「スピリティズムによる福音」
  アラン・カルデック著  角 智織訳           


本書には、スピリティズムの教義にもとづいたキリストの道徳的原理の解説、並びに、日常生活でのさまざまな場面におけるその応用が著されている。

揺るがぬ信仰とは、人類のどの時代においても道理と真正面から立ち向かうことのできるものでなくてはならない。
                                                                         ────アラン・カルデック

                            目          次       1章~9章       10章~19章  20章~28章
  序 章   
 Ⅰ、本書の目的

 Ⅱ、スピリティズムの教義の権威、 
       霊たちによる教えの普遍的管理

 Ⅲ、歴史的な背景
 Ⅳ、ソクラテスとプラトン
 キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち。
 ソクラテスとプラトンの教義の要約
キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている


 第1章 
  私は法を破るために来たのではありません  

      三つの啓示 2、モーゼ  3、キリスト  
    5、スピリティズム   8、科学と宗教の同盟

 ♦霊たちからの指導  9、新しい時代

 第2章 
  私の国はこの世のものではありません 
 2、未来における生活 4、イエスの王位 5、視点
    ♦霊たちからの指導  8、地上における王位

 第3章 私の父の家には多くの住処があります 
  2、死後の世界における魂のさまざまな状態  
   3、霊の住む世界のさまざまな分類
    6、地球の運命ー地球の惨めさの原因

     ♦霊たちからの指導  
     8、優れた世界、劣った世界
 13、試練と償いの世界   16、更生の世界  
   19、世界の進歩
    3、苦しみの正当性  
    4、現世に存在する苦しみの原因 
    6、前世に存在する苦しみの原因  
   11、過去の忘却 
   12、甘受しなければいけない理由 
   14、自殺と狂気
        ♦霊たちからの指導   
    18、善い苦しみ、悪い苦しみ  
    19、悪とその薬 
  20、幸せはこの世のものではありません 
  21、愛する人の死、早すぎた死  
    22、善人であれば死んでいた 
  23、志願して受ける苦痛    
    24、本当の不幸      25,憂鬱  
    26、志願した試練、本当の苦行 
  28、治癒する望みのない病人の命を
                     短縮することは合法でしょうか 
  29、自らの命を犠牲にすること   
    31、他人のために感じる苦しみの利益

  第6章 救い主キリスト
     1、軽いくびき  3、約束された救い主  
    ♦霊たちからの指導  5、真実の霊の出現

 第7章 魂の貧しいものは幸いです
   1、魂が貧しいということはどういうことか 
 3、自分を高くする者は下げられます
   7、博学な者や知識人に隠された謎
           ♦霊たちからの指導 
 11、自尊心と慎ましさ 
 第4章
          
  4、復活と再生(リインカーネイション)
     18、再生が家族の絆を強める一方で、
  人生が一度限りであれば絆は絶たれることになる 
 
 
        ♦霊たちからの指導  
      24、受肉(インカネーション)の限界 
    25、受肉の必要性
 
 
 第8章 心の清い者は幸いです
     1、素朴さと心の清さ   
     5、思考による罪。姦淫 
   8、真なる清さ。洗っていない手
   11、恥
もしあなたの手が恥の原因となって
 いるの れば、切り落としてしまいなさい         
     ♦霊たちからの指導  
   18、子供たちを私のもとへ来させなさい 
 20、目が閉じている者は幸いです

 第9章 柔和で平和をつくる者は幸いです
   1、侮辱と暴力
           ♦霊たちからの指導 
 6、愛想の良さと温和さ 
 7、忍耐  8、服従と甘受   
   9、怒り  
 


 ☆彡 ──────────────────           
      
 序 章 
   
Ⅰ、 本書の目的
福音書に記された内容は五つの部分に分類することができます。
1、キリストの生涯における出来事。  2、奇跡。 3、預言。 4、教会の教義を確立させるために用いられた言葉。 5、道徳的な教え。

 最初の四つの部分は議論の対象となってきましたが、最後の一つに関して異議を唱える者は誰もいません。この神聖なる法の前には、不信心さえも屈するのです。

道徳的な教えは、すべての宗教が交わるところであり、この法の旗のもとには、信仰の対象がどのように違っていようとも、万人が宿ることができます。

教義の違いが引き起こす、様々な宗教的論争の対象にはなり得ないものなのです。もし、これについて議論しようとするならば、その宗派は、自らに対する非難に出遭うことになるでしょう。また、そのような宗派はほとんどの場合、一人一人の改革を強いる道徳的な部分よりも、神秘的な部分に執着しているものです。

 キリストの道徳的な教えとは、人類の個人的・社会的生活のあらゆる状況における行動の規則であり、最も厳格な正義によって築かれた、全ての社会関係の原則となるものです。

幸福を手に入れるために何よりも間違いのない道であり、ベールに覆い隠された未来の生活の一端を垣間見せてくれるものなのです。本書を発刊する極めて重要な目的はこの部分にあります。

 誰もが福音の道徳に感心し、その崇高さと必要性を唱えます。多くの人が、他人が言ったことを信じたり、格言と化した教えの言葉を用いたりしていますが、その深い意味を知る者は非常に少なく、そこから結果を引き出すことが出来る人は更に少ないといえます。

それはほとんどの場合、読み方が難しくて、多くの人が福音を理解できないからです。これでは、意味を理解することなく祈りを唱えるのと同じで、全く無益なことになってしまいます。福音の朗読が、義務感から強要されて行われるものになってしまっていることは否めません。

 福音を理解できない原因の一つとしてあげられるのが、装飾的な表現や意図的に神秘性を加えられた言葉の多用です。方々に散らばった道徳の規律は、物語の間に入り混じっているために見失われてしまい、全体を一つとして理解し、朗読の対象となるものと、熟考の対象となるものとに区別することができなくなってしまうのです。

 これまでにも、福音の道徳に関するさまざまな専門書が確かに書かれてはいます。しかし、その現代的で文学的なスタイルは、素朴な簡潔さを失ったことで本来の魅力と威厳を薄れさせ、中には、最も際立った教えを、格言的な表現に簡略化してしまったものさえあります。

簡略化された教えは気の利いた格言に過ぎず、その教えが伝えられた時の状況や場面の説明が伴っていないために関心が奪われてしまっているのです。

 こうした不具合を避けるために、本書では信仰する宗教が何であるかに関わらず、全世界共通の道徳の法として構成することのできる条項を集めました。

引用については、その考えを発展させるために有効な箇所は残し、テーマに関連しない部分だけを除外しました。また、筋の分割に関しても、サシ―(sacy)による翻訳に正確に従いました。(→和訳注1)

しかしながら、教えを年代順に追うことが不可能なこと、また、そうすることによって得られる実質的な利点がないことから、相応する性格に従って系統的に分類し、一つ一つの教えがつながっていくよう、出来る限り努めました。章の番号と節の番号を付したことにより、必要に応じて一般的な分類で調べることもできます。

 しかし、これは本書の物理的な特徴であり、二次的な目的でしかありません。最も肝心なことは、曖昧な部分をきちんと解説し、生活のあらゆる条件にあてはまることを考えながら、教えを充分に展開させて、皆の手の届くところにおくことです。

本書では、私たちを見守ってくれている善霊たちの助けを借りながら、そうすることを試みました。

 福音書や聖書など、一般的な聖典には不明瞭な部分が多く、中には本当の意味を理解するための鍵が見当たらないために、道理にかなっていないのではないかと誤解を受けるようなものもあります。スピリティズムにはこのような鍵が完全な形で存在しています。

教義を真剣に研究した者たちを納得させたように、後になれば、その鍵がどれほど役立つものかを知ることが出来るでしょう。スピリティズムは、太古より人類のあらゆる時代、そしてすべての場所に存在してきました。文献、信仰、記念碑等、あらゆるものの中にその形跡を見つけることができます。

曖昧さを解く鍵と長い歴史の中で育まれた英知が、未来へ向けて新しい地平線を拓くと共に、過去の謎に明るい光を投じるのです。

 各々の戒律について、補足として幾つかの指導を選択して加えてありますが、それは様々な国でさまざまな霊媒を通して霊たちが伝えたものです。つまり一箇所だけから得られたものではないということです。従って特定の個人やそれを伝えた者たちの影響を受けているというものではありません。

このさまざまなところから得られたという事実は、霊たちが国や人種を超えて同じ教えを伝えていること、また、そうした教えによってどんな特権を受けた者もいないのだということを証明するものでもあります。(→備考1)

 本書はすべての者のためにあります。本書からすべての者が、キリストの道徳に則して行動する方法を知ることができます。その方法とはスピリティストにとっては特に関係の深いものです。人間と不可視の世界との関係が今後も永遠に成り立っていくお蔭で、霊たちが全ての国々に教えてくれた福音の法は、もはや死語ではなくなるのです。

なぜなら、一人一人がそれを理解することによって指導霊たちの忠告に従い、継続してそれらを実践することを強いられることになるからです。霊たちによってもたらされるこうした指導はまさしく天の声であり、人類の謎を解き明かし、福音の実践へと導いてくれるものなのです。

備考1
 それぞれのテーマに関して本書の中で引用されたもの以外にも、他の町や他のスピリティスト・センターにおいて多くの通信が受けられていたことが勿論考えられます。しかし、無意味な繰り返しによって単調になることを防ぐ必要があったため、また、基調と形式において本書の計画に最も適当なものに選択を絞らねばならなかったため、本書に記すことのできないものについては今後の出版のために取っておくことにしました。

 霊媒たちに関しては、彼らの名前を記すことは避けました。なぜなら、名前を記すことは自尊心を満足させることでしかなく、彼らはそのようなことにはまったく価値を見出さないからです。本当に真剣な霊媒は、霊たちと通信するという自分の役割が、単に受動的なものであり、自分の価値を高めるものではないということをよく理解しています。この知性的な仕事に自分は機械的に協力したに過ぎず、おごってしまうことが愚かであることを知っているのです。



  Ⅱ、スピリティズムの教義の権威  霊たちによる教えの普遍的管理

 もし、スピリティズムの教義が、全く人間だけの考えによって成り立ったものであったとしたら、この教義を実際に思いついた人を啓発すること以外に、なんの保証もすることはできなかったでしょう。この世における唯一絶対の真理を手に入れようと考えることは誰にもできません。

 また、もし霊たちが、啓示をたった一人の人間にだけもたらしていたとすれば、その啓示がどこから来たのかを誰にも保証することはできないでしょう。なぜなら、霊たちから教えを受けたと主張する者一人だけの言葉を、私たちは信じなければならないからです。

その教えを、いやしくも私たちがこの上なく誠実に受け止めたとしても、その者ができることは、せいぜい自分の周囲にいる人々を納得させることくらいでしょう。一つの宗派を設立することが出来たとしても、世界中の人々を集結させることはできません。

 神は新しい啓示がもっとも早く正当な方法によって人類に届くことを望んだため、地球の端から端まで啓示が運ばれて行くよう霊たちに託し、霊たちはあらゆる場所で啓示を残しました。
 
特定の人間だけにその言葉を聞く特権を与えるようなことはありませんでした。啓示を受けるものが一人であれば騙されたり、間違えたりします。しかし何百万もの人々が同じことを見たり聞いたりした時には、そうではありません。
 
さらに言うならば、一人の人間を消すことはできても、すべての人を消すことはできないのです。そして、本を焼却することはできても、霊たちを燃やすことはできません。

たとえすべての本を焼却したとしても、教義の源は無尽蔵であり続けます。それは教義の源が地上にあるのではなく、どのような場所にも表れる霊たちの中にあるからで、誰もがそこに胸の渇きを癒すことが出来るのです。

 あとは教義を普及させる人々がいればよいのです。霊たちは、常にすべての人々に対して働きかけているのですが、そうした霊たちの存在にすべての人が気づくわけではありません。そのため、霊たちは無数の霊媒の力を借りて教義の布教を行っているのであり、世界中のさまざまな場所から教えを示してくれているのです。

 もし、ただ一人の紹介者しか存在しなかったとしたら、その通訳の内容がどんなによいものであっても、スピリティズムはこれほどまでに知られることにはならなかったでしょう。その通訳者がどんな階級に属していようとも、多くの人々から警戒され、すべての国々で受け入れられることはなかったと思われます。

 霊たちは、地球上のあらゆる場所で、すべての国の人々や宗派、すべての政党に対して通信してくれるので、誰もがそれを受け入れることができます。スピリティズムには国境がありません。又既存の宗教の一部をなすものでもありません。誰もが他界した家族や友人から指導を受けることができるのですから社会階級を問うこともありません。

そうでなければ、スピリティズムが人類すべてを兄弟愛へと導くことができないからです。中立的な立場を維持しなければ、不和を鎮めるどころか勢いづけることになってしまいます。スピリティズムの力と、その大変速い普及の理由は、こうした遍在性ある霊たちが普及させているということにあります。


 たった一人の人間の言葉でしかなければ、出版という力を借りたとしても、すべての人々に知れわたるまでには何世紀もかかることでしょう。それを、幾千もの声が地球上のあらゆる場所で、最も無知な者から最も博学なものまで、誰もがそれを受け継ぐことができるように、同じ原理を同時に宣伝してくれるのです。

これは、今日まで生まれたいずれの教義も享受したことがなかった有利な点です。したがってスピリティズムが真理であるならば、人間に嫌われたり、道徳的な革命が起こったり、あるいは地球が物理的に崩壊したりすることがあったとしても、その影響が霊たちのもとまで及ぶことはないのですから、恐れることは無いのです。
 
 このような特別な立場にあることからスピリティズムに与えられた有利な点は、こればかりではありません。スピリティズムには、人々の野心や、霊同士の矛盾から生じるどんな意見の違いからも攻撃されることはないという保証があります。

意見の相違がおこることが障害となることは間違いありませんが、善と悪とは隣合わせですから、その障害自体が、その障害を取り除く薬を持ち合わせているのです。

 霊たちは、自分たちの能力には差異があって、真理のすべてを手にすることはとてもできないということを自覚しています。ある種の謎については、限られた霊にしか知ることが許されておらず、一人一人の霊の知識は、各々の浄化の程度に応じているのです。

 平凡な霊たちは、多くの人間が知る以上のことを知ることはありません。しかし中には、人間同様、自分の知らぬことを知っていると思い込んで、うぬぼれたり知ったかぶりをする者がいるのです。

自分の考えが真実であると思い込む者もいます。また、自分たちが描く理想郷を真の理想郷だと信じ込ませようと、自分たちよりも高級な分類に属する霊の名前を平然と名のって、人を騙そうとする霊がいることも知られています。

結局のところ、現世的な偏見や考えを捨て去っているのは、物質的な観念から完全に脱却し、より高級な分類に属する霊たちだけなのです。


 ですから、啓示を得たとしても、それが道徳的な教えの範疇からはずれたものである場合はすべて、その啓示が個人的な性格を持った不確実なものであると疑う必要があります。このような啓示は一人の霊の個人的な意見として捉えるべきであり、それを絶対的な真実として軽率に広めては、慎重さに欠けることになります。

 その啓示が確実なものかどうかを証明するための第一の分析方法は、霊から伝えられたすべてのことを、もれなく理性によって分析することです。良心や厳格な理論、すでに得られている肯定的な事実に矛盾する理論は、それがどんなに表敬に値する名前によって署名されていたとしても、すべて否定されるべきです。

しかしながらこの分析方法は、自分自身に対して絶対的な自信を持っていない限り、行うのが難しいと言えます。実際、知識が欠けていたり、自尊心の強い傾向にある人が多かったりすることから、多くの場合、この分析方法だけでは不十分でしょう。では、他にどんな方法があるのでしょうか?

大勢の人々の見解を求め、それを自分の意見の指針とすればよいのです。これは、霊たちが私たちに与えてくれている方法でもあるのです。

 霊たちは、さまざまな場所で複数の人間に、同じ教えを示します。霊たちからの教えが一致していることが、最良の真偽の証明になるのです。しかし、それがある決められた条件下で示されたものであることが大切です。例えば、ある疑わしき事項について、一人の霊媒がさまざまな霊に対して尋ねるというのでは、証明する力が弱くなります。

なぜなら、
その霊媒が憑依のもとにある場合、もしくは人を騙す霊と結びついている場合、その霊が同じことを様々な名前を用いて述べるに違いないからです。

また、一つの集会所でさまざまな霊媒を通じて得られた教えが一致したとしても、やはり、霊媒たちが同じ影響下にある可能性があるため、それが確実な啓示であることを十分に証明することにはなりません。

 霊たちの教えの唯一の保証が存在します。お互いに知らない多数の霊媒たちを通じ、さまざまな場所で霊たちによって自発的に伝えられた啓示が一致していることです。

 これは、二次的な関心事に関する通信についてではなく、教義の原理に関した通信についてそうであるということに注意してください。経験によりある新しい原理が述べられる時、それは自発的にさまざまな場所で、同時に、その形式や真意までも同じ方法で伝えられるということが判っています。

ですから、もしある霊が、風変わりな方法で自分の意見を全面に出して真実を除外するようであれば、その意見は広まることなく、あらゆる場所において伝えられる確実な真理の教えの前に、必ずや崩されることになるでしょう。そのような事例は、これまでにも沢山あります。

スピリティズムの始まりにおいて、可視の世界と不可視の世界との関係を支配する法が知られる以前には、こうした不一致を排除する方法が、部分的に現れた、霊現象に対する個々の独自の説明を崩していったのです。

 教理の原理を確立する際に、私たちはこうした不一致を排除する方法に頼りました。霊たちの教えの一致です。私たちの考え方の一致ではありません。真実は私たちが作り上げたものではないのです。

ですから、「信じてください。なぜなら私たちが信じなさいと言っているのですから」などと、私たちが至上の真実の裁定者であるかのように主張することは決してありません。

私たちの意見は個人的な意見にしか過ぎず、それが真実であるにせよ偽りであるにせよ、他の考え方と比べて絶対に確実であるとも考えていません。私たちがそのことを真実としているのは、単にある原理が教えられたからではなく、一致した容認を受けたからなのです。
23
 地上のあらゆる場所に、霊たちからの通信を受ける、千に近い敬虔なスピリティズムの集会所があり、それぞれの受けた啓示が一致することで、どんな原理を確立しているかを観察する条件が、私たちには備わっています。この観察が、今日まで私たちを導いてきたのです。

そしてまた今後も、スピリティズムが新たに開拓しなければならない分野へと導いてくれるでしょう。

なぜなら、フランス国内を始め、諸外国からきた通信を注意深く観察すると、それぞれの啓示には共通した特別なメッセージが込められており、スピリティズムが新しい方向に進もうと、前へ向かって大きく踏み出す時が来たことを示唆しているからです。

 これらの啓示は、隠された言葉によってなされることが多いため、それらを受けた人たちにもしばしば見逃されてきました。また、自分たちだけが啓示を得られるのだと、勘違いしてしまう人もいました。

霊たちから送られる啓示は、一つ一つを個別に受け取ったというだけでは、私たちにとってどんな価値も持ち得ません。それらの通信内容が一致していることで初めて、重要性を持つことになるのです。

各々が同じ意味の通信を受けていたことは、後に公開されて知ることになります。こうした全体的な動きについて、どう扱うかの判断を助けてくれている私たちの指導霊たちに助力を受けながら、私たちは観察・研究したのです。

 こうして世界的に証明されることは、スピリティズムの未来永劫の普遍性を保証し、それに矛盾する全ての理論を打ち消すことになります。それを実現することができるようになった時こそ、スピリティズムは、真実の基準となり得るのです。

「霊の書」「霊媒の書」に著された教義が継承され続けてきたのは、人々がこれらの本に書かれたことを証明する啓示を、あらゆる場所で霊たちより直接受けたからです。万一、霊たちがこれらの本の内容と矛盾することを世界各地に出没して伝えていたとしたら、他の空想的な概念の全てが被ったように、これらの書物はとうに支持されなくなっていたことでしょう。

そうなるといくら出版社が本を出したところで無駄な努力です。しかしながら、そもそも『霊の書』『霊媒の書』は、出版社から助けを得ることができませんでした。

それでも道を閉ざされることなく、速い速度で広まって行きました。そこには霊たちの助力があったのであり、彼らが充分な意思をもって普及させたことにより、人間の悪意をも圧倒したのです。いかなる思想も、霊たちから発せられたものであれ、人間から発せられたものであれ、あらゆる対決の試練に耐え抜くことが、誰にも反対できない力の存在を示すことになるのです。
 
 
 仮に、本書に対抗する内容の本を書くことに喜びを感ずる霊がいたとしましょう。そして敵意をもって、スピリティズムの教義の信用を失わせようと、偽の通信を引きおこしたとします。

しかし他のすべての霊が、その霊と反対のことを言っていたとすれば、その霊が書いた書物が本書に一体どんな影響を及ぼすことができるでしょうか。どんな考え方であれ、自分の名を名乗って掲げるのであれば、このように多くの霊たちとの合意を得ようとしないことには、それが存続するための保証を得ることはできません。

たった一人の唱える主義主張とみなが唱えるものとの間には、一瞬から永遠までの距離があります。何百万もの友好的な声が届き、それが宇宙のすみずみから家庭の中にまで聞こえわたる時、それを汚し、その価値を失わせようとする論議に何ができるというのでしょうか。
 
この理論については、何もできないということをすでに実証済みです。スピリティズムを倒そうと意図して、これまでに書かれた無数の出版物はどうなったでしょうか。そのうち一冊でも、スピリティズムの歩みを遅らせることができたのでしょうか。
 
現在に至るまで、そのようなことが重要な問題として議論されたことはありません。いずれの書物も、それぞれが勝手な考えを伝えたのに過ぎず、霊たちが伝える真の啓示に従ったものではなかったのです。

 一致の原則は、スピリティズムが特定の個人の都合のいいように変更を加えられたり、利益目的の宗派に変えられたりしないように保証するものでもあります。根本的な神意を曲げようとする者は、成功することはないでしょう。なぜなら、霊たちの教えは普遍的なものであり、霊たちは、真実から遠ざけようとするいかなる変更をも地に倒そうとするからです。

 こうしたことのすべてから根本的な真実が導かれます。すでに確立され公認されている考えに対抗しようとする者は、確かに、ごく限られた場所で一時的に動揺をもたらすことが出来るかもしれません。しかしその時においても、また、未来においても、全体を支配することは決してできないのです。

 また、霊たちによって与えられた指導であっても、それがまだ教義によって解説されていないことに触れており、孤立して存在しているうちは、それが法をなすものでないのだということを強調しておきます。ゆえに、結局のところそうした指導は、今後解明されることが必要なものと言う制限つきで、受け入れられなければなりません。

 これらの指導を公表するか否かについては、この上なく慎重に吟味する必要があります。そしてそれを公表してもよいと判断された時には、必ず、それが正確な啓示であるという確認を事前に取ったうえで、まだ一致による容認を受けていない、個人的な意見に過ぎないものとして公開することが大切です。

軽率であるとか、浅はかな信心だと非難されたくなければ、ある主義主張を絶対的な真実であると公開する前に、その確認が取れるのを待つことです。

 人智を超越した英知によって、優秀な霊たちは啓示を行います。教義の大きな問題については、知性がより高い水準の真実を理解することができるようになるに従って、またその状況がその新しい考えを送信するにふさわしくなった時、徐々に伝達していきます。

このような計画があったので、最初から一度にすべてのことを伝えなかったのです。今日においてもいまだすべてを伝えられてはおらず、だからと言って、機が熟していないうちから啓示を求めたところで、与えられるものではないのです。神が其々の事柄に対して割り当てた時間を早めようとすることは、無駄なことです。

なぜなら、時間を早めようとしたとき、本当に真剣な霊たちはそれに同調することを拒むからです。軽率な霊は、真実に囚われることなく、全てのことに返事をします。そのために、機の熟していないあらゆる質問には、いつも矛盾した答えが返ってくるのです。

 この原則は、個人的な理論によってもたらされたものではありません。霊たちがおかれている状況から必然的にもたらされたものなのです。ある一人の霊があることをある場所で言う一方で、何百万もの別の霊がその反対のことをどこかで言うのであれば、押し量られる真実とは、たった一人、もしくはほぼ一人とみられる者が持つその考えの中にあるはずはありません。

誰か一人が、その他すべての者に反対されながら、理に適っていると主張しようとすることは、人間の間で理屈に合わないと同様に、霊たちの間でも理屈に合いません。


本当に思慮深い霊たちは、ある問題に関して十分に理解しているという自信がない限り、自分が絶対に正しいと主張して、その問題を解決することは決してありません。彼らは、自分の個人的な観点からその問題を扱っていることを宣伝し、その確認を待つことを勧めます。

 その考えがどんなに美しく、正しく、偉大であったとしても、啓示を受けたばかりの時は、あらゆる意見を集約することが不可能です。従って、複数の意見が衝突するのは避けられないことです。
 
しかし、複数の意見を衝突させることは、真実をより際立たせるためには必要なことであり、偽りの考えがすぐに取り除かれるためにも、早くからおきた方が良いことなのです。

ですからスピリティストはこれに関して恐れを抱く必要は全くありません。孤立したあらゆる思い上がった考えは、普遍性を持つ偉大で強力な基準の前に、自ら淘汰されることになるのです。

 ある一人の意見に他人が集まるのではなく、異口同音に発せられる霊たちの声に集まるのです。それは一人の人や、私たちや、スピリティズムの正当性を確立させることになる別の誰かでもありません。または誰であれ、一人の霊が強要しに来るのでもありません。

それは神の指示により、地球のあらゆる場所において通信する霊たちの教えの普遍性に集まるのです。それがスピリティズムの教義の根本的な性格であり、その力であり、権威です。神はその法が揺るがぬ基礎の上に君臨することを望み、そのために一人のはかない頭をその基礎としなかったのです。

 派閥や妬み深い競争相手、宗派、国家さえも存在しない、それほど強力な審判の前には、あらゆる反対意見も、野心も、個人的な優位性に立ったうぬぼれも崩壊してしまいます。私たちが自分自身の考えによって至上の法を変更しようとすれば、自らを破滅させることになってしまうのです。

神のみが論争すべき問題を決定し、異論者には閉口させ、道理にかなう者にはその正当性を与えるのです。こうした天からの威厳あるあらゆる声の前に、一人の人間や霊の意見に何ができるというのでしょうか。一つの意見、それは海の中に落ちて消滅する一滴の水や、嵐によって打ち消される子供の声よりも小さなものなのです。

 普遍的な意見こそが最高の審判であり、それは最後の時に発せられることになるのです。普遍的な意見はあらゆる個人的な意見によって形成されています。もしそのうちの一つが真実であれば、秤にはその相対的な重量しか示されないことになります。それが偽りであれば、その他の意見に対して勝ることはありません。

この広大な集合の中に全ての個人的な偏った考えが消えて行くことになり、人類の自尊心(→和訳注2)はここでも生き延びることが出来ないのです。

 神の意志のもとに働く霊たちの動きはすでに出来上がっているのです。今世紀は、その働きが輝くことにより、不確実な部分を明らかにすることなしに終わることは無いでしょう。すでに土地は十分に耕されているため、今からその時までは使命を受けた力強い声が、人類を一つの旗のもとに集めることになります。

それが実現するまでの間、二つの相対する主義の間をさ迷う人には、一般的な考えがどちらの方向に向かって形成されて行くのかを観察することができるでしょう。その方向を正しく示すのは、さまざまな場所において通信する霊たちの大半が発言することであり、それが、二つの主義の内のどちらが生き残るかを示す確かなしるしとなります。


℘29   
  Ⅲ、歴史的背景
 福音のくだりには、当時のユダヤ人社会の習慣を特徴づける語彙がしばしば用いられている個所があることから、より理解を深めるためには、そうした語彙が持つ正しい意味を知っておく必要があります。

いずれも今日では、もはや当時と同じ意味を持たないために、その意味を誤って解釈されることが多く、不確実性をもたらす原因になっているのです。これらの語彙の意味を正確に理解することにより、これまで妙だと感じられていたような金言についても、その真の意味を知ることが出来るでしょう。


サマリア人──十部族の分裂の後、サマリアはイスラエルから分裂した王国の首都となった。幾度も破壊されては再建され、ローマ時代には、パレスチナの四つの分割された地区の一つであるサマリア国の長となった。偉大なるエロデは、贅沢なモニュメントによりサマリアを美化し、アウグストゥスを讃え、彼をギリシア語でセバステと命名した。

 サマリア人たちは、ほとんどいつもユダの王たちと戦争状態にあった。分裂の時代以来、深い敵意が二つの民族の間に持続されることになり、お互いに避け合うような関係になっていった。

その溝はさらに広がり、宗教的な祭を祝う時でさえ、エルサレムに行かなくてもいいように、自分たちだけの宮を建て、教義に幾つかの変革を加えた。彼らはモーゼの法が記された『モーゼ五書』だけを用い、それらにあとで付け加えられたその他のいずれの書物も用いなかった。

彼らの聖典は最も古いヘブライ語で書かれていた。正統派のユダヤ人にとって彼らは異教徒であり、それ故に蔑視され、敵視され、迫害されることになった。お互いに信仰の起源は同じであったにもかかわらず、二つの国家の間に根強く浸透した敵意は、宗教的な意見の不一致によるものであった。当時のプロテスタントたちである。

 今日に至っても、ナブルス及びジャファといったレバンテの一部の地域には、サマリア人が存在する。彼らは他のユダヤ人たちよりも厳格にモーゼの律法を守り、サマリア人同士で結婚をする。

ナザレ人──古代の法において、一生涯、もしくは一時的にでも純粋さを完全に保つことを誓約したユダヤ人の人々に与えられた呼び名。彼らは貞節を守り、アルコールを飲むことを避け、髭を伸ばしていた。サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネはナザレ人であった。

 イエスがナザレ出身であったことにちなみ、後になってユダヤ人たちは初期のキリスト教徒たちにこの呼び名を与えた。

 また、この呼び名は、西暦初期200~300年に存在した異教の宗派にも与えられた。この宗派はエボナイト派と同様に幾つかの原則を持っており、モーゼの法とキリストの教義の実践の両方を混在させていたが、四世紀に消滅した。

パブリカン(徴税官)──古代ローマ時代において、所得税を始めとするあらゆる税金の徴収を引き受けていた人々を指して言う呼び名。ローマを始め、ローマ帝国全土でこのように呼ばれていた。アンシャン・レジーム時代のフランスで見られた競売人や賃借人のような人々であり、その姿は今日も目にすることが出来る。
 
彼らは、一部の者から不当に徴税するなど、不正な手段によって利益を得ていたが、危険を伴う職務であったことから、人々は彼らが蓄えた富に対して目をつむっていた。

パブリカンという名は後になって、公的資金を管理する人々や、それに従属して働く代理人までをも指すようになった。

今日では、慎重さに欠ける財政官や代理人の代名詞として、軽蔑の意味を込めて用いられている。不当な手段によって富を得た人を指して、「パブリカンのように貪欲である」とか「パブリカンのように金持ちである」という表現が使われることもある。

 ローマの支配下において、ユダヤ人はなかなか税金徴収を受け入れずパブリカンを大いに苛立たせていた。やがてユダヤ人の中に多くの反発が生まれ、そこから宗教的な問題に転化し、税金を徴収することを法に反するものであると考えたのである。

そして、ゴロニテのユダと呼ばれた者を中心に、税金を支払わないことを原則とする強大な政党までもが組織された。結果としてユダヤ人たちは、
税金とそれを徴収する任務にあったものを嫌い、あらゆる種類のパブリカンを嫌悪するようになった。

パブリカンの中には尊敬すべき人物がいたにもかかわらず、その職務ゆえに蔑視され、また、彼らと関係を持っていた人々までもが同じ非難を受けた。ユダヤ人の有力者たちは、こうした人々と親しくなることは、わが身に危険を招くことだと考えていた。

関税徴収人──階級の低い税徴収者たちで、主に町に入るための税金の徴収を行っていた。その役割は、関税の徴収を行う税関職員の職務内容にほぼ相当する。当時は、パブリカン(徴税官)が一般的に反感を受けていたために、関税徴収人も同じように非難を受けざるを得なかった。

福音の中で、しばしば関税徴収人が罪深い人々の表現として用いられているのは、このような理由からである。罪深い人々とはいっても、堕落した者や浮浪者という意味は含まれていなかった。関税徴収人は、「悪い仲間を持つ人々」の同意語であり、他の人々と共に生活するにふさわしくない人々という意味で用いられていた。

ファリサイ人(ヘブライ語で分離・区別を意味する「parush」がその後源)──ユダヤ人の神学の中で、伝統は重要な位置を占めていた。その神学は、聖典の意味に従って代々継承された解釈を教義の条項として採用し、編集されたものから成り立っていた。
 
博士たちの間では、もっとも単純な言葉や形式の問題について、中世におけるスコラ学派の神学的議論に類するような、終わりのない論議がしばしば交わされた。そこからさまざまな宗教が生まれ、各々が真理を独占しようとして、お互いを憎み合うようになった。

 この時に生まれた宗派のうち、最も影響力を持っていたのはファリサイ人たちであったが、その長であるヒレル(Hillel)(→FEB版注1)は、バビロニアに生まれ、有名な学校を設立し、そこでは聖書のみに信仰を抱くべきであると教えた。ファリサイ人の起源は紀元前180~200年にさかのぼる。

ファリサイ人たちはさまざまな時代において迫害されたが、中でも激しかったのは、ユダヤの王であり教皇であったヒルカノ(Hircano)と、シリアの王であるアリストブーロスとアレクサンドロスの時代であった。

しかし、後者がファリサイ人たちに名誉を与え財産を補償したことから過去の勢力を回復し、
西暦70年頃にエルサレムが没落するまでそれを維持することになった。没落後はユダヤ人たちが離散したためにその名は消えていった。

ファリサイ人たちは宗教論争に積極的に参加した。外見的な儀式や習慣を厳格に守る人々であった。ユダヤ教を改革しようという熱意に満ちた革新者たちを敵視し、その主義を厳格なまでに貫き通す人々でもあった。しかしこれらは、細心の注意を払った熱心な見せかけにしか過ぎず、実際は、ふしだらな習慣には目をつむり、自尊心が強く、何よりも支配することに過剰なまでの欲望を抱いていた。

彼らにとって宗教とは、誠実な信仰の対象というよりも、自分たちの欲望を満たすための手段に過ぎなかったのである。見せかけや目立ちたがること以外に、どんな美徳をも有していなかった。しかし、中には民衆に大きな影響を与える者もいて、民衆からは聖なる人々であると見られていた。そんなことからファリサイ人たちは、エルサレムにおいて大きな勢力を持っていたのだった。

 神を信じていたというのではなく、せいぜい神や魂の不滅、永遠の罰、死者の復活(→第四章 四)を信じているふりをしていただけである。イエスは法の中で何よりも簡素さや魂の質を重んじており、殺す学問よりも生を与える魂を重要視したため、その使命の間に彼らの偽善を暴こうとした。

そのため、ファリサイ人たちの中に残忍なイエスの敵が現れた。ファリサイ人たちは主要な聖職者たちと同盟を結び、民衆が反乱を起こしてイエスを消すようにけしかけたのである。

書記官──主にユダヤの王の秘書やユダヤ軍の監督官に与えられた呼び名。後にモーゼの律法を民衆に解説する博士たちの呼び名として用いられるようになった。彼らの従う主義及び改革者たちに対する敵対心には、ファリサイ人たちと共通している点があることから、イエスはファリサイ人たちを戒めるにあたって、対象者として彼らをも含めた。

シナゴーグ集合、集会を意味するギリシア語の「synagogê」がその語源──ユダヤの国には、エルサレムのソロモンの宮一つしかなかったが、そこでは宗教のさまざまな儀式が行われた。ユダヤ人は毎年そこへ行き、過越祭り、奉納の祭り、神殿の祭りといった主要な祭りがあるたびに巡礼した。

こうした機会には、イエスもそこへ行くことがあった。その他の町には宮がない代わりにシナゴーグがあった。そこではユダヤ人が毎週土曜日に集まり、長老や書記官、律法学者たちが指揮を取って公式に祈った。またそこでは聖典の朗読も行われ、続いて解説や説教が行われ、誰もが参加することが出来た。
 
そうしたことから、イエスは司教ではなかったが、土曜日になると、シナゴーグで教えを説いたのであった。エルサレムが没落してユダヤ人が分散した後、シナゴーグは、ユダヤ人たちが生活を続けた町で、その宗派の祭りを行う寺院となった。

サドカイ派──紀元前248年頃に形成されたユダヤの宗派であり、その名は創始者のサドックに由来する。不死と復活を信じず、良い天使と悪い天使をも信じない。とはいえ、彼らは神を信じていた。死後に待ち受けるものは何もないので、一時的な報酬だけを目的に神に仕えていたのである。

彼らによれば、その報酬は神の意志により決められているという。サドカイ派は、このように考えることによって、肉体的な感覚を満たすことを人生の根本的な目的としたのである。法典については、旧法に従った。
 
伝統やいかなる解釈をも受け入れなかった。善の行いをし、法を簡素かつ純粋に守ることを、外見的な儀式の実践よりも上に置いていた。

彼らは当時における唯物主義者、多神教者、官能主義者であったのだ。宗派に属する人は少数であったが、幹部に重要な人物が何人かいたため、ファリサイ人と敵対する政党となった。


エッセ二ア人──紀元前150年頃、マカベウの時代に創設されたユダヤ人の宗派の一つ。修道院のような場所に住み、道徳的・宗教的結社として活動していた。その寛大な習慣や厳格さを特徴とし、神と隣人に対する愛と霊魂の不滅を教え、復活を信じていた。
 
独身生活を営み、奴隷制と戦争を非難し、その財産を分かち合い、農業に従事した。不死を否定した官能主義者のサドカイ派や、見せかけだけの美徳や単に表面的にだけ厳しい習慣を持っていたファリサイ人とは違って、エッセ二ア人たちは宗派論争に決して参加することはなかった。

彼らの説く道徳原則の内容と生活様式が、初期のキリスト教徒たちのそれと似通っていることから、イエスはその任務を開始する前は、エッセ二ア人の社会に属していたのではないかと多くの人々に思わせることになった。
 
イエスがエッセニア人たちのことを知っていたことは確かであるが、その社会に属していたことを証明するものは何も存在せず、それについて書かれたものはすべて仮説に過ぎない→備考2

セラペウタ(「仕える、面倒を見る」を意味するギリシャ語「therapeuein」が転じて「神に仕える、治療者」を意味する「therapeutai」になった)──キリストと同時代のユダヤの宗派で、特にエジプトやアレクサンドリアに存在した。エッセニア人との関係が深く、あらゆる美徳の実践を受け入れた。

食事は極端に質素であった。また、独身主義であり、独立した生活を送ることをよいと考え、宗教結社を形成していた。アレクサンドリアのユダヤ人でプラトン主義哲学者のフィロンはセラペウタをユダヤ教の一宗派と考えた最初の人であった。
 
一方、エウセビオス、(聖)ヒエロ二モス、及びその他教会の司教たちは、彼らをキリスト教徒であると考えた。実際にそうであったか否かは別にせよ、エッセニア人と同様にセラペウタも、ユダヤ教とキリスト教を統合させた面影を残していることは明らかである。

備考2
 エッセニア人によって書かれたと言われる「イエスの死」は全くの偽りの書物であり、その唯一の目的はある考えを支えることに過ぎない。その著書自体の中に、それが現代に書かれたものであることが証明されている。

 
℘36 
  Ⅳ、ソクラテスとプラトン。キリスト教思想及びスピリティズムの先駆者たち

 イエスがエッセニア人の宗派を知っていたからといって、イエスが自分の教義をそこから取り込んで生みだしたと結論づけることは誤りであり、またそうであったとすれば、もしもイエスが別の環境に生まれていたとしたら、別の主義を唱えていたことになってしまいます。

偉大な考えと言うものは、決して突然登場することはありません。真実の上に位置する考えというものにはいつも先駆者がいて、分担して道を切り開く準備をして行きます。

後になって、その時がやってくると、神はその考えを要約し、整え、散らばった要素を補い、それらを教義の幹としてまとめる者を送ることになります。このようにその考えは突然現れるのではないため、登場した時には受け入れる準備の出来た霊たちに出会うことができるのです。

キリスト教思想でもこのような事が起こり、イエスやエッセニア人の何世紀も前には、その主な先駆者としてソクラテスとプラトンがいました。

 ソクラテスはキリストと同様になにも記しませんでした。少なくともなにも書き残しませんでした。当時の信仰を攻撃し、偽善や偶像の上に真なる美徳を掲げ、いわば、宗教的な偏見を打ち破ったため、キリストのように狂信者の犠牲となり、罪人として死を遂げました。

ファリサイ人たちによって、その教えが民衆を堕落させていると非難されたイエスと同じように、ソクラテスも当時のファリサイ人に当たる人々に非難されました。神の唯一性、霊魂の不滅と未来の命についての教義をとなえて非難された人々は、いつの時代においても存在したのです。

イエスの教義をその使徒たちの書き残した者によってのみ知ることが出来るように、ソクラテスの教義も、その弟子プラトンによる記述によってのみ知ることができます。

ここで、最も重要な点について要約し、ソクラテスの教義とキリストの教えの原則、双方の一致している部分を示すことは有意義であると考えました。

 これらの二つの教義を対照することを不敬であると考え、多神教者の教義とキリストの教義の間に共通点がある筈がないと考える人々に対しては、ソクラテスが多神教者ではなく、彼の目的は多神教を崩すことにあったのだと申し上げておきます。

より完全で浄化されたキリストの教義は、その比較において何も失うものはありません。神意によって送られたキリストの使命の偉大さが減じられることはありません。ゆえに、その他のことについては、誰にも打ち消すことのできなかった歴史的事実として扱われるのです。

人類は、升の上に自ら光を灯す時代にまでたどりついています。人類は充分成熟し、それに真正面から向かい合うことが出来るようになり、聞く耳を持とうとしない者にとってはより難しい時がやって来ました。

物事をより広く、崇高に考える時代がやって来ており、もはや宗派や階級による狭い心に制限された視野で見る時代ではありません。

 さらに、このことは、ソクラテスとプラトンがキリストの思想を予感していたのであれば、その記述の中にスピリティズムの基本的な原則をも見出せることを証明してくれるでしょう。 


 
ソクラテスとプラトンの教義の要約    

、人間とは肉体を持って生まれる魂である。肉体を持って生まれる以前はその本質的なもの、真理、善、美の考えに属していた。そこから肉体を得て分離するが、その過去を覚えているために、そこへ戻ろうとする欲求に大なり小なり苦しめられる。

  知性的な根本と物質的な根本との区別と、その独立性を、これ以上明確に表現することは出来ません。さらに魂が存在するという教えについても同様です。

人間は、熱望するもう一方の世界に対する曖昧な直感──つまり死の後に、肉体の滅亡を超えて存在し続けることや、肉体を受けて生まれるために霊界から出てくること、そして再び同じ世界へ戻っていくこと──を抱き続けています。そして最終的には堕落した天使の教義にたどり着きます。

 

 魂は、肉体を使ってある目的を達成しようとすると動揺する。移りゆくものに執着するために、酔ったようなめまいを起こす。

一方で、自らの本質を見つめる時には純粋で永遠、不死なるものに向かうが、魂の性質がそうであるために出来る限り長くそこに繋がれようとする。すると、普遍的なものと結びつくために、道に迷わなくなる。その魂の状態を英知と言う。

 このように物事を地上においてしか考えることの出来ない人間は錯覚を起こしているのであって、物事を正確に観賞するには高い所から、つまり霊的な視点から見なければなりません。

ゆえに本当の英知を有する者は肉体と魂とを分離させ、霊の眼によって物事を見なければならないのです。それはスピリティズムが教えることと同様です(→第二章 五)


、私たちの肉体と魂がこの堕落の中に存在するうちは、私たちの望む真実を手に入れることはできない。私たちには肉体の面倒を見る必要があるため、そこから幾千もの障害が生じてくる。

それに加え、肉体は欲望や、貪欲、恐れ、数知れぬ妄想や、つまらぬことによって私たちを満たし、そのために、肉体を持っている間に、分別を持つことは、ほんの一瞬の間でさえ不可能となる。

しかし、魂が肉体に結びついている間、私たちは何も純粋な形で物事を知ることが出来ないのであれば、選択は二つに一つである。つまり真実を決して知ることができないか、死後それを知ることになるかのいずれである。
 
肉体の狂気から解放されれば、同様に解放された人々と会話をし、私たちは物事の本質を自ら知ることになるのだ。こうした理由によって真なる哲学者は死の準備をするのであり、彼らにとって死は決して恐怖ではないのである。

 肉体の器官によって弱められた魂の能力が、死後になって広がるのだ、という基本的な考え方がここにはあります。しかしそれはすでに浄化された魂に起こることであり、不浄の魂に同様なことが起きることはありません。(→『天国と地獄』第一部  第二章、第二部  第一章)
 

、不純な魂は、その状態に置いて抑圧された状態にあり、不可視で非物質的であることによって、可視の世界に引きずられて行くことになる。すると人々は、遺跡や墓石の周りで不気味な亡霊をみると、それらが肉体を後にしながら、いまだに完全に浄化されていないために、物質的な姿をひきずっているもので、それが人間の目に見えるのだと間違えてしまう。

実際には、それらは善なる魂ではなく、悪しき魂であり、こうした場所にさ迷うことを余儀なくされ、自分と共に生前の罰を引きずりながら、その物質的な姿に伴う欲求が再び別の肉体に反映されるまでさ迷い続けるのである。そして疑いもなく、最初の人生において有していた習慣を再び身に付け、それがその魂の執着となる。

 再生(リインカーネイション)(→和訳注3)の原則ばかりか、スピリティリズムにおいて霊との通信によって見られるような、肉体の枷のもとにある魂の状態までもがここに明確に表現されています。さらに、肉体への再生は魂の不浄の結果であり、浄化された魂は再生することから免れているとされています。

まったく同じことを、スピリティズムは述べていないでしょうか。付け加えるのであれば、霊界において善い決意を持った魂は、再生する際に、すでに有する知識とより少ない欠点、より多くの美徳や直感的な考えを、その前の人生の時より多く持ち合わせているのです。こうすることによって、一回ごとの人生は知性的、道徳的な進歩をもたらすことになるのです(→『天国と地獄』第二部 例)


、私たちの死後、生きている間任務にあった妖精(ダイモン、デビル)は、ハデス(地獄)へ行かなければならない者をすべて集めて連れて行き、そこでは審判が下される。魂たちは、ハデスにおいて必要な時間を過ごすと、複数回にわたる長い人生に再び導かれる。

 これは守護霊、もしくは保護霊の教義と、霊界におけるある程度の時間の感覚を置いた、連続的な再生の教義に外なりません。

 
、ダイモンは地上と天を分ける空間に存在する。その空間とは、すべてを自分自身に統合する偉大なる絆である。神が人間に直接通信をすることは決してなく、それはダイモンを介して行われ、ゼウス(神々)は彼らと取り決めを行い、起きている間も寝ている間もそれに従事する。

 ダイモンと言う言葉はディーモン(悪魔)の語源となっていますが、昔は現代のように悪者と考えられてはいませんでした。悪意のある者だけではなく、一般的な霊を指し、その中にはゼウス(神々)と呼ばれる優秀な霊たちも、人間と直接通信する劣った霊、つまりいわゆるディーモン(悪魔)も含まれていたのです。スピリティズムでも霊たちが宇宙空間に住んでいると言います。

神は純粋な霊たちを介してのみ人類と通信し、それらの霊たちは神の意志を伝えることを任されるのです。起きている間も寝ている間も霊たちは人間と通信します。ダイモンと言う言葉の箇所に霊と言う言葉を置き換えれば、スピリティズムの教義がそこにあることが判ります。天使という言葉に置き換えると、そこにキリストを読み取ることができます。


、(ソクラテスやプラトンの考えにもとづく)哲学者たちの不断の関心事は、魂に対して最も多くの注意を払うことであり、一時しか続くことの無い現在の人生には多くの関心を持たず、永遠を視野に置くことである。魂は永遠なのであるから、永遠を見据えて生きる方が賢明ではないか。


  キリスト教とスピリティズムは同じことを教えている

Ⅷ、魂が非物質であるならば、この人生の後には同様に不可視で非物質の世界を通らねばならず、それは肉体が分解して物質へと戻るのと同じである。しかしその時、神のように思考や科学によって自らを養う純粋で真に非物質の魂と、物質の不純さによる汚点を残した魂で、神に向かって昇って行くことを拒み、地上において存在した場所に残留する者たちとを区別することが大切である。

 この通り、ソクラテスとプラトンは、魂の非物質化の程度の違いを完全に理解していたのでした。その純粋さの程度により状況が多様化することを主張したのです。彼らが直感的に述べたことを、スピリティズムは私たちに無数の例を通じて証明しています(→『天国と地獄』第二部)


Ⅸ、死が人間の完全なる消滅であったのであれば、悪人は死によって多くを得ることになるであろう。何故なら、同時に肉体や魂、悪癖からも自由になることが出来るからである。外見的な装飾ではなく、適切なものによって魂を飾ることが出来た者だけが別の世界へ旅立つ時を平穏に待つことができる。

 これは唯物主義が、死の後には無が待っているということで、これまでのあらゆる責任を白紙にし、結果的に悪を助長することになるのだと言っているのに等しいのです。悪は無によってすべてにおいて得をすることになります。
 
悪癖を捨て美徳によって豊かになった人だけが、別の人生に目覚めるのを安心して待つことが出来るのです。スピリティズムは、毎日私たちに示してくれる例を用いて悪人にとって、この人生から別の人生、未来の人生への入り口へと移っていくことがどんなに苦しいことかを教えてくれます→『天国と地獄』第二部 第一章
 

Ⅹ、肉体はそれが受けた手当てや遭遇した事故の痕跡をはっきりと保っている。同じことが魂にも言える。肉体に別れを告げると、魂はその性格の明白な形跡やその愛情、人生の間に残したあらゆる行動の跡を保つことになる。そのために、人間において起こりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂を持って移っていくことである。

あなたと同じように、カリクレスもボルックスも、ゴルギアスも別の世界へ行ったときに有益となるような別の人生を歩まなければならないのだということを証明することはできない。
 
これほどに多くの意見の中でも唯一揺らぐことのないことは、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも私たちは外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。(牢におけるソクラテスの弟子との対話より

 ここに私たちは、今日科学によって裏付けされたもう一つの重要な点を見出すことができます。すなわち浄化されていない魂は地上で持っていた考えや、傾向、性格、情熱を抱き続けるということです。
 
悪を働くより悪を受ける方が価値があるという金言は、まったくキリスト教の考えと等しいではありませんか。同じ考えをイエスは次の表現で表しました。「彼が一方の頬を叩いたなら、もう一方の頬も向けなさい」→第十二章 7、8


、二つに一つ。死が絶対的な破滅であるか、魂が別の場所へ移行するのであるか。もしすべてが消滅するのであれば、死とは夢も見ず、自分自身の意識もなしに過ごすまれな夜のようなものである。しかし、もし死が生きる場所の変更に過ぎず、そこに死者たちが集まるのであれば、そこで知人に出会う喜びの何と大きいことか。

私の最大の喜びとはその別の場所の住人を近くで観察し、自分を何であると唱える人たちのうち、誰がそれにふさわしく誰がふさわしくないのかを知ることである。しかしいまは私たちに別れる時が来た。私は死へ、あなたたちは生へ。判事に対するソクラテスの言葉

 ソクラテスによると、地上に生きたものは死後に出合い、お互いを認識し合います。スピリティズムは、生きている間に人々がお互いに築いた関係は継続し、それ故に死は人生の中断でも、終わりでもなく、継続性のある避けることのできない変遷であると示しています。

 その五百年後に広められたキリストの教えや今日スピリティズムが広める教えをソクラテスとプラトンが知っていたとしても、彼らは別の言い方をすることはなかったでしょう。偉大なる真実は永遠で、進歩した霊がそれを地上に来る前に知り、地上にもたらしたのであると考えれば、それは驚くことではありません。

すなわちソクラテスやプラトンのような当時の偉大なる哲学者たちは、後の時代において、まさしく他人に比べ崇高な教えをよりよく理解する条件を備えていたために、キリストの神聖なる使命に従って、偉大なる真実をもたらすために選ばれた可能性があります。

そしてついには、同じ真実を人類に教える役割を担う霊の集団に加わっていると考えることができます。


、私たちに与えた損害がなんであろうと、それに対して不義によって報いたり、誰かに悪を働いたりしてはならない。しかし、この原則を受け入れる者は少なく、彼らとそれを理解しない者たちとは、疑いもなくお互いを蔑視することになるであろう。

 悪を悪によって報いず、敵を赦すことを教える慈善の原則が、ここに書かれているのではないでしょうか。


ⅩⅢ、果実によって木を知るのである。いかなる行動もそれがもたらすものによって評価されなければならない。そこから悪がもたらされるとき、それを悪と判別し、善の源となって居る時には善であると判断する。

 「果実によって木を知る」という金言は福音の中に繰り返し記載されています。


ⅩⅣ、富は大きな危険である。富を愛する者は皆、自分自身をも自分自身に属するものをも愛さない。その者に属するものよりも慣れないものを愛しているのである。


ⅩⅤ、最も美しい祈りも、最も美しい供え物も、神に同化しようと努力する徳の高い魂ほどに神を喜ばすことはできない。神々が私たちの魂よりも私たちの供え物に関心を抱くと考えたとしたらそれは重大な誤りである。
 
そうしたことが起きたのであれば、より責任を負う者が、都合よくなることができるようになってしまう。しかし、そうではない。言葉と行動において真に正当で公正な者だけが、神々や人々に対して負う義務を遂行する。→第十章 7,8

 
ⅩⅥ、魂よりも肉体を愛する者を悪習の者と呼ぶ。愛は自然のあらゆる場所に存在し、私たちが知性を使うことを促してくれる。天体の動きの中にも愛は見いだせる。その愛とは、自然を装飾する豊かな絨毯のようなものである。
 
愛は花が咲き芳香が漂うところを飾り、そこに存在する。人間に平和を与え,海を鎮め、風を静まらせ、痛みを和らげるのも愛である。

 一つの兄弟愛の絆によって人類を結びつける愛とは、自然の法としての宇宙の愛に関するプラトンの理論の結論です。

「愛は一つの神でも、一人の死すべき人間でもなく、一人の偉大なダイモンである」とソクラテスは言いましたが、つまり、宇宙の愛に生きる偉大なる霊の存在のことであり、この結論を唱えたために彼は罪人として罪を負わされたのです。


℘46
ⅩⅦ、美徳は教えられるものではない。神の賜としてそれを有する者に与えられる。
 
 これはほとんど、恵みについて教えるキリストの教えと同等です。しかし、美徳が神の賜であるならば、それは特別な待遇であり、なぜそれがすべての者に与えられていないのか質問をすることができます。他方で、それが賜であるのだとすれば、それを有する者の功労は失われてしまいます。

スピリティズムはより明解であり、美徳を有する者は、それを連続した人生の中で自らの努力によって、少しずつ不完全性を捨てながら手に入れたのだと教えています。恵みとは、悪を追放し善を行おうという意志のある者に神が与える力のことなのです。
 

ⅩⅧ、他人の欠点よりも、私たち自身の欠点に気づくことが少ないのは、私たちすべてにあてはまる自然の傾向である。

 福音には記されています「あなたの隣人の目の中にあるおが屑を見て、自分の目の中にある杭が見えない」→第十章 9、10)。

 
ⅩⅨ、成功しない医師がいるのであれば、それは病気のほとんどを治療する時、肉体は治療しても、魂を治療していないからである。すべてが善い状況になければ、病人の一部が善くなることも不可能である。
 
 スピリティズムは魂と肉体との関係の鍵を与え、一方が他方に対して絶え間なく作用していることを証明しています。これにより、科学の新しい道を開いています。いくつかの病気の真の原因を示すことにより、それと戦う手段をより容易なものとします。肉体の営みにおける霊的要因の作用を科学が考慮するようになれば、医師たちの失敗も少なくなることでしょう。


ⅩⅩ、どんな人間も、その幼い時代から善よりも多くの悪を働く。

 ソクラテスのこの文は、地上における悪の優勢という重大な問題に触れています。この問題は世界の複数性や、人類のほんの一部が住む地球の運命についての知識なしには解決できないものです。この問題はスピリティズムだけが解決できますが、それは後の第一、二、三章に記されています。


ⅩⅩⅠ、知らないことについては知っているふりをしない方が賢明である。

 この言葉は、基本的な事項さえも知らずに批判する人々に差し向けられます。プラトンは、ソクラテスのこの考えに補足して次のように言いました。

 「まず最初に、可能であれば、言葉をより誠実に受け止めてみる。そうでないのであれば、彼らは気をかけず真実だけを求めればよい。私たち自身を教化することを心がけ、彼らを侮辱してはいけない」。

 スピリティズムも、悪意の有無にかかわらずそれに対して反論する者たちに対して、このように接しなければいけません。プラトンが、今日再び生きることになれば、自分の時代とほとんど同じ状態の物事を見て同じ言葉を使うことでしょう。また、ソクラテスもその霊に対する信念をあざける人々に出合うことになり、弟子プラトンとともに狂人として扱われるでしょう。

 こうした原則を唱えたためにソクラテスは嘲笑の対象となり、後に不信心の罪に問われ毒を飲まされたのでした。確かに多くの関心や偏見に取り組むことになる偉大な新しい真実は、戦いや殉教者なしには定着することはないのです。


FEB版注1
 このファリサイ人の宗派を設立したヒレルと、その二百年後に生き、ヒレリズムとして知られる忍耐と愛の宗教的社会的原則を築いた同名のヒレルを混同してはならない。──FEB一九四七      

和訳注1
 和訳においては、ここに記されたSacyによる翻訳を参照することができないため、FEB版のポルトガル語訳の内容と日本聖書協会発行の聖書(旧約聖書 一九五五年改訳、新約聖書 一九五四年改訳)を参照し、聖書の引用としました。
和訳注2
 「自尊心」という言葉には「自分の人格を大切にする気持ち」という肯定的な意味もあります。しかしながら、自分の人格が他人と比べてより優れているとの思いから、「自尊心」が過ちの原因となってしまっているのも事実です。また、本書では神の基準から見た道徳性を扱っており、その前には不完全な人間が尊いと信じることも小さく映ってしまう場合があります。したがって本書では「自尊心」という言葉が克服すべきものという意味で使われています。
和訳注3
 再生(リインカ―ネイション)──魂が新たな肉体を授かり物質界に生まれること。    

 
℘50  

章  私は法を破る為に来たのではありません

一、私が法を破ったり、予言者たちを否定しに来たのだと思ってはなりません。それらを破りに来たのではなく、成就しに来たのです──よって誠に言います。天地が滅びゆくまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのです。(マタイ 第5章 十七、十八)


  モーゼ
二、モーゼの戒律は、二つの異なった部分からなっています。シナイ山で宣言された神の法と、モーゼによって定められた民の法、または規律の法です。一方は変化し得ないもので、もう一方は国民の習慣や性格に適合したものであり、時とともに変化します。神の法は次の十戒の中に定められています。


ⅰ、私は、あなたたちを奴隷のすみかであるエジプトから救った神であり、あなたたちの主です。私の前に他の神は存在しません。天の上にあるものについても、地上にあるものについても、彫刻された像や、地上の水の中にあるものについても、いかなる偶像も創ってはなりません。それを崇拝したり、それらに対して儀式を行ってはなりません(→FEB版注1)
ⅱ、あなたたちの神である、主の名前をみだりに唱えてはなりません。
ⅲ、土曜の日を聖日とすることを覚えなさい。
ⅳ、主であるあなたたちの神が、あなたたちに地上で生きるための長い時間を与えてくれるよう、あなたたちの父母を敬いなさい。
殺してはなりません。

姦淫を犯してはなりません。

ⅶ、
盗んではなりません。

ⅷ、あなたたちの隣人に偽証を行ってはなりません。

ⅸ、あなたたちの隣人の妻を求めてはなりません。

、あなたたちの隣人の家や奴隷、しもべ、牛、ろば、またなんであれ、彼らに属するものを羨ましがってはなりません。(十戒 出エジプト 第二十章 二~五、七、八、十二~十七)
 

 あらゆる時代の全ての国にこの法は存在し、それ故に、その性格は神意を持つものであるのです。それら以外のものは全てモーゼが定めた法で、騒々しく規律の無いその民の間で、エジプトにおいて奴隷となっていた時に染まってしまった偏見や悪癖を根絶する必要があり、民は恐れからその内容に従ったのです。

その法の権威を示すためには、原始的な立法者が皆そうしたように、それらの起源が神にあるという意味合いを持たせることが必要でした。人間の権威は神の権威に頼る必要があったのです。しかし、無知な人々に強い印象を与えることができたのは、恐ろしい姿をした神の観念のみで、未発達な人々は、その中に道徳観や真っ直ぐな正義感を見出すことができたのです。

「殺してはなりません。隣人を害してはなりません」と言う部分を自分の戒律に含めたモーゼ自身が、殺すことを義務として、自分自身に矛盾するわけにはいかなかったのは明らかです。つまり、いわゆるモーゼの律法は、基本的に暫時的な性格を持つものだったのです。

 
 キリスト
三、イエスは法を破る為に来たのではありませんが、その法とは神の法のことです。その法を成就しに来た、つまり、その法を発展させ、その真なる意味を与え、それを人間の進歩の度合いに合わせ、適応させるためにやって来たのです。

ですからこの法の中には、教義の基本である神と隣人に対する私たちの義務の原則が顕われています。厳密に言うところのモーゼの法では、それらは内容においても、
表現においても、大きく変えられています。

常に外見的な習慣や誤った理解を打ち消そうとしましたが、それらを要約するには、次の言葉以上に核心的なものとすることはできませんでした。
「自分を愛するように、神をなににも増して愛しなさい」。また、その中にはすべての法と預言が存在すると付け加えています。

「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることは無く、ことごとく全うされるのです」という言葉によって、イエスは、神の法が完全に守られること、つまり地上に置いてその法が完全にその純粋さを保たれ、すべての広がりと重要性において実践されることが必要だと述べたかったのです。

しかし、ある種の人間、もしくはある単一の民族だけの特権を形成するためにその法が宣言されたのであったとすれば、実際なんの役に立つことができたでしょうか。神の子である人類の全てが、全く区別されることなく、同じように配慮されているのです。


四、しかし、イエスの役割と言うのは、その言葉に排他的な権威を持つ単なる道徳的立法者となることではありませんでした。イエスの到来の預言を遂行することがその役割であったのです。イエスには、神から与えられた使命と、その霊として特別な性格による権威があったのです。

イエスは、単なる命というものが地上において起こるものではなく、天の国において生きる命がそうであることを人類に教えに来たのです。この天の国へと導く道や、いかに神と調和するかの手段を人々に教え、また人間の運命の実現のために訪れる事柄の流れの中に、その手段を感知することを人々に教えたのです。

しかしながら、全てを述べたのではなく、多くの点に関しては、イエス自身が述べたように、まだ理解されないであろう事柄について真実の種を蒔くにとどまったのでした。すべてについて触れながらも、言葉の裏に隠した形で伝えました。
 
その言葉の幾つかに隠された意味が学び取られるには、新しい考えや新しい知識によって、それを理解するのに不可欠な鍵がもたらされることが必要でしたが、そうした考えというものは、人類の霊がある程度の水準に成熟しなければ顕すことが出来なかったのです。

そうした考えを登場させ、発展させるために、科学は大いに貢献する必要がありました。従って科学が進歩するまで時間を与える必要があったのです。


  スピリティズム 
五、スピリティズムは霊界の存在とその様相、及びその物質界との関わりを、否定できない方法で証明することによって人類に示す新しい科学です。スピリティズムの中では、霊を超自然のものとして示すのではなく、自然界で絶え間なく働く生きた力の一つとして捉え、今日においても理解の不足から驚異と空想の産物として軽視されている様々な霊現象の根源としています。

キリストはこうした関係について、多くの場面において言及しましたが、彼の述べたことの多くは理解されなかったり、誤って解釈されたりしてしまいました。スピリティズムは、すべてをより容易に解説するための鍵なのです。


六、旧約聖書の法はモーゼによって具現化されました。新約聖書の法はキリストによって具現化されました。スピリティズムは神の法の第三の啓示ですが、どんな個人にも具現化されていません。なぜならそれは、人間によって与えられた教えではなく、霊たちによって与えられた教えの結果であるからで、それは無数の媒介者の協力によって地上のあらゆる場所に伝えられた天の声なのです。

別の言い方をすれば、それが集合的な存在であるということができ、それは霊界の存在者の集合によって形成され、その個々が人類に対して光の捧げものをもたらし、霊界を知らしめ、人類を待ち受ける運命を教えてくれているのです。


七、キリストが「法を破りに来たのではなく、成就するために来たのです」と言うように、スピリティズムも「キリストの法を破るために来たのではなく実行するために来たのです」と言うことができます。

キリストが教えたことに反する教えは一つもなく、それをさらに発展させ、補足し、例え話の形でしか述べられていなかったことを、誰にとっても明解な言葉によって解説しています。予言されたときにキリストが宣言したことを遂げる為に、そして未来の出来事に対する準備をするためにやって来たのです。

したがって、スピリティズムはキリストの業であり、その宣言のとおり、世を更生し、地上における神の国を準備するための指揮を取っているのです。
 
℘54   
 科学と宗教の同盟

八、科学と宗教は、人類の知性における二つの梃子(テコ)の役割を果たしています。一方は物質界の法を明らかにし、もう一方は道徳の世界を示します。しかし、これらの法は神と言う同一の原理のもとで矛盾することはできません。
 
もし一方が他方を否定するのであれば、必然的にどちらかが誤っていて、どちらかが真実であることになりますが、神は自らの創造物の破壊を意図しているはずがありません。

これら二種類の考え方の間に存在すると考えられる不一致は、一方の他方に対する誤った観察や、過度の排他主義からくるものでしかありません。そこから衝突が生じ、不信や偏狭が生まれました。

 キリストの教えが完成されなければならない時代が到来したのです。その教えの幾つかの部分に掛けられたベールが取り去られなければならない時が来たのです。科学は排他的に唯物的であることを止め、霊的要素を考慮に入れなければなりません。 

宗教は有機的な法や、物質の普遍な法則を無視することを止め、一方が他方を補い合う二つの力として、友に歩み、相互に協力しなければなりません。そうすることで宗教は、事実に基づいた非の打ち所のない論理を確立することになり、科学に否定されることの無い理性に従った不動の力を得ることになります。

 科学と宗教が今日までお互いを理解できなかったのは、それぞれが排他的な視点を持って対立し、お互いを拒絶していたからです。両者を隔てる空間を埋め、両者を近づけるための統合の絆が欠けていました。

この統合の絆は、霊的宇宙を支配する法や、その物質界との関わりに関する知識の中に存在します。この法とは普遍の法であり、あらゆる存在や天体の動きを支配するもののことです。

こうした関係が経験により証明されると新たな光が生まれました。信仰は理性へと進み、理性は信仰の中に不合理を見出さず、かくして唯物主義は打破されたのです。

しかしすべてにおいてそうであるように、一般的な動きによって引っ張られて行くようになるまでには、それに遅れる人々が存在します。そうした人たちはその考えについて行こうとせず、それを踏みにじり、抵抗します。
 
今起こるすべての革命に霊たちが働き操作しています。十八世紀以上続いた一つの準備を経て、その実現の時が到来し、人類の生活における新しい時代を画すことになるのです。

その結果を予見することは容易です。社会関係に避けて通ることのできない変革を引き起こすことになり、それに対して誰も、抵抗することはできなくなるでしょう。なぜならそれは神意の内に存在し、神の法である進歩の法から生じる出来事であるからです。


    霊たちからの指導

   新しい時代

九、神は唯一であり、そのことをヘブライ人のみならず、多神教の民にも知らしめるため、その使命を託されて神によって送られた霊がモーゼです。ヘブライの民は、モーゼや預言者たちによって神の啓示を受けることで神に対して仕えた道具であり、この民族が経験した苦しみは、一般に人々の注目を集め、神意を人類の目から隠していたベールを取り除くためのものだったのです。

 モーゼを仲介して与えられた神の戒めは、広義におけるキリストの道徳の種を含んでいます。ところがそれらを純粋に実行してもその意味が理解できなかったために、聖書では意味を狭めて解説されています。しかし、そうであるからと言って神の十の戒めが、人類が通らねばならない道を明るく照らす灯台としての輝かしい姿を失うわけではありません。

 モーゼが教えた道徳は、更生を促す人々の当時の進化のレベルに適切なものでした。こうした人々は、魂の完成度においては半原始的で、生贄を使わずに神を崇拝したり、敵を赦すといったことを理解できませんでした。
 
彼らの知性の遅れは、物質的観点から見た芸術や科学において、また、道徳性においてもみられ、完全な霊的な宗教に改宗していたわけではありませんでした。ヘブライ人たちの宗教がそうであったように、半物質的な形で見せつけられることが必要であったのです。神の考えが霊たちに響くのと同じように、生贄が彼らの感情に訴えました。

 キリストはより純粋でより崇高な道徳、キリストの福音の創始者であり、それは世界を革新し、人類を兄弟として近づけるものです。人類の全ての心の中に慈善と隣人への愛を芽生えさせ、人類の間に共通の連帯感を生み出すものです。
 
その道徳はいずれ地球を変革し、今日そこに住む霊たちよりも優れた霊たちのすみかとすることでしょう。自然界を支配する進化の法は成就し、スピリティズムは、人類が前進するために神が用いる梃子の役割を果たすのです。

 神意にある進歩が実現するにはさまざまな考えが発展しなければならない時がやってきました。自由の観念やその先駆けとなった考え方が通った道と同じ道を辿ることになります。しかし、このような新しい考えの発展が戦いなしに達成されると考えてはなりません。
 
そうです、そうした考えが成熟するためには動乱や議論の対象となることが必要で、その結果大衆の注意を引くことになります。

一度それが達成されたなら道徳の神性さと美しさが霊たちの心を動かし、人々は永遠の幸せが約束される未来の生活の扉を開く鍵を与えてくれる科学を、受け入れることになります。モーゼが道を開き、イエスがその事業を継承しました。スピリティズムはそれを完成させることになります。(あるイスラエルの霊 ミュールーズ、一八六一年)


十、ある時神は、その尽きぬ慈悲により、真実が闇を追い払うのを人類が目にすることを許しました。その日、キリストが到来しました。生きた光が去り、再び闇が戻ってきました。真実か闇かの選択肢が与えられた後、世界は再び道に迷いました。

すると旧約聖書の中の預言者たちのように、
霊たちがあなたたちに注意を促すために話し始めました。世界はその根本から動揺しています。雷が鳴り響いています。覚悟をしてください。

 スピリティズムは自然界の法そのものに則し、神の命令に従うものであり、神の命令に従う者はすべて、偉大で有益な目的を伴っていることを確信してください。あなたたちの世界は迷っています。

科学は道徳を犠牲にして発展し、あなたたちを物質的な豊かさへと導きましたが、それが原因で、闇の霊たちがあふれるようになりました。キリスト教徒たちが知るように、心と愛は科学とともに歩まねばならないのです。
 
ああ、十八世紀が過ぎ、多くの殉教者たちが血を流したにもかかわらず、キリストの国はまだ到来していないのです。キリスト教徒たちよ、あなたたちを救おうとしている師のもとへ戻ってください。信じ愛することを知る者にとってはすべてが容易なことです。
 
愛はそうした者を言い表しようのない喜びで満たします。親愛なる子供たちよ、この世は混乱しています。善霊たちはあなたたちに何度も言います。
 
嵐の訪れを告げる突風に身をかがめ、風によって地に倒されないようにしてください。つまり、予期せずに夫が戻ってきて打たれた、愚かな処女たちと同じ目に遭わないように準備をしてください。

 準備が進められている革命とは、物質的な革命というよりも道徳的な革命です。神のメッセンジャーである偉大なる霊たちは、信心の風を吹かせ、明晰で熱意にあふれた労働者であるあなたたちすべてが、自分の謙虚な声を聞くようにし向けるのです。

あなたたちは砂の粒ですが、砂の粒なしに山は存在しないのです。「私たちは小さい」というだけでは事足りないのです。一人一人に使命があり、それぞれの仕事が与えられています。蟻たちはその共同生活の巣を作り、取るに足らない微生物は大陸を創り上げているではありませんか。

新しい十字軍のはじまりです。宇宙の平和の使徒たちよ、戦争によってではなく、現代の聖ベルナルドとして、前を見つめ前進してください。世界の法とは進歩の法です。(フェヌロン ポアチエ、1861年)


十一、聖アウグスティヌスはスピリティズムの最も偉大な伝導者の一人です。ほぼすべての場所にその姿を現します。その理由は、この偉大なるキリスト教哲学者の生涯の中に見ることができます。

彼は教会の創始者たちの集団に属しており、そこから彼のキリスト教への忠誠とその強固な支えを得ています。他の多くの者がそうであるように、彼は多神教から去り、より正確に言うならば、深い不信仰から真実の輝きへと導かれました。

過度の贅沢に身を任せていると、彼を我に返らせる特別な魂の響きを感じ、幸せとははかなく無気力を誘う快楽の中にではなく、別のところに存在しているのだということに気づかされたのです。そして、ダマスカスへ向かう道の途中、「サウロよ、サウロよ。
 
なぜ私を迫害するのですか」と言ったのと同じ聖なる声をついに聞かされたのです。神よ、神よ、お赦しください。信じます、私もキリスト教徒です」。そしてそれ以来、福音を支えるもっとも強い者の一人となりました。
 
この輝かしい霊が残した注目すべき告白を読むと、彼の性格が読み取れるとともに、聖アウグスティヌスの母、聖モニカの死後、彼が語った預言的な言葉の内容を知ることができます。「私は、私の母親が私に会いに来て、忠告をくれ、未来の生活においてなにが私たちを待ち受けているのかを明らかにしてくれることを確信しています」。
 
なんと大切な教えがこの言葉の中に含まれていることでしょうか。来たるべき教義の予告が、何と激しく響いていることでしょうか。

聖アウグスティヌスがさまざまなところに姿を現すのは、古来より予感された真実を布教する時が到来したことを悟り、啓示を求めるすべての者に、熱意をもって応えようとしているからなのです。聖パウロの弟子エラストゥス パリ、1863年)
 

備考>聖アウグスティヌスは積み上げたものを崩すためにやって来たのでしょうか。もちろんそうではありません。その他の多くの者がそうであるように、彼は人間として生きていた間見ることができなかったものを、霊の目で見ているのです。
 
魂は解放され、新しい光をかいま見て、以前理解していなかったことを理解したのです。新しい考えが幾つかの金言の本当の意味を彼に示すことになりました。地上においては、その時持ち合わせていた知識に従って物事を評価して居ました。
 
しかし、新しい光が彼を照らすと、それらをより賢明に評価できるようになりました。こうしてそれまで霊に対して抱いていた考えや、反対者の論理に対して浴びせていた非難を捨てることになったのです。

キリスト教の純粋さのすべてが顕れた今日、キリストの使徒であることを放棄することなく、彼は幾つかの点について、生きていた時とは違う方法で考えることが出来るのです。自分の信心を否定することなく、スピリティズムの布教者となり、予言されたことを達成しに来たのです。

スピリティズムを布教することにより、現代に生きる私たちがその記録をより適切に論理的に解釈できるように導いてくれるのです。同様の立場にある他の霊たちにも同じことが起きています。

FEB版注1
 アラン・カルデックは第一の戒めの最も重要なところだけを引用し、それに続く次の文は記載しませんでした。
「あなたの神、主である私は、ねたむ神であるから、私を憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、私を愛し、私の戒めを守るものには、恵みを施して千代にいたるであろう」。(出エジプト 第二十章 5、6)

 カトリック教会やプロテスタントによるこの戒めの翻訳は、魂がたった一度だけ受肉するという教義と一致させるため、削除されました。また、「三、四代に及ぼし」という箇所はブラジル版の聖書によると、Zamenhof の訳で、文章を「三、四代まで」と変更しています。カトリックのIgrejaAnglicana教会やプロテスタントのAlmeidaやその他に見られる、こうして手を加えられた文章は、神の正義を恐ろしいものにしてしまっています。

つまり、息子、孫、ひ孫、又その次の代の者が、父、祖父、ひいおじいさん、の罪により罰せられることになってしまうのです。これは一度限りの命の考え方に法をあてはめた失敗の例です。──FEB一九四七


    
章 私の国はこの世のものではありません

一、ピラトは再び官邸に入ると、自分の前にイエスを呼んで、尋ねた、「おまえはユダヤの王なのか」イエスは答えられた、「私の国はこの世のものではありません。もし私の国がこの世のものであったとしたら、人々は戦って、私がユダヤ人の手にわたることを阻止したでしょう。しかし、私の国はこの世のものではありません」

するとピラトは言った、「おまえは王か」。イエスは答えられた、「あなたの言う通り、私は王です。私がこの世に来たのは真実の証をするためです。真実につく者は私の声を聞くでしょう」(ヨハネ 第十八章   三十三 三十六 三十七)


 未来における生活
二、こうした言葉によって、イエスははっきりと未来における生活に付いて触れていますが、イエスはその生活が、いかなる場合においても、人類の目指す目標であり、地上における人間はその生活のことを最大の関心事と捉えるべきであると示しています。イエスの金言はすべて、未来における生活が存在するというこの大きな原則に基づいているのです。

未来における生活がなければ、イエスの道徳上の教訓のほとんどは、どんな根拠も存在しなくなってしまうため、未来における命を信じない者たちは、イエスが現在の生活についてのみ語っているのだと考え、その教えを理解できずに、無益なものだと考えたのです。

 したがって、この教義はキリストの教えの中心軸となるものであり、そのために本書の初期の章に挿入されました。この教えは人類全ての目標とならなければならないのです。この教えだけが、地上における生活で生じる不平等の正当性を、神の正義に基づいて明らかにしてくれるのです。


三、ユダヤ人たちが未来における生活に付いて抱いていた考えは、ただ不明確なものでしかありませんでした。天使を信じていましたが、それらは創造主によって特権を与えられた存在であると考えていました。

人類がいつの日か天使となり、その幸せを分かち合うことができるようになるのだということは知り得なかったのです。彼らは神の法を遵守すれば、その報いとして地上で富を得たり、自分たちの国を優勢に導いたり、敵に勝利することが出来ると考えていました。

災害や敗北を被ることはすなわち、神の法を破ったことによって与えられる罰であったのです。モーゼは何よりもまず、この世の物事に心を動かされてしまう無知な牧人たちに、それ以上のことを伝えることはできませんでした。
 
時が過ぎ、イエスは神の正義が支配する別の世界があることを示しました。そしてイエスはこの世界の存在を神の戒めを守る者たちに約束し、そこで善き人々は相応の報いを受けることが出来るとしたのです。
 
そこがイエスの支配する国なのです。この地上を後にして戻っていくその国に、イエスの栄光が存在するのです。
 

 しかし、イエスは当時の人類の状況を鑑み、完全なる光を彼らに与えても、理解されず、当惑させてしまうだろうと察し、そうすべきではないと考えました。そしてまさしくイエスは、未来における生活をあくまでも原則として示し、その作用から誰も逃れることはできない自然の法なのだというにとどめたのです。

よって、全てのキリスト教徒は必然的に未来における生活を信じています。しかし、多くの人々のそれに対する考えは曖昧で不完全であり、それ故に多くの点において誤っています。多くの人々にとって、それは単なる信仰箇条以上の何ものでもなく、絶対的な確信を欠いているというところから疑問と不信心が生まれるのです。

 スピリティズムは、そのように不十分なキリストの教えを補うために、人類がその真実を学ぶに足りるだけの発達段階に十分達した時期に登場したのです。スピリティズムがもたらされることによって、未来における生活は信仰の単なる一箇条でも、単なる仮説でもなくなります。

それは事実によって裏付けられた、実体ある現実のものとなるのです。なぜなら、未来における生活のすべての側面を、すべての出来事において描写しているのは、自からそれを目撃した証人たちであるからです。

そのためにこの事柄に対するどんな疑問を抱くこともできないばかりか、普通の知性の持ち主であれば未来の生活について、ある詳細な描写を読むことによって、ある国のことを誰もが想像できるように、その真の姿を想像することができるのです。

未来の生活の描写はとても細かく説明されており、彼らがそこで幸せなのか、不幸なのか、彼ら自身の生活がどうなのかが分かります。合理的なその状況は、彼ら自身が生みだしたものです。ここにいる私たち各々は、いやでもその状況が、理にかなっていることを認め、自分に言い聞かせることになりますが、そこに神の真なる正義の存在が明かされているのです。
 
 
 イエスの王位
四、イエスの国がこの世のものではないことはみな理解するところですが、地上においてもイエスには王位があるのではないでしょうか。王というのは、一時的に権力を行使する人物に限りません。

この称号は、いかなる分野であっても、その素質によって第一等の頂点に昇り、その時代を支配し、人類の進歩に寄与するとみなが認めた者に与えられるものです。だからこういう意味で、私たちは、優れた哲学者、芸術家、詩人、作家などを「王」または「王子」と呼ぶことがあります。

こうした個人の功績から来る王座や、子孫によって神聖化された王座は、多くの場合、実際に王冠を持つ王位よりも優勢なものとして映ってはいないでしょうか。前者の王座は消滅し得ないものですが、後者の王位には盛衰があります。また、前者に対してはいつの世も賞賛しますが、後者に対しては、ののしることもしばしばあります。

地上での王位は命とともに終結します。道徳的な王位はその力を永続し、死後においても支配します。このような点でイエスは、地上において権利を与えられた王よりも偉大な権威を有しているとは言えないでしょうか。ピラトに対して「私は王です。しかし、私の国はこの世のものではありません」と言ったのにはこうした意味が込められていたのです。


   視点
五、未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その、確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまうため、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。

その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。

その生活における一連の盛衰や混乱は一時のものであり、その後により幸せな生活が訪れることが判っているので、じっと耐え忍んでいればいいような出来事に過ぎないのです。死はもはや虚無に対して開かれた恐れをもたらす扉ではなく、解放へと通じる扉となり、流刑者たちはそこを通って、平和と至福の家に入っていくことができるようになるのです。

この世での滞在が永遠のものではなくて一時的なものだということを知っているので、人生の心配事にも大した関心を抱くことなく霊的な平静をもたらし、悲哀の多くを取り除くことになります。

 未来における生活を疑うという単純なことから、人間はそのあらゆる考えを地上における生活に差し向けます。地上における富以上に貴重な富を見つけることがでず、自分のおもちゃ以外何も目に入らぬ子供のようになります。そして唯一本物として映る地上の富を獲得するために、どんなことでも行います。

そうした富のほんの少しでも失おうものなら、過失、失望、満たされぬ野心、不正の犠牲となること、傷つけられた自尊心や虚栄心と言った数々の苦痛が、人生においていつまでも続く苦悩と化すのです。

このように人間は、いつも真の拷問を自らに科していることになります。自分が実際にあると考える物質世界に視点を置くと、自分の周りにあるものがその視野すべてを占めることになります。そうした目には、自分のもとに訪れる悪や、他の者を動かす善などが、大きな重要性を持つように映ってしまいます。都会の中にいる者にはすべてが大きく見えます。

高い地位に辿り着いた者にとって、その記念碑は、とても大きく見えるものです。しかし、山に登って見下ろすと、人も物も小さく見えるようになります。未来における生活に重点を置いて地上の生活を送る人にはこのような視点があります。

 人類は、天にある星と同じように、無限に広がる空間の中では小さすぎて見分けがつかなくなります。すると蟻塚の上にいる蟻のように、大きなものも小さなものも混同してしまっていることに気づきます。無産者も主権者も同じ背丈であることがわかります。

悲しいことに、これらのはかない生き物たちは、彼らを殆ど向上させることのない、とても短い時間しか持続しない、その居場所を勝ち取るために、大変な苦労に身を投じているのです。このことから、私たちが地上の財産に与える重要性が、常に未来における生活への確信から来る重要性とは相反しているのだと考えるようになるのです。
 

六、すべての者がこのように考えるようになっては、誰も地上のことに気を取られなくなってしまい、地上のものはすべて危険にさらされてしまうのではないでしょうか。しかし、実際にはそうはなりません。

人間は本能的に快適な生活を求め、その場所に短時間しかいないことが確実であったとしても、そこに最も良い状態で、もしくは可能な限り悪の少ない状態でいようとします。手に棘が触れた時、それに刺されないようにとその手をどけない人はいません。

快適さへの欲求は、人間にすべてを改善させることを強要しますが、それは自然の法の中にある、進歩と保存の本能によるものです。故に人間は必要性や嗜好、または義務によって働くことで神の意に叶うことが出来、また神もそうした目的の為に人類を地上に送ったのです。

端的に言えば、未来に心を託し今日に対して必要以上に関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることが出来るのです。

 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみに溺れることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした楽しみの濫用を予防することができます。「私の国はこの世のものではありません」。

未来における生活を自分の身に起こることとして考えることができる者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちのような人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つものをすべて失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです。


七、スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しいほどの小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一のはかない未来の基軸と考えさせますが、スピリティズムはそれとは違い、現世というものが、調和のとれた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。
 
同じ存在同士、同じ世界に住むすべての存在同士、全ての世界のあらゆる存在同士の生活を結びつける連帯関係を示してくれます。それによって宇宙全体の兄弟愛の存在の理由と基礎が与えられます。
 
一方で魂は一人一人の肉体が生まれる時に創造されるのだという教義では、すべての存在がお互いに知らぬ者同士だということになってしまいます。

単一の全体に属する各部を結びつけるこの連帯感は、ある一部分だけを考慮に入れたのでは一見説明しようがない事柄をも解説することになります。キリストの時代、人類はこの全体の繋がりについて理解することができませんでしたが、そのためにイエスはそのことが理解されることを後の時代に残しておいたのです。
 
 

   霊たちからの指導

 
  地上における王位

八、「私の国はこの世のものではありません」とイエスが言われたことの本当の意味を、一体誰が私以上に理解することが出来るでしょうか。私は地上で暮らす間、自尊心によって自分を見失っていました。

地上での王位と言うものが、こちらでは何の役にも立たないということを、女王であった私が言っているのです。地上の国から、私はこちらに何を持ってくることが出来たでしょうか。

何一つ持ってくることは出来ませんでした。それどころか地上の墓にさえも持ってくることが出来なかったということは、このことを理解させてくれる痛ましい現実でした。人間たちの間で女王でいる者は、天の国へ行っても女王であり続けるものだと信じていました。

しかし何と言う誤解であったことでしょう。最高なる者として迎えられる代わりに、私より上に、はるか上に、地上では高貴な血を引いていないからといって、身分の低いものとして軽んじていた人たちを見た時の恥ずかしさ。

ああ、やっとその時、自分の高慢さと、地上で人類が貪欲に求める「高い地位」のつまらなさを知ることが出来ました。

 こちらの国で必要なものは、献身、つつましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上で何であったか、どんな身分でいたかは問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけ涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。

 ああ、イエスよ、あなたの国はこの世のものではないと言われました。それは、天に辿り着くには苦しまなければならないからです。そしてこの世の王位など持っていくことは出来ないからです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。だから花の中にではなく、棘の中に道を求めなければならないのです。
 
 人間はそれをあたかも永遠に自分のものとすることが出来るかのように地上の富を追いかけます。しかし、こちらにはそのような幻想は存在しないことを知り、こちらの国の扉を開く唯一の、確実で長続きするものをそれまで軽んじて、影ばかりを追い続けていたのだということにすぐに気づくのです。
 
 天の国の王位を得ることの出来なかった者を哀れんでください。あなたたちの祈りによって、彼らを助けてあげてください。なぜなら祈りは人を神に近づけ、地上と天を結ぶものだからです。どうかそのことを忘れないでください。(あるフランスの女王 ルアーブル、一八六三年)


    
章 私の父の家には多くのすみかがあります

一、あなたたちの心を乱してはなりません。神を信じ、また、私を信じてください。私の父の家には多くのすみかがあります。もしそうでなかったら、私はそのことをあなたたちに言っておいたでしょう。

私はその場所をあなたたちのために準備しに行くのですから。私が行き、あなたたちの場所を準備した後、再び戻ってきて、あなたたちを私のところに迎えましょう。(ヨハネ 第十四章 1‐3)


 死後の世界における魂のさまざまな状態

、父の家とは宇宙のことです。様々なすみかとは、無限の宇宙の中で霊たちに生まれる場所を提供する、霊たちの段階に応じて存在する世界のことです。これらのイエスの言葉は、世界の多様性とは別に、死後の世界に存在する霊たちの幸運、または悲運な状態に関してもあてはめることができます。

物質への執着から解放されたか、あるいはある程度浄化しているかどうかということによって、その霊の置かれる状況、そこでの物事のありさま、そこで感じること、そこで所有する感覚が霊によって無限に違ってきます。

ある者が生前住んでいた場所から離れられない一方で、別の者たちは宇宙のいろいろな世界を行き来します。罪のある霊たちが闇の中で過ちを犯す一方で、至福を得た霊たちは光り輝く明るさと無限なる神の崇高な業を享受することが出来るのです。

結局、悪は後悔や苦しみに悩まされ、
慰安を受けることもなく、その愛情の対象となっていた者たちから引き離され、多くの場合孤立してしまい、道徳的な苦しみに悲しむことになり、正しい者は愛する者たちと共に生活し、表現し難い幸せの喜びを享受することになります。

だから、場所も示されて居なければ、その区画もされていませんが、そこには多くの住処があることになるのです。


 霊の住む世界のさまざまな分類
三、霊たちによってもたらされた教えから、さまざまな世界の状況は、そこに住む霊たちの進歩または劣等の度合いによってお互いに大きく違っていることがわかります。それらの世界の中には、まだ地球よりも、道徳的にも物質的にも劣っている世界があります。
 
他には私たちの世界と同じ分類の世界も存在します。また、すべての点において他の世界よりも優れた世界も存在します。劣った世界では、存在は全て物質的であり、感情が全てを支配し、道徳的な生活はほとんど存在しません。

この世界は進歩するに従って物質の影響が減少しますが、そのようにより進んだ世界における生活は、ほとんど霊的であるということが出来ます。


四、中間に位置する世界には善と悪とが混在しており、そこに住む霊たちの持つ進歩の度合いによって、どちらかがその世界を支配することになります。様々な世界を絶対的に分類することは出来ませんが、その世界の状態とその世界が持つ運命に従って、またその世界の最も目立つ特徴をもとに、一般的に次のように分類することが出来ます。

人間の魂の初期の肉体化のための原始的な世界、
悪を克服するための試練と償いの世界、
さらに試練に立ち向かうべき魂が新しい力を吸い込み、闘いの疲れをいやす更生の世界、
善が悪に勝る幸運の世界、
浄化した霊たちの住む善だけが君臨する神の世界。

地球は試練と償いの世界に分類し、だからこそ、そこにはこれ程までの苦しみを抱えた人々が住んでいるのです。


五、ある世界に生まれてきた霊は、いつまでもそこにとどめられるものでもなければ、その世界の中で、完成するまで実現しなければならない進歩のステップのすべてを経るわけでもありません。

霊たちは一つの世界においてその世界が与える進歩のレベルを達成すると、より進んだ世界へと進んで行き、それを純粋な霊の段階に至るまで繰り返していきます。多くのさまざまな滞在地が存在し、それぞれにおいてすでに達成している段階に適した進歩の要素が霊たちに提供されるのです。

彼らにとっては、より進んだ世界へ昇ることが報酬であるように、ある不運な世界での滞在が延長されることや、悪に固執する限り出ることの出来ない世界よりもさらに不幸な世界へ追放されることは罰となります。



 地球の運命──地球の惨めさの原因
六、多くの人々が地球上にこれほど多く存在する悪意や粗雑な感情、あらゆる種類の惨めさと病に驚き、人類とはとても悲しいものだと結論づけてしまいます。こうした狭められた視野から下された判断は、全体に対する誤った考えを彼らに与えてしまいます。

地球上には人類の全てが存在しているのではなく、人類のほんの一部しかいないのです。実際、人類という種は、宇宙の無数の天体に住む、理性をもった存在全てを含めて意味するのです。

では、これらの世界に住む人口に比べ、地球上の人口とはどんなものでしょうか。ある大きな国に比べた、小さな村にも満たないでしょう。地球の運命と、そこに住む人々の本質を知るならば、地球上の人類の物質的、道徳的状況に何も驚くようなことはありません。


七、ある大きな町の郊外の、もっとも卑しく最低な地区の住人によって、その町全ての住人を判断してしまうのは誤った考えとなります。病院には、病気の人や、身体が不自由な人しかいません。刑務所にはあらゆる醜行、悪徳を見ることができます。
 
不健康な地区では、その住人の大半は青白く、痩せ細り、病的です。ここで、地球を郊外の地区、病院、刑務所の、全てが同時に存在するところだと考えてみれば、なぜ苦しみが喜びに勝って存在するのかを理解することができます。

健康である者を病院へ送ったり、悪いことをしていないのに刑務所に送ったりはしません。又病院や感化院は歓喜のための場所とはなりません。

 しかし、ある町の住人のすべてが病院や刑務所にいることがないように、人類のすべてが地球上に存在しているわけではありません。そして病気が治ると病院を退院し、懲役を済ませば刑務所から出所するのと同じように、人類も道徳的な病を治療した後には地球を去ることになるのです。

 
   

   霊たちからの指導

 
     れた世界、劣った世界

八、劣った世界と優れた世界の性格とは絶対的なものではありません。どちらかというと、大変相対的なものです。ある世界が劣っているか、優れているかということは、進歩の段階の中でその世界の上または下に存在する世界と比べた場合にのみ決まることです。

 地球を例として、劣った世界の住人を私たちの天体の原始的な時代の痕跡である原始的な生活を続ける人々や、いまだ私たちの間に存在する野蛮な人々にたとえてみれば、その劣った世界の状態がどのようであったかを考えることができます。

遅れた世界では、そこに住む者はある意味において原始的です。人間の形をしていても、美しさは存在しません。彼らの本能は、優しさや善意に弱められておらず、正義と不正を区別するほんのわずかな感情を持つまでには至っていません。彼らの間では粗暴な力が唯一の法です。

産業も発明もないため、食物を手に入れることに人生を費やします。しかし神は、そのいかなる創造物をも見捨てることはありません。知性の闇の底には、ぼんやりと神の存在を感じさせるものが潜在的に横たわっています。

この本能は、彼らの間にお互いの優劣を作りだし、より完全な人生へと昇っていく準備をするためには十分なものなのです。というのも、彼らは堕落した存在なのではなく、成長しつつある子供であるからです。

 劣った段階と、より進んだ段階との間には、無数の段階が存在しますが、物質から解放されて、栄光に輝く純粋な霊たちを見て、彼らもかつてはこうした原始的な霊たちであったことを知ることは、人間の成人を見て、その人が胎児であったことを思いだすのと同じように困難なことです。

   
九、優れた段階へ到達した世界においては道徳的、物質的生活の条件は地球上の生活とは非常に違っています。どの場所においてもそうであるように、そこでも体は人類と同じ形をしていますが、その形はより美しく、完成され、何よりも浄化されています。

その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。

その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。
 
地面の上を重々しく体を引きずるのではなく、正しく描写するならば、意思以外のなんの力も加えることなしに、表面を滑ってその環境の中を水平移動して行き、それは昔の人々が極楽における死者の霊魂を想像した姿や、天使たちに表される姿と同じです。

人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。

 すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。
 
死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。
 
そこで人生を送る間、魂はうっとうしい物質に束縛されることがなく心を広げ、ほぼ永久にその魂を自由にさせてくれる光明を享受することが出来、自由に思考を伝達させることを可能にします。


十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。
 
ただ知性的、道徳的優位性のみが条件の違いを生み、優越を与えるのです。権威はいつもそれを持つ価値のある者だけに与えられ、いつも正義によって行使されるため、すべての人々の敬意を受けることになります。

人々は他人の上に昇ろうとせず、自らを完成させることにとって自分の上に昇ろうとします。その目的は、純粋な霊の分類に向かって駆け昇っていくことで、この欲求によって苦しめられることは無く、高貴な大志となって、熱心に勉強するように導かれます。
 
そこで繊細に高められた人間的感覚は増し、浄化されています。憎しみや、つまらない嫉妬や、低俗な羨みというものを知りません。

すべての人々を愛と同胞意識の絆がつなぎ、強い者が弱いものを助けます。知性の度合いに応じて、獲得した財産を所有しています。誰も必要な物が不足することによって苦しむことは無く、誰も償いのために存在しているとは考えていません。一言で言うならば、そのような世界に悪は存在しないのです。

 
十一、 あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光をたたえるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。

永遠の光、永遠の美、永遠の魂の平和が永遠の喜びをもたらし、物質的な生活の苦しみによって妨害されることはなく、また、そこには悪が近づくことが出来ないため、悪との接触によって動揺することもありません。そうしたことを人間の霊が理解しようとするのは非常に困難なことです。

人間は地獄の苦しみは大変巧みに描きましたが、天における喜びを想像することは出来ませんでした。なぜでしょうか。それは人間が劣っているため、苦しみや惨めさしか経験をしたことが無く、天の明るさを予感することがなかったからです。
 
つまり、知らないことについて語ることは出来ないのです。しかし、人間が向上し、浄化されていくに従って、地平線は延び、自分の後に存在する悪を理解したように自分の前に存在する善を理解することになります。


十二、しかし神はそのどの子に対しても不公平を働くことはなく、よって幸福の世界とは、特権を与えられた天体ではありません。そのような世界に到達するために、神はすべての者に対して同じ権利と容易さを与えます。


全てのものが同じ場所から出発し、優れたものが他人よりも恵まれるということはありません。最高の分類へは誰でも到達することが可能なのです。ただ、人間はそれらを働くことによって征服する必要があり、どれだけ早く到達できるか、それとも活動することなく何世紀も人類のぬかるみにとどまるかは、その人次第なのです。(8-12 優秀な霊たちからのすべての指導を要約)


  試練と償いの世界
十三、あなたたちが住む世界を見回してみればわかるのですから、償いの世界について何を言えばいいのでしょうか。あなたたちの間に住む優れた知性の数を見れば、地球が創造主の手元から離れたばかりの霊たちが生まれてくる、原始的な世界では無いことを示しています。

彼らが身につけている生まれつきの性質は、彼らがすでに存在し、ある程度の進歩を遂げていることの証です。
 
しかし、無数に罪を犯しがちである悪癖は、道徳的な不完全性のしるしです。神があなたたちを骨の折れる世界へ送ったのは、あなたたちがより幸せな惑星へといずれ昇って行くまで、人生の惨めさや苦しい労働を通じて、その世界で過ちを償うためなのです。


十四、しかしながら、地球上に生まれるすべての霊が、償いのためにそこへ行くのではありません。未開と呼ばれるような人種は、まだ幼年期を脱したばかりの霊たちによって構成されており、より進んだ霊たちと接触することによって発展していくために、言うなれば教育を受けているのです。

次に半文明化した人種は、進歩の途上にある霊たちによって構成されています。彼らはある意味で地球の先住民族であり、何世紀もの長い期間をかけて、少しずつ進歩し、その内のある者は、すでにより高尚な人々と同じ知性的完成度にまで到達しているのです。

 償いを行う霊とは、言うなれば、地球にとっては外来の人々です。すでに他の世界で生活したことがあり、そうした世界において悪に固執し自ら悪を行い、善の妨げとなったために追放されたのです。

遅れた霊たちの間で過ごし、すでに獲得している知識の種と発達した知性を用いて彼らを進歩させる任務が与えられたために、ある期間、段階を下げられて生まれなければならなかったのです。

罰せられる霊たちが、より知性的な霊たちの間に存在するのはそのためです。だからこそ、こうした人種にとって、人生の不運は大変苦く感じられます。道徳観が鈍い原始的な人種よりも、彼らの内面はより敏感なので、人生における支障や不快によってより多くを試されるのです。


十五、結果的に、地球は無限に多様化した試練の世界のうちの一つを提供していますが、そうした世界を明らかにしてみると、共通した特徴として、神の法に対して反抗的な霊たちの追放の場所となっています。
 
これらの霊たちは同時に、そこで人間の不道徳や自然の残酷さと戦わなければならず、それはまた、心と知性の質を発展させる二重の険しい労働なのです。このように、神はその善意によって、罰そのものが霊の進歩をもたらすようにしているのです。(聖アウグスティヌス パリ 1862年)


 更生の世界
十六、青い空の天井に輝く星の中には、神によって試練と償いのために差し向けられた、あなたたちの世界と同じような世界がどれだけあるでしょうか。あなたたちの世界より惨めな世界も、より良い世界も存在すれば、更生の世界と呼ぶことができる、移り変わりにある世界も存在します。

同じ中心の周りを移動する惑星の渦は、それぞれが原始的な世界、追放の世界、試練の世界、更生の世界、幸福の世界を引きずっています。

善と悪についてはまだ無知ではありながらも、その自由意思によって、自分自身を支配する神へ向かって歩む可能性を持った、生まれたばかりの魂が送られる世界についてすでに私たちは話しました。

また、善を行うために幅広い能力が魂に与えられることも明らかにしました。しかし、ああ、気力を失ってしまう者よ。それでも神はそうした霊たちが抹殺されてしまうことは望まず、生まれ変わりを重ねることによって浄化、更生され、彼らが与えられる栄光に相応しい世界に行くことを許すのです。


十七、更生の世界は、償いの世界と幸せな世界の間の変遷の役割を果たします。後悔する魂はそこで平和と休息を得ることが出来、やがて浄化されていきます。疑いもなく、そのような世界では、
人間は未だに物質を支配する法に従わなければなりません。

人類はその感覚や欲望を経験しますが、あなたたちが隷属している無秩序な感情からは解放されており、心を黙らせる自尊心、人類を苦しめる嫉妬、息を詰まらせる憎しみもありません。全ての者の額には愛と言う言葉が書かれています。


社会を完全な平等が支配し、全ての者が神を知り、神の法を守りながら神に向かって歩もうとします。

 しかしながら、これらの世界にあるのはまだ完全な幸せではなく、しあわせの兆しなのです。そこに住む人類はまだ肉体を持っているために完全に物質から脱却した人だけが解放されることになる苦しみを、依然として受ける状態にあります。
 
いまだに試練に耐えなければなりませんが、償いのような痛々しい苦しみはありません。地球に較べるとこうした世界はとても幸せで、あなたたちのうちの多くの者がそこに住むことに喜びを感じるでしょう。
 
それは、そうした世界が嵐の後の静けさ、残酷な病気から回復した時のようなところだからです。しかしながら、物質にはわずかしか心を奪われていないため、そこに住む人々はあなたたちよりはっきりと未来を見つめることができます。

真なる命を授かるために死が再び彼らの体を滅ぼした時、主によって約束された、彼らに相応しい他の喜びが存在することを理解しています。そして自由となり、魂はすべての地平線の上を旋回します。物質的で粗暴な感覚はありません。

 ペリスピリト(→和訳注1)の純粋で完全な感覚だけが、神自身から直接放射される、その胸の中心から放たれる愛と慈善の香りを吸い込むのです。


十八、ああ、しかし、これらの世界でも、人間はまだ誤りやすく、悪の霊たちも完全にその統治を失ったわけではありません。
前進しないことは後退することであり、善の道をしっかりと踏まなければ、償いの世界に再び戻ることになり、そこで新たな恐ろしい試練がその者を待ち受けることになるのです。
 
ですから、夜になり休み、祈る時、青い夜空をじっと眺め、あなたたちの頭上に輝く無数の天体のことを想い、地球上での償いを終えた後、どの天体があなたたちを神へと導いてくれるのか自分自身に尋ね、また、更生の世界があなた達を迎えるために開かれることを神にお願いしてください。(16ー18 聖アウグスティヌス パリ 1862年)
   
      
  世界の進歩
十九、進歩は自然の法則です。創造された存在は、動物であれ、静物であれ、すべてが拡大し繁栄することを望む神の善意に服従しているのです。
 
人間にとってはすべての存在の結末と思えるような破壊でさえも、変遷を通じてより完成された状態に辿り着くための手段に過ぎず、それは、すべてが生まれ変わるために死ぬのであって、消滅させられるものが無いことからも判ります。

 すべての存在が道徳的に進歩すると同時に、彼らの住む世界は物質的にも進歩します。最初の原子が差し向けられ、世界を築くために集まって来た時から、ある世界をそのさまざまな段階において見ることができたとしたら、その世界が絶え間なく進歩する階段を駆け昇っているのが見えるでしょう。

その段差は、それぞれの世代の人々にとっては感じることができませんが、彼ら自身が進歩の道を進むにつれ、ますます住みよい世界となっていくのです。

このように、
人間、動物、それらを助ける者たち、植物、そしてすみかは並行して進歩していくのであって、自然界において停止し続けるものは何もありません。この創造主の考えのなんと偉大で、その尊厳のなんと高貴なことでしょうか。

それに引き換え、配慮と用心を取るに足りない一粒の砂でしかない地球だけに集中させ、人類を地球に住むほんの僅かな人間だけであると限定してしまうことの、なんとけちで下劣なことでしょうか。

この世界もかつては今日よりも、道徳的にも物質的にも劣った状態にあったのであり、その法に従えば、この二つの側面においてより進歩した段階へと昇ることになるのです。

地球には変遷の時代が到来しており、その時代には償いの天体から、更生の惑星へと変わっていき、そこには神の法が君臨するために、その世界で人間は幸せになれるのです。(聖アグスティヌス パリ 1862年)

和訳注1 
 ぺリスピリトとは半物質からできた霊の体を指す。地上に生きる霊は肉体の他にこの体を有しており、死後肉体を捨てるとぺリスピリトのみが霊の体となる。

 
℘82    
章 生まれ変わらなければ誰にも神の国をみることはできません

一、ピリボのカイザリア地方へ行ったとき、イエスは使徒たちに尋ねて言われた。「人々は人の子についてどう言っていますか。私が誰だと言っていますか」。彼らは答えた、「ある人たちはあなたがパブテスマのヨハネだと言っています。

他の者はエリアだと言い、他の者はエレミアか、その他の預言者の一人であると言っています」。

イエスは彼らに言われた、「あなたたちは私が誰だと言いますか」。シモンペテロは答えて言った、「あなたはキリスト、生きる神の子です」。するとイエスは彼に向かって言われた、「ヨナの子、シモンよ、あなたは幸いです。なぜならそのことをあなたに顕わしたのは血でも肉でもなく、天にいる私の父だからです」。 (マタイ 第十六章、13-17 マルコ 第八章   27ー30)


二、さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳に入った。ある人々は「パブテスマのヨハネが、死人の中からよみがえったのだ、それであのような力が彼の内に働いているのだ」といい、他の人々は「彼はエリアだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だと」と言った。

ところがヘロデはこれを聞いて、「私が首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。(マルコ 第六章 14-16、ルカ 第九章  7-9


三、(変容した後に)使徒たちはイエスにお尋ねして言った。「いったい、律法学者たちは、なぜエリアが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリアが来て、万事をもとどおりに改めるであろう。しかし、あなたたちに言っておく。エリアはすでに来たのだ。

しかし、人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。その時、使徒たちは、イエスがパブテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。 (マタイ第十七章 10‐13、 マルコ 第九章 11‐13)

 
 復活と再生(リインカーネイション)

四、再生は、復活という名によってユダヤ人の教義の一部として存在していました。死とともにすべてが終わると信じていたサドカイ人だけが復活を信じていませんでした。

この点に関するユダヤ人の考えは、その他の事柄に対する考えと同様にあまりはっきりと定まっておらず、なぜならそれは、
魂や魂と肉体との結びつきについて、ぼんやりとした不完全な認識しか持っていなかったからです。

正確にどのような方法で、どのようになるのかは知らぬまま、かつて生きていた人が再び生きることが出来ると信じていました。彼らはそれを「復活」と呼んでいましたが、それをスピリティズムではより正確に「再生(リインカーネイション)」と呼んでいます。

「復活」と言う言葉は、すでに死亡した肉体がよみがえるという考えをもたらします。しかし、朽ちた肉体がすでに散乱してしまったり、他の物質に吸収されてしまった後、同じ肉体が再びよみがえるということは物理的に不可能であることを科学では証明しています。

再生とは霊魂が物質的な生活に戻ることですが、過去において用いた肉体とは全く関係のない、その霊のために特別に準備された別の肉体に戻ることです。故に復活という言葉はラザロには適用できますが、エリアやその他の預言者たちには適用できないのです。

ですから、もし使徒たちが信じていたようにパブテスマのヨハネがエリアであったのであれば、ヨハネの肉体はエリアの肉体であったはずはなく、また、ヨハネには子どもの時代があり、その両親も知られていたのです。つまりヨハネは再生したエリアであり得ますが、復活したエリアではないのです。


五、ファリサイ人たちの中に、ユダヤ人の指導者である二コデモという名の者がいた。彼はある夜、イエスのもとへ来て言った、「先生、あなたが神のもとから送られ、師として私たちを指導に来られたことを知っています。なぜならあなたが行うような奇蹟は、神がともにある者でなければ起こすことが出来ないからです」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。すると二コデモは言った、「すでに年老いた者がどうすれば生まれ変われるのですか。再び生まれるために母親の胎内に入ることができますか」。

イエスは答えて言われた、「誠に言います。人は水と霊から生まれなければ神の国へ入ることはできません。肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である。

再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません。霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれをどこから来るのかを知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません。
 
霊から生まれる人にはみな同じことがあてはまります」。二コデモは答えて言った、「そんなことがどうしてあり得ましょうか」。

イエスは彼を見て言われた、「あなたはイスラエルの指導者でありながら、こんなことも分からないのですか。誠に言います。私たちは知ることしか述べず、見たことに対してしか証しません。

それなのにあなたは私の証を受け入れません。私があなたたちに地上のことを言っている時にそれを受け入れないのであれば、私が天のことを言っている時、どうしてそのことを受け入れることが出来るでしょうか」(ヨハネ第三章 1-12)

℘84
六、ヨハネがエリアであったという考えや、預言者たちが再び地球上に生きることが出来るという信仰は、福音の多くの場所に、特に先に引用した部分に見ることができます。もしこの信仰が誤っていたのであれば、イエスは、その他多くの信仰を否定していたようにこの信仰を否定したに違いありません。

しかしそれとは反対に、イエスはその信仰をその権威において全面的に認め、次のように言うことによって必要条件として位置づけました。「生まれ変わらなければ誰にも神の国を見ることはできません」。そして、「再び生まれ変わらなければならないとあなたに言ったことに驚いてはなりません」と付け加えることにより、繰り返しています。


七、「人は水と霊から生まれなければ」と言う言葉は、洗礼の水による精神的生まれ変わりと解釈されてきました。しかし、原文には単純に「水と霊から生まれなければ」と書いてあるだけです。

更には「霊から」と言う言葉は幾つかの翻訳において「聖なる霊において」と言う言葉と置き換えられてしまい、もはや同じことを意味しなくなっています。この重大な点は、福音に対する最初の解釈に端を発していますが、いつかは誤解がなくなり明らかになることでしょう。→FEB版注1

 
八、この「人は水と霊から生まれなければ」という言葉の真なる意味を理解するには「水」と言う語句の意味に注意しなければなりません。なぜなら、その言葉は本来の意味において用いられていないからです。

 昔の人々が持つ自然科学の知識は非常に不完全なものでした。彼らは地球が水から生まれたと思い、水を絶対的な発生源となる要素であると考えていました。そのことは「創世記」にも「神の霊は水の上に持ち上げられた。水の上に浮いた」と記されています。

「水の中で空が創られ、天の下にある水は一ヵ所に集まり不毛なものが現れる」「水は生きた動物や水の中を泳ぐ動物、地上や空を飛ぶ鳥を生む」。

 この考え方に従えば、水は物質性のシンボルとなり、それは霊が知性のシンボルであると同じです。

「もし人が水と霊から再び生まれなければ」もしくは「水と霊によって再び生まれなければ」と言う言葉は、ゆえに次のような意味を持つことになります。「もし人は肉体と魂によって再び生まれなければ」。元来こうした意味でこれらの言葉は理解されていたのでした。

 こうした解釈は、次の言葉からも正しいことが判ります。「肉体から生まれるものは肉体であり、霊から生まれるものは霊である」。イエスはここに、肉体と霊とをはっきり区別しています。「肉体から生まれるものは肉体」という言葉は、明らかに肉体が肉体のみから発して、霊はそれとは独立しているということを示しています。

 
九、「霊は好きなところに息を吹き、あなたたちはその声を聞きますが、あなたはそれがどこから来るのか知らなければ、それがどこへ行くのかも知りません」。このことは、望む者に対して命を与える、つまり人間に魂を与える神の霊について述べているのだということを理解することができます。

この最後の「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、誰も霊の声を聞くということが何であったか、また霊が何であったかも知らなかったことを意味します。もし、霊もしくは魂が、肉体が創られたのと同じ時にできたのだとすれば、その始まりを知ることを意味するので、それがどこから来たのかが分かることになります。

いずれにしろ、このくだりは魂が以前から存在していたという考え方を神聖化しているのであって、それはつまり存在の複数性を示しているのです。


十、パブステマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています。ヨハネまでの預言者たちと律法学者たちはこの様に預言しました。もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、彼はまさに来たるべきエリアなのです。聞く耳を持つ者は聞きなさい。(マタイ 第十一章 12-15)


十一、再生の原理は、ヨハネの書に表現されているものに従えば、全く神秘的な意味に解釈されたかも知れませんが、このマタイの一節に同じことはあてはまらず、意味の捉え方を間違えようがありません。「彼はまさに来たるべきエリアなのです」。ここにはたとえも、装飾もありません。

断定の表現です。「パブテスマのヨハネの時代からいままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。その時代にはまだパブテスマのヨハネが生きていたのに、この言葉は何を意味しているのでしょうか。

イエスはそれを、「もし私の述べることを理解しようと望むのであれば、
彼はまさに来たるべきエリアなのです」と説明しています。つまり、ヨハネがエリア当人であるので、イエスはヨハネがエリアという名で生きていた時代のことを暗示しています。

「いままで、天の国は激しく襲われ、粗暴な者たちによって攻められています」。これは、従う者に約束された土地、ヘブライ人の楽園を手に入れるために、従わぬ者の根絶を命じたモーゼの律法の暴力性を示しており、一方、新しい律法においては、天の国は慈善と穏和さによって得られることを示しているのです。

そして、「聞く耳を持つ者は聞きなさい」と付け加えました。イエスが何度も繰り返した言葉には、必ずしもすべての人がある種の真実を理解する条件を満たしていたのではなかったことがはっきりと示されています。


十二、あなたたちの民で死を宣告された者は、再び生きることになるでしょう。私の中で死んでいた者は、私を通じて生き返るでしょう。粉塵の中に住む者よ、眠りからさめ、神への賛美を歌いなさい。なぜならあなたたちの上に落ちる露は光の露であるからで、それは亡霊の国の上に降らされるからです。(イザヤ 第二十六章 19)


十三、このイザヤの一節にも大変はっきりと書かれています。「あなたたちの民で死を宣告されたものは、再び生きることになるでしょう」。預言者イザヤがもし霊界における命について、処刑された人々が霊として死んだのではないということを述べたかったのであったなら、「再び生きる」ではなく「まだ生きている」と言ったはずです。
 
霊的な意味においてこの言葉は理に反します。なぜなら、魂の命の中断の意味を含むことになるからです。道徳的更生という意味においては、死んだ者全てが再び生きるのですから、永遠の罰の否定を意味することになります。


十四、しかし人が一度死に、肉体がその霊から切り離され、消耗してしまうと彼はどうなるのか。一度死んだ人は再び生きることが出来るだろうか。私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む。(ヨブ 第十四章 ⒑、14-Le Maistre ds Sacy の翻訳)

人は死ぬとすべての力を失い、消滅する。その後どこに在るか。人は死ぬと再び生きるのか。何かの変化が訪れるまで、私は毎日の戦いの中で待ち続けるのだろうか。(同前 プロテスタントーOsterwaldの翻訳)

人間は死ぬと、永遠に生きる。地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ。(同前-ギリシャ教会の翻訳)


十五、これら三つの翻訳の中には、存在の複数性が明確に表現されています。ヨブが、全く知る筈もない水の洗礼によって更生することについて言いたかったのだとは誰にも想像できないでしょう。

「人は死ぬと再び生きるのか」。一度死ぬという考えや再び生きるという考えは、何回も生まれたり死んだりするという考えを含んでいます。ギリシャ教会の翻訳にはこの考えがより具体的に表されており、実際にそれが可能であることを示唆しているかのようです。

「地上における私の日々が終わったら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。つまり、地上における生活へ戻るということです。ここで意味することは明白であり、あたかも「私は家を出て行きますが、やがて戻ってきます」と言っているかのようです。

「私の人生の上で毎日起こるこの戦いの中で、私が変わることを望む」。ヨブは明らかに、人生の謎に対する戦いについて触れたかったに違いありません。

「私が変わることを望む」というのは、甘受することです。ギリシャ語の翻訳においては、「私は待つ」とありますが、そのことは、新たな人生があることをより望んでいるかのようです。「地上における私の日々が終わったなら、そこへ再び戻るまで、私は待つ」。それは死の後、一つの人生と次の人生を分けるインターバルの間で、再び戻る時を待つ、とヨブが述べているようです。
                
        
十六、ゆえに復活という名の再生の原理がユダヤ人たちの基本的な信仰の一端であったことは疑いようもありません。イエスや預言者たちが正式な形で確認した事項です。したがって、再生を否定することはキリストの言葉を否定することになります。
 
しかし、他の多くの事柄に関してもそうであるように、いつかこの言葉が先入観なしで熟考された時には、このことの持つ権威を確認することになるでしょう。
         
      
十七、この宗教的観点から見た権威には、事実の観察から導き出された証拠により、哲学的な権威を加えることができます。結果から原因へと遡る上で、再生は絶対的な必要性として、人類についてまわる条件として現れます。一言で言えば、それは自然の法として現れるのです。

動きが隠された動力の存在を証すように、いわば物質的に、結果によって再生の存在が明らかになります。再生のみが人類に対して「どこから来たのか」「どこへ行くのか」「なぜ地球上に居るのか」を説明し、人生に見られるあらゆる変則や、見かけ上の不公平を正当化することが出来るのです。→FEB版注2

 魂の前存在や存在の複数性なくしては、多くの場合福音の教えは理解しがたいものとなってしまい、そのためにこれほどに矛盾した解釈がなされているのです。真なる意味がよみがえるための鍵はこの原理の中にあるのです。


   
    再生が家族の絆を強める一方で、人生が一度限りであれば絆は断たれることになる  

十八、再生によって家族の絆はどんな破壊をも被ることはなく、一部の人たちが懸念するようなことはありません。それどころかいっそう絆は強まり固く結ばれることになります。逆に再生しないという考え方においては、絆を破壊してしまうことになります。

 宇宙において霊たちは愛情や好意、意向が似かよっていることによって結びついたグループ、もしくは家族を形成します。ともに出会うことは幸せなことで、こうした霊たちはお互いに相手を探し求めます。肉体を持って生まれることは、一時的に彼らを引き離しますが、霊界に戻ると、旅から戻ってきた友だち同士のように集まります。
 
お互いに進歩するため努力し合おうと、しばしば肉体を持って生きる世界まで他方を追っていくことがあるため、地上で同じ家族に生まれたり、同じグループに生まれることもあります。
 
一方が地上に生まれ、他方が生まれて来ないからといって、思考の上での結びつきまでも失うことにはなりません。自由である側は、束縛されたもう一方を守ります。より進歩した側は、遅れた側の進歩のために努力します。
 
一回毎の人生の後には、みなが完成へ向かう道のりの上で一歩進んでいることになります。物質への執着が少なくなればなるほど、相互の愛情はより生き生きとしたものとなり、それは、愛がより浄化されれば、エゴイズムや情熱の陰に脅かされることが無くなると同じことです。

したがって、この様に、互いに愛情によって結ばれた者同士は、お互いを結びつけるそれぞれの気持ちにいかなる打撃をも受けることなしに、制限されることのない回数の物質界における人生を過ごすことができるのです。


 ここで述べているのが魂と魂を結びつける真なる愛情のことであり、肉体の破壊をも超えて生き続けるものである一方で、この世の人々は霊の世界において、求め合う動機となることのない感情のみによって結びついています。永続し得るのは霊的な愛情だけなのです。

肉体的な愛情は、その愛情の源となった要因がなくなると消滅します。しかし、魂は永遠に存在するのですから、霊の世界においてはこのように消滅してしまうことはありません。お互いの関心事を満たすためだけに結ばれた関係において、一方は他方にたいして、さほど重要ではないため、死はそうした人たちを天と地に分けることになります。


十九、親族の間に存在する絆と愛情は、彼らを近づけた、以前から存在するお互いの思いやりのしるしです。そうしたことから、ある人の人格や趣味、趣向が、肉親や親族に全く似かよっていない時、その人はその家族の人間ではないといわれることがよくあるのです。

そのような言葉は、想像する以上に深い真実を言い表していることになります。家族の中に、このような敵意のある者や見知らぬ者の霊が肉体を持って生まれてくることにより、そのことがある者には試練となり、また他の者にとっては進歩の手段となることを神は許すのです。

そのようにして、悪しき者は善い者たちと接触し、善い者たちが払ってくれる注意によって少しずつ改善されていきます。

悪しき者たちの性格はより穏和になり、その習慣は洗練され、敵意は消えていきます。このように地上において異なった人種や民族が混ざり合うのと同じように、違った分類の霊たちが家族の中に混ざり合うのです。


二十、親族が再生の結果無限に増えて行くのではないかという恐れは、利己的な考えの上に立ったものです。このように考えることは、そうした者に、多くの人たちを迎えるだけの広い愛が欠けていることを証明することになります。
 
多くの子どもを持つ父親が、その子供たちのうちの一人を愛すとき、例えば一人っ子であった場合に愛する時よりも少ない愛情を持って愛するということがあるでしょうか。

利己的な者たちよ、心を落ち着けてください。そうした恐れに根拠はありません。ある人が十回再生したということは、霊界において十人の父親と母親、十人の妻とその時にできた子どもたちや新しく出来た親族に出会うということではありません。

霊界ではその愛情の対象となった人々に必ず出会いますが、そうした人たちとは地上においてさまざまな続柄で、あるいは、同じ続柄によって結ばれていたに違いないのです。
       
            
二十一、今度は再生を否定する教義がどういう結果をもたらすかを見てみましょう。その教義は必然的に魂の既存性を否定します。魂は肉体と同時に創造されることになり、魂同士の間にはいかなる既存の関係もなく、従って、魂同士は全く見知らぬ者同士ということになります。

子どもにとって父親は親しみのない存在となります。親子関係は、いかなる霊的な関係でもなく、ただの肉体的な親子関係だけに限られてしまいます。そして先祖がどうであったとか、どんなに素晴らしい人であったからといって光栄に思うことは全くなくなってしまいます。

再生の考えにおいては、先祖も子孫も、すでに知り合った者同士で、以前ともに生活し、愛し合った可能性があり、また、その先に置いてもお互いの好感の絆をより強めるために集まることができるのです。
     
     
二十二、以上のことは過去についてのことです。再生のない考え方から生まれた基本的な教義によれば、未来については、魂はたった一度の人生の後、全く悔い改めようのない運命を定められてしまうことになっています。決定的な運命の定めはあらゆる進歩を止めることになります。

なぜなら、幾らかでも進歩があるならば、決定的な運命ではないことになるからです。善く生きたか悪く生きたかによって、魂たちは直ちに至福のすみかか、永遠の地獄へ行くことになります。

直ちに、
そして永遠にそうなることによって、霊たちは離れ離れとなり、再び出合う希望も奪われ、父母と子、夫婦、兄弟や友人同士であっても、決して再会を確信することはできなくなります。そこには家族の絆の絶対的な切断が起こります。

再生とそこに見られる進歩によってこそ、愛し合うものはみな地球上でも宇宙においても出会うようになり、ともに神に向かって引かれて行くことになるのです。誰かが途上で衰えてしまえば、その人は進歩と幸福を遅らせることになりますが、すべての希望を失うことではないのです。

その人を愛する者たちによって助けられ、勇気づけられ、守られることによって、いつの日か埋もれたぬかるみから抜け出すことになります。再生によってのみ、永遠の連帯が生者と死者の間に存在することになり、そのことから愛情の絆が強まることになるのです。


二十三、要約すれば、墓石の向こう側の未来について、人間には四つの選択肢が用意されていることになります。

一、唯物主義者の考える無、 二、汎神論者の考える宇宙への合一、 三、教会の教える運命の定められたアイデンティティーの存続、 四、スピリティズムの考える無限の進歩を可能にするアイデンティティーの存続、 最初の二つの考え方においては、家族の絆は死と同時に断ち切られ、未来において魂たちが再会できる希望は残されていません。

三番目の考え方は、魂同士が、天国であれ、地獄であれ、同じ場所へ行く限りは再会する可能性があります。斬新的な進歩と切り離すことが出来ない人生の複数性の考え方においては、愛し合った者同士の関係の継続は確実であり、そうした関係が真なる家族を形成することになるのです。


   

   霊たちからの指導

 
  受肉(インカーネイション)の限界

二十四、受肉の限界はどこにありますか

 正しく言うならば、受肉(インカーネイション)に正確な限界はありません。霊の体を構成する被いだけを考慮に入れる場合、その被いの物質性は霊の浄化に従って薄れていくのです。

地球よりも進歩した幾つかの世界においては、その被いの密度は薄れ軽量化し、より希薄であり、結果的には変化を受けにくくなります。より進んだレベルにおいて、その被いは透き通り、ほぼフルイド化した状態になります。徐々に非物質化し、最後にはペリスピリト(→第三章 和訳注1)と間違えるほどになります。

生きるために連れて行かれる世界に応じて、霊はその世界の性質に適当な被いをまとうことになるのです。

 ペリスピリト自体も連続的な変化を遂げていきます。純粋な霊たちの条件となる完全な浄化まで、徐々に純粋化していきます。大きく進歩した霊たちのために特別な世界が存在するのであれば、劣った世界でのように束縛されることはありません。
 
彼らのある種解放された状態は、彼らがあらゆる場所に行くことを可能にし、必要に応じて各々に託された役割を果たしていくことができるようになるのです。

 物質的な視点のみから受肉を考えるのであれば、地上においてそうであるように、劣った世界にのみ限られるものです。したがって、そこから早く解放されるかどうかは、霊たちの自己の浄化のための努力にかかっているのです。

 また肉体を失っている間、つまり、肉体を持った存在と存在の合間において、霊の状態は、その霊の進度に応じた世界との関係を保っている、ということを考慮に入れなければなりません。したがって、死後の霊界において、霊は多かれ少なかれ幸福で、脱物質化の程度によって、自由となり高尚になるのです。(聖王ルイ パリ、 一八五九年)


 受肉の必要性
二十五、受肉は罰であり、罪を負う霊たちだけがその苦しみを被ることになるのですか。

 霊が肉体の世界で過ごすことは、物質的な行動を通じて神が彼らに託したその意志の実行を遂げるために必要なことなのです。それらは彼らのために必要なことであり、彼らに強いられた活動は彼らの知性の発展を助けることになります。卓越した正義である神は、その子たちにすべてを平等に分配しなければなりません。

そのためすべての子たちのために同一の出発点、同一の能力、遂行すべき同一の義務、進む上での同一の自由を設けたのです。いかなる特権も、これを与えることはひいきとなり、不公平となります。

しかし、受肉は全ての霊にとって一過性の状態に過ぎません。それは人生を開始するうえで神が彼らに強いる任務であり、同時に彼らがその自由意思を行使するための最初の経験なのです。

この任務を熱意を持って遂行する者は速いスピードで、苦しみもより少なく最初の段階を通り過ぎ、自分の苦労のもたらす結果をより早期に味わうことができるようになります。反対に、神が与えてくれた自由を悪用する者はその進歩を遅らせ、そのことは頑固さとなって現れ、受肉の必要性を無制限に引き延ばすことになり、そうなると受肉が罰と化すことになるのです。(聖王ルイ パリ、一八五九年)
   
   
二十六、<備考>一般的に知られた次のようなたとえがこの違いを理解しやすくしてくれます。学生は、高等な科学を学ぶようになるには、そこまで導いてくれる一通りの講義を受けなければなりません。こうした講義は、学生がその目的を達成するための手段であり、それがいかなる努力を強いることになろうとも、学生に強要された罰ではありません。

もしその学生が努力家であれば、道を短縮し、それにより、その道のりで出遭う茨も少なくなります。一方で怠惰と無精のために同じ講義を繰り返し受けさせられる人たちの場合、同じようにはいきません。講義における努力が罰となるのではありません。同じ努力を再び開始しなければならないことが罰となるのです。
 

 同じことが地上の人間にもおこります。霊としての生活を始めたばかりの原始的な霊にとって、受肉は知性を発展させるための手段です。
 
しかしながら、道徳的な感覚が広く発展した明晰な人にとって、すでに終わりに到達していたであろう時に、苦しみに満ちた肉体生活のステップを踏むことを再び強いられることは、不幸でより劣った世界での滞在を延長しなければならないという意味で、罰となります。

反対に、道徳的進歩のために積極的に努力する者は、物質的な受肉の時間を短縮することができるばかりでなく、より優れた世界と自分を隔てている途中のステップを一度に進んでいくことが出来るのです。

 では、霊たちはある天体に一度だけ生まれ、次の人生は他の天体において過ごすということはないのでしょうか。もし地球上においてすべての人間が知性的にも道徳的にもまったく同じレベルにあったとしたら、同様の見方を認めることが出来るでしょう。

しかし未開人から文明人に至るまでの人々の間に存在する相違は、彼らがどのような段階を登らなければならないかを示しています。ところで、受肉は有益な目的をもっている筈です。では、幼少で亡くなる子供たちのはかない受肉の目的はなんでしょうか。自分にとっても他人にとっても、利益なく苦しんだのでしょうか。

神の法はすべてが卓越した英知に満ちており、なにも無益に行うことはありません。同じ地球上における再生によって、同じ霊たちが、再び接触し、お互いに被った損失を取り戻す機会が与えられることを神は望んだのです。
 
また、そればかりでなく、以前に会った関係を通じて、自然な法である連帯、兄弟愛、平等により沿い、家族の絆が霊的な土台のもとに確立することを望んだのです。


FEB版注1
Osterwald の翻訳は原文の通りとなっており、「水と霊から生まれ変わらなければ」となっています。Sacyの翻訳には「聖なる霊」、Lamennaisの翻訳には「聖霊」となっています。

アランカルデックの注釈に、今日ある近代的な翻訳が原文を取り戻しているということをつけ加えておきます。ゆえに、「聖なる霊」ではなく、「霊」と記されています。Ferreirade  Almeida のポルトガル語、英語、エスペラントの翻訳を調べると、どれにおいても「霊」とだけ書かれています。
 
こうした近代的な翻訳に加え、「・・・genitus  ex  aqua  et  Spiritu・・・」「・・・et  quod  genitum  est  ex  Spiritu,  Spiritu  est 」と書かれた1642年の Theodor  de  Beza のラテン語の翻訳にもそれを確かめることができます。

アランカルデックが述べるように「聖なる」という言葉が書き加えられたものであるということは疑う余地もありません。──FEB 1947

FEB版注2
 再生の教義に関する記載、『霊の書』第四章(アランカルデック著)及び Pezzani氏による『存在の複合性について』、『スピリティズムとは何か』第二章(アランカルデック著)参照。



章 苦しむ者は幸いです

一、悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満たされるからです。義のために迫害されてきた者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ第5章 4、6、10)


二、貧しい者は幸いです。神の国はその人のものとなるからです。いま飢えている者は幸いです。その人たちは、やがて飽き足りるようになるからです。(ルカ 第6章 20、21)

 しかし、富んでいるあなたたちは、憐れな者です。慰めをすでに受けてしまっているからです。
いま食べ飽きているあなたたちは、憐れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたたちは、憐れな者です。やがて嘆き悲しむようになるからです。(ルカ 第6章 24、25)

 
 苦しみの正当性

三、地上で苦しむ者にイエスが約束してくれる償いは、未来の生活でしか受け取ることが出来ません。未来への確信を持たねば、これらの金言は意味を持たなくなってしまうか、あるいは人をだます偽りの言葉となってしまいます。

未来への確信を持っていたとしても、苦しむことによって幸せを得るということを理解するのは大変難しいことです。苦しむことにより、より価値のある幸せを得ることができるようになるのだという人がいます。しかし、それならばなぜ、ある人は別の人より多く苦しまなければならないでしょうか。

なぜ理由を明らかにされることなく、一部の人々は貧しい生活を強いられ、他の人々は贅沢な暮しをすることが出来るのでしょうか。なぜ、すべてがうまくいかない人々がいる一方で、すべてがうまくいき、笑って過ごせる人々がいるのでしょうか。

さらに理解できないのは、なぜ幸と不幸が、美徳と悪徳の両側に不均等に散らばっているかということです。徳の高い人たちが、はびこる悪者たちの間で苦しんでいるのを見ることができるのはなぜでしょうか。未来を信じることにより、慰めを得たり、辛抱を得ることが出来ます。

しかしながら、こうした普通とは違った考え方も、その理由を教えてもらえないのであれば、それは、神の不公平さを認めているようなものです。しかし、神の存在を認めるのであれば、その永遠の完全性を考慮に入れずに考えることは不可能です。

神は万能、完全なる正義、善良であり、そうでなければ神とはなり得ません。そして、もし神が至上の善と正義を持つのであれば、気まぐれやエコひいきによって行動するわけはありません。

人生の苦しみには理由があり、神が公平である以上、その理由も正当である筈です。このことをすべての人々が納得できるように、人類がこの原因を理解できるよう、神はイエスの教えに託して人類を導いてくれました。

そして今日、人類はその教えを理解するのに十分成熟したため、神はスピリティズムを通じ、霊たちの声に託し、この原因を完全な形で示してくれたのです。


   世に存在する苦しみの原因    

四、人生の苦しみには二通りあります。言い換えるならば、二つの全く違った種類の原因があります。一種類目の原因とは現世の中にあり、もう一種類は現世以外のところに存在します。

 地球上で私たちが体験する苦しみを遡れば、その原因の多くは苦しんでいる人自身の性格、あるいはその人自身の行いの中にあることが分ります。

 しかしそれでは、どのくらいの人が自分自身に原因があるということを認めることが出来るのでしょうか。どのくらいの人が自分自身のプライド、野心、不注意の犠牲となっているのでしょうか。

どのくらいの人がその規律のなさ、根気のなさ、不適切な行動、きりのない欲求によって惨めな思いを強いられているのでしょうか。

 本心を無視し、私欲、虚栄心の計算のもとに結ばれ、不幸を迎える夫婦が何組あるでしょうか。もう少し慎重に行動し、怒りをこらえることを知っていれば、何組もの不和、口論、致命的な言い争い、離別を防ぐことが出来たのではないでしょうか。

 不節制や、すべてにおける行きすぎた行いがどれだけの身体が不自由な状態や病気をもたらしているでしょうか。幼い時からのしつけを怠った為に、子供との関係がうまくいかなくなってしまった親が何人いるでしょうか。

子どもに対する弱さと無関心が子供の中に自惚れやエゴ、虚栄心の種を植えつけ、渇いた心を作ってしまうのです。しばらくして、その植え付けた種を収穫する時、親に対し尊敬を欠いた恩知らずな子どもを見て驚き悲しむのです。

 人生の変遷による失望によって心を傷つけられた者は、自分自身の良心に問うて見て下さい。あなたの苦しみの原因を一歩一歩辿ってゆけば、殆どの場合、それがあなた自身の中に存在することを知り、「これをやっていなければ」とか「あれをやっていればこんなことにはならなかった」等と言うことが出来なくなるでしょう。

 自分自身のせいでないとすれば、一体誰のせいで苦しまねばならないというのでしょうか。人間はこのように、ほとんどの場合、自ら自分の不幸の主要原因を作っているのです。

しかしながら実際はその人自身の怠惰であるのにもかかわらず、自分の自尊心が傷つかないように、そのことを認めずに、運命や神、チャンスの不足のせいにしたり、あるいは星とは自分の不注意であるにも関わらず、星などのせいにしてしまった方がより容易なのです。

 こうした態度は、必ず人生の中に無数の苦しみを生みだすことになります。人間は、その道徳的、知性的な自己の改善によってのみ、これらの苦しみからのがれることができるでしょう。
 
    
、人間の法律は悪に応じて罰を与えるようになっています。悪を働き処罰される者は自らの行った悪行の報いを受けることになります。しかし、法律はすべての悪や罪を扱えるわけではありません。法律は社会的な損害を与える罪を処罰するようにできており、過ちを犯す者個人に損害をもたらす罪を処罰するようにはなっていません。

しかし、神はすべての人間の進歩を見守ってくれています。ですから、正しい道から逸れると、どんな小さな過ちであっても神は罰するのです。如何に小さな過ちであっても、神の法に反していれば、多かれ少なかれ、避けることのできない悲しい結果を必ず得ることになります。

小さな罪であれ、大きな罪であれ、人間はその犯した罪に応じて罰せられます。だから罪を犯した結果として現れる苦しみは、罪を犯したのだという警告なのです。苦しみはその人に善悪の区別を体験として教え、将来の不幸の源となり得るものを改める必要性を教えてくれるのです。

そうした動機がなければ、人間は自分を改めようとはしません。罰は与えられないのだと信じていれば、その人の向上は遅れ、更に幸福な人生への到達も遅れてしまいます。

 そうした改善の必要性を認識させてくれるような経験は、時には少し遅れてくることもあります。生命がすでに消耗され、混乱に陥り、苦しみがもはやその人を向上させるために効力を持たなくなった時、人は概してこう言います。

「もし、人生のスタートからこうなることを知っていたら、どれだけの過ちを未然に防ぐことができただろう。もし、やり直すことができたら、私は全く別の生き方をしていただろうに。でも、もう時間はない!」。その人は、怠惰な労働者が、「今日は何もせずに一日が終わってしまった」と言うように、「人生を無駄にしてしまった」ということになるでしょう。

しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。

    

℘101     前世に存在する苦しみの原因

六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他にも少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。

例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように。誰にも防ぐことのできない事故、まったく手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性をも剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。

 こうした状態で生まれる者は、現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことはなにもしていないし、その償いを受けることも出来ません。

またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。なぜ、同じ屋根の下の同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、すべての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。

 早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことができなかったのでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。
 
肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。

神の手元から離れて行ったこのような不幸な人たちは一体なにをしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。

 すべての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにもなにか原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。

いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。

とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。このように、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。

℘103 

 つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられているわけでも、また現世のうちに完全に罰せられて終わるわけでもありません。過去における原因が生んだ結果から逃げることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。

もしその人が今日償うことが出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。

一見その人にとってふさわしくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
   
     
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく、公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。

冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。
 
ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い息子であれば、自分の子どもに苦しめられる、というようにさまざまです。

 このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見ることが出来ないからです。

しかし、思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められているとおりに、各々にはその人にふさわしい人生が与えられているということを理解することができ、そこに神の正義が欠けることはないということが分ります。

 人間は低級な世界に生きているということを忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことがないのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。


八、人生における苦労は、強情な霊や無知な霊に与えられます。それにより、そうした霊は自分が何をしているのかを自覚した上で正しい選択をすることができるようになります。

本当の苦しみを心から体験することによって欠点を改め、向上しようという意志を持った霊によって、自発的に選択され、受けとめられる苦労があるのです。課された任務をうまく成し遂げることができなかった霊は、その任務に付くことによって得ることが出来た筈のメリットを逃さないよう、改めて最初からその任務が課されることを望みます。

こうした任務としての苦しみは、過去の過ちへの償いであると同時に将来へ向けての試練なのです。だからこそ、人間に改善の可能性を与え、最初の過ちを永久に非難することなく、人間を絶対に見放すことの無い神の好意に感謝しようではありませんか。


九、しかし、人生の苦しみの全てがある特定の過ちの証であると信じてはなりません。多くの場合、苦しみとは、自分の浄化と進歩の速度を早めるために、霊自身が選らんだ道であることがあります。そのような場合、苦しみとは償いとしてだけではなく、試練としての意味を持つのです。
しかし、試練は必ずしも償いであるとは限らないのです。
 
完全性を得ることのできた者は試される必要はないのですから、試練に立たされたり、償いの場が与えられるということは、その霊がまだ劣等であることの証明にかわりはありません。

しかし、ある段階への進歩を成し得た霊が、さらに上の段階へ進歩を望むことによって、苦しみに打ち勝った分の報酬として向上しようと、その向上に値するだけの苦境での任務を神に求めることがあります。

善行を、生まれた時からすでに身につけ、高揚した魂を持ち、高潔な感覚を持ち、過去からの悪をどこにも引きずっていないような人で、キリストのように苦しい境遇に対し忍従し、不満をこぼすこともなく、神の加護を求める人がいるならば、その人はこのような場合にあてはまるということができるでしょう。

反対に、その人にとって不満の原因となったり、その人の神への反感の原因となるような苦しみとは、過去の過ちへの償いであるということができます。

 ある苦しみがその人に不満をもたらさなかったのであれば、その苦しみは間違いなく試練であると考えられます。そうした苦しみは、霊自身が自発的に求めたものであり、過ちへの償いとして強要されたものではありません。すなわちそうした苦しみは、その霊の強い決意の証しであり、進歩のしるしなのです。


℘105
十、霊は、完成することなく完全なる幸福を求めることはできません。どんな小さな汚点があっても、その霊が不完全であれば至福の世界へ入ることはできません。ある伝染病が広まった船に閉じこめられた乗組員たちが、どの港に到着しても、伝染病に感染していないことが証明されるまでは上陸の許可が下りないのと同じことです。

霊は幾度にも亘る再生によって、不完全性から少しずつ脱却していくのです。人生における試練は、うまく乗り越えることが出来れば、霊を進化させます。償うことにより、過去の罪を清算し、霊は浄化されます。


それらは傷を癒し、病人を治すための薬であり、重症であればあるほど、薬も強いものである必要があります。つまり多く苦しむ者は多くの罪を償う必要があるのであり、早く治してくれる薬が与えられたことを喜ぶべきでしょう。

その苦しみに忍従することによってそれを有益なもとし、その苦しみがその人にもたらしてくれたものを、不満をこぼすことによって失ってしまうことがないように出来るかどうかは、その人自身にかかっているのです。

そうすることが出来ないのであれば、再び同じような苦しみを繰り返さねばならないでしょう。
   
      
℘106 過去の忘却
十一、過去の人生のことを覚えていないから、過去の経験を生かすことが出来ないと考えることはつまらぬことです。神が過去をベールで覆うことにしたのは、その方が有益と考えられたからに違いありません。過去を覚えていたとしたら、実際に多くの不都合を生じるでしょう。

過去の事実によってひどく恥ずかしめられることもあるでしょうし、また、過大な自尊心をもつようになってしまうこともあるでしょう。私たちの過去は、私たちの自由意志を束縛することになるでしょう。いずれの場合であれ、過去を覚えていたとしたら、社会関係おいて必ず大きな混乱を招くことになります。

 霊はよく過去に過ちを犯した相手に償うために、過去に生活した時と同じ環境、同じ人間関係の中に生まれ変わります。もし、こうした関係の中で、過去に憎んでいた人が再び存在しているとわかってしまったら、また憎しみが湧いてくるでしょう。
もし過去に攻撃した相手を前にしたらいたたまれない気持ちになることでしょう。

 神は私たちの向上のために、私たちが必要とするものを、ちょうど足りるだけ与えてくれているのです。すなわち神は私たちに良心の声と本能的な習性を与えてくれました。私たちに不利益になるものを私たちから取り除いてくれたのです。

 人間は生まれた時から、それまでに獲得したものを持って生まれます。生まれるものは、過去に生きていた通りに生まれ変わるのです。一回一回の人生のすべてが新たな出発点です。過去がどうであったかというのは、重要なことではありません。もし罰せられているのであれば、過去に過ちを犯したからです。

その人の現在の悪い習性は、その人自身がまだどこを正さねばならないかを示しているのです。そうであるからこそ、そうした自分自身の悪い性癖を見逃さないよう、その人は注意しなければなりません。


なぜなら、すでに完全に正された悪は表に出てこないからです。良心の声が善と悪との区別を警告し、悪の誘惑に乗らないようにする力を与えてくれる時、人は善なる決断を下すことができるのです。

 過去の忘却は、地上で生活している間だけのものです。霊の世界へ戻れば、自分の過去を思いだすことになります。したがって、過去の忘却とは、一時的な記憶の中断に過ぎません。それは私たちが寝ている間、地上での生活の記憶に一時的な中断があるにもかかわらず、次の日、寝た前日やそれ以前の記憶を失っていないのと同じことです。

 過去の記憶を取り戻すのは、死後だけのことではありません。霊は過去の記憶を失うことはなく、人間は睡眠中、身体の寝ている間、霊はある種の自由を得ることが出来、また、過去の人生の記憶を持っているということを経験は証明しています。

従って霊はなぜ苦しむのかを知っており、またその苦しみが正当なものであるということも知っています。過去の記憶は、霊が地上で寝ずに活動している間だけ消えています。

その霊にとっては苦しく、社会的に生活する上で不利益ともなり得る過去の細かな記憶を消されているということが、その解放の時間をうまく利用することができる霊にとっては、新しい力を得ることが可能になるのです。



  甘受しなければいけない理由
十二、「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」という言葉で、イエスは、苦しむ者が受けるべき代償と、苦しみと言うものが病める私たちの回復の始まりであって、私たちは苦しみを有難く受け止めなければならないことを同時にのべています。

 これらの言葉は次のように言い換えることができます。苦しむことを幸せに感じなければいけません。何故なら、この世におけるあなたたちの苦しみは、あなたたちの過去の過ちに負うものであるからです。

これらの痛みは、地上で辛抱強く耐えられるのであれば、未来の何世紀にも及ぶ生活への蓄えとなるのです。したがって、神が、現生においてあなたたちに義務を果たす機会を与えてくれ、未来での平和を約束し、義務を軽減してくれているのだと言うことを感謝しなければなりません。

 苦しむ者とは、多大な借金を抱えたような者です。その者に対して、借金を取りたてる者が、「今日中に百分の一でも払ってくれるのなら、残りは全て水に流してあげましょう。もし、払わないのであれば、最後の一円まで、取りたてようと追い回すことになります」と言ったとします。

借金を負う者は、全てを掛けて百分の一だけを支払って負債から逃れた方が幸せでしょう。このように言ってくれる取立人には文句を言うどころか、感謝をするのではないでしょうか。

 これが「苦しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」と言う言葉の意味するところです。苦しむ者はその借金を返済することが出来るのですから幸いなのです。
 
なぜなら、支払いを終えれば自由になるからです。しかし、その借金を払いながらも、また別の方から借金をするならば、永久に負債から逃れることはできません。新しい過ちを犯す度に負債は増えるのです。

なぜならいかなる過ちであれ、避けることのできない罰が与えられないものは何一つないからです。もし今日支払うのでなければ、明日は支払わねばなりません。現世で支払うのでなければ、来世において支払うことになるでしょう。神の意志に対する甘受の気持ちの欠如も、まず一番目にこうした過ちの内に含めなければなりません。

なぜなら、もし、私たちが苦労や苦しみに対し不満を持ち、私たちに相応しいものを受け入れず、神を不公平であると非難するのであれば、苦労が与えてくれる利益を失い、新たな債務を負うことになるからです。

それは私たちを追い立て苦しめる債権者に少しずつ支払いながら、同時に又新たな債務を負い、また、新しい支払いを始めなければならないのと同じことです。


 霊の世界へ入った人間とは、報酬を受け取りに現れた労働者のようなものです。そのうちの何人かに雇い主は言います。「あなたの働いた分の報酬です」。

しかし、地上で満たされた者、怠惰な生活をし、幸せを自分勝手な私欲や自尊心のために、また世俗的な快楽に求めてきた者に対して雇い主は言います。「なにも支払うものはありません。何故なら、あなたたちは地上ですでに報酬を受け取っているからです。行きなさい、あなたたちの仕事をやり直しなさい」。

 
十三、人は人生のとらえ方次第で、与えられた試練を軽く感じたり、重く感じたりします。試練の期間が長いと感じれば感じるほど、そこから来る苦しみも増します。霊の世界に視点をおいて、地上での物質的な人生というものが、永遠の生命の中のある一瞬でしかないと見ることのできる者には、その人生の短さを理解することができ、苦しみもすぐに過ぎ去ってしまうのだということが分かるでしょう。

近い将来に必ず幸せがやってくるであろうと言う確信は、苦しむ者に勇気を与え、苦しむ者の支えとなります。苦しむのではなく、彼を進歩させてくれる痛みを、天に向かって感謝することになります。

物質的な人生しか目に入らない者には、それがいつまで立っても終わらないものであるかのように思え、苦しみは重くのしかかってきます。霊の世界から人生を見れば、この世のあらゆるものの重要性は薄れてしまいます。人間的な欲望を和らげることによっておかれた立場への満足を得ることができます。

人の身分を羨むことがなくなれば、悲運や失望もあまり感じなくなるでしょう。そうした人は、心の平静と甘受の気持ちを持つことができるようになり、その気持ちは身体の健康にとっても、また、魂にとっても大変良い影響を及ぼします。

一方羨みや野心は、短い人生の惨めさや苦しみを増大させ、そのものを苦境に導きます。


  自殺と狂気
十四、地上での人生に対する視点を変えることによって得られる心の平静、甘受の気持ち、将来への信念は、霊に心の落ち着きを与えるのですが、そうした心の落ち着きとは、自殺や狂気への最良の予防薬となります。

狂気のほとんどは、人間が耐えることのできない苦しみが原因となっています。スピリティズムが教えているように、高い視点からこの世を見ることができるようになると、普通であれば、大きな落胆の原因となるような悲運や失敗を前にしても、それらを冷静に、時には喜びさえ感じて受け止めることができるようになります。

同時に、こうした苦しみを乗り越えさせてくれる力が、人間を精神的な動揺から守ってくれるのです。
              
℘110
十五、自殺に関しても同じことが言えます。無意識の自殺と考えられる、泥酔や狂気によって起きる自殺を除けば、各々の直接の動機が何であれ、殆どの自殺の原因は人生に対する不満であるということができます。苦しみがたった一日だけのものであり、次の日には必ず幸せが来るのだと確信できる人は、容易に耐えることが出来ます。
 
そうした人は、この世の苦しみに終わりがないと思わない限り、絶望することはありません。永遠の生命の中で、人間の一生とはどのようなものなのでしょうか。

それは、ほんの一日よりもさらに短いものなのです。それにもかかわらず、自分の生命とともにこの世の中の全てのことが終わると考えて、いやなことや失敗を悲観し、永遠の生命を信じない者は、死ぬことのみによって苦しみから救われると考えるのです。
 
そして、この世におけるどんな解決も期待できないまま、苦しみを自殺によって短縮することが自然で論理的であると考えるのです。


十六、神を信じなかったり、将来への単純な疑問や唯物主義的な考えを持つことは、人を自殺に導く大きな動機となり得ます。なぜなら、そうした考えは、道徳の弱体化をもたらすからです。

自分の知識の権威に支えられたある有能な人が、人間の死後にはなにも存在しないということを、彼の聴衆や読者たちに対して納得させようとしているとしたら、それは、「不幸であるのなら自殺してしまいなさい」と言っているのと同じことではないでしょうか。

この有能な人は、彼の聴衆や読者たちが自殺しないために何と言ってあげることが出来るでしょうか。自殺しないことによって、何を得ることができると教えてあげることが出来るでしょうか。どんな希望を与えることが出来るのでしょうか。

「無」以外何もありません。不幸な者に与えられる英雄的な唯一の救いであり希望が「無」なのであれば、苦しみが増す前に、すぐにでも「無」の中に身を投じた方が利口であると、必然的に結論が出てしまいます。


℘111

したがって、唯物主義的な考えは、自殺の肯定を多くの人に伝えることになる毒なのです。そして唯物主義者たちは重大な責任を負うことになるのです。スピリティズムの考えでは、生命に謎を抱くことができなくなるために、人生の様相は変わります。

スピリティズムを信じる者は、生命は死を超え、まったく新しい形で、無限に続くということを知っています。
このように理解することが、私たちに忍耐と甘受の気持ちを与えてくれ、私たちを自然に自殺から遠ざけてくれます。また、そこから私たちの中に道徳的な勇気が生まれるのです。


十七、スピリティズムは、自殺の問題に関して、もう一つの有益で、より決定的な結論をもたらします。スピリティズムは、自殺した人の死後の不幸な状態を見せることで、誰も罰せられることなく神の法則を破ることはできないのだということを証明してくれます。

神は、人間が自分に与えられた人生を短縮することを禁じています。自殺した者の味わう苦しみは永遠ではなく、一時的なものですが、だからと言って、それが恐ろしいものではないということではありません。
 
神の命令が下る前にこの世を去ろうとする者がその実態を知ることが出来れば、誰もがもう一度考え直したくなるような恐ろしいものなのです。スピリティズムを信じる者は、この様に自殺に反対する多くの理由を持っています。地球上に生きる間に甘受し、耐え忍んだ苦しみが大きければ大きいほど、幸せにすることのできる未来の生命への確信。

人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。苦しみから逃れても、更に恐ろしく、長引くことになる苦境へ追いやられるだけであるという確信。

自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。自殺は霊の世界で愛する者と再会する上で障害となるという確信。これらすべてのことが、自殺は失望しかもたらさず、自分たちの関心とは相反しているものであると結論付けてくれるのです。

スピリティズムが改心させる自殺願望者の数は非常に大きなものです。もし、すべての人がスピリティズムの考えを信じるようになれば、意識的な自殺者はいなくなるでしょう。

自殺に関して、唯物主義とスピリティズムの教義のそれぞれがもたらす結果を比べるならば、一方の理論は自殺を促し、一方の理論は自殺を防ぐのだということが判り、そのことは経験からも証明されています。


      霊たちからの指導

℘112  
 
 善い苦しみ、悪い苦しみ
十八、キリストは「苦しむ者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いましたが、それは苦しむ者すべてについて触れたものではありません。なぜなら、地球上に生きる者は、ワラの上に寝ようと、王位につこうと、その度合いは違っていても、みな苦しむからです。

しかし苦しむべきことに、善い苦しみを知る者はあまりにも少なすぎます。試練をよく耐え抜いて初めて天の御国に導かれるのだということを、ほんの一握りの人たちしか理解していません。苦しみの前に落胆してしまうことは誤りであり、神は勇気に欠けるものを慰めてはくれません。

祈りは魂を支えてくれますが、それだけでは十分ではありません。厚い信仰の基礎には神の優しさによせる固い信頼がなければなりません。神は弱い肩の上に重荷を置くことはない、ということを何度も聞かされたことがあるでしょう。重荷は常にそれに耐える力に応じて置かれるのです。

それは甘受と勇気に応じて報いが得られるのと同じです。苦しみが多ければ多いほど、得ることのできる報いも大きくなります。しかし、その報いを受けるには、私たち自身がそれに値しなければなりません。だからこそ、人生には試練が溢れているのです。

戦線に送りこまれない兵士は、基地に待機し、休憩をしていては昇進できないという不満を持ちます。そのような兵士たちのようになりなさい。身体を衰弱させ、魂を麻痺させてしまうだけの休息を望んではなりません。神があなたを戦いへ送りこんだのであれば、満足しなければなりません。

なぜなら、その戦いとは、戦場での戦いではなく、人生の苦しさとの戦いのことだからです。そこでは、流血の戦いよりも勇気が必要となる場合があります。

なぜなら、そこでは、戦場でしっかりと敵の前に立てる者でさえ、道徳的な痛みに苦しめられると、屈してしまうからです。こうした勇気に対して、人間は地上で報酬を受けることはできません。しかし神は勲章や栄光のある場所を用意し、待っていてくれるのです。

心配や不満のきっかけとなる苦しみに捕まってしまったら、それを乗り越えようと努力してください。耐え切れないほどの激しい苦しみである怒りや落胆を克服した時には、自信を持って、「私の方が強かったのだ」と言い聞かせましょう。

 「苦しむ者は幸いです」は、次のように理解することができます。「その信仰の強さ、決心の固さ、辛抱強さ、そして神の意志に従うことを試された時に、それを証明できた者は幸いです。なぜなら、そうした者は地上で逃すことになる喜びを百倍にして与えられるからです。そして、働いたのちには、休憩できる時があたえられるでしょう」(ラコルデール ルアーブル,1863年)

 
  悪とその薬
十九、地球は、喜びと楽しみに溢れる楽園なのでしょうか。預言者たちの声はもうあなたの耳には残っていないのでしょうか。イエスはこの苦しみの谷に生まれる者には、涙を流し、歯ぎしりをしなければならない時が来るということを宣告しませんでしたか。

そうなのであれば、ここに住む者は誰もが苦い涙と苦しみを覚悟しなければなりません。

その苦しみがどんなに深く鋭くとも、天を見上げ私たちに試練を与えることを望んでいる神に感謝しようではありませんか。
人類よ、神があなたの身体の傷を癒し、あなたの送る日々を美と富とで飾ってくれた時以外に、神の偉大なる力を認めることができますか。

あなたを栄光で飾り、輝きと潔白を与えてくれた時以外に、神の愛を感じることができますか。あなたは模範として与えられた者の真似をするべきでしょう。
イエスは、惨めさと悲しみのどん底にあった時、肥しの山の上に身体を横たえて神に言いました。

「主よ、私は富むことの全ての喜びを知りました。そして、全くの貪窮に私を送ってくださいました。ありがとうございます。あなたの僕を試そうとしていただき、ありがとうございます」。

死によって限りある地平線ばかりをいつまであなたは見つめているのですか。あなたの魂はいつになれば棺の向こう側に向かっていくのですか。一方、もしこの生涯を、苦しみ、泣き続けたとしても、甘受、信仰、愛を持って苦しむ者に与えられる永遠の栄光に比べれば、それが一体何になるというのでしょうか。

神が準備してくれる未来への慰めを求めましょう。また、あなたの苦悩の原因を過去に求めましょう。そして、最も苦しんだと感じる者は、祝福された者であると感じましょう。

 死者として、宇宙をさ迷っていた時、あなたは自分が耐え切れるであろう試練を選択したのです。なぜ今になって不満を言わなければならないのですか。あなたは誘惑と戦い、克服しようと望み、富と栄光を求めたのです。

精神的、肉体的な悪に対し、全身全霊で戦いたいと望み、その試練が大きければ大きいほど、勝利を得た時の栄光は偉大であることを知っていた筈です。

たとえ身体は肥しの山の上に終わり、死を迎えたとしても、勝利を収めることができたならば、苦悩と悲しみによる洗礼を受けた潔白に輝く魂を放つことになるのです。

 残酷な憑依、死に追い詰めるような悪に攻撃された者にどんな薬を与えてあげることが出来るのでしょうか。間違いなく効く薬は、たった一つしかありません。それは天に通じる信仰を持つことです。

もっとも激しく痛ましい苦しみの真っただ中で神への賛美の歌を口ずさんでください。そうすれば、あなたの横にいる天の使いが、救いの道とあなたがいずれたどり着くことになる場所を示してくれます。

信仰こそが苦しみの唯一の薬です。信仰は常に永遠なる地平線の方向を示してくれ、現在の日々を幾日も覆っていた雲を追い払ってくれます。病気、傷、試練、苦労の薬を求めてはなりません。信じる者は信仰という薬によって力づけられ、その薬の効力を信じない者は、例え一瞬であっても、直ちに苦痛や悲しみを味わい、罰を受けることになるのです。

 神は神を信じる者には目印を付けています。キリストは、信仰だけで山をも動かすことが出来ると言いました。私は言います。苦しんでいようと、自分自身を支えるだけの信仰がある者は神の加護を受け、苦しみを感じなくなります。最大の痛みの時間が、永遠の喜びの前奏のように聞こえてきます。

魂はそうやって身体から離れていき、後からくる者がまだ地上でもがき苦しんでいる時、天の国に滑り込み、天の使いたちと、一緒に神の栄光と神への感謝を賛美して歌うのです。

 苦しみ、涙を流す者は幸いです。神が祝福を積んでくれるので彼らの魂は幸せです。(聖アゴスティーヌ パリ、1863年)

℘115      
  幸せはこの世のものではありません
二十、私は幸せではない、幸せとは私のためにあるものではない、と一般に人はどんな社会的階層に属していても訴えます。親愛なる子どもたちよ、このことは、「コへレトの言葉」の金言「幸せはこの世のものではありません」が真実であることを、どんな推論よりもはっきりと示しています。

誠に、どんな財産も、どんな権力も、青春の盛りも、幸せの本質的な条件ではありません。多くの人が切望するように、たとえこれらを三つとも持っていたとしても幸せにはなれないでしょう。

というのも、特権階級の中でさえも、いろいろな年齢の人がその置かれた生活環境を嘆いているからです。

  こうした事実があるにもかかわらず、労働者階級の人々が、富に恵まれた階級に非常に強く憧れ羨むのは何とも理解しがたいものです。この世においては、どんな人にもそれぞれに与えられた労苦と貧困があり、苦しみと誤りが分配されるのです。

そのことから、地球とは試練と償いの場所であるという結論に辿り着くのは容易なことです。

 そうであるならば、地球が人類にとって唯一のすみかであり、そこでの一回の人生において、自分の持ち合わせた可能性の中での最大限の幸せを得ることが許されているのだと信じる者は、騙されているのであり、その者に耳を傾ける者をも騙すことになるのです。

何世紀にもわたる経験からも、この地球上で人間の完全なる幸せを得るための必要条件が揃うことは異例である、ということを思いだしてください。

 一般的に、幸せとは理想郷(ユートピア)を意味し、何世代にもわたって探し続けたところで決して辿り着けないところであると考えられます。この世で思慮深い人を探すのは難しいことですが、本当に幸せな人を見つけるのは更に大変なことです。

 地上で、分別を持って生きて行かない者にとって、幸せとは非常にはかないものです。一年、一ヶ月、一週間の完全な満足を感じたとしても、残りの人生は苦しみや落胆の連続となるでしょう。

親愛なる子供たちよ、私は、一般の人が羨む地上での幸福について述べているのだということを覚えておいてください。

したがって、地上でのすみかが試練と償いの場であるならば、この世の他にも、人間の霊が依然として物質的な身体の拘束を受けながらも、人間の生活に固有の喜びを完全な状態で味わうことが出来るような、より素晴らしいすみかが存在することを認めなければなりません。

だからこそ、神は星雲の彼方に、より高等で美しい惑星を作ったのです。そこへ行くにふさわしくなるまで浄化され、完成されたとき、あなたたちはその努力とその性向によってその星にひきつけられていくことになるのです。

 しかし、私の言葉から地球は悔悟だけのために存在するのだと結論づけないでください。決してそうではないのです。将来、地球がどれほど進歩し得るのか、やがて訪れることになる、新しく豊かに改められた社会とはどのようなものなのか、地球が過去においてすでに成し遂げた進歩や、社会的な向上からそれらを想像することは容易なことです。

地球を進歩させること、これが、霊たちによって明らかにされた新しい教義であるスピリティズムの持つ大きな役割なのです。

 親愛なる子どもたちよ、聖なる競争心に刺激され、あなたたち一人一人が精力的に自己の改革に取り組めますように。すでにあなた自身を更生しつつあるスピリティズムを広めることに全身を捧げなさい。

この神聖なる光の中にあなたの兄弟たちを招き入れることがあなたに課された任務です。親愛なる子どもたちよ、仕事に取り掛かりましょう。この厳粛な集まりにおいて、あなたたちの心を一つにし、将来を担う未来の世代のために、幸せという言葉が無駄にならないような世の中を築きあげるという大きな目標を掲げるのです。(モロー枢機卿フランソワ・ニコラ・マドレーヌ パリ 1863年)


 
  愛する人の死、早すぎた死
二十一、死があなたたちの家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなたたちはよく次のように言います。

「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。
役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子どもを奪い、母親の心を傷つけた」と。

 人類よ、このようなことに対してこそ、あなたたちはその考えを引き上げ、最善なことというものが多くの場合あなたたちの見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだということを理解する必要があります。
 
なぜあなたたちの基準で神の正義を計ろうとするのですか。宇宙の神がその気まぐれで、あなたたちに残酷な苦しみを与えるなどと考えられますか。何事も知的な目的なくして行われることはなく、すべてのできごとにはその理由があるのです。

あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみることが出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由があることがわかります。
 
それを理解することができれば、あなたたちの惨めな関心ごとというものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げることが出来るでしょう。


 私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。

 希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。

常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。

それが苦しみに溢れたものではなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。

至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。

 この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私たちと一緒に苦しむために残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。

ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなたたちスピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体という被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。

すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。

あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けていることの証拠であり、神意に反することであるからです。

 霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼らに対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれる心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。(元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)

 
℘119  
  善人であれば死んでいた
二十二、ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。

なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからといってこのようにいうことは神に対する冒涜です。  

 悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。


死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのになぜ悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられないことを望み、善人がこの地上にとどまることを望むのですか。

刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだということを覚えておかなければなりません。 

 理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。すべてにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。

しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。

考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。(フエヌロン サンス 1861年)

℘120       
  志願して受ける苦痛
二十三、人間は絶え間なく幸せを求めていますが、その幸せはいつも逃げて行ってしまいます。それは、地上において純粋な幸せが存在しないからです。しかし、生きている間にも、避けて通ることのできないさまざまな出来事をもたらす人生の浮き沈みはあるものの、相対的な幸せというものは得ることができます。

ところが、そうした幸せも、最高の幸せをもたらす不滅の魂の喜びの中に求めずに、消滅し得るものや物質的な満足の中に求めるのであれば、それもまた、人生の浮き沈みの犠牲となってしまいます。

この世の真なる幸せである心の平静を求めずに、動揺と負担をもたらすものに幸せを求めていることになるのです。そう考えると、興味深いことに、人間は自分だけの力で避けることができたはずの苦痛を、自ら招いているのだということが判ります。
 
 羨みや妬みによって生まれる苦痛ほど苦しいものがあるでしょうか。羨ましがる者、嫉妬深い者は、苦痛から休まる暇はありません。どちらも絶え間なく引くことの無い熱に悩まされます。

他人のものを欲しがることは不眠の原因となります。ライバルの成功には気を惑わされます。他人を上回ることにしか関心が無く、同じように妬み深い他人に、自分に対する嫉妬を抱かせることによってその人は喜びを得ているのです。可哀想な、愚かな者たちよ。

その者の人生を毒する嫉妬の対象となっている無益なものを、もしかしたら明日、すべて失わなければならなくなるかもしれないということを忘れてしまっているのです。

「苦しむ者は幸いです。なぜなら、慰められるからです」という言葉は彼らには当てはまりません。なぜなら、彼らの関心事は天に置いて報われるものではないからです。

 反対に、すでに得た物によって満足することを知っている者は、何と多くの苦悩を避けることが出来ることでしょうか。自分の所有しないものを羨むことなしに見ることが出来、実際の自分以上に自分を見せようとはしません。
 
自分の上を見るのではなく、常に自分より少なく所有している者、つまり自分より下を見るので、いつも豊かであると感じることが出来るのです。馬鹿げた欲求を生み出したりはせず、いつも平静を保つことができるのです。

人生の苦悩の合間に感じることのできるそうした心の平静は、ある種の幸せだと言うことができるのではないでしょうか。(フェヌロン リヨン、1860年)

℘121        
  本当の不幸  
二十四、すべての人が不幸について語ります。すべての者がそれを経験したことがあり、そのさまざまな様相を知っていると思っています。しかし、あなたたちに申し上げます。

ほとんどすべての人が誤解をしているのです。なぜなら、本当の不幸とは、人間が考えるもの、つまり、不幸と感じている人々が考えるものと、まったく違っているからです。

貧しく惨めな生活、火のともらぬ暖炉、せきたてる債権者、明るく微笑んでいた赤ん坊のいなくなったゆりかご、涙や、悲しむ心に見送られる棺、裏切られた苦しみ、高貴な衣装に身を包みたくとも貧しさに妨げられ、その貧しい身体に見栄を纏うプライドの高い者、これらすべてを、また、これら以外にも多くのことを、人間の言葉では、不幸と呼びます。

まったく、現在しか見ることのできない者にとっては、それは不幸であることに違いはありません。しかし、本当の不幸とはそのこと自体ではなく、それがもたらす結果の中に存在するのです。

今の瞬間には最も幸せな出来事が、後になって不幸な結果をもたらすのだとすると、見かけは不幸でも後に善いことをもたらすことに比べ、実際にはより不幸であるということが出来るのではないでしょうか。

木々をなぎ倒しながら、死を招くような不健康な有毒ガスを散らし、その環境を清める嵐は、不幸と言うよりは幸いであるということが出来るのではないでしょうか。


 ある出来事を判断する時には、その出来事のもたらす結果についてみることが必要です。人間にとってなにが本当に幸せで、なにが本当に不幸であるのかを知るには、この世の向こう側まで行ってみなければなりません。

なぜなら、地上での出来事の結果と言うものは、そこへ行ってから現れることになるからです。つまり、あなたの狭い視野に不幸として映るものは、人生の終わりとともに消滅し、その償いを未来の人生において受けることが出来るのです。

 新しい形の不幸、つまり、あなたの錯覚した魂がそのすべての力を使って求める、美しく、華々しい出来事に隠された不幸と言うものを示しましょう。

不幸とは、喜び、満足、名声、不毛な心配、良心を窒息させ、考えを圧迫し、人の未来と言うものに疑問を持たせるような、虚栄心を満たす大胆な満足のことです。不幸とは、人間が最も強烈に求める、忘却のアヘンのことなのです。


 泣く者よ希望を持ちなさい。笑うものは、震えなさい。なぜなら、肉体で満足を得ているからです。神を欺くことはできません。誰もその行き先から逃れることは出来ません。

試練は、貧困に耐えられずに後を追いかけてくる浮浪者よりも非情な取立人のように、あなたたちの後を追ってきます。

あなたたちが休息時間と錯覚している間にも、攻撃してくる時を狙っており、突然あなたたちを本当の不幸に陥れ、エゴと無関心によって弱められたあなたたちの魂を驚かすのです。

 スピリティズムの真なる光が、あなたたちの無知によってひどく変形されてしまった真実と偽りを、はっきりと元どおりに示してくれますように。

そうすればあなたたちは、栄光も進歩ももたらすことのない平和よりも、危険な戦いを望む勇敢な兵士のように行動することができるようになるのです。

栄光の勝利を得ることが出来るのであれば、戦闘中に武器、装備、衣類を失ったとしても、その兵士にとって何だというのでしょうか。

未来を信じる者にとって、その魂が天の国へ入り、輝くことが出来るのであれば、戦場に命を落とし、財産、肉体を失うことがなんだというのでしょうか。(デルフィ-ヌ・デュ・ジラルダン パリ 1861年)


 憂鬱
二十五、あなたたちは、なぜ時々、心の中に苦しみが押し寄せてきて、人生がとても苦いものに感じられるのかを知っていますか。それはあなたたちの霊が幸福と自由を熱心に求めようとしても、
牢屋のような肉体に閉じ込められているため、そこから解放されたくとも解放されず、無駄な努力を繰り返すことにくたびれてしまうからなのです。
 
そうした努力をすることが無意味であることを知ると、やる気を失い、すると、その影響は肉体にもおよび、虚脱感、意気消沈、無気力に占拠され、あなたたちは不幸に陥ってしまうのです。

 私が言うことを信じ、あなたの意欲を弱体化させるこうした気持ちに、精力的に抵抗してください。よりよい人生を熱望する気持ちは、すべての人間の霊に生まれつき備わっているものですが、それをこの世に求めてはなりません。

今日、神はあなたたちのために善霊たちを送り、あなたたちのために用意された幸せを教えてくれるようにしてくれたのです。自由の天使を辛抱強く待つのです。

彼らはあなたたちの霊を拘束し続けるものから解放してくれるのです。あなたたちが地球上にいる間は、家族のために身を捧げたり、神によって与えられたさまざまな義務を行うといった、もはや疑ってはならない、あなたに任された使命を果たさねばならないのだと考えなければならないのです。
 
そしてもしこの試練の間、あなたたちの役割を遂行する途中に、心配、不安、苦悩が降りかかってくるのであれば、強く勇気を持ってそれに耐えなければなりません。

決断を固め、立ち向かっていきなさい。きっとそれは短期間に終わり、その結果、あなたたちの到着を喜んで迎え、ともに泣いてくれる友たちのところへあなたたちを導いてくれるでしょう。そして彼らはあなたたちの前に腕を広げ、地上の苦しみが届かないところまで、あなたたちを連れて行ってくれるでしょう。(フランソワ・デュ・ジュネーブ ポルドー)


  志願した試練、本当の苦行
二十六、試練を優しくすることは許されているのですか、とあなたたちは尋ねます。この質問は次のような質問を思いださせます。

「溺れる者が助かろうとすることが許されていますか」
「棘に刺された者はその棘を抜こうとすることが許されていますか」
「病気にかかった者が医者を呼ぶことが許されていますか」。

降りかかる試練はあなたたちにその忍耐、甘受の気持ちだけでなく、知性をも働かせることを目的としているのです。ある人は悲痛で困難な状況に生まれてきますが、そのことはまさにその人に困難に打ち勝つ方法を考えさせることになります。
 
避けることの出来ない困難がもたらした結果に不満をこぼすことなく耐え、戦い続け、それがうまくいかなかったとしても挫折してしまわないところに、試練を受けることのメリットがあるのです。

いかなることにも手を施すことなく、そのままにするのでは、それは美徳と言うよりは怠慢でしかありません。

 同じ質問は、さらにもう一つの質問を思い起こさせます。すなわち、「イエスが『苦しむ者は幸いです』といったのであれば、自ら志願し、さらに苦しみを強めることにメリットはありますか」。この質問に対し、私ははっきりと答えます。

「ハイ、そうした苦しみというものが隣人のためのものなのであれば、それは大きなメリットです。なぜなら、それは自分を犠牲にした慈善の行いであるからです。しかし、そうした苦しみというものが、自分だけのためであるならば、メリットはありません。
 
なぜなら、そうした苦しみとは、熱狂することによって生まれる、単なるエゴイズムの結果でしかないからです」。こうした無益な苦しみと受け入れるべき苦しみとを大きく区別する必要があります。あなたたち自身は、神によって与えられた試練を有難く受け入れねばならないのですが、すでに重く感じているものをさらに重くする必要はありません。
 
不平ではなく、信心をもってそれらを受け入れてください。神があなたたちに望んでいることは、すでにあなたたちが受けているものだけなのです。無駄な喪失や目的のない苦行によってあなたたちの身体を痛めつけてはなりません。
 
なぜなら、あなたたちは地上における任務を遂行するために、全身の力を必要としているからです。あなたたちを支え、強めてくれるあなたたちの身体を痛めつけ、自発的に自分を苦しめることは、神の法を犯すことです。
 
何事も濫用することなく使わねばなりません。それが神の法なのです。優れたものを濫用することは罰に値し、避けることのできない結果を生みます。

 一方で、隣人の苦しみを軽減してあげるために受ける苦しみがあります。自分は寒さと飢えに耐え、必要としている者に衣服を与え、飢えを癒してあげることが出来るのであれば、あなたの身体はそのことによって苦しみますが、その犠牲は神によって祝福されます。居心地の良いあなたたちの家を出て、汚れ、荒れ果てた小屋まで慰めを運んで行ってください。

あなたたちの繊細な手を、病む者を治すことによって汚してください。眠気をこらえ、病気の兄弟の枕元で夜通し看病をしてあげてください。あなたたちは、その健康な身体を善行に捧げることになり、そのことによって本当の苦行を行ったことになるのです。
 
その苦行は、神の祝福を得ることが出来る本当の苦行です。なぜなら、あなたたちの心の涙は、この世の喜びによって乾かされることは無いからです。

あなたたちは魂を弱める富がもたらす大きな喜びに溺れるのではなく、貧しい者に慰安を与える天使となったのです。
 
 では誘惑を避けるために孤独に生きようとこの世を逃れた者にとって、その者の地球上での役目は何なのでしょうか。
 
試練に立ち向かう勇気はどこにあるのですか。戦いから避け、葛藤から逃れているのではありませんか。苦行を行いたいのであれば、あなたの肉体でではなく、魂で行わなければなりません。あなたたちの身体ではなく、魂を制してください。
 
あなたたちのプライドに鞭を打ち、不平をいわずに辱しめを受けてください。自分への愛を痛めつけてください。肉体の痛みよりきつい、侮辱や中傷の痛みに耐え、無感覚となってください。それが本当の苦行です。

そこで負う傷は神によって数えられています。なぜなら、それは神の意志に従おうとするあなたの意欲と勇気を証明するものだからです。(ある守護霊 パリ 1863年)

℘126         
二十七、隣人の試練は、可能であれば終わりにしてあげるのが良いでしょうか。それとも、神の意志を重んじ、その隣人にその試練を受けさせてあげるのがよいのでしょうか。

 すでにあなたたちには申し上げ、幾度も繰り返しました。あなたたちは償いの世界において受けるべき試練を遂行しようとしているのです。そこで起きるすべてのことがあなたたちの過去の人生がもたらした結果であり、払い残した債務なのです。

しかし、このことからある一部の人たちは、不幸な結果をもたらすことになる、避けるべきつまらぬ考えを持ちます。

 ある一部の人たちは、地球上に償いのために生きている以上、さまざまな試練が計画されたとおりに実行されることが必要なのだと考えています。また、一方で、それらの試練を軽減させるどころか、より有益となるように、それらよりきついものにするべきだと考えるのです。しかし、それは大きな間違いです。
 
確かにあなたたちの試練は神の計画されたとおりに実行されるべきものです。しかし、あなたたちは神がどのような計画を立てたのか知っているのですか。それらの試練がどこまで続くものなのか知っているのですか。

あなたたちの慈悲深い父は、あなたの兄弟が苦しむのを見て、「それ以上苦しむ必要はありません」と言ってくれるのだとしたらどうでしょうか。

虐待の手段として、罪を負う者をさらに苦しめるためではなく、苦しむ者のために慰安の薬となり、あなたたちの正義によって開いた傷口を塞いで上げるために、神はあなたたちを選んだのだということを知っていますか。だから傷ついた兄弟を見て、「神の正義によって苦しんでいるのだ。それに従いなさい」などと言うことがあってはなりません。

そうではなく、反対に、「慈悲深い父は、兄弟を助けるためにどのような方法を私に与えてくれたのだろう。私の道徳的な慰め、物質的な援助、忠告によって、力、忍耐、甘受の気持ちを与え、その試練に打ち勝てるようにしてあげることはできないだろうか。

神はその苦しみに終わりをもたらすものとして、私をここに遣わしたのではないだろうか」と言わなければなりません。「私にとっても試練や償いとして、その苦しみを葬り、平和の祝福と置き換える力を与えてくれたのではないだろうか」と。

 お互いの試練において、お互い助け合って下さい。決して拷問の手段となってはなりません。心の優しい者はみな、特にスピリティズムを学ぶ者であるならばこのように考えなければなりません。

なぜなら、スピリティズムを学ぶ者は、他の者に増して、神の無限なる善意の広がりを理解しなければならないからです。スピリティズムを学ぶ者は、その人生は愛と献身の実践でなければならず、神の決意に反する時には、神の正義によって処されるのだと考えなければなりません。

スピリティズムを学ぶ者は、恐れることなく全力で試練の苦しみを軽減するように努めなければなりません。なぜなら、神だけが試練を終わりとするべきか延長すべきか判断することのできる存在であるからです。

 傷口にさえも銃を突きつける権利があると考えるのは、人間の高過ぎる自尊心の表れであると言えるのではないでしょうか。試練であるという口実のもとに、苦しむ者にさらに多くの毒を盛ってはいませんか。

ああ、あなたたちは苦しみを和らげる手段として選ばれたのだと思って下さい。次のようにまとめることができます。「すべての人が償うためにこの地球にいるのです。しかし、

あなたたちの兄弟の受ける苦しみは、愛と慈善の法に沿って、いかなる苦しみをも例外なく和らげてあげることができるよう全力を尽くしてください」(守護霊 ベルナルダンボルドー、1863年)


℘127      
  治癒する望みのない病人の命を短縮することは合法でしょうか
二十八、ある人が苦悶し、残酷な苦しみの餌食となっています。その人はすでに絶望的な状況に追い込まれていることがわかります。苦悶の時間から少しでも逃れることができるように、その人の最期を短縮してあげることが許されていますか。

 神の計画を予知する権利を、だれがあなたに与えてくれるとお思いですか。ある人を墓の一歩手前まで歩ませ、その後すぐにそこから引き戻すことによって、その人が自ら考えを改めるようにさせることが、神にできることではないでしょうか。
 
瀕死の人が、死のどれだけ手前に行っていようと、誰にもはっきりとその人の最期の到来を断言することはできません。これまでに科学が、その予知を間違えたことがありませんでしたか。
 
 理性によって、絶望的と考えられるケースが存在することはよく知っています。しかし、命や健康を完全に取り戻さなかったとしても、息を引きとる直前に突然回復し、少しの間、活力と感覚を取り戻すことが良くありませんか。そうです。その病人に与えられるその貴重な一瞬は、彼にとって最も重要な時間となり得るのです。
 
苦痛に痙攣する間、その人の霊が省みるものが何であるのか、また、そうした間の一瞬の反省が、その人をどれだけの苦しみから解放してくれるのか、あなたたちは知ろうとしないのです。

 肉体のことしか考えない唯物主義者には、魂の存在など考慮に入れることはできず、以上のようなことを理解することが出来ません。しかし、スピリティズムを学ぶ者は、墓の向こうに何があるのかを知っており、最期の思いの重要性というものを知っています。

最期の苦痛を出来る限り和らげてあげてください。しかし、たとえ一分であったとしても、命を短縮させてあげようなどという考えは遠ざけてください。なぜなら、その最期の一分によって、その人は将来多くの涙を流さずに済むことになるかもしれないからです。(聖王ルイ パリ 1860年)

℘128
   自らの命を犠牲にすること
二十九、生きることが嫌になってしまった者が、自殺はしないまでも、自分の死を何かの役に立てようと、死を求めて戦場へ出かけて行くことに罪はありますか。

 ある人が自殺しようと、自分を人に殺させようと、何れにしてもその目的は人生を短縮することにあります。それゆえ、実際に自殺しなくとも、意図的な自殺をしたことになり得るのです。自分の死がなにかの役に立つだろうなどという考えは錯覚でしかありません。
 
それは単なる言い訳であって、罪深い行動であることを隠し、自分自身の目をごまかして責任逃れをしているに過ぎないのです。もしその人が真剣に母国のために身を捧げたいのであれば、母国を守るために生き延びようとする筈であり、死のうとはしません。

なぜなら、一度死んでしまえば、もう何の役にも立たないからです。本当の献身とは、役に立とうとするときに死を恐れずに危険に立ち向かい、必要であれば、命を捨てることに前もってこだわることもなく、その犠牲をも捧げることです。
 
しかし、最初から死を求め、危険な場所、危険な任務に自分を置くのであれば、その行動に真なる功労はないことになります。(聖王ルイ パリ、1860年)

 
三十、ある人の命を救おうとし、死ぬことを覚悟で切迫した危険に身を投じることは、自殺と考えることはできますか。

 そうした時、そこに死を求める意思がないのですから、自殺とは考えられません。死ぬ確信があったとしても、そうさせるものは献身と無我の気持ちです。しかし、この死ぬ確信と言うものも、誰が持つことができるでしょうか。危篤の状態となった時、神の意が予期せぬ救いの方法を与えてくれないとも限りません。
 
その神意は大砲の砲口に立たされた者さえも救うことが出来るのではないでしょうか。また、多くの場合、神意は忍従の気持ちを試すために人を最期の限界まで追い詰め、予測していなかった状況において、致命的な一撃を遠ざけてくれるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)


 他人のために感じる苦しみの利益
三十一、自分の苦しみを甘受し、自分の未来の幸福のために神の意志に服従する者が、自分だけのために働いても、他人のためにはならないのではありませんか。自分の苦しみを他人のために有益なものとすることができますか。

 そうした苦しみは、物質的にも道徳的にも他人のために有益なものとなり得ます。働くことによって、その人の喪失や犠牲が他人に安楽を与えるのであれば、物質的に有益となることができます。

神の意志に服従する態度は、他人への模範となり、道徳的に有益となることができます。スピリティズムを学ぶ者が模範となって示す信仰の力は、不幸な者に甘受の気持ちを持つことを教え、彼らを未来における絶望的な状況や不幸な結果から救うことになるのです。(聖王ルイ パリ 1860年)


℘132
      第6章 救い主キリスト     
  軽いくびき 
一、苦しむ者、重荷を負っていると思う者は、みな私のところへ来なさい。私があなたたちの苦しみを和らげてあげます。私のくびきを負い、私が心優しく、へりくだっているのだということを学びなさい。そうすれば、あなたたちの魂は休まることができるでしょう。なぜなら、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。(マタイ 第十一章  28-30)


二、キリストが人類に教えてくれた通り、貧困、落胆、肉体的苦痛、愛する者の死など、全ての苦しみの慰めは、未来を確信し、神の正義を信じることによって受けることができます。

反対に、この人生の向こう側には何も期待せず、あるいはそれに疑問を持っている者の苦しみは、そうした者の上に重くのしかかってくることになり、その苦しさを和らげる望みは一切なくなってしまいます。このことが「疲れた者は私のところへ来なさい。私が疲れを和らげてあげます」とイエスに言わせたのでした。

 しかし、イエスは、イエスの救援と苦しむ者が幸せを約束されるための条件を決めています。その条件とは、イエスが教えてくれた神の法そのものです。イエスのくびきとはこの法を守ることです。しかし、そのくびきは軽く、その法はやさしいのです。なぜなら、その法は愛と慈善の実践を義務とする法だからです。


    約束された救い主 
三、もしあなたたちが私を愛するなら、あなたたちは私の戒めを守るべきです。私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の救い主をあなたたちにお与えになります。その救い主が何時までもあなたたちとともにおられるためにです。その方は真実の霊です。

世はその方を受け入れることができません。世はその方を見ようともせず、知ろうともしないからです。しかし、あなたたちはその方を知っています。その方はあなたたちとともにおり、あなたたちの内におられるからです。(ヨハネ 第十四章 15,17)

 しかし、救い主、すなわち、父が私の名によってお遣しになる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教え、また、私があなたたちに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ 第十四章 26) 


四、イエスはもう一人の救い主の出現を約束しています。それは、当時の世界がまだ知ることのできなかった真実の霊です。世界はそのことを理解するにはまだ未熟であったのです。神はすべてのことを教え、キリストが述べたことを思いださせるため、真実の霊を送るのです。

真実の霊が、後になってすべてを教えるために現れるということは、イエスはすべてを教えることができなかったことになります。キリストが述べたことを思いださせるために出現するということは、イエスの教えが忘れ去られてしまったか、あるいは間違って理解されてしまったからです。

 スピリティズムは決められた時代にキリストの約束を守るために現れました。真実の霊がその確立を指導しています。彼は人間に法を守ることを呼び掛けています。キリストがたとえ話でしか話さなかったことを理解できるよう、全てを教えてくれています。

キリストは「聞く耳を持つ者が聞きなさい」と言いました。スピリティズムは目や耳を開くために現れました。なぜなら、スピリティズムは偶像や装飾を通じて話すのではないからです。

意図的にベールで覆われた神秘の謎を解き明かしてくれ、地上で見放された者や苦しむ者すべてに、すべての苦しみには正当なる理由と有益な目的があることを示すことによって、最高の慰安をもたらしてくれるのです。

 キリストは「苦しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」といいました。しかし、なぜ苦しまなければいけないかを知らされずに、どうして苦しむことにより幸せになることが出来るでしょうか。スピリティズムは、その理由が過去の人生と、人類が過去の償いを行う場所としての地球自体の行方の中に存在するということを明らかにしています。

また苦しみの目的とは、療法となる有益な手段となり、未来の人生における幸せを得るための浄化の手段となることであると示しています。人間は自分が苦しむに値することを理解し、苦しみを正当であると認めることができるようになります。

その苦しみが自分の進歩を助けることを知っているので、報酬を約束された労働に取り掛かる者のように、不満をこぼすことなく苦しみを受け入れることが出来るのです。スピリティズムは、未来に対する揺らぐことの無い確信を人間に与え、それによってその魂からは疑いの余地さえ失われてしまいます。

人間に物事を高い視点から見下すことを教えてくれ、地上での盛衰の重要性など、スピリティズムの示す光輝く広い地平線の彼方に消え去ってしまうのです。そして未来に待つ幸せへの希望は、道を最後まで歩み続けるための忍耐、甘受の気持ち、勇気を人間に与えてくれるのです。

 このように、人間がどこから来て、どこへ向かい、そしてなぜ地球上に生まれたのか教え、真なる神の法の原理を思いださせ、信仰と希望による慰安を与えてくれることによって、スピリティズムはイエスが約束した救い主を現実のものとしてくれるのです。

 

    霊たちからの指導

  
  真実の霊の出現
、かつて道に迷えるイスラエルの民に真実をもたらし、闇を払おうとしたときと同じように、私はやってまいりました。私の言うことを聞いてください。
 
私の言葉が過去においてそうしたように、スピリティズムは無神論者たちに、彼らの頭上には普遍の真実、すなわち、草花を芽生えさせ、波を起こす善なる神、偉大なる神が君臨しているのだということを教えなければなりません。
 
私は神の教義を示し、また、それを収穫する者として、人間に散らばった善を束にまとめ、「苦しむ者よ、私のところへお出でなさい」と申したのです。

 しかし、恩知らずな人たちは、私の父の君臨する国へつながる広く真っ直ぐ延びる道から外れ、険しい不信仰の小道に迷ってしまったのです。私の父は、人類を全滅させようとしているのではありません。

父はあなたたちが、生きる者も死ぬ者もお互いに助け合い、救い合うことを望んでいるのです。死ぬ者とは、肉体の死んでしまった者のことです。なぜなら死は存在しないからです。そして、預言者や伝道者に耳を傾けるのではなく、地上にもはや存在しない者たちがこう叫ぶ声を聞いてください。

「祈り、信じなさい。死とは生き返ることです。人生とは選択された試練なのです。その試練の中であなたたちの耕す美徳というものが、杉の木が伸びるように育ち、発展するのです」

 弱く、自分の知性の闇を知っている者は、温厚なる神が手渡してくれた灯を遠ざけてはいけません。その灯はあなたの道を照らし、迷える子供たちをその父親の懐へ導いてくれるのです。

 あなたたちの惨めさや、また、天国を見上げながら過ちのどん底に落ち、道に迷ってしまった不幸な者たちに手を差し伸べようともしないあなたたちのあまりの弱さに、私は深い同情を抱いています。

あなたたちの目の前で明らかにされることを信じ、愛し、熟考してください。良い種と悪い種とを混ぜてはいけません。夢想と現実とを取り違えてはいけません。

 スピリティズムを学ぶ者よ、お互いに愛し合いなさい。これが最初の教えです。自分を教育しなさい。これが第二の教えです。全ての真実がキリストの教えの中に存在します。

キリスト教の中に根付いてしまった誤りは、全て人類が生みだしたものなのです。ですから、あなたたちが何も存在しないと考えていた墓の向こうから、あなたたちに向かって訴えてくるのです。「兄弟たちよ、何事も消滅するものはないのです。イエスキリストはすべての悪に打ち勝ったのです。あなたたちは、不信仰に打ち勝たねばならないのです」と。(真実の霊 パリ、1860年)

℘136          
六、私は、可哀想な、見捨てられた貧しい者たちを慰め、教えるために参りました。あなたたちの甘受の気持ちを試練のレベルまで引き上げよと伝えにきたのです。あなたたちの痛みはオリーブの園にて神聖なものとされたのですから泣いてもよいのです。

泣いて待てば良いのです。慰安のための天使たちが、あなたの涙を拭きに来てくれるからです。

 働く者たちよ、あなたの道のりを計画してください。前日の厳しい道のりを、再びその次の日も歩み続けてください。あなたたちの手によってなされる労働は、あなたたちの肉体に地上の糧を与えてくれます。しかし、あなたたちの魂も忘れられてはいません。
 
なぜなら神聖なる庭師である私は、あなたたちの思考の静まっている時、あなたたちの魂の手入れを行っているからです。あなたたちの休む時間がやってきてその日の日課から解放され、目をその日の光に対して閉じた時、私の蒔く貴重な種があなたの中で芽生えるのを感じ取ることができるでしょう。

 私たちの父の国では、何も失われるものはありません。あなたたちの汗、あなたたちの苦しみは、より進んだ世界においてあなたたちを豊かにしてくれる宝となるのです。その世界では、光が闇にとって代わり、あなたたちの中で最も質素な者がきっと最も輝かしくなるでしょう。(真実の霊 パリ 1861年)


 誠に言います。自分たちの重荷を背負い、その兄弟たちを助ける者たちこそが私の愛する者たちです。反抗による過ちを消し、人間の試練の崇高なる目的を教えてくれる貴重な教義をもって自分自身を教育してください。
 
風が吹いて埃を追い払うように、霊たちの一吹きによって地上の富を得た者たちに対するあなたたちの羨みが吹き飛ばされて行きますように。

地上の富を得た者たちとは、たいていもっとも惨めな者たちであるのです。なぜなら、彼らの試練はあなたたちの試練に比べて、より危険であるからです。私はあなたたちと共にあります。私の使徒たちはあなたたちに教えます。
 
愛の生きた泉に愛を求めてください。人生に拘束された者たちよ、あなたたちの完成のためにあなたたちを弱く造られた者のもとへ、いつの日か、自由と喜びを持って向かっていくことができるよう、その準備をしてください。

造形しやすい粘土を自分たちの手で形作り、自ら不滅の自分を創り上げることを神は望まれているのです。(真実の霊 パリ 1861年)

℘137       
七、私は魂の医者です。あなたたちを必ず治すことのできる薬をもってきました。弱い者、苦しむ者、病にかかった者は私の特に愛する子供たちであり、私は彼らを救いに来たのです。私の許においでなさい。苦しみ、悩むあなたたちは皆、慰められ、楽になることが出来るのです。別の場所に力と慰めを求めてはなりません。
 
なぜなら、この地上の世界ではそれを与えることが出来ないからです。神はスピリティズムを通じて、あなた達の心に最高の救いを投げかけてくれるのです。耳を傾けてください。無慈悲、偽り、誤ち、不信心があなたたちの痛ましい心から根絶されますように。

こうしたものこそがあなたたちの血液の純粋な部分を吸い上げ、あなたたちをほとんど死にまで至らせる傷を負わせる怪物なのです。未来において、創造主に慎ましく服従することできるように、神の法を実践してください。

愛し、祈ってください。主より送られてくる霊たちの教えを、素直に受け止めることができますように。神を心の底から叫んでください。そうすれば、主はあなたたちに素晴らしい言葉を伝え、教授してくれる、神の愛する子を送ってくれるでしょう。私はここにいます。あなたたちが私を呼んだので、私はここにいるのです。 (真実の霊 ポルドー 1861年)



八、神は慎ましい者たちを慰め、神の力を嘆願する苦しむ者たちに力を与えます。神の力は地球上のすべての場所に及び、流される一つ一つの涙のそばには慰安の薬を用意してくれています。自己を犠牲にし、献身して生きるということは、途絶えることなく祈っているようなものであり、そこには深い教えが含まれています。

人類の知恵はこの二つの言葉の中に生きているのです。痛みや道徳的な苦しみに対し、不平を訴えるのではなく、それらが地上で生きるために与えられたわけ前であるという真実を、苦しむ霊たちが理解することができますように。

献身と自己犠牲──これらの二つの言葉を標語として掲げ、強く生きてください。なぜならこれらの言葉には、慈善と慎ましさを実践するために必要な全ての義務が込められているからです。

義務を果たすことができた時の達成感は、あなたたちの心に平安と甘受の気持ちを与えてくれます。心臓はよりよく響き、魂は落ち着き、肉体は衰弱しなくなります。だから、霊が深く痛めつけられるほど、肉体は同じように苦しむのです。 (真実の霊 ルアーブル 1863年)


℘140

  第7章 魂の貧しい者は幸いです         

 魂が貧しいとはどういうことか

一、魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ 第五章 三)

二、魂の貧しい者は幸いです。信心のない者は、他の多くの金言と同様に、この金言を理解せず、ばかにします。しかし、イエスは知性に貧しい者を意味したのではなく、慎ましい者を意味したのです。天の国は慎ましい者のためであり、傲慢な者のためではないと言ったのです。


 教養があり、知性的な人は、この世を見る限り一般的には自分たちを高く評価し、その優秀さを強調し、神のことなどその関心に値しないと考えています。彼ら自身のことだけが心配で、神のことまでその考えを持ち上げることができません。
 
このように自分たちをあらゆるものより優秀であると考える傾向は、自分たちを優秀と考えるために自分たちを低くするものを否定し、しばしば神さえも否定します。

あるいは神を認める時には、自分を最も優秀な神の属性のうちの一人と考えるのです。天命を受けこの世のことだけに対し働きかけることで、この世を統治するのは十分であるとうぬぼれているのです。

自分の知性を宇宙の知性の大きさを持つと考え、何事も理解することができると信じ、理解できないこともあり得るのだということを認めることが出来ないのです。彼らは何かについて発言する時、彼らの判断に対する反論を受けつけないのです。


 見えない世界と人類を超えた力を認めないのは、それらが手の届かないところにあるからではなく、彼らの考えの土台を掘り崩してしまうような、立脚することのできない観念に対して自尊心が反発するからです。だから、目に見え、手に取ることのできる世界以外のものに対しては、軽蔑の笑みを見せることしかできないのです。
 
そうしたことを信じるには、自分たちの知性は高過ぎ、多くの知識を持っており、彼らの考えるには、そうしたことは無知な人々に向いているのであり、そうした人を魂の貧しい者とみなしているのです。しかし、何を言おうと、いつかは他の人たちと同じように皮肉を込めて馬鹿にしている目に見えない世界に入らねばならないのです。

その時、彼らは目を開き、過ちに気づくのです。しかし、公平である神は、その力を認めなかった者たちを、神の法を慎み深く守った者たちと同じように迎えるわけにはいかず、同じ者として割り当てることもできません。

℘141
素朴な者だけに神の国があるという言葉のなかで、イエスは、心の純真さと魂の慎ましさがなければ神の国で認められることはないと教えたのです。これらの資質を持った無知な者の方が、神よりも自分を信じる賢人よりも好ましいのです。

いかなる場合に置いてもイエスは、神に近づける徳として慎ましさを、神から遠ざける欠点として傲(おご)りを述べています。慎ましさは神に対する服従の態度であり、傲りとは神に対する反発のしるしであるという、とても自然な理由からです。

したがって、人間の幸せのためには、この世で言う、魂が貧しくとも、道徳的な資質に富んでいることがより大切なのです。

   
 自分を高くする者はさげられます

三、その時、使徒たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」。そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われた、

「誠に言います。悔い改めて子どもたちのようにならない限り、天の御国には入れないでしょう。だから、この子どものように、自分を謙遜し自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。また、誰でも、このような一人の子どもを私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのです」。(マタイ 第十八章 1-5)


四、その時、ゼベダイの子どもたちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにお言葉を下さい」。

イエスは答えて言われた。「あなたたちは自分が何を求めているのか、分かっていないのです。私の飲もうとしている杯を飲むことができますか」。

彼らは「できます」と言った。イエスは言われた、「あなたたちは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左に座ることは、この私の許すことではなく、私の父によって備えられている人々にだけ許されることなのです」。このことを聞いた他の十人は、この二人の兄弟たちのことで腹を立てた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたたちも知っているとおり異邦人の支配者たちはその民を支配し、偉い人たちはその民の上に権力をふるいます。あなたたちの間ではそうであってはなりません。あなたたちの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたたちの間で人の先に立ちたいと思う者は、しもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための救済の代価として、自分の命を与えるためであるのと同じです」。(マタイ 第二十章 20-28) 


五、ある安息日に、食事をしようとして、ファリサイ人のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。招かれた人々が上座を選んでいる様子をご覧になっておられたイエスは、彼らにたとえを話された。「婚礼の披露宴に招かれた時には、上座に座ってはいけません。

あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』とあなたに言うなら、その時あなたは恥入って、末座に着くことになるでしょう。

招かれるようなことがあって行ったなら、末座に着きなさい。そうすればあなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上座にお進みください』というでしょう。その時は満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。(ルカ 第十四章 1、7-11)


、これらの金言は、神に選ばれた者に約束された幸せを得るための根本的な条件として、イエスが絶えず教えている慎ましさの原則から生まれたもので、イエスは次の言葉にそれをまとめて示しました。

「魂の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。イエスは純心であることの象徴として子どもを選び、「子どものように自分を謙遜し、自分を低くする者が、天の御国で、一番偉いのです」と言ったのです。それは上の者や強い者に媚びを売るということではありません。

 同じような基本的な考え方が、別の金言に結びつきます。「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

  スピリティズムは実例によって理論を確認し、私たちに、地上で小さくあった者たちの霊界における偉大さを教えてくれます。そして多くの場合、地上において最も偉大で強い権力を持っていた者たちが、霊界においてはとても小さいのです。これは、霊界において彼らを偉大にさせる、決して失われることの無い美徳を、人間は死んでも持ち続けるからです。

一方で、富、地位、栄光、生まれた家族の高貴さなど、地上で人間を偉大にしていたものは、別の世界へ持って行くことが出来ないのです。それら以外に何も持っていなかった者は、別の世界へ入ると、着るものまでも失った遭難者のようにすべてを失います。

自尊心だけを失いきれずにいることが、地上において軽蔑していた者たちが自分より上に、栄光に輝いて置かれているという新しい位置づけを、更に屈辱的なものにします。

 スピリティズムは同じ原理の応用を、連続する人生と言う視点から別の方法で示しています。ある人生において最も高い地位にあった者は、野心や自尊心を克服できなかったのであれば、次の人生において最も低い地位に降ろされます。
 
ですから、強制的に次の人生において地位を下げられたくないのであれば、地上において一番高い地位を求めたり自分を他人より高い地位においてはなりません。
 
反対に、最も慎ましく、質素な地位を求めなさい。あなたがより高い地位におかれるに値するのであれば、神は天においてより高い場所を与えてくれるでしょう。

℘144         
 博学な者や知識人に隠された謎
七、その時イエスは声を上げて言われた、「天と地の主なる父よ、これらのことを博学の者や知識のある人には隠し、素朴で小さい者たちに顕してくださったことを称賛いたします」。(マタイ 第十一章 25) 


八、これらのことを魂の貧しい、素朴で小さい者たちに見せてくれたことをイエスが感謝しているのは、少し不思議に感じられるかもしれません。

なぜなら、見かけ上は博学な者や知識人の方がこれらのことを理解し易いように見えるからです。しかし私たちは、この慎ましい者とは、神の前で自分を低め、他人に対して自分が優れていると感じない者のことであるということを理解しなければなりません。
 
また、一方の自尊心の高い者とはこの世における知識によってうぬぼれてしまい、自分が賢者であると思い、そのために神の存在を否定したり、あるいは神を否定しないまでも、昔、知識人が賢者であるつもりになって話したように、自分を神と同様に扱う者のことであるということを理解しなければなりません。そのため、神は地上の秘密の探求を知識人たちに任せ、神の前に屈服する慎ましい者たちに天の秘密を見せてくれるのです。

 
九、スピリティズムによって今日明らかにされた偉大なる真実についても同様です。信心のない人たちは、彼らを納得させ、改心させようとする霊たちの側の努力が不足しているのだと言います。
 
しかし、それは、霊たちにとっては、強い信仰と慎ましさをもって光を求める者たちのことの方が、もうすでにすべてを知っていると信じていて、神がその存在を証明して彼らを神の方向へ導くことが出来れば神は喜ぶであろうと考えている者たちのことよりも、気にかかるからなのです。

 神の力は、大きな物にも小さな物にも示されています。神はその光を隠すのではなく、あらゆるところへ放っています。盲目な者たちはそれを見ることが出来ないのです。

神は彼らの目を無理やり開こうとはしません。なぜなら、彼ら自身が目を閉じていることを好んでいるからです。しかし自ら目を開く時が来る前に、暗闇にあることの苦しさを感じ、神の存在を認識し、彼らの自尊心が必然的に傷つけられる時が来なければなりません。

不信心な者たちに神の存在を示すために、神は彼ら一人一人にそれぞれあった方法を取ります。しかし不信心である者が「私を納得させるにはどれそれをやってください。いつ、どうしてください。そうすれば私は納得します」というように、何をし、何を言うべきなのかを決めるのではありません。

 神や、神の意志を伝える霊たちが、こうした不信心な者たちの要望に応えてくれないからと言って驚いてはいけません。そうではなく、もし自分の最も身分の低い家来に何かを強要されたとしたら、何と応えるかを考えてみるべきです。
 
神が条件を決めるのであり、神が条件を強要されるのではありません。神は慎ましく求める者には温かく耳を傾けてくれますが、神より勝っていると考える者たちのことは聞いてはくれません。


十、最も神を信じない者までもが屈してしまうような奇蹟的な証拠によって、神は不信心な者たちに個人的に触れることができないのかとよく訊かれます。それが可能であることに、まったく疑う余地はありません。しかしそのようにしたとして、そうすることの価値はどこにあるでしょうか。

更に、それが何の役に立つと言えるでしょうか。彼らは、毎日あらゆる証拠を見せられていながらそれを受け入れず、「見ることはできたが信じることはできない。なぜならそのようなことは不可能であることを知っているからだ」とまで言うのです。

真実を認めることを拒否するのは、それを理解するその者の霊も、それを感じるその者の心も、まだそうなるところまで発達しきっていないからです。

自尊心は彼らの目を覆う目隠しのようなものです。盲目の者の前に光をかざしてどうなるというのでしょうか。したがって、まず悪の原因を治すことが必要です。

そうであるからこそ、優秀な医者のように、神はまず傲りを罰します。神が迷う子供たちを見捨てることはありません。なぜなら、遅かれ早かれ彼らの目は開かれることを知っているからです。

しかし神はそれが各々の自分の意志によって開かれることを望んでいるのです。そうなれば、不信心であったことによって受けた苦しみに打ち勝ち、父親に赦しを求めた放蕩息子の様に、自ら神の腕の中にやってきます。


   

  霊たちからの指導

 
℘146    自尊心と慎ましさ  
十一、親愛なる友よ、神があなたたちに平安をもたらしますように。あなたたちが正しい道を進むことができるように励ましにやって参りました。

 神は、その昔地上で慎ましく生きた霊たちに、あなたたちを教化する任務を与えられました。あなたたちの進歩を助ける機会という恵みをお与えくださいました。神の名が崇められますように。

聖なる霊が私に光を与え、私を助けてくれることによって、私の言葉が分かり易いものとなり、それらの言葉がすべての人たちのもとに届きますように。光に出逢うことのできないあなたたちすべての人間の目の前に、光を輝かせることができるように神の意志が私を助けてくれることをお願いいたします。

 慎ましさは、あなたたちの間では忘れ去られてしまった一つの美徳です。あなたたちに与えられた大きな模範は、ほんの少ししか守られていません。しかし慎ましさなしに、隣人に対する慈善の気持ちを持つことが出来るでしょうか。ああ、できるわけがありません。

なぜなら、慎ましさこそが人間を平等にするからです。あなたたちは兄弟であり、それ故にお互いに善に向かって助け合わなければならないのです。自分たちの身体の不恰好さを隠すために衣装をまとっているかのように、慎ましさに欠けるあなたたちは持ちもしない美徳で身を飾ります。

私たちを救ってくれた者のことを思いだしてください。彼を偉大にしたその慎ましさが、あらゆる預言者たちよりも彼を上に位置づけたのです。

 自尊心は慎ましさにまったく相反するものです。キリストが最も貧しい者たちに天の国を約束したのは、地上の偉大なる者たちが名誉や豊かさとは自分自身の功労に対して与えられるものだと考え、自分たちを貧しい者たちよりも純粋な存在だと考えていたからなのです。

それゆえ彼らは、名誉や豊かさを自分たちのためのものであると信じ、神が自分たちを地上から連れ去ると、神は不当であると不満を言うのでした。おお、何というおかしなことでしょう。

なにも見えていないのです。神はあなたたちの身体を見て区別するでしょうか。貧しい者と豊かな者の肉体は同じではありませんか。創造主は二種類の人間を作ったのでしょうか。神の造られたものすべてが賢く偉大なのです。

自尊心の強いあなたたちの頭から生まれる考えを、神に属するものであるなどと決して考えてはなりません。

 ああ、富める者たちよ。寒さから守られた金の屋根の下であなたたちが眠る間、何千人ものあなたたちとまったく同じ兄弟たちが藁の上に横たわっているのを知っていますか。飢えに苦しむ不幸な者たちは、あなたたちと同類の者たちではありませんか。

こうした言葉にあなたたちの自尊心が反発することを私はよく知っています。施しを与えることに同意することはあっても、その貧しい者の手を兄弟愛をもって握りしめることはありません。

「高貴な血縁のもとに生まれた、地上における偉大なる私が、そのぼろをまとった惨めな者たちと同じだなんて。それは偽哲学者の作り上げた、つまらぬ理想郷のことだ。もし、私たちが彼らと同じならば、何故神は私をこんなに高いところに置き、彼らをあんなに低いところに置いたのだ」。

富める者たちの衣装は、貧しい者たちのそれとは似ても似つかぬことは事実です。しかしそれらが奪われてしまったら、両者の間にどんな違いがあるというのでしょうか。

それにもかかわらず、血筋が高貴なのだと言うのかも知れません。しかし、今日まで科学は高貴な者と平民との間に、または、奴隷の主人と奴隷との間に血液の違いを発見していません。あなたが過去においても彼と同じように惨めで哀れな状態でなかったと、誰が断言できるでしょうか。
℘148
あなたも物乞いをしたことがあるのではないでしょうか。あなたが今日軽蔑している相手に、未来においては物乞いをする可能性がないと誰が言い切れるでしょうか。富とは永遠なるものでしょうか。

あなたの霊を取り巻くはかない覆いである肉体が消滅すれば消えてしまうものではありませんか。ああ、もう少し慎ましくあってください。この世の現実に目を向け、何が人を偉大さに導き、何が人の価値を下げるのかに目を向けてください。死は誰をも残してくれないように、あなたをも残してはくれません。

今日にでも、明日にでも、いつ襲ってくるか判らない死の攻撃から、あなたの地位はあなたを守ってはくれません。もしあなたがその自尊心の中に埋もれ続けるのであれば、ああ、私にとってそれは大変悲しいことです。あなたは深い同情を受けるに値します。

 傲慢な者よ。高貴で、強い権力を持つようになる以前、あなたは誰であったのでしょうか。もしかしたら、あなたの召使いの内の最も下層の者よりも低いところにいたのかもしれません。ですから、あなたの誇り高い額を下げるのです。なぜなら、あなたたちが額を最も高く上げた時、神はあなたたちにその額を下げさせるようにすることができるからです。
 
神の秤の上で、人類はみな平等です。一人一人の持つ美徳だけが、神の目には区別されるのです。全ての霊が同じ素から成っており、全ての肉体が同じ物質から造られています。名声や地位はあなたのどこも変えることはできません。
 
名声や地位は墓の中に残され、選ばれた者たちに与えられる幸運を享受するためには何の役にも立ちません。選ばれた者たちの高潔な地位とは、慎ましさと慈善の行いによってのみ築かれるものなのです。

 かわいそうな者よ。あなたは苦しむ子供の母親なのです。寒さに震え、飢えを訴えている彼らのために、パンのかけらを手に入れるため、重い十字架を背負い、頭を下げに出ていきなさい。

おお。あなたの前に私は頭を下げます。私にとってあなたは何と高貴で尊いことでしょうか。祈り、待つのです。至福は今だこの世のものではありません。神を信じる抑圧された貧しい者たちのために、神は天の国をあたえてくれるのです。

℘149
 労働と剥奪の前に放り出された、まだ子供でしかない娘よ。どうしてそんなに悲しむのですか。なぜ泣くのですか。慈悲深く穏やかな神のもとへあなたの目を向けてみて下さい。神は小鳥たちにも食べ物を与え、あなたたちを信じてくれています。神はあなたたちを見放されることはありません。

宴に響く笑い声や、この世の喜びにあなたの胸は高く鳴ります。髪を花で飾り、地上の幸運な者たちとともに交わりたいと思うでしょう。屈託なく楽しそうに笑いながら通り過ぎる女たちを見て、私も同じように豊かになれるのだと呟くでしょう。おお、そのようなことを言うのはおやめなさい。

それらの飾られた衣装の下に、どれだけの涙と語りきれない苦しみが隠されていることか、どれだけすすり泣く声がその騒がしい話し声にかき消されていることか。

あなたは自分の貧しさと慎ましい小屋の方がよほど好ましいと思うに違いありません。あなたを守る天使が、その白い羽の下に顔を隠しながら神の元へ戻って行ってほしくないなら、神の目にいつまでも純潔に映ることができるように自分を保ってください。

案内人がいなくなったことを後悔し、次の世界において罰を受けるのを待ちながら、道に迷ってこの世に何の支えもなしに残されるのが嫌なのであれば。

 そして、人間の不当さに苦しめられているあなたたちはみな、あなたの兄弟たちの過ちに対し、あなたたち自身も過ちから免れることはできないのだということを自分に言い聞かせ、彼らに対し寛大であってください。それは慈善の行為であり、慎ましさの証でもあります。もし中傷にあったなら、その試練の前に頭を下げてください。
 
この世の中における中傷が、あなたにとっていったいどんな意味を持つというのでしょう。あなたの行いが正しいのであれば、神によって報われるではありませんか。人の侮辱を勇気を持って耐えるということは、慎ましく生き、神のみが偉大で万能であることを理解することです。

 おお、神よ。彼らが忘れてしまったあなたの法を教えるために、再びキリストがこの世にあらわれることが必要なのでしょうか。
℘150
礼拝のためだけに存在する、あなたの家を汚しに寺院に集まる行商人たちを、キリストは又追い払わなければならないでしょうか。

誰に否定することができましょうか。ああ、人類よ。神がもしキリストの再来という許しをあなたたちに与えてくれたとしても、あなたたちは前回と同じようにキリストを棄て、キリストを冒涜者と呼んでいたかも知れません。
 
なぜなら、キリストは現在のファリサイ人たちの自尊心を辱めることになるからです。あなたたちは、再びキリストにゴルゴタへの道を歩ませることになるでしょう。

 モーゼが神の戒めを受けるためにシナイ山へ登って行ってしまっている間、イスラエルの民は自分たちだけになると、真なる神を棄て、男も女も持っていた宝石や金を、偶像を造るために捧げたのでした。あなたたち文明人は、その繰り返しを行っているのです。

キリストはその教義をあなたたちに伝えました。あなたたちにすべての美徳の模範を示したにもかかわらず、あなたたちは模範も規律も全て放棄してしまったのです。一人一人がその感情にかられ、望み通りの神を造り上げているのです。
 
ある者によればその神は恐ろしく残忍で、また別の者によれば地上の関心事に夢中になっています。あなたたちが造り上げた神とは、あなたたち一人一人の考えや趣味に合わせた金の子牛でしかないのです。

  兄弟たちよ、友よ、目を覚ましてください。霊たちの声があなたたちの心にこだましますように、見栄を張ることなく、寛大で、慈悲深くあってください。つまり、慎ましく善を行いなさないということです。自尊心を奉りあげた祭壇を、一人一人が少しづつ取り崩していくことができますように。

一言で言うならば、本当のキリスト教徒となり、真実の国を手に入れなさいということです。神の善意の証はこれほど多く存在するというのに、神の善意を疑い続けることは止めてください。

私たちは預言が実現する道のりを準備するために参りました。未来において神の寛大さがあなたたちの間に響き渡る時、神によって送られた使いたちは、あなたたちがすでに大きな家族を作り始めているのを見ることができるでしょう。あなたたちの優しく慎ましい心が、神のもたらしてくれる天の言葉を聞くにふさわしいものとなりますように。
℘151
選ばれた者たちの道のりには、善、慈善、同胞愛に返ることによってのみ敷かれる棕櫚(しゅろ)の葉を見ることができますように。そうすれば、あなたたちの世界は地上の楽園と化すことでしょう。

しかし、文明化され、科学が発達していながらも、気高い感覚に乏しい社会を革新し、浄化する為に送られてきた霊たちの声に対して、あなたたちが鈍感であり続けるのであれば、ああ、あなたたちにできることはもはや、その運を嘆き苦しみ、泣くことだけでしょう。

しかし、そうあってはなりません。あなたたちの父である神の方へ向き直ってください。神の意志を達成するために貢献してきた私たちすべてが、恩恵の賛美歌に調子を合わせ、尽きることの無い神の善意に感謝し、幾世期が経とうとも、神の栄光を讃えましょう。そうでありますように。
 (ラコルデール コンスタンティーヌ、1863年)


十二、人類よ、なぜあなたたちは自分たちで頭の上に積み上げた災いに対して不平をいうのですか。キリストの聖なる神の道徳をあなたたちは軽んじているのです。だから非道がその杯からあらゆる方向へ溢れ出しても、驚いてはなりません。

 問題は広がっています。いつも自分たち同士でお互いをつぶし合おうとしているあなたたちを責めずにいったい、誰を責めればよいのでしょう。お互いの慈悲心なしには、あなたたちは幸せになることはできません。
 
しかし、慈悲心と自尊心がどう共存することが出来るでしょうか。自尊心とはあなたたちの悪の全ての根源です。自尊心がもたらす悲しい結果を長引かせたくないのであれば、それを打ち壊すことに精を出してください。
 
そのためにあなたたちが身を捧げる唯一の失敗することのない方法があります。キリストの法をあなたの行動の不変の規則とすることです。あなたたちが自分たちの勝手な解釈によって拒否したり、偽物にしてしまったあのキリストの法です。

 あなたたちはなぜ、心に訴えるものよりも目に輝いて映るものに重きを置かなければならないのですか。なぜ、裕福さの中にある不徳に媚び、卑しいものの中にある真なる価値のあるものを軽蔑するのですか。
℘152
肉体も魂も失ってしまった堕落した金持ちには、何処においてもあらゆる扉が開かれ、すべての関心が注がれる一方で、自分の仕事に精を出す真面目な人に対しては、あなたたちは勿体ぶり、挨拶さえもしようとしません。
 
他人への配慮が、その者のもつ金の量や、その者の使う名前によって計られるのであれば、彼らにとってその欠点を治すことに、何のおもしろみがあると言えるのでしょうか。

 もし、世の中の意見が、金をまとった者の不徳を、ぼろ服をまとった不徳と同じようにこらしめたとしたら、大きく違ってくるでしょう。しかし、自尊心は裕福な者の不徳に媚を売ることには寛大です。

現代は貪欲さと金の時代なのだ、と言われるでしょう。それは疑いようもありません。しかし、どうして物質的な関心に良心と理性を支配させてしまうのでしょうか。なぜ、みなが自分たちの兄弟よりも上に立とうとするのでしょうか。今日の社会はこうしたことがもたらす影響を受けています。

 そのような状態はいつも間違いなく道徳的堕落のしるしであることを忘れないでください。極端なまでに自尊心が膨らんでいることは、近く落ちぶれる兆候です。神は高慢な人間を罰しないことはありません。

神が彼らを持ち上げられることに同意する時は、彼らに熟考する時間を与え、注意を促すために時々訪れる、自尊心にうち響く出来事によって、自分を改めることができるようにするときです。

しかしその時、彼らは自分を辱めるよりも、反抗します。すると、杯は溢れ、神は完全にその者を高いところから降ろすのです。彼が自分を高く持ち上げていればいるほど、下落は彼にとって恐ろしいものとなります。

 エゴイズムによってすべての習慣を堕落させてしまった可哀想な人類よ、なによりもまず、改める勇気を出してください。神はその無限なる慈悲によって、あなたたちの欠点を治す強力な薬を送ってくれ、それは惨めな状態にあるあなたにとって、思いがけない救済となるでしょう。光に向けて目を開きなさい。そこには、もう地上には存在しない魂たちが、あなたを本当の任務につかせようと呼びに来てくれています。
℘153               
彼らは虚栄心や一時的な地上での生活における偉大さと言うものが、無限の世界の前にどれだけつまらないものであるかということを、彼らの持つ経験を通じて教えてくれるでしょう。地上で兄弟を最も強く愛した者は、天においても最も愛されることになるでしょう。
 
権威を濫用する地上の権力者は、自分の召使いたちに従わなければならないように下げられるでしょう。慎ましさと慈善の気持ちは手を取り合う姉妹のようなもので、永遠なる神の前に恵みを受けるための、最も有効な手段なのです。(アルジェの司教アドルフ マルマンド、1862年)
 

  地上における知性的な者の役割
十三、あなたの知識によって鼻を高くしてはなりません。あなたの知識とは、あなたの住む世界における非常に狭い範囲の中に限られたものなのです。この地球上で、あなたがその知性によって非常に重要な人物であったとしましょう。しかし、そうであったとしても、あなたはそのことによってうぬぼれる権利を持つわけではありません。

神がその意向により、あなたの知性を発達させることが出来る環境にあなたが生まれることを可能にしたのは、あなたがその知性をみなのために使うことを望んだからです。

あなたの手にはあなたが発展させることの出来る道具を与え、あなたの周りにはより遅れた知性の持ち主を送り、あなたが彼らを神の方向へ導くことが出来るようにすることによって、あなたに地上における任務を与えたのです。

与えられたその道具には、どのような使い方をするべきなのかが示されてはいませんか。庭師がその助手に鍬を手渡す時、それは土を耕せと示しているのではありませんか。その助手が仕事をする代わりに、その鍬を振り上げ、主人を傷つけようとしたら、あなたは何と言うでしょうか。恐ろしいことだ、その助手を解雇するべきだ、と言うでしょう。
 
兄弟たちの間において、神とその意志に関する考えを打ち崩すことにその知性を利用する者に対しても、同じことが言えるのではありませんか。土地を耕すために与えられた鍬を、主人に対して振り上げていることになりませんか。
℘154                
彼に約束された賃金をもらう権利があるでしょうか。それどころか、その庭から追放されるべきではないでしょうか。彼が全てを負っている神の前に頭を下げるようになるまで、疑いもなく、屈辱にあふれた惨めな人生を過ごさなければならないでしょう。

 知性には未来のためになる価値があふれています。ただし、それは正しく使われた場合です。もし人類すべてが神の意志に沿って知性を使うのであれば、霊たちにとって人類を進歩させる任務は容易に達成することが出来るでしょう。

しかし、悲しいことに、多くの者が自尊心を強め、知性を自分自身を破壊する道具にしてしまっています。人間は他の能力と同じように知性をも濫用します。しかし、知性を与えてくれた強力な神の手は、人類に与えたものを剥奪することができるのだということを教えてくれる出来事は、数えきれぬほど見ることができるはずです。(守護霊フェルディナン ボルドー、1862年)
 
        治療家養成講座へ戻る    治療センターへ戻る
                  
 
  第8章 心の清い者は幸いです
 
℘156  素朴さと心の清さ
一、心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ 第五章 8)

 
二、さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちをみもとに連れてきた。ところが、使徒たちは彼らを叱った。イエスはそれをご覧になって憤り、彼らに言われた、「子どもたちを私のもとへ来させなさい。止めてはいけません。
 
神の国は、このような者たちのものです。誠に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」。そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ 第十章 13-16)


三、素朴さや慎ましさと心の清さは切り離すことができません。いかなる利己的な考えや自尊心をも取り除かねばなりません。だからイエスは、慎ましさと同じように、心の清さの象徴として子どもを例に取り上げるのです。
 
しかし、子どもの霊であっても、その霊が歳を取っており、肉体を持った生活に生まれ変わった時点で、その前世において脱することのできなかった不完全性を持ち合わせていると考えた場合、心の清さと子どものたとえは矛盾するように見えます。

完全性を達成した霊だけが本当の心の清さと言うものを私たちに教えてくれることが出来るのだと言えます。それはまったく正しい考え方です。しかし、現在の人生の視点から見た場合、子供のうちと言うのはまだ非道徳的な意図を示すことも出来ず、私たちの目には無邪気で純粋な姿に映ります。

そのことからも明らかなように、イエスは天の国が子どもたちのためにあると言ったのではなく、子どもたちのように心の清い者のためにあると言ったのです。


四、子どもの霊が、すでに過去において地上に生きたことがあるのであれば、なぜ生まれたその時から、その霊がどのような霊であるかを示さないのでしょうか。神のなされる業は常に最高の英知であることを忘れてはなりません。
℘157           
子どもには、母親の優しさだけが与えることが出来る特別な心遣いが必要です。同時に、その母親の優しさは、子どもの無邪気さと弱さのためにさらに増すものです。母親に取ってその子どもは常に天使であり、また、そうあるべきなのです。

それにより子どもは母親の配慮を引きつけることが出来るのです。もし母親がその子どもの飾り気のない恵みを受ける代わりに、その子どもの幼稚な振る舞いの中に大人のような性格や考えを感じ取り、ましてやその子どもの過去を知ってしまったら、その母親は同じように献身的に子どもを世話することはできないでしょう。

 一方で、極端に早熟な子どもの肉体はその霊の大きな活動に耐えられないことから、知性の活動は肉体の弱さと釣り合っていなければなりません。再生が近づくに従って霊は変化し、少しずつ自分自身の認識を失っていき、ある一定の期間一種の眠りの様な状態になり、あらゆる能力が潜在的なものとだけなってしまうのはそのためです。
 
この変化する状態は、霊が新たな出発点に立ち、その新しい人生において妨げとなるものは忘れてしまうために必要なのです。しかし、その者の過去はその者の上に働きます。そのため、獲得された経験から得た直感によって支えられ、助けられ、道徳的にも知性的にもより大きく、より強く、生まれ変わるのです。

 生まれたときから霊の思考は、その器官が発達するに従って徐々に刺激を受けていくのですが、最初の何年間かは、その霊の性格の基盤を築く考えがまだ眠っている状態にあり、その霊は本当に子どもの状態にあるということができます。
 
子どもの本能が無意識の間、その霊は従順な状態に在り、その霊を進歩させる本質を変化させる印象を受け易く、その間、親にとってはその課された任務を行い易くなっているのです。
 このように、霊は一時的に無垢の衣をまとうことになります。それ故イエスは、魂のもつ過去に関わらず、子どもを清さと素朴さの象徴とし、真実を示したのです。

℘158      
  思考による罪。姦淫
五、「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。ある女を見つめ、その女に対し情欲を抱くのであれば、心の中ではその女と姦淫を犯したことになるのです。(マタイ 第五章 27,28)


六、ここで使われている「姦淫」と言う言葉は、決してその言葉が持つ通常の意味だけによって理解されてはならず、もっと広義に捉える必要があります。イエスは幾度もこの言葉の意味を広げ、悪、罪、すべての悪い考えを示すために使いました。
 
たとえば、「誰でも、この罪深い邪悪な世代にあって、私と私の言葉を恥じるものに対しては、人の子もまた、聖なる使いたちと共に父の栄光のうちに到来する時、その者を恥じるでしょう」(マルコ 第八章 38)

真の清さは行動の中だけにあるのではありません。それは思考の中にも存在し、心の清い者は悪いことを考えることさえもないのです。イエスが言いたかったのはそのことです。イエスは思考による罪をも非難するのです。なぜならそれは不純のしるしだからです。


七、この考え方から、自然と次の疑問が出てきます。「どんな行動も伴わない悪い思考の影響を、私たちは受けているのでしょうか」。

 ここで重要な区別をする必要があります。霊の世界において、魂がその進歩の過程を進んでいくと、悪の道に導かれていた魂も、向上しようとする意欲を示すに従って、その自由意思によって少しずつその不完全性を失っていきます。
 
どんな悪い考えも魂の不完全性がもたらします。しかし、浄化しようとして抱く欲求の強さによっては悪い考えさえもその魂の進歩のための機会となります。

なぜなら、その魂はその悪い考え方を精力的に拒絶しようとするからです。悪い考えを拒絶することは、汚点を消そうとする努力のしるしです。その場合、悪い欲望を満たす機会が現れても、それに負けまいとします。それに耐えることが出来ると、その勝利によってより強く、より満足を得ることができるでしょう。

 反対に、悪い考えを拒絶しようという正しい決心をすることができない者は、悪い行動を実現させる機会を求めます。たとえ実現しなかったとしても、その者の意志によってではなく、実現の機会が不足したからなのです。したがって、彼は、実現していた時と同等に罪深いことになるのです。

 要約するならば、悪い考えを心に抱くことさえも望まない者は、すでにある程度の進歩が実現していると言えます。また、悪い考えが浮かびながらも、それを追い払おうとする者にとっては、進歩は実現しつつあります。
 
そして、悪い思考を抱き、それに喜びを感じるものにとっては、悪がその完全な形のまま、いまだに存在しているということができます。

一方の者たちにおいては、なされるべきことはすでに行われていますが、もう一方の者たちにおいてまだこれから始めなければなりません。正義である神は、人間の思考や行動に対する責任を問う時、こうしたすべての段階的な変化を考慮するのです。

      
 
   真なる清さ。洗っていない手
八、その頃、ファリサイ人たちと律法学者たちが、エルサレムからイエスの許に来て言った、「なぜあなたの使徒たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」。

 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために神の戒めを破っているのですか。神は『父母を敬いなさい』また、『父母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言われています。しかし、あなたたちはこう言います。
 
『父または母に向かって、あなたたちに差し上げるべきものは、神への供え物にします、と言えば、父または母を敬わなくてもよい』。こうして、あなたたちは自分たちの言い伝えによって、神の言葉を無にしています。

偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことをうまく預言したものです。『この民は私を口先で敬うが、その心は私から遠く離れています。人間の戒めを教えながら私を無駄に崇めています』」。
℘160     
 それからイエスは群集を呼び寄せて言われた。「このことを聞き、よく理解してください。人間を汚すものは口から入るものではありません。人間の口からでるものが人を汚すのです」

 すると使徒たちがイエスに近づいて言った、「いま言われたことをファリサイ人たちが聞いて、つまずいたことをご存知ですか」。イエスは答えて言われた、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます。盲人を案内する盲人はそのままにしておきなさい。盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちてしまうでしょう」(マタイ 第十五章 1-14)

  しかし、口からでるものは心の中より出ており、それが人間を不純にするのです。悪い考え、すなわち、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、冒涜、悪口は心の中から出ているのです。これらのことが人間を不純にするのです。手を洗わないで食事をしたからと言ってその者が不純になるわけではありません。(マタイ 第十五章 18-20)


九、イエスが話をされていた時、あるファリサイ人が食事に招待した。イエスはその家に行き、食卓につかれた。ファリサイ人も家に入ると、イエスを見て不審に思った、「イエスは食事をする前になぜ手を洗わなかったのだろうか」。
 
するとイエスは言われた、「あなたたちファリサイ人たちは、杯や皿の外側をきれいにすることには大変気を遣います。しかし、あなたたちの心の内側は強欲と悪意に満ち溢れています。あなたたちは愚かな者たちです。外側を造った神は内側も造られたのではありませんか」。(ルカ 第十一章 37-40)


十、ユダヤ人たちにとって、人間の定めた規則を実践し、その規則を厳重に守ることが重要であったため、彼らは神の本当の戒めを破ったのです。単純な物体は形が崩れると消滅してしまいます。

道徳的に改善するよりも表面的に行動する方がより簡単であるように、心を清めるよりも手を洗う方が易しいのです。人間は人間の決めた規則を、何をどうするべきか教えられた通りに実践すれば、それ以上神に求められることはなく、神との約束を果たしていると自分で錯覚してしまうのです。

それを指して預言者は言いました。「この民が人間の戒めを教えながら、口先で私を崇めても無駄です」。
℘161          
 キリストの道徳的教義の中にも、同じことを確かめることができます。しかし、それは置き去りにされ、その結果、多くのキリスト教徒が、昔のユダヤ人たちのように、神の救いは道徳的な実践よりも外見的な実践によって保証されると思っているのです。

こうした神の法に人間が付け加えたことに対して、「天の父が植えられなかった木はすべて引き抜かれます」とイエスは言ったのです。

 宗教の目的は人間を神のもとへ導くこと
です。それは、人は完成しなければ神のもとへ届くことはできないからです。一方、人間を善に向かって向上させない宗教は、どんな宗教であれ、その目的を果たすことが出来ないことになります。人間が悪を働く為の拠り所とするものは、偽りか、あるいはその根本から歪んでいることになります。
 
外見上の行いが信念よりも先行してしまっている宗教がそれにあたります。外見的な偶像を信じても、それが殺人、姦淫、強奪、中傷、隣人に対して損害を与えることなどの妨げとならないのであればその効力は皆無です。そのような宗教は迷信、偽善者、狂信者を生み、善なる人を生みません。
 
 見かけだけが清いだけでは足りません。なによりも心の清さを持たなければならないのです。
            
      
 恥。もしあなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい
十一、もし誰かが、私を信じるこの小さい者を恥じるのであれば、ロバがまわしている臼を一つ首にかけられて、海の底深く沈められる方が、その者にとって益となります。恥じることばかりの世の中は不幸です。なぜなら、恥じるべきことは行われなければならないからです。

しかし、恥ずべき行動をとってしまう者たちのかわいそうなことよ。この小さい者たちの誰をも見くびることが無いように充分に気をつけなさい。誠に言います。彼らの天使たちは天にいる私の父と、いつも顔を向い合せているのです。
 ℘162         
もしあなたの片手か片足が恥の原因となっているのであれば、それを切り落として、あなたから遠く離れたところへ投げ捨ててしまいなさい。あなたたちにとって、片手あるいは片足だけで生きる方が、両手両足を持ちながら永遠の炎の中に投げ込まれるよりもいいのです。
 
そしてもし、あなたの片方の目が恥の原因となっているのであれば、その目をえぐり取ってあなたから遠く離れたところへ投げ捨てなさい。あなたたちにとって片方の目だけで生きる方が、両眼が揃ったままで地獄の火に投げ入れられるよりも良いのです。(マタイ 第十八章 6-10 第五章 29,30)

℘162          
十二、一般的な意味において、恥とはある表面的な方法で道徳や品行に反するすべての行動を指します。

恥とはその行動そのものの中にではなく、その行動がもたらす反響の中にあるのです。恥と言う言葉はいつも、多くの非難を浴びるものであるという意味を含んでいます。多くの人は恥をかくことから免れたことに満足します。
 
なぜなら恥をかくことによって自尊心は傷つき、その者に対する人からの敬意が低下してしまうからです。もし、自分の恥が見逃されたならば、それだけで良心は落ち着くのです。イエスの言葉によれば、こうした人たちは「外見的には真っ白だが中身は腐敗に満ちた墓、外側は綺麗だが内側は汚れた壷」なのです。

 福音の中で数多く用いられている恥という言葉の意義はより広く、したがって、場合によってはその意味が理解しがたいことがあります。他人の良心を咎めるものという意味として、悪癖や不完全性がもたらすすべてのことを指し、反響の有無を問わず、ある個人から個人への悪い作用を意味します。恥とはこの場合、悪徳のもたらす結果のことなのです。


十三、この世では「恥じるべきことは行われなければならない」とイエスは言いました。なぜなら、地上の人間は不完全であり、悪い木が悪い実を結ぶように、悪を働く傾向にあるからです。したがって、このイエスの言葉から、悪とは人間の不完全性の結果であり、人間にとって行わなければならないものではないということを理解しなければなりません。


十四、「恥じるべきことは行われなければならない」。なぜなら人間は、地上で自分の罪を償おうとする中で、自分自身の悪癖に接し、その悪癖の第一の犠牲者となることによって、自らに罰を与え、その悪さを理解するようになるからです。
 
悪の中で苦しむことに疲れた時、善の中にその薬を求めることになるのです。こうした悪癖に対する反応は、ある者には罰となり、ある者には試練となります。この様にして、神は悪の中から善を浮かび上がらせ、人間に自らの悪や値打ちの無いことをも利用させるのです。


十五、そうであるならば、悪は必要であり、永久に続くのだということができるかもしれません。なぜなら、もし悪が消滅してしまったら、神は罪ある者たちを罰する強力な手段を奪われてしまい、よって、人間が向上することは無意味なのだと言われるかもしれません。しかし、その時、すでに罪ある者がいなくなっていたとしたら、罰することさえも必要なくなるのです。

仮に、人類がみな、善なる人間に変わったとしてみましょう。皆が善人なのですから、誰も隣人に悪を働こうとはせず、みなが幸せになることができます。悪の追放されたより進歩した世界とはそのような状態なのです。

そして、地球もさらに十分に進歩すればそのようになるのです。しかし、幾つかの世界が前へ進んでいく間、一方ではより原始的な霊によって他の世界が形成されていきます。
 
そして、そうした世界は、幸せになった世界から拒絶され、悪に固まった反抗的な不完全な霊たちを追放する世界、または、不完全な霊たちが報いを受けるための世界となるのです。


十六、「しかし恥ずべき行動をとってしまう者たちの可哀想なことよ」とはつまり、いつまでたっても悪であり続け、その悪い本能を利用されて無意識のうちに神の正義の道具となったとしても、そのことによって悪が軽く見られることは無く、彼らは罰せられなければならないのだということです。

たとえば、ある恩知らずな息子は、その子を育てなければならない父親にとっては罰、あるいは試練です。なぜなら、その父親は多分、過去において彼の父親を苦しませた悪い息子であったからで、だから報復の罰を与えられているのです。
 
しかし、その息子は許される訳ではなく、彼の順番が来た時には、自分自身の息子によって、あるいは別の方法によって罰せられなければなりません。


十七、「もし、あなたの手が恥の原因となっているのであれば、切り落としてしまいなさい」。この激しい表現を文字通り理解してしまっては馬鹿げており、これは、自分のうちにある恥の原因、つまり悪を破壊してしまうことが必要なのだということを意味しているのです。
 
あなたの心から、全ての不純な気持ちや悪癖の源を根絶することです。さらには、人間にとって手を切り落とす方が、その手が悪い行動のための道具として使われるより、そして盲目である方が、ある物を見た時に悪い考えを与える目を持つことよりも、ましなのだということを意味しています。

イエスは、その言葉の持つ深い例えの意味を理解する者に対しては、何もばかげたことなど言っていません。しかし多くの事柄は、スピリティズムが与えてくれる鍵なしには理解することができないのです。


    霊たちからの指導 

             
    子供たちを私のもとへ来させなさい
十八、キリストは、「子どもたちを私のもとへ来させなさい」と言いました。簡単でありながら深い意味を持つこの言葉は、単に子供たちへ向けられた呼びかけなのではなく、希望のない不幸が支配する、より劣った世界にいる魂たちへ向けられた呼びかけなのです。
 
イエスは人類のうちの弱者、奴隷、悪徳な者たちのように、知性的に幼少なものを自分のもとへ呼んだのです。物質的な制約を受け、本能のくびきにつながれ、まだ、自分の中や周りに働く理性と意志の秩序を守ることが出来ない肉体的に幼少な者たちには、イエスは何も教えることはできませんでした。

 イエスは、愛嬌のある姿によって、母親である女性すべての心を征服してしまうよちよち歩きの子どもが、母親を信頼し母親の方へ向かっていくように、人類に、イエスのことを信じて寄ってきてほしかったのです。そのような魂たちはイエスの優しく神秘的な権威に従うことが出来たのです。

イエスは暗闇を照らすたいまつであり、人々の目を覚ます夜明けの光であったのです。彼はスピリティズムの開始者であり、その周りには子供たちではなく、やる気を持った大人たちが集まるのです。雄々しい行動は始まりました。もはや本能的に信じたり、機械的に従うのではないのです。人類は、普遍性を示す英知の法に則ることが必要なのです。

 愛する者たちよ、説明されることによって偽りが真実となる時はすでに到来したのです。あなたたちにイエスのたとえ話の本当の意味とその教え、過去のものと現在のものとの間に存在する強い相互関係を示しましょう。私は真実を伝えます。

霊たちの出現は地平線を広げ、それは人類へ送られた使者として、山頂の太陽のように輝くのです。
(伝道者ヨハネ  パリ、1863年)


十九、子供たちを私のもとへ来させてください。私のもとには弱い者を強くする母乳があります。いたわりと慰めを必要としている臆病で弱い者をみな、私のもとへ来させてください。無知な者を、光を与えるために私のもとへ来させてください。
 
不幸な者たち、苦悩する者たちの群れ、苦しむ者をみな、私のもとへ来させてください。
人生の悪を和らげる偉大なる薬を私が教えてあげましょう。そして、あなたたちの傷を治す秘密を明らかにしましょう。
 
あらゆる心の病を治し傷口をきれいにする、それほど多くの美徳を持ったその崇高なる香油とは、なんなのでしょうか。それは愛であり、慈善であるのです。
℘166             
あなたがこれらの神聖なる火を手にしているのであれば、何を恐れる必要があるのでしょうか。生きている間、絶え間なく、次のように言いましょう。

「父よ、私の意志ではなく、あなたの意志の通りに行われますように。あなたを喜ばすことであるならば、痛みと苦しみによって私をお試しください。そのことが祝福されますように。それが私のためになるのであれば、私の上にかざされたあなたの手は、振り下ろされるのだということを私は知っています。

主よ、あなたを喜ばすことであるならば、弱い者に慈悲を与え、その者の心に健全な喜びをお与えください。それにより、更に祝福されますように。しかし、神の愛が魂の中に眠ってしまわないようにしてください。感謝の気持ちの証として、その愛が絶え間なく魂をあなたの足元まで引き上げてくれますように。
 
 あなたに愛があるなら、地上に望まれる全てのものを有していることになります。あなたを憎み、迫害するためにあなたを取り囲む者たちの悪意や、どんな事件さえも奪い去ることが出来ない、貴重な真珠を手にしていることになるのです。
 
 あなたに愛があるならば、あなたの宝を蝕まれることの無い場所にしまえることになり、あなたの魂からはあなたの魂を不純にするあらゆるものを消すことができるようになるのです。愛があれば日々、物質の重みは軽減していくのを感じ、それは空を舞う鳥たちが地上のことを忘れてしまったように、そのまま天に昇っていき、やがてあなたの魂は主の胸元で生命力に満たされ、陶酔することになるでしょう。(ある守護霊 ボルドー、1861年)


  目が閉じている者は幸いです
二十、良き友よ、なぜ私を呼んだのですか。ここにいるかわいそうな苦しむ者の上に手をかざし、病を治すためですか。ああ、善き神よ、何と言う苦しみでしょう。彼女は視力を失い、暗闇に包まれてしまいした。可哀想な子よ、祈り、待つのです。
 
私はよき神の意志なしに、奇跡を起こすことはできません。私が行うことが可能であった、あなたたちの知っているすべての治療は、私たちみなの父である神によるものです。
℘167            
あなたたちが苦しむ時には、いつも目を天に向け、心の底からこう言いなさい。「父よ、私の病を治してください。しかし、私の魂の病が、肉体の病よりも先に治されるようにしてください。必要であるならば、私の肉体が罰せられ、それによって私の病んだ魂が、創造されたときと同じように純白になってあなたのもとへ引き上げられますように」。

良き友よ、善なる神は何時も聞いてくださり、この祈りの後、力と勇気があなたたちに与えられ、また恐る恐る願った治療も、あなたたちの献身への代償として与えられるかもしれません。

 しかし何よりも、今ここに学ぶことを目的とした集会に参加して、視力を奪われた者は、幸いにも報いの機会が与えられたと考えるべきなのだと私は申し上げます。目が邪魔になっているのであれば、目をえぐり取ってしまいなさい、それがあなたの堕落の原因になっているのであれば、火の中に投じた方が良い、とキリストが言ったのを思いだしてください。
 
ああ、地上に生きる者のうちで、いつか暗闇の中で、光を見てしまったことを苦しむ者がどれだけいるでしょうか。おお、そうです、報いとして、目を罰せられた者は何と幸いなことでしょうか。
 
もうその目は恥や堕落の原因となることは無く、その者は完全に魂の世界に生きることができ、視力の良い者よりも良く見ることができるのです。私がこうしたかわいそうな苦しむ者の瞼を開き、再び光のもとへ戻すことを神が許されるときには、この様に申し上げます。

「愛しき魂よ、なぜ思慮と愛に生きる霊としてのすべての喜びを知ろうとしないのですか。それを知ることが出来れば、盲目のあなたを暗闇に包む、不純で、重たい像を見ようと頼んだりはしないでしょう」。

 おお、神と共に生きようとする盲目の者は幸いです。ここにいるあなたたちよりも、彼は幸せを感じ、それに触れることが出来るのです。魂に会い、地上での運命を定められた者たちには見ることができない霊の世界へ、共に飛び立っていくことが出来るのです。
 
開かれた目は何時も魂を堕落させる原因となります。閉じられた目は、反対に、いつも魂を神のもとへ引き上げることができます。
℘168        
親愛なる友よ、私を信じてください。盲目は、ほとんどいつも心の真なる光をもたらしてくれます。一方で視力はほとんどいつも、魂を死に追いやる恐ろしい使いなのです。

 今度は、かわいそうな、苦しむあなたのために言葉を送ります。勇気を持って待つのです。「娘よ、あなたの目は開かれるのです」と、もし私が言えば、あなたはどんなに喜ぶことでしょう。しかしその喜びがあなたの大きな損失となるということを誰が知っているでしょうか。

幸福を作りながら、苦しみと言うものを認めた、善なる神を信じてください。あなたのためになることはすべて致します。しかし、あなた自身も祈らなければいけません。そして、何よりも私が来て申し上げることすべてについて考えてみて下さい。

 ここを去る前に、ここにいるあなたたちすべてに、私からの祝福がもたらされますように。(聖ウ“ィアンネー パリ、1863年)
 

<備考>ある苦しみが現世の行いの結果でないのであれば、その原因は前世に求めなければなりません。運命のいたずらと私たちが呼ぶものは、神の正義の行いに過ぎないのです。神は仲裁的な罰は与えません。なぜなら、過ちと罰との間には、必ず相互関係が存在しなければならないからです。

神がその善意によって、私たちの過去の行いをベールで覆い隠したとしても、次のような言葉によって私たちの道を指してくれるのです。

「剣によって人を殺したものは、剣によって殺される」。この言葉は、「私たちはつねに犯した過ちと同じ方法によって罰せられるのだ」と、解釈することができます。ですから、もし、誰かが視力を失うことによって苦しんでいるならば、その者にとって視力は堕落の原因であったからなのです。

他人の視力を失ったことが原因であったのかもしれません。重すぎる仕事を強制したことで誰かを失明させたのかもしれません。あるいは、他人を悪く扱ったり、注意不足によって失明させたのかもしれません。だから今、報復の罰に苦しんでいるのです。
 
盲目な者自身が、自分を省みた時、この報いを選んだのかもしれません。その時その者は、「もし、あなたの目が恥の原因であるならば、えぐり取ってしまいなさい」というイエスの言葉を自分自身に当てはめていることになるのです。
(この通信はある盲目の人のために呼び起こされたアルスの司祭聖ウ“ィアンネーの霊Curê d',Arsによって伝えられた)
   
℘172        
  第9章    柔和で平和をつくる者は幸いです     
    侮辱と暴力   

一、柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです。(マタイ 第五章 5)

二、平和をつくる者は幸いです、その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ 第五章 9)

三、昔の人々に「人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない」と言われていたことは、あなたたちの聞いているところです。しかし、誠に言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって「ラッカ(愚か者)というような者は、審判所に被告人として送られるでしょう。また、「気が狂っている」というような者は、地獄の火へ投げ込まれるでしょう。(マタイ 第五章 21,22)
    
     
四、これらの金言によって、イエスは柔和、温和、親切、忍耐を規律としています。それにより暴力、怒り、同胞に対するいかなる無作法な表現をも非難しています。「ラッカ」とはヘブライ人の間で使われた侮辱の表現で、価値のない人を意味し、頭を横にそらし、唾を吐きながら発音した言葉です。

兄弟に対して「気が狂っている」などという者は、さらにひどく責められることが、地獄の火によって脅かされています。

 いかなる状況でも、同じように、意志が過ちの重大さを増したり、軽減したりするということはここでも明らかです。ではなぜ、たった一言の表現がそれほど重大にとられ、それほどまでに厳しい非難を受けなければならないのでしょうか。
 
それは、いかなる攻撃的な言葉も、人間同士に和解と協調をもたらすために支配する愛と慈善の法に背いた感情を表現するからなのです。

そうした表現は、人間相互の慈悲心や同胞愛に対して振り下ろされる一撃となります。それは憎しみと恨みをもたらします。いかなるキリスト教徒にとっても、神に対する謙遜の気持ちの次には、隣人への慈善こそが最も重要な規律なのです。
   
℘173            
五、では、人間に対し、この世の富を放棄することによって天の富を約束したイエスが、「柔和な者は幸いです、その人は地を相続するからです」という言葉によって、何を教えようとしたのでしょうか。

 天の富を待つ間、人間は生きるために地上の富を必要とします。イエスは単に、後者を、前者よりも重要視することがあってはならないと教えたのです。

 その言葉により、今のところはまだ地上の富が、柔和で平和をつくる者を犠牲にして、暴力的な者によって独占されていることを示そうとしました。必要なものを過剰に所有している者がいる一方で、柔和で平和をつくる者には多くの場合、必要なものさえも欠けています。

彼らに対して、イエスは、地上においても、天と同じように正義がなされることを約束しています。なぜなら、そうした柔和で平和をつくる者は、神の子と呼ばれるようになるからです。

人類が愛と慈善の法に従うようになれば、誰もわがままを言うことはなくなります。弱くおとなしい者は、もはや搾取されたり、強く、暴力的な者に押しつぶされることはありありません。進歩の法とイエスの約束に従い、悪を遠ざけることによって世界が幸せになった時、地球はそのようになるのです。



   霊たちからの指導

   
  愛想の良さと温和さ
六、隣人への愛がもたらす同胞への好意は、その気持ちを表現しようとする時、愛想の良さと温和さを生みます。しかし、必ずしも見かけだけを信じてはなりません。教育を受けたり、世間慣れすることは、人間にこうした見かけ上の性格を与えます。
 
善良さが表向きの仮面であったり、内面的な奇形を目立たなくさせる立派な衣装のようなものでしかない人がどれだけいるでしょうか。世の中には、口元には笑みを浮かべ、心には毒を持った人々があふれています。
℘174   
腹立たしいことが無い限りは優しく、しかしどんな小さな矛盾にも噛みついてきます。その言葉は前を向いている間は金色に輝き、後ろを向くと毒の塗られた槍となります。

 外見的には親切でありながら、家庭内では暴君で、家の外で自分自身が押し込められている窮屈な思いに対してうさを晴らすように、家族や彼に従う者を傲慢と独裁の重荷で苦しめる人も、そうした人々と同じ部類に属します。

他人を命令に従わせるだけの権威を持っていないため、少なくとも自分に反抗することのできない者には自分に対して気遣わせようとします。その様な者はうぬぼれて言います。

「ここでは私が命令し、私にみなが従うのだ」。しかしその時、「そして、私はみなに嫌われているのだ」と付け加える必要があるとは思いつかないのです。

 口元からのみ甘い言葉があふれていてもことは足りません。そこに心が伴っていないのであれば、それは偽善でしかありません。見せかけではない愛想の良さと温厚さの持ち主は、矛盾することはありません。
社会的にも個人的にも同じです。
 
そうした者は、それ以上に、見せかけによって人間を騙すことはできても、神を騙すことはできないということを知っているのです。(ラザロ パリ、1861年)


 忍耐
七、痛みは、神によって選ばれた者に贈られる神からの恵みです。だから苦しむとき、不安を感じたらいけません。まず、この世において苦しみを与えることによって天におけるあなたたちの栄光を示してくれた、全能なる神を崇めることです。

 忍耐強くあってください。耐えることも慈善の一つであり、あなたは、神より送られたキリストによって教えられた慈善の法を実践しなければなりません。中でも貧しい人に小銭を与えることは、最も容易な慈善です。しかし、他にも、より苦しく、より賞賛に値する別の慈善があります。

それは、神が私たちの忍耐を試そうと、私たちの歩む道の途中においた人々を赦す、という慈善です。人生が困難であることを、私はよく知っています。
℘175
人生はたくさんの取るに足らないことばかりで満ちており、それらが針でつつくように、私たちを痛めつけるのです。
 
しかし、私たちに課された義務を行うならば、それが一方ではその代償や忠告を受け取ることになって、痛みに比べれば遥かに多数の恵みとなるのだ、ということを改めて知る必要があります。頭をうなだれた時よりも、頭を上げて上を見上げた時の方が、背負って居る荷は軽く感じられるものです。

 友よ、勇気を出してください。あなたの模範をキリストに求めてください。あなたたちの誰よりもキリストは苦しみましたが、それを悔いることはありませんでした。あなたたちはあなたたちの過去を償い、未来へ向けて強くならなければいけないのです。ですから、忍耐強く、キリストの教えを守る者であってください。それがすべてです。(ある友人の霊 ルアーウ“ル、1862年)


  服従と甘受
八、イエスの教義はすべての箇所において、温和さと切り離すことのできない服従と甘受の気持ちという、とても能動的な二つの美徳を教えていますが、人々は誤って、それを感情と意志の否定と取り違えてしまいます。服従とは理性が同意することです。甘受とは心が同意することです。

どちらも能動的な力であり、反逆的な愚かな者であれば落してしまう、試練の重荷を持ち上げることのできる力なのです。臆病な者は甘受することが出来ず。同様に傲慢な者や利己的な者は服従することができません。イエスはこれらの美徳そのものとして生まれましたが、当時の人々は彼を軽んじました。

イエスはローマの社会が堕落と衰退によって滅びようとしていた頃に生まれました。抑圧された人類の中に、献身と欲情の放棄がもたらす勝利を輝かせるために来たのです。

 どの時代にも、残すか失うかしなければならない、美徳や悪徳のしるしが残されています。あなたの時代の美徳は知性的な活動です。悪徳は道徳的無関心です。
 
単に「活動」と表現しているのは、天才が自分一人だけで、他の大勢はもっと後になってからしか見ることのできない地平線を見つけることが出来る一方で、「活動」はそれほど輝かしくなくとも、全ての者の努力を集結し、その時代の知性的な向上の証となるような、ある目的を達成することを指すからです。
 
私たちがあなたたちの霊に与える刺激に従って下さい。偉大なる進歩の法に服従してください。それがあなたたちの時代の言葉です。
 
怠惰な霊や理解の扉を閉じてしまう霊の可哀想なことよ。ああ、前進する人類の導き役である私たちは、あなたたちに鞭撻(べんたつし、また反抗的な心には、二重の作用によって、歯止めをかけたり、拍車をかけたりします。

どんな傲慢な抵抗も遅かれ早かれ負かされてしまいます。しかし、温和な者は幸いです。なぜなら、教えに従順に耳を傾けることができるからです。(ラザロ パリ、1863年)
  
℘176        
 怒り
九、自尊心は、あなたたちを実際以上に偉大であると思い込ませます。あなたが卑しめられるような比較には耐えられなくさせます。

反対に、霊的にも社会的にも、また、個人的な長所においても、あなたは自分の兄弟よりもずっと上にいるのだと考え、下級の者があなたを苛立たせ、がっかりさせるのだと考えるようにさせます。すると何か生まれるでしょうか。そう、あなたは怒りに身を任せることになるのです。

 あなたを凶暴な者と同じくし、冷静さと理性を失わせる、この一時的な狂気に駆られる原因を調べてみて下さい。調べてみればほとんどいつも、傷つけられた自尊心をそこに見つけることが出来るでしょう。

もっともよく熟考された忠告に対して、あなたが苛立ち、拒絶するのは、あなたの自尊心が否認されたこと以外にどんな理由があるというのでしょうか。各々が自分自身を他人より重要であると考えていることが取るに足りない不満の原因となっている辛抱のなさをも生んでいるのです。

 かんしゃくを起すと、怒りっぽい人間はすべてに対して当り散らします。自分の粗暴な性格や、動かぬ物体にあたり、自分の言うことに従わないとそれらを破壊します。ああ、その時、冷静に自分を見つめることが出来たなら、自分自身を恐れるか、あるいは自分自身の愚かさを知ることが出来るでしょう。

その時他人に対してどんな印象を与えたかを想像して見てください。それがたとえ、単なる自分への尊敬の気持ちからくるものでなかったとしても、私たちは自分を憐れみの対象としてしまう傾向には打ち勝つ努力をするべきです。

 怒りはどんな薬でも抑えることが出来ず、健康を害し、命までも危うくするということを考えれば、自分自身が自分の怒りの第一の犠牲者となっていることが認識できるでしょう。
しかし何よりも、頭に入れておかなければならないもう一つの考えは、怒ることによって周りにいる人たちを不幸にしてしまうということです。
 
心を持っているのなら、最も愛する相手を苦しめることは、後悔に値することではないでしょうか。怒りの発作の時、その人を一生嘆き悲しませるような行動を取ってしまったら、私たちの良心はその責任をひどく重く感じることになるでしょう。

 つまり、怒りは、心から良心を奪いはしませんが、私たちにどんな善行をも行うことを妨げ、私たちを悪行に導くのです。そうした理由だけで、人類は怒りというこの悪い特徴を克服する努力をするに十分に値します。

ましてスピリティストであるならば、もう一つの理由によって努力しなければなりません。それは、怒りがキリスト教徒の慎ましさと慈善に反する、という理由です。(ある守護霊 ポルドー、1863年)


十、自分自身の性格は変えることができないという大きく誤った考えは、人をわがままにさせ、多くの忍耐によってのみ根絶することのできる自分の欠点を改める努力は免除されているのだと判断させてしまいます。例えば、怒りっぽい傾向にある人は、大抵それを自分の気質のせいにします。

自分自身の責任であることを認める代わりに、肉体組織のせい、神のせいにし、自分の犯した失敗に対しても同様の態度をとります。これもあらゆる不完全性の一つとして残る自尊心がある結果です。

 気質がより暴力的な行動に結びつくことは疑いようもなく、それは柔らかな筋肉の方が力を出す時によく働くのと同じです。しかし、そこに怒りの本質的な原因が存在するのだと信じてはならず、平和を好む霊は、胆汁質の肉体を持っていても常に平静を保ち、暴力的な霊は粘液質の肉体を持っていても温和ではないということを理解する必要があります。

穏和な時にのみ、暴力は別の性格に変わり、怒りは収縮され、他の場合には怒りは活発になります。肉体は、怒りを持たぬ者には怒りを生まず、同様に他の悪癖も生みません。
 
いかなる美徳も、いかなる悪癖も、霊に帰するものです。そうでなければ、長所や責任感と言うのはどこに在ると言えるのでしょうか。身体が不自由な者は、それが霊と係わっていないために、元の形に戻ることはできません。

しかし、揺るがぬ意志さえあれば、霊に係ることは変化させることができます。目の前で行われるほんとうに奇跡的な変化を経験したあなたたちスピリティストに、意志の力でどこまで行くことが出来るのかが教えられていないでしょうか。
 
人間は自分が悪癖を保ちたいと思わなければ、悪癖を保ち続けることはないということを納得してください。自分を改めたいと望む者は必ず改めることが出来るのです。でなければ、進歩の法は人類のために存在しないことになります。(ハンネマン パリ、1863年)


         10章~19章へ跳ぶ   20章~28章 まで跳ねる          top