『栞 紐』
1 あなたとは何か | 31 神界 |
2 なぜ生まれてきたのか | 32 病気は自分で治せる |
3 不幸の原因 | 33 再生 類魂 |
4 苦難の意味 | 34 未熟な魂の死の直後 実際の治療例 |
5 人の役にたつ働き | 35 アカシックレコード |
6 宗教とは | 36 始まりも終わりもない旅…その始まり |
7 感謝は神へ | 37 天体の霊的構成 |
8 霊的真理 | 38 地球の未来 |
9 霊媒の必要性 | 39 自然災害 |
10 宇宙創造の目的 | 40 邪と悪 |
11 地球浄化大作戦 | 41 認知症発症のメカニズム |
12 真理を知ったあなたへ | 42〝後なる者、先になること多し〟 |
13 ワアド氏の死後の世界 | 43 魂の永遠性 |
14 祈り | 44 動物の死後 |
15 心霊治療とは | 45 霊界人の仕事 |
16 心霊治療家 | 46 死の過程と意識について |
17 心霊治療家を目指して | 47 地上での最大の罪 |
18 愛とは | 48 視点・未来における生活 |
19 死の瞬間 1(臨終の様子/小桜姫物語) | 49 前世に存在する苦しみの原因 |
20 死の瞬間 2 (A・J・デービス) | 50 真の善行 |
21 死後の生活 | 51 地上の霊媒 |
22 死産児の死後 & 〝夭逝〟とは | 52 地球を卒業した人々の住む〝優れた世界〟とは |
23 自殺霊の苦しみ | 53 憑依の実態 |
24 イエス・キリスト イエスの御言葉 | 54 邪霊集団の影響 |
25 地獄の大都市 界層(邪淫の都市・物質慾の都市)他 | 55 地上の生体解剖学者の逝く死後の世界 |
26 因果律の法則 | 56 存在の原理 |
27 五感 | 57 家族の類魂 現世・死後・来世にまたがる進化向上の旅 |
28 地上で為すべきこと | 58 シルバーバーチの使命 |
29 幽界 | 59 SBが地上へ戻る理由! |
30 霊界 | 60 大 霊 |
それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みもたちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。
人間にはこの世で果たすべき仕事があります。霊的知識を摂取し、それを活力として、霊に宿された資質を自らの手で発揮することです。暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となることです。全てが陰気で暗く侘しく感じられるこの地上においてたった一人でいいのです、元気づけてあげることができれば、この世であなたは存在の目的を果たしたことになります。
霊の目をもって見る者は、民族・国家・気候・肌の色・宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つにつなぐ霊の絆をみて取ります。魂をより意義ある生活へ誘ってくれるもの、根本的に重要なのは、日常生活の生き方です。私たちが忠誠を捧げるのは、宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不滅の摂理であり、教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。
私たちの武器は真理と理性です。そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人たちの生活に、豊かさと美しさをもたらしてあげることです。霊はすべての存在物を形成する基本的素材であるがゆえに永続性があります。
「自分が元来不死の魂であり、それが一時の存在である土塊(つちくれ)に宿って自我を表現しているに過ぎないこと、心掛け一つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟ること。大切な原理です。」
あなた方人間は、あまりにも物質的観点からのみ人生を考えていることです。人間は霊であり、永遠に続くのです。霊に死はないのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。
■ 人生には目的があります。人間には個的存在としての自由意志が与えられています。運命全体としての枠組みは出来ております。その枠組みの中であなたが計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第です。
時には、悲劇、無念、苦悩、病苦という形をとり無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。
霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のない所に生命はありません。物質は殻にすぎません。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。その生命の背後の力をあなた方は〝神〟と呼び、私は〝大霊〟と呼びます。
■人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受できる資格を身につけるために、様々な体験を積むということです。体験を積めばそれ相当の教訓が身につきます。その体験とは、比較対照の中において悟っていくものです。
光明がありがたく思えるのは暗闇の中で苦しめばこそです。真に役立つ人間になるためには魂の最奥まで響く強烈な体験が無くてはなりません。人の役に立つ犠牲的生活によって魂が〝損〟をすることはありません。又、利己的生活によっていささかも〝得〟をすることもありません。
魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ〝ゲッセマネの園〟に生き、どれだけ〝変容の丘〟に達するかにあります。いずれにしても大切なことは人のために役立つことです。
人間は永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部だということです。時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。しかし、その観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。
霊性を悟ることは容易なことではありません。その道に近道はありません。王道はないのです。各自が自分で努力し自分で苦労しなくてはなりません。しかし同時にそれは昇るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。
あなた方が誕生するはるか以前から地球は存在し、あなた方が去ったのちも延々と存在し続けます。何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人いない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのお陰で石炭その他の、太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることができているのです。何と悠長な教訓でしょう。
地上人生はしょせんは一つの長い戦いであり、試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。すなわち動物的進化の段階の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。
恐怖心と不安の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。霊力が作用する通路を塞いでしまうから。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。人生は対照の中において悟っていくものです。
SB「しみじみと思い知らされていることは、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るということは最後はみな一人でやらねばならない──自らの力で〝ゲッセマネの園〟に踏み入り、そして〝変容の丘〟に登らねばならないのだということです。その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。」
■ 物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切なことがいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらすことが大切な仕事の一つです。それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝えること、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛まれる人々を癒してあげること、これはまさに慈悲の行為であり、いまこそ要請されていることです。
しかし、これもあくまで手段であって、そのことが目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらすことです。魂が目を覚まし、地上に生れてきた目的を理解し始めた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担ったことになります。そこにこそ私達が一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらすことの方が、病気を治し悩みを解消してあげることより大切です。それが神の目的を成就する所以だからです。そこまで至らない限り真に成功したことにはなりません。
全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就していることになります。それがこの世に生れてきた目的だからです。 (1-7章)
『人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きております。
摂理に順応した生き方=人の役に立つはたらきです。地上は学びの場、学校です。
「地上の人々が、今自分が住んでいる世界が唯一の世界だと思い込んでいます。こういう生活が人間生活だと思い込んで、せっせと物的財産を、いずれはあとに残していかねばならない地上的財宝をため込もうとしています」
☆宇宙には計画に沿った摂理(きまり)がある → 宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿っております。地球は地軸を中心に(※)自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しそうにさえずり、木々は風にたおやかに靡き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。
(※ 自転速度1666km/h 公転時速10万キロ 秒速30Km/h)
悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚な意味を持つものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるために、悲しみ、無念、病気、不幸など人間にとって教訓を学ぶための手段なのです。
今日の地上の不幸は、その大半が自由意志による選択を誤ったことに起因しています。人生のあらゆる悲劇や不幸には、必ず埋め合わせの原理が働いていることを忘れてはなりません。
不幸だと嘆き悲しんだ人生も死後の世界へ旅立てば己が計画したブループリントだったと気づきます。更に、地上では更なる苦痛の体験が魂の進化向上への必須条件と理解できます。それだけの苦痛を体験しなければ進化向上はあり得ないようです。神の計画された地球進化は遅々として進まず、天災等の荒療治が行われるのです。しかし、死は悲しみではないのですからこれを悟るには長い年月を要するようです。
──あなたの訓えの中には〝恐怖心〟を捨てるように説いておられるものが多いのですが、実際に爆弾が投下されているときにそれを要求するのは無理です。そういう状態では怖がって当然ではないでしょうか。
「おっしゃる通り当然でしょう。が、その状態こそ恐怖心を捨てる試金石でもあります。私たちがみなさんの前に掲げる理想がひじょうに到達困難なものが多いことは私も承知しております。私たちの要求することのすべてを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。
それには大変な奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。その潜在力を開発する方法を会得しさえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得しさえすれば、霊力の貯水池から吸み上げることが出きるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。」
「人間におこりうる最悪の不幸とは、別の世界へ罪に覆われた魂をもって移って行くことである。地上において、悪を働くよりも悪を受ける方が良いことであり、何よりも私たちは外見においてではなく、内面において善の人とならなければならないということである。」
☆彡
4 苦難の意味
苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安悦をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。
(1-℘134) 苦がすべてというわけではありません。人生の一部でしかありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難があることが進化の必須条件なのです。
──シルバーバーチの霊訓(8)三章℘72 から
摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」
──スピリティズムによる福音 28章℘493 から
一般に、なにかが私たちを苦しめている時、私たちにはその場でおきている悪しか見えず、その苦しみが未来においてもたらすであろう、好ましい結果までは目に入りません。善とは多くの場合、過去における悪のたまものであり、それは痛ましい手当を経た結果、病気が快復するのと同じです。どのような場合でも、耐えた苦しみが自分のためになるようにしたいのであれば、神の意思に従って、人生の苦難に勇気をもって立ち向かわなければなりません。そうすれば、私たちに「苦しむ者は幸いです」というキリストの言葉があてはめられることになるでしょう(第五章 十八)。
★★
人間の心情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものがないことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い量見からでるわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってそれが最上であり必須のものであるわけです。
もし、悲しむことがないとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。 イエス・キリスト
人生において、自分が役に立つほど大きな喜びはありません。地上は闇ばかりで、数えきれない人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ますたびに今日はどうなるだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることができたら、あなたはこの世に生を享けた目的を達成したことになります。
こうした仕事のために神の使節として遣わされ、地上の子等の魂を解放し、大自然の摂理の存在を証すための仕事をしている私たちは幸せと思わなくてはいけません。現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置きかえ、虐待を憐憫に置きかえることができた時、あるいは協調と親善の生き方を身をもって示した時、その時初めて地上の全ての存在の間に真の平和が訪れます。
道に迷ってあなた方のもとを訪ねてくる人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となることほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義のお説教ばかりで霊力の一かけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院よりもはるかに意義ある存在です。
病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶え苦しむ人、希望を失った人、寄る辺ない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立ちたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、マヒした関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうすることによって霊的真実に目覚めさせることになるでしょう。
地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。
その意味では〝お気の毒に…〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。
そうした叡智を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。霊性の開発は茨の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい思い出の道標を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。
私たちの仕事は必ず一個の人間から始めます。人類全体も個が集まって構成されているからです。
いったい宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も、豪華な衣装も式服も不要です。
宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。人のために尽くすことが宗教の全てなのです。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者と言った、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いケースがいくらでもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をしてきたかです。
宗教とは『儀式を超えたところに確信があり』その核心は『他人のために自分を役立てること』、シルバーバーチは宗教とは互いに扶助し合うことに尽きると言う。その言葉の一つ一つがダイヤモンドの輝きに似たものがある。
私たちにとってスピリチュアリズムは、宇宙の自然法則そのものなのです。これを体系化して幾つかの信条とすべきものではありません。
それがさらに、受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。ところが残念なことに、そのささやかな真理が*人間的不純物の下に埋もれてしまいました。(*人間的不純物=世俗的信仰や神学的ドグマ・宗教的慣習・伝承的習俗など)
地上の宗教は人間的欲望というアカがこびりついて宗教としての本来の意義を失ってしまっている。そこでそのアカを洗い落とし、本来の神の摂理を改めて説き明かすのが自分たち霊団の使命だというのです。
──SB霊訓④9章℘216 宗教の本質と子供の宗教教育の在り方、から──
SB「宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とはほとんど何の関係もありません。人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と神とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを大きくするものでなければなりません。自分一人の世界に閉じこもらずに広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。
そのほかのこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで長いあいだ後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが空虚で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵(みじん)も助長していないからです。魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人のために自分を忘れているうちに魂がその大きさと力を増すものだからです。
地上には、これまであまりに永いあいだ、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教がもっとも大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を一インチたりとも増しておりません。逆にいたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族観にも無用の対立関係を産みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかりを行ってきました。神の子等を一つに結び付けることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです」──
既成宗教に籍を置く者はいずれ、これまでに犯した過ちの全てに責任を取らねばならない日がやってまいります。摂理を免れる方法はありません。神の目はごまかせないのです。
ある日の交霊会で
願わくは神の祝福のあらんことを。願わくは神の御光があなた方の行く手を照らし給い、神の愛があなた方の心を満たし給い、その力を得て、代わってあなた方がこれまで以上に同胞のために献身されんことを、切に祈ります。
これに対してシルバーバーチへお礼を言おうとすると
私に礼を言うのはやめてください。私は〝神の真理〟を地上界へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。自分がお役に立っていることを光栄に思っているのです。もしも私の努力が成功すれば、それは私がみずから課した使命が成功しているに過ぎない。私は代弁者(マウスピース)にすぎないのです。感謝は私にチャンスを与えてくださった神へささげてください。
とお礼は絶対に受け取りません。
動機が純粋であれば、どんなことをしても決して被害を被ることはない。もう一つは人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるということ。
(1-℘97)霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。霊的真理を一つでも多く理解していくことが霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。
霊的真理を理解すれば、人類が抱える全ての問題を解くカギを手にしたことを意味する。
『一体自分とは何なのか、宇宙とは何なのか、そして全てを創造した大霊とは何なのか! についての理解に必要な摂理と実在について』現段階の人類に理解できるレベルのカギを与えてくれる。
『真理は閉ざされた心には入ることができません』受け入れる用意のできた人の心にだけ居場所を見つけることができます。真理は、大霊と同じく、無限に存在します。このうちのどれだけを手にするかは、各自の受容能力によって決まります。
☆ 地上世界は暗黒に満ちております。人生に疲れ、生きる意欲を失い困惑している人々、慰めの一言、一片の真理を渇望している人々が大勢います。あなた方による援助を必要としています。そういう人々のために、あなた方は一刻を惜しんで真理普及のために努力すべきです。その霊的真理こそが、その人たちにとって人生を立て直す盤石の土台となることでしょう。
霊的真理の要は、人間は〝霊的存在〟なのです。地上へは死後の生活のために学びに来ているのです。やり直すチャンスはいくらでもあります。
霊的力学(顕と幽にまたがる普遍的な原理)=善なるオーラと悪なるオーラが衝突して、その衝撃が悪に苦痛を与える。
霊力は人間側から勝手に操ることもできません。個人としてのあなた方にできることは、その霊力の流れる一個の場としてできるだけ純粋であるよう心がけ、できるだけ多くの霊力が顕現されるようにする──つまり人のために役立つようになることです。
《霊的能力について、能力はいろいろあっても、すべては同じ霊力の顕現したものである。
その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心がけましょう。
いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間すこしずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてまいりました。
今のあなたに宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年かかったことでしょう。しかしまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年かけることになるでしょうか。
かつてあなたは猿でした。猿そのものだったという意味ではありません。猿という種を通じて顕現した時代もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところに大霊の息吹があります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり下等な段階から高等な段階へと変異があるということです。
大霊の一部である意識が千変万化の形態を通じて絶え間なく顕現していくことです。それに私はぜひ次の考えを付け加えたいと思います。それは、人間を創造の大事業と切り離す、あるいは縁のない存在として考えてはならないということです。
なぜなら、人間もその創造活動に参加しているからです。創造的エネルギーが人間を通じて働いているのです。あなたの人生、あなたの努力、あなたの葛藤が、無限の創造活動に貢献するということです。
一つひとつの生命がそれなりの貢献をしています。その生命が高級になればなるほど、つまり愛他性を増し排他性を減らすにつれて、変化に富む創造の世界に美しさを加えています。
画家や音楽家や詩人だけが美の貢献をするのではありません。あらゆる生命が──そのつもりになれば──美をもたらすことができるのです」。
11 始まった地球浄化大作戦
スピリチュアリズムというのは=暗黒時代に失われた人類の霊性を取り戻すための地球規模の大事業である。また、地球人類に降りかからんとしている苦難が余りに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭保を築かなければ、人類みずからが人類を、そして地球そのものを破滅に陥れることになるからです。
唯一これまでの啓示と異なるところは、入念な計画に従って組織的な努力が始められたということです。それが地球の年代で言えば十九世紀半ばのことでした。今度こそは何としても霊的知識を地球に根づかせ、いかなる勢力をもってしても妨げることができない態勢にしようということになったのです。
《イムペレーターの霊言》
A・J・デービスは1848年(フォックス家事件)の二年前に出版した本『1847年出版 Princiesples of Nature (大自然の摂理) には』霊界の活動がいよいよ地球へ向けて開始される。 と記されている。
1848・3/31つけメモには、《今朝の日の出ごろ、寝ている私の顔の上を温かい息が吹き抜けた。そして優しく、しかし力強い声で「友よ、いよいよ仕事が開始された。見よ、生きた証拠が生まれようとしている」と言った。いったい何のことだろうと、一人考えていた》。
《フォックス家事件》
1848・3/31 アメリカ ニューヨーク州 ハイズヴィル事件 (妹マーガレット、姉キャサリン/愛称ケート) 行商人CR(チャールズ・ロズマ)
問「地球の人間より進化した人類が住む天体が他にありますか?」
SB「あなた方よりはるかに進化した人類の住む天体はいくらでもあります。地球という惑星は広大な宇宙の中の無数の惑星の一つにすぎません。しかも地球より程度の低い惑星はたった一つしかありません」
あなた方はいったい何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静に穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。
そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳を持つ者のみが神の御声を聞くことができるのです。霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神のご加護があることを一片の疑いもなく信じることができなければいけません。苦難にも悲しみにも挫けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。
知識を獲得した者は、それを他人のために使用する義務があるということです。霊的能力を開発した人は、それを他人への奉仕のために使用する義務があります。それが自分の魂の向上へつながるのです。他人への無関心、無頓着、無神経を無くし、優しさと慈悲と同情と奉仕の精神を広めなくてはいけません。
魂が目覚めた人は他人の苦しみに無関心ではいられないはずです。同胞の痛みを自分の痛みとして感じ、同胞の悲しみを自分の悲しみとして感じるものです。
この地上に意識を持った生物が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日のような組織体を具えるにいたるのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。
全能なる神に身を捧げ神の道具として働きませんか! 地上に誕生した目的を果たしましょう。
「来世の存在を確信せずして地上生活の本当の幸せはあり得ない」 スタッダート・ケネディ
生まれた目的
「暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。」
知識を手にした者は未熟な者に教え広める責任が生じる
(Big bang 138億年前、地球誕生46億年前、原人(ネアンデルタール人)30~20万年前、新人(ホモサピエンス)3万年前、縄文時代2~1万年前)
13 ワアド氏の死後の世界
ワアド氏が試みたる死後の世界の探検を紹介する前に、これにつきての概念をまずここに紹介して置くことが適当かと存じます。死後の世界と申しましてもそれは極めて概括的な名称で、その内容は千差万別、とても人智の究極し得る限りではないようです。人間が自分の居住する地球表面の物質世界をどうやら探究し得たのも最近のことに属します。況(いわん)や現肉体をもってしては到底接触すべくもあらぬ無限に広くかつ深い死後の世界──それがどうして奥の奥まで探求することができましょう。従来試みられる霊界談なるものは、一番優秀なところで、ホンの霊界の入口に立ってその内部の匂いを嗅いだだけです。ワアド氏のは中々そんなものではなく、まっしぐらにその内部に突入して縦横無尽に駆けまわって歩いているであります。
ワアド氏の探検し得たのは死後の世界の中で第七界と第六界とだけです。氏は第七界をアストラル・ブレエン(幽界)と呼び、第六界をスピリット・ブレエン(霊界)と呼んでおります。第六界の奥(もしくは上)には更に第五界第四界・・・・・・第一界まで存在するものと信じられておりますが、第五界以上にはワアド氏の探検の手は殆ど届いておりません。
さてワアド氏の研究に従えば第七界第六界ともその内部は幾階段にも分かれます。第七界すなわち幽界というのはあるいは地界と言ってもよく、つまり地上の人間界までも含める物質並びに半物質の世界の総称で、そこの居住するものの特色は悉く一つの幽体(アストラル・ボディ)をもっていることであります。人間にも勿論幽体がある。右の幽体は死の瞬間に於いて肉体と分離しますが、地上を距(さ)ること遠ければ遠きに従いて、ますます精錬され、浄化されて行き、最後に物質的には消え去るのであります。幽界全体はすべて時空の司配を受け、一定の場所もあるようですが、しかし地上の物質界の規則通りのみにも行かないようであります。
ワアド氏は幽界を七つの境に分けております。即ち、
一、暗黒境(地殻の極内部で、地獄に落ちる霊魂の控所)。
二、薄明境(地殻のすぐ内部で凶悪なる霊魂の落ち行く所)。
五、執着境(地上の習慣が抜けきれざる霊魂のとどまる世界)。
六、超執着境(食物、睡眠等の地上の習慣を放棄せる霊魂の居住地)
七、大成境(第六界、すなわち霊界に進むべき霊魂の居住地にしてその幽体は甚だ希薄となる)。
次に第六界すなわち霊界というのは幽界を通過したるもの、いわば幽界の過程を卒業したる霊魂が入りゆく世界で、善霊にしろ悪霊にしろみなその幽体を失っております。その特質をあげれば
一、物質が全然消失していること。
二、空間が全く存在せぬこと。
等であります。即ち霊界は場所の名称ではなくして寧ろ状態の名称であります。ですから霊界に入るということは場所からいえば同一場所にいるかもしれないのです。霊界に在りては思想がすべてであります。思想それ自身が形態を成して各自の眼に映ずるのであります。物質世界に在りては思想と形態との間に相当の距離があります。例えば甲の作った思想が乙という彫刻家によって一つの肖像と化するまでには、相当の時間労力を要し、加之(しかのみならず)思想と実物との間に多少の相違が生ぜぬとも限りますまい。霊界に在りては思想即ち形態であり、実物であるのです。ワアド氏の探究によれば霊界は左の四つの境に分たれております。即ち
一、信仰と実務とを合一せる境。
二、信仰有りて実務の伴わざる境。
三、半信仰の境。
四、無信仰の境──地獄。
祈りは「人のために」という動機。自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りはすべて無視されるがよろしい。
シルバーバーチの祈り
──太陽のかがやきはあなたの微笑
人生には個人としての生活、家族の一員としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応したり逆らったりしながら生きています。逆らえば、暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。 順応した生活を送れば、叡智と知識と理解力と、真実と正義と公正と平和がもたらされます。 |
繰り返しますが、どんな優秀な治療家でも治せない患者がおられます。霊的真理などを受け入れる時期に到達していない。魂がそれを受けるに価する段階に到達していない方です。
地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治癒は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。
心霊治療は無料の理由
スピリティズムは霊魂や霊媒性といった目に見えない世界を扱うために、モーゼの時代からそうであったように、人はそれを誤って用いる危険性を多くはらんでいます。しかし、スピリティズムの教義では、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ第十章 8)」(→第二十六章)という教えによって、人と神との関わりにおいて、物質的な対価のやり取りはすべきでないとしています。
16 心霊治療家
魂に霊的悟りをもたらせることこそ心霊治療の神髄です。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動も覚えなかったらその治療は失敗したことになります。霊的自覚を促すことになったら成功したことになります。これが心霊治療の隠れた目的です。
治療を通じて霊的真理に目覚めさせることができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかったことになります。霊力は無限です。尽きることがないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。
但し、霊的治療は魂がそれを受けるに価する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに優れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。
当ホームページ「治療例」No41 「本物の人のためになる働き」=心霊治療の凄さを体験した(患者談)。
治療家は治療に際し、「まず気持ちを落ち着かせ、受け身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。そして私を通じて何とぞ最高で純粋な治癒力が流れますようにと祈る」
かくして霊性が本来の優位を確保してゆくにしたがって霊的叡知、霊的理解、霊的平穏、霊的自信、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真のつながりを自覚するようになります。霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟ります。
ですが、喜んでください。 あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。あなた方も決して患者を断るようなことをしてはいけません。霊格が高いことを示す一番の証明は、人を選り好みしないということです。これが高級神霊界の鉄則なのです。
☆中国の古い言葉に「聡明叡智、これを守るに愚をもってす」というのがありますが、バーバネルやテスター氏のように寡欲で謙虚であることが霊能者としての第一条件なのでしょう。
☆治療家は、自分が受けたものを伝達する機関にすぎません。その人を通って霊力が流れるということです。いわば〝通路〟であり、それも、内部へ向けてではなく外部へ向けて送る通路です。その人の資質・才能・能力がその人なりの形で顕現しますが、それが霊界との中継役、つまり霊媒としての資格となり、生命力と賦活力と持久力のあふれた健康エネルギーを地上へもたらす役目がはたせるのです。
その際、治療家自身の健康に欠陥があるということ自体は、治療能力の障害にはなりません。治療エネルギーは霊的なものであり、欠陥は身体的なものだからです。(不滅の真理℘241)
☆地上の人間が必死にある者(霊界人)の名を呼べばそれは必ずその者に届きます。
17 心霊治療家を目指して
心霊治療エネルギーの霊力が如何に強力で偉大であるかを理解することは難しいでしょう。治療家はひたすら人の役に立つことを心がける他にはないのです。あなたを通して働いている霊力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じエネルギーです。
地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。その計画の中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治療は計画的なものであって、決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にあることに目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。
1-℘32
人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
インペレーターの霊訓℘147~148参照。
愛は大きさを測ることができません。重さを測ることもできません。いかなる器具をもってしても分析することはできません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。
(しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です)生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言〝愛は死を乗り超える〟を改めて宣言することができるのも、この愛あればこそです。
あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。
昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。
心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなることでしょう。
なぜなら、あなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えて来た能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当たる霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切ることはありません。
宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅かしか感識しておりません。
受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏やかさと落着きを身につけなければなりません。
そうしたものによって醸し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大な豊かさを受けることができます。それが神の摂理なのです。そういう仕組みになっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるということです。
受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけのことです。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込むことでしょう。
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全宇宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。
愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
あなた方にとって死は確かに恐るべきことでしょう。が、私たち霊界の者にとっては、ある意味喜ぶべき出来事なのです。赤ちゃんが誕生すればあなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらでは大喜びでお迎えしています。
人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、時間には本来過去も未来もないのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることが今現在において知ることができます。もっとも、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味を持つかは、これはまた別の問題です。
☆ ☆
浅野和三郎著(小桜姫物語)から
その時はよくよく臨終が迫っておりまして、母の魂はその肉体から半分出たり入ったりしている最中でございました。人間の目には、人の臨終というものは、ただ衰弱した一つの肉体に起こる、あの悲惨な光景(ありさま)しか映りませぬが、私にはその他にいろいろに光景が見えるのでございます。
人間の霊魂というものは、全然肉体と同じような形態をして肉体から離れるのでございます。それは白っぽい、幾分ふわふわしたもので、普通は裸でございます。それが肉体の真上の空中に、同じ姿勢で横臥している光景は、決してあまり見良いものではございませぬ。
☆ ☆
人間の世界では哀悼の意を表していても、本人は新しいよろこび、そして地上で発揮できずに終わった内部の霊性を発揮するチャンスに満ちた世界での生活が始まったことを知って喜んでいます。
( A・J・デービス 世界心霊法典 スピリチュアリズムの真髄)から
「患者は60歳くらいの女性で、亡くなられる八か月前に私のところへ診察のために来られた。やがて死を迎えると確信して、そのための適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。
もはや肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が同時に各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しようとしているかにみえる。すなわち筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚(センセーション)を保持しようとし、脳組織は知性(インテリジェンス)を保持しようと懸命になる。
つまり肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死の抵抗を試みるのである。その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる。が私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応にすぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。
やがて頭部が急に何やらきめ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。
続いて驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてきめの細かい発光性の霊気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を表し始めたのである。念のために言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることはできない。
肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いているために、私はその中身まで透視することもできないし、じっと見つめていることすらできなくなった。
この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。
すなわち肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであってこれが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。表現しようのない驚きと、天上的とでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現のときとまったく同じ要領で次々と出現し、きれいな形を整えていった。
そして、肉体にあった欠陥や奇形が、新しくできた霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官がすべての創造物に共通した性向にしたがってその在るべき本来の姿に立ち返るのだ。
一方、患者である老婦人の最期を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかしそれは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜けていくときの”反応”にすぎないのであった。
霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部のあたりに垂直に立った。これで六十有余年の長きに亙って続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足先と肉体の頭部とが一本の電機性のコードによって結ばれているのが映った。
明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだと。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似あった才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。又思った。
母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象と全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。
コードはなおも二つの身体をしっかりとつないでいた。そして切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐためであった。その意味で死体は、完全に腐敗が始まるまでは埋葬すべきではない。
たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体とつながっているからである。事実完全に死んだと思われていた人が数時間、あるいは数日後に生き返って、その間の霊界旅行の話をした例があるのである。
かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ眼をやると、さっそく霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとする様子が見えた。
はじめは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ちよさそうに吸収するようになった。よく見ると霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、そのほか、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。
何と素晴らしいことか、決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまったわけではない。
最も私は彼女の霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全過程を終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者たちのとめどない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。
一目見て彼女は家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今生きている霊的事実を知らないからだ、と理解した。人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。
もしあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることができれば、あなたのすぐ目の前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へ生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。
以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。
もっともこれがすべての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素になれてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降りたって、病める肉体と共に数週間過ごしたその寝室のドアから出ていった。夏のことなので、すべてのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出ていくことができた。
寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことができるのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。
あたかもいつも上る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間私は普段の自分に戻っていた。戻ってみて驚いた。こちらは又なんという違いであろう。美しく若い霊姿とは打って変わって、生命の灯の消えた、冷え切った亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。」 (The Physician)
死期を迎えた者が横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かに喜び、やさしく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びるときは、天国に霊魂が誕生するときだからである」 (The Physician)
* * * * * * * * * * * * *
──ワアド氏の死の瞬間──
これは二月十四日に出た自動書記で、霊界から見た人間の臨終の光景が実によく描かれて居ります。通信者は例の叔父さんの L の霊魂であります。──
『寝台の上には七十歳ばかりと思われる一人の老人が臥せっている。その人の身分は牧師じゃ。すると私の守護神が説明してくださる。──
「彼は忠実なる道の奉仕者である。彼が死後直ちに導かるるは信仰と実務との合一せる、霊界最高の境涯である。彼はローマ正教の牧師としてこの教区を預かっている身分である・・・・・・。」
『ふと気がつくと室内にはたちまち美しき霊魂達が充ち充ちて来た。それが後から後から増えて行くので、しまいには部屋に入りきれず、庭園へまでも溢れ出た。
『どんな人達でございます?』 私はびっくりして尋ねた。
「何れもこの者に救われた善良なる霊魂(みたま)達である」と私の守護神が答えてくださる。「それなる婦人、彼女は一旦堕落しかけたのであるが、この者の導きによりて真の途に戻ることができた。あれなる愚昧(ぐまい)の少年、彼は一旦地獄に落ちたのをこの者の為に救い出された。あれなる父親、彼は今一と息で、己の娘を娼婦の群れに追いやるところであったのを、この者が娘を尼寺に連れて行ってくれたばかりに心が和らいだ。今では父子二人とも霊界の最高境に達して楽しい月日を送っている。これらの霊魂達が皆打ち連れて、父であり又友であるこの者を迎えるべく出て参ったのじゃ。」
『そう守護神が説明して下すっている最中に、これらの霊魂達よりも一段優れて美(うる)はしく光輝く何者かが室内に現れた。
「跪いて!」と守護神が私に教えてくださる。
『私は跪くと同時に部屋に溢れた霊魂達も悉く拝跪(はいき)の禮をとった。
「何方でございます?」と私が小声に尋ねる。
「この御方がこの教区の眞の司配者の天使であらせられる。わざわざお迎えの為にお出ましになられたのじゃ。気をつけて見るがよい。」
『すると、極めて静かに牧師の驅から一条の光線が抜け出た。頭部の辺が一番よく光る。色は金色に近いが、ただ幾分青みを帯びている。そうする中に右の光は次第次第に凝集して、頭となり、肩となり、いつしか一個の光明体が肉の覆いの中から抜け出した。最初はうっすりしていたが、やがて輪郭がくっきりして来た。同時に幾百とも知れぬ満座の霊魂達の口から歓喜の声が溢れた。
『すると老牧師は一同に向かってにっこりしたが、イヤその笑顔の晴々しさ! 驅全体が笑み輝くかと疑われた。老牧師の霊魂は寝台の傍に看護の労を執りつつあった地上の人達に向かっても同様に笑顔を見せてその幸福を祈るのであった。
『やがて驅と霊魂(みたま)とをつなぐ焔の紐は次第に延びて、遂にプッツリ! と切れてしまった。同時に看護の人達はワッとばかりに泣き崩れたが、その泣声は霊魂達の群れからドッと破裂する歓びの歌にかき消されてしまった。と、お迎えの天使は老牧師の手を執って言われた。──
「汝いみじきものよ、汝はよくも地上の憐れなるものの為に尽くした。余は汝に向かって汝が生前救済の手を伸べたるすべてのものの司配を委ねるであろう。」
『言えも了(おわ)らず、又も満座の霊魂の群れから起こった歓呼喝采! その響きは未だに私の耳に残っている。
SB「地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。こちらへこられるまでは本当の実体感は味わっておられません」
地上のように比較対象というものがありません。程度の低い者と高い者とがいっしょに暮らすということがありません。地上では精神的並びに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそういうことはありません。同じレベルの霊同士の生活が営まれます。
とにかく私たちの世界には光と闇といった対照がなく、したがって影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解ができております。そうでなかったらその界層にはおれません。その界層に至るまでは光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。
たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその〝全体像〟見ることができれば、地上では見られない美しさを鑑賞できます。霊眼には全ての物の内側と外側とが見えるのです。内側には地上のような外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。そして物的感覚では理解できない霊的な実体感を有しております。
私たちは地球の引力の作用を受けません。また永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度にふさわしい美しさも開発されます。こちらは創造進化の世界です。そこに生活する者自らが創造していく世界です。
その〝知的牢獄〟がどうして起こるのか詳しくは『シルバーバーチのスピリチュアルな法則/六章・完全なる因果律』(当ホームページ掲載)。その主なる一部は下記に掲載しております。
(シルバーバーチのスピリチュアルな法則℘132)
☆ ☆ ☆
死後いずれは住まうことになっている霊的な世界がどうなっているかを理解するにあたって、心得ておくべきことを、シルバーバーチの言葉から引用しておくと────
『あなたは死後に赴く次の世界に今も立派に存在しているのです。バイブレーションの次元が違うに過ぎません。死ぬことで霊的存在になるのではありません。死んだからといって、あなたの霊格が一ミリたりとも増えるわけではありません。
これまでの地上界の寿命を生きてきた、その生き方と、その結果として発達した意識レベルが、今のあなたの幽体がどの次元で機能しているかを決定付けます。死後に目覚める階層のバイブレーションについてもこの原則が当てはまります』
その階層について、シルバーバーチはこう述べています────
『互いに混ざり合っています。空間に充満している無線電信のバイブレーションと同じです。さまざまな波長があり、さまざまなバイブレーションがあります。が、その全てが同時に同じ空間を占めているのです。
『こちらの世界では、各自の霊性の成長度にふさわしい階層、つまりは、環境との調和が最もしっくりくる階層に落ち着きます。知的・道徳的・霊的成長度が自動的にそこに落ち着かせるのです。他の階層との違いは、そこに住まう霊の質の違いです。
霊的に高い次元にいる人ほど、質的に高いということです。他人への思いやりが強いほど、慈悲心が大きいほど、自己犠牲の意識が高いほど、地上界にあっても意識的に高い界層に生きていることになります』
物理的に言えば、今支配している身体のバイブレーションのレベルが向上するにつれて見た目には物的でも質的に徐々に物質性が衰え、やがて消えてなくなり(死滅し)、次の進化の段階へと進みます。かくして精神(魂)の内部での意識が発達するにつれて大霊(神)に近づくことになるわけです。
☆──
あなた方はまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に表れる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたには分かっていただけません。
肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
人間にとって死は恐怖の際たるもののようです。が、実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から観れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。 (古代霊は語る℘167 第五章 死後の世界)
死後の世界 SB霊訓12ー2章から
(2)人間が〝死〟と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。
(3)宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があるということです。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないということになります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線というものは存在しません。国境というものはありません。死んで行った人も相変わらず同じこの宇宙で生き続けているのです。
ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活しているというだけです。霊も、あなたの目には見えなくても同じ地上にいると考えてもよいのです。それはちょうど、あなたもご自分では気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えてもよいのと同じです。
(4)あなたは物質の世界に生きているために、とかく生命活動を物的なものとして考えがちです。しかし生命の本質は物的なものではありません。生命の基盤は非物質的なものです。物質をいくら分析しても生命の起源は見つかりません。あなたという存在は物質ではありません。身体は物質でできています。しかし本当のあなたは、触れることも見ることも感知することも聴くこともできません。真実のあなたは〝霊〟なのです。
(5)あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、〝死〟の過程をへて肉体と永遠に訣別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に惨めに見られることもありません。地上生活によって形成された性格をそっくり携えて行くのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。
(6)死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。
(7)霊界へ来て何年になるとか、地上で何歳の時に死んだといったことは何の関係もありません。すべては霊性の発達程度によって決まることです。そこが地上世界と霊界との大きな違いです。地上ではみんなが同じ平面上で生活し、精神的にもまったく異なる人々と交りますが、こちらへ来ると、あなたが交わる相手は霊的に同質・同等の人ばかりです。立派な音楽家の曲が聞けないという意味ではなく、生活の範囲がほぼ同等の霊格の者に限られるということです。そこには親和力の法則という絶対に狂うことのない法則が働いております。
(8)人間は物的身体という牢の中で生活しています。その牢には小さな隙き間が五つあるだけです。それが五感です。皆さんはその身体のまわりで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅いだもの以外の存在は確認できません。ですが実際にはその身体のまわりで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないというに過ぎません。
(9)こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐かしい環境──我が家・仕事場など──をうろつきます。そして大ていは自分がいわゆる〝死者〟であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気付いてくれないこと、物体に触っても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。
(11)死後の環境は地上時代の魂の成長度によって決まります。たとえば霊の世界では行きたいと思うだけでその場へ行けますが、その行動範囲にはおのずと霊格による限界があります。
☆彡──
死後の生活が永遠ならば何をして時間を過ごすのでしょう。
あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが死の過程を経て肉体と永遠に決別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に見られることもない。
地上で形成された性格をそっくり携えていくのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。 しかし、永遠にここに留まるのではありません。本人の魂の進化によって魂が望めば果てしない進化の旅が始まるのです。
────☆彡 ☆
日常の行為の一つ、言葉の一つにも気を付けなくてはいけません。神経質になるのではなく、常に人の為を思いやる習慣を身につけることです。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要なことで、それが衣服に明るさを、そして身体に光暉を与えるのです。
(ベールの彼方の生活1-℘170)
ここで生活している子供はみな死産児で、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。僅かニ、三分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違うそれ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子供より速い。まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。
2-℘191 こうした子供たちは原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を経たもの、あるいは苦難を味わった子供に比べて、体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。 |
(中略)
「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持ちが良く判るのです。私も感激の涙に浸ったものです。」死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。
(中略)
子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。地上生活が長ければ長いほど、こちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることには変わりありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。
もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づくときは守護に当たる方が付いております。死産児には地上の経験がまるでないので、地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。
ともかく全てがうまく出来上がっております。
(中略) ℘149
しばらく行くと噴水があり、周りの池に流れ落ちていきます。やがて池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら、下の平地へ滝となって落ちていきますが、その川のあちこちで子供たちが水浴びをして、しきりに自分の体に水をかけております。
すると案内の方から、あの子供たちは死産児としてきたので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補給し体力を増強する必要があるというのです。でも案内の方が『別に何の不思議でもないでしょう。ご存知のように、私たちの身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。
又、現在の私たちの身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映していることもご存知のはずです。その点あの子供たちの大半がやっと成長し始めたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが・・・・・・』
多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ていることに驚くはずです。
✲ ✲ ✲
シルバーバーチの霊訓から〝夭逝〟について
私が述べることを信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです。
希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまうことは悲劇である、とあなたたちはいうでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望のことを言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界でものごとをとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方がいうその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。それが苦しみに溢れたものでなかったと、どうして言いきることが出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。
23 自殺霊の苦しみ
死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃げたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分に付きまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま、何十年も何百年も苦しむ者がいる。
自殺者は、刑期を終えることなく、牢から抜け出した囚人のようなものです。再び捕らえられた時には、より厳しく罰せられます。現世の惨めさから逃れようと決断し、より大きな不幸にはまってしまう自殺者にも、同じことが当てはまります
2020・8/5 掲示板 雑記
私の仕事仲間が亡くなったのはもう二十年も前のことだった。突っ張り根性丸出しだった。「壁にぶちあたれば死ねばいい」、それで一巻の終わりよ、それが彼の口癖だった。死は彼にとってすべてお終いになるはずだった。──と、ある昼下がり、突然、彼の自殺現場が見えた。部屋は彼の自室。
死後、こう叫んだ『何だ、死んでないじゃないか』、思い出の詰まった彼の部屋から妻と子供たちを残し暗闇の中へ逃げるように走り去った。その後何度か声をかけたが応えてくれなかった。
SB霊訓(9)12章 自殺について二つの投書 から
《大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。
しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの憶病心から出た自殺とはまったく違ってきます。
いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。》
──スピリティズムによる福音℘111から
●人生を短縮することが、期待する結果とは全く反対の結果を生むという確信。
●自分を死に追いやれば、より早く天国へ行けると考えることが誤っているという確信。
私は霊力の証を見た M・H テスター著
第十三章 自殺者や夭折した子はどうなるのか
あなたの人生の長さ──寿命──は、あなたが地上へ再生する時点においてすでに分かっている。教育と同じで、学校を選んだ時点で、その学校の入学と卒業の時期があらかじめ定まっている。もしも寿命が来ないうちに切り上げたら、その分の埋めあわせにもう一度戻ってこないといけない。
教育のたとえで言えば、健康か何かの理由で長期欠席したとしよう。学ばねばならないことがたくさん残っている。そのままでは卒業させてもらえない。そこで欠席した分だけ期間を改めて学校へ通わなければならない。
自殺するのに勇気は要らない。自殺は実は臆病者のとる手段である。挫けず生き通すことこそ勇気がいるのである。しかも自殺は何の解決にもならない。霊界へ戻ってみると、地上でやることにしていた仕事が残っていることを知る。多分あなたが選んだコースは少しあなたには負担が大きすぎたのかもしれない。が、それをあなたが自分で選んだのである。選んだ以上、あくまでやり通すべきだった。
あなたはそれから逃避した。そのままでは霊的進化は達成されない。達成するには残してきた仕事をやり遂げねばならない。と言って肉体はすでに無い。埋葬されて腐敗したかもしれないし焼却されたかもしれない。
あなたは指導霊と相談する。その結果もうあと二、三年で必要な体験が得られると判断する。そこで今度は夭折する運命のコースを選ぶ。
これで死が罰でもなく、また全てを解決するものでもないことがお分かりであろう。もう一つ次元の違う世界へ行くだけの話である。学校を卒業して大人の世界へ入る。その卒業式のようなもので、あなたもいずれは死という卒業式を迎えて、より大きな人生へと進まねばならない。
地上であれ霊界であれ、苦しみの真っ最中の魂は自分が犯した罪の償いをしているのだから、その苦しみはやがて終わることが理解できます。永遠に苦しむことなどあり得ないのです。希望をもって明日へ向かえばやがて光明の灯りが必ず視えるのです。
過ちを犯したら改めればいいのです。魂は永遠です。進化の旅も永遠に続きます。神の愛も永遠に私たちを導き決して一人ぼっちにさせないようです。
24 イエス・キリスト イエスの御言葉
ほぼ二千年前にイエスは磔刑にされました。当時の司祭たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して、霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子にふさわしい人物だったからにほかなりません。このままでは自分たちの立場が危ないと思ったのです。
そのイエスは今、イースターとクリスマスとほぼ同じ時期に霊界で開かれる指導霊ばかりの会議を主催しているという。〝スピリチュアリズム〟の名のもとに進められている現代の啓示と人類の霊的覚醒事業の中心的指導霊が、かつて地上で〝ナザレのイエス〟と呼ばれた人物だということである。(詳しくは〝イエスの少年時代・イエスの青年時代・イエスの弟子たち〟)を参照されたい。
『ナザレ人イエスにとって中途の界層での生活は必要ではなかった。彼は一気に創造主と一体となった。彼は地上に生きながらすでに神だった──全宇宙をその意識、その愛に包摂するだけの霊力を具えていたのである』
「汝の敵を愛し、汝を憎む者に善を施し、汝を呪う者に祝福を与え、汝を辱める者のために祈れ」
新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信している。そう信じて初めて(マタイ伝の最後にでている)
〝蒔いた種は自分で刈り取らねばならない〟
〝汝らも神なり、汝らすべてが神の子なり〟
〝父の家には住処多し〟
〝真理は求めるものには必ず与えられる〟
〝汝の欲するところ人に施せ〟
〝自分を愛するように隣人を愛しなさい〟〝自分にしてほしいと思うことを他人に行う〟
〝私の父の家には多くのすみかがあります〟
「人、その友のために己を棄つる、これに優る愛は無し」(ヨハネ15・13)
「奪うよりは与える方が幸福」(使徒行伝20・35)
全ての霊を信じてはなりません。(偽善者を見分ける方法) (スピリティズムによる福音℘352)
☆ 信仰の持つ勇気
私のことを人々の前で認める者については、私も天にいる父の前にその者を認めるでしょう。私を人々の前で裏切る者は、私も天にいる父の前でその者を裏切ることになるでしょう。(マタイ 第十章 32,33)
J・S・M・ワード著「死後の世界」浅野和三郎訳 下編 六 地獄の大都市℘221
『大体地獄という所は地上界とは多くの点に於いて相違しております。──最初吾輩の軀は暗い、冷たい、恐ろしい無限の空間を通じてドンドン墜落して行く・・・・・・。
最後に何やら地面(じべた)らしいものにゴツンと突き当たった。ふと気がついて見ると其処には道路(みち)らしいものがある。兎も角もそれに這い上がって、コツコツ進んで行ったが、ツルツル滑って間断なく汚い溝(どぶ)の中に陥(はま)る。陥っては這い上がる。這い上がっては又陥(はま)る。辺りは真っ暗闇で何が何やらさっぱり判らない。が、吾輩の軀は不思議な引力のようなものに引きづられ、ある方向を指して無茶苦茶に前進を続ける。──最後に吾輩は荒涼たる石ころだらけの野原に出た。
依然として闇の中をば前へ前へと引き摺られる。その間何回躓き、何回倒れたかはとても数えきれない。こんな時には誰でもいいから道連れの一人でもあってくれればと頻りに人間が恋しくてしょうがなかった。そうする中に次第次第に眼が闇に熟(な)れて視力が少しづつ回復してきた。行く手を眺めると何やら朦朧と大きな凝塊(かたまり)が見える。しばらくするとそれはある巨大なる市街の城壁で見渡す限り・・・・・・。と云って余り遠方までは見えないが、兎に角どこまでもズーと延長した城壁であることが判った。幸い向こうに入口らしいところがある。近づいてみると、それは昔のローマの城門めいたものであるので、吾輩構わずその門をくぐった。が、その瞬間に気味の悪い叫び声が起こり、同時に二人の醜悪なる面構えの門番らしい奴が、矢庭に吾輩に飛びかかって来た。
ドーせ地獄で出くわす奴なら、片っ端から敵と思えば間違いはあるまいと気がついたので、吾輩の方でも遠慮はしない。忽ちそこに振り向いて、命限り・・・・・・。いや命は最初から持ち合わせがないから、そういうのも可笑しいが、とにかく一生懸命になって、向こうと格闘しようと決心した。ところが妙なもので、吾輩がその決心を固めると同時に二人の醜悪な化物は俄然として逃げ出した。これがそもそも吾輩が地獄に就きての最初の教訓に接した端緒であります。地獄には規則も何もない。ただ強い者が弱い者を虐める。そしてその強さは腕力の強さでなくて意志の強さと智慧の強さであるのです。
吾輩はしばらくの間何等の妨害にも接せず、先へ先へと進みましたが、モーその時には濃霧を通して種々の建物を認め得るようになりました。だんだん見ている中にこの市街には何処やら見覚えがあることに気がついた。──外でもない、この市街は古代のローマなのであります。ローマではあるが、しかしローマ以上である。曾てローマに建設されて今は滅びた建物が出現しているばかりではなく、他の都会の建物までが其処らに出現している。むろんそれ等の建物は皆残忍な行為と関係のあるものばかりで、それらの邪気が凝集してこの地獄の大首府が建設されているのであります。同じくローマの建物でも残忍性のない建物は此処には現れないで、それぞれ別の境涯に出現している。すべて地上に建設さるる一切の都市又は建物の運命は皆斯うしたものなのであります。
憎悪性、残忍性の勝っている都市としてはローマの他にヴェニスだのミランだのが数えられる。そして呪われた霊魂達は皆類を以ってそれぞれの都市に吸引される。むろん地獄の都市は独り憎悪や残忍の都市のみには限らない。邪淫の都市だの物質慾の都市だのといろいろの所が存在しパリーやロンドンは主に邪淫の部に出現している。但しこれはホンの大體論で、ロンドンの如きもそれぞれの時代、それぞれの性質に応じて、局部局部が地獄の各方面に散在していることは言うまでもない。』
あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
それが地上生活中に出るか否かは分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊性の進化にあることだけは確かです。
宇宙の絶対的な法則の働きによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。それだけの荷を拵えることができたのだから、それを取り除くこともできるのが道理のはずです。蒔いた種は己が刈り取るのです。
つまりシルバーバーチの言う因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることはできません。
27 五感
人間は目に見え耳に聞こえるものによって現実を判断します。お粗末な手段であるとはいえやむを得ないことです。しかし本当は身の回りの目に見えないところに同じ志を抱く霊が待機し、堕落せる者を立ち上がらせ、心弱き者を元気づけ、困窮せる者を救い、病人を癒し、肉親に先立たれた人を慰め、道に迷える者、疲れ果て煩悶する者たちに知識と叡智と悟りを授けんとして、その好機をうかがっております。
忘れないでください。あなたに生命を賦与した力、あなたに息吹を与えたエネルギー、あなたに意識を与えた生命力は、この宇宙を創造し極小極大を問わず全存在に生命を与えたのとまったく同じものなのです。心に唯一の目的を抱いて真一文字に進むことです。そうすれば必ずその力があなたを支えてくれます。
オリバー・ロッジ Sir Oliver Loge の著書に Phantom Walls (幻の壁)という随筆調の論文集の中に、幻の壁とはつまり肉体の五感を意味し、これが幻に過ぎない存在である。といっております。
霊界人の目
こちらの世界の明りは、内部まで貫通する作用があります。
(SB霊訓 1-2章)
「地上に生を享けるとき、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するためにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂みずからが選ぶのです。
ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がってこないだけの話です。」
地上では、地上に居ながら地上的価値観に捉われず「断捨離」の生活。地上生活の最低限の必需品があればいいのです。余りあるものは貧しい人のために寄付したり恵んだり、人の役にたつ働きに徹し、今自分がしてほしいと思ったことを相手にしてあげる行為とか必要以外のものは貯めこまない。
地上で学んだ学問は学んでいない人を導くために学んだのです。人を卑下したり差別したり、自分を偉ぶったり自慢するために学んだのではありません。
地上で唯物主義的生活に徹した人は、そのままの生活を幽界(低級界)でもするのです。淫乱だった人は死後も永い間同じ淫乱生活をします。それしか頭にないのです。同じように守銭奴は金を、利己主義者は相変わらず頑固な利己主義者です。死後の世界では魂はみな赤裸々になります。全てが知れてしまうのです。
魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥やしです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥やしを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の全目的です。
あなたたちの世界では善を敏感に知るために悪が必要です。光を讃えるために闇が必要です。健康の価値を知るために病が必要です。別の世界ではこのような対比は必要ありません。
☆この世に生きる目的は、霊的な顕現を制約するものを少しでも排除し、霊的資質が肉体を通してなるべく多く顕現すること。
イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17・22)と言いました。神はどこか遠く離れた近づき難い所におられるのではありません。あなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中にいるのです。自分の霊的成長と発達にとって必要な手段はすべて自分の中に宿しているということです。それを引き出して使用することが、「この世に生まれてきたそもそもの目的なのです」
地上界の次の生活の場は、地上界の写しです。地上と非常によく似ています。死んだことに気づかない人間が大勢いるのはそのためです。こちらは本質的には思念の世界、思念が実在である世界です。思念が生活と活動の表現のすべてに形態を与えます。
他界直後の世界は地表のすぐ近くにあり、ものの考え方が極めて物質的な男女が集まっていますから、思念の表現もきわめて地上的で、考えることがすべて物的感覚によって行われます。
地上の人間から見れば他界した人間はみんな霊界の存在と思いがちであるが、目に見えなくなったからそう思えるまでのことで、波動の原理から言えば、相変わらず地上的波動から抜け出せない者がいて、地上生活から持ち越した感覚、感情のままで生活を続けている。その種の霊を〝地縛霊〟という。
人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。が、霊的成長とともに〝識別〟の意識が芽生え、一界一界と向上するうちに籾殻が一握りずつ捨て去られていく。その中でも旧態依然として抜けきらない者もいれば、さっさと先へ進みゆく者もある。 そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻ってくることになる。 |
☆幽界以下の界層は地獄界(暗黒界)と呼ばれる界層ですが、そこの住民は当たり前に人間の魂です。悪魔と呼ばれる存在がもしいたとしてもそれは人間の魂が悪魔と呼ばれているにすぎません。いわゆる悪魔は存在しないのです。真理を知ればいかなる問題も解決いたします。正しい宗教を知る上で霊的真理が明瞭に解決してくれます。
地上で Animaru man 的生き方をした人は必ず幽界で再生するようである。
シルバーバーチ霊の説く再生説は、類魂の一部であるダイヤモンドの一片の輝きを増すために再生するといいます。その霊は、地上時代とは全くの別人であると説きます。類魂は霊界にあり、幽界で再生する魂は地上時代のままの魂であり、物的身体は別人であっても霊的魂は同一人物と思われます』
ある儀式
一人の霊が〝偏見〟つまり自分の特殊な考えと異なる人々へのひがみ根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行くことになったのを祝うものです(ベールの彼方の生活Ⅰ℘22)。(偏見も霊的無知も卒業しなければ魂の進化向上はないということ)。
地上と幽界との違い
必見の図書としてお勧めなのが浅野和三郎著「新樹の通信」です。・・・新樹は父の命を受け幽界を散策するのですが、地上で有名だった(実業家他)人たちに大勢会いました。しかし何故このような有名だった人物がこのような低い界層にいるのか分かりません・・・と述べております。
地獄界の一部
性欲=肉体がなくとも精神の作用が増幅していく、その不満が耐えきれない苦痛・汚れた欲望が魂にしみこんでいるためただ性欲に満足を求める。
性的倒錯者=不義を為す者はいよいよ不義を為し、不浄なる者はいよいよ不浄を為し、先鋭化した感覚がますます欲望をあらわにする。精神構造が造り上げた痴態のかぎりを延々と続ける…やがて、嫌悪感が伴う、更に嫌な相手から求められ、逃げられないなど数々の苦痛を体験し、やっと人間の魂としての自覚が芽生え救いを求めるようになりやっとその場を離れる決心をする。
本物の暗黒界
こちらの世界には、地上のような善と悪の混在の生活がありません。善は高く上がり悪は低く下がり、善による悪の中和というものはあり得ない、悪が悪と共に存在して、地上では考えられないような冒涜が横行するようになる。(参考図書・・・ベールの彼方の生活三~8章 暗黒界の探訪)
霊界は光と闇といった対照がなく、したがって影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解ができております。そうでなかったらその界層にはおれません。その界層に至るまでは光と闇の錯覚の世界である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対照を必要としない段階に至ります。
陰(地上的価値観・比較対象)のない心境に到達し霊性が向上しやっと霊界へ辿り着きます。ここで初めて類魂(インディビジュアリティ)へ没入するようです。従って幽界で地上圏へ再生した魂(Animal-man)は地上で顕したパーソナリティそのものなのです。
☆霊界の強者とは弱者に手を差し伸べる力があるという意味です。
☆霊界は邪悪なものは存在しません。邪悪なものを生み出す原因が取り除かれているのです。
☆ 又、霊界は(ベールの彼方の生活によれば)吾々が第一界から上層界へと進んでいくと、他の惑星の霊界と合流している界、つまりその界の中に地球以外の惑星の霊界が二つも三つも含まれている世界に到達する。さらに進むと、今度は他の恒星の霊界と合流している世界、つまり惑星間の規模を超えて、太陽系の規模つまり太陽の霊界が二つも三つも合流している世界に到達する、そこにはそれ相当に進化した存在、荘厳さと神々しさと偉力とを備えた高級神霊が存在し、下層霊界から末端の物質界に至るすべてに影響を及ぼしている。
☆霊の世界の組織について(古代霊は語る℘176)
つまり地球の本体となると、いよいよもって筆を尽くすべき余地がない。強いて想像すれば、それは他の諸天体と合流同化し、玲瓏清浄、自在無碍、何もかも見通しのつく光明遍照の理想境とでもいうより外に途がないであろう。死んで霊界に入ったステッド(タイタニック号で溺死)なども次のように歎息している。
「私は生前こう考えていた。人間は死んだらすぐ神と直接交通を行い、自己のとるにも足らぬ利害得失の念などはきれいに振りすて、礼拝三昧、賛美歌三昧にひたるであろうと。そういった時代も究極においてはあるいは到達するかもしれない。
しかし、現在のわれわれはまだそれを距ること甚だ遠い。人間の地上生活はいわば一つの駅場、にすぎない。現在の私の幽界生活は第二の駅場である。我々はまだまだ不完全である。われわれはまだ個々の願望翌年を脱却しえない。われわれは依然として神に遠い。要するに宇宙は私の想像していたよりも遥かに広大無辺であり、その秩序整然たる万象の進展は真に驚嘆に値する・・・・・・」
☆霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側には必ず霊的表現があるのです。その無限の霊的世界が二重、三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなた方が知っているのはそのうちのごく一部なのです。知らない世界がまだまだいくらでも存在します。
あなた方には大霊が宿っていること、そしてそれを自覚し発現すれば、あらゆる物的なものに超然としていられるということです。「自覚し発現すれば」あらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかし、現実にはそれを活用している人間はほとんどいません。イエスは二千年も前に「神の王国は人間の中にある」と明言しているのですが・・・・・・
法則と調和した生活を送っていれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。これらは自然法則との不調和の信号に他ならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するかです。この世はすべて〝物〟と〝金〟と考えているから法則からずれるのです。
──
シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界、永遠の生命を達観した立場からの説であることを認識する必要があります。
SB霊がおっしゃる法則通りの生活はなかなかできませんが、せめてほんの少しでも自分より貧しい方たちへ心を寄せてあげるとか、寄付するとかの行為は死後へ旅立った際に自分の魂にも輝く要素があったのだと自覚なさるはずです。 錆びたままの魂で死後に向かわないでいただきたい・・・・・・
再生にあたり Animal-man (動物的生活を送った魂)は決まって再生するようである。
この方は Animal-man ではないようであるが、〝先天性心臓血管病・ 四歳の女子の母親は沖縄(前世)の再生。前世の名前も記憶在り〟などを考え合わせると、70数年前は沖縄に住んでいたとしか思えない。一旦類魂へ没入した魂ならば再生に際し前世の名前を告げることは不自然だからである。
☆ 別の例として、仮に不幸にして不具の肉体をもって地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一番効果的であるという判断があったと解釈すべきである。
『たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。つまり他界後彼らは自分の犠牲者たちの苦しみをみて深く反省し、良心の呵責を感じるようになる。
地上生活という巡礼の旅において、内在するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によって決まります。ここで着目すべきことは
「いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、それを理解するだけの意識の開発、霊格の進化が無ければ決して悟ることはできない」とのことです。
☆ ── ☆
人はみな魂の修行中なのです。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。だから助け合わねばならないのです。この世から〝陰〟を消滅させるには「人の役に立つ働き」こそ地上へ生まれた目的であり、宇宙創造の目的でもあるのです。
類魂
シルバーバーチの霊訓 第10巻8章「背後霊の仕事」に、次の様に書かれています。
「それから私がダイヤモンドの側面に例えている〝霊相〟とでも呼ぶべきものがあります。一個のダイヤモンドがあって、それに沢山の〝相〟facet があります。それぞれが地上に誕生して体験を持ち帰り、ダイヤモンドの光沢を増します。さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。例えばこの霊媒(モーリス・バーバネル)と奥さん(シルビア・バーバネル)と私(シルバーバーチ)とは一個のインディビジュアリティに所属しております。一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがあるわけです。それを〝延長〟と呼びたければそう呼ばれても結構です。が、結局は同じことに帰一します。つまり地上で肉体を通して顕現するのはインディビジュアリティの極々小さな一部と言うことです。」
そして、同巻の「訳者あとがき」で、近藤氏が次の様に述べています。
「本文の136頁でシルバーバーチが「この霊媒と奥さんと私とは一個のインディビジュアリティに所属しております」と述べている。つまり霊的な親族(アフィニティ)、いわゆる類魂同士であるという意味であるが、私は永年バーバネルの秘書を務めたこのリーバ女史もアフィニティの一人として計画の推進のために生まれてきていると思う。スワッハーもしかり、速記係のムーア女史も然りである。」
上記から次の様に理解できます。一個のインディビジュアリティ=一個の類魂=複数のダイヤモンドの集まり(ただし、ダイヤモンド間の霊格差は不明)
一個のダイヤモンドの側面=多数の霊相(ただし、霊相間の霊格差は不明)
したがって、モーリスとシルビアがシルバーバーチと類魂同士であっても、属するダイヤモンドあるいは霊相が異なればシルバーバーチより霊格が低く、そのため再生したのでしょう。一方、リーバ、スワッハーとムーアの3人については、近藤氏の個人的な見解です。
34 未熟な魂の死の直後
家族愛がつよく信仰深いが真理からかけ離れた教義、ドグマ。その教えは人間の夾雑物で汚染された聖書。キリスト教に多くの教団があるのが不思議です。依頼者の患者が信仰しているかは分かりません。
食べ物は管で胃に流し、心臓は鼓動しているものの肉体だけの命は保ち続けています。二、三週間後、私は、患者の魂はどのような環境でどうしているのか霊視を試みました。するとそこは暗闇で、しかも無限で、無人で、空虚で、患者の心の想像した意念の世界でした。暗闇の世界から、男性は真理(死後の生)をご存知ないようです。
私は、男性はこの闇のような世界でどのように動くのか観察いたしました。肉体からシルバーコードでつながっているだけです。そのために霊界へ旅立てないのです。地上の人間は家族愛だと言い訳しながら植物人間として肉体だけをこの世に縛り付けつなげているのです。
この男性がもし、死後の生をご存知なら、シルバーコードは自分でもしかしたら切断しているかもしれません。無知が生み出す光景だとおもいます。但し、私は死後の世界をのぞいた体験はあまりに少なく、植物状態の魂がみなこの方のような状態にあるかというのは分かりません。いずれにしても、正しい真理普及が進むよう願ってやみません。
・・・肉体にしがみつく魂・・・
意識不明の方の、知り合いという方から遠隔治療依頼を受けた。
施療一日目=魂が幽体へ移動していく姿が見え、間もなく臨終を迎えるかも、と目を凝らした。しかし、地上界から去りがたく肉体にしがみつきイヤだ嫌だと駄々をこねているようすが窺える。見舞っている方々の目には顔が歪み痙攣しているかの様に映るかもしれない。
二日目=肉体は既に感覚なし。その肉体の傍に横になり起きろ起きろというも、肉体にその気配なし。それでも魂は肉体に添い寝する。余程地上に未練あるかのようです。 いろいろな現象を目にする度に霊的真理の必要性を強く感じる。
三日目=魂は肉体からやっと離れました。霊界での生活に早く順応できますよう・・・祈ります。
・・・このような未熟な魂のために死後三日は火葬にしない方が良いといっています・・・・・・
アカシックレコード(英: akashic records)は、元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念で、アーカーシャあるいはアストラル光に過去のあらゆる出来事の痕跡が永久に刻まれているという考えに基づいている。宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層を意味することが多い …Wikipedia
高級霊団から使命を仰せつかったシルバーバーチが地上圏で活動するには霊媒を探し出すために霊界の記録簿を調べ、この霊(モーリス・バーバネル)に白羽の矢を当てた。それは霊媒がまだ母体に宿る前の話です。やがて母体に宿って自我を発現し始めた時からSBが影響力を行使し、今日まで続いている一体関係がその時から始まったのです。
そのほか、(1688~1772)のE・スウェーデンボルグや特にアメリカのA・J・デービス(1826~1910)はこのアカシックレコードを実際にのぞき宇宙の始まりの様子を伝えてきたのです。「世界心霊法典Ⅲスピリチュアリズムの神髄」に138億年前のビッグバンの様子を詳しく述べております。
《中でも第二部の 『大自然の啓示』 は三部作の中でも主要部を占めるもので、内容的にも破天荒と言ってよい要素を数多く含んでいる。大自然の機構を哲学的に解明せんとしたもので、物的宇宙の誕生から説き起こしてその形成過程を述べ、さらに物的宇宙創造のそもそもの目的と意識まで説き及んでいる。
その中で太陽系の誕生にも触れ、特に太陽をはじめとする個々の惑星の形成過程を詳しく述べ、さらに太陽系全体を支配している原理と法則を説明している。続いて主題はわれわれの住む地球に移る。
まず無生物が生物へと進化していく過程を説明し、続いてその生物の第一歩として海中に発生した単細胞の原生動物が徐々に進化して最後に人間となって行く様子を説明する。
すでに述べた通り、このデービスの進化説はダーウィンやウォーレス、あるいはスペンサーなどより数年も早く説かれたものであり、しかもどの進化論よりも明確である。三人のうち心霊学者でもあったウォーレスの説は当然デービスの説と符節を合し、ダーウィンやスペンサーのそれとは根本的に異なっている。
この第二部を読んで特に感心することは、学歴も学識もないはずのデービスが、この書の中では科学と哲学とに精通しているかの如く思えることである。
地球の生成の各段階を説明するに際しても地学の専門用語を正確に、しかも自信を持って使用し、他の分野に関することでも、まるで専門家のような印象を与えるのである。
生物学しかり。天文学しかり。同様に化学も物理学も完全にマスターしている。そのデービスが普段はほとんど無学に等しく、専門的知識に至ってはゼロに等しかったのである。》
《ではその第二部の劈頭(へきとう)に述べられているデービスの雄大な宇宙創成説を紹介してみよう。
「天地いまだ分かれざる時、宇宙は人智も言語も絶した液状の火の海であった。その広さ、その高さ、その深さは、いかに想像の翼を広げたとて人間の理解力の届かぬことである。存在するのはただ果てしなく広がる液状の火の海、果てのないものは人智の範囲を超える。が事実、果てが無いのだ。その内容、本質も人智の理解を絶する。それは物質の原始形態なのである。
それには個別的形態がない。全体が一つだからだ。個別の動きがない。永遠の動きの中に没入しているからだ。部分的存在が無い。全体が一つとなっているからだ。分子も存在しない。全体が一つの分子なのだ。太陽も存在しない。全体が永遠の太陽的存在だからだ。
初めというものがない、従って終わりも無い。長さも無い、無限のうずを形成しているからだ。相対的な力というものが存在しない。それ自体があらゆる力のエッセンスだからだ。計り知れぬ底力を秘めた全能の力というべき存在なのである》
☆ ☆
もう一つの生命の書、「世界心霊法典ⅱ」永遠の大道 二部 二十一章 二つの世界の想念交流から
前略
『帰幽者の多くは新取の精神に富んでいるものだ。死後に初めて昔の恋人と再会した当座は暫く、『生命の書』から、肉体の苦痛を伴わずに味わえる過去の快楽の思い出を引き出して、それに耽っている。
が暫くする内に、大記憶の中に記載された過去の経歴の堆積や、その他諸々の記録に飽きてしまう。そこでわれわれは「時」の敷居を跨ぎ、果敢にも神の想像の中に入っていく。第三の主観状態で『生命の書』の未来の頁を読むのである。そこには曾て予言者や占者たちによって漠然と予言された、未だ地上には生起していない人間のドラマが展開されている。
わが子孫の者たちの放浪、われとわが血受け継ぎ、その印を額に印した者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来───すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが───につくづくと眺め入ったとき、われわれは悲嘆に暮れてこの『生命の書』の巻を閉じるのである。
最後になったが、こうして第三の主観状態で過去と同じく未来の頁までも読む力を与えられるのは、陳腐な言い方ではあるが、霊的に進化した、進んだ魂にのみに限るのである。死後の門を潜った魂たちの大半は心霊的に未発達な境涯に留まるのである。』
☆ ☆
しかし残念ながら、魂の進化が進んでいなければ、 信じることはできず、唯物的価値観に拘って生きるしかありません。・・・・・・信じないはあなたの自由です。
36 始まりも終わりもない旅…その始まり!
①Big bang 138 億年前
「天地いまだ分かれざる時、宇宙は人智も言語も絶した液状の火の海であった。その広さ、その高さ、その深さは、いかに想像の翼を広げたとて人間の理解力の届かぬことである。存在するのはただ果てしなく広がる液状の火の海、果てのないものは人智の範囲を超える。が事実、果てが無いのだ。その内容、本質も人智の理解を絶する。それは物質の原始形態なのである。
それには個別的形態がない。全体が一つだからだ。個別の動きがない。永遠の動きの中に没入しているからだ。部分的存在が無い。全体が一つとなっているからだ。分子も存在しない。全体が一つの分子なのだ。太陽も存在しない。全体が永遠の太陽的存在だからだ。
初めというものがない、従って終わりも無い。長さも無い、無限のうずを形成しているからだ。相対的な力というものが存在しない。それ自体があらゆる力のエッセンスだからだ。計り知れぬ底力を秘めた全能の力というべき存在なのである。
その全能の力こそ大宇宙の根源力すなわち〝神〟なのである。そして、それが永遠の〝動き〟となって発展したのがこの宇宙なのだ。まさに“〝物〟と〝動き〟こそ宇宙の根源的条件なのである。(Nature's Divine Revelations)
その液状の火の固まりが熱と光と電気とを次々に発しながら物的宇宙空間に広がり、やがて凝結して数知れぬ天体組織となったと言うのである。 (世界心霊法典ⅲ スピリチュアリズムの神髄℘39)から
ヒトへの霊的流入→理性を与えられた瞬間 ──アメーバから人間へ──
「いく百万年とも知れない歳月をかけて、あなた方は下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥のなかから天空へ向けて一段また一段と、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を捨てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなた方が宿っている身体がそこまで発達するのに、はたして何百万年かかったことでしょう。しかし、まだ進化は終わっていないのです。
そして他方において、魂も進化させなければならないのですが、それにも、これから何百万年かけることになるでしょうか。
かつて、あなたはサルでした。サルそのものだったという意味ではありません。サルという種を通して顕現した時期もあったという意味です。それも大霊の機構の一部なのです。生命のあるところには、大霊の息吹があります。それなくしては、生命活動は存在しません。ただ、その息吹に段階的な差があるということです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への転移があるということです。」
(シルバーバーチのスピリチュアルな生き方Q&A 訳者あとがき)
新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の附属物ではなく、別個の誕生と創造の起源を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行われます。その凝縮した成分がわれわれ霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、及び地上期間中にいかなる陶冶を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今みなさんが迎えつつある時代に属する課題です。その為には多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえできれば、その後に訪れる光明は真昼の太陽のごとく浩々たる輝きに満ちていることでしょう」 インペレーターの霊訓 |
② (地球は46億年前)
デービスによれば、吾々の太陽は大中心に近い順に数えて五番目の星雲に属しているという。すると第六番目の星雲が物的宇宙の一番外側を回転していることになるが、その星雲はまだ十分凝結しきっておらず、一種の彗星のような状態にあるという。
さて続いてデービスは地球の属している小規模の太陽系の誕生について述べている。宇宙的規模の大型太陽系の誕生は今述べた通りであるが、実はわれわれの太陽系も似たような経緯を辿って出来ていったのである。すなわち、まず太陽が誕生した。が当時の太陽は現在一番遠くにある惑星が位置する範囲まで火焔の枝を伸ばしていた。それが時の経過と共に凝縮し冷却して今日の惑星となったという。
③(宇宙空間を漂っている天体のすべてに知的存在が生息している。どの天体も地質的構成は一つ一つ全く違う。生息している存在の有機的組成も違う。その一つ一つはその天体の創造主、つまり創造なさった神霊(天使)の影響を全てに受けるからです。「ベールの彼方の生活(一)念力による創造実験」を参照していただきたい)
④ 地上には、高級神霊の住む霊界(広義)はあったと思われる。が、人間はホモサピエンスを基準として考えれば6~5万年前頃から地上に住んだことになりその歴史は浅い。人間が住むようになって初めて霊界(死後の世界)が誕生したのです。やがて人間の魂たちも徐々に進化向上して幽界・霊界・神界が造られることになります。
その幽界は唯物思想が抜けきれない魂たち、しかし、学びを深めてやがて物的思想から脱皮し、霊界へ進化向上し類魂に没入します。シルバーバーチのおっしゃる再生説は類魂のダイヤモンドの輝きを増すために再生し、地上ではダイヤモンドの一部パーソナリティとして働き輝きを増して帰ることでしょう。
一方で進化の遅れた「Animaru man」的だった人間の魂も誕生に際しブループリントを作成し再生しますがこのレベルの魂の進化は遅々としており幽界を永い年数をさ迷うことになります。やがて地獄界も作られるのですが、人間の魂は簡単には進化しないようです。霊界の「生命の書」を読んだ霊は
『わが子孫の者たちの放浪、われとわが血受け継ぎ、その印を額に印した者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来──すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが──につくづくと眺め入ったとき、われわれは悲嘆に暮れてこの『生命の書』の巻を閉じるのである。』
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このように人間は本来怠け者のようです。2020年の現在、スピリチュアリズムが大勢の人々に知れ渡ってもそれを実践する人は少ないはずです。魂の進化向上とは逆の放蕩や快楽に現を抜かし、地上人類が進化するためには神の計画に沿った〝大災害〟や〝疫病〟のような霊界側の荒療治が行われることでしょう。しかし、死は悲しみでないと言っています。その荒療治を鳥瞰したとき、地上人類の歩みのお粗末さに〝悲嘆にくれる〟のではないでしょうか!
37 天体の霊的構成 ベールの彼方の生活1 6章℘222
ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに〝霊体〟が備わっております。
かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応してはいても、それぞれに異なった性格を持つことになる。そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。
太陽系を構成する惑星について言えることは、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合わせにおいても異なります。
各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。さてそうなる原因(わけ)は各太陽系の守護神の個性的精神が反映するわけです。守護神の配下にさらに数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。
とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。
千変万化の多様性はその造化の統制上の〝ゆとり〟から生まれます。一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられているために、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで一つの統一性が行き亘るわけです。
こうした神霊の監督のもとに、さらに幾つもの段階に分かれた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。その段階においては吾々のように〝知性〟と同時にいわゆる自由意志による独自の〝判断力〟を所有する存在とは異なり〝感覚的存在〟とでも呼ぶべき没個性的生命の種属が融合しております。
──物語に出てくる妖精(フェアリー)とか小妖精(ピクシー)精霊(エレメンタル)といった類のことですか──
その通り。みな本当の話です。それに大ていは優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遥かに低く、それで人霊とか、天使と呼ばれる程の高級霊ほどその存在が知られていないわけです。
地球はこれからもずっと地軸を中心に回転し続けます。太陽はこれからもずっと輝き続けます。すべての天体が定められたコースを運行し続けます。潮は満ち引きを繰り返し、春の後には夏が、夏の後には秋が、秋のあとには冬がめぐってきます。
それはその背後で支える力が無限であり誤まることが無いからです。これだけの大自然の見事なスペクタクル(壮観・美観)を目の前にしながらあなた方は、それと同じ霊力が地上世界のことでしくじりを犯すことがあり得ると思われますか。
その霊力を顕現させる道具が存在するかぎり、人のために役立ちたいと願う男性あるいは女性がいて下さるかぎり、私たちは病気に苦しむ人を癒し、生命が墓地の向こうにも存在することを証明し、永遠の霊的実在の証を提供し続けます。
『数年前(2015年ごろ)、アセンション(ascension)次元上昇があった。エネルギーの渦が地球を通り過ぎて行った。しかし、何も起らなかった、が地球の次元レベルが上がったのです。このレベルに人間が合わせねばならない。合わせなければ、様々な形で地球浄化作用が起きるでしょう。
例=「土星には地球が誕生する何千年も前に有機的生命が発達していた。 従って進化の程度もそれだけ高い。 肉体的にも精神的にも土星人はすっかり完成されている。 幅の広い強力な知性によって支配されているために、すべての面で思慮分別がいき届き、精神面の弱点も身体的な病も存在しないほどに至っている。 土星人の頭部は非常に高く且つ長い。又、土星人は遥か離れた惑星の住民の生活ぶりが見えるそうです。』
────☆
39 自然災害
───神は何の目的で自然災害と言う破壊をもたらすのでしょうか。
「人間の進化に拍車をかけるためです。精神的新生のためには破壊も必要です。新しく再生する毎に霊的浄化において新しい一歩を踏み出すのです。何ごとにつけ、その過程を正しく理解するためには、結果を見届けなくてはいけません。
人間はとかくわが身に置き代えて判断するために、苦しいことはみな災害と考えがちですが、新たな秩序をもたらすためには思い切った混乱を必要とする時があるのです。それまでの平穏無事の惰性では何世紀も要するような改革が二、三年で成就されることがあります」
───神は破壊の手段以外の何か別の手段をとることが出来ないのでしょうか。
「取っておられます。日常生活の中での善悪の判断を通じて進化を促すという方法です。ところがこの方法では人間はなかなか向上しません。そこでその高慢の鼻をへし折り、人間の弱さを思い知らせる必要が生じるのです」
───ですが、そうした災害による犠牲は、邪悪な人間だけでなく善良な人間も悲歎に暮れさせるだけではないでしょうか。
「人間は、地上を旅する間の出来事は、どうしてもその肉体の生存期間を尺度として捉えます。ところが死んで霊界に戻ってくると観点が大きく変わり、地上時代の出来事が実に些細なことであることに気付きます。地上の一世紀は永遠の時の中では一瞬の花火のようなものに思えます。そして、地上の時間にして何日、何ヵ月、何年にもわたる苦しみもどうということはないように思えてくるものです。
どうかこの点を今後のあなたの生き方の参考にして頂きたい。霊こそ実在であり、すべてのものに優先し、すべてのものが消滅したあとも残りつづけます。その霊のあり方こそ神が何よりも気遣うものであり、肉体は地上を生き抜くための仮の媒体にすぎません。
多くの尊い人命を奪う大災害におけるそうした犠牲者たちは、戦闘後の兵士のようなものです。軍服はボロボロに破れ、あるいは千切れ、あるいは無くなっているかも知れません。が、生命(いのち)は失っていない。その姿を見て将校は軍服のことよりも生命があったことを喜ぶものです。軍服が肉体であり生命が魂です」
──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。
「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台〟(はすのうてな)の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分かります。地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです。
────人類の進歩は常にゆっくりとした進歩なのでしょうか。
人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そしていつでも援助の手を差し伸べる用意ができていなければなりません。
〝道義心〟
正常な人間であるかぎり(精神的・知的に異常または病的でない限り)、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることにない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。
認知症発症のメカニズムは、人間には多かれ少なかれ嫌な過去、思い出したくない出来事、他人を傷つけた青春の一ページ、子や親のために全てを犠牲にした過去等がある人たちは、その時機が走馬灯のごとく蘇ることがあります。
これらを嫌な出来事と捉え、でも、そうせざるを得なかった。曳かれた絨毯の上を歩まされてきた自分がいたのです。治療体験から認知症発症のメカニズムといえるような治療例を紹介します。
ある方にはそれが〝耐えがたき苦しみ〟となって己を傷つけ、痛め、その痛みを忘れようとすることが原因で起こる自分の心では認知したくない、過去のない事実として忘れたい心の状態を反映しているのが肉体なのです。
認知症治療依頼によくある症状は〝妄想が酷い〟とあることです。当ホームページ掲載「治療例56」を最下段に載せました。患者の妄想はまさしく、過去の嫌な思い出なのです!・・・嫌な過去の一ページを忘れたいのですが、魂にインプットされた嫌な観念は強迫的に迫ってくるのです。その嫌な観念に大声で言い訳している状態が周りのご家族や治療依頼者側から見える患者の〝酷い妄想〟なのです。患者は逃げるからいけないのです。
過去は創られてしまいました。消すことはできません。動機は何だったのでしょう! 悪いと知りつつ犯したのでしょうか! もし、そうだとしても悪かったらお詫びしかありません。その道しか選べなかったのですから。忠信からのお詫びができるなら認知症は癒えるかもしれません。以下は治療体験の症例です。
──今回の遠隔治療では、奥様の鬱積した不満が赤茶色に汚れて変色していた。汚れた赤茶色から奥様の心の苦しさが分かる。その苦しさをご主人に理解して頂くよう(治療依頼者に申しあげた)ご主人の理解を強く求めた。現在症状は〝まだら状態〟なので、改善は期待できると思います。
その二、10年ほどまえ御主人に先立たれ、やがて二人の息子も独立し現在は一人暮らし、数年前から認知症の症状ではじめる。数日前の治療依頼で見た(患者の心の中)は空白でした。趣味もなく、親しい友も居るでもなく、子供たちは寄り付かず、いつも一人、何のため夢中で子を育て努力してきたのか、孤独で、自分を問い詰める日々数年。
そのうち気づいたことは誰も理解しないのなら、いやな過去を忘れよう、其れが一番いい・・・そう思ったのです。この人生は自分が招いたのだ。誰の性でもない、人に求めても仕方ない、今は過去から逃避・嫌なことは忘れよう──その自分が認知したくない過去が、認知症を発症したと言える。
その三、患者(女性68歳)、彼女の夢は定年後人の役に立ちたい、働きたいと願い、ただ一つの趣味(体操教室のコーチ)で多くの人を指導することでした。しかし、ご主人は定年後、常に自分と一緒にいてくれと要望、一切の外出を認めようとしません。
それでも頑張ってコーチをしていたのですが、あまりにご主人の願望が強くとうとうコーチを辞めてしまいます。それから間もなく(二年ほど)経過。
私のもとへ治療にお出でになったときはすでに不平不満の〝欲求〟が破裂して修復不可能でした。まもなくお亡くなりになりましたが、いわゆる〝まだら〟状態の認知症は修復可能なのです。手遅れにならないうちに正しい認知症知識を習得して欲しいです。
又、ある依頼者の方から、私の父は社会的にも重鎮され忘れたい過去があったとは認められない。という苦情が来ました。その夜、私は真剣にそういうこともあるのかな、と思いながら睡魔に落ちた。すると「私の未熟な時代が画面に現れ、この記憶は恥辱に満ちた過去、向き合わず忘れようと逃げてきた記憶でした。結果、夢の中で認識されない部分、忘れたい過去 → 認知症となったのです。」
私には、このような形で spirit Doctor が必要なことを教えてくださるのです。但し、これを聞く患者、及び周りのご家族の皆さんがこの意見を受け入れることが可能なのか! 魂の進化が答えを出すのです。
治療法=患者のすべてを受け入れ、そのままでいいんだよ・・・好きなように生きなさい。よく頑張ってきましたね…と心の負担を軽減すること。
酷い妄想=患者の心に嫌な過去「絶対忘れたい」一ページがあり、それが強迫観念となり自分に迫ってくる。その強迫観念に向かって大声であるいはブツブツ言い訳している状態が〝酷い妄想〟となって周りの人々には映り顕れている。
42 〝後なる者、先になること多し〟 ベールの彼方の生活Ⅲ℘46 「靴職人」
靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。なんとか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払ったときは一銭も残っていなかった。こちらで出迎えたのもほんの僅かな知人だけだったが彼にしてみれば自分ごとき身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内してくれたことだけで十分うれしく思った。
案内されたところも地上近くの界層の一つで、決して高い界層ではなかった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。というのも、苦労と退屈と貧困との闘いの後だけに、そこに安らぎを見出し、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕もできたからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、みんなが親切にしてくれて幸福そのものだった。
ある日のこと──地上的に言えばのことであるが──彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。中をのぞくと彼は横になって一冊の本をどこということなく読んでいる。その本は彼がその家に案内されてここがあなたの家ですと言われて中に入った時からそこに置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前──何と言ったか忘れたが──を呼ぶと彼はむっくと起き上がった。
「何を読んでおられるのかな?」と天使が聞いた。
「別にたいしたものじゃありません。どうにかこうにか私にも理解できますが、明らかにこの界の者のための本ではなく、ずっと高い界のもののようです」と男は答えた。
「何のことが書いてあるのであろう?」
「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神のために整然として働く上層階の男女の大霊団のことなどについて述べてあります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとに暮らしていたようです。話しぶりがそれを物語っております。
しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解力においても何一つ差別がなくなっております。目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実からこの本はこの界のものではなく、遥か上層界のものと判断するわけです。そのうえこの本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。
というのは、政治家的性格や統率者的手腕、リーダーとしての叡知、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかもしれませんけど…。一体なぜこんな本が私の家に置いてあったのか、よく判りません」
そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である。彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴じられた自分の名前があるのに気付いたからである。戸惑いながら彼はこう言った。
「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今まで私の名前が書いてあるとは知りませんでした」
「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。ということは、あなたの勉強のためということです。いいですか。ここはあなたにとってホンの一時の休憩所に過ぎないのです。もう十分休まれたのですから、そろそろ次の仕事にとりかからなくてはいけません。ここではありません。この本に出ている高い界での仕事です」
彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、しり込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です」
そこで天使がこう語って聞かせた。
「そういう言葉が述べられるということだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾であり防衛手段の一つなのです。それにあなたは、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的手段です。あなたはあの地上生活の中で攻撃のための武器も強化し鋭利にしておられた。例えば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の財布の負担を軽くしてあげようと考えた。
儲ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。それをモットーにしておられたほどです。そのモットーが魂に沁み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われません。
その上あなたは日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植えつけ、屋根ふきなどを手伝い、時には病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの灯りで取り戻した。そうしなければならないほど生活費に困っておられた。そうしたことはあなたの魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。というのも、こちらの世界には、私たちの肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないという、そういう見晴らしが利く利点があるのです。ですから、正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っているものは暗く陰気に映ります。
このほかにも、あなたの地上での行為とその経緯について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれを措いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団が要るのです。霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。その使命は地上近くの界を訪れ、他界してくる霊を引き取ることです。
新参の一人一人についてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。もう何時でも出発の用意が出来ており、そのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します」
それを聞いて彼は跪き、額を天使の足元につけて涙を流した。そしてこう言った。「私にそれだけの資格があれば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一段の方々を知りませんし、私に従ってくれないでしょう」
すると天使がこう説明した。「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いを犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時あなたはその肉体から抜け出て、いつもその界を訪れていたのです。
そうです。地上に居る時からそうしていたのです。その界においてあなたも彼らといっしょに訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたのご存知の方ばかりのはずです。彼らもあなたをよく知っております。大天使も力になってくれるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません」
そう言い終わると天使は彼を従えて、その家を後にし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を超えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体がどことなく大きく且つ光暉を増し、山頂へ登る頃にはその姿はもはやかつての靴直しのそれではなく、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。
43 魂の永遠性
個人的存在の彼方 F・W・H・Myers
人間の魂の死後存続が真実か否かが我々にとって他のいかなる問題も影が薄くなるほど切迫した最大のテーマであることに疑問の余地はない。そのテーマに思いを馳せれば馳せるほど、他の全ての問題が、まったく無意味に思えてくる。
というのも死後存続が事実であることによってはじめて宇宙人生が合理性を持つことになるからである。そうであってはじめて〝悪〟の問題に納得のいく解決がつく。それ以外に解決法はあり得ないからである。
もしも人間の個性が死後に存続しないとすれば、人生哲学は空虚な厭世思想しか有り得ず大宇宙の支配者は正常な人間の誰をも憤慨させる悪逆非道に対しての責任を免れないことになる。
長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部初めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹で目を醒ましたわけです。
さて、そうして神が動物に霊性の息吹を吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことができるのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹を吹き込むことができるはずです。つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることができるのです。愛がすべてのカギです。
動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。又、愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同士でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ進化するのです。
45 死後の世界の仕事 ベールの彼方の生活1-℘195
この〝常夏の国〟では私たちは死んでこちらへやってくる人とあとに残された人の双方の面倒を見るように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係にあります。と言うのも、こちらへ来た人は後に残した者のことで悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれていることを知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。
先週も私たちのもとに夫と幼い三人の子供を残して死亡した女性をお預かりしました。そして例によって是非地上に行って四人のその後の様子を見たいとせがむのです。余り、せがまれるので私たちは、やむを得ず婦人を地上へ案内しました。着いたときは夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰ってきたばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。
いよいよ四人が感じの良い台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。その子はこう祈りました。〝私たちとお母さんのために食事を用意してくださったことをキリストの御名において神に感謝します〟と。
その様子を見ていた婦人は思わずその子のところに近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。当惑するのを見て私たちは婦人を、引きとめ少し待つように申しました。暫く沈黙が続きました。その間、父親と長女の脳裏に婦人のことが去来しています。すると長女の方が口を開いてこう言いました。──「お父さん、母さんは私たちが今こうしていることを知っているかしら? それからリズおばさんのことも。」
「さあ、良く判らないけど、きっと知っていると思うよ。この、二、三日、母さんがとても心配してるような、なんだか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけどね」
「だったら私たちをリズおばさんのとこに預けないでちょうだい。○○夫人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ、そしたらいかなくて済むでしょ。」
「行きたくないのだね?」
「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど、私はイヤよ。」
「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。みんなで何とかやっていけそうだね。」
「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天子さまも。だって母さんはもう天子さまとお話しできるのでしょ? お願いしたらきっと助けてくれるわ。」
父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんなことを考えているのが読み取れました─〝こんな小さな子供がそれほどの信仰をもっているからには自分もせめて同じくらいの信念は持つべきだ〟と。
それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手離すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。
こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。が地上を後にしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛かりとなりますよ、と言ってあげました。
その後、家族が別れ別れにならぬように処置がとられ、その母親には、これから一心に向上を心がけ、早く家族の背後霊として働けるようになりなさい。とのお達しがありました。
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このように霊界では恙なく向上できるような処置がとられ、霊界人の仕事は地上の人間のために働いているようです。霊界ではお金のために働くのではありません。人の役に立つ働きをすることに喜びを見出しているようです。
46 死の過程と意識について 「古代霊は語る℘148」第五章 死後の世界から
問「死んで霊界へ行くという現象は恐ろしいですか、苦痛ですか」
ストラドバーリ「私の場合はただ眠くて夢見る心地でした。杖を持った天使が見えました」
問「まだ肉体の意識のある間の話ですか」
ストラドバーリ「そうです。死ぬ前です。そして死んでからもその霊はずっと何年も私に付き添っています。ずっと高い世界の方だそうで、多くの人のために尽くした人に付き添うために派遣されているとのことです。当分の間付き添うことになるとのことでした」
問「では死は別に苦痛ではなかったわけですね」
ストラドバーリ「全然」(ストラドバーリは老衰死)
ショパン「死そのものは少しも苦痛ではないし恐ろしいものでもないが、私の場合は死ぬ前の方が辛かった」(ショパンは結核で死亡)
問「そうでしたね。で実際に死ぬときはどうでした」
ショパン「自分のことしか知らないが、私の場合は最後は何もわからなくなった。ただただ深い眠りに落ちていった」
ドイル「私の場合は大変な激痛と突然の忘却でした。発作が来た時は悶え苦しみました」(咽頭炎と心臓病のこと)
問「激痛はどこに感じましたか」
ブロック(トウィーデール氏の知人)「そうね、私の場合は半ば意識がありました。死ぬ一時間前まで感覚が残っていましたが、しゃべることはできませんでした。晩年は辛かったから死ぬのはうれしかったです」
タビサ(生後数週間で死亡した女の子)「死ぬということは私には何のことか分かりません。何も思い出せません。気が付いたら椅子の上の方の高い所に居たということだけです」(霊視すると今では十七、八歳の娘に成長しているとのこと。この子の通信は水子の問題にいろいろと示唆を与えてくれます─編者)
タビサ「そう、そうなの」
☆─
牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」
SB「罪にもいろいろあります。が最大の罪は神への反逆でしょう。神の存在を知りつつも、なおそれを無視した生き方をしている人々。そういう人が犯す罪が一番大きいでしょう」
牧師「われわれはそれを〝精霊の罪〟と呼んでおります」
SB「あの本(聖書)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」
48 視点・未来における生活 スピリティズムによる福音
未来における生活を明確かつ詳細に認識することは、未来に対する揺るがぬ確信を形成することになり、その、確信が、地上において人間を取り巻く生活に対する視点を完全に変えてしまうため、人類の道徳観念に多大な影響を及ぼします。その思考において自分を無限の霊的な生活に置くことが出来る者にとっては、肉体を持つ生活は単なる一過性のもの、不幸な国での一時的な滞在となります。
『端的に言えば、未来に心を託し、今日に対して必要以上の関心を持たない者は、失敗しても、自分を待ち受ける未来について考えて、容易に自分を慰めることができるのです。
神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみにおぼれることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした楽しみの濫用を予防することができます。「私の国はこの世のものではありません」。
未来における生活を自分の身に起こることとして考えることのできる者は、少額を失うことに動揺せぬ金持ちの様な人です。地上の生活ばかりに考えを集中させる者は、持つもの全てを失い途方に暮れてしまう貧乏な人のようです』
スピリティズムは思考を広げ、新しい地平線を切り開きます。現世ばかりに集中した、狭苦しいほどの小さな視野は、地上に住む一瞬だけを唯一のはかない未来の基礎と考えさせますが、スピリティズムはそれと違い、現世というものが、調和のとれた壮大な創造主の一連の業の一端に過ぎないのだということを示してくれます。
こちらの国で必要なものは献身、つつましさ、慈善、全ての人に対する慈悲深さです。あなたが地上でなんであったか、どんな身分であったか問われません。あなたがどのような善を働いたか、どれだけ涙を乾かしてあげることが出来たかが問われるのです。人生の苦しい道のりが天へ導いてくれるのです。
(あるフランスの女王 ルアーブル 一八六三年)
49 前世に存在する苦しみの原因 スピリティズムによる福音 ℘101
しかし、その翌日、労働者の頭上にはまた太陽が輝き、新しい日が始まり、失った時間を取り戻すことができるように、人生においても、墓の中で過ごす夜が過ぎると、新しい太陽が輝くのです。その、新しい人生の中で、過去の経験や、未来へ向けて固めた決意を生かすことが出来るのです。
前世に存在する苦しみの原因
六、しかし、その人自身が原因となっている苦しみが現世に存在する一方で、他には少なくとも見かけはその人の意思とは全く関係なく、宿命のように訪れる苦しみもあります。
例えば、親愛なる人や、家庭を支える者の死のように、誰にも防ぐことのできない事故、全く手の打ちようのない富の没落、自然の災害、生まれつきの病気、特に、その不幸な者から働いて生計を立てる手段を得る可能性も剥奪してしまうような病気、身体の障害、知的障害。
こうした状態で生まれる者は現世においては、そのような悲しい運命に遭わねばならないようなことは何もしていないし、その償いを受けることも出来ません。またそれを避けることは出来ず、それを変えることも出来ず、社会の慈悲の恩恵を受けることになります。何故同じ屋根の下に同じ家族だというのに、この哀れな者の横には、全ての知覚においてその者より優れている人々が居るのでしょうか。
早く死んで行った子供は、結局、苦しみしか味わうことしかできなかったでしょうか。こうした問題のいずれに対しても、どの哲学も未だに答えを出していません。どんな宗教も正しい明解な理由を説明することが出来ていません。肉体と魂が同時に生まれ、地球上で少しの時間を過ごした後、取り消すことのできない決められた運命をたどるということであれば、こうした不幸や異常は神の良心、正義、意志を否定するものなのでしょうか。
神の手元から離れて行ったこのような不幸な人達は一体何をしたのでしょうか。現世においてこれほど惨めな思いを強いられ、良い道も悪い道も選択することが出来ないのであれば、すでに決められた償いか罰をまた将来にも受けなければならないのでしょうか。
全ての結果には原因が存在するという公理から、これらの苦しみにも何か原因があっての結果であると言えるはずです。正義に溢れる神の存在を信じるのであれば、この原因も正当であると考えられるに違いありません。いつでも原因は結果の先に立つものですが、原因が現世に見当たらないのであれば、その原因は現世以前、すなわち、前世に存在すると考えねばなりません。一方で、神は善行や、行ってもいない悪行を罰する筈がありません。もし私たちが罰せられるのであれば、私たちが悪行を働いたからであるはずです。
とすれば、もし、現世で悪行を行っていないのであれば、前世においてそれを行っているということになります。現世か前世のいずれかにおいて苦しみの原因が存在するということは、免れることのできない事実なのです。この様に、私たちの道理は、そうした事実の中に働く神の正義というものがいかなるものかを教えてくれるのです。
つまり人間は現世の間に犯した過ちだけ罰せられている訳でも、また現世のうちに完全に罰せられて終わる訳でもありません。過去における原因が生んだ結果から逃れることなく最後まで従う必要があるのです。悪人の繁栄は一時的なものでしかありません。
もしその人が今日償う事が出来なければ、明日償わねばならないのです。すなわち今日苦しむ者は、過去における過ちに対する償いを行っているのです。一見その人にとって相応しくない苦しみも、その存在理由があるのです。苦しむ者はいつもこのように言うべきです。「神よ、過ちを犯した私をお許しください」と。
七、前世に存在する原因から来る苦しみや、または現世に始まった原因による苦しみは、常に人生におけるその人自身の過ちから来るものです。厳しく公平に行き亘る正義によって、人は他人を苦しめた方法と同じ方法で苦しむのです。冷たく非人間的な人は、冷たく非人間的に扱われることになります。自尊心の高すぎる者は屈辱的な経験をさせられるでしょう。ケチで利己的な人、物質的な富を悪用する人は、その有り難さや必要性を感じさせられることになるでしょう。悪い子であれば、自分の子供に苦しめられる、と言うように様々です。
このように、人生の多様性や、償いの世界としての地球上での運命が、地上の善人と悪人の間に不均一に分配された人間の幸、不幸の理由を説明してくれます。この不均等性は単なる見掛け上のものでしかありません。なぜなら私たちは現世においてしか各々の問題を見る事が出来ないからです。しかし思考によって心を持ちあげ、連続性のある人生を考えてみれば、霊の世界において決められている通りに、各々にはその人に相応しい人生が与えられているという事を理解する事が出来、そこに神の正義が欠ける事はないという事が分ります。
人間は低級な世界に生きている事を忘れてはなりません。人間がそこに存在するのは、人間の不完全性のためなのです。苦しみに出遭うたびに、そのような苦しみも、より高級な世界へ行くことが出来れば味わうことが無いのだということを思いだし、また、地上へ再び戻ってくるかどうかということは、各々の努力とその向上にかかっているのだということを認識しなくてはなりません。
第5章 苦しむ者は幸いです へ飛ぶ
50 真の善行 スピリティズムによる福音℘246
親愛なる友たちよ、私はあなたたちが、「私は貧乏だから、慈善を行うことはできない」と言うのを毎日聞き、あなたたちが同胞たちに対して寛大さを欠いているのを毎日見ています。あなたたちは何を赦すこともなく、とても厳しい判事であるかのようにとりすまし、自分に対してそのように振る舞われたら満たされるかどうかなど考えようともしません。寛大なることも慈善ではありませんか。寛大になることによってのみ慈善を行うことも出来るあなたたちは、それを広く行わなければなりません。物質的な慈善につては、一つ別の世界での話をしましょう。
二人の人がたった今亡くなりました。「この二人が生きている間、一人一人の善行を別々の袋に入れ、亡くなった時にその袋の重さを計ることができるようにして下さい」。と神は言ってあったのでした。
二人が最期を迎えると、神は二人の袋を持ってこさせました。一方の袋は大きく膨らみ、一杯に詰まった金が袋の中で鳴っていました。もう一つの袋は小さく、殆ど空っぽで、中に入っていた硬貨を数えることができました。一人が言いました。「この袋は私のものだ。見ればわかる。私は金持ちであったため、多くを人に与えることが出来た」。もう一人が言いました。こっちの袋が私のです。私は貧乏で人と分けあうものをほとんど持っていませんでした」。
しかし驚いたことに、二つの袋を天秤にかけると、大きく膨らんでいた袋の方が軽く、もう一方の袋の方が重いことを示し、殆ど空っぽだった袋が、最初の大きく膨らんだ袋の乗った天秤の皿を高々と持ち上げたのでした。すると神は金持ちに言いました。「あなたは確かに多くを与えました。しかし見栄を張り自尊心を奉る寺院にあなたの名前が現れるようにするために与えました。更に、自分自身で何を失うこともなく与えました。左側へ行き、僅かな施しに満足しなさい」。
次に、貧しい者に言いました。「友よ、あなたは少ししか与えませんでした。しかし天秤にかけられているこれらの硬貨一枚一枚は、あなたが自分から無理矢理奪って与えたことを示しています。あなたは施しを与えることは無くても、慈善を行い、何よりも価値があるのは、そのことが自分のために数えられるかどうかなど考えることもなく、慈善を自然に行ったことです。あなたは寛大で、同胞のことを勝手に判断することはありませんでした。
反対にあなたの全ての行いは同胞を赦すものでした。右側へ行き、あなたの報酬を受け取りなさい」 (ある守護霊リヨン、1861年)
────── もう一題
靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。こちらで出迎えた人もほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分如き身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで充分嬉しく思った。
案内されたところも地上近くの界層の一つで、決して高い界層では無かった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。と言うのも、苦労と退屈と貧困との戦いのあとだけに、そこに安らぎを見出し、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕も出来たからである。彼にとってはそこがまさに天国であり、皆が親切にしてくれて幸福そのものだった。ある日のこと(地上的にいえば)彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。
中を覗くと彼は一冊の本をどこと言うことなく読んでいる。その本は彼がその家に案内されて
ここがあなたの家ですと言われて中に入った時から其処に置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前を(何と言ったか忘れたが)を呼ぶと彼はむくっと起き上がった。
「何を読んでおられるのかな」と天使が聞いた。
「別に大したものじゃありません。どうにかこうにか理解できますが、明らかにこの界の者の為の本では無く、ずーと高い界のもののようです」と男は答えた。
「なんの事が書いてあるのであろう」
「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神の為に整然として働く上層界の男女の大霊団のことなどについて述べて有ります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとで暮らしていたようです。話しぶりがそれを物語っております。しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解力においても何一つ差別が無くなっております。
目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実から私はこの本はこの界のものでなく、遥か上層界のものと判断する訳です。その上この本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。と言うのは、政治家的性格や統率的手腕、リーダーとしての叡知、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかもしれませんけど・・・・一体何故こんな本が私の家に置いてあったのか、よくわかりません。」
そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である。彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴られた名前があるのに気付いたからである。戸惑いながら彼はこう言った。
「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今迄私の名前が書いてあるとはしりませんでした。」
「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは貴方の勉強の為ということです。いいですか。ここはあなたにとってほんの一時の休憩所にすぎないのです。もう充分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取り掛からなくてはいけません。ここではありません、この本に出ている高い界での仕事です。」
彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、尻込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です。」
そこで天使がこう語って聞かせた。
「そう言う言葉が述べられると言うことだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾で在り防衛手段の一つなのです。それにあなたには、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。
あなたにはあの地上生活の中で攻撃の為の武器も強化して鋭利にしておられた。例えば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の負担を軽くしてあげようと考えた。設ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。それをもっとうにしていられたほどです。
そのもっとうがあなたの魂に沁み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われませんその上貴方は日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植え付け、屋根ふき等を手伝い、ときには病気の友を見舞った。そのために割いた時間はローソクの明りで取り戻した。そうしなければならないほど生活費は困っておられた。
そうしたことは貴方の魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私達の肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないと言う、そう言う見晴らしが利く利点があるのです。ですから正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は暗く陰気に移ります。
その他にも、あなたの地上での行為と経緯について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれを措いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団がいるのです。
霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。その使命は地上近くの界を訪れ、他界してくる霊を引き取ることです。新参の一人ひとりについてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。もう、何時でも出発の用意ができておりそのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します。」
それを聞いた彼は跪き、額を天使の足元につけて涙を流した。そしてこう言った。
「私にそれだけの資格が有れば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一団の方を知りませんし、私に従ってくれないでしょう。」
すると天使がこう説明した。「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いの犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時、貴方はその肉体から抜け出て、いつもその界を訪れていたのです。そうです地上に居る時からそうしていたのです。
その界においてあなたも彼らと一緒に訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたの御存じの方ばかりの筈です。彼らも貴方をよく知っております。大天使も力になって下さるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません。」
そう言い終わると天使は彼を従えてその家を後にし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を超えて次の界へ行った。行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体が何処となく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはもはやかつての靴直しのそれでは無く、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。道中は長引いたが楽しいものであった。
(長引いたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の待つ所へやってきた。一目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見た時には、彼にはすでにリーダーとしての自信が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。
51 地上の霊媒
霊は人類にその未来を教えるためにやってきます。それは人類を善の道へ導くためで、この世で与えられた人類自身の進歩をもたらす物質的な仕事を減らすためではありません。また、人間の野心や欲望を満たすためでもありません。このことからも霊媒はその与えられた能力を悪用してはならないということをよく心得ておかなければなりません。
霊媒は霊の教えの通訳者として、霊の働きかける私たちの道徳的な変化を遂げるための、重要な役割を果たさなければなりません。霊媒が果たすことのできる役割は、その霊能力を向けた方向の正しさに応じます。間違った方向へ向ける者は、スピリティズムにとっては有益どころか、悪い影響をもたらします。彼らが与える悪い印象は、少なからぬ人々が、道徳的に変化することを遅らせることになります。ですから、同胞の善のために与えられた能力をどのように使ったかと言うことを問われることになるのです。
善霊の助けを失いたくない霊媒は、自分自身の向上のために働かなければなりません。その能力を伸ばして、大きくしたい者は、自分を神聖なる目的から逸らせてしまうあらゆることを避け、自分自身を道徳的に成長させなければなりません。
もし時々、善霊が不完全な霊媒を使うのであれば、それはそうすることによってその霊媒を善の道へ導こうとするからです。しかし、その霊媒の心が固く、善霊の忠告が聞きいれられない場合は、善霊はそのもとを離れ、悪が自由にそこへ入り込むことができるようになるのです(第二十四章 11,12 医者を必要としているのは健康な者ではない)。
ある期間にわたって、目覚めるようなひらめきを与えられておきながらも、善霊の忠告や通信を利用しなかったり、聞きいれない霊媒は、過ちを犯したり、無意味でばかげたことを訴えるようになり、明らかに善霊が離れていったしるしが見られるようになるということを、私たちの経験は教えてくれています。
善霊の救済を受け、軽はずみで偽った霊から解放されることが、すべての真剣な霊媒の継続的な努力の目的でなければなりません。そうでないのであれば、霊能力と言うものはそれを持つ者を害し、危険な憑依へと悪化させる不毛な能力でしかありません。
その責任を認識している霊媒は、いつでも奪われる可能性のある、彼のものではない一つの能力について、自慢するのではなく、それによってどのような善を得ることができるのか神に委ねます。通信が賞賛に値するものであったとしても、それによって自惚れたりはしません。なぜなら、通信と言うものがその霊媒の個人的な功労とは関係がないことを知っており、彼を通じて善霊が現れることが許されたことを神に感謝するからです。
通信の内容が非難の的となったとしても、そのことによって自分を責めたりはしません。なぜなら、そうした通信内容とは、その霊媒がつくりだすものではないことを知っているからです。そして彼は、自分が悪い霊の干渉を妨げるのに必要な能力をすべて持っておらず、よい通信手段ではなかったと反省するのです。ですから、そうした能力を得ようとしてください。そして不足している力を祈りによって求めてください。
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その体は、地球上でのような物質性を全く持っていないので、あらゆる肉体の必要性に束縛されることもなければ、物質に支配されていることによって生じる病気や肉体の老化に冒されることもありません。その知覚はより純粋になるため、地上の世界では物質の粗暴さが妨げとなっていた感覚をもとらえることができます。体の特殊な軽快さは、容易で敏速な移動を可能にします。
人類は自らの意思により過去の人生の面影を残すことが出来、生前に知られていた姿で出現します。しかし、その時には神の光に照らされ、内面の高尚な性格が形を変容させています。苦しみや感情によって打ちひしがれたような青ざめた顔つきではなく、画家たちが聖人の周囲に後光や光輪を描いたように、知性と生命が輝いています。
すでに多くの進歩を遂げた霊たちによって、物質が与える抵抗は少なく、体は非常に早く発達し、幼年期はほとんどありません。苦しみや心配から免れ、その人生は地上のものよりも均一的でずっと長いものです。第一に寿命はその世界の段階に比例します。死が肉体の分解という恐怖をもたらすことなどまったくありません。死は恐ろしいどころか、幸せな変容と考えられるため、そこでは未来に対する疑いは存在しません。
十、こうした幸運な世界では、人々の関係はいつも友情に溢れており、野心によって誰かに妨害されたり、隣人を隷属化しようとしたりする者はなく、戦争が起きることなどありません。奴隷主と奴隷という関係のような、生まれ持った特権などは存在しません。
53 憑依の実態
憑依現象は憑依される側の〝弱み〟又は〝自由意思〟によってそういう事態になることを許しているということで、それがない限り発生しません。──霊的憑依現象を発生させる〝弱み〟とは、現世又は前世における悪行への罰であり罪滅ぼしのことである。
──憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。
「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことができます」
──邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。その場合に第三者がその呪縛状態を解くことが出来るでしょうか。
「高潔な人格者が存在すれば、その意思の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。
ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物が居ても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意思を見せないかぎり、まったく無力です。というのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入れられても、それをむしろ快く思うものなのです。霊性の低い霊は高級霊から軽蔑されていると言うひがみ根性から救済に協力しようとしませんし、仮に協力しても邪霊集団の相手ではありません」
──悪魔祓い(エクソシズム)の儀式は邪霊集団を追い払うのに役立ちますか。
「役立ちません。真面目くさってそういう儀式をやっているのを見て、邪霊たちは小ばかにします。そして、ますます憑依現象を続けます」
──祈りはどうでしょうか。
「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願い事を並べるだけの者には援助の手は差し伸べません。ですから憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」
<霊界の悪の一大勢力とは?>
低級霊・邪悪霊は、単なるイタズラやカラカイから、あるいは妬みや憎しみと言った利己的な感情から地上人に働きかけます。幽界は地上的な腕力や暴力がまだ物を言う世界なので、ボス的な低級霊を中心とした小グループが存在するようになります。しかし低級霊はそれぞれが勝手気ままな行動するため、なかなか一致団結した組織活動ができません。〝善〟に対する共通の悪意や嫉妬から一時的に結束することあっても、時間とともに内部分裂を引き起こし長続きしません。
これまでキリスト教などの伝統宗教では、神に対峙する悪の一大勢力・組織的な神への反対勢力があるかのように教えてきましたが、実際にはそうしたものは霊界には存在しません。「善の神」対「悪のサタン」という二大勢力間の闘争の構図は、地上の宗教が作り出したフィクションです。聖書に書かれている堕天使サタンの話も、地上人が作り出した物語にすぎないのです。
要注意者はオーラを発散させている〝霊媒体質者〟です。その灯りは〝誘蛾灯〟の光りに映ります。低級霊の働きかけを跳ね返すことが出来ないならば〝憑依〟され生命に関わるような危険を招くことになります。
低級霊・邪霊を引き寄せなくするには──心霊現象に関心を向けない。物欲や色欲に流されず心を清く保ち、利己的な感情を持たない努力と、善行は最も悪霊が嫌う行為なのです。これが低級霊・邪悪霊に対する撃退法ですが、繰り返しますが憑依に至った場合〝高潔な人格者〟の助けも必要です。しかし、いかに優れた人物が居ても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意思を見せないかぎり、まったく無力です。
「インペレーターの霊訓」から
(注)──『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。
それは何時の時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)
そうした霊団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念のおもむくところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通いなれた悪徳の巣窟をうろつき回り、同類の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)
こうした現実が身のまわりに実在するのです。それに人間は一向に気づかない。そうした悪疫の巣がある──あるどころか、ますます繫栄し、のさばる一方でありながら、それを非難する叫び声がいったい地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも非難の声が上がらぬのであろうか。
なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》☆
「皆さんは霊力のひとかたならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、一歩一歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行きわたりつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれよりのち、キリストがもたらした教えのごとく(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。
今日キリストの御名のもとに教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。われわれが今あらたに神の始源からお持ちしている真理も、全ての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。われわれが恐れるのはわれわれの使命への反抗よりも、むしろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱くほどの関心すら持たない感覚のマヒした、冷ややかな、生命のない無関心です」
55 地上の生体解剖学者の逝く死後の世界 J・S・M・ワード著 死後の世界より
一体著者の目的が眞に社会同胞の安寧幸福を増進せんが為であるなら例えそれが生体解剖の書物であろうがそれは決して地獄には来ない。しかし多くの学者就中大陸の学者が生物を解剖するのは、解剖の苦痛がいかなる作用を生体に及ぼすかを調べて見たいという極めて不健全な好奇心から出発するのが多い。これは社会同胞に対して何等の効益もなく、又その種の書物の出版は徒に他人に同様の好奇心を促進させることになる。そんなものが地獄の所属となるべきは言うまでもあるまい。それから又、ある一部の科学者のやる実験じゃが、よしやその動機は善良であるにしても、その執るところの手段方法が愚劣を極める場合が少なくない。そんなものを発表する書物も矢張り地獄の厄介になる。他人に迷惑をかけるシロモノじゃからナ・・・・・・。』
『随分多勢の生体解剖学者がこちらへ来ているよ。──が、お前さんが想像するほどそんなに沢山でもない。生体解剖学者などというものは大抵は冷血動物に近いが、その中のかなり多数は純然たる学究肌で、少々眼のつけどろろが狂っているという位の所である。で、彼等の欠点はしばらく幽界で修業している中に大抵除かれるものじゃ。お前さんも知っとるじゃろうが、生前彼等の手に掛かって殺された動物は幽界でその復讐をやる。そうすると大概の学者は、これではいかんと初めて眼が覚めて前非を後悔する・・・・・・。
『何ぞ罪障消滅の方法でもありますか?』
『地獄では科学者達をどんなあん梅に取り扱っています?』
『そりァいろいろじゃよ。解剖学者などはこの図書館から遠くもない一つの病院に勤務している・・・・・・。』
『エッ病院・・・・・・。』
と吾輩びっくりして叫んだ。
56 存在の原理 ステイントン・モーゼス著「霊訓」から
授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある──神のため、同胞のため、そして自己のためにである。
一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。
悪がいかなる形態をとるかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形を取り、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。
現在と未来の繋がりを明らかにするために、結びつきの強い家族を例に取りあげてみることにしよう。こうした結びつきの強固な家族は珍しいのではあるが稀には存在しないこともない。ヘンウィック教授はB大学で物理学の講座を担当している。彼は妻アン・ヘンゥイックをこよなく愛していた。彼女もまた学究の夫を愛し、日常の全てを夫と子供たちのために捧げていた。
長男のマーチンは哲学専攻の学生でB大学の特別研究員を目差している。だが、娘のメアリーは十歳で亡くなってしまった。このことは堅固に結ばれた家族を見舞った身内での最初の不幸であったために、両親は暫くの間、無残にも最愛の子を奪い去った運命の過酷さに打ちひしがれ、悲しみに浸っていたのである。
年月の経過とともに記憶も薄れ、子供の面影が褪せてゆくにしたがって、悲しみも消えて行った。しかし生涯を全うすることなく逝った娘への想いは教授の心にしこりを残しており、彼は時たま幼い娘のことを思い出しては生きていたならば経験したことであろう様々な事柄を思い巡らせてみるのだった。
しかし実際のところは、メアリーが地上への再生を選んだ時、彼女は既に心霊進化のある状態に達しており、この物質の世界に長く留まる必要はなかったというのが真相である。彼女の魂は前の生涯において充分長生きをしていたので、もう一度完全な生涯を終えることは彼女の魂の発展にとっては不要であったのである。
それ故彼女は成人の経験を省いて幻想世界に生きる類魂の許へ帰ったのであった。彼女はゆっくりと前世の記憶を吸収し、その最盛期の状態へ入り込み、最も美しかった時の成人の肉体を想像によって文字通り創造することができたのである。そして睡眠中に彼女が両親と会う時はこのかつての肉体の姿をとった。
心の中にその形態(ナリスガタ)を思い描くことによっていつも同じ姿で現れることができたのである。彼女とヘンゥイック夫妻の間には固い永遠の絆があった。彼らは前世においても親密な関係にあったのであり、死の如き一時のぼんやりとした記憶の途絶などでとても絆を断ち切れるものではなかったのである。
であるから、両親は睡眠中「想像力の奥の間」ともいうべき意識のあるレヴェルにおいて娘と会っていたのである。このレヴェルのこの場所では、意識的記憶は働かない。この両親のようなケースでは、複体(ないし睡眠体)がこの経験の記録と関係を持っている。一方娘の方はそれを深層記憶に記録する。
彼女もまた、原則として三者の出会いの記憶を自分の世界で想い出すことはない。しかしこんな風にして両親達は娘と接触を保ち続け、やがて彼ら自身が大多数の死者達の仲間入りをするときには、睡眠中の経験を含めた主観的記憶を取り戻すのである。
ヘンウィック夫妻はメアリーの死後三十年ないし三十五年たってこちらの世界へやってきた。半世紀以上にも亙る時の隔たりにもかかわらず、娘との出会いに彼らは何の違和感も感じなかったのである。同じ魂の仲間として同じ類魂として彼らは睡眠中も接触を保つことができたのであった。
睡眠とは───あなた方がそれについて知れば───それ自体独自の、活発で生産的な生活なのである。睡眠中に眠るのは、単に肉体と表面意識と低次の意識のみなのである[原注2]。
青年期にも達しないうちに亡くなる子供のなかには、その後両親とは再会しない者もある。彼らはほんの一時の肉体だけの関わりをもったに過ぎないのである。彼らは魂としては互いに縁無き者どうしであった。つまり類魂によって結びついていない同士なのである。こうしたわけで、愛着は速やかに失せ、死後においてもこの両親は速く自分たちの許を去って行った子供たちと関わりをもたないのである。
類魂の中には「心霊原子集団」Psychic atoms というべき───もっと良い言葉があればいいのだが───ものが存在する。これは恐らく四ないし五の魂から成っているが、その数は必ずしも一定しない。とにかくこれらは類魂中の小集団であり、ヘンゥイック家の人々見られるように、進化の初期の段階において、他の魂とは結ばない特別に親密な生活を共にするのである。
一九一四年に世界大戦が宣せられたとき、マーチンはそのニュースを聞いて深く心を掻き乱された。彼はまだマーガレット・エラートンと婚約したばかりであったし、前途には洋々たる未来を望み見ていたところなのである。間もなく彼の年齢と気質の者なら誰も進んで従わぬわけにはいかない召集令状がやってきた。
彼は軍隊生活を嫌悪していたがやむなく一兵士として出征した。歩兵連隊へ入隊して二年を経ぬうちにフランスに送られ、他の若者たちと共に、激戦中、不意の無残な死を遂げたのであった。
死後の冥府に滞在中は、妹のメアリーが彼の許を訪れた。別れた後もなお残っていた二人の大きな愛の絆が彼女を兄の許へ引き寄せたのである。彼らは二人して幻想の国、すなわち地上的想像の世界を旅することになった。精妙なエーテル体を纏うようになった彼らの生活では、想像力が大きな働きをする。
彼らは以前と同じ大学町に住み同じような人生観をもって学問研究をしていた仲間たちと共に古い大学の環境を創造したのである。
マーチンは再び哲学の研究を始め、父親譲りの研究熱心でそれに打ち込んだ。彼は自分の欲求を満たすことができて幸せであったし、もし彼の人生があんなにも突然断ち切られていなければ結婚したであろうマーガレットとの別離は、妹の世話によってある程度埋め合わされていた。
年月の経過とともに弟のウオルターとマイケルは社会へ出て職に就き、それぞれに両親の生活から離れて行ったが、それでも彼らの愛情の結びつきは相変わらず強かった。マーガレットといえば、彼女はヘンウィック家とは完全に縁が切れてしまった。彼女は結婚し、中年になった時、夫と連れ立って外国旅行中、交通事故で亡くなってしまったのである。
そのため死後の世界で、彼女は面倒な問題に直面することになると思われる。夫のリチャード・ハーベイも彼女と同じ時に冥府への旅に旅立っていたからである。冥府での期間、彼女の魂はまどろみの状態で自分の思い出に去来する過去の生涯の場面に見入っていた。
こうした過去の点検を行ううちに、この未完成な魂の将来に関する見かけ上の難題は解決していたのである。マーガレットは、彼女の最初の恋人であるマーチンこそが霊的な似た者どうしであり、大事な人と分かったからである。一方夫の方には肉体的なつながりで惹かれているに過ぎず、それも死とともに消え去ったのであった。
「地上的想像力」の世界で、彼女は自分の心に巣食っていた満たされざる夢、すなわち、もし地上時代の或る日、無情にも彼女から引き離されてしまうことが無ければ味わえたであろう楽しいマーチン・ヘンウィックとの愛情生活を経験したのである。しかしマーガレットを愛していた夫のリチャード・ハーベイは、彼女を失うという悲しみに直面することになった。いったいこの幻想界は、空想的で努力の無い世界に相応しいどのような代償物を彼に与えてくれるであろうか[原注3]。
彼は母親に大変惹かれていた。冥府で過去を振り返ってみる間に昔の愛情が蘇ってきたのである。彼の母親は、この種の愛情に特有な保護的性格をもった賢明な母性愛を発揮した。彼の気持ちは母親に向けられた。そして彼女と生活を共にすることにした彼は、狩猟や大地主としての仕事に没頭し、また想像の材料から容易に作り出すことのできる昔懐かしい娯楽を母親と一緒になって楽しむのであった。
ヘンリック教授夫妻の例は大学生活者の典型ともいえる。彼らは、あまりにも常識的過ぎるところがあって、有限現実の世界───言い換えれば幻想状態のことであるが───を超えた生活を経験するには想像力に欠けたところがある。
しかし二人は少なくとも互いに愛し合っているし、他人の生活に対してはちょっと利己的な無関心さはあるにしても、おおむね温かい目で見ているのである。
そこで彼らが死後の長い回廊を通って行くとき、特別激しい反応をすることもなく、また創造的空想の暗部に導かれることもなかった。彼らの生涯は残酷さやこれといった悪徳に汚されてはいなかった。彼らは個人主義であって人類的共感には欠けていたが、上品で愛想のいい人達であったのである。
有限現実の幻想界において彼らは息子のマーチンや娘のメアリーに逢うという喜びを経験し、暫くの間懐かしいB大学の環境で幸せな生活を送ったのである。しかしながらメアリーとマーチンとその妻マーガレットは、より深く豊かな性情を持っていたために間もなく一段高次な世界へ昇っていくことになった。
彼らは幻想界において霊的で創造的な感覚を発達させために、地上記憶を基にした単調な生活に飽きてしまったのである。
そこで彼らは高次の冒険に乗り出していった。両親に別れを告げ、一時の彼らの欲求の全てを満たしていたあの古びた灰色の大学や、ゴシック風の教会の建物や、物静かで引きこもった環境を後にした。こうした変化を促す元となったのは、彼らの内面を新たに掻き立ててきた創造的衝動であった。
この衝動はもっと高く偉大な認識や新しい計画を探し求めていた。それらはもはや地上的記憶から作ることはできず、その概念、構造、実質も共に肉体を持っていた時の現実からは想像もできないものである。
実際のところ彼ら三人は「魂的な人」のレヴェルにあるのである。そうしたわけで、友人や家族や大学町───想像によって作られた───と別れることは悲しいのだが、次の存在階層である形相の世界に呼ばれているので出発をためらうことはない。彼らの熱烈で霊的に活発な性質が彼らを上の界へと進ませ、飛躍的な進歩を遂げさせる。感覚がだんだん精妙になっているので高貴な世界へ入ることが可能になったのである。
そこは広大典雅にして不思議な美と形に満ちた場所である。が或る点ではそこには地上界を思わせるものがなくはない。しかしその美と形の多様さは無限であり、人に知られていない色と光から成っている。この世界には、物の外形や外観における完全さが見られるが、それらは地上のもっとも偉大な芸術家たちの創作の中でもめったに実現しないほどの完成度を持つのである。
結びつきの堅固な家族の一員であることにはある種の不利益が伴う。こうした結びつきは利己心を生み、他人の存在に対する思いやりや配慮に欠ける点が出るからである。ヘンウィック夫人は母として妻としてあまりにも独占欲が強く、家族の結束を計るのは専ら彼女の役割であった。
こうした彼女の持ち前から夫や二人の息子のウォルターとマイケルとは互いに固く結ばれていたので、地上生活では家族以外の人々と確かな人間関係を持つことはできなかった。ウォルターは結婚したが、彼には母親の愛情が湿ったおしめのようにいつまでも纏わりついているために、夫としては失格であった。
不和が持ち上がり、二人はしばしば喧嘩をした挙句、遂に別れてしまった。その時からウォルターは金儲けに夢中になり、母とその家庭にしか興味を持たなくなった。
マイケルは結婚しなかった。彼の母の愛と父の自尊心は彼の自己愛を異常なまでに高めてしまったために、彼は自分以外の者を愛することができなくなっていた。しかし彼も父親のことは尊敬していたし、母親に対する利己的な愛情は持ち続けた。彼は町の道楽者となり、晩年には殆ど自分のクラブに入り浸っていた。
ウォルターは兄の後をすぐに追って霊界に赴き、今やすべての望みが満たされているようである。両親と二人の息子は記憶の世界で生きてそこに喜びを見出すであろう。地上では彼らは結びつきの強い家族であったが、死や別離によって一旦緩められた結び目は前以上に固く結ばれ、家族同士の結びつきは今や再び緊密になっている。
明らかに、四人全部が天国に到達したと言える。つまり彼らは昔の楽しみを見つけ、かつてのようにお互いに愛し合っている。しかしながら実際には、彼らは、霊的に見てきわめて未発達であり、自分自身では天国も地獄も想像する力を持っていないのである。彼らの魂は自分たち以外の他者を全く無視し続けることによってしなびてしまったのである。
地上におけるウォルターの主たる関心事は金儲けであった。そのために彼は家族の者から一目置かれていたし、そのことは又彼の母親への愛情の妨げにはならなかった。こうしてまともにではあるがかなりがめつく貯めこんだ財産によって大きな快楽を得ていたために、彼はケチで人には何も施さなかった。
こちらへ来ても最初まだ金の法則が働いている間は、彼は商品取引や株式売買に楽しみを見出していた。彼は相手となる仲間を見つけてそれらをやっては来たが、金儲けは間もなく魅力を失ってしまった。地上的想像の支配する世界では金銭はもはや価値の基準とならないことを発見したのである。
心と本霊の働きのお蔭で何でも望みがかなえられるので、誰も金を得たいとは思わなくなるのである。それに対して、美しく生き生きした生活や誠実な愛情の記憶を持つ人は、その記憶が豊かな財産となっている。
しかしウォルターは金儲けにばかりに熱中し、生活の中で人や物への愛情が欠落していたために心が貧困化していた。富める人なのに、彼の記憶といえば次々と金を生み出すことだけであったのである。
ただ母親に対してある種の愛情を抱いていたことは事実で、株式に失敗した時などはその憂いさから逃れるために気持ちを母親に向けて、母と子の昔ながらの関係に幸福を見出そうとしていた。
仲間の株式仲買人との金儲けが偽りのものであり、集めた金がどんなに巨額なものでも実は無意味なゲームに過ぎないと知るに従って、母親の愛も思慮のない馬鹿げたものであることに気づいた。彼への愛情は所有欲を満たすためのもので、自分の子だから愛していたのである。
と同時に父親がウォルターを誇りに思う気持ちも、経済的成功が評価されない世界に住んでいることを理解するに従って弱まって行った。ここでは金儲け以外のなにもでもできないようなものは乞食と見なされる。こうした魂は、たった一つの情熱しか持てず、想像力に欠陥のある心に支配されていて、魂の生活に必要な永遠の宝を蓄えることができないのである。
そのため、彼は心からあの地上世界、取引所で売った買ったの刺激的な生活、金持ちだったためにちやほやされたり下肢づかれたりする生活を恋しく思ったのである。
こうして彼は再び夢を見始めているのであるが、そうすると地上の牽引力と再生を促す力が働く。彼は中間地帯に入り、暫くさなぎ状態で休む。この状態で彼は自分自身の姿と過去の生きざまを鏡の中に観る。彼という存在をつくりあげているもの全てが次々と鏡の表面に浮かび出した時に、本霊の審判官がこのビジョンを総括し、彼に選択を迫るのである。
しかし今回は自分の魂の貧しさをある程度知って戻ったので、学びかつ進歩することのできる環境に生まれ自分を外部世界へ投げ出すことに努め、間違っても自分一個人とか一家族の為に利己的に生きることの無いよう気を付けている。
再生前の準備期間に本霊すなわち「上方からの光」はウォルターのために、彼に芽生えた向上心を発達させるのに最も良い地上環境を探し求めた。その環境は彼の世界観を広げ本性を豊かにするものでなくてはならない。
そのために彼は今や女性として生まれ、貪窮のなかでその人生の歩みごとに克服しがたい困難と遭遇しなければならいのである。もっと大事なことは、かつて彼は愛を蔑み拒絶したために、今度は人から愛を拒絶され孤独のうちに逆境のみが教えてくれる学習をしなければならないということである。
こうして魂は地上に戻ることによって前進する。新しい肉体にうまれ変わることによって意識の最も高次なレヴェルの生活を営むに必要な潜在能力を身に付けることができたのである。困難を通してこそ彼は自分を鍛え直すし、死を超えた精妙な世界で生きるための能力を増大させることができるのである。
学者らしくはあっても想像力を欠いた精神は思想の古い軌道を巡っているだけで、地上で大学の講座を担当していた時とまるで変わらなかった。
進歩のない合理主義的な唯物論者であり、相変わらず温情的な学者タイプであり続けた。ただ現在では、もし彼が自分の研究テーマをやりつくした時は、自分の自我は幻想がなくなると共に倦怠一色に色褪せ、解体していくのではないかとはっきり感じていた。
この考えに満足し彼は他の学者仲間と会い、不毛の部屋で同じことを反芻したり、がらくたを探し回ることに底の低い幸福を生み出していた。
一方、ヘンウィック夫人は彼の気を引くことも、彼を決まった轍(ワダチ)から引っ張り出すこともできなかった。そこで彼女の関心は独身の息子マイケルに向かい、彼に自分の幸せの拠り所を求めようとした。
ヘンウィック家の六人の内ではマイケルが最も霊魂の発達が遅れていた。地上を後にしたときは、あたら持てる才能を委縮させ、興味の範囲が情けないほど狭くなるに任せて、甚だつまらぬ男になりおおせていた。
彼は真の意味で生きたことなどなかった。というよりも生きることが副次的なことであった。
確かにこれといった悪徳はなかったかもしないが自己中心的で怠惰で、想像的エネルギーを全く用いず、兄のウォルターがそうであったような金銭への偏愛さえもなかった。
こうしたわけで、幻想界の夢からそろそろ目覚めかけていた母親は、彼との交わりに何の幸福も生きた温かみも見出すことができなかった。彼は母親に対し地上の時と同じありきたりの尊敬と顧慮を与えたのみであった。
自分自身たち帰ってみると、彼女の情熱的で独占欲の強い性格が彼女を息子のウォルターへのやみがたい愛情へと駆り立てた。そこで彼女は冥府の画廊に立ち戻り進路を選び直すことにした。彼女を導く霊が鏡に前に立ち、彼女に過去の一生でやった以上のことを見せる。
即ち息子が物質世界で様々な不幸な出来事にあっている様を映し出して見せる。ウォルターは今まさに物質界にあって困難な上昇の坂道を昇りつつあるのであった。
ウォルターの苦悩は彼女の母性の中に埋もれていた利他的な愛情を呼び覚まし燃え立たせた。彼女は地上へ帰っていきたくなかった。そのままいけば何世紀でも満足に過ごせる幻想の生活があったからである。
しかしウォルターへの心配が勝を占めた。彼女は、たとえそれが苦難を意味するものであっても、新しい地上生活の中で何らかの方法で彼を助けることが許されることだけを願って再生することに決めたのである。
彼女の願いは適えられた。そして同時に彼女自身も癒された。すなわち、母親としての欠点が修正され、前生における家族への悪影響も償われたのである。
ヘンウィック教授とその妻は、同じ類魂に属していた。そこで妻を失った彼は間もなく寂しさを感じ始め、知的な喜び以上の何か、同僚との議論に勝つこと以上の何かを求め始めた。もともと彼の心は多くの点で優れたところがあった。厳しく抑圧されていた感情が目を覚まし、人間らしい愛情や親しみのある特別な仲間を求める強い欲求を感じ始めていた。
努力の要らない生活はもはや彼を喜ばせず、うんざりしきっていたが、さりとて今の生活を捨てることも適わず、それが都合よく解体してしまいそうな見込みもないのであった。
ひき続き浄化の時がながれた。教授は娘やマーチンや妻を求めたが無駄であった。家族を結んでいた絆は解け、彼は地上生活で仲間から孤立させていた狭い排他性の代償を払わされるのであった。
マーチンは父親の孤独の叫びが色彩界までかすかに響いてくるのを聴き取った。そこで彼は幻想界まで戻り、父親にその姿を現すことはできなかったが、互いを結びつける愛情のお蔭で、指導霊として父親を導くことが出来た。マーチンの助けで、ヘンウィックは地上にいた時の過ちを修正することができた。
彼は家族の立場を離れて周囲の魂たちを見渡してみた。その結果、奇怪でねじまがった魂が住む死後の暗黒世界を訪ねることになったのである。そこで憐憫や同情の気持ちがかなり干からびた学者の心に湧き上がってきた。
パウロがエフェッサスの野獣どもと闘ったように教授もまた、地上を去ってからわれとわが創造の地獄に堕ちた人の生み出す妄想の怪物たちと闘ったのである。
他者への手助けをすることにより、次第に寛大な性情の発露をはばんでいた固い殻が破け、教授の魂は進化した。彼の発展を妨げていたものから解放されたので、彼は自己の内面の王国の持つ可能性にようやく気づいた。
愛情と言うものを知り、大自我の持つ創造的側面に気づき始めた。
そこで彼の魂は花開き、形相の世界(色彩界)への旅を許された。彼は息子と娘に再会し、「不滅」についての知識───すなわち、もし心と意識、想像力と愛と知恵によって導かれるならばのぼり究めることのできる荘厳雄大な頂についての知識───を手中にしたのである。
一方マイケルは何世紀もの間第三世界に無気力なまま留まり、ますます消極的となり、植物的、利己的な生活を送ることによってどんどん劣悪な意識の段階へ沈んでいった。
然し彼にもついに目覚める時が訪れ、兄と同じく地上に戻らねばならぬことになった。地上での身体障害者としての生涯が教育的効果を持ったために、彼は次第に変わってゆき、よき性情が目覚めていった。
再度の地上の旅路を終えた後で例の画廊を通り過ぎる時には、画面に映る自分の生涯の意味を理解できるまでに成長していたのである。
ヘンウィック家の者たちは個人として躓いたのではなく一団として躓いたのであった。そこで全体が壊れ、その部分は飛び散ったのである。
いつの日か彼らは再会することであろう。が彼らが進歩を遂げて必須で貴重な感覚、すなわち共同体的特性たる経験、叡智、生命、愛などの神聖な分かち合いの感覚をそれぞれに具えるまで、さまざまな異なった道に沿って時空を旅する───一例だけ例外があるが───ことであろう。
広辞苑で心とは
それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。精神とは何でしょうか。肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時に、その肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか?
あなた方の世界は私にとって全く魅力のない世界でした。しかし、要請された仕事があったのです。
何世紀にもわたって無視されてきた霊的真理を人類へ理解させることです。
一部の人間だけに霊力の証を提供するだけでは満足できません。その豊かかな霊的〝宝〟、驚異的な霊力が一人でも多くの人間に行きわたることを望んでいます。無数の人間が普段の生活において真理と知識と叡智の恩恵に浴せるように、というのが私どもの願いなのです。
神からの霊的遺産として当然味わうべき生命の優雅さ、豊かさを全く知らない人間の数の多さに愕然とさせられます。餓死の一歩手前でようやく生きている人々、地上生活の最低限の必需品さえ恵まれずにいる人々を座視するわけにはまいりません。地球の富の分配の不公平さを見て平然とはしておれないのです。
「お金は盗まれることがあっても知識は絶対に盗まれません。叡知も盗まれません。そうした貴重な真理はいったん身についたら永遠にあなたのものとなります」
人間は何らかの仕事をするためにこの地上に来ているのです。戦争に終止符を打ち、飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための霊の道具であることを力説する。変わらぬ基本姿勢は「生命の大霊とその永遠不変の摂理」です。
☆シルバーバーチはアルファベットの二十六文字を操って輝くばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型であり、名文家、文章の達人である。
59 シルバーバーチが地上へ戻る理由は!
(地上へ降りてくる気にさせるものは、あなた方のためを思う気持ち以外の何ものでもないことが分かっていただけるはずです。素晴らしい霊の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰が、ダテや酔狂で降りてまいりましょう)
霊の世界へ来た者がなぜ地上へ舞い戻ってくるのかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有り難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻ってくるのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。地上の住民を脅かす老いと病と数々の煩悩に別れを告げたのです。
地上との間に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰ってくるのは、あなた方への愛があるからです。素晴らしい光の世界から暗く重苦しい地上へ、一体誰が、だてや酔狂で降りてまいりましょう。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界より地上世界を見ると悲劇と悪行が目に余ります。
私たちがこうして地上へ戻ってきたのは、唯物思想が生み出してきた利己主義による不公正と無知と迷信を助長させてきた誤った宗教的教義に終止符を打つためです。
強欲と利己主義と略奪が横行し、改めねばならないことが無数にあることが分かります。そんな地上を少しでも良くしたい少しでも美しくするために自分を役立てたいのです。そこで同じ願望を抱く地上人を求めるのです。肉体に閉じ込められた者には美しさの本当に姿を見ることができません。
霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存知ない。そして、なお、死を恐れる。人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は人間は死んで初めて真に生きることになるのです。あなた方は立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。
霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際に行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
✲SBは『霊界へ送り込まれる人間の中に、廃残者、堕落者、霊的生活への備えがまるでない、無知と恐怖と迷信と偏見に満ちた者ばかりなのです』、同胞である地上人類への愛に発しているから戻るのです。
しかし、こうして再び地上へ戻ってくるときの私の気持ちはいつも味気無さです。地上は光と生命が欠けています。うっとうしくて単調で、活力に欠けております。まるで弾力性を失ったクッションのようで、何もかもがだらしなく感じ、生き生きとした魂、愉快な精神の持ち主は極めて稀です。
60 大霊、 神とは
「神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕に過ぎないわれわれがどうして主人(アルジ)を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けないわれわれに、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう」
「宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考が出来るでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなた方人間が理解できないのは当然です」
(SB霊訓12 -8章 )
自然界のいずこを見渡してもそこには必ず意匠があり構図があります。小は原子から大は星雲に至るまで数学的正確さと、芸術的美しさをそなえた設計があります。デザインがあるからには、それを設計したデザイナーがいるに決まっています。それを神と呼ぶのです。
アルファベットの寄せ集めによって哲学の大論文ができるわけがないのと同様に、宇宙が原子の偶然の集合によって出来あがったとは信じられない。
☆ 神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けぬ。用意のできている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。
(不滅の真理℘199) 霊力とは?=神
『霊の力は目には見えません。人間界で用いられているいかなる計量器でも計れないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色もなく、容積もなく、味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば、霊力というものはこの世に存在しないことになります。つまり実在とは五感で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊力は存在しないことになります。
しかし、愛は目に見えず、耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立派に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。確かに愛の力は強烈です。しかし霊の力はそれよりも無限大に強烈です。
あなたが生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも、霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動き回り、考え、言葉をしゃべるのも、霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、存在の全ては、霊の力のお蔭です。物質界の全て、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊力の流入によって、存在と目的と指針と生活とを与えられているのです。
物質界のどこを探しても、意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは、物質そのものの中には存在しないからです。物質は、それは一時的に間借りしている宿にすぎません。
霊の力は、あなた方が〝神〟と呼んでいるもの、そのものなのです。かつては火の固まりであったものを生命あふれる緑の地球にしたのです。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の成長にまで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊力なのです。その力は無限なのです。』
地上においても、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には神の存在を明瞭に感得できます。
イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17・22)と言いました。神はどこか遠く離れた近づき難い所におられるのではありません。あなた方一人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中にいるのです。自分の霊的成長と発達にとって必要な手段はすべて自分の中に宿しているということです。
それを引き出して使用することが、「この世に生まれてきたそもそもの目的なのです」
☆ 神は地上の楽しみを非難することはありません。しかし魂に損害を与えるまでこの楽しみにおぼれることを非難します。イエスの言った次の言葉を自分自身に応用させることができる者は、こうした愉しみの濫用を予防することが出来ます。『私の国はこの世のものではありません』
神=悪魔
いわゆる、悪魔は存在しないのです。『世界心霊法典ⅰ霊訓 12節 後段』にイムペレーター霊が〝悪魔も閻魔〟も存在せぬ。悪魔などは、自ら創造せぬ限り恐れるに足らず。と述べております。
この宇宙をこしらえた力が生命活動を司っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。
大 霊
(シルバーバーチのスピリチュアルな法則℘191)
「大霊は雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他、ありとあらゆる存在に──それがいかに極微であっても──必ず存在するように、あなた方にも存在します。大霊はあらゆるものに内在しています。あらゆるものが大霊なのです。魂は自分を自覚しているがゆえに大霊を知っております。スズメは大霊であるがゆえに、大霊はスズメを知っていることになります。風にそよぐ木の葉にも大霊が宿っているがゆえに、その葉っぱも大霊といえるのです」
太陽系の各天体は一定のスピードでそれぞれの軸を回転し続けておりますが、それを一秒の何分の一かにまで区切って計算してみれば、そこに気まぐれな偶然の入る余地はないほど正確であることが分かるはずです。
かくして情報の出し入れをするための手段となっている電磁場の本質を知ることによって、シルバーバーチの「霊力は全生命を創造した力であり、それが自然界の力のあらゆる動きと変化をコントロールしているのです」という言葉の本当の意味が理解出来はじめたことになります。
あまり想像をたくましくし過ぎてはいけませんが、物質体には例外なく電磁場があることが事実となると、地上の創造物であれば物質体の発達と維持のため、天体であればその回転とそこに生息する生命体の維持のために、不可欠の情報を提供するためのエネルギーの渦が受容体(感覚中枢)を中心として存在するはずです。
かくして全宇宙を通して、極微と極大とを問わず、あらゆる組織体は宇宙的知性、シルバーバーチの言う大霊によって、コンピュータ的な方式で提供される情報を電磁場内で授かっていることになります。つまり宇宙の全機構にわたって物質界を形成し維持している、人間の「幽体」に相当するもの、それに、肉体への養分提供と生殖細胞をつかさどるエレメンタル(ダブル)に相当するものが存在するということです。
これは動物界・植物界・鉱物にもあまねく広がっており、人類にはこの上に、今意識しているよりも一段バイブレーションの高い「精神」の磁場、霊的自我のはたらきの場がそなわっている訳です。シルバーバーチはこう言っています───「生命が人類において初めて個別化されるように、大霊も自然界のエネルギーとしてだけでなく意識をもった個的存在として顕現されることになります」
「ですから、あなた方は人間的存在として大霊の枠組みの中に組み込まれており、したがって大霊とつながっているのです。ということはあなたも大霊の不可欠の一部としての存在位置を占めているということです。そこに人間と下等動物との違いがあります。人間は個性を持った霊であり、大霊の一部なのです。
イエスが言ったとされている《汝らも神なり、汝らすべてが神の子なり》(祈祷書)はその通りであることが分かります。一人ひとりが肉に宿った霊であり、霊的発達程度に応じた分だけ神の属性を発現しており、その分に応じた程度だけ宇宙の進化に貢献できることになります。その視点から言えば、地上の総合的な現状が人類の総合的な発達のレベルを示していることになります。
──── 完 ────