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 世界心霊宝典 Ⅰ 霊訓   二十五節以降 ~ 解説 梅原伸太郎

                                       
           
                              目 次
 
  
   二十五節
啓示はそれを受ける霊格者の霊格の程度によって差が生じる──〝神〟の概念の変遷──バイブルを神の言葉と考えるのは愚か──〝五書〟とエズラ──エロヒスト、ヤハウィスト──サウルの時代、土師の時代、ソロモン・ヘゼキヤ・ヨシアの時代──〝預言書〟の編纂──ダニエル・バイブルに見る神の概念の進歩──己の無知の自覚が向上の第一歩
 


 
 
 
    二十六節 
霊団の態度の変化──著者の態度に反省を求める──著者の霊視能力の発現──各種の霊視現象の体験──複数の世界的作曲家による音楽についての霊信
 

   
 二十七節
〔民族と宗教の揺籃地インド──轢死者の霊が著者に憑依──霊的引力と斥力〕
 

 二十八節  
〔エジプトの神学者とユダヤ教──三位一体説──エジプトの宗教──現代生活の唯物性に関する議論──モーセの律法の原点──各国の三一神──エジプトとインド──霊的向上は信教の別と無関係──最後の審判説は誤り──毎日が審判の日──霊の究極の運命の詮索は無用
 

 

 二十九節
低級霊に関する警告──現実の裏側の怖るべき実情──邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊・物質文明と大都会の悪弊──興味本位の心霊実験の危険性──物理的心霊現象の価値──物的次元より霊的次元への脱皮の必要性──氏名を詐称する霊の危険性──(結婚) いたずら霊の存在──個人的関心事は避けるが賢明
 



 
イースター・メッセージ(一八七四年)キリストに学べ──真の信仰とは──イースター・メッセージ(一八七五年)〝復活の真意〟──キリストの身体とその生涯が意味するもの──各種祭日の意義(クリスマス、レント、グッドフライデー、イースター、ペンテコステ、アセンション)──イースター・メッセージ(一八七六年)再びキリストの生涯──三種の〝敵〟(俗世、肉体、悪魔)──イースター・メッセージ(一八七七年)再びキリストに学ぶ──俗世に在りて俗世に超然とせよ───苦難の時こそ進歩の時
 
 
 
 


 
 三十一節
著者の友人の自殺の波紋──自殺霊の運命──利己的人生の破滅性───悔恨が向上の第一歩──天使の救い──浄化の炎──己れの罪は己れが償う──人生は〝旅〟、そのよろこびは〝向上の進化〟──生活の三つの側面(自己反省と祈り、神への崇敬と讃仰、三種の敵との葛藤)
 



 三十二節
真理とは──一般向けの真理と魂の〝秘宝〟としての真理──真理は他人へ押しつけるべきものにあらず──甲の薬は乙の毒──真理のための真理探究こそ人間としての最高の道
 


 三十三節
霊の身元を裏づける証拠の数々──著者の結びの言葉
 

 解  説 (訳者)
霊団の構成──霊団の身元──スピリチュアリズムにおける「霊訓」の価値──シルバーバーチ霊訓との比較──モーゼスの経歴と人物像──あとがき
 
 
   
             人間の代理人としてのモーゼス(梅原伸太郎)




 
 
 二十五 節
 
〔〝モーセ五書〟を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると──〕
 
 
 
 われらの手引きによる聖書の再検討において、汝は正しき結論に到達した。汝をその方向へ手引きしたのは個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。

われらはこの点を篤と訴えたい。汝らの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろん汝自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。最も古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒瀆的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見いだすことも出来る。

たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する神への報復の計画を人間と相談する神、血の祝宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。

その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に汝は、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

 重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするものではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。

要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

 人間創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮的創造力と未熟なる知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。

野蛮なる時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそも過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いできたことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示としたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

 今ひとつ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じ余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。

この誤りはすでに汝の頭からは取り除かれておる。その証拠に、もはや汝は神が矛盾撞着だらけの言説の作者であろうとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

 そうした誤れる言説に代わってわれらは、啓示と言うものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。

またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。

全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今汝の前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

 さて汝は「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに〝創世記〟の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものがみられる。

〝申命記〟の逸話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承にすぎなかったのである。

いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。
 
 いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念について詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝悦を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。
 
 
〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト①とヤハウィスト②の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば〝創世記〟第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(〝創世記〟第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕
 
 
 





 それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠が汝の身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン③とヨイアリブ④が引用せる伝説的資料である。

数が多くあるものはサウル王⑤の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる〝イスラエルの土師〟⑦の時代に蒐集され、またあるものはソロモン⑦とヘゼキヤ⑧とヨシア⑨の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。

啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。が全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べた通りであったと思えばよい。

〔旧約聖書の正典がそのような形で決められてきたとなると〝預言書〟についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕
 

 

 あの予言の書はすべてエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書⑩、ゼカリア書⑪、マラキ書⑫はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に係わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。

この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル⑬とミカエル⑭がその霊姿を予言者ダニエル⑮の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。予言者ダニエルは実に優れたる霊格者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


──〝ダニエル書〟第十章にある〝幻(まぼろし)〟の話ですか。

 ヒデケル⑯の土手のそばででの出来ごとであった。
  
──同じものです。と言うことは、予言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。

 抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の予言の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声のきかれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。

──ダニエルが大予言者、つまり霊格者であったと言われていますが、当時は霊的能力者は、珍しくなかったのでしょうか。

 ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。


──となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。

 まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも汝らの聖書から除外されたものもまた多い。

〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕
 

 

 聖書に見られる神の概念については、これまで折にふれて述べてきた。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩してきていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理───神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書のいたるところに見られることなどをより明確に致したく思う。

 その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。

アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。

アブラハムの父は汝も知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。

 さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し迫害したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根元に埋め隠したりしている。

こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対神の神ではなく、一家族の神にすぎなかったのである。

 そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜けきっていたとは言えぬ。

そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。

かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べておる。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。

 真の意味での絶対神に近き観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまでに、成長してからのことであった。〝預言者〟ならびに〝詩篇〟を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遥かに崇高さを増していることに気づくであろう。

 この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中において様々な形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。〝ヨブ記〟と〝ダニエルの書〟がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。

が全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。
 
 またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出せる時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が目立ってそうであった。

今なお優れたる霊が霊格者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。汝の生きてきたほぼ全世代を通してその働きかけは続いており、曾つてより遥かに明るき神の観念が啓示されつつある。

備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を瞬(しばた)かせ、光を遮り、暗闇へと逃げ込む。神の真理を正視し得るまでに魂の準備が出来ていなかったからに他ならぬ。


──聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。

そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。


 汝が己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。汝は今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回って知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。

まして奥の院を拝するに相応しき時に至るまでは永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに忍耐強く待つことである。
                                     ♰ イムペレーター


 〔註〕
 (1)Elohist 旧約聖書最初の六書の中で神をElohimと呼んでいる部分の編者。
 (2)Yahwist 旧約聖書最初の六書の中で神を Yahweh と呼んでいる部分の編者。
 (3)Elnathan.
 (4)Joiarib.
 (5)Saul イスラエル第一代の王。
 (6)the Judges of lsrael 裁き人、執権者。 
 (7)Solomon 紀元前十世紀のイスラエルの王。
 (8)Hezekiah 紀元前8‐7世紀のユダ王国の王。
 (9)Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。
(10)Haggai 紀元前520年頃のヘブライの予言者。
(11)Zechariah 紀元前6世紀ころのヘブライの予言者。
(12)Malachi 紀元前五世紀のユダヤの予言者。これがイムペレーターと名のる霊であると言う。
         (解説参照)
(13)Gabriel 宇宙経綸を与る神庁の最高位霊。聖書においては七大天使の一人とされている。
(14)Michael 悪の勢力との対抗を与る霊団の最高位霊。聖書においては四大天使の一人とされている。
(15)Daniel 紀元前6世紀のヘブライの予言者。
(16)Hiddekel チグリス川 Tigris のこと。トルコ、イラクを通りユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。
 










 
 







 
 
 二十六 節

〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけて障害となり、この自動書記通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。
 それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕
 






 
 

 ここで、これまでわれらが汝を導かんとして努力してきた跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが汝の為に計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。

そうすれば汝がこれまで抱き続けて来たものより遥かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。汝が重ねて証拠や実験を求めてきた反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。

それでもなおかつ汝の心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、汝の猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心の靄(もや)を突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。汝は自らを突き抜けることの出来ぬ帳(とばり)で包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。

 われらはむしろ、そうした汝とわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したといえる。われらはそれを究極における成功を暗示する証であるとみなし、感謝しているところである。

つまり汝のその、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。汝としてはいかに真剣なる気持ちとはいえ、われらが大義
分とせるものを受け付けようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。

殊に汝がわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら障害となる。これは是非ともよく理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとするが如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。

もしもわれが汝が怪しむが如きいかがわしき存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が若しそういうつもりはなというのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、素直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。

たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今の汝の頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遥かに有益なる成果を生み出すことであろう。われらは汝が訝(いぶか)っているが如く、汝の要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。

サークルの同志からの筋の通れる要求は大事にとってある。かりに要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでの汝との関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的な原理なのである。

 さらに、汝がしつこくこだわっているところの、汝の指図に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえ汝の思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、汝の意思とサークルの意志との混同によって不完全にして信頼の置けぬものとなろう。そして結局は汝の目的は挫折するであろう。が、

証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。汝のこだわっている問題すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供しており、汝もその価値を渋々ながら認めている。

 このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうした汝だけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、汝の理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。

証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そしてそれ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すこともあり得ることを心しておかれたい。

 今の汝には如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることもあり得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡なる成果にせよ特殊なる成果にせよ、こうして汝に語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。

少なくとも汝は、われらが汝を誑(たぶら)かしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪なる影響を及ぼしてはいない。われらの言葉には真実味と厳粛さが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、汝の必要性に合わせ、汝の啓発を意図しつつ説いている。

 故に、そのわれらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題について汝を誑かさんとする者であるか否かは汝みずからが責任を持って判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。

これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、あえてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそ汝の如き、われらを知りたる人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。
                                       ♰ イムペレーター
 

〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た 。それについては細かく述べていると霊訓の流れから逸れる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。

また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。

その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話しを交わす①ことが出来るようになった。

私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、遂には霊的身体が肉体から離れて行動しながら②実に鮮明な映像を見るようになった。

その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。

その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。

と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本ものであったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。

が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側は私の
霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。

 この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息③のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られてきた。プライベートな事柄を述べた後次のように書かれた④──〕
 








































 
 
 
 昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだ良い音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは分からないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遥かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。

地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃く。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果はよくなかったと言ったのである。

音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは演説家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。

最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で鈍化され、調和し、霊性を賦与された時である。

 言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音があっても魂が籠っていない。聞いてみると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。

冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂のこもったメロディーは、地上より遥かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。魂の叫びが直接霊へと響くのである。魂が漲(みなぎ)り、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。

その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。

大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。

〔この通信には二人の世界的作曲家⑤と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕

〔註〕
(1)意念による以心伝心的交信。霊界ではすべてこれによっておこなわれる。
(2)幽体離脱現象
(3)モーゼスは9年間に亙ってこの子の家庭教師をしている。
(4)イムペレーターではなく、地上で音楽家だった複数の霊による。
(5)本書に付したモーゼスの自動書記ノートの写真から判断すると、その二人はベートーベンとメンデルスゾーンであろう。
 
 
 
 








 

 
二十七 節

〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われらの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと──〕①
 




 その通りである。今の汝の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。

救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見いだすことが出来る。

インドの伝承文学の研究がこれまで汝が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の汝にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

 インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ───これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニー②とヴェーダ・ヴャーサ③がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。

そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に汝は地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

 さらに汝はその資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感してきたこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されてきている事実を見出さねばならない。

数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー④の奇跡の子クリシュナ⑤の物語であることも判るであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。

もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘してきた。汝の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらを手控えさせたのである。

 このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しき思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ汝にはまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。

例えば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であった Manou⑥が エジプトでは Manes となり、ギリシャでは Minos となり、ヘブライ伝説では Moses となった。いずれも固有名詞ではなく〝人間〟Man を意味する普通名詞であった。 

偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆から The Man と呼ばれた⑦。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

 インドの Manou(まぬ) はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者であった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

 ペルシャのゾロアスター⑧の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は汝らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いなき事実であるとの得心がいくであろう。 

近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、汝には類似点を見出し得ぬかもしれないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。

一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識のなかに類似性を見出だせぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニー Manes がエジプトに摂り入れ、モーセ Moses がヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

 哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー⑨と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス⑩の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ⑪の神殿における巫女となり、古代ローマではケレース神⑫の女司祭となり、後にあのウェスタ―リス⑬となって引き継がれていった。

 が、これはわれらが汝に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく汝の注意をその方向へ向けて貰いたい。われらはきわめて大まかな概略を述べたにすぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせるとしよう。汝にはまだ概略以上のことは無理である。


──確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。

 これまでもしばしば述べてきた如く、知識は全て霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、汝らはその陰に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。汝に学ぶ心さえあればいくらでも教える用意がある。


──
人間には取り柄はないということですか。

従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


──もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります。

すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれるものである。


──霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。

 言うことが違っているわけではない。各霊が違う説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。汝もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎなぬことが判るようになるであろう。

地上においては混じり気なき善と言うものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想と言うものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。

歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならない。
                                        プルーデンス

〔私が「霊の身元」と題する記事⑭で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。

そしてその夜、グレゴリー夫人⑮の家でデュポテ男爵による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件のついて尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された。⑰〕
 







 
 
 
 その霊が汝に取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。汝がその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬ方がよい。心を乱される恐れがある。


──(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、なぜその男はすぐに目を覚ましたのでしょう。

 非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも自縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。


──あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしていても霊は、傷つかないのでしょうか。

 肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。


──あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。

 あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこを汝が通りかかった。汝は極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響をなんでも引き寄せてしまう。この種の霊的引力は汝にはまだ理解できぬであろう。

が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。

大半の者は気づいておらぬが、全ての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある拝斥力の直感的作用に代わるのである。

 が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊も汝に取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。
                               ♰   イムペレーター


  〔註〕
  (1)プルーデンスが回答。三世紀のエジプト生まれの哲学者プロティノス。ギリシャ、ローマで学ぶ。
  (2)Djeminy. (正確にはJaimini)

  (3)Veda  Vyasa.(ジャイミニーの師) 
  (4)Devaki.
  (5)Chrishna または Krishna.
  (6)原文のままであるが、インド哲学の専門家によれば  Manu が正しく Manou という綴りは有り得ないという。訳者の推測では Manu を英語読みにするとマニューとなるので、モーゼスの英語感覚の影響を受けて原文のようになったのであろう。 
  (7)現在でもその年で最も活躍の目覚ましかった者を、 The Man of the Year などと呼ぶ。
  (8)Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。
  (9)Devadassi.
(10)Osiris.
(11)Delphi.
(12)Ceres.
(13)Vestal  virgin 女神ウェスタ  Vesta に身を捧げた処女。
(14)心霊誌 Light に連載。
(15)Mrs.  Mackdougall Gregory.
(16)the Baron Dupotet.
(17)再びイムペレーターが回答。
 
 
 




















 
 
    
 二十八 節

〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると───〕
 



 汝には解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今の汝より遥かに現実味のある信仰を抱いていた。

死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遥かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについては汝もよく知っていよう。その学識はいわば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。

 まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス①やプラトンの魂を啓発せる知識、そしてその教えを通して汝らの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれ汝の知らぬ多くのことを教えることになろう。

地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見るに参る。

その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それは汝の偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。

〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕
 


 

 いずれ教える時も来よう。が地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛かりも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛かりはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。

そして死後、彼自身の信じるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー③のもとまで辿り着いたのである。

〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕
 



 古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、いわば日常生活が即宗教であった。

この点については汝の知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質──肉体の尊厳──には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。

 エジプト人にとって生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来得るかぎり自然の腐敗を妨がんとした。その見事な技術の証拠④が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。

彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。がそれが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけて無数の再生をくり返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。

こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めていかねばならぬ。

が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。

 動物の生命を崇拝するということが汝には愚かしく、浅はかに思えるとしたら──そう思うのも無理からぬことであるが──信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬はいわば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護囊である場合もあることを忘れてはならぬ。

中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅してはおらぬ。その概念が媒体によって歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることは有る。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。

先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺が汝には理解できるであろうか 。


──ある程度出来ます。全てが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。

世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。
 

 今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、汝の述べるところは真実である。

われらとしてはただ、真理というものが今の時点での汝には不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至ってその多くが完全に消滅してしまっていることを汝に知らしめんとしているまでである。

汝自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たっては謙虚であることが大切である。


──判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形式にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですがエジプトの司祭だったのでしょうか。

 彼はオシリス⑤に司える予言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス⑥とホルス──⑦これが彼の崇拝した三一神⑧であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。

彼はその最高神を汝らの歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せる I am the I Am⑨──すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ⑩なる語をモーセがテーべの司祭たちから借用したのである。


──
原語ではどう言ったのでしょうか。

  Nup-pu-Nuk` すなわち  I an the I AM.


 この通信を送って来たのは例のラーの予言者である。〝光の都市〟オン⑫、ギリシャ人が〝太陽の都市〟⑬と呼ぶ都市の予言者で、汝らの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョムと言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。
                               ♰ イムペレーター

〔私はエジプトの神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた。〕
 


 その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は永く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。

 こうしたことに汝は深入りする必要はない。今の汝に必要なのは、汝が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。

 それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文化も科学も、いわば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。

信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期⑯、つまりは凡そ二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の根源たるラー神の純白の光の中に吸収しつくされると信じたのである。

 斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の予言者、司祭、神官、土師、書記がいた。その全てが神秘的に伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。

古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々ととある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばぬ。

 また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価すべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わぬ。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。

その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。

神の概念は未熟ではあったが、日常生活の行為の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取引においても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着はみられたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。

 現代にも通じるものがあることに汝も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。

われらが指摘せずとも汝には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教を汝らにそのまま奨揚するつもりはない。ただ汝の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深き霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。


──判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。

それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が一方にはそれを避けんとする努力も為されております。

好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが。


 そうかも知れぬ。確かに汝の言う如く、現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向があるかぎり希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも事実である。

全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を間違い、あるいは妄想とまでは言わなくとも、少なくとも非現実的ものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。

人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。


──おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望むものも大勢います。あまりに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は所詮霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。

それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。

 汝がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ汝の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。


──モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。

 まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘宝から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネル作ったのもエジプトを真似たものである。

神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム⑰の観念もエジプトからきている。いや、そもそも〝聖所〟だの〝至聖所〟だのという観念そのものがエジプトの神殿からの借用にすぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。

霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。汝も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結びつけていない。


──その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。

 無論である。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。


──それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。

 三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法に霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。


──それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー⑱はなぜ生き残らなかったのでしょう。

 彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみにかぎられていた。ために国境を越え広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の専有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但し、その影響は他の信仰の中に見られる。


──三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。
 

 想像力と破壊力とその調停者という三一神の神の観念は、インドにおいては Brahm, Siva, Vishnu,  エジプトにては Osiris,  Typhon,  Horus,  となった。エジプト神学には他には幾通りもの三一神があった。ペルシャにも Ornuzd,  Ahriman,  Mithra, (調停者)というものがあった。

 エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としての  Pthah` 太陽神すなわち最高神の顕現としての  Ra`  未知の神  Amun といった如く、神にも種々あった。


──エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。

 生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の観念であってその一つ一つは重要ではない。


──ではエジプトはインドから宗教を
移入したということでしょうか。

 一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者はわれらの霊団にはいない。
                                           ブルーデンス
〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた。⑲〕
 


 
 汝は先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が〝魂〟の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には〝肉〟の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。

インド人にとって神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとっては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとって時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。

エジプト人にとって、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドと対照的であった。がペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。

 前にも述べた如く、エジプトの信仰の他に類を見ぬ良さは、日常生活の全てがその信仰に捧げられたことである。信仰が日常の全ての行為を支配していた。そこに信仰の力があった。すべての自然、とりわけ、動物の生命を神の顕現とする信仰であった。

たとえば、エジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとってそれは存在の神秘──神の最高の表現を崇拝したことになるのであった。そうした古代エジプトの教義を形成し、われらの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、再び汝らの時代に摂り入れられて然るべきものである。


──結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動であったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように語っていますが、私からみればエジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、しつこく身体を洗ったりヒゲを剃ったりしたものは愚かとしか言いようがありません。

 そうとばかりは言えぬ。あの儀式はあれなりのあの時代と民族にとって必要なものであった。もっとも、
われらが指摘せんとしているのはその底に流れる観念でしかない。エジプトにおいては、芸術の文学も科学も全てが宗教のためのものであった。

とは言え、信仰のために日常の暮らしが窮屈に縛られたわけではない。それどころかむしろ生活の行動の全てがその崇拝の行為の厳粛さによって高められたのである。エジプトの宗教の真髄はそこにあり、また、そこにしかない。

これほど崇高なる信仰は他に見出せぬ。神の見守る中での生活──身の回りの全てを神に認識し、全ての行為を神にささげ、神が純粋である如く己の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる──これこそ神の如き生活を送ることであり、たとえ細かき点において誤りがあろうと、それは敢えて問われるほどのものではない


──確かにわれわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただってまさか人間の信仰が絶対に偏見がないとおっしゃるつもりはないでしょう。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたの理想とされるものとはならないでしょう。

 確かにならぬ、時代は常に進歩し、より高き知識を獲得していく。初歩的発達段階にあった別の民族に適せるものが必ずしも現代に合うとはかぎらぬ。が、獲得するものもある一方には失えるものもある。

そしてその失えるものの中には、いかなる形式の信仰にも等しく存在すべきものがある。それが己への義務と神への献身である。これは決してエジプトの信仰のみの専有物ではない。キリストの生涯とその教えの中ではむしろそれがより高度に増幅されて具現されている。

然るに汝らはそれを忘れ去った───真の宗教の証というべきものを失った。その点において、汝らが軽蔑し批判する者の方が汝らを凌いでいることを篤と認識する必要がある。

 常に述べてきたことであるが、人間の責務はその人間の宿す内的な光によってその大小が決まる。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、大きくなるのである。

信ずる教義の如何に関わらず、正直さと真摯さと一途さによって向上した者も多ければ、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。

われらにはその真相がよく見て取れるのである。信仰の形式───汝にはその形骸しか見えぬのであるが───は大して重要ではない。人間には生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ぬ。

問題はそれをどう理解するかにあり、それによって真価が決まる。地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、またマホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるか、パルシ―教徒⑳となるか、それは生れついての宿命的巡り合わせと言える。

が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に係わる問題である。地上にて与えられる機会は霊によってさまざまであり、それを如何に活用するかによって、死後の生活における向上進化に相応しき能力が増す者もあり減る者もいる。その辺のことは汝にも判るであろう。

故にパリサイ主義的クリスチャンが侮蔑を込めて見下す慎ましく謙虚なる人間にとっても、あるいは恵まれた環境と、向上の機会の真只中に生をうけた人間にとっても、真の向上の可能性においては些かも差はないのである。

要は霊性の問題である。汝はまだその問題に入る段階に来ておらぬ。汝は形骸にのみこだわっている。核心には到達しておらぬ。


──でも、いくら真面目とは言え、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行いの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が遥かに上だと信じますが。


 全存在のホンの一かけらほどに過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたら最期、二度と取り返しがつかぬというほど大事なものは有り得ぬ。汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の、宿命的な限界によって拘束されている。

本人には障害であるかに思える出来ごとも、実は背後霊が必要とみた性質───忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけんとして用意する手段である場合がある。一方ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入れる生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させんとして企んだワナである場合がある。

 汝の判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断している。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴があることが理解できぬ。

 なお汝の言い分についてであるが、人間は己に啓示され理解し得たかぎりの最高の真理に照らして受け入れ行動するというのが、絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである。


──〝最後の審判を説かれますか。

 説かぬ。審判は霊が自ら用意する霊界の住処に落ち着いた時に完了する。それに誤審はない。不変の摂理の働きによって落ち着くべきところに落ち着く。そして一段と高き位置への備えが整うまで、この位置にて然るべき処罰を受け、それが完了すれば向上する。

その繰り返しが何回となく行われるうちに、鍛練浄化のための動の世界を終了し、静なる瞑想界へと入滅する㉑。


──と言うことは審判は一回きりでなく、何回もあるということですか。

 そうとも言えるし、そうでないとも言える。数かぎりなく審判されるとも言えるし、一度も審判されないとも言える。要するに魂は絶え間なく審判されているということである。つねに変化する魂に自らを適応させているということである。汝らが考えているが如き、全人類を一堂に集めて一人一人審問するということなどはない。あれは寓話に過ぎぬ。

 鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行いによって一つの性格を形成する。その性格にはそれなりの相応しき境涯がある。そこへ必然的に落ち着くことになる。

そこに審判というものはない。即座に判決が下る。討議も裁きもなく。諸々の行状の価値がひとまとめに判断される。地上に見られる如き裁判のための法廷など必要ではない。魂みずからが己の運命の決定者であり、裁判官である。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまる。


──一つの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか。

 似たようなものはある。それは霊体が、徐々に浄化され、低俗なる要素が拭い去られるという意味で似ているということである。上へ行くほど身体が純化され、精妙となっていく。故にその変化は汝らが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではない。

脱ぎ捨てるべき外皮を持たぬからである。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高き境涯への向上という点においては同一である。


──そうやって全ての不純物が消えると霊は瞑想界へと入り、そこで完全に浄化され尽くすというのですか。

 そうではない。全ての不純物が取り除かれ、最後に純粋なる霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界へと入っていくのであるが、そこでの生活は実はわれらにも知ることを得ぬ。ただ判っているのは、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいていくということのみである。

友よ、完成されたる魂の最後に辿り着くところが、それまでひたすらに求め来たれる神──その巡礼の旅路のために神性を授け給いし父なる神の御胸であるかも知れぬぞ! が、それも汝と同様われらにとって単なる想像に過ぎぬ。

そのような問題は脇へ置き、今の汝にとって意義あることのみを知り得ることで有難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘の全てを通暁してしまえば、汝の精神はもはや活動の場がなくなるであろう。ともかく汝が地上にて知り得ることは多寡が知れておる。

が、たとえかぎりはあっても、知らんと欲することは許される。知らんと欲することによって魂を浅ましき地上的気苦労に超然とさせ、真の在るべき姿に一層近づくことを得さしめることであろう。神のお恵みのあらんことを!
                               ♰ イムペレーター

〔註〕
 (1)Pythagoras ギリシャの哲学者・数学者・宗教家.
 (2)Plato ギリシャの哲学者。
 (3)Ra エジプト神話の太陽神。
 (4)ミイラ
 (5)Osiris.
 (6)Isis.
 (7)Horus.
 (8)Trinity. 三位一体観。
 (9)旧約聖書〝出エジプト記〟3・・4では  I am that I am となっている。他からの働きかけによって作られたものではなく、時を超越して自ら存在し続けるもの、即ち実在ということ。
(10)Jehovah
(11)Thebes ナイル川沿いのエジプトの都市。
(12)On 創世記 41・・45
(13)Heliopolis.
(14)Chom.
(15)ブルーデンスに替る。
(16)Sothic cycle 古代エジプト暦によって古代エジプト史の絶対年代を決定する際の基準の一つで、一周期が1460年。
(17)Cherubim 創世記3・・24その他。
(18)前節参照。
(19)再びイムペレーター。
(20)Parsee ゾロアスター教の一派。
(21)三節参照。
 



  
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  二十九 節
〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られてきたが、その中で唯一普遍的な内容をもつものを紹介する。〕
 



 
 

 このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人を騙さんとして他人の名前を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も〝未熟霊〟の中に入る。

その種の霊による面倒や困惑の危険性が汝の身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。いかにもわれらに協力せんとしているかに見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。

その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにある。

 この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。

それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が集結する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからであるようである。となれば、汝の霊眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。

曾て地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

 肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。

地上では肉体はすでに病に蝕まれ精神はアルコールによって麻痺されていた。それが曾ての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、憑りつきやすき飲んだくれを見つけてはけしかける。

けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるべき都会の片隅に不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもたらすのである。こうした現実が汝らの身のまわりに実在する。

それに汝らは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある──あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを非難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか 。何故どこからも非難の声が上がらぬのであろうか。

何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によって汝ら人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。

そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。

曾ての飲んだくれは──汝らの目には死んだと思えようが──相も変わらず飲んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

 一方人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ──その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず彼らはその哀れなる犠牲者なのである──を抱き、その不当行為への仕返しに出る。

地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(そそのか)し、己が犠牲となりしその環境のその永続を図る。汝らは一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。

根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。共同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。汝らは実は利己主義者なのである。その利己主義者が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。

ああ、友よ、汝らの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、汝ら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

 かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変わり得るであろうか。

肉欲の塊が至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それが有り得ぬことくらいは汝にも判るであろう。

彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

 この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行き渡っているだけに、なおのこと危険なのである。

地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱めるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

 汝ら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それを汝らのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。

その押しつけんとする宗教と文明が汝らにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、汝らの説く宗教は、真のキリスト教の名に値する単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。

汝らの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠しきれず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至っては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。

その点においては、人間本来の感性を文明によって矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インデアンのほうが、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた滑稽なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遥かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

 地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え、途方に暮れている。霊的影響力を受け付けぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。

が、その悶えも、取り囲む闇の帳を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。折角の決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。

その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

 では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷──実はすぐ目と鼻の先の汝らの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが──そうした巷より霊界入りする人間はその後如何なる経過を辿るであろうか。

彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は属悪臭に満ち溢れている。

金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲と、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか──汝は一度でも想像してみたことがあるであろうか。

魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるべき仕事も持たぬ。

発育は歪(いびつ)となり、落ち着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(そそのか)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。

そうなるが最期、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏──そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

 が、汝らはそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その諸悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。

そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。

われらも汝に理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。
  結婚
差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病と犯罪と貧困と精神病等の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。

その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰──犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。

そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。汝らはこれまで抱いてきた結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。

結婚の美名のもとに行われる退廃と堕落の大根源を抹殺するにはまず、それまで汝らが佳しとしてきたものに代わって、幸福と進歩のための、より真実にして神聖なる規範を学ばねばならぬ。われらを誤解してはならぬ! われらは放縦を唱道する者ではない。

世にいう社会的自由の伝道者ではない。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落する。その堕落せる観念をわれらは軽蔑を以て拒否する。かの恥ずべき人身売買──最も神聖なる生命の法則の侮辱とも言うべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われらは結婚の美名のもとに行われる人身売買を軽蔑するものである。

 汝は未だに肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉に宿って送る地上生活にとって必須のものであることを理解しておらぬ。それについては前にも述べたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことであるが、この問題に置いても汝らはわれらの敵に味方する結果となっている。

汝らがその独占者を以て任じているていところの純粋にして崇高なる霊的福音が地上にもたらされてはや十九世紀の歳月が流れた。然るに汝らは真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、殆ど成長らしき成長をしておらぬ。

それどころかむしろイエスがその修行時代を過ごせるエッセネ派にも及ばぬ。イエスに最も辛辣なる非難を浴びせし律法学者やパリサイ派と同列である。

 汝は知らぬ。肉体と霊の問題──この世のみならず死後の生活にもかかわる重大なる意味を持つこの問題について、汝はまるで判っておらぬ。

 以上、曾て言及しておいた、われらに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにして
みた。彼らは勢力を結集してわれらの仕事を挫折させ、悩ませ傷つけんとスキを窺っている。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によって時々刻々その勢力を拡充していきつつある。

 これまでわれらはもう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために力のかぎりに努力している霊の集団については述べずにきた。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高き生きざま、心豊かな行為については敢えて述べずにおいた。

それは、われらの目下の仕事がその反対の暗黒面を描いてみることにあるからである。出来るだけその方向へ汝の注意を仕向けてきた。

言っておくが、われらはその内面の姿をあるがままに描いているのである。われらの通信の底流をなす深刻なる真理、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われらが担える仕事の今後の進展に大きく係わる重大な事実だからである。
 
今しがた述べたことも、われらに敵対する組織的集団について曾て述べたことをくり返し述べたに過ぎぬ。が、これ以後ますます繁くなりゆくであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えておいた。

それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求が募るにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企みのために多くの霊媒が利用される可能性が大きくなるということである。

これは特殊な敵対手段であり、もっとも大なる危険性を秘めている。と言うのは、程度の低き霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちている。彼らは、目を見張る心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味を持つ者を得心させようと強力に働きかけている。

いったん得心させれば、あとは容易である。トリックとペテンを弄し、同時に真面目な道徳的説教も交えつつ、徐々に疑念を誘い、はじめ霊の存在に向けられた不信感と猜疑心が次第に心霊現象そのものと道徳的教訓にまで広がっていく。

 心霊現象は、単に人間の目を見張らせ、面白がらせるためのものではない。肝心の目的は霊的教訓にある。それに対する不信感を煽る手段としてこれに勝る巧妙なるものはない。人間は最後にこう言いはじめる──われわれは色々とやってみた。

自らも実験してみた。そして真相が判った。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに悪魔の仕業である、と。

そう考え始めた連中に正と邪を見分けるようにと説いてももはや無駄である。揺らぎ始めた信頼がそれを許さぬ。初め信じてかかったものがニセであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫となって辺りに散乱する。基礎が十分でなく、建造物を支えることが出来なかったということである。

 繰り返し述べるが、これほどわれらの仕事を麻痺させ悪魔的策謀はない。われらは厳粛なる気持ちをもって警告するものである。必ずわれらの警告に従って行動してもらいたい。次から次へと無闇に派手な現象を演出して見せてくれる時は用心するがよい。

そうしたものは大体において低級にして未発達なる霊の仕業である。その演出には往々にして招かざる客が携わっておる。

驚異的現象も余り度を越すと、ことに結集したばかりのサークルにおいては大いに危険がある。心霊実験も必要である。われらは決してある種の人間にとっての効用を過少評価する者ではない。求むる者全てに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思う。

が、そうした物理的現象のみの興味、魂の成長に殆ど役に立たないうわべの興味にのみ終始して貰っては困る。そうした現象にしか興味を抱かぬ者の目には、われらの為すことが時として人間のすることよりお粗末に映ることすらあろう。が

現象そのものを目標としているのではない。目標は一段高き次元にある。またこの世のものとは別の存在がこの世の法則に干渉できることを証明して満足としているわけでもない。

もしそれが全てであるとするならば、そうした事実を知ることは害にこそなれ、益にはならぬであろう。われらは唯一絶対の至上命令を下されている。その使命達成のために地上に戻ってきた。それ以外に用はない。その使命は汝にも判っていよう。

信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われらは人間が神の火花を宿すが故に永遠不滅であることを証しにくる。古き時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫へと目を向けさせる。

 われらが、不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のために、その本来の目標を脇へ置くことがあるが、それは決して人間の好奇心を喜ばせるためではない。あくまでも目的のためにやむを得ぬ手段として必要とみたからであり、決して望ましきことと考えているわけではない。仮に無害であるとしても、われらは同じ忠告をするであろう。

が、現実にはわれらが最も恐るべき反抗集団による攻撃手段とされるが故に、そうした物的現象を無闇に求めたり、それを以てわれらとの交霊の目的とすることを、われらは声を大にして警告するものである。

 心霊現象はあくまでも確信を得させるための手段に過ぎぬものと心得よ。その一つ一つを霊の世界より物質の世界への働きかけの証と受け止めよ。それだけのものに過ぎぬと理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用せよ。

現象はどういじくってみたところでそれ以上の価値は出てこぬ。それに、霊側がこれ以上やっても無駄とみた時は、そうした現象をより得意とする霊に譲って引き上げてしまう。

かくして折角の奥深き啓示の機会が逃げ去ることになる。あくまでも現象を基礎として、そこより一歩踏み出さねばならぬ。現象に携わる知的存在の本性は一体何であるのか、いずこより来るのか、その意図は、等々を知ろうとせねばならぬ。

きっとそれが神の計画であり、その拠って来る根源も意図も至純にして必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。

魂の辿る道程と、人間が死と呼ぶところの変化に最も有効に対処できる心がけについて納得のいく指針を得たく思うことであろう。それは当然の成り行きである。何となれば、万が一、われらが人類と同類でないとすれば、われらの体験が汝らに一体何の役に立つというのであろうか。

万が一汝ら人間の不滅性を語れぬとすれば、われらがこうして存在し続けていることを幾ら徹底的に証明してみたところで、一体何の意味があろう。妙な話になりはせぬか。これほど奇妙な話もあるまい。

 汝が首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探究にまで進めば──要するにわれらの意図を信じてくれれば──その暁には、未だ汝が知らずにいる世界に案内することが出来よう。その世界については汝の国②以外の国の真摯なる探究者にはすでに、遥かに奥深きことが啓示されている。

汝らの国ではまだその恩恵に与れる者は僅かである。こうした自動書記による通信も、テーブルラップ③その他のぎこちなき手段に較べればよほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物的手段を経ぬ直接的な霊と霊との感応に較べればその比ではない。

スピリチュリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送れるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢いる。

英国民の精神の不信心性と、興味の唯物性と、雰囲気の低俗性の故に、われらの思うに任せぬことが米国では着々と成果を上げていきつつある。われらの仕事は俗事を処理するようなわけにはいかぬ。われらは心を読み取ってしまう。

故に汝らが実際には興味を覚えぬくせに、つまり真にやる気を持たぬのに、いかにもそれらしく装ってみたところで──心底より信じぬままわれらの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもならぬ。いつの時代にも、いずこの国においても常にそうであった。

高級なる霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おり為される。が、まだ時期尚早であることを悟って手を引くことがある。もっとも此の度われらが述べんとするのはそのことではない。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物的現象はいち早く卒業して霊的知識へと進むよう忠告せんとしているまでである。

進歩には受け入れ態勢が先行せねばならぬ。が、われらとしては汝が少しでも早く物的束縛から抜け出て、ひたすら霊的真理の追究に専念する日の到来を望み祈る気持ちである。

汝にはその目標に向かって迷わず一意専心せねばならぬ。有象(うぞう)無象の意見を振り切り、地上の生活者として出来得るかぎり物的感覚より脱け出なければならぬ。

 永遠なる父よ! 私たちはあなたの御名のもとに勤しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちの語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚ましめ、私たちの説くところを悟らしめます。

願わくば彼ら地上の者の心に信仰を育み給え。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればこそでございます。
                               ♰ イムペレーター


〔私は右に述べられたことが全て真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法や秩序が霊界にないのが理解できないと述べた。読んでいると何だか彼らは好きに振る舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に彼らが他人の名を騙るという事実が不思議に思える。何故そんなことに興味を覚えるかが理解できないと述べた。〕
 
 
 
 
 
 

 
 われらの世界に法も秩序も、なきが如くに想像するのは誤りである。汝らの側にて整えるべき条件を整いてくれぬことがわれらの秩序ある努力を挫折させているに過ぎぬ。交霊会を催すに際してはまずそれなりの条件を整えねばならぬ。

それさえ励行してくれれば、これまでの如き悪戯や混乱の半分は除去されるであろう。もっとも汝らの言う悪の要素が完全に抹殺される日はこぬ。

何となれば、そうした体験も霊的鍛練の一つであるからであり、われらとて汝の進歩的発達を促すこの過程を免除してやるわけには参らぬのである。汝にはその過程を通過する必要があるのである。まだまだ学ばねばならないことが多々ある。こうした実際に即した体験もその勉強の一つと心得るがよい。

 邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうした悪戯を愉しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄する才能を持っているということである。

人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て対応する。そうした霊は交霊会が用心を怠らず霊側で守護の任に当たる者が鋭くにらみを利かせれば、大抵は締め出すことが出来る。

無闇に交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それが為に霊側の厳戒態勢が整わぬようでは、彼らの侵入を許す危険が大である。

われらの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種の悪戯(いたずら)霊の侵入を許しているとみてよかろう。単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人
友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙(かた)りなのかを見分ける用心を怠る。

あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大まじめで聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを愉しみとして何の不思議があろう。

 
──そんなことでは、これで絶対大丈夫という確信を得ることが出来ませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが結局トリックだということにならない保証はどこにもないではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対安全と言える人がいるでしょうか。


 その問いに対しては既に述べたことをくり返すのみである。われらの信頼性と誠意と客観的存在については、汝には既に証明ずみである。証拠の上に証拠を重ねてきた。

われらの道徳的意識の程度は全ての面に一貫する誠意──汝に授けた教訓に一貫する基調を以て証明してきたつもりである。それは汝らの判断にて評価されたい。汝の評価を得て始めて世の全ての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになろう④。

いますでに汝はそれを全体の傾向として崇高にして善なるものであることは認めておろう。われらの身元、われらの仕事、そしてわれらの目的に関して汝は、一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしているに相違ない。


──おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっておれば、容易に信念を揺るがせなかったと思われます。

 それは十分に有り得たことである。万一の場合われらがその働きにどこまで対抗できたかは判らぬ。が、そのような危険に足を踏み入れることはわれらはご免蒙る。あの場合にしても、どう警告したところで彼らはそれに対抗して巧みに操り、うまく人の名を騙って、挙句には、ただでさえ心もとなき信念に致命的打撃を与えたことであろう。

汝にとってそれは真実危険である。何にもまして、矛盾せる偽りの言説は、汝に猜疑心を誘発せしめることであろう。その猜疑心は遂にわれらへの信頼を覆し、われらは退散のやむなきに到るであろう。


──確かにこれは、係わり合うと実に危険な存在であるように思われます。

 何事にせよ、乱用は感心せぬ。正用は結構であり、それを常に心がけるべきである。軽薄なる心で以て霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽卒者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり──この種の者とっては危険が実に大である。

われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。賢明にして強力なる背後霊に守られ、その指示によって行動する者のみがこの道に携わるべきであり、それも細心の注意と誠心からの祈りの念をもって臨むべきである。

不用意な係わり合いは断じて許せぬ。また、円満な精神と平静な感情の持ち主にあらざれば、とても霊界との安全なる係わり合いは不可能であり、己の地上生活に禍の種子を持ち込むのみである。

節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性質の持ち主は低級霊にとって恰好の餌食となる。その種の人間が心霊に係ることは危険である。特にその求むるところが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めに過ぎぬ場合はなおのことである。

その主の人間には神の訓えは耳に届かぬ。願わくば聞く耳をもつ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして高級界のより聖純なる大気の中へと進んでくれることを望むこと切なるものがある。


──それはしかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っ付きにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり⑤、椅子が浮揚するのを見るほうを好むものです。 
 

 確かに汝の言う通りである。それはわれわれも十分に承知している。が、現在の段階はあくまで通過すべき段階であらねばならぬ。われらの仕事にも物理現象は付随する。がそれは真の目的ではない。われらが期待してる真の発展の地ならし程度であらねばならぬ。

これより後も、各地で一層盛んに見られるようになるであろう。われらはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在汝がおかれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはせぬ。

遺憾には思うものの、その必要性は認める。この件については付言すべきことがまだあるが、今は控える。暫し休息せよ。


  〔僅かばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。〕


 邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えぬ。

肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻ってこぬものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

 言い残せるものにもう一種類の霊団がある。それは悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて如何にも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因がそこにある。

茶目っ気や悪戯半分の気持ちから如何にも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。

列席者が望む肉身を装って如何にもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在の所為である。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、その殆どは彼らの仕業である。

通信にふざけた内容、あるいは、ばかばかしい内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道徳的意識はもち合わせぬ。求められれば、いつでも如何なることでも、ふざけ半分いたずら半分にやってみせる。

その時々の面白さ以上のものは何も求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。

 人の道を誤らせ、邪な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。霊媒を密かに操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪なる目的を示唆する。要するにその障害物、妨害ならんとする。

係わるのは主として物理的現象である。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆を以て、混乱を惹き起こさせる現象を演出する。

数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって惹き起こされる当惑の様子を見てほくそえむ。憑依現象を始めとする数々の心霊的障害は往々にして彼らの仕業に起因する。一たん付け入れば如何ようにでも心理操作ができるのである。

個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らである。如何にもそれらしく応対し、嬉しがらせるような言葉を述べて欺く、間違いなく本人が出て、しっかりとした意思の疎通が行われることはある。が、

次の会では巧みに本人を出し抜いていたずら霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わぬ話を織り混ぜたり、全くの作り話を語ったりする。汝はそうした霊に付け入れられぬためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である。
                               ♰ イムペレーター

〔註〕
(1)the Essenes ユダヤ教の一派で禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。
(2)英国
(3)テーブルがひとりでに傾斜して、一本の脚が床を叩き、その符牒によって通信を交わす。
(4)本書の形での公表は、霊側は当初より意図していたことが窺われる。
(5)霊がメガホンなどで列席者の頭や肩を叩いてまわることがよくある。訳者にも体験がある。人情的にはなぜか「うれしい」ものである。
  



 
 
 
 


 
 
 三十 節

〔霊は何かと祝祭日が好きである。その所為でキリスト教の祝祭日に関する特別のメッセージが数多く寄せられてる。一例として三年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。一八七四年のイムペレーターによるメッセージに較べると、一八七五年に別の霊がサインしたものが雰囲気も異なり観点も異なる点に気づかれるであろう。〕

〔イースター。一八七四年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが書かれた。〕
 









 あの通信が届けられたころの汝の心境と現在の汝の知識とを比べれば、汝の進歩の良き指標となろう。重大なる問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めたかがよく判るであろう。

あの頃われらはいわゆる〝復活〟が肉体の復活ではなく〝霊〟の復活であることを説いた。遠い未来ではなく死の瞬間における蘇りの真相を説明した。その時点においては汝にとって初耳であった。が今は違う。当時理解に苦しんだことについて今は明確な理解がある。

イエスの地上での使命と、今その使者を通じて進行中の仕事についても説いた。イエスの真の神性──汝らが誤って崇拝してきた〝主〟の本来の偉大さについても説いた。イエス自ら述べた如く、イエスが汝らと同じ一個の人間であったこと、ただ比類なき神性を体現する至純至高の人間の理想像であったことを説いた。

愚かなる人間神学が糊塗せるイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての人間イエス・キリストの実像を明らかにすることが出来た。

 イエスは肉体をもって昇天したのではなかった。が決して死んでしまったわけでもない。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説いた。われらも同様のことをする日が来るかもしれぬ。

 今汝が見ているのはこれから始まる新しき配慮──人間が空想し神学者が愚かにも説ける人類の最後の審判者としての〝主〟の出現ではなく、われら使者を通じての新たなる使命(実は古き真理の完成)、地上への新しき福音の啓示という形による〝主〟の出現の前触れとしての〝しるしと奇跡〟なのである。

すでに地上に進行しつつあるその働きの一環をわれらも担っている。イエス・キリストの指導のもとに新しき福音を地上にもたらすことがわれらの使命なのである。

今はまだその一部しか理解できぬであろう。が、いずれ、のちの時代にそれが神より授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることであろう。

 このところ汝の精神の反抗性が減り、受容的態度が増したことにより、われらは直接的働きかけが目立って容易となってきた。これに加えて忍耐力と同時に祈りの気持ちと不動の精神をぜひ堅持してもらいたい。われらの目差す目的から目をそらせてはならぬ。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージをくり返しじっくりと噛みしめることである。進歩の妨げとなる障害物をつとめて排除せよ。

もっとも、日々の勤めを疎かにしてもらっては困る。そのうち今より頻繁に汝を利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではない。そのためにはまだまだ試練と準備とが必要である。友よ、その時期まで汝は火の如き厳しき鍛練を必要とすることを覚悟せよ。

地上的意識を超えて高級霊の住める高き境涯へと意識を高めねばならぬぞ。これがわれらからの復活祭(イースター)のメッセージである。

死せるものより目覚め、魂を甦らせよ。地上世界の低俗なる気遣いより超脱せよ。魂を縛り息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。死せる物質より生ける霊へ、俗世的取越苦労より霊的愛へ、地上より天界へと目を向けよ。

地上生活にまつわる気苦労より霊を解放せよ。これまでの成長の補助的手段に過ぎなかった物的証拠並びに物理的現象を棄て去り、汝の興味を地上的なものより霊的真理の正しき理解へ向けよ。イエスが弟子たちに申したであろう──「この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ」と。

次の聖書の言葉も汝の心の糧とせよ。「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん


──私がこの世的なことに無駄な時間を費やしてきたとおっしゃってるように聞こえますが。
 

 そうは言っておらぬ。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことは為さねばならぬと言ってきたつもりである。

が、われらの願いはそうした客観的証拠がもはや必要とせぬ段階においては、そこより霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることである。向上心を要求しているのである。そして汝に求めることを全ての人間に求むるものである。


〔さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世的な仕事に全く不向きとなり、ガラスケースにでも入れておく他ないほど繊細となる──つまり霊界との関係にのみ浸りきり世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのかと尋ねた。〕
 



 

 霊媒には環境も背後霊も異なる別のタイプがある。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想であろう。汝もいずれはそのように取り扱うことになろう。もともと汝を選んだのはそうした目論見があってのことでる。

それ故にこそ、自制心に欠け邪霊の餌食となり易き人間となるのを防がんとして、時間を犠牲にしてきたのである。時間を掛けるだけ掛ければ疑念と困難が薄れ、代わって信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのである。

焦ったからとてその時期の到来が早まるものではない。たとえ早まるとしても、われらは焦らぬ。が、霊的向上心の必要性だけは、われらの仕事に関わる全ての人間に促してきた。同時に、物理的基盤が確立した以上、今度は霊的構築の段階に入るべきであることも常に印象づけてきたつもりである。


〔ここで私は曾て述べたことがあることを再度述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行われているものの多くが無価値で、時に有害でさえあること。霊媒現象と言うものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、無闇に利用すると危険であると言ったことであった。

さらに私は、信念が必要であることは論を俟たないが、私には私なりの十分な信念が出来ていること、これ以上いくら物的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。〕
 








 

 汝の信念が十分に確立されていると思うのは間違いである。信念が真に拡充され純粋さを増した時、今汝が信念と呼んでいるところの冷ややかにして打算的かつ無気力なる信念とはおよそ質を異にするものとなるであろう。

今の程度の汝の信念では本格的な障害に遭遇すれば呆気なく萎(しぼ)むことであろう。まだまだ汝の精神に染み込んではおらぬ。生活の重要素となっておらぬ。

ある種の抵抗に遭うことで力をつけることは有ろうが、霊界の邪霊集団の強力なる総攻撃に遭えば、ひとたまりもないであろう。真実の信念とは〝用心〟の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越せる無条件の〝あるもの〟にょって鼓舞されたものであらねばならぬ。

魂の奥底より燃えさかる炎であり、湧き出ずる生命の源泉であり、抑えようにも抑えがたきエネルギーであらねばならぬ。

イエスが〝山をも動かす〟④と表現せる信念はこのことだったのである。それは死に際しても拷問に際しても怯まぬ勇気を与え、長く厳しき試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成の道程にふりかかる幾多の危険の中を首尾よくゴールへ向けて導いてくれる筈のものである。

 この種の信念を汝は知らぬ。汝の信念はまだ信念とは言えぬ。ただの論理的合意に過ぎぬ。自然に湧き出ずる生きた信念にはあらずして、常に知的躊躇を伴う検討のあげくに絞り出したる知的合意に過ぎぬ。

安全無事の人生を送るには間に合うかもしれぬが、山をも動かすには覚束ぬ。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れぬが、魂を鼓舞し元気づけるだけの力はない。

知的論争における後ろ盾としての効用はあろうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為と崇高なる目的の遂行において圧倒的支配力を揮うところの、魂の奥底より絶え間なき湧き出ずる信念ではない。汝にはその認識が皆無である。が、案ずるには及ばぬ。

そのうち汝も過去を振り返り、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、且つまた、その及び腰の信念でもって神の真理の扉の開かれるのを夢想したものであると驚き呆れる時も到来しよう。

その時節を待つことである。その時節が至れば、信念に燃え崇高なる目的に鼓舞された生ける身体の代わりに、大理石の彫像を置くこともせぬであろう。汝にはまだ信念はない。


──あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくとも、些(いささ)か希望を挫けさせるものがあります。それにしても〝信仰は神からの授かりもの〟⑤である以上、私のどこが責めらるべきなのか理解に苦しみます。私は〝拵えられた〟ものです。

 違う。今の汝は内と外より影響を受けつつ汝自ら造り上げてきたものである。外なる環境と内なる偏向と霊的指導の産物である。汝には誤解
がある。われらが非難したのは、その名に値せぬものを信念であると公言したことに過ぎぬ。案ずるには及ばぬ。

汝はより崇高なる真理への道を歩みつつある。(なるべくならば)現象的なものを控え、内的なるもの、霊的なるものの開発を心がけよ。信念を求めて祈れ。汝がいみじくも〝神からの授かりもの〟と呼べるものが魂に注がれ、その力によってより高き知識へと導かれるよう祈れ。汝のそのあらぬ気遣いがわれらを妨げる。
                              ♰ イムペレーター


〔イースター。一八七五年。午前中かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及した後、それまでとは全く異質の影響力のもとに次のようなメッセージが書かれた。但し筆記者はいつもの霊である。〕
 
 
 


 すでに述べた如くわれわれもよく祭日を祝う。イースターも汝らと同じようにわれらにとっても祭日である。尤もわれわれは祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が異なる。われわれにとってもイースターは復活を祝う日であるが、肉体の復活ではない。

われわれにとっては物質の復活ではなく、物質からの復活であり、霊の復活である。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活であり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天する如くに、地上的・物的なものから魂が解放されることである。

 すべての物的存在に霊が内在する如く、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学んだ。その意味におてキリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格
の意味を持つ。キリスト教徒は主イエスの死の支配からの脱出を祝う。

その際、それを肉体のままの復活であると信じるのは誤りであるが、霊にとっては死は存在せぬという偉大なる真理を、無知の中にも祝ってはいる。それはわれわれにとっては、人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらにまた、この日に結実せるイエスの大使命の成就を喜ぶ気持ちはさらに大である。

貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について朧気ながら理解しはじめたということである。


 〔私はイエス・キリストの身体の体質と、その生涯の霊的意義について尋ねた。〕

 人類救済のために偉大なる霊が地上に降誕することはイエス一人にかぎられたことではない、と言うに留めておこう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものである。

そうした特殊なる降誕については、こののち更に述べることになろう。差し当たっては、人間の身体にも民族性によって程度の差がある如く、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差があると言うに留めておく。

俗世と官能性とを多分に具えた者もおれば、霊性高き洗練された者もいる。中でもイエスは最も洗練された霊性高き身体を具え、しかもそれが僅か三年の活動に備えて三十年もの鍛練と修養を重ねたのであった。〔この時私の脳裏に、三年のために三十年を費やすのは不釣合だ──勿体ないという思いが走った。〕

 救世主の為せる仕事が地上生活の期間にのみかぎられていると思うのは間違いである。イエスの場合に見られる如く、真の影響はその死後の余波にある場合がよくある。イエスの仕事はその三年の間に始まったのであり、そして今なお続いているのである。

 イエスの生活の特質は威厳と謙虚の合体であった。威厳さと平凡さとの結合にあった。威厳さが発揮されたのは誕生時と死亡時、その他、ヨルダンにおいて霊がイエスを試し、その使命を神聖なるものと認めた時等⑥、その生涯の節目にいくつか見られる。

住民はイエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていた。その生涯が俗世間の社会生活や家族的関係によって束縛されるべき人物でないことを知っていた。

と言っても、イエスを取り巻く生活の和気あいあいたる雰囲気は、イエスにとって心地よきものであった。それを住民は理解していた。聖書はそうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分である。

イエスの言葉と行為が住民に及ぼした影響に関する言及が余りに少なく、一方、いつの時代にもある如く新しき真理に楯ついた当時の学者並びに貴族階級の愚かなる誤解についての言及が余りに多すぎる。律法学者、為政者、パリサイ派、並びにサドカイ派の学者は挙(こぞ)ってイエスの敵にまわった。

今もしイエスが当時の真の姿のまま教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者も挙りてイエスを嫌い、あるいは迫害することであろう。

 仮に貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちから証言を得ようとは思わぬであろう。イエスの言行についての記録がそうした無知なる知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡なる住民と共に暮らせる生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述が余りに少な過ぎるところに問題がある。

編纂者たちはイエスの直接の教えを受けた者との接触がなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得た。それでは恰も何世紀ものちになって歴史を編纂するにも似ていよう。その点をよく心しておくがよい。

 イエスの生涯は世間に知られているかぎりでは三年と数ヵ月であった。それまでの三十年間はそのための準備期間であった。その間イエスはずっとその使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団⑦からの指示を受けていた。

イエスは常に霊界と連絡を取っていた。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることが出来たのである。

 地上の救済のために遣わされる霊はその殆どが肉体をまとうことによって霊的視野が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常である。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さ故に霊的感覚を鈍らせることが殆どなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることが出来た。

天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していた。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、一人の時は、殆ど常時、肉体と離れて天使と交わっていた。長時間に亙る入神も苦にならなかった。

そのことは聖書に幾つか例を見ることが出来よう──荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶、いずれも誤り伝えられてはいるが。

 さらにまた、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれらが授けた知識によって思い当たるものがあろう。そうしたものが数多くあるのである。

 イエスにとっては肉体が殆ど束縛とならず──それはまさに仮の上着であり物質界と接触する時にしか必要でなく──その生涯は普通一般の人間とは質こそ同じであったが程度において異なっていた。

より清らかにして素朴であり、より崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間であった。そうした生活は同時代の者には決してその真価を理解されることは有り得なかった。誤解され、曲解され、謗(そし)られ、思い違いをされるのは当然の結果であった。

それは大なり小なり一般より抜きん出た者に共通して言えることであるが、イエスにおいてはまた格別であった。

 その聖なる生活は人間の無知と悪意とによって、その半ばにして終焉を迎えた。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していない。確かにイエスは人類の犠牲となるために来た。
 
がその意味は熱烈なるキリスト教徒の説く意味とは異なる。カルバリ⑧の丘でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図せるものではなかった。

使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中には無かった。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、且つ忌まわしき出来ごとであった。

 イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類のために死ににきた。そして至上の目的のために己の肉体を犠牲にしたのである。その意味においては確かにイエスは人類を救い、人類のために死ぬために地上に降りた。

しかしあの愚かしきカルバリの丘での終末のシーンがあらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって来たのではなかった。これは重大なる意味をもつ問題である。

 もしイエスが地上生活を全うしておれば人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れぬものがある。が時期尚早であった。当時の人間はその施された恵みを僅かに味わっただけで棄て去った。それを受け入れる用意が出来ていなかったのである。

同じことが全ての偉大なる指導者について言える。まわりの人間は理解し得るものだけを取って残りを後の世へ遺し、あるいは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早に過ぎた霊を崇め敬慕することになる。これまた由々しき問題である。 

 受け入れの機が熟さぬうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていない。否、それは神ご自身の計画の中にもなかろう。神の統(おしな)べる全宇宙は整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばならない。今も同じである。

今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上は曾て天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に浴することが出来ることであろう。

が、今はまだその時期ではない。僅か一握りの備えある者のみが、後の世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を受け入れるのみである。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終ってしまったと言えよう。

 のちにキリストの名を標榜する教会が天使の影響のもとにイエスの生涯が象徴する真理をかき集めた。が、悲しい哉、今やその真理も、長き慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至った。

 貴殿も知る如く、キリスト教界の三大勢力は⑨イエスの生涯の出来ごとの幾つかを祝う点においては一致している。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派があるが、これは感心しない。彼らは真理の一部を自ら切り取ったのも同然である。

が、教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。

 クリスマス(キリスト降誕祭⑩)──これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿とし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとりてクリスマスは無私の祭日である。

 エピファニー(救世主顕現祭⑪)──これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来る全ての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。

 レント(受難節⑫)──これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

 グッドフライデー(聖金曜日⑬)──これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち〝死〟を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

 イースター(復活祭⑭)──これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた霊の蘇れる生命の祭りである。

 ペンテコステ(聖霊降臨祭⑮)──キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。

人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の本流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。

 アセンション(昇天祭⑯)──これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的決別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。

存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。


 以上がキリスト教徒の祝日に秘められた霊的な意味である。われわれ及びわれわれの仕事の最高指揮者であられる霊(イムペレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当ててくださったおかげで、われわれが今こうして全ての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのである。

人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明らかにされるのである。

 われわれは貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成せしめたいと望んできた。これまでは破壊することが必要であったが、今や構築を必要とする段階となった。

神の子羊、人類の救い主イエス・キリストがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出せるごとく、今度はわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばならぬ。イエスは真理を求めて喘ぐ魂を地上的煩悩より救い出し、邪霊の支配から解き放った。

われわれは魂を人間的ドグマの束縛より解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らしめんと思うのである。


イースターメッセージ。一八七六年。
 『磔刑(たくけい)と復活──自己犠牲と新生』
 〔私は〝死〟と〝生命〟の問題、とりわけ霊性に係わる象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は〝死〟と〝復活〟との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生への道であると考えて良いかと尋ねた。⑰〕


 その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。汝の言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないとうことである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。

〔言われるまま私は一八七五年イースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。」クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕
 

 
 
 
 
 
  その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生命の進歩的発展が(汝らの用語で言えば)天国にて完成される───自己否定の中に誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。

人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとで三十年余の準備期間はイエスの使命にとって相応しきものであり、三年の短き期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。

人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭に象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。

自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超越し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によって用意された境涯⑱へと進む。

 これぞ霊の進化であり、磔刑(はりつけ)と復活によって単的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。

肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑──パウロの言う〝日毎の死〟⑲である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であり日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。

地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯についての理解を深めることである。

物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展──あたかも火によって、全てを焼き尽くすほどの熱誠によって焼き払う如く、物的汚れを清めていくことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、真の真理の終わりなき悟りのための行(ぎょう)である。

 これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ霊的〝炎〟が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、且つ一時期に凝縮されることがある。

一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。


 ──その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服していくべきか迷います。

 先ず己より始めよ。古(いにしえ)の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある──己自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は〝俗世〟と〝肉体〟と〝悪魔〟と表現している。

 まず己れ自身すなわち〝肉〟の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己れ自身を克服せよ。

これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

 これさえ成就すれば、その魂にとって目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最期、それ以後は外界の物的形態を真理の影──人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。

物質は殻であり、それを剥ぎ取ってはじめて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。

そう悟れる魂にとってはもはや、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとっては、表面(うわべ)上の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。

物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に叶う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとっては真実の意味において〝身を棄ててこそ浮かぶ瀬〟⑳もあるのである。

その生活は魂のための生活である。何となればすでに〝肉〟を征服し〝世間〟ももはや魅力ないからである。

 が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服していくことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。

何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

 以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。

一日一日が死であり、そこより新たな生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。汝らの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。


──Sic itur ad astra.㉑ これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学においても中心的思想となっています。キリストの言葉の中にも生涯キリスト自身を鼓舞し続けたその思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。


 そこに、キリストの言える如く、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるわけである。この高度な理想は日常の雑務に心を奪われている者にはまずもって実現不可能である。

だからこそわれわれは汝の関心を出来るかぎり物理的交霊実験より逸らさんとしてきたのである。危険とみたのである。物理的現象より超脱するよう努力せねばならぬ。構わず放っておくがよい。その種の交霊は隠遁生活でも送れる者にのみ相応しかろう。


──ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために世間との接触に適応できなくなる。あるいは、とにかくその霊媒の性格が普通の生活をしにくくさせるものとなり、そういう種類の影響力ばかりを惹き寄せるようになる、と。


 そうした傾向は多分にある。だからこそわれらは余りに物質的すぎる現象を控え、危険性の少なき精神現象を発達させてきたのである。とにかく、われらが全てを良きに計らっていると信ずるがよい。

危険なのは背後霊が背後霊としての仕事がやり難くなった時である。そうなりたる時の危険性は深刻である。が案ずるには及ばぬ。汝の歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱強く待つことである。
                               ♰ イムペレーター
 

 〔イースター。一八七七年〕

 神の祝福のあらんことを! この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思う。
 このキリスト教の祭日のもつ素朴なる象徴的意義については述べぬ。すでに述べてあるからである。すなわち葛藤のあとに得られる勝利について説いてある。

汝も人間イエス・キリストの生涯の中にいかに霊の向上進化が象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

 さて救世主イエスは神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活より地上へと降りられた。至純なる霊が一個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中にて誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩を具え、進歩のために唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から遁れることの出来ぬ一個の人間となられたのである。

 そこに進歩の唯一の手段としての霊から物質への降誕の一つの典型を読み取って貰いたい。遠き過去より存在し続け、必要かつ十分なる発達を遂げたる霊が、他の手段にては絶対に得られぬ進化に不可欠の葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということである。

 かくして人類の境涯へと誕生せるイエスは、たちまちにして〝この世の君㉒〟悪魔(さたん)による迫害に身を曝された。時の権力者たちは一斉にイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。

イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからである。

 すでに述べた如く、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかる毎に天使の一団が見守っているのであるが、その恩恵は格闘と煩悶〔のちに葛藤の意味であるとの説明があった〕の末でなくしては得られぬ。

危険を冒すこともなく、必死の努力もせずに、ただのんびりと夢見る如き生活の中からは得られぬ。もし得られるとすれば、それはもは
恩恵とは言えぬ。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのである。

このことをよく心するがよい。肉体を持ちて生を享けた霊には常にこれを滅ぼさんんとする霊がつきまとうことを知るがよい。
 
 幼な子イエスもそうした外敵の危険を察知する両親によって安全の地を求めてエジプトへと連れていかれた。そしてイエスはその地にて豊かなる霊的知識を身につけることになる。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露する知識の多くはそのエジプトにて摂取したものであった。

 汝にとってはもはやそうした闘争の意味について改めて深く探る必要もあるまい。敵に取り囲まれ、怯えるその霊は、エジプトを措いて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか。先人が苦闘の中に蓄積せる神秘的知識と体験の記録の中に求めたのは蓋し賢明であった。

神秘的知識の豊富なるエジプトこそ闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ徳性を涵養して霊的武力を具える兵器庫であった。と言うのは、実を言えばエジプトへの脱出には二つの意味があったのである。

一つには安全の地への逃避であったが、今ひとつは教育のための一時的逗留の意味もあった。すなわち徳性を涵養し、その中より霊的闘争の武器を身に付けんがために、エジプトという深遠なる神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事の雰囲気の中にて安らぎと憩いを求めたのである。

瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長──イエスもそのか弱き幼少時代より青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得せる知識の中に徳性を涵養していったのである。まさに叡智と身体の双方の増強の時代であった。

 救世主イエスの象徴的生涯の一つの典型とも言うべき時代がこれにて終る。準備期間が終わり公的生活が始まる。大衆の求むるものを遥かに超えた進歩と発達をかぎられた地上時代に成就すべく自ら鼓舞し続ける霊に、いよいよ第二の時期──われらの言う伝道期間に入るに先立ち、その準備を整える時期を与えられ、摂取し得るかぎりの真理を摂取するということである。

汝には改めて説くまでもなかろうが、霊的進歩にとっては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を己の利益のために使用せず、生活の全てにおいて〝惜しみなく授かれる者は惜しみなく与えよ㉓〟の戒律を厳守することが必須の条件なのである。
 
 故に己に与えられたものは、それを求むる者と分かち合わねばならぬ。真理は、少なくとも通俗的なるものは、世の人々に等しく分け与えられねばならぬ。が、

より深く、より天上的なる真理は、イエスが一人山頂にこもりて孤独なる瞑想の中に己れ自身と対峙し、背後霊団㉔との交わりの中に霊的生気を取り戻さんとした如く、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばならぬ。

その時のイエスには仲間はいなかった。ただ一人霊体に宿りて地上を遠く高く離れた㉕。その時の真相は、一人を除いて、弟子たちも見ることを得なかった。その一人だけは幾度か神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を見る栄誉に浴したのだった。


〔のちにその一人とは聖ヨハネであるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象㉗を目撃している。〕
 

 
 
 この意味において、背後霊との交わりと同時に地上の同志との交わりの中に霊的真理の救いと喜びを分かち合うことを得る者は幸いである。霊的真理は分かち合うことによって些かもその恩恵が減少するものではない。

一途なる目的と、真摯にして完全なる共感の絆さえあれば、見る者が増えたからとて真理の光が減少するものではない。しかし、求道の世界には、たとえ同じ道を歩もうとも、二人三脚はそう滅多に望めるものではない。

たとえ目差すものは同じでも、それぞれに辿る道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、一人そこに引きこもる時をもたねばならぬ。

 その宗教的向上心の生活と相俟てる陶冶の生活は来たるべき奉仕的社会生活への準備なのである。

 救世主イエスは、エジプトにて霊的知識を身につけ、瞑想の生活によって霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、熱意に燃えて隠遁の生活より漸く福音を授けるべく大衆の中へと入って行った。彼は真理に対する不敵なる信念に燃えていた。

が、決して破壊主義者ではなかった。破壊することではなく真理を成就することこそ彼の眼目であった。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせんが為に土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことであった。

材料は手もとにあるものを使用し、その垢を取り除き、生命を失える儀式も彼のまことの言葉の魔法に触れて生きた真理の象徴と化した。骨と皮ばかりの痩せこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのである。

 誠実なる目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴なる終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことが判るであろう。全ては推移であり、穏やかなる目覚めであり、それは今もなお自然界に見る通りである。

一年の終わりと始まりとに急激な断絶はない。汝らの目には前年に埋められし墓の石蓋がいかなる力によって取り除かれて来たかが判らぬ。

ある時は全てが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなるかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じる。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えぬ霊力によって起こされるのである。太陽が再び光を放つ。

その光は死せる年が閉じ込められたる牢獄の鍵を開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげる。やがて足もとはエメラルドの絨毯と化し、緑の平野が広がり、見よ! 痩せ細れる者が生気を取り戻す復活の季節(とき)が勢いよく訪れる。

と言うよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのである。

 汝は同じ教訓を救世主イエスの生涯の中にも読み取らねばならぬ。伝道のために祖国に戻りし時、ユダヤの民の生活は恰も冬の木々の如く霊性の全てを失い、寒々としていた。樹液がその流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味さえ漂っていた。

疲れし旅人の喉を潤す果実ひとつなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病がすべてに蔓延していた。

そうした中に〝神の使者〟、選ばれし救世主〟イエス、〝正義と真理の太陽(さん)〟──これは〝息子(さん)〟でもあった、両者に差異はない──が、死せるが如き裸の枝に啓蒙の光と温かさを注いだ。

そして、見よ、その変化を! 空虚なる形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかなる説教が健全なる生命によって生気を取り戻す。古き時代についての説話に新たなる奥深き意義がもたらされる。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していく。宗教は曾てなく光度にその霊性を増す。

イエスは形式に代わって霊的意義を、けばけばしき儀式に代わって静かなる人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教──人に見せんがための行事──に代わりて、人目につかぬ隔離された部屋での、己と神との二人きりの交わりを説いた。これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代わって温順にして霊性に富める求道の生活を説いたのである。

その真実の例証は騒々しき市場にはなく、静かなる個室にあり、パリサイ派にあらずして収税吏にあり㉙、大衆の目にあらずして神の監視の中に在った。

 大自然とイエスの生涯に寓された教訓は魂の旅路にも見られる。学び得たかぎりの知識を携え、徳性を培える魂は、試練の生活ののちに新たなる生命の旅へと旅立つ。形式と儀式にこだわれる過去が霊性を賦与されて新たなる道が開ける。

信仰に目覚めた魂の目には、それまで単なる現象であったものの裏に秘められたる霊的意味が見える。むき出しの枝が緑の衣をまとう。死せる如く放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて新たな生命の息吹を取り戻す。古きものが廃棄されるのではない。

質が変えられるのである。為すべき義務が免除されるのではない。逆に、より鋭き熱意と配慮をもって果たすことになるのである。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではない。その長き過程がささやかな善行の霊的意義によって楽しく且つ誇り高きものと感じられるようになるということである。

 あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、〝ああ、主よ、この形骸に果たして生命はありや〟と幾度も叫ばしめたる無味乾燥の儀式が復活霊の息吹によって生命と温もりと現実味を帯びる。

それなりの効用を果たせる古き儀式が新たなる環境に適応せる生活へと再生される。古き生命力より一層強き生命力をもち、過去の美わしさより一段と霊性を増せる美わしさをもって新生される。若さを取り戻したのである。

霊的に啓発された目をもって見れば、真理は一かけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され再生されていくものであることを知るのである。

 要するに魂はそれを取り巻く自然界全体の復活に参加するのである。生命を新たにし、高き知識を獲得し、奥深き真理を悟り、そうして貯えたる力を携えて、啓発と発展と成長のための手段を授けに同胞のもとに赴くのである。

その時はもはや平凡たる人間とは物の見方が異なる。行為も異なる。何の変哲もない外観の内側に神的可能性を見る。如何ともし難き厄介物といえども、剪定によって発育を促し、枯れ枝の刈り込みによって若き枝が成長すると観れば、これを見棄てることはせぬ。

かくして同胞のための公共的奉仕の生活に勤みつつ、一方において、絶え間なく霊的向上のための生活───真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって一歩でも主イエスの完全たる模範に近づかんとする修養を怠らぬ。

 この隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのである。

 主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。それは敵意と侮蔑と迫害を煽るところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。

イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できる汝には、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得るべくもなかったことに理解がいくことであろう。

恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。

そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ㉚と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。

見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃㉛にさえ不敬を働く忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ───が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは汝にも理解がいくであろう。

 イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずには措かなかった。妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いていけなかった。その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。

詰まるところ、そうした高度の教えを受け入れる用意なき時代がイエスを十字架にかけたのであった。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔にすることにより、至純至誠なる
〝真理の子〟に報復したのであった。

 そういう次第であった。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。

また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別に長け、より多く世の為に尽した人物もいた。が、そうした指導者は稀である。たいていの指導者はイエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。真理を説ける指導者には死が与えられる。が、

その訓えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される。その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

 キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居あわせなかった。悲劇の底にあってもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフとニコデモの二人のみであり、他は全て逃走したのだった。

そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師──彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。そして彼の説ける福音はいずこに在りや。これまたどうみても葬られたとしか思えなかった。それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思いださず注意すら払わなかった。

しかしそれは人間の性急なる判断であった。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ時おり地上に新生をもたらす〝霊〟の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。

それは実は天使の仕業であった。それと同じ力──完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまの風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

 これを個々の革命家に当てはめてみよ。辿るべき宿命は同じである。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、或いは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。

それが神の選別の手段なのである。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。

その闘いの生涯がイエスの如き終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によってその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。

真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。それはちょうど修業時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

 修業時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。この世に在りつつこの世の住民とならぬ生活──地上への〝
訪問者〟としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方をイエスは示した。

常に、全ての霊的影響力に見られる、かの最も強力なる原理すなわち〝愛の摂理〟によって鼓舞され続けた。イエスがその姿を現す時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。

汝らの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天していった。二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。

もはや形体を具えた存在ではない。今や霊的恩寵の源泉であり、
〝影響力〟としての存在となっている。
 
 自らの発意によって地上界を訪れる霊は悉くその愛に鼓舞されているのである。言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を引き寄せる。そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰っていく。

 希望に燃えよ! 汝はとかく真理の枯渇を嘆き過ぎる。暗く寒き冬にあってはその寒さに震え、冬のあとにはかならず春が訪れるている事実を忘れる。つまり〝死〟ありてこそ〝再生〟があり、新たなる生活、より広き視野と有用性と崇高なる目標と真実の意図を具えた生活へと導かれるものであることを忘れている。

そうした生活にはかならず死が先立つものであること──汝らが死と呼ぶところのものは神的真理に関するかぎり、豊かなる実りをもたらす必須条件としての〝種子の死〟に過ぎぬことを汝は知らぬ。

生へ向けての死──これこそが魂のモットーなのである。より高き生へと昇華され行く死である。墓場における勝利であり、死を通じての勝利である。霊的真理を扱うに当たっては、このことを忘れてはならぬ。

 輝きと静けさの中にある時に恐れを抱くのは構わぬ。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇き切り、太陽が容赦なく照り付ける時、か弱き植物はしぼみ萎(しな)びていく。

故に安逸と安楽の時、事が順調に運ぶ時、そして世を挙げて〝真理の言葉〟を賞讃する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭が翳(かげ)り伝来の世俗的信仰の中に埋没していくことを恐れる必要があるのである。

全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。

それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによってこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによって抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる闘いの場へと導いてくれるであろうからである。

 救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。これは永遠に変わることなき比喩である。
                              ♰ イムペレーター


〔註〕
  (1) 使徒行伝2・・43。
  (2) Be in the world, but not of the world. 身はこの世にあっても〝この世的〟人間になるな、ということ。この通りの言葉は聖書に見当たらないが、多分ヨハネ17の場面で実際に述べたのであろう。  
  (3) エペソ5・・14。
  (4) コリント前13・・2。
  (5) 聖書全体に流れる基本的教説。
  (6)    マタイ3~4その他。
  (7) 医師のスピーア博士宅で行われた霊言現象の中でイムペレーターが「主イエスは曾て一度も物質界に生を享けたことのない霊団によって支配され元気づけられていた」と述べている。日本で言う自然霊である。
  (8) Calvary ゴルゴダ Golgotha ラテン名。キリストが十字架にかけられた土地。
  (9) カトリック、プロテスタント、東方正教会。
(10) Christmas.
(11) Epiphany.   
(12)    Lent. 
(13)    Good Friday.
(14) Easter
(15) Pentecost または Whitsuntide.
(16) Ascension.
(17) イムペレーターが回答
(18) 人間は日常生活において、死後に落ち着く環境を築きつつあるというのが高級霊界通信に共通した説である。
(19) コリント前15・・31。
(20) “to die has been gain”.
(21) ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道すなわち不滅への道はかくの如し、という意味。(ラテン語)
(22) the Prince of the world (ヨハネ12・・31その他)。
(23) マタイ10・・8。
(24) 西洋でいう天使、日本で言う自然霊によって構成されていたという。註(7)参照
(25) 幽体離脱現象。
(26) イエスの弟子のヨハネ。前出のパブテスマのヨハネとは別。
(27) 俗に後光がさす、と言っているもので、一種の変容、または変貌現象。
(28) Sun(太陽)Son(息子)は語源も発音も同じ。
(29) 当時の民衆の尊敬を得ながら、現実は空理空論を弄んでいるにすぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながら、社会にとってはなくてはならぬ存在である収税吏の方が上であるということ。
(30) 伝説的には曾て売春婦でイエスの教えで信仰に目覚めた女性とされる。(ルカ7・・37~50)
(31) モーセの巻物が納めてあるもので、イエスは平気で手を触れたりした。
(32) Joseph of Arimathea(マタイ27・・57~60)
(33) (前出)ヨセフと共にイエスの死体を葬ったという。
 








 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 







 
 
 
 




  
 
 
 
三十一  節

 『生と死──進歩と堕落
〔一八七六年四月二十八日。本節で紹介する通信は通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。

数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙され易く、かつその可能性が十分あり得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完璧な一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、まずそれは不可能であるとしか言いようがない。

通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。ある時ハドソン氏邸での交霊会でその友人の映像が写真に出て、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。

その写真を撮った時、私は入神していた。撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに映っており、映像はよくなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の面影が容易に見て取れた。

実はこのケースにはもう一つ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られたと述べるに留めさせて頂く。

 この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真の製造方法についてのものであった。それによると、一人の霊が私の周りで活撥に動いて、複数の霊界の技術者による指示を与えていたという。

像の周りの例の被いのようなものは時間とエネルギーを節約するための処置だということで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分はいわば〝スケッチ〟ほどのものだという。

そうした部分的物質化という機械的な仕事にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者が携わるという。一人の心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似た傾向があるのはそのためだという。

 イムペレーターとしては二度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力するのはどうしても協力せざるを得ぬ時のみにかぎって来たので、この度のこともイムペレーターの意志に副ったものではないとの説明があった。

 その友人の霊は生前ずっと私の仲間であり、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。したって彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易であった。もっとも私は二人の友人を伴い、その二人のための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

 そういうわけで、その友人はM霊の世話でその会に出席し、M霊が技術者を指揮して顔を整え、被いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材で拵え、実際にポーズを取り、それから撮影した。

 こうした通信のあとイムペレーターは次のように述べた。
 














































 
 
 これより汝の友人のことについて述べる。が、その前に一言申しておくが、われらは汝が再び物理的現象に関わるのを防がんとして出来るかぎりのことをした。

漸く落ち着いてきた正常なエネルギーが再びその方面へ駆り立てられるのを望まなかったからである。そこでわれらは汝がその気持ちにさせられる環境に置かれるのを阻止せんとした。

以前にも説明したが、われらは汝がいつまでも物理的段階に留まっているのを不可として交霊会を中止した。友人が汝に付きまとうのも好ましからぬことと観ていた。彼は霊性が低い。故になるべくなら彼のことを構わずにいてほしかった。が、一旦こうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばならぬ。

M霊は汝が〇との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りである。霊と霊との間の親和力の法則である。汝も知っていよう。


──知っています。ですが親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろその通りの結果が現実に見られるのは、稀なように見うけられます。で、彼は今幸せではないのですか。

 彼がどうして幸せで有り得よう。神が進歩と発展を願ってその魂を宿した聖なる神殿に向かって冒瀆行為を働いたのである。霊的成長の機会を無駄にし、己自身であるところの神の火花の宿る聖殿を思いのかぎり破壊した。 ー【②=肉体・③=自殺】ー

そして今、魂に何の用意も出来ておらぬ見知らぬ土地へ、道連れもなしに一人で旅立ったのである。父なる神の前から逃亡したのも同然である。

その彼がどうして幸せであり得よう。死しては不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、さらには寿命を全うせずして他界することによって、地上的縁故の人々に苦痛と悲しみをもたらした。

その彼にどうして心の安らぎが見いだせよう。無益に過ごせる生活がその代償を求める。長年に亙って培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落ち着きを見出せぬようにする。

生活そのものが利己的であり、地上で目差せるものが利己的であり今なお自己中心にしか考えぬ。哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には悔恨の情が目覚め、精神的再生に至るまで心の安らぎは得られぬ。いま彼はまさしく〝宿無し〟の身である。
 

──向上の望みはあるのでしょうか。

 有る。望みはある。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつある。霊的暗闇を通して、朧気ながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつある。幽かながらも、己の置かれた荒廃せる状態についての知識に目覚め、光を求め始めている。汝の近くに留まっているのはそのためである。汝は犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばならぬ。


──それは喜んで・・・・・・ですが、どういう具合に?

 先ず祈ってあげることである。祈りの力によって高き世界の曙を招来してあげることである。不幸なる魂に働くことの楽しき雰囲気を味わわせてあげることである。彼の魂は、聖純にして爽快なる雰囲気が如何なるものであるかを知らぬ。

汝にとっては彼の存在は不快かも知れぬが、汝がそれを教えてやらねばならぬ。そもそも汝が彼を呼び寄せたのである。そして彼は汝の誘いに素直に従っている。

彼の存在は我慢せねばならぬ。われらの警告と願いを無視してやったことであり、もはや取り返しはつかぬ。せめてもの慰めは、かくすることによって汝も神の聖なる仕事に携われるということである。


──私が呼び寄せたというのはどうかと思います。でも私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけには行かないと思います。

 責任は問われるべきであったし、今なお問われて然るべきである。彼自身も今そのことに気づき始めている。彼が自らを傷めた最後の罪業④の種子は怠惰な無為の生活の中にすでに蒔かれていた。彼は病的とも言うべき内向的性癖を培い助長していた。

自己のみを考察した。それも進歩や発展のためではなく、欠点を反省し、徳を培うためでもなく、利己的排他性の中で行った。

いわば歪められた利己主義の暗闇に包まれていた。それが彼に病をもたらし、挙句には霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられた。霊界より鵜の目鷹の目で見張る邪霊に身を曝してしまった。その意味においては彼は汝の言う如く狂っていた。が、

その狂気の行為も彼のそれまでの所業の結果に他ならぬ。しかも彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に同じ邪悪な影響を及ぼしている。己自身への災禍(わざわい)が今や他の愛する人々への災禍となっているのである。


──本当に恐ろしいことです! 天罰の厳しさを見せつけられる思いです。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよく判ります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。


 利己主義は魂の病巣であり、汝が想像する以上に多くの魂がこれに蝕まれておる。まさしく魂を麻痺させるものである。その上さらにその利己主義が内向的となれば、いよいよもって致命的となる。利己主義にも極めて毒性の少ないものがある。

つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらある。たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。

あくまで余計な気遣いを避けんが為にいかなる指図にも従う。いずれも魂の進歩にとっては障害となるものであり、褒めらるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とは言えぬ。

 彼の場合はいかなる善行も、いかなる活動も伴わぬ卑劣なる利己主義であった。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもなかった。否、自己満足以上でさえあった。何となれば全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が侵蝕されていたからである。

この種の利己主義は己にとっても縁ある人々にとっても残酷なる影響を及ぼす。罪にも段階がある。彼の罪はとりわけ深かった。これは彼の話であるが、他人事(ひとごと)としてでなく、汝自身のこととして聞くがよい。が、暫し休むがよい。その間にわれらが汝の心より邪気を取り除いておこう。


〔私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間に、ある心和む光景を見せられ、目を覚ますとすっかり気分が爽快になっていた。〕
 

 

 今彼の無益なる人生を事細かく詮索する必要はあるまい。魂が異常なる利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊であった。汝のいう意味では確かに狂っていった。が、その狂える精神が支配するかぎり自殺の手を押し止めることは何者にも出来得なかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのである。

 が、汝の罪の評価は幼稚である。あの状態を誘発したのは彼自身なのである。魂そのものが己れを敵に売り渡し、破壊するに任せたのである。彼の場合は遺伝的精神病が正しき判断と行為を狂わせたのとは異なる。自殺は利己的怠惰の所産に他ならぬ。

理性の力を奪い、自殺という罪業へ追いやったのは誘惑の魔手であった。その誘惑は人によっては別の形を取ることもある。が、自己破滅にせよ、他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足にせよ、その根源は同一である。

 授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある──神のため、同胞のため、そして自己のためにである。

一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。

悪がいかなる形態をとるかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形を取り、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。

 生命の糸が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。自ら傷つけた魂の宮が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。無意識のまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。

落着く場がない。招かれざる世界には歓迎される場はないのである。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様自ら破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められし同類の霊が次々と薄ぼんやりとした姿を見せる。彼らが近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていく。

 その悲劇──本人は悲劇であることを半分も自覚しておらぬが──それを少しでも和らげ魂を癒すための手段が講じられることになったのは、良心の呵責の初めての身震いが天使に届いた時であった。

暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいてその麻痺せる良心の回復を加速せしめ、悔恨の情を目覚めさせるべく手段を講じた。

見た目には残酷に映るかも知れぬが、天使は敢えて彼の置かれた惨めな状態に気づかしめ、その罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。悔恨の門をくぐり抜けずして、魂の安住の地へは辿り着けぬ。故に苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならぬ。

 その努力も暫し効を奏さなかった。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は今や嫌悪さえ覚えるに至ったその悲劇より抜け出る道を手探りで求め始めた。が、しばしば元へ引き戻されたりもした。

誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのである。が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。霊たちはそれとは気付かぬ。彼らはただその低劣きわまる本能の赴くまま動いているに過ぎぬ。がその実、彼らも因果律の行使者なのである。

 彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばならぬ。それを措いて他に魂の清められる道はない。

利己主義は自己犠牲によって拭わねばならぬ。怠惰は労苦によって根絶せねばならぬ。彼の魂は苦難によって清められねばならぬ。それが向上進歩の唯一の道である。その道は過去の誤れる生活によって歩行困難、否、ほぼ不可能にされている。が、努力によってたとえ一歩でも進まねばならぬ。しばしば転倒することであろう。

後戻りすることもあろう。が、それによって、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのである。一歩一歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばならぬ。

しかも、回りを取り巻く誘惑──向上せんとする魂を挫折させんとする邪悪の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。言うなれば〝火の洗礼
〟を受けつつ進まねばならぬ。これを罰というのである。それが、他のいかなる手段によっても得られぬ、天国への唯一の道なのである。
 
 むろん天使の援助の手は片時たりとも控えられることはない。向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとって光栄ある使命なのである。

とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりに贖うことは出来ぬ。背反の天罰を一分たりとも和らげてあげるわけにはいかぬ。代償として支払うべき余徳などもない。友人と言えども重荷を肩代わりすることは出来ぬし、疲れ果てたる背よりそれを下ろしてやるわけにもいかぬ。

衰え行く精力を補い扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯せる本人が背負わなねばならぬ。

 これは、無為に過ごせる人生の避け難き天罰である。これによって半ば消えかかれる火花が再び点火され、魂を導く灯として大きく燃え上がることになるかも知れぬ。

あるいはそうした天使の声に耳を貸さず、相も変わらず暗闇と孤独の中をさ迷い、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛に苛まれることによってのみ、魂の毒々しさが浄化されることにもなるかも知れぬ。

そうした罪障消滅に費やされる期間(とき)は、汝らには永遠の如く感じられるかもしれぬ。あるいは状況が固定化される以前に魂が目覚め奮い立つこともある。そうして必死の努力によって光明へと近づき、自ら進んで浄化のための苦難を求め、残れる気力を以って地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れぬ。

 それはあり得ることではある。が、そう滅多にあるものではない。性癖はそう簡単に変えられるものではない。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものでもない。利己主義、あるいは不徳の中に死を迎えたる者は往々にして死後も利己的であり、不道徳であり、死後の環境が地上生活の証でしかない。

幽かながらも向上心の芽生えた彼に援助の力を授からんことを祈るがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによって慰められんことを祈るがよい。彼の病にとってはそうした祈りこそ最良の薬である。


〔右の通信を読んだ時、私はこれでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺ぐことになりはしないか───人間にとっては理想が余りに高すぎる、と述べた。〕
 
 

   
 否! 否! われらの述べたるところもまだまだ実情の全てではない。また、いささかの誇張も潤色も施しておらぬ。彼の如き無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇の境遇の真の恐ろしさは、われらにはとてもその全てを語ることは出来ぬ。

そうした生涯のあとに魂が抱く悔恨の情がいかに痛烈なものであるかは、とても言葉では言い尽くせぬ。その後に魂が
辿る過程は、いかに立派な理屈をもってしても、われらにも如何とし難きことである。

われらとしては永遠にして不変なる因果律の働きを述べることしか叶わぬ。身に染みたる利己主義と犯せる罪悪が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることは出来ぬ。われらがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる神の定めた摂理なのである。汝の身辺に証を見ることの出来る法則の働きを指摘したまでである。

何時のことかも判らぬ死後の遠い遠い先の或る日、全人類が招集され〝記録天使〟が〝審判の書〟を提出し、それを手にキリスト神が一人一人に判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられるなどということはない。断じてない。

が、行為の一つ一つが確実に魂に刻み込まれ、思念の一つ一つが記録され、全ての性癖が死後の性格の要素として持ち越されるという形での審判はある。

そのことを人間が忘れがちであるために指摘したく思ったのである。罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要らぬ。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えたく思うのである。審判者は魂自身なのである。

魂が己と語り合い、己自身の命運を読み取るのである。参考とすべき書類は道義の記録のみである。地獄とは魂みずからが罪悪を焼き尽くさんとする悔恨の炎のことである。

 しかもそれは全人類が他界せる遠い遠い先にて一斉に行われるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たなる生命への再生と同時に始まるのである。気絶状態でもあるまいが、遠き彼方のうっすらとした靄の如き光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定なのである。

なぜかく申すかと言えば、われらについて世間では、われらの述べる霊訓は宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によってのみ支配され、いかなる行為を為そうと、いかなる教義を信じようと、全ての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからである。

われらはそのような無分別きわまる教理を説いているのではない。今は汝もその点を理解していよう。が、汝もそこに至るまでは繰り返し繰り返し説かねばならなかった。すなわち、人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。

 われらがこうした人生の暗黒面を取り挙げたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからに過ぎぬ。気品と美と天使の支配に満ちた明るき面については、これまで度々言及してきた。

神の溢れんばかりの慈悲と愛、その神と汝らの間を絶え間なく取りもつ天使の優しき心くばりについては改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗き一面───孤独と荒廃、邪霊の誘惑の存在に意識を向けるのも無駄ではあるまい。

 理想が高すぎると言うが、そのようなことはない。もしも高すぎるということになれば、高き理想は向上心に燃える魂のみを鼓舞するためにしか役立たぬことになる。確かに向上心なき魂にとっては高すぎるであろう。が、

人生が利己主義と罪悪によって蝕まれておらぬ者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとっては決して高すぎることはない。

友よ、いかなる者にも逃がれ得ぬ摂理というものがあることを明記するがよい。人生とは旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨に満ち、難路の連続である。闘争は目的成就まで絶え間なく続く。

発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼稚的人格よりキリスト的大人の霊格への発達である。この摂理だけは曲げることは出来ぬ。

悪との闘争なくしては完全なる善への到達は叶わぬ。己を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されていくのが永遠の必然性である。神より放たれし火花がその父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのである。

 真の幸福は最高の理想を目差して生きることによってのみ獲得されることを汝は今さら説き聞かされることもあるまいが如何? 怠惰なる者、無精者はそれを知らぬこと、邪悪なる者──自ら選び自ら好んで悪事を働く者には縁なきものであることは改めて説くには及ぶまいと思われるが如何?

地上の幸福は天上界を目差す魂の中にのみ湧き出ずるものであり、その道程において克服せる危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも改めて述べるまでもあるまいと思うが如何? 天使は常にそうした魂を補佐せんとして見守っていること、天使はそれを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害は被らぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが如何? 

たとえ勝利の宣言が為されても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えぬ。勝利は葛藤の中に得られるもの。平和は艱難の後に得られるもの。そして発展は着実なる成長の末に得られるものである。


〔私は当然そうであると思うと答え、人生の準備期においては出来るだけ多くの知識を蓄え、出来るだけ多く仕事をし、その上でかなうかぎりの平和を享受すべきであると思う、と述べた。しかし仕事と知識──とくに神そのものと未来のことについての知識──が平和または安息の前提条件である以上、十分な瞑想の余裕がなくなることになる、と述べた。〕
 
 
 
 
 
 
 
  
 違う。人生には三つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と賛仰、そして三種の敵⑥との葛藤である。瞑想の生活は自己認識にとって必須のものである。着実なる成長の重要素である。それには当然祈りが伴う。すなわち肉体に閉じ込められし魂と父なる神及びわれら神の使者との霊的交わりである。

次に魂が己を見出し行く無数の局面──神の声なき声に耳を傾ける静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえたる厳かな神殿にて神を恭しく讃える聖歌の斉唱、さらにまた、言葉に出ず、他人の耳にも届かざる魂の奥底からのやむにやまれぬ向上心──こうしたものを通じて、神によりて植えつけられし賛仰の本能がその捌け口を求めるのである。

これは絶え間なき悪との闘争に欠くべからざるものである。われらはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張する者である。汝も今少し安らかな思索の時をもつよう配慮することを勧める。汝の生活は静寂を欠いている。


──彼の無節操な行為の中には、必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことをお認めになるでしょう。

 無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそこに宿れる魂の意志に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病からきている場合も多い。その場合は魂に責任はない。

事故による傷害によって精神に異常を来すこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もある。そうした原因に由来する時は誰にも咎められることはない。ましてや公正なる神による咎めは絶対にない。神は霊的動機と意図によって審判を下すが故である。

 われらが汝の友を咎めたのは、あの不幸なる結末が生涯に亙る罪悪の生み出せるものであるからに他ならぬ。それに関しては彼に責任があったし、今もなお責任がある。そして彼も今そのことに気づき始めている。

 全能なる神よ、叡智を育み授け給え。
                              ♰ イムペレーター

〔註〕
  (1) F.A. Hudson 英国最初の心霊写真霊媒。
  (2) 肉体。
  (3) 自殺。
  (4) 自殺のこと。いかなる形での自殺かは述べていない。
  (5) 霊的身体(幽体)と肉体を結びつけている帯状の紐。
  (6) 30節。イースターメッセージ一八七六年参照。
 







 
 
三十二 節

〔その後のイムペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正も必要なかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染み渡るのを感じていた。〕
 



 

 『真 理』

 イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、汝の疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところ汝のもとに届けられた何通かの手紙によって、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によっても予期されていることが判るであろう①。備えを怠るでない。間違いなく到来する。

苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛練が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。何人(なんぴと)と言えども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ上ることは許されぬ。

真理へのカギは霊界にある。試練によって鍛えられた真摯ある魂にあらずんば、何人と言えども勝手に真理をもぎ取ることは許されぬ。

 安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引き換え、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学びとるがよい。

 さらに、今こそわれらと邪霊との激しき闘争の時期でもある。その煽りが汝にも感じられるであろうことを述べたことがあるが、神の摂理の大いなる発展の時期には付きものなのである。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件としての憂鬱の体験であり、真摯なる魂が浄化される試練の時期なのである。

イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に〝今やあなた方の時、そして暗黒の時②〟と述べた。今こそその時である。しかも容易には過ぎ去らぬであろう。辛酸をなめ尽さねばならぬのである。

 それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い、訴える力を失う。批判の声に抗しきれず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声を上げて叫ぶ──真理とは何ぞや! と。

それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。

 その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。〝喜びは暁と共に来らん③〟〝悲しみと欺きは消え行かん④〟かくして夜の恐怖──〝暗黒の力〟が過ぎ去る。

が、全ての者にとってのことではない。相も変わらず光を見る目をもたず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気付かぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。

 故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂を行くことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によって踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。

暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き同等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。

 神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯に亙る克己の修養が要請される。

それを理性によって律し、我欲を押さえ、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことにつてはとうに述べてある。心するがよい。

 大方の者が真理なりと信じることが、汝には空(うつ)ろに且つ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるには及ばぬ。そういうものなのである。真理にもさまざまな段階がある。多くの側面を持つ水晶から無数の光が発せられる。

その光の一条たりとも全ての魂によって曇りなき目で受け止められるとはかぎらぬ。僅かな者、ごくわずかな数の者に、その無数の光の中よりはぐれた一条──もしかしてそれ以上 ──の光が届くに過ぎぬ。

それも多くの媒介者を通して届けられる故に、漸く届いた時はすでにその透明度が曇らされている。それは如何ともし難きことである。それ故にこそさまざまな真理の観方が生ずるのである。それ故にこそさまざまな見解、誤謬、誤解、錯誤が罷り通ることにもなるのである。

真理を見たと言うも、その多くは束の間の真理を見ているに過ぎぬ。それに己の見解を付加し敷衍し発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重なる真理の光が歪められ破壊される。

かくして真理が台無しにされていく。咎めらるべきは真理の中継者の不完全さである。

 或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。

一人占めにするにはあまりに美しく、あまりに崇高であり、あまりに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。

とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとってあれほど美しく愛らしく思えた真理が忙しき生存競争の熱気と埃の中で敢えなく新鮮味を失いゆくのを見て驚く。己の隠れ処(が)においてはあれほど純にして真なるものが、世に喧伝されると見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けることに驚異を覚える。

彼がもし賢明であればこう悟る──ヘルモン⑤の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎むものであること、即ち至誠にして至純なる真理は霊感によりて魂より魂へと密かに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝さるべきものではない、と。

 むろん真理には、恰も切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石の如き粗野なるものもある。これは言わば全ての建築者が等しく使用すべき土台石なのである。が、

至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに挑むべきものである。故にヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話⑥をした時、彼は全ての者の目に映ずるはずの真理の外形を物語ったのだった。

但し、彼がこの奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエス・キリストの存在と栄光のみであった。

 汝がこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。汝にとって絶対的真理と思えるものも実は、汝の求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、汝がそれを必要としたからこそ授けられたのである。

汝にとっては完璧であり、それが
〝神〟であろう。が、別の者にとっては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。

が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまで汝のものであり、汝一人のものなのである。汝の魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。

 真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに儚すぎる。その霊妙なる芳香は魂の奥の院においてのみ発せられるものである。

このことを篤と心に留めておかれたい。さらにまた、受け入れる用意の出来ていない者に押し付けることは真理を粗暴に扱うことになり、汝にとっては天啓ではあってもそうとは思えぬ者には取り返しのつかぬ害すら及ぼしかねぬことも心されたい。

 さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探究を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありて最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。

人間生活に充満する俗悪なる野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終わる人類の闘争と野心───これは粉(まご)うかたなきソドムの林檎⑦である。然るに一方には目覚めし魂への密かなる誘惑───同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げたケルン⑧にもう一つの石を積み上げんとする心である。

彼らは己の生活を大きく変革する真理を熱誠を込めて広めんと勇み立つ。すでにその真理に夢中である。胸に炎が燃え上がり、その訓えを同胞へ説く。

その説くところは気高きものかもしれぬ。そして、もし聞く者の欲求に叶えば同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れぬ。が、その逆となるかも知れぬ。ある者にとっては真理と思えることはその者にとって真実であるに過ぎず、その声は荒野に呼ばわる声に過ぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響かぬ。

彼の殊勝なる行為が無駄に終わる。それだけのエネルギーを一層の真理の探究のために温存し、人に説くまえにより多くを学ぶべきであった。

 教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。

真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。

己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。


 〔ここで大して重要でない質問をしたのに対してこう綴られた──

 違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらは汝自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。

これまで導いた道は、汝には過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によって痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。

愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、汝は今ひとつの側面を理解せねばならぬ。

 そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性のものであるかを知らねばならぬ。それを措いて今汝を悩ませる謎を正しく読み取ることは出来ぬ。一体真理なるものが如何なる方法によりいかなる条件のもとに得られるものであるか、また如何にすれば誤謬と策謀と軽薄なる行為と愚行とを避け得るかを知らねばならぬ。

人間が安全な態勢でわれらの世界との関わりをもつには予めこうしたことを全て理解せねばならぬ。しかも、それを学び終えた暁、あるいは学びつつある時も、その成功如何は殆ど、あるいは全て人間側にかかっていることを忘れてはならぬ。

我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純なる心を悪疫として追い払い、目差す目的を出来得るかぎり崇高なるものとせよ。真理を万人が頭をたれるべき神そのものとして崇敬せよ。

いずこへ至るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探究を人生の目的とせよ。そうすれば神の使徒が汝を見守り、その魂の奥に真理の光を見出すことであろう。

                               ♰ イムペレーター

〔註〕
(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的に見て、ほぼ30年後の第一次世界大戦、さらには、50年後の第二次大戦も含めてのことと推測される。
(2)ルカ22・・53、〝あなたがた〟とは、イエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダたちを指すが、それが同時に背後の邪霊集団を意味している。
(3)詩篇30・・5.
(4)イザヤ書35・・10。
(5)Mount  Hermon シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。
(6)ヨハネ黙示録21・・11~21。
(7)Sodom apples 外観は美しいが口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。
(8)記念・道標などとしてピラミッド型に積み上げた石塚。
 





 
                        
 
 
 
三十三 節

〔四節において作曲家アーンの生涯について綴られた極めて細かい事実を紹介したが、一八七三年九月十二日には他の作曲家──ベンジャミン・クック、ヨハン・ペプシュ、ウェレスリー・アールの生前の事実や日時についても同じように細かく且つ正確な言及が為された。

三人とも私の知らない名前であった。まるで人名辞典のような簡略な記述で内容的にはばかばかしいような些細なこともあった。

いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も〝実に下らぬ内容である。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれらの目的である。地上生活のこまごましたことは今のわれらには興味はない〟と述べている。

 一八七四年七月十六日。病気で部屋に籠っていたところ右の三人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていた一人の人物と密接な関連のある内容であった。

この度の霊はジョン・ブロウと言い、〝クリストファー・ギボンの教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・バーセルの後継者。少年時代からすでに作曲家だった〟と書かれた。

生没年を質すと一六四八年~一七六八年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態でたまたま部屋に引き籠っていたから得られた情報である。

 一八七三年十月五日に更にプライベートな証拠がもたらされた。四節において書物からの読み取りが出来る霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは凡そのことは私も不案内というわけではなかった。

と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは私には付いて行けないものだった。

わたしはこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手なタチなのである。生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣を付けるべく努力してきた。

 その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんど全てが顕微鏡的細かさをもち、イムペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。

 同じ頃、中世の錬金術学者ノートンの著書からの二十六行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書きだされた。その抜粋をのちに校合(きょうごう
しようとしたが困難をきわめた。

と言うのは関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。通信によると古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。

そして彼の著作に詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art というのがあり、ヨーク大主教のネビルに捧げられたものであった。

 他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。

 が、もう一つだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊が自らその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は出席していた者の誰一人として知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。

 一八七四年三月二十五日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。
 





























































 あの霊はシャーロット・バックワース⑩と名のっていたが、その通りである。われわれとは特に関わりはないのであるが、たまたまあの場に居合わせ、貴殿にとって証拠になると考えて通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはなかった。

われわれの手で改善することも出来なかった。非常に乱れていた。あのような日の後はえてしてそういうものである。貴殿の巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気がわれわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘いこんだのである。


──霊媒的能力を持つ四人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。

 貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようだ。あの時に通信した霊は百年以上も前に地上を去ったもので、一七七三年に急死し、何の備えもないまま霊界へ来た。

ジャーミン通りの友人の家で他界している。そこで娯楽パーティーに出席していた。たぶん彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもない。

 
〔ここへ連れてきてほしいと言ったところ、通信霊がそれは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何か他に知っていることがあるかと尋ねた。〕
 

 

 ある。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めてしばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで地上の雰囲気に近づいていない。雰囲気が調和性のある場所に引かれている。

それは彼女の性格に愛らしさがあるからである。他界の仕方は急死であった。娯楽パーティーで倒れ、その場で肉体から離れた。


──死因は?

 心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しく愛らしい性格ではあったが、至って無頓着な娘であった。


──何という人の家で、どこにありましたか。

 われわれには判らぬ。彼女自身から告げることになろう。

〔このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信がきた。私は忙しくて寛いだ気分になれないのでペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされてしまった。〕
 




 ロッティが他界したのはドクター・ベーカーとかいう人の家であったことを確認した。十二月五日であった。それ以上のことは判らぬ。が以上で十分であろう。
                                  レクター


〔通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で為された。当初その事実を確認する手掛かりはまずないとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れてしまっていた。

その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた三人で談笑したことがあった。その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。

話の途中でスピーア博士の友人─A氏と呼んでおく───がいちばん棚の上の本を取り出すために椅子を持って行った。そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。

A氏は埃の中から一冊を取り出し、一年一年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載っていないものはないほどだと言った。それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。

インスピレーションの経験のある人なら良くご存知の、曰く言い難い閃きであった。内的感覚に語りかけられた声のようなものであった。私は一七七三年版の年鑑を探し出し、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティーで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。

その本は厚く埃を被り、五年ほど前にそこに置かれたから一度も動かされていなかった。私の記憶ではその年鑑はきちんと配列されていた。そして一度も手を触れた形跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰一人として取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。

 このことに関連して一つだけ付け加えておくと、一八七四年三月二十九日の私のノートにあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じであった。

署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは私には読めなかった。結局それは私の知らないかなり老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くないところにある家で百歳近い高齢で他界している。姓名も住所も公表できない。

理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージ通りであったとだけ述べておく。

メッセージを伝えたそもそもの目的(と思われる)のはその婦人が一八七二年十二月に他界していると言う注目すべき事実で、〝寿命を全うして、地上生活の疲れを癒して来た〟ということであった。

 この件にかぎらず、霊の身元の件に関するものは全てイムペレーターが指示し、私がしつこく要求した身元の確認──というよりは死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったと信じている。

そのいずれも明らかにある計画性をもって運ばれている。私からの勝手な要求が容れられたことは一度もなく、その計画を変更させることは遂に出来なかった。

 
通信の連続性がこの頃から途切れ、通信らしき通信が来なくなった。時たま思いだしたように通信が出ることはあっても、この膨大な量の〝霊訓〟を一貫して支えてきた強烈なエネルギーはみられなくなった。

初期の目的が達成され、その後も通信があっても間隔が開くようになり、やがて一八七九年頃を境にこの自動書記による通信は事実上終わりを告げ、もっと容易で単純なものに代わってしまった。私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な箇所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取りかかることになろう。

が取り敢えず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。

 本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この〝霊訓〟は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。

その内容は読む人によって拒否されるかもしれないし、受け入れられるかもしれない。しかし、真摯にして死に物狂いで真実を求めんとして来た一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在が弛(たゆ)むことなく働きかけ、そして遂に成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。                          (完)                                                                           

〔註〕
  (1)Benjamin Cooke
  (2)Johann  Pequsch
  (3)Wellesley Earl
  (4)John Blow
  (5)Christopher Gibbon
  (6)Henry Purcell
  (7)Norton
  (8)直訳「化学的技法の手引き」
  (9)Richard Neville 15世紀の英国の貴族・政治家。
(10)Charlotte Buckworth(女性)
(11)Jermyn Street ロンドンの中心に位置する。
(12) シャーロットの愛称
(13)Doctor Baker 
 




















































































 
 
 
   解  説──訳者)

 本書は形の上ではモーゼスという霊媒的素質をもつキリスト教信者を通して、目に見えぬ知的存在が全ての人間の辿る死後の道程を啓示し、モーゼスが幼少時より教え込まれ、絶対と信じ、且つ人に説いてきた思想的信仰を根底から改めさせ、真実の霊的真理を理解させんとする働きかけに対し、モーゼスがあくまで人間的立場から遠慮容赦のない反論を試みつつも、ついに得心していく過程をモーゼス自身がまとめて公表したものである。

 モーゼス自身が再三断っているように、本書に収められたのはほぼ十年間に亙って送られて来た膨大な量の通信のほんの一部である。

主としてイムペレーターと名のる最高指揮霊が右に述べたモーゼスの霊的革新の目的に副って啓示した通信を採録してあるが、記録全体の割合からいうとプライベートなこと、些細なこと、他愛ないことのほうが圧倒的に多いようである。

が、それはモーゼスの意思に従って公表されていない。実際問題としては些細なこと、プライベートなことのほうがむしろ科学的ないし論理的なものよりも人間の心に訴えるという点においては重要な価値をもつことがあり、その意味では残念なことではあるが、もともと霊団の意図がそこになかったことを考えれば、それもやむを得なかったと言わざるを得ない。

 通読されて実感されたことであろうが、モーゼスにとってその十年間の顕幽にまたがる論争は、モーゼスの名誉と人生の全てを賭けた正に真剣勝負そのものであった。全ての見栄と打算を排した赤裸々な真理探究心のほとばしりをそこに見ることが出来る。

それだけに、自分に働きかける目に見えざる存在が地上時代にいかなる人物であろうと、何と説こうと、己の理性が得心し求道心が満足するだけでは頑として承服しなかった。

その点は今の日本に見られるような、背後霊に立派そうな霊がいると言われただけで有頂天になったり、何やら急に立派な人間になったかのように錯覚する浅薄な心霊愛好家とは次元が異なる。

ほぼ三十年後の同じくキリスト教の牧師オーエンが名著「ベールの彼方の生活」Life Beyond the Veil by R. V. Owen を出すまでに二十五年の歳月をかけた事実と相通じるものがあろう。

 なおこの「霊訓」には「続霊訓」More Spirit Teachings という百ページばかりの続編がある。これはモーゼス自身の編纂によるものではなく、モーゼスの死後、モーゼスのこの道での恩師であったスピーア博士夫人が博士邸で定期的に催されていた交霊会での霊言と自動書記による通信の記録の中から〝是非とも公表されるべきである〟と判断したものをまとめたものである。

背後霊団の意図と霊的真理の中枢においては何ら変わりなく、その意味で目新しいものは見当たらないとも言えるが、第一部の霊言集と(第二部は自動書記通信)第三部のモーゼスの人物像に関するものには参考になるものが少なくない。

その紹介も兼ねて、このあとの解説には主としてこの「続霊訓」を参考にさせていただくことにする。


 〇霊団の構成について
 「続霊訓」の冒頭でイムペレーターが霊言でこう述べている。

 『神の使徒たる余は四十九名より成る霊団の頭であり、監督と統率の任にあり、他の全ての霊は余の指導と指令により仕事に当たる。

 余は全智全能なる神の意志を成就せんがために第七界より参った。使命完遂の暁には二度と地上に戻れぬ至福の境涯へと向上していくであろう。が、それはこの霊媒が地上での用を終えた後となるであろう。

そしてこの霊媒は死後において地上より更に広き使命を与えられるであろう。

 余の下に余の代理であり副官であるレクターがいる。彼は余の不在の折に余に代わって指揮し、とりわけ物理的心霊現象に携わる霊団の統率に当たる。

 レクターを補佐する三番目に高き霊がドクター・ザ・ティーチャーである。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率化に、あとで紹介するところの、知恵と知識を担当するところの一団が控えている。

 次に控えるのが地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なるものを追い払い、苦痛を軽減し、よき雰囲気を作ることを任務とせる二人の霊である。この二人にとりて抗し切れぬものはない。が、内向的罪悪への堕落は如何ともし難い。

そこで霊界の悪の勢力───霊媒の心変わりを画策し聖なる使命を忘れさせんとする低級霊の誘惑より保護することを役目とする二人の霊がついている。直々に霊媒に付き添うこの四人を入れた七人で第一の小霊団(サークル)を構成する。われらの霊団は七人ずつのサークルより成り、各々一人の指揮官が六人を統率している。

 第一のサークルは守護と啓発を担当する霊──霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊より成る。
 
 次のサークルは愛の霊のサークルである。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類のもの全てを配慮する。

 次のサークル──これも同じく一人が六人を主宰している──は叡智を司る霊の集団である。直感、感識、反省、印象、推理、等々を担当する。直感的判断力を観察事実からの論理的判断力を指導する。叡智を吹き込み、且つ判断を誤らせんとする影響を排除する。

 次のサークルは知識──人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識──を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当する。また霊媒の辿る困難きわまる地上生活を指導し、有益なる実際的知識を身に付けさせ、直感的知恵を完成せしめる。これはドクターの指揮のもとに行われる。

 その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループである。彼らは崇高にして知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さとに溢れる言葉に触れさせる。美しきもの、芸術的なもの、洗練され教養溢れるものへ心を向けさせ性格に詩的潤いを与え、気品あるものにする。

 次の七人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を担当する。これが霊媒の性格に軽快なタッチを添える。すなわち社交上大切な生気溢るる明るさであり、これが日々の重々しき苦労より気分を解放する。愛想良き心優しき魅力ある霊たちである。

 最後の霊団は、物理的心霊現象を担当する霊たちである。高等なる霊的真理を広める上で是非必要とみた現象を演出する。指揮官代理であるレクターの保護監督のもとに、彼ら自身の厚生を兼ねてこの仕事に携わっている。

霊媒ならびにわれら背後霊団との接触を通じて厚生への道を歩むのである。それぞれに原因は異なるが、いずれも地縛霊の類に属し、心霊現象の演出の仕事を通して浄化と向上の道を歩みつつある者たちである。

 いずれのグループに属する霊も教えることによりて自ら学び、体験を与えることによりて自ら体験し、向上せしめることによりて自ら向上せんとしている。これは愛より発せられた仕事である。それはわれわれの徳になると同時に、この霊媒の徳ともなり、そしてこの霊媒を通じて人類への福音をもたらすことになるのである。

 以上がイムペレーター自身の霊言による霊団の説明であるが、「ステイントン・モーゼの背後霊団」The Controls of  Stainton Moses by A.W.
Trethewy によると、この最高指揮官であるイムペレーターの上に更にプリセプターと名のる総監督が控え、これが地球全体の経綸に当たるいわば地球の守護神の命令を直接受け取り、それがいむイムペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたようである。


霊団の身元について
 本文でもイムペレーターが繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは単なる好奇心の満足にはなっても、それによって「霊訓」の信頼性が些かも増すものではないし、減じるものでもない。第一地上の記録自体が信頼がおけないのである。

がしかし、一応興味の対象であることには違いないので、主な霊の地上時代の名前を紹介しておくと──

 イムペレーターは紀元前五世紀のユダヤの予言者で旧約聖書の〝マキラ書〟の編纂者マキラ Marachi` レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタス Hippolytus‘ ドクターは紀元二世紀ごろのギリシャの哲学者アテノドラス Athenogoras` プルーデンスは〝新プラトン主義哲学〟の創始者プロティノス Plotinus` その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザリ等の名が見られる。

 ここに参考までに訳者の個人的見解を述べさせて頂くと、スピリチュアリズムの発展に伴って守護霊、指導霊、支配霊等のいわゆる背後霊の存在が認識されてきたことは意義深いことであり、背後霊のほうも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは霊的指導において大いに差がある、と言うのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することはまったく別問題である。

地位が高かったとか名声が高かったということは必ずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。

シルバーバーチやマイヤースの通信を見ると、偉大な霊ほど名声とか地位、権力といった〝俗世的
〟なものとは縁のない道を選んで再生するという。従ってその生涯は至って平凡であり、その死も身内の者を除いてほとんど顧みられないことが多い。

そうした人物が死後誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られる筈がないのである。しかも霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。イムペレーターの霊言に次のようなところがある。

『地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力であり、いわば放射性エネルギーである。汝らが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物の如きものである。高等なる霊信の非人個人性に注目されたい。

この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれらの身元の証明を求めた。が実はわれらを通して数多くの影響力が届けられておる。死後首尾よく二段階三段階と登りたる霊は、汝らのいう個体性を失い形態なき影響力となり行く。

余は汝らの世界に戻れるぎりぎりの境界まで辿り着いた。が、距離には関係なく影響力を行使することが出来る。余は今、汝らより遥か彼方に居る。』


 西洋においても日本においても霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にし過ぎる傾向があるが、その正確さの問題もさることながら、そのこと自体が本人にとって害こそあっても何ら益のないことであることを強く主張しておきたい。

辿ればすべて神に行き着くのである。その途中の階梯において高いだの低いだのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。

 

スピリチュアリズムにおける「霊訓」の価値
 スピリチュアリズム  Spirituailsm というのは用語だけを分析すれば主義・主張を意味することになるが、本来は人為的教義を意味するものではなく、地上では名称なしには存在が示されないからやむを得ずそう銘打っているまでで、〝発明〟ではなく〝発見〟──目に見えぬ内的世界と霊的法則の発見である。

 そのきっかけが一八四八年の米国における心霊現象であったことは周知の通りである。イムペレーターの霊言に次のような箇所がある。

『今夜は大勢の霊が活発にうごいている。本日が記念すべき日であるからに他ならぬ。汝らが〝近代スピリチュアリズム〟と呼ぶとところのものが勃興した当初、高級霊界より強力なる影響力が地球へ差し向けられ、霊媒現象が開発された。

かくして地球的雰囲気に縛りつけられた多くの霊を地球圏より解放し、新たなる生活へ蘇らしめるための懸け橋が設けられた。このことを記念してわれらはこの日を祝うのである。

スピリチュアリズム──われらはこれをむしろ〝霊界からの声〟と呼びたいところであるが、これは真理に飢えし魂の叫びに応えて授けられるものである。』


 この霊言からも判る通り、スピリチュアリズムは本来は霊界からの新たな啓示を地上人類にもたらす運動であり、その目的のために霊媒が養成され、霊的存在の威力の証として様々な心霊現象が演出されたのであった。

新たな啓示とは突き詰めれば人間の死後存続の事実と、その生活場としての霊界の存在と、その顕と幽とに跨る因果律の存在の三つに要約されよう。

ところが現実にはスピリチュアリズムへの一般の関心の多くは霊の存在の物的証拠に過ぎないところの〝現象面〟に注がれ、肝心の霊的教訓が等閑(なおざり)にされている。イムペレーターは続けてこう語っている。

『スピリチュアリズムには徐々に募りつつある致命的悪弊が存在する。現象のみの詮索から由来するいわば一種の心霊的唯物主義である。人間は物理現象の威力のみに興味を抱き、その背後のさまざまな霊的存在を理解しようとせぬ。

物質は付帯的要件に過ぎず、実在はあくまで霊なのである。世界の全ての宗教は来たるべき死後の世界への信仰に拠り所を求めている。が、地球を取り巻く唯物的雰囲気に影響され、霊的真理が視覚的現象の下敷きとなり、息も絶えだえとなっている。

もしもこのまま現象のみの満足にて終るとすれば、始めよりこの問題に関らぬほうが良かったかも知れぬ。がしかし、一方にはそうした現象的段階を首尾よく卒業し、高き霊的真理を希求する者もまた多い。彼らにとりて心霊現象は霊的真理への導入に過ぎなかったのである。』


 要するにスピリチュアリズムの究極の目的はこの「霊訓」に象徴される霊的真理の普及にあるのである。イムペレーターも述べている通り、こうした霊的啓示を地上へ送り届ける霊団は古来いくつも結成され、その時代に必要とするものを霊覚者を通して送って来た。

そして今なお世界各地で送られてきている。「霊訓」はあくまでそのうちの一つに過ぎない。そして霊媒のモーゼスがキリスト教の牧師(三十歳の時に病を得て辞職)であったこと、その時期がスピリチュアリズムの勃興期に当たったという事情からくる特殊性を見落としてはならないであろう。

つまりその内容は煎じ詰めれば、キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正なる霊的意義を説くことに集中され、その他の一般の人間にとっての関心事、例えば再生──生まれ変わり──の問題等については、少なくとも本書に採録されたものの中には見当たらないし、「続霊訓」の中で言及しているものも概念的なことを述べているだけで、深入りすることを避けんとする意図が窺える。イムペレーターは自動書記通信でこう述べている。

 『霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊にして始めて論ずることの出来る問題である。最高神ご臨席のもとに神庁において行われる神々の教義の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方が良い秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊が再び地上へ肉体に宿りて生まれるべきと判断されるか、それとも否かと判断されるかは誰にもわからぬ。誰も知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては佳きに計らわれるであろう。

 すでに述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実ではない。また偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上に戻り人間と共に生活を送ることは事実である。

他にもわれらなりの判断に基づきて広言を避けている一面もある。まだその機が熟しておらぬからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう公言する霊は自ら己の虚偽性の証拠を提供していることに他ならぬ。』

 
シルバーバーチ霊訓との比較
 イムペレーター霊団がモーゼスを通じて活動を開始したのは一八七〇年代初期からであるが、ぞれからほぼ半世紀後の一九二〇年代には、霊言霊媒モ―リス・バーバネルを通じてシルバーバーチ霊団が活動を開始している。

そして一九八一年にバーバネルが他界するまでのほぼ半世紀に亙って膨大な量の霊言を残し「シルバーバーチ霊言集」全十一巻となって出版されている。

 訳者はこれを「古代霊は語る」(潮文社)と題してその中心的思想の全容を紹介したが、モーゼスの「霊訓」とは基本的には完全に符節を合している。強いて異なる点を挙げるならば、イムペレーターが控えめに肯定した再生の事実を思い切り前面に押し出し、これを魂の向上進化のために必要不可欠の要素として説いている点である。

察するにモーゼスの「霊訓」その他によっていわゆる〝夾雑物〟が取り除かれ、人類が神の神秘にもう一歩踏み込める段階に来たことを意味するのであろう。

 このことに関して興味深いのは、キリスト教の根本教理を論駁するイムペレーター霊団の霊媒がキリスト教会の曾ての牧師であり、再生を根本教理として説くシルバーバーチ霊団の霊媒が再生説を嫌悪する人物であったことである。訳者個人としてはそこに霊界の意図的配慮があったものと推察している。


モーゼスの経歴と人物像
 ウィリアム・ステイントン・モーゼスは一八三九年に小学校の校長を父として生まれた。小学生時代に時おり俗にいう夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、再びベッドに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままであった。

書かれた作文はその種のものとしては第一級であったという。しかし幼少時代に異常能力を見せた話はそれだけである。

 オックスフオード大学を卒業後、国教会(アングリカン
の牧師としてマン島に赴任している。二十四歳の若さであったが、教区民からは非常な尊敬と敬愛を受けた。特に当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は末永く語り継がれている。

 一八六九年三十歳時に重病を患い S・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯に亙るスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。

翌年病気回復と共に再びドーセット州で牧師の職に付いたが病気が再発し、ついに辞職して以後二度と聖職に戻ることはなかった。そして翌年ロンドンの小学校の教師を任命され、一八八九年に病気で辞職するまで教鞭をとった。

 その間の一八七一年から一八八二年のほぼ十年間がこの「霊訓」を生み出した重大な時期である。モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を追究した時期であり、スピリチュアリズムにとっては大いなる霊的遺産を手にした時期でもあったと言える。

 最後に「続霊訓」の第三部に載っているモーゼスの人物評を紹介しておく。いずれもモーゼスの死に際して贈られた言葉である。まずスピーア夫人はこう語っている。

『自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落ち着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相俟って、氏を魅力ある人間に作り上げていました。

 二年間の病いさえなければ「霊訓」をもう一冊編纂して出版し、同時に絶版となっている氏の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、いずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残された同志たちが氏が先鞭をつけた仕事を引き継いで行ってくれることを切望しているに相違ありありません。』


 次は心霊誌「ライト」に載った記事。

 『氏は生れついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏ほどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を傲慢不遜し苛立ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が氏にとってそれは無縁であった。モーゼス氏は常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた。』

 スピア博士の子息でモーゼスが七年もの間家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、氏の人間性の深さと暖かさ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自己を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。

『真理普及への献身的態度は幾ら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れぬであろう。』



 〇あとがき
 訳者としてお断りと謝意を述べなければならないことがある。

 まず、この度の翻訳に当たり、聖書関係の人名及び訳語については、研究社の「新英和辞典」、小学館の「ランダムハウス英和辞典」、それに各種の日本語訳聖書を参照したが、辞典ごとによる違い、プロテスタントとカトリックの違い、ラテン語読みと英語読みの違いがあり、その選択に迷ったものは近くのプロテスタント系の教会では司牧されている方の助言を得た。

またイエス語録の訳に付いても教えを乞うたが、いずれの場合も最終的には私なりの判断で訳した。それ故、全責任は訳者の私にある。

 本書の内容に鑑みで、その牧師の氏名を公表できないのが残念であるが、快く助言を下さったことに陰ながら深く謝意を表したい。

 本書は〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今なお世界各地に熱烈な愛読者を持っている。日本にも浅野和三郎の抄訳がある。それを読んでぜひ全訳を読みたいと思われた方も多いことであろう。実は訳者自身その一人であった。

訳者はその後原典でその全編と続編を読み、こんどは、それを全訳したいとの希望を抱き続けて来た。それがこの度、国書刊行会から「世界心霊宝典」の一冊として出ることになり、それをこの私が訳すことになった。

永くスピリチュアリズムに親しんできた者としてこの事をこの上ない光栄と思い、まる一年、この翻訳に体力と知力の全てを投入してきた。

 今こうして上梓するに当たり、その名誉を喜ぶ気持ちと同時に、こうした訳し方で良かっただろうかという一抹の不安と不満を禁じ得ない。もっと平易な現代語に訳すことも出来たであろう。訳者も当初それを試みてはみた。

が原典のもつあの莊重な雰囲気を出すには現代語では無理と判断し、結果的にこうした形に落ち着いた。この最大の要因は、この霊界通信が単なる霊的知識の伝授ではなく、霊媒のモーゼスと指導霊イムペレーターとの壮絶ともいうべき知的並びに人間的葛藤の物語であり、そこに両者の個性がむき出しになっている点にある。そこにこそ本霊界通信の、他に類を見ない最大の魅力があり、その生々しさを表現するには文体を操るしかないと判断したのである。

 その出来不出来は読者の批判を仰ぐこととして、訳者としては、いつの日か別のスピリチュアリストが別の形での訳を試みられることを期待しつつ、今はただ、お粗末ながらもこうした歴史に残る霊的啓示の書が日本でも出版されることになったことを素直に喜び、一人でも多くの方がこの〝泉〟によって魂の渇きを潤して下さることを祈るのみである。

 なお、「霊訓」初版は一八八三年に刊行された。翻訳に当たっては一九四九年版を使用した。
  一九八五年七月
                                近藤千雄 
 
 

     人間の代理人としてのモーゼス──梅原伸太郎

 ステイントン・モーゼスに生じた霊現象を単なる個人的怪奇現象と見るべきでないことは、スピリチュアリズム勃興の端緒となったハイズヴィルの叩音現象その他が、単なる騒霊事件や時代の一エピソートとみなされるべきではないのと同様である。

 霊や霊界を認めるに至った人は、初めのうちは、とかく霊界を怪奇現象や妖魅怨霊の卸か問屋のように考える傾向がある。これはおよそ霊のインテリジェンスを認めない考え方で、そういう人々の判断力には少なからぬ問題があろう。

何故なら霊とはそもそも intelligence であるからである。スコラ哲学では純粋知性と言えば天使のことを意味する。

 一八四八年に起こったハイズヴィル事件(詳しくは本集の『スピリチュアリズムの真髄』参照)が忽(たちま)ちアメリカ全土にスピリチュアリズムの広がる契機となり、それが欧州に飛び火して心霊現象の科学的研究の発端ともなったことは、歴史の示すところ、水上に船の航跡を見るよりも明らかである。

霊界や霊の知性を認めれば、これらの歴史的経緯に霊界の意図が働いているとみることがむしろ自然である。

 もっともこうした推論は唯物論的知性の最も嫌うところであろう。がしかし、まさにそうした唯物論的知性の無制限な一般化こそスピリチュアリズムの阻止しようとするものであり、その源泉はこの世を超えたところにある。

唯物論が力失いつつある現在、こうしたいささか乱暴な言い方でさえ多少の権利を有するようになった。(唯物論の側は殆ど常に乱暴であったが)

 モーゼスの身辺に起きた霊現象は並々のものではない。最初は空中浮揚であった。スピリチュアリズムとの接触があってから五箇月目に、モーゼス自身の身に異変が起きたのである。突然彼の身体が、何者か目に見えないものの手によってテーブルの上に投げ出されそれから近くのソファーの上に運ばれたのである。

同じことが三度起きた。寝室の置きものなどが十字形に並べられていることなどもあった。二人がかりでなければ一インチも動かないような大テーブルが片足を上げてぎしぎしと動き出す。エネルギーが満ちている時は部屋中が絶え間なく震動していた。

 交霊会ではアポーツ(物体移動)や霊光現象が頻出した。楽器もないのに音楽の奏でられることもある。直接談話や物質化現象もひと通り起こった。

これらのことはポルターガイストのように無秩序に起こるのではなく、高級霊団の指図によってよくコントロールされていたのである。またこうした客観現象は、友人のスピア医師夫妻や、サージャント・コックスが目撃して証言しているので、幻想や、妄覚ではない。(物理的心霊現象の客観性は『ジャック・ウェバーの霊現象』でよく示されるであろう)

 モーゼスの自動書記現象はこうした客観的な物理現象と併せて生起したのである。イムペレーターの霊団があまり好ましいこととは思わぬながら、霊の世界の実在を証拠だてるために低次の霊を使ってこうした物理現象を起こしていたことは本文に見られる通りであるが、この点自動書記のみが現出する例と違った迫力がある。

 この自動書記は、本人の意思と全く無関係に筆記されるものでありながら、なおモーゼスはこれを潜在意識の作用によるものではないかと疑っている。そのために自動書記中に一方で難解な本を読み続けるようなことまで試みている。

それでも彼の手は立派な文章を綴り続けたのである。大切なことはモーゼスがあくまでも冷静な自己観察の態度を失わないことである。

 自動書記現象の客観性や内面機構については『不滅への道』や『人間個性を超えて』のカミンズの例を見ればよく分かる筈である
。およそこの類の真性自動書記現象は、最近わが国でとりざたされているようないわゆる自動書記といわれているものとは違う。

巷間では霊感書記(インスピレイショナル・ライティング)と呼ぶべき主観性の混入の甚だしいものを無批判に自動書記と言っていることが多いようである。こうしたものには元来その価値に仲間内での市場性しかないと判断すべきものなのである。

 『霊訓』に示されたモーゼスとイムペレーター霊団の問答を見ているとその応酬の凄まじさに思わず息がつまるほどである。これほどまでに様々な現象や証拠を提示されながら(イムペレーターが、自分たちは十分な証拠を示したといっているのもむべなるかな)なおかつモーゼスは霊の客観性を疑い、それが疑いえなくなると今度は霊の正邪、霊信の真偽を問題にして果敢に応戦している。

けだし神との論争をさえ辞さなかったギリシャ的知性の伝統が生きているというべきか。

 わが国の審神(さにわ)法(神延に巫女と審神者が対坐して下りた神や霊を審問する法)においても神や霊の高下正邪をただすのであるが、通常これほどまでの言語性と思想性はみられない。  
 
 身辺にあらゆる超常現象が起き、自分の身体や精神さえもがしばしば他界の霊に占有されている者としては、よくここまで頑張られたものであると思う。またイムペレーターの側が単なる霊媒体質の人間を選んだのではなく、このような頑固な理性の所有者を霊的顕現の対象者として選んだのには、深く意図したものがあるに相違ない。

こうした高級霊と霊的、知的素質者の出会いが滅多にあるものでないことは、モーゼスの例がスピリチュアリズムの歴史の中で一頭地を抜いていることでも明らかであろう。

 モーゼスは近代的知性を備えた人類の代理人、それも既成の宗教に深く帰依した者の一典型として、霊の顕現と真向かっている。霊の方もそれをよく承知していて、モーゼスに理性を棄却せよとは言わない。しかしイムペレーターはモーゼスに極端な懐疑をもつことを戒めている。

極端な懐疑はすべてのものを破壊し尽くして精神の営為やその源をも危うくしてしまうのである。懐疑とはもともとそうした出自のものなのである。知性がその基準を極限まで適用する時は、自己破壊作用をひき起こす。

 ある種の知的な人々には生ぬるく感ずるかもしれないが、魂の成長に応じて生ずる高級霊の光への感知力をそのまま素直に享受してゆく以外に霊魂の進化を図る道はないようである。ここのところは大事な分かれ目になるところである。

モーゼスの問答はこうした究極のことを人類に教え、示唆しているようである。
モーゼスをたった一人の特異な経験者とせず、人類共通の体験として評価することが大切なのではないか。そうでなければ物理的心霊現象など百千起きたとしても意味はない。 

 後に、ステイントン・モーゼスは科学的心霊現象の研究団体として名高い英国心霊研究協会(SPR)の創始者の一人となる。パレット教授の協力要請を受けて、シジウィック教授、マイヤース
、ホジソン博士、ガーニーなどを勧誘し、自らはSPRの副会長のうちに名を列ねた。しかし二年後の一八八四年、彼は不必要に懐疑的な科学主義的態度に飽きたらずSPRを去ることになる。

そしてロンドンスピリチュアリスト連盟の会長となり、スピリチュアリズムの啓蒙と普及に尽したのであった。モーゼスがSPRと決別したことは、スピリチュアリズムと心霊研究(サイキカル・リサーチ)が現在までのところそれぞれの異なった道を歩まざるを得なかった事情を象徴的に示していると思う。

イムペレーターの教育はモーゼス個人に関するかぎり効を奏したわけであるが、人類が一つの類魂として、モーゼスの経験に学ぶのはいつの日のことであろうか。  


     *          *          *  
 余談になるが、イムペレーターとブラヴァッキー夫人の関係について触れておきたい。ブラヴァッキー夫人が初期のスピリチュアリズム運動に加わっていたことは周知の事実であるが、後に彼女の創設した神智学協会とスピリチュアリストのグループの間には不幸な摩擦の生じた時期があった。

しかし会員名簿などでみると両者の構成人員は互いに重なるところがあったようである。ブラヴァッキー夫人はスピリチュアリズムのある面について非常に批判的であったが、当時『ライト』誌によって論陣を張っていたモーゼスとイムペレーターからの霊信だけは評価していた。

 一八八一年頃、神智学協会の中で、イムペレーターを名のる霊は、実は現在生きている神智学協会の幹部の一人で、その人物がモーゼス本人に気づかれずに陰でモーゼスを操作しているだという噂が広まったことがあった。

事実、ブラヴァッキー夫人はイムペレーターが神智学会のロッジに関係しているとほのめかしていたことがあった。これを伝え聞いたモーゼスがイムペレーターにこの噂の真偽を尋ねてみたところ、イムペレーターは、それは全くの作り話であると答えた。

そして、ブラヴァッキー夫人については、「彼女は我々と話したことはない。しかし、彼女には必要とあれば我々の存在に関する事実を確かめるだけの力はある」といった。

このエピソートは、スピリチュアリズム嫌いのブラヴァッキー夫人がモーゼスやイムペレーターには特別の位置を与えていたこと、またイムペレーターの方もとかく評判のあるブラヴァッキー夫人について、少なくともその霊的能力については認めていたことが分かって面白いし、またスピリチュアリズムと神智学の関係を見る上でも示唆するものがある。

                 完

 
  
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