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 切 抜 き ・    目 次

 

80  悪魔
79  生まれ変わり(障碍者)                     
78  霊界の位置
77  魂と肉体の合体            死産児の理由                   
76  知識には責任が生じる   それはパイオニアとしての責任────      
75 (米)の成長の理由 (不滅の真理)℘193 各界のゲストを招いて
74  前世の記憶    前世を教えていただいた方々  四例                                               
73  個的存在の消滅    モーゼスの霊訓より
72  死後のキリスト教信者 (死後の後悔)  新樹の通信から
71  ハリー・エドワーズの遺言   霊的治療の解明から
    
70  神とは       MHテスター著から 〝意匠〟と〝構図〟デザイナーは誰?
69  イースターメッセージ    苦の体験以外に魂の進化向上は有り得ない
68  人間は霊に常に指導されている
67  真の霊交 (真実の祈り)
66  死の瞬間を霊視  A・J・デービス
65  天使の物質化    世界心霊宝典ⅰ霊訓℘81  
64  魂をむしばむ罪悪 (コナン・ドイルの心霊学)から        
63  【孤独】とは                  
62  近藤千雄氏の両親と、師(間部詮敦氏)                               
61  地上的財産と霊的財産(死後どのように変わる?)             
         
60  娘のいないテーブル 「最後のパレード」ディズニーランドであった心温まる話   中村克 
59  挫折の法則    「世界心霊宝典Ⅴ 人間個性を超えて ℘334」      
58  霊能者の役割について 「世界心霊宝典Ⅴ 人間個性を超えて」から  
57  モーリス・バーバネルの死                                                            
56  
(同性婚ついて)  「最近の話題」         二つの性                                   
55  霊界の結婚        世界心霊法典ⅲ 死後の生活から                             
54  人間の霊的構成 世界心霊法典 ⅲ   (三位一体の関係)                        
53
  死後の世界の現実味  世界心霊法典 ⅲ                                       
52  肉食はいけない理由  「ペットが死ぬとき」シルビア・バーバネル著 
51   誤った死生観      M・H・テスター著「私は霊力の証を見た」℘93  
            
50  霊力を受けるのに最も適した心がけとは  
       
49  愛する人の死、早すぎた死         「スピリティズムによる福音」     
48   生命の書  不滅への道・永遠の大道   ジュラルディーン・カミンズ著    
47   イエスの変容   イエスの青年時代  G・カミンズ著   
46   近い死を感じた時   「スピリティズムによる福音」                
45   ゲッセマネの園  イエスの青年時代  G・カミンズ著 山本貞彰訳 
44   真なる財産              
43   地上における知性的な者の役割      「スピリティズムによる福音」   
42   家族の類魂  現世・死後・来世にまたがる進化向上の旅   世界心霊宝典Ⅴ 個人的存在の彼方 
41   乳房切除 生きるため      2014・8/19 朝刊/朝日新聞  その後   
            
40   祝福、その意味  ベールの彼方の生活Ⅱ  
39   求めなさい、そうすれば与えられます 
38   葬儀は本当に必要か   「私は霊力の証を見た」から            
37   暗黒界の探訪   (小キリストとの出会い)    VSオーエン ベールの彼方の生活Ⅲ  
36   第一界から第三界の生活模様  
35   なぜ、今霊的真理なのか?      シルバーバーチの新たなる啓示から
34   葬式代 どうします 長野県松本市「神宮寺住職」 朝日新聞    
33   幽霊を心のケアに 話すことで、不安和らぐ 朝日新聞      
32   動物から人間の魂へ        
31   ロバ「ブラックベア」の超能力   
             
30   日本の心霊治療家   九州長洲の生き神様「松下松蔵氏
29   絶対的な因果律       
28   デービスの宇宙創成説

27   A・J デービスの調和哲学 『世界心霊宝典ⅲ』から
26   シルバーバーチの祈り      YouTube 情報    Sさんより

25   靴職人  
24   霊団の大目的  
23   悪しき金持ちの話    
22   死後の魂のあり方を示す法則集
21  来世では殺される側を選んだ神父の霊
                
20  ユダの野望   イエスを銀貨三十枚で裏切ったのイエスの弟子
19  女霊能者・長南年恵
18  「天国のお子様ランチ    デズニーランドでの話

17  今でも活動しているシルバーバーチ霊団
16  宇宙創造の目的 

15  ヒーラーから見た人間の死の直後   (MHテスター)
14  小桜姫がみた死の直後(小桜姫物語)
13  心霊治療とは何か   MHテスター

12  池川明講演会より
11  白血病の少年のカルマ
                 
10  宇宙の全てが知れる仕組み
 9   種の起源
 8   十界の様子   (進化向上の果てない道)
 7 <瞑想>高級霊との接触方法 
                              
 
 
 

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 80  
   悪 魔         2019-5/7 世界心霊宝典1霊訓 12節 ℘132 

  
想像の産物に過ぎぬ〝悪魔〟の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純真なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。

悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

 彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ちうけている。悪魔などは、自ら創造せぬ限り、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当る霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食とはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。

試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己れの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあろう。が悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きづり下ろすなどということは絶対にない。

そうした懊悩も悲しみも良心の呵責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

 悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性壁そのものが悪を引き寄せる。

招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、隙を見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきに汝は軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

 友よ、汝はその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いたる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるべきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。

かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたにすぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落への道と引きづり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるべきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。

無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。汝らの想像せる物的炎ではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるべきは善霊を偽りて汝をごまかし、軽薄と誤りによって汝を翻弄せんと企てる低級霊たちである。

  ───この前後をお読みになりたい方は「世界心霊法典1 霊訓 十二節」を───


また、死後人間の魂は人間の魂の集まりであるそれぞれの界層が住処となり想像の産物である〝悪魔〟など存在するはずもなく、死後魂は赤裸々になり、邪悪な魂は邪悪な集合体でなければ住めないのです。全てが神の創造物である以上、神の道具として働いている天使たちや善霊さんのエネルギーに優る邪悪な魂など存在し得ないのです。

地上の病み苦しんでいる人々を、ではどうしてすべてを癒すことが出来ないのか?? それは人間には自由意思がある以上、その責任は己が取らねばならないからです。タネを蒔き、その刈り取りは己がするのです。

この法則(因果律)は神でも変えることはできない・・・と言うことです。だから反省と、改心と、お詫び、さらに善行によって罪(カルマ)を消す努力しか寛解に至る道はないようです。





79   再生(障碍者)                                               世界心霊法典ⅴ 四章 
 魂が障害を持った身体に生まれるということは、その魂が前世において失敗を犯し、その結果、或る特定の経験を積まなければその失敗を償うことができないためである。

 例えば白痴のように、見たところこの世の活動を抑止された魂の場合でも、物質界での機能は果たしており、漠然とながら地上生活での学習をつづけている。実際のところ、暴君とか宗教裁判の審問官であった人などがしばしば白痴や低脳者に生まれ変わっている。

彼らは死後の世界で自分達の犠牲者の苦しみを理解し同情することを学んだ。しかし時として、この反省過程が凄まじいほどのものである余り、これらの罪人の想像力の中枢が狂ってしまって、次の再生の期間を通して精神異常の一生をおくらなければならないことがある。


つまり、その者は過去の罪の意識に付き纏われ、自己の行為が生んだ夢魔的幻想や恐怖に襲われるのだが、こうした錯乱の状態は彼の不幸な犠牲者たちが復讐したがっていることを知るとますます強化されるのである。

 再生に関しては定まった法則というものはない。進歩の或る段階で魂は、過去の地上生活との関連性のなかで自己の本性を熟慮し、反省し、自己評価する。原始的心性の人はこれを自己の存在の深部を突き上げる本能───すなわち一種の感情的思考───によって行なう。

この時本霊がどういう方向に進むかについて助言する。魂は完全なる自由意思で選択するが、本霊が進むべき方向を指し示すと大抵その指針に従うものである。


 人間存在の背後に潜む力とはつまるところ想像力であることをよく心に留めておいてほしい。それが過去を記憶の形で保存する。もし一瞬たりとも自己の作った鋳型に固定されることがなければ、絶えず現在という時点において想像し、自己に必要なものを加え、不必要なものを除去する。

 従って、意識の各中枢に固有の新鮮な想像力を絶えず再認識せよ。この力にこそ、たとえその霊的生活のレヴェルがいかに低くとも、人類の未来への希望がある。

 魂の旅を研究する者は、死後の世界で、物質とエーテルの世界を出入りしている類魂の仲間達の旅路の模様を調べてみるだけでも、魂の旅がいかに多様なものであるかに気づく。

 何故なら、各魂には互いに差異があり、同じ本性、性格のものは二つとない。彼らの想像的な空想が、めいめいの間に差異と多様性を生み出すのである。そういう訳で、再生理論に関しては意識生活の全領域に共通する法則というものはありえないのである。




 
78
   
         霊界の位置                                       世界心霊法典ⅲ 

℘276
 肉体を去った人間すなわち霊魂は、したがって善悪の区別なく、万人共通の住処である霊界へ行く。ではそこはどんなところで、どこにあるのか。他界した霊から得た情報によると、死後の世界は地球を中心として幾層かの層をなして、幅の広いベルト状に地球を取り巻いているという。層の数は分け方、数え方によって異なるが、大体七つだというのが多い。

 層を構成している要素は地球そのもの、及び地球上の物体からの霊的放射物であって、その放射物は上空のある位置まで上昇して、そこで凝縮して霊的地球のようなものを構成する。重力の法則によって、精妙化の程度の進んだもの、言いかえれば霊的純度の高いものほど地球より遠く高く上昇するから、そこにそれぞれの程度の応じた界層が出来あがる。

 ある程度まで進化した天体には必ず霊界がある。それは今述べた事実すなわち霊界も物質界の放射物によって出来あがっていくということから当然のことである。人間に霊体があるように、すべての天体にも霊体があるわけである。人体そのもの及び食した物の精妙化によって霊体が構成されるように、死後の世界も物的天体の精妙化と放射物とによって構成されているのである。

 したがって結局地球の死後の世界は宇宙全体の霊界のごく小さな一部分にすぎないことになる。というのは地球の霊界の上には太陽の霊界があり、その上には太陽を中心とする太陽系全体の霊界があり、さらには太陽系の属する銀河系(小宇宙)の霊界があり、そして大宇宙全体の霊界がある、といったように、同じ霊界でも無数の段階があるのである。

とは言え、地球人類にとってこの地球圏の霊界から脱出して、より高い霊界、たとえば太陽の霊界へと進むにはよほどの年数をかけ、よほどの進化を遂げなければならないと言われる。
 以上が霊界、あるいは死後の世界の大ざっぱな概念である。


℘278  
 地球に一番近い最初の界層には未発達の霊が住み、向上進化するにつれて段々と上の界層へと進んでいく。上層界の叙述には最高の美辞麗句が使用してあり、地上で想像し得るかぎりの完璧な世界であるという。

 デービスによると、この七つの界というのはほとんど銀河系全体に行きわたっているという。わが太陽はその銀河系の一番外側に位置し、しかもホンの小さな天体にすぎない。銀河系は六つの恒星集団から成り、その一番中心にある太陽のまわりを回転している。

 各恒星集団すなわち太陽の一団にそれぞれの霊界があり、太陽及びその惑星の住民の死後の生活場となっている。

 わが太陽は銀河系の中心から五番目に位置する恒星集団の一員で、〝天の川〟もその一部である。一番外側に位置する六番目の集団はまだ恒星となるに至らない彗星状の天体の集団で、したがって霊界をもつに至っていないという。





 77  <魂と肉体の合体> スピリチュアリズムの真髄  思想偏 ℘162

 受胎の瞬間から結合作用が開始されますが、完了するのが誕生の瞬間です。受胎の瞬間に、その肉体に宿ることになっている霊と受胎した細胞とが流動質の紐で繋がります。その繋がりは日を追って緊密になり、出産後の産声によって地上の人間の一人となったことを告げることになります。

 しかし、物質的な繋がりは脆弱ですから、自ら選択した試練にしり込みして霊が強烈に拒否すれば、その繋がりは切断されます。その場合は胎児は死亡します。
 一般的には受胎の瞬間から意識の混濁が始まり、自分がいよいよ再生の過程に入ったことを直感します。その混濁は日を追って強まり、分娩に至ります。分娩が近づくにつれて意識は消え、過去の記憶も消え、それは誕生後もずっと思いだせません。死後霊界に戻ると徐々に記憶が蘇ります。






 76  不滅の真理 ℘223  
 そして最後に、地球浄化の大事業者に携わっている世界中の指導霊を代表する形で、こう激励した。

 「この事業が成功するかしないかは、皆さんのような地上の道具の忍耐力と共鳴度と理解力に掛っております。私も、これまでずいぶん永い間、みなさんを陰から導いてまいりました。せっかく順調に奉仕の道を歩んでいるのに、ふと迷いが生じて不純な動機を宿した時、私が、皆さんの良心の耳元で囁いて、無事正しい道に引き戻したことが何度あったか知れません。

 長年にわたるそうした苦労の末に、こうして同志の方を一堂に集めることに成功しました。その目的は、地上の人間が大霊の意図したとおりに霊的属性を発揮するにはどういう生き方をすべきかを教えてあげることです。皆さん方から背を向けない限り、私たちはこれからも忍耐強くこの仕事を続けてまいります。


 大霊から授かっている才覚を精一杯発揮して、一人でも多くの人に霊的真理を知らしめるのが、私たちの使命なのです。最初はごく少数の集まりでした。が、その滴のような小さな集まりが小川となり、やがて大河となって海へ注ぐことになるのです。

 スピリチュアリズムと呼ばれている新しい啓示が世界中に知れわたるのに、(十九世紀半ば以来)ほぼ一世紀を要しました。もう一世紀後には、その数は信じられないほど多くなっていることでしょう。皆さんはその先駆者(パイオニア)なのです」




 

75 (アメリカ)の成長の理由  
(不滅の真理)℘193 各界のゲストを招いて

 あなたの国(米国)はなぜあの短い期間にあれだけの進歩を成し遂げたか。それは一語に尽きます───寛容心です。英国が永い歴史の中で発展してきたのも、寛容心があったからこそです。

米国は人種問題、国籍問題、宗教問題を解決してまいりました。その歴史を通じて、全ての人種にそれぞれの存在価値があること、人種が増えるということは、いずれは優れた国民を生むことになることを学んできました。

  今あなた方の国民が体験していることは、やがて全世界が体験することになります。米国は、世界問題解決のミニチュア版のようなものです。たとえば、あなたの存在を分析してみても、遺伝的要素の一つ一つは確認できないでしょう。

それと同じで、米国は雑多な人種から構成されておりますが、その一つ一つが存在意識を持っており、雑多であるが故に粗末になるということはありません。逆に、豊かさを増すのです。

 成長の途上においては、新しい要素の付加と蓄積とがひっきりなしに行われ、その結果として最良のものが出来上ります。

それは自然と言うものが新しい力、新しい要素の絶え間ない付加によって繁栄しているものだからです。限りない変化が最高の質を生み出すのです。大自然の営みは、いっときの休みもない行進です」


☆☆────黄金律
 人生には個人としての生活、家族としての生活、国民としての生活、世界の一員としての生活があり、摂理に順応をしたり逆らったりしながら生きております。逆らえば、そこに暗黒と病気、困難と混乱と破産、悲劇と流血が生じます。順応した生活を送れば、叡智と知識と理解力と真実と正義と公正と平和がもたらされます。それが黄金律の真意です。




 

74 前世の記憶    七月読書会・掲示板から転載

 七月読書会で前世の分かるという方が出席なさいました。私も過去の治療依頼者の中に何例か霊界より過去世を教えていただいたことがあります。その方々へ霊界より教えていただいた過去世を伝えたところみな「納得」との返事でした。魂が知っているので納得されるのでしょう。しかし、こんな記述が私のメモから発見することができます。
(どこの霊界通信からのものであるか記されていないので分かりません)


 私は多くの前世を知っているという方に会いました。

女性の場合「クレオパトラだったとか楊貴妃だったという方がそれぞれ八人、男性の場合イエスだったという人が四人、古代エジプトの王だった」と言ったり、そのほとんどが有名人だったそうです。しかし「靴職人だった、農民」だったという人はいませんでした。もし、そういう人が居れば会いたいものです。・・・と。

☆────
この七月読書会後に、出席した多くの方々から〝前世〟を知りたい! との mail が届きました。霊界からは興味本位の前世は教えていただけません。とお断りいたしました。
 では、興味本位でない件とはどういう方でしょう。
 
その一、大卒後、停年まで病院の事務方として勤務、老後のためにと貯めた(四千万以上)投資詐欺に遭い一瞬にして失う。再生回数、地上生活で努力しなかった方 治療例 19 

その二、真理を探し求め辿りついた、シルバーバーチの霊訓、彼女には生まれながらの病〝吹き出物〟があった。その原因と、解決法を知った。(貧民農民 治療例 5 )

その三、生まれながら胸の圧迫感で苦しく〝これが自分〟とあきらめていた。それは五代前のカルマを清算する(カプセル)だった。(本物の人のためになる働きとは 治療例 41

その四、脊髄湾曲症の女性、大阪へ治療に出掛けた(私達の守護霊団からの指示)。
 等々です。(幼い天使の物質化  治療例 26

  いずれの方も今世で解決したい願望で 魂の奥底(懊悩)からの叫びでした。



 

73  個的存在の消滅

絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なる者への嫌悪感を育み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配されたる肉体に宿ることが多い。

成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇高心も、聖なるものへの望みも全て消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。

かくして魂は邪臭ぷんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息がつまるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。

かつて地上で同じ悪癖に身を滅ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は、自然の法則(おきて)を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。

そしてみよ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。都会に軒を連ねる酒場、哀れなる道楽者の屯する悪徳の巣窟にはかつて地上で同じように酒色と悪徳に耽りたる霊がうろつきまわる。

彼らは地上で飲んだくれの生活を送った。それを今また繰り返し、のみならず、そこに通い詰める人間を深みに引きづりこんでは、してやったりとほくそえむ。

汝がもしその邪霊の群がる場を一目見れば、悪のはびこる謎の一端を知ることが出来るであろう。悪の道にはまりし人間の再起を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊なのである。

地獄への坂道には狂えるが如き勢いで破滅への道を急ぐ邪霊がそこかしこに屯する。その一人一人が邪霊集団の拠点であり、人間を次々と破滅へと追いやっては、彼らと同じ惨めな境遇にまで引きづり下ろすことに快感を味わっているのである。

引きずり下ろされたものは肉体から離れるとすぐさま地上よりさらに下層の同種の境涯に引き寄せられていく。そして誘惑者と暮らしつつ、肉体を失いしのちも消えやらぬ激しき情念と酒色に耽るのである。

 こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。

地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界へ飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によって善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。

かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それよりさらに深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知り足るところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信じる。

 ああ、何と悲しきことであるか! が有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる〝死に到る罪〟である。聖書に言う〝聖霊に対する罪〟(3)である。




 

72   死後のキリスト教信者

私どもは堅いキリスト教の信者でございまして、殊に病気にかかってからは.一層真剣にイエス様の御手に縋りました。
 
私のような罪深い者が、大した心の乱れもなく、安らかに天国に入らせていただきましたのは、全くこの有難い信仰のお蔭でございます。実は私は在世中から、幾度も幾度も神様のお姿を拝ませていただきました。一心にお祈りしておりますと、夢とも現ともつかず、いつも神さまの御姿が、はっきりと眼に映るのでございまして、その時の歓びは、とても筆にも口にも尽くせませぬ。
 
そんな時には、私の肉体は病床に横たわりながら、私の魂はすでに天国に上っているのでございました……。』

 『成るほど』と菊地さんは心から感服して、

 『キリスト教も、なかなか結構な教えでございますな。臨終を安らかにすることにかけて、たしかに佛教に劣りませんな。……いや事によると、却ってキリスト教の方が優っているかも知れません。……それはそうと、あなた様の現在の御境遇は、どんな按配でございますか?
 
 生前から、すでに神さまのお姿を拝んだ位ですから只今では、さぞご立派なことでございましょう・・・・。』

 『ところが、こちらへ来て見ると、なかなかそうでないから、煩悶しているのでございます。私が人事不省に陥っておりましたのは、どれほどの期間か、自分には見当もとれませんでしたが、とに角私は誰かに揺り起こされて、びっくりして眼を開けたのでございます。辺りは夕闇の迫ったような薄暗いところで、くわしいことは少しも判りませんが、ただ私の枕元に立っている一人の天使の姿だけは、不思議にくっきりと浮かんでおります。

 「はて、ここはどこかしら……。」

───そう私が心にいぶかりますと、先方は早くもこちらの胸中を察したらしく、「そなたは最早現世の人ではない。自分はイエス様から言いつけられて、これから、そなたの指導に当たる者じゃ……。」と言われました。

 かねがね死ぬる覚悟は、できていた私でございますから、その時の私の心は、悲しみよりも、むしろ歓びと希望とに充ちていました。

 私は言いました、「天使さま、どうぞ早く私を神様のお側にお連れ下さいませ。私は穢れた現世などに、何の未練もありませぬ。私は早く神さまのお側で、御用を勤めたいのでございます。」

───すると天使は、いとど厳かなお声で、「そなたの醜るしい身を以ては、まだ神のお側には行かれぬ。現在のそなたに大切なことは、心身の浄化じゃ。それができなければ、一歩も上には進めぬ……。」と仰っしゃられるのでした。

 これが実に私がこちらの世界で体験した、最初の失望でございました。イエス様にお縋りさえすれば、すぐにも神さまの御許へ行かれるように教えられていたことが、嘘だったのでございます。
 
私の境遇は天国どころか、暗くて、さびしくて、どう贔屓目(ひいきめ)に見ましても、理想とは遠い遠いものなので、それからの私は、随分煩悶いたしました。のみならず、一たん心に疑いが崩すると同時に、後に残した良人のこと、子供のことなどが、むらむらと私の全身を占領して、居ても起ってもおられなくなったのでございます。つまり私の信仰は、死ぬるまでが天国で、後はむしろ地獄に近かったのでございました。

 私を指導してくださる天使さまも、こう言われました。「そなたは煩悶するだけ煩悶し、迷うだけ迷うがよいであらう。そうする中に、心の眼が次第に開けてくる……。」(後略)


───地上で魂をかけて学んだ学問や宗教などは、真実を知ったからとて、そう簡単に変えることなどできないのです。先日も「悪性リンパ腫皮膚がん」で治療におとずれた方に(この方は理工系卒)死後の生や神の概念を学ぶよう導きましたが、切り換えが大変なようです。

霊的治療におとずれて二か月近くしか経過していないのに皮膚がんの症状は安定しており、彼自身も寛解に向けて確信のようなものを掴んだようです。
 




  71 ハリー・エドワーズの遺言

 
最後にハリー・エドワーズが彼の妹と彼の家族に書き残した遺書から二、三のことばを引用したい。

 「人生の価値は、他人の幸せのために尽すところにあります。そしてこの〝価値〟は、地上生活を終えたあとにも、幸福な記憶として生きつづけるはずのものです。このことが私にとっても、何ほどかはあてはまるものであってほしいと思います」

 「もしそうであるならば、それを可能にしてくれたのは私のこの肉体です。それが私にたいへん役立ってくれたことを私は感謝しています。しかし私が肉体を離れる以上、その働きは終わったのであり、もはや無価値です」

 「葬式というものは肉体のためのものです。それをどんな形式で行っても、楽しからざるものになってしまうものです。ですから私は、今や無用のものとなった肉体を墓所に送るためのカラ騒ぎや儀式は一切なしにしたいのです。

 葬るだけでよいのです。私はいつまでもあなた方と一緒にいるのですから〝さよなら〟を言う必要はありません」

 「私はいつも、花が摘み取られ、針金で束ねて花輪に造られ、みる間にその可憐さを失ってゆくのを見るのがいやでした。それならばどうか、私を思いだしてくれる人は家に新鮮な花を飾ってください。火葬場に乾びて、翌朝にはごみとなって掃かれてしまうのを見るよりは、家に置かれた花を見たいものです」

 これらのことばはひたすら愛と奉仕に生涯を捧げたハリー・エドワーズの人柄を端的に表しているように思う。いったいどのようにすればこのような高潔な人格をこの世で練り上げることができるであろうか。

 ハリー・エドワーズはスピリチュアリストで、いわゆるキリスト教徒ではないと言われる。筆者はこれまでキリスト教には縁もゆかりもなかった者である。しかしなぜか、ハリー・エドワーズの人間像を通して、この異国の教えに最大級の敬意を感じさせられた。

そしてふと、次のような奇妙な想念を与えられたのである。ハリー・エドワーズこそは、時代を隔てて現れた、キリストの真の弟子ではあるまいかと。

                             訳者 梅原伸太郎



 70   神とは  

☆────不滅の真理(℘227)から


 「説く人自らが全生命の背後で働いている力について明確な認識を持っていれば、それは別に難しいことではありません。

 私だったら大自然の仕組みの見事な芸術性に目を向けさせます。ダイヤモンドのごとき夜空の星の数々に目を向けさせます。太陽のあの強烈な輝き、名月のあの幽玄な輝きに目を向けさせます。あたかも囁きかけるようなそよ風、そしてそれを受けて揺れる松の林に目を向けさせます。

さわやかに流れるせせらぎ、怒涛の大海原に目を向けさせます。そうした大自然の一つ一つの営みが確固とした目的を持ち、法則によって支配されていることを指摘いたします。

 そしてさらに、人間がこれまでに自然界で発見したものは全て法則の枠内におさまること、自然界の生成発展も法則によって支配され規制されていること、その全体に人間の想像を絶した、広大にして複雑な、それでいて調和した一つのパターンがあること、宇宙のすみずみに至るまで秩序が行きわたっており、惑星も昆虫も、嵐もそよ風も、

そのほかありとあらゆる生命活動が、例え現象は複雑をきわめていても、その秩序において経綸されている事実を説いて聞かせます。


 そう説いてから私は、その背後の力、全てを支えているエネルギー、途方もなく大きい宇宙のパノラマと、人間にはまだ知られていない見えざる世界までも支配している霊妙(くしび)な力、それを神と呼ぶのだと結びます」



☆────
 M・H・テスター著「背後霊の不思議」 11章4 から

(四)神の存在を信じますか
 私は信じます。自然界のいずこを見渡しても、そこには必ず〝意匠〟があり〝構図〟があることはご存知でしょう。

 小は原子から大は星雲に至るまで、数学的正確さと芸術的な美しさを具えた設計があります。デザインがあるからには、それを設計したデザイナーがいるにきまっています。それをゴッドと呼んでもエホバと呼んでもアラーと呼んでも、あるいは大霊と呼んでも生命力と呼んでも同じことです。

 ただし、神というものが人間と同じような姿恰好をしていて、常に自分への帰依の祈りを要求しているように説くのは私の理性が許さない。神はあくまでも人間の想像を超えた存在であり、われわれはその片鱗を僅かに見出しているにすぎないのです。

人間の霊的進化とは要するに神をより多く知ることだといってもよいでしょう。

 ボルテールはこんなことを言っています。

「宇宙のことを考え出すとわけがわからなくなる。が、私のはめている腕時計には間違いなくそれを創造した人がいるのと同じで、宇宙にもそれを創造した何者かがいるに違いない」と。

極大から極微までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実。神の法則の全構図と全組織がいかに包括的で完全であるか。

〇 アルファベットの寄せ集めで哲学の大論文ができるわけがないのと同様に宇宙が偶然に寄せ集まってできたとはとても信じられない。

〇 人間の身体は六十兆の細胞でできているというけれどこの六十兆の細胞が偶然に寄せ集まってできたのですか? 

 デザインがあるからにはデザイナーがいるに決まっています。そのデザイナーを神と呼ぶのです。





 69  イースターメッセージ 一八七六年  
                  世界心霊宝典ⅰ霊訓 三十節  ℘322~


 『磔刑(タッケイ)と復活───自己犠牲と新生』
 〔私は〝死〟と〝生命〟の問題、とりわけ霊性に係る象徴的側面について一層踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は〝死〟と〝復活〟との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生への道であると考えて良いかと尋ねた。〕

 その件に関しては昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。汝の言う象徴性が説明されている。すなわち、物質からの復活であり、物質の復活ではないとうことである。キリスト教会が祝い続けて来たさまざまな祭日のもつ霊的意義についても説明してある。参照するがよい。

〔言われるまま私は一八七五年イースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、顕現祭は霊的啓発、受難節は霊的葛藤、聖金曜日は愛の勝利、復活祭は蘇れる生命、聖霊降誕祭は豊かな霊的真理、昇天祭は使命の成就を意味するとある。〕
 
  その通りである。理想的人間像の手本であったイエスの生涯は、地上に始まれる生まれる進歩的発展が(汝らの用語で言えば)天国にて完成される───自己否定のなかに誕生し昇天の中に終焉を迎えることを象徴している。

人間はイエスの生涯の中に霊の肉体との結合と解放の過程を一つの物語を読む如くに読み取ることが出来よう。天使の加護のもとで三十年余の準備期間はイエスの使命にとって相応しきものであり、三年の短き期間も、人間の受け入れ能力に相応しきものを行使する上では十分であった。

人間の霊もその発達過程においては、教会が祝う祭に象徴される過程を辿る。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。

自己否定の中に誕生せる生命が犠牲的生活の中にて進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己及び敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、ついに物的なるものより超越し、イースターの朝、物質の墓より昇天し、それを機に豊かなる聖霊の洗礼を受けて新しき生命として生まれ変わり、ついに地上生活の徳性によって用意された境涯へと進む。

 これぞ霊の進化であり、磔刑(ハリツケ)と復活によって単的に象徴された霊的新生の過程と言えよう。古き自我が死に、その墓場より新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られて来た自我が十字架にかけられ、新たなる自我が神聖なる霊的生活を送るべく昇天する。

肉体的生活の終焉は霊の新生である。そしてその過程が自我の磔刑───パウロの言う〝日毎の死〟である。霊的進化の生活に停滞があってはならぬ。麻痺があってはならぬ。不断の成長であり日々の生活における真理の体得であらねばならぬ。

地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応せる霊的なるもの、天上的なるものの啓発であらねばならぬ。言い換えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生涯についての理解を深めることである。

物質的なるものからの超脱と霊的なるものへの発展───あたかも火によって、全てを焼き尽くすほどの熱誠によって焼き払う如く、物的汚れを清めていくことである。それは自我と自我にまつわる全てのものとの闘いであり、真の真理の終わりなき悟りのための行である。

 これを除いて他に霊の浄化の方法はない。鍛練の炉は自己犠牲である。これに例外はない。ただ霊的〝炎〟が一段と大きく燃えさかる偉大なる霊においては、その過程が急速であり、且つ一時期に凝縮されることがある。

一方鈍重なる霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と幾度も繰り返されることになる。いち早く地上的なるものより脱し、浄化の炎を有難く受け入れる者は幸いである。そうした者は進化も急速であり浄化も確実である。


───その通りだと思います。が、その闘争は厳しくて何から克服していくべきか迷います。

 先ず己より始めよ。古の賢人は魂の敵の表現において見事であった。魂には三つの敵がある───己自身とそれを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団である。これを古人は〝俗世〟と〝肉体〟と〝悪魔〟と表現している。

 まず己れ自身すなわち〝肉〟の克服より始めよ。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして自我を殺し、隠者的独房より出でて宇宙的同胞主義の自由なる視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まず己れ自身を克服せよ。

これが第一歩である。まず己を十字架にかけよ。そうすれば、己を埋葬せる墓地より、束縛なき魂が自由に羽ばたくことであろう。

 これさえ成就すれば、その魂にとって目に映じる物を忌み永遠なる価値に憧れるに至るのはさして困難ではない。真理は永遠なるものの中にのみ発見されるものであることを悟り、そう悟ったかが最期、それ以後は外界の物的形態を真理の影───人を迷わせ真の満足を与えぬ外敵として、ひたすらそれとの闘争を続けることになろう。

物質は殻であり、それを剥ぎ取ってはじめて真理の核が得られることを知るであろう。また物質は往々にして人を誤らせる儚き幻影であり、その奥に悟れる者のみが見出せる霊的真理が隠されている。

そう悟れる魂にとってはもはや、物的なるものを避けその殻を通して内部の真理を求めよと、改めて説く必要はない。その魂にとっては、表面(ウワベ)上の意味がいわば霊的理解力において幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的なる霊的真理が潜んでいることを悟っている。

物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかなる理解力に叶う真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。その魂にとっては真実の意味において〝身を棄ててこそ浮かぶ瀬〟もあるのである。

その生活は魂のための生活である。何となればすでに〝肉〟を征服し〝世間〟ももはや魅力ないからである。

 が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる。不倶戴天の敵とも言うべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通じて絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らす。信仰厚き魂はその一つ一つを首尾よく克服していくことであろう。が、地上生活においてそれが完全に絶える時はついぞ訪れぬであろう。

何となればそれはより高級なる霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏台だからである。

 以上が、簡単ではあるが、進歩的人間の辿る生活である。すなわち、己を十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活である。そこに停滞は許されぬ。休息もない。そして終息もない。

一日一日が死であり、そこより新たな生活が始まる。不断の闘争であり、そこより止まることなき進歩が得られる。魂に内在せる霊的ともしびが徐々にその光度を増し、ついに完全なる光輝となるための絶え間なき闘争である。汝らの言う天国はこうした厳しき闘争の末においてのみ得られるものである。




                      世界心霊宝典ⅰ霊訓 二十四節  ℘247
  68  人間は霊に常に指導されている


 真理普及の仕事において人間が頻りに己の存在価値を求めんとすることに、われらは奇異の念を覚える。一体人間はどうありたいと望むのであろうか。背後から密かに操作することをせずに、直接五感に訴える手段にて精神に働きかけ、思想を形成すれば良いとでも言うのであろうか。奇術師が見事な手さばきで観客を喜ばせる如くに、目に見える不可思議な手段に訴える方がより気高く有効であるとでも言うのであろうか。

われらが厳然たる独立性を持つ存在であることを示すに足るだけのものは既に十分に提供したつもりである。われらの働きを小さく見くびることはいい加減にして、われらが汝の精神に働きかける影響を素直に受け入れてほしい。

われらはその精神の中の素材を利用するからこそ、印象が強くなる。われらの仕事にとって不必要なものも取り除かれるのではないかとの心配は無用である。


───そんな懸念はもっておりませんが、ただ私も自分の個性だけは確信しておきたいという気持ちはあります。また偉大な思想家の中にはもっと広い観点から神の啓示を完全に否定している者が大勢おります。彼らが言うには、人間は自分に理解し得ないものを受け取るわけがないし、自分から考え出した筈もない内容の啓示を外部から受けて、それが精神の中に住み込むことは有り得ないというのですが・・・・・・ 


 そのことに関しては既に述べてある。それが如何に誤った結論であるかは、いずれ時が経てば汝にも判るであろう。汝はわれらの仕事を何やら個性を持たぬ自発性なき機械の如く考えたがるようであるが、それに対してわれらは断固として異議を唱えるものである。

第一、自分の行為をすべて自分の判断のもとに行っていると思うこと自体が誤りである。汝には単独的行為などというものは何一つない。常にわれらによって導かれ影響を受けていると思うがよい。





 

     67  真の霊交 (真実の祈り)   世界心霊宝典ⅰ霊訓 十三節℘137

 緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める〝神秘の間〟に入る者はよほどの霊性を開いたものにかぎられる。

同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それが汝らの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

 願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待するとおりのものとはかぎらぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねないのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。

当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

 人間がもっと祈りの生活をしてくれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り貴重なる試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強い的、かつ非現実的哀願のみに費やす礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

 真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得るべからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。

そのようなことを信じてはならぬ! 祈り───魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての直情的叫び───これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。

真の祈りとは魂と魂と直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みをいうのである。





 
  66  死の現場を霊視    
                               A・J・デービス 世界心霊法典 スピリチュアリズムの真髄から 

「患者は60歳くらいの女性で、亡くなられる八か月前に私のところへ診察のために来られた。

 症状としてはただ元気がない。十二指腸が弱っている、そして何を食べてもおいしくない。というくらいで、別に痛いとか苦しいといった自覚症状はなかったのであるが、私は直感的に、この人は遠からずガン性の病気で死ぬと確信した。八か月前のことである。

 最もそのときは八カ月後ということは分からなかった。(霊感によって地上時間と空間を測ることは私にはできないのである)しかし、急速に死期が近づきつつあることを確信した私は、内心ひそかに、その「死」という、恐ろしくはあるが、興味津々たる現象を是非観察しようと決心した。そして、そのための適当な時期を見計らって、主治医として彼女の家に泊まり込ませてもらった。

いよいよ死期が近づいた時、私は幸いにして心身ともに入神しやすい状態にあった。が入神して霊的観察をするには、入神中の私の身体が他人に見つからないようにしなければならない。私はそういう場所を探し始めた。そして適当な場所を見つけると、いよいよ神秘的な死の過程とその直後に訪れる変化の観察と調査に入った。その結果は次のようなものであった。

 もはや肉体器官は統一原理であるスピリットの要求に応じきれなくなってきた。が同時に各器官はスピリットが去り行こうとするのを阻止しようとしているかにみえる。

すなわち筋肉組織は運動(モーション)の原素を保持しようとし、導管系統(血管・リンパ管等)は生命素(ライフ)を保持しようとし、神経系統は感覚(センセーション)を保持しようとし、脳組織は知性(インテリジェンス)を保持しようと懸命になる。

つまり肉体と霊体とが、友人同士のように互いに協力し合って、両者を永遠に引き裂こうとする力に必死の抵抗を試みるのである。

その必死の葛藤が肉体上に例の痛ましい死のあがきとなって現れる。が私はそれが実際には決して苦痛でもなく不幸でもなく、ただ単にスピリットが肉体との共同作業を一つ一つ解消していく反応にすぎないことを知って、喜びと感謝の念の湧き出るのを感じた。

 やがて頭部が急に何やらきめ細かな、柔らかい、ふんわりとした発光性のものに包まれた。

 するとたちまち大脳と小脳の一番奥の内部組織が広がり始めた。大脳も小脳も不断の流電気性の機能を次第に停止しつつある。ところが見ていると全身に行き渡っている生体電気と生体磁気が大脳と小脳にどんどん送り込まれている。言い換えれば脳全体がふだんの十倍も陽性を帯びてきた。これは肉体の崩壊に先立って必ず見られる現象である。

 今や死の過程、つまり霊魂と肉体の分離の現象が完全に始まったわけである。脳は全身の電気と磁気、運動と生気と感覚の原素を、その無数の組織の中へと吸収し始めた。その結果、頭部が輝かんばかりに明るくなってきた。

 その明るさは他の身体部分が暗く、そして冷たくなっていくのに比例しているのを見てとった。

続いて驚くべき現象を見た。頭部を包む柔らかくてきめの細かい発光性の霊気の中に、もう一つの頭がくっきりとその形体を表し始めたのである。念のために言っておくが、こうした超常現象は霊能がなくては見ることはできない。

 肉眼には物質だけが映じ、霊的現象が見えるのは霊眼だけなのである。それが大自然の法則なのである。さて、その新しい頭の格好が一段とはっきりしてきた。形は小さいが、いかにも中身がギッシリ詰まった感じで、しかもまばゆいほど輝いているために、私はその中身まで透視することもできないし、じっと見つめていることすらできなくなった。

この霊的な頭部が肉体の頭部から姿を現して形体を整え始めると同時に、それら全体を包んでいる霊気が大きく変化し始め、いよいよその格好が出来上がって完全になるにつれて霊気は徐々に消えていった。このことから私は次のことを知った。

 すなわち肉体の頭部を包んだ柔らかでキメの細かい霊気というのは肉体から抽出されたエキスであってこれが頭部に集められ、それが宇宙の親和力の作用によって、霊的な頭をこしらえ上げるのだと。表現しようのない驚きと、天上的というでもいうべき畏敬の念をもって、私は眼前に展開するその調和のとれた神聖なる現象をじっと見つめていた。頭部に続いてやがて首、肩、胸、そして全身が、頭部の出現のときとまったく同じ要領で次々と出現し、きれいな形を整えていった。

 こうした現象を見ていると、人間の霊的原理を構成しているところの「未分化の粒子」とでもいうべき無数の粒子は「不滅の友情」にも似たある種の親和力を本質的に整えているように思える。霊的要素が霊的器官を構成し完成していくのは、その霊的要素の内部に潜む親和力の所以である。

と言うのは、肉体にあった欠陥や奇形が、新しくできた霊的器官では完全に消えているのである。言い換えれば、肉体の完全なる発達を阻害していた霊的因縁が取り除かれ、束縛から解放された霊的器官がすべての創造物に共通した性向にしたがってその在るべき本来の姿に立ち返るのだ。

こうした霊的現象が私の霊眼に映っている一方において、患者である老婦人の最期を見守っている人々の肉眼に映っているのは、苦痛と苦悶の表情であった。しかしそれは苦痛でも苦悶でもない。霊的要素が手足や内臓から脳へ、そして霊体へと抜けていくときの”反応”にすぎないのであった。

 霊体を整え終えた霊は自分の亡骸の頭部のあたりに垂直に立った。これで六十有余年の長きに亙って続いた二つの身体の繋がりがいよいよ途切れるかと思われた次の瞬間、私の霊眼に霊体の足先と肉体の頭部とが一本の電機性のコードによって結ばれているのが映った。

 明るく輝き、生気に満ちている。これを見て私は思った。いわゆる「死」とは霊の誕生に他ならないのだと。次元の低い身体と生活様式から、一段と次元の高い身体と、それに似あった才能と幸福の可能性を秘めた世界への誕生なのだ、と。又思った。

母親の身体から赤ん坊が誕生する現象と、肉体から霊体が誕生する現象と全く同じなのだ。へその緒の関係まで同じなのだ、と。今私が見た電気性のコードがへその緒に相当するのである。

 コードはなおも二つの身体をしっかりとつないでいた。そして切れた。その切れる直前、私は思ってもみなかった興味深い現象を見た。コードの一部が肉体へ吸い込まれていったのである。吸い込まれた霊素は分解されて全身へ行き渡った。これは急激な腐敗を防ぐためであった。その意味で死体は、完全に腐敗が始まるまでは埋葬すべきではない。

たとえ見かけ上は(医学上の)死が確認されても、実際にはまだ電気性のコードによって霊体とつながっているからである。事実完全に死んだと思われていた人が数時間、あるいは数日後に生き返って、その間の霊界旅行の話をした例があるのである。

 原理的に言えば、これはいわゆる失神状態、硬直症、夢遊病、あるいは恍惚状態と同一である。が、こうした状態にも程度と段階があって、もしも肉体からの離脱が中途半端な時は、その数分間、あるいは数時間の間の記憶はめったに思い出せない。

ために浅はかな人はこれを単なる意識の途絶と解釈し、その説でもって霊魂の存在を否定する根拠としようとするが、霊界旅行の記憶を持ち帰ることができるのは、肉体から完全に離脱し、霊的へその緒すなわち電気性コード(電線と呼んでもよい)によってつながった状態で自由に動きまわった時であって、その時は明るい楽しい記憶に満ちている。

 かくして、しつこく霊との別れを拒んでいた肉体からついに分離した霊体の方へ眼をやると、さっそく霊界の外気から新しい霊的養分を吸収しようとする様子が見えた。

はじめは何やら難しそうにしていたが、間もなく楽に、そして気持ちよさそうに吸収するようになった。よく見ると霊体も肉体と同じ体形と内臓を具えている。いわば肉体をより健康に、そしてより美しくしたようなものだ。心臓も、胃も、肝臓も、肺も、そのほか、肉体に備わっていたもの全てが揃っている。

 何と素晴らしいことか、決して姿格好が地上時代とすっかり変わってしまったわけではない。

特徴が消えうせたわけでもない。もし地上の友人知人が私と同じように霊眼でもってその姿を見たならば、ちょうど病気で長らく入院していた人がすっかり良くなって退院してきたときの姿を見て驚くように、

”まあ、奥さん、お元気そうですわ。すっかり良くなられましたね。”・・・そう叫ぶに違いない。

その程度の意味において霊界の彼女は変わったのである。彼女は引き続き霊界の新しい要求と高度な感覚に自分を適応させ馴染ませようと努力していた。

最も私は彼女の霊的感覚の反応具合を一つ一つ見たわけではない。ただ私がここで特記したいのは、彼女が自分の死の全過程を終始冷静に対処したこと、そしてまた、自分の死に際しての家族の者たちのとめどない嘆きと悲しみに巻き込まれずにいたことである。

一目見て彼女は家族の者には冷たい亡骸しか見えないことを知った。自分の死を悲しむのは、自分がこうして今生きている霊的事実を知らないからだ、と理解した。人間が身内や知人友人の死に際して嘆き悲しむのは、主として目の前に展開する表面上の死の現象から受ける感覚的な反応に起因しているのである。

少数の例外は別として、霊覚の未発達の人間、すなわち全てを見通せる能力を持たない現段階の人類、目で見、手で触れること以外に存在を確認できない人類、従って『死』というものを肉体の現象によってしか理解できない人類は、体をよじらせるのを見て痛みに苦しんでいるのだと思い、また別の症状を見ては悶えているのだと感じるのが一般的である。つまり人類の大部分は肉体の死がすべての終わりであると思い込んでいる。

が私はそう思い込んでいる人、あるいは死の真相を知りたいと思っておられる方に確信をもって申し上げよう。死に際して本人は何一つ苦痛を感じていない。仮に病でぼろぼろになって死んでも、あるいは雪や土砂に埋もれて圧死を遂げても、本人の霊魂は少しも病に侵されず、また決して行方不明にもならない。

 もしあなたが生命の灯の消えた、何の反応もしなくなった肉体から目を離し、霊眼でもって辺りを見ることができれば、あなたのすぐ目の前に同じその人がすっかり元気で、しかも一段と美しくなった姿で立っているのを見るであろう。だから本来「死」は霊界への第二の誕生として喜ぶものなのだ。然り。もしも霊が鈍重な肉体から抜け出て一段と高い幸せな境涯へ生まれ変わったことを嘆き悲しむのならば、地上の結婚を嘆き悲しんでも少しもおかしくないことになる。

 祭壇を前にして生身のまま墓地へ入る思いをしているとき、あるいは魂が重苦しき雰囲気の中で息苦しい思いを強いられている時、あなたの心は悲しみの衣服をまとうことになろう。が、本当は明るい心で死者の霊界への誕生を祝福してやるべきところなのだ。

 以上、私が霊視した死の現象が完了するのに要した時間はほぼ二時間半であった。

 もっともこれがすべての死、すなわち霊の誕生に要する時間ということではない。私は霊視の状態を変えずに、引き続き霊魂のその後の動きを追った。彼女は周りの霊的要素になれてくると、意志の力でその高い位置(亡骸の頭上)に直立した状態から床へ降りたって、病める肉体と共に数週間過ごしたその寝室のドアから出ていった。夏のことなので、すべてのドアが開け放ってあり、彼女は何の抵抗もなく出ていくことができた。

 寝室を出ると、隣の部屋を通って戸外へ出た。そして、その時初めて私は霊魂が我々人間が呼吸しているこの大気の中を歩くことができるのを見て、喜びと驚きに圧倒される思いであった。それほど霊体は精妙化されているのだ。彼女はまるで我々が地上を歩くように、いともたやすく大気中を歩き、そして小高い丘を登って行った。
 
家を出てから程なくして二人の霊が彼女を迎えた。そしてやさしくお互いを確かめ話を交わした後、三人は揃って地球のエーテル層を斜めに歩き出した。その様子があまりに自然で気さくなので、私にはそれが大気中の出来事であることが実感できなかった。

 あたかもいつも上る山腹でも歩いているみたいなのだ。私は三人の姿をずっと追い続けたが、ついに視界から消えた。次の瞬間私は普段の自分に戻っていた。戻ってみて驚いた。こちらは又なんという違いであろう。美しく若い霊姿とは打って変わって、生命の灯の消えた、冷え切った亡骸が家族の者に囲まれて横たわっている。まさしく蝶が置き去りにした毛虫の抜け殻であった。」                                                    (The Physician)

 続いて紹介するのは、実際に死を体験して霊界入りした者が、その体験を霊媒を通じて報告してきた、いわゆる霊界通信である。霊媒はロングリー夫人で、通信霊はジョン・ピアポンド・ロングリー夫人の指導霊である。

「自ら死を体験し、また何十人もの人間の死の現場に臨んで実地に観察したものとして、さらに又その「死」の問題について数えきれないほど先輩霊の証言を聞いてきた者として、通信者である私は、『肉体から離れていくときの感じはどんなものか』という重大な質問に答える十分な資格があると信じる。いよいよ死期が近づいた人間が断末魔の発作に見舞われるのを目のあたりにして、

さぞ痛かろう、さぞ苦しかろうと思われるかもしれないが、霊そのものはむしろ平静で落ち着き、身体は楽な感じを覚えているものである。もちろん例外はあるが、永年病床にあって他界する場合、あるいは老衰によって他界する場合、そのほか大抵の場合は、その死に至るまでに肉体的な機能を使い果たしているために、大した苦痛を感じることもなく、同時に霊そのものも恐怖心や苦痛をある程度超越するまでに進化を遂げているものである。

 苦悩に打ちひしがれ、精神的暗黒の中で死を迎えた人でも、その死の過程の間だけは苦悩も、そして自分も死につつある事実も意識しないものである。断末魔の苦しみの中で、未知の世界へ落ち行く恐怖におののきながら『助けてくれ…』と叫びつつ息を引き取っていくシーン。あれはドラマとフィクションの世界だけの話である。(中略)

 中には自分が死につつあることを意識する人もいるかもしれない。が、たとえ意識しても、一般的に言ってそのことに無関心であって、恐れたり慌てたりすることはない。と言うのは、死の過程の中ではそうした感情が薄ぼんやりしているからである。

(中略)意識の中枢である霊的本性はむしろ喜びに満ち溢れ、苦痛も恐怖心も超越してしまっている。いずれにしても霊がすっかり肉体から離脱し、おかれた状態や環境を正常に意識するようになる頃には、早くも新しい世界での旅立ちを始めている。

その旅が明るいものであるか暗いものであるかは人によって異なるが、いずれにしても物質界から霊界への単なる移行としての死は、本人の中には既に無い。

 かつては地上の人間の一人であり、今は霊となった私、ジョン・ピアポンド。かつては学生であり、教師であり、ユニテリアン派の牧師であり、そして自他ともに認めたスピリチュアリストであった私が、霊界側から見た人生体験の価値ある証言の一環として、いま「死」について地上の人々にお伝えしているのである。

 八十余年にわたってピアポンドという名のもとに肉体に宿っていた私は、その七十年余りを深い思索に費やした(中略)以前私は、自分が老いた身体から抜け出るときの感じを同じこの霊媒を通して述べたが、その時の感じは喜びと無限の静けさであることをここで付け加えたい。家族の者は私があたかも深い眠りに落ちたような表情で冷たくなっているのを発見した。事実私は睡眠中に他界したのである。

肉体と霊体とを結ぶ磁気性のコードがすでにやせ細っていたために霊体を肉体へ引き戻すことができなかったのである。が、その時私は無感覚だったわけでもなく、その場にいなかったわけでもない。

私はすぐ側にいて美しい死の過程を観察しながら、その感じを味わった。(中略)自分が住み慣れたアパートにいること、お気に入りの安楽椅子に静かに横たわっていること、そしていよいよ死期が到来したということ、こうしたことがみな判った。(中略)

 私の注意は、いまだに私を肉体につないでいるコードに、しばし、引き付けられた。私自身は既に霊体の中にいた。抜けでた肉体にどこか似ている。が、肉体よりも強そうだし、軽くて若々しくて居心地が良い。が細いコードはもはや霊体を肉体へ引き戻す力を失ってしまっていた。私の目には光の紐のように見えた。

私は、これはもはや霊体の一部となるべきエーテル的要素だけになってしまったのだと直感した。そう見ているうちに、そのコードが急に活気を帯びてきたように見えた。

と言うのは、それがキラメキを増し始め、奮い立つように私の方へ向けて脈打ち始めたのである。その勢いでついに肉体から分離し、一つの光の玉のように丸く縮まって、やがて既に私が宿っている霊体の中に吸い込まれてしまった。

これで私の全過程が終了した。私は肉体と言う名の身体から永遠に解放されたのである」    The Spirit Would  by M.E. Longley

ピアポントは同じ書物の中で一女性の死の過程を記述しているが、霊体の離脱と形体がデービスの記述と酷似している。「いま霊体から抜け出るところである。銀色のコードが緩み始めた。物質的エネルギーが衰え始めたのである。そして霊体が新しい生活環境に備えて形成されていく。真珠色をした蒸気のようなものが肉体から出て薄い霧のように肉体を包み、上昇していく。その出方が濃く激しくなってきた。

頭部から出ている、肉体のすぐ上あたりに集まったその霧のようなものは徐々に人間の形体をとり始めた。すっかり形を整え、下に横たわっている夫人とそっくりとなってきた。

今や肉体と霊体とは糸のように細く弱くなったコードでつながっているだけである。肉体は見た目にはすでに呼吸が止まっているかに見える。が、コードがつながっている限りまだ死の作業は終わっていない。やがてコードがぷっつりと切れた。そしてエーテル的要素となって霊体の中に吸収されていく。」  

 ピーブルスの霊界通信の中に出てくる一霊魂は、自分の死の過程がすっかり終了するまでにおよそ一時間半かかったという。また、霊体が肉体(の頭部)から出るときは決して霊体が分解されるのではないという。彼は言う・・・

「他界後私は何十もの死の場面を観察してきたが、霊体は決して分解されて出ていくのではなく、全体が一つとなって頭部に集まり、徐々に出ていくことが分かった。出てしまうと自由になるが、肉体から完全に独立するのは、両者をつないでいる生命の糸が切れた時である。事故などによる急激な死の場合は、かなりの間その糸が切れない」      (”Immortality and Employments Hereafter” by J.M.Peebles)

 ハドソン・タトルはその著「大自然の秘密」の中で、自分が入神状態で観察した死の過程を次の様に述べている。

「霊体が徐々に手足から引っ込んで頭部に集結してきた。そう見ているうちに頭のてっぺんから後光が現れ、それが次第に鮮明に、そして形がくっきりとしてきた。今抜け出たそっくりの形をしている。そしてその位置が少しずつ上昇して、ついに横たわっている肉体のそばに美しい霊姿を直立させた。一本の細いコードが両者の間に繋がっている。それも次第に萎縮していき、二、三分後には霊体の中に吸収されていった。これで霊魂は永延に肉体を去ったのである」("Arcana of Nature"  by Hudson Tuttle)

  以上が霊能者並びに実際に死を体験した霊魂の観察した死の真相である。読んでお分かりの通り、きわめて合理的であり、なるほどと思わせるものがある。どの観察記録も完全に一致しており、我々が見る臨終における様子とも一致している。

スピリチュアリズムの説く「死」はあくまでも自然で、科学的事実とも合致しており、我々はそれが真実であってほしいと願いたい。と言うのはスピリチュアリズムの説く「死」はいたって安らかであり、かつて言われてきた死にまつわる恐怖というものを完全に拭い去ってくれるからである。

しかもスピリチュアリズムによれば死はより幸せな、より高い世界への門出である。従って死の結果の観点からすれば、あるいは、また、死への準備の出来あがっている者にとっては、死は恐ろしいものではないどころか、むしろ望ましいものでさえある。デービスは「死の哲学」の章のところで最後にこう述べている。

「私が読者に訴えたいのは、老化による純粋な自然現象による死は何一つ恐れるものはなく、むしろ素晴らしいことばかりだということである。言ってみれば、死は、地上よりはるかに素敵な景色と調和のとれた社会へ案内してくれる素敵な案内者である。地上から一個の人間が去ったからと言って、ただそれだけで嘆き悲しむのはやめよう。

見た目(肉眼)には冷たく陰気でも、霊眼で見れば、肉体を離れた霊はバラ色の輝きに包まれながら旅立つのである。悟れる者、常に永遠の真理と共に生きる者には、死もなく、悲しみもなく、泣くこともない、のである。

死期を迎えたものが横たわる部屋を静寂が支配するのは致し方あるまい。が、ついに霊魂が去り肉体が屍となったならば、その時こそ静かに喜び、やさしく歌い、心から祝福しよう。何となれば、地上で肉体が滅びるときは、天国に霊魂が誕生するときだからである」  (The Physician)





   65  天使の物質化  世界心霊宝典ⅰ 霊訓  八節  ℘81 

 次に神とその創造物との関係について述べるが、ここにおいてもまたわれらは、長き年月に亙って真理のまわりに付着せる人間的発想による不純物の多くをまず取り除かねばならぬ。神によって特に選ばれし数少なき寵愛者───そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。

 盲目的信仰ないしは軽信仰がいささかでも効力を示した例をわれらは知らぬ。ケチ臭き猜疑心に捉われぬ霊の理解力に基づける信頼心ならば、われらはその効力を大いに認める。それは神の御心に副うものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せよう。

が、かの実に破壊的なる教義、すなわち神学的ドグマを信じ同意すれば過ちが跡形もなく消される───わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。

 またわれらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一顧の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。

汝らは気付くまいが、一個の人間を特殊なる信仰へ傾倒させていく地上的環境がわれらには手に取るように判る。それはそれなりに価値があることをわれらは認める。優れたる天使の中にさえ、かつては誤れる教義のもとに地上生活を送る者が数多くいることを知っている。

われらが敬意を払う人間とは、たとえ信じる教義が真理より大きく外れていても、真理の探求において真摯なる人間である。





  64

コナン・ドイルの心霊学 第四章 〝魂をむしばむ罪悪〟から

 霊界通信によれば、死後の向上を妨げる罪悪の中でいちばん厄介なのが、上流階級の生活が生み出す罪悪──因襲に縛られ、意識的向上心に欠け、霊性は鈍り、自己満足と安堵にどっぷりと浸った退廃的生活が生み出すものだという。自己に満足しきって反省の意識をツユほども持たず、魂の救済はどこかの教会か権力にまかせて、自らの努力を嫌う──こうした人間が最も危機的状態にあるというのである。

 教会の存在そのものが悪いというのではない。キリスト教であろうと非キリスト教であろうと、霊性の向上を促進する機能をはたしているかぎりは、その存在価値はあるであろう。が、そこへ通う信徒に、一個の儀式、あるいは一個の教義を信じる者が信じない者よりも少しでも有利であるように思わせたり、魂の向上にとって何よりも大切である〝刻苦〟が免除になるかの如く思わせる方向へ誘った時、その存在は有害なものとなる。

 同じ事がスピリチュアリズムについても言える。実生活での活動を伴わない信仰は何の役にも立たない。尊敬に値する指導者のもとで何の苦もなく人生を生き抜くことは可能かも知れない。しかし、死ぬときは一人なのである。そのリーダーがいっしょについてきてくれるわけではない。そして霊界入りしたその瞬間から、地上生活から割り出される水準の境遇に甘んじなくてはならない。霊界通信はそう説くのである。




 

63 真理への道は孤独です。
 
 孤独とは
(各自の霊的進化のレベルが異なるという、その単純な事実に由来する衝突がたくさんあります。霊的覚醒というのは霊性の進化とともに深まるものです。となると、あなたが高級霊との一体関係を確立しても、あなたと同じ発達段階に到達していない者がそれに参加することができないのは明白なこと)

※では治療能力はどうやって発達させるか。その答えはサークル活動に参加することだけではありません。それもプラスにはなります。心に宿す動機も発達を促します。日常生活の生き方によっても発達します。

可能なかぎりの純粋性と完全性を目標とした心がけによっても発達します。


 自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。よい治療家になる方法を教えてくれる書物はありません。

ひたすら他人のために役立ちたいと願い、こう反省なさることです。〝神は自分に治病能力を与えてくださったが、果たしてそれに相応しい生き方をしているだろうか〟 と。これを原理として生きていれば、治病能力は自然に力を増し質を高めていきます。  (霊訓⑨ P180)





62 近藤千雄氏の両親と、師(間部詮敦氏) 

この道の恩師である間部詮敦(以下先生と言わせていただく)との出会いは私が十八歳の高校生の時で、そのとき先生はすでに六十の坂を超えておられた。

その先生がしみじみと私に語られたのが〝この年になってやっと自分の使命が何であるかが分かってきました〟という言葉であった。私は〝先生ほどの霊格をおもちの方でもそうなのか〟といった意外な気持ちでそれを受け止めていたように思う。

その私が五十の坂を超えて同じ自覚をもつに至った。この心境に至るのに実に三十年の歳月を要したことになる。

 ここで改めて打ち明けておきたいことがある。実はその出会いから間もないころ先生が私の母に、私が将来どういう方面に進む考えであるかを非常に改まった態度でお聞きになられた。(そのとき先生は私の将来についての啓示を得ていたらしい)

 母が「なんでも英語の方に進みたいと言っておりますけど・・・・・・」と答えたところ、ふだん物静な先生が飛び上がらんばかりに喜ばれ、びっくりするような大きな声で、

 「それはいい! ぜひその道に進ませてあげてください」とおっしゃって、私に課せられた使命を暗示することを母に語られた。何とおっしゃたったかは控えさせていただく。ともかくそれが三十余年余りのちに今たしかに実現しつつあるとだけ述べるに留めたい。

 母はそのことをすぐには私に聞かせなかった。教育的配慮の実によく行き届いた母で、その時の段階でそんなことを私の耳に入れるのは毒にこそなれ薬にはならないと判断したのであろう。私が大学を終えて先生の助手として本格的に翻訳の仕事を始めるようになってから「実は・・・・・・」といって打ち明けてくれた。

 母は生来霊感の鋭い人間であると同時に求道心の旺盛な人間でもあった。当市(福山)に先生が月一回(二日ないし三日間)訪れるようになって母が初めてお訪ねしたとき、座敷で先生のお姿を一目見た瞬間〝ああ、自分が求めてきた人はこの方だ〟と感じ、〝やっと川の向こう岸にたどり着いた〟という心境になったと語ったことがある。

 それにひきかえ父は人間的には何もかも母と正反対だった。〝この世的人間〟という言葉がそのまま当てはまるタイプで、当然のことながら心霊的なことは大きらいであった。

それを承知の母はこっそり父の目を盗んで私たち子供五人(私は二男)を毎月先生のところへ連れていき、少しでも近藤家を霊的に浄化したいと一生懸命だった。

やがてそのことが父に知れた時の父の不機嫌な態度と、口をついて出た悪口雑言は並大抵のものではなかったが、それでも母は自分の考えの正しいことを信じて連れて行くことを止めなかった。

 そのころ運よく当市で催された津田山霊媒による物理実験会に、それが如何なる意義があるかも知れないはずの母が兄と私の二人を当時としては安くない料金を払って出席させたのも、今にして思えば私の今日の使命を洞察した母の直感が働いたものと思う。

当時は津田山霊媒も脂の乗り切った時期で、『ジャック・ウェーバーの霊現象』に優るとも劣らぬ現象を見せつけられ、その衝撃は今も消えていない。

 当時のエピソートは数多いが、その中から心霊的にも興味あるものを一つだけ紹介しておきたい。

 当時の母は一方では近藤家のためだと自分に言い聞かせつつも、他方、そのために必要な費用はそのことを一ばん嫌っている主人が稼いでくれているものであり、しかもそれを内しょで使っているということに心の痛みを覚えていた。

そこである夜、さきに寝入って横向きになっていびきをかいている父に向って手を合わせ〝いつも内しょで間部先生のところへ行って済みません。

きっと近藤家のためになると思ってしていることですから、どうかお父さん許して下さいね〟と心の中で言った。すると不思議なことに、熟睡しているはずの父が寝返りをうちながら〝ああ、いいよ〟と言った。それを見て母は〝ああ、今のは守護霊さんだ。

守護霊さんは分かってくださってるんだ〟と思って、それまでの胸のつかえがきれいに消えたという。けだし母の判断は正解であった。私はこの話を母から二度聞かされたが、この話には母の人間性のすべてが凝縮されているように思う。

〝苦〟と〝忍〟の中にあってなお思いやりの心を忘れないというのは、宗教的な〝行〟の中よりもむしろこうした平凡な日常生活での実践の方がはるかに難しいものである。

シルバーバーチが〝何を信じるかよりも日常生活において何を為すか───それが一ばん大切です〟と述べているのはそこを言っているのである。

 母はこうした心霊的なエピソートがいろいろとあるが、今そのすべてを語っている余裕はない。ともかくそれらのすべてが今私がたずさわっている英国の三大霊訓およびこれから発掘されていくであろう人類の霊的遺産の日本への紹介という仕事に繋がっていることを、今になってやっと痛感させられているところである。

 私は最近その母のことを生身の背後霊だったとさえ思うようになった。母にも母なりの人生があったことであろうが、その中での最大の使命は私を間部先生と縁づけ、そして以後ずっと勇気づけ父から庇ってくれたことにあったように思う。

あるとき母が少しはにかみながら私に一通の封書を見せてくれた。間部先生からの達筆の手紙だった。読んでいくうちに次の一文があった───〝あなたのような方を真の意味でのの勝利者というのです・・・・・・〟母にとってこれ以上の慰めとなる言葉はなかったであろう。

 では父はどうかと言えば、最近になって私は、そういう父なかりせば果して今日の私にこれだけの仕事ができたかどうか疑問に思うことがある。

もしも父が俗に言う人格者(これは大幅に修正を必要とする言葉となってきたが)で聞き分けのいい人間だったら、こうまでこの道に私が情熱を燃やすことにはならなかったのではないかと思われるのである。


 母は真の人生の指導者を求め続けてそれを間部先生に見出した。そしてそれを千載一遇の好機とみて、父から何と言われようと、何とかして子供を先生に近づけようとした。

そして私が大学を終えたのち父の期待を裏切って何の定職にもつかずに先生のもとへ走ったことで父が激高し、その責任を母になすりつけても、母は口応えすることなくじっと我慢して耐えてくれた。

こうしたことの一つ一つが節目となって私はこの道にますます深入りしていった。そうした観点から見るとき、その父の存在もまた神の計画の中に組み込まれていたと考えることができる。今ではそう信じている。

 その父がこの〝あとがき〟を書いている日からちょうど一か月前に八三歳で他界した。

母がいかにも母らしくあっさりと十年前に他界したのとは対照的に、父は二年間の辛い療養生活ののちに息を引き取った。二年前、私の『古代霊は語る』が出て間もないころに脳こそくで倒れたのであるが、その時はすでに私のその本をひと通り読み通していて、〝すらすらと読めるからつい最後まで読んじゃった。

もう一度読み直そうと思っているよ〟と語っていた。それから一週間もしないうちに倒れて長男の家で療養を続けていたのであった。

 その父が一週間前にやっと私の夢に姿を見せてくれた。白装束に身を包み、元気だったころとは見違えるほどアクの抜けた顔で立っていたが、私が顔を向けるとうつむき終始無言のままだった。

これから修行の旅にでも出かけるような出で立ちで、ひとこと私に言いたいことがあるような感じがした。それは口にこそ出さなかったが、かつての父に似合わず小さくなっている態度が私に言葉以上のものを物語っていた。

私が他界した時はぜひ母とともに笑顔で迎えてくれることを祈っている。

 父と母と私、それに間部先生の四人によるドラマはすでの終わり、私は曲りなりにも与えられた使命を果たしつつある。その間の数えきれないほどの不愉快な出来ごとも、終わってしまえばすべてが懐かしく、そして何一つムダではなかったことを知らされる。



  61   ベールの彼方の生活(二)P101

 地上的財産と霊的財産(死後どのように変わるか)



     こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。

その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽くせぬ光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内をしてくれることであろう。

 では、窓一つない狭き牢獄のような人生観を持って生涯を送った者には死後いかなる運命が待ち受けていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心を持って行動する。

すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。

この類の者はその委縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

 これに対し、この世的な財産に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱えきれぬほどの霊的財産を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔を持って入れ替わり立ち替わり訪れてくれる縁故者などの霊は、一人一人確かめる暇(イトマ)もないほどであろう。

そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。 


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 60 娘のいないテーブル   「最後のパレード」

                 ディズニーランドで本当にあった心温まる話
 
   株式会社オリエンタルランド 元スーパーバイザー  中村克著

 
 私は娘を病気で失いました。
 当時5歳、もしも幼稚園へ入れていたら年中さんです。ひらがなとカタカナが読めるようになり、いろんなことに興味を持ちはじめたころ、突然病気にかかり、原因がわからず、治す手だてもみつからないまま他界してしまいました。

 娘の死は、私たち夫婦を大変苦しめました。
 とくに妻は精神が不安定になり、私と少しでも意見がかみ合わないといきなり大声で泣き叫んだり、食器を投げつけたりするようになりました。

 私ももちろん娘を失って深く傷ついていました。でも、妻の苦しみを理解していたつもりなので、彼女のヒステリーはいつも黙って見過ごしていました。妻は私が仕事で家を空けている間もずっと娘と一緒でしたし、娘が病気になり入院してからもずっとそばに付き添っていたのです。私は残業を理由に、病院へ行かないこともしょっちゅうでした。

 ずっと妻に対しては悪いなとは思っていました。でもいずれ娘が退院できた時、どこかへ遊びに連れていけば埋め合わせができるだろう、と気楽に考えていました。

 そして仕事先で娘の訃報を聞いた瞬間、私は自分の大きなあやまちに気がつきました。なんというかけがえのない時間を見過ごしてしまったのだろう。もっと長く、1分でも長く、娘と一緒に過ごしていればよかった。たとえ死を避けられなかったとしても、最期を看取るまでずっとそばにいてあげたかった。本当に後悔しました。

 子供に先立たれた夫婦のこころには、先行きの見えない真っ黒な穴が、どこまでも大きく広がっていくと言います。

実際、そのとおりだと思いました。ときどき、うちの子はやかましい、いうことを聞かなくて憎らしい、と感じることがあったとしても、その子が最初から 「いない」 という日常を仮定してみると、その先のことはもうなんにも考えられません。我が子を失うという事態は親にとって、自分たちのこととして全く理解出来ないのです。

 喪失感に耐えきれなかった私たち夫婦は、ただ毎日けんかを繰り返すしかありませんでした。私もいけないと思いつつ、ときどき言い返してしまうことがありました。状況はどんどん悪くなっていきました。そんなふうにして私たちは精神的にも、肉体的にも疲れ果てていきました。

 ある日、妻と近所を歩いていたときのことです。彼女は言いました。
 「ただあの子が元気なだけで幸せだったのに。突然いなくなっちゃうなんてつらすぎるよね。私たち、これから一体なにをすればいいんだろう。今まで何のために一緒に暮らしてきたんだろう。よくわからなくなった」

 妻は目にいっぱい涙をためて、公園で遊ぶ子供たちを眺めていました。後で聞いた話ですが、妻はこの時いつでも娘の後を追えるよう、家に練炭を隠していたそうです。

 「ディズニーランドへ行ってみようか」

 ある日、私はふとそんなことを思いつきました。そして少し迷ったあと、その考えを妻に提案しました。
 「なんで、突然」
 「いちおう約束だったし」

 生きていれば、その日は娘の誕生日だったのです。本来ならばお祝いをしてあげたはずだし、もしそのとき娘が元気で歩き回れるようだったら、大好きなディズニーランドへ遊びに行っていたはずだからです。そう約束していました。娘がベッドの上で息を引き取るまで、ずっとミッキーのぬいぐるみを手離そうとしなかったことも強く印象に残っていました。

 「いやよ。いい年した夫婦だけで行ってどうするの」
 いいじゃないか。私は勇気を振り絞って言いました。
 「我が家の最後のイベントなんだから」

 私たちは夫婦でディズニーランドにいきました。

 そしてすぐに後悔しました。幸せそうな親子連れとすれ違うたびに、胸が締め付けられる思いをしたからです。ミッキーの帽子をかぶって楽しそうにじゃれ合っている親子。カメラを構えているお父さん、子供の手を引くお母さん、大声ではしゃぎまわる子ども。特に同じくらいの年であろう子供を見るたびに、熱いものがこみあげてきました。

 私たちも本当は同じことをしているはずだった。小さな手のあったかさを思い出しました。「お父さん、お母さん」と私たちを呼ぶ声がよみがえりました。もし娘と一緒だったらどのアトラクションに乗っていただろう。どんなお菓子を食べながら、どんな話をしながら歩いていたんだろう。園内のどこに目をやっても、娘の笑顔ばかりが頭に浮かびました。

 「来なければよかったのかな」
 妻も同じことを考えていたのか、厳しい表情で私を見ました。

 「帰りましょうよ。しょうがないのよ。あなたといても悲しくなるだけなのよ」

 私はその言葉を宣告として受けとめました。
 一緒にいるから娘のことを思い出してしまう。それは私も同じ気持ちでした。この救いようのない泥沼から這い上がるためには? お互い、新しい幸せを見つけるためには? 導きださせる結論は一つしかありませんでした。

 子供を亡くした夫婦は、必ず離婚を意識するそうです。お互いに今以上、傷つきたくないと思うからです。またそうすることが亡くした子供に対する、一番の償いだと考える夫婦もいるようです。

 それぞれに思いを巡らせながらも、私は予約してあったレストランに妻を誘いました。これが夫婦にとって最後の食事になるだろうと意識していました。

 娘が生きていたらさぞ喜ぶだろう、ミッキーマウスのショーをすぐ近くで見られるレストランです。心の中は亡くなった娘のことでいっぱいでした。なにを食べてもきっと味なんてわからないでしょう。娘を思い出したくない、でも忘れたいとも決して思いません。

一緒に過ごした楽しい思い出は、夫婦だけで共有している。楽しかった分だけ悲しい記憶が、これから残酷なまでに長くつづいていく。そんな絶望の波が押し寄せるたびに、夫婦の間に重いため息がこぼれました。

 「お待ちしておりました。こちらに席をご用意しております」
 キャストのあとについて行くと、店内全体がよく見わたせる広いテーブルに案内されました。空いている椅子は娘の分です。それは私と妻の間にぽつんとありました。

 あいにくその日は非常に混んでいました。それなのに私たちは余分に席をとっています。どう考えてもほかの家族連れに席を譲るべき状況です。一人のキャストが近づいてきて言いました。

 「お客様。大変申し訳ございませんが、ご夫婦様でしたら、二人掛けのテーブルに移ってはいただけないでしょうか。ご家族連れでお待ちになっているお客様が大勢いらっしゃいますもので・・・・・・」

 まったくいうとおりでした。ディズニーランドに限らず、レストランを利用する人にとって当然のマナーでしょう。しかし私は申し訳ないと思いながら言いました。

 「混んでいるのはわかっているんです。出来ることなら僕も席を譲って差し上げたい。でも実は昨年、娘を病気で亡くしていて、今日はその子の6回目の誕生日なんです。本当はこの真ん中の席は、娘が座る予定だった。約束していたんです。だからわがままを言って申し訳ないんですが、もう少しだけこのテーブルにいさせていただけないでしょうか」

 真剣な表情で耳を傾けていたキャストは、少しうつむいたあと 「お客様、それは大変失礼なことを申し上げてしまいました。どうそそのままゆっくりおくつろぎくださいませ」 と言い残し、テーブルから離れていきました。

 しばらくすると食事が運ばれてきました。注文したフレンチのコースは2人分だったのに、なぜかもう一人分の料理が真ん中の席に置かれます。オレンジジュースも頼んだ覚えがありません。私はあわててキャストを呼び戻しました。

 「娘の分は注文していませんよ」
 キャストは笑顔で答えました。

 「お子様の分は私たちのサービスです。どうぞお気になさらないでください」

 しばらくすると天井の照明が少し落ちて、〝みなさま、食事をお楽しみのところ申し訳ありません〟というアナウンスが流れました。

 何だろうと思い、声がする方を見ると、ろうそくの火がついたケーキを片手に持って、行儀よく立つキャストの姿がありました。
〝本日は特別な日です。ここにいらっしゃるお子様の誕生日なのです。どうかみなさま、よろしければご一緒にバースディソングを歌って下さい〟

 店内のBGMが流れだすと、ケーキを持ったキャストがこちらに歩いてきました。するとおおぜいのお客さんが一斉にこちらを向いて、手拍子をしながらバースディソングを歌ってくれました。

 テーブルに置かれたケーキの、ろうそくの火が消えました。どういうわけか自然に消えたのです。
 〝もう一度盛大な拍手をおねがいします〟

 私と妻が立ち上がっておじぎをすると、おめでとう、おめでとうという声があがり、大きな拍手に包まれました。
 そのままショーがはじまりました。そして私たちは奇跡と出会ったのです。

 真ん中の席に娘がいる。誰もいないはずの席で、娘がミッキーのダンスを見ながら笑っているのです。


 ああ。そうだ。そうだ。きみと一緒に見たかったんだよ。私は涙があふれるのもかまわなかった。ただ、娘が手を叩いて喜ぶ姿を見つめました。前より少し大きくなった気がしました。うん、大きくなった。はなをさする音が聞こえました。妻も唇を震わせながら娘を見つめていました。

 「僕らは間違っていたのかもしれない」
 妻は私の言葉には答えず、ハンカチで目をおさえました。

 「別れても、この子が喜ぶはずないじゃないか。僕らがこんな状態じゃ、安心して天国にもいけないんだ・・・・・・。たしかにこの子がいなくなってすごくつらい。それでもきっと、僕らは今よりももっと前に進まなければいけない」

 「ねえ、お父さん、お母さん」娘は左右にいる私たちを交互に見て、ニコッとほほえみました。
 「今日はありがとうね」

 盛大なショーが終わって、ふたたび店内に明かりがともされます。ゆっくりと静寂がもどってくると、今まさに起こった出来事が、急に夢のように思われました。

 テーブルの上には、手がつけられていない料理とオレンジジュースだけが残されています。しかし妻は誰もいない席を、まだ愛おしそうな目で見守っていました。

 これは夫婦二人だけが体験した出来事です。証拠はなにもありません。ただ私たちには、この奇跡を疑う理由はありませんでした。

 私たちは寄り添い、まだにぎわいの残るディズニーランドを後にしました。
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 59 挫折の法則「世界心霊宝典Ⅴ人間個性を超えて P334」

                            スピリチュアリストとしての展望

分かりました。そろそろ時間もなくなってきましたので、最後に今おっしゃったこと、スピリチュアリズムの本来の目的といいますか、その目標とするところをふまえた上で、今後スピリチュアリズムの運動を展開していく場合、具体的にどのようなことを考えておられるのか、精神世界の展望をまじえながら今日のお話を締めくくって頂きたいと思います。
                                                                                                               
梅原
=ちょっと矛盾したことを言うことになるかもしれませんが、心霊研究の歴史に、 「挫折の法則」といわれているものがあるんです。「霊魂存在」 の証明は、意図的にしようとすると、ここ一番と言う時になって必ず失敗するんですね。


=ほう。それはまたどんなことなんですか。

梅原=非常に名のある研究者の集まった大事な実験会で、いつもは起こっている現象が全く起こらなくなったり、低調になったり、極端な場合には、それまでトリックをやらなかった霊能者が突然トリックめいたことをやってしまうこともあります。

また後になって反対論者につけ入る隙を与えるような実験のやりかたの不備が発見される場合もあります。同じことが 「超能力の証明」 の時にも起きていますね。

福来友吉博士が東京帝大の学長の協力まで仰いで行った念写の実験は、日本のアカデミズムの世界に超常現象の研究が入り込めるか入り込めないかの瀬戸際の出来事でしたが、未だに釈然としない奇怪ないきさつで、逆に福来さんが帝大から追われる原因となってしまった。

これらのことがいつも心霊研究全体を疑わせるものとして宣伝されるんですね。百の現象が一つの失敗例で否定されてしまう。

 西洋の研究者の間で言われる 「挫折の法則」 の一番いい例は、心霊研究史上最大の証拠物件と言われる、木で作った独立した二つのリングの交差の問題です。これはアメリカ心霊研究協会の会長だったウイリアム・バットンという人の提案でやった実験例なんですけど、異なった木の材料で作られた、

何組かのリングについての交差の実験が何回か行われすべて成功したのですが、不思議なことに、科学的証拠物件となるべきこれらのリングは、後日、厳重な保護下にあったにもかかわらず、全部破壊されてしまっていたのです。人為的な原因は全く考えられませんでした。

 物理的心霊現象はスピリチュアリズムの勃興期から戦後のある時期まで、優秀な物理霊媒が輩出してさかんに生起したのですが、これの客観的記録ということになると、いろいろな問題があり、写真なんかでもエクトプラズムが白色光を嫌うので赤橙下でとらなければならないという制約があったのです。

心霊写真は決め手にならないと言うので、そこで暗闇でも自由に連続して写せるテレビのようなものが要求されたのですが技術の方が進んでこの条件を満たせるノクトヴィジョンのようなものが出てくると、

今度はその時期になって、どういうものか物理霊媒の方が世界的に払底してきてしまって、現在では世界中のどこでも物理的心霊現象が起こらなくなってしまったんです。

さらに、いったいどういう実験が行われれば科学的に霊魂の存在が証明できたとなるのかという問題に対しても、次々と妙なセオリーが現れてきました。その代表的なものは現在では超ESP仮説でして、結局どういう実験をしてみてもだめなんだというところまで行っちゃっているわけなんですね。

つまりこの超ESP説はESP能力の限度を外してしまったようなもので、霊魂仮説まではどこまでいってもこれを凌駕することは出来そうもありません。しかも科学的な視点に立つ人から見ると同じように超常的な理論であっても、この超ESP説の方がなぜか科学的に見えるらしいのです。このような認識を改めなければどうにもならないのです。

=科学者は、どうしても霊とか心霊と言う言葉を使いたがりませんからね。

梅原=要するに、これらの事情などをひっくるめてみていろいろ考えてみますと、現在までのところ霊魂存在の問題を科学的な立場で完全に証明するというのは不可能かもしれない。それはなぜかというと、霊界自体にその証明を拒んでいるフシがあるということで、私はそれに意味があると思っているんです。

つまり科学的に完全に証明されるということは、霊魂の存在についてそれを認めないことが不可能になるわけですね。つまりそれを認めることを強制されることになるわけですよ、科学的に。

信じたく無い人も、あるいは魂がまだその段階に来ていない人も科学的にはそれを信じなくてはならない。ところで、霊的な知識というものは、それを獲得する人間の魂の成長の度合いに応じてというのが鉄則なのですね。このことをマスターとか導師とかいう段階の人々はよく知っています。

また誰でもいざ教える立場になれば分かることです。未熟な人間が霊魂及び霊界の存在を教えられるとどういうことが起こるかというと、たとえば、中学生がビルの屋上から飛び降りるようなことが起こります。

霊界があるならそれもいいじゃないかというような理屈がつけられます。それから裁判のようなものはどうなるでしょうか。この世で起こることにすべて霊界が関与しているとなった場合には、裁判官が決定を下すことが出来るでしょうか。交通事故の際、事故の補償をするのは果たして加害者の側であるべきなのか被害者の側であるべきなのかも問題となります。

真の霊的原因など裁判官に判断できるわけはないからです。そうした場合には霊能者を呼んで来ることになるでしょうか。しかしどの霊能者が一番正しいなどと言う基準が示せますか。

この世の論理が根底から覆されて、収拾がつかなくなる可能性があるわけです。しかし科学が霊媒の存在を確証してしまった以上、裁判官もこれを顧慮せざるを得ませんしね。


=つまり、最高裁判所は霊界の側ということになるわけですよね。

梅原=それから、霊能力の悪用の問題も出てきます。これも大変な弊害をよぶでしょう。つまり知識は常に両刃の剣で、霊的な知識についてもそれが言えます。人間のモラルや魂の成長がこれに伴わない限り、悲惨なことになります。

ある意味では中世や古代の暗黒面が復活することになりかねません。しかも科学の保証付で疑うことは許されないんですから、いったいどういうことになるでしょうか。個人の問題もそうですが人類全体の問題としても、霊の問題を解禁した場合の対処法を人間はまだ知らないのですね。

先程の裁判のことをとってみてもそうですが、社会制度その他の面でも十分に対応できる段階まで人間はまだ全体として進化していない。このような段階ではまだ証明は個人的なレベルにとどめた方がいい。霊界ではそう判断していると私は思いますね。


=数年前に比べると確かに「精神世界」の台頭は目覚ましいものがありますが、全体としてみるとまだ圧倒的にマイノリティーですからね、とりわけ日本では。

梅原=しかし、一方で逆の強制も勿論よくないのです。つまり霊魂が絶対にあり得ないという強制ですね。唯物論と科学が結びつくとこの型になります。現代の学校教育は暗黙の中にこのルールに則ってなされていますよ。これは魂に対する逆の強制で、それが如何に個人の魂の成長を抑え、傷つけているか計り知れません。

魂が霊の認識を必要とする段階が来ても、科学や唯物論の軛あるいは伝統的パラダイムがあるためにそれから抜け出せないのでいる人が無数にいます。魂にその時が来ても科学がそれを絶対的権威で抑えつける。

ある国々では政治的にさえそれを強制される。これは魂の自由の問題としても見過ごすわけにはいきません。(後略)

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 58      霊能者の役割について       訳者あとがき   
 
  世界心霊宝典Ⅴ人間個性を超えて G・カミンズ 梅原伸太郎訳 

 スピリチュアリズムと霊媒───霊能者と言っても同じであるが───その存在は切っても切り離せない関係にある。そにためスピリチュアリズムはしばしば非難される。科学者からも宗教家からも、良識あるという市民からも、神秘家からさえもである。要するに霊媒などといういかがわしい連中にうつつを抜かしているからだというのである。

  しかし本書を読まれた方々はそのような偏見はお持ちになるまい。純正な霊媒とは人類のためにいかに貴重な知識をもたらしてくれるものかを納得されるのではないかと思う。しかしここに示し得たのは限られた例証だけである。

第三巻でお分かりのように未だスピリチュアリズムの資料と文献は山積みなのである。それらの資料文献がことごとく人間は霊的存在だということを教えているのである。このことは幻想ではあるまい。

 スピリチュアリズムにおける霊媒の働きは二つに大別されると考える。
一つはステイントン・モーゼスや本集には収録しなかったがモーリス・バーバネルのように、霊的世界についてや人間存在についての高次の知見をもたらしてくれる種類の霊媒である。

もう一つは、とにかく人間が霊的存在であり、肉体と離れた霊魂の存在は事実だということを人々に実感させてくれる霊媒である。ジャック・ウェーバーなどはそれに当たるであろう。ジュラルディーン・カミンズ女史の場合にはその両者の中間にあたるかもしれない。

 スピリチュアリズムにおける霊媒の働きが二大別されるとして、私は大部分の霊媒の役割は後者に限る方が良いと感じている。そして事実一世紀半にわたるスピリチュアリズム運動の目的の大半はそこにあったのである。そうである理由は

第一に、モーゼスやカミンズやモーリス・バーバネルによってもたらされた高次の霊的知識や教訓は (私はそれらを何ものにも替え難く貴重なものと思うが)、一つの新しい啓示のようなものであって、一世紀のあいだに幾つも期待できるものではないこと。

第二に、そうした高次の霊的知識や教訓は諸宗教と競合し、スピリチュアリズム自体が一つの新興宗教とみなされる恐れがあること。

第三に、高度な霊的知識や教訓などの正しさは結局それ自体が証明の対象にならないので真とも言えず偽ともいえず、また高次の霊的知識と言ってもセオソフィなどの教える霊的知識などと競合する。

競合しても一向に構わないとも言えるが、そうした教えがあることをもってスピリチュアリズムの特色とはいかなくなるからである。

 それよりも何よりも私は、一般の霊能者が安易に人類の教師者たらんと目差すことによって生じる弊害をひそかに予感し、憂うるのである。「霊的教師症候群(グル・シンドローム)」とM・H・テスター (有名な英国の霊的治療家) はいう。霊能力者は自己の特殊な能力と任務について、謙虚に自己限定を課した方が良い場合が多いように思う。

私は霊的教師や救済者の出現を決して妨げる者ではない。しかし次のことを心に銘記しておいてもらいたい。霊能力者は人の教師たらんとすれば、人格において教師となれ。救済者たらんとすれば真に己を滅した奉公者たれ

 スピリチュアリズムの特色と使命は、何と言っても死後の個性の存続 (つまりは肉体を離れた霊魂の存在) に強い証拠を与えることだと思われる。心霊研究と境を接しているところからみてもその辺に力点がおかれてることが分かるのである。

如何に高次な霊的知識が述べられようとも、霊魂の存在が納得できなければそれらのすべては砂上の楼閣となる。すべての高度な霊的真理を生かすも殺すもこの点にあるのである。単に霊的真理と言うだけでは到底科学的真理や唯物論に対抗することはできない。

 霊魂の存在については、自分自身の直覚や行や瞑想による体験体察でそれを知りうればそれはそれでさぞ良いことであると思う。しかしそうはいかない人々が殆どである。

科学であろうとする心霊研究、超心理学そしてサイ科学はこの点では当分助けにはならないであろう。

私はスピリチュアリズムの意義と使命を体した霊媒が日本中に何十人かいればよいと思う。そうした人達はその人の許へいけば霊魂の存在について必ず納得のいく証拠を見せてくれる人達である。

そのような人々の集まった場所が各国に一ヶ所あれば、いつか世界は変るであろう。何故なら何人たりともそこへ行けば確証が持てるというのであれば、疑問を持つ人があればそこへ行けばよいからである。

霊魂存在の一点が納得できないために高度な霊的世界の認識に足を踏み入れることが出来ないでいる人が多くいる。そのような人々にとってはそのような場所は福音である。

のみならず、懐疑家であろうと、厳正な科学者であろうと、政府機関の者であろうと、またマスコミ関係者であろうとそこにゆけばすべて納得するというのであれば、やがて霊魂存在については社会の常識化し、唯物論には壊滅的な打撃を与えよう。

 そのためにはスピリチュアリズムの意義と使命を体した、真に奉仕的な、純正な霊媒が出なくては駄目である。そうした霊媒が世に出るためにはまずスピリチュアリズムの崇高な目的と理念が世に広まなければならない。そのためには基本となる文典がなければならない。

編者が困難を押して本集の刊行を推し進めた理由である。随分迂遠で狂的な情操のなせる業と思う人もいるかも知れない。しかしスピリチュアリズムに挺身した先人たちの数代にわたる無垢の情念を思えば何ほどのこともないのである。

現に天は近藤千雄氏が今日の時点では奇跡的ともいった本集の刊行を助けたではないか。スピリチュアリズムの持つ理想が達成されるのは数代の後でも良かろう。しかし私たちに出来るのは現在におけるささやかな一歩である。


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 57 モーリス・バーバネルの死 シルバーバーチの霊訓(一)  
  
 まえがき……

 明日から週末となる寛いだ金曜日の夜のことだった。家の電話がけたたましく鳴った。テスター氏からだった。

 「彼が行っちゃったよ」テスター氏があっさりとそう言った。

 「行った?病院ですか」

 「違う!連れて行かれたんだよ」

 「連れて行かれた?どこへですか?」

 そう聞き返しているうちにテスター氏の言葉の衝撃がやっと伝わってきた。動転したのか気が付いたら私は数週間前から止めていた煙草に火をつけていた。そしてもうタイプライターに向かっていた。パチパチという音と、時折通り過ぎる車の音以外は何も聞こえない、静かな永い永い夜がこうして始まった。

 一九八一年七月十七日のことだった。

 他のスタッフに次々と衝撃のニュースを伝えてから、私はサイキックニューズ社の事務所へ向かった。気が重かった。そして顔は幾分ほてっていた。

 しかし今は瞑想したり思い出に耽っている場合ではなかった。電話をしなければならない。電報を打たねばならない。明日のサイキックニューズ紙を組み換えないといけない。

 そうした用事をひと通り済ませた後、また重い足を引きずりながら家に帰った。もう夜明けも近い。私は孤独感を噛みしめながらモーリス・バーバネルの死亡記事を書いた。本人の承諾も得ずに、また求められもしないのに、若輩の私がその仕事を引き受けて、恐縮の気持ちを禁じえなかった。

 その日が明けて再びサイキックニューズ社へ出向いてから私は、書斎の中からバーバネルが〝最後に出すべき記事〟として用意しておいた原稿(日本語版(十)「シルバーバーチと私」)を取り出して読んだ。

 六十年余りにわたって氏は数え切れないほどの交霊会や心霊的な行事で常に最前列席(リングサイド)に座り続け、〝ミスタースピリチュアリズム〟のニックネームをもらっていた。その彼が今、その存在を自ら必死に擁護し賛美し訴えてきた霊界へと旅立ってしまった。

 その現実を目の前にして私は、ふと、数年前にその原稿を預かった時のことを思い出した。それを一読した時、〝今度これを読む時はもうこのご老体はあの世へ行ってしまっているんだな〟という感激がよぎったものである。それが今まさに現実となってしまった。霊は肉体の束縛から離れ、その肉体は今は静かに横たわっている。

 不思議なことに、数週間前にボス(と我々は情愛をこめて呼んだものである)が私に若かりし頃のことをしみじみと語ってくれた。私には大きな明かりが消えたような想いがした。どうしようもない孤独感と心もとなさが襲ってきた。目の前でドアが閉じられた感じで、これから先、サイキックニューズ社はどうなるのか、誰も知る由もなかった。

 私がはじめてボスと会ったのは私がまだ二十歳の、ジャーナリストとしての駆け出しの時代だった。以来私は彼から多くのことを学んだ。ジャーナリズムのことだけでなく人生そのものについて教えてもらった。

四十歳ほどの差があったので、互いの関係には祖父と孫のようなものがあった。私が見当違いのことを口にすると、度の強いメガネ越しにじっと見つめ、ほんの一言二言注意するだけで、すべてを若気の至りにしてくれていたようである。

 またサイキックニューズ社は五時半が終了時刻で、スタッフは必ずバーバネルの部屋まで来て〝帰っても宜しいでしょうか〟というしきたりになっていたが、私だけはただドアをほんの少し開けて頭を首まで突っ込むだけで、何も言わなくても良かった。ボスの方もちらっと私の方へ目をやってにっこりと笑って頭をコクンとするだけだった。

 バーバネルほど精力的に仕事をした人間を私は知らない。いつも誰よりも早く来て、帰るのはいつも最後だった。そうした中にあっても部下の誕生日をちゃんと覚えていて、上等のたばこをプレゼントする心遣いを忘れない人だった。

 私の人生を運命づけた二十歳の誕生日のことを今も鮮明に思い出すことができる。ボスが昼食をご馳走してくれると言うので一諸に出かけると、珍しくパブ(ビールと軽食のでる社交場)へ行った。

アルコールは滅多に口にせず、こういう場所へは一度も来たことのない人なので驚いたが、さすがに自分はトマトジュースと〝ピクルス抜き〟のサンドイッチを注文した。そして私への誕生日のプレゼントとして、今夜シルバーバーチの交霊会へ招待しよう、と言った。それが私にとって最初のシルバーバーチとの出会いだった。

 シルバーバーチがこの病める、お先真っ暗の、混乱した地上世界にもたらした慰安と高揚の大きさは到底言葉では尽くせるものではない。あらゆる民族、あらゆる時代、あらゆる文化に通用する永遠、不変の真理である。

 しかしそれは同時に霊媒モーリス・バーバネルとその献身的な伴侶だったシルビア・バーバネルの功績でもあった。この二人の〝神の僕〟は真に勇気のある魂だった。今もそうであろう。そしてこれからもずっとそうであろう。二人は任されたブドウ園でコツコツと厳しい仕事に精励して、次の仕事場へ旅立っていった。

 バーバネルにもいろいろと欠点があった。われわれもみな同じである。彼みずからよく言ったものである。

 「ラクダに自分のコブは見えないものだよ」

 が、彼は何ものも恐れず、何ものにも媚びることなく、神の計画の推進のためにシルバーバーチと共に大きな役割を果たした。このコンビは文字通り地球の隅々の無数の人々に声をかけ、人生に疲れ悩める人々に希望を、暗く沈んだ心に一条の光明を、そして混乱と疑念の渦巻くところに平穏と確信をもたらした。

 今二人は霊界にいる、差し当たっての地上での使命を全うしたばかりである。図太い神経と決意と確信を持って説いた霊界の美しさと恵みと叡智をゆっくりと味わっていることであろう。

 引き続いて二人の旅の無事を祈る。そして、ささやかながら、われわれからの愛と敬意と賞賛の気持ちを手向けよう。                                                                                                                                                                                    トニー・オーツセン


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 56 「最近の話題」同性婚について  
     
    世界心霊宝典Ⅴ P104 第六章 二つの性から

 (前略)しかしながら、「性」の問題については、帰幽霊達は経験とともに考えを広げていかざるをえなくなる。というのは、誕生と死の法則によって、ある一生で男性だった魂の大部分は次の一生で女性となることを知るからである。

もし肉体的に際立った男性特質を発達させている場合には、次の一生で性格上から女性の身体に生まれざるを得なくなっていると、これまで積み重ねられた男性性が意識面に持ち越されることがある。こんな時はいわゆる「おとこおんな」と呼ばれる不幸な型の人間となり、女らしくない性質を示す一方で、男と一緒にいることよりも女とすごす方に喜びを感じるようになる。

 他方、前世で余りにも女性的な一生を送った人は、その印象が深く刻み込まれているので、男性との交わりを求めるようになり、バランスのとれた男性としての正常な生活を営むことを拒絶する結果、他からの批判や軽蔑を招くことさえある。

 こうした人々が男性であれ女性であれ、彼らに寛大であれ。私はここで何も不道徳の勧めをするわけではないが、前世での失敗によって極端に女性ぽかった女は女々しい男となり、あまりに男性的であった男は男性的な女になることを覚えておくとよい。

二つのタイプとも彼らの本性の基本的性質を表現しない「性」という制約を押し付けられて大変苦悩する。彼らにとって人生は二つの性の側面のあいだ───女性の肉体を持って自己を表現する男性タイプもしくは男性の肉体で自己を表現する女性タイプ───で永く苛烈な戦いとなるであろう。

絶えざる調整が必要になる。すなわち辛さがこうじて魂を破壊してしまわないように自分をコントロールしたり、監視したりする自己陶冶の道程が。

上記のことは、これまで述べてきたように、今生の性格は反対の性に属していた前生で形成されたということであるから、絶対不変の法則であると言う訳ではない。普通、次の生にまで持ち越すような同じ性の牽引を感ずるのは、男性にしても女性にしても極端な場合である。

そうなった時には、われわれは自分の直面する問題が、今生において突然新しく創造されたものではなく、われわれ自身過去世の来歴をもつことが分かれば完全に納得できるのだと気づかなくてはならない。この過去は一時的に隠されてはいるが、もし科学的な実験が行われるなら、霊魂を支配する法則の恐ろしい侵犯が為されたのではなく、進歩が成されるための不可避な道筋であったことが明らかにされることであろう。(後略)

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 55 霊界における結婚   

           世界心霊宝典ⅲ 第四章 死後の生活 P335                 

 結論から言えば霊界にも結婚というしきたりはある。ただ地上と違うのは、決して再婚ということが無いこと、そして(結婚の)相手は霊的親和体(アフィニテイ)───いわば自分自身の霊的半分という点である。

 これを理論的に説明すると、人間がこの世に生を享ける前は両性を具え、一つの玉の状態で存在していた。つまり男性的性質と女性的性質とが渾然一体となっていた。それが地上に生まれる時期、生物学的に言えば人間の胎児の中に入る時期が訪れると、その両性の玉が陰と陽と二つに分かれ、それぞれに独立した存在となる。そしてそれが胎児の中枢に宿り人間的個性を形成していくことになる、というのである。

 では何の目的で地上に来るかといえば、スピリチュアリズムの説によれば、潜在的に無限の可能性を持つ霊魂が肉体という有限の身体に宿ることによって善と悪、喜びと悲しみを体験し、そうすることによって自己の潜在的霊性に目覚め、その素晴らしさを認識するためである。

そのためには一体であるよりも陰陽二元に分かれた方がより有効である。が元来が一体の関係にある両者であるから、地上生活においても互いに一体になりたいという欲求が働く。地上の結婚も根源的にはその欲求の結果であると言える。

 ただ地上では肉体がその根源的な感覚を鈍らせ、動物界から受け継いだ性的欲求が直接の誘因となる。ために真の相手と結婚できないことの方が多いということになる。それが霊界へ来ると鋭い感覚によって改めて自分の真の相手を求める欲求を自覚し、今度こそ正しい相手と一体になるのである。(この一体化は二つの霊が個物的存在を失って一つになるという意味ではない。

各々はあくまでも別個の個性と性格を留めている。またその一体化は必ずしも霊界へ来てすぐに行われるとは限らない。二元が一元となる準備が整うまでには長い年月、時には何千何万年かかることもある。という。編者)

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 54 人間の霊的構成  

  世界心霊宝典ⅲ 二部 歴史的考察 第一章
                                                          
 スピリチュアリズムによれば、人間は三つの要素、すなわちスピリットと精神と肉体とによって構成されている。スピリット(霊)とは宇宙最高の、あるいは最奥の「心」の一分子、いわゆる「自我」のことであり、これが第一原理である。

 精神(エーテル体)は第二原理もしくは中間的原理である。そして肉体が最も次元の低い、あるいは最も外部の原理で、前の二つの原理のいわば衣服であり道具である。三者は渾然一体となって一つの有機体を構成し、霊に発したものは精神すなわちエーテル体に流れ込んで相関作用を起こし、エーテル体からさらに肉体に流れ込んで相関作用を起こす。

 このように人間は外部から見れば単一の存在であるが内部から見れば霊とエーテル体と肉体の三つの要素から成る複合体である。
 改めて言うまでもなく、人体は種々の物資から出来上がっている。物質そのものについて、われわれは次のように教わっている。すなわち物質自体には感覚はなく動きもなく、見かけ上は生命もない。それが人体をはじめとして宇宙全体にいろんな状態、いろんな結合体として存在している、と。

 (中略)

 まず最初に肉体があり、これに物理的エーテルすなわち生体磁気と生体電気が浸透している。その物理的エーテルの内部に心霊的エーテルが存在し、それがいわゆる霊体を構成している。そしてその中に、これらのエーテル体を総括するものとして、自我の本体である〝霊〟が宿っている。これらの要素の調和のとれた相互関係が人間という単一体を構成しているわけである。

 この浸透の原理、つまりあるものが他のものに浸透し、あるいはその内部に潜在するという現象は実に自然界の神秘の一つで、人間という神の一分霊が肉体をはじめとして幾つのも波動を持つ物体を一つにまとめながらその中に存在して生きていけるのも、この浸透の原理のおかげに他ならない。
P246
 同時にまた、物的宇宙がその内奥に幾層もの波動の異なる別の世界を有するのもこの原理に基づいている。いわゆる四次元の存在もこの原理で説明がつく。もともと形態のない最高次元の存在である〝心〟が精度の高いエーテルから徐々に粗いエーテルへと浸透し、最後にこの三次元の物質の世界と接触しているのが今の我々の存在である。

この世界には角度があり、長さがあり、広さがあり、そして厚みがある、が四次元の存在はこうした物質の制限を受けることがない。レントゲン写真に使用されるX線のような高度な波長が物質を貫通し、全く別の新しい視野を構成するのも、このエーテルの浸透の原理による。

  次元の異なるもの同士が互いに融合しあって存在している状態は次のような譬えで、およその理解がいくであろう。仮に、ここに砂があるとしよう。これをコップの中に入れる。人間でいえばこれが肉体だけの存在に相当する。次にこれに水を注ぐと砂に浸み込んでいく。固体と液体が融合したわけで、これが第二の状態である。この状態の中に今度は水素や酸素などのガス体を注入することが可能である。これで三種の物体が一つの器の中で融合したことになる。

 さて今度は、その中に電気を流すこともできる。さらに理論的にはこれに人体と同じ生体磁気や生体電気を注入することも可能である。むろん人間にはこの融合体を一つの有機体に仕上げることはできないが、大自然にはそれができるのである。

 自然界のあらゆる有機体は上に説明したような要領で、幾種類かの次元の異なる物体が融合調和して出来上がっているのである。

 このように説明してくれば、自我の中心である〝霊〟と、その器官であるところの次元の低い物体とのつながり、影響の及ぼし方が、明確になったと思う。要するに宇宙最高のエネルギーであるところの霊が霊体に浸透し、その霊体が肉体の衣服に相当するエーテル体に浸透し、そしてそれが肉体に浸透する。かくして宇宙の最高次元の存在である心が物質と結びつくわけである。A・J デービスは次のように述べている。

 「腕を上げるという動作一つを考えても、実は次のような幾つもの目に見えない連続操作が働いているのである。まず腕を上げようという意識が霊体の生体磁気に働きかける。続いて生体電気に繋がる。これが肉体の神経に伝わり、神経から筋肉に伝わり、その筋肉が腕を持ち上げる」

 こうした運動機能はまた感情の抑制についても示唆を与えてくれる。すなわち統一原理であるところの心は当然のことながら、感覚・感情・情緒の媒体であるところエーテル体にも浸透している。したがってその心に発した波動は、当然、エーテル体に流れ、感情をコントロールすることになる。
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  53  死後の世界は現実的!   

    世界心霊宝典 ⅲ 二部 第三章 死後の世界 P298 

  

 オーエン師の『ベールの彼方の生活』の中で最高指導霊のザブテディルはこう述べている。

  「霊界へ来た者がまず困惑し不審に思うことの一つは、そこに見る世界が全て現実的であることである。この点は既に述べたことであるが、人間にとっては霊界の様子が地上時代に期待していたものとは余りにも異なり、不思議でならないようであるから、ここで今少しこの問題を取り上げてみようと思う。

と言うのも、死後の存在が夢幻のようなものではなく、地上より一層現実味を増した世界であり、地上生活はいわば死後の世界への準備であり出発点に過ぎないと認識することは、これは実に重大なことなのである。どうして人間はカシの大木を若木より立派だと思いたがるのか。

なぜ湧水を川より現実的で勢いがあると見たいのか。若木や湧き水は現在の地上生活であり、カシの大木や川が死後の生活なのである」
℘299
   本物だと思い込んでいる身体も山も川も、そのほか全ての物質は霊界のそれに比べれば持続性も現実味も劣る。なぜかと言えば、エネルギーの本源はこちらにあるからである。発電機の電力と、その電気を受けて光るランプの電力と、一体どちらが強力と思われるか。その差が地上と霊界の現実性の差なのである。

 故に、もしわれわれの存在をパイプの煙の如く考え、死後の世界に漂う雲の如く思われる御仁がおれば、一体そう考えるまともな根拠を持ち合わせているかどうか、その御仁にとくと反省してもらいたいものである」                                             ("The Life Beyond the Veil" by the Rev. Owen)

    以上はスピリチュアリズムの豊富な文献の中の一部にすぎないが、これだけでも霊界の環境が客観的であり実感のある世界であること、つまり決して主観が具象化されただけの世界ではないことを語るに十分である。スピリットは地上の環境が客観的であり現実的であるのと同じ意味において霊界の環境も客観的であり現実的であることを、粉(マガ)う方ない言葉で断言するのである。

 彼らは、自分たちのいうことは文字通りに受け取ってほしいという。したがって、われわれ人間のとるべき態度としては、彼らのいうことを額面通りに受け取るか、さもなくば、全面的に否定してしまうかのいずれかでなければならない。人間的先入観で勝手に取捨選択し、納得のいく部分は受け入れて、気に食わない部分は否定するという態度は許されない。

つまり、死後の世界はそこに生活するスピリットにとっては立派に客観的現実の世界であると認めるか、そうでなければ死後の世界の存在を全面的に否定するか、いずれかの一方でなければならない。
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 52  肉食がいけない理由   「ペットが死ぬとき」 シルビア・バーバネル著 

   16章 霊的知識が要求する新しい道徳観             
 

 前章で紹介したオズボーン・レナード女史は、霊能者の大半がそうであるように、ある特殊な土地から発せられるバイブレーションに反応する事があるそうです。

 サイキック・ニューズ紙に載った女史の体験談によると、ロンドン北部の一角に、いつも陰気で憂うつな気分に襲われる場所がありました。女史は読書好きで、よく図書館に通うのですが、その時必ずその地点を通過すると言うのです。その時の気分は強烈で、その気分から解放されるのにかなりの時間がかかったそうです。

 そのうち女史は、その原因を真剣に考えるようになりました。その気分に襲われるのは決って高いレンガ塀のところに差し掛かった時です。とても高い塀で、その門はいつも閉められていて、中が見えません。工場か倉庫だろうと女史は思っていたそうです。

 そんなある日、いつもと違う道を通って図書館へ行った時、異様な気分に襲われる場所があり、見ると門の扉が開いています。中をのぞいてみると、その広い敷地を沢山の子牛が何処かへ連れて行かれる光景が目に入りました。

 そこへたまたま通りかかった人に「ここは何をするところですか」と尋ねると、大規模な屠場だと言う事でした。レナード女史もこれで納得がいきました。不快なバイブレーションはそこから放たれているのでした。

 ではそうした施設で大量に殺されていく動物たちは、死後、どう言う運命を辿るのでしょうか。これから紹介するのは、レナード女史が幽体離脱の状態で霊界を訪れて、そうした動物の群れを観察した時の様子を綴ったものです。

 幽体離脱と言うのは、人体とよく似た形をした ”幽体” と呼ばれる霊的な身体に宿って肉体から離れ、地上界ないし霊界を探訪する現象のことで、その間、肉体と幽体とは ”玉の緒” と呼ばれているもので繋がれています。それが切れた時が ”死” で要するに肉体からの離脱が一時的か永久かの違いに過ぎません。
 では、レナード女史の体験を My Life in two Worlds (二つの世界にまたがる生活) から引用してみましょう。

「ある夜、肉体から出た私は、いつものように上昇していかないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気が付くと、暗くて狭い通りに立っていた───と言うよりは、立っている姿勢を保っているだけで、地面に足をつけていなかった。足元が汚泥で気持ちが悪かったからである。

 辺りを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物との間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、所々、広く空いているところがあり、そこから囲いの広い敷地へと通じている。

 そこから中を覗いてみると、そこには動物の群れがいる───子牛、豚、羊など───が、みんな死んでいる。いや生きている───地面に横たわったまま身体を動かしているのだ。私にはピンときた。いましがた屠畜されたばかりなのだ。

 私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とても見られたものではなかった。それほど惨たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで平均的人間が死後直ちに赴く世界を度々訪れて来たが、この場所はそれとは全く異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものである事は私にも分っていた。が、ともかく私にはこれ以上その状態を叙述する気になれない。

 そのうち誰かが私に語りかけているのを察知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。後でその声の主は私の背後霊団の一人である事が分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。

 あの惨たらしい雰囲気は、人間の食料として毎日おびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その悼むべき行為から生まれるもので、物質界に極めて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。

 その恐怖と苦痛、それに誰をと言う事もない憾みの念が辺りに渦巻いていて、それが建物や壁よりもなお強い存在感を持って迫って来る。先ほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。

 それは、動物たちがどれほどの苦痛を味わっているかの指標であるばかりでなく、それが地上界の霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという」

 レナード女史は、この体験をしてからは、動物の肉を食べるのは止めたそうです。それまでの女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだとと言うこと、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。



   51  誤った死生観          M・H・テスター著「私は霊力の証を見た」℘93
 
死んだ人はこの宇宙から消滅したのではない。次の世界へ旅立ったのである。その人にとってはこの地上での勉強がおわり、次の勉強の世界へと進級していったのである。中には学生生活から社会生活へと入るのを恐れる者がいる。

学校は住み慣れていて気楽だが社会は未知の世界だ。行くのが怖いと思うのも無理はない。が、だからといって、いつまでも学校にいるわけにはいかない。いずれは卒業しなければならない。

 この世は決して安楽ばかりの世界ではないが、住み慣れた世界であることは確かだ。勝手の分かった世界だ。この世がいちばん安心しておれる。死後の世界は知らないことばかりだ。だから怖い。おまけに子供の頃から誤った来世観を叩きこまれている。

地獄、永遠の刑罰、火あぶり、悪魔等々の観念が脳裏をかすめる。聖人君子のような生活でも送らない限り、そうした恐ろしいものが自分を待ち受けていると思い込んでいる。だから死ぬのが怖い。

 もしもこうしたことが事実だったら、確かに死ぬのは怖い。私も怖いと思うだろう。が事実はそうではないのである。死後の世界は光と生命と幸福感にあふれた実に快適な世界なのだ。死んであの世へ行った人は、よほどの事情でもない限り、この世へ戻ってきたいと思わない。それは、あなたが二度と小学校へ戻りたいと思わないのと一緒である。

 向うへ行くとあなたはこの世の人生のおさらいをさせられる。犯した過ちがある。やるべきでありながらやらずに終わったことがある。もちろん良いこともした。が言い難いことを人に言ったりもした。そうした体験からいろいろと学ぶことがある。そこであなたの人間性が問われる。

 が、判断するのはあなた自身である。自分で自分を裁くのである。きまぐれな神様から罰を受けたり、子供だましのせっかんを受けたりするのではない。霊界は責任と義務の世界であり、いわば大人の世界である。周りには知人や友人、肉親がいる。痛みも苦しみもない。精神的にも安らかで幸福感に溢れている。

 ふと地上を見ると、そこには喪服に身を包んだ家族や親戚縁者が自分の死を嘆き悲しんでいる。後悔と懺悔の念に胸を痛めている。自分の死を理由によろこびを控えている。何たる無知、何たる見当違いであろう。その無知、その原始さながらの迷信、その愚かさにあなたは哀れさえ覚える。が、何れ彼らもそれに気づく日も来るだろう───そう思って自らを慰める。

 

   
 



50
  霊力を受けるのに最も適した心がけとは?      W・S・モーゼス著

 霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心掛け一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。

 霊的現象に多くの種類があることは汝の知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。

身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

 要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからといってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

 一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。

それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使からの霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処を垣間見ることを許されることもある。

霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。
 
 これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。

初期の目的達成のために仕組む出来ごとへの配慮には汝らの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

 われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見いだすことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは所詮伝え得ぬのが道理だからである。

次に、愚かなる地上的偏見に捉われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持主であらねばならぬ。

 まだある。独断主義(どぐま)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。

常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

 またわれわれの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なる出しゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれわれは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。

われわれが求むるのは有能にして真摯なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。

まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。

かくすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの初期の目標に調和させていく。

 ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

 また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。

そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる。苛立てる落ち着きなき不満と正反対である。 

 この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。

確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

 それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。

小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

 いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。汝らの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。

とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

 この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物───我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。

 


一途なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、無欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

 われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛に溢れ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。

情愛にあふれる寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差しのべる博愛主義者の心を心とせよ。

さらに報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措いて他に成就し得るものはおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。


───でも、これでは完全な人格を求めることになります。

 何と! これをもって完全とな? 汝らは〝完全なる霊〟が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程も汝らは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子は汝らに見えぬ。

汝らに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質は汝らの用語にして表現し得る限りのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものにすぎぬ。汝らに完全は有り得ぬ。

死後になお不断の進歩と発達と成長が待ちうけている。汝らの描く完全性も、われらの霊眼をもってみれば、欠点によって汚され曇らされているのである。


───確かにそうかもしれません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。

 少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、聖純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。

所詮汝らの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。


───都会の喧噪から隔絶した生活の方があなたたちの影響を受けやすいのでしょう。

〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス①と署名された。〕

 騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ちうけていることを知らぬ。

あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

 それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに冥想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

 さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。

無数の悪徳の巣、忌まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大群がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道を辿り、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

 冥想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も冥想に入り易い。

しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

 

 

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   49    愛する人の死、早すぎた死

二十一
 死があなた達の家族を襲い、年齢の区別なしに若い者を年老いた者より先に連れて行った時、あなた達はよく次のように言います。

「神は不公平だ。まだ先の長い、強いものを連れて行き、もう長い年月を生き、落胆ばかりしてきた者が置いていかれてしまった。役に立つものが連れて行かれ、もう役に立たなくなってしまった者が取り残されてしまった。喜びのすべてであった罪のない子供を奪い、母親の心を傷つけた」 と。

 人類よ、このようなことに対してこそ、あなた達はその考えを引き上げ、最善な事と言うものが多くの場合あなた達の見逃している、死すべき運命の中に存在しているのだという事を理解する必要があります。何故あなた達の基準で神の正義を計ろうとするのですか。

宇宙の神がその気まぐれで、あなた達に残酷な苦しみを与える等と考えられますか。何事も知的な目的なくして行われる事はなく、全ての出来事にはその理由があるのです。

あなたに降りかかるすべての困難をよりよく調べてみる事が出来れば、そこには必ず神の決めた理由、あなたに改心を促す理由がある事がわかります。それを理解することができれば、あなた達の惨めな関心ごとと言うものが、比して二次的な物であることが分かり、あなたはその優先順位を下げる事が出来るでしょう。

 私が述べる事を信じてください。二十歳の者であっても、尊敬すべき家系の面目をつぶしたり、母親を悲しませ、父親の頭髪を早く白くさせてしまうような不品行を働くようであれば、死が選択されてしかるべきものなのです。

早すぎる死はほとんどの場合、神によって与えられる恩恵であり、それによってその者を人生の惨めさや、破滅に導くような誘惑から遠ざけてくれるのです。人生のまっ盛りにある者の死は、運命の犠牲者ではなく、神がこれ以上地上にいるべきでないと判断したことによるものなのです

 希望に満ちあふれる者の命が余りにも早く断ち切られてしまう事は悲劇である、とあなた達は言うでしょう。しかし、その希望とは、どんな希望の事を言っているのですか。地上の希望、その経歴と富を築くことによって輝く希望のことですか。

常に物質的な世界から脱却することの出来ない狭い視界で物事をとらえているのではありませんか。希望に溢れていたとあなた方が言うその人の運命が実際にどうであったのか、あなた方は知っているのですか。

それが苦しみに溢れたものでなかったと、どうして言いきる事が出来るでしょうか。未来における生活への希望を見ずに、後に残した地上での束の間の人生の方に希望を託すのですか。
至福の霊達が住む世界で獲得することになる地位よりも、人間の世界で獲得する地位の方が大切だと考えるのですか。

 この惨めな谷底から、神があなたの子供を連れて行っても、泣くのではなく、喜ぼうではありませんか。その子供に、私達と一緒に苦しむ為に残れと言うのは、自分勝手ではないでしょうか。

ああ、信心を持たぬ者の抱く苦しみ、死を永遠の別れだと考える者の苦しみ。しかし、あなた達スピリティズムを学ぶ者は、魂は肉体と言う被いから解放された時の方が、より生き生きすることを知っています。母親たちよ、あなたの愛する子は、あなたのすぐ近くにいるのです。
すぐ近くにいて、そのフルイドの体があなたを取り巻き、その子の思考はあなたを守ってくれているのです。

あなたが抱くその子の良い思い出は、その子を満足させます。しかし同時にあなたの持つ苦しみは、その子を悲しませる原因となるのです。何故なら、それはあなたが信心に欠けている事の証拠であり、神意に反する事であるからです。

 霊界での生活を理解するあなたたちは、愛する者たちを呼ぶとき、あなたの心臓の鼓動に耳を傾けてみて下さい。あなたが彼に対する神の祝福を願う時、あなたの涙を乾かしてくれると心強い慰めをあなたの中に感じることができるでしょう。そして、その偉大なる熱望は神に約束された未来を見せてくれるでしょう。
                  (元パリ・スピリティスト教会のメンバー、サンソン 1863年)

      下記も連続でお読みください
                                                                    

 善人であれば死んでいた

二十二 ある危険から逃れた悪者を見て、善人であれば死んでいた、などとよく言います。これは確かに真実だということが出来るでしょう。
なぜなら、神は多くの場合、善い霊にはその功労の代償として、出来るだけ短い試練を与えるのに対し、若い進歩しつつある霊には、より長い試練を与えるからです。しかし、だからと言ってこのように言うことは神に対する冒涜です。  

 悪者の隣りに住むある善人が死んだとします。あなたたちは「あっちが死んでいればよかったのに」等とすぐ言います。その時あなたは大きな間違いを犯しているのです。

死んでいく者はその任務を終えたのであり、残った者はおそらく、その任務を開始してさえもいないのです。それなのに何故悪者にその任務を終わらせるための時間が与えられない事を望み、善人がこの地上にとどまる事を望むのですか。

刑期を終えたのに刑務所に残らなければならない囚人と、一方で権利を持たないのに自由を与えられた囚人を見て何を考えますか。本当の自由とは肉体からの解放であり、地上にいる間は、収容所にいるのだという事を覚えておかなければなりません。 

 理解できないことについてとやかく言うのは止めましょう。全てにおいて公平である神を信じましょう。あなたたちに悪く見えることが、しばしば善いことであり得ます。

しかし、あなたたちの能力はあまりにも制限されているため、あなたたちの鈍い感覚ではおおきな全体像をすべて捉えることが出来ないのです。あなたたちの考えによって、この小さな地球を乗り越えられるように努力しましよう。

 考えを高く持ち上げるにつれて、地上の重要性というものがだんだん小さくなっていきます。なぜなら、この地上における人生とは、霊としての真なる唯一の永続的な命の前には、単なる小さな一つの出来事でしかないからです。    (フエヌロン サンス 1861)

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 48  生命の書 不滅への道 永遠の大道 第二十一章 

                           二つの世界の想念交流から、P170から抜粋 

<前略>
 帰幽者の多くは新取の精神に富んでいるものだ。死後に初めて昔の恋人と再会した当座は暫く、『生命の書』から、肉体の苦痛を伴わずに味わえる過去の快楽の思いでを引き出して、それに耽っている。

が暫くするうちに、大記憶の中に記載された過去の経験の堆積や、その他諸々の記憶に飽きてしまう。そこで吾々は「時」の敷居を跨ぎ、果敢にも神の想像の中へ入っていく。第三の主観状態で『生命の書』の未来の頁を読むのである。そこには曾て予言者や占者たちによって漠然と予言された、いまだ地上には生起していない人間のドラマが展開されている。

わが子孫の者たちの放浪、われとわが血を受け継ぎ、その印を額に記した者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来・・・すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが・・・につくづくと眺め入ったとき、われわれは悲嘆に暮れてこの『生命の書』の巻を閉じたのである。

 最後になったが、こうして第三の主観状態で過去と同じく未来の頁までも読む力を与えられるのは、珍腐な言い方ではあるが、霊的に進化した、進んだ魂にのみ限るのである。
死後の門を潜った魂たちの大半は心霊的に未発達な境涯に留まるのである。私がここで「心霊的」と述べたのは、一般的な意味で言ったので、例の死後生存の研究とは関係がない。

こうした数多くの魂たちはある運命の道を辿りつつあるであるが、暫くは、地球の超意識とは無縁である。これらのいわゆる死者たちは、嬉しかったり、悲しかったりあの幻想の中に留まるのである。私はここでは、聖なる大地のもとから目に見えぬ世界に移行するすべての魂について書き記す暇はない。

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 47   イエスの変容                        イエスの青年時代     G・カミンズ著
             
イエスとヨハネは旅を続け、森の中を歩いていた。黄色や灰色の様々な小鳥たちが軽やかに飛びまわり、小枝から小枝へと飛び交っていた。

じゃれあって居るように遊んでいる様子は旅人の目を喜ばせていた。しばらく行くと、草むらの中に、はいずり回っている生き物を見つけた。その生き物がとぐろを巻き、跳びはね、すばやく突進する様子を見ていた。

イエスは言った。
「蛇は、とても変わった生き物ですね。足や羽もないのに、まるで影のように早く動きます。大空の黒雲のように早く、刀のきらめきのように敏捷です」

ヨハネは言った。
「私はこんなはうような生き物は嫌いです。生き物の中でこれくらいこうかつなものはいないからです。それに、先祖のエバをだましたんですからね」

イエスは言った。 「そんなことを言ってはいけません。あなたの愛情を蛇に注いでごらんなさい、蛇のいろいろなことがわかるようになり、ついには、犬のように忠実に従うようになるんですよ」

「そんなことができるんですか?」

「そうですとも。私が昔、砂漠で生活をしていた頃、一匹の蛇と友達になったのです。その蛇は私が行くところについて来て、眠って居る時は私の側でとぐろを巻いているのです。夜中にジャッカルやハイエナなどが近寄ってくると、彼らをにらみ、シュッと言って黙らせてしまうのです」

「この生き物は大変な毒を持っているうえに、裏切りと嘘つきの代名詞みたいに言われているではありませんか」

「では伺いますが、敵を殺したり友人を裏切る人間はどうなんですか? 裏切りは蛇だけに見られる特性なんですか? 前にお話した蛇は、砂漠で飢えていた私に食べ物を探してくれました。それだけではありません。最後まで忠実に仕えてくれたすばらしい生き物でした」

「蛇があなたによく仕えたんですって!」

「私はこの生き物と付き合ってから、とても素晴らしいことを知ることができました。生まれつき、どんなに悪いと思われる生き物でも、善い目的のために役立つことができるようになるということです」
「蛇は狐よりもずるく、地をはうものの中でも最も嫌われている生き物ではありませんか。それは否定なさらないでしょう?」

イエスはそれには答えず、黙っていた。立ちあがって大空の星雲を見上げていた。コウモリの羽よりも小さな雲であった。その星雲が、見る見るうちに大きくなり、東から西へかけて大空いっぱいに広がっていった。イエスは片手を広げると、一滴の雨が降り注いだ。イエスはヨハネの方に向き直って言った。

「蛇は善悪を知らないどんな野獣よりも賢いのです。一見ずるそうに見たり、残酷に見える生き物を簡単に裁いてはならないのです。同じように、悪人とか不正な人ときめつける高飛車な言葉は、差し控えた方が良いです。さあ、先を急ぎましょう」

二人の若者は森の中に雨宿りができるところを探し、そこで休んだ。北風に乗って地上を洗いさるような激しい雨が降ってきたからである。夕方のなると雨はすっかり上がり青空が見えてきたので、ヨハネは言った。

「あの小屋で休ませてもらいましょうよ」

イエスは何も答えなかった。彼はヨハネから少し離れ、緩やかな山の峰を歩いていた。ヨハネはイエスの表情を見て、とっさに彼が深い瞑想に入っていることを知った。それでもヨハネは独で家畜小屋の方へ向かい、ちょうどその小屋の持ち主が鋤(スキ)をかついで帰ってくるのに出会った。

ヨハネはブドウ園の持ち主に、その夜は小屋に泊めてほしいといった。最初のうちこの男は、とてもつっけんどんであったが、一枚の硬貨を握らせると態度が変わり、小屋を貸してくれることになった。

遥か山の峰にいるイエスの方を見上げると、なんと灼熱の炎に包まれた彼の姿が目に映った。しかも炎は、彼の姿とともに忽然と消えうせ、夜空に星がきらめく頃になってから、人の影のようなものが見えてきた。ヨハネはこの不思議な光に驚いた。

更に不思議なことに、あのブドウ園の持ち主が、イエスを包み込んでいた炎の光のすぐ側を通って我が家の方へ歩いていったのに、その光に全然気が付かなかったことである。

夜が更けるにつれて暗闇も深くなってきたが、イエスの周りにある炎の光だけは、こうこうと輝いていた。ヨハネは頭を垂れて祈っていた。あまりの静けさに、この世もすべての生き物も消えうせてしまったように思えた。

ヨハネが自分が今、影にしか過ぎないこの世から、実在の世界(霊界)に引き込まれていたことを知らなかった。うっとりとして我を忘れ、全存在が喜びにあふれていた。海の引き潮のように、次第に我に帰ってくるのを覚えた。我に帰ったヨハネは、たった一人で暗い野原にいることがとても寂しかった。

重い足を引きずりながら山の峰に登っていった。自分の肩に誰かの手が触れるのを感じた。見上げるとイエスが立っていた。やがて二人が山を降り、家畜小屋へ入った。イエスは感謝の祈りをささげ、パンとイチゴを分け合った。それから深い眠りについたのである。
 
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46  近い死を感じた時          

               スピリティズムによる福音  P457    


 四十<序文>生きている間に未来を信じ、未来の運命に目を向け、気落ちを高めることは霊を肉体につなぎとめている絆を弱めることになり、霊がより早く肉体から離れていくことを促します。


そうすることによって肉体がまだ消滅していないうちから、しばしば我慢しきれない魂は広大な無限の空間へ飛び出そうとしてしまいます。

反対に、すべての考えを物質的なものの中に捉える人間にとって、その絆は強固なもので、それを解くのは痛く、苦しく、死後の世界で目を覚ます時、その人に心配と混乱をもたらします。

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 45 ゲッセマネの園        「イエスの青年時代」      G・カミンズ著  山本貞彰訳
 
 数人のパリサイ人が大祭司カヤバのところへやって来て、イエスがやってのけた素晴らしい奇跡のことを報告した。イエスは、死んでから四日もたったラザロという若い男の墓の前に立ち、

イエスの一声で死人が生き返り、顎のところまで巻かれていた布を付けたまま、墓の中から歩いて出てきたことを伝えた。この奇跡のうわさが伝わるや否や、イエスの名声と信頼はますます増大していった。

大祭司カヤバは早速長老たちを招集した。あるパリサイ人が発言した。

「このイエスと言う男は、他にも多くの奇跡を行っています。このまま彼を放置しておきますと、民衆は全部イエスについてしまうでしょう。そうなれば、ローマは我が国を全滅させてしまいます。ローマ人は、シーザを神として拝んでいるからです。シーザ以外のものはご法度でですからね」集まったパリサイ人は、みんなで大祭司に言った。

「神は死人を生き返らせた、あのナザレ人と共におられます!」

カヤバは答えて言った。

「一人の男が民衆のために死ねば、国は滅びることは無いということを知らんのかね」

カヤバの言ったことが、全員の意にかなったので、彼らは早速、密使を送り、イエスを殺害することになった。刺客の一人がペテロに情報を漏らしたので、ペテロはイエスに伝え、とりあえずエルサレムから脱出し、近くの村に身を隠すことになった。そして、なるべく一ヶ所に長く留まらないようにした。

 その頃一人の婦人がイエスのところへやって来て、家から持参した高価な油をイエスの頭にふりそそぎ、婦人の髪の毛でそれを拭っていた。この様子を見ていたユダは、すぐさま婦人をとがめ、止めさせようとした。それは、日ごろから、イエスが貧乏人に重税を課しているパリサイ人たちを散々責めていたことを思い浮かべていたからである。ユダは言った。

「先生、この油を売ればかなりの大金になります。貧乏人のために使えるではありませんか!」

「貧乏な人々はいつでもあなた方の周囲にいるではないか。しかし、今の私はそうではない。このご婦人は、私の為に葬りの支度をしてくれたのだ。彼女のしていることは、永久に記憶に残るであろう。福音が伝えられるところには、どこでも、このことが語られるであろう」

 ユダは面目を失った。彼はその時からイエスが愛している弟子ヨハネをますます妬むようになった。このことが、最終の土壇場になって、師なるイエスを裏切る引き金になったのである。
   
 ユダはついに弟子から離れていった。彼は事実上、反乱の首謀者であったので、同僚の顔をまともに見ることはできなかった。ユダはバラバが繋がれている牢獄の周りをうろついていた。それからアンナスの家に向かった、世故にたけた大司祭のことだから、きっと良い知恵でもかしてくれるのではないか期待して行った。

ユダはすぐにアンナスの前に通された。しかしアンナスは期待に反してとても不機嫌であった。

ユダがイエスに敵対してくれればという思惑がはずれたからである。何度聞いてもユダの返事は変わらなかった。イエスのことについては、流血を嫌う平和主義者と言い張った。ユダは日頃から、反乱計画が成功した時には、イエスを王に向かえると話していた。

アンナスはしばらく黙ったまま部屋の中を歩き回っていた。それからおもむろにユダに向かって言った。

「わしはお前の秘密を知っておるぞ。お前が反乱計画を練っておったのであろう。分かっておるのじゃ。だがのう、若者が殺されちまったからには、どうしてそれがやれるというのかね。わしには、

もう一つしか方法が残っとらんように思えるのじゃ。すぐにイエスを探し出し、ローマ軍に引き渡すのじゃ。イエスはきっと反乱の責任を問われ、牢獄にぶち込まれ、総督ピラトに裁かれるだろうて」

ユダは言った。 「わしは恩師を裏切るような真似はできません。そんなことをするぐらいなら、死んだ方がましです」

心配することはない。イエスは決して死にやせん。それよりもイエスの信奉者たちが騒ぎだし、イエスを牢から出せとわめくだろうよ。民衆がイエスのことを神からつかわされた預言者だと信じている限り、彼は無事なのじゃ」

 ユダは次第に興奮し、おそるおそる言った。
「私はイエスの刺客を手引きするようなことをしたくありません」

 「とんでもない!勘違いをせんでくれ!わしはあくまでもローマの兵隊を連れてって、イエスを投獄させようというのだ。約束してもよい。あくまでもユダヤ人の反感と怒りを誘うためなのじゃ」

 「そんなら賛成です」 それでユダは、このような重大なことを進めるにあたって、銀三十枚を要求した。しかし、狡賢いアンナスは言った。

「どんな商人でも、欲しいものを手にするまでは、金を渡さないもんじゃ。おまえが、ちゃんとローマの兵隊にイエスを引き渡してくれさえすれば、いつでも銀三十枚をくれてやるわい」

そこでユダはアンナスの署名入りの契約書を受け取った。 ユダは、以前から親しくしていた役人のところへ行って相談を持ち掛けた。この役人バルークは、中々のしたたかものであった。ユダはアンナスの密約との密約のことを話してから、何とか獄吏を買収して、反乱のリーダーを逃してもらえないかと頼んだ。バルークは言った。

「そりゃわけないよ。それだけの大金があれば、獄吏を口説いてみせるよ。絶対に大丈夫だ。イエスのことも任せてくれ。ローマの手から救い出してやるからな」

この役人バルークこそ、数日後に発生する悲惨な大事件を引き起こす引き金となった人物である。彼は熱心党の中でも最も腹黒い悪人であった。

 ユダは再びバルークのところへやって来て言った。

「食事もろくに喉を通らず、夜は一睡もできないんだ。もう何が何だか訳が分からなくなってきた!」
「銀三十枚さえあれば、バラバを解放できるんだぜ」

「でも心配なんだよ。一歩誤ればイエスが殺ちゃうんだ。バラバの総決起も、イエスの救出も皆ダメになっちまうんだ」

「おまえは信じないのか?イエスは神の子じゃなかったのかい?」

「勿論そうだとも」

「考えてもご覧よ。神は天使の大軍団を送りこんで、必ずイエスを守ってくれるさ。シーザの誇る軍隊でも全然歯が立つもんか」  このバルークの言葉を聞いてユダは安心し自分の計画に確信が持てるようになった。

イエスの弟子たちは、このような裏工作がユダによって進められていることを知らなかった。しかしパリサイ人の憎悪が増すにつれて、イエスの身辺に危機が迫っていることをみんな感じていた。彼ら一同は、互いに励まし合いながら言った。

「我らの先生を見捨ててはならない。先生の為なら、生命を捨てようじゃないか」
 
ペテロはついに隠しておいた剣を持ってきた。もしどこからか刺客が飛び出して来たらこれでやっつけてしまうんだ、と意気込んでいた。キラリと光る刃は、ペテロの勇気を誘った。

その夜、夕食の席についていた時、イエスは弟子たちに言った。 「あなたたちのうち一人が私を裏切ろうとしている」

 みんなは深い悲しみに包まれ、一人づつイエスに尋ねた。
「先生それは誰でしょうか?」

イエスは答えて言った。 「私と一緒に皿の中に指を浸している者がそうです。人の子は預言された通りに死んで行くのです。私を裏切る者は、生まれて来なければよかったのに」

ユダは十一人の顔をじっと見据えていた。彼の指は、なんと皿の中に浸され、反対側の手は、イエスん手を握っていたのである。ユダはゆっくりと手をひっこめてから言った。 「それは私でしょうか」

「そうです」

弟子たちは騒然となり、ユダを責めたてた。しかしイエスは皆を鎮め、全く別なことについて語り始めた。あまりの雄弁さに、暫くの間ユダのことを忘れていた。突然ユダは立ち上がり、外に飛び出していった。弟子たちは彼の後を追いかけようとしたが、イエスはそれを留めた。

ペテロは剣を握り締めながら大声をあげたので、イエスはペテロに言った。 「ペテロよ、あなたは夜明け頃、鶏が三度鳴く前に、三回も私を知らないというでしょう」しかしペテロは、ただ剣を振り回して英雄気分になっていた。

 あたりがすっかり暗くなってから、一同は歩き始めた。しばらくの間、一人の男が後ろからついてきたことを知らなかった。彼らは、ケデロン川のほとりまでやってきて、再び決意のほどを表明し合っていた。イエスにもしものことがあれば、自分たちも一緒に死のうではないかと誓い合っていた。

イエスは八人の弟子にたいして、ゲッセマネの園の入り口あたりで待機するように命じた。後からついてきた男が、そのの中に入ってきたので、イエスは声をかけた。

「さあ、急いでおまえの仕事を始めるがよい」

その男はユダであった。ユダはさすがに恥じて、園からでようとはしなかった。 イエスは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、ゲッセマネの園の中へ入って行った。

イエスは低い声で語った。

「私の魂はとっても苦しんでいます。ここで待っていてください。どうかわたしを見守って、祈っていてください」

その時ペテロの親戚に当たるマルコと言う若者が弟子たちのところへ偵察にやって来た。彼は小柄な男であった。彼は心からイエスを救世主と信じていた。それで一度でもよいからイエスと一緒に歩きながら話したいと望んでいた。イエスが危ないと知ると、彼は帯の中にナイフを隠し、麻布の上着を羽織って、家から駆けつけてきた。

彼は園の木陰に隠れ、一晩中眠らず監視を続けていた。彼は後に著述家になって、この時の模様を詳しく書き残している。(訳者注・〔マルコの福音書〕と言う書名で、新約聖書に収録されている)
三人の弟子たちからすこし離れた木の下で、イエスは地上にひれ伏し、神に祈った。

【御父よ、あなたはおできにならないことは、一つもありません。どうこの苦しい盃を取り除いてください。・・・しかし何よりも、あなたの御心が行われますようにお願いします】

 イエスは立ち上がり、三人の弟子のところまで来てみると、彼らはぐっすりと眠っていた。イエスはペテロを起こして言った。

「おまえも寝ていたのか。ちょっとの間でも見張っておれなかったのか。霊は熟していても肉体は何と弱いのだろう」

イエスは再び木の下に戻って同じ言葉で祈り続けた。二度目に来てみると、三人とも眠っていた。彼れはユダが悔い改めて自分の計画を断念したのではないかと考えているうちに、心が緩んでしまったのである。しかも深い悲しみと心労が重なってヘトヘトに疲れてしまったのである。

 イエスは三度目に気の下にひざまずいていた。苦しみが絶頂に達した時、全身から血のような汗がしたたり落ちた。この様子を木陰から見ていたマルコは、もう我慢ができなくなり、イエスの方へ飛び出そうとした。しかし、イエスは急に立ち上がり、再び三人の弟子のところへ来て言った。

「もうゆっくり眠るがよい。時が来たようだ。ごらんなさい。人の子が罪人の手によって裏切られるであろう。私を裏切るものが、そこまで来ているのだ」

この言葉で眠っていた弟子たちは飛び起きた。慌てたペテロは剣を握り締め、イエスの横に立ち、護衛しようと意気ごんだ。

 ユダは夕食後アンナスの家に行った。屋敷の庭には大勢の人が集まっていた。イエスを憎んでいるパリサイ人もいた。でも大部分の人々は、町の人達であった。アンナスの前に通されるや否やユダは抗議した。

「約束が違うではありませんか。どこにローマの兵隊がいるんですか?」

「おまえの計画をもう少し活かすために、もっと大量の人間を増やしたのじゃ。イエスを大司祭のところへ安全に送り届けるには、ローマ兵だけでは心もとないのじゃ。反乱と言うことを聞いただけで奴らは頭に血が上り、イエスを叩きのめしてしまうかも知れんのじゃ。それにだ、この連中を使ってな、

総督ピラトの面前でワイワイ大声を上げさせ、祭りの週間に従って、バラバを釈放してもらうのじゃ(注)。そうなれば、奴は反乱分子を結集してイエスを救出できるのじゃ。大祭司カヤバも文句なくイエスの為にユダヤの王座を用意することになるじゃろうて」

この狡賢いアンナスの甘言にユダは満足した。それで彼は群れの先頭に立ち、ゲッセマネの園へと誘導していった。(訳者注・国民的一大行事であった[過越祭・(すごしのまつり)」の時に、罪人の恩赦があった)
 

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   44     真なる財産      
    
 人間は、この世から持ち出せるように与えられたものだけを、本当の財産として所有しています。
地球に到着した時に手に入れ、離れる時に置いていくものは、この世にいる間だけ享受することができます。ですから、全ての放棄を強いられるのであれば、その富は、実際に所有しているのではなく、

単に所有権だけを得ているのだということになります。では、人間は何を所有しているのでしょうか。
肉体を使うことによるものは、何も所有していないのです。魂を使うことによるもの、すなわち、知性、知識、道徳的な性質は、全て所有しています。

それらは人間が地球に来るときに持参し、また持ち帰るもので、誰にもそれを奪い取ることが出来ないものであり、この世においてよりも、別の世界において、より有用となるものなのです。

この世から旅立つ時に、到着した時よりも豊かになっているかどうかは、その人自身にかかっています、したがって、善においてその人が獲得したものが、その人の将来の位置をもたらすことになります。誰でも遠い国へ旅立つときには、行く先の国で役に立つものを荷物としてまとめます。

そこで役に立たないと思われるもののことは気に掛けません。未来の人生に対しても同じように進んでください。そこであなたたちだけに役に立つものだけを蓄えておいてください。


 宿に到着した旅人に、代金が払えるのであれば、良い宿が与えられます。ケチな蓄えしかない者には、あまり快適でない宿が与えられます。自分のものとして何も持たない者は、粗末な寝台に寝なければなりません。霊の世界に辿りついた人間にも同じことが起こります。

どこへ行くかはその人の持ち物によります。しかし支払いは金でするのではありません。「地球ではどれだけ持っていたか」「どんな地位にあったか」「あなたは王子でしたか、それとも労働者でしたか」などとは誰も尋ねません。

「あなたは何をもってきましたか」。このように尋ねられるでしょう。財産や、地位によってではなく、持ちあわせている美徳の合計によってあなたを評価するのです。この点に置いて、

労働者の法が王子よりも豊かであることもあり得ます。地球を離れる前にどれだけ重さの金を別の世界への入場料として払ったかを申し立てても無駄です。そうした人はこう返されるでしょう。

「この場所は買うことはできません。善の実践により獲得できるのです。地上のお金で、あなたは農場や家や城を買うことはできました。ここでは、すべてを魂の質によって支払うのです。

あなたはそうした質において豊かですか。そうであるならば、あらゆる幸福が待っている第一級の場所へ迎えられます。そうした質に置いて乏しいのですか。それなら最低の場所へ行って下さい。ここではあなたたちの所有している者に応じてあつかわれます」。(パスカル ジュネーブ 1860年)  
 

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 43 地上における知性的な者の役割
            
十三
あなたの知識によって鼻を高くしてはなりません。あなたの知識とは、あなたの住む世界における非常に狭い範囲の中に限られたものなのです。この地球上で、あなたがその知性によって非常に重要な人物であったとしましょう。

しかし、そうであったとしても、あなたはそのことによって自惚れる権利を持つわけではありません。神がその意向により、あなたの知性を発達させることが出来る環境にあなたが生まれることを可能にしたのは、あなたがその知性をみなのために使うことを望んだからです。

あなたの手にはあなたが発展させることの出来る道具を与え、あなたの周りにはより遅れた知性の持ち主を送り、あなたが彼らを神の方向へ導くことが出来るようにすることによって、あなたに地上における任務を与えたのです。

  与えられたその道具には、どのような使い方をするべきなのかが示されてはいませんか。庭師がその助手に鍬を手渡す時、それは土を耕せと示しているのではありませんか。その助手が仕事をする代わりに、その鍬を振り上げ、主人を傷つけようとしたら、あなたは何と言うでしょうか。

 恐ろしいことだ、その助手を解雇するべきだ。というでしょう。兄弟たちの間において、神とその意志に関する考えを打ち崩すことにその知性を利用する者に対しても、同じことが言えるのではありませんか。土地を耕すために与えられた鍬を、主人に対して振り上げていることになりませんか。

彼に約束された賃金を貰う権利があるでしょうか。それどころか、その庭から追放されるべきではないでしょうか。

彼が全てを負っている神の前に頭を下げるようになるまで、疑いもなく、屈辱に溢れた惨めな人生を過ごさなければならないでしょう。

知性には未来のためになる価値が溢れています。ただし、それは正しく使われた場合です。もし人類すべてが神の意志に沿って知性を使うのであれば、霊たちにとって人類を進歩させる任務は容易に達成することが出来るでしょう。しかし、悲しいことに、多くの者が自尊心を強め、
 
知性を自分自身を破壊する道具にしてしまっています。人間は他の能力と同じように知性をも濫用します。しかし、知性を与えてくれた強力な神の手は、人類に与えたものを剥奪できるのだということを教えてくれる出来事は、数えきれぬほど見ることができる筈です。(守護霊フェルデナン ボルドー 1862年)
 

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  42  家族の類魂   現世・死後・来世にまたがる進化向上の旅の一例

 現在と未来の繋がりを明らかにするために、結びつきの強い家族を例に取りあげてみることにしよう。こうした結びつきの強固な家族は珍しいのではあるが稀には存在しないこともない。ヘンウィック教授はB大学で物理学の講座を担当している。彼は妻アン・ヘンゥイックをこよなく愛していた。彼女もまた学究の夫を愛し、日常の全てを夫と子供たちのために捧げていた。

 長男のマーチンは哲学専攻の学生でB大学の特別研究員を目差している。だが、娘のメアリーは十歳で亡くなってしまった。このことは堅固に結ばれた家族を見舞った身内での最初の不幸であったために、両親は暫くの間、無残にも最愛の子を奪い去った運命の過酷さに打ちひしがれ、悲しみに浸っていたのである。

 年月の経過とともに記憶も薄れ、子供の面影が褪せてゆくにしたがって、悲しみも消えて行った。しかし生涯を全うすることなく逝った娘への想いは教授の心にしこりを残しており、彼は時たま幼い娘のことを思い出しては生きていたならば経験したことであろう様々な事柄を思い巡らせてみるのだった。

 しかし実際のところは、メアリーが地上への再生を選んだ時、彼女は既に心霊進化のある状態に達しており、この物質の世界に長く留まる必要はなかったというのが真相である。彼女の魂は前の生涯において充分長生きをしていたので、もう一度完全な生涯を終えることは彼女の魂の発展にとっては不要であったのである。

 それ故彼女は成人の経験を省いて幻想世界に生きる類魂の許へ帰ったのであった。彼女はゆっくりと前世の記憶を吸収し、その最盛期の状態へ入り込み、最も美しかった時の成人の肉体を想像によって文字通り創造することができたのである。そして睡眠中に彼女が両親と会う時はこのかつての肉体の姿をとった。

心の中にその形態(ナリスガタ)を思い描くことによっていつも同じ姿で現れることができたのである。彼女とヘンゥイック夫妻の間には固い永遠の絆があった。彼らは前世においても親密な関係にあったのであり、死の如き一時のぼんやりとした記憶の途絶などでとても絆を断ち切れるものではなかったのである。

であるから、両親は睡眠中「想像力の奥の間」ともいうべき意識のあるレヴェルにおいて娘と会っていたのである。このレヴェルのこの場所では、意識的記憶は働かない。この両親のようなケースでは、複体(ないし睡眠体)がこの経験の記録と関係を持っている。一方娘の方はそれを深層記憶に記録する。

彼女もまた、原則として三者の出会いの記憶を自分の世界で想い出すことはない。しかしこんな風にして両親達は娘と接触を保ち続け、やがて彼ら自身が大多数の死者達の仲間入りをするときには、睡眠中の経験を含めた主観的記憶を取り戻すのである。

 ヘンウィック夫妻はメアリーの死後三十年ないし三十五年たってこちらの世界へやってきた。半世紀以上にも亙る時の隔たりにもかかわらず、娘との出会いに彼らは何の違和感も感じなかったのである。同じ魂の仲間として同じ類魂として彼らは睡眠中も接触を保つことができたのであった。

睡眠とは───あなた方がそれについて知れば───それ自体独自の、活発で生産的な生活なのである。睡眠中に眠るのは、単に肉体と表面意識と低次の意識のみなのである[原注2]。

 青年期にも達しないうちに亡くなる子供のなかには、その後両親とは再会しない者もある。彼らはほんの一時の肉体だけの関わりをもったに過ぎないのである。彼らは魂としては互いに縁無き者どうしであった。つまり類魂によって結びついていない同士なのである。こうしたわけで、愛着は速やかに失せ、死後においてもこの両親は速く自分たちの許を去って行った子供たちと関わりをもたないのである。

 類魂の中には「心霊原子集団」Psychic atoms というべき───もっと良い言葉があればいいのだが───ものが存在する。これは恐らく四ないし五の魂から成っているが、その数は必ずしも一定しない。とにかくこれらは類魂中の小集団であり、ヘンゥイック家の人々見られるように、進化の初期の段階において、他の魂とは結ばない特別に親密な生活を共にするのである。

 一九一四年に世界大戦が宣せられたとき、マーチンはそのニュースを聞いて深く心を掻き乱された。彼はまだマーガレット・エラートンと婚約したばかりであったし、前途には洋々たる未来を望み見ていたところなのである。間もなく彼の年齢と気質の者なら誰も進んで従わぬわけにはいかない召集令状がやってきた。

彼は軍隊生活を嫌悪していたがやむなく一兵士として出征した。歩兵連隊へ入隊して二年を経ぬうちにフランスに送られ、他の若者たちと共に、激戦中、不意の無残な死を遂げたのであった。

 死後の冥府に滞在中は、妹のメアリーが彼の許を訪れた。別れた後もなお残っていた二人の大きな愛の絆が彼女を兄の許へ引き寄せたのである。彼らは二人して幻想の国、すなわち地上的想像の世界を旅することになった。精妙なエーテル体を纏うようになった彼らの生活では、想像力が大きな働きをする。

彼らは以前と同じ大学町に住み同じような人生観をもって学問研究をしていた仲間たちと共に古い大学の環境を創造したのである。

 マーチンは再び哲学の研究を始め、父親譲りの研究熱心でそれに打ち込んだ。彼は自分の欲求を満たすことができて幸せであったし、もし彼の人生があんなにも突然断ち切られていなければ結婚したであろうマーガレットとの別離は、妹の世話によってある程度埋め合わされていた。

 年月の経過とともに弟のウオルターとマイケルは社会へ出て職に就き、それぞれに両親の生活から離れて行ったが、それでも彼らの愛情の結びつきは相変わらず強かった。マーガレットといえば、彼女はヘンウィック家とは完全に縁が切れてしまった。彼女は結婚し、中年になった時、夫と連れ立って外国旅行中、交通事故で亡くなってしまったのである。

 そのため死後の世界で、彼女は面倒な問題に直面することになると思われる。夫のリチャード・ハーベイも彼女と同じ時に冥府への旅に旅立っていたからである。冥府での期間、彼女の魂はまどろみの状態で自分の思い出に去来する過去の生涯の場面に見入っていた。

 こうした過去の点検を行ううちに、この未完成な魂の将来に関する見かけ上の難題は解決していたのである。マーガレットは、彼女の最初の恋人であるマーチンこそが霊的な似た者どうしであり、大事な人と分かったからである。一方夫の方には肉体的なつながりで惹かれているに過ぎず、それも死とともに消え去ったのであった。

霊的牽引の法則によって、彼女は二十年前の大戦の間に戦死した兵士のところへ引き寄せられるのである。

 「地上的想像力」の世界で、彼女は自分の心に巣食っていた満たされざる夢、すなわち、もし地上時代の或る日、無情にも彼女から引き離されてしまうことが無ければ味わえたであろう楽しいマーチン・ヘンウィックとの愛情生活を経験したのである。しかしマーガレットを愛していた夫のリチャード・ハーベイは、彼女を失うという悲しみに直面することになった。いったいこの幻想界は、空想的で努力の無い世界に相応しいどのような代償物を彼に与えてくれるであろうか[原注3]。

 彼は母親に大変惹かれていた。冥府で過去を振り返ってみる間に昔の愛情が蘇ってきたのである。彼の母親は、この種の愛情に特有な保護的性格をもった賢明な母性愛を発揮した。彼の気持ちは母親に向けられた。そして彼女と生活を共にすることにした彼は、狩猟や大地主としての仕事に没頭し、また想像の材料から容易に作り出すことのできる昔懐かしい娯楽を母親と一緒になって楽しむのであった。

 ヘンリック教授夫妻の例は大学生活者の典型ともいえる。彼らは、あまりにも常識的過ぎるところがあって、有限現実の世界───言い換えれば幻想状態のことであるが───を超えた生活を経験するには想像力に欠けたところがある。

しかし二人は少なくとも互いに愛し合っているし、他人の生活に対してはちょっと利己的な無関心さはあるにしても、おおむね温かい目で見ているのである。

 そこで彼らが死後の長い回廊を通って行くとき、特別激しい反応をすることもなく、また創造的空想の暗部に導かれることもなかった。彼らの生涯は残酷さやこれといった悪徳に汚されてはいなかった。彼らは個人主義であって人類的共感には欠けていたが、上品で愛想のいい人達であったのである。
 
 有限現実の幻想界において彼らは息子のマーチンや娘のメアリーに逢うという喜びを経験し、暫くの間懐かしいB大学の環境で幸せな生活を送ったのである。しかしながらメアリーとマーチンとその妻マーガレットは、より深く豊かな性情を持っていたために間もなく一段高次な世界へ昇っていくことになった。

彼らは幻想界において霊的で創造的な感覚を発達させために、地上記憶を基にした単調な生活に飽きてしまったのである。

 そこで彼らは高次の冒険に乗り出していった。両親に別れを告げ、一時の彼らの欲求の全てを満たしていたあの古びた灰色の大学や、ゴシック風の教会の建物や、物静かで引きこもった環境を後にした。こうした変化を促す元となったのは、彼らの内面を新たに掻き立ててきた創造的衝動であった。

この衝動はもっと高く偉大な認識や新しい計画を探し求めていた。それらはもはや地上的記憶から作ることはできず、その概念、構造、実質も共に肉体を持っていた時の現実からは想像もできないものである。

  実際のところ彼ら三人は「魂的な人」のレヴェルにあるのである。そうしたわけで、友人や家族や大学町───想像によって作られた───と別れることは悲しいのだが、次の存在階層である形相の世界に呼ばれているので出発をためらうことはない。彼らの熱烈で霊的に活発な性質が彼らを上の界へと進ませ、飛躍的な進歩を遂げさせる。感覚がだんだん精妙になっているので高貴な世界へ入ることが可能になったのである。

そこは広大典雅にして不思議な美と形に満ちた場所である。が或る点ではそこには地上界を思わせるものがなくはない。しかしその美と形の多様さは無限であり、人に知られていない色と光から成っている。この世界には、物の外形や外観における完全さが見られるが、それらは地上のもっとも偉大な芸術家たちの創作の中でもめったに実現しないほどの完成度を持つのである。

 結びつきの堅固な家族の一員であることにはある種の不利益が伴う。こうした結びつきは利己心を生み、他人の存在に対する思いやりや配慮に欠ける点が出るからである。ヘンウィック夫人は母として妻としてあまりにも独占欲が強く、家族の結束を計るのは専ら彼女の役割であった。

こうした彼女の持ち前から夫や二人の息子のウォルターとマイケルとは互いに固く結ばれていたので、地上生活では家族以外の人々と確かな人間関係を持つことはできなかった。ウォルターは結婚したが、彼には母親の愛情が湿ったおしめのようにいつまでも纏わりついているために、夫としては失格であった。

不和が持ち上がり、二人はしばしば喧嘩をした挙句、遂に別れてしまった。その時からウォルターは金儲けに夢中になり、母とその家庭にしか興味を持たなくなった。

 マイケルは結婚しなかった。彼の母の愛と父の自尊心は彼の自己愛を異常なまでに高めてしまったために、彼は自分以外の者を愛することができなくなっていた。しかし彼も父親のことは尊敬していたし、母親に対する利己的な愛情は持ち続けた。彼は町の道楽者となり、晩年には殆ど自分のクラブに入り浸っていた。

 ウォルターは兄の後をすぐに追って霊界に赴き、今やすべての望みが満たされているようである。両親と二人の息子は記憶の世界で生きてそこに喜びを見出すであろう。地上では彼らは結びつきの強い家族であったが、死や別離によって一旦緩められた結び目は前以上に固く結ばれ、家族同士の結びつきは今や再び緊密になっている。

 明らかに、四人全部が天国に到達したと言える。つまり彼らは昔の楽しみを見つけ、かつてのようにお互いに愛し合っている。しかしながら実際には、彼らは、霊的に見てきわめて未発達であり、自分自身では天国も地獄も想像する力を持っていないのである。彼らの魂は自分たち以外の他者を全く無視し続けることによってしなびてしまったのである。

 地上におけるウォルターの主たる関心事は金儲けであった。そのために彼は家族の者から一目置かれていたし、そのことは又彼の母親への愛情の妨げにはならなかった。こうしてまともにではあるがかなりがめつく貯めこんだ財産によって大きな快楽を得ていたために、彼はケチで人には何も施さなかった。

 こちらへ来ても最初まだ金の法則が働いている間は、彼は商品取引や株式売買に楽しみを見出していた。彼は相手となる仲間を見つけてそれらをやっては来たが、金儲けは間もなく魅力を失ってしまった。地上的想像の支配する世界では金銭はもはや価値の基準とならないことを発見したのである。

心と本霊の働きのお蔭で何でも望みがかなえられるので、誰も金を得たいとは思わなくなるのである。それに対して、美しく生き生きした生活や誠実な愛情の記憶を持つ人は、その記憶が豊かな財産となっている。

 しかしウォルターは金儲けにばかりに熱中し、生活の中で人や物への愛情が欠落していたために心が貧困化していた。富める人なのに、彼の記憶といえば次々と金を生み出すことだけであったのである。

ただ母親に対してある種の愛情を抱いていたことは事実で、株式に失敗した時などはその憂いさから逃れるために気持ちを母親に向けて、母と子の昔ながらの関係に幸福を見出そうとしていた。


 仲間の株式仲買人との金儲けが偽りのものであり、集めた金がどんなに巨額なものでも実は無意味なゲームに過ぎないと知るに従って、母親の愛も思慮のない馬鹿げたものであることに気づいた。彼への愛情は所有欲を満たすためのもので、自分の子だから愛していたのである。

と同時に父親がウォルターを誇りに思う気持ちも、経済的成功が評価されない世界に住んでいることを理解するに従って弱まって行った。ここでは金儲け以外のなにもでもできないようなものは乞食と見なされる。こうした魂は、たった一つの情熱しか持てず、想像力に欠陥のある心に支配されていて、魂の生活に必要な永遠の宝を蓄えることができないのである。

 ウォルターは間もなくひどい悩みに陥った。この意識の階層からは何の喜びも得られないからである。第一、価値観が地上で彼を取り巻いていたものとは全く違う別種なものなのであった。暇な時の彼の母親の要求は彼をうんざりさせ、遂には怒らせた。父親は幻想界での彼の失敗を批判して彼を辱めた。

そのため、彼は心からあの地上世界、取引所で売った買ったの刺激的な生活、金持ちだったためにちやほやされたり下肢づかれたりする生活を恋しく思ったのである。

 こうして彼は再び夢を見始めているのであるが、そうすると地上の牽引力と再生を促す力が働く。彼は中間地帯に入り、暫くさなぎ状態で休む。この状態で彼は自分自身の姿と過去の生きざまを鏡の中に観る。彼という存在をつくりあげているもの全てが次々と鏡の表面に浮かび出した時に、本霊の審判官がこのビジョンを総括し、彼に選択を迫るのである。
 
 この選択がどのようなものであるかについてはいうまでもなかろう。未発達な人間は地上を振り返り、再び「時の世界」に入り肉体を持ちたいと熱望する。そしてそれこそがウォルターにとって唯一存在可能な条件なのである。死の彼方の世界では彼はまるで陸上に上がった魚のようで、呼吸することさえも困難であった。そこで彼は自発的に再生の道を選んだのである[原註4]。

しかし今回は自分の魂の貧しさをある程度知って戻ったので、学びかつ進歩することのできる環境に生まれ自分を外部世界へ投げ出すことに努め、間違っても自分一個人とか一家族の為に利己的に生きることの無いよう気を付けている。

 再生前の準備期間に本霊すなわち「上方からの光」はウォルターのために、彼に芽生えた向上心を発達させるのに最も良い地上環境を探し求めた。その環境は彼の世界観を広げ本性を豊かにするものでなくてはならない。

そのために彼は今や女性として生まれ、貪窮のなかでその人生の歩みごとに克服しがたい困難と遭遇しなければならいのである。もっと大事なことは、かつて彼は愛を蔑み拒絶したために、今度は人から愛を拒絶され孤独のうちに逆境のみが教えてくれる学習をしなければならないということである。


 こうして魂は地上に戻ることによって前進する。新しい肉体にうまれ変わることによって意識の最も高次なレヴェルの生活を営むに必要な潜在能力を身に付けることができたのである。困難を通してこそ彼は自分を鍛え直すし、死を超えた精妙な世界で生きるための能力を増大させることができるのである。

  ウォルターが家族のもとを離れ、地上に戻っていくと、彼の母親は幾分身を入れて夫の面倒を見るようになった。しかし教授の反応は相変わらずであった。彼はこの幻想世界の構造と性質の研究以外に彼の関心を向けようとしなかった。

学者らしくはあっても想像力を欠いた精神は思想の古い軌道を巡っているだけで、地上で大学の講座を担当していた時とまるで変わらなかった。


進歩のない合理主義的な唯物論者であり、相変わらず温情的な学者タイプであり続けた。ただ現在では、もし彼が自分の研究テーマをやりつくした時は、自分の自我は幻想がなくなると共に倦怠一色に色褪せ、解体していくのではないかとはっきり感じていた。

この考えに満足し彼は他の学者仲間と会い、不毛の部屋で同じことを反芻したり、がらくたを探し回ることに底の低い幸福を生み出していた。

一方、ヘンウィック夫人は彼の気を引くことも、彼を決まった轍(ワダチ)から引っ張り出すこともできなかった。そこで彼女の関心は独身の息子マイケルに向かい、彼に自分の幸せの拠り所を求めようとした。


 ヘンウィック家の六人の内ではマイケルが最も霊魂の発達が遅れていた。地上を後にしたときは、あたら持てる才能を委縮させ、興味の範囲が情けないほど狭くなるに任せて、甚だつまらぬ男になりおおせていた。

彼は真の意味で生きたことなどなかった。というよりも生きることが副次的なことであった。


確かにこれといった悪徳はなかったかもしないが自己中心的で怠惰で、想像的エネルギーを全く用いず、兄のウォルターがそうであったような金銭への偏愛さえもなかった。

こうしたわけで、幻想界の夢からそろそろ目覚めかけていた母親は、彼との交わりに何の幸福も生きた温かみも見出すことができなかった。彼は母親に対し地上の時と同じありきたりの尊敬と顧慮を与えたのみであった。


 自分自身たち帰ってみると、彼女の情熱的で独占欲の強い性格が彼女を息子のウォルターへのやみがたい愛情へと駆り立てた。そこで彼女は冥府の画廊に立ち戻り進路を選び直すことにした。彼女を導く霊が鏡に前に立ち、彼女に過去の一生でやった以上のことを見せる。

即ち息子が物質世界で様々な不幸な出来事にあっている様を映し出して見せる。ウォルターは今まさに物質界にあって困難な上昇の坂道を昇りつつあるのであった。

 ウォルターの苦悩は彼女の母性の中に埋もれていた利他的な愛情を呼び覚まし燃え立たせた。彼女は地上へ帰っていきたくなかった。そのままいけば何世紀でも満足に過ごせる幻想の生活があったからである。

しかしウォルターへの心配が勝を占めた。彼女は、たとえそれが苦難を意味するものであっても、新しい地上生活の中で何らかの方法で彼を助けることが許されることだけを願って再生することに決めたのである。


 彼女の願いは適えられた。そして同時に彼女自身も癒された。すなわち、母親としての欠点が修正され、前生における家族への悪影響も償われたのである。

 ヘンウィック教授とその妻は、同じ類魂に属していた。そこで妻を失った彼は間もなく寂しさを感じ始め、知的な喜び以上の何か、同僚との議論に勝つこと以上の何かを求め始めた。もともと彼の心は多くの点で優れたところがあった。厳しく抑圧されていた感情が目を覚まし、人間らしい愛情や親しみのある特別な仲間を求める強い欲求を感じ始めていた。

努力の要らない生活はもはや彼を喜ばせず、うんざりしきっていたが、さりとて今の生活を捨てることも適わず、それが都合よく解体してしまいそうな見込みもないのであった。

 ひき続き浄化の時がながれた。教授は娘やマーチンや妻を求めたが無駄であった。家族を結んでいた絆は解け、彼は地上生活で仲間から孤立させていた狭い排他性の代償を払わされるのであった。

 マーチンは父親の孤独の叫びが色彩界までかすかに響いてくるのを聴き取った。そこで彼は幻想界まで戻り、父親にその姿を現すことはできなかったが、互いを結びつける愛情のお蔭で、指導霊として父親を導くことが出来た。マーチンの助けで、ヘンウィックは地上にいた時の過ちを修正することができた。

彼は家族の立場を離れて周囲の魂たちを見渡してみた。その結果、奇怪でねじまがった魂が住む死後の暗黒世界を訪ねることになったのである。そこで憐憫や同情の気持ちがかなり干からびた学者の心に湧き上がってきた。

パウロがエフェッサスの野獣どもと闘ったように教授もまた、地上を去ってからわれとわが創造の地獄に堕ちた人の生み出す妄想の怪物たちと闘ったのである。


 他者への手助けをすることにより、次第に寛大な性情の発露をはばんでいた固い殻が破け、教授の魂は進化した。彼の発展を妨げていたものから解放されたので、彼は自己の内面の王国の持つ可能性にようやく気づいた。

愛情と言うものを知り、大自我の持つ創造的側面に気づき始めた。


そこで彼の魂は花開き、形相の世界(色彩界)への旅を許された。彼は息子と娘に再会し、「不滅」についての知識───すなわち、もし心と意識、想像力と愛と知恵によって導かれるならばのぼり究めることのできる荘厳雄大な頂についての知識───を手中にしたのである。

 一方マイケルは何世紀もの間第三世界に無気力なまま留まり、ますます消極的となり、植物的、利己的な生活を送ることによってどんどん劣悪な意識の段階へ沈んでいった。

然し彼にもついに目覚める時が訪れ、兄と同じく地上に戻らねばならぬことになった。地上での身体障害者としての生涯が教育的効果を持ったために、彼は次第に変わってゆき、よき性情が目覚めていった。

再度の地上の旅路を終えた後で例の画廊を通り過ぎる時には、画面に映る自分の生涯の意味を理解できるまでに成長していたのである。


ヘンウィック家の者たちは個人として躓いたのではなく一団として躓いたのであった。そこで全体が壊れ、その部分は飛び散ったのである。

いつの日か彼らは再会することであろう。が彼らが進歩を遂げて必須で貴重な感覚、すなわち共同体的特性たる経験、叡智、生命、愛などの神聖な分かち合いの感覚をそれぞれに具えるまで、さまざまな異なった道に沿って時空を旅する───一例だけ例外があるが───ことであろう。

                                                                                このページのトップに戻る


  

  41   乳房削除 生きるため  
 
       患者、その後  朝日新聞 2014年8月19日 朝刊     
   
 朝日新聞の記事の前に、ハリーエドワーズの「霊的治療の解明」から抜粋します。

「癌の原因は特殊な感情や精神的不安定及び個人の内的自我における不調和に起因しています。それらが腺の混乱をきたすところから癌は生ずるのです」。「ほとんどの乳がん患者には、精神的ストレス、例えば性交渉に対する嫌悪、子供が欲しいとかほしくないとか言った願望、生まれてくる子供を避けたいとする感情、不愉快且つ不健全な(しばしば母性としての)人間関係などが見受けられます」

 アメリカにおいてこの種の理論に基づいた調査が幾つかなされ、私の理論の正しさが確かめられました。シカゴのある病院では乳がんの手術を受けた40人の女性が詳しく調べられたのです。

その時の報告書はほとんど私の言葉そっくり述べています。すなわちその女性たちは「同じような個性と行動様式がみられた。彼女らは性交渉に対する嫌悪感を持ち、殆どの女性が子供を欲しがらず、また彼女らは外的親密さの見せかけとは裏腹に、母親との良好な関係を持っていない」。

また、「幸福な人は癌にならない」すなわち

癌は人間の霊的不調和が原因となるので、それは原因が存在すると同じ霊的次元すなわち霊的治療によって、有効に処置され得るのであり、医学的処置によっても、そうした心の乱れは処置できない。

霊的治療は癌を生み出すもとである内的自我の苦悩を取り去るのです。そして最後に癌そのものを除去し消散させます。(治療霊は癌や腫瘍の除去に当たっては、物質の原子構造を破壊する様々の放射するエネルギーを使用すると述べている)・・・・


   朝日新聞から  決断の支えは遺伝子検査 

米女優アンジェリーナ・ジョリーさんが予防切除した手術から、米国ではそのような決断をする人が増えているようです。ドリアン・メイシアもその一人、彼女は3人のおば、2人のいとこが乳がんや卵巣がんで亡くなったことを医師に伝えると「あなたも将来癌になるかもしれない」。と言われ、また同年代の友人を乳がんで失ったのをきっかに、癌になる確率はどの位なのかを遺伝子検査をした。

検査結果は「陽性」BRCAという遺伝子に変異があり、70歳まで最高87%の確率で乳がんに、44%の確率で卵巣がんになるリスクがあることが判り、すぐに乳房と卵巣の切除を決めた。卵巣を手術したことでホルモン剤を飲み続ける毎日、それでも彼女は「今は1000%幸せ。この選択を後悔したことは一度もない」と言い切っている。

・・・遺伝子検査だけで、健康な自分の体にメスを入れる。・・・そんな時代が日本にも押し寄せようとしている。  (ニューヨーク=岡崎明子)という記事です。

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 40   祝福、その意味!       
 
      GVオーエン 「ベールの彼方の生活」 P229       

すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(ハベ)った。それから領主が私と三人の供に今回の招待の主旨を説明された。

女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔たりのある吾々を前にした態度に相応しい、しとやかさに溢れていた。

私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ降りて行って、一人一人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬戸惑いを見せたが、やがて我々を見上げてにっこりとほほ笑み、寛ぎの表情を見せた。

 さて、その後の会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上で是非告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終わりとする。私はその女性たちにやさしい言葉を掛け手を触れて祝福した。

そして彼女たちも喜び溢れた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。

そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。何となれば祝福は吾々を通して父なる神から与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵の幾許かを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが分かるであろう。    

                                                                      このページのトップに戻る 

 
 39  求めなさい、そうすれば与えられます 

   スピリティズムによる福音 アランカルデック著 角智織訳
  
      第27章 
二十一
「人は常に自分で犯した失敗の結果に苦しみます。罰を受けることの無い神の法の違反は存在しません」 

「罰の厳しさは、違反の度合いによって決まります」 

「どのような罰であれ、その長さは決まっていません。それは罰せられる者の反省と改善する意欲次第だからです。だから、悪に執着すればするほど罰は長引きます。頑固である間は、罰に終わりはありません。すぐに反省するのであれば罰は短いものとなるでしょう」 

「罰を受ける者が慈悲を求めれば、神はそれを聞き入れ、希望を与えてくれます。しかし、ただ後悔するだけでは足りません。過ちを正すことが必要です。そのため、罰を受ける者は新たな試練の中に身を置き、その中で、自分自身の意志によって自分が過去に犯した過ちを正すために、善行に励むことになるのです」

「人間はこのように、自分で自分の運命を決めているのです。与えられた罰を短縮することも、不定の長期間長引かすことも出来るのです。人間の幸、不幸は、善を行おうとする意志にかかっているのです」

 これが神の法なのです。神の善良と正義による、不変の法です。罪を負った不幸な霊も、このように自分自身を救うことが出来るのです。神の法はどのような条件のもとでそうすることが可能なのかを教えてくれています。不足しているものは向上するための意志、気力、勇気でしかありません。

 もし祈りによってこの意志を感じさせ、加護を与え、勇気づけることが出来るのであれば。もし、私たちの忠告によって、彼らに不足している光を与えることができるのであれば、神にその法の撤廃を願うのではなく、自らその愛と慈善の法の実践手段となろうではありませんか。

神が認めているように、そうすることによって、私たちはその法に参加することができ、私たち自身の事前の証を示すことが出来るのです。(『天国と地獄』第一部 4,7,8章)


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    38     葬儀は本当に必要か                         
    
人間の死にまつわる儀式とタブーには民族によっていろいろとあって、見様によっては実に興味深い。

例えばタイのカレン族は葬儀の最中は子供たちを家の片隅に縛りつけておく。これは子供の魂が死者の肉体の中に入るといけないという信仰から来ているのであるが、そのために特殊な紐で特殊の場所に縛る必要がある。

オーストラリア東方のロイアルティ諸島の住民は死者が生者の魂を盗むという信仰がある。そこで、病人の死期が近づくと住民は埋葬予定地へ行ってイッセイに口笛を鳴らし、病人の家まで列を作って口笛を鳴らしながら戻ってくる。これは死ぬということはその人間の魂が死の世界へ誘惑されるということだから、口笛で呼び戻すことも出来る筈だという信仰からきている。

中国では良いよ棺の蓋が閉められるときは周りにいる人々が二、三歩棺から離れる。別の部屋へ逃げ込む者もいる。これは、影が棺の中に入ると、この人も遠からず死ぬという信仰があるからである。葬儀屋は自分の影が墓穴の中に入らない位置に立つ。墓掘り人と棺を担ぐ人は影が身体から離れないように、腰の周りに特殊な布を巻き付ける。

ベーリング海峡付近のエスキモーは、死者の出た日は全ての仕事を休む。親戚縁者は三日間休む。その間はナイフのような刃物類は一切使用してはいけない。死者の魂を傷つけるという信仰から来ている。大声を出してもいけない。霊魂がびっくりするといけないからである。

ルーマニアにも似たようなタブーがある。死者が出た後は鋭いナイフを使ってはいけないし、刃を抜き出しのまま放っておいてもいけない。中国でも同じ信仰があり、箸も使わない。七日間は手で食べることになる。

バルト海に臨むリトアニアの住民は死後三日目と六日目と九日目と四十日目に死者に食事を用意し、入り口のところに立って死者を呼び戻す。そして十分に食べ存分に飲んだと思う頃に帰ってもらう。その近くのプロイソン(プロシャ)にも似たような風習がある。

南インドのバタガス族には死者の罪を水牛の仔牛にのり移らせると言う奇習がある。部族の長または長老の一人が死者の頭のそばに立って、その人間の犯した(と思われる)罪の数々を並べ立てる。次にその死者の手を仔牛にあてがうとその罪の全てが仔牛にのり移る。

仔牛はその村から遠く離れたところに死ぬまで隔離される。その牛にはむやみに近づくことを禁じられる。ある意味では”神性”と考えられるのである。

古代エジプト人の信仰は実に混み入っていた。彼らは”蘇生”と言うのを信じた。が、もともとは死を司る神オシリスの蘇生だった。つまりエジプト人はオシリスが蘇生することが自分たちの死後の存続の約束となると考え、神々がオシリスにしたのと同じことを死者にしてあげれば死者も永遠の生命を授かると信じたのである。

そこでオシリスの子アヌビスやホラスなどがオシリスにした葬儀と同じことを人間にもした。その結果がミイラの作製となった。ナイル渓谷から発掘される無数の墓から蘇生のための秘法を記したものが出ている。当時は一人一人の死者に同じことを行っていたことが明らかとなっている。

彼らはオシリスが蘇生したように自分たちも蘇生し永遠の生命を得るのだと信じたのだった。

ひるがえって吾々英国人の葬儀はどうだろうか。私の手元に『国教会祈祷書』と言うのがある。教会の儀式や文句や聖書からの抜粋をまとめたもので一般の書店でも手に入るが、最も読まれていない本の部類の入るのではなかろうか。それはともかくとして、その中に「死者埋葬次第」と言う項目がある。

まず冒頭に「牧師心得」があって、本書の祈祷は「洗礼を受けざりし者、除名されし者、並びに己に不自然な行為をせし者(自殺者)には使用するべからず」とある。

今その全てを紹介するわけにはいかない。非常に込み入っていて、しかも長い。ぜひ知りたい方は直接お読みいただくことにして、ここではその全体の主旨だけを述べておこう。

と言っても、それは私が改めて説くまでもなかろう。死者の霊を安らかに眠りにつかせ、主イエスキリストの仲介によって”復活の日”に無事永遠の命を授かり神のみもとに行けるように、ということである。

儀式には数曲の似通った讃美歌が伴う。祈祷も讃美歌も古めかしい言葉で表現されているが、言わんとしていることは明白である。それは二種類に分離できる。一つは死者へのはなむけの言葉だ。

この者は本当は悪人間ではなかった。だから”吾々の一人”として真摯に待遇してやるべきだ、と。”吾々の一人”とは要するに、”神の恩恵を受け永遠の生命を給いし者”のことである。もう一つは直接神へ向かっての願い事である。

儀式は死者が”選ばれし者”の一人として復活の日に神に見落とされることの無いようにとの配慮が見られる。これで大丈夫といった感じである。全てが規定通りに行われると、協会の名簿の氏名の頭に印がつけられる。

もしあなたが協会の会員でなかったら、つまり洗礼を受けていなかったら、あるいは、かつては会員だったが脱会していたら、その儀式は受けられない。自殺してもうけられない。他の宗派の会員でもいけない。この永遠の生命を賜るチャンスは”選ばれし少数”の者にしか与えられないのである。

さてこうしたことは面白いと言えば面白いが、的外れなことばかりである。死後への恐怖心と迷信から生まれることばかりである。水牛の仔牛への人間の罪を乗り移らせることなどできるわけがないのと同様に、協会の手で洗礼を受け埋葬されたからと言って永遠の生命を授かるわけがない。あ
 
既に今日ではその理不尽さに気が付いて教会に背を向ける風潮が出てきつつある。いまどき永遠の断罪をまともに信じる人はほとんどいない。そして霊的な真理を求める人が増えている。霊的成熟のしるしである。そのうちすべての迷信が理性と置き換えられ、恐怖心が愛と置き換えられ、イエスキリストの説いた本当の意味が理解される日が来よう。

これからは死者が出た時は葬儀屋を呼んでこう言えばよい。

「この者の霊は今身体だけを残してあの世へ逝った。この体はよくこの者に尽くしたのだから手厚く葬ってほしい。儀式は何もしなくてよい。ただ丁寧に焼却してくれればよい」と。

そう述べてから親族及び友人知人で簡単なパーティを開き、個人の生涯を労い、最後にみんなで別れの挨拶をする。”さようなら”ではなく「では、またね」の挨拶だ。できることなら霊能者を呼んで個人の霊が霊界で歓迎される様子を見届けてもらうのもいいだろう。喪服など着てはいけない。黒は禁物だ。あなたは今素晴らしい第二の人生に旅立つ人を見送っているのだから。

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 37 暗黒界の探訪   (小キリストとの出会い)                    
     

      VSオーエン ベールの彼方の生活Ⅲ  1918年1月3日木曜日


さて彼らのすぐ側まで来てみると、大きくなったり小さくなったりする炎を囲んで、不機嫌な顔つきでしゃがみ込んでいる者もいた。吾々の立っている位置はすぐ後ろなのに見上げようともしない。もっとも、たとえ見上げても吾々の存在は彼らの目には映らなかったであろう。

彼らの視力の波長はその時の吾々の波長には合わなかったからです。言い換えれば吾々の方が彼らの波長まで下げていなかったということです。そこで吾々は互いに手を握りあって(エネルギーを強化して)徐々に鈍重性を増していった。すると一人二人と、何やら身近に存在を感じて、落ち着かない様子でモジモジし始めた。これが彼らの通例です。

つまり何か高いものを求め始める時のあの苛立ちと不安と同じものですが、彼らはいつもすぐそれをひっこめる。と言うのも、上へ行く道は険しく難儀に満ち落後する者が多い。最後まで頑張ればその辛苦も報われて余りあるものがあるのですが、彼らにはそこまで悟れない。

知る手がかりといえばこの度の吾々のように、こうして訪れた者から聞かされる話だけなのです。

そのうち一人が立ち上がって、薄ぼんやりとした闇の中を不安げに見つめた。背の高い痩せ型の男で、手足は節くれだち、全身が前かがみに折れ曲り、その顔は見るも気の毒なほど希望を失い、絶望に満ち、それが全身に漂っている。その男がヨタヨタと吾々の方へ歩み寄り、二、三ヤード離れた位置から覗き込むような目つきで見つめた。

その様子から吾々はこの暗黒の土地に住む人間の内少なくとも一握りの連中には、吾々の姿がたとえ薄ボンやりとではあっても見ることができることを知った。

それを見て私の方から歩み寄ってこう語りかけた。

「もしもし、拝見したところたいそうやつれていらっしゃるし、心を取り乱しておられる。何か吾々にできることがあればと思ってやって参ったのですが・・・」

すると男から返事が返ってきた。それは地下のトンネルを通って聞こえる長い溜息のような声だった。

「いったいお前さんはどこの誰じゃ。一人だけじゃなさそうじゃな。お前さんの後ろにも何人かの姿が見える。どうやらこの土地の者ではなさそうじゃな。いったいどこから来た?そして何の用があってこの暗い所へ来た?」

それを聞いて私はさらに目を凝らしてその男に見入った。というのは、その無気味な声の中にもどこか聞き覚えのあるもの、少なくともまるで知らない声ではない何ものかが感じられたのである。そう思った次の瞬間ハタと感ずいた。彼とは地上ですぐ近くに住む間柄だったのである。

それどころは彼はその町の治安判事だった。そこで私は彼の名を呼んでみた。が私の予期に反して彼は少しも驚きを見せなかった。困惑した顔つきで私を見つめるが、よく分からぬらしい。

そこで私はかつての名前を言い、続いて奥さんの名前も言ってみた。すると地面へ目を落し、手を額に当ててしきりに思い出そうとした。そうしてまず奥さんの名前を思い出し、私の顔を見上げながら二度三度とその名を口ずさんだ。

それから私が彼の名前をもう一度言ってみた。すると今度は私の唇からそれが出るとすぐに思い出してこういった。

「わかった。思い出した。思い出した。ところで妻は今どうしているかな。お前さんは何か消息をもってきてくれたのか。どうしてオレをこんなところに置いてきぼりにしやがったのかな、あいつは・・・」

そこで私は、奥さんがずっと高い界にいて、彼の方から上がっていかない限り彼女の方から会いに降りてくる事はできないことを話して聞かせた。が彼はその辺のことが良くのみ込めなかったようだった。

その薄暗い界でよほど感覚が鈍っているせいか、そこの住民のほとんどが自分が一体どの辺りにいるのかを知らず、中には自分が死んだことにすら気づいていない者がいる。

それ程地上生活の記憶が蘇ることが少なく、たとえ蘇ってもすぐに消え失せ、再び記憶喪失状態となる、その故彼らの大半はその暗黒以外の場所で生活したことがあるかどうかも知らない状態である。

しかしその内その境涯での苦しみをとことん味わってうんざりし始め、どこかもう少しましなところでましな人間と共に暮らせないものかと思い始めた時、その鈍感となっている脳裏にも油然として記憶が蘇り、その時こそ良心の呵責を本格的に味わうことになる。


そこで私はその男に事の次第を話して聞かせた。彼は地上時代には、彼なりの一方的な愛し方であったが、奥さんを深く愛していた。そこで私はその愛の絆を繰り寄せようと考えた。が、彼は容易にその手に乗らなかった。

「それ程の(立派になった)人間なら、こんな姿になったオレのところへはもうやって来てはくれまいに・・・」彼がそういうので、

「ここまで来ることは確かにできない。あなたの方から行ってあげるほかはない。そうすれば奥さんも会ってくれるでしょう」

これを聞いて彼は腹を立てた。

「あの高慢きちの売女め!オレの前ではやけに貞淑ぶりやがって、些細な過ちを大げさに悲しみやがった。今度会ったら言っといてくれ。せいぜいシミ一つないきれいな館でふんぞり返り、ぐうだら亭主の哀れな姿を眺めてほくそ笑むがいい、とな。こちとらだって、カッコはよくないが楽しみには事欠かねえんだ。

口惜しかったらここまで下りてくるがいい。ここにいる連中みんなでパーティでも開いて大歓迎してやらぁ。じゃ、あばよ、だんな」そう吐き棄てるように言ってから仲間の方を向き、同意を求めるように薄笑いを浮かべた。


その時である。別の男が立ち上がってその男を脇へ連れて行った。この人はさっきからずっとみんなに混じって座っており、身なりもみんなと同じようにみすぼらしかったが、その挙動にどことなく穏やかさがあり、また吾々にとっても驚きと思えるほどの優雅さが漂っていた。

その人は男に何事かしばらく語りかけていたが、やがて連れだって私のところへ来てこう述べた。


「申し訳ございません。この男はあなた方のおっしゃることが良く呑み込めていないようです。皆さんに咎められたのではなく慰めに来られたことが分かっておりません。

あのようなみっともない言葉を吐いて少しばかり後悔しているところです。あなたさまとは地上で見知らぬ仲ではなかったことを今言って聞かせたところです。どうかご慈悲で、もう一度声をかけてやってください。


ただ奥さんのことだけは遠慮してやってください。ここに居ないことを自分を見捨てて行ったものと考え、今もってそれが我慢ならないようですので、・・・」

私はこの言葉を聞いて驚かずにはいられなかった。あたりは焚火を囲んでいる連中からの怒号や金切り声や罵り声で騒然としているのに、彼は実に落ち着き払って静かにそう述べたからです。

私はその人に一言お礼を述べてから、先の男のところへ行った。私にはその男がお目当てなのである。というのも、彼はこのあたりのボス的存在であり、その影響力が大であるところから、この男さえ説得できれば、後はらくであるとの確信があった。


私はその男に近づき、腕を取り、名前を呼んで微笑みかけ、雑踏から少し離れたところへ連れて行った。それから地上時代の話を持ち出し、彼が希望に胸を膨らませていた頃のことや冒険談、失敗談、そして犯した罪の幾つかを語って聞かせた。彼は必ずしもその全てを潔く認めなかったが、いよいよ別れ際になって、そのうちの二つの罪をその通りだと言って認めた。

これは大きな収穫でした。そこで私は今述べた地上時代のことにもう一度思いを馳せて欲しい・・・そのうち再び会いに来よう・・・君さえ良かったら…と述べた。そして私は彼の手を思い切り固く握り締めて別れた。別れた後彼は一人でしゃがみ込み、膝を顎のところまで引き寄せ、向う脛を抱くような格好で焚火に見入ったまま思いに耽っていました。

私はさっきの男性に会いたいと思った。もう一度探し出して話してからでないと去り難い気がしたのです。私はその人のことを霊的にそろそろその境涯よりも一段高いところへ行くべき準備ができている人ぐらいにと考えていました。

すぐには見つからなかったが、やがて倒れている木の幹に一人の女性と少し距離を置いて腰かけて語り合っているところを見つけた。女性は熱心にその人の話に聞き入っています。


私が近づくとその人は立ち上がって彼の方から歩み寄ってきた。そこで私はまずこう述べた。

「この度はお世話になりました。お蔭様であの気の毒な男に何とか私の気持ちを伝えることができました。あなたのお口添えが無かったらこうはいかなかったでしょう。

どうやらこのあたりの住民のことについてはあなたの方が私よりもよく心得ていらっしゃるようで、お蔭で助かりました。ところであなたご自身の身の上、そしてこれから先のことなどどうなっているのでしょう?」


彼はこう答えた。

「こちらこそお礼を申し上げたいところです。私の身の上をこれ以上隠すべきでもなさそうですので申し上げますが、実は私はこの土地の者ではなく、第四界に所属している者です。私は自ら志願してこうした暗黒界で暮らす気の毒な魂を私にできる範囲で救うためにここに参っております」

私は驚いて「ずっとここで暮らしておられるのでしょうか」と尋ねた。

「ええ随分長いこと暮らしております。でもあまりの息苦しさに耐えかねた時は、英気を養うために本来の界に戻って、それから再びやってまいります」

「これまで何度戻られましたか」

「私がこの土地へ初めて降りてきてから地上の時間にしてほぼ六十年が過ぎましたが、その間に九回ほど戻りました。初めの内は地上時代の顔見知りの者がやってくることがありましたが、今では一人もいなくなりました。みんな見知らぬ者ばかりです。でも一人ひとりの救済のための努力を続けております」

この話を聞いて私は驚くと同時に大いに恥入る思いがした。

この度の吾々一団の遠征は一時的なものに過ぎない。それを大変な徳積であるかに思い込んでいた。が、今目の前に立っている男はそれとは次元の異なる徳積をしている。己の栄光を犠牲にして他の者の為に身を捧げているのである。その時まで私は一個の人間が同胞のために己を犠牲にするということの真の意味を知らずにいたように思う。

それも、こうした境涯の者の為に自ら死の影と呼ぶべき暗黒の中で暮らしているのである。彼はそうした私の胸中を察したようです。私の恥じ入る気持ちを和らげるためにこう漏らした。


「なに、これも主イエスへのお返しのつもりです・・・主もあれほどの犠牲を払われて吾々にお恵みを下さったのですから・・・」

私は思わず彼の手を取ってこう述べた。

「あなたがまさしく“神の愛の書”の聖句を私に読んで聞かせてくださいました。主の広く深き美しさと愛の厳しさは吾々の理解を超えます。理解するよりも、ただ讃仰するのみです。がそれだけに、少しでも主に近き人物、言うなれば小キリストたらんと務める者と交わることは有益です。思うにあなたこそ小キリストのお一人であらせられます」

が彼は頭を垂れるのみであった。そしてその髪を左右に分けられたところに崇敬の口づけをした時、彼は一人毎のようにこう呟いたのだった。

「勿体ないお言葉・・・私に少しでもそれに値するものがあれば・・・その有難き御名に相応しきものが一欠片でもあれば・・・」
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   36 第一界から第三界の生活模様     
 
  世界心霊宝典 スピリチュアリムの真髄 第二部思想的考察

                第四章 死後の生活 P309     

    
まず最初は前にも紹介したことのある霊媒カーライル・ピーターシリアの「霊界からの便り」で、父親のフランツがこう述べている。

「多分お前は我々夫婦がいま第何界にいるか知りたいであろう。そうだな、二人とも第一界に住んだことはない。死んでこちらへ来たら、まず第三界へ連れてこられた。地上時代の私はその程度の人間だったというわけだ。死んだ時の私が決して低級で不道徳で堕落した人間でなかったことだけは確かで、いろいろと才能もあったし、相当な知識も身に付けていたつもりだ。ただ第三界を超えるまでには至っていなかった。

今は第四界にいるが、行こうと思えば上でも下でも行ってみることだけはできる。それはどの界のスピリットも同じだ。自由に旅をして知識を獲得することが無ければ、せっかく不自由な肉体を棄てた甲斐が無いというものだ。

第一界は悪徳と堕落と不潔以外はこれといったものが何もないところだ。が高級界のスピリットはひっきりなしに訪れてはそのいわば無知の牢獄に閉じ込められたスピリットを救わなければならない。(中略)どちらかといえば女性より男性と若者が多い。が、若いものがいつまでもこの界に留まることはない。高級霊がその若者の向上心という芽をうまく捕えて、知識と光明を注ぎ込む。すると間もなく第一界から連れ出されて、善なるものばかりと接触する学校へ預けられることになる。

 ああ、仕事か。仕事はみんな持っている。遊んでなんかいられない。現に誰一人としてブラブラしている者はいない。第二界は圧倒的に学校と子供が多いところだ。どこへ行っても学校があり子供がいる。が、それはどの界でも同じで、第七界でも子供はいる。高級霊の持つ強烈な愛が、縁のある子供を引き寄せるからだ。

 第一界に長居するものはほとんどいない。というのは、あとからあとから送られてくる地球からの新入者の数が大変なので、高級霊が、燃え盛る炎の中から燃木を取り出すように、必死になって救出にあたっているのである。

 飲んだくれがいる。麻薬患者がいる。放蕩者がいる。荒くれ者がいる。がりがり亡者がいる。殺人者がいる。強姦者がいる。強盗がいる。詐欺師がいる。堕落しきった若者がいる。極悪非道の悪人がいる。そして意外に多いのが、地上で大金持ちだったいわゆる富豪である。特に他人を食い物にして身を太らせたものが多い。(中略)、地上の未開人もこの界に来る。

 さて次に景色のことが知りたいであろう。第一界の景色は地上と大して差はない。というのも、地上の景色の中でも特に無意味なもの、ゴミゴミしたもの、殺伐としたものがいったんこの界に留まり、少しでも秩序と美しさを加え、やがてそれに相応しいスピリットと共に第二界へと送られていく。ジャングルがそれであり、泥水のような急流がそれである。

 そして不審に思われるかもしれないが、古色蒼然たる修道院を見かけることもある。理性に耳を傾けず、真理の光を受け入れようともしない、頑固な修道士や牧師がそこで旧態依然たる生活を続けているのだ(中略)。魂というものは、その霊性に相応しいものしか鑑識しないものだ。規律正しい、美しい魂は、規律正しい美しい界に感応し、堕落した低級な魂は最低界に感応し、それ相当の生活を送るのである。

 もう一つ付けくわえたいのは、そうした程度の低いスピリットは姿勢格好まで似つかわしいものになっているということだ。(中略)、第一界では、ありとあらゆる種類の〝恐ろしいこと〟が繰り広げられている。もちろん生命が奪われる(殺される)ことはない。考えてもみるがよい。
地上で起きる恐ろしいこと、それを行う恐ろしい人々がそっくりこの界に集まっているのだ。

恐ろしことが無い方がどうかしている。そういう連中が不潔と,ボロと、むさくるしさを撒き散らすのである。家もその品性によく似合っている。もっともこの界のスピリットには、まだ簡単な小屋程度のものすら自分で作る創造力もなく、作ってみたいという意欲すら持ち合わせないので、家らしい家を持たない連中がザラにいる。

そんな連中は善性と叡智を具えた上級界のスピリットの家にはとても入れない。が、そんな連中でも徐々にではあるが、一人また一人と、向上していくものなのだ。いつまでたっても救えぬ人間、というものはいないのである」


 引き続いて第三界の生活の様子をこう語る。

「地上世界は天上界の写しである。地上で見られるものは全部天上界でも見られると信じてもらって差し支えない。ただそれが遥かに荘厳で崇高でスケールが大きいのである。(中略)我々は、こちへ来て、最低界は例外として、衣服をまとわぬ霊にただの一度もあったことが無い。霊格が高ければ高いほど、その衣服も美しい。

衣服そのものが愛と真実と叡智の表現にほかならないからである。では具体的にどんなものを纏っているのか、特に女性はどんなフアッションになっているのか、その辺が知りたいであろう。

 衣服は柔らかく、すらりと垂れ下がっり、身体の動きにつれて、得も言われぬ優雅なたなびきをみせる。しかし同じ色の衣服をまとった者は二人と見当たらない。色も形も、その霊の霊格の高さと個性の表れである。全く同じ霊というのはあり得ないから、同じ衣服をまとっている霊は二人といない理屈である。が、

それでいて皆それぞれに優雅なのである。(中略)地上の霊能者に姿を見せるときは地上で着なれた服装をまとう。それは自分であることを知ってもらうために一時的に着るのであって、用事が終わると脱捨てる。

 女性はどのようなへアスタイルをしているのかということだが、天使はみなあくまでも女性らしく、肩まで垂れた優雅な髪をしている。

天使にも履き物があるかとの質問だが、彼らは柔らかいサンダルのようなものをつけている。たいていバラ色をしており、それを同じくバラ色をした柔らかなリボンで締めている。もっともいつでもそうだというのではない。時には天使も一つのことに熱中して我を忘れていることがある。そんな時は一つの光の塊となって見える。

やがて我に帰り、自分が見られていたことに気づくと、はっとした表情で、美しい天使のまなざしで見返すことがある。(中略)この界に住む霊のまとえる衣服は目も眩まんばかりの輝きをしており、仮に地上の人間がその目で見ることを得たとしたら、おそらく魂が肉体に止まって居られまい、と想像される。

 次は霊界の住居の話に進もう。
住む家が無いということはいわば霊界の浮浪者であることを意味し、それは最低界においてのみ見られることである。(中略)男性と女性が正しく結ばれて、まず最初に考えることは、我が家をこしらえることである。つまり自分たちが住み、客を迎え、時には衆目から逃れる場所であり、元気を回復する場所でもあり、美を創造する場所でもある。

地上の人間と全く同じ意味において高級霊にも家は必要なのである。ただその荘厳さと気高さのスケールが違う。地上の家は天界の家を小さくし、そしてみすぼらしくしたようなものである。人間が太陽の炎熱から逃れたくなるように天使にも時として天界の強烈な光がまぶしくて耐え切れなくなる時があるものである。

そんな時、家がよき避難場所となる。このように霊界においても家は絶対に必要であり、家なしではやっていけないし、事実家を持たない者はいない」    ("Letters From the Spirit World by” by Carlyle Petersilea)



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  35  なぜ、今霊的真理なのか?   

      シルバーバーチの新たなる啓示P180
   
  (抜粋) 
 霊力は生命そのものです、あなた方の言う“神”の分霊です。生命とは霊であり、霊とは生命なのです。霊はいかなる形態を通してでも生命を表現しています。

大霊から出たものが私達の霊界の存在を通して地上圏まで届けられ、地上のチャンネルないしはミーディアム(霊媒)を通して地上に注入されております。それが物的身体の奥に宿る霊性に活力を賦与し、潜在する霊的資質を発現させる事になるのです。

 なぜ今の時代にそれが必要かと言えば、それは唯物主義がもたらした混乱、黄金の子牛の像の崇拝、すなわちお金第一主義がはびこり過ぎたからです。唯物主義は存在自体が貪欲、強欲、自分第一主義に根ざしています。

同じ天体上に住んでいながら、自分以外の者への思いやりも気遣いも考えず、ひたすら自分の快楽と蓄財に励みます。敵対関係、戦争、怨念…こうしたものを生み出すのは唯物主義です。

物質は全てである、死は全ての終わりである、だったら自分の思うままにして生きて何が悪い、と言う論法です。

 こうした自己中心の考えが地上界に暗黒と困難、闘争と暴力と憎み合い生み出すのです。人間は霊的存在としての宿命を背負っているのですから、その宿命を成就する為の生きかたをするには、そうしたものをなくさないといけません。

 残念ながら慣習となっている伝統的な宗教も哲学も教育も、今では頼りにされなくなっています。特に若い世代はそっぽを向いています。

愛する人を失った時と同じように、悩みや苦しみを持つ人は教会や寺院やシナゴ―ク(ユダヤ教会の教会堂)を訪れますが、最早そこには真の救いを与えてくれる人はいません。 病を得たものが病院へ行っても、必ずしも治してもらえるとは限りません。哲学者も納得のいく答えを与えてくれません。

あれほど鋭い頭脳を持った人が…と思える程のどの学者も、心霊現象を研究してその真実性を認めた先輩の科学者たちの業績をみて、ただあきれ返るばかりで、理解できずにいます。その気になれば今でも同じ実験が出来るのですが…

 あなた方は、そうした現象を起こす霊力と同じものを顕現させて、他の何ものによっても出来ない形で人の為に力になってあげる事が出来ます。

死別の悲しみに暮れる人を慰め、病の人を癒し、人生に疲れた人に生きる元気を与え、迷える人を導き、全生命の基盤である永遠の霊的実在を証明して見せる事が出来ます。

 霊と言うものは実体のないもののように想像されがちですが、あなた方は霊こそ実在である事を証明して見せる事が出来ます。死後の生命の実在、不治の病の治癒、その他諸々の霊媒現象によって立証出来ます。

それは人間本来の生き方の基盤を提供することでもあります。そういうものを必要とする人は、あなた方から呼び掛けなくても、向こうから訪れるようになります。

 訪れた人に何らかの力になってあげる事が出来たら、そういうチャンスを与えて下さった事を大霊に感謝する事です。もしも力になってあげる事が出来なかったら、あるいはもしその人が霊的にまだ目覚める用意が出来ていなかったら、自分自身でなく、その人の為に、秘かに涙を流してあげなさい。

あなた方としては、何時でも手を差し伸べられる用意をしておくことが大切です。あなた方自身も、そういう人がいてくれたからこそ霊的真理に目覚める事が出来たのですから。

 神は御機嫌がいいと褒章を与え、腹を立てると罰を与えると言う様なものではありません。原因と結果の連鎖が、摂理に則って自動的に、あるいは機械的に、途切れることなく続くのです。何事にも自分が責任を負うのです。

 良い行い、つまり人の為になる事をすれば、自動的に霊性の向上と言う結果が生じます。反対に、人間の煩悩から過ちを犯した場合、言い替えると物的欲望に拘りすぎて堕落した生活に陥った時は、自動的に霊性が低下します。

 人の為に役立つことをしただけ、それだけあなた方も他人から、ここぞと言う時に手を差し伸べて貰えるのです。

そうした生き方を続けていると、内なる輝き、内なる落着き、内なる平安と言うものが具わって来ている事に気づきます。それは、霊の世界の援助者と繋がりがより緊密になってきている事の証拠です」
                                                                                   このページのトップに戻る

 
  34  葬儀代 どうします?   幽霊を心のケアに
          
       朝日新聞2014年1月16日 17面 オピニオン 13版
 
 

 「安く」の相談増す貧困や高齢化映し時代が見えてくる。”長野県松本市神宮寺住職 高橋卓志さん„です。

「葬儀代を払えず安くしてください。という、貧困、高齢化等時代が見えてくるという記事ですが」・・・実は死後にも生命があって死後の為に今を生きている。したがって生きている人間にどうして葬式が必要なのですか? ”葬式” はいらないのです。といったらどうなさいますか?

 長文になりますので記事は載せませんが、下記の”幽霊を心のケアに„ と同じことで現代の死後感は全くなっていないことにお気づきになられるはずです。

「シルバーバーチ読書会 東京 かつしか」=その、私の名刺の裏に”人間の魂の死後存続が160年ほど前からの霊界通信によって詳しく地上人にもたらされた。死はあの世へ帰る喜びなのです”と印刷されています。あの世で生きているのです。と言うよりもあの世へ帰る為の学びをするところが地上と言う場所なのです。

イエスキリストが今の時代にもし生まれてきたとしても、現在の地上人を救うことにはならないでしょう。磔刑にはならずともその真価を発揮することもできずに生涯を終えることでしょう。

霊的真理が一日も早くこの地上に広がるように活動の必要性をひしひしと感じます。

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 33  話すことで、不安和らぐ 幽霊を心のケアに
 
        朝日新聞 2013年12月31日 16面掲載

「亡くなった知人が幽霊で出た」「先に逝った家族がお迎えに来た」。医学的には幻覚と退けられがちだった「心霊現象」を、心のケアに生かすための研究が進む。こうした話に宗教者らが耳を傾け、不安を和らげる効果が期待されている。

 東北大(仙台市)の高橋原准教授らのグループは7月、宮城県内の寺院や神社、協会等約1400の宗教施設にアンケートを配った。犠牲者の多い東日本大震災の被災地では、幽霊やお化けの目撃談が頻繁に聞かれる。僧侶や神職らに、どのくらいの体験が寄せられ、どう対応しているかを調べるのが目的だった。

 噂話でなく、「霊的」あるいは「不思議」な現象を体験した人にあった、と答えた宗教者は、回収した276人のうち69人だった。

 家族や知り合いを亡くした人だけでなく、犠牲者の多かった場所で不思議な光景を見聞きしたケースも多い。高橋さんは「医者に行くと、眠れないなら薬を出しましょう、となることが多い。まずは話を聞き、安心感を与えるのは、宗教者の役割でしょう」と話す。

 在宅のホスピスケアを進める医療法人爽秋会(宮城県名取市)は研究者と連帯して2001年から、患者のあの世からの「お迎え体験」の調査を続ける。11年は、患者の家族575人に聞いた。

 他人に見えない存在や風景について患者が語るような経験があったか、という問いに、約四割が「経験した」と回答した。

 調査に携わる相沢出さんは、「在宅だから表に出たが、病院ではなかなか口に出せないようだ。生と死を連続するものとして捉えることは、穏やかに死と向き合うきっかけになっている一面もあり、むげに否定すべきではない」と話す。

 米国では病院などで心のケアを担う「チャプレン」という宗教者が認知されている。無宗教の人が多いとされる日本でも、07年に日本スピリチュアルケア学会が設立された。理事の窪寺俊之・聖学院大教授は「日本人は先祖や自然など霊的な領域の意識を持っていて、医学では対応できない魂の問題がある」とみる。

 ただ宗教者が関わることに抵抗感を覚える人もいる。窪寺さんは「布教を目的にしてはならず、聞き役に徹する研修も必要だ」と言う。(宮本茂頼)
 bunka@asahi.com


 朝日新聞のこの記事に書かれてあるスピリチュアルケア学会が設立されたという。しかしスピリチュアリズムと言う言葉は出てこない。これほど霊的真理が簡単に目に入るのにそこを素通りしてしまう。私は二、三年前に浄土真宗の僧侶で東大卒82歳の方のお話を聞く機会があり楽しみにして出席した。

(なのに何一つ満足した話は聞けなかった。人間が書いたお経や経典の話などは、人間界外の世界へは出られません。結果として何もわからないということになってしまうのです。)

 しかもその僧侶、スピリチュアリズムを少し知って居るのです。知って居ながらそこを素通りしてしまうのです。質問の為に手をあげましたが「守護霊さんが止めなさい」というので中止しました。死後の存在(スピリチュアリズム)を認めてしまうと今まで散々苦労して〝学んだ学問すべてが霧消〟してしまうのです。それが怖いのです。


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   32 ペットが死ぬ時ー誰も教えなかった別れの意味から    
            「動物から人間の魂へ」            
 
「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

シルバーバーチ 「長い進化の道程のどこかの時点で、神の、というよりは法則の働きによって、動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力と言うものを身につけた訳です。

 すなわち、物ごとを意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部始めから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが神の息吹で目を覚ましたわけです。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹を吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じ事が出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹を吹き込む事が出来る筈です。

 つまり動物との接触の中で、愛と言う霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来る訳です。それがその後の長い進化の過程を経て、やがて人間と言う頂点まで達する訳です。愛が生命の全てのカギです。

 動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそ宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統括しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします、人間同士でもそうですし、動物、植物と言った人間より下等な生命でもそうです。愛があればこそ生命は進化するのです」 P134

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 31  ペットが死ぬ時ー誰も教えなかった別れの意味から 
 
      「ロバ、ブラックベアーの超能力」 
   

  これから紹介するのは、米国の心霊研究家のアーサー・ゴードビー氏による調査を受けた、ブラックベアと言う名のシェットランド産のポニー(小型の馬)の話です。

 飼い主はニューヨークのトーマス・バレット氏で、飼ってすぐからそのブラックベアが人間の言葉に素早く反応するだけでなく、動物には考えられないほど高度な判断力を見せる事に気づき、アルファベットを教え込んで簡単な単語を覚えさせ、単純な算術を教えていきました。

 ところが、そのブラックベアの能力はバレット氏の能力を凌ぐほどに進歩し、それが話題を呼んで、いろんな人が見物に来るようになりました。

 中には飼い主のバレット氏がトリックを使っているに相違ないという見方をする人が多くいました。では、そうでないところをお見せしましょう。と言う事で行った実験がうまくいくと、「なるほど」と得心するよりも「バレット氏はショーの天才だ。実に巧みにやるもんだ」 といった受け止め方をする始末でした。

 本格的な調査を目的に訪れたゴードビー氏も、最初はあまりの見事さに戸惑ったほどだと言います。繰り返し調査をしていくうちに、バレット氏は故意にも無意識にもトリックは使っていないとの結論に達しました。

 実はゴードビー氏が初めて訪れた時に、英国の心霊研究家のブライト・ボンド氏も同行していました。ボンド氏は『記憶の中の修道院』(*)と言う著書で有名な研究家で、本来は牧師で宗教建築士で考古学者と言う多彩な能力の持ち主です。

(*)ーーこれは二人の霊媒による自動書記通信をまとめたもので、通信してきた霊は英国のグラストンべりにかつて存在した古い修道院の敬虔な修道士。その通信が届けられた時点ではそこに修道院が埋もれていることは知られていなかった。それが発掘作業によって事実である事が判明したというもの。その修道士は地上時代の修道院の素晴らしさが忘れられず、今もその土地に執着して、一歩も向上できずにいる。こう言うのを自縛霊と言う。  

ボンド氏はブラックベアの数字(算数ではない)の能力に着目しました。もはや飼い主のトリック等と言う言い掛かりは問題にならないと判断していました。

 ボンド氏は黒板に正方形を描き、対角線を引いて、これを何と呼ぶかと聞いてみました。”対角線” と言う答えが返ってくると思ったら、”三角形の斜辺” と言う返事が返ってきたというのです。奇妙な答え方ではありますが、間違いではありません。

 次に出した問題は、一辺が五単位の正方形の対角線の長さは? というもので、単に(一センチとか二インチとか)を特定しないでおきました。ブラックベアは間髪をいれずに ”7” と答えましたが、すぐ後で首を振りながら後ずさりしました。

 どうやらブラックベアも、単位を特定していないので、正確な数字は出せない事が分ったようでした。しかしいかなる単位にせよ ”7” が一番近い数値である事には間違いありません。
 こうしたテストによって、ブラックベアの能力が人間の能力としても高等なものであることから、ゴードビー氏は超能力の可能性もあるとの見方も強めて、その側面からの調査を始めました。
 

 まずブラックベアにこんな質問をしてみました。

「私の頭の周りに何色が見えますか」

この質問にブラックベアはすぐさまうなずいて、ゴードビー氏に近づき、鼻の先をゴードビー氏の額にあてがいました。

「何の色?」と聞くと

「明るい」という答えです。

「明るい何色ですか」と聞くと、驚いた事に
 
「明るい光線」と答えたのです。

 何故驚くべきことかといえば、ゴードビー氏は ”色の種類” を求めていたのに、その指示に乗らずに ”光線” と答えたからです。

 そこでゴードビー氏が更に探りを入れる質問をして見たところ、その部屋に、いつもの人たちとは違う姿が見えている事が分りました。

 何人いるかと尋ねると、男性が何人で女性が何人、と答え、その人たちの名前が分れば教えてほしいと言うと、答えようとしません。どうやら返事を遮られている様子でした。更に質問しようとすると、その人たちはもういないと言う返事でした。

 明らかにこのブラックベアには人間の ”背後霊” がついていたと言う事です。これほどの霊的能力を持つ馬ですから、テレパシーにも反応して当たり前ですが、ある実験によって、必ずしもテレパシーではない、つまり質問者の脳裏にある答えを読み取っているのではない事が判明しています。

 それは1861年の米国の大統領について質問した時で、「誰か」と言う質問にはあっさりと「リンカーン」と答え、暗殺されたのがワシントンにいた時であることも、いとも簡単に答えました。

 そしてその暗殺者の名前を尋ねると

「ブース」とだけ答えるので

「呼び名は」と尋ねると

「ウィルクス」と答えました。この答えが問題なのです。ゴードビー氏の解説を紹介しましょう。

「ブラックベアは図書館へ言って本を読むなどと言う事をする筈がない。大学へ通ったわけでもない。家庭教師がいるわけでもない。十一年間もたった一人で、いや一頭で馬小屋の中で過ごし、時にはいろんな催しに連れて行ってもらったくらいな事です。

 そうした事情から考えると、上の暗殺者についての返事は実に不思議なのです。どの歴史書を見ても暗殺者の名前は『ジョン・ウィルクス・ブース』出ています。ところが彼の仲間達(彼は俳優だった)の間では『ウィルクス・ブース』と呼ばれていたのです。

 なぜブラックベアはその名前で答えたのでしょうか。仮に書物を読んだか、あるいは我々の頭から読み取ったとしたら、『ジョン・ウィルクス・ブース』と答えた筈なのです」

 このことから、かつてのブースの仲間が背後霊としてブラックベアに答えを教えていたと言う事が想像できるわけです。結論としてゴードビー氏はこう述べいます。

「ブラックベアは知能では驚異的とはいえませんが、霊界の人間からの通信を受け取る、動物としては珍しい霊的能力を持っているようです」


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 30   日本の神霊治療家 
                 九州長洲の「生き神様」 松下松蔵氏
 信仰治療から霊的治療への移行形態にあると思われるものを見てみると、わが国においては次のような例がある。

 戦前において霊的治療の特異傑出したものとして、九州長洲の「生き神様」と言われた松下松蔵氏の例がある。一見何の変哲もないお百姓さんであったが難病奇病を笏の一振りで瞬時に治癒せしめる力があった。

結核、癌、ハンセン氏病も例外ではなく、全国から治療を求める人が長洲腹赤村のこのお百姓さんの家へと蝟集(イシュウ)した。

国鉄長洲駅に汽車がとまると、「神様行き」と行先の書かれたバスが三大列になって出発したという。この人のことは九州毎日新聞の社主であった澤井元善という人が三年ほどこの松下氏にかかりきりになって『神人松下先生』という本を著している。

 この松下松蔵氏は、あるとき(四〇過ぎて)神前で神拝中一升ほどの血を吐いて以来治病能力を得たという。特定の信仰を強制するわけではなかったが、敬神崇祖と親孝行だけをすすめた。まず霊視して、親孝行でないとわかると治療しなかったといわれる。

 戦後発足した「千鳥会」という会は、塩谷信男博士という東京帝大医学部出身の医師によって主宰され、「まなて」とよぶ独自の治療法を施した。

この治療形態は信仰治療に近いものを残しているが実態は霊的治療であったと思われる。日本のスピリチュアリズムの独自な発展の中に位置づけられ、スピリチュアリステックな認識の高さで他を圧している(聖徳太子にゆかりのある霊団が働いたといわれる)。

 霊的治療は日本においては未だ本格的な普及の緒についていない。その最も大きな理由の一つは、スピリチュアリズムの基本的理念が、これを推進させようとする人々のグループにおいてさえ、未だしっかりと根を下ろしていないために、これを人類的規模で展開しようとする霊界の意図と結びつかないためであると考えられる。

従って霊的治療を行なおうとする人の観点が、従来の信仰治療ないし霊術家の霊術的段階を脱しえていない。

その結果、現在みられる治療の小規模な成功例は、個人の背後霊のカルマの発動の範囲であり、治癒はたかだかその陰徳の発露でしかないもののようである。残念なことに、わが国における霊的治療の実体は未だに「治癒」を奇跡の領分にとどめてるのである。

 いずれにしてもハリー・エドワーズの霊的治療における理論と実践は、こうしたわが国の霊的治療家のあり方にも今後大きな影響を与えてゆくことは間違いのないことであると思われる。
  


                  


 
   29 絶対的な因果律          
     
   スピリチュアルな法則 フランクニューマン著  P199       

 「一個の人間として、一階層の人間として、一国家の一員として、あるいは世界人類の一人として、あなた方は自然の摂理に調和した生き方をするか、それともそれに逆らった生き方をするのか、どちらかです。逆らった生き方をすれば暗闇、病気、困難、混乱、破滅、悲惨、流血と言った結果を招きます。反対に摂理に則った生き方をすれば、霊的存在としての賜物、すなわち叡智と知識と理解力、真理と正義と公正と安らぎを手にする事になります」

「あなた方はロボットではありません。自由意思を行使する事が出来ます。勿論一定範囲内の事ではありますが、自分で判断して選択する自由が許されているのです。個人でも国家でも同じです。その判断が摂理に適っていれば、つまり原則として人の役に立つものであれば、自然界と、ひいては宇宙と調和した結果が巡ってきます。」

「私達は行為と行動、各自の毎日の生き方が大切である事を説いているのです。その中でも絶対的な大事な摂理として ”因果律” を説きます。すなわち大霊の働きは絶対であり、その摂理をすり抜けられる者は誰一人いない事、自分が自分の救い主であり贖い主であると言う事です。自分の犯した罪は自分が償い、他人に役立つ行為は、霊的成長と言う形で表れると言う事です」

「私達は大霊の摂理は機械的に働くと申し上げています。優しさ、寛容心、思いやり、貢献は、それを実行に移したと言うその事が自動的の良い結果をもたらし、利己主義、悪行、不寛容は自動的に良からぬ報いをもたらします」

「この法則は絶対的で、変える事は出来ません。安直な執行猶予はありません。子供だましの恩赦もありません。全宇宙を絶対的な公正が行き亘っております。霊的な小人に霊的な巨人の真似は出来ません。死の床での悔い改めも叶いません。」

                                                                   このページのトップに戻る         
           
  28  デービスの宇宙創成説
    
     『世界心霊宝典』Ⅲ スピリチュアリズムの真髄

ではその第二部の劈頭(へきとう)に述べられているデービスの偉大な宇宙創成説を紹介してみよう。

「天地いまだ分かれざる時、宇宙は人智も言語も絶した液状の火の海であった。その広さ、その高さ、その深さは、いかに想像の翼を広げたとて人間の理解力の届かぬ所である。存在するのはただ果てしなく広がる液状の火の海、果てのないものは人智の範囲を超える。

が事実、果てが無いのだ。その内容、本質も人智の理解を絶する。それは物質の原始形態なのである。

 それには個別的形態が無い。全体が一つとなっているからだ。個別の動きが無い。永遠の動きの中に没入しているからだ。部分的存在も無い。全体が一つに成っているからだ。分子も存在しない。全体が一つの分子なのだ。太陽も存在しない。全体が永遠の太陽的存在だからだ。

 始めと言うものが無い、従って終わりも無い。長さも無い、無限の渦を形成しているからだ。相対的な力と言うものが存在しない。それ自体があらゆる力のエッセンスだからだ。計り知れない底力を秘めた全能とも言うべき存在なのである。

 その全能の力こそ大宇宙の根源力すなわち“神”なのである。そして、それが永遠の“動き”となって発展したのがこの宇宙なのだ。まさに“物”と“動き”こそ宇宙の根源的条件なのである。

 その液状の火の固まりが熱と光と電気とを次々に発しながら物的宇宙空間に広がり、やがて凝結して数知れぬ天体組織となったと言うのである。デービスは続けて言う。


 この宇宙の大中心すなわち太陽は、其の斥力によって引きも切らず物質の発展現象である熱と光を発散し、更にその熱と光とが反応し化合し合って天体の構成に恰好な原料を供給していった。そしてその原料が最後には星雲となり、無限の宇宙空間に広がって行ったのである。

つまり斥力と引力と凝結の原理に従った絶え間ない“動き”と“発展力”とが数知れぬ天体を構成して行ったのである。

 暫くして出来上った天体は大中心から分かれたばかりの火焔的存在で、いまだ凝結の段階に至っていない太陽の如き存在であった」

こうして無形の原始宇宙は自らの発展と凝縮の作用によって六大星雲を構成していった、とデービスは述べる。そしてその一つ一つが更に無数の天体を抱えつつ、大中心の周りを回転し始めた。

 デービスによれば、吾々の太陽は大中心に近い順に数えて五番目の星雲に属していると言う。すると六番目の星雲が物的宇宙の一番外側を回転している事になるが、その星雲はまだ十分凝結しきっておらず、一種の彗星のような状態にあると言う。

 さて続いてデービスは地球の属している小規模の太陽系の誕生について述べている。宇宙的規模の大型太陽系の誕生は今述べた通りであるが、実は吾々の太陽系も似たような経緯を辿って出来ていったのである。

すなわちまず太陽が誕生した。が当時の太陽は現在一番遠くにある惑星が位置する範囲まで火焔の枝を伸ばしていた。それが時の経過と共に凝縮し冷却して今日の惑星となったと言う。


 惑星の数については「八個の存在についてはほぼ疑問の余地はない。しかし、まだ八番目と九番目は太陽系に属する“天体”とは認められない」と述べているが、これは八番目の天体すなわち海王星の存在が認められる前の事である。同書の脚注のところに次の様な記述がある。


「自分の啓示では1846年3月の記録の中にすでに八番目と九番目の惑星の存在について述べた箇所がある。ル・ペリエ (Le Verrier) が数学的理論によってその存在を予言する数ヶ月前の事である。八番目の海王星が実際に観測されたのは1848年の9月の事である」

 九番目の冥王星はデービスによれば彗星上の存在で、まだ本格的な惑星と言える段階に至っていないと言う。


 さて問題となるのは、そうした惑星状上に於ける生命の存在であるが、デービスによれば天・海・冥の三つを除く残りの惑星には、みな人類に似た生命が存在し、その進化の程度は太陽から遠いものほど発達していると言う。

その訳は、重力の関係で分子の細かいものほど遠く離れ、鈍重なものが近くに残る。従って太陽から遠く離れた天体ほどその構成要素が純化されている。従ってそこの生命もそれだけ進化している事になる。

同じ理由で、太陽に近いものほど物質が鈍重な為に進化が遅れていると言う訳である。

 ではそれなりの天体上ではいかなる生活が営まれているのであろうか。デービスによれば土星の人間が一番発達していると言う。

「土星には地球が誕生する何千年も前に有機的生命が発達していた。従って進化の程度もそれだけ高い。肉体的にも精神的にも土星人はすっかり完成されている。

幅の広い強力な知性によって支配されている為に、全ての面で思慮分別がいき届き、精神面の弱点も身体的な病も存在しない程に至っている。土星人の頭部は非常に高く且つ長い。

P42 
その帰納的知力と総合的な探究心は飽く事を知らない。思考方法はやはり帰納的推理による。つまり外部の形態あるいは結果から原理を探り、その原理を手がかりとして現象を分析する。その強力な知性の前にいかなる難問もひとたまりもない。


 言わば望遠鏡的視野を持って、土星人は太陽と土星との間の天体について実に細かく観測しており、更にその天体上の生活の事情にも通じている。彼等にとって宇宙を探る事は地球人が太陽系を探ると同じで、最早単なる好奇心の域を脱している。

 洞察力が実にすばらしい。全てを一瞥のもとに観察し、しかも“存在は全て善なり”の精神で接する。その精神的成長度は太陽系の他のいかなる天体上の人格者も遠く及ばない。彼等はすでに第二界の事情にも通じている。心の実在以外は感知しないのである。

 つまり土星人は身体的にも精神的にも又道徳的にも、すでに完成の域に達しているのである。」

 こうした調子で太陽系の他の天体とその生活者を紹介した後、デービスはいよいよ地球にスポットをあて、その形成の過程から年齢、地殻の変動、無生物から生物への発達の様子、動物の出現、そしてそれが人類へと進化していく過程を述べ、

続いて東南アジアにおける人類誕生の様子を説明し、さらにその後地球に大変動が起きてヨーロッパとメキシコとの間にあった大陸が海中に没し、大多数の人間が死亡した時の様子を物語っている。

 無生物から生物への進化については、デービスは自然発生説を主張する。すなわち無生物にはそれ自身の中にその後の進化の可能性の全てが宿されていて、ちょうど植物の種が自然に芽を出し葉を付けていくように、自然に生命へと進化してきたのだと言う。


「自然界には地球の表面及び内部における生命の発達進化に必要なエネルギーが当初から宿されている。その進化の第一原理は“静”から“動”への変化すなわち“活動”であった。その活動がまず鉱物界に起こり、その発展が生命現象を生んでいったのである」


 最初の生命が発生するに至った過程の具体的説明はその後の大著「偉大なる調和」The Great Harmonia の第五巻「思索する者」The Thinker に詳しく出ている。

その大要はドイツの自然科学者ヘッケル Haeckel の説と同じで、生命は海の底から発生したと説くのであるが、無論ヘッケルの説を借りた訳ではない。デービスは次の様に独自の説を展開する。

「太陽から独立したばかりの揺藍期から十代に相当する段階に至って、地球がようやくその本来の形態を備えたころ、表面では早くも生命の生成と育成の為に土と空気と火と水の四大要素が準備されつつあった。

炭素が地球全体に行き亘り、一方僅かばかりではあったが酸素が現在の成分に近いものを構成しつつあった。

 御影石に含まれている石英……酸素と珪素の完全成る結晶である……当時これが炭素の成分の極度に凝縮された石灰石と化合した。するとそこに磁気熱が発生し、それに大気と水に含まれている親和力の強い成分が作用して、ゼラチン質の物質が出来た。

それが海底のある部分や当時やっと頂上を海面にのぞかせていた山々に拡散為された。その電磁気性のゼラチン物質の中に有機的生命の最初の種子が宿されていたのである。

 想像を絶する永い永い無生物時代にようやく別れを告げ、その温床から次々と新しい生命が発生していくのである」 (The Thinker
 
 項に発生の様子を次のように語る。

「荒波は固形物を破壊し摩滅させ、粉々に打ち砕いて四方へ運び、それが今日吾々が耕すような土壌となっていった。つまり耕作できる土壌も元は岩石だったのである。

そしてその岩石にはあらゆるものを生み出す64種基礎物質が含まれていた。がここで新しい要素が加わる。すなわち太陽熱である。

 太陽熱は一種の磁気である。その熱が地球の水分に作用して一種の酸を発する。酸は陽で有り、従って“陰”であるところのアルカリを引き寄せる。

依って前に述べた陰陽両極間に二種の圧力……植物的生命力……が存在する事に成り、それが地球の原始時代に適当な分子に働きかけては原始植物を生み、かつその成長を促進していったのである。

 要するに私の言わんとするところは、太陽の磁気熱が地上で最も大切な物質である水に作用して酸……陽性を生み其の酸が海中資源からアルカリ成分……陰性……を吸収し、その両者が働き合って海藻その他数々の原始的雑草類の胚種を生成した、と理解して頂ければよい。

 このようにデービスの説明は植物界並びに動物界の進化を原始的段階から辿ってきて、最後の人類直系の先祖に至る。デービスは、現存する猿の中のどの種から進化したものでもなく、一種の猿人ですでに絶滅したある特殊な種族から進化したものだと言う。

其れはその後の科学者が到達した結論と同じで、結局デービスの言う人類の先祖はハイデルベルク人、ネアンデルタール人、あるいはジャワ原人などに似た様なものを指しのようである。

(現著者注…ハイデルベルク人、ネアンデルタール人、及びジャワ原人は最近の人類学上の発見であって、デービスは当時まだ学問上の文献からは何一つ知る由も無かった点に類意すべきである)デービスは言う。

P45
「ここで私はいよいよ人類の幾種類かの原始種族を明確に列証する段階に来た。私はこれには特に念を入れ一貫して述べたいと思う。同時に又、他の創造物より細かく説明するつもりである。」
(Nature,s Divine Revelations)こう述べてからその原始種族を次々と説明しているが、その一つを紹介してみよう。

「この動物の頭部の形はそれ以前の種族の大いに異なっている。脳は小さいが複雑になっており、従って感受性も強い。が肌色は変わっておらず、頭髪も体毛も同じである。長くて不格好な四肢は相変わらずで有り、太くて短い胴体も其のままである。

この種の動物の何種類かはアジアとかアフリカに生息していた。動物であるから外界の影響に対して非常に敏感であった。その鋭敏さは当時の他のいかなる動物も優っていた。体格が大きく意念が強烈で、情欲も激しかった。

 この動物は形から言っても大きさから言っても、今日地上に生息している動物に比べればまさに“巨人”であった。事実上どこを探しても、似たような格好をした動物でこれ以上大きいものは見当たらない。

 が僅かながらでも知的営みを見出せたのもこの種族が最初であった。体形上、仲間に意思を伝える為に明瞭な音声を使用するのが便利なように出来ていた。その音声は喉から出たのであるが、当時はまだ声音も舌も発声器官として使えるまで発達していなかった。

 この種族は他の種族に比べてその習性や性癖がかなり異なっていた。自分たちの住居の構造をあれこれ考えだすこともできた。また、穴居(ケッキョ)生活も良くしている。ともかく他の動物に悩まされる事のない生活がほぼ一千年近く続いた。」

 そして人間特有の性質をホンの僅かながらも見せ始めたのがこの種族にとって代った種族であった。それがジャロフ Jalofs とマンディンゴーMandingoes の二つの原始種族であって、ほぼ八百年間、何に変化も見せることなく生息した。

 その後新しい、そしてより完全な種族が発生したのは、それまでの古い環境条件が崩れてからの事であって、その時点から新しい系統の創造がはじまり、その中でも一番高等なものが今日の人類に見られる型へと進化していくことになる。

 この時期までの植物の成長は比較的不完全で限界があったが、その後は地球の至る所が肥沃となり、地球もようやく緑の美しさに満ちてきた。その繁茂ぶりはかつてなかったほどの広がりを見せ、数々のデリケートな種類の植物が新しく生まれた。

地球全体が肥沃となり、特に東洋の国々は今日見るより遥かに美しく且つ荘厳であった。

 下等動物の不完全さから抜け切った新しい人種が創造されたのは、実にこの時期であった。この時期こそまさに人類が動物的段階から人間への劇的な進化を遂げた時期と言ってよい。その時の種族こそが真の意味で“人間”と呼ばれるに相応しい種族であった。

 この種族がまず住み着いたのが今日トルコと呼ばれているアジアの一部で、その範囲はチグリス及びユーフラテス川流域まで広がっていた。

 すでに述べたように、それより下等な種族ならアフリカの幾つかの地域で見られたが、しかしその進化の程度は同じ地域のネコ科の動物や哺乳動物にも比べられるほどの低さであった。従って真の意味で人類と呼べるものが地上で最初に住んだのがアジアの辺境および中部であった。

 この種族は体格が大きく、その骨組の密度が高いだけに体力もあり、動作はその特有な身体の構造によって特徴づけられていた。脊椎も完全に発達していた。ただ四肢だけはほっそりとして未完成で有り、弓なりに湾曲している点は前の種族に似ていた。


 ここで一つだけ注意を促したいことは、デービスの進化説と一般に受け入れられている進化論との間に重大な相違点がある事である。

何かと言うと、両者とも人間は動物から進化していると言っているが、一般進化論が“それ故に人間は進化した動物に過ぎない”とするに対し、デービスは“其れはあくまでも身体上もしくは器官に限っての話であって、人間の本性つまりは精神は動物から進化したものではない”

 と述べ、更に次の様に説くのである。

 つまり人間の精神は脳とは別個の存在であり、又動物的知能や本能とも異なる。それは全く系統の異なる新しい進化律を経て胎児の脳に導入されるもので、要するに動物の知能とは根本の性質において同じであっても、発達の段階と系統が全く異なるものである。

宇宙のあらゆる力は霊的エネルギーの顕現であるが、人間の精神はその中でも最高の表現であって、これは人間以下の動物には宿れなかった。その訳は要するに、それを表現する機能を持たないと言う事である。

 デービスによれば、人間は霊的存在として肉体に宿る以前から存在し、誕生の十二週間前に胎児の脳に宿る。従って脳はそうやって霊が宿って一個の個性が発揮できるだけの十二分な発達を遂げていなくてはならない訳である。

 この説からすれば、当然人類の進化史上ある段階において、まだ動物的段階にある両親の間に出来た胎児に人間の霊が宿り、その胎児は出生後人間としての発達を遂げ、一方両親は依然として動物の段階に留った。というケースがあった訳である。

 最近の学界における進化論の歩みを知る者なら、デービスのこの説が次第に頭角を現しつつある事、そして又いずれはこの説が定説として認められる日もそう遠くない事を感じるであろう。


 現に新しい種と言うものは連綿とした進化の過程の中から生まれるのではなく、一足飛びの進化、あるいいは突然変異などによって、突如として生じるものである事は今日の学界の認めるところである。

それをデービスは内部から、つまり霊界から新しい種の要素が注入されて、それが肉体上の変化となって現れるのだと説明する。そうすると結局進化とは内部からの知的エネルギーの一現象と見なくてはならない事になる。

 さてこうして人類の初期の先祖のついて語った後デービスは、その後人類が幾世紀にもわたって辿った発達の後と、その頃の生活の様子を述べている。

 それによると人類はその間に地球上の大部分を移住して歩いている、又もっとも発達した人類の一つが中央アメリカとメキシコの辺りに定住している。当時の地形は現在とは大いに異なり、英米両国は共にその北部がすっかり海中に没していた。

オーストラリア地域も同様で、またアジアは細長い陸地によって北アメリカ大陸につながっていた。

 「従ってアジアの住民はそうした陸地づたいに行けば、現在ユカタンと呼ばれている中米の地域にまでも行く事が出来たのである。当時孤立していた一民族がそうした陸地づたいにアメリカ大陸まで足を伸ばした。これが今日までいろいろと議論されてきた。アメリカインディアンの起源である。

 デービスはそう述べてから、今度は地球の陸地の大部分が海中に没して人類の大部分が死滅した地殻の大変動の様子を物語る。バイブルに出てくるノアの洪水の伝説はこれを指していると言う。

P49 
「地球の中心部を構成する溶岩が想像を絶する活動を開始したのは、地球の内部と外部の釣り合いが崩れた為であった。それ以前にも同じような事があったが、アンデス、ペスペアスその他の活火山も溶岩のはけ口としてはとても間に合わず釣合はついに回復しなかった。


轟々たる爆音が地球のはらわたまで響き渡り、地球はもろに揺れ動いた。火焔が、噴煙が、濃霧が、そして大雨が全地球を覆い尽くした。今日東半球と西半球と呼ばれている両地域の中間に位置する種族はこの時殆ど全滅した。

かろうじて生き残った者も恐怖のあまり意識不明のまま死人のような状態で倒れていた。その阿鼻叫喚(アビキュウカン)の惨状はとても限りある原語では尽くせない。

 この地球の不均衡(ふきんこう)状態が正常に戻るのに三日かかった。その最後の段階において、地球の北部が隆起し、その勢いで、それまで乾燥していた低地へ海水がどっと流れ込み、新しい大洋や海溝、湖、湾、河川が一挙に出来上った。今日地図で見る通りの地形がそれである。」

 ところで、こうした話を一応信じるとしても、デービスが一体どうやってこの太古の、何の記憶も無い筈の出来事を知り得たか、その根拠は何処にあるのか、と言った疑問が当然出てきそうである。その点についてはすでに紹介したデービス自身の説明でもある程度間に合うと思うが、ここで具体的の解明しておこう。

 デービスが過去の出来事や人物についての情報を得る時は“霊的印象”を応用している。これはいわゆる超越状態において宇宙の言わば“知識の倉庫”とも言うべきものから取得する方法である。

 人間の体験が脳や潜在意識に印象づけられて二度と消える事が無いように、地球が体験した出来事は全部宇宙のエーテルに印象付けられていて、これと接触できる能力さえあればいかなる知識でも入手できると言う。
デービスは超越状態においてある事柄を知りたいと思うと、吾々が普段物事を思い出すのと同じ要領で、すぐにそれに関連した情報がキャッチされる訳である。一方、現在の事実を知る時は“霊的感識”によってキャッチする。


(原著者注…霊的感識力と霊的印象力のそう言について次のように述べている。「これまでの体験で私は霊的感識力と霊的印象力とを、次の二点で区別すべきである事を知った。一つは前者の方が鋭さの点で劣ると言う事。もう一つ前者の方には能力的に限界があり、特殊な性格を持つと言う事である。

超越状態に入るとすぐ私の精神は広大な光の世界と結びつく宇宙に瀰漫する電気にじかに接触すると言ってよい。

これは肉眼によっての太陽光線と同じで、霊眼にとって感識の媒体となる。例えばなしで説明しよう。例えば私がロンドンの塔の中の一人物を霊視したいと思ったとしよう。私がそう念じると同時に前頭部の脳から柔らかい透明な光が出る。地上のいかなる光とも似ていない。それが自然界の電気と素早く融合する。

そしてその瞬間に、こうして書いている部屋からロンドン塔の中の人物が見えてくる。目標が惑星の一つ…例えば土星…だったらどうだろう。その場合でも霊的感識能力は同じく瞬時に其の惑星まで届くであろう。

ちょうど天体望遠鏡がその性能に応じて天体を吾々の目に大きくして見せてくれるように、霊的感識力はまるで肉眼で窓越しに遠くの景色を見る如く、すぐ近くに惑星を見せてくれるのである。


 が、霊的印象の場合は、前頭部から柔らかい透明な光が出て特定の一地点へ一直線に進むと言うのではなく、その光が言わば光の固まりとでも言うべきものとなって頭部から二、三フィート上昇し、そこで突如として大光景と融合する。その光はあたかも巨大な太陽から出た光のように、霊界の知識の凝縮体から出る。

その光には私が求める知識が充満している。ありとあらゆる知識が詰め込まれている。それが、太陽が惜しみなく地上の物体に熱を注ぐように、求めんとする心に惜しみなく流れ込む。私が「大自然の紳的啓示」を世に出した時はこの状態下にあった」The Physician…)

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   27   A・J デービスの調和哲学
       
 デービスは1826年ニューヨークのオレンジ郡にあるブルーミングローブと言う小さな町に生まれた。家が貧しかったために子供の頃は殆ど教育らしい教育は受けていない。自叙伝によると正味二、三週間にも満たないだろうと言う。

 デービスの少年時代はメスメリズムの創始者であるアントン・メスメルAnton Mesmer が人体磁気の研究を発表してヨーロッパ中に大きな反響を呼んだ時代で、その余波が海を渡ってデービスの住む小さな田舎町まで及んできた。そして1843年すなわちデービスが17歳の時、

パキプシーと言う近くの小さな市で生体磁気(動物磁気)の講演会が開かれ、合わせて催眠術の実験も行われた。デービスはこの会に出席して興味を覚え、その後やって来た別の催眠術師には実際に催眠術を施してもらった。すると他の連中と違って、

催眠状態のデービスは素晴らしい透視能力を見せ、両眼に包帯をしても新聞が読めるばかりではなく、周りで見物している人の胸の中にある悩み事までぴたりと言い当てる事が出来た。


 施術者の興味も手伝って、そんな実験を半月ばかりも続けているうちに、デービスの能力はますます鋭く且つ広くなり、人間や動物といった生き物の心だけでなく、自然界のあらゆる物体の心が絵画となって映じるようになってきた。

 その時の様子を『魔法の杖』The Magic Staff と題する自叙伝の中で次の様に述べている。

「私の目には何だか地球全体が、そこに生活している人もろともに、一度に天界の楽園に早変わりしてしまったように映った、さらに二、三分もすると、今度はその部屋に居る人達の姿が悉く光に包まれて見えるようになり、続いてその磁気を発している内部の様子まで見えてきた。

肝臓、脾臓、心臓、肺、果ては脳までが手に取る様に見えるのである。その時の私にとって人体はまるで透明なガラスで出来ているのと同じであった。各臓器の形や大きさはその発する光の強度によって容易に判断が付いた。

 その光景を見て譬えようのない感嘆の念を禁じ得なかったことを今でもはっきりと覚えているが、その時の私は深い催眠状態にあり、物を言う機能がマヒしていたので、その喜びを口にする事も出来ず、光景を物語る事もしなかった。が、

ともかく、このようにして私は人体の構造を直接見たばかりではなく、内在する生命力の根源まで目の当たりにしたのであった。

 それだけではない。私の霊視は更に広がり、今度は椅子とかテーブルの原子までが見え始めたのである。こうした視力を何と呼ぶべきかは知らないが、かりに心眼とすれば、その心眼によってわたしは大自然の実在を見透かしたのである。

無論生まれて初めて、しかも簡単に接したのである。実在にじかに接すること、これこそ高尚にして不変の霊的繋がりの根本原理である。

 埴物の成分や本性もはっきりと見透かすことが出来た。野生の花の一本一本の繊維、原子の一つ一つがそれ独自の光を発していた。その組織の間をぬって生き生きとした生命が流れながら活動している様子が見えた。

森や丘や野原の木々も生命と活力に満ち、各々の進化に程度の相当した色と輝きを見せていた。私には地球上のあらゆる植物の生育場所、成分、性質、用途までが分かるように思えた」

 こうして急速に透視能力が発達してくるとデービスは、催眠術師と相談の上で、その能力をただの見世物や実験の材料にするのをやめて、病気の治療と診療に使うことにした。

そしてやがてその為の診療所が設立され、予期した通りの成績を収めた。

一年もするとデービスの名はパキプシー市一帯に広がり、人々から“パキプシーの予言者”と呼ばれるようになった。が、その仕事を一年も続けているうちに、デービスは自分の能力が又新たな変化を見せ始めた事に気づいてきた。

変化と言うのは、催眠状態で一場を説教することが二度三度と重なって来た事であった。

 やがて自分の将来の仕事が講演と哲学書の出版である事を霊感ではっきり認識し、更に哲学書の出版と言うのは自分が入紳講演したものを書物にまとめる事である事を知らされ、引き続いてその仕事の方法や段取りについての細かい連絡を受けたのであった。

   ー中略ー

 第一部の『大自然の摂理』は実在界を支配する一般法則を立証し、続いて心と物質を説き、更には物質界における両者の関係と法則にまで及んでいる。

 第二部の『大自然の啓示』は物的宇宙とその巨大な動きを司っている原理と法則を説き明かしている。大宇宙がいかにして誕生し、太陽系がいかにして構成されたか、又、物質がいかなる過程を辿って万物の長たる人間にまで進化したか、こうした点に焦点が置かれている。

 事に地球が誕生して数々の地質学的変化を辿りつつ生命を育み、人類と言う最高の段階まで進化していく、その過程の説明は実に巧みである。

 つまり第二部は、後にダーウィンやスペンサーなどが発表して注目を浴びた進化論をいち早く、それも比較にならない規模のもとに説いていた訳である。太陽系の構成に関するところでも、当時まだ発見されていなかった海王星の存在を指摘している。

 キリスト教についてもかなりのページを割き、その教義を批判し、又バイブルと言うものがいかなる過程を経て編纂されるに至ったかを説明している。

 この第二部の最後の章では死後の世界の存在とその本質を取り扱い、死とは何か、死後の生活と地上の生活にはどの様な因果関係があるのか、又死後の生活形態はどうなっているのか、と言った点を指摘している。

 第三部の『人類に告ぐ』は一種の経済学的ないしは社会学的理論を展開したもので、要するに安定した経済的および社会的基盤のもとに平和な社会を築くには如何にすべきかを教えている。

 さて以上三部からなる啓示録が発刊されるや否や、俄然、大きな反響を呼んだ。当時の知名人、例えば詩人のロングフェロー、哲学者のエスマン、天文学者のローエル、その他数多くの学者がこぞって本書をはじめとしてその後のデービスの著作を繙き、明らかにその影響を受けている。

℘34 
かくして初版はたちまちのうちに売りつくし、慌てて出した重版もあっという間に売れてしまい。かくして重版に次ぐ重版で実に44版と言う記録的な版を重ねた。そして今日もなお売れているのである。(最近では絶版となり古本しか手に入らない。其れも途方もない値が付いている)

 この三部作を読むに際して前もって理解しておくべき事が一つある。それはつまりデービスがいかなる方法でこの啓示を受けたかと言う、その方法ないし過程の問題である。
 
 これは当然ことながら当時でも問題とされたらしく、デービス自身もその説明に相当苦心している。一般の人にとってその正しい理解が困難である事はデービス自身も良く承知していたのである。

 デービスの説明によれば啓示を受けていた時の入神状態は生体磁気と生体電気とによって誘導されたもので、施術者であるライアン博士から発した電気と磁気がデービスの身体に流れ込むと、デービスの身体は完全に博士の支配下に置かれ、博士の思い通りに動くようになる。

それはちょうど自分の手足が自分の意思どおりに動くのと同じである。

 かくしてデービスの身体は事実上ライアン博士の意念によってその機能を営むようになる。その間にデービス自身は肉体から抜け出て次元の一段高い世界、つまり死後の世界へと入って行く。その時の様子を第一部「大自然の摂理」から抜粋してみよう。

『大自然の摂理』
「肉体から離れると私の精神は肉体機能の働きを受けなくなり、ただ一本の細い磁気性の紐によって繋がっているだけである。その状態に入った私は外部の事情を宇宙に瀰漫する一種のエーテルを媒介として感識する様になる。

そのエーテルは思想と思想、心と心、時間と永遠をつなぐ架け橋のようなものでわたしが思想をキャッチし事物を感識する時は必ずこれを媒介としている。

なお断っておくが、私が霊界人の存在を感知する時もこのエーテルを媒介としたのであるが、その時、思想的にも感性的にも霊界人の方から直接の影響は受けなかった。が、

私が思想や真理を入手する時は、言ってみれば霊界へチャンネルを切り替える様な事をするのであって、地上のように距離とか空間と言った“間隔”の要素はまるでなかった。」…この点を次のように説明している。

「私が独自の霊視状態に入った時、別に私に助言者とか指導霊が付く訳でなく、自分が求めるものの実体を直接入手する。が、その状態下で見る事物の本体は普通に想像されているものとはいささか異なっている。

よく観察するとその界全域に渡って独自の連結機構の様なものがいき亘っている事が分る。

 さて肉体から抜け出ると、私の目の前に一枚のベールが下されたように、地上のあらゆる存在物が見えなくなる。と同時に、代わって今度は明るい光に輝く第二界が眼前に広がる。

この光こそ霊界での感識と連結の媒介物であり、これが全域に広がって、地球がしっかり球形を保っているように、第二界全体を一つにまとめ上げているのである。

“汝ら全て真理を得ん”…この言葉はこの第二界の事を言ったのであろう。何となれば、この世界に来て初めて存在の実相が分かるからである。吾々人間が地上で“目に見えぬもの”と呼んでいる実在の姿、あらゆる“結果”の“原因”ないしは“根源”が手に取る様に知れるのである。

 が、この世界で私が真理を入手する要領を“原語”によって説明する事はとても不可能である。原語には限度がある。とは言え、可能な限りの言葉を使用してみる以外にない。先に述べたように、この界での私は霊界人から知識を入手するのではない。

宇宙の大精神すなわち“神”が生みたまい、あらゆる実在界に行き渡っている“真理の法則”のお陰である。これによって真理が精神に引きよせられ吸収されるのである。

 こうして言語では無理と述べながらも、啓示の入手方法について精一杯の説明をしたのち、デービスは第一部“大自然の摂理”で独自の思想を説いていく。その表題通り、第一部の目的は大自然の背後に潜む第一原理つまり物と心を操る根本法則を確立することにあった。

デービスは得意の霊視能力を駆使して有機物、無機物の別を問わず、みな内と外との二つの部分からなりたっている。外とは日ごろ吾々が目にする物質の事であり、“内”とはその“外”を支えている生きた実態、霊的な本体を指す。

 この二つの部分はスピノザ哲学で説くような、一方が他方の付属物のような関係にあるのではなく、それぞれ独自の存在を有しながら、物質界にある間は絶対不可分の関係にある。

言いかえれば、理論的に分析すれと二つに分かれるが、事実上は分離できない関係にあると言うのである。従って、積極性を持つ内部の“心”は外部の物質と同じく“実質”を有するものであり、物質と言う殻の中で徐々に成長を遂げつつあるのである。

 要するに全て物質は本質的には二重性を持ち、厳とした組織を有する内部生命と、それを包む物質とから成っていると説くのである。

 更にデービスはこの二つの部分の関係について、内部の実態は常に外部の物質に優先し、行動も成長も能力も全てその根源は内部も“心”に発していて、物質はそれに対して反応を示すに過ぎないと強調する。
 
 -『世界心霊宝典』Ⅲスピリチュアリズムの真髄は417pあります-


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26                YouTube 情報
   シルバーバーチの祈り  菌状息肉症(皮膚T細胞性悪性リンパ腫)stage4 の寛解を願い活動中のSさんより YouTube「シルバーバーチの祈り」を英文と和訳を載せました。

 YouTube情報の提供者として、みなさんのご参考のために、この開会の祈りの邦文と英文を追記させて下さい。個人的な感想ですが、シルバーバーチの教えがとても簡潔にまとめられているように読めましたので、読書会の皆さんと是非共有したいと思いました。

市販のための録音という特別な目的があり、シルバーバーチは「私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまず説明するのが適切」と考えて、それを開会の祈りの中で述べたようです(CDブックシルバーバーチは語る p.7より引用)。

以下、邦文と英文です(CDブックシルバーバーチは語る p.4-7より引用)。なお、祈りの前の数行は”中略”として省略しましたのでご了承下さい。

--------------
皆さまに大霊の祝福がありますように。
(中略)

無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは、誰一人、何一つ存在いたしません。大霊こそが、私たちの住むこの果てしなき宇宙の責任者であり、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理のすべてを創案し維持しております。それが、およそ例外というものを知らない不変不動の法則にしたがって働いているのです。

私たちはその崇高なる力に深甚なる敬意を表します。その力が驚異的真理を啓示し、それが私たちの精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、また何者なのかについてより大きな理解を与え、さらには、われわれのすべてをその懐に抱き、かつ支配する崇高なる力について、一層明瞭なる心象を抱かせてくれました。その驚異的機構の中にあっては、誰一人、何一つ、見落とされることも、忘れ去られることも、あるいは無視されることもありません。どこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのです。

同時に私たちは、いついかなる時も背後に強大なる高級霊団が控えていることも認識しております。その望むところはただ一つ、私たちのために力を貸し、代わって私たちが恵まれぬ人たちのために力を貸すようになる、ということです。私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、今度は代わって私たちが授かった才能のすべてを駆使して、死別の悲しみの中にある人には癒しを与え、悩める人には導きを与え、人生に疲れた人には力を与え、道を見失える人には道しるべを与え、こうして彼らを取り巻く暗闇に光輝あふれる真理の光明をもたらしてあげることができるように、常に心の用意を整えさせ給えと祈るものです。

ここに、常に己を役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

May the power of the Great White Spirit bless you all.
(中略)

None and nothing can be higher than the Great White Spirit, the infinite power of divine love and wisdom which is responsible for the boundless universe in which we live and whose intelligence has devised and sustains all the natural laws that control and regulate every facet of being, whether mighty or minute, complex or simple, all operate according to inexorable laws that know no possible exception.

We pay tribute to this supreme power which has revealed some of its wondrous truths that have extended the boundaries of our minds and given us greater comprehension of who and what we are, and a clearer picture of the supreme power that broodeth through all and reigneth over all. And in this wondrous scheme, nothing and nobody can be overlooked, forgotten, (and)or neglected. Care has been taken to sustain and provide every facet of being, no matter where it may be.

We recognize too that we have behind us all the time the mighty hosts of liberated beings whose one desire is to serve us, so that we in turn may serve others less fortunate than we are. Because we have been helped and comforted and guided, let us always resolve that we may unfold whatever gifts have been bestowed on us, so that we can give solace to the bereaved, healing to the sick, guidance to the perplexed, strength to the weary, direction to all those who have lost their way and provide the radiant illumination of truth in the darkness that engulfs them.

This is the prayer of Thy Indian servant who seeks always to serve.





 

 

  25  後なる者先になる事多し   靴職人
    
      GVオーエン著  ベールの彼方の生活(三)P40

靴直しを生業としていた男が地上を去ってこちらへ来た。何とか暮らしていくだけの収入があるのみで、葬儀の費用を支払った時は一銭も残っていなかった。

こちらで出迎えた人もほんの僅かな知人だけだったが、彼にしてみれば自分如き身分の者を迎えにわざわざ地上近くまで来て道案内をしてくれたことだけで充分嬉しく思った。

 案内されたところも地上近くの界層の一つで、決して高い界層では無かった。が今も言った通り彼はそれで満足であった。と言うのも、苦労と退屈と貧困との戦いのあとだけに、そこに安らぎを見出し、その界の興味深い景色や場所を見物する余裕も出来たからである。

彼にとってはそこがまさに天国であり、皆が親切にしてくれて幸福そのものだった。ある日のこと(地上的にいえば)彼の住まいのある通りへ一人の天使が訪れた。

 中を覗くと彼は一冊の本をどこと言うことなく読んでいる。その本は彼がその家に案内されて
ここがあなたの家ですと言われて中に入った時から其処に置いてあったものである。天使が地上時代の彼の名前を(何と言ったか忘れたが)を呼ぶと彼はむくっと起き上がった。

「何を読んでおられるのかな」と天使が聞いた。

「別に大したものじゃありません。どうにかこうにか理解できますが、明らかにこの界の者の為の本では無く、ずーと高い界のもののようです」と男は答えた。

「なんの事が書いてあるのであろう」

「高い地位、高度な仕事、唯一の父なる神の為に整然として働く上層界の男女の大霊団のことなどについて述べて有ります。その霊団の人々もかつては地上で異なった国家で異なった信仰のもとで暮らしていたようです。話しぶりがそれを物語っております。

しかしこの著者はもうこの違いを意識していないようです。長い年月の修養と進化によって今では同胞として一体となり、互いの愛情においても合理的理解力においても何一つ差別が無くなっております。

 目的と仕事と願望において一団となっております。こうした事実から私はこの本はこの界のものでなく、遥か上層界のものと判断する訳です。その上この本には各霊団のリーダーのための教訓も述べられているようです。

と言うのは、政治家的性格や統率的手腕、リーダーとしての叡知、等々についての記述もあるからです。それで今の私には興味はないと思ったわけです。遠い遠い将来には必要となるかもしれませんけど・・・・一体何故こんな本が私の家に置いてあったのか、よくわかりません。」

そこで天使は開いていたその本を男の手から取って閉じ、黙って再び手渡した。それを男が受け取った時である。彼は急に頬を赤く染めて、ひどく狼狽した。その表紙に宝石を並べて綴られた名前があるのに気付いたからである。戸惑いながら彼はこう言った。

「でも私にはそれが見えなかったのです。今の今迄私の名前が書いてあるとはしりませんでした。」

「しかし、ご覧の通り、あなたのものです。と言うことは貴方の勉強の為ということです。いいですか。ここはあなたにとってほんの一時の休憩所にすぎないのです。もう充分休まれたのですから、そろそろ次の仕事に取り掛からなくてはいけません。ここではありません、この本に出ている高い界での仕事です。」

 彼は何か言おうとしたが口に出ない。不安の念に襲われ、尻込みして天使の前で頭を垂れてしまった。そしてやっと口に出たのは次の言葉だった。

「私はただの靴職人です。人を指導する人間ではありません。私はこの明るい土地で平凡な人間であることで満足です。私ごとき者にはここが天国です。」

 そこで天使がこう語って聞かせた。 

「そう言う言葉が述べられると言うことだけで、あなたには十分向上の資格があります。真の謙虚さは上に立つ者の絶対的な盾で在り防衛手段の一つなのです。それにあなたには、それ以外にも強力な武器をお持ちです。謙虚の盾は消極的な手段です。

あなたにはあの地上生活の中で攻撃の為の武器も強化して鋭利にしておられた。例えば靴を作る時あなたはそれをなるべく長持ちさせて貧しい人の負担を軽くしてあげようと考えた。設ける金のことよりもそのことの方を先に考えた。それをもっとうにしていられたほどです。

そのもっとうがあなたの魂に沁み込み、あなたの霊性の一部となった。こちらではその徳は決してぞんざいには扱われませんその上貴方は日々の生活費が逼迫しているにも拘らず、時には知人宅の収穫や植え付け、屋根ふき等を手伝い、ときには病気の友を見舞った。

そのために割いた時間はローソクの明りで取り戻した。そうしなければならないほど生活費は困っておられた。

そうしたことは貴方の魂の輝きによってベールのこちら側からことごとく判っておりました。と言うのも、こちらの世界には、私達の肩越しに天界の光が地上生活を照らし出し、徳を反射し、悪徳は反射しないと言う、そう言う見晴らしが利く利点があるのです。

ですから正しい生活を営む者は明るく照らし出され、邪悪な生活を送っている者は暗く陰気に移ります。

 その他にも、あなたの地上での行為と経緯について述べようと思えばいろいろありますが、ここではそれを措いておきます。それよりもこの度私が携えてきたあなたへのメッセージをお伝えしましょう。実はこの本に出ている界に、あなたの到着を待ちわびている一団がいるのです。

霊団として組織され、すでに訓練も積んでおります。その使命は地上近くの界を訪れ、他界してくる霊を引き取ることです。新参の一人ひとりについてよく観察して適切な場を選び、そこへ案内する役の人に引き渡すのです。

もう、何時でも出発の用意ができておりそのリーダーとなるべき人の到来を待つばかりとなっています。さ、参りましょう。私がご案内します。」

  それを聞いた彼は跪き、額を天使の足元につけて涙を流した。そしてこう言った。

「私にそれだけの資格が有れば参ります。でも私にはとてもその資格はありません。それに私はその一団の方を知りませんし、私に従ってくれないでしょう。」

 すると天使がこう説明した。「私が携えてきたメッセージは人物の選択において決して間違いの犯すことのない大天使からのものです。さ、参りましょう。その一団は決してあなたの知らない方たちではありません。

と言うのは、あなたの疲れた肉体が眠りに落ちた時、貴方はその肉体から抜け出て、いつもその界を訪れていたのです。そうです地上に居る時からそうしていたのです。

その界においてあなたも彼らと一緒に訓練をなさっていたのです。まず服従することを学び、それから命令することを学ばれました。お会いになれば皆あなたの御存じの方ばかりの筈です。

彼らも貴方をよく知っております。大天使も力になって下さるでしょうから、あなたも頑張らなくてはいけません。」

 そう言い終わると天使は彼を従えてその家を後にし、山へ向かって歩を進め、やがて峠を超えて次の界へ行った。

行くほどに彼の衣服が明るさを増し、生地が明るく映え、身体が何処となく且つ光輝を増し、山頂へ登る頃にはもはやかつての靴直しのそれでは無く、貴公子のそれであり、まさしくリーダーらしくなっていた。道中は長引いたが楽しいものであった。

(長引いたのは本来の姿を穏やかに取り戻すためであった)そしてついに霊団の待つ所へやってきた。一目見て彼には彼らの全てが確認できた。出迎えて彼の前に整列した彼らを見た時には、彼にはすでにリーダーとしての自信が湧いていた。各自の目に愛の光を見たからである。

 
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  24  霊団の大目的
  
  シルバーバーチの霊訓 8巻 P155 から   

  六章 あすの指導者たち  -若者にどう説くか
   

 (前略)
 それよりも脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分と言う存在の中に化学的分析も解剖も出来ない、物質を超えた、生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだと言う事を説くのです。

人間と言う存在はもっとも高度に組織化され、もっとも緻密でもっとも複雑なコントロールルームを具えた、他に類を見ない驚異的な有機体です。

その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸が出来ているのです。しかし実は物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在している事を説くのです。

 目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますがこれらは本質的には非物質的なものです。

愛を計算する事は出来ません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いで見ることも、耳で聞いてみる事も出来ません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。

 あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存じの霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちのまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。

それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか・・こういう具合に話を論理的に持っていけば、よい結果がつかめると思います。

 それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。

嘲笑やあざけりは気になさらぬ事です。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにでは無くても、そのうち芽を出し始めることでしょう。

それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげた事になるのです。私たちは地上に人間が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中関わっております。

それが私たち霊団に課された大目的なのです。人生の落後者、死後に再び始まる生活に何に備えもない、何に身支度も出来ていないまま霊界入りする人があまりにも多すぎるからです」
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 23  悪しき金持ちの話
 
  「スピリティズムによる福音」 アランカルデック著 角智織訳
 
、ある金持ちがいて、彼は紫の衣や高級な布をまとい、毎日贅沢な生活を送っていた。また、ラザロと言う名の乞食がいて、その全身はできもので覆われており、金持ちの家の扉の前に横たわって、その家の食卓から落ちるパンくずでその飢えを癒そうとしていた。しかし、誰もそれを与えてくれる者はなく、ただ犬がそのできものをなめに寄って来るだけであった。

 さてこの乞食は死に、天使たちによって、アブラハムのもとへ連れて行かれた。金持ちも死んだのだが、その墓場は地獄であった。苦しみに遭っているとき、目を上げると遠くにアブラハムとラザロが見えた。そこで金持ちは言った。

「父アブラハムよ、私を哀れに思い、私の舌を冷やすために指先で水を濡らしたラザロをこちらへ送ってください。この炎に包まれた苦しみは大変恐ろしいものです」

 しかし、アブラハムは答えて言われた 「息子よ、あなたは生きている間に富を受け取り、ラザロは悪いものを受けた事を思い出しなさい。だから今彼は慰められ、あなたは苦しみの中にいるのです。

また、私たちとあなたたちの間には永遠に深い淵が存在しており、それ故にここからそちらへ行こうとする者は行く事が出来ず、また、あなたのいる場所から誰もこちらへ来る事は出来ないのです」


 金持ちは言った、「そうであるならば、父アブラハムよ、お願いいたします。ラザロを私の父の家へ送ってください。私には五人の兄弟がいますが、彼らがこの苦しみの場所へ来る事が無いように、ラザロにこの事を警告していただきたいのです」

アブラハムは彼に言われた「彼らにはモーゼや預言者たちがおり、その者たちの話を聞くがよかろう」

「違います、父アブラハムよ。もし死者の誰かが彼らに会いに行けば、彼らは懺悔する事でしょう」。

 アブラハムは答えられた、「彼らがモーゼや預言者の話を聞かないのであれば、たとえ死者が生き返ろうとも、そのものの助言を信じる事はありません」  (ルカ 第十六章 19-31)


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 22   死後の魂のあり方を示す法則集 
     
 アランカルデック著 天国と地獄 死後の世界を支配する法律 33箇条 

第一条  魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界において引き受けなければならない。霊界において幸福になるか不幸になるかは、地上生活を通して、どれだけ心の浄化を果たしたかによって決まる。

第二条  完全な幸福は、心を完全の浄化した時に与えられる。未熟さが残っている限りは、苦痛から脱却することはできす、喜びは制限される。逆に言えば、悟りが高まるほど、喜びが深まり、苦悩から自由になるのである。

第三条  
たったひとつの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たったひとつの長所から喜びが生まれるのではない。苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量にみ合っているのである。

 例えば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみもそれだけ少なくなり、欠点を全て克服すれば、苦しみは全く無くなって、完全な幸福を得る事が出来る。

ちょうど地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類の病気しか持っていない人よりも苦しむのと同じ事である。また、十の長所を持っている魂は、三つしか長所を持っていない魂よりも多くの喜びを得る事が出来る。

第四条  
魂は進歩の法則に基づき、意思に基づいて努力さえすれば、自らに欠けている長所を獲得し、既に持っている欠点を取り去る事が出来る。


 つまりどの魂に対しても、未来は開かれているのである。神は自らの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づくほどよりおきな幸福を与える。魂が自らあげた成果を、全て魂自身に還元するのである。

第五条  苦悩は未熟さから生じ、幸福は成熟から生れるものである以上、魂はどこに行こうとも自分を処罰する原因を自らの内に持つ。罰を与える為の特定の場所は必要ないのである。従って地獄とは、魂が苦しんでいるその場所にあると言える。それは天国が幸福な魂がいるところに存在すると言うのと同じである。

第六条  人間が為す善、又は悪は、自らの内にある長所、又は欠点の産物である。為し得る善を行わないと言うのは、従って未熟さの結果である。

未熟さが苦しみの原因である以上、霊は地上において為した悪によって苦しむだけでなく、為し得たにもかかわらず、為さなかった善によっても苦しむ。


第七条  霊は自分の為した悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。

第八条  神の正義は無限である。すなわち、善と悪は全て厳正に評価される。それがどんなに小さいものであれ、たったひとつの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃される事は無く、それがどんなにささやかなものであれ、たった一つのよき行為、たった一つの佳き思いでさえ、評価されない事は無い。

 どのような弱い人間であれ、それがどんな些細なものであれ、善を為せばそれは必ず評価される。その瞬間こそ向上への第一歩だからである。

第九条  
あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ずそれを償わなければならない。ある転生でそれが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。


そこでも償われなければ、さらに次の転生へ持ち越される。と言うのも、全ての転生は関連しているからである。もし今の転生で弁済した場合には二度と支払う必要は無い。


第十条  
霊は霊界においても、物質界においても、自らの未熟さに由来する苦しみを引き受けなければならない。物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、吾々の未熟さの結果、即ち、今世、あるいは、それ以前の転生で為した過ちの償いである。


 従って地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析して見れば、自分が今世あるいは過去世で為した過ちの性質が分るし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分る筈である。

従って同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。


第十一条  償いは犯した過ちの重さと性質によってそれぞれ異なる。

第十二条  
償いの種類と期間に関しては、絶対的なあるいは画一的な決まりがある訳ではない。唯一の普遍的な決まりと言う事である。

「それがどのように評価されるかに応じて過ちは罰を受け、善行は報いを受ける前もって期間が限定された罰と言うものは存在しない」

第十三条
 罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰と言う者は存在しない。

霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻った時、神がその罰に終止符を打つのである。その様にして霊は常に自分の運命を自分で決める事が出来る。


 頑なに悪にとどまり続けることで、苦しみを長引かせる事も可能だし、努力して善をなす事によって、苦しみを和らげ、その期間を短縮する事も可能なのである。

期間があらかじめ決められている処罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。

まず、既に向上を果たした霊をそのまま罰し続ける可能性がある。次にまだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。神は正義であるから、悪を、それが存在し続ける限りにおいて罰するのである。

言葉を変えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在する限り、苦しみも続くと言う訳である。心の中の悪が無くなるに応じて、苦しみも又軽くなる。



第十四条
 罰に期間は向上いかんに関っている。従って、罪を犯した霊が向上しない限り、苦しみは続く。それはその霊にとっては、永遠に続くように思われるだろう。



第十五条
 反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、全く分らないので、それがあたかも永遠に続くかのように感じる。その為に永劫の刑罰を受けていると思うのである。


第十六条
 悔恨が向上への第一歩である。しかしそれだけでは不十分であってさらに償いが必要となる。悔恨と償いによって初めて、過ちと、其の結果を消し去ることが可能となる。


悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげる事になる。しかし、償いを行って初めて、罰の原因が消滅し、従って、其の結果である罪も消えるのである。


第十七条 
 悔悟は何時でも、何処でも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。償いとは肉体的生精神的苦痛の事であり、犯された過ちに付随する結果である。

この世で始まる事もあり、死んでから霊界で行われる事もあり、あるいは次の物質界への転生の際に行われる事もある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。

 
 償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善をおこなう事である。

 自らの弱さ、あるいは意思の欠如によって今世中に過ちの償いが出来なかった者は、今後の転生において、自らが選んだ転生において自らが選んだ条件のもとに、その人と出会う事になる。

そして、自分が犯した悪に見合う善をその人に対して行う必要があるのである。あらゆる過ちが直接目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には次のようにすれば償いは完了する。


 為すべきあったにもかかわらず為さなかった事を為す。怠ったあるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。

また、既に為した悪に見合う善をおこなう。つまり傲慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だった者は有用な人間となり、

放蕩を行ったものは節度を取り戻し、悪しき見本だった者は佳き見本となる。そう言う事である。こうすることによって霊は、過去を有効に利用することが出来るのである。



第十八条
 悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと幸福の世界は調和を乱すからである。彼らは下位の世界にとどまり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。

そうして徐々に未熟さから脱していくのである。その結果すぐれた世界に移動していくことが可能となる。



第十九条
 霊には常に自由意志があるので、向上は時には遅く、また、何時までも悪を改めない者もいる。何年も何十年もさらには何世紀にも悪が留まるものがいる。しかし其の空威張りにもかかわらず、最後には苦しみに屈服し神に反抗する事を止め、至上者の権威を認めざるをえなくなる。

 悔悟の最初の光が心に射し始めるや、神はそれの応じて希望を垣間見させるのである。いかなる悪と言えども、「向上の可能性が一切ない」と言う状況に追い込まれる事は無い。

 だが、自らの自由意志を行使して、霊自身が進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適用される、神聖なる進化の法則から逃れ続けることは可能である。



第二十条
 霊がどれ程未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てる事は無い。どの霊にも守護霊がついており、其の心境の変化を窺い、彼らの内に佳き思い、向上への欲求、犯してしまった罪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。

一方では指導霊が決して強制することなく、本人に知られない形で働きかけている。霊は外部から何らかの形で強制されるのではなく、自分自身の意思で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、良い方向にも悪い方向にも進めるが

「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返す事が出来なくらると」いう事は無い。悪を為した場合、悪の道にとどまり続ける限り、其の結果としての苦しみを引き続けざるを得ない。

善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちにその成果は表れ始める。



第二十一条

各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人と言えども他者の罪を引き受ける事は無い。


 ただし自らが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐ事が可能であったにもかかららず、それを行わなかった場合は別である。

又自殺は常に罰せられる。冷酷さによって他者を絶望に追いやり、其の結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも思い罰を受ける。



第二十二条

罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度決まっている、ニュアンスの違いは多少あるが結果的には大体同じである、霊的進化を怠り、物質に執着をした者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」と言う事である。


死の苦しみが続き霊界への移行がこ困難となる。その困難に期間は、場合によっては数カ月、数年に及ぶ事もある。

それとは逆に意識の浄化が進んでいる者は、生前からすでに霊的生活を送って物質から解放されている為に、肉体と魂の分離は動揺も無く急速に行われ、霊界への穏やかや目覚めを得る事が出来る。この場合は混乱は殆ど見られない。



第二十三条
精神的に未熟な霊は、死んだのにもかからわず、自分がまだ生きていると思う事が多い。この錯覚は数年にわたって続く事もあり、その間中彼は地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じ続ける。



第二十四条
犯罪者は自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われた時の様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実に辛いものである。



第二十五条
ある者は漆黒の闇の中に放置される。ある者達は絶対的な孤立の中におかれる。自分がどこにいて、この先どうなるのか、全く分らないのである。

最も重大な罪を犯した者達は、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分らないだけに、それは本当に耐えがたいものとなる。大多数は、親しかった者達に会う事を禁じられる。


原則として全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。悔悟ならびに償いへと欲求が生じると、苦痛は和らぎ始め、そうした苦しい状況に自分自身で終止符を打てると言う可能性が見えてくる。


第二十六条

傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいた時に軽蔑していた者達が、栄光に包まれ、人々に囲まれ称賛されてはるか高みにいるのを見る。自分は最下層におとされているのに、である。


 偽善者は光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも隠れも出来ないのである。

観能におぼれていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得る事は出来ない。守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべは無い。エゴイストだった者は全員に見捨てられることによって、かつて自分が他人に与えていた苦しみを体験するのである。のどが渇いても、誰も水をくれない。腹が空いても誰も食べ物をくれない。

誰も手を差しのべてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。彼は生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼の事を思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。



第二十七条
死後自らの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きている間、できるだけ、それを解消しておく必要がある。

その為には、十分な反省を経て、その悪事を償う事である。そうすれば死後にもっと恐ろしいやり方で償う事を免除される。過ちを解消する時期が遅れれば遅れるほど、其の帰着はより苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いはより厳しいものとなる。



第二十八条

死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たす為である。

だがそれも、全て彼の自由意思に任されている為、もし、その機会を十分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度はもっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。

従って地上生活を通じて、多くの苦しみを体験している者は「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚する事が大切である。


又悪徳を重ね、社会に役立つ事をしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払われる事を覚悟しなくてはなるまい。そうした意味を込めて、イエスは次のように言ったのである。

「苦しむ者は幸いである。彼らは慰めを得るであろう」



第二十九条

神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。神が罪人を許すと言う事は、罪を免除すると言う事ではない。罪人はその罪を償わない限り、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。

神の慈悲が無限であるとは、「神が善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていて下さる」と言う意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず赦して下さる」と言う意味なのである。



第三十条

罰は一時的なものであり、自由意思に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは罰であると同時に、又、悪を犯すことによって傷ついた心を癒す為の治療でもある。

従って、罰を受けている霊は、徒刑を課せられた罪人と言うよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。

この病人達は、自らの過ちの結果である病気に苦しみ、又、それを治す為の辛い処置も受けなければならないが、治る希望を失っている訳では決してない。

そして思いやりをこめて医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従うほど、治る見込みは高くなるのである。処方箋に従わない場合、医者にできる事は何もない。



第三十一条
霊は地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積し
た罪を償おうとする。従って、一見、存在理由が無いように思われる。

種々の悲惨や不遇等にも、本当は、それなりの、しっかりした理由がある事を知らなければならない。それは過去の悪行の帰結であって、われわれが進化する為には必須不可欠なのである。



第三十二条
「神が人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創って下されば、人間は、未熟さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う日血がいるかもしれない。神が、知識において精神性においても完璧な人間を作ろうと思えば、当然、そうできた筈である。だがそうはなさらなかった。と言うのも、叡知に満ちた神は、進化の法則に全てを委ねることを選ばれたからである。


 人間が不完全であり、従って程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われると言う事は事実であって、認めざるを得ない。すでにそうなっているからである。その事を持って、神が善でもなく公正でも無いと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。

 例えば、もしあらかじめ、神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入れられない幸福。

あるいは、他の人間がどれだけ苦労しても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは神が、公平さを欠くと言う事になるだろう。しかし神は絶対的な公平さのもとに創られたのである。

あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られた時、その能力に差が全く無かった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。

目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。

以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上公平な事は無い。幸福への道は全員に開かれているのである。


 目的も、全員同じである。目的に達する条件も、全員同じである。そしてその為の決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。

神は努力の結果として、全員に公平に幸福を与えて下さるのであって、特別処置によって、限られた者にだけ幸福を与える訳ではない。 

各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて、自由である。一生懸命努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、、道草を食ったりする者は、当然、目的につくのが遅くなる。


しかしそれも、全て自分の責任である。善を行うのも、各人の自由にまかされている。全く自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわせられると言うことは無い。


第三十三条
未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度も様々であるが、死後の運命を決める規則は、次の三つに要約される。


①苦しみは未熟さから生じる。

②あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈に繋がるように、未熟さは、必然的に、過ち、そして罰と言う帰結を生みだす。従って、其々の過ち、又、各人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。


③人間は誰でも、意思の力によって、其の未熟さから脱する事が出来、従って、未熟さの当然の帰結としての悪を逃れる事が出来る。そしてその事によって幸福になれるという事が保証されている。


以上が神の正義による法である。即ち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられると言う事である。 


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 21  「天国と地獄」  後悔する犯罪者の霊  

    来世では殺される側を選んだ神父の霊  アランカルデック

    ブェルジェ・・・パリの大司教を殺した神父


1857年1月3日 パリの大司教シブ―ルが、サンテチェンヌ・デュ・モン教会から出てきた時に、ブェルジェと言う名の神父に襲われて命を落とした。

ブェルジェは死刑の判決を受け、1月30日に死刑が執行された。最後の瞬間まで、彼は悔悟も反省もせず、一切の感情を表さなかった。


死刑が執行された日に招霊され、次の様なメッセージを送ってきた。

・-・招霊します・・・

「まだ身体の中にとどまっているみたいです」


。-・あなたの魂は、まだ身体から完全に離脱していないのですか・-・

「はい・・・、不安です・・・。よく分らない・・・。自分を取り戻すまで待って下さい。・・・私はまだ死んでいないのでしょう?」


・-・自分のやったことを後悔していますか?・-・

「殺したのは間違いだった。しかし、あいつの侮辱に、どうしても我慢できなかったんだ。・・今日はこれで帰る」


・-・どうして帰ってしまうのですか?・-・

「あいつに会うのが怖いんだ。復讐されては、かなわんからな」


でもあなたはもう死んでいるのですよ。殺されるのを心配することは無いのです


「何が言いたいんだ!あんたが言っていることが正しいと言う根拠でもあるのか?ああ私は何処にいるんだろう。気でも狂ったのだろうか」


・-・落ち着いてください

「落ち付けと言ったって無理だ。気がくるってしまったんだから。待ってくれ、もう少しすればいろいろ分る筈だから。」
 
・-・祈ってごらんなさい。そうすれば考えがはっきりしてきますよ

「ああ恐ろしい。とても祈れやしない」


・-・祈りなさい。神の慈悲は偉大なのですから。私達も一緒に祈りましょう

「ああ確かに神の慈悲は無限です。何時もそう思ってきたんだ…」


・-・状況がだいぶ呑み込めてきたようですね

「まって周りの様子が余りにもすざましくて、何が何だか良く分らない」


・-・あなたの殺した人が見えますか?。


 「彼の声が聞こえるような気がする。こんなふうに言っている(憎んではいませんよ)とああ、そんなことがある筈はない・・・気が狂ってしまったんだ!だって自分の身体が向こうに見えるんだから、側には頭も転がっている・・。なのに、

自分が生きているみたいに感じるんだ・・どうしてこんな事が・・・地面と空の間にいるみたいな感じがする・・・首の上に落ちてくる刃物の冷たささえ感じられる・・・。

ああ、死ぬのが怖い・・周りに霊がうようよいるみたいだ・・・同情の目で私を見ている。何か話しかけてくるが、何を言っているのか、良く分らない」



・-・それらの霊の中に、あなたの犯罪に関りのある霊はいますか?

「私が恐れる唯一の霊、つまり、私が殺した人の霊がいるような・・


・-・自分の過去世は思い出せますか?

「駄目だ、頭がぼんやりしている。まるで夢の中にいるみたいだ。何とかして自分を取り戻しなくては」
 
それから三日後に

・-・だいぶ様子がはっきりしてきたでしょう


「もう地上にいないと言う事が分かりました。そのことは納得しました。ですが自分が犯した罪は後悔しています。しかし私は霊として、より自由になってきました。

(何度も生まれ変わることで、少しずつ大事な知識を得、そして完全になっていくのだ)と言う事が分かりました」


・-・あなたが犯した犯罪の性で罰を受けているのですか

「はい。自分の犯した罪を後悔し、そのことで苦しんでいます。」

・-・どんな罰を受けているのですか?。

 「自分の過ちに気付き、神に許しを乞うています。それが罰です。(神を充分に信じていなかった)と言う事で苦しんでいます。それもまた罰なのです。また(同胞の命を縮めるべきではなかった)と言う事が分かり、それで苦しんでいます。

間違いを犯すことによって自分自身の向上を遅らせたために、大変後悔しており、それもまた罰の内なのです。

(殺すことによって決して目的は達せられない)と、良心が教えてくれていたのにも関らず、慢心と嫉妬に支配されて、あのような行為に及んでしまったわけなのです。

そのことを悔やんでいます。人間は常に欲望を統御すべく努力する必要があるのに、私には、それが出来ませんでした」


・-・吾々が、あなたを招霊した時に、どんな感じがしましたか?。

「嬉しいと同時に怖くもありました。」

・-・なぜ、嬉しく、そして怖かったのでしょうか?。

「人間達と対話ができ、私に過ちの一部分にせよ、償うことができるから、うれしかったのです。一方で殺人を犯した。と言う事実に向き合わなければならないので、怖いと言う気持ちが湧いたのでしょう。」

・-・又地上に生れたいと思いますか?

「ええ、すでにお願いしてあります。今度は自分が殺される側に身を置き、恐怖を味わう必要を感じるからです」

 シプールも招待され「自分を殺した男を許している」ということ、「彼が善に戻れるよう祈っている」と言う事を告げてくれた。さらに、「彼の苦しみを、より大きなものにしないために、彼の前には姿を現さない様にしている」と言っていた。「自分に会うのを恐れていると言う事自体が、すでに罰となっているから」と言う事であった。(シプールの霊に対して)殺人を犯した、あの男は、今回、地上に転生することを決意した時に、殺人者になることも選んでいたのでしょうか?。

 「いいえ。闘争的な人生を選択した時点で(人を殺すことになるかもしれない)と言う事は分っていましたが。しかし、それを実行に移すことになるかどうかは分かっていませんでした。自分の中でも葛藤があったのです」


 ブェルジェの死の瞬間の状況は、激しい死に方をした人にほぼ共通するものである。魂と肉体の分離が急には行われないため、茫然自失の状態にあり、自分が死んでいるのか生きているのかさえ分からないのである。

大司教の姿はブェルジェには見えないようにとり計られた。すでに充分、後悔していたからである。だが、殆どの場合、殺人者は、犠牲者の視線に付きまとわれる。(後略)


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 20  ユダの野望 (イエスの青年時代から)

 ユダの父は”シモンの聖人”といわれガラリヤでは有名であった。父はとても純粋で、立派な人であった。ローマに対する反乱が起きた時、反乱分子を洞窟にかくまってやった。そして毎日食べ物を運んで養っていた。一人のガラリヤ人に裏切られ、母と子どもの目の前で、はらわたを流しながら殺されていった。

ユダはローマを憎み、イスラエルをローマから解放することだけを唯一の目的とした。秘密結社を組織し(熱心党)機が熟したら指導者を迎えて自らは首相になる計画を虎視眈々と狙っていた。・

この反乱計画が成功した暁には、イエスを王に迎えたいと決めていたユダ。

 イエスの霊眼には、初めからユダは裏切るものと映っていた。しかし同じ人間としてユダの魂の為に天の御父に祈り、もし神の御心であるならば、イエスの説得によってユダの心が変わるように願い続けていたのです。

 ユダはイエスに(リーダー格)を所望したが適わず、会計係を担当し、献金の半分は、武器を買って新しきイスラエル実現の為に軍団を用意していた。やがて熱心党はローマ軍に滅ぼされユダの野望も崩れ去った。

イエスの選んだ十一人の弟子は忠実であったが、嫉みが強くユダは孤立。

イエスが愛している弟子ヨハネをますます妬むようになる。これが裏切りの引き金になって、ゲッセマネの園
へイエスに敵対する者たちを案内する。その代償として銀貨30枚をもらったが、約束が違うと言って銀貨30枚を投げ返した。

 <僕は、師イエスを心から愛していた。他のどの弟子より深く愛していた。ペテロやヨハネよりも愛していた。誰もイエスの為に生命を捧げようとはしなかった。みんな安全な場所へ逃げてしまった。僕の命をイエスに捧げよう。

イエスのいないこの世は僕にとって砂漠と同じだ。彼がただの人であっても、僕は愛している>と遺書を残して自害した。やがて彼の遺体は銀貨30枚で土地を買い埋葬された。


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19  稀代の 女霊能者・長南年恵 の肖像写真。このとき43歳。

  これまで掲げたいくつかのポイントをもう一度整理して書き出してみよう。まず、長南年恵に見られる顕著な特徴は――


 ① 大小便という生理現象がなく、絶飲絶食の状態であったこと。
 ② 40歳を過ぎても、20歳そこそこくらいの若さにしか見えなかったこと。
 ③ 大の男を負かしてしまうほどの大力の持主であったこと。
 ④ つねに彼女の周辺から芳香が匂いたっていたこと。
 ⑤ 「神様がお下りになった」状態のとき、どこからともなく妙なる音色が流れてきたこと。
 ⑥ しばしば年恵女の姿が見えなくなったばかりか、死者の様子を語ったり、未来予知も行なったこと。
 ⑦ その2カ月ほど前に、自分の死を予告したこと。
 ⑧ 「極楽娘」という愛称で呼ばれるように、明るく素直で屈託のないよ“童女”のような人柄であったこと。

  そして、それに対応する「霊人」の特徴は次のとおりである――

 ① 霊人は、一切「食物」や「飲物」を必要としない。従って、「排泄作用」もないものである。
 ② 霊人は、人間界の常識とは遂に、だんだん若返っていって「20歳」が最高年齢(最長老)であること。幼くして死んだ者は、だんだん成長していくが、やはり「20歳」で年齢は止まる。

 ③ 霊人は、「山を崩し、岩を砕いてしまう」ほどの恐るべき力を備えているものであること。
 ④ 霊人にとって「におい」は、その霊格の反映であること。霊格の高い霊人ほど芳香を好むものであり、いつも快い香りに包まれている。
 ⑤ 霊人にとって「音」もまた、その霊格や霊界における状態を反映していること。霊格の高いものや幸福な状態にあるものは、妙なる音色に包まれる。
 ⑥ 霊人は、念じさえすれば、瞬時に思うままの場所へ移動できるばかりでなく、時空間を越えて、「過去」や「未来」のことまで、つぶさに知ることができる。
 ⑦ 特別の使命を帯びて人間界に現れた霊人は、その使命を全うした時期に、霊界からお迎えの日を知らされるものであること。
 ⑧ 霊界において“良いポジション”を得られる性格は、「素直さ」「屈託のなさ」「無私の心」であること。

7番目のポイントは、長南年恵が「自分の死を予告していた」という“事実”である。彼女は明治40年10月29日にこの世を去っているのだが、その2カ月ほど前から周りの人たちにお迎えの近いことを語っていたという。

  「自分の死を予告する」ことは、古今の大霊能者と呼ばれる人に、例外なく見受けられると言っていい。あのノストラダムスにしろ、エマニュエル・スウェーデンボルグにしても、「何年の何月何日に、どういう死因で」ということまで予言し、実際、そのとおり寸分の違いもなくこの世を去っている。

彼らのように、霊界からある使命を帯びてこの世に生まれ出て来た“特別な存在”は、その使命が全うされたとき、守護神によって“お迎えの日”が知らされ、予告どおり霊界へ召されていくものらしいのである。



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 18 「天国のお子様ランチ」 涙が止まらない物語  東京ディズニーランド
                                                                                         
 数年ぶりに主人とディズニーランドへ遊びに行きました。この日は一年前に亡くした娘の誕生日であり命日でした。娘は身体がとても弱くて、生まれて間もなくこの世を去ってしまったのです。

主人と随分永い間、深い悲しみにくれました。助けてあげられなかったこと、何一つ我が子にしてあげられなかったことが今でも悔やみ切れません。

 「子供が生れたら、ディズニーランドにつれていきたい」という夢を果たすことも出来ませんでした。そこで主人と話し、その日は供養のために訪れたのです。

家を出る前にガイドブックを見て、可愛いお子様ランチがあることを知りました。それを是非娘に食べさせてあげたいと思い、ワールドバザールにあるイーストサイド・カフェに入ったったのです。

 ところが、そのお子様ランチは八歳以下の子供にしか注文できないメニューだと分かってすぐにあきらめました。

ディズニーランドはとてもマニュアルがしっかりしているところだと聞いていたからです。ただ事情だけでも知ってほしくって、ついお店の人に話してしまいました。

 するとお店の人は「では3名様、こちらへどうぞ」と言いました。そして隣の4人がけのテーブルに子供用の椅子を置き、私達を笑顔で迎えて下さったのです。「本日は良く来て下さいました。どうぞご家族で楽しんでいってください」

  その方はまるで我が子がその場にいるように、私達をもてなしてくださいました。私は感激で胸がいっぱいになり、その場で涙が溢れてしまいました。おそらく主人も同じ気持ちだったと思います。これで娘がいたらどんなに幸せだったろう。お店の方々にとても親切にして頂いて、可愛いお子様ランチも食べられて、娘もさぞ喜んでいただろうと思います。本当にありがとうございました。

あの時のお礼をどうしても言いたくて手紙を書きました。娘は天国にいってしまったけれど、これからも愛し続けて、一生一緒に生きていこうと思います。又娘を連れてそちらへ遊びに行きたいです。

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 17  今でも活動しているシルバーバーチ霊団

     シルバーバーチ最後の啓示  ハート出版 近藤千雄訳

 2012年度からシルバーバーチ読者会を始めるにあたり、未読の本を求め「シルバーバーチ最後の啓示」をネットで買った。中古品で398円だったが新品同様で、売られた方の心を知って嬉しかった。まえがき中ほどにこんな一文があって歳がいも無く涙を浮かばせながら読んだ。

「一つは、シルバーバーチの愛読者が、目の不自由な方達の為に、ご自分の朗読テープをカセットテープに吹き込んでおられることである。妙なもので(勝手に吹き込んだことをお許しください)と言う手紙と共にカセットが送られてきたその日に、

目の不自由な人から電話があり(シルバーバーチの霊言というのがあるそうですが、テープに吹き込んだものは出ていないのでしょうか)と問い合わせがあった。勿論早速送ってあげた」


 そして3~4日後に涙ながらの感謝の電話を頂いた。しかもその方は、それから2~3か月後に目が見えるようになっているのである。

その後も2~3の有志の方から、霊言をカセットに吹き込んでいる旨の電話を頂いている。こうしたことが端的に教えているように、シルバーバーチ霊団は間違いなく活動を続けているのである・・・・・。
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  16  宇宙創造の目的  

  「シルバーバーチ不滅の真理」ハート出版 P146

・-・人間は徐々に進化を重ねて、究極的に大霊の中に吸収されてしまうのであれば、なぜ人間を創造する必要があったのでしょうか・-・。との質問に

 「私は、人間が最後は大霊に吸収されてしまうという説をとっている訳ではありません。何時も申し上げているように、私は究極のことは何も知りません。始まりの事も知りませんし、終りの事も知りません。

 私に言わせれば”存在”には何時からと言う事は無く、何時までと言う事も無く、何時までも存在し続けます。地球上の全生命が他の天体の生命と同じように霊の世界を通過して絶え間なく進化し、意識が完全性を目指してゆっくりと上昇して行きつつある状態が”存在です”。

そ の意識なるものが何時芽生えたかについても私は何も知りません。何時完全の域に達
するかについても知りません。私には完全とか吸収(寂滅)とかの時が来るとは思えません。なぜなら、


 魂と言うものは霊性を高めて向上するにつれて、言いかえれば、過去の不完全性の不純物を払い落すごとに、さらに大きな進歩の必要性を自覚するものだからです。

 進化すればするほど、進化すべき余地があることに気づくものです。高く昇れば登るほど、その先にまだ登らねばならない高いところがあると知ることの連続です。

 私の考え方は、大霊の一部である意識の、生活の中における開発と発展に主眼を置いています。この意識なるものは、私の知る限り無窮の過去から常に存在してきたものですが、それが様々な形態を通して顕現し、その表現を通して絶え間なく洗練されつつ、内在する神性をより多く発現して行くのです。

 これまでありとあらゆる生命現象を通して顕現してきて、今なお顕現し続けております。今人間と言う形態で表現している意識も、かつては動物、鳥類、魚類、植物その他の生物と、無生物と呼ばれているもの全てを通して表現されてきたのです。これからも進化と成長を続け、発展し、拡大し、神性を増し、物質性を減らしていきます。それが創造の全目的です。大霊の一部である意識が、千変万化の形態を通して絶え間なく顕現して行くと言う事です。」(終略)    


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  15 ヒーラーから見た死の直後  第十五章 死の真相 

   「私は霊力の証を見た」MHテスター  

寿命が尽き、いよいよ死期が近づくと、一種の緊張の緩みを感ずる。永遠なる生命の書の第一巻を閉じつつあることが分かって来る。心霊治療家となって以来、私は大勢の人が死を迎えるのを手伝ってきた。安らかに死を迎えさせてあげるのも心霊治療家の重要な任務の一つだと心得ているからである。

 その一生は苦労と不愉快なことの連続だったかもしれない。が、死期が近づくと誰しも安らかさと落ち着きを覚え、完全な無痛状態と快く運命に身を委ねる心境になるもののようだ。無論そうとは言えない死に方もある。戦場で死ぬ兵士がいる。自動車事故や飛行機事故で死ぬ人がいる。

死刑によって死ぬ人もいる。また同じく死ぬ人でも、霊的に目覚めて死ぬ人と、目覚めないまま死ぬ人とがいる。死にたくないと必死に抵抗しながら死んで行く人もいる。

こう言う人は死の自覚の芽生えが遅い。死んでからもなお自覚が芽生えずに、霊界の指導者による看護と再教育を要する人がいる。が、数からいえばそう言う人はそう多くは無い。

  大体において死を迎える直前には静寂が訪れる。やっと終わった、地上での勉強が終わった、これで試練と苦痛とが解放される、と言う認識が、安らぎと受容の心境を生む。何となく身が軽くなってくる。肉体感覚が薄らぎ、自分のものでないように思えてくる。やがてふわっと上昇し始める。アドバルーンのように浮いてくる感じがする。

見下ろすと、一人の人間がベットに横になっている。自分だ。自分の身体だ。

 その身体と本当の自分とが銀色をした細い紐の様なもので繋がっている。その紐が光線を発しながら息づいているのが見える。これがいわゆる”生命の糸”玉の緒、だ。自分が上昇するにつれてその紐が長く伸びている。次第に輝きが薄らぎ、やがて消える。と同時に紐も無くなっている。その時あなたは死んだのである。

 地上と縁の切れたあなたは、尚もしばらく生命の灯火の消えた異様な姿の亡骸を見下ろしながら、その辺りを漂っている。すっかり寛ぎ、気分爽快だ。身体が軽い。ちょうどぐっすりと寝て起きた時のあの気分だ。何やら良い夢を見ていたらしい。その一つ一つは思い出せないが、とにかく気分がいい。あなたはしばし、その陶酔に身を任せる。(後略)

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 14  小桜姫が見た死の直後  (母の臨終)

    「小桜姫物語」浅野和三郎著
 
 その時はよくよく臨終が迫っておりまして、母の魂はその肉体から半分出たり入ったりしている最中でございました。人間の目には、人の臨終というものは、ただ衰弱した一つの肉体に起こる、あの悲惨な光景(ありさま)しか映りませぬが、私にはその他にいろいろに光景が見えるのでございます。

人間の霊魂というものは、全然肉体と同じような形態をして肉体から離れるのでございます。それは白っぽい、幾分ふわふわしたもので、普通は裸でございます。それが肉体の真上の空中に、同じ姿勢で横臥している光景は、決してあまり見良いものではございませぬ。

初めて人間の臨終に出会った時はまあ・・何と変なものかしらと驚いてしまいました。

 もう一つおかしいのは、肉体と幽体との間にひもが付いてる事で、一番太いのが腹と腹とをつなぐ白い紐で、それはちょうど小指くらいの太さでございます。頭のほうにももう一本見えますが、それは少し細いようで、ひもの切れた時が人間の死でございます。

 母の臨終の光景についてもう一つ言い残してならないのは、私の目に現生の人達と同時に、こちらの世界の見舞者姿が映ったことでございます。母の枕邊には人間が約十人位いずれも目を泣きはらして永の別れを惜しんでいましたが、それらの中で私が生前存じておりました人は二名ほどで他は見覚えのない人達ばかりでした。

 それからこちらの世界の見舞者は第一に母より先に逝った父、続いて祖父、祖母、肉親の親類縁者、母の守護霊、支配霊、産土のお使い、一々数えたらよほどの数に上ったでございましょう。

 兎に角現世の見舞者よりずっと賑やかでございました。第一双方の気分がすっかり違います。一方は自分達の仲間から親しい人を失うのでございますから、沈み切っておりますのに、他方では自分達の仲間に親しい人を一人迎えるのでございますから、寧ろ勇んでいるような、陽気な面持ちをしているのでございます。こんなことは私の現世生活中は全く思いもよらないことでございました・・・・(後略)。

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 13  心霊治療とは何か

     MHテスター著 「私は霊力の証を見た」(後半)

心霊治療で治せない病気はあるか・-私の知る限りでは治せないものはない。但し、そこに存在しないものは治療できない。事故で失った足とか、手術で取ってしまった臓器はどうしようもない。手術後の経過が思わしくなくてくる人は多いが、そこに無いものは治療の施しようがない。が、そうした特殊なケースを除けば、どんな病気でも欠陥でも奇形でも治せる。

 では神霊治療とはどういう具合に作用するのだろうか。私は心霊治療家の専門である。と言う事は、音楽家や画家や詩人が天性的にその才能を具えていると同じく、霊的に病気を治す才能を天性的に具えていると言うことである。同時に芸術家が外部からのインスピレーションによって作品を生み出す様に、私も外部からの治療エネルギーによって仕事をする。

私は単なる受信器に過ぎない。強力な霊的エネルギーが流れ込む通路に過ぎない。

 だから、逆説的な言い方になるが、私の場合は治そうという意識を持たないほど良く治る。つまり全てを背後霊に任せるのである。背後霊と言うのは、かつて地上で生活した人間があの世へ行ってから、もう一度地上生活との関りをもつために、地上の人間の仕事を手伝っている霊である。

この事については後に詳しく述べるが、私の場合はガレンと言うギリシアの医学者が中心となって、他にガレン程有名ではないが、やはり地上で医学を修めた専門家が何人か働いてくれている。・・・・

 治療に入る時はその背後霊団に波長を合わせる。もっとも、波長を合わせると言うのは非常に説明の難しい状態である。入神状態になるわけではない。また特殊な宗教的儀式をしたり九字を切ったりするわけでもない。

言ってみれば白日夢の状態で、自分のいる部屋の様子、流れている曲、自分が今やっていることなどみな私自身一応わかっている。意識を失ってしまうわけではないのであるが、それでもなおかつ、なんとなくふわっとして、何か自分とは別のものを意識する。・・・・・(後略)

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  12      池川明講演会及びDVDの中から             2014年頃

 池川明さんはPHP発行の「生きがいの創造」という本を読んでから、薀蓄を傾けるために二、三の助産師さんに訊いてみた。「赤ちゃんは生まれた時の記憶があるらしいよ」すると、「えっ覚えていますよ」。という答えが返ってきた。何で覚えているの?と聞いたら

➀一人の方は、うちの子はお腹に居た頃「気持ちよかった」と言っていますよ。
もう一人は

②孫小3が学校で「お腹にいたら包丁が刺さってきた」という作文を書いた。後で判ったことは、その子は帝王切開で生まれたそうです。

そこで健診に来たお母さん達に赤ちゃんは記憶があるのかを聞いてみたら、ぞろぞろ出てきた。それを「胎内記憶」と題して出版したらさらに反響があり一躍有名になって今は講演会で多忙な毎日だそうです。


ここからは子供たちに聴いた話をまとめました。

*朝起きたら赤ちゃんは元気だけど口の周りが青いし心配だから病院へ連れて行くかどうか夫婦で迷っていたところ、赤ちゃんに訊いてみたら…。
=「病院行く?」との問いに黙っている。じゃ「行かない?」と聞いたところ「ウン・こっくり頭を下げた」    

*名前は自分でつける
=「実はうちの子、名前を夢で言ってきました」そして難しい漢字だったので読めないよ、と夢の中で言ったら、今度はひらがなで出てきた。でも名前はお父さんが付けると言っていたよ。と言ったら、次の日、お父さんと祖母が同じ夢を見て結局その名前を付けた、という。

*虐待され、生まれてすぐ死ぬ子がいる、そんな子は生まれる前から虐待されることを知って居るの? 
=そうです、だから虐待されないように天使のような顔をするそうです。それで死んだら、また生まれ、そして最後は虐待が地球上から無くなるようにするんだそうです。

*霊界の記憶は何故覚えていないの?と聞いたら。=覚えているとつまらないでしょう。

*なぜ生まれてくるの?=今の大人は出来が悪いし、このままでは地球が無くなるから・・・とか

*(8歳)の女子お母さんのお腹は暖かい。お腹のプールの水が汚くなるので浮いたものを自分で食べた。という子がいて、それを生まれた時に緑色の便を出すそうです。医学的に証明=赤ちゃんは油で包まれていて。その油がはがれる。それを食べる=その便。 

再生してくる子は霊界へ還れば神様に聴かれることがあるそうです。
➀人の為になるような働きをしてきましたか 
②人生を楽しんできましたか
一つでも×、二つとも×の人は反省部屋へ行きます。反省部屋へは行かなくてもいい、その代り次の地上人生で反省しなかった分を体験させられるそうです。

DVDから=和歌山県の男の子一翠君は男性の精子が卵子に合体し生まれ出る迄を克明に図に描きました。人間は(霊的存在)魂であるという証拠ではないでしょうか。

 ほとんどの子は=お腹に入る前は、雲の上、天国のようなところにいた。といっています。 池川先生もこれらは科学で信じることではないけれど、子供たちは生き生きと話す。

子供たちは言うことが一人ひとり皆違う、それらを合わせまとめると 人間は体が在って、心もあって、魂もある。魂と体と合体してはじめて人間となる。今までは肉体(体)しか見ていなかった。

科学的、医学的にしか物事を判断してこなかった。だから脳とか神経とか肉体だけを治すことだけに集中した。しかし医学界は、今でもそのようです。大学では赤ちゃんは目は見えないし、記憶はないと今でも教えているようです。



 胎内記憶の調査を初めた頃、子供たちへの取材では神様から言わないようにと言われているから。とか、お母さんと二人の秘密。とか言って、なかなか話してくれなかったそうですが、西暦2000年以降に生まれた子は率先して話すそうです。実は地上に生まれる子の中で人間として再生してくる子と、高いレベルの星から低い地球へ来る子もいるそうです。

そういう子は地球の常識になれるまで20年位かかるそうです。子供たちは地球の環境に慣れるように努力しているのに、両親は心配ですから医者へ行きます、すると発達性障害とか、先天性〇〇病とか、無理して病人にされ、差別されるみたいですが、そのように扱われた子は高度な世界からの神の使いなのに、地球の低いレベルに抑え込まれるため記憶が失われてしまうそうです。

子供たちはすべて知って居ると思って育てた方が良いようですね。


と、ここまでが池川先生のお話です。


 先程、地球は下から二番目に霊性の低い惑星といいました。ウィキペディアで調べましたら地球は45億年程前に誕生した様です。人類の歴史を例えば、旧人類であるネアンデルタール人から人類とみなせば50万年~30万年前に発生したことになり、最初の文明が現れたのは紀元前3000年位前とも書かれています。

では地球の霊性が二番目に引き上げられたのは何時頃からでしょうか、それは恐らく今から4千年前だと思われます。モーゼが「十戒」を授かり神の啓示が人類に初めて与えられ、旧約聖書として具現化されました。


 旧約聖書は人類の指針となり今でも使用され続けております。更に2千年後にイエスが現れ新約聖書が具現化されました。その新約聖書もその後の為政者による、夾雑物でイエスの言葉のほとんどが書き改められているそうですがそれでも人々を導いてきました。

その2千年後現在ですが、スピリチュアリズムとしてシルバーバーチは霊的真理を説きました。


このスピリチュアリズムを契機として、現在の地球の霊性を既に三番目に進化させている説もあります。近藤千雄さんが言っている【サイ科学の関先生が書かれた『高次元科学』の本の中にも他にも複数(アセンション/次元上昇)】が始まった。と書かれております。

 モーゼから数えればその方が合っているかもしれません。がしかし、アフリカではエボラ出血熱で手の施しようがないほど大勢の人々が亡くなり、アジアではイスラム国を主張する過激派やアルカイダやタリバーン、それを阻止しようとする先進国ともに大量の人々を殺戮しております。

これらの現状を思う時とても地球人類は進化しているとは思えません。が、これらの現象も進化の途上にある一部の霊的に未熟な人たちが体験しているのであり、やがて地球上から悪は一掃される筈です。


モーゼから4千年というサイクルで(アセンション)が一段、霊性が向上するという神の計画を知る時、地上人生と言うせいぜい7、80年間を、地上的な肩書を自慢し、人を差別し、蔑むための人生を過ごしたとすればこれほど虚しいことはありません。

その短い人生で人間が霊界へ持って還れる財産は、どのような善を働いたか、人に施した献身であり、愛であり、慈悲深さです。地上で何者であったか、どんな身分でいたかは問われません。シルバーバーチ霊も池川さんの話に出て来る子供たちも異口同音に「人の役に立つために生まれる」と言っており、地上人生の全てがこの言葉に集約されるようです。

私のHPのプロフィールには肩書は一切載せておりません。どうぞご自由に判断なさって頂いて結構です。そのことに触れること自体既に地上的価値観に縛られ相変わらず人を差別し、蔑んでいることに気づかされるはずです。

尚この文章の一部は霊界からのインスピレーションによって創られたもので霊界通信に書かれているものではありません。
 
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 11   白血病の少年のカルマ
   
 ある霊界通信のホームページで、男の子が〝白血病で危険〟な状態と言う。みなさん「エネルギーを送ってください」と言う書き込みがあった。常にみている掲示板で管理人も一度逢った方だったので私もエネルギーを常々送ったりしていた。

1週間位後に〝亡くなりました〟と教えられた。私はその子(両親も含めて)のカルマが知りたいと思っていたら、簡単な情報なら教えられますと言う。以下(今は殆どこの掲示板は見ません。苦情を言っても全く聞く耳も持っていないサイトになっています)
 

 「彼らはある過去世でもやはり夫婦であり、親子でした。彼らが暮らしていたのは今のフィリピンでは無く、もっと文明が開けた国でした。

彼らは授かったその子をとても可愛がっていました。その人生でもその子は難病に罹り、医師からは治療をしても回復する見込みは殆どないと宣告されました。

彼らは特に貧しくありませんでしたが、莫大な治療費を負担するには、自分達の財産を大きく減らさねばなりませんでした。

 それに躊躇した両親は、安上がりの民間療法(?)を受けさせましたが、実際には彼らはすでに諦めていました。やがてその子は息を引き取りました。

今回、彼らの息子は、治る見込みがなくても、多額の治療費を我が子のために負担する埋め合わせの機会を提供するために、再び彼らの元に生れてきました。両親が死を受け入れながらも最後まで、治ることへの希望を捨てないことも必要でした。

 あなた方のエネルギーの応援によって、両親はそれらをクリアすることができたのです。そしてその子は、過去世で成長する筈であったところまで体を大きくして、霊界に戻ることになっていました。

あなた方のヒーリングがなければ、そこまで行けなかった可能性が高かったのですから、あなた方は充分な力になれたのです。それを喜び、その子の平安と、これからの両親の幸せを願ってあげて下さい。」という回答でした。

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 10  宇宙の全てが知れる仕組み (三)P107
  GVオーエン著 ベールの彼方の生活  

 (前略)一人ひとりの人間の一つ一つの思念が宇宙全体に響き渡っていると言うだけである。宇宙に瀰漫する流動体(オリバーロッジの言うエーテル質のことであろう)の性質は極めて鋭敏であり緻密であり連続性に富んでいるので、かりに貴殿が宇宙の一方の端をそっと触れてだけでも他の端まで響くであろう。いや、その”端”と言う言葉がまたいけません。

地上での意味で想像して頂いては、こちらの事情に合わなくなります。貴殿にその驚異を判って頂くために私が伝えようとしているのは、救世主イエスが特に名称を用いずに次のようにただその機能だけを表現したものと同じである。

  地上に関する情報や報告が地上と接した界層の者によって、ひっきりなしに上層界に送られ、その情報処理に最も適した界まで来る。これが極めて迅速に行われる。

が、その素早い動きにあっても、通過する界によってふるいにかけられ、目指す界に届けられた時はエキスだけと成っている。地上の人間の願望も祈りも同じようにふるいにかけられた上で高級界へ届けられる。 

 地上界のあらゆる思念、あらゆる行為が、天界へ向けて放送され録音され記録されている。能力を有する者なら誰でもがそれを読み、聞く事が出来ます。生のままであり、しかも消えてしまう事がない。が、その装置は言語では説明できません。・・・・・・一人ひとりの人間の一つ一つの思念が宇宙全体に知れ渡り響き渡っていると言うだけである。

 宇宙全体に瀰漫する流動体(エーテル質)の極めて鋭敏であり緻密であり連続性に富んでいるので、かりに貴殿が宇宙の一方をちょっと触れただけで宇宙全体まで響くであろう。曰く”汝の髪の毛一本が傷つくも、一羽のひなが巣から落ちるのも、父なる神は決してお見逃がしにはならない”と。

 実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分別し、選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る、そこで更に検討が加えられ、その価値評価に従って然るべき処理されているのです。

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  9  種の起源   (二)P88  ベールの彼方の生活

 (前略)さて、私は人間が”種の起源”と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少し説いてみたいと思う。が結論から申せば、動物的生命の創造の起源は物質界に在らずして吾々の天界に存在する。

 こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如く形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊がさらに高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたいと言うことである。

 その時点においてはまだ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させて行くことに決定が下された。そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。

 何故かと言えば、計画が完了したとき、相対的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということでは無かったのである。

 ともかく宇宙神が許可を下され、さらに各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させて行く自由を保証されたと言うことである。かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生れた。

そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風にいえば神がそれを”なかなか結構である”と仰せられたのである。が造化に直接携る神霊は如何に霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。

 そして宇宙の経綸の仕事は余りに大きくあまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなっていった。それが単純な知能、とくに人間の如き低い階層の知能にはことさらに莫大にそして巨大に見えたのである。

 何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることができず、むしろ邪悪の方が目にとまりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を掴みかねるのである。が、人間が次の事を念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡知とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこう言うことである。海は海洋動物だけの為に造られたのではない。空は鳥たちだけの為に造られたのではない。

それと同じで、宇宙は人間だけの為に創造されたのではないと言うことである。人間は海にも空にも侵入しそこを我が王国のように使用している。それは一向に構わない。魚や鳥たちのものとは決まってはいないからである。

 より強力な存在が支配するのは自然の理で在り、地上では人間がそれである。人間は自他ともに認める地上の王者で在り、地上を支配する。神がそう位置づけたのである。が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発展の為に下等動物や植物を利用する如く、更に偉大なる存在が人間を使用する。

これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、さらにその配下のもろもろに神霊も所詮は絶対神霊の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。


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 8    十界の様子  (二)p73 ベールの彼方の生活

 私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の一住民に叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に“隠し得ぬ光に包まれし丘の都”(マタイ5・14)と言う言葉を思い出したという。見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止り地面へ降下した(そこまで空中を飛行していたのである)。

そこで暫し彼は眼を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光が余りに強烈で、何処まで光輝が届いているのか見わけがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。

 それから例のドームもー赤色のもあれば黄金色もあるーその光輝が余りに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこにいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。

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 7                           世界心霊法典Ⅴ スピリチュアリズム一問一答から
  <瞑想> 高級霊との接触方法                  梅原 伸太郎 

=何か具体的にごく一般の人が高い霊と接触できるというような方法とか修業法のようなものがありますか。

梅原=それこそ昔から「祈り」ということばで漠然と表現されていたものではないでしょうか。我々はこの祈りというような精神世界の事柄についても基礎的な知識や教養を身につけるべきだと言えます。現在親や世の中から漠然と教えられるだけの知識では不十分だと思います。

特殊な能力者の交霊や日本でも鎮魂法とか帰神法とかいう特別の交霊形態のことはこの際省いておいて、一般の人のために言いますと、私たちは日々の安らぎのひと時、また人生上の狭間(はざま)はざまにおいても、身体と神経をくつろがせて、できるだけ明るい気分で、高級霊や神の指導を受け容れる瞑想の習慣を身につける必要があると思いますね。

この時必要なのは「念力」や「熱禱(ねっとう)」ではなくて、謙虚に「聴く」という心の中の態度なんですね。皆この逆をやってしまうんです。自分と言うものはあまり高級ではない自分という人霊が憑りついているようなものですから、瞑想の際には最初からこれを外しておかなくてはなりません。そうしないと高級霊の影響力は入って来れないんですよ。

 親子間の断絶や非行に走る子供の問題なども、自分以上に大きく高い存在からの導きを「聴く」という態度を普段から双方が持っていれば、自ずから解決するのではないでしょうか。

人類は自らが霊的存在であることを自覚して、時々神の前に「聴く」態度を身につけるべきでしょう。日本人ならば、朝の綺麗に掃き清められた神社の拝殿の前で静かに頭を垂れる心境です。このような時交霊はたえず行われているのだと考えて感謝の気持ちを持っていればそれでいいんです。

英国の指導的スピリチュアリストで大変有能な霊能者であるグレイス・クックという婦人はスピリチュアリストに対し、霊との交信(スピリット・コミュニケーション)ではなく、もっと進んで霊との相互交流(スピリット・コムニオン)をすべきだと教えています。


=スピリチュアリズムの教えの中で具体的に人生の指針となるようなものがありましら一つだけあげていただきたいのですが。

梅原=そうですね。イギリスのステイントン・モーゼスという人が、四十九柱からなる高級霊団から受け取った自動書記による霊信が『霊訓』という本になって、この本がスピリチュアリズムの古典的バイブルとされていますが、その中に、人間がこの世を幸福に過ごしかつ魂の進歩を確実にするための指針として、三つの義務を果たしなさいと教えています。

 その一つは神への義務で、神を愛し敬うこと。
 その二つは隣人への義務で、隣人の進歩を助けること。
 その三つは自己に対する義務で、これは幾つかありますが、
    第一に自分の肉体の保護といたわり、
    次に心と霊の進歩成長を助けるような知識と真理の吸収に努めること、
    第三に獲得した知識を実行に移すこと、
    そして最後に、祈りないし瞑想によって高級霊界との霊交を行うことです。

これは甚だ簡単明瞭で誰にでも実行でき、かつ理性にもかなっているので、私も最もよい指針だと思っているのです。
 
 
 

     
 6   霊界の科学館       1913・10/11 土曜日
                           GVオーエン ベールの彼方の生活(一)P109 (潮文社)  

  昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日はあのコロニーでの体験の幾つかを述べて見たいと思います。そこにはいろんな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一番効果的かを研究するためのものです。昨夜お話した私達の体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることができると思います。

  さて、あの後に指導霊の一団の引率で私達はすでにお話しした境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取りおこなわれる高級界の神霊の”顕現”する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群衆が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なシーンが展開します。そこを通り過ぎて行くうちに次第に上り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つかたっております。

 その中央に特別に大きいのが立っており、私達はそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。円形をしており、周りの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったものでその中には地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。

 そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。訪ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。私達はその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。

   これからこの施設がどのように使用されるかを私達のために実演して見せて下さることになりました。腰かけて見ておりますと。青い霞の様なものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。すると地球儀がまるでその光を吸収して行くかのように発光し始め、まもなく光線が引っ込められた後も内部から輝き続けました。

と見ているうちに今度は強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上の乗りました。すると地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

 それがホール中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転するうちに次第に様子が変わってきました。

 山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波、都市のミニチュア、建物の細々とした部分までが見え始めたのです。きめ細かさがどんどん進んで、人間の姿ー最初は群衆が、やがて一人ひとりの姿までも見分けられるようになりました。

直径80フィートから100フィートもあろうと思われる球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的のです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

  
 その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で忙しく働いてる人間の様子まで見えるようになりました。広い草原や砂漠、森林そこに生息する動物の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えてきました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そしてそこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

 私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私達に声を掛けられました。おっしゃるには、私達が見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みで有れば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源まで再現できますと言うことでした。

是非その見事な現象をもっともっと見せて頂きたいともうしあげると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる機器のあるところへ行かれました。

 その話の続きは後にして、今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くありません。全体が隅々まで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。

 その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。さて程なくして回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私達は長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命ーー人間と動物と植物の太古の姿を目の当たりにし始めました。

 さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないと言うことです。当時の現象は〝国家〟と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(*)の単位で起きておりました。何代もの地質学時代がありました。

人間が鉄器時代、とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実にが発見されます。あらかじめある程度知識をもつ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが分かるのです。

 と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域に当てはまるかもしれませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうしてさっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。    
(*地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位ー訳者)

 どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分達が何も知らずに居たことを痛感していると、その球体が自然に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻りやがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様になってしまいました。

 この現象に興味をそそられた私達が係の人に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること。あのような美しい現象を選んだのは科学的訓練を受けていない私達には美しさの要素の多いものが適切であるからと考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、其々の天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

 壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されると言うことでした。地球儀と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中央部へやってきます。そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味ではその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線(本当の科学的名称を知らないので仮にそう呼んでおきます。)を、当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。すると動物の内臓が丸見えとなります。

 施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を実に見応えのあるものだそうです。そのモデルに別な操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形体まで遡って行くことができます。

つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きたまま見られと言うわけです。面白いのはその操作を誤るとまちがったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一旦元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

 また、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることもできるそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。 


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 5 霊界のカレッジ  霊界のパピリオン  1913・10/13 月曜日 

 例のコロニーでの、貴方の喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成してる各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パピリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形などがいろいろと刻まれてありました。

 その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入っていくとその施設の器械の操作室に出るとの話でした。私達をその文字盤(と呼んでおきましょう)の周りに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。

何が起きるか分からないまま、私達はジーとその文字盤を見つめておりました。すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。

 辺りを見ますとさっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本分れ、判然とした形態を整えていきました。すっかり整え終わった時、私達は周りは林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風に揺られているのです。

 やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交う綺麗な羽をした小鳥の姿が目に入りました。林は尚も広がり、美しい森の趣となってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。

 再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。

 最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一番頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物を構成する成分を解説しているものです。と言いました。

 その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっと無理です。ですが分かって見るとなるほどと納得がいきました。

その後案内の方が再び私達の所へ来られ、その建物の使用目的を説明してくださいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それはあたり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。

 この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、霊の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。

進歩してくるとその装置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置を使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。 そこで私達は、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意思の鍛錬が目的であるとのことでした。その鍛錬は並大抵のものではなく、大変な努力を要するとのことで、それが一通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、それでもさらに多くに段階の修練を積まねばならなりません。

 その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、いくつもの界でそうした修練を経たのちの事です。その暁にはある一人の大霊、大天使、能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属する事を許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

 お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造―物質か霊的かは別としてーの事かも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界の事は現在の私達にはおよその概念程度ことしか掴めません。しかもそこまで至るには人智を絶した長い長い年月を要するとのことです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。

どうやらそこを訪れた私達五人の女にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。でもたとえ辿るべき宿命は違っていても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。

 すべての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく壮大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶ別のカレッジへ行っていた研究生の一段と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。


 私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に丸みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになると言うことでした。勿論その完成美といってもその界の能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げると言う意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって完璧な完成ということはあり得ないのです。(後略)

         ・    ・    ・    ・    ・    ・    ・    ・    ・    ・    ・


 霊界には音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成に努め、そういった養成所がありとあらゆる部門に設置されている。そしてその成果がひっきりなしの届けられ、すぐさま検討と分析を経て記録され、必要な場合には付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。     

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  4 創造実験

 有る時、こうした勉強をしている仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうと言うことになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員で有る一つの像を念じてその出来具合を見ました。私達が選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。私達は空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。

 すると意外に速くそれが目の前に姿を現しました。こんなに速くできるものかと皆で感心しました。

 しかし私達の目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎると言うこと。全員の意念を加減することを忘れたのです。もうひとつは確かに生きた動物では有るけれど、部分的には石像のようなところもあることです。生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合の様な、妙なものになってしまいました。

 他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。こういう具合に欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。・・・・



 そうして捉えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみる訳です。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。送念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は実の付いた果樹にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。今度は前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては果実が熟したものと熟していないものとがあったこと。それから葉の色が間違っていましたし、枝の長さに、まとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度にすこしずつうまくなっていきました。

 あなたにはこうした学習の愉しさや、失敗から生れる笑いやユーモアがある程度は想像して頂けると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像しいる人は、いずれその考えを改めて頂かねばなりません。そうしないとこちらへきてから私達とお付き合いがしにくいーいえ、私達のほうがその方達とお付き合いしにくいのです。(後略)

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  3 祈願成就の原理    

(前略)祈りとは成就したいと思うことを要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されてしかるべきものです。

 祈りに実効を持たせるためには、その場限りの事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛りこみたいと思っていた有象無象の頼みごとの大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が想像力の対象として浮かび上がってくる。祈りも現実的想像性があります。

 例えば数匹の魚を五千人分に増やしたと言うイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による想像的行為である。その信念のもとに祈りを捧げれば、その祈りの対象が意念的に想像され、その結果として”祈りが叶えられる“ことになる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的解答が与えられるのです。祈りの念の集中を誤っては祈りは叶えられません。

 放射された意念が目標物にあたらずに逸れてしまい僅かに的中した分しか効果が得られないことになる。さらにその祈りに良からぬ魂胆が混入しても効果が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受けることになります。

 どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。さて、こうしたことは人間にとっては取り留めのない話の様に思われるかもしれませんが、吾々にとっては些かもそうではない。実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られてくる祈りを分別し、選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る、そこで更に検討が加えられ、その価値評価に従って然るべき処理されているのです。(後略)

 
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  2 憑依の実体

  憑依現象は憑依される側の〝弱み〟又は〝自由意思〟によってそういう事態になることを許しているということで、それがない限り発生しません。──霊的憑依現象を発生させる〝弱み〟とは、現世又は前世における悪行への罰であり罪滅ぼしのことである。

──憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。

「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことができます」

──邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。その場合に第三者がその呪縛状態を解くことが出来るでしょうか。

「高潔な人格者が存在すれば、その意思の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。

ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物が居ても憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意思を見せないかぎりまったく無力です。というのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入れられても、それをむしろ快く思うものなのです。


         ☆☆          ☆☆          ☆☆

 又、単なるいたずら霊の影響もありますが、こちらは波長が合うため影響されているのであって、恨みや因縁等はありませんので、簡単に解ける場合もあります。


憑依については、「〝迷える霊との対話〟C.A.ウィックランド著  近藤千雄訳 ハート出版」参照。 
日本にも萩原玄明さんがおりましたが他界しました。

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 1  タイタニック沈没から始まった永遠の旅  
 
    ウィリアム・ステッド(william T・Stead)ハート出版 近藤千雄訳
 
 P31「地上時代にスピリチュアリズとの出会いによって、驚くと同時に感動したのと同じように、私は、今度はこちらへ来て見て、地上時代に得た霊的知識が重要な点に於いて百%正確であることを知って驚き、かつ感動しました。

そうと知った時の満足はまた格別でした。と言うのも基本的には絶対的な確信があったとはいえ、細かい点で不安に思うことがいくつかあったのです。それだけに実際にこちらへ来て見て、それが〝まさか〟と思えるほど、私の予想を裏切って現実であることを知り、満足したわけです。

 どこか矛盾しているように思われる方がいるかもしれません。確かに矛盾しているのです。と申すのも、私の地上時代の不安は、もしかしたら霊の世界には地上とは全く異なる存在原理があって、地上界へ届けられる霊界の事情は、人間に理解できるように表現されているのであって、あるがままを正確に叙述したものではないのではないかという推察に根ざしていたのです。ところが現実は地上とそっくりでした。私が地上を去って霊界入りする様子については、ここではあまり述べたくありません。

  すでにいろんな場所で何度ものべております。死の瞬間は当然のことながら、大変な混乱状態となりました。が、それが治まってからは、死後の後遺症のようなものは、二度と体験しておりません。が、その死の瞬間のことは述べる気になりません。

何よりも私が驚いたのは、あの混乱状態の中にありながら、他の溺死者の霊を私が救出する側の一人であったことです。私自身も本当は大変な状態にあった筈なのに、他の霊に救いの手を差しのべることができたと言う、その絶妙な転機は、素直に言って、全くの驚きでした。

  その時の事情が事情でしたから、何故だろう?  何のために?  といったことを考える余裕はありませんでした。そんな疑問が顔をのぞかせたのは、すこし後のことです。落ち着く暇もなく、私を更に驚かせたのは、とっくの昔に他界したはずの知人・友人が私を迎えてくれたことです。死んだことに気付く最初の原因となったのはそのことでした。そうと知ってドキッとしました。

次の瞬間、私は、自分で自分を点検しておりました。一瞬のうろたえはありました。が、それはホンの一瞬のことです。すぐに落ち着きを取り戻すと、死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何とも言えない嬉しい気持ちになりました。

ジャーナリストの癖で、一瞬、今ここに電話があれば!と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした」。

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