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世界心霊宝典Ⅱ 不滅への道───永遠の大道  
                                THE ROAD TO IMMORTALITY

         ジェラルディーン・カミンズ著   E・ギブズ編     梅原伸太郎訳
                                            Geraldine Cummins / E・B・Gibbes

  
                                                  目                    次
 
      ジェラルディーン・カミンズ序文
                                   
                                     オリバー・ロッジ序文         

                                                    E・B・ギブ ズ序文 


 第一部 死後の生活                         
         マイヤーズのはしがき 
   第一章 生存の目的
          永遠の謎  
   第二章   魂の旅程表 
   第三章   幻想界(第三界)
          記憶の世界   
               冥府  
               幻想 
               動物的な人   
               旅の休憩所   
               感覚の人
               平凡な人 
   第四章   意識  
   第五章   色彩界(第四界  形相の世界)   
          魂的な人───形象の破壊 
         上層界への入り口───形態の神聖化         
            第四界における感知力の増大        
   第六章    類魂
         心霊意識の集団     
               霊的な人
第二部  人間のもつ諸能力についての教え 

    第十四章   自由意志 
    第十五章   記憶
             肉体の内と外
    第十六章   大記憶
    第十七章   注意
              生きている人の場合  
                      帰幽者の場合

    第十八章   閾下自我 
    第十九章   睡眠

    第二十章   想念伝達
    第二十一章   二つの世界の想念交流
                  【生命の書】

    第二十二章     幸福とは   
                 平均的男女の場合
    第二十三章    神は愛よりも偉大
   第七章   火焔界(第五界)
       第五界への誕生
       第五界の象徴 

               類魂の構造
   第八章   白光の世界(第六界)
           純粋理性
   第九章  彼岸ないし無窮(第七界)
           神性原理との一体化       
   第十章  宇宙
   第十一章  色彩界から
   第十二章  死とは何か  
           影の場所(冥府)  
                 記憶と死後の自己認識   
                 死者の睡眠
                 遺像または魂の殻    
                 急死  
                 老衰による死        
                 類魂模様
   第十三章  心霊の進                          
 第三部 交差通信の記録 
     (レナード夫人とカミンズ嬢)     
     要約  

     補遺  
    1.クレオファスの書
    2.霊光
    3.他界からの通信
    4.地上生活の記憶を通信する困難 
         死者と話すことは良いことか悪いことか
   
    5.動物の死後存続
     解説   (梅原伸太郎)      
        
カミンズとマイヤーズ    
    
スピリチュアリズムと証拠
               類魂と再生                
 


     ジェラルディーン・カミンズ序文

『不滅への道』は初めオリバー・ロッジ卿(※)の序文付きで、一九三二年に出版されました。それ以来、英国版は一万四千部を売り、他に、ドイツ語、チェコスロバキア語、日本語などにも翻訳されました。これらの本はたちまち売り切れになる程で、世間の関心は極めて高かったといえます。

英語版はこれで四版を重ねることになりますが、この二年間のあいだ、この本は、一般には、入手不可能な状態でした。

 この本が最初に世に出た時、マイヤーズの友人たちは、これをあの世の生活を物語るマイヤーズの通信であるとして受け入れたのでした。このフレデリック・マイヤーズという学者は、生前心霊研究に生涯を捧げた人として名高かった人です。

 たとえば、かつて心霊研究協会の会長でありマイヤーズの旧友でもあったローレンス・ジョーンズ卿は『不滅への道』における他界の生活の説明を故人からの通信であるとして受け入れた一人です。

ローレンス卿は、心霊科学学院におけるこの通信についての講義の中でこの事に触れ、彼の見解を述べています。更に彼は、マイヤーズがイタリアで過ごした───そこで亡くなった───最晩年の数箇月のことを、実際にその目でそれを見た人として詳しく物語っています。

 ギブズ女史は私が自動書記と言う形式でこの通信原稿を受け取りつつあった時に、私の協力者であり、研究者でもあった人です。この本が出版されて幾日かたったある日のこと、このローレンス卿がギブズ譲と私の許を訪ねて来ました。

そしてその折に彼は、通信者の未亡人であるエヴェリン・マイヤーズ夫人がこの本を二十七冊も買って友人たちに配ったので、彼女がこの通信を夫からのものであることと確信していることは間違いないと言いました。

 数日後、二度目にローレンス卿が訪れた時、彼はマイヤーズ夫人が私を招き、彼女の自宅に同居して、そこで彼女の夫からの通信を受け取ってほしいと言っていると伝えてくれました。

しかしこの時、私は、故郷で独り暮らしをしている母の健康がすぐれぬために、アイルランドに帰らなければならなかったので、この親切な申し出をお断りせねばなりませんでした。

 『不滅への道』の原稿は一九二四年と一九二五年、および一九二七年のあいだに書かれたものです。この時期は、原子核に関する科学理論が発展する未だ数年前のことでした。一九三七年になって、科学者たちは初めて原子の分割を手掛けたのでした。※

 故ジョーン・イースト(ある科学者のペンネーム)氏は、『永遠の探求』という本の著者ですが、その中で彼は、最新物理学による、死後における人間の意識の存続の証拠を提示しました。『永遠の探求』は一九六〇年にサイキック・プレス社から出版されています。

 イーストは、その著の一二五頁に「カミンズ嬢のことに触れさせて頂きたい」といい、『不滅への道』は、オリバー・ロッジ卿によって、F・W・H・マイヤーズからの通信であり、マイヤーズがあの世について記述したものであると認められたと述べ、本書の七九頁※を引用してこう書いています。

「『他界の霊の教えるところでは、死の秘密は、魂の外殻にあたる部分の振動率が変わることにあるということはあなた方も聞き及んでいよう。例えば人間がその周囲の可視世界を感知するのはその身体がある特殊な速度で振動するためである。

あなた方の肉体の振動数を変えれば地球も、人も、物体も皆、あなた方の眼前から消えてしまうのである。

と同時に、あなた方自身もまたそれらのものから見れば消えてなくなることになる。それ故、死は単なる振動数の変化である。この変化のためには、一時的な混乱が不可避である。というのも魂は、ある振動で進行する身体から、別の振動で動く身体に移らなければならないからである。』

 これが書かれたとき、ボーム教授の本は未だ出版されていなかった。私はこの頃既に亜原子世界が預言されていたかどうか疑問に思う。上記の引用は、カミンズ嬢の自動書記を通して得られた、マイヤーズのものであると考えられている。」

 更にイーストは次のように記している。

 「おなじ本の100頁※には次のように書かれている。『大意識※は、身体という粗雑な機械が死んでも破壊されないところの無限に微細な原子を含んでいる。私は原子と言ったが、あなた方からみればそれは流動体のように思えるかもしれない』これはその時は未だ知られていなかった亜原子エネルギーの高い周波数について述べたものである。

また一〇〇頁には、真に驚くべきことが述べられている。『われわれの環境は超エーテル的な性質のものである。それをもっと良く説明してくれと言われると大変難しい。

しかしエーテルが最極微の原子を含んでいるとは言ってもよかろう。その物質はあなた方の世界の粗い物質を透過してしまう。両者は互いに全く別の次元のものなのである』


 こうした見解は私達の仮説が単なる可能性以上のものであることを示すものである。と同時に、原則として、この通信の真実性は否定し難いように思われる」

 以上が、ジョン・N・イーストが彼の『永遠の探求』の中で、一九二〇年代に書かれたマイヤーズの通信に与えたコメントです。

 原子核の科学理論が発展し始めたのは、原子以下のエネルギーが発見され始めた一九三七年以降のことだという事実をみる時、マイヤーズがこの本で述べた考え方は、地上時間に数年先行していたことを示しています。

               一九六七年九月、ロンドンにて      ジェラルディーン・カミンズ



  オリバー・ロッジ序文

 ジェラルディーン・カミンズ女史は、アマチュアの入神型自動書記霊媒として聞こえた人である。自動書記霊媒とは即ち、意識亡失(トランス)の間に於いて、ある霊魂の支配を受け、自分の全く与(あずか)り知らない事柄を書記する人のことである。

私が自動書記についての最初の経験を持ったのは、※パイパー夫人の自動書記文を研究して、その「実験責任者」となった時の事で、その結果は、SPR『報告書』第二十三巻、一九〇九年、の特に一三一‐一三四頁に書いておいた。

カミンズ女史の事例において実験責任者となったのはギブズ女史で、彼女は、カミンズ女史がアイルランドから出て来た当時の同居者であった。

カミンズ女史の手を度々用いた支配霊のひとりは、最近になって私の友人の F・W・H・マイヤーズを招くと称し、その結果極めて高遠なる内容の通信の如きものが送られてきたのであった。マイヤーズは生前、この二人の婦人のいずれの知己でもなかったのであるが、送られてきた原稿はかなりの量に上り、またその原稿の内容もある価値を有するようにみえた。

 そこでギブズ女史は私に書信を寄せ、私がこの原稿を閲(み)る気があるかどうか、またこの書記の内容をマイヤーズからのものとすることが妥当かどうかを尋ねてきた。検討の結果、私は、それが多くの点で、 F・W・H・マイヤーズからのものである特徴を備えていると判断した。

 彼が類魂に対して与えた説明は、生前の彼の説、及び私と議論した際の内容と一致していた。潜在的自我や再生について説く所などはまさにそうであり、生前の彼の所説と充分に符合する。

全体として言えば、書かれたことのあるものは謎に満ち、外見上混乱をきたしている部分もあり、また彼自身それを認めるように、これを絶対の真理とはいえないとしても、その内容は充分に彼の知性を示すに足るもので、味読すれば教示されるところ大である。

 以上のことに決着を付けるため、先頃、オズボーン・レナード夫人との個人的交霊会を催した時、私は息子のレイモンドを通して、旧友たるマイヤーズに次のことを尋ねたものであった。

即ち、彼が、カミンズ女史なる者を知っているか、またその通信内容に述べられたところは、彼の考えを充分に表現し得ているかどうか、その二つについて質したのである。彼の答えの要点は次の如くである。彼は確かにカミンズ女史に通信を送った。大体において彼は自分の言わんとするところを伝えた。

通信の困難なことは彼も認めるところで、内容が必ずしも正確とは言い難いが、かなりの程度において彼の言わんとしたところを表しており、合格点を与えたき意向である、と。

 私は特に、このマイヤーズと称する霊に対し、彼が死後の世界の各階層間での違いを述べている中で、第三界、即ち常夏国とか幻想界などと呼ばれている境界について、彼が真に伝えたかったことは何であったかを問うた。

私は既に、そこの住人たちが、その世界を驚くほど地上と似ていると言い、花、木、家などがあり、また奇妙なことに、望みさえすれば何ものによらず手に入れることができると言っていることを承知していた。しかし私はそこの世界をマイヤーズ霊が言うように、すべて幻想であるまでは考えていなかったのである。

 彼の答え───主としてレイモンドを通して得られた───は、おおよそ次のようなものであった。帰幽後まもない人が第三界で目にする日常のものは、彼らには、自然で、よく見慣れたものと感じられるものである。それが一時的な環境であるのは、現世の物質的環境が仮のものであってその見える通りのものではないことと同じである。

 アーサー・エディントン卿は、日常の環境についてのこうした科学的な見方を強調して次のように指摘している。即ち、固体的で、堅固で、連続性を持つと見える一個のテーブルも、実は互いに巨大な空間を隔てて旋回する一群の原子であり、われわれが床に立つ時は、足下のある原子が我々を上方へと叩きつける小さな力の集まりにより支えられている。

 これらのことを普通の人は全く気がついていない。物質は科学的にはこんなふうにして説明されるのだが、普段は、日常生活の実際的な用途に合わせて、もっと習慣的な説明を用いている。

即ちそれは、平常我々の慣れ親しんだ粗っぽい感覚に訴えるやり方である。こうした説明の仕方はわれわれの身についたものとなっており、他のどんなことでもごく普通の人間らしいやり方で説明する傾向がある。それゆえ何処へ行っても自分の環境を日常経験に合わせて説明してしまうのである。

そのお蔭で、死後においても、大きな衝撃や激しい変化を味わわずに、感覚の一貫性を保つことが出来るという利点はある。事実われわれは、記憶や、性格や、愛情のみならず、説明能力までも死後の世界へ携えて行くのである。

かくしてわれわれの環境は、地上同様に見え続ける。環境を快いと感じる必要がある限り、地上での対象知覚にどんな幻想の要素があるにせよ、それと同じ種類の幻覚が次の界においても付きまとうのである。

 第三の世界の住人がその知覚するものを幻想と思わないのは、地上の人間がそう思わないのと同じく当然のことである。より高次の境涯の住人にして初めて、地上や第三界の事物がはかない影のように見えるので、それはどこかあの陳腐ではあるが教訓的でもあるプラトンの洞窟の比喩を思わせ、そこに囚われた人や影のことどもを考えさせる。

※(洞窟の比喩=プラトンが『国家篇』で用いた有名な比喩。イデア界を太陽世界とすれば、可視界は地下の洞窟に喩えられる。われわれ人間は、その中で生きながら手足を鎖につながれ、イデアの影に過ぎない感覚経験を実在と思い込んでいる囚人に等しいとされる。平凡社〔哲学事典〕参照)


いずれにしても我々は、一足飛びには、真の実在のきらめく火炎の全体を見る所まで、到底辿り着けないのである。

 マイヤーズが第四界、第五界、第六界、第七界について述べた説明は素晴らしいものである。私としては、マイヤーズがこれまでにそうした理解を持つに至ったのだろうという観測に反対する理由は何もない。私がこの本への序文を書くべきかどうかを尋ねると、彼は書くことに賛成した。

 私が、出来る限り話されたそのままを書き留めたレナード夫人の交霊記録を、抜粋ながら、ここに載せることが最も公正な態度であろう。抄録の最後の方の発言は、霊媒のエネルギーが尽き始めていたので、口早になっている。この時のレイモンドは専らマイヤーズについて話した。彼はマイヤーズのことを愛情を籠めて、「フレッドおじさん」と呼んでいる。

 「以下は、一九三二年三月十一日、O・J・ロッジが、単独で、ケント州、オズボーン・レナード夫人との交霊に臨んだ時の記録からの抜粋。交霊は打ち解けた家族的会話の形式で、殆ど二時間近くに及んだ」

ロッジ  レイモンド、マイヤーズがカミンズさんを通して通信してきたというんだが、そして、お前のいる所は幻想界だと言っているのだが、どうだろうか。彼は本当に通信しているのだろうか?

レイモンド   ええ、その人を通して確かに通信していますよ。そのことについて話しましょうか。もし僕が間違っていれば、フレッドおじさんが注意してくれるでしょう。

目下のところ、境界線すれすれの所にいるんです。お父さん、僕らのいる界ではね、生活環境とか、そちらでは物と呼んでいるものを自分で創り出さなければならないんです。そしてそれらの生命は一時的なものなんです。つまりそれらは幻想です。ある程度物質化現象に似かよった幻想なのです。

そちら側では、物質的なものは相当期間持続しますね。それは見たところも感じでも、またあらゆる面から見て自然なものとして、この体の感覚に訴えかけます。(そう言って、彼は私に触れた。───ロッジ)僕らのいる世界では、いろいろな物、家とか着物などを自分で創り出すことになっています。

当座の間に合わせなのですが、魂が生活したり働いたりするのとうまくあった、丁度良いものを創るんです。それが自己表現の媒介物になっていくんです。

お父さんの家や書斎その他だってそうなんですよ。そちらの人達はそれに慣れてしまっているので、こちらへ来ても同じ状態での方が活動し易いんです。ですから生活上万(ばん)やむをえざる幻想なんですね。

ロッジ   ところで、お前は幻想界に居るのかね?

レイモンド   あなたもですよ、お父さん。あなただってまさしく幻想界にいるんです。僕らはお父さんの住んでいらっしゃる幻想界の延長と言ってもよい所に住んでいるんです。その端の縁(へり)の所といってもよいでしょうね。僕は幻想界の一番外縁の所にいるので実在の世界にも触れているんです。

あなた方よりももっと実在的なことは確かです。お父さん、霊の世界は実在の世界なんですよ。霊も心も実在の世界に属するんです。ほかのものはみんな上っ面(つら)のもので、ある意味の一時的な必然性はありますが、永遠不滅の実在世界から見ればはかない存在なのです。霊と魂はその実在世界に属します。

エーテルの世界は心の力によって生み出されるんです。僕らは未だ、地上の物質世界から完全に自由になっているわけではありませんが、もっと独立性を持っています。でも未だそれに関心があるんですよ。

ロッジ   お前たちの世界には物質的なところがあるのかな ?

レイモンド   そうです。物質的です。フレッドおじさんはいつもそう言っています。

ロッジ   エーテル的と言ってもよいのかね。

レイモンド   はい、難しい言葉ですがね。エーテル界は未だよく調べられていません。エーテル界の中にも世界があって、そのまた世界の中にも世界があります。でも、お父さん、この世界は心が活躍するんですよ。

ロッジ   その世界では心はいつも働いている、と私は思うんだがね。

レイモンド   そうです。そして心は進歩に必要な幻想を生み出します。魂のことを忘れては駄目です。魂こそ人間そのもので、人間の本質です。お父さん、人間は過ちを犯したり、束縛から逃げ出したり、愛したり、憎んだり、善事や、時としては悪事さえも犯そうとしますが、それこそ魂なんです。

霊となると悪事とは没交渉です。しかし魂には自己表現する背景や、環境や、乗り物が必要なので、それらを創り出すのです。ですから、お父さん、この幻想と言う言葉は誤解されておりますが、僕たちの世界にもお父さんの世界にも当てはまるものなんですよ。

ロッジ   それでは、心はこの世でも物を創り出してきたんだろうか?

レイモンド   そうですよ。でもそれは、あなた個人の心が、というわけではありません。偉大な建築家である方の心が創りだしたものです。僕らはみな程度こそ違え建築家なのですが、すべての中で最も偉大な建築家が、エーテル世界を創り出したように、物質世界も創造したんです。霊もエーテルもです。

ロッジ   エーテルは霊にとって是非とも必要なものなのか ?

レイモンド  
 二つは分けることが出来ないものだと言う気がします。今フレッドおじさんに尋ねてみました。おじさんは両者は不可分のものだと言っています。エーテル世界は実在の世界に属していると、彼は今言ったところです。しかしそれは勿論お父さんの世界にも浸透しています。生命のあるところにはエーテルがあります。

ロッジ  
 つまり生命の乗り物というわけだ。

レイモンド   そうです。それはフレッドおじさんの言葉ですね・・・生命の乗り物というのは。もし僕らがそちらの人に少しでも教えてあげられたら、大部分の人の恐れている死がやって来ても、それは、なにか未知で、不案内で、恐ろしい───不案内だから恐ろしいんですが───状態に飛び込むわけではないんだということを気づかせてあげたいですね。

そういう人達は見知らぬ世界へいくのが嫌だと言いますが、そうではなく、現世と似たような世界なんです。お父さん、自然について言いましょう。自然は物質界に属していますね。僕らの世界にも花や木があります。僕らの世界を形造っているのも自然です。

現世においては自然は本能領域のみにかかわっているのですが、こちら側では知性の領域とのみかかわっています。地上では、本能に即して生きている人を見受けますが、僕らは自分の心と知性を用いて生きており、盲目の本能に従うことはありません。

もっとも植物界や低級動物界は本能だけで生きています。知性によって生き、心が行動を支配する生命形態に触れて初めて、個的な意味で死後の生に生き、また生きることに適合したと言えるのです。

ロッジ  
 つまり、個性を獲得したというわけだ。

レイモンド   そうですよ、お父さん。そこでが分かれ目なんです。何も本能を非難しているわけじゃありません。それを神の大計画の中の本来の位置に置かしめようとしているだけです。そちらの世界では、本能を通じて起こる良いことが沢山あります。お父さん、今日はお話しできて幸せでした。

フレッドも、僕を通して話ができて嬉しいと言っています。

ロッジ   私はこれからカミンズさんと会う予定です。貴君は第五界、六界、七界について通信しましたね。

マイヤーズ   ええ、確かに。私は専ら外から眺めているんです。いろんな条件があって、それが精一杯のところです。

ロッジ   序文を書いて欲しいと頼まれているのですが・・・。

マイヤー  いいでしょう。結構ですよ。

(この後、別れの挨拶の後、交霊会は終わった)

 以上の個人的証拠に意を強くして、私はこの本を、真面目な人達がやがて経験することになるあの世の生活や、諸段階についての情報を与える真摯な企てとして推薦したい。

まだほかにも進歩の低い段階の人や、よからぬ考えを持った人々の行くべき所があるのであるが、ここではそれに触れないでおく。通信者が他の階層にいる人々の明瞭な情報を、そうした経験を持たない人々に簡潔に伝えることは困難なことに相違ない。

またその説明には過誤があるかもしれないが、しかし私は、この本は、十分な教養を持ち、献身的奉仕心に溢れ、かつ一点曇りなき誠実さを備えた自動書記者を通して得られた、能う限りの真実を伝えんとする純一の企てであると信ずる。
                                                                                                                                    オリバー・J・ロッジ

唯物論に身を任せきった文明は、その精神的資産を使い果たしてしまい、更新する力を持ち得ない。───もし、心霊研究が、唯物論とは全く別の事実を発見できない限り、唯物論はなお広がり続けるであろう。他の如何なる力もそれを押し止めることは出来ない。既成の宗教も形而上学も、等しくこの前進する潮流の前には無力なのである。───マクドゥガル教授

 
                 
                   
                                  
    E・B・ギブス序文

 この本の内容は英国の詩人であり、随想家であり、また、一八六五年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの古典文学の講師となった、F・W・H・マイヤーズによるあの世からの通信であるとされるものです。彼は一八八二年にシジウィック教授や、ウイリアム・バレット教授やエドマンド・ガーニー等と心霊研究協会を創始した人です。彼は一九〇一年の一月に亡くなりました。

 「自動書記」といわれる方法による以下の通信は、ジュラルディーン・カミンズ女史により三期(一九二四~ 一九二五年、一九二七年、一九三一年)に亙って書記されたものです。女史は心霊研究の用語でいう、「自動書記者(オートマテイスト)」です。

しかしながら、「通信者」と称する霊(F・W・H・マイヤーズ)の方では彼女のことを通訳者と呼んでいます。主観的心霊現象の場合においては、「内在意識」※(第十八章参照)が、未知の世界からやってくるとされる通信や書記の通訳として不可欠のものらしいとされているところからみますと、これは適切な用語のようです。
 
 カミンズ嬢はコーク州の故アシュレー・カミンズ教授(医学博士)の娘として生まれ、これまでの生涯の大半をアイルランドで過ごしてきました。彼女はかつてアイルランドホッケーのチームの一員でしたし、また現在熱烈なテニス愛好者でもあります。

彼女は個人教育を受け、主として戯曲や近代文学に興味を持ってきましたが、科学、心理学、形而上学等については特に学んでいません。

六人の兄弟は大戦に従軍し、そのうち二人は戦死しました。彼女は職業霊媒ではありません。彼女はアイルランド農民小説、『人々の愛した国 The Land They Loved』(マクミラン社刊)の著者であり、また、ダブリンのアベイ劇場で上演された二つの民衆演劇の上演協力者でありました。

彼女にはまた、何冊かの心霊方面の著書があります。私達の知りあったのは一九二三年のことでしたが、その年の終わりには一連の自動書記実験を始めていました。

 自動書記は、書き手の手がしばしば自己の意識の内にない知識を書くような場合に、真の自動書記現象であると証明されるものです。この手段によって、エドワード・マーシャル・ホール卿などは死後の生命の存在を確信するようになりました。自動書記について彼はこう言っています。

 「私はいわゆる死を超えて生命が実存し、いわゆる死者と我々の間には通信の手段があることを確信したし、また今も確信している」

 ある人々が高い波動と同調して、その波動を通して、いわゆる死者がこの世と再び交渉を持つことがあると言うのは本当のことです。私は「いわゆる死者」と言いましたが、それは肉体を離れた人という意味です。

というのも、二十五年に亙る自動書記現象の研究の結果、死者と言うものは消滅してしまうものではなく、ある条件の下では、地上にある時と同じように人と話すことができるということを私は確信しているからです。

 カミンズ嬢はとても素晴らしい自動書記をする人です。肉体死後の人間意識の存続を示す多くの通信が彼女によって書かれました。書かれた時はその場の誰にも未知のことが、後になって確認されるといったことのみならず、彼女が会ったこともない死者たちの話し方の癖や、性格などを再現してみせたのです。これらの例の幾つかがこの本の「要約」に紹介されています。

 彼女が、この本にあるような書記を受けとるためにとった方法は次のようなものです。彼女はまずテーブルについて、右手で目を覆い、静かに精神を集中いたします。彼女は、この精神集中のことをこう述べています。

「まもなく私は半睡状態に陥ります。一種の夢見る状態なのですが、ある意味からいえば、目覚めているときよりももっと意識の明るい状態です。しばしば私は、夢想家が、ことばとして形成されつつある観念に意識的操作を加えないで受身のままでいるあの状態をはっきりと感じていました。

私はただ聴き入るばかりで、静かに受動的にしていることで、話しかけて来る見知らぬ人物に力を貸しているわけです。このような心理状態をことばで表すことはとても難しいのです。そのあいだじゅう私の脳は誰かに使われているという気がします。電信が止めどなく脳を打ち続けているような感じです。

書記のスピードは、あたかも用意された原稿が読み上げられるそばからどんどん筆記してゆくときのようです。しかし書き手である私の能力以上のものが要求されるみたいです。

どんな霊が働いているにしても、その霊は、ことばではなく、想念や、イメージの言語で通信してくるようです・・・・・・」

 カミンズ嬢は、一枚の紙の端に静かに右手を置き、先に述べられたような軽い入神状態、ないし夢見る状態に入ってゆきます。こうして自動書記が始まります。だいたいにおいてまず、「支配霊」が責任者としての前口上を述べ、ついで話しかけたがっている霊がいることを伝えます。

書記のスピードが速いのと、カミンズ嬢が軽い入神状態にあるせいもあって、傍らで余白がなくなるごとに紙をめくってやる人が必要です。その時私は素早く彼女の手を持ち上げ、次の頁の頭に置きます。このようにして書記は遅滞なく進行するのです。

 こんなふうにしてカミンズ嬢と私は実験を始めたのです。私は、彼女の書記におそらく五〇人ほどの人物が登場してきて、それぞれ異なった文体で自分が死者であると主張するのを目撃しました。

それ故、カミンズ嬢が自分で会ったこともない人々の心理的な特徴を再現する事実や、また、彼女とオズボーン・レナード夫人との間に交わされた交差通信の観点からみても、この本に示された自動書記が、彼ら自身のいう、あの世以外の所からくるものとするのは非合理なことだと考えます。

 マイヤーズ出現の最初の微候があった当時、私達は、彼に全くなんの面識もありませんでしたし、彼については殆ど何も知らなかったのです。彼の亡くなったのは三〇年も前のことで、その頃のカミンズ嬢といえば未だほんの子供でした。私達は彼と接触しようと思ったわけではなく、有名な彼の『人間個性とその死後存続』という本もその他の著書も読んだことがなかったのです。

 通信が実際に紙の上に現れるやり方を述べるのは、読者にとって興味のあることかもしれません。

「おはよう」とか「今日は」の後に、フレデリック・マイヤーズと言う名前が書かれます。少しばかり親しみのある会話が交わされた後、前の原稿の最後の所を大声で読むことを要求されます。

次の章の表題が紙の上に現われ、その一行の下にくっきりとアンダーラインが入れられます。そして各章の内容が素早く書き出されるのです。

 たいていの場合、自動書記の前に長い瞑想をするというようなことはなく、また、一旦通信が始まると休止なく書き続けられます。カミンズ嬢も私も、内容が現れるまではなにが出てくるのか全く見当もつきません。心霊エネルギーが尽きますと、書記は中途の切りのよいところで終わってしまいます。

この書記の能力は、カミンズ嬢の普段の能力を遥かに上まっており、また、語と語のあいだに切れ目がないのが特色です。大体において段落や句読点は後になって挿入されるのです。

 この通信者と称する霊は、しばしば英語という言語に不満を唱え、彼の意図するところ・・・つまり地上を超えた世界を表現するのに相応しい言葉がないことに苛立ちを示しました。

 見えない世界からの通信者は、しばしば彼らの用いる言語は想念を媒介にするものだと強調いたします。それ故まず想念が通信者から自動書記するものの内在意識の中へと投げかけられ、そこでその想念を表現する言葉を見つけ出すのです。

 このことについては、以下の引用が興味深いでしょう。これはマイヤーズを名乗る霊が、カミンズ嬢を通して通信すると言ってから、二度目のときに淀みなく書き出したものです。

 「この内在意識をこちら側から扱うのは非常に難しい。われわれはそれに通信内容を刻印する。直接に霊媒の脳に刻印することはまずもって不可能である。内在意識がそれを受け取って脳に送るのである。脳は器械にすぎないのである。

内在意識は柔らかい蜜蠟のようなもので、想念を受け入れ、それに当てはまる言葉を見つけだす。交差通信が困難なのはこのためである。仮に想念を送ることに成功しても、実際にどんな言葉がその想念を表現するかは内在意識の中にある内容によって専ら決まるのである。

もし私が一つの文章の半分をある霊媒に送って、ある半分を他の霊媒に送ろうとしたとすると、私は一つの同じ想念を二人に送って、その一部が一人の霊媒から、他の一部がもう一人の霊媒から出るように内在意識に暗示するしかないのである。

われわれは霊媒の内在意識を通して印象を伝える。内在意識は奇妙なやり方でそれを受け取るのである。内在意識が通信に肉体を与えるものとすると、われわれは精神(真意)を与える。言い換えれば、われわれは想念やそれを組立てるべき言葉を送るのであるが、その言葉の実際の文字や綴りは、

霊媒の記憶から引き出されるのである。実際には、われわれは想念のみを送り霊媒の無意識の心がそれに言葉を当てはまることが多い」

 右の説明は目に見えない世界からやってくるという通信は、通信者と霊媒の間に協力がなければうまくいかないことを示しています。それ故明らかに、通信の質は通信を送ってくるとされる霊が働きかける人の、心と脳の持つ教養と語彙に依存していると言えましょう。

ということは、当然、もし知力の劣った人間の心が、教養ある通信者によって用いられる場合には、そのような通信霊は自分の思想の正確な翻訳を地上に伝えることは難しいということになります。

 この説明は、通信の中に、しばしば、他界からくるかどうかが問題視される観念の混乱や、馬鹿げた意見がみられること、そしてそのことが結果に於いて世間の人に、人間個性の存続を疑わしめるもととなることなどを非常によく納得させるものです。

 書記が現れるスピードについては前にも触れた通りですが、更に幾つかの細かな点をみてみると興味深いものがあります。閾下自我に関する難解な論述が書かれたときを例にとってみると、この論述の最初の一四一〇語は、およそ一時間五分のあいだに書かれたものです。

これと対照的にカミンズ嬢の原稿作成能力は、一所懸命やったとしても、約八〇〇語からなる一つの記事を書き上げるのに、七、八時間かかっています。

自動書記のための交霊は一時間半ほどですが、ときとしては二時間以上に及ぶことがあります。この二時間の間に、二六〇〇語のことばが休みなく通信されたこともあります。ある時などは五人もの目撃者のいる前で、一時間十五分で、二千語を書いたこともありました。

死後の生活に関する観察記述は様々なルートを通して伝えられてきましたが、それはしばしば余りに物質的であったり、地上の生活と似すぎていることで非難されています。

そのため、とても一般の受け入れるところとならないのです。この本の最初の部分に書かれた事柄もあの世の生活に言及していますが、それはこれまで死後の生活が多くの人々に馬鹿げた魅力のないものに思われてきたわけをよく説明しているようです。

通信者と称する霊は、自分は無謬ではない、がしかし、「自分で体験した真実」を書こうと努めていると言っているのです。

 帰幽者とこの世の人間との通信は「内容が馬鹿馬鹿しいか、さもなければ無意味である」という理由で認められないのだと主張されてきました。

 私はこの本の内容を馬鹿げたものでも、無意味なものでもないと言いたいのです。たとえば、閾下自我についていわれている事はどうでしょうか。ここに述べられたことは明らかに、下らないことばかりが通信されるという従来の主張を反駁しうるもので、この点について、スタンリー・ド・ブレイス氏(『心霊科学』編集長)はこう述べております。

『ここには、あの世における人間の構造・・・という最も重要な問題が扱われています』そして更に、「エーテルの物理学といったものがもっとよく知られるようになれば、ここに述べられているようなことは、間違いなく承認されるようになるでしょう。

心霊的なものの機能が物質的なものの機能よりより複雑ではないと想定されるような理由は何もありません」と言い、また更に第一部についてはこう述べています。「私は一見してこの中に真理を認めます。

そしてその形而上学的理論体系についていえば、一読して直ちにその細部まで納得するわけにはいかないとしても、それは一つの体系として論理的なものだと思えます」

人間が次の世で経験する状態の説明が知的に述べられているという点で、この書は思考力のある人々の関心を引くことでしょう。ド・ブレイス氏はこの本について更に次のように述べています。「貴女方は私が永いこと探し求めていた理想のものを私に紹介して下さいました。

これはとても独創的で、かつ途方もなく素晴らしいものです。これらの通信には何ともいえず興味深いものがあります。これが、W・H・マイヤーズのものかどうかについては今のところ問題は残りましょう。しかし、これらが目に見えぬ世界における人間の魂の永い進歩を明らかにする、殆ど最初の試みであることは認めてよいと思われます」

 これらの自動書記が得られた情況についてのカミンズ嬢と、オズボーン・レナード夫人間の交差通信に関する詳しい記述は巻末に付されています。これらは少なくとも同じ霊的実態が二人の別の能力者を通して通信したと称している、という事実を示すものといえましょう。

                                                                     E・B・ギブズ



     第一部 死後の生活                                         G・カミンズ

以下の「はしがき」、「第一部」、「第二部」及び「補遺」はF・W・H・マイヤーズがジェラルディーン・カミンズを通して通信してきたとされるものである。
 
 




    マイヤーズのはしがき

 神秘家たちが「他界」と言い、「死後の生活」と言い、またあるいは「我等が父の多くの住処」とも呼ぶ世界について書き記すにあたり、私の知識と経験に限界のあることをどうかご理解いただきたい。

私はただ、私の感知しえた真実を書こうと努めるのみである。それがもし誤って神を冒涜する結果になったり、また単に先人の既に踏み固めた道を辿るにすぎないものであるときは、どうかお赦し願いたいのである。

 われわれは同じ一つの目的を目差して励んでいるのだと私は思う。われわれは、もしわれわれが人間の霊的な本性に関する人類の知識の総体に何かを加えうるならば、そのために味わう苦痛や骨折りは報われたと感ずることであろう。

われわれは世間の耳目をそばだたせるようなことを行う力は到底持ちえないが、それでもわれわれの知覚を超えたところに無限に広がる広大な探究の領野があるのだということを知らしめるのに何かの役割は果たしうるであろうと思う。

 ここに私が示す観察は、私の「他界」知識を表現したものである。私はただ、私の知るところの真実をあなた方に伝える。魂が死後にわれわれが住むべき諸状態の一つに生まれ来る時、その条件は様々なのである。私はこの「生まれ来る」ということばを魂との関わりを考えて、熱慮の上で用いたつもりである。

というのも、地上の普通の不可知論者考えているような土くれの肉体の中に住むことなどは、われわれからみればまさに死せる状態としか思われないからである。実際の話、われわれ影の世界の住人たちの多くの者は、今この瞬間に、地上に住む低次の動物的な種類の男女の肉体には果たして魂が宿るや否やを殆ど疑問視しているのである。

 

   第一章 生存の目的    
     永遠の謎

 人間はいったい何処からやって来て、何処へ去っていくのか、という主題に想いを馳せ、素晴らしい着想を展開した書物はこれまでにも数多くあった。がしかし、そのものずばり、人間は何故創造されたのか、物質宇宙は空間を疾走し続けながら、その要素をいささかも減ぜず、不滅で、変わりゆくものはただ表相のみであるようにみえるのは何故かを論じえたものは少ない。

 この宇宙は「巨大な無目的の機械」だというのが前世紀の科学者たちの形容であり、そう表現することによって彼らはその時代の知的人間に共通の信念、すなわち、「理由などはない」という考え方を表明したものである。

それ故、この宇宙の目的が完遂されるということもなく、物質世界だけが唯一の現実だということになる。このぞっとする、無目的の、生命と運動の機械的な劇が、まるで死者たちの演ずる劇のように、単調に、果てしもなく上演され続けるというのである。

 今や真理は私たちの手の届かないものとなってしまっているが、こうした憂鬱きわまりない結論をもちきたらす人々の陥る誤謬もひどいものである。

しかしながら、精神とは元来、物質とは別に存在するものであるということが理解されさえすれば、存在のこの奇妙な劇の続く理由が誰の目にもはっきり分かるようになるのである。

 そこでまず第一に、この宇宙を簡潔に、できれば一言で定義する必要がある。その為には以下のことを作業仮説として採用するなら、永遠の謎に答を見出すこともあながち不可能ではないであろう。

その一、影の世界と実体の世界がある。
その二、物質と魂と霊とがある。
その三、顕現するものとその源泉とがある。
その四、神はすべての統一原理である。
その五、物質は無限に微細な実体に分割できる。
その六、部分は霊の世界で再統一される。

 右にいう霊とは、個我の奥底に潜む精神のことであり、そこから分岐して進む数々の魂をその光の下に養っているのである。それは神の一思想である。しかしこの思想は人間的な意味での個別性というものを持たない。それは創造者、すなわち生命の本源である一者からは分離したもの、という意味での個別化なのである。

 神秘家たちは内在の神について語るが、これは誤った考え方である。神という言葉は、至高精神、全生命の背後にある一大観念純粋思念という観点からみた全体、つまり、現存の一部始終が一つの心的概念として生み育てられているところの本源を意味するのである。

宇宙におけるあらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる事実、あらゆる部分がこの全体の中に含まれている。その中にこそあらゆるものの最初の概念が存在する。神秘家たちがこれを称して彼自身の内なる神なぞと呼ぶことは、途方もない戯言(たわごと)なのである。
 
 大精神が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらの殆どすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。

彼らが自らを完成し、完全な知恵と真の実在に到達するまでには、数知れない経験を積み、また無数の形態の中に自己を現わし表現し続けなければならないのである。しかしひと度これが達せられるや、彼らは神の属性を身につけ、彼岸に辿りつき、崇高なる精神の下に同化して、全体者の一部となるのである。

 それ故、これらの諸霊が宇宙に出現し、様々な外観を持ち、また人間としての地上生活の悲喜こもごもを経験する理由は、皆ことごとく、「霊の進化」という言葉の中に見出されるのである。

霊の進化は幾多の制約を忍びつつ、また形態的表現を繰り返すことによって達成される。この表現を通してのみ霊は胎児状態から成長し進歩する。またこうした形態的顕現を通してのみ完成に至るのである。

 この目的のためにこそ我々は生を受け、またこの目的のためにこそ無慮無数の世界と状態を経験するのである。かくして物質宇宙は常に成長し、拡張し、精神に更に一層十全な表現を得させようとするのである。

 それ故、実在の目的は次の一句に集約される。すなわち、「精神は物質の段階的で多様な変化の中で進化する」ということである。精神は物質への顕現を通して進歩し、拡大する宇宙の中で無限にその力を増大し、それによって実在についての真の観念を獲得する。

神の無慮無数の想念、すなわちあらゆる形態に生命を賦与する諸霊たちは、皆、神の最も低位な顕現である。それ故にこそそれ等のものは、神の似姿に近づいて、全体の有効な部分となることを学ばなければならないのである。

  

   第二章   魂の旅程表 

以下に掲げるのは、遍歴する魂の旅程表ともいうべきものである。

(1)物質界*
(2)冥界*、ないし中間境
(3)幻想界*
(4)色彩界*
(5)火焔界*
(6)光明界*
(7)彼岸、または無窮*

 各界での経験の新しい始まりごとに、冥界ないし中間境にあたるものがあると考えていただきたい。そこで魂は自己の過去の経験を振り返り、新しい選択に直面し、意識の階梯を上に登るか下に降りるかを自分で決定する。

(1)物質界は、肉体といういわゆる物質の形態上で経験するすべてを含んでいる。この経験はなにも地上での生活に限定されるものではない。無数の星界には似たような性質の経験世界が存在する。ときとしてはこの身体は他の星界上での身体よりも速くあるいは遅く振動する。しかし、いずれにしても、「肉体的」という言葉が表す性格と性質のある状態があるのである。

(3)幻想界は、各自が物質界で過ごした生活と関連のある夢の期間である。

(4)色彩界。この世界での存在は感覚に縛られず、直接に精神の統制を受ける。依然として形のある存在であるから、物質界と言ってもよいが、この場合の物質とはとても精妙なもので、むしろ物質の精気と呼ぶべきものかも知れない。色彩界はまだ地上圏内ないしそれと相応する他の星界の物質圏内にある。


(5)純粋火焔界。この状態では魂は、永遠の絨毯の中に自己の本霊が織りなしつつある図柄に気づき、同じ霊の中に養われている同類の魂たちの感情生活を知悉する。

(6)純粋光明界。ここでは魂が同じ類魂内の魂たちの知的生活を知悉する。

(7)最後に第七界。一つの本霊とその様々の現われである魂は、今や揃って至高精神たる神の想像力の中に入り込む。全世界、諸宇宙の宇宙、存在のあらゆる状態、過去、現在、未来等々のすべての発端はそもそも此処にあるのである。此処にこそ生々持続する完全なる意識、つまり真の実在があると言える。


 
 本霊(spirit)
 通常の霊という意味とは違い、類魂を束ねる霊の意味に使っている。日本的に表現すれば、親神とか守護神に相当するであろう。浅野和三郎氏はこれに「本霊」という訳語をあてているので本書でもこれを踏襲した。上方からさす本霊の導きとか上級の魂という程度に用いられることもある。なお通常の「霊」という意味で用いられるのは、本書では「魂」soulである。

 類魂(group soul)
 すべての魂はある類魂の中に属し、一つの本霊によって養われ指導され、大宇宙の進化の途上である目的を果たすとされている。第三界までは、この類魂の存在に気づかず、その指導を上からのインスピレーションとして感ずるのみであるが、第四界ではその存在と特徴に気づき、第五界、第六界では次第に類魂と同化し同じ類魂内のすべての経験を共通体験として知りうるようになり、

遂にはその本霊と一体化する。浅野氏はこのグループ・ソールの考え方に出会って、氏自身の独特な霊界研究とも一致するところから驚嘆した。但しこの類魂の概念は細部においてははっきりしないところがある。その成員についても二十、百、千というような数字を挙げているかと思うと、植物、動物などまでこの類魂の中に養われていると説明されている。 

 

  第三章   幻想界(第三界)

  簡潔は理解の要諦であるが、同時に誤謬の元でもある。もし私が永遠の生活ということの興味ある題目について手短に論述しようとするなら、予め小辞典を作っておく必要があるであろう。

 私はまず最初に、あの騒々しい生の波が砕け散って、日ごと夜ごと岸辺を洗う潮のようにわれわれの世界に流し寄せられる新帰幽者の群れのことを明確にしておこう。誕生と死は同じ意味を含む二つの言葉である。今の私にとってこの言葉はなんと奇妙に響くことか。というのも、私はもう長らく、この二つの言葉が無用になってしまった世界に住まっているからである。

 大雑把にいって、この新米の死者たちは次の三種類に分類できる。

 霊的な人
 魂的な人
 動物的な人  

 これらの三者は、その各々を更にいくつかの段階に分けて高低を付けることができる。しかしまずこの三者を心に銘記せよ。なんとなれば、これらのうちのどれに属するかによって、あなたの未来の状態も決まってくるわけであるから。

 以下に、各界の状態ないし環境を分類してみよう。

 第一に、地上生活がある。

 第二に、冥府として知られる端境期(はざかいき)がある。
 第三に、地上生活の思い出と反省に過ごす生活で、「常夏の国」として知られている状態があるが、私としてはこれを「幻想界」と呼びたい。

 第四に、地上生活に似てあくまでも形態を纏う生活であるが、この世界の者は物質宇宙に繋がれた肉体よりずっと精妙な身体の中で生きる。

 第五に、類魂内での精神的知的経験をする時期であり、それと共に類魂内において同じ本霊に養われる様々な魂たちのこれまでのあらゆる段階の経験を知り尽くす。(ただし、これは感情的な思考作用の上で知るのみである。)私は他のところで類魂についてあなた方に説明しておいた。

 第六に、「時」の内と外における意識存在としての生活がある。この場合、形態のうちで過ごした生涯はすべて時を計る尺度となっている。それは最も微妙な形態における生活であると同時に、その色合いと程度に未だ幾分か物質的なところを残している。最後に

 第七番目の状態、すなわち、遍歴する魂がその本霊のもとに融合するときがやってくる。あなた方が彼岸に入ってこの至福の状態に到達するとき、初めてそこで不滅という言葉の真の意味が理解されるのである。

物質は超越され、投げ捨てられる。無時間の中に入って行き、あらゆる生命の背後にあるイデア、つまりは神と一体になる。もっと具体的に言えば、あなた方があらゆる階層の世界でいつも結びついていた神の霊のある部分と一体になるのである。


 
        記憶の世界 
 
 あなた方のいうこの地球は鏡に映る映像のようなものである。それは、鏡面に投写される映像を通してのみの真実性しかない。それ故、地球とは何かと言えば、それは個人の持つ知覚や心に描く像の性質をどのように認識するかにかかっている。

土で捏ねられた人間は、あるやり方で真実のものとは異なる奇妙な幻想、つまりは迅速に回転する球体を見るだけなのである。
 
 人がその重たい肉体を脱ぎ捨てて、もっと精妙な体の中に飛び込んで行くときは、地上生活の持つ基本的な非現実性に気づいていないことが多い。そうした人々は自分の慣れ親しんだ夢を必死で追い求める。そうしたとき魂が戸を叩くとその戸は開かれ、彼はその主たる特質が地上生活にそっくりな夢の中に入ってゆく。

 といってもその時の夢は記憶から来るもので、彼はその記憶の中に暫く住まう。そこではもし望むならば地上生活を作り上げていた諸活動がすべて引っ張り出されて来る。

しかし決心さえすれば、私が死後の世界の「産着」(うぶぎ)と名付けているこの地上の記憶の渦巻きから逃れることもできるのである。何故ならここでの魂たちは、赤子のようなもので、自分たちの住まう真の世界に気づいておらず、彼らを取り巻く巨大な生命の渦巻きや驚嘆すべき知的活動、およびその成果についても幼稚で何も知らない状態なのである。

 このような幼児期の魂は、しばしば地上における睡眠と似た状態で地上の人々と交信する。そのとき彼らは自分の記憶の世界について説明しようとする。それはその時点におけるあなた方の世界と殆ど正確に一致する。ある者はこの状態を「常夏の国」と呼んでいるが、まさに適切な呼び名である。

というのも、肉体の制約から自由になった魂は今までよりも大きな精神力を持つようになり、自分の好みにあった記憶世界を選べるからである。

そこで無意識的にも本能的にも自分の好みの世界に住み、古傷には触れないようにするものである。そのため暫くの間は、この美しく幼い夢の世界に浸っている。

 彼は赤子のように夢見、自分が今や移し植えられた偉大な世界の生活については何も知らず、何も関知しない。むろん時と共に霊的知覚が目覚め、この記憶の夢幻境から逃れようとするとき、すなわち、自分の知的能力の高まりや、なかんずくより精妙な世界に居住する適応力を自覚するときがやってくる。そのとき彼は、この幻想状態を離れ、これまで通信してくる霊たちが殆ど触れることのなかった世界に入るのである。

 記憶の世界を越えて旅をして来たわれわれからみれば、こうした帰幽後間もない者たちの言う天国だとかその他の世界だとかは虚構のものである。なんとなればそれらは現実のものではなく、反映の世界であり、霊的な知識の前には消えゆく一場の夢だからである。

死の関門を越えたとき多くの人はこの状態のお蔭で幸福な気分でいられる。しかしそれは植物的な幸福であり、自分の住んでいる世界について殆ど何も知らない幼児の無知の満足に等しいものなのである。


        冥府 

 冥府は、人によってはこれを*幽界と呼ぶこともある一時期のことである。肉体の崩壊が始まるとすぐに、短い間だが、人間を一つにまとめ上げていた諸部分の外見上の解体と一時的な混乱の時期がある。この冥府の時期と結びついた不愉快なことどもをどうか思い出さないようにしたいものである。

 私の場合は、我が愛する国イタリアで生を終えた。死去の際、私は非常に疲れていた。それ故私にとって冥府は休息の時であり、薄明のまどろみの時でもあった。

長く深い夢から覚めた後では力が湧き上がってくるものであるが、ちょうどそんな風にして、私は冥府にいる間に私に必要な霊力と知力を掻き集めた。地上からやって来た人々はそれぞれの性質と成り立ちに従って、様々に違った影響をこの二つの人生の最前線、二つの世界の境界にあるこの場所から受け取るのである。

※幽界(astral plane)普通スピリチュアリズムの分類法では、現界、幽界、霊界、神界のそれぞれにあてて、肉体、幽体、霊体、本体(または神体)と言う四分法を(神智学の分類法とは異なる)をとっている。マイヤーズの分類はそれと異なる独自もので、冥府のことを指している。通常幽界と言えば、冥府と幻想界のことをいう。


        幻想 

 幽界を通り抜ける間に魂は幽体を脱ぎ捨て、エーテル体の中に入り込む。その中にあって彼は好きなだけ反映の反映たる幻想世界、つまり地上的性質を帯びた夢の世界に住んでる。平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。しかしこうした平和の中にいることも、やがて退屈になってくる。

何故なら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。一寸この界のことを想い描いてみてほしい。環境はあなた方が地上生活で知っているのとほとんど変わりがない。実際のところ、金銭の煩いは何もなく、日々の糧をうるために稼ぐ必要もない。

エーテル体は太陽の光とは別の光によって養われていて、エネルギーと生命力を賦与されている。苦痛に悩むことも闘争に巻き込まれることもない。まるで池の中にいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。

広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。
   
 
        動物的な人

 もしここに私のいう動物的な人、つまり原始的なタイプに属する人がいたとすると、その人は死後においてそれに相応しい選択をするものである。下方へ降りたいという望みを抱き、冥府に入るときに脱ぎ捨ててきた肉体と同じくらい濃密な物質界の住人となることを選ぶことになる。

一般的にいえば、地上に戻るということである。しかし、動物的な人はしばしば、地上よりももっと濃密な物質から成る他の天体に生まれたがるものだと私は聞いている。

 人類は地球以外の天体にも存在している。しかしその物質的な体は地上の時間とは異なった時間に支配されており、それ故その天体固有の時のリズムのもとに生命の旅を続けているのである。

そのために彼らの物理的身体は、あなた方のそれより速く、あるいは緩やかに振動しているので、あなた方人間の感覚を通してはその体の諸部分を見ることができないかもしれない。しかし私は、彼らの生命の条件や身体の構造が人間のそれと似ていることをもって彼らを人類と呼ぶことにしている。


    
        旅の休憩所

 私は既に幻想の国においてはいかなる進歩もないことを述べた。これはある意味では間違いである。

目に見えるような進歩はないという意味である。幻想の国は地上的性質を持った人の見る夢である。というのも、ここへ入って暫くすると、魂は平和となり、闘争心は鎮まる。しかしその闘争心は夢が壊れ始めると再び目覚める。実際、激情が掻き立てられると、彼らは自分で夢を打ち砕く。

何故なら、幻想界においては、動物的な人は困難も闘争もなしに享楽に対する欲を充足することができ、無価値な食欲が完全に満たされる時期がくると、すぐに渇きがやってくるからである。不満が頭をもたげ、新生活を求めるようになる。

路上での休息にすっかり飽きてしまうのである。地上夢の限界に気づいたところから進歩が始まる。

 動物的な人は魂の喜びを感ずることが殆どない。そこで通常、新生活を心から希求するようになる時、彼の望みは、肉体の中に入り、鈍重な身体という形態の中で過ごしたかつての経験をもう一度したいということである。そこで彼は下降する。といっても上昇するための下降ではあるが。

地上的性質の夢における経験の結果、彼の自我の高い部分が頭をもたげ始めている。次の再生の期間を通して、彼はおそらく魂の人間の次元まで上昇するであろう。少なくとも動物性を減じて、彼が前生の肉体の中で味わったよりは高い生活をしたいと思うことであろう。

 「常夏の国」は地上的人格の見る夢であるから、それがすなわち天国だとか冥府だとか地獄だとかと考えられてはならないのである。「常夏の国」は旅中の単なる休憩所にあたるもので、魂はそこで地上生活を夢の中で追懐し、その情的な無意識生活を総括する。しかしあくまでも彼らは、その旅程を先に進めるために夢を見るのである。

    
        感覚の人

 あなた方の現在の環境はある意味で自分の想像したものである。あなた方の心はその中に閉じ込められていて、神経と感覚が伝えるものを持って生の事実であると認識している。

もしあなた方が精神の奥所にある自我や意識に焦点をあて、訓練の結果、感覚が伝える形の世界から離れた思念の中に参入できるようになれば、物質界は消え失せてしまうであろう。そしてもはやそれを知覚することもないであろう。

ひとが霊的に充分発達した段階では、全く形の世界から離れることになるが、それまでにはむろん数知れぬ経験を積まなければならないのである。

 しかしながら、より高次な段階では知力が増大するので形態を制御することができ、またそれに生命を吹き込むことができる。彫刻家が形のない土くれを取ってきてそれに形態を与えるように、あなた方の心が形態に生命と光を引き寄せ、想像のままに環境を形造る。

最初、想像は地上の経験と記憶に制約されるので、見たもののうちから翻案してつくりだす。だが、幻想界の段階ではまだ、思考作用によって意識的に環境を創造することはない。感情的欲望や深層の心が、あなた方の自ら意識せざる間にこれを造りだすのである。

何故なら、ここでのあなた方は、未だ地上的自我に縛られ、精妙にはなったが依然として物質臭の濃いエーテル体のうちに閉じ込められた個別な魂だからである。

    
        平凡な人 
 
 肉体をもって人生の梯子を登りつつある人々は、いわば天と地の間に吊るされているようなものだ。彼らは二つの神秘、すなわち誕生と死とを経験する。上を見ても恐ろしく、下を見ても恐ろしいから、バランスをとるために梯子の一段ごとに全注意を集中する。

そこで、いかに登るのに巧みな者でも、梯子の上にいながら、一生と言う短い年月の前後にいったい何があるのかをゆっくり考える余裕はない。

 同じことが死の関門を越えてきた無数の魂についても言える。たしかに、彼らにとり、生命の意味するところは深まり、その大きさも増してはいるが、依然として神秘のままであることには変わりはない。彼らはいわば神と、彼らの見る現われの世界の丁度中間におかれている。

死者たちの多くは自分たちのいる環境や生活状態についての通信を生者に送ってこようと努力するが、それらは大抵彼らの目に映る身のまわりのことどもか、地上から持ってきた狭い個性に縛られた範囲のものである。

 ここにトム・ジョーンズなる一人物がいる。彼は生前、ロンドンに住み、法律事務所の一事務員として生涯を終えた。彼の心と霊は法律の仕事とちっぽけな個性の範囲に縛られていた。

今私がこのトム・ジョーンズの目から見た死後の世界を描こうとすると、陳腐で物質的なあの世の様を書き送ることとなるだろう。彼は精神的にも霊的にも極めて粗雑な状態にある期間しか地上の人に通信できないのである。彼は生れたばかりの目の見えない赤子のようなものであるから、自分の目に見えないものについて書き送っているのと同じである。

魂の目に光が与えられ、目が見えるようになると、私の知る限りでは、もはや地上を顧みないようになるのである。彼は次第に自分の精神の貧しさを痛感するようになる。死後の世界の驚くべき性格を地上の霊媒たちのことばを借りて表現する力は彼にはない。

彼が黙り込むと、生と死とを隔てる暗幕の彼方からは、かすかな他界の音楽ももはや聞こえてはこない。宇宙の内なる宇宙、生命の内なる生命、そして神の無限の想像力の中で港に憩う舟のように安らうすべてのものの奇(くし)びな響きも、絶えて伝わってはこないのである。

 トム・ジョーンズは多くの人を代表する例である。彼は自分の仕事に関してはあらゆる事柄に精通したよき働き手であるが、彼の生活はそれのみに限定されていて、楽しみも少なく余暇もないところから、人生の究極の目的などということを考える暇はない。

馬具をつけ目隠し皮をかけられた馬が駆り立てられるように、揺り籠から墓場まで引っ張りまわされる。その一生は波乱に富んだものではないが、多少の喜びと悲しみがある。

 それではこの大衆のシンボルのような人トム・ジョーンズやジョーンズ夫人、更にはまたジョーンズ嬢の死後の運命はいったいどうなるのであろうか。死後の「たくさんの家々」を調べるためには、まず、世間一般の平凡な男女の例をみたほうがよいだろう。

彼らは死後瞬時に変えられて、霊的にも精神的にも高く進歩した賢者になるのであろうか。それともあくまで所謂(いわゆる)進歩の法則に従うのであろうか。

 右の二つの質問にまず答えなくてはならない。トム・ジョーンズが死によって急に賢者や霊的天才に変わるものならば、それはもはやトム・ジョーンズであるとは言えないことになる。それ故死後に生き続けているとも言えないのである。しかしながら私は、彼が進化の緩やかな道程を歩むであろうことを保証する。

彼は生前の醜さ、狭隘(きょうあい)な人生感、好悪の感情等を持ったまま次の世界に誕生するのである。つまり全くもとの人間のままで。このような人間が高尚で霊的な生活を営むなどとは土台無理な話である。彼は精神的には未だ産着を付けたままの男である。

それ故地上で赤子が取り扱われるように扱わなければならないのである。世話をやかれ保護されなくてはならず、急な変化や乱暴な取り扱いは禁物である。それに耐えられる霊的精神的成熱が十分ではないからである。

 平凡な大衆の一人である彼が、地上時代の夢の中へと戻って行くのは、あとにも述べるように、やがて彼が未来に向かって前進し、究極のゴール、つまり霊的な想像の世界へと進んでいくときのためである。そこで彼は無時間の世界に入り、偉大な宇宙絵巻から出て、創造者の精神のなかに入っていく時、その至福の状態は訪れる。

しかしそこへ到達する前にしなければならないことが山ほどもある。今は彼はまだ玩具を欲しがる子供の段階にあり、外観の世界を必要としているのである。

 もっと進歩した魂たち───それを教会では天使と呼ぶようだが、私は「賢者の霊魂」としておく───が広大無辺の宇宙の中に、希薄微妙な形態で存在し、想像もできないほど生き生きとした生命活動を営んでいるのである。

トム・ジョーンズがこのような尋常ならざる猛烈な生命の状態を目にすることなどは全く不可能なことである。

 われわれのように、ほんの少しばかり先に進んだ者は死の門のすぐ傍らに控えていて、彼のような新来の人々を、ある準備期間をおいた上で、地上生活そのまま、彼らの信じるそのままに展開する夢の世界へと案内する。彼らは自己のうちに地上時代の全生活を思い出すだけの力を秘めている。

慣れ親しんだ環境こそが何にも増して彼らには必要なのだ。彼らの求めるものは、宝玉の街でもなく、また無限についての奇怪な夢でもない。

彼はただ自分のよく知った故郷の景色を切望する。彼らはそれを現実に見るのではなく、自己の欲するものを幻想として見るのである。

 「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識の記憶の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。賢者の霊魂が思念を送ると、トム・ジョーンズの目には一つの映像が生み出される。

そのお蔭で彼は、死後の最初の時期に空白や虚無の感じを味わわなくてもすむのである。彼が薄明の中で眠り、さなぎの中で憩う間にエーテル体が形造られる。やがてそれは蝶となって偉大な霊智の魂たちが思念集中によって生み出す世界のうちに出現する。

このような想念力を持った方々を私は賢者の霊魂と呼び、創り出されたものを「創造的生命」と呼ぶのであるが、それ以外に適当な表現がみあたらないのである。

 一つの情景が、未発達な魂の記憶から引き出される。それはトム・ジョーンズやその仲間たちの知っていた田園風景と似ていなくもないが、それよりずっと美しい。この田園風景は現実のものではなく、夢である。しかしトム・ジョーンズにとってそれは彼の事務所の机や、毎朝彼を起こしてくれた目覚まし時計と同じように、現実的に見える。

それは疑いもなく彼の知っているあのロンドンという灰色の小さな世界よりも魅惑的ではあるが、しかし本質において英国を形づくるあの懐かしい要素から成り立っているのである。

 夢の中では、ずっと以前に亡くなった友人や、何人かの自国の人々の姿を見る。それらの人々は生前彼が本当に愛した人達である。

 トム・ジョーンズが死後の環境にいる様を想い描いてみよう。彼はそれを生前と同じ物質界だと思っているから、彼の生来の内気さを刺激しないように配慮しなくてはならぬ。彼は素朴な魂で、清い尊敬すべき一生を送り、欲望は適度に自制した。

彼は七十年の生涯を地上のある環境の中で過ごしたのであるが、肉体を去った後も、生前に慣れ親しんだ環境の中におかれるのは何故なのだろうか。なぜ地上生活に酷似した生活の中に入って行かなくてはならないのであろうか。

 実際をいえば、両者は同じものではない。それはトム・ジョーンズにとっての緩やかな変化期なのである。彼の地上生活における一八五〇年から一九二〇年までの生活は、地に蒔かれた一粒の種の発芽期にあたるものなのである。

その新しい緑の新芽が、光を求めて上に伸び、やがて時が満ちたとき次の生活へと移行する。彼を含めた幾つかの小さな植物の栽培を任せられた庭師は、それを適切な促成栽培の温室へと移し植えるのである。前にも述べたように、これまで慣れ親しんだのとよく似た世界に案内するわけである。

 この旅人たちはやがて、同じ性質を持った者同士が一つの環境に親しく集まっていることに気づく。しかしひとりひとりの実際的な要求は殆どの場合おなじでないことも知る。
 
彼らのエーテル体は食物を必要としないので、その生活の大部分を機械的な仕事に費やさなければならないということもない。彼らはあまねく充満する目には見えない実体から自分の幸福に必要なものを引き出す。

地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それ故にまた暗黒の勢力の奴隷でもある。死後の生活においては、ある条件さえ満たされれば、人々は光明の奉仕者となるといってもよかろう。食物ないしそれにみあう金銭はもはや彼らの主要な目的とはならず、ついに彼らは光明に奉仕する時間を手にするわけである。すなわち、彼は余暇のうちに反省し、霊妙至福の精神生活を送れる地位をえるのである。

 今や身体の崩壊と共に、かまびすしくも激越なあの肉体の欲求は消え去る。かつては不可欠のものであった日に三度四度の食事をとる必要はもはやない。飢えという地上生活最大の要件は消滅したのである。しかしまだ多大の考慮を払うべき他の要因がある。飢えの後にはセックスの問題がある。この要求は身体の崩壊と共になくなるのであろうか。

 私の答は、大部分の場合には「否」である。それは消えずに変化する。ここにおいてわれわれはこの推移期間における大問題に直面するのである。

 まず性欲というものを定義する必要があるだろう。そのうちのいくつかは歪んだものになっている。ここではそのうちの歪んだ部分を取り上げることにするが、そうすることによって人が罪と呼んでいるものにも触れなくてはならぬ。残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。

それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果それが彼の魂の一部となってしまったのである。 
 
 しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見付からない。

この求めて満たされざる欠乏状態は殆ど精神的な性格のものであると言ってよかろう。この馬鹿げた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。

彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つあるだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は彼を取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。

 キリストはすべての罪びとたちのいる暗黒の世界について言及した。キリストの言ったのは、われわれが知っている感覚的な暗闇のことではない。彼が言ったのは魂の暗闇、精神の苦悩、満たされることのない歪んだ欲望のことである。

 ついにこの罪びとが自分の惨めさや悪徳と立ち向かう時がやってくる。その時偉大な変化が起こるのである。聖ヨハネが「生命の書」と呼んだ大記憶の一部に触れることになる。それによって彼は、これまで彼の行為がその犠牲者たちに与えてきたありとあらゆる苦痛の感情に気づかされる。

彼は地球のまわりに付き従っている大超越意識記憶のうちの一部分である彼の時代の記憶の中に入って行く。彼が他人に与えたいかなる苦痛も、煩悩も消え去ってはいない。

その全ては記憶されていて、かつての自分や交渉のあった人たちに関する記憶の網に触れると、すぐにそれと分かるようになっているのである。

 残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであろう付け加えうるのみである。

 私は、キリストが罪びとは外なる暗闇の中に投げ込まれて泣き叫び、歯を食いしばって耐えるほどの苦しみを受けると言ったことの意味を説明しようとして、トム・ジョーンズの問題から離れてしまった。罪人が飛び込むのは心の闇の中のことである。

その歪んだ性格が苦悩を自分自身に呼び引き寄せるのである。彼は自由意志と選択する力とを持っていたのであり、かりそめのものといいながら、死後の心の闇を選び取ったのである。

 さてもう少し説明を付け加えるために、地上生活において淫奔な生活を送った女の例をあげよう。

ヨハネに現れた天使のことばに、「汚れた者はさらに汚れたことを行なう」というのがある。よからぬ性生活を送ってこちらの世界へ来たものは、心の王国に入ると同時に、心の知覚力が研ぎ澄まされ、精神の力も増すので、地上時代に支配的であった欲望が強められる。

彼は意志の力で、増大した性情を満足させてくれる人間を自分に呼び寄せる。つまり同類の者たちを引き寄せるのである。暫しの間彼らは揃って性の快楽境に住まう。

 しかしこれらはあくまでも、自己の精神の創出になるものであり、記憶と想像力の産物であることを銘記せよ。彼らは、細やかな感情で友愛を築きあげるという高尚な生活───それこそすべての性愛の精華であるが───を求めず、粗野な感覚の満足を追い続ける。

 彼らは容易にそれを手にして、やがて恐るべき渇きにおそわれる。過度に又たやすく得られたものを嫌悪する時が来る。その時になって、彼らが快楽を共にした人から逃れることがいかに困難かを痛感するのである。

 殺人者もまさしくこの種のともがらである。突然の邪悪な欲望や残酷へと駆り立てる欲情が彼に多くの殺人を犯させたのである。

 幻想の国の最終状態は、浄化の状態と名付けられる。いうまでもなく、渇きの惨めさに気づき、欲望の満足に終止符を打つことはこの上ない苦痛である。欲望の達せられないことよりも更に甚だしい不幸とは、欲望の達成されてしまうことである。

ひとはいつも偽りの夢、惑わしの鬼火を求め続けるものであるから、一時の望みが満たされても、究極の満足は得られないのである。

 無論何事にも例外はある。冥府や幻想の国においても個々人は互いに異なった経験を持つものである。ある場合には欲望を満足させる力を与えられないこともある。実のところそうすることは出来るのだが自分自身の自我がそうした満足を遂げることを許さないのである。

例えば、幻想の国では、冷たく利己的な人は自我を外へ投げ出して欲望遂行のうちに自己表現する力もないために、暗黒の世界に住まうことになろう。

 彼は死の衝撃によって今まで以上に内側に閉じ込められる。自分はすべてを失ったと思う。そして自分自身の思考する対象を実体として感ずる以外はすべてのものとの接触を失う。鈍い喪失の感覚と他人に対する一切の顧慮なしに自己満足を求める欲望のうちに住まう限り、暗黒の夢魔は続き広がる。

極度に利己的なひとにとって幻想の国は夜だけの世界であろう。

 殆どすべての魂は暫くのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬときは物こそが現実の全てであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思い込んでいる。彼らは未だ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。

そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名付ける夢の中へと入って行く。それ故、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。

 例えば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブリングトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。

彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。

 暫くすると、こうした快楽の生活は彼を楽しませもしなければ満足も与えなくなる。そこで彼は考えることを始め、未知の新生活に憧れをもつ。遂に進歩に向けて準備が整い、重く垂れこめた夢の世界は消えてゆく。
 

  第四章   意識 

 地上生活においては、意識は毎朝目覚めとともに点すランプのようなものである。不健康であればその火は弱いが、健康であればその炎は燃え上がり、出会うものすべてを明るく照らし出し、くっきりと豊かな光芒を投げかけよう。

 この日常的な意識は年令と経験に応じて変化していく。意識は毎年決して同じものではないが、あなた方はその目に見えない変化に気づかないであろう。意識の源泉たる自我こそが、見、聞き、触れるなどにより物質世界をそれと知るものなのである。

既に述べたように、この霊妙な存在は数学でいう総計なのである。死んである期間立つと、重大な変化を被ったこの自我は再び支配力を取り戻す。到達した階層がどこであろうと自我は一個の旅人である。しかし彼はすでに、肉体も血も脳細胞も、また一つの王国をなす神経の錯綜した網も捨ててしまっている。

そこには肉体などより遥かに洗練された形態がある。この形態は相互に通信手段を持っており、霊界の原子からなる新しい構造物全体に生命を与えている。前にも述べた通り、これは霊妙至精の構造物であり、地上の人間の目には見えず、科学者のいかなる精密機械によっても測定できない。

ここに出現した新しい人間は苦痛というものを感ずることがない。というのも今や精神の力が増大しているからである。第四階にまでくると、心が外的形態を完全に支配しているので、心には霊的知的な意味における苦痛はあっても、地上的意味で形態から患わされることはなく、またいかなる点でも形態が心に優越することはないのである。

かくしてあなた方は重大な進歩がなされたことに気づくのである。とはいっても、ひとはまだまだ多くの状態を通過し、無数の障害を経験して、しかる後にゴールに近づき、完成に至るのである。

 私は人間の魂の旅の重要な部分を占める意識を大雑把に次のように定義したい。すなわち、
㈠ 霊、または高次の魂、

㈡ 自我ないし低次の魂、
㈢ そしてそれらの顕現である形態的存在、というふうに。
 
 同様に、意識の階梯と呼ぶべきものがある。階梯の一段一段は、出発点から究極の到達点に至るさまざまの形態を表している。究極点といっても何らかの終わりがあるという意味ではない。私が究極と言うことばを用いるときは、私の想像しうるものの限界のことを言っているのである。

さて、魂とか自我というのは、階梯の各段階におけるその時々の現実的な自己ないし表面的な気づきのことであり、霊とは上からの光である。霊は階梯の各段のすべてを照らし、全体を含むものである。

それに対し、魂とは部分であり、経験の集合であり、また全生命の背後にある神秘の表出したものである。
℘67 
 自我が意識の階梯を登っていくに従って、他の種類の魂たちの心に近づいていく。私は既に千とか百とか、あるいは単に二十ほどの魂が一つの霊に養われていると述べたことがある。類魂の意識は存在のレベルが上昇するにつれて増大する。いつしか彼らは類魂の中の他魂の記憶の中に入り込み、その経験を知覚し、あたかもそれが自分自身のものであるように感ずることができるようになる。

精神は最終段階においては共通のものとなる。霊にとって統一原理とは、たえず大きな調和、いいかえれば、より大きな統一体を生み出そうという傾向なのである。

様々な個体はだんだんと混じり合い、経験と心において一つになり、やがて夢にも思わざるほどの巨大な知力の次元を達成するのである。

 意識の階梯の低い段階には、人間的な思考習慣や、地上的人格や、個人レベルの思考にしがみついた魂たちがいる。地上生活においてそれらの人々のあるものは際立った学者であった。しかし知識は智者をつくらない。偉大なインドのヨギ、中国の賢者、徳のある神聖なキリスト教の教父といった面々が、彼らのいるところを至高の天上界と思いつめて、いつまでも第三、第四の階層に留まっている。

彼らは典型的な魂の人であり、彼らなりの欠点を持っているのである。彼らは地上で持っていた考え方に執着し、あまりにも個性化してしまっている。彼らは夢に捕えられ、その誤りにすっかりはまり込んでいる。

例えばインドのヨギや中国の賢者はその特殊な宗教や哲学の理想、つまり物質からの魂の解放とか宇宙の忘我的観照とかのみを追い求め続けているようなのである。彼らは自己の理想とするものを摑まえたようである。しかしその結果として低次の階梯の一つに留まるのである。
℘68
彼らは涅槃を達成し、彼岸に辿りつき、神の神秘に参入しえたと信じている。しかし彼らはとてもそんな状態にはいない。というのも彼らは依然として個人的存在であり、地上にいる時に生み出した至福の小さな夢にしがみついているからである。

彼らは淀んだ池に住んで居る。そして進歩もしなければ退歩もしない。彼らは宇宙の物質的側面とは何の接触も持たず、彼らのいわゆる忘我的観照は経験の範囲を狭く限定し、彼らを自己の持つ自我の檻の中に閉じ込めてしまうのである。

 私は前に魂が高次の段階に到達すると、全体を統一する本霊の中に融合し、遂には彼岸に辿りついて神の神秘に参入するのだと言った。そうすることによって形態を脱ぎ捨てた魂は、もはや外的な現れの中に自己表現することはなくなる。

しかし彼岸に渡った霊たちは賢者やヨギたちのような観照の世界には住まないのである。彼らは形態はなくとも物質宇宙全体と接触を保つ。そのことによって霊的知的次元における信じ難い活動を行うのである。なぜなら彼らは今や無限の神秘劇に参画しているのである。

つまり真の涅槃、最高のキリスト教天国にいるのであり、また物質宇宙のアルファとオメガを知り、かつ経験する。あらゆる天体の記録と地球の歴史は一部始終彼らの手中にある。

彼らは単なる後継者ではなく、正真正銘、不滅な生命の相続人となったのである。意識の長い階梯を登る時、あなた方は算数で言うところの小計額であるが、彼岸に渡ることによってまさに総計額となるのである。

 意識の階梯を上から照らす出す本霊とは神の一思想の個別な具現者であると言える。

その思想は通常その本霊自身の生命のうちに留まり続けるが、時としては、人間の自我と直接交渉を持ち、かつ神との接触の直接性や激しさを失わないでいることもある。

こうした神の思想の具現者である「霊的な人」は地球開闢以来おそらくほんの数十人ほどしかこの世に出現しなかった。神の思想が時のうちに流れ入り、肉体を持った人と交渉をもつ時、この種の霊的な人が他の人々と区別されるのは、神からの霊感の直接的な激しさをその霊のうちに留めているという点においてである。

それ故、霊的な人だけが、その言動のうちに永遠の真理を表現しうる。彼は、その肉体が滅びたとき、冥府に安らいはするが、幻想の国にたゆたうことはなく、一挙に階段を駆け上がり、容易に父なる神と一体化する。地上生活にある時間でさえ、彼は父なる神を知り、その霊感を神の想像力から引き出していたのである。



  第五章   色彩界(第四界  形相の世界*

        魂的な人──形象(イメージ)の破壊 

 幻想の国ではエーテル体を身につける。それは物質形態よりももっと希薄で洗練されたものである。あなた方が第二番目の魂的な人にあたるなら、───いいかえると知的にも道徳的にも進歩した魂ということだが───意識の階段を登って行こうという意欲がある。そして、物質的実体に対する熱情は、ほんのわずかな例外を除いては燃え尽きて灰となってしまっている。

 魂的な人のうちのあるものは地上に戻りたいと願う。そうでないとしても、どこか他の星に生まれて、何らかの知的成果を達成したいと思うか、その星の生存競争の中で赫々(かくかく)たる役割を演じたいと望むのである。それ故、こうした人は肉体的に再生する。

しかし大部分の魂的な人々はエーテル体を脱ぎ捨てて、更に精妙な形態を身にまとう。彼らは幻想の国、すなわち、地上生活の古い幻のうちに生きるだけの保育室的生き方から解放される。

 さてこれらの人々は、精妙な身体を身に付けて、私が「超地上的」と名づける世界に入って行く。
℘72
しかし依然としてエーテルのうちに住まうことには変わりない。エーテルとは本当は良くない表現だ。が、しかし、他にこの微妙な気体を表現する言葉が見当たらない。あるいはむしろ物質宇宙からの流体とか放射物とかいうべきかもしれない。どうかエーテルとはあなた方の知る物質の先祖にあたるものだと思っていただきたい。しかしどうも本題から離れてしまったようだ。
 
 魂的な人は主として形態の中に住む限り、超地上的一存在であることに満足している筈である。この状態にも多くの段階があり、形態も多様である。彼らは振動の割合によって互いに異なるのである。

つまり精妙な振動を持つほど霊的知覚も優れたものとなり、理解の範囲が広がるにつれてわれわれが神と呼んでいるもの───すなわち霊的な探究の到達点である神秘───についての経験が深まるのである。

 さて、幻想の国を超えて自覚的に生活し、自己の精妙な身体を自覚するとき、そこは地上世界の源となる世界であることに気づくであろう。簡単にいえば、地上とは、精妙な身体に精妙の宿るこの世界の、醜く汚れた模写図である。

いうまでもなく、模写図を描く人は、傑作をそのまま写し取ろうとするのだが、大抵は問題の作品の魂を伝えることができない。寸法があっていて、線や色が美しくても、その中に生命がないのである。

そのため愛する巨匠の作品の模写を見せられても感動はなく、軽い苛立ちを覚えるのみである。結局のところ模写は模写に過ぎないのだ。それは時として歪曲され、また時としてはぼんやりとした輪郭があるのみで、生彩がなく、いわゆる命が宿っていないのである。

 私の言う精妙世界においても、地上生活では知られていない様々な形態があって、とても言葉では表現しきれないのである。しかしそれでも、地上の自然界の姿とこの光明に満ち満ちた世界の間にはある相似性がある。そこには例えば花もあるのだが、その形は異なり、色彩は目も覚めるような光輝を放っている。

その色も輝きも地上の色域や波長の中にはないもので、筆にも言葉にも尽くせぬものである。前にも述べたように、言葉はもはやわれわれの役には立たないのである。

 しかしながら、この意識界の魂も、争いもすれば仕事もする。地上のものとは違うが、悲しみもあれば喜びの陶酔もある。ここでも悲しみや陶酔は霊的な性質のものである。この両者は想像を超えた種類のものであるが、それらが遂には魂を超地上的な領域の上の境界まで導くのである。


       上層界への入り口・・・・・・形態の神聖化 

 魂が意識の階段を下へではなく上へ登ろうと決心するようになると、精妙な知覚と共に新しい感知力を備えるようになる。かくして彼は第四界に入るのである。地上生活では、平均的な人間の正常な自我の殆どは、身体の欲望に支配されている。

そうしたなかでも霊は生命を鼓舞し、時々は頭脳の暗がりを閃光で照らし出しているのだが力がない。私が深奥の心と呼んでいるこの霊は、今のところ未だ自我の中にかすかに自己を印象付けているのみなのである。

 さて第四界になると、この霊の影響力が、私が魂とか通常意識とか呼んでいる部分にまで強く浸透してきて、時間の世界に身を任せるようになる。するとこの魂は、自己のはなはだ増大した知力を通して周囲の変化を感受するようになる。増大する感知力とともに強い集中力も備わってくる。

細々とした地上の記憶は当分のあいだ失われる。形態の中にある限り、魂は宇宙のリズムに服し、それ故にまた、時間の或る形式に従うのである。「時」と現れの世界を一つのものとして理解せよ。

 とは言っても、魂は地上的な記憶の主なものは持ち続けている。というよりも、第四界の初めにおいては、まだそれとの接触が残っていると言った方がよい。この色彩界というのは、もっと適切な言葉で言えば、「形象(イメージ)の破壊」の世界と言うべきなのである。

意識のこのレベルに達すると、魂は形態(フオーム)の統御法を学び、それとともにあらゆる物的存在の虚構であることを無数の経験から学習するのである。

進歩の初期においては、彼はまだ物の影響を強く受けている。しかし徐々に重たい形象が壊され、自我がゆっくりと高次の魂ないし霊から力を引き出すことを学ぶことにより、自らの意志で自己の形態を壊し、また自分の周囲のあらゆる形態や外観的なものから離脱することが可能になる。

 むろん個々の魂たちの経験には大きな差異がある。私はここでは、上方へとまっしぐらに進んでいく「魂的な人」の俊敏な例を挙げているのである。多くの魂たちはそれと異なり、海の波の上下運動にもてあそばれるように、浮きつ沈みつ沈みつ浮きつ、それでも以前よりは少しは前進している、というような進み方をする。

 今やこの俊英なる魂は限りない色彩と音の世界に入ったことを知る。そして自分が人間のそれとは全く異なった身体を持っていることに気づく。外観に関していえば、それはただ光と色の想像を超えた複合といえるのみである。この身体の形態は、彼の意識の深部に刻印された全自我の過去の行為によって影響される。

それゆえ、この色彩の混合物は、その形態においては実は奇妙珍妙であったり、言語に絶して愛らしかったりする。また、妙ちきりんな輪郭を所有しているかとおもえば、それこそ地上の美の高雅絶上の夢を超えていることもある。

 この多くの色彩の入り乱れる領域では、精神が直接に形態の中に自己表現しようとするので、形態が猛烈に振動している。そうした振動によって他の魂の想念を聴き取るのである。最初は一時に一つだけを聴き取りうるだけだが、暫くするうちに数個の魂の想念をそれぞれ分明に聴き分けることができるようになる。

そこはいくつかの点において地上と似たようなところのある世界である。ただこの広大な世界の外観は途方もなく巨大で、魂的な人の受け取り方次第で恐ろしくもなれば優美にもなるところが違っている。それは地上の環境に比べて遥かに流動的で、明らかに固体性が少ない。

 この色彩多様の世界は、純粋なる光と生命に養われて想像を超えた速さで振動している。色彩の最下層に住む魂たちは、意識の高まりとともにこれまでよりも遥かに高い感受性を獲得する。

そのため、悪意のある魂的な人の心の状態は、想念力の強力な放射で、相手の光と色でできた身体を吹き荒らし衰弱させる。そこで防御光線を放射する術を学ぶ必要があるのである。

 ある人々が地上生活で仇同士であり、互いに憎み合っていたとすると、それらの人々はこの世界で再び巡り合うこととなるであろう。古い感情的記憶がここで蘇る。

永遠の布地の中に絶えず形を変えて織り込まれているその人独特の意匠というものがあり、あなた方はその同じ模様の中にいる魂たちと、愛憎の念によって避け難く結びつけられているのである。

 それ故、かつて味わった苦痛と快楽、歓喜と絶望を再び経験することになるのである。再びとはいっても、それらは地上における時のものとはすっかり違ったものとなっている。つまり遥かに上質で知的なものである。霊的感受力が強ければ強いほど思い出が呼び覚ます絶望も深く、また逆に、あなた方の存在の深所に掻き立てられる至福の感情も無上のものがある。

 この光に満ちた世界における闘争は激しさも更であり、そこで費やされる努力も地上の計量を超えている。つづめて言えば、全ての経験は洗練され、高められ、強められ、生存への生々しい熱情が限りもなく増大しているのである。

 
       第四界における感知力の増大

 これまで述べてきたことはこの超地上的世界の極めて精妙な生活をざっと描写したもので、実際には様々に変化した状態があると考えてもらいたい。例えば霊化した状態といっても、その表現には多くの形式がある。進歩するにつれて魂は幾つもの身体を身につけてはそれを脱ぎ捨てていく。

これらの体は次第に精妙なものとなるので、その材質の希薄さは卓越した科学者によっても想像することが難しいであろう。

 しかしながら一つの法則がゆき渡っている。それは魂は自分と同じ強度で振動しているものの存在にしか気付かないということである。但し、催眠として知られる奇妙な睡眠のうちにある時は別で、この状態にある時は魂は後へ引き返して、一時的に意識の階段を下り、物質性の濃い世界にいる魂と精神的な接触をする。

また冥府にさえ降りていってその霧の中に入り、人間たちと接触もする。そこでしばしば地上の人の夢に捕えられるが、そんな時はあたかも、高次の世界における生活の記憶が一時的に消えてしまったようになる。そのため彼は、ごく稀にしか、有益で興味ある情報を地上に伝えることができないのである。

地上の、しかもしばしば自分のでもない記憶の繭に包み込まれて、とるに足らないことしか報告できない。それはまるで、蜜蜂が、巣の中の蜜に堪能して、酩酊してしまったのと似ている。

 この光に満ちた世界において、魂の感知力は甚だしく増大するが、通常、愛する人を求めて地獄へ降りていったオルフェウスのように、求める相手に意味のあることを伝えられないのである。帰幽者からの自発的通信が少ないのもこうしたわけなのである。

実際、われわれからみると、人間たちは幽霊のような影の薄い存在であるから、彼らがよほどの信念と愛情をもってわれわれを求めてくれなければ、現在や地上時代のわれわれの性格についてはっきりとしたことを伝えることは難しい。しかしこうした調査ならば合法的であって、そのために招霊された人を傷つけたり悩ませたりする恐れはない。
 
 さて、およそ人間には未知の音や、感情といったものを想像してみることができない。それゆえわれわれが形象の破壊期と呼ぶ第四界で経験する新たな音響、色彩、感情の無限の組み合わせといったものを想い描いてみることは不可能である。

 地上生活のおよそ半分は睡眠、つまり無意識状態で過ごすのである。正常で健康的な自我としての意識には、目覚めている時でも、一秒間に四十回から五十回の無意識の間隙(かんげき)がある。この点では人は暗夜の岸辺に立つ灯台にも似ている。

咫尺(しせき)を分かたぬ真の闇が海を覆い、時折一条の光が横切って海面を照らしだすが、その光は弱く瞬間的である。人間の意識はそれと変わらないように私には思える。階段を上へ登るに従って光は輝きと持続性を増すので、次第に人影が浮き出てくる。

第四界に到達した人の感知力は、通常人のそれと比べてよほど明るさを増している。身体の希薄化と精妙化が進み、かつ知的活動が盛んになったお蔭で霊と魂の接触が確度と持続性を加えたために、無意識の感覚が以前と比べて遥かに少なくなっているのである。盲目だった子犬の目がついに開き始めたのだ。

 夜の海の光景をもう一度心に描いてみていただきたい。今やそれは灯台の光に間断なく照らし出されている。かなりの間をおいて闇が訪れる。ことばという原始的かつ粗雑な音波を用いて、この偉大な感知力の増大から生ずる様々な意味を人々に伝えることは誠に困難である。

たとえばここでの感情生活における思考過程の激しさは、人間の頭脳の怠惰な動きや地上生活に掻き立てられる情熱に比べると桁違いにみえる。あなた方人間の知的活動をナメクジやカタツムリのそれと比較してみると第四界における魂の精神活動と人間のそれとの差異が分かるであろう。

 われわれの持つ空間概念はあなた方のそれとは全く異なる。しかし無線による情報伝達を例とすれば、おぼろげながらその概念を伝えることができよう。

たとえば私はほんの一瞬思念を凝らすことによって、自分の似姿を造りあげ、広大な空間を迅速に横切ってそれを私に思念を合わせている友人のもとへ送ることができる。たちまちにして私の姿は友人のもとに現われ、彼と会話を交わす───ことばによってではなく、想念によってである───のである。

話の間、私は遥か遠距離からその似姿を操作する。そして会見が終わるやいなや、私がその像から想念の持つ生命を引き抜くと、その似姿は消える。むろん私はこうした接触を、私と同じ界に住む私と波長の合う親しい人との間でしかできないのである。  

 私が念力に現実性を付与するための細かな説明を試みたのは、われわれが創造原理にどの位近づいているかをあなた方に示したいためであった。われわれはこの界で形態の内と外に住む術を習い、最も希薄な実体の玄妙さを学びとる。

そのことによってわれわれは、精神というものの流動的な性質に気づき、そしてそれがわれわれの現われや外観の世界を構成する要素としてのエネルギーや生命力を如何に支配するかを理解するのである。



  第六章   類魂      
     心霊意識の集団

 類魂は一にして多である。一つに霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。前にも述べたと思うが、脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。

 地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。霊的進化というものが分かるようになると、類魂についても学ぶ必要がでてくる。たとえば類魂の説が分かると、多くの難問が再生の原理によって解決する。

馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。前生は自分の一生であってまた自分の一生ではない。

いいかえれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。

 この不可視の世界には無限に多様な生活状態がある。私が絶対に誤謬を犯さないというつもりはないが、以下に述べることは一つの公理であると考えていただきたい。
 
 魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現わす。本霊は、霊的進化の途上にあって互いに作用しあう類魂を束ねているのである。私が霊的先祖というときは、たんなる肉体上の先祖のことをいうのではなく、一つの霊に束ねられている多くの魂の先祖のことをいっているのである。その本霊の中には二十とか百とか、千とかの魂が含まれている。

その数はいろいろであり、また人それぞれによって違いがある。しかし、仏教徒のいう前生からのカルマというのは、実は私のものではなく、私の遥か以前に地上に出て私の人生の型をつくって残したある魂のものである。

私もまたその生涯を通して同じ類魂の他の魂のためにある型の模様を織りなすのである。われわれは種々異なる界にいる仲間の魂たちの影響を受けはするが、しかし互いに独立した存在なのである。

 仏教徒が輪廻転生について語るとき、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしばしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中に暫しの間入り込む。私はここで「カルマ」という語を甚だ漠然と用いている。

というのも新しい魂が受け継ぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、更に言えば王国の一構成員のようなものなのである.

 魂的次元の人にとってはただ一回の地上生活では不足だという人がいるかもしれない。しかし魂がこちらで進歩すると、自分に先立つ類魂の魂が地上で過ごした生活の記憶や経験の中に入っていくのである。

 私はここで述べた理論が普遍法則として通用するものかどうかを確言することはしない。しかし疑いもなく、これは私の学び経験しえた範囲内での真実である。

 こうした思弁───とあなた方は言うであろう───を天才の問題にあてはめてみると興味深い。地上でわれわれに先立つ一生を過ごした魂は当然のことながら精神的、道徳的影響をわれわれに刻印する。

今ここに或る霊魂の特性が一つの類魂団の中で開発され続けているとして、その特性が仮に音楽であるとすると、あなた方は地上におけるその類魂の代表者として音楽の天才を見出すことになるのである。

その魂は過去の類魂のあらゆる生涯の傾向をみごとに収穫し、天才の特質たる驚嘆すべき無意識的知識を所有することになるであろう。

 死後のこちらの世界で、われわれは進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間たちの経験を自分のものとする。それ故魂としてのわれわれの生活は───自分の個人的自我は別として───二重世活なのだということを理解する必要がある。

私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体の意識のなかでの心的な生活である。

 地上の人々は、ここに私の述べたことを理解しようとしないかもしれない。彼らは死後の世界における不壊(ふえ)の固体性とか、神の生命の中への霊的融合とかに憧れを持っているのである。あなた方は私の類魂分析によって、われわれは個人であるとともに全体の一員であることを理解されたであろう。

そして第四界から特に第五界まで上ると、仲間たちが一つのものの中で結ばれていることの素晴らしさを知り、それが如何に全体の生活を深め、高め、かつ地上にあっては不可避のものたる冷淡な利己心を破壊していくかということに気がつくことであろう。地上においては御承知のように、一つの生物はその物質的生命の維持のために他の生命を絶えず破壊し続けなければならないのである。

 第四界においては、魂は類魂の生活に気づくようになり、それによって偉大な進歩を遂げる。彼は経験というものの性格、つまり心の可能性を一気に知るようになるのだが、第四界においては魂的次元の人であれば、未だまだ過ちに陥りやすい。

というのも、類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捉えられてしまうと、その魂は永くその鋳型から脱け出られなくなるからである。

 そうした例としてある特殊な世界にはまり込む場合をあげたい。例えば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。

それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。

タコとは即ち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。

 こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的なさなぎの中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕らわれたり閉じ込められたりしないことが大切である。
   

         霊的な人

 霊的な人はこうした幻とか亡霊とか地上的信念の遺物のごときものに捕われることはない。したがって、偉大な人類の師たちがこのようなワナにかかってしまうことはないのである。神の子たるイエスは一旦冥府に入りはしたが、その後いかなる階層にも留まらなかった。

キリストは直接神によって命を吹き込まれていたので、類魂とは関わりを持たなかった。彼は冥府から一直線に彼岸へと向かった。というのも、地上にいた間の彼の物質的身体は、神の想像力である本質が物質の中へ直接に具現したものであったからである。

まことにキリストこそは全体者の一部がそのまま姿を現わしたものであり、彼はこの世にあるときも絶えず全体者と結びついていたのである。しかるに、地上にキリスト教徒として生まれる人々は昔、ある個別的霊から生命を与えられている。個別的というのは、神の一思想のことである。それ故それは全体者そのものではなく、また全生命の源泉でもない。

 こうしたわけで、多くのキリスト教徒たちは、地上において正直な生活を送りはするけれども、ある種の知的罪障を犯していることになる。これを一言でいえば「硬直した思想」であり、「幻想によって限界づけられた世界」である。

つまり偏狭な観念に耽っているということである。第四界の生活では、更に進歩しようとするなら、こうした観念の檻の中から抜け出すすべを学ばなくてはいけない。

これらのことは仏教、マホメット教その他様々な宗教の狂信的な信奉者にもいえることである。近代社会においては科学的な諸観念もこのうちに入るのである。何故なら、科学は次第に人類における多数者の宗教となり、特殊な世界観となる傾向がみられるからである。

 さて魂がいよいよ第四界から第五界へと進んでいくためには、あらゆるドグマを投げ捨て、その心の状態を形づくり限定する地上的世界観を振り捨てる必要がある。何故ならその描く世界が偏狭なために、その魂の持つ意識に現実性がともなわぬためである。


 

第七章   火焔界(第五界)

       
第五界への誕生

 第四界へ進む魂が死の準備をする時がくる。この死は地上の人の死とは似ていない。進化のこの時点まできた魂は、形態、外観、幽姿、念体、などを完全に支配できるようになっている。この死は彼と形態なしの存在を隔てる最後の帳(とばり)にあたる。彼はもう一つの階段を上る前に自己を解放し自由にしなければならないが、それは「形象の破壊」と呼ばれる過程を経てのみ達成されるのである。

もはや外観や形態は必要ではなくなり、色彩や感情も不確かなものとなり、生活の条件ではなくなる。

 再び彼は無意識の中に入っていく。そして第五界に生まれたときは形象の世界にいたときの属性を投げ捨てている。というのも、それまでの彼の魂は一部光体ともいうべき形を持っていたのであるが、今やそれもいらなくなったというわけである。

 各界の中間には、明白な忘却、あらゆる活動の停止、完全なる静寂の時間がある。古代から冥府と呼ばれているのがそれである。ここで魂はしばしば安らうようである。しかしやがて、魂の旅人はゆっくりと目を覚ます。すると眼前にかすかに光を放つ久遠の海があり、そこに彼のこれまでのすべての界での経験が映し出されているのを見る。

彼のこれまでの閲歴を物語るあらゆる過去の映像がそこに展開していくのである。彼はそれを自己の統一原理たる本霊の光の下で学習する。そうすることによって彼の本性次第で、様々の知的感情的欲求が目を覚ましてくる。ここで彼は前に進むか後に戻るかを決めなければならないことを悟る。

実際のところは本霊がその選択を促すのである。そのことは過去の生活の経験が十分なものであったかどうかによって決めなければならないのである。彼は全く自由意志によってそれを決めるのだが、しかし彼にとって最も必要なことを選択せざるを得ないようになっている。

 幻想の国を終えたところでは、動物的な人は物質生活へ戻ることを自ら選択した。色彩界を終えたところでまだ魂的次元にいる人は、この界の第一の段階まで下りていってやり直すことになる。この界の最後の段階が形態の神聖化といわれる段階なのである。

 しかしながらこれまでの生涯を振り返ってみて満足するものであれば第五界へと進むことを決心する。するとこれまでの静寂は打ち破られ、霊的嵐が舞い起こる。

その中で彼は決然として色彩界でのエーテル的生活への未練を捨て去る。そのとき自分の一部分を捨てるのだが、それを永遠に失うというわけではなく、第六界でのより充実した全体生活の中でそれを取り戻すことになるのである。
  

       第五界の象徴

「生命の書」の各章を何らかのシンボルで表す必要があるとすると、「火焔」ということばが第五界を表すのには適当である。何故なら、魂はここでは感情的に結ばれた全体となっており、孤立せず、グループの中の他の魂を実感できる存在となっているからである。

自己は自己であり続けながら、同時に他者の全てでもある。もはや人間的な意味では形態の中に住むことはないが、なお漠然と輪郭と表現されるものの中にはいるのである。

彼の仲間たちの過去の感情、情熱、知的表現形式などがこの感情的思考の輪郭をつくりあげているのであるが、この輪郭こそこの巨大な力ある存在を燃え立たせ、突き動かしている火なのである。

 第五界にいる間の経験は多様であり、増殖されていくので、ある意味では外観上の統一性が失われるようにみえる。彼は、実際火焔が燃えるような一生を送る。それは厳しい修練の時であるが、また知的な感情がすこぶる増大する時でもある。

大いなる制限と限りない自由、そしてまた果てしない地平がちらりと見える時でもある。「観想への没入、夢見ることの苦悩」という表現はまさに彼の思考の明晰さが休止してしまい、仲間の魂たちの激しく情熱的な活動が全て彼の存在のうちで燃えているこの時の状態を表現したものである。

こうして彼は絶え間なく大統括霊の中に融合していくのである。

 このうえなく激しい感情、歓喜、陶酔、悲哀、絶望などが彼に栄養を与え、彼の生命を養う。そうした間もある点では、彼は仲間から離れて独りでおり、感情の渦巻く嵐の中に巻き込まれてはいない。

嵐を感じてはいるのだがその遥か上方に浮かんでいるという感じである。とはいっても、彼の態度は、地中海諸国に壮大な古代絵巻が繰り広げられるのを柱の上から超然として眺めていたという聖シメオン・スタイライティーズ*のそれとは違っている。
 
*シメオン・スタイライティーズ 390?ー459 シリアの行者。柱行派の祖。30年間柱の上に住み、禁欲的生活を送りつつ説教したといわれる。

 意識の第五界にいる魂は切れ目なく意識を働かせている。そこには、意識の間隙とか空白の時とかいうものはない。彼は一つの本霊の光に浴しながら、そこにたどりつくまでの様々な段階にいる仲間の魂たちの知的、情的生活を楽しんでいるのである。

 火焔界の生活の絶頂にいるこの魂は、あたかも自己の傑作のうちに住む芸術家のようである。その作品のあらゆる特徴や、展開し変化する創造の新鮮さのうちに、天才芸術家でさえ地上にある時は極く稀にまたかすかにしか味わえなかったような無上の歓喜を見出しているのである。

 この第五界の状態たるや人間の心では想像はできても完全に理解できるものではない。この界を旅する魂にはようやく生存の目的が明らかになってくるように思える。彼は天国を実感しつつあるが、最後の謎はまだ解き明かされず彼自身一役を担っている宇宙計画の完成を待ち続けている状態なのである。

 それはまだある種の難点を持つとはいえ、素晴らしい世界である。魂的な人は、類魂が完成し、永遠の織物に織り込まれる模様に必要な他の魂たちがこの同じ意識のレヴェルまで到達するまでには、第六界に向けて出発しないでいる。

ある者はまだ遥か後ろにいる。この状態で魂的な人は、濃密な物質世界にいる彼の仲間の幼稚な感情生活に気づくのである。つまり、彼の本霊である統一原理が光を照射している類魂団のあらゆる部分に通暁する。彼は彼の本霊──彼の支配者であり天上からの光である──に繋がる花や昆虫や鳥や動物たち、その他あらゆる形態のものたちの無意識の生活を悉く知るのである。
 
 
       類魂の構造   

 ここで、類魂の構造をはっきりと心に描いておいてもらいたい。類魂の本霊は、生命と心の光によってそれの所属する植物、樹木、花、昆虫、魚、獣、人間など、進化の様々な状態にある生物を養っている。そしてまた死後の世界の様々な意識の段階にある魂にも命を注ぎ込んでいる。同時に又、他の天体の生物さえ養っているのである。

というのも本霊はあらゆる形態における経験を収穫物として集める必要があるからである。個々の魂の知性は徐々に発達し混じり合う。本霊にとっての経験は、類魂独自の模様の完成に必要な魂がすべてこの五界に辿りついた時に完全なものとなる。

彼らがいよいよその一者と個の関係に気づいたとき、初めて第六界へと進むことができるのである。その時にあたって、括(くく)った紐が切り離され、情的経験の不要なカスは捨てられ、所属の類魂内での役割の移動と交換が行われる。彼らは再び冥府入りして、これまでのすべての総点検を行うのである。


 
   第八章   白光の世界(第六界)
 
         純粋理性 

 光は多くの色から成るが無色である。本霊は多くの魂から成っているが苦楽を越えた存在である。それ故、白光に象徴されるところの第六界に属する。

 意識のレヴェルにおいては純粋理性が君臨している。御存じの感情とか情熱とかはここにはない。白光は純粋理性の完全な静けさを表している。経験の最後の王国に入った魂はこうした静けさを自分のものとする。彼らは形態の持つ叡智、計り知れない秘密の叡智を身につけている。

それらは無際限の年月にわたる不自由な生活を通して集められ、獲得したもので、無数の形態のもとに過ごしたこれまでの人生の総決算である。

善悪の知識と同時に善悪を越えて存在する知識も今や彼らのものとなった。それらを征服した今、彼らは人生の王者である。彼らはもはや形態なしで生き、白光として存在し、創造者の純粋思想として生きることができる。彼らは不滅の中に参入したのである。

 第六界の存在目的は「多者が一者に同化すること」と言い表しうるかもしれない。すなわち、私が魂と呼んでいる精神の単位全体が本霊の下に統一されることである。

この目的が完遂されると本霊は個的な生命をその中に抱え込んで彼岸に渡り、宇宙神秘の中に融けこむ。そしてそこで最後の目的たる至高精神としての進化を成し遂げる。
 


 
    第九章  彼岸ないし無窮(第七界)

                神性原理との一体化

 再び選択がなされなければならない。魂は有限の時間から無限の時間へ、形態を持った存在から形態を持たない存在へと大飛躍をする準備が整ったであろうか。これは答えることが至難な問題である。初めてこの問に直面した時、確信をもって答えられる魂は甚だ少ない。

 第七界の状態は「有形から無形への移行」であると表現できるかもしれない。しかしどうか無形という言葉を誤解しないでもらいたい。それによって私は単に、いかに希薄精妙にであろうと、形態をもって自己を表現する必要のない存在を指したつもりである。

第七界に踏み入った魂は彼岸に渡り神と一体になる。神的観念、すなわち霊なるものの大源泉に融合することは消滅を意味しない。あなた方は依然魂として生き続ける。

あなた方は大海の一波として存在するのである。つまり最後に真の実在の中に踏み入ってすべての幻想と外貌を捨てるのである。しかし永らく物質と慣れ親しんだことによってあなた方に何らかの触知できるものが加わっていることは間違いない。それは物質の先祖としてのエーテルや科学者が真空と呼んでいるものを含んでいるのだが、この真空とは実は限りなく精妙多様な形態的存在で詰まっているのである。

 実際のところ、第六界から第七界への移行は物質宇宙ないしその一部分たる空間領域からの脱却を意味する。この最後の界においてはあなた方は時間のみならず空間的宇宙の外に住まうようになるのである。しかしある意味では依然として宇宙の中にいるともいえる。

全体の一部となったあなた方は───「全体」ということで私は神を指しているつもりだ───太陽にも似た存在である。あなた方の霊は物質宇宙から離れてはいるが、その光は広く行き渡り、永遠のしじまを支配している。宇宙の一部であってしかもそこから離れていること、これがおそらく最後の仕事であり、あらゆる努力の終着点である。

 ごく手短に、私は永遠の相の下にある実在の姿を紹介し、「無時間」の神秘をあなた方に垣間見せようとした。あなた方が彼岸に渡り住み、神性原理とその本質において一致し、その部分になるとき、神の想像力のいかなるものかを充分に理解する。

そうすることによってあなた方は時の刻みの一瞬一瞬を知り、かつ地球の歴史の起源から終末に至る全史を知る。同様にあらゆる天体の歴史をも知るのだ。創造されたものはすべて想像の中にある故に、あなた方は今や獲得した不滅の力によってそれを知り、かつ保持するのである。

あたかも大地が種子、生命、過去、未来、その他現在あるすべてのもの、また未来永劫にわたりあるであろうすべてを宿しているように。

 かの霊的な人、神の一人子が『多くの者が呼び出されるが、選ばれる者は少ない』と言ったとき、それは偉大な真理を表現したのである。地球生命のあるあいだに、彼岸に渡れる人はほんの一握りの人達である。幾らかの魂は第六界までは辿り着くがそこに留まり続ける。

稀には崇高な目的でそこから物質世界まで下りていくこともある。だがなんといっても、無時のなかに大飛躍を試みるほどには未だ力がなく、完全でもない。  



 
   第十章   宇宙

 仏教徒は宇宙は現実のものではないと主張している。がしかし、宇宙はあなた方がその網目の中に捕えられ、法則の支配を受け、物質の放射する「気」とも言うべき不可視のものにコントロールされているという限りにおいて、非現実であるというにすぎない。

「非現実」ということばは虚偽、いつわり、ごまかし等を意味する。魂は形態として自己を現わす間は形態に左右される。形態に閉じ込められているために真実を知りえない。

つまり、最初の五段階の世界に生きる間は狭い世界観しか持ちえないのである。目隠し皮を付けられた馬のように、自己の周囲についての哀れな展望を持っているだけである。宇宙の根本を非現実であるとする考え方は、彼の前方にある魂の道筋が一部だけしか見えていない時に浮かぶ考えである。

更に言えば、形態とはこの道中にあって、魂に道路絵図を示すものである。それ故、宇宙が非現実的なものだとする仏教徒の説はある意味では正しいのである。

 仏陀がわれわれの最終目標は涅槃の中での寂滅であるというとき、───寂滅は消滅とは違うが───危ういことば使いをしているといえる。彼は寂滅の後に至楽の状態、つまりは絶対の世界があるといっているのである。

そのことで彼はわれわれが、物質宇宙から完全に離脱し根源的な非現実から解放されて、無条件世界に生き続けるのだと言いたかったのである。実際のところ、われわれは第七界において、最高観念と一体化するときにのみ宇宙の真の現実を知るのである。

宇宙が魂と霊を閉じ込めている限り、それは非現実である。魂と霊とが宇宙と融合し、解き放たれ、純粋理性の無限の自由の中に住むようになれば、その時宇宙は現実のものとなる。

 こうした状態が達せられると、われわれはこの古き傑作たる宇宙を一つの全体として見るようになる。極微の細かさにおいて知り、極大の大いさにおいて知る。われわれは宇宙を至高の概念のうちにある一個の知的概念として把握し、またそれを演じられつつある劇の一部として観るのである。

かくしてわれわれは、あたかも預言者の如く、また恋する人の如く、全生命を一瞬のうちに洞察してしまう。こうして経験というものの頂点に到達するのだ。

 われわれは二つの現実態、すなわち、物質的宇宙のそれと、観念的宇宙のそれ、───宇宙の全歴史の写しをその中に一つの想念として内蔵している───とを知る。そうなったからと言ってわれわれが消滅してしまったというわけではない。われわれは、大精神の偉大なる調和の下では一つとなっており、また創造者の創造物への恵みの下では個人として存在する。創造物は創造者の中にあり、かつ創造者の部分的現われなのである。

 第七界に入ったわれわれは、物質宇宙の各部分を統御する何百万という数の本霊から、細大漏らさぬ完全な印象を受け取る。それゆえわれわれは、これまでとは違った生き方で生き続けるのだが、かといって涅槃の中に自己意識を忘失してしまうのではない。
 
現宇宙の終わりを含め、他宇宙の創造と生成と終息、そしてそれらの無限に続く連鎖を静かに観想する。われわれはそれらすべての知的脈絡を理解し、永遠の舞台の上で演じられるドラマの一幕を見物するのである。

 あなた方が「宇宙」という言葉で意味している存在の二重の意味に気が付けば生命の本質を理解することが容易になろう。

 物的原子があるように心霊単子というものが存在する。心霊単子は、様々な界にあって、物的原子の内と外に存在しつつ成長している。この心霊単子はいかなる極微な実体のうちにも存在し絶えず物質原子を支配している。心霊単子はいつか物的存在から逃れ出てその母体たる神の観念のもとへと帰還する。しかしそれは消滅を意味しない。それは一にして多である。丁度人間の身体を構成する細胞群が一にして多であるように。

 それ故、宇宙はあなた方がその限定的な時空の織物、すなわち形態の中に住んでいる間は非現実的なものなのである。そこから離脱し、彼岸からそれを一個の全体として眺め、かつそれを純粋想念の一作用として知るに至る時、宇宙は初めて現実のものとなる。
    


  
  第十一章    色彩界から
 
 この通信の送り手である私は、今世紀の初頭に帰幽して以来、地上との接触を保ち続けてきた。一歩一歩科学の発達のあとを辿り、今次大戦とそれに引き続く経済戦をも見守ってきたのである。

私は、今もなお肉体を持ち続ける友人たちの内在意識を通して、人類の霊的世界に変化が生じ、霊的世界に確信を持ちたいという要求が切になってきたことを感じた。ひとは死んでもそれで地上との接触を失ってしまうわけではないのである。彼はこの哀れなる地上生活を後にして幻想界と呼ばれる歓喜の世界に上っていき、そこから更に、形相──つまり純粋なる形態──の世界へと向かうのである。

そここそ人間の魂にとっては究極の目的地である天国といってもよい所である。というのも、地上にあるあいだの魂がこの世について知ることは極めて稀であり、最も高級な神秘的忘我の状態においてさえもそこを越えることはなかったからである。

 そこで形相の世界まで旅した霊は、自ら望むときは、惨めな地上まで舞い戻り、彼を愛する人や、精神的に近しい人と霊的交流を果たす。

 われわれ形相の世界からみると、人間世界は何とも言いようのない無秩序に支配されている。しかしまたその無秩序の原因や目的も分かる。この無秩序にも相応の理由があることを知って、偉大な真理の一端を知らせてやりたいと思うのである。

 この理由をもって、私、フレデリック・マイヤーズは、死後の不滅を求めんとする人の辿るべき道の概略を説き明かさんと試みたのである。
 


 
       第十二章   死とは何か

 われわれのようにこの不可視の境涯に辿り着いた者にとって、死はある懐かしさをもって苦痛もなく思い出せる一つの事件とも挿話ともみなされる。この世界からも姿を変えた旅人がしばしば地上に戻って行く。しかしあなた方はひとまず死を故郷へ帰る道中の一夜の宿りと思うがよい。

 それは熱に浮かされた不眠の一夜であり、あるいは恐怖に満ちた重苦しい一夜であるかもしれない。もしくはまた、奇妙な夢の打ち続く時、はたまた妨げるもののない平安の時であろうか。いずれにしても静寂の時、えも言われぬ休息に沈潜しうる時がやってくる。

しかしながら魂は遂に新しい朝に目覚めなければならない。夜明けかそれとも未だ明けぬほの暗さの中で、彼は既に亡くなってしまった筈の身内の者、つまりは彼の在りし日の運命の糸に同じく織り込まれていた人々に囲まれていることに気が付くのである。

 死について詳しく論ずる前に、混乱の生ずる原因となる言葉を正しておかなくてはならない。「肉体を脱ぎ捨てた者」というのは、いかなる身体も持たなくなったという意味ではなく、単に物質的身体を持たなくなった者の謂(いい)である。

というのは、第六界に入るまでは通常の形態、ある表現媒体、つまりは彼の外的象徴となるものを用いるからである。

 これらの形態には幾つかの種類がある。が、当面の必要としては次の四種類をあげれば足りるであろう。
 
 ㈠複体、ないし統一体 (The double or unifying body) ──アストラル体と名づけられるのは誤りであると思う。

 ㈡エーテル体 (The etheric body)
 ㈢霊妙体 (The subtle body)
 ㈣神体、ないし光明体 (The celestial body or shape of light)

 最後の二者は上層界の魂に用いられるもので、その外観は心と意志の働かせ方で変えられる。

 他界の霊の教えるところでは、死の秘密は、魂の外殻にあたる部分の振動率が変わることにあるというのはあなた方も聞き及んでいよう。例えば人間がその周囲の可視世界を感知するのはその身体がある特殊な速度で振動するためである。

あなた方の肉体の振動数を変えれば地球も、人も、物体も皆、あなたの眼前から消えてしまうのである。と同時に、あなた方自身もまたそれらのものから見れば消えてなくなることになる。

それゆえ、死には単なる振動の変化である。この変化のためには、一時的な混乱が不可避である。というのも魂は、ある振動で進行する身体から、別の振動で動く身体に移らなければならないからである。

 新生活への移行は、急激に、いわば新境地への飛躍といった具合に一気に行われるようなことはない。当然のことながら中間状態というものがある。前にも述べたが、かのキリストでさえも冥府で一時を過ごしたのである。

 かくしてわれわれは最初の疑問に出会う。医師が「御臨終です」と告げた直後においては、人はいったいいかなる形態をとるのであろうか、と。この時われわれは死者の遺体の側にたたずんで、ことばにもならぬ悲哀に胸を詰まらせ、我が愛する人はどこに行ったのかと問う。

その遺体は数分前まで輝かしい生きた人格を包んでいたのだ。あんなにまで光に満ち、愛おしく、知覚も敏感で、知識欲も旺盛であったのに!あれ程までに親しくしていた一個の魂があの世へ去ってしまったと言われても、その消滅を信じることはとてもできない。

そこでわれわれは、すべてが終わってしまって、魂は終焉の時を迎えた等と考えることを拒否するものだが、こうしたわれわれの直観は正しいものなのである。

 地上生活を営む全期間中、人は誰でももう一つの身体としての複体を(ないし統一体)を従えている。それは深層意識と頭脳を結びつけるなどの多くの重要な働きをしている。あなた方が眠りに陥る時、意識はもはや身体を支配してはいない。

これは意識が一時的に身体を離れるとともに、忘却状態に陥っているのである。脈絡のない夢がしばしば訪れはするが、それは日常の活動によって掻き立られた神経の戯れである。実際には睡眠中の魂は複体の中に入っており、その間に身体は神経エネルギーや生命原子などの補給を受けるのである。

それ故、睡眠が食物や飲料よりも大事なものとみなされてきたのは当然のことである。

 人間の生命のこうした側面についてこれ以上説明している余裕はない。あなた方は、複体が、もしそれを見ることができるなら外観上正確に肉体と対応する形をしていることを知ってもらいたい。

二者は多くの細い糸と、二本の太い魂の緒で結ばれている。後者のうちの一本は太陽神経叢と結ばれ、他の一本は脳と結ばれている。これらはかなり伸縮性に富んでおり、睡眠中や半睡状態では長く延びることができる。人がゆっくりと死んでいく時はこれらの糸と紐は徐々に切れていく。

脳と太陽神経叢をつなぐ二つの主要な連絡線が切断される時、死が訪れる。

 魂が肉体から抜け出た後も暫く身体の細胞のある部分が生き続けていることのあるのはよく知られた事実である。この現象はいつも医者を困らせるのだが、その説明は簡単である。複体に未だ糸の切れない部分があって、それが遺体に付着しているためである。

こうした遅滞の生じているあいだ魂に肉体的意味での苦痛はない。魂はむしろ肉体の周囲をはっきりと知覚する力を与えられたために苦悩することがある。

その力のお蔭で彼は自分の使用済の遺体の側に友人や親戚の者たちが来ているのを見ることができる。しかしながら、原則としては、死後一時間───ないし数時間───すれば、彼は自分を地上に拘束している力から脱け出すことができるものである。

 あなた方が遺体の側にいて死せる友を見守る時、まさに肉体から魂が出ようとする際のことをいろいろと心配したりするな。何故かと言えば、魂はそんな時いつも半睡状態にあるからだ。

苦悩や、夢や、心を苦しめる情熱も、魂が複体に移る時にはなくなっている。死の瞬間は──それが急激なものでない限り安らかな気分が意識を覆っているものである。それはほんの暗い光のなかでの休息であり、そうしたなかで、時としては既にあの世に赴いた親しい友や身内の者たちの姿を見ることができるのである。

 しかし無論こうした際の情況にも様々ある。他人を心から愛したことも、世話したこともない男女は、死に際してこの土くれの肉体から出たあと孤独の境涯へと赴く。それは地上の夜とはまた別の一筋の光さえも射さない真の闇夜である。

 このように極端な境涯はほんの僅かな人間が味わうだけである。利己主義者や残酷者は責められるかもしれないが、こうした運命を辿るのはその人の利己心や残酷さが並はずれたものであった場合のことである。

 普通の人の場合、死に際しての苦しみはないものである。彼らの魂は既に肉体を離れているので、肉体は苦痛にあえいでいるように見えても、魂はまどろみつつ風に身を任せて飛ぶ鳥のように、彼方こなたへと揺らめく感覚を覚えるだけである。

 この感覚は死の原因となった病気の苦しみの後では、何ともいえぬ心休まる喜びなのである。それ故、あの断末魔の外見的な苦しみを気に掛ける必要はない。むしろ彼らは生の拷問から解放されているので生死のこの二つの経験の間には歓喜が満ち満ちて、言いようのない満足感が行き渡っているのである。この満足感は心とその気づきに訪れた静けさからくるものである。

 ゆっくりと魂は複体へ移行し、暫くのあいだ肉体の上に漂っている。いつの日かこれを写真に写すことができ、身体を脱け出たものが白い雲か煙のように乾板上に記録される時がくるであろう。

しかしいかに精巧な機械ができても人間の中心核たる魂が写せるのはせいぜいここまでである。しかし帰幽者は別で、エーテル体の知覚は遥かに微妙な物に波長を合わせられるので、彼らには魂の飛翔する様が見えるのである。通常死の床には身内の者や友人たちがエーテル界から出向いて来て見守っているものである。


 
     影の場所(冥府)    

 膨大な数にのぼる新たな死者たちが冥府でどのような状態を過ごすか述べるのは、たとえその極く一部に限るとしても難しい。そこで私は地上でまともな一生を送った平均的な人の場合をとり上げてみたい。この影の世界に滞留する期間はその人の性情によって様々である。

 血縁や霊縁の人々の幻を見てそれとの交歓を果たした後、魂はヴェールに包まれた半意識ともいうべき静けさの内に憩い、断片的に現われる過ぎこし生涯の出来事を眺め入る。

この思い出にはもはや恐怖の色合いも感情の染みこんだ跡もない。移り変わる光景を、ちょうどまどろんだ人が、夏の陽ざかりのキラキラ光る明るい景色に眺めるように見入るのである。そして上方から現われる本霊の光の助けを借りて、まるで第三者のように、そこに登場する人や自分について判定するのである。

「殻の中で」とか、「影絵芝居」ということばはこの期間のことをうまく言い表している。そこでの過ごし方は魂によって様々である。ある者はこの時期のことを殆ど覚えていない。またある者は超然として、心のどけき静けさに陶然とするあまり、快苦の感覚が鈍くなってしまっている。

がしかし、進歩は間断なくなされており、エーテル体は古い複体の殻の中から徐々に身を引き抜いて脱け出す。そして遂に最後の判定がなされるのである。魂は飛び立ち、古いマントを放りだすようにして殻を投げ捨てる。天上からさす本霊の光が全体の要約を説示すると、最後の決定をどうするかは魂の旅人たる本人の判断に任せられるのである。

 魂の旅人はこうしたいわば自分の外皮に当たる物を脱ぎ捨て、身体にまといつく使用済みのガラクタを投げ出すと幻想の国に入って行き、そこではっきりとした意識を取り戻す。ヴェールの中で面目一新した新しい複体が次の界での体となる。ただ外皮(遺像)のみが投げ捨てられたのである。

 自我をエーテル体に合わせて調整するための影絵芝居の経験は地上の時間にして三日か四日あれば充分であろう。しかしながらある種の異常な男女が永いこと冥府に留まって薄気味悪くさ迷い歩き、ちょうど物質界との境界近くに出没する妖怪変化の類と遭遇するというのも事実である。

こうした妖怪どもは人の心の奥にしまいおかれた悲しみや苦悩を掻き立てたり、またある人の理性の弱みにつけ込んで、生前から憑依し、人間の生得の権利を奪い取って狂気に陥らせようとする。

 しかしこのような妖怪どもは死後の世界では用なしである。というのも、現世からこちらへ来る旅人は薄明の冥府を通り過ぎる時は無感覚で夢見つつやってくるので、こうした変化(へんげ)の者たちに旅程を妨げられたり危害を加えられたりすることはないからである。

ただ僅かな例外だけが道に迷ったり恐怖と苦悩の世界を垣間見たりするのである。



      記憶と死後の自己認識

 生理学者は記憶を単に脳の一状態を示すものだという。確かに、今仮にこの微妙な機関を傷つけたとすると、心に空白が訪れ、自分に関することの全て、過去の経験の一切を忘れてしまうであろう。

 しかし実際には、過去を忘れるわけでも心の空白が訪れるわけでもない。脳機能のある部分が働かなくなる結果、可視世界に対しては記憶に依存した知的な表現ができなくなるだけのことである。しかし彼は依然として知的であり続け、肉体と関係のない記憶に対しては支配権を持っている。

何故かと言えば、複体(統一体)は肉体に相当するものであるから、脳が記憶すると同じように、その主人の魂の一生に起こった事柄と経験を記録するものである。

 複体は生れてから死ぬまで人とともにあり、魂に宿所と避難所を提供し、あなた方が身近にいつも見る肉体以上にまめまめしく魂に仕える従者であることを覚えておいてほしいものだ。

 人間的な見方からすれば、記憶は自分が自分であるという自己同一性の認識や、個性の感覚、それに魂とか意識とかいう言葉の示すところと切っても切れない関係にある。しかし、本人であるという感覚は死後においてもなくなることは無い。何故なら魂の基本的記憶は複体の中にあり、再三いうように、複体こそは死後における魂の住居であるから。

 複体が外殻を脱ぎ捨てると、その本質的部分であるエーテル体───それは地上生活中その人とともにあって働き続けていた───のみが幻想界に進み入って魂に仕え、記憶の同一性を保つことによって個性の維持に努めるのである。

 影絵芝居の演ぜられる間に、エーテル体は新しい力を蓄え、形を変え、魂との間を再調整する。最終段階では蝶がサナギの殻を破って出るときのような、素晴らしい生命の更新が行われる。そのとき殻の中にいた魂は生命に息づく新しい身体に移って新たな欲望に身を任せる。

 幻想界ではこの欲望が満たされることになる。

         

      死者の睡眠

 啓示的部分は別として、死後の世界に対するバイブルの教えはどのようなものであったであろうか。
それにはこう記されている。「私達のすべてが眠ってしまうのではなく、私達のすべては変えられるだろう」

 聖パウロのこのことばはわれわれがこれまで記してきた死後の世界についての記述と一致する。「私達のすべてが眠ってしまうのではない」ということばは、多くの者たちが、「最後のラッパ」の鳴り響くこの世の終わりの時まで眠り続けることを意味している。では死者たちが眠る場所というのはいったいどこなのか? いずこの楽園、いずこの世界に眠るというのか?

 鳥たちが空気中に住むように、魂は地球の周りのエーテル層に住まうのである。彼らは幻想の国の居住者である。この界では最終段階を除けば努力も闘争も殆どそこには見られず、したがって真の創造もないのである。しかし多くの人はこうした在り方を最も望ましいと思っている。

地球で求める天国とは、闘争と努力のない生活の謂(いい)である。そういう生活に満足してしまった人は、死後の幻想の国にそれを見つけ「最後のラッパが響く」時までそこをうろついているのだ。

であるから、聖パウロのこのことばは象徴的に読まれる必要がある。かつてはこのことばは特別の意味を持っていたのだが、今では忘れられているのである。こうした呼び出しがあるまで第三界に休んでいる人は「眠る人」と呼ばれるのもむべなるかな。

いったいこの「睡眠」とは意識的な闘争や努力がなされないという以外のどんな意味であり得ようか?

 幻想の国に住む人にとって、その生活が多くの点で現実のものであるということは、地上に住む政治家、医師、その他の勤め人や労働者の場合となんら異なるところはない。

しかし一つだけ重要な相違点がある。ここでの魂には闘争と努力の必要がないことだ。希望するだけで望みが達せられる。それ故、地上的意味では生きているとはいえないし、また第四界の形相の世界に生きるような輝きもない。つまりまさしくこの界の居住者たちは新約聖書で言うところの「眠る人」なのである。

 「私達のすべてが眠ってしまうのではなく、私達のすべては変えられるだろう」という原文の意味するところは死者のうちのある者は眠らないということである。言い換えれば、死んだ者のうちにも幻想の国や楽園にどっぷり漬かった放漫な生活を軽蔑する者は多いということである。

彼らは奮闘、努力、創造を望み、その結果再生するか、それとも賢明にも上方の形相世界に入ってその見事な世界でのより豊かな生活を見出そうとする。こうした至福の状態で魂の旅人は、外観的世界の最上最美なもの、つまり形態的な生命の勝利といった段階に至るのである。



    遺像または魂の殻

「遺像」とは旅人の古いマントのようなものかもしれない。それが捨てられると道端に残り、それを誰かが拾ってまた着る。幽霊は何年もの間、ある時期になると決まって古い屋敷の内などを歩き回ったり、あるいは何のわけも脈絡もなく突然現れたりするものだと言われている。

こうした休憩のない影法師に出会ったなら、あなた方は自分の胸にこう言い給え。「これはこれは古外套、骨董衣装のお出ましだ。おそらくは円頂党員の一味か騎士殿、マント頭巾の修道士か、清らかな尼さんのものか、はたまた近頃の殺人狂か、それとも殺されたご当人のものなのか、いずれにしても凶器こそは新しいが、付きまとう怨念憎悪は相も変わらずな御仁の脱け殻なのだろう」と。

 この消え失せずに繰り返される情熱こそが、束の間遺像を掻き立てるエネルギーを供給するのである。もしその遺像の背後に記憶連合とか、それを活気づける想念ないし観念のようなものがないなら遺像が同じ場所をうろつき回ることはないであろう。

あの世のどこかに急死した乱暴者と血腥い宗教的情熱に挺身した尼さんや修道士の類がいるのである。彼らはこの世の活動から身を引いてあの世に暫し休んでいるが、過去の運命の糸に引かれてほんの一瞬生前の一場面、殊に現世に別れを告げた時の光景に再会することになる。

彼らとしては今や悔恨、哀惜、その他の感情で胸一杯な想いをついそこに投げかけてしまう。しかし彼らの想念の単なる軽い余波が例の古外套を掻き立ててしまい、生前慣れ親しんだ屋敷内や土地の周りを仮装行列よろしく歩き回らせるのである。

しかし自我の本質部分は地上に戻ったり、古い役を演じたりすることはなく、かえって地上の舞台で自分が、霧のように朦朧として、摑み所もなく、空気中に消えて無くなったりするのを見て笑っている。

このように無意味に歩き回る幽霊などというものは、たまたま霊視の利く者がいて、まやかしの仮装行列を見ている時だけ視覚化される古い衣装に過ぎないのである。

 何にでも例外はあるものなので全ての幽霊現象を一つの説明で引っ括ってしまう訳にはいかないかもしれない。しかし通常の幽霊は過去の情熱的な記憶の糸に引かれて、一点に集められた想念エネルギーが、遺像を媒介として現世に現れ、それが持続することと解すべきである。   

 
      急死

  時として死者が自分の死んだことを知らないということがある。信じ難いと思われるかもしれないがごく稀にはあることである。

もしある人が物質への執着を強く持ち続けたまま死の門を通り抜けたとすると、亡くなった親族などの姿をちらりと見かけた後でもなお、自分は血肉を備えた生者であるとかたくなに思い続け、現世のことで想いを充たして、霧のかかった丘の上などをさ迷うのである。

死の彼方の暗闇の中を、あるいは帰るべき我家を訪ね、あるいは金銭か特別の財宝を探し歩きまわる。時としてそれらの宝物は彼の行く手におぼろげに姿を現し、ほんの一瞬まざまざと見え、そして消えてゆく。

雲が下りて来てすべては消え失せている。利己的な者たちは、こうして暫くは二つの世界の境界線上をうろうろしているが、やがて物質への執着心が弱まり消えてゆくに従って自由になるのである。

 このようにして冥府にとどまる人々が他にもいるが、一般には、それ相応の身から出た錆といってよい理由がある。例えば、軽率で動物じみた、時としては不道徳でもある生活を送っていた若者が急死を遂げたという場合などがそれである。

こうした連中は青春の真っ盛りに突然肉体から引き裂かれてしまう。彼らは暫くの間は地上生活と死後の生活の差異を理解できないのである。彼らはエーテル体が余りにも急激に肉体から切り離されたショックから立ち直るまでは一種の昏睡状態に陥っている。

 しかしながら大部分の男女は死後、冥府にはほんの暫く休息しただけで、渡り鳥のように通り過ぎてゆく。物故した友人や親族と会い、束の間、影絵芝居に我を忘れることもあるが、すぐに新たな生活の待ち受ける安楽の国へと解き放たれる。そこで以前の意匠が再び編まれるのだが、その世界での糸も模様も、また線も色あいも、前と全く変わらないのである。


     老衰による死
 
 すっかり年老いた人は死の直前になると記憶が薄れ、事実認識がはっきりせず、理解力も失われるのである。こうした悲しむべき肉体の崩壊は、これを見る人にしばしば死後の生活への信念を失わしめる結果になる。こんな状態では魂とは単なる頭脳の謂(いい)ではないかと思われるからである。

しかしこれは誤った結論である。活動する自我である魂は、脳とそれに応対するエーテル体を結ぶ紐がぼろぼろになったり切れたりしてしまうので、やむをえず幽体の方に引っ込んでしまっているのである。

物理的肉体の方の生活は第二の紐や二つの身体を結びつける他の幾つかの糸が未だつながっているので維持されてはいる。年老いて心身喪失したかに見える男女も実は決してそうではないのである。

彼らは単にあなた方の世界から離れた所に移り住んでいるというだけであるから、それを見てあなた方が憐れんだりすることはない。彼らの感知力は殆どエーテル体、すなわち新生活に用いられる身体の方に移ってしまっている、というに過ぎないのであるから。             


     類魂模様

 野心の彼方、人間のあらゆる型の利己心の彼方、闘争心や抑えがたい欲望の彼方に、相似た魂の牽かれ合う目に見えない力、すなわち、愛や人情の世界がある。それは死よりも強く、絶望を超え、この世の有限の束縛を超えて働くであろう。それは宇宙原理ともいえるもので、「類魂模様の背後にある力」として知られている。その模様は時の存在する限り織られ続けるのだ。

 死はその見掛け上の孤独の故に普通の人からは恐れられている。しかしよく知るならばその恐れは無駄なことだと分かる。

自己の属する模様から引き離されるという心配──すなわち愛する人達との離別──は、何の根拠も実態もないことなのである。死を越えて赴く旅先のどこでも、彼は再び彼の所属する意匠の内に取り込まれている自分を見出すであろう。

一時的亡我の状態がいかに深く、その経験がいかに変化に富むものであったとしてもそれは同じである。彼は結局地上生活において強く結びつきのあった人々、つまり、過ぐる日々、ときとしては盲目的に、また忌まわしいほどにも深く愛し合った類魂の魂たちの許へと帰っていくのである。

 原始的なタイプの人間というのは、全身全霊で人を愛するということができないものである。この種の人間にはそうした愛が、魂の進歩のための第一の原理だということが分からないのである。

というのも愛はその中に不滅の種子を宿しているからである。この種の原始的な魂は類魂が模様を織りはじめる最初の段階にいて、憎悪や終わりのない敵愾(てきがい)心を持つところから出発する。第三界においてこうした感情に再び出会うと、その感情は彼らを地上に追い返す力として働き、そのために彼らは現世に再生する。そして地上での進歩がなされると、最初の霊的法則である愛の法則を学ぶことになる。

 愛の法則を修得しえた男女はもはや死を恐れる必要はない。何故なら、たとえどちらかが先にあの世へ旅立ったとしても、その者の類魂模様の内にいる誰かが速やかに彼らに付き添い、死を超えたところにある大冒険の中にあって導くからである。

 死を友人とも解放者とも呼ぶがよい。何故なら、地上的愛には付きまとう暗闇も汚点も、死とともに消えてゆくからである。  

    

  
  第十三章  心霊の進化

 これまでの章では、各界の概略のみを示してきた。したがって、これら奇妙な世界を早くまた巧みに通過しようとする人のために必要な資格について詳述することは適当でないと思われたのである。

 現世にある時私は、「愛(ラブ)」の力を固く信じていたものである。新約聖書の中で聖パウロは「慈愛(チャリティ)」と訳されることばを用いているが、それは「愛」に与えられるのと同じ意味を持つものである。

 死後のこちらの世界に来てみて、私はこれらの言葉のいずれもが、神の持つ「至善」の意味を充分に伝えていないということが分かった。というのは、それが永いこと人間の有限の心によって翻訳されてきたので、限りなく多様な性質を持つ多くの人間の性情に触れた結果、使い古され、傷つけられ、汚され、曇らされてしまっているからである。

 ある人々にとっては、「愛」という語は男女間に点される情熱のことであり、他の人々にとっては友人同士や相似た魂の間で交わされる知的な愛のことである。そして残る人々にとっては他者への同情のことであり、その中には社会性を持った同胞愛つまり、過去においては疑いもなく努力目標であった普遍的な意味における愛を含んでいる。

 しかしいずれの解釈も常に理想とは程遠いのである。不可知論者もキリスト教徒も心の内に山の頂を描いてはいるが、成功せず、彼らの理解は「不滅」という偉大な言葉の前に雲散霧消してしまう。

 いかなる人も今までキリストの見た崇高なる愛の全体像を真に摑んではいない。そこで今、私は地上を見渡し、かつ歴史を回顧してみて、未だ人間に汚されていない言葉で、しかも魂の最初の要求を実現しうるような言葉を見出す必要を感じている。

その言葉は、魂が意識の階段をある段から次の段に上る時に、絶対に欠かせない内的衝動を明確にするものでなくてはならないのである。

 進歩についての永遠不変の現実とは、叡智の増加ということにある。何故なら、叡智とは「真理に対する正しい判断」と定義できるからである。

 いずれの界においても、真理の概念に広狭の差異が生ずるのはやむをえない。それはその界の生活条件やそこで魂の取る形態によるし、また意識の進展の度合い・・・最後には秋に木々が葉を落とすように形態を振るい落とすことになるのであるが・・・にもよるのである。

「地上」として知られている物質の濃密な世界では、「真理」ということばは今でも神聖なものであって、多くの人にとり汚れのないことばである。それ故、「愛」ということばが福音としてキリストの口に上ったとき、キリストが真に伝えたかった意味を表すのは、この「真理」ということばではなかったかと私は思う。しかし「正しい判断」がそこに加わらなければ、その言葉は完全とは言われない。

 そこで「叡智」という語の意味をよく検討してみる必要がある。というのは明らかに、この高貴なことばには男女間の最も崇高な愛、知的な愛、共感、信念、そして最後に、といってもその要素は必ずしも最少ではないが、「透察力」といった意味も含まれるのである。

真理を正しく判断する者は誰もこれらの全てを備えているものである。いかなる界においても魂は絶えず進歩し続ける。叡智こそは魂を下方へではなく上方へと進ましめ、物質的世界の鈍重な形態ではなく、より精妙な生命と、霊的世界の偉大な現実とを魂に選択せしむる最初の衝動であることを確信せよ。

「汝の敵を愛せよ。汝を迫害する者を祝福せよ」これらの美しくも謎に満ちたことばは、それを自己の生活に適用しようと努めてきた多くの真面目なクリスチャンを悩ましてきた。叡智を通してのみ彼は、幾らかでもその教えを守り、また文字通りこれを行為と思想の両面に実現できるのである。

何故なら、その理想が実生活に実現できるかどうかは、真理に対する正しい判断にかかっているからである。

 素朴な農夫や、世間は無知とみえる賤しい男女も、もし霊的な判断力を持っているなら賢者と言ってよいであろう。その霊的判断力とはすなわち、キリストが「愛」といったとき心に描いたものなのである。それは不可視のどの世界に対しても当てはまることである。

叡智はあらゆる場合に、愛に形と生命とを与える光であり、その隠された秘密の根源であり、人を上方へ進歩させる、───つまりは心霊に進化をもたらす力のことである。



     
第二部  人間のもつ諸能力についての教え
  

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