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世界心霊宝典Ⅱ 不滅への道───永遠の大道  
                                THE ROAD TO IMMORTALITY

         ジェラルディーン・カミンズ著   E・ギブズ編     梅原伸太郎訳
                                            Geraldine Cummins / E・B・Gibbes

  
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  第二部  人間のもつ諸能力についての教え 

    第十四章   自由意志 
    第十五章   記憶
             肉体の内と外
    第十六章   大記憶
    第十七章   注意
              生きている人の場合  
                      帰幽者の場合

    第十八章   閾下自我 
    第十九章   睡眠

    第二十章   想念伝達
    第二十一章   二つの世界の想念交流
                  生命の書

    第二十二章     幸福とは   
                 平均的男女の場合
    第二十三章    神は愛よりも偉大
         
 
  (レナード夫人とカミンズ嬢)     
     要約  

     補遺  
    1.クレオファスの書
    2.霊光
    3.他界からの通信
    4.地上生活の記憶を通信する困難 
         死者と話すことは良いことか悪いことか
   
    5.動物の死後存続
     解説   (梅原伸太郎)      
        
カミンズとマイヤーズ    
    
スピリチュアリズムと証拠
               類魂と再生                
 
 
第二部  人間のもつ諸能力についての教え  

      第十四章  自由意志 

「自由意志」ということばは、人によって様々な意味を持っている。ある人々にとってそれは、すべての面に出来る限り自分の空想と欲望を追求することを意味する。また他の人々にとっては、単純に選択の権利、すなわち、十字路に立ったときに自分が最善と思える方向へ行く権利、ということのようだ。

 仮に今、ある人が、四方に見晴らしのよい道ではなく、海沿いの日陰の道を行くことになったとすると、いったい誰がこの選択をしたのであろうか。私はそれを、ことばと身体と魂と霊、この四者の総合したものの結果だと考える。これらの各々は様々な要素から成り立っているが、全体として一つの創造なのである。 

それらは何年も年月をかけてゆっくりと形成される。すべての遺伝的影響力がそこに含まれ、すべての魂的また霊的影響力がそこにある。

われわれの有限な心にはとてもそれらのすべてを数えあげることはできない。環境、友人、敵、親戚等のすべてが、海沿いの日蔭道を辿ることに決めた内的決定の形成に役立っている。

それ故、「自由意志が支配すべきだ」と主張するものがあったとしても、それはそもそも人間というものの成り立ちからして不可能な要求なのだと知ったら、あなた方は驚かないだろうか。われわれは明らかに、多くの生者と死者たちの創造物にすぎないのだ。

それ故、われわれはだいたいにおいて、様々なものの影響下にあり、自分に植えつけられた諸傾向に従うよう運命づけられているのである。

 言い換えれば、全人類は一にして多なのである。世界開闢以来の人類の歴史と性格は、無限に成長し続ける蜘蛛の網の如きものであり、その源泉のすべては創造主たる巨大な蜘蛛───すなわちその見事な製作物のすべてに責任を有する神───の中にあると想像できなくもない。

 今やあなた方は、神が創造主であり大建築家であること、また、個々の人間の運命をその誕生以前から知る存在であることを認識せねばならぬ。神は未だ生まれざる赤子の性格をことごとく知っており、母親の子宮を離れてからどう成長するか、生まれつきの諸性質は運命をどう導くのか、環境はどう影響するのかなどを知っている。

何故なら、創造の大絵巻は、既に赤子がわれわれが「空」と呼ぶものの中から成長を始める以前に、神の想像の中に描かれているのである。たとえば、地球の未来も神の想像の中では既に描かれている。

それは神が考えたという意味では既に起こったことなのである。しかし未だ起こっていないのは、個々の魂における現実的な変化であり、人生の苦楽に対するそれぞれの魂の反応の仕方である。地上生活に関するあらゆる事柄が魂の反応の結果なのである。

たとえば、悲しみはあなた方を傷つけ、損なってしまうのであろうか。それとも破産というような悲劇さえもあなた方を新たな努力に駆りたてるのか。

後者であればそれは、あなた方のうちに一つの創造が行われたことになり、その創造の中で勇気と意志力を増大させることになるのである。しかし、希望を捨てて貧窮の中に逼塞(ひっそく)してしまえば、性格の弱さが増大してしまうのだ。

つまりあなた方は、創造するという意味においてのみ、また自己の魂を形成するという点においてのみ、自由意志をもつといえるのである。

 これこそが地上生活で最も肝要な点である。何故なら、あなた方が自分の所属する類魂の許へ戻る時、それまであなた方の鋳あげた魂の鋳型こそが、やがて生まれる魂の未来の生活の鋳型となるものであるからだ。最もこうしたことをことばにするのは極めて難しい。

 神は類魂の宇宙生活を見守っている。神は人類の未来生活を計画し、その未来図を描く。全てはその初めに想像されているのであるから、神の想像力の中にある巨大な宇宙図の上で、変更を被るものはほとんどない。


   
    第十五章   記憶

        肉体の内と外

  私はここで、私の心に映ずる記憶というものの様相について簡単な説明をしておきたく思う。最初にまず生きている人間の記憶を取り上げてみよう。記億の機構はいったいどうなっているのであろうか。

 今仮に、意志がトム・ジョーンズの名前を思い出したいと決めたとする。すると意志はトムのイメージに精神を集中しようと努力する。といってもその時の正確な経緯はどうなのか。意志は自分の許へ人間には見えないある微妙な精妙体(エッセンス)を引き寄せるのである。科学者ならばこの精妙体を、電子ないしそれの仲間の粒子よりもなお微細なものであると言うことであろう。

このとき意志を強く働かせると、この精妙体は何やら流動する液体状のもの───もしあなた方に見えるとすればの話であるが───に必要な刻印をする。

この幽的流動体は物質を透過する。そして例の精妙体(エッセンス)の助けを借りてある形態をとることにより、脳細胞と接触することが出来る。接触によって脳細胞は敏速に反応する。意志はこの二つの要素の協力によって、あたかも糸で縫い合わせるように、トム・ジョーズのイメージを細胞に括りつけることが出来るのである。

あなた方は物質界にいる限り誤った空間観念を持っているので、この様にして作られた数百万のイメージが同じく数百万の脳細胞に糸でつながれている様をすぐには想像することができない。

 あなた方のまわりに巨大な蜘蛛の巣があると想像せよ。この蜘蛛の巣の糸が記憶ないし想念を、あたかも電線が電信を送るように脳髄に運ぶ。というよりもむしろ、精妙体の援助で幽的流動体の上に刻印されたイメージの信号を脳に送ると言った方がよい。

 あなた方のことばはここでは役に立たない。というよりも、たとえばこの印象を受け取る幽泥を表現する言葉がないのである。私は仮に「幽泥」と呼んでみたが、物質の性質を持つわけではない。

この幽泥───適切な言葉がないのでそう呼んでおくことにするが───から思想はつくり上げられているのである。といってもこれは勿論、あなた方の理解する物とは違っている。宜しい、そこで、この幽泥こそが諸君の視覚、聴覚、触覚等が伝える全ての印象を受け取るということになる。がしかし、もし意志が記憶や思想の構成に必要な意識的努力をしなければ、幽泥は連結糸を脳に結びつけないのである。
 
 そこで意志とは何かという疑問が出ることであろう。意志とは、あなた方の外部にある大意識から流れ入るエネルギーのことである。意志は勿論、私が既に示したように物理的脳に付着するイメージの収集という仕事もしてる。意志はまた物理的身体からの影響も受ける。

 大意識は、身体という粗雑な機械が死んでも破壊されないところの無限に微細な原子から成っている。私は原子と言ったが、あなた方からみればそれは流動体のように思えるかもしれない。

あなた方の本質体は、地上にある限り、複合体であることを承知しておいていただきたい。それは物質的なものと非物質的なものとの合体である。肉体ないし物質の側は、その成り立ちの性質に由来する一種の熱望を宿している。これらの欲望はあなた方自身ではないが、あなた方を支配している。

何故なら、通常これらは非物質的な部分の多くを動かしており、脳細胞に進行中の指令過程に入り込むことが出来るからである。

 脳細胞は極めて敏感なので、意志という、実体であるというよりはむしろ運動である存在の刺激に反応する。意志を運動するものとして考えよ。意志の持つ能動エネルギーはイメージとイメージを合体させ、整理する。

そして、意志は、意識の中にその必要が持ち上がった時には、脳に対し、イメージと結び付いた糸を引き寄せるようにと働きかける。脳は意思という純粋運動に動かされ易い唯一の物体なので、これに反応する。──こう説明してみても、あなた方が物質の中にいる限り、おそらく想像の外のことであろうが。


 肉体を離れた記憶となると全く別の事柄である。肉体を脱した存在になると、イメージはもはや、脳細胞を仲介とした物質によってわれわれと結び付けられていないから、われわれは地上時代のイメージからずっと隔たってしまう。例の幽的糸は死によって断ち切られてしまうのである。

と言っても、間断なくつくられていたあらゆる印象の像がすべて破壊されてしまうのではなくて、それらは依然としてある。心霊的条件が整って、そうしようと決心すれば、イメージの中に自分を置こうと意志することによって、好きなイメージを自分の許へ引き寄せることが出来る。

そのとき、われわれは、生きている時のように苦労してそれを引き寄せるのではなく、ただある状態に身を置こうと思うだけで、望みのイメージを見ることができるのである。

 しかしこうやってあなた方と交流している時は、そうした状態にない。それが困った点なのである。交霊中のわれわれはイメージから遠ざかってしまっており、地上の霊媒がわれわれの記憶庫から、要求されただけの事実を引き出す───その場合ももちろんわれわれの協力が必要だが───心霊能力を持っていない限り、あなた方の望むような証拠を提供することはできないのである。

普通の人はこの特殊能力を持っていない。それは眼には見えないがあなた方の周囲にあって、ちょうどあなた方の身体と同じような形を持った幽的流動体の一種の過剰がもたらす力なのである。

 これらのイメージは脳の外部にある。肉体の外にあって、あなた方とは幽糸で結びついているが、物質を透過する性質があり、また物質ではないのであなた方には見えない。それらのイメージは確かに接触可能なのだが、適切な努力をもって幽糸とイメージを引き寄せなければ、思い出すことはできないのである。しかも正常な意識の中では引き寄せることのできないイメージは沢山ある。これらのことを明確に表現する言葉を残念ながら私は、英語の中には見出すことが出来ないのである。

 さて、記憶は海に似ているといえるかもしれない。それはあなた方の周囲にあって、大洋の水のように捉えどころがない。地上に生きていたときのわれわれは、バケツを持った子供たちのようにこの海に行き、海水でそのバケツを一杯にした。

砂浜まで運んでこれた水はごく僅かだ。しかも何とも呆気なくその水を地面に空けてしまう。われわれの背後には相も変わらぬ広大な海面が広がり、波の音は果てしもなく海岸に鳴り響いている。記憶のつくりなす響きは、今の私にはこの海潮音のように聞こえるのだ。往時あの夏の夕べに聞き入った時の───。

 どうか記憶をこの大海の如きものと考えてもらいたい。それは四六時中地球に自分自身を投げ出している。それゆえ記憶はあなた方の周りを取り巻く湿気のようなものだともいえる。地上にある時もあなた方はほとんど無意識の中に、この見えない記憶の貯蔵庫から記憶を引き出しているのである。

そしてある国が他国よりも湿気に富み多雨であるように、ある種の心性を持った人は他人よりも多量の集合記憶を引き寄せる。

その記憶は人間の頭脳を通過するときには濾過されるので、その人特有の性格や色合いに染められる。そしてついにはあたかも独創的な思想になったかのようにして意識に上ってくる。しかし度々おそろしくだらけた独創性のカケラもないようなものになっていることがある。

というのも平均的な人々は専ら多数の生者の頭脳から放射される手近な記憶のみを自分に取り込むからである。思想家は人間の本性の深みに潜むような記憶、つまり瞬間瞬間の人間の頭脳からこぼれ落ちるような表面記憶とは異なった、強力な記憶を自分に取り込むだけの巨大な記憶容量を持っている。

素早く投げ出されるような記憶は永い生命を保ちえない。感動的な記憶、熱情をもって創造された記憶のみが永遠に生きながらえるのである。

 人間は発電所のようなもので、たえず新しい記憶の電流を発電したり、受け取ったり、送電したりしている。人間は自分の個性というものに執着するが、そうすることが人間には相応しいことなのであろう。しかしたえざる崩壊に耐えて残るものはその人間の最も基本的な核心部分のみなのである。

というのも人生においてわれわれは精神的には間断なく死につつあるのである。言い換えれば、秋ごとに樹木が木の葉を落とすように、年月の経過とともに、われわれはたえず記憶を捨ててゆく。そうすることによって大きく変化してゆくのだ。

十歳の少年トム・ジョーンズは六十歳の声を聞いたトム・ジョーンズにとって赤の他人に等しい。もし二人が出会ったとしたら、お互いにどんなに気恥ずかしく思うことであろうか!二人は多くの点で全く似ていないのである。しかし心の底から捉えがたい感動がこみ上てくるのを感ずることであろう。

奇妙な戦慄にも似た何か、心の奥底から奥底へ呼びかけ合うものがある。そこでこの十歳の少年と、六十歳の老人は、表面上の相違にも関わらず、互いに磁力と鉄が引き合うように引かれ合う。

彼らは二人とも、表面意識上の不一致にもかかわらず、何故このように引かれ合うのかを知らない。しかし彼らは互いに避けがたく心に応答し合い、引き付け合うものがある。

というのも個人の記憶よりも深い何かがこの一致を強いるからである。彼らは殆ど共通の記憶というものを意識できず、見知らぬ者同士である。しかし互いの核心部分が二人の間を知己にしてしまうのである。

 死後の世界へ旅立って長いこと生活をした者が、数十年の地上生活を経てこちらへやって来た妻や夫や息子や娘と再会する時には、おそらく同様のことが起こるであろう。もしすべてがうまく行って死後の世界で彼らが再会したとしても、事実の記憶にだけ頼ったのでは、お互いを認知することができないであろう。

彼らは記憶よりも深いところにある何かを通してお互いを認め合うのである。愛と憎しみ、慎重さと性急さ、などといった人間の深部に潜むあらゆる性質がお互いを見分けるよすがとなるので、わざわざ「生命の書」を繙(ひもと)いて参照したり調べたりする必要はないのである。

基本的な知識は残っており、お互いの過去の結びつきは、それが互いに欠くべからざるものであるならば更新もされる。

 しかしどうか、私が死後の一瞬たりとも停滞などしなかったことを信じてもらいたい。私は変化し進歩し、樹木のように新たな葉っぱも身につけた。しかし内なる自分は全く変わってはいない。それ故、私の地上記憶の一部が、冬が来て枯葉が地下に埋まってしまうように埋もれてしまったとしても、私の妻や子供たちは、ちゃんと私のことを見分けてくれることであろう。

        ※      ※      ※

 私は自分の地上時代の記憶が幾分か失われてしまったと述べたが、それは永遠に私の触れることのできないものになったという意味ではない。それは現在の私には無用のものとなったのである。

というのも現在の私は第四界にいて、形態における新しい経験の新鮮な印象を掻き集めるのに大わらわなところであるからだ。必ずや近く、第四界と五界の中間境において、地上記憶のすべてを思い出すことがあるに相違ない



    第十六章   大記憶

 ここで「大記憶」と私が言うのは、全人類の持つ潜在意識のことである。われわれの死後の生命にもあなた方と同じように意識がある。それはすなわち他の帰幽者たちからこれと感知されるような個我のことであるが、これらは似た者同士が一緒に集まって同じ状態で生活しているのである。

しかしまた、それよりもずっと深いところに、不滅の───と私の信じる───深層自我 deeper self ないし世界自我と呼ぶべきものがあり、ここには過去、現在、未来のすべてが記憶され包み込まれているのである。何故なら、人類の歴史は、その初めから現在に至るまで、これまで時々「記憶の木」として語られてきたものの内にすべてあるからである。

「しかし未来のことは未だ起こっていないではないか?」 とあなた方は言うかもしれない。しかしそれに対して私は、「それらは神の想像力の中に生まれたという意味では既に起こったことである」と答える。しかし未来を読むことは難しい。と言っても、それはあくまでも人間にとってはということである。

未来に関する記憶は、この宇宙の製作者によってたった一度考えられたのみなので、不可視で無限の実体の上にはまだそう深く刻印されていない。そのために、その記憶はひどく微弱で、霊聴力を持った者のみがわずかにそのこだまを聞きうるのみである。

しかるに過去の記憶の方は、人間の粗雑不器用な思考がエネルギーを与えて、それを主観的にくっきりと形づくってあるので、霊能ある者から見るとよく見えるのである。

 あなた方が「死者の魂」と呼ぶ永遠の生者、その生命の中にある巨大記憶がどういうものかを是非知ってもらいたいものである。この不滅の生者たちは、現在の生活を追求することに一所懸命で、過去の一切の記憶からは遠ざかっているが、記憶の糸を引張ることによって、砂糖黍から砂糖を吸い取るように、大記憶の中から過去の人格の中の養分を吸収するのである。

死者が交信してくる時、その人体は必ずしも完全な形をなしていない。時としては、生前の個人の衣装だけが大倉庫から取り出され、僅かの間展示されるといった趣(おもむき)である。

 この点に関して、ここで一つ大事な点に注意を促しておきたい。それはあなた方も私も共に大記憶のそれぞれの頁に記録されているということだ。われわれが霊媒を通して地上の友人たちと話す時には、前もって芝居の役者よろしく、昔演じた役柄をお浚(さら)いしておかなければならないのである。

原則としてわれわれは、この仕事をいい加減にすますか、曾ての役どころを記録した記憶に一瞥を与えうるのみである。われわれの過去は消滅してしまったとも言えるし、消滅していないとも言える。

この二重性を説明することは難しい。基本的には、われわれは、地上にあって愛する妻や母や妹が「さよなら」を告げた時の自分と変わっていない。われわれは地上で嫌いであった人や物に対して嫌悪感を持ち続けるし、大切に思っていた人や物に再会すれば古い愛の炎が燃え上がるという点では以前と同じである。しかし、人格というものが地上時代の記憶の総体を意味する。

つまり、ギリシア語・ラテン語の知識や、具体的諸事実についての知識に至るまでのすべてを記憶しているという意味なら、その意味ではわれわれは変化してしまっている。われわれは大記憶の中にある自分の記憶と接触を持つことによってのみ、それらを思い出すことができるのである。

われわれはかつての自分の気質や個性については、そこから離れつつも、未だ大部分を保持している。

地上と決別した当時のはかない肉体意識の方は、もはや自分の一部ではなくなってしまっている。地上生活の細々としたこと、頭に詰め込んでいた具体的知識などは忘れてしまうのである。これに対して感情的記憶の方は、元来創造的生命の方から来たものなので、魂の全体の一部として残っている。



    第十七章   注意   
    
     生きている人の場合

「注意」を定義することにしよう。 ご承知のように、生理学的用語で言えば、注意とは、意志がある神経エネルギーを特定の脳細胞に向けることである。

すなわち、今仮に私がヴェニスの聖マーカスのイメージを想起しようとしたとすると、私は神経エネルギーを ヴェニスの記憶と関連のある特別な細胞に向けるのである。すると、ヴェニスでの経験によってつくられたあるものが命を吹き返し、一時的に人格性を帯びる。

意志がその背後にあってコントロールしているとはいえ、この間、ヴェニス人聖マーカスは人格を持ち続けることになる。私はこれを単なる一例として上げたのに過ぎない。この人格の中心部はより複雑な複合観念と記憶によってつくられている。それらは魂の柔らかい材料に深く刻み込まれた一連の基本的経験から成っているのである。   

 
        帰幽者の場合

 帰幽者の心を一つのクモの巣のごときものと想像してみてほしい。その中には思想と記憶を放射する無数の中枢がある。この中枢のどれもが注意を地上へ向けることができる。われわれは基本的には一であるが、ある特殊な思考作用に精神を傾注すると、その間全体から分離してしまう。

再び全体と一つになろうとするとあなた方から遠く離れなければならない。そうすることによって一つの霊の中に融合するのである。といっても、空間的距離のことではなく、構造上の微妙さのために、本霊と一体になっている時はあなた方から離れているということなのである。

 あなた方は星がそれぞれの人格を持っていると私が言ったらおそらく信じられないであろう。しかし星もまた一にして多の人格的存在なのである。あなた方もその点では同じで、肉体の中に在る時から既に物質的にも一にして多の存在なのである。

あなた方の中には無数の小さな中心的実体があるのだが、心はただ一つあるだけで、心と肉体をつなぐ通路も一つである。こちらでの私の興味ある特徴は、私が一つの大きな意識の中に組み込まれているという点である。この大意識は単なる集合体ではなく、多くの小意識が一つにまとまったものである。

私に似た多くの意識存在がその中にいて、私の地上時代のあらゆる局面は、これらの小中枢が持つ性格を反映するものであったのである。

 私は既に生理学的意味における「注意」について話した。その注意はイメージと結びつくある細胞に向けられた神経エネルギーの流れであると述べておいた。われわれは物質的脳は持たないが、ある心霊的意識網を持っている。この網は正確には脳の方式と違ったものである。

それは無数のニューロンとか神経区画とかを持つわけではないが、その代りに幾つもの意識中枢を持ち、それが大統一原理たる本霊から流れ込む心霊エネルギーを吸収しているのである。

 われわれはもし大いに努力さえすれば、同時に他方向へ注意を向けることができるが、それは常時というわけにはいかない。われわれが地上と交信するときは、一時に一つの意識中枢にのみ積極的な起動力を注ぎこむことが出来るのである。

もう一つの意識中枢を支配しようとすれば、多大な精神集中が必要なことを考えてみれば、これも無理からぬことと理解されよう。時としてわれわれは同時に二人の人と交信できるがこれは極めて難しい。

この意識中枢について興味ある点は、われわれが通信しようとする記憶はある特定の意識中枢とのみ結びついていて、本霊の翼下にある他の意識中枢とは関わりを持たないという点である。その場合、記憶はこの意識中枢によって保持されているというよりも、特定の記憶が特定の意識中枢と接触を保っていると言った方がよかろう。



    第十八章   閾下(いきか) 自我

 私はあなた方に心の内面機構についてお話しすることを約束していた。そのためにはおそらく、生きた有機体としての人間というところから手始めにお話しした方がよかろうと思う。

最も生きた有機体としての人間などという観念は、現在の私には奇妙に思える。だが、理解していただくためには、あなた方のことばを用いるしかないのである。まず第一に言っておきたいことは、科学者は、意識───ないしは魂───と身体とはどんなに違うものかを殆どご存知ないということである。

身体というのは過去の多くの世代からの遺伝物である。身体はそれ自身で一つの帝国であり、多体動物であり、多心霊体ですらある。それは実際たとえようもなく複雑な機構で、高次、中次、低次三段階の神経組織から成っている。これらの神経組織は霊的世界に住むわれわれの意識が働きかける際の要所である。

われわれが、エーテル体を通して、ある程度、肉体組織とも交流できるのだということを知っておいていただきたい。

 あなた方は曾て次のような神秘的な言葉に想いをめぐらしたことがおありであろうか。「その初め、イメージが肉となった」引用が間違っているかもしれないが、あたらずとも遠からずであろう。

聖書にあるこの語句は大変な真理を含んでいる。生きた有機体はある程度、見えざる実在の反映である。既に述べたように一つの統一原理があるとすると、その中に、私が意識中枢とか焦点とか表現した小意識群があるのである。

私が地上と交信する時は、この小意識ないし心霊的実体ともいうべきものの一つが霊媒に憑依し、霊媒の持つ心霊的実体の一つを占有する。そのとき私は彼女の中の統一原理を占有することは決してしない。もしそうすれば、霊媒は狂ってしまう。それは大変危険な仕事で、こちら側の悪意ある霊のみが企てることである。

 今こうした帰幽者の意識を説明するために一つの例を提示しよう。例えばここに英国のような一つの国を思い描いてもらいたい。その中には独立した幾つかの町があり、それはロンドンのような巨大都市に指令を仰ぎ、またある種の不可欠の刺戟を受けとっている。

帰幽者の状態もこれに似ている。彼は一個の王国であり、その境界はヴェールのようなもので包まれている。それは奇妙な柔軟さを備えている。つまり前にも少し述べておいたように、われわれの身体は、微妙な材質の流動体で出来ており、われわれはその形を思うままに変えることができるのである。

そういう点では現実の王国とは違っている。その他にも異なるところは多々ある。われわれの環境は超エーテル的な性質のものである。それをもっと説明してくれといわれると大変難しいが、しかし、エーテルが最極微の原子を含んでいるとまでは言ってもよかろう。

その原子はあなた方の世界の粗い物質を透過してしまう。両者は互いに別次元のものなのである。

 あなた方はこう訊ねるかもしれない。「いったい、あなた方霊のいる世界は地上とどのように違うのですか」と。両者の差異は甚だ大きいのである。そしてその理由の多くは、死後の身体として用いる幽的流動体の形が不安定だというところに起因しているようである。

死後、魂の発達が充分なときは、自己の閾下自我の中に入っていくものである。生前の私は、意識には二つの形態、即ち、内在意識と顕在意識とがあると思っていた。

前者は識閾の彼方にあって感知しえないが、後者は通常の仕事を統御し、一般的な仕事を遂行するのだと考えていた。また、閾下自我とは、識閾の奥にある意識のことで、これは専らわれわれの本性の霊感に満ちた創造の源泉として働くのだと想像していた。

ところが帰幽後、私は、純粋な意味では顕在意識などというものがどこにも存在しないということに気が付いた。その代わりに、長年に亙って洗練の度を加え、今や、閾下意識ないしあなた方のいわゆる潜在意識の生み出すほんの僅かな波動にも反応するまでになった、例えようもなく複雑な機械(肉体)があるのみなのである。
 
 では顕在意識とか通常意識とかはいったい何から成っているのであろうか? それは実のところ、あの精巧きわまる「神経記憶」と、殆どその神経記憶の支配下にある「肉体的欲望」と、そして最後にこれこそ最も大事なものである「内在意識からの反射」とから成っているのである。

 普通、内在意識が反射を送り出すと、その強弱にかかわらず、私が神経記憶と呼んでいる幽的流動体がそれを受け取るのである。神経記憶はそれを振動によって、脳に伝える。

それ故、正常意識は「反射」「神経記憶」「脳」の三重構造を成している。その中でも主な動きをしているものは、神経記憶によって翻訳されたイメージと潜在意識から送られてくるイメージに反応する物質としての脳である。しかし決してこの二つがすべてなのではない。

 脳と身体は、原則としては、イメージが送り出されたり受け取られたりする以前に、イメージに対する欲求を発動してこれを受動的に受け入れる態勢を整えなければならないのである。つまり、脳と神経は、受け入れ、記録することが持ち前なのである。

しかしながら、この二者は、どうかすると人間本性の高次な部分からやってくる貴重な賜り物(潜在意識からの反射──訳者)に変更を加え、複雑化したり単純化したりし、とかく色付けをしてしまうものである。しかしそれと逆の過程もある。つまり、脳が物質界からの諸印象を吸収することによって、

それを高次の意識中枢に送りこみ、それがまた元へ戻ってくるという経路である。こうして、覚醒中、人間存在の各部分で活発な往来が行われているのである。

 更に解明されるべき多くの点がある。あの積極的で、しばしば好ましからざるものともみなされる「自我」なるものは何処に見出されるかという問題である。自我とは、実は、数学者の注意を引くにたるほどの多くの要素が寄せ集まった総計なのである。

それはまず第一に肉体的欲求の総和であり、第二に数世代に亙る遺伝的記憶の累計であり、そして第三に内在意識と交渉を持ってイメージを受け取る先天的能力の全体、つまりこれらの総計が自我なのである。

 さて、人間意識は、時たま、学者が親切にも内在意識の働きだと認めてくれている創造活動を行なうことがある。が、しかし、偉大な作品の生み出される創造の神秘は依然として謎に包まれている。

実をいえば、それらの傑作は内在意識からの通信に反応するある特殊な脳の性向によって生み出されるのである。

この場合は、幽的流動体が媒体として働かないために、ぼやけた翻訳がなされずにすむ。無論これに、不可視の糸によって脳細胞に結びついていたかなりの量のイメージや知識が加わる。そこで創造行為とは協同作業なのだと知るべきである。

 内在意識から流れるエネルギーが、連想や記憶のみならず、浮遊の思想をも取り入れて芸術作品を作り上げるのである。この時は幽的流動体が中間物として働いていないので、それらの材料を直接に用いることが可能となる。

これに対し通常意識の場合は、幽的流動体が重要な役割を演じているのだが、大雑把に言えば、これこそがいわゆる「自我」なのである。

 自我はしばしば心霊体すなわち小意識から情報を引き出している。がしかし、これらのものは通常は統一原理の統制を受けた、いわばその付属物にすぎないのである。人格崩壊の現象は往々にして、これらの小意識体と統一原理とのつながりが断たれることに起因しており、それは幽的流動体(神経記憶=自我)が行動ミスによって心霊体に過大な要求をしすぎるということから起こるのである。

しかしながら中心意識は通常、もし直接注意を促されれば、再び統制力を取り戻すことが出来る。

 どうか、私の述べるところに照らし合わせて人間の進化というものを考究していただきたい。自我の本体なる大意識は、しばしば不定形で、その始まりから──始まりがあったとすればの話であるが──魂の無明時代を経て、いつもそこに在りつづけたのである。

この意識は最初、原始人に対して、時たまかすかな反射を送りうるだけだったが、それから次第に、あたかも彫刻家が作品を造るようにしてそれを進化させてきたのである。やがて時と共に、人間の肉体の形態が進化するにしたがって、大意識からのイメージを受け取ることが容易になっていった。こうして、世界は次第に肉となったのである。

 あなた方は心との関連において、何故それが自己表現しようとするのかを尋ねるであろう。心は個性を望み、形態を望む。そしてこの個性と形態は、ある程度、心と物質の相互作用を通して達成されるようになっている。

しかし銘記せよ。物質の精華であるところの神経と神経記憶こそが人間の行動を支配し、統制し続けるのである。そこであなた方が地上に生きている間は、「神経魂*」や、脳と肉体の構造や、統一原理から送られてくるイメージなどの中に正常な自我を見出すようにしなさい。世界は肉となったのである。このことばのうちに人間本性の全秘密、即ち、人間存在の総計が表現されているのである。

 あなた方は「日常意識」というものが何であるかを知りたいであろう。それを作り上げている力の基は、本質的には神経魂にある。しかし日常意識は現実には多くのものの総計なのである。

肉体的要素、すなわち肉体機構そのものの持つ熾烈な欲求は、すべて神経魂の決定に影響力を持っている。あなた方が無意識と呼んでいるものは「反射」、つまり上方からの光である。時としてそれは喚起力が弱いためにかすかなこともあるが、行動決定の際には一役を演ずる。

「時」の関与の問題は、無論、こうしたことの関連であなた方を悩ませる一要因である。しかし全有機生物は永い年月の進化を経て精妙化したお蔭で、今や迅速に決定が下せるようになったのである。

原始時代には、「私」の構成力である「自我」とは主として肉体のことであった。神経──幽的流動体さえも──は、肉体の従属物にすぎなかったのである。

        ※       ※       ※

 稀な場合を除いては、二つの意志が同時に決定を下すということはない。何故なら、交通路が一つである以上、決定も一つであるからだ。しかし、自我の本体の外にある───そう言いたければだが───閾下自我は、極めて活動的で、日中に通信が交通路たる神経魂を通して送られてくると、睡眠時にその通信に働きかけ、新しい指針を与えて神経魂に送り返す。閾下自我はこれを容易にやってのける。

何故なら、神経魂は、睡眠時においては、肉体から離れて鎮まりかえっているので、覚醒時に求めていた望みのイメージを閾下自我から受け取ることが出来るからである。目が覚めるとこれが脳細胞に伝えられるので、あなた方が眠りから覚めると、まるで魔術師の手にでもかかったように、問題が解決しているのに気が付くのである。

 こうして、日中の主導権は、閾下自我からイメージや反射を供与された神経魂が握るのであるが、それはたえず、身体やその欲望から影響されているのである。

(*神経魂=生きている間の自我の中心。神経魂も、神経記憶も共に霊的流動体の働きの別面を表している。自我の本体は内在意識【無意識】の中にある。神経魂は脳と内在意識の仲介役を勤めるうちにいつの間にか内在的意識の指令を待たずに反射的に反応し、やがて自分自身が自我の本体であるかのような錯覚に陥ってゆく。いわば代理店が本店を無視した代理業務をするようなもので、これがいわゆる「日常意識」の正体である)
       
 
      
  第十九章   睡眠

 前章の小論において、閾下自我の可能性を説き尽くしたのではないことを承知しておいていただきたい。あれは単なる序章程度のものとみなしてもらいたいのである。あのテーマを扱うに当たっては、私自身困惑していたのであるから。

 私が死者であったとき、というのはつまり地上に生きていたときということだが、私は睡眠についてこう考えていた。それはすなわち脳の部屋部屋を空にして、他界に休息を求めることであると。

いや、というよりもむしろ、そこでは霊的エネルギーの再充填、つまり一種の灌漑作用のようなことが行われ、そのお蔭で、翌朝目覚めたときに誰もが経験するあの新鮮さや生命の蘇生する感じがあるのだろうと考えていた。

私は二つの世界にまたがる生命の存在を信じていたが、この点は全く正しかった。しかし睡眠中に得られるものについては、正確には分かっていなかったのである。が今では当時よりは大部わかるようになった。

 あなた方が睡眠と呼んでいる状態においては、神経魂は、実際に、肉体から遊離するのである。このことは霊と脳の間に直接の仲介者(媒体)がいなくなることを意味する。この点は重要である。

身体は前にも述べたように、神経魂によって支配されているので、神経魂が遊離して超エーテル的状態の中に引きこもってしまうと、身体は全く静かになってしまう。神経魂はこの状態に耽り、あなた方がエーテルと呼ぶものから必要な刺戟と栄養補給を受ける。

しかし、エーテルということばはどうも意味の広いことばで誤解を生じ易い。実際、睡眠中に神経魂を養うのはエーテルの一部であるには違いないのだが、私はここで新しい用語を造って、それを「エーテルの精(エッセンス)」と呼ぶことにしたい。私が科学者だけが持つ権利を侵して、こうした微妙な実体に命名することなぞ、まことに大胆な仕儀だとは思うのであるが・・・。

                                 
 さて、神経魂が身体を離れると霊*が身体に近づく。霊は脳に直接イメージを伝えることはできないし、また一般にそうしようともしないものである。しかし場合によっては高次の神経センターが、特別、霊に感じ易くなっていることもある。
 (*この場合の「霊」は、本霊、上級の魂、本人の霊的部分の幾通りかに解せられる)

そのようなとき、霊は身体にあるイメージを投げかけようとするかもしれない。というよりもむしろ、神経魂の使い残したエネルギーを用いて身体を支配しようとするのである。そんな時、睡眠中の人はおそらく、未来のことを夢見るとか、どこかで突然起こった事故死の状態を見るとかしているのである。

霊は睡眠中の人と誰か情緒的類似性のある者の反射を自分の中に引き寄せる。かくして霊は、ごく稀にではあるが、未来の一場面とか、現在起こりつつある偶発事件とかを、静まり返った脳の中に投射することが出来るのである。

 さて、あなた方は、睡眠者を夜毎訪れるあの馬鹿げた、見たところも混沌とした夢のもとは何か、と説明を求めることであろう。しかしあなた方が解釈の鍵を持ってさえいれば、それは馬鹿げたものでも混沌でもないのである。しばしば日中の神経の苛立ちが感情の強い抑圧を引き起こし、これが苛立ちの原因となるものを映像化するのである。

この画像は、日中盛んに働いていたニューロンに縛り付けられている。この画像はまた例の幽的糸の網にも捕えられる。この画像を統制する神経魂が遊離してしまっていない中で、ある種の神経がこれらに反応して、混乱した馬鹿げた夢の形態を造るのである。

「神経像」と呼ぶ言葉がすべてを尽くしている如く、これらは高次の源泉から放射されたものとみなすことはできないのである。

 私は前に、「注意」を定義して、神経エネルギーを脳のある特殊な細胞に向けることだとした。このエネルギーの流れが、覚醒時中に激しく持続したとすると、その振動の余波は後まで残ることであろう。精神集中の残響が響いて他の残響や印象と混ざり合い、それがある連鎖を生み、しばしばきわめて古い幾つかの連想に加わる。

たとえば、日中、ある人が亡くなった祖母を想い出させるボンネット帽を見かけたとすると、実際の記憶はかすかかもしれないが、その人の脳に古い連想を結びつけている糸を刺戟するには充分である。

昼の緊張が解けて睡眠がやってくると、祖母の像が夢に現れる。彼女の姿は数時間前に、ボンネット帽の映像を契機として心のキャンバスに描かれていたのである。記憶が古い昔のものであるときは、作用する場所が遠いので、出現までに時間がかかる。

 どうもダラダラ書き連ねているようであるが、私の言いたいのは、記憶、記憶像、神経といった類のものが睡眠中、脳の中で鬼ごっこを演じているということである。

                                                                          
霊は統制のためのイメージを送り出すことができないし、幽的流動体*の方も経験の集積作業によって脳中の膨大な内容物を管理するという日中の仕事を停止している。

(*幽的流動体 fluid=幽的流動体は肉体と内在的意識の中間に両者の仲介者として存在する。目には見えないがかなり物質に近い次元のもので、睡眠中は肉体から離れる。神智学でいうエーテル体にあたるであろう。スピリチュアリズムでいう幽体よりは肉体に近い。マイヤーズによればここに神経魂や神経記憶の働きが存在する。)


このような状態で、もし神経が弱かったり、緊張が高すぎたりすると、小意識体の一つが記憶やイメージを操る場合があることも私は承知している。

この小意識体は、運動刺戟を与えはするが、支配的な神経の命令には服従している。小意識は心を悩ます潜在記憶をけしかけて睡眠者を起き上がらせ歩きまわらせる。これが一般的な夢遊病の説明である。

こうした場合は神経の方がむしろ小意識を支配している。しかし通常この小意識心霊体は睡眠者が危機に陥るのを防ぐだけの働きはしている。それは神経魂に警告の合図を送り、身体に至急戻って支配権を取り戻すよう指示するのである。

 私は睡眠についての甚だ粗雑な説明を試みたが、仲介者たる神経魂は栄養補給の為に身を引く必要があり、そのことから身体を離れることを言わんとしたのである。その間霊は依然として身体に活力を送り続けることが出来る。しかし媒体が無いので、それが脳の指令中枢に影響を与えうることは極く稀にしかない。

睡眠中、明らかに、閾下自我のある層が脳に侵出していると見られることがある。実際に起きていることは次のことである。古い連想や感情が日中の出来事によって掻き立てられたが、神経魂はこれを活発にすることを抑えていた。他にやるべきことがあり、それに追われていたからである。

しかし連想や感情は、川が塞き止められるようにそこに残り続けた。夜、ダムが開かれると神経魂の不在に乗じて、特に神経の緊張が高まっている時などはそうだが、これらの記憶が脳の中にどっと溢れ出す。そして古い観念の構造の中に入り込み、かつて自分たちのいた内部をもう一度覗き込んで、暫時、顕在化した想念の飾りやらイメージやらに眺め入る。

 催眠について少しばかり述べておこう。大部分の場合、秘術者は、完全な催眠には陥っていないものである。しかしここでは真性の催眠状態を例にとって言うことにすると、それは一つの重要な点において催眠とは異なっているのである。

催眠状態においては、被術者の神経魂は機能を止められてはいるが、極端な場合を除いては、身体の外へ出ていることはない。それは左右することを許されていず、また自己自身に対してそれを禁じているのだ。

ここが大事な点である。催眠術をかける者は、被術者の神経が病的でもない限り、その意志を放棄せしめることはできない。つまり神経魂の働きを停止させるだけである。こうした時、霊や閾下自我は、神経魂の機能停止中、身体の側に引き寄せられているのである。

しかしその創造的生命は、媒体の機能が止まってしまっているので、身体に流れ込んでこない。

 しかし閾下自我の他の層が活動していることがしばしばある。それは主として埋没記憶に関するものである。施術者の命令は幽的流動体───すなわち、神経魂が作動するとき支配しているある幽質(エッセンス)───を動かす。そしてこの幽質も神経魂も不可視の流動的身体の一部である。

その幽質の一部分は、埋もれていた記憶を表面に引き出すために用いられるだけである。これらの記憶は、神経魂が閾下自我の送り出してくるイメージとの関連で積極的に働いている時は出てこない。実際、催眠は潜在意識の緩み漂っている部分に道を開き顕在化させるのである。

通常意識が働いているとき指令を送っている自我の中心体である統一原理は、媒体の神経魂が離れているときはやはり肉体と接触を持たない。それ故、催眠によって引き寄せられるのは被術者の閾下自我の一部だけなのだということがお分かりであろう。

 

   
 第二十章   想念伝達

 生者同士のテレパシーについて説明しておきたいと思う。これは死者からのテレパシーと幾つかの点で違っている。死者と生者のテレパシーは、生者間のそれと比べると、遥かに入り組んだ手続きがいる。しかしながらわれわれは、自分の内在意識を熟知しているので、全体としては何なくそれをやってのける。

あなた方も自分の深層意識についてもっとよく知るようになれば、テレパシーの受け手になることも送り手になることも今より遥かに容易になるであろう。

 ここのところをもっとよく説明することとしよう。私は前に潜在意識と物質的身体を結ぶ幽的流動体のことを説明した。私が正確には「幽的流動形体」と呼ぶところのこの流動体は、絶えず形を変えており、肉体とは全く違う柔軟さを持っているのである。

それは極めて印象付けられ易く、驚くほどの過敏さを備えている。困ったことには、それが脳とあまりしっかり結びついていないことである。というよりも、むしろ人間の方でその連結の付け方をあまりよく知らないといった方がよかろう。心をある事柄から離すと、現実方面の機構がフル回転しなくなるので、部分的にはこの状態が達成できる。他にもこの結合を操作する方法はある。さて、記憶はこの流動体と結びついているのである。したがって記憶はこの流動体を通して引き出されることになる。これはまたあなた方がテレパシーと呼んでいるものを受け取る役目もする。

 実際この幽的流動形体は数多くの通信を受け取っているが、これが脳まで伝えられるのは極めて稀な人の場合のみである。流動体は通信を空中に発信するということも明言しておきたい。

それがある霊によって運搬されるということは普通はないことである。一般的には、心の糸のようなものが幾つも空中を漂っていて、それが通信を流動体の中に取り込むとそこに印象が形成され、ついでその幾分かが脳に伝達されるのである。

 科学者は、生理学や物理学によっては生者間のテレパシーを説明できないと思っているらしい。魂の生理学にはそれが可能だと言いたい。一見これは言葉の矛盾であるかのように思われるかもしれない。がしかし、現実にはそうではない。

人間には未だ発見されていない極微の粒子が存在するのである。それらはあまり微小なのであなた方はそれを物質として認めることができない。しかし遥かに繊細な知恵を持った帰幽者にとっては、これらの微粒子は、その性質が物質に似ているとは言えないとしても、少なくとも物質を思わせるものではある。いずれにしてもこの微小原子は感情の影響を受けるものである。

感情と意志はこの微粒子に推進力を与え、脳はそれにある形態を付与することによって受容する。

 神経魂(ないし神経記憶)は当然意識の影響を大きく受ける。それが刺激に対し迅速に反応するものであることは前にも述べた。意識はある努力をしようとすると緊張する。今仮にテレパシー実験をしようとしたとすると、意識は発信者の想念を受け取ろうと望むが、この望みは多くの人の場合、神経魂を緊張させ、一種の活動停止を招来するだけに終わってしまう。こうした状態では神経魂は働きもせず、受容もしない。脳が「受け取るな」という本能的警報を出したのである。本能が意識の希望を制圧したといえる。

本能は、元来、外的想念の侵入から個人を保護するものなので、これは正しい措置なのである。もし人が他者の想念を無限に受け入れ続けたならば、その人の脳は異常をきたしてしまうのであろう。

それゆえ、自然は人間に対し、想念の矢が意識の鎧を突き抜けて、生体の機構を傷つけないように保護しているのである。ある人がこの本能を充分に調節できれば、彼は敏感な受信者となるであろう。神経記憶(ないし神経魂)が、テレパシーの受信に役立つ内在意識と直接に結びついていることは無論である。

「流動体」ということばを字義どおりに解してはならない。地上にいたときならば、私はこのことばを用いなかったであろう。ここでは、神経魂や流動体は確かにある種の流動性を持つのでこの語を用いているが想像を得やすくするためのもので、決して専門的見地からのものではない。

 私が各界との関係で用いた用語も、文字どおりに解釈されてはならない。それらは各々、ある特殊状態を象徴的に表わしているのみである。



   
  第二十一章   二つの世界の想念交流

 可視と不可視の世界の間には絶えざる想念の交流がある。そしてそのことがまた、あなた方とわれわれの交信を一層難しくしている理由なのである。もしわれわれが、生者や帰幽者の漂う想念の堆績を分類し区分することができれば、帰幽者の想念の流れは、もっと明確に、あなた方のもとに届くであろう。

帰幽者が探検を試みようとする時などは特にそうだが、人間の空想の大森林の中に迷い込んでしまうというようなことが起こりうる。そんな時は必ず誤った道筋を辿ってしまい、挙句の果ては嫌気がさして、問題の解決を投げ出してしまうことが必定だ。

私は単に数個の心から出される想念のことのみを言っているのではなく、全能の母たる宇宙全域の、無限の腹中に憩う霊魂たちから発せられる絶えざる想念の流れについて、想いを致しているのである。

 私などは過ちに陥り易い影のような存在だということをどうか忘れないようにしていただきたい。しかしながら、この困難な問題を扱うにあたっては議論の根底にある前提を設けて話を進めた方がよいであろう。まず、平均的な教育のある者の例をとることにしよう。彼が物質的身体の中に生きてその精神力が旺盛な時期にあるときは、次の互いに異なる意識状態を経験出来る筈である。

一、睡眠状態
二、主観状態
三、通常意識の状態、の三つである。

 このうちの主観状態についてはかなりの幅があると思ってもらいたい。それはかなり多様である。人的な手段、たとえば催眠によってこの状態に誘導されることもある。施術者の意志に反応するように訓練された被術者は驚くべきことをやってのける。

幼少期の記憶を思い出だし、苦痛にも全く感ぜず、また時としては超常的としか思えない知識を獲得することもありうる。インドの神秘修行者などは容易にこの主観状態に入り、しばしば何マイルも離れた所で赤の他人がすることを察知しうる。つまり心的な旅ができるのである。

 現代人のそれと全く同じというわけにはいかないが、われわれ死者と呼ばれる者の世界にもやはり三種の意識状態がある。

 あなた方は眠っていても、ある意味では主観的状態にある時よりは意識があるのである。というのは、痛みや騒音がある時には目を覚ますけれども、深い催眠状態に入った者は痛みも感ぜず、また雷が鳴っても起きることが無いからである。

われわれ帰幽者がある霊能者を通じて交霊しようとする時は、われわれはこの主観状態の夢の中に入るのである。われわれの場合において大事なのは、この状態にも二つの段階があるということである。

軽い入神に入っている時は、生前の具体的な記憶を想い出すことはできない。更にまた、霊媒に直接憑っている時のことを考えてみると、人格や話し方に生前の面影は留めえても、自動書記や霊言などを通して地上時代の経歴などの正確な事実を通信することは大抵無理なのである。時としては名前さえ通信できないことがあるのである。
 
 もっとも、われわれは霊媒の心の中にもっと深く入っていって、そこにある記憶を読むことができる。その記憶は脳細胞や神経細胞の外にあって、目に見えない糸でそれらに結ばれている。 
 
 ここで観念連合の奇妙さに出会うことになる。たとえばあなたが十年前のティー・パーティでトム・ジョーンズ氏に会っていたとする。しかしそれ以来、すっかり、彼の名前も忘れてしまっていた。

しかし誰かがそのことを言うと、最初の一、二秒は何のことだか分からないが、やがて十年前のティー・パーティで会ったあのトム・ジョーンズ氏のことかと想い出すのである。同じようにして帰幽者も霊媒の潜在意識の中に、彼の地上生活に関連した諸事実を想い出させる記憶を見つけだす。かくして、その記憶がすぐさま通信されるのである。

 さて次に、帰幽者が達成するかもしれない第二の入神状態のことについて述べよう。それは楽しく、時としてはとても気分の良い状態である。これは第一の状態よりももっと睡眠や夢の状態に近い。

意識のこの状態になるとわれわれは人間の主観的な心の中に潜入することが出来る。しかしこの点では人間の方でわれわれに手助けをしてくれる必要がある。つまり彼がわれわれと愛情の紐で結ばれているか、または彼が霊能者と呼ばれる存在であることが必要である。

人情や愛やわれわれへの深い関心などにより、主観的観念をもってわれわれと再会を祈念する者は夢中のわれわれに扉を開いてくれることになる。われわれはその中に入って再び地上の夢を見る。

 われわれは地上世界に現実に起こることを知覚して、われわれに道を開き、愛と強い関心とで二つの世界に橋を架けてくれた人の潜在意識にそれらを印象づける。しばしばわれわれは彼の潜在意識に反映するつまらぬ出来事を知覚することもある。

また時としては、われわれがこの夢の気分に没入している時に、一つの潜在意識と接触するだけではなく、幾千という潜在意識と接触することがある。それはあたかもわれわれの前に広がる大海のようである。その大部分は了解不能である。われわれはただその一部を味わってみるにすぎない。

しかし指導霊の援助があれば、われわれはこの心の海から生前の出来事や、名前や、場所などに一致する特殊な観念の連想物を引っ張り出すことが出来る。そこでわれわれは、自分が交信していることの証拠としてそれを用いる。

 第三の主観状態に入るとわれわれはあの大記憶に到達することが出来る。しかし、ああ!残念なことに、それは地上の人々に近づく時の状態とは違うのである。

われわれはこの大潜在意識───むしろ超意識というべきか───たる人類意識に到達すると、数多くの記憶を集めることが出来る。私は、この状態については、永年こちらにいて大いなる進歩を遂げた帰幽者たち、即ち、特別叡智の優れた高級霊が、極く稀にこの第三の状態に入って、地上の霊能者を通じてこの大記憶に記録された歴史を伝えることが出来るのだという以上に詳しく述べるつもりはない。

 しかしこのような叡智ある霊魂は、そもそも自己の知るところを通信してこようとはしないものなのである。それは人のことばに表わしえないものであって、たまたまその残響を捉えて霊感を受けた天才がその作品の上に表現しうることがあるのみである。

帰幽後わずか数年を経たばかりの霊がその想念を伝えようとして生者の肉体に憑るような時には、まずもって、この第三の状態に入ることはできないのである。

 われわれは交信する時、霊能者の深層意識が理解し易いように絵や、イメージや、記号を用い、また時としては、記号や、シンボルを用いて霊能者の知らない名前や言葉を伝えるというのは本当のことである。あなた方が正常な意識と呼んでいるものは、あなた方の心と他者の心に防壁を立てることに外ならない、ということをよく銘記しておいてもらいたい。

しかしこうしたことすべての奥には、人間全体に共通の深層自我すなわち主観的心性ともいうべきものがあり、これが殆ど防壁に遮られることなく他者の潜在意識の中に浸透していくのである。しかしこのことはまた別に論ずることにする。

 私は前に、こちらの帰幽者が活動的かつ意欲的な生活を営みつつある時、彼らの地上時代の記憶の大部分は一時的に中絶してしまっていると言ったが、そのことについてどうか心を悩ませないでいただきたい。

 こういう環境の中で、彼らはごく正常な心霊的意識の内にいるといえるのである。帰幽した息子、父、その他互いに懐かしい想い出を持った者たちは誰でも、望みさえすれば、一緒にこの第三の主観状態に入って、地上生活の古い記録をすべて取り戻すことができるのである。

そして再会した二人の帰幽者は彼らの地上での経験のドラマを一頁一頁取り出して読むことが出来る。かくして地上時代に積み上げたどのような些細な知識でも思い出すことが出来る。

ホーマーの『オデッセイ』、学生時代に苦労して覚えたラテン語、ギリシャ語、はたまた青春時代のスポーツ競技であろうが山を成す学識であろうが、すべてをはっきりと思いだすことが出来る。だらけた晩餐会やお茶の間の会話もそのままに想い出され、あなた方は再び退屈を味わいながらそれを耐え忍ぶ。

 あなた方は独りで、古臭い抒情詩、つまらぬ喧嘩や悩み、そしてお望みならあなた方ご自慢の教養のすべてを掻き集めてみることも自由である。

しかし無論、もしあなた方が過去の役柄を再演したいと思うなら──地上生活時代の環境や出来事の細かく貴重な詳細に目を輝かせて、再びそれらに手を触れたり、引き出しから昔のラブレターや髪飾りやそして更には小さな金縁の微細画(ミニチュア)を取り出し、去りにし懐かしの日々を想い出す年老いた男女よろしく振舞うことをお望みなら、友人や、家族の者たちと一緒に、この第三の主観状態に入ることが必要なのである。
    
 帰幽者の多くは新取の精神に富んでいるものだ。死後に初めて昔の恋人と再会した当座は暫く、『生命の書』から、肉体の苦痛を伴わずに味わえる過去の快楽の思い出を引き出して、それに耽っている。

が暫くする内に、大記憶の中に記載された過去の経歴の堆積や、その他諸々の記録に飽きてしまう。そこでわれわれは「時」の敷居を跨ぎ、果敢にも神の想像の中に入っていく。第三の主観状態で『生命の書』の未来の頁を読むのである。そこには曾て予言者や占者たちによって漠然と予言された、未だ地上には生起していない人間のドラマが展開されている。

わが子孫の者たちの放浪、われとわが血を受け継ぎ、その印を額に印した者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来───すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが───につくづくと眺め入ったとき、われわれは悲嘆に暮れてこの『生命の書』の巻を閉じるのである。

 最後になったが、こうして第三の主観状態で過去と同じく未来の頁までも読む力を与えられるのは、陳腐な言い方ではあるが、霊的に進化した、進んだ魂にのみに限るのである。

死後の門を潜った魂たちの大半は心霊的に未発達な境涯に留まるのである。私がここで「心霊的」と述べたのは、一般的な意味で言ったので、例の死後生存の研究とは関係がない。

こうした多くの魂たちはある運命の道を辿りつつあるのであるが、暫くは、地球の超意識とは無縁である。これらのいわゆる死者たちは、嬉しかったり、悲しかったりのあの幻想の中に留まるのである。私はここでは、母なる大地のもとから目に見えぬ世界に移行するすべての魂について書き記す暇(いとま)はない。
  


   
  第二十二章     幸福とは     
 
 平均的男女の場合
 
   
 幸福について論ずるには、均衡の感覚を失わず、人間それぞれの個性を分類してみることが必要である。ある人には永遠に変わらぬ真実の歓喜とみえることが、ある人にとっては不満であり、苦痛そのものでしかない場合もあるのである。

 学識ある人々は、幸福についての不変の原則を宣言しようと努力してきたであろうが、それはそもそも誤った前提に立っていたのである。何故なら、人間の本性は元来、変化に富んだものであって、階級、国家、人種の相違等を無視して、「私の言う原則に従えば、必ず幸福になれる」というのは土台無理なことなのである。言われた当人も、国家も、そうした原則を日常のものとすべく十分には、物理的にも、精神的にも、また霊的にも発達していないかもしれない。

よし適用できたにせよ、その原則が型にはまったものであるときは、人々に退屈や幻滅を味わわせる結果になるかもしれないのである。

 例えば、キリスト教や、仏教の苦行者は、どちらも幸福への道程については一致しうる。彼らの真の幸福は感覚に由来せず、金銭や、権力や、他人に対する権威の中には得られないということを確信している。両者とも完全な自己放棄を勧め、富や、力や、美については、それが他の如何なる言葉で表現されようとも軽蔑せよという。

彼らは真の幸福とは、瞑想や神との霊交の内にのみ得られるのであるから、そうした清い観想に耽ったり、感覚や本能を喜ばせる類の神の創造物はことごとく軽蔑せよと説くのである。

 こうした考え方は、多くの真面目な反論に出会うことであろう。神秘家にとっては、内面の生活のみが真の幸福の源泉である。しかし、百人のうち九十九人までは神秘家ではなく普通の人で、そうした教えを実行に移すことが元来不可能なのである。

もし仮に彼らがそうしようとすれば、自らの性情を制限し、歪め、苦しめる結果になるだけである。

 普通の人間にとっての幸福とは、例えば「節度」、「自制」、そして「自由」というような言葉の中に見出せるのである。なんとしても彼はまず、自己を支配することを学ばなければならないのである。

その能力が獲得できたなら、次に他人や種々の状況を賢明にコントロールすることを学ぶべきだ。そうすることによって初めて彼は自由を勝ち取るのである。第二に、彼は、自分がこの宇宙に繰り広げられつつある神の経綸の中では、極微な存在である(無価値にも等しい)ことを知らなければならない。第三には、彼は、自分自身の持つ創造力を開発すべきである。

 自己に対する支配力を獲得することによって、ある種の心の平安がえられ、そのことによって今や、日常の煩いや不幸は、彼の魂の奥まで浸透しなくなり、静謐を乱さなくなる。他人をコントロールする力を得れば、貧窮や欠乏に襲われなくなる。様々な悪意あるやり方で彼の運命を狂わそうとする者にも打ち勝つことが出来る。

自分が矮小な存在にすぎないという認識は、むしろ彼を他人との自然な交わりに導くことによって幸福をもたらすし、そのことによって一瞬でも自我を忘れ、本当に必要な時に他人との生き生きした共感を持つことができるようになる。

 創造の本能は人間本性の最も本質的な部分である。それに賢明な表現を与えることこそ、先ず第一になすべきことである。それは部分的には性の衝動から生ずるものであるが、結果的には、それはしばしば、性とは全く掛け離れた活動領域で最大の幸福を得さしめるのである。

性生活がどうであろうと、この創造原理に捌け口を与えることが賢明なのである。構想力や想像力に欠けている場合にはなんらかの形式の美の観賞にそれを求めればよいのである。とはいっても、感覚の放蕩に陥ってはならない。

しかし何といっても、真の創造力と自制心を二つながら備えた人は幸福であり、その際の表現手段の高下などは問題ではなかろう。

 一般的に金銭への侮辱を勧める禁欲家たちは、家計に何の心配もない人達である。友人や崇拝者たちが彼の必要を満たしてくれるか、彼自身にかなりの収入の道があるかである。

 それ故私は、幸福の追求者に対し、金銭への適度の理解を持つよう忠告する。それなしには人は、飢えや物質的不自由や不健康に見まわれる結果、静謐や霊魂の宮居にこそ住まう理知や魂の光を保つことができない。そうなれば刻々と責めたてる肉体の要求のために自由ではいられなくなる。そして僅かな賃金で長時間雇われるようなことにでもなれば、それこそ、自己を陶冶し、その成果を他人に分かち与えることの楽しみをも持つことができなくなる。

 こうした訳で、金銭に対する適度な欲求を持つことは美徳である。というのも、それはたまたま十全な人間であろうとする一つの欲求であって、金銭的に満ち足りていることと、そこからくる満足感を通して、結果において他人をも益したいという望みの現れだからである。


 幸福は努力を通してのみやってくる。すなわち
㈠ 感覚的な快楽への惑溺を叡智をもって抑制すること、

㈡ 肉体を健全に発達させるための運動をすること、
㈢ 精神の進歩のための勉学、そして、
㈣ 他人への寛大さや慈愛ある見方をすること、

等を通して幸福はやってくる。これらの進歩が霊の発達を促すのである。

 真の幸福とは、平均的な人間の場合、肉体、感覚、心、霊的知覚等を不断に、また賢明に使用することによって得られるのである。

 人類は、究極的には、人生と内的平安の秘鍵を「叡智」の中に見出すことであろう。信仰、希望、そして慈愛───これらの徳目はみな聖パウロによって奨励されたものだが───等はこの高貴なことばのうちに含まれ、叡智の輝きによってこそそれらは見事に形造られる。何故なら、これらの徳目は叡智なしには日の目を見ず、また闇の中に隠されたままでは、健全な発達を遂げえないからである。

 

   
  第二十三章    神は愛よりも偉大

 神が愛や善であるとして語られるのは、私には、神が妬みや、復讐心を持つものとして語られるのと同じように、奇妙に思われる。神はそのようなものではない。神はあらゆる生命にとって不可避の究極点である。

それは善でもなければ悪でもなく、残酷であったり親切であったりするような存在でもない。神とはあらゆる目的の彼方の目的であり、愛も憎しみも持たない。したがって神を表現する思想もありえないのである。

何故なら、私には、神は創造のすべてでありながら、創造物の一切から離れたものと見えるからである。神は無慮無数の世界と宇宙の背後に控える観念(イデア)なのである。

 愛や憎しみについて語るとき、われわれは人間のことばの限界内で考えているのである。そのようなとき想い描くのはおそらく、息子に対する母親の愛、妻に対する夫の献身、恋のための英雄的な行為といったものか、あるいはそれが憎しみの場合には、裏切り、だまし、果てには狂悪な犯罪さえも犯す者への怒りといったものである。

 人間の愛憎は、それがいかに高貴なものであったとしても、なおかつそれが神のものであると言うことはできない。
 
何故なら、愛というものにはすべて欲望の影がさしているからである。それ故、愛には神に結びつくべき純粋さが欠けているのである。たとえ最も高尚なるべき、悪への憎悪といえども汚れに染まっていないものはなく、それを神の御名の下に言うことが冒瀆なのに変わりはない。

 つまり、こうした感情と神を結びつけて語ることはできないのである。われわれは 「無限の同情、無限の優しさ」 などというが、神は祈禱書にいわれているような 「愛深き父」 のようなものではないのである。

神とはもっと高貴で偉大なものだ。 「愛深き父」 ───世間で一般的に言う意味での───とは、自分の子供だけを可愛がる人のことである。例えば、戦争においては、英国は神の愛は自分たちの為のものだと主張し、ドイツもまた同じことを主張するであろう。 

人はある特定の人とか物に対して、身も心も捧げていることを示したいときに、この 「愛」 ということばを用いる。

そして何の気もなしに、神は創造物のすべてを愛するなどと言うが、それを神などと呼ぶことによって創造者の観念を安っぽくしてほしくないものである。何故かといえば、そう呼べば神の観念を限定してしまうことになるからで、神を人間のことばの中に閉じ込め、つまり神を人間にしてしまうからである。

 否、神は愛ではない。愛は人間の美徳であって、時として炎のように燃え上がったり衰えたりし、一生のある時には燃え盛るが、その火勢を維持することはできないのであるから、愛はまたどのように善良な男女の仲にあっても、苛立ちや、ある種の不平や、利己的な憂鬱に彩られている。

 神は変化するようなものではない。宇宙の御祖(みおや)としての働きは、躓いたリ失敗したりするようなものではありえないのである。もし神が愛であるならば、生命のあの罵倒すべき創造は決してあのように完璧に維持されるはずはなく、あなた方が愛と呼ぶその変わり易い性格に従わなければならないことになる。

そして天地間の生命の成長は暫く休止させられたことであろう。すなわち、もし神の心が変化するものであったとしたら、雨は大地を潤さず、豊穣たるべき秋は収穫をもたらさず、大地は不毛に横たわる。

海の潮はみはるかす地平の大方を浸し、山々はその頂から崩れ落ちて、何百万という生命が瞬時に損なわれるであろう。もし神が、人がその言葉で理解しているようなうつろい易い 「愛」 を持っていたとすれば、世界の歴史は善よりも悪の方に変わっていたであろう。「神は愛よりも偉大である」 これこそまさに愛よりも神に相応しいことばなのだ。

 私は、我等が師たるキリストが 「神は愛なり」 と説いたことを承知している。キリストにとっては神はまさに愛であったのだ。何故なら、キリストはそのことばの中にこれまでこの地上に出現した人々が考えたような人間的な意味はこめなかったからである。

イエスが神の子であるという主張は、彼が神の神秘を知り、 「神は愛なり」 ということばによって、全人類中ただ独り、このことばの意味するところを真に理解したという事実に基づくのである。

 アダムの子等であるすべての人々は、 「神は愛である」 というとき、皆、人間的な意味でそれを理解している。それ以上に理解しようがないからである。そこで私は、有限の心を持ったあなた方に、神を、 「神は愛よりも偉大である」 ということばで想い描くようにしなさいと勧めるものである。



     
  第三部 交差通信の記録     (レナード夫人とカミンズ嬢)                 
E・B・ギブズ
  
 フレデッリク・マイヤーズが、私の出席する交霊会で最初の通信を送ってきたのは、一九二四年の十一月のことでした。その時カミンズ嬢と私は、ある年輩の夫婦───R大佐御夫妻ですが───の御招待を受けていました。

御夫妻は永年心霊問題に興味を持っていたのでした。彼らはその頃、簡単な 「ウィジャ盤*」によって、死者からの通信をこれまでにかなりの量、受け取っていると言っていました。そこでもし、カミンズ嬢と一緒に組んでそれをすることができたら、どんな結果が得られるであろうかと、期待に胸を膨らませていたのでした。

 カミンズ嬢とR大佐は小さなテーブルに向かい合って座りました。テーブルの上にはアルファベットの文字が円状に並べられ、二人の手は一個のグラスの上に置かれました。数分後、グラスが動き出し、一文字、一文字次のように綴りました。 「フレデリック・マイヤーズだ。研究者の諸君。諸君は私の友人たちをご存知か?」
 
ギブズ (記録係)  どの友人ですか? 私たちは勿論あなたのことを知っています。 
 
マイヤーズ   バレットのことですよ。 
 
カミンズ   ウィリアム・バレット卿のことですか?
マイヤーズ  そうだ。バルフォアもだ。いよいよ地上と交信する時がやってきた、と承知してもらいたい。

 その時この霊は、何とかして、いわゆる 「交差通信」 を試みて、二、三の霊媒を通し同時に話してみたいという希望を述べました。そう言って霊が離れると、グラスの動きはピタリと止まりました。

 「フレデリック・マイヤーズ」 という名前が出てきたときは全く驚きました。彼と接触を持つなどということは、思ってもみなかったからです。またほかでも述べましたように、彼に対する個人的な興味もありませんでした。実のところ、私たちは、R夫妻の友人が交信してくるものとばかり思っていたのです。

R夫妻の方はといえば、彼らにとっても、マイヤーズは赤の他人でしたので、予期せぬ交信結果に少なからず失望したものでした。

 考えてみますと、マイヤーズの指導に従ってみるのも興味があり、また、彼の出現が、 「潜在意識」 という未知のものの発明にすぎないかどうか確かめるのも面白いので、私は、カミンズ嬢の支配霊であるアスターに、マイヤーズを探してくれるように頼み、結果を待つことにしました。

 一週間経ち、私たちの部屋でいつもの交霊界を行っている時、マイヤーズは再び私たちに話しかけてきました。
 
マイヤーズ 話しかけても宜しいか?

ギブズ    フレデリック・マイヤーズさんですね?
マイヤーズ そういう名で呼ばれていた者だ。

ギブズ   あなたに質問しても構いませんか?

マイヤーズ    構いませんとも。私は新しい霊光に牽きつけられてここに来た。

ギブズ  先日、ある御老人のところで話しかけてきたのはあなたかどうか知りたいのですが。
マイヤーズ  その老人を通して話しかけようと思ったのだが、あの時は大変混乱していたようでうまくいかなかった。誰か他の者も話したがっていた・・・・・。その他にも邪魔があったのだが、何とか私の通信を送りたいと頑張ってみた。


 私は、主観的心霊現象に潜在意識の干渉が入る可能性について述べ、心霊現象を研究する上では、現象にそれが混入する事例があっても、ある程度やむをえないと許容されるべきではないかと申しました。

 するとマイヤーズを名乗る霊は、霊媒の内在意識が他界からの印象を受け取る時の仕方を説明したのです。(序文二十八頁を見よ)

 この自動書記が進行する間に、もしこの自称マイヤーズ霊がオズボーン・レナード夫人に通信を送ることができれば、証拠という観点からして面白いのではないか、という考えが、ふと、私の心に浮かんだのです。その後すぐにもレナード夫人との交霊会の予定がありました。私は霊にこの提案をしました。

がしかし、約束の日がいつかということは言わないようにしました。ところで、こうした自動書記によるこの世とあの世の通信のときは、出席者が通信の内容について大声で何かを言うと、答えがすぐに自動書記で返ってきます。

この提案に対してマイヤーズは即座に、何とか工夫してみようと答え、「私としては通信できることが無上の喜びだ」 と付け加えました。そして更に次のように述べました。

「ご承知のように、私は死ぬ前に、個性が死後も存続することについては確信していた。しかし決してそのことを公にはしなかった。こんなことを言うのは、われわれが今会話を交わし合っているのだということを、もっと積極的にあなたに信じてもらいたいためだ。信念の欠如はお互いの間に壁を作ってしまうから」

 その交霊会の後の方になって、私は彼がレナード夫人の支配霊フェダを通して通信しようとする内容を予め私たちに言っておくべきだと提案しました。すると彼はこう答えました。 「宜しい。やってみよう。あなたとお目にかかれて本当によかった」

 以上の会話は何の変哲もなく聞こえることでしょう。しかし、もし人間の個性というものが死後にも存続し、死は肉体という物的衣装を脱ぎ捨てるだけのことだとすると、こうした会話こそ自然なのです。

 レナード夫人とカミンズ嬢による交差通信に筆を進める前に、マイヤーズがR大佐夫妻のアパートメントに現れた理由について、説明しておいた方がよいと思われます。この点について彼は次のように答えました。

 われわれは現在、顕幽通信のための時が熟したと考えている。この努力は、地上の様々のところで為されていると思う。そこでわれわれは、新時代を開き、人類に対し、個性も人格も破壊されずに死後も存続することを確信させる機会を摑む決心をした。

そこで私は、地上の人々がわれわれと交信したがっている合図を見つけ出そうとした。私とあなた方が最初に出会ったときは、その合図が明瞭に出ていたと言える。それ故、実際にやってみて、通信の困難さに遭遇したときは、少しばかり失望した。他にも話したいと熱望する者がいたので、あの晩に相応しい形での通信を送るのは難しかったのだ・・・・・・。

 われわれは二つの方法で招(よ)び出される。一つは受信者側の熱い希望によってである。こちらへ来て見ると、熱望は、肉体を持ったあなた方が想像もできないほどのある力を持っているのである。それは牽引する何かであり、迅速な招霊を実現する。通常われわれの方もそれに応じたいと強く思うものである。

第二の場合は、霊媒は参会者には強い希望がなくて、われわれの方にそれがある場合である。私は新しい霊媒を見つけ出したいと思っていた。あのときの二人のような霊媒を私はずっと求めていたのだ。

あの晩二人が座って交霊を始めた時、かなり強い霊光(サイキック・ライト)が輝いていた。それは私にも見ることができ、私たちはそれまで何のかかわりもなかったのだが、私はあなた方に話しかけることにしたというわけだ。あれは少々無茶なやり方であったかもしれないが、ともかくもあんなやり方で自己紹介をすることにしたのだった・・・・・・。

 オズボーン夫人とカミンズ嬢はこの日までお互いに面識がなかったことを強調しておく必要があります。むろん手紙その他でのやり取りもありませんでした。それ故、両者に意識的な連絡がなされたとの考えは全く排除されなくてはなりません。私も交霊会以外にはレナード夫人と接触を持ったことはありませんでした。

 以下に関しましては、一九二四年十二月十二日金曜日に行われた心霊研究協会の大会に言及しておく必要があろうかと思われます。この会合で、故バルフォア卿は、ギルバート教授と数人の人々の間で実施されたテレパシー実験についての見解を述べました。カミンズ嬢もこれに出席しており、新聞にはこの大会のことが詳細に報じられました。

 十二月十四日の日曜日、カミンズ嬢は私の部屋で自動書記をとりました。以下は私のコメントを添えたその時の記録です。

アスター  私を招(よ)びましたか?

ギブズ  フレデリック・マイヤーズに出てくれるように言っていただけますか?
アスター  分かりました。ちょっと待ってください。

               (間)

マイヤーズ  私に会いたいということだが?

ギブズ  何か通信を送って下さるということでしたが? フェダを通して送って下さるとおっしゃいましたね。

マイヤーズ  確かに、やってみたいと思っている。フェダは多分通信を受け取れると思う。文章にした方がよいだろうか?
ギブズ  おまかせします。

マイヤーズ  一つの観念とかイメージを送るよりも、文章を半分送る方が難しい。二つのテーマを出してみよう。一つは交霊に関することがよかろう。この女性(ひと)を通して私が今話しつつあるという意味のことをフェダを通して伝えてみようか───こちら側で考えていることを言ってみてもよいかね? 

まず、われわれは、先日、バルフォアが最後になって言ったこと知っている、と言っておこう。あなた方はあれはバルフォアの考えだと思っているかもしれないが、実は、仕方なくあの話をしていたのだ。

お仕舞いには反発心さえ持っていたのだが、彼は外部の力で無理やり喋らされていたのだ。というのは、死者つまりガーニーと私の強い想念がさせたわざだ。私はこのことをフェダに伝えようとしてみよう。これは難しい。だから失敗してもフェダの所為(せい)でも私の所為でもない。

ほかに是非とも話したいと思う者がいるときはうまくいかない。あなたに一つ頼みたいことがある。フェダのところに行く一日か二日前に、私がこの女性を通して書いたことについて強く思念してみてほしい。そう、私、フレデリック・マイヤーズについて考えるのだ。名前を呼び、姿を想い描いてくれ給え。そして次のように思念すること。

 「マイヤーズは、バルフォアがこのあいだ演説したとき、彼が話したくないことを無理やり話させられた」 と。あなたの考えでは、 「それではテレパシーになってしまう」 と思うかもしれない。しかしそれは、あなたからフェダへのテレパシーという意味なら、全く違う。あなたの行なうこうした精神集中は次のように働く。

すなわち、それは、私をあなた方の交霊会へと引き寄せる念力を生み出し、私がフェダに近づいて通信を伝えるのに必要な力を私に与えることになるのだ。あなたもお分かりのように、私とあなたとの間には元来何の強い結び付きもない。そこで私がそこへ引き寄せられるための強い磁力が必要なのだ。


ギブズ  あなたはその交霊会で、そちら側にいる私の友人のNさんとお会いになるかもしれません。

マイヤーズ  喜んでその人とお目にかかろう。しかし私がその人と話ができるかどうかは、その人の幽体(ソール・ボデイ)が粗く出来ているか精妙にできているかによる。

ギブズ  会が終わる頃になってもフェダが何も言い出さなければ、ほかの通信者がいないかどうか尋ねてみるのは構いませんか?

マイヤーズ  どうぞ。それは役に立つだろう。新境地を開くことは難しい。一度あなたのいるところで私が話すことができれば、後はずっと容易になる。われわれが想念の糸を霊媒に投げ掛けることができれば、次回はそれを辿って行き易くなるのだ。
 
(私はここで、霊媒と私がバルフォア卿がテレパシーの問題について話したときの会に出ていたこと、そしてその記事は幾紙かの新聞に載ったことを説明し、そういうわけで、このテーマは、交差通信の対象としては不適当なのではないかと述べました)了解した。

それでは他のイメージについて考えることにした方がよさそうだ。あなたはこの女性(ひと)を通して私が最初に書き送った内容を覚えているかね。

私はフェダに、「私が死ぬ前、死者の死後存続の問題は証明されたという私の確信を証明する本を書こうとしていた」と告げるとしよう。その本は出来あがってはいなかったが、私は膨大な関係資料を集めており、それらは私の見るところでは死後存続を明確に説明するものなのだ。

そこであなたには、フェダのところへ行く前に、私のこの文について考えてもらえば大変効果があるだろう。バルフォアについては、どうか記憶から消し去ってもらいたい。

その代わりにフレデリック・マイヤーズは、死後の存続が疑いもなく明確に証明されたという確信を表わした本を、死ぬ前に書こうとしていた、という事実を思い浮かべてほしい。私は誰かがこの私の計画を知っていたとは思えない。

しかしながら事実はその通りなのだ。お望みならフェダに伝える二つの事柄を、短い文章にしておこうか?

ギブズ  ええ、どうぞ。
マイヤーズ  第一の文、「フレデリック・マイヤーズは、この女性を通して文を書いた」 第二の文、「フレデリック・マイヤーズは、生前、死後存続の問題はその結論において証明された、との確信を表明する本を書かんとしていた」 さあ、これで、私の意見表明と私の名前があなたの手中にあるわけだ。

私が成功するかしないかは条件次第、つまり、あなたの霊力ならびにフェダにコントロールされている霊媒の力量如何にということになろう。どうか、今夜眠る前にこの二つの文を心に描いてくれ給え。こちら側から現世に向けての実験を行う機会を与えてくれたことを、あなたに感謝する。

 翌日にあったレナード夫人と私の交霊会の前半は、いつもの通信霊たちによって占められていました。会が終わろうとする頃になっても、マイヤーズへの言及が何もなかったので、私はフェダに、誰かほかに、私に話しかけたいと思っている霊がいないかどうか探してくれるように頼みました。

フェダは私の当てにする人とは別の何人かの名前を挙げました。そこで私は、少しばかりヒントを出すべきだと思ったのですが、肝心なことは漏らしてしまわないように注意して、フェダにこう言いました。

今、私は、ある人物のことを考えているが、〝それは男の人で、かなりの重要人物です〟と。私が、探してもらいたい人物の年齢とか、どんな種類の重要さなのかについては、何も言わなかったことに注意していただきたいのです。

 すると、彼女は以下のように話し始めました───

 〔以下は、一九二四年、十二月十五日、月曜日、午前に行われた。オズボーン・レナード夫人との交霊記録からの抜粋です。文中の傍点の部分は正しい言明であることを示します。〕


フェダ  これはTさんではなくて、誰かほかの人です───。若くはない、かなり年輩の男の人がここに来ています。私にはまだ見えないのですが、ここにいることは分かるのです。前にもここに来たことがあります。そしてここではなくてほかの所で通信しようとしました。ほかのどこかでです。

この人はこうしたことにかなり興味を持っている人のようです。私はこの人のことをよく知る必要がある、という風に感じます。旅行してまわったことのある人のようです。地上生活中いろんな所に行って人と会ったり、見物したりしました。この人はかなり突然に亡くなりました。

私にはいつも人の死が急だったかどうかが分かるのです。この人を見ることはできません。名前が分かるといいのですが。

ギブズ  その人はもっと近くに来れると思いますが。
フェダ  近づこうとしています。彼は何か書きものでもしたんですか? 書きものという風に感じます。そう難しい書きものというわけではないようです。彼が書いたのは二種類の書きもので、テーマはほとんど別なようです。二つの全く違った書き方をしています。Mです。Mという大文字が見えます。

彼は詩も好きだったんですか? やはり、大文字のMが見えています。でも彼が私に何を示そうとしているのか分かりません。おや、今度は沢山の詩が見えます。分かりますか、彼が見せようとしているのは新しい詩ではありませんよ。───この人は古い詩が分かるような、かなり頭のよい人だったんですね。

───古典、特にヴィルジルの詩です。かなりヴィルジルを勉強した人です。何かあなたと約束していますね。

ギブズ  素晴らしい!
フェダ  この人が姿を見せられないなんておかしくありませんか? あなたは最近、この人が興味を持ったある場所へ行きましたね。そこへこの人も同じ時に行っていました。そしてそこにはこの人の友人たちもいました。この人がこれまで援助したり、影響を与えたリしてきた人々です。

ギブズ  そうです。その通りです。
フェダ  その場所は亡くなった人たちで一杯でした。その人たちはこちらの世界へ来て進歩を遂げ、引き続き善徳を積んでいます。Lもそこにいました。

ギブズ  誰ですって?

フェダ  ご存じのはずですよ。この人も L には関心があります。
ギブズ  分かりました。全くその通りです。

フェダ  一寸待って下さい。よく分かりませんが、そこに何人かの人がいたようです。かなり分かってきました。三日です。三日前に、あなたは、この人と関係のあることで何かをしていましたか?

ギブズ  はい、間接的にですが。

フェダ  三日前に、というふうに受け取れます。
ギブズ  そうです。三日前です。
フェダ  あなたは漠然とこの人と接触を持ちました。この人に関心のあるやり方でです。それが何であるか私には分かりません。彼は何者なんですか? 彼は最近起こったあなたも知っているあることに大変関心を持っています。彼があなたに興味を持ったのはごく最近のことです。彼は今日まさにあなたに引きずられてここにやって来たのです。だから、あなたはしくじらなかったと思ってよいのです。

ギブズ  彼に感謝します。
フェダ  フレッドです! 私は今、フレッドという名前を受け取っています。フレッドさんと関係ある何かです───オリバー・ロッジ卿のことを知っている頭の良い人。あなたが今日の会見を約束した人です。それは最近になってあなたに起こったことに違いありません。私にはそれが起こったばかりのことのように感じられます。

ギブズ  そうです。つい最近になってのことです。
フェダ  私には、あなたは誰かを通してこの人のことを知った、というように感じられます。彼はそれを喜んでいます。そのことは既に済んでしまったとか、終わってしまったとかいうのではなく、今もって続いていることです。

ギブズ  そうあってほしいですね。
フェダ  フェダがこの人の名前を知る前に幾つかの事実を摑んだやり方もそれと全く同じだったのです。これで、フェダがすぐには彼のことを摑みきれなかったわけがもっとはっきりしたでしょう。そのために彼は一所懸命ヴィルジルのことを話題にしようとしたのね。

この人は、地上界でのと、こちらから地上へのと、両方のテレパシーの科学ができればいいと思って、それに役立つ証拠集めに全力を注いでいると言っています。彼は別の所でもう一度挑戦して成功させたいと考えています。


ギブズ  彼は、今日の会見の約束をしたとき、何を話したか覚えていますか?
フェダ  覚えているけど、今それを言うことができないのではないかって、一寸心配しています。彼は、この会が終わってもあの会については何も言わないように注意しなくてはいけないって言っているわ。

───多分、別の時にうまくやれるでしょうって───彼はこちらの世界でとても忙しくしているんですが、いつも地上との交信を証明する新しい方法を考えていて、あなたが彼にその機会をつくってくれたのを感謝していますよ。一寸待ってね。おや、まあ、昨日ではなくて日曜だったのね。(間) あなたはつい最近も彼と話したでしょう。昨日のことよ。

ギブズ  全く素晴らしい。
 
フェダ  金曜日の日にも彼との間接の出会いはあったんですけど、昨日のことと関係があるとは夢にも思わなかったのね。これらの出来事は、ある意味では全部あなたを通して起こっています。

ギブズ  まさにその通り。
フェダ  金曜日には彼がそこにいたことをあなたは知らなかったと言っています。なるほど、彼はこう言って笑っているわ。 「本当はそう思ってみるべきだった。あそこは私の楽しい狩場だからね」 って。

ギブズ  (笑って)ええ、分かります。 
フェダ  あなたはなぜ苛立っていたんですか? あの時、あなたは話に興味があったけど、心の中に何かがあると感じたと、彼は言っています。───あなたは不意に誰かに苛立ちを感じたんですが、なぜなんですか?

ギブズ  全く思い出せません。 
フェダ  もっともな理由があったのだ、と言っていますよ。理由なしに苛々したわけではないって。
ギブズ  私が苛立っていたというんですか?  
フェダ  誰かが少しばかりあなたの神経に触っていたみたいね。

ギブズ  金曜日に間違いないですね。 
 フェダ  金曜日だと思うって言っています。そこであなたと一緒だったからって。

 この交霊会はこのあと、まもなく終わりました。そしてマイヤーズについてはこれ以上何も出てきませんでした。この抄録には、レナード夫人とカミンズ嬢との間の交差通信がかなり見られます。例えばフェダはこうしたことにかなり興味を持った人で、ほかの所で私に通信しようとした年輩の男性について触れました。

そして、大文字の M、彼が私との会見の約束をしたことなどを述べ、それから、われわれが交差通信には不適当なので記憶を消してしまおうとした例の SPR の会合のことに移っていきました。

 フェダはまた以下のようにカミンズ嬢の自動書記と符合する点を指摘いたしました。
 「あなたは最近この人が興味を持ったある場所へ行きましたね。そこへこの人も同じ時に行っていました。そしてそこにはこの人の友人たちもいました。この人がこれまで援助したり、影響を与えたりしてきた人々です」

 「三日前に、あなたは、この人と関係のあることで何かをしていましたか?」

 「あなたは漠然とこの人と接触を持ちました。この人に関心のあるやりかたでです。それが何であるか私には分かりません。彼は何者なんですか? 彼は最近起こったあなたも知っているあることに大変関心を持っています。彼があなたに興味を持ったのはごく最近のことです。彼は今日まさにあなたに引きずられてここにやってきたのです。だからあなたはしくじらなかったと思ってよいのです」

 「フレッドという名前」
 「あなたが今日の会見を約束した人」

 「私には、あなたは誰かを通してこの人のことを知った、というように感じられます」
 「あなたはつい最近も彼と話しをしたでしょう。昨日のことよ」

 「金曜の日にも彼と間接の出会いはあったんですけど、昨日のことと関係があるとは夢にも思わなかった」

 またフェダが言った 「彼はあなたが彼にその機会をつくってくれたことを感謝している」 ということばは、私が前夜にカミンズ嬢を通して言われたのと同じでした。「誰かを通してこの人を知った」というのは、まさにカミンズ嬢を通してもたらされる自動書記を読む私の態度を言ったものですし、またそれは、マイヤーズが彼女を通して話すという 「観念」 を伝えています。

通信者が、自動書記を取っている人の名前もイニシャルも言おうとしなかったことは注目されます。もし彼がそうしようとしさえすれば、フェダは一挙に、カミンズに言及するという結論まで行ったかもしれません。

何故なら、彼女(フェダ)は以前の交霊会で何度かカミンズ嬢のことを私に話していますし、私はこの前の自動書記のときにこのことをマイヤーズに知らせてあるからです。したがってマイヤーズさえその気になれば、カミンズ嬢の名前を言うことには何の困難もなかったはずです。

しかし彼がカミンズ嬢に言及するやり方をみますと、心霊研究に熟達した通信者を思わせるのです。

もし彼がすぐにフェダにカミンズ嬢の名前やイニシャルを告げるとか、彼女と自動書記を結び付けることを言ったとしますと、秘密が漏れてしまうばかりでなく、私からレナード夫人へのテレパシーないし想念伝達だという説明がされてしまうかもしれません。
 
 更にマイヤーズは、私が言い出して、私の記憶から消し去ることにしたSPRの会合のことについて注意深く言及しました。と同時に、わたしたちが 「昨日のこととつなげられなかった」 ということばを加えることによって、彼がSPRに言及する文は破棄されたこと、またそのために、その文が、私が精神集中するように指示された二つの文の一つではなくなったことを彼が充分了解していることを示したように思われます。

 にもかかわらず、レナード夫人は単に私の心中を読み取って前述のように翻訳したのであり、彼女はSPRの会合についても知っていたのだと言われるかもしれません。

しかしながら、私がフェダに対して、ほかに誰か通信霊がいないか探してほしいと頼むまでは、それまで私の心の中の最大の関心事であったことについて、彼女が何の印象も受け取っていなかった、という点が注意されるべきでしょう。それはそれとして、フェダは、テレパシーその他では説明し難いあることに言及しているのです。

つまりそれは、彼女が突然、SPRの大会のときに私が苛立っていたことについて触れ、 「あなたは不意に誰かに苛立ちを感じたようですが? なぜなんですか?───もっともな理由があった───誰かが少しばかりあなたの神経にさわっていたみたい───金曜日だと思う」 等々と言ったということです。
 
 レナード夫人が、このような情報を獲得できるなどということは普通では考えられません。しかも言われたことは全く正確なのです。私はそのとき、私の席が友人の───F 夫人───と隣合わせたことで閉口していました。

といいますのは、F 夫人のSPRに対する態度はいつも私を悩ませていたのです。フェダは、苛立ちは 「ある人」 によって引き起こされたもので、ある出来事のためではないと言い、それは尤もなことであり、SPRの特別会で起こったことだと明確に指摘しました。マイヤーズがこの会に来ていて、私の心の中を読み取ったとしたら、彼は確かに尤もな理由だと考えたことでしょう。

F 夫人の心霊現象に対する態度は浅はかで愚かしいところがあり、マイヤーズのような真摯な研究者からみると陳腐きわまるものであったと思えるのです。

 このとるに足りない些細な事実は、眼に見えない霊が私の無意識の苛立ちを読み取ってレナード夫人に伝えた、という以外に説明のしようがないのです。しかし、私の不快感の記憶が無意識に記録されて、それをレナード夫人が潜在する感情として感知したのだと言えなくもありません。

しかし交霊のときの記録された内容からみますと、私はこのとき、この苛立ちの感情について想い出せず、フェダの指摘を聞いても全く何のことか分からないでいたようです。

 マイヤーズがフェダに言うべく用意した文のうちの一つは、全く思いがけない仕方で私に届きました。

ここに挙げられたことがすべて想念伝達で説明されたならば、(暗示を与えてはならないと決められたことまで含めて) いったい何故、レナード夫人は、マイヤーズの本に関する言明を受け取ることができなかったのでしょうか? それは明らかに、私の心の中に強くあった二つの観念のうちの一つなのです。

 マイヤーズは、私たちがお互いに避けよう、と打ち合わせた事に慎重に言及しようとしたらしく思われます。これはやはり在世中心霊現象の研究に慣れていた霊らしいところです。更に言えばマイヤーズは、カミンズ嬢を通しての実験に即興的な効果を狙ったものとみえます。

 私たちはまた、マイヤーズが、レナード夫人の交霊会で、最初に自分について明らかにしようとしたやり方に注意してみる必要があります 。補遺三の二四七頁をみよ)

その中で、彼は、自分が異なった二つの主題、つまり詩や古典文学について書いていたと言っています。

 私は、マイヤーズが他のSPRの会員たちにも同じ霊媒を通して通信を送っていたことを知っていました。しかしこのことは、彼が私個人および、私とカミンズ嬢のかかわりについて提供した証拠を無効にするものではありません。
 
 自動書記によるカミンズ嬢との交霊会が持たれたのは、十二月十七日、すなわち、レナード夫人との交霊会の二日後のことでした。このとき私は、逆に出てみようと考えて、マイヤーズがレナード夫人のところで言ったことは何であるかを、カミンズ嬢を通して言ってほしいと要求してみました。

 私がこのことについて、カミンズ嬢とは全く話し合っていなかったことを明確にしておかなくてはなりません。彼女は私がレナード夫人と会ったことも、また実験に成功したことも知りませんでした。彼女がそれについて持っていたかもしれない記憶は、たまたま、彼女の心から完全に消し去られていました。

その数日間、彼女は彼女をおそろしく悩ませる、私的な事件に対処するのに全く心を奪られていたのです。マイヤーズに尋ねるとき、私は、この実験的な交差通信の成功不成功についてヒントとなるようなことは何も言うまいと努めたのです。

 交霊はいつものようにして行われ、アスターはすぐに、フレデリック・マイヤーズが側に来ていると告げました。

マイヤーズ  このあいだの実験は、ある意味からすれば、失敗であったことをお詫びしたい。 
ギブズ  どういうふうに失敗したのですか?
マイヤーズ  あなたがある提案をされ、私がそれを実行せんとした。しかるに状況がおもわしくなく、私はあなたがこの件に関して何も収穫らしいものを持ち帰らなかったのではないかと思う。

ギブズ  あなたはお出になれなかったのですか?
マイヤーズ  いや、私は何とか私の意を伝えようとしたし、また支配霊の注意を惹きつけようと努力もしたのだった。しかし、彼女はどうも、あまり活発すぎて、私に気がついてからも、私が伝えようとする真意を摑めなかったようだ。

彼女がはっきりと何かを言うと、今度は私の方がついてゆけなかった。地上に合わせようとすると、私の知覚の働きは鈍くなってしまう・・・・・・私はまるで、機械がゴウゴウと唸っている工場にいるような気がしたものだ。必死に精神集中することで、ようやく、私の考えの幾分かを伝えることができる状態だった。

私の側で多くの霊の想念が飛び交っていたが、フェダはその中の二つ三つを選んで伝えるだけだった。

ギブズ  でも、私は大成功だったと思いますよ。
マイヤーズ  何と、これは驚いた! 私は一所懸命やりはしたが、私が用意した文の一部しか受け取ってもらえなかったと思っている。

ギブズ  あなたはご自分の言ったことを全部覚えておられますか?
マイヤーズ 私は、この女性を通して言っておいた第一の文については、伝達しえたと思っている。私は本のことについても伝えようと試みた。本については触れえたと思うが、いかんせん精確さが不足していた────つまり、死後の生存は断然証明されたという私の信念を表明した本であるという事実が欠けていたのではないかと思う。

ギブズ その点については、はっきりしていませんでしたね。
マイヤーズ そこが大事な点だったのだ。私がそれまでに書いた本においては、死後の生存に関する点が強調されていず、明確にもなっていなかったということを知っておいていただきたい。多くの霊が地上と交信する際の奇妙な混乱に心を奪われ、感心していた次第だったが、お蔭で勿論、もっとも肝心な点、つまり、私が生存中に死後の生存を確信していたという点を伝え損なった────。

 以上に関しては、次の諸点が注意されるべきでしょう。
 マイヤーズの書記には、冒頭に「ある意味からすれば、失敗であった」と出ました。

これは二つの文の内容を厳密に考えるならばその通りです。更に彼は、彼の存在を感じさせることには成功したこと、私の要求を実行しようと努めたこと、そして状況が悪かったことなどに触れています。

私はカミンズ嬢に対しては、マイヤーズがレナード夫人を通して通信してきた件について何も言っていませんでしたが、彼は私の質問に答えて、すぐさまきっぱりとこう言いました。

「支配霊の注意を引きつけようと努力をした」と。読者が、レナード夫人の交霊の最初の部分とそれについての私の注釈をご覧になれば、このことばの正確さがお分かりになるでしょう。フェッダが最初誰が通信しようとしているのか分からなかったというのは本当です。

記録されていることばの端々から、マイヤーズがフェダの注意を引こうとして苦労している様がよく分かるのではないかと思います。

カミンズ嬢(彼女はその頃、レナード夫人の交霊会については何も知りませんでした)を通して、彼は、多くの霊の想念がまわりを取り巻いて邪魔になると言いましたが、確かにそのとき、フェダの側には幾つもの霊がうろついていたようでした。

フェダはそれらの中から二、三の霊だけを選んだというのも事実です。「私の文の一部を受け取ってもらえなかったと思っている」と言ったのも正確な表現でした。 

 フェダを通して言ったことは何かという私の質問に答えて、彼は即座にこう答えました。彼は第一の文、すなわち、「この女性を通して話した」の部分は、フェダがはっきり述べたので、伝えることができたと信じていると。次いで本の件について、伝えることは伝えたが、「精確さが不足していたと思う」との意見を言いました。 

フェダは二種類の本について述べたので、これも正しいようです。しかしこの本についての直接の言表、すなわち、死後存続についての彼の信念に関する部分は指摘できませんでした。ただフェダは、「この問題にかなり興味を持った人」というような間接的な表現をしたにとどまったのです。 

 右に整理した諸点の結論として、私が答えの中であまり多くを言ってしまうのは、自動書記者に情報を漏らしてしまうことになるのでしたくない旨を申しますと、マイヤーズはそれに答えてすぐにこう言いました。 

マイヤーズ そうだ、よく分かる。私は、あなたが、このようなテーマには不向きだと言ったのにもかかわらず、バルフォアについて少し言おうとした。しかし繰り返すが、あの場の騒がしさのためにそれも難しかった。 

 マイヤーズの言う騒がしさが通信をもっと明確にしようとする彼の試みを失敗させたというのはありうることです。しかしながら、このことによって、フェダの行なった観察がすべて正確で適切なものだという注目すべき事実が消えてなくなるわけではありません。 

 カミンズ嬢を通して得られた前述の自動書記の文に照らしてみて、レナードの記録のタイプ原稿が、そのときはまだ私の手許に来てなかったという点は重要です。私は自分の連れていった速記者とはキングクロスで別れました。彼女の筆記はすべて速記でなされましたので、レナード夫人の交霊会の後、私がその遂字的なタイプ原稿を受け取るまで、三、四日必要なのです。

 レナード夫人の交霊会に出席する人は誰も分かることですが、そのとき交わされた会話を、簡単なメモもとらずに心の中にとどめておくことはとても無理なことなのです。それ故、速記録の完全原稿を受け取ってみて初めて、私は二人の霊能者の間に多くの重要な一致と交差通信があったことを認めたのです。 

たまたまこの二人の交霊の形式には対照の妙がありました。というのも、それは、通信者が二人の異なった霊能力者を通して、自己の身元証明をしようとする際における、困難の幾つかを明らかにしているからです。 

 レナード夫人から得られた最初のマイヤーズの通信内容に関して、私がSPRの機関誌の編集長であるソールター夫人に問い合わせたところ、彼女は以下のような返事を書き送ってくれました。 
 
 「(a)マイヤーズは確かによく旅行をしました。私の知る限りでは、彼はヨーロッパ各地に滞在したことがあり、また何度かアメリカにも行きました。そのほかにも出かけたかもしれませんが、私は知りません。 

(b)彼は亡くなる前に、暫くの間、大変重い病気にかかりましたが、最後の時は思ったより早く来ました。死亡の直接の原因は心臓不全でした。 

(C)彼は少なくとも二種類の、すなわち、詩と散文の著書を出しています。散文だけに限っていいますと、心霊研究と、古典および現代文学に関するものです。 

(d)彼が亡くなったとき、私はまだ子供でしたが、私の印象では、彼はかなりの緊張型の、神経質な人でした。神経質というのは、内気だという意味ではなく、鋭敏で、短気で、とても感情の強い人だということです」 

 最後の一節は、自動書記に書かれたある事柄について、私が問い合わせたことへの答えです。カミンズ嬢を通して彼は、自分のことを生前、「人への会話の応酬が速い方だった」と述べている。 

このことは、「記憶」について書いている最中に、不意に書くのをやめ、文章に激しく線を引いて抹消し、次のように書き始めたときに明らかになりました。「あなた方の用いる語彙では表現できない」同じような例は書記を続ける間に何度か起こりました。 

 この本のタイトルもまた、マイヤーズを名乗る霊の発案であることは興味深いことです。

  レナード夫人とカミンズ嬢を通して同じ霊と交渉を持つという方式はその後二回の訪問によっても踏襲されました。それらの実験もよい結果を得て成功致しました。

  それらの資料は幾分こみ入っており、スペースの関係でこの本には収録できませんでした。読者には、一九三一年七月発行の『サイキック・サイエンス』(英国心霊科学学院の季刊機関誌)を参照していただきたいと思います。

  一九二五年以来、私はレナード夫人との交霊会を持っていないことを附記しておきます。

                ※          ※          ※

動物の進化と死後の存続を扱った短文がこの本の補遺の五として加えられました。これはマイヤーズによって初期の頃に通信されたもので、この本の内容とはそぐわないものかもしれません。しかしながら、この問題はかなり多くの人々の興味を惹くことと思います。

  

    要 約                          E・B・ギブズ  

 以下に多少の説明を加えて読者の便に供したいと思います。
 まず初めに申し上げておきたいことは、カミンズ嬢は如何なる運命の浮沈に対しても平静に対応できる全く正常な人格の持ち主だということです。超常能力を持った人にはえてしてありがちであるとされるヒステリーや神経症の備候は全くありません。 

実際、危急の場合においてさえも世間でよく性格が安定しているといわれる人以上に落ち着いていて自己を失うことがありません。彼女は神智学や心霊研究の本を読んだことはありませんでした。死後存続の問題については元来不可知論的立場をとっていましたが、証拠が山積(やまづ)みになった結果、考えの変更を迫られたのでした。 

そうなってからでさえもあの世の状態がどのようなものであるかについては、決まった考えを持っていたわけではありません。 

 この書の一部と二部を書いたと称する通信霊は、カミンズ嬢のそれまで経験したことのないやり方でわれわれが死後に通過する状態を描いてみせました。ここに描かれた事柄は、単に彼女の無意識の産物であると考える人がたとえいたとしても、それが興味津々たるものであることには変わりないでしょう。ここに書かれた死後の世界の諸相のある部分はこの世の生活状態の発展と考えて矛盾がないように思えます。 

 この書は、カミンズ嬢を通して自分たちの死後の存続を示そうと(計画的にか無計画にか)努めてきたほかの無数の霊魂たちのやり方とは全く異なった形式で構成されています。更にその筆跡もカミンズ嬢のものとは全然違ったものです。W・H・マイヤーズは地上時代に書いた幾つかの物について語っていますが自動書記が出た時点ではわれわれはそのことを知りませんでした。 

彼は幾つかの新語を用いていますが、後でそれらの語が彼の著『人間個性』の中に用いられているのを発見しました。たとえば、動物群polizoic、霊魂群polipsychic、超エーテル的metetheric、遠隔透視telaethesia、などの例がそうです。私もカミンズ嬢もこれらの語に関しては意味も分からず、またどこかで見たという記憶もなかったのです。 

 通信霊は現世の心霊研究についての知識を持っているらしいところがあるのに加えて、ある時はまるで講義でもしているかのように書くこともありました。彼の職業がケンブリッジ大学講師であった点からみても、こうしたことは彼の特徴を示している可能性が大いにあると言えそうです。 

 自動書記ないし超常的書記においては、生きている人物が物を書くときに、訂正したり書き直したりすることがないということを知っておいていて頂きたいのです。マイヤーズを称する霊は次のように述べています。

「この論文は急いで書かれたものであるし、また通信することに伴う困難やテーマそれ自体の難しさもあり、大分粗っぽいものになっているに相違ない。無論、私は調べてから書くなどということもできなかった。
私は数分間で自分の言いたいことをまとめなければならない話者のようなものであった。

一旦出してしまったものは取り消しできないのである。一度口に出されたことばは自分のものではなくなってしまうのだ。分かって頂けると思うが、永遠などという問題を論ずる時、霊媒を用いる講演者は甚だ不利な立場にいると言わざるをえないのであり、また当然誤りも犯すものである。 

霊媒ないし通訳者の意識に頼らざるをえないという事情があるからである」このことは、この短い書物の文体と生前に書かれたマイヤーズの著書のそれと比較する際に考慮されなくてはならない事柄です。 

 生前の著書にはセンテンスの長いものが多いのに対し、カミンズ嬢による自動書記文は一センテンスの長さが幾分短いのではないかという人もあるでしょう。そうであったとしても、自動書記の方は元来文の語と語が切れ目なく続いて句読点がないのです。更に言えば、この書記のある部分は、形式ばらぬ形で死後の生存について教示する談話的性格のものであり、決して詳しく分析的に論じたものではないのです。おそらく、マイヤーズの生前の語り口に近いのではないかと思います。 

 『人間個性』における用字とこの自動書記のそれの間にはある類似性が存在します。カミンズ嬢は自分の原稿を書くときには挿入句をいれることが特に嫌いで、通常はその使用を避けています。しかし、『不滅への道』ではそれがしばしば用いられていることに注目したいと思います。 

 カミンズ嬢はこの本で扱っている主題について調べたりしたことなど決してなかったことを私は強調しておきたいと思います。彼女は数年前幾篇かの記事を書いて出版したことがあります。しかしそれは演劇や現代文学に関するものでした。彼女はまた短篇小説を何冊か書いており、その作品については序文の中で触れておきました。もっと言えば、私がカミンズ嬢と親しくご交際を願ってきた九年間というもの、彼女は専ら戯曲や近代小説に没頭(読書に関する限り)していたのです。 

 それではいったい何故、彼女は自動書記になると形而上学的題材について書くのでしょうか。更にそれがいつもかつて地上に生きていたある人物の名前を冠して書かれ、かつその人物が他界に住んでいることを何とかして知らせよとするのは何故なのでしょうか。 

 カミンズ嬢は自己催眠状態で私の心から知識を引き出してこれらの文章を書いたのだという人がいるかもしれません。がしかし、私とて形而上学には何の素養もない者なのです。 

 このことはカミンズ嬢の他の心霊書についても言えます。主として歴史ものを扱った『クレオファスの書』『アテネにおけるパウロ』『エフェサスの偉大な日々』などの作品がそうです。それは真に驚くべき霊と記憶の不滅を示すものです。これらの作品集は未発表のものも含めて、初期キリスト教の壮大な歴史を物語っています。 

これらの物語に含まれる諸知識は、神学的要素の全くないカミンズ嬢の意識からは出てこようのないものでした。これらの作品の文体を『不滅への道』の通信者のそれと比較してみると、両者が全く違っているのは興味深い点でしょう。その際書かれた手続きの方は全く同じなのだということに注意して下さい。
 
 カミンズ嬢の大変広範にわたる心霊書について今ここでこれ以上立ち入って述べることは適当ではありません。しかしいつかこれらの作品がすべて出版された暁には、彼女は心霊研究史上最も優れた入神作家として後世に名を残すことでしょう。 

 死後の世界の記述を考える上で、読者は当然、その通信者とされる者が果たして信頼できるかどうかを問題にされることでしょう。如何なる権威の下にわれわれはその情報を受け入れようとするのか、それは信頼するに足る筋のものなのかという問題です。

もし読者がマイヤーズは死後の存続を証明し、また通訳として彼の思想を表現するための最上の霊媒を獲得したのだというふうに考えれば、ここに書かれたことに信頼性を置くことができるのではないでしょうか。その生涯において、マイヤーズが比類なく誠実な人であったことは間違いのないことです。 

 ひとりの人が今まで会ったこともない多くの人々の談話の癖、用字の特色、その人の具体的な個性などを似せて書くことができるなどとは考え難いのです。しかしカミンズ嬢の場合にはそれが当てはまるのです。何故ならこうした人格の劇化現象は彼の友人や親戚であるとされる人々によって調べられた結果、その人々によって是認されたからです。 

この現象は、心霊研究の既知の理論では説明できないものです。霊媒(ないし通訳)が未知の知識を獲得することの説明としては、テレパシー説ないし潜在テレパシー説さえもが持ち出されるかもしれませんが、人格の再生ということになると不可能なのです。 

 このことを明らかにする例証として私は次の五つのケースを簡単に紹介しておきましょう。 

 われわれの実験が始まって間もないころ、私の友人の母親がカミンズ嬢の自動書記を通して通信してきました。私はそれを書き留めた一枚の大判の紙を娘のL夫人に送りました。数日後その内容について二人で検討している時、彼女はうろたえた声でこう叫びました。「全くお母様みたいですわでもどうしてカミンズさんにお母様のことが分かったのでしょう?」 

この場合、L夫人は一度カミンズ嬢に会ったことがありましたが、カミンズ嬢の方はL夫人の母親には会ったことがなく、彼女については何も知らなかったのです。彼女はこのことに先立つ数ヶ月前に亡くなっていたのでした。私はといえば、このL夫人の母親には二十年前に一度だけ会ったことがありますが、何の印象も記憶に留めていず、特徴さえも覚えていなかったのでした。 

 もう一つのケースでは、ある時、その場の誰も知らない人の名前と住所が書かれたことがありました。その霊は死んだばかりの霊で、彼の妻が嘆き悲しんでいるというのでした。そしてその妻の家を訪ねて自分がなお生き続けていることを教えてやってほしいとしきりに頼むのでした。 

私は一部始終をよく検討した後、自動書記に示された寡婦の住所宛て手紙を書き送ることにしました。彼女からの返事で、夫の外貌や死の少し前までの健康状態などを含む八つの点が書記に出た内容と一致することが確かめられました。 

 英国北部に住んでいたこの男性の存在については二人とも書記が出るまでは知らなかったのです。この町のことについては聞いたことがあったとしても忘れていたということはありえます。しかし、そのことは、カミンズ嬢が最近死んだばかりの見知らぬ男の名前と正確な住所を書いたことの説明にはなりません。以下はその男の未亡人によって確認されたことどもです。 

一、彼女の夫は最近亡くなった。(自動書記の五日前である)
二、彼は五十代の男であった。(五十五歳であった)
三、彼は中背である。(正しい)
四、色は浅黒い。(正しい)
五、彼は事業を何年か続けた後引退していた。つまり仕事の継続に耐えられなくなっていた。(二年程身体の調子を崩していたが仕事は続けていた。仕事には耐えられなかったが、それを止めようとはしなかった) 

六、それほど患わずに亡くなった。(医師の往診を受けてから三日目に死んだ)
七、夫婦は相思相愛であった。(正しい)
八、未亡人は彼からの通信を知らされても死後の存続を信じようとはしないだろう。(正しい)
九、最後になったが、彼には妻がいる、ということも勿論正しいと証明されたことになります。 

 もう一件の例は十五歳で亡くなった少女に関するものです。彼女の母親というのは私の友人でしたが、私はこの少女には彼女が五歳になって以来会ったことがなかったのでした。カミンズ嬢を通して私はこの少女らしい霊と会話を交わしたのですが、遂には彼女が死後に存続しているという確証を摑むことができたのでした。

母親のB夫人はこの亡くなった娘の署名と筆蹟を正しいと確信したのみならず、この娘は絶えず母親の意識と接触を保っているらしいことも分かったのです。何度か娘はカミンズ嬢の自動書記に現われ、B夫人がしていること考えていることを色々と述べたのですが、B夫人はそれらを正しいと認めたのです。 

それらのことは皆カミンズ嬢も私も知らぬことばかりでした。カミンズ嬢がそれまでB夫人と接触を持ったことはなかったのです。このことがあってからB夫人は娘の死後の存続を全面的に確信し、またいずれ再会することも信じるようになりました。

このケースでは、われわれ二人に知られていない六つの事実が書き出され、その他にも私には知られていましたが霊媒には知られていなかった多くのことが述べられたのでした。

 証拠となる事柄と同じく、更にもっと個人の人格的側面が目覚ましく現われた例として次のようなものがあります。

 Ⅹ という人の奥さんが亡くなりました。その霊の言うところでは、カミンズ嬢の自動書記を通して彼女の妹のP嬢や彼女たちの共通の友人であったT・M氏らと共に通信しているというのでした。書記に出た事柄は(通信は九回に及びました)これらの人の人格がそれぞれ存在することの明らかな証拠と、Ⅹ夫妻の家庭に関する細々したことを示していました。

これらの内容をⅩ氏に送りますと、Ⅹ氏はこのような私事に言及したことが自分の死後に発見されるのは好ましくないと考え、これを破棄することに決めました。 

通信内容に関してはⅩ氏はこう書き送ってきました。「素晴らしい。今までこのような素晴らしい経験をしたことはありませんでした。三人の個性が間違いなく出ています。私はこれを何度も読み返しました」カミンズ嬢はこれらの三人に会ったこともないのにそれぞれの性格の違ったところ、話し方、用字の癖、妻の生まれる前からあった一族の争いや不和に関することなどが全くそのまま記されているということなのです。 

更に共通の友人であるT・M氏からのものを読んだ未亡人は、その文体が「彼そのまま」であると叫びました。そして彼女の夫がカミンズ嬢を通して通信してきたことは間違いないと力説しました。 

 この例では、T・Mの未亡人とⅩ氏はカミンズ嬢や私がその時まで関知しなかった九つの点が全く正しいと保証してくれました。われわれはT・M夫人は勿論のこと、その家族の誰とも面識がなかったのです。Ⅹ夫人とその妹のP嬢によって書かれたと称される書記の部分に関しては、私は次々とそれらが正しい事実を伝えていることを確かめることができました。 

それに加えて通信者と称する霊たちが特徴的な言い回しや興味深い個性を示し、それがⅩ氏によって確認されたことは数え切れないほどにのぼります。霊媒が顕在意識の内にこれらの特色を知っていたとは考えられませんし、またテレパシーもこれらのことを説明できません。

ある交霊の席では地上生活中における姉妹間の一寸した諍(いさかい)のことに話が及びました。この時のことばの応酬の際にも二人は依然としてそれぞれの性格を思わせる意見を戦わせ合っていました。 

 もう一つのカミンズ嬢の自動書記に関する素晴らしい実例は、一九二九年五月の『心霊研究協会雑誌』に掲載されたものです。この例は南アメリカ戦争で戦死した J・M 大佐からの通信を扱っています。彼は同じ時期に戦死した数名の戦友の将校の名前を正確に言ったのです。受信者(シッター)や霊媒の誰もこれらの名前や通信された詳しい事実については何も知らなかったのです。

 J・M大佐は、将校たちの一人の話してくれたこととして、二つの大隊がインドの駐屯地で出会ったときの「馬鹿騒ぎ」(残念ながら大佐は見ることを逸した)のことや、同じ場所で起こったある士官のスキャンダルのことを通信してきたのです。

 これらの細かな事実は次々と確かめられたのです。即ち、通信者の連隊はインドに行っていませんでした。二つの大隊が出会ったというのは確かにその通りで────全く珍しいことですが───その時の「馬鹿騒ぎ」のことは丁度その当時現場に居合わせたある下士官によって確認されました。この事実は参会者の誰にも知られていなかったことでした。 

一八九八年に起きたこの事件のことは何処にも書かれていた形跡がありません。受信者の女性は一八九七年六月以降はアメリカでの大佐の戦死を新聞で読んで知るまでは通信者に会ったことも噂を聞いたこともなかったのです。 

 一八九八年といいますと、カミンズ嬢は未だ子供でアイルランドに住んでいました。彼女は問題の連隊とは何のかかわりもなかったのです。更に通信者は彼の知っているあることについて軽く触れたのですが、詳しく聞かれると、当人が未だ生きているからといってそれ以上話すのを断りました。その事件というのも同じ時に起きたことの一つで、関係した当人の生きていることが確かめられました。

 更に証拠となる資料を出すこともできます。しかし、既存の理論────つまり、テレパシー説、想念伝達説、潜在意識の透視説等────のいずれによってもこれまで示した人格の再生現象を説明できないようです。最後に挙げたことなども私には通信者の人格を表わしているように思えます。即ちJ・M大佐が彼の知人の名誉を損なうようなことに言及するのを拒否したという点です。


 これらの僅かな例証でも四十を越える事実が述べられており、そのいずれもカミンズ情がその通信を自動書記している所に居合わせた人からのテレパシーによって得たものではありえなかったのです。これに加えてカミンズ嬢が、会ったこともない人々の人格を再生するという現象をどう説明するかという問題があります。 

私の目の前でカミンズ嬢を通して書記してきた内の一人だけが彼女の知人でした。私が知りかつ確認できた六人については、彼女がこれまで会ったことのない人々でした。残りの人々はわれわれ二人とも知らない人たちです。これらの人々はすべて各々の特性を示し、しばしばある主題について他の人々とは違った見解を述べたのです。 

 ではこれらのことの説明はどうなるのでしょうか?テレパシーや透視仮説で果たして説明がつくのでしょうか?ここでは多重人格の問題には触れませんでしたが、それが問題の解決にならないことは明らかです。

私は現在の心霊研究の枠内の理論ではこれらの事例の説明がつかないことに満足しています。そしてわれわれが死後も存続するという霊魂仮説のみが可能な答えを提供できると認めざるをえないのです。

 心霊科学の扱う二つの側面────物理的現象と心理的現象────は、はっきりと区別されなくてはならないと思います。心理的側面の現象(即ち、入神演説、霊視、そして自動書記等であり、それによって時としては人間死後の個性の存続が証明されうる)に関する限り、「霊媒」ということばは有効性を持たなくなると思われます。

より適切なことばがそれに換えられるでしょう。それについては、マイヤーズが「霊媒は実は霊媒ではない。通訳ということばを用いるべきだ。それを忘れないように」と言っている通りです。

 第三部において、心霊研究協会の大会への言及がなされたことは興味深いことです。もしマイヤーズの意識が死後にも生き続けてレナード夫人やカミンズ嬢を通して話したのだとすれば、彼が何等かの仕方でこの件に言及することは当然すぎるほど当然のことではないでしょうか?フェダが言ったように、それ(SPR)は「彼の楽しい狩場」だったのですから。 

 最近五十年間に「協会」によって提供された超常現象についての記録は最も懐疑的な人をも満足させるに足るものであり、死後存続への強力な例証になっています。協会の仕事の一つは、協会の注意を引くに至った超常現象としか言いようのない事例を集め、批判し、分析することです。 

そしてその結果への結論を下すことは読者に任されます。協会の会長であった人には、バルフォア卿、ウイリアム・ジェイムズ、ウイリアム・クルックス卿、W・H・マイヤーズ、オリバー・ロッジ卿、ウイリアム・バレット卿、シャルル・リシェ、アンドリュー・ラング、其他多数の人々がいます。彼らは皆心霊現象のまぎれもない真実であることを証明致しました。 

 そうした中でも、オリバー・ロッジ卿、ウイリアム・クルックス卿、ウイリアム・バレット卿、そしてW・H・マイヤーズ等は、死後の生存は証明された事実であるとの確信を披露しました。 

また、W・E・グラッドストーン首相、桂冠詩人のアルフレッド・テニソン、ジョン・ラスキン、R・L・スチィーブンソン、G・F・ワット、レイグトン卿、レイリー卿、アルチボールド・ゲェーキー卿、J・J・トムソン卿(元王立協会会長)そしてアーサー・コナン・ドイル卿等々の著名な人々が心霊研究の支持者として名を連ねています。

またその其他にも著名人、科学者、法律家等が続々と死後の生活や顕幽両界の通信を信ずると証言したのです。 

 こうした事実が認められるための時はまさに熟しているのです。 

 普通の人は誰でも自分で議論や調査をすることもなく、太陽は地球から九三〇〇万マイル離れた所にあるとか、光は一秒間に十八万六〇〇〇マイルの速さで飛ぶとかいう途方もないことを真実として受け入れています。

ジェイムズ・ディーン卿はこう言ったということです。「地球はけし粒ほどの小さな塵にすぎない。その塵は百万倍も大きな太陽の周りを、他の塵と共に回っている。しかしその太陽自身宇宙空間の大きさからみれば一粒の砂のようなものだ」と。 

 科学研究を何年も慎重に行なった結果、専門家たちが人間は死後にも存続するという真に重要な事実を発表したのです。彼らはこの点への確信を表明することをためらいませんでした。にもかかわらず、男女貴賎の別なく、確かな霊媒とただ一度の交霊の経験もない人々が、元来意見を表明する権利のない問題について、疑問を投げかけるというわけです。 

 心霊研究協会はオズボーン・レナード夫人の霊媒現象についての完全調査を行ないました。その機関誌と報告書は彼女を通して受け取られた事例を載せていますが、それらはそこに論ぜられている理論によっては説明できません。レナード夫人が当代第一流の入神霊媒であることは疑いないところです。 

 今や信念には裏打ちがあります。カミンズ嬢一人のみならず他の主観的霊媒からも私は死後生存の争う余地のない証拠を受け取りました。そう考える以外に霊媒現象の神秘を解く説明はありそうにありません。種々の誤りは時として通信の伝達経路に起きます。

通信者の側が地上の細かな事柄を充分に思い出せないという点は酌量されてしかるべきですし、そのことは知的に、また、偏見のない立場で研究する人にはよく分かっていなくてはならない事柄なのです。 

 われわれの現代の知識に照らしてみますと、心霊現象が近代に始まったものだと主張するのは無理でしょう。聖書をひもといてみれば、「自動書記」について述べられたものとみなすことの出来る例を少なくとも一つは挙げることができます。 

 「歴代誌」上の二八章、十九節に「ダビデ言う。これは皆神がその御手を私に置いて書かせ、知らしめたものであり、他のこの種の仕事も全てそうである」とあるのがそれです。 

 ダビデの推測に誤りはないでしょう。但し、当時にいう「神の御手」とは「神の御使い」を指したのでしょう。 

 また、「歴代誌」下の二十一章、十二節にも次のようにあります。(ユダヤの王に下るべき罰の警告として)「預言者エリアから彼の許に一つの書き物がやって来た」と。ある聖書の研究家はこれについて次のように記しています。「この書き物というのは、BC八八九年以前のものではない。したがって、エリアの死後七年のもの(書かれたもの)でなければならない」 

 新約聖書についてもこれを心霊現象の実証として調べてみますと、心霊現象であると指摘できる例の多いのに驚かされます。たとえば、使徒行伝の九章二節には、ある街の名やそこに住む人の名が幻によってアナニアスに通信されたことを記しています。 

 心霊研究の論法で言えば、これらの通信内容は次々と確かめられたのです。この例はある意味で本書の二二〇頁に記した例や、また、心霊現象と関連して次々に起こる類似の例と同種のものだと考えられます。 

 聖書の中の他の数多くの分かりにくい個所が、近代の心霊調査で証明された事例を参照することによって、懐疑的な人にもよく得心がいって信じられるようになります。 

 フレデリック・マイヤーズは大著『人間個性とその死後存続』の最終章で次のように述べています。 

 時代の要請するところは、努力の放棄ではなくその増大である。科学が地上の問題に対し専ら適用してきたのと同じ精力と真摯さを以って、目に見えないことどもの領域を研究するための時は熟した・・・・・・と敢えて私は言う。というのも、私は次のように予言しうるからである。

即ち、もし新しい証拠が見出されるなら、理性的な人々は百年後にキリストの復活を信じていようし、もし発見されないなら、理性的な人は誰も百年後にはそれを信じなくなっているであろうと。


 現在では心霊研究に多年を費やした学者の立派な証言があります。しかし教会はこれまでのところ「目に見えない世界の研究」の重要性を認めてはいないようです。聖職者のある者が個人的に調査したという事実はあります。おそらく同宗派内部の公式見解への慮(おもんばか)りから率直に自分の意見を表明することができないでいるのでしょう。 

一般民衆の意識は未だ充分に信仰には知識の裏付けが必要だということや、心霊研究────人間の魂とその行方の研究とでも言えましょうか────は物質的時代の信仰を援助し、大衆に死後の生活についての確信を伝えるという点で、教会の盟友であるという事実を受け入れる用意が未だ充分にできていない状態なのです。

 

     補 遺                            G・カミンズ
 
     補遺の一      クレオファスの書
 
マイヤーズ  この書はいわば空の中から引き出されたものであるが、それは偶然とか突発事故などから起こったことではない。元をただせば多くのことが出発点となっている。例えば大戦以来現世の男女の中に霊的真理への欲求が熾烈になってきたことがある。巨大な物質エネルギーの爆発が引き金となって、人々の真理を求める憧れが高まった。 

これはわれわれが「地球の音板」と呼んでいる物の上に響き渡る。大衆の集合的な欲求がそれを打ち鳴らすのである。ときとしてそれは霊界からの影響力を引き寄せる。かくして類魂が────もし適当な霊媒が見付かればであるが────地上の子等の緊張な招請に応えて通信を送るのである。

  とはいっても類魂がいつも無謬なわけではない。彼らは真理をある角度からあるやり方で見ているにすぎない。彼らは人間の行く手を照らし出したいと心から願ってはいるが、必ずしも必要なものが与えられるとは限らない。

地上において掻き立てられた喧騒はこちら側に様々な印象を伝えてくる。われわれの側も様々に反応するが、必ずしも霊能力者を通してそれを表わすわけではないのである。 

例えば大戦中に科学の進歩が加速されたのなどはこちら側が関与した例である。多くの発明は現世の応用的な知性を通してなされたが、その本質部分は現世の人の意識に胚胎したものではないのである。

ある類魂の霊が有能な科学者に想念を集中し、その頭脳機構を用いて新しい発明の基となる秘密を現世に教えると、それが結果として機械なり医学なりの進歩を促すということになるのである。

 類魂にも粗暴で原始的な舞踏を現世に流行させるような低級なものがあり、そのためにこのところ若者たちが全く狂気の沙汰としか思えないような暴力的破壊行為に掻き立てられているのである。

様々な霊の影響力が地球の周りを取り巻いている様を想像してみてもらいたい。それはあたかも善悪多様な名付け親(ゴット・マザー)たちが、乳呑み子等の揺りかごを見守りつつ自分たちの特徴を刻印した能力を赤子たちに賦与しようとしている様を思わせる。 

 今ここにある類魂がひとりの女性霊能者を見守り、彼女がその頭脳機構を通してキリスト教誕生の頃の物語を受け取れるようになるのを待っていた。この類魂の成員たちからしてみると霊界からみた人類の霊的孤独の様は目を覆うほどで、その訴えに答えるにはこの一つの方法しかないように思えた。

何故なら、人類は今泥にまみれ、打ち据えられ、血を流しているからである。誇りは傷つき、心は途方に暮れ、その魂は根本から揺すぶられているからである。 

 そこで彼女はエーテルの中にある古い記憶の中をさまよっていった。あなた方の世界では冒険心のある若者は未知の国を旅するのを好むものであるが、同じように霊媒も、冒険心に富みかつその資格ある者であれば、過去の荒野を歩きまわり、歴史の中に咲く感情の花々を手折り、去りにし日々の果実を集めることができるのである。 

 しかし時代は消えもしなければ過ぎ去りもしない。あなた方は宇宙の心の内に再びそれを見出すであろう。しかしあなた方はその際、それが曾てあった通りにではなく、人がそれをイメージしたものを見るのである。 

 大記憶はエーテルの中に刻まれた人間の主観的経験の総体を含んでいる。ある霊たちは霊媒をこの膨大な記憶貯蔵物の一断片と結びつける。霊媒はその大記憶から、何といおうか、地上的個性を卒業してしまった霊によって引き出され伝えられるものを書き出すのである。 

 その全過程をこなすことは極めて困難である。そのことは霊媒にとってかなりの負担となる。しかしうまくいけばある時代の歴史そのまま、というよりはむしろ知性感性の備わった人たちのその時代に対する見解をもう一度取り戻すことになるのである。 

 ある時代にあって深く思いを潜め、深く物事を感じ取った人たちの目を通してえられた、いわば一時代の解釈のようなものがエーテル記憶の中に刻みつけられている。 

 それはある人々の心に刻まれたその時代の真実の印象を表しているという意味においては正確な歴史である。しかしながらどのように高い才能に恵まれた人でも、その主観的経験というものは、必ず不正確なものだという意味では不正解なのである。

 というのも、大自然の記憶の中に刻まれた広大な歴史について当てはまることは、生きた人間によって刻まれた歴史にもある程度当てはまることだからである。つまり悪しき肖像画と良き肖像画の間に見られるような差異の如きものはどちらにも存在する。真偽を直観的に見分けるのは歴史を読む人それぞれの責任なのである。 

 歴史を編むことは一個の芸術である。私はあなた方に歴史を注ぎ出す古の霊人たちが芸術家であってほしいと思う。というのは、時が過ぎ去った今となっては、神の啓示について真に重要なことは、事実としての正確さではなくして、人の心に映じた映像としての正確さなのである。

 クレオファスとその筆記者たちは、自分たちが人の子の求める万能薬を与えていると信じて疑わない。しかし彼らは人の心が大きく変わってしまっていることに気がついてはいないのだ。現代人は殆ど信仰心というものを持たぬ。彼らは物質的なものを求めるようになっているのである。 

 ローマ時代、その栄光の内にあなた方の時代と同種の絶望、同種の荒々しい欲望が人々の心を押し包んだことがあった。唯物主義の底無し地獄に落ち込んだ人々は、死後の生命に確信を得たいと思い、霊的真実を求め、肉体の運命から何とかして逃れたいと願った。とはいってもその時代には人々の心の在り方が今とは大分違っていた。 

彼らの世界は今日のように「機械の神」には支配されていなかった。したがって彼らは機械によって縛られたり、物理学、科学、数学といったものの巨大な成功に眩惑されることもなかったので、啓示を受け入れるのにそれ程の抵抗はなかったのである。 

 クレオファスとその書き手たちは知的な人々の耳をそばだたせることに成功するかもしれない。が、大衆の多くは物質的刺激や自然科学の教説を通して霊的実在に触れることを願っている。言い換えれば、現代の人々は物質のことばで考えることが身についてしまっているので、霊的なことばには注意を払わないであろう。 

一なる神とその子への崇拝に先立つ往時の異教の神々への信仰は、救世主イエスの偉大な姿に近づくための準備として役立った。哲学者たちはその最も懐疑的な者たちでさえ、人々の心に望ましい態度を植え付けるのに役立った。しかし現代の物理学者、医者たちは当時の哲学者と同じくらいに大衆の心を摑んでいるが、彼らといったら単なる唯物論の旗持ちにすぎないのである。 

 クレオファスは一つの団体ないし複数の者たちであると言ってもよかろう。言い換えれば、クレオファスは初期キリスト教の熱狂的な信者たちの魂が永い旅を続けている途中で一段階を表わしているのである。彼は最近亡くなった魂のように一個人として存在するのではない。 

クレオファスは一個の集団としての魂とでもいうべきもので────他に適当なことばが見当たらない────エーテルの大記憶から初期キリスト教徒の演ずる壮麗な劇を引っ張り出すことができるのである。

それは冷たく傍観的な歴史家の手になるものではなく、熱狂的なキリスト教徒たちの情熱の奔出ともいうべきものである。彼らは自分たちが生きた時代についての「情感的な見方」を書き表わそうとしているのである。 

 私が「情感的な見方」ということばを用いたことに注意していただきたい。情感を混じえずに書かれた本はエーテルの中に刻印されない。そこに刻まれるのは実際の言語ではなく書き手の想像の中のイメージである。そこにある画像やシンボルが生きた霊媒の頭脳の特殊機構を通してことばに換えられるのである。 

それが神聖劇や聖書の持つ遺伝的傾向を含んでいることにあなた方は気付かれることであろう。権威的な言語の持つ不可避な枠組みがそこには潜んでいる。この枠組みは現在のこの頭脳の持ち主によって造られたものではない。それは多くの真剣な聖書の読み手としての先祖から遺伝的に伝えられた傾向の集積なのである。 

 クレオファスの書き手たち────むしろエーテル記憶の周囲に漂うキリスト教徒たちの集合的な想いとでもいうべきか────は、そこにある記憶を集めてそれらを生きている一女性の意識の深部に注ぎ込むのである。この深層意識はイメージ言語で考えたり話したりするものである。 

言語への翻訳は潜在意識がイメージとシンボルを素早くこの女性の頭脳に投入する際に行なわれるものらしい。瞬時にして書き手の霊たちは肉体に付着した記憶中枢から必要な外衣としてのことばを集める。すると聖者たちによって夢見られたキリスト教の古代劇が頁の上に書き出される。 

 その劇は聖なる情熱の人々が生前に持っていた現像の記録としては正しい。しかし私はその映像の正確さについてはどの程度のものであるかを答えることはできない。それらを書く霊は宗教と神秘主義が追放され、科学と合理主義と唯物論が人の心を左右する時代にこちらへやってきた魂を仲間から締め出して内に入れないようにしている。 

 それ故この特殊な類魂の目的は単純化されており、異なった性格の魂の侵入によって複雑化されていない。


    補遺の二  霊 光

マイヤーズ  生命流動体とも呼ぶべきものがあって身体と結びついている。私はほかに呼びようもないのでこれを「幽的流動体」fluidと呼んでいる。この流動体は大事なもので、生命が衰えると、この流動体も活気を失う。この流動体は大事な働きをしている。 

流動体を形成する材料は柔らかなもので、────表現が難しいが────心を神経細胞や、身体と結びつけているのである。脳は確かに意識的な制御力であるが、無意識も重要な仕事をしているのである。目に見えない流動体は、無意識の心を顕在意識の指示なしに動く無数の身体活動のすべてと結びつける。 

 さて、ある人々の幽的流動体は、他の人のそれよりも強く流れている。この強弱の度合いは、魂と身体との間のバランスや、その人の持つ特質によって異なる。その流れが強くわれわれに感知される性質を帯びるとき、それは光を出す。 

というよりも、それはむしろわれわれから見ると炎のように見える。殆どの人はこの炎を持っているが、しかしそれは普通はわれわれに見えない程度である。ある種の人々の場合だけ────つまり霊媒であるが────、それは、はっきりとしていて、われわれに見えるのである。この炎の明るさは、ある部分、霊媒の意志の明燈さにもよる。 

 霊媒は幽的流動体を活発にして、その炎の輝きを増すために、努めて超然とした静けさの内に身を置くようにすべきである。霊媒の意志が働いて、脳の機構を作動させるようなことがあると、われわれの通信を損なうことがある。われわれが働きよいのは、霊媒の意志が静まりかえっているかどうかにかかっているのである。 

勿論、他にも考慮すべき幾つかの条件がある。参会者の幽的流動体の影響や、外的な影響、それに霊媒の健康などの条件である。これらのすべての要因が考慮されなければならない。これらの何れに問題があっても困難は増大する。 

 私としては次のことも付け加えておきたい。それは、霊媒の意志を支配するなんらかの感情の混乱は、もしその霊媒が、自己超越という点に特別優れた資質を備えていなければ、交霊に悪影響をもたらし、会の雰囲気を荒らしてしまうであろう。これは当然である。流動体はひどく感じ易いものなので、霊媒をゆさぶるような激しい感情には強く影響を受けるのである。 

 この点に関しては、まだ他にも注目すべきことがある。しかし、霊媒たちのことについて述べることは、本題から離れることになろう。霊媒にも様々な相違と個性のあることが考慮されなくてはならない。ある者は巧みな電話交換手であり、ある者はこちら側からの証拠を伝えるのに適切な鋭敏な意識を持っている。通信の伝達は────お分かりのことと思うが────内在意識と人間の幽的流動体の結びつきによって複雑化されている。 

 私がここに見出すこの霊媒の心は内容豊かなので、何の学識もない人には期待できないような仕方で反応する。死者は生者の心に、生者が気づいているよりもずっと多くの影響を与えていることを知らなければならない。 

大部分の発見は、顕幽両界および二つの心の産物であり、肉体を持たない心と、肉体を持った心がそれに表現を与えるのである。しかるに世の科学者たちはわれわれの示唆をインスピレイションと呼び、それが想像力の閃きが点火する単なる火(ほ)くち以上の働きをすることを認めようとしない。 

 あなた方は薬と内分泌物の違いを区別できるであろうか。霊媒を通して、われわれがそのどちらかについて話そうとすると、同じ物として受け取られてしまうのである。われわれの送る通信はたとえ言わんとすることが同じであっても、別の霊媒を通したときには別の形で現われる。というのは、霊媒の内在意識はその意識の豊かさに応じた通信の形成をするからである。この現象は未だに私を驚かす。 

 どうか、私が他にも地上との交信の試みをしてきており、またそれを続けてもいるということを承知しておいていただきたい。 

 しかし私はこの独特な通信方式が気に入っている。という訳は、この種の内在精神を操作することによって少なくとも私の持つある観念はかなり効果的に伝えることができるからである。現実的な事柄であるならば、他の型の霊媒の方がもっと自在に通信を伝えうるかもしれない。

確かにあの可愛らしいフェダの場合などはそうである。彼女はある意味ではとても操作しやすい。われわれはこちらの側で、霊媒について色々論議している。私はフェダのやり方については大変よく知っているつもりだ。生きていたら彼女との実験をやれたのだが・・・・・・。 

 死後存続の証拠を摑まえようとして、熱心に研究している私の友人たちは皆、通信の仕方やわれわれが霊媒を支配する件に関して誤った観念を持ってしまっている。われわれが通信をするとき、支配する度合いの強いのはむしろ霊媒の方だ。通信の条件が悪いときはまさにそうなってしまう。 

われわれの通信は、直接のときはわれわれから霊媒に伝えられ、そこで霊媒の内在精神によって翻訳される。この意識が受け入れることも理解することもできないものを訳すことは不可能である。

この意識はわれわれの想念をことばで受け取るのではなく、まさに想念として受け取るのである。時として、うまくいけば、われわれはこの想念に自分独特の型を刻印することができ、それが再現されることがある。 

 われわれの生活状態が、判然と伝えられることが滅多にないことを、どなたもいぶかしく思うことであろう。それは、われわれが快く弾こうとしても調子の合わない楽器のせいなのである。霊媒とは単なる媒体ではないことを思い出す必要がある。

むしろ「通訳」と呼ばれるべきだ。それは逐語的なものではなく、霊媒を通して伝えられるところの一つの解釈である。通訳者は必ず二つのことばを話せなければならない。 

つまり、われわれに話すことばとあなた方に話すことばとである。これは二重の機能である。あなた方は霊媒について学ぶべきだ。もし何か強い偏見が述べられているのを発見したら、それは霊媒の無意識からくるもので、影の世界の通信者からのものではない。

それは通信者が、霊媒の深層意識にある固定観念を取り除こうと最大限の努力をしたにもかかわらず、しくじってしまった結果なのである。



   補遺の三    他界からの通信
 
マイヤーズ  どうか何なりと聞いて下さい。
ギブズ  レナード夫人やフェダなどの支配霊による交霊会は、あなたから見るとどのように見えるものか言ってみて下さい。

マイヤーズ  では、最初の時のことを例としてお話ししよう。私はあなたに私の言ったことを記憶してほしいと頼んだ。そしてなおかつ私は、私がフェダの所で話すという観念をあなたの心の中で努めてイメージ化するようにと依頼した。これは大変大事なことだった。最初はあなたの心に私が訪れることが可能かどうかを危ぶむ気持ちがあった。 

私に出現してほしいという想念は、無限の海に投げかけられた細い糸のようだった。私がそれを見つけて摑まえると、あなたの想念は交霊会の場所へと私を引っ張った。これが私の招霊ということになる。次に私が来たことを知らせる必要があった。 

 さて、フェダはあなたにすっかり慣れているのを私はすぐにみてとった。フェダは新規の者には目もくれず、ひたすらあなたが関心をもつ人々の方向にのみ網を投げかけていた。 

 そこで私がどのようにして私の存在を知らせたかという問題だが、私は専らあなたの助けを借りることにした。あなたの潜在意識から────というよりもむしろあなたの顕在意識に最も近い潜在意識の層と言った方が良い────から私の名前のイメージを引き出そうとした。 

それは人体に結合する微妙な精妙体の上に刻みこまれているのであり、身体の中にあるのではない。私はあなた方の周りを雲のように取り巻いている記憶の貯蔵庫のことを言っているのである。フェダには私が見えなかった。しかし、フェダは新しい通信者を探すべきだと気づいた時に、心霊エネルギーの網を投げかけ、それによって私が彼女に示そうとするシンボルを理解したのであった。 

 最初その網の中に私の名前を落としこむのは難しかったが、結局は成功した。そしてもう一度あなたの助けを借りて、あなたの幽的流動体を用いて網の中に私のイメージを投げ込むのに必要な力を獲得した。自分では気づかずにいるが、あなたは全く強い念力の出し手だったのですよ。

というのもあなたの欲求がどんぴしゃりだったのだ。あなたの持つエネルギーのお蔭で私はとうとう私の存在を認めさせることができた。 

ギブズ  あの時、あなたは段々に近づいてきて、そしてまずある証拠を出されたように思われますが。
マイヤーズ  私がイメージと言ったのは全体的意味におけるイメージのことで、個別な意味のものではない。私についての相対的な印象というのはフレデリックということばに結びついていた。そこで彼女はまず初めにあの文字を摑んだのだ。 

ギブズ  確か最初「M」という大文字が出たと思いますが。
マイヤーズ  どの文字が最初彼女の注意を引いたのか分からないが、私としては自分の姓と名とを文字で綴っただけである。彼女は最初の文字だけを切り離して摑まえたようだ。私としてみれば、最初に何が彼女の注意を引いたのかは大したことはない。

そのイメージは私が生きていた時の私の総計といったものだった。全体のうち知覚され、網に捕えられたのは極く僅かである。しかしそれが充分なものになった時、彼女は私の名前を摑むことができたのだ。



       補遺の四  地上生活の記憶を通信する困難

ギブズ あなたがレナード夫人やフェダを通して通信してくるとき、フェダの場合には、あなたは自分の意識の中にいて、いわば想念を投射し、それをフェダが通訳するようですが、自動書記の際には霊媒を直接に支配しているようにおもえます。この二つの状態に於いて、地上生活のことはどの位思い出せるのか説明していただけますか? 

マイヤーズ 面白い質問だやり方を説明する必要がありそうだ。あなたのいう自分の意識の中にいる状態では、私はまさに、私の記憶の中にいる。そういう時、もしあなたがそれを見るだけの強い光線を当ててみれば、記憶はかすかな雲のように見えるだろう。 

しかしフェダの場合には、彼女がある霊媒に憑(かか)っている時、われわれ霊の方がある特定の記憶に精神集中すれば、彼女はその記憶が何であるかを読み取ることができる。彼女はそれを理解してから霊媒の深層意識に伝え、そして最後にそれを発表するわけだ。

 私がこのご婦人ないし他の霊媒を通して直接に話すときは、プロセスがかなり違っている。私は霊媒の深層意識の中に入っていって、必要な印象を与える。するとその印象が手に伝えられて自動書記となる。

これを行なうとき私の深層意識は霊媒の意識と混じり合い、そしてそれを完全に支配してしまう。しかしある特定の地上時代の事実や記憶の断片を伝えたい時には、それらの個々の具体的な記憶を取り戻すために、一旦この霊媒の支配を止めなければならない。 

 そこで、私が言っておきたいことは次のことだ。私が我が記憶の全体(霊媒の深層意識の外にある)の一断片を取り戻したいときには、霊媒の深層意識から離れてそれとの接触を断たなければならないということである。記憶を持ち帰ってわが船────そう呼んでおこう────を再び操ることはまことに難しい。 

しかし、直接、通信を送る時には、私は自分の内在精神の円熟した能力を用いることができる。この内在精神は霊界の新生活についてのある程度の知識や記憶も持っている。ミイラや貝のことを想像して頂きたい。私の地上時代の記憶は硬くなって、いわば、そんな風な形に固まってしまっている。まるでミイラのように死んでしまっているが、私がその中に入ると再び活性化する。 

 私が書く立場からすれば、直接支配の方がよい。私の意志および心が、霊媒の精神力を利用して私の考えを表現できるからである。霊媒の深層意識が多少は混入するがそれは、霊媒が私の伝える思想を禁止するほど強い偏見を持っている場合に限られる。しかしながら、この霊媒の心の中にはこの種の障害が非常に少なく、その心は穏やかで柔軟である。
 
 フェダを通して私は記憶を伝えることができる。私が以前彼女と仕事をしたとき、彼女は特別敏活に私の言わんとするところをとらえた。勿論、新しい参加者を加えて行なう新しい交霊は、そのつどに、交信の初歩からやりなおすに等しい条件の変化を意味するものではあるが・・・・・・。 

ギブズ  地上の人と話した後で、あなたの世界に戻った時、あなたは自分の言ったことを思い出すことができますか?
マイヤーズ  その質問には詳細な答えが必要だろう。私は以前、簡単にそれに触れているが、実のところ、詳しい説明のためにはもっと勉強がいる。────今のところは簡単に答えておくしかない。ある意味ではこちら側の世界では、明瞭な記憶を持つことが難しいのは、前にも一寸述べた通りだ。しかしはっきりさせておきたいのは実際に起きたこと────いい換えれば、最も大事な部分ということだが────は忘れられないということである。 

 私の思考しつつある意識を記憶と比べてみると、微生物と象ほどの違いがある。そして意識という一つの体に住む私は、私の記憶の十分の一も把握できないものである。私の記憶は整理棚になっていて、その各々の記憶は目に見えない連結の糸で私の思考する意識とつながっている。 

その糸は合図があると記憶の一つを私の許へ引き寄せるのである。ある糸はこの婦人を通して通信している時に合図を受け、また他の糸は別の霊媒と接触を持った時に刺激を受け、他の記憶を喚起する。 

 時折この交霊会に関連のある記憶が、こちらに戻った後に心に浮かぶことがある。だがそれはある連結糸が私の記憶を呼び覚ますのであって、それらの記憶を私が携えているためではない。それは生きている平凡な人々が記憶というものについて持っている考え方である。 

そういう人は記憶は全て頭の中にあると思っているが全くとんでもない誤りである。記憶とはわれわれの存在の一部であり、かつまた、われわれの一部ではないという点に於いて、われわれの最も神秘な部分なのである。私が記憶について書けば、それだけで一冊の本が書けよう。

 

 死者と話すことは良いことか悪いことか

 ギブズ  ある人たちは、死者と話すために彼らを地上に引き戻すのはよくないことだと言っていますが、どうですか? 

マイヤーズ  言う意味はよく分かる。そして無論、もし話すことがわれわれを苦しめるようなら、話さないだろうというのが分かり易い答えだ。いずれにしてもあなたが今言われたような説をなす者は、全く事態を理解せずに言っているのである。多くの霊魂たちが地上と話したがっているのだが、地上側で死者を思う人々の方が、彼らへの便宜供与を拒んでいるのである。 

実際のところ、地上に愛する人を残してこちらに来た者たちは、たとえ見知らぬ人達とであっても、会話を交わせることを無上の喜びとするのである。というのも、そのことによって、地上生活の思い出として残留する幸福の日々を再びまざまざと感ずることができるからである。 

 あなた方の言う「帰還」の際の感情はともかくとして、われわれは全くあなた方とは違った存在の仕方をしていることを承知しておいてもらいたい。つまり、われわれの存在の特徴の一つは、われわれが自分の一部を投射して、霊媒を通して話をする状態に入りながら、もう一方の自分は、こちら側で自分の仕事や生活を続けることができるということである。 

あなたは地上関係のことを死者に思い出させるのは気の毒だという意味のことを言った。しかし、これらの思い出は、彼らの記憶庫の中にちゃんとある。あなた方は死者たちに何も思い出させたりはしない。 

あなた方は単に死者を幸福に感ぜしめるあの確信────つまり、彼らが愛する多くのものが存在したはずの地上生活は、決して今でも無くなったり、抹消されたりしてはいないのだという確信────を与えているだけなのである。死者たちはしばしばそれを喜び感謝している。

  

         補遺の五 動物の死後存続
 

マイヤーズ  あなたは私に動物のことについて率直に書いてほしいと言われる。まず、人が下等動物とみなすものを分類してみることが必要だ。地上には進化を辿る幾つかの平行な線が存在する。遺伝学の教えるように、植物、魚類、野生動物、それにもちろん昆虫などが存在する。 

これらの生物は皆自己の内部に生命の息吹を備えてきた。一なる大精神の創造物であるこれらの生物は、どの程度創造の能力を授けられているのであろうか。もし人間の魂が死後も他の存在形態の中で進化し続けるとしたら、他の進化能力を持つ生命形態のものも人間の魂に相似た神秘な精妙体(エッセンス)を生みだす可能性があると考えて当然である。 

植物、昆虫、魚、野生動物などを階層的に並べてみてほしい。そうするとそれは中学校の形態に似ていることが分かる。植物の魂ないし精妙体は、死後集まって、やがて一つの全体を形成する。 

これらの数知れぬ微小な存在────仮にそう言っておく────は、死後を一段一段上っていき、昆虫の中に入りこむことによって一つのものとなる。無数の昆虫の魂もまた、やがて魚や、鳥の身体に入って一つの存在となる。このようにして最も知的な飼育動物に至るのである。 

ある種の犬、馬、猿などは、知性の核となるものを持っていて、それらは人の身体に宿る魂のうちでも最も粗雑な部類のものに似ていなくもない。これらの動物たちは、死後誰やらの名づけた「地上的欲望の国」へ行く。 

だが私の考えでは国という言い方より「死後の状態」という方がよい。私はこのことばで、彼らもあなた方の世界を超えた一つの世界に存在するのだということを示したいのである。彼らは未だ地上の気味合いを残した世界に生き続ける。彼らは夢のなかで地上を夢見続ける魂なのである。

 
というのも死者たちの多くはこの夢の世界、つまり、地上のエーテル的映像世界に住むのである。それは、人間たちの地上記憶から造られた場所で、地上と同じ地理的特徴を備えている。 

多くの単純な魂は、自分たちにとっては地上の物質形態と同様堅固で実体のあるものに見える環境に満足して住んでいるのである。しかし無論、重要な相違点がある。この超地上的映像の場所たる夢の国には、食物や金銭の問題は一切ない。 

 この生息地に住む、かつて長いこと人間の友であった犬や猫は、その愛情の故に、もしかつての主人がこの影の国に住んでいるなら、主人の許に引き付けられていく。その国は地上より遥かに美しい国であるが、われわれはそこを「影の国」と呼んでいる。 

実際のところ、そこは地上に隣接した所で、旅する魂はそこを通り抜けなければならないのだが、ある魂はその境界線上で、長くぶらぶらしていることもないではない。しかし動物たちがこの境界線を越えていくことはない。彼らはある時期がくると地上に帰って、人間の体に入らなければならないのである。 

 というのも、彼らは未だ善悪を知る知恵の木の実を食べていないからである。人間だけがそれを食べた。創世記第二章にあるこの物語は、深く象徴的な意味を持っている。林檎を食べたというのはまさしく、人間が動物的段階から脱したという自然史の中の一時期を象徴的に表わしている。哀れなイヴとその娘たちは、このことから、最初の地上的醜聞であるとして非難された。 

 仮に私が、禁断の木の実を食べた寓話を忠実に翻訳するとすれば、私はそれを人間の魂を持った最初の人類の誕生────それこそまさに人間だった────を象徴したものとして述べるべきだろう。人間とは不可視の世界から知識の秘密をもぎとった者のことをいうのである。 それは神の創造としての進化の歴史を踏み出す第一歩である。

 さて動物たちのことに戻るとしよう。動物たちはわれわれより創造的価値の劣ったものではない。彼らは単に複雑さの度合いが少ないだけである。また彼らは人間の言う善なる存在でも悪なる存在でもない。というのは、彼らには原則として善悪の知識がないからである。 

しかし宇宙は次第に単純なものから複雑なものへと進化する傾向があるので、私がやむなく「動物的心性」と呼んでいる部分────つまり、肉体の死後に生き続ける部分────はある空間即ち、地上生活に最も近接した場所に住み続けるが、必ず地上に戻って物質中に入り、適当な時期がければ人間の形をとるのである。

 以上によって次のことが理解されるべきである。即ち、動物も魂を持つということ。つまりは動物にも個的な精妙体があること。この個的な精妙体はしばしば他の動物の魂と結合して進化の次の流れに進み、遂には人間にまで進化すること等である。 

しかし人間になる段階がくると、この胎児期の魂に新たにある物が付け加えられる。その付加物はそれぞれの個体の歴史に応じて発生せんとする精神性のうちに取り入れられるのである。



    解 説                                                                          梅原 伸太郎   

  カミンズとマイヤーズ
 本書はジェラルディーン・カミンズの〝The Road to Immortarity〟(初版一九三二年、本訳書は一九六七年版を使用)の翻訳である。戦前に浅野和三郎訳のものが「永遠の大道」として出ているが、本書所収の序文、交差通信記録、補遺等を含んでいない。

「永遠の大道」は明治の美文家として鳴らした浅野先生(以下簡単に浅野とする)らしい名訳であるが、余り原文に忠実であるとはいえない。適当に省いている所もあり、自家の説を加えている所もある。

当時の啓蒙書として立派に役割を果たしていると思うが、現在の段階になると、重要書であるだけに細部が気になる所もあり、また本書には、浅野訳にない部分も大分加わっているので、再訳の意義はあるであろう。

しかし実をいえば、永いことこの浅野訳も一般読者に入手できない事情がつづき、再訳の要望が多数あったので、是非という近藤氏の勧めもあり本集に加えることにしたものである。この書はいわゆる霊界を語ったもののうちの白眉である。欧米でもスピリチュアリズムの最重要文献として挙げられている。

単なる霊界描写とは異なり、各界の特質や相異点が哲学的にえぐり出されている。それでいながら必要な具体性も備わっている。また意識や記憶についてもその本質を知るうえで示唆に富んでいる。さすがは学者で、心霊研究に打ち込んでいた人の通信であるという気がする。

霊界のことを描き出したり報告したりするにしても、要はそれをなす人(霊)の問題意識が重要である。観察者に問題意識や各階層間の識別能力がなければ、たとえ霊界の実相を描写したとしても陳腐なものとなるのではなかろうか。

 
ジェラルディーン・カミンズGeraldine CumminstZb(一八九〇~一九六九)はアイルランド、コーク市のアシュレー・カミンズ教授の娘で、女流作家であった。優れた自動書記霊能者として知られ、使徒フィリップ(ピリポ)やクレオファス(クレオパ)やF・W・H・マイヤーズからの霊信を受け取ったとされる。

彼女の霊媒能力は、一九二三年十二月、E・B・ギブズ嬢と交霊の試みをした時に始まった。彼女はそれまで神学やそれに類似の学問を学んだことはなかった。広く国外を旅行したが、エジプトやパレスチナの地を訪れたことはなかった。

 普通彼女が創作する時の速度は極めて遅いが、自動書記を取るとなるとその速さは驚異的であった。一九二六年三月十六日の書記では、一時間五分の間に一七五〇語を書き上げた。

彼女の最初の本「クレオファスの書」は、「使徒行伝」や「パウロ書簡」の内容を補うもので、初期教会やイエスの死の直後から、聖パウロがベレアの地を出立してアテネに向かうまでの使徒たちの行跡を物語った歴史物語である。この本の最初の部分は、ブライボンド(*注)との協力のともに通信を受け取ったが、その後は彼女自身で受け取ったものである。

  (*注)ブライ・ボンド(Frederick Bligh Bond)     王立英国建築家協会会員。1864年生まれ。教会建築家、考古学者として、失われたグラストンベリー教会の発掘にあたった。「心霊科学」誌、ASPR「報告書」などの編集者を務める。「記憶の門」「幻影の丘」「アヴァロン団」その他の初期教会の様子に触れる著作があるが、これらはジョン・アレインやドーデン夫人の自動書記に基づいたものと言われる。ブライ・ボンドの特殊な使命がこうした霊と霊信を引きつける作用を果たしたと考えられる。(心霊科学事典)

二番目の本「アテネにおけるパウロ」はこの話の続きである。第三番目の本「エフェサスの偉大な日々」もまたこの流れに沿ったものである。これらの自動書記が書かれる模様は高名な神学者やその他の権威者によって目撃された。彼女の本を編集した学者たちはこれらの本には立派な価値があると認めている。

額面通り受取ってよいものならば画期的なものである。一連の本は使徒行伝のあいまいな部分に新たな解明を与えるもので、作者は使徒たちのグループやその時代のことによく通じていたことを示している、

どうみてもそれらが潜在意識の産物であるとは考え難い内容を含んでいるのである。その一例を挙げれば、アンタキアのユダヤ人社会の長をアルコーンと呼んでいるが、通常、クレオファスの時代の少し前まではエテルナクと呼んでいたものなので、それが分かるのはよほどの学者でなければならない。

 クレオファスというのはこれらの自動書記の直接の書き手ではなく、物語は使いの物を通してやってくる。すなわち七人の書き手たちがクレオファスに導かれているのだという。クレオファスの年代記は初期の教会では知られていたが、幾らか残っていた写本は失われてしまったものらしい。

 第四の本は『不滅への道』である。霊界の F・W・H・マイヤーズが伝えてきたと言われる通信集で、人間の魂が永遠に進化する様を壮麗な絵巻物として描きだしている。

 オリバー・ロッジは序文のなかで次のような賛辞を呈している。「この本は、十分な教養を持ち、献身的な奉仕心に溢れ、かつ一点の曇りなき誠実さを備えた自動書記者を通して得られた、能う限りの真実を伝えんとする純一の企てであると信じる」(以上、ナンド—・フォドー著、『心霊科学辞典』よりGカミンズの項訳出)

        ※         ※         

「献身的な奉仕心に溢れ、かつ一点の曇りなき誠実さを備えた」というのはけだし霊能者に要求しうる最高のものであり、それはそのまま最高の賛辞である。わが国の霊能者がいつの日かこうした水準に到達することを心から希望する。

 またこれは必ずしも全ての霊媒に要求されることではないが、マイヤーズほどの学識ある霊の通信ともなると、よほど教養のある霊媒でなければその通信を受け取ることができないようである。それは、マイヤーズ霊が言うように、自動書記は無意識になされるとはいえ、霊媒の内在意識が行う通訳なのだということである。

霊媒の内在意識が翻訳することもできないような霊信は受け取ることも不可能だというのである。われわれは知識のないうちはとかく霊というものを否定してかかるが、一旦それを仮定するときは、どういう訳か無意識のうちに霊媒の万能を前提としてしまう。

しかしそれは誤りで、霊信は送り手と受け手の共同作業だということになる。この点にもわれわれの「霊」というものに対して抱きがちな先入主の大いに修正されなければならない点があるようである。

 F・W・H・マイヤーズ Frederick William Henry Myers (一八四三~一九〇一)は古典学者、詩人としての一面を持った最も卓越した心霊研究者の一人である。科学思想に革命をもたらすかもしれない宇宙哲学の創始者。特にその著『人間個性とその死後存続』は心理学と心霊研究にまたがる大著として有名である。ケンブリッジ大学の古典文学の講師および学監を勤めた。

 彼はこう考えたという。もし霊的世界がかつて人間世界と交渉をもったことがあったとするならば、現在も同様のことが起こっているのに相違ない、従ってそのことの明白な証拠を見出すためのまじめな研究がなされるべきだ、と。彼はそうした研究の結果、霊的世界からの働きかけがないと科学的にはっきりすれば、人間の道徳や宗教に対する打撃ははかり知れないものがあると考えた。

何故なら、現代では幻想でありトリックであることが、昔は真理や啓示であったというのでは現代人の知性を納得させることはできないからである。

 彼は可視世界の現実的な知識を組み立てると同じく冷静で厳密な研究をするための幾つかの方法を考え出した。そして心理学方面からの科学研究に全力を傾注した。彼の生前にだされたSPR十六年間の報告書のすべてに彼の研究結果が掲載されている。

有名な『生者の幻像』の分類法は彼のアイディアによっている。「テレパシー」「超常的」「真性の」とかいうことばは彼の創案になるもので、その他にも彼が初めて用いてそれほど一般化していないこの種のことばはかなりある。

 彼は心理学国際会議の組織化にあたって重要な役割を果たした。SPRにおいては一九〇〇年にはそれまで高名な科学者によってのみ占められてきた会長の座に選ばれた。『フォートナイトリーレヴュー』や『十九世紀』誌の寄稿家として活躍し、一八九三年には論集『科学と未来生活』を上梓している。

 主著『
人間個性とその死後存続』は死後に刊行された。これは当時マドラス大学の教科書として採用された。この著は、人間の識閾下の自我こそ真の自我であり、かつ心霊機関であり、いわゆる通常意識はこの真の自我の一断片にすぎないこと、また超常的知覚は肉体に拘束されない「魂の生命」のもつ通常の知覚であることを明らかにした。

彼はそれまでスピリチュアリストによって主張されていた「殆どの超常現象は死者の霊によってひき起こされる」という考えを退けて、作用者、ないし受け手の人間自身の霊においてひき起こされるものが多いと結論した。

こうした考え方は混沌とした心霊現象を整理するのに役立った。一方彼は死後存続についても大いに可能性ありとしている。閾下(いきか)自我の力とされる能力が生きている間の魂の進化過程を通じて衰えず、この世において何の目的もなく保存されるのは明らかに死後の生活の為である。もしそうした目的がないとしたら、無意識があらゆる思想や記憶を注意深く保存し続けるのは一体何のためか?

 ジェムズ教授はこの潜在意識の問題を「マイヤーズ問題」と名付けた。「この問題について将来どのような結論が下されるにしても、彼の研究に、幻覚、自動現象、二重人格、霊媒現象およびそれに付帯する諸現象を研究した最初の試みであるという名誉が与えられることは間違いない」と言っている。

また心理学者フルールノワ教授は「もし将来、帰幽者の霊が錯綜したわれわれの心的物理的世界に干渉するという彼の理論が証明されれば、マイヤーズの名はコペルニクスやダーウィンと並んで、宇宙論、生物学、心理学の分野における科学思想に革命的変革をもたらした天才として永遠に記録されるであろう」と最大級の賛辞をのベている。

そして彼を精神科学の分野における同時代の第一人者としている。リシェはといえば「マイヤーズは神秘家でないとしても、神秘家のもつあらゆる信念、使徒のもつ情熱に併せて学者のもつ智慮と正確さを合わせもっていた」といっている。またオリバー・ロッジはその覚え書きに次のように記した。

「私は彼ほど人間の死後の運命について楽観的であった人物を知らない。彼はある時、私にこう尋ねた。もし君の死後の運命と引き換えにこの世の太陽が消滅するまでの永きにわたる純乎として賢明な地上生活の幸福が保証されるとしたら、両者を交換できるかね、と。彼は自分ならそうはしないと言った」 

『人間個性───』においては物理的心霊現象についてほとんど言及していない。彼は念動現象の起こることを信じてはいたが、クルックスとの実験にも立ち会ったにもかかわらず彼の観察した限りでは、彼の本の中で正当なものとして公表しうるほどのものではないと思えた。

しかしながら、憑依作用を扱ったところで、彼は憑依霊は肉体をその所有者以上に巧みに使用し、肉体との関わりなしにかなりの重さのものを動かしてみせると率直に述べている。一八七二年から七六年までの間に観察した事例については退屈で厭うべきものとの感想を記している。
 
 マイヤーズは一八七四年五月、エドモンド・ガーニーと共にステイントン・モーゼスと知り合い、その後親交を結んだ。一八九二年にモーゼスが亡くなったとき、マイヤーズはモーゼスが霊信を記録したノートを研究所に託されている。SPR報告書の第九巻、第十一巻に載せられたマイヤーズの記事はモーゼスの驚くべき交霊現象について見事な説明をほどこしている。がしかし、マイヤーズ自身はモーゼスの交霊の模様を実際に見たことはなかった。

 マイヤーズは物理的心霊現象については一貫して冷ややかな態度をとり続けている。しかし現象そのものは何度か観察している。一八七八年にはウッド夫人とフェアラム夫人の現象を見ており、これはケンブリッジのシジウィック教授の部屋でSPRの援助の下で行われたものであり、現象は真性そのものであったが、これについてマイヤーズは沈黙を守っている。

その後リシェ教授がルボ島で行った有名なユーサピア・パラディーノの実験を見たり、エヴェット夫人やデスぺランス夫人、デヴィッド・ダグィッド等の交霊実験などを目撃した。パラディーノについてはリシェからの強い要望で、念動現象とエクトプラズムの現象については真性のものだったと証言している。

しかし、依然として彼は物理現象には余り気のりがしなかったらしい。SPR所属の霊媒トンプソン夫人は、彼のお蔭で物理霊媒になるのをやめてしまい、専ら主観的入神霊媒としての能力を開発した。その結果、マイヤーズは彼女から死後存続の証拠を得ることができた。

 マイヤーズの死後多くの霊媒が彼らの通信を受け取ったと称した。このなかには信用のおけないものもあったが、パイパー夫人の受け取ったものは最も信頼度の高いものだったとされる。

カミンズの受け取ったとされる『不滅への道』に関しては、マイヤーズの友人であったオリバー・ロッジが、それをマイヤーズのものと考えても何等おかしいところはないと言っている。(以上前記『心霊科学辞典』マイヤーズの項より。一部は要約)


       *          *          *


 マイヤーズの主著『人間個性とその死後存続』“Human Personality and its Survival of Bodily Death” (一九〇三)は真に大著というに与えする浩瀚(コーカン)なもので、一九〇三年版(Longmans, Green, and Co.)のものをみると大判で、上下二巻に別れ、それぞれ細かい活字で七〇〇頁、六六〇頁にのぼる大部のものである。

内容は上巻が、一、序説、二、人格の崩壊、三、天才、四、睡眠、五、催眠、六、感覚の自動現象、下巻は、七、死者の幽霊、八、運動の自動現象、九、トランス、憑依、エクスタシー、などの項目を載せ、それぞれ付帯資料を集めた本文と同じ程の分量を付録を付している。

 心理学者としてのマイヤーズの人間探求は識閾下の真の自我とその潜在能力を明らかにし、遂に人間死後の存続の事実をも解明しつつあった。

カミンズの自動書記の伝えるところによれば、彼は死後においても生前の宇宙論的魂の進化の説をますます発展させつつ、人間個性を超えた永遠の魂の進化の旅路についての研究を継続したということになるであろう。


  スピリチュアリズムと証拠
 いったいスピリチュアリズムと言われるものの信頼性とはどの程度のものであろうか。スピリチュアリズムにはそもそも信頼性など存在しないと考える人がいるかと思えば、一方で、信頼性の問題などはそこそこにして、いきなり霊媒の言うところを鵜呑みにしてかかる人もいる。そのどちらでもない人々のあいだでも、この一領域全体の信頼性を客観的に検討してみた人は比較的少ないのではないかと思われる。

 従来、わが国で心霊研究といわれてきたものの実体はスピリチュアリズムである。スピリチュアリズムには「心霊主義」「霊交思想」などの訳語があり、心霊研究はサイキカル・リサーチの訳語とされながら、一時期かなりの長期にわたって、わが国の研究者たちのサイキカル・リサーチに対する理解が厳密性を欠いていたために、心霊研究とスピリチュアリズムとを混同し、両者を殆ど同じ意味に用いる伝統ができあがってしまった。

従ってわが国では心霊研究とスピリチュアリズムは殆ど区別されていないが、この二者は欧米でははっきりと区別されている。いまここでは心霊研究をその本来のサイキカル・リサーチの意
意味に用いることにする。

 心霊研究は心霊現象についての科学的な研究であり、百年余の歴史をもつ。その中心となったのは英国のSPRと米国のASPRであった。心霊研究に要求される厳密さは、あらゆる科学研究の厳密さを凌ぐものだといわれてきた。その心霊研究によって、いわゆる心霊現象の客観的存在と、人間の超常能力については繰り返し観察され、それらのうちの主要なものは既に現実であると証明されたといってよかろう*。

しかし、その現象や能力の背景悦明としての「霊魂仮説」や「霊交」の可能性については多くの研究者は証明されていないと考えている。そうしたところまでは踏みこまないのが心霊研究一般の態度であり、超心理学は、この点を一層鮮明にすることによってようやく一般科学の仲間入りを果たすことになった。

それ以上に踏みこんで、「霊魂説」の立場に立てば、その瞬間から、スピリチュアリストの仲間入りをしたと考えられているのである。

 しかし心霊研究のこれまでの主要な研究者の中には、既にこの二項については証明されたと考えた人がいたことも確かである。その点で現代の心霊研究は、クルックス、ロッジ、リシェの時代から後退したものと言えるのである。

 スピリチュアリストの信念は、国際スピリチュアリスト連盟の採択した共通原則の二項(すなわち、一、死後に人間の個性は存続する。二、現界霊界間の交信は可能である。)に関して言えば、こうした初期心霊研究者のなかの大物たちの到達した結論と一致しているので、「科学的でない」という非難はあたらないであろう。

後代の心霊研究者たちはこうした初期の大物たちの研究は厳密性を欠いていたとか、科学的な方法基準がその後みなおしされて厳密性を増したとか言いがちである。しかし果たしてそうか。その後の科学的な研究者たちが傑出した霊媒たちを得心がゆくまで研究していないことも事実だ。

そうした霊媒(特に物理的霊媒)が払拭してきたせいもあるが(その理由については本集第三巻、『スピリチュアリズムの真髄』編者あとがきを参照)、心霊研究者たちが二流の霊媒のペテンを暴くことに熱中したり、ポドモアのように一つの失敗例で全体を推し量るという否定型の推論を専らにしていることにもよる。

そして、いつの頃からか研究者たちが霊媒研究を殆どやらなくなってしまったことにもその原因がある。
霊媒研究は学者としての危険を冒す確率が高いが、ことはそうした失敗を嫌う学者の高利性によって結論づけられるような種類のことではない。霊魂仮説や、交霊の事実を最もよく裏付けうるのが霊媒だとすると、霊媒研究をしなくなったのは、フェアではないようである。

 証拠というものについてよく考えてみる必要がある。科学的な証拠とは何か。科学が独自の基準を立て、科学的証拠とは、万人の普遍的に承認しうる証拠を指すのだというならば、それはそれとして科学独自の道を行くのもよいのである。こうした普遍性の定義そのものが難しく、問題をはらんでいるが、ISFの二項と言えども未だそのような意味での科学的普遍性を獲得してはいないとひとまずいえるであろう。

しかし「証拠」とは必ずしも万人向けのものではない。また更に言えば「人間の知識」とは必ずしも万人向けのものとは限らない。

 私の家で三十年前に飼っていた猫の「ミケ」を例にとっていえば、「ミケ」が存在していた科学的証拠は今はない。というよりもあらゆる証拠は跡形もなくなっている。それは私と、数人の家族の記憶のなかにしかないのである。従って、科学者が確かに「ミケ」の存在していた科学的証拠を提出せよといっても、私にそれを提出することはできない。しかし「ミケ」の存在したことはまぎれもない事実である。それは私に証拠を要求する科学者の存在と同じくらい確かなことなのである。

 同様なことが他のいろいろな局面でも起こりうる。例えば私はこうもり傘に名札を付けておく習慣がないが、いつか科学者に、私の傘が確かに私のものである証拠を提出せよといわれたら、そうすることが出来ないと思う。しかし私は多分それが私の傘であると主張し続けることだろう。

私の不確実で主観的な記憶に基づいて・・・・・・。私は南極大陸は確かに存在していると学校で教わったが、格別の科学的証拠を握っているわけではない。私は虎の子の預金をある銀行の定期預金口座に置いているが、明日その銀行が破産しないという科学的証拠を誰からも受け取ってはいない等々。

 右にあげた僅かな例を見ても私の信念や知識、また何かが存在する、ないし存在しないという確信は、科学的証拠や証明と殆ど関係がないことが分かる。私が右のように
非科学的な根拠に基づいて信念を形成しているからといって、私のことを非理性的だとか空想的だとか非難する人もいないと思う。

 無論、ことは個人的レヴェルの信念の問題ではない。しかしこのことだけは確実である。人間の知識や信念は確実性や普遍性という点で段階がある。人間がこれまで獲得した知識のうちで絶対的普遍性ないし確実性を獲得したと思われるものは極く僅かである。

「科学」といわれているものも、この絶対的普遍性の尺度を何所まであてはめるか次第で、不確実なものになってしまう。そうなれば科学が科学を自己否定する結果になるであろう。

 
スピリチュアリズムがこの百数十年間に霊魂の存在や、霊交の事実について提供しつづけた証拠は、私達が日常に採用している知識の確実性の根拠からしてみれば遙かに科学的で、かつ合理主義的過ぎるほどのものである。事実、神秘主義の陣営からはそう非難されている。

霊魂問題については、前世紀以来の永い裁判が継続しているといってよかろう。科学は検事の側にまわり、スピリチュアリストは弁護側についている。公平にみれば弁護側は既におびただしい証拠を提出した。

しかし、この裁判は科学の基準をどこにとるかで争われているようである。今世紀初めまで科学的でないとして検事側の退けていた、人間の超常能力の存在については既にスピリチュアリスト陣営の主張が認められ確実な証拠として採用された。

検事側は、霊魂の存在を認めることが科学的基準を満たしていないと言っているだけで、存在しないことについての積極的な証拠は何もないことを既に暴露されてしまった。それに対して、スピリチュアリストの提出した証拠は、それが在ることについての積極的な証拠である。

こうした結果を見守りつつ、現在陪審員たる一般常識は、次第に霊魂仮説を認めつつあるという状況である。この係争はあるいは二百年裁判となるかもしれない。

しかし、その時争点は科学的基準とは何かの問題に移って行き、最終的にはこれまでの科学というものそれ自体が裁かれる結果となっているであろう。

 
一方、被告たる宗教や、伝統的神秘主義は従来の証拠の提出なき主張はもはや受け入れられないことを知るべきである。スピリチュアリズムが手弁当で弁護をかって出ている事態に気付かず、それを競争相手が低次の宗教的信念の所有者だからとして攻撃するような愚はただちにやめるべきであろう。

 
スピリチュアリストと神秘家の主張の違いの大きな相違点は、右に述べた証拠の問題が主である。神秘家は証拠を提示せず、むしろそれを秘する。故にその教説は密教であるとか隠秘主義とかいわれる。彼らのもつ知識はもともと一般化を前提としていない。彼らは知識の独占を好むとしてしばしば非難される。

しかし、彼らのもつ知識の本質が無用な一般化を忌むことも確かである。霊的知識は魂の成長に応じて与えられるのが原則であり、師たるものはよく弟子の素質と霊的成長を見てその教えを与えなければならないとされてきたからである。このことは今もって考慮されなければならない一点である。

しかし科学的唯物論が力を奮って、人類の霊的起源に根源的な否定の矢を放った段階では事情が変わったといえる。と同時に人類全体が新たな成長期に達して、霊的知識がより多くの人に分け持たれることが必要な段階にきたのでもあるらしい。

フォックス家のリーは「あなた方はもはやこの真理をおし隠してはならない」という霊界からの啓示を受け取った。前世紀以来同様な霊信が何度も受け取られている。

 
例えばここに一つの霊的現象があっとして、またある霊媒が霊界からの霊信と称するものを受け取ったといわれるとして、スピリチュアリズムにおいてはそのことが秘密にされたり、情報源が秘匿されるようなことはない。そうした現象は様々の角度から検討され、その現象や霊信の元となった霊媒もまたあらゆる角度から調べられるのである。


 カミンズ嬢におけるマイヤーズの通信においてもそうした条件を具備していることを読者はみられるであろう。ギブズ嬢はよくその役割を果たしている。霊媒たるカミンズ嬢の日常や履歴についてよく知られていなければならない。そして霊信とカミンズ嬢のもてる知識の比較がなされる。

また霊媒が霊信を受け取るときの書記のスピードはどのようであるか、書き損じや書き加えがないかどうか、書記に霊と称する者の特徴は現れているか、などが詳しく観察される。そして次のように記される。


 ひとりの人が今まで会ったこともない多くの人々の談話の癖、用字の特色、その人の具体的な個性などを似せて書くことができるなどとは考え難いのです。しかしカミンズ嬢の場合にはそれが当てはまるのです。

何故ならこうした人格の劇化現象は彼の友人や親戚であるとされる人々によって調べられた結果、その人々によって是認されたからです。
 
この現象は、心霊研究の既知の理論では説明できないものです。霊媒(ないし通訳)が未知の知識を獲得することの説明としては、テレパシー説ないし潜在テレパシー説さえ持ち出されるかもしれませんが、人格の再生となると不可能なのです。(*注)本書「要約」参照。
 
 更にもうひとりの確実な霊媒(*注)との交差通信によってこの霊信が信頼するに足るものかどうかが確かめられている。従って、スピリチュアリズムの文献は、いきなり霊信が述べられるだけでは完結しない。

その霊信が書かれるに至った経緯その他がよく分かっていることが大事なのである。本書の場合のように様々な人の証言や付帯資料によって資料的価値が完結するのである。その意味で本書の序文やレナード夫人との交差通信の記録が重要な意味を持つのである。
 (*注)レナード夫人を指す
 
 無論そのことによってすべてのことが為されたと考えるわけでもないし科学的な観点から十分であると主張するわけでもない。「スピリチュアリズムのこれまでの歩みは、人間がそもそも霊的な存在であることの堂々の主張であり、またそのための証拠提供の真に自己を滅した奉仕の道程*」である。

科学がその役割をより高次な段階にまで高め得る日まで、スピリチュアリズムはより少ない普遍性しか示しえないとしても、次々とその時期に到達しつつある人類の同胞のために霊的な真実への方向を示しつづける働きをやめることはないであろう。
 

℘279
 類魂と再生
 本書に述べられた「類魂」の概念は、再生の問題とも絡んで霊魂研究の最も神秘、最も深奥な問題点を呈示しているといえる。この死後のマイヤーズが語る類魂説は、他のいかなる神秘学悦にも見られない独自性を持っている。しかも、われわれが、霊魂研究の途次で遭遇する個々の事実の多面性や、時としては相互矛盾するかに見える諸部分を全体として非常によく整合的に解決してくれる考え方なのである。

  『不滅への道』の続編ともいうべき『人間個性を超えて』を読むと、魂はもともと集合的、共同体的な性格をもっているものらしい。これは個々の魂が一つの霊から分かれたものであるとすればむしろ当然のことである。まず魂の基本的単位である「心霊単子(サイキック・ユニット)」(男女一対になっていることがある)なるものがある。

それから「家族類魂(ファミリー・グループ)」があり、ついで本書に述べられたような「類魂(グループ・ソール)」がある。そして実はこの類魂よりも更に大きな「心霊族(サイキック・トライブ)」なるものがあるという。つまり魂はそもそも「類」として集まる性質を持ち、次第に大きな類族をなしているようなのである。

 『不滅の道』第六章では、類魂の成員として二十、百、千、二千という数字を挙げているが、第七章では、植物、動物はおろか他星界の生物までもがこの類魂のうちに養われているというような説明をしているのは、後者においては多分この類魂の単位を「心霊族」かあるいはそれ以上に大きな類魂にまで広げて考えているからであろう。敢えて推測すれば、死後のマイヤーズ霊がいるという第四界の「色彩界」においては先に挙げた数字が常態なのであろう。第五界、六界に至ればその類魂の範囲も一段と広がるものと想像される。しかし、そのうちに植物や動物や他星界の生物までも含む類魂とは、何と
広大な生命の共同体であることか!

 われわれは、もともと、一つの類魂に属しているが死後第四界の色彩界に辿りつくまでは自分がどのような類魂の成員であるかを知らない。というよりも、そもそも類魂のなかに在るということすら知らずに過ごしているのである。幻想界ではまだこの類魂の事実は魂の間に知られていない(従って通常の霊界通信で類魂のことが語られていないのも宜(ムベ)なるかな)。第四界に至ってようやく類魂の存在に気がつき、また類魂を統括する本霊(上方の霊)の指導を強く意識するようになる。

 しかし第五界に至って初めて魂は自己の属する類魂の特性や共同の目的を知るのだという。「心霊族」という更に大きな類魂の存在も知るようになり、必要とあれば他の星界に誕生して一層広大な宇宙の経験をする。第五界こそ魂にとって革命的飛躍の時である。

ここで魂は地上の雰囲気から脱し、各星界に共通の炎の身体を獲得する。「太陽人」としての再生*(エジプトや日本の神話を想わせる)である。いわゆる火の壁を越えた存在となるのである。地球人もここまでくれば宇宙人である。宇宙人は他星界から飛来すると同時に地球からも出かけていっていることになる。

第五界では類魂の感情的な側面に通じ、第六界では知的な側面についても知悉する。そして本霊との合体を果たすのだが、こうなるとわが国でいう守護神や産土神の段階から更にそれをも越えているかもしれない。

第六界を超えると時空を超えた宇宙神霊とも言うべきもののなかに参入するようであるが、そこへの最後の飛躍を行うためには自己の属する類魂がすべて同じ六界のレヴェルまで向上するのを待つというのである。ここにこそ世界愛、人類愛の根源があるのではなかろうか。

 地上においても様々なグループが形成され、我々は地上においてそうした大小のグループの幾つかに属してる。時としては自ら新しいグループを組織したりもしている。われわれはグループに入りグループを脱け出す。そしてまた新たなグループの中に入る。

われわれの一生の最大の冒険は一つのグループから他のグループへ移行する時に経験されるであろう。われわれはそうした経験によって次第にこのグループなるものの意味を知るようになるのである
が、このグループとはどれも似たような内部機構を有することに気付くようになる。

グループは地上では任意に形成されているようにみえるが、その印象がどれもいやに実体的でかつ生命的なのである。われわれは時としてこのグループの存在を不条理なものと思いながらも、それを架空のものとして無視することはできない。

 こうしたグループがわれわれに感じさせる有機的、生命的実感はそれがそもそも霊魂のもつ類魂の生活を模倣したものであるからに相違ない。その意味でもこの世はあの世の反映的世界である。考えてみれば、地上においてもよくできた組織においては、上位の者は必ず下位の者の経験を総合し、それらを併せて使用できるようになっている。

自ら経験しないものも自分の経験と同じように使用できるのである。またそうした特能を備えた者が集団の長となる。上位の者は必ず想像力によって下位の者を使役している。死後の上層世界と違ってなかなか他の類魂の経験を知悉するところまではいかないが、その練習をしているとまではいいうるであろう。

 われわれの個としての根源的な不安も安心も、皆このグループとの関係いかんに存するらしいが、地上でのグループ形成は仮のものであって、すべて模倣と練習なのではなかろうか。死後の世界にこそわれわれの本当の類魂があり、そこでこそ、その類魂が宇宙生命のなかで織りなしつつある模様、つまりその特性や存在目的や使命を知るのだというのであるから。

 動物的な人や、幻想界までの魂は再び地上に再生する。しかし此処を越えて色彩界まで登った魂的な段階の人は殆ど再生しない。その代わりに、これまでの地上経験でつくり上げてきた生命の鋳型のようなものを新しい魂に委ねて代理の経験をさせる。そして自らは上方の光りの一部としてこの未経験な魂を導くのである。

いずれこの新参者の経験も自分のものとなる。そして類魂のなかにおける同類の魂と同調共鳴することによって、それらの魂の経験を自己の経験と変わらず吸収して学んでゆく。

従って共感覚とはもともと魂の本質をなすものでなくてはならない。ESPないしテレパシーのもとをなす魂同士の共鳴感覚をわれわれは持ち、しかも将来にわたってこの感覚と能力を磨きつづけなければならないのである。そうしなければ魂としての高次の生長はないことになる。

 わが国の心霊研究とスピリチュアリズムの大先達、浅野和三郎がこの類魂説と出会った時、彼は驚きかつ共鳴した。これまでの彼自身の調査結果と符節を合わせるように一致したからである。

浅野には研究者と実践家の両面があった。英文学者であった浅野は欧米のこの方面の文献を渉猟紹介する一方、大本入信によって、既に二万例近い憑霊体体験者を審神(人に憑霊した霊と問答し、霊の正邪高下を判定すること)していた。

 当初浅野の関心は類魂というより再生の問題にあった。彼は再生を肯定する立場であったが、実際に招霊してみると招霊しようとする当人は常に霊界にいるということが分かった。すると再生はないということになるが、腑に落ちず、もっとこの方面を調査してみる必要を感じたのであった。生前の浅野を知る井上忠一氏はこのいきさつを次のように書いている。


 先生が、人の背後霊を、招霊実験して調べておられた時、誰の場合にも、当人と性格や体質が酷似している霊が必ず一人いることに気付かれた。そこで、この霊は、当人の前世の人で、この人は、前世の分霊ではないだろうか、という発想を生じ、当時、先生の友だちで霊媒の扱い方に慣れていた今井梅軒さん、この人と共同研究をされていたので、梅軒さんに話された。

そこで仏教の「全部再生」が真実か、分霊の「部分再生」が真実かを調べてみようということになった。方法として、多くの人を呼び出してみる。ところが、全部再生論からは、呼び出している中その人は現界に出ているので、霊界にいないということで、呼び出せないことになる。

つまり霊界不在である。そのパーセントが呼び出し総数に対して、どのくらいあるかという統計的な考え方である。(中略)

 先生のお話しでは、三百人以上の招霊をされた。呼び出しできなかったのは、たった二人、しかし、その一人は菅公(菅原道真)である。菅公は天神さんとしておびただしい信者から拝まれている。霊界におられるが、神格が非常に高くなっておられ、霊媒にかかって貰えなくなっている、と考えられる。

もう一人の方の名は忘れたが、同様な理由であろう。そこで死んだ人は全部霊界にいるということになる。このことは分霊再生が真実だということを立証したことになる。

 しかし例外がある。死んでから十年か二十年くらいの短期の中で再生している例がある。こんな場合は分霊を出すだけの年数を経ていない。
 この分霊を出した前世の霊は、背後霊の中にいるので、「守護霊」と定義された。

 「分霊再生」は前世霊(守護霊)がそのまま生まれ変わるのではなく、自分の未浄化な部分を再生させるので「部分再生」ともいわれる。また、守護霊があたかも親が子を生むように分霊を生むので、「創造的再生」ともいわれた。

 浅野の再生説は昭和三年頃から出ているが、その頃は議論がまだ充分に熟していず不充分であった。とあとに述懐している。欧米行却(昭和四年)を終え、海外の動きに大いに触発されて帰国したあたりから、浅野の許に少しずつ優秀な霊媒が集まるようになった。

浅野はそれらの霊媒を用いて自前の研究を進めることができるようになった。井上氏の言う再生霊の調査とはこの時期のことなのであろう。昭和五年には「創造的再生説」を出している。

 私は再生肯定論者でありますが、ただ私の所謂再生説は、在来一般に信ぜられているような、一本調子の機械的再生説ではなく、よほど複雑な手続きを踏む所の、創造的再生説とも称すべきものであります。そしてその出所は、自分の頭脳ではなく、また古経典でもなく、主として自分の手元にある、霊界との交通能力の活用に基づいたものであります*。

                     *浅野和三郎「創造的再生説に尽きて」(『心霊と人生』昭和五年八月号所収)
 
 
「自分の手元にある、霊界との交通能力の活用」とは、すなわち霊媒による招霊のことである。浅野の用いた招霊法は、欧米の交霊会とは異なる日本独自の審神法による審問方式で(もっとも物理的交霊会などの時は専ら西洋式を用いた)、浅野はこれをごく無造作に行ったといわれる。

多分彼一流の合理主義で無駄だと思われることは省いたのであろう。古式の帰神法よりはよほどその手続きが簡略化されているが、大体次のような方法を用いる。まず霊媒となる人間を神前などに坐らせ、審神者がこれと対座する。祝詞などを唱えた後、霊媒を軽く瞑目鎮魂せしめる。

この間、審神者は招霊したい霊を心に念じつつ石笛を奏する。審神者は一般に指頭よりいわゆる気を発してこれを霊媒の眉間に注ぎ込む。こうすることによって霊媒はやがてトランスか半トランス状態におちいり、やがて発言するようになる。これを霊信という。

審神者は交霊した霊の名を問うなどして問答を進めるのである。こうした交霊がうまくいくためには、霊媒が天性の素質者であること、審神者に招霊の力や、備わった力量があることの二条件が必要なようである。


 こうして浅野によって唱えられるようになった創造的再生説とマイヤーズの再生説には厳密に言えば相違点がある。マイヤーズは前生霊が新しい分霊を生み出すとまでいっていないし、また浅野が前世霊の未浄化な部分が第二の自我として分裂発生するのが再生であるといっているが、マイヤーズはそこまで言っていない。

マイヤーズの言っているのは、前生霊がある枠組み(カルマ)を残し、そこに類魂のなかから新たな魂が入ってその枠組みを継承するということである。浅野の場合は第一の自我である前生霊は「守護霊」と名付けられる。マイヤーズの場合ではこれが本霊に連なる上方の霊の光となり、自己の枠組みを与えた霊と相互反射を営む。

確かに表現と視角が違ってはいるが、矛盾はせず、お互いに相補的であると言いうるかもしれない。とにかく浅野はこのマイヤーズの通信を読んで始めて納得のいく再生の説明に出会ったと思った。浅野訳『永遠の大道』の評訳のなかで浅野は次のように記している。


 不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大の関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。

それは事実、全部再生説に訂正を加えたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実をいうと必ずしもこの文字を使わなくてもよい。むしろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかもしれない。

私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体───所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂───所謂分霊は沢山あり、それぞれ異なった時代に地上生活を営んでいる。此等の分霊中、普通地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。

即ち守護霊というのは、多くの分霊中の最も親密の一代表を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動関係のあることはいうまでもない・・・・・・・。

 以上が私の『創造的再生説』の梗概であるが、今マイヤーズの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。


 再生に関しては従来から強力な肯定派と否定派がある。インド思想、神智学、人智学においては再生が強く主張されていることはご存知の通りである。スピリチュアリズムではラテン系のスピリティズムが再生を教義としているほどであるが、英米には従来から再生否定派が多かった(これは最近変わってきているが)。

大どころでは、ステイントン・モーゼスが否定派であった。本書『スピリチュアリズムの真髄』を著したジョン・レナードなども断然否定派にまわっている。肯定も否定もそうそうたる陣容を抱えこんで互いに譲らない。

 ところで、これを霊界通信に徴してみると、通信霊にも両派があって、「今まで再生した例を見ない」という霊があるかと思うと、「再生を知らないのはその霊が未熟だから」という霊もあり、これも二派にわかれている。こうしてみると、霊界通信などやはり当てにならないという人も出てこよう。

しかしマイヤーズの類魂再生説を知れば、真理は両者の中間にあることが分かるであろう。前生霊のつくった枠組みをそのまま継承して新しい魂が地上に下りる。これを再生と呼べば再生と言えるし、再生ということばの本来の意味から外れると言えば確かにその通りでもある。

つまり生きた真実とは人間の簡単な再生、非再生ということばで説明しきれるようなものではなく、そこには類魂を統体とした複雑な生命の連続機構があったのである。

 このような比喩はどうであうか。類魂を本店と考え、この世に生まれた個人を支店とする。そして全体を一つの法人格と考えてみる。今、支店の支店長が本店に帰って、新たに本店から支店長がやってきたとすると、この支店長は支店にとって、支店長が再来したというべきか、いや新米と言うべきか。

前任者の作った支店という枠組みを全て引き受け責任も負わなければならないという意味では、支店長は一旦死んだが再生したということもできよう。しかし法人格を取り除けば支店長は明らかに別人である。

したがって支店長は新生したともいいうる。もし「再生」と「新生」の二つしかことばがないとすれば、ある人は支店長は再生したと言い、ある人は支店長は新生
したというであろう。

 いったい子は親の再生なのか、それとも全く新しい個体の新生なのかという問題にもつながる。人間のように各個体が個性的な場合はともかく、アミーバのような段階では一つの個体が死んでも、全く同じものが連続しているのと変わらない。物的条件の中で連続を維持するためにやむなく死という方法をとっているようにもみえる。これは人間以外の動物には多かれ少なかれ当てはまることである。考え方によっては生命発生以来、死はなかったのだともいいうる。

 生命や意識の連続の問題を類魂という複雑な生命装置を本源として考える時、すべては全く今までの人間の常識を超えた様相を呈してくる。類魂は死なず生き続ける。そしてその一部をたえず地上に下ろし、再生せしめ、これを養い導くことによって地上の経験を拡充している。

 個は一つの天命を帯びて地上におり、経験の収集と自魂の成長を計るが、融合と同一化の本性を忘れずに類魂に帰一してゆく。マイヤーズ霊の言うように、『全体即個、個即全体』も境地が霊魂の高次の段階であるようだ。

こうした感覚をわれわれはすべて予感的に持っている。地上における類魂集団(と見えるもの)はしばしば不快の観念さえもたらすが、あの世の高次な類魂となれば憧憬の念さえ覚えるほどである。

 類魂再生説の重要無比な点は、それが、意識と「個」の連続の観念に全く新しい視野を提供することである。近代以後われわれの思考は「個」を中心とした考え方であって、特に生死を考える時は、肉体的な「個」を起点として考える考え方によっている。

それは誰の目からみても一つの肉体が生成し、消滅すると見えるからである。肉体の消滅をもって個の意識も消滅したとする考え方は、意識の連続を考えるようになってからも痕跡を残す。

すなわち個を絶対の条件とみなす考え方である。生命と霊の連続性からみれば、純然たる個として再生しなければならない理由はないのではないか。マイヤーズの通信において、動物的な人は再生するという。しかしわれわれは二度と肉体をもっては再生しない、とも言っているのである。

これは「魂的な人以上」と条件を付けたようでもあり、そうでないようでもある。もし類魂内での部分再生が生命の法則ならば、動物的な人の全部再生も割合の問題なのではなかろうか。殆ど前者の霊とそっくりに再生するためにそう言いうるだけで、必ずしも一〇〇パーセントではないのではなかろうか。その方が真理としては一貫しているように思えるのだが・・・・・・。

 もしマイヤーズの伝える類魂の説が正しいとすると、将来人間の意識の進化と共に、信仰の形態にも革命的な変化の生ずる可能性がある。そもそもわれわれの個々の魂にそれぞれの類魂があり、われわれが絶えずその上方の光から導かれているのだとすれば、この世に様々ある宗教団体が、その神を唯一の神と立て、自己の教団を地上の人間すべての所属すべき唯一の教団であると説くのは、いったい何なのであろうか?

あの世はおろか、永遠にわれわれを導くように言っているが、もし個々人がやがて第四界まで登ったときに気がつくそれぞれの類魂の本籍があり、その類魂内での同化と上昇にその魂本来の辿るべき道程があるのだとすれば、この世の諸宗教はいわばそれまでの模倣物を与えて、類魂本来の籍を隠蔽することにならないのであろうか? 

そのことによってわれわれ魂が本来辿るべき故郷への帰還の道を遅らせることにはならないのであろうか?
 
 今仮に将来興るべき信仰を類魂信仰と名付けるものとする。すると、この類魂信仰はわれわれの先祖の系列を一つの類魂とする祖先信仰(地縁による産土信仰なども同じ)に案外近いところがあるかもしれない。

しかしマイヤーズ霊の言うように、一つの類魂のなかには西洋人として生まれるものもいれば東洋人として生まれるものもおり、また他の星界に転生してゆくものもあるというような広いものだとすると、単純な祖先信仰でおさまりきるようなものではない。

狭い祖先信仰を打ち破るという点ではキリスト教の説く愛や普遍性の高さから大いに借りるところもある。意識が個我を離れた大自我に広がって行くという点ではインドの仏教哲学に似たところもある。

しかしマイヤーズの大自我とインドの大我は同じものではない。インド哲学のように抽象的な宇宙我に至るまでに本霊ないし類魂系列の大小の意識存在の導きが具体的に問題になりそうである。それらの中途段階を全て幻とみたり、変化を無常とみて成長を考えないのは真理の一面をしかみていないようである。
 

 個我を超えた本霊の導きを受けるためにはヨーガ的瞑想や各宗教共通の祈りのようなものがその向かう焦点を変えた形で必要とされるように思われる。また現在一部の民間信仰のなかにある親神を探す親神信仰はこうしたあるべき類魂信仰の反映であるかもしれない。

 このように類魂説を受け入れると、現在まで見られる諸信仰および読宗教の形態は類魂の事実から出て様々にその一部が実現されたものであるかもしれない。従って、将来類魂の事実に基づく信仰がはっきりしてくれば、世界の宗教形態は根本的に変わらざるを得ない。各個人は自己意識の内面を通してその本籍たる類魂の上方に光を求め、その導きの下にそこへ融合帰一するような信仰形態をとることになる。

それは半ば祖先崇拝的、半ばインド的、半ばキリスト教的、そして大いなるスピリチュアリスティックな信仰形態となるのではなかろうか。

 このようにして、類魂信仰は各宗教のもつ長所と特長を集めながら、教祖というものを持たない信仰となろう。導き手は類魂の上方の光しかあり得ないからである。

類魂信仰は個々の内面への上方からの光の反射を通して導かれる個人的な宗教のようでありながら、結局は個を超えた大きな類魂集団への帰入融合を目差すという意味で個人を超えた宗教である。現在わが国で次第に形を整えつつある「守護霊信仰」はこうした未来の宗教の模索と言えるものであるかもしれない。 

 

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