時、至上の主は、タラントのたとえ話のようにあなたたちに言います。

「良き忠実なしもべよ、主人の喜びを共に分かち合うがよい」。このたとえ話の中で預けられたお金を地中に埋めた使いは、自分の手中で富を何の役にも立たせずに保管する貪欲な人々のことを表しています。しかし、イエスが施しもののことをおもに言うのは、イエスが住んでいた当時その国では、

富が職業や産業が後に生んだ労働や一般的な善の為に、有益に運用されることができる、ということがまだ知られていなかったからなのです。

よって、多かれ少なかれ、与えることができる者に対して私は言います。必要な時には施しものを与えなさい。しかし、可能な限り、それを受け取る者が恥じることが無いように、それを報酬に変えてください。(フェヌロン アルジェ1860年)



地上の財産への執着心を捨てること

十四、友よ、あなたたちがすでに入った完成への道を、安心して前進するのを助けるために、私の施しものを持って参りました。私たちはお互いに恩を被っています。霊たちと生きる者たちが誠実に同胞的に結びつくことによってのみ、更生は可能となるのです。

 地上の財産に対する愛着は、あなたたちの霊的、道徳的進歩の最も大きな妨げとなっています。

そうした財産を所有することへの執着は、あなたたちの愛する能力を物質的なものに注ぐことで破壊してしまいます。誠実であってください。財産は混ざり気のない幸せをもたらしてくれるでしょうか。


あなたたちの金庫が一杯の時、いつも心の中には空洞が存在しませんか。この花の篭の底には何時も蛇が隠れていませんか。あなたたちが感じる正当な満足感、すなわち敬われるべき勤勉な労働を通じて人間が体験するものについては理解することができます。

しかし、神が認めたこの極めて自然な満足感と、他の感情を吸収し、心の衝動を麻痺させてしまう執着心との間には大きな隔たりがあります。

又行き過ぎた道楽と卑しい貪欲さの間ににも同様の隔たりがあり、神はこれらの二つの悪癖の間に、貧しい者が卑屈になることなく受け取れるように、富める者が見せびらかすことなく与えることを教える、聖なる健全な美徳である慈善を位置付けたのです。

あなたの財産があなたの家族から受けたものであれ、あなたの労働によって得たものであれ、決して、忘れてはならないことが一つあります。全てが神より生じているということです。

あなたのささやかな肉体でさえ、地上であなたに属するものは何もありません。その他の物質的な財産と同様に、死はあなたたちからそれを奪います。あなたたちは所有者ではなく、受託者なのですから、錯覚してはなりません。神はそれらをあなたたちに貸し与えたのであり、

あなたたちはそれを返還しなければならないのです。神は少なくとも、余剰なものが必要なものを欠く人達の手にわたることを条件に貸し与えるのです。


 あなたたちの友達が、ある金額を貸してくれるとします。あなたはどんなに正直でなかったにせよ、それをきちんと返そうとし、その人について感謝するでしょう。よいでしょうか。

豊かな人は皆こうした条件が当てはまります。神は、富を貸してくれた天にある友達であり、神は、富める者が自分の富についてきちんと認識し、神を愛する心を持つこと以外には、何も望んでいないのです。しかし、

その代りにその人と同様に自分の子である貧しい者達に与えることを、富める者たちに求めるのです。

 神があなたたちに信託した財産を手にすると、あなたたちのうちに熱く狂った欲が目覚めます。あなたたち自身がそうであるように、一時的で消滅してしまう運命にある財産に節度無く執着するのを止め、いつの日か神より与えられたものに対して、主と精算を行わなければならないということを考えたことがありますか。

富によってあなたたちは、知性的な富の分配人と言われるように、地球上における慈善の神聖なる役割を身に付けたのだということを忘れたのですか。ですから、

あなたたちに信託されたものをあなたたちの利益の為だけに用いるのであれば、あなたたちは不忠実な受託者以外の何であると言えるでしょうか。あなたたちの義務を自ら忘れてしまうことがもたらす結果はどんなものでしょうか。無情で容赦のない死は、あなたたちが身を隠すベールを引き裂き、

忘れていた友とあなたたちが精算を行うことを強要することになり、そしてその時、その友はあなたたちの前で裁判官の服を身に付けることになるのです。


 地球上であなたたちは、しばしばエゴにしか過ぎないものを美徳の名によって彩り、自分たちを無駄にあざむこうとしています。食欲やケチにしかすぎないものを経済性や用心と呼び、自分たちの為の浪費にしか過ぎないものを寛大さだと呼びます。例えばある家族の父親は、慈善を行わずお金を節約し、

貯めることを、子供たちが貧困に陥ることがないように出来る限り多くの財産を残すためだというでしょう。それは全く正当で父親らしいことであり、誰にも非難すべきことではないと認めます。

しかし、それが本当に彼の従う唯一の動機でしょうか。多くの場合、それは、地上の財産への個人的な執着を自分の目と世間の目の前で正当化する為の、自分の良心との約束であるのではないでしょうか。

しかしながら、取り敢えずは父性愛がその唯一の動機であると認めましょう。ではそのことは、神の前に兄弟たちのことを忘れる理由として十分なものでしょうか。すでに余剰がある時、その余剰が少し少なく与えられるからと言って、子供たちが貧困に陥ることになるでしょうか。


その前に、子供たちにエゴイズムを教え、その心を堅くさせてしまうことになりませんか。彼らの中の隣人愛を衰弱させてしまうことになりませんか。父親たち、そして母親たちよ、

その方法によってあなたたちが子供たちから最大の愛情を獲得できると信じているのであれば、あなたたちは大きく誤っています。他人に対して利己的であることを子供たちに教えることは、彼らに、あなたたち自身に対してもそうあれと教えていることになるのです。


 多く働き、その汗によって財産を蓄えた人が、金は稼ぐほどにその価値を知る、と言うのはごく一般的なことです。それ程正確な言葉もありません。

それならばお金の価値を知っているという人は、可能な範囲の中で慈善を行って下さい。そうすれば、豊かさの中に生まれ、労働から来る荒々しい疲労を感じない人々よりも大きな価値があることになります。しかしまた、

自分の苦労や努力を覚えているその人が、利己的で、貧しい者に対して慈悲心を持たないのであれば、他の人達よりも責任は重いことになります。と言うのも、貧困に隠された痛みを自分で知っていればいるほど、他人を助けようと感じなければならないからです。


 不幸にも、豊かな財産を所有する人々の心の中には、その財産への執着心と同じくらいに強い、ある感情が存在します。それは自尊心です。成り上がり者が自分の仕事と能力の話に酔いしれ、

哀れな者が助けを求めると、助ける代わりに「私がやったようにやればよいのだ」というのを目にするのは珍しいことではありません。彼らの見方からすれば、蓄えることのできた富の所有と神の善意とは全く関係ないことなのです。それを所有する功労は彼だけに属すると考えています。

自尊心が彼の目を覆い、耳を塞いでしまうのです。彼の大した知性と能力にも関わらず、神はたった一言によって彼を地面に倒すことが出来るのだということを理解できないのです。


 財産を浪費することが地上の財産への執着心を捨てたことを示すのではありません。それは不注意と無関心です。これらの財産の受託者である人間は、それらを乱費する権利も、自分の利益のために取りあげる権利も有していません。浪費は寛大さではありません。

それはしばしばエゴイズムの一種なのです。自由にすることの出来る金を、幻想を満足させるためにはでに費やす者は、雑務に対しては一銭も支払わないことでしょう。

地上の財産への執着心を捨てるということは、その財産を正しい価値において評価し、自分の為ばかりではなく、他人の為にそれを振る舞うことを知り、未来の人生における利益を犠牲にすることなく、例え神がそれを奪うことを決めたとしても、不平を言うことなくそれを失うことが出来るということです。


もし、予見できない不慮の出来事によって、あなたたちがヨブのようになった時には、彼のように、「主よ、あなたは私に与えられ、私から奪われました。あなたの意のままにされてください」と言うべきなのです。それが本当に執着心を捨てるということです。

何よりもまず従順であってください。あなたたちに与え、あなたたちから奪った神を信頼してください。神はあなたたちから奪ったものを再び戻してくれるでしょう。


あなたたちの力を麻痺させる落胆と絶望に勇ましく抵抗してください。神は一撃を響かせるとき、最も激しい試練の横にいつも慰安を与えるのだということを決して忘れてはなりません。そしてとりわけ、


地上の財産よりも無限に貴重な財産が存在するのだということを熟考してください。その考えは、地上の財産への執着心を捨てる上であなたたちを助けてくれます。あるものに対する評価を低くするほど、それを失った時の喪失感は少なくなります。

地上の財産にしがみつく人は、その時ばかりしか目に入らない子供のようです。それから解放されることのできる人は、救世主の次の預言を理解することによって、より大切な事が見える大人のようです。

「私の国はこの世のものではありません」。

 主は、誰もが、所有するものを捨てて、自ら物乞いになれとは命令しません。なぜなら、もしそのようにすれば社会の負担になってしまうからです。そのように行う者は、地上の財産に対する執着心を捨てるということを誤って理解していることになります。

それはまた別の類のエゴイズムであり、なぜなら財産を所有するものに重くかかる責任からその人は免れるということになるからです。

神は財産を、みなの利益のために管理するに適していると思われる者に与えます。ですから裕福な者には使命があり、それを美化し自分の為に役立たせることが出来るのです。神が信託する財産を拒否することは、分別を持ってそれを管理することによってもたらされる善の恩恵を放棄することです。

それを所有しない時には断念することを知り、それを所有する時には有益に利用することを知り、必要な時には犠牲を払うことを知ることによって、その人は主の意向に沿って進むことができます。

ですから、自分たちの手元にこの世で大きな富と呼ばれるものがもたらされた人は次のように唱えてください。「神よ、あなたは私に新しい役割を与えられました。その役割を果たすための力を、あなたの神聖なる意志に沿ってお与えください」。

 友よ、ここに私が教えたかった地上の財産への執着心を捨てることの意味が存在します。私が説いたことを要約して次のように申し上げます。

「少ないもので満足することを覚えてください」。もしあなたが貧しいのであっても、財産は幸福には必要ないものなのですから富める者を羨ましがってはなりません。もしあなたが裕福であるならば、

あなたたちが自由にできる財産とはあなたたちに預けられたものに過ぎず、弁護人のように、その用途について証明し弁明しなければならないことを忘れないでください。あなたたちの自尊心と享楽を満足させる為だけにそれを使うことで、不誠実な受託者になってしまわないようにしてください。

受け取ったものをあなたたちの独占的な利益のために自由に扱うことのできる権利なのだとも、寄贈されたものだとも判断してはならず、それが単に貸与なのであると考えてください。

それを返還することができないのであれば、あなたはそれを求める権利を持っておらず、また、貧しい者に与える人は神から受けた負債を精算しているのだということを覚えておいてください。
                         (ラコルデ-ル コンスタンティーヌ、1863年)


   

財産の相談
十五、人間が、生きている間にのみ享受することを神によって許された財産の単なる受託者に過ぎないという原理は、財産をその子孫に相続させる権利を人間から奪うことになりませんか。

 人間が死別する時、生きている間に享受出来た財産を、完全に相続させることは全く問題のないことです。なぜなら、この権利の結果も常に神の意志に従うものであり、神が望めば、相続を受けた財産を子孫たちが享受することを妨げることも出来るからです。

確実に形成されたかに見える財産が崩壊するのは、まさにそのようなことが原因なのです。すなわち、

人間の意志は、子孫に相続された財産の所有を守るところにまでは及ばないのです。しかし、だからと言って、神から受けた借り入れを子孫に譲る権利を人は失うわけではありません。なぜなら、神は好機であると判断した時には、その財産を奪うことが出来るからです。(聖ルイ パリ、1860年)


FEB版注1
・・・この強いたとえの表現は少し強引であるようにも思えます。と言うのも、ラクダと針との間にどのような関係があるのか理解することが出来ないからです。実は、ヘブライ語のラクダという言葉は、綱(ロープ)と言う意味にも使われるのです。翻訳では、最初の意味で訳してしまっているわけですが、イエスは別の意味でこの言葉を用いたことが考えられます。少なくともその方が自然です。・・・

 




         第17章   完全でありなさい  

完全性の特徴  
、あなたたちの敵を愛しなさい。あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを迫害し、中傷する者たちの為に祈りなさい。あなたたちを愛してくれる者たちだけを愛するのであれば、いったい何を報酬として受けることが出来るでしょうか。

徴税官でさえそのようにしているではありませんか。あなたたちの兄弟だけに挨拶をするのであれば、他人に比べて何を多く行っていると言うことになるでしょうか。

ゆえに、あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい。(マタイ 第五章 44、46-48)



、神はすべてにおいて永遠の完全性を有していることから、「あなたたちは天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言う命題は、文字通りに受け取ると絶対的完成に到達できる可能性を推測させます。

もし創造物に、創造主と同様に完全になることが許されていたとすれば、創造物は創造主と等しくなってしまい、それは認められないことになります。しかし、イエスが話をした人々は、こうしたニュアンスを理解することができなかったので、イエスは彼らにこのような模範を示し、達成するために努力することを伝えたのです。


 ゆえに、この言葉は相対的な完全性、神に最も近い人類にとって可能な完全性と言う意味で理解するべきです。そうした完全性とは、何からなっているのでしょうか。


イエスは「私たちの敵を愛し、私たちを憎む者に対して善を尽くし、私たちを迫害する者たちの為に祈ること」にあると言いました。この様にしてイエスは、完全性の本質とは、そのもっとも広い意味における慈善であることを示しており、なぜならそれは、他のあらゆる美徳の行使を含むものだからです。

 あらゆる悪徳を、本当に単純な欠点に至るまで、そのもたらす結果において実際に観察してみると、そこには慈善の感覚を多少とも変化させないものはないということが分かるでしょう。

なぜなら悪徳は、多かれ少なかれ、その本質がエゴイズムと自尊心の中にあり、慈善とはそれを否定するものだからです。また、アイデンティティの感情を過剰に刺激するものはみな、真なる慈善の要素である善意、寛大さ、自己の放棄、献身を破壊するか、少なくとも弱めることになるからです。


敵に対する愛にまで引き上げられた隣人愛は、慈善に反するどんな欠点にも結びつくことはなく、したがって、そうしたい愛は、いつも道徳性の優劣を示すしるしとなります。

そのことから、完全性の度合いは、その愛をどこまで広げることが出来るかと言うことに直接かかわっていることになります。そうであるがこそ、イエスはその使徒たちに慈善のきまりを教えた後、そのうちの最も崇高な教えである、

「あなたたちは、天の父が完全であられるように、完全でありなさい」と言うことを言ったのです。



 善人
、真なる善人とは、正義、愛、慈善の法を、その最も純粋な意味において遵守する人のことです。

このような人が自分自身の行動について良心に問いかける時には、自分に対して、その法を破っていないか、悪を行っていないか、可能な限りの善をつくしているか、

有益な機会を自ら無駄にしていないか、誰かが自分に対して不平を持っていないか、つまりは、自分にして欲しいように他人に対して行っているか、を問い詰めることでしょう。


  神とその善意、その正義、その英知に対して信心を持っています。神の許可なしには何も起こることは無いことを知っており、全てにおいて神の意志に従うことを知っています。

 未来に対する信頼を抱き、そのために霊的な富を一時的な富の上に位置付けています。

 人生における全ての苦しみと痛み、あらゆる落胆は試練か報いであることを知っており、それらを不平を言わずに受け入れます。


 慈善と隣人愛の感覚を持ち、善の為に善を、いかなる報酬を期待することなく行います。悪に対して善で報い、強者から弱者を守り、正義に対して自分の利益を犠牲にします。

 善意を広めること、仕事に打ち込むこと、他人を幸せにし、他人の涙を乾かし、苦しむ者に慰安を与えることに満足を見出します。第一の衝動は自分のことを考える前に他人を思うこと、他人の関心事の面倒を、自分の関心事の前に見ることです。

反対に利己的な人は、あらゆる寛大な活動について、そこから生じる損害や利益を計算します。

 善人とは良識を持ち、暖かく、すべての人に対して親切であり、人種や信仰の差別をせず、人類すべてをその兄弟として見ることが出来るのです。

 私たちすべての誠意ある確信を尊重し、彼と同じように考えない人を敵視することはありません。

 どのような状況に置いても慈善をその指針とし、悪口によって他人を害したり、自尊心によて傷つけたり、他人の感受性を軽んじたり、どんなに小さな苦しみや不一致であれ、それを引き起こすことを避けようとしないことが、隣人を愛する義務を怠っていることであり、そうあることは主の慈悲に値しないのだ、という確信があります。

 憎しみや怒り、復讐の欲を抱くことさえありません。イエスの規範に従って、赦し、攻撃することを忘れ、自分が赦したことに応じて自分も赦されることを知っているため、受けた恩恵の記憶だけを心に残します。

 他人の弱さに対して寛容で、なぜなら、自分も他人の寛容を必要としていることを知っており、次のキリストの言葉を覚えています。「罪を犯したことの無い者が最初の石を投じなさい」。

 他人の欠点を探すことを決して好まず、それを証言することも好みません。たとえそれを見ることが強いられても、常にその悪を緩和する善を求めます。

 自分自身の不完全性について研究し、それを無くすことができるように絶え間なく勉めます。次の日になって、前日に比べ何か良いことが自分にもたらさせたといえるように、あらゆる努力を用います。

 他人を犠牲にして自分自身の霊や才能の価値を高めようとはしません。反対に、他人にとって有益なことが目立つようにあらゆる機会を利用します。

 自分に与えられたものは、全て奪われる可能性があることを知っているため、所有する富や個人的な優位性によって自惚れることはありません。


 自分に与えられた富について、それが預かりもので、何れ精算をしなければならないことを知っており、また、自分の情熱を満足させるためにそれを用いる事が最も危害を与えることになることを知っているため、それを用いることはあっても濫用することはありません。

社会秩序がその人の支配下に他の人々を置いたとしても、神の前にはみな平等であるため、それらの人々を善意と寛容さによって扱います。その権威を彼らの道徳性を高めるために用い、傲りによって彼らを押し潰すようなことはありません。

彼らの位置する従属的な立場がより辛いものとなるようなことはみな避けます。

 他人に従う立場にある場合は、自分の為に、自分の占める位置における義務を理解しており、それを良心的に遂行します(→ 第十七章 9)。最後に、善人は自然の法が自分の同胞たちに与えるあらゆる権利を、自分が尊重して欲しいのと同じように尊重します。

  人を善人として区別するすべての特徴を詳細に述べることはできません。しかし、以上に述べた特徴を得ようと努力する者は、残りの全ての特徴をその道程で見つけることになるでしょう。

   


 善いスピリィテスト   
、善く理解され、何よりもよく意識されることにより、スピリティズムは前に記したような結果を導きますが、それは真なるスピリティストを特徴づけることであり、同時に真なるキリスト教徒を特徴づけることです。なぜなら双方は同じものであるからです。

スピリティズムは新しい道徳を定めるのではありません。単に人類に対してキリスト教のお教えの理解と実践を容易にし、疑ったりぐらつく者に、揺るがぬ明確な信仰を与えようとしているのです。


 しかし、心霊現象を信じる多くの人は、その結果や、そのことが及ぶ道徳性を学ばず、あるいは、学んでも自分自身に適応させることがありません。それはどんな理由からなのでしょうか。スピリティズムの教義に何かしら明確さが欠けているのでしょうか。いいえ、なぜなら、

教義には誤った理解をもたらすような装飾や形を含んでいないからです。その明確さは本質そのものであり、直接知性に働きかけ、全ての力がその本質から来ています。

神秘的なものは何もなく、それに接したばかりの人も、そこにどんな秘密や俗世間に隠されたこともないということが分かるでしょう。


 それでは、それを理解するには並ならぬ知性が必要なのでしょうか。いいえ。著しい能力の持ち主でそれを理解することが出来ない人達がいる一方で、一般的な知性の持ち主で、まだ青年期を終えたばかりの若者でも、それを賞賛すべき正確さによって、最も繊細な意味合いについても、

学びと取る人がいます。このことは、いわば、科学の物質的な部分が、それを観察する目を必要とするのに対し、本質的な部分は、道徳性の成熟度と呼ぶことのできるある程度の感受性を必要としていることを証明しています。

その成熟度とは、年齢や教育の度合いからは独立したもので、それは特に肉体を持って生きる霊そのものの進歩に固有のものなのです。


 ある人達にとっては、地上のものから解放されるには物質との絆が未だ強すぎることがあります。

彼らを取り巻く霧は無限の視野を遮り、そのことから彼らには、自分たちの癖や習慣をそう容易には断ち切ることが出来ず、彼らが取り入れていることよりも良い何かが存在することに気づくことができなくなるのです。

単なる事実として霊の存在を信じますが、そのことがその人の本能的な傾向を変化させることはほとんどないか、まったくありません。一言で言うなら、遠くから眺める一筋の光以上のものではなく、そのことが彼らを導き、傾向に打ち勝つだけの強烈な熱望を与えるには至らないのです。


彼らには、道徳は陳腐で単調に見え、現象にすがります。すでに創造主の秘密を知るにふさわしくなったかどうか知ろうともせず、霊たちに対して、絶えず新しい神秘について話を始めることを依頼します。

こうした人達は不完全なスピリティストで、彼らのうちの何人かは途中で学ぶことを止めてしまったり、同じ信仰を持つ同胞たちから遠ざかったりします。なぜなら、自己を改革する義務から逃れたり、同じ欠点や偏見を有する人達と共感し続けることになるからです。

その場合、彼らは教義の原則を受け入れるという第一歩を簡単に踏み出しますが、第二歩目は、次の人生で踏むことになるのです。


 理性に則り、真の誠実なスピリティストとして分類されることのできる人は、道徳的進度においてより優れた段階にあります。その人を物質よりも完全な形で支配するその霊は、未来に対してより明確な感覚を与えます。教義の原則はその人を、他の人の中では反応することの無い神経までも震わせます。


一言で言うならば、その人は揺らぐことのない信仰によって心を支配されています。それは、音楽家がある和音を聞いただけで感動する一方で、他人にはそれがただの音にしか聞こえないのと同じです。

真のスピリティストは、その人の道徳的変化や、その悪しき傾向を抑制するために払う努力をしているかどうかで見極められます。ある人達が有限の地平線に満足する一方で、別の人達はより善いことを学び、そこから解放されようと努力し、それを固い意志をもって必ず達成することになるのです。



種を蒔く者の話
、その日、家を出ると、イエスは海岸に座っておられた。ところがその周りに大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って座られた。人々は海岸に居たままだった。

すると次の様に多くのことをたとえ話で語られた、「種蒔きが種を蒔きに出掛けた。蒔いていると、道端に落ちた種があり、すると鳥がやって来て食べてしまった。石が多く土の少ない場所に落ちた種もあった。その場所は土が浅かったので種はすぐに芽を出した。しかし芽が伸びると太陽が照り付け、

根がないために乾いてしまった。別の種は茨の間に落ちたが、その茨が伸びると芽の成長を遮ってしまった。そして良い土地に落ちた種は実を結び、一つの種から百、あるいは六十、あるいは三十の種がもたらされた。聞く耳を持つ者は聞きなさい」。(マタイ 第十三章 1‐9)


「ゆえに、種を蒔く者の話を聞きなさい。天の国よりの言葉を聞きながらも、それに注意を払わなければ、悪意のある霊がやって来て、その者の心の中にまかれた種を持って行ってしまいます。

そうした者は、種を道端で受けたのと同じことです。石の間に種を受ける者とは、御言を聞き、それをすぐに喜ばしく受け止める者のことです。しかし、そこには根が生えていないために、短い時間しか持続しません。反対や迫害を受けると、それを堕落と不正の理由にしてしまいます。

茨の間に種を受ける者とは、御言を聞きいれる者のとこです。しかしやがて、その時代や富への関心が御言を押し潰し、実を結ばなくなってしまいます。

良い土地に種を受ける者は、御言を聞き、それに注意を払い、それによって実を結ぶことが出来、一つの種から百、六十、三十もの種がもたらされるのです」。(マタイ第十三章 18-23)




、種を蒔く者の話は、福音の実際の受け止められ具合いを正しく表現しています。実際に、その人にとって福音が死んだ文字にしか映らず、石の上に落ちた種のように、全く実を結ばない人が何んと多いことでしょうか。

 さまざまなスピリティストの分類の中にも全く同じことが当てはまります。物質的現象ばかりに気を取られ、珍しいものしか見ることがないために、そこからどんな結果も重要性も導くことが無い人々が、この話の中に象徴されているのではないでしょうか。

霊の通信の輝かしい部分ばかりに気をとられ、それで自分の想像を満足させることだけに興味を持ち、

通信を聞いた後も、以前そうであったのと変わらず冷たく無関心でいる人はどうでしょうか。忠告を良いと認識し、それを賞賛しながらも、それは他人に当てはめられるもので、自分自身にあてはめられものではないと考えてはいないでしょうか。では、そうした教えを、良い土地に落ちて実を結ぶ種のように受け止める人とはどういう人でしょうか。  





霊たちからの指導
  

義務
、義務とは、まず第一に自分自身に対する、そしてその次に他人に対する、人間の道徳的任務のことです。義務は人生の法です。最も些細な事柄においても、より高尚な行動の中にも、それに出合うことができます。ここでは職業上要求される義務ではなく、道徳的義務についてだけ述べたいと思います。 

感情の秩序の中で、義務は、心や興味を引き付けるものと相反するものであるために、とても果たすのが難しいのです。その勝利に証人は存在せず、またその敗北は罰せられるものではありません。

人類のうちなる義務遂行は、その自由意志に委ねられます。良心の痛みが、内心の誠実なる番人であり、人に警告を与え、人を支えています。しかし多くの場合、それは感情の詭弁の前に無力となってしまいます。心の義務は、忠実に守られれば人類を高尚にします。


しかしそれをどのように正確に定めればよいのでしょか。それはどこに始まり、何処に終わるのでしょうか。義務はまさに、あなたたち一人一人が同胞の幸福や平和を脅かし始める点に始まります。そして、他人には超えないように望まれる、あなたたちの辛抱の限度の境界で終わります。


 神はすべての人類を、痛みに対して平等に創造しました。小さな者も大きな者も、教育のある者も無知な者も、一人一人がその健全な良心によって引き起こし得る悪を判断することができるように、すべての人が同じ原因によって苦しむようになっています。

善に関しては、その表現が無限に多様化しており、その基準は同一ではありません。痛みに対する平等は神の崇高なる計らいであり、神はその子全てが、共通した体験に教えられることによって、自分の無知による弁明をしながら悪を働くことが無くなることを望んでいるのです。


 あらゆる道徳的な思惑の実践は、義務に要約されます。それは戦いの苦しみに立ち向かう魂の勇敢な行動です。それは厳しくも寛大です。

多様で複雑な場面の前に屈する準備がありますが、その企てにおいて不屈であり続けます。義務を果たす人は、神を被造物よりも愛し、自分自身よりも創造主を愛していることになります。それはその原因自体に対する判事であると同時に奴隷でもあるということです。


 義務とは理性の最も美しい褒美です。母親から子供が生まれるように、理性からそれは生れます。人類は義務を愛さねばなりません。それは、義務が人生の悪や人類が逃れることの出来ない悪から守ってくれるからではなく、人類の進歩に必要な力を魂に与えてくれるからです。

 義務は、人類のより優れた向上の為の期間のそれぞれの場面において、あらゆる高尚な形に育ち、輝きます。被造物の神に対する道徳的義務は、途切れることはありません。

被造物自身の美しさが自らの目の中に輝くことを神は望むため、不完全に終わることの無い永遠なる神の美徳を、義務は写し出しているのです。(ラザロ パリ、1863年)





 
、最高位の徳とは、善人の持ち合わせる全ての本質的な特徴の集まりです。善くあり、慈善を行い、努力家であり、質素で、慎ましくあることは徳の高い人の特徴です。しかし、残念なことに、大抵こうした徳とともに、小さな道徳的な病が同居し、徳を弱めてしまっています。

自分の徳を見せびらかす人は徳が高いとは言えません。なぜならそこには謙虚さという最も重要な特徴が欠けているからです。反対に、そこには謙虚さと全く反する悪癖である自尊心が存在しているのです。

美徳と呼ばれるにふさわしい徳は、目立つことを好みません。そうした徳とはたとえその存在が想像できても、闇の中に隠れ、人々の賞賛から逃れようとします。聖ブィンセンティオ・デ・パウロは、徳の高い人でした。クーラ・ダール(アルスの司祭・聖ウ“ィアンネー)やその他の大勢の人々も高徳で、

世界的に知られてはいませんが、神には知られているのです。これらの善人たちはみな、自分たちが徳が高いということなど気にもしませんでした。自らの聖なるインスピレーションに任せ、完全に私心を捨て、完全なる自己の放棄によって善を行いました。


子供たちよ、私はこのように理解され、実践される徳にあなたたちを招きます。この真にキリストの教えを守る、真なるスピリティストの徳にこそ、あなたたちに身を捧げて欲しいとお誘いします。


しかし、あなたの心から自尊心、虚栄心、自己愛といった、最も美しい特徴をいつも失わせてしまうものはすべて遠ざけてください。模範として自ら現れ、自分から自分の特徴を嫌がらずに聞いてくれる耳に向かって言いふらすもののマネをしてはいけません。

そのように目立つ徳には多くの場合、多数の小さな醜行や憎まれるべき臆病が隠されています。


 概して、目立とうとする者、徳によって自分自身の彫像を建てようとする者は、そのことだけによって手に入れることのできたあらゆる実際の功労を打ち消してしまいます。

では、実際の姿とは違った姿で現れることばかりに価値を置いている人については、どういえばよいでしょうか。善を行う者は、間違いなく心のうちに満足感を抱くものです。しかし、その満足を外面的に現し、他人からの賞賛を得ようとした時、それは自己愛に転落してしまうのではないでしょうか。


 スピリティズムの信仰によって心を熱くしたあなたたちは、人類がその完成からどれだけ遠いところにあるかを知っているのですから、決して他人の賞賛を得ようとしてつまずいてはいけません。

すべての誠実なスピリティストに私は徳を積むことを望みます。しかしながら、あなたたちに申しあげます。謙虚さを伴う少ない徳の方が、自尊心を伴う多くの徳よりも価値があります。

自尊心によって人類は代々迷うことになるのです。いつか人類は謙虚さによって贖罪することになるでしょう。  (フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)  
 



 上位の者、下位の者
、権威にせよ、富みにせよ、それらは委任されたものであり、委ねられた者はいずれその精算をする必要があります。それらが単に無益な、命令する喜びを作るためにだけ与えられたのであるとか、

地上においてそうした力を与えられた者の大半が思っているように、それが権利であり、所有物であるなどと考えてはなりません。もっとも神は絶えずそのことを証明するため、そうと決めた時に、

彼らからその権威や富を奪います。もしそれらが個人に属する特権であるなら、譲渡し得ないものであるはずです。あるものが自分の同意なしに奪われる可能性があるとすれば、誰にもそのものがその人に属しているのだということはできません。

神はそうあるべきだと判断した時、権威を使命または試練として託し、最も適したときにそれを奪います。


 権威を委託されたものは誰であれ、主人と奴隷から君主と国民の関係に至るまで、その権威がどこに及ぶものであろうと、その責任が及ぶ範囲の中には、与える方向性の善し悪しに応じて、権威に従って変化する魂が含まれていることを忘れてはなりません。

彼らに対して犯した過ちや、悪しき模範や方向性を示した結果によって生まれた悪癖は、権威を託された者へ降りかかります。同様に、従う者たちを善へと導くように権威を行使する者は、その配慮の結果を得ることになります。すべての人が、大なり小なり、地上においてある使命を持っています。


その使命がどのようなものであれ、それは常に善の為に与えられています。その根本においてあざむく者は、その使命の達成に失敗します。


 金銭的に裕福なものに対して、「あなたの周りに泉のように実りを溢れさせるはずであった、あなたの手中にあった富をあなたはどうしましたか」と尋ねるように、ある種の権威を有するものに対しても神は尋ねます。

「あなたの権威をどのように用いましたか。どんな悪を避けることができましたか。どんな進歩をもたらしましたか。あなたに従う者たちを与えましたが、それはあなたの意志に応じて働く奴隷とするためでもなければ、あなたの貪欲さや気まぐれに従順な道具とするためでもありません。

あなたが彼らを助け、彼らが私の胸もとまで上ってくることが出来るようにと、あなたを強い立場におくことによって権威を与え、弱い者たちをあなたに託したのです」。


 キリストの言葉に納得している上位の者は、自分に従う者を軽んじることはありません。なぜなら、神の目に社会的な区別は存在しないことを知っているからです。今日その人に従う者は、

かつてはその人に対して命令を下していたかもしれません。あるいは、後になって命令を下すことになるかもしれず、だからその人は権威を行使していた時に自分が従う者たちをどう扱ったかに応じて扱われるのだと言うことをスピリティズムは教えてくれるのです。

上位の者に達成しなければならない義務があるのであれば、下位の者にも上位の者と同様に神聖な義務が存在します。

スピリティストであるならば、例えばその上司が自分に対する義務を遂行しないからと言って、自分の義務を遂行する必要がないと考えてはいけないのだ、と言うことを強制力をもってその良心が主張します。

なぜなら、ある者が過ちを犯したからと言って、悪に対して悪で応酬することが正当でないことをよく知っており、そのことが他人の過ちを正当化するものでないことをスピリティストは知っているからです。たとえその立場が苦しみをもたらしたとしても、それが疑いもなく自分に相応しいことだと認識します。

なぜなら、おそらく、自分も過去に持っていた権威を濫用したために他人を苦しめており、今はそのことを自分自身が経験しているのだと感じるからです。その立場に耐えることが求められ、その他により良い場所が見当たらないのであれば、それはその人の進歩に必要な謙虚さを養うための試練となっているのであり、スピリティズムはそれを甘受することを教えています。


スピリティズムを信じることは、自分がもし上司であったとしたら、自分に対してとることが望ましいような行動を部下たちに起こさせることができるように、自分の行動を導く事です。だからこそ、

自分の義務を遂行することはより気がかりになります。なぜなら、自分に与えられた仕事を怠けることは、報酬を払ってくれる人にも、時間と努力を負っている人にも、損失をもたらすのだということを理解しているからです。一言で言うなら、スピリティズム信じる人の心には、

信仰から生まれた義務感があり、正しい道から離れることが、何れ支払わねばならなくなる債務を生むことになる、という確信があるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ、1863年)




 この世の人類
、主の視野のもとに集まって善霊たちの支援を懇願する者たちの心を、常に慈悲の心が励まします。

ですから、あなたたちの心を清めて下さい。その心の中にあらゆる世俗的な考えや無益な考えが長居することを許してはいけません。あなたたちが呼ぶその霊のもとへあなたたちの霊を引き上げ、

あなたたちがその魂の中で発芽させ、慈善と正義の実を結ばなければならない種を彼らが豊富に蒔くことができるように、あなたたちの中に必要な準備を整えて下さい。

 しかし、私が祈りと精神を呼び起こすことを絶えずあなたたちに勧めるからと言って、私たちがあなたたちに、生きるように言い渡された社会の法から逃れた、神秘的な生活を送ることを望んでいるのだと判断してはいけません。

そうです、あなたたちは、人類がそうであるべきであるように、あなたたちの時代の人々とともに生きなければなりません。その日のささいなことに対しても、必要性に応じて自分を犠牲にし、それらを神聖なものとすることができるように純粋な気持ちで自分を捧げて下さい。

 あなたたちは違った性格を持つ霊たち、相反する特徴を持った霊たちと接触するように呼ばれたのです。あなたたちがともに人生を過ごす彼らの誰とも衝突してはいけません。快活に、幸せであって下さい。

しかし、その快活さが潔白な良心のもとからもたらさせるように、その幸運が、あなたたちが遺産を手に入れる日まで残された日々を教える、天の相続人のものであるように。

徳とは、あなたたち人類に許された快楽を嫌って厳しく陰気な表情を見せることではありません。

あなたたちに人生を与えてくれた創造主に対して、人生のあらゆる行動を報告すればよいのです。ある仕事を開始したり、終えたりした時、創造主のもとに思考を引き上げ、魂の喜びや、成功するための保護、あるいはその仕事を完成したのであれば、その祝福をお願いすればよいのです。

何を行うにおいても、あらゆるものに対してあなたの額を上げ、あなたのどんな行動さえも、神の記憶によって神聖化され、清純化されないことがないようにして下さい。

キリストが言ったように、完成とは、絶対的な慈善の実践中の中にすべてが存在します。しかし、慈善の義務は小さいものから大きな者にいたるまで、あらゆる社会階級に及びます。孤立して生きる人間にはどんな慈善も行うことはできません。唯一、同胞たちとの接触において、その最も厳しい戦いの中でのみ、人は慈善を行う機会に出合うのです。

ゆえに、自ら孤立し、自分を完成させる最も強力な手段を失ってしまう人は、自分のことしか考えることが無く、その人生は利己的なものとなってしまいます。(→第五章 26)。ですから、

私たちと絶えず通信を取りながら、神の御心に叶うように生きる為に自ら痛めつけたり、灰を被ったりする必要があると考えてはなりません。そうではないのです。繰り返し申し上げます。

人類の必要性に応じて幸せでありなさい。しかし、あなたたちの幸せの中に、あなたたちを愛しあなたたちを導く者を攻撃したり、彼らの顔を悲しませたりするようなことが決してあってはいけません。神は愛であり、神を純粋に愛する者を祝福するのです。(ある守護霊 ボルドー 1863年)

 

   

肉体と霊を大切にしなさい

十一、道徳的完成は肉体の苦行がもたらすのでしょうか。この問題を解決する為に、基本的な原則に則り、まず肉体を大切にする必要性を示したと思います。なぜなら、健康か病気かと言うことは、肉体の虜と考えられる魂にとって大きな影響を及ぼすからです。

この虜が生き生きとし、その広がりを見せ、自由の幻想を抱くようになるには、肉体は健全で、すぐれ、強くなければなりません。ある例を示してみましょう。

ここに肉体と魂のいずれもが完全な状態にある人がいるとします。必要性や性質の全く異なるこれらの二つの要素の均衡を保つためには何をしなければならないでしょうか。両者間の戦いは避けられず、それらを均衡に導く秘訣を見出すのは困難です。

肉体と魂の扱いについては、二つの考え方が対立しています。一つは修行者の考え方で、その基本は肉体を痛めつけることであり、もう一つは唯物主義者の考え方で、その基本は魂を卑しめることです。

いずれも曲解であり、勝るとも劣らずばかげています。しかし、これら二つの両極端な考え方には、大勢の無関心な群衆が、確信もなく情熱を抱くこともなく群がります。彼らは愛に対して冷たく、喜びに対してケチな人々です。その時、知性はどこにあるのでしょうか。

生きるための科学はどこにあるのでしょうか。どこにもありません。スピリティズムが到来し、研究家たちを助け、肉体と魂の間に存在する関係を示し、お互いが他方に依存しているために、両方を大切にしなければならないと言わなければ、この大きな問題は解決されることはありません。

だから、あなたたちの魂を愛し、また、同様に、魂の道具であるあなたたちの肉体を大切にして下さい。自然そのものが示す必要性を軽んじることは、神を軽んじることです。あなたの自由意志から犯された過ちによって肉体を痛めつけないでください。

そうした過ちに対しては、自由意志も、下手の操られた馬と同様に、それが引き起こす事故の責任を負っているのです。

肉体を苦行にさらし、あなたたちの隣人に対して慈善を行うことも、へりくだることも、自己中心的でなくなることもなしに、肉体を痛めつけることによって、あなたたちはより完全になることが出来るでしょうか。いいえ、完成とはそうしたものではありません。

完成とは、あなたたちの霊に対して行う改革にあります。魂を曲げ、服従させ、へりくだり、苦しめて下さい。それが神の意志に対して従順になり、完成に至ることのできる唯一の手段です。
(守護霊 ジョルジュ パリ、1863年)

 



  第18章  多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない
  
結婚披露宴のたとえ話
、イエスはたとえ話によってさらに語って言われた、「天の国は、王子の結婚披露宴を開こうとする王と同じである。その王は家来を遣わし、披露宴に招待した者を呼びに行かせたのだが、誰も来ようとしなかった。

そこで王は、別の家来たちを遣わし、招待客に次のことを伝えるように命令した、『晩餐の用意が出来ました。私の牛と山羊をみな料理して、全ての準備が整いました。披露宴へお出で下さい』。しかし、

招待された者たちは、それに気を取られる様子もなく、ある者は自分の畑へ、ある者は商売をしに出掛けてしまった。又別の者たちは、遣わされた家来を捕え、大いに侮辱した後に殺してしまった。それを知って王は怒り、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ってしまった。

そして家来たちに言った、『結婚披露宴は完全に準備が整っているが、そこに招待していたのはふさわしい者ではなかった。ゆえに、道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れてきなさい』。家来たちは道へ出て行き、善い者も悪い者も、出会う者全て連れてきた。披露宴の席は客で一杯になった。

 王が入ってきて、テーブルについた人々を見回すと、そこには礼服を着ていない者が一人いた。その者に向かって王が言った、『友よ、どうして礼服を着ないでここに来たのですか』。

しかしその者は黙っていた。すると王は家来に言った、『この者の手足を縛り、外の闇へ放りだせ。そこで涙を流し、歯を鳴らして震えるがよい』。呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです。(マタイ 第二十二章 1-14)
 
  
、不信心な者はこの話を幼稚で単純だと笑い、なぜ披露宴に出席するのにそれ程の困難があるのか理解できず、更には招待された人がなぜ、招くために家の主人より送られてきた人達を殺してしまうまで抵抗するのか、と言うことが理解できません。

そのような者は、「たとえ話と言うのはもちろん象徴的なものです。しかし、そうであったとしても、真実としての限界を超えない必要がある」と言うでしょう。


 その他のたとえ話や、もっとも巧みに作られたおとぎ話にしても、それらから装飾的な部分を取り除き、隠された本当の意味を見出せなければ、同じようなことが言えるかもしれません。イエスはそのたとえ話を、生活の最もありふれた習慣を題材として創り、その話を聞かせる人々の特徴や習わしに適応させました。

それらの話の大半は、一般大衆の間に霊的な生活の考えを浸透させることを目的としており、それらを解釈する時に、こうした視点から見なければ、多くの話はその意味において理解不能であるかのようになります。

 ここで扱うたとえ話の中でイエスは、全てが喜びと幸せに満ちた天の国を披露宴に譬えています。最初の招待客のことにふれ、最初に神にその法を知るように招かれたヘブライ人に注意をうながしています。

王に遣わされた家来たちとは、真なる幸せの道に従うように唱えた預言者たちです。しかし、その言葉はほとんど聞き入れられませんでした。

その注意は軽んじられました。例え話の中の家来たちのように、多くの者は本当に殺されました。

招かれながらも言い訳をし、畑や商売の面倒を見に行かなければならないというのは世俗的な人々、地上の事柄につかり、天の事柄に対しては無関心でい続ける人達のことを象徴しています。


 当時のユダヤ人の間では、彼らの国がその他の全ての国々に対して優越していなければならないと信じられているが一般的でした。実際、神はアブラハムの子孫が全地上を覆うことを約束しませんでした。しかし、いつもそうであるように、真意を推し量ることなく形式だけをとらえ、彼らはそれが物質的、物理的な支配のことだと信じたのです。


 キリストの到来以前、ヘブライ人を除くすべての民族は偶像崇拝をしており、多神教でした。上位の人々から庶民に至るまで、神の唯一性という考えを心に抱いたとしても、それは個人的な考えとしてとどまり、どこにおいても基本的な真実として受け入れられることは無く、もしくは、

そうした考えを持つ者は、神秘のベールのもとにそうした知識を隠していたために、一般大衆にそうした考えが浸透することはありませんでした。ヘブライ人は公に一神教を始めた最初の民族です。

神は彼らに対して最初はモーゼを通じて、その後イエスを通じて、その法を伝えました。その小さな焦点から世界中に向けて溢れだす光が放たれ、異教に打ち勝ち、アブラハムの霊的な子孫を「天の星の数ほど」もたらすことになるのです。

しかし偶像崇拝を放棄しながらも、ユダヤ人たちは道徳の法を軽んじ、形式的な儀式と言うより容易な手段に執着してしまったのです。悪は頂点に達しました。国は奴隷化されるばかりか、党派によって崩壊し、宗派に分裂しました。不信心が聖地にまで及んだのです。

そしてその時イエスが現れましたが、イエスは神の法の遵守を呼び掛け、未来の命へ繋がる新しい地平線を彼らに広げるために送られたのでした。全世界の信仰の大宴会に招待された最初の者たちは、天から送られた救世主の言葉を拒み、生贄にしたのです。

そしてそれにより、彼らのイニシアチブによって得ることのできた善い結果を失うことになってしまいました。

 しかしそうであるからといって、そうした状況になったことについてその民族全体を非難することは不適当です。その責任はおもに、自尊心と狂信によって国を犠牲にした者たちや、その他の不信心な者であるファリサイ人やサドカイ人にありました。

ゆえに、結婚披露宴への出席を拒んだ招待客とイエスが同一視するのは、誰よりも彼らなのです。

「道の交差するところへ行き、そこで出会う全ての者を披露宴に連れてきなさい」と付け加えています。このように言うことによって、神の言葉がその後、異教徒であれ偶像崇拝者であれ、全ての民族に伝えられたことを述べ、その言葉を受け入れれば彼らが宴会に参加することが許され、当初の招待客の場所が与えられることに触れたのです。


 しかし、誰でも招待されるだけで事足りるわけではありません。自分がキリスト教徒であるというだけでは足りず、テーブルについて、天の宴会に参加するだけではいけないのです。なによりも最初に明白な条件として、礼服を着ていること、すなわち、清い心を持ち、霊に従って法を守ることが必要なのです。


ところで、その法の全ては次の言葉に要約されます。「慈善なしには救われません」。しかし、神の声を聞くあなたたちすべての間でも、それを守り有益に用いる者の何と少ないことでしょうか。

天の王国に入るに相応しい者の何と少ないことでしょうか。故にイエスは言ったのです。「呼ばれる者は多いのですが、選ばれる者は少ないのです」。




 狭き扉
、狭き扉より入りなさい。なぜなら堕落の扉は広く、そこへたどり着く道は広く、多く者がそこから入るからです。命に至る扉の何と狭いことでしょう。そこへたどり着く道は何と窮屈なことでしょう。そして、その扉に出合える者の何と少ないことでしょう。(マタイ 第七章 13,14)


、ある人がイエスに尋ねた、「主よ、救われる者は少ないでしょうか」。

 イエスは人々に答えて言われた、「狭き扉より入るように努力してください。実際そこを通ろうとしても、通ることのできない人が多いでしょう。家の主人が入り扉を閉めた後、あなたたちが外から扉を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人はあなたたちに答えるでしょう、

『あなたがどこの人であるか私は知りません』。あなたたちは言うでしょう、『あなたと飲食を共にしました。あなたは広場において私たちを指導してくれました』。主人は答えるでしょう、『あなたたちはどこの人であるか、私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい』。

 あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブや全ての預言者たちが、神の国に入っているのに、自分たちは外へ投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするでしょう。

東からも西からも、北からも南からも多くの者が神の国の宴会に参加するでしょう。こうして後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者もあるのです」(→第二十章 2)。(ルカ 第十三章 23-30)      


、堕落の扉は広い。なぜなら、悪しき感情は多く、大抵の人は悪の道を進むからです。救いの扉は狭い。なぜなら、そこを通ろうとする者には、自分自身の悪しき傾向に打ち勝ち、数少ない者が受け入れることのできる事柄を甘受する為の、自分自身に対する多大な努力が強いられるからです。

それが、「多くの者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」と言う金言の補足です。

 地上における人類の状況とはそのようなものですが。それは地球が試練の世界であり、悪の方がより広く支配しているからです。それが変化した時には、善の道を通る者の方が多くなることになります。

したがって、これらの言葉は、絶対的な意味によってではなく、相対的な意味において解釈されるべきです。もしその悪の状態が人類の普通の状態であったなら、神はその被造物の大多数に堕落を強いることになりますが、全正義で善意である神を知る者にとって、それは受け入れられない推測です。

 しかし、もし全人類が地球だけに追いやられており、その魂に前世がなかったとしたら、現在、そして未来においてかくも悲しい運命が与えられた人類は、いったいどんな罪を犯したのでしょうか。なぜ、あなたたちの足元にはそれほど多くの妨げが置かれているのでしょうか。

もし魂を待つ運命が、死の直後に永遠に定められるのだとしたら、なぜほんの少しの者にしか通ることのできない狭い扉がなければならないのでしょうか。この様に、一回のみの人生しかなかったとしたら、人類は常に神の正義に対して矛盾を感じることになるでしょう。

魂に前世が存在することや、世界の複数性によって地平線は広がります。信心の最も暗い部分への光となります。現在と未来は過去とともに一体化し、それによってのみキリストの教えの全英知、全真実、全深意を理解することができるようになります。



よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない

、私に「主よ、主よ」と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです。その日多くの者が私に言うでしょう、

「主よ、主よ、あなたの名において私たちは預言しませんでしたか。あなたの名において悪魔を追いやりませんでしたか。あなたの名において多くの奇跡を起こしませんでしたか」。

その時、私は大きな声で言うでしょう、「あなたがどこの人であるか私は知りません。非道を行う者は私から遠ざかりなさい」(マタイ第七章21-23)


、ゆえに、私の言葉を聞き、それを実践する者は、岩の上に家を建てた賢い者に喩えることができるでしょう。雨が降り、川があふれ、風が吹いた。それでも家は、岩の上に建てられているので壊れることはありませんでした。

しかし、私の言葉を聞き、それを実践しない者は、砂の上に家を建てた愚かな者と同じです。雨が降り,川があふれ、風が吹き家を打つと、その家は壊れました。その壊れ方は激しいものでした。(マタイ 第七章 24-27 ルカ 第六章 46-49)  


、これらの最も小さな戒めを破り、人にそれを破るように教える者は、天の国において最後の者と呼ばれるでしょう。しかし、それを守り、教える者は、天の国において偉大な者と呼ばれるでしょう。(マタイ 第五章 19)


、イエスの使命を知る者はみな「主よ、主よ」といいます。しかし、その教訓に従わないのであれば、師、もしくは主と呼ぶことが、どんな役に立つというのでしょうか。

外見的な行動によって敬いながらも、同時に自尊心、エゴイズム、貪欲さ、その他の感情によってその教えを犠牲にする者はキリスト教徒でしょうか。毎日祈って過ごしながらも、少しも向上せず、同胞に対して寛大になったり慈善深くなったりすることのない人達はイエスの使徒でしょうか。いいえ。

それは、祈りが口先にあっても心の中にはないファリサイ人たちが使徒ではないのと同じです。形式によって人間にそのことを印象付けることはできても、神に印象付けることはできません。

「主よ、あなたの名において預言を、すなわち教えを説きませんでしたか。あなたの名において悪魔を追い払いませんでしたか。あなたと飲食を共にしませんでしたか」とイエスに言ったとしても無意味なのです。

イエスは彼らに答えます。「私は、あなたたちが誰なのか知りません。あなたたちは非道を行い、行動が口で言ったことに反し、あなたの隣人の悪口を言い、やもめたちを食い物にし、姦淫を行いました。心から反感や憎悪をしたたらせ、私の名においてあなたたちの兄弟から血を流させ、涙を乾かす代わりに流させる者は私から遠ざかりなさい」。


神の国は、優しく、謙虚で慈善深い者たちのためにあるため、あなたたちは涙を流し歯ぎしりすることになります。言葉を多くとなえたり、跪くことによって主の正義を曲げることを期待してはなりません。あなたたちの唯一の道である愛と慈善の法の誠実な実践の道は開かれ、あなたはその恩恵を被るのです。

 イエスの言葉は真実であるが故に永遠です。天の生活への通行免状であるばかりか、地上の生活における平和、平安、安定の保証なのです。人類がつくる政治的、社会的、宗教的団体で、これらの言葉を支える団体が、岩の上に建てられた家のように安定しているのはこうした理由からです。

人々はその中に幸せを感じることができるので、それらの言葉を守るのです。しかし、それらの言葉に違反する団体は、砂の上に建てられた家のように、革新の風と進歩の川によって取り壊されてしまうでしょう。




 多くを受けた者は多くを求められる

、主人の意志を知りながら、主人が望むとおりに用意もせず勤めもしなかったしもべは、厳しく罰せられるでしょう。

しかし、その意志を知らずに、罰に値するようなことを行った者は、より軽く罰せられるでしょう。多くを与えられた者には多くが求められ、より多くを託された者に対してはより大きな責任が問われるのです。
(ルカ 第十二章 47,48)


十一、イエスは言われた、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになるよう審判を下すために、この世にやってきました」。

イエスと共にいたファリサイ人たちは、それを聞いて質問をした、「私たちもまたもまた盲目なのですか」。イエスは答えて言われた、「もしあなたたちが盲目であったなら、罪はないでしょう。

しかし、今あなたたちが『見える』と言い張るところにあなた方の罪があるのです」。(ヨハネ 第九章 39-41)


十二、これらの金言は、霊たちの教えに特に当てはまります。キリストの教えを知りながらそれを守らぬ者は、誰であれ責任が問われます。しかしながら、それを含む福音がキリスト教の宗派の中にしか広められていないばかりか、その宗派の中でさえもそれを読まない者が何と多く、

また読んだとしてもそれを理解できないものが何と多いことでしょうか。結果的にイエスの言葉そのものは多くの人にとって無駄になっています。

霊たちの教えは、これらの金言を別の形で再生し、発展させ、それに対する解説を加え、誰の手にも届くようになっており、特に相手が限られたものではありません。

あらゆる人が、教養があろうがなかろうが、信仰があろうがなかろうが、キリスト教であろうがなかろうがその金言を受け入れることができ、また霊たちはあらゆる場所で通信をします。直接受けようが、誰かを介して受けようが、それを受ける者はその無知を言い訳にすることはできません。

教育を受けなかったことのせいにすることも、その例えの曖昧さのせいにすることもできません。

ゆえに、これらの金言を自分の向上のために利用せず、それが心に響くことなく面白く興味深いものだと驚き、無益さ、自尊心、エゴイズム、物質的なものへの執着を減らすことも、自分の隣人に対して善くなることもない者は、真実を知る手段をより多く持っているが為に、より責任を問われることになります。

 善い通信を受ける霊媒で、悪に固執する者は、自分自身に対する非難を多くの場合は書いていることになるのですから、より注意をしなければなりません。なぜなら、自尊心に目をつむらせることなしには、霊が自分に通信を向けていることを認識することが出来ないからです。

書き留めたり、他人に読んだりする教えを自分の為に受け止めることなく、それを他人に当てはめることばかりに気を取られている人には、「隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」と言うイエスの言葉が当てはまります。(→第十章 9)

「盲目であったなら、罪はないでしょう」と言う言葉によってイエスは罪の責任とは、その人が持つ知識に応じていることを意味したかったのです。そしてその国で最も博識であると考えられ、実際そうであったファリサイ人たちは、無知な国民よりもより責任があると神の目には映ったのです。


 今日、多くを受けた者には多くが求められると、スピリティストに対して言うことができます。しかし、それをうまく利用した者には多くが与えられます。

 誠実なるスピリティストの払う最初の注意は、霊たちが与える忠告の中に、自分に対して述べられたことが何かないだろうかと見つけようとすることでなければなりません。

 スピリティズムは「呼ばれる者」の数を増やします。そしてそれがもたらす信心によって「選ばれる者」の数も増やすことになるのです。


 


霊たちからの指導

 持つ者に与える

十三、イエスに近づくと、使徒たちは言った、「なぜ彼らにたとえ話で伝えるのですか」。答えて言われた、「なぜなら、あなたたちには天の国の謎が解き明かされていないからです。おおよそ、持つ者により多く与えれば、より豊かになりますが、持たない者からは、持つものさえも奪われるでしょう。

だから彼らにはたとえ話で伝えるのです。それは彼らが、見えても何も見えず、聞こえても何も聞かず、また理解しないからです。彼らには次のように言ったイザヤの預言が当てはまります。『あなたたちはその耳で聞くが何も理解せず、その目で見るが何も見えない』」(マタイ 第十三章 10-14)


十四、聞くことに大いに注意を傾けなさい。そうすれば、他人を計る時に用いる秤であなたたちも量り与えられ、さらに増し加えられるでしょう。なぜなら、すでに持つ者には与え、持たぬ者からは持つものさえも奪われるからです(マルコ 第四章 24,25)


十五、「持つ者は与え、持たぬ者からは奪う」。あなたたちは逆説として映るこの偉大な教えについて熟考してください。与えられる者とは神の言葉を有する者のことを意味し、神の言葉に相応しくなろうとすることによってのみそれを受けるのです。

なぜなら、主はその慈悲深い愛により、善へ傾く努力を励ますからです。辛抱強く勤勉なこうした努力は主の恩恵を引きつけ、それは磁石のように、進歩する上で善いことである多くの恵みを自分に呼び、

それは労苦の休息が頂上に待ち受ける聖なる山をあなたたちが登ることができるように、あなたたちを強化してくれます。

 「持たぬ者や少ししか持たぬ者から奪う」。この言葉は比喩的に表現された対照的なものとして理解してください。神はその被造物から、それを行うように仕向けた善を奪うことはありません。目は見えず、耳も聞こえない人類よ、あなたたちの知性と心を開いてください。


霊によって見、魂によって聞き、あなたたちの目に主の正義が光り輝くことを可能にしたあの言葉を、不徳で不公平な方法で解釈しないでください。少しを受けた者から奪うのは神ではありません。

霊自身が、その道楽と怠慢の為に、持っているもの、つまり心に落ちた小さな種を、保持し、増やし、そこから多くを生ませることを知らないのです。

 父が与えたり、相続によって与えられた畑を耕さない者は、その畑の植物が寄生植物に覆われるのをみるでしょう。その時、その人が準備しなかった収穫を奪うのは父でしょうか。管理が足りなかったのであれば、その畑で多くをもたらしたであろう種が死に、それらが何ももたらさなかったことを責める相手は、その父でしょうか。

いいえ、違います。全てを準備してくれた人や譲り受けたものを非難するのではなく、自分の惨めさの本当の原因を責めて悔やみ、勇気を持って生産的な労働に取り掛かってください。

恩知らずな土地を、意欲の努力によって開拓してください。後悔と希望の助けを借りて地面を耕し、その上に悪の中から仕分けて取り出した善の種を自信を持って蒔いてください。

あなたの愛と慈善の水をまけば、愛と慈善の神は、すでに受けたものに対して与えるでしょう。そして、その努力が成功の冠を受け、一粒の種が幾千もの種を生むのを見ることになるでしょう。労働者たちよ、元気を出してください。


あなたたちの鍬とくわを手に取って下さい。あなたたちの心を耕してください。毒草を引き抜き、主があなたたちに託してくれた善き種を蒔けば、愛の露が慈善の果実をもたらすことになるでしょう。
(ある親しい霊 ボルドー、1862年)



 行いによりキリスト教徒であることを知る
十六、「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

スピリティズムを悪魔の仕業と考え、拒絶する人たちは、師のこの言葉を聞いてください。耳を開いてください。聞く時が来たのです。

従順な使徒となるためには、主に決められた衣を持ってくるだけで十分なのでしょうか。キリストの使徒となるためには、「私はキリスト教徒です」と言うだけで事足りるのでしょうか。真なるキリスト教徒を探す時、それをその行いによって知ることができます。

「善い木に悪い果実はなりませんし、悪い木には善い果実はなりません。善い果実を結ばない木は切り倒され、火に投じられます」。これらは師の言葉です。キリストの使徒たちよ、

これらの言葉をよく理解してください。強大で、葉の生い茂る枝が、世界の一部には木陰を与えながらも、その周りに集まる者全てを宿らせるには至らないキリストの教えの木は、どんな実を結ばねばならないのでしょうか。 命の木がもたらす果実とは、命の果実、すなわち希望と信仰の果実です。

キリストの教えは、何世紀も前にそうしたように、これらの神聖なる美徳を説き続けます。その果実を広げようと努力しますが、それを拾う者の何と少ないことでしょうか。木は常に良いのですが、庭に働く者たちが悪いのです。自分たちの考えに合わせて解釈し仕立てました。

自分たちの必要性に応じて剪定しました。摘み取り、切り戻し、切り捨ててしまいました。役立たずと言うことになれば、その枝はもう実を結ばないのですから、悪い実を結ぶこともありません。

喉を渇かした旅人がその枝のもとに立ち止まり、力と勇気を再び与えてくれる希望の果実を求めても、嵐を予告する乾いた枝葉しか見えません。命の木に命の果実を求めても、それは無駄骨に終わります。乾いた葉が落ちてくるだけです。男は木をあまりに揺すったために、枯れてしまいました。

 だから、愛する者たちよ、耳と心を開いてください。永遠の命を与えてくれるその命の木を育んでください。まだその木が神の果実を多く結ぶのを見ることが出来るために、それを植えた者は、あなたたちがそれを愛を持って扱うように呼びかけています。

キリストがその木をあなたたちに預けたとおりに、それを守ってください。切り倒してはいけません。

その木は宇宙に広く木陰をもたらそうとしているのです。その枝葉を切ってはいけません。その有益な果実は豊富に落ち、旅の終わりまでたどり着こうとする飢えた旅人の食物となります。

これらの果実を蓄え、ため込み、腐らせ、誰の役にも立たなくしてしまうようにしてはいけません。

「多く者が呼ばれるが、選ばれる者は少ない」。物質的なパンを独占する者がいるのと同様に、人生のパンを独占する者がいます。その一人に数えられないようにして下さい。良い果実を結ぶ木は、すべての人にその果実を与えなければなりません。ゆえに飢えた者を探し求めに行って下さい。

彼らをその木の下へ連れて行き、その木がもたらす保護を彼らと分かち合って下さい。「木いちごの木にぶどうはなりません」。兄弟よ、道に生える茨をあなたたちに教える者たちから遠ざかり、人生の木陰にあなたたちを導いてくれる者の後をついて行って下さい。

 至上の正義である神聖なる救世主は、すでに伝え、その言葉は消えることはありません。「『主よ主よ』と言う者全てが天の国に入るわけではありません。天にいる私の父である神の意志に従って行う者だけが入るのです」。

神の恵みである主があなたたちを祝福してくれますように、光の神があなたたちに輝きを与えてくれますように。人生の木が、その果実を沢山あなたたちに与えてくれますように。信じ、祈ってください。(シモン ボルドー、1863年)



   第19章  山をも動かす信仰   
信仰の力
、イエスが民衆に会いにやって来ると、一人の人が近寄り、ひざまずいて言った、「主よ、私の子に慈悲を。てんかんにかかってとても苦しんでおり、火の中や水の中に何度も倒れるのです。あなたの使徒たちのところへ連れて行きましたが、彼らには治すことができませんでした」。

するとイエスは答えて言われた、「ああ、何と言う不信仰な、曲がった時代でしょう。いつまで、私はあなた方と一緒にいることが出来るのでしょうか。いつまであなたたちに我慢ができるのでしょうか。その子をここに、私のところへ連れてきなさい」。イエスが悪霊を脅かすと、悪霊は子供から出て行き、

その瞬間子供は健康になった。使徒たちはひそかにイエスの許へ行き、尋ねた、「どうして私たちは悪霊を追い払うことができなかったのですか」。イエスは答えて言われた、

「あなたたちの不信仰のせいです。誠に言います、からしの粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『あちらへ動け』と言えば動き、何も不可能なことはなくなります」。(マタイ 第十七章 14-20)
   

、ある意味では、自分自身の力に対する信念が物質的なことの実現を可能とさせるのであって、自分自身を疑う者はそれを実現できないというのは真実です。しかし、ここでは道徳的な意味においてのみ、これらの言葉を解釈するべきです。信仰が動かす山とは、困難、抵抗、やる気のなさ、要するに善いことに向かう時にさえも人間の間に現れるもののことです。

日常の偏見、物質的な関心、エゴイズム、狂信の盲目、誇り高き感情などは、どれもが人類の進歩のために働く者の道を遮る山の数々です。強固な信念は、忍耐力や、小さなものであれ大きなものであれ、障害に打ち勝つエネルギーを与えます。

不安定な気持ちは不確実さや、躊躇を生み、打ち勝たねばならない敵対者たちに利用されてしまいます。こうした不安定な気持ちは、打ち勝つ手段を求めることもありません。なぜなら、打ち勝つことが出来ることを信じないからです。


、別の解釈によれば、信念とはあることを実現できると信じること、ある特定の目的を達成する確信と解釈されます。それはある種の明晰さをもたらし、それによっての思考の中で、

そこまでたどり着く為の手段や達成しなければならない目標を見ることを可能にさせるがため、それを持って歩む者は、言うならば全く安心して歩むことができるのだということができます。いずれの場合であれ、偉大な事柄の実現を可能にします。

 誠実で真実なる信念は常に平静です。知性と物事の理解に支えられ、望む目的に到達する確信があるために、待つことを知る忍耐をもたらします。ぐらついた信念はそれ自身の弱点を感じています。

関心がそれを刺激すると、怒りっぽくなり、暴力によって自分に足りない力を補おうとします。戦いにおける平静は常に力と自信の証です。反対に暴力は弱さと自分自身に対する不安を表しています。

 
、信念を自惚れと混同してはいけません。真なる信念は謙虚さを伴います。真の信念を持つ者は自分自身よりも神を信頼しており、なぜなら自分自身は神意に従う単なる道具であり、神なしには何も存在し得ないことを知っているからです。

こうした理由から、善霊たちがその者を助けにやってきます。自惚れでは、自尊心が信仰を上まっており、自尊心はそれを持つ者に課された失望や失敗によって遅かれ早かれ、罰せられることになります。


、信仰(信念)の力は磁気的な動きによる直接的で特別な形でその姿を示します。宇宙的動因であるフルイドに対して人間はその仲介として作用し、その性質を変化させ、いわば抑えようのない衝撃を与えます。そのようなことから、普通のフルイドのある大きな力に熱心な信仰が結びつき、

善に向けた意志の力のみによって治療のような特別な現象を引き起こすことになります。それらは昔は奇蹟として扱われましたが、自然の法則の結果に過ぎないのです。こうした理由により、イエスはその使徒たちに言ったのです。「治すことができなかったのは、信仰がなかったからです」。



宗教的な信仰。揺るがぬ信仰の条件
、宗教的な視点では、信仰とは、さまざまな宗教を組織させたある特別な教義を信じることから成り立っています。どの宗教にもその信仰の対象というものがあります。この点において、

信仰は理性的でも盲目的でもあり得ます。なにも検証することなく、真実と偽りを確かめたりせずに、盲目的な信仰はそれを受け入れ、一歩歩むたびに立証や理性と衝突します。それが過剰になると狂信を生みます。誤りの上に立っていると、遅かれ早かれ崩壊します。

真実に基づく信仰のみがその未来を保証することができます。なぜなら、人々の啓発に対する恐れが全くないからであり、闇の中で真実たるものは光の中でも真実であり続けるからです。

どの宗教も排他的な真実の主となろうとします。ある信仰のある部分を誰かに盲目的に信じるように教えることは、その信仰が理に適って居ることを示すことが出来ないと告白するのと同じことです。


、一般に信仰と言うものは他人に示しようがないと言われますが、そのために、信仰がないことには責任が無いと言う多くの人の言い訳を生んでいます。確かに信仰は他人に示しようがありませんし、

増してや強要することは不可能です。そうです信仰は獲得するものなのであり、最も頑固な者でさえも、信仰を持つことが許されていない者はいないのです。私たちが述べているのは霊的な真理の基本的なことについてであり、ある特定の信仰に関してどうこう言っているのではありません。

信仰が人々を探し求めるのではないのです。信仰に出合うことができるように、人々が誠実に求めれば、それに出合えないことはないでしょう。ゆえに、

「信じること以上に善いものを私たちは望まないが、それができないのだ」と言う人々は、それを心の底からではなく口先だけで言っているのだということを確信し、そう言う言葉を聞いたら耳を塞いでください。しかし、そうした人の周りには証が雨のように降り注いでいます。ではなぜ、それに気づくことが出来ないのでしょうか。


一部の人達はそれを無視しています。他の人達は習慣を変えなければならなくなること恐れています。

大半の人達には自尊心があり、自分たちより優れた存在を認めることを否定するのです。なぜなら、そうした存在の前に頭を下げなければならなくなるからです。ある人達にとって信仰は、生まれつきのものであるかのように見えます火の粉ほどの信仰さえあれば、それを発展させることができます。

霊的な真理を受け入れることに対するこうした容易さは、前世における進歩の明らかな証拠です。 

他の人達にとってはその反対で、そうした真理が入り込みにくく、それは同様に遅れた性格を示す明らかな証拠です。前者の人々はすでに信じ、理解しました。再生した時には既に知ったことを直感的に持ち合わせて来ているのです。彼らはすでに教育されています。 

後者の者は全てを学ばなければなりません。これらから教育を受けなければなりません。しかしそれを行い、現世のうちに終了できなければ、次の人生においてそれを行うことになるのです。

 信仰のない者の抵抗は、多くの場合その人自身よりも、物事のその人に対する示され方から来ているということに私たちは同意しなければなりません。信仰には基礎が必要であり、その基礎とは信じようとする者の知性です。そして、信じるためには見るだけでは足りません。

何よりも理解することが必要なのです。盲目的信仰は、もはや今世紀のものではなく(→FEB版注1)

それゆえに盲目的な信仰を教える教義が今日、不信仰な人々を多く生み出しているのです。なぜなら、そうした教義は強要によって、人類の最も大切な特権である理性と自由意志の放棄を命じるからです。

不信仰な人々は主にこうした信仰に対して反抗するのであり、これに関して言えば、全く信仰とは説明し得ぬものだということができるでしょう。そうした教義は証拠を認めないために、心の中に何か曖昧なものを残し、そこから疑いが生まれます。理性的な信仰は、理論と事実に支えられ、

いかなる曖昧さも残すことはありません。つまり人間は、確かだと思うから信じるのであり、誰も理解することなしに確かさを感じることはできません。理解できないために屈服しないのです。

揺るがぬ信仰とは唯一、人類のいつの時代に置いても理性に対して真正面から向き合うことのできる信仰のことです。

スピリティズムはこうした結果を導く事で、意図的、もしくは制度的な反対が無い限り、いつも不信仰な者に対して勝利を収めるのです。




 枯れたイチジクの木の話   

、ベタニアから出かけてきた時、イエスは空腹を覚えられた。そして、遠くにイチジクの木をごらんになって、なにかありはしないかと近寄られたが、イチジクの季節ではなかったために葉しかなかった。するとイエスは、イチジクの木に向かって言われた、

「これから先、誰もおまえから果実を食べることはないだろう」。使徒たちはそれを聞いていた。


次の日、イチジクの木の近くを通ると、根まで枯れているのを見た。そこでイエスが言ったことを思いだすと、ペトロは言った、「先生、あなたが呪われたイチジクの木がどうなったか見て下さい」。

イエスはその言葉を聞くと答えて言われた、「神を信じなさい。誠に言いますが、言葉にしたことは全て起きると強く信じ、そこをどき、海へ落ちよと、この山に心からためらうことなしに言う者は、実際にそれが起きるのを目にすることになるでしょう」。 (マルコ 第十一章 12-14,20-23)



、枯れたイチジクの木とは、見た目には善に関心があるように見えながらも、実際には善いものをうまない人たちの象徴です。堅実さよりも華々しさを持った説教者のように、その言葉の表面は虚飾に覆われており、それを聞く耳を喜ばすことはできても、詳細について吟味してみると、

心にとって本質的な意味を何も持たないことが分かります。そして私たちは、聞いた言葉の中から何を役立てることが出来るのだろうかと問い直すことになるのです。

同時に、有益な存在となる手段を持ちながら、そうなっていない人々のことも象徴しています。堅実な基礎を持たないあらゆる空想、無益な主義、教義がそれにあてはまります。殆どの場合そこには真なる信仰である生産性のある信仰、心の隅々をも動かす信仰が不足しています。

その信仰とは一言で言うなら、山をも動かす信仰のことです。そうした信仰の欠けた人々は、葉に覆われながらも果実に乏しい木のようです、だからイエスはそうした木を不毛であると言いわたしたのであり、いつかそれらは根まで乾いてしまうものなのです。


つまり人類にとって何の善ももたらすことの無いいかなる主義も、いかなる教義も、没落し、消滅するということを指しています。自分のもつ手段を働かせないことにより無益と判断された人はみな、枯れたイチジクの木と同じよに扱われるでしょう。




、霊媒とは霊の通訳者です。霊たちはその指導を伝えるための物質的な器官はありませんが、霊媒がそれを補うのです。このように、こうした目的のために使われる能力を持った霊媒が存在します。

社会が変革しようとしている今日、彼らには非常に特別な使命があります。それは同胞たちに霊的な糧を供給する木となることです。糧が十分であるように、その数は増えていきます。あらゆる場所、

あらゆる国、あらゆる社会階級の中に、裕福な者の間にも貧しい者の間にも、偉大なる者の間にも小さな者たちの間にも現れ、そのためどの場所にも不足することが無く、人類の全ての者が招かれていることが示されるのです。しかし

もし彼らが、託されたその貴重な能力を神意による目的からはずれたことに用い、不毛なことや、有害なことに使用するのであれば、あるいは、世俗的な利益に仕えるために用いたり、熟した実の代わりに悪い実を結ばせ、それを他人の益のために用いることを拒んだり、

自分たちを向上させようとそこから自分たちの為に何かの利益も得ることもないのであれば、彼らは枯れたイチジクの木であるのです。神は彼らの中で不毛となった力を奪います。そして実を結ばせることを知らない種が、悪い霊たちの間に捕まってしまうのを許すのです。





♦霊たちからの指導     

信仰-希望と慈善の母 
十一、有益になるためには、信仰は活動的にならなければなりません。それを無感覚にしてしまってはいけません。神へ導くあらゆる美徳の母は、それが生み出した子供たちの成長を注意深く見守らなければなりません。


 希望と慈善は信仰から派生しますが、信仰と共に分離不可能な三位となります。主の約束の実現の希望を与えてくれるのは信仰ではありませんか。信仰を持たずに、何を期待することが出来るでしょうか。愛を与えてくれるのは信仰ではありませんか。
 
信仰を持たぬのであれば、あなたの価値やその愛は何でありましょうか。

 神性の発露である信仰は、人間を善へ導くあらゆる高尚な本能を目覚めさせます。信仰は更生の基礎です。必要なのは、この基礎が強い持続性を持つことです。というのも、もし、ほんの小さな疑いによってその基礎が動揺してしまうとしたら、その上に築いたものはどうなると考えますか。

だから、ゆるぎない基礎の上にその建物を築いてください。あなたたちの信仰は不信仰な者たちの詭弁や冷やかしよりも強くなければなりません。もっとも人間の嘲笑に対抗できない信仰は、本当の信仰とは言えません。

 誠実な信仰は人の心を捕え、影響力を持っています。信仰を持たなかった者や、信仰を満ちたくないと考える者の心に訴えます。それは魂に響く、説得力のある言葉を持ち、一方で見せかけだけの信仰は、聞く者を無関心にし、冷たくしてしまうように響く言葉を使います。

あなたの模範によって信仰を説き、人々に信仰を吹き込んでください。あなたたちの事業の模範によってそれを説き、信仰の真価を示してください。あなたの不動の希望によってそれを説き、人生のあらゆる苦しみに立ち向かうことができるように人間を強くしてくれる確信を示してください。

だから美しく善い、純粋で合理性を持った内容に信仰を抱いてください。盲目から生まれた目の見えない娘である、証明のない信仰を認めてはなりません。神を愛してください。しかし、

なぜ愛するのかを知って愛してください。その約束を信じてください。しかし、なぜそれを信じるのか知って信じてください。私たちの忠告に従って下さい。しかし、私たちが指摘する事柄やそれを成し遂げるための手段について納得した上で従って下さい。信じ、無気力になることなく待ってください。奇蹟は信仰のなす業です。
  (守護霊ヨセフ ボルドー、1862年)   





人間的な信念と神への信仰
十二、人間の信念は、未来の運命に対して生来持っている感覚です。自分自身の内に無限の能力を秘めているのだという認識であり、最初それは潜在的に存在しますが、意志の働きによってそれを発芽させ、育てることが必要です。

 今日まで、信心とはその宗教的側面しか理解されませんでしたが、それは、キリストが信仰を強力な梃子として示したため、イエスは宗教の指導者としてしか考えられていなかったからです。

しかしながら、物質的な奇蹟を引き起こしたキリストは、こうした奇蹟によって、人間に信念があれば、つまり、何かを望み、その望みが必ず満足されるという確信があれば、何ができるのかを示したのです。使徒たちも、イエスの模範に従って、奇蹟を引き起こしたではありませんか。ただ、

こうした奇蹟は、人類がその当時原因をいまだに解明していなかった自然現象に過ぎません。今日、その大部分はスピリティズムと磁気の研究により解明され、全く理解可能なものとなったではありませんか。

  人がその能力を地上の必要性を満たすために用いるか、天や未来に対する熱望に用いるかによって、人間的な信念にも神への信仰にもなります。天における自分の未来を信じる善なる人は、

その存在を美しく高尚な行動によって満たしたいと望み、その信念の中から自分を待ち受ける幸福の確信や必要な力を汲みあげ、そこで慈善、献身、自己放棄の奇蹟を引き起こします。

つまり、信念(信仰)によって、打ち勝つことのできない悪は存在しないのです。

 磁気は、行動に移された信念の力の最大の証のうちの一つです。治療などに見られるような珍しい現象は、過去において奇蹟と呼ばれていましたが、それらは信念によって引き起こされるのです。

 繰り返します。人間的な信念と神への信仰があります。
もし生きる人々が、自分がもち合わせる力をよく理解し、自分の意志をその力を用いるために使おうと望めば、今日に至るまで奇蹟と考えられていたような事柄を実現することが出来るでしょう。そしてそれを実現することは、人間のもつ能力の発展に過ぎないのです。(ある守護霊 パリ、1863年)
 

FEB版注1
アラン・カルデックはこの言葉を十九世紀に記しました。今日、人類の霊は更に多く求めます。盲目的な信仰は放棄されました。そうした信仰を強要する教会には不信仰が君臨しています。人類の多くは理想もなく、現世以外の人生への希望も持たずに、暴力によって世界を変えようとしています。

経済的な戦いは風変わりな原因と結果の教義を生み出しました。経済的優勢を激しく切望した二度の世界大戦が地球を痛めつけました。人類のあらゆる希望はキリスト教の復興、

キリストの教義の原則が示す、人類の永遠性や、思考、言葉、行動の責任が無限であることを教えるスピリティズムにかかっています。第三の啓示が無かったら、世界は大いに誤った暴力的、唯物的イデオロギーによって手の施しようもないほど失われていたことでしょう。ーFEB1948


和訳注 「信念」と「信仰」について
原文では、FOI(フランス語)、FE(ポルトガル語)、FAITH(英語)という一つ言葉によって、日本語で言う「信念」と「信仰」の二つの意味を表現しています。日本語の「信仰」には「神や仏を信じ、崇め尊ぶこと」とあるため、宗教的な意味においてしか用いられることはありません。

本文では必ずしも「神仏」に対する信仰を必要とせずに、人間はその意志によって多くを実現することが出来ることを説明しているため、翻訳に当たっては「信仰」と「信念」とを使い分ける必要がありましたことをお断りしておきます。

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