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                        (下編) 陸軍士官の地獄めぐり
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    一  死の前後  

    二  酒      亭        憑依の実態
    三  幽界の居住者
    四  交霊会の裏面 
    五  憑霊と犯罪
    六  地獄の大都市 邪淫の都市、物質慾の都市
    七  地獄の芝居  肉慾・情慾                   
    八  皇帝に謁見
    九  ダントン征伐
      十  地獄の戦
   十一  皇帝の誘惑
   十二  魔術者と堤携
   十四  眞の悪魔
   十五  眷属募集
   十六  地獄のどん底   
   十七  底なし地獄
 
    十八  向上の第一歩
     十九  地獄の第二境
  二十二  救いの曙光
  二十三  愛慾の市
  二十五  出 直 し
  二十六  地獄の新聞紙
  二十九  睡  眠  者
     三十  第  六  境
  三十二  第七境まで
 

℘187
            死の前後  
 ここに引き続いて紹介することになりますのは、読者がすでにおなじみの無名陸軍士官から主として自動書記で送られた霊界通信であります。この人の閲歴大要は上辺の第四章『無名の陸軍士官』と題する所に述べてありますとおり、生前死後とも思い切って悪事のありたけをやりつくし、最後に地獄のドン底へまでも堕ちてきた人物で、叔父さんの生活の平静高雅なのに比べてこれは又惨絶毒絶、一讀身(どくみ)の毛のよだつようなことばかり続いております。あらかじめその覚悟でお読みになられることを希望しておきます。
 最初の通信は一九一四年二月七日に始まり、同年九月十二日を以て一先ず完結致します。書中『吾輩』とあるのは皆この無名陸軍士官のことであるとご承知を願います。──

         
 吾輩は劈頭肝要な二三の事実につきて説明を下し、いわゆる地獄とはいかなる性質のものか、はっきり諸君の了解を得て置いてもらいたいと思います。(と陸軍士官が語り出す。句調は軍人式で、いつもブッキラ棒です)。

 地獄に居住する霊魂の種類は大体左の3種類に分かれる。
(一)人間並びに動物の霊魂。
(二)一度も人体に宿ったことのない精霊。
(三)他の界から来ている霊魂。
上記の三種類の中で第二は更に下記の三つに小別することが出来そうに思う。
(イ)妖精──性質の善いもの、悪いもの、並びに善悪両面を有するもの。
(ロ)妖魔──悪徳の具象化せるもの。
(ハ)変化──人の憎念その他より化生せるもの。
所で上記の妖精という奴が一番多く、就中幽界にはそいつが大変跋扈して居る。大抵は皆資質(たち)が良くないと相場を決めてかかれば間違いはない。他に化生の活神とでもいうべきものが奥の方の高い所に居る。それが人間の霊魂などと合併してしばしば人事上の問題に興味をもって大活動をやる。彼等のある者は一国民の守護をつとめ、ある者はそれぞれの社会、それぞれの地方の守護をつとめる。

 あなた方も幾らか気がついていられることと思うが、例えば英国を一の国民として考えた時にそれは一種特別の風格を具えていて、これを組織する所の個人個人の性格とはまるきり相違していることを発見するでしょう。この一事を見ても、英国を守護するところの何者かが別に存在することは大抵想像し得らるるではありませんか。
 ざっとこれだけ述べておけば人間の霊魂以外の霊界の存在物につきて多少の観念を得られると思う。吾輩が現在置かれている半信仰の境涯などには格別珍しいものは見受けられないが、上の方へ行くといろいろある。天使だの、守護神だのの中には人間の霊魂の向上したものもあるが、そうでない別口も沢山居る。一口に霊魂などと言っても容易に分類の出来るものではない。
 さてこれから約束通り吾輩の死の前後の物語から始めるとしましょう。吾輩がストランド街をぶらついている時のことであった。一台の自動車が背後からやって来て、人のことを突き飛ばして置いておまけに軀の上を轢いて行った。なかなか念が入っている。吾輩自動車位にやられるような男じゃないのだが、その時ちとウイスキーを飲み過ぎていたのでね。所でへんてこなのはそれからだ。轢かれた後で吾輩はすぐむくむく起き上がった。頭脳(あたま)がちと変だ。其の中盛んな人だかりがするので、急いでその場を立ち去って役場へ向かった。例の専売品の契約証書に調印する約束が出来ていたからです。

 役場の玄関へ着くと同時に吾輩は扉を叩いて案内を求めた。驚いたことには手が扉を突き抜けて、さっぱり音がしない。無論いつまで待っても返答がない。仕方がないから委細構わず扉を打ち開けてやろうとすると、何時の間にやら自分の軀がスーッと内部に入っている。
『オヤオヤオヤオヤ!』と覚えず吾輩が叫んだ。『今日は案外酔いが廻っている。こんな時には仕事を延ばす方がいいかも知れん。』
 が、すぐ目の前に階段があるので、構わずそれを登って、事務室の扉をたたいた。しかし此処も矢張り同じ事で、軀は内部へ突き抜けてしまった。

          
 見れば係の役人は机に寄りかかって吾輩の来るのを待っていた。側の机には書記もいた。仕方がないから吾輩は脱帽して頭を下げたが、無作法な奴があればあったもので一向知らぬ顔の半兵衛である。
『私は契約書の調印をしにまいりましたが・・・・・・。』

 吾輩がそう言っているのに奴さん依然として返答をしない。次の瞬間に書記の方を向いてこんなことを言っている。──
『モー十分間待ってみても彼奴が来なかったら事務所を閉めてしまおう。』
『このつんぼ野郎! 俺はここに来ているじゃないか!』
 吾輩は力一ぱいそう叫んだが、先方では矢張り済まし切っている。いろいろやってみたが、先方はとうとう立ち上がって、吾輩が約束を無視したことを口を極めて罵りながら部屋を出てしまった。
 吾輩も負けずに罵り返してみたもののどうにもしょうがないので、あきらめて部屋を出た。
『彼奴(やつ)は俺よりももっと酔っていやがる・・・・・・。』
 吾輩は心の中で固くそう信じた。
 再び玄関の扉を通り抜けたと思った瞬間に何やら薄気味悪い笑い声が耳元に聞こえたので振り返ってみると、昔吾輩の悪友であった。ビリイが其処に立って居た。さすがの吾輩もびっくりした。 
『何じゃビリイか! とうに汝は死んだはずじゃないか!』
『当り前さ! 』と彼は答えた。『しかしお前もとうとう死んじゃったネ。容易にくたばりそうな奴ではなかったがナ・・・・・・。』
『この出鱈目野郎! 俺が何で死んでいるものか。俺は少しばかり酔っているだけだ。』
『酔っている!』ビリイはキイキイ声で笑った。『酔っているだけで扉を突き抜けたり、姿が消えたりして堪るものか! お前がただ酔っているだけならあの役人の眼にお前の姿が見える筈ではないか。』
 そう言われて吾輩も成る程と思った。同時に自分の死骸を捜したい気になった。
 次の瞬間にわれわれはストランド街に行って居た。するとビリイはここで一人の美人の姿を見つけた。
『どうだいあの女は?』
 彼は無遠慮に大きな声でそう吾輩に言った。
『これこれ汝(きさま)はそんな声を出して・・・・・・。
『莫迦! 先方の女にこの声が聞こえるもんか! 俺は彼女(あいつ)の後をつけて行くのだ。』
『つけて行って何うする気なのだ? あの女はそんな代物ではない。』
『莫迦だなお前は!』と彼は横目で睨みながら、『お前モ少しこの世界のことが判って来ればそんな下らない心配はしなくなる。俺は兎も角行ってくる。』

 次の瞬間にビリイはいなくなってしまった。
 吾輩もビリイに居なくなられて急に寂しく感じたが、やがて自分の死体が気になった。不思議なもので幽界へ来てみると、犬のような嗅覚が出来ていて、自分の死体の臭気がするのである。
 臭気を頼りに足を運ぶと、まもなく傷病者の運搬車に突き当たって、それに自分の死体が積まれていることがすぐ判った。車は病院へ行くところなので、吾輩もその車のわきに付いて歩いて行った。
 やがて医者が来て吾輩の死体を検査した。
 『こりャモーだめだ!』と医者が言った。『なかなか手際よくやりやがった。どうだい、この気楽な顔は!』
 吾輩はもし出来ることならこの藪医者の頭をウンと殴りつけてやりたくて仕方がなかった。
 『可哀そうに・・・・・・。』
 と云ったのは看護婦であった。
 
 すると付いて来た巡査が言った。──
『ナニ別にかわいそうな奴じゃない。轢かれた時にすっかり泥酔していたのじゃから責は全然本人にあるのじゃ。私は這奴(こやつ)をよう知っとるが、何とも手に負えぬ悪党じゃった。這奴が失せ居ったのは却って社会の利益(ため)になる。』
 その瞬間にケタケタと気味の悪い笑い声がするので、振り返ってみると、其処に居るのは世にも獰猛な面構えの化物然たる奴であった。
『一体きさまは何物だい?』
と吾輩が尋ねた。
『フ丶丶丶俺のことをまだ知らんのか?』と其奴(そいつ)が答えた。俺は何年間かお前に憑き纏って居るものだ!』
『何・・・・・・何んだと・・・・・・?』
『俺はお前の親友だ! お前の気性にほれ込んで陰から大いに手伝ってやっている一つの霊魂だ。まア俺の後について来い。少し方々案内してやるから・・・・・・。』
 その瞬間に病院は消え失せてしまった。


      
              二   酒      亭
 これは陸軍士官から送られた第二回の通信で、死後幽界における最初の経験が例の露骨な筆法で物語られてあります。心理学者が頭を悩ます憑霊現象の裏面(りめん)の消息がいかにも突っ込んで描き出されておりますので、何人(なんびと)もこれには少なからず愕(おどろ)かるると同時にまた深く考えさせられるところがあろうかと存じます。──

        
 吾輩は案内されるままに無我夢中で右の怪物の後について行ったが、四辺(あたり)はイヤに真っ暗なところであった。やがて気がついて見ると無数の霊魂がその辺にウジャウジャしている。
『ここは一体何処なのかい?』
と吾輩は案内者に訊いて見た。
『それよりか、お前は何所へ行きたい?』と彼が言った。『望みの場所へ、何所へなりと連れて行ってあげる。』

『吾輩は何より酒が飲みたいナ。』
『それならこっちに来るがいい。酒の好きな奴に誂向(あつらえむ)きの店がある。』
 忽(たちま)ちにして辺りに罵り騒ぐ群衆の声が聞こえた。と、其処には一個の怪物が多数の配下を率いて控えていたが、イヤその人相だけはとても形容の限りではない。世の中で一番それに近いものと言えばへべれけの泥酔漢(よっぱらい)位の所であろう。下品で、醜悪(しょうあく)で、ふやけ切って居て、そして飽くまできたならしい。
 詩聖ミルトンは堕落した天使の退廃的な壮麗さを『失楽園』の中に描いているが、そんな趣はこの怪物には微塵もない。そいつが眼玉をぐりぐりさせると他の奴どもが声を揃えて怒鳴り立てる。──
『酒! 酒を飲ませてくれい!』
『俺の後について来い!』と右の怪物が言った。『酒ならいくらでも飲ませてやるが、しかし、きさま達はその前に一と働きをしなければいけねえ。』
 忽(たちま)ちわれわれは大きな、しかし下等な一つの酒亭(さかや)に入っていた。その場所はたしかロンドンの東端(イースト・エンド)の何所かであるらしい。内部には下等社会の男も女も、また子供さへもいた。

 イヤその部屋に漲(みなぎ)るジンやウイスキイの何とも言えぬうれしい香(におい)! ちと安ビールの香だけは感心もできなかったが、もちろんそんなことには頓着して居られはしなかった。
 吾輩は早速酒場に置いてあるビールの大杯にしがみついた。が、いくら掴んでもドーしてもコップが手に入らない。そうなると飲みたい念慮は一層強まるばかり、軀中(からだじゅう)が燃えだしそうに感じられた。それにしても親分は一体どうして居るのかと思って背後(うしろ)を振り返ると、彼は大口開いて吾輩を嘲(あざけ)り笑って居た。
 彼は漸(ようや)く笑いを抑えて言った。──
『ちと仕事をせんかい。このなまくら野郎が・・・・・・。』
『仕事をせいだって、一体どうすればいいのだ?』
『他の奴らのやっているところを見い!』
 そう言われて初めて気をつけて見ると、他の連中は頻りに酒を飲んでいる男や女の軀(からだ)に絡み付いている。どうしてそれをやるのかは正確に判らないが、兎に角何等(なんら)かの方法で、彼らの肉体の中にねじ込んでいるらしいのである。
 するとペロペロに酔っぱらった男の首玉にしがみついて居た一人の霊魂が、この時たちまちスーとその肉の中に吸い込まれるように消え去った。オヤッ! と思う間もなくその泥酔漢(よいどれ)はよろよろと立ち上がって叫んだ。──
『こらッ! 早くビールをもって来んか! ビールだビールだ』
 仕方がないと言った風で一人の給仕女(メード)がビールをもって行ってやった。が、よくよく見るとかの泥酔漢(よいどれ)の両眼から爛々と光っているのは本人のではなくして、たしかに先刻入った霊魂の眼光であった。彼は盛んにビールを呷るとともにますます猛り狂った。とうとう酒場の監督が来て、その男の肩を捕まえて戸外に突き出そうとすると、泥酔漢はいきなり大瓶を振りかざしてゴツンと一つ監督の頭をくらはしたからたまらない。監督の脳天は微塵に砕けた。

    
 見る見る一大修羅場が現出した。
『人殺しーッ』
 酒飲みの大半は悲鳴を挙げて戸外に飛び出した。霊魂の中には人間の首玉に巻き付いたまま一緒に出掛けたものもあったが、中には又それっきり人間を突っ放してしまったのもあった。

 その時吾輩は初めてこれらの霊魂が二種類に分かれていることに気がついた。即ち明らかに人間であるのと、人間でないのとである。人間でない奴は種々雑多で、何れも多少動物じみていた。とても吾輩にそれを形容する力がない。醜悪で、奇怪で、人間ともつかず、動物ともつかず、時とすれば頭部が動物で軀(からだ)が人間の化物もある。中には単に頭部ばかりの奴もいるかと思えば、何等定型のないめちゃくちゃのヌーボーも居る。
 そうする中にも、例の監督をやっつけた酔漢(よっぱらい)は相変わらずビール瓶を振りまわしている。と、吾輩のすぐ傍で耳を劈(つんざ)くようなキャ―キャー声で高笑いをするをものがある。見るとそれは例の親分の霊魂がうれしがって鬨の声を張り上げているのであった。
 われわれ仲間もこれに連れて一緒になって喝采したが、むろん何故喝采したかは判らない。すると酔漢に憑いていた悪霊がこの時頻(しき)りにその軀(からだ)から抜け出しにかかった。すっかり抜け切ったと思った瞬間、酔漢(よっぱらい)はペチャぺチャと地面(じべた)に潰れた。
『あいつは死んだらしい。』
と吾輩はビリイに言った。ビリイはいつの間にやら戻って来ていたのである。
『なかなか死ぬものか。ただ酔い潰れていいるだけじゃ。が、彼等は追っつけ断頭台(だんとうだい)のシロモノだネ。』

『しかし監督を殺したのは彼奴(あいつ)の仕業ではない・・・・・・。』
『無論彼奴(あいつ)の仕業でないに決まっている。しかし裁判官にそんなことが判るものか。裁判官などというものは外面を見て裁判するものだ。日頃監督を恨むことがあったとか何だとか、理屈は何でもつけられる。それとも貴公証人として法廷にまかり出て彼奴の冤罪を解いてやったらどうだい?』
 そう言ってケタケタと笑うと他の奴どもも一緒になって笑った。
 丁度その瞬間に警察官が出張して一同から事情を聞き取り、やがて酔漢はつまみ上げて運び去られてしまった。
『大出来大出来!』われわれの親分が囃(はや)し立てた。『他の奴どももこれに劣らず大いに勲功(くんこう)を立てい!』
 われわれはそれから又大いに飲み始めた。そうする中に吾輩も見よう見まねで、ドーやら人間の軀に絡み付いて酒を飲む方法を覚えてしまった。正当に言うと、それは酒を飲むのとは少し訳が違う。むしろアルコールに香を嗅いで喜ぶだけの仕事に過ぎない。が、兎に角豪儀である。豪儀であると同時に何やら物足りない。聖書にある死海の林檎そっくりで手に取ると直ちに煙になる。が、そんな次第で幾日となく上の酒屋に入り浸った。そしてしまいには吾輩も本式の憑依法まで覚え込んでしまった。

 吾輩は今憑依に方法を説明することは出来ない。よしや出来てもそうしようとは思わない。が、大体に於いてそれは現在吾輩がワアド氏の軀を借りて自動書記をやりつつあるのと同種類のものだと思えばよい。──心配し玉うな諸君、現在の吾輩はあんな悪い真似はモーしません。例えしようと思っても、ワアド氏の身辺にはちゃんと立派な守護神様が控えて御座る。その上叔父さんも附いて居なさる。
 これで予定通りしばらく休憩と致します。幽界の悪魔の酒の飲みっぷりは大抵こんなところでお判りでしょう。三十分ほど休んだ上で先へ進むことにしましょう。
 
     
                                三  幽界の居住者 
 今度のは前回のとは少々趣が異なって、ワアド氏の口が動いて喋り出したのでした。むろん口を使っているのは陸軍士官であります。──

 吾輩はこの辺で一つ彼(あ)の酒の親分の正体を説明して置きたいと思います。彼は所謂妖精ではない。又人間の想念が凝り固まって出来上がった変化(へんげ)
でもない。彼は極度に飲酒を渇望するすべての人々の煩悩から作り出された一つの妖魔であります。故に一旦世界中から飲酒慾が消え去った暁には、あんなものは次第に存在を失います。但しすぐに消えはしません。何となれば人間界に飲酒慾が消滅しても幽界には暫時彼を給養するに足るだけの材料があるからであります。けれども人間が全然飲酒の習慣を廃した上は、われわれ幽界のものも結局酒の香さえ嗅げないことになりますから、自然かの妖魔とても栄養不良に陥ります。ただしこれはひとり飲酒ばかりでなく一切の煩悩が皆その通りなのであります。
 人間の想像で創り上げた悪魔は、それを創った人が右の想像を棄てると共に消滅しますが、困ったことには他の人が又後から後からそれを復活せして行きます。僧侶などの中には、どんなに悪魔を製造して地獄に供給したものがあるか知れません。そんな悪魔はしきりに地獄の居住者を悩まします。しかし悪魔の存在を知らないものの眼には決してその姿が見えないのが不思議であります
 妖精というものは、其れとは全然性質が違います。彼らはわれわれと同じく独立して存在します。

ドーして妖精が最初発生したのかは吾輩には判りません。又妖精と云ったところで決してその全体が悪性のものばかりではない。中には快活で、気楽で、渓谷や森林に出入して居るものもあります。そして無邪気な小児達の眼に時々その姿を見せるものでありますが、そんなことを白状すると子供たちは笑われたり、叱られたりするので、だんだん黙っている癖がつき、その中妖精に対する信仰が失われて交通が杜絶してしまったのです。
 妖精にはいろいろの種類がある。風の精、木の精、花の精・・・・・・、その他数限りもない。吾輩は当分彼らの中で悪性のものだけに就いて述べることにします。が、悪性と云ってもそれには程度があります。又妖精とて進歩もするらしいのですが、その詳しいことは判りません。
 時とすれば死者の霊魂は自分の遺族に未練を残してそれを護ろうとします。彼等にも偶(たま)につまらない注意や警告を与えるくらいの力はありますが、しかし死の知らせなどをやるのは、実は皆人の死を嗅ぎつけて接近する妖精の仕業であります。彼らは死者の驅からある物質を抜き出そうという魂胆があるのです。
 あの吸血鬼の伝説・・・・・・。夜間死霊が墓場から抜け出して寝ている人の血を吸いとると言う話は稀には見受けますが、しかし幸い滅多に起こらないことです。まだ伝説に言って居るような、あんな馬鹿げたことでもない・・・・・・。

 以上述べた所で、大体われわれが邂逅(でつくわ)すシロモノの見当は取れたと存じます。諸君の御親切に対しては感謝の言葉がありません。次回には又何かご報告いたしましょう。吾輩のは皆乱暴きわまる話ばかりで、Kさんの奥様はさぞお聞き苦しく思うでしょう。しかし吾輩としては申し上げるだけのことは皆申し上げてしまわねばなりません。──では今回はこれで失礼いたします。・・・・・・
 右の陸軍士官の物語が済むと、すぐに叔父さんが入れ代わって右に関する批評めいたものを語りました。それはこうです。──
 Kさんの御夫婦には私からもお礼を申し上げます。しかし私の考えます所では陸軍士官のお述べになるところは大変大切で、恐らくわれわれの送る霊界通信の白眉だろうと存じます。・・・・・・

   
            四  交霊会の裏面
 続いて現れた陸軍士官からの霊界通信──。
                        
 諸君は吾輩の手もとから当分あまり気持ちのよい通信に接しようと期待されると宛が外れます。諸君は事実を要求される。故に吾輩は事実を供給する。一体世間の人達が赤裸々の事実に接せられることは甚だ望ましいことで、ただ光明の一面ばかりを見るのみでは不足であります。是非とも暗黒面をも知っておかれる必要があります。
 吾輩はすでに飲んだくれの集まる魔窟(まくつ)のことを紹介しました。それから吾輩が何をやったか? ──今ここで一々それを書いてお目にかける必要はない。無論吾輩は酒亭(さかや)に出掛けたと同様に娼家(しょうか)にも出かけた。
 酒の化物(ばけもの)があると同じく色慾の化物もある。それは女の姿をした妖魔であるが、しかしその醜さと言ったら天下無比、どの点から見てもたまったものではない。いかに吾輩でもこの方面の状況を一々書き立てる勇気はない。兎に角酒亭で死海の林檎式の一種の満足を買い得る如く、殆どいなる慾情に対しても同様の満足を買い得る。──イヤ満足ではない。何処まで行っても不満足である。それがわれわれに加えらるる天の刑罰で、眞に渇望を満たし得る方法は絶対ないのである。

 不満足な満足──さすがの吾輩も酒亭や娼家の享楽が少々鼻について来ました。すると、いつも吾輩の案内をつとめる悪霊が吾輩に向かってこう言うのです。──
『どうだい一つ交霊会を冷やかして見ようではないか?』
 吾輩は不審のあまり尋ねた。──
『何の為にそんな場所へ行くのかね?』
『イヤなかなか面白いよ、交霊会という奴も・・・・・・。』
『ただ面白いだけの事かね?』
『イヤ他にも理由がある。汝が現在持っている軀は反物質的のものだが、気を付けてちょいちょい手入れをしないと軀(からだ)がしまいには亡くなって地獄へぶち込まれてしまうぞ。』
『俺はまだ地獄へ堕ちてはしないのかね?』
『堕ちて居るものか。此処はまだ地上だ。本物の地獄に堕ちたとなると、まるで勝手が違ってくる。』
『そうかナ。それなら軀の手入れを怠らないことにしようかナ。』と吾輩が叫んだ。『しかしも少し詳しく説明して聞かせてくれ。吾輩も生きている時分に曾て交霊会というものに行ったことがあるが、見るもの聞くもの頓と合点の行かぬことばかり、てっきりただの詐術としか思えなかった。』
『イヤ交霊会というものは大別して三種類に分かれるよ。』と案内者が説明した。『尤も互いに重なり合った所があるので、余りはっきり区別する譯にも行かないがネ。即ち
(一)善霊の憑る交霊会。
(二)悪霊の慿る交霊会。
(三)詐術。
の三つだね。その中で第一のはわれわれに歯ぶしが立たない。第三のは役に立たない。ただ眼の付けどころは第二のヤツだ。これがこちとらの畠のものだ。正しい霊媒でも甘く行けばだまくらかして俺たちの仲間に引きずり込むこともできる・・・・・・。』
『どうしてそんなことが出来るのかい?』
『その霊媒に慾が出て、霊術を利用して金でも儲けようとした場合にその軀を占領するのだ。』
『そうすると霊媒は謝礼を取ってはいけないのかね?』 

『そんなことはないさ! 霊媒だって牧師だって食わずに生きては居られない。牧師が年俸四百ポンドをもらって妻子を養うからと云って誰も何とも言いはしない。平牧師から出世して監督にでもなれば年俸三千ポンドくらいは貰われる。しかしそれでも別に牧師の沽券(こけん)が下がる譯でもない。──ただかりそめにも牧師ともあろうものが、同胞救済のために力を用いず、朝から晩まで自分の位置や財産ばかりを目当てにして居た日にはすぐに評判が悪くなる。霊媒だってその通りだ。何ごとも動機が肝腎だ。動機ばかりはごまかせない。一旦動機が悪くなったと見ると、その時こそわれわれの附け込むところだ。
『けれども、そんなことをして何ぞ俺たちの利益(ため)になるのかね?』
 彼は横目で睨みながら、
『そりゃなるとも! まず第一にわれわれはそうして自分の幽体を養うための材料を手に入れるのだ。第二には権力だ。権力! お前の耳にはこの言葉がピーンと気持ちよく響いて来ないかい?大勢の人間を思うままに引きずり回すのは素敵じゃないか! 就中──。』そう言って彼は一層毒々しく眼球を動かし乍ら『われわれはこれを利用して昔の恨みを晴らすことが出来る。それからモ―一つ、たとえ一時の間でも人間の軀に宿るということは有難いじゃないか。こう考えた時に交霊会という奴も満更ではなかろう。イヤまだあるある!幽界で散々修業を積んだものが、モ一度人間の世界に出しゃばって大手を振って歩き回れる・・・・・・。何と面白い話じゃないか!』  

         
 吾輩もこの説法を聞かされてすっかり交霊会行きに賛成してしまった。そして間もなく他の一群の霊魂達と連れ立ちて交霊会の催されている一室に出掛けて行ったが、其処には一人の婦人が約十人ばかりの男や女に取り囲まれて座っていた。婦人の側には光り輝く一人の偉大なる天使が立っていたが、その天使は雲霞(うんか)の如き悪霊どもに包囲され、多勢に無勢、遂にみすみす霊媒の軀を一人の悪霊の占領に任せてしまった。悪霊どもはこれを見ると、ドッとばかりに歓呼の声をあげ婦人の身辺に押し寄せて、前後、左右、上下からひしひしと包囲しつくして霊魂の垣根を作った。
『一体こりア何をして居るのかしら・・・・・・』と吾輩が自分の案内者に尋ねた。
『ナニわれわれはこうして天使の勢力を遮断しているのだ。いかに偉い天使でも悪霊の垣根は容易に突破し得ない。丁度われわれが優れた霊媒を包囲する天使の垣根を突破し得ないと同様じゃ。さアこれから憑依霊が仕事を始める所だから気を付けて見物するがいい。』

 そういう中にも霊媒は口を切り始め、その席に居た一人の中年の
婦人に向かってこんなことを言い出した。──
『私はお前の妹のサリイです。私はどんなに姉さんに逢いたかったでしょう。』
 これをきっかけに二つ三つ当人に心当たりのありそうなことを喋った。それを聞いて吾輩はすっかり感心してしまった。
『どうしてこんな事実を知っているのかしら。・・・・・・実に恐れ言ったものだネ』
『そりゃ譯はないさ。彼奴は何年となくこの霊媒につき纏(まと)って居て、いろいろ役に立ちそうな材料を平生から仕入れて置いてあるのだ。──さア又始まった・・・・・・。』
 見れば今度はその部屋に居た一人の男が霊媒に向かって質問を始めた所であった。──
『私は何ぞ有益(ため)になることを伺いたいのです。詰まりその実用向きのご注意を・・・・・・。』
『それではあなたの兄さんのジョージさんに訊いて見ましょう』と霊媒が答えた。そして直ちにジョージという人物の態度(ふり)をして言った。『ヘンリー、私は財産上の問題に関して一つお前に有益な注意を与えようと思うが、モちと此方へ寄って耳を貸しておくれ。他言を憚ることだから・・・・・・。』

 そういった彼は右の男の持っている、ある株券のことに就きてボソボソと低い声で注意するところがあった。男はそれを聞いて大いに嬉しそうな顔をした。
『お前はそれで大成金になれる・・・・・・。』
 そう憑霊が附け加えた。
『あんなこと言いやがって本当かしら?』
と吾輩が案内役に訊いた。
『本当だよ、今のは・・・・・・。われわれの仲間は時々嘘を言って椋鳥(むくどり)をひっかけて歓ぶこともあるが、又時々は本当のことを教えてやって、どうしてもわれわれを離れることの出来ないように仕向けて行くのだ。又人間というものは成るべくいろいろの欲望を満足させて堕落させて置かないと、段々有意義な心霊上の問題などに熱中して来やがって、俺たちの邪魔をするようになるものだ。──ソレ又始まった。』
 今度は霊媒が一人の若い女に近づいた。──
『今あなたが心に思っていることはよく私に判って居ます。先方の申し込みには早速応じなさい。受け合ってあなた方の結婚生活は幸福です。あの人に就いていろいろ面白からぬ陰口を聞かされるかも知れませんが、皆嘘ですからそれに騙されてはいけません。』

 吾輩は再び質問を発した。──
『ありア一体何を言っているのかね・・・・・・。』
『あの若い女に目下結婚問題が起こっているのだネ。候補者の男というのは酔っ払いの悪者で、箸にも棒にもかからぬシロモノだ。お陰であの女は今に散々苦労させられた挙句の果てが堕落するに決まっている。そこで結局こちとらの食い物になる。──さア又始まり始まり! 今度霊媒の軀に憑った奴は剽軽者(ひょうきんもの)のイタズラ霊だからきっと面白いことをやらかすに相違ない。』
 成る程今度は霊媒に新手の霊魂が憑って様々の悪戯(いたずら)をやり始めたのであった。中には毒にも薬にもならぬ仕打ちも混じっていたが、又中には性質(たち)のよくないイタズラもあった。しかし概して
他の霊魂のように余り悪づるい所がなかった。先ず手始めに室内の品物を動かしたり、投げつけたりする。次に室内の人達の頭をピシャピシャ叩く。次に物品を隠し、人々の懐中物さえ巧みに抜き取る。それが皆人間の方から見ればちっとも手を触れないでやることになる。最後に彼は其処に置いてあったテーブルをひっくり返し、座客(ざかく)の過半にとんぼ返りをうたせた。
 やるだけやってわれわれは交霊会場をひきあげた。

 みちみち吾輩の案内役はこう説明した。──
『心霊現象と言えば大抵あんなところが一番多いが、物質的な頭脳(あたま)の所有者に霊魂の存在を承認させる為には、この種の方法以外には絶対に何物もない。その為に優れた霊媒や霊魂までも止むを得ずこんな子供じみた曲芸をやって見せるのだが、見物人は大喜びで、初めて成る程ということになり、その勢いで嘘だらけの霊界通信までも感心して受け入れる。お陰で霊媒の軀はめちゃめちゃになり、交霊会の評判はめっきり下落する。われわれ悪霊に取りての大禁物は純潔で且つ真面目な霊媒と心霊研究とである。そんなものはこっちの秘密を矢鱈に素破抜き過ぎて、人間を用心深くさせて困ってしまう・・・・・・。』
 こんな記事をご覧になれば諸君は吾輩の趣旨が那辺(なへん)にあるかをお察ししてくださるでしょう。諸君のお気の付かないところに、別に隠れたる理由もありますが、それは次第に判ってまいりますから辛抱して最後まで読んでいただきます。
 何しろ吾輩は我の強い人間で、だんだん堕落してとうとう地獄のドン底までも堕ちて行ったものであります。人間というものは生前悪事をすれば、その堕落せる人格は死後までも依然として継承され、墜ちる所まで堕ちてしまわねば決して承知が出来ないようであります。

 が、諺にもある通り、『一切を知るには一切を大目に見ることである。』──一旦地獄のドン底へ堕ちたものがやがて叉頂上まで登ることがありとすれば、その間に獲たる知識は自分自身にとりても、又一般世間に取りてもきっと大いに役に立ちます。格別の悪事もせぬ代わりに又格別の善事もせぬ弱虫霊よりも、この方が却って有効かもしれません。兎も角も吾輩はそのつもりで大いに活動します・・・・・・。

    
                五   憑霊と犯罪
 これは三月七日の午後九時五十分に出た通信で、憑霊と犯罪との面白い関係につきて例の陸軍士官が自己の体験を大胆率直に告白したものであります。法律上では単に故殺(こさつ)だの、謀殺(ぼうさつ)だの、未遂だのと芸面から頗る簡単に取り扱っておりますが、一歩其の裏面(りめん)に立ち入りて霊界の消息を窺いますと実に恐ろしい落し穴やら術策(じゅつさく)やらが仕組まれてあるようであります。本通信の如きは特に心ある人士の精読に値するものと思考致されます。──

    
 さてある日の事、吾輩は一つの交霊会へと出掛けて行った。するとその場に居合わしたのが生前吾輩の内幕を素破抜くことばかりやっていた不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵であった。
『こいつ是非敵(かたき)をとってやれ!』
 吾輩は即座にそう決心した。モーその時分には吾輩も霊媒の軀を占領して所謂神懸かり現象を起こさせるぐらいのところまで腕が磨けていた。
 吾輩の仲間には、相当腕利きの悪霊が沢山揃っていたので、そいつ達がいろいろと復讐手段を吾輩に提案した。命知らずのナラズ者に憑依し、相手を殺害させるのが面白かろうというのもあれば、其れよりはむしろ相手を騙くらかして破産させるが一番近道だと主張するものもあった。その他まだいろいろの提案があったが、しかしそれらの何れよりも遥かに巧みな方法がふと吾輩の方寸(むね)に浮かんだ。吾輩のつけ狙っている男は、よせばいいのに近頃下手の横好きで霊術弄(いじ)りを始めていた。もちろん深いことは少しも判って居ない。大体ただもの好きという程度のものであった。吾輩のつけ込みどころは其の点にあった。

 夜となく昼となく吾輩は彼に附き纏い、其の一挙一動をも見逃すまいとした、吾輩は機会さえあれば彼に損害を与えた。彼が博打をやれば、吾輩がその持ち札を相手に内通してやる。彼が事業をやれば、吾輩が仲間の胸に不安の念を起こさせる。手を変え品をかえて酷い目にばかり逢わせてやった。──が、そんなことは吾輩のホンの序幕戦で、最終の目的は決してそんな生易しいものではなかった。
 とうとう吾輩の待ちに待ちたる好機会が到着した。彼は自分の霊魂をその肉体から遊離させる修行を開始していたが、その頃漸くそれができかけてきた。これは吾輩に取りて眞に乗ずべき好機会であった。吾輩は彼の霊魂が肉体から脱出した隙を見すまして、空き巣狙いの格でその空っぽの肉体へいきなり飛び込んでしまった。
『ハ ハ ハ』と吾輩はほくそ笑んだ。『借り物ではあるが、これですっかり元の通りの人間様だ!』
 が、いよいよやってみると他人の軀の居候(いそうろう)も中々楽な職業(しょうばい)ではなかった。軀(からだ)の方ではおとなしく此方の言うことを聞こうとせず、ややもすれば追い出しにかかる。それを無理に強い意志の力で抑えつけるのだから一瞬間も油断が出来ない。幸い吾輩意志の強いことにかけては先方の比ではないので、ドーやら城を持ちこたえることが出来た。

 イヤしかし気の毒であったのは先方の霊魂であった。外面から見れば元の通りの常人に相違ないが、豈(あ)にはからんや中身は吾輩で、当人の霊魂は気のきかない顔をして、始終軀の外にぶら下がっていた。幽体と肉体とが生命の紐で連結されているので、離れてしまうことも出来ないが、さりとて体内に入ることも出来ないのである。イヤ吾輩随分思い切って彼の女房を虐めてやったものだ。蹴(け)る、罵(ののし)る、殴(なぐ)る、夜中に叩き起こす、無理難題を吹っ掛ける・・・・・・。とうとう女房は愛想をつかして子供を連れて家出をしてしまった。その間にこちらは無理酒を飲む。道楽をやる、賭博(とばく)をやる・・・・・・。人の軀だから惜しくも何ともない。お陰でそいつの名誉も健康もめちゃめちゃに毀損(きそん)させてやった。
 
       
 が、何時までこんな事ばかりもしていられないので、とうとう最後の荒療治を施すことになった。──他でもない、吾輩がその男の軀を使って或る宝石商の店に入って幾粒かの宝石を盗んだ上にその主人を殺害し、そして首尾よく発覚して官憲の手につかまるように仕向けたのである。吾輩は彼が謀殺罪(ぼうさつざい)として正規の手続きを以って刑務所に収容されるまで体内にとどまって居たが、ここまで行けばモー用事はないので監房内で軀から飛び出してしまった。それまで指をくわえてプラプラ腰巾着になって居た彼の霊魂は初めて自分の体内に戻ることが出来たが、随分気のきかない話で、その際吾輩は散々先方を嘲笑してやったものだ。
 
 いよいよ裁判が開始された時に吾輩は人知れず傍聴席に出掛けて行って居た。当人はしきりに一切の罪状につきて何等の意識がなかったことを主張した。無論それはその通りに相違ないので、かれの霊魂としては一切を承知してはいても、彼の物質的脳髄には何らの印象も残ってはしなかったのである。弁護士も亦被告が一時的に発狂したのであると熱心に弁論した。が、裁判官は次の如く論告した。──
『ある一部の人士は一切の犯罪を以って発狂の結果なりと主張する。しかしながら本職はこれを承認することが出来ない。本件被告の行動はそれを発狂と見做すには余りに工夫術策があり過ぎる。本件関係の証人等の供述に基づきて推断を下せば、被告は平生から憎むべき行為を重ね、最後にこの謀殺罪を犯したものである・・・・・・。』
 そしてかかる場合にいつも来る判決──死刑の宣告を下したのである。
 そうなって吾輩の得意は以って想うべしである。が、その中予想外の小故障が起こらないではなかった。

依然として無罪を主張する被告の誓言──こいつは左まで役にも立たなかったが、彼の女房が夫に対して同情ある陳述をなし、彼の平生の行動から推定してかの犯罪はたしかに一時性の発狂の結果に相違ないと申し立てたことは中々有力なる弁護であった。
 むろんそれが為に死刑の宣告が破棄されはしなかったが、しかし此の同情ある陳述が、今迄ただ反抗心とヤケ糞気分に充ち充ちていた夫の精神に善心の芽を吹き出せるのには充分であった。監獄の教誨師(きょうかいし)が又彼を信じて、百方慰藉(ぽういしゃ)の途を講じたので、いよいよ彼は本心に立ち返り、生前の罪を悔い改めて神にお縋りする気分になった。結局彼の肉体だけは予定通りに殺し得たが、彼の霊魂は此方の自由にならず、死刑が実地された瞬間に一団の天使たちがそれを取り巻き、われわれ悪霊を追い散らして何所とも知れず連れ去ってしまった。言わば九仭の功を一簣にかいた譯で、復讐の最終の目的は達せられずに終わったのである。
 それだけならまだ我慢できるが、今度はあべこべに吾輩自身が危なくなってきた。丁度その時分から吾輩の軀の加減が急にへんてこになり、何やら奥の方からズルズル崩れるような気がして仕方がない。いかに気張ってみてもドーしてもそれを喰いとめることができない。さすがの吾輩も驚いて自分に附き纏う悪霊に訊いて見た。──

『近頃ドーも軀に異常があるが、一体どうしたのだろう?』
『ナニ地獄に堕ちるンだネ。』と彼は平然として答えた。『汝(きさま)もモーそろそろ年貢の納め時が来たのだ。』
 吾輩はびっくりして叫んだ。──
『それでは約束が違うじゃないか! こんなことをしないと幽体が養われないというから吾輩は精出して人間の軀に憑依(とりつ)いたのだ。』
『それをやればもちろん一時は養われるさ。けれどもむろん長続きのするものじゃない。モー汝(きさま)もいよいよ近い内に幽体とお別れじゃ。』
 吾輩はがっかりして尋ねた。──
『そうすると今度はどんな軀を貰うのかね?。』
『今度は霊体というシロモノだね。眞の苦痛はそれから始まるのさ・・・・・・。』
 そう言われて吾輩は初めてこの悪霊がいかに悪意を以って吾輩を呪い詰めて居たかに気がついた。その時の忌々しさ! 憎らしさ! とても筆紙には盡(つく)せません。それからいよいよ吾輩の地獄堕ちとなるのですが、今晩の話はこれで止めて置きます。
 
 諸君、吾輩の通信中には至る所に大なる警告が籠っているつもりであります。それ故何卒(ゆえどうぞ)これを厄介物視(やっかいものし)せず、充分の注意を以って研究して頂きたいと存じます。今晩はこれでお別れいたします・・・・・・。

    
            六  地獄の大都市  
 これは三月二十八日午後九時半から現れた陸軍士官の霊界通信で、いよいよこの通信の大眼目たる地獄の第三部、憎悪、残忍、高慢の罪を犯した者の当然入るべき境涯の第一印象をば、例の端的な筆法で報告してあります。ある程度まで時空の司配を受くる幽界の状況とは俄かに勝手が違いますからそのおつもりで翫味(がんみ)さるることが必要であります。

        
 前回諸君にお別れした時に吾輩がとうとう地獄に堕ちかけたことを申し上げて置きましたが、大体地獄という所は地上界とは多くの点に於いて相違しております。──最初吾輩の軀は暗い、冷たい、恐ろしい無限の空間を通じてドンドン墜落して行く・・・・・・。最後に何やら地面(じべた)らしいものにゴツンと突き当たった。ふと気がついて見ると其処には道路(みち)らしいものがある。兎も角も吾輩はそれに這い上がって、コツコツ進んで行ったが、ツルツル滑って間断なく汚い溝(どぶ)の中に陥(はま)る。陥っては這い上がる。這い上がっては又陥(はま)る。辺りは真っ暗闇で何が何やらさっぱり判らない。が、吾輩の軀は不思議な引力のようなものに引きづられ、ある方向を指して無茶苦茶に前進を続ける。──最後に吾輩は荒涼たる石ころだらけの野原に出た。
 依然として闇の中をば前へ前へと引き摺られる。その間何回躓き、何回倒れたかはとても数えきれない。こんな時には誰でもいいから道連れの一人でもあってくれればと頻りに人間が恋しくてしょうがなかった。そうする中に次第次第に眼が闇に熟(な)れて視力が少しづつ回復してきた。行く手を眺めると何やら朦朧と大きな凝塊(かたまり)が見える。しばらくするとそれはある巨大なる市街の城壁で見渡す限り・・・・・・。と云って余り遠方までは見えないが、兎に角どこまでもズーと延長した城壁であることが判った。幸い向こうに入口らしいところがある。近づいてみると、それは昔のローマの城門めいたものであるので、吾輩構わずその門をくぐった。が、その瞬間に気味の悪い叫び声が起こり、同時に二人の醜悪なる面構えの門番らしい奴が、矢庭に吾輩に飛びかかって来た。

 ドーせ地獄で出くわす奴なら、片っ端から敵と思えば間違いはあるまいと気がついたので、吾輩の方でも遠慮はしない。忽ちそちらに振り向いて、命限り・・・・・・。いや命は最初から持ち合わせがないから、そういうのも可笑しいが、とにかく一生懸命になって、向こうと格闘しようと決心した。ところが妙なもので、吾輩がその決心を固めると同時に二人の醜悪な化物は俄然として逃げ出した。これがそもそも吾輩が地獄に就きての最初の教訓に接した端緒であります。地獄には規則も何もない。ただ強い者が弱い者を虐める。そしてその強さは腕力の強さではなくて意志の強さと智慧の強さであるのです。
 吾輩はしばらくの間何等の妨害にも接せず、先へ先へと進みましたが、モーその時には濃霧を通して種々の建物を認め得るようになりました。だんだん見ている中にこの市街には何処やら見覚えがあることに気がついた。──外でもない、この市街は古代のローマなのであります。ローマではあるが、しかしローマ以上である。曾てローマに建設されて今は滅びた建物が出現しているばかりではなく、他の都会の建物までが其処らに出現している。むろんそれ等の建物は皆残忍な行為と関係のあるものばかりで、それらの邪気が凝集してこの地獄の大首府が建設されているのであります。同じくローマの建物でも残忍性のない建物は此処には現れないで、それぞれ別の境涯に出現している。すべて地上に建設さるる一切の都市又は建物の運命は皆斯うしたものなのであります。

 憎悪性、残忍性の勝っている都市としてはローマの他にヴェニスだのミランだのが数えられる。そして呪われた霊魂達は皆類を以ってそれぞれの都市に吸引される。むろん地獄の都市は独り憎悪や残忍の都市のみには限らない邪淫の都市だの物質慾の都市だのといろいろの所が存在しパリーやロンドンは主に邪淫の部に出現している。但しこれはホンの大體論で、ロンドンの如きもそれぞれの時代、それぞれの性質に応じて、局部局部が地獄の各方面に散在していることは言うまでもない。
 
           
 華麗(りっぱ)ではあるがしかし極度に汚い市街を、吾輩は足に任せてうろつき回った。時々吾輩は男や女に出くわしたが、その大部分は地上と格別違った服装もしていない。ただそれがイヤに汚れてビリビリに裂けているだけであった。中には吾輩を見て突撃して来そうにするのもあったが、此方からグッと睨みつけてやると譯なく逃げてしまった。そんなことを繰り返している中に、吾輩ふと考えがついた。──

『今まで俺は人から攻撃されてばかりいるが今度は一つアベコベに逆襲して家来の一人もこしらえ、道案内でもさせてやろうかしら。ドーせ自分は厭でも諾(おう)でも此処に住まなければならんのだから・・・・・・。』
 そこで吾輩はいきなり一人の男に飛びかかった。先方はびっくり仰天、キャーッ! と悲鳴をあげて逃げ出したが、吾輩は例の地獄の奥の手を出し、ドーしても後戻りをするように念力を籠めた。先方は飽くまで抵抗はしてみたものの、力及ばずづるりづるりと次第にこちらへ引き寄せられて来た。いよいよ手もとに接近した時に吾輩は自分の権威を見せる為に、ギューと地面にそいつの頭をすりつけさせ、散々油を搾った上で、起きて道案内しろと厳命した。奴さんおろおろ声を出して愚痴りながら、吾輩の命のまにまに諸々方々の建物を案内して歩いた。
 やがて家来が恐る恐る吾輩に訊いた。
『ここで昔のローマ武士の大試合がございますがご覧になられますか?』
『ふむ、入ってみよう。』
 早速昔の大劇場(コロシアム)と思しき建物に入ってみると座席は見物人で充満(いっぱい)であった。其処で吾輩は忽ち一人の男の首筋を掴んで座席の外におっぽり出した。その次の座席には醜悪な容貌の女が座っていたので、こいつも序に放り出してやった。われわれ二人は大威張りでそこへ座り込んだ。

 試合は丁度始まったばかりであった。見ると自分たちの反対側には立派な玉座が設けられてある。
『あそこが陛下の御座所でございます。』
と吾輩の家来がビクビクしながら小声で囁いた。
『ナニ陛下・・・・・・。一体それはどこの馬の骨か?』
『よくは存じませぬが、兎に角あの方が皇帝で、この近傍を司配しておられます。』
『そうすると地獄には他にもまだ皇帝があるのか?』
『そうでございます。王だの大将だのも沢山ございます。』
『そんなに沢山あっては喧嘩をするだろうナ?』
『喧嘩・・・・・・。旦那様は妙なことをお尋ねになられますナ。一体何時何処からお出でなされましたか?』
『そりァ又何故かナ?』
『でも旦那様、地獄に喧嘩は附きものでございます。此処は憎悪と残忍との本場でございます。われわれは間断なくお互いに喧嘩ばかり致します。

地方と地方とは鎬(しのぎ)をけずり、皇帝と皇帝とはノベツ戦端を交えます。現に私どもは近頃附近の一地方を征服しました。で、今日はその戦勝のお祝いに捕虜達を引き出して試合をさせるのでございます。あッ戦士たちの出場でございます。』
 やがて試合が始まりましたが、さすがの吾輩も臍(ほぞ)の緒切って初めてこんな気味の悪い見世物を見物しました。昔の試合に附きものの残忍さがあるだけで、昔の武士道的華やかさは微塵もなく、ただ野獣性の赤裸々の発露に過ぎない。又試合は単に男子と男子との間に限らず男子と女子との試合もあれば、甚だしきは大人と小児との試合さえもあった。そしてありとあらゆる苦痛を与え、憐れな犠牲者たちはヒイヒイキィキィ声を限りに泣き叫ぶのである。大体の光景は地上で見るのとは大差はないが、ただ何時まで経っても死ぬということがないから、従って苦痛も長い。のべつ幕なしに何時までもやり続ける。──現在の吾輩はこんなことを書いたり読んだりするだけでも胸が悪くなりますが、当時はまるでその正反対で、極度に吾輩の残忍性、野獣性を挑発し、何とも言えぬ快感を与えたのでした。これは決して吾輩ばかりでなく、すべての見物人が皆そうなので、地獄の主権者がかかる見世物を興行する理由もその点に存在するのです。──今日はこれで中止しますが、次回にはモ少し詳しく申し上げます・・・・・・。』
 
   
              七  地獄の芝居
 三月三十日のはいつもの自動書記式通信ではなく、ワアド氏の方から霊界の叔父さんを訪れ、その部屋で陸軍士官と直接面会してこの物語を聞かされたのでした。ワアド氏は前にも透視法で陸軍士官と会っているのですが、相変わらずこの日も如何にも意志の強そうな、いかつい顔をしていたそうで、ただ以前に比べれば憎々しい邪気が余程減っていたということであります。
 陸軍士官の話しぶりは例によってテキハキと、単刀直入的に前回の続きを物語っております。──
 
        
 さて御前試合もいよいよ千秋楽となって見物客がゾロゾロ退散するので、吾輩も家来を連れて演舞場を出たのであるが、わざと城門の附近に陣取って所謂皇帝の退出するところを見物することにした。間もなく皇帝の馬車が現れたが、その周囲は大変な人だかりだ。そして以外にも全丸裸の男女が沢山その中に混じっているのである!
 吾輩は家来に訊いた。
『イヤに素っ裸の霊魂がいるではないか! 死んだものは皆衣服を着ている筈だのに・・・・・・。』
『これが皇帝陛下のお道楽でございます。斯うして多くの家来たちを無理に裸にさせて、うれしがって居られるのでございます。』
『しかし幾ら裸体にされてたところで、幽霊同士ではあまり面白い関係もできまいが・・・・・・。』
『御説の通りでございます。旦那様もモーすっかりお存じでございましょうが、肉体のないものには肉体の快楽ばかりは求められはしません。真似事ならいくらでもできますが、それではまるきり影法師と影法師の相撲のようなもので面白くも可笑しくもございません。情慾だけは依然として燃えながら、それを満足せしむる軀がないのでございますから全くやり切れは致しません。』
 そう言っている中に、大きな猟犬が幾匹となく側を走り過ぎたので吾輩は驚いた。
『地獄にも動物がいるのかね? 妙なものだナ・・・・・・。』

『ナニこれは本物の動物ではございません。皇帝の思召しで、人間の霊魂が仮に動物の姿を取らされましたので、丸裸にされたり、又は子供の姿にされたりするのと何の相違もございません。皇帝は実に素晴らしい力量のある方で、われわれをご自分の好きな姿に変形させ、甚だしきは家具や什器の形までも勝手に変えて面白がっておられます。』
 やがて皇帝の行列が自分たちの前面を通過しましたが、イヤその騒々しさと、残酷さと、又淫猥(ふしだら)さと来た日にはまるきりお話にならない。そして行列の前後左右には間断なく悲鳴が聞こえる。これは種々雑多の刑罰法が時とすればお供の者に加えられたり、又時とすれば見物人に加えられたりするからである。就中人騒がせの大将は例の猟犬で、引っ切り無しに行列の男女に嚙みついたり、又見物人を皇帝の前に咬(くわ)えてきたりする。
 皇帝はと見ると、大威張りで戦車に納まり返っているが、その面上には罪悪の皴が深く深く刻まれて、本来の目鼻立ちがとても見分けられぬ位、まさに残忍性と驕慢性(きょうまんせい)との好標本であった。が、生前はこれで中々の好男子ではなかったかと思われる節も何処やらに認められるのであった。
『一体彼は何者かナ? ローマのネロではあるまいナ。』
『いいえ旦那様』と吾輩の家来が答えた。『私はあの方の名前を忘れてしまいましたが、ネロではないことだけはよく存じております。ネロはあの方の家来でございます。あの方に比べるとネロなどは屁ぼっこの弱虫です。幾度となく皇帝に反旗を翻しましたが、その都度いつも見事に叩き潰されてしまいます。けれどもネロも中々狡猾な男で、いつも監視者の隙を狙って逃げ出しては一騒動を起こします。。そして捕まるごとに皇帝から極度に惨たらしい刑罰を受けます。イヤ、ネロ虐めは皇帝の一番お気に召した娯楽(たのしみ)の一つでございます。』

『そりァそうと貴様は皇帝が生前何という名前の人間であったか、きっと知っているだろうが・・・・・・。』
『イヤ私は全く忘れてしまいましたので……。』
『この嘘つき野郎! 何でそれを忘れる筈があるものか! まっすぐに白状せい!』
『白状するにもせぬにも全く存じませんので……。』
『それならよし。俺がきっと白状させてみせる。』
 吾輩は例の地獄の筆法で、極度に恐ろしい刑罰法を案出し、一心不乱にそれを念じたから耐(たま)らない。家来の奴は七転八倒の苦しみ・・・・・・。それこそ本当の地獄の苦しみを始めた。
 が、いくら虐めても知らないものは矢張り知らないので、最後には吾輩もとうとうくたびれて家来虐めを中止し、其れなら何所ぞ面白い場所へ案内せいと命じた。

『それでは旦那様劇場へご案内いたしましょう。』
 やっと涙を拭いて答えた。
『ふむ劇場・・・・・・。それも良かろうが、一たい此処ではどんな芝居をやっているのかナ?』
『そりァ素敵に面白いものでございます。地上で有名な惨劇は大てい地獄の舞台にかけられます。そして成るべく生前その惨劇に関係のある当人を役者に使って、地上でやった通りをやらせます。』
『人殺しの芝居ばかりでなく、少しは陽気な材料、例えば若い男女の愛慾と云ったようなものはやらんかナ?』
『見物にはそんな材料もございますが、ご承知の通り此処は人を憎むことと人を虐めることとが専門の都市でございます。従ってここでやる脚本の主題となるのは皆その類のもので、邪淫境へまいりませんと色情が主題となったものはありません。──尤色情と残忍行為とは親類筋でございますから、此処の芝居をご覧になっても中々艶っぽい所も出てくる幕がございます。』
『地獄にも新脚本が出るかな?』
『余り沢山も出はしません。しかし皆地上で演ぜられたものの焼き直しが多いのであります。
 
尤も地上には本物の惨劇毎日演ぜられますから、此方で材料の払底する心配は少しもございません。』
『して見ると真の創作は地獄から出ることは無さそうだナ?
『一つも無いように考えられます。地獄物は悉く輸入ものか焼き直しものばかりでございます。』
 
             
 やがて我々は一大劇場の正面に出た。途中可なりの距離を歩いて来たが、その辺で見かけるどの建物も大てい皆近代式のものばかり、就中劇場などときてはまるきり近頃のものだった。そのくせ汚れ切って居て、手入れなどさっぱり出来てはしなかった。
 が、見物人の多いことと言ったら全くすさまじいほどで、押すな押すなの大盛況。──われわれはしばらく群衆と一緒になって、門の中まで入って見たが、そこは殆ど修羅の巷で、大概の観客はお互いに喧嘩をしている。ヤレ押したとか、押されたとか。ヤレ滑ったとか転んだとか。めいめいなんとか勝手な文句を並べて騒いでいる。殊に切符売り場の騒動ときては尚更ひどいもので売り手と買い手とがひっきりなしに罵り合っている。

 いつまでもこんな騒動の渦中に巻き込まれていたのではとてもやりきれないので、吾輩は満腔の念力を籠めて、辺りの群衆の抗議などには一切頓着なしに、家来の手を引っ張りながら、グイと真一文字に切符売り場へと突進した。家来の奴も吾輩の保護の下に大威張りで、道すがら幾人かを突き飛ばし、殊に一人の婦人の頭髪をひっつかんで地べたの投げ倒したりした。しかし鬼のような群衆は別にその女を可哀そうとも思わず、倒れている軀の上をめいめい足で踏みにじった。
 それから吾輩は家来と共に直ちに観覧席に突入して行ったが、ここでも亦見物客の大部分が罵り合ったり、叩き合ったり、乱痴気騒ぎ。──自分達のすぐ臨席の男女なども決して御多分にもれず大立ち回りの最中であった。これが裏店社会の出身というのなら聞こえているが、この二人は元はたしかに上流社会のものであったらしく、身に付けている衣服などは、汚れて裂けて入るものの中々金のかかった贅沢品であった。それで居て大ぴらに喧嘩をやらかすのだから全く以て世話はない。その中男の方が女よりも強烈な意思の所有者であったらしく、とうとう女を椅子と椅子との
中間に叩き伏せてしまった。そして自分の椅子をわざわざ引きずって来て、女の軀を足の踏み台にして、どっかとそれに座り込み、女が起き上がろうとすると、上からドシンドシンと靴で踏みつけた。

 やがて彼は自分たちを認めると、手真似で前を通れと知らせ、且つこう付け加えた。──
『構いませんから、上を踏んで行ってください。こんな餓鬼は敷物代用にしてやると、いくらか功徳になります。』
 そう言ってゴツンと靴で女の顎の辺を強く蹴たぐったのであった。
 われわれは言われるままに女の軀の上を踏んで、向こう側の空席に赴いたが、その軀は人間同様血もあれば肉もありそうな踏み心地で、しかも女は生きている時と同様にも悶(もが)
きながら泣き叫ぶのであった。無論女の方では生きている時にこんな目に逢わされている場合と全く同じな苦痛を感ずることにかわりはないのであるが、ただ足で踏まれるから痛いというよりも、足で踏もうとする意志の為に痛いのであった。
 われわれの次の座席には二人の婦人が座っていた。昔はこれでも綺麗な女であったのかも知れないが、何んせ、彼等の面上に漲る悪魔式な残忍性の為に今では醜悪きわまる鬼女と化していた。吾輩は感心して、二人の顔をじろじろ見比べていると、自分に近い方のが──後で聞くとそれはローズというのであったが、吾輩に向かって済ましてこんなことを言った。──
『ちょいとあんたは私の顔ばかり見ていらっしゃるのじゃないの・・・・・・。そんなに私がお気に召して?』

『フン。』と吾輩は呆れ返って叫んだ。『お前のようなものでもいつか綺麗なことがあったかも知れないが、今では随分憎らしい面つきをしているネ。──イヤしかし地獄へ来て余り贅沢も言われまい。まあ我慢してやるからおとなしく俺の言うことを聞け! ついでのそっちの女も一緒に来ないか。両方とも俺の妾にしてやる・・・・・・。』  
『まア随分勝手だわネ。この人は・・・・・・。人に相談もしないでさ! 誰があんたのようなものと一緒になってたまるものかね、莫迦莫迦しい・・・・・・。』
 吾輩はイキナリ彼女の両手を鷲掴みにした。
『これ、すべた! 顔を地面にすりつけて謝れ!』
 一瞬の間彼女は抵抗しようとしたが、勿論それはできない相談で、忽ち呻きながら吾輩の足下に泣き崩れ、顔を地面にすりつけたのであった。
『これで懲りたら、』と吾輩が言った。『元の席に戻っていい。しかし今日から俺の奴隷になるのだぞ!』
 続いて吾輩は他の一人に呼びかけた。──

『きさまの名前は何というか?』
『ヴァイオレットでございます。』
『鬼みたいな奴のくせに、イヤに可愛らしい名前をくっ付けて居やがるナ。兎に角俺の方が鬼として一枚役者が上だ。グズグズ言わずに、早く降参する方がきさまの幸福だろう。ローズ同様地面に顔をすりつけて謝れ!』
『はは・・・・・・はい。』
 吾輩の手並みが判ったと見えて此奴は不平一つ言わずに吾輩の命令を遵奉した。

        
 しばらく下らなことを喋り合っている中に漸く芝居の幕が開いた。芝居の筋が発展するにつれて、見物の喧嘩口論が次第に鎮まって行った。
 吾輩は此処に地獄の芝居の筋書きを細かに紹介しようとは思わない。ざっと掻いつまんでいうと、ありとあらゆる種類の罪悪やら痴情やらが事細やかにわれわれの眼前に演出された後で、とど残忍極まる拷問の場面が開けるという趣向なのである。

 すると、それまでおとなしく見物していた。吾輩の家来が、この時急に声をひそめて言った。──
『御主人、ここへらで早く逃げ出した方が得策でございます。この芝居の終わりになると、拷問係がきっと観客を舞台に引っ張り出して、ひどい目に逢わせますから・・・・・・。』
 そう言ったか言わないうちに、舞台の拷問係が一歩前に進み出て吾輩の家来を指さしながら叫んだ。──
『コラッ奴! 此処へ出い!』
 家来は満面に恐怖の色を浮かべてガタガタ慄(ふる)へながら立ち上がったが、われにもあらず座席を離れ、舞台の方へと引き摺られ始めた。
 吾輩はこれを見て大いに癪(しゃく)にさわった。いかに虫けら同然のものでも家来は矢張り家来に相違ない。それを断りなしに引っ張り出されては主人公の面目に関わる。吾輩は猛然として席を蹴って立ち上がった。
『ヤイ!』と吾輩は舞台に向かって叫んだ。『こいつは吾輩の家来ではないか! ふざけた真似をしやがると承知しないぞ!』
 期せずして昂奮の低いうめきが全劇場に響き渡り、観客一同固唾を呑んだ。

 拷問係ははったとばかりに吾輩を睨みつけた。
『こらッ新参者! 新参者でもなければ口幅ったいことは言わない筈じゃ。イヤ貴様のような奴にはそろそろ地獄の苦い懲戒(みせしめ)を嘗めさせる必要がある。さっさとこの舞台へ出掛けて来て身どもと尋常の勝負を致せ!』
『何をぬかしやがる! 勝負をするならこっちへ来い!』
 双方掛け合いのセリフが宜しくあって、忽(たちまち)猛烈なる意志と意志との戦端がわれわれの間に開始された。吾輩の長所は意志が飽くまで強固で、負けじ魂が突っ張って居ることである。そればかりが吾輩の唯一の武器である。舞台から放射される磁力は実に強大を極めたが、吾輩は首尾よくそれに抵抗したばかりか、あべこべに敵を自分の手もとに引き寄せにかかった。ややしばらくの間勝負は五分五分の姿であったが、俄かに観客の間からドッと喝采が起こった。吾輩の敵が一歩よろよろとこちらへよろめいたのである。しかし敵もさるもの、次の瞬間に再び後方に飛び退(じ)さると同時に、今度は吾輩の足元が危なくなった。吾輩の軀は覚えず五六寸前へ弾き出された。観客は又もやドッと囃し立てる・・・・・・。一時は冷りとさせられたが、即座に陣容を立て直し、一世一代の力量を絞ってグッと睨みつけると、とうとう敵の隊形が再び崩れ出した。

『エーッ!』
 一つ気合をかけるごとに敵の軀はズルリズルリと舞台の端まで引き摺られてきた。そこで先方はモ一度死に物狂いの抵抗を試みたが、最後に敵はものすごい一聲(いっせい)の悲鳴を上げると共に、舞台下の囃子場の中に落ち込んだ。囃子連中はびっくりして四方へ散乱する。同時に歓呼喝采の聲が観客の間からドッと破裂する。
 それから先はいよいよこっちのもので、敵は起き上がって、一歩一歩に吾輩の座席を指して、機械人形宜しくの態で一直線で這い寄って来る。
 意気地のないこと夥しいが、それでも観客は気味を悪がって右に避け左に逃げる。
 とうとう敵は吾輩の全面に来て跪いた。
 しばらくして吾輩が言った。──
『舞台に戻って宜しい。吾輩も舞台に出るのだ。』
 モーこうなっては敵手(あいて)は至極おとなしいもので、すごすご舞台へ引き上げると、吾輩もすぐその後から身軽に舞台へ跳び上がった。
『此奴(こいつ)を拷問にかけるのだ!』

 吾輩は彼の配下の獄卒(ごくそつ)どもに向かってそう号令をかけた。で、獄卒どもはそうしたことなしに今までの親分に向かって極度の拷問を施すことになったのであるが、イヤ観客のうれしがりようは一通りや二通りのことでなく、手をたたく、足踏みをする、怒鳴る、口笛を吹く。さすがの大劇場も潰れるかと疑はるるばかりであった。
 散々虐め抜いた後で吾輩が舞台から降りかけると、忽ち観客の間から大きな声で叫ぶものがあった。──
『君は皇位に附くべしだ! 大至急現在の暴君に反旗を翻すがいい。われわれは大いに力を添える!』
 これを聞いて吾輩もちょっと悪い気持ちはしなかったが、しかしあの強烈な意思の所有者と即座に戦端を開くということには躊躇せざるを得なかった。何しろ吾輩はまだ地獄へ来たばかりでさっぱり此処の事情が判らないから、うっかりした真似は出来ないと考えたのであったが、同時に戦端開始はただ時期の問題であることを痛感せずには居られなかった。ドーせ今日劇場で起こったことが何時までも皇帝の耳に入らずに居る筈がない。耳に入るが最後、あんな抜目のない人物が自家防衛策を講ぜずにぼんやりして居る筈がない。
 そこで吾輩が叫んだ。──

『まアお待ちなさい。吾輩には地獄の主権者になろうという野心は毛頭ない。先方から攻勢を取らない限り、吾輩は飽くまで陛下の忠良なる臣民である。』
 そう言うとあちこちからくすくす嘲り笑う声が聞こえ、中には無遠慮に囁く奴があった。──
『彼奴臆病だ! 怖がって居やがる。』
『黙れ! けだもの』と吾輩は叫んだ。『モ一度批評がましいことを抜かすが最後、きさま達の想像し得ないほどの拷問にかけてやるぞ!』
『莫迦を言え!』と見物席の一人が喚いた。
『俺達には皇帝が付いて居らァ。貴様たちの手におえるかッ!』
 その瞬間に吾輩は其奴を舞台に引っ張り出して、獄卒どもに銘じて生きながら軀の皮を剝がせた。イヤ皮を剝ぐなどと言えばいかにも物質臭い感じがしましょうが、他に適当な文句がないから困るのです。観客の眼には皮を剥ぐように見え、当人も皮を剥がれるように感ずるのです。むろん霊界のものに肉体はないに決まっていますが、有っても無くても結果は同一なのです。思う存分やるだけの仕事をやった後で吾輩は二人の婦人と家来とを引具して劇場を出た。
『何所かに手頃の家屋はあるまいかナ?』とやがて吾輩は家来に尋ねた。

『さア無いこともございません。取り合えずそこの家屋はいかがでございましょう? あれには有名なイタリイの殺人犯人が住んで居ります。この方が古風なローマ式の別荘よりも却って便利かもしれません』
『ふむ、これでよかろう』
 われわれは早速玄関の戸を叩くと、一人の僕が現れて吾輩に打ってかかって来たが、そんなものは見る間に地べたに投げ飛ばした。
『此奴の顔を踏躙(ふみにじ)ってやれ!』
 吾輩が号令をかけるとローズは大喜びでその通りをやった。それから大理石の汚れた階段を開け上がって大広間に入って見ると、そこには多数の婦女どもに取り囲まれて主人が座っていた。吾輩はイキナリ飛びかかって、そいつを窓から放りだし、家も什器も婦女も僕もそっくりそのまま巻き上げて自分の所有(もの)にしてやった。
 まず今晩の話はこれ位にして置きましょうかナ・・・・・・。
 
  
          八  皇帝に謁見
 四月六日の夜に現れた霊夢の記事で、前回に引き続いての陸軍士官の物語であります。──
 吾輩は地獄で遭遇した一切の出来事を詳しく述べ立てる必要はないと考える。兎に角吾輩が着々と自分の周囲に帰依者の団体を作ることに全力を挙げたと思ってもらえば結構です。無論吾輩の命令は絶対で、又彼らもよくそれに服従した。が、吾輩は成るべく部下の自由を拘束せず、勝手に市内を歩き回って、勝手に人虐めをやるに任せて置いた。その結果、以前強盗や海賊であったもの、手に負えぬ無頼漢であったものなどがゾロゾロ吾輩の麾下(きか)に馳せ参ずることになった。吾輩の勢力は見る見る旭日昇天の勢いで拡張して行ったが、最後にのっぴきならぬ事件が出来(しゅったい)した。他でもない、皇帝から即刻出頭せよとの召喚状を受け取ったことである。
 吾輩はその時何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、一隊の部下を引き具して直ちに宮城に出掛けて行った。
 われわれが謁見室と称する、華麗な、しかし汚れ切って居る大広間に入ると同時に、かねて待ち構えていた皇帝は其の玉座から起き上がった。玉座は一の高御座(たかみくら)で、その前面に半円形の階段が付いて居るのである。その時彼は満面にさも親切らしい微笑を湛え、吾輩を歓迎するような風をしたがもちろん腹の底にまんまんたる猜疑心(さいぎしん)を包蔵(ほうぞう)して居ることは一目で判った。

 ここへらが地獄という不思議な境地の一番不思議な点で、一生懸命お互いに騙しっくらを試みる。そのくせお互いの腹は判り過ぎるほど判り切って居るのである。騙せないと知りつつ騙しにかかるというのが実に滑稽であると同時に又気の知れないところなのである。
 皇帝は徐(おもむろ)に言葉(くち)を切った。──
『愛する友よ、卿(おんみ)が地獄に来てからまだ幾ばくも経たないのに、早くもかばかりの大勢力を張ったとは実に見上げたものである。』
 吾輩は恭(うやうや)しく頭を下げた。──
『全く陛下の仰せらるる通りでござります。この上とも一層勢力を張るつもりでござる・・・・・・。』
『皇位までもと思うであろうがナ・・・・・・。しかし、あらかじめ注意を与えて置くが、それは決して容易の業(わざ)ではない。恐らく永久にそんな機会は巡って来ぬであろう。イヤ両雄相争うは決して策の得たるものではない。お互いに手と手を握り合って、余が現在司配する領土の上に更に大なる領土を付け加えることにしようではないか? 他日若し止むことを得ずんばアントニイとオクタヴイアスとの如く、一快戦を試みて主権の所在を決めることも面白かろう。しかし現在の所では、
 
かの賢明なる二英雄と同じく、互いに兵力を併せて附近の王侯どもを征服することに力を尽そうではないか?──就きては余は御身を大将軍に任ずるであろう。さすれば御身はかのダントンと称する成り上がりの愚物(ぐぶつ)を征服して先ず御身の地歩を築くがよい。かれダントンは前年大部隊を引き連れて地獄に降り、當城市(とうじょうし)から遠からぬ一地域を強襲(きょうしゅう)して小王国を築き上げた。地獄ではその地方を「革命のパリ」と呼んで居る・・・・・・。』
 吾輩は一見して此の人物の肚の底を洞察してしまった。彼は吾輩と公然干戈(こうぜんかんか)を交えることの危険を知っていると同時に、又吾輩が独立して彼の城市内に居住することの剣呑(けんのん)なことも痛切に感じているのである。
 そこで右に述べたような計略を以って一時彼の領土の中心から吾輩を遠ざけようとしているのであるが、その結果は次の三つの中の一つになるに決まっている。即ち吾輩が戦争に負けてダントンの捕虜になるか、戦争が五分五分に終わって共倒れになるか、それとも吾輩がダントンを叩き潰してその王位を奪うか──いずれにしても彼の為には損にはならない。最後の場合は単に一つの敵を他の敵と交換するだけにとどまるように見えるが、吾輩が交戦の為に疲弊するというのが彼の眼の付け所なのである。

 吾輩はこの計画が良く見え透いては居たが、表面にはこれに同意を表して置くのが好都合に思えた。吾輩の方でも公然皇帝と戦端(せんたん)を開くことは危なくて仕方がない。萬々一(まんまんいち)戦闘に負けた日にはそれこそ目も当てられない。これに反してダントンとの勝負にかけては充分の自信があった。一旦ダントンを撃破してその兵力を吾輩の兵力に付け加えた上で、一転して皇帝を攻めることにすれば、現在よりも勝てる見込みは余程多い。
 咄嗟(とっさ)に肚(はら)を決めて吾輩は答えた。
『陛下の寛大なる御申し出は早速お引き受けいたします。』
『おおよく承諾してうれしく思う。以後御身は余の股肱(ここう)の大将軍である。』
 皇帝は直ちに大饗宴を催し、部下の重立ちたるものをこれに招いたが、吾輩がその正賓であったことは言うまでもない。
 やがて運び出された御馳走を見ると実に善盡(ぜんつく)し美盡(びつく)し、ありとあやゆる山海の珍味が堆(うずたか)く盛りあげられてあったが、いよいよそれを喰う段になると空っぽの影だけである。食欲だけは燃ゆるようにそそられながら、実際は少しも腹に入らない地獄の御馳走ほど皮肉極まるものはない。
 しかし哀れなる来賓は、皇帝御陛下の御馳走だというので差も満足して居るかの如き風をしてナイフやフォークを働かせて見せねばならない。実に滑稽とも空々しいとも言いようがない。

流石に皇帝は苦々しい微笑を浮かべてただ黙って控えている。吾輩とてもこの茶番の仲間入りだけは御免を蒙って、ただ他の奴どもの為すところを見物するにとどめた。
 御馳走ばかりでなく、地獄の仕事は皆空虚たる真似事である。饗宴中には音楽隊がしきりに楽器をひねくったが、調子は少しも合っていない。ギィギィビィビィ、その騒々しさと言ったらない。しかし聴衆はさもそれに感心したらしい振りを装って見せねばならない。
 饗宴が終わってから武士たちが現れて勝負を上覧に供した。しばらく男子連がやってから、入れ代わって婦人の戦士たちが現れ、男子も三舎を避けるほどの獰猛な立ち廻りをやって見せた。
 吾輩はこの大饗宴に附属したいろいろの娯楽をここで一々紹介しようとは思わない。そんなことをしたところで何の役にも立ちはしない。ただ何れも極度に残酷であり、又極度に卑猥(ひわい)であったと思ってもらえばそれで結構である。 

  
                   九  ダントン征伐
          
 さて皇帝の饗宴が終わると共に吾輩は部下の数人に命じて義勇軍募集の宣言書を発布させましたが、地獄と言う所はこんな仕事をやるには実に誂向(おあつらえむ)きの場所で、これに応じて東西南北から馳せ参ずる者は雲霞(うんか)の如く、忽(たちま)ちにして幾千人に上りました。吾輩は直ちにこれが隊伍を整え、市街を通じて旅次行軍を開始したのであります。
 途中からも風を望んで参加するものが引きも切らず、瞬く間に又幾千人かを加えた。漸くにして到着したのは郊外の荒野原。──通例地獄の大都会の附近にはそんな野原が附きものなのです。此処で吾輩はお手のものの陸軍式にすっかり各部隊の編成を終わりましたが、集まったのは眞に文字通りの烏合の衆で、あらゆる時代、あらゆる国土の人間がうじゃうじゃと寄って集(たか)った混成部隊・・・・・・。古代ローマの武士も居れば、中世の十字軍や野武士も居る。一方には支那の海賊、他方には英国の冒険家、トルコ人、アラビア人、ブルガリヤ人、その他各国のナラズ者、暴れ者・・・・・・。こんな手合いが極度の昂奮状態に於いて血に渇いて喊声(かんせい)を張り上げるのは結構でしたが、時々仲間同士の喧嘩をおっぱじめるには手を焼きました。

 大骨折りで吾輩は全軍の整理を終わった。編成法は此処に詳しく申し上げる必要もないと思うが、要するになるべく同種類のものを以って一部隊を編成する方針を執り、その結果、中世の騎士軍、古代ローマの戦士軍、又海賊軍、トルコ軍と云ったようなものが沢山出来上がった。その各々が有為の将校によりて指揮されているのであるから其の戦闘力は中々以って侮れない。一番の欠点を言えばそれが全然訓練の不行き届きな点であったが、その欠点は吾輩の任命した将校の圧倒的意志の力で補われた。又吾輩自信も間断なく発生する反逆者の抑圧に忙殺され通しであった。
 兎も角も吾輩の意思がご承知の通り飛び離れて強固であるので、この烏合の大軍団・・・・・・。左様総数二十五万余人に上る大群の統率を全うすることが出来たのであります。
 さて、いよいよ前進となりましたが、イヤその途中の乱暴狼藉(ろうぜき)さ加減ときたら全く天下一品、いかなる家屋でも闖入せざるはなく、いかなる住宅でも略奪せざるはない。但し地獄の略奪振りには一つの特色がある。奪(とる)ことは奪っても、すぐに飽きが来て、奪るより早く棄てて顧(かえりみ)ない。
 ダントンの領土に接近した時に吾輩は直ちに偵察隊を派して敵状を探らせた。間もなく味方は敵の数人を捕えて戻ってきた。
 見ればそれらの捕虜というのは皆フランス革命時代の服装をしているものばかりでした。吾輩は彼らの手からいろいろの有利な材料を得た。無論彼らは言を左右に托して吾輩を欺こう試みたが、霊界では心に思っていることを隠せないから、そんなことをしても何の役にも立たなかった。

 彼等が地上に住んでいたのはフランス革命時代で、あるものはダントンの見方であり、又有る者はその敵であったが、いずれにしても彼等には共通の一つの道楽があった。他でもない、それは断頭機(ギロチン)を愛用することであった。但し断頭機(ギロチン)の本来の目的は出来るだけ迅速に、そしてできるだけ安楽に人間を殺すことであるのだが、それでは甚だ興味が薄いというので、地獄に於ける断頭機使用法にはちょっと新工夫が加えられていた。
 むろん地獄ではいかにやりたくても人を死刑に処することだけはできない。地獄でできることは成るべく多大の苦痛を与えることだけである。で、彼らは犠牲者を断頭機の台に載せるに際し、頭部の代わりに足を正面に持ってくる仕掛けにしてある。断頭機の刃は上下に動いて足から先にブツリブツリと全身を刺身のように切り刻んでいく。切られれば、地上において感ずると同様に苦痛だけは感ずるが、切れ切れの部分は直ちにまた癒着して行くから、繰り返し繰り返し死の苦痛を感ずるだけで、死ぬるということは絶対にない。──イヤ諸君、人間というものは何て物分かりの悪いものでしょう。

生きている時に莫迦に死を恐れるが、実を言うと死は無論人間の敵ではなくて味方なのである。死の伴わざる永久の苦痛! 吾輩は地獄に来てから、モ一度死にたいと何遍祈願したか知れません。
 それはそうと吾輩は敵状の報告に基づいて作戦計画を立て、いよいよ敵地に突入した。道すがらも手当たり次第に劫掠(こうりゃく)をこころみ、敵地の人民などは散々虐めた上で奴隷となし、家屋の如きも悉く破壊することにした。ただ一つ困るのは霊界の家屋の非実質的なことで、われわれがその付近にいる間
こそこちらの思う通りに壊れているが、他の地点に前進してみるとそれらの建物はいつの間にやらニョキニョキと元の通りに屹立(きつりつ)している!
 すでにわれわれ自身が一の形に過ぎない。それと同様に、建物も亦一の形であるから、こればかりは破壊し得ない。こちらの意志がその所有者の意思よりも強固であれば家屋の形は一時消滅するように見えるが、破壊しようという意志が消滅すると同時に家屋は忽ち原型に復してしまう。要するに霊界は意志の世界、想念の世界で、物質抜きの形だけの所だと思えば宜しい。──イヤしかしこんなことはあなた方もモー叔父さんから聞かされていて百も御承知でありましょう。

        
 さていよいよ戦争の話でありますが、──われわれが敵地に闖入(ちんにゅう)すると同時に敵の軍隊も亦向こうの山丘に沿えて集合した。ざっと地理の説明をやると、皇帝の領土と敵の領土との中間には一の展開した平原がある。余り廣いものでもないが、それが二大勢力の一つの障壁たるには充分で、恐らくダントンの強烈なる意志の力で創り出した。シロモノかも知れません。尤もその地帯の巾は幾何(いくら)、長さは幾何ということはちょっと述べにくい。霊界には物質界の所謂空間と云ったようなものが存在せぬからです。──が、兎に角それは相当に廣いもので、二つの大軍が複雑極まる展開運動をやるのに差し支えない。地質は想像も及ばぬほど磽确(こうかく)で、真っ黒に焼け焦げ、ざくざくした灰がいっぱい積もっている。
 山は二筋ある。ダントンは向こうの山を占領し、われわれが手前の山を占領して相対峙した。空は、地獄ではいつでもそうだが、どんよりと黒ずんで空気は霧のかかったように濃厚であるが、こんな暗黒裡にありてもお互いの模様はよく見える。
 味方の重砲は三個の主力に分かれた。──ナニ地獄の戦にも大砲を使用するのかと仰るのですか。

──無論ですとも! 人間が間断なく発明しつつある一切の殺人機械が地獄へ行かずにどこへ行きましょう? 半信仰の境涯だとて、まさか大砲を置く余地はありません。兵器という兵器はその一切が地獄のものです。所で、爰に甚だ面白い現象は、地上に居る時に、小銃其の他近代式の兵器を使用したことのない者は霊界へ来てからまるきりそれを使用することが出来ないことです。地獄の兵器は単に形です。従って兵器が敵に加わる損害は精神的のものであって、ただその感じが肉体の苦痛にそっくりなだけです。
 で、地上に居た時、一度も小銃の疵(きず)の痛みを経験したことのない人間には殆どその痛みの見当が取れません。従って他人に対してその痛みを加えることもできなければ、又他人によりてその痛みを加えらるる虞(おそれ)もない。生きてる時分に小銃弾の与える苦痛を幾らか聞かされていた者には多少の効き目はあるとしても、眞に激しい痛みを自らも感じ、又他(ひと)にも感じさせるのには、是非とも生前に於いて実地にその種の痛みを経験した者に限ります。
 同じ理由で、地獄において最も凶悪なる加害者は、地上に於いて惨めな被害者であったものに限ります。もし彼が誰かに対して強い怨恨(うらみ)を抱いて死んだとすれば、自分の受けたと同じ苦痛をその加害者に酬(むく)ゆることが出来るからです。かの催眠術などというのも、つまりその応用で、

術者自身が砂糖を嘗めて、被術者に甘い感じを与えたり何かします。就中神経系統の苦痛であるとこの筆法で加えることも、又除くこともできます。──が、地上に於いてはその効力に制限があります。それは物質が邪魔をするからです。しかし、モちと研究の上練習を積めば催眠療法も現在よりは余程うまい仕事が出来ましょう。序に爰に注意して置きますが、この想念の力なるものは他人の益するが為にも、又他人を害する為にも何方にも活用されます。昔の魔術などというものは主としてこの原則に基づいたもので、例えば蝋人形の眼球へ針を打ち込むということは、単に魔術者が相手の眼球へ念力を集中する為の手段です。そうすると蝋人形に与えた通りの苦痛が先方の身に起るのです。
 ですから、こんなことをやるには、むろん相手の精神──少なくともその神経系統を攪乱して置いて仕事にかかる方が容易であるが、しかし稀には先天的に異常に強烈な意思の所有者があるもので、そんな人は直接物質の上に影響を与える力量を持っています。最高点に達すれば無論精神の力は物質を圧倒します。地球上ではそんな場合はめったにないが、霊界ではそれがザラに起こります。
 兎に角右の次第で、地獄の軍隊は生前自分の使い慣れた兵器を使用します。大砲や小銃をまるきり知らないものにはまるで無用の長物です。

 ところで、爰に一つ可笑しな現象は、地獄に大砲はあっても馬がないことです。馬は動物なので各々霊魂を持っている。大砲その他の無生物とは違って単に形のみではない。従って矢鱈に地獄にはやって来ない。
 但し馬の不足はある程度まで人間の霊魂を臨時に馬の形に変形させることによりて除くことが出来た。むろんこれは吾輩が皇帝の故智を学んでやった仕事で、敵のダントンが其処へ気がつかなかったのはどれだけ味方に有利であったか知れなかった。一体人間の霊魂を例え一時的にせよ、その原形を失はしめるということはなかなか容易な仕業ではない。何人も馬や犬の姿に変えられることを大変厭がる。何やら自分の個性が滅びるように心細く感ずるらしい・・・・・・。事によるとダントンには、人の厭がる仕事を無理にやらせるだけの強大なる意志力がなかったのかもしれない。
 
   
                 十  地獄の戦
 間もなく戦争は真剣に開始された。この戦争の激しさに比べると、今迄観せられた御前試合などはまるで児戯(じぎ)に近いもので、何しろ地獄の住民という生前ただ戦闘(いくさ)ばかりを渡世にしていた連中なのでありますから、従ってそのやりっぷりが猛烈である。が、外面的には地獄の戦争も余りかけ離れたものでもない。地獄の武器や軍装がめちゃめちゃに不統一であるのがちょっと目立つくらいのもので・・・・・・。
 兎に角ダントンは中々の曲者で余程巧妙な戦法を講じた。古代の甲冑(かっちゅう)に身を固めた味方の騎士隊の突撃に対して、彼が密集部隊を編成し、その大部分に大鎌(おおがま)を持たせたところなどは敵ながらもうまいものであった。古代の騎士は大砲だの小銃だのの味を知らない。従ってそんな近代式の兵器は彼らに対して殆ど効能がない。早くもそれを看破して鎌という、騎兵にとっての大苦手を持ち出したなどは、かへすがえすも機敏というべきであった。
 無論敵にも砲兵隊の備えはあったが、しかしそれはフランス革命時代の旧式極まるもので、味方の新鋭の兵器にはとても及ばなかった。最も味方が烏合の衆であるのに反して、敵が飽くまで団結力と統制力とに富んでいたのは、ある程度まで欠陥を補うには余りあった。

 詳しくこんなことを述べれば際限もないが、地獄の戦況などは格別の興味もあるまいと思うからただその結果だけを報告するにとどめます。味方は敵よりも人数が多く、又大体に於いて獰猛でもあった。ですから長い間の戦闘──殆ど幾年にも亘るべく見えた悪戦苦闘の後で、吾輩はとうとう敵の左翼を駆逐することに成功し、やがてその全軍をば山と山との中間の低地に追い詰めて三方から攻撃することになった。敵は全然壊滅状態に陥り、莫大な人数が捕虜になった。──吾輩が早速右の捕虜を馬に変形させて、部下の馬になったものと更迭させたなどは、全然地上に於いては見られない奇観でした。
 それから味方はダントンの領土内に進入して略奪のあらん限りを盡した。うっかり言い落しましたが、ダントンの軍隊の少なからざる部分は婦人であって、そいつ達は男子よりもも寧ろ味方を悩ましました。従って其奴達(そいつたち)が勝ち誇ったわが軍の捕虜に捕虜になった時に、いかにひどい目に逢わされたか──こいつは言わぬが花でありましょう。其の外敵地の一般住民に対する大虐待、大凌辱(だいりょうじょく)──そんなことも諸君の想像にお任せすると致しましょう。
 ただここに不思議なことは、地上に於いて略奪を逞(たくまし)ゅうすることが、一種の快感と満足とを伴うのに反し、地獄に於いては全然それが伴わないことです。地獄の略奪はただの真似事・・・・・・。言わば略奪の影法師であります。いくら奪い取ってもその物品は何の役にも立たないものばかり、例えば奪った酒を飲んでみても、さっぱり幽霊の腸(はらわた)には浸みません。夢でご馳走を食べるよりも一層詰まらない。夢ならまだいくらか肉体との交渉があるが地獄の住民にはまるっきり肉体との縁もゆかりもないのです。
 
 地獄で現実に感ずるのはただ苦痛だけ、快楽はまるでない。これが地獄の鉄則なのだから致し方ありません。
 無論戦勝後吾輩は直ちに王位に就くことはついた。──が、驚いたことにはダントンの以前の部下は大部分何所かへ消えてしまった。何故消えたのか、その当座は頓と訳が判らなかったが、後でだんだん調べて見ると、ダントンの没落が彼等をして一種の無情を感ぜしめ、こんな下らぬ生活よりはモ少し意義ある生活を送りたいとの念願を起こすに至った結果、向上の途が自然に開かれたのでした。つまり神はかかる罪悪の闇の中にも善の萌芽をはぐくまれたのであります。
 この辺で私の物語はしばらく一段落つけることにしましょう。丁度ワアド氏が地上へ戻るべき時間も迫ったようですから・・・・・・。
 

      
                十一  皇帝の誘惑
 叔父さんがワアド氏を書斎に迎えて二言三言挨拶をして居る中に、モー陸軍士官が入って来て早速その閲歴談を始めました。これから彼の地獄生活に更に一大転換が起こりかける極めて肝要(だいじ)の個所(ところ)であります。──

 さて前回は吾輩が新領土を手に入れて王位に就いたところまでお話ししましたが、実際やってみると王侯たるも又難い哉(かな)で、ただの一瞬間も気を緩めることが出来ない。間断なく警戒し、間断なく緊張していないと謀反がいつ何所から勃発せぬとも限らないのです。
 早い話が地獄の王様は歯を剥いている一群の猟犬に追い詰められた獲物のようなもので、ちょっとでも隙間があれば忽ち飛びかかられる。吾輩はあらん限りの残忍な手段を講じて、謀反人を嚇(おど)かそうと努めたが、何を試みても相手を殺すことが出来ないのであるからいかんとも仕方がない。刑罰を厳重にすればするほどますます彼等の憎みと怨みを増大せしむるに過ぎない。
 そうする中に皇帝から使者があって、吾輩の戦勝を祝すると同時に凱旋式への出席を請求してきた。これを拒絶すれば先方を怖れることになる。これに応ずればその不在に乗じて反逆者が決起する。何れにしても余り面白くはないが、兎も角も吾輩は後者の危険をおかして皇帝の招待に応じて度胸を見せてやることに決心した。
 
 さて部下の精鋭に護られつつ威勢よく先方に乗り込んでみると、先方も去るもの、極度に業々しい準備を施して吾輩を歓迎した──少なくとも歓迎するらしい風をした。が、儀式というのは無論例によりて例の通り、単に空疎なる真似事に過ぎない。楽隊はさっぱり調子の合わぬ騒音を奏する。街区を飾る旗や幟は汚れ切って且つビリビリに裂けている。吾輩の通路に撒かれた花は萎み切って悪臭が鼻をうつ行列の先頭を飾る少女達までが、よくよく注意して視るとその面上には残忍と邪淫との皴が深く深く刻まれていて嘔吐を催させる。
 皇帝自身で迎えの行列と出逢った上で、われわれが連れ立って武術の大試合に臨んだ。それが終わると今度は宮城に行って、大饗宴の席に列したが、例によって空っぽの見掛け倒し、何もかも一切嘘で固めて、本当のことと言えばただ邪悪分子があるのみである。
『時に』と皇帝は徐に吾輩をかえりみて言った。
『王位を占むる苦労も中々大抵ではござるまいがナ・・・・・・。』
 吾輩はからからと高く笑った。
『全くでございますが、しかし陛下のお膝元に居るよりは気が休まります。』

『そうかも知れん。──が、間断なく警戒のし続けでは、中々大儀なことであろう。その点に於いては余とても同様じゃ。で、其の気晴らしのために余は時々地上に出掛けて参ることにして居る。爰(ここ)で目まぐるしい生活を送った後で地上へ出張するのはなかなかいい保養になる・・・・・・。』
 これを聞いて吾輩の好奇心はむらむらと動き出した。
『地上へ出張と仰られますが、どうしてそんなことが出来るのでございます。一旦幽体を失った以上それは難しいと存じますが・・・・・・。』
『まだ若い若い・・・・・・』と彼は叫んだ。『モちと勉強せんといかんナ!──しかし卿(おんみ)が現在までこれしきの事を知らずに居たとは寧ろ意外じゃよ・・・・・・。』
 彼はしばらく吾輩の顔を意味ありげに見つめたが、やがて言葉をつづけた。──
『どんな地獄の霊魂でも、若しも地上の人間と連絡を取ることさえ工夫すれば暫時(ざんじ)の間ぐらいは仮の幽体を造るのはいと容易(やすい)ことなのじゃ。うまく行けば物質的の肉体でも造れぬことはない。人間界でこちらと取引を結んでいるのは男ならば魔法使、女ならば先ず巫女と云った連中じゃが、むろん彼らに憑るのは大てい妖精の類で、真実の地獄の悪魔が憑るようなことはめったにない。──尤もわれわれが魔術者と取引関係をつけるには余程警戒はせねばならぬ。魔術者などというものは皆意志の強い奴ばかりで、うっかりするとそいつの為に絶対服従を命ぜられる。』

『どうして彼らにそんな威力があるのでございます?』
『われわれが部下に号令をかけるのと別に変ることはない。つまりただ意志の力によるのじゃ。で、下らぬ弱虫の霊魂は譯けなく魔術者の奴隷にされる。──尤もわれわれのように鉄石の意志を持っているものは、あべこべにその魔術者を司配して自己の奴隷にしてしまうこともできんではない。そうなると実にしめたものじゃ・・・・・・。』
 そう言って彼はツと身を起こし、
『それはそうとこれから一緒に芝居でも見物しようではないか?』
 それっきり皇帝は魔術の件に関してはただの一言も触れなかった。しかし彼がそれまでに述べただけで吾輩の胸に強烈なる印象を与えるには充分であった。
『不思議なことが出来るものだナ! 自分も一つやって見ようかしら・・・・・・。』
 吾輩はこんな考えに捕らえられるようになってしまった。
 当時吾輩が何故この仕事の裏面に潜める危険に気がつかなかったのかは自分にも時々不思議に感ぜられることがある。皇帝がこの問題を提出したのは吾輩を危機に陥れようという魂胆に相違ないのであるが、その胸底の秘密を吾輩に悟らせなかったのは矢張り先方が役者が一枚上なのかもしれない。

 もちろん当時の吾輩とて皇帝に好意があろうとは少しも考えてはしなかった。
『こいつァ人を地上に追い払っておいて、その留守中に謀反人の出るのを待つ計画だナ』
 そこまでのことは察した。しかし吾輩は強いてそれを問題にしなかった。
『謀反人が出たら出たでいい。戻って来て叩き潰すまでのことだ・・・・・・。』
 そう考えた。──ところが、皇帝の方では確かにモー一つその奥まで考えていた。──吾輩が地上へ降って悪事を行えば、その罪の為にモー一段地獄の奥へ押し込められ、刃に衂(ちぬら)ずして楽に厄介払いができる・・・・・・。
 さすがの吾輩そこまで洞察(みぬく)智慧がなく、保養もしたいし、地上もなつかしいし、新らしい経験も積みたいしと云った風で、とうとう地上訪問の覚悟を決めてしまった。
 間もなく吾輩は自分の領地に戻ったが、果たして予期した通り、国内は内乱の進行中で、一部の謀反者がダントンを牢から引き出して王位に担ぎ上げていた。吾輩がさっさとそんなものを片づけて、一味徒党を再び監獄にぶち込んでしまったことは言うまでもない。吾輩の地上訪問はそれからの話である。

    
           十二  魔術者と堤携
 陸軍士官の告白は此処に至りて増々深刻味を加えてまいります。魔術に関する裏面の消息が手に取るように漏らされて、心霊問題に携わる者の為にこよなき参考の資料を供してくれます。──

 それから吾輩は直ちに生前魔法つかいであったものを物色し始めた。自分の領土内にも案外そんな手合いが沢山居ることは居たが、大概はちょっと魔法の一端を囓
った位のものばかりで、いわゆる魔法使いの大家であったものは地獄のもっと深い所へ堕(おと)されているのであった。
 が、散々探しまわった後で、やっとのことで一人、曾て魔法の大家の弟子であったというのを見つけ出した。其奴は、実地の経験は少しもないが、ただ魔道の秘伝だけは生前其の師匠から教わっていた。そして地上の魔術者と連絡を取る方法なるものを吾輩に伝授した。
 
 その方法というのはつまり一つの呪文を唱えることである。地上の魔術者が唱える呪文と霊界で唱える呪文とがぴったり合うと、そこに一つの交流作用が起こって感応ができる・・・・・・。秘伝は単にそれだけで、やって見れば案外やさしいものであった。
 兎も角も吾輩が、そうして連絡を取ることになった。魔術者というのは一人のドイツ人で、プラーグの市端(まちはずれ)に住んでいるものであった。其奴なかなかの魔術狂で、すでに死者の霊魂──もちろん幽界のヤクザ霊魂ではあるが、そんなものを呼び出す方法を心得ており、また少しは妖精類とも連絡を取っていた。が、それではだんだん喰い足りなくなって、近頃は本物の地獄の悪魔を呼び出しにかかっていた。待ってましたと言わんばかりに早速それに応じたのが吾輩であった。
さて、例の呪文と呪文との流れの中に歩み入り、こちらの念を先方の念に結び付けて見ると、不思議不思議! 自分は無限の空間を通じて地上に引っ張られるような気がして、忽然として右のドイツ人の前面に出たのであった。
 神秘学研究者──そう右のドイツ人は自称しているが、成程不思議な真似をしている男には相違なかった。先ず輪を作って自分がその中央に立つ。輪の内面には三角を二つ組み合わせて作った六角の星形がある。その周囲には五角形やら其の外いろいろの秘密の符号が描いてある。室内の火鉢からは何やらの香料の煙がもうもうと舞い上がる。

 室そのものが又真っ暗で、四方の壁も床も石で畳んであるところから察すれば確かに一の穴倉らしかった。壁に沿えてはミイラを容れた木箱やら其の外二三品並べられてあった。
 吾輩の方からは先方の様子がよく見えたが、先方はまだ吾輩の来ていることに気がつかぬと見えて頻りに呪文を唱え続けた。吾輩は成るべく早く先方が気の付くようにと意念を
込めた。
 ふと気がついて見ると、輪の外側には、少し離れて一人の婦人が恍惚状態に入っていた。
『ははァ』と吾輩は早速勘づいた。『われわれはこの女の肉体から材料を抜き出して幽体を製造するのだナ。』
 吾輩は直ちに右の婦人に接近して幽体製造に着手すると同時に、ますます念力をこめて姿を見せることに努めた。間もなく魔術者は吾輩を認めた。吾輩の姿はまだ普通の肉眼に映ずるほど濃厚ではないのであるが、先方がいくらか霊視能力を持っていたのである。
 見る見る魔術者はサッと顔色を変えて恐怖のあまりしばらくはガタガタ震えて居たが、やがて覚悟を決めたらしく、キッと身構えして叫んだ。

『命令じゃ、もっと近寄れ!』
『大きく出やがったナ』と吾輩が答えた。『吾輩は何人(なんびと)の命令も受けぬ。頼みたいことがあるならそれ相当の禮物を出すがいい』
 吾輩の返答には奴さん少なからず面食らった。悪魔を呼び出すには、古来紋切り型の白(せりふ)があって余程芝居気たっぷりに出来上がっている。ところが吾輩はそんな法則などを眼中に置いていないのだから、相手がまごつくのも全く無理はない。
 しばらく躊躇した後で彼は再び言った。──
『然らば汝の要求する禮物とは何物なるか?』
 相変わらず堅苦しいことをいう。こんな場合に普通の応答としては『汝の魂を申し受ける』とか何とかいうのであろうが、吾輩別に魔術者の魂など欲しくも何ともない。さてそれなら何と返答しようかと今度は吾輩の方で躊躇したが、漸く考え出して叫んだ。──
『それならお前の方で何を寄越すか?』
『余の魂をつかわす』
と早速の返答

 それを聞いて吾輩は嘲笑った。──
『お前の腐った魂などを貰ったところで仕方がない。吾輩はモちと実用向きの品物が欲しい。』
『然らば』と彼は一考して『汝に人間の軀を与えてつかわす。それなら便利であろうが・・・・・・。』
『そんな芸当ができるかね? 吾輩は幽体さえ持ってはしない・・・・・・。』
『苦しゅうない。先ず汝に一個の幽体を造ってつかわす。幽体を造っておいて、次に肉体を占領するのが順序じゃ。』
『そいつア豪儀だ! 是非一つやってくれ・・・・・・。』
 魔術者の言葉は決して嘘ではなかった。さすがに神秘学の研究者と名乗るだけあって、彼は中身なしの幽体の殻だの、稀薄に出来上がった妖精だのを沢山引き寄せる力を持っていた。で、吾輩はそれらの中から然るべき妖精を一匹選り出して吾輩の元の姿に造り変えた。それから今度は霊媒に近づき、魔術者からも手伝ってもらって、本物の物質的肉体を製造することに成功した。
 吾輩は覚えず歓呼の声をあげた。一旦地獄へ堕ちた身でありながら、モ一度肉体を以って地上に出現することが出来たのであるからうれしくて耐まらない筈だ。
『どうかね君、人間らしく見えるかね?』

 右顧左眄(うこさへん)しながら叫んだ。
『ああ中々立派な風采じゃ!』
『外出しても差し支えないものかしら・・・・・・。』
『さアそいつは受け合われないが、兎も角も出掛けて見るがよかろう。』
 そこで吾輩は石段を昇って青天白日の娑婆に出て見た。──がその結果は不思議であると同時に又頗る不愉快でもあった。吾輩の軀はゾロゾロと溶けて行くのである。
『ウワーッ! 大変々々! 助け船・・・・・・』
 急いで穴蔵に駆け込んで行って物質化のやり直しをする始末!
『君』と吾輩が言った。『太陽の光線に当たってヘロヘロと溶けるような軀は有難くないナ モちと何ぞましなものを造ってくれんか?』
『仕方がなかったら』と彼は囁いた。『生きている人間に憑依することじゃ。それなら解ける心配はない。──この人造の軀じゃとて、気を付けて暗闇の中ばかり歩いて居ればちっとも溶ける心配はないのじゃが・・・・・・。

 こんなあん梅で吾輩はこの魔術者とグルになってますます悪事を企むことになった。
  
                                   十三  自ら作る罪
          
 吾輩とグルになった魔術者の一番好きなものは(と陸軍士官が語り続けた)一に黄金二に権力、三に復讐──この三つが彼の生命なのである。さればと云って女色なども余り嫌いな方でもない。彼の手もとにはいつも十四人の女の霊媒が飼ってある。そいつ達は彼に対して悉く絶対服従、魂と同時に肉をも捧げる。
 吾輩はこの男の為には随分金儲けの手伝いもしてやった。仕掛けは極めて簡単である。われわれは平気で金庫でも何でもくぐり抜けることが出来る。それから内部の金貨を一旦瓦斯体にかえて安全地帯に持ち出しておいて更に元の金貨に戻すのである。しかしこの仕事は易しいように見えて中々強大なる意志の力を要する。下手な霊魂にはちょっと出来る芸ではない。もっとやさしいのは睡眠中の誰かを狙って其奴の軀の中に潜り込み、所謂夢遊病者にして置いて、ウンと金貨を持たせて都合のよい場所へ引っ張り出すことである。むろん其奴は夢中でやっている仕事だから、翌朝目を覚ました時に、前夜の記憶などはさっぱり持っていない。

 そりァ成程この仕事にも時々失策はある。夢遊病者が追跡されて捕縛されたことは一度や二度にとどまらない。無論其奴達は窃盗罪に問はれる。──が、魔術者の方では呑気なものだ。誰も窃盗のご本尊がこんなところにあろうとは疑うものがありはしない。いわんや肉体のないわれわれときては尚更平気なもので、仕事が済んだ時にただ先方の軀から抜け出しさえすればそれでよい。そうすると当人の霊魂がその後へノコノコ入って来て、窃盗罪の責任を引き受けてくれる。
 金儲けの為に働いたと同様に、吾輩は復讐の為にも随分働いてやったものだ。あの魔術者は一切の宗教が大嫌いで、機会さえあれば僧侶に対して復讐手段を講じようとする。
 初めのうちは格別念入りの悪戯もやらなかった。魔術者の手先に使われている奴は皆妖精の類でそいつ達の得意の仕事は室内の椅子を投げるとか、陶器類をぶち砕くとか、眠っている人の鼻をつまむとか大概それくらいのものに過ぎない。所が、その中次第次第に魔術者の注文が悪性を帯びて来て、相手の男を梯子段から突き落とせたり、又その家に放火をさせたりするようになった。

 仕事があんまり無理になって来ると、妖精どもの大半は御免を蒙ってみな逃げてしまい、多年彼の配下に使われていた亡霊までが大人しく彼の命令に従わなくなった。最も其奴達は、公然反抗すれば魔術者から酷い目に逢わされるので、滅多に口には出さない。ただ不承不承に仕事をやるまでの事であった。──ナニその魔術者がどんな方法で亡霊虐めをやるのかと仰るのですか? それは例の意志の力です。強い意志で亡霊たちに催眠術をかけてやるのです。大ていが亡霊という其奴は意志の薄弱な輩で、其奴達を虐めるのは甚だ易しい。主人の魔術者から一目置かれているのは先ず吾輩位なもので、吾輩はアベコベに魔術者の牛耳を執る位にして居ました。そのかわり働きぶりも亦同日の談ではない・・・・・・。
 それはそうと吾輩主人の為に働くと同時に又自分の利益をはかることも決して忘れはしなかった。自分の軀を物質化して生きている時と同様に酒色その他の欲望を満足させる位は朝飯前の仕事で、そんな時の穴蔵の内部の光景と言ったら眞に百鬼夜行の観があった。魔術者の使っている十人余りの女霊媒の他に、物質化せる幽霊が又十人余りも居る。其奴等が人間並みに立ったり、座ったり、話をしたり、笑って見たり、歌を唄ったり、又舞踊までもやらかす。とどのつまりが筆や口にはとても述べ難き狂態のあらん限りをつくす・・・・・・。

 が、そうする中にも吾輩の幽体は間断なく補充して行く必要があった。元来が自分のものではなく、ホンの一時的の借物なので、いかにも品質が脆弱で分解し易くてしょうがない。おまけに悪事ばかり働いているから一層弱り方が激しい。いくら人間に憑依して補充して見てもそんなことではなかなか追いつかない。これには吾輩もほどほど困ってしまった。

            
 そのうち吾輩は魔術者からある一人の男を殺してくれという注文を受けた。何でも其奴がこちらのしている仕事に感づいたので、生かしては置けないことになったのだそうな。
『宜しい、引き受けた・・・・・・。』
 吾輩は二つ返事でこれに応じた。そんな際に於ける吾輩の遣口(やりぐち)は大抵いつも相場が決まっている。午前一時か二時かという熟睡時刻を見計らい、枕元に立って一心不乱に意念を込めるのである。──すると吾輩の幽体が赤黒い光を放ちつつ朦朧と現れる。
 更に一層念力を凝らすと、彼方(あっち)にも此方(こっち)にもいろいろさまざまの妖怪変化がニョキニョキ現れて、

『この外道をやっつけろ!』
『こんな奴は八つ裂きにしてやれ!』
等、勝手次第な凄文句をわめき立てながら、間断なくすさまじい威勢で飛びかかって行く・・・・・・。むろんそれは一の嚇かしに過ぎない。何ぞ余程の手掛かりでもなければ、肉体のないものが容易に人体に傷をつけることは出来るものではない。けれども先方ではそんなことを知らないから本当に命をとられるかと思って七転八倒する。
 その弱みに付け込んで吾輩は声高く叫ぶ。
『己アンナを忘れたか? アンナの恨みを思い知れ! われわれはアンナから頼まれて汝を地獄へ連れに来たのだ!』
 無論吾輩はアンナから頼まれたのでも何でもなく、又その女が果たして地獄に堕ちて居るかどうかも知っては居ないのである。が、聴く方の身になってみると気味は悪いに相違ない。
『許してくれッ!』と相手は悲鳴を上げる。『こんなに年数が経っているのにまだ罪障が消えずに居るとはあんまり酷い・・・・・・あんまり執念が深過ぎる・・・・・・。』
 こちらはますます調子に乗って囃し立てる─

『アンナが呼んで居る! アンナが待って居る! お早くおじゃれ! 急いでお出で!』
 そう言って何回となく襲い掛かる。眠る暇などは一瞬間も与えない。翌晩もその通り、翌々晩も又同じこと。──おまけに時々耳元に口を寄せてこんな嚇かしを試みる。──
『コラ! いい加減に死んだ方がましだ! 早く自殺をせんか! 貴様の救わるる見込みは全くない! うっかりすると気が狂うぞ! 気が狂うよりか潔く自殺してしまえ! 自殺する序に誰かに三人殺して冥途の道連れを作れ! せっかくだから忠告する・・・・・・。』
 御親切な忠告もあればあったもので、これでは誰だって耐りっこはない。
『アンナアンナ! 許してくれ!』先方は呻吟する。
『俺は若気のあまりあんな真似をしたのだが全く済まなかった。堪忍しておくれ・・・・・・。』
 この機を狙って一人の幽霊は早速アンナの姿に化けて寝台の裾にニューッと現れ、恨みの数々を並び立てる。とうとう男は焼糞になって寝台から飛び降り、鏡台の剃刀をとるより早くブツリ! と喉笛を掻き切ってしまうしまう。
 主人の魔術者が吾輩の大成功を見て歓んだことは一通りではない。この勢いに乗じてモ一人、日頃憎める若年の僧をやっつけてしまうということになった。右の僧は彼が悪魔とグルになって悪事を働いていることを看取し、公然攻撃を開始したので、われわれの方から言えば当然容赦し難きシロモノなのである。

 われわれは早速彼に附き纏い、手を変え品を変えて悩ましにかかったが、先方が道心堅固なのでドーしても格別の損害を与えることが出来ない。百計つきて吾輩は其奴に情事仕掛(いろじかけ)で相手をひっかけてやる計画を立てた。村で一番の器量よしの少女──吾輩は其奴に憑依いて、僧に対してぞっこん惚れさせることにした。彼女は何週間かに亙りて僧の後をつけ回し、最後に懺悔に託(かこつ)けて僧の前に跪いて思いのたけを打ち明けた。ところが、この道に掛けても案外堅い僧侶で、女の申し込みを管(すげ)なく拒(は)ねてしまった。女の方では悔し紛れに、今度は僧に対して盛んに悪評を触れ回した。
 この機に乗じてわれわれは夜な夜な僧を襲撃し、彼の耳元で盛んにこんな嫌がらせを囁いた。
『コラッ! 偽宗教の偽信者! 今に見ろ、汝の化けの皮は剝(む)がれるぞ。汝の恥は明るみにさらけ出されるぞ。其れが嫌なら早く自殺せい! 汝のような売僧(まいす)は自殺するに限る!』
 が、いかに罵って見ても彼は純潔な生活を送りつつある立派な僧で、従ってわれわれが数週間に渡りてこんなことを続けているうちに、先方ではとうとう気がついてしまった。

『ああ讀めた! 汝達はかの魔術者の手先に使われている悪霊どもじゃナ。よしよし俺は今より魔術者を訪問して戒告を与えてやる・・・・・・。

 年若き僧は手に十字架を携えて敢然として魔術者の住居に向かった。折しも真っ暗な晩で、冷たい雨がポツリポツリと彼の面を打ち、時々稲光がしてゴロゴロと物凄い雷鳴が聞こえた。
 吾輩は勿論僧の後につき纏い一生懸命彼の耳元で嚇かし文句を並べた。
『汝、偽善者、見よ神は怒りて汝を滅ぼすべく電火を頭上に注ぎつつあるではないか! 見よ空は黒ずんで汝の呪われたる運命を睨みつけているではないか! 死ね! 死んで地獄へ行け!

 しかし年若き僧はビクともせず、ひたすら道を急いで魔術者の住居に辿り着き、コツコツと扉を叩いて案内を求めた。扉は内部から開かれたが、しかし暗い廊下には誰もいない。彼は構わず奥へ進んで、第一室の扉を開きにかかったが錠がおりている。第二室も又そうであった。われわれ霊魂が先回りをしてこんなイタズラを試みていたのである。が、最後の室の扉だけはわざと錠を下していない。

 僧はそれを開けて内部に入ると魔術者は薄暗い明かりをつけて彼の来るのを待って居た。年若き僧は威丈高(いだけだか)になって室の中央に突き立ちながら言葉鋭く魔術者を面罵した。──が、魔術者の方はフンともスントも一言も発せず、ただじっと相手の顔を腗(ね)めつけていると、次第次第に僧の言葉は途切れ勝ちになり、何やら物に襲われたような面持ちをして、締りのない恰好をしてボンヤリ其処に立ちすくんでしまった。

         
 俄然として魔術者が口を開いた。──
『この莫迦者! 何だって此処へ来やがった? 汝はいよいよこれで滅亡じゃ!』
 そう言って何やら呪いの文句を唱えた。同時にわれわれ悪霊が寄って集ってこの哀れな僧に武者振りついた。
 再び魔術者が叫んだ。──
『明日こそいよいよ汝の罪悪の廣く世間に暴かれる日じゃ! 俺の配下に二人の婦女がいる。そいつ達が、汝と出来合って、此処を密会の場所にしていたと、そう世間に自首して出る。──今度こそいよいよ汝の急所をおおさえた。いよいよモー逃道はない。生意気にも汝は俺の神聖な仕事にケチをつけ、悪魔と交通している、などと世間に言いふらした。不埒者奴がッ!』

 僧は血涙を絞って叫んだ。──
『嘘だうそだ! そんな事は真っ赤な嘘だ!。 拙者は何者の罪悪も犯さない。拙者は冤(えん)を社会に訴え併せて汝が悪魔と取引していることを公然社会に発表してやる。』
『フ丶丶丶どこにそんな戯言を信ずる莫迦者があるものか! コレ大将モー駄目じゃ駄目じゃ! あんまりじたばたせずに大人しく往生した方がよかろう。』
 散々嘲りながら何やら重いものを僧に叩きつけたので、僧は気絶して床の上に倒れた。
『まだ殺すのは早すぎますぜ!』と吾輩は魔術者を制した。『すっかり世間の信用を落さしてからがいいです・・・・・・。』
『ナニ殺しはせぬ。斯うして置いて此奴の軀に付けている品物を二つ三つ奪ってやるまでの事じゃ。先ず頭髪が二三本、それにハンケチ、時計の鎖にぶら下げている印形・・・・・・。そんな品物を二人の婦女に渡して置けば色情関係のあった善い証拠物件になる。』
『それよりは』と吾輩が入智慧した。『この坊主と女とを実際に引っつけてやりましょう。』
『なるほどそいつア妙じゃ!』

 魔術者は大歓びで吾輩の定義に賛成した。──が、その瞬間にパット満室にそそぎ入る光の洪水で何もかもオジャンになってしまった。イヤその光の熱さと言ったら肉を溶かし、骨を焦がし、いかなるものでも突き透さずには置かない。後で判ったが、この光は僧を守護する大天使から発するところの霊光なのであった。
 いつの間にやら天使は現場に近づいて、威容厳然、喇叭に似たる明々たる声でこう述べるのが聞かれた。──
神は抵抗の力を失ヘる人間が悪魔の誘惑にかかるのを黙認して居る譯には行かぬ。これまで汝をして勝手にこの人物を苦しめさせたのは彼に対する一つの試練であったのじゃ。彼をして首尾よくその誘惑に打ち勝たせん為の深き情けの神の笞(しもと)であったのじゃ。されど汝の悪事もいよいよ今日限りじゃ。汝の不義不正はその頂点に達した。即刻地獄の奥深く沈め! 同時に地獄からのがれい出でたる汝悪霊、汝も亦地獄に戻れ! 汝が前に堕(おと
され居たる所よりも更に一段の深さまで・・・・・・。
 そう述べる間もなく火焔は吾輩の軀を焼きに焼いた。魔術者も亦一とたまりもなく死んで倒れた。彼の霊魂は迅速にその肉体から分離し、そしてその幽体は烈烈たる聖火の為に一瞬にして消散し去り、赤裸々の霊魂のみが一声の悲鳴を名残に、何処となく飛び去ってしまった。同時に吾輩も亦無限の空間を通して下へ下へとはかり知られぬ暗闇の裡(うち)に転落したのであった。

 最後にやっとある地点にとどまりついたが、それは吾輩の曾て君臨せる王国でもなければ又かの憎悪の大都市でもないのであった。そんなところよりはもっともっと下方、殆ど地獄の最下層に達していた。──が其処でどんな目に逢ったかという話は何れ又機会を見てお話ししましょう。─


 ワアド氏はその時質問を発しました。──
『ちょっとお尋ねしますが、あなたが地上に出て来る時に軀の色が赤黒かったというのはありァ一体どういう譯でございます?』
『それは多分』と叔父さんが脇から言葉を出しました。『オーラの色が赤黒かったのじゃろう。お前も知っとる通りオーラというものはその時の感情次第で色がいいろいろに変わる。赤黒いのは言うまでもなく憎悪の色じゃ。』
『それはそうと陸軍士官さん、あなたのお話は先へ進めば進むにつれてだんだん途方途轍もないものになってまいりますナ』とワアド氏は重ねて言いました。『就中今回の魔術者の物語ときては如何にも飛び離れて居ますから、果たして世人がこれを聞いても信用するでしょうか? 近頃魔術などというものはまるで廃れてしまっていますから、恐らくこんな話を真面目に受け取るものは無いでしょうナ・・・・・・。』

『イヤ世人が信用するかせんかは吾輩少しも頓着せん。
と陸軍士官が答えました。『吾輩の物語は一から十まで皆実談じゃ。この話をして置かんと吾輩次の物語に移るわけには行かん。吾輩がこの魔術者とグルになったればこそあんな地獄の最下層迄落ち込むことになったので・・・・・・。』
『そうじゃとも。』と叔父さんが再び口を挿みました。『世間の思惑を心配して事実を枉(ま)ぐることは面白うない。──しかし今日は時間が来た。お前は早う地上へ戻るがよい・・・・・・。』
 次の瞬間ワアド氏は意識を失ってしまいました。
 
                 十四  眞の悪魔
 これは一九一四年五月十八日の霊夢で現れた実録です。いよいよ地獄のどん底生活の描写が始まります。──
 さて自分の居所が大体見当がつくと同時に吾輩は早速その辺をあちらこちらぶらついて見たがイヤ驚き入ったことには、今度の境涯は以前の境涯よりかも更に一段と品質が落ちる。闇の濃度が一層強く、そして一望ガランとして人っ子一人見当たらない。
 が、だんだん歩き回っている中に、忽ち耳を劈(つんざ)くものは何とも形容の出来ない絶望の喚き声である。オヤ! と驚いているとたちまち闇の裡から一団と亡者どもが疾風の如く駆け出してきた。そしてそのすぐ後から遮二無二追いかけて来たのが一群のホンモノの悪魔・・・・・・。
 悪魔にもホンモノとニセモノとある。幽界
(アストラルブレーンへん)でおりおりでくわしたのはありァ悪魔の影法師で決して本物ではない。即ち悪魔を信ずる者の想像で形成される、ただ形態だけのものである。ところが、地獄の底ででッくわす悪魔ときては、正真正銘まがえなしの悪魔で、幽界当たりのお手柔らかなシロモノではない。想像から生み出された悪魔には蝙蝠(こうもり)の翼だの、避けた蹄だの、角の生えた頭だのが附きものであるが、地獄の悪魔にはそんなものは無い。彼らは人間の霊魂ではなく、とても想像だも及ばない恐ろしい族(やから)、つまり一種の鬼なのである。
 彼らは手に手に鞭のようなものを打振りながら人間の霊魂の群を自分たちの前に追い立てて行く。

『こらッ往生したか!』鞭でぶってはそう罵るのである。『本当の神というのは俺達より外にはない。汝等が平生神と唱えているのはただ汝等の頭脳の滓(かす)から出来たシロモノだ・・・・・・。』
 そんなことを叫びつつだんだん此方へ近づいて来て、鬼の一人が忽ちピシャリ!と吾輩の顔を殴りやがった。吾輩もかねて地獄のやりっぷりには慣れて居るので、早速其奴に武者振りついて見た。が、ドーいうものか今度はさっぱり力が出ない。幾ら気張って見ても、ただめちゃめちゃに殴られるばかり、さすがの吾輩も今度ばかりは往生させられてしまった。忌々しいやら悔しいやらで胸の中は張り裂けそうだがいかんとも致仕方がない。もがき乍ら地面にぶっ倒れると、今度は誰かが錐(きり)のようなものを吾輩の軀に突き通すので覚えず悲鳴を上げて夢中に跳び起きる。イヤその苦しさ! とうとう吾輩も他の亡者どもと一緒に、何所を当てともなく一生懸命駆け出すことになってしまった。
 これからが眞の恐怖時代の始まりであった。先へ先へとわれわれはや闇の空間を通して駆り立てられ、ただの一瞬間も停まることを許されない。しまいには『自我』の軀の内部から叩き出されるような気持がした。むろん吾々は逃げるのに忙しくてお互い同士口を利くこともできない。躓く、倒れる、起きる、走る──ただそれだけである。仲間は男もあれば女もある。大抵のは衣服を着ているが、ドーかすると素裸だかのもある。衣服はあらゆる時代、あらゆる国土のもので、ただの一枚としてボロボロに引きちぎれていないものは無い。

 われわれは陰々たる空気を通してお互い同士の顔位は認めることができたが、しかしわれわれの通過する地方がどんな所であるかがはさっぱり見当が取れない。ただ一づに鬼どもの笞(しもと)から逃れたいと思うばかりで、無我夢中で闇から闇へとくぐり入る。
 われわれの背後からは鬼どもの凄文句が間断なく聞こえてくる。──
『どうだい。これでもかい! これでもかい! 呵責は重く褒美は軽い。走れ走れ永久に! 汝達の前途は暗闇だ。汝達は永久に救われない。汝等の犯した罪は何時まで経っても許されない。汝達は神を拝まずして悪魔を拝んだ不埒者だ!』
『イヤイヤこの世に神は無い。神があるなどとは人間の拵えた真っ赤な嘘だ。悪があるから善がある。悪が根元で善は影だ。この世に善人等は一人もいない。キリストの話は神話に過ぎない。本当にあるものはわれわればかりだ。もがけ! 泣け! あきらめろ! 汝達の幸福の日はモー過ぎた。死後の生命などは汝達の為にはない方がよかった。地上に於いてわれわれは汝達に仕えた。汝達は今後われわれに仕えるべき順番だ・・・・・・。』

 こんな種類の悪罵嘲笑が間断なくわれわれの耳に聞こえてくる。無論彼等の述べる所は大抵は嘘で、言わばわれわれをがっかりさせる為の出鱈目に過ぎない。しかしその言葉の中には極少量の真理も含まれているので人を惑わせる魅力は充分にある。
 これまでの吾輩は一目で先方の胸中を立派に洞察(みぬ)く力量を持っていたものだがドーいうものが今度の境涯へ来てからはさっぱりそれが出来なくなってしまった。付近にいるのは何れも意志の強烈な奴ばかりで、自分の思想を堅固な城壁で囲んであるので、いかに気張ってみてもそれを透視することが出来ない。
 とうとう吾輩は鬼の一人に向かって叫んだ。──
『何時までもこう追われてばかりいてはとてもやり切れない。追われる代わりに追いかける役目になれないものかなァ?』
『譯はないさ』と彼は吾輩の顔をピシャリと叩きながら叫んだ。『モ一つ上の境涯へ行って百人の霊魂を爰まで引き摺って来ることが出来さえすれば、その功労ですぐその役目になれる。こんな易しい仕事はない。引っ張て来た奴等には皆悪魔を拝ませる・・・・・・。』

『でも、ドーして上の境涯へ行けのだろう?』
『俺達の方で案内してやるよ。が、先方へ行ったからとて到底俺達の手から逃げられはしないぞ。ただ俺達の仕事の下働きをやるだけだぞ……。』
 とうとう吾輩は悪魔の弟子入りをすることになってしまった。

                                           十五  眷属募集
 で、他の霊魂どもが、永遠に終わることなき追撃を受けつつある間に、吾輩のみただ一人後に残されることを許されたのである。
 吾輩の道案内に選び出された鬼というのは吾輩などよりずっと身長が高く、闇の中から生まれたらしいドス黒い軀を持っていた。が、其奴はものの二分と決して同じ格好をしていない。のべつ幕なしに顔も変われば姿も変わる。初めは何やらフワフワした黒い衣服を着ていたように見えたが、見る見る内に素っ裸になった。その中又も一変して山羊見たいなものになった。おやおやと驚いている中に更に大蛇の姿に化けた。

 その次の瞬間に彼は又もや人間の姿に立ち返ったが、実は人間というのは大負けに負けた相場で、いかに人相のよくない人間でも此奴のように見苦しく、憎々しい、呆れ返った容貌のものは廣い世界にただの一人も居はしません。眼と言ったら長方形で、蛇の眼のように底光りがしている。鼻と来たら鷲の嘴(くちばし)のように鈎状を呈している。大きな口に生えた歯は何れも皆尖って像の牙のように突き出している。悪意と邪淫とが顔の隅から隅まで漲り渡り、指端はまるで爪みたいに骨っぽい。総身からは闇の雫がジメジメ染み出るように見える。そうする中に彼の姿が又もや変わって今度は真っ赤な一本の火柱になったが、ただ不思議なことにはそれから少しも光線というものを放射しない。
 右の火柱の中から『俺について来い!』という声が聞こえた。其処で吾輩と動く火柱とが連れ立って進んで行った。間もなく闇の中から調子はずれの讃美歌のようなものが聞こえだした。だんだん近づいて見ると、そこには山らしいものがあって、その山腹のあなの中に沢山の幽霊がウヨウヨして居た。吾輩の案内者はここで再び半分人間臭い姿を取って一緒に穴の中へ入り込んだ。
 鐃鈸(どらばち)やら喇叭(らっぱ)やらが穴の中でガチャガチャ鳴ると、それに混じりて物凄い喚き声やら調子外れの讃美歌やらが聞こえる。間もなくわれわれの前面には大きな玉座が現れ、そのすぐ傍では、猛火の塊と思わるる大釜がものすごい音を立てて炎々と燃えている。玉座の上に座っているのは気味の悪い面相の大化物で、件の釜の中に投げ込まるる男女の子供たちが、熱がってヒイヒイ悲鳴をあげるのをさも満足げに見守っている。言うまでもなく地獄の猛火は尋常の火とは譯が違うが、しかしそれに炙(あぶ)られる感じは地上の火で炙られるのと何も変わりはない。

『どいつも皆子供の姿をしているが、実際子供なのかしら・・・・・・。』
 と吾輩が不審の眉をひそめた。
『そんなことがあるもんか!』と案内の鬼が答えた。『あいつ等は全部皆成人なのだが、無理矢理に子供の姿に縮小されて悪魔の犠牲にされるのだ。本物の鬼というものは所中管内を捜し歩いて、捕まえた奴は全部釜の中に放り込むのだ。本当の子供はただの一人もこんな境涯へ来てはしない。──さァ其処へ鬼が沢山やって来た!』
 そう言っている中に猛烈な叫び声が附近に起こった。すると果たして一群の鬼どもが穴の内部(なか)
入して来て、吾輩をはじめ、そこいらに居た全部のものを悉く大釜の中に叩き込んだ。実際それが燃ゆる火なのか、それとも鬼の念力で火のように熱いのかはよく判らないが、兎に角その時の苦痛と言ったらお話になりはしない。

 漸くのことで鬼どもが何所かへ消え失せたので、われわれは釜の中から這い出した。それから他の連中は最初の通り御祈禱を始めたが、吾輩はそんな事は御免蒙って案内者の方に近づいた。
 彼は尖った歯をムキだして笑った。──
『どうだ、なかなかこの刑罰も楽ではなかろう。余程奮発して沢山の眷属を引き連れて来ないとまだまだこんなお手柔らかなことでは済まないぞ!』
『連れて来るよ来るよ!』とさすがの吾輩もいくらか慌てて『吾輩幾らでも連れては来るが、しかしどうしてソー沢山の眷属を欲しがるのだ? いくら連れてきた所でただそれを虐めるだけの話じゃないか?』
『当たり前だ。俺達には人間が憎いのだ! とても汝達(きさまたち)には想像が出来ないほど憎いのだ! 汝達も人を憎むことを知っているつもりだろうが、そりゃホンの真似事だ。俺達の本業は人を憎むことだ。俺達は心から人間が嫌いだ!』
 そう叫んだときに彼の全身は忽ち炎々たる火の塊になってしまった。彼が再び人間の姿に戻ったのはそれからしばらく過ぎてからのことであった。

『さァこれからいよいよ汝(きさま)の仕事だ!』
 彼はそう吾輩を促し立って大急ぎで前進した。何やら山坂でも登るような感じであったが、果たして坂があったのかドーかは勿論判りっこはない。
 突然彼は吾輩をつかまえて虚空遥かに跳び上がったように感ぜられたが、ふと気がついて見ると、其処は曾て吾輩の住んでいた上の境涯なのであった。
 案内者はここで吾輩に向かって厳命を下した。
『コラ汝は何時までも爰に居続けることは相成らんぞ。汝の軀はモーすっかり汚れ切って重量(めかた)が増えているからここに居たところで決して良い気持ちはしない。こんな所で行方を晦まそうなどはせぬことだ。そんなことをすれば、すぐにひっつかまえて極度の刑罰に処してくれる。俺にも此処は居心地が良くないから下の境涯へ戻っているが、しかし汝(きさま)がここで何を考え、何を働いているか位のことはチャーンと判っているから気を付けるがいいぜ・・・・・・。』
 それっきり案内役の鬼はプイと姿を消してしまった。吾輩はホット一息つくはついたが、しかし執行猶予の期間は幾らもなかりそうなので、早速仕事に着手することにした。

 だんだん調べて見ると、この付近は所謂吝嗇国(りんしょくこく)というものらしく、他所から自分の所有する黄金を取りに来はせぬかと、ただそればかり心配している。その癖地獄に眞の黄金のあろう筈がない。よしあったにした所で、地獄で黄金は何の役にも立ちはせぬ。それにもかかわらず生前から持ち越しの慾気と怖気とに悩まされ続けている。
 吾輩は彼等の癖をうまく利用して自己の目的を達すべき妙計を考えた。ある奴には、悪魔に拝めば幾らでも黄金を貰えると言い聞かせた。又有る奴には、悪魔に縋れば決して所有の黄金を人に取られる心配はないと説明した。兎に角大車輪の活動のお蔭で、吾輩はかなり優勢の眷属を糾合することに成功した。吾輩は早速そいつ達を唆して悪魔供養祭(ブラックマス)の執行に着手した。
 最初は幾ら祈願を凝らしても悪魔の方で受け付けてくれる模様が見えなかったが、しばらくして感応があり出した。何やら強い無形の力でグイグイ引っ張られるような感じ・・・・・・。他の連中にはそれが何のことやらさっぱり譯が判らなかったが、吾輩は忽ち、いよいよ来たナと感づいた。この引着力は、相互の間に一の精神的連鎖が成立しつつあることの確かな証拠で、それは引力の法則と同様に次第次第に勢いを加えて行った。最後に自分達の立っている地べたが足の下からズルズル下方に向かって急転直下、奈落の奥深く沈んで行った・・・・・・。
 
                  十六  地獄のどん底
 われわれがいよいよ呪われたる約束の地に落ち着くと同時に、たちまり無数の鬼どもが前後左右からバラバラと群がり寄った。
『兎も角もこれで褒美の品にありつけるナ・・・・・・。』
 吾輩が独り笑壺に入ったのはホンの一瞬間、褒美どころか、あべこべに一人の鬼からこんな引導を渡されてしまった。──
『汝は悪魔の役割を横取りしやがって、人間をこんなところへ連れてきたが、よく考えて見るがいい。俺達と汝達とは種類が違う。汝達にはそんなことをやるべき権能は少しもない。俺達は人間を憎んでそれを虐めるのが転職だ。汝達はもともと人間の部類で、これを憎んだり虐めたりすべき権能を持っていない。汝は単なる利己心から汝の同胞を裏切ったのだ。俺達の仕事とはまるきり畑違いだ。莫迦にするない。人間が如何に鬼の真似をしたからとて本当の鬼になれて耐るものか! 俺達の天性と汝達の天性とは根本的に違っている。──コラ畜生! さっさと自分の仲間の所へすっ込め!』

 吾輩は這々の態で自分の誘惑してきた亡者どもの群れに戻ったが、それはホンの一瞬間に過ぎなかった。吾輩の彼らに約束したことがまるきりペテンであることがばれると同時に何れもカッとむかっ腹を立て、総勢一時に武者振りついて吾輩を八つ裂きにしようとした。イヤそれから引き続いて起こった夢魔式の争闘と云ったら全く目も当てられはしません。一方では鬼の笞(しもと)で一同前へ前へと追い立てられる。追われながらも仲間の亡者はズタズタに吾輩の軀を引き裂きにかかる・・・・・・。吾輩の軀は何回引き裂かれたか知れない。少なくとも何回引き裂かれたような気持がしたか知れない。その癖死ぬこともできず。生きながら死の苦しみを続けるばかり・・・・・・。
 漸くのことで吾輩はちょっとの隙を狙って彼等の間から抜け出して死に物狂に逃げた。すると彼等も死に物狂いになってすぐ後から追いかけて来た。
 それから何処をドー通過し、何事(なに)をドーやったかは記憶にさえも残っていない。ただ悪夢に襲われた時とそっくりそのまま、前へ々と疾駆するらしく感ずるばかり・・・・・・。そうする中に又もや急転直下式に向かって下方に向かって墜落し始めた。しまいにはジタバタもがく気力もまるきり失せてしまって、勝手放題に下へ下へ下へ下と、未来永劫届く見込みのなかりそうな奈落に落ち込んで行ったのであった。

 何年間、何十年間その状態を続けたのかは判らないが、それでもとうとう吾輩の墜落事業が中止さるべき時期が到着した。吾輩の軀は何やら海綿見たいな物体の中に埋没して二進(にっち)も三進(さっち)も動けなくなってきた。無論それはガッシリした堅い地面ではないが、さりとて又ジクジクする泥田見たいなところでもない。地球上には先ずそれに類似のものがまるきり見当たらない。──尤もそりァその筈で、右の海綿状の物体というのは地獄名物の闇の塊なのです。嘘だと思ったら行って御覧なさい。実際それは触覚に感ずる濃厚體(のうこうたい)ですから・・・・・・。
 兎に角この海綿状の黒霧が吾輩の墜落を喰いとめたのである。が、それは決して踏んで踏みごたえのあるシロモノではない。前後左右何所もかしこも皆フワフワして居て、頭の上も脚の下も堅さに於いて別に相違がない。音もなければ光もなく、一切皆空の、イヤに寂しい、なさけない、気持ちの悪い境地である。絶対の孤立、絶対の無縁──ただ人間の仲間外れになったばかりでなく鬼にさえも見放されてしまった孤独境なのである。
 これが運命に逆行して必死の努力を試みた吾輩の最後の幕なのであります。あああの時の寂しさ、物凄さ・・・・・・。

                十七  底なし地獄  
 吾輩にはとても地獄の最下層の惨たらしい寂しさを伝える力量はない。体験以外にその想像は先ず六ヶ敷(むずかし)そうに思われるから一切余計な文句をならべないことにしますが、しかし吾輩の為にはそれが何よりの薬でした。あんな目に逢わされなければ吾輩はとても本心に立ち返るような根性の持ち主ではないのでね・・・・・・。
 最初吾輩には何等後悔の念慮などは起こらなかった。胸に漲るものはただ絶望、ただ捨鉢・・・・・・。するとたちまち自分自身の生前の罪障が形態を作って眼前に浮かび出でて吾輩を嘲り責めるのであった。──
『汝呪われたる者よ。眼を開けてよく見て置け。汝はわれわれを忘れていた。最早汝には何等希望の余地もない。汝はその生涯を挙げて悪魔の駆使に任した。人間の皮を被った中の一番の屑でも最早汝を相手にはせぬ。汝を見捨てることの出来ないのはわれわれのみだ。出来ることならわれわれとても汝みたいなものとは離れたいのだが・・・・・・。

 一応その場面が済むと今度は入れ代わって闇の場面が現れた。全然寂滅そのもののような暗黒である。叫ぼうと思って口を開けて見ても声は出ない。闇が口の中に流れ込んで栓をするような気持である。
『彼等の口は塵もて塞がるべし・・・・・・。』
 胸の何処やらにこの文句の記憶が残っているらしく思われたが、文句の出所を捜す気にもなれない。兎に角寂しくて耐まらない! なさけなくてしょうがない! 例え鬼の笞(しもと)に撲たれながらも、上の境涯の方がどれほど恋しいか知れないと思ヘたが、それすらもモー高値の花であった。
 とても歯ぶしのたたない絶対の沈黙! 吾輩にはとてもその観念を伝え得る詮術はない。あなた方には上の境涯で八つ裂きの呵責に逢う方がよっぽど辛かろうと思えるかもしれませんが、決してそんなものではないのです。
 こうして幾世期、幾十世紀かの歳月が荏苒(じんせん)として経過するように感ぜられた。『永遠の呵責』──あの気味の悪い文句が吾輩の胸の何処かで鳴り響くように思われた。『ここに入りたるものはすべからく一切の希望を棄てよ。』──このダンテの文句なども吾輩の耳に響いて来た。
 然り一切の希望の放棄! 吾輩はしみじみとその境涯の眞味を味わいながら、独りぼっちで幾世紀、幾十世紀の長い長い歳月を苦しみ抜いたのである。が、最後に、バイブルの中の文句が俄然として吾輩の乾燥(ひから)びた胸に浮かび出でた。──

『神よ神よ、汝は何故に我を見棄て給えるか?』
 吾輩はその瞬間までこの恐るべき文句の真意が判らずにいた。そんなことはトンチンカンな不合理だと思っていた。が、この時初めて電光石火的に、神は全ての人間の苦痛──然り、地獄のどん底に堕ちて居る人間の苦痛をも知って御座るに相違ないと気がついた。キリストの十字架磔刑の物語などは信ずるも信ぜざるもその人々の勝手である。しかし神さまだけは人間の苦痛の一切を知って居られる。──この事のみは吾輩断じてそれが事実であることを保証する。
 最所この考え方が吾輩の胸に浮かんだときには格別それを大切な事柄とは思わなかった。が、だんだん時日が経つにつれてこれには何かの深い意味が籠っている事のように思われてきた。吾輩は考えた。──若しも神が人間の苦痛を知って御座るなら、愛の権化である神は人間に対して多少の憐れみを抱かるる筈である。無論神は矢鱈にわれわれを助ける譯には行くまい。枯れる樹木は枯れねばならぬ。しかしもしも神様が何所かにお在(いで)になる以上、必ず吾輩のことを憐れんでいて下さるに相違ない・・・・・・。

 次第次第に新しい感情が吾輩の胸に湧き出してきた。──吾輩はドーしてこんなに莫迦だったのだろう。何故もっと早く後悔して地獄から逃れることに気がつかずにいたのだろう? 後悔しさえすればきっと神から許される・・・・・・。
 が、待てよ、地獄というものは永久の場所ではないのかしら・・・・・・。果たして地獄から抜け出すことが出来るかしら・・・・・・。
 吾輩は考えて考え抜いた。挙句の果てには何が何やらさっぱり譯が判らなくなってしまったがしかし何を考えるよりもキリストのことを考えるのが一番愉快なので、吾輩はそればかり考えつめるようになった。公平に考えて当時の吾輩にはまだ中々純呼たる後悔の念慮などは起こってはいなかった。が、兎も角も自分は余程の莫迦者で、つまらなく歳月を空費したものだと感ずるようになっていた。
『イヤ』と吾輩は叫んだ。『吾輩は借金だけはきれいに返さねばならない。下らぬ愚痴は言わぬことだ。吾輩は生きて居る時分にもそんな真似はしなかった。今さら世迷言の開業でもあるまい・・・・・・。』
 そうする中にも、過去に於いて吾輩が人に施した多少の善事──数は呆れ返るほど少ないが、それでもその一つ一つが、他の不愉快きわまる光景の裡にチラチラ浮かび出て、吾輩の干乾びた胸に一服の清涼剤を投じてくれた。それからモーひとつ懐かしかったのは早く死に別れた母の記憶・・・・・・。

『今頃母の霊魂は何所にどうしておられるだろう・・・・・・。』
 母は吾輩のごく幼い時分に亡くなったが、しかしその面影ははっきり胸に刻まれて居た。その母から教えられた祈祷の文句──ドーいうものか吾輩にはそればかりはさっぱり思い出せなかった。他の事柄は残らず記憶して居るくせに、祈祷の文句だけ忘れてしまっているというのは全く不思議な現象で世間で呪われたものに祈祷が出来ないというのは或は事実なのかもしれないと思われた。
 兎に角自分でも気がつかぬ中に吾輩は幾らかづつ祈祷でもして見ようという気分、少なくとも善いことをして見ようという気分になりかかって来たのであった。
 この一事は実に吾輩に取りて方向転換の合図であった。それからドーして地獄を抜け出ることになったかは、これから順序を追って述べることにします。
 吾輩は一と先ずこの辺で一服させてもらいます。いよいよ堕ちる所まで堕ち切って、これから上へ登る話です。人間に取りて第一の禁物は絶望である。神の御力は何所までも届く。善人にも悪人にも死ということは絶対にない。永劫の地獄生活は死に近くはあるが死ではない。

心が神に向かえば地獄の底からでも受合って抜け出ることが出来る。吾輩が何より良いその證人である・・・・・・。
 
                            十八  向上の第一歩
 これは一九一四年五月二十五日に見た霊夢の記事ですが、陸軍士官は相変わらず席に着くなりワアド氏にこの物語をして聞かせたのでした。──

           
 いくばくの間吾輩がかの恐ろしい地獄の闇に閉ざされていたかはさっぱり見当が取れませんが、しかし自分にはそれが途方もなく長い年代にまたがるように思われた。が、兎に角最後に吾輩は一の霊感に接した。吾輩の呂律のまわらぬ祈祷でも神の御許に達したらしいのです。『神にすがれ。神より外に汝を救い得るものはない。・・・・・・』
 そう吾輩に感じられたのである。

 が、神に縋るという事は当時の吾輩に取りて殆ど奇想天外式の感があった。吾輩の一生涯はいかにして神から遠ざかろうか。──ただその事ばかりに惨憺たる苦心を重ねたものだ。なんぼなんでもその正反対の仕事をやるのは余りに勝手が違い過ぎるように思えて仕方がなかった。
 吾輩はとつおいつ思案に暮れた。どうすれば神に近づけるか? どうすれば海綿状の闇の中から抜け出せるのか? 自分はすでに呪われたる罪人ではないか? 
 すると最後に新しい考えが又吾輩の胸にひらめいた。──
『祈祷に限る・・・・・・』
 一旦はそう思ったが、しかしやはり困った問題が起こった。吾輩はさっぱり祈祷の文句を覚えていない。祈祷のやり方さえも忘れてしまった・・・・・・。
 散々苦しみ抜いた挙句に、丁度一の霊感みたいに吾輩の唇から『オ丶神よ。われを救へ・・・・・・。』という一語が吐き出された。
 一度言葉(くち)が切れてからは後は楽々文句が出た。吾輩は同じ文句を何回となく繰り返した。
 それから続いてどんな事が起こったか。又ドーいう具合に地獄のどん底から上に出抜けることになったか。──これを地上の住人に判るように説明することは実に容易でない。何より当惑するのは適当な用語の不足で、地獄の経験を言い表すべき文句を見出すことは実に至難中の至難事であります。

 それはそうと、祈祷の効験は真に著しいもので、何とも言い知れぬ一種心地よき温みがボーッと軀中に行き亘ってきた。それがだんだん強烈になって、最後には少々熱すぎる位・・・・・・。とうとう軀に灯がついたようになってしまった。祈れば祈るほど熱くなるので、しばらく祈祷を中止したりした。
 熱さについではやがて叉一の新しい妙な感じに接した。それは吾輩の軀の重量が少しづつ軽くなることで、同時に自分は海綿状の闇の中をフワリフワリと上の方へ登り始めた。あんなお粗末な祈祷でも吾輩の軀にこびりついた粗悪分子を少しづつ焼き尽くし、其の結果自然に濃厚な闇の裡には沈んで居れなくなったらしいので・・・・・・。
 昇り昇って最後に吾輩は闇を通して黒いツルツルした巌が突き出しているのを認めた。地上とは大分勝手が違うから説明しにくいが、地獄の底は言わば深い闇の湖水で、四方には物凄い絶壁が壁立しているのだと思ってもらえば大体見当がつくであろう。
 兎に角吾輩はこの黒光りする巌を認めるや否や、溺れる者は藁一筋にもすがるの譬えにもれずただちにそれにしがみ附こうとしたが、中々難しい。幾度となく足を踏み滑らして尻餅をつくのであった。
 
 祈祷の有難味はモー充分判って居るので、吾輩は再びそれに頼った。──
『お丶神よ、首尾よくこの闇より逃れるべく御力を貸し給え・・・・・・。』
 そう述べるより早く吾輩が今迄乗っていた闇の湖水が急に揺す振れ出して、大きな波が周囲に渦巻き、吾輩を一呑みにしそうな気配を見せた。が、予想とは反対に、吾輩の軀は浪の為に巌の上まで打ち上げられてしまった。吾輩みたいなものでも、芽を吹き出した信仰のお蔭で黒く濁った地獄の水に浸っているのには重量が不足になったものらしい・・・・・・。

          
 巌の上も随分暗いことは暗いが、しかしモー触覚に感ずるほどの闇ではなかった。が、周囲の状況が少しづつ判るにつれて吾輩は却って失望の淵に沈まない譯には行かなかった。吾輩の打ち上げられた巌というのは、千仭(せんじん)の絶壁から丁度卓(つくえ)のようにちょっぴり突き出たもので、いかにその付近を捜して見ても其処から路らしいものはどこにも通じていない。この時も吾輩又例の奥の手を出して祈祷を始めることにした。

 しばらくの間何の音沙汰とてないのでがっかりしかけていると、吾輩の視力が次第に加わって来たものか、左手の崖に開いている一つの孔が眼に入った。ドーやら片手だけはそれに掛かりそうなので、散々足場を捜した後で、やっとのことでその孔に縋りつくことが出来たが、その孔は案外奥の方が開け、しばらくトンネル様の個所を通って末は狭い谷に出抜けている。
 こんな風に述べるとあなた方は地獄はイヤに物質的のところだなと感ぜられるかもしれませんが、しかしわれわれ超物質的のものにとりて超物質的の巌はさながら実態のあるように感ぜられるのです。そりァむろん、何所やらに勝手の違ったところはないではないが、しかしとてもその説明はしかねる。ワアドさんはちょいちょい霊界探検に来られるから大体の見当はおつきでしょうが一般の方には事によると腑に落ちないところが多いかも知れません・・・・・・。
 其れはそうと吾輩は非常な苦心努力を重ねて一歩一歩右の壑(たに)を上へ上へと登って行った。しばらくして崖の中腹の一地点に達すると、其処から馬の背のような岩が崖に沿えて延長しているので、吾輩は其の岩の上を辿ることにした。
 が、やがてその岩もつきてしまったので、吾輩は再び絶望の淵に沈んだ。これほどまでに苦心したとどのつまりは矢張り失敗なのかと思うと、最早立っている根気も失せて一旦はペタペタと地上に崩れた。

 其処でいろいろ考えて見たものの結局何の工夫も浮かばない。そうことなしに又々祈祷を始めることになったが、餘り度々のことで格別の希望をこれにつなぐ気にもなれなかった。が、不思議なもので、祈祷をやると幾らか精神が引き立って来て、しまいにはとうとうまた起き上がって出口を捜して見る気分になった。
 と、俄かに雷のような轟然たる響きが起こって、巨大な岩の塊が崖の壁面から崩れ落ち、それが狭い谷の上に丁度橋を架けたようなあん梅にぴたりと座った。橋の彼方がどこへドー通じているかは無論自分の居所からは見えはしないが、こうなったのは確かに自分の祈祷のききめに相違ないと感じられたので、大骨折りでこのギザギザした橋を昇り始めた。随分危ない橋で何遍か下の隙間に墜落しそうになったが、構わず前進を続けた。
 やっとの思いでその頂点まで達してみると、その向こうの渓谷はごろ石だらけの難所であった。其処を歩くには随分骨が折れ、寸前尺退、いつ果つべしとも思へなかったが、吾輩は歯をくいしばって無理に前進を続けた。この時ばかりは平生の負けず嫌いが始めて役に立った。

 が、これが最後の難関であった。出ぬけた場所は随分石ころだらけの荒れ地ではあったが、割合に平坦なので、覚えずはッと安心の吐息をついた。吾輩は地獄のどん底から二段目の所迄逆戻りしたのである。しかし吾輩の胸には同時に又新たな心配が起こった。──『自分は此処で又あの恐ろしい鬼どもに追い立てられるのではないかしら・・・・・・。もしそうであるならやり切れないナ・・・・・・。』
 が、何時まで経っても何事も起こらず、又何者も出てこない。するとまた別の恐怖が胸に湧きはじめた。──『自分は折角地獄の底から出るは出ても、やはりあのイヤにガランとした無人の境に置き去りを喰うのではないかしら。・・・・・・こいつも実に耐(たま)らない・・・・・・。』
 自分は一時途方に暮れた。『吾輩の祈祷が受け入れられたと思ったのはあれは当座の気休めで、神様は皮肉に吾輩をからかっていられるのではないかしら・・・・・・』
 散々煩悶に煩悶を重ねたものの兎に角闇が幾分薄らいでいる事だけは確かなので、そのことを思うと幾らか又希望の曙光がきらめき出すのであった。
 
  
                            十九  地獄の第二境  
 これは六月一日の夜の霊夢で陸軍士官から聞かされた物語の記録です。例によりて理屈抜きで単刀直入的に自己の体験の続きを述べています。
         
 我輩は何所を目当てともなしに、ごろ石だらけの荒野をトボトボと歩き出した。しばらくすると遠方にかすかな物音がするので兎も角もそちらの方へ足を向けた。すると、直にその物音の正体が判り出した。他でもない、それは鬼の笞(しもと)に追い立てられる不幸なものどもの叫び声なのである。
 吾輩はがっかりして足を停めた。今更あの痛い目に逢わされてはやり切れないが、さりとてまるきり仲間なしの孤独生活もたまったものではない。
『ハテ
どうも困ったものだナ・・・・・・。』
 頭を悩ましている間もなく、俄かに一群の亡者どもが、例の大勢の鬼どもに追い立てられて闇の裡からドッと押し寄せて来たので、吾輩は否応なしにその中に巻き込まれて一散に突っ走ざるを得ないことになった。
 しばらく駆り立てられてから自分はドーにかしてこの呵責から逃れる工夫はないものかと考えはじめた。  
 見ると吾輩のすぐ脇を走って行く一人の男がある。吾輩はよろめく足を踏みしめながら辛うじて件の男とに話しかけた。──
『ネー君、何とかしてここから逃げ出す工夫はないかしら・・・・・・・。』
『そ・・・・・・そいつが出来れば誠に有難いが・・・・・・。』
 すると鬼の一人が早くも聞きとがめた。──
『ふざけた事を抜かす奴が居やがるナ、この中に・・・・・・。覚えて居やがれ此畜生!』
 一言叫ぶ毎に鬼はわれわれ二人を鞭でピシャピシャ撲った。
 殴る、走る、走る、殴る。まるで競馬だ。が、吾輩はそうされながらも四辺(あたり)に眼をくばった。すると道は次第に凸凹になり、向こうの方に高い崖が突き立っている。その崖の所々に隙間があるのを認めた時に吾輩は仲間の男に囁いた。

『あれだあれだ!』
 自分達は成るべくそちらの方に近寄るように工夫して走り、いよいよ接近したと見るや矢庭に岩の割れ目の一つに逃げ込もうとしたが、鬼の一人が忽ちそれに感づいて後から追跡して来た。此方も死に物狂いに走って見たが、むろん鬼には敵わない。忽ちむんずづとひっつかまへられてしまった。
 しかし吾輩はひるまず、仲間の男に入智慧した。
『神様に祈れ祈れ! 地獄の中でも神様は助けてくれる・・・・・・。』
 入れ智慧したばかりでなく、自分から早速その手本を示した。
『お丶神よ、われを救へ! 
』と吾輩は叫んだ。『キリストの為にわれを救へ!』
『黙れ!』と鬼が怒鳴った。『神様が何で汝(きさま)を助けるものか! 』神様は正しいことがお好きだ。最初汝の方で神様をはねつけたのだから、今度は神様が汝をはねつける番だ。黙れ! 何をドー祈ったところで聴いてくださるものか! 神様だって忙しいや。汝のような謀反人の無心などを聞いている暇があってたまるものか。無駄な仕事はさっさと止して、大人しく此方(こっち)へ戻ってこい!』
 それに続いて、例の恐ろしい鞭が、ピシャリピシャリとわれわれの軀を見舞った。吾輩はそれに構わず一心不乱に祈祷を続けたが、仲間の男はとうとう我慢しきれなくなって、元来た方へ逃げ戻った。大勢の中に混じって居れば、幾らか鬼の笞を避けられるかと思ったからで・・・・・・。

 その瞬間に吾輩はふと崖
のすぐ下に黒光りのする、イヤに汚らしい池があることに気がついた。吾輩は一瞬の躊躇もなしにその池の中に飛び込んだ。
         
 その池の水が何であるにしても、少なくともそれが以前地獄の底で経験した闇の固形態でないことだけは明白で、どちらかと云えばギラの浮いた地上の汚水に一番よく似寄っていた。
 吾輩は兎も角もこの池を泳ぎ越そうとした。すると鬼もつづいて水の中まで追いかけて来て、吾輩が少しでも水面に顔を出しかけるとピシャピシャ鞭で打つ・・・・・・。イヤその苦しさと云ったらありません。が、一心に神様を念じながら屈せず前進を続け、首尾よく対岸までこぎつけた。
 それから吾輩は絶壁の真下に蹲(うずくま)りて命懸けで祈願をこめた。と見れば、吾輩の腰の周囲に一條の細い紐がかかっている。尚よく調べて見ると、それは沢山の環をつなぎ合わせて拵えた一本の鎖で、その環というのが、ツマリ吾輩が生前積み来れるホンの僅少條善行の徴(しるし)なのであった。
それまで吾輩はそんな事にはまるきり無頓着でいたが、かくと認めた瞬間にどれだけ吾輩の胸に勇気が湧き出でたか計り知られぬものがあった。

 かかる中にも、何時しか接近せる鬼は背後から吾輩をピシャピシャ笞(う)った。が、吾輩はそんなことは少しも頓着せず、急いで腰の鎖をほどいた。鎖は心細いほど細いものだが、しかし長さは予期したよりも遥かに長かった。
 吾輩は其の鎖の一端をワナに作り、雨のように打ち下ろさるる鬼の笞(しもと)をこらえて断崖の面を調べに掛かった。間もなく眼に入ったものは壁面からヌッと突き出した岩の一角、しかもその上には狭い一条の畦がついて居る。
 何回もやり損ねをした後で、とうとうその岩角にワナをひっかけることに成功した。そして細い鎖を頼りに、片手がわりに絶壁を登り始めた。
『何卒この鎖が切れませぬよう・・・・・・。』
 吾輩はこの時ばかりは今迄にもまして真剣に祈念を神にささげたのであるが、不思議なもので鎖は見る見る太くなるように思われた。しばしの間鬼は依然として背後から吾輩を打ち続けたが、やがてその鞭も届かなくなり、最後に辛くも例の壁面の畦まで辿り着いた。が、四辺は真っ暗がりで、何が何やらさっぱり判らず、鎖はと思って後を振り返ってみたが、いつしかそれさえ消え失せていた。

 暫時はただ絶望の長吐息を漏らしていたもののその中良い考えが少しずつ湧いて来た。つまり役にも立たぬ絶望の非を悟り、兎も角も此処までの救護に対して神に感謝する気持ちになったのである。
 これで気分が幾らか落ち着くと共に、吾輩は再び起き上ってそろりそろりと前進を始めたが、踏みゆく道が嫌に狭く、いつ足を踏み外して千仭(せんじん)の絶壁を転がり落つるかと寸刻の油断もできなかった。
 それでも道幅は先へ進むにつれて次第に廣くなり、あまり苦労せずとも歩けるようになった。
『イヤ何事も強固な意志の力に限る。』と吾輩は早くも得意になりかけた。『強固な意思さえあればどんな仕事でも成功する。大抵の人間なら、これほどの目に逢えばがっかりして匙を投げたであろうが、憚りながら吾輩はちと品質(しな)
が違う。どんなもんだい……。』
 そう思うと同時にふと爪先を軽石にぶっつけて足を踏み外し、ゴロゴロゴロと絶壁を矢を射る如く転落し始めた。が、あまり遠くも行かない中に岩と岩との亀裂(われめ)の中に頭部をグイと突っ込んだ。

 七転八倒の苦しみを閲した後、やっとの思いで亀裂から抜け出して元の場所へ辿り着くはついたが、それからは、幾らか前よりも清浄な気分になり、気を付けながら前進を続けた。その辺の道路はガラガラした焼石ばかりの所もあれば、ギザギザした刃物のような箇所もあり、そうかと思えば割合に平坦な歩きやすい箇所もあった。
 最後にある一つの洞穴の入り口に出たので吾輩は構わずその中に歩み行ったが、不思議なことには穴の内部の方が却って外部より明るい。こいつァ変だと思いながら一つの角を廻ってみると其処に待ち伏せしていた四人の奴が出し抜けに飛びかかって来て吾輩を殴り倒し、縄でグルグル巻きにしてしまった。
 その際無論吾輩は全力を挙げて彼らと格闘を試みたのであるが、以前この境涯に居た時とは違って吾輩の力がめっきり減っていたには驚いた。悪一方の時には地獄で大変幅がきくが、善性が加わるにつれてだんだん力が弱くなる。そのかわり一歩一歩に上の方へと昇って行く。
 今回はこれだけにして置きます。これでつまり吾輩はモ一度地獄の第三の境涯まで盛り返したのですが、前回は人を虐めて大威張りであったに引き換え、今度はあべこべに人から虐められる破目に陥ったのであります。

 イヤ今日はこれで失礼します。これから学校へ行って授業を受けるのですが、学問という奴は莫迦に難しいので吾輩大弱りです・・・・・・。
 
                            二十  地獄の図書館
 一九一四年六月八日の夜陸軍士官の口から漏れた地獄の第三境の体験譯(ものがたり)ですが、学問研究の美名にかくるる人間界の高尚な魔的行為のいかに憎むべきかが遺憾なく窺われます。これから続くニ三章は現代の読書子(どくしょし)に取りてこよなき参考と考えられます。
         
 さっそく前回の続きを物語ります。
 吾輩をつかまえた四人の奴らは盛んに吾輩を撲りましたが、その言い草が振るっている。──
『別に汝(きさま)を撲りたい譯ではないが、斯うして見せないと、何方が強いか判らないからナ・・・・・・。』

 実を言うと吾輩も以前地獄に居た時にこれと同じようなことをしてきたのだ。で、あんまり悔しいので一旦は一生懸命反抗って見たのであるが、ドーも今度は勝手が違ってさっぱり思うようにいかない。別に吾輩の意思が弱くなった譯ではないが、ただ悪事を働こうとする意志がめっきり弱ったので、これでは喧嘩するのに甚だ不利益に決まっている。しかし吾輩の為にはこれが却って薬なので、地獄で幅がきくような時代にとても救われる見込みはないに決まっている。
 随分久しい間吾輩は四人の者から虐め抜かれたものだが、漸くのことでちょっとの隙間を見つけて逃げ出した。後から四人が追跡して来たものの、悪事を働く意志の弱くなったと反比例に吾輩の逃げる意思が強くなったお陰で、難なく彼らを置き去りにすることが出来た。
 吾輩はそれから幾週間かに亘りて小石交じりの闇の野原をひた走りに走ったが、その間殆ど人っ子一人にも逢わず、万一逢った時にはつとめて此方で避けて通ることにした。最後に吾輩は一個の大きな建物に突き当たった。だんだん調べて見るとそれは思いもよらず一の図書館であることが判った。吾輩はこう考えた。──
『自分はドーにかしてこの地獄から脱出するつもりだが、それには今のうちにできるだけ地獄の内幕を調査して置いて、やがてそれを地上の学会に報告したいものである。それには図書館とは有り難い。全く注文通りのシロモノだ・・・・・・。』

 少々薄気味悪いが、思い切って建物の内部に入って見ることにした。と、入り口の所で忽ち人相の極度に悪い一人の老人にぶっつかった。
『吾輩は図書館の内部を見せて頂きたいので・・・・・・。』
 仕方がないからそう吾輩から切り出した。
『見せてやるよ。と老人が答えた。『利巧なものは皆ここへやって来る。一体地獄で有力者になろうと思えば、誰でも此処へきて勉強せんと駄目じゃ。人間界でもその通りじゃが・・・・・・。』
『全く御説の通りです。──ところでお尋ねしますが、その図書館の蔵書は憎悪一方のものばかりですか? それとも他の科目、例えば愛欲ものなども混じっているのですか?』
『主に憎悪もの、残忍ものばかりじゃが、もちろん愛欲ものも少しは混じっている。──しかし純粋の愛欲ものを調べようと思えば愛欲の都市の附近に設けてある同市専属の図書館に行かにゃならん。お前さんなども其処へ出掛けて行って、も少し勉強したがよかろう。損にはならんぜ・・・・・・。』
 こんなことを喋りながら自分達は図書館の内部に歩み入ったが、それは途方もなく広大なもので、組織は三部門に分類されていた。即ち──

  一、書籍部
  二、思想畫部
  三、思想活畫部
である。書籍部には増悪、残忍に関する一切の専門書が網羅されていた。例えば宗教裁判の記録毒殺の手引書、拷問の史実並びに説明書と云ったようなものである。ただ其処に生体解剖等に関する医書が陳列されているので吾輩は不審を起こした。
『一体地獄に持ってくる書物とそうでない書物との区別は何で決めるのです?』と吾輩は一冊の医書を抜き出して質問した。『例えばこの生体解剖書ですが、こりやフランスで出版されたものです。この種の書物は全部地獄へ回されるのですか?』
『イヤそうは限らないよ。』と老人が答えた。『地獄に来るのと来ないのとは、その書物の目的並びにそれに伴う影響によりて決まるのじゃよ。』

          
 老人は鹿爪(しかつめ)らしい顔をして尚諄々(じゅんじゅん)と説明し続けた。──
『一体著者の目的が眞に社会同胞の安寧幸福を増進せんが為であるなら例えそれが生体解剖の書物であろうがそれは決して地獄には来ない。しかし多くの学者就中大陸の学者が生物を解剖するのは、解剖の苦痛がいかなる作用を生体に
及ぼすかを調べて見たいという極めて不健全な好奇心から出発するのが多い。これは社会同胞に対して何等の効益もなく、又その種の書物の出版は徒に他人に同様の好奇心を促進させることになる。そんなものが地獄の所属となるべきは言うまでもあるまい。それから又、ある一部の科学者のやる実験じゃが、よしやその動機は善良であるにしても、その執るところの手段方法が愚劣を極める場合が少なくない。そんなものを発表する書物も矢張り地獄の厄介になる。他人に迷惑をかけるだけのシロモノじゃからナ・・・・・・。』
『そう致しますと、大概の生体解剖学者連が死んでから落ち着く場所はこの近傍ですナ?
『随分多勢の生体解剖学者がこちらへ来ているよ。──が、お前さんが想像するほどそんなに沢山でもない。生体解剖学者などというものは大抵は冷血動物に近いが、その中のかなり多数は純然たる学究肌で、少々眼のつけどろろが狂っているという位の所である。で、彼等の欠点はしばらく幽界で修業している中に大抵除かれるものじゃ。お前さんも知っとるじゃろうが、生前彼等の手に掛かって殺された動物は幽界でその復讐をやる。そうすると大概の学者は、これではいかんと初めて眼が覚めて前非を後悔する・・・・・・。

『何ぞ罪障消滅の方法でもありますか?』
『そりアあるよ・・・・・・。アノ動物虐待防止会などと言う会がちょいちょい人間界に組織されたり何かするのはつまり其の結果じゃよ。が、全体あの学問の為にという奴が随分くせもので、どれだけあの為に地獄が繁盛して居るか知れたものじゃないナ・・・・・・。』
『地獄では科学者達をどんなあん梅(ばい)に取り扱っています?』
『そりァいろいろじゃよ。解剖学者などはこの図書館から遠くもない一つの病院に勤務している・・・・・・。』
『エッ病院・・・・・・。』
と吾輩びっくりして叫んだ。
『そうじゃよ。──尤も地獄の病院という奴は患者の治療が目的で経営されているのではない。例の神聖な学問の研究が目的でナ。イヒヒヒヒ。お前さんも一つ自分で出かけて行って見物して見るがいい。もし自分の軀を解剖されるのがさほど怖くないなら・・・・・・。イヒヒヒヒ。』
 会話はこんなところで一先ず切り上げて置いてわれわれは図書館の第二部に進み入った。

此処はいろいろの思想が悉く絵画の形で表現されているところで、その内容は勿論憎悪、残忍、その他に関係しているものばかりであった。例えば人体に苦痛を与える為の精巧無比の機械類但しは霊魂や幽体の攻め道具の図解等で、よくもこんなうまい工夫が出来たものだとほとほと感心させられるようなものがあった。
 が、一番酷かったのは第三部で、拷問にかけらるる人物の苦悩の順序などが、事細やかに、例の活動写真式に眼前に展開されて行くのであった。
 老人がこんなことを吾輩に説明した。──
『人を苦しめようと思えば、どんな方法を用いればどんな苦痛を起こすものかを学理的に知って置くことが必要じゃ。苦痛の原理を知らないでは、こちらに充分の意思が起こらんから従って先方に充分の効果を与え得ない。此処で調べて置けば先ずその心配はなくなる・・・・・・。』
 吾輩が見物した多くの絵画の中に人間の生体解剖の活動写真があったが、いかに何でもそいつは余りに気味が悪くて、とても此処で説明する気分にはなれない。
 これらを見物している中にさすがの吾輩もだんだん胸持が悪くなってきた。吾輩も随分無情冷酷な男で、時々酷い復讐手段を講じたものだが、しかし苦痛の為の苦痛を与えて快しというほどの残忍性はなかった。矢鱈に人を苦しめて嬉しがる──。そんなイタズラは吾輩にも到底為し得ない・・・・・・。
 
  
            二十一  地獄の病院
           
 しばらくして吾輩は図書館を後に、ガランとした一つの荒野を横切ると、そこには果たしていわゆる地獄の病院が建っていた。図書館もかなり気味のよくないシロモノであったが、病院と来た日には尚更途轍もない所であった。兎に角門をくぐって玄関口に入って見ると、廣いことも莫迦に広いが、汚いことも又古今無類であった。
『地上の病院とは少々勝手が違うナ。』と吾輩は考えた。『地上の病院はチト潔癖すぎるが、こいつアまるでそのアベコベだ。』
 汚い廊下を進んで行くと、図らずも一つの手術室に突き当たった。其処には一脚の手術台が置いてあって、その上に一人の男が横たわって居た。手や足がイヤにしっかり縛られているという以外には格別の異常も認めなかったが、やがて一人の医者が来て、その患者の中枢神経の一つに対して恐ろしく痛い手術を開始した。切開される患者の悲鳴、それを凝視する見物人の悦に入った顔つき──いかな吾輩にもそれを平気で見て居る気がせぬので、こそこそ部屋を逃げ出して、今度は解剖室へ入っていった。

 ここでは生きている男と、それから女とが解剖に附せられつつあった。一個の切り刻まれた軀が放り出されると、そいつは再び原形に復する。原型に復したと見ると他の医者が再びそれを切り刻む。何回同じ残酷事が繰り返されるか知れない
 ある一つの解剖台では、一人の婦人が若いお医者さんの手にかかって今しも解剖されつつあった。婦人の方では悲鳴を上げて許してくれと哀願するのでさすがの医者もちょっとためらいかけると、側(わき)の解剖台で手術中の歳の行った医者がそれを見て怒鳴りつけた。若い医者はびっくりして再びメスをとりあげた。
 見るに見かねて吾輩がそこへ歩み寄った。──
『一たいこの婦人は何者で、又あなたはドーいう譯でそんなにこの婦人を苦しめるのです? 何かあなたに対して怨みを買うようなことでもしたのですかこの女が・・・・・・。』
 
 若い医者はすまし切って冷淡に答えた。──
『僕が何でこの女の身元などを知っているものですか! それを知りたいなら、あなた自身で勝手に女に聞いて見るがいい。』
 仕方がないから吾輩は婦人の方を向いて姓名を訪ねた。すると彼女は手術をちょっと待ってもらって吾輩の問いに答えた。──
『わたしニニイて言いますの。元はパリの花柳界に居たのですがね、あるジューの囲い者にされて三年ばかりその男の世話になって居ましたの。』
『厭な奴だね、ジューなどの世話になって・・・・・・。』
『私だって厭でしたワ。厭で厭でしょうがないから時々口直しに俳優(やくしゃ)買いなどをしたのですヮ。ところがある日一人の若い俳優と密会している現場に踏み込まれ、骨の砕けるほどぶたれた上に家からたたき出されてしまったの・・・・・・。
『わたし旦那も怨んだけれど、意気地なしの情夫のことも怨みましたヮ。だって、私の事をちっとも庇護(かば)ってもくれないで、兎見たいに風を食らって逃げちまったんですもの。それでわたしは是非この二人に恨みをかえしてくれようと固く決心したのです。

『そうする中に丁度うまい機会が廻って来ました。私がその次に懇意になったのはアパッシ(市内無頼団)の団長で、ちょっと垢ぬけのした紳士臭い好男子・・・・・・。狡くて、残忍で人を殺す位の事は何とも思っていないで、私の仕事を頼むのにはそりア全く誂え向きの人物でした。私は早速ジューの話をして、あそこへ
(はい)れば金子は幾らでも取れるとけしかけてやりました。
『とうとうある晩ジューの家に押し込むことになって、私がその案内役を引き受けましたの。無論そのジューはこの上なしのしみったれで、家には泊まり込みの下男が一人と、他に通いの下女が一人雇ってあるだけです。
『住居はパリの郊外の、辺鄙な、くすぶったような所です。
『団員の一人が先ずその下男というのをひっぱたいて気絶させておいて、其れからどっとジューの寝室に飛び込んで、爺さんをグルグル巻きにして猿轡(さるぐつわ)をかませてしまいました。』
『酷いことをしたものだね。』
と吾輩も感心して叫んだ。

           
『私の方では』と解剖台の女は言葉をつづけた。『無論あのジューが所持金の殆ど全部を銀行に預けてあることをチャーンと承知しています。けど、もともと復讐をしてやりたいのがこっちの肚ですからガストンにはそうは言えません・・・・・・。』
『ガストンて、君の情夫の名前かね?』
『当たり前だワ。』と彼女は済ましたもので、『ガストンにはジューが何所かに金子を隠してあるように言い聞かせてあります。『お前さん何を愚圖々々しているの! さっさと白状させておやんなさいよ!』そう私が言ってジューの眼の前で散々拳固を振り回して見せてやりましたの。
『そうすると衆(みんな)が寄ってたかって猿轡を外し、同時に一人の男が短刀をジューの喉元に突き付けました。
『こらッ早く金子の所在地(ありか)を白状しろ!』
とガストンが激しく叫びます。
『金子は残らず銀行に預けてあります。家にはホンの二百フランしかありません。下座敷の箪笥の一番上の引出しに入って居ます・・・・・・。』

とジューが本音を吐きます。
『この嘘つき奴ッ! 家の何所かに二萬五千フラン隠してあるくせに!』
と私が叫びます。
『これこれ、お前はニニイじゃないか?とジューがびっくりする。』
『当たり前さ。』と私が答える。『今夜はいつかの仇を取りに来たのだからね、愚圖愚圖言わないで早く金子を吐き出しておしまいよ。そうしないと後で後悔することができるよ。』
『飛・・・・・・飛んでもない奴に見込まれた・・・・・・。』
『ジューの爺さん、何やらくどくど文句を並べかけたので、私はイキナリ、爪先で先方の顔をガリっとひっかいて、
『済まなかったわネ』
と云ってやりましたの。痛がってジューがわめき立てようとしましたので、ガストンが早速又その口を猿轡で塞いじまいました。

『ドーも箆棒(べらぼう)に暇つぶしをしちゃった。
』よガストンが言いました。『その炭火をここへ持ってこい!』
『仲間の数人と私と爺さんをつかまえて、爺さんの素足を炭火の中に燓(くべ)ると、他の二三人がしきりにそれを吹き起こす。・・・・・・間もなく炭火は紫の火焔を立ててポッポと燃えだしてきました。
『爺さん苦し紛れに一生懸命軀を捩(よじ)りましたが、勿論声は出はしません。そうするとガストンが、
「ここへらでモ一度吟味するかナ。」
と言いますから、両足を火の中から引っ張り出してやりましたが、両足ともこんがりと狐色に焦げていましたワ。口から猿轡を外して置いてガストンが叫びました。──
 「金子を出せ! 早くせんと許さんぞ!」
爺さん蚊の鳴くような声で、
 「金がもしここに置いてあるならすぐに出します。金子さえあったら、こ・・・・・・こんなひどい目にも逢わずに済んだであろうに・・・・・・。勘・・・・・・堪忍しておくれ・・・・・・。」
『しかしガストンはそれを聞いてますますむかっ腹を立て、手荒く猿轡を爺さんにかませて置いて、

 「こいつの言うことは本当かしら・・・・・・。」
と私に訊くのです。
 「嘘ですよ!」
と私が叫ぶ。
 「そんならモ一度火に燓ろ!」
『再び火あぶりの刑が始まりました。が、俄かに見張りの男が室内に駆け込んで来てけたたましく叫びたてる。──
 「早く早く! 警察から手が回った!」
『さア大変だというので、一人は扉を開けて逃げる。一人は窓から飛び出す。一人はトヨを伝って降りる。──けど私はガストンの腕を押さえて言いましたの。──
 「莫迦だねお前さんは! こんなものを生かして置くとすぐ犯人が判るじゃないの!」
 「全くだ!」
『そう言ってガストンは振り返ってジューの喉笛をただ一刀にひっきりました。』

『私達はその場は首尾よく逃げ延びましたが、それから間もなくガストンはある晩酔ったはずみに私のことをナイフで刺し殺したんです。それからだんだん順序を踏んで、ご覧の通り只今はこんなところでこんなひどい目に逢わされているのでございますの・・・・・・。』
          
 この長物語を聞いて吾輩はニニイに向かって尋ねた。──
『君は、ジューのことをあんなひどい目に逢わせて気の毒には思わんかね?』
『気の毒? 何が気の毒なものですか! あれ位の事をしてやるのは当たり前だワ。しかし何ぼ何でもこの解剖室に置かれるのは真平ですワ。』
 吾輩は今度は若い医者に向かって言った。
『それにしてもあなたはこの女を苦しめて何が愉快なのです? そりアこの女は今は随分醜い事は醜い。犯した罪の為にさっぱり器量が駄目になって居る。──しかしこれでも矢張り女です。個人として何もあなたに損害を与えたわけではないじゃありませんか。なぜこんなひどい目に逢わせるのです?。』

『それでは』と医者が答えた。『この女の代わりに君を解剖してあげるかナ。』
『吾輩は御免蒙る! それにしても君は解剖するのが愉快なのかね?』
『愉快なのかって? ちっとも愉快じゃないさ。そりゃ最初は他(ひと)の苦しがるのを見ると一種の悪魔的快楽を感ぜぬではなかった。自分がつまらない時に他人をつまらなくしてやるのは何となく気が晴れるものでね・・・・・・。しかし、しばらくやっているとそんな噓の楽しみは段々イヤになる。現在のわれわれは格別面白くも可笑しくもなく、ただ機械的に解剖をやっている。自分の手にかける犠牲者に対して可哀想だの、気の毒だのと言う観念は少しも起こらない。われわれは死ぬるずっと以前から、そんなしゃれた感情を振り落としてしまっている。のみならず爰に居るもので憐憫に与えするものは一人もいない。何れも皆われわれ同様残忍性を帯びたものばかりだ。兎に角地獄という所は何をして見ても甚だ面白くない空虚な所だ。此処では時間の潰しようが全くない。イヤ時間そのものさえもないのだから始末に行けない・・・・・・。』
 そう言いをはって、彼はプイとあちらを向いて、グザと解剖刀をば婦人の胸部に突き立てた。
 吾輩は覚えず顔を背けてその部屋から出ようとすると、忽ち三四人の学者どもが吾輩かつッ引かまえた。

『今逃げ出した奴の代わりに此奴で間に合わせて置こうじゃないか。』
 そう彼等の一人が叫ぶのである。
『冗談言っちゃ困る!』
 吾輩は怒鳴りながら生命がけで反抗して見たが、とうとう無理無體に解剖台の上に引摺りあげ、しっかりと紐で括しつけられてしまった。それから解剖刀で軀の所々方々を抉(えぐ)りまわさわれたその痛さ! イヤとてもお話の限りではありません。
 が、そうされながらも吾輩は油断なく逃げ出すべき機会を狙いつめていた。
 間もなくその機会が到来した。二人の医者の間に何かの事から喧嘩が開始された。天の与えと吾輩は台から飛び降り、一心不乱に神様に祈願しながら玄関さして駆け出した。
 一人二人は吾輩を引き止めに掛かったが、こんな事件は此処では所中ありがちの事と見えて、多くは素知らぬ風を装うて手出しをしない。とうとう吾輩は戸外へ駆け出し、それから又も荒涼たる原野を生命限り逃げることになった。
 が暫くしても、別に追手のかかる模様も見えないので、やがて歩調をゆるめ、病院における吾輩の経験を回想して見ることにした。

 吾輩が当時痛感したことの一つは、地獄の住民が甚だしく共同性、団結性に欠けている事であった。しばしの間は仲良くして居ても、それが決して永続しない。例えば吾輩の逃げ出した際などでも、若し医者たちが、何所までも一致して吾輩を捕まえに掛かったなら到底逃げおうせる望みはないのである。ところが一旦逃げられると、そんなことはすっかり忘れてしまって、やがて相互の間に喧嘩を始める。現に吾輩が病院にいる間にも一人の医者がその同僚から捕まえられて解剖台に載せられていた。
 ある一つの目的に向かって義勇的に協同一致する観念の絶無なこと──これは確かに地獄の特色の一つである。
 イヤ今日の話はこれで一段落としておきます。左様なら。──
 語り終わって陸軍士官は室外に歩み出ましたので、ワアド氏も叔父さんに暇乞ひをして地上の肉体に戻ることになったのでした。
 
              二十二   救いの曙光
 この章の前半は一九一四年六月十三日に出た自動書記、又後半は同二十二日の夜の霊界訪問の記事であります。心の光と闇との深刻な意義がよくここに味わわれます。

 さて吾輩は病院でひどい目に逢わされてから、ますますこんな境涯から早く抜け出したくてしょうがなくなった。其処で吾輩はごろ石だらけの地べたに跪いて一心不乱に祈りを捧げた。と、最後に救いの綱が漸くかかったが、しかしその手続きは全然自分の予想とは違っていた。
 吾輩が最初認めたのが一点の光・・・・・・。然り、それは正真正銘の眞の神の御光であった。あのイヤに赤黒い、毒々しい地獄の火とはまるきり種類の違った、白い、涼しい、冴えわたった天上の光なのであった。その懐かしい光が次第次第に自分の方に近づいて来る・・・・・・。
 ふと気がついて見ると、それはただの光ではなく、一人の人の軀から放散される光明であることが判った。こりアきっと天使だ!──そう思うと同時に覚えず両手を前方に突き出して、心からの祈祷を捧げた。
 が、天使の姿が歩一歩自分に接近する毎に自分は激しい疼痛を感じて来た。清き光がキューッとばかり吾輩の魂の内部までつき透る・・・・・・。とても痛くてたまらない。とうとう吾輩はわれを忘れて悲鳴をあげた。──

『待・・・・・・待ってください! 熱ッ! 熱ッ!』
 するとたちまち銀の喇叭の音に似た朗々たる言葉が響いて来た。──
『汝の切なる願いを容れ、福音を傳えんために出て参ったものじゃ。すべての進歩には苦痛が伴う。汝とてもその通り、汝の魂をつつめる罪悪の穢れを焼き払うための苦しみをのがるることは出来ぬ。地獄にとどまる時は永久の苦悩、これに反して天使の後に従う時は一時の苦悩、そして一歩一歩に向上の途を辿りて、やがては永遠の光の世界に抜け出ることが出来る・・・・・・。』
『御伴をさせて頂きます。』と吾輩はうれし涙に咽んだ。『近頃の私は痛い目には慣れっこになっております。何卒御導きください。私の身に及ぶ限りの事は何なりとも致します・・・・・・。』
『宜しい導いてつかわす。離れたままで余の後について来るがよい。光は闇を照らす。されど闇は光を包み得ない・・・・・・。』
 吾輩は遠く離れて光の所有者の後にこじゅうした。途はだんだん爪先上がりになって、石だらけの山腹を上へ上へとのぼりつめると遂に一草一木の影もなき山頂に達した。山の彼方を見れば、そこには渺茫(びょうぼう)たる一大沼沢(しょうたく)
が横たわり、その中央部を横断して、所々途切れがちに細い細い一筋の路が見え隠れに延びている。四辺には濃霧が立ち込め、ただ件の道路の上が多少晴れ上がっているばかり・・・・・・。

 光の主はこの心許なき通路をば先へ先へと進んで行った。吾輩は其の身辺から放射する光の痛さに耐えかねて、ずっと遅れて行くのであるが、しかしそのお陰で足元だけははっきり照らされるのであった。
 と、俄かに闇の中から凶悪無残な大化物(おおばけもの)が朦朧と現れ出でた。『こいつは憎悪の化現(けげん)だナ。』──吾輩は本能的にそう直感したのであるが、そいつがわれわれの通路を遮って叫んだ。──
『一度地獄の門をくぐったものが逃げ出すことは相成らぬ。元来た道を引き返せッそれをしないと沼の中へ投げ込むぞ! 』
 けれども光の主は落ち着き払ってこれに答えた。──
『妨げすナ。汝はこの徽章(しるし)が判らぬか! 』
 そう言って片手に高く十字架を捧げた。すると悪魔はジリジリと後退って、とうとう道路から追い立てられ、沼の上をあちこちうろつきまわった

 が、光の主が通り過ぎたと見ると、怪物たちはたちまち吾輩の方向に突進して来てわれわれ二人の連絡を断ち切った。

 恐怖のあまり吾輩は後ろを向いて逃げ出したが、光の主が引き返してきたので、化物は又もや沼の上へと逃げ去った。
 その時吾輩は初めて光の主から自分の手を握られたが、イヤその時の痛かったこと! まるで活きている火の凝塊(かたまり)みたい感ぜられた。そのくせ後で調べて見ると、この光の主というのは霊界の上層からわざわざ地獄に降りて来て救済事業に従事している殊勝な人間の霊魂に過ぎないのであった。
 が、しばらく過ぎると吾輩の軀から邪悪分子が次第に燃えつくし、それと同時に痛みが少しづつ和らいで行った。
 とうとう無事に沼澤(しょうたく)の境を通り過ぎ、とある一大都市の門前に出た。
『これがいわゆる愛欲の市じゃ』と吾輩の案内者が説明してくれた。『地獄に堕ちて愛慾の奴隷となっているものは悉くここに集まっている。金銭欲、飲食慾、性慾、そんなものがこの市で巾をきかせている。汝はこの都市を通過して一切の誘惑に打ち勝たねばなら成らぬ。若しそれに負けるが最後、汝は少なくともしばしの間この境涯にとどまらねばならぬ。これに反してもしも首尾よく誘惑に打ち勝てばすらすらと上の境涯に昇り得る。但し上の境涯に昇るにつけては、自分だけでは済まない。他に誰かを一人助け出すべき義務がある。──イヤ余は此処で汝と別れる。憎悪の市から人を救うだけが余の任務なのぢゃ・・・・・・。』
 
             二十三  愛慾の市

              
 吾輩は自分を救ってくれた恩人に分かれて、思い切って愛慾の市の城門をくぐると、其処には一人の女が、薄気味悪い面相の門番をつかまえてふざけ散らしていた。その女もむろん碌な縹緻(きりょう)の所有者ではない。元はこれでも美しかったかも知れないが、今では悪徳の皴が深く深く刻み込まれているので、一と目見てもぞっとするほどであった。
 それからしばらく市内を歩いて見たが、頓と要領を得られないので、吾輩はギリシア風の服装をしている一人の男に行き逢ったのを幸い、呼び止めて質問を開始した。──

『モシモシこれは何という市(まち)です?』
 彼はけげんな顔して吾輩を見つめていたが、やがて答えた。──
『一体お前さんは何所から来なすった? いかな野蛮人でもコリンスを知らないものがあろうかい! あの有名なコリンズ湾も其処に見えてるじゃないか!。』
 そう言って彼は薄汚い溝池(どぶいけ)みたいなものを指さすのであった。
 吾輩はこれを聞いて呆れ返ってしまった。──
『君達はあんな溝(どぶ)みたいなものを風光明媚なコリンス湾と見立てて歓んでいるのかね? 冗談じゃない・・・・・・。』
『そう言えばホンにちとさっぱりはしていないようだね。理屈はちょっとも判らないが・・・・・・。近頃は天気などもドーモ何時もどんよりしている・・・・・・。』
『オイオイいい加減に止してくれ。此処は地獄だ。地獄だからこんなに汚らしい・・・・・・。』
『出鱈目を言って呉れては困るよ。』と相手の男は吾輩の言葉を遮って叫んだ。『われわれが不老長寿の秘伝を発見したものだから神々がお腹立ちになってこんなにこの街を汚くしたのだ。お前さんは知るまいが、われわれは何時まで経っても死にっこなしだ。私などは何千年生きているかとても勘定などは出来はしない。が、余んまりり長命も考えもので、死ねるものなら死んでみたいような気にも時々はなるよ。いつもいつも同じ事ばかり繰り返していると面白みがさっぱり無いからナ・・・・・・。』

 吾輩は先刻恩人から聞かされたことを思い出して、
『それほど厭なら何故ここから逃げ出さないのです? 吾輩と一緒にもっと気持ちのよい境涯へ行こうじゃないか?』
『ウフ丶丶』と彼は笑い出した。『お前さんは余程の田舎者だネ。さもなけりァそんな莫迦気た考えを起こす筈がない。ここを出るが最後生命がなくなる。世の中は矢張り生命あっての物種(ものだね)だ。私だって本当はまだ死にたくはない・・・・・・。』
『でも君はもうとっくに死んでいるじゃないか! 一遍死ねば二度と死ぬる心配はない。』
『死んでいるものがドーしてこう生きて居られるかい。莫迦々々しい! お前さんは狂人(きちがい)だネ。黙っていないと衆(みんな)から石でもぶっつけられるぜ・・・・・・。』
 そう言って彼はプイと去ってしまった。仕方がないから吾輩は独りで往来をブラブラ歩いて行ったが、この辺の建物の大半は朽廃してしまって不潔をきわめ、元の面影などはさっぱり残っていない。生前吾輩もしばしば廃墟のようなものを目撃したことがあるが、地獄の廃墟は一種それと趣を異にせるところがあった。何処やら妙にむさ苦しく、頽廃(たいはい)気分ご濃厚で、雅趣風韻(がしゅふういん)と云ったようなものが微塵もない。例えば場末の大名屋敷を改造して地獄宿か銘酒屋でも開業したと云ったあん梅式なのである。

 吾輩がこんな感想に耽っている間に、それまでガランとして人っ子一人通らなかった街路が俄かに飲んだくれの浮かれた男女でいっぱいなってきた。そいつらがわっしょいワッショイ此方へ押し寄せて来て、いつの間にやら吾輩もその中に巻き込まれてしまった。
 オヤッと驚く間もなく、二人の女が左右から吾輩の首玉にしがみ付くと、一人の男がいきなりコップを突き付けて葡萄酒らしいものをなみなみと注いで口元に持ってきた。何しろこんなご親切は当時の吾輩に取りて眞に所謂空谷(くうこく)の跫音(きゅうおん)、久しい間ただ辛い思い、苦しいことのやり続けで、酒と女とには渇ききって居る最中なのだから、むろん悪い気持ちのしそうな筈がない。とうとう勧めらるるままに一ぱい振る舞い酒を飲んでしまった。
 すると忽ち四辺(あたり)にはどっと歓呼喝采の聲が破裂した。──
『やァ飲んだ飲んだ! 仲間が
一人が殖えたぞ殖えたぞ!』

 飲んだ酒は無論美味くも何ともない。酸っぱいような、苦いような、随分へんてこな味である。そして飲めば飲むほどますます渇きを覚える。吾輩はやけ糞になって矢鱈にそれを飲んだが、さっぱり陶然として酔った気持ちにはなれなかった。ただ酔ったつもりになってめちゃくちゃに騒ぎ散らすだけの事であった。それから続いて起こった莫迦ばかしいその場の光景、これは到底お話しするがものはない。ただ想像に任せて置きます・・・・・・。
       
 言うまでもなくこの境涯の主たる仕事は酒と女とであって、必ずしも残忍性を帯びてはしない。無論稀には残忍な行為も混じる。色情の結果しばしば喧嘩などもしかねない。しかし余りに残酷な行為をやると、治安妨害者としてコリンス市から放逐されて憎悪の市へと送り届けられる。無論一度や二度の突発的の喧嘩位では追放処分にはならないが、それがだんだん常習性を帯びてくると、快楽主義の市民は決してそれを黙過しなくなる。
 コリンス市で奨励されることは暴飲、暴食、利慾並びに淫慾──就中淫慾はその中の花形で、ありとあらゆる形式の不倫行為が極度に奨励されるのである。
 コリンス市の女という女は皆売娼婦の類で、いかなる娯楽機関もその中心は皆女である。が、吾輩はここへらで黒幕を引くとしょう。言わずに置くところは想像してもらいたい。ただ一言ここに断っておきたいことは、われわれが何をやっても頓と満足を得られぬことである。燃ゆるような慾望はあり乍ら、それを満足すべき方法は絶対にない。

 兎に角吾輩は一時コリンス市の風潮にすっかりかぶれてしまった。それは幾らか恩人の忠告を忘れた故(せい)ではあるものの、主として吾輩に好きな下地があったからである。こんな生活は甚だ下らないものには相違ないが、しかし地獄の底の方で体験した恐怖の後ではなかなか棄てがたい趣があったのである。
 その後だんだん調査を遂げて見ると、地獄にはこのコリンス市の他にも愛慾専門の市(まち)は沢山あった。吾輩が実地探検しただけでも、パリみたいな所、ロンドン見たいなところは確かにあった。無論コリンスといえ、又その他の市といえ、愛慾のみが決してその全部ではない。いろいろの所がきれきれになって地獄の他の部分、又は霊界のずっと上層に出現していたのである。
 しばらくぶらついてから吾輩はロンドンの一部らしい所へ迷い込んだ。其処には種々の盗人どもが巣をくっていて、お互いに物品の盗みっくらをしていたが、不思議なことには隣人の物品を盗み取ることに成功すると、その物品は忽ち塵芥(ちんかい)に化するのである。こんなところを見るにつけても吾輩はしみじみこの空虚な世界が嫌になってきた。此処では何をやっても眞の満足を得ることがなく、眞の人生の目的らしいものはまるきり影も形もない。

 が、地獄の中で初めてこの境涯から教会らしいものの設備がある。その司会者というのは地上に居た自分に怪しげな一つの宗派を起こした男で、最初の内は中々上手に愚民をたぶらかし、散々うまい露を吸ったものだが、やがてその陋劣な目的と邪淫の行為とが次第に世間に広まりホンの少数の難有連(ありがたれん)を残してさっぱり無勢力になったという経歴の男なのであった。
 死後この境涯に置かれてから、彼は生前と同一筆法を用い、コケ脅しの詭弁や人騒がせの予言を以って人気取策を講じ、盗人、山師、泡沫会社の製造人、その他いろいろの無頼漢などを糾合することに成功した。それらの中には吾輩の昔の知人なども混じっていて大変吾輩の来たことを歓迎してくれた。──イヤしかしその教会の説教と云ったら実に変てこなまがいもので、神を穢し、神を傷つけるようなことばかり、そのくせ、説教者自身は故意にそうしようとするのではなく、自分では精々正しいことを述べるつもりであるのだが、行っている中に何時しか脱線するらしいのであった。その教会で歌っている讃美歌などときては実に猥褻極まる俗謡に過ぎなかった。
 聞くにつけ、見るにつけ、吾輩はますますこの境涯に愛想をつかしてしまって、一時も早くこんな所から逃げ出したくてしょうがなくなった。そうする中に、ある日吾輩がパリの広場を通行していると、沢山の群衆が一人の人物を取り囲んで盛んに悪罵嘲笑を浴びせているのを見出した。よくよく見ると右の人物は軀から後光が射して、確かに天使の一人に相違ない。で、吾輩は嘲り笑う群衆の中に混じってその説教に耳を傾けた。彼は熱心に神の恩沢を説き、かかる邪悪な、そして空虚な生活のつまらないこと、一時も早く悔い改めてこの暗黒界を脱出し、光明の世界を求めねばならぬことを説明した。
 するとこの時群衆の中から怒鳴り出したものがあった。──
『莫迦なことを抜かしやがれ、この嘘つき坊主奴ッ! 俺達は嘘つきの玄人だい。汝達にだまくらかされてたまるかい。汝が講釈をたたいているヤソ教では、一旦地獄に堕ちたものは永久に救われないと教えているじゃないか。今更悔い改めた所で間に合うものかい! 下らないことをぬかしやがるな。』
 すると又他の一人が叫んだ。──
『汝はこの辺に居る他の坊主どもより看板が一枚上だ。汝の姿は天使見たいだが、こいつア俺達からお賽銭を巻き上げる魂胆に相違ない。ツイ先だっても一人の奴が出てきやがって、金子をだしア救いの綱がかかるなどとお座なりを並べ、莫迦者から散々大金を絞上げて置いて姿をくらましやがった。ヤイ汝達の手にはモー乗らないわい……。』

 この男の言って居る所は事実には相違なかった。吾輩も実際そんな詐欺師に逢ったことがある。が、偽物とホンモノとの区別は吾輩には一目見れば良く判った。ここに居るのは正真正銘の天使に相違ないので、吾輩は群衆の四散するのを待って早速その傍に歩み寄った。

    
             二十四  新たなる救いの綱
            
『私にはあなた様が眞の天使であらせらるることがよく判ります。』と吾輩はいいかけた。『ついてはここから連れ出して頂けますまいか? モーうんざりです。こんな境涯は・・・・・・。』
『眞心からそう思うのなら救ってあげぬではないが・・・・・・。』
『もちろん眞心からでございます!』

『それならあなたは此処に跪いて神様に祈祷なさるがよかろう。祈祷の文句を忘れていると
いけないから私が一緒についてあげる・・・・・・。』
 吾輩は辺りを見まわすと、広場にはいつしか又沢山の人だかりなのでちょっときまりが悪かった。が、又思い返して言わるるままに地に跪き、天使の後について祈祷を捧げた。
 それが済むと天使は叫んだ。──
『それでよい。さア一緒に出掛けましょう。今後人から何と誘惑されても決してそれに惑わされてはいけませんぞ。』
 われわれは急いで市を通過したが、途中で多数の妨害に逢わぬではなかった。われわれが街外れに来た時である、二人の男が矢庭に前面に立ち塞がって叫んだ。──
『コレコレ汝達は一体何処へ逃げ出すつもりだ?』
『そなた方の知ったことではない。』と天使は凛凛たる声で、
『そなたはそなた、こちらは此方・・・・・・。』
『ところがそうはいかない。』と先方が叫んだ。『それを調べるのが俺達の仕事だ。汝みたいな資質(たち)のよくないシロモノがちょいちょい俺達の仲間を誘惑して困るのだ。汝達の囈語然(ねごとぜん)たる説教にはモーうんざりした。余計な世話を焼かないで、その男を俺達の手に渡してしまえ。そうしないと後悔することが出来るぞ。』

 吾輩の保護者は片手を高く差し上げて厳然として叫んだ。──
『邪魔すな! 汝呪われたる亡者ども!』
 すると二人は勢一杯の大声で叫び出した。──
『間諜だ間諜だ! みんなここへ集まって来い!』
 またたく間に群衆が八方から馳せ集まって威嚇的の態度を執り出した。
 が、私の保護者はキッと身構えして、片手を差し上げながら精神をこめて言い放った。──
邪魔すな! 最高の神の御名に於いて去れ!
 そして何の恐るる気色(けしき)もなくづかづか前進されるので吾輩もその後に続いた。群衆はなだれを打って後ずさった。口だけは強がり文句を並べているが、手出しをするものは一人もいない。強烈なる意志の前には反抗(はむか)う力は失せてしまうものらしい
 が、いよいよ大丈夫といささか気をゆるめた瞬間に、一人の女が群衆の中からイキナリ飛び出してきて、吾輩の首玉にしがみ付いた。見ればそいつは生前吾輩が堕落させた女で、飽くまで吾輩を自分のものにする気らしいのである。さすがの吾輩もこれには大いにヘコたれていると、天使が近づいて女の両腕をつかまえて首からもぎ放してくれたので、女は悲鳴をあげて群衆の裡へと逃げ込んだ。

 入れ代わって今度は最初の二人が吾輩の喉笛へと飛びついて来た。今度は吾輩も大いに勇気を鼓してそいつ達を地べたに投げつけたが、起き上がってまた飛びつく。持て余している所へ、又も天使の助け舟・・・・・・。天使の方では先方の腕に軽くちょっと指で触れるだけであるが、触られたところがたちまち火傷見たいに腫れあがるのだからたまらない。キーキー叫んで逃げてしまう。
 それっきり乱民どもは遠く逃げ去って近寄らなくなったので、われわれは無事にその場を通過した。間もなくさしかかったのはだだっ広い田舎道・・・・・・。尤も田舎道と云ったところで、木もなければ草もなく、花もなければ鳥もいない伽藍洞の小砂利原、ただ家がないのが田舎臭いというだけで、田舎らしい気分は少しもなき殺風景きわまる地方なのである。しばらく其処を辿ってゆくと、遥かのかなたに星のようなものが微かに見え出した。
 吾輩がびっくりして尋ねた。──
『ありァどなたか他の天使なのでございますか?』

『そうではない。』と天使が答えた。『あれは救済の為に地獄に往来する天使たちの休憩所から漏れる光で、われわれは今彼処(かしこ)を指して行くのじゃ。しばらく彼処で休憩して力をつけて置けば、地獄の残る部分が楽に通過されるであろう。彼処(かしこ)が下の境涯と上の境涯との境目なのじゃ。』
          
 次第次第に右の光は強さを加え、自分達の足元がほのぼのと明るくなってきた。辿りゆく道は甚だ狭いが、大へんによく人の足で踏みならされていた。
『誰がこんなにこの道を踏みつけたのです?』
 と吾輩がきいた。
『これは地獄に堕ちて居る霊魂達を救い出すべく、あちこち往来する天使たちが踏みつけたのじゃ。実は地上の暦で数えつくせぬ永の歳月、天使たちは救済の為に此処まで降りて来ている。キリストの地上に現れるずっと以前から引き続いての骨折りじゃがナ・・・・・・。』
『そうしますと死後の世界は耶蘇(やそ)紀元の開ける前からこんな組織になって居たのでございますか?』

『そうじゃとも。が、その時分には地獄に堕ちる霊魂の数が現在よりも遥かに多数であった。大体に於いて人間が死ぬるときに無知であればあるほど、その人の精神的方面が発達していない。精神的方面が発達して居なければいないほどその人の幽界生活は永びき、そして兎角地獄に堕ち易い傾きがある。しかし人類発達の歴史に於いて、知的方面の進歩が、ともすれば精神的方面の進歩を阻害するような場合も起こらんではない。そんな際には早晩文化の退廃を来す恐れがある。』
『例えばギリシア、ローマの文明がそれじゃった。あの時代には理性が勝ちすぎて精神方面の発達がそれに伴わなかった。故にその頃の地獄には神を信ぜず、来世を信ぜざる人間の霊魂が充満していた。その古代文明が没落すると共に、一時文運の進歩は遅れたる観があった。が、しかし西欧の人士はその間に於いて却って精神方面の発達を遂げることが出来た。事によると同様の災厄がモ一度人類を襲うべき必要に迫られているかも知れぬと思う。──が、神は飽く迄も慈悲の眼を垂れ玉え、又われわれとても霊界から新たなる心霊の光を人心の奥に植えつけるべくつとめ、あんな災厄の再び降らぬように力をつくしている。』
『人類の初期、いわゆる原始時代にありては、殆ど一切の死者の霊魂の落ち着く先は幽界と地獄とに限っていたものである。それは精神的に発達したものが少なかった為である。』

『それは少々不公平ではないでしょうか?』と吾輩が言葉(くち)を挿んだ。『無智なものが無智であるのは当然ではないでしょうか?』
『イヤ決して不公平ではない。それはただ大自然の法則の発露に過ぎない。一生の間ただ戦闘その他の残忍な仕事に従事していたものは、死後に於いても長い期間に亙りて同様の行動を執るに決まっている。死んで余程の歳月を経過せねばなかなか翻然として昨非を悟るというところまで進み得るものではない。』
『死後の霊魂に取りて最大の誘惑は憑依作用である。よくこの誘惑に堪え得たものは、恐らく幽界生活中に次第に心霊の発達を遂げ、やがて霊界に向かって向上の進路を辿るであろう。ところが原始民族というものは兎角死後人体に憑依したがる傾向が甚だ強い。その当然の結果として地獄に堕ちる。』
『そう致しますと、人間は生前の行為によりて審判(さば)かれるのですか? それとも又死後の行動によりて行く先地を決められるのですか?』
『それは一概にも行かぬであろう。老齢に達してから死ぬものはその幽体が消耗しているので幽界生活を送るべき余裕がない。従って生前の罪によりて地獄の何所かへ送られる。青年時代若しくは中年時代に死ぬるものは、これに反してその幽体がまだ消耗せずにいるのみならず、同時にその性格も充分発達し切っておらぬ。地上に出現して憑依現象を起こすのは多くはこの種の霊魂で、つまりそうすることによりて生前為(し)足りなかった自分の慾望を満足しようとするのである。憑依現象中でこの種のものが一番資質(たち)が良くない。』

『イヤお陰様で良く判りました。』と吾輩が叫んだ。『私などは酒と色と、それから復讐心との為に、生きている人間の軀によく憑依したものですが、最後の奴が一番罪が深く、そのお陰で私は地獄のどん底まで堕とされてしまいました・・・・・・。』
『全くその通りじゃ。──一たいある人間の生活状態と、死後そのものの犯しやすい罪悪との間にはなかなか密接な関係がある。淫慾の盛んなものが死後に於いて人体に憑依するのは、主にその淫慾の満足を求める為で、従ってそんな人物は最後に地獄の邪淫境に送られる。──お丶いつの間にやらモー休憩所へ着いて居る・・・・・・。』
 そう言われて見ると、成程われわれのすぐ面前には質素な、しかし頑丈な一つの建物があった。入り口の扉は極めて狭く、窓はただの一つも附いていない。ただ扉の上にちっぽけな口が開いていて、遠方からわれわれを導いてくれた光明はつまり其処から放射されていたのであった。

 天使がコツコツ扉を叩いて案内を求めると同時に内部から扉が開いて、それからパッと迸(ほとばし)り出づる光の洪水! 天使は吾輩の手を執って引っ張り込んでくれたらしかったが、吾輩は眼がすっかり眩んでしまっているので何が何やら周囲の状況が少しも判らなかった。ただ後ろで扉の閉まる音がドシンと響いただけであった。

                二十五   出    直    し
 一九一四年六月二十九日の夜、ワアド氏は地界から一気呵成に霊界に飛躍し、其処で叔父さんと陸軍士官とに逢いました。例によって陸軍士官は地獄めぐりの話の続きを始めました。──

 吾輩はあの休憩所で何をして暮らしていたのか、あまりはっきりした記憶がありません。何せ光が莫迦に強いので、其処に居た間殆ど盲人も同様でした。が、そのお陰で幾らか心の安息を得た。地獄の他の建物と違って、あそこに入っていると妙に平和と希望とが胸に湧き出るのです。

 あそこでは又誰か知りませんが、引っ切り無しに吾輩に向かって心を慰めるような結構な談話をして力をつけてくれるものがあった。お陰で、荒みきった吾輩の精神も次第に落ち着いて来ると同時に、何とも言えぬ気持ちのよい讃美歌──従来地獄で聴かされた調子外れのガラクタ音楽とはまるで種類の違ったホンモノの讃美歌が、吾輩の心の塵を洗い落としてくれたのであった。
 
 最後に吾輩を案内してくれた天使がこう言われるのであった。──
『あなたの身も心もモー大へん恢復しかけて来たから、モー一度下の邪淫境に立ち戻って仲間の一人を説得してこちらへ連れて来ねばなりません。そうすればあなたが前年突き放した大事の大事の御方に逢われることになる・・・・・・。』
 この逆戻りが規則であって見れば致し方がない。吾輩は再びあの邪淫の市へ降(くだ)って行ったのであるが、お恥ずかしい話だが、こんなイヤに明るい休憩所に居るよりか、暗い邪淫境の方が当時の吾輩にはよっぽど気持ちよく感ぜられたのであった。
 が、あちらへ行っていざ自分の味方を一人見つけようとしてみると、その困難なのには今更ながら驚かされた。散々探し回った後で、やっと地獄の生活に嫌気がさして来た一人の女に巡り会った。

『なぜあなたはこんな境涯から逃げ出そうとはなさらないのです?』と吾輩は彼女を口説き始めた。『あなたの様子を見るに確かにここの生活が厭になって居る。此処にはただ一つも真の快楽というものがない。いづれも皆空虚な影法師である。いかに淫事に耽って見たところでそれで何物が得られます?──一時も早くこんな下らない境涯から抜け出してもッと気のきいた所へ行こうではありませんか! 吾輩が案内役を務めますから、あなたは後からついておいでなさい。道連れがあったらそんなに心細いこともないでしょう。』
『でもネー、そんなことをして何の役に立ちますの?』彼女は中々吾輩の言葉に従おうとしない。『あなたもご存知の通りここは地獄でしょう。地獄の虫は永久に死ぬることなく地獄の火は永久に消ゆることなしと云うじゃありませんか。無駄ですから止めましょうよ・・・・・・。』
『地獄の火が消えようが消えまいがわれわれがここから抜け出されないという方はない・・・・・・。』
『でもネー、私達は永久に呪われた身の上じゃございませんか。生きて居る時分に私達は死後の世界のあることを夢にも知らず、地獄のあることなどは尚更存じませんでしたワ。兎角浮世は太く短く・。そんな事ばかり考えていましたワ。今になってはその間違いがよく判りました。矢張り正しい道を踏んでいればよかったと思われてなりません。死んですべてが消え失せてしまうなら結構でございます。が、中々そうじゃないのですもの……。矢張りお説教で聴かされた通り、ちゃんと地獄がこの通り立派にあって、其処へ自分が入れられているのですもの……。しかし何も彼もモー駄目です。今更死にたいだって死なれはしません。』

『イヤ地獄があることはそりア事実に相違ないが』と吾輩は躍起となって口説いた。『坊さんたちの言うように、それが決して永久なものでも何でもない。イヤ地獄そのものは永久に存在するかもしれないが、何人も永久その中に留まる必要はない。吾輩が何よりの証人です。今こそ吾輩こんなところに来ているが、その以前には地獄のずっと低い境涯へ堕ちて居たのです。一旦地獄の底まで降りたものが、此処まで登ってきたのだから確かなものです。』
『マアそれなら地獄の中にも他にいろいろ変わったところがありますの? 私そんな事ちっとも知らなかったワ。』
『ある段じゃないです。下にもあれば上にもある。これから大いに上へ登ってゆくのです。』
 彼女はじっと吾輩を見つめながら、
『ドーもあなたの仰ることは事実らしいワ。しかし随分不思議な話ね・・・・・・』
『マアいいから一緒にお出でなさい。』
『お供しましょうか。しくじった所で目先のかわるだけが儲けものだワ。斯う毎日同じ事ばかり繰り返しているのでは気が滅入ってしょうがありアしない・・・・・・。』

     
                               二十六  地獄の新聞紙
 われわれ二人は連れ立って、成るべく目立たぬように街を通過した。折々飲んだくれ連が酒屋から街路へ飛び出してくる。中には知らん顔しているものもあるが、中にはまた一緒になって騒ごうと、しつこく自分達を引っ張るのもある。又たまには、われわれの周囲に輪を作って踊り狂う奴もある。一番手古摺ったのは四人連れの乱暴者で、同伴の婦人をとっつかまえて、厭がるのをむりに連れて行こうとしやがった。吾輩は後を追いかけて、忽ちその中の二人を殴り倒してやると、他の二人はびっくりして女を放り出して逃げた。序に言って置くが吾輩の連れの女の名はエーダというのである。
 だんだん歩いて行くと、ある所では一群の盗人が一軒の家に押し入ろうとしていた。又とある人ごみの市場を通ると、其処では一人の男がしきりに大道演説をやっていた。何を喋っているかと思って足を停めて聞いて見れば、地獄から天国までの鉄道を敷設するのでこれから会社を興す計画だというのであった。

 聴衆の多くは天国などがあってたまるものかと罵っていたが、それでも中には、他愛もなくその口車にのってこれに応募する連中も居た。
 ある所には又一つの新聞社があった。折から丁度朝刊が発行されたところなので、念のために一枚買いとって目を通して見ると、先ず次のような表題が眼についた。──
△二人の宣教師の捕縛。──これは他の地方から入り込んだ間諜の動静を書いた記事で、平和の攪乱者として厳しく弾劾してあった。
△地獄の新入者。──これは死んで地獄に送られた人々の名簿で、特に知名の人達につきては其の会見記事が掲載してあった。
△徳義の失敗。──これはエスモンドという作者の新作劇で、近頃大評判であるとの紹介記事。其の外競馬だの、新会社の設立だの、駆落ちだのの記事が掲載されていた。
 いよいよ街をぬけるとエーダは急に心細がり出した。
『まア何て寂しい所でしょう!』彼女は身震いして『わたし怖いわ! 戻りましょうよ。』

『莫迦な!』と吾輩が叫んだ。『こんなところで兜を脱ぐようなことでどうなります! 一緒においでなさい。アレ彼所(あすこ)に光明が見えるじゃないか!』
 休憩所から漏れる一点の光明は幾らかエーダの元気を引き立てるべく見えた。
『ホンに何てきれいな星でしょう! 私死んでからただの一度も星を見たことがありませんワ。』彼女は震えながらいうのであった。『早くあすこ迄行きましょうよ。』
 われわれは一歩一歩にそれに近づいたが、やがてその光が激しくなると彼女は又もためらい出した。
『アラ痛くてたまらないワ! 近寄れば近寄るほど痛くなるワ。』
『何の下らない。これくらいの我慢が出来なくてどうなります! 吾輩などはまだまだ百層倍も辛い目に逢って来ている。あの光のお蔭で軀のゴミが少しづつ除かれて行くのだ。有り難い話だ・・・・・・。』
 吾輩が一生懸命慰め励ましたので彼女もやっと気を取り直し、とうとう休憩所の入り口まで辿り着いた。
 その光の為にわれわれは一時盲目になったが、しかし親切な天使たちの手に握られて無事に室内に導かれた。
 それから彼女と引き離され、吾輩だけただ一人その建物の中で一番暗い部屋に入れられた。後で調べて見ると、この部屋の暗いのは窓が開け放たれ、其処から表の闇が海の波のように、ドンドン注ぎ込むからであった。

               二十七  守護の天使との邂逅
               
 その時闇を通して強く明らかに何やら聞きなれぬ不思議な音声が響いて来た。それは何処やら喇叭を連想させるような一種の諧調(がいちょう)を帯びたものであった。耳をすますと斯う聞こえる。──
『わが皃(こ)よ、余は汝が一歩一歩余に近づきつつあるをうれしく思うぞ。多くの歳月汝は余に遠ざかるべくつとめていた。されど余はしばしも汝を見捨てる事無く、何時か汝の心が再び神に向かう日のあるべきをひたすらに祈っていた。──ただ余の姿を汝に見せるのはまだ早きに過ぎる。余の全身より迸り出る光明は余りに強く、とても現在の汝の眼には耐えられそうにもない。』

『あ丶天使さま!』と吾輩は叫んだ。『私が神の御前にまかり出ることが出来ないのは、神の御光の強すぎる為でございましょうか?』
『その通りじゃ。何人(なんぴと)も直ちに神の御光の前に出ることは出来ぬ。されど何事にも屈せずたゆまず飽くまで前進を続けて行かねばならぬ。余の声をしるべに進め! 進むにつれて余の姿は次第に汝の眼に映るであろう。』
 そうする中に休憩所の天使の一人が室内に歩み入り、吾輩の手を取りて入り口とは別の扉を開けて戸外に連れ出してくれた。ふと気がつくと、遥か遥か遠い所にささやかな一点の星のような光が見え、次の声が其処から発するように感ぜられた。──
『余に従え! 導いてやるぞ。』
 吾輩は少しの疑惑もなしに闇の中をばとぼとぼとその光を目当てに進んで行った。すると守護神──これは後で判ったのですが──は間断なく慰撫奨励(いぶしょうれい)の言葉をかけてくださった。路は険阻な絶壁のような所に付いて居て、吾輩は何回躓き倒れ、何回足を踏み滑らしたか知れないが、それでも次第に上へ上へと登って行った。丁度路の半ばに達したと思われる所に、とある洞穴があってその中から一団の霊魂どもが現れて、吾輩めがけて突撃してきた。そいつ等は下方の谷間に吾輩を突き落とそうとするのである。──が、忽然として救助のために近づいて来たのはかの道標の光であった。それを見ると襲い掛かった悪霊どもは悲鳴をあげて一目散に逃げ去った。

 最早心配なしと認めた時に、吾輩の守護神はいつしか原(もと)の位置に帰って居られたが、其の為に吾輩もホッと一息ついたのであった。何故かと云うに、吾輩の軀も敵ほどではなかったが、光に射られて幾らか火傷をしていたのであるから・・・・・・。
 その中に道はとある大きな滝の所へさしかかった。地上のそれとは違って、地獄の滝はインキのように真っ黒で、薄汚いどろどろの泡が浮いている。そしてその付近の道はツルツル滑って事の外危険である。──が、何人かが人工的にそこいらに足場を附け、しかも引っ切り無しに手入れしているらしい模様なのである。吾輩はその時まで成るべく口を噤んで居たが、とうとう思い切って守護神に訪ねて見た。──
『一たいここの道路を誰が普請するのでございますか? どうしてこんなに手が届いて居るのでしょう。』
 すると守護神は遠方からこれに答えた。──
『それは地獄の中に休憩所を設けて居らるる天使達が義侠的にした仕事じゃ。此処の道路は地獄の第四部と第五部をつなぐものでこれを完全に護るのが彼等の重大なる任務の一つじゃ。下の境涯に居る霊魂どもは隊伍を組んで、飽くまでもこの道路を壊しにかかっているから油断などは少しもできない・・・・・・。』
              
 吾輩が続けて尋ねた。──
『そんな悪いことをするのは眞の悪魔なのですか、それとも普通の人間の霊魂なのですか?』
『それは普通の人間の霊魂なのじゃ。彼等は地上の悪漢同様自分達の仲間が彼らを離れて正義の途に就くことを嫌うのじゃ。汝の今述べたような眞の悪魔などというものは、地獄の最下層以外にはめったに居るものではない。地獄の上層にいるのは先ず大てい人間の霊魂であると思えば間違いはない。』
『それなら自殺した者は何所に居るのでございますか?』
『そんなものは大てい地獄の談三部、憎悪の境涯に行っているが、たまに第四部に居るのがあるかもしれん。又幽界に居る時分に、その罪を償ってしまって地獄に堕ちずに済む者も少なくない。』

『それはそうと天使様、何やら光明がだんだん強く、行く先が明るくなってまいりました。これはどうしたのでございます?』
『われわれはだんだん光明の地域に近づきつつあるのじゃ。のみならず休憩所の天使たちが、われわれの近づくのを知って、われわれの為に神に祈願をこめてくださるのじゃ。光と云うものは実は信念そのものである。故にわれわれの為に祈りを捧げてくれるものがあれば、その信念が光となってわれわれを導いてくださる。』
 次第次第に光は強さを加え、しまいには眩しくてしょうがなくなった。が、幸いにも吾輩の人格に媚びりつ
いた最劣悪部はすでに燃えつくしてしまったものと見え、この前よりも痛みを感ずることが少なかった。
 間もなくわれわれは休憩所に辿り着き、その入り口の階段を登りつめて扉の前に立った。守護神は手さえかける模様もなくするすると扉を突き抜けて中へ入ったが、暫しの後扉は中から開かれ、吾輩も誰かに導かれて室内に歩み入った。
 言うまでもなく室内は極度に光線が強いので、吾輩は一時すっかり盲目となってしまったが、それでも慣れるにつれて次第に勝手が判って来た。きけばここに駐在する天使たちの任務というのは、一つには例の滝の附近の道路
の破壊されるのを防ぎ、又一つには第五部の居住者がうっかり道に踏み迷い、第四部の方に堕ちてくるのを監視する為でもあった。

 ここで一言付け加えて置きたいのは、第五部の住民から排斥されたものが、時とすればその境界線にある絶壁から第四部に突き落とされることである。第五部は大体に於いて大変に格式を重んずる所で、規則違反者と見れば、決して容赦しない。この休憩所はそんな目に逢う連中をもできるだけ救うことにして居るのである。
 尚この休憩所の前面にはインキ色の真っ黒な川が流れているが、その川にかかっている橋梁の警備も亦この休憩所の天使たちの手で引き受けているのであった。
 
              二十八  第五部の唯物主義者
 さて吾輩は又も守護神に導かれて、橋を渡って対岸の哨所(しょうしょ)に入った。が、此処ではちょっと足を停めただけで、再び濃霧の立ち込めた闇の表に歩みを運んだ。

 しばらく一つの大きな汚い下流の岸を歩いて行くと、やがて一大都会に到着した。これは世にも陰鬱極まる所で、見渡す限り煙突ばかり、製造所やら倉庫やらがゴチャゴチャと建ち並んで、その間には塵だらけの市街が縦横に連なっている、何所を見てもむさ苦しく、埃くさくそして工場の内外には職工がゾロぞろ往来している。吾輩は足を停めて職工の一人に尋ねた。──
『一体君たちは此処で何をしている?』
『工業さ、無論・・・・・・。』
『製造した品物はどうするかね?』
『売るのだね
無論・・・・・・。しかし妙なことには、幾ら売っても売ってもその品物は皆製造所へ戻って来やがる。こんなに沢山倉庫ばかり並んでいるのはその為だ。此処では引っ切り無しに倉庫を建てていなけりゃ追っつきァしない。邪魔でしょうがないから一生懸命に売り飛ばしているんだが、それでもいつの間にやら一つ残らず品物が戻って来やがる。』
『焼いてしまったらよかろう。』と吾輩が注意した。
『焼いてしまえって……。そりゃ無論焼いている。一遍に大きな倉庫の十棟も焼くのだが、しかし矢張り駄目だね。すぐに全部がニョキニョキと戻って来る。此奴ばかりはしょうがない・・・・・・。』
『それなら何故製造を中止しないのかね?』

『ところがそれが出来ない。不思議な力が爰に働いて居て、どうしてもひっきりなしに働いて働いて働き抜かなければならなく出来ている。休日などはまるでない。莫迦莫迦しい話だが、これも性分だから何とも仕方ない。生きて居る時分だってこちとらは労働以外に何にも考えた事なんかありァしなかった。のべつ幕なしに糞骨折って働いたものだ。その報酬がこれだ。せっせと同一の仕事を繰り返し繰り返し繰り返して、一年、二年、五年、十年、百年・・・・・・。何時までも休みっこなしだ。』
『君たちは生きて居る時分にはただ物質のことばかり考えていたに相違ない。その性で地獄に来ても同じような事をさせられるのだ。』
『何に地獄だって! 地獄だの、極楽だのというものがこの世にあってたまるかい!』
『それなら此処は何所だと思うかね?』
『知るもんか、そんなことを・・・・・・。又知りたくもねえや。此処には寺院ありァ僧侶もある。お前みたいな阿呆に話をする時間はねえ。どりゃ仕事にとりかかろう。』
 そう言ってその男は工場へ入っていった。
 吾輩はやがて大きな広場に来たが、そこには寺院が三個もあった。一つは英国国教、一つはローマ舊
教、
他の一つは反英国国教の所属であった。吾輩は先ず英国国教派の寺院に入って見た。

一人の僧侶がしきりに説教を試みていたが、随分面白くない説教で、要点は主として他宗の排斥と寄付金の募集とであったが、それを社会の改良だの、下層社会の救済だのと言う問題に結び付けて長々と述べ立てるのであった。
 会衆はと見るとお説教などに頓着して居るものは殆どない。隣席の者をつかまえて、べラベラと他人の悪口を並べるのもあれば、近所に来ている人の衣服の批評を試みるのもある。その他商売上の相談をやるもの、議論をやるもの等種々雑多で、僧侶の聲などは程んと聞き取れない。
 あまりに莫迦らしいので、吾輩は其処を出て他の二つの寺院へ入って見たが、何れも似たり寄ったりで、面白くも何ともなかった。
 次に吾輩の出掛けたのは街の中で売店ばかり並んでいる一区割りであったが、全体の状況は少しも製造場と変わってはしなかった。人々が買い物に来ることは来るものの、支払った金子は皆その買主に戻り、又売った品物は皆その売主に戻って行くのであった。
 餘に不思議なので吾輩はとある商店の主人に向かって訊いた。──
『あなたの売る品物は何所から来るのです? 製造業から仕入れて来るのですか?』
『いやこれらの品物は皆私と一緒にここへ附いて来たのです。何れも皆私が死んだ時に店に置いてあった品物ばかりですが、そいつがどうしてもこの店から離れません。見るのもモーうんざりしますがね。』

『それなら商売をやめたらいいでしょうに。』
『冗談言っちゃいけません。商売をやめたら仕事がなくなってしまいます。私は子供の時分から品物を売って一生暮らして来た人間ですからね・・・・・・。』
 彼は吾輩を極端な分からずやと見くびって、プイと向こうを向いてしまった。そして一人の婦人に新しい帽子を売り付けたが、無論其の帽子は右の婦人が店を出て三分と経たない中にチャンと自分の店に舞い戻っていた。
 その次に吾輩は市会議事堂へ入って見た。其処では議員たちがしきりに市の改良策について火花を散らして論戦して居たが、いくら蝶々と議論したところで、いずれその結果は詰まらないに決まっているので間もなく叉其処をでてしまった。
 とうとう市街を通り抜けて郊外に出たが、相変わらずそれは一望ガランとした荒地で、廃物ばかりが山のように積まれ、草などはただの一本も生えていなかった。
 
                    
                二十九   睡   眠   者
 われわれはしばらく歩いて行く中に、やがて一つの洞穴に達した。見ればその中には沢山の熟睡者がいた。試みにそれを呼び覚まそうとして見たが、とても起きる模様がない。
 この一事は少なからず吾輩を驚かした。今迄の所では、地獄に住む者でただの一人も眠って居るものを見掛けたためしがない。──軀がないから従って睡眠の必要はないのである。
 で、不審の餘りその理由を守護神に質問してみた。モーこの時には自分と先方との距離はソ―遠くもなかったのである。
 守護神は悲しげに斯う答えた。──
『わが兒よ、これらは生時に於いて死後の生命の存続を飽くまで頑強に否定すべくつとめた人々の霊魂なのじゃ。何れも意思の強固なものばかりで、若しも信仰の念さえあったなら、相当に世を益し人を助けることが出来たであったろうに、ただその点だけ魂の入れどころが違っていたばかりに、人を惑わし、同時に自分自身も死後自己催眠式に昏睡状態に陥ってしまったのじゃ。この睡(ねむり)は容易には覚めない。彼等は幾代幾十代となくこうして眠って居るであろう。その間に器量から言えば、彼等よりも遥かに劣り、中には地獄の底まで沈んだものでも前非を悔いてズンズン彼らを追い越して向上していくであろう。』

『こりァ実に恐ろしいお話です。呼び覚ます方法はないものでしょうか?』
『多大な年代を経過すれば自然とその呪の力は弱ってくる。その時天使たちが降りて来て何かと骨を折ってくだされば、彼等の長い長い夢も初めて覚めるであろう。』
 その中われわれは断崖絶壁ばかり打ち続ける地方に到着した。しばらく崖の下を彷徨っていると行く手に一條の狭い、ツルツルした階段が見え出した。──と丁度その時出し抜けに一人の男が空中から舞い下がって来てすぐ自分達の前に墜落した。が、其の人はそのままとび起きて闇の中に逃れ、何処ともなく行方を失ってしまった。
『あれは一体何者で御座いますか?』と吾輩がびっくりして尋ねた。
『あれは上の第六境で、規律を破った為に追放されたものじゃ。第六境の居住者は大変風儀品格を尊重する人達で、若しもその禁を犯して彼らの怒りを買えば
、忽ち追放処分を受ける。第六境の居住者の最大欠点は、自己ばかりが飽くまで正しいものと思いつめることで、しきりに自己の隣人を批判して讒謗誹毀(ざんぼうひき)を逞うすることが好きじゃ。いや然しモーあそこの休憩所の光が見え出した。いかなる種類の人間が第六境に住んでいるかは汝自身で調べるがよかろう。
 われわれはそれで話を切り上げ前面の長い長い階段を一歩一歩に登りかけたが、いやその苦しさと云ったらなかった。しかし燈台の光は次第次第に強くわれわれの前途を照らした。無論その光は身に染みて痛いに相違なかったが、ここぞと覚悟を決めてとうとう天使たちの設置してある休憩所まで辿り着いてしまった。
 
                   三十  第   六   境
 これは一九一四年九月五日に現れた陸軍士官からの自動書記通信であります。
             
 さてわれわれはしばらくその休憩所で一息入れてから再び前進を続けた。辺りは相変わらず霧の海、其の中を右へ右へ取って行くと、間もなく一大都市の灰色の影がチラチラ霧の裡に見え出した。大絶壁に臨める側には高い城壁が築いてあったが先刻一人の男が第五境へ突き落とされたのは、右の城壁に築いてある塔の一つからなのであった。
 市街の家屋は大部分近代風のもので、ロンドンの郊外の多くに見受けられるように、上品ぶっているがしかしまるきり雅趣に乏しいものであった。が、街路は割合に立派で、掃除も良く行き届いていた。地獄で清潔らしくなるのは此処から始まるのであった。
 ふと吾輩は此処に劇場のあることに気がついた。入って良いかと守護神に尋ねたところが、よいと言われるので早速入った。但し守護神の方では戸外に待っておられた。幸い入口の所に一人の男が居たので吾輩は早速それに言葉をかけたが、先方はジロジロ吾輩の顔を見ながら言った。
『私はまだあなたの事を何方からも紹介されていませんが・・・・・・。』
『箆棒奴ッ(べらぼうめ)』吾輩は叫んだ。『こんなところで紹介もへちまもあるもんか!』
『これこれあなたは飛んでもない乱暴な口をお聞きなさる。それでは紳士の体面を傷つけます・・・・・・。』
 向こうはいやに取り澄ましている。仕方がないから吾輩も大人しく謝って、どんな芝居が此処で興行されているかを訊ねた。

『演劇は市民の風儀を乱さぬ限りどんなものでも興行して居ます。但し野卑なもの、不道徳なものは絶対に興行しません。これはひとり演劇に限らず、音楽其の他も皆その通りです。』
『イヤ──』と吾輩は叫んだ。『風儀をかれこれやかましく言う所は、地獄の中で此処ばかりだ!』
 相手の男は苦い顔をした。──
『ドーもあなたは口のきき方が乱暴で困ります。この世に地獄などと言うものはありません。あってもここではありません。』
『下らんことを仰ッしやるナ。この界隈は皆地獄の領分の中です。立派に地獄に居るくせに、居ないふりをすることはおよしなさい。吾輩は憚(はばか)りながら地獄の玄人だ。そんな甘い手には乗りませんよ。』
『モシモシと彼が言った。『あなたは一体どちらの方で、何所からお出でになすったのです?』
 仕方がないから吾輩は簡単に自分の身の上を物語った。すると先方は次第次第に吾輩から遠ざかり、やがて吾輩の言葉を遮って叫んだ。──
『それだけ伺えばモー沢山です。あなたは大法螺吹きか、それともよほどの悪漢です。あなたが何と言ってもここは地獄ではありません。多分私達は地上の何所かに居るでしょう。何れにしても従来私は悪漢と交際したことがないから今更それを始める必要はないのです。これで私はあなたに分かれますが、序に好意上一片の忠言をあなたに呈して置きます。──外でもないそれはあなたがここで下らない話を何人にもなさらぬことです。さもないとあなたはあの城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!』

 そう言って相手の男はプイと何処かへ行ってしまった。
 そこで吾輩は兎も角劇場に入った。中では丁度一の喜歌劇をやって居ましたが、イヤその下らなさ加減と来たら正に天下一品、音楽は地獄の他の部分ほど乱調子でもないが、しかし随分貧弱なもので、俗曲中の最劣等なものに属した。脚本の筋などときてはまるきり零(ぜろ)、全体が平凡で、陳腐で、無味乾燥で、たった一幕見てうんざりしてしまった。他の見物人だって矢張り弱り切って居るらしかったが、それでも彼等は我慢して尻を据えていた。
 其処を出掛けてその次に一つ二つ音楽会を覗いて見たが、その下らないことは芝居と同様、とても聞かれたものではなかった。早速又逃げ出して今度は絵画展覧会を覗いてみた。モー大概相場は判って居るので、最初から格別の期待もせぬから、従って失望もしなかった。が、子供の落書きにちょっと毛の生えたくらいのシロモノばかりを沢山寄せ集めて悪く気取った建物の中に仰々しく陳列してあった。
          中
 モーこんなものの見物にはウンザリしたので吾輩は守護神の所に立ち返り、それに導かれて市街の中央部を指して出掛けた。すると、其処には煉瓦造りのゴシックまがひの碌でもない寺院があったので試みにこれに入って見た。
 丁度内部では祈祷が始まっている最中で、でっぷり太った一人の僧がねばねばした偽善者声を出して何か喋っているので先ず吾輩の癇癪にさはった。お祈りの文句などはただべらべらと器械的に述べるのみで、熱は少しもない。すべてがただ形式一遍、喋る方も聴く方もお互いにお茶を濁しているに過ぎない。
 彼の説教の中で耳にとまった文句のニ三を少し紹介すると斯うだ。──
『親愛なる兄弟姉妹諸氏、あなた方は私を助けてこの大都市の裡に何等悪徳の影も潜まぬように力を尽していただかねばなりません。若し裏面に於いて何らかの不倫の行為に耽って居るものがあらば、その真相を徹底的にあばき出すことが必要であります。例えそれがあなた方の親友であり、又親族でありましても容赦なく弾劾することがあなた方の責務であります。もしあなた方がこの大事業に一臂(いちび)の力を添えられようと思召さるるなら何時でも私の所にお出でになり、疑わしいと思わるるところをご遠慮なくわたくしに密告していただきます。悪事の跋扈横行ほど恐ろしいものは無いのですから、常にそれを嫩
(ふたば)の裡に刈り取ることの工夫が肝要であります。私は常にあなた方の味方であります。悪徳駆除の為には如何なる手段も選びません。

『此処に一例を申し上げて置きます。あなた方の御友人の某婦人が近頃寺院に参拝しない。ドーもその方がある紳士と姦通の疑いがある。──そんな場合にはあなた方はその方に同情するふりをするのです。そうしてなるべくその人をおびき出して自白させるのです。同時に彼女の夫には秘かに警告を与え、就中私まで一切の事情を報告していただくのです。』
 こんな調子で暫く論じたて、最後に斯く結論した。──
『兎にも角にも罪悪の証拠充分なりと見ればそんな社会の公敵に対して何等の慈悲恩恵を施すべきではありません。一時も早くかの城壁の塔より永久返ることのない大奈落に突き落とすべきであります。──つきましては明日皆様と一同に会して大宴会を催し、その際寺院改良に宛つべき資金の調達を試みたいと存じます。何卒公共の為に皆様のご出席を希望いたします。』
 
 飛んだ説教もあったものだ。吾輩が寺院を出ようとすると、聴衆は秘かにこんなことを語り合っていた。──
『牧師さんはいつもいつも人改良の為だと言って資金の募集をやるが、いったいあの金子はどうするのでしょうナ』
『そりァ無論自分の懐にねじ込むのでさ。少なくともその大部分を・・・・・・。』
『私もそう思いますね・・・・・・。しかしあの金子を何に使うのでしょうナ。』
『二重生活をすると金子がかかりますよ。──ご承知の通りあの人には妻君の外に囲い者がありますからネ』
 吾輩はそれだけしか聞かなっかった。が、翌日の大宴会というものには是非出席してみようと決心した。で翌日は都合をつけて、少し早めに寺院に出掛けて行ってみると、大会堂には牧師が控え、その周囲には彼を崇拝する婦人の一団が早ぎっしり集まっていた。牧師が何か一言しゃべれば、何れも先を争ってそれに調子を合わせ、そして隙間を見計らって誰かの告げ口をする。中には随分口にもするにも耐えないような悪口も混じっていた。
 漸くのことで、吾輩はある機会を見つけて牧師に話しかけた。──

『牧師さん、私は折り入って一つの簡単な質問についてお訊ねしたいのですが、一たいあなた様はキリスト教を心から御信仰なさいますか? それとも博学な高僧達の多くと同じ其れをただ一篇の神話とお考えになられますか? つまり神、天国、地獄等というものが果たしてあるものかないものか、御腹蔵のないところを伺いとうございます。』
 彼は両手を組み合わせ、例のねばねばした口調で答えた。──
『そりァ信仰という言葉の意味次第であります。牧師というものには大責任がありますから、滅多に心弱き者を躓かせるような事は言われません。』
 いろいろと言を左右に托して逃げを張ったが、吾輩が追窮して止まないので、とうとう彼は本音を吐いた。──
『イヤ個人として言うならば、わたくしはキリストの物語を一つの神話・・・・・・甚だ美しき一遍の神話と考えます。聖(セント)ポールをはじめ、古代のキリスト教徒は恐らく皆そう考えたに相違ありません。キリストの事蹟は一大真理を教えた所の一つの象徴であります。丁度エジプト人がオリシス神の死と復活とを説くようなもので、教育のあるエジプト人がオリシス神の実在を信じていたとはドーしても思えない。あれは単なる一つの寓言に過ぎません。不幸にも無智無学の徒はこれ等の寓言を字義通りに信仰し、中世時代に及んで、それが一般の信仰となってしまった。近頃になってから、われわれは次第に真理に目覚め、迷信の滓(かす)の中から脱却しつつある。──が、もちろんわれわれは大きな声でこれらの事実を一般人に聞かせることはできません。若しそんな事でもしようものなら恐らく牧師の職を棒に振ることになるかもしれません・・・・・・。』

『そうしますと、若しキリスト教義の全体が単なる寓言に過ぎないとすれば、教会の必要は何所にございましょうか?』
『そりァ大々的に必要があります。本来教会というものは偉大なる道徳的勢力の源泉であるべきで、今後は恐らく一切の迷信的分子から脱却することになりましょう。が、現在ではまだそうするのは早すぎます。大多数の民衆の為には取るにも足らぬ寓言比喩をも政策上使用せねばなりません。』
『では天国、地獄、神などは実際は存在せぬとお考えですか?』
『その点に関しては私は明答を避けたい。ある人々にとりては、神の観念を有することが必要である。さもないと道徳的法則を遵守せぬことになりますからナ。が、私一個の私見としては、必ずしも神はないものと断定もせぬが、又神を必要かくべからざるものとも考えない。私はこの世界が幾つかの法則で司配され、就中道徳的法則が何より貴いものであるように思います。道徳的法則を破るのものは早晩その法則によって懲戒を受けますから、必ずしも万能の創造者が必要とは認められない。──いやしかし私はこんな事を一般民衆には公言する譯ではありません・・・・・・。』

『けれども』と吾輩が彼の雄弁を遮って言った。『何にも神を万能の専制君主と見做す必要はないでしょう。神は一切を見通すところの賢明なる審判者であって、あなたの所謂法則なるものはつまり神から発するもの、神が整理さるるものではないでしょうか?』
『それはそうかも知れない。しかし淡白に言うと、天国だの地獄だのと言うものはあれは皆嘘です。各人の受ける賞罰は、つまり疾病の有無、又は社会の待遇等によりて決まるもので、決して天国だの地獄だのがあって賞罰を与えるのではない。私の地位としては死後の生活がないと公言することを憚るが、しかし実はあんなことは到底信じられない。』
         
 吾輩は呆れて一瞬間牧師の顔を凝視した。──
『それならあなたはどうして此処へお出でになって居るのです?』

『イヤ私は何やら妙なことで爰へ来たのじゃ。私は病気にかかり、やがて意識を失った。その間に頗る不思議な、そして気味の悪い夢を見せられたが、勿論ここに取り立てて述べるだけの価値はない。夢は五臓の疲れに過ぎんからナ・・・・・・。やがて回復してみると何時の間にか私は此処に来ている。しかし妻は来ていません。人に聞いて見たが誰も詳しいことを知って居るものがない。その中この教区の前任者が不思議なことでプイと行方不明になったので、私がその代わりに教区を預かることになって、今日に及んでいるのじゃ。何人も全任者は死んだものとしているが、兎に角この土地の生活状態には何やら不可解な点が多い。ここでは誰も死ぬものがない。従って葬式の必要もない。ただ人の知らぬ間に軀が消滅するのじゃナ。多分衛生当事者が秘かに死体を処分するものかと思うが、そんなことは私の職務外の事じゃから深く聞きただしもしません。何分私の受け持っている教区は市の中央部にあるので、朝から晩までかかり切りにかかっていても間に合わぬ位多忙でナ・・・・・・。』
『あなたは此方で結婚でもなさいましたか?

『無論しました。元の妻は私の病中にてっきり死んだものとしか思われないから、私は何の躊躇するところもなく再婚しました。勿論私はモー老人で別に結婚はせずともよいのじゃが、しかし妻が居て呉れんと教区の事務遂行に関して大へん差支えが生じる。慾を言えば今度の妻がモ少し手腕があってくれればと思うが、まあしかし人間は大ていの所で諦めるのが肝要でナ・・・・・・。』

『して見ると、あなたは現在地獄に堕ちて居らるる事にまだお気がつかれないのですか?』
『これこれあなたは飛んでもないことを仰る!』
 仕方がないから吾輩は此処が地獄の一部分であること、又死後吾輩がいろいろの苦い経験をなめた事を物語ってやった。彼は極めて冷ややかに吾輩の話を聞いて居たがやがて口を挿(さしはさ)んだ。──
『イヤもうそれで沢山沢山!、私がもし尋常の人間であったならこのまま黙っては済まされないところじゃが、身分が身分じゃから、ただこれだけあなたに言って聞かせる──外でもない、それは私があなたの話を全部信用しないという事じゃ。今日は飛んでもない人に逢って時間を浪費してしもうた! あなたは嘘つきか、それともあなたの人相から察して、余程の悪漢(わるもの)かに相違ない。一刻も早く此の市から立ち去ってください。慈悲忍辱(じひにんじょく)の身として私からは告発はせぬことにするが、若しこれが他の人であったら決してあなたみたいな人物を容赦せぬに決まっている・・・・・・。』
 彼は吾輩をうっちゃらかして置いて、やがて近づいた二人の婦人に吾輩のことをベラベラ説明し始めた。吾輩もこんなところに長居は無用と早速寺院から飛び出してしまった。
 
 
             三十一  死 後 の 生 活 の 有 無  
 一九一四年九月七日の霊夢に、ワアド氏は陸軍士官と会ってその物語の続きを聞きました。陸軍士官はその際例の調子で次の如くに語ったのであります。──

 地獄の第六境の都会をぶらついている中に、吾輩は一の学術協会らしい建物を見つけた。中を覗いてみると、其処には何やらしきりに討論が行われていた。討論の議題は『死後の生活の有無』というのでした。
 一人の弁士は左の如く論じたてた。──
『人間が死後尚生存するという事に就きては其処に何等の確証がない。成る程ある人々は斯う論ずる。──われわれは一旦死んだ。然るに今尚ほかく生きているのであるから、死後生命が存続することの証左であると。が、これは論理的でない。われわれは今尚生きている。故にわれわれは初めから死なないのである。われわれは皆重い病気にかかった。病気から回復してみると、辺りがこんなどんよりと曇った世界に一変していた。──単にそれだけである。』

『それだから』と他の一人が口を挿んだ。『われわれは死んで地獄に居るに相違ない。』
『以ての外の御議論です。』と最初の弁士が叫んだ。『われわれは病気以前と同様気持ちよくここに暮らしている。私は地獄の存在などは亳(ごう)も信じない。よし一歩譲りて地獄が存在するとしても、此処が地獄であり得ないという事には諸君も賛成されるに相違ない。牧師たちはわれわれに告げます。地獄は永久の呵責の場所で、蟲も死する能(あた)わず、火も消ゆることがないと。然るにそのような模様は微塵もここにはないではないか。成る程下らない心配、下らない仕事が連日引き続くので退屈ではあります。けれどもそれは地上生活においても常に見出すところである。われわれは所謂天国の悦楽を此処に見出し難いと同時に、所謂永久呪われたる者の苦痛も見出し得ない。この点がわれわれの死んでいないことの最も有力なる証左である。もし死後の生活などというものがあるならば、それは地上の生活と全然相違して居るべき筈である。此処の生活はわれわれの若かりし時の生活とは相違しているに相違ないが、肉体を離れた霊魂の生活としては余りに具体的であり、実質的である。諸君、われわれは死後生命の存続を証明すべき何等有力なる確証をもたぬという私の動議に御賛成を願います。

 ℘388
 それに続いて其の反対論が出た。が、それは随分つまらない議論で、至極平凡な論理を辿り自分達は確かに一旦死んでいる。現在の住所が何処であるかは不明だが、多分煉獄であろうなどと述べた。すると清教徒達はそれに大反対で煉獄などと言うのは舊教(きゅうきょう)
の寝言だと反駁(はんぱく)し、議場は相当に混乱状態に陥った。
 やがて次の弁士が立ち上がって一の名論を吐いた。──
『私は自分の死んだことをよく知っております。そして現在われわれの送りつつある生活をただ一場の夢と考えるものであります。人間の頭脳なるものは、生命がつきたと称せらるる後に於いても、暫時活動を持続する。しかし最早肉体を完全に統御する力はなく、其の期間に於いて一種の夢を見居るのである。従ってその状態は永久続くものとは思えない。われわれが地上に居る時でも、随分長い夢を見ることがあった。夢の中に幾日、幾週を経過したように考えた。しかし、覚めて見るとたった五分ばかりの仮睡(うたたね)に過ぎなかった。斯く述べると諸君は言うであろう。──それならわれわれは単に頭脳の生み出した一の幻影にすぎないかと。──その通りです。ここには都会もなく、議場もなく、あるものはただ自分だけであります。私はただ夢を見ているだけであります。

幾何もなくして私の頭脳は消耗し、同時に夢も亦消えるのでありましょう。御覧なさい、現在われわれは地上に居った時と全然同様な仕事を器械人形の如くただ何回も繰り返しているに過ぎません。死後の生命なるものはただ死しつつある頭脳の一場の夢に過ぎません。しかしこんなことを述べるのは、つまり自己の空想の産物に向かって説法をすることなのであるから甚だつまらない。私はモー止めます。』
 そう言って彼は陰気な顔つきをして座に就いた。
 満場どっと笑い崩れた。
 その時吾輩が飛び出して叫んだ。
『諸君、私はご当地を通過するただ一介の旅客に過ぎません。けれ共若し諸君が私の言葉を信じて下さるならば、私は死後生命の存続することを証明し、天国の有無は兎に角、地獄は確かに存在し、そして此処が地獄の一部分であることを立証してあげることが出来ます。此処よりもっと下層に行けば人々はいかにも地獄にふさわしい呵責を受けております。一度私が死んでからの波乱に富んだ閲歴をお聞きになって貰えましょうか?』
 が、皆まで言い終わらぬ中に満場総立ちになって怒鳴り出し、その中の数人は城壁の塔から吾輩を放りだすぞと威嚇した。仕方がないから吾輩はいい加減に見切りをつけて建物を立ち出ると、一人の男が吾輩の後に追いすがって言った。──

『イヤあなたが只今仰った事は皆道理に叶っています。あなたは地獄の各地を通過して、最後にここを脱出なさる御方に相違ありません。ついては私のことを同行しては頂けますまいか?

 吾輩がそれに答える前に彼の守護神が姿を現して言った。──
『わが兒よ、余は汝を導いて、愛する友のよろこんで助けを与える美しき境涯に入らしめるであろう。余は汝の胸に救助(すくい)を求める精神の宿るまで、止むことを得ず差控えていたが、今こそ再び立ち帰りて汝の将来を導くであろう。』
 右の人物と天使とは相連れだって何処かへ行ってしまった。
 
               三十二  第七境まで
 それから吾輩は守護神に導かれて市街に出た。途中幾つかの町や村を過ぎ、とうとう一つの山脈の麓に達した。吾輩はその山を喘ぎ喘ぎ登って行ったが、登るにつれて道路はますます険阻になった。やっとのことでその頂上に達してみると、全面のすぐ近い所に休憩所が建っていた。それは今迄の何れよりも大きく、美しく、巍巍(きき)として高く空中に聳え、そして最高層からは一大光明が赫奕(かくやく)として暗中を照らした。
 しかし最後の一と骨折らずには地獄を抜け出ることは許されなかった。吾輩は俄然一群の乱民に包囲されそこの絶壁から下へ突き落とされんとしたのである。
 が、吾輩もモーこれしきの事では容易に勇気を失わない。満腔の念力を集中して打ちかかる者どもを右へ左に投げつけた。同時に吾輩の守護神が全身から光明を迸(ほとばし)らしつつ傍に立っていて下さるので、とうとう悪霊どもは怖れ戦(おのの)きつつ敗走した。
 光は吾輩に取りても非常な苦痛を与えたが、歯を食いしばってそれをこらえた。そしてよろめきながら漸く休憩所の玄関まで辿り着くと、中から扉が開いて、誰やらが親切に吾輩の手を取りて引き入れてくれた。外には尚敗走した乱民の叫喚の声がかすかに聞こえた。
 その時何処やらで吾輩の守護神が言われた。──
『わが兒よ、余はしばらく姿だけ隠しているが、いつもすぐ傍らに付いて居るから安心しているがよい・・・・・・。

 それから吾輩は其処の親切な天使達に導かれて薄暗い室に入って休息したが、光明(あかり)が強くて目が開けられないので、それがどんな風采の人達なのかはさっぱり判らなかった。
 間もなく吾輩は其処の病院へ入れられて一種の手術を受けた。それは吾輩の汚れた軀から邪悪分子を除去する為であった。その手術が済むと、驚いたことには吾輩の軀はめちゃくちゃに縮小してちっぽけな赤ん坊の大きさになってしまっていた! それからだんだん体格を築き上げて行って、間もなく学校へ通学し得るところまで発達した。その学校でお目にかかったのがPさんで、吾輩は大変ご面倒をかけたものです。当時学校中の最不良少年は吾輩であったが、それでもPさんは何所までも吾輩を見棄ててはくださらなかった。
 Pさんは学校を退かれるにのぞみ、是非後について上の世界に登ってくるようにとしきりに勧められたので、吾輩もとうとうその覚悟を決めましたが、後の物語は次回に申しあげます。──
 ワアド氏は早くその先をききたかったが、止むを得ず別れを告げて地上の肉体に戻りました。

                  三十三  地 獄 脱 出
 一九一四年九月十二日、陸軍士官はワアド氏の肉体を占領して、自動書記の形式でその身の上話の結末をつけました。──

 そのうち吾輩が学校を出る時節が到着した。又してもあの闇の中にくぐり込むのかと思うと恐ろしくてとても耐(たま)らぬ気がした。ひるむ心を取直して思い切って案内を頼んだ。
 さてわれわれが地獄から出るのにはあのLさんが往来した楽な道路を取ることは許されない。絶壁の側面に付いて居る大難路を登らねばならぬのであるが、それは大ていの骨折りではないのです。
 われわれは休憩所を出てから右に折れ、しばらく巾広き山脈に沿うて進んだ。一方は第六境に導くところの深い谷であり、他方は見上げるばかりの絶壁である。闇は今迄よりも一層深く感ぜられたが、恐らくそれは在学中光明に熟れた為であるらしかった。

 われわれがとある洞穴の前を通りかかった時に醜悪なる大入道が飛び出して叫んだ。──
『止れ! 何人も地獄から逃げ出すことは相成らぬ。』
 が彼が吾輩に手を触れ得る前に守護神が振り向いて十字を切ったので、キヤーッ! と言いながら悪臭紛々紛たる洞穴の中に逃げ込んでしまった。
 それからの難行は永久に吾輩の記憶に刻まれて残るに相違ない。登って行くのは殆ど壁立せる断崖であるが却下の石ころは間断なくズルズルと滑り落ち、一尺登って一丈も下がる場合も少なくない。
 その間に守護神はいかにも軽そうにフワフワと昇って行かれ、いつも二三歩つづ吾輩の先に立ちて、その軀から放射する光線で道を照らしてくだすった。
 やがて止まれと命ぜられたので、吾輩はよろこんでその通りにした。われわれの到着したのは一の狭い平坦地であった。吾輩の両眼は其処でしっかりと繃帯で縛り付けられた。守護神は斯う言われた。──
『汝の弱い信仰では半信仰の境涯の夕陽の光もまだしばらくは痛いであろう・・・・・・。』
 それから再び前進を続けた。が、とある絶壁に突き当たった時にはいよいよ何としても登れない。すると守護神は斯う言われた。──

『恐るるには及ばぬ。余が助けてこの最後の難関を通過させてつかわす。これでいよいよ汝の長い長い地獄の旅も終わりに近づいた。

 次の瞬間に吾輩は、守護神から手を引いてもらってとうとう絶壁の頂点の平坦地に登りつめてしまった。
 が、其処の明るさ、眩しさ! 包帯をしているにも係らず、その苦痛は実に強烈で、さすがの吾輩も地べたの上をゴロゴロ転がったものだ。それから後の話はあなた方がモーご承知だ。Pさんが来て吾輩をLさんに紹介して下さる・・・・・・。Lさんの周旋でワアドさんの軀を借りて地上との交通を開く・・・・・・。意外なことになってしまいました。
 これで吾輩の通信事業はいよいよ完結を告げました。吾輩はこれから他の霊魂達と共に幽界へ出動せねばなりません。幽界では国家の為に生命を捧げた軍人たちの救済に当たるつもりであるが、幸い吾輩は幽界の事情も地獄の状況も充分心得ていますから、相当目覚ましい働きをし得るつもりです。その中には昔の戦友などにも逢えるかも知れません。
 Pさんは又地獄に降りて救済事業に当たられ僧侶さんはすでに『火の壁』を突き抜けて第五界へと進級され、今又吾輩が幽界に出動することになりましたから、Lさんの所は当分寂しくなる譯です。
 これで皆様におわかれ致します。


  死後の世界(大尾)
 父浅野和三郎のこと

 現今、霊魂の存在を肯定することは、世界の趨勢であり心霊問題に関心をお持ちの方々が増えておりますが、この時期に関係各位のご理解を得て、著作集が刊行される運びとなりました事は、私にとりましてこの上ない喜びでございます。
 父和三郎は、明治七年八月に茨木県に生まれ、明治三十二年東京帝国大学英文学科を卒業いたしました。入学の年小泉八雲先生が、英文学担当講師として赴任し、卒業まで教えを受けることになりました。この頃美文(美しい語句を用い修飾をつくした擬古文)が流行し、和三郎は慿虚の雅号(兄正恭が赤壁賦から取って命名したもの)を用いて、「帝国文学」「新聲」「明星」等にほとんど毎日作品を発表するようになりました。処女作は、「吹雪」と題する短編で帝国文学に発表されるや大町桂月氏などが、文藝倶楽部の評論欄で頻りにほめ、大学部内でも、かなりの評判になりました。

 それらの内、「吹雪」「谷川の水」「血くもり」は、戸沢姑射、久保天髄両氏との合著、『白露集
』なる文集に修められ、洛陽の紙価を高めたとの事でございます。後年、高須梅渓氏は美文について記した後、今から見ると、芸術味のあったのは、慿虚の美文のみで、他は言うに足りるものがなかった。(明治大正昭和文学講話)と評しております。
 さて和三郎は、英文科在籍中、翻訳にも筆を染め、雑誌「花の園生」に「賢夫人」を連載したのをはじめ、単行本として、新聲社から「英文評釈」、大日本図書から、アーヴィングの『スケッチブック』、ディッケンズの『クリスマスカロル』、ゴールドスミスの『ヴィカー物語』、英学新報社から、エドワーズ『奇々怪々』を出版しております。このうち特に、『スケッチブック』は、読者から歓迎を受け、大正年代までに、十八版を重ねました。次に同窓、戸村姑射氏と行動で、『沙翁全集』を企てまして、これは、我が国における最初のシェクスピアの完訳だとのことでございます。和三郎は「ヴェニスの商人」「御意のまま」「十二夜」を訳しております。又この時代に成ったものに『英文学史』がございます。米国文学史、英詩の種類及び、韻律法を加え、一千頁を超す大冊で当時頗る好評を以って迎えられ、類書が少なかっただけに、研究者に裨益するところがあったと思われます。
 さて大学を終えてから、海軍教授として、機関学校で英語を講じておりましたが、その間毎年位階も上がり、順風満帆の生活をしておりましたが、以下のような経緯から心霊研究の道に入りました。

(一)先の「吹雪」の発想がある種のインスピレーションによって成ったこと。
(二)恩師、小泉八雲先生が、怪談妖怪等日本の古いものに興味を示され、その影響を受けたと思われること。
(三)外国文学翻訳中、「スケッチブック」「クリスマスカロル」「奇々怪々」等で幽霊譚にふれた事。
(四)三男三郎が原因不明の発熱をおこし、それが行者の予言通りの日に治癒したこと。
(五)妻、多慶子が優れた霊能者であったこと(ずっと後になって判明したことですが)。
 かくして、大正十年三月、学士会館において心霊科学研究会の発会式を行いました。当時の各界の名士が多数参加して下さいました。間もなく、関東大震災に遭い、一時大阪に仮事務所を開きましたが、大正十四年再び、東京に事務所を置き、雑誌「心霊と人生」を刊行し、表紙のデザインも二男新樹に担当させました。
 昭和三年ロンドンにおける第三回世界神霊大会に日本代表として一名のみ選ばれ出席し、かつグロートリアン・ホールにて〝近代日本における神霊主義〟の題のもとに講演も致しました。英国での収穫はクリユーにおけるホープ氏の心霊写真撮影を自ら確かめた事でした。

 次いで、米国に亙りクランドン邸における物理実験会に加わり、物質化霊の指紋作製現象により、これを採取し持ち帰りました。(当方現存)
 これら欧米の事情をつぶさに体験し、死後個性の存続に確信を持つようになりました。(詳細は欧米心霊行脚録参照)
 帰幽後二男新樹の死にあい、悲しみのうちにも心霊研究家としてさらに探求を深め、妻多慶子を通じて霊界通信を開始し、これが後の小桜姫物語にもつながりました。この頃わが国にも漸く世界的霊媒が出現し、世間的にも心霊現象が認められるようになりました。
 このように心霊現象の科学的究明を終え、心霊科学とその基礎に立ったスピリチュアリズムの研究と普及に心血を注ぎ、日本思想に基づいた日本心霊主義を樹立し、その原理と実践の指導に邁進しておりましたが、昭和十二年二月帰幽いたしました。
 その後、兄浅野正恭、主幹脇長生先生が会を継承され発展に尽力くださいました。「心霊と人生」詩も五十一巻を数えました。
 本書出版に際しまして心霊研究家佐々木静先生、桑原啓善先生の御指導御協力を、また潮文社の小島正社長の絶大なるご尽力を賜りましたことを此処に深く感謝申し上げます。祖父和三郎に尊敬と思慕を捧げる孫浅野修一は、学生時代より二十年間にわたり、明治より昭和に至る著書全般、並びに参考資料を収集提供してくれました。
      昭和六十年四月
                                    秋山美智子(旧姓浅野)

 
                           完