世界心霊宝典Ⅴ 
        人間個性を超えて
 ── 個人的存在の彼方── (完訳)                      G・カミンズ著                                                                                                                           梅原伸太郎訳                     
 
     
Beyond Human Personality        国書刊行会

                 目   次


第一部 死直後の生活
 第一章 ケチで、ちっぽけな時代
 第二章 意識の発展史
 第三章 死後まもない時期の生活
   *超エーテル世界または霊的世界
   *第三界における光  
   *第三界における時間  
   *四次元界  
   *愛と結婚     
   *暴君の運命   
   *死後の世界の構造
   *家族の類魂
   *夢の子    
   *人間個性と死後存続
   *生体と連動する複体 
   *病気と複体
   *自殺              
         
 第四章 再生         
 第五章 同魂同士 
 第六章 二つの性
 第七章 休戦記念日
 第八章 一九三四年十一月十一日
第九章 存在各界の図
 
   *惑星に人は住むのか?

第十一章   太陽人
 *恒星での生活
 *太陽人の誕生
 *恒星上の光
 *自然霊
 
 

                                                      「疑いもなく、霊魂存続説の真偽は人間精神を悩ますとてつもな                                                          く、また、最重要な問題である。考えれば考えるほど他の問題は
                                                      す べて無意味なものにみえてくる。というのも死後存続が真であ                                                         ってこそ、『宇宙』は究極において合理化されるからである。そ                                                         れによってこそ、またそれおいてのみ我々は悪の問題と対決でき                                                         るからである。もし死後存続が真でないなら、この世で唯一可能
                                                       な哲学は空虚な悲観論であり、宇宙の支配者は正常な人間を驚倒
                                                       せしめるほど残酷であるとの誹りを免れないであろう」


                                                                                         E・W・マクブライド教授(心霊科学)

                          


         序文  
(オリバー・ロッジ卿との交霊会記録を含む)


 以下の論考(エッセイ)は、『不滅への道』という標題の本の内容と同じく、ジェラルディーン・カミンズ女史によって自動書記されたものです。英国心霊研究協会の創始者のひとりであった故 F・W・H・マイヤーズの通信とされるもので、前書より詳細に死後の生活についての彼の考えを説明しています。

 上記の書にはマクブライド教授の提出した問題に答え、人間個性の存続に有力な証明を与えると思われる証拠事例も提供されています。それ故本書にはカミンズ女史の交霊を通して受け取られた証拠の事例を収める必要はないでしょう。
 
そのような証拠をお望みなら読者は  “They survive” (彼らは死後に生きる) や、ここ数年間の 「ライト」 Light 誌や SPR 機関誌 “Journal of the society for Psychical Research” や他の心霊関係紙紙上に掲載された各種の記事を参照していただきたいのです。


 『不滅への道』序文においてオリバー・ロッジ卿は、カミンズ女史を「アマチュアの入神型霊媒──十分な教養を持ち、献身的奉仕心に溢れ、かつ一点の曇りなき誠実さを具えた自動書記者」と紹介しています。

 本書は彼に贈られましたが、彼の私への返信には、「太陽人や星界での生活について述べられた部分以外はマイヤーズ説に類似していることは疑いありません。この箇所の結論で筆者は困難な問題を扱っており、これが絶対確実な指針であるとは考えられません。しかし全体としては興味深く・・・・・・私は『祈り』の章をとても素晴らしいと思います」

 ジェラルディーン・カミンズがオリバー・ロッジ卿のために行なった交霊から引用することは興味深いでしょう。通信者はマイヤーズであると名乗っており、オリバー卿はこの本にその記録を載せることを承諾されました。


〔一九三三年十二月十日オリバー・ロッジ卿出席のもとでの交霊記録から〕


 マイヤーズ 私は完成された「絶対世界」などというものはないとの結論に達した。だから貴君の心からドイツやインド思想の観念を消してしまってくれ給え。神は想像力であり、それは理性を超えた光か炎のようなものなのだ。神は過去を維持し保存し、そしてかつ未来図の観念までも包含している。が、神は自己に付加していく。これが大事なところなのだ。

 ところで人間の魂は想像力の働く有限の焦点であり中枢なのである。これは高次の意識レヴェルで物質的身体と関係をもって働くときは殊にそうなのである。このレヴェルの魂は 偉大な宇宙の想像力 に近似した想像の力を表わしている。神は一即多、多即一である。あらゆる生き物の魂と霊は究極において創造者と一体になることを目差している。

神の想像力 は時の経過によって付加されたものにより変更され、豊さを増す。究極においては高次レヴェルでの完成に至るのである。無意識の主唱者たるショーペンハウワーは間違っていたと私には思える。何故なら神は反省し、目的をもち、かつ人間の想像を絶した恍惚感をもって創造を行なうからである・・・。

 貴君が御著書でエーテル説を発展させたやり方は簡潔明瞭で甚だ結構なものです。しかしどうも科学者は貴君の考え方が気にくわないようですね。科学者というのはしばしば目隠しを付けられているようなものですよ。

 エーテルということばはよくないことばだ。もっといいことばを見つけた方がいい。これの持つ特質についての貴君の考えには賛成です。英語の 「生命産出者」 Life-bearer に当たるギリシャ語の表現を見つけたいと思っているのだが。この意味を一語で表す言葉を見つけたいものだ。

 意識は直接には頭脳に働きかけないという貴君の結論は正しいものだ。意識と頭脳細胞を結ぶエーテル体がある。これに関してちょっと説明してみたい。
℘12
 ここ数年科学者が微細な粒子のことを盛んに取り上げているのを私は知っている。だが言わせてもらえれば、知られているよりももっと微小微細な粒子がエーテル体ないし複体から肉体と脳の或る部分へと幽糸 therads に沿って流れているのである。それは非常な速さで旋回している。これらを「ライフ・ユニット」Life-units と呼ぶことにしたい。

 今言った糸は「腺」と結びついている。医師はある腺の欠陥に起因する性格の変化に注目してきた。彼らはそのうち原因の一部がエーテル体から腺に生命の流れを運ぶ糸や紐が弱くなっていることにあると気づくだろう。私が異説を言っているのは承知のうえだ。

しかし不可視の身体───私が複体とか統一機構とか呼んでいる───は意識と生命が肉体と交流する唯一のチャンネルであることに気づいてもらいたい。二者のあいだの糸が切れるとすぐにも体はコントロールが利かなくなる。

 ロッジ エーテルはすべての物質過程を基礎づけているように見えますが、それを把握する手段がありません。

 マイヤーズ その通り。エーテルは物質の祖先である。かなりな研究と機械、つまりエーテルの神秘を記録し科学者の目に見えるようにする精巧な装置がつくられて初めてそれは把捉されるのだ。私はこの可能性をクルックスと話してみよう。彼に何か考えがあるかもしれない。

 ロッジ 実際的な立場から言えば、エーテルなるものは存在しないといえます。すべてはそれがないかのように進行しているのですから。

 マイヤーズ 貴君のいうことはよく分かる。実際にはエーテルの存在によって違いが生ずる、結局それは他界からの通信の媒体となるものである。だから例えば、肉体の方面からエーテルを調べてみる必要があると思う。動物実験をするとよい。動物たちはエーテルに似たものからできた不可視の身体を持っている。そのうちこのエーテル体の見える装置の考案が是非とも必要だ。

私にはこのことに関しヒントが出せるだけだ。私は物理学者ではないが、エーテルが人間と私の述べた統一機構との関わりにおいて研究されるなら、貴君の主要テーマに一つの解決策が見出されるかもしれない。

 ロッジ 私がエーテル仮説に固執しているのは間違っていないとお思いですね? それがなければすべてが大混乱というわけでしょう。

 マイヤーズ そうです。エーテルは存在せずの証明が出るのを心配する必要はない。今から十年もすればエーテルは物を考える人達の常識になると預言しておこう。結局この点でわれわれは一致しましたね、ロッジ君。人間はそのうちそれの存在の鍵を見つけますよ。その一つは精巧な装置による実験でしょうし、化学の助けによるものだろう。

エーテルはわれわれのこちらでの生活の基本物質そのものだ。それは無常の物質界に住む者たちには理解し難い永続性を持つものなのだ。

 動物実験を始めるよう貴君から勧めることはできませんか? 動物を物理的機械として研究するだけではだめです。感度のよい写真乾板を用いてみてください。しかし人間の目に複体や動物の不可視体を見えるようにする装置のことをお忘れなく。

 この前この女性に与えたエーテル体についての私の意見を参考にしてもらえるとありがたい。


 『不滅への道』の読者は、われわれが死後に移り住む幻想界───すなわち記憶ないし夢の世界───や、また同様にそれに引き続く第四界すなわち形相の世界についてフレデリック・マイヤーズから与えられた説明や注釈を思い出されることでしょう。この本では彼はこれらの世界に関するわれわれの知識を更に拡充してくれます。そして第五界───火焔ないし太陽界───に進み恒星界の人となったとき、遥かな未来に待ち受ける生活を見事に描いてくれました。

 以下のエッセイはその大部分が一九三三年と一九三四年に書かれたものですが、読者は、マイヤーズが初め自動書記者が専門用語を知らないという不利な状況下におかれていたことを知られれば興味深いことでしょう。カミンズ女史は天体のことには全く関心がありませんでした。
℘15
そこでマイヤーズは書記を先に進める前に、彼女に百科事典で天文学に関する細かな記事を読むように要求しました。このことは実行されました。指示された事柄を勉強したわけではなく、説明をざっと読み通しただけです。使用された『ハームスワース百科事典』 とこの本の第二部を読み比べてみると殆ど類似点はありません。

通信者が必要としたのはただ専門用語だけで、それが無いと太陽人の記述を組み立てることができなかったからです。九二頁(本書一三〇頁)で通信者とされる霊は死後暫くのあいだ天文学上の知識を求めたと言っているのが注目されます。また彼は「進化の道を遥か先まで行った旅人」から幾つかの情報を聞き出したと言っています。

 ここに述べられた見解のあるものは論議の余地のあるものであり、すべての人の賛同は得られないかもしれませんが、カミンズと私はそのことの方がむしろ一般の関心を高めるかもしれないと感じています。

 余りに遠い未来の生活は現在の人間にとって興味が湧かないという反対が第二部に関していわれるかもしれません。しかしこの部分での、星には人間以外の知的な生命が存在するという話は、神秘なる宇宙の謎に尽きない興味を抱いている一般の方々のある層には疑いなく訴えるものがあるということでこの本に収められました。
℘16
 「終局」と題する短文はこの本のその部分に特に興味を持った学者によって出された質問への答えとして書かれたものです。

 彼はこう尋ねました。「われわれの時代の代表的な天文学者たちは、宇宙は熱力学の第二法則によって何百万年かの後には───太陽と星が熱を放射し尽くして───終わりになると言っています。これは正しいのですか?」 この質問を私は通信霊が第二部を書き始めるとすぐに出したのでした。彼はそのとき書きつつあった章の中でそれに答えようと言いました。

第二部が殆ど終わりかけたときマイヤーズはふいにその質問に言及し、もう一度その質問を読んでみてくれるようにと要求しました。そのときわれわれはそのことを忘れていたのでした。それから彼は先を続け、質問に答える形で第二部を終えたのです。

 帰幽者にとって火焔界のようなテーマを扱うのは大変困難なことなのだということが理解されなければなりません。この世界で起こっている───といわれる───諸状況について述べるのに適当なことばは地上の言語のなかにはないのです。

 この本はそれ自身で完結したものですが、 『不滅への道』 へ言及したところが少しばかりあり、また繰り返しの部分もあります。これは新しい読者のことを考えるとやむをえません。前記の本を読んだ読者のうちのある人がフレデリック・マイヤーズの用いることばがもっと簡潔だとよいという希望を述べたこともあり、意味を明確にするために原文を修正したところがあります。
 
 霊界通信の仮説を受け入れる読者は、それをある程度、生きている者といわゆる死者の協同作業とみなすべきです。しかし地上に生きていた時の筆者の文体と三十五年前になくなった人からのものだとされる通信文のそれとが同じであるという訳にはいきません。伝達の困難が多々ある上に、天上界の経験が彼の世界観を全く変えてしまい、また彼の性格もある程度変わってしまっているのです。

 また自動書記をとる人は、脳によって受け取られる通信者からの観念や印象を変更しているらしいのです。ですからこの本の各章は必然的に霊媒───マイヤーズと称する霊からは通訳者であると言われた───の語彙や教養によって制約されているのです。

 前著の場合と同様、この本の標題も通信者によって示唆されたものです。彼のよく知られた 『人間個性とその死後存続』 に鑑みて、この選択はフレデリック・マイヤーズらしいものと言えます。以下の諸章に関する詳細については『不滅への道』 を参照してください。                                                               一九三五年四月 E・B・ギブズ。


         第二版(一九五二年)へのことば

 この版では、そこ此処で二、三の単語を直し一箇所の引用文と幾分不適当なところのあった牽引を削除したほかは一九三五年版のものをそのまま正確に再版しました。新しいものとしては六一 ── 六二頁 (本書八一 ── 八三頁)と三つの「補遺」が本書に加えられました。


 『人間個性を超えて』 についてローレンス・ジョーンズ・バート卿が述べられたことばを以下にご紹介したいと思います。卿は心霊研究協会の前会長で、F・W・H・マイヤーズの親しい友人であった方です。

 ローレンス卿はロンドン・スピリチュアリスト連盟で開かれたこの書についての討論会で演説し、この書と前著 『不滅への道』 はフレデリック・マイヤーズからの通信に間違いないとの彼の意見を表明しました。

 「私はこの主題に関して、以前の意見を変更するいかなる理由も見出しません。『人間個性を超えて』 は明らかに、最初の本とひと続きのものであり、その発展、継続であります。ですから前の本がある通信源からのもので、今度の本がほかからのものであるなどということは率直にいって私には信じがたいのです。

私は、最初の本と同じようにこの本も受け入れます──マイヤーズからの紛れもない通信として。私は、こ
と私に関する限り、自分の立場を明確にしておくためにこれを言っておきます」(「ライト」一九三五年、十二月十九日)


 右は、ローレンス卿がローマへの旅行の途中ヴァレスクレで、そこで一九〇一年一月に亡くなったフレデリック・マイヤーズと最後の一時期を過ごしたということを考え合わせれば、とても興味深いことのように思われます。
                                                                              E・B・ギブズ



         
   
第一部 死直後の生活

    第一章 ケチで、ちっぽけな時代 

 精神と肉体の健康という
ギリシャの理想、美と力に対するギリシャ人の崇拝が今やもう一度考慮されるべきだ。私は今山頂から地球を俯瞰(ふかん)している。その私に未来に何ら真剣な考慮を払おうとしない多くの人々の群れが見える。

ヴィクトリア朝の風潮と比べれば状況は完璧だなどと言う人がいるかもしれない。夜の暗さにも程度があるというのは本当である。

世界は夜明けに近づいており、東の空にはほの白い明かりがさしている。多分それは素晴らしい朝日の上る前兆であろう。バラ色の雲がたなびき、偉大な黄金の球体が現われる。そしてその生命源たる光線は人の目を眩惑し歓喜に耽らせるのであろう。

しかし或はもしかすると、その幽鬼のような青白さは霧に包まれ閉ざされた囚われの太陽の汚れた下降の姿なのかもしれない。いや、もっと恐ろしい嵐の一日の予兆なのかもしれぬ。西から東へ空を横切る灰色の雲のひとはけと共に、唸る風は丘陵や渓谷や大地の途方もなく広大な面積を引き裂くのであるかもしれぬ。


 人間には来るべき未来の秘密をくまなく知ることは許されていない。しかし死後の世界で光輝く身体に住み、高速で振動し、第一の天上界たる形相の世界で燃える歓喜の生活を送っているわれわれ魂たちには、人間の思想の傾向がかすかに見えるので、未来の努力の方向も予言することができる。

 未来が想像されるのは子供たちの思考と空想のなかにおいてなのである。それは炉のなかに投げ込まれ時代の鋳型に固められる前に創造され、それが歴史の不壊(ふえ)の彫刻に仕上がってゆく。そして更に 「現在」 と呼ばれる時代が過ぎ去ると、永遠という神の時間のうちに記録されるのである。

 私は今も幼年時代にあり、明日の未来を刻みつつある男女にお願いする。どうかギリシャの昔の夢を胸に描きなさいと。その理想である精神と肉体の健康を思い出し、美と力への献身を想起しなさいと。

 決してアラ探しやブチ壊しの気持ちからではなく、私は現在を生きる人々にお願いしたい。人間を機械と考えてはいけない、人生を金銭のみと思ってはいけないと。奇怪な歯車や車輪の休みない騒音のなかでは、知識を生みだす暇もなく静けさもなく、哲学的な瞑想もない。

人々が鋼鉄の時代の「機械」の名で呼ばれる魂の無い生物の手に捕まるなら、どんな暗い運命が明日の子供たちを待ち受けているかもわからない。この機械こそまさに唯物論の神の最終最後の化身にほかならないのである。


 神の子イエスは地上に降り立ち、肉の身を纏い、そうすることによって本来地上のものではない「美」を人の手に渡した。二十世紀になって黄金の牛の子、唯物論の子たる「機械」神が地上に降りて肉と物質を身に纏った。最近では地上の到るところでこの信仰が普及している。人は熱烈に熱狂的にその祭壇を拝んでいる。

 これらの「反──疑似──人間」は幾つかの部分に分かれ、「国家」と呼ばれている。各国家は機械の別名にほかならぬもう一つの名、手短にいえば 「孤立国家」 という名で洗礼を受けている。

 高度に文明化した国では国家は今日、ランカシャ地方の織機を動かすエンジンの自動的円滑さで運営されているのである。すなわち、国家は工場や地上の大衆の生活需要に応ずる巨大企業に力を与えている。国家は必然的に魂の抜けた機械のやり方で大衆を操作する。そうでもしないと、その人口は減少し人々は熱狂と欲望の犠牲となるかもしれないというので。

 国家は今や微妙な機械の性質をもっているので、人間と共に走り出す重大な危険がある。国家は坂をころび落ちるように戦争に飛び込む。さもなければ人口の増加によってゆっくりと貧困を生み出し撒き散らす。障害者や弱者や堕落者や精神病者を増加させる。

常にこの物質の神 ───「機械国家」─── の盲目の目的は量であって質ではないらしい。常にその狙いは数の自動増加であり、従って不幸の増加なのである。
℘26

 思慮深く誠実な少数者を除いて、人はキリストのことばに含まれた意味を理解することも摑むこともできない。だが彼らは、ギリシャの夢ならばかすかに理解するかもしれない。

そして歴史の頁を遡り、ヘレニックな冒険心の幼稚な要素は除いて古代ギリシャ世界に学び、子供たちの心に精神と肉体の健康を学ばせ、美と力を敬うことを教えるなら、人々はやがて賢明にうまく行動してくれるようになるかもしれない。


 ギリシャの教えは少なくとも人間の価値を表現している。それらは人間に「理想形」の概念を示唆する。すなわち、それらは、国家の歯車と車輪を支配し、もしくは支配される権力的人間の熱狂的な思想からは悲しくも姿を消してしまった、 「生活の美を重んずること」 を宣言する。更にギリシャ的ヴィジョンは、私が形相の世界と呼んでいる死後の世界の生活をかすかに反映している。

それはぼんやりとながら光輝ある世界の精神を伝えており、そこでは次第に完成に向かう霊妙体が最大最高度の形を表現し、そこでの日常の行為にさえ地上の最も偉大な芸術家が味わう高尚な恍惚感が伴うのである。

 もし人々が機械から目を転じ、この機械国家やその支配下にある他のすべての下位機械は、原始時代において野獣がそうであったのと同じように危険存在なのだという観念を子供たちに染み込ませるなら、人類の未来には希望が生じ、明日の平和像の「型」造り、鋳型造りが進められるであろう。

また、もし機械が機械と争い、経済戦争が貧困を招き、侵略戦争が国土を荒らすときは判断力が損なわれることを思い出すなら、また国家が国家を破壊し、機械が機械を破壊するときは美も健康も生き長らえず花を咲かせないということを思い起こすなら、この奇怪な自動機械に反逆する精神が人々の心を目覚めさせるであろう。

いやそれ以上にそれは人間の運命を監督し支配するものだ。魂を退け知的平均的人間の穏やかな理解力を剥ぎとってしまうものなのだ。

 人々の心にひとたび蔑みや不敬の気持ちが兆(きざ)すと、今まで拝まれていた神も危うくなる。その神はもはや招(よ)び出されずその託宣はもはや聞かれない。ドドナの樫の木(原註)は切り倒され、火にくべられる。

 この神である国家、もしくは超機械はかくして人間の夢や心から取り除かれる。そしてその場所に享楽主義的ではあるが、健全な正常さをもち、肉体の営みに対する尊敬をもちあわせるギリシャ的世界観を据えなければならない。それはまた遂には人間が本質的には霊であることを思い出させるであろう。そしてこの観点から、遂には不滅の世界を理解し山上の垂訓の意味をも掴むことができよう。

 おのが居所に立て籠もりばらばらになってしまった個人は、今日、世界は量ではなく質の理想を求めるべきだという知識に到達しなければならない。

現在の、この王制時代の精華たる文明の発展と創造は、もはや醜さの胚胎することを許してはならず、苦悩や肉体の破壊が生みだされること、弱った人や不健全な人がこの世に存在することを許してはならない。そしてその世界は、もし人が現在の神を克服するなら、預言者や詩人や啓示を受けた哲学者が夢みたような天国になりうるのだ。


 私は機械の破壊を唱えるものではない。私はただその真の性格が理解されるべきだと要求しているのである。魂なき機械は人の奉仕者たるべきで、思考する人間の主人であってはならない。人は現在その生活や心に深刻な影響を与えている機械の力をコントロールし、チェックすることを学ばなければならない。

もし人がいわゆる文明が豊富に供給するところの機械群から引き出しつつある快楽や教訓を、精神の冒険や、肉体と感覚の健康的な陶冶のなかに求めるようにするなら、それは霊的進歩のために大変有益であろう。

〔原注〕
*ドドナの樫の木 エビルスのドドナはギリシャ時代のもっとも古くまた尊崇を受けた聖地・・・・・・その宮はゼウスを祭る。初期の頃からのものらしい託宣はこのゼウスに関係している。神の答えを得る方法として樫の木の立てる音を聞いたとされる。恐らくは古い木の崇拝の残涬であろう。
                                                               ブリタニカ百科事典より───E・B・ギブズ
 
  


  





     
  
第二章  意識の発展史 

 意識の進歩の歴史は、それぞれの特徴を具えた期間ごとに分類するとすれば、次の六段階に分かつことが適当であろう。


   (1)意識が物質生活の制約を受ける時期。

 (2)意識が超エーテル的世界での生活を通して発展していく時期(すなわち、死直後の魂の状態)。

 (3)更なる拡張と発展期。意識は第四界すなわち形相の世界に住む。この状態において、意識は形態の完成と昇華を達成する。

 (4)意識が宇宙的な制約を受ける時期。魂は、今一度、可視の宇宙に存在する身体の住人となる。永遠の旅人たる魂は自らの類魂から離れて焔の肉体を纏い恒星の世界の生活を経験する。

 (5)宇宙意識の発展期。魂[原註]は他の天体での生活を経験し、類魂の許へ戻ってくる。そこで類魂との霊交により全可視世界を自己の内面に感ずることができるようになる。彼はそこにとどまりながら、しかも旅を続けることができる。一帰幽者でありながら同時に宇宙的存在でもある。言い換えれば類魂のあらゆる経験を知り、類魂を通して宇宙のあらゆる側面に触れるのである。

 (6)意識の無限発展期。永遠の旅人は彼の創造者と一体になる。今や彼の意識の内に宇宙がある。彼は神であるとともに一者のうちにある多の一つである。



[原註]
*「プシケ」Psycheという語がギリシャ語の女性名詞であるのに対し、通信が一貫して魂に非人称代名詞を用いている理由は明らかである。F・W・H・マイヤーズがどこかで魂は男性でも女性でもないと言っていることが注目される。───E・B・ギブズ。(本訳では便宜上「彼」を用いている──訳者)
 




  

  第三章 死後間もない時期の生活

 「われわれは想像力と同じ糸で織られている」というシェークスピアのことば[訳註1]通り、確かにわれわれは想像力によって織られた織物である。しかしながら、「想像力」ということばに普通の辞書が与えているような意味を考えてはならない。

たとえば「五感によって伝えられる画像を理想化する心的能力」といった定義では、高度に進歩した人間の地上生活を光輝あらしめるばかりか、いわば永遠の世界までも見させてくれるこの能力のほんの一部しか表現しえていないのである。


 物質界での生活中人間の想像力は、五感によって養われるとともに大自我たる類魂に啓発されている。個人はこの類魂の枝であり芽なのである。彼はときおり本霊 [訳註2]、つまり私が以前 「上方からの光 [訳註3]」 と定義したものによって照らされ導かれるのである。

 この世の物語に記されるわれわれの生涯は、短編小説ではなく、各章が死によって閉じる続き物の長編小説であることを忘れてはならない。新しい章は前の章を受けて発展していくものであり、われわれは話の筋を辿って新たな、結構意図を秘めた物語を読み進む。

しかしその物語の意図は、人間は一時に全物語の一時期一生涯しか学ぶことを許されていないという理由によって、大抵の場合は秘められているのである。


 先行する各章次第で、現在経験する人生の章に明るい彩(いろどり)や暖かさの添えられることもあれば、不吉で暗い色調の影が射して思いもかけぬ不運に巻き込まれ、悲惨な境遇に陥ったりもする。また彼の肉体機関はといえば、遺伝的影響とは別の、今は大自我[訳注4]の中に埋んでしまって蝕知しえない過去の記憶が創り上げたものなのである。

 人間存在の支配者であり立法者である想像力はその内に神から与えられた自由を持つので、その故にまた、人間の内に潜む限定的性格を因として、善と同じく悪をも生み出し、美を殺して醜を求め、遂には他人の不幸や悲しみさえもつくり出してしまうものなのである。

 造物主であり、大宇宙力である神は、人間の想像力の過剰が生み出す残酷さを、それが魂の成長と発達に役立ち、地上レヴェルの厳しい経験を通してやがて偉大な認識に至る道を開くものである限りにおいては、許容するのである。

 死後の生活において彼は中間状態に入り、そこで傍観者のように過去の人生の出来事を見る。彼の見る夢は時には悪夢のようであったり、また善美なものであったりする。悪をなした思い出の甚だしいときは、冥府の幻想は苦悩に満ちたものとなる。何故なら、想像力は、この受動的知覚の時期においてはまどろみの状態にあって、結果を反芻するのみであるからである。

 私は既に、魂の旅のこの時期においては、魂の外殻が脱ぎ捨てられ、魂もその身体も共に新たな発展を遂げることを述べた。人は新しい形態を身に纏って死後の次の生活に進み入る。すなわち冥府から幻想世界として知られる意識状態へと移行するのである。幻想世界は、未だ地上レヴェルの意識の影響を大いに受ける世界なので、「限定された想像力の世界」と言った方が適切であるかもしれない。

 魂は、地上の記憶を材料として彼の環境を創り上げ、想像力によって、この幻想状態の間の彼の好みや、欲望の主要な対象となる特定の夢を築くのである。

 幻想界に住む者の考える楽園の概念が、想像力の影響を強く受けるということはお分かりのことであろう。もしそれが彼が人間として地上にあった時の行為や思想によって歪んだものとなっていれば、そのことが彼の環境を不吉なものに創り上げたり、おそらくはまた、過去の憎しみの火を燃え立たせたりもする。そしてその火は、彼が自己の愚かしさを明瞭に悟り、その特殊な経験の繰り返しや単調さにうんざりする時まで燃え続けるのである。

一方、愛は魂の周りにそれの実現に必要な条件を引き寄せる。そのために死を超えた世界において、心から愛し合う者たちの手で素晴らしい環境が創り出される。しかしこうした例は思ったほどに多くはないものである。

もし彼らの愛に汚れや、しみや、弱さがあれば、彼らがその生活の背景として出す画像にはなんらかの欠点があり、それは一時的な満足は与えても天国を求める者にとっての理想とは程遠いものなのである。


  

     
  超エーテル世界または霊的世界

 「神についての確かな知識を持つ者はこれまで一人もいなかったし、これからもいないであろう。何となれば、たとえ全ての真理を語るという者がいたとしても、その者がそれを知る筈もないからである。しかし誰でも勝手な空想をすることはできる」クセノフォンのこの手厳しいことばには 「彼岸に渡って神の想像力と一体となった者はこの限りにあらず」 との但し書きを付け加えて修正しておきたい。

 
神の王国についての完全確実な知識を持った者は、生者の中にも死者の中にもこれまでにいなかったしこれからもいないであろう。何故なら、たとえ或る人が全ての真理を表現する能力を持っていたとしても、有限な精神の生み出すことばでは、神や宇宙生命の全概念を明確に言い表わすことができないからである。


 帰幽者も生者も断片的にはすべての真理の或る部分を表わしているが、神や創造の神秘劇を説明する段になると、その持前や本能によって自己流の色付けをしてしまう。そこで元来一つのヴィジョンであったものが、細部においてはお互いに相違する多くのヴィジョンとなってしまうのである。

ある帰幽者が、生きた人間の肉体機関を通して霊的世界に関する自分の考えや見聞の結論を伝えようとするとそれは種々な困難によって妨げられる。このような通信の可能性すらがまだ広く認められてはいない上に、通信時における霊媒の肉体的疲労、精神状態、時間上の限界なども考慮しなければならないからである。

 私は以前、霊的世界は七界、すなわち、魂の旅の七つの段階から成ると述べた。多分、「意識の七つのレヴェル」というべきであったのであろうが、「界」(ㇷ゚レーン)という方が一般的だったので永遠についての私の理解するところを伝えるためにこのことばを選んだのである。

 永遠の内にはこれといった場所のようなものはないと言えるであろうが、旅する魂にとっては、意識はある領域ないし場所に在るように思えるであろう。確かに、未発達な魂の状態においてはこうした考え方が支配的なのである。

 こうした状態の魂にとっては、環境の影響こそが最も彼の置かれた条件を左右するようにみえる。彼は直感的に自分が巨大な力の玩具だと感じ、場所の感覚に執着するが、周囲の環境がすべて幻影であり自分自身の魂や潜在的自我の生み出したものであること、また、彼の意識レヴェルや、憧れや、欲望の表現物であることには殆ど気づかないのである。
℘36
 しかしながら、もしあなた方が超エーテル的世界を支配する実際の原理や法則を学ぼうと思うなら、こうした位置や場所に関する先入見はすっかり心から拭い去っておいた方がよかろう。その代りに、運動や種々のスピードの観念についてよく考えた方が空間の神秘についてもっとよく理解がゆく筈である。

 私が地上にいた時、無教養な人々はよく、空間は無数の死者の群れを収容しきれないという理由で、死後の人間の生存は不可能だと主張したものである。こうした粗っぽい議論はさすがに天文学に幾らかでも造詣があって、空間の広さというものについて少しでも知っているような知的な人達からは聞かれなかった。

 しかし、宇宙についての人間の天文学的な知識は別として、永遠についての概念はそれが物質的知覚に基づいている限りすべては間違いなのである。それは前にも私が言ったように、運動の観念に基づくべきである。帰幽者は、そのエーテル体とか表現体が物質よりも速く振動しているので人間の目には見えないのである。

魂が意識の高次な段階に移行すると、その形態の外的表現物は次第に精妙になっていく。つまりそれはより遠くまたより激しく振動するのである。

 無数の帰幽者たちがあなた方の周りやあなた方の中で振動しているが、彼らはあなた方の世界には属さず、いかなる意味でもあなた方の心や肉体と接触しているとはいえないのである。われわれが人間に通信しようとする時は、別の意識のレヴェルに下りてきて、思考の速度を落とすことによってのみそれが可能になるのである。

そうすることは私にとっては別段苦痛なことではない。何故なら、これを地上の経験と比較していえば、活動的な生活から静かで眠気を誘う生活への移行のようなものだからである。その状態は体の麻痺を誘う感覚において、あたかもあの、日は照っているが空気は今にも降り出しそうな雨に重たく湿っている英国の夏───の真昼時を思わせるのである。

 そういう訳で、人間は魂(たま)の緒が切れて肉体を脱ぎ捨てる時、現実のロンドンよりもアパートの建てこんだ大都会の或る地域に入っていくのかと心配する必要はないのである。その者の意識が正常である限りは、広大な自由の中に入っていき、そこでその空間観念は変化し拡大される。彼らはやがて運動ないし振動率および意識の水準こそが、彼らの存在知覚をその部分と全体に渡って支配していることを認識するようになる。

 死とは単に一つの速さから他の速さへの変化であり、魂がより激しい振動、つまりはより活発で速やかな顕現状態に適応するための調整をすることにすぎないのである。

 超地上地帯に漂っている魂たちのことを私が言うとき、私は「超地上」ということばで位置の観念を伝えようとしているのではない。「超地上」ということばで私は、意識の遥かに高い水準と比べれば低い振動の状態を表現したいと思っているのである。

 「人を見て法を説け」という日本のことわざには深い真理が秘められている。永遠の生命の神秘について論ずる時は、よく相手の魂の成り立ちを検討してからにする必要がある。
 私は既に、意識には七つの段階があることを示し、それを以下のように命名した。



 (1)地上界
 (2)中間界
 (3)幻想界(死直後の世界)
 (4)色彩界(形相の世界)
 (5)火焔界(ヘリオス Helios 界)
 (6)光明界
 (7)彼岸、または無窮


 大抵の場合、われわれが自己の存在する界ないし世界を造り上げている外観に執着する間はその状態に住み続けるが、より高い境界では外観の世界から逃れ出るということを、私は強調しておきたい。われわれは多くの魂が集まって造りあげる、形態 とは違った一つの 輪郭 の中に生き、色彩や光───人間の弱い感覚には知覚されない───の内に自己を表現する。しかし各界の滞在期間について固定した定めはなにもないのである。

 人は二重の存在である。彼は自分の本性に主観的な面と客観的な面とがあることを認める。そして中には稀な人が、主観状態と呼ばれる状態に移行して本霊の導きによって他界に入っていく。

 たとえば聖パウロなどは、第三天国への訪問を記録しているが、そこでの高次な経験については誰にも話すことがなかった。他にも肉体に住まう間にギリシャ人が「死者の国」と呼ぶ世界を訪れ、高次の世界に足を踏み入れ、ほんの瞬間ではあるが形相の世界に住んだとか、私が「火焔」という言葉で表している太陽界の世界へ入ったりすることもある。

 しかしながら、人間は余り長いこと肉体から離れていることはできない。何故なら、彼は地上生活を遂行しなければならず、物質界において彼に割り当てられた経験の分量は是非とも獲得しなければならないからである。


 

         
  第三界における光 

 第三界ないし幻想界に住む死者たちを照らし出す光は太陽の光ではない。人間と交信する霊魂が、彼らの世界もまた太陽の周りを回っているとか、その光を受けているとかいうことのあるのは事実である。

しかし彼らは誤った信念に陥っているのである。たとえばわれわれのエーテル的生活は宇宙光線によって養われているのであり、この光線がわれわれ自身が創造した王国、つまりわれわれの想像力と霊力から迸り出た蓮華の園を壮麗に照らし出しているのである。


 この宇宙光線はわれわれの「時」が刻むリズムに従ってその性質を変える。しかしその変化はわれわれにとっての変化であり、われわれの心がその変化を決めるのである。ここでは心が日常生活の動力源であることを地上におけるよりもはっきりと証拠立ててくれる。地上生活から持ち込んだ幻想そのものが、暫くの間、宇宙光線を地上の太陽と誤認させるのである。

心の習慣は拭い難いものであるから、この時期においては、彼らが見たいと欲する太陽や月や星やその他の見慣れた環境などを見るのである。彼らは想像上の行為をもって飲食を続けていると思い込んでいるのだが、それはあらゆる意味において、肉体の維持のために食物をとるのとは違っている。そして結局のところ、この習慣のために彼らが後にしてきた地球よりももっと壮麗広大な別の地球での外観的生活を続けなければならないのである。

しかし、こうした幻想界の諸条件を正確な地上のことばに置き換えて言うならば、われわれはエーテルの内に生活し、宇宙光線に養われていると言わなければならないのである。

 これら宇宙からの放射物たる光の流れは二重の働きをしている。それらは新しい死者たちに物や環境を感知させると同時に、私にも分からぬ或るやり方で、この遍満するエーテルの生命を養い、またそのことによって地上からやって来た霊魂あるすべての生き物のエーテルの生命を維持し増進するのである。

 われわれのエーテル体はこの宇宙光に養われており、時々生命力の補充をする。この期間はあたかも地上における睡眠に似ている。第三界の帰幽者たちがその本性を新たな力で充填し、より大きな感知力と清新な魂の力をえて働こうと望む時は、暫くの間その心の扉を閉ざし、他の意識存在と接触しないようにするのである。 

 こうして引き籠もった受動的状態の間に、魂は本霊の許に至り、必要不可欠な刺激を受け取ってその心を賦活するのである。

 それゆえ、死直後の生活においては、魂はこの内と外の光を必須のものとしているのである。それは丁度人間が太陽光線に依存し、また地上生活のあいだ彼を啓発し支えてくれる本霊の根源的光を不可欠のものとしているのと同じである。

 幻影世界の下部においては、見かけ上の飲食が夢の構成部分として維持されているかもしれない。しかしこの場合、望みの食事は欲求作用によって出現する。美食家は望み通りの快楽を手に入れるであろうし、禁欲主義者はその行法に則り、パンと水の生活を続ける時にこそ無一物の喜びを味わうであろう。

しかし美食家は、余りにも容易に手にすることのできる珍味の連続に飽きてしまうと、新しい経験を渇望するようになる。そこでようやく想像力が目を覚まして、エーテル体が欲するときには自動的に必要な光を摂取できることに気づくのである。

 私が食物と光について言ったことは、死直後の生活に存在する他の諸条件にも適用される。そしてこの条件は地上の時間に直せばかなりの長い期間、永遠の旅人の生活を律することであろう。

 それ故、この意識状態は、平均的な人にとっては、他のもっとも高尚な世界のことよりも重大な関心をひく筈のものである。この理由をもって私は、われわれの過去の地上生活における潜在意識下の記憶と創造力が、霊的世界での新生活(しばらくは当然のことながら元となる過去に類似したものである)を築き、新たな物語を創り出す上での重要な役割を果たすことを再度強調しておきたい。


 例えば、われわれは自分の生存中の衣装を着慣れており、そのイメージは無意識下の記憶に強く焼きついている。そこでわれわれはまず本能的にわれわれが地上にいたときの姿で愛する人の前に現われるのである。想像作用については驚くほど柔軟なエーテルから、地上生活中に着ていたのと寸分違わない衣装を気づかぬままに創り出すのである。

当然のことながら、暫くすると、われわれは自分のうちにおける変化に気づき、想像力の創造的な力を知り、エーテル体のための素晴らしい外衣を考案する。しかしこの着想の大部分は意識下の記憶から引き出されるので、種類、性質ともに限界があるのである。

 人間性の様々な性質に応じて、われわれは生きている間に惹かれていた人々を探し出す。それは、死がその間を隔てても、われわれが片時も忘れることのなかった人々である。かくして、環境、衣装、住居、職業等を創造するにあたっては、われわれは或る程度この仲間の力を借りる。

われわれは小さな共同体を造って一緒に働き、その中でわれわれの必要にぴたりとあったやり方で、地上では満たされなかった多くの人間的欲望を実現する小世界を築きあげるのである。

 ここで私の述べているのは、無論、死の関門を通ったばかりの普通の人達の運命なのである。

  



  
  第三界における時間  

 類魂の中の各共同体はそれ自身の時空に住まう。旅する魂が自分自身の小世界に飽きて進歩を求める時、彼の感知力は増大し、本霊の導きによって類魂内の他の共同体を訪れ、それと交流することができるようになる。

彼は十八世紀、十七世紀、時としては十六世紀の世界にさえ入っていく。それはもっぱら、彼の仲間たちがこの潜在記憶の幻影世界にどれだけ長く留まっているかによるのである。

 これらの魂が留まる期間には別段の制限があるわけではない。しかし大抵は二、三百年よりは遡らないものである。それ故、十七世紀以前の社会生活の場面を見ることはない筈である。しかし類魂は一国家の内に限定されないことがやがて分かる。彼は中国人、インド人、ギリシャ人、イタリア人の居住地を訪れるであろう───しばしば様々な人種の者達が一つの本霊の光の下に集まっているのである。

 しかし時たま、魂の巡礼者が過去への不思議な旅を重ねる間に一つの人種だけにしか遭遇しないことがあるのも事実である。おそらく彼は十八世紀のロンドンに実在したヴィクトリア朝時代の生活とか、ナポレオン戦争期のデボンシャア地方の普通の生活とか、十七世紀のスコットランド高地の小作人の生活を見出すであろう。

しかしそのどれをとっても共通の性格を持っている。つまりすべてが昇華されているのである。苦悩、労苦、悲哀といったものがそこには見られないのである。男も女も子供も、想像過程によって充分に満たされる地上的幻想に快く浸っている。闘争や努力の欠けていることがこれらの生活に夢幻的な性格を与えている。

 多くの場合、こうした状態は、その平和な様相において、静かな夏の日を思わせる。このことは特に夢が色褪せていく際に言えることかもしれない。遂には進歩への集団的欲求がこの共同生活に終止符を打つ。共同体を支える単体は地上へ戻るか、第四界の形相世界への困難な道を選ぶのである。


 

     
  四次元界       
 
 時間の分析によって、あなた方の地上の科学者たちは魂の不滅の証拠を見つけ始めたようである。それゆえ私は読者にいわゆる四次元界についての私の説明をしておきたい。現在四次元として思想家達に考えられている存在条件に最も類似した状態が幻想界の最上層部に見出される。

 誰にでも影があるように地上で起こる事件や情景には影があり、イメージが記録される。永遠の旅人は第四の意識界に上っていく前に、こうした地上生活の記憶を点検する。そのとき彼の眼前に繰り広げられる展望は広大である。

今や彼の知覚は研ぎ澄まされ、イタリアのルネッサンス期のあらゆる甘美、中世ヨーロッパを荒らした戦争のあらゆる残虐非道を目にすることになる。

彼はまたギリシャの世界に入っていき、もし哲学的な精神の持ち主ならば、ソクラテス、プラトン、プラチノスなどこの記憶の内に映像化された人々がこの時代の熱心な若者を教え導いている姿を目にすることであろう。しかし彼はすぐにも彼の目に映るものの様子が違っていることに気が付く。
℘46
それらは自動的で、次々にたち現われる情景にはそれらを支配する魂が入っていないため、生気というものが感じられないのである。にもかかわらず、大記憶[訳註5]に刻みこまれたこれらのイメージを見ていると、心躍らせる光景に引きこまれ、展開するドラマの不思議さや意外さについ夢中になってしまうのである。

こうしているうちに彼の本性の狭い枠が取り払われることにより、心と感情が豊かになり強度と力を増すのである。石器時代や氷河期にまで遡った旅人はふいに方向を変えて未来の萌芽や未だ起こらざる事柄を目に留める。というのも神の想像力の中には既にこの地球という惑星の全未来が細部に至るまで考えられ、想念としてしまいこまれているからである。

こうして旅人は、永遠の永い旅程を辿る前にこの浩瀚(こうかん)な生命の書を垣間見ることを許される。

 キリストが山上に導かれて地上のすべての王国を眺めたように、巡礼者は類魂の中でその頂上に導かれ、見たところ限りもなくつづく地球の歴史を見せられるかもしれない。知覚力が増すに従って一時代全体を一思考作用として一時に見る能力も増大し、かくして、一世紀全体の重大事件がいわば一望の下に捕えられるようになるのである。

 旅人はまさに、地球の暗い胎内から現われて出てきたのであり、今や地球の全体と細部を知っている。こうした経験を経て、彼は復活した体を上昇させ形態の完成を目差す形相の世界に上っていく。そこで彼は偉大な変化を遂げ、本性上の様々な要素をつくりかえ、狭い個性の枠組みを超えた力強く偉大な存在へと脱皮する。

 私がこれまで述べたような経験は第三界に戻らなかった人だけが知っていることである。彼らは地上の不活発な生活からすっぱりと足を洗ってしまった人達である。多くの旅人が形相の世界を訪れるが、それは渡り鳥にも等しい瞬間の訪問でしかなく、彼らは私がこれまで述べてきたような事柄をほんの僅かな程度にしか経験していないのである。




     
  愛と結婚       

 第三段階の意識レヴェルを去るにあたって、われわれはもはや肉体と比ぶべくもない美と形態を具えた精妙体を纏うのである。実際、魂が形相の世界に旅立つにあたっては、物質世界とは断然訣別する。したがって、ここを過ぎると、地上との交信をしようとするものはほとんどいなくなる。
 
 しかし私が「地上的想像の世界」と呼ぶ死後の世界では人々はなお肉体というべきものを持っており、それは形や外観においては地上時代の肉体を再現したものであるが、実質はより強度の振動を持ったエーテル物質でできているのである。

 この世界には、人を創造的な想像───すなわち想像的努力───へと導くに必要な人生の葛藤が欠如している。魂が必要としさえすれば性欲の幻影が満たされることはあっても女性が子を生むということはなくなっている。エーテルの身体が形つくられ、地上における肉体同様さまざまの目的や欲求を満たすために用いられる。

 「かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない[訳註6]」というあの有名は言葉を発した時、イエスは意識のこの高次な世界のことを言ったのである。地上的想像の世界にある間は、人は地上の記憶に捕らわれている。それ故、復活せず、地上夢の幻想の内に住み続けるが、望みとあらばその幻想には結婚に関する部分が混入する。

 生前に二人の夫または二人の妻を持った人の場合はどうなるかというと、それは通常、死後において牽きつけ合う力、愛情の多寡によって決まるのである。各々の魂は、最も似ているか共感の持てる魂のもとに引き寄せられ、なんであれその性情を満たしてくれる情熱に同化する。

 多くの正常な男女によって経験される純粋で情熱的な愛は、創造的な性格を持っているものである。それは死もその火を消すことのできない想像力の炎を掻き立てて燃え立たせるのである。それどころか逆に幻想や形相の世界では、こうした男女は純粋で情熱的な愛を取り戻すことになる。

かくして二人は全存在を賭けた創造行為を行うがその感受性の高まりのために、二人の自己創造の経験は高次のものとなり、強度を増し、魂の力を増大させる結果となる。

 地上的想像力や形相の世界には、重たい肉の体を持っていたときは、相思相愛の恋人同士でも手にすることの出来なかった調和と自由がある。第四界ではこうした愛も性格を変える。生命と意識の条件が地上でのそれとは全く違っているからである。

 偉大な科学者であった人はすぐにも科学的研究を続けることのできる環境を見つけることであろう。もっとも、当然のことながら、その科学的研究の性格は変わっている。生前においては人ではなく物が彼の想像力を刺激していた。そのため彼は自分独りゆく道を選び、彼の基本的な性情や欲求を満足させたのである。

同様に、人の魂や人々のグループに対するよりも、或る特殊な仕事や快楽に関心を持つ人は、その渇きが癒されるまではそれにのめりこみつづける。彼らは通常の親密な仲間同士の社交などは求めないが、条件さえゆるせば、同じ界に住んでいる同好の人々とあったり交際を結んだりすることはできる。

あるいはまた、彼らは互いの興味が掻き立てられたり、一方が他方にとってより広い知的意味合いから必要になった時などに、互いに引き寄せ合うのかも知れない。



  

         
  暴君の運命    
  

 想像力というものは無限に多様である。それ故死後の世界における経験の種類も多様で尽きることがない。実際のところ、魂の世界へ導く怪奇な入口などというものがあるわけではない。われわれはいわば、過去の人生の様々な情景の絵を飾りたてた長い画廊をさまよっていく。

独り独りが他の画廊にはかかっていない肖像画や思い出の幻想画を見つつ進む。各人がその性情に応じて、自分の生み出した作品に反応しなければならない。最後に、エーテルの世界に入ったときには、死のすぐ向こうに横たわっているこの大広間の中に彼の経験の大部分が吐き出されている。

 最初は他の人々の助けも借りて、彼は本能的に地上時代の様々な場面を絵に描き、また親しかった人々と一緒になって、かつてと同じ情景や舞台を自分の周囲に築き上げる。もちろんそれらは空想によって理想化されていたり逆に暗黒化されたりしている。

そしてここにこそ、植物的満足があるかと思えば幸福や歓喜があり、また奇妙で不吉で時としては戦慄すべきドラマの演ぜられる原因があるのである。

 例えば、犠牲者に残酷な拷問を加えていた暴君は、魂のうちに同じ苦しみを味わうことになろう。彼の想像力は苦痛の醜さにスリルを覚えたり喜びを見出していたのであるから、その結果、彼の創造物たる闇の世界には醜悪さがあたり一面を覆いつくすようになる。

 勿論こうした熱病的な幻想にひたるのも一時のことである。良心の呵責に責められつづけた自己が進歩への飛躍を熱望する時がやってくる。そこで彼は幻想的世界に深く入り込んで全存在を暗黒と孤独のうちに叩き直すか、さもなければ地上に戻ることを選択するようになる。普通の人は暗黒と孤独になど一瞬たりとも耐えうるものではないので、後者を選ぶことになる。

 もし彼が地上に帰るならば、多くの場合挫折と失望と無力の一生を送ることとなろう。しかし、かくしてこそ彼は徐々に進歩し、恐らくはこの新しい一生での悲惨な自己の運命の教訓から、憐れみということの必要を学ぶであろう。

 歴史に登場する悪役たちはこのような段階を経てそれぞれに異なった反応をする。或る者は速やかに想像力の用いかたの誤りを正すことを学び取り、一生の間にすっかり変わってしまう。或る者は殆ど進歩せずにいるが、たまたま同じ類魂の他の魂に助けられて、自性の燃やす悪の炎の災いの及ばぬところまで導かれることもある。

 或る場合には魂の想像力から、現実に悪しき想像力の原因となる部分、つまりサディスティックな面を新たに掻きたてて人間の性情を暗くするような邪悪な場面〔シーン〕を破壊してしまうことによって初めて救済されることもある。

 以上で各人間のうちに働く想像作用がいかに重要であり、自我の本質をなすものであるかが分かったであろう。それは、死を超えた世界かこの世かのどちらにこれから生まれてくる赤子のために、生の彼方の生を準備し、彼らの環境や運命を築きあげてくれるものなのである。




   死後の世界の構造 
 
 超エーテル世界にはこの世のあらゆる分子やあらゆる細胞に対応するものがある。しかし死後の世界における空間と時間は、私が 「賢者」 とよぶ霊魂たちに言わせれば 「状態」、 すなわち心の状態を表わすのであるという。彼らは魂の神性な指導者(ハイアラーキー)ともいうべき人達である。大宇宙の想像力に仕え、生と死の潮流を支配し導くのである。いわゆる死者の面倒をみるのは彼らの役目である。


 この賢者たちは秩序と統一の維持のために働くが、地上から来た者の運命を変える資格はないのである。各人は皆過去によって未来を創造する。各人は自由意思を持ち、また或る意味で類魂に属する魂たちの運命に対しても責任があるのである。
℘53
 地上において母であり妻であった一つの魂の場合を例にとってみよう。彼女をマージャリー・フィッツジェラルドと呼ぶことにする。死の神秘はひとまずおいて、次の世界での彼女を見てみることにしよう。

彼女は献身的な母であり、また妻としても心から夫に仕えた。しかし、家族のなかで最も早く死の関門を越えたのは彼女であった。彼女が前にも述べた中間地帯の冥府で、夢と休息の一時期を過ごしたことはいうまでもない。

 暫くするとマージャリーはさなぎの状態から抜け出て、周囲の存在に気づき、自分自身のなかに愛と生命のみなぎる力を感ずるようになる。旅路の途中、彼女は自分が 「物質的な空気」 ともいうべきもののなかに浮かんでいるのに気づく。彼女の周りには広大な空間が広がり、それらは青白く殆ど透き通って見える。

しかしマージャリーは恐れない。彼女は異常に気分の高揚するのを覚え、かつ精神力の増大するのを感じる。自分を生まれて初めて、風のなかに幸福な気持ちで浮かび、未知の世界をのどかに漂う小鳥のように感ずる。暫くすると、既に亡くなった彼女の愛する、また親しかった人達への想いが彼女の心を一杯にする。彼女はそれらの人々に会いたいと思い、その切迫した想いが明らかに無音の世界に響き渡る。
 
 すると忽ちその人達が姿を現わす。というのも彼らは彼女を愛し続けていたので、いつも彼女の心に波長を合わせており、彼女の想いが自分たちに向けられることがあればそれが聞こえるからである。マージャリーは亡くなった時は六十歳であったが、彼女の魂は今でも若々しい。人々は彼女を光輝に満ち、美と詩情に富んだ、まるでチチアンの絵にみるような世界へと案内する。

何故なら、マージャリーの友達は進歩を遂げた魂なので物質的制約からは自由になっており、その素晴らしく感受性に富んだ想像力で、一見物質と変わらなく見えるがまぎれもなく彼らの心の産物である環境を上級霊の指導の下で生み出すことが出来るからである。

 彼らはマージャリーに対して、死を超えた世界は初め空虚な空間に見えるが、実はエレクトロンから成り立っており、そのエレクトロンは地上の科学者に知られているよりも更に精妙で振動数が高いところが違っていると説明してくれる。その微細な単位は極めて可塑的であるために心と意志によって形づくられる。

言い換えれば地上においては物質はそれに働きかける想念の力では変えられないが、死後の世界においては、自由になった───即ち精妙さを増した───想像力を用いて質料をコントロールすることが出来るのである。

 今やマージャリーの非利己的な生涯、勇気、忠実といった要素が彼女の創造する道具である想像力を完成させている。従って死後の世界の彼女の未来には、摘み集められた夜明けの花のような芳香が甘く漂っていることであろう。彼女は環境をいかに形づくり整えるかを仲間達から学び、その創造の素材を地上の記憶から自然に引き出す。

例えば最初彼女が庭のことを考えてみると、すぐさま、想像過程によってそれが出現する。彼女は貧乏のために手に入れることの出来なかった素敵な家を持ちたいと願う。楽しい労働と創造的空想のお蔭で、次第に彼女の想像力は夢の家を形づくり、彫刻家がノミで大理石を刻むようにしてそれを造り上げていく。

彼女は辺りの景色さえ記憶の絵の具で描き出すのだが、しかしこの場合は彼女独りで働く必要はない。というのも愛が彼女を青春時代の親しいグループや他の仲間たちの許へと引き寄せているからである。こうして彼女はかなりの期間輝かしい生活を続けることができる、そしてそのうち恐らく、彼女が地上に残してきた夫や息子や娘達すべてが彼女の死後の生活に加わるようになることであろう。


 

    
  家族の類魂   [原註1]

 現在と未来の繋がりを明らかにするために、結びつきの強い家族の例を取り上げて見ることにしよう。こうした結びつきの強固な家族は珍しいのではあるが稀には存在しないこともない。ヘンウィック教授はB大学で物理学の講座を担当している。彼は妻アン・ヘンウィックをこよなく愛していた。彼女もまた学究の夫を愛し、日常のすべてを夫と子供たちのために捧げていた。

 長男のマーチンは哲学専攻の学生でB大学の特別研究員を目差している。だが、娘のメアリーは十歳で亡くなってしまった。このことはこの堅固に結ばれた家族を見舞った身内での最初の不幸であったために、両親は暫くの間、無残にも最愛の子を奪い去った運命の過酷さに打ちひしがれ、悲しみに浸っていたのである。

 年月の経過とともに記憶も薄れ、子供の面影が褪(あ)せてゆくに従って、悲しみも消えていった。しかし生涯を全うすることなく逝った娘への想いは教授の心にしこりを残しており、彼は時たま幼い娘のことを思い出しては生きていたならば経験したであろう様々な事柄を想い巡らしてみるのであった。

 しかし実際のところは、メアリーが地上への再生を選んだ時、彼女は既に心霊進化のある状態に達しており、この物質の世界に長く留まる必要はなかったというのが真相である。彼女の魂は前の生涯において充分長生きをしていたので、もう一度完全な生涯を終えることは彼女の魂の発展にとっては不要であったのである。

それ故彼女は成人の経験を省いて幻想世界に生きる類魂の許へ帰ったのであった。彼女はゆっくりと前生の記憶を吸収し、その最盛期の状態に入りこみ、最も美しかった時の成人の肉体を想像によって文字通り創造することができたのである。
 
そして睡眠中に彼女が両親と会う時はこのかつての肉体の姿をとった。心のなかにその形態を想い描くことによっていつも同じ姿で現われることができたのである。

 彼女とヘンウィック夫妻の間には固い永遠の絆があった。彼らは前生においても親密な関係にあったのであり、死のごとき一時のぼんやりした記憶の途絶などでとてもこの絆を断ち切れるものではなかったのである。


であるから、両親は睡眠中 「想像力の奥の間」 ともいうべき意識の或るレヴェルにおいて娘と会っていたのである。このレヴェルのこの場所では、意識的記憶は働かない。この両親のようなケースでは、複体(ないし睡眠体)がこの経験の記録と関係を持っている。一方、娘の方はそれを深層記憶に記録する。

彼女もまた、原則として、三者の出会いの記憶を自分の世界で想い出すことはない。しかしこんな風にして両親達は娘と接触を保ちつづけ、やがて彼ら自身が大多数の死者達の仲間入りをする時には、睡眠時の経験を含めた主観的記憶を取り戻すのである。

 ヘンウィック夫妻はメアリーの死後三十年ないし三十五年たってこちらの世界にやってきた。半世紀以上にも亙る時の隔たりにもかかわらず、娘との出会いに彼らは何の違和感も感じなかったのである。同じ魂の仲間としてまた同じ類魂として彼らは睡眠中も接触を保つことができたのであった。

睡眠とは──あなた方がそれについて知れば──それ自体独自の、活発で生産的な生活なのである。睡眠中に眠るのは、単に、肉体と表面意識と低次の意識のみなのである[原註2]

 青年期にも達しないうちに亡くなる子供のなかには、その後両親と再会しない者もある。彼らはほんの一時の肉体だけの関わりを持ったにすぎないのである。彼らは魂としては互いに縁なき者どうしであった。つまり類魂によって結びついていない同士なのである。こうしたわけで、愛着は速やかに失せ、死後においてもこの両親は早く自分たちの許を去っていった子供たちと関わりを持たないのである。
 
 類魂のなかには 「心霊原子集団」 Psychic atoms というべき──もっとよい言葉があればいいのだが──ものが存在する。これらはおそらく四ないし五の魂から成っているが、その数は必ずしも一定しない。とにかくこれらは類魂中の小集団であり、ヘンウィック家族の人々に見られるように、進化の初期の段階において、他の魂とは結ばない特別に親密な生活を共にするのである。

 一九一四年に世界大戦が宣せられたとき、マーチンはそのニュースを聞いて深く心を掻き乱された。彼はまだマーガレット・エラートンと婚約したばかりであったし、前途には洋々たる未来を望み見ていたところなのである。まもなく、彼の年齢と気質の者なら誰も進んで従わぬわけにはいかない召集令状がやってきた。

彼は軍隊生活を嫌悪していたがやむなく一兵士として出征した。歩兵連隊に入隊して二年を経ぬうちにフランスに送られ、他の若者達とともに、激戦中、ふいの無残な戦死を遂げたのであった。

 死後の冥府に滞在中は、妹のメアリーが彼の許を訪れた。別れた後もなお残っていたふたりの大きな愛の絆が彼女を兄の許へ引き寄せたのである。彼らはふたりして幻想の国、すなわち地上的想像の世界を旅することになった。精妙なエーテルの体を纏うようになった彼らの生活では、想像力が大きな働きをする。

彼らは以前と同じ大学町に住み、同じような人生観をもって学問研究をしていた仲間達とともに古い大学の環境を創造したのである。

 マーチンは再び哲学の研究を始め、父親ゆずりの研究熱心でそれに打ちこんだ。彼は自分の欲求を満たすことができて幸せであったし、もし彼の人生があんなにも突然に断ち切られていなければ結婚したであろうマーガレットとの別離は、妹の世話によってある程度埋め合わされていた。

 年月の経過とともに弟のウオルターとマイケルは社会に出て職に就き、それぞれに両親の生活からは離れていったが、それでも彼らの愛情の結びつきは相変わらず強かった。マーガレットはといえば、彼女はヘンウィック家とは完全に縁が切れてしまった。彼女は結婚し、中年になったとき、夫と連れだって外国旅行中、交通事故で亡くなってしまったのである。

 そのため死後の世界で、彼女は面倒な問題に直面することになると思われる。夫のリチャード・ハーベイも彼女と同じ時に冥府への旅に旅立っていたからである。冥府での期間、彼女の魂はまどろみの状態で自分の思い出に去来する過去の生涯の場面に見入っていた。

 こうした過去の点検を行なううちに、この未成熟な魂の将来に関する見掛け上の難題は解決していたのである。マーガレットは、彼女の最初の恋人であるマーチンこそが霊的な似た者同士であり、大事な人なのだと分かったからである。一方の夫の方には肉体的な繋がりで惹かれているに過ぎず、それも死とともに消え去ったのであった。

霊的牽引の法則によって、彼女は二十年前の大戦の間に戦死した兵士の所へ引き寄せられるのである。

 「地上的想像力」の世界で、彼女は自分の心に巣食っていた満たされざる夢、すなわち、もし地上時代の或る日、無情にも彼女から引き離されてしまうことがなければ味わえたであろう楽しいマーチン・ヘンウィックとの愛情生活を経験したのである。しかしマーガレットを愛していた夫のリチャード・ハーベイは、彼女を失うという悲しみに直面することとになった。いったいこの幻想界は、空想的で努力のない世界に相応しいどの様な代償物を彼に与えてくれるのであろうか[原註3]

 彼は母親に大変惹かれていた。冥府で過去を振り返ってみる間に昔の愛情が蘇ってきたのである。彼の母親は、この種の愛情に特有な保護的性格をもった賢明な母性愛を発揮した。彼の気持ちは母親に向けられた。そして彼女と生活を共にすることにした彼は、狩猟や大地主としての仕事に没頭し、また想像の材料から容易に作り出すことのできる昔懐かしい娯楽を母親と一緒になって楽しむのであった。

 ヘンウィック教授夫妻の例は大学生活者の典型ともいえる。彼らは、あまりにも常識的過ぎるところがあって、有限現実の世界──言い換えれば幻想状態のことであるが──を超えた生活を経験するには想像力に欠けたところがある。

しかし二人は少なくとも互いに愛し合っているし、他人の生活に対してはちょっと利己的な無関心さはあるにしても、おおむね温かい目で見ているのである。

 そこで彼らが死後の長い回廊を通って行くとき、特別激しい反応をすることもなく、また創造的空想の暗部に導かれることもなかった。彼らの生涯は残酷さやこれといった悪徳に汚されてはいなかった。彼らは個人主義であって人類的な共感には欠けていたが、上品で愛想のいい人達であったのである。
 
 有限現実の幻想界において彼らは息子のマーチンや娘のメアリーに逢うという喜びを経験し、暫くの間懐かしいB大学の環境で幸せな生活を送ったのである。しかしながらメアリーとマーチンとその妻のマーガレットは、より深く豊かな性情を持っていたために、間もなく一段高次な世界へ登っていくこととなった。

彼らは幻想界において霊的で創造的な感覚を発達させために、地上記憶を基にした単調な生活に飽きてしまったのである。

 そこで彼らは高次の冒険に乗り出していった。両親に別れを告げ、一時の彼らの欲求のすべてを満たしていたあの古びた灰色の大学や、ゴシック風の教会の建物や、物静かで引きこもった環境を後にした。こうした変化を促すもととなったのは、彼らの内面を新たに掻き立てた創造的衝動であった。

この衝動はもっと高く偉大な認識や新しい計画を探し求めていた。それらはもはや地上的記憶から作ることはできず、その概念、構造、実質も共に肉体を持っていたときの現実からは想像もできないものである。
℘62  
  実際のところ彼ら三人は「魂的な人」のレヴェルにあるのである。そうしたわけで、友人や家族や大学町───想像によって創られた───と別れることは悲しいのだが、次の存在階層である形相の世界に呼ばれているので出発をためらうことはない。彼らの熱烈で霊的に活発な性質が彼らを上の界へと進ませ、飛躍的な進歩を遂げさせる。感覚がだんだん精妙になっているので高貴な世界へ入ることが可能になったのである。

そこは広大典雅にして不思議な美と形に満ちた場所である。が或る点ではそこには地上界を思わせるものがなくはない。しかしその美と形の多様さは無限であり、人に知られていない色と光からなっている。この世界には、物の外形や外観における完全さが見られるが、それらは地上の最も偉大な芸術家たちの創作のなかでも滅多に実現しないほどの完成度を持つのである。

 結びつきの堅固な家族の一員であることには或る種の不利益が伴う。こうした結びつきは利己心を生み、他人の存在に対する思いやりや配慮に欠ける点が出るからである。ヘンウィック夫人は母として妻として余りにも独占欲が強く、家族の結束を計るのはもっぱら彼女の役割であった。

こうした彼女の持ち前から夫や二人の息子のウオルターとマイケルとは互いに固く結ばれていたので、地上生活では家族以外の人々と確かな人間関係を持つことができなかった。ウオルターは結婚したが、彼には母親の愛情が湿ったおしめのようにいつまでも纏いついていたために、夫としては失格であった。

不和が持ち上がり、ふたりはしばしば喧嘩をしたあげく、遂に別れてしまった。その時からウオルターは金儲けに夢中になり、母とその家庭にしか興味を持たなくなった。

 マイケルは結婚しなかった。彼の母の愛と父の自尊心は彼の自己愛を異常なまでに高めてしまったために、彼は自分以外の者を愛することができなくなっていた。しかし彼も父親のことは尊敬していたし、母親に対する利己的な愛情はずっと持ち続けた。彼は町の道楽者となり、晩年には殆ど自分のクラブに入り浸っていた。

 ウオルターは兄の後をすぐ追って霊界に赴き、今やすべての望みが満たされているようである。両親と二人の息子は記憶の世界に生きてそこに喜びを見出すであろう。地上では彼らは結びつきの強い家族であったが、死や別離によって一旦緩められた結び目は前以上に固く結ばれ、家族同士の結び付きは今や再び緊密になっている。

 明らかに、四人全部が天国に到達したといえる。つまり、彼らは昔の楽しみを見つけ、かつてのようにお互いに愛しあっている。しかしながら実際には、彼らは、霊的に見て極めて未発達であり、自分自身では天国も地獄も想像する力を持っていないのである。彼らの魂は自分達以外の他者を全く無視しつづけることによってしなびてしまったのである。

 地上におけるウオルターの主たる関心事は金儲けであった。そのために彼は家族の者から一目おかれていたし、そのことはまた彼の母親への愛情の妨げにはならなかった。こうしてまともにではあるがかなりがめつく貯めこんだ財産によって大きな快楽を得ていたために、彼はケチで人には何も施さなかった。

 こちらへ来ても最初まだ金の法則が働いている間は、彼は商品取引や株式売買に楽しみを見出していた。彼は相手となる仲間を見つけてそれらをやってはきたが、金儲けはまもなく魅力を失ってしまった。地上的想像の支配する世界では金銭はもはや価値の基準とならないことを発見したのである。

心と本霊の働きのおかげで何でも望みがかなえられるので、誰も金を得たいとは思わなくなるのである。それに対して、美しく生き生きした生活や誠実な愛情の記憶を持つ人は、その記憶が豊かな財産となっている。

 しかしウオルターは金儲けばかりに熱中し、生活の上で人や物への愛情が欠落していたために心が貧困化していた。富める人なのに、彼の記憶といえば次々と金を生み出すことだけであったのである。ただ母親に対して或る種の愛情を抱いていたことは事実で、株式に失敗したときなどにはその憂さから逃れるために気持ちを母親に向けて、母と子の昔ながらの関係に幸福を見出そうとしていた。

 仲間の株式仲買人との金儲けが偽りのものであり、集めた金がどんなに巨額なものでも実は無意味なゲームにすぎないと知るに従って、母親の愛も思慮のない馬鹿げたものであることに気づいた。彼への愛情は所有欲を満たすためのもので、自分の子だから愛していたのである。

と同時に父親がウオルターを誇りに思う気持ちも、経済的成功が評価されない世界に住んでいることをだんだん理解するに従って弱まっていった。ここでは金儲け以外の何もできないようなものは乞食とみなされる。こうした魂は、たった一つの情熱しか持てず、想像力に欠陥のある心に支配されていて、魂の生活に必要な永遠の宝を蓄えることができないのである。

 ウオルターはまもなくひどい悩みに陥った。この意識の階層からは何の喜びも得られないからである。第一、価値観が地上で彼を取りまいていたものとは全く別種のものなのであった。暇な時の彼の母親の要求は彼をうんざりさせ、遂には怒らせた。父親は幻想界での彼の失敗を批判して彼を辱しめた。

そのため、彼は心からあの地上世界、取引所での売った買ったの刺激的な生活、金持ちだったためにちやほやされたりかしずかれたりする生活を恋しく思ったのである。

 こうして彼は再び夢を見始めているのであるが、そうすると地上の牽引力と再生を促す力が働く。彼は中間地帯に入り、暫くさなぎ状態で休む。この状態で彼は自分自身の姿と過去の生き様を鏡のなかにみる。彼という存在をつくりあげているものすべてが次々と鏡の表面に浮かびだした時に、本霊の審判官がこのヴジョンを総括し、彼に選択をせまるのである。
 
 この選択がどのようなものであるかについてはいうまでもなかろう。未発達な人間は地上を振り返り、再び「時の世界」に入り肉体を持ちたいと熱望する。そしてそれこそがウオルターにとって唯一存在可能な条件なのである。死のかなたの世界では彼はまるで陸上に上がった魚のようで、呼吸することさえも困難であった。そこで彼は自発的に再生の道を選んだのである[原註4]

しかし今回は自分の魂の貧しさを或る程度知って戻ったので、学びかつ進歩することのできる環境に生まれ、自分を外部世界へ投げ出すことに努め、間違っても自分一個人とか一家族のために利己的に生きることのない様気をつけている。

 再生前の準備期間に本霊すなわち「上方からの光」はウオルターのために、彼に芽ばえた向上心を発展させるのに最も良い地上環境を探し求めた。その環境は彼の世界観を広げ本性を豊かにするものでなくてはならない。そのために彼は今や女性として生まれ、貪窮のなかでその人生の歩みごとに克服し難い困難と遭遇しなければならないのである。もっと大事なことは、かつて彼は愛を蔑み拒絶したために、今度は人から愛を拒絶され孤独のうちに逆境のみが教えてくれる学習をしなければならないということである。

 こうして魂は地上に戻ることによって前進する。新しい肉体に生まれ変わることによって意識のもっとも高次なレヴェルの生活を営むに必要な潜在能力を身につけることができたのである。困難を通してこそ彼は自分を鍛え直すし、死を超えた精妙な世界で生きるための能力を増大させることができるのである。
 
  ウオルターが家族のもとを離れ、地上に戻っていくと、彼の母親は幾分身を入れて夫の面倒をみるようになった。しかし教授の反応は相変わらずであった。彼はこの幻想世界の構造と性質の研究以外に彼の関心を向けようとはしなかった。学者らしくはあっても想像力を欠いた精神は、思想の古い軌道を巡っているだけで、地上で大学の講座を担当していた時とまるで変わらなかった。

進歩のない合理主義的な唯物論者であり、相変わらずの温情的な学者タイプでありつづけた。ただ現在では、もし彼が自分の研究テーマをやりつくした時は、自分の自我は幻想がなくなると共に倦怠一色に色褪せ、解体していくのではないかとはっきり感じていた。

この考えに満足し、彼は他の学者仲間と会い、不毛の部屋で同じことを反芻したり、がらくたをさがし回ることに底の浅い幸福を見出していた。一方、ヘンウィック夫人は彼の気をひくことも、彼を決まった轍(わだち)から引っ張り出すこともできなかった。そこで彼女の関心は独身の息子マイケルに向かい、彼に自分の幸せの拠り所を求めようとした。

 ヘンウィック家の六人のうちではマイケルが最も霊魂の発達が遅れていた。地上を後にしたときは、あたら持てる才能を委縮させ、興味の範囲が情けないほど狭くなるのにまかせて、甚だつまらぬ男になりおおせていた。彼は真の意味で生きたことなどなかった。というよりも生きることが副次的なことであった。
℘68
確かにこれといった悪徳はなかったかもしれないが、自己中心的で怠惰で、想像的エネルギーを全く用いず、兄のウオルターがそうであったような金銭への偏愛さえもなかった。こうしたわけで、幻想界の夢からそろそろ目ざめかけていた母親は、彼との交わりに何の幸福も生きた暖かみも見出すことができなかった。彼は母親に対し、地上の時と同じありきたりの尊敬と顧慮を与えたのみであった。

 自分自身にたち帰ってみると、彼女の情熱的で独占欲の強い性格が彼女を息子のウオルターへのやみがたい愛情へと駆り立てた。そこで彼女は冥府の画廊に立ち戻り進路を選び直すことにした。彼女を導く霊が鏡の前に立ち、彼女に過去の一生でやった以上のことを見せる。

すなわち息子が物質世界での様々な不幸な出来事に会っている様を映し出してみせる。ウオルターは今まさに物質界にあって困難な上昇の坂道を登りつつあるのであった。

 ウオルターの苦悩は彼女の母性のなかに埋もれていた利他的な愛情を呼び覚まし燃え立たせた。彼女は地上に帰っていきたくはなかった。そのままいけば何世紀でも満足に過ごせる幻想の生活があったからである。しかし、ウオルターへの心配が勝ちを占めた。彼女は、たとえそれが苦難を意味するものであっても、新しい地上生活のなかで何らかの方法で彼を助けることが許されることだけを願って再生することに決めたのである。

 彼女の願いは適えられた。そして同時に彼女自身も癒された。すなわち、母親としての欠点が修正され、前生における家族への悪影響も償われたのである。
℘69
 ヘンウイック教授とその妻は、同じ類魂に属していた。そこで妻を失った彼はまもなく淋しさを感じ始め、知的な喜び以上の何か、同僚との議論に勝つこと以上の何かを求め始めた。もともと彼の心は多くの点で優れたところがあった。厳しく抑圧されていた感情が目を覚まし、人間らしい愛情や親しみのある特別な仲間を求める強い欲求を感じ始めていた。

努力のいらない生活はもはや彼を喜ばせず、うんざりしきっていたが、さりとて今の生活を捨てることも適わず、それが都合よく解体してしまいそうな見込みもないのであった。

 ひき続き浄化の時が流れた。教授は娘やマーチンや妻を求めたが無駄であった。家族を結んでいた絆は解け、彼は地上生活で彼を仲間から孤立させていた狭い排他性の代償を払わされるのであった。

 マーチンは父親の孤独の叫びが色彩界までかすかに響いてくるのを聴き取った。そこで彼は幻想界まで戻り、父親にその姿を現すことはできなかったが、お互いを結びつける愛情のおかげで、指導霊として父親を導くことができた。マーチンの助けで、ヘンウイックは地上にいたときの過ちを修正することができた。

彼は家族の立場を離れて周囲の魂たちを見渡してみた。その結果、奇怪でねじ曲がった魂が住む死後の暗黒世界を訪ねることになったのである。そこで憐憫や同情の気持ちがかなり干からびた学者の心に湧き上がってきた。パウロがエフェサスの野獣どもと闘ったように教授もまた、地上を去ってからわれとわが創造の地獄に堕ちた人の生み出す妄想の怪物達と闘ったのである。

 他者への手助けをすることにより、次第に寛大な性情の発露をはばんでいた堅い殻が破け、教授の魂は進化した。彼の発展を妨げていたものから解放されたので、彼は自己の内面の王国のもつ可能性にようやく気づいた。愛情というものを知り、大自我のもつ創造的側面に気づき始めた。

そこで彼の魂は花開き、形相の世界(色彩界)への旅を許された。彼は息子と娘に再会し、「不滅」についての知識──すなわち、もし心と意識、想像力と愛と知恵によって導かれるならば登り究めることのできる荘厳雄大な魂の頂についての知識──を手中にしたのである。

 一方マイケルは何世紀ものあいだ第三界に無気力なまま留まり、ますます消極的となり、植物的、利己的な生活を送ることによってどんどん劣悪な意識の段階に沈んでいった。

 しかし彼にも遂に目覚める時が訪れ、兄と同じく地上に戻らねばならぬことになった。地上での身体障害者としての生涯が教育的効果をもったために、彼は次第に変わってゆき、良き性情が目覚めていった。再度の地上の旅路を終えた後で例の画廊を通り過ぎるときには、画面に映る自分の生涯の意味を理解できるまでに成長していたのである。

ヘンウイック家の者たちは個人として躓(つまず)いたのではなく一団として躓いたのであった。そこで全体が壊れ、その部分は飛び散ったのである。いつの日か彼らは再会することであろうが。彼らが進歩を遂げて必須で貴重な感覚、すなわち共同体的特性たる経験、叡智、生命、愛などの神聖な分かち合いの感覚をそれぞれに具えるときまで、様々に異なった道に沿って時空を旅する──一例だけ例外があるが──ことであろう。




       
   夢の子 [原註5]   

 ある母親が娘をひどく欲しがっていた。ところが息子は生まれたが、あれほど望んだ娘の方は肉体をもっては生まれてこなかった。だがこの娘となるべき魂は霊界で彼女を待っていたのである。というのはこの魂は二度三度この世に生まれ出ようと試みたが果たさなかったからである。

娘の魂は母親が死ぬまではっきりと意識のある状態で母親とは会ったことはなかった。が二人は私が以前に述べた主観状態では出会っていたのである。私はこのようなケースを「夢の子」と呼ぶことにしたい。彼女は全く素晴らしい魂で、もし生まれていたなら、母親のこの世の生活は天国になっていたことであろう。

 心からの願いが適わなかったことで、この母親の魂はかえって多くを学び、霊的にも成長した。もし生まれていればこの娘は母親をすっかり夢中にし、その結果、母親は利己的な母性の満足をうることのみに終始していたことであろう。なんとなればこの子は母親の毎日を輝かしいものにしていたであろうから。このような幸福は本来第一の天国───すなわち形相の世界───に属するものなのである。

そしてそこにおいて彼女はそのような歓喜を味わう定めである。幻想の世界でも彼女は娘に会い、無上の喜びを感じることであろう。娘と一緒になれたことで、死によって生じた息子との別離は、そうでなければかなりのものとなっていたはずの苦悩をひき起こさずにすむことであろう。

 地上生活でこの子が授けられなかったことにはある神の摂理があった。その代わりに死後に彼女は望みのものを与えられる───それは静かで美しい田園の土地で、そこを人が出たり入ったりしている。この彼女の夢を満たす保育場は彼女の想像力が描き出す夢なのである。

彼女が誇らしげにあやし、兄弟姉妹に見せびらかすみどり子、一緒に遊んで彼女の本性を満足させる可愛い子鳥のような子、愛を注ぎこむ対象、着せたり飾ったりの遊び友達、上品で優雅で彼女の保護と愛のすべてが必要な少女、そうした彼女にとって宝以上の宝であるものを彼女は手にするのである。

 それ故、この母親の真の幸福は死後の世界にある。しかし意識の深部では彼女は既にこの小さな娘を知っている。二人は同じ類魂に属し、母親は深く眠っているときは子供と一緒にいたからである。しかし容赦なき天界の法則により、彼女は記憶を現界意識に持ち帰ることを禁じられており、彼女はただ子供との別れの辛さだけを覚えている。

この辛さはある漠とした不満足───一種の倦怠感や失望感として現われるが、彼女はそれらを理解しえないままに当をえない様々な理由に帰している。死後の世界ではこうした出会いの記憶が復活し、彼らは熱愛する母と子として出会うことになるであろう。

 しかし、地上の時間がこの子に影響を与えると考えてはならない。死後の世界では、類魂のうちで様々なパターンを織りなす魂のそれぞれの性質に従い主観的な時間が流れている。そこでは外観と欲望が一致するのである。母親が新しい生活に入ったときは娘は可愛い年頃で、片言をしゃべったり、なかば這いなかば歩みの状態で、保育室の広間を横断する冒険を試みたりするようになっていよう。

こちら側の世界にやってきた母親は、ゆっくりと知性が開花してゆくにつれ、その広大な世界の魅力に目を奪われていく。彼女は死のかなたにある蓮の華の天国で、かつて地上時代に望んでいた全てのものを見出すであろう。

 あなた方は私の描いて見せた母親の幸せと天国の生活についてうまく出来すぎていると思うかもしれない。しかし運命はきちんと赤字黒字の帳尻を合わせるものだと知っておいていただきたい。この母親は地上において大いなる不幸、人生を真っ暗にしてしまうほどの苦悩と失望を味わった。

そこで更に不滅への道を先へ進む決心をつける前に、心の望みを適えられ、地上で苦労して、時には泣きの涙で蒔いた種の収穫をすっかり刈り入れることになるである。

 私はこの女性の魂に興味をもち、それを根源まで遡ることによって夢の子供と知りあうことができた。そして彼女が母親の霊的生活のなかで最も大事な存在であるのが分かった。こうした訳で、母親は夢の子の住む他界からの影響を深く受けるであろう。宝のあるところに心もあるからである。

 これまで私が繰り返し、想像力はときとしてとてつもない創造力を発揮する、といってきたことを思い出してもらいたい。また絵を描いたり、詩を書いたり、音楽を創ったりすることだけが、芸術家であることの必須条件だと考えてはならない。この母親は本質的に芸術家なのであり、こうした芸術家は人生から一つの詩を作り上げる。

もし彼女が母親ならば、小さな娘の為に幼年時代を一つの詩に作りたいと思うことであろう。あなたのおかれる境遇がどうであれ、あなたは人生を生きた芸術に創り上げ、あなたの属するグループの人達の生活を富ませることができる。そのことをどうか忘れないように。



     
  人間個性と死後存続   

 友達同士が接触によって、互いに基本的な性格を形成し創造し合うというのは本当である。つまり、彼らはそのことによって性格の幅を広げ、むきだしで表現に乏しい基本性質に彩(いろどり)を添え、仲間次第で変化する自我の画像を創作するのである。

 従って私は、死後存続との関連においては 「個性」 という語の使用をためらう気持ちがある。それはちょっと見たところ、水の上の映像のように捉えどころなくはかない感じである。
そこで、どうか、辞書にあるこの語の意味を見ていただきたい[原註6]

 辞書の定義に従えば 「思考する知的な存在として在る状態」 というのが個性という語の意味である。不幸なことに多くの唯物論者はこの語の意味を変えて、個性を思考や知性の意味のみではなく、顔、外貌、形姿、動作などの物資知的属性にまで拡大している。彼らは個性を肉体機関の表現であるというであろう。彼らにとっては肉体だけが現実なのである。

それ故、心霊研究者が唯物論者と人間個性の死後存続について議論するときは、いつも噛みあわないものとなる。つまり、唯物論者は、生命が肉体を動かさなくなったとき個性はもはや存続しないと主張するからである。


 この議論は不充分な基盤から出発している。実際、このような重要な語については再定義がなされるべきである。何故なら、そのことは生命は一時的なものか、それとも永遠なものなのかを論ずる人々のあいだで、議論の核心をなす部分だからである。

 人間個性ということばは「思考する知的存在として在る状態」と定義されており、そうすると白痴や狂人は個性を所有する権利をもたないことになり、議論を正気の人間のみに限ることになるが、それ自体いささか残念なことである。そして更に、思考する知的な存在とは必ずしも物質的性質をもたないということに注意しなければならない。

しかし「人間個性」は物質との連関を想定させる。というのは、人間の思考の中ではそれは、他の存在や外形を持った存在と相互作用しうるものの存在を想定しているからである。それ故、人間個性の存続を論ずる場合は、身体のない創造物を考えるのはやめるべきだ。身体を持ったものとしての考えうるあらゆる可能性を想像してみるべきである。

 そうすると、誕生から死に至るまで人間に付帯して存在するやや高い強度で振動する身体があると考えてみることができる。その身体は目には見えないが、睡眠中に魂や意識的知性を受け入れ、いつも知性及び想像力の本体と物質的な身体との間で仲介者として働くものである。

 このエーテル体[訳註7]を仮説として受け入れるなら、それを「複体」[訳註8]とか「統一機構」と名づけるのがよいであろう。というのは、この機構はその成り立ちからして反応が肉体と同じく自動的だからである。そのうえ、この複体は人間の可視的身体とよく似ている。外観が相似的であるという点においては、さしずめ双子といってもよいであろう。

複体は、肉体の印象を映し出し、感覚に記録された記憶を受け取り、その印象を脳物質に刻みつける。脳物質はといえば、それを記憶の材料である心的表象と結びつけている。

 それ故、よく考えてみると「複体」ということばは、それが意識に仕え、意識の高次のセンターと物質的脳を交流させる役目を果たす機関であるとの意味を部分的にしか表現していない。実際のところ、その意味を充分に表わすためには「統一」ということばがぴったりである。というのは、その語は、エーテル的機構───すなわち人間活動の諸機能を統一し、関係づけ、調和させ、一つのものとする───の目的を伝えているからである。

 唯物論者と議論するときは、この複体の基本構造についての理論をしっかりと築き上げておくとよい。例えば、老人達の記憶の衰えは、魂が崩壊していく物質脳に印象をうまく刻むことができなくなるということで説明できる。機械があまり使用されたので反応しなくなったという訳である。

一方、個人の記憶は統一体のなかには完全に記録されている。魂の体の方は肉体のように年の経過で衰えていくということはない。前の本で私は、この統一体が死後の世界における魂の体となる発達中の形成物を包み保護するので、それを「殻」と呼んでおいた。

 一生を通じて、この個性の潜在的表現体は、エーテルの子宮の中で形成されてゆき、二十年、五十年、七十年という期間に、あるいは何年であろうとその地上滞在期間の間に成長してゆくのである。丁度卵の殻が投げ捨てられるように、死後の冥府で新たな誕生の準備がなされた後、この魂の殻は捨てられる。

 死後の世界への誕生は多くの点で物質世界への誕生とは異なる。原則として二、三の帰幽霊が死にゆく人を助け、彼が地球上で住んでいた意識のレヴェルから解放する。出生に携わる母親役の霊人たちは、誕生の機構が別なので、この世の母親と違い陣痛の苦しみを味わうことはない。この点が二つの世界、つまり二つの意識レヴェル間にある第一番の相違点である。

 肉体の解体に携わる者たちの仕事は大変な熟練を要する。彼らは複体を崩れゆく肉体に結びつけている網状の紐を静かに切らなければならない。病気などの場合にはその紐をひとつひとつゆっくりと切り、急激なショックを与えて次の生活の進歩に一時でも支障をきたすことがないようにしなければならないのである。

 死産の嬰児でさえ、もし無事生まれたら物質界で成長を始めたであろう複体に匹敵する複体をもっている。この嬰児の魂は死のかなたの世界でゆっくりと成長していく。前世からひき継いだエーテル体はやがてそれに一つの形態を与え、これが次第に成熟していくのである。

 実際のところ、水子になる魂というのは選択を誤った魂の例であり、前世での経験ないし運命が織りなすカルマのパターンからいっても、暫く地上的想像の世界での生活を続けるべきであったにもかかわらず、地上に帰ろうとした魂なのである。

 最後になったが、動物の未発達な魂が進化して、多くの魂が一つの類魂を形成し、遂には一個の人間にまでなる可能性について言っておきたい。これは善悪の問題ではなく、意識は、最終的に人間のレヴェルに達するまでには、より複雑な生体における体験を段階的に積んでいかなければならないという根本原則に基づいたことなのである。

 しかしわれわれの関心は今のところ複体にある。この体は、あらゆる点で肉体に似ており、睡眠中は魂を受け入れ、神経エネルギーを経由して肉体に生命素を供給している。複体中の全ての機関は、肉体のそれと鏡に映る像のように似かよっている。しかしそれはより高い密度で振動している。

人の命が終わりに近づくと、閾下自我が複体のなかでエーテル体を発達させる仕事を始める。この身体もまた当人そっくりであるが、当人といってもその盛りの時か、特に七十以前に他界した場合には、青春時代の似姿をとるのである。


 しかし、その人の魂が暫く冥府に滞在した後でなければ、類魂の精神はその人の身体をイメージし直し発達させる仕事をやりおおせない。類魂の生命を司る芸術家たる本霊は魂に協力してその形姿を再創造する。その外形はその人が地上で過ごした内容をありのまま表現するのである。   



      
   
  生体と連動する複体
 
 複体は肉体を手中に収め統一する根源力である。人間が眠り、複体が既に肉体を占有していないときでも、肉体は複体の精妙な網目──肉体を複体に結び付けている沢山の糸と二本の紐からなる──によって支配されている。 

 意識は脳機構のみを通して指令を出しているわけではない。それは内分泌腺、大陽叢、仙骨叢などのような他の肉体中枢と間接的につながっている。しかし魂は複体を仲介として働かなければならず、直接物質に命令を下すことはない。自我と物質世界の外的表現体の間にはこの統一体がある。

 エクトプラズム[訳註9]は半物質的性格をもった中間物質であるといってもよかろう。それは生命の元ともいえるものであるが、消化系統を通って吸収されたものではない。それは複体によって分泌され、肉体にあまねく供給される。その究極的目的は神経に栄養を与え、細胞を強化することである。

 ごく稀にだがこの物質を過剰に持っている人があり、このような人は通常物質的霊媒能力を持っている。あるトランスの条件が満たされると、そうした人々はこのエクトプラズムを外在化することができる。霊媒によってはその統一体が帰幽霊の支配を受け、その結果、霊が肉体の一部を、そのリズムを変えて複体のもつ高い振動率に転換することにより、一時的に消滅させることができるようになっているものもある。

 心霊研究者たちはこの奇妙な現象を覚えているであろう。そしてその説明を霊界側から働く支配霊達と、何百万人に一人の霊媒の複体がもつある意味での伸縮自在性に見出すことであろう。

 さて、通常人がすっかり目覚めているときは、その統一体は肉体内に収まっている。二つの身体はお互いにぴたりと重なり合い、相互に浸透しあっている。しかし眠たくなると複体はズレて外側に傾く。霊視能力をもった人がみると青白い形のものが肉体から半分ほどはみ出しているのを見ることであろう。ショックや騒音がこの人を目覚めさせると、たちまち複体はその人の内的表現のなかに引っこんでしまう。

     *                 *                 *

 誤解[原註7]があるといけないので、 『人間個性を超えて』 で述べたことにつき、付け加えておきたい。私は人間が眠くなると複体が外に傾くと言った。こう言うと、睡眠中複体が肉体から離れると思う人もいるかもしれないがそうではない。眠くなると複体の「精髄」(エッセンス)ともいうべきものが外側に傾くのである。

これは最初外に飛び出したときは殆ど形のない青白い雲のように見えることであろう。だが、私が「殻」と呼んでいるものは、肉体のなかに残るのである。この精髄部分がエーテル体であって、生存中ゆっくりと発達し、経験を積みつつ次第に形と性質を整えてゆくのである。しかしそれは死後の世界で殻が捨てられるとき、最終的には魂の体となるのである。

 地上生活中この精髄部分は極端に可塑的である。稀には、有名なインドのヨガ行者などのうちに、複体ないし幽体で旅行し、世界中の遠隔の地を訪れ、幽体旅行中に経験したことの記憶を現意識に持ち帰ることのできるという人がいる。

実際に彼らの意識はこんな風に飛び出していくのだが、その表現媒体は統一体の一部分であって、それは人間の意識を超意識存在に結び付けているのである。


こういっても複体の二元性を考えてはならない。これまでの説明では「殻」(シェル)と精髄部分の完全な分離が可能なように思わせるが、それはありえないのである。複体は睡眠中肉体を離れるが、前述の魂の緒と、もう一つのコードで殻に結びついている。それは肉体から離れるときは形がないが、可塑的なので自動的に肉体の形をとり睡眠中さまよい歩く。

現在のところ、写真フィルムは肉体を抜け出た睡眠体を写し出さない。この精髄部分は殻よりも一段階精妙な振動体だからであろう。死の瞬間に肉体から立ち上る複体を写す写真フィルムは、統一体全体が肉体から出る最初の好機をのがさず捕えることになる。この分離は必ず脳細胞の崩壊を招く。何故なら脳細胞は活力復帰の媒体、バランス維持の媒体として「殻」に依存しており、これなしでは脳は働きを継続することができず死滅してしまわなければならないからである。

 そこでわれわれはいつかは死亡時の複体を撮影できると結論できる。がそれにはもっと感度のよいカメラが開発されなければならず、そうでない限り、人の睡眠中に複体の精髄部分──いわゆる幽体──が現われるのを写すことはできないであろう。
  
 
       
  病気と複体   

 感情は人間から放射される電気的タイプのエネルギーだといえよう。内分泌腺は主としてこの感情とつながった、情緒的脳ともいえよう。複体を通して働く魂はこれらの腺に影響を与え、腺は血液の科学成分を変更せしめる。

意識(マインド)がそれを腺と結んでいる複体を通して充分に働かないと、人の性格は異常をきたすことになる。その原因は複体の弱点にある場合と、意識(マインド)を支配する魂の欠陥による場合とがある。通常は魂が、腺の異常や内分泌の過不足に責任をもっている。

 医師ならば、性格や個性はかなりの程度、いや恐らくは殆どがこれらの腺に依存しているというであろう。医師の診る異常な症例に徴してみれば、このような独断を構えるのも、一応もっともな理由がなくもない。しかし実際のところ、生理学上の異常機能の原因を探すにはもっと深くみることが必要である。

その原因はこれらの中枢の統制に失敗した魂に求められるべきである。この失敗は閾下自我によって犯されたある過ちに由来しているのである。

 多少問題があるが敢えて大胆な言い方をすれば、ある人によって無意識下の意志に強く繰り返される暗示は、ある生活方式と規則的な運動が併せてなされると、活動不足だったり過剰だったりする腺と結びついた内分泌の流れを改善する。更に言えば、ある種の病気は統一体の弱さに起因するものである。

ある種の癌なども原因を探れば目に見えない身体の欠陥によることが分かるであろう。それ故、無線通信が目に見えぬごとく目に見えぬ有機体が働いていることに気づくまでは、医師たちはある種の癌の治療法を発見できないであろう。

 人間が不治の病にかかり、精神的にも肉体的にも苦痛の甚だしい場合には、医師は慈悲の心をもって患者にある薬を与え、ゆっくりと静かに肉体を離れられるようにしてやるべきである。魂はこうした死に方で傷ついたり悪影響を受けたりすることはないからである。

医師が魂を病める体から余り急速に引き離したりせず、また三、四日かけてゆっくりと体から脱け出すようにする限り、国法が未だに罪としていることを犯したとしても、彼の行為は正当化される。

 しかしながら、取り敢えずのところ、人間個性の問題を論じているわれわれにとって、病気と人間の問題は余り関心がない。今までのところ目に見えない統一体が存在しないと証明されていないということは認められてもよかろう。しかしまた存在することも証明されていないと懐疑論者はいうことであろう。けれどもこうした証明はいつか人に与えられよう。

それはともかく、この微妙な機構の存在が受け入れられ、それが魂と脳の間にあると承認されるなら、個性という語の意味は拡張されねばならない。何故なら、当然のこととして、この精妙な構造体はその性質からして、外観、形態その他個性を表現するあらゆるものに影響を与えているからである。

従って、精神の敏不敏は意識が働きかけるこの複体という経路の性質次第できまる。つまり複体は覆いをかけられたフィルターともなれば、また魂の高次な中枢からの完全なメッセージを滞りなく伝えるものともなりうるのである。

 
     
  自殺

 われわれが現界と交信するときに、われわれ霊界のものが、いかなる人も自らの命を絶つようなことをしてはならないと強調するのは、自殺者がもはや自分の肉体をコントロールすることができないと思った瞬間から、自殺に伴う絶望、恐怖、すねもの的幻滅感などの精神状態が甚だしく強められるという事実があるからなのである。

自殺者は通常自分が死んだことに気がつかず、そこへ彼を追い込んだムードだけが雲のように彼を包みこんでわれわれの側が彼を救済しようと思っても長いことうまくいかない。

感情的な思考や精神的態度全体が防壁を造ってしまい、それを壊すには当人自身の忍耐強い努力やきっぱりした克己心、なかんずく救済者たる高級霊への彼の魂のあらん限りの力を振り絞ってする嘆願懇願による外にはない。

 不幸なことに通常、自殺者の心はねじ曲がり、全意識が内側を向いてしまっている。真っ暗闇のなかに本人の主観だけがほしいままに働く状態であるから、彼は自ら自己の罪を罰するのであるが、殆どの場合はこの罰を自分の行為の結果だと思わずに、彼を取り巻く悪意ある力のせいだと思っている。

また事実多くの場合、自殺に先立つ暗鬱で、くよくよした想いは、ある種の自然霊を呼び寄せ、こうした地妖の類が彼を悩ませ掻き乱し、こわがらせたり苦しめたりすることがある。これら自然霊は、地縛圏に近づいて彼の熱病的な空想の中にまざまざと姿を現わすのである。

 こういっても、私は自殺者が死後に辿る生活をすべて表現したわけではない。ある高貴な目的に満たされて自殺した人のような例外的な場合がある。例えば、誰か貧しい人を救うためとか、不治の病によって愛する人が死に衰えてゆく悲痛な姿を見ないですむようにと自己犠牲的に命を絶つ場合とかがそうである。

こうしたとき、その人がこの恐ろしい行為を冒す気持ちのなかには、ある良き熱情や自信があり、それがその人の意識を外側に向ける。つまり利己的な自意識がないために、そのことが、死後の暗黒世界のなかで彼を救うのである。

彼の複体はそれを肉体に縛りつけている精妙な網目からゆっくりと切り離されるけれども、それには激しい苦痛が伴わない。彼の魂が満足しているので、ねじくれた絶望や自己憐憫の苦痛に付きまとわれないからである。そこで邪悪な存在は彼に近づくことができず、悪夢となって現われることもない。

 正当ならざる動機によって自殺する者は、暫く冥府の暗闇に住まい、しかるのちに幻想界の最下部で過ごす。しかし死後に自殺者の辿る道筋はその性格や地上での過ごし方次第で様々である。更に、憑依霊がしつこく唆(そそのか)した結果命を絶つに至る例がある。この場合、当人は暫く暗闇で過ごすとしても、こうした行為の結果を全面的に償わなければならないのは憑依霊の方である。

 こうして、自殺にともなう処罰について論ずるとき忘れてならないのはその魂の性格、気持ち、行為の背景となった動機などである。これらがはっきりと分かるまでは自殺の結果を判断することはできない。

 突然の死にみまわれたケースにおいても、死の経過は一様ではないと付け加えておかなければならない。
℘88  
というのも、死に際して幸福な魂は比較的スムースな経過を辿るからである。肉体からの離脱の模様についてあらゆる場合に当てはまる説明というのはありえない。

私は共通部分をとり、大多数の例を述べうるだけである。急死からの救いを祈願する古い祈祷は科学的な人間には忘れられてしまった古代の智慧であり、隠秘学(おかると)的な知識に由来する。

 人生の盛りのときにふいに死にみまわれた人は中間状態の冥府に長いこと留まっていなければならず、ゆっくりとした経過で空間の奥に振動する明光浄気の世界へと向かって進歩を遂げてゆく。こうした境涯の生命体は地上の人々の周囲でも振動しているのだが、振動数が異なる。

すなわちそれは人の密集する街なかを流れ漂い、山を越え、固い大地の内外を透過し、物質世界とは全く別個に存在しているのである。それらの魂はまるでかつて地上に存在していなかったかのようであり、人々も街も幽霊であったかのようである。そして、彼らはごく稀には新しい死者の出た家をうろつき回ることがある。

 無論私は、私のような探究者ではない普通の帰幽者が、何かの理由で、この昔住んだことのある地上に未練をもつ場合のことを言っているのだ。私達のような探究者ならば、冷静に想像力の或る過程をこなして人間の集合的意識に入りこみ、自分達の考えを通訳してくれる霊能者と交流する。

 私は、愛の絆によって人間の男女に結び付けられている魂や、親しい人達とは住む境を隔てながらもその主観的意識の中に入り込んで経験を共有することのできる霊について言っているわけではない。

物質世界の内外に生活しながらそのことを全く意識していない大部分の新参の死者について言っているのである。近親者たちは彼らに戸を閉ざし交信しようとせず、恐れや、先入観や、誤った同情心から、出会いや交流の再開を拒絶し、彼らに短い挨拶や別れのことばをいう機会さえ与えようとはしない。
 
 無論、愛する人の冷淡さや無知にもかかわらず、夢の状態で、地上に残した愛する大事な人をあたかも同じ世界に場所を占めて同じ次元に存在するかのごとく認知できる魂も多数いる。しかし、全般的にいえば、目下のところ、世界が世界のうちに振動し、無数の魂が無数の魂のなかにいるが、彼らはその生涯のあいだ、意識的にはお互いに見ることがない。

異なったリズムに住んでいるので互いに孤絶し、知りあうことがないのである。もし心理学者が二つの状態をみれば、二つの存在系が相互浸透して、互いに同じ空間を占めていることを認めるであろう。

 しかしながら、以上のことは人間が深い眠りにあるときは別である。そのとき人は複体で、体から出ていき、愛情の絆でつながっている二、三の帰幽者の主観意識のなかに入っていく。


[原註]
(1)家族の類魂(The Family Group)。理解を助けるために記すと、この家族はヘンウィック教授夫妻、三人の息子マーチン、ウオルター、マイケル、それに一人娘のメアリーから成る。マーチンはマーガレットと婚約するが、彼の死後、マーガレットはリチャード・ハーベイと結婚する。この家族は全くのフィクションである。─── E・B・ギブズ

 (2)二〇六頁を見よ。
 (3)二四八頁を見よ。
 (4)受胎時において、生まれる前の赤子の魂は母親との繋がりをもつ。肉体的に言えば、受精と同時に魂と細胞のあいだに関係ができる。魂が再生したいと思うと、そのエーテル体は再生の期間中魂に随伴することになる複体の内に吸収される、これを一夏の花と果実に残された種の場合を例として考えてみよう。この種は来る夏の花と果実を可能性として含んでいる。

同様に、エーテルはちっぽけな一粒の種子に比せられるもので、その諸性質は眠っている。ことに再生した新生涯の前半部においてはそうである。しかし死後においてその花と実が取り入れられる時がくることを確信せよ。─── F・W・H・マイヤーズ

 (5)幻想界で過ごす生活についてこれまで述べられた例は全く架空のものである。しかし以下の例は、通信霊が実際に詳しく知りえた実例を語っている─── E・B・ギブズ
 (6)この要求によってギブズは辞書を持ってきて、指示通り読み上げた。通信霊が一つの文を選び以下のように再録したものである。
 (7)以下の数節は後日マイヤーズによって書かれた。

  [訳註]
 (1)シェイクスピア『テムペスト』第四幕第一場。

 (2)本霊(spirit)通常の霊という意味とは違い、類魂を束ね統括する霊の意味に用いられている。日本的に表現すれば親神とか守護神に相当するであろう。浅野和三郎はこれに 「本霊」 という訳語をあてているので本訳でもそれを踏襲した。もっとも本書を通読すると、魂のうち第五界以上の意識レヴェルにある上級の魂も 「霊」 spirit と呼ばれているようである。

 (3)上方からの光。原則的には第五界以上の霊を指すようであるが、そうした高級霊がわれわれに接触をもつためには具体的には次々と仲介霊を介して下りてくることになる。従ってここでは漠然と「上方からの光」といっているが、具体的には類魂のなかの個別的な守護霊や指導霊を含むと考えてもよかろう。

 (4)大自我 (the larger self)。個々の魂の自我に対して、同じ類魂のなかの第五界以上に上った魂(それ以下の魂の自我を含んでいると考える)を自我の延長と考えて「大自我」と呼んでいる。ある超越的な意識状態では一時的ではあるが大自我と一体になると考えられている。また魂は成長の過程で絶えず大自我の導きを受ける。「大我」と訳してもよいかもしれないが、仏教における「大我」と必ずしも同じ定義にならないと思うので「大自我」とした。

 (5)大記憶(the Great memory)。やはり第五意識レヴェル以上の類魂のなかに蓄えられる記憶。神秘学におけるアカッシクレコードに相応するものであろう。マイヤーズの説明では、魂は死後、当面の魂の成長に必要ではない記憶はこの大記憶の中に預けてしまい、必要に応じて(例えば地上と通信しようとするときなどに)、特殊な主観意識状態(一種の催眠状態に似た)でこの記憶を取り出す。また各界における冥府通過期においてはこの記憶が再現される。
 (6)ルカ伝二十章三十五節。
 (7)エーテル体(ether body)補遺の一、「肉体と魂と霊」参照
 (8)複体(double)同右。
 (9)エクトプラズム(extoplasm)。エクトプラズムの外在化したものは欧米でも日本でも心霊実験によって観察され、化学分析も試みられている。物理的心霊現象の背後にエクトプラズムの働きがあることはいわば定説となっている。しかしここでのように、エクトプラズムが体内で細胞に栄養を供給しているとか、複体がこれを分泌するとかの知見はマイヤーズの通信独自のものである。第四巻 『ジャック・ウェバーの霊現象』参照。




          
    
     第四章 
再生
  
 地上で全く物質的生涯をおくった人々が、知的で高次な形の情緒生活を体験するために再生しなければならないのは明らかである。言い換えれば「動物的な人」の段階にある人は殆ど例外なく再生する。

 私が「魂的な人」といっている人のなかにも、もう一度地上に生まれることを選ぶ者がいる。しかし、転生といっても機械のように規則的な再生が繰り返すというわけのものではない。私はこれまで特定の魂が死と再生による進歩過程を永続的につづけているという例証には出会っていない。

或る個人が百回ないしそれ以上も地上に再生するなどとは一瞬も考えたことはないのである。実際、これは誤った仮定だ。むろん、未開人のなかには物質的性情を超えて上昇しようという気持ちや向上心もなさそうな人が結構いるから、例外もあるであろう。しかし大部分の人は二、三回ないし四回の再生ですます。もっとも或る人間的な目的や計画がある場合は八回も九回も地上に帰ることがあるかもしれない。

これについて勝手な数字を挙げることはできない。とにかく、人間の形態で五十回とか百回以上の人生をさまよう運命はないと結論しても間違いはなかろう。

 彼らに割り当てられた僅かな地上生活からだけでは十分な経験を集めることはできないという人がいるかもしれない。しかしこれらの数回の再生のすべてを費やしても、類魂の経験の代表的一断片を体得できるにすぎないから、これによって生ずる経験不足については、それを補う備えがなされている。

 乞食、道化、王、詩人、母親、兵士。私はここに条件や種類の全く異なる生涯を繰り広げるであろう六つの役柄のみを挙げてみた。これらの人々は皆五感を用い──運命が彼らからそのうちの一つ二つを奪うことがなければであるが──幾つかの同じ基本的感情を経験するのである。つまりこれらの感情は肉体機関の性質とリズムに応じて変えられているだけである。

 しかしながら、たとえわれわれが六回地上の生活をおくったとしても人間経験のほんの表相に触れただけなのだと承知してもらいたい。それだけではまだある訓練を受けたというだけで、人間存在の高みも深さも探りえたとはいえない。つまり人間の意識や感情のすべてを経験できたことにはならないのである。

だが、地上での収穫を何度も取り入れなければ──例外を除いて──死の彼方の高次の世界で生きることはできないのだということも間違いないところである。

 しかしわれわれがいちいち地上に戻って多様な人生経験と知識を自分の貯蔵庫に集める必要はないのである。われわれはそれを類魂の生活と合一することによって取り入れ、束ね、わが家に持ち帰ることができる。類魂には多数の魂が属していて、過去、現在、未来にわたる魂の旅を繰り広げている。実際類魂のなかでわれわれはそれを「旅」と呼んでいるのである。

私はかつて黄色人種に属したことはないが、わが類魂には東洋での生活を経験した者もおり、私は彼らの過去世の行為、感情のなかに入っていくことができるのである。

 この共同生活を通して私は仏教徒や、アメリカ商人や、イタリア画家の地上編歴のドラマをわが身に感じとり、もしそれに同化することができれば肉体を持って生きることを省略できるのである。

 あなた方は大自我の中に入ることによりいかに意志力と知覚力が増すかを知ることであろう。そこにおいてあなた方は自分自身でありつづけると共に、基本的な個体性を保ちつづける。が、性格と霊力は驚くほど進展する。

 あなた方は年と共に知恵を重ねるが、それは何も粗雑な肉体という拘束物のなかで何百年も疾風怒濤のごとき時代を過ごさなければならないということにはならず、あなたの魂に似た人──地上にあった時の肉体はいかに無縁のものであったとしても──の記憶のなかで愛の牽引力が引き寄せるもののなかからそれを集めることができるのである。
96
 他者の経験のなかにおける生活というのは、人間にはこれまで殆ど理解されていない。その場合、魂は現実生活とは掛け離れたドラマの虜になった観客に似ている。それゆえ魂は劇中で、肉体そのものが現実の時代的背景のなかでじかに味わった歓喜と苦痛を体験するわけではないのだが、

同類の魂の生活における行為、思想、気分といったものの結果を子細に感得するのである。そうすることによって、魂は──今や感情も情緒も全然違った種類のものとなっているが──この共同的集団状態で、あらゆる典型的地上生活、霊が肉に縛られ、五官や何百万の脳細胞に縛られている時のあらゆる基本的様相についての知識を獲得することであろう。


 私は自分の書くことに特別の権威があるなどと主張しようとは思わない。私は自分自身のささやかな経験と知識に照らして、魂が旅する際の地上との関わりについて述べたつもりである。私は決して私の説をこの問題についての最終結論とするつもりはない。

いつか私よりも広い経験と知識を持った魂に出会い、初期の神智学徒が主張していたごとき超越的唯物論が間違いのない理論で、一つの魂が数世紀に亙って、もしくは永遠に誕生と死を繰り返し続けるということが疑いなく証明されるならば、いつでも自分の誤りを認めるつもりでいる。


 魂が障害を持った身体に生まれるということは、その魂が前世において失敗を犯し、その結果、或る特定の経験を積まなければその失敗を償うことができないためである。

 例えば白痴のように、見たところこの世の活動を抑止された魂の場合でも、物質界での機能は果たしており、漠然とながら地上生活での学習をつづけている。実際のところ、暴君とか宗教裁判の審問官であった人などがしばしば白痴や低脳者に生まれ変わっている。

彼らは死後の世界で自分達の犠牲者の苦しみを理解し同情することを学んだ。しかし時として、この反省過程が凄まじいほどのものである余り、これらの罪人の想像力の中枢が狂ってしまって、次の再生の期間を通して精神異常の一生をおくらなければならないことがある。


つまり、その者は過去の罪の意識に付き纏われ、自己の行為が生んだ夢魔的幻想や恐怖に襲われるのだが、こうした錯乱の状態は彼の不幸な犠牲者たちが復讐したがっていることを知るとますます強化されるのである。

 再生に関しては定まった法則というものはない。進歩の或る段階で魂は、過去の地上生活との関連性のなかで自己の本性を熟慮し、反省し、自己評価する。原始的心性の人はこれを自己の存在の深部を突き上げる本能──すなわち一種の感情的思考──によって行なう。

この時本霊がどういう方向に進むかについて助言する。魂は完全なる自由意思で選択するが、本霊が進むべき方向を指し示すと大抵その指針に従うものである。


 人間存在の背後に潜む力とはつまるところ想像力であることをよく心に留めておいてほしい。それが過去を記憶の形で保存する。もし一瞬たりとも自己の作った鋳型に固定されることがなければ、絶えず現在という時点において想像し、自己に必要なものを加え、不必要なものを除去する。

 従って、意識の各中枢に固有の新鮮な想像力を絶えず再認識せよ。この力にこそ、たとえその霊的生活のレヴェルがいかに低くとも、人類の未来への希望がある。

 魂の旅を研究する者は、死後の世界で、物質とエーテルの世界を出入りしている類魂の仲間達の旅路の模様を調べてみるだけでも、魂の旅がいかに多様なものであるかに気づく。

 何故なら、各魂には互いに差異があり、同じ本性、性格のものは二つとない。彼らの想像的な空想が、めいめいの間に差異と多様性を生み出すのである。そういう訳で、再生理論に関しては意識生活の全領域に共通する法則というものはありえないのである。

教条主義者は、この問題に関しては、神聖な神秘劇に頭を垂れて沈黙を守った方がよい。この神秘劇が創作される時、霊中枢としての各魂は、神への各々異なった帰還の道を見つけ、宇宙的想像のうちに、幸福に満ちた不断の創造的生命活動を営むよう決定づけられたのである。


 初めて肉体を持った魂は、通常その類魂の或るメンバーと霊的に極めて近い関係にある。そして、その関係が近いほど古参の魂のカルマを引き受けることになる。そうした古参の魂は既に四,五回の地上生活を経験している。がしかし未だ充分には純化していず、霊的進化に必要なだけの地上体験をしていない。しかしながらこうした場合、二つの方法で必要な経験を獲得することができる。

(1)類魂の記憶のなかに入ることによって。
(2)その魂のカルマ──何度かの地上生活によってつくり上げたパターン──を引き受けた若い魂と霊的な関係を保つことによって。〔訳註〕
℘99
 こうして自らの創造の分身である類縁の魂に霊的に結びつき、この魂の地上の旅を見守ることによって自らの霊的生命を豊かにするのだということが分かるであろう。

 魂は想像力の中枢であるが、なかには 創造者 の心のなかに入りこめないものもある。そうした時は、本霊がこれらの魂が無価値で不滅を達成できないと判断すると、魂の分解消滅を宣告する。これが私が私の最初の本を『不滅への道』として『不滅の道』とはしなかった理由である。というのも、

或るものは中途で挫折するからである。しかし何ものも無駄にはならず何もなくなりはしない。魂は分解されるけれども、その記憶と経験は類魂のなかに維持され、共同体のメンバーのために役立つのである。


 私が「霊的な人」と名づけたうちの或る者は物質世界にたった一度だけ肉身をもって生まれるのだと私は確信している。私の考えではキリストはエリシャとかほかの誰かの生まれ変わりでもない。

キリストは全体者すなわち神の限定表現であり、ことばが神になった例である。彼は一度だけ地上にやって来て、そして神のもとに帰った。霊魂進化の長い道のりは彼にとって必要なものではなかった。そこに彼の神性の秘密がある。


 ナザレ人イエスは神の子であった。何故なら、彼は地上に降りてきたが、再び天に登るや、意識の七つの段階のすべてを遅滞なく通過し、何の妨げもなく神に合一したからである。旅する魂達によって創られた様々な界層、さまざまな世界に住むことは彼には用なきことであった。

というのも、彼は既に神そのものであったのであり、彼の意識、すなわちすべてを抱えこむ愛の心のなかに全宇宙を包含することのできる霊的な力を持っていたからである。


 [訳註]
 これはいわゆる「守護霊」と現界人の関係を暗示している。浅野和三郎によって命名された「守護霊」とは、日本独特の概念で、分霊のもとたる親、つまり前世霊を示す。守護霊は各自に一体で生涯変わらず、現界のわれわれを守護善導するとされる。

浅野の日本霊界研究による守護霊の概念が、はしなくもマイヤーズのこの通信で傍証された感じである。しかし欧米でもこの概念は一般化していない。通常は「指導霊」Guide, 「支配霊」Control などが用いられる。

 欧米の「守護の霊」Guardians は必ずしも浅野流守護霊ではなく、高級指導霊の意味で一般に複数である。分霊を出すのは全部再生をしなくなる第四界からであると思われるが、本書第十一章において、第五界で数柱の霊人が集まって新しい魂を創造すると述べられているのが注意されなくてはならない。

第五界というと、日本では産土神クラスではないかと思われる。わが国では従来産土神が出生に関与するといわれている。前世霊である守護神と第五界産土神クラスとの出生に関する協力関係はよく分からない。第五界霊を守護神クラスと考えてもよいかもしれない。── 詳しくは、『不滅への道』巻末解説参照のこと。

 
      
  第五章 同魂同士 [訳註]

 各人がおのおの一人ずつ魂の片割れをもつのかどうか、また二人が揃って一つとなる魂の片割れ同士というものがあるのかどうかを尋ねられた。

 二人の人間が霊的に甚だしく似かよっているために、両者が互いに他を補い合っているといわれるケースが稀にある。つまり、お互いに他方の必要とする基本特質や共感を分かち合っているのである。このような例外的なケースにおいては、ふたつの魂が一つの全体の両半であると言ってもよかろう。

二人は愛する片割れが傍らにいず、地上生活で会えないときには絶えず一種の喪失感や漠として満たされざる感情をもちつづけるものだ。

 同魂の片割れ同士は高次の霊界で合一し、一つの心霊的合一体となる。しばしばこうした合一体は素晴らしい霊的開花を遂げ、一体となって類魂に非常な貢献をする。

しかし、他方ではこの心霊的合一体はある環境の下では、二人が余り熱烈に愛し合って他を顧みないために、類魂から孤立してしまうことがある。この孤立化は、暫くのあいだ彼らの進歩を遅らせることになる。

そしてこの同魂の片割れ同士もいつかは類魂のなかに入って多くの魂と経験を分かちあい同化過程を通して宇宙生活に入ってゆく準備をしなくてはならない。

 誘惑や困難が大きければ大きいほどその霊的成り立ちからして「同魂同士」といわれるものの味わう喜びは深い。この魂たちはしばしば孤独に旅しなければならない定めである。

何故なら、この愛する同士がひき離されていて、どうしても交歓交流できない期間──すなわち、彼らが永遠の旅路の様々な場面で別々に自己の本性の実現を図るあいだは──
の歓喜も光明も彼らを見捨てているからである。


 
〔訳註〕
同魂同士(affinities)。普通は男女一対。二人で類魂の中の一単位をなす。soul-mateともいわれる。



 
     
   第六章 
二つの性 

 
知的な人ならば誰も二元性の原理があまねく宇宙にゆきわたっていることを認めるであろう。太陽と月、電子と陽子、男性と女性、といった一対ずつの存在が観察される。しかしこれらは常に一つのものの両面であること、一つのものとは「霊」にほかならないことを心得ておかなければならない。

 私の生きていた当時、男女同権の問題が熱心に論ぜられたことがあり、大方の知的な人士は、女性が男性に劣るもので、女性は市民権などというものを理解もできなければ、それに対し責任を負うこともできないと考えていた。この考え方は、唯物論的見地から反射的に飛び出してくる信念なのである。

もしこの世や肉体の制限を超えた視点をもち、霊的宇宙を信ずる人なら、明確に考えるかぎり、すべてのものに生命を吹きこんで生かしている根源は男でも女でもなく霊であることを認めざるをえないからだ。

すなわち、女性も男性と同じく魂をもち、父や男の兄弟と平等に、われわれの存在の根源であるものから生命を吹きこまれていることは明瞭なのである。

 神ないし永遠の霊が男性の呼称を与えられてきたのは残念なことだ。というのも、神的存在は卓越した男性であるとの考えは、女性が劣等であるとの意味を含意し、それが数世紀にわたって女性の性格に有害な影響を与えてきたからである。

彼女らの才能はしばしば萎縮させられ、社会的進出の望みは奪われてきた。女性は絶えず従属的で男性依存的な地位に押しこめられることによって矮小劣等な悪徳を発展させてきた。


 しかしながら、「性」の問題については、帰幽霊達は経験とともに考えを広げていかざるをえなくなる。というのは、誕生と死の法則によって、ある一生で男性だった魂の大部分は次の一生で女性となることを知るからである。

もし肉体的に際立った男性特質を発達させている場合には、次の一生で性格上から女性の身体に生まれざるをえなくなっていると、これまで積み重ねられた男性性が意識面にもちこされることがある。こんなときはいわゆる「おとこおんな」と呼ばれる不幸な型の人間となり、女らしくない性質を示す一方で、男と一緒にいることよりも女とすごす方に喜びを感じるようになる。

 他方、前生で余りにも女性的な一生を送った人は、その印象が深く刻みこまれているので、男性との交わりを求めるようになり、バランスのとれた男性としての正常な生活を営むことを拒絶する結果、他からの批判や軽侮を招くことさえある。

 こうした人々が男性であれ女性であれ、彼らに寛大であれ。私はここで何も不道徳の勧めをする訳ではないが、前世での失敗によって極端に女性ぽかった女は女々しい男となり、余りに男性的であった男は男性的な女になることを覚えておくとよい。

ふたつのタイプとも彼らの本性の基本的性質を表現しない「性」という制約を押し付けられて大変苦悩する。彼らにとって人生はふたつの性の側面のあいだ───女性の肉体をもって自己を表現する男性タイプもしくは男性の肉体で自己を表現する女性タイプ───での永く苛烈な闘いとなることであろう。

絶えざる調整が必要になる。すなわち、辛さがこうじて魂を破壊してしまわないように自分をコントロールしたり、監視したりする自己陶冶の道程が。

 上記のことは、これまで述べてきたように、今生の性格は反対の性に属していた前生で形成されたということであるから、絶対不変の法則であるという訳ではない。普通、次の生にまでもち越すような同じ性の牽引を感ずるのは、男性にしても女性にしても極端な場合である。

そうなったときには、われわれは自分の直面する問題が、今生において突然新しく創造されたものではなく、われわれ自身過去世の来歴をもつことが分かれば完全に納得できるのだと気づかなくてはならない。この過去は一時的に隠されてはいるが、もし科学的な実験が行なわれるなら、霊魂を支配する法則の恐ろしい侵犯がなされたのではなく、進歩がなされるための不可避な道筋であったことが明らかにされることであろう。

 ヴィクトリア時代のいわゆる「オールドミス」は、心霊的にみると、一般には、前世でつくりあげた性格の重荷で心を歪ませてしまった連中なのである。このケチでどん欲で人と物を分かちあうことのできない、不愉快不機嫌な独身者たちは、大抵の場合、霊的にみると前世の抑圧された女性性格をすっかり取りこんで現世に持ちこしてきた者たちなのである。

 理想主義者や、高尚な生活に憧れる人は、われわれ人間に共通の弱さについての感覚、つまりは人類同胞を憐れむ気持ちを心の奥にもっていなければならない。「神の恩寵がなければ、私も同じ道を歩んだ」が彼が人生を旅する際の合ことばでなければならないのだ。

 もし真面目で敬虔な伝統の保持者の多くが唯物論者でなかったならば、魂は女性でも男性でもなく、心に性の区別はないという繰り返し言われた事実を認識していたことであろう。

無論、こうした真理はおそらく帰幽後に初めて充分に理解できることなのである。死後の経験によってようやく私は、パウロの次のことばの意味を理解するようになった。「私達は皆一つの御霊によって、ユダヤ人たるとギリシア人たるとを問わず、奴隷たると自由人たるとを問わずバプテスマを受け、一つの体となった。また皆一つの御霊から飲んで、一つの霊となった(訳註)」。

同様にして、心と魂に関わることにおいては男も女もなく、皆神において一つなのである。

 聖パウロは地上生活ではこのような考え方をしなかった、という人がいるかもしれない。しかし、彼の場合はオリエントの伝統の影響があったことを心得ておかなくてはならない。

主たるキリストは伝えられる言行のいずれにおいても、女性が男性に劣るとは言わなかった。実際、彼の女性に対する態度は生涯を通じて、魂には男も女もなくわれわれは等しく神の子であるとの考え方を示しているように思える。

 人間が、永遠のなかにおける彼の位置──つまり、自分が偉大な宇宙の冒険を前にしていること──をもっとはっきりと知れば、彼はもはや肉体だけが重要だとは信じなくなるであろうし、同じ理由で女性の体の所有者が劣等であると宣告されているとも思わなくなるであろう。

 女であれ男であれ、優越していると主張できるただ一つの資格は高貴な心をもっていること、魂についての高尚な視点があること、神聖なるが故に不朽であるところの叡智をもちあわせることによるのである。

 [訳註]
*新約聖書コリント人への第一の手紙、第十二章。




      
   第七章 休戦記念日  
 
 十一月十一日は「万霊節」と呼ばれてしかるべきであろう〔訳註〕。何百万の人々の想いが、この祭の朝、死者たち──青春の真っ盛りにこの世を去った──に向けられるからである。後に残された者にとっては、彼らは人生の充足や、美や、愛や、経験を奪われた者たちである。

つまり彼らは、人の盛りにこそ味わえるあらゆる歓喜と、老齢とともに味わうべき静謐(せいひつ)をふたつながら奪われたのである。

 一世代が相続権や生得の権利を奪われて、満たされぬままに沈黙のなかに消えていったという想いは人の心にさまよいつづける。しかし、実のところは、大戦で亡くなった若者たちは混乱と労苦の世界を後に、苦悩や幻滅の修練場たるこの世から解放され、地上のことばには言い表わせない、人間の想像を絶した充足や、調和や、美の味わえる本質的に平和そのものの王国へと赴いたのである。

 私は無論、自国に対する犠牲心から命を捧げた、民族の精華ともいうべき素晴らしい若者たちのことを言っているのであって、それとは別の無能者たち、同じときに亡くなりはしたが、粗野で未熟な徒輩について言っているのではない。

これらの者は何年ものあいだ地縛の霊となって同じ戦争のパターンを繰り返す運命である。しかし、一挙に惨たらしく地上からひき離された無垢の若者たちの魂は何も失うものはなく、むしろ限りなく与えられるのである。

 彼らは休戦記念日が再びやって来て、彼らを愛する人の想いが昔の親しさを新たにし、教会が「聖者との交わり」と名づけた行事に参加できることを喜ぶ。

 古代において聖者ということばは光背を背負った伝説上の人物ではなく、また単に神聖清浄な人物を指すのでもなかった。それは大衆のなかにいて出来る限り霊的な光に従って気高く、また人間らしく生きた高潔な人に対して言われたことばである。

 十一月十一日、「生者の偉大な日」に人間の魂は家族に会いにでかけ、大戦で亡くなった夫や、兄弟や、息子との愛の絆を新たに結び直す。

私はその日を「生者の日」と呼ぶ。その理由は、この日はわが英国がいわゆる死者の思い出のために、教会とは別に、特に祝う日と決めた唯一の祝日であり、またこの日、人間の想いは集まり集合をなして、死を超えた世界の高みと深みに届くが、その想いが届くと霊界の永遠の生者たちは、

自分たちが地上に残してきたものにとっては一瞬たりとも死んではいなかったことを喜びあう、そういう日だからでもある。

 忘却と愛の消滅にこそ生の否定があるのである。人々が一年に一日、死者の記憶を蘇らせる限り、その日は、死者にとっての掛け替えのない日でありつづけよう。その日われわれは愛の更新に蘇り、愛は死よりも強しとの誓いのことばを新たに生きる。

 十一月十一日の生者の祭日はあらゆる町やあらゆる土地で毎年祝われるべきだ。何故ならそれは物事を深刻に考えない大衆に自分が地上に出掛けてきた旅人であり、闇から光の部屋へ移りゆく身であり、またすぐにも未知の世界に帰らねばならぬ定めであることを思い出させるからである。

 一年に二分間街ゆく人がこの事実と向かいあうことができれば、それで充分である。一年に二分間ヨーロッパや英語国の何百万という人々がいわゆる死者たちのことを想うなら、そのとき、死者のまわりに愛情の防壁ができて、その内で身内の者との心の結びがなされ、愛の不滅がまざまざまと感ぜられる。

 最後になったが、この沈黙の二分間は平和への誓いであり、また、若い人たちにとっては大戦の下劣で野蛮な恐怖を思い出すよすがとなるべきである。時が過ぎ、あなた方の無常な世界に速やかな世の移り変わりが訪れようとも、十一月十一日の祝賀こそは残さなければならぬ。

何故なら、それによってこそいつの世になってもこの英雄的な死者に対する信義が守られるというものだから。

 しかしこの死者への信義が真に役立てられるなら、この黙禱を見守った人はすべて、それが終わったとき、来年こそは力の限りを尽くして世界の平和のために働くとの心からなる宣言をすべきなのである。

もし誓いのことばに平和の思想が伴い、その日からそれを宣言した人についてまわるなら、あなた方の時代において二度と世界大戦が繰り返されないことが幾分確実になろう。

 人々は悲観的になってきている。大戦記念日の二分間の黙禱では何の役にもたたないとさえ感じている。私の言ったことばは想像力に燈火を点し、この祝日が、戦争から受け取った遺産として人間は不滅であるとの信念を表明し、また、なかんずく断固として地上の平和を維持すべきことを表現するにうってつけの日であることを示すのが目的である。


      
〔訳註〕
      *通常の万霊節は十一月二日。




      
       第八章 一九三四年十一月十一日 

 
祝賀の式典は終わり、連盟軍に命を捧げて亡くなった死者たちは二分間の黙禱に参加した。しかしドイツ人やドイツの将兵たちはどうだったであろうか?  彼らは私が「遍(あまね)く」といったこの日の二分間の黙禱に参加したであろうか?

 いや、十一月十一日はチュ-トン人にとっては恥の日であり、希望の消滅を意味し、いやましに高まる野心が遂げられず挫かれたことを意味するものに過ぎないのであるから、黙禱など不可能であったろう。それはドイツ帝国やオーストリア帝国の崩壊を告げ、その日からはドイツ人が貪窮のうちに苦いパンを食べなければならない苦難の日が始まったことを意味するのだ。

 貪窮に悩むものはなにもドイツ人だけではない。しかし、十一月の十一日を「生者の祝日」として祝っても、ドイツ人やオーストリア人はこれを祝わず、本来人種や信条や肌の色を問わずに行なわれる世界的な交流でなければならない祝典に参加できないというのでは、祭典の意義がバラバラになってしまう。
 
ドイツ人が十一月二十一日を祝日とし、彼らの軍事行動すなわち大戦における戦勝を祝うことを私は承知している。

 私は休戦記念日が十一月──この月は昔から人間の想いが死者に対して向けられる特別の期間である──の他の日に祝われるよう提案されてもよいときがきたと言っているわけではない。

ただ、わが民族以外の何百万という人々にとっては、この日が恐怖と恥と苦痛の日以外の何ものでもないことを、思慮ある人々は心に留めておいていただきたいのである。

 しかしながら、十一月十一日の二分間の黙禱の後に宣言された平和の誓いの主旨が一層推進されるようあらゆる努力が払われるなら、それに越したことはない。

「私は来年、全力をあげて平和の維持のために尽くすことを誓う」とのことばはいかなる特別委員会の関与事項でもない。全人類は兄弟であり、どの国家も民族も神の下では一つであるからである。

 もしこの誓いが来る年も来る年も二分間の黙禱の後、世界中の何百万という人によって声高く叫ばれるならば、そのうち、これらの人々の心には、未だ祝賀にも参加せず十一月の「生者の祝日」の誓いにも加わらず、われわれを兄弟とは見なさない何百万の人々も、われわれの兄弟だという感情が目覚めてくるであろう。

 そしてわれわれは遂に、全ヨーロッパの指導者が休戦記念日を辛い記憶を伴わず、傷ついた誇りや失意の思い出のない日にしようという提案を考慮する日を迎えるかもしれない。

しかしそれはいずれにしても、十一月の月に行なわれるべきであろう。というのは、この月は年の終わりにあたり、誤って死者と呼ばれているが、その実は永遠につづく魂の旅路を辿りつつある帰幽者たちを思いだすのによいときだからである。




 


            第二部 人間個性を超えた世界
       

  
第九章 存在各界の図  〔原註〕

次に掲げるのは魂の旅の指標、というよりもむしろ旅程表である。
 

 (1)物質界(人間個性の始まりと発展)
 (2)冥府ないしは中間界
 (3)幻想界(蓮の華の天国)
 (4)色彩界(形相界)
 (5)火焔界(宇宙人格の始まりと発展)
 (6)光明界
 (7)彼岸または無窮

各界における新しい経験の出発点には、冥府、または中間界と呼ばれる境界があり、そこで魂は過去の経験を顧み、それによって意識の階段を上昇するか下降するかを選び、決断をする。

類魂 心霊的意識の 集団ないし魂の共同体。類魂のなかで霊的同類の者が出会う。それは一にして多である。統括者としての本霊は統一をもたらす。またそれは総合の原理である。
第一仮装体〔訳註1〕 (肉体)
第二仮装体 (意識の第三、第四レヴェルで帰幽者のもつ体)
第三仮装体 (星人体〔訳註2〕、太陽意識の象徴)


 〔原註〕
*第二部の冒頭に置いたこの存在各界層の図は、前著『不滅への道』において示されたものである。通信者とされる霊の要求によってここに付記されることになったのは、『不滅への道』を読んでいない人にとってはどうしても必要なものだからである。───E・B・ギブズ

 〔訳註〕
㈠ 仮装体(Disguise)。
㈡ 星人体(The stellar body)。




 
第十章 人間個性を超えて

 
以下の論述は、魂が死後の世界において第三の意識界を超えて先に進むとき、すなわちサイキック・ユニット〔訳註1〕の孤立から次第に脱して、類魂のなかで他の魂たちと一体となり、進化の飛躍をなし、真に人間個性を超えた世界へと旅立つための準備として必要なことである。

 「各身体はそれ自身ではない他の何かによって動かされている。その本性上からいって、身体は自己運動をしない。魂からの交信によってのみそれは内から動かされ、魂であるからこそそれは生命をもつ」この原理は、感覚器官には映じないが、血液や、肉や、血からなる身体を動かしている。精神がなければ身体は動かない。故に精神は身体を超えたものである。

 急死の現象を見たことがあれば、あなた方は直感的に私の言ったことを理解できよう。心臓病の人が今まで遊び、笑い、お喋りし、文字通り生を十二分に生きていたかと思うと、突然死んでしまう。二、三分もしないあいだに、持ち前の陽気さも、動きも、生命さえも止まってしまうのだ。
 
地上には無力になった遺骸が自己を表現する能力を失い、考えを言い、手足を動かし、笑い、抗議し、その肉体には生命がありその肉体が本人であると主張する力も失って横たわっているのである。

しかし見よ! 本人はもうそこにはいず、旅立ったように見える。つまり人間を成り立たせているものの全て、あの愛すべき人間個性は飛び立ってしまったのである。しかしそこにはまだ、生命のない身体、崩壊しつつやがて片づけられ、大地に埋められなければならない肉体が残っている。

 急死を目撃した人は、そこにある魂の脱けた機械の存在を信じ難く思うであろうし、人間は肉体のみからなるとか、ここに横たわっているのは脆(もろ)くも壊れた機械にすぎないとかも俄(にわか)には信じ難かろう。

      *                     *                             *

 私はこれまでに魂とは「表面的気づき」つまりは、生命の階梯の各段階における総和であると述べてきた。

 唯物論者でない人は正しく、人間の実体は肉体と魂と霊からなると信じている。しかし死後に発達を遂げた魂──私のいう魂の巡礼者──はそれ以降も順次第四界、第五界への上昇を目差すものだということは殆ど知らない。後になって、彼を包み込む網目を破って類魂に溶け込んでゆくとき、彼は個体として存在しつづけはするが、人間個性を超えて、最終的には第六界へと進化するのである。

 魂は第三界でエーテル体のなかに居る限りは、多かれ少なかれ、個性をもちつづける。
 しかし第四界の形相界に進み純粋形相の世界に自覚的に生きるようになると、彼は次第に目に見えるような形や個性的表現をとらなくなる。この第四界は地上の美の原型ともいうべき純粋美の傑作である。それに比べれば地上の美など問題にならないくらいのもので、丁度未熟な素人の描いたモナリザの模写みたいなものであろう。

 サイキック・ユニットは類魂の一員で、意識の各レヴェルにおいては個性と一致する。初段階では人間個性と一致し、後には宇宙個性と一致するという訳である。

幻想界で生きるあいだは個としての存在は大自我に属していない。彼はまだ物質に顕現する自我の単なる一部分である。大自我は類魂内で結びつき独特の類型をつくっている魂たちの歴史同様、自魂の前生の歴史についても知っている。それは直接に類魂の本霊を呼び出し、人と叡智の泉を結ぶ水路となるのである。

 形相界において魂は次第にこの大自我に近づく。そして第四界を離れて第五界にゆくまでには大自我そのものになっている。

 人間の意識は睡眠中死者と交流するとき、ある意識から他の意識に移行するのであるが、これは私が類魂と呼んでいる宇宙意識の区域で行なわれる。ひとつの類魂のメンバーは互いに愛憎で感情的に牽きあっている。愛は牽引の宇宙的原理といってよかろう。たとえ相手の人が高級霊界にいようと、また死が一時的に沈黙の壁を築き、ある人々が誤って二度と会えぬとの恐怖の想いに駆られようと、愛は愛する人をあなたの元へ引き寄せるのである。
 
 多くの場合、偉人、予言者、大芸術家などは既に、人間との個別な連絡がある段階のものとしては、完全か完全に近い類魂のなかに入っているである。従ってこの類魂ないし霊魂団を成す大部分の魂は第五界ないし第六界を目差して進み、遂には人間個性を超越するのである。

 そこで、この二流の惑星は、その住民にとってこそ途方もなく大きく、すべてを包含するようにみえるが、この卓越した人々の感覚をもってみると、過去の旅の一地点にすぎず、興味も愛憎も持ち得ない場所なのである。彼らは実際この世に復活した人々なのである。

彼らは今や、ますます神域つまり高次の霊的生命界に近づきつつある世界に属している。

 偉大な人々はしばしば全く無名の生涯をおくる。ほんの一握りの親しい人に知られるだけで世間からは殆ど見過ごされ、彼らの周囲の人が死んでしまうと、その記憶は何処にも残らない。人間の英雄性を例証するとも言える無私で高貴な努力を証言できる者は誰もいない。

このような霊感に満ちた魂は工場労働者や店員や農夫の身体に宿るかもしれないのである。格別目立つこともなかったが───広い意味でだが───立派に生きた生涯は、恐らく、類魂に直接啓発された愛と偉大さを最大限に表わすものである。そこで、目に見えぬ世界では最初のものが後になり、後のものが先になるというわけである。

 かくして、地上における最後の旅で人知れずひっそりと通り過ぎてゆくのが、私が「魂的な人」と呼ぶうちのある人たちの運命なのである。無名で控え目で意のままにならない生活をおくりながら、彼らはより大きな個性へと飛躍するときのために準備するのである。

 永遠の旅路の途中には、魂の巡礼者たちが、休息したり過去の棚卸しをした後で、私が「宇宙の海」と呼ぶ未知の海に未経験な泳ぎ手として飛び込んでゆく時点があるが、そこまで辿る道筋は無限であり多様である。

     *                       *                           *

 第五界での大事業は、心霊族〔サイキックトライブ 訳註2〕のなかでの自己の発展であろう。心霊族ということばで私は類魂の延長を指し示したい。そこには、高次の存在レヴェルでわれわれと結び、関わりをもち、融合調和しようとする他の系統の存在者をすべて含むものである。

そこでは実際、古い人間の限界はなく、われわれは宇宙的に考え、宇宙的に存在しはじめる。われわれは進化の新しい章を開き、自分たちが広大な宇宙とは異質のものではなく、また、たまたま物質界に生きかつ肉体の内部にも存在するという珍しい経験をもった変わり種なのではないということを学び始める。

「一個」であることの恐怖、沈黙の敵意をもっているかに見える宇宙への恐れが、肉体生活や第三界の生活をおくるあいだは潜在意識のなかに存在する。しかし第五界では恐怖がなくなり、われわれにとっては兄弟以上の仲間というべき心霊族を意識するようになる。

われわれは宇宙を朋友とみなし、われわれを宇宙に親しく見事に結びつけている多くの索 the strandsを発見する。われわれは惑星、太陽、月、その他すべての巨大な星間機構に対するわれわれの関係を感じとり、認識する。

 これらすべての微妙な索(ストランド)とは、永遠の時を遡る記憶──不幸な闘争、痛々しい古傷の痕、変幻極まりなき光輝を放つ歓喜の思い出、輝かしい記憶のなかの恍惚──のことである。こうして蓄積された経験はすべて心霊族に所属する。このようにして集められた経験は、このグループにとり霊的な意味で掛け替えのないものである。

というのは、それが地上の記憶や形相界の記憶ばかりでなく、様々な恒星内の惑星に転生し、回転する星のなかに焔の存在として生きた同族のものたちの献ずる体験の全体を含んでいるからである。

魂たちが知識を蓄え、それを神のように見事に分かちあい、自己の内に宇宙を引き込むことによって、不一致や孤独や恐怖や孤立を取り除くとき、彼らが揃って提供するものの何と多様なことであることか。彼らは宇宙と自己とのあいだにある完全な血縁関係を発見し、しかるのちに最後の冒険に乗りだしてゆく。

すなわち、自己の外に広がる宇宙を発見し、神と自己との調和を発見し、創造的な宇宙想像力の神秘に参入するのである。


    
  火星の神秘

 ある天文学者たちは、自分たちが遂には宇宙空間を征服し、火星の神秘を解くときがあるだろうと信じている。ダイモスとフォボスの二個の衛星を従えたこの惑星は、広大な砂漠と際立った地形をもっており、その結果その住人たちは、人間たち───望遠鏡で火星の地理をどうやら実際に近く描きはしたが───に知られたのとはいささか違った種類の生命を与えられている。

ある学者に言わせると、地上の時計で時を計ると、現在の火星には肉体をもった存在はいないということである。しかしながら、数百年前には、そこは知性ある個性的な生命の住処であった。遥か遠い昔には火星人の外観や振動数は人間に近かったのである。

そして当時天文学が現在ほど高く発達した状態であったなら、火星人は地球の兄弟たちに挨拶をおくることができたであろう。何故なら彼らは芸術や生活の優雅さでこそ大分人間に劣っていたが、数字や科学においては現在の人間よりよほど進んでおり、比較にならぬほど優れていたからである。

 火星は古来より軍神の星として知られる惑星であるが、そこの住民たちは出生過多に伴う諸悪を克服して、好戦気質を抑え込むことに成功した。火星の人口は少なく、深刻な食糧危機があったために産児の数を厳重に制限し、量よりは質を求め、宇宙に望ましい人間の模範を示した。

戦争よりも自然の災害による死亡の方が、火星人類の生活を脅かす影であった。生活手段を見つけるための闘争が間断なくつづいていた。厳しい自然に対する恐怖が余りにも強かったために、人々は破壊的な戦争を考える余裕などなく、それよりもむしろこの問題にかかりきりであった。  

 以上、私は火星にかつて姿を現わした知的な生命の過去について述べた。というのも私は自然の計画図を眺めることを許され、永遠の現在の各部分、つまり潜在的未来や過去の部分を垣間見せられたからである。

しかしながら、現時点で地上区域圏と呼んでもよい星、つまりこの火星に匹敵し、私がこれまで述べた状態をそっくり真似たような遊星〔訳註3〕が現在宇宙空間を回っているのである。

 話を先に進めるために、「生命」とか「再生」とかいうことばの意味を検討し、かつその意味を拡張する必要があろう。

これらの語は、人間には「肉体」として知られる身体をもった知的で個的な存在を意味すると仮定しよう。しかしそのことは人間の五感が他の星の生命個体の外観や性状を識知できるということにはならないのである。説明の便として火星人の歴史を例にとり、それが現在どうなっているかを述べるとしよう。

夜間彼らは零下何度という温度に耐えねばならぬ。氷結は信じ難い厳しさで大地を覆い、鋼鉄よりも強く大地を締めつける。昼の日照時は疑いもなく暖かいのだが、夜との温度差がひどいのである。

第二に空気の密度が地球の高い山の頂(いただき)ほどしかない。従って当然、火星人の身体の造りは地球の人間とは違っており、また、地球人もこの星に住むことはできない。

 そこで身体の組み立てがもっと緻密にできている。すなわち、火星人の体の振動は地球上のいかなる生物よりも強く精妙なのである。仮に火星上の目に見えるどんな小さな生物でも観測できるという望遠鏡が発明されたとしても、天文学者は、自分に似た生物を見つけることはできないであろう。

彼は自分の見た世界には知的な生命は全くいなかったと信ずるであろう。しかし彼のこの確信は誤っている。彼の視力や、望遠鏡の倍率がいかに優れていても、地球上に住む人間と同じものは見つけることはできない。

しかし、もしある科学者が電波の原理をもっと工夫した機械を思いついて発明できたとしたら、彼は地球から離れたこの星の上に、神秘的で知的な個体が存在することを示す信号を捕らえることができよう。



  
  金星       
 ローマ人にとっては庭園の女神であるヴィーナス、またギリシャ人にとっては愛の神であるアフロディーテは、古代の詩人の想像力を掻き立てたものであった。彼らは金星を明けの明星、宵の明星と名づけた。彼らは彼女を詩に書き表わしたが、それはただ空想や韻律や、物語の世界でイメージを創り上げただけで、想像力以外では、いかなる手段においても彼女の姿を現実に見出すことはできなかった。

 三十五年ほど以前に私が死後の世界に足を踏み入れて以来、私はときたま惑星のことを調べていた。私はまだ第五界に進んでいないので、私の心霊族の記憶庫に積まれた星の生活の記憶のなかに意識的に入っていくことはできない。

しかし私は私よりももっと先に進んだ仲間の者から、かつて金星に転生したことがあるとか、これから転生するとかいう話、そしてその生活は大分人間生活とは違っていることを教えられた。金星の人々は水の子供とか霧の子供とか呼ばれて然るべきであろう。

その身体の構造は人間と似通っているが、振動の強さが違い、質的にも惑星中で最も密度の濃い星〔訳註4〕に生きている住人(野蛮人であると文明人であるとに関わらず)とは違った存在系統に属するのである。

冒険的な人達は、金星には果たして人が住むかどうかを知る目的で、もっと精妙な機械を使って空間を飛び、金星を探査しようとするかもしれない。しかしその企ては無駄におわるであろう。

何故なら彼らの機械は未来永劫、この見知らぬ世界を歩きまわっている軽妙で触知し難い個体の外郭を感知することができないからである。

 この二十世紀には、地球以外には太陽系のどの惑星や小惑星にも人間───唯物論者が理解している意味での───は存在しない。だから人類はこの太陽系で生き、動き、呼吸しているのは自分だけだといって、ちっぽけな地球を胸を張って闊歩してもよいのである。

しかし太陽系には神々しい身体に知性と生命を宿したものがいないというのなら大きな間違いなのである。

 人間は自己の計測器に反応するか、直接に五感にぶつかってくる物質しか知らないのである。無知で歴史の浅い人間にどうして人間に知られている原理と同じ原理に支配されている他系統の物質──太陽系のうちでは一番濃密な身体を纏っているので見ることはできないが──がないなどと言えるのであろうか?

 人間が孤独で、他に仲間の人類がいない、つまり、晴れた夜の暗く恐ろしい闇の底に輝いて見えるあの驚異の星々には、目に見、耳に聞くことのできる知的な生物はいないと考えるのは淋しいという人もいよう。しかし、われわれの小宇宙のなかにさえ少なくとも一億個の恒星系があって、

それがまばらに大空に散らばっていることや、地球に似た惑星があってそこにはわれわれと性質の似た人間が振動しているということを知れば、安堵することであろう。人間の五感でも彼らの外観を感知できるし、地球上の肥沃な地域同様の豊穣な植物の繁茂を見ることができるのである。

 神を持たず、人類の究極的な絶滅しか頭にない人間の傲慢な叫び声が想念の翼に乗ってわれわれのところまでやってくる。「あまたある天の星のなかにも人間ほど鋭敏で賢い生物はいない」という考えは、

その人間の想像力の限界を自ら宣言し、自分自身を、推理の暗く幻想的な霊のうちに閉じ込めるようなものである。しかしわれわれは永遠に宇宙を外側から眺めているわけではないのだ。われわれは肉体を持つ持たぬに関わりなく、人間の永遠の謎として働く偉大な力を、いつまでも外から見ているのでは収まらないであろう。

 愛と力と叡智のこの三つは神聖ハイアラキ―〔訳註5〕から放射される推進力であり、宇宙霊流であり、それらは神の使いとして地球星を導いている。

 このハイアラキーは多くの類魂団からなり、意識の第五界から生命を支配し組織し計画の細部に至るまで責任をもつ。原子や電子のひとつひとつに至るまで偉大なこの原動力の仕組みのうちに位置を占めているのである。秩序、方法、調和などがこの物質界の構造を支配している。

というのもすべてのものの背後には、それが存在し、人間の目には快かろうと悪かろうと、本霊の導きは各界で組織され、うまずたゆまず働いているのである。

そして人間は選択力をもっているが(類魂的個性の限界内では自分が自分の運命の主人である)大地や海やまたその運動の強力な枠組みは、火焔界まで行った類魂たちによってすべて支配され、極微の点まで計算し尽くされている。

しかしそれでもまだその知識はわれわれの宇宙の外にある宇宙の広大深奥な知識にまでは達しない。われわれがこの宇宙的想像智の輝かしい顕現のなかに踏み入ってゆくためには光明界の想像生活に参加した経験が必要なのである。

 神の指導の下に地球をコントロールする魂の指導者群が大数学者であると言ったのは、やや性急に過ぎたかもしれない。彼らはむしろ芸術家であるといった方がよいかもしれない。

その仕事は均衝と調和に満ちているが、人間の数学者に要求されるような厳密な正確さを表現してはいない。既に述べたようにこの計画は最後まで計算されている。

しかしそれが表現されるときには多様性を含んでいるのである。例えば電子であるが、それは正確な機械とも一致する仕方で活動しながら独立性をもっている。

なんとなれば、不可視の宇宙を想像し維持するのは数学者というよりも芸術家の想像力であり、被造物そのものが次第に創造的になってゆくからである。ここに生命と運命の秘密の一つがあるのである。




   
  蓮華の園(幻想界)

 永遠を通しての魂の旅路のあいだに、われわれは三つの仮装体をとる。その間われわれは肉体であったり、帰幽体であったり、火焔体であったりのときを過ごすが、そのいずれの場合においても、その界のものかそれ以上のもの以外には認知できない形態ないし身体をもつのである。

これらの基本構造は更に細かく区分される。それらとは別の光明体がある。しかしこの「光明体」は仮装体と名づけることはできない。というのはそれが人間の理解を超えた個別的宇宙的想像力や完全なる真理、完璧な美を表わしているからである。

 しかしながら、私は最後の神秘については今は書かずに、もっと下位の段階について述べることとしよう。魂の住まう宮〔訳註6〕の性質はこれらの下位の三段階においては根本的な差異がある。原則として肉体をもつ人間は想念によっても長い瞑想によっても身体を変えることはできない。

勿論例外はある。東洋の聖者たちや稀には西洋人のある者が年ふりて、秘密の知識を獲得し、大自我霊〔訳註7〕を呼び出したり、大根元霊〔ルート・スピリット〕を招霊してその力で形を変える秘密の知識を獲得した場合は別である。

どの時代のどこの国といわず、純朴な人が信仰の極致において想像的叡智の神聖な御使いを招霊する場合も別である。こうした際には人は奇跡的に病気を治したり足萎えを立たせたりめしい者の目を開けたりもする。私が人は思念によってはその身体の形を変えることはできないというときは、

こうした霊能をもたない普通の人の場合をいっているのである。もっとも帰幽者にとって、精神とその力は人間の夢想だにしえないほどの意味をもっているのだが。

東洋で「蓮華の園」と美しくいわれる「幻想界」においてさえ精神的努力によってある程度はエーテル体を変えることができる。実際、肉体は固定した恒星に、帰幽者の霊は変化する惑星になぞらえることができよう。

形相世界を旅する知恵ある魂は純粋な想像過程によって創造することを学んだ多くの変化体を大いに楽しむ。そんなときある魂の創った身体は、画筆をもたせると滅法下手な画学生みたいに、自分の目にはハンサムだが、もっと高尚な趣味をもった霊的価値や苦行の価値の分かる人からみると、醜く、下品で、粗雑に見えることがある。

 しかし幻想界の高いところに至って初めて巡礼は精神のあらゆる可能性を発見し、あるやり方によって思念し、自分の性格特性をかえることによって、色彩、容貌、外形などを全くその見かけが変わってしまうほど変化させる法を修得する。

 蓮華の園の低級ゾーンでは自分の過去の記憶の殻のなかに留(とど)まる。一つの点すなわち自己の外観を除いては自分に満足しきってしまい、大自我を呼び出して意のままに自己の外郭を変えることさえできる精神力を賦与されているのに、それを用いて性格を変えようとはしないのである。

そしていわば時計を逆転させて、地上生活の成熟期にさしかかった、二十代半ばの盛りの頃を思い描き、若い姿をとろうとする。
 
 今や、未熟な想像力がはっきりと彼の性格特性を強調したお蔭で、彼は地上において過ごした若者としての像とさして変わらない姿となっている。彼は地上経験によってもたらされた記憶に完全に支配されており、自分の個性が造った鋳型から逃れることができない。

その結果、
彼は自己の計画に独創性や、豊かさや、多様性を与える美を思念するに必要な心の創造的努力を発揮することができない。それ故彼は依然として彼のすごしてきた特殊な地上生活の産物でありつづける。

 疲れ切った旅人が共通にもつ望みは、満ち足りた平穏の時である。たとえ一刻であってもなんの努力もいらない想像だけの生活を、もし許されるならば親友や親戚の者と一緒におくりたいということである。

それ故彼らは、古の神学者たちが考えたごとき「祝福された者の住処(すみか)」に見られる条件の下で生活する。しかしこの天国は喜びはあっても進歩をもたらさない。彼らは第三界に到達したとき、旅は終わり有徳者の到達すべきゴールへ着いたと思う。

東洋の宗派の僧侶はこのゴールとそれに伴う状態を「蓮の華の天国」と巧みに表現している。エジプト人の水百合に当たるこの花の名は静かな努力のない充足の、物憂い夢の一場面を想わせる。そこに在る物は姿を変ぜず、ただ生命の蓮の華がさざ波に打たれ、美しく水面に安らっている場面である。その情景は浅はかな思想家には永遠の進歩を表わしているように見えよう。


 だがこの考えは間違っている。魂は物質界への受肉を果たしはしたが、同様な性質の経験をもう一度しなければならないかもしれず、またそれとも遂にこの幻想界の生活に満足できなくなって、形相界のような高尚な生活に憧れるかもしれないのである。

「蓮の華の天国」という語は、努力いらずで無制限につづく悦楽状態や、意欲をもって将来を考えることもなく、欲望だけが単調に満たされる生活を表わしているが、こうした短い言葉で「永遠」の問題が片付けられてしまうわけではないのはご承知のことと思う。

地上生活からこちらへ移ってくると、われわれのもつ個性には限界がありすぎて、暫くすると破棄せねばならなくなる。そのときには霊的進歩に対する欲求が目覚めて、良いも悪いもなくただ一層先へ進むことを渇望する。

しかし人間個性の限界内に留まる限り、努力なし、紛争なしで、苦悩も感情的ストレスもなしで真の進歩が達せられるわけのものではないのである。


 しかし肉体と帰幽体という二つの仮装体の相違は、魂を取り巻く物や外観といった外的条件に及ぼす想念の影響の違いであるといえよう。第三の仮装体である火焔体は、旅する魂が第五界の下層に達したときに通常とる身体である。
    


 

     
 惑星に人は住むのか    
 

 天王星は地球の六十四倍の大きさがあると天文学者は言っている。水星は大気のない死んだ冷たい星だと考えられている。日光が星の光もまばらな闇を貫いて絶え間なく照りつづけるので、この天体に夜の恵みは訪れない。土星は水よりも軽く、全惑星のうちで一番密度が少ない。

天文学者は海王星の周りに未知のガス状の雲が取り巻いているのに気づいており、また、見たところ一番遠い所にある惑星の向こうにもう一つの惑星があるのではないかと感じているが、これは正しい直観である[訳註8]
それから八個の衛星をもった木星は彼らの想像力を驚かせる。この天体は質量と体積が太陽系の他の惑星の質量と体積の総計を超えるからである。

 われわれは既に金星と火星については論じたしその神秘の周辺にも触れた。が、木星の存在を前にしては、ジュピターの雷鳴を聞き夏の空を走る稲妻を見た古代人のような恐れを感ずる。


 無用の感覚に付きまとわれながらなお、この世に無駄なものはなく、宇宙のいかなる断片にも目的があるのだと思いたい有限な人間精神にとっては、木星はその巨大さの故に問題を提供する。それと比較すれば他の小さな惑星はどんな衛星群を従えていようと問題にならないぐらいである。
 
 「何処より,何処へ、そして何故」という三つの問題は、天文学者がたゆまず観察と計算をつづけながらも絶えず付きまとわれる問題である。こうした問の背後には、いつも彼の個人的な疑問が潜んでいるのである。これらの天体はいったい人間的見地からして無人の死せる世界なのだろうか? 個的な精神は宿らず、物質化した生命も働きかけない単なる粒子の集合体なのか? 

 宇宙史のある時期には、太陽系の諸惑星には、肉体をもった人間が棲み、進化を遂げるのだということを私はある確信のもとに答えることができる。

 その知性の性格や、それを表現しようとする方法がどうであるかをはっきりということは難しい。だが、この型の知的生命体は第一の仮装体と関連をもち、地上に生きる期間は自己を強く束縛し制約するもののあることを知っているということだけは心に留めておいてもよい。

英雄的行為、長い労苦、やっと得た喜び、官能的快楽、人間存在と不離の善悪等々は、いつか火星、金星、水星、天王星、海王星、土星、木星、それに天文学者の望遠鏡の彼方にある未知の遊星などにそれらの知性体が出現し進化の道を辿るときには、彼らのもつ肉体にやはり付いてまわるものである。


 合理的な人ならこの広大な世界全体にわたって果てしもなく広がる不毛の荒野を嘆く必要はない。いずれも昔、魂ある存在の住処であったか、あるいはいずれそうなる場所なのである。彼らはそこに生存する短いあいだは想像力の中枢に支配され、想像的性格をもち意識の他の段階に入ってゆくときは第二の仮装体つまり帰幽者の身体をとるのである。

 さて永遠の旅路のある時点で、魂は地球以外の天体に転生することがある。そして冥府で魂たちは皆、過去か未来のある時に彼らが類魂を通して宇宙を運行する一、二の星の住民たちと交渉があった、ないしはこれからあるということに気づく。

むろん私はこれが絶対法則ではないと再度強調しておきたい。人間に属する大部分の魂は地球以外の惑星に転生したことはない。しかしそうした魂は、自分の心霊族のメンバーが第一の仮装体をまとって他の天体で過ごすあいだに集めた知識と叡智を類魂の記憶のなかに見出すのである。


 二つ以上の星での生活を経験しないうちは形相界へ上っていかない魂(ないしサイキック・ユニット)がいることは事実である。また純粋形相の世界と関わる創造的喜びを充分に知った魂は、もう一度惑星地上圏の生活をしなければならないと恐れる必要はない、というのも確かである。

しかし魂が好奇心や、肉体をまとって地上へ帰りたいという半ば自覚的な憧れに衝き動かされたときには、それが許されることがある。しかし原則としては、霊性と視野拡大の自覚が魂を高次の世界へと導いてゆく。

その意識のレヴェルでは、知覚、直観、想像力等がそれらのうちに星間空間の知識や第三仮装体についての知識、すなわちその仮装体の輝く外衣のこと、その外衣の炎は日が沈むと天を明るくするほど燃えることなどの知識を集めて力強くゆっくりと、そして確実に進んでゆくのである。


 それ故、形相の世界から上の生活ないし状態を、そこからはもう旅人が制約ある人間個性をとりに帰ってはこない領域とみなしてもらいたい。この意識レヴェルは、不滅への入口であり宇宙個性の出発点だと考えてもらいたい。

この高次な努力の精神を分かちあう者は誰でも、この境界線を越えた「無限」の縁(へり)のところに休息し、後ろを振り返って第一仮装体の粗野な限界や、第二、第三の仮装体のもつ完成度を見る。その完成された形態はギリシャの彫刻家たちが夢に見、偉大な詩人や魔術師や画家や預言者たちが霊感を吹き込まれた「美」を具現している。


 ここにたたずむ魂は孤独と、寂寥と、尻込みを感ずるであろうが、しかし彼は「無限」に直面しなければならない。本霊がそれを強い、類魂が彼を引っ張る。これから先の王国のどこかには宇宙の秘密を解く鍵と存在の神秘の解決が彼を待ち構えていることに気づくと、彼はもはやためらわずに進む。

そこで彼は無数の星、遠い星雲、広大な空間についての「何処から、何処へ、何故?」に対する答えも見つけるであろう。こうした謎を前にするとき、人間の想像力はめまいを覚え、魂は恐怖心で後ずさりする。


 彼は今や、自分は内側から宇宙を観るであろう、知識の門は広く開けられ、知覚と霊視には限界がないであろうという想いに恍惚として先に歩む。しかしそうなっても彼はまだ、賢者と共に自己と環境の支配権を握り、宇宙個性の王冠を戴くまでには、どれほどの闘争と努力が必要であり、また、どれほどの苦痛を忍ばなければならないかに気づいていないかもしれないのである。


  [訳註]
(1)サイキック・ユニット(Psychic unit)。類魂のなかにおける魂の一単位体。男女一対で一体になることがある。他では心霊単子と訳した。『不滅への道』参照。
(2)心霊族(Psychic tribe)。第四界における類魂の概念が更に広がり、「心霊族」の概念は他星界にまで及ぶ。
(3)(4)地球のことであろう。
(5)神聖ハイアラキー(Divine Hierachy)。神智学に同じような概念がある。チベットの山中や、地底王国シャンバラにいて地球全体の経綸にあたっていると言われている。
(6)肉体のこと。
(7)大自我霊(the Lager self)類魂中の第五界級の神霊であろう。
(8)冥王星のことであろう。冥王星はアメリカの天文学者C・W・トンボ―によって一九三〇年に発見された。この霊信のあったのは、冥王星発見以前の推測期のことであろう。


  
 第十一章 太陽人
  [訳註1]

 私は第四界の形相界、すなわち「理想化された形態」の世界まで旅をしてきた。だが第五界までは主観的状態で行ったことがあるだけである。そこで私の知識は、人間個性が徐々に捨て去られていくこの世界の条件に限局されざるをえない。

 巡礼が再びハデスの経験をけみした後、彼は類魂内に惑星経験によって集められた記憶の生活に導かれる。

彼はまたそこで自分の人間個性としてのあらゆる段階を自覚し、彼と一緒に歩む他の魂についても同様に知る。彼は自己の類魂の直観、性向、基本的性格などを精妙な感覚で取り入れた。

しかし彼はなお、私が「心霊族」と呼んでいる類魂を延長した霊魂集団に通暁しなければならない。その第一歩は恒星での個的経験をすることである。そこで彼は第三の仮装体をとり、太陽意識のシンボルである焔の体を身につける。かくして銀河系内における恒星に転生することを選ぶのである。



          
 恒星での生活


 恒星の原子は地上のそれとは違い、目にも留まらぬ速さで消滅する。しかし魂が第五界で第三の仮装体をとるときは、地上と異なった時間やリズムに生き、一種の流動状態で存在するようになるのだ。

 彼が住処(すみか)として選んだ星の原子構造は地上の物理学者を驚かすような奇態な性質をもっている。その原子は二種に分けられる。一つは「放射原子」と私が名づけるもので、第二のものとは見かけ上の寿命が違っている。それが速やかに消滅するのに対し、地上の原子は年月の侵食とともにゆっくりと変化する。

しかしながら物理学者は星の中心に、水に似たものを発見するであろう。この中心の安定層──というのは、外郭の放射部分と比べると、流動的ながら安定しているとみえるから──は私が「放射」といったものより重い原子でできている。しかしこれを詳しく論ずるのは私の任ではない。

もしこの状態を人間の目が捉えることができるなら、この星の核の部分は煮えたぎる広大な海、それも想像を絶したほどに荒れ狂う海と見えるであろう。

 しかしわれわれは今、旅人の個人的生活を問題にしているのである。彼は火焔の身体をとる。それはむろん人間の身体に似てはいない。形相界で彼は、自分の外観を自在に変化させる仕方を学んだ。それは人の心に想像しうる限りの形態の理想化であり身体美の極致だ。

そこで今や彼は恒星生活において想像力や知的能力を人間の想像を超える程度まで発達させた。信じ難い速さで彼の外観は変化し、意匠から意匠への驚異の変身は絶えずリズミカルに流れてゆく。迅速な閃光のなかで彼は振動し、途方もなく輝く世界のうちで打ち震えながら身体を変化させる。太陽嵐に感覚を極限まで吹きさらされ、ますます敏感になった彼は恒星生活の最上界に到達したといえよう。

 魂は恒星に住むあいだは、このように変容した姿をとる。そして知識も経験もこの恒星生活に限定される。むろん、恒星への転生中は、本自我の方は恒星意識以外のところになければならず、彼の過去の経験の詳細は、この火の領域における活発な生活の期間は本人に知らされていない。

 通常の人間が火に対してもつ恐れはこの際心から消し去って、その代わりにもっと崇高精妙なもののイメージをもってもらいたい。火をあなた方の意識よりもっと洗練され敏感に調整された意識の外的表出であると考えてもらいたいのだ。

暫く銀河を埋める無数の星に想いを馳せ、然る後に銀河系の外にある数知れぬ赤や白や青の星について考え、これらの星が知的存在の顕現する中心区域だと考えるのは空想的かどうかを自問自答してもらいたいのである。

 人間からみれば、これらの恒星の数は無限で、その広がりも広大なものがある。実際、高次の発達段階に達したすべての知性は幾百万とない光球のひとつの上で転生の経験を積む。その恒星は整然と空間を進行し、その運動は規則的で、その位置は最後の一インチまで計算されつくしている。

 神の想像力は物質宇宙を創造し、惑星同様恒星にも、いやそれのみならず、ケフェウス星や爆発星や銀河系星雲の星屑のひとつさえ無数の生命を創り出し存在せしめたのである。惑星上に住む人間や人間類似の魂にとって、個的な精神が、肉体を構成するのとは違った物質に顕現することなど信じ難いことであろう。

しかし実際には惑星上より遥かに多くの魂が恒星に住んでいるのである。そしてもし誰かが第六界から宇宙を眺めることができたなら、いわゆる人間型の生命は比較的稀で、宇宙時空の領域内では太陽型の生命の方が一般的なのに気づくことであろう。しかし恒星上での時空の概念は地球上のそれと大変違っていることを考慮しなければならない。

有限の心では恒星上の生命の振動のスピード、移動の驚異的速度や形態の変化の意味を理解したり、またほんの少しでも評価することはできないであろう。その形態変化はとても速いので人間の目には見えず、例えば天狼星(シリウス)の住民の場合などは身体とはいえないほどに軽いのである。

 この天の燈火(訳註2)は太陽の何倍という激しさで燃えている。そこでは魂が想像を絶した速さで思考し、人間にとっては一見、永遠といってもよいような環境で生きることができる。太陽人が一つの形から他の形へ変化する様は───もし見ることができれば───稲妻のように素早い。

人間が地球に住むのと同様に自ら光を放つ光球に住む魂の巡礼は、その環境や自分自身や外観を永続的なものと感じている。主観的にも客観的にも彼は視覚と感情を極端に発達させている。彼は、緩慢濃密な原子構造に制限される限り理解できない実在の高みと深みに接触しているのである。
 
 例えばシリウスその他の恒星に住む生物の性質について明らかにしてみよう。原子を分類してみると、太陽人の概念をもっと容易に考え、受け入れることができる。   

(1)地球原子  The terrestrial atom
(2)放射太陽原子 The radiant solar atom =太陽の熱と光の根源。太陽人の身体はこの物質からできている。
(3)重太陽原子 The heavy solar atom =液状態。太陽や恒星の中心部を構成する。

 有人星の歴史は知的個体に関していえば、かなりの程度地球と一致点をもつ。太陽人はゆっくりと進化発展を遂げる。彼らは必ずしも同じ進化レヴェルにはいない。彼らが恒星上で進化しうる可能性はかなりのものである。

永い太陽歴史のうえで、次第に発達し表現を求め、最後にはその火焔体の構造が複雑化し、高度に鋭敏なものとなる。再生に関する宇宙原理はここでも地球と同様のものが適用される。

 創造の初めに、星雲が星を生んで放出し、回転させながら送り出したというのは本当である。遥か宇宙の初めのとき──銀河系のことを言っているのだが──ありとあらゆる原子が星を構成していた。

放射原子は力一杯暴れ回っており、狂い踊っては爆発し放射線となって飛び散った。放射原子の群れが燃える火の母集団から別れて飛び散るときの轟音と光の嵐は、凄まじくも恐ろしいものであった。

知的な生命は創造の初期、永いこと星の上には存在しなかった。これらの短命の原子では個的な精神も、非個性的な精神に支配される生き物も存在することが不可能であった。後になって、最初の燃焼の衝撃が去ってそれが宇宙記憶となり、灼熱のエネルギーが燃焼物質の飛散によって弱められ始めて、星が生命を宿すようになり、安定して宇宙を運行するようになった。

それは長命の原子が表面に出てきて、太陽人の顕現の媒体として役立つようになり、心霊族に転生経験の機会を与えたからである。

今は何十億もの光輝く生命を宿す銀河の星もいつか生命の住まぬものとなるときがこよう。時がたてば、生命の誕生はやむ。実りの多かった年月は永遠に過ぎ去ったのである。縮まった星は、身体を形成し心にいわば魂の宮を作る煉瓦を与えるのに必要な放射原子を供給できない。

 かくして、多くの不毛の星が空間を漂い、僅かの放射物を出し、委縮したその表面は永遠の霊の断片を宿すための養分を供給しないのである。





  
  太陽人の誕生

  太陽人ということばから人間の精神作用や外貌を連想してもらっては困る。
  一つの星に魂が生まれるのに関しては、火焔界の類魂が関与するといってもよい。この界での愛はすべて宇宙的、共同体的性格をとるのである。性格の相似て互いに通ずるところのある数人の太陽人が青春期特有の愛と創造の衝動を覚える。

すると彼らは共に集い、互いの持てるものを
分かち合って新しい一つのいのちの炎を生み出すのであるが、それは彼らの一体化した想像力からの突然の見事な創造である。芸術家の経験する努力、闘争、そして永い忍耐がこの世界の誕生には欠かせない条件なのである。

それ故生命の誕生はいのちの「型造り」と呼ばれてしかるべきである。なんとなれば、身体ではなく想像力が胎児を生み出し、また愛が想像の鋳型のなかに参入しようと待ち構える魂を招喚するのであるから。かくして魂は宇宙の現実的懐胎衝動力を加えられその力を増大する。 

 創造の目的を考える際には、二人の愛人という観念を除去しなければならぬ。それは六人、八人、十人、ときとしては十二人であったりするものである。この一団のなかには陰陽両極にあたる二元性が存在するが、想像力の領域での感情的、審美的内容からなることが確実な誕生の仕事は一団の全員で平等に受けもつことになる。しかし身体が新しい個体を支えるのではない。

一団の感情的嵐と陶酔のうちには、審美的、創造的性質のなかにのみ含まれる愛が発生源となりそこから完璧な星界人が生まれ、太陽的時空において進歩と成長を重ねつつ成熟に至るのである。精妙な光の糸を織りつほどきつまた織りつ、魂は人間の知性には考えも及ばない夢幻的な方法で自らを具現する。


 太陽人が猛烈な速度で振動しつつ生きるのは、太陽物質の性質に合わせているからである。天文学者にはガス状としか言いようのない恒星の状態は、人間の想像を超えた速度で振動する生命、知性、および想像的努力を含んでいる。

想念の速さと外観の変容が殆ど同時なので、外側と内側、見える部分と見えない部分がいわば歩調を揃えて進むのである。輝く知性、敏感な知覚の背後に重たい肉体を引きずるようなこともなく、魂にとっては遂に紛れもない宇宙人(訳註3)として生活 cosmic existance が可能になったのである。 

    *                            *                   *   

 ある意味で同一の原則が現界人と帰幽者の外観を支配している。火焔体は物質原子で出来ているので、個体は原則としては想念によって自己の外観を創り直すことができない。知性原理がこの火焔体と関わる仕方は人間知性が肉体と関わるのと殆ど同じである。

それ故魂は原子構造がもつ性質によって制限を受ける。とはいってもそれは人間の被(こうむ)る制限とは大分違ったものである。というのは、既に述べたように、これらの形態は次々に現われては消え、放射線として発散してゆく性質のものだからである。

私は意識の流れということをよく言ったものだが、
太陽人の生活に関しては形態の流れということを言ってもよいように思う。とはいっても太陽人の活発化した想像力と増大した感知力のために太陽人の時間の観念は全く違ったものとなっている。

この高速多様な振動は、人間が地上の環境に認めると同じような一種の固体性と不変性を恒星上の環境に賦与するのである。

 人の肉体は七年間の地上生活で完全に変わる。太陽人の体は地上時間にして一秒ほどのあいだにすっかり変わり、原子の一つさえ元のままではない。しかし人間の精神は驚くべき緩慢さで振動している。これは実際のところ物質のリズムに同調しているためであるが、これに対して太陽人の精神は遥かに速い生命活動に同調しているのである。

喩えて言えば人間の知性がなめくじの速さだとすれば太陽人の知性はつばめの速さをもつといえる。こういってもまだ、恒星世界の想念とそれにともなう行為の速さを十分に表現したことにはならないほどである。

 これらの輝く球体の表面では、物質生活に似ていなくもない奇怪な場面が演ぜられている。あらゆる感情と情念が人間のそれとは違った種類のものなので、人間を確実に吹き飛ばしてしまう足下の爆裂弾のような強度の感情エネルギーを含んでいるのである。

 二つの世界は殆ど比較ができない。燃える恒星のどれをとってもその星の日常生活、快楽、努力、休息といったものの細ごまとした事実を正確に伝えうるようなことばは存在しない。

たとえば、恒星の生活においては恒星人は夜を知らない。それはあたかもアダムとイブが禁断の木の実を味わう前には善悪を知らなかったのと同じようである。人間の理解するような意味での病気は知られていないが、魂が急激に変化してゆく身体と調和して振動できないとき、無意識状態にも似た弱さと分裂に陥ってしまうことがある。

その結果遂にこの病める恒星人が自己の外観を構成する火の原子との関係を全く持たなくなってしまうことがあるのである。

 このとき彼は天上生活に上ってゆく。言い換えれば意識が物質の制約から離れて無限の拡大に入っていくのである。この過程はいかなる意味でも人間の死とは似ていないので、「死」ということばを用いるのは適当ではなかろう。知的、霊的な原理がもはや身体を保持し、コントロールすることが出来ないようになったのである。

しかし魂はこの移転のときに、無上の歓喜を味わうので、昔ばなしの鎌をもった「死神」がやってくるのではない。それ故、このような経験を「宇宙人格への拡大」と呼ぶこととしよう。


   
  恒星上の光

 夜がやってくるというわけではないが、ある時期に光はその性質を変え、太陽人は眠って力の回復を図る。睡眠中もその身体は覚醒時同様に変化し、原子構造は自動的に入れ替わっている。といっても無論、このリズムが破れ、この星の医師が、患者の想像生活ないし宇宙的自由に対する憧憬の念に問題があると認めるような或る状態にあるときは別である。

 恒星人間に環境を見させる光はいかなる地上の機械装置もそれを捉えることはできないであろうし、まして人間機械にはなおさらのことである。私はこうした光を、昇華し精妙化した電気か粗雑な放射物のなかの希薄微妙な放射物だと考えている。

太陽人にとって、この放射物は物質の様相をもっている、しかしながら、この宇宙における太陽光線とでもいうべき放射物は、太陽人には複合光線として知覚される。

宇宙空間に満ちわたるこれらの光は余りに微妙な光なので、集まれば美しい光を投げかけるが、視力にそれを感ずることは殆どない。

いかなる既知の気体も電気もこの光とは無縁であることを覚えておいてもらいたい。恒星上の同朋たちには知られたこの光線について研究するためには、科学者が第五界に入って宇宙生活をする必要があるであろう。

 この世界の色彩のオクターブは多様で、人間の芸術家なら誰でも狂喜することであろう。音の範囲もずっと拡大されている。音声と色彩は恒星生活に欠かせないものである。両者は良く分からない仕組みで太陽人間の健康で力強い生活には必須の条件を供給しているらしいのである。     


  
  自然霊[訳註4]

  これまで私は自然霊や、人間以外の霊については述べなかった。私はいかなる惑星上にも肉体を持って生まれたことのない生物のことを言っているのである。われわれとは違った自然の系列のうえで進化することを望むある存在が火焔界の一つに生まれようとすることがある。 

それらは太陽人としての形態はとらず、どちらかといえば地球の動物界の存在に近い存在系列に属し、その形はかつて火中に住むといわれた伝説の火龍に似ていないこともない。

 恒星の世界では自然霊は他の形態をとることもあり、しばしばその外観に非常な相違が見られる。ときにはそれらは蛇や人類史の開ける以前には存在したかもしれない龍の姿を模倣する。それらは恒星上の仮装体を纏うことによって、熱風と光輝に包まれて空間中を旋転する燃える世界の常連となるのである。

 かくして、自然霊の種類は多様であり、地上の動物たちと数の上では比較にならない。それらはこの輝く世界での重要な役割を演じており、それぞれが自分の類魂との連携を保つことによって、その働きのすべてを全体者に捧げている。



    
  ことばと宗教

 この世界では想念は音声と色彩で伝達される。文字ではなく色彩が観念伝達の媒体として主要な役割をする。画像が地上の印刷物の代わりをする のである。これらは筆舌につくし難いものなので私はここで詳しくは論じないでおく。これらは地上的な意味での画像を意味しない。

それは次々と消えてゆくイメージではあるが、なかなか巧妙な仕方で不変性を保ち、恒星上の幾世代かのあいだ持続することがある。しかしその原子崩壊の速さによって放散してしまうことを防ぐために、保存図書係ないし美術家とでもいった格のものが任命されている。

迅速な計算と、類は友を呼ぶ磁力によって同種の色を引き寄せる方法で、これらの図書館員たちはオリジナルに忠実な色彩で画像の正確な再生を図る法を修得している。

こうした模写は高速の時間のなかで多少変化するのは事実である。しかし全体としては、歴史、詩歌、記録はそれぞれ著者が刻印した特徴を保ちつづける。この保存係の美術家は古代において神聖な場所の聖なる火を消えないように見守った司祭の忠実な熱心さをもっている必要がある。

 恒星生活はその住民にとって外観上の安定性と不変性を維持している。人々は知的にも物質的にも驚くべきスピードで時間のなかを旅する。実際、人間の想像世界と同じように彼らの想像のなかにおいても時間の観念が必要である──つまり時間とは意識の変化率のことなのだ。

環境のなかでは牽引の法則によって似たような原子構造が絶えず前のにとって替わり、それによって物質は変化して非生命的要素は交替しているのだが、太陽人から見れば一生のあいだ同じような外観を示しているものである。むろん、当人自身がこうした環境を変えようとすれば別の話であるが。 

 ある基本原則においては、太陽人の生活は人間の生活と類似点をもっている。彼らの転生中、魂はそれを取り巻く身体的事象を通して自己表出をするのであって、身体なしに現われることはない。

言い換えれば、地上時代におけるのと同様に、恒星時代にも魂はその身体的条件に閉じ込められているのであり、ただ、構造的変化が間断なく恒常的に起こっているという点で肉体とは違っているのである。

しかし、この変化は人間の肉体原子の緩慢な変化が人間の目に映らないのと同じく恒星人間にとっても殆ど知覚できないといってよい。

 私は恒星人類の社会構造や仕事については何の知識もないので言うことができない。しかし彼らが人間と同じく客観的に、かつ主観的に生きていることは知っている。善悪は対立し、闘争を巻き起こし、あらゆる種類の感情が交錯する。宗教はこの意識レヴェルにあっても主要で不可欠な機能である。

恒星人間は神の子の観念を知りかつ受け入れている。がしかし、彼らは宇宙的「悟り」の入口のところに達しているので、人間がもつより遥かに豊かな想像力をもち、彼らの精神の視野も広大である。

それゆえ彼らが神を拝むときは、彼らは宇宙に遍満する神の実在により近づいている。彼らにとり、宇宙や想像の観念は信じがたいほどに広がり、神秘の奥の神秘が広がり、深まり、喜びをもたらす。しかしそれでいながらその本質は依然として謎のままに残る。

 人間の神に対する崇拝や神についての観念と太陽人のそれとの違い、また人間に啓示された宗教と太陽人の宗教のあいだにどんな違いがあるかと問う人がいるかもしれない。多分基本的な相違点は「宇宙的知識と宇宙的信仰」ということばに要約できるであろう。

恒星の住人たちはこの点で最初の難関を打ち破ったのである。彼らは宇宙についての広く拡大した意識をもっている。

彼らは地上の人類よりももっと精妙に創られており、創造者の仕事の偉大さを知りかつ感謝している。彼らは秘められた実在に近づいているので、低次な要素の少ない信仰力をもち、叡智の受容能力を増大させているのである。

 と同時に、悪すなわち不完全無秩序な思考方法は罪と苦悩を導きだす。しかしこれらは人間の邪悪や苦痛の観念とは正確には一致しない。確かなことは、それらはより高い意識のレヴェルに向かっての進歩への反対を表わすのである。つまり生命に対する犯罪を表わすということである。

宇宙間には「永遠の法則」なるものがあり、それが美と真理の追究者を駆りたてて全身全霊をもってより高い境地──もっと進めば神にも至る──に到達させようとするものなのである。

 魂の想像力が完全に働かないと、個人は過ちを犯し意識の低い部分に引き戻されがちである。失楽園のあの過ちは全宇宙のあらゆる場面に絶えずあり、今も繰り返されていることなのである。

魂には常に選択の力があり、個体が想像力と信仰に欠陥をもっているときは前進の意欲を失い、低次な存在にありがちな制限や分裂に堕してしまうのである。

 こうして多くの太陽人が恒星生活の後で下方の世界に堕ちるのである。何となれば彼らは最後の転生において宇宙的罪を犯したので、少しばかりもと来た道を逆戻りして深層自我の内にバランスを取り戻さなくてはならないからである。ある者は地上近くの見張り役となり、ある者は宇宙人格をとって恒星生活に入ろうとしたときに不足していた力を充足させるために形相世界に下る。

しかしながら、大部分の人は向上への道を歩むのであり、人間が死と呼ぶ過程を経て、類魂のなかに入り、純粋光明の世界たる第六界で授けられるであろう宇宙の内的ヴィジョンへの備えをする。

 この準備期間を一つの文章で書き表わすことはできない。というのは、彼らが意識の第五レヴェルにいるあいだに多くの予測もできない経験をしなければならないからである。

しかしこのことはまた後で書くこととして、まず、自発光の星に転生したことのある多くの魂が、普通のコースを選んで、
他の魂への愛情からか、自分の本性にある弱さを発見したからかの理由によって、他の違ったタイプの星での経験を望むことがあるといっておこう。

彼らは過去の恒星生活の栄光に浸る余り、高次の形態での再生を望む。そして魂の深いところからでる望みはいつも聞き届けられる。


 通常宇宙に新しい住処を見つけるに際して、これらの魂の旅人は元の星へと帰還し、そこに前とは違った条件や環境を見出す。その星界人たちの纏う形態を一種の制約として身に付けるが、その形態は構造的にも異なった時代のものであり、その魂がかつて住んだ前生の時とはかなり違ったものとなっているのである。

ある場合には彼は燃える星を避けて火の消えた世界を探索するかもしれない。
魂の宇宙遍歴においては夜と昼が雁行して進む形となっており、その昔人間個性によって制約を受けていたかと思うと、いまは不滅の内的直感から喜びを受け取るといった具合である。



    
  いわゆる生命力

  これまでの章で「生命」とか「生存」とかいう語を用いてきたが、これを「活性原理」のようなものと混同しないでいただきたい。生命を動かす力については意見が対立していることは私も承知している。

ある者は電気に似た物質エネルギーが専ら働くと主張し、これを「生命」と呼んでいるが、またある者は非物質的な力「エンテレキー」ないし生命原理なるものがあって物理的、科学的過程を支配するという。私はこの論争に加わって地球やそこに生息する無数の生物の関わる「生命力」のことをあげつらうつもりはない。

ただ恒星生活中に太陽人に役立つエネルギーは遥かに精妙化され洗練されたもので、人間が科学的知識で分析できるような粗雑なエネルギーとは比較にならないとは言っておきたいのである。

更にまた、私は地球と他の星の住人に関わる生命の創造基盤について一言いっておきたいのである。それはつまり、どの場合でも想像力の中枢こそが生の起動原理だということである。地上人の肉体や、太陽人の身体の背後にある魂と霊の協力は次のことばに要約できよう。

それは魂や霊が「想像の場と連関して働く想像力の限定的な焦点」であるということである。ここにわれわれは宇宙に満ちわたる生命原理を見る。この原理こそ生命が、たとえ粗雑なものであろうと進歩した知的な個性体であろうと、自分自身を顕現できる直接の力なのである。    



   
 火の消えた世界
 
 宇宙空間をおびただしい数の暗黒星が経巡っている。それはもう何年も前に燃え尽きてしまった太陽の残骸が広大な宇宙空間を運行しつづけている姿である。天文学者が見るとすればそれは、分解はしないまでも孤独で荒涼とした旅をつづける死の世界とみえることであろう。

これらの星はいかに鋭い視覚にも見えず望遠鏡でも捉えることができない。亡霊のようにあると人間の精神が推測しているだけである。しかしながら、この暗黒星は死せる星とも仮説的幻想とも考えられてはならない。何故ならこれらの存在には幻想とはいえない確実な特性があるからである。

簡単に言えば、それらは創造の目的に役立っているのである。人間には知られていない感知力を賦与された多くの知性が夜の星に形ある生命への顕現を求めているのである。

 暗黒星に住む人達は、彼らを取り巻く情況によって発達を遂げた別種の意識をもつのである。この意識こそが彼らを動かし、生涯を全うさせ、そして再び類魂の記憶の中心に帰還できるようにする。

皮肉なことに、これらの死せる世界に生命は存在し、脈打ち、動き、動かしている。この世界はその住民にとっては決して終わっても死んでもいず、人間に知られたものとは性質の違った多様な経験の形を彼らに与えている。

 神の想像力ないし永遠の霊の概念が基本的原理として永遠の哲学体系のうちに正しい位置を占めるようになれば、物質的、外的宇宙がどんなに広大なものであろうとも、それらがその大きさの感覚でわれわれを圧倒するようなことはないということがやがて理解されるであろう。

すべてのことが神の手の内で起こり、すべてが「神」ないし「超越的な宇宙の叡智」という語で表現される創造の聖なる宇宙的歓喜に支配され導かれ管理されている限りにおいてではあるが、これらの語は曖昧模糊としたことばではなく、すべての形姿(なりすがた)、形態、エネルギー、そして想像の喜びに応じて絶えず更新し拡大し、変化している宇宙的リズムに潜む広大な想像力のすべての背景にある現実を宣言しているのである。

 晴れた夜、空は一面に白い斑状の花に覆われ、その一点一点が露に濡れたような微光を放っている。われわれはこの青白い光の広がりを天の川とか、銀河系と呼んでいる。この銀河は地球を完全に取り巻き、大空を二分して広がっている光の輪の一部なのである。

 オリオンズベルト、スバル、髪の毛座、大熊座などのすべてが星の集団を含み、その各々の一群が類魂ないし類魂の一部を象徴している。強力な望遠鏡で空を探せば何億という星が見えるに違いない。しかしわれわれが永遠というものに想いを馳せるならば、宇宙のかなたに宇宙があり、銀河の二倍三倍もの銀河、超大な銀河、信じ難いほどに大きな星雲があることを考えなければならない。

この広大な宇宙の展望を前にして人間の心は震え潰(つい)える。そして唯物論者の魂は神なき孤独に狼狽し、天を恐れ、無価値に等しいもの、無常の生命といったものへと心を向けるのももっともである。

 天文学者は今日、彼らの数える星は全体のなかのほんの
一部───もし全体というものがあればであるが───であることを知っている。彼らは太陽の大きさをもつ星のひとつひとつは巨大な有機体のなかの一電子にも等しいことに気づくのである。

  人間の有限なる理性は、これらの無数の白熱の球体の或るものには焔の体をもった生き物、ある姿をもって個体化した知性がいるという仮定を拒絶するかもしれない。しかし有限の想像力は、これまで不十分にではあるが書き記したことが、誇張した推測でも信じ難い馬鹿ばなしでもないことを直観的に認めるかもしれない。

少なくともそれらは、宇宙においては人間が個体的に顕現した唯一の意識存在ではないこと、人間は単なる偶然茫漠とした魂のないエネルギーの玩具でもないという示唆を含んでいる。

何故なら、人は彼に相似た人間存在ばかりではなく、帰幽した不可視の仲間、そして太陽世界の住人を含めた身体をもった多くの魂たちと一団となって旅をつづけているからである。霊的に言って彼らは皆家族であり、光球に住むすべてのものたちも同様にして永遠の同じ永い旅をしているのである。

 魂ある星との類縁を想像的に知り、本能的に感ずるとき、人は地上には付きものの一時的な悲哀、困惑、些細な誤解や喧嘩や幻滅にもっと容易に対処できるようになる。何故なら自分の前、彼方、上方にはやがて彼が偉大な意識に目覚めて大空のような広やかで偉大な自由に生きるときの素晴らしいヴィジョンが横たわっているからである。

 彼は暗闇を出て精妙な恒星意識の世界に生まれ、けちでちっぽけな煩いや有限な地上生活の謎と永遠におさらばする。燃える軌道をもった恒星生活の深みでは、不完全で閉ざされ、孤独で物事につかれたような苦悩の七十年は彼をもっていない。

何故なら、彼が帰幽した仲間や宇宙の調和から切り離されているのは、地上の重荷を背負っている間だけである。宇宙は感覚をもった存在によってコントロールされているのである。彼らは神ないしは宇宙意識に本源をもち、神聖な創造の愛によって養われ、力づけられ、また絶えず更新を図る各大本元霊の想像の白い花ともいうべき星々に住まうのである。
    

 

   
  第五界

 白熱の光球への転生とそこでの何度かの生涯は第五界で更にその先に進むための準備の期間であるといってよかろう。形相世界──第四の意識レヴェル──から先へ移るにあたって、帰幽者たちは完全な形態や外観や幽姿のコントロールが出来るようになっている。

しかし彼は第三の(最後の)仮装体をとり、恒星時代の経験を己れのものとし、地上の科学者は間違いなくガス状と観察記述するのであろう身体──すなわち、火の粒子でできた身体──で生きることの意味を知って初めて宇宙個性のなかに入っていけるのである。

 古代、ことにエジプトにおいては、太陽神の死と再生は性的シンボルが重要な役割を演ずる洗練された儀式で祝われた、こうした原始的儀礼のなかには、おぼろ気であったり間違って解釈されたりはしてはいるが、宇宙原理の反映であるものが潜んでいるのが見つかるかもしれない。

 ある意味では太陽人の客観的な存在は、第五意識レヴェルの普通の状態であるということはできない。何故なら、全自我のほんの一部の精髄部分が恒星への転生をするだけであるからである。

魂におけるこの時代は太陽神の死と再生についての古代信仰を思わせる。形態の完全操作に伴う喜びを知り、物質の振動率とは違う精妙な質量の聖化を達成して形相界からやってきた旅人にとって、物質次元への再帰入は、たとえそれが火の粒子に捕えられることであっても、どちらかといえば死にも似た非活性状態への回帰のように感じられる。

それは地上に冬の季節が到来し、草木の茂る野や果実や花の満ち溢れる大地を裸にするのを思わせる。この季節、太陽の力は弱まる。輝かしい生命と美しい花々の夏、色づく果実や豊かに穂先を垂れる穀物の取り入れの秋に引きつづき、生命力が衰え、歓喜と力強い生命の満ちた栄光の全く欠如した状態がやってくるのである。にもかかわらず冬は創造過程のうちで重要な部分を占めている。

魂にとって恒星生活に伴うスローダウンは地上のこの季節を象徴している。実際人間にとって、太陽人の生活は驚異と恍惚と恐怖に満ちているように思えるであろう。

しかし太陽物質に受肉する大なる自我の一断片にとっては、それはあたかも大きな湖から流れの遅い小川に流れ込むようなものなのである。

 物質界での第二の経験が必要である。しかしここでの生活と太陽神の死と復活に関わる信仰の類似点に話を戻そう。そこにおいてあれほど重要な役割を果たす性のシンボルは自我に内在する想像能力の表出と考えることができよう。

同じようにして、燃える恒星に物質化して存在する時期は発生的形成的過程が進行しているのである。冬季、植物の根が繁茂する状態のときは創造活動が間断なく進行している。太陽人の生涯は形成途中であり、宇宙個性の創造期だといえる。第四界から第五界へふいに飛躍するとか、拡大しエーテル化した人間個性から宇宙自我の偉大崇高な概念に突然飛躍がなされるということはない。

その前にこの物質界での第二の経験が必要である。それは物質世界の最期の束縛から脱出するための苦闘、自由な魂が自己の霊的家族である心霊族に属する他のすべての魂を仲間として見出す崇高な領域へ上天する最後の復活である。

遂に彼は必要不可欠なものとしての形態や、生命の確かさや条件としての感情に別れを告げる。そして宇宙空間に真の住処(すみか)を求めるのである。

 客観的な恒星生活での仕事は私が形象の破壊と言ったあの過程に似ている。彼は暫くのあいだキリストが「天国は汝のうちにあり」と言ったあの宇宙的調和の状態に入っている。彼は聖霊を求めてそれを見出し、その澄みきった静謐のなかに包まれている。しかし道は依然として旅人の前にある。

谷から丘へ、低い峰から高い峰へと。彼は自己の倫理的また苦行的憧れに引きずられて旅をつづけなければならないのである。勝利を求めて圧迫と闘争に立ち向かい、その報酬として創造者との調和的関係を勝ち得る。かくして、この段階の彼にとっては経験が多重化し、増殖し、外観上の単一性を失うに至る。

そこで次第に「一即多」の意味を知るようになる。つまり人間ならば一時に一つのことしか記録しないところを、一時に無数の想念と感情と情景を知覚し記録する。

多数のことを順次にではなくこの宇宙的方法で一挙に、想像的思考の一作用として記録するのだが、これはいったいどんなことなのかどう説明したらよいのであろうか。

魂が現実的にこの存在の拡大体験を持つまでは、この経験の異常に高揚した性質、そこからの広大な地平の展望、次第に見えてくる無限といったことを理解し、内的宇宙の神秘との関連において外的宇宙を理解するとは何を意味するのか、また私が類魂ないし心霊族の記録と名付ける大記憶王国に入るとは何を意味するのか等々について何らかの観念を形成することは無理である。

 第五界の全意識に初めて参入しようとするものは、彼の多くの仲間たちの運命であった過去の体験を詳しく調べる必要がある。それらは彼への贈り物である。そしてその贈り物の一部には類魂によって命を吹き込まれた地上世界の諸経験がある。

この類魂とは植物、樹木、花、鳥、昆虫、魚、野獣、人間の男女、また死後の世界で様々な意識レヴェルに生きている帰幽者たち、そして大空の奥、宇宙の核心で自分たちの劇を演じている太陽人たちである。

彼はこうしたあらゆる類魂の顕現という顕現、客観的また主観的経歴を歩みつつあるもの、孤独や孤立に陥ったもの、あるいはまた一なる至高観念との完全な調和にあるものたちのすべてを目撃し経験することを学ばなければならない。

 この多重的作業を通じて遂に彼は自己を発見する。彼は霊的存在となり、跡切れることのない意識となる。私はこの語をよくよく注意して用いているつもりだ。それは地上の賢者がある超越的な想像力の飛翔の際にその語に込めようとしたよりももっと深く大きな意味をもつのである。

 しかしながら、巡礼が物質世界から全く関係を断つのはまだ先である。彼はいま暫く物質世界に奉仕し、外からそれを見守っていなければならないのである。彼を含め意識の第五レヴェルに到達した類魂のもの達は帰還を指示されるかもしれない。

彼と仲間の魂たちは地球やその他の恒星系の惑星と関連した生命過程の部分統治者や支配者に任ぜられることが多い。

例えば彼は地球を構成する原子の運動のすべてを支配し、物理法則を維持し、科学者や哲学者がかなり以前から認めてきた調和、つまり運動の壮麗な調和をあらしめている 「神聖霊魂組織」Divine Society of Souls の一員となるのである。

 サイキック・ユニットが運動の宇宙法則の維持のためにこのような完全な働きを果たすためには、それ自身が大自我の主人公とならなければならない。そして更に彼の類魂内の同じ部門に属する魂との必要な連携をとらなければならない。類魂は彼らを宇宙意識の一顕現として共同して働けるように融合させている。彼らは戦士が自分の戦車を操る手綱を握るように自分の手のうちに時間のリズムを握る。

彼らは地上に関する計画についての神の大理想を変更したりそれに付け加えたりすることはできない。しかし彼は大数学者の権能を授けられ、地上世界の物質と運動を特徴づける規則への服従を命ずることはできるのである。

 誕生と死、そして幻想界──新規の死者の世界──はすべて次第に彼らの管轄下に入り、統治下のものとなる。彼らにとって実在とは、仕事から仕事へ、喜びの仕事からさらに偉大なさらに厳しい労務に移るに従い、可視的外在的自然へと進展していく主観的生活のことだと言われている。

我らが太陽系で、彼らは、オリオン座やスバルや髪の毛座などのようなもっと霊妙な世界に相応しい状態になるまで支配者として留(とど)まるのである。私が以前「星の種蒔き場」と呼んだこれらの星座は将来あなた方の属する宇宙人格によって支配されるかもしれない。

そこであなた方の限定された個性は想像もできないほど変容し、高次の意識なるが故に有限のいかなる精神にも理解できない想像世界に表現を見出し住まうことになる。



   
  究極の実在

 ある東洋思想の紹介者たち──例えばブラバッキー夫人のような──は、究極の実在を「物質とその生命である運動」に帰着させた。

 第五界まで旅した魂は──進歩を遂げると──究極の実在は人間個性の束縛の内にいるあいだは知ることのできない生活条件に属するということを学ぶようになる。先の東洋的観念は意識の第三界ないし第四界に属する魂が持っている考えなのである。第六界では魂の意識は次第に悟りを深め広める。

そして完全な宇宙個性を達成したとき究極の実在は「物質とその生命としての運動」に還元できないことを学ばなければならないのである。この誤った仮定は有限な観念とのみ関わるもので、人間的視野に関係した幻想の一つなのである。

 ことばのいかなる意味でも物質と運動に還元できない「世界の内なる世界」を宇宙叡智の顕現として想像せよ。この至高の啓示は人間に知られる物質的リズムのなかには見出されない。つまりそれらは、我が太陽系や銀河や星雲や可視宇宙のどことも関係を持たない。

私はただそれを内的宇宙と呼びうるだけである。がしかし、このことばは超越世界の性質や特徴を正確には伝えていない。いかなる地上のことばも人間存在と全くかけ離れたこの状態を言い表わすことはできないのである。  

 この崇高無比な王国に物質的表現やすべてが可視的世界のルールに従う外観的なものを求めても無駄である。が、ここで第六界にすっかり集められた類魂たちは実在を物質や運動以外の状態に見出しうる。彼らは最後の有限な想像作用から脱出して神性なるものの入口に到達したのであり、もし完全に解放されるなら彼岸に渡ることであろう。

 こうして実際彼らはいろいろな意味で二元性というもこと知る。彼らは内外両宇宙を理解し、創造者と一体になることによって両者を結びつけ一つの全体とする。彼らは創造的霊的生活を通して真理を獲得し究極の実在を知る。


 大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)
 原子と太陽系
 電子と陽子
 これらはあらゆる大きさと形を持って現われる
 だがいつもおなじ法則がすべてを貫き
 単調な規則性をもった同じ原理が
 物質世界を摑み縛る
 物質と運動
 これらの語があらゆる姿で生命を造るというのか ?
 超越的唯物論者にとって
 五感に囚われた想像力にとって


 無限への五つの扉があるというが
 六番目の扉は? いや、七番目の扉もあるのか ?
 創造者に憧れる魂はあるのか ?
 人と神の媒体たる
 本霊は存在するのか ?
 われわれは単なる物質と運動なのか ?
 燃えきらめく恒星群の旋転する巨大な軍勢だけがあり
 これらは燃えつつ暗黒化する光球にすぎないというのか ?
 はたまた究極の実在は超然として君臨するか
 星の行列からも
 死と誕生からも
 光と闇の
 白熱して限りなく回転しつづける世界からも


 夜と昼
 大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)
 電子と宇宙
 惑星と太陽
 いつも二元性の影がさす
 この現(うつ)し世は一面の姿ではないのか?
 肉体は外なる印(しるし)
 奇妙な姿をとり、ときたま巧みな姿をとりつつ
 内なる印や創造の本性を表わしているのでは ?
 そしてこの創造の本性こそ独り生き独り知る
 究極の実在を


   
  終局
 宇宙には初めがある。ということはつまり終わりもあるであろう。永遠の霊──すべてのわれわれの中枢ないし霊魂を含む──の光が全く退き、宇宙に生命を吹き込むことをやめ、夜が帳(とばり)を下ろし光を包むとき、終わりが訪れる。かくして宇宙は沈滞し無力になるのをいかんともし難い。

何故なら活性原理たる大意識はもはや宇宙内部のものを導かず、監督せず、生命を注ぎ込むこともなく、またすべての作業に運動を与えないからである。

 最後の審判というのは宇宙から「永遠の霊」を引き上げることだとつづめて言うことができよう。

「天と地は滅びるであろう。しかし私のことばは滅びることがない」〔訳註5〕このようにキリストは言ったが、この真理は未だ優れた思想家にも秘められたままである。

ことばすなわちロゴスは永遠につづくが、天地は過ぎさる。しかしすべてが神の胎内にあるとはいえ、かくかくの偉大な世界が未来に生まれるなどと誰が言いえようか。偉大な諸宇宙が今進化し成長しつつあり、そこでの条件と法則は何であり、またそこでの恐怖と美と栄光は何であるかなど誰が言えるであろうか。

われわれはただ、全き確信をもって古代預言者の次のことばに声を合わせ、信頼するほかはない。かくして心の平安を獲得するのみである。「静まって、わたしこそ神であることを知れ〔訳註6〕

 〔訳註〕
(1)太陽人(solar man)。太陽といっても実際は恒星クラスの星を意味する。マイヤース霊によると、地球の諸地域を分掌する神霊は太陽界での試練を経てきた第五界級の神霊であるとされているが、エジプトやわが国古来の太陽信仰と考え合わせてみると興味深い。

(2)シリウスのこと。
(3)いわゆる「宇宙人」とはちがうかもしれないが。
(4)自然霊(n
on-human spirit)nature spirit ともいう。ここでの自然霊はいわゆる龍神のことを言っていると思われる。西洋では一般に龍神のことを言わないにもかかわらず、マイヤースの通信がこれを認めているのは面白い。仏教でも龍は天界の生物とされている。

龍神は第五界の生物であるから、一般人間より上位にあるといえるが、第五界以上に上った人霊から見れば下位になる。なお、自然霊は龍神のみではなく、肉体を持ったことのない霊全体をいう。動物の形態をとることが多い。地球上でも「肉体」を持つ生物だけが存在するのではないことに注意されたい。

(5)マタイ伝二十四章二十五節
(6)旧約、詩編第四十六篇、十節


                               

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