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 世界心霊宝典 Ⅰ 霊訓    十四節~ 二十四節        一節~十三節    二十五節以降

 
  十四 節
目に見えざる師を信じることの困難さ──知的難問との葛藤──著者が辿り着いた結論──スピリチュアリズムに関する著者の見解──回答──〝スピリチュアリズムは神の声〟──交霊は科学を超えた法則が支配──霊媒の管理の不徹底
 



  十五 節
スピリチュアリズムの宗教性──絶対的真理は存在せず──〝最後の審判〟は無し──罪はそれ自らの中に罰を含み、犯した瞬間より責任を求める──キリスト教的天国地獄観を論駁──交霊現象に関する誤解を正す──悪とは──スピリチュアリズムは地球規模の啓示
 



  十六 節
 これまでの霊信の総括──恐怖を吹き込む教義は魂を委縮させる──宗派の別は些細な問題──どの宗教にも真理と誤謬が混在する──真理を独占する宗教は皆無──キリスト教神学は諸悪の根源──キリストの福音は生命の不滅性の証明──それが宗教の根幹
 



  十七 節
 著者の不満と要望──拒絶とその理由──これまでの霊訓の復習──著者に反省を求めるために霊団の一時総引上げを示唆──数学的正確さをもつ証拠は提供不可能──キリストの〝父と私は一つである〟の真意──著者の旅行先での霊信──性急な要求は事を損ねる──猜疑心の及ぼす影響──著者の忍耐と理性的判断を重ねて要請



 

  十八  節
 節制と心身の清潔の必要性──魂と身体──ドグマの字句どおりの独善的解釈は自己陶酔を誘う──先祖伝来の信仰のみで足れりとする者・考えることをせぬ者・世間的付き合いとしての信仰で佳しとする者は取り合わない──みずから光を求める者こそ向上する──真摯で恐れを知らぬ心が真理探究の必須条件─その典型をキリストの生涯に見る──現在のキリスト教はキリストの時代のユダヤ教と同じ──人間的夾雑物を取り除き霊的真理を明らかにすることが霊団の使命──キリストは宗教改革者であり社会革命家でもあった──特殊階級を攻撃し庶民に味方した──〝キリストの再臨〟の真意








  十九  節
地上人類としての宗教的生活の理想──神は摂理としての働きによってのみ知るもの──未来の不用意な詮索は禁物── 神と自己と同胞に対する責務──満足は堕落への第一歩──積極的活動と正しい習慣の生活──身と心の宗教
 



  ニ十 節
霊団も全てを語ることを許されず、語ることが人間の為になるとも限らない──著者の疑念を募らせる出来事の発生──霊側の弁明── 精神状態の不安定な時の危険性──猜疑と懐疑は別──イエスは庶民を相手に法を説いた──霊側の配慮に対する著者の無理解を指摘──これ以上の働きかけを当分控えると表明
 




  二十一節
著者の反省と反論──回答──霊団には果たさねばならぬ至上命令がある──物理実験の禁止──イムペレーターの最後の嘆願──判断を誤らぬように神に祈れ ──イムペレーターの祈り
 

      
二十二節
イムペレーター、天界の祈りの集会に参列──地上の穢れを払い落とし気分一新のために時おり天界に戻る──いかなる高級霊も人間界に降りれば人間臭を帯びる──霊の身元を証す新しいケース──著者の心境


 

  二十三節    
神の啓示の歴史的系譜──メルキゼデクよりキリストに至る流れ──〝モーセ五書〟───旧約聖書の大半は伝説と神話の寄せ集め──啓示も人類の知性と共に進化する─人間的想像と誤謬に埋もれた素朴な真理を明らかにするのが霊団の使命




  二十四節
旧約聖書時代と新約聖書時代の間の記録の欠落について──夜明け前の暗黒の時代──啓示の時代は人間的渇望に応えて訪れる──神と人間との関係について過度の詮索は無意味──バイブルを絶対視した議論には応じない──キリストを神格化せず一人間として再検討せよ─背後霊も人間の責務の肩代わりは出来ない。
 







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  十四 節

〔前節の通信は、私に少なからざる影響を及ぼした。即座の反論ができず、次の通信まで何日かの間(ま)が必要であった。いよいよその通信をする気になった時、私はまずこう反論した。〕
 

──キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってキリストの言説に耳を傾けている図は私にも容易に想像できます。今の時点で言えばそのサドカイ派の学者は間違っていたことになります。それは判ります。

しかし私が思うに、それは実に無理からぬことだったのです。理性の光だけで判断すればキリストの言説はとてつもないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者が、虚言か妄想としか思えぬものを拒否したのも無理からぬことでしょう。私からみれば、それ以外にとるべき態度はなかったとしか思えません。

ただ彼らの場合は、そのとてつもないことを言う人間が目の前にいたということ──姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べることが出来たということです。

その点私の場合は影も形もない、ただの影響力であり、もしかしたら、自分の中だけの心と心の葛藤に過ぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで、掴みどころがないのです。

明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それも極めて曖昧で、しかも往々にして軽蔑したくなるものばかりです。啓示だと言われても、愚かというのが言い過ぎなら、得体が知れないとでも言わざるを得ぬもので、聞いてショックを受けることもしばしばです。

私はどうして良いか判りません。あなたという存在についても、私は何も知らないし、果たして一個の独立した存在なのかどうかも判りません。あなたに関して得心のいく手掛かりは何一つありません。たとえ曾て地上で生活したことがあると証言しても、私には大して意味はありません。

あなたは一体個性を具えた存在ですか、それとも単なる影響力に過ぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば幾分か救われる気がします。しかし、とにもかくにも、出来ることなら私には一切構わないでおいて頂きたい心境です。
 

〔正直いって、その頃の私は自分の強固な信仰と、強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克によって頭が混乱を極めていた。そしてそれが来(きた)るべき段階への一つの準備としての体験であることは明らかであった。〕 
 

 友よ、汝の疑問とするところはよく理解できる。われらとしても、その疑念を解く手助けを致したく思う。まず汝は例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけに有利であると言う。なるほどイエスは目に見える存在であった。が、

そのことは有利であるどころか、むしろ一層困惑を増すものではなかったであろうか。何となれば、目の前にいるイエスなる若者はナザレの大工の息子である。それを神の新たなる啓示者と結びつけるのは、汝がわれらを神の使者と結びつけること以上に困難なことではなかったろうか。

サドカイ派の学者にとって〝この男は大工ではないか〟という蔑(さげすみ)みの念は、汝がわれらのことを〝これは一体個的存在であろうか〟と思う疑念以上に深刻なる問題ではなかったであろうか。イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れたることの出来る明白なるもので、しかも、およそ好条件とは言えぬものばかりが揃っていた。

生まれは卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところが全ての民衆から背を向けられる。こうしたことは全て現実であり、如何ともし難き不利な条件であった。あからさまに表現すれば、最後通牒を突き付けられても致し方ないほどであった。故に、たとえサドカイ派の学者がイエスの言説を理解し得ず神の使者として認めなかったとしても、その学者には何の咎めもない。

それは単にその学者が、より成長した折に再び訪れるであろうところの進歩の好機を逸したということに過ぎぬと言えよう。

 汝の場合はそれとは事情が異なる。汝には目を惑わす困難は何一つない。知的疑念と闘っておればよい。しかもこれまで汝に語られた言葉が神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは汝も認めるところであろう。

その説くところは汝が必要性を痛感せるものに満ちあふれ、汝も認めるところの美しさに溢れ、しかもそれを受け入れる用意のあるものには強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それが汝自身以外の源より発していることは十分に得心していよう。

何となれば、もしも汝自身の内部の源より無意識のうちに発したものであれば、それが汝自身の教説と真っ向より衝突することは有り得ぬくらいのことは当然汝も認めるであろうからである。もしもわれらの述べるところの言説が汝の精神より自然に発するものであれば、汝もその公表に躊躇する余裕をもつことも出来よう。   

が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説は汝自ら納得できぬであろう。そうでないことは汝もすでに得心している。

今まさに汝が体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではない。やがてその時機を過ぎれば、きっと汝は、なぜわれらのことを汝らと同じく〝人間〟と呼ぶ形体を具えた知的存在であることを疑ったのであろうかと不思議に思える日も到来しよう。

 さよう、いま汝に必要なものは〝時〟である。根気よく考えるための時、問題を比較考察するための時、証拠を評価するための時、そして結論をまとめるための時である。かくまで汝の心を深く───その深さは汝自らの想像すら超えるが───動かせる言葉は、汝の思いに通じ、汝の苦しき立場を理解し、さらにそれに劣らず、いま汝を悩ます懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉である。

地上時代、余はイエスの出現に先立てる苦難、いま再び繰り返されつつある苦難の世相の中にて使命を担わされし者である。歴史は巡り来るものである。

いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わらぬ。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになる。が昼のあとに必ず夜が訪れる如く、神の概念が薄れ、非現実的となる時代が訪れる。するとより明確なる知識を求める神の火の粉が再び炎となって燃え上がり、天に向いて神のメッセージを求める。

そこに新しき啓示の必要が生じる。人間の魂がそれを希求するのである。古きものはそれなりの役目を終え、その灰燼(かいじん)の中より新しきものが芽生える。それは受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉に外ならぬ。

いつの時代にもそうであった。そのことは汝も知っていよう。こうした神と人類とのつながりは全歴史を通じて辿ることが出来る。それが何故に今の時代にそうであってはならぬのか。人類が最もそれを必要としているこの時代に何故に神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのか。

 余について何も知らぬから、と汝は言う。しかし何故に汝は啓示そのものと啓示を持ち来れる者とを混同するのか。何故に神の訓えと、その訓えを伝える通路に過ぎぬ者とに同一価値を置かねば気が済まぬのであろうか。
 
 
 〔こうした議論の結果ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰に一つの確信を得ることが出来た。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓とそれを伝える者(イムペレーター)とを区別することも出来るようになった。
 
私はこうした一連の論議──その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが───を再度初めから目を通し、そこにまさしく新しき啓示と言えるものをようやく見出すことが出来た。通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没してしまった。私はその時に至ってはじめて燃える炎の如き強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持ちがその確信の炎にかき消されてしまった。 
 
 実はそう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに私の若き日の宗教的修行もそれを許さなかった。私の頭には再び神学的見地からの反論が蘇った。その最初の波が去り、二日間の間を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。 その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものをくり返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去一年間に亙る交霊の経験の価値評価もしてみた。
 
そして次の三つの明確な結論に到達した。 すなわち、私に働きかけている〝影響力〟は(一)私自身とは別個の存在である。(二)その述べるところは真実であり、首尾一貫している。(三)その宗教的教説は純粋であり、崇高さがある。以上の三点は間違いないように思えた。
 
そこで更に私はその身元の確認と主義主張の問題を洗ってみた。その他の問題は後回しにしても良いように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古の誠実な知性は今なお誠実である筈だと強く信じ込む気持ちになった。が、そこでふと疑念が頭をもたげた。もしかしたら〝天使を装ったサタン〟が自分の信仰を覆さんと企んでいるのでは・・・・・・という疑念である。そこで私はこう書いた──〕


──私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させて頂けば、あなたの教説は取りようによっては理神論にもなり、汎神論にもなり、あるいは(これは言い過ぎでしょうが)無神論にもなり得る性向をもっているとも言えないでしょうか。

それは神を単なる一種のエネルギーと見下げることになり、人の心に絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。つまり神とは宇宙に瀰漫する影響力につけた名称に過ぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示といっても、それは神から真理が明かされたのではなく、人間の心の中で想像したものに過ぎないことになります。

キリスト教もそうして生まれた信仰の一つに過ぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は程度の差こそあれ盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。

神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、一人一人が自分だけの特殊な神を持つことになります。数学以外には絶対的な真理が存在しないことになります。

結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位に過ぎぬことになる──それも知性が硬直化しなければの話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性があるという皮肉な理屈になります。
  
 こうした味気ない思想は絶対的神性を有するキリスト教の福音に取って代わろうとするものです。キリスト教の教説には寸分の誤りもなく、その道徳性は殆ど誰にも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることが出来なかったのです。

なのに、あなたが説くような善の影程度しか持たぬ哲学──まさに影のみの存在で、漠然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代わる未来への建設力を持たぬ教説に、どうしてそれが出来るでしょう。その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の規範として最高の輝きを持つ宗教のもとですら手を焼いた反抗的民衆の心を捕えることなど、とても出来るものではないと信じます。

 あなたの教説の拠ってくるところが不明瞭であることについてはすでに述べたので繰り返しません。またそれが一般に普及した場合の危険性についても改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先のことであり、ここで詳しく述べる必要性を認めません。

同時にあなたの教説が広まると道徳的、社会的、宗教的に人類にとって欠かすことの出来ない健全な結びつきを多くの点で緩める結果になるであろうことも見逃せない要素です。

万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広がれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄なる軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。こうした危惧は全く私の杞憂に過ぎないかも知れません。がいまの私には切実にそう思われるのです。

私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代わりになるものとは思えません。たとえあなたの主張する通りの真正なるものであるとしても、人間はスポンジケーキだけでは生きていけないように、このような教説に従って生きることには耐え切れないでしょう。

その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣なる面に至っては、ただ単に心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。

 
 神の御名においてわれらは汝を歓迎する。が今の汝はわれらの手に余るものがある。われらの述べたところの真意を正しく理解しておらぬようである。襲える感情の激動が精神を混乱せしめ、微妙なる点の理解を不可能にしている。

それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことである。今の汝にとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行である。いま理解できぬことも、そのうち判るようになるであろう。

衝動と熱情が経験的知識と静なる確信へと変わり行くであろう。これまで、理解して受け入れるということよりは単に譲歩したに過ぎなかった信仰は、いかに崇高であれ、入念なる吟味と論理的分析より生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われらの述べたところはその吟味と分析に値するものばかりである。

これまで書かれたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもって貰いたい。そして汝との交信に一貫して流れるものを読み取って貰いたく思う。そしてわれらがいかなる素性の者であるかは汝との関わり合いの中で判断して貰いたいのである。

前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時にわれらの言葉と態度、われらの説く教説の道徳的印象によって判断して貰いたい。細かき分析によって論理的あら捜しをするのもよいが、それと同時にわれらから受ける霊的雰囲気によって判断して貰いたく思う。

 差し当たっては、われらが神の使者であることを厳粛なる気持ちで繰り返し主張するに留めておこう。われらが述べる言葉は神の言葉なのである。それは汝にも判っているであろう。その弁明に改めて言葉を費やすこともあるまい。

汝は決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではない。悪魔に玩(もてあそばれているのでもない。悪魔ならば神についてわれらの如き説き方はせぬ。また、人間の脳からはわれらの述べたような教説は出てこぬし、われらの与えたような証言も出てこぬ。精神が今少し穏やかになれば汝にもその事実が読み取れるであろう。

汝の精神が今の如き状態でさえなければ、神聖なるものに悪魔的要素を見出さんとしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところである。

それはちょうどイエスが地上の腐敗と災禍の中に在りし時、彼によって追い払われたる悪魔がユダヤ教の狂信家たちの口をつきてイエスは魔王の手先であると非難したのと同一である。われらはそのような他愛なき非難には係わらぬ。

非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからである。じっくりと時をかけて熟考すれば、自ずと汝の疑念に対する回答が出てくるであろう。今の汝には瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである。

 祈ることだけは汝も拒絶できまい。たとえそれが理屈抜きの激情から発したものでもよい。とにかく、われらと共に、啓発と耐える力を求めて祈ることである。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るがよい。

光を切望する汝の魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるのちも堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるように祈れ。汝自身の求めるところと他人の影響とを截然と区別せよ。汝にとって正しきものを選り出し、他人は他人なりに適切なるものを選ぶに任せる大らかな心を求めて祈れ。

選択と拒絶の責任を明確に認識し、一方において頑固なる偏見を避け、他方において安易なる軽信に流れることなきよう祈れ。就中(なかんずく)、正直さと、誠実さと、謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷と下劣さによって神の計画を損なうことのなきよう祈るがよい。

 かくしてわれらの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手を差し延べんとして待機する高き世界の神の使者の愛と慰めを引き寄せることになろう。スピリチュアリズム普及活動の一般的趣旨に関する汝の批判については、すでにその大半に答えたつもりである。表面的活動の底流には汝の目に映じぬ或るものが存在することを述べたい。

いつの時代であれ、神の知識の発達過程においては、人目につかぬところで密かに新しき啓示を貪り求め、さらにより高き真理を求めて着実に成長しつつある者が必ずいるものである。今の時代とて同じことである。汝と同じく、酔狂に心霊現象を弄(もてあそ)ぶ者たちを憂ええつつも、それによって些かも信念を揺るがされることなく、真摯にわれらの霊訓を心の支えとしている者がいる───実に大勢いるのである。

 さらに汝に指摘しておきたいことは、われら霊界の者と地上との霊交は地上の科学の尺度で計れぬ法則によって支配されていることである。われらの働き
かけの妨げとなる原因には、汝はもとよりのこと、われらにすらよく判らぬものが多くある。

汝の保護のために勝手に法則を規定するわけには参らぬ。われら自身の保護すらもままならぬのである。汝の係われるこの仕事の遠大なる重要性については、この仕事に興味を示す者にすら本当のところは殆ど理解されておらぬ。多くの場合、単なる好奇心の程度を出ておらぬ。それより更に下劣なる動機に動かされる者もいる。

霊媒の管理が適切を欠いている。ために霊界との連絡のうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労気味の者もいる。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なる。われらとしてもその条件の変化に必ずしも対処できるとはかぎらぬ。

出席者の構成が適切を欠いていることもある。そうした諸条件の重なり合いが交霊現象を常に同質のものに保ち、規則正しきものとすることを不可能にしているのである。

 現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにする要因もそこにある。この問題については言うべきことがまだ多くあるが、今はそれ以上に大切なものが迫っている。

今述べたところによって、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、通信を寛恕の目をもって評価せねばならぬ理由の一端が判ってもらえるであろう。偽りの現象の侵入する交霊会に至っては今は述べる言葉を持たぬ。よほど低級なる霊の仕業であり、全て信ずるに足らず、不愉快きわまる。

 その点に関して汝にはわれらの手助けが出来る筈である。愚かなる好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいは汝にできる筈である。というのは、汝はわれらのサークルにおいてわれらの指図通りに行い、現象が徐々に発展してきた経緯を知悉(ちしつ)しているからである。

他のサークルの者たちにも同じ指図を与えるがよい。やがて暗雲も晴れることであろう。もっとも交霊会にまつわる問題の原因はわれらの側と同様に汝らの側にもあることだけは確かである。
                                         ♰イムペレーター


 〔註〕
 (1)Deism 超自然的啓示を排し、理性と自然のみを頼りとする有神論。
 (2)Pantheism 自然の全てが神であるとする説。

 


       十五 節
 

 〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか──それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕 
 

  『スピリチュアリズムの宗教的教訓』

 汝はわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく汝らの無知の見本を見る思いがする。

全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その侘しきかぎりの不毛なる思想について、われらはもはや言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらは汝らが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

 疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。

人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされて来た存在───もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。

イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格を持たぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただしその存在の本質と属性はその働きと汝らの心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。

汝の抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たって問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

 われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと汝が言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。

絶対的完全性が有り得ぬ如く、今の汝の未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべきもない。汝はまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。

限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの───地上より遥かに掛け離れたわれらにとってもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそ汝の置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。

汝にとって真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てを汝に啓示しようなどとは思いも寄らぬ。

われら自らがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念───これまで汝らが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

 これまでのところわれらは、汝が筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつ汝の精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。

神と人類と汝自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、汝の聞き慣れた天国と地獄説による脅しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

 われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解と言うほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え───悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え───過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる〝縺(もつ)れ〟を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

 われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨の内に責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

 またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく、因果律の法則によってその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

 これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬであろうか。そうしたわれらの教説と、汝らの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場限りの精神的変化によって、

眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとの汝らの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘ってくれるであろうか。

堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの訓えであろうか。

それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によって魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

 このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷えるものを確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、汝にも明々白々である。なのに汝はわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置きかえんとするものであると言う。

否! 否
! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。

汝らはいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

 敢えて言おう。われらの説く信仰の方が遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。

神の啓示として汝に授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。

子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。

〔相対的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない───少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた───〕
 




 その点についてわれらも述べたいことが多々ある。これより汝の陥れる誤解を解き明かすべく努力してみたく思う。まず第一に汝は人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その汝の目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。

その点において汝は、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。

見よ、彼らは結果によってのみ知らるべき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。汝の耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。

汝が世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。汝の知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)
るのであるが、実は汝の目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。

そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解し易き手段にて神より授けられている───そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在については汝は何も知らぬ。汝の視界に入らぬのである。

入らぬのであるが、しかし現に汝のまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。
 
 かくの如く汝は一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、汝が下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、汝にはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

 と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他のすべての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。

未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉によって語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。
 
 この種の人間は、高き天使の声───いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声───によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち───その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。

さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によって進歩を阻害され、歪める精神的教育によって拘束を受けることもあり得る。

同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によって地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

 というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけにはいかぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後の絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段はあまりに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。

その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救いがたき無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。

彼らの洩らす喜びの叫びはアカ抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。汝の耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻って発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が籠っている。

その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

 かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するように指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。

物理的演出については汝もすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足掛かりとして意図され、或る者にとっては価値ある不可欠の手段なのである。

 そこでわれらはこれより、汝が腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、汝にとって左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊を汝は〝悪〟の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

 悪の問題についてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、汝の想像するが如き悪の仕業ではない

 悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらと汝を取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それは汝が想像するようなものではない。見た目に常軌を逸する者、垢抜けせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。

そうした観方は途方もない了簡違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろ汝らの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。

それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。

しかも、洗練された者に反撥を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され身体は肉欲に汚され道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。

そうではないことは汝にも判るであろう。前者は、少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的もなき人間とはわけが違う。死者の中より蘇ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。

その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。

それは生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには〝ささやき〟程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。

何となればそれは新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。
 
 汝は俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬという。断言するが、汝の意見は見当ちがいである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。

野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒削りの石の方が、打算から慣習に迎合し体裁を繕いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒削りであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形至上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。〝物〟にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉身の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。

筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神聖の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせる。

かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。

 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。

汝にとって、そしてまた汝と同じ観点より眺める者にとってはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味を持つ。

それは死後における肉身との再会の保障であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊があてがわれる。

故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

 今こそ汝にも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する〝しるし〟を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。

それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。

イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。

人類の歴史において新しき時代が画されるときにはかならず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

 汝の提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて───さらばである。
                                          ♰  イムペレーター
    
 
〔註〕
(1) 死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態におかれるとのキリスト教の信仰を指す。
  





        十六 節

〔思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて逆に次のような通信がきた。〕
 

 これまで述べてきたところをまとめる意味で今少し述べてみたく思う。汝は宗教というものが人類全体としては大した影響を持たぬことを十分に理解しておらぬ。

そしてむしろわれらの述べる言説の方が人類の必要性と願望を満たする要素を持つことも理解しておらぬ。どうやら、今汝が置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ぬものをここで指摘しておく必要がありそうである。

 人間界に蔓延せる死後の問題の無頓着さが何を意味するかを汝は理解しておらぬようである。死後はどうなるかについて関心を示す者が辿り着いた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかぬということである。

つまり理性的に観れば、神の啓示が全てであるとする聖書には、人間の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準さえも耐え切れぬこと、そしてまた、理性は啓示の判断基準に他ならぬ故に、啓示はすべからく知的判断の範囲外に置き、ただひたすらに信ぜよとの牧師の言葉は、実は決して誤らぬはずの福音の中に数多く発見される誤りと、矛盾を被い隠すための巧妙なる言い逃れの手段であることは容易に知れる。

理性という試金石を使用すれば、その程度のことはたちどころに知れる。理性をもたぬ者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていく。

そして教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから一歩も出ようとせぬ。それもただ、それに疑義をはさむことが恐ろしいからに他ならぬ。

 宗教上の問題について、理知的思考を禁ずることほど精神を拘束し、魂の発育を歪めるものはない。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害する。魂というものはその欲求を満たすと満たさぬとに係わりなく、一つの因習的宗教によって縛りつけられるものである。

魂の生命の糧を自ら選択する自由が皆無となるからである。遠き祖先にとってはそれで良かったかも知れぬことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては全く無意味なことも有り得る。故にその自由を奪われては魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになろう。

キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいは汝らの言う異教徒になるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになる。

その神がインディアンの言う大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも───要するに、その宗教的観念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的拘束力をもつことになる。

何となれば、いずれの国にあっても古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからである。

 この事実は汝にとって熟考を要する問題である。いかなる宗教と言えども、地上の一つの国の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示の全てを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む作り話に過ぎぬ。

いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいは曾て全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。

その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押し付けられるべきものではない。

それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。それをもって絶対性を主張すること自体がすでに人間らしき弱点をさらけ出している。人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものである。

その妄想にしがみつき、われこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込みたる者を見ると、われらはそのけなげなる気持ちに微笑まずにはおれぬ。もっともその思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちであるが・・・・・・

 秀れた学識を具えている筈の神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせているが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条に過ぎぬことに今まで気づかずにきたこと、そして今なお気づかずにいることは、われらにとりて驚異というほかはない。

神の真理は太陽の如く、あまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できぬ。それは是非とも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要がある。

すなわち、光に慣れぬ目を眩まさぬように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばならぬ。その中間的介在物を通さずに直接真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て天上高く舞い上がった時である。

 地上の全ての民族にそれ相当の真理の光が授けられている。それを各民族なりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもある。いずれにせよ結局はその民族なりの必要性に応じて変形されてきた。

故に地上のいかなる民族と言えども、真理の独占を誇り、あるいはそれを他民族に押しつけんとする無益な努力が許される道理はない。
 
地球が存続してきたかぎりにおいて、全ての宗教───バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も、それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ勝手にそれを真理の全てであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続者であると自負したに過ぎぬ。その過ちを最も顕著に示しているのが他ならぬキリスト教である。

教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じておりながら、その実、教会内部において相対立する
宗派が最も多いのもキリスト教であるという事実が、それを何よりも雄弁に物語っていよう。

キリスト教界内の分裂、その支離滅裂の教義、互いに神の愛を独占せんとして罵り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことはキリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かなる自負にたいする絶好の回答である。

 が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつある。その新しき啓示の普及による啓発の前に、そうした宗閥的勢力争いも消滅するであろう。人類は汝が想像する以上にその啓示を受け入れる用意が出来ているのである。

その暁には、各宗教には中心的太陽とも言うべき神の光の一条のみが与えられているに過ぎぬこと、しかもその光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知るであろう。

故に人間は他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学びとり、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、これまで己の欲求にそぐわぬと思えたものの中にも神聖なるものを認識せねばならぬ。

 われらがその普及を使命としているところの壮大なる霊的教訓は、理性的観点からすれば、合理的にして且つ崇高なるものであり、その普及によって、これまで宗教の名を辱め、神学を世間の嘲笑の的としてきたところの宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上より払拭される日も間近い。

それにしても、何たる醜態であることか! 本来ならば神の本性を明らかにし、そうすることによって神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学であるものを。

ああ、それが事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しき感情をむき出しにする不毛の土地と化し、神についての無知を最もあらわにさらけ出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う侘しき荒地と化してしまうとは! 神学! これはもはや汝らキリスト者の間でさえ侮辱をもって語られるに至っているではないか。

神についての無知の証とも言うべき退屈きわまる神学書は、見苦しき悪口雑言、キリスト者としてもっともあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりである。

神学! 聖なる本能の全てを掻き消し、敵に向けるべき攻撃の手を同士に向け、聖者の中の聖者とも言うべき霊格者を火刑に処し、拷問にかけ、八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にしあるいは追放し、人間として最高の本能を堕落させ、自然の情緒を掻き消すことを正当化するための口実とされてきたではないか。

何たる悲しきことであることか。そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界より一歩でも出ようとする者を押し止めんとする。

〝退がれ! 退がれ! 神学のあるところに理性の入る余地などあるものか。〟これが神学者の態度である。真摯なる人間を赤面せしめる人間的煩悩の殆ど全てがそこにあり、自由なる思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化している。

 本来ならば神について語るべき叡知を人間はそのような愚劣なる目的のために堕落させて来たのである。

 しかし、友よ、われらの目的成就の日も間近い。神学による悪癖をいつまでも放置しておくわけにはいかぬ。今はまさにイエス・キリスト降臨前と同じである。夜明け前の漆黒の闇と同じである。無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつある。

聖職の機能によりてがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸せる愚行、無知が生む偽善、そして曖昧模糊たる思索の産物に代わって、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れよう。その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しき見解を手にするであろう。

汝らの言う死者が今なお汝らと共に生き続けていること、それも汝らより一段と生命の実感をもって生きていること、しかも地上時代と変わらぬ情愛をもって加護に当っていることを知るであろう。

 キリストは地上に生命と不滅性をもたらしたと聖書にある。その言葉は筆記者が意味したより広き意味にて真実である。キリストによる黙示の成就は───今まさに成就されんとしているのであるが───真実の意味における〝死〟の観念の撲滅であり、生命の不滅性の実証に他ならぬ。その偉大なる真理、すなわち、人間は永遠に死なぬということ、たとえ死にたくとも死ぬことが出来ぬという事実の中に、未来への鍵が託されている。

信仰の一つとしてでなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実の一つとして、生命の不滅性は未来の真の宗教の基調であらねばならぬ。われらの説く深遠なる真理も、崇高なる義務の概念も、壮大なる宿命の観念も、人生の真実の悟りも、全てその生命の不滅性の上に成り立つのである。

 今の汝には理解できぬかも知れぬ。炎に慣れぬ汝の魂は目が眩むことであろう。が、やがてわれらの言葉の中に真理のしるし───神性の一面を認めるようになる日も来よう。
                                        ♰ イムペレーター
  
  
 
        十七 節

〔思うに、私がこうして執拗に霊信に反撥しているのを知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし私としては激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明すること以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。私はどうしても得心がいかないし、得心できぬままでいることも出来なかった。

そこで再び論争を挑んだ。イムペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、二日後(一八七三年七月十四日)にその中にどうしても受け入れかねる点について反論した。それは次の三点であった。

(一)イムペレーターの地上時代の身元、(二)イエス・キリストの本質と使命、(三)通信の内容の真実性を示す証拠。私のこの三点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を指定しようと思うがどうかと述べた。

同時にこれまででの通信の内容について、いろいろと反論したが、それは今ここで取り挙げるほどのものではない。とにかく、私はその時点での私の確信を正直に表明したが、今にして思えば私の反論は不十分な知識の上で為されていたことが判る。

それはその後順次解決されていき、解決されていないものもやがて解決されるであろうとの確信がもてるまでになった。そうは言っても当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚なくその不満を打ち明けた。以下がそれに対する回答である──〕
 

 





















   
 友よ。汝の述べることには素直さと明快さが窺えて喜ばしく思う。もっとも汝はわれらの述べることにそれが欠けていると非難するが・・・・・・。汝の(われらの身元についての)要求については、汝がそう要求する心境は判らぬでもないが、それに応ずるわけにはいかぬし、たとえ応じても何の益にもならぬ。

申し添えるが、汝の要求の全てにわれらがすぐに応じぬからとて、われらの側に汝に満足を与える意志がないわけでは決してない。われらとて汝の心に確信を植えつけんと切に願っている。がそうするためにはわれらの側にもその手段と時期に条件がある。

計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われらにとってこの上なく残念なことであり遺憾に思う。汝にとってもわれらにとっても残念なことである。が結果としてこうなった以上は致し方あるまい。われらとて全能ではない。

これまで通りの論議と証言の過程による以外に対処する手段はないのである。その論議も証言も今のところ汝の心に得心がいかぬとみえる。ということは、汝にそれを受け入れる備えが出来ておらぬということと観て、われらはそれが素直に汝の心に安住の地を見いだす日を忍耐強く待つとしよう。
 
 汝の提出する疑問についてはその殆どに答える必要を認めぬ。現時点にて必要とみたものについてはすでに回答を与えてあるからである。すでに回答を与えたものについて改めて述べても意味があるとは思えぬ。

単なる見解の相違の問題について深入りするのは無意味であろう。われらの述べたるところがこれまでのわれらの言動に照らしてみて、果たして一致するか否かといったことは些細な問題である。汝の今の心境はそうした問題について冷静なる判断を下せる状態ではない。

また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれらの言う通りのものとなるか、それとも汝が主張する如きものとなるかは、これまたどうでもよい問題である。

われらはその問題については一段と高き視野に立って考察しており、それは今の汝には理解の及ばぬところである。汝の視野は限られており、それに比してわれらは遥かに広き視野のもとに眺めている。また汝がわれらの訓えをキリスト教の論理的展開の一つと見るか否かも取るに足らぬ問題である。その道徳的崇高性は汝も認めている。

その論理的根拠についてはここで論ずる必要を認めぬ。汝が信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、汝が受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ感謝の念をもって人類に受け入れられていく訓えである。汝がわれらの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく訓えである。

 われらとしては、汝のことを良き霊媒を得たと喜んでいた。そして今もそう思っている。何となれば、今の汝の混乱する心境は一時的な過程に過ぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変わっていくことであろう。

が、万一そうではなく汝が失敗したとなれば、われらは再び神の命令を仰ぎ、われらに託されたる使命達成のために新たなる手段を見出さねばならぬことになる。もっとも霊媒はわれらの究極の目的にとって必ず不可欠というものでもない。が使用する以上は良き霊媒であることが望ましい。

われらがこの上なく嘆かわしく思うのは、汝が汝自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを無視せんとする態度に出ていることである。が、それもわれらの手の及ぶところではない。

自由意志による判断に基づきて汝があくまで拒否すると言うのであれば、われらとしてはその決断を尊重し、汝が精神的にわれらの提供せるものを受け入れる用意のなかったことを残念に思うほかあるまい。

 われらの身元についてであるが、汝の要求するが如き押しつけがましき方法で証明せんとすることは無益というより、徒に混迷を大きくするのみであろう。

 そのような試みは結局は失敗に終わることであろう。そして絶対的確信を得ることは出来ぬであろう。間接的証拠ならば折々提供していくことも出来ぬではない。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではない。われらとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことであろう。

が、わららの教
はそのようなもので価値を増すものではない。そのような実態なき基盤の上に成り立つものではない。そのような証拠では〝時〟の試練には耐え切れぬであろう。われらは精神的基盤の上に訴えるものである。地上的なものでは、一時的にしておよそ得心のいくものでないことを汝もそのうち悟る日がくることを断言しておく。

 とは言え、今の汝の精神状態は得心のいく証拠を要求できる状態ではない。われらは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかであろう。もしもわれらが自ら公言している如く、神の味方であるとすれば、汝が言うが如き、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説をわざわざでっち上げる気遣いはあるまい。

が、もしもわれらが汝の思いたがるように悪魔の手先であれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのは何故か、汝自ら問い直してみるがよかろう。

われらとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思わぬ。これまでわれらが述べてきたところを正しく吟味検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ない。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではない。

 われら自身のことはどうでも良いことである。大事なのは神の仕事であり、神の真理である。今の汝にとって最も大事な問題は汝自身のことであり、汝の未来のことである。

そのことを時間をかけてじっくり考え、とくと反省するがよい。汝を中心として得られた啓示の顕れ方がいささか急激に過ぎ、目を眩ませたようである。言いたいことも多々あろうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考するがよい。

われらも暫し身を引き、汝にその沈思黙考に耽る余裕を与えたく思う。と言うことは汝を一人置き去りにすると言うことではない。より一層の警戒心を持つ複数の守護の霊と、より経験豊かなる同じく複数の指導の霊が汝のそばに待機するであろう。

その方がわれらにとっても得策であるように思う。と言うのも、事態がかくの如くなった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきや否や、それともこれまでの努力が無駄であったとして改めて仕事を始めからやり直すべきや否やを〝時〟が判断してくれるかも知れぬからである。

いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注せる仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しき失望であることには相違なかろう。しかし、われらも汝もあくまで内に宿せる道義の光に照らして行動せねばならぬ。

これまでの経緯に関するかぎり責任はすべてわれらの側にある。故にわれらは問題を解決すべく何らかの手を打たねばならぬ。これまでより一層多くの祈りを、一層の熱意を込めて汝に送るとしよう。きっと一層の効果を上げるであろうことを確信する。

 では、これにてさらばである。神の加護と導きのあらんことを。
                                ♰イムペレーター


〔このあと私は数回に亙って通信を試みた。また始めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして私の背後霊についての情報、とくにイムペレーターの身元の確認を得ようと、出来るかぎりのことを試みた。が、無駄だった。得られた情報は、私についている霊は ZOUD と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると、その霊媒の述べたことは間違いであると断言してからこう綴った───〕
 







  われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められない。信頼が置けないからである。われわれの忠告を無視して一面識もない、しかもわれわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信のおけぬ通信を受け取り事態をますます混乱させることになろう。


〔この忠告にも私は強く反撥し、あの機会を利用してくれておれば私の合理的要求を満たすことは容易に出来たはずだと述べた。すると同じ霊が───〕
 



 それは違う。われわれとしても満足を与えたい気持ちは山々である。が、あの会場への出現は(イムペレーターから)止められたのである。しかもわれわれは汝の出席は阻止できなかった。あのような体験は今の汝には毒になるばかりである。

禍いを招くことにしかならぬ故に今後一切あのような招霊会には出席せぬよう厳重に忠告しておく。いま必要なことは耐えることである。性急に無理強いすることは徒にわれわれにとって迷惑と困惑を生じさせるのみである。それよりも静かに心を休め、待つことの方が遥かによい。全てイムペレーターが良きに計らって下さる。早まった行動は誤りのもとである。

───しかし(と私は反抗的に述べた)あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何一つ応じられないというのですか。
 



 友よ。汝の要求するが如き数学的とも言うべき正確なる証拠は、得ようとしても所詮無理である。われらとしても、汝の求むる通りのものを授けることは出来ぬ。たとえ出来たとしても、それが汝にとって益になるとは思えぬ。全てはわれらの側にて良きに計らってある。

〔これはイムペレーターである。私はとても気持ちが治まらないので、やむなく通信を一たん中止した。そして七月二十四日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。

その一つは例の「私と父は一つである」という有名な文句に言及したものだった。以前、霊言による対話の中で私は、イムペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた───〕
 









 汝の引用せる文句は前後の脈絡の中において理解せねばならぬ。その時イエスはエルサレムでハヌカー祭に出席していた。その折そこに集まれる民衆が〝もしあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい〟とイエスに迫った。

彼らは今の汝と同様に疑念を晴らすための何らかの〝しるし〟を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによってもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。  

またそれを理解する備えのある者───イエスの言う〝父のひつじたち〟───はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。

が質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信じる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。それこそが神の意図するところであり、誰もそれを妨げることは出来ぬ。

彼らは父のもとに預けられたのであり、彼のみならず、人類の全てに新たなる息吹を吹き込んだのである。すなわち、父なる神と、その真理の教師たるイエスが一体となった───「私と父は一つである。」

 イエスはそう述べたのである。がそのユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして非難のつぶてを投げつけた。しかし、イエスの弁明は正しかった。どう正しかったか。己の神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのである。

それが余にも弁明できるかとな? それは出来ぬ。がその心に陰日向の一かけらもなきイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した───一体自分の行える奇跡のどれをもって非難するのかと。非難者たちは答えた。奇跡のことを非難しているのではない。完全な神と一体であるなどと公言するその傲慢不遜の態度を非難するのであると。

そう言われたイエスはこれを無視して取り合わなかった。なぜか。聖書にもある如く、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからである。

ならばイエスほどの特殊なる使命を背負える人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれを不遜なる言葉と言えるであろうか。疑うのなら私の為せる業をみよ、とも言っている。そこには自分こそが神であるなどと言う意味は一かけらもない。むしろその逆である。


〔翌二十五日、私が霊媒となって霊言による交霊会を開き、イムペレーターがしゃべった。が、これといって私の精神状態に触れたものは出なかった。他の列席者は私の抱える事情には全く関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出し彼らなりの解決を得た。
 
その間私の意識は休止状態なので霊言そのものには影響はなかった。そのあと最近他界したばかりの知人が出て私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確証が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。

 それから夏休暇に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味深い通信を得たが、私の一番の悩みを解決するものではなかった。アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして八月二十四日にイムペレーターからの別の通信を受け取った。

これは紹介しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、このときも私は懸命に私の要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にはならぬという警告を受けた。その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えずに、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。〕 
 



















 これまで辿れる道をよく振り返ってみることである。われらに許された範囲で汝のために尽せるもろもろのことを細かく吟味し直すことである。その上で今汝が目の前にしているものの価値を検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われらの言説の崇高性に注目してもらいたい。われらは汝の今の精神状態が産み出す疑問そのものを咎めはせぬ。

汝が何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ぬ。人間は自分と対立する意見はとかく疑ってかかるものだからである。ただ、汝の性急な性格があまりにも結論をあせり過ぎることを注意しているのである。精神的に混乱するのもその所為である。

何かと面倒が生ずるのもその所為である。それは咎めはせぬ。われらが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私なる判断は下せぬということである。

その性急な態度を和らげ、結論をあせる気持ちを抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われらの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ汝はあまりに破壊的過ぎるのである。

 さらに友よ、汝の抱ける疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われらの今後の進展にとっても障害となることを忘れてはならぬ。これまでも大いに障害となり、進展を妨げて来た。がそれは(仕事の性質上)止むを得なかったと言えよう。
 
がこれ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。暫しの休息と隔離のあと、是非そうなってくれることを期待している。われらが出る交霊会も、出席者が和気あいあいたる精神に満ちていることが何より大切である。

湧き出る疑念は、旅人を迷わせる靄と同じく、われらの行く手を阻む。靄の中では仕事は出来ぬ。是非とも取り除かねばならぬ。先入観を棄てて正直に過去を点検すればきっと取り除かれるであろうことを信じて疑わぬ。汝の心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅するであろう。そして眼前に広がる新たなる視野に驚くことであろう。

 ムキにならぬことである。汝にとって目新しく聞き慣れぬものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめよ。汝の判断の光に照らして吟味し、必要とあらばひとまずそれを脇へ置き、もう一歩進んだ啓発を求めるがよい。

真摯にして真っ正直な心には、時が至れば全てが叶えられる。今の汝にとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達するであろう。ともかく、汝の知らぬ新しき真理、これより学ばねばならぬ真理、改めねばならぬ古き誤りがまだまだ幾らでも存在するという事実を忘れぬことである。
                                         ♰イムペレーター

註〕
(1)イムペレーターの指揮下にある別の霊による。
(2)ヨハネ福音書10..30
(3)Hanukkah 古代シリアのアンチオコス四世によって奪われたエルサレム神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(4)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的証拠とはなっていない。
(5)当時モーゼスは学校の教師をしていた。
 

 








 十八 節

〔八月二十六日。私はこれまでの通信を読み返し、それが象徴している意味についてあれこれと思いを巡らした。私は自分の解釈が字句にこだわり過ぎているのだろうかと考えて、その点を霊側に質してみた。するとまだ私の精神状態は通信をするのに相応しい状態になっていないという返事であった。

このように交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。私は気分の転換が必要であることを指摘された。生憎(あいにく)その日は空模様の鬱陶しい憂鬱な日であった。

私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと机に向かった。すると始めのうち少し書き辛く速度もゆっくりだったが、やがて楽に筆が運ぶようになった。〕
 

 











 状態はまだ十全とは言えぬが、前よりは良好となってきた。通信を求むるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要である。満腹状態の身体が操作し難いことは前に述べたが、逆に機能の低下せる弱々しき身体もまたわれらの目的に適さぬことをここに指摘しておく。

飽食と泥酔はもとより感心できぬが、度の過ぎたる節制による体力の低下も感心せぬ。われらは全てに判断の及ぶかぎりの中庸を説く。極端なる節制も、節度なき放縦も、ともに好ましからぬ結果を招く。

中庸こそ身体機能を自由に働かしめ、一方精神的能力を曇りなく且つ激することなく自在に発揮させる。われらが求むるのは明晰にし
て元気はつらつとし、それでいて興奮することなき精神と、活力に溢れ、その活力を使い過ぎもせず欠乏もせぬ身体である。

各自がその思慮分別に基いて、己に課せられた地上の仕事に勤しむ上でより一層適切なる身体を具え、同時にその援助のために派遣されたる背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えてくれることが大いに望まれるところであるが、日常生活における習慣は往々にして感心せぬものが多く、徐々に心身を蝕んでいく。

尤もわれらとしては一般的原則としての注意と節制を説く以上のことは出来ぬ。当人にとって何がもっとも適切であるかは当人と深く関わってみなければ判らぬものである。自分のことは自分で判断して最も適切と思うものを決めることである。

 われらの使命はもとより魂の宗教を説くことにあるが、その一部として身体の宗教も説かねばならぬ。汝に、そして全ての人間に宣言するが、身体の健康管理は魂の成長にとりて不可欠の要件である。

魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿るかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けぬよう、これを正しく管理していくことが必須である。

ところが衣食の選択と日常の生活習慣に賢明なる配慮が為されることは実に稀である。今の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上の全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものは全て真の霊的生活にとっては障害であり妨害となる。

 汝の質問であるが、これまで幾度も述べたる如く、われらは汝の精神の中に存在するものを取り出し、付属せる夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なるもの、真実にあらざるものは放棄する。

古き言説については、イエスがユダヤの律法を扱える如くに扱う。イエスはその字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たなる崇高なる意味を賦与した。

われらが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、並びにラビ的学説を扱える如くに扱う。イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説いた。

これはいつの時代にも同じであり、われらも聖書の言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす、と述べておこう。律法の字句にあまりに厳密にこだわることは肝心の意味を疎かにすることと同じ、と言うよりは、次第に疎かにさせて行くものである。

儀文の一つ一つを几帳面に遵守する信仰態度は高慢不遜にして鼻もちならぬ独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に巻き込まれて、自分は他の者とは違うとの特殊意識を抱き、その意識で神に感謝するようになる。

 こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対して、われらは断固たる闘いを挑むものである。人間の勝手な産物である神学の中に束縛されるよりは、たとえ迷いは多くとも、きっと神を見いだすとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求むる魂にとってどれほどよいか知れぬ。

神学は神への道を規定する。その道へ入る狭き門は神学という名の鍵なくしては開かぬことになっている。が、それのみに留まらぬ。神学が神そのものを規定するのである。かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もなき機械的信仰生活へと落ちぶれ果てる。
 
 確かに、汝らの仲間の中には、高位高階の者ばかりとも限らぬが、宗教の深き哲学に関しては出来合いの信仰教義でなければならぬ者がいる。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いを巡らすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味する。

目も眩む高所に登り、隠れたる秘密を覗き込み、曇りなき真理の太陽の輝きを目のあたりにすることなどは思いもよらぬ。永遠の真理の横たわる深き谷間を見おろす高き峰に登ることは、彼らには出来ぬ。

落ちることを恐れて覗き込むことが出来ぬ。その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのである。そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通れる、より安全なる常道を選ぶことになる。その道は両側に高き壁がそそり立ち、その外側を見ることは出来ぬ。油断なく一歩一歩、転ばぬよう、全ての起伏を避けつつ歩む。

そうするようにと教会の教説が説いているのである。疑うことは破壊を意味する。思考すること結局は迷いに終わる。信じることが唯一の安全策である。故に信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい───そう説くのであるが、彼らにはそれが素直には受け入れられぬ。受け入れられる筈がないのである。

彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解することが出来ぬのである。ならば真理を秘納せる奥の院までどうして入ることを得ようか。

 中にはまた、神の真理の全てであると教え込まれた古来の神学と相容れぬ教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばぬ者もいる。

 キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分であった。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得て来た。それは今も昔も変わらぬ。その信仰は先人たちの残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音であった。

それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、それを是非とも今度は自分たちが子供たちに譲渡していかねばならぬものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいくことであろう。そうなれば当然彼らの心はその信仰、それほどの伝統的な繋がりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには目もくれぬことになる。

彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのである。その心の中には殉教者の情熱が燃え続けている。われらの語りかける言葉は彼らの耳には届かぬ。われらとしても、それほどまで居心地よき安住の世界に敢えて踏み込もうとは思わぬ。

万一踏み込むとなれば、彼らが作り上げた信仰の殿堂を根底より突き崩さねばならぬであろう。それほどまで大切にせる信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならぬことになろう。

彼らにとっての絶対神、型にはまりたる宗教、それは何世代にも亙って些かも変わらず、また変わりようもないのであるが、これに攻撃を挑み、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばならぬ。

また彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合いに応じた人間の啓発、そして彼らが〝神の啓示〟と銘うって崇めている夥(おびただ)しき量の人間的創作に反省を迫られることであろう。

が、これも所詮は徒労に終ることであろう。われらは、そうと知りつつ敢えて試みるほど愚かではない。彼らは地上とは別の(死後の)世界において必要なる知識を得るほかはあるまい。

 これとは種類を異にし、こうした問題について一切思考を巡らさぬ者もいる。宗教とは名ばかりにて、一種の世間体としての意味しか持たぬ者たちである。故にその信仰心は極めて薄く、慣習としての場を除いては意識することもない。いわばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではない。遠くより見てそれらしく見えればそれで良いのである。こうした人種、及びこれに類する人種はわれらにとって難敵である。

彼らにとっては、宗教について思索を強いられること自体がすでに退屈であり迷惑なのである。不愉快きわまる問題であり、慣習によりやむを得ず軽く体裁を繕う程度にしか係わろうとせぬ。人間としてどう在るべきかは牧師が決めてくれるものと考え、言われるままに信じるのみなのである。

ましてや古き信仰の欠点を指摘され、新しき信仰の美点を説き聞かされることは彼らにとっては二重手間であり、有難迷惑なのである。そのいずれも理解できぬであろう。

相変わらず古きものにすがり、その中にて生き続けるのみである。今のままで結構なのである。進歩はご免こうむりたいのである。自由などは思いもよらず、精々、自由とは所詮は服従に近づくことであるとの教えしか念頭にはない。

彼らにとって自由なる思索は懐疑心と不信感と無信仰を意味する。そのいずれも彼らにとって有難からぬものであり、一種の社交的誤りを犯すことになる。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのである。

単に尻込みするに留まらず、機嫌と侮蔑とをもって自由を観る。彼らの理想は全て古き良き時代に大切に仕舞い込まれている。その良き古き時代には自由だの進歩だのという問題は一切語られていない。故にそれは彼らにとって邪悪なるものであり避けねばならぬものなのである。

 以上の三種の人間にわれらが一切の係わりをもたぬことは汝にも明白であることを疑わぬ。同時にその中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にもわれらは関知せぬ。

それがわれらの選択を超えた問題であることは、いずれ汝にも判る時が来よう。たとえ手を出したくとも出せぬのである。

 神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。神への道を閉ざし、その門戸に鍵をかけ、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。

硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見放されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説───これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き留め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。

そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによって真理の日の出を見るに至るほうが、どれだけよいか知れぬ。

その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。

冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをするほうが、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込めれ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遥かに良い。

複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによって、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹を受ける方がどれほど良いか知れぬ。

己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探究における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。

 このことを主イエスに示されたる規範の中に今少し見てみなければならぬ。
 
 霊性に目覚めた人間のとるべき態度はどうあるべきかについてはすでに述べた。幸いにして勇気をもって因習より脱け出し、神を求むる旅に発てる者は必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代わりて、われが説くところの崇高なる霊的信仰へと導かれる。

霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に霊的意味も含まれているからである。物的傾向の色濃き時代にはこの霊的解釈が完全に疎かにされる。かくして人間はイエスの教説のまわりに、推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁をはりめぐらした。

それはパリサイ派の学者がモーセの律法のまわりにめぐらせる壁と同じである。こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなる。かくして今やわれらの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説より導かれた、硬直化せる冷ややかなる物質偏重の教説である。

 われらの任務はイエスがユダヤ教のために行えるのと同じことを汝らのキリスト教のために行うことである。すなわち古き形式に霊的意味を賦与し、新しき生命を吹き込むことである。排除しようというのではない。復活させることこそわれらの望むところである。

繰り返すが、イエスが地上にもたらせる教えの一かけらたりともわれらは排除はせぬ。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見失える霊的意味を表に出して見せるためである。

われらは汝を肉体的支配下の日常生活より少しでも救い出し、そこに浸透せる霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと務めている。字句にこだわって批難する者は、われらの教説の皮相的解釈しかできぬ人種である。

われらは汝を身体中心の生活より引き上げ、肉体を棄てたるのちの生活に相応しき生き方へ導かんと願っている。目下のところ、それには程遠き状態である。が、いずれ汝にも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ち溢れる隠れたる神秘を見ることを得る日も到来するであろう。それは今の汝の精神状態ではわれらも説明することは困難である。

 その時が到来するまでは、すべてに霊的意義が秘められていること、聖書もその霊的意義に溢れていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵せる形而下的〝殻〟に過ぎぬことを知るだけにて佳しとせねばならぬ。

もしもわれらがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心が萎(しお)
れ、生命を失うであろう。そこでわれらとしても汝の理解力の届く範囲において、汝の長く親しめる形而下的教説の下に隠れたる生きた真相を指摘する程度にて満足せねばならぬ。

 キリストの使命もそこにあった。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就せしむることこそわが使命であると公言したのである。モーセの戒律の根底に潜む真理を指摘した。

パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空想空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理───人間が埋葬しかかっていた崇高なる原理を白日のもとに曝したのであった。キリストは宗教改革者であると同時に社会改革者でもあった。

その生涯の大事業は人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面を剥ぎ取ることであり、暴君より逃れんとしてあがく魂をその魔手より救い出すことであり、そして神より託された真理の徳によって人間を解放することであった。イエスはいみじくも述べた───〝汝らに真理を知らしめん。真理は汝らを解き放たん。然して汝らは自由の身とならん〟と。

 キリストは生と死と永遠の生命について説いた。人間の真の尊厳を説いた。神について進歩的知識を説いた。律法の偉大なる体現者として地上へ降りた。律法の意図されたる真の目的すなわち人類の改革者を身をもって実践する人間として地上へ来たのである。

民衆に心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして行為のすべてを唯一の尺度、つまりそれがもたらすところの結果によって価値を判断するよう説いた。常に謙虚に、慈悲を忘れず、誠実で純真で私心なく、己に正直であれと説いた。そして自らそれを実践してみせたのであった。

 イエスは偉大なる社会改革者であった。その目的は死後の幸福を説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することであった。イエスは言うなれば日常の宗教を説いたのである。より高き真理を求める日々の生活の中においての霊性の道徳的向上の必要性を説いた。

過去の過ちを反省し、償い、そして向上する───そこにイエスの訓えのほぼ全てが要約されている。イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧政下にあった。

そこでイエスは信仰と政治の双方の自由を説いた。がその自由とは気儘の自由ではなかった。神と自己に対する責任を持つ自由であり、置かれた環境における同胞への責任を持つ自由であった。イエスは人間の真の尊厳を示さんと努力した。

真理の尊厳───人間性を束縛から解き放す真理の偉大さを民衆に知らしめんとした。身分にはこだわらなかった。同志も伝道者も身分の低き貧しき階層の者の中より選んだ。そして庶民と共に生きた。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとった。

そして人間として必須の、しかも彼らに理解し得る、素朴なる訓えを説いた。伝統的信仰と高貴なる社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長けた者たちの中には滅多に足を運ばなかった。慣習的に教え込まれた信仰より少しでも気高く少しでも崇高なる真理を求めんとする情熱を庶民の心に沸かしめた。そしてその真理を手にする方法をも説いたのであった。

 人類にとって真の福音と言うべきはイエス・キリストの福音である。これこそ人間にとって唯一にして必須の真理である。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音である。

 われらはそれと同じ福音をイエスより引き継ぎて説くものである。イエスを地上に送りし神と同じ神の命令を受け、同じ神の権威と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのである。イエスの説いた真理と同じものをわれらは説く。人間的無知と誤解による夾雑物を払い落して、改めて説く。物欲的生活の下に埋もれた真理を蘇らせんと望むものである。

 人間が墓場へ葬れる霊的真理を掘り起こし、それが未だ生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えんと欲しているのである。人間の進歩性と、人間への神の絶え間なき係わり合い、そして昼夜を分かたぬ天使の看護と言う、単純にして荘厳なる真理を教えたいと願っているのである。

 独善的宗教家集団が背負わせた荷はわれらが風に吹き飛ばさせよう。魂の成長を妨げ向上心の足を引っ張るドグマはわれらが引き裂きて魂を解き放とう。われらの使命は人間があまりに歪め過ぎた古き教えの真の姿を継承することである。その源は同一であり、その辿る道も同じであり、その向かうところもまた同じである。

 
〔イムペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化事業はイエス・キリストの命によるものと理解してよいかとの問いに対して───〕 
 

 
 その通りである。先に余は、余の使命が〝動〟の世界より〝静〟の世界へと突入せる一柱の霊より授けられ今なおその指令下にあると述べた・・・・・・ イエス・キリストは過去に蓄積せる誤れる信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めんがために天使を招集する計画を用意されつつあるところである。

 ───他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが〝キリストの再来〟ということですか。

 キリストの再来とは霊的再来のことである。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではない。使徒を通じて聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来である。イエス自身もかく述べているであろう───「聞く耳をもつ者は聞くがよい。受け入れ得る者は受け入れるがよい」と。

 ───こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。

 さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを大勢の者に知らしめているところである。が、今はこれ以上は述べぬ。神の祝福のあらんことを。
                                ♰イムペレーター


 〔註〕
 (1)ユダヤ律法学者。空理空論を振り回す人の意にも用いる。
 (2)コリント後3・・6
 (3)ヨハネ8・・32
 (4)マタイ11・・15、19・・12
  

 十九 節

 〔繰り返し反論してきた問題───これまで再三言及してきたもの───が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕 
 
 これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思う。汝はわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。

汝の主張によればわれらの教説は徒に古来の信仰に動揺をもたらし、それに替る新たなる合理的信仰を持ち合わせぬという。その点に関してはこれまでも散発的に述べることはあったが、それが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

 まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神───永遠の静寂の中に君臨する全智全能の支配者から説き始めるとしよう。その思考の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものである。その御姿を拝したことはない。

また御前(おんまえ)に今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、汝らの時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それはもはや限りある数字では表せぬであろう。

 しかしたとえ拝したことはなくとも、われらはその御業(みわざ)を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それは汝には叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。

哀れにも汝ら人間はその神の属性を独断し、愚かにも汝らと同じ形体を具えたる神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

 過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は・・・・・・これはわれらは余計な憶測はせぬ。

これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼があまりに実感溢れるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。

われらは神の為に生き、神に向いて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然敬意を表明する所以であり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。

われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

 次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。徒に好奇心を満足させることも、あるいは、汝の精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。

人間の霊性の起原と宿命───いずこより来たりいずこへ行くか───については、いずれ汝にその全てを語るべき時期が到来することを信じるに留めておいて貰いたい。差し当たっては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。

恐らく汝らキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついていけぬのが正直な事実であろう。差し当たっては人間が物質をまとえる霊魂があることを認識し、支配する神の法則に従って進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。

遥か遠く高き世界のこと───洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥はかぎりある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、汝もその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

 それよりも今の汝には、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間は汝も知る如く一時期を肉体に宿れる〝霊魂〟なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。

そのことについては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。

この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、汝の知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、汝には無限の真の意味は理解できまい。差し当たって汝の存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

 その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果すべき責任と義務があり、各種の才能をもち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものとみなしている。

肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心───往々にして粗末であり未熟ではあるが───を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、且つまた、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。

こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。
   
 人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、汝らの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。

霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。がその事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。

このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさて置き、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語───
己に関する知識を始めとして霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。

次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。

一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。

以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在として人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

 最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども〝無始無終の光の泉〟、〝万物の創作者〟であり〝父〟であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において〝天使もその翼もて顔を被う〟と表現されているが、まさにその通りである。

それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。敬い畏れるのである。奴隷的恐怖心ではない。崇め拝むのであって、従属的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐに侍(はべ)ることを求めてはならぬ。

ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする傲慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。
 
 大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。

この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれられがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。

全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまで汝を一貫した原則のもとに扱ってきた。それは汝の関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。

その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、汝は真の叡智に動かされていると言えよう。

現時点においてわれらが汝に示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時と怠(おこた)れる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

 自己の能力の限りにおいて正直にそして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見いだすとの不変の真理を見失いがちだからである。

これでよしとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもたぬ。過去をふり向く態度は満足の表れであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める希望と期待の顕れである。

満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力しつづけることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見いだす。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

 このことは汝らが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたるのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係は汝らが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。

それのみではない。霊界にて落着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によって定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。

犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰である。

これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

 同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。

義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。

休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我家を目の前にせる時の胸の昂(たか)まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。

怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれはすぐまた始まる次の向上進化へ向けて刺激剤でしかないのである。
 
 以上に見られるごとく、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えず汝の視野に映り汝自ら検討し得る範囲内の事柄にかぎって述べてきた。

また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によって魔法の如く罪を消す、かの贖罪説も説かぬ。

卑しき邪悪なる魂も死の床にて懺悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによって立ちどころにして〝選ばれし者〟の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。

しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。

臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみに怯える余りに縋らんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。

神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。

それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

 そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に至る道は曾て聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。

一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、強(したた)かなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、汝らの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒瀆的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

 人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。

が援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当っている。

時としてあまりにあくどく、あまりに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは翻弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのである。

 ああ、何たる無知! 至誠、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り───この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠き謂れなき作り話に託している。
 
 われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。

生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。

なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

 われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。

信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされたる霊───苦しみと闘争と経験によって磨き上げられたる霊───がその純真無垢の姿にて神の足もとに跪く。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。

霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。

さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯なる期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。

そのような気紛れなる隠蔽物は死とともに一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさきお情けを求める余地などさらさら見いだせぬであろう。

そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

 以上がわれらの説く霊と肉の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日も漸く近づきつつある。
                                      ♰ イムペレーター
  
 

  ニ十 節

〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると──〕
 
 
 それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえ汝がその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。

これは、後に残せる地上の肉身と何かと連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。

何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉身の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。

霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に始めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。


 さて汝の知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を絶たれている。受け入れる用意なき者に押し付けんとしても有害無益である。これはわれらにも如何とし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。

哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。もっとも童子に〝害〟はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによって本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。

受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。
 


〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとイムペレーターが答えた──〕
 
 
 いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、汝が言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、汝も少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。

汝らが直接書記と呼ぶところの現象は今回は汝のたっての要請に従って行ったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。

これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、汝はそれに気づかなかったとみえる。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかリであることが判るであろう。

〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは〝楽器の調子がおかしければ、それから出る音も軋むのだ〟と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕
 
 




 
 神経を休ませ和ませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険から汝を守るのが精一杯である。

そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。汝はこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。

悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。

交霊会には危険がつきものであるが、今の汝の精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受け身の精神で臨んでもらいたい。そうすれば汝の望む証拠も得やすいであろう。
 
〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声を謳われた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、その方が決定的な重要性を持っているように思えたのである。

どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。
私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。
 
それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。
 
私はこれまでの言説を真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いないものにしてくれないと困る、と述べた。

その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいると言った程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。

それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭いきれずにいる疑問が一掃されない限り、それ以上先に進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日次のような通信が来た───〕
 

























 大神の御恵みの多からんことを。汝が提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今の汝の精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。

もっとも、多くの点において汝が率直かつ汚れなき心情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつ汝の心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけにはいかぬ。

これは、われらにとって大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ身勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。汝の疑念にはわれらも敬意を払う。

そしてそれが取り除かれた時は汝と共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる汝の態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度は汝を氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を拒む。

またそれは素直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずりこむ。そうした依怙地な心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。

 われらは汝からそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。汝との霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されてはたまらぬ。汝は何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。

イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことは汝も知っていよう。なぜか、何の目的があってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったかもしれぬ。

不必要と観たかも知れぬ。精神的土壌がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今の汝がまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。

イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。汝の注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直なる人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。

その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお〝父よ、どうか私の望みよりあなたの御心のままに為さらんことを〟と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。

 これが神の御業(みわざ)の全てを支配する摂理である。それを具体的に汝ら、キリスト教界に観ることは今は控える。ただ汝に指摘しておきたいことは、汝の頑(かたく)なな心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度は汝にとって何も益にもならぬということである。われらも不本意ながらその姿勢を譴責(けんせき)せねばならぬ。

過ぎ来し方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来事を思い返してみるがよい。汝の生活全体に行き渡れる背後霊の配慮について汝は何一つ知らぬ。汝の心に向上心を育ませるための配慮、邪な影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮──こうした目に見えざる配慮について汝は何一つ知らぬ。

しかしその努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところ汝のもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけは汝の知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それが汝の手元に残っている。

その言説の中に一語たりとも汝を欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。

われらにとって不名誉なことをしでかしたであろうか。汝に対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によって汝を動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。

要するにわれらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を思考するものだったであろうか、悪を思考せるものだったであろうか。神を思考していたであろうか、その逆を思考していたであろうか。

汝自身はそれによって改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか。無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。

 われらの存在そのものについて、われらの行為について、あるいはわれらの教説について、誰が何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すべてにわれらは公然と主張する──われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

 われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。

霊力の証を求める汝の要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとして汝の健康を損ねることにまで行った。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。

確かに要求を拒否して来たものもある。が、それは汝が無理な要求をした場合、ないしはそうすることが汝にとって害になることを知らずに要求した場合に限られる。汝とは視点が異なることを忘れてはならぬ。

われらは汝より遥かに高き視点より眺め、しかも汝より遥かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。がしかし、そうした正当な理由によってわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。

その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを
証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられて来た霊力を汝は信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑ぐる。

どうやら汝にとっては、汝がこれまで崇めてきた尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任じる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることがよほど引っ掛かるのであろう。

そこで汝は拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である───少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。がそう批判しつつも汝はわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとっての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

 汝のそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それは汝にとってはもはや〝罪〟とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。

さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。

これまで汝の前に披露せしものを汝が侮るのは構わぬが、それによって危害を蒙るのは汝自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。

 今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、汝の如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者として汝を最適任者として選んだ。

願わくば現在のその無知と愚かさとから一刻も早く脱し、われらが汝を選べし時のあの穏やかにして真実の汝に立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、汝に宿る能力と素直さを以って検討せねばならぬ。今後の汝との関わりもそれにて決定される。

是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断の持つ責任の大きさを認識したうえで決定されたく思う。

 その間、新たな証拠を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。

やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならなぬ。

 曾てわれらは、汝にとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。汝のサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、

なるべくならば当分は会を催さぬが良い。かく申しても決して汝を一人に放置しておくということではない。汝は常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ず汝のもとを去るが、祝福と祈りは汝とともにあるであろう。
 
 神の導きのあらんことを。
                                      ♰ イムペレーター

 〔註〕
 (1)ルカ 22:42


 
 
 二十一 節
 
〔この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。そして私をしきりに過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのであった。

私の背後で何が行われているのか、当時は皆目理解できなかったが、今にして思えばそれは私の霊的教化の一環であった。私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。

そしてそれまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをばらばらに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の休まることがなかった。それほど、私を支配した力は強烈だったのである。

私の心がこの通信以外のことを思うのは僅かに毎日の教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。そこで私は自分で厳律を設けた。

それは通信に係わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ十年間守り続けている。日課を終えてさて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。

 さんざん考え抜いたあげくに、私はこれまでイムペレーターが相手にしてくれなかった問題をこれ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。イムペレーターの頑な態度には何か特別の意味があると観たのである。

私はイムペレーターの要求を何一つ拒絶したことはなかったが、逆にイムペレーターは意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。

それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙さんと企む一団によって弄ばれているのではないかとの確信が得られると思ったのである。そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが今だに相手にされていないこと、私から手を引くかも知れぬとの脅しは事態を悪化させるばかりであると述べた。

さらに私はこれからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。

しかし同時に、身元についても得心が得られるまではこれ以上先に進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性が無く曖昧であること、そして私が置かれている精神状態はあのような表現では正しく表現されていないと指摘した。またイエス・キリストがしるしを見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。

総引き上げの脅しの件については、そんなことをすればそれは私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。するとすぐに返事が来た─── 〕



 友よ、汝の言わんとするところはよく判った。汝の言い分にも妥当性を認めたく思う。われらがあのような厳しき言葉にて汝を責めたのは、情報を得んとする汝の欲求そのものではなく、われらに応じきれぬ条件を強要する汝の心の姿勢である。

またわれらは汝のしつこき反抗的態度、少なくともその時の汝の不安と不信の念がわれらに与える印象を是非とも汝に知らしめたいと考えた。あのような乱れた精神状態はわれらの妨げとなるからである。われらには果さねばならぬ使命がある。徒に無為に過ごし貴重なる時と機会を無駄にするわけにはいかぬ。為さねばならぬ仕事がある。

何としても果たさねばならぬ。汝のサークルがだめであれば他のサークルを通じて果たさねばならぬ。われらが総引き上げの意図がある旨を述べたのは、要求を満たさねば先へ進めぬとの汝の言い分を受け入れたからに他ならぬ。

われらとしては、汝の要求に応じるわけにはいかなかった。故に総引き上げの必要を感じたのである。われらも、せっかく築き上げた関係を打ち切り、辛苦の中に成就せる仕事を一からやり直すことはもとより望むところではない。

将来はさらに汝をより一層強く支配することになるかも知れぬ。休息と反省とがわれらと汝自身にとって良き薬となるかも知れぬ。今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さぬがよい。よくよく真剣なる要求のないかぎりは交霊会には応じぬ。これまで述べたこと以上のことを付け加える意図も全くもたぬ。汝の要求する条件も感心せぬ。

そのような条件が一つ増えるごとに環境が変化を来し、それが余計な心配と手間の原因となる。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言わぬが、この際はその見通しもなく、それ故に汝の提案に同意するわけにはいかぬ。

 汝が霊媒となりて行う全ての物理的実験をこれ以後絶対に禁ずる。それによる肉体的消耗に汝は絶対に耐えられぬ。昨今は余りに物理的現象に重きを置きすぎている。

現象はせいぜい副次的意味しか持たぬ。しかも汝は他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。すべて差し控えてもらいたい。徒に進歩を遅らせ、ついには危害と落胆を蒙るのみである。そのような手段では汝の益になるものは得られぬ。

これまでは敢えて出席を阻止するまでのことはしなかったが、これ以後は阻止せねばならぬことを承知されたい。われらとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばならぬ。これは肝心なことである。

排除してくれなければ、われらの仕事は一層困難となり、他の霊に憑依される危険性もある。その霊たるや、汝がもしも本性を知れば汝の方から逃げ出したくなる類のものであり、およそわれらと仕事を共にできるしろものではない。汝の霊能が他のサークルの他の霊に役立つと思うのは誤りである。われらは敢えて阻止する。

そのような方法では汝の求める証拠は得られぬし、他の霊媒の為にもならぬ。むしろ逆効果である。さようなことに汝が使用されるのを見過ごすわけにはいかぬ。

 汝が持ち出せる問題について今はこれ以上深入りはせぬ。もしもわれらが汝本来の実直さと忠節を認めていなければ、疾(と)うの昔にこれほど実りなき苦労は中止していたであろう。今少し賢明であれば行わずに済んだであろうことを汝は無知なるが故に行ってきた。汝の同志たちもわれらが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そして汝にも、できる限りの利益をもたらしてきたつもりである。

しかしこうした問題においては、われらの力にも意志にも限界がある。しかも全体的に見て汝に相応しからぬものを押しつけることになれば、われらに配慮が足らなかったことになる。これより後も援助することになろうが、差し当たりこの時点ではこれ以上のことは出来ぬ。

新たな試みをするつもりもない。これ以上無益なる時間と労力とを費やすことは出来ぬ。無益であることは汝の状態を見て悟ったのである。

汝の言説を聞けば少なくとも汝の知力はわれらの仕事の本質を理解しておらぬことが判る。大前提として要求する例の実験には応じられぬし、応ずる気にもなれぬ。そのようなことで確信が得られるものでもなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもない。

そのような要求に応じても汝はまた新たな要求を突き付けてくるであろう。確信というものはそのような物理的手段によって確立されるものではないのである。

 それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。汝は目の前に提出されたものを脇へ押しやっている。汝が得心のいかぬものを率直に拒絶すること自体、少しも非難はせぬ。が、一旦拒絶されればもはやわれらとしては他にとるべき手段を知らぬ。

故に汝の選択は永遠なる重要性を秘めている。そして汝はすでに選択を行っているやに察せられる。それが果たして賢明なる選択であるか否かは時が証明してくれるであろう。そしてその時に、その選択の誤りを幾分かは修正することが出来るかも知れぬ。が願わくば今、細心の反省を行うことによって、その選択を撤回してくれることを祈るものである。
                                        ♰ イムペレーター


〔翌十月四日も引き続いて通信が来た。その中には余りに私的な内容のものが含まれているので、その部分は公表は控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。

内容的には結局これまでの主張の繰り返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩をしめしている。とくに総引き上げの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫して見られる理路整然とした論理の典型を思わせるので、幾分私的な色彩があってもそのまま紹介する。

極めて読み易い文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終わるまで私にもその内容が判らなかったほどであった。〕 


 神の僕として、使者として、汝の指導霊として、また守護霊として、余は汝に神の御恵みの多からんことを祈る。至聖にして慈悲深き天なる父の祝福のあらんことを。目にこそ見えざれども、汝を包む力強き神の御力が、何とぞ汝を良きに計らい給わんことを。

 われらは今、これ以後の計画を全て放棄する前に是非とも暫くの間を置くようにとの要請を受けている。特に〇〇氏〔他界したばかりの私の友人で、死後すぐに通信してきた〕より強き要請があった。

彼は信仰問題で今汝が置かれている苦しき事態につきて、われらより生々しく、かつ強烈なる印象を有しているのであろう。われらの仕事は汝が駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、とにかく暫くの間を考慮してやってほしい──汝ほどの証を手にする者が最後まで完全なる確信に抵抗し得るはずはない、というのがその言い分である。

汝の視点、いかに公明正大なる精神も免れ得ぬ偏見、それに交霊につきまとう様々な困難──こうしたことも考慮せねばならぬ。汝には疑わしく思えても、われらにはその真相を知り尽くしているが故に、汝のその頑なな態度がいかにも合点がいかぬが、それでも尚われらは汝のこの疑念に率直さと現実性を認め、それをこれよりのちの確信の可能性の尺度であるとの希望を抱いておる。

 これまでわれらは汝の心が近づき難き雰囲気に包まれておらぬ限り、汝の悩みに答えてきた。が、あれほどの辛苦の末に結成せるサークルも用を為さぬほどに分裂し、殆どの交霊界において、われらの手に負えぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれらの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得なかった。

物理実験のしつこき要請はわれらの望むところと余りに掛け離れていた。われらはこのような目的で汝を選んだのではない。仮にそうであったとしても、汝の身体をあのような現象で消耗させるわけにはいかぬ。さなきだに激しき消耗を強いられる生命力と絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいかぬ。

あの種の実験にはそれなりの体質を必要とする。それには逆に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が相応しい。汝を通じてわれらはこの手段によって言いたいことを実に効果的に伝えることを得て来た。が振り返ってみるに、その大部分は汝の抗議への対応に終始し、サークル活動もその初期の大目的は未だ達成されぬままである。
 
 そうした中において、更に汝はわれらが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきた。その折われらは、これをさらに要求してくる先がけに過ぎぬと受けとめた。そして汝がわれらのこれまでの言説を十分に吟味しておらぬとみた。

その上われらは、証拠を出そうと思えば汝が要求している以上のものを、折を見て出すことも出来た。そこでわれらは、いっそのこと汝がこの仕事をやめてしまえば、言い換えれば、われらがこの通信の仕事から暫し引き上げてしまえば、多分汝の心はおのずと過去へと向かい、そこより正しき教訓を学んでくれると判断したのである。

が別な観方もできる。つまり、たとえわれらが引き上げたところで、汝の霊的能力まで消すことは出来ぬ。われらが使用を中止するということに過ぎぬ。するとその霊力が他の霊によって牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、遂にわれらの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねぬ。その危険を無視するわけにはいかぬ。

今もし汝をそのような状態に放置すれば、汝が懐疑より不信へと陥るであろうことも十分承知している。直感的判断力より遥かに幅を利かせている汝の論理的判断の習性のために、汝は恐らく、出なくなったものは信じなくなるものと思われる。印象が薄れ、やがて消滅していくことであろう。

 そこで困難を避ける唯一の道は辛抱強く待つことであるように思われる。将来を予言することは出来ぬが、汝の前に二本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかは汝の理性が決めることであること、その二点に間違いはない。

われらにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する資格はない。責任はすべて汝にある。選択に誤りがなければ汝の魂は進歩と啓発の道を歩むことになろう。

その道を拒絶すれば当然暗黒と退歩の道を進むことになろう。それもこれも汝の判断次第で決まることである。われらとしてはこれまでの主張を一語たりとも削るつもりはない。むしろさらに強調したいほどである。その実相についてはこののち更に一層明確に理解することになろう。が、
 
今は神の使徒としてのわれらの存在とこれまでの教説について真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味するがよい。過去を振り返えることである。教説を吟味することである。

記録を分析し、その中より汝の結論を引き出すのである。その間の進歩の跡に注目せよ。神より出でたる教義がいかに入念なる配慮によって仕上げられてきたか、その過程に注目せよ。そしてその過去を踏まえて将来への展望を広げてみよ。
 
今汝はまさに重大なる境界線上に立てること──魂の進歩の前に取り除かねばならぬことが数多くあること──建物を構築するに先立ちて地ならしの工事が必要であること──永遠が汝を待ち受けていること──われらが扉を開くカギを授けんとしていることをよく認識されたい。

 どうか、二度と訪れぬこの機を拒絶する前に、暫し間を置いてみられることを切望する。拒絶したが最期、それは暗き影となりて永遠に汝の魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となりて永遠にその輝きを増し続けることであろう。

 祈れ。父なる神に祈れ。汝を守り、われらをして引き続き汝を導くことを得さしめ給わんことを祈れ。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、汝を導かんとして待機せる明るき霊との交わりを求めて祈れ。汝ほど厚き看護を受けし者はおらぬぞ。

その看護を汝ほど無益にした者はおらぬということになっても良いというのか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪なる影響力より護られるよう、そしてまたより高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、汝と共にわれらも祈ろう。
   祈り
 父よ! 永遠にして無限、全知全能なる神よ! 子なるわれらに、御前に近づき願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届けくださると信ずる故に他なりませぬ。永遠なる神よ、何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物とを取り除き給え。

疑う心に一条の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠れる敵対者を払いのけ給え。われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけ愛の力も大なるを要します。

全能なる神よ、何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰
の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心から敬慕の念を捧げさせ給え。われら天使より、御力の御しるしたる宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります。

                               ♰   イムペレーター


〔この通信が事実上これまでの一連の議論の締め括りとなった。むろん私がこれであっさりと確信したわけではない。暫しの議論の小休止、とくに霊界との係わりを全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持ちで振り返らせることになった。

それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。と言うよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと言ったほうがよいであろう。〕


〔註〕
(1)他の霊媒を通じてイムペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在であり、モーゼスの第二人格でないことを証明するということ。
(2)自動書記通信
 
 
  

 










 
 
 
     二十二   節

〔イムペレーターが暫く不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のそば───という言い方が適切かどうかは別として───にいなくても影響を行使することは出来るが、そのためにはいわば意念の操作を必要とするということであった。

そうなると他に急務が生じた場合にそれも出来なくなる。今回も、そしてこれまでにも何回かあったが、霊界の上層部において、神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるために数多くの霊が一堂に集結したという。その他の質問に対して多くの返答があったが、次はその一部である。(十月十二日)〕
 
  









 われらは神への礼拝と祈願のために暫し地上の使命につきまとう気遣いと苦心より離れ、讃仰の境涯の安らかなる調和の雰囲気に浸ってきた。使命に挫折と哀微を来し、悲しみの余り気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺がれることのなきよう、時に休息し、聖なる天使の中に交わることによって気分を一新するのである。

 ああ、汝はこれまで混雑せる都会の細き裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不純なる悪臭をがされ、悲劇と罪悪の光景を目の当たりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすら出来得なかった。

その汝には、われらがいかなる気持ちを抱いて汝ら人間の中にあって使命に勤しんでいるか察しがつくであろう。汝も人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術もなき無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に己の無力を痛感したこともある。身も心を実りなき努力に疲れ果てたこともある。が、

われらとて平然として任務を遂行していたのではない。その間どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めてきたことか。汝はとかくわれらのことを汝らの生活に関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に係わりをもたぬ、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。

われらとて汝の心を覗き込み、隠れたる悲しみを地上の人間以上に実感をもって知ることが出来ることを知らぬようである。われらを地上より掛け離れた存在の如く想像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも共に実感をもって認識しているのである。

地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇もわれらの視野の中に入らぬかの如く想像しているようであるが、とんでもない誤解である。むしろわれらのほうが汝らより遥かに鮮明に悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘惑、絶望に追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのである。

 われらの視野はひとり物的悲劇にかぎらぬ。霊的誘惑もありありと目撃できる。物的視野に映ずる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れたる悲哀もありありと見える。われらが汝らの悲劇や犯罪を見ることも知ることも出来ぬと思ってはならぬ。

更にまた、汝ら人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによって、われらもまたその汚れに幾分か染まることは避けられぬことも知られたい。

 比べてもみよ。雑然たる都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活──悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時の汝の気持ちと、高き霊界より低き地上界へと降りてくる時にわれらが味わう冷たく寒々とした気持ちとを。

われらは光と無垢と美の世界より降りてくるのである。そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは一かけらもない。その視野には目障りなもの一つ見当たらぬ。暗闇も見当たらぬ。目に入るものはすべて輝けるもの、至純なるもののみである。

完成されたる霊の住む世界、平和の漲る環境を後にするのである。光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかなる地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しき雰囲気に包まれた世界──人は従順ならず、信ずることを知らず、物欲に浸りきり、霊的教唆に反応を示さぬ世界──悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのである。


神の光と真理の輝ける世界より地球の暗黒の中へと向かう。そこでは神の真理の光は、僅かに数えるささやかなる交霊会を通して、ほんのりとした薄明かり程度にしか見られぬ、調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入りこむ。

純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、飲んだくれと好色家、あぶれものと盗人にあふれる世界へと下りて来るのである。天使が挙(こぞ)りて神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物たる偶像の君臨する地上へと向かう。

時にはそれすら無視され、人間は霊的なるもの、非物質的なるものへの信仰の全てを失ってしまう。

 かくして漸く降り来たれるわれらが見出すのは、大方、聞く耳をもたず何の反応も示さぬ人間ばかりである。中には己に都合よき言説、己の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいる。が、彼らもその段階を超えて一段高き真理、より明るき光へ導かんとするとわれらに背を向ける。イエスと同じことをわれらも体験させられる。

すなわち、人間は奇跡を演じてみせると感心する。そして己の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは付いてくる。がその段階より引き上げ、自己中心的要素から超脱させ、永遠なる価値を有する本格的真理へと近づけんとすると背を向ける。

高すぎるものは受け入れられぬのである。そこで神の計画が挫かれ、神より授かれる人間への恩恵がにべもなく打ち捨てられる。その時、われらの悲しみに加えて将来の見通しに寒々とせる挫折の懸念が横切(よぎ)るのである。

かくの如き次第であるから、われらは時として休息と気分一新を求めて地上を引き上げ、調和の世界にて気力と慰めを得て、再び冷ややかなる地球の恩知らずの群れの中へと戻るのである。
 
 
〔私がこれまで得た通信でこれほど人間的脆さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは終始一貫して地上的なものを達観した威厳の雰囲気が漂っていた。イムペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのがその人間的脆さと地上的なこせこせした心配ごとに対する超然的雰囲気であった。

常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきが如き態度であった。そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的重要性をもつものにしか関心を示さなかった。

しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。いわゆる〝この世にいてしかもこの世のものに捉われぬ〟者であり、穏やかな平和な境涯よりその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情があった。それだけ右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると───〕  


 われらは、たとえ苦痛は訴えても挫けはせぬ。汝および汝のおかれたる環境との触れ合いによって、已むなく汝の人間的情念を摂取することになるまでである。

あのような苦痛を述べたのは、われらにも幾許かの犠牲を強いられていること、そして汝を動かす情念と同じものによる影響を免れぬことを知って貰うためである。

われらとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうのである。人間の心を締め付ける心痛と同じものを真に味わう。われらがもし(汝の言う如く)人間的でないとすれば、汝の欲求を見届けることも出来まい。

いずれ汝も知る日が来ようが、未だ汝の知り得ぬ摂理によって、地上へ降りくる者は一時的に純然たる人間味を帯びる。そして霊界に戻ればそれを振り落とす。
地上では地上的雰囲気と観念の中に融け込むである。
 
 
〔このあと私に対して、通信を求めることを控えて過去を振り返るようにとの忠告が繰り返し述べられた。物理的現象をやり過ぎることは、体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、よほどの必要性のあるとき以外はいけないとの警告を受けた。

仕事においても、仕事以外のことにおいても節度を守ることが大切であり、反省と休息をとるようにとのことだった。われわれは交霊会を中止こそしなかったが以前ほど頻繁に催すことは止めた。

その間私に身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることが判った。とくに顕著なケースとして十月十四日に次のようなことが起きた。それまで長期間に亘ってよく出現していた霊を、列席者の一人が、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに細かく詰問した。

その書物は出版されたばかりで質問者のほかは誰も見ていない。が質問者の頭の中でその書物に出ている他の氏名と日付が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いの一つ一つを叩音(らっぷ)で強く指摘し、黙認するわけには行かないと言って、氏名の読み方の間違いなどは綴りまで一つ一つ述べて訂正した。

 その時に霊が出した叩音には困惑と苛立ちと腹立たしさがありありと感じられた。訂正の速さは質問者が全部言い終わらないうちに為されるほどで、しかも正確だった。

その様子から判断して、その霊は確かに地上時代と変わらぬ個性を留め、記憶も少しも損なわれておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。その夜の私の心に、それまで私に通信を送ってきた霊たちも自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。

間違いを指摘する時のきっぱりした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほどの微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。〕


──昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。

 あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は〇〇氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに私がパリで勉強したというのは本当です。

──別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子がありありと窺えたものですから。

 いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。随分きついことを述べましたが、自分では理性を弁えていたつもりです。

──実は私にとってはむしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠としてこれまでにない最高のものを提供して下さったからです。

 なるほど、でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうとチャンスを窺っておられるのでしょう。
 
──とんでもない! 私はとにかく証拠が欲しい一心なのですから。

 証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。

 
〔こうした中にも、これまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか。通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか。要するに自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか。

それとも単に理解できないものに振り回されているに過ぎないのではなかろうかといった疑念に付きまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。こうした霊界との交信にとって最も好ましからぬ精神状態が禍して、ついにわれらのサークルは解散するに至った。

メンバー全員の意見もそのほうが賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、イムペレーターも頻(しき)りにそれを促し、最後には強要してきた。

そして、過去をよく吟味すること、とくに自分が引き上げたあと他(よそ)の交霊会にでたり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して──交霊会に関するかぎり──引き上げてしまった。

自動書記通信も幾分気まぐれな表れ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのイムペレーターと同じ断固とした目標に沿ったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。曾てないほどの動かし難い証拠が得与えれた。

綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するために数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。

 私の全生涯に亙る霊的使命に関する長文の通信が送られてきたのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた。それまで私を扱ってきた霊の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気にはなれない。霊的実在に関する教訓を証拠の全般的な流れに光を当てるものに限って公表しようと思う。〕
 
〔註〕
 (1)「高天原に神集へに集まる」というのはこのことであろう。


 
    二十三   節
 
〔一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕 
 

 これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程について述べんと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。

彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人──神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、汝らがメルキゼデク①の名で知るところの人物がいた。

彼はアブラハム②を聖別して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとっては暗闇に輝く光であり、神にとっては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

 ここで今まさに啓発の門出に発つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。

それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混ざり合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。

それ故、確かに汝らの聖書と同様にその中に幾許かの事実はなきにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでの汝はそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光───より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

 神は〝創世記〟に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行われてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

 神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

 かの初期の時代において、選ばれしアブラハムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒も挙(こぞ)って称(たた)えるそのアブラハムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示には至らなかった。アブラハムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。

汝には不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わってのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

 メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。

当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智──エジプト秘伝の叡知が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。

大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じたる宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとっては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。
 
 ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律は汝らの説教者の説くが如き、いつの時代にも通用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。

すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によって霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。

当時のイスラエルの民にとって第一に必要なる真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

 今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。

が、すでにその段階を超えたる者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の山頂にてモーセの背後霊団より授けられた。

背後霊団は今日の人間の忘却せるもの──完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。
それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることができるのである。

 モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡せる通路として七十人もの長老──高き霊性を具えたる者──を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。

そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として
末長くその名を地上に留めているのである。

 メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ④の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。

またその巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。

他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。がそれは今の汝には係わりあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそ汝にとって最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

 偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊は曾ての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体(からだ)を隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている

崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんがための寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ⑥に己の霊を倍加して授けたという。

がそれはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

 そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。汝も知る如く、かの〝変容〟の山上にてモーセと共にキリストの側にその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それより後にも再び地上を訪れることを告げたとある。

〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。

それがヨハネ黙示録13・3、その他に出ている〝二人の証人〟のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。

その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

 右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊格者がいたかどうかを尋ねた。すると──〕


 無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク⑧がその一人であった。

彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア⑨がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ⑩も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて〝イスラエルの土師(はじ)〟と呼ばれる行政官は全て、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。

そのことについて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われについては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中に霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。


──あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。〝モーセ五書〟⑪のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。


 あの五書はエズラ⑫の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説にすぎぬ。

エジプトの支配者ヨセフ⑬に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる〝五書〟はモーセの手によるものではない。

エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表しているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。

かく述べるのは、論議の根拠として〝五書〟の原文が引用された際にいちいちその点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。


──想像の産物だとおっしゃいましたが。

散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。
 

──アブラハム⑭のことは簡単にあしらっておられるようですが。

 そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱うにおいて、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとっては、さして重要なる存在ではない。


──エノクとエリヤの生身での昇天──あれは何だったのでしょう

 伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。

霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接(じか)に親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。

同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、恰も風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ──彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。

いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受け止めることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間───すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。

言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑(あざわら)うべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。

すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。

そこで人間の知識が進歩し叡知が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(汝らの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)
 
 天国についても同じである。汝らは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めてきた。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天していくなど信じた時代はもはや過去のものとなった。まさか汝はその生身を携えて全智全能の神のまわりにて、恰も地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像するまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。

霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上と全く同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、汝はすでに卒業しているであろう。

そのような天国は予言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないこと位は汝にも判るであろう。

昇天の時は全ての善人に訪れる⑮。が生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出て、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。


──伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味を持ち、立派な真理を含んだものがあります。


 それはその通りである。汝らが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。

その原因には人間として已むを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚なる段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

 それは已むを得ぬことである。それまで生きてきた環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これも已むを得ぬことである。

ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま搔き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのち汝も、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

 また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方は言わば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。

子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句を恰も数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。


人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。

かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。

これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間は須(すべか)らくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

 然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂な寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。

われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれたる人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。

が同時にその残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏づけされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が今の汝にはそれ以上のことは叶わぬ。

汝は、今の汝の心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。
過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らす仄(ほの)かなる光としての価値を有するものであることを、汝もそのうち次第に認識していくことであろう。

 これで判ってくれるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化について汝らがこれまで抱いてきた思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまず汝らの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通ってきた人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。

われらとしては汝らの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。

それまでは、もしも汝の目にわれらが破壊的思想をまき散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を搔き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。
                               ♰ イムペレーター


   〔註〕
   (1)  Melchizedek 古代都市サレムの王で祭司。(旧約聖書「創世記」14:18)

   (2)  Abram アブラハムの元の名で、ユダヤ人の始祖。
   (3)  聖なる使用に当たるために世俗から離すこと。
   (4) 
Elijah 紀元前九世紀ごろのヘブライの予言者。
   (5)  旧約聖書はこの二人にまつわる話が大半を占める。
   (6) Elisha 同じく予言者。
   (7) ある日キリストが弟子たちと共に高い山に登った時、この世の者とも思えぬ神々しき姿に変わったという。(マタイ17:1~13、マルコ9:2~13)
  (8) Enoch.
  (9)Noah.
(10)Deborah.
(11)旧約聖書の最初の五書のこと。すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」。
(12)Ezra 紀元前五世紀ごろのヘブライの律法学者で祭司。
(13)Joseph (創世記30:22~24)
(14) Abraham 前出のアブラハムと同一人物。
(15)仏教的に言えば、迷わず成仏する、ということ。
 
 
    
    
    
    
    

    
    





 






 二十四 節

〔旧約聖書の時代と新約聖書の時代との間に記録のない時代があることについて尋ねてみた。〕
 


  
 その時期の記録は何も残っておらぬ。その時代は霊界からの働きかけが特殊な場合を除いて控えられたからである。そのことについては詳説はせぬ。われらが今目的としているのは、メルキゼデクに始まりイエスに至る大いなる霊力の流れを指摘することにあるからである。

取り敢えず汝としてはその時期は暗黒と荒廃と霊的飢饉の時代であったこと、そしてその時代が終わってのちに漸くわれらが再び人間の心に黎明への希望を目覚めさせることを得たところであると理解すればよい。

今その最初の光が差し込んだ──その光の中のささやかな一節をわれらが受け持っているのである。人間が漸くあたりの暗黒に気づき、その帳が取り除かれ光が差し込むことを待ち望んだからである。

 同じことが全ての民族についても言える。時として地上的・物質的要素があまりに強く蔓延し、霊的なるものが完全に地上より姿を消したかに思える時期があるが、実際にはそうではない。暗黒の時期が去り聡明の時が到れば、潜んでいた霊的胚芽がその芽を出しはじめる。再び霊力の流れが起こり、人間は曾ての真理より一段と高き霊的真理に目覚める。

その過程は恰も、その日の仕事に疲れし人間が休息を求めて横になるのにも似ていよう。あたりのことが皆目判らぬ。精神は心労で擦り減り、身体も疲労困憊(コンパイ)である。

内外ともに陰鬱なる空気が漂う。やがて寝入る。そして睡眠によって身体は元気を回復し、精神は立ち直り、太陽が再びその温かき光を注いでくれていることを知る。身も心も本来の快活さを取り戻し、魂はあたりの生命と美に喜びを見いだす。夜明けに味わう、あの躍動する喜びが蘇る。

 人類もその長き歴史において同様の体験を繰り返してきた。それまで満足していた古き霊的教訓に知性がうんざりしはじめる。と同時に、物的要素が勢力を揮いはじめ、疑念と仲違いが生じ、根を張り、その影響が出はじめる。

それまでの真理が一つまた一つと疑いの目で見られるようになり、一つまた一つと否定されていく。そして遂に神の真理の光が人間の目から覆い隠されたことを識(し)る。太陽は霊的地平線の彼方へと沈み、不活発と陰鬱と暗黒の夜が始まる。神の使者も活動を手控える。地上を無知と絶望の夜が支配するにまかせ、眠れる魂が目を覚まし光を求める時の到来を待ちつつ、ひたすらに耐え忍。魂は死せるにあらず、ただ眠っているに過ぎぬ。

いつかは必ず覚醒の時期が訪れる。そして、その夜明けの黎明の中において神の使者は、暗黒と絶望の中に光と喜びをもたらせてくれた神への讃歌を高らかに謳(ウタ)うのである。

 旧約聖書の最後の記録と共に終息せる霊的期間と、新たに黎明期を迎えた霊的期間との間には、かくの如き暗黒の時代があったのである。汝らの時代のすぐ前に、その聡明期があったのである。われらは今こそ汝を霊的黎明に向けて導かんとしているのである。

疑ってはならぬ。今こそ汝にとってその黎明期となるべき時期であり、その夜明けは新たなる知識の夜明けであり、より広き知識の夜明けであり、より確信に満ちた信仰の夜明けとなるであろうことを疑ってはならぬ。

その夜明けの光は前期の黄昏時の薄明かりより遥かに強く、且つ、鮮明であることであろう。間断なくひたすらに待ち望むことである。その夜明けの光を見落とし、再び寝入り、折角の好機を見失うことのなきよう、啓示への備えを怠ってはならぬ。


 〔そうした暗黒の時期は必ず啓示の時代の前後に訪れるものであるかを質すと──〕

 用語が少しばかり適切さを欠いておる。その時期は必ずしも暗黒の時期とは限らぬ。動揺と内的興奮のあとの休息と安らぎの時期であることもある。地上生活に喩えてみれば、身体が栄養摂取のために休息の時期を必要とするのと同じである。地上人類が摂取し得るだけの真理はすでに十分の与えられている。

更に多くを必要とする時期までは、それまでの過程が継続される。真理が啓示されるには、それに先立って真理への渇望があらねばならぬ。


──ということは、啓示はまず内部から──つまり、主観的自我に発するということですか。

 内部的希求と外部的啓示とが一致するということである。先にも述べた如く、人間は受け入れる能力に余るものは授からぬ。背後霊の指導のもとに徐々に意識を広げつつ、ある段階に至たれば一段と次元の高き知識の必要を痛感する。

その時こそ新たなる啓示が与えられる時である。神学者の中には、人間自らがその内的思考力によって理論的ないし思索的思想体系を生み出すのではないかと弁ずる者がいるが、彼らは神の使者たる背後霊の存在を知らぬ。

己の思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである。優れた神学者の中には真相近くまで踏み込める者も確かにいる。その者たちがもしも背後霊の存在についての知識を持ち合わせておれば、聖書が完全にして誤りなき啓示であり、一言一句たりとも付加あるいは削除は許されぬものと思い込みたる者よりも、さらにさらに真相に近づくことが出来るであろうにと残念に思う。

地上の人間の実生活にとっては、人間の思考作用と啓示との関連についてあまり細かくこだわる必要はない。分離できぬものを分離せんとしたり、断定できぬものを断定せんとしても、所詮は迷いを深めるのみである。

汝としては、要するに霊的準備が知識に先行するものであること、進取的精神が真理へのより高き見解をもたらすものであること、そしてその見解が実は背後霊の示唆に他ならぬことを知れば足りる。かくの如く、啓示は人間の必要度と相関関係にあるのである。
 
 真理普及の仕事において人間が頻りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。

われらが厳然たる独立性を持つ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらが汝の精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。

われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとって不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。
 
──そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが・・・・・・
 


 そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば汝にも判るであろう。汝はわれらの仕事を何やら個性を持たぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。

第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。汝には単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けておると思うがよい。

〔この通信から数日後に私は新旧両聖書の福音を、この霊訓より得た新しい光に照らして読み直して得た幾つかの結論を述べた。それまでとは全く異なった角度から観たもので、それが正しいと言えるか否か、新しい解釈と言えるか否かを訪ねてみた。〕
 




 大体においてその結論で正しいと言えよう。が、別に新しくはない。これまでも神学的束縛より脱し、障害もこだわりもなく真理を追求せる者は、とうの昔にそうした結論に達している。その啓示を得た者は大勢いるのである。


──ではなぜ私にその人たちの説を読ませてくれないのです。面倒が省けるでしょうに。


 汝は汝なりの道を辿りて結論に達する方がよいのである。それから他人の結論を比較すればよい。


──あなたの態度はいつもそうです。まわり道をしているように思えてなりません。仮にあなたのおっしゃる通りだとしても、なぜこんなに永い間私を誤謬の中で生きてこさせたのですか。

 それは、すでに申した如く、汝が真理を理解する状態になかったということである。これまでの生活は、汝が思うほど永かったわけでもないが、進歩のための周到なる準備であった。その時点においては有益であり、進歩を促進するものであった。が、それとて、より高き真理の理解へ導くための準備であったということである。

今の段階についても同じことが言えよう。いずれ将来において今を振り返り、この程度のことが何故あれほどまで驚異に思えたのであろうかと、不思議に思えることであろう。

 汝の全
存在である生命は常に進歩を求める。がしかし、その初期はその後の発達のための準備期間に過ぎぬ。

 神学も汝の訓育のためには通過すべき必須段階の一つだったのであり、われらとしても汝がその誤れる見解を摂り入れてゆくのを敢えて阻止しなかったし、又阻止しようにも出来なかった。これまでのわれらの仕事において、その誤れる教義を汝の精神より取り除くことが最大の難題の一つであった。が、

われらはそれを着々と片付け、今や汝の目にも、啓示の問題に関し、われらをして誤れる見解を取り除き、正しき知識を吹き込むことを可能ならしめるに要する数々の知識を見出し得るであろう。神学の中にありては如何に尊ぶべきものであろうと、単なる語句に対する因襲的信仰が根を張っているかぎり、われらは何も為し得ぬ。

われらとしては、それが聖書にあるなしに関わらず、人間を通して得られる啓示に、それなりの価値を汝が見出し得るようになるまで待つ他はない。議論に際し、何かと言うと聖書を持ち出すようでは、われらは何も為し得ぬ。そのような者は理性的教育の及ぶところではない。

 イエス・キリストの生涯とその訓えの中には、われらの側より証明を与える前に汝自らの判断にて改めて検討し直すべきことが数多く存在する。その生涯に関する記録を検討すれば、たぶん汝はその信憑性、出所、権威等の問題について再考を促されるであろう。

イエスの出生にまつわる話、その語録に基づく贖罪説──イエス自身の贖罪とイエスの御名のもとに説ける者たちの贖罪、奇跡、磔刑(はりつけ)、そして再生へと目を向けるであろう。

また神及び同胞に対する責務についてのイエスの教えとわれらの説くところとの比較、祈りについてのイエスの見解と弟子達の見解、同じくイエスと弟子たちによる運命の甘受と自己犠牲に関する説、慈善、懺悔と回心への寛容、天国と地獄、賞と罰、等々が目にとまることであろう。

 今や汝にはそうした問題について正面より検討する用意が出来た。これまでの汝はそうした問題については先入的結論をもって対応するのみであった。まずもってその記録の信憑性を検討するがよい。そこに記載されたる言説のもつ正当なる価値を検討せよ。

その上でソクラテス、プラトン、アリストテレス、等の哲人の言説を検討するが如くに、イエスの言説を検討することである。誇張的表現を削ぎ落し、事実そのものを直視せよ。

神がかり的表現を冷静なる理性の光に照らして検討せよ。伝説、神話、因襲の類に過ぎぬものを払い除け、何ものにも拘束されずに、辿り着く結論を恐れることなく、勇気をもって己の判断力一つにて検討してみよ。勇気をもって神を信じ、真理を追求せよ。啓示とは何かについて真剣に、そして冷静に、勇気をもって思考せよ。

 そうした勇気ある真理探究者には夢想だにせぬ知識と、いかなる在来の教義も与え得ぬ安らぎを授かることであろう。己一人で求めたことのない者には知り得ぬ、神とその真理とを知ることであろう。一人して遥か遠き他国を訪れ、そこに生活して始めて
その国の真実の姿を知り得る如く、神的真理についてその実相に触れることであろう。

その者の背後には啓発の任務を帯びる霊団──人類に真理と進歩をもたらすための霊が集結することであろう。かくして旧(ふる)き偏見は崩れ去り、旧き誤謬は新たな光に後ずさりし、それ相応の暗闇へと消え行き、魂は一点の曇りなき目にて真理を見つめることになるであろう。何一つ恐れることはない。イエスもかく語っている──〝真理は汝を解き放ち、而して汝はまさに自由の身とならん〟①と。


〔私は現実に可能であるならば何を犠牲にしても是非そうありたいと思うと述べた。私は面白くなかった。そして一人で踠(もが)くに任されることに不満を表明した。〕
 
  
 
    
 
 われらは決して汝を放置しておくわけではない。援助はする。が汝らが為すべきことを肩代わりすることはせぬ。汝自身が為さねばならぬ。汝が努力しておればわれらも真理へと導くであろう。われらを信ぜよ。汝にとってはそれが最良の道であり、それ以外に真理を学ぶ道はない。

われらがその真理を語ったところで汝は信じようとしないであろうし、理解しようともせぬであろう。キリスト教の啓示の問題以外にも汝が目を向けねばならぬものが数多くある。キリスト教以外の神の啓示、キリスト教以外の霊的影響の流れ等々の課題があるが、今はまだその時期ではない。これにて止めよ。神の導きのあらんことを。
                               イムペレーター

 〔註〕
 (1)ヨハネ8・32ほか。


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